ヒゲ虎時事評論12 |
Re:中心課題で答えます。 投稿者:れんだいこ ( 11/20 23:51:55 ) |
ここらあたりになると多少揚げ足的に不毛な面も出ているように思うので、いずみさんから何度も催促されている「摂理」考をしておいた方が良いかと思うので、この課題に向かいます。ぶっつけ本番ですので、恐らく言い足りない面もでてくると思うが、私が一番云いたいことが正味出るとも思う。 まず「摂理」に対して。私は、いわば天然自然の組成の理とでもいうべきものと認識しています。これを陰陽で説明することもあるし、天地の対応で説明することもあるし、いくつかの元素の集合で働きを説明した上で「理合い」を説明することもあります。更に云えば、人間種族がいてもいなくても成り立っている仕組みの部分として認識することもできます。この観点から、古代ギリシャ哲学史が面白い、各地の創世記神話も面白いとか興味を抱いています。 但し、ここは注意を要しますが、この仕組みをロゴス的に当初一から出発した発展系としてこれを観て、この「摂理」を説明できるようには私は捉えていません。聖書の世界では、「はじめに言葉ありき」とあるように、唯一神エホバの天地創造で説明しきっていますが、私はそのようには捉えていません。この世の中の始発さえ混沌なカオス的な中から次第に筋道が見えてきて、今日まで至っていると考えています。この場合、「摂理」はあくまで混沌の中から生み出されてきているものとして認識されており、聖書的秩序世界とはちょうど対極にあります。興味深いことは、この立場からでも天地創造説は可能ということです。が、本題から外れますので今は述べません。 次に問題になるのは、「摂理」には、そういう天地自然の理以外に人という個又は種族としてのホモ・サピエンスを主体として天地自然の理との絡みで形成された「摂理」もあり、あるいはホモ・サピエンス間の調整作法としての「摂理」もあり、この方面の研究もなされねばならないことです。ここの部分は、絶対的云々と決め付けることが一層困難な「摂理」ですが、それでも古来よりさほど変わらないと思える部分と時代状況に適応してかなり変わりつつある部分との両面から構成されていると思います。単に裏表という平面的でなく重層的に螺旋的に絡み合っていると考えたほうがよさそうです。私は、この次元での「摂理」を人と大地との人と人とのネットワークによる生活の知恵的「摂理」として認識しています。そして後者は更にそれが強められていると考えています。 更に、時代が繰り下がって、この生活の知恵的「摂理」は、ここに権力関係(被支配的階級関係)が発生して以来、いわば「お上」的な「人為的統制的摂理」が新たに発生したように思います。主に宗教・法律・道徳・倫理・思想・イデオロギー等々様々な分野が「摂理」から分岐したように思っています。問題は、これらのいわば「新種摂理」(もはや「摂理」ではなくそれぞれの決まりごととみなしたほうが良いとも思うが)も、元々の「摂理」を無視しては成立していない。ベースとして踏まえて、なおかつ為政者の有利なように捻じ曲げていると私は思っています。そして、それはまさに為政者の個人都合というばかりではなく、生産力と生産関係の総体としての都合によって貫徹されているのかも知れない。だから、「存在するものには合理性」が認められるというヘーゲル的洞察が為されたのではないでしょうか。もっとも、ヘーゲルの場合、キリスト教的世界観に縛られており、無から有への始まりについてとても説明を苦労しています。 簡単ながら、「摂理」の解説を私なりにして見ました。いずみさんと私の違いは、こうした内容をもつ「摂理」の合理性を、重視するのかしないのかの違いにあるのではないかと考えています。重視するほうの系列として、できるだけ始元化方向で重視しているのが東洋思想特に日本神道ではないかと勝手ながら考えております。できるだけ体制秩序維持に便利な方向で重視させようとしているのが時の権力者とそれにまつわるイデオローグたちではないかと考えています。その中間が宗教者であり、民間に位置している者はより生活の知恵化へ、権力に近いところに位置している者は我々に恭順を説いて聞かせてくれているとか考えたりしています。面白いことに、マルクス主義以前は、この「摂理」思想で「お上」と「下々」が抗争しあってきている面があるように思われます。錦の御旗は、どちらも天命・天帝の声を聞こうとしてこちらの考えがより天命である、天帝の仰せであると互いが「合理性」を云い張ってきていたような気がしています。明治維新も回天運動であり、自由民権運動も天賦の権利の主張運動であった背景として、こういう互いの認識があったのではなかろうか。西洋もほぼ同じですが、ユダヤーキリスト教的世界観との絡みがあるのが違いのように思ったりしています。 ところで、なぜ、今日我々がこの「摂理」思想を聞き分けしなくなったのかというと、一つは資本主義論理の席捲があるだろうと思っています。資本主義は、すべての価値はお金で測られるという全一的基準を生み出し、この論理が強くなればなるほど「摂理」思想の無力化を進行させたように思っています。もっとも、私は、これには過去歴史的にまとったしがらみを除去するという良い面もあったし全否定しようとは思っていません。ところが、今日では資本主義的エゴが地球環境破壊を顕在化させていきだしたことにより、新たに「自然の摂理」との調和が必要となりつつあります。人と人との関係もそうです。エゴからエバへは、そうしたお金による全一的基準発想からの脱却を迫っているということではないでしょうか。 今日我々がこの「摂理」思想を聞き分けしなくなったもう一つの理由に、マルクス主義の影響もあると思っています。マルクス主義は、「摂理」のとりわけ後世に形成された宗教・法律以下のそれぞれの決まりごとに対して、これらを階級支配の道具と見立てて階級闘争全一的観点から「摂理」思想を排撃していった、と私は考えています。私が留意したいことは、階級支配の道具として機能していたとしても、それらも又踏まえざるを得なかった「摂理」の面まで一挙的に流してしまったのではないかという点についてです。私はここを凝視したいと云う観点を持とうとしています。それは何も保守反動の世迷言の世界ではなく、我々が新社会を創っていく際に必要な作業だろうという気がしています。いずみさんと私の見解の差において、「性論」はその格好の題材になると思っています。 私が説明するのもこそばゆいですが、ヘーゲルは、「新しく存在しつつあるものに対しても合理性が認められる」という洞察を為しました。この認識がマルクスによって砥ぎに砥がれていきました。唯物論的にも反転させられましたし、弁証法はヘーゲルよりももっともっと生き生きとダイナミックに深められていくことになりました。だがしかしというのが私の認識の基点になっています。そのことによって見失った面もあるのではないのか、特に唯物史観によってものを観る眼が長期スパンになったが、我々の人生のスパンは相変わらず「人生50年」(多少長期化させて「稼動人生50年」と私は手直ししていますが)の枠内であり、この両観点が接合されていないのではないのではないのかというのが私の認識の起点になっています。 マルクス的ものの観方・思想・分析の功の面については、恐らく私は誰よりも認めたいと思っています。今でもそうです。もっと知りたいのにいくらも読んでいないわが身を恥じています。世にマルクス主義批判者が多い中で、私よりも学んでいなくて批判している人を聞いたり見たりすると鼻じらみます。同じ理由で、ろくに学ばずに、マルクスをあるいは似ても似つかぬ党運動をしている我が日本共産党のイエスマン支持者にも卒倒させられています。だがしかし、やはりマルクスも時代の子であったし、特に画期点を明らかにする必要がありすぎたためか、「摂理」的に引き継ぐべきものについての解明までは及ばなかったと考えています。その云われなかった行間を我々がどう埋めていくのか、あるいは新思想として引継ぎ発展せしめていくのかがかなり重要になっているのではなかろうか。少なくとも、あの時代にマルクス-エンゲルスは時代を読んで何がしか時代を思想的に掌握したとするならば、我々もまたこの時代を読み掌握とようとする精神こそがマルクス主義者的であり、その学徒らしくはないか。 いずみさんがマルクス主義をどう評価しているのかいないのかは知らない。だから、ここでこのように論を発展させる必要があったのかどうか分かりませんが、ここまでたどり着いてしまいました。以上簡単ですが、私の「摂理」観ご理解に役立ちえたかどうか疑問ですが、足りない脳にも関わらずけなげに取り組んで責任果たしと思ってくんなまし。逃げない男れんだいこはつらいよ、お粗末さまでした。 |
Re:中心課題で答えます。 投稿者:いずみ <HOME> ( 11/21 03:38:08 ) |
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但し、ここは注意を要しますが、この仕組みをロゴス的に当初一から出発した発展系としてこ>
れを観て、この「摂理」を説明できるようには私は捉えていません。 はい。それがあるからこそ、自然科学神話、もう少し広げれば近代合理主義神話、そういった部分への疑義が提出され、なるほどそこにリアリティもあるわけです。 …しかし、そうであるならば、中途半端に自然科学の果実をつまみ食いするのはおやめください。 「複雑系」とかここ10年くらいの流行りですよね。 自然科学の世界では、けっこう「と」に1/4足くらいつっこんでるキライもありますが(笑)、それでも、マクロな世界を自然科学はそもそも記述し切れないのだ、という傍証くらいにはなります。 逆に言えば、自然科学というものはそこまで自己を相対化できているものですし、れんだいこさんが否定してみせてもびくともしない、かつ、それ以外の部分ではハリボテ状態であることを自ら認めている学問でもあるのですよ。(これが即、トンデモと課すこともあります。特に意外にも、物理学とか多いよ うですね、そういうのが。) で、自然科学がそうやって自らの限界を認めている以上、しかも、「これは事実」と展開している部分への検証はそれなりになされている以上、そこをご都合主義的に取捨選択したり、他の人がつきつけた事象について「自然科学の限界」を理由に合理的な判断を回避したりするのはおやめいただきたいのです。 いずみの同業(笑)にも、「ジェンダーは男女で固定化している」なーんて言う、反動極右分子(笑)がいます。しかしいずみは、彼女の主張には、少なくともれんだいこさんの主張よりも数百万倍、信頼を置いています。それは彼女が、現在の自然科学の果実をすべて認めた上で、なお、そこからは図れない「なにもの」かを、古今東西の様々な思想から学び、さらにそれを昇華させようとしているからです。 > 更に、時代が繰り下がって、この生活の知恵的「摂理」は、ここに権力関係(被支配的階級関> 係)が発生して以来、いわば「お上」的な「人為的統制的摂理」が新たに発生したように思いま> す。 をー、革マル的世界観ですね(^o^) > 簡単ながら、「摂理」の解説を私なりにして見ました。いずみさんと私の違いは、こうした内 容をもつ「摂理」の合理性を、重視するのかしないのかの違いにあるのではないかと考えていま> す。 いずみは、「認識は客観世界の反映である」という命題には合理性があると思っています。思ってるだけですが。^^;; だから、そこに「自然の摂理」という非合理を持ち出すことに反対しているだけです。:-) 以下の論を拝読しても、「摂理」が何を意味するのかが、やっぱりわかりません。資本主義以前と以降で何かを分けるのであれば、資本主義以前に普遍的な何かがあったことの証明と、そこでドラスティックな変化があったことの証明がなければならないでしょうが、れんだいこさんの説は前者が弱すぎです。そしてそれは、れんだいこさんの、立論の仕方、もっと言えば姿勢に、問題があるような気がしています。 人間、1人でできることは限られています。当然、先達の智慧は有効利用させていただきます(^o^)。問題はその使い方でしょう。 思想的な体系から、よさげなところをもってきてモザイクに組み上げても、それはせいぜい、似たような思考パターンの人からの賛同と、その論理構造に何らかの「すがすがしさ」を感覚的に感じる人からの賛同が得られるだけです。そうではなく、いささか違った思考パターンを持つ人、違った実践を為してきた人、そういう人と自らをすり合わせることでこそ、自説が「開かれてゆく」チャンスのはず。 そして、それをするためには、おたがいにとって「客観的」と認識できる事実を足がかりにしていくしかないのです。さらに、その「足場」として最も適しているのは、議論の話題ごとの、プロパーが、先人が残してきた足跡、それは思想だけじゃなくそこに到るための知識も含め て、そういったものじゃないでしょうか。 だからいずみは、れんだいこさんには、自然科学でもなんでも、もっとたくさんの知識をまず知ってほしいし、それでこそ議論が豊富化できるのではないか、とも考えています(^o^) > 今日我々がこの「摂理」思想を聞き分けしなくなったもう一つの理由に、マルクス主義の影響 もあると思っています。マルクス主義は、「摂理」のとりわけ後世に形成された宗教・法律以下 のそれぞれの決まりごとに対して、これらを階級支配の道具と見立てて階級闘争全一的観点から> 「摂理」思想を排撃していった、と私は考えています。私が留意したいことは、階級支配の道具 として機能していたとしても、それらも又踏まえざるを得なかった「摂理」の面まで一挙的に流 してしまったのではないかという点についてです。私はここを凝視したいと云う観点を持とうと しています。それは何も保守反動の世迷言の世界ではなく、我々が新社会を創っていく際に必要 な作業だろうという気がしています。いずみさんと私の見解の差において、「性論」はその格好 の題材になると思っています。 …これにはさすがに、マルクス信じてないいずみも怒りますよ(笑) |
Re:リプライその3について 投稿者:れんだいこ ( 11/20 21:38:46 ) |
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(12)男性同士の同性愛行為にネガティヴイメージが付与されたのは明治時代 以降の優生政策による。 > 戦国時代、男性の同性愛、というか、同性による性交渉は、「武将のたしなみ」でし た。 織田信長が美男子をたくさんはべらせていたことはあまりに有名です。これは、も ともとは「戦場に女性を連れていかない」ということから始まったとも言われています。 そういう意味では、同性愛とは言えない面もありますが。 (答え)稚児の捉えかたは同性愛観点からだけでなく、幼少より薫陶よろしく武将教育しようとして、側に侍らせていたという面こそ詮索されねばならないと私は考えている。 > これが同性愛という形で普及?していくのは江戸時代です。もともと僧侶のためにでき た風俗が、首都で発達し成熟していく町人文化の中で受け容れられます。 当時あったソ レ系の風俗産業は、何といっても「オカマ」の語源となった陰間茶屋です。ここは女装し た美男子を買う場でした。働いていたのは、お芝居で女形として身を立てられなかった人や、地方の貧農の子供たちです。(その面では、当然ながら当時の他の風俗産業と事情は 同じ)。15歳ころは重宝されるのですが20歳を過ぎると捨てられるという、まさに悲惨な 人生だった模様です。 (答え)これも、いずみさんの説明の中に既に特殊性が語られています。私は否定はしないけどメジャー視はしない。圧倒的メジャーは、遊郭であり、ここではオス-メス間の一夜の契りが金銭でやり取りされていた。遊女も束の間のスポットで使い捨てにされた。私はこれを善悪ではなく史実として捉えようと思う。 > また、そのような売買春とは別に、「信頼のちぎり」として男同士でまぐわうことも多々 ありました。「男色」は「粋」とされていたのですね。 (答え)今も当時も一緒で、「粋」と見る人もいれば気色悪いと見る人もいる。だから、公平に見ないといけないわなぁ。 > しかし、これらのことは、明治時代の「富国強兵」「西洋に追いつけ追い越せ」という政 策の中、「同性愛は恥ずかしい」という西洋的=キリスト教的発想の元、また「産めよ増 やせよ」に反する存在である、ということから、「人間として恥ずかしいことである」と いうイデオロギー攻撃を受けました。このことはもちろん、優生思想ともつながっていま す。「よりよい生を残さねばならない、悪い生は残してはいけない」という優生思想が、 どれだけの人間を抑圧してきたのかは、ナチスがユダヤ人に行った行為1つ見てもよくわ かります。 (答え)既述しましたが、公式論的過ぎる批判的見解ですな。「富国強兵」・「西洋的=キリスト教的発想」・「優生思想」というイデオロギー攻撃からばかりによってではなく、ある種受け付けない流れもあって、明治以降権力的に排除・統制されたと読むのが宜しい。 > ここで注意しておきたいのは、優生思想が、まさにれんだいこさんが言われるようなノリ で「自然の摂理」という概念を利用してきた、という歴史でしょう。もちろんれんだいこ さんは、例外は例外であるけども、そのことは事実認識であって、それが良いとか悪いとかの判断にはなじまない。と書かれているわけで、単純に優生思想めいたことを言っておられるのではない、ということはわかりますが。 (答え)この差が、権力思想とれんだいこ思想との天文的な大違いと認めてほしい。 > なお、我々が長い間、日本国内で合法的に性転換手術を受けられなかった理由も、まさに 優生思想に起源を持つ「優生保護法」というおどろおどろしい名前の法律にあったのだ、 という歴史は忘れられません。 (答え)他にも理由があって、大所高所から見て性転換手術を認めまいとしたんだと単純に受け取っていますね、私は。 > (13)「オカマ」の恋愛対象が男性であるという認識は大きな誤りである。(11)でも展開しましたが、「オカマ」のうちの一角を占める、MtFTG(Male toFemale Transgender)の恋愛対象は、男性というわけではありません。埼玉医大が1998年までに行なった調査によれば云々。アメリカの調査では、「生物学的男性で女性だと自認する人のうち、過半数は恋愛対象が女性である」という結果も出ています。こういう人は、もちろん、女性が好きなのですから女性と結婚し、れんだいこさんが言われる「自然の摂理に合致した性交渉」を行い、子供もいて、で苦しむ、というパターンであることが多々あります。 (答え)そういう苦しみの人も確率数パーセントはいると思うけど、われわれの圧倒的な悩みは、まずはおまんま系であって、同時にか次にかは分からないが、オス-メス間の「性の不一致」であって、凡そホモ・サピエンスだけが終生同じ相手と関係しつづけるという、それこそ自然界の摂理とはかなり違うことをしている無理が重なって「悩み」となっているのが実際でしょう。 「自然の摂理に合致した性交渉を行い、子供もいて、で苦しむ、というパターン」は、そんなには多くない。それは他の悩みを無理やりそこに結び付けている場合もあるのだろうし、純然たるその種の悩みはそれとして研究対応されていけばよいと思う。何度も云いますが、私は認めるし、差別しようという気もないが、その種の悩みを「百人に一人」まで広げる気はない。 > (14)性交渉に肛門を使うことと、「オカマ」との間には、密接な関係は存在しない。 性交渉に肛門を使うこと、これは、江戸時代なら「大悦」、現代の用語なら「AF」「アナルセックス」と呼ばれる性行為ですね。しかし、これが「オカマ」に顕著に見られる行 為だとすれば、それは偏見である以上に、「現代の性風俗について全く理解・認識できていない」ということになります。以下、読んでいてもこちらがおかしくなるので略。 (答え)「オカマ」行為をオス-メス間で為すことは一般的でしょう。但し、本技抜きにそこにフェチするのを世間では変態と云いますね。同性間でするのは勝手にどうぞの世界でして、それを堂々と胸張って云うことはないと私は考える。 > 「通常の性交渉」とAFとの間には、「物理的刺激からの快楽」というメカニズムからすれば、なんら変わるところはありません。以下、読んでいてもこちらがおかしくなるので 略。 (答え)性技のスパイスとしては良いでしょう。しかし、それ以上を好む人が理屈をつけて正当なんだという必要はないと私は考える。 > そしてそもそも、人間の性感というものは、観念に大きく支配されています。例えば、フ ェチシズムというものがありますよね。これは、「性器以外の部分にシンボリックな意味 での性器性を感じる」というあたりが語源でしょうが、そういう傾向は誰でも持ち合わせ ています。以下、読んでいてもこちらがおかしくなるので略。まぁこれは極端な例です が、あくまでもそれは「極端」である、というだけで、ムードで気分が変わったりする、ごく普通の人間との違いは「程度問題」に過ぎないわけです。 (答え)「程度問題」に過ぎないかどうかは別にして、ここでいずみさんに質問したい。いずみさんの考えによれば、母子・父子・兄弟・親族相姦、人と他の動物との性交渉はどのように考えられますか。この歴史を語れば、これも面々と続いており、いずみさん流に書けばかなり「一般化」することができます。ぜひご見解をお聞かせください。 > さらに、(13)で触れたとおり、「オカマ」の一部である性同一性障害者の少なくない部分 は、恋愛対象が女性なのですから、そもそもAFは普通の男女のカップルと同じ意味しか 持ちません。ということで、「オカマ」だからみんなAFをするというのは誤り、AFをするのは「オカマ」ばかりというのも誤り。(11)で挙げたような「AFアリ風俗店」の存 在がある以上、少なくとも、今この日本で日々行われているAFの回数をカウントしたら、男女でやっている方が圧倒的に多いはずです。 (答え)オス-メス間で為すのと同性間で為すのと、オス-メス間でスパイスとして為すのとフェチで為すのとでは、行為は同じでも「摂理が違う」というのが私の考えです。スパイスなら、体力に応じてやって見られたらいいが、意欲とひまがないとできないと思うなぁ。 > (15)なぜ、性を語ると言いながら、制度面(法律的上部構造)についての考察が一切ない のか?今回の考察で、れんだいこさんが言う「性」というのは、生物学的な性別(のうち のごく一面)と、性行為における快楽の問題の2点でしかありません。また、最後の部分 でいわゆる「男らしさ女らしさ」問題の考察の必要もあると、genderの問題についても議 論の必要性は認められています。しかし、そのどちらでもない「制度的性別」について は、れんだいこさんは全く触れていません。ふだん、政治についてあれだけ語っているれ んだいこさんが、なぜここでそういう問題について一切考察がないのか?というのは、非常に不可解です。 (答え)あんまり関心がないので考察といえるほどのことをしたことがない。しかし、わが身の経験から人並みのことは云える。そういう必要を感じたら取り組みたいとは思うが、 私ももう50才自己利害の少ないところにはどうしても気が向かないなぁ。 > ちなみに、日本においては、世界に誇る収奪・管理システムとしての「戸籍」というものが存在しています。ここでは、性別だけの記載はありませんが、「続柄」という形で実質 上性別が示されているわけです。 ここで、もしあれば、母子手帳と、戸籍の出生届を見比べてください。母子手帳の性別欄には「不明」というのがあるはずです! しかし、 戸籍ではそれは認められない。以下略。 (答え)うーーん、そういうところで怒る方もおられるということが勉強になった。又数は少ないと思うけど、出生時に性別不分明な例もあるということも分かった。幼い本人にナイショで性腺除去とか性器形成などの手術が勝手に行われてしまうこともあって、出生時に性別を確定させる、というシステムが、これらの人の人権をどれだけ蹂躙してきたのか、寒気がします、といういずみさんの気持ちもわかった。が、いずれも難しい問題だなぁ。私に言わせれば、例外的事例の対応問題だな。むしろ、いずみさんが、どうすればよいとかの対案出してくれて、それに我々が返答していったほうが生産的だな。 > 一方、性同一性障害に対しては、司法は未だに戸籍の性別変更を認めていません。これにより、性同一性障害者は、就職すらまともにできない、という状況に置かれています。医 学技術的には全く同じ手術が、一方では本人の意思を無視して行われ、一方では本人の意 思を無視して行われない、という状況があるわけなのです。このような、性別を固定的に しか捉えられない発想の下での政治システムが、いかに性的マイノリティを抑圧している のか、という視点は、忘れずに持っていたいものです。そして、そういう制度を許してい る1つの原因は、れんだいこさんに典型的に見られるような、「自然の摂理」を観念的・ 非科学的に捉える発想にもあるのではないか?といずみは危惧するのです。。。< (答え)どうしても私をそこの世界に入れたいみたいだな。私はですね、私こそはですね、「自然の摂理」をあるがままに応じて何とか合理的に捉えようとしているのであって、観念的・非科学的などという常套手法で批判されてもなぁ。 > (16)差別語を不用意に使わないことはマナーではないのか? 以上、いろいろ見てきまし たが、いずみは、「オカマ」という語は、本来使うべき語ではない、と考えています。 なぜなら、それが客観的に、当該、特に性同一性障害者に対して、直接傷つける要素を多 く含んでいるからです。もちろん、だからと言って、かつてあったような「言葉狩り」の ような、問題を隠蔽する形で「使用を禁止する」という性質のものであってよいはずはな いです。だいいち、そんなやり方では差別なんかなくなるわけもないですし。ただ、その ような語は、使う必要のないところではやはり使うべきではない、とも思うのですが、い かがでしょうか。特に今回、いずみが「噛みついた」後では、議論の相手が、まさに当事 者なわけですし。。。 (答え)問題は解決していないけど、他でもない、いずみさんの仰せだから、はい、れんだいこ一生の不覚と受け止め、以降は慎みたいと思います! > まぁ、いずみはこうやって、これを契機にいろいろわかってもらえれば、ということで楽しく(笑)やってますが、人によってはそれでは済まなくなる可能性があることも知ってお くべきです。そして、それに対して、差別語禁止はよくない、などの一般論を言っても無 意味です。なぜなら、相手は、自分の存在そのものを傷つけられたと思っているからこそ 「逆上する」のですから。 (答え)まっこと難しいなぁ。 > (17)根本的な問題:それでは、いずみは人間として正しくない存在なのですか?れんだい こさんの今回の一連の投稿で、「オカマ」と呼ばれる人は、従っていずみは、単なる「マ イノリティ」というのではなく、「本質を外れた人」「摂理に反する人」として描かれて います。ということは、いずみは、これからどうやって生きて行くのが、れんだいこさん 的には「まっとう」なのでしょうか? (答え)ここも繰り返しになりますが、この世の中はおまんま系の悩みが深いです。これをクリヤーし得ている人は、私に言わせればぜいたくな悩みを悩もうとしているようなもんです。でも、当人は大まじめで、脳がそのように作動するのなら致し方ない。他の人にどう映るのかではなく、自分にとってどうなのかで、限られた人生を悔いのないようにパフォーマンスしていけば、これ最高と違いますか。 > ちなみに、かつてアメリカで行われた恐るべき人体実験により、性同一性障害について、 「精神」の方を「直す」ことはほぼ不可能であることが示されています。以下、略。 (答え)アメリカはよくも悪しくもパイオニア精神とフェア精神とメイク・マニー精神が雑居していますから、そういう目で判断するしか手がありません。 > (18)そのほか。れんだいこさんの主張には、いじめ問題や、「障害者」問題に関してもひどい混乱・差別がみられます(というか、「障害者」問題でこのレベルの初歩的混乱を来している人に共産主義を語ってほしくないです、正直)が、これについてはまた別の機会にでも。 (答え)ここはいたく私を傷つけた。でも、私がいずみさんを先に傷つけたみたいだから、私の不徳のいたすところと水に流します。あーーぁちかれた。今日はここまで。 |
Re:リプライその3について 投稿者:いずみ <HOME> ( 11/21 03:05:00 ) |
(3-16)母親に詳しく聞いておきます(^o^) > (答え)稚児の捉えかたは同性愛観点からだけでなく、幼少より薫陶よろしく武将教育しようと して、側に侍らせていたという面こそ詮索されねばならないと私は考えている。 これもお得意の論点ずらしにしか見えないのですが(苦笑)、ともかくも、この提起自体は非常に興味深いので、母親に尋ねておきます。 (3-17)多数派であることと、それに何らかの正当性があることには関連がない。相対的優位性はあるのだけれど。 > (答え)これも、いずみさんの説明の中に既に特殊性が語られています。私は否定はしないけど メジャー視はしない。圧倒的メジャーは、遊郭であり、ここではオス-メス間の一夜の契りが金 銭でやり取りされていた。遊女も束の間のスポットで使い捨てにされた。私はこれを善悪ではなく史実として捉えようと思う。 だから、史実は、それと同時に、そういうマイノリティがいることが特殊じゃなかったと認識されていた、ということのはずです。 多様性を認めるのか否か。 れんだいこさんが、多様性を認めるフリをして、しかしそれは「自然の摂理に反する」と言う。それじゃ、認めたことにはならないと思うのです。だって、そこでどんなに「人権は認める」「対等だ」といったって、所詮化学反応で生きてる者どうしじゃないですか。 いずみは、例外があることが「自然の摂理」、マジョリティとマイノリティの両方が混在することが「自然の摂理」であり(敢えて言うのなら、ですよ)、そのどちらかがより「自然の摂理」に近いなどということはない、と言っているのです。(もち、自然界に対しての有利・不利はあります。当然に。 ただ、それを逆転させる力がどんな生物にもある。とりわけ人間は、それをやりたい放題やってるのだ、ということ) > (答え)今も当時も一緒で、「粋」と見る人もいれば気色悪いと見る人もいる。だから、公平に 見ないといけないわなぁ。 ここもそうです。一体どちらが「公平に見て」いないのか?ですよ(笑) > (答え)既述しましたが、公式論的過ぎる批判的見解ですな。「富国強兵」・「西洋的=キリス ト教的発想」・「優生思想」というイデオロギー攻撃からばかりによってではなく、ある種受け 付けない流れもあって、明治以降権力的に排除・統制されたと読むのが宜しい。 読みで語らないでください。だから、じゃ、なんで井原西鶴は受けたのか?ですよ。 (3-18)権力思想になれないドマイナーという我々の共通性(^o^) >> ここで注意しておきたいのは、優生思想が、まさにれんだいこさんが言われるようなノリ で「自然の\摂理」という概念を利用してきた、という歴史でしょう。もちろんれんだいこ さんは、例外は例外であるけども、そのことは事実認識であって、それが良いとか悪いと かの判断にはなじまない。と書かれているわけで、単純に優生思想めいたことを言ってお られるのではない、ということはわかりますが 。 > > (答え)この差が、権力思想とれんだいこ思想との天文的な大違いと認めてほしい。 れんだいこさんの思想じゃ権力は取れない、という意味での大違いなら認めます。いや、これ、ネガティブじゃなく、まじめな話です。いずみはやっぱり、権力取ろうとする奴に面白い奴はいない、と思っているので、だからこうしてれんだいこさんとは議論をしようとするのですよ。いやホントに。(^o^) (3-l9)性転換手術が忌避されてきた本当の理由(笑) > (答え)他にも理由があって、大所高所から見て性転換手術を認めまいとしたんだと単純に受け 取っていますね、私は。 これはまぁ、当然実態を知らない人から見ればそう思えるのでしょうが。 形成外科というのは、理屈なんかどうでもいい、経験積んでノウハウためてナンボ、の世界なのですが、ずっと手術が非合法だった日本で、最もノウハウあるのって、特に伏せ字で書くと、E田橋にあるK察病院なのですよ(^o^)とーぜんながら、コネがないとここではオペ受けられないですが。。。 だから、倫理的な何かが作用していると見るのは明らかにおかしいです。 こんなことは歴史を調べればすぐにわかることですが、手術が合法にならなかったのは、68年に実際にやっちゃった医者に「違法」つー判決が確定してしまって(これがもうヒドい別件逮捕だった)、で、大したクランケの絶対数もないのに、そんな手術で後ろ指さされてもしょーもない、つーことで、やりたがる医者がいなかっただけです。実に単純なこと。 じゃ、なんでそれが急に、と言えばこれも単純で、埼玉医大つーのは、日本で最も入学しやすい医大で、最近の不況&医者だぶつきで学生数が激減、で、いっちょ打ち スマートな支配形態ができてる現代、結局こーゆーことの判断は、どちらでも、資本主義が根本にあるのだ、という事実は忘れちゃいかんです。「おまんま」の問題を主眼に挙げるのならばなおさらに。 このあたりは展開すればキリがないのですが、とりあえず今日はこのあたりまでで。 (3-20)わーい!完全な破綻!(^o^) > (答え)そういう苦しみの人も確率数パーセントはいると思うけど、われわれの圧倒的な悩みは 、まずはおまんま系であって、同時にか次にかは分からないが、オス-メス間の「性の不一致」 であって、凡そホモ・サピエンスだけが終生同じ相手と関係しつづけるという、それこそ自然界 の摂理とはかなり違うことをしている無理が重なって「悩み」となっているのが実際でしょう。 「自然の摂理に合致した性交渉を行い、子供もいて、で苦しむ、というパターン」は、そんなに は多くない。それは他の悩みを無理やりそこに結び付けている場合もあるのだろうし、純然たる その種の悩みはそれとして研究対応されていけばよいと思う。何度も云いますが、私は認めるし 、差別しようという気もないが、その種の悩みを「百人に一人」まで広げる気はない。 ついに白状しましたね、人間が「自然の摂理」と程遠い生活を送っていることを。(^o^) じゃ、人間が「自然の摂理」に合うような性生活を送るためには、家族とかそーゆーものは、どうあればよいのでしょうか? まぁしかし、よくもしゃーしゃーと「無理矢理そこに結びつけてる」とか無神経に言いますよね…本人にとっては深刻なのに。それって、よーするに、本人が真剣に課題に取り組んでいるところで「あぁ、キミの能力はそもそも普通の人と違うんだから、何やってもムダだよ。へへ」と言ってるのに等しいです。 「悪意なき悪意」が、最も人を傷つける。 (3-21)性交と子孫生成 > (答え)「オカマ」行為をオス-メス間で為すことは一般的でしょう。但し、本技抜きにそこに フェチするのを世間では変態と云いますね。同性間でするのは勝手にどうぞの世界でして、それ を堂々と胸張って云うことはないと私は考える。 なぜ、誰にも迷惑をかけていない、本人たちが楽しい、そういうことに優劣がつくのでしょうか?「胸張って言うことはない」とか。そりゃ、いずみだって自分からは言いませんよ。議論のために、と思って、身を削って言ってるわけで。 >> 「通常の性交渉」とAFとの間には、「物理的刺激からの快楽」というメカニズムからす れば、なん\ら変わるところはありません。以下、読んでいてもこちらがおかしくなるので 略。 > > (答え)性技のスパイスとしては良いでしょう。しかし、それ以上を好む人が理屈をつけて正当 なんだという必要はないと私は考える。 れんだいこさんのお考えはわかりましたが、それを人に押しつけられますか? 押しつけられないのだとしたら、それはれんだいこさんのポリシーに過ぎず、肩肘張って公共の場で主張することじゃないはずです。もし押しつけるのでしたら、いずみは断乎拒否しますよ。 > (答え)「程度問題」に過ぎないかどうかは別にして、ここでいずみさんに質問したい。いずみ さんの考えによれば、母子・父子・兄弟・親族相姦、人と他の動物との性交渉はどのように考え られますか。この歴史を語れば、これも面々と続いており、いずみさん流に書けばかなり「一般 化」することができます。ぜひご見解をお聞かせください。 当然ながら全部アリでしょう。どこがいけないのでしょうか?ぜーんぜんわかりません。 もちろん、あまりに遺伝子が近い同志で子供をつくるとどーのこーの、というのは、まさに「自然の摂理として」まずい場合もあるでしょう。 でも、それは「自然科学」という「パンドラの匣」を開けちまった不幸な人類(泣)にとって「まずい」と認識できるだけで、他の哺乳類は平気でやってることです。 また、全く正反対の見方からは、そもそも性行為、性感を得るという作業と、子孫を残すという営為が関連する必要がどこにあるのだろうか?というのもありますね。れんだいこさん的には、当然そういう方向性には顔をおしかめになられると思いますが。。。 (3-22)「摂理が違う」の観念性ふたたび > (答え)オス-メス間で為すのと同性間で為すのと、オス-メス間でスパイスとして為すのとフェ チで為すのとでは、行為は同じでも「摂理が違う」というのが私の考えです。スパイスなら、体 力に応じてやって見られたらいいが、意欲とひまがないとできないと思うなぁ。 なぜ摂理が違うのか…うーむ、まじでわかりません… 人間にとっても、他の哺乳類で考えたとしても、です。 (3-23)関心が薄いから無理解、という至極当然の結論 >> (15)なぜ、性を語ると言いながら、制度面(法律的上部構造)についての考察が一切ないのか? > > (答え)あんまり関心がないので考察といえるほどのことをしたことがない。しかし、わが 身 の経験から人並みのことは云える。そういう必要を感じたら取り組みたいとは思うが、 私もも う50才自己利害の少ないところにはどうしても気が向かないなぁ。 関心がない、すなわち、それを知らなくても生きていける、ということは、すばらしいことです。今の若者と同じ。(^o^) で、そうやって、マイノリティを、善意で傷つけたりなんかしちゃって。(^o^) (3-24)そうです、例外対処です。 > (答え)うーーん、そういうところで怒る方もおられるということが勉強になった。又数は少な> いと思うけど、出生時に性別不分明な例もあるということも分かった。幼い本人にナイショで性 腺除去とか性器形成などの手術が勝手に行われてしまうこともあって、出生時に性別を確定させ る、というシステムが、これらの人の人権をどれだけ蹂躙してきたのか、寒気がします、という いずみさんの気持ちもわかった。が、いずれも難しい問題だなぁ。私に言わせれば、例外的事例 の対応問題だな。むしろ、いずみさんが、どうすればよいとかの対案出してくれて、それに我々 が返答していったほうが生産的だ。 そのとおりです。マイノリティは数が極少だからマイノリティなのであって(^^;;)。 じゃ、案を出します。 戸籍廃止。以上。あー簡単だ(^o^) (3-25)議論をすりあわせるということ > (答え)どうしても私をそこの世界に入れたいみたいだな。私はですね、私こそはですね、「自 然の摂理」をあるがままに応じて何とか合理的に捉えようとしているのであって、観念的・非科 学的などという常套手法で批判されてもなぁ。 「あるがまま」=主観、形而上、観念、恣意もちろん感じる、思うことは自由ですが、公共の場で発言するということは、それなりの責任が生じるというのが当然でしょう。 #もちろん、それを強く自覚されているから、れんだいこさんはこうしてレスをくだ#さっているのだと感謝しています(^o^)。 で、人間誰しも、主観からしか始められないわけですから、それはいいんです。そこから先、それをどう、より多くの人の共感を得られるように鍛えていくべきなのか、と。 そのためには、我々の税金で惰眠をむさぼってる(笑)学者の研究成果を参考にするのが当然の合理主義でしょう(笑)。 (3-26)悩みにぜいたくもなにもない。それは旧陸軍バリの日本的精神論の世界。 > (答え)ここも繰り返しになりますが、この世の中はおまんま系の悩みが深いです。これをクリ ヤーし得ている人は、私に言わせればぜいたくな悩みを悩もうとしているようなもんです。 ぜいたくな悩み、なるほど、感情としてはよくわかります。いずみが学生時代に運動やってた原動力の何割かも、その自家撞着でした。 でも、本人にとっての悩みには、そんなぜいたくもなにもないでしょう。それだと、金持ちには悩む資格がない、という極論に到る可能性すらあります。 >でも 、当人は大まじめで、脳がそのように作動するのなら致し方ない。他の人にどう映るのかではな く、自分にとってどうなのかで、限られた人生を悔いのないようにパフォーマンスしていけば、 これ最高と違いますか。 仰せのとおりです!(^o^) で、れんだいこさんの「無神経な」レトリックは、いずみのような、「パフォーマンス屋」にはよかったのですが(爆)、逆の人、特に、思春期にいじめにあって疎外され、その後就職もできず、なんていう仲間たち(^^;;)にとっては刃物もいいとこだ、ということも言えるでしょう。。。 人間、弱いものです。ちょっとしたきっかけで、神経症になってドツボ。 そーゆー人、新左翼でもコンピュータ業界でも芸能界でもゲーム業界でも、腐るほど見てきました。(かつていずみもそう) 精神論ですべてうまくいくなら、世の中苦労しません。 それを押しつけてきたのが、日本の新旧問わず左翼だったんじゃないか、と、自省を込めて考えてます。 だからといって、その弱さに拝跪するよーだと、逆に腐敗した利用主義をも生み出す、というのが、「70年代以降の日本新左翼の歴史」が証明した1つの面でもありましょう。 |
(私論.私見)