「読売新聞社史考」その2、正力松太郎考、その背後勢力考 |
(最新見直し2014.04.17日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」、「中曽根、正力、渡辺、児玉…」、「経済人列伝・巨人ジャイアンツの創始者、正力松太郎」、有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」その他を参照した。 2004.8.18日 れんだいこ拝 |
【後藤新平の履歴(1857〜1929)】 |
後藤新平の履歴は次の通り。 岩手県水沢市の小藩出身。幕末の蘭学者高野長英の親族。須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。 |
【内務省】 |
内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。 |
【正力松太郎の履歴(1857〜1969)】 | |
「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。 | |
正力松太郎の履歴は次の通り。
1923(大正12)年、正力・警視庁官房主事の指揮で共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。 |
【番町会に出入り】 | |
1923(大正12).2月、財界の長老渋沢栄一の引退後、財界世話役として活躍していた財界の大立者・郷誠之助を囲んで集まる毎月一回の親睦会として番町会が発足した。メンバーは、中島久万吉(日本工業倶楽部匿名組合)、河合良成(日本工業倶楽部匿名組合)、後藤国彦(日本工業倶楽部匿名組合)、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者)らを核としてこれに、永野護(渋沢栄一の秘書から実業界へ打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった)、小林中(山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれた)らの若手実業家が連なった。他には長崎英造、鳩山一郎、三土忠造らがいた。これに正力が加わることになり、この番町会出入りにより人脈を広げた(長尾和郎著「正力松太郎の昭和史」より)。 番町会の設営役・古江政彦は次のように証言している。
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【「関東大震災時の暗躍」】 |
1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。その概要は「戦前日共史(三)関東大震災事件(大杉栄事件))」に記す。ここでは、この時の正力の立ち回りを総括的に検証する。 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。1、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、2、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、3、中国人留学生・王希天虐殺事件、4、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)等が記録されている。 |
【虎ノ門事件で辞表を提出】 |
12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。即日山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。 正力は警視総監・浅倉平らとともに虎ノ門事件の警護責任を負い、即刻辞表を提出。翌大正13.1.7日懲戒免官となった。 |
【正力、官界から読売新聞社に転身】 | |
1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。これが読売新聞社への転身となる。
前社長の松山と正力が、工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立会いの下で、読売の経営権の譲渡について話し合い、正力が「調印の際に5万円、松山について去る13人に合計1万6千円の退職手当てを支給する事を承諾」(「読売新聞80年史」)して後、「譲渡契約書」を結んだ。正力が工業倶楽部会館へ出向いた事情として、財界有力者からの資金提供が為されており、そのいきさつから首肯できるところである。主な提供者は、後藤新平、番町会、財界有力者の匿名組合、その他財閥からの献金を得ている。「さしあたり10万円ほどの資金が要るところ、後藤新平に相談に行くと即座に快諾された。後で解ったことだが、後藤は自分の家屋敷を抵当に入れて銀行から10万円を借りていた」との言もある。 |
【正力の恐怖政治】 | |||
1924(大正13).2.26日、1874(明治7)年の創刊から50年後、こともあろうに、警視庁で悪名高い特高の親玉だった元警視庁警務部長・正力松太郎が第7代社長に就任した。正力の乗り込み時の様子はこうであった。正力はいよいよ乗り込み日の朝、工業倶楽部会館で財界人の河合良成と後藤国彦と三人で会い、「いよいよこれから乗り込むんだ」との決意を披瀝している。 後藤新平の画策の背景には、「『白虹事件』残党組の追放」狙いがあったとされている。直接的にはこの意を受け、「正力の読売乗り込み」が行われたのであるが、実際にはもっと深い狙いの「政治的謀略」があったようにも思われる。木村氏は次のように評している。
つまり、れんだいこ観点によれば、「正力の読売闖入は、我が国の特務機関の暴力的なマスコミ支配介入事件」であったと読み取ることができるように思われる。 乗り込んだ正力が社長就任直後に手を染めたのは人事であった。警視庁時代の腹心の部下を呼び寄せ、「これが為新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になってしまうのかと歎声や悪口が出た」。総務課長として小林光政(警視庁特高課長)、庶務部長として庄田良(警視庁警部)、販売部長として武藤哲也(警視庁捜査課長)が招聘されている。その後も続々警察人脈が投入されて行くことになる。警視庁以来の秘書役・橋本道淳、警視庁巡査から叩き上げて香川県知事にもなっていたこともある高橋、元警視庁刑事の梅野幾松らの警視庁出身者を次々と引き入れていった。 但し、経理については財界が不安に思ったか、財界匿名組合のメンバーの一人王子製紙社長・藤原銀次郎の差し金で、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が送り込まれ、読売の会計主任に入った。1919(大正8)年に読売に入社し、後にラジオ部長となった阿利資之は、当時の様子を知る生き証人であり、「この当時の本当の社主は藤原銀次郎だと云われていた」と述べている。「読売新聞80年史」には、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記している。 当然ながら、記者たちにも苛酷な運命が待ち受けていた。警察上がりの正力に対する幹部や記者達の松太郎への反感は激しく、花田らの元朝日「白虹事件残党組」は、松山と行動を共にして一斉に辞職した。松太郎はこの内の少数を除き他の辞表を受理し幹部一掃に利用した。以降も、「不正摘発」に名を借りた恐怖政治が敷かれ、「社長が社員を告訴」する事態まで発生した。かくて、「総入れ替えに近い大量のベテラン記者の首切り、追放」が進行した。 正力は朝8時に出勤した。これは異例であった。無駄な出費を省き、記者の前借を禁止した。記者の前借り額は相当な額に昇り、浪費に加えて、社内人脈の紊乱の原因にもなっていた。新聞社の出費のかなりの部分が紙代であるところから現場に張り付いて紙の無駄を指摘した。広告取得に伴うバックマ−ジンのピンはねの防止、新聞の未収代金の回収などなどを進めた。人員整理も敢行した。 |
【正力の経営手腕】 |
正力は只の乗っ取り屋ではなかった。むしろ天才的な企画力を発揮し始め、新聞の大衆化を目指していった。いわゆる「三面記事」に力を入れ、センセーショナルな見出しを踊らせて、購読者を増やしていった。これにより讀賣は朝日、毎日と肩を並べる大新聞へと成長する。これにつき補足しておくと、当時一番発行部数の多かったのは大阪系の朝日と毎日であった。東京系は振るわず、時事新報、報知新聞、東京日日新聞、読売新聞があったが朝日、毎日の後塵を拝していた。これら4新聞のうち後に大を為すのは読売のみで、あとはほとんど他社に吸収合併されている。 新聞経営は、紙面拡充と広告と販売政策の三つから成ると云われており、松太郎の水雷艇戦術なる奇襲戦法が開始される。これがことごとくヒットしており正力の経営の才覚が認められる。 1925(大正14).11.15日、放送が始まったばかりのラジオに注目し、他社に先がけて日本初のラジオ版(現在のテレビ・ラジオ欄)の「よみうりラヂオ版」を創設しラジオ番組の紹介を始めた。機械的に番組の時間表を載せるのではなく、芝居、小説、芸能などなどの番組を、その道の有名な専門家に説明させると云う工夫をしていた。これが大反響を呼び読売の部数が毎月千部ずつ増えだした。 正力が次に打った手は囲碁の好企画で日本棋院と棋正社の大局だった。当時の囲碁界は名人本因坊秀哉を頂点とする日本棋院と雁金準一七段率いる棋正社が棋界を二分していた。この宿敵同志の二人を闘わせ、その棋譜と観戦記を全三段で掲載した。単に碁の棋譜の掲載のみならず、碁好きの有名人に感想を語らせていた。これが評判を呼び読売の部数を伸ばしていった。 正力は日本名宝展を開催した。旧家に代々伝わる家の宝を展覧会の形で主催し、警察庁官房主事時代に培った人脈を利用し、華族の筆頭である近衛家の当主文麿に、近衛家の門外不出と言われる「御堂関白日記」(注)の展示を請い快諾させた。当時としては全く新規で破天荒な企てであった。他にも「伴大納言絵巻(酒井家)」、「金の茶釜(藤堂家)」、「三日月宗近の名刀(徳川家)」、「後鳥羽院の熊野懐紙(西本願寺)」などを出品させることに成功した。記事には専門家の解説が付けられていた。前後して多摩川園菊人形展も行っている。これらの催し物に際し、松太郎は無料入場券を大量に配った。理由は、タダであれ見たお客が吹聴してくれ、総客数が多くなり売り上げが増えるという見通しであった。これがその通りとなった。 わが国初めての地方版をつくったのも正力であった。こうして読売は東京日日(後の毎日)、朝日と共に東京三大紙の仲間入りし、首都圏ではトップの座に踊り出た。以後イヴェントを催し、それをニュウスヴァリュ−と為し、記事を書きたてるのは読売新聞の得意芸になる。 1926(大正15).3.15日、正力が読売乗り込みの二年後になるこの日、歌舞伎座を買い切って「社長就任披露の大祝賀会」を挙行した。3000名の各界名士が集い、正力は席上「新聞報国への固い決意を開陳」した。激励、祝辞を述べた各界代表の中には、首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦圭吾、後藤新平らの名がある。 その後の読売は、特徴的な姿を見せて行くことになる。内部管理は、正力自身が公言した独裁主義による日本の警察機構の上意下達式を真似た系統図で統制していくことになった。要所要所に配置された警視庁人脈が力を発揮し、労務支配を有利に進めて行った。 紙面の方は、「エロとグロ」(エロティシズムとグロテスクネス)を積極的に扱うイエロー・ジャーナリズム化していった。加えて、日帝の帝国主義的侵略活動を後押しする御用新聞化していくことになった。具体的には、煽動主義的な戦争報道を通じて「聖戦」に加担して行くことになる。更に、「サツネタ」情報に強味を発揮し、優位な地位に立つことになった。これらの路線により読売は驚異的発展を遂げていくことになる。 1929(昭和4)年、正力の誘いで元報知新聞の販売部長・務台光雄が入社し販売網づくりを手掛けていった。読売は拡張販売競争に勝利し続け、同時に権力のマスコミ支配を達成して行くことになった。 1930(昭和5)年、正力経営が奏功し読売新聞は22万部の発行に至る。 1931(昭和6)年、満州事変が勃発する。戦争は新聞にとって飛躍のチャンスであった。日本の新聞は、西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦争を機にして伸びてきた。但し、大手新聞社は特派員を派遣して取材し、また軍や政府の内部から情報を引き出すが、小さな新聞はそれができなかった。この時、正力は、大手新聞社並みに特派員を戦地に派遣した。試みは吉と出て、これを機に販売部数が増大した。22万部が翌年には50万、更に57万、60万、75万と躍進し、昭和12年には98万部に達することになる。昭和17年時点で、朝日128万部、読売156万部とされている。 1931(昭和6).11.25日、夕刊を発行(満州事変が始まった頃夕刊発行に踏み切っている)。その頃不況で大手新聞は夕刊を廃止していた。正力は逆に、それまで夕刊を発行していなかった読売に資本力を超えて思い切って夕刊を発行させた。色刷漫画も搭載し、子供たちの人気も引きだした。 時期は不明ながらこの間、正力は東京市長選挙に立候補し、落選している。市長選と微妙に絡み合いながら、京成電鉄疑獄事件巻き込まれている。京成電鉄と東京市電の相互乗り入れを斡旋する東京都の政界のボス二人に、正力が京成電鉄から送られた10万円を渡すのを仲介した事件で、「進んで入獄」している。 |
【「番町会事件」】 | |
1934(昭和9)年初頭、福沢諭吉が創設した政論紙・時事新報が、実名入りの「番町会を暴く」大キャンペーンを連載した。時事新報を主宰していた武藤山治が、鈴木商店が帝国人絹の株を抵当として台湾銀行に入れていたところ株価が繊維業界の好況により上昇し、その帝人株の売買に政財界の黒幕と言われた番町会という組織が暗躍して株価操作で儲けたと紙上告発し、国会でも大問題になった。時事がキャンペーンを開始して3ヵ月後、番町会が深くかかわっていた大疑獄・帝人事件が勃発し、帝人株不正買取関係者として河合、永野、中島らが検挙された。正力も背任幇助嫌疑で地検に召喚され、市ヶ谷刑務所に収監された。木村氏は次のように記している。
この事件は奇怪な殺人事件を生んでいる。時事新報社長・武藤山治氏が、キャンペーン記事を連載していた最中の3.9日、拳銃で暗殺された。犯人・福島信吾はその場で自殺したとされている。その後の事情聴取で、事件の三日前に番町会の河合と弁護士の清水が犯人の福島と会った事を認めている。だが、捜査は、なぜか、途中で打ち切られてしまった。 1935(昭和10).2.22日、「時事新報社長・武藤山治殺害事件」の翌年、事件との直接的な関りは定かではないが、正力が襲われ、読売本社に入るところを背後から日本刀で首筋を切られるという事件が発生している。犯人の長崎勝助は右翼団体「武神会」の会員だったが背後関係は分からない。右翼団体「武神会」の会長・熱田佐ほか数十人が取調べを受けたが、結局単独犯ということで、長崎は傷害罪で懲役三年を宣告されている。 奇怪な事件が発生している。東日販売部長・丸中一保が行方不明となり、伊豆山中で白骨死体で発見された。丸中は当時激烈を極めていた新聞販売合戦の最中のことであり、業界には色々噂が飛んだ。新聞社の販売合戦からくるもつれという線が濃厚な変死事件であった。 |
【「番町会のその後」】 |
番町会のボスであった郷は男爵の位を得て、戦争中の1942(昭和17)年、死亡した。しかし、番町会の伝統は、戦後の政財界にも引き継がれた。中島久万吉は日本貿易開会長、吉田茂の縁戚で、第一次吉田内閣以来、吉田の経済顧問として活躍。多くの番町会メンバーを吉田の周辺に送り込んだ。長崎英造(産業復興営団会長)、永野護、河合良成、大政翼賛会の前田米蔵、大麻唯男。永野護の弟が重雄であり、経済安定本部次長から富士製鉄の社長におさまり、財界に揺ぎ無い地位を築いて行くことになる。永野護は、岸信介の指南役を務めた。 |
【「読売ヨタモン」への電車道】 |
1931(昭和6)年社説が常設で復活したが、内容は官報並となった。 1932(昭和7).12.19日「大手メディアの共同宣言」による「満州国の独立支持」宣言が為されている。 1931(昭和6)年、全米オールスター選手を招待。日本にはプロ野球チームがなく17戦全敗。しかしこれにより読売新聞の発行部数が30万部を越えた。正力の新聞販売拡張策は常にイヴェント絡みを特徴としており、拳闘やテニスの試合を主宰し記事にしていた。その延長上に野球が登場したことになる。 1934(昭和9).12.26日、第2回日米野球を開催。ベ−ブル−スを始めとする米国の球団が来日し、日米親善試合を行った。日本の選手は大学野球と都市対抗野球の選手団からなっていた。その盛り上がりを見て、日本で最初のプロ野球球団・ 大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人ジャイアンツ軍)を創設、正力は取締役に名を連ねる。アメリカの大リーグのチームとの試合を企画し成功させる。日米親善試合の出場メンバ−は、総監督・市川忠男。監督・三宅大輔、浅沼誉夫。投手・沢村栄治、青柴憲一、スタルヒン、浜崎真二、伊達正男。捕手・久慈次郎、倉信雄。内野手・三原脩、苅田久徳、山下実。外野手・二出川延明、中島治康他総計31名、これが巨人軍の最初のメンバ−になった。 この間、正力は各地に職業野球の球団創設を訴え、すぐに8球団ができた。1936(昭和11)年までに巨人、阪神、中日、阪急、金星、近鉄、太平洋、東京セネタ−ズが名乗りを挙げた。1936(昭和11)年、公式戦をスタートさせる。 |
【戦時経済体制下の吸収合併】 |
満州事変で読売は躍進したが、時代が戦時経済体制に向かい、政府命令により社外出資が禁止された。株式会社の運営が事実上不可能になり、読売は資本金700万円の有限会社になった。 1938(昭和13)年、新聞用紙制限令によって一県一紙(1県1新聞社)化が国策で打ち出された。これで新聞社はのど元を押さえられ、紙面は検閲された。否応なく「新聞統合時代」に突入した。京都新聞、東京新聞、中日新聞はこの時の合併でできた。「新聞統合政策」は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。「具体的な統合実施家庭では、各都道府県知事及び警察部長、特高課長が指揮をとった」(「新聞史話」)。この過程で、読売は、朝日、毎日と並んで三大中央紙の位置に就くことになった。九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を次々に傘下に収めた。朝日、毎日、読売の三大中央紙の合併も指示されたが、三社の必死の抵抗で免れている。 1941(昭和16)年、日米開戦直前にかっての名門紙「報知」を買収した。1942(昭和17).8.5日、読売新聞と報知新聞が合併、題号が「読売報知」となる。紙面の方は、「虚報」、「デタラメ記事」、「情報隠匿」が進んだ。 1944(昭和19)年、正力が、岸信介の推薦で貴族院議員になる。小磯内閣の顧問になる。他にも内閣情報局参与になっている。 |
【敗戦ショック】 |
敗戦直後、戦争責任追及の嵐が巻き起こり、新聞社各社も社内外の世論の批判に晒されることになった。毎日社長の奥村信太郎が8月末に自主退社、朝日の村山長挙ら40社の新聞社長が次々に退陣した。8.23日、朝日が「自らを罪するの弁」、11.7日、社告「国民と共に起たん」記事を発表した。 |
【第一次読売争議】 |
終戦のほぼ直後、読売新聞で労働争議が持ち上がり、読売社員大会が開かれ、社内運営の民主化、編集第一主義、戦争責任の追及、正力ら局長以上の総退陣要求を決定した。鈴木東民(読売従業員組合組合長、続いて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長)が指導し自主管理を目指した。これに経営側が反撃し、鈴木東民ら5名が逆に退社を命じられ、これが発端となり第一次読売争議が始まる。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長及び組合長に選出された。争議が始まり、「生産管理闘争」が採用された。社会党の河上丈太郎、加藤勘十や、出獄したばかりの共産党の徳田球一が乗り込んで来て支援した。 正力は、最高闘争委員会の委員長・鈴木、闘争委員・志賀重義、とき沢幸治の3名と会談、解決私案を示した。「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」という代物であった。当然のことながら拒否されている。 1945.11.6日、読売従業員組合は、退陣要求に応じない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。「熱狂的なナチ崇拝者、本社民主化闘争、迷夢探し正力氏」と題する三段見出し記事を載せている。 11.10日、第一次読売争議のヤマ場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」が開かれ、終了後共産党系のリーダーの指揮する約1千名のデモ行進が読売本社に向かった。正力が狼狽した様子が伝えられている。 |
【正力がA級戦犯を問われ巣鴨刑務所 に収監される】 |
この直後に、A級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決まった。その為、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長とするなどの交換条件で解雇撤回する」取引が成立し、事態は急転直下解決した。増田太助氏は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。その後、日共東京都委員会委員長となるが、「反党活動」で除名処分に附されている。勢いを得た各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(「新聞単一労組」)という個人加盟の産業別単一組織への改組を為し遂げ、各企業はその支部を結成することになった。 1946(昭和21).5.1日、題号を「読売新聞」に復元。同9.1日、読売信条を発表。 |
【第二次読売争議】 |
GHQ新聞課長・バーコフ少佐によるプレスコードの拡大解釈。極東国際軍事裁判の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それに呼応した馬場者社長らは、「GHQの意思」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下6名に退社を求めた。組合側がストライキで応戦したが、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力突破を図った。これに組合がピケ戦を張り、社屋に立て篭もった。務台らは、警察の出動を要請し、動かないと見るとGHQにMPの出動を要請し、それで慌てた丸の内署がこん棒とピストルで武装した約500名の警官隊が突入してきた。組合側は、「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と非難している。 以後約4ヶ月、ロックアウトされた争議団4百余名は読売の社外で闘ったが、次第に形勢不利となっいく。新聞通信労組がストライキで取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部37名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈辱を呑んで解決した。復職者は、この間組織されていた御用系の新従業員組合への統一を強要された。以後、読売の労働運動は潰える。 |
【正力の追放令解除、表舞台へ復帰す】 | ||
A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されていた正力は、1年8ヶ月後の1947(昭和22).8月に釈放されている。しかし公職追放の身となり、この間読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つ経営した。 ここまでの歩みを概括すれば次のようになる。正力は戦前、東京帝大を出て警察庁につとめ、主として左派運動取締りの任に当たっていた。関東大震災時の朝鮮人、中国人、無政府主義者、共産主義者に対する虐殺の指揮者であった。ところが好事魔多しでその後、虎の門事件として知られる後の昭和天皇となる皇太子テロ事件の責任をとって辞職した。その後、経営危機にあった読売新聞を買収し、その社主として転身する。正力の経営手腕は高く、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させた。その功により、敗戦まで社主の地位を維持した。 戦後、社内に読売争議と云われる内紛が第一次、第二次と二度にわたって発生する。その間、正力は、戦犯として収容された。その後釈放される。 2006.2.16日号週刊新潮は、早稲田大学の有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事を掲載した。同教授は、米国の「国立第二国立公文書館」の公開された外交機密文書から「正力ファイル」を見つけ、「正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実」を明らかにした。有馬教授は後に「日本テレビとCIA…発掘された『正力ファイル』」(新潮社、2006.10.20日初版)を刊行している。 天木氏は、「2月8日―メディアを創る」の中でこの記事を取り上げ、「これは超弩級のニュースである」と評して次のように述べている。
れんだいこ理解によれば、正力は、釈放と引き換えにCIAのスパイエージェントを誓約したことになる。以降の正力の履歴は、CIA絡みということになる。正力は、「podam(ポダム)」と命名されたスパイ名で暗躍している。これにつき、「★阿修羅♪ > カルト12」の バビル3世氏の2013.10.18日付け投稿「読売新聞社社主で日本テレビ社長だった正力松太郎は、CIAのエージェントだった」が次のように述べている。
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【有馬氏の指摘と著作権公害考】 | |||
「阿修羅政治版19」の「CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事」に次のような記載がある。
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【CIAエージェントとなった正力松太郎のその後の活動と読売新聞復帰】 |
1948(昭和23)年、夕刊復活。正力は芸能連盟を支援し、歌舞伎や落語あるいはその他の芸能生活者を支援している。更に関東レ−スクラブを支援し競艇と競馬を支援している。 正力は、CIAから1000万ドルの機密費を受け取り、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとし始める。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であった。 1949.2月、正力、日本プロ野球のコミッショナー就任が決定される。 ところが、公職追放中という理由でGHQの許可が下りずコミッショナーを辞任し、社団法人日本野球連盟総裁に収まる。(「プロ野球は誰のためPart2」参照) 1950(昭和25).6.1日、株式会社読売新聞社となる。 1951.8.6日、正力は追放令を解除され、讀賣新聞に復帰する。 |
【正力とテレビ】 |
「読売新聞、日本テレビとアメリカCIAの関係」その他を参照する。 戦後、正力は公職追放で読売新聞を追われていたが、アメリカが日本にテレビ網(ネットワーク)を建設する計画を持っていることを知った。アメリカは折からの冷戦の開始で軍事的緊張の高まる朝鮮、韓国、ソビエトへ向けてのテレビ放送を行うという宣伝戦を計画していた。アメリカの構想は実現しなかったが、1950年頃、正力は、アメリカと連携して日本全土のマイクロウエーブのテレビネットワークによる全国放送を行う計画を立て、同時に自らの公職追放を占領軍司令部に働きかけた。 その直後サンフランシスコ条約によって日本は独立し、電波行政は電波監理委員会から郵政省に移行した。これにより、NHKもテレビ免許を獲得した。こうして、戦後日本では公共テレビのNHKと民放テレビが並存することとなった。 1955年、第二の民放テレビTBSが加わり、翌1956年、中部日本放送CBC(名古屋)と大阪テレビが開局し全国に広がった。テレビは瞬く間に大衆娯楽の王者としての地位を獲得、1959.44月の「皇太子ご成婚」の儀式とパレードの中継放送によって、テレビ受像機は大きく伸びた。1954.12月の受信契約台数は346万件となり、急速にテレビ時代が始まった。 |
【正力内部告発事件】 | |
1953.9月末、内部告発が登場し、怪文書の体裁をとったこの内部告発分がばらまかれ、国会で取り上げられることになった。次のように記されている。
この怪文書が国会で取り上げられ、約1カ月後の11.6日、衆議院の電気通信委員会で怪文書が読み上げられるという大騒動へと発展した。防戦に回った正力は、12.7日、衆議院で参考人招致されて喚問を受け、弁明に終始した。こういう経緯を経て、この計画は頓挫せしめられた。正力を主人公にした「ポダルトン作戦」は失敗に終わった。 正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。 正力はその後、原子力開発行政に深く関わることになる。これについては、「原子力発電史考」に記す。 |
【正力社主に就任】 |
1954(昭和29).7.7日、正力は社主に推挙される。晴れてめでたく表舞台での公式の復帰を果たし、経営の第一線から退く。 |
【正力、原子力発電の導入に暗躍する】 | ||
正力はその後、原子力発電に精力的に取り組む。次のように記されている。
「中曽根、正力、渡辺、児玉…」( http://www1.jca.apc.org/aml/200211/30791.html)は次のように補足している。
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正力松太郎に纏わる「負の過去」を的確に見ておかねばならない。米騒動時の蛮勇、関東大震災時の虐殺指揮官、こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていくことになり、「読売新聞建て直しの功労者」として賛辞されることになる。その正力は戦前一貫して「聖戦」賛美論調を煽っていった。これが為、戦後、正力はA級戦犯に指名され巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。この時の裏取引(仮に、「シオニスト盟約」とする)をも凝視せねばならない。 出獄後の正力は復権し、読売新聞社主として戦前は軍部に戦後はシオニストに提灯し続けていくことになる。時の最大権力に食い入り、常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。その後の正力は、読売新聞社主且つ一時期衆議院議員になり、戦後日本の再軍備化、原子力発電の導入、国家権力中枢へのシオニズム勢力の扶植に精出していくことになる。そういう意味では、「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」はむしろ控えめな表現でしかなかろう。 この正力に忠誠を誓い、その「負の遺産」を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。 |
【広瀬隆・氏の指摘】 | ||
「日本のジャーナリズム 広瀬隆」( http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)は次のように記している。
「日本のジャーナリズム」(http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)の「危険な話━チェルノブイリと日本の運命」広瀬隆著(八月書館1987年刊)から
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「日本を守るのに右も左もない−時代潮流の深層。従米政治家 ・ 2ch ・ マスコミ ・ アメリカ支配を斬る−」の2009.2.19日付けブログ「日本の原発導入の歴史1 −事実が隠される構造」が、れんだいこ文を紹介している。その中で、「世界潮流」の指摘を採り上げており、これを転載しておく。
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【初代科学技術庁長官に就任】 |
1956(昭和31).1.4日、原子力委員会の初代委員長に就任し、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表した。これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。(原子力委員会月報1957年1月号) 5月、原子力開発の目的で科学技術庁が創設され、正力が初代長官に就任する。 |
【第1次岸内閣改造内閣で国務大臣に就任】 |
1957(昭和32).7月、 第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。1960.1月、東海原発の着工開始。1964.5月、東海原発の商用運転が開始される。 |
【読売新聞の社主に復帰、讀賣テレビ放送会長に就任】 |
1958(昭和33).6月、 読売新聞の社主に復帰。8月、讀賣テレビ放送会長に就任。 |
【国会議員柔道連盟会長に就任】 |
1961(昭和36).6月、 国会議員柔道連盟会長。 |
【財団法人日本武道館初代会長に就任、駒澤大学より名誉博士号を授与される】 |
1962(昭和37)年、財団法人日本武道館初代会長に就任。駒澤大学より名誉博士号を授与される。 |
【勲一等旭日大綬章を受章】 |
1964(昭和39).11月、勲一等旭日大綬章を受章(没後、勲一等旭日桐花大綬章追贈)する。 |
【高岡市名誉市民、 大門町名誉町民】 |
1965(昭和40).6.18日、高岡市名誉市民。6.26日、大門町名誉町民。 |
【報知新聞社社主に就任】 |
1967(昭和42).5月、報知新聞社社主に就任。 |
【サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ)を立ち上げる】 |
1969(昭和44)年、この年、サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ)を立ち上げた これが事実上正力の最後の仕事となった。 |
【逝去】 |
1969(昭和44).10.9日、 国立熱海病院で死去(享年84歳)。王・長島を擁し川上監督に率いられた巨人軍のV9進軍の真最中であった。叙・従二位。14日、日本武道館にて葬儀。柔道八段から十段に。 |
(私論.私見)