ヒゲ虎時事評論8

 更新日/2022(平成31.5.1栄和元/栄和4).3.23日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、いずみ氏との「オカマバトル」が勃発する。なかなか興味深い遣り取りとなっている。れんだいこは、このバトルを通じて摂理論を生み出すという僥倖を得た。相手側のいずみ氏は次のように述べている。

 四トロ同窓会二次会 2002年2月10日〜12日

 わかりやすいというよりはただの学習ノート。 投稿者:いずみ  投稿日: 2月12日(火)22時59分30秒

 れんだいこという人物が、どれだけ議論というものに対して不誠実、というかそもそも「議論が成り立たない」人なのかは、いずみとれんだいこがジェンダーをめぐって一大論争したときのログを読めばすぐにわかります。あの噛み合わなさっていったらまったくわけわからなかった…(苦笑)
 でも、あれ書くことで、自分の中のジェンダーとかに対する意識がずいぶん整理されたんで、その面では感謝しています。

#でも、れんだいこ、自分のサイトにそのログまるまる乗っけてるんですよね。天然つーか…^^;;


 これによると、れんだいこを前半で貶しておいて後半で感謝するとも述べており要領を得ない物言いをしている。それはともかく、「でも、れんだいこ、自分のサイトにそのログまるまる乗っけてるんですよね。天然つーか…^^」とあり、著作権問題については殊のほか硬派の立場を示している。ジェンダー問題での軟派と噛み合わないこと夥しいが、当人には自然なんだろう。これを確認しておく。

 2009.1.13日 れんだいこ拝


Re:不破指導はオカマ運動かも知れん  
投稿者:れんだいこ ( 11/02 14:36:44 )
 2000年11月2日(木)「しんぶん赤旗」に、「国会党首討論、不破委員長の追及 この1週間で内閣支持率は急落した 内閣の対応能力が根本から問われている」記事が出ている。

 不破曰く、「先週のクエスチョンタイムから一週間の間に内閣の支持率は急低落しました。私は、この急低落の背景には、官房長官の問題、あるいは森発言の問題など、内閣自身がぶつかっている問題にたいして、森内閣がまともな対応ができない状態にある。こういう内閣に国の大事をまかせられるかという気持ちが、国民の間に広がっているということに大きな問題があると思います。私はこの角度から、前内閣官房長官の任命問題について、任命権者としての森首相の責任を考えたいと思うんです」とある。

 従来は、「国民の声を問え!」と揺すっていたところであるが、最近はいえなくなっているようである、どったのかなぁ。

 不破曰く、「私は、今度の官房長官の問題は、はっきりいって、政治家としての致命的な弱点を右翼団体の幹部に握られた政治家を、あなたが官房長官に任命してしまったこと、ここに大きな問題があったんです。この団体というのは、日本青年社という団体ですけれども、この団体がどういう性格、どういう系統の団体であるか、あなたはご存じでしょうか」とある。

 これに森喜朗首相答えて曰く、「不破委員長のご質問は、中川前官房長官が、その日本青年社とおっしゃいましたか、とあたかも関係があるということを、なにかこう、断定されてお話をされた気がいたしますが、私は、少なくとも、中川前議員はそうした団体と、特定の団体との交友関係はございません。私は、したがって、その団体がどういう団体であるかということをここで申し上げる、それだけの資料は私は持っておりません」。

 この答弁は森首相の方がまともな答弁と見たい。実際「あたかも関係があるということを、なにかこう、断定されてお話」こそ、反動派の論法であった。今や時代がすっかり変わって、共産党の方がこの反動派の論法を使っていることが分かる。以下、不破の「私は、“関係がある”と一言もいってないんですよ。“右翼団体の幹部に政治家としての致命的な弱点を握られた”ということを言っているわけです」との詭弁が弄されるが、「私は、こういう問題で、内閣の官房長官という地位にあるものにたいして、右翼団体から弱点を握られて攻撃されるという状態にあったら、政府というものは即時に対応してこそ、政府の責任に値する。それぐらいの危機対応能力がなければ、国の大事に対して、対応できるはずがない。私は、あまりにも遅かったと思うのですけれども、どうですか」と迫る。

 どうも解せないのは、不破のこの政権与党になったつもりで「政府の危機対応能力」を心配してあげるスタンスは、何時頃からはじまっているんだろう。やっぱ脳軟化の進行で本音丸出しで区別できなくなっているのではなかろうか。しかし、この不破発言に「胸がスカッとした」とおべんちゃらいい続ける党員がいるから、「恐れ入りやの鬼子母神」さまだなぁ。
 
 首相「確かに閣僚人事につきましては、すべからく任命権者である私にその責任があるということは十分私も承知をしております。が、本件につきましては、あらかじめ予測できなかったことでありますし、またこのような事態になったということはまことに残念、遺憾でありますけれども、中川さんの交友がもし事実であったとしても、数年も前の話でありますから、少なくともですね、その当時の事柄、私事、そういうことを承知するわけにいかないわけでしょう」、の答弁の方がよほどまともでしょう。

 これ以上問い詰めると、「野坂問題はどうなんだ、宮本リンチ事件の始末はしてんのか」と野次がきそうで、手加減の落しどころとして次の話題に転じている。まったく、自分のお尻を拭いていない者が、その手も洗わず、相手の目くそ鼻くそを指弾している観がある。まして週刊誌情報にずっぽり乗っかかっての国会質疑であって、不破の云う「人民的議会主義」が「ゴシップ系悪乗り国会の場」に導く去勢運動でしかないのが分かる。ある意味で、これはオカマ運動かも知れんな。本来のとこで争わずいなげなとこに執着するという意味でさ。これはれんだいこの卓見かも知れんぞ。

 ところで、「著作権:日本共産党中央委員会」について、どなたか当然であると説明してくれないかなぁ。私のコメントやりにくいではないの。ホントは気にしてないけど。

Re:ここは面白く書きすぎましたかねぇ? 
投稿者:れんだいこ ( 11/12 16:56:24 )
 noizさん、こんにちは。少々書きすぎたかとは思いますが、私見は以下のとおりです。

>> ずっぽり乗っかかっての国会質疑であって、不破の云う「人民的議会主義」が「ゴシップ系悪乗り国会の場」に導く去勢運動でしかないのが分かる。ある意味で、これはオカマ運動かも知れんな。本来のとこで争わずいなげなとこに執着するという意味でさ。これはれんだいこの卓見かも知れんぞ。

> 「去勢運動」が「オカマ運動」ということですか.

 ここはもっと正確に文意を表現する必要があったかもね。「去勢」とは「男一の道具」の機能を喪失させる「勃起不全」を意味しているという認識までは宜しいでしょうか。ここをご理解いただけますと、次の作業は、現下共産党の党運動が「勃起不全」型であるということを例証することですね。そしてここまで意見が一致すれば、共産党の運動は「去勢運動」であるという結論を導き出しても無理ではないということになりますね。問題は、共産党の運動が「去勢運動」であるという認識が正しいのかどうかになります。あとで少し考察します。

 私の云う「オカマ運動」には多少注釈が必要でしょうか。そも具合の良い性行為とは、雄の凸と雌の凹が丁度加減良く摂理されていることからして性行為はここが本技と認識しております。「オカマ」とはと説明しようと思いましたが、上述の背理としてご一考されたらいかがかと述べておきます。

> 「いなげな」ってどういう意味なのでしょうか.

 これは、一風変っているという意味で書き込みました。それはそうと方言なんかいなぁ。多少のジョークに比喩.揶揄を入れておりますが、どこか問題でしょうか。

 以上を踏まえて分かりやすい一例でお答えしておきます。丁度「60年安保闘争」時に、ブント系全学連はジグザグ.デモを繰り返し、国会包囲闘争を組織しました。岸首相がアメリカに行こうとして羽田空港へ向かうと、全学連は空港内に入り込み阻止しようとしました。多くの学生が逮捕されましたが、やがて再び態勢をとり直し岸内閣打倒、国会包囲闘争へと向かうことになります。私はこれを「勃起運動」と捉えています。この行動に社会党.総評.共産党が批判を加えます。特に共産党は、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられるや、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかったという史実があるます。

 「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)という詭弁を労し、穏和な送り出し方針をいち早く打ち出しています。私はこれを、いなげな去勢.オカマ論理とみなしています。「秩序整然と抗議の意思を叩きつける」というのが論理的に見ても変調だと申し上げているつもりです。


 やがて「60年安保闘争」は興奮のるつぼと化していきます。この時ブント系全学連は、「お焼香国会デモか戦闘的抗議デモ」かを問いながら、国会を包囲しつつジグザグ.デモの渦を巻きます。この時共産党は、多くの人を引き入れるためにという幅広論理で国会請願デモないし署名運動のみ「許容」していました。「許容」という意味は、ジグザグ.デモをさせないという意味です。どっちでもいいではないかといってはいけません。当時の全学連内はこの方針をめぐって大論争しているぐらいですから。全学連の主流を占めていたブント系執行部は、「署名など山ほど積み上げようと、岸は何の痛痒も感じない。お焼香デモ反対」というスタンスでアジりにアジり、このブント方針に共鳴した部分がやがて国会構内突入へと突き進んでいくことになります。私はこれを「勃起運動」と見なしています。

 不幸にして樺美智子女史がこの時の突入で死亡するという事件が起りました。このショックは政府にも相当なものであり、以降何が起るか分からないという自衛隊出動間際になるという不穏な情勢になりました。アイゼンハワー大統領は来日を取りやめ、岸内閣は退陣で禊することになり、これを双方が合意して切り抜けました。私が云いたいことは次のことです。樺美智子女史が死亡するという事態の中でいったん外に出ていた労学数千名は又もや突入して怒りを露にしていました。この時社会党.総評.共産党の名だたる幹部が一刻も早く構内から立ち去るよう説得に説得を続けていますが、労学はテコでも動かず野次り倒していました。ここに勃起運動と去勢運動のあざやかな対比があると考えています。

 もう少し考察しておきますと、この時共産党は、国会外で後から後から押し寄せてくる労働者の隊列をマイクとピケラインで銀座方面へそらし続けています。例の「整然と抗議の意思を叩きつけよう」という何やら分けのわからない指導をしていると考えればよいでしょう。私は、これをオカマ運動と見ています。いなげであるという意味です。まだまだ云いたいこともありますが、長くなりますと読みにくいのでこの辺でひとまずとします。ご不審でしたら、またレスつけてください。

Re:うーーん、これは弱ったぞ。 
投稿者:れんだいこ ( 11/13 11:56:19 )
 いずみさん、こんにちは。只今お示し頂いたサイトで目下様々な性質の男女現象について勉強しております。私の考えがまとまるまでに所要日数が必要なようです。さいわい私のインターネット知友に四天王がおりますので、この間フォローをお願いしとこうと逃げの手を打ちながらかかと一枚残しておきます。さぁ皆さんお出ましですよぉ。

 もっともどなたからでも良いですので、どなたか私を援護してください、SOS発信です。何お前が悪いという声もあるのかな。それならそれでどうぞ私をぶってください。れんだいこは子供の頃より打たれ慣れっこですから構いません。

去勢.オカマ見解その一、前書き 
投稿者:れんだいこ ( 11/14 18:28:32 )
 私の去勢.オカマ表現に端を発したいずみさんのご質問に対して答えることは骨が折れることである。なぜなら、「性」というもっとも生命の不可思議現象を対象にせねばならないからである。この難問が解けたら私も古来よりの聖人の仲間入りができるわけで、そういう芸当に挑まねばならないことになった辛さよ、うれしさよというところかな。少し大上段に構えて述べてみる。

 少し畏まるけど、去勢.オカマという表現のあるいはそれ自体の是非を論ずるには、やっぱ「性」そのものの位置付けをしとかないと出来ない。前提が狂うと水掛け論になるからである。そこで少し断定的に整理しておくことにする。一般に、我々の「生」は、必須おまんま系3分の1、汎「性」系3分の1、その他系3分の1をモーターにして、その関心の中で日々を経過させているように思われる。私に云わせれば、マルクスもこのことを強く主張した上で下部構造−上部構造論を述べて欲しかった。こうした「生」の営みの本能現象の伝播が人類史の真のモーターであるが、但しこのモーターも生産力と生産関係の社会的諸関係の総和を通じてたち現れるのであり、この観点から見ればその歴史的発展方向が見えてくる、その形態としては原始共産制から云々、と述べて欲しかった。ユダヤ−キリスト教的世界にどっぷり浸って育ったマルクスにとって言わずもがなのことだったせいかどうか、この真のモーターに触れるよりは歴史的発展方向のモーターを強調し過ぎた余りに、いわゆるマルキストが真のモーターに対する見識を失ったきらいがある、と私は考えている。

 従って、この方面の考察は、依然として宗教家と実存主義的哲学者、社会心理学者、文化人類学者等々といわゆる我々大衆一般の口コミを通じての経験値の交流に委ねられて今日まで経過してきているように思われる。その我々は、日々の生活に際して、いわゆるマルキストの歴史の発展法則論とはとんとお構いなく、生命の誕生から衰退までを旬々に応じて春夏秋冬の移ろいに応じて律してきている。私のオヤジの一生もそうだったし、お袋もそのようであるし、その他身近な者の生き様がその例証である。願うらくは、この生活律の上にマルキシズムの知恵を戴かん事を!、決してその逆ではない。(れんだいこ史観によれば、実際にはもう一つのモーターがあることに気づいているが、煩雑になるのでここでは述べない。)


 なぜこのように整理するかというと、我々の「生」の3分の1の衝動を占めている「性」についての認識を強くしたいが為である。栗本氏の「パンツをはいた猿」はその意味で名言であった。歴史の発展法則論から眺めるとどうもこのことがぼかされてしまう気がしている。一般に「生」は、何人(なにびと)も生成消滅の過程にあり、最も盛んなりし生命活動は誕生から20年ほどの間であるように思われる。これは生命の自然現象的「生」の流れである。人は、自我の目覚めの頃より、この「生」の流れに社会的な意味合いを込めて「人生」とみなして客観視しようとする。ところが、「人生」となると、自然現象的「生」の流れとスパンが変っていることに気づかされる。最も盛んなりし「社会的生命」活動としては、「凡そ稼動人生50年」の方に大きな意味を持たせてくることになる。ちなみに、「稼動人生50年」は私の造語である。近時の寿命が延びたことに対応させて昔の「人生50年説」の真意を汲み取って現代的バージョンに手直ししている。

 この「稼動人生50年説」は、「生の充足」を目指して、人が自身の責任において自らを律しつつ生命活動をしていける期間を、それとして独自に評価させようとしていることに特徴がある。従って、誕生から保育の間の期間を省き、寝たきり前後から死亡に至るまでの期間を差し引いている。この期間は更に準備期と「華」の期間と余韻期に分けられる。「華」の期間とは、「蝶よ花よ」とおだてられるに相応しい生命活動の最も充実している期間のことである。凡そ20才前後から50才辺りまでの約30年間と私は勝手に推量している。当然の事ながら多少の個人差がある。なぜ、この期間を特別に抽出するかということが、いずみさんの問いに対する始まりになる。既にお気づきだと思うが、この期間が「性」の旺盛な活動時期と一致している。自我の目覚めの頃は性の目覚めの頃とも一致している。この「性の時期」を引き出すのに前置きが長くなった。しかしこれは致し方ない。「性」をそれとして重視する為に止むを得なかった。

 さて、このようにして抽出された「性の時期」の「性」とは何か。これからその考察に入る。それがいかほど重要なことかは既に述べたつもりであるが、字義から云っても語られている。「性」のつくりは、りっしん編(人)が生きると書かれている。この造語をした者も、「性」の「生」におけるモーターとしての重要性を深く認識していたようである。ちなみに、チベット仏教あるいは真言密教の奥義では、この「性」に対する認識が格別深いようである。こうなると、坊主がお経を唱えながら瞑想しながら何を念じているのか分かったものではない気もするなぁ。

 ところで、今日では「性」は、二面から考察されねばならないことになった。元々「性」とは、ある種のホルモン活動によって促される生殖行為とその密接不可分な快楽行為であったと思われるが、ホモ.サピエンスは脳の発達による高等化の為か、いつの頃からか生殖行為と快楽行為を分化させることに成功した。聖書では、その昔のエデンの園で、アダムとイブが「知恵の実」を食べたことに原因を定めているようである。それかどうかは私には分からない。分かることは、他の動物では密接不可分なこの二つの衝動から、人間だけが快楽行為を自立させえたということである。このことは、「性」を一層高次化したとも考えられるし複雑にしたことをも意味している。悦びと悩みを深くしたとも考えられる。


 ところで、快楽行為というからには付き物として反対物を想定せざるを得ない。不快行為という反対物があればこそより強く快楽を認識できるからである。もう一つ、無反応という反対物を想定せざるを得ない。無反応という反対物があればこそより強く快楽を意識することができるからである。但し、この問題の複雑さは、快と不快、反応と無反応が単に対立関係にあるのではなく、交互左様で互いに転化したり補足しあったり際立たせあうという、いわば弁証法的関係の中にあることも留意すべきである。云いたいことは、最も道徳律から程遠いなじまない関係にあると云うことである。「性」の問題についてはここの認識が肝心だ!。

 もう一つ踏まえておかねばならないことがある。「個人差」の問題である。まず雄か雌かによる性差、次に各自の「性」衝動.意欲の強さ弱さ、感受性にも自然生態的な個体差がある。あるいは社会的な規制.制限(例えばお金があるとか、暇があるとか、格好の場所があるとか、それらがないとかという) による社会生態的な個人差もある。この両面に起因していると思われるが関心の寄せ方にも個人差がある。これらを総称して「性差」と云っているように思われる。であるから、「性」の問題はなかなか一筋縄では解けない、一般論が難しいということである。「性」の問題についてはここの認識が肝心だ!。ところで、この個人差は単にバラエティーなのではないように思われる。自然の摂理に従順か不従順であるかによってマジョリティーとマイノリティーの二派に分かれているように思われる。この二派を更に仔細に見れば、誰一人として個々にバラエティーで同一というものはないようである。まさに「個性」となっているように思われる。「性」の問題についてはここの認識が肝心だ!。

 もう一つ触れておかねばならないことがある。「性」の交合は通常雄と雌の間で交わされるが、この雄は絶対的な雄ではないし逆も云えるのではなかろうか。なぜなら、雄は雄としてあるけども交合によって雌を生み出すことができる雄であり、その逆もそうである。最新の生物分子学によると、染色体X−Yの不可思議な組み合わせによって雄となったり雌となって誕生してきており、互いのその差の基盤は「僅かな差による絶対的な差」としてもたらされている微妙性の中にある、ということのようである。その例証は、生物学的な両性具有者がいるということで分かる。ちなみに私は子供の頃、このことでからかわれている女の子を知っている。もっとも弟の遊び仲間であるからして私が見たことはないが。あるいは生物学的な「性」と自己認識としての「性」が必ずしも一致していない場合があることもその例証となるように思われる。いわゆる男の女形.女の男形もこの系譜にあるように思われる。この辺りはその道の専門の人に逆に教えてもらいたいくらいだ。

 さて、以上を踏まえていよいよ本題に入る。えらい前置きが長いんだ。これは問題が難しいことに起因している。

Re:去勢.オカマ見解その二、去勢について 
投稿者:れんだいこ ( 11/14 18:52:52 )
 「性」の交合は、生殖行為を中心として為される。これは他の生物を見れば一目瞭然である。人間も生物であるからにはその掟を免れない。なお、この場合の受精の仕組みを見れば次のように云える。哺乳類の全てがどうかまで知識はないが、生物進化のある系以降は、雄は雌の膣内に急激な勢いをつけて精子を発射しないと奥の院にある雌の子宮にまで精子が辿り着けないようである。あらゆるはぐれ間道、難関を乗り越えて僅か一個の精子が子宮に着床し、卵子と結合することにより生命が誕生することになる。この経過はドラマであり、見事な小宇宙の原理を調和させていると云われている。但し、早くもここにも例外がある。二個の精子が子宮に着床し、卵子と結合することがある。確かこれを一卵性双生児というのだと思う。着床時を隔て二個の精子が子宮に着床し、卵子と結合することがある。確かこれを二卵性双生児というのだと思う。双生児が双子を意味するとばかりは限らない。三つ子、四つ子等々多生児の場合もある。シャム双生児の例もある。但し、圧倒的なメジャーは一卵性一生児であり、例外があるという風に認識するのが正確かと思われる。

 但し、いずみさんに答えるためには、ここでも例外性を強調しておきたいと思う。当然のことながら、例外は例外であるけども、そのことは事実認識であって、それが良いとか悪いとかの判断にはなじまない。但し、少し饒舌になるが例外はマイノリティー以上にはならない。なぜなら例外でなくなるから。


 この云わずと知れたことをなぜ述べるのかというと、これが生命誕生現象の基本だと思うからである。この基本においては、人の場合、雄は「勃起力」を利用して勢いをつけて射精することが本能とも云うべき必然性で摂理されている。雌は、このうちの恐らく生物学的に見て継承されるに値する優秀な精子を選別し、子宮まで引き込むことが本能とも云うべき必然性で摂理されているようである。興味深いことは、「優秀な精子の選別」における「優秀さ」の認定は、我々の薄っぺらな思慮をはるかに超えているようである。そういうことも含めて「性」の摂理は、何とも不可思議な作用の働きと按配になっていると聞かされている。この辺りもその道の専門家に逆に教えてもらいたいくらいだ。

 ここでは、これをwhyと問う議論は避けたい。why理論は専門家に委ねて何ら差し支えない。我々としては摂理に対しては謙虚であれば良い、と私は考える。例えて云えば、一才児がなぜ二足歩行に向かうのかをwhyと問うようなものであろう。人とはそういう者だと確認して何ら差し支えない。実践的には、「性」の摂理を味わうだけでも結構幅と奥行きが深くて、私なぞは忙しくてたまらない(ということにしておいてね)。あたかも、「死とは何ぞや」と弟子が問うたのに対し、孔子が「いまだ生を知らぬのにいかで死にまで関心持てようか」と答えたのを彷彿とさせる。


 とはいえ、問題は簡明ではない。最近の科学の発達は、試験官ベービーあるいは又クローン生命の誕生技術を生み出している。こうなると、私がこれまで述べてきた自然の摂理の重要な部分を要件としていない。それが冒涜なのか許容される新しい可能性なのか、現在「倫理」問題として争われている。私の関心は、こうした自然の摂理に背理する分かりやすく云えば本能破壊事象に対してどう抗していくべきかの方にある。私は自分自身をウヨサヨ論でいけばサヨクと認識しているが、この観点から自然の摂理に反させようとする動きに抵抗していく方法を模索しようとしている。「性」の問題で云えば、柔軟性も暴力性もそれとして受止めていく、神聖性も淫靡性も不即不離のうちに認識する視点を確立しようとしている。むしろ、この一方の過度の強調、押し付けは病理として認識する視点を確立したいと思っている。最近の万事に対する物分りのよさ優しさが、この境界を曖昧にしつつある傾向とドッキングしていることに対して、私は反対である。

 ここまで説明すると分かっていただけるかと思うが、自然の摂理においては、雄には勢いが要求されているということであり、これに欠けることは自然の摂理に反していることになる。通常この状態を「去勢」と表現する。「去勢」問題の肝心なことは、勢いにはかなり個人差があり、勢いに欠けるからといって批判されるには値しないという見地を確立することである。しかし、次のことも述べねばならない。むしろ私はこちらのほうを主張している。本来勢いのあるものを意識的に勢いをなくす方向に無理を重ねさせることの罪−これを去勢傾向と云う。この罪はいただけない。

 ところで社会にも摂理のようなものがあると私は認識している。自然摂理と社会摂理は同一というのではなく類似としいうレベルであるかも知れない。宗教家で相似象照応として捉えている者もいる。私はこの観点を高く評価している。ここから話を少し飛躍させるが、日本共産党宮顕−不破に認める党指導は、党中央権力を駆使して強権的意識的に去勢方向に運動を操作している節があるとみなしており、私はそれを指弾している。その例証は幾つもあるが、というより全てそうであるが、「60年安保闘争」の例を挙げて述べたつもりである。ちなみに付言すれば、このような運動を長期間続けると、人はそれに適合させようとして「去勢」派を次から次へと生み出すことになるのが理屈だと云うことである。理論と運動が生み出すいなげな果実であると思われる。更に付言すれば、この去勢的おとなしさと優しさとは似て非なるものである。むしろ、お互いの機能を摂理に合わせて作動させるうちにこそ本当の優しさがあると認識している。その例証は、多くの夫婦関係の破綻が云うかいわないかは別にして「性の不一致」に起因しており、「性の合致」による円満な夫婦が通称「上げマン」として崇め合っていることでも知られる。

Re:去勢.オカマ見解その三、オカマについて 
投稿者:れんだいこ ( 11/14 19:06:38 )
 次に、オカマについて述べる。オカマ問題には、オカマという表現に関わる差別性とオカマ行為の是非論の二つがあるように思われる。まず、オカマ行為の是非論について考察する。オカマ行為とは、男一の道具を、女性一の道具の替わりに菊門を利用する行為を言うのだろう。これを特別にオカマというからには、専らこちらのほうを利用する性癖のことを云うのであろう。これをどう見るか。私は「本技とはずれたいなげな行為」と見る。なぜなら、男一の道具と女性一の道具とは刀と鞘の関係の如くあるいはそれ以上に適合性があるが、男一の道具と菊門の場合にはそれほどの適合性があると思われないし、菊門に住み着いている雑菌は男一の道具を傷つけ菊門も又傷つけることを訝るからである。但し、挿入できないわけではなかろうから挿入自体をとやかく云うつもりはない。私が云いたいことは、それは性技のスパイスにはなっても本技には到底なりえないということにある。にもかかわらず菊門に拘り執着するとするならば、これを警句的にオカマと云いなすことは差し支えないと思う。

 先の「去勢」考察と同じ論理で話を少し飛躍させるが、私が日本共産党宮本−不破に認める党指導は、このオカマ方向に運動を意識的に操作している節があると思っており、それを指弾している。その例証は幾つもあるが、というより全てそうであるが、「60年安保闘争」の例を挙げて述べたつもりである。ちなみに付言すれば、このような運動を長期間続けると、人はそれに適合させようとしてオカマを常態とさせようとする適応性を生み出すことになるのが理屈だと云うことである。理論と運動が生み出すいなげな果実であると思われる。更に付言すれば、このオカマ行為と通常の性行為とは似て非なるものである。中のメカニズムが違うということである。

 オカマについてはもう一つ考察せねばならない。オカマという表現に関わる差別性についてである。これは何もオカマだけに関わらない。自然の摂理との適合と非適合の違いに対して、あるいは又正常機能と非正常さに対しては、人は須らく認識上区別を生む。但し、適合と非適合、正常機能と非正常さは対立関係にあるわけではない、あくまで適合、正常さの問題であって、人は多少の個人差と「ハンドルの遊びの部分」のようなものを持っているし、自然の摂理は先天的ないし後天的資質あるいは欠陥、機能不全をも生み出してもいる。つまり、元始から雑居性としてあるということが云いたい訳だ。

 但し、肝心なことは次の点にある。このことが社会的な差別問題に直結されるべきかどうかというと、そうあってはならないと考える。私は、この認識の仕分けが肝要と思っている。最近の傾向として、差別につながるから区別もしてはならないという風潮があるように思われる。私はバナナなことと受止めている。認識は互いに自由自在であるべきではなかろうか。いなげなものをいなげなものとして認識していけないとならば、須らく我々の判断機能の停止をする以外に方法はない。問題はいなげであるからといって差別まで生み出してはならないことにある。自他との違いはそれとして認識されるべきであり、例外も又認められるべきであり、何事にも世間にはバリエーションがあるものだと心得るべきだと思っている。


 このことは、いわゆる「イジメ問題」にも通底しているように思われる。私は、子供がその成長過程で識別能力を獲得していくのを押さえようとは思わない。その範囲で「イジメ」があるのなら許容されると考えている。許容されないのは、「量の質への転化」水域以降の「イジメ」に対してであると考えている。何事も度が過ぎてはいけないということが云いたい訳だ。暴力的、集団組織的、構造的「イジメ」に対しては、教育関係者は教育現場で断固排斥させねばならない。問題は境界線の識別にあるだろうが、事例研究の積み重ねで可能と考えている。

 なぜある程度の「イジメ」が許容されると考えているかというと、子供はそうして社会的相互関係を習得していくからであり、「イジメ」られる者はそれに対する抵抗力免疫力を培養して欲しいからである。なお、弱き者を助ける気概、庇う気持ちをも経験を通じて育成して貰いたいからである。そうしてみんな大人になって行くのだと私は考えている。強権的に蓋をすれば、「イジメ」がなくなるものではなかろう、本音がどんどんと隠蔽されて建前のみが横行すると考える。ここで留意すべきは、凡そ成人年齢(昔は元服14、5才)以降にあっては、「イジメ」する者こそ無教養を謗られるべきであるという認識を獲得すべきである、ということである。ということは、教養的素養の肝要が大事ということになる。学校とは互いがこれを形成するところに本来の意義があると思われる。しかるになぜ「イジメ」が風靡するのか。それは現代大人社会の露骨な反映であるという視点を獲得したい。


 ついでといっては何だが、ここで障害者問題も考えることにする。障害者問題の基本対策は、そのことによる不当な社会的差別を生み出さないことと自立化扶助政策で対応することにあると考える。いわゆる社会福祉とは、このセンテンスで為されねばならないと考える。もっと云うと、障害者に対する金銭的配慮でことを済ますのは半分の仕事であり、ここに留まる限り障害者の真の援助にはならない。残りの半分の仕事として、当人が望むなら、あくまで社会的自立の為しえるように、その為に生計的扶助が為されるように実質的な社会対等性が確保されるべく施策されねばならないと考える。雇用機会の確保、もう少しましな労賃へ向けて運動が組織されねばならないと考える。

 障害者対策の最悪の手法は、こうしたことに向かわず言葉尻のやさしさで糊塗しようとすることである。侮蔑的あるいは差別的言辞で遇されるよりは良いであろうが、そこに留まる限り偽善が過ぎると思う。従って、言葉の排斥だけに神経を使っているマスコミの近時の傾向は、そして認識上一層ののっぺら化を進めている傾向は、敢えて云えば「百害あって一利」しかないと云いたい。


 障害者問題でもう一つ踏まえておかねばならないことは次のことにある。健常者と障害者の垣根は、我々が普通断絶的に考えられているよりはもっと近い。例えば交通事故でいつ健常者が障害者になるかも知れないというだけではなく、障害者が障害を引き受けたが故に健常者が健常者足りえているという相関関係にあるとも思われるからである。これは遺伝子の授受問題としてこれからの科学が証明していくことになるだろうと予測しておく。このことは、次の実践を我々に指図する。例えば兄弟姉妹において障害者が生まれた場合、彼が一身にその身に不具を引き受けたが故に残りの者は健常を頂いた面もあるという認識の必要である。してみれば、健常者家族は身内の障害者をむしろ祀ってでも彼又は彼女の生命を全うするよう援助せねばならないということである。社会制度的配慮と家族的支えが必要なる所以はここら辺りにもあると思われる。

 他に企業の公害犯罪の問題、いわゆる「男らしさ女らしさ」問題の考察の必要もあるが、話がどんどん広がりすぎるので割愛する。以上で、だいたい云いたい事を云いおえた気がする。

Re:うーーん、変調なんかなぁ。 
投稿者:れんだいこ ( 11/15 00:39:11 )  
 はい、こんばんは、いずみさん。気になるレスだけど仕方ないからお待ちします。

> ここまで、現代自然科学が獲得している段階を無視し、 かつ社会科学的にも混乱し、 かつ偏見に満ちた反論を、どうもありがとうございました。

 そんなに変調ですかぁ。自分では分からないです。

> とりあえず、れんだいこさんが、これらの問題について、まず議論の前提となるような知識そのものをほとんど持ち合わせていないことがわかったので、そのあたりを解きほぐしながら、逐次反論を行なっていきたいと思います。

 うーーん、知識がないと云われたらあるとも云えないですねぇ。ただ自分の言葉で語ったとは思う。しかし逐次反論を待つ身は怖いですがね。

> ただ、本当に申し訳ないのですが、 私、今週はひろゆきとトークライブで対決(笑)したり、 某「左翼業界に一石を投じるプロジェクト」の打ち合わせがあったりと まじで大変なので、できれば反論は土曜深夜までお待ちいただけませんでしょうか。

 了解です。まないたの鯉ですよ。

> それまでの間に、れんだいこさんの方で、これらの論について部分的または全面的な修正を行うことにはまったく異論ありません。

 一応れんだいこ人生50年の労作ですので直しようがない。編を篇とか肝要を涵養という風に直したいとこがあるぐらいで、論調は変えるつもりはありません。でもって後三日、待ちますよぅ。

Re:たけしさん、セコンドにいてくれなくては。 
投稿者:れんだいこ ( 11/16 19:46:37 )
 たけしさん、こんにちは。恐らく場内外乱闘戦が始ろうという時に客席へ下がってはいけません。仰向けに倒れ悶絶させられた我輩に「しっかりせよ」と水をあびせかけてくれる人とか、身柄を引き取ってくれる人とか、替わりにパンチを繰り出してくれる人とか多様な人材を揃えていないと、心細いですがね。

 私もあれから今まで考えてるけど、私がもっとすっきり文を書いたほうが良かったとは悔やまれますが、内容はかなりのことを云いえている気がしています。そしてこの私の考えのどこがどう間違っているのか、顔を覆った指の間から覗いてみたい気がしております。何せ、この方面は私の初考察ですしね。そんな風に云うのはおこがましいといわれるレベルなのかも知れないけど、そこは自分では分からない。私なりの疑問は伝えていますしね。悲しむべきは私の文章力であり、読みにくいとか必要な説明文が抜けているとか、簡潔要領よく表現できていないとかあると思います。それは今となっては仕方ないです。

 このバトルには他の方の参戦もあるのかな。私が袋叩きのサンドバックでふらふらダウンの図があるのかなぁ。今はそれさえ分からない。でも、一応考えて書いたのだから取り繕いようがないですしねぇ。今はもうせつなく待つ身です。




(私論.私見)