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日枝は、フジテレビの編成局長や社長として、数々のヒット番組を生み出し、フジテレビの視聴率を大幅に向上させた。メディアの多角化: フジ・メディア・ホールディングスの設立により、テレビだけでなく映画や新聞など多岐にわたるメディア事業を展開した。政財界との繋がり:
政財界や芸能界に幅広い人脈を築き、特に安倍晋三元首相との親密な関係が知られている。 |
1992(平成4)年 |
週刊文春報道で、世間に理解しがたい宏明の言動が次々と暴かれ求心力を失っていった。信隆氏の「退職金キャンペーン」が始まった。信隆氏の退職金が宏明氏の懐に入り、その金額は役員会で宏明氏に一任とするという“お手盛り”が報道され、反宏明ム-ドが醸成された。 |
7.21日、鹿内宏明・産経新聞会長が産経新聞の取締役会で部下たちに裏切られ、会長を解任された。いわゆる「産経クーデター」(「日枝クーデター」、「フジサンケイグループの「政変」)。次のように解説されている。
クーデターは用意周到で、グループの役員会は普段、中核のフジテレビ、産経新聞、ニッポン放送というように月に1回、隔週で開かれるのに、クーデターが行われた産経新聞の役員会は7.21日、フジテレビは7.23日、ニッポン放送は7.24日と近い時期にセットされていた。産経などは、羽佐間氏が「初めての職場なので早くやりたい」と急遽セットされていた。その産経新聞の役員会で宏明の解任動議が発議され、賛成17名、反対3名で宏明は解任された。宏明は産経新聞の株を100株しか持っておらず反対派も大勢いたのでクーデターが成立しやすかった。 |
鹿内春雄の急死(享年42)に伴って後継者となったのは、鹿内信隆の娘婿で養子の宏明だった。その宏明の会長解任を求める動議が産経新聞社の取締役会で成立し、可決。これを受けて宏明はフジサンケイグループ会議議長やフジテレビ代表取締役会長などの職も辞任することになった。この「クーデター」を主導したのが日枝その人だった。そのクーデター劇で、週刊文春が援護射撃とも言えるキャンペーンを展開した。その日枝の権力が「絶対的」なものになるのは92年以降で、日枝-週刊文春ラインが闇権力と化して行く。 |
鹿内宏明によるグループの私物化が原因とされるが背後には財界の意向があった。宏明は、ギリギリまで巻き返しを図って、財界の重鎮・中山素平(興銀特別顧問)、瀬島龍三(伊藤忠商事特別顧問)などに相談している。ところが逆に中山から「辞任を受け入れろ」と説得され、翌日、辞任会見する。フジ、ニッポン放送の会長も解任される前に自分から退いた。
鹿内宏明解任騒動における財界との関係について、日枝フジテレビ社長は「財界のご理解を事前に得ていた。文藝春秋一九九二年九月特別号が次のようにしるしている。
歴史的な経緯を見れば、ニッポン放送、フジテレビは財界が中心となって作られた企業ですし、産経新聞も財界の支援をいただいたことは存じています。私はその原点を忘れてはいけないと思っています。 |
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産経新聞社社長には羽佐間重彰、フジテレビ社長には日枝久が就任。次のように解説されている。
クーデター」を主導したのが88年に社長に就任していた日枝。クーデターの大義名分は“テレビ、新聞、ラジオというそれぞれ独立性を持つメディアの権力が、グループ全体で一人に集中しているのはおかしい”だった。そのため、クーデター成功後、議長という地位は廃止され、代表という肩書にした。代表には小林吉彦さんという長老を据え、形ばかりの役職となった。 |
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1994(平成6)年 |
東京本社編集局長に住田良能。 |
1996(平成8)年 |
クーデターを成功させた日枝の権力基盤は盤石ではなかった。中川氏が次のように解説している。
当時、ニッポン放送はフジの株の51%を持つ親会社でした。つまりニッポン放送には、フジの社長だった日枝氏の解任を求める権限があったのです。そして、鹿内家と宏明氏はニッポン放送の株を約13%保有する筆頭株主でした。こうしたことが、日枝氏が立場を追われる潜在的恐怖となっており、権力を盤石にするためには絶対に解決しなければならない問題でした。そこで日枝氏が目指したのが、フジテレビ株の上場だった。上場すれば、ニッポン放送が保有するフジテレビ株の比率が希薄化されるからである。しかし当時は子会社のみの上場が法的に許されていなかったため、96年にニッポン放送、その翌年にフジが上場することになった。上場によってニッポン放送のフジテレビ株の持株比率は50%を切りました。これにより、日枝氏は潜在的な脅威を取り除くことができたわけです。 |
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1998(平成10)年 |
連載「教科書が教えない歴史」が始まる。 |
1999(平成11)年 |
連載「教育を考える」が始まり、教育現場の“左翼偏向”批判を大々的に開始する。 |
2001(平成13)年 |
1988年から2001年まで13年フジテレビの社長を務めていた日枝が社長を退ぞき、以降は同社代表取締役会長に就任した。以降16年にわたって会長としてグループを率いることになる。実に29年間、マスメディアのもう一人の帝王になる。
フジ関係者の証言は次の通り。
会社の雰囲気が本格的におかしくなったのは日枝さんが社長の座を退いた01年ごろからです。社長人事を含めた全てが日枝さんの一声で決まるので、社長になるには日枝さんに気に入られるしかない、として皆いかにゴマをするかに腐心するようになった。逆に、日枝さんの覚えさえめでたければ大丈夫だよね、という雰囲気になっていきました。 |
いずれ自分の脅威になるような優秀な人を偉くせずに外に出してしまうのも日枝さんのやり方。さかのぼると、『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも!』を手がけた横澤彪(たけし)さんは社長どころか役員にもなれなかった。 |
あと、日枝さんは気に入らないとすぐに切ってしまう。13年に社長になったお気に入りの亀山千広さんは4年、その後の宮内正喜さんは2年、遠藤龍之介さんは2年、金光修さんは1年、そして港浩一さんが3年。普通は4〜5年はやらせるものですが、力のある者を社長にさせず、社長にした人間も将棋の駒のように入れ替えるのです。 |
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2002(平成14)年 |
4.1日、東京本社版の夕刊を廃刊し、東京で発行される全国紙としては史上初の朝刊単独紙に移行する。 東京本社版が3月30日付で夕刊を廃刊し全国紙で初の朝刊単独紙に移行した。
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11月、大阪市南部の活性化のために、産経新聞大阪本社が幹事となって、関西の企業・団体などの集まりで「ミナミ活性化委員会」を発足。 |
2003(平成15)年 |
日枝が、2003年から2006年まで、社団法人日本民間放送連盟の会長を務めた。会長在任期間において、「地上波放送のデジタル化」と「放送と通信の連携」という新たな課題に取り組み、その舵取り役を担った。 |
日枝がフジサンケイグループの代表に就任。
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2004(平成16)年 |
12.1日、大阪新聞社を吸収合併。 |
2005(平成17)年 |
8.8日、大阪本社が浪速区湊町二丁目の難波サンケイビルに移転。 |
2005(平成17)年 |
日枝氏が一躍脚光を浴びた。フジテレビ買収を仕掛けた「ホリエモン」こと実業家の堀江貴文が率いるライブドアとの攻防を巡るニュースが連日報じられた。
フジ株の上場後もニッポン放送は約34%の株を持つ筆頭株主でした。そこでフジはニッポン放送株の公開買い付け(TOB)を行い、ニッポン放送の子会社化を目指すのです。そんな中、急きょ、ニッポン放送株を買い集め最終的に過半数を握る筆頭株主となったのが、堀江貴文氏率いるライブドアでした。 |
記者会見などに出席する日枝(当時会長)の姿がテレビに映し出された。最終的にライブドアによる買収を阻止し「最後の難局」を制した日枝はその後も社内での発言力を強め、その地位を確固たるものにし、これにより日枝に歯向かう者はいなくなった。「結局、フジはライブドアと和解してニッポン放送株を買い取り、ニッポン放送を完全子会社化した。 |
2007(平成19)年 |
10月 、マイクロソフト運営ポータルサイトMSNと提携し「MSN産経ニュース」開始。 |
日枝の後任社長の村上光一(84)が自分の退任時に「一緒に辞めましょう」と促したとされる。村上は映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」(1998年)などを製作した映画人でもある。権力の長期化はフジのためにならないと考えたようだ。村上は同「吉原炎上」(1987年)を手掛けた無頼派監督・故五社英雄監督の直属の部下だった。だが日枝は辞めなかった。その後は2017年までフジとフジHDの代表取締役会長兼CEOであり続ける。 |
2008(平成20)年 |
10月、日枝が、放送法による認定放送持株会社に体制移行した「フジ・メディア・ホールディングス」という認定放送持株会社を設立し、その代表取締役会長兼CEO(Chief
Executive Officer)に就任し、同社経営の最高責任を担うことになった。
ここに至り、日枝はかつての鹿内家以上の権力を得た。 鹿内家は3代にわたってフジサンケイグループの議長を務めたとはいえ、肝心のフジの親会社であるニッポン放送株を13%しか持っていなかった。日枝はHD化によってその弱点を克服し、さらにその後、フジとHDで経営責任を問われる代表取締役からは退く一方、フジサンケイグループ代表として名実ともにグループを支配する絶対的な権力者としての地位を完成させた。一介のサラリーマンとしてフジに入社し、メディアグループの独裁者にまで上り詰めた稀有な「出世物語」となった。 |
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12.11日、 産経新聞社が九州・山口県への販路拡大を目的に、毎日新聞西部本社の工場(佐賀県鳥栖市)で産経新聞の委託印刷を翌年10月から行うことで毎日新聞社と基本合意。 |
2009(平成21)年 |
1.19日、業績悪化により早期希望退職制度を募集。 |
4.1日、産経新聞の九州現地印刷に伴い、九州総局(福岡県福岡市中央区)内に「九州・山口本部」を新設。 |
5.17日、頼近美津子が千葉県柏市の病院で逝去(享年53歳)。食道がん。直接の死因は心不全であった。 |
10.1日、九州・山口特別版」発刊。 |
2010(平成22)年 |
7.26日、本文のフォントを変更。全体的に太いフォントを採用した。産経新聞グループの紙面全体の数字や、ラ・テ欄の時間表記も変わっている。 |
2011年(平成23年) |
6.22日、専務取締役大阪本社代表・熊坂隆光が社長に就任。現任の住田は相談役。会長清原武彦は会長職には留まるが代表権がなくなる。 |
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12月、大阪府内版の連載企画「それゆけ!大阪ラーメン部」とのコラボレーションにより、エースコックから大手全国新聞社としては初のタイアップ商品となるカップ麺「産経新聞
それゆけ!大阪ラーメン」が期間限定で発売。 |
2012年(平成24年) |
6.1日 - 「九州・山口本部」が、「西部本部」に変更。 |
2013年(平成25年) |
4.26日 - 創刊80周年(日本工業新聞の紙歴も算入)・『正論』創刊40周年を記念して進める事業の一環として、緊急時の政府による国民の人権制限・天皇明文元首化・国家緊急権・軍隊保持・国防の義務・国旗国歌規定などを盛り込んだ「国民の憲法」要綱を発表。
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2017(平成29)年 |
6月末、フジテレビジョンを傘下に持つフジ・メディア・ホールディングス(HD)の日枝久会長(79)が代表権のない取締役相談役に退く。視聴率低迷に悩むフジテレビの再生を狙ったグループ人事の一環だ。取締役は経営に関する決定権限や執行権限を持つ(会社法第348条第1項)。一方、相談役は会社の経営事項について決定権限がなく、仕事はアドバイス役であるにも拘わらず引退後、院政を敷く。フジ関係者によると、その後も取締役会では中央付近の席に座り続けている。ずっとフジの実質的な最高権力者。社長を指名するのはもちろん、局長級の人事にも影響力を持っているという。フジのオーナーは日枝氏だと言っても過言ではない。 |
2019(平成31)年 |
12.26日、東京・赤坂の高級日本料理屋「古母里」で「イザワオフィスの井澤健社長・バーニングプロダクションの創業者の周防郁雄社長の大忘年会」。二人とも芸能界に大きな影響力を持つことで知られる。6つのテーブルには井澤、周防の他、いわゆる「バーニング系」と呼ばれる4人の芸能事務所社長が居並び、また亀山千広(BSフジ代表取締役社長)、港浩一(当時、共同テレビジョン社長)をはじめ編成担当役員や制作センター制作局長など、後のフジの幹部らの名前が記されている。井澤の隣にはYアナウンサー、周防のテーブルには「(女性アナ)」という記載があり、さらに「アナウンス室メンバー調整中」と記されている。「港社長は女性アナ接待の常習者」(元フジ幹部)。 |
2022(令和4)年 |
7月、日枝が、銃撃されて亡くなった安倍元首相の遺体と向き合う。日枝は安倍晋三元首相と親しく、安倍晋三元首相が銃撃され、遺体が自宅に運ばれた際、いち早く駆けつけたのが日枝だった。二人はお互いに河口湖畔に別荘を持つゴルフ仲間で、生前は富士桜カントリー倶楽部を一緒に回ることも多かった」(永田町関係者)。賛否喧しかった安倍氏の“国葬”の司会をしたのもフジのアナウンサーだった。 |
2023(令和5)年 |
6月上旬、芸能関係者のX子と中居の間で起きた男女トラブル。修復できない溝として残り、その後も今でも彼女に深い傷を負わせている。 |
2024(令和6)年 |
フジテレビを傘下に持つフジ・メディア・ホールディングス(フジHD)の相談役でもある日枝の6月時点でのフジHD株の所有数は23万3千株余り。 |
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3.23日、9.23日の2回、安倍晋三元首相と一緒にゴルフに興じていたことで知られる日枝が岸田文雄首相(67)と会談。日本テレビ、テレビ朝日、TBSの社長は昨年、1度も首相と会っていない。権力の監視役のメディアの弁えであろう。 |
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12.19日、渡邉恒雄、「ナベツネ」の通称で知られ、プロ野球界、メディア界で独裁者のようにふるまっていたが逝去(享年98歳)。 |
2025(令和7)年 |
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1.23日、フジテレビは、芸能界引退を発表した元タレント中居正広(52)の女性トラブルを巡って、同局の社員向け説明会を行った。一部報道によると、社員から日枝久相談役(87)ら経営陣の辞任を求める声も上がった。 |
1.27日、フジテレビの記者会見が開かれ10時間以上に及んだ。嘉納修治会長(74)と港浩一社長(72)が、中居正広(52)が起こしたトラブルとフジテレビのガバナンス不全の問題で辞任した。 |
1.27日の会見に出席していた役員5人の番組制作実績は次の通り。
清水賢治 |
新社長 |
・ドラゴンボール ・ちびまる子ちゃん |
遠藤龍之介 |
副会長 |
・鬼平犯科帳(ドラマ) |
港浩一 |
前社長 |
・とんねるずのみなさんのおかげです ・おニャン子クラブ 夕やけニャンニャン |
嘉納修治 |
前会長 |
・南極物語(映画) |
金光修 |
フジ・メディアHD社長 |
・料理の鉄人 |
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一方で同局とフジ・メディア・ホールディングス(フジHD)の最高権力者と見られている両社の取締役相談役・日枝久(87)は続投する。日枝の経歴は次の通り。1961年(23歳)、フジテレビ入社。その後、社内の労働組を立ち上げ。1980年(42歳)、編成局長。1988年(50歳)、社長就任。2001年(63歳)、会長就任。2017年(79歳)、取締役相談役(現職)。
フジ・メディアHDは、日枝が代表を務めるフジサンケイグループの中核企業である。 「フジサンケイグループは法人ではなく、グループ会社を株で統治しているわけでもない、会社法には想定されていない組織なのです。そのため、フジの株主でも取締役会でも、はたまた外部の組織であっても、日枝さんを代表から退任させる権利はありません」(川口氏)。フジサンケイグループ代表として君臨し人事を掌握する一方、フジでは代表権のない取締役でしかないから経営責任を問われることはない。これが日枝によるフジ支配の「要諦」なのである。 |
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2.3日、フジの大株主「ダルトン・インベストメンツ」が日枝の辞任を求める書簡をフジに送付した。 |
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フジは65年もの歴史がありながら、支配者がたった3人しかいない。水野は鹿内に支配権を奪われ、鹿内家は女婿の鹿内宏明(79)が日枝たちに追い散らされた。
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社内人事だけではなく、番組のキャスティングにも日枝の意向が働いている。
フジが橋下徹・元大阪府知事を重用するのは、日枝さんの影響です。日枝さんは石原慎太郎元東京都知事と親しかったのですが、その石原さんから橋下さんについて“みどころがあるからよろしく”と言われた。そうしたことがあったので橋下さんを使い続けているのです。(日枝氏を取材したことがあるジャーナリスト)。 |
橋下は27日のフジテレビ情報番組「めざまし8」における「僕は(日枝氏は会見に)出ちゃいけないと思います」との発言が波紋を呼んでいた。1月30日発売の「週刊新潮」では、フジテレビの人事などを陰で差配してきた「日枝支配」の全容を報じている。日枝は、人事権を一手に掌握し、自分を脅かす存在になる人間を切り捨て、イエスマンばかりを取り立て、長きにわたって君臨してきた。 |
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森喜朗元首相の孫娘や岸信夫元防衛相の息子(現在は衆院議員)、故・中川昭一元財務相の長女、加藤勝信財務相の娘もフジに入社しているという。フジテレビには長年続いてきた女子アナ「上納文化」がる。フジテレビだけの文化かどうかが問われていない。 |