【日比谷焼き討ち事件と当時の新聞社の扇動考】 |
2005.9.16日付の週間ポストに黒岩比佐子女史の仮題「戦争と新聞 日比谷焼き討ち事件と当時の新聞社の扇動」についての貴重な論考が掲載されている。これをれんだいこ風にアレンジしつつ要約しておく。 1905.8.31日、日露講話がなり、「賠償金無し、樺太分割」の条件で締結されたことが分かると、新聞社各社は国民新聞など数社を除いて一斉に講話反対の論陣を張った。「かかる不面目なる和議に満足する能(あた)わざるなり」、「大々屈辱」。この扇動が国民の憤激を煽ることになった。 9.5日、日比谷公園で国民大会が開催され、焼き討ち事件に発展した。17名の死者が出る騒擾(そうじょう)事件となった。 国民新聞(徳富蘇峰が社主兼主筆)がかかる論調に与せずであったところ、「穢(けが)らわしき御用紙。御用紙国民といあり」と批判され、これが扇動効果となり、国民新聞社が襲撃されている。 桂政府は戒厳令を発動し、緊急勅令で新聞の発行停止を命じた。処分は3、4日だったが、東京朝日は15日間、大阪朝日は3回で34日間の発行停止をくらった。この両者が開戦前からもっとも強硬に対ロ姿勢を打ち出していたことが理由であった。 当時の東京新聞の朱筆は、池辺三山(さんざん)だった。池辺は、宮武外骨、西田長寿(たけとし)編纂の「明治新聞雑誌関係者列伝」で、「陸(くが)かつ南、徳富蘇峰と共に明治30年代の代表的記者」との評を記されている。徳富蘇峰は国民新聞の社長兼主筆。陸(くが)かつ南は日本の社長兼主筆。 日清戦争は新聞の発行部数を飛躍させた。東京朝日の場合、開戦前年の年間部数約1300万部が1894年には1700万部近くに飛躍し、一年で3割方増やしている。 1902年、ロシアは占領していた満州から段階的に撤兵するという条約を清国と結ぶ。1903.4月、ロシアは撤兵を中止する。同6月、戸水寛人(とみずひろんど)を始めとする東京帝国大学の7博士が桂首相に対して強硬外交を建白する。建議書は、政府が推し進めようとしていた「満韓交換論」(ロシアに満州を譲って、日本の韓国での地位を確保するというもの)を姑息な策だと批判し、満州還付問題を根本的に解決するよう促し、対ロ戦争辞さずを政府に迫っていた。桂政府は世論への影響を顧慮して秘密文書にする約束を交わしたが、伊藤博文と関係の深い東京日日が建議書の一部をスクープして7博士を批判する。7博士は、約束保護を理由として各新聞社に建議書とほぼ同文のものを送りつける。 2.10日、政府がロシアに宣戦を布告。東京朝日の紙面は、戦争一色に染まり、連戦連勝を報じ続けた。1905.5.30日の社説は「勝ちも勝ちたり、大勝を勝ちたり。吾人は歓天喜地した」と書き付けている。「池辺の朝日か、朝日の池辺か」。 |
(私論.私見)