「読売新聞社史考」その3、ナベツネ考その1、徳球系日共に対する党中央 批判運動考 |
更新日/2018(平成30).4.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.11月、「福田首相対小沢民主党首の秘密会談」の仕掛け人として世上を騒がし、大連立構想が破談したとみなすや読売新聞一面トップで、急遽猛烈な小沢パッシングを展開し、紙面の私物化を如何なく発揮した。れんだいこは、この事件を機にナベツネ検証をし直すことにした。 ここでは、ナベツネの日共時代を主に検証する。左派圏の者がナベツネの日共時代を好評価するとしたら、れんだいこはそれは違うと申し上げたい。ナベツネは終始一貫、時の徳球−伊藤律党中央日共運動に敵対し続け、同じように反目関係に位置していた宮顕と裏で通じ内部撹乱的にのみ日共に拘っていた。これが真相である。何ら評価に値しない、これが結論と成るべきであろう。ここで、その様を検証してみたい。 2003.7.10日、2004.8.14日再編集 れんだいこ拝 |
【青年期までの履歴】 |
現読売新聞社長・渡辺恒雄(通称ナベツネ、以下「ナベツネ」と表記する)の履歴は次の通り。 |
【東大新人会の「再建」運動】 | ||||
終戦後まもなく青年共産同盟に入り、母校の東高に通い大島利勝、氏家、馬場らと戦犯追放運動に乗り出す。
この時のナベツネの問題提起が次第に支持を集めはじめ、東大細胞会議の選挙の結果旧指導部が退陣し、ナベツネが東大学生細胞長に選ばれ新指導部を創出している。ナベツネの日記に、「我々は党内の馬車馬分子を駆逐して、勝利するであろう」と記している。しかし、ナベツネ系の指導は文化サークル運動に堕し、やがてこれも武井昭夫ら急進主義系に突き上げられていくことになる。
9月以降、東大新人会の「再建」を始める。 この種の活動は、党中央、東大細胞指導部の支援がなければ為しえないが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも諮られているようにみえない。つまり、正式の機関との相談なしに東大新人会の「再建」活動を開始していたことになる。新人会の綱領は次のように記している。
当初は党のコントロールに置かれるフラクション活動と位置付けていたが、次第に党の指導下から逸脱した「東大独立共産党」的な動きを見せ始め、その内実は青共運動に代わる右派系路線を敷いていくことに狙いがあった。ナベツネ派のこの動きの是非はともかく、この分派的活動がやがて党中央と対立するのは時間の問題となる。 |
【東大新人会の再建運動の資金源疑惑】 | ||
この時ナベツネは、新人会創立仲間の中村正光を経由して、活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。ナベツネは後にかなりの長文の「東大細胞解散に関する手記」(「始動、48.3.1」)を書き上げており、その中でナベツネ自身がこのことを次のように追認している。
つまり、三田村から金を貰った事実を認めている。三田村はかなり初期の頃からの労働運動畑活動家であり、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らと共に戦前の共産党幹部の一人であり、時の共産党弾圧に際しての転向組の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。転向後の三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けており、鍋山と共に精力的に反共活動を展開していることで知られていた。この三田村から、ナベツネは右派系運動の工作資金ということを承知で金の工面を受けていたことになる。つまり、その活動は最初から怪しさがあったことになる。 |
【東大「再建」新人会運動の「モダニズム」との連動】 | ||
ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」とは、この当時経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論など各分野で硬直的なマルクス主義からの解放が生み出されつつあり、これを擁護するイデオロギーとして跋扈しつつあった。その主流は社民運動と連動していた。 「主体性論争」は、マルクス主義運動の見直しの契機=「反省の矢」として重要な意義を持っていたと思われるが、文学の領域で狼煙が上げられ、やがて哲学の分野に飛び火し、遂に論壇を席捲していった。しかし、共産党系イデオローグの一人古在由重氏などの「主体性などと騒いでいるのは人間の屑」という観点から水を差され、鎮火していったという経過がある。 新人会運動の慧眼点は、この時既に「東欧の主体性無き民の悲劇を見よ」とスターリン主義的な圧政を批判していたことにある。この視点からソ連に追随する党中央路線をも批判していたことになる。今日から見れば「先見の明あり」ということにもなる。 ナベツネは翼23年雑誌「胎動」に手記を発表している。次の一説がある。
「読売王国」の「渡辺恒雄という男」には次のような記述があるとのことである。
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【東大新人会運動の渡辺ら処分される】 | |||||
1947年に開始されたナベツネらによる東大新人会の「再建」の流れは翌48年まで続く。しかし、次第に「再建新人会」の指導的幹部・ナベツネ、中村に対する嫌疑が渦巻いていくようになり、査問に付されている。47.11.15日、代々木の党本部で東大細胞談話会が開かれ、ナベツネの動きが批判されている。ナベツネは次のように記している。
これはれんだいこの読みであるが、ナベツネの黒幕に宮顕が位置していたとしたら、そんな査問は八百長デキレースにしかならない。 11.30日、東大細胞全体会議が開かれ、新人会活動の動きを廻って右派系渡辺グループと左派系力石・沖浦グループが難詰応酬している。中村の査問問題を廻って遣り取りされたが、本質的には新人会運動を容認するのか潰すべきかの是非論であった。この時の宮顕の立場が胡散臭い。宮顕はこの時、党中央の統制委員会の責任者として出席している。凡庸な俗説は、宮顕をナベツネ査問側に見て取る見解を流布しているが、凡そ皮相的であろう。ナベツネ日記に、「(細胞全体会議の)帰途、宮本顕冶と赤門で談ず」とあるように、通謀関係にあると見るのが正しいと思われる。 12.7日、東大細胞総会が開かれ、ナベツネ派問題が討議されている。「日本共産党決定・報告集」その他によると次のように議事が進行した。まず、ナベツネ派弾劾の脱党届が読み上げられている。ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、中村除名案に関しては投票にかけられ、「除名賛成・27、反対26、棄権3」で僅差で可決されている。 除名反対派の意見は、「事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」見解であった。更に次のように記されている。
まもなく青共本部の壁新聞に断罪状が張り出されている。これを見れば、罪状として次のように記されている。
これが全て真実であるとするなら、紛う事亡きスパイ活動そのものではないか。 12.16日、ナベツネの脱党から9日後のこの日、東大細胞に突如解散命令が下されている。これは、「共産党が戦後再出発して以来の最大の処分」(「第6回党大会統制委員会報告」)となった。「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」(1948.1.8日付アカハタ)という理由で、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。 この判断責任者は宮顕と考えられる。凡庸な俗説は、宮顕を査問指示者として描き出しているが皮相的であろう。沖浦は次のように回想している。
この証言は貴重である。何ら必然のない東大細胞に突如解散命令は、「ナベツネ一派の警察のスパイ疑惑」が高まり、これを究明すべきところをその芽を潰している。むしろナベツネ一派の救済の役目を果たした、と窺うのが相当ではなかろうか。これを奇禍として左派急進的に盛り上げを図るべきところを強権的に捻じ曲げている、と窺うのが相当ではなかろうか。沖浦氏の「まぁ、見せしめという意味でしょうね」的理解は、事の真相を何ら理解していないことになろう。 当時の或る細胞は次のように回顧している。
それは半分の真実であり、残りの半分はナベツネ一派のスパイ活動事件のウヤムヤ化ではなかったか。そのように受け取らない方が不自然であろうに、史実は宮顕の狙い通りに進む。 |
【アカハタのナベツネ除名記事について】 |
1.6日付けアカハタは概要「二人は警察のスパイであり反革命分子」の烙印を押し追放した」(1984.1月号「文芸春秋」)。更に、1.8日付けアカハタは、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志と行いの統一もたもてない」を理由とする記事を載せている。 |
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木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」によれば、該当記事の確認が取れないとのことである。これは、そもそも「1.6日付けアカハタ」に該当記事がないのか、史実から巧妙に抹殺隠蔽されたのかのどちらかであろう。れんだいこは宮顕系の常習癖である不都合記事の史実隠蔽で消されたのではないのかと推定する。 |
(前年の12.7日の東大細胞総会の内容との絡みが良くわからないが次のように流布されている) 1.30日、当時中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。この時の様子は、2.7日付けアカハタ(「日本共産党決定・報告集」・人民科学社)に発表されている。それによると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席上、ナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められ」、「大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」。 こうして、大衆討議の結果、ナベツネ一派は放逐されたが後味の悪いものを残している。ナベツネは、「東大細胞解散に関する手記」の締め括りで、「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」と書き上げている。 |
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ここで押さえておくべきことは、このナベツネらの動きに陰に陽に宮顕が加担している形跡があるということである。この辺りの考証は今後の課題であろう。1.30日の細胞総会における宮顕の対応も氏らしからぬものがある。査問側として登場しているが、庇う働きをしているように見える。宮顕の一貫して「右派に優しく左派に厳しい態度」ないしは「本物のスパイを庇い、戦闘的翼の者をスパイ容疑で締め上げる」という習性がここでも確認できる。宮顕の党活動史上、ナベツネに見せる温情ぶりは他には東大細胞不破査問事件の時に見られるだけで、後は徹底した断罪手法を貫徹している。 宮顕とナベツネの二人のその後の関係は地下水脈的に隠然と続けられていくことになるが、ここら辺りが始発となっている点で興味深い。 |
【その後のナベツネの学内での動き】 | ||
東大細胞解散後は、沖浦、武井、力石、大久保の4名が細胞再結成運動へと取り組んでいくことになる。ナベツネは脱党後いったん新人会を解散、翌年1月再発足させている。メンバーは東大YMCA代表の植木光教(後に三木内閣の総理府総務長官)、緑会(法学部自治会)委員長の有馬弘(後の新日鉄監査役)ら10名前後。氏家も遅れて参加している。「アンチカーペー(共産党)」の野合でもあり、沖浦、武井ラインと東大自治会の主導権を争っていくことになった。 有馬の後に新人会系の緑会委員長を引き受けた玉井外茂は、往時を回顧して次のように述べている。
新人会は大学当局の全面的なバックアップを受けており、「権力と結託して政治的な権謀術数世界にはまり込む」原型がこの辺りに形成されていることが判明する。 ナベツネの往時の回顧は次の通り。
1949.3月、東京大学文学部哲学科卒。東京大学大学院に入学する。 |
【ナベツネによるこの時代の回顧】 | |
ナベツネは、「1996.6.27日講演・これからのマスコミの在り方」で、この時代を次のように回顧している。
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(私論.私見)