「表現の自由とプライバシー権と著作権の兼ね合い」考 |
「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」は、マスコミの表現の自由と被取材側のプライバシー権との兼ね合いを考える格好の教材を提供した。これに著作権問題をかみ合わせれば事の本質に一層迫れそうである。暫く、れんだいこがこれを考察する。 2004.3.29日 れんだいこ拝 |
【「表現の自由とプライバシー権及び著作権」の歴史的位相について】 |
一体、「表現の自由」という権利を主張する時、世の識者と云えども認識上基本的な知識が欠如しているように思えてならない。憲法上保障されている基本的人権その他社会権は、近代史以降に法的に明文獲得された諸権利であるが、それはいわば市民という公民と国家という権力との契約関係において「市民的諸革命の成果として国家権力が市民に対して保障した諸権利」であるという基本的認識に立たないと正確な認識ができない。つまり、国家に対する手かせ足かせ諸権利と考えたら分かりやすい。つまり、これら市民革命を経由した近代国家は、市民の諸権利を認め、その上に立脚して成立している事をもって近代国家足りえている、ということになる。 近代国家の証である憲法が認められているのは「国民の対国家的諸権利これを逆から云えば国家の対国民誓約諸権利」であり、そこには市民相互間の合理的規制法とでも云うべきその他諸権利についての明文は認められていないか又は少ない。しかしながら、近代国家から現代国家へ移行する過程で、市民相互間の規制条文の必要が次から次へと生まれてきた。この場合、対国家的諸権利を横滑りで適用する援用方法もある。新たに新法を創造する方法もある。判例を積み上げるという方法もある。いずれにせよこの三通りの方法で対処してきたが、これらの手法の欠陥として、解釈及び判決が相互に整合していないという事情に見舞われている。従って、いつでも新しい解決課題として関係者を悩ませている。 ここで考究課題としている「表現の自由とプライバシー権及び著作権」はその悩ましき格好例であり、未踏ではないものの未だに確定した見解が成立し得ていない分野であるように思われる。そういう意味では、論者の能力が問われていると云えるだろう。 2004.3.31日 れんだいこ拝 |
【「文芸春秋社の俄か左翼憑依の政治主義性について】 |
「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」は、「表現の自由とプライバシー権及び著作権」に関する格好教材であるように思われる。滑稽なのは、週刊文春続号の各界識者のコメントである。ほぼ一様に、検閲反対なる立場から俄か仕立ての民主主義者然と気取ってポーズを採っている観がある。週刊文春の発行元文芸春秋社も又急遽左翼に憑依したと見え、「国家権力の暴力と徹底的に闘う」なる声明を発していたのがむしろ滑稽であった。 しかし考えても見よ。その一。検閲反対の立場から、「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」における司法当局の対応を非難するのなら、他のあれこれの表現の自由を求める闘いに対しても同様の支持をせねば整合しないであろう。文芸春秋社よ、論者よ、君達は今後一貫してこの立場に立つことを約束できるか。声明してみよ。特にだ、「日本外交官二名を含む不審射殺事件」を抱え込んでいる折柄だ。「表現の自由」を云うのならこの不祥事に何ゆえペンを奮わないのだ、答えてみよ。 その二。被害者側の出版差し止め請求に対し、君達は「マスコミの表現の自由」を主張して対抗している。その意味するところ、今後においては「表現の自由」に対しては「全てありありルール」で行くという決意なのであろうか。それならそれで一法というものであろう。ならば、君達は国家機関の不正に対して、権力者の不正に対して、情勢の分析に対して「表現の自由」を盾に切り込む決意ありや否や、その決意を述べて見よ。 元々「表現の自由」とは、対国家権力権利であったが、君達のそれは肝心のここへ向かわずに国家にとって痛くも痒くもない対市民のプライバシー暴露を好もうとしている。一種の井戸端情報であろうが、「表現の自由」を盾にするには何と姑息変調なことか。 その三。「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」には、背景に強い政治主義がある。どういうことかというと、れんだいこの眼には「ロッキード事件」の尾を引いているように見える。未だに「現代政治の諸悪の元凶」として角栄を見立て、その娘真紀子のお転婆をなじり、その娘のプライバシーを暴くといういわば「角栄的なるもの追放」という「政治的狙い」をもってこたびの記事が書かれているように思われる。 それ故に、本来なら政治的にもっと意味のある小泉首相のプライバシー、中曽根元首相のプライバシー、その他諸々の現に政治的影響力のある公人性の強い人士に対して斬り込むべき「表現の自由」を盾にした記事化が為されない。むしろこれら権力者には阿(おも)ね、「中曽根的なるもの」を礼賛し、これら権力者の政敵の追及にここぞとばかり獅子奮迅し歓心を得ようとしているように思われる。こたびの記事にはそういう政治主義があることを指摘しておこう。 思えば去る日、立花隆と児玉隆也を使って角栄叩きの狼煙を挙げたのが文芸春秋社であった。以来、日本史上異例の「魔女狩り」が進行し、戦後日本の再建に大いなる功と能のあった戦後保守本流いわゆるハト派を逼塞させてきた。角栄はそのチャンピオンであったが故に、頂点に位置する頭目叩きは絶大な効果があった。その後の日本史は次第にハト派を後退させ、獅子身中の虫竹下派を旗揚げさせた挙句突き落とすという経緯を経て、今日ではタカ派の全盛時代となり我が世の春を謳歌させている。文芸春秋社は常にこの流れのポンプ屋であったし今もある。この政治主義的な動きを見ずして、「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」に論及するとしたら凡夫であろう。 「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」の本質的な問題性はここにある。法というものは、その実際の運用、適用というものは、マルクス主義的に云えば階級闘争の力関係の中でいつでも支配者側に有利に運用される癖がある。しかしながら、法には論理的整合性が求められる故、辻褄の合わない判決その他命令はある程度抑制される。この抑制の中で、支配階級に有利なように運用されるのが法というものの習性である。 「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」は、見事なまでにその例である。それは、現在権力者達の不正暴露に向かわずに、かっての権力者の娘のみならず孫の私的事情まで晒し者にして、「表現の自由」なる権利を傲然と主張せしめることによってその猥雑な行為を是認せしめようとしている。この醜悪な政治主義を見よ。 週刊文春は続号の4.1日号で、「現場検証 田中真紀子長女記事 小誌はなぜ報じたか」なる特集を組み、この種としては異例の4ページもので立花隆の緊急投稿「これはテロ行為である」を掲載している。かっての立花隆の「田中角栄−その金脈と人脈」、児玉隆也の「寂しき越山会の女王」を髣髴とさせる。れんだいこの眼には、「立花隆の緊急投稿」の登場には一つの糸筋が見える。 週刊文春4.1日号の「現場検証 田中真紀子長女記事 小誌はなぜ報じたか」は更に各界識者のコメント記事を掲載している。井上ひさし、櫻井よしこ、筑紫哲也、伊藤洋一、堀部政男、須藤義雄、室井佑月、佐野眞一、田島泰彦、筒井康隆、藤本義一、やくみつる、関川夏央、熊代昭彦、上杉隆、B・フルフォード、飯室勝彦、R・ボイントン、梨元勝、土本武司、柳田邦男、H・シュミット、吉永みち子、江川昭子、田中康夫、河上和雄、高村薫、五十嵐二葉、田中辰巳、鳩山太郎、阿刀田高、永田寿康、二瓶和敏、いしかわじゅんらであるが、れんだいこは次のことに気づく。これらコメント者のそれは一様に週刊文春の意向に添っているか何の役にも立たない喧嘩両成敗的感想の吐露者ばかりである。 週刊文春に聞くが、一体何人の識者にコメントを求めたのか。それら全ての代表的見解として上記の論者の見解を掲載したのか。れんだいこには、極めてご都合主義的遣り方で異論を封じた上でエピゴーネンばかりを登場させているように思える。全く結構な「表現の自由」の行使ぶりであることが透けて見えてくる。 2004.3.31日 れんだいこ拝 |
【文芸春秋社の「表現の自由」を廻る法論理について】 |
さて、ここで、俄か仕立ての民主主義者をからかう意味もあって、彼らの云うところの法論理に耳を傾けてみよう。まず、彼らは、公人、私人の別について次のように見立てる。公人とは、現に国政に従事する者をのみ云うのではなく、「将来、蓋然性の高い見込み者」までも包摂するらしい。彼らの言に従えば、今後私人の私人性を見極めるにはムシメガネ的調査が必要となるだろう。特に、政治家のように地盤、看板を持つ家系の者は、本人がいくら否定し、現に民間人であっても、可能性的に公人化されるというのである。れんだいこはこれを「孫子の代まで祟(たた)る公人化論」と名づけたい。 問題は、このような公人化論が許されるかどうかにあろう。なるほど公人は公的給付を受ける身の者であろうから、その対価として「襟を正す」という意味で民間人より厳しく不正その他がチェックされる必要があろう。しかし、れんだいこが思うに、この場合の公人とは、現に公人であることが要件となるべきではなかろうか。でないと、際限がなくなるではないか。その上で、公的権力者的地位にあり、社会的に影響力の強い者であれば、更に精密に監視されることになるのも致し方なかろう。なぜなら、社会的影響力において相当の責任を負うべきであろうから。この限りにおいて民間人においても社会的に影響力の強い者であれば「準公人」として同様の規制が及ぶのであろう。しかし、この場合でも、公的給付、社会的権限、影響力の大きさ、不正ないしその類似の行為の重責度に応じて詮索されるべきであって、全人格をストリップさせて楽しむべきではなかろう。 次に、彼らは、被害者がプライバシー権を盾に記事の差止め、損害賠償を請求する挙に出るや、特に「記事の差止め請求」に対しては「表現の自由」を犯す行為として批判する。しかし、この理屈も非現実的だ。損害賠償を請求には司法の場に詣でねばならない。ここで更にプライバシーが繰り返し暴かれ、数次の時には何年にもわたる裁判闘争に取りくまねばならないのである。それを思えば、マスコミのプライバシー権侵害乱用に対して、その記事差止めで抗議するのは一法であろう。当然、後は司法当局が何がしかの判断を為す事になろう。被害者のこの行為が抑圧されれば、プライバシー権なぞあって泣きが如くな風前の灯ではなかろうか。 従って、俄か仕立ての民主主義者が如何にも正義ぶって憲法護れなどというのはちゃんちゃら可笑しい。憲法護れというなら、他にも声高にせねばならない憲法違反が続々為されているではないか。現に今為されているではないか。これらに声を上げず、自分の都合のよいときだけ護憲論者になる己の醜悪さを鏡に映してみたまえ。 この問題を解くには次の処方箋こそ望ましい。一般にどんな権力機関も市井の人も、三権分立適用外の第四権力マスコミはなおさら、「やって良い事としてはならない事」の自主自律的分別こそ確立せねばならない。「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」における角栄の孫娘のプライバシー漏洩は単に商業主義的売らんかな精神のものであり、これに特定の政治主義的思惑がオーバーラップしたものでしかない。かような記事を掲載し、抗議を受けるや「表現の自由」を盾にとって更に政治主義的に立ち回るなど、却って「表現の自由」の自殺行為でしかない。 マスコミ諸君は常日頃著作権の主張に忙しいようだが、その権利主張の為に関係者一同が長年にわたって研究を積み重ねた実績の如くに、「表現の自由とプライバシー権及び著作権」の研究に取り組んでみてはどうかね。なお、著作権をわざわざ引き合いに出したのは、この諸問題を考察する際にも著作権壁が常に障害になるからである。そういう万里の長城を築いておいて「表現の自由」をもっともらしく主張しているマスコミ人の精神のご都合性を指弾したいがゆえである。 2004.3.29日 れんだいこ拝 |
【「表現の自由」を廻るれんだいこ観点による法論理】 |
せっかくここまで言及してきた故に、「れんだいこ観点による『表現の自由、報道の自由』法論理」を整理してみようと思う。次のように構成されているのではなかろうか。 まず「表現の自由」の法文的位置づけを確認したい。日本国憲法によると、「第三章 国民の権利及び義務」の項」で国家が公民に誓約する形で様々の基本的人権が規定されている。憲法11条では、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」、「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」としている。しかし、憲法12条で、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。これが基本的人権の法論理の枠組みである。 この規定を踏まえて以下種々の権利が明記されており、「表現の自由」に関わる規定としてはまず憲法19条で「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とあり、憲法20条で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と明文化された後を受けて、憲法21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」とある。 これによれば、「表現の自由」は、「国民の権利及び義務」の総枠においてのものであり、「思想及び良心の自由」、「信教の自由」、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」という基盤上で認められている権利ということになる。留意すべきは、「公民(国民)と国家権力との契約事項」ということであろう。 問題は次のことにある。「表現の自由」はそのようなものとして「公民(国民)と国家権力との拮抗関係」において規定されているものであり、「プライバシー権」、「名誉権(名誉毀損対抗権)」、「人格権」という「公民(国民)と公民(国民)間の拮抗関係」において生まれているいわば新種の市民的諸権利については直接的な明文が無いということである。そこでどうするかということになるが、援用という手法で判例を積み上げるしかない。その判例の中からいわば「社会的合意」を生み出し、「自主的なルールとマナー」を形成せしめる以外に無い、ということになる。 では、「『言論及び表現の自由』とプライバシー権」が衝突した場合において、且つ「出版差止め請求」にまで発展した事例において、今現在形成されつつある「社会的合意としてのルールとマナー」はどのようなものであろうか。以下、これを見ていくことにする。 よく引き合いに出されるのは「北方ジャーナル訴訟」であるので、その概要をみておく(2004.4.8日付け週間文春の立花論文より引用)。「北方ジャーナル訴訟」とは、「北方ジャーナル」社が、五十嵐広三元旭川市長が北海道知事選に立候補した時に、五十嵐氏の風評として次のように書き付けた記事を出版した。人身攻撃として、「天性の嘘つき」、「昼は人をたぶらかす詐欺師、夜は闇に乗ずる兇族で、言うなればマムシの道三」。私生活攻撃として、「クラブのホステスをしていた新しい女を得るために罪も無い妻を卑劣な手段を用いて離別し、自殺せしめた」。市長時代の利権ぶりとして、概要「利権漁りが巧みで特定の業者と癒着して私腹を肥やし、汚職を蔓延せしめ、巧みに法網をくぐり逮捕を免れている」。知事選立候補目的として、概要「知事選に立候補したのも、知事になり権勢をほしいままにするのが目的で、北海道にとって真に無用有害な人物である」。これに対し、五十嵐氏が、名誉毀損、出版差し止めを求めて訴訟に持ち込んだのが「北方ジャーナル訴訟」である。 1986.6.11日、「北方ジャーナル訴訟」最高裁判決が為された。この時最高裁は次のように判示した。プライバシー権に基づく差し止めの基準は、@・記事が公共の利害に関しているのか、A・記事に公益目的性があるのか、B・被害者に重大で回復困難な損害が発生するかどうかの三基準でもって判断されるべきで、その程度の重過失が問われる、とした。 ところで、記事の公共性、公益目的性を抽象的に述べることは困難であるので、実際には、それを測る尺度として被記事者の職業が問われる事になる。つまり、「被記事者の社会的地位としての公人、私人度合い」が問われ、公人度が強いほどプライバシー漏洩止む無しとされている。 では、「公人、私人の別」はどのように判断されるのか。今日的基準では、@・公職にある者、A・社会的責任の重い者、B・社会的影響力の強い者、ということになる。但し、通常では公人とは公務員のことを云うが、民間人でも「社会的責任が重いかないしは社会的影響力の強い者」に対しては「準公人」として「みなし公人化」されている。俗にこれは「著名人有名税」と云われているものである。「公人である以上、ある程度の批判ないしプライバシー詮索は受忍すべき」となる。 「準公人」の典型例として、当時創価学会会長の池田大作氏の女性関係報道がある。この時、最高裁は、概要「私人の私生活上の行状であっても社会的活動の性質、社会への影響力の程度から『準公人』とみなされ、私生活漏洩記事は公共の利害に関する事実となり、許容される」とした。 なお、「2004.3月、週刊文春販売差し止め事件」は、政治家の家族、将来の後継者に対しても「準公人」扱いした事で議論を呼んだ。こうした場合、その仕切りはどこに置かれるべきか、さてまた考究課題となった。れんだいこ見解は、「末代まで祟る政治家の家族」となる故に「準公人」扱いを否定したい。 以上を踏まえて、それぞれの項目を具体的に吟味して是非を判断するのが「今日的『表現の自由』問題」の位相である。 但し、他にも基準があるように思われ、れんだいこが補足しておく。 1、事実に基づくものならその記事はどこまで許容されるのか。事実に基づかないものはどこまで許されるのか。 2、「売らんかな」の行き過ぎた商業主義に対する損害賠償訴訟とその額の高額化。 3、冤罪に対する対応。 4、「外務省公電漏洩事件」に見られる情報入手方法の合法性如何。 5、その政治主義性批判。 等々の考察が必要であるように思われる。 2004.4.5日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)