「読売新聞社史考」その1、通史

 (最新見直し2010.05.26日)

  (れんだいこのショートメッセージ)

 読売新聞史を理解しておこうと思ったのは、同紙の記事に必ず付き纏っている「無断転載禁止」に接してである。この感覚はどうも尋常では無い。思えば、我が国のマスコミの没ジャーナル性は重度の失陥があるように思われる。「無断転載禁止」は、その象徴的世迷言(よまいごと)ではないのか。この背景を知っておこう、そういう思いが止まらなくなった。

 その時ふと思い出した、。確か、
木村愛二氏がナベツネ関係の著作をものしていたことを。そこで早速取り寄せ、2003年の5月連休に読んでみた。その結果、この情報をサイトアップしておこうと思い立った。断片的な整理にしかならないが、知らぬよりは知っておいた方が良いであろうと思われる事項のみ書き写すことにした。もとより木村氏の著作を取り寄せ一読するのがより正確である。という訳で、折をみて書き綴ることにする。

 それはそうと、テレビにサブリミナル(サブリミナル効果・視聴者が認知できないほど短い時間に繰り返し映像を流すこと。映像が潜在意識下に残るなど人間の体に影響があるとされている。)なカットを入れて批判を浴びたのも読売系列の日本テレビ網である。全く、読売新聞には「表現の自由」に関して尋常ではない不見識性が認められ、総じて「闇」があるように見える。


 2003.4.30日 れんだいこ拝


木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」考 れんだいこ 2003/05/03
 木村愛二氏の「読売新聞・歴史検証」(汐文社)は力作ですね。れんだいこが常日頃感じている日本のマスコミの没ジャーナル性の端源を見事に切開しております。まだ途中までしか読みきれていませんが、興味のある方ぜひご一読してみてください。

 それにしても我々は史実を知らなさ過ぎる。囲碁と一緒でいくら頭脳が良くても定石習わずには石の運びはうまくなりません。(とか云っても、れんだいこが囲碁が強いというとるのではないからね、念のため。一般論を云うとるんですよ)

 「読売新聞・歴史検証」に拠れば、日本ジャーナリズムの勃興は、明治の文明開化とともに始まる。問題は、当初より官許的規制が強く、新聞紙条例でいろいろ規制されつつ始まったということか。しかし、次第に論調の規制緩和が進み、大正デモクラシー時代には政府批判や社会主義思想の喧伝まで種々行われるようになった。

 そこへ一大鉄槌が下るのが、関東大震災で経営危機に陥った読売新聞社への正力松太郎の乗り込みだった。正力は特高官僚であり、難波大助の皇太子狙撃事件の際の警備の手落ちの責任をとらされ免職されていた。その彼が皇太子の成婚特赦で恩赦される。浪人中の身となっていた正力に読売の社長に座らないのかと声をかけたのが、財界右派の番町会であった。

 正力はこれに飛びつき、以降読売の右傾化に邁進する。要職をかねての同僚である警視庁から引っこ抜きあてがい、蛮勇を奮っていくことになる云々、面白いですねぇ。

 れんだいこの関心は、その正力時代から務台時代を経てナベツネ時代への移行過程の検証、このナベツネの胡散臭さをそれとして露にしてみたいというところにあります。興味深いところは、何やら宮顕の登竜過程、権力手法と酷似していることです。同じ穴のムジナはすること為す事がよく似るのも道理と云うことか。

 しかしそれにしても木村氏のこの著作は内容が濃いですね。あらためて見直しました。いろいろ取り込むところが多すぎて、それが却って困る。


【読売新聞の勃興期の様子】
 我が国の新聞発行は。明治の御代と共に始まるがその経緯(いきさつ)からして政情絡みであった。明治新政府は、新聞の発行を奨励する政策に転じると共に統制下にも置こうとしてジグザグしている。新聞は、議会開設を求める自由民権運動の高まりと共に全国に広まった。その詳細は、「読売新聞・歴史検証」(木村愛二・汐文社)参照の事。

 読売新聞誕生の経緯は次の通り。日本最古の日刊紙・横浜毎日新聞が1870(明治3)年に創刊された。東京日々と郵便報知新聞が1872(明治5)年に創刊された。横浜毎日新聞の創始者の中心人物であった元岐阜大垣藩士・子安峻が元佐賀藩士・本野盛亨、長崎の医者の養子・柴田昌吉らで日本最古と云われる鉛活版印刷所・合名会社日就社を創立する。

 1874(明治7).1.2日、日就社が、「俗談平話」を旨とする「小新聞」として読売新聞を創刊した。初代社長子安峻。東京の芝琴平町で発行され、その後京橋に移転する。文明開化の先導役、人情風俗の良化を自負しての発刊であった。毎日新聞の前身となる大阪日報が1876(明治9)年、朝日新聞の前身となる大阪朝日が1879(明治12)年設立されている。

 読売新聞の発刊後の歩みは順調で部数も伸び、次第に政論も交え、文学の育成にも尽力していった。1887(明治20)年、高田早苗(後に衆議院議員、文部大臣、貴族院議員、早稲田大学総長となる)を主筆に招き、1889(明治22)年、坪内逍遥を文学主筆に、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外らに執筆させている。1897(明治30)年、尾崎紅葉の「金色夜叉」が読売紙上の連載小説として始まった。1898(明治31)年以後には、文芸欄を島村抱月、徳田秋晴ら自然主義文学派に担当させている。小杉天外、正宗白鳥らも集う。


 1904(明治37)年に日露戦争が勃発するが、主戦論的論調と一線を画し、むしろトルストイ、チェホフ、プーシキンらの関係記事が文芸欄を賑わし、ゴーリキーの「コサックの少女」が徳田秋晴訳で掲載されるなど、非戦論を掲げていた幸徳秋水、堺利彦らの平民社運動と親和的であった。その後、河上肇が入社し、「千山万楼主人」のペンネームで「社会主義評論」を連載している。平民社出自の上司小剣、後にプロレタリア文学で名を挙げる青野季吉、後の共産党委員長を務める市川正一らも入社している。

 青野の語るところによると、概要「読売には特殊な良さがあり、日本で唯一の文化主義の新聞で、例えば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきた。だから、読売新聞といえば、文学芸術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、そういった文化主義的な空気が、他の様々な、例えば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。この新聞で仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」とある。

【読売の経営危機の様子】
 1917(大正6).12.1日、合名会社「日就社」を「読売新聞社」と改称。この頃、大阪朝日、大阪毎日が、大阪財界の支援を受けて東京に進出してきた。「明治初期には最先端、明治末期には大沈衰期、大正期には既に旧い」と云われるようになった読売は次第に財政的に行き詰まって行く。この間経営権は子安家から本野家に移っていた。その本野家の二代目の長男・一郎と次男・英吉郎の協力体制が組めず、「売家と唐様で書く三代目」という江戸川柳そのままに、読売はいずれ人手に渡る運命に陥った。本野家の二代目の長男、次男が病死し、秋月が社長を引き受ぐ。

 1918(大正7)年シベリア出兵問題で揺れる頃、読売の買収話が起り始め、海軍出身の首相・山本権兵衛が最初の意欲を見せている。この干渉はまとまらず、次に、陸軍系が触手を伸ばし始める。主筆に右翼系の伊達源一郎が就任するや、論調が政府寄りに一変し、シベリア出兵論を唱え始める。経済部長、政治部長、社会部長の重要ポストが伊達系列に占められていった。

 当然の如く、編集局内部で抗争が発生し印刷局まで含めたストライキの動きを誘発している。この騒動は最終的に、編集委員・青野と市川が仕事取り上げにより窓際族にさせられるという「閉門の刑」で決着した。これは、読売編集局の敗北ではあったが、軍閥を背景とする伊達一派にも読売制圧の難しさをしらしめ、読売買収計画を頓挫させたという意味で傷み分けとなった。ちなみに、その後の青野はプロ文学運動に、市川は日本共産党結成に向かって行くことになる。

 読売買収の動きの背景には、「その頃は日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社にも自然発生的に入り込んできて、読売は、その最先端のようにみられていた」ことから、その対策という治安対策的な意図があったように思われる。

【「朝日新聞社に「白虹貫日事件」騒動起る】
 1918(大正7).8月、米騒動が勃発し、これを警察のみならず軍隊までが出動して鎮圧する騒ぎとなった。8.14日、時の寺内内閣は、暴動拡大防止を理由に一切の新聞報道を禁止した。新聞社側は東西呼応して記者大会を開き、86社の代表166名が参加した席上「禁止令の解除及び政府の引責辞職」を要求決議した。大阪朝日新聞はその日の夕刊でこの模様を報じたが、その記事文中に概要「我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日が近づいているのではないか」、「新盤の『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが人々の頭に雷の様に閃く」という文章を連ねていた。

 これを頭山満らの「浪人会」が取り上げ問題化した。寺内内閣が呼応し、大阪朝日新聞の記事を「当時最大の罪とされていた『朝憲紊乱罪(天皇制国家の基本法を乱す罪)』に該当する」として、新聞紙法違反という罪名により最重度の「発行禁止処分」、つまり廃業、会社解散に至る処分をちらつかせた。検事局は、問題の記事の執筆者・大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄を起訴し、各6ヶ月の禁固の上に朝日新聞の発行禁止処分を求刑した。

 朝日新聞の村山社長はこの時、当局へのひたすらな恭順で事態を打開しようと奔走した。「監督不行届きを陳謝し、社内の粛清を誓う」ことで切り抜けを図った。同社の進歩派幹部であった鳥井素川、長谷川如閑、大山郁夫、大庭カ公、櫛田民蔵らが追い出されることになった。

 その後寺内内閣が瓦解し、元大阪毎日社長などの経歴を持つ原敬が首相兼法相になるに及び、「寛大な措置」が採られ、朝日新聞は「発行禁止」つまり廃業の危機を免れた。大西記者と山口発行人は、一審判決に服し、求刑より軽い禁固2ヶ月の刑に従った。

 この事件は、一つに「権力と言論の相対的自律」問題を廻っての一大事であったこと、二つに時の朝日新聞の軟弱な姿勢が我が国の言論界の伝統的体質を浮き彫りにさせていること等々で見逃せない。が、「この後の新聞界の変化」と「社内粛清」により放逐された記者のその後の流れも又極めて重要な事件となっており、この方面でも注目に値する。

 「この後の新聞界の変化」を見てみる。11.15日「大阪朝日・東京朝日新聞に共通すべき編集綱領四則」が設けられ、三項で「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に基づきて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」という手かせ足かせ規定が謳われた。その説明文で、概要「これを不文律として以前にもまして今後の規範とする」と宣言されていた。注意すべきは、「不偏不党」が、政府批判を控えるというセンテンスで謳われていることである。木村愛二氏に拠れば、「日本の大手メディアの『痛恨の屈辱』事件となった」。その後の軍部独裁の動きに対して追随を余儀なくされる仕掛けの嚆矢となった、という訳である。この伝統は、今日のマスコミにも継承されており、つまり「不偏不党」は胡散臭い美文でしかない、とも指摘している。

【読売の新経営者として松山忠三郎がスカウトされる】
 読売争議の果てに、経営権が財界の手に移ることになった。1919(大正8)年、二代目社主・本野盛一が、経営権を工業倶楽部の財界人による匿名組合に売り渡した。新社長となって乗り込んできたのが東京朝日編集長という履歴を持つ松山忠三郎であった。松山は、「白虹事件」に連座して辞任していたところをスカウトされた格好となった。元々「札付きの財界御用記者」と評判されていた人物であったので、財界の意向を挺するのに彼我の条件が合ったということであろう。

 当時、社長の交代は、従業員のいったん全員解雇を意味していた。旧社員は、「給料1か月分と3ヶ月ほどの退職金」を渡されて、「本野家経営の読売との別れ」となった。再雇用に当って、左派系人士と軍閥系伊達派が去って行くことになった。代わって、東西朝日を退社してかなりの編集陣が松山のもとへ馳せ参じてきた。

【「大正日日新聞事件」】
 先の「白虹貫日事件騒動」の後にもう一つ見逃せない事件が起っている。1919(大正8).11.25日大阪で「大正日日新聞」が創刊された。最大の出資者は、鉄成金の一人・勝本忠兵衛であった。当時の朝日の資本金150万円よりも多い200万円で出発し、「日本一の大新聞」を呼号した。社長に担がれたのは貴族院議員の藤村義朗で、大株主の中には細川護立(元熊本藩主の家柄の公爵)がいた。

 実質上のトップは、「白虹事件」の火元となった大阪朝日の編集長で事件の経過で辞任していた鳥居素川で、主筆兼専務となった。他にも大阪朝日退社の丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎、東京朝日退社の宮部敬治、読売解雇組の青野季吉、報知からは鈴木茂三郎(戦後社会党委員長になる)、徳光衣城ら知名度のある記者が一斉に馳せ参じていた。まさに「当時の新聞界の第一級の陣容」であり、木村愛二氏曰く「これはまさに大正日本のメディア梁山泊とでも云うべき言論の砦だったのではなかろうか」。

 しかし、「日本一の大新聞」の夢は潰える。これを検証することは極めて有益であり、示唆が多い。その理由として、一つには「武家の商法」があった。二つ目に先発の同業者・大阪朝日と大阪毎日が連合軍となって徹底的に排除し抜き、その仔細は省くとして業務妨害まで行ったことにある。第三に官憲当局が圧力をかけ続け、暗躍したことにあった。

 かくして創刊数ヶ月をもって、出資者が去り、社長去り、主筆兼専務の鳥居も退社し、僅か8ヶ月で会社解散の憂き目にあった。

 ところで、その紙面はまさに貴重であった。「政権批判、ストライキ報道、男子普通選挙権の即時実施論」が堂々と為されており、「まさに大正デモクラシーの息吹」を伝えつづけていた。木村愛二氏曰く「『白虹事件』のために大阪毎日での筆を折られた大記者たちが、思う存分に筆をふるっていたのではなかろうか。ところがそれを、当の大阪朝日が、日頃は商売敵の大阪毎日と連合して、あらゆる非合法的手段を駆使してまで叩き潰しにかかったのである」。

【松山時代の読売新聞と関東大震災の衝撃】
 大正日日新聞が一年たたぬ間に解散したため、錚々たるメンバーが松山の下に新たに参集してきた。読売新聞百年史は「彼らが歴史ある読売を舞台に理想的な新聞を作る決意に燃えていた」と記しているが、これはあながち手前味噌の記述ではないように思われる。確かに「大正期メディア人間達のドラマ」だった。木村愛二氏曰く「大阪の大正日日に築かれ始めた梁山泊が更に求心力を求め、首都東京に移動したが如き感がるではないか」。

 この頃の東京の三大新聞は、発行部数で見るに約36万の報知新聞、約30万部の時事新報、国民新聞であった。これに大阪を本拠とする東京朝日と大阪毎日の傘下の東京日日が約20万部で第二グループとなっており、読売はその後の第三グループを形成していた。読売は松山社長になって以来、約3万部まで落ち込んでいたものを4年4ヶ月の間に約13万部まで伸ばした。

 松山時代、読売の紙面は再び「文学新聞」的伝統に立ち帰り、婦人運動やプロレタリア文学運動に発表の機会を与えていた。この背景には折からの大正デモクラシーの影響があった。大正デモクラシーとは、1912(大正元)年に大正年号に入って以来の自由民権的思想が横溢した時代の流れのことを云う。この機運に押されるかのように読売新聞は「清新な文芸復興の旗手」を任じていった。

 こうした正成長を遂げていた時に思いがけなくも1923(大正12).9.1日関東大震災が襲った。折柄読売新聞は建設中の新館の落成式日に当っており大打撃を蒙ることになった。松山社長は財界筋の新たな援助を求めて資金手当てに東奔西走することになった。財界筋は一度は財政援助に踏み切ろうと合意したが、「ある日突然に冷たく突き放すことになった」。この背景が究明されなければならないが、今日でもヴェールに包まれている。

【正力松太郎が乗り込む】
 松山の奔走虚しく、社長を引退することになった。代わって就任したのは、前警視庁警務部長つまり特高の正力松太郎であった。松山と正力は工業倶楽部において、匿名組合代表の郷誠之助、藤原銀次郎、中島久万吉らの立会いの下で、読売の経営権の譲渡について話し合い、正力が「調印の際に5万円、松山について去る13人に合計1万6千円の退職手当てを支給する事を承諾」(「読売新聞80年史」)して後、「譲渡契約書」を結んだ。

 この時の気持ちを正力自身が「乗り込む」なる表現をしている。正力自身の履歴と背後勢力については、別項「「読売新聞社史考」その②」で考察することにする。

 1924(大正13).2.26日、1874(明治7)年の創刊から50年後、こともあろうに、警視庁で悪名高い特高の親玉だった元警視庁警務部長・正力松太郎が第7代社長に就任。正力の乗り込み時の様子はこうであった。正力はいよいよ乗り込み日の朝、工業倶楽部会館で財界人の河合良成と後藤国彦と三人で会い、「いよいよこれから乗り込むんだ」との決意を披瀝している。正力が工業倶楽部会館へ出向いた事情として、財界有力者からの資金提供が為されており、そのいきさつから首肯できるところである。主な提供者は、後藤新平、番町会、財界有力者の匿名組合、その他財閥からの献金を得ている。

 後藤新平の画策の背景には、「『白虹事件』残党組の追放」狙いがあったとされている。直接的にはこの意を受け、「正力の読売乗り込み」が行われたのであるが、実際にはもっと深い狙いの「政治的謀略」があったようにも思われる。木村氏曰く、「読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、『汚い靴』のかかとに踏みにじられたのである」、「正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右展開し、『中道』朝日・毎日をも、更に右へ寄せ、死なばもろとも、折からのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった」、概要「新聞、ラジオ、テレビという、現代巨大メディアの中心構造が、正力を先兵とする勢力によって支配されるようになった嚆矢とする」。つまり、れんだいこ観点に拠れば「我が国の特務機関の暴力的なマスコミ支配介入事件」であったと読み取ることができるように思われる。

 乗り込んだ正力が社長就任直後に手を染めたのは人事であった。警視庁時代の腹心の部下を呼び寄せ、「これガ為新聞界では、読売もとうとう警察に乗っ取られ、警察新聞になってしまうのかと歎声ら悪口が出た」。総務課長として小林光政(警視庁特高課長)、庶務部長として庄田良(警視庁警部)、販売部長として武藤哲也(警視庁捜査課長)が招聘されている。

 その後も続々警察人脈が投入されて行くことになる。警視庁以来の秘書役・橋本道淳、警視庁巡査から叩き上げて香川県知事にもなっていたこともある高橋、元警視庁刑事の梅野幾松らの警視庁出身者を次々と引き入れていった。


 但し、経理については財界が不安に思ったか、財界匿名組合のメンバーの一人王子製紙社長・藤原銀次郎の差し金で、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が送り込まれ、読売の会計主任に入った。1919(大正8)年に読売に入社し、後にラジオ部長となった阿利資之は、当時の様子を知る生き証人であり、「この当時の本当の社主は藤原銀次郎だと云われていた」と述べている。「読売新聞80年史」には、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記している。

 当然ながら、記者たちにも苛酷な運命が待ち受けていた。花田らの元朝日「白虹事件残党組」は、松山と行動を共にして一斉に辞職した。以降も、「不正摘発」に名を借りた恐怖政治が敷かれ、「社長が社員を告訴」する事態まで発生した。かくて、「総入れ替えに近い大量のベテラン記者の首切り、追放」が進行した。

【正力時代の幕開け】
 正力は只の乗っ取り屋ではなかった。むしろ天才的な企画力を発揮し始め、新聞の大衆化を目指していった。いわゆる「三面記事」に力を入れ、センセーショナルな見出しを踊らせて、購読者を増やしていった。これにより讀賣は朝日・毎日と肩を並べる大新聞へと成長する。

 1925(大正14).11.15日、放送が始まったばかりのラジオに注目し、各社に先がけて日本初のラジオ版(現在のテレビ・ラジオ欄)の「よみうりラヂオ版」創設を打ち出している。これが大反響を呼び読売の部数が毎月千部ずつ増えだした。正力が次に打った手は囲碁の好企画で日本棋院と棋正社の大局だった。当時の囲碁界は名人本因坊秀哉を頂点とする日本棋院と雁金準一率いる棋正社が棋界を二分していた。この二人を闘わせその棋譜と観戦記を掲載した読売は評判を呼び部数を伸ばしていった。わが国初めての地方版をつくったのも正力であった。こうして読売は東京日日(後の毎日)、朝日と共に東京三大紙の仲間入りし、首都圏ではトップの座に踊り出た。

 1926(大正15).3.15日、正力が読売乗り込みの二年後になるこの日、歌舞伎座を買い切って「社長就任披露の大祝賀会」を挙行した。3000名の各界名士が集い、正力は席上「新聞報国への固い決意を開陳」した。激励、祝辞を述べた各界代表の中には、首相若槻礼次郎、新聞協会会長清浦圭吾、後藤新平らの名がある。


 その後の読売は、特徴的な姿を見せて行くことになる。内部管理は、正力自身が公言した独裁主義による日本の警察機構の上意下達式を真似た系統図で統制していくことになった。要所要所に配置された警視庁人脈が力を発揮し、労務支配を有利に進めて行った。

 紙面の方は、「エロとグロ」(エロティシズムとグロテスクネス)を積極的に扱うイエロー・ジャーナリズム化していった。加えて、日帝の帝国主義的侵略活動を後押しする御用新聞化していくことになった。具体的には、煽動主義的な戦争報道を通じて「聖戦」に加担して行くことになる。更に、「サツネタ」情報に強味を発揮し、優位な地位に立つことになった。これらの路線により読売は驚異的発展を遂げていくことになる。

 1929(昭和4)年、正力の誘いで元報知新聞の販売部長・務台光雄が入社し販売網づくりを手掛けていった。読売は拡張販売競争に勝利し続け、同時に権力のマスコミ支配を達成して行くことになった。

 1931(昭和6).11.25日、夕刊を発行。

【「読売ヨタモン」への電車道】
 満州事変が始まった頃夕刊発行に踏み切っている。1931(昭和6)年社説が常設で復活したが、内容は官報並となった。1932(昭和7).12.19日「大手メディアの共同宣言」による「満州国の独立支持」宣言が為されている。

 1931(昭和6)年、全米オールスター選手を招待。日本にはプロ野球チームがなく17戦全敗。しかしこれにより読売新聞の発行部数が30万部を越えた

 1934(昭和9).12.26日、第2回日米野球の盛り上がりを見て、日本で最初のプロ野球球団・ 大日本東京野球倶楽部(現・読売巨人軍)を創設、正力は取締役に名を連ねる。アメリカの大リーグのチームとの試合を企画し成功させる。1936年に公式戦をスタートさせる。

 1938(昭和13)年新聞用紙制限令によって一県一紙化が国策で打ち出された。否応なく「新聞統合時代」に突入した。「新聞統合政策」は、内閣情報局と内務省を主務官庁として進められた。「具体的な統合実施家庭では、各都道府県知事及び警察部長、特高課長が指揮をとった」(「新聞史話」)。この過程で、読売は、朝日・毎日と並んで三大中央紙の位置に就くことになった。九州日報、山陰新聞、長崎日日新聞、静岡新報、樺太新聞、小樽新聞、大阪新聞を次々に傘下に収めた。

 1941(昭和16)年、日米開戦直前にかっての名門紙「報知」を買収した。1942(昭和17).8.5日、読売新聞と報知新聞が合併、題号が「読売報知」となる。紙面の方は、「虚報」、「デタラメ記事」、「情報隠匿」が進んだ。

 1944(昭和19)年、正力が、岸信介の推薦で貴族院議員になる。小磯内閣の顧問になる。

【敗戦ショック】
 敗戦直後、戦争責任追及の嵐が巻き起こり、新聞社各社も社内外の世論の批判に晒されることになった。毎日社長の奥村信太郎が8月末に自主退社、朝日の村山長挙ら40社の新聞社長が次々に退陣した。8.23日朝日が「自らを罪するの弁」、11.7日社告「国民と共に起たん」記事を発表した。

【第一次読売争議、正力がA級戦犯を問われ巣鴨刑務所 に収監される】
 正力ら局長以上の総退陣要求を社員大会で決定。鈴木東民(読売従業員組合組合長、続いて新聞通信単一労組の副委員長兼読売支部委員長)ら5名が逆に退社を命じられ、これが発端となり第一次読売争議が始まる。最高闘争委員会と従業員組合が結成され、鈴木が闘争委員長及び組合長に選出された。争議が始まり、「生産管理闘争」が採用された。

 正力は、最高闘争委員会の委員長・鈴木、闘争委員・志賀重義、とき沢幸治の3名と会談、解決私案を示した。「一段落したら、自分は社長を退き取締役会長になる」という代物であった。当然のことながら拒否されている。


 1945.11.6日、読売従業員組合は、退陣要求に応じない正力に対抗して、紙面で正力批判を展開した。「熱狂的なナチ崇拝者、本社民主化闘争、迷夢探し正力氏」と題する三段見出し記事を載せている。

 11.10日、第一次読売争議のヤマ場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」が開かれ、終了後共産党系のリーダーの指揮する約1千名のデモ行進が読売本社に向かった。正力が狼狽した様子が伝えられている。

 この直後に、A級戦犯に指名されて巣鴨プリズン入りが決まった。その為、「正力の推薦する馬場恒吾氏を社長とするなどの交換条件で解雇撤回する」取引が成立し、事態は急転直下解決した。


 増田太助氏は、争議当時の読売支部書記長で、解雇され、和解で退職した。その後、日共東京都委員会委員長となるが、「反党活動」で除名処分に附されている。

 勢いを得た各労組は、NHKを含む日本新聞通信労働組合(「新聞単一労組」)という個人加盟の産業別単一組織への改組を為し遂げ、各企業はその支部を結成することになった。

 1946(昭和21).5.1日、題号を「読売新聞」に復元。同9.1日、読売信条を発表。

【第二次読売争議】
 GHQ新聞課長・バーコフ少佐によるプレスコードの拡大解釈。極東国際軍事裁判の法廷報道などの読売記事に、GHQが「プレスコード違反」の名目で処分を匂わし、それに呼応した馬場者社長らは、「GHQの意思」と「編集権の確立」を理由に組合の読売支部委員長以下6名に退社を求めた。組合側がストライキで応戦したが、務台光雄らは「販売店有志」二百数十名を動員して実力突破を図った。これに組合がピケ戦を張り、社屋に立て篭もった。務台らは、警察の出動を要請し、動かないと見るとGHQにMPの出動を要請し、それで慌てた丸の内署がこん棒とピストルで武装した約500名の警官隊が突入してきた。組合側は、「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」と非難している。

 以後約4ヶ月、ロックアウトされた争議団4百余名は読売の社外で闘ったが、次第に形勢不利となっいく。新聞通信労組がストライキで取り組んだ「十月闘争」は失敗に終わり、結局、中心幹部37名の解雇と退社を条件に残りが復職という屈辱を呑んで解決した。復職者は、この間組織されていた御用系の新従業員組合への統一を強要された。以後、読売の労働運動は潰える。

【正力の追放令解除、表舞台へ復帰す】
 A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されていた正力は、1年8ヶ月後の1947(昭和22).8月に釈放されている。しかし公職追放の身となり、この間読売関東倶楽部を創設して競馬場を二つ経営した。これにつき、「文芸評論家・山崎行太郎の毒蛇山荘日記」の2010.1.29日付けブログ「読売新聞・日本テレビの正体……社主・正力松太郎は、米CIAの手先(スパイ)だった」は次のように記している。

 「というわけで、改めて「読売新聞とは何か」、そして読売新聞の支配下にある「日本テレビとは何か」について考えてみたい。有馬哲夫、春名幹雄等によって、すでに多くの研究書や暴露本が刊行されているから、多くの人は知っていることだが、読売新聞、及び日本テレビは、「正力松太郎」という社主であり経営者であった人物とともに、戦後、一貫して「米CIA」と深い関係にあった。それを知るには、正力松太郎という人物が、どういう人物だったかを知らなければならないが、まず次のことを確認しておこう。

「A級戦犯」としてGHQ(連合国軍総司令部)に逮捕された正力松太郎は、特別の使命を帯びて、戦犯刑務所・巣鴨プリズンを出所したと言われている。つまり、正力は、無罪放免と引き換えに、GHQ(連合国軍総司令部)の工作員(スパイ)となり、新聞やテレビを通じて、日本国民の中から湧き上がるであろう反米思想や反米活動を抑制し弾圧すべく、情報工作活動を行なうという使命を帯びて、巣鴨プリズンを出所していたのである。ちなみに、公開された「米国公文書」によって、スパイ・正力松太郎のコードネームは、「ポダムpodam」、そしてCIA・米軍の日本支配組織としての読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍のスパイ組織暗号名は「ポハイクpohike」だったということも、確認されている。

むろん、スパイ活動の使命を託されている読売新聞といえども、普段は、平凡・凡庸な国民のための新聞として、政治的中立性を装いつつ活動していることは言うまでもない。しかし、政治的に緊急事態となれば、つまり今回のように、「政権交代」、「民主党政権誕生」、「民族独立派政治家・小沢一郎の登場」、そして「日米関係見直し」…ということになれば、普段のおとなしい国民のための新聞という姿をかなぐり捨てて、本来のスパイ活動の先陣を切ることになる、というわけであるが、今年の正月元旦の読売新聞は、まさしくそうだったということが出来るだろう」。(続)


 1949.2月、正力、日本プロ野球のコミッショナー就任が決定される。 ところが、公職追放中という理由でGHQの許可が下りずコミッショナーを辞任し、社団法人日本野球連盟総裁に収まる。(「プロ野球は誰のためPart2」参照)

 1950(昭和25).6.1日、株式会社読売新聞社となる。

 1951.8.6日、正力は追放令を解除され、讀賣新聞に復帰する。

 1952(昭和27).4.28日サンフランシスコ講和条約発効。公職追放中からアメリカ直結のテレビ放送網の建設を提唱していたこともあって、正力を社長とする日本テレビ放送網㈱は、1952.7.31日に日本の第1号テレビ放送免許を取得している。街頭テレビでプロレス中継を流し、テレビの普及、CMスポンサーの開拓という一挙両得手法を編み出した。

 1953(昭和28)年、日本テレビを開局させ、後楽園球場でのプロ野球試合中継を優先的にあたえられた。正力は、後楽園球場を徹底活用し、プロ野球のみならずプロレス、ボクシングなどを主催し成功させていく。読売新聞拡張販売員は、読売系列のプロ野球、遊園地、展覧会の招待券、割引チケットを配る事によって販売部数を増やしていった。

 1954(昭和29).7.7日、正力は社主に推挙される。晴れてめでたく表舞台での公式の復帰を果たし、経営の第一線から退く。

【正力が衆議院議員になり原子力行政推進する】
 1955(昭和30)年、衆議院議員に初当選。鳩山派に入る。11.22日の第三次鳩山内閣で北海道開発長官に抜擢される。原子力行政の推進に力を入れ、1956.5.19日、科学技術庁を創設し、初代長官に就任する。原子力発電導入に一役買い、現在の原子力事業の土台を築く。

 1957(昭和32)年、岸内閣の第一次改造で、国家公安委員長と科学技術庁長官・原子力委員長に兼任で就任する。

 正力は、内閣総理大臣を目指し、中曽根康弘らを従え派閥「風見鶏」を作る。しかし、野望は実現することなかった。

 プロ野球初代コミッショナーに就任する他、柔道やプロ野球に正力の名前を冠した大会・賞を設ける等々その活躍の幅は広い。

 1961(昭和39)年、勲一等旭日大綬章を受章。

 1969(昭和44).10.9日、逝去(享年84歳)。

【務台、小林、渡辺の三者関係】
 1970(昭和45).5.30日、長男・亨、異母弟・武がいたが後継の器ではなかった。正力の死後7ヶ月半を経て、二人の副社長のうち務台光雄が後継して第9代社長に就任。長女の婿・小林与三次が日本テレビ社長に就任。正力亨は社主。務台は読売に移籍するまで報知新聞の販売部長。

 小林与三次(よそじ)は1923(大正2)年、富山県大門町に正力家の土建資材を運ぶイカダ舟の船頭・小林助次郎の三男として生まれる。富山県大門町出身。1936(昭和11).3月、東京帝国大学法学部を卒業。同年4月、旧内務省に入省。内務省地方局に採用された。地方周りで熊本県警課長兼警察訓練所長、京都府警防課長を経て、当時特設された興亜院の事務官に転出し、再び内務省の地方局に戻り、そこで敗戦を迎えた。戦後は、内務省監察官、職員課長、選挙課長、行政課長を歴任し、内務省解体後には建設省文書課長、自治省行政部長、財政局長を経て、1958年、44歳の若さで事務次官となった。天下り先は住宅金融公庫で、そこの副総裁となった。1965年、読売新聞社主だった故正力松太郎氏の女婿という縁で同社入社。1970年、70年から日本テレビ放送網社長を兼職。読売新聞社の主筆兼論説委員長を経て1981年、日本テレビ会長・読売新聞社社長に就任。10年間務め、1991(平成3年)年、務臺光雄(名誉会長)が死去したのを機に渡邉恒雄に社長を譲って会長に就いた。1997年、読売新聞社名誉会長に就任。この間、日本民間放送連盟会長、日本新聞協会会長、選挙制度審議会会長などを歴任した。巨人軍最高経営会議メンバーの1人。94年勲1等旭日大綬章受章。1999.12.30日、死去(享年86歳)。 


 1973(昭和48).11.1日、巨人軍が日本シリーズ9連覇を達成。

 1981(昭和56).6.29日、会長に務台光雄、第10代社長に小林與三次が就任。

 1991(平成3).4.30日、務台光雄逝去(享年94歳)

 「新聞販売の神様」と呼ばれ、名誉会長に就任してからも影響力を発揮する 務台光雄(1896~1991) 94歳

 今でこそ世界有数の発行部数を誇る読売新聞だが、戦前は弱小の地方紙にすぎなかった。その読売を驚異的な部数にまで押し上げた功労者が務台光雄である。明治生まれの気骨さで波乱に満ちた人生を乗り切った。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長を歴任。94歳の天寿を全うするまで読売の最高実力者として君臨したのが務台光雄である。
    
 務台は早稲田大学を卒業後、繊維会社を経て1923年報知新聞社に入社する。報知はその頃、東京で最大の部数を誇ったこともあるが、関東大震災で社屋が焼失したのを機に部数は激減、社内の内紛にも嫌気がさして務台は退社する。その務台をスカウトしたのが読売新聞の正力松太郎である。読売新聞は昭和の初期まで1ブロック紙に過ぎなかったが、この二人が手を携えたことで読売新聞を全国紙にまで押し上げることに成功する。5万部の小新聞を終戦前には約200万部まで増やし、戦後は毎日、朝日を抜いて世界有数の発行部数を誇る新聞にまで育てあげたのである。その辣腕ぶりから務台は「販売の鬼」「販売の神様」などと呼ばれる。その一方で貪欲な事業展開、凄絶な人事抗争に明け暮れ、「ワンマン」「天皇」と揶揄されもした。明治生まれの務台の精神的バッグボーン、それは「負けてたまるか」だった。

 行動力と集金能力を鍛えた大学時代
 務台の頑健な肉体と強靭な精神力は少年期と青年期に培われた。名門の松本中学では野球部に所属し、正三塁手として活躍。早稲田大学では弁論部に入部すると同時に、孫文を支援するための倶楽部を発足させ、資金集めにも奔走する。こうした経験が「よく切れる刃のような知性」「霊感ともいうべき洞察力」「感傷に流されない自己規制力」を養ったと指摘するのは、『二人の販売の神様 務台光雄と神谷正太郎』を著した長尾遼である。
   
 そんな務台が事業面で二度の大きなピンチに立たされたことがある。昭和40年、社主であった正力の我意を通し九州に読売新聞を進出させたものの、予想以上に赤字が累積、さらに読売ランドの債務保証も20億円以上に膨らんだのだ。販売面の責任者だった務台は責任を感じて副社長に辞表を提出し、箱根から伊豆へと旅に出る。だが正力らに説得されて再び古巣へと戻っている。二度目は昭和50年の新聞の値段をめぐる問題だ。順調に部数を伸ばし、毎日を引き離してトップの朝日に迫っていた矢先の出来事である。正力が亡くなり、社長に就任した務台は「中部読売」創刊を独断で主導した。当時の一般新聞は朝刊1カ月で1300円。これに対して中部読売は500円。キャッチコピーは「コーヒー3杯で1カ月新聞が取れます」だった。たちまち同業他社からダンピング批判が巻き起こり、公正取引委員会が乗り出した。公取はついに読売新聞に対しても立ち入り調査に踏み切る。独禁法を精査せず「不当廉売」に該当すると考えなかった。「販売の神様」と呼ばれた務台も法解釈にはやや厳密さを欠き強引すぎたのである。

 入院しても気になった経営と人事
 1883年、87歳にして務台は代表取締役名誉会長となる。名誉会長といっても依然として社の実権を握っていた。後継者となる渡邉恒雄は毎日2時間、役員食堂で昼食を共にしたという。務台は自分が考案した販売店への手数料システムのことや、他紙の販売店を読売側に鞍替(くらが)えさせた武勇伝などを楽しそうに話した。また演説をはじめたら一時間でも二時間でも大声を張り上げ続けるといわれ、細かい数字をつぎつぎに挙げて論ずる記憶力の良さも誇っていた。

 その一方で務台は何度も倒れたが、そのたびに不死鳥のようによみがえった。病床にあっても常に経営と人事のことを気にかけたという。昭和53(1978)年に倒れたときもそうだった。病名は解離性胸部大動脈瘤。渡邉も「今度ばかりは駄目だろうと思った」。ところが務台は奇跡的に全快し元気に出社するようになる。平成3(1991)年4月には膵臓がんと老衰で入院。このとき務台は渡邉に2通の封書を渡す。その1通は「小林与三次殿」と表書きされた遺言状であり、中には「渡邉恒雄君を次期社長にすることを、何卒(なにとぞ)何卒(なにとぞ)よろしくお願いします」と書いてあったという。

 為郷恒淳は著書『読売外伝 わが心の秘録』のなかでこう記している。「読売で50年もの間、算盤をはじき、好きな絵を見て歩き、家ではお湯につかりつつ小唄を唄い、そして野球がオープンすると会社にあってもデスク前のテレビの前に大きな座布団を据えてその上にドッカと座り、ストライク、ボールと、たった一人で大声を発しているのである」と。子どものような自由奔放、無邪気さ。これもまた務台の長命を支えた秘訣でもあろう。

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 1896年長野県南安曇温村(現・安曇野市)生まれ。読売新聞社(現・読売新聞東京本社、読売新聞グループ本社)の社長、名誉会長。読売巨人軍の実質的オーナーでもあり、長島茂男、王貞治の監督解任にも深くかかわったとされている。

 長寿のヒケツ/食事。好き嫌いは特別なく、出されたものはなんでも食べたという。
 趣味/演劇、絵画鑑賞。スポーツ観戦。登山など。
 健康法/「常に頭を使い、仕事をすることが健康を保ち、長生きする秘訣である」が持論。


 1991(平成3).5.2日、会長に小林與三次、第11代社長に渡辺恒雄が就任。副社長・水上健也が代表取締役(平成9年6月16日会長)に。


 2000(平成12).1.1日、新「読売信条」を制定、発表。
 2001(平成13).5.10日、「読売新聞記者行動規範」を制定、公表。
 2002(平成14).7.1日、読売グループを再編成。持ち株会社「読売新聞グループ本社」(渡辺恒雄社長)のもと読売新聞東京本社(内山斉社長)、読売新聞大阪本社(板垣保雄社長)、読売新聞西部本社(池田孜社長)、中央公論新社(中村仁社長)、読売巨人軍(堀川吉則社長)の中核5社で構成

 「読売ヨタモン、毎日マヤカシ、朝日エセ紳士」、「中興の祖」正力松太郎、歴史的恥部、1977.5.25日日本新聞協会理事会が「販売正常化委員会」.設置を決議。訪問販売による強引な押し売り拡張販売手法問題、インテリ・ヤクザ、マスコミ仁義(同業の内部問題相互不干渉仁義)





(私論.私見)

●朝日と読売の火ダルマ時代(6)  第六章
 ●第六章 『大衆紙の愚民化工作とダンピング作戦』 
 
 ★外国に住む日本人の情報の源泉

  
 住民や駐在員として米国に住む同胞に質問すれば、故国日本についての情報を知るメディアとして、筆頭に日本の新聞や雑誌をあげるのに続き、日本語テレビだという回答が一般的である。中には地域で発行されている邦字新聞や、NHKの短波放送を聞くと言う人もいるが、私の知る限りではそれは少数派に属すようだ。大部分の人は活字メデイアの持つ威力と魅力のために、国際版を謳った日本の大新聞を購読して、それを読むのが毎日の習慣になり、補う形で雑誌を読むのが普通のようである。

 その点で大新聞の影響力は海外でも絶大だが、国内で支配する3大新聞の朝日、毎日、読売の顔ぶれに代って、海外市場で脱落した毎日の位置に日経が入り、部数の面では読売、朝日、日経の順になっている。毎日新聞が海外進出から脱落した理由は、経営不振による事業の縮小路線のために、国内の販路を維持するだけで精一杯だからであり、悪戦苦闘する毎日の姿はある意味で心痛事である。これは積極的に社会不正を告発し続け、多くのスキャンダルを告発した社会部に反発し、財界広告を差し止めて兵糧攻めにしたのと、長年続いた経営陣のお家騒動の影響で、経営がガタガタになった結果だと言われている。

 読売の戦後史を『梁山泊の記者たち』という風雲録にまとめ、[鉛筆ヤクザ]の鎮魂歌を残した三田和男記者は、[私の読売時代、毎日新聞では親分子分の派閥がスゴくて、部長が移動すると、部員の半分が移動したという「伝説」があったものだ]と証言しているが、毎日はこうして派閥争いで自滅してしまった。

 また、他社の記者の証言を引用するまでもなく、毎日の外信部長だった大森実が『鉛筆一本』(講談社)の中に、「・・パリ支局長の三好修記者も上田社長の縁故者の世話を頼まれていたが、上田社長は三好支局長をも嫌った。上田の帰国後、田中主幹が私に、まず三好記者交替を示唆したが、小西健吉、谷畑良三両デスクが主幹室に乗りこんで、私事と公事を混同するとは何事か!とネジこんだので沙汰止みになった。三好と私はワシントン以来の親しい仲だったので、私の在任中は彼を替えたくなかった。では、親友の佐藤巧二はどうなるか?論説室の林三郎は外信部デスクに手を回して、佐藤の悪宣伝をやらせた上、佐藤原稿をボツにまでさせた。そして主幹と斎藤編集局長に強引に那須聖を推した。(中略)社内の醜いウラ舞台を紹介しなければならぬことは残念であるが、新聞社も他の企業も変わるものではなかった」と記録を残している。

 毎日OBの同じような報告は幾らでも残っており、板垣英憲も元の上司の歌川編集局長を告発して、一記者としての基本的な道徳・倫理を忘れていた。その第1は野村証券を始めとする、大手証券会社や都市銀行との[癒着]である。証券業界では、特に野村証券の 田淵節也会長とのつながりは、新聞記者の節度を越えるものがあった」という文章を始め、「編集局長に就任してから、歌川氏の恐怖政治は非常に苛酷になった。そうした状況の中で、反歌川派の残党と見られていた経済部のデスクのK氏(現在、ロイター東京支局員)、ベトナム陥落を取材して上田ボーン賞を取り、ワシントン支局でも勇名をはせたH記者 (現在、サンケイ新聞社)らの実力ある前途有望な記者が、歌川氏に意地悪されて次々に退社を余儀なくされていった」と内情を暴いている。

 
 ★アメリカを舞台にした3大紙の勢力分布図

 
 日本人が多く住むニューヨーク近郊の住宅地で、ある機関が個別的に調査した例によると、国際版の各新聞の購読者の比率を較べたら、読売80%、朝日10%、日経3%という数字が出たという。住民の多くがニューヨークで働く駐在員で、その過半数が中流のサラリーマンだとしても、この読売の突出した数字には目を見張るものがある。

 そこで、この数字の意味を邦字新聞の編集長に尋ねたら、それは読売のダンピング戦術の結果であり、他紙の半値ちかくだから仕方ないとの答えだった。ついでに知人のジャーナリストに同じ質問をしたら、朝日と日経なくても当然であり、こんな住宅地での調査は余り意味がないという。

 それと似た意見は親しいビジネスマンに多く、ロスやシカゴでも似たような意見を耳にして、成程と納得した記憶が私にはある。アメリカの大学の教授をする日本人学者の本に、新聞記事の引用が読売ばかりなので、ある時なぜ読売だけなのかと質問したら、安いから購読しているせいだと教えられて、唖然とさせられたことを思い出してしまうが、安売り攻勢は意外な効果を生むのである。

 それだけではなく、ある大手商社の副社長の意見は突飛であり、「駐在員は中流の上かも知れないが、問題意識や社会的関心では中流の下だから、中味は問わないので読売で十分満足なのでしょう。日本に帰ればスポーツ紙かマンガ週刊誌だから、たとえ読売でも新聞をとるだけ増しと考えるべきです」と言い放ったのが印象的だった。
 
 発行部数では1000万部を越す読売は日本一であり、850万部の朝日に大きな差をつけているが、一般に読売の読者に下層サラリーマンを始め、職人や水商売に従事する人が圧倒的だ。それに第二章の[インテリが書いてヤクザが売る制度]や第五章の[シェアー争いとダンピング作戦]で論じたように、読売が持って生まれた体質と宿命でもある。

 だから、かつては教養のある日本人は読売新聞を読んだり、読んでいることを知られるのを恥じるだけの心情を持っていた。現にこの傾向は国内に未だ残っているようであり、国立大学の教授の80%が朝日で、18%が読売。官僚の課長以上では、朝日が75%で、読売が25%。また、上場企業の総務部長の55%が朝日で、読売が30%という具合に、どんな人がどの新聞を読むかを、統計は正直に示している。

 
 ★全米を舞台にした販売競争

  
 それにしても読売の安値攻勢は目立っており、アメリカ各地で出版されている日本人向けの出版物に、『経済的でお得な購読料金』という文句を強調して、[他邦字衛星紙との年間購読料金比較]を謳う棒グラフを並べ、いかに読売が安いかを大いに宣伝している。

月間の購読料金がどれだけ違うかを比べれば、3紙の中で一番高い日経は90ドルであり、次の朝日が80ドルであるのに対して、読売は57ドルの安値が売り物である。

 再販制度があって価格統制が支配する日本と違い、アメリカでは真の自由競争が機能しているので、新聞はコストに見合った好きな価格をつけられる。

 だが、クリテイカルであるのは情報の質に関わっており、一見するともっともらしく見える経済原理が、より大きな枠組みで捉えるとダンピングと結びつき、決して経済原則に従っていないことは大いに問題である。

 私の読者には読売の記者やOBが可なりいて、親しくつきあっている人も多いが、彼らの証言では読売の海外販売は大赤字であり、安売りは超ダンピングに支えられているという。超ダンピングをやっていくカラクリの秘密は、連結決算をうまく利用するところにあり、アメリカで幾ら安売りをして損失を出しても、赤字はすべて日本の本がかぶるので、現地は販売会社の役割を演じることに徹し、部数を伸ばすことだけを考えればいいそうだ。また、アメリカや欧州で大幅なダンピングまでして、読者を獲得する戦法を読売が採用している背景には、★警察の情報部門がまとめた心理分析があるという。

 それが本当なら巧妙な操作だと言えそうだが、ほとんどの日本人の読者が駐在員であり、海外生活の平均は3年くらいであるから、その後は帰国して日本しかも、たとえ主人が会社で朝日や日経を読んでも、主婦や家族が読売の記事を連日読んでくれれば、帰国して自宅で購読する新聞は必ず読売になる。

 また、新聞は麻薬に似て習慣性を持つメデイアだから、アメリカに住む間に読売の論調に慣れてしまえば、朝日や日経を読む能力を喪失してしまうので、将来の読者を耕す上での効果が大きい。そのためにダンピングの損失を上回る投資になり、ここに戦略としての有効性が潜んでいるらしいが、それが「悪貨が良貨を駆逐する」愚民政策に繋がるなら、この商業主義は亡国路線に繋がるのではないか。

 
 ★日本でテスト済みのダンピング作戦

 
 読売の大阪進出の時の殴り込み作戦において、ほとんどタダでばら撒いて他社の顧客を 奪い、販路を拡大したことは有名な史実だし、ヤクザや暴力団まで勧誘員に動員するために、販売拡張は悪質勧誘の見本になっている。これも広く知れ渡った拡張路線の手法だが、実際の販売部数が1000部の販売店に対して、1200部と報告させて代金を支払わせ、その差額を折り込み広告の手数料で埋めるなど、読売はだいぶアコギな増紙作戦を展開している。

 これは創価学会が機関紙の聖教新聞を使い、信者に同じ新聞を数部購入させることで、水増し購読を強制したのと同じ手口だが、信仰集団ではない民間新聞が似たやり方を使い、系列の販売店を搾取するのだから恐ろしい。

 そのために、この[販売部数の絶対確保]を至上命令にして、販売店に部数の押しつけ(*押し紙)を強要する手口の悪辣さに対し、販売店主の告発や反発が増えているという。

 一般に販売店への押しつけはどの新聞でもあり、比較的少ない日経で5%だといわれており、朝日の場合は7%だと業界筋はいうが、読売だとそれが15%台になるらしい。
     
この数字を信用して計算してみれば、公称1000万部という販売部数のうちで、1500万部ちかくが幽霊部数ということになり、[サバ読み売り]という陰口の背景にあるものが、なるほどと思えるのも面白いではないか。

 しかし、それ以上に重要な意味を持つのは、朝日と読売とでは広告の内容が大違いであり、発行部数が倍になっても広告収入で差がつき、依然として読売は格の点で遥かに劣る点がある。朝日の広告は書籍、不動産(*特に高級マンション)、自動車、デパートなどが主体だが、読売は映画宣伝とかコックやホステス募集が得意で、垢ぬけしない点は衆目の認めるところだ。
 
 私の読者で博報堂の首脳部に連なる人の話では、1億円のマンションの広告を出す時に、読売ではそんな物件を買える読者はいないから、朝日か日経に広告するしか仕方がないそうだ。これが広告業界や不動産業界の常識なら、費用対効果を現実に考える上で安売りは、議論以前の当たり前の営業路線であり、読売にとって泣くに泣けない辛い点だろう。

 商業紙としてジャーナリズムで勝負する限りでは、読売の持つ限界で行き詰まらざるを得ないから、脱却の試みが販路・拡大になるのかも知れないが、そのために日本の運命が道連れにされるのではたまらない。続く。


●朝日と読売の火ダルマ時代(5) ― 第一章
 
 ★朝日と読売の捩じれ関係 

 
 朝日を辞めた記者は二つのグループに別れ、鳥居素川は戦争成金の勝本忠兵衛をパトロンにして、新興の大正日々新聞を大阪で創刊した。出資金は200万円で朝日の資本金を凌駕しており、新聞史上でも特筆される紙面作りをしたが、大阪朝日と大阪毎日が連携して大妨害したので、その犠牲で僅か8ヵ月後に倒産するに至った。
 別のグループは松山忠二郎と行動を共にして、彼が社長に就任した読売に大挙して移ったが、社長就任の抱負を『新経営の読売新聞』と題して、松山は1919年(大正8年)10月1日の紙面に、次のような新路線への志向宣言を書いている。
 
 [創刊以来45年、半世紀に近い年月、本紙が果たして来た歴史を論じ、従来の〈穏健〉の特色を保つと同時に他面〈機敏〉の実を挙ぐ、また、〈趣味的〉〈家庭的〉なるに加えて、〈実務的〉〈社会的〉たらんことを期す・・・」
 松山社長は読売の元主筆たった五来素川を論説委員に迎え、彼の広い国際感覚に期待をかけたし、時事新報から千葉亀雄と万朝報から伊藤亀雄を引き抜き、大庭編集局長の下に再建に取り組んだ。当時の新聞記者は言論とペンの力で仕事をし、仕事の出来る人間にはスカウトの声がかかり、実力が評価されれば簡単に新聞社を移ったので、人材は指導者の理想に従って動いたのである。
 少し遅れて大正日々の残党も読売に集まり、白虹事件の時に朝日にいた主要記者たちは、東京に全員が結集して元気を取り戻した。そして、読売は大正デモクラシーの梁山泊になり、1923年(大正12年)の関東大震災までつかの聞の夢を飾った。
 松山社長のリーダーシップの下に再建が進み、読売は紙面の刷新や人事の適正配置を試 みて、理想的な新聞作りのために全力を傾けた。松山は東京専門学校政治科を卒業して朝日に入り、最初の海外派遣留学生としてコロンビア大学に学び、国際派の経済記者として信用があった。
 4年半続いた彼の社長在任期間の成果は、3万部だった部数を4倍の13万部に伸ばし、銀座に鉄筋建ての新社屋の建設まで及んでいるし、朝日を仮想の敵とみなして果敢な挑戦を試み、政治、経済、外交の記事に力を注いだ。だから、大正デモクラシーで朝日が築いた実績は、松山社長と行動を共にした脱藩記者たちにより、読売の看板の下に受け継がれていたと考えれば、朝日と読売は一種の捩じれ関係にあった。
 しかも、新聞は表題ではなく中身にあると考えるなら、松山社長と共に新聞を編集したスタッフ全員に、大正デモクラシーの理想が生きていて、それが読売の歴史を一瞬の光輝で照らしたのである。
 1922年(大正11年)に読売は創刊50周年を祝い、合計7回の記念号を発行したが、当時の状況を『読売新聞百年史』は次のように書いている。
 [その第一回5月23日付で、かつての主筆高田早苗は、「私は文学新聞とすることには成功したが、政治新聞とすることは、多年の努力にもかかわらず思うにまかせなかった。面白いが雑誌のような新聞といわれた。いま松山君の時代になって、従来の長所を失わず、しかも立派なせいじ新聞となって、新聞らしい新聞として、私の夢が実現した」と祝いの言葉を贈っている。高田のユメは松山の願いでもあった。松山の新経営から三年、その希望と計画は着実に実っていた。新聞らしい新聞、政治と言論にも強い新聞とするために、松山は大庭とのコンビで政府はじめ各方面に論戦を挑んでいった。・・]
 新聞が果たす使命の筆頭にくるのは、早く正確な情報を読者に提供するに際して、全体の中で問題の正しい位置づけを行い、読者に信頼される紙面作りをすることだ。東京朝日や東京日々に大きく差をつけられていたが、松山社長時代の読売は最も活気に満ち、新聞の原点を見据えた報道をする新聞であり、日本の新聞史の数頁飾ったことは間違いない。

 
 ★言論扼殺と御用新聞の時代への門出

 
 読売の社長に松山が就任した1918年の末は、米騒動の影響で平民宰相の原内閣が誕生し、大正デモクラシーが勃興し始めた時期で、出版やジャーナリズムが急速に発達した時でもある。1918年に800種だった新聞は2年後に倍加し、雑誌や単行本も続々と出版されたように、これがデモクラシー運動の推進力になった。また、出版ジャーナリズムの目覚ましい発達は、普選運動に続いて無産政党運動に発展して行く。だが、その反動で1919年に陸軍省に情報係が発足し、翌年にこれが新聞班にと改組されていき、ロシア革命の影響を防ごうとするために、警察の治安対策はその姿勢が陰湿化を強めた。
 そうした状況の中で朝日が白虹事件で攻撃され、編集陣の一部が大正日々の創刊を通じて、勢いに乗り報道活動を展開しようとしたが、営業妨害にあって挫折させられたことは象徴的だ。その経過を『日本新聞百年史』は次のように書いている。
 [大朝、大毎両社、が提携して、極力この新聞の発展を妨げた。平素、仲の悪い両社も共通の敵出現となって、手を握ったわけである。第一に、電話の架設から電力の引き込みまで妨害して、工事のはかどりを妨げた。(中略)両社の販売店には厳命して、大正日々の取り次ぎを禁じ、いやおうなく新規販売店の設置に巨額の経費を投じさせる。京都、神戸、和歌山などの隣接地には深夜、新聞専用電車を運転しているが、当局を圧迫して大正日々だけは積ませない。しかたなく毎夜トラック特便をもって、各方面に発送せねばならぬ始末である。四国行きの新聞は船のデッキ貨物となっている。大正日々の梱包は毎夜のように海中に投げ込ませてしまう。大広告主に向かっては、おどして大正口々への広告契約を妨げるなど、至たれつくせりの妨害ぶりであった・・・]
 せっかく新規に発足した大正日々は破綻して、それを買収したのが大本教の出口王仁三郎だが、この大本教もその後の大弾圧で粉砕されている。大正日々の破綻の主因は同業新聞の妨害だが、その背後には国家権力の魔手があって、その後に続く言論弾圧の波状攻勢を通じ、大正デモクラシーを圧殺して行くのである。
 こうして鳥居主筆に率いられて大正日々を創立し、華々しいデビューをしたグループは挫折して、言論活動の封殺におけるモデルケースになった。そして、この事件と関東大震災を契機に言論界の切り崩しが始まって、次の犠牲者になるのが松山の読売であり、続いて日本の新聞全部が完全に制圧され、侵略戦争の宣伝機関化して行くのである。

 
 ★歴史の本質と行間に書かれた新聞社史

 
 松山社長の下に旧朝日の中核が勢揃いし、読売が目覚ましい発展を遂げたとはいえ、1919年から22年にかけての時期の日本は、社会全体が激動に支配され続けていた。東京での普選デモや朝鮮での独立運動に続き、各地の鉱山や八幡製鉄所でストが起こったし、20年3月には戦後の経済恐慌が始まって、物価の低迷と不況の社会情勢が定着していた。
 新聞の社会面は不況や疑獄事件で埋まり、「宮中某重大事件」や安田善次郎の暗殺に続き、東京駅頭で原首相が右翼テロで暗殺され、保守化の中で暗い沈滞した話題が増加した。
 しかも、政治批判を封じるために『過激社会運動取締法』が上程され、この時は審議未了で衆議院を通過しなかったが、この法案は『治安維持法』の先駆けをなすもので、社会 は急速度に血生臭い[昭和維新]路線に傾き、右翼テロルの嵐が日本を包み込んでいく。
 こうした中で松山社長の読売は健闘を続け、発行部数では朝日の1割に満たなかったが、それでも読者は4倍余りも増加していた。だが、[宮中某重大事件]の時の嵌口令批判のために、当局の忌偉に触れて発売差し止めを受け、この年だけでも差し止めは4度目であり、読売は当局に狙い撃ちの標的になっていた。
 だが、加わる圧力にもかかわらず読売は健闘し、紙面の刷新と経営の近代化も実現して、売上げの伸びで新社屋の建設にも取りかかったが、関東大震災の痛手をもろに受けてしまい、松山は読売を手放さざるを得なくなった。
 その時に巧妙に立ち回ったのが正力松太郎であり、政界の支援と財界の資金を背景に読売に乗り込み、批判精神を持つジャーナリストを追放して、腹心の警察官僚で新聞を支配の道具に作り変えたが、買収の背後にあった権力側のエ作については多くの謎がある。警視庁のナンバー2だった正力が社長になり、その資金の提供者は内務大臣だった後藤新平で、関東大震災が大きな役割を演じている。正力が朝鮮人やシナ人の大虐殺に密接に関与し、大杉栄の虐殺に後藤新平と甘粕正彦が絡み、阿片と結ぶ謀略工作の臭気が漂う中で、満洲に延びる人脈が登場するプロセスを通じ、その後の新聞の運命を御用化に導くことを思えば、この動きはメタレベルで意味深長である。

 特に関東大震災を使って正力が試みた中国人虐殺事件で、指導者の王希天を取り逃がしてしまい、渡辺という日本人の偽名を使って逃亡した王には、憲兵大尉の甘粕のコネクションがあった。中国人虐殺に対して中国政府が調査団を派遣し、日本政府が試みた徹底的な隠蔽工作の一環として、読売を正力の隠れ家にする陰謀があり、その背後に番町会グループが存在したとなれば、昭和史は大きく書き改められる必要がある。
 それにしても、『読売新聞八十年史』の大見出しの[松山のばん回策ならず]や、『読売新聞百年史』の[社長松山の改革実らず]などの記述は、正史や社史に特有な情報操作を予想させている。前任者の功績の過小評価や抹殺を通じ、後任の功績を過大に見せる作為だけでなく、権力は強引に歴史を書き直すものだ、か、言葉の上だけで事実の抹殺は難しい。それでも、大きな陰謀を隠蔽する目的のために、より小さな疑惑を積み重ねて砦を築き、重層の迷路を構築するのは常套手段になっている。

 
 ★改竄される歴史と捏造された社史

 
 聖徳太子の時代に藤原不比等が歴史を改竄したり、司馬遷が『史記』に列伝スタイルを持ち込むことで、編年体で記述する歴史を小説風にしたように、歴史を後の時代の者が都合よく書き改めることが多い。その点て新聞の社史も例外ではあり得ないし、読売新聞社 が発行している3種類の社史も、『八十年史』、『百年史』『百二十年史』の記述の差異を分 析すれば、編集時の権力者の心理が解読できる。
 明治政府による皇国史観もその一例だが、歴史は後の権力者に都合よく書き換えられ、その判読自体が一種の謎解きの楽しみを提供する。都合の悪いことは出来るだけ触れずに済まし、嘘の記述や捏造より罪が軽いとして、時におやと思う操作を発見したりするが、それを読み取る眼力を備えた者にとっては、正史の恣意性の解読は高尚な遊びになる。 猪瀬直樹は『土地の神話』(小学館)の中に、[東急が白木屋を正式合併したのは昭和31年1月である。300年の伝統を誇る暖簾がはずされ東急日本橋店に衣替えがなると、五島はさっそく『白木屋三百年史』の執筆を三鬼陽之助に委嘱した]と書いているが、後継者が歴史を書き直すのは世の習いである。
 大震災を契機にして行き詰まった以外に、松山社長の経営上の失敗で破綻したと強調しているのは、読売のねじ曲げられた運命を検討したり、日本のジャーナリズム史を考える上で重要である。組織体の情報の認知が意図的に歪められ、自己中心的に書き換えられていることを、この読売の社史がか物語っているからである。
 この操作は歴史一般に共通していることだが、新しい覇者の登場は歴史の書き換えを伴い、柔軟性や客観性を放棄した形で正史が編纂され、新しい英雄譚が誕生して流布して行く。だから、書いてある内容の中で意味と存在論を読み取って、メッセージをより上位のレベルで解読することが、歴史や正史としての社史を読むノウハウになる。
 新聞の歴史は社史を基礎資料にしているが、社史の行間と交替劇の背後を読むところに、冴えた史眼と呼ぶに値するものがあるし、そういう眼で新聞の社史を読み直してみると、興味深い暗黙知の世界が味わえるのである。 

 
 ★「歴史の検証」 『歴史の書き変えと社史の信憑性』

  
 一般に正史と呼ばれる歴史は作られたものであり、書いた時点の支配者にとって都合のいいように、意図的に脚色されている場合がほとんどで、権力者の自己主張に基づく顕彰碑の一種として、正当性と権威付けを試みた記録になっている。だから、ほとんどの場合、が自己の権威を謳歌するために、前の支配者がいかに良くなかったかをあげつらったり、前任者の功績を過少評価する傾向がある。
 極端な例が大化改新クーデタ事件であり、歴史の隠蔽と改竄を計った藤原不比等は、『古事記』と『日本書紀』で過去の抹殺と歴史の捏造を試みた。『記紀』は天武天皇の正当性を主張するために、天武王朝の時に作られた歴史書であり、正史として王朝に不都合な事実を書き改めて、歴史の塗り替え作業で作られたものである。

 *参照(特に最近の号)➔ ★金王朝の “深い深い謎”    
 

 不比等は音韻学的には史(ふひと)であって、歴史を伝える役割を担う立場にあったが、中大兄皇子(天智天皇)と父親の藤原鎌足の立場で、2人の行為を正当化するために歴史を書き変えている。
 明治時代になって試みられた皇国史観も同じで、歴史を天皇家の都合に合わせて書き直し、孝明天皇暗殺を隠し万世一系の虚構を押し出したが、その伝統は個性の強い社主を持つ企業に影響し、正力家や村山家を持つ読売や朝日の場合は、社史編纂のスタイルにそれが伝わっている。
 日本の企業の社史を取り揃えている点ては、シカゴ大学の東アジア図書館は米国随一であり、そのコレクションを使って比較考証したお陰で、多くの興味深いことを学ぶことが出来た。道楽で得た結論を使って断言して見るなら、日本のメデイアで社史に積極的に関心を向け、関連記事をよく活字にしているものに、大日本印刷で発行する『ねんりん』と雑誌『マネジメントがあり、日経も小島直記の『社史にみる経営思想』を連載した実績を持つので、この辺が社史に関しての日本の権威筋である。

 その点で朝日や読売の社史ほどではないが、他社の社史にも共通性があることを知るために、中興の祖に当たる人物を持つ新聞として、1968年(昭43年)から1976年(昭和51年)までの8年間にわたり、日経を指揮した円城寺次郎社長に目を付け、『日本経済新聞社110年史』のチェックを試みた。
 ジャーナリズムに不可欠な批判精神の脱落があるので、[財界の官報]とか[経団連の機関紙]と形容され、時には『野村新聞』と揶揄されたりする日経は、『日本に異議あり』(講談社)で佐高信に[日本切り抜き新聞]と決めつけられている。しかも、[ジャーナリズムの批判精神を捨てたが故に、急成長したのではないか]と勘ぐられている。
 これは積極路線を推進した円城寺次郎社長が、やり手経営者と政府の諮問委員の2足の草鮭を履き、財界活動をし過ぎる新聞人と言われたことに、毀誉褒貶の入り交じった評価の原点を持つからである。
 日経の社史は1986年(昭和61年)に出版されており、「リクルート事件」で辞任した森田社長時代に出て、グラビアに合弁事業の契約をした森田社長の写真が、見開きの2頁を使いカラーで掲載されている。そして、ダウ・ジョーンズ社(DJ)の協力で森田社長が、DJ社のW・フィリップス会長と協定に調印とキャプションに書いてある。だが、この契約を始め日経の躍進の功績のほとんどは、社史の記述において巧妙にカットされているが、円城寺社長時代のものであることは杏定できない。
 政治に深入りして佐藤首相のブレーンになり、「二木会」の有カメンバーだった円城寺の振る舞いは、ジャーナリストの心構えとして失格だったが、日経の経営者としては中興の祖だったのは事実である。だから、当時の事情に詳しし日経OBに取材を試み、インタビューで真相の一端を引きだそうと試みた。
 日経のケースを通じて社史の持つ性格を理解し、朝日や読売の場合はもっと酷いと気づき、歴史の復元は一筋縄では行かない点に関して、再確認する上で参考にして頂ければと思う。なお、対談の相手の名前は仮にAさん(
*初代日経ワシントン支局長・大原進)ということで、実名を伏せたこのインタビューは全体の一部である。
 
 ★都合の悪い過去は隠蔽したがる歴史の傷痕

  
F 社史とか正史を読んでいてよく分かることは、それを編纂した時に権力を握っていた者に、都合のいしことが拡大されて書いてあり、都合の悪いことは上手に粉飾されるとか、黙殺されているケースが非常に多い。色んな新聞社の社史を読んで見だのだが、歴史が権力者の手前味噌の固まりなのと同じで、新聞社の社史も恣意的だと言えますね

A 個性が強くて自己主張したがる社長だと、得てしてそういうことに成りやすいわけです。誰だって失敗や不名誉は記録に残したくないから、どうしても手柄は大きくなりがちになるし、他人の功績まで自分の手柄にするのが人間なんだな・・・。

F 正力が読売の中興の祖であるのは確かにしろ、『読売新聞八十年史』、『読売新聞百年史』、『読売新聞発展史』のどれを取っても、同じようなトーンで正力を称賛しているし、松山社長はダメ男になっているんですよ(笑い)。

A 一番最初に書いて定着した歴史が、それ以後の路線を決めてしまうのです。

F しかも、日本の。ジャーナリズム史にとって無視できない、読売争議についてはほとんど触れておらず、正力にとっては夕刊発行や大阪進出の方が、読売争議より危機の度合が高かったと書いてある。要するに、読売が発展する上での勧善懲悪の物語が、正力にとって認めることができる歴史であり、戦時中に軍国主義を煽ったことについては、表面的な記述しかしておらず、その責任を反省する気配はほとんどありません

A 戦時中の日本の新聞は全部が右向け右で、勢揃いして軍国日本を賛美したのだから、それを徹底して反省するのは難しいし、社史でその点はとても触れ得ないでしょうな。反省ばかりしていられないというのも、現場で忙しくやる者の正直な気持ちだから、適当に粉飾せざるを得ないのも確かでしょう(笑い)

F それと共に社史を読んで気になったのは、刊行された時の社長の手柄が強調され過ぎて、本当に貢献した人のことを余り触れてない。日経の社史が森田社長時代に出たためか、中興の祖として財界で誰でも知ってしるのに、円城寺社長の功績が余り書いてない。
その点を同じ時期に仕事をしていた立場で、具体的にコメントして欲しいのだが、先ず円城寺という人は日経にとって、どんな具合に評価できる人物でしたか?

A 古い話から始めなければならないが、彼は日経にとって初代ニューヨーク特派員であり、戦時中とトいか戦争が始まったために、交換船で日本に帰って来ているわけです。しかも、表面上は英語を喋らない姿勢を貫いていたが、彼ほどアメリカ人に敬愛された人物は少なかった。あなたは財界べツタリだと批判するだろうが、一万田スクールの3羽鳥とも呼ばれていたし、経済部長の小汀利得に可愛がられたので、トントン拍子に出世して日経のプリンスでもあった。まあ、カンの良い幸運な経営者として絶品でしたが、今では、若い社員で名前も知らない人がいますよ。怪しからんと怒っても始まらないが・・・

F 社史で見ると彼の業績はコンピュータの導入で、データ・バンク構築での貢献が主体だと書いてあるが・・・

 
 ★社史が事実さえ記録しない罪

 
A とんでもない!コンピュータの導入なんてどこの社でもやったし、そんなものは部下が担当することであり、社長としての円城寺の最大の貢献は、日米間の関係を確立したところにあった。『日経ビジネス』や『日経サイエンス』のように、マクグローヒル社から翻訳権を手に入れたり、ダウ・ジョーンズと特別契約をして、事業面での関係を緊密に保ったこともある。また、ノーベル賞を受けたサミュエルソンやレオンチェフに注目して、彼らがノーベル賞を貰う前に日本に連れてきた点で、目のつけ所の良さは特筆に値しています。それくらいは社史が記録に残してもいいのに、それがどういう訳か完全に省かれているんですよ。

F 円城寺が君臨した時は日本経済が上り坂だったから、色んなことに手をつけて発展 の契機を作っただろうし、何をやっても成功した時代かも知れない。それで、積極的な経営路線に勢いがついたのだろうが、目経の多角経営を推進したやり方は、ジャーナリズムであるよりメディア産業を育てる上で、一種のパイオニアだったと言えそうです。
 新聞は経営第一よりも理念や理想が必要だから、経営面での功績は私は余り評価しないが、ジャーナリストとしての円城寺はどうだったのですか?

A 経済部長としてそれなりの見識を持っていたし、後で日本経済センターなどを作ったように、先を見通すやり手だったのは確実です。

F それで、正力が読売のために催物を企画して、営業の面で成功しているのと同じように、彼も何か特別な企画でもやらなかったのですか?

A その辺のことはよく覚えていないが、彼はアマチュアとして美術の鑑識眼がありオランダで一番有名な画家のレンブラントの絵を借り出して、日本に持ってきたような話もありました。あれなんかは経済交渉でヨーロッパに行った時に、ついでに持って来たということだった。そんな話は幾らでもあるが、彼が何といっても人物だったのは、勲一等の勲章を断わったことでしょう。

F その話は夏目漱石の文学博士の辞退と似ているし、叙勲を拒絶して石見の人として死んだ森林太郎と同じ動機なら、その心意気は大いに評価していいですね。
 勲章が欲しくて社長や会長の座にしがみつく、財界の老害族たちに対しての教訓として、木端役人に尻尾を振るなという意味で、それくらいは社史に書いたらいいのに・・・。

 
 ★世代の変化で断絶する意識

 
A そんな叙勲は個人の問題で大して意味はないが、マグローヒルやダウージョーンズとの提携交渉は、彼が精力的にやって実現したのであり、今日の日経の発展への布陣になっています。それだのに、彼が死んだときの日経の死亡記事でさえ、中国やソ連のことばかり書いてあって、アメリカに関しては一言も触れていなかった。
 彼が社長になって最初に取り組んだのがマグローヒルとの提携の話であり、向こうが対等出資と主張したのに対して、日経が51%を握ることで押し通したし、最初の1年目から黒字にしている。それにダウ・ジョーンズと広告提携をやって、日経の国際化を実現しただけでなく、日本経済研究センターために大貢献しているのに、そんな事実もあの社史には全く書いてないんだな。

F 世の中なんてそんなものと違いますか。それに日経は社史に対して大きな発言をしていて、各社の社史について色んなことを言っているのに、自分の所の『日本経済新聞社110年史』の出来具合は、実にお粗末な印象を与えるのは皮肉ですね。

A われわれOBがあの社史を読んだ感じでは、あんな無味乾燥な内容のものしか作れない所に、現在の日経の不甲斐なさが象徴されている。

F 果たして、円城寺路線の影響なのかは分からないが、倫理観に欠け何が重要かの識別力に乏しく、広告主や権力者に追従するだけという感じであり、日経人の主体性の無さが目立っていました。また、後継者の育成が指導者の資質という点でも、その欠陥がずっと続いているみたいであり、出世した連中には碌な人材がいなかったと思います。

A いつもながら手厳しい批判だが、今の発言はやけに激しいじゃないの・・。
 それに最近のことになると愚痴に聞こえて嫌だが[明治は遠くなりにけり]という言葉と同じように、何となく円城寺が築いた時代は去った感じで、ダウ・ジョーンズとの関係もギクシャクしているらしい。だから、アメリカ側は全くけしからんといった調子で、日本の役人と同じ口調で相手を見下し、[経済大国日本]という鼻息ばかりが強い。しかも、若い人たちがアメリカさんと一緒にやったのでは、出世の妨げになると考えるようになり、そんな判断で経営するのがいいと考えるなら、われわれ老兵は消えて行くしかないね。

F しかし、口をつぐんで消えて行かないで欲しいですね。

A そう言われると、黙っていられなくなる。挑発された勢いでこの際つけ加えてしまうと、われわれの後輩たちが作った社史にしろ、あんなものなら出さない方がマシだというのが、わが日経の情けない社史の実態なのです。

 ************

 

 第一章  <了>

 第二章『読売王国を築いた巨魁の奇吊な足跡』
 へ <続く>。

 




●朝日と読売の火ダルマ時代(4) ― 第一章 <続>
 
 ★大阪の朝日と東京の読売 

 
 大阪で1879年(明12年)に創刊した朝日は、報道を中心にした小新聞として始まり、最初は4頁で印刷は3000部だったが、商都の情報紙として着実に発展している。
 朝日が発展したのは社主の村山竜平の経営手腕であり、そのことを田中浩は『近代日本のジャーナリスト』(御茶の水書房)の中で、次のように分析している。
  [村山竜平は1881年(明14年)木村平八から朝日新聞を譲渡されて以来、一貫して新聞経営に専念し、同紙を日本の有力紙に発展させた。新聞を一つの営利事業として確立した最初の人物ともいえる。 (中略) 村山は自らの理念的新聞像を高く掲げたり、あるいは新聞の営利性を強調して、率先指導するタイプの経営者ではなかった。彼は自らはくを語らず、様々な人材を使いこなし、組織化することによって朝日新聞を形成していったのである」
 こうして大阪で始まった朝日は1883年(明16年)に、発行部数で全国第1位を達成したし、1888年(明21年)に東京の[めざまし新聞]を買収して、それを改名して京橋で東京朝日の創刊が実現した。だが、朝日は新聞としてあくまで大阪本社が主体で、社説も大阪と東京では異なっていた。また、1940年(昭15年)に全体が朝日を名乗ったが、戦時下の統一まで縮刷版も二本立であり、1942年(昭17年)になって政治の中心の東京版だけになっている。
 それに対して、1874年(明7年)に東京の虎ノ門で創刊された読売は、一般庶民や婦女子を対象に娯楽を売物にし、口語体で総ふりがな付きの文章を持つ新聞として、日就社という会社が印刷を開始した時に、読売新聞としての歴史が開始している。
 読売という新聞名を決める前に議論百出で、『通俗新聞』、『ふりがな新聞』、『やわらぎ新聞』、『おみな新聞』といった具合であり、いかにも庶民向けのアピールを求めたかは、このエピソードが歴史を生き生きと伝えている。
 読売は一時期、全国一の発行部数を誇ったが、『読売新聞八十年史』にある記述によると、1889年(明22年)に初代の子安峻社長に替った本野社長は、月に二、三度しか出社しなかったようで、経営的には一発屋に近い体質を持っていた。
 それでも、教育者の高田早苗を初代主筆にした読売は、彼の持論の[社会に先立つこと一歩なるべし、二歩なるべからず]に従い、漸進的な姿勢で大衆文芸を中心にして、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴などに執筆させ、文芸物で売る大衆新聞作りに専念した。
明治の前半期の新聞には二つのタイプがあり、一つは政治的な主張を前面に押し出したので、大新聞(おおしんぶん)と呼び慣らわされ、主筆の大記者の論説を売り物にしていた。そこに陣取って格調高い意見を書いたのは、新政府に仕えるのを潔く思わない幕臣を始め、自由主義者や民族主義者などが中心だった。だから、反政府の論調や権力の不正追及を主体にして、厳しい批判の矢を権力者に浴びせたので、大新聞に対しての弾圧は非常に苛酷になった。山県有朋は新聞条例を使って徹底的に締め上げ、言論の取締りではなく撲滅だと言われたが、発行停止を始め罰金や入獄で言論攻撃をしたために、多くのジャーナリストが刑務所暮らしを体験している。
 明治半ばまでの大新聞としては、前島密の『郵便報知』、福沢諭吉の『時事新報』、島田三郎の『横浜毎日』、秋山定輔の『二六新報』、中江兆民の『東洋自由新聞』、犬養木堂の『民報』、末広鉄腸の『曙新聞』、陸褐南の『日本』、徳富蘇峯の『国民新聞』、福地桜痴の『東京日々』などがあり、紙面を使って言論活動を賑やかに展開した。
 それに対して別のタイプの小新聞(こしんぶん)は、ニュースや世間の噂話を中心に編集され、続き物の講談や小説で商業主義を指向した。大阪の朝日や東京の読売は共に小新聞だったが、マイナーという意味を持つ小新聞の仲間には、成島柳北の『朝野新聞』、黒岩涙香の『万朝報』などがあった。
 大阪で生まれた朝日と毎日は東京日々と共に、明治の半ば頃の日本の3大新聞を構成したが、東京の3大紙は『東京日々』、『朝野』、『報知』の各紙である。だが、日露戦争の直前に『二六新報』が急伸して、それを『万朝報』と『時事新報』が追ったが、[弱きを助け強きを挫く]を掲げた『二六新報』は、桂内閣と右翼の暴力で潰されてしまい、その勢いを使って日本は日露戦争に突入した。

 
 ★東京に乗りこんで制圧した[朝日]の路線 

  
 戦争は常に巨大なニュース性を提供するので、日露戦争は読者の関心を大きく掻き立て、販売部数の飛躍的な発展をもたらせた。だが、この戦争は政府内部にも意見の分裂が起こり、それを反映して言論界も混乱して分裂した。対露開戦を主張したのは東京朝日を始め、 『時事新報』、『日本』、『国民』、『大阪毎日』などであり、『万朝報』、『毎日』、『東京日々』などが開戦反対を論じ、途中で開戦論に転じた『万朝報』から分裂して、内村鑑三たちが 『平民新聞』を旗揚げしている。
 この頃の東京朝日の主筆は池辺三山であり、熊本生まれの彼は[肥後モッコ]の国権派として、杉浦重剛を起用して論説を書かせたし、好戦的な論調で強硬路線を推進した。読売も強硬論の仲間に加わっていたが、文芸物を得意にする弱小新聞に過ぎず、その影響力はほとんどないに等しかった。
 しかし、社会部長に島村抱月や徳田秋声を置いて、自然主義文学を推進した伝統の影響で、文化新聞としての雰囲気を維持しており、記者だった青野李吉は『ある時代の群像』の中に、[この社の新聞は日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか科学とか婦人問題といった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払っていた。だから、Y新聞といえば文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた」と書いている。
 日露戦争が終わると新聞の低迷が始まったが、それは言論の封殺と緊密に結びついていた。日露講和条約に反対した焼き討ち事件や、政府批判の急先鋒の平民新聞を潰して、大逆事件をデッチ上げる準備をするために、政府が徹底的な弾圧政策を進めた状況を、春原昭彦は『日本新聞通史』(新泉社)に次のように書いている。
 [政府の新聞取締り政策もこの時期に完成した。明治42年(1909年)5月、政府は 『新聞紙法』を改正公布したが、これは従来の新聞紙条例を改悪し、発行保証金を倍額に 引き上げ、明治30年に廃止された行政処分による、発行禁・停止条項を復活するという苛酷な法規だった。新聞関係者はその後この新聞紙法の改正を求めて、繰り返し議会に改正案を提出するが、華族・絶対主義官僚を中心とする貴族院は、そのつど改正案を否決し、日本が第二次大戦に破れるまで、この新聞紙法は長く言論界を支配してきたのである」
 日露戦争の後の売上げの低落をカバーするために、各社は新機軸を打ち出さなければならなかったが、一部には悪徳行為に走る記者も輩出した。
 山本武利は『新聞記者の誕生』(新旺社)の中に、[一般人に厳しく同業者の罪悪に甘いというのは、この頃顕著になった。新聞社間の企業競争は激しかったが、それと同時に同業者意識も高まって、他紙を仲間と見なしてかばい合い、なるべく業界内のスキャンダルを報道しないという習慣も定着してきた]と書いている。
 小新聞のまま東京の地方紙に留まっていた読売は、文芸路線で成功して新主筆の竹越三叉を迎え、夏目漱石にも執筆を懇願したが断わられている。また、小新聞から中新聞にと展開を遂げた朝日は、自己の理念的な新聞像を持たない村山に率いられ、大新聞と小新聞の長所を生かす路線で、マーケットの拡大を第一目標に躍進を続けた。
 そして、夏目漱石が東大教授を辞めて朝日の社員になり、『虞美人草』の連載を開始するまでになった。また、この頃の[東京朝日]の文芸部員の中には、ロシア語に堪能な二葉亭四迷、がいた上に、校正部には詩人の石川啄木も在籍していた。
 それに加えて、[抵抗の新聞人]として戦時中に令名を高め、『信濃毎日』に桐生悠々ありと言われた若き日の桐生が、大阪通信部員の肩書きをもって東京で働きながら、優れたジャーナリストから薫陶を受けていた。晩年になって書いた手記の中で桐生は、[『大阪朝日』には鳥居素川や西村天囚という大スターが、二つの覇権を競っていたのに対して、『東京朝日』には主筆の池辺三山が君臨し、社会部長に渋川玄耳、昼の編集局をとりしきる整理部長に佐藤真一、夜の整理部長が弓削田精一、そのもとに杉村楚人冠、鈴木文治、松崎天民、中野正剛、美土路昌一、安藤正純といった若いそうそうたる論客が、デモクラティックな社風を形づくっている。半井桃水は社会部に席がありながら社に顔を出したことがなく、ロシア語に精通する社会部在籍の記者だった、長谷川二葉亭や大庭柯公からロシア語の手ほどきを受けて、ゴーリキーが読めるようになった」と回想している。
 これは充実したスタッフを持つ東京朝日が、絶頂期を迎えていた時代の光景であり、それに対して読売は低迷の中で喘ぎ続け、社主の本野子爵家の私有財産だったので、放漫経営のため公称5万でも実売は3万部だった。明治が幕を閉じた段階での新聞の勢力争いは 『東京朝日』、『東京日々』、『時事新報』の順であり、『中外』に続いて『読売』は9位に位置していた。

 
 ★政府と新聞の対立と大正リベラリズム 

 
 大正に入ると東京の大新聞が次々に姿を消し、大正リベラリズムで新聞界に大きな変化が起きた。ストリンドベリーに造詣の深い柴田勝衛が、新人の発掘に対して積極的に動いたので、読売のプロレタリア文学は文芸復興の象徴になる。そして、権力者から反体制の新聞だと睨まれた読売は、数年後の山本内閣の時に陸軍が買収を試み、御用新聞にしようと考える対象にもなったが、経営は低迷して苦しい状況に陥っていた。
 右翼的な論陣の国民新聞の伊達源一郎編集局長が、読売の主筆に送り込まれて内部の混乱した点について、『読売新聞八十年史』は次のように書いている。
 [軍部から財政的援助をうけ、宣伝機関として動くようになると、文学新聞の看板が邪魔になりこの伝統を潰そうとする傾向が、伊達主筆とその一派に強くなり、かくして、伝統を守ろうとする社員との対立、が深刻になってきた。その頃は日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社内にも自然発生的にはいりこんできて、読売はその最先端のように見られた。伊達一派の軍国主義的な色彩が濃厚になり、伝統派を次第に圧迫して行くと、伝統派はこれに対抗して、ストライキ計画の運動を展開した。こうした分裂騒ぎの中でストライキ計画が起き、その混乱で本野家は株を財界人に売却したので、郷誠之助などが結集する工業倶楽部が、読売の新しい大株主として登場した。1914年(大正3年)に起きたシーメンス事件の時には、新聞があげてこの収賄事件の追及に乗り出したので、政府弾劾の世論が高まって山本内閣は瓦解した。また、1916年(大正5年)に誕生した寺内内閣は、警察中心の弾圧政治で民衆運動に対抗し、専制支配に不利な思想を徹底的に弾圧して、言論や出版に対して厳しい取締りを行った。
 東京と大阪の一本立て路線の朝日の場合は、東京では池辺三山が保守的な路線を取り、大阪では島居素川が進歩主義を売り物にして、大正リベラリズムの動きに対応していた。だが、池辺派の松山政治部長と反対派の渋川社会部長の対立が、朝日全体で西村天囚派と鳥居素川派の抗争に拡大して、進行する第一次世界大戦の中で混乱を続けた。
 同時に、世界大戦で海外ニュースの比重が高まり、朝日は青島作戦に美土路記者を社会部から派遣したので、この時期に新聞社の社会部が充実した。そして、長谷川如是閑を始めとした社会部長が生まれ、社会問題への組織的な取り組みも本格化して行く。
 第一次世界大戦が進展してしる時代性の中で、大阪朝日は河上肇の『貧乏物語』の連載を始めて、読者に絶大な感銘を与えたために、ロシア革命の影響を恐れた寺内内閣は、警察力を動員して言論弾圧を加えた。強圧的な寺内首相に対して鳥居主筆は、「妖怪の出現」と決めつけて対決の筆を取り、大阪朝日と政府の対立は激化の度合を強めたのである。

 
 ★朝日を痛打したと白虹事件 

 
 1918年(大正7年)にシベリア出兵を当て込む買い占めで、米の値段が暴騰したために富山県で打ち壊しが起き、たちまちのうちに全国に米騒動が広がった。警察だけでは足りないので軍隊まで出動したために、寺内内閣は世論の激しい攻撃を恐れて、ニュースの掲載を全面禁止にしたので、各地で新聞記者たちの抗議集会が聞かれた。
 大阪ホテルで開催された関西記者大会では、内閣弾劾と言論擁護を決議したが、会場にいた記者の一人、が[白虹が日を貫いた]と叫んだとして、それを大阪朝日の夕刊が記事に取り上げたので、それが白虹事件を誘発することになった。
 [・・・食卓についた来会者の人びとは、肉の味、酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持ったわが大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではないだろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆候が、黙々として肉叉を動かしている人びとの順に雷のように閃く・・・]
 寺内首相の意を受けていた後藤新平内相は、かねてから大阪朝日の弾圧を狙っていたので、大阪府知事から内命を受けた検察や警察が、朝日の記事を監視していた時でもあり、警察部新聞検閲係長はこの文章を読み、内務省警保局に連絡して発売禁止処分にした。しかも、記事の内容が内乱の起きることを意味し、皇室の尊厳を侮辱したと難癖をつけて、政体を変改し朝憲吝乱事項の記載容疑で、大西記者と山口発行人を検事局が起訴した。

 普通の発禁なら取り調べは区検の検事だが、この時は地検のベテラン検事に担当させたように、新聞の発行停止を狙っているのは明白だった。朝日はこの件に関して報道しなかったが、毎日がスクープしたので右翼が騒ぎだした。
 そして、3日後に村山竜平社長が中之島公園で右翼に襲撃され、人力車を引っ繰り返した暴漢たちは、引きずり出した村山をフンドシで木に縛り、[天に代わって国賊を誅す]と
書いた紙を張りつけたが、こうして新聞への右翼テロの時代が始まった。
 この辺の事情と時代性の関係については、[この頃から現れた国粋運動が新聞にホコ先を向けるようになって、暴力ははじめて質の悪い野心や私人の道具となり、ついには愛国や尊皇を売り物にして新聞の欠点を探し、金儲けの道具とする悪質暴力の横行まで見るようになった。(中略)
 彼らの得意先は新聞社であった。新聞の誤報や校正の誤りを探し出しては、文句をつけて恐喝するのである。新聞が応じなければ暴力を振るって多少の金銭以上の損害を与える。弱腰の社は面倒を恐れていつも若干の厄払い料を提供、これらが遂には競争相手を倒すために、逆に彼らを利用する堕落幹部さえも現れるに至った]ということを、『日本新聞百年史』(百年史刊行会)は記録している。

 こうした時代の風潮に押し流された朝日は、新聞を潰すつもりでいた政府に恭順の意を表して、村山社長が辞任して上野社長に交替する。その結果、鳥居素川を始め松山忠二郎、長谷川如是閑、大庭柯公、大山郁夫、丸山幹治、花田大五郎などの50人余りの記者が朝日を去り、鳥居派に代わって西村天囚派が復活したが、論客を一挙に失った朝日の紙面は目に見えて低下した。こうして、政府は朝日を潰すことは出来なかったが、批判精神を持つ編集部が保守派に入れ替わったので、体質の変化と牙抜きに政府は成功した。
 西村派の復活が緒方竹虎や中野正剛を励まし、福岡出身の二人は古島一雄を通じて玄洋礼に繋がり、朝日は右翼の黒竜会と密着することで、海外侵略を支持する路線を取るようになる。それは大陸経営を旗印にした膨脹主義であり、昭和ファシズムと呼ばれた軍国路線への追従であった。

 *************

  第一章   続く。






●朝日と読売の火ダルマ時代(3) ― 第一章  
 
 ●第一章『朝日と読売の運命的な競合と一体化の軌跡』
  ― 社史で読むメディアの半生と白虹事件の教訓 

  
 ★販売戦で新聞戦争の雌雄を決める虚像 

  
 日本の新聞としてトップの地位を手に入れるために、血みどろな抗争を続けた朝日と読売は、発行部数では読売が朝日を抜き去って、1000万部という大台の水準をいち早く記録した。「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」と胸を張った務台販売部長に率いられ、強引な押し売り路線で発行部数を伸ばし続けた読売なら、第三者にスマートに見えるスタイルを売り物にする朝日を抑え込み、発行部数の競争で新聞業界のトップに立つの               は、それほど難しいことではなかった。なにしろ、発行部数はあくまでも印刷した量であり、記事を読むために購入した部数を示すものではないからだ。
 だから、発行部数という数字は水ものであり、印刷した部数は販売部数と直結しておらず、この世界には[押し紙]という奇妙な習慣がある。それは販売店に強引に押しつけて引き取らす新聞で、一般に発行部数の一割前後に達しているから、公式に発表されている発行部数の実態は、実際に購読された数字を意味していない。
              
 新聞が資本主義的に経営されるようになり、広告が主要な収入源になるに従って、発行部数の多さが広告料金の決め手になるし、★広告収入が少ないと経営が安定しなくなる。購読料は経費の一部をカバーしているに過ぎず、新聞社の売上げの大半は広告収入に依存しており、広告代理店が紙面を買い切っているために、現在では★電通などの大手の業者の発言力が大きく、広告する側の影響は拡大の一方である。
 そのために新聞の販売競争は熾烈をきわめ、組員を使って展開して来た販拡のノウハウは、新聞代に匹敵する景品の石鹸や催物の入場券(*ブロガーの体験では、商品券、ビール券、電気毛布・・・朝日)を使い、3カ月だけの購読で結構だからと言って、発行部数の拡大を目ざし購読者を勧誘したりする。こうした手口は時には暴力沙汰に結びつき、販路拡大をめぐる新聞戦争と呼ばれているが、業界の不祥事については報道しない体質のせいで、この種の事件は新聞記事として取り上げられない。
 このような苛酷な部数増大を目指した競争が続き、最後に生き残ったのが読売と朝日の2大紙で、毎日は競争に後れをとって脱落し、経営的にも非常に苦しい状況に陥っている。販売部数が朝日や読売の半分以下という、毎日やサソケイが計上する広告収入は、おそらく10分の1だろうと言われているのであり、発行部数は広告収入を支配している。
 部数の多さが経営内容に大影響を与えるので、この経営神話にトップが取りつかれているため、朝日と読売は長らく泥試合を続けて来た。また、日本には真の意味の財団が存在しないので、巨大な影響力と商社的な多角経営を営む新聞社は、催物の主催や後援にまで手を染めており、それが販売政策のバックアップになっている。

 このような言論よりイベント指向を通じて、売上高の拡大を追求している大新聞の姿勢 は、たとえ日本一の新聞という形容を使うにしろ、世界的に見ると特異な体質といわざる を得ない。しかも、ジャーナリズムとは無関係な子会社を抱え込み、日本的な系列体系を持つ関連会社を支配して、営利事業や天下り先を確保しているというのは、どう考えても公共的な報道の仕事とは整合性を持たない。
 それにしても、日本という共同社会の在り方や理想と結びつく、理念に支えられた言論活動やビジョンと無関係に、営利事業を通じて利権を拡大する新聞社が、その一方でメデイアを通じてビジネス行為を営み、発行部数で日本一の新聞を誇って良いものだろうか。
 早版の★交換による画一的な紙面作りをしたり、景品や価格競争をしている実態が背景にあるから、日本一の新聞という肩書きを誇っても、誰もそれを額面通りに受け取らないはずだ。なぜなら、世界の常識に従えば質と量は反比例するし、クオリテイ紙は適正部数の枠と結びつくものであり、個性的な論調と報道姿勢が決め手になるが、日本ではこの原理は全く機能していないのである。

 
★世界における一流紙の条件

 
 フランスの一流紙といえばルモンドであり、その発行部数は40万部前後であることは、毎日印刷されている発行部数の数字が示している。それに較べてフランスで最大の部数を持つ、パリ・ソワールはその五倍の発行部数だが、誰も一流新聞であると評価していないのは、新聞の価値が記事の質に関わっているからだ。しかも、記事の価値はコメンタリーや解説にあり、ニュースとして事実を幾ら詳しく報道しても、その背後にある全体像を正確に捉えていないなら、ページ数だけが多い質より量の報道に過ぎない。
 アメリカの場合も似たようなものであり、ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストは大衆紙ではなく、発行部数は100万部に達していなくても、世界中で一流紙として評価されている。それはニューヨークやワシントンという地方都市に陣取り、コミュニテイに基盤を持つ地方の有力紙として、100万部前後の発行部数を確保するだけでなく、世界に向かって十分な目配りをしているために、国際レベルでの読者を確保しているからである。 世界的という意味では更に凄い新聞があり、その多くはアングロサクソンが掌握しているが、その代表はファイナンシャル・タイムス(FT)とインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(トリッブ)だ。飛行機旅行をしていていつも嬉しいのは、飛行機の中でこの二つの新聞が配られることであり、両紙を読んでいる限りは地の果てに行っても、世界の動きを掴んでいるという安心感を持てる。これに加えてマンチェスター・ガーディアンかルモンドがあれば、世界のことは確実に抑えていると感じるが、ウエーブ(情報)を支配することが決め手になるとして来た、アングロサクソンの情報感覚の威力は絶大だ。ニューヨーク・タイムスとワシントン・ポストの記事を基礎に、独自の取材陣の観察眼を加味して記事を構成し、パリで編集したものを世界各地で印刷して、世界を股にかけて活躍するアメリカ人や、各国の真のエリート層を読者に持つトリッブは、僅か20万部ほどの発行部数にもかかわらず、押しも押されもせぬクォリテイ紙の王者である。
 毎日コミニュケーションズの江口末人元社長のお陰で、その日のものが東京で読めるようになったが、数年前までは帝国ホテルのキオスクに駆けつけて、前日に香港で印刷されたトリッブを読むという、実に情けない毎日をくり返したものだ。こんな酷い情報後進国としての日本の姿が、僅か7年前まで本当に続いていたのであり、日本のエコノミストのほとんどは、せっかく人手できるのにFTやトリッブを読まず、東海岸版のウォールストリート・ジャーナルではなく、香港のアジア版でアメリカ経済を推察し、中には日経しか読まないのが経済大国のトップたちである。
 世界の第一線で活躍するプロにとっては、吟味と選択を施されたFTやトリッブの記事は、ギリギリの所まで引き絞って纏め上げられた、行間に薀蓄を含む洗練された文章を通じて、締まった文体の量より質の醍醐味が楽しい。そういった意味ではマンチェスター・ガーデイアンも流石であり、こんな冴えたコメソタリーの執筆者と同時代に生き、素晴らしい記事を通じて出来事の意味を学び、歴史を捉える喜びを味わうことが多い点で、発行部数の少ない新聞の珠玉の輝きを実感する。その点で読売が1000万部を越えたこと自体が、きわめて異常な事態だと考えるべきであり、新聞が巨大な発行部数を誇って競い合うことは、他の文明諸国では類例の無い特異な現象である。

 
 ★官報が死語化した日本のジャーナリズム

 
 これは『日本が本当に危ない』(エール出版)で紹介したエピソードだが、ある国に招かれて講演をした後で日本に立ち寄り、英文日経の★大原編集長(*2月1日の記事参照)を訪ねた時のことだ。もう15年以上も昔の話になるが、開放的で賑やかな雰囲気を好む編集長は。「藤原さんが特ダネを持ってきたから集まれ」と記者たちに声をかけ、ビールを飲みながら私の話を聞くことになった。そこでよその国の報道や情報関係者を相手に、日本の新聞の品定めをした話を紹介して、「朝日は官僚的なエリートの官報、毎日は社会派の官報、読売は無学な貧民の官報、サンケイは中小企業の親父さんの官報、日経は財界の官報だと説明した」と喋ったところ、「カンポウ、カンポウつて言いますが、どうして新聞が漢方薬と関係があるのですか」と若い記者が質問したので、皆が唖然として顔を見合わせたことがある。
 まるで嘘のように思える驚くべき現象だが、これは実際に身をもって体験したことであり、官報という言葉が死語になりかけているのだ。ジャーナリズムの世界で生きる以上は、たとえ古くても官報という言葉は常識であり、そのような素養を持ち合わせないで記者に なれば、報道の仕事では責任を果たすのが難しくなる。そして、そのような自覚を持ち合わせないならば、高度な公器性を認められているジャーナリズムは、自らの信用と最低基準の品性を損ない、堕落と腐敗が蔓延するのが当然になる。
 かつて大蔵省の主計局を訪れた時に、机の脇にマンガ週刊誌があるのを目撃して、それまでエリートぶる彼らに対して抱いていた、いわれのない敬意が雲散霧消した経験があり、それ以来は電車の中でマンガを読む大人に対し、私は現代における賎民だと考えることにした。プライベートな場所で個人は完全に自由だが、敬意を払われる社会的な立場にいる人は、公的な場で己を律する責任があり、それで権威は保証されると考えるからである。
 世界の主要5大紙と社説交換の実績を持ち、世界の「トップ10」新聞にノミネートされた朝日は、量よりも質という路線を看板に掲げてきた。読者も朝日の先輩が築いた伝統を理解し、総合性と批判精神に支えられた姿勢に期待して、読者であることを誇りに感じる者も多い。これも良い意味での伝統が権威と結びつき、読者の信頼をかちとった結果であるが、信頼を損なうような軽率な行為を犯したり、信賞必罰の厳しい自己管理と規律が崩れれば、信頼も権威も雲散霧消してしまう。
 だが、敗戦から50年という時間の経過を通じて、硬直化して官僚的になった日本の社会は、豊かさの中で理想やチャレンジの精神を失い、制度疲労が新聞界にも反映するに至っている。しかも、単なる腐朽化や制度疲労にとどまらず、規範溶解によるアノミー(連帯の消滅)に至れば、これはどうにも救いようがない。
 それにしても、朝日の紙面が急速にかつての特性を喪失して、冴えた批判精神に代わって迎合主義が台頭し、〔朝日の読売化〕と形容できる状況が目立つが、これは幼少期の獲得形質の影響ではないだろうか。また、獲得形質についての考察をするためには、歴史を鏡に使った診断が不可欠になるのである。

   第一章  続く。 

 



●朝日と読売の火ダルマ時代(2) <目次>。
 
 <目次>
 
 【まえがき】― *既紹介


 危機的な日本の現況/監視役から第五列へ変身したメデイア/タブーの壁と新しい挑戦の津波

 
 【第一章】 『朝日と読売の運命的な競合と一体化の軌跡
  ―社史で読むメデイアの半生と暗黙知の教訓―

 
 販売戦で新聞戦争の雌雄を決める虚像/世界における一流紙の条件/官報が死語化した日本のジャーナリズム/大阪の朝日と東京の読売/東京に乗りこんで制圧した朝日の路線/政府と新聞の対立と大正リベラリズム/朝日を痛打した白虹事件/朝日と読売の捩じれ関係/言論扼殺と御用新聞時代への門出/歴史の本質と行間に書かれた新聞社史

 【歴史の検証】 歴史の書き換えと社史の信憑性
都合の悪い過去は隠蔽したがる歴史の傷痕/社史か事実さえ記録しない罪/世代の変化で断絶する意識

 
 【第二章】 『読売王国を築いた巨魁の奇怪な足跡』
  ―正力が確立した鉛筆ヤクザ路線の原体験―

 
 読売の中興の祖・正力松太郎社長の登場/大正デモクラシーの扼殺と昭和ファシズムヘの道/正力の読売支配の背後にいた権力人脈/関東大震災と朝鮮人大虐殺事件の点と線/正力による宿敵の読売制圧/柴田編集局長の時代/インテリが書いてヤタザが売る制度/戦争責任の追及と読売争議の乱闘/番町会に連なるフィクサー人脈の暗躍史

 【歴史の証言】 読売の圧力と特高警察の系譜 

 特高警察人脈と新聞支配の現実/錯綜する複雑な政商人脈/京大の滝川事件と鳩山一郎の狙い/鳩山一郎と党人人脈が残した負の遺産

 【歴史の証言】番町会の流れと戦後の財界人脈

 番町会の生き残りと集まった政商たち/財界四天王と財界総理/経団連会長を支配し続ける三井人脈/財界と政界を結んだフィクサー/コバチューを軸にした石油利権と田中政権/帝人事件と番町会人脈の流れ

 【歴史の証言】 番町グループとサンカ人脈の秘図

 文化人類学の盲点サンカ/山岳民としてのサンカの再定義/民間中心の明治の日本の産業化/社会の変化とタブーの変質/株の利鞘稼ぎと帝人事件の黒い影

 
 【第三章】 『朝日新聞と村山社主事件の傷痕』

 
 お家騒動の源流を代表していた近代以前のメソタリテイ/村山家と朝日新聞の間の問題点/前近代的な経営発想と責任の取り方/新聞社は誰のための存在かという疑問/大株主による会社の私物化/朝日を歪めた[獅子身中の虫]の策動/歴史の隠れた部分の発掘調査の意義

 【歴史の証言】 村山社主と朝日新聞を巡る竹中工務店の関係(その1)

 竹中工務店が創ったビルの芸術作品性/朝日と竹中の特別な関係/ビル建築にまつわるリベートの行方

 【歴史の証言】 村山社主と朝日新聞を巡る竹中工務店の関係(その2)

 村山家と竹中の緊密な関係/特命企業の誇りに輝く竹中工務店の路線/肥大化を自制する美学/作品志向か商品志向かの選択

 【歴史の証言】 朝日の[獅子身中の虫]に関しての証言(1)

 不明朗な過去を背負った謎の多い人間/組合の書記長と委員長の関係/朝日新聞に寄生したサナダ虫/村山社主事件を背後で動かした黒い手

 【歴史の証言】 朝日の「獅子身中の虫」に関しての証言(2)

 組合潰しと乗っ取りに特技を発揮した三浦/インチキ策士の末路

  
 【第四章】 『亡国の淵の日本とリクルート事件の負債』
  ― 朝日の上層部を巻き込んだ疑惑の爪跡―

 
 低迷と萎縮のステージに陥った日本/沈黙と黙殺に徹した日本のメデイア/タブーを抱え込んだ日本の社会学の立ち遅れ/閉鎖社会を抑え込むタブーのお化け/過去の遺産とし ての読者人脈/尾を曳いているリクルート事件の誤魔化し/メディアに浸透していたリクルートの網/ジャーナリズムの自浄化能力への微かな期待/朝日はなぜブラック・ジャーナリズムの誹膀を放置するのか

 【歴史の証言】 『朝日が包み込まれた不透明な霧』

 朝日の幹部を蝕むリタルート事件の影/検察当局がマスコミに貸しを作った状況証拠/恥辱を意識しない天下り人生の蔓延

 【歴史の証言】 『検察という組織が秘めた権力の実相』
 ―検察の及び腰の前で高鼾の巨悪―
 司法の独立機構の解体/予想外に低い地検の権限/検察を支配する派閥抗争

 【歴史の証言】 『疑心暗鬼の朝日の内情』
 新聞社の最後の正義の砦としての社会部/批判精神の欠如となれ合い/リクルート事件が残した異例の人事/スキーの接待とペンを折った記者の良心

 【歴史の証言】 『朝日新聞を狙った拳銃自殺事件の背景』

 欺瞳に満ちたメデイアの報道/純粋性の維持が困難な戦後の日本の右翼/朝日の奇妙な対応

 
 【第五章】『読売新聞が推進した膨脹路線と東京の壁の亀裂』
   ―読売の日本制覇が残した幾多の債務

 
 シェアー争いとダンピング作戦/読売の社会部帝国主義を乗っ取ったナベツネ路線/読売の新社屋建設と国有地入手事件の謎/正力と中曽根を繋ぐ原子力とCIAの糸/日本の系列分断と分割支配の確立/読売とTBSの訴訟合戦/実名報道を強調する読売の報道される立場/[東京の壁]の崩壊と後片付けの準備

 【歴史の証言】新聞界の腐食因子と山県有朋の遺伝子

フィクサー記者の指南役をした2人の政治家/参謀本部の給仕から始まった大野伴睦/60年アンポと自民党が動員した暴力団/河野一郎のフィクサー修行道場

 
 【第六章】 『大衆紙の愚民化工作とダンピング作戦』

 
 外国に住む日本人の情報の源泉/アメリカを舞台にした3大紙の勢力分布図/全米を舞台にした販売競争/日本でテスト済みのダンピング作戦/[読売]梁山泊の伝統とナベツネ体制の確立/地球儀の上で読売路線の役割を読む

 【歴史の証言】 『肥大化したジャーナリズムの背後にいる電通の威力』

 販売力で突進した読売とグレシャムの法則/広告による言論支配の実情/秘密のカギはニューヨークにある

 
 【第七章】 『日本のジャーナリズムの問題点と未来の姿』

 
 価値を秘めた鉱石とその発掘の意義/日本における情報の流れの停滞/日本を支配している領民思想の時代性/記事に篭もる気迫の魅力は何処に/自信喪失からの脱却/紙面から奇妙なコンプレックスの追放

 【歴史の証言】 『日本のジャーナリズムの再生課題』

 恐竜化した日本の巨大新聞の悩み/新聞のステレオタイプ化/記者タラブで骨抜きになる日本の記者/懐疑と批判精神がマヒする懐柔策/21世紀に向けた新聞の体質改善への提言

 
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