「報道の自由と名誉信用毀損の兼ね合い」考

 (最新見直し2010.02.09日)

 ここで、「報道の自由と名誉信用毀損の兼ね合い」を考察しておく。

 2004.3.29日 れんだいこ拝


 「青山貞一ブログ」の2010.2.5日付け「地検特捜部小沢不起訴と暴走大メディアによる小沢氏の名誉毀損問題」その他を参照する。

 マスコミの基本的な法的知識の欠如と人権意識のなさが問題となりつつある。基本的な法的知識の欠如は、刑事訴訟法上の「推定無罪の原則」蹂躙に顕著に表れている。

 記事や映像に於いて、「顕示した事実」が真実あるいは真実に相当するものであれば、内容が公共公益的なものである以上、記者や新聞社・テレビ局の名誉毀損や信用毀損には当たらない。

 例えば、刑法は、「行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」(第230条の2の1項)という特例をもうけている。

 これによれば、1・表現された事実が、公共の利害に関する事実にあたり(「公共性」の要件と言われる)、2・目的が専ら公益目的であり(「公益目的」の要件と言われる)、3・真実の証明があれば(「真実性」の要件と言われる)、「罰しない」ということになる。

 刑事事件では名誉毀損は故意犯であるから、判例上「事実が真実であることの証明がない場合でも、行為者がその事実を真実だと誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らして相当の理由があるときは、故意がなく、名誉毀損罪には該当しない」とされている(最高裁昭和44年6月25日判決)。このことを裁判では「真実性」の証明に対し、「相当性」の証明といっている。真実性はなくとも、相当性があれば名誉毀損は免れるわけである。これは、報道の自由を顧慮する法理と云えよう。

 これを逆に云えば、新聞、テレビが記事や報道で顕示した事実に真実性はもとより相当性もなければ、いくら内容に公共公益性があっても名誉毀損や信用毀損は成立することになる。これまでのこの種の裁判で、メディア側が失敗し損害賠償の対象となったのは、虚偽報道、又はグレーゾーンをあたかもブラックであるかのように書き、それが最終的にブラックであると証明することができず、相当性についても証明できなかった事例である。書く側も十二分に取材と裏づけをとって記事にしなければならないということである。

 典型的な事例で、故三浦和義氏の獄中からの大メディア相手の民事の名誉毀損裁判がある。本人訴訟で800件以上提起し、その70%以上で勝訴した。ある新聞社は、共同通信から配信した記事を転載しただけだから、とトンデモナイ言い訳をしたが、裁判所は通信社の記事を鵜呑みにした新聞社にも名誉毀損を判決した。ひとつひとつの損害額は100万円未満のものが多かったようだが、数が数、それも本人訴訟で対応したので、賠償額は数1000万円に及んだと推定される。

 原口総務相は、ツイッター上で海外メディアの「報道の5原則」をつぶやき、記者クラブメディアを牽制している。次のように指摘している。(http://twitter.com/kharaguchi

原則1 「推定無罪の原則」 最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと
原則2 「公正な報道」 検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること
原則3 「人権を配慮した報道」 他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること
原則4 「真実の報道」 自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること
原則5 「客観報道」 問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること

 見事な「報道5原則」である。興味深いことは、一昔前ならマスコミ側が情報開示等々でこのような基準を示して政府批判に向かうところ、現下では政府の方がマスコミ教育しているという一種のマンガ的構図である。マスコミがそれほど知力が劣化したということであろう。

 2010.2.9日 れんだいこ拝

 「江川紹子ジャーナル」の2010.2.7日付けブログ「新聞の『説明責任』を問う」を転載しておく。

 民主党の小沢幹事長は不起訴となった。石川知祐衆議院議員ら、小沢氏の元・現秘書ら3人は政治資金規正法で起訴された。その起訴の内容を見ても、「大山鳴動して……」という印象はぬぐえない。政治に多大な影響を与えて捜査を強行しながら、この結果。当然、検察に対して厳しい批判の声が上がっても然るべきだろうが、メディアのうえではそうでもない。

 新聞各紙は、
<ある幹部は「心証は真っ黒だが、これが司法の限界」と振り返った>(毎日)、<特捜部は「有罪を得られる十分な証拠はそろった」として検察首脳との最終協議に臨んだが、結論は「十二分の証拠が必要」だった>(産経)、<資金の流れ、依然謎>(読売)など、小沢氏が限りなく黒に近い灰色だと印象づける論調が目立った。

 そして、<捜査は、小沢氏側に巨額の不透明なカネの出入りがあることを国民に知らせた。その価値は正当に評価されるべき>(朝日)と、今回の大々的な捜査を評価し、検察をねぎらった。そればかりか、<ほくそえむのはまだ早い><”次の舞台”は「検審」>(産経)と、検察審査会で処分がひっくり返されて小沢氏が裁かれることを期待したり、検察が捜査を続けて小沢氏失脚につながる法令違反を見つけ出すことに望みを託すような記事もあった。

 前回も書いたように、メディア、わけても新聞はこの間、ずっと検察と同じ方向を向いてきた。それを考えれば、不起訴とはいえ、検察擁護の論調となるのも自然のなりゆき、と言えるかもしれない。

 新聞によって、この問題に取り組む動機には差異があっただろう。あからさまに民主党政権の失墜を意図した政治的な動機が読み取れる新聞もあったし、小沢氏を排除することが正義と信じ、その使命感に燃えているかのように見える新聞もあった。そういう動機の違いはあっても、いずれもが検察の正義を信じ、小沢氏の失脚をゴールとする”クビ取りゲーム”に狂奔していたことには変わりはない。

 政治的な権力者とされる小沢氏の問題点を探して暴こうというのはいい。読売の溝口烈社会部長が<政界最高実力者の周辺で発覚した資金疑惑への国民の関心は高く、これに応える報道は高度の公共性・公益性を有する>と書いているのは、まさにその通りだ。だが、検察も国会議員を逮捕したり失脚させるほどの強い権力を持つ機関だ。その捜査のあり方にも監視の目を光らせる必要があるはず。そういうバランス感覚が、”クビ取りゲーム”に熱中する中で吹き飛んでしまった。

 びっくりしたことがある。この捜査が行われている最中、『週刊新潮』が横綱朝青龍の暴行事件をスクープした。泥酔して暴れた騒動の被害者は朝青龍のマネージャーではなく、一般人であり、しかも鼻の骨を折って全治一ヶ月の重傷だった、という内容だ。全メディアが、この記事の後を追いかけ、被害者にインタビューをしたり、目撃者の証言を報じた。そうした報道で、相撲協会に対する批判が集中し、朝青龍は引退に追い込まれた。

 ところが、『週刊朝日』が東京地検特捜部の捜査のあり方に重大な人権侵害、法令違反があると指摘した記事に関しては、どこのメディアも追いかけなかった。石川議員の女性秘書が、押収品を返還すると言われて地検に赴いたところ、10時間にわたって監禁され、小沢氏と石川議員の共謀について供述するよう迫られた、という内容だった。捜査中の事件は石川氏が議員になる前のことで、その秘書はまったく知る立場になかったのに、検事は恫喝的な取り調べを行い、子供を保育園に迎えに行く時間になっても返さず、「せめて電話をさせて欲しい」という哀願も受け入れなかった、とその記事は報告している。これが事実なら、大問題。ましてや、足利事件の菅家さんの再審の真っ最中で、警察や検察の取り調べのあり方が大いに問題になっている時期だ。なのに、なのに……

 何日か経って、いくつかの新聞が、「東京地検が『週刊朝日』に抗議文を送った」とする記事を小さく掲載。ただ、これも検察の発表をそのまま記事にしただけ。朝青龍の騒動の時の熱意はどこにいったのだろう。もしかして、日本のマスコミにとっては、検察が違法な捜査を行っているという告発より、朝青龍の騒動の方が大事なのだろうか?!?!?!?!
  
 新聞は、「検察側のリークによる報道が多い」と批判されると、激しく反発する。たとえば読売の溝口社会部長は、2月5日付紙面でこう書いた。<民主党の一部議員は、石川容疑者らの逮捕直後から、「不当捜査だ」と主張。定義も定かにしないまま「検察リーク」を声高に叫んで東京地検特捜部の捜査をけん制し、報道を批判する動きも露骨だった。過去の政界捜査で、正直これほどのヒステリーに似た空気を感じたことはない><根拠のない無責任な報道批判に対しては、40人近い記者が「検察リーク」とはほど遠い取材努力を重ねてきたことを、一言述べておきたい>

 朝日新聞も、テレビ朝日のサンデープロジェクトに出演した星浩編集委員など、マスコミ批判になるとムキになって反論していた。その様を見るにつけ、新聞の反応の方にこそ「ヒステリーに似た空気」を感じなくもない。

 沢山の記者を投入し、地道な取材を重ねていて、検察のリーク頼みのように思われるのは心外、と言いたい気持ちは分かる。しかし、そうした取材の努力が、検察側と目的を共有化する「小沢氏のクビを捕る」という方向にだけ向けられ、検察の捜査のあり方にはまったく振り向けられないことが問題なのだ。

 その結果、マスコミは検察の応援団としての役割を発揮した。新聞などに激しく叱責されて、民主党の議員も捜査批判をまったくしなくなった。鳩山首相も、あれだけターゲットにされた小沢氏自身まで、検察の捜査は「公正公平」などと言っている。メディアが検察批判を封じ込んだ格好だ。確かに与党が検察に圧力をかけることがあってはならないが、不公正だと感じたことを不公正と言うことも許されないというのはいかがなものか。

 検察批判は許されないという風潮の中、検察に圧力をかけるように見られたくないからと、鳩山政権は選挙の時にマニフェストで約束した、捜査過程の全面可視化まで動きを停滞させている。いくら何でも萎縮のしすぎだ。
  
 ただ、小沢氏が不起訴となって、「検察の説明責任」にふれる新聞も出てきた。朝日新聞は、検察の会見の主な一問一答を紹介。「言えない」「言わない」「コメントしない」「お答えを控えたい」……と記者の質問に対する検察官がほとんどまともに応えない様子を伝え、<検察はどこまで説明責任を果たすべきなのか>と、実に遠慮がちに問うている。そうした問いをすることはいいだろう。だが、私としては、ついこんな問いを発したくなってしまう。「ところで、ご自分たちの説明責任はどうなっているのですか」
  
 検察が石川議員ら2人の起訴と小沢氏の不起訴を発表した記者会見に出席できたのは、朝日新聞など大マスコミで作る司法記者会(記者クラブ)だけ。しかもカメラを入れたいという要請も断られている。カメラの前で堂々と語ることができない検察をなぜ、批判しないのだろう。しかも、匿名で検察幹部が「心証は真っ黒」などと語るのを無批判に載せる。これはいいかがなものか。

 一方の小沢氏の記者会見は、フリーのジャーナリストなども参加可能で、カメラの持ち込みももちろん可。事情聴取を受けた後の会見は、インターネットで生中継されたりもした。その説明内容は万人が満足するものではないにしろ、検察と比べれば、はるかに開かれた対応をしている。なのに、そのことは伏せて、小沢氏が国民に説明することから逃げているようなイメージ作りをするのは、あまりにもアンフェアだ。検察はあくまで正義、小沢氏はあくまで不透明で閉鎖的というイメージ作りに、マスコミは大きな役割を果たしてきた。果たしてこれが、公正公平な報道と、報じている側は考えているのだろうか。

 捜査の進展についても、毎日、この問題の報道を読んでいた読者は、小沢氏はゼネコンから裏金をもらっている証拠があり、その裏金を隠ぺいするために小沢氏が石川議員に政治資金収支報告書に嘘を記載するように指示し、当然のことながら起訴されると思っていた人が少なくないのではないか。ところが、東京地検特捜部の徹底した捜査でも、この問題での小沢氏と石川議員の共謀は明らかにされず、裏金の存在も証明されず、小沢氏は在宅起訴もされなかった。

 記者たちは情報源である「関係者」に騙されて、間違ったネタをつかまされたのか。それとも記者たちが、「小沢のクビを取りたい」と思うがあまり、情報の真偽を判断する目が曇っていたり、独自の解釈を加えてしまったのか。あるいは、小沢氏がカルト以上に強烈なマインド・コントロールを秘書たちにかけていて、逮捕された3人は捜査を混乱させるためにわざと供述を二転三転させ、マスコミをも翻弄した、というのか。そうしたところは、ぜひとも聞いてみたい。

 新聞によっては、石川議員が小沢氏との共謀を自白したとする記事を大きく掲載したところもある。石川議員の弁護士は「完全な誤報」と主張した。なのに、その新聞では訂正記事は出ていない。いったい、あれは誤報だったのか、それとも弁護士が嘘をついたのか。どうか説明して欲しい。

 そうした検証をちゃんとやっておかなければ、近い将来、新聞はまた検察の応援団としての役割を担わされかねない。石川議員らの公判を、公正な形で報道してもらうためにも、国民が正しい情報を元に政治について論評したり判断したりするためにも、今、新聞の説明責任を問うておきたい。







(私論.私見)