「読売新聞社史考」その3、ナベツネ考その1、徳球系日共に対する党中央
批判運動考

 更新日/2018(平成30).4.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2007.11月、「福田首相対小沢民主党首の秘密会談」の仕掛け人として世上を騒がし、大連立構想が破談したとみなすや読売新聞一面トップで、急遽猛烈な小沢パッシングを展開し、紙面の私物化を如何なく発揮した。れんだいこは、この事件を機にナベツネ検証をし直すことにした。

 ここでは、ナベツネの日共時代を主に検証する。左派圏の者がナベツネの日共時代を好評価するとしたら、れんだいこはそれは違うと申し上げたい。ナベツネは終始一貫、時の徳球−伊藤律党中央日共運動に敵対し続け、同じように反目関係に位置していた宮顕と裏で通じ内部撹乱的にのみ日共に拘っていた。これが真相である。何ら評価に値しない、これが結論と成るべきであろう。ここで、その様を検証してみたい。

 2003.7.10日、2004.8.14日再編集 れんだいこ拝


【青年期までの履歴】

 現読売新聞社長・渡辺恒雄(通称ナベツネ、以下「ナベツネ」と表記する)の履歴は次の通り。

 1926(大正15).5.30日、「ナベツネ」が東京府豊多摩郡(現在の東京都杉並区)で誕生する。父は平吉、母は花でクリスチャン。101歳で天寿をまっとうする。五人姉弟の三番目で長男である

 1934(昭和9)年、8歳の時、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身、現:りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然吐血、胃癌で1週間後に死去した(享年47歳)。母・花はこう言って「ナベツネ」を叱咤したと云う。「お前は総領だ。総領というのは跡継ぎだ。だからお前は勉強して偉くならないかん。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さんに報告できない」。

 1939(昭和14)年、13歳の時、私立開成中学に入学する。開成中学校は第4志望だった。第1志望は府立高校尋常科(現:首都大学東京、都立桜修館中等学校)、第2志望は武蔵高校尋常科(現:武蔵大学、武蔵中・高)、第3志望は府立一中(現在の都立日比谷高)。自叙伝によると、このとき、母親に「あんなボロ中学に入って情けない」と親戚一堂の前で泣かれたという。

 同中学3年生の時、哲学の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。また反軍少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、軍国主義を吹聴する校長ほかの教職員を襲撃して殴っている。勤労動員された航空機の工場では、密かに不良品を作つたりして抵抗したと云う

 1943(昭和18)年4月、開成4年修了で東京高等学校(現:東京大学、東京大学教育学部附属中等教育学校)に編入学。網野善彦、氏家齊一郎と知り合う氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった。以来、二人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった

 1945(昭和20)年、敗戦直前に東京帝国大学文学部哲学科に入る。学徒動員で中断後、陸軍砲兵連隊に入営する。渡邊の回顧録によれば陸軍二等兵としての軍隊生活で上官から暴行を受けたという。終戦の2日前に除隊。その後、旧制のままの文学部哲学科に戻る。


【東大新人会の「再建」運動】

 終戦後まもなく青年共産同盟に入り、母校の東高に通い大島利勝、氏家、馬場らと戦犯追放運動に乗り出す。

 ナベツネが共産党に入党したのは1946(昭和21).10月である。これをもって「戦後は共産党に入り、理想に燃えたこともありましたね」と評するのはピンボケである。ナベツネの共産党への関わりは当初より当時の指導部徳球系党中央に対する批判的活動の党内開始の為だった節がある。

 この頃、読売争議支援の新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)の10月ゼネストが盛り上がるも挫折し、翌年の最大の政治エポックとなった「1947(昭和22).2.1ゼネスト」に参加。しかし、2.1ゼネストはマッカーサーの直接干渉で失敗に終わった。左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。 

 この両面の激動に対し、ナベツネはどう処世したか。彼は、右派系の民主化同盟と連絡を取りつつ、左派系の青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対活動に精出し始める。「その過程でマルクス主義運動に胚胎する非モラル性に反発を覚えた」とされている。が、その立場を原則化するなら端から党外で活動すればよかろうに党内で提起し始めたところにナベツネらしさがある。

 1947(昭和22)年、3.16日の東大細胞会議で、指導部を「党の指示通りにがむしゃらに動き回る『馬車馬的行動主義者』」として批判し、共産主義と道徳の関係を問い直す「エゴ論争」を開始した。それは、「鉄の規律」を尊ぶ党の組織論とこれに参画する側の主体性の優先関係を問うてもいた。これが後に「主体性論争」の口火ともなる。次のように評されている。

 「(それは)戦後初めて党内で起きた思想闘争として反体制運動史に残る画期的なものだった」(魚住昭「渡辺恒雄、メディアと権力」)。

 この時のナベツネの問題提起が次第に支持を集めはじめ、東大細胞会議の選挙の結果旧指導部が退陣し、ナベツネが東大学生細胞長に選ばれ新指導部を創出している。ナベツネの日記に、「我々は党内の馬車馬分子を駆逐して、勝利するであろう」と記している。しかし、ナベツネ系の指導は文化サークル運動に堕し、やがてこれも武井昭夫ら急進主義系に突き上げられていくことになる。

 この動きは1947.8月中旬頃、細胞指導部の承認を得て、この時次のような激文を発している。

 「我々はかかる混迷の内に起ち上がって、失える若き世代の主体性を回復し、強靭な自律の精神の内に社会改革の熱情にまで昂(ため)められた新しいヒューマニズムの途(みち)を開き、過去二年間に展開された青年運動の長短を深く反省弁別する事によって、青年民主戦線に新生面を開くべく集まった」云々。

 「起て、新しきヒューマニズムの旗の下に!来たれ、新人会へ!」。

 9月以降、東大新人会の「再建」を始める。 この種の活動は、党中央、東大細胞指導部の支援がなければ為しえないが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも諮られているようにみえない。つまり、正式の機関との相談なしに東大新人会の「再建」活動を開始していたことになる。新人会の綱領は次のように記している。

 「新人会は新しい人間性の発展と、主体性の確立を目指し、合理的且つ平和的な社会の改革を推進しようとするものである。故に会は人間性の自由な発展を妨害するあらゆる封建的反動傾向を打破すると共に、公式的極左主義を克服し社会正義と真理の旗の下に結集する」とある。

 当初は党のコントロールに置かれるフラクション活動と位置付けていたが、次第に党の指導下から逸脱した「東大独立共産党」的な動きを見せ始め、その内実は青共運動に代わる右派系路線を敷いていくことに狙いがあった。ナベツネ派のこの動きの是非はともかく、この分派的活動がやがて党中央と対立するのは時間の問題となる。


【東大新人会の再建運動の資金源疑惑】
 この時ナベツネは、新人会創立仲間の中村正光を経由して、活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。ナベツネは後にかなりの長文の「東大細胞解散に関する手記」(「始動、48.3.1」)を書き上げており、その中でナベツネ自身がこのことを次のように追認している。
 「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」。
 「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」。

 つまり、三田村から金を貰った事実を認めている。三田村はかなり初期の頃からの労働運動畑活動家であり、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らと共に戦前の共産党幹部の一人であり、時の共産党弾圧に際しての転向組の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。転向後の三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けており、鍋山と共に精力的に反共活動を展開していることで知られていた。この三田村から、ナベツネは右派系運動の工作資金ということを承知で金の工面を受けていたことになる。つまり、その活動は最初から怪しさがあったことになる。

【東大「再建」新人会運動の「モダニズム」との連動】
 ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」とは、この当時経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論など各分野で硬直的なマルクス主義からの解放が生み出されつつあり、これを擁護するイデオロギーとして跋扈しつつあった。その主流は社民運動と連動していた。

 「主体性論争」は、マルクス主義運動の見直しの契機=「反省の矢」として重要な意義を持っていたと思われるが、文学の領域で狼煙が上げられ、やがて哲学の分野に飛び火し、遂に論壇を席捲していった。しかし、共産党系イデオローグの一人古在由重氏などの「主体性などと騒いでいるのは人間の屑」という観点から水を差され、鎮火していったという経過がある。

 新人会運動の慧眼点は、この時既に「東欧の主体性無き民の悲劇を見よ」とスターリン主義的な圧政を批判していたことにある。この視点からソ連に追随する党中央路線をも批判していたことになる。今日から見れば「先見の明あり」ということにもなる。

 ナベツネは翼23年雑誌「胎動」に手記を発表している。次の一説がある。

 「政治とは多かれ少なかれ目的至上主義的要素を含む。だがこの目的至上主義こそ我々の最も憎むべき敵である。だからたとい終局において政治無き社会、真実の自由の王国が目指されても、そこに至る最短距離をとるべく如何なる手段を執ろうとも差し支えないという論理は成り立たない。プロセス自体が問題である。私は今ブルジョア的人道主義を持ち出して階級闘争に水をさそうとするのではない。美しい終局目標を振りかざすことによって不正と虚偽とを温存とようとする集団に対して抗議するのである」(「三一書房編集部編 資料戦後学生運動」)

 「読売王国」の「渡辺恒雄という男」には次のような記述があるとのことである。

 「マルクシズムには人間の自由がないという認識から、組織と個人の関係はいかにあるべきかを考え、そこからいわゆる『主体性論争』が活発に行われるようになった」。

【東大新人会運動の渡辺ら処分される】
 1947年に開始されたナベツネらによる東大新人会の「再建」の流れは翌48年まで続く。しかし、次第に「再建新人会」の指導的幹部・ナベツネ、中村に対する嫌疑が渦巻いていくようになり、査問に付されている。47.11.15日、代々木の党本部で東大細胞談話会が開かれ、ナベツネの動きが批判されている。ナベツネは次のように記している。
 「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取り巻き罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問された」(「東大細胞解散に関する手記」)。

 これはれんだいこの読みであるが、ナベツネの黒幕に宮顕が位置していたとしたら、そんな査問は八百長デキレースにしかならない。

 11.30日、東大細胞全体会議が開かれ、新人会活動の動きを廻って右派系渡辺グループと左派系力石・沖浦グループが難詰応酬している。中村の査問問題を廻って遣り取りされたが、本質的には新人会運動を容認するのか潰すべきかの是非論であった。この時の宮顕の立場が胡散臭い。宮顕はこの時、党中央の統制委員会の責任者として出席している。凡庸な俗説は、宮顕をナベツネ査問側に見て取る見解を流布しているが、凡そ皮相的であろう。ナベツネ日記に、「(細胞全体会議の)帰途、宮本顕冶と赤門で談ず」とあるように、通謀関係にあると見るのが正しいと思われる。

 12.7日、東大細胞総会が開かれ、ナベツネ派問題が討議されている。「日本共産党決定・報告集」その他によると次のように議事が進行した。まず、ナベツネ派弾劾の脱党届が読み上げられている。ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、中村除名案に関しては投票にかけられ、「除名賛成・27、反対26、棄権3」で僅差で可決されている。

 除名反対派の意見は、「事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」見解であった。更に次のように記されている。
 「もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら、党や細胞のいろいろなことをバクロするという捨てぜりふを中村、渡辺が残したので、要するに後難をおそれた」。

 まもなく青共本部の壁新聞に断罪状が張り出されている。これを見れば、罪状として次のように記されている。
 概要「一、三田村四郎のような階級的裏切り分子から金をもらって活動していた。二、河野密(こうのみつ)等の追放された戦犯とも通じ金をもらっていた。三・党の文書等を本富士警察署に廻していた」。

 これが全て真実であるとするなら、紛う事亡きスパイ活動そのものではないか。

 12.16日、ナベツネの脱党から9日後のこの日、東大細胞に突如解散命令が下されている。これは、「共産党が戦後再出発して以来の最大の処分」(「第6回党大会統制委員会報告」)となった。「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」(1948.1.8日付アカハタ)という理由で、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。

 この判断責任者は宮顕と考えられる。凡庸な俗説は、宮顕を査問指示者として描き出しているが皮相的であろう。沖浦は次のように回想している。
 「解散と聞いてびっくりしてね。ミヤケンのところに飛んで行った。そしたら『時間を待って復党とかの措置を決める』とこわい顔して言うてましたで。まぁ、見せしめという意味でしょうね」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

 この証言は貴重である。何ら必然のない東大細胞に突如解散命令は、「ナベツネ一派の警察のスパイ疑惑」が高まり、これを究明すべきところをその芽を潰している。むしろナベツネ一派の救済の役目を果たした、と窺うのが相当ではなかろうか。これを奇禍として左派急進的に盛り上げを図るべきところを強権的に捻じ曲げている、と窺うのが相当ではなかろうか。沖浦氏の「まぁ、見せしめという意味でしょうね」的理解は、事の真相を何ら理解していないことになろう。

 当時の或る細胞は次のように回顧している。
 「私たちの間では思想的・路線的な食い違いだったのに、党本部が規律違反の問題にすりかえてしまった。意見の対立が起きたとき相手を排除するのでなく、オープンな実践の中でどちらが正しいか検証していくべきだった。結局細胞内の意思疎通が不足していたんですね。そういう意味では不幸な出来事だったと思っています」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

 それは半分の真実であり、残りの半分はナベツネ一派のスパイ活動事件のウヤムヤ化ではなかったか。そのように受け取らない方が不自然であろうに、史実は宮顕の狙い通りに進む。

【アカハタのナベツネ除名記事について】
 1.6日付けアカハタは概要「二人は警察のスパイであり反革命分子」の烙印を押し追放した」(1984.1月号「文芸春秋」)。更に、1.8日付けアカハタは、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志と行いの統一もたもてない」を理由とする記事を載せている。
(私論.私見) 「1.6日付けアカハタ記事」について
 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」によれば、該当記事の確認が取れないとのことである。これは、そもそも「1.6日付けアカハタ」に該当記事がないのか、史実から巧妙に抹殺隠蔽されたのかのどちらかであろう。れんだいこは宮顕系の常習癖である不都合記事の史実隠蔽で消されたのではないのかと推定する。

 (前年の12.7日の東大細胞総会の内容との絡みが良くわからないが次のように流布されている)

 1.30日、当時中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。この時の様子は、2.7日付けアカハタ(「日本共産党決定・報告集」・人民科学社)に発表されている。それによると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席上、ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められ」、「大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」

 こうして、大衆討議の結果、ナベツネ一派は放逐されたが後味の悪いものを残している。ナベツネは、「東大細胞解散に関する手記」の締め括りで、「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」と書き上げている。
(私論.私見) ナベツネ一派の放逐時の宮顕の対応について
 ここで押さえておくべきことは、このナベツネらの動きに陰に陽に宮顕が加担している形跡があるということである。この辺りの考証は今後の課題であろう。1.30日の細胞総会における宮顕の対応も氏らしからぬものがある。査問側として登場しているが、庇う働きをしているように見える。宮顕の一貫して「右派に優しく左派に厳しい態度」ないしは「本物のスパイを庇い、戦闘的翼の者をスパイ容疑で締め上げる」という習性がここでも確認できる。宮顕の党活動史上、ナベツネに見せる温情ぶりは他には東大細胞不破査問事件の時に見られるだけで、後は徹底した断罪手法を貫徹している。

 宮顕とナベツネの二人のその後の関係は地下水脈的に隠然と続けられていくことになるが、ここら辺りが始発となっている点で興味深い。

【その後のナベツネの学内での動き】
 東大細胞解散後は、沖浦、武井、力石、大久保の4名が細胞再結成運動へと取り組んでいくことになる。ナベツネは脱党後いったん新人会を解散、翌年1月再発足させている。メンバーは東大YMCA代表の植木光教(後に三木内閣の総理府総務長官)、緑会(法学部自治会)委員長の有馬弘(後の新日鉄監査役)ら10名前後。氏家も遅れて参加している。「アンチカーペー(共産党)」の野合でもあり、沖浦、武井ラインと東大自治会の主導権を争っていくことになった。

 有馬の後に新人会系の緑会委員長を引き受けた玉井外茂は、往時を回顧して次のように述べている。
 「法学部が動けば全学部が動く。東大が動けば他の大学も動く。だから法学部自治会がカーペー(共産党)側に行かないよう奔走したんです。新人会は御用化したとよく批判されましたけど、それはワタツネや植木君らがやはりそういう作戦しかなかろうと考えてやったことです。僕らが学生課で打ち合わせするのを学生課長が聞いていて『うん、そうしてくり。そうしてくれ』と言う。だから新人会は御用商人みたいなもんです」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

 新人会は大学当局の全面的なバックアップを受けており、「権力と結託して政治的な権謀術数世界にはまり込む」原型がこの辺りに形成されていることが判明する。

 ナベツネの往時の回顧は次の通り。
 「東大では一時、共産党が完全に学生運動を牛耳って各学部をみんな動かして、フラクション活動に成功した。だから、本当に一人で百人は動かせるんだと分かった。百人で一万人が動かせる。そういう計算になるわけですよ。二百人居れば、東大二万人の学生を好きなように動かせる。それが共産党体験で得た最も役立つことだった」(魚住昭「渡辺恒雄 メディアと権力」)。

 1949.3月、東京大学文学部哲学科卒。東京大学大学院に入学する。

【ナベツネによるこの時代の回顧】
 ナベツネは、「1996.6.27日講演・これからのマスコミの在り方」で、この時代を次のように回顧している。
 「僕は学生運動やっていました。 正直に申し上げて僕は共産党員でありました。19歳で陸軍2等兵になって徴兵され、朝から晩まで天皇の名においてぶん殴られ、蹴飛ばされ、そして19歳で死に追いやられる99%俺は死ぬと思っていた。軍国少年にならずに絶えず反戦的な立場で、校長を殴るなど悪いこともした。そして共産主義というものに、内部で哲学的に疑問を抱きました。マルクス主義には哲学がない、倫理学がない、人間の価値というものを認めることができない、人格というものが説明できない。これは哲学ではない、さようなら。結局は脱党したら除名されたんですけれども。除名された理由は警察のスパイだということでした。僕は警察になんの御用もなかったんだけれども、その理由がしゃくにさわったから、今度は反共に変わったんです。

 そういう学生運動をやっているうちにいろんな人に会って、いろんな意見を聞いたんです。僕は哲学科専攻であったけれども、哲学的な概論、学問や実学をいろいろ勉強したから、いろんな方面に興味を持って来ました。大学を出るまでは僕は哲学専攻ですから哲学書以外は読まない。文学書も高等学校まで。新聞社に入ってから特に政治史、政治学、経済学、財政学等は全部大学出てから勉強したからね。自分の仕事は全部独学ですよ。誰にも教わったことはない。僕は哲学だけしか人に教わったことはないんですから。哲学っていうものは人に教わるものではないんで、これはまさに対話の中からということも言えるけれどもとにかく本を自分で読む以外ないんですからね。特に哲学っていうものはギリシャ語とラテン語とドイツ語がわからなきゃ、翻訳だけじゃ絶対だめなんですよ。これは時間がかかるんです。だから僕は大学にさよならするのをなるべく延ばしてよかったと思っています。

 すべて僕は悔いはないという、いい青春を送った。肉体的に物理的にどん底です。 喰う飯はなく栄養失調すれすれ、進駐軍は悪いことばっかりしていた。そういう一番悪い時代だけれども精神的には一番充実した時代ですよね。緊張感もあったし」。




(私論.私見)