「毎日新聞社史考」その1、通史

 (最新見直し2010.05.07日)

  (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、毎日新聞の社史の沿革を確認しておく。「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK85」のmatuoka yuuji氏の2010.5.7日付け投稿「偏向的な論説が目に付く毎日新聞の筆頭株主は誰だ。主筆は誰だ。自公から機密工作費を得てるのは誰だ」を参照(目下、部分転載)しておく。


 1870(明治3)年、横浜で創刊された『横浜毎日新聞』とは全くの無関係である。

 1872.2.21日、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎らが、東京浅草の茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から、日報社の 『東京日日新聞』を創刊する。これが東京最初の日刊紙となった。

 1873年、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着する。

 1874年、創刊から2年後、銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。

 1874年、福地源一郎が入社と共に主筆に就任し、社説欄を創設。これより紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。桜痴(福地源一郎)の社説、 吟香の雑報、それに成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。

 1875年、『東京日日新聞』が、新聞の個別配達を実施する。

 18766年、日報社が、『中外物価新報』の印刷発行を三井物産から請け負う。

 1880年頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判が強まる。

 1882年、『日本立憲政党新聞』が大阪で創刊される。(1885年、『大阪日報』と改題。さらに1888年、『大阪毎日新聞』と改題する)

 1888年、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばす。

 1889年、『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『大阪朝日新聞』(現『朝日新聞』)と並ぶ関西の有力紙となった。

 1891年、長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文や井上馨、三井財閥の支援を受ける。

 1904年、三菱財閥により買収され、加藤高明が社長に就任する。が経営不振は打開されず。

 1906年、大阪毎日新聞社が、東京の『電報新聞』を買収。同紙を『毎日電報』に改題して東京進出を果たす。

 1911年、大阪毎日新聞社が日報社を合併。『東京日日新聞』は『大阪毎日新聞』に買収された。(『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の題号はそれぞれ変更せず) 大毎発行の『毎日電報』を『東京日日新聞』に吸収させる。(東京日日は地紋の桜模様や「余録」欄等を継承)

 第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。

 業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(報知・時事・國民・東京朝日・東京日日)の一角に数えられ、関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東京日日の二強体制となる。

 1924年、選抜中等学校野球大会開始。主催。(現:選抜高等学校野球大会)

 1926年12月25日、大正の次の元号を「光文」と誤報。(光文事件)

 1929年、『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。

 1936年、『東京日日新聞』が『時事新報』を合同する。

 1939年、東京・有楽町に新社屋を完成した。当時、東京でも珍しいプラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた。 

 戦前の金解禁論争において、毎日新聞は一貫して金解禁を支持した。これに対して、石橋湛山や高橋亀吉などジャーナリストや財界人の団琢磨や各務鎌吉は金解禁に対しては、慎重であるべき、もしくは新平価での解禁を主張した。これは、もし旧平価で解禁された場合、深刻なデフレ不況に陥り、輸出においても割高になるためである。当時、毎日新聞は社説において、金解禁がなされれば、物価下落によりサラリーマンの購買力が上がり、国民生活が豊かになると主張した。

  太平洋戦争(大東亜戦争)中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った。 

 日中戦争当時の「百人斬り競争」を報道した新聞のひとつは、毎日新聞の前身の「東京日日新聞」である。戦後開かれた南京軍事法廷において、「百人斬り」を行ない「捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争をおこなった」「南京大虐殺の共同正犯」(軍事法廷判決文)と判決を受け二人の元将校が処刑された。その後、「百人斬り競争」報道に関して、2003年4月に元将校の遺族が損害賠償を求める民事訴訟を提起したが、2006年12月22日に最高裁は遺族側の上告を棄却する決定を出し、遺族側の敗訴で訴訟は終結した。

 1943年1月1日、東西で異なっていた題号を『毎日新聞』とする。名実共に全国紙となった。

 1951年、名古屋の中部支社を中部本社に昇格。名古屋での新聞の発行を再開。

 1952年、共同通信社を退会。

 1957年、市民生活を脅かす暴力の実態を暴いた『暴力新地図』、戦後も勢力を確保した特権官僚の支配を描いた『官僚にっぽん』、税制のゆがみや徴税の実態をえぐり出した『税金にっぽん』の東京社会部による3企画が第1回新聞協会賞を受賞。この企画は第5回菊池寛賞も受賞した。

 1959年、 札幌に北海道支社を新設。北海道でも新聞の発行を開始。

 1960年2月から、西部本社が、1929年以来の懸案であり、政令指定都市になることによって石炭、鉄鋼産業の落ち込みによる経済の地盤沈下を克服することが期待されていた九州の小倉市、八幡市、門司市、若松市、戸畑市の合併について、合併の効率と無駄、学者や専門家の意見、住民感情などを詳しく報じた企画『五市は一つだ』の連載を開始。1963年2月10日に5市が合併し、北九州市となった。5市の一体性と合併の必然性を強調した一連のキャンペーンは高く評価され、1962年度の新聞協会賞を受賞する。

 1960年10月12日、浅沼稲次郎暗殺事件が発生し、東京本社写真部の長尾靖記者が、浅沼稲次郎社会党委員長が山口二矢に刺殺される瞬間を撮影した『浅沼委員長刺さる』で新聞協会賞を受賞。この写真は世界的に衝撃を与え、翌年には日本初のピューリッツァー賞を受賞した(受賞写真)。日本人の同賞受賞は3件あるが、日本の報道機関で受賞経験があるのは毎日新聞のみである。

 1961年3月からは、RKB毎日放送と共同のキャンペーン『百万人の都市づくりのために』を展開した。新聞、ラジオ、テレビを駆使し、当時「立体報道」と言われたメディアミックスの手法は注目を集めた。

 全国の学者、研究者への取材によって科学技術の開発や研究者の養成を中心として日本の学界の現状や問題点を示し、513回にわたって長期連載された『学者の森』は1963年度の新聞協会賞を受賞した。

 暴力団が全国各地に進出し、広島や松山で抗争事件が発生する中、2ヶ月間で120〜130の組長にインタビューを敢行し、朝刊1面に14回にわたって連載した暴力追放キャンペーン『組織暴力の実態』で1964年度の新聞協会賞を受賞。これまで暴力団関係の取材は警察当局などを通した間接的なものが中心だった中で、暴力団の組長などへの「体当たり取材」が画期的であると評価された。

 1965年、 西部本社、北九州市門司区から現在の小倉北区の『毎日西部会館』に移転。

 1966年、 東京本社、有楽町から現在の竹橋(パレスサイドビルディング)に移転[2]。

 1967年 6月15日、西部本社セット版地区(福岡県、山口県の一部など)の地方版を2ページにする(地方版ワイド化のはしり)。

 1969年12月12日の朝刊トップで前年に発生した三億円事件の12,301人目の容疑者として捜査線上に浮かんでいた元運転手の存在を単独報道。毎日紙面に載ることを知った警察は容疑者の逃亡を防ぐため、新聞配達前に急遽任意同行を求め、別件で逮捕して取調べを行った。他のマスコミによる後追いも含め、実名や顔写真も入った犯人扱いの報道が行われたが、犯行当時のアリバイが成立したため事件と無関係と判明し、翌日釈放された。報道による人権侵害の最たる例であり、15日付朝刊では「三億円事件の反省」という記事を載せ釈明を行った。容疑者とされたこの人物はこの逮捕で職を失い、「三億円事件の犯人」との周囲の偏見やマスコミ関係者の「あの人は今」的な取材に悩まされノイローゼ状態となり、2008年9月に自殺したことが明らかとなった[17]。

 1971年 3月12日、西部本社で輪転機八台を損傷する火災が発生する。

 1972年、 沖縄返還協定密約をめぐる「外務省機密漏洩事件」(いわゆる「西山事件」)発生。毎日新聞政治部記者の西山太吉が外務省の女性事務官を騙し肉体関係を利用して入手した密約情報が社会党に渡り、国会で政府を追求して大問題となり、2人は逮捕された。密約の内容よりも肉体関係を利用した卑劣な手口などに関心が集まり、報道の自由がどこまで許されるのか物議を醸した。西山と女性事務官は国家公務員法の守秘義務違反で有罪となった。この西山事件により毎日新聞は不買運動に悩まされ、第一次オイルショックの影響も受けて倒産したが、会社更生法の適用を受けて再建された。

 1976年、 「記者の目」欄開始。(その後記者の目(テレビ版)が5社ニュースなどで放送された)

 1977年、 負債を整理する旧社(株式会社毎日)と、通常の業務を行う新社(株式会社毎日新聞社)とに分離する「新旧分離」方式で会社を再建。登記上の本店を大阪から東京に移転。

 1978年9月19日、大阪本社学芸部が、1968年に稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣を、奈良市の元興寺文化財研究所がX線撮影した結果、全文115字からなる金象嵌の銘文が発見したことをスクープ。当時「考古学上、百年に一度の大発見」と評され、この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。1979年度の新聞協会賞受賞。

 1980年3月6日、東京本社社会部が早稲田大学商学部の入試問題漏洩をスクープ。その後、関係者の取材を続け、受験生側から多額の金が渡り、入試問題と模範解答のコピーが流れていた事実を浮き彫りにした。同大学職員ら4人が逮捕され、31日までに不正合格者9人全員を除籍する事態に発展した。「進学過熱がもたらした教育のひずみ、ひいては今日の社会によどんでいる金権的な腐敗体質について深刻な反響を呼び起こす契機ともなった」と評価され、同年度の新聞協会賞を受賞した。

 1981年5月18日、東京本社の「安保と非核取材班」が1~3面の大半を使ってエドウィン・O・ライシャワー元駐日アメリカ大使の核持ち込み発言をスクープ。これは、古森義久記者の電話インタビューに対し「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」と発言したもので、「非核三原則」に基づき日本政府が否定していた中で、元駐日アメリカ大使が認めたことは日本国内で騒動になった。「戦後政治のナゾの部分に光を当てた歴史的スクープ」と評価され、同年度の日本新聞協会賞を受賞した。

 1984年1月24日の夕刊社会面で漫画『日出処の天子』の内容は信仰対象を冒涜しているとして法隆寺が怒り、抗議を検討しているという談話と、作者の山岸凉子・掲載誌である「LaLa」編集部の反論コメントを掲載したが、この三者のコメント全てが実際の取材を行わずに記事を書いた毎日新聞奈良支局記者の創作であり、法隆寺側は問題の漫画を読んですらいなかった。作者による抗議や、事実無根であるとの法隆寺の証言があり、2月4日の夕刊紙上で関係者各位へのおわびが掲載された。

 1985年、 新旧両社が合併し会社再建計画終結。

 1986年1月31日、前年2月27日に脳卒中で倒れて以来詳しい病状がわかっていなかった田中角栄元首相が娘の真紀子に付き添われながら車椅子で移動する姿を空撮し、一面および社会面に掲載。3日後には地上から撮影した写真も掲載し、元首相の深刻な病状を国民に伝えた。このスクープは「上空、地上の双方からキャッチした“ありのままの元首相の姿”が各界に与えた衝撃は極めて大きかった」と評価され、同年度の日本新聞協会賞を受賞した。

 1987年8月30日、 東京本社・北海道支社発行版の紙齢が4万号。

 1989年6月1日、夕刊紙上で「グリコ事件で取り調べ 江崎社長の知人ら4人」と、一面から社会面までブチ抜きで当時社会現象にまでなっていたグリコ・森永事件の犯人逮捕をスクープしたが、記事の全てが誤報であったことが判明、岩見隆夫編集局長が辞任し、6月10日に「行き過ぎ紙面を自戒」と紙上に掲載する事態になった。

 1991年11月5日、 題字を現在使用しているコバルトブルーに白抜きで『毎日新聞』と明朝体で書かれた物に変更。題字上部のCIマークは“毎日の目”をイメージする。

 1992年、 大阪本社、堂島から現在の西梅田に移転。

 1998年2月4日、東京中野で「ナヌムの家」に関する試写会が行われた際に現場にいた慰安婦に対して「好きでやったんだろう」「売春婦!」と会場から「とげとげしい野次」が飛んだが、会場にいた元慰安婦の女性がすくっと立ち上がって、身の上話をしたところ会場は静まり返えり、それを見た友人が「感動的」だったと教えてくれたと佐藤由紀記者が伝え、映画を紹介した[18]。しかし実際には現場でそのような野次はなく、事実無根の内容であった。翌月に毎日新聞は「先月行われた試写会でとげとげしい やじがあったとあるのは、一昨年の別の試写会での出来事でした。(中略)また元従軍慰安婦の女性が身の上を語ったとあるのは、 映画の中のことでした。」と訂正し謝罪[19]。ところがこの訂正記事もおかしく、映画の中に「身の上話」など出てこないことが指摘され、虚報に虚報を重ねるという報道機関としての体質を批判された[20]。

 1999年には、アメリカの外交文書の中から「1963年にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録が発見され、この発言を裏付けることになった。

 2000年11月5日の朝刊で報じられ、日本の考古学界最大のスキャンダルとされる、考古学会のゴッドハンドと言われた藤村新一によって引き起こされた旧石器捏造事件についてのスクープは、教科書にも記載のある日本最古の遺跡、上高森遺跡が存在しなかった可能性を示唆し、教科書の書き換えという事態に発展するなど日本の考古学に重大な影響を与えた。2001年度の新聞協会賞、菊池寛賞、早稲田ジャーナリズム大賞受賞。

 2002年、 創刊130周年を迎える。

 2002年7月8日発行の夕刊1面トップで、「『キレやすい』『集中できない』『つきあい苦手』ゲーム脳ご注意」との見出しで「ゲーム脳」を取り上げた。この「ゲーム脳」理論はやがて他の科学者らから、科学的な妥当性に疑問が持たれることとなる(いわゆる「ニセ科学」)。その後の毎日新聞による関連報道に、「ゲーム脳」完全否定ではないが、2007年の連載「科学と非科学」の中で脳ブームを否定的に取り上げた記事[21]、2008年の連載「子どもとゲーム」の中の「ゲーム脳」に懐疑的な記事[22]がある。

 2003年、 中部本社が名古屋駅前のビル建て替え(トヨタ自動車と共同)のため、名古屋市中区正木の日本経済新聞名古屋支社の旧社屋ビルに仮移転[3]。

 2003年5月1日、人間の盾としてイラクに入国していた毎日新聞写真部記者の五味宏基(編集局付)が取材活動の記念にと持ち出したクラスター爆弾のM77子弾の不発弾がヨルダンのクィーンアリア国際空港で爆発し、1人が死亡、5人が負傷する事件が起きた。6月1日、国家治安法廷にて毎日新聞記者は過失致死・過失致傷の罪で1年6月の禁固刑の有罪判決を受けたが、ヨルダン国王アブドゥッラー2世の特赦によって6月17日に釈放され、表向きは帰国の後、懲戒解雇されたとされているが、実際には関連広告会社に再雇用されている[要出典]。

 2004年1月31日には、系列ホテル「国際観光ホテルナゴヤキャッスル」のコーヒー豆納入を巡り、当時の毎日新聞社長が自宅付近で拉致される毎日新聞社長監禁事件が発生した。毎日新聞社はこの事実を一ヶ月間隠蔽し、警視庁が犯人の起訴を発表する僅か10分前になってから事件を発表した。この一連の隠蔽行動に、日頃、企業に対して厳しく説明責任を追及してきたはずのマスコミ自身が、企業としての説明責任を果たしていないのではないか、との指摘がなされた[誰?]。

 2005年6月17日、長崎市への原子爆弾投下の翌月に外国人記者として初めて現地入りしたシカゴ・デーリー・ニューズ紙のジョージ・ウェラー記者の未公表の原稿を60年ぶりに発見しスクープ。掲載後、英米の主要紙などの多くが転電する形で掲載するなど、海外でも大きな反響を呼んだ。2005年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。

 2005年12月28日、JR羽越線で竜巻によっておこった車両転覆事故に対し社説内で「風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ」「運転士が自然現象を予知すれば事故を回避できたはずだ」などと述べ、電車の運転士に超能力を求めた。後の2006年2月7日には読者からの批判を受け止め、検証記事を掲載した。検証記事では「開かれた新聞」委員会委員のコメントが寄せられ、一連の社説は責任追及を優先する論説委員の個人的感情であり、「現実とかけ離れた精神論」でしかないことを認めた。また、非科学的な論拠しかないために説得力を持たず、「安全対策にほとんど役に立たない」とした。

 2006年、 中部本社が名古屋駅前のビル「ミッドランドスクエア」完成に伴い再移転。 

 2006年6月、大阪府箕面市で48年間に渡って営業してきた毎日新聞販売店の経営者が、長いあいだ新聞販売店の購読者数をはるかに上回る新聞買い取りを強制され、配達されないまま古紙業者に回収される「押し紙」で食い物にされ詐欺被害を受けたとし、毎日新聞社に対して6,280万2,913円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に申し立てる内部告発事件が発生した[23]。しかし、紙面では訴えられた事実について全く報道しなかった。

 2006年8月、奈良県で妊婦が出産中に意識不明になり、他の19の病院に受け入れを断られた末に大阪の病院まで運ばれ、出産後に脳内出血により死亡するという事件が起きた。これに対し毎日新聞は10月に記事として発表し、検証キャンペーンを行った。この結果日本の母子救急搬送システムの不備が広く問われることになった。一方で、この内容について、医療従事者から、報道内容が事実に反し、科学的でないと指摘がなされたが、毎日新聞の公式見解としてはこれまでのところ「訂正すべき記載はない」として見解が対立している。第11回新聞労連ジャーナリスト大賞特別賞、第14回坂田記念ジャーナリズム賞受賞。

 2006年9月、佐賀県知事の公式記者会見において佐賀支局の記者が「今回の行事に天皇と皇后が佐賀に来ることの意味って何ですか」「非常にお金も人もかかりそうなんですけれども、この2人が佐賀に来るということで、そこまでする価値があるんですかね」といった質問を行う。この様子が県の公式ホームページで公開されたため、毎日新聞社に抗議が殺到し、翌年の年頭に毎日新聞は釈明記事を掲載した[24]。

 この事件に関して毎日新聞は2006年10月22日「支局長からの手紙」において「何度足を運んでもミスや責任を認めるコメントは取れませんでした」と、医療訴訟などが何も起こされていない段階で医療ミスであったと主張している。しかし2008年12月18日「記者の目」(東京社会部・清水健二)において「誰かに強引に責任を押しつけるような報道は慎むべきだが、報道がなければ関係者は危機感を共有できず、再発防止策も立てられない」と社としての意見を翻すとともに、自らは口を挟むのみで、「関係者」が問題対策に関わるべきであるとしている[15]。大淀町と遺族の裁判は結審しており、裁判所は新聞で報道されたような事実は全くないうえ、医療ミスはないと認定している。

 2007年4月17日に発生した長崎市長射殺事件において、長崎支局の長澤潤一郎記者が、伊藤一長長崎市長が山口組系暴力団幹部の男に銃撃され倒れた直後の姿を撮影し、翌4月18日付の朝刊に1面で掲載した。この写真は同年度の新聞協会賞を受賞した。

 2007年2月、元毎日新聞社員の吉原勇によって大阪本社売却の際に行われた地価吊上げの詳細を記した暴露本が「特命転勤―毎日新聞を救え!」というタイトルで出版された。この本によれば、毎日新聞は経営状態が悪化していた財務状況を改善するため、大阪本社跡地を売却を行った[25]。この際、土地の値段が市価の数倍の値段に吊り上げられ、1980年代末の大阪の土地バブルのきっかけとなった[26]。

 2007年12月3日、厚生労働省が2006年から石綿による労災があった事業所名を非公表とする政策をとっていた中で、石綿被害患者支援団体と信頼関係を結ぶことにより、約3500人分の石綿被害者の資料を入手、これを元に独自に取材、分析を行い、全国各地の様々な業種にわたる520以上の事業所に石綿被害の労災が及んでいたことをスクープ。このスクープにより、厚生労働省は方針転換を余儀なくされ、2年7か月ぶりに石綿労災があった事業所名を公表するという事態に発展した。「石綿健康被害救済法の不備により救済対象とならない患者の実情を伝えるその後の特報など、10年以上にわたる地道な取材の成果は、法改正を促し、救済拡大の道を開く価値ある報道」として評価され、2008年度新聞協会賞受賞[14]。 

 2007年12月10日、 この日から従来より大きな書体「J字」を採用。他紙の書体の大型化のきっかけを作った。

 2008年3月3日の「酸いも辛いも」で、特別顧問の玉置和宏が、「大阪人の暴挙と快挙」とのタイトルで、京都にある国立国会図書館関西館の場所を大阪だと間違って記述する。「大阪人は東京マスコミからすると扱い難い部類に属し、彼らはとにかく東京と同じでなければ気がすまない。」、「大阪に国会がないのに国会図書館が存在するのは、東京にあるのに大阪にないからだろう。」と、事実誤認から大阪人批判に繋げるが、6日に訂正し、お詫びを掲載する。

 2008年5月26日の朝刊一面トップで、「1994年6月時点で、横田めぐみが生存していた」とする地村富貴恵の証言を報じた[27]。これに対し、内閣官房長官町村信孝は26日午前の記者会見で、地村富貴恵本人にも確認したとしたうえで、報道された内容を否定した[28]。同日、地村富貴恵は報道の内容を否定するコメントを出した[29]。

 2008年5月27日の夕刊一面トップで、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)がアメリカ合衆国に対して、拉致被害者のうち数人がなお国内に存在することを明らかにして日本に帰国させる準備があることを意思表示した、と報じた[30]。これに対し、内閣官房長官町村信孝は27日の記者会見で、アメリカ政府からは日本政府に対してそのような内容の通知は存在しないとし、報道内容を否定した[31]。
2008年5月下旬、毎日新聞社の英語報道サイトMainichi Daily News(「毎日デイリーニューズ」)のコラム「WaiWai」において長期にわたり不正確・猥雑な記事が配信されているとして、日本語のインターネット・コミュニティ(掲示板など)で批判が高まり、問題が表面化。同コラムの閉鎖、担当記者の処分や上司らの社長などへの昇進、Webサイトの編集体制の刷新などに発展した。

 2008年8月30日、 売上の落ち込みから、北海道支社管内の夕刊を廃止[4]。

 2008年11月17日、18日の夕方に起きた元厚生事務次官宅連続襲撃事件の報道を受け、11月18日21時半前後にウィキペディア日本語版の社会保険庁長官の項目が編集された。その後、ウィキペディア日本語版において初期設定では編集履歴の時刻が協定世界時 (UTC) で表示されることを知らない毎日新聞の記者が、この編集を9時間前の11月18日正午すぎの編集と誤認、吉原健二宅襲撃事件の6時間前に行われた犯行予告と考え、捜査本部に通報した上、2008年11月19日朝刊において「犯行を示唆する書き込みがあったことが分かった」と報じた[32][33][34][35]。テレビ局もこの記事に釣られ、真偽を確認しないままニュース番組などで放映した[36]毎日新聞は11月19日の夕刊及びウェブ上で誤報であると認めて謝罪した[37][38][39]。20日の朝刊においても改めて謝罪記事を掲載した。1つの記事に対して複数の謝罪記事が出されることは異例であった[40]。しかし、毎日新聞の記者の誤解が原因としながらも、書き込みを行った人物を「犯行示唆と受け取れる書き込みを示唆したとする人物」と表現し、誤解の元となった書き込みを行った人物に対して責任転嫁を行っている[41][42]。この誤報の影響で、ウィキペディア日本語版を編集した誤報の被害者は仕事を休んで警察に出頭することになり、毎日新聞に対して謝罪と補償を求めた。毎日新聞社は面会に応じ口頭で謝罪を行った。面会中に毎日新聞社の担当者が「毎日新聞は正義」と恫喝したり、紙面での謝罪や補償は拒否し「誤報がなくても取り調べの可能性はあった」などと主張したということを11月29日に誤報被害者が証言した。しかし、毎日新聞社社長室の広報担当者は12月1日「毎日新聞は正義」という発言は無かったとした。毎日新聞の報道加害者としての自覚のなさ、人権意識の欠如が批判を浴び、毎日新聞の一般常識がJ-CAST等で問題視された[43][44][45][46]。


 2009年1月9日夕刊で報じた、あるシャッターメーカーに対する条例違反を報じた記事に対して、当該メーカーの持ち株会社から「事実と異なる」との抗議をうけ、当日中に、同社ニュースサイト上の当該記事を削除していたことが明らかになった。これに対して、毎日は「「誤報」とは考えておらず、抗議による調査のため」とコメントをしている[47]。

 2009年3月、フィリピンから偽造パスポートを使用して不法に入国及び滞在をしているカルデロン一家の件について、偽造パスポートや不法滞在という事実をあたかも軽い失敗のように扱い、「善良である」と報道した。この件について、電子掲示板のユーザーやネットメディアなどから批判の声が上がった[48]。

 2009年4月28日、ライブドアが運営しているポータルサイトのニュース欄トピックス上に掲載される毎日新聞への批判記事について、毎日新聞側がこれまで複数回にわたり、ライブドアに対してトピックスへの掲載を中止するよう圧力をかけてきたことが、PJニュースの取材で明らかになった。毎日新聞の英語メディア毎日デイリーニューズが不正確で猥雑な記事を10年に渡って海外に配信し続けてきた毎日デイリーニューズWaiWai問題についてライブドアニュースが配信したところ、「毎日新聞担当者は、何も知らないPJニュースの市民記者の記事をなぜトピックスに載せるんだ」との抗議を毎日新聞社側から受けたという。ライブドア元社員によれば「うちはライブドア事件直後でも記事配信を継続してやったではないか」と圧力を掛けたとのこと。その態度は、「大事件を起こした問題企業にも記事を売ってやったという態度がひしひしと伝わってきた」「いつでも配信契約をやめてしまってもいいんだぞ」など、非常に傲慢な態度であったという。記事を作成したPJニュースは、これを言論弾圧であると強く批判している[49]。ただ、このニュースでPJニュースが毎日新聞社に取材した内容が一切書かれていないため、毎日新聞が上記のような圧力をかけたり、発言をしたのが事実かどうかははっきりしていない。

 2009年5月27日、小倉北区のリーガロイヤルホテル小倉で開かれた第6回毎日・北九州フォーラムにて、毎日新聞特別編集委員である岸井成格氏は「日本は北朝鮮と戦後処理をしていない。国交正常化して平和条約を結ぶと、(賠償金として)経済協力の形で、韓国に出しただけは払わなければならない。現在の額では1兆円」と述べ、日韓基本条約に反する見解を出すとともに、毎日jpに記事を掲載した。

 2009年6月13日の毎日新聞朝刊で、毎日新聞編集局顧問の岩見隆夫が同紙に連載しているコラム「近聞遠見」の5月30日掲載分に事実誤認があったとして「おわび」を掲載した。問題となったのは、5月27日の党首討論で麻生太郎首相が「(小沢一郎氏と)『一心同体、殉じる時は殉じる』と言っていた方が代表になっている」と鳩山由紀夫民主党代表に発言したことを取り上げ、「鳩山代表がそんな言葉を使ったという記憶がない。麻生首相の思い込みではないのか」と述べ、首相の「言語感覚」を批判した内容である。しかし、読者の指摘により調査した結果、鳩山幹事長(当時)が3月29日、フジテレビ系「新報道2001」に出演した際、「(小沢一郎代表に)殉じる時は殉じますよ」と発言していたことが確認された[50]。毎日新聞は後に誤りを認め、「おわび」を掲載した。

 2009年8月24日、「メディア政策:新政権に望む」と題する記事において、インターネットの普及に伴う読者離れから経営の悪化する新聞業界への公的支援(税制上の優遇と年間500億円の販売助成)を求める識者コメントを掲載した。社会の公器として新聞の果たす役割は重要ではあるものの、幾分手前勝手にも感じられる記事内容は失笑を買う事となった[誰?]。

 2010年1月5日小沢一郎の土地購入費虚偽記載問題に関して「土地購入費虚偽記載、石川議員「私の一存」来週にも在宅起訴」と報じたが実際には強制捜査が行われ逮捕となった。[3]

 2010年4月9日、毎日新聞社政治部長小菅洋人は、政権によって紙面の論調を変えようとしていたことを明らかにした。「(民主党)政権は迷走するかもしれないが、混乱、混乱と書くのはよそう。生みの苦しみもあるはずだ」との指示を部下に出し、さらに「自民党政権時にはこんなことは言ったことがない」とあかした[51]。

 2010年4月1日、 共同通信社に再入会予定。同時に同日に共同通信社加盟の地方紙と記事配信などで包括提携する予定。


マスコミによる共認支配の怖さ
155383 毎日新聞社の歴史  75年に倒産し会社更生法適用を受けた大新聞社
 
星埜洋 ( 47 東京 企画 ) 07/06/27 PM00 【印刷用へ
毎日新聞は、朝日、読売と並ぶ3大新聞と言われ、そのルーツは1872年に浅草で創刊された「東京日日新聞」である。その後曲折を経て「大阪毎日新聞」と併行して発刊されるが、1943年に、東西で異なっていた題号を『毎日新聞』とし、発展していく。毎日新聞社略史は以下リンク(ウィキペディア)リンク

紙面・論調としては、右左の統一性がなく、意見が変わると言われている。ウィキペディアの引用によれば、
「右派から左派的と言われる事があるが、保守的な論調が顔を覗かせる時もある。これは、昔から社内に派閥があり、様々な考えを持った記者を抱えていることが影響していると言われている。また、無理に論調を統一しようという雰囲気に乏しいことは、多様な見解を掲載できるという意味でプラスに働いているともいえよう。
そのマイナスの側面としては、政府の方針、政策に対して、批判するわけでも賛同するわけでもなく、玉虫色に論評するだけの記事も少なくない。社説などは、92年の湾岸戦争時に自衛隊の海外派遣を強く批判し、憲法改正にも反対してきたが、この10年で大きく方針を転換。現在は「論憲」を掲げて自衛隊の海外派遣に賛成することもある。
上記の通り、紙面論調が一致しない故に右派左派問わず情報提供者からの所謂「特ダネ」を紙面に載せることが多く「スクープの毎日」として知られている。」
ということのようです。

毎日新聞社は実は、「西山事件」をきっかけに、新聞の草の根不買運動が起こり、1975年に経営危機に陥いり、会社更生法の適用を受けた経緯がある。
これは、沖縄返還協定の密約の機密情報を毎日新聞の西山記者が、外務省の女性事務官との不倫関係を利用して入手し、それが国会で社会党の横路孝弘議員・楢崎弥之助議員によって外務省極秘電信として暴露された事件である。

この件では、結果的に密約の内容より、機密漏洩ルートが問題となり、西山記者が不倫関係を利用して情報を入手したことが明らかになった。「国民の知る権利」を標榜しキャンペーンを張っていた毎日新聞に批判が集中し、新聞の不買運動にまで発展した挙句に、経営不振に陥り、会社更生法の適用に到った。

1978年には、最高裁の上告棄却により西山記者の有罪が確定したが、最高裁は、『報道機関が取材目的で公務員に対し国家機密を聞き出す行為が、正当業務行為と言えるかに付き「それが真に報道の目的から出たものであり、その手段や方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、正当な業務行為というべきであるが、その方法が刑罰法令に触れる行為や、取材対象者の個人としての人格の尊厳を著しく蹂躙する等、法秩序全体の精神に照らし社会観念上是認することのできない態様のものである場合には、正当な取材活動の範囲を逸脱し違法性を帯びる。」』とし、取材の自由が無制限なものではないことを示した。

ちなみに、経営不振により、聖教新聞の印刷請負をしたことから、以後、創価学会の影響力から逃れられない構造になっていると言われている。

西山事件は、取材で知り得た情報を西山氏が取材目的外に安易に流出させたために起きた事件であったが、毎日新聞は2007年2月に糸川正晃議員に対する取材でも同様の事件を起こしている。

 毎日新聞は経営難から1977年に東京放送(TBS)の株式を手放し、TBSは新聞社系の安定株主がいない放送局となってしまった。西山事件はTBSが楽天の買収攻勢を受ける遠因になったとも言われている。

いずれにせよ、毎日新聞は「報道の自由」が無制限ではないことを、自らの墓穴によって、世に知らしめ、マスコミ界に激震を走らせた新聞社である。

毎日新聞が、大衆の不買運動で追い詰められたという事実は、現在の体たらくなマスコミに社会から退場してもらう上で、大変参考になるのではないだろうか?

毎日新聞社ホームページ
リンク
 
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(私論.私見)

毎日新聞を発行している会社は、1977年に会社分割して改組し、新聞の発行権は新しくできた会社に移管されています。これは、実際にはそれまでの会社が倒産して、会社更生法を適用されたようなものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E...

つまり、それまでの借金は債権者の同意のもとに旧会社のものとして、新聞を発行する会社は、その借金苦から自由な状態にして再出発したということですね。
もっとも上記、Wikiの記事によりますと、旧会社も借金は完済したようですが(放棄された債権とかもあるのでしょう。わたしもそこまでは知りませんけど)。

また、2008年9月期の中間決算では経常利益で赤字となっており、多分前期の通期決算も赤字になっていると思われます。
(ただし、2008年3月決算は一応黒字だったらしい)。

まあ、会社というのは、決算が赤字になっても、銀行がお金を貸してくれてる間は倒産しませんから。同社は資本金も多いようですし。経営状態がよくないのは事実でしょう。
たとえば、毎日新聞に載っている広告の量を、読売新聞や朝日新聞のそれと比較してみれば、そういうことも納得できるのではないかと思います。朝刊の建頁を例にとっても、読売、朝日は最大40頁あるのに、毎日は最大28頁です。新聞の頁数というのは、広告が集まると増えるものなんですよ(広告面の比率が第三種郵便物の認可条件のひとつとなっているという事情のため)。発行部数が少ないことと合わせれば、同社の台所事情が如実に窺えます。

なお、新聞社は株式会社ではあっても、非上場企業なので上場企業のようには決算発表はされませんが、「新聞之新聞」という新聞業界の業界紙がありまして、これには主要新聞社の決算について記事が載っていたはずです。決算を公開していないというわけでもありません。

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2010-01-23

日本新聞業界の現状は? その3 経営状態の悪化に対応する新聞社Add Star

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日本の新聞業界の現状について。

他国と比べて発達した戸別配達制度、広告費に依存せず販売費に依存するビジネスモデルのおかげで、新聞産業にはアメリカほどの危機は訪れてはいないです。

しかし、社会の変化やインターネットの普及は着実に経営へ悪影響を及ぼしており、それに対する対応策として、従業員の削減、夕刊の廃止、販売網の合理化、そしてオンライン新聞の創刊などがなされています。

以下、そういう内容。


第3項 経営危機への対応


以上、述べてきたような背景から、日本の新聞社も経営の危機が顕現し始めてきている。危機への対応としてはアメリカと同様、人員削減や取材網の縮小のほか、日本の新聞産業を支える戸配制度網、販売店の合理化、印刷の委託、また、夕刊の廃止などが挙げられる。


経営基盤の弱い地方紙の廃刊、休刊


地方紙を巡る状況は厳しくなってきている。経営基盤の弱い地方紙のなかには、廃刊や休刊を選ぶ新聞も少なくない。ここ数年で起きたこうした出来事を表 4にまとめた。

表 4 廃刊または休刊した新聞紙名と時期

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(出典:オンライン上の新聞記事を参考に筆者作成)


大手紙決算に赤字

次に、大手紙が苦境に陥っている状況に触れる。

朝日新聞社が発表した2008年9月中間連結決算によると、純損益が103億円の赤字になり、中間決算の公表を始めた2000年以来、初めて純損失と営業損失を計上した*1

ほぼ同時期に毎日新聞社産経新聞社も営業利益の赤字を計上している*2

日経新聞社も2009年1月〜6月期連結決算で営業損益が8億5,000万円となり、赤字となった*3

どの社も、メディア業界の広告不況のあおりをうけ、広告収入の大幅な落ち込みが影響している。こうした状況のなかで、経営の危機に対して新聞社はどのように対応しているのだろうか。


従業員数、記者数は微減が続く

産業全体の従業員数については、日本新聞協会経営業務部が毎年4月に調べた資料*4 によると、2009年に新聞と通信社の従業員総数は4万9,075人で、資料がある1999年の6万189人から減少傾向が続く。

この減少傾向について、『総合ジャーナリズム研究』のレポートでは、「1. 新聞・通信社の分社化(特に印刷、発想部門の子会社化、分社化)が進むことで、新聞社本体の従業員が減少、2. 経費削減を意図した早期退職制度の活用や、新規採用の抑制など、従業員総数の削減傾向が続いていること、3. 契約社員やパート・アルバイトなど不定期雇用枠の拡大*5 」などの要因を挙げている。

また、記者数についても同協会の同様の調査*6 によると、2009年は2万1,103人となり、こちらも資料がある1999年からの傾向を見ると、ピークの2003年の2万1,311人から2007年の1万9,124人まで減少傾向が続いたあとに2008年に2万1,093人と約10%増加し、そのまま横ばいで2009年の数字で維持している。

経営にかげりが見えているなか、記者数が増加したことは興味深い。

しかし、産経新聞では収益力の向上と経営基盤強化を図って2009年1月に希望退職者を約100名程度募り*7 、また役員報酬を減額する*8 など、大手紙の一部でも人員削減に踏み切る新聞が出てきている。

こうした経営への懸念は、様々なコストダウン策を不可避のものとしている。


夕刊の廃止の流れ

夕刊の廃止は、夕刊を読む習慣がなくなってきたことを背景に、ここ数年でいろいろな新聞の間で行われてきた。

特に産経は、夕刊を廃止し、ワンコイン価格で求められる新しい朝刊を発行することで、夕刊にかかる印刷、用紙代、輸送費を削減し、新朝刊部数を伸ばすことで夕刊廃止の減収分を補うことに成功した*9

表 6 夕刊を廃止した新聞紙名と時期

f:id:yuichi0613:20100123214259j:image

(出典:『総合ジャーナリズム研究』No.206、オンライン上の新聞記事を参考に筆者作成)


戸配率が90%を超える日本の新聞配達網は、日本の世界一の発行部数を支える制度である一方で、多大なコストをかけた制度である。そのため、販売網の合理化は多くの新聞社にとっての課題だ。

2007年10月の朝日、読売日経各新聞の提携も、新聞のネット事業『あらたにす』での協力に加えて、販売事業での連携、具体的には、過疎地や販売部数の少ない地域において、朝日と読売の販売所が配達を分担すること、また、大地震やシステム障害などの不測の事態が起きたときに「紙面製作や印刷の代行、輸送支援をする相互協力*10 」といった内容で協定を結んでいる。

こうした、戸別配達網の合理化のための協力関係という側面がある。

印刷の委託なども一部では行われている。

読売新聞は2010年秋から、上越中越地方向けの印刷を新潟日報に委託し、同時に新聞の共同輸送に向けても協議している*11

印刷を委託することで、コストダウンが見込めるという思惑がある。

その他、茨城新聞社や十勝毎日新聞社にも地方紙の印刷委託を行っている。

産経新聞も、九州での印刷を現地の毎日新聞社の工場に委託し、九州に関しては西日本新聞社に委託している配達も、地域を山口県まで広めている*12

支局の規模縮小は記者数の削減によるリストラも意味する。その意味で、毎日新聞社が11月に発表した2010年4月予定の共同通信社との提携は、提携の柱として、「(1)各県を拠点とする共同加盟社の一部から地方版記事配信の協力を受ける*13 」を上げており、毎日新聞の地方ニュースを他の地方紙から提供してもらう狙いがあると見え、将来の地方拠点の削減を見据えた共同通信加盟ではないかと見る向きもある*14

朝日新聞紀伊民報と業務提携を結び、2010年4月1日から記事の配信を受けることを決定したが、一方で、田辺市にある朝日新聞紀南支局は休止をする。これは毎日の例と同様、支局の縮小によるコストダウンの狙いがある 。

他にも神戸新聞社にように、グループ会社であるデイリースポーツ社合併し、業務共有などによる効率化と経営体質の改善を目指すところもある*15西日本新聞社は、山口県内での西日本新聞西日本スポーツの発行を2009年3月で休止し 、また、7月には沖縄那覇支局を閉鎖している*16((「西日本新聞那覇支局閉鎖へ」『MSN産経ニュース』、http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090713/biz0907131351002-n1.htm)) 。

また同年12月には、佐賀県において競合する佐賀新聞社に、2010年4月から1年間に輪転機の貸与を受けることを決めた*17

新聞紙の売価を変更するところもある。

下野新聞が2006年6月に2,803円から2,950円に上げ、山形新聞は購読料を2008年7月1日から値上げし、1か月3,007円から3,300円に変更した。

値上げの理由を、「製紙メーカーが用紙代を値上げしたことや、原油高で印刷コストが高騰したこと*18 」とJ-CASTニュースは解説している。

大手紙のなかでは、日経新聞が2010年の1月1日からコンビニや駅売り店などの店頭売り売価を朝刊140円から160円、夕刊50円から70円にそれぞれ20円ずつ値上げした*19

購読料は値上げせずに据え置いている。


日本でも「北日本新聞」がオンラインで有料課金

アメリカでもマードック氏を筆頭に議論がなされているオンラインの有料課金だが、日本の新聞にも始める新聞が現れた。

北日本新聞は、オンライン新聞『webun』を2010年1月1日から創刊し、2月から記事の閲覧を朝刊購読者か、県外や海外など配達区域外の読者へは月2,100円の購読料を払ってオンライン上で登録した会員に限る。

会員機能として、電子スクラップ機能を用意し、保存したいと思った記事を集積できる個人ページも作る。

サイトは「ニュース」、「スポーツ」、「くらし情報」のカテゴリで構成される。

また、会員制移行後も全国ニュースや外電、そして一部の生活情報は会員でなくても無料で読める。

また、非常時のニュースは、アクセス可能にしている。

f:id:yuichi0613:20100123214613j:image

図 16 北日本新聞が2010年1月から始めたオンライン新聞『webun』のトップページ

(出典:北日本新聞サイトより )


(※追記予定1.25 日経新聞は、2010年4月から電子新聞を創刊予定*20

日本経済新聞は今春、「日本経済新聞電子版」を創刊します。日経本紙の記事はもちろん、紙にない情報、機能も満載した全く新しい媒体です。最新ニュースや解説が24時間、パソコンでも携帯電話でも読めます。日経グループよりすぐりの記事や海外有力紙のコラムも提供。検索、保存なども簡単にでき、知りたい情報にいつでもどこでもアクセスできます。朝刊、夕刊に次ぐ「Web刊」の誕生です。


※これまでの記事

アメリカ新聞業界の危機

その1 発行部数、広告費の推移

その2 経営危機への対応

その3 サイト無料化と有料化―『NYTimes』とマードック氏

その4 「ジャーナリズムの未来」は「新聞の未来」なのか?

その5 新しいジャーナリズムの出現


日本新聞業界の現状は?

その1 発行部数と広告費の推移

その2 社会の変化、新聞離れ

その3 経営悪化に対応する新聞社

その4 新しいメディア主体の不在

*1テレビ朝日株を売却し、投資有価証券評価損が44億円計上されたため、多額の純損失になっている。「朝日新聞が初の赤字転落 部数、広告減で9月中間」『47news』、http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112101000896.html

*2:「毎日・産経が半期赤字転落 『新聞の危機』いよいよ表面化」『J-CASTニュース』、http://www.j-cast.com/2008/12/26033024.html

*3:「日経新聞赤字転落」『ITmedia』、http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0909/02/news017.html

*4日本新聞協会「新聞・通信社従業員総数」、http://www.pressnet.or.jp/data/05koyososu.htm

*5:「『新聞』のいま、生業の現実2008」『総合ジャーナリズム研究』No.206、08秋号、p.9。

*6日本新聞協会「新聞・通信社従業員数と記者数の推移」、http://www.pressnet.or.jp/data/05koyokisha.htm

*7IR情報、http://sankei.jp/pdf/ir20090119b.pdf

*8IR情報より。役員報酬月額の減額割合は、代表取締役:50%、専務取締役:30%、常務取締役:20%、取 締 役:15%。期間は平成21 年1 月から平成21 年6 月までの6 カ月間。 http://sankei.jp/pdf/ir20090119a.pdf

*9河内、前掲、pp.154-162。

*10:「朝日・読売日経が提携」『朝日新聞』朝刊p.1。

*11:「読売新聞新潟日報へ印刷委託 来年秋から」『山陽新聞WEBNEWS』、http://svr.sanyo.oni.co.jp/news_k/news/d/2009071501000891/

*12:「産経新聞 九州で現地印刷 山口に配達拡大、紙面充実 毎日に委託」『MSN産経ニュース』、http://sankei.jp.msn.com/economy/business/081211/biz0812111504008-n1.htm

*13:「毎日新聞共同通信・加盟社と包括提携」『毎日.jp』、http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/11/26/20091127k0000m040047000c.html

*14:「毎日新聞共同通信加盟」に動く これでリストラ進むのか」『J-CASTニュース』、http://www.j-cast.com/2009/11/20054461.html

*15:「神戸新聞社デイリースポーツ社合併へ 」『神戸新聞NEWS』、http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002471988.shtml

*16:「山口県内での発行休止へ 西日本新聞社」『MSN産経ニュース』、http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090310/trd0903101018005-n1.htm

*17:「西日本新聞佐賀新聞が輪転機貸借で基本合意」『MSN産経ニュース』、http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091210/biz0912101805028-n1.htm

*18:「山形新聞14年半ぶり値上げ 大手新聞は追随するのか」『J-CASTニュース』、http://www.j-cast.com/2009/12/15056189.html

*19日本経済新聞社からのお知らせ、http://www.nikkei.co.jp/topic/091215.html

*20:「Web刊誕生! 日本経済新聞 電子版 創刊へ」『NIKKEI NET』、http://www.nikkei.co.jp/topic/ds/

1 :☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★:2007/05/11(金) 20:16:54 ID:???0
★<毎日新聞社>新潮社に抗議 週刊新潮記事で

・毎日新聞社は11日、新潮社に対し、抗議文を送付した。

 同社は今月9日発売の週刊新潮で「『労組機関紙』も悲鳴を上げた毎日新聞
 『経営危機』」の見出しで記事を掲載した。毎日新聞社は94年度以降12年連続で
 経常利益を計上している。同記事は誤解を読者に与えると判断し、週刊新潮編集部
 あてに抗議文を送った。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070511-00000088-mai-soci