ヒゲ虎時事評論14

中小企業融資違反事件について  投稿者:れんだいこ ( 12/16 22:32:33 )
 政府は、1998年10月銀行の貸し渋り対策として「中小企業安定化特別保証制度」を創設した。自治体と信用保証協会の審査により保証し、銀行が融資を実行するという中小企業救済策だった。ところが、銀行の焦げ付き債権回収作として利用されたり、政治家・ブローカーの口利きによる不当斡旋料の取得が横行し社会問題となった。これにコメントしてみたい。

 私見は、この制度は大企業の救済にのみ狂奔する政府の政策としては画期的な良策であったと思う。最近の新聞紙面は、不当斡旋料の取得問題をクローズアップさせて関与した議員・ブローカーを批判しているが、果たして公正な報道だろうか。問題は、議員・ブローカーの暗躍を許す融資行政のほうにあるのではなかろうか。需要の無いところには議員・ブローカーの口利き料も生まれないからである。

 問題は、政府の良策として施策されたこの制度の実質的な運用趣旨が徹底されず、窓口となった銀行が相も変わらずかたくなな貸し渋り姿勢を維持し、そのギャップに対して口利きが横行したのではないのか。融資を受けても倒産の避けられないような企業の債権回収にこの制度を悪用したのも銀行であった。貸し渋り姿勢は何ら代わらず、消費者金融系へ融資して利ざやを稼ぐスタイルも変わらない。こうした銀行のありようこそ批判が向けられねばならないのではないのか


 本来、このたびの政府の施策によって、中小零細企業は望むならほぼ容易に融資が受けられるべき制度であった。もっとも借りた金は返さねばならないから必要の無い企業は申し込まない。問題は、必要があって返す意思と努力を見せているのに銀行が「依然として貸し渋り」した状態があって、政府の施策が機能しない。ここに口利き屋が横行したはずであり、融資を希望する企業にとって背に腹は替えられなかったはずである。法外の請求は別としても有難い口利きであったはずである。問題は、そうでもしない限りどうにもならない石頭化して仕事をしない既成銀行の病膏肓性の方にこそあるのではなかろうか。

 そういうことを思えば、既成銀行は治癒し難しとして新銀行の創出こそ望まれており、容易開業出来るように規制緩和し、担保・保証人主義に代わる新融資姿勢により顧客を獲得する新銀行をこそ育成したほうが国策に叶っているのではなかろうか。恐らく急成長し、社会に新たな活力を生み出すことになるだろう。現在やっていることは、望まれているそうした行政に逆行していることばかりではなかろうか。新しい皮袋を用意しない限り小手先の努力は全てが無駄になる気がしてならない。

 わが社会は中長期的に見て、経済は失速し、取り返しのつかない事態へ誘われるだろうと思われる。短期的に見ても、この年末から新年にかけても企業倒産が頻出し、様子が怪しくなるように思われる。日本の良さは、大企業と中小企業が混在し棲み分けし、ほどよい競争力を維持してきたことにあったものと思う。今中小零細企業が目白押しでギブアップしつつある。れんだいこ史観によれば、中小零細企業のオヤジはわが社会に居残っている希少価値な体張り人士である。大企業・公務員連中に比較して見てスマートではないが、清濁併せ呑みながら仕事をするかけがえのないやる気満々族である。この連中が現在大変な目に合わされているのに与党も野党も政治が追いつかない。経済の分からない理解しようともしないそういう政治がこのまま推移していって良いのだろうか。

 この先に見えてくるのは、一握りのエリート族とその他有象無象のイエスマン族に分化させられた社会である。戦後50年の帰結であるが、我々は道中に生み出した宝を今急速に失いつつあるのではなかろうか。恐らく21世紀はバラ色ではなかろう。むしろ、このままいったら疲弊した病人ばかりの社会へ陥ってしまう気がしてならない。公共事業の全面見直しという名のストップ化を野党が声高にしつつあるが、私には無茶な指針のようにしか見えない。そういう択一ではなく、必要な公共投資はむしろますます積極的にやっていかなければならない、望まれているのは利権のない公共事業であり、公共事業が良くないなどという理屈をこねる者は好き勝手に言わせればよい。話の通じない無責任連中でしかなかろう。やはりこういう問題も考えないといけないと思う。


Re:民主党の横路−鳩山論争について  投稿者:れんだいこ ( 12/18 19:49:19 )
 民主党代表・鳩山氏の憲法改正積極発言と横路副代表の反対発言が表面化している。これを考えて見ることも大事だと思う。こういう論議は散発的にせず、きちっとした党内委員会を設置し、継続論議することが望ましいように思われる。自由党党首・小沢氏も積極発言しているので巻き込んでやったら良いとも思うが、やりきる力があるだろうか。しかし、こういうことに関する党としての見解を確立しておかないといつまでたっても政権担当能力が身につかない。

 仮に、この論議を深めることによって亀裂が修復不能となったら、どちらかが分党すればよいとも思う。それに応じて再結合もすればよい。こういうけじめをせずに自民党のケチつけ批判に終始するこれまでのやり方には食傷だ。森にせよ中川氏が誰と会食しようが勝手だろうに、何年も前の出来ごとを持ち出していっぱしの正義論をぶつ。そして自分の番になったらしどろもどろで逃げ隠れする。こういう茶番劇を我々は見飽きてしまっている。

 次に党内論議してもらいたいことは、やはり経済の活性化であろう。くれぐれも云っておくが、共産党中央の言う反対の政策が正しい。決して連中の建前論に引っ張られてはならない。胡散臭い連中の言うことはやっぱし胡散臭い政策しか出せない。ところが、どうやら民主党まで公共事業の見直しという名目での予算削減策に追随しつつあることは馬鹿げている。議員のあっせん利得取り締まり法案も然りだが、あくまで適正さはどうあるべきかの論議を深めることが必要なのではなかろうか。責任を被る気もない連中の建前論に引きずられたら、官僚オールマイティー型の統制主義国家に誘われてしまう。既に十分すぎるほどそうだというのに、まだまだ足りないというのが連中の言い草だ。このままいったら、ホント息の根が止まるところまで云いつづけられるだろう。漬ける薬が無い連中の言い分なぞどうか聞かないように、トホホ。

 一つ分からないことは、海外派兵を論ずるほど我が日本は今後とも豊かな国であり続けていくのだろうか。どうもここの認識が違うので、私は憲法改正積極発言論者についていけない。そういえば、この論者は大抵二世三世の坊ちゃん議員ばかりな気がする。出自庶民の大衆的政治家なら、今年の年末の忘年会の盛り上がりの無さ、夜の町の青息吐息の声を大層心配するだろうが、そのようなことを気にかける人士はいないみたいだ。派兵の仕方を心配するより日本の溶解状況を心配してくれれば良いのにと思う私はし過ぎなのだろうか。


Re:「保守本流」について  投稿者:れんだいこ ( 12/23 13:36:34 )
 2000.12.23日の毎日新聞「政界20世紀辞典2」に、「保守本流」について記事が書かれている。丁度私が考察して見ようと思っているテーマなので面白いと思った。

 先だってメイクドラマし損なった加藤紘一氏は、強烈な保守本流意識をもっており、「我々は離党を考えない。なぜならば我々が保守本流だから」と言い続けていると書かれている。野中前幹事長もこの見方をしているようである。先の騒動の際、「保守本流を歩んでこられた宏池会の代表がそんな軽率な---」と述べていることから窺える。後藤田元副総理は、「保守本流は大平さんの時代で終わっている」と述べ、昔説として肯定・現否定という観点を示している。これに対し、長老の松野頼三氏は、「とんでもない。保守支流もいいとこだ」と切り捨てている。常に玉虫色の宮沢氏は「宏池会にそんな伝統は無い」と言っている。

 記事スペースには限りがあるのでこれ以上のコメントは為されていないが、私には非常に興味深い。戦後左派は、自民党政治を保守反動規定で一括りして、利権がらみの派閥の違い程度にしか分析してこなかったが、私の人生50年の経験はその間違いを教えてくれつつある。今の私は、自民党こそが、市場経済体制を維持するという前提においてであるが、非常に日本的な混交政党として右派から左派まで包摂してきた民主集中制政党ではなかったか、という気がしてきている。しかも、自民党には保守対革新という構図ではとても包摂しきれない幅の広さがある。むしろ、野党の珍奇な政党のほうが保守的であることを証明する事例に事欠かない。この観点から、自民党が果たしてきた有能性を捉え返すことは必要な作業であるように思われる。

 私には、「保守本流」という用語は適切でないように思われる。正しくは、「政権本流」というべきではなかろうか。自民党にはこの「政権本流」意識が強烈にあって、なお且つこの「政権本流」意識は明らかに戦前と戦後で質が替わっている。戦後憲法が為さしめた技かも知れない。ここを弁証法的に捉えないと自民党の実態が見えてこない。なお、戦前と戦後では「政権本流」が入れ替わっており、戦前の「政権本流」は、戦後の岸・(佐藤)・三木・福田・中曽根・(宮沢)・森ラインが継承しているように思われる。つまり、現在は「戦前型の政権本流」時代ということになる。他方、吉田・池田・(佐藤)・田中・大平・鈴木・(宮沢)ラインが「戦後の政権本流」であり、この二系譜は元来が水と油の死闘戦の間柄であるように思われる。()付きの佐藤・宮沢は玉虫色である。ここに名の載らない首相はこうした観点の意識が無さ過ぎる又は短期間過ぎて評価し得ない理由による。

 加藤氏が「政権本流」を述べる場合、この「戦後の政権本流」意識をメッセージしていると考えることが出来、極めて的確であるように私には思われる。野中も又この認識を持っていることは幹事長だっただけのことはあるということになる。宮沢氏がそんなものはないと言うこと自体、氏の官僚思考を物語っており、池田の薫陶宜しきを得た門下生としては情けない極みであろう。後藤田が昔はあったが今は無いと云う時、ではどちらが良いのか聞いてみたい。松野が保守支流だと言うとき、戦前型の保守本流系譜に位置する氏から見れば、なるほどその通りであろう。

 この二つの「政権本流」派は、国家観から政策から政局運営の手法に至るまでことごとくが対立している。なお、この二つの「政権本流」間のそれぞれの内部も微妙に出自が違っており、細かく見れば差異がある。この違いに応じて派閥を生み出してきたのではなかろうか。この対立を協調に転化せしめるものが議会制民主主義のルール(民主集中制)と派閥間調整の掟とでも言うべき諸原則であり、ヘトヘトになりながらも今日まで辿り付いているのではなかろうか。

 現在こういう見方が機能していないのは、当の議員達の能力がこの水準に達しておらず、利権と単なる徒党集団に堕落していることによる。このたびの森改造内閣の両側に陣取っている人士はその色欲ボケの極みを晒しているように思われる。各派の境界がボーダレスになっているのは決して評価されることではなく、互いが己の拠って立つ基盤を知らずという、それだけ政権と政策に識見を持たない人士が単に糾合しているに過ぎないことによるのではなかろうか。政権与党がこれだけ低脳化しているのだから、野党の出番だとは思うが、驚くなかれ、野党のほうがもっと低脳というのだから憤懣やる方ない。この現象はなんなんだろう。

 私の見るところ、政権取り意識をもって党として機能しているのは自民党と自由党と公明党ぐらいだろう。社共はその任にあらず、ただありつこうとしているに過ぎないことはこの間ん十年も見飽きてきた。いつの間にか民主党という野合政党が勢力を為してきているが、鳩山・管・羽田・横路らの能力次第の正念場だろう。しかしいずれにせよ、自民党的本流路線のどちらの系譜につながろうとしているのか、新たな本流路線を創造できるのかという肝心の青写真なしには絵に描いただけの餅に終わるだろう。

 もう一つの選択肢として、ただありつこうとしているに過ぎないことはない本格的政権取りに向かう人民政権運動もあり得る。来る国家破産状況の廃墟を想定し、政治を利権集団のおもちゃにさせない識見豊かな党派が出てくることも望まれている。本音で議論を繰り広げ、見解の対立が暴力に発展せず、民主主義の諸原則と自己批判の作風を培養し、暴力を持ち込むものを許さず、ご都合主義のイデオロギーを振り回さずさせず、人的資源と政策能力を高め、国際時代に対応できる日本の舵取りを為し得る能力を持った政党が現れるなら、乾いた地中に水がしみ込むように浸透していくだろう。この勢力による原則と妥協の政治も見て見たい。21世紀初頭はこの方面からの動きをウオッチして見るのも面白いように思う。


Re:民主主義について  投稿者:れんだいこ ( 01/18 21:30:29 )
 民主主義というと、完全無欠最高の法精神であり、制度であると思われやすい。私は最近次のように考えるようになった。この認識を突き崩さないと民主主義は維持することも擁護することも出来ないのではないかと。

 民主主義というのは一体何なんだろう。「民」を主とする主義として、その対極である君主政治、わが国での天皇制、あるいは封建政治の反対物として捉える観かたが本当に民主主義なんだろうか。どうも違うのではないのかという気がしている。

 民主主義というのは、デモクラシーの和訳なのだろうが、元来はある種の政治体制に対して冠せられる言葉なのではなくて、あくまで支配者「お上」との拮抗関係の或るレベルから以上の水準に対して表現される統治の仕組みに対して述べられているものなのではなかろうか。してみれば、非常に流動的なボーダレスなか弱いあるいは根強いものなのではなかろうか。

 何を言っているのか分かりにくい向きもあるので、言い方を替えれば、民主主義の反対物は君主主義ではなくて、唯々諾々主義なのではなかろうかということを云いたいわけです。つまり、統治体制を言っているのではなくて統治術に対して云われているのではないかということが云いたいわけです。

 この区別の実践的意義は次のことにある。民主主義を護れ!と声高にする場合、その呼びかけ人の側には喧喧諤諤の議論が担保されていないと本末転倒になりはしないかということが云いたいわけである。民主主義とは、お上の強権発動による無理難題の押し付けに対して、唯々諾々で従うのではなく、ああでもないこうでもないと意見の表明から抵抗、時には革命権を行使して当局とやりあうことができる、そういう精神と制度の保障であるのではなかろうか。つまり、民主主義の精髄は支配権力との拮抗関係の中にのみあって、その様を表現しているものなのではなかろうか。

 ということは、民主主義を護れ!の側の運動主体内の組織に民主主義が貫徹されていないと変なことになる。私が熱心に虚構を暴いている共産党中央の考えは、「民主集中制」という表現だけは無難そうな、内実は党中央による党内強権論理で唯々諾々主義をはびこらせている。その証拠には事欠かないので割愛するが、これっておかしくはないか。もし、党内に党中央拝跪型の運営を得手としている政党があるならば、その党が民主主義を護れ!を云うのは背理なのではなかろうか。民主主義を護れ!の側が最も非民主主義的という超常現象の世界を現出させている訳だから。

 組織論というのはこれほど大事である。党是が良ければ、あるいは目的が正しければ組織のありようなぞどうでも良いという訳には行かないのではなかろうか。こういう奇態がまかり通っているのは、民主主義に対する的確な認識が出来ていないからなのではなかろうか、というようなことを考えた。このれんだいこ見解はどうだろう。競って同調の士を求む。あるいは異見の士あらば、披瀝を願う。


Re:民主主義論その二  投稿者:れんだいこ ( 01/22 19:31:35 )
 民主主義というと、完全無欠最高の法精神であり、制度であると思われやすい。私は最近次のように考えるようになった。この認識を突き崩さないと民主主義は維持することも擁護することも出来ないのではないかと。

 そろそろ我々は、民主主義が莫大な金食い虫であることを認識すべきではなかろうか。民主主義の精神を鼓舞することにはカネ入らないが、この精神に基づいてシステムを造り、これを維持するためには、官民合わせて相当のハイコストを要するという認識が必要なのではなかろうか。ここを見ずのキレイゴトのみで完全無欠性の民主主義が云われ、主として「革新系」から云われ続けるが胡散臭いのではなかろうか。世の中には良いことづくめの話しはありえない。当然民主主義にも欠点がある。一つは、金食い虫だということ、一つは手続き重視主義による遅滞的であるということ、この思想と制度を継承させるのには長期の教育がいる、その他云々。つまり、民主主義には功罪両面があるということになる。にもかかわらず、我々がなぜ民主主義を擁護せねばならないのか、ここを考える必要がありはしないか。

 民主主義は、「民」を主にするという思想であり制度であるのだから、その一人である私から見てこれが悪いわけは無い。この地平において、民主主義に代替しうるシステムがあるだろうか。史上過去へ過去へとズームさせてみても見当たりそうに無い。恐らく、民主主義の良さは、「ぼちぼちでんな」的な良さにあるように思われる。理論上は、合理性の極みから行けば、優秀な官僚集団による護送船団運営のほうが効率的でさえあるように思われし、万が一英邁偉大な指導者が現れた場合彼に唯々諾々した方が万事適切ということも考えられる。

 善政が敷かれれば反政府闘争も弱まり、これらを取り締まる警察権力、場合によっては自衛隊、公安活動に出費する費用も相当削減できるだろう。何と言っても一番の金食い虫は議会維持のための費用である。議員に対する手当て、その秘書に対する手当て、議会運営費用、それに選挙費用。これらの総額は一体毎年いくら支出しているのだろう。地方自治体議会から国会までの費用を集計し、これにまつわる民間の費用まで加えると、恐らく天文学的な金額を出費しているはずである。これらの費用を公共投資に向け、社会福祉に向けたほうが良い世の中づくりへのスピードは格段に早いと思われる。

 それでも議会は維持されねばならない。何とならば、官僚政治あるいは名君政治の陥穽として悪政へと逆行し始めたとき、その被害が又天文学的に高くつくから。史上この例を枚挙するに事欠かない。特にわが国のように自然に恵まれ、人情の中に相身互い意識、社会貢献を喜ぶ意識を高く持つ国民性を持つ場合、悪政で世の中を変にされたら馬鹿馬鹿し過ぎる。私は、政治の強権力が何もしてくれなかった方が良い国になりそうな稀有な国として日本を観ている。外交と防衛の問題を除き、住民自治で充分ではなかろうかとさえ考えることがある。

 それはそれとして、民主主義の成熟度のバロメーターとして機能している議会が、近年急速に民主主義的成果を失いつつあるような気がしてならない。国会の場合、答弁の出来レース、実質審議しない法案の可決、議員の族議員化、国家百年の大計から離れた私心的利権化、名誉か地位を自己目的とした老醜の溜まり場化、これらの諸事実が議会をどんどん無力形式化させているように思えて仕方ない。残る値打ちは閣僚人事か政権騒動しかない。この方面は現在活発化しつつある。国を思い、政策を争い、我が社会の良質的改変に向けての動きであろうと私は勝手に懸想しているが、どうぞそうあって欲しい。

 先の投稿で私は、民主主義の精髄が、支配権力との拮抗関係の中にのみあって、その様を表現しているものであると意見発表したが、これを具体的に見れば、生活享受権、自由権として法的、制度的に反映されていることが知られる。これを支える主権者意識として選挙−議会活動が加わることになるが、「絵に描いたような民主主義」なるものは存在せず、国ごとに微妙に違った特質を持っている。つまり、ザ・民主主義と云えるものはないということであろう。で、この民主主義の値打ちはどこにあるのだろうか。金食い虫である事は既に述べた。にも関わらず民主主義が維持されねばならないとする根拠はどこにあるのだろう。ここを深く論議しないと、実態がわからないものを護ることなぞ原義的に出来ないということになろう。現に進行中の形骸空洞化に対して対応できないことにもなる。民主主義なるものをもう一度原点から捉え返さねば、維持することも発展させることもこれをめぐって闘うことも出来ない。

 そこで、れんだいこは考えた。民主主義とは、過去の歴史を学んだところから生まれた、システム化された暴君政治掣肘権なのではなかろうか。各国によってシステムが違うのは、暴君政治のありようが違ったからである。それを思えば、日本の戦後民主主義は、戦前の天皇制統治主義に対するカウンターとして生み出されたものとして考えるべきだろう。実際には、日本人民大衆が喧喧諤諤あるいは旧権力者との丁丁発止で戦い取ったものではない。不幸なことにか幸運なことにか分からないが、GHQ権力の指揮のもとに新憲法に結実した。ここには、欧米のデモクラシーの成果を引き継いで、あるいはそれ以上の内容も含んで、旧憲法諸規定との融和もしつつ「新しいレール」として敷かれ、戦後社会はここからスタートして今日へと至っている。

 最近思うことは次のことである、戦後社会が重視し、暗黙のうちに推進されていた様々な活動に対して、その不備性が突かれ、どんどんメスが入りつつある。何か事件が起るたび何やら規制法案が増えつつある。斡旋利得処罰法案のことを念頭においていっているのだが、この法案で本当に議員活動の民主主義的促進が為されるのだろうか。私は非常に危惧している。最近公共投資の大幅見直しも云われつつある。中曽根内閣の時には不良採算事業の大幅削除が指令された。国鉄の赤字線の廃止がその最たるものであった。その他民営化が推進された。これらの政策と今日の公共事業の見直し的論理は底流でつながっているが、本当に適切な云いなのだろうか。私は大いに心配している。

 憲法見直しの改正試案を見るに、公共性という名のもとの掣肘原理が民主主義的諸権利のことごとくに冠せられようとしており、骨抜きにされようとしている。時代に適合させることの必要性にとやかく云おうとしているのではない。そういう論理で為されようとしている方向が全て旧社会的秩序、旧憲法的方向へ向けてであり、それは我々の生活諸条件維持に対して決して利益にならない方向であるのではなかろうか、ということが云いたい訳だ。

 下手なインテリとキレイゴト云い師と建前論者ばかりを掛け合わせて権力握らせると、ろくな世の中にならないような気がしている。そういう意味で、連中の奏でる論理とイデオロギーに対する徹底的な反逆こそ今望まれているのではなかろうか。


無内容姑息展開の不破報告を撃つ 投稿者:れんだいこ ( 11/24 19:23:09 )
 定例ジャーナル赤旗をウォッチし、「党規約改定案についての中央委員会の報告 中央委員会幹部会委員長 不破哲三」を分析する。しかし、こういうこと誰かやってくれんかいなぁ。何も私がせねばならない行きがかりは何もないんだけどね。

 不破は、「規約改定案についてはいろいろな議論がありましたが、圧倒的な流れは歓迎の声でした」という。それはそうだろう、そういうちょうちん記事をもっぱら載せればそういうことになる。改定案は、「前衛政党」という規定をとりのぞいたことが一つの特徴として注目されましたが、「前衛政党」の規定も、この事業の歴史のなかでみれば、一時期にあらわれた規定であって、科学的社会主義の事業とその共産党論、労働者党論の、最初からの本来のものではありませんでした。そのことは、七中総の報告でも指摘したところであります、とある。

 仮にこの説が正しいとして、だったら今日まで「最初からの本来のものではなかった前衛政党」という表現を使ってきたことに対する内省的批判がいるだろうに、とんと為されない。つまり、不破にとって、理論はその場しのぎのどうにでもいじられるものであるという類のものであることを表明していることになる。これをソフトに云うからだまされる。「日本共産党は、どんな問題にたいしても、科学的社会主義のこの立場でのぞむ党であることを、あらためて強調するものであります(拍手)」というが、ご都合主義で行くものでありますというところなのではないかなぁ。

 次に、既述したが「労働者階級とは、人口の構成からみても、国民の圧倒的多数をしめている勢力であります」、「そしてその労働者階級が、資本主義の世界の歴史でもあまり先例のないような速さで、人口のなかでの比重を急激に増やしてきたのが、戦後の日本の情勢の大きな特徴の一つであります」、「これが、現代の日本社会における労働者階級の地位であります」、「この事業の意義を理解し、それを推進しようという自覚をもつ人が、階級所属の違いをこえて社会主義の事業に参加できるし、参加してきたこと、また現に参加していることの客観的、法則的な根拠がここにある、ということも大事な点であります」と云うから、おっいよいよ社会主義革命に向かうのかと思ったら、「わが党が綱領でしめしている民主主義革命の路線、それを具体化した『資本主義の枠内での民主的改革』の路線は、この立場を現代日本の情勢に具体化したものであります。この点でも、労働者階級の立場と国民的立場のあいだには矛盾はないのであります」となる。つまり、肩透かし理論だな、これは。

 さらに追い討ちをかける。「社会主義への変革という展望を否定したものではもちろんありません」、「ですから、規約第二条では、党の終局の目標が利潤第一主義の資本主義をのりこえ、社会主義、共産主義の社会を実現するところにあることを明記しました」、「とくに、三つ目の特徴づけ――人間の自由、社会の一部のものではなく、社会のすべての人間の自由という角度からの特徴づけは、私たちがめざす共同社会の特徴づけとしてたいへん大事な点であります」と云うので、なるほどやる気があるんだなとその気になると、「それぐらい、人間の自由が発展する社会ということが、社会主義、共産主義の社会のなによりの特徴づけだったのであります」、「旧ソ連社会は社会主義ともそれへの過渡期とも無縁な社会だったという結論をだし、そのきびしい告発をわれわれが二十一世紀にめざす社会主義への展望の重要な前提としています」、「ソ連社会のように、経済的にも政治的にも、また民族と民族の関係でも、人間による人間の抑圧を特徴にした社会が、社会主義・共産主義とは無縁の社会であることは、明白だからであります」とひとしきり何やら反ソ論に向かい、その後がない。何だこりゃ。反スタ論の後には自前の社会主義論唱えねば、単なる反共論でしょうがな。つまり、今や根気がなくなって、本音で一番云いたいとこだけ云ってるということだな。

 次に、民主集中制(第三条)について述べている。「ご承知のように規約改定案は、民主集中制を五つの柱にまとめました。一、党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。二、決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民にたいする公党としての責任である。三、すべての指導機関は、選挙によってつくられる。四、党内に派閥・分派はつくらない。五、意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。これが新しい改定案にしめされた民主集中制の五つの柱であります」、「現行の規約は、率直にいって、この点であまりわかりよくはありませんでした」、「そこでは、もっぱら党機関の指導のあり方を中心に書かれていました。だからそこだけ見ると、民主集中制についての誤解を生みかねないわけで、誤解される一つの理由がこういう組み立てにありました」と云う。だったらそのことに対する内省がいるでしょうがとは既に指摘した。

 多少の批判的議論があったことを踏まえて、「もう一つは“内容は良いが、前衛政党という言葉もやめたのだから、民主集中制もやめてはどうか”という種類の意見であります。しかし、前衛党という言葉とは違って、民主集中制という言葉そのものには、誤解させる要素はないのです。民主というのは党内民主主義をあらわします。集中というのは統一した党の力を集めることをさします。これはどちらも近代的な統一政党として必要なことであります」と云う。

 で、実際に民主と集中という相反する原理をどう組み合わせようとしているのか耳をそばだたせると、何も説明がない。聞かされるのは、これが反共攻撃に使われる、使っている者は反共だから、反共の者の云うことは打ち破るだけという奇妙なお説ばかりで、「これがまったくなんの根拠もない議論であることは、わが党の組織と活動の現実をみただけで明白であります」、「これが党の統一と発展にとってかけがえのないものであることが証明されたものであります」、「私たちは、今回の党大会でも、大会の議案を発表してから大会を開くまでに二カ月間にわたる全党的な討論をおこないました。すべての支部、すべての地区委員会、すべての都道府県の委員会が党会議を開いて討論をつくしました。そしてまた、しんぶん赤旗の特集号を四回五号にわたって発行し、党会議では多数にならず、大きな流れのなかではあらわれてこない少数意見もふくめて、三百四十九通の個人意見を発表しました。このように、あらゆる手だてでの討論をつくすものであります。大会自体も、きょうから五日間の予定で開き、そこで大会としての討論をつくして党の意思を決定します。つまり、民主集中制の党としていちばん大事な、党大会での意思統一をおこなうためには、それだけの全党的な討論をつくすのが私たちのやり方であります」だと。ほほぉ、我が党ほど民主的な党運営をやっている党は他にないと云いたいらしい。

 ほんまぁかいなぁと詮議しても良いが、民主集中制の中身については何も語っていない。己の非を咎められた子供が、だって向こうさんはああだよこうだよとあら捜ししていることになる。いい大人相手にこういう論調では、云う方も云うほうだが聞く方も聞くほうだわな。実際、自民党に対して、「あの党は百万人の単位で数える党員をもっているそうでありますが、いったいどこで全党の討論をやり、どこで集約しているのか、まったくわからないわけであります。この党の自由と民主はいったいどこにあるのでしょうか。(笑い)」と云う。何を言うか不破よ、たった今加藤さんが造反してんやわんやしたばかりではないか、自由の証明だろうよ。たった今鎮火したばかりではないか、民主の証明だろうよ。これが自民党式「民主集中制」であり、こっちのほうが余程字句通りではないかいなぁ。

 みなさん、こういう対比からも明白なように、民主集中制の組織原則をもった党というのは、党内の民主的討論にもっとも力をつくす党であります(拍手)。そのことは、党大会のあり方一つとっても明らかではないでしょうか。日本共産党が民主集中制の組織原則をもった政党であることの値うちを、国民のみなさんにおおいにわかってもらうために、誇りをもって活動しようではありませんか。(拍手)と云う。誇りを持つことはいるだろうが、純金だと思えばこそで、はりぼてメッキだと分かったものに誇りを持つにはこりゃ催眠術でも自分にかけんとなぁ。

 最後のほうで、市民道徳と社会的道義の問題、地方党機関の「自治」的な権限の問題、循環的な党運営の問題、機関役員の資格要件を党歴二年以上へと短くした問題等について述べているが、いずれも無内容おざなりでまともな論にはなっていない。しかしなんだなぁ、私もウオッチし始めたのはパソコンを使いだして以来のここ一年ばかりではあるが、こったら馬鹿さ加減でうん十年も党内団結してきてんだなぁと思うとご苦労さんとしか云いようがないわ。


Re:共産党大会無風の荒野を逝く。  投稿者:れんだいこ ( 11/25 19:19:08 )
 党大会が終わった。新路線は柔軟頑固で行くという。そういう言い回しの知恵をつけたのは不破だろう。馬鹿丸出しとはこのことだ。すっかり水戸黄門気取りのこの御仁に水を差す気もないが一つ云っておく。世間には柔軟頑固なぞという言葉はない。近いところで玉虫色という。柔軟と頑固札の出し入れは結局不破になるので、得意の三枚舌で世渡りしようというだけのことだろう。その挙句は、頭かくして尻隠さずの変態が笑われることになるだろう、と予想しておこう。

 主観というのは恐ろしい。これは誰しもであるから特段に気にすることはない。但し岡目八目で傍から見ればよく見える。前衛文句も無くし、自衛隊も容認し、まだ綱領で手直しされないと云われればそれもやりますといい、これで障害が無くなった、ついては大臣席の一つでも科学技術長長官あたりのポストでもと擦り寄っていきたいのだろうが、そうは問屋が卸さない。まず足元が見られることになるだろう。党員が減り、機関紙読者が減り、各地の選挙で過去より減らし、参議院選挙での言い訳を今から用意しておいた方がよい。但し一つ云っておく。駄々こねだけは止めてくれ、あれはこちらも脳を患う。

 ポスト願望にも関わらず、永遠にそのシナリオはやってこない。それはなぜか。世の中へ出れば、党員が思うほど大衆は後衛ではないからである。むしろ、党員のほうが後衛に見える。ついでに云っておく。不破はよく道理を説いて聞かせるが、その道理の実体は別にして、道理で人が動くとは我々は思っていない。人は利権と権益とその将来の期待を目差してうごめいている。この利害の調整を様々な工夫と力関係で為している。なぜならオマンマ系が第一だから。当り障りのない道理が通用するような世の中ではないことを背中の寒さで知っている。

 多少の期待もしてきたわれわれ大衆が今や完全にこの党を見切ろうとしている。この流れを変えることはもはやできない。替わりの党がのしてくればよいけど今のところチラチラしか見えない。その間は手持ちのカードで闘う以外にはない。今はここが面白い。加藤よ小沢よ管よ羽田よ河野よ真紀子よ、そして新世代の予備軍よ、考えて見たら明治維新の群像は20代の若武者だった。それを思えば我々は無益な道理を聞き分けすぎた。恐らく近い将来やってくる政変に、今度は一つ機敏に頼むぜよ。

 とは云っては見ても、景気浮揚か財政再建かこの二股の政策をやり遂げる妙薬はない。この舵取りが違う者が一緒になっても意味もない。「どうすりゃいいのかぁこのあたしぃ」とカラオケでも歌ってみることしかできないのか。時間がかかるが新規事業の育成しか思いつかない。おっと一つあった。いつか云いたかったことだけど、マジな話不破の云うことの反対をやって見る、これが再建策かも知れん。公共事業削減といえばどんどんやって見るとか、消費税現状容認と云えば撤廃して見るとか、自衛隊容認といえば、今こそその方面の財源カットに向かうとか、あっせん利得他法案作れと云えば、既存のもので十分間に合うとか、市民道徳説いてきたらそんなものは背中で教えようとかね、いくらでもいえるわ。


Re:対案の無い議論が議論たり得るか。  投稿者:れんだいこ ( 11/28 19:18:04 )
 わが国の社会で唯一、らしき議論が保証されている世界が議会と思われる。その頂点が国会で
ある。してみれば、国会とは議論のお手本となる性格を持っていることが分かる。私が政治に関心を持って、それなりに意見表明と行動で確認していたのは70年とそれから暫くの間である。考えてみればあの頃は、右は右翼、保守派、体制容認派、左は過激派、急進派、社共穏健派、その間に社会党右派、民社党、公明党が位置していた。そして、それぞれがそれぞれの立場を是認させる見解らしきものを持っていた。たまに政党討論会なぞ聞くと、話し手が代わるたびにうんうんと頷かされたもんだわ。

 総理大臣も、就任声明において、これこれこれをやるという課題を国民にアッピールしていた。それを廻って支持派・反対派はそれぞれに隊列と理論を構築していった。共通してあったのは、戦後の復興から高度成長へ、その分配の駆け引きを通じて繁栄の謳歌を、そしていつの間にか大国意識と国際的相応の責任論にまで辿りついて来た。その頂点にバブル経済景気が位置しており、そのはじけ散った様から今日までダラダラ続く長期不況の只中にあり、既ににっちもさっちも行かない悪循環に陥っている。

 こうした時代に相応しいというべきか、今こそ必要なのに却って世の中から議論が失われている気がする。お手本の国会があの通りだから不満の捌け口が無い。官僚作成の下敷き答弁と痛くも痒くもない質疑で、お互いを先生呼ばわりして悦にいっている猿芝居、時に国民受けを狙ってパネルを見せてくれるが、たいした内容を言っている訳ではない。何かこうパァッと行きたいがどこにぶつければよいのだろう。

 気が付いたら今年も後僅か。どこかの党も無事大会を終えたらしい。今度は綱領を分かりやすくしてくれるらしい。何をしてくれようが結構だけど、我が党ほど議論が積み重ねられる党は他にないと胸を張るのはよしこにして貰いたい。党中央の指し示す路線とその延長でしか議論が許されないなどという『箱入り議論』が議論であるはずが無い。そういうのをお追従と云う。誰が一番激烈に決意表明し得たかの競いであって、世間ではやらせと云う。とはいえ、このたびのやらせにはある特徴がある。激烈お調子者がでなかったようであるる代わりに一人ほど逆やらせしたようである。だが、一人つくるというのがいかにも不破らしくて苦笑させられる。二人おれば二人分派に目を光らせねばならないことになるからして、それと何よりそれ以上受け止める度量は無かろう。

 それにしても、マスコミもというか世間もというか肝心なところを論議しない。宮本名誉議長が格下げさせられている。これって変ではないかと思う素直な感性が欲しい。いくらリストラ時代だといっても、それはないだろう。今日の共産党は宮本共産党であって(徳田時代をあれほど口汚くののしり、一切関係ないとしていることからして明らかだ)、いわば創業者である。片割れの野坂は晩節相応しい痴態を演じたが。それはともかく、創業者がその他大勢と同格にさせられるような会社が良い会社である訳が無い。政党ともなると違うのかいなぁ。どなたか、そうではないというご意見あったらレス頼む。私は、こんなこと考え出すとまた今日もアルなしには寝れんのよ。


Re:志位の腹話術を撃つ! 投稿者:れんだいこ ( 12/01 12:04:31 )
 「志位委員長、明快に語る 成功した第22回党大会 今後の取り組みなどについて 2000年11月30日」が「しんぶん赤旗」に載っている。以下順次コメントつけようと思ったが、不破の腹話術以外の話は何もないので、重要なところに対してのみ述べることにする。

 小林 注目はトップの人事なんですけども、不破さんの党大会の最後の記者会見など聞いてますと、党は不破さんがまだやるような感じで、国政の方は志位さんに全面的にまかせるという、見ようによっては二頭立て、しかし、党の方が優位という見方からすると、不破院政が残るのかなという見方をしている人もいますが(笑い)、そのへんはいかがなんですか。

 の問いに対して、志位は、「党内には序列はない――集団指導のなかで機能や役割を分担」と述べている。こういう当り障りのなさそうな建前見解が私にはがまんならない。一事万事であるが、こういう脳軟化論理をことごとく吹聴するのが現下党中央だ。

 組織における指導者の重要性は厳然たることであって、指導者が要らないなどという組織論があって良い訳が無い。「集団指導のなかで機能や役割を分担」が生み出された知恵であり、そのことが「党内には序列はない」ことを良しとすることにはつながらない。現に議長−委員長−書記局長という序列があるのに、なぜその序列の効用を説こうとしないのだろう。私はそういうウソが嫌でたまらない。どこの会社でも序列はあるだろうに、共産党にあったとしてそれで票が減るものではなかろう。能力的性格的に相応しくない人物がトップに座るととんでみないことになるだけで、近未来のどんな政体においても指導者論、機能分担論は究明されるべきであり、そこを明らかにせずして「党内には序列はない」などという姑息有害無益見解を許してよいのだろうか。あまりにも馬鹿にした人を食った物言いだ。

 志位 私たちは、党のなかにいっさい序列はつけないという考えなんです(小林「はい」)。これは、指導部間でも序列はないですし、それから中央委員会と、たとえば都道府県委員会、地区委員会、そして支部のみなさんの間にも、いっさい上下関係はない。今度の規約でも、「上級」「下級」という言葉は極力なくしたんですね。つまり、日本共産党員として、機能や役割の分担はしているけれども、負っている仕事はみんな尊いわけですから、そういう点では、みんな平等なんですね。

 こういう詭弁は誰から譲ってもらったんかいなぁ。

 小林 例えば、党務と政務がわかれるというと、自民党なんかの場合は総理と総裁がわかれて分担するなんていう…。

 志位 党務と政務を分けたという考えじゃないんですね。これは。

 この遣り取りもひどい。「党務と政務を分ける」、「理論と実践主体を分ける」は、むしろこれからの試行錯誤課題であるのに、それ以前の未分化状態を是認していることになる。こういう人士をトップに据えるとこりゃ大変だわな。

 民主集中制についても次のように腹話術している。現下「民主集中制」は、「方針を決めるときには、みんなで民主的に討論を尽くす、決まった方針は実行していくという当たり前のこと」として堅持していく。こんどの規約改定では、地方の“自治権”を明記した。「上級」「下級」という言葉は、極力なくした、という。

 事情を知らないものは丸め込まれてしまうが、凡そ民主主義の基本ルールである異論、異端が党内に許容される環境に無い。自民党の党内ゴタゴタを「政党としての責任を果たせない」視してあざ笑う。しかし、歴史を見れば明らかだ。そういう一枚岩より自民党的ゴタゴタを通じての挙党一致の求心力の方が理に叶っている。宮本−不破によって吹聴された「民主集中制」論は、単に党中央に好都合な改ざん「民主集中制」論でしかないという観点が欲しい。

 小林キャスターが、「科学的社会主義の研究所をつくるとか、インターネット時代に対応して、発信装置をがっとつくるとか、なにか思いきった展開みたいなのはないんですか。(笑い) 」と問うたのに対し、前半の政党助成金の問題をとうとうと述べ、答えない。これも饒舌不破論法の伝授である。

 次に、綱領改定、規約について次のように述べている。「基本の路線については、私たちはいまの綱領の路線に自信をもっている」と云う。この綱領の最ナンセンスは「国家主権の対米従属」論であるが、今なお自信を持っているという割には触れず、単に「非同盟・中立」論にすり替えている。「ですから、たとえば軍事同盟をなくした独立・中立の日本をつくるという展望も、これは私たち、二十一世紀にますます輝いてくる展望になると思っていますし、綱領の基本的な路線については、私たちは大いに自信をもっているんです」と云う。

 加えてひどいことを云う。「原型は、一九六一年の第八回党大会にあるんですけれども、このときは綱領論争というのが当時ずっとあって、いろんな議論がされる過程のなかで、全党の合意がかちとられて、ああいう綱領にいくんですね。つまり、内部的な意思統一という色合いが強くて、国民にむけたメッセージ、宣言ということはあまり念頭になかっただろうというような時代のものなんです」と。

 言ってる本人は自覚が無いらしいが無茶であろう。何十年にもわたって堅持している綱領を、「内部的な意思統一という色合いが強くて、国民にむけたメッセージ、宣言ということはあまり念頭になかっただろう」と平然と言い切るこの感性は、むしろ怖い。「これをどう国民のみなさんにわかりやすいものにするかというのは、なかなか大きな仕事だと思っているんです」と、ここでもすりかえている。そういう分かりやすさの問題ではなく、「国家主権の対米従属」論からくる諸規定の無茶苦茶をどう批判的に作り変えるのかという苦渋が問われていることを明らかにしない、こったら姿勢の持ち主がトップにいてよい訳が無い。

 次に、民主連合政府の展望について、いったいいつごろを具体的に想定しているんですかの問いに、ぬけぬけと杜撰さを語っている。「志位 これはまだ、具体的に日程表が、いついつと、五年後十年後というところまでは熟してないですね。私たちは、二十一世紀の早い時期といっておりまして、この早い時期がどれだけ早いかというのは、われわれの主体的な努力にもよりますし、情勢の客観的展開にもよりますし、いろんな要素によって、これはだいぶ幅があります。われわれとしてはできるだけ早い時期に実現したいと思います」。つまり、単なる願望であって、それを「二十一世紀の早い時期」言うことに伴う責任は微塵もない。まぁ、党員と出来レースで慰めあってるから良いものの、普通の感性ではありえない。

 もはや馬鹿らしいので、この言葉でおしまいにする。「だから、日本共産党という名前は、ロマンチックな、人類史的名前だというふうに私たちは考えていまして、大いにロマンある雄大な名前として大事に使っていきたいと思っています」だと。なるほど、党運動というのはロマンなんだなぁ、どうりで責任も熱意も生活賭けた臭いも伝わってこない訳だ。


Re:これは興味の湧く番組です。 投稿者:れんだいこ ( 12/02 11:26:27 )
 たまたま革命的マル共連フォーラム見ていたら、こんな情報が書かれていました。

徳田球一とその時代1 12月4日 25:15 (12月5日 1:15)
徳田球一とその時代2 12月5日 25:15 (12月6日 1:15)

 これはありがたい情報でした。この場を借りて御礼を言っても通じないけど御礼を場申し上げます。この感想も議論しあいたいです。

 私の認識によれば、徳田時代の共産党運動を前提にして、その是非を問うのが本来の共産党論ではなかろうか。現下宮本−不破−志位党中央の党運動は、共産党運動でもなんでもないのでほんとは論評に値しない。しかし、これをもって党運動と認識している風潮があるので、事あるご
とに私はコメントつけて違和感を申し立てている。それは、本来の作業の前座にしかならない。

 このたびの番組内容がどの程度のものか分からないが、少なくとも当時の雰囲気を嗅ぐことができると思って期待しています。皆さん、見ましょうね。


Re:志位のお粗末節  投稿者:れんだいこ ( 12/02 19:55:58 )
 「志位委員長 自公保政権倒しは“棒倒し”のように四方八方から 2000年12月2日」が「しんぶん赤旗」に載っている。云うほうも編集する方もマジかよと思わずいってみたくなるお粗末振りである。これでは新委員長は短命になる可能性ありだな。私が透視するところ、このたびの委員長、書記局長人事は党内にくすぶりの火種ありだな。後はいつ点火するかだわ。

 「国会では一致点で自由かっ達に共闘する、政策ではさわやかに論戦する、選挙では自公保政権を許さないという立場で競争する」と、志位は述べている。「国会では一致点で自由かっ達に共闘する」が滑稽なのは、ちやんと自由闊達とはどういう按配なのかしっていることである。党内には許さないが、党外では大いにやりましょうと云っていることになる。

 「政策ではさわやかに論戦する」という場合の「さわやか」とはどういう感じでいっているのだろうね。政治闘争を何か学校か地域の運動会と間違えているのではなかろうか。フェアなアンパイアがいて、「赤勝て白勝て」と綱引きするゲームの感覚なんだろうなぁ。実際そういう党運動やっているんだけど、ここまであからさまに云われたらなぁ、党員の皆さんご苦労さんだな。


 次に、“野党間での選挙協力の可能性はないのか”と食い下がる記者団に志位委員長は、「政策のちがう党が無理に結んでもうまくいかない。自公保政権を倒すのは、棒倒しのように右からも左からも、四方八方から倒せばいいんですよ」と説明しました、とある。

 やっぱ、棒倒し運動会シーンを想定していっているんだなぁ。まぁ政治はオマツリごとには違いないんだけど、こうなるとどうしても「民主集中制」に疑義を持たねばならないことになるなぁ。運動会やるのに「民主集中制」も何もないでしょうが。

 最後に、志位氏の説明に、記者団からも思わず、「考えましたね」との声がもれました、とある。これって赤旗編集局長も単純に賛美記事しているんかなぁ、おちょくってんだろうかなぁ、ちと分からない。

 しかし、志位は党史上稀なる栄誉を受けそうだなぁ。宮本−不破党指導のなれの果てだからして別に構いはしないけど、赤旗配達の党員さんの足が一段とむくれてきだしたりして、その姿が見えるから可笑しいや。


Re:赤旗のお粗末報道  投稿者:れんだいこ ( 12/04 20:47:38 )
 「唯一の帝国主義」衆院・参考人陳述石原知事が中国敵視発言が、2000年12月2日(土)「しんぶん赤旗」に載っていた。見過ごそうかと思ったが、重要な不見識があるのでやはり触れとこうと思う。

 石原氏が、「ソビエトが崩壊して帝国主義というのが完全になくなったと思ったら、一人中国が帝国主義をやっている」と述べたとして、氏らしき発言であり今ここで噛み付こうとも思わない。むしろ、問題は、「日米安保条約のもとで、アメリカのアジアでの介入・干渉政策に積極的に協力する姿勢を示しました。また『とんでもない帝国主義を標ぼうする国家がある。これをけん制し防がなければならない』として、憲法九条に『自衛のための戦力の保持』の条項を入れるよう主張しました」と紹介し、この石原発言に対する赤旗のノーコメントの不気味さである。

 少し事情通の者なら、「憲法九条に『自衛のための戦力の保持』の条項を入れるよう主張しました」は、現下党中央の主張と軌を一にしていることが知れる。比較的最近前委員長不破は、非武装中立の憲法理念に立脚しようとする、時の吉田政府の安全保障論に対し、自衛権を憲法に書き記すよう迫った野坂参三の史実を得々として語っていた。

 今日野坂はその似非左翼性が大衆的に確認されて失脚している。その野坂の論を担ぐ感性にも首を傾げるが、不破にとっては気にならないらしい。徳田は引き継がないが野坂の方は自ずと引き継いでいるようである。ご都合主義を絵に書いたような利用の仕方ではある。付言すれば、この野坂理論と不破理論は何から何まで酷似している。興味ある方は調べられたら納得するだろう


 話を戻して。石原と知事と現下党中央の理論とは一見対立しているようで、かなり論理構造が近いことがこの例でも知れることに注意を喚起したい。先の第二法人税(外形標準課税)の新設に東京都共産党議員団が賛成投票していたことも明らになっているが、この政治見識の類似性こそ注目したい。我々は看板と口先の饒舌と組織管理のがんじがらめと、飽くことなく繰り返される右傾化方針の摺り込みによって、判断力を失ってきているのではないのか。今や大変なところにまで辿り付いていることをまぁまぁまぁで許容しすぎているのではないのか。

 先の党大会で、僅か一人の保留票で安堵したウオッチャーもおられるようであるが、世も末かと思う。恐らく最後の宴であろうが、その時になって実は私もおかしいとはおもっていたんだとお追従しないように願う。さて、何をすべきか、そろそろマジに行動せねばならん時に至っているように思える。批判はたやすい、行動が難しいことを承知で、それでも徒手空拳立たねばならない時が新世紀の鐘の音とともにやってくる。後数十日、漏れてくる腐敗の極みを窺おうか。


Re:党中央は綱領改定できない。 投稿者:れんだいこ ( 12/05 12:45:04 )
 規約を改定して次は綱領へと向かうとされているが、私は簡単にはいかないと思う。なぜなら、現綱領は宮本の反動的スタンスから、さもらしく左翼風に仕上げているが、「対米従属論」の骨格からして変調だ。今日いたる所でその綻びが目に余る。不破−志位はこの最も忠実な継承人であり、その立場の者が宮本綱領のいい加減さを改定するには宮本スタンス否定なしにはできない。これは自己否定の道であり、饒舌と詭弁すりかえの域を越す難作業である。

 現綱領の基本的枠組みをそのままにして「分かりやすく」改めたとして、その瞬間から役に立たない綱領をまた一つ付け加えただけにしかならないというジレンマがある。笑いものにされるほど時代は悠長ではない、恐らく蹴っ飛ばされるだろう。そういう難事業に向かえるような党中央ではない。当り障りの無いその場しのぎばかり続けている者がどうして立ち向かえようか、加えて能力があるとも思えない。つまり、綱領改定はできず、宮本綱領が当分たなざらしされ続けるという事である。これを私の予見としたい。


Re:党中央の姑息系焚書坑儒が気持ち悪い。 投稿者:れんだいこ ( 12/06 00:25:24 )
 「宮本百合子没後50周年 来月22日につどい 東京・九段会館で 2000年12月5日(火)しんぶん赤旗」をコメントする。

 来年一月二十一日は、作家宮本百合子が亡くなって五十年目にあたり、これを記念して一月二十二日(月)に「宮本百合子没後五十周年記念の集い」が開かれるとある。それをどうこういうつもりはないが、次の一文はどうだろう。

 宮本百合子は、二十世紀前半の激動の時代を不屈に生きぬいた国民的作家です。今年十一月には、新日本出版社から新版の『宮本百合子全集』全三十三巻の刊行が開始され、これまで百合子の作品にふれる機会のなかった若い世代にも好評のうちに読まれています、とある。

 「宮本百合子は、国民的作家です」は、従来なら「プロレタリア作家」と恐らく書かれていたところである。この調子で行くと、小林多喜二他も同様に「国民的作家」と書き直されることになるんだなぁ。先の党大会で階級政党を国民政党に手直ししたと思ったら、早速こういう方面に修正が及び始めていることが分かる。

 前例が無い訳ではない。科学的社会主義という用語を使い始めたら、過去の歴史的文献までマルクス・レーニン主義とあつたところを科学的社会主義に直しているのには唖然とさせられているし、プロレタリア独裁も執権だか労働者階級の権力だか何か、馬鹿らしくて追跡していないが
総替えさせられている。

 しかし、党中央の御仁たちは何のためにそこまでやるんかいなぁ。これを悪意なしにやっていると思われる方がいましたら、お説ご拝聴したい。私には信じられないんだ。これからの用語、文献をそう語っていくというのなら分かる。歴史的文献、評価を今日的方針で改めていくことができる、実際にやっているのだが、その不遜姑息な改ざん精神の由来を知りたい。これはれっきとしたソフト調の焚書坑儒では無いのかなとか思う。


Re:魚は頭から腐る  投稿者:れんだいこ ( 12/10 19:20:34 )
 ジャーナル赤旗のウオッチゃーを自認しているれんだいことしては少し悲しい現実がある。つかみ所のない記事しか載っていない。既に赤旗はジャーナル力さえ欠いている。ただ伝えるだけである。いわゆるブル新以下になっているが、これが宮本路線の望みどおりの長い間かけての末路である。

 「多国籍軍への自衛隊参加 憲法に明記を公明議員 2000年12月9日」を見ても、公明党の赤松正雄議員の発言を紹介し、その論評がない。コメントらしいところは、公明党議員が、多国籍軍参加を日本国憲法に明記するよう主張したのは初めて。公明党は、十一月の大会で決めた重点政策で、憲法について「憲法九条は堅持」としながら、衆参の憲法調査会で五年をめどにした論議を経たうえで、次の五年で第一段階としての結論を出すとの方針を明らかにしています。また、集団安全保障については「憲法の禁ずる海外における武力行使を伴う可能性がある」として、国連安保理の決議に基づくものであっても、慎重でなければならないという態度をとっていました。赤松氏の発言は、重点政策で「慎重に」としていた、国連軍、多国籍軍への参加に一歩踏み込む「改憲」を主張した形です、という程度である。

 これは一体何なのだろう。非自民党各党がこぞって次第次第に右寄りしていく図であるが、この先一体どこまで進むのだろう。終極系に自主独立防衛路線があることは確かである。今までは憲法前文の平和主義的国際協調路線と第9条の軍備放棄規定によって、自主独立防衛路線は常に日陰者の地位に追いやられてきた。しかし今日事あるごとにこの衝動を強めつつある。もっとも、日米軍事同盟の枠組内の防衛路線であるが。と思っていたら、最近は国連軍派遣型という名目での海外派兵まで公然と云われ始めている。

 こうした折りに、共産党中央は、先の大会で、現状自衛隊の容認と緊急事態に際しての活用当然論を確認した。もっとも、詭弁術でまぶしているから言葉上はそうは言っていない。違憲であることと将来における見直しを確認しつつ緊急事態にはお出まし願うのが当然という、脳を患うような論法で追認している。ならば、はっきりと「現状自衛隊の容認と緊急事態に際しての活用当然論」へシフトした方が自然であるだろうにそうは云わない。ならば、はっきりと「自衛隊は意見であり党として認めないが、今現に存続しているものを解体せしめるだけの力量が党にはない。こうして存続する間の緊急事態に際しての自衛隊活用はやむをえない」と云えば整合的であろうが、そうも云わない。「否定客体の自衛隊使用は当然である」と云うのである。

 だから、話はややこしい。「当然である」論は自衛隊容認論であるのに、他方で「違憲であることと将来における見直し」を云う。私なぞは頭が悪いのか今だに何を言っているのか分からない。しかし、党中央の論理は全てが全てといってよいほどこうした論理でまぶされている。カードを自在に持って状況に合わせようという理屈である。しかし、このカードの出し入れは党中央にしかできない。それはそうだろう、こんなややこしいカードを一般党員がどうして捌けようか


 しかし、そうは云っても本音がどちらにあるのかは10年ほどのスパンで見ればはっきりする。次第次第に何から何まで現状追認しつつあることが分かる。それと無責任論理でまぶされた選挙の際に聞こえの良い理屈を飾っているだけのことが分かる。根っからの議会主義者であり、議会を活用しようというのではなく、議会闘争以外の運動を指導する能力も意思も持たない議会主義であるということが分かる。

 現下党中央の腐敗は、そうした一点張りの議会主義路線がダッチロールし始め、今や後退局面に入ったことにある。志位の思いつき行き当たりばったり路線はそのうち天下の笑いものにされるだろう。この党は政党存立根拠を急速に失いつつある。今やヌエ的存在である。魚は頭から腐ってくると昔の人が教えてくれた事態がますます進行していくだろう、と予見しておく。


Re:来春の北九州市議選に興味を覚える。  投稿者:れんだいこ ( 12/12 20:56:46 )
 北九州市議選が来月19日に告示されるようである。28日が投票で、共産党は十候補全員当選をめざして奮闘すると云う。党大会後初の大型選挙のようで、共産党の伸退潮ぶりがはっきりさせられる点で興味深い。志位委員長は、第22回党大会の成果をのべ、国民の期待にこたえて全力をあげるとの決意を表明、「大激戦ですが、現有十議席の全員当選を必ずかちとり、得票を大幅に伸ばしたい」とのべました、と赤旗にある。

 現有議席の確保と得票の伸びがあるのかどうかについて私も関心がある。というのは、取り返しのつかない退潮化に入っていると私は認識しているので、この認識があたっているのかどうか確かめたいわけである。後生だから反共の皆様「謀略ビラ」なぞ撒かずに、言い訳無用の選挙にしてもらいたい。これを伏して願いしたいと思う。

 志位委員長が、「国政でも、地方政治でも、耐用年数を使い果たした」、「森自公保政権はすっかり国民に見放されてしまいました」、「自民党の政治路線のゆきづまりが根底にある」とのべ、三つの問題で解明しました、とある。もう既に何度も述べているが、このセリフがそっくりそのまま不破−志位ラインの党中央に使えるから可笑しい。その他いろいろ言っているが、目くそ鼻くそを笑う程度の話なのでコメントするのもバカらしいので控えようと思ったが、一つだけ噛み付く。

 商店街の人たちが反対するのに、百十億円もの税金を使って無理やり呼びこんだ「そごう」は、倒産・撤退し、地域経済に打撃をもたらしています、とある。これっておかしな云いたい放題ではないか。「商店街の人たちが反対するのに無理やり呼びこんだ」、「倒産・撤退し、地域経済に打撃をもたらしています」のこの文はどう接続するのだろう。市税をつぎ込んだのに撤退したから市税のつぎ込み損で「地域経済に打撃」という論理ではない。この党の言い分を聞いていたら、こういう何を言っているのかどっちが本音なのか分からないことが多い。

 先に北方領土返還論でもおかしな論理を確認した。元々どちらの領土でもない地域をロシア側と日本側が争って取り込んだものを、日本が先に取り込んだことははっきりしている、戦争に負けたことは関係ない、返せといっているに過ぎない。それでは面白くないのか、全千島を返せとメいっぱい主張しているのは我が党だけだ、右翼も顔負けだろう論で胸を張る。具体的にはどうやるんですかと聞いて見たら、国際世論に訴えるということしか出てこない。何なんだろうね、党中央さまのオツムの中身は。サムうなるとしか云いようがない。


Re:伊藤律「回想録」感想記 投稿者:れんだいこ ( 12/15 13:28:02 )
 先日島ブント書記長の追悼葬儀に出向いた折伊藤律の「回想録」を手に入れ、合間を縫って読了しました。いろいろ書きたいことがありますが次のことだけはどうしても云っておかねばならない。伊藤律幽閉に関わっていたのが野坂参三と西沢隆二で、袴田・紺野・宮本太郎なども監獄を訪ねている。この間野坂団長、宮本顕治団長が大名旅行で何度か中国を訪れている。獄中で人民日報を読んでいた伊藤律は面会を求めているが、いつもなしのつぶてで放置されている。砂間一良も長らく北京駐在していたが一度も訪れていない。これらは一体何を語るのだろうか。

 伊藤律幽閉問題は、いくら口先で奇麗事を言っても信頼するに足りない現下党中央の人格的低劣資質の例証ではなかろうか。我々は意図せずに間違うことはある。あるいは精神が敢然とせず屈服することはある、弛緩することもある。こうした場合に自己批判という組織的解決法を生み出している。しかし、伊藤律幽閉問題は、明らかに意図的な隠蔽であり、宮本系の徳田系に対する政治工作であった。何十年も口裏合わせしてきた。特に、宮本の場合、少なくとも戦前の小畑中央委員リンチ死事件から始めてこうした政治工作の長征の歴史を連ねている。この御仁の為したことで本当に為になったことが一つであれば教えて欲しい。日本左翼は、たかがこうした史実さえ批判しきれず、誰と何を闘おうとしているのだろう。

 自らが臭いものに蓋をしておいて、世の中の臭いものに闘うポーズをとるなどとはおもはゆくはないか。世の中にはまぁまぁまぁで済ませてよい問題と、真偽決着つけねばならないこととがある。白黒つけねばならないことを曖昧にさせ、まぁまぁでも良いものに目くじらする現下風潮はおかしくはないか。このあたり、特に左翼風知識を微に入り細に入りうがつことを得手としているネット人士に聞いて見たいところである。赤旗を覗いて見ても商業新聞以下のことしか書いておらず、腹立ちも含めて今日はなぜかこういうことを云いたくなったので投稿して見る。


Re:党中央支持率も調査してみたらいいのに。 投稿者:れんだいこ ( 12/17 12:29:30 )
 「内閣支持率16.8%、最低を更新 時事世論調査 改造の効果なく 2000年12月16日しんぶん赤旗」をパロってみる。()がその内容。

 時事通信社(れんだいこ通信社)が十五日まとめた十二月の世論調査結果によると、森内閣(党中央)の支持率は前月より一・二ポイント減の一六・八%と二カ月連続でダウンし、四月の発足(先の党大会)以来最低を更新しました。橋本龍太郎行革担当相(志位委員長)など「重量級閣僚」(若手官僚)を起用した十二月上旬の内閣改造(党大会人事)が政権浮揚につながっていないことが浮き彫りとなりました。

 調査は内閣改造(党大会)後の八日から十一日にかけて全国の成人男女(党員)二千人を対象に、面接方式で実施。有効回収率は六八・八%。

 支持率下落は、森喜朗首相が暴力団関係者とされる人物と一緒に写った写真が週刊誌に掲載されたことも影響したとみられます(不破前委員長などが財界関係者と親しげに会談している事実が公表されたことも影響したとみられます)。森内閣(党中央)を支持しない理由(複数回答)は、「期待が持てない」が三五・五%でトップ。以下、「リーダーシップがない」二四・六%、「首相(委員長)を信頼できない」二四・〇%、「印象が悪い」一五・〇%と続きました。逆に支持する理由では、「だれでも同じ」「他に適当な人がいない」「首相の属する党を支持している(党中央の云うことは何でもその通り)」と答えた人が多くみられました。


Re:もぐもぐ何がいいたいのだろう。  投稿者:れんだいこ ( 12/21 17:08:46 )
 「社民党と共同工作 『日本赤軍』関係団体が方針 2000年12月21日 赤旗」を論評する。以下の記事で、日本共産党中央は一体何がいいたいのだろうか。

 テロ組織「日本赤軍」の最高幹部重信房子容疑者(55)から警視庁公安部などが押収した資料の中に、「社民を軸に政治的影響力を強化する」「社民党の力が発揮できるように工作していく」と、社民党を取り込み、国内の政治運動受け皿にする工作を記述した文書があったことが二十日、分かりました、とある。

 それがどした。政治結社が自身が信ずるところに従って働きかけたとして、それの良し悪しを警視庁公安部の尻馬に乗って誘導しようとする根性の方が下司というべきだろう。

 調べによると、押収した昨年八月十五日付の人民革命党の第五回大会決議文には「(日本赤軍が大衆組織にしようとしていた市民団体の)『希望の21世紀』、社民を軸に政治的影響力を強化する」の記述がありました。また、同容疑者が設立した「人民革命党」の幹部らが決定した党の最新基本方針とみられる今年八月十六日付の文書では、「社民党との共同と工作」の項目があり、「社民党の積極的側面である理念と国政の役割に対して、よりその力が発揮できるように工作していく」などとしています。

 ここも、それがどしたというべきであるが、党中央は一体何がいいたいのだろう。一度、この連中に、思想・信条・結社・集会の自由の中身についてしゃべらせて見たい。

 「小さい単位の選挙で、希望の21世紀として議員を出したり、社民党として地区基盤をつくりながら希望の21世紀の実力を付けていく」との記述もありました。重信房子容疑者(55)による社民党に対する工作が明らかになったことについて、同党は二十日、「今後、党として事実関係を調査したい」としました。

 これだけの記事であるが、結局警察の押収物によるリークを基に何らかの推論をさせたいようであるが、口をもぐもぐさせるだけで自分からは言わない。恐らく、ニセ左翼の日本赤軍がと言いたかったのだろうが、相手をニセモノ呼ばわりするには自分達が本物であることを証明せねばならない。それができかねて、もぐもぐさせているのだろう。

 最後の下りで、社会党に「事実関係を調査」させて何を期待しているのだろう。社会党も言ってやればよい、それがどしたと。自衛隊の有事出動当然論という凡そ左翼史にない確認を党大会でしたばかりで、いまだ得々とこれを自慢している連中に日本赤軍が関心持たないのは自明であって、なんでもかんでも自分中心に地球が回らないといちゃもんつけようとするこの連中には困ったもんだ。そろそろ相応しい退路を用意してやらねばならないかも。

 結論として、日本赤軍の評価は各党・団体がそれぞれにすればよい。日本赤軍が何をしようとこれを取り締まるのは警察の仕事であって、公党がその強化を言ってみたり、他党に干渉して見たり、思わせぶりに教唆して見たり、もうよしてくれや。よそ様のことを悪し様に言うのは自らが手本を示してのみという関係にあることは、十歳の子でも分かる話だ。


Re:志位委員長のくだらなさ過ぎる新年第一声。  投稿者:れんだいこ ( 01/07 21:41:59 )
 ここ一年ほどのウオッチであるので、最近の共産党中央が新年の挨拶をしないのが慣例となっているのかどう分からない。エライ政党がうまれたものだと私はあきれている。試しに自民党から野党、左派小政党まで覗いて見たが、それなりの抱負と指針を党首が述べている。党首が出てこない場合は、中央委員会として論文を掲載している。これは当たり前のことではなかろうか。この当たり前のことが出来ない日本共産党中央が、今年も他の政党をあれこれ云って見たり、エセ左翼呼ばわりするのはよしこにさせたい。

 2001年1月 6日「しんぶん赤旗」は、「参院比例代表選挙で日本共産党への支持をどう訴えるか 全国都道府県委員長会議での志位和夫委員長の報告(大要)」を掲載している。党内外への新年挨拶の代わりとでも云える委員長の報告であるから、少しはましな話でもしているのかと期待して読んでみたら、これが全く無内容きわまるものでしかない。こうなると、この党は既に政治生命を終えている。この現実を一刻も早く確認して、受け皿として新党結成に向かうべきだろう。私も今年はそろそろ相手にするのを止そうと思う。この党の腐乱実態は、今年の参院選までにも数々の選挙があって、そこでもはっきりさせられるだろうし、参院選では露骨にされるだろう。どんな言い訳してくれるのか、そのほうに興味があるが、それも馬鹿馬鹿しい。

 このたびの、志位委員長報告を一応少し分析して見る。全くくだらないことに、中身がなく枝葉末節な形式論に終始している。「政党選択を土台にという方針をつらぬくことが基本であります」というが、わざわざ聞かされるほどのことでもない。「日本共産党の支持そのものの大波をつくりだす」というが、掛け声だけなら誰でも言えるではないか。「第二十二回党大会決定が各分野にわたって深く明らかにした日本共産党の路線と政策を縦横に訴えていくというのが、その訴えの中身であります」というが、前衛を辞めた、緊急時の自衛隊の出動は当然である論こそこのたびの党大会の白眉である。これを本当に訴えていけという指示なのかどうかさえ曖昧だ。

 「どういう訴え方をするかという問題」が重要だとして以下述べるが、小学生相手のような比例区の当選順位論の説明から始まる。「これはたたかいの発展のなかで、おおいに自由闊達(かったつ)にとりくみながら、具体化をはかっていきたいと思います」と述べるが、何を自由闊達に取り組むのかが一向に明らかにされない。「制度の特徴をよくつかみながら、どういう訴えをするかという具体化は、実践のなかですすめるというのが大会の確認でした」と云うばかりで、この入口から一歩も中へ入らない。

 「その中で問題点もうまれてきました」という中身は、「候補者の紹介がとりくみの中心になってしまって、日本共産党そのものを語ることが弱まる傾向が生まれている」だと云う。「もう一つ、こういう問題点も報告されました」という中身は、「党内の競争に目がいって、広く有権者に党を押し出すことが弱まっている」という報告でありますと云う。今や、立候補議員同志の「内向きの競争に目がいってしまう」というのが悩みらしい。実質的な最弱政党が「内向きの競争に目がいってしまう」この党は一体どうなっているのだろう。

 「もしそういうことになったとしたら大変まずいことで、たとえ内部の競争で順位が一つ上にいったとしても、全体で票が出なくて沈んだとしたら、これは落選するわけですし、逆に内部の順位でたとえ九人中最下位の九番目であっても、九人全員が当選する得票が出れば、これは当選するわけです」と、凡そくだらなさ過ぎる話を聞かされる。

 「それでは比例代表選挙での支持の訴えをどのようにおこなうかということでありますが、これは、『比例代表選挙は、政党そのものを選択する選挙です。日本共産党と書いて投票してください』と訴えることを基本としたいと思います」と云う。この言い方は、全国都道府県委員長というのは、三つ子をあやすように云われないと理解できないということを前提にしている。「日本共産党員であれば自分自身が日本共産党の一員であるわけですから、その党にたいする自分の誇りを語り、政策を語り、支持を訴えることはだれでも党員だったらできることです」も同じく三つ子あやしの言い草だな。

 こうして何も具体的な内容の無いまま戦術的な指導に話が進む。ここでも、「そのために、すべての党機関、党支部が、みずから決めた得票目標を文字どおりやりきる構えで、選挙勝利のためにやるべきことをやりきるということがなによりも重要となります」と、低脳児扱いが続く。「選挙で必ず責任をもって達成すべき目標として、得票目標ということをそれぞれ自主的に決定するという方針を確認しました。この大会決定にもとづいて、各都道府県委員会が決定した得票目標を合計しますと、一千万票を超えます。ですから、これをやりきれば比例代表の九人の全員の勝利をめざすということが、現実のものになってくるわけであります。こういう大きな構えでとりくむことが、何よりも大切であります」とある。この一千万票の根拠と可能性の分析と責任を負うという姿勢は微塵も無い。

 最後が、「きのうの常任幹部会ではこの問題について突っ込んだ議論をおこないまして、こういう提起をきょう都道府県委員長会議を緊急に開いてみなさん方におこなうことを確認しました。あとはみなさんの方から意見、質問をいただいて、意思統一をはかりたいと思います。以上であります」。これが新委員長の新年の第一声である。いやぁ、さすがは委員長、いい話でしたと相槌打ちまくる都道府県委員長の処世術を想像すると可笑しく哀しい。


Re:赤旗の文鮮明批判記事を批判する  投稿者:れんだいこ ( 01/14 18:14:44 )
 2001年1月 13日(土)「しんぶん赤旗」は、「霊感商法」の統一協会教祖文鮮明が来日工作ビザ申請 「言論人会議」口実に、を載せている。私は、文鮮明を支持する者でもなんでもないが、赤旗記事の論理を問題にしたい。批判するにも角度が大事というのが私の主張で、赤旗のそれは非常に保守的権力的な発想で為されており、その論調はむしろ有害である。

 赤旗は、「霊感商法や違法伝道で知られる統一協会教祖・文鮮明が日本入国を工作、すでに査証(ビザ)申請をしていることが十二日、わかりました。文は出入国管理法などで法律上は入国できない立場。政府の対応が注目されます」と書く。

 法律によって入国できない立場の文鮮明が入国しようとしていることに対して、「政府の対応が注目されます」と、取締りを暗に要求しているという構図がここにある。文鮮明をいかように批判しようにも赤旗の自由であろうが、出入国管理法違反で取り締まれという論理には問題がありはしないか。ことと場合によっては認可を要求してきたあるいはこれを無視してきたのが左翼の歴史で、取締りを要求する論理になじんで益するところはなかろう。

 文氏は、十五日から東京で開く「第十八回世界言論人会議」への出席を予定しており、法務省入管局は「実際に上陸許可が申請されれば、それから慎重に対応することになる」としているようである。文氏は過去、アメリカで懲役一年六月の判決(脱税など)を受けて服役しており、入管法第五条の上陸拒否事由に該当するが、一九九二年三月、自民党の金丸信副総裁(当時)の強力なバックアップを受け、法務大臣特別許可で入国したことがあるようである。「言論人会議」は、「文師の提唱によって」(統一協会宣伝誌『新天地』)開かれるもの。統一協会によるマスコミ、言論界工作の舞台とされています。今回は、十五日から十七日まで新宿区のホテルで開き、元米国務長官らが講演するとしています、とある。

 そうであるならば、文氏の入国をめぐって、司法・行政・政権当局者が出入国管理法違反の既成事実を再び積もうとしていることになる。左翼から見て、それは悪いことではない。悪法も又法なりでひたすら遵守するのでなく、違反であろうとも出入国が許可されるという法破り先例をこうして政府側の方から為してきていることは、今後の我々の運動から見て有利な材料にはなっても、反対にはならない。これが左翼の普通に発想する考えではなかろうか。たちまち、よど号事件で北朝鮮に居る赤軍兵士ないしその家族の来日に関係してきそうだ。

 ところが、赤旗は、何ら策無く取り締まり一辺倒を主張する。この党は一体なにものなんだろう。とにかく取り締まり好きの左翼政党であることには違いない。

 そう思われるのが嫌なのか、全国霊感商法対策弁護士連絡会の山口広事務局長(弁護士)の話として、言論人会議の開催は統一協会の宣伝、組織強化や霊感商法などの被害拡大につながる。それに文鮮明が出席すれば被害拡大に拍車をかける危険がある。政府は絶対に入国を許可すべきでない、の記事を最後に載せている。

 これはとてつもない予防拘禁思想である。同時に大衆蔑視観が底流にある。末尾の「危険であるから、許可すべきではない」は、さんざん当局側から聞かされてきた治安維持論理ではないか。あぁ、宮本の薫陶宜しく45年、骨の髄まで特高被れしてしまっているようである。


Re:国労続開大会に寄せて  投稿者:れんだいこ ( 01/25 13:23:36 )
 タイムリー時評を心がけるれんだいことしては、国労大会に一言せざるを得ない。1.24日付け赤旗に「KSD汚職徹底追及のために告発ファクスとともに、告発メールを開設します」とある。左フレーム上段に囲みで大きく記事スペースされている。このこと自体オカシクはない。ところが、1.27日予定の国労続開大会の動きと重ね合わせると異常性が見えてくる。党名に固執する日本共産党中央が党名に固執する限りにおいては、今最も肝要な仕事は目前の国労続開大会に対する党の指針の表明ではないのか。この責務を果たさずの「KSD汚職徹底追及」は、何やら国鉄問題から目をそらせる役割しか果たさない。

 危機の事態のときにこそ「友」の真価が問われる。いくら国民政党と言い換えたところで、共産党という党名を掲げる限り、国民の圧倒的多数を占める労働者とその組合運動に背を向けて良いという理屈にはならない。こういうときにこそ党中央は毅然と見解を表明し、労働運動百年の計に向けての指導をせねばならない。これが共産党という党名を冠せられた党員達の本来の任務であった。

 驚くなかれ、党中央が姑息にも指導しつつあるのは、不当解雇から14年、地の底から這い上がりつつある国労闘争団の戦いに水を浴びせ、その歴史をご破算にさせようとする「四党合意」(「JRに法的責任がないことを国労が臨時大会で決定せよ」という国鉄当局の意を汲んだ屈服路線)を陰に陽に支援し続けている。そしてそのことを姑息にも明らかにしようとしない。ほんの少し小出しにすることがあるが、党中央委員会のあるいは幹部会の声明一つ出したことが無い。冒頭述べたように、KSD問題を見れば、タイムリーに「徹底追及」を煽る術は知っているようである。してみれば、国鉄問題については目をそらさせようとしているのだろう。こんなのありか! 

 思い返せば、共産党中央は宮本が牛耳って以来こうした歴史の積み重ねである。平時は戦いを説く。いざその時となったら火消しポンプ役の正体を露にさせる。その歴史を知らぬ者は今この現場で確認すればよい。この党の党中央は大衆闘争の妨害物、敵対物以外の何ものでもないということを。真の友が誰なのか。誰が口先左翼風のペテン師なのか、国労闘争ではここに見事に役者が揃い踏みしている。

 聞くところによると、1.27日予定の国労続開大会では代議員以外の闘争団の傍聴は認められず、周辺警備に機動隊が要請されており、マスコミも締め出しされるようである。これが予想される国労中央、宮坂・チャレンジ一派と革同上村一派の談合による大会運営の実態らしい。思えば、こんな調子のダラ幹指導によって戦後大衆闘争は踏み潰されてきた。談合の良し悪しは時によりけりであるが、闘う組合員に正義があってその正義運動を抑圧するダラ幹談合なぞ許されて良いわけが無い。そしてこの混迷に当局側の意思を挺して裏から操る共産党中央なぞあって良いためしがない。「KSD汚職徹底追及」の裏にこのような思惑が秘められているとしたら、「KSD汚職徹底追及」も所詮ええ加減なものでしかなかろう。

 結論は次のことにある。かような党中央を根こそぎ追い出さない限り、我々はいつまでも猫なで声を聞かされつづけられることになり、その都度脳を患わせられるだろう。最近の青少年が妙にひねくれている一因に、党中央のこうした裏表指導が回りまわって社会に有害を及ぼしているという視点は、さすがに行き過ぎだろうか。


Re:国労続開大会の結末論評  投稿者:れんだいこ ( 01/28 13:00:17 )
 このたびの国労続開大会の経過をどう見るべきであろうか。結論は、表面的な執行部提案の可決とは裏腹に、どうやら闘争団の方が実を取ったのではないかとれんだいこは見る。それは闘ったから手に入れた果実であり、闘わなければ一層の奴隷を強いられるという剣が峰であった。闘争団は実を手に入れ、なお闘う砦を構築し、ここから更に勢いをつけた闘いへと歩を進めていくことになるだろう。闘うことが必要だと云うことのお手本のようなものであると見る。

 大会は、史上初の「戒厳令大会」となった。このたびの大会運営振りは、ダラ幹指導による国鉄労働運動の終着点として史上に不朽となるであろう。今後ダラ幹運動を指導していくには、この大会になだれ込んでいく過程で敷かれた地雷原におっかなびっくりしながらのろんぱり気苦労が待ち受けており、さぞや大変と見る。

 一応ダイジェストしておくと(毎日新聞速報による)、概要「1.27日、国労は定期全国大会を開き、『4党合意』を受け入れることを採択した。今後、国労は、不採用国労組合員のJR各社への新規雇用や、国鉄改革関連の訴訟取り下げなどについて、社民党などと具体的な協議に入る。この日の採択で、国労はJRの法的責任を追及してきた14年間にわたる活動方針を大きく転換することになった。この日の大会で、高橋委員長ら執行部はこれまでの混乱の責任を取って総辞職した。選挙の結果、新委員長には、高嶋昭一氏が選ばれた」とある。

 「4党合意」の問題点は次のことにある。これは時の首相中曽根の国鉄分割・民営化(1987年)路線に端を発している。国鉄労働運動に掣肘を加えるというどす黒い思惑であったことが本人の口から吐露されている。国鉄分割・民営化・赤字路線切り捨てが国家百年の大計に相応しい政策であったかどうか、今日ではその大義名分が白日の下に破産させられている。

 この過程で、国労組合員ら1047人を不採用した。これは氷山の一角である。国鉄労働者は否応なく生活していくためには仕方ない選択としての当局投降派と、操を屈する訳には行かないとする徹底抗戦派と、これはこれで貴重である日和見派の三派に空中分解させられた。どちらに走った者も例外なく傷ついた。今日なおそのトラウマが刻印され続けている。以来14年経過している。驚くべきことに徹底抗戦派は潰されず、むしろ仲間を信じて自立化さえ見せ始めてきているというのが現下の情況だ。

 この局面から、1047人の不採用問題はそろそろ決着つけねばならない、潮時だというのが当局の判断となった。「JRに法的責任がないことを認める」ならば、この争議を一刻も早く収束させたいというのが新指針となった。この思惑に呼応したのが国労執行部である。1047人の長年の苦労をこれ以上続けさせる訳にはいかないという指導責任から乗り出したものではなかろう。仮にそうであるとするなら、「JRに法的責任がないことを認める」なぞ認めようがない逆目見解であり、なにより続開大会に至るこの間の経過が物語る。なお意気軒昂に闘いつづけると意思表明している闘争団と話し合うことをせずひたすら逃げ回り、挙句の果てはこのたびのよりによって機動隊に警備を依頼しつつ、反対派の意見表明を押さえつつ、なりふり構わぬ採決に持ち込んだ経過を見れば分かる。他に考えようがない。

 それにしても、一昔前の用語ではあるが社・共系運動の裏切りは目に余るというか、当局御用派であることを今や恥ずかしげもなく露にさせている。それだけ緊張感を維持できない世の中になったのだろう。社・共系運動は幼稚であり大人になりきれていない。この大会運営一つ見ても、自民党系のそれらに劣る。社会党系には興味がないので割愛し、共産党系指導に一言したい。一体全体宮本−不破系運動は、我が社会に何を持ち込もうとしているのだろう。議会専一運動やりたいならやれば良い、誰も邪魔はしない。しないよう間接的に援護もしよう。党中央もまたそうすべきではないのか。議会専一運動やりたいならやれば良い、労働運動の盛り上がりに邪魔するな! これが私の云いたいことだ。もし、これさえ約束するなら、本日の北九州市の市議選で敗北しようが、参議院選で敗北しようが、しっかりガンバリィと一瞥してあげる。

 それにしても、戦後当初の一時期を指導した徳球書記長の指導がなつかしい。彼は次のように云っている。1945.12.1日第4回党大会が党本部で開催された。そのときの徳球節は次の通りである。労働組合の統一についての報告の中で、「総同盟は事実上飯場頭(はんばがしら)の為の利己組合であり、松岡.西尾はその全国的飯場長である」。当時の赤旗第1号紙上で、賀川豊彦を「キリスト坊主」、戦前の労働総同盟会長松岡駒吉.西尾末広らを「組合又は政治ゴロの親分、ダラ幹の元締め」等々と誰はばかることなく罵倒している。

 今日から思えば、この優越意識は多少鼻持ちならないものもあるが、自由主義者や社会民主主義者らが日和見主義的にふるまった中、唯一党だけが屈せず戦前.戦中を獄中闘争で貫いたという実績に支えられての、徳田ならではの自負でもあっただろう。今こう云いきれる運動がないことを寂しいと思う他方で、現下共産党中央が為している飯場頭以下路線に隔日の感を深くする。同じ党名内の、この徳球指導と宮本路線の対極性こそ明らかにせねばならないとれんだいこは考える。


Re:赤旗記事のヌエ性について  投稿者:れんだいこ ( 01/30 15:28:31 )
 ほとほと嫌になるけどコメントせざるを得ない。赤旗は先の国労続開大会の様子を次のように報じている。大見出しが「ILO勧告に沿い早期解決を」で、続いて「『公正な補償』政府に求める 国労が続開大会で運動方針」(2001年1月28日)とある。これを見れば、党中央がこのたびの大会決議を歓迎し、これに添って「公正な補償」闘争に乗り組むよう示唆していることが読み取れる。

 しかし、党中央はそうははっきりかか書かない。むしろ、続く地記事で「運動方針は、『JRに法的責任なし』を認めることという自公保三党と社民党の『四党合意』を前提としながらも」云々と書く。私が常々いやらしいと指摘している現下党中央の性格がここに見事に表れている。自分たちも後押ししているだろうに、「自公保三党と社民党の『四党合意』」と書く。『四党合意』を党中央が批判しているのならそう書けばよい。保留ならそう書けばよい。実際は後押ししているのに「自公保三党と社民党の後押し」と書いて自らの画策責任から逃れようとする。こういうのを昔からヌエと云う。正体がはっきりしないという意味である。

 一事万事がそうだから敢えて指摘するまでもないのだが、れんだいことしては変な事は変な事として指摘する節介を焼いておかないと落ち着かない。しかしこういう変調指導に唯々諾々してきている党員ってどういう感性しているんだろう。このあいだ顔見知りの党員と出会って話ししたとき、とうとうと現代資本主義論を聞かせてくれた。まさかあたしをれんだいことは知らないから、何も分かっていないこの人に聞かせてあげるという風な化石化した理論を説いてくれたが、いっぱしのこというのならその関心をなぜ党中央に向けないのだろうね。あたしには分からない。

 続いて記事は、代議員からの「全動労争議団、建交労、全労協、全労連をはじめ一致する要求と課題でたたかう多くの仲間との共闘を追求する」とした修正動議を受け入れ、補強しました。討論では、「野党三党にも協力を要請し、政治の力を結集して政府・JRに解決を求めるたたかいが重要だ」、「団結を回復し、解決水準を高めるたたかいを本格的に強める」との意見が相次ぎました。国労闘争団の特別代議員は、「ILO勧告で掲げられた公正な補償をかちとろう」が全国の闘争団の一致するスローガンだと紹介。解決交渉に闘争団代表も参加させることや大衆行動の強化を訴えました、と書いている。

 これでは、「戒厳令」下の大会であったことや、国労中央と闘争団の非和解的な対立の様子がさっぱりわからないどころか、なにやら円満解決、和気あいあい調に感ぜられるではないか。こういう虚偽・歪曲・ご都合記事を平気で書き上げる神経が私には分からない。こんな連中に、一国一指導党を是として自らがその党派であるとか、「民主集中制」、分派禁止論理の金棒を振り回させたら、これは左翼運動内の凶器でしかなかろう。

 ついでに書いておくが、北九州市議選はじめいくつかの地方選挙がこの間行われている。確か今までは前回選挙時との比較を当選議席数、投票数、投票率で明示していたと思う。なぜかこのところこれが一定していない。もしも、ご都合のよい時だけこれを発表し、悪いときには控えるとし始めたとしたら、まさにこれは大本営発表化し始めたことになる。それは党中央の高転びの始まりでもある。同じことなら早いほうが良いのだが、断末魔の苦しみをできるだけ長くさせてみようという党員の逆イジメが低流にあるのか兆しが内向させられている。となると暫くヌエ論理を聞かせ続けさせられることになりそうだ。




(私論.私見)