「産経新聞社史考」その1、通史

 (最新見直し2010.1.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、読売新聞に続いて産経新聞の履歴を確認しておく。参考資料:「ドキュメント産経新聞私史」(高山尚武著 青木書店)、「産経新聞社の来歴」、「産経新聞」、「ウィキペディア (Wikipedia) 」、「日枝久氏を辞めさせるのが非常に難しい理由とは フジ元役員が明かす」その他参照。


前田久吉社長時代
1913年 大阪にて前田久吉が新聞販売店を創業。
1922年 南大阪新聞創刊(後に大阪新聞に改称)。
1933(昭和8)年 6.20日、前田久吉の経営する夕刊大阪新聞社が「日本工業新聞」として大阪市で創刊される。
1941(昭和16)年 6月、戦時新聞統制令により愛知以西の産業経済新聞関係33社を吸収合併する。「産業経済新聞」となる。
1942(昭和17)年 11.1日、新聞統制で愛知県以西の産業経済専門紙を統合して株式会社産業経済新聞社に改名、日本工業新聞停刊。
1946(昭和21) 年 前田、新聞による戦意高揚に関与したとして公職追放される。
1948(昭和23)年 赤字続きの世界日報社(東京、統一教会系の新聞とは別物)を傘下に。
1950(昭和25)年 前田、追放解除により社長に復帰。3月から東京でも印刷・発行を開始。紙面を経済紙から一般紙に変更し、全国紙としての基礎を固める。7月、朝鮮戦争に伴う「レッド・パージ」始まる。10月、前田の公職追放解除。
1951(昭和26)年 1.1日。夕刊世界経済(1946年東京で世界日報として創刊)を東京発行の産業経済新聞に合同。「世界経済合同」を題字下に明記していた。全国紙化への道を歩み始める。
1952(昭和27)年 2月、週刊サンケイ(のちのSPA!)創刊。
1953(昭和28)年 6月、東京で夕刊の発行を開始。
1953(昭和28)年 10月、池田特使・ロバートソン米国務次官補会談。「本会議参加者は,日本国民が自己の防衛に関しより多くの責任を感ずるような気分を国内につくることが最も重要であると意見一致した。愛国心と自己防衛の自発的精神が日本において成長する如き気分を啓蒙と啓発によつて発展することが日本政府の責任である」。
1955(昭和30)年 3月、破格で払い下げられた東京・大手町の国有地に東京本社ビル及び産経ホールを完成。
11.1日、東京発行の産業経済新聞が時事新報(戦前存在していた同名紙が1946年、夕刊紙として復刊)を買収して産経時事と号する。国有地払い下げで取得した東京都千代田区大手町に東京本社ビルを完成。
1956(昭和31)年 3月、大阪で夕刊の発行を開始。
1957(昭和32)年 フジの誕生。初代社長は財界人の水野成夫。やはり財界人の鹿内信隆が全面的に協力した。
1958(昭和33) 年 7.11日、東京発行の産経時事を産經新聞に改題。
全国紙化に伴う多額の投資により借入金がかさみ(34億8千万:手形13億4千万)経営危機にあえぐ。住友銀行堀田庄三頭取に財界からの支援を要請。東京進出により債務過多、経営危機に陥いる。産経新聞の支援要請を受けた住友銀行の堀田庄三は池田勇人大蔵大臣を支援する「二黒会」のメンバーであり、そのメンバーには、桜田武(日清紡社長)、永野重雄(富士製鉄社長)、水野成夫(国策パルプ社長、フジテレビ社長)らがいた。彼らは財界の半公然組織、「マスコミ対策委員会」の中心メンバーだった。この中からフジテレビと文化放送の社長だった水野が社長に選ばれ、産経再建に乗り出すことになった。以降、論調を右派に転換する。

水野成夫社長時代
1958(昭和33)年 10月、水野成夫が社長就任、前田久吉は会長へ。水野には財界の後押しもあり、資本金を五億増資し、九億九千万に。水野には財界より十五億の資金援助があったと言われる。当時の取締役には五島昇(東急社長)、小坂徳三郎(信越化学社長)らがおり、監査役として後に産経の社長となった鹿内信隆(日本放送専務)がいた。
 水野成夫は戦前の日本共産党中央委員。投獄され、転向後、軍部に取り入り、軍用製紙工場の払い下げなどの手厚い援助を受け国策パルプを設立。国策パルプでは労働組合の弾圧で悪名を馳せる。文化放送社長として、娯楽番組中心の編成、良心的ドラマ番組、探訪番組の打ち切り、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、組合潰しなどをすすめ、「財界のマスコミ対策のチャンピオン」と称せられる。戦争翼賛に対する反省から、毎日、朝日、読売などの大手全国紙が権力に対する追及も辞さない姿勢を示すなかで、財界による「はっきりした保守新聞」の要望があった。フジテレビと文化放送の社長だった水野が全国紙となった産経新聞を手中に収めることにより、テレビ、ラジオ、新聞が連携した、巨大メディアを財界の御用メディアにすることができた。
1959(昭和34)年 2.1日、東西産経新聞社合併-株式会社産業経済新聞社へ。東西で異っていた題号を産経新聞に統一。大阪発行の産業経済新聞を産經新聞に改題(東西で異っていた題号を産經新聞に統一)。
1960(昭和35)年 10月、広島版に「郷土部隊奮戦記」掲載。各地方版に波及し、戦記物ブームを醸成。
産経労組、新聞労連より脱退。労使平和協定を結び御用組合へ。
このころより、「合理化」に伴う配転、解雇などの、いわゆる「産経残酷物語」が始まる。
1961(昭和36)年 フジテレビで社長、会長などを歴任することになる日枝久(ひえだひさし)が早稲田大学教育学部を卒業、開局3年目の株式会社フジテレビジョンに入社。
1961(昭和36)年 皇居前に皇太子結婚記念「大噴水」を設置、国に寄贈。建設費は社員から半強制的に寄付を徴収。
8.15日、産経連載企画「新しい兵隊さん」開始。内容は自衛隊のPR。
1962(昭和37)年 3月、自衛隊と協賛し、川崎市内に於いて「防衛大博覧会」を開催。
1963(昭和38)年 1.23日、池田首相は国会の施政方針演説で次のように述べた。「新聞、ラジオ、テレビ等は、家庭、学校、社会の三つを通じ、人つくりの環境を整える最も強力な手段となりつつあります。最近におけるテレビの普及は、このことを決定的にしたものといっても過言ではありません。私は、これら言論機関の責任者が社会教育の先達者であるとの誇りと責任を持って、人つくりに一そうの力を尽くされるよう期待するものであります」。
1964(昭和39)年 滋賀県琵琶湖西岸の比良山にレジャー施設「サンケイバレー」を建設。サンケイスカラシップをフジテレビジョンなどと共に創設し、海外留学生派遣事業を支援した。1989年(平成元年)に終了。「サンケイスワローズ(現ヤクルトスワローズ)」の経営に乗り出す。結果として、借入金累積額が28億に。財界からも水野社長退陣を迫られる。
1967(昭和42)年 フジテレビジョン、ニッポン放送、文化放送とともに「フジサンケイグループ」を結成する。
 7月、鹿内社長は、広告主向け説明会で、「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」、「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼的商業主義!」と演説したという。

鹿内ファミリー社長・会長時代
1968(昭和43)年 水野と鹿内の関係に亀裂が入った。そんなとき水野が病に倒れ、鹿内(しかない)が経営権を奪った。10月、水野成夫が退任し、鹿内信隆社長就任。「メディアの支配者」でフジ内部の権力闘争を描いたジャーナリストの中川一徳氏が次のように解説している。
 「元々はフジテレビ、産経新聞、ニッポン放送の中核3社の社長による三人代表制を取っていたのですが、信隆氏が他の二人を放逐し、議長の座に就いたのです。フジサンケイグループ会議は任意団体であり法人格を持ちませんが、議長はグループ全体(文化放送を除く)を支配する立場にありました」。

 2代目社長となった鹿内は「メディアの帝王」とも呼ばれ、経済団体「日経連(日本経営者団体連盟)」の大幹部だった。当時の日経連は労働組合と全面対決する姿勢を見せ、「戦う日経連」と呼ばれていた。そのメディアの砦がフジ。これが伝統的に組合活動が低調なフジの遺伝子となる。3代目は浅野賢澄氏。郵政省(現総務相)からの天下りで、鹿内からの信頼が厚かった。ただし実権を握っていたのは鹿内である。4代目はやはり鹿内に買われていたニッポン放送社長の石田達郎。阿久悠らに慕われる懐の深い才人だったものの支配者は鹿内だった。5代目もニッポン放送出身で人格者として知られた羽佐間重彰。鹿内家に信用されていた。
1969(昭和44)年 5月、新聞紙名(題号)を「サンケイ新聞」に変更。(正式名称は産業経済新聞のまま 但し、欄外の題字と社旗は1962年2月1日付けに先行で「サンケイ(新聞)」のカタカナ題号を使用開始している)
1969(昭和44)年 7月、広告主向け説明会にて鹿内社長演説。
「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「完全と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼的商業主義!」。
1970(昭和45)年 1970年より90年まで毎年元旦に鹿内自らが執筆した「年頭の主張」を掲載。内容は反共、反動、親米、国家主義。この頃より「朝日新聞たたき」が始まる。
1970(昭和45)年  9月、田中角栄自民党幹事長による以下のような「田中通達」が全国の自民党支部連合会長、支部長宛に「取扱注意」「親展」として送付される。
「さて、サンケイ新聞は、わが自由民主党の政策を理解されわが党の政策遂行にはたいへんご協力をいただいております。つきましては地方支部等で、いまだにサンケイ新聞を購読されていない方々に同紙のご愛読をお願いいたしたく存じます。同紙の拡張はわが党広報活動の拡大にもつながるものでありますので、事情ご了承の上御高配を願い上げます」。

これは国会でも取り上げられ、喜多畑サンケイ新聞政治部長は「販売拡大への協力を民社、自民党に要請している」と、「田中通達」の存在を認めた。
1973(昭和48)年 6.25日、「正論」欄登場。第一回目は猪木正道防衛大学長。
1973(昭和48)年 12.2日、サンケイ新聞事件が起こる。サンケイ新聞は自由民主党の意見広告を掲載した。その内容は「前略 日本共産党殿 はっきりさせてください」というタイトルで、当時の日本共産党が参議院選挙向けに掲げていた「民主連合政府綱領」が、自衛隊・安保条約・天皇・国会・国有化の各点について「日本共産党綱領」と比較して矛盾していると批判するものであった。この広告出稿は毎日、朝日、読売にも持ち込まれたが、いずれも掲載を拒否されていた。

 日本共産党はこれを意見を求める挑戦的広告だとして、憲法21条から反論権(アクセス権)が導かれるとして、「同一スペースの反論文の無料掲載」をサンケイ新聞に求めた。サンケイ新聞側は「自由民主党と同じく有料の意見広告であれば掲載するが無料では応じられない」とした。そこで日本共産党は東京地裁に仮処分を求めたが、申請を却下された。さらに共産党は産業経済新聞社を相手取って「同一スペースの反論文の無料掲載」をさせるよう東京地方裁判所に訴訟を起こす。一審・二審とも憲法21条から直接に反論権は認められない、人格権の侵害を根拠としても新聞に反論文の無料掲載などという作為義務を負わせることは法の解釈上も条理上もできないとされ、また当事件では名誉毀損も成立しないとして日本共産党の請求を棄却して全面敗訴させた。判決を不服とした日本共産党はただちに上告したが最高裁は上告棄却し、日本共産党の敗訴が確定した。

 反論権(アクセス権)に関する訴訟の代表として知名度が高い事件である。政党批判など新聞の表現の自由に対して間接的危険(萎縮効果)をもたらすおそれがあるとして判例は反論権には否定的で、少なくとも憲法21条から具体的権利としては認められず、具体的権利とするためには明文化された法制度の確立が必要とされた。しかし、明文化したところでマスメディアの消極的表現の自由を侵害するものとして違憲と判断される可能性も高い。 ただし判例も留保しているように不法行為が成立する場合(名誉毀損などの場合)の反論権は民法723条による救済方法の一つとしては考えうる。元来サンケイ新聞は反共主義を掲げていたが、この事件によって両者の反目は決定的となった。

1974(昭和49)年 11月、鹿内信隆、フジサンケイグループ会長に就任。
1976(昭和51)年 4月、「刷新三カ年計画」による、800人のレイオフ、賃金の大幅ダウン。
6月、「正論活動調査会」設置。
7.29日、ロッキード事件で、田中角栄前首相と榎本秘書官が逮捕され、この時、榎本秘書官は、取り調べ中に産経新聞の「角栄自供」虚報記事を見せられている。榎本の虚言、検察の記事捏造、産経の虚報記事協力のどれかが真実であるが、今日も闇に包まれている。
1977(昭和52)年 3月、サンケイ新聞輸送会社において、「過労死」発生。裁判により83年和解。
1978(昭和53)年 5月、鹿内社長、編集主幹として、編集の全権を掌握。通常、新聞においては、経営者と編集者は兼務しない。
1980(昭和55)年 当初は報道部に所属していたが労働組合の書記長として組合活動に奔走し始めた日枝は労組の結成に関わったことで編成へ飛ばされ、さらに労組の書記長になると閑職の広報課に追いやられた。その日枝に転機が訪れる。1980年、元会長で同社の「中興の祖」といわれた故鹿内春雄(フジサンケイグループ会議初代議長・鹿内信隆氏の長男)がフジの副社長に就任した際、春雄が「実力本位」の考えで日枝を局中枢の編成局長に42歳の若さで抜擢した。日枝は以降、幹部として80年代の同社をけん引した。
1981(昭和56)年 開局当初の「母と子のフジテレビ」に代わり「楽しくなければテレビじゃない」がキャッチフレーズとなった。このノリが、倫理的に問題のある行動でもノーと言えない体制を生み出して組織が腐っていった。
 2月、TBSの「8時だョ!全員集合」がバラエティー番組で過去最高視聴率47.6%を記録しし(世帯・関東地区、1977年9月以降)。同じ年の5月、フジテレビは「オレたちひょうきん族」を放送を開始。「8時だョ!全員集合」と同じ時間帯に放送し「土8戦争」と呼ばれる視聴率競争が始まった。
1982(昭和57)年 10月、「笑っていいとも!」が開始し、フジテレビは黄金期に突入。「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズが一世を風靡しました。邦画(実写映画)の歴代興行収入は、1位~3位が全てフジテレビ作品となった(興行通信社より)。
・1位 踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!(2003年公開):173.5億円。
・2位 南極物語(1983年公開):110億円

・3位 踊る大捜査線 THE MOVIE(1998年公開):101億円

 ドラマにおいても有名作品を数多く放送した。
101回目のプロポーズ(1991年) 、東京ラブストーリー(1991年)、素顔のままで(1992年)、あすなろ白書(1993年)、ひとつ屋根の下(1993年)。
1983(昭和58)年 行革礼賛・推進キャンペーン開始。行革の結果、国鉄などが民営化され、それらの労働組合も弱体化。労働組合を支持基盤としていた社会党も弱体化。
日枝が取締役に就任。
1984(昭和59)年 フジテレビの副社長・鹿内春雄が、元NHKアナンサーにしてフジテレビにスカウトされていた頼近美津子と結婚(春雄は再々婚)。玉の輿婚とマスコミを賑わせた。2児をもうけることになる。
1985(昭和60)年 6月、鹿内信隆、産経新聞社長を退任し、取締役へ(後継社長、植田新也)。息子(長男)の鹿内春雄が代表取締役会長に就任、議長の座を引き継ぐ。
1986(昭和61) 年 4.1日、題字右側にフジサンケイグループのシンボルマーク「目玉マーク」が添付。
10月、宮城県仙台市で現地印刷開始。
1987(昭和62)年 鹿内春雄会長、「飛躍への大改革」を発表。大規模な配転等の結果、1700人以上が退職することに。数十億とも言う赤字を抱えたサンケイ出版をフジテレビ系列の扶桑社に吸収合併。「週刊サンケイ」が「SPA!」に。
1988(昭和63)年 4月、議長の座を引き継いで3年後、鹿内春雄会長死去(享年43歳、信隆の長男)。ゴルフ中に心筋梗塞という変な急死を遂げている。どういうメンバーでゴルフしていたのか詳細が一切秘匿されている。「B型肝炎による急性肝障害」との説もある。信隆が再び議長に就任。鹿内信隆の娘(次女)婿、鹿内宏明が産経新聞、フジテレビ、日本放送の代表取締役会長に就任。
5.28日、題号を再び漢字の産經新聞(正式名称は産業経済新聞のまま)に戻し、全国紙初の本格的カラー紙面を採用する。
羽左間が社長のとき、鹿内家を追い落とすクーデターが起こる。先頭に立ったのが日枝氏たちである。
年間視聴率3冠王などの実績を上げた日枝(50歳)がフジの社長に就任、初めての生え抜き社長。以降01年までの約13年間、フジテレビの社長を務め君臨する。以後も会長や相談役として経営陣にとどまり、37年にわたりフジに君臨した。
1989(昭和64)年 10月、フジサンケイグループ、10億とも言われる巨費を投じて、レーガン前大統領を招待。産経紙面では20ページもの大特集。
1990(平成2)年 10月、一時的に議長の座に戻っていた鹿内信隆死去。信隆氏が死んだ後、娘(次女)婿の鹿内宏明が「3代目議長」の座に就任。
1991(平成3)年 1月、漫画新聞「コミックサンケイ」が発刊される。

羽佐間―日枝久時代
 日枝は、フジテレビの編成局長や社長として、数々のヒット番組を生み出し、フジテレビの視聴率を大幅に向上させた。メディアの多角化: フジ・メディア・ホールディングスの設立により、テレビだけでなく映画や新聞など多岐にわたるメディア事業を展開した。政財界との繋がり: 政財界や芸能界に幅広い人脈を築き、特に安倍晋三元首相との親密な関係が知られている。
1992(平成4)年 週刊文春報道で、世間に理解しがたい宏明の言動が次々と暴かれ求心力を失っていった。信隆氏の「退職金キャンペーン」が始まった。信隆氏の退職金が宏明氏の懐に入り、その金額は役員会で宏明氏に一任とするという“お手盛り”が報道され、反宏明ム-ドが醸成された。
7.21日、鹿内宏明・産経新聞会長が産経新聞の取締役会で部下たちに裏切られ、会長を解任された。いわゆる「産経クーデター」(「日枝クーデター」、「フジサンケイグループの「政変」)。次のように解説されている。
 クーデターは用意周到で、グループの役員会は普段、中核のフジテレビ、産経新聞、ニッポン放送というように月に1回、隔週で開かれるのに、クーデターが行われた産経新聞の役員会は7.21日、フジテレビは7.23日、ニッポン放送は7.24日と近い時期にセットされていた。産経などは、羽佐間氏が「初めての職場なので早くやりたい」と急遽セットされていた。その産経新聞の役員会で宏明の解任動議が発議され、賛成17名、反対3名で宏明は解任された。宏明は産経新聞の株を100株しか持っておらず反対派も大勢いたのでクーデターが成立しやすかった。
 鹿内春雄の急死(享年42)に伴って後継者となったのは、鹿内信隆の娘婿で養子の宏明だった。その宏明の会長解任を求める動議が産経新聞社の取締役会で成立し、可決。これを受けて宏明はフジサンケイグループ会議議長やフジテレビ代表取締役会長などの職も辞任することになった。この「クーデター」を主導したのが日枝その人だった。そのクーデター劇で、週刊文春が援護射撃とも言えるキャンペーンを展開した。その日枝の権力が「絶対的」なものになるのは92年以降で、日枝-週刊文春ラインが闇権力と化して行く。

 鹿内宏明によるグループの私物化が原因とされるが背後には財界の意向があった。宏明は、ギリギリまで巻き返しを図って、財界の重鎮・中山素平(興銀特別顧問)、瀬島龍三(伊藤忠商事特別顧問)などに相談している。ところが逆に中山から「辞任を受け入れろ」と説得され、翌日、辞任会見する。フジ、ニッポン放送の会長も解任される前に自分から退いた。

 鹿内宏明解任騒動における財界との関係について、日枝フジテレビ社長は「財界のご理解を事前に得ていた。文藝春秋一九九二年九月特別号が次のようにしるしている。
 歴史的な経緯を見れば、ニッポン放送、フジテレビは財界が中心となって作られた企業ですし、産経新聞も財界の支援をいただいたことは存じています。私はその原点を忘れてはいけないと思っています。
 産経新聞社社長には羽佐間重彰、フジテレビ社長には日枝久が就任。次のように解説されている。
 クーデター」を主導したのが88年に社長に就任していた日枝。クーデターの大義名分は“テレビ、新聞、ラジオというそれぞれ独立性を持つメディアの権力が、グループ全体で一人に集中しているのはおかしい”だった。そのため、クーデター成功後、議長という地位は廃止され、代表という肩書にした。代表には小林吉彦さんという長老を据え、形ばかりの役職となった。
1994(平成6)年 東京本社編集局長に住田良能。
1996(平成8)年 クーデターを成功させた日枝の権力基盤は盤石ではなかった。中川氏が次のように解説している。
 当時、ニッポン放送はフジの株の51%を持つ親会社でした。つまりニッポン放送には、フジの社長だった日枝氏の解任を求める権限があったのです。そして、鹿内家と宏明氏はニッポン放送の株を約13%保有する筆頭株主でした。こうしたことが、日枝氏が立場を追われる潜在的恐怖となっており、権力を盤石にするためには絶対に解決しなければならない問題でした。そこで日枝氏が目指したのが、フジテレビ株の上場だった。上場すれば、ニッポン放送が保有するフジテレビ株の比率が希薄化されるからである。しかし当時は子会社のみの上場が法的に許されていなかったため、96年にニッポン放送、その翌年にフジが上場することになった。上場によってニッポン放送のフジテレビ株の持株比率は50%を切りました。これにより、日枝氏は潜在的な脅威を取り除くことができたわけです。
1998(平成10)年 連載「教科書が教えない歴史」が始まる。
1999(平成11)年 連載「教育を考える」が始まり、教育現場の“左翼偏向”批判を大々的に開始する。
2001(平成13)年 1988年から2001年まで13年フジテレビの社長を務めていた日枝が社長を退ぞき、以降は同社代表取締役会長に就任した。以降16年にわたって会長としてグループを率いることになる。実に29年間、マスメディアのもう一人の帝王になる。

 
フジ関係者の証言は次の通り。
 会社の雰囲気が本格的におかしくなったのは日枝さんが社長の座を退いた01年ごろからです。社長人事を含めた全てが日枝さんの一声で決まるので、社長になるには日枝さんに気に入られるしかない、として皆いかにゴマをするかに腐心するようになった。逆に、日枝さんの覚えさえめでたければ大丈夫だよね、という雰囲気になっていきました。
 いずれ自分の脅威になるような優秀な人を偉くせずに外に出してしまうのも日枝さんのやり方。さかのぼると、『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも!』を手がけた横澤彪(たけし)さんは社長どころか役員にもなれなかった。
 あと、日枝さんは気に入らないとすぐに切ってしまう。13年に社長になったお気に入りの亀山千広さんは4年、その後の宮内正喜さんは2年、遠藤龍之介さんは2年、金光修さんは1年、そして港浩一さんが3年。普通は4〜5年はやらせるものですが、力のある者を社長にさせず、社長にした人間も将棋の駒のように入れ替えるのです
2002(平成14)年 4.1日、東京本社版の夕刊を廃刊し、東京で発行される全国紙としては史上初の朝刊単独紙に移行する。 東京本社版が3月30日付で夕刊を廃刊し全国紙で初の朝刊単独紙に移行した。
11月、大阪市南部の活性化のために、産経新聞大阪本社が幹事となって、関西の企業・団体などの集まりで「ミナミ活性化委員会」を発足。
2003(平成15)年 日枝が、2003年から2006年まで、社団法人日本民間放送連盟の会長を務めた。会長在任期間において、「地上波放送のデジタル化」と「放送と通信の連携」という新たな課題に取り組み、その舵取り役を担った。
2004(平成16)年 12.1日、大阪新聞社を吸収合併。
2005(平成17)年 8.8日、大阪本社が浪速区湊町二丁目の難波サンケイビルに移転。
2005(平成17)年 日枝氏が一躍脚光を浴びた。フジテレビ買収を仕掛けた「ホリエモン」こと実業家の堀江貴文が率いるライブドアとの攻防を巡るニュースが連日報じられた。
 フジ株の上場後もニッポン放送は約34%の株を持つ筆頭株主でした。そこでフジはニッポン放送株の公開買い付け(TOB)を行い、ニッポン放送の子会社化を目指すのです。そんな中、急きょ、ニッポン放送株を買い集め最終的に過半数を握る筆頭株主となったのが、堀江貴文氏率いるライブドアでした。

 記者会見などに出席する日枝(当時会長)の姿がテレビに映し出された。最終的にライブドアによる買収を阻止し「最後の難局」を制した日枝はその後も社内での発言力を強め、その地位を確固たるものにし、これにより日枝に歯向かう者はいなくなった。
「結局、フジはライブドアと和解してニッポン放送株を買い取り、ニッポン放送を完全子会社化した。
2007(平成19)年 10月 、マイクロソフト運営ポータルサイトMSNと提携し「MSN産経ニュース」開始。
日枝の後任社長の村上光一(84)が自分の退任時に「一緒に辞めましょう」と促したとされる。村上は映画「踊る大捜査線 THE MOVIE」(1998年)などを製作した映画人でもある。権力の長期化はフジのためにならないと考えたようだ。村上は同「吉原炎上」(1987年)を手掛けた無頼派監督・故五社英雄監督の直属の部下だった。だが日枝は辞めなかった。その後は2017年までフジとフジHDの代表取締役会長兼CEOであり続ける。
2008(平成20)年 10月、日枝が、放送法による認定放送持株会社に体制移行した「フジ・メディア・ホールディングス」という認定放送持株会社を設立し、その代表取締役会長兼CEO(Chief Executive Officer)に就任し、同社経営の最高責任を担うことになった。
 ここに至り、日枝はかつての鹿内家以上の権力を得た。 鹿内家は3代にわたってフジサンケイグループの議長を務めたとはいえ、肝心のフジの親会社であるニッポン放送株を13%しか持っていなかった。日枝はHD化によってその弱点を克服し、さらにその後、フジとHDで経営責任を問われる代表取締役からは退く一方、フジサンケイグループ代表として名実ともにグループを支配する絶対的な権力者としての地位を完成させた。一介のサラリーマンとしてフジに入社し、メディアグループの独裁者にまで上り詰めた稀有な「出世物語」となった。
12.11日、 産経新聞社が九州・山口県への販路拡大を目的に、毎日新聞西部本社の工場(佐賀県鳥栖市)で産経新聞の委託印刷を翌年10月から行うことで毎日新聞社と基本合意。
2009(平成21)年 1.19日、業績悪化により早期希望退職制度を募集。
4.1日、産経新聞の九州現地印刷に伴い、九州総局(福岡県福岡市中央区)内に「九州・山口本部」を新設。
5.17日、頼近美津子が千葉県柏市の病院で逝去(享年53歳)。食道がん。直接の死因は心不全であった。
10.1日、九州・山口特別版」発刊。
2010(平成22)年 7.26日、本文のフォントを変更。全体的に太いフォントを採用した。産経新聞グループの紙面全体の数字や、ラ・テ欄の時間表記も変わっている。
2011年(平成23年) 6.22日、専務取締役大阪本社代表・熊坂隆光が社長に就任。現任の住田は相談役。会長清原武彦は会長職には留まるが代表権がなくなる。
12月、大阪府内版の連載企画「それゆけ!大阪ラーメン部」とのコラボレーションにより、エースコックから大手全国新聞社としては初のタイアップ商品となるカップ麺「産経新聞 それゆけ!大阪ラーメン」が期間限定で発売。
2012年(平成24年) 6.1日 - 「九州・山口本部」が、「西部本部」に変更。
2013年(平成25年) 4.26日 - 創刊80周年(日本工業新聞の紙歴も算入)・『正論』創刊40周年を記念して進める事業の一環として、緊急時の政府による国民の人権制限・天皇明文元首化・国家緊急権・軍隊保持・国防の義務・国旗国歌規定などを盛り込んだ「国民の憲法」要綱を発表。
2017(平成29)年 6月末、フジテレビジョンを傘下に持つフジ・メディア・ホールディングス(HD)の日枝久会長(79)が代表権のない取締役相談役に退く。視聴率低迷に悩むフジテレビの再生を狙ったグループ人事の一環だ。取締役は経営に関する決定権限や執行権限を持つ(会社法第348条第1項)。一方、相談役は会社の経営事項について決定権限がなく、仕事はアドバイス役であるにも拘わらず引退後、院政を敷く。フジ関係者によると、その後も取締役会では中央付近の席に座り続けている。ずっとフジの実質的な最高権力者。社長を指名するのはもちろん、局長級の人事にも影響力を持っているという。フジのオーナーは日枝氏だと言っても過言ではない。  
2019(平成31)年 12.26日、東京・赤坂の高級日本料理屋「古母里」で「イザワオフィスの井澤健社長・バーニングプロダクションの創業者の周防郁雄社長の大忘年会」。二人とも芸能界に大きな影響力を持つことで知られる。6つのテーブルには井澤、周防の他、いわゆる「バーニング系」と呼ばれる4人の芸能事務所社長が居並び、また亀山千広(BSフジ代表取締役社長)、港浩一(当時、共同テレビジョン社長)をはじめ編成担当役員や制作センター制作局長など、後のフジの幹部らの名前が記されている。井澤の隣にはYアナウンサー、周防のテーブルには「(女性アナ)」という記載があり、さらに「アナウンス室メンバー調整中」と記されている。「港社長は女性アナ接待の常習者」(元フジ幹部)。
2022(令和4)年 7月、日枝が、銃撃されて亡くなった安倍元首相の遺体と向き合う。日枝は安倍晋三元首相と親しく、安倍晋三元首相が銃撃され、遺体が自宅に運ばれた際、いち早く駆けつけたのが日枝だった。二人はお互いに河口湖畔に別荘を持つゴルフ仲間で、生前は富士桜カントリー倶楽部を一緒に回ることも多かった」(永田町関係者)。賛否喧しかった安倍氏の“国葬”の司会をしたのもフジのアナウンサーだった。
2023(令和5)年 6月上旬、芸能関係者のX子と中居の間で起きた男女トラブル。修復できない溝として残り、その後も今でも彼女に深い傷を負わせている。
2024(令和6)年 フジテレビを傘下に持つフジ・メディア・ホールディングス(フジHD)の相談役でもある日枝の6月時点でのフジHD株の所有数は23万3千株余り。  
3.23日、9.23日の2回、安倍晋三元首相と一緒にゴルフに興じていたことで知られる日枝が岸田文雄首相(67)と会談。日本テレビ、テレビ朝日、TBSの社長は昨年、1度も首相と会っていない。権力の監視役のメディアの弁えであろう。  
12.19日、渡邉恒雄、「ナベツネ」の通称で知られ、プロ野球界、メディア界で独裁者のようにふるまっていたが逝去(享年98歳)。
2025(令和7)年
1.23日、フジテレビは、芸能界引退を発表した元タレント中居正広(52)の女性トラブルを巡って、同局の社員向け説明会を行った。一部報道によると、社員から日枝久相談役(87)ら経営陣の辞任を求める声も上がった。
1.27日、フジテレビの記者会見が開かれ10時間以上に及んだ。嘉納修治会長(74)と港浩一社長(72)が、中居正広(52)が起こしたトラブルとフジテレビのガバナンス不全の問題で辞任した。
1.27日の会見に出席していた役員5人の番組制作実績は次の通り。
清水賢治 新社長 ・ドラゴンボール  ・ちびまる子ちゃん
遠藤龍之介 副会長 ・鬼平犯科帳(ドラマ)  
港浩一 前社長 ・とんねるずのみなさんのおかげです  ・おニャン子クラブ 夕やけニャンニャン
嘉納修治 前会長 ・南極物語(映画)
金光修 フジ・メディアHD社長 ・料理の鉄人  
 一方で同局とフジ・メディア・ホールディングス(フジHD)の最高権力者と見られている両社の取締役相談役・日枝久(87)は続投する。日枝の経歴は次の通り。1961年(23歳)、フジテレビ入社。その後、社内の労働組を立ち上げ。1980年(42歳)、編成局長。1988年(50歳)、社長就任。2001年(63歳)、会長就任。2017年(79歳)、取締役相談役(現職)。

 フジ・メディアHDは、日枝が代表を務めるフジサンケイグループの中核企業である。 「フジサンケイグループは法人ではなく、グループ会社を株で統治しているわけでもない、会社法には想定されていない組織なのです。そのため、フジの株主でも取締役会でも、はたまた外部の組織であっても、日枝さんを代表から退任させる権利はありません」(川口氏)。フジサンケイグループ代表として君臨し人事を掌握する一方、フジでは代表権のない取締役でしかないから経営責任を問われることはない。これが日枝によるフジ支配の「要諦」なのである。
 2.3日、フジの大株主「ダルトン・インベストメンツ」が日枝の辞任を求める書簡をフジに送付した。
 フジは65年もの歴史がありながら、支配者がたった3人しかいない。水野は鹿内に支配権を奪われ、鹿内家は女婿の鹿内宏明(79)が日枝たちに追い散らされた。
 社内人事だけではなく、番組のキャスティングにも日枝の意向が働いている。
 フジが橋下徹・元大阪府知事を重用するのは、日枝さんの影響です。日枝さんは石原慎太郎元東京都知事と親しかったのですが、その石原さんから橋下さんについて“みどころがあるからよろしく”と言われた。そうしたことがあったので橋下さんを使い続けているのです。(日枝氏を取材したことがあるジャーナリスト)。

 橋下は27日のフジテレビ情報番組「めざまし8」における「僕は(日枝氏は会見に)出ちゃいけないと思います」との発言が波紋を呼んでいた。1月30日発売の「週刊新潮」では、フジテレビの人事などを陰で差配してきた「日枝支配」の全容を報じている。日枝は、人事権を一手に掌握し、自分を脅かす存在になる人間を切り捨て、イエスマンばかりを取り立て、長きにわたって君臨してきた。
森喜朗元首相の孫娘や岸信夫元防衛相の息子(現在は衆院議員)、故・中川昭一元財務相の長女、加藤勝信財務相の娘もフジに入社しているという。フジテレビには長年続いてきた女子アナ「上納文化」がる。フジテレビだけの文化かどうかが問われていない。




(私論.私見)