電通の恐ろしい心臓部<本澤二郎の「日本の風景」(3825)2020年8月25日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)
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2020年08月25日 jlj0011のblog
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李香蘭の父親は満鉄の職員で、撫順炭鉱は、満鉄の傘下となっていた。中国語の上手な彼女は、植民地政策を正当化するために、関東軍・満鉄が女優として働かせていたのである。そのことで、彼女の苦悩は、戦後も尾を引いていた。生きているころ、国会議員となった李香蘭こと山口淑子に取材しておくべきだったと、いま後悔している。無政府主義者の大杉栄惨殺人の甘粕という悪党が、映画製作の責任者だった。岸信介側近の福家俊一は、甘粕に拾われて戦後政界に打って出た人物だ、と清和会OBに教えられたばかりだ。 |
<政友会副総裁・小川平吉は息子の満鉄入りを阻止>
思い出すと、宏池会こそが日中友好派の牙城だった。鈴木家とも縁戚になるが、戦前の政友会副総裁を歴任した小川平吉もまた、宇都宮徳馬の実父・太郎が陸軍参謀部時代、孫文と親しかったように、政治家として交流が深かった。次男の平二が後継者となったが、彼は若いころ、健康を害し、房総半島の小湊あたりで静養した。面倒を見たのが、一代で日本冶金・昭和電工などを築いた森一族。東京帝大法学部を卒業する場面で、平二は、父親の平吉に「満鉄に入りたい」と直訴した。息子の就職依頼に父親は言下に「許さない」と断った。その理由がまとも過ぎた。「よそ様(中国)に土足で入って暴利をむさぼっている企業に将来はないッ」、とはいえ、満鉄の大連からハルビンまでの特急「アジア号」を映像で初めて目撃したが、当時としては国際的にも一流列車だった。若者があこがれる様子が分かる。息子はやむなく三菱商事に乗り換えた。彼の上海時代を聞きそびれてしまった。三井と大豆利権で争っていたのか? 関東軍の謀略に抵抗した小川平吉に対して財閥・関東軍閥は、彼が鉄道大臣の際に汚職事件で追及した。背後に里見機関が暗躍したのかどうか?もう調べようがない。
清和会の反安倍晋太郎というと、田中義一の息子の龍夫だった。彼の母親が、上州は群馬県出身ということもあって、御大福田赳夫は龍夫をとことん信用し、岸の娘婿と距離を置いた。案外このことは知られていない。晋三のレベルを、福田の息子・康夫はよく知っている。小泉純一郎が重用しなければ、いまの安倍晋三は存在しなかった。小泉の責任は重大である。
横道に反れてしまったが、以下の貴重な資料を発見したので、よく読んで電通の心臓部を理解してもらいたい。 |
>「電通」と自民党・公明党・CIA、「電通」を取り巻く、日本でいちばん醜
い利権の構図<改訂版>
http://www.asyura2.com/09/senkyo69/msg/860.html |
1932年(昭和7)
満州国建国。国策通信社「満州国通信社」初代社長には、里見 甫(さとみはじめ)が就任。里見 甫は、裏社会とつながりがあり、満州国高官だった岸
信介の命によって、アヘンの密売であげた巨額の利益を、関東軍の資金にする犯罪行為の一端を担っていた人物。「満州国通信社」は、当時の軍国主義下の国策通信社であり、その阿片マネーから、児玉誉士夫、笹川良一といった人間に繋がり、阿片を利用し戦争指揮をとった東条英樹、「満州は、私の作品」と豪語する岸
信介、そして、日本の右翼勢力とも元々密接な関係があり、更には、中国の裏社会(マフィア)との繋がりもあった。 |
1934年(昭和9)後に「電通」第4代社長に就任する吉田秀雄は、上海にて中国進出し、中国市場の媒体の殆どを「電通」扱いとした。
1936年(昭和11)「日本新聞聯合社(聯合)」と「電通」の通信部門合併により、「同盟通信社」を設立。その際、「電通」の広告部門は、「日本新聞聯合社(聯合)」の広告部門を吸収し、広告のみを扱うという現在の姿の原型が完成。同年10月に、岸
信介が、満州国の国務院(満州国における行政機関。満州国は議会を持たなかった為、国政の最高機関であった)の実業部総務司長に就任している。
1945年(昭和20)敗戦に伴い、「同名通信社」は解体され、政治、社会、一般ニュースを扱う「社団法人共同通信社」と、経済報道を扱う「株式会社時事通信社」に分社化。しかし現在では、「共同通信社」、「時事通信社」、「電通」は株式を持ち合い、設立当初の寡占状態を回復している。 |
1947年(昭和22)吉田秀雄が「電通」第4代社長に就任。この頃から、「日本電報通信社(電通)」は戦前の準特務機関としての性格を生かし、政府・GHQに食い込むことに成功する。吉田秀雄は、戦犯として公職追放された政財界人、満州や上海から引き上げてきた旧軍人、「満鉄(満鉄調査部、満州国通信社)」関係者などを大量採用し、これが、「電通」が“満鉄調査部の後身”と言われる所以である。当時の電通ビルは、“第二満鉄ビル”と呼ばれていた。彼らは、広告のノウハウは無かったものの、実質フィクサーとして活動し、現在の日本支配の礎を築きあげていった。また、吉田秀雄はこの頃から、米国式広告=“プロパガンダ”手法を導
入。 |