1988.4.16日 産経新聞社会長・鹿内春雄変死事件

 (最新見直し2013.10.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「産経新聞社会長・鹿内春雄変死事件」をものしておく。

 2013.10.17日 れんだいこ拝


【経新聞社会長・鹿内春雄変死事件考】
 1988.4.16日、経新聞社会長・鹿内春雄氏がトップの座について3年足らずのこの頃、ゴルフ中に心筋梗塞(急性肝不全)という変な急死を遂げている。どういうメンバーでゴルフしていたのか詳細が一切秘匿されている。享年42歳。亡骸が置かれた自宅に、グループ幹部が、続々と詰めかけ、日枝も枕元に崩れ落ちるように座り込み、また、台所で涙も隠さずに号泣していたという。

 中川一徳著「メディアの支配者(下)」148頁は、「厚子手記」の「兄があんなに早く亡くなったのも、母の信仰がその理由の一つなのではないかと思っています。兄は亡くなる八年前にB型肝炎を患っていました。…ところが母は、西洋医学や病院を信じないので一切見せない。…N先生の作る漢方薬しか与えないのです。病院につれていって、しっかりした医療処置さえとっていれば、兄があんなに早く亡くなることはなかったのではないかと私には思えてならないのです」を引いて「春雄は8年前、B型肝炎を患っていた。しかし、母親・英子が祈祷師や漢方薬に凝り、西洋医学や病院を一切信じず、病院にみせなかった事がその死の遠因ともいわれる」と述べ、肝炎発症による急死説を流布させている。しかしそういう見方は変死の隠蔽工作論でしかあるまい。これに関する情報が不自然なほどにシャットアウトされている。判明次第に書き付けることにする。

 ■「メディアの支配者」 鹿内家

 フジサンケイグループを一代にして築いた鹿内信隆初代議長は、ニッポン放送・フジテレビ・産経新聞というラジオ・テレビ・新聞の三大メディアを手中におさめ、マスコミ三冠王と異名をとった乱世の梟雄。鹿内宏明氏解任時やその前後の状況を詳しく描いたノンフィクションが2005年6月に出ております。「メディアの支配者」 中川一徳/著。


 ◆鹿内信隆(初代)

 戦後の復興期、財界は折からの左翼勢力の台頭に危機感を抱き、これに対抗すべきマスコミ機関の設立を画策した。そして、1954(昭和29)年、日本の名だたる一流企業205社(設立時)と、財界人が株主として名を連ねるニッポン放送が設立された。社長には、当時経団連副会長だった植村甲午郎が座り、専務には、闘う日経連を標榜する日経連の戦闘隊長鹿内信隆が就いた。信隆は強い実行力で頭角を現し、後に社長に就任する(61年)。57年には、文化放送社長の水野成夫と協力して、フジテレビジョンを設立し、64年社長。また、経営危機に陥っていた産経新聞社の再建にも、水野から引き継ぐ形で乗り出し、68年社長就任。この課程でニッポン放送を頂点にフジテレビ、産経新聞が連なる資本関係が形成された。信隆は営業と企画重視の経営に徹しグループの業績を向上させる一方、ニッポン放送の株を取得し、筆頭株主として君臨。フジサンケイグループ会議議長という肩書きの信隆が、全体を掌握する独特の経営スタイルが出来上がった。また、箱根彫刻の森美術館、日本美術協会、上野の森美術館、美ヶ原高原美術館など、美術・芸術と関わりを持つことにより、シラク現仏大統領、シュミット独元首相、ヒース英元首相、ファンファーニ伊元首相、米ロックフェラー家といった海外政財界要人や貴族、そして、何といっても、日本では、皇室と人脈を築くに至った。信隆は皇室や華族、財閥に連なる血縁を何も持っていなかった。徒手空拳の庶民としてメディア支配の階段を上がってきた者にとって手短に皇室と交わりを結ぶ方策として、美術というのは絶妙な素材であった。

 1980(昭和55)年に、鹿内信隆は、視聴率が低迷していたフジテレビの出直し大改革を断行、自ら強化本部長に就任し、70年にニッポン放送に入社していた長男・鹿内春雄をフジテレビ副社長兼本部長代理に据えた。それに先立つ二、三年前には、春雄を筆頭株主にし、一族関連の持ち株で、全株の過半数を握る個人支配を確立させていた。この新体制のもと、編制局長に抜擢されたのが、日枝久現会長。

 ◆鹿内春雄(2代)

 1970年、鹿内春雄がニッポン放送に入社。知人の紹介で知り合った最初の妻と結婚。72年には、長女が生れたものの、鹿内家との折り合いが悪く、破局。夫婦間で子供を奪い合うという泥仕合にもつれ込み、軽井沢で、子供を奪い返しにきた妻を春雄が車で引きずるという傷害事件にまで発展した。81年4月、5年半に及ぶ調停を経て離婚が正式に成立。81年5月には、老舗の紙問屋の一人娘と再婚。彼女は短大一年の時、売れっ子作曲家だった平尾昌章と結婚、一児をもうけたものの三年後には離婚しており、再婚同士のカップルだった。しかし、82年7月、長男を産んでからわずか一ヶ月あまり後に、くも膜下出血で亡くなった。84年8月、NHKから引き抜いてフジテレビ入りしていた美人看板アナウンサー頼近美津子と再々婚。85年長男、86年次男をもうける。

 春雄は信隆が本社から切り離した制作部門を吸収、元に戻すと同時に、何をやっても良いという自由な雰囲気を創った。若者・子ども向けの「軽(カル)チャー」路線、「楽しくなければテレビじゃない」(81年)のコピーを掲げ、82(昭和57)年から年間視聴率でTBSを抜くなど業績を大きく好転させた。「笑ってる場合ですよ」それに続く「笑っていいとも!」や、「オレたちひょうきん族」「なるほど!ザ・ワールド」「夕やけニャンニャン」などのヒット番組は社会現象をも生んだ。1985年、春雄が二代目議長を引き継ぎ、信隆は箱根彫刻の森美術館館長に専念した。春雄は「フジサンケイグループはメディア文化の覇権をめざす戦闘集団である」と宣言し、役員一同が眉をひそめたシンボル「目ん玉マーク」の採用や、グループ内役員の若返りを図るなど(日枝久・常務就任)、様々な改革を試みる一方で、映画「南極物語」「ビルマの竪琴」「子猫物語」の製作・大キャンペーン、「夢工場’87」などのイベントを展開し、話題になった。また、産経新聞カラー化、紙面刷新、カタカナから漢字のレトロ調への題字変更や、不振の「週刊サンケイ」を廃刊、「SPA!」の創刊など、“サンケイ大革命”を計画推進した。

 ◆鹿内宏明(3代)

 父・信隆は春雄の死をうけてただちに議長に復帰し、春雄の死からわずか11日目に興銀勤務の娘婿・佐藤宏明を養子縁組し、鹿内宏明として議長代行のポストに就かせた。(88年4月)。88年7月、日枝久が社長に就任、89年12月、宏明第3代議長に昇格。90年10月、鹿内信隆死去。宏明は春雄が進めた自由な社風に否定的だったといわれ、春雄色に染まった軍団を徐々に自分色に塗り変えていこうとした。そのため、切るか切られるか、切られる前に宏明を先に切ったとも言われ、すなわち、92年7月、「経営者としての資質に問題あり」と日枝グループによる、議長解任に発展した。しかし、91年2月、宏明が設立していたフジサンケイコーポレーション(グループ本社)は、自らの権力基盤を恣意的に強化したと指弾されたが、実のところ、統轄責任者の下にグループを統合し意思決定の迅速化を図る合理的経営を目指したもので、現在、グループ経営をやっているところが当たり前のように採用している持ち株会社であり、当時の段階で既に、グループを効率的、機動的に運営する最良の仕組みを標榜し、実践したものだった。また、宏明は時代の先端を行くメディア経営戦略をも打ち出していた。銀行の国際畑を歩み、国際的視野・感覚には、長けていたが、銀行の一課長から、42歳で突然マスコミ企業に乗り込んできて、人心掌握術に欠けるところがあったのは否めなかった。また、あくまで副次的な要素であるが、鹿内信隆未亡人・英子の宏明に対する確執もあったという。

 クーデター中心人物・日枝久の弁。「社長としてフジテレビをよりよく発展させるためには仕方がなかった。クーデターだとか権力闘争だとか世間から批判されると思った。それでも、健全に成長した放送局を次の世代に引き継ぐことが私の使命だと思った。会社は個人のものではないし、ましてや世襲するものでもない。何のためらいもなかったです」。(参照:asahi.comフロントランナー)




(私論.私見)