ヒゲ虎時事評論6 |
Re:共産党中央に黄疸症状が出ていないだろうか 投稿者:れんだいこ ( 09/16 18:56:09 ) |
このところインターネット版赤旗の批評をしてきているが、画面が変わるのが遅いし、こういう広報活動をやる気がないままやっているのではないかと思われる。もっとも、画面が変わったといっても単なる報道記事のようなものが多く、批評力さえない。さえないという意味は、指針なぞ毛頭為しえていないという意味である。 隔世の感がある。恐らく私よりも以前の左派系の者からすればもっと隔世の感があるだろうと思う。金子の息子の手記が雑誌「現代」に載せられ、その記事批判が為されているようであるが、インターネット版には載っていない。私が見落としたのだろうか。それともこういう不都合記事は載せないのだろうか。 今やどんなことが起ころうとも(税金の問題だけは別のようだが)、我々庶民大衆も又安心立命の境地を開き得ているようである。この不活性化の流れこそ、「六全協」以来第8回党大会までの間に敷かれた総路線の帰結である。一言でいえば、宮本路線の招いた結果である。私も発言するからには責任を伴うので資料を整理しつつあるが、御仁のやってきたことは知れば知るほど無茶である。その無茶さをとがめずにきている我々にも当然責任があるであろう。その無茶な男を祀り上げ、弁護し抜いている不破は更に又無茶である。その不破に寄り添う志位ともなると無茶の極みの終点となるところが、さらにそれを支持している党員.党友がいるからこれは無茶の究極系であろう。 恐らく、「丸山真男」氏もこういうセンテンスで戦前の戦争責任の総括の見直しを要請していたのだと思うが、掻き消されてしまった。そして、我々は指を加えて傍観する体質を今なお続けている。もし、党中央の変調さが更に進行して何やら機能停止していたとしても、我々はそれを嗅ぐすべを知らなくて良いのだろうか。私には、不破執行部はこのところのダッチロールで今やどこかで暗礁に乗り上げているのではなかろうか、既に幾久しく幹部会は機能していないのではないかとの感じがする。下部党員は下部党員で活きのいい系は利権の周りをうろうろしており、活きの悪い系はへそてん口チャックしているのではなかろうか。盲人ゾウを撫でるの感で要領を得ないが、そんな気がする恋の夜だ。どなたか情報通さん調査を頼む。 |
Re:またしても石原発言、雑感 投稿者:れんだいこ ( 09/18 15:22:33 ) |
石原東京都知事がまたも言いたい放題してくれている。2000年 9月15日
(金)「しんぶん赤旗」は、「石原知事また暴言 武器禁輸3原則は『バカなルール』」の見出しでこれを記事にしている。何度も指摘しているが、もはや日本共産党には批判も戦う方向の指導もなす能力がない。記事で報道するのが精一杯のところのようである。それによると次のような発言であったようだ。石原都知事の発言(要旨) 「あいつら(米国)は高いものを売りつけてもうかっているから、日本に飛行機の開発を許すことをこわがっている」、「(日本は)どんどんつくったらいい」、「ただ量産はできない。日本はバカなルールがあるから外国に売れない、武器は。武器を売るほうがいろんな安全保障になるんだけども。これはいろんな異論があるでしょうが、そういう制約があるから非常に単価が高くなることは否めないが、バカな予算を組んでいるのだから、(横田基地の滑走路の改修費用のような)その金をまわして、日本は自分の兵器というものを開発したらいい」。 東京都の石原慎太郎知事は十四日、都庁内での会見で、日本の武器輸出を禁止・制限している「武器輸出三原則」を「バカなルール」としたうえ、「武器を売るほうがいろんな安全保障になる」、「日本は自分の兵器というものを開発したらいい」などと発言しました。石原知事の発言は、さきの日米軍事首脳会談で対潜哨戒機P3Cの後継機の日本による独自開発に米国が難色を示したとされる問題にかかわり、「日本は独自開発をすべきだ」とする意見の表明に続いてとびだしたもの。 武器輸出については、戦争放棄の日本国憲法のもとで自民党内閣も、国際紛争当事国などにたいするものを禁止し(六七年)、より広い国・地域にたいしても武器の輸出を「慎む」(七六年)としてきました。八一年には、国会で武器輸出について、政府に対して「厳正かつ慎重に」対処すべきであると決議しました。ところが「戦後政治の総決算」をかかげ、憲法にもとづく諸施策の改変をかかげた中曽根内閣が、八三年に日米安保体制のもとにあるアメリカには輸出できると閣議決定しました。 赤旗は、「石原氏の発言は、軍事優先の立場から、武器輸出三原則の背景にある憲法の平和原則そのものを否定する暴言として、強い批判をよぶことは必至です」とはいうものの、自らが主体となって批判を呼び起こすつもりはないらしい。第二法人税課税で賛成を投じたのは少し前のことである。どうやら是々非々で望んでいるらしい。そのうち、対公明党−創価学会闘争においては、共同戦線を組むものと思われる。不破と石原の関係は、意外に接点が多いと私はみなしている。 ところで、石原都知事は、「米国は高いものを売りつけてもうかっているから、日本に飛行機の開発を許すことをこわがっている」、「さきの日米軍事首脳会談で対潜哨戒機P3Cの後継機の日本による独自開発に米国が難色を示したとされる問題」等々日本の自主防衛の見地からアメリカとの軋轢を語っている。知ってかしらずでか、この発言は、日本共産党にとって不都合なものとなっている。これを説明すれば、共産党の綱領問題に関係してくる。同党の綱領では、日本は未だにアメリカの全一的支配を受けた従属国であり、対米独立解放闘争こそが優先的第一闘争課題となっている。私などは、おかしな現状規定でありますます不似合いな規定であることがはっきりしつつあると思っているが、不破らはますますこの規定の正しさが証明されつつあると強弁している。 どちらが正しいのだろうか。日本は独立国なのか従属国なのかという論争であるが、そろそろ手直しせねばならないのではなかろうか。なぜそれが出来ないのかについてコメントしておく。この「従属規定」は宮本が固執しつつ持ち込んだものである。第7回党大会から8回大会までの間に春日(庄)グループとの論争を引き起こしている。春日らは、サンフランシスコ条約で一応独立を果たしたと見て、いよいよ社会主義革命が戦略課題となったと主張した。但し、構造改革派と云われているようにやや体制内化運動を志向させていた。宮本らは、依然としてアメリカの庇護の下にあり、民族主権回復独立運動こそ第一義的優先課題であると主張した。真意は社会主義運動はまだまだ早い、させない論にこそあったが、この仕掛けに気づく者が少なく遣り取りされてきた。宮本と春日グループの対立は論争では決着がつかず、実際は宮本派による春日派の徹底した組織的排除によって完遂された。以来、志賀派.中国派等々除名の流れが続いたが、この頃は既に日本共産党という党名とは裏腹に社会主義目指さない、向かわせない運動を展開してきた中でのコップの中での嵐であった。いわゆる共産党認識の難しさはこの辺りにある。現下党中央の為していることと党名からくるイメージとの区別のないままに党を支持する傾向があるが、ここを見分けしない限り正確な論議にはなり得ない。お節介ながら一言しとこ。 |
Re:規約変える前にあなたが替われ 投稿者:れんだいこ ( 09/20 23:02:53 ) |
不破が又底無しの右傾化を策動している。規約を変えようとしており、自衛隊の公認にも踏み出した。例によってまだるっこい玉虫色で表現しているが。私は何も変えること一般を批判しようとは思わない。世が変化すれば何事も改変を免れないから。問題は、何をどこをどのように変えようとしているかに有る。 普通に考えれば、「民主集中制度」こそ変えられねばならない筆頭であろう。次に綱領に有る「対米従属」規定も変えられねばならぬ。代議員の選出制度も民主化されねばならない。最高幹部の最長十年制なんかも導入されねばならないだろう。と思いながら何が変えられようとしているのかと見れば、「前衛」表現と社会主義革命を目指すを改め、自衛隊を現状容認するという。この御仁は、また何をしてくれるのだろう。我が世の春でいろいろ姑息な工夫をしようとしているのは分かるが、一体全体党内論議はしっかりしてくれてるのでしょうね。まさか独断専横でこのようなことをしようとしているのではないでしょうね。 自衛隊の現状容認は致し方ない面も有るのは分かる。しかし、このような重要な観点の変更を為す場合、過去の理論との決別を精密な総括なしには為し得てはいけないことは自明であろう。共産党が理論政党として高く評価されているゆえんの財産ではないのか。前衛改め国民政党化も同じように総括なしには為してはならない。なぜなら重要なことだから。重要なことをトップの一存で決められる体質こそ改めてもらいたいというのが国民の願いなのではないのか。 いろいろ変えようとしているが、一番変えてもらいたいところを変えずに何をしようとしているのだろう、この御仁は。次の選挙の言い訳聞きたい面も有るが、その前にもう顔も見たくないな。あんまり真面目には反論しない。オリンピックの放送聞き聞き書いていて集中しないということと、この御仁の老人性痴呆症のなせる技と思うから。この病気にかかると、押さえていたものの押さえが利かなくなる。分かりやすくなってそれで良いのだけど。もうこうなったら、どんどん純化させて行きつくところまで辿り着きなさい。 |
Re:言い回し上手の真意をはっきりさせてみよう 投稿者:れんだいこ ( 09/21 10:55:55 ) |
このたびの不破提言の中の一説の第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本は、つぎのとおりである。これは面白い 。 (一)党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。 (二)決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。 (三)すべての指導機関は、選挙によってつくられる。 (四)党内に派閥・分派はつくらない。 (五)意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。 私は、ここに一番興味を覚える。「(一)党の意思決定は、民主的な議論をつくし、」は今までのやり方が民主的な議論を尽くしていたという認識でいっているのだろうか。「最終的には多数決で決める」も、このたびの提案自体そういうプロセスで多数決できめられようとしているのだろうか。 「(二)決定されたことは、みんなでその実行にあたる」は、党中央の云うことはその通りの満場一致を強制してきた今までのやり方を良しとしているのだろうか。「行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である」という自覚があるなら、他にも国民にたいする公党としての責任は一杯あると思うが。今回のように過去の言説と違う提案をする場合にはしっかりとした理論的総括を為してこれを行うことなぞがいの一番の公党の責務と思うが。 「(三)すべての指導機関は、選挙によってつくられる」は、どういう選出システムで行われるのかが大事であって、現行のやり方はまるでなっとらん田舎芝居であると思うが、ここを改める意思ありやなしや。 「(四)党内に派閥・分派はつくらない」は、果たしてそうだろうか。宮本−不破−志位こそが党中央派閥をつくっていて、それ以外に派閥を認めないというのは万古不易の党中央安泰理論ではないのか。 「(五)意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」は、本当かいなそうかいなというやつだろう。誰か叛旗を翻して試してみたら面白いのにね。 なるほど分かりやすい表現にはなったが、手引きなぞつくって事例発表させる必要があるなぁ。宮本−不破の一貫した作法だが、言葉はいかようにも語り、やっていることが正反対というケースが一杯ある。党史を見ればその宝庫である。もっとも党が作成している現下党中央自画自賛方の党史では読み取ることが困難ではあるが。 最後に提言しとこ。執行部の権限と責任と年限も、ひらがなで明記したほうがいいよ。 |
高校退学者が増えている 投稿者:れんだいこ (
10/04 17:52:10 ) |
登校拒否が増えているということが問題になっていると思っていたら、最新の情報では、不況のあおりで高校退学者が増えていることらしい。親の事業の失敗、リストラの影響だということだ。政府・与党の対策は、大手ないし金融企業の救済に比べてこの種の救済には熱心でない。何とかならならないのだろうか。 |
馬脚満展開の不破の引退興業を撃て! 投稿者:れんだいこ
( 09/22 12:30:07 ) |
執行部におさまっていらいの悪行の数々の引退興業がこのたびの規約改正案となりそうである。不破の云い続けてきた第8回党大会の本質と帰結を露にさせた格好となっている。以下順次見ていこうとも思うが、馬鹿らしい面もありとりあえず総論しておく。分かりやすくしたということのようだが、そもそも不破の玉虫色の長饒舌こそが分かりにくい。恐らく当人の癖か意識的な手法であろうが、ひらがな文句に書き換える以前の話であるように思われる。 で、何をやろうとしているのかというと、第一条の党の名称は変えない。第二条の党の性格については大きく変更したいらしい。現行規約は、「日本共産党は、日本の労働者階級の前衛政党であり……」としていたが、このたび「階級政党」規定を取り外すことにした。その理由は、今までのそういう規定が間違っていたか的確でなかったという理由付けをしている。全体に饒舌なので整理すると、共産党の使命は何も労働者の階級的利益だけを考えるのではなく、国民一般の利益を考えているのだから不適切ということらしい。今や党が目指しているものは、概要「日本共産党の門戸は、日本社会の進歩をめざすすべての人々に開かれており」、「国民的な課題のために力を尽くし」、「国民が主人公の立場」、「多数者革命」、「真の民族と国民の党」である。従って、結論は、「日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党である」ということにしたいらしい。 これにコメントすれば、党内に異論無きマルクス主義の背教の公然化であるということにある。生産力と生産関係の通史から労働者階級に時代を担う能力と歴史的趨勢を告げ、その歴史的任務の覚醒をしていこうとしたマルクスの教えはここにはない。驚くなかれ!、労働者階級と国民が対置された関係に立たされている。ずぶすぶの国家主義者、民族主義者、排外主義者であることを明白にさせている。何をどういおうと勝手だが、少なくとも党名変えてくれや、不破よ。 従って、「前衛政党」の規定も外すという。それは、「わが党が労働者階級、あるいは日本の国民に号令をしたり、その考えや方針をわれわれが前衛だからといって国民に押しつけたりする」ことになりやすく、「どんな方針も、国民の共感、信頼、そして自発的な支持をえてこそ実現されるもの」であるから不適切ということになるらしい。概要「不屈性と先見性が『前衛政党』の核心であったが、この言葉は誤解されやすい。『指導するもの』と『指導されるもの』との関係としてとらえられる誤解を生む、という」。前衛的位置付けの中に指導性的意味はないとは初耳だが、よく聞いてみると、党内向けには厳然と存在し、世間様には不向きな関係だといっていることになる。そんな無茶なと思うのは私だけだろうか。 しかし、例によってマルクスを引用する。「いろいろ文献を読んでいて面白いことに気づいたのですが、大先輩であるマルクス、エンゲルスは『前衛』という言葉はいっさい使いませんでしたが、最初の綱領的な文書である『共産党宣言』のなかで、共産党の役割を規定して、なかなか味のある言葉を残していました。実践的には、『もっとも断固たる、たえず推進していく部分』であるという特徴づけ、理論的には、『プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を洞察している点で、残りのプロレタリアート大衆に先んじている』という特徴づけです。これは、不屈性と先見性を独特の言葉で表したものだと読めます」と、要領の得ないことを云う。どこの部分の引用か検証していないが、私なんかは、この文面から党の前衛性を引き出すことができるが、不破はどうやら「前衛」とははっきり明記していないではないかと云いたいらしい。忍法煙巻き話法というべきだろう、ええ加減にせぃ。 次にこんなことも云っている。第二条の後半の文章として、「党は、創立以来の『国民が主人公』の信条に立ち、つねに国民の切実な利益の実現と社会進歩の促進のためにたたかい、日本社会のなかで不屈の先進的な役割をはたすことを、自らの責務として自覚している。終局の目標として、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会の実現をめざす」も、これは「わが党の自己評価であって、ほかの人びとにこの認識や評価を押しつけるものではない」んだと。つまり、党内向けのアイデンティティ以上の意味はないという。つまり、商売の道具に過ぎないとぬけぬけと語っていることになる。何たる理論軽視、不見識ないいざまだろう。こんな御仁に指導されて喜んでいる党員の面を拝してみたい、と思う。 以下、組織論の解説に向かっている。既に馬鹿らしい気分になつているが我慢してご拝聴すると、やはり思った通りでこういう組織観を持ってはいけないというワルの見本のような話を開陳している。「民主集中制度」の悪弊が取り沙汰されている際に更にそれを改悪する方向に手直ししようとしている。表向きは何やかやもっともらしく云っているが、今まで実際にやってきたこと見たほうが早い。今までももっともらしくは云いつづけてきたことだから。 興味を引くのは、党員の権利と義務、市民道徳の新しい提起について、十項目に整理し、「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」という市民道徳と社会的道義の問題をあらたにかかげたことにある。自らが手本を示さず、奥の院の乱痴気は不問にして下部党員に市民道徳を説く不破の人格的高潔性とはそも何ぞ。「人間の生命、たがいの人格と権利を尊重し、みんなのことを考える」、「真実と正義を愛する心と、いっさいの暴力、うそやごまかしを許さない勇気をもつ」に始まり、「男女同権と両性の正しいモラルの基礎を理解する」などもふくむ十項目を掲げているらしい。「うそやごまかしを許さない勇気をもつ」とは、よくもぬけぬけといってくれるなぁ。「この問題を、党員の権利、義務の冒頭にかかげて重視することの意味を、深くとらえてほしいと思います」とは、よほどこの問題で悩まされているということのようである。そったらこというのなら、まぁ手本を示さんとあかんわな。そのうち親に孝行、ご先祖を大事にも加えればいいんだ。 どうでもいいような、どうとでもなるようなところは「支部が主役」だとか地方組織の自治だとかの言葉を散りばめつつ饒舌しているが、党員を党中央に拝跪させ、活きのいい系党員を座敷牢に入れておく手法はむしろ強められようとしている。不破はあちこちの出版自由自在で、下部党員のそれは許さないのだと。インターネットで通信しあうのも規制されることになるようである。ほとんど病気のパラノイアだな、これを手土産に醜態さらして引退興業となるのがいかにも不破の悪行に相応しいわな。 |
Re:馬脚満展開の不破の引退興業を撃て! 投稿者:れんだいこ ( 09/23 15:04:10 ) |
このたびの党規約改訂は、従来でもその非道が指摘されているというのに更にそれを改悪させているところに特徴がある。政策面ではどんどん現状に合わす式に軟派させるのに、党組織論のほうは逆比例で統制化を強めていく、これって変でないかなぁと思うが、変ではないと自分の首が締められるのを喜ぶ者もいて、こうなるとオカルトの世界に出くわしたような気がする。 思い起こすことは、戦前の宮本らによる査問事件で、査問中に小畑中央委員が死亡したことの責任について、宮本が法廷でとうとうと述べていることの内容である。一つは、小畑がスパイであったので、そのスパイを摘発することは正当防衛であると主張して退けられた。戦前が暗黒の反動的階級裁判だから退けられたのではない。正当防衛説に立った場合の前提となる小畑氏がスパイであるかどうか判明しなかったからであった。宮本.袴田らはいかに小畑がスパイらしくあったかを力説してみたが、何より査問中小畑がこれを頑強に否定したまま死亡せしめられたこと、スパイ容疑として挙げられた数々の事項が根拠薄弱であったこと、査問中スパイであることを自白したという宮本らの言い分によっても「そう受け取られても仕方ない面もあった」という文脈においてであったこと等々が判明したからであった。 次に宮本らが主張したのは、これは党内問題であり階級裁判にはなじまない説であった。実際には不法監禁罪の適用の是非をめぐって争われたが、宮本は次のように反論した。党員は、党の規約を承諾して入党していること、規約には査問の権利が認められていること、このたびの査問は小畑も承諾の下に為されたこと、査問中暴力は行使されなかったこと、小畑の死因は特異体質に基づくショック死であったこと等々。この弁明も退けられた。戦前が暗黒の反動的階級裁判だから退けられたのではない。不法監禁にあたらない説に立った場合の前提となるこのたびの査問の様子が、宮本のいうような「静かに対等の立場で」行われたものではなかったからであった。小畑氏が連れ込まれたときの様子、ピストルで脅かされていたこと、その後手縄.足縄.さるぐつわ.頭から首までのマント覆いのもとで、暴行を交えながら査問されたこと、食事を給せず用足しさせず、最初の日には深夜まで継続されたこと、二日目の午後逃げ出しをはかった時の押さえ込みの様子等々が、宮本の「静かに対等の立場で行われた説」と大きく違い、裁判長がさすがに宮本説を採用し得なかったからであった。 ところで、現下党中央は、宮本説のみが正しいとしてこの事件の究明を避けたまま今日に至っている。他の者も全て事件の当事者である。その当事者が実際にあったことを陳述しているのに転向者による宮本落としこめんとする虚偽陳述であると見なされている。合同公判で明らかにされればよいと思われるが、宮本.袴田.秋笹らがこれを要求し逸見.木島らが逃亡しようとしている様が公判でプロパガンダされている。単純な者はやはり逸見.木島らが虚偽陳述しているから出てこられなかったと思うであろうが、実際はそう簡明なものでもない。袴田.秋笹らも仔細に暴行査問の様子を明らかにしている。宮本一人暴行なかった説で、遺体にあった損傷の数々も本人が押入内で自損せしめたものではないのか、指爪先が深くせん断されていたことに対しては小畑は日頃爪を噛む癖があったとおしゃぶり人間にさせ、査問した方の宮本が疲れて休んでいたというのに不自由な姿勢を強いられていた小畑は交互の査問押入内にいれられていた時休めていた筈だとか、ショック死の可能性をもっともらしくさせる為日頃大酒飲みであったとか梅毒に犯されていた可能性があるともいいなして今日に至っている。付言すれば、私の調査によれば、当時宮本がスパイだと摘発した者たちこそ戦闘的労働者であり、摘発側の宮本.袴田.木島らこそ胡散臭い。 以上長々と書き込んだが、何のためにといえば、このたびの党規約改訂案によって、この問題の真実解明が更に闇に葬られる方向へ向かうことになったことに注意を喚起したいためである。全体的に悪名高い「党中央の言うことはその通り」をあちこちで明文化させたようである。今までもそうやってきたのだし何を今更めくじらするのかという意見がない訳ではない。しかし、明文化されると効力が強くなるのは自明である。規約案を手にしていないので受け売りになるが、党大会は、議案のみならず党員から提出されたそれらをも審議するのではなく、「中央委員会が提案する議案について審議・決定する」となり、中央委員会以外の議案が出される見込みは零にさせられている。「満場一致のシャンシャン大会」が余程好きらしい。都道府県委員会の任務は、「中央の諸決定の徹底をはかるとともに、具体化・実践する」ことにある。つまり、党中央の敷いたレール以外は走れないことが一層明確にされた。国会議員団の活動も、「国民の自由と利益をまもるために、国会において党を代表してたたかい、国政の討論、予算の審議、法案の作成、そのほかの活動をおこなう」とあったのが、「国民の利益をまもるために、国会において党を代表してたたかい、国政の討論、予算の審議、法案の作成、そのほかの活動をおこなう」と、「自由と」の3文字をあえて消している。 今や、不破執行部が何を画策しようとしているのか明白であろう。そう、消された文字の「自由」を党内から徹底的に駆逐しようとしている。あらかじめイエスマンであることを強いてから、「支部が主役」だとか自治だとか党中央に都合の良いことを云っていることになる。冒頭に書き込んだ査問事件においても、現下党中央の釈明通りのスポークスマンになる以外の党活動は許されていない。親分が白と云ったら黒いもんでも白にするんが子分の務めやと云っていることになる。今日びやくざやさんでもこったら掟は民主化しているんではないかいなとも思う。一般ビジネス社会に課せられているルールでは、こったら内容の場合には労務内容であれば労働基準局が、物品であれば消費者センターとかが動いて騒がしくなるだろうな。安易に入党勧誘していたら、勧誘した者の責任も問われるべきだろうな。しかし聞きしにまさる稀代の悪法がまかり通ろうとしていることになる。自民党提出法案に異議を述べる以前の話だとは思うが。 しかし、不破よ、あまり人をこ馬鹿にしてはいけないな。小心姑息さのみが浮き彫りにされた臭い置き土産だよ、まったく。 |
Re:馬脚満展開の不破の引退興業を撃て! 投稿者:れんだいこ ( 09/24 11:47:54 ) |
このたびの不破式最後っ屁党改革案は、氏の長年の隠された思いを満展開させたものとなっている。もっとも完成されたわけではない、ゴール前のフィニッシュコースに入ったというところかと思われる。私が指摘したいのは、この間党中央は、口と腹が違うことをネチネチやってきていたが、この期に及んで腹の方を出してきた、ということの的確な認識をせねばならないということである。なお、不破がかくも鮮明に改革案を押し付けてきている背景にはこれといっての理論があるのではなくて、氏の脳軟化の進行に伴って従来の二枚舌運営に氏自身が我慢ができなくなったことに原因があるということを踏まえておきたい。だから、このたびはマルクス主義は愚か日本共産党理論の創造的発展という打ち出し方も出来ない。ここを観ておく事がこのたびの改革案批判の前提にならないと噛み合わなくなる。つまり、真面目にまともに批判しようとするとぬかに釘となる。 で、どういう風に本音を晒してきたのかというと、日本共産党をあらゆる角度から体制内化政党として純化させようとしていることが第一点である。恐らく、自民党政治の修繕屋としての立場に氏は憧れており、体制的にも圧力団体の一種として完成させたいのではなかろうか。この背景には根本的に現下社会体制の肯定意識がある。酒でも飲ましてしゃべらせたら、不破は重症の反共主義者的見解を表明するであろう。私は、氏のそういう政治的見識を評価しない訳ではない。ソ連邦の形勢と崩壊過程を見れば、スターリン主義批判だけでは済まされないマルクス主義の根本問題として解明されねばならないものがあるように思われる。そうなると高度な歴史観が必要で、叡智を寄せ集めねばならないことは確かである。このセンテンスにおいては私は不破を批判しない。民社党を再建して、その法灯を受け継ぐというのなら分かりやすくて良いし、氏本来のイデオロギーであろう。 私が宮本−不破系列を批判するのは、日本共産党という政党のトップにありつきつつそういう反共見識の下で、これがいかにも本来式の党活動であるとすり替えしつつ党の指導をするのはよし子にしてくれといっていることにある。なぜなら、当の本人が反共主義者であるのに、党の用語を使ってディス.イズ党活動を指導することにより、盲目的に党活動させられている下部党員の困惑と精神的いびつ化が予見できるからである。指導者の背反的なそうした指導は犯罪ではないのかと私は思っている。私に言わせれば、現下党員は、徳田時代であればその指導を受け、宮本時代でもそれを受け入れる。この両者には相当深い指導精神の溝があるにも関わらず、「いいなりになって指導に服する」。私は、そういう組織忠実性もあって良いとも思う。全てを自分の頭脳で考えることは生活に追われている者にはかなりきついことだから。となると、指導者の責任が非常に大事ということになる。で、結論は、現下不破式指導による似ても似つかぬ党運動はもはや犯罪的であると云いたい訳だ。そのことが露見するのを恐れて、小心者の常として姑息且つ統制的な鞭の手法で乗り切ろうと策動を強めている。他方で、圧力団体化と裏権力的な小利権化で飴を与える手法で党員を誘導しようとしている。まさにおのれの姿に似せて私物化の極みをつくり上げようとしていることになる。 しかし、おごる平氏が長く続かなかったように不破執行部もやがて崩壊する時が来る。その際に数々の醜態が露見されよう。私は驚かないが、現下党中央を信頼していた者には卒倒すべき腐敗が次々と漏れてこよう。問題は、時の流れに任せるのか、社会の変革に向かう精神で党内の変革を先に勝ち取りうるのかということにある。これが出来なければ世の変革を云うのは百年早いと云うことになる。どうやって成功裡に遂行するのか、一人一人の、グループのその能力が問われている。 |
Re:閉話休題 投稿者:れんだいこ ( 09/25 21:22:23 ) Mozilla/4.0
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高橋選手がやってくれました。なみいる強豪を相手に怖じず周到且つ果敢なレース展開で見事金メダルを手にしました。じーーんとこなかった者はいないと思います。記者会見であらためて彼女を正面から見ると、なんと可愛らしく細身の子なんだろう。あれでお鮨を40個ペロリといくなんて信じられない。その上ステーキにも手を伸ばすなんて書かれていた。見かけでは人は分からないですねぇ。 何か彼女は気の利いたセリフを残してくれたかなぁ、何だったかなぁ、確か有森選手は「自分で自分を誉めてやりたい」とか云っていたと思い出し、気になっていたら、さすがに新聞はちゃんと伝えてくれていました。「緊張というより集中して、すごく楽しい42キロでした」だと。他には「楽しいから走る」、「今、この時代に生きて、監督に出会えて良かった」があるようです。なかなかこうは言えるものではない(これは戸田さん流)。しかし思うに、凄いことする人は意外にたんたんとしている人が多いですね。あまり気取らないというか、自然体であっさりしているというか。勉強になりますねぇ。篠原選手の「俺が弱かったんだ」と言い訳しないというか、厳粛に受止める潔さも印象に残りましたねぇ。 さて、以上の話を書き綴るだけでは私の投稿にはならない。いつものとこに落ち着きます。 それに引き換え、不破君らの姑息というか小心帝王権力ぶりというか、外づらソフト内づら粗暴丸にはあきれてしまう。こう云う点で、左翼人士にはスポーツマンシップの爪の垢の煎じ薬を飲ませてあげたい、と思う。飲ます必要があるわな。頭はいいのかも知れないが、ホントにいいのかどうかは後世になったら分かる。今度ブラウン管にでてきたら、こったら卑怯な党大会策動してどの面下げてくるのか拝んでみよう。それと一緒に風呂へ入って背中を流し合うような党員関係がなぜ出来ないのか、理由を聞いてみよう。 |
Re:馬脚満展開の不破の引退興業を撃て! 投稿者:れんだいこ ( 09/26 14:45:18 )
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なんと、このたびの規約改正案が一年前から用意周到に準備されてきたということが明らかにされている。「実は一年ほど前から、この問題は検討を始めてまして、規約はいずれ変えなければならないと。そして国民にもっとわかりやすいものにしなければならないと相談していまして。ですから今度の選挙結果ということではないんです」との志位発言がこれを裏付けている。舞台裏が漏洩されればされるほどひどい話だ。 どうやら一般党員には何らこのことを告げず中央委員幹部会で密かに検討されてきたらしい。党の綱領といえば行動方針的な憲法であり、規約といえば組織論的な憲法であろう。その最高法規を、不破と特定のイエスマンばかりでいじってきて、このたび用意万端整ったのかどうか公表に踏み切ったということのようである。こうなると先の選挙で敗北せしめられたことが天佑だとさえ思われる。仮に微増でもしていたら信任され、このたびの党中央の押し付けも「党中央の為すこと云うことその通り」の提灯行列させられていただろう。しかし、世の中はそうは問屋がおろさない。 こうなると、現下政府与党が憲法改正にあたって、国民に周知させた上憲法調査会という審議会を設けて目下検討中という手続きが、やけにまぶしくなってくる。それを批判する主力政党が自党の憲法とも云うべき規約改正に密室審議と強行採決を図ろうとしているマンガ的事態を我々はどう受止めるべきであろうか。度々云ってきているが、エエカゲンニセンカイ。この姑息さと三枚舌と歪曲と詭弁とすり替えと大局的と客観的と形式的と統制的話法が現下党中央の宮本直伝のやり方である。このことを露骨にさせたという意味では、私なんかは却ってせいせいしている。今まで私の言うことに違和感覚えていた者も、ひょっとしてれんだいこ節には根拠があると思い直し始めてくれたのではないだろうか。えっそんなことはない、党中央にとことんついていこうと思っているってですか、うーーーんつける薬がないわ。 フジ系「報道2001」での志位書記局長の発言(大要)が2000年 9月 25日 (月)「しんぶん赤旗」に掲載されている。志位は不破話法を真似るもののやはり役者が一枚下で二枚舌にしかならない。「『前衛政党』という言葉に込めていた意味というのは、けっして共産党が上から『指導』するとか、国民を勝手に引っ張っていくとかじゃなくて、未来への展望を見通して、不屈にがんばって、そして社会の発展を促進する、それを自分の任務として自覚して頑張ろうという意味で、この言葉を使っていたんですけれども、どうしても誤解がでるんですよね」と云うが、誤解ではなくて正解でしょう。前衛という言葉の意識には指導精神が含まれており、従って、言葉の辻褄を合わせる為には、「どうしても正解が出て困るんですよね」というべきであろう。「さっきいったように前衛という言葉のなかで、私たちが込めていた内容というのは、社会発展の促進という仕事を自覚しようという意味であって、ですから労働組合運動などにたいしても、なにか上からひき回すとか、そういうやり方をわれわれはとるものではないんです」と一見聞こえはよいが、つまりは選挙で票を貰う以外は何もしないということかな。後は国民が決めたり、当事者で解決してくれという素晴らしい前衛放棄論だわな。こりゃ楽でええぞなもし。 司会により「社会主義革命ももう目指さないんですか」の問いに対して、「民主主義的変革をまず当面の仕事にして、その先に資本主義を乗り越えた社会をめざすという立場は変えません」だと。そういうもぐもぐした言い方が志位らしいか。「規約のなかで地方組織の自治権というのを、今度は明記した」というが、他方で党中央に一層拝跪させる方向に手直ししたことについてはダンマリ決めている。自信があるなら堂々説明すればよいのに。公党としての責任を果たすため一枚岩体制の強化も勝ち取りましたとかね。「よりいまの状況にそくして、民主主義をさらに豊かにする方向で、党の運営をやっていこうという点での踏み込んだ内容『も』あるんです」と「も」をつけるところが可愛いわな。 このたび、「緊急時自衛隊お出まし当たり前論」なるものを明確にさせたが、他方で「日米安保条約をなくした日本が、憲法九条にもとづく平和の外交を周辺諸国とやる」というのなら、分かりにくい言い方せずに、左手に憲法的国際協調路線、右手に安保自衛隊路線の両刀使いで行きますといえばいいんだわ。実際に言おうとしているのはそういうことなんだろう?。本音隠してこじつけるから何を云っているのか分からない煙巻き論法になる。司会がここで「綱領のなかには君主制の廃止とあるが、これは天皇制の廃止ということか」と質問。志位氏は「そうです」とのべたうえ、つぎのように答た。「君主制の廃止というのはかなりずっと先の展望なんですよ。 つまり民主連合政府という当面の私たちの政権の課題にはしていないんです。この問題というのは、それこそ国民のなかでそういう制度はいらなくなるというのは、二十一世紀のずっと先の時期にやがてくるだろうと、そのときに国民の合意でそういう方向に進もうということであって、当面の課題に入れていないんです」だと。だったら、綱領であれ、この忙しい変化の時代に百年先の目標まで書かなくて良いの。「君主制については将来の国民の判断に任せる。目下存在するものは認める。かってのような危険な制度に陥らないよう引き続き監視する」とすればよいのでしょうが。とにかくわざわざ分かりにくく言うのが特徴で、目くらましばかり云っているとそのうちホントに何もみえなくなるよ。 なお、新憲法論議時に、野坂が主張した自衛権明記論について得意げに述べている。「当時の吉田首相が『自衛権も全然ないんだ』という答弁をされたものだから、これは反対したのです」という言い方によれば、野坂が自衛権常備軍論者で吉田が軍備放棄論者になる。確かにそうなんだが、これって共産党の名誉なことなのだろうか。現下党中央はたびたびここを引用するが、それほど自慢になるんかいな、やっぱ野坂はいいこと云ってるんかいなぁ。「志位 常備軍をもたないということについては、将来の展望としてそれはもっています」という論法は、「我々は意図しないが現状については認める、将来においてはその時の国民が決めればよい」という論法になり、これは「なし崩し現状容認−全肯定論」であろう。サブい話だわ。 元党員の共産党体質批判に対して答えたのが次のセリフらしい。「志位 この人の発言というのは、私はほんとうに心外な発言なんです。下の声が上に上がっていかないというのは、いったいなんの根拠をもっていっているのか」だと。今や視聴者さえ手玉に取ろうとしていることになる。共産党の閉鎖的な党中央一枚岩体質は世間に広く知られた事実であり、「何の証拠があって」と居直るのなら、証拠を出された時にどうするんだろう。大丈夫かいな、ギクッとしたりもぐもぐすれば良いというのでもないんだがな。 竹村氏が「人間的魅力を出してよ」とのべたのに対して、「個々の党員のみなさん、個々の議員のみなさんの個性がさらに輝く集団として、それぞれいろんな顔があるという党に成長していくことが大切だと思っているんですよ」は、坂井引越しセンターのコマーシャルで答えることにする、「ほんまぁかいなぁ、そうかいなぁ」。 |
Reこのたびの規約改定案は憲法違反の恐れがある 投稿者:れんだいこ ( 09/28 19:20:13 |
題字を上述のようにしたが、本来は、「宮本上皇、不破法王の羊頭狗肉路線を撃て!」にしたかった。インパクトを考えて急遽変更した。このたびの党大会で宮本名誉議長の単なる名誉役員への引き下げが為される模様である。何気なく見過ごされているようであるが私見は違う。野坂名誉議長の無残な末路に似て、このたびの宮本名誉役員への格下げは、いち早く石もて追われる時の備えのように受け取る。既に党中央は宮本を弁護しきれないと判断し、対策を練った挙句の判断と推量する。事情に関係なく宮本狂信派が氏を引き続き尊崇するのは勝手であろうが、党中央はいち早く変わり身しようとしていると私は穿つ。 そのことはともかく、このたびの党規約改正がかなり大幅なものとなっており、「支部が主役」だとか「組織の自治性に配慮」したとか云われる表向きと違って、民主集中制の理論的吟味を何ら深める事無く「集中原理」を一層高める方向で明文化しようとしていることが明らかになりつつある。このたびの党大会で何とは無く通過させたとしたら歴史的汚物まみれの大会の金字党となるであろう。 このたびの反動的改訂規約の最たるところは、「全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない」(日本共産党新規約案第17条)にも認めることができる。これは党員の奴隷化規定である。この言い回しに不審があれば、次の言葉も併せて反芻すれば良い。「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」(1961.6.12アカハタ)。つまり、党中央指導天動説盲従化の堂々たる宣言であった。これでも不十分な人には次の言葉を聞かせてあげる。この頃の史実である、宮本に最忠実な片腕時代の袴田が、党内反対派春日(庄)らに向かって云った言葉、「君たちそんないろいろ反対をしているけど、それももう暫くの問題だ。綱領が決まったら、君たちどうするのだ。綱領に賛成する者のみが党員なのだ。君たちはそのときにどうするのか」。これでもなお分からない者には、さすがの私もつける薬を持ち合わせていない。 今や、党員は頭脳である党中央委員会幹部会のその又上に位置する宮本上皇−不破法皇派の敷いたレール以外は何も出来ないモルモット党員でしかない完結系を完成しようとしている。取るに足らない方面での多少の自由はある。赤旗記者が金髪で出入りするとか、市長選挙立候補の際に党籍のまま出るのか外すのかという程度のことならむしろ果敢に党中央に楯突いて欲しい。それぐらいの度量はあると大見得を切っている。しかし、題字に書いたが、このたびの政策方針の現状全肯定擦りより化と組織論的締め付けのちぐはぐさは羊頭狗肉の典型であろう。これだけの模範例はそうはできない。 それはそうと、「全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない」は、憲法違反ではないかと私は考えている。これではグルの命令一下サリン事件を起したオーム真理教徒の批判は二度と出来まい。なぜなら、組織論的に近似しているからである。オーム教徒も又「教団の行動の統一をはかるために」、「グルの方針に反する意見を、勝手に発表すること」が出来なかった、当然行動も制約を受けていた。私に云わせれば、この組織論こそが諸々の事件を引き起したのではなかったか。我々が、オーム真理教を批判したのは、サリン事件を起したからだけではなかろう。グルの命令一下に一丸となって指示に従った組織体質に対して危険団体と認識しているのではないのか。サリンをまかなければ良いというものでもない。今後も状況に応じて何をしでかしてくれるか分からない危険性が認められるから、裁判で実態解明しようとしているのではないのか。教徒に個々の判断の自由、行動の自由を与えた上での組織性は憲法の認めるところであろう。しかし、その際でもマインドコントロールの仕方如何では問題にされる。 冷静に考えて、「組織人に、組織にあろうとも判断の自由、行動の自由」を保障することは憲法の要請しているところなのではなかろうか。その点で、このたびの党規約の改訂方向は、危険水域に明文化で踏み込みつつあるように思われてならない。このたびの改訂が、党員に熟慮の機会を与えた上で、個々の判断の積み重ねを通じて良しとして満場一致されたとするのなら、一応免責されるとは思うが、反対意見の封殺をしながら強行的に採決されたとしたら、これは由々しき事態という前に無効とされる可能性があるであろう。少々高度な法理論と見解が要請されると思うが。 多少思いつくまま書き上げており、私の判断もまだ整理されていない。この方面からの専門家ないし他の論者による言及が急がれている。党中央のかような暴君化を不破路線の完結系として成就させてみるのも面白いとは思うものの、やはり党は党としての最低限の良識の力で汚点を残さないで欲しいという願いもある。我々が今日、戦時中の軍部独走に対して、誰も反対の火の手をあげられなかったのかといぶかる思いと酷似している。取り急ぎ発信しておきます。 |
Re:リンダ、参っちゃう 投稿者:れんだいこ ( 09/29 16:51:48 ) |
不破哲三委員長の26日、CS放送の「各党はいま」出演時のインタビュー(聞き手は小林暉昌朝日新聞編集委員)陳述内容を論評する。先の第7回中央委員会総会で採択した第22回党大会決議案と党規約改定案について、不破は様々な解説をしている。あらかじめコメントしておけば、これだけマスコミに広報活動の機会が与えられている訳だから、ついでに肝心なところもプロパガンダしておいて、二度と謀略ビラにやられたなどと醜い言訳して貰いたくない。 不破はのっけから、「党規約の改定案――全国からも『歓迎』の声が圧倒的でした」と云う。小林記者が「これはまさに満場一致に近かったんですか」とか尋ねると、「完全に満場一致です」と答えている。本人は自慢しているつもりなのだろうが、この時不破から驚くべきというか規約改正過程の裏舞台について次のように明かしている。規約改正意図は「一年ぐらい前から持ってました」、「党の組織関係の人にはこういったことを調べておいてくれとか、こういう考えをまとめておいてくれとかの話は、していたんですよ」、つまり隠密裏に事が進められた。実際の詰めの作業は、選挙が終わってから本格的にやりましたとも云う。概要「ほぼ形になったところで、今年の七月の中央委員会でまず大会の議題にし了承され、そのあとすぐ常任幹部会に小委員会をつくりまして、ずっと議論してきた」という。概要「成案ができた都度に、常任幹部会にかけて議論する。それから全体の成案ができたら、また常任幹部会にかけて議論する、こういうことをずっと積み重ねてきました。中央委員会のぎりぎり前、最後の最後まで仕上げに骨を折りました」。つまり、どうやら常任幹部会の決議を経て規約改訂小委員会が出来たのではなく、小委員会が先に作られて文案が練られた後の成案が常任幹部会に諮られ、若干の修正をした後今回発表されたということになる。 問題は、今に至るも常任幹部会の上に位置したことになる小委員会メンバーは明かされていないことにもあるように思われる。加えて、このたびの規約改定案を作成した過程自体が規約違反だとしたら、このたびの規約改定案の有効性や如何にという問題が発生し得るであろう。普通こう云う場合をお里が知れるという。かくて、前衛編集長ともあろう者も発表されて初めて党規約から前衛概念が消されることを知り、雑誌名の変更の必要に気づかされることになった。“『前衛』の編集長自身、けさの報告ではじめて聞いた話だから(笑い)、一番困ってるんじゃないか”と笑いの世界で済ませられることになった。 前衛概念の変更理由がふるっている。“私が 「前衛」であなたが「後衛」だ”という話になりやすいため削除した、と云う。ならば、そういう単純な話が分からないまま従来の党運動は前衛という言葉を使ってきたことになる。しかし、えらい分かりやすい話ではある。恐らく、これまでの前衛概念愛好者は脳が弱かったんだろうよ。しかし、小林記者は、前衛という言葉には指導的役割の堂々たる公言的意味があるのではないかと質問している。不破は、「そういう誤解があるんですね」とそれは誤解だという。世界の共産党関係においても指導党をつくってはならないように、国内運動においても指導などというものはいらないし、間違いだという。「このことについては、党の中央委員会のなかで、だれも異論がなかったですね」と念を入れる。恐らく、独立した国民個々が判断して、その判断の集積が政治であり、そういう姿が不破の理想なのだろう。 民主集中制という概念は、誤解を生まぬもので引き続き党組織の基本制度にすると云う。概要「その昔、自民党の幹事長が『派閥がほんとうにない党はうらやましい』といったことがあるぐらい、いわば政党としては当たり前の、いい制度である」という。もしこの制度がなければ、今ごろ「ソ連派」がいたり、「中国派」がいたりして「それで党のなかから引っかきまわそうとするわけですから、それが自由放任だったら、それこそ大変だったでしょうね」と云う。自民党のような派閥別組織の寄せ集めは、政党として国民に対する責務を果たせないというのだろう。ここは私の補足であるが、自民党的派閥システムはそれが為に活力を生んでいるという良い面もあり、ここ一番で挙党一致して団結力を見せつつ今日に至っているが、不破によれば「政党としての当たり前の原則」違反らしい。 このたび民主集中制を「五つの柱」にまとめた。「スカッとした」との批評ががあると自画自賛している。「第一.党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める、これは当たり前のことでしょう」と云う。が、「民主的な議論」の必要条件、充分条件の理論的制度的考察は相変わらず為されていない。「第二.決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である」は、派閥を認めない以上はそうなるでしょうな。「第三.すべての指導機関は、選挙によってつくられる」も、現行の選挙制度でいいとしているのだろうが、必要条件、充分条件の理論的制度的考察は相変わらず為されていない。「第四.党内に派閥・分派はつくらない」は、重複規定であるが、それだけ屋上屋を重ねて強調したいのだろう。「第五.意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」については既に述べた。ほんまぁかいなぁ、そうかいなぁである。もっとも、「組織的な排除」の意味の厳密な規定はないのだから、各個撃破で個別的な排除ならできそうである。 「五つの柱」は、前の規約の「上で決めたことは無条件にしたがい実行するとか、少数は多数に無条件でしたがう」的意味合いを排除したという。「多数決で決めるというときには、少数の意見があるわけですから、その意見をどう扱うかってことを、他の政党の規約よりも一番綿密に決めているんじゃないですか」という。「風通しがいい規約ができたと、まあ自分で自分を褒めています(笑い)」という。こうして、以後は「循環型の党活動」になるという。その具体例が、このあいだの東京の狛江市での市長選挙だという。概要、四年前の市長選の時、現職市議会議員をやめての立候補に、党中央は、議員を一人減らして通るか通らないか分からない市長選挙になぜだすんだといってえらい反対だった。それで、現地に随分説得に行ったんだけれども、逆に説得されちゃった。(私たちも)事情を聞いたら、それは現地に道理があるということで、現地の意見を入れて立候補を決めたんですよ。そうやって、現地の事情に応じて、中央で考えたことでも、違っていれば、おおいに意見をいいあって直す、これが「循環型」なんです、と饒舌している。つまり、そういう同じレール上でのことなら党中央は聞く耳があるといいたいらしい。問題は、党中央の敷いたレールとは違うレールを敷こうとした場合どうなるかだ。レールは見解と言い換えても良い。どうなるんでしょう。このたびの規約改定案には明示されているが、不破は一言も語っていない。 「憲法と自衛隊――大会決議案がしめしたものは」、「実際にある自衛隊は世界でも有数の軍隊」だから現に存在するものは認めようという。いわゆる柔軟路線であろう。ここから不破マジックが登場する。党の運動方向としては、憲法九条を完全実施して、自衛隊解消まですすんで行くという見通しをたてる。しかし、「そこへ行くには、やっぱり段取り、段階がいる」。つまり、現状容認しつつ解消に向かうのだという。他の党のように単なる容認ないし肯定とは違うんだ、といいたいらしい。結果は同じでも、考え方の中身が違いから他党のような現状容認ではないという。少々禅問答みたいになるが、面目躍如の煙まき話法ではある。 綱領についても、この大会後改訂に取り組むとのことである。概要「中央委員会でも、幹部会の考え方として話したのですが、みんな大賛成でしたから、いつの大会でやるかという予言はできないのですが、今度の大会が終わったら、新しい体制ができますから、そこで考えてゆきたいと思っています」だと。問題はどちらの方向に向かうのかだが、「資本主義の枠内での民主的改革」をより明確にして行きたいらしい。よくよく聞いてみると、不破はどうやら「利潤第一主義の資本主義」をそうでない資本主義へと改革をしたいらしい。これこそ「世界的課題」だと云う。但し、条件があり、概要「『のりこえる』(どこかでよく聞かされた言い回しだが)にしても、『ソ連型の社会を絶対つくらない』ということです。あれは社会主義とは縁もゆかりもない(ものでしたから)。それから、資本主義時代に生み出した価値あるものは、『全部』引き継ぐ。民主主義、自由、生活などの基本点を『全部』引き継ぐ。つまり、ソ連型は絶対だめ、これは社会主義じゃない、それから資本主義の価値あるものは『全部』引き継ぐ」必要があるらしい。それが不破氏のロマンであり、そういう気持ちで新しい世紀を迎えたいですね、なんですって。 |
Re:次第に見えてくるものについて 投稿者:れんだいこ ( 09/30 14:09:23 ) |
こうして毎日投稿していると、次第に見えてくることがある。それは手前味噌ながら脳が汗掻いているからだと思う。やっぱこうして体はっていると副産物ももらえるわな。以下、今度は短くまとめる。 党の憲法とも言うべきものに綱領と規約がある。もし、私が党指導者であれば、綱領の見直しこそに向かっただろうと思う。なぜなら、不毛の従属規定の根本的見直しが急がれている訳だから。現下党中央が言うように、天皇制にせよ、自衛隊にせよ、ついでに安保体制も、社会的に認知受けているものには党の意向を抜きにして、とりあえず認めるところから出発させようというのであるなら、我が日本国の主権国家としての認知もせねばならぬであろう。党中央グループを除いて、只今の日本がアメリカの従属国であるなどと認識している者が果たして幾人居るのだろうか。毎度不破は綱領路線の正しさがますます証明されつつあるなどと強弁しているが、私にはその逆のようにばかり見える。綱領路線はますますフワフワしつつあるように見える。革命論的に言えば、対米従属性は無視は出来ない、しかし主権国家でありや無しやから見れば主権国家以外の何ものでもなかろう。ここを認めないから、我が主権国家のアジア権益をめぐってのアメリカ他との只中の抗争に目が向かない。独占資本の一層の寡占化が隠蔽されている。経営者のオールマイティを許しリストラに闘う術を持たない。 この綱領の見直しをせずに規約の見直しから入っていることが不破らしい。次に問題になるのが、規約の改定過程である。どうやら一年程前から奥の院で成案が練られ、ある程度の形になってから幹部会に諮られ、小委員会が即日設けられた、と不破は舞台裏を漏洩した。幹部会討議で若干の訂正が為されたようである。ここで質問する。当初のメンバーを明らかにせよ、小委員会メンバーを明らかにせよ、幹部会での議論内容を明らかにせよ、訂正個所を比較的に明示せよ、党議を経ずに着手された草案作成グループの活動は規約違反にならないか返答せよ。 個々の内容における憲法違反的要素については既に触れたので繰り返さない。新規約全文をコピーし忘れたので逐条解説は出来ないが、「支部が主役」だとか「地方組織の自治」なるものは飾りに過ぎないことが他の者の考察で明るみにされつつある。むしろ、本筋は、一層の党中央への拝跪要請化であるようである。この流れは、宮本−不破系列の一貫した体質である。徳田時代に大会に向けて出された中西長大論文や志賀意見書、その他の党内的討議の作風は微塵もない。春日(庄)らの反対意見を約束違反で反故にした宮本直伝手法がますます加速しお化けているようである。 しかし、こんなことで、目下進行中の憲法調査会や教育審議会に真っ当ないちゃもんでさえつけられるのだろうか。私が与党側なら、お前のとこの規約改正のやり方は何なんだ、よく云うわの一言で封じ込めそうである。自民党のやり方は、戦前保守直伝を真似ず、何とか形だけでも衆議決済にしようとしている戦後型の伝統を新たにつくり上げることに成功している。分派の規定もそうである。派閥を認めつつ挙党一致のマニュアル作成に成功してきている。激しく総裁のイスを争うが、政策を争うが、選出された執行部に対しては特段の落ち度がない限り従って行こうとする党風を作り上げることに成功してきている。 残念ながら、我等が左翼には、新左翼も含めてこの「議論と団結」の形成力がない。星の数ほど分派政党化して行くか唯々諾々になるかの二つかしかない。恐らくそれだけ知能が低いのだろうと思う。責任のとり方も同じである。自民党の歴史を見れば、選挙の結果は執行部の信任であり、続投か退陣かの二つの選択肢しか持たされていない。かっての福田−大平間では福田首相の特段の落ち度はなかったが総裁のイスを争い、敗れた福田は「時には天の変な声もある」というセリフを残して潔く退いた。これが政権与党の美学であり、国民から信任されている根拠でもあ る。 但し、自民党は政権与党の常として利権に馴染みやすく、むしろ利権を争う形での党運動になってきている史実はある。ここを何とかしようというのが本来の細川政権の意図であったと思う。エライかしこぶった学者からは自民党よりもタカ派的に捉えられ、打倒こそ命と煽られたが、その人物の最近の言動を見ればもともとのええ加減さがわかろうというものである。まぁ、それはともかく、このたびの党規約改訂の動きに見られる日本共産党の密室性、姑息性こそ歴史に新たな汚点をくわえたものであることに相違ない。今後何をしてくれるのかわからないが、我々国民は一応読み書きできるものであるからして、猫なで声だけは許さないだろう。 私には明日が見える。誰しも予見を持つ。問題は当たるか当たらないかだが、それに賭ける、状況に応じて見方を変える、そうした精神がなければ変調であろう。結果を見てから是非を考える、行動すればよいなどという呑気なとうさんぶりを云う者は、闇路を歩くのにわざわざランプの灯を消して歩こうというようなものである。歴史にはまき戻し機能はない。で、どう読むかだが述べておく。私には千客万来と張り紙した開店休業のショップが見える。店のオヤジは既に印税隠居暮らし、わずかになった従業員党員がはたきを持ってカッコ鳥を追い払おうとしている精彩のない千鳥足が見える。文化財として観光客あたりが訪れるかも知れん。 |
Re:日本共産党も国を悪くする 投稿者:れんだいこ ( 10/02 12:30:11 ) |
今度の日本共産党規約改定方向を見れば、「自分で自分をほめてやりたい」出来栄えという不破の関心傾向がどのあたりにあったのか見えてくる。結論から言えば、党中央=頭脳化路線を「わかりやすくした」ことにあるようである。都道府県組織は胴体であり、支部組織が手足であるという旧来の認識をそのままに据え置いて、個々の党員による党中央見解との齟齬なきよう訓令している。
我々が批判するとすれば、この党組織論のフィールドバック手法の無ささ加減であろう。してみれば、現代唯物論は孤高にして旧態依然の如くあるようである。今や世間では、最新の大脳生理学と生物分子学の解明しつつあるところのものを吸収しようとして懸命である。唯物論者にはそういう努力はいらないらしい。大脳生理学と生物分子学は、脳の働きが如何に60兆個と云われる個々の細胞と緊密に連絡を取り合い、それぞれの判断機能が調整し合ってネットワークを形成しているかの様を明らかにしつつある。科学が解明しつつあるこの諸事実を、現代唯物論者はなぜ吸収しようとしないのか、それは自明である。党中央の安泰と安逸を保障しないからであろう。 思えば、これまでの歴史は、支配階級「お上」の側からの被支配階級「人民大衆」に対する、抑圧と恫喝と唯々諾々主義馴化の変遷史であったとも見ることができる。黙々と働き貢納せよ、それが本分である。前世の因縁が悪いのであるからかような様となり、今世を黙々と働くことにより来世が良くなると諭された。後のことは「お上」の手の内にある、いらぬところに関心持たぬが良い、これが彼等の説教であった。明治以来の近代国家においては「お国のための一億一心」がこれに加わった。天皇はその中心であり、その尊崇は赤心の証しとなった。 問題は次のことにある。日本共産党は結党以来、このからくりを暴き、虚構を晒すことに運動的意味を持たせていた。であるが故に理論戦線の活動が活発になった。運動論的に見ても、天皇から論を起すのではなく、庶民大衆の日々の暮らしの譲れない原点から社会再編を模索しようと奮闘してきた。その一大潮流の核となってきたのが日本共産党の歴史ではなかったか。嗚呼それが何たる サンタルチアなことよ、歴史は回転し、新たな「お上」思想が党中央に君臨し、今や党員こぞって万歳三唱せしめられようとしている。いつからこんな党になってしまったのだろう。綱領と規約に納得しない者は党を去る自由があるとか、平党員の側が唱えるこの腐敗は、悲劇を通り越して喜劇ではある。 あらゆる組織の中で、最も権威に拝跪する従順一等賞の党員づくりが、宮本党中央以来の50年で完成した完結形を見て取ることができる。私は党員ではないが、闘う。何故なら、右バネから政権与党から左バネから、かような馴化思想を聞かされ続けたら、脳を患うからである。既に患っているのかも知れない。しかし汚染からは逃れている誉れぐらいは持っている。 |
Reご都合主義とはこういうこと 投稿者:れんだいこ ( 10/03 14:16:17 ) |
バランス悪く活字を学ぶと、ごく単純なことが理解できなくなる。文章の字面に捕らわれ、真意が判らなくなる。今回の党規約の大幅改訂の愚劣さについては、文面からだけでも騙されなくて済みそうだが、仮にこれがもっともらしい文面であったとしても嗅覚を働かすのが実践者の態度である。ここが萎えると仕事は出来ない。
例えば、「信賞必罰」という観点が強調されたとする。このこと自体には非はなかろう。問題は、いつでもどこでも誰が判断し、決定するのかに宿されている。通常は組織のトップに裁量権がある。その際、公平であるか私物的に為されるのかはトップの能力と性癖に大きく作用されている。組織に埋没しすぎると、この単純なことが分からなくなる。信頼と検証とのバランスが悪くさせられているからである。現下共産党の例で云えば、外の『敵』に対してはやれ反動だの新帝国主義者だのトロッキストだの反党分子だの堕落、転落人だのスパイだのと罵声を浴びせることにかけては口を尖らすが、内の『統制』に対しては三つ子があやされるような従順さで丸め込まれてしまう。 その格好の文章を見つけた。以下の文面に対してみなさんはどう思われるだろうか。「前衛党の指導部の一員であることは何人にとっても、決して永久の指定席ではありません。その地位を特に長く一定の地方や一定の部署で指導的活動をしたことを自己の特権や、あたかも私的な領分であるかのように錯覚する惰性に陥ることは、最も重大な誤りであります。これから、官僚主義、マンネリズム、停滞や後退が生じる余地が生まれます」。どうですこの文章、なかなかいいこと言っているように思われませんか。 これは、70年代の頃の発言と思われるが、不破の師匠筋宮本の絶頂期の得意然とした発言である。一字一句には理屈が通っている。何がおかしいのかというと、「何人にとっても、決して永久の指定席ではない」とか「その地位を特に長く一定の地方や一定の部署で指導的活動をしたことを自己の特権や、あたかも私的な領分であるかのように錯覚する惰性」とかは、云っている当の宮本こそがその該当人であるだろうに、本人は免責されてそれを誰も訝らずに、下部党員を叱咤恫喝する趣旨で堂々云われている事にある。 考えてみれば、「本人免責のいいこと云いたい放題論理」こそ、宮本−不破−志位系党中央の特徴ではなかろうか。恐らく党内にあっては、くオーム真理教教祖のグル的立場で、このような結構な話がまかり通っているのであろう。その卑近な一例は、下部党員は党中央見解に違背する発言をインターネット上でも規制されるのに、当人等はどんどん新書を世に送り出すことが出来、インタビューであろうと討論会であろうと柔軟な発言が認められている。雑誌の投稿も了解されていることにある。が、これを真似て他の党員がやろうとすると途端に規制される。実際にやれば、調査問責が待ち受けている。代々木病院コースも敷かれているようである。こうした体制がかれこれ50年続いている。そしてこのたびの党大会はこの仕組みのますますの強化に向かおうとしている。恐らく総決算の仕上げコースに入っているであろう。私は、冷たいタオルか氷嚢をおでこにあててみようと思うが、効き目があるだろうか。 ついでに今度の党大会を予想しておく。演壇占拠が起こるか起こらないか、これが最初の関心事である。党員の離脱現象が、機関紙読者の減少がどこまで進行するのか、これが第二の関心事である。ウルトラCで綱領改訂まで一挙に押し付けてくるのかこないのか、これが第三の関心事である。既に地方選挙で大きく後退していると思われるが、参院選挙までこの傾向がもっと明白になるのかならないのか、これが第四の関心事である。宮本、不破、志位の誰かがポックリ逝くのか逝かないのか生身のこととしてあり得る話ではある。これが第五の関心事である。党大会で、誰が面従腹背をかなぐり捨ててくるのか、その規模はどの程度になるのか、これが第六の関心事である。党大会の会場周辺で従順派とがまんならない派が拡声器合戦するのかしないのか、これが第七の関心事である。もうこれぐらいでいいだろう。結論は、その三の関心事が臭いと御託宣しておこ。 |
Re:大本営発表に突入した不破執行部 投稿者:れんだいこ ( 10/06 14:52:02 ) |
間もなく党大会が開かれる。党勢拡大の勢いに乗せて迎えたいのであろうが、現実は退行顕著であろう。しかし、党中央の発表は進行中の事実を発表できない。新規入党決意者が数千人に及ぶという大本営発表している。よく見ると、入党決意であるから入党者かどうか曖昧である。それでは、この間離党した者が何人なのか、機関紙の減部状況についての発表がない。これは旧軍部の大本営発表の手法である。確か、ミッドウェー海戦での敗退を勝利と喧伝し、B29の本土飛来に撃墜発表で現実を糊塗しようとしたやり口と何ら変わらない。事実を直視し、それを語れなくなったら組織の腐敗であり、世は末である。後は竹槍で女子挺身隊の訓練にまで及んだあの精神主義の世界が待ち受けている。 私が共産党に拘るのは、社会運動にあって左バネの権威であるからである。権威そのものが悪いとは思わない。内実が無いことを問題にしたい。その虚飾の権威を明るみにさせて、内実のある左バネを創造しようと思うからである。今や、党員もすっかり不破節に食傷気味のようである。その理由はなへんにあるか。それは、純金だと云われて売り歩いた営業員が実はメッキ製のまがいものであることに気づいて意欲を喪失している姿に似ている。営業本部長はしきりに号令をかける。しかし、現場が動けない。これはメッキではないのですかとの質問さえ許されず、ひたすらわらじを擦り減りさせられる。これを数十年やり続けると、やりつづける者はどうなるか。 まともな者は精神に変調をきたすし、生き延びる者はメッキでも金は金だと居直れる精神の持主ということになろう。党中央の姑息さは今や党内に伝播して、ああいえばこういう式の口先人士が要領の良さ一つで機関に生息している姿が見える。 一つ訂正しておくことがある。新規約の更なる変調さにばかり気を取られていたが、調べてみると現行規約まもなく旧規約になるそれも実に反動的なものになっている。この点で、なるほど分かりやすくしたという今回の不破の言い分はもっともである。よくもまぁ、こんな規約をぶらさげて公党として憲法擁護なぞを云っていたものだと思う。憲法学のイロハであるが、諸権利規定に対する制限規定は少なければ少ないほど良い。実に、憲法裁判のほとんどはこのラインで争われてきている。憲法が明文規定しているにも関わらず、公序良俗、全体の奉仕者、なじまない説、安寧秩序等々の様々な制限論理が被せられることにより空洞化させられてきており、これらとの闘いこそが憲法を守る法理論闘争の歴史である。しかし、共産党の規約はどうだ。党員の権利規定にはことごとく制限規定が設けられている。その様は、明治憲法のそれよりも反動的でさえある。一体、党にも法曹関係者が多く居るはずであるのに、なぜこういう規約に異議を唱えず容認してきたのだろう。私には解せない。特殊なコショウでもかけられているに違いない。 新規約の要点は、党員の更なるモルモット化の要請である。党中央の敷いたレールでしか一切の運動がなしえない。このレール上であれば、煩雑なことは地方組織の自治に委ねられている。それでもって、党中央が為そうとしていることは、以前にも述べたが旧民社党の西尾末弘イデオロギー以下のことである。もはや、旧自民党内ハト派的な主張のところまできているのかも知れない。それを思えば、前衛概念を捨てたのは右傾化のためではなく、既にあまりにも不似合いな概念だから脱ぎ去ろうとしているが実際ということになる。しかし、民主集中制だけは後生大事にしようとしている。なぜか。それがあまりにも党中央のいごこちを良くさせる為のものであり 、安泰の保障であるからである。 もう一つ規約で気づいた怖いことがある。全国の党組織に警察的な治安手法で、上級は下級の監視、下級は上級に対する報告、党員同士は同士愛の名目での挙動確認を義務づけられていることである。あなおとろしあの世界ではある。もう私は、この党のこと知りたくないのだが、目が向いてしまうのは時間が無駄なことだとも思う。 |
Re:解党路線に踏み込んだ新規約、不破執行部 投稿者:れんだいこ ( 10/08 17:51:41 ) |
このたび思うところあって、私なりの政党規約を作ってみた。この労務を通じて分かったことをここに報告します。共産党のこのたびの規約改定案(新規約)と現行規約とを比べてみてどう思うかということであるが、作った当の不破は「分かりやすくなったことが好評を得ている」と自画自賛しつつ「自分で自分を誉めてやりたい」とのたもうている。 本来左翼精神というものは、今回私がしているようなことを自然に為す精神のことを云う。何がいいたいかというと、決して鵜呑みにせずに検証する精神が尊ばれ、自己の認識の基準を通過することに拠り熱烈支持されるという作風を大事にする。ところが、なぜかおざなりの批判に終始したまま党大会を迎えそうである。平安びとなら、あなはずかしというのではなかろうか。 新規約のどこが問題かというと、結論から言えば解党路線に踏み込んでいることにある。まもなく綱領の見直しが行われる。どこが問題かというと、投降路線に今ひとつ入り込むことにある。以下、このことを立証する。まず、現行規約であるが、元々の規約の原型が分からないので私の指摘の迫力が欠けるが、ああしてはいけないこうしてはいけないそれも駄目と次から次へと修飾句をつけすぎて非常に無様な文章文意になっている。そういう意味では分かりやすくせねばならない根拠はあると言える。しかしそれにしても現行規約は歴史的悪規約として保存され後世の批判に晒されることになることは仕方がない。 で、どう判りやすくしたのかというと、党中央からの一元的指令体制に切り替えたことにある。党機関は、中央組織と地方組織に分けられるが、いずれも仕事を執行する機関の体裁を為していない。驚くことに、中央委員会の上に幹部会があって更にその上に常任幹部会があって更にその上に君臨するのが宮本−不破−志位の一握りのダラ幹である。新規約はこの仕組みを改めたのではない。それらの機構をそのままにしつつ、党中央=不破−志位執行部に一層拝跪させることによって無意味な機関とさせ、これにより風通しを良くしたというのが「分かりやすくした」ということの真意であり、「不破−志位にとって手間ひま掛けずに済むようになった」という意味に解するのを相当とする。 地方組織の下級機関に対しては、むしろ仕方なく列挙しているだけである。驚くべきことは、活動者会議だの緊急総会だの地区連合会議だの本来の組織系列から逸脱する組織、会議を、いつでも党中央が指令できるという機関軽視の発想をより大胆化させている。同様に党員の処分に関しても党中央指令で中央委員までいつでも首を飛ばせるようにしている。敢えて言えば、党中央による一元化管理であり、これにより風通しを良くしたというのが「分かりやすくした」ということの真意であり、「不破−志位及びその側近にオールマイティー権を与えた」という意味に解するのを相当とする。 云いたいことはいろいろあるが、既に今までの投稿で述べていることもあるので重複を避けることにする。問題は、国会議員、地方議員、一般党員に対する重統制は手抜かり無く明記されているが、公安筋の組織潜入についてはまるで防衛規定が為されていない。むしろ、機関軽視によってより潜入しやすくなった風もある。もっとも、現下共産党に対して新たに潜入して得ねばならない新事実もないと思われることからして、選手交代をやりやすくする為の措置かと思われる。なお、名誉回復等せねばならないことが山積みされつつあるが、それらに対する配慮は微塵も為されていない。 以上から次のように結論付けることができる。悪文臭の強い現行規約は、それでも曲りなりに党組織全体を有機的に関連付けていた。支部から地区へ、地区から都道府県組織へ、中央委員会へという流れを職務権限ごとに明確化させていた。このたびの新規約は、この部分を簡素化させ、その他機関、会議の容易創出を容易にすることに拠り、党中央の党員処分権限を強化することに拠り、ズタズタにさせている。私が、解党路線であり、解党.転向前夜の土壌を地ならしすると予見する所以である。さて、最後の結論。何かしらオカルトの世界に入った観がある。 |
Re:「裸の王様」考 投稿者:れんだいこ ( 10/09 21:56:45 ) |
アンデルセンについて童話作品以外のことについて何も知らないが、戯画調寓話「裸の王様」はなかなかに意味深であり傑作品ではないかと思っている。が、実のところ最寄の書店で手に入る童話絵本でしか知らず、その内容も各書で微妙に違ったものになっているのが気になっている。ぜひ原文原意を正確に知りたいと思っているが私には手だてがない。どなたか正確な全体文をご紹介頂ければ幸いです。それにしても、安易な改竄はイヤなことだ。
私が「裸の王様」に着目する理由は、これがかなりに痛烈な社会時評であるように思われるからである。その出来映えはイソップ物語の警句にも劣らない。話の概要は、ある時代のある国の王様が催眠術のようなものをかけられ、豪華衣装を着ていると思わせられる。取り巻きの者はお追従するばかりで、「さすがに王様にはお似合いの立派な衣装でございます」とおべんちゃらを云う。王様はすっかりその気になり、ステテコパンツ一枚着た半裸の姿のまま、得意満面の様子で町中を物見遊山することになる。取り巻きの臣下がうやうやしく従い、見守る群衆もお追従するばかりの中、王様の行進は進む。ところが、一人の少年が不逞な発言をすることになる。「王様は裸だ」と率直に見たままを語り、その姿を笑う。これがきっかけとなり集団催眠術が解かれ、無様な王様の姿と臣民のごますり癖が白日の下に暴かれたという展開となっている。 この話が作り話であることは容易に見て取れる。なぜなら、王様が裸であるのなら白欧のこととて寒い筈であるし、暑い盛りで有れば汗をかく筈であるし、気候に関係なくても行進中に埃をかぶる筈であり、物語のような展開は実際には無理がある。問題は、そういうフィクションを通じてアンデルセンが何を語ろうとしていたのかということになる。我々に何を警句としているのかと云うことになるであろう。という関心から、「裸の王様」を私流で読解して見たいと思う。既にお気づきの方もあろうかと思われるが、「裸の王様」は宮廷権力者へのあてこすりが痛快に描かれており、現党中央不破執行部の赤裸々な姿が二重写しにされることになる。これほどまでにピッタリの教材は珍しい。ここまでの記述につき既に不愉快を感ぜられる方にはあらかじめ以下の文章は読み進めないようご忠言申し上げておく。構成を次のようにしたいが、長文化するので簡略にエッセイ風にまとめることにする。 その@、なぜ、王様は裸で市中行進を為しえたのか そのA、なぜ、取り巻きは王様の裸を裸とみなし得なかったのか そのB、なぜ、大衆は王様の裸を裸とみなし得なかったのか そのC、なぜ、少年が王様の裸を裸とみなし得たのか そのD、後日談の推測 或る国に或る王様がいたとさ。この王様は現実の王様である必要はない。王様に仮託されているものこそが推測されねばならない。普通に史上の権力者一般でも良いし、庶民のはかなき夢が権化した存在と想定しても良い。この王様にも悩みがあったとしよう。例えば租税収入が伸びないとか、臣下の能力が低いとか、領土.領民の拡大が停滞しているとか理由は何でも良い、王様自体一つの仮託であるので、われらが日頃渇望せしめている願望でも良い。民主連合政府樹立構想なぞも考えられる。ここでは、王様が単に着物好きだったか又は皮膚病のようなものがあったとして、着疲れし易い悩みがあったとしよう。ある時、王様のこの趣味癖又は悩みを聞きつけた山師が接近してきた。山師は単数でも複数でも良い。山師の接近は、今日的に云えばニッチなニーズに対するアプローチであったと考えればよい。王様と会見し得るからには、既に名声を得ていたものと思われる。会見の席上、山師の弁舌はそれは巧みで、王様を充分に堪能させた。「全く王様にこそ相応しい世にも稀な最高級の衣装を作らせて頂きたい」とのたまわった。曰く、「重くもなく、暑くもなく、豪華絢爛なこの世の最高のものを仕立ててしんぜます。王様ならではお似合いのすぐれものでございます」とくすぐった。実に良いことずくめの申し出であった。王様は山師の弁舌に引き込まれた。日頃の悩みの解消(願望の成就)につながるという現実的利害があったからである。こうした現実的利害が絡んでいなければ人は関心を持たない。 一般に良いことずくめの話には眉唾せねばならないとしたものだが、山師は、この時、この提案を受け入れた者をして自閉的に自縛させる胡椒を振り掛けることを忘れなかった。この仕掛けが実に効果を発揮することになる。山師を山師せしめたるゆえんのテクニックと考えられる。世の中にはこういう自縛論理があふれており、自力で解きほぐす以外に方法がない。山師は、この自縛論理を振り回すことによりオールマイティー権を得ていくことになった。それは、「この最高級の衣装は愚者には見えず、賢者だけに見える特別製であり、賢者の証のふるい分けともなります」というセリフであった。ここが詐術である。しかし、この詐術の論理をひとたび受け入れるとトンデモなことが可能になる。物語は、この論理が、天衣無縫とも云える広がりで満展開していくことに面白さがある。留意すべきは、この詐術論理は絶対的な命題であり、ここを疑うことは許されないものとして、あらゆる判断の前提となっていくよう仕掛けられていた。例えば、党の綱領路線のようなものであると思えばよい。あるいは「人民のため」という文句でも良いし、「民主化」、「民主集中制」、政敵に対する「反共」という文言でも良い。とにかく、そのこと自体吟味されることなく、絶対視されてローラー的基準で押しつけられていくものであれば良い。 この「愚者には見えず」という論理は、本来王様にも適用されるはずであるが、王様には必ず見える筈であるという山師の太鼓判によって、王様はあらかじめ適用除外されるという御都合主義の恩恵に浴していた。この君臨者に対する適用除外も又一つの仕掛けとみなせる。オーム真理教のグル麻原氏を思い浮かべればよい。自身はハーレムを拵えながら信者には禁欲を強いる、あるいは又自身は飽食しながら信者には粗食を強いるあの利己論理が最近の例である。という訳で、この論理は、実際には、臣下の能力識別を為す格好のリトマス試験紙として機能していくことになった。「有能人士の選別に一役買うことにも為ります」という「錦の御旗」が味付けされ、臣下の整風が出来るという副次的効果が期待されることにもなった。この甘言が王様にいたく魅力的に作用したと思われる。王様は単に衣装に憧れたのではなく有能な臣下を欲してもおり、このたびの山師の口上に拠れば一石二鳥の有り有り尽くしであったということであろう。こうして王様は山師の口車に乗り、商談が成立することとなった。以後山師は本件事業達成執行の任に就 くことになった。 山師は早速衣装作成に取りかかった。王様が仕事場を覗くと、山師は手分けしつつ織機の前でガタンゴトンと熱心に精を出していた。本当は手つきだけのことではあったが、現実に機を織る真似をし始めたのである。つまり、山師達は決して口先三寸に終始していたのではなく、真空世界に向かってではあるが、実際にそれらしく活動したと云うことである。ここが肝心である。例え空中楼閣的世界であれ、ひたむきに精を出す姿がまやかしとなり、王様の心を捉えて行くことになるのである。こうした山師の仕草をみながら王様は次第に期待を膨らませ、早く着てみたいと願うこととなった。二日、三日と経過したが、相変わらず山師は不眠不休で精出していた。気になる王様が仕事場を覗く度に、「順調に進んでいます」、「もう少しで出来上がります」、「良いのが出来上がりつつあります」と耳障りの良い調子で山師は答えた。完成間近を控え、王様が試着することとなった。驚いたことに王様には“衣装が見えなかった”。王様は内心慌てた。王様は賢者であるが故に必ず見えますという太鼓判を押されていただけに、自分が見えないなどとは夢疑わず安心しきっていたのだが、困ってしまった。一体どうしよう。王様が愚者であるということが判明させられてしまうではないか。これは具合の悪いことであった。しかし、山師はさすがの役者である。自尊心を維持しようとしてかろうじてたたずむ王様に対して、要領よく透明衣装を着せていった。語りかける山師の言葉を聞いているうちに次第に王様は“その気にさせられていった”。催眠話法のようなものと思えばよい。 ここからが肝心である。王様は何となく納得した気分になった。とはいえ、王様は山師の催眠術に単純に乗せられたのではなかった。王様は気になったのか、お忍びで仕事部屋に立ち寄り、あらためて我が目で衣装を確認しようと何度も努力した。党的文言で云えば、あくまで実践で検証しようとしたのである。しかし、王様にはどうしても見えなかった。しかし、それにしてはオカシイ。山師は名声に定評の有る衣装デザイナーであることは調査済みであるし、現に山師は額に汗して働いているではないか。ガチャンゴトンと機を織る音が聞こえてくるではないか。こうなると見えない自分の方がどうかしているに違いないという気分に駆られたようでもある。ソウダ、自分だけの判断では心許ない。臣下の反応を窺おうと思いたった。 こうして重臣を連れて仕事場へ行くことにした。重臣も最初はギクッとした筈であるが、さすがに長年の宮仕えの役者であった。見えないのは愚者の証明(つまり学習不足とも考えられる)と聞かされていたので、出来るだけ見えるようにしようと無理強いに努め、山師の弁舌に一々肯いた。その結果、“結構なものでございます、さぞ王様にはお似合いでしょう”いよぉ大統領と拍手したかどうかまでは知らないがお追従した。何人の重臣達が試されたのかは判らないが、異口同音にお追従した。この時点で王様には劇的な脳内変化が発生したようである。取り巻きの支持を得て“見えることを確信するようになった”と思われる。こうして、王様はすっかりその気になっしまった。このことも大事である。何事も本人自身がその気にならなければドラマは生まれない。 ここまでで判ることは、王様は決して一人合点した訳ではないということである。自ら用意周到に仕事場を何度も覗き、重臣達にも確認させていることである。つまり、手順を踏んで確信を高めていったということになる。決して山師の口車だけに乗せられたのではない。それを受け入れようとする自身と、その受け入れを促す取り巻きの囃子が介在することによって、「みんなで渡れば恐くない」式気分が醸成されたということである。ここが大事である。一人では判断がつかないことも集団で確認すれば確信に至り、お追従が加わることによって相乗するということである。 しかし、こうした手順を踏んでみても結果的には何の役にも立たなかったというのが実際でもあった。形式は形骸化するという好例であると思われる。なぜなら、重臣達にはあらかじめ手枷足枷が填められていたからである。手枷足枷とは、見える見えないが賢者と愚者の識別となり、愚者と云うことが判明すれば無能の役立たずの烙印が押され、このことはリストラ(解職)の危機が迫られることが自明であったからである。つまり、臣下は何としてでも自らが愚者であると判明させられてはならない事情にあった。臣下には見えるようにしか判断できないような仕掛けが填められていたと云うことである。こういう場合、人の判断をいくら仰いでも、あらかじめ敷かれたレールの結論と違える判断が為されることは難しい。相談が為されたとしても、相談そのものが追認しか為しえない儀式化されたものに転化しているからである。重臣達は何としてでも賢者に見せかける必要があった訳であり、その為には競っておべんちゃらを云うことが保身的に好ましかった。してみれば、「裸の王様」の「裸」とは、外見的な裸というばかりではなく、自らそういう仕掛けにしておきながらイエスマン臣下に取り囲まれている精神的孤独をも表象しているようにも思われる。 そうこうしているうちに仕立てが終わり、山師は世にも珍しい新着衣装をうやうやしく王様に献上することとなった。王様はすっかり喜んだ。臣下も口々に立派な出来映えですと誉め称えた。王様は山師の云われるままの手順で衣装を身につけ、まずは宮廷内をこれ見よがしにのし歩いた。宮廷内からは口々に賞賛の声が沸き起こった。誰もが愚者に見られたくない一心からの阿諛であったであろう。こうして結局のところ「愚者には見えず」というこの論理は、「有能人士の選別」に役立つことにはならず、一層のイエスマンづくりの方向にとてつもなく機能していくことになった。この辺りに無頓着なまますっかり気をよくした王様は最終的に“自信をつけた”。こうして宮廷内に一大マインドコントロール世界が現出することとなった。我々はあの“満場一致”世界を思い浮かべれば良い。ここに至って王様はパフォーマンス男となり、豪華絢爛衣装を城下の大衆に見せることを思い立った。早速立ち札が立てられ、世界一豪華な賢者だけに見える特別衣装を着た王様のパレードが予告された。果たして、このマインドコントロール世界が宮廷外にも通用するのであろうか。 その日がやってきた。すっかり自信満々の王様ご一行様は得意然として行進し始めた。山師がしきりと雰囲気を盛り上げていた。音楽隊のファンファーレが高らかに鳴り響いた。一種集団催眠の道具立てが座を盛り上げていった。人だかりの中を王様は蓄えた髭を一層際立たせながらゆっくりと進んでいった。王様の絢爛豪華衣装を一目見ようと大衆が人垣をつくり、わいわいガヤガヤざわめいた。ここでも「あの論理」が強烈に作用した。大衆も又自身が賢者であると思われたい為に競って王様の立派な衣装を誉め、感応した。お調子者が我先にとゴマスリし始める例の世界を思えばよい。主流屋には居心地の良い一時となった。中には目をこする人もいたかも知れないが、そう言う人はそっと仕草したに違いない。数分か数時間のことかわからないが王様の行進は続いていた。王様の行くところどこでも伊達酔狂がつらなかった。 ところが、ここから話は急転直下する。ある少年が、“王様の裸を笑った”。たゆまずあちこちから失笑が漏れた。たまらずあちこちから笑いの渦が沸き起こった。催眠が解けた瞬間であった。この場合、アンデルセンはこの少年に何を仮託しているのだろうか。恐らく、少年とは、純粋無垢というか利害関係のない者且つ遠慮を知らない者、あるいは又真の忠言士という意味で解すればよいのであろうか。 後日談は不明であるが容易に想像できよう。王様のパレードは散々な目に遭うことになった。ほうほうのていで宮廷に戻った王様は一人臍をかんだことであろう。その後少年がどう待遇されたものやら各書に於いて記述が異なる。山師がどうなったのかもようとは判らない。山師を厳しく罰することは必要ではあったであろうが、法廷にでも立たせようものなら、王様も含めて誰しも、触れられたくない部分が明るみにされることになるであろうが故に、お咎めなしとなったのではなかろうか。臭いものには蓋せざるを得ないことになったのでは無かろうか、と推測し得る 。 以上が「裸の王様」の顛末であるが、意味深ではないだろうかと思い投稿させて頂いた。この寓話には、権力者一般にまつわる痛烈な阿諛追従風刺があるように思われる。何も現下党中央の動向に対してのみあるいは又民主連合政府構想をのみあてこすりしようとして文章化した訳ではない。菊のカーテンの世界にも、鶴のカーテンの世界にも、企業オーナー一般にも、身近なところでの得意者全般に通用する話である。 具体的方法の提示のない批判は私の好みではないので、以下提言を申し上げることにする。一つは、王様の気まぐれ、山師の存在までも退けてはならないということ。そういうものがあったり居るからこそ世の中は面白く、こうした寓意が伝わることになるから。これは民主主義の基本である。問題は、どのようにして王様が臍をかまなくても良いように工夫するのかと云うことが肝心であろう。その為に、一つは、良いことずくめの話とか絶対的教条が現れたら、そのこと自体をしつこく議論せねばならないと云うこと。我々の思考を止めてはいけないということである。次に、寓話「裸の王様」の場合、絶対命題であった「この最高級の衣装は愚者には見えず、賢者だけに見える特別製であり、賢者の証のふるい分けともなります」という絶対基準論理が敷かれ、これが踏み絵となって際限のないイエスマン世界を現出させることになった。こうした踏み絵論理も精査されねばならないと云うこと。実際に踏み絵たり得るものであるかどうかを検証し、我々は安易に思考停止してはならない。一つは、議論が為される場合には、生活権の剥奪の心配のない仕組みのところで自由な議論が許容されねばならないということ。この仕組みづくりのために内的闘争することこそ、組織員の一等の責務ではなかろうか。 おしまいの付言は次のことである。「裸の王様」はあくまで童話であり、現実は苛酷である。不破党中央は、宮廷内に一大マインドコントロール世界を現出させたまま臆病にも市中行進をしないから笑われることもなくこのまま壊死するまで続くであろうということ。次に、仮にだが、裸の王様が宮廷内をのし歩いたときに何度も目をこすった臣下がいたとしよう。彼に待ち受けるものは例の「調査問責」である。彼の行為が問われるのではない。彼の心証の不逞ぶりがなじられるのである。この行為で彼の勤務評定欄にはチェックマークが一つ追加されることになる。こうしてイエスマンづくりが促進されるのが現実である。なお、目こすり派がたまたまにせよ二人寄って何やら会話しているのが目撃されたらどうなるかという問題もある。やはり二人分派になるのであろうか。この現場を見た者が報告を怠ったらどうなるか。ウーン何ともはや現実は凄惨であることだわ。 |
Re:つける薬がない 投稿者:れんだいこ ( 10/10 16:54:56 ) |
10.8日放映のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」でおこなった発言(大要)が載っている。現下の選挙制度の改訂が与党自民党の党利党略的なものかどうかは一概には言えないと思うが、ここではこのことを論じない。末尾文の「不破 これから、二十一世紀でしょ。たくさんの問題がありますよね。財政がどうなるのか、景気がどうなるのか。介護保険を始めたけれども、これでいけるのか。そういう問題をたくさん抱えているんだけれども、それについて、なんにも責任をもって答えを出さないまま、平気で二十一世紀を迎えようとしている。それで、選挙制度の改悪ばっかりやっているというのが、だめなんですよ。」についてコメントする。以下、次のように言い換えてみたが、皆さんはどう思われますでしょうか。
「れんだいこ これから、二十一世紀でしょ。たくさんの問題がありますよね。党員.機関紙の減少がどうなるのか、党勢がどうなるのか。「前衛」を外し、指導政党たることを放棄し、緊急時の自衛隊出動当然論での存在するものは存在するとの容認、綱領の見直しを始めたけれども、これでいけるのか。そういう問題をたくさん抱えているんだけれども、それについて、なんにも責任をもって答えを出さないまま、平気で二十一世紀を迎えようとしている。それで、規約の改定に乗り出し改悪ばっかりやっているというのが、だめなんですよ。」 |
Re:]udt.つける薬がない 投稿者:れんだいこ ( 10/12 21:17:40 ) |
「日本共産党 青年・学生支部 学習交流会」(志位書記局長のまとめ.2000年10月11日.水)なる記事がしんぶん赤旗インターネット版に載っている。何やら末尾の方で「著作権:日本共産党中央委員」なるものを明記しているが、ホントにおかしな党だと思う。一般大衆に呼びかけるのに著作権を盾にするその思想性やいかに。いつからこんなことになってしまったんだろうね。ポカンだわ。でも、党員の皆様はみんなご納得なんかいなぁ。こうなると、一つ質問がある。過去の論文まで含めてみんな著作権の対象にしているんかいなぁ。どこに基準設けているんでしょうねぇ。最近やりだしたのなら、ちゃんと国民の皆様に了解向けの中央委員会名の「お断り」か党大会での確認されてんでしょうねぇ。こういうことからして、姑息なんだなぁ。
どうやら青年諸君への入党勧誘の記事らしい。少し読み進めてみる。「わが党には未来がある」とある。当たり前の話だわな。第二十二回党大会議案への確信、要求運動など多彩な活動、党員拡大や週一回の支部会議などについて豊かな経験とともに率直な悩みも涙ながらに語られ、第二十二回党大会の成功にむけての決意が次々に表明され、真剣で熱意あふれる感動的な討論となりました、とある。「率直な悩みも涙ながらに語られ」とあるが、この手のやり方は新興宗教とかマルチ商法によくあるんだな、これが。志位氏は、二十一世紀の民主的政権の担い手となるために、学習を重視し、政治的・理論的成長をはかることの大切さをのべ、「若い時期に人生の羅針盤をしっかりつかむ学習を」と強調しました、とある。まぁ学習が悪いということはない訳で、何を学ぶのかだわな。古典の一つでも唱和した方がいいんではないかいなぁ。人間的成長の大事さについてのべました、ともある。だからぁ、そったらこというのなら、まず自身がその高潔さを見せることが一番で、自信あるよといわれたら却って疑いたくもなるよね。マジにいうのなら、ついでにご先祖様に手を合わせ、親に感謝しましょうも付け加えればより一貫するのよね。「党員の要求が若者の要求である。切実な関心から出発して、ともに要求実現にとりくむという立場でおおいに運動の発展を」とのべましたとあるのが何のことかというと、セクハラのことなんだがねぇ、どうもピンぼけなんだな。「切実な関心から出発して、ともに要求実現にとりくむ」というのが、この方面に使われるのは別に構わないとして、本業の方はどうなんだろうねぇ。 |
Re:]udt.つける薬がない 投稿者:れんだいこ ( 10/12 21:17:40 ) |
「日本共産党 青年・学生支部 学習交流会」(志位書記局長のまとめ.2000年10月11日.水)なる記事がしんぶん赤旗インターネット版に載っている。何やら末尾の方で「著作権:日本共産党中央委員」なるものを明記しているが、ホントにおかしな党だと思う。一般大衆に呼びかけるのに著作権を盾にするその思想性やいかに。いつからこんなことになってしまったんだろうね。ポカンだわ。でも、党員の皆様はみんなご納得なんかいなぁ。こうなると、一つ質問がある。過去の論文まで含めてみんな著作権の対象にしているんかいなぁ。どこに基準設けているんでしょうねぇ。最近やりだしたのなら、ちゃんと国民の皆様に了解向けの中央委員会名の「お断り」か党大会での確認されてんでしょうねぇ。こういうことからして、姑息なんだなぁ。
どうやら青年諸君への入党勧誘の記事らしい。少し読み進めてみる。「わが党には未来がある」とある。当たり前の話だわな。第二十二回党大会議案への確信、要求運動など多彩な活動、党員拡大や週一回の支部会議などについて豊かな経験とともに率直な悩みも涙ながらに語られ、第二十二回党大会の成功にむけての決意が次々に表明され、真剣で熱意あふれる感動的な討論となりました、とある。「率直な悩みも涙ながらに語られ」とあるが、この手のやり方は新興宗教とかマルチ商法によくあるんだな、これが。志位氏は、二十一世紀の民主的政権の担い手となるために、学習を重視し、政治的・理論的成長をはかることの大切さをのべ、「若い時期に人生の羅針盤をしっかりつかむ学習を」と強調しました、とある。まぁ学習が悪いということはない訳で、何を学ぶのかだわな。古典の一つでも唱和した方がいいんではないかいなぁ。人間的成長の大事さについてのべました、ともある。だからぁ、そったらこというのなら、まず自身がその高潔さを見せることが一番で、自信あるよといわれたら却って疑いたくもなるよね。マジにいうのなら、ついでにご先祖様に手を合わせ、親に感謝しましょうも付け加えればより一貫するのよね。「党員の要求が若者の要求である。切実な関心から出発して、ともに要求実現にとりくむという立場でおおいに運動の発展を」とのべましたとあるのが何のことかというと、セクハラのことなんだがねぇ、どうもピンぼけなんだな。「切実な関心から出発して、ともに要求実現にとりくむ」というのが、この方面に使われるのは別に構わないとして、本業の方はどうなんだろうねぇ。 次に、党員拡大にふれ「入党をよびかけるのは、自分の生き方、入党の初心、誇りを伝える、だれにでもとりくめる活動です」と強調しました、とある。「いちばん親しくしている友達から、どんどん入党を働きかけていく運動が大切です」、入党をよびかけることは相手を信頼していることであり、真剣なよびかけは人間関係を壊すどころか、信頼関係を高めるし、入党のよびかけをつうじて自分も成長できるとのべました、とある。やっぱ新興宗教の勧誘を真似てんとちゃうかなぁ、どうやら。長年の自民党政治のもとで社会全体が荒れ果てているなかで「支部をあたたかい人間的連帯に結ばれた組織として発展させてほしい」とよびかけました、とある。「欲しい」とあるからには、今がそうでないという意味になるが、もし支部がそういう組織だったとしたら、志位さんよ執行部入りして何年になるんかいな、それは少しは責任問題ですぞな。第二十二回党大会決議案について「読んで展望がみえてきたという感想が多数よせられた」とのべ、歴史的な第二十二回党大会を大きな躍進で迎える意義を強調し、「党員拡大を重点とした党勢拡大の大運動」で「どんどん若い仲間をふやして全党をひっぱる活動をお願いしたい」とよびかけました、とある。思うんだけど、共産党の場合、よそ様と違う「民主集中制」なる名前はわかりやすいが実態はヘンテコリンな規約があるのだから、ちゃんと説明せずに入党させたら少々問題ありだわな。特に、規約を承知して入党しているんだから、調査問責も当たり前という牢とした解釈で通している党中央の責務として、このあたり指導しておかないと「青春をかえせ」なんていわれかねないことになりはしないかと心配してあげる。物品販売の場合には事前説明書に署名捺印が要求されている折柄少々問題あるなぁ。 次に、2000年10月11日(水)「しんぶん赤旗」の日本共産党青年支部・学生支部 学習交流会 21世紀を担って輝きたい 悩んで学んで…党を大きくを見てみる。日本共産党の「21世紀宣言」、決議案は青年に希望ともす、とある。逆に書いている結社があったらおかしいわなぁ。「21世紀を担うのはぼくたち青年」と語った岩手の青年は、志位さんが「君たちの肩にかかっている」という話に「そうだ、がんばらなくちゃ」とあらためて思ったと話しました、とある。やややらせ風だな。京都の学生支部の支部委員は、決議案に、変革の精神と未来社会への展望を示す科学の目、科学的社会主義をあらためて確認したと発言。「一人一人が主人公として新しい社会をつくる21世紀にふさわしい運動をつくっていきたい」と締めくくりました、とある。そう思わんとやっていけませぬわねぇ。 札幌東区地区の青年支部では、支部会議に参加できない女性の支部員に話をきくと、職場での人間関係や社長のセクハラ、パート労働者の一時金カットなどの悩みがだされ、それをきっかけにアンケート活動にとりくんだ経験を発言。その女性が「共産党や民青があって、本当に助かった。あきらめないでよいと知った」と打ち明けてくれたとのべ、共感の拍手をよびました、とある。だったら、先の国労闘争でどう頑張ったのかいなぁ。党員がふえると、いろいろ違いがあるのに、いつの間にか会議も活動的な党員のペースになり、気づかないうちについていけない人をつくってしまったと反省。支部が元気になり、活動が活発になってくると、どうしてもそうなりがちだが、一人ひとりを大切にして、一生成長でき、参加してよかったといえる支部にしたいと話し、感動をよびました、とある。「活動的な党員のペース」があかんとも受け取れそうな、そうでない党員に対する優しさというのが気持ち悪いなんだなぁ。「私の誤解を友人がといてくれたように、私も親しい友人に党のことを語り、誤解をとき、納得してもらうためにがんばりたい」と発言しました、とある。これはホント宗教だなぁ。真理に目覚めよ!なんていう子供連れのがあるけど、論理が瓜二つだにゃぁ。 それで一通り読んでみて、一体この党は何をしようとしているのかさっぱり分かんない。底なしの腐敗には違いない。党に入るのがそんなに甘いとは、不利益をこうむりそうな気配をも良しとして我が身に引き受けようとする決意というものはまるでない。こったらことでよいのだろうか。蛍とりではあるまいが「こっちの水は甘いぞ」しか聞こえない。 |
Re茶々入れになるか゛ 投稿者:れんだいこ ( 10/12 21:27:10 ) |
「日本共産党 青年・学生支部 学習交流会」(志位書記局長のまとめ.2000年10月11日.水)なる記事がしんぶん赤旗インターネット版に載っている。何やら末尾の方で「著作権:日本共産党中央委員」なるものを明記しているが、ホントにおかしな党だと思う。一般大衆に呼びかけるのに著作権を盾にするその思想性やいかに。いつからこんなことになってしまったんだろうね。ポカンだわ。でも、党員の皆様はみんなご納得なんかいなぁ。こうなると、一つ質問がある。過去の論文まで含めてみんな著作権の対象にしているんかいなぁ。どこに基準設けているんでしょうねぇ。最近やりだしたのなら、ちゃんと国民の皆様に了解向けの中央委員会名の「お断り」か党大会での確認されてんでしょうねぇ。こういうことからして、姑息なんだなぁ。
どうやら青年諸君への入党勧誘の記事らしい。少し読み進めてみる。「わが党には未来がある」とある。当たり前の話だわな。第二十二回党大会議案への確信、要求運動など多彩な活動、党員拡大や週一回の支部会議などについて豊かな経験とともに率直な悩みも涙ながらに語られ、第二十二回党大会の成功にむけての決意が次々に表明され、真剣で熱意あふれる感動的な討論となりました、とある。「率直な悩みも涙ながらに語られ」とあるが、この手のやり方は新興宗教とかマルチ商法によくあるんだな、これが。志位氏は、二十一世紀の民主的政権の担い手となるために、学習を重視し、政治的・理論的成長をはかることの大切さをのべ、「若い時期に人生の羅針盤をしっかりつかむ学習を」と強調しました、とある。まぁ学習が悪いということはない訳で、何を学ぶのかだわな。古典の一つでも唱和した方がいいんではないかいなぁ。人間的成長の大事さについてのべました、ともある。だからぁ、そったらこというのなら、まず自身がその高潔さを見せることが一番で、自信あるよといわれたら却って疑いたくもなるよね。マジにいうのなら、ついでにご先祖様に手を合わせ、親に感謝しましょうも付け加えればより一貫するのよね。「党員の要求が若者の要求である。切実な関心から出発して、ともに要求実現にとりくむという立場でおおいに運動の発展を」とのべましたとあるのが何のことかというと、セクハラのことなんだがねぇ、どうもピンぼけなんだな。「切実な関心から出発して、ともに要求実現にとりくむ」というのが、この方面に使われるのは別に構わないとして、本業の方はどうなんだろうねぇ。 次に、党員拡大にふれ「入党をよびかけるのは、自分の生き方、入党の初心、誇りを伝える、だれにでもとりくめる活動です」と強調しました、とある。「いちばん親しくしている友達から、どんどん入党を働きかけていく運動が大切です」、入党をよびかけることは相手を信頼していることであり、真剣なよびかけは人間関係を壊すどころか、信頼関係を高めるし、入党のよびかけをつうじて自分も成長できるとのべました、とある。やっぱ新興宗教の勧誘を真似てんとちゃうかなぁ、どうやら。長年の自民党政治のもとで社会全体が荒れ果てているなかで「支部をあたたかい人間的連帯に結ばれた組織として発展させてほしい」とよびかけました、とある。「欲しい」とあるからには、今がそうでないという意味になるが、もし支部がそういう組織だったとしたら、志位さんよ執行部入りして何年になるんかいな、それは少しは責任問題ですぞな。第二十二回党大会決議案について「読んで展望がみえてきたという感想が多数よせられた」とのべ、歴史的な第二十二回党大会を大きな躍進で迎える意義を強調し、「党員拡大を重点とした党勢拡大の大運動」で「どんどん若い仲間をふやして全党をひっぱる活動をお願いしたい」とよびかけました、とある。思うんだけど、共産党の場合、よそ様と違う「民主集中制」なる名前はわかりやすいが実態はヘンテコリンな規約があるのだから、ちゃんと説明せずに入党させたら少々問題ありだわな。特に、規約を承知して入党しているんだから、調査問責も当たり前という牢とした解釈で通している党中央の責務として、このあたり指導しておかないと「青春をかえせ」なんていわれかねないことになりはしないかと心配してあげる。物品販売の場合には事前説明書に署名捺印が要求されている折柄少々問題あるなぁ。 次に、2000年10月11日(水)「しんぶん赤旗」の日本共産党青年支部・学生支部 学習交流会 21世紀を担って輝きたい 悩んで学んで…党を大きくを見てみる。日本共産党の「21世紀宣言」、決議案は青年に希望ともす、とある。逆に書いている結社があったらおかしいわなぁ。「21世紀を担うのはぼくたち青年」と語った岩手の青年は、志位さんが「君たちの肩にかかっている」という話に「そうだ、がんばらなくちゃ」とあらためて思ったと話しました、とある。やややらせ風だな。京都の学生支部の支部委員は、決議案に、変革の精神と未来社会への展望を示す科学の目、科学的社会主義をあらためて確認したと発言。「一人一人が主人公として新しい社会をつくる21世紀にふさわしい運動をつくっていきたい」と締めくくりました、とある。そう思わんとやっていけませぬわねぇ。 札幌東区地区の青年支部では、支部会議に参加できない女性の支部員に話をきくと、職場での人間関係や社長のセクハラ、パート労働者の一時金カットなどの悩みがだされ、それをきっかけにアンケート活動にとりくんだ経験を発言。その女性が「共産党や民青があって、本当に助かった。あきらめないでよいと知った」と打ち明けてくれたとのべ、共感の拍手をよびました、とある。だったら、先の国労闘争でどう頑張ったのかいなぁ。党員がふえると、いろいろ違いがあるのに、いつの間にか会議も活動的な党員のペースになり、気づかないうちについていけない人をつくってしまったと反省。支部が元気になり、活動が活発になってくると、どうしてもそうなりがちだが、一人ひとりを大切にして、一生成長でき、参加してよかったといえる支部にしたいと話し、感動をよびました、とある。「活動的な党員のペース」があかんとも受け取れそうな、そうでない党員に対する優しさというのが気持ち悪いなんだなぁ。「私の誤解を友人がといてくれたように、私も親しい友人に党のことを語り、誤解をとき、納得してもらうためにがんばりたい」と発言しました、とある。これはホント宗教だなぁ。真理に目覚めよ!なんていう子供連れのがあるけど、論理が瓜二つだにゃぁ。 それで一通り読んでみて、一体この党は何をしようとしているのかさっぱり分かんない。底なしの腐敗には違いない。党に入るのがそんなに甘いとは、不利益をこうむりそうな気配をも良しとして我が身に引き受けようとする決意というものはまるでない。こったらことでよいのだろうか。蛍とりではあるまいが「こっちの水は甘いぞ」しか聞こえない。 |
Re:党員は本当に大事にされているのだろうか 投稿者:れんだいこ ( 10/14 17:54:28 ) |
先の投稿で、入党時「飴政策」.入党後「鞭政策」の党の体質を論じたつもりであるが、問題はそれにとどまらないことに気づいており、以下補足する。一体、宮本−不破党中央による入党時の甘いささやきと優しさはどの程度本物なのだろうか、党員は本当に大事にされているのだろうかにつきコメントしておきたい。
一般に親の子供に対する躾を考えれば分かるが、幼児の頃より甘やかすばかりではいい子に育たない。むずかるからといって砂糖菓子を舐めさせ続ければ虫歯になるし、流動食をいつまでも続ければ内蔵が強化されない。時期に応じてあんよが上手で導かねばならない。これにあたるのが「民主集中制」というなかれ。次にやってくるのが「なぜ、なぜ」の疑問と質問の連発であるからである。うるさい、黙っておれ、云ったとおりにしろの強権ではいい子は育たない。ここまでは誰も異論はなかろう。 問題は、宮本−不破らの下部党員を見る目、育てようとする意欲がなへんにあるかである。名教育者であるだろうか。実際はかなり冷ややかな蔑視を前提にしていないかということを凝視してみたい。このたびは外に向かっては指導政党であることを放棄するという意向の様であるが、内においては政党としての当然の「自民党もうらやむ良いシステム」として「民主集中制」はより激しく党中央フリーハンド方向に維持する方針が発表されている。規約に基づく「民主集中制」を検討すれば、羞恥心無しには読み取れない。現行.新両規約によれば、一度党中央の座椅子に腰掛けた者は超伝導の如くに永遠性を獲得し得る素晴らしいシステムとなっている。いわば特殊な世界の実験工場として、出来得るならば歴史博物館に記録しておきたいとも思う。 まぁそういう漫談はよしておいて、本論に入る。宮本の次のような下部党員に対する認識が伝えられている。皆さんはどのように受止められるでしょうか。例の査問事件の公判陳述での宮本の弁明の中で、次のようなくだりがある。「故に党としては彼等より急迫不正な侵害を受けていたというべきであって、無辜(むこ)の党員は個人法益を防衛しその侵害を防止しなければならぬ」。これは、査問は正義であった、なぜなら「無辜(むこ)の党員」の法益を擁護せねばならなかったからであると主張しているのであるが、果たして如何なものであろうか。当時の共産党員といえば、治安維持法下でも屈せず闘い抜いていたかなりボルシェヴィキ的な有能党員の結集体であったが、宮本の目には、何も分からぬ「無辜(むこ)の党員」がいて、党中央の責務として彼等を助けねばならなかった、これが査問の背景であるといっていることになる。付言すれば、「無辜(むこ)の党員」であって、「大衆」ではない。当時の党員レベルをあまりにも愚弄しているように思うのは私だけだろうか。なお、ついでに述べれば、もう一つの査問の正当性として、「彼等といえども入党に際しては党規約に無条件服従を約していたのである。従って、党の決定により査問される以上かりに制縛されても異議ある筈はなく、当然承諾による行為である故に、何ら不法の行為ではないのである」というくだりもある。党員諸君、ゆめ規約をおろそかにするなか れ。 次に、60年安保闘争の2年前の58年に宮本が述べている次のような一節。全学連指導部を跳ね上がりの「トロッキスト」と罵倒して、「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。 云おうとしていることは判るが、自己を超然とした高みに置いた宮本らしい品の無い論法ではなかろうか。これだけ断定的に云い為しえるのは「真理の体現者」以外にはこそばゆい。最後に、これがいいたかったことなんだけど、「大衆から嫌われ、軽蔑され」るという場合の大衆とは如何なる認識で言われているのだろうか。そも「善意な大衆」という物言いは何なんだ。大衆を擁護しているのか馬鹿にしているのか、これに鼻持ちなら無い大衆蔑視のエリート臭を嗅ぎ付ける私の鼻が良すぎるのだろうか。 |
Re:少しは考えてみたい。 投稿者:れんだいこ ( 10/15 20:17:27 ) |
今日読んでた本の中に次のような一文があった。時は、戦前の共産党中央壊滅期の頃である。党内の戦う体制再構築の必要から内部スパイを摘発することが緊急の任務として、例の「先輩格党中央委員小畑.大泉査問事件」を引き起こし、その後もスパイ摘発闘争を続けた結果見事に党中央が解体し、これではいかん、むしろやった方の袴田−木島ラインこそスパイではないのかという疑惑が発生し(この時宮本は獄中にいたのでスパイ摘発闘争と無縁と思われやすいが、実は宮本の指令によって為されていたというのが史実である)、この見方の方が支持を増し多数派となり、「党中央奪還」が目指されていたのだが、これに弾圧が襲い、党内はちりじりばらばらになっていた時のコミンテルンにいた野坂からの指令である。 「昭和11年7月頃、コミンテルン岡野(野坂のこと−注れんだいこ).田中署名の『日本共産主義者への手紙』が送られてきている。当時の党の一般的見解を復唱したあと、現段階の重要戦術として「反戦反ファシズムのための全人民の人民戦線の結成である。その為には、左翼、農村はもとより自由主義、進歩主義の団体より進んで官製組織、青年団、在郷軍人会にまで潜入し、幹部を孤立せしめ大衆を獲得しなければならぬ。その際合法場面の利用、偽装に努めるとともにアジプロ活動は高度な観念的なるものを排し、時と場合に応じ大衆生活に即したものを取り上げ、常にこれを戦争反対、ファシズム反対に結合するを要する」。 今日では、野坂のスパイ性が暴露されている。当然この時もそうであった。その野坂は、何と反戦反ファシズム闘争を訴えながら、実践的には「自由主義、進歩主義の団体より進んで官製組織、青年団、在郷軍人会にまで潜入し、幹部を孤立せしめ大衆を獲得しなければならぬ」と投降路線を指針させている。言葉尻にころっとやられる人は、なるほど在郷軍人会のオルグに向かうのかとおめでたく思うのであろうが‐‐‐。ご丁寧にも、「アジプロ活動は高度な観念的なるものを排し、時と場合に応じ大衆生活に即したものを取り上げ」と右傾化路線で行くよう繰り返している。 あまり解説しすぎると自分で考えなくなるので引用だけにとどめるが、これってどこかで聞かされていないかなぁ。 何から何まで野坂と不破は理論が似ている。そういえば、先日、野坂が国会質疑で、吉田首相の非武装中立論を咎めて自衛権まで否定してはいけないと追い詰めていた史実を聞かせてくれて、自衛権擁護は元々共産党の持論ですと得意げにパクパクさせていたのも不破だったなぁ。まぁ野坂は除名されただけで、野坂の党歴の総括はしていないのだから、野坂の演説を引用して悪いとはいえないであろうが‐‐‐。 |
(私論.私見)