山田孝男「風知草」の「『政治とカネ』は空疎か」論調考

 (最新見直し2010.12.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、毎日新聞論説委員・山田孝男「風知草」の「『政治とカネ』は空疎か」を批判しておく。

 2010.12.06日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評865 れんだいこ 2010/12/06
 【毎日新聞論説質の落ち目の三度笠考】

 2010.12.6日付け毎日新聞の山田孝男「風知草」の「『政治とカネ』は空疎か」が落ち目の毎日新聞社に似合いの「政治とカネ論」をぶっているので、これを批判しておく。毎日新聞のみならず現下のマスコミ人の見識の相当の劣化を垣間見ることになろう。

 山田「風知草」は云う。この間の「執拗な小沢パッシング」について、「小沢は陰険な金権政治家と見なされている。不当だろうか。私はそうは思わない」、「小沢については当コラムで何度も書いてきたが、金脈を問うこと自体が誤りであるかのような最近の、一部の狂った論調に反論しておかなければならない」。

 これは堂々の居直りである。暫く耳を傾けることにする。

 山田「風知草」は、「推定無罪で報じるべきメディアは、検察が立件もできなかった疑惑について、『政治とカネ』という空疎なスローガンを繰り返して、小沢氏を攻撃し続けた」なるもっともな批判に対して次のように反論している。「メディア批判はあって当然だが、メディアは検察が立件できなかった疑惑に立ち入るべきでないという惰弱な自制に甘んじるわけにはいかない。『政治とカネ』は空疎なスローガンでしかないという虚無的な断定も受け入れがたい」。その論拠として、リクルート事件を暴いた朝日新聞の調査報道の例を挙げている。「検察が立件を見送ったにもかかわらず、記者たちが疑惑を丹念に調べ直したところから生まれた。『政治とカネ』をめぐる国会内の化かし合いはともかく、小沢の金脈を問うことは空疎でも無意味でも偽善でもない」。

 要するに、リクルート事件を暴いた例を挙げ、「執拗な小沢パッシング」を正当化しているに過ぎない。しかしそれにしても、他社の朝日新聞の例にあやからず自社の西山記者の沖縄返還に際する秘密協定スクープ記事を挙げればよさそうなものだが、わざわざ朝日新聞スクープを持ち出すところが臭い。かなり愛社心の低い御仁だと云うことが分かる。

ところで、山田「風知草」は肝心なところに言及していない。言論の自由、表現の自由、ジャーナル民主主義の原則から云って、マスコミメディアが自由に弁と筆を振るうのは良いことなのだが、それには自ずと言論責任が伴う。言論責任とは、後日の歴史の検証に耐えるものでなければならないと云う自律規定のようなものだと思えば良かろう。ここが問われている。山田式正義論はこれに頬かむりしている。

 朝日新聞のリクルート事件暴露、西山記者の沖縄返還秘密協定暴露は歴史の試練に耐えた例である。その例を挙げて、歴史の試練に耐えないものまで容認せよと云うのは暴論である。もとより、歴史の試練に耐えるものであるかどうかは報道の渦中では分からない。しかしながら、そういう緊張感の中で弁と言が為されねばならないと云うことは云うまでもなかろう。

 「執拗な小沢パッシング」の論拠は既に崩れている。それは検察立件上そうであるばかりでなく、ネット言論界では既に公然のことになっている。このご時勢下でしゃにむに「執拗な小沢パッシング」し続けるならば、その論拠を示さねばならない。この労を取らぬまま歴史の試練に耐えた例を挙げて「執拗な小沢パッシング」正当化の論陣を張るのは愚挙と云わざるを得ない。

 山田「風知草」は、小沢氏の選挙資金の配分例、旧「新生党」解党時(94年)の政党資金の取り込み問題を採り上げ、「小沢の政党私物化は許されるかという問題だ」としている。

 ところが、彼はここでも肝心なことに触れていない。批判は一般化されるべきで、批判を小沢氏だけに向けるようなことであってはならない。それは法の正義に反する。批判の尺度を政界全体に等しく適用せねばならない。これに照らす時、「執拗な小沢パッシング基準」を政界全体に当て嵌めた時、政治資金収支報告書に精密に記載した小沢氏、杜撰なその他大勢、不記載のその他大勢が居るのが現状なのではなかろうか。にも拘わらず「執拗な小沢パッシング」を続けるのは物差しが違うのではなかろうかと云うことになる。山田式正義論はこれにダンマリしている。

 山田「風知草」は、海部元首相の自伝の記述を持ち出し、人格批判で落とし込めようとしている。その上で次のように云う。「剛腕待望はいいが、公平・公正・正義に期待する常識から離れて政治は成り立たない。小沢が、郵便不正事件の元厚生労働省局長や、足利幼女殺害事件の元服役囚と同列の受難者であるという非常識な宣伝にくみするわけにはいかない」。

 この論法も臭いやり方である。「海部元首相の小沢人格批判」は海部氏の私見に過ぎない。細川元首相の弁をすれば違う人格になる。その他百人百様の小沢観があるところ、海部元首相の弁だけで小沢氏を計るやり方は卑きょう姑息であろう。その上、何の論拠もなく「郵便不正事件の元厚生労働省局長や、足利幼女殺害事件の元服役囚と同列の受難者」として捉えることに反対し、「非常識な宣伝」であるとまで云う。山田「風知草」の弁こそ「非常識な宣伝」ではなかろうか。

 山田「風知草」は、「参院選前は謹慎した小沢が選挙後は代表選を仕掛け、就任間もない首相の追い落としを図り、政局混迷に拍車をかけた」とまで云う。朝日の社説士の「空いた口が塞がらない」と同じ観点を披歴しているが、政治の信義と信頼に於いて政権交代前マニュフェスト詐欺を許さないとして出馬した小沢政治哲学、美学の挙を落とし込める悪質な見立てであろう。現代ジャーナリズムの質の悪さを如実に示していると云うほかない。最期を「常識を見失う愚を繰り返すべきではない」で結んでいるが、これはブーメラン言辞でしかない。

 れんだいこが最後に「山田風知草」に云い渡しておく。近現代史ジャーナリズム論で問題になっているのは、ジャーナリズムがどうやら現代世界を支配している国際金融資本帝国主義に操作されており、その下僕としてマスコミメディアが利用されていることに対する疑惑である。最近のテレビの愚民化丸出しぶりを見よ。今やニュースさえ客観報道を離れて御用評論家の売弁茶の間に化している。れんだいこは遂に多チャンネルに切り替え遁走せんとしている。ネットの方がまだしもだからである。新聞も地元紙と日経のみ残した。日経もかってより紙面がお粗末しきりである。

 ここでは御用聞きメディア論を論証しないが、ジャーナリストは、そういう疑惑下の中での言論であることを意識しつつ言論に努めるのが責任であろう。つまり、「執拗な小沢パッシング」が良からぬ勢力の上からの意思であり、これに合わせて提灯記事を書いているに過ぎない己のお粗末言論ぶりを自問自答するのが良心と云うものだろう。残念ながら「山田風知草」には、こう問う能力がそもそも欠如しており、目にするのは悪乗りの姿である。こういう御仁のみが登用されているということであろう。それは、落ち目の毎日新聞が言論買収されているブザマな姿でしかない。それにしても毎日のみならずロクなのが居ない。

 2010.12.6日 れんだいこ拝






(私論.私見)