「読売新聞社史考」その2、正力松太郎考、その背後勢力考

 (最新見直し2014.04.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。

 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」「中曽根、正力、渡辺、児玉…」、「経済人列伝・巨人ジャイアンツの創始者、正力松太郎」、有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」その他を参照した。

 2004.8.18日 れんだいこ拝


【後藤新平の履歴(1857〜1929)】
 後藤新平の履歴は次の通り。

 
岩手県水沢市の小藩出身。幕末の蘭学者高野長英の親族。須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。

 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。

 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。

【内務省】

 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。

 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。

 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。



正力松太郎の履歴(1857〜1969)】
 米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。

 正力松太郎の履歴は次の通り。

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。高岡中学入学。柔道部に入部する。同級生に河合良成や松村謙三がいる。金沢第四高等学校入学。柔道に打ち込み、三高・四高戦で三高の猛者を捨て身の巴投げで急襲し、四高の勝利に貢献したとの伝がある。

 1911(明治44)年、26歳の時、東京帝国大学法科大学独語科卒業。翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。直ちに警部となる。

 1912(明治45)年、警視に昇進し東京市内日本橋堀留署長となる。普通高等文官試験(現在の上級国家公務員試験、キャリア−組)合格者組は現場の仕事は現場任せにするところ、松太郎は現場の捜査にも熱心であった。管轄内に米相場の取引所と兜町があり、投機筋のマネ−が動いていた。代々の刑事が検挙できなかった札付きの地回り(一定の縄張りを支配し、上納金を取るやくざ)の不正事件を担当し、おとり捜査(コ−ルバ−ド)で逮捕している。もう一つ女中自殺事件を再捜査させ、既に被害者の自殺と認定されていたの島倉義平による殺人事件として検挙している。

 1917年、第一方面監察官。
 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。
 1919(大正8)年、刑事課長。
 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、36歳の時、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任する。本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っているほどの猛スピ−ド昇進していた。

 正力の警視庁官房主事兼高等課長職時代に、正力は機密費を縦横に使って政党と財界の奥の院と通交した。官房主事は警察庁にあって政界要人と接触し、政界の意向を伺うと同時に政界を監視するような職務でもあった。当時貴族院があり、貴族院は衆議院より政界を動かす力は強かった。松太郎は貴族院のメンバ−即ち華族と親しくなり、また次期総理と噂される後藤新平や財界世話人と言われた郷誠之助などと昵懇になっている。ここで培われた人脈が松太郎の後の人生に大きく影響する。

 「官房主事」とは、総監の幕僚長として、あらゆる機密に参画することが出来、特に政治警察の中心として頗る重要な役割を持っていた。一般政治情報の収集はもとより、政治家の操縦、思想関係、労働関係、朝鮮関係、外事係の元締め的地位にあった。「高等警察」とは、その最高司令塔であり、特高はその一セクションに過ぎず、専ら思想や文化関係を担当する特別高等係りという組織であった。「官房主事兼高等課長」ともなると、総監の下で実際に仕事をこなす地位であり、政府の政策遂行を心得て、内閣書記官長、内務大臣、警保局長と直接連絡し、与党の幹事長とも太いパイプを持っていなければ勤まらなかった。当時の官房主事の機密費は毎月三千円で、議員の歳費が二千円、内閣の機密費が十万円の時代であったから、どれほど重視されていたかが分かる。「日本の政治警察」(大野達三、新日本新書)は次のように記している。

 「絶対主義的天皇制が確立して以後になると、政治警察活動はもう一段、総理大臣を飛び越えて枢密院議長あるいは元老と直結し、天皇の組閣下命に重要な役割を果たすようになった」。

 1923(大正12)年、正力・警視庁官房主事の指揮で共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 こうして米騒動、早稲田大学の争議、普選運動に伴う争議、東京市電スト、共産党幹部の検挙などと治安畑を歩いている。職位は現場の署長から監察官、刑事課長、警務部長そして官房主事と昇進している。刑事課長はヴェテランの叩き上げでないと務まらないとされていたところ、高文出身の松太郎の就任は異例であった。


【番町会に出入り】
 1923(大正12).2月、財界の長老渋沢栄一の引退後、財界世話役として活躍していた財界の大立者・郷誠之助を囲んで集まる毎月一回の親睦会として番町会が発足した。メンバーは、中島久万吉(日本工業倶楽部匿名組合)、河合良成(日本工業倶楽部匿名組合)、後藤国彦(日本工業倶楽部匿名組合)、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事創業者)らを核としてこれに、永野護(渋沢栄一の秘書から実業界へ打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった)、小林中(山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれた)らの若手実業家が連なった。他には長崎英造、鳩山一郎、三土忠造らがいた。これに正力が加わることになり、この番町会出入りにより人脈を広げた(長尾和郎著「正力松太郎の昭和史」より)。

 番町会の設営役・古江政彦は次のように証言している。
 「あの当時、番町会の勢いは大変なもので、会社を合併するにも番町会に図らんとできん、郷さんのうちに相談にこなければ大臣にもなれん、と云われていた。事実、その通りだった」。

【「関東大震災時の暗躍」】
 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。その概要は「戦前日共史(三)関東大震災事件(大杉栄事件))」に記す。ここでは、この時の正力の立ち回りを総括的に検証する。

 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。

 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。

 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。1、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、2、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、3、中国人留学生・王希天虐殺事件、4、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)等が記録されている。

【虎ノ門事件で辞表を提出】
 12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。即日山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。

 正力は警視総監・浅倉平らとともに虎ノ門事件の警護責任を負い、即刻辞表を提出。翌大正13.1.7日懲戒免官となった。

【正力、官界から読売新聞社に転身

 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。これが読売新聞社への転身となる。

 「読売新聞百年史」によると、読売新聞は明治7年創刊の歴史を持ち、明治20年頃には名声を得ていたが、以後振るわず、郷誠之助を筆頭とする財界巨頭が集まる工業倶楽部に事実上の経営方針を任していた。当時実質発行部数は5万部くらいであった。正力の読売社長就任の背後の動きを次のように伝えている。

 概要「大正13.2月頃、正力の友人である後藤、河合が、番町会の郷に「正力を読売の社長にする案を持ち込んだ。郷がこれに同意し、正力を呼び『君もどうせ政界に出るんだろうから、新聞をやったらどうか。丁度読売が売りにでている。資金は三井、三菱から十万円出させる』と話している。こうして、東京市長・後藤新平の仲介で、当時 経営危機に陥っていた讀賣新聞を買い取り社長に就任する」。

 前社長の松山と正力が、工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立会いの下で、読売の経営権の譲渡について話し合い、正力が「調印の際に5万円、松山について去る13人に合計1万6千円の退職手当てを支給する事を承諾」(「読売新聞80年史」)して後、「譲渡契約書」を結んだ。正力が工業倶楽部会館へ出向いた事情として、財界有力者からの資金提供が為されており、そのいきさつから首肯できるところである。主な提供者は、後藤新平、番町会、財界有力者の匿名組合、その他財閥からの献金を得ている。「さしあたり10万円ほどの資金が要るところ、後藤新平に相談に行くと即座に快諾された。後で解ったことだが、後藤は自分の家屋敷を抵当に入れて銀行から10万円を借りていた」との言もある。


【正力の恐怖政治】
 1924(大正13).2.26日、1874(明治7)年の創刊から50年後、こともあろうに、警視庁で悪名高い特高の親玉だった元警視庁警務部長・正力松太郎が第7代社長に就任した。正力の乗り込み時の様子はこうであった。正力はいよいよ乗り込み日の朝、工業倶楽部会館で財界人の河合良成と後藤国彦と三人で会い、「いよいよこれから乗り込むんだ」との決意を披瀝している。

 後藤新平の画策の背景には、「『白虹事件』残党組の追放」狙いがあったとされている。直接的にはこの意を受け、「正力の読売乗り込み」が行われたのであるが、実際にはもっと深い狙いの「政治的謀略」があったようにも思われる。木村氏は次のように評している。
 「読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、『汚い靴』のかかとに踏みにじられたのである」。
 「正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右展開し、『中道』朝日・毎日をも、更に右へ寄せ、死なばもろとも、折からのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった」。
 概要「新聞、ラジオ、テレビという、現代巨大メディアの中心構造が、正力を先兵とする勢力によって支配されるようになった嚆矢とする」。

 つまり、れんだいこ観点によれば、「正力の読売闖入は、我が国の特務機関の暴力的なマスコミ支配介入事件」であったと読み取ることができるように思われる。

 乗り込んだ正力が社長就任直後に手を染めたのは人事であった。警視庁時代の腹心の部下を呼び寄せ、「これが為新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になってしまうのかと歎声や悪口が出た」。総務課長として小林光政(警視庁特高課長)、庶務部長として庄田良(警視庁警部)、販売部長として武藤哲也(警視庁捜査課長)が招聘されている。その後も続々警察人脈が投入されて行くことになる。警視庁以来の秘書役・橋本道淳、警視庁巡査から叩き上げて香川県知事にもなっていたこともある高橋、元警視庁刑事の梅野幾松らの警視庁出身者を次々と引き入れていった。


 但し、経理については財界が不安に思ったか、財界匿名組合のメンバーの一人王子製紙社長・藤原銀次郎の差し金で、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が送り込まれ、読売の会計主任に入った。1919(大正8)年に読売に入社し、後にラジオ部長となった阿利資之は、当時の様子を知る生き証人であり、「この当時の本当の社主は藤原銀次郎だと云われていた」と述べている。「読売新聞80年史」には、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記している。

 当然ながら、記者たちにも苛酷な運命が待ち受けていた。警察上がりの正力に対する幹部や記者達の松太郎への反感は激しく、花田らの元朝日「白虹事件残党組」は、松山と行動を共にして一斉に辞職した。松太郎はこの内の少数を除き他の辞表を受理し幹部一掃に利用した。以降も、「不正摘発」に名を借りた恐怖政治が敷かれ、「社長が社員を告訴」する事態まで発生した。かくて、「総入れ替えに近い大量のベテラン記者の首切り、追放」が進行した。


 正力は朝8時に出勤した。これは異例であった。無駄な出費を省き、記者の前借を禁止した。記者の前借り額は相当な額に昇り、浪費に加えて、社内人脈の紊乱の原因にもなっていた。新聞社の出費のかなりの部分が紙代であるところから現場に張り付いて紙の無駄を指摘した。広告取得に伴うバックマ−ジンのピンはねの防止、新聞の未収代金の回収などなどを進めた。人員整理も敢行した。

【正力の経営手腕】
 正力は只の乗っ取り屋ではなかった。むしろ天才的な企画力を発揮し始め、新聞の大衆化を目指していった。いわゆる「三面記事」に力を入れ、センセーショナルな見出しを踊らせて、購読者を増やしていった。これにより讀賣は朝日、毎日と肩を並べる大新聞へと成長する。これにつき補足しておくと、当時一番発行部数の多かったのは大阪系の朝日と毎日であった。東京系は振るわず、時事新報、報知新聞、東京日日新聞、読売新聞があったが朝日、毎日の後塵を拝していた。これら4新聞のうち後に大を為すのは読売のみで、あとはほとんど他社に吸収合併されている。

 新聞経営は、紙面拡充と広告と販売政策の三つから成ると云われており、松太郎の水雷艇戦術なる奇襲戦法が開始される。これがことごとくヒットしており正力の経営の才覚が認められる。

 1925(大正14).11.15日、放送が始まったばかりのラジオに注目し、他社に先がけて日本初のラジオ版(現在のテレビ・ラジオ欄)の「よみうりラヂオ版」を創設しラジオ番組の紹介を始めた。機械的に番組の時間表を載せるのではなく、芝居、小説、芸能などなどの番組を、その道の有名な専門家に説明させると云う工夫をしていた。これが大反響を呼び読売の部数が毎月千部ずつ増えだした。

 正力が次に打った手は囲碁の好企画で日本棋院と棋正社の大局だった。当時の囲碁界は名人本因坊秀哉を頂点とする日本棋院と雁金準一七段率いる棋正社が棋界を二分していた。この宿敵同志の二人を闘わせ、その棋譜と観戦記を全三段で掲載した。単に碁の棋譜の掲載のみならず、碁好きの有名人に感想を語らせていた。これが評判を呼び読売の部数を伸ばしていった。

 正力は日本名宝展を開催した。旧家に代々伝わる家の宝を展覧会の形で主催し、警察庁官房主事時代に培った人脈を利用し、華族の筆頭である近衛家の当主文麿に、近衛家の門外不出と言われる「御堂関白日記」(注)の展示を請い快諾させた。当時としては全く新規で破天荒な企てであった。他にも「伴大納言絵巻(酒井家)」、「金の茶釜(藤堂家)」、「三日月宗近の名刀(徳川家)」、「後鳥羽院の熊野懐紙(西本願寺)」などを出品させることに成功した。記事には専門家の解説が付けられていた。前後して多摩川園菊人形展も行っている。これらの催し物に際し、松太郎は無料入場券を大量に配った。理由は、タダであれ見たお客が吹聴してくれ、総客数が多くなり売り上げが増えるという見通しであった。これがその通りとなった。

 わが国初めての地方版をつくったのも正力であった。こうして読売は東京日日(後の毎日)、朝日と共に東京三大紙の仲間入りし、首都圏ではトップの座に踊り出た。以後イヴェントを催し、それをニュウスヴァリュ−と為し、記事を書きたてるのは読売新聞の得意芸になる。

 1926(大正15).3.15日、正力が読売乗り込みの二年後になるこの日、歌舞伎座を買い切って「社長就任披露の大祝賀会」を挙行した。3000名の各界名士が集い、正力は席上「新聞報国への固い決意を開陳」した。激励、祝辞を述べた各界代表の中には、首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦圭吾、後藤新平らの名がある。


 その後の読売は、特徴的な姿を見せて行くことになる。内部管理は、正力自身が公言した独裁主義による日本の警察機構の上意下達式を真似た系統図で統制していくことになった。要所要所に配置された警視庁人脈が力を発揮し、労務支配を有利に進めて行った。

 紙面の方は、「エロとグロ」(エロティシズムとグロテスクネス)を積極的に扱うイエロー・ジャーナリズム化していった。加えて、日帝の帝国主義的侵略活動を後押しする御用新聞化していくことになった。具体的には、煽動主義的な戦争報道を通じて「聖戦」に加担して行くことになる。更に、「サツネタ」情報に強味を発揮し、優位な地位に立つことになった。これらの路線により読売は驚異的発展を遂げていくことになる。

 1929(昭和4)年、正力の誘いで元報知新聞の販売部長・務台光雄が入社し販売網づくりを手掛けていった。読売は拡張販売競争に勝利し続け、同時に権力のマスコミ支配を達成して行くことになった。

 1930(昭和5)年、正力経営が奏功し読売新聞は22万部の発行に至る。

 1931(昭和6)年、満州事変が勃発する。戦争は新聞にとって飛躍のチャンスであった。日本の新聞は、西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦争を機にして伸びてきた。但し、大手新聞社は特派員を派遣して取材し、また軍や政府の内部から情報を引き出すが、小さな新聞はそれができなかった。この時、正力は、大手新聞社並みに特派員を戦地に派遣した。試みは吉と出て、これを機に販売部数が増大した。22万部が翌年には50万、更に57万、60万、75万と躍進し、昭和12年には98万部に達することになる。昭和17年時点で、朝日128万部、読売156万部とされている。

 1931(昭和6).11.25日、夕刊を発行(満州事変が始まった頃夕刊発行に踏み切っている)。その頃不況で大手新聞は夕刊を廃止していた。正力は逆に、それまで夕刊を発行していなかった読売に資本力を超えて思い切って夕刊を発行させた。色刷漫画も搭載し、子供たちの人気も引きだした。


 時期は不明ながらこの間、正力は東京市長選挙に立候補し、落選している。市長選と微妙に絡み合いながら、京成電鉄疑獄事件巻き込まれている。京成電鉄と東京市電の相互乗り入れを斡旋する東京都の政界のボス二人に、正力が京成電鉄から送られた10万円を渡すのを仲介した事件で、「進んで入獄」している。

【「番町会事件」】
 1934(昭和9)年初頭、福沢諭吉が創設した政論紙・時事新報が、実名入りの「番町会を暴く」大キャンペーンを連載した。時事新報を主宰していた武藤山治が、鈴木商店が帝国人絹の株を抵当として台湾銀行に入れていたところ株価が繊維業界の好況により上昇し、その帝人株の売買に政財界の黒幕と言われた番町会という組織が暗躍して株価操作で儲けたと紙上告発し、国会でも大問題になった。時事がキャンペーンを開始して3ヵ月後、番町会が深くかかわっていた大疑獄・帝人事件が勃発し、帝人株不正買取関係者として河合、永野、中島らが検挙された。正力も背任幇助嫌疑で地検に召喚され、市ヶ谷刑務所に収監された。木村氏は次のように記している。
 「事件そのものは、4年もかかって無罪判決となるが、正力が株取引で巨額の利益を得ていた事実に関しては、様々な証言が残されている」。

 この事件は奇怪な殺人事件を生んでいる。時事新報社長・武藤山治氏が、キャンペーン記事を連載していた最中の3.9日、拳銃で暗殺された。犯人・福島信吾はその場で自殺したとされている。その後の事情聴取で、事件の三日前に番町会の河合と弁護士の清水が犯人の福島と会った事を認めている。だが、捜査は、なぜか、途中で打ち切られてしまった。 

 1935(昭和10).2.22日、「時事新報社長・武藤山治殺害事件」の翌年、事件との直接的な関りは定かではないが、正力が襲われ、読売本社に入るところを背後から日本刀で首筋を切られるという事件が発生している。犯人の長崎勝助は右翼団体「武神会」の会員だったが背後関係は分からない。右翼団体「武神会」の会長・熱田佐ほか数十人が取調べを受けたが、結局単独犯ということで、長崎は傷害罪で懲役三年を宣告されている。

 奇怪な事件が発生している。東日販売部長・丸中一保が行方不明となり、伊豆山中で白骨死体で発見された。丸中は当時激烈を極めていた新聞販売合戦の最中のことであり、業界には色々噂が飛んだ。
新聞社の販売合戦からくるもつれという線が濃厚な変死事件であった。

【「番町会のその後」】
 番町会のボスであった郷は男爵の位を得て、戦争中の1942(昭和17)年、死亡した。しかし、番町会の伝統は、戦後の政財界にも引き継がれた。中島久万吉は日本貿易開会長、吉田茂の縁戚で、第一次吉田内閣以来、吉田の経済顧問として活躍。多くの番町会メンバーを吉田の周辺に送り込んだ。長崎英造(産業復興営団会長)、永野護、河合良成、大政翼賛会の前田米蔵、大麻唯男。永野護の弟が重雄であり、経済安定本部次長から富士製鉄の社長におさまり、財界に揺ぎ無い地位を築いて行くことになる。永野護は、岸信介の指南役を務めた。

【「読売ヨタモン」への電車道】
 1931(昭和6)年社説が常設で復活したが、内容は官報並となった。

 1932(昭和7).12.19日「大手メディアの共同宣言」による「満州国の独立支持」宣言が為されている。

 1931(昭和6)年、全米オールスター選手を招待。日本にはプロ野球チームがなく17戦全敗。しかしこれにより読売新聞の発行部数が30万部を越えた。正力の新聞販売拡張策は常にイヴェント絡みを特徴としており、拳闘やテニスの試合を主宰し記事にしていた。その延長上に野球が登場したことになる。

 1934(昭和9).12.26日、第2回日米野球を開催。ベ−ブル−スを始めとする米国の球団が来日し、日米親善試合を行った。日本の選手は大学野球と都市対抗野球の選手団からなっていた。その盛り上がりを見て、日本で最初のプロ野球球団・ 大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人ジャイアンツ軍)を創設、正力は取締役に名を連ねる。アメリカの大リーグのチームとの試合を企画し成功させる。日米親善試合の出場メンバ−は、総監督・市川忠男。監督・三宅大輔、浅沼誉夫。投手・沢村栄治、青柴憲一、スタルヒン、浜崎真二、伊達正男。捕手・久慈次郎、倉信雄。内野手・三原脩、苅田久徳、山下実。外野手・二出川延明、中島治康他総計31名、これが巨人軍の最初のメンバ−になった。

 この間、正力は各地に職業野球の球団創設を訴え、すぐに8球団ができた。1936(昭和11)年までに巨人、阪神、中日、阪急、金星、近鉄、太平洋、東京セネタ−ズが名乗りを挙げた。1936(昭和11)年、公式戦をスタートさせる。

【戦時経済体制下の吸収合併】
 満州事変で読売は躍進したが、時代が戦時経済体制に向かい、政府命令により社外出資が禁止された。株式会社の運営が事実上不可能になり、読売は資本金700万円の有限会社になった。

 1938(昭和13)年、新聞用紙制限令によって一県一紙(1県1新聞社)化が国策で打ち出された。これで新聞社はのど元を押さえられ、紙面は検閲された。否応なく「新聞統合時代」に突入した。京都新聞、東京新聞、中日新聞はこの時の合併でできた。「新聞統合政策」は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。「具体的な統合実施家庭では、各都道府県知事及び警察部長、特高課長が指揮をとった」(「新聞史話」)。この過程で、読売は、朝日、毎日と並んで三大中央紙の位置に就くことになった。九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を次々に傘下に収めた。朝日、毎日、読売の三大中央紙の合併も指示されたが、三社の必死の抵抗で免れている。

 1941(昭和16)年、日米開戦直前にかっての名門紙「報知」を買収した。1942(昭和17).8.5日、読売新聞と報知新聞が合併、題号が「読売報知」となる。紙面の方は、「虚報」、「デタラメ記事」、「情報隠匿」が進んだ。

 1944(昭和19)年、正力が、岸信介の推薦で貴族院議員になる。小磯内閣の顧問になる。他にも内閣情報局参与になっている。

【敗戦ショック】
 敗戦直後、戦争責任追及の嵐が巻き起こり、新聞社各社も社内外の世論の批判に晒されることになった。毎日社長の奥村信太郎が8月末に自主退社、朝日の村山長挙ら40社の新聞社長が次々に退陣した。8.23日、朝日が「自らを罪するの弁」、11.7日、社告「国民と共に起たん」記事を発表した。

【第一次読売争議】
 終戦のほぼ直後、読売新聞で労働争議が持ち上がり、読売社員大会が開かれ、社内運営の民主化、編集第一主義、戦争責任の追及、正力ら局長以上の総退陣要求を決定した。鈴木東民(読売従業員組合組合長、続いて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長)が指導し自主管理を目指した。これに経営側が反撃し、鈴木東民ら5名が逆に退社を命じられ、これが発端となり第一次読売争議が始まる。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長及び組合長に選出された。争議が始まり、「生産管理闘争」が採用された。社会党の河上丈太郎、加藤勘十や、出獄したばかりの共産党の徳田球一が乗り込んで来て支援した。

 正力は、最高闘争委員会の委員長・鈴木、闘争委員・志賀重義、とき沢幸治の3名と会談、解決私案を示した。「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」という代物であった。当然のことながら拒否されている。

 1945.11.6日、読売従業員組合は、退陣要求に応じない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。「熱狂的なナチ崇拝者、本社民主化闘争、迷夢探し正力氏」と題する三段見出し記事を載せている。

 11.10日、第一次読売争議のヤマ場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」が開かれ、終了後共産党系のリーダーの指揮する約1千名のデモ行進が読売本社に向かった。正力が狼狽した様子が伝えられている。

【正力がA級戦犯を問われ巣鴨刑務所 に収監される】
 この直後に、A級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決まった。その為、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長とするなどの交換条件で解雇撤回する」取引が成立し、事態は急転直下解決した。増田太助氏は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。その後、日共東京都委員会委員長となるが、「反党活動」で除名処分に附されている。勢いを得た各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(「新聞単一労組」)という個人加盟の産業別単一組織への改組を為し遂げ、各企業はその支部を結成することになった。

 1946(昭和21).5.1日、題号を「読売新聞」に復元。同9.1日、読売信条を発表。

【第二次読売争議】
 GHQ新聞課長・バーコフ少佐によるプレスコードの拡大解釈。極東国際軍事裁判の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それに呼応した馬場者社長らは、「GHQの意思」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下6名に退社を求めた。組合側がストライキで応戦したが、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力突破を図った。これに組合がピケ戦を張り、社屋に立て篭もった。務台らは、警察の出動を要請し、動かないと見るとGHQにMPの出動を要請し、それで慌てた丸の内署がこん棒とピストルで武装した約500名の警官隊が突入してきた。組合側は、「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と非難している。

 以後約4ヶ月、ロックアウトされた争議団4百余名は読売の社外で闘ったが、次第に形勢不利となっいく。新聞通信労組がストライキで取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部37名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈辱を呑んで解決した。復職者は、この間組織されていた御用系の新従業員組合への統一を強要された。以後、読売の労働運動は潰える。

【正力の追放令解除、表舞台へ復帰す】
 A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されていた正力は、1年8ヶ月後の1947(昭和22).8月に釈放されている。しかし公職追放の身となり、この間読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つ経営した。 

 ここまでの歩みを概括すれば次のようになる。正力は戦前、東京帝大を出て警察庁につとめ、主として左派運動取締りの任に当たっていた。関東大震災時の朝鮮人、中国人、無政府主義者、共産主義者に対する虐殺の指揮者であった。ところが好事魔多しでその後、虎の門事件として知られる後の昭和天皇となる皇太子テロ事件の責任をとって辞職した。その後、経営危機にあった読売新聞を買収し、その社主として転身する。正力の経営手腕は高く、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させた。その功により、敗戦まで社主の地位を維持した。

 戦後、社内に読売争議と云われる内紛が第一次、第二次と二度にわたって発生する。その間、正力は、戦犯として収容された。その後釈放される。

 2006.2.16日号週刊新潮は、早稲田大学の有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事を掲載した。同教授は、米国の「国立第二国立公文書館」の公開された外交機密文書から「正力ファイル」を見つけ、「正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実」を明らかにした。有馬教授は後に「日本テレビとCIA…発掘された『正力ファイル』」(新潮社、2006.10.20日初版)を刊行している。

 天木氏は、「2月8日―メディアを創る」の中でこの記事を取り上げ、「これは超弩級のニュースである」と評して次のように述べている。
 「読売グループが何故ここまで対米追従のメディアであるのかは、この歴史的事実からつじつまが合う。あれから半世紀、小泉、竹中は言うに及ばず、米国CIAの日本工作は我々国民の知らないところで驚くべき広さと、深さで進んでいることであろう。しかし恐れる必要はない。その事実が国民に知れた時点で、大きなしっぺ返しを食らう事になる。最後の決めては情報公開である。内部告発でも、密告でもなんでもいい。とにかく一つでも多くの隠された事実を白日の下にさらすことだ。これこそがジャーナリズムの使命であり、醍醐味である」。

 れんだいこ理解によれば、正力は、釈放と引き換えにCIAのスパイエージェントを誓約したことになる。以降の正力の履歴は、CIA絡みということになる。正力は、「podam(ポダム)」と命名されたスパイ名で暗躍している。これにつき、「★阿修羅♪ > カルト12」の バビル3世氏の2013.10.18日付け投稿「読売新聞社社主で日本テレビ社長だった正力松太郎は、CIAのエージェントだった」が次のように述べている。
 「米国立第2公文書館に保管されているCIA機密文書には、日本に原子力事業が導入される過程が詳細に記されていた。日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして『podam』(英:我、通報す)及び『pojacpot-1』が与えられた。組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは『podalton』と付けられた。この二者を通じて日本政界に介入する計画が『Operation Podalton』と呼ばれた。CIAが正力松太郎に命じたのは、日本において原子力の平和利用キャンペーンを進めることだった。正力松太郎は政財界の有力者とのコネや、読売新聞・日本テレビを活用して、原子力の平和利用キャンペーンを進めた。(中略)正力松太郎は、『日本の原子力の父』と呼ばれるようになった」。

【有馬氏の指摘と著作権公害考】
 「阿修羅政治版19」の「CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事」に次のような記載がある。
 投稿者: 有馬哲夫  題名: Re: CIAと読売・正力松太郎の関係の拙文と『週刊新潮』記事

 週刊新潮の記事の著作権は私にあります。全文掲載を許可した覚えはありません。著作権侵害はおやめください。ただちに削除しないばあいは法的手段に訴えざるを得なくなります。

(私論.私見) 有馬氏の発掘著作権考

 「投稿者: 有馬哲夫」氏が「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」の著者の有馬氏自身かどうかは分からないが、彼は自分の著作の指摘が広まることを何故禁じているのだろう。互いに著作権の規制かけっこして何かめでたいことでもあるのか。歪曲、改竄、すり替えが為されて居らず出典元と著者が明記されている限り転載されるのは致し方ないというべきではないのか。れんだいこなぞは光栄と受け取るが。

 2006.12.27日 れんだいこ拝


【CIAエージェントとなった正力松太郎のその後の活動と読売新聞復帰】
 1948(昭和23)年、夕刊復活。正力は芸能連盟を支援し、歌舞伎や落語あるいはその他の芸能生活者を支援している。更に関東レ−スクラブを支援し競艇と競馬を支援している。

 正力は、CIAから1000万ドルの機密費を受け取り、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとし始める。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であった。

 1949.2月、正力、日本プロ野球のコミッショナー就任が決定される。 ところが、公職追放中という理由でGHQの許可が下りずコミッショナーを辞任し、社団法人日本野球連盟総裁に収まる。(「プロ野球は誰のためPart2」参照)

 1950(昭和25).6.1日、株式会社読売新聞社となる。

 1951.8.6日、正力は追放令を解除され、讀賣新聞に復帰する。

【正力とテレビ】

 「読売新聞、日本テレビとアメリカCIAの関係」その他を参照する。

 CIAエージェントとなり讀賣新聞に復帰した正力に与えられたのはテレビ創設活動であった。国際ユダ屋は、この当時、米国を核とする資本主義陣営の喧伝目的で米軍別働部隊としてラジオ放送局VOAを創っていた。CIA直営のテレビ局として日本テレビを創ろうとして正力に黒羽の矢をたてた。VOA創立者のサウス・ダコタ州選出の共和党右派・上院議員カール・ムントは、部下であるヘンリー・ホールスウセン少佐を日本に派遣し、正力にVOAのTV版創立を働きかけた。ヘンリー・ホールスウセンはニューヨークの弁護士にして議会対策の顧問弁護士であり軍人でもあった。且つユニテル社という極東全域を支配する米軍用TV企業を経営していた。

 快諾した正力は米国・国防総省と政界に強いコネを持つワシントンのマーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所を通じ、アメリカ国防総省(ペンタゴン)に、米国の政策宣伝TVとして日本テレビを創立する趣旨を伝え、協力を要請、承諾を得た。ここに日本テレビ創立活動が開始されることになる。議会ではアメリカ上院外交委員会のバーク・ヒッケンルーパー上院議員、ジョン・スパークマン上院議員、軍事委員会のエベレット・ダークセン上院議員が根回しし、「米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうためには、TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」として説得工作を展開した。露骨なまでの3S作戦が明らかにされている。以降、正力はCIA工作員としてCIAテレビ局としての日本テレビ創設活動に邁進する。

 その活動資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書「Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53」に明記されている。有馬哲夫教授の「CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事が解析している。それによれば、CIAは、釈放された正力に対して1000万ドルの借款を正力に与えて、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとしていた。これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であった。正力はこの時、「ポダルトン」と命名されたスパイ名で暗躍している。


 以下、「2004.7.13日付け マスメディア論2004第24回 メディアの歴史(5)テレビの登場と発展 京都学園大学 メディア文化学科」その他を参照する。

 読売新聞社主正力松太郎は、逸早く「テレビ構想」を持った。戦前、ラジオの開設に際して、免許を出願し新時代のメディアに興味を示していたが、政府が民間によるラジオ設立を認めない方針を採り、準国営のNHK( 日本放送協会)にラジオ免許を交付したため、ラジオを断念したといういきさつがある。

戦後、正力は公職追放で読売新聞を追われていたが、アメリカが日本にテレビ網(ネットワーク)を建設する計画を持っていることを知った。アメリカは折からの冷戦の開始で軍事的緊張の高まる朝鮮、韓国、ソビエトへ向けてのテレビ放送を行うという宣伝戦を計画していた。アメリカの構想は実現しなかったが、1950年頃、正力は、アメリカと連携して日本全土のマイクロウエーブのテレビネットワークによる全国放送を行う計画を立て、同時に自らの公職追放を占領軍司令部に働きかけた。

 これに対し、NHKの巻き返しが始まった。NHKはそれまで、高柳健次郎らの手によって戦前からテレビ放送の研究を行ってきたいたが、戦後はNHKラジオの強化に力を入れていた。正力のアメリカ管理下でのテレビ構想が打ち出されるに及び、NHKは、国産テレビを創出しようとした。当時、日本の電機メーカーはまだ十分な技術を持っていなかった為、独自に研究に取り組み始めた。 

 1952(昭和27).4.28日、サンフランシスコ講和条約発効。公職追放中からアメリカ直結のテレビ放送網の建設を提唱していたこともあって、正力を社長とする日本テレビ放送網鰍ヘ、1952.7.31日に日本の第1号テレビ放送免許を取得している。街頭テレビでプロレス中継を流し、テレビの普及、CMスポンサーの開拓という一挙両得手法を編み出した。

 1952年、年電波監理委員会は、テレビを民間放送とすること、技術方式はアメリカのNTSC方式とすること、免許を正力の「テレビ放送網」に与えること、通信回線を持つ全国放送ではなく地域放送を主体とすることなどを決めた。

 その直後サンフランシスコ条約によって日本は独立し、電波行政は電波監理委員会から郵政省に移行した。これにより、NHKもテレビ免許を獲得した。こうして、戦後日本では公共テレビのNHKと民放テレビが並存することとなった。

 この年、読売の大阪進出が大々的に行われた。大阪市北区野崎町にビルを建て、このビルの管理は朝日芸能という会社に任せ、新大阪印刷株式会社を設立した。読売の覆面部隊で、大阪日日新聞や新大阪新聞を賃刷りしつつ、戦時統制の影響がまだ残り、まだ専売網のが再建されていない虚を突いて一気に販売網を広げた。朝日、毎日の朝刊行月250円に対して180円で拡販した。大阪は朝日、毎日の根拠地であり金城湯池で、大阪系のこの二新聞が東京に進出して全国の新聞界を牛耳ったのに対し逆攻勢をかけたことになる。

 1953(昭和28).2月、NHKがテレビ放送を開始した。同8.23日、正力率いる読売新聞社が、日本テレビ放送網株式会社を設立し放送を開始した。日本テレビが先に免許を取得しながら開局が遅れたのは、アメリカに発注していた送信設備など放送機材の到着が予定より大幅に遅れたからである。それに反し、戦前からの技術の積み重ねを持つ高柳健次郎の率いるNHK技術陣は短い時間で開局準備を進めることが出来た。


 日本テレビには後楽園球場でのプロ野球試合中継を優先的にあたえられた。正力は、後楽園球場を徹底活用し、プロ野球のみならずプロレス、ボクシングなどを主催し成功させていく。読売新聞拡張販売員は、読売系列のプロ野球、遊園地、展覧会の招待券、割引チケットを配る事によって販売部数を増やしていった。 

 正力の日本テレビはスポンサーを獲得するため、「街頭テレビ」方式を採用した。東京都内55ヶ所に220台の大型街頭テレビを設置した。折からのプロレス力道山ブームも手伝って、街頭テレビには数千人が群がり、熱心にテレビを見入った。その群集の写真を手にした日本テレビの営業マンが、広告スポンサーを口説いて回るという日が続いた。

 1955年、第二の民放テレビTBSが加わり、翌1956年、中部日本放送CBC(名古屋)と大阪テレビが開局し全国に広がった。テレビは瞬く間に大衆娯楽の王者としての地位を獲得、1959.44月の「皇太子ご成婚」の儀式とパレードの中継放送によって、テレビ受像機は大きく伸びた。1954.12月の受信契約台数は346万件となり、急速にテレビ時代が始まった。

 いずれにせよ、正力の果たした役割は大きい。同時に、NHKとの確執も見ものであった。


 2007.3.20日 れんだいこ拝


【正力内部告発事件】
 1953.9月末、内部告発が登場し、怪文書の体裁をとったこの内部告発分がばらまかれ、国会で取り上げられることになった。次のように記されている。
 「正力は1000万ドルの借款を得るために、アメリカ国防総省と密約を結び、自分が建設するマイクロ波通信網としてアメリカに使用させようとしている。之は国家の根幹に関わる放送・通信インフラを外国に売り渡すというにとどまらない。軍事兼用なので、有事の際にはこの国民的ライフラインが真っ先に敵の攻撃に晒される事態を招くことにもなる。これは到底許される事ではない。(正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない)」

 「正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている。・・・近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」。
 
 この怪文書が国会で取り上げられ、約1カ月後の11.6日、衆議院の電気通信委員会で怪文書が読み上げられるという大騒動へと発展した。防戦に回った正力は、12.7日、衆議院で参考人招致されて喚問を受け、弁明に終始した。こういう経緯を経て、この計画は頓挫せしめられた。正力を主人公にした「ポダルトン作戦」は失敗に終わった。

 正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。 正力はその後、原子力開発行政に深く関わることになる。これについては、「原子力発電史考」に記す。

【正力社主に就任】
 1954(昭和29).7.7日、正力は社主に推挙される。晴れてめでたく表舞台での公式の復帰を果たし、経営の第一線から退く。

【正力、原子力発電の導入に暗躍する】
 正力はその後、原子力発電に精力的に取り組む。次のように記されている。
 正カの衆議院参考人招致と同じ1953年12月、アイゼンハワー大統領は、「原子力を平和のために」と唱え、キャンペーンを始めていた。が、その矢先の翌年3月、アメリカの水爆実験が行われたビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びる事件が起きてしまった。日本では激しい反核、反米運動が巻き起こり、親米プロパガンダを担当するCIAの頭を悩ませていた。

 一方の正力は、政界出馬に意欲を燃やし、アメリカのキャンペーンに呼応するかのように、原発推進の立場を明らかにしていた。おそらくCIAにとって正力の存在は地獄に仏だったに違いない。この時、正力の尖兵として、原発導入のロビー活動を行っていたのは、1000万ドルの借款計画で活躍した柴田だったが、彼が接触していた人物は、やはりCIAのある局員で、CIAファイルには、この局員が書いた多数の報告書が残されている。CIAは、正力が政治家となる最終日標が、総理の椅子だということも早くから見抜いていた。

 1955年2月に行われた総選挙で、正力は「原子力平和利用」を訴えて、苦戦の末に当選し、同年11月、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官のポストを得た。CIA文書は、この時、鳩山首相が正力に防衛庁長官を打診した際、正力が、「原子力導入を手がけたいので大臣の中でも暇なポストにしてほしい」と希望した内幕まで伝えている。この時期から読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。

 当然、CIAと気脈通じた活動であったことが推定される。このように、戦犯釈放後、その身をCIAエージェントとして立てた大物として正力、児玉、岸が挙げられる。「今回のCIAの正力ファイル」は、「日本の指導者が米国の手先となって、米国の日本間接統治に手を貸していた」ことを証明したことになる。

 「中曽根、正力、渡辺、児玉…」( http://www1.jca.apc.org/aml/200211/30791.html)は次のように補足している。

 概要「中曽根氏が閨閥をくんだ鹿島(建設)が、日本の原発の3分2を建設してきたという事実もですね。(そもそも、日本は原発に批判的な学者は教授になることもむずかしいというような状況があるようです) 僕は正力氏を初代の原子力委員会委員長に選んだのはアメリカの采配ではないかと考えています」。


(私論.私見) 「正力の胡散臭さ総合論評」
 正力松太郎に纏わる「負の過去」を的確に見ておかねばならない。米騒動時の蛮勇、関東大震災時の虐殺指揮官、こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていくことになり、「読売新聞建て直しの功労者」として賛辞されることになる。その正力は戦前一貫して「聖戦」賛美論調を煽っていった。これが為、戦後、正力はA級戦犯に指名され巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。この時の裏取引(仮に、「シオニスト盟約」とする)をも凝視せねばならない。

 出獄後の正力は復権し、読売新聞社主として戦前は軍部に戦後はシオニストに提灯し続けていくことになる。時の最大権力に食い入り、常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。その後の正力は、読売新聞社主且つ一時期衆議院議員になり、戦後日本の再軍備化、原子力発電の導入、国家権力中枢へのシオニズム勢力の扶植に精出していくことになる。そういう意味では、「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」はむしろ控えめな表現でしかなかろう。

 この正力に忠誠を誓い、その「負の遺産」を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。

【広瀬隆・氏の指摘】

 「日本のジャーナリズム 広瀬隆」( http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)は次のように記している。

 ところで、読売新聞社社長だった渡辺恒雄氏は児玉誉士夫の舎弟分でありました。この御仁はテレビ朝日の法王として君臨した三浦甲子二氏と二人で田中角栄の所へ行き、中曽根康弘を総理大臣にしてくれと土下座して頼んでいます。「あとでどんな無理な相談も聞くから」と。

 『闇市に出回っていた商品のほとんどは、軍が持っていた国有財産の横領と横流しで、その金額は今の金にしたら数10兆円になり、それを官僚、政商、闇屋などが山分けしたのです。児玉機関が大陸で集めた貴金属やダイヤモンドも、海軍が買い集めた軍需用の資源だが、朝日新聞の飛行機に乗せて持ち帰ってから、右翼の辻嘉六が売って金に替え、その資金が原資で自民党が誕生した。朝日の河内航空部長は児玉や笹川と親しく、右翼に頼まれて社機を使わせたのだろうが、鳩山や河野がその背後にいたわけです』[朝日と読売の火ダルマ時代/藤原肇著]

 児玉誉士夫はA級戦犯で投獄された翌年、CIC(アメリカの陸軍諜報部。CIAの前身)に対するおよそ一億ドルの支払いと引き換えに、七三一部隊の隠蔽工作にも関っていたアメリカの高級軍人ウィロビーの手配によって刑務所から出、その余った金で自民党を作ったのです。

 上の[朝日と読売の火ダルマ時代/藤原肇著]は出版にこぎつけるのに3年かかったのだそうです。その間、40社あまりの出版社に断られています。 この藤原肇氏というかたは元オイルマンで、70年代の石油ショックを、その4年前に予言した著書を書きながら、どこもそれを出版してくれることがないまま、石油ショックの直前になってやっと出版することができたという経歴をお持ちのかたです。それで、マスコミ界にもファンが多く、新聞社の内情にも詳しいおかたです。以下その本から二つばかり。

 だが、正力に関しては自己宣伝的なものが圧倒的で、佐野真一の[巨怪伝](文芸春秋)や征矢野仁の著作集(汐文社)以外には、参考に使える資料を余り見かけない。それは佐野がいみじくも指摘しているように、[正力は読売新聞を伸ばすため、自分にまつわる過去の出来事を、すべからく自己宣伝や美談に仕立てあげてきた]からであり、それを乗り越えるだけの眼力を持つ者が、正力と読売の過去を洗わなかったからだろう。

 「朝鮮人と中国人を虐殺した事件にまつわる、警察の情報操作と過剰な治安行動の面で、関東大震災の混乱を利用した動きに関しては、正力の役割が非常に重要だった」

 ”最近公開された国務省の機密文書によると、CIAが自民党に対して政治資金を提供し、岸内閣の佐藤幹事長が受け取っていたので、日本の政治は外国のカネで動かされていた。日本政府が米国の諜報機関に操られた事実は、1995年3月20日のLA・タイムス紙上で、マン記者が全項を使って解説しているが、日本とイタリーが売弁政治だったとして、国辱的な政治が歴史に記録されることになった。

 それにしても、オウム真理教のサリン事件のドサクサに紛れて、この重大な売国事件は黙殺されてしまった。だが、世界の先進国が原子力発電を放棄した中で、核エネルギーに依存する道を突き進んだ路線と共に、日本の運命を狂わせた出発点がここにあった。

 これに関連して興味深いのは征矢野仁の記述で、[読売新聞日本テレビ・グループ研究]に引用されたニューヨーク・タイムズの記事は、「、、、、、元CIA工作員(複数)の言によると、この他に、戦後の早い時期にCIAの恩恵を受けた人物として挙げられるは、強力な読売新聞の社主であり、一時期は日本テレビ放送網社長、第2次岸内閣の原子力委員会議長、科学技術庁長官となったマツテロ・ショーリキである」とあって、その後に訂正記事のエピソードを含むとはいえ、元CIA工作員の発言は否定されていない。

 正力と中曽根が田中清玄や児玉誉士夫などの利権右翼と結び、CIAコネクションの中で日本の政治に対して、エージェントとして動いていた姿が見え、正力の人脈が占領軍のG2(参謀第2部)に密着し、ウィロビー部長との結びついた意味が納得できる。

 原子力施設の工事で最右翼といわれ、中曽根と姻戚関係を持つ鹿島建設の繋がりが、闇の中から浮かび上がってくるのである。”

 最後に「東京電力」にまつわる話を。次の引用は[襲撃 伊丹十三監督傷害事件/安田雅企著]からです。この本は、伊丹十三氏を襲った後藤組傘下の富士連合の犯人の3人を擁護するために書かれたものです。

”後藤組。組長、後藤忠政。静岡県富士宮市。1970年山口組傘下。1991年、東京都八王子市ニ率会が系列入。福島、北海道、埼玉、熊本など十都道府県に三十近い団体。組員五百名、準構成員を入れると千名近い。都内に金融、不動産、物品販売業などの企業事務所を進出。祖父後藤幸正は実業家。富士川発電、身延鉄道、伊豆箱根鉄道を創設、社長を務めた。富士川発電が東京電灯(現、東京電力)と合併すると取締役に就任。成田鉄道の役員。浅野セメントの浅野総一郎、安田財閥の安田善次郎、運輸大臣・東京市長を歴任した後藤新平らの知遇を得、戦前・戦中に政界、軍部に顔を効かせ活躍。頭山満、古島一雄と親交を結び、蒋介石、孫文らと交わり、敗戦により全財産を失うまでは中国、台湾、朝鮮、カラフトに事業所、会社を持つ。”

 このなかの後藤新平氏というのは、1985年に領有した台湾において、当時の内務省衛生局長としてアヘン収益政策を行っていた人物で、正力氏が読売新聞を買い取る時にその資金を調達した人物とももくされています。

 「日本のジャーナリズム」(http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/kiken.html)の「危険な話━チェルノブイリと日本の運命」広瀬隆著(八月書館1987年刊)から

 民放は最大のスポンサーが電力会社。NHKは大丈夫かと言えば、経営問題委員が平岩外四、これは東京電力の会長ですよ。解説委員の緒方彰、このいかめしい顔をしながら、原子力産業会議の理事です。放送番組向上委員の十返千鶴子、NHK理事で放送総局長の田中武志が、いずれも原子力文化振興財団の理事です。この財団は、東京の新橋にオフィスを訪ねてみましたら、原子力産業会議と同じビルの同じフロアにあり、『原子力文化』というPR雑誌を発行している原子力の宣伝部隊です。これを開くと、チェルノブイリ事故直後の七月号に、放射線医学総合研究所の館野之男という人物が、「退避の必要なかったワルシャワ市民」というとんでもないことを書いています。彼こそ、日本の新聞紙上で「すべて安全」と言い続けてきた人物です。

 朝日の一例を引きますと、原子力関係の記事は科学部がチェックすることになっている。検閲ですね。そして科学などまったく知らない人間が、当局の言葉通りに記事を修正する。悪名高い論説主幹の岸田純之助が、彼は原子力委員会の参与でしたが、「原発に反対する記事を書いてはならない」という通達さえ出している。彼に育てられた大熊由起子が、いまや論説委員に昇格して健筆をふるっているわけですから、いかに誠意ある記者がいても駄目です。
 
 実は、『億万長者はハリウッドを殺す』の内容を最も高く評価してくれたのが、皮肉にも私と真っ向から対立するはずの財界人や商社マンでした。彼らは少なくとも子どもでなく、第一線でロックフェラーやモルガンの代理人とわたり合い、金融の世界でしのぎを削ってきたので、容易に内容を理解できるのでしょう。ところが物書きや文化人は、叙情に溺れ、正義などという世界に遊んでいるため、何も知らない。私自身、調べるまでは何も知らない子どもでした。ジャーナリズムの遅れが、今ではよく分ります。彼らは、自分の子どもが殺されようという時にも、まだ物書き、作家、評論家、記者として机に坐り、落ち着いているのでしょう。 次へ  前へ


 「日本を守るのに右も左もない−時代潮流の深層。従米政治家 ・ 2ch ・ マスコミ ・ アメリカ支配を斬る−」の2009.2.19日付けブログ「日本の原発導入の歴史1 −事実が隠される構造」が、れんだいこ文を紹介している。その中で、「世界潮流」の指摘を採り上げており、これを転載しておく。
 警察とヤクザを基盤に発展した読売の歴史 「戦争反対(7437)」
 最近憲法改正を声高に訴える人物がやたら目立つようになってきたのは皆さんご承知の事と思う。だがよく観察すると憲法改正を声高に訴える人達をことさらにしかも特定のメディアがクローズアップしているからこそ目立っているのだという事に気付くことになる。

 特定のメディアとはすなわち、読売新聞と系列の日本テレビ、産経新聞と系列のフジテレビ、そしてテレビ朝日とTBSの一部の番組及びそれら系列新聞、毎日、朝日の一部政治部記者連中、さらに右翼系雑誌社であるが、その中でももっとも憲法改正の必要性を宣伝し、新聞社独自に憲法試案まで作り、この憲法問題に関しては客観的報道など微塵も感じられないメディアといえば「世界最大」の発行部数を自慢する読売新聞である。

 ではなぜ読売新聞は憲法改正を声高に訴えているのであろうか。今日はそれを読売新聞の歴史を紐解くことにより明らかにしたい。まずは以下の文章をお読みいただきたい。

 読売 梁山泊の伝統とナベツネ体制の確立

 警察とヤクザを基盤に発展した読売の歴史は、中興の祖である正力松太郎が警察官僚であり、[民間にあって世論を指導する機関、御用新聞として焼き打ちを食ったりしないマスコミ、その価値を見抜いていたものこそ、後藤、正力らの内務・警察高級官僚だった]と征矢野仁が『読売新聞・日本テレビグループの研究』(汐文社刊)に書くように、読売は新聞社の姿を装う警察の情報機関であった。だから、戦後になると正力の女婿の内務官僚で、警務に詳しい小林与三次がバトンを引き継ぎ、新聞とテレビを結ぶメディア王国を築いている。そして、販売戦略で大きな功績を残した務台光雄に続き、裏の世界に詳しい渡辺恒雄が社長になり、部長以上に[忠誠契約書]を提出させた独裁制を敷き、日本最大の新聞というステータスの確立によって、新しい装いに塗り替えて再出発したのである。

 既に中曽根政権時代に非常に顕著になったが、時の政治権力に追従して世論の誘導を行い、政府の広報紙に似た機能を演じただけでなく、積極的に世論を動かすことまで試みている。しかも、最近では[改憲]試案を紙面に発表して、極右派閥の機関紙の役割を果たすほどになったように警察予備隊として始まった日陰者の自衛隊が、軍隊に脱皮して認知されるという警察官僚の夢を、読売は率先して描き上げるに至ったのである。

 その原動力はナベツネの仇名を持つ渡辺社長であり、転向左翼でハイエナの嗅覚を持つ渡辺恒雄の人生航路は、『政界影の仕掛け人』(角川文庫)に大下英治が書いたように、自己中心主義者の権力志向の歩みだった。政治部の渡辺記者は大野番として出発したが、大野伴睦や児玉誉士夫に密着して子分役を務め、暴力団の東声会のクラブの運営委員に連なったり、ロッキード事件の前にワシントン特派員として、児玉の対米窓口を果たしたとも噂された。また、児玉が乗っ取った出版社の弘文堂では、若き日の中曽根と共同経営者に名を連ね、その時の株主仲間には児玉や中曽根の他に、大橋富重、萩原吉太郎、永田雅一、久保満沙雄のような、戦後の疑獄史の裏面に出没した政商たちが、読売の現役記者だった渡辺と共に名を連ねている。

 こうして築いた資金と暗黒人脈を背景にして、ダーティーな疑惑もものともせずに、読売に堅固な砦を確立したナベツネは、最後には中曽根康弘の刎頸の友として策動し、中曽根に天下を取らせてヤクザ政治の実現を果たした。その辺の具体的なことは『平成幕末のダイアグノシス』の中に、『日本列島を制覇したヤクザ政治とカジノ経済の病理』や『カジノ経済と亡国現象を生んだ'日本のサンクチュアリー』として詳述したので、そちらを参照して貰うことにしたい。いずれにしても、駆け出し記者の時代から札ビラを切ったナベツネは、表と裏の世界のドンの両方に繋がった、知的フィクサーとして記者仲間では有名で、そんな人物が日本最大の新聞を支配しているのである。

 http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/taisyusi.htm
 大衆紙の愚民化工作  藤原肇(国際政治コメンテーター)著 より

 普段我々が決して見る事のできない読売の歴史がここに明らかになっている。ちなみに読売の中興の祖という正力松太郎が警察官僚となっているが、今の一般のお巡りさんを創造するのはナンセンスというものである。ファシズムに反対するものを容赦無く弾圧した思想警察である。

 当然そのような侵略戦争に深く荷担したものは、戦後戦犯として起訴されたり、公職を追放されたりしたのだが、しかし正力松太郎は読売のドンとして居座ることになる。なぜであろうか。

 その点を少し触れた文が以下にある。
 http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/363.html

 荒稼ぎをする人達2(高木規行)

 (前略)力道山は新田新作の援助を仰ぎ児玉誉士夫に見いだされ、児玉誉士夫の資金で全日本プロレスを旗揚げし、メディア戦略として児玉誉士夫は東京タイムス紙を買収し、夕刊紙「東京スポーツ」と改名し、後に広域暴力団山口組の組長になった田岡一雄や東声会会長、町井久之を共同経営者にしてプロレス専門誌にしてしまった。なぜ児玉誉士夫がプロレスに肩入れしたのか、それは戦争に負け、ガイジン占領軍に支配された記憶の鮮明な当時、ガイジンが日本人にやっつけられることで国粋主義的な雰囲気を作ろうとしていたと言われている。

 そもそも児玉誉士夫は右翼の大物である事から、当時「アカの恐怖」に脅えていたアメリカが戦犯として巣鴨拘置所に拘留していたのを解放してCIAの手先として利用していた。それは右翼だけではなく、暴力団もであった。この事が後々、しっペ返しになった。プロレス人気は児玉誉士夫のお友達である日本テレビ放送網会長の正力松太郎が街頭テレビを考案し関東一円に220台も設置、まだ関東地区では12000台しかなかった頃の大博打だったが、日本中にテレビ中継されたプロレス人気は止まる所を知らぬ白熱ぶりで、おかげで日本テレビは突如、黒字優良企業に変身してしまった。

 たしかにプロレス人気は高まったが、国粋主義的思想は児玉誉士夫の思惑とは裏腹に低いままどころか、国論を二分した安保闘争にエネルギーが流れてしまった。プロレスという興業を成功させた力道山は他の顔もあり、実業家としての力道山はリキアパートという高級マンションを手がけ、渋谷の道玄坂から丸山町側に入った所に日本初のボーリング場を作るなど大変な実績を残している。ただし、リキアパートの住人には在日韓国系暴力団東声会のオフィスがあるなど色々な意味で世間とは違う世界だった。

 そして力道山の三つ目の顔とは、東声会の最高顧問というアンダーグランドな世界の顔役であった。結果的にそれが禍して東声会と大日本興業社との抗争に巻き込まれ、1963年12月8日、赤坂のラテンクォーターで大日本興業社の鉄砲玉に刺され一時は回復傾向にあったものの、腸閉塞を併発し、12月15日に亡くなった。享年39歳。ちょうど40年前の出来事であった(後略)

 闇勢力に深い影響力を持つ児玉誉士夫と正力松太郎が非常に親しかったことが書かれている。児玉誉士夫と言えば、戦前日本軍の軍資金としての阿片密売などに関与し戦犯として処刑されてもおかしくないものをCIAの前身である米軍諜報部に全面協力を約束し赦免された人物である。そして実は正力松太郎も米軍諜報部と密接な繋がりがあったのだ。米軍諜報部将校と正力松太郎らが親しげに交流していたのは周知の事実なのである。

 米軍諜報部がバックにいたからこそ正力松太郎は戦後も大手を振るって歩いていた。ちなみにこの戦後すぐの時代、米軍諜報部は日本国民を親米的にするための諜報作戦を多数行っている。近年の米国での情報公開などにより、その作戦の一部が明らかになっており、例えばラジオ番組に米国の曲を提供し日本人に米国への親近感を抱かせるという作戦などが行われていたようだ。

 ただ、さすがに日本のテレビと新聞へ米軍諜報部がいかなる工作を行ったかについては未だに詳細は明らかになっていない。

 現在の日本ではラジオ番組の何十倍もの影響力がこのテレビと新聞にあることを考えると、現在においてもCIAの工作が行われていることから手口が公表できないのかもしれない。

 実際、現在の憲法改正キャンペーンを強力に推し進めているのは米国政府である。その目的は自衛隊を指揮下におき海外の紛争で米軍の盾にしようということだろうが。米国高官が口を滑らせて公然と「憲法改正するのが望ましい」と言ってしまったこともあるので、かなりの人々がそれを認識していると思う。
 40年前、筆者が中国と日本をめぐる国際関係論の新任教授だったころ、エドウィン・O・ライシャワーが「日本を恒久的に非武装化したことが、1945年の米国による勝利の大いなる報酬でした」と発言したのを憶えている。日本に生まれ、ハーバード大学で日本史研究者になったライシャワーは、ケネディ、ジョンソン両政権下で駐日米大使を務めていた。ところが1991年の冷戦終結後、とりわけジョージ・W・ブッシュ政権発足後、おかしなことにアメリカは日本の再武装を促すばかりか、それを加速させるべくあらゆる手を尽くしている
(中略)
 友好的であっても敵対的であっても、アメリカの競争相手になる勢力圏の出現の動きがあれば、全力をあげてこれを阻止しなければならないというのが、長年のネオコン信条の眼目(がんもく)にある。このことは、ソ連崩壊の後、ネオコンが次の仮想敵のひとつとして中国に目を向けたことを意味する。2001年にネオコンが権力の座につくと、多数の核兵器の照準がロシアから中国に振り向けられた。彼らはまた、台湾防衛をめぐり、台湾の高官レベル当局者たちと定期的な会談を開始し、アジア=太平洋地域への軍部隊と軍備の移動を命令し、日本に対し再軍備の推進を精力的に働きかけた。

 「米中の狭間で日本は……」
 チャルマーズ・ジョンソン 日本政策研究所(the Japan Policy Research Institute, カリフォルニア州)代表

 だからして必死に憲法改正キャンペーンを訴える読売の社の姿勢というのは、現在においても米国の意のままというだけのことなのかもしれない。とすれば過去の経営者と米軍諜報部との「お付き合い」をも鑑みて、警察とヤクザと米国を基盤に発展した読売の歴史なんて言ってみるのが正確なところだろうか。

 (追記)
 なんと「荒稼ぎをしている人達2」を書いた高木規行さんご本人からメールあり。諸事情により紹介させていただいた記事は
 http: //mark-nana.cocolog-nifty.com/keyman_/2005/06/09/index.html
 にて再掲載とのこと。またディフェンス・レビュー・フォーラムという軍事情報フォーラムも運営されておられるとのこと。貴重な情報にこの場を借りて感謝申し上げたい。

【初代科学技術庁長官に就任】
 1956(昭和31).1.4日、原子力委員会の初代委員長に就任し、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表した。これに対して、原子力委員の湯川秀樹は、「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」と強く訴え、抗議のために辞任した。(原子力委員会月報1957年1月号)

 5月、原子力開発の目的で科学技術庁が創設され、正力が初代長官に就任する。

【第1次岸内閣改造内閣で国務大臣に就任】
 1957(昭和32).7月、 第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(国家公安委員会委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長)に就任。1960.1月、東海原発の着工開始。1964.5月、東海原発の商用運転が開始される。

【読売新聞の社主に復帰、讀賣テレビ放送会長に就任】
 1958(昭和33).6月、 読売新聞の社主に復帰。8月、讀賣テレビ放送会長に就任。

【国会議員柔道連盟会長に就任】
 1961(昭和36).6月、 国会議員柔道連盟会長。

【財団法人日本武道館初代会長に就任、駒澤大学より名誉博士号を授与される】
 1962(昭和37)年、財団法人日本武道館初代会長に就任。駒澤大学より名誉博士号を授与される。

【勲一等旭日大綬章を受章】
 1964(昭和39).11月、勲一等旭日大綬章を受章(没後、勲一等旭日桐花大綬章追贈)する。

【高岡市名誉市民、 大門町名誉町民】
 1965(昭和40).6.18日、高岡市名誉市民。6.26日、大門町名誉町民。

【報知新聞社社主に就任】
 1967(昭和42).5月、報知新聞社社主に就任。

【サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ)を立ち上げる】
 1969(昭和44)年、この年、サッカークラブチーム・読売クラブ(後の東京ヴェルディ)を立ち上げた これが事実上正力の最後の仕事となった。

【逝去】

 1969(昭和44).10.9日、 国立熱海病院で死去(享年84歳)。王・長島を擁し川上監督に率いられた巨人軍のV9進軍の真最中であった。叙・従二位。14日、日本武道館にて葬儀。柔道八段から十段に。






(私論.私見)