ヒゲ虎時事評論11 |
リプライその2 投稿者:いずみ <HOME> ( 11/18 23:08:42 ) |
(5)進化とは、種総体としての環境適応性の過程に過ぎず、その「例外」は次世代への進化の原動力である。 さて、(4)での考察は、れんだいこさんの >例外があるという風に認識するのが正確かと思われる。 という主張とはもちろん矛盾しません。 ただし、れんだいこさんの「進化」というものの理解は、「最新の生物学」が得てきた果実とは、かなり異なるようです。 「最新の生物学」的に言うのであれば、♂は♀の突然変異として誕生し、たまたまそれが種の維持に相対的には具合がよかったので残った、ということになります。それ以上でもそれ以下でもありません。今後、もしかするとこれよりもさらに都合のよいパターンが登場しそちらが残る可能性だってあり得ますし、性別に(4)のような「あいまいさ」が残っていることこそが、それこそ、進化の可能性が「自然の摂理として」準備されているのかも知れません。(ただしそういうのが起こるのは10万年以上のスパン。逆にそのスパンでは、必ずどこかしらに何かは起こる、というのが「最新の分子生物学」の果実。) 「例外」が存在すること、そしてその誕生の必然性、これらはまさに「自然の摂理」として存在することであって、これがなければ生物は種を維持できません。 ところが、れんだいこさんはその「例外」について >自然の摂理は先天的ないし後天的資質あるいは欠陥、機能不全をも生み出してもいる などと主張しています。れんだいこさんが盛んに使われている「自然の摂理」という言葉ですが、文章の中では比較的一貫して「種の保存」という観点から使われていると読めます。しかし、その観点からは、少なくとも「先天的」、つまり遺伝子的な「異常」は、「例外」である、というだけであり、欠陥とか、機能不全とかいう概念にはつながらないはずです。 (7)「優秀な精子の選別」などということは行われていない >子宮まで引き込むことが本能とも云うべき必然性で摂理されているようである。興味深いことは、「優秀な精子の選別」における「優秀さ」の認定は、我々の薄っぺらな思慮をはるかに超えているようである。 「優秀な精子の選別」ということが行われている、というのは初耳です。ぜひ、その説を示すリソースをご教示ください。いずみは、受精が起こるのは純粋に確率の問題が大きいように認識していました。ただ、複数の♂個体の精液の間には、相手より自分の方を遊離にしようとする作用があるようですが。 (8)♂と♀の役割が同じ機能面として語られていないのはなぜか >雄は「勃起力」を利用して勢いをつけて射精することが本能とも云うべき必然性で摂理されている。雌は、このうちの恐らく生物学的に見て継承されるに値する優秀な精子を選別し、子宮まで引き込むことが本能とも云うべき必然性で摂理されているようである。 この部分では、「種の保存」について、♂については能動的な機能として「役割」が語られていますが、♀については能動性がまったくなく、単なる確率の問題として語られています。 (9)「試験管ベビー」は「自然の摂理」に反していない 「試験管ベビー」とはまた古い言葉を持ち出されていますが(今はもっと一般的に「体外受精」って言いますよねぇ(^o^))、「自然の摂理」に反していないからこそ、ちゃんと子供が誕生するのだと思いますが… そのような受精形態は自然界に存在しない、ということをもって「自然の摂理に反する」というのであれば、農業も工業もすべて自然の摂理に反しているし(特に最近の農業・畜産などでは、単位生殖や遺伝子操作など既にあたりまえのように行われていますが、そうでなく、そもそも種を蒔いて収穫する、という作業自体が、確実に「あるがままの自然」を壊します)、そういう生産によって得られた果実である現代医学を人間に作用させること自体が自然の摂理に反しているということになってしまいます。 なお、これはいずみの杞憂だとよいのですが、れんだいこさんは、体外受精一般と、代理母や生殖細胞提供などの問題を混同されていませんか? (10)クローニング問題は倫理問題でしかない クローニングも、もちろんそれでとりあえずドリー君が産まれたので(笑)、やはり「自然の摂理」には反してはいません。単なる倫理の問題でしょう。 >現在「倫理」問題として争われている。 そうではなく、倫理問題以外では争いようがないからです。 倫理問題をどう捉えるべきか、それはまた別の機会にでも。 (11)「オカマ」とは、「性的」にマジョリティーでないすべての生物学的男性をひとくくりにした、およそ「非科学的」な語であり、また対象者を不愉快にする要素を多く孕んだ語である ということでやっと本題ですね(笑)。 >まず、オカマ行為の是非論について考察する。オカマ行為とは、男一の道具を、女性一の道具の替わりに菊門を利用する行為を言うのだろう。これを特別にオカマというからには、専らこちらのほうを利用する性癖のことを云うのであろう。 これほどまでに、性をめぐる様々な問題について、そのほとんどすべてに渡ってメチャクチャな意見を見たのは、まじめな話、生まれてはじめてです。 ここでは、通常「AF」と呼ばれているところの性行為のことがまず「オカマ行為」と定義され、「それを性癖とする人」が「オカマ」であるとされています。 歴史的経緯から見れば、これはまったくもって転倒した理解です。「オカマ」と言われる人も(「も」です!「は」ではありません!)行う、ある種の性行為が「オカマ行為」のように錯誤された、というのが順序というものです。 そもそも上記の理解では、現在、新宿や渋谷や池袋や、その他腐るほど存在する「AFアリな風俗店」のお客さんが、みんな「オカマ」ということになってしまいます(笑)。いくらなんでも、そんなはずは絶対にあり得ないですよね。 この歴史については(12)で、行為については(14)で詳しく延べます。 ということで、まず、現代における、一般的な「オカマ」の使われ方に基づいた分析を説明しておきましょう。 まず、おそらくは「オカマ」とカテゴライズされるであろう、有名人を何人か挙げてみます。あといずみもね(笑)。本当は「春菜愛」とか行きたいのですが(^o^)、れんだいこさんの世代にもわかるような例です。 (a)おすぎとピーコ(映画&服飾評論家) (b)東郷健(雑民党) (c)ピーター(俳優) (d)いずみ(笑) これらの人を、その様態(というのも変ですが)から分類してみると、 男性の服装をする…(a)/化粧をしたり女性の服装をする…(b)(c)(d) 恋愛対象が男性…(a)(d)/男女両方…(b)(c) 自分は男である…(a)(b)/女である…(c)(d) オネエ言葉を使う…(a)(b)/使わない…(c)(d) 「奥さん」・子供がいる…(b)/いない…(a)(c)(d) ということで、みなさんの傾向はバラバラであることが現象的に把握できます。そして、これらの傾向について、現在の社会学や精神医学は以下のような理解をしています。 <1>恋愛対象の性別(sexual orientation) …異性であれば heterosexual 同性であれば homosexual 両方であれば bisexual 恋愛感情が存在しないと asexual <2>性自認(gender identity) 自分が何性であるのか?という自覚と確信。 性同一性障害(gender identity disorder)は、この自覚が一貫して、 かつ持続的に自らの生物学的性別(sex)と不一致を起こしている状態。 <3>性役割(gender role) 自分が何性か、ということを他人・社会に対して示すための言動、行動 などの営為。 これらは、互いに独立した概念です。ですから、とりあえず生物学的に男性であるとして、 (A)自分は男性だから男性として振るまうし、好きになるのは女性である。 (B)自分は男性だから男性として振るまうが、好きになるのは男性である。 (C)自分は男性だから男性として振るまうが、好きになるのは両性である。 (D)自分は女性なので女性として振るまうし、好きになるのは男性である。 (E)自分は女性なので女性として振るまうが、好きになるのは女性である。 (F)自分は女性なので女性として振るまうが、好きになるのは両性である。 (G)自分は女性だが、諸事情で男性として振るまっている。 等々の様々なパターンが現実に存在しています。上の例では、(a)は(B)、(b)はたぶん(C)、(c)は(F)、(d)は(D)ということになるわけです。(これに関連した統計データを(13)で紹介してあります) そして、性同一性障害((D)〜(G))の場合は、いわゆる「同性愛」「両性愛」とされる(A)〜(C)とは全く違った立場ということになるわけです。(男→女の)性同一性障害とは「自分が女である」という確信が根本にあり、それと体が不一致である、という、個人の問題でまず何よりも苦しむわけです。 それに対し同性愛は、そういう面での問題はなく、自分の存在が社会的に認められない、結婚が制度的に認められない、などの社会的問題、差別の問題が課題となるわけです。 なお、性役割という面で、「男である」と自認する人が「オネエ言葉」を使い、逆に「女である」と自認する人が使わないのは、文化的歴史的事情によります。当然ながら普通の女性はああいう言葉遣いはしません(笑)。ですから、「自分は女である」という人は、そういう言葉遣いをしないわけです。 それに対して、日本のゲイ文化では、「ゲイはオネエ言葉をしゃべる」という伝統があった(これの理由は諸説あるようですが)から、それをアピールするとか、自己を確認するというする意味でそういう語を使うわけです。(なお、職業としてのニューハーフについて非常に事情が複雑で、今別の掲示板などでもまとめつつあるところなので、ここでは割愛します) さらに言えば、「オカマ」という語は、明治以降に政治的意図をもって差別的な意味を付与されましたが(詳細は(12))、その当時の語感は現代においてはほぼ消滅しています。しかし、そこで形成されたネガティヴなイメージは、現代に至るも残っていますし、何よりも次のポイントを押さえる必要があります。それは、「オカマ」が、「生物学的男性」の中にある多様な「性」の形態のうちの、マジョリティ以外をすべてひっくるめた語である、ということは、すなわちこの語には「こいつは男である」という大前提が込められている、ということです。 「オカマ」と言われることに、言われた方が反発する理由は、当然その人の「性」に関する事情で異なってきます。ゲイの立場からすれば、自分は普通の男性で、たまたま好きになったのが同性だったというだけ、それ以外は普通なのに、「おまえはオカマだ!」と言われることは、「おまえは普通のオトコじゃない!」と言われていることになります。 対するに、性同一性障害者からすれば、「自分は女である」という自認が、その一言ですべて否定されてしまうわけです。「おまえはオカマだ!」と言われることは、「おまえはオトコだ!」と言われていることに等しいのです。 |
Re:リプライその2について 投稿者:れんだいこ ( 11/20 19:15:36 ) |
>
(5)進化とは、種総体としての環境適応性の過程に過ぎず、その「例外」は次世代への進化の原動力である。 > さて、(4)での考察は、れんだいこさんの例外があるという風に認識するのが正確かと思われる、という主張とはもちろん矛盾しません。ただし、れんだいこさんの「進化」というものの理解は、「最新の生物学」が得てきた果実とは、かなり異なるようです。「最新の生物学」的に言うのであれば、♂は♀の突然変異として誕生し、たまたまそれが種の維持に相対的には具合がよかったので残った、ということになります。それ以上でもそれ以下でもありません。今後、もしかするとこれよりもさらに都合のよいパターンが登場しそちらが残る可能性だってあり得ますし、性別に(4)のような「あいまいさ」が残っていることこそが、それこそ、進化の可能性が「自然の摂理として」準備されているのかも知れ ません。(ただしそういうのが起こるのは10万年以上のスパン。逆にそのスパンでは、必ずどこかしらに何かは起こる、というのが「最新の分子生物学」の果実。) (答え)ここは私といずみさんの間にはさほど違いがないみたいですね。 > 「例外」が存在すること、そしてその誕生の必然性、これらはまさに「自然の摂理」として存在することであって、これがなければ生物は種を維持できません。ところが、れんだいこさんはその「例外」について自然の摂理は先天的ないし後天的資質あるいは欠陥、機能不全をも生み出してもいる。などと主張しています。れんだいこさんが盛んに使われている「自然の摂理」という言葉ですが、文章の中では比較的一貫して「種の保存」とい う観点から使われていると読めます。しかし、その観点からは、少なくとも「先天的」、つまり遺伝子的な「異常」は、「例外」である、というだけであり、欠陥とか、機能不全とかいう概念にはつながらないはずです。 (答え)「自然の摂理」には、メジャーとしての機能正常と例外的な非正常がどちらとも混在しているという認識に立っており、先天的なものも後天的に現れるものもあると考えています。但し、一人の個体として見た場合、片やオール正常こなた非正常という風にはなっていない。みんなあざなえる縄の如く入り組んでおり、たまたま目に付きやすいところ、痛みを伴うところでの非正常者として在る者は不幸だと思う。しかし、時にはそういう者はそれをカバーしようとして他の能力を格段に発達させる者も居り、そういう意味からも差別は良くないというスタンスですね、私は。それとあらゆる難関を通り抜けてこの世に生命を受けた者は生きる権利があるし、その生命を充足させるべき請求権があると考えています。 > (7)「優秀な精子の選別」などということは行われていない。 > 子宮まで引き込むことが本能とも云うべき必然性で摂理されているようである。興味深いことは、「優秀な精子の選別」における「優秀さ」の認定は、我々の薄っぺらな思慮をはるかに超えているようである。 > 「優秀な精子の選別」ということが行われている、というのは初耳です。ぜひ、その説を示すリソースをご教示ください。いずみは、受精が起こるのは純粋に確率の問題が大きいように認識していました。ただ、複数の♂個体の精液の間には、相手より自分の方を遊離にしようとする作用があるようですが。 (答え)これは、例えばNHKスペシャルの「生命の不思議」(正確な題名は覚えていません、確かビデオにもなって市販されているように思います)でも取り上げていたと思う。多少私が意訳している気もするが。 > (8)♂と♀の役割が同じ機能面として語られていないのはなぜか。 > 雄は「勃起力」を利用して勢いをつけて射精することが本能とも云うべき必然性で摂理されている。雌は、このうちの恐らく生物学的に見て継承されるに値する優秀な精子を選別し、子宮まで引き込むことが本能とも云うべき必然性で摂理されているようである。 > この部分では、「種の保存」について、♂については能動的な機能として「役割」が語られていますが、♀については能動性がまったくなく、単なる確率の問題として語られています。 (答え)いずみさんほどの者がそう誤意訳すべきではない。「子宮まで引き込むことが本能とも云うべき必然性」という文章には、メスの能動性も表現していますね。性交合から受精の過程はまさにオス・メス共同・助け合い、対等・働き分担の世界ですよ、と理解しようとしています。 > (9)「試験管ベビー」は「自然の摂理」に反していない。 > 「試験管ベビー」とはまた古い言葉を持ち出されていますが(今はもっと一般的に「体外受精」って言いますよねぇ(^o^))、「自然の摂理」に反していないからこそ、ちゃん と子供が誕生するのだと思いますが…。 そのような受精形態は自然界に存在しない、と いうことをもって「自然の摂理に反する」というのであれば、農業も工業もすべて自然の 摂理に反しているし(特に最近の農業・畜産などでは、単位生殖や遺伝子操作など既にあ たりまえのように行われていますが、そうでなく、そもそも種を蒔いて収穫する、という 作業自体が、確実に「あるがままの自然」を壊します)、そういう生産によって得られた 果実である現代医学を人間に作用させること自体が自然の摂理に反しているということに なってしまいます。 (答え)ここは暴論ですよ。だから逐条解説したくないんだな。農業も工業も確かに加工しますが、むしろ自然の摂理をうまく引き出している方向で加工しているように思います。但し、化学-科学の凄まじい発展は、こうした自然の摂理以上のことをしつつある、これをどう了解していくのかが今現在問われつつあるのであって、慎重に利用操作せねばならない段階にあるというのが正式の見方でしょう。いずみさんの捉え方は、どこか変調だなと思う。 > なお、これはいずみの杞憂だとよいのですが、れんだいこさんは、体外受精一般と、代理母や生殖細胞提供などの問題を混同されていませんか? (答え)うーーん、そう云われると困る。体外受精の範囲について定かには知らない。代理母は見当がつく。生殖細胞提供の提供と云われるとさて何だっけということになる。クローンのこととはまた違うのかいなぁ。 > (11)「オカマ」とは、「性的」にマジョリティーでないすべての生物学的男性 をひとくくりにした、およそ「非科学的」な語であり、また対象者を不愉快にする要素を多く孕んだ語である。ということでやっと本題ですね(笑)。これほどまでに、性をめぐる様々な問題について、そのほとんどすべてに渡ってメチャクチャな意見を見たのは、まじめな話、生まれてはじめてです。 (答え)あらまっ > ここでは、通常「AF」と呼ばれているところの性行為のことがまず「オカマ行為」と 定義され、「それを性癖とする人」が「オカマ」であるとされています。歴史的経緯から 見れば、これはまったくもって転倒した理解です。「オカマ」と言われる人も(「も」で す!「は」ではありません!)行う、ある種の性行為が「オカマ行為」のように錯誤され た、というのが順序というものです。そもそも上記の理解では、現在、新宿や渋谷や池袋 や、その他腐るほど存在する「AFアリな風俗店」のお客さんが、みんな「オカマ」とい うことになってしまいます(笑)。いくらなんでも、そんなはずは絶対にあり得ないですよ ね。この歴史については(12)で、行為については(14)で詳しく延べます。ということで、 まず、現代における、一般的な「オカマ」の使われ方に基づいた分析を説明しておきまし ょう。以下長いので略。 (答え)ここで分かったことは、「オカマ」という表現に対して、いずみさんは、もっぱら属人的にイメージしており、私は菊門折衝行為の方をイメージしているという違いですね。で、以下いずみさんの名解説によりなるほどなるほどと勉強になりました。ここは私のサイトにとっておきたい部分ですね。 で、私の受け取りようがおかしいのかというと、普通はですね、われわれの世代は、「オカマ」とは行為のほうで捉えているように思うんだがなぁ。で、私が共産党批判に使ったのもこのセンテンスでだったと思うわけです。しかし、属人的に理解されているのなら、これほど広い仮面男・仮面女の世界に対して、不用意には使ってはいけないということにはなるわなぁ。触らぬ神にたたりなしかなぁ。よぉと分かりました。 |
Re:リプライその2について 投稿者:いずみ <HOME> ( 11/21 02:15:06 ) |
(3-10)「正常」と「非正常」の差異に価値を見いだすのは自然科学の立場ではない ここも論旨が混乱しているパラグラフです… > 「自然の摂理」には、メジャーとしての機能正常と例外的な非正常がどちらとも混在しているという認識に立っており メジャーと正常・非正常には関係がありませんよね。高校の教科書に出ているレベルでも、例えば、メンデルの法則(笑)の「優性」「劣性」と、形質上の有利・不利が一致していないケースはザラにあります。「優性」というのは、それこそ、れんだいこさんが言う意味においてすら「遺伝子として相対的に強い」モノだからこそ、それが形質としてマジョリティになるわけです。ただそれだけです。正常もなにもありません。 で、たぶん、このあたりの齟齬はいろいろあるのでしょうが、根本の部分で1つあるのは、「自然の摂理」というものを、自然科学の領域で捉えるいずみと、もっとアバウトな感覚でとらえるれんだいこさんとの差異でしょう。いずみにとって、「自然の摂理」とは、森羅万象、古今東西、全宇宙においてビックバン以来常に普遍なモノです。じゃなきゃ「自然」じゃないわい。それに対し、人間の社会性は、そういう枠でくくれない。だからこそ、いろんな思想家がここを埋めよう、あるいは別個に何か建設しよう、と苦闘してきたはずなのだ、といずみは理解しています。 ところが、そういう、自然科学がカバー仕切れない部分(そしてこれが本当の意味で永久にカバー仕切れないのじゃないか?、という疑義が、ここ100年の自然科学の最大の果実の1つかも知れません)までも、れんだいこさんはすべて「自然の摂理」で説明しようとする。 自然の摂理を追求すればするほど、確率が支配する世界の方が目につき、だからこそその矛盾をどう捉えるかで腐心してきた先達を思うと、やっぱりれんだいこさんはちょっと傲慢にみえてしまうですよ。うーむ。 (3-11)「優秀な精子の選別」はこちらでも調べてみます。 いずみが記憶しているのは、前にも書いたとおり、1匹の♀に対する複数の♂の間の競争で、互いの精子を不利にする働きが自前の精液にある、みたいなことです。 (3-12)物理的作用と精神的作用とをシームレスに語らないでください > (答え)いずみさんほどの者がそう誤意訳すべきではない。「子宮まで引き込むことが本能と も云うべき必然性」という文章には、メスの能動性も表現していますね。性交合から受精の過程 はまさにオス・メス共同・助け合い、対等・働き分担の世界ですよ、と理解しようとしています > 。 それは精神的なレベルの話じゃないですか。>「対等・働き分担」そもそも「自然の摂理」によって考えれば(笑)、性交渉における男性と女性の快楽の得方は、時間軸においても度合いにおいてもズレがありますよね。そこを精神面でカバーする、というのが「助け合い」なのだと思いますが、だがしかし、そのようなことを少しでも考えるのは、「人間だけです」(たぶん) 性に神秘主義を持ち込んじゃいかんです。助け合いというのは、高度に人間的な作業。 ♂が勢いよく精液を出すのは、物理的に必要なことでしょう。人間以外の場合は。(笑)(人間には体外受精がありますから、そんな必要もないのです。近代科学万歳!(笑)) そして、そこでは対等な関係もへったくれもあったもんじゃないです。そもそも、動物においては、♂が偉い種もいれば♀が偉い種もいる。そんなのいろいろです。 あと、「自然の摂理」を云々するのであれば、まさに「瞬発的筋力が大きい」♂が、♀を「レイプする」という行為は「自然の摂理」的には「自然」にならないのですか? 哺乳類では普通に見られますよね? レイプ、動物学的にはただの"mounting"。(^^;;) で、これだけだといちゃもんつけみたいなので、根本に指摘しときます。つまり、いずみは、そもそも男女の性交が対等だとか、おたがいの役割に何か理由があるとか、そういうの自体がナンセンスだと思うのですね。人権が人間にしか認識できないのと同様に、そもそもsexなんか「動物的な役割から分析したところで」対等になんか見えっこないのです。 (3-13)結局、れんだいこさんの言う「自然の摂理」は形而上でしかない > (答え)ここは暴論ですよ。だから逐条解説したくないんだな。農業も工業も確かに加工しますが、むしろ自然の摂理をうまく引き出している方向で加工しているように思います。但し、化 学-科学の凄まじい発展は、こうした自然の摂理以上のことをしつつある、これをどう了解して いくのかが今現在問われつつあるのであって、慎重に利用操作せねばならない段階にあるという のが正式の見方でしょう。いずみさんの捉え方は、どこか変調だなと思う。 それは形而上です。何も語っていません。「自然の摂理」が、れんだいこさんの主観を越えた普遍性を持っていることが全く示されていません。「自分にとってはそれが自然だ。だからそうなんだ」はまさに形而上。 (3-14)遺伝子交換という現象の重みへの無理解 >> なお、これはいずみの杞憂だとよいのですが、れんだいこさんは、体外受精一般と、代理母や生殖細胞提供などの問題を混同されていませんか? > > (答え)うーーん、そう云われると困る。体外受精の範囲について定かには知らない。代理母は 見当がつく。生殖細胞提供の提供と云われるとさて何だっけということになる。クローンのこと とはまた違うのかいなぁ。 ……… あのですね、クローニングがなぜ特別に問題視されるかと言えば、それが、自然界では、それこそ「いずみが次の瞬間にれんだいこさんの隣にテレポテーションする」というのと似た確率でしか起こり得ないことだからですよ… クローニングて、単為生殖っすよ!単為!! 単為生殖が、遺伝子の「劣化」防止のために不利なことは科学的に示されています。そして、だからこそ単為生殖は少数派になっています。(でも、蜂とか蟻とか、極度の階級社会(笑)になってる奴はコレが多いのよね(笑)) 「不妊」なんか、いくらでも自然界で起こり得ることです。だから、同性愛だろうが性器切り落とそうが、そんなことは自然界で想定される範囲内の「確率」です。「例外」なんだから今のところは(笑)。 でも、哺乳類で単為生殖ってのは、ちょっとビビりますよさすがに^^;; 代理母は、単に子供と母親の遺伝子に連関がない、ってだけの、生物学的にはまったくどーってことない問題でしょう。(でも倫理上は大問題だから問題視されるだけ) (3-15)まさに「差別的歴史」の傍証がここに!! > (答え)ここで分かったことは、「オカマ」という表現に対して、いずみさんは、もっぱら属人 的にイメージしており、私は菊門折衝行為の方をイメージしているという違いですね。で、以下 いずみさんの名解説によりなるほどなるほどと勉強になりました。ここは私のサイトにとってお きたい部分ですね。 なぜそういう理解にれんだいこさんが到っていたのか?ということが最大の焦点でしょう。 江戸時代だと、膣性交と肛門性交は、「天悦」と「大悦」という、まぁ似たような語で現される二項概念に過ぎなかったわけです。(ちなみにそれぞれの論理を「近代」にあてはめれば、明らかに後者は差別的なのですが(^^;;)、しかし当時はそんなことはないです) しかも、語源的には「陰間茶屋」という商業形態(^^;;)が元。陰間がいる茶屋だからそういうワケであって、行為のことを指してたのではありません。そして、「おかま」つーのは、れんだいこさんより少し上の、都市部の人間にとってはソッコーで「男娼」を意味するのです。だからこそ、いずみの母親は、この語を極端に嫌います。ニューハーフの方がまだまし、と言ってます(笑)。 れんだいこさんが、どこでその語に対するそのようなイメージを膨らませていかれたのかはわかりませんが、少なくとも、およそ性について、ある程度の歴史または事実を踏まえるならば、そのような発想は出てきません。 …などと考えるとまた「考えすぎ」と言われそうなので、やめときましょう。 ズバリ言いましょう。 れんだいこさんは「性」についてあまりに保守的に育ってきた。 だから拒絶反応がある。 実はそれだけだったりして。(爆) |
Re:リプライその2について 投稿者:noiz ( 11/23 03:40:33 ) |
質問しっぱなしでばっくれててすいません.しかも,以下,部分的な反応です. >> ここでは、通常「AF」と呼ばれているところの性行為のことがまず「オカマ行為」と 定義され、「それを性癖とする人」が「オカマ」であるとされています。歴史的経緯から 見れば、これはまったくもって転倒した理解です。「オカマ」と言われる人も(「も」で す!「は」ではありません!)行う、ある種の性行為が「オカマ行為」のように錯誤され た、というのが順序というものです。そもそも上記の理解では、現在、新宿や渋谷や池袋 や、その他腐るほど存在する「AFアリな風俗店」のお客さんが、みんな「オカマ」とい うことになってしまいます(笑)。いくらなんでも、そんなはずは絶対にあり得ないですよ ね。この歴史については(12)で、行為については(14)で詳しく延べます。ということで、 まず、現代における、一般的な「オカマ」の使われ方に基づいた分析を説明しておきまし ょう。以下長いので略。 > > (答え)ここで分かったことは、「オカマ」という表現に対して、いずみさんは、もっぱら属人> 的にイメージしており、私は菊門折衝行為の方をイメージしているという違いですね。で、以下 いずみさんの名解説によりなるほどなるほどと勉強になりました。ここは私のサイトにとってお きたい部分ですね。 > > で、私の受け取りようがおかしいのかというと、普通はですね、われわれの世代は、「オカマ 」とは行為のほうで捉えているように思うんだがなぁ。で、私が共産党批判に使ったのもこのセ ンテンスでだったと思うわけです。しかし、属人的に理解されているのなら、これほど広い仮面 男・仮面女の世界に対して、不用意には使ってはいけないということにはなるわなぁ。触らぬ神 にたたりなしかなぁ。よぉと分かりました。 参考までに.ぼく20代後半♂ですが,一義的に「オカマ」=「菊門折衝行為」とはイメージしません.ぼく自身はむしろいずみさんのおっしゃることの方がすぐに合点がいきます.ぼくが属する世代がどうかということは分かりません.もちろん統計的な傍証資料を持ち合わせていないので,世代論を軽はずみにぶつつもりもまったくありません. れんだいこさんの「普通はですね」「われわれの世代は」という言葉がどこからやって来るのかまったく分かりません.傍証なしのそれらの言葉に何か意味があるとお思いでせうか. # ちなみにいずみさんが紹介された「かげま (=男娼)」という言葉ですが, 卑近なところでは,ご指摘そのままの用例で,カムイ伝第二部で出てきます. で,ぼくは,れんだいこさんのイメージするところが読めずにああいう質問をしたのです.しかし,今までの議論 (になっているのかはともかくとして) で,ぼくが質問したことに関して,れんだいこさんの言わんとするところは分かりました.でもそのことに関してはまったく関心がありません.ごめんなさい.ぼくは日本共産党のことはどうでもよいのです.具体的な利害の衝突があれば別ですが. カバラ公爵さんがご指摘されたように,ぼくは,言葉の使い方にかみついただけで,スレッドの本論とは外れた話題の振り方をしました.しかし質問してよかったと思います.いずみさんが分かりやすく,「性」の認識についての交通整理をしてくださったからです.掲示板でこんなにジェンダーの問題に関しての主張が「分かりやすく」(ぼくの主観) 展開されたのに遭遇したのは初めてです.圧倒されてず〜っと黙ってましたけど :D 触らぬ神に祟りなしとは残念ですね.怒られるからしゃべらないんじゃぼくなんか何もしゃべれなくなりそうです.でも実際はしゃべりまくりですが ;-) |
リプライその3 投稿者:いずみ <HOME> ( 11/18 23:11:31 ) |
(12)男性同士の同性愛行為にネガティヴイメージが付与されたのは明治時代以降の優生政策による 戦国時代、男性の同性愛、というか、同性による性交渉は、「武将のたしなみ」でした。織田信長が美男子をたくさんはべらせていたことはあまりに有名です。これは、もともとは「戦場に女性を連れていかない」ということから始まったとも言われています。そういう意味では、同性愛とは言えない面もありますが。 これが同性愛という形で普及?していくのは江戸時代です。もともと僧侶のためにできた風俗が、首都で発達し成熟していく町人文化の中で受け容れられます。当時あったソレ系の風俗産業は、何といっても「オカマ」の語源となった陰間茶屋です。ここは女装した美男子を買う場でした。働いていたのは、お芝居で女形として身を立てられなかった人や、地方の貧農の子供たちです。(その面では、当然ながら当時の他の風俗産業と事情は同じ)。15歳ころは重宝されるのですが20歳を過ぎると捨てられるという、まさに悲惨な人生だった模様です。 また、そのような売買春とは別に、「信頼のちぎり」として男同士でまぐわうことも多々ありました。「男色」は「粋」とされていたのですね。 しかし、これらのことは、明治時代の「富国強兵」「西洋に追いつけ追い越せ」という政策の中、「同性愛は恥ずかしい」という西洋的=キリスト教的発想の元、また「産めよ増やせよ」に反する存在である、ということから、「人間として恥ずかしいことである」というイデオロギー攻撃を受けました。このことはもちろん、優生思想ともつながっています。「よりよい生を残さねばならない、悪い生は残してはいけない」という優生思想が、どれだけの人間を抑圧してきたのかは、ナチスがユダヤ人に行った行為1つ見てもよくわかります。 ここで注意しておきたいのは、優生思想が、まさにれんだいこさんが言われるようなノリで「自然の摂理」という概念を利用してきた、という歴史でしょう。 もちろんれんだいこさんは、 >例外は例外であるけども、そのことは事実認識であって、それが良いとか悪いとかの判断にはなじまない。 と書かれているわけで、単純に優生思想めいたことを言っておられるのではない、ということはわかりますが。 なお、我々が長い間、日本国内で合法的に性転換手術を受けられなかった理由も、まさに優生思想に起源を持つ「優生保護法」というおどろおどろしい名前の法律にあったのだ、という歴史は忘れられません。 (13)「オカマ」の恋愛対象が男性であるという認識は大きな誤りである (11)でも展開しましたが、「オカマ」のうちの一角を占める、MtFTG(Male toFemale Transgender)の恋愛対象は、男性というわけではありません。 埼玉医大が1998年までに行なった調査によれば、 性同一性障害者の恋愛対象の性別 男性 女性 両方 その他 生物学的男性 30% 18% 11% 31% 生物学的女性 1% 63% 8% 28% ということです。アメリカの調査では、「生物学的男性で女性だと自認する人のうち、過半数は恋愛対象が女性である」という結果も出ています。 こういう人は、もちろん、女性が好きなのですから女性と結婚し、れんだいこさんが言われる「自然の摂理に合致した性交渉」を行い、子供もいて、で苦しむ、というパターンであることが多々あります。 (14)性交渉に肛門を使うことと、「オカマ」との間には、密接な関係は存 在しない 性交渉に肛門を使うこと、これは、江戸時代なら「大悦」、現代の用語なら「AF」「アナルセックス」と呼ばれる性行為ですね。しかし、これが「オカマ」に顕著に見られる行為だとすれば、それは偏見である以上に、「現代の性風俗について全く理解・認識できていない」ということになります。 「通常の性交渉」で、女性側が感じるのは、膣の近くを通る神経が刺激されるからです。(本当はこれだけではもちろんないが、挿入という物理行為における直接の刺激はこれ) そしてこの神経は、肛門の近くも通っています。刺激される神経が同じである以上、「通常の性交渉」とAFとの間には、「物理的刺激からの快楽」というメカニズムからすれば、なんら変わるところはありません。 一方、確かに、粘膜などの問題は存在します(笑)。ただそれは、膣であろうがなんだろうが、同じ問題として存在していることの「程度問題」に過ぎません。膣は肛門よりは相対的には頑丈でしょうけど、しかし粘膜には変わりなく、雑菌問題は常に発生します。 そして、それらは、2人以上で為す性行為が、通常の人間関係と全く同じく、お互いの同意の下、お互いの尊重の下、お互いが心地よくなれるように行われるべきである、というアタリマエの原則に基づけば、双方がそれに同意すれば何の問題もないはずです。そして、それが守られるのであれば、お互いが与え合う物理的刺激、性感という面ですら「AFの方が通常のセックスよりもよい」という人がたくさんいます。男と女の「ノーマルなカップル」でも、です。 そしてそもそも、人間の性感というものは、観念に大きく支配されています。例えば、フェチシズムというものがありますよね。これは、「性器以外の部分にシンボリックな意味での性器性を感じる」というあたりが語源でしょうが、そういう傾向は誰でも持ち合わせています。例えば、れんだいこさんは、行為をする場所、お互いの服装などがどのように違っていても、快感は常に同じですか?性行為のお相手もそう思われてらっしゃいますか? そういう、物理的刺激以外の部分での心地よさというものも確実に存在する以上、お互いの「性的なイメージ」が高められれば、物理的な刺激の問題を大きく越える可能性すらあるわけですね。例えば、日本が世界に誇る(笑)「ZENTAI」というフェチ形態があります。 これは、性器はもちろん顔までもすべて覆ってしまう全身タイツを男女ともに着用し、それを鑑賞し合う、というものです。当然ながら、挿入どころか、性器をいじったりすらしないわけです。 日本製のタイツ生地が、これを非常に気持ちよくさせてくれる、ということで始まったフェチらしいのですが、またたく間に世界中にファンが急増し、生地メーカーは大もうけになったらしいです(笑)。で、みなさんそうやって喜んでらっしゃいます。 まぁこれは極端な例ですが、あくまでもそれは「極端」である、というだけで、ムードで気分が変わったりする、ごく普通の人間との違いは「程度問題」に過ぎないわけです。 また、逆のケースも紹介しておきましょう。他ならぬいずみ自身です。(爆) いずみいわゆる「オカマ」でしょうけど、AF、嫌いなのですね。 好きな相手が望めば、まぁやるのですが。(爆) さらに、(13)で触れたとおり、「オカマ」の一部である性同一性障害者の少なくない部分は、恋愛対象が女性なのですから、そもそもAFは普通の男女のカップルと同じ意味しか持ちません。 ということで、「オカマ」だからみんなAFをするというのは誤り、AFをするのは「オカマ」ばかりというのも誤り。(11)で挙げたような「AFアリ風俗店」の存在がある以上、少なくとも、今この日本で日々行われているAFの回数をカウントしたら、男女でやっている方が圧倒的に多いはずです。 (15)なぜ、性を語ると言いながら、制度面(法律的上部構造)についての考察 が一切ないのか? 今回の考察で、れんだいこさんが言う「性」というのは、生物学的な性別(のうちのごく一面)と、性行為における快楽の問題の2点でしかありません。また、最後の部分で >いわゆる「男らしさ女らしさ」問題の考察の必要もある と、genderの問題についても議論の必要性は認められています。 しかし、そのどちらでもない「制度的性別」については、れんだいこさんは全く触れていません。ふだん、政治についてあれだけ語っているれんだいこさんが、なぜここでそういう問題について一切考察がないのか?というのは、非常に不可解です。 ちなみに、日本においては、世界に誇る収奪・管理システムとしての「戸籍」というものが存在しています。ここでは、性別だけの記載はありませんが、「続柄」という形で実質上性別が示されているわけです。 ここで、もしあれば、母子手帳と、戸籍の出生届を見比べてください。母子手帳の性別欄には「不明」というのがあるはずです!しかし、戸籍ではそれは認められない。 実は、日本における出生時の性別判定は、外性器の形状で行われています。 しかし、我々の仲間が裁判で性別変更を申し立てたものについて、裁判所は、「性別は染色体で判断する」という判例を何度も出しています。 これは、明らかに、(4)で触れた、科学的な認識からも外れた、非常におかしな話だとしかいいようがありません。 そして、少数ながら確実に存在するインターセクシャルの場合、判断ができず医学的には「不明」としか言いようがないのに、出生届では、いずれかの判断を強制されます。そしてその歳、当然本人は赤ん坊ですから、親と医者の都合で性別がどちらかに決められてしまうのです!さらにその後、どうも違ったらしいとわかると、やはり幼い本人にはナイショで性腺除去とか性器形成などの手術が勝手に行われてしまうこともあるのです。 出生時に性別を確定させる、というシステムが、これらの人の人権をどれだけ蹂躙してきたのか、寒気がします。 一方、性同一性障害に対しては、司法は未だに戸籍の性別変更を認めていません。これにより、性同一性障害者は、就職すらまともにできない、という状況に置かれています。医学技術的には全く同じ手術が、一方では本人の意思を無視して行われ、一方では本人の意思を無視して行われない、という状況があるわけなのです。 このような、性別を固定的にしか捉えられない発想の下での政治システムが、いかに性的マイノリティを抑圧しているのか、という視点は、忘れずに持っていたいものです。そして、そういう制度を許している1つの原因は、れんだいこさんに典型的に見られるような、「自然の摂理」を観念的・非科学的に捉える発想にもあるのではないか?といずみは危惧するのです。。。 (16)差別語を不用意に使わないことはマナーではないのか? 以上、いろいろ見てきましたが、いずみは、「オカマ」という語は、本来使うべき語ではない、と考えています。なぜなら、それが客観的に、当該、特に性同一性障害者に対して、直接傷つける要素を多く含んでいるからです。 もちろん、だからと言って、かつてあったような「言葉狩り」のような、問題を隠蔽する形で「使用を禁止する」という性質のものであってよいはずはないです。だいいち、そんなやり方では差別なんかなくなるわけもないですし。 ただ、そのような語は、使う必要のないところではやはり使うべきではない、とも思うのですが、いかがでしょうか。特に今回、いずみが「噛みついた」後では、議論の相手が、まさに当事者なわけですし。。。 まぁ、いずみはこうやって、これを契機にいろいろわかってもらえれば、ということで楽しく(笑)やってますが、人によってはそれでは済まなくなる可能性があることも知っておくべきです。そして、それに対して、差別語禁止はよくない、などの一般論を言っても無意味です。なぜなら、相手は、自分の存在そのものを傷つけられたと思っているからこそ「逆上する」のですから。 (17)根本的な問題:それでは、いずみは人間として正しくない存在なのですか? れんだいこさんの今回の一連の投稿で、「オカマ」と呼ばれる人は、従っていずみは、単なる「マイノリティ」というのではなく、「本質を外れた人」「摂理に反する人」として描かれています。 ということは、いずみは、これからどうやって生きて行くのが、れんだいこさん的には「まっとう」なのでしょうか? ちなみに、かつてアメリカで行われた恐るべき人体実験により、性同一性障害について、「精神」の方を「直す」ことはほぼ不可能であることが示されています。 だからこそ、体の方をいじる外科手術が認められているわけです。 近代医学においては、その役割として、「健康な部分に手を加えてはいけない」という倫理があります。そうしないと、人体改造などが際限なく行われてしまうからです。 しかし、性同一性障害者の性器は、それ自体の機能としては「健康」そのものなのです。それを除去してしまうということは、上記の倫理に反してしまいかねません。でも、心の方を直せない以上、とりあえず、体の方をいじってとりあえず落ち着くならそうした方がいいじゃないか、ということで、手術が解禁されました。もちろん、そういう手術だからこそ、その前には「この人は確実にそうだ」との判定を慎重に行うような道筋も作られたわけです。(なお、アメリカでは現在、性転換手術は、単なる美容外科手術と同じ扱いにな っており、そんな道筋もなにもなくなっていますが。(笑)) (18)そのほか れんだいこさんの主張には、いじめ問題や、「障害者」問題に関してもひどい混乱・差別がみられます(というか、「障害者」問題でこのレベルの初歩的混乱を来している人に共産主義を語ってほしくないです、正直)が、これについてはまた別の機会にでも。 以上でーす(^o^) |
Re:素読しました、いずみさんへ 投稿者:れんだいこ ( 11/19 22:59:18 ) |
いずみさん、ご丁寧に解説いただき恐縮です。今帰って参りまして一通り目を通させていただきました。私が出る幕ではなかったかと臍をかみたい気分ですが、懇切丁寧な中にも特に最後の部分なぞの文章をみるとやはり続けなければなりませぬ。というわけで、またレスいたしました 。 私の理解に誤りなければ、私が指摘している性意識・行動変調者(ご不満でしょうがこういう一括りさせて下さい。個々に理解するには私の認識が追いつかないということと、そういう例外を仔細に見ていけば、際限なく分岐すると思われるからです)は、いずみさんからすれば、古来から面々と存続しているし、決して変調ではないということのご説明ではなかったかと思います。素読の時点での第一読後感がそうだということです。その根拠として、私が生物学的な性差を重要視していることに対して、過重視であると様々な要因を挙げて説明しておられるように理解しました。私ももう少し勉強を深めるべきかも知れませんが、ここはやはり譲れないところです 。 私のスタンスは、生物学的な性差を基調にしてその性差に相応しい性意識・行動を摂理に従って機能させていけば良い、ここには支配も被支配も、保守も革新も、反動も進歩もない筈で、むしろ生物的生態の自然な発露こそが理に叶っている、但し何らかの変調が現れてもそれは差別されるべきではなかろう、特に性の問題は厄介であるからして異端を道徳的倫理的名目で排斥してはならない、という構えにしております。 それに付加して云ったことが、この境界を曖昧にして、このたびいずみさんからお聞かせいただいたような論理で、性意識・行動の曖昧模糊性、多様性の是認から、盲目的に優しき理解者、際限のない追随者が生み出されてきつつある社会風潮に対して、それは違うと申し述べていたように自覚しています。 なるほどいずみさんのお話をお聞きしますと、「同性愛行為にネガティヴイメージが付与されたのは明治時代以降の優生政策による」ということのようですが、ほんまぁかいなぁという気がしています。「戦国時代、男性の同性愛、というか、同性による性交渉は、『武将のたしなみ』でした」とありますが、例証としては不適切でしょう。いわゆる稚児が性的対象として存在していたのか、幼少よりのエリート教育の一環として選抜された稚児がはべらされていたとかの面もあったのではないかと勘ぐる方が歴史の実際に近いのではないでしょうか。それになにせ、『武将のたしなみ』ということ自体が特殊例であるように思われます。いつの時代でも良いですから、当時の大衆レベルで性倒錯が主流であったとか、そこまでいかなくてもかなり一般性があったとか教えてくれないと納得しづらいです。 > しかし、これらのことは、明治時代の「富国強兵」「西洋に追いつけ追い越せ」 という政策の中、「同性愛は恥ずかしい」という西洋的=キリスト教的発想の元、 また「産めよ増やせよ」に反する存在である、ということから、「人間として恥ずかしいことである」というイデオロギー攻撃を受けました。 > このことはもちろん、優生思想ともつながっています。 「よりよい生を残さねばならない、悪い生は残してはいけない」という優生思 想が、どれだけの人間を抑圧してきたのかは、ナチスがユダヤ人に行った行為1 つ見てもよくわかります。 > > ここで注意しておきたいのは、優生思想が、まさにれんだいこさんが言われるようなノリで「自然の摂理」という概念を利用してきた、という歴史でしょう。 おっしゃっている意味は理解しますが、私には公式化過ぎる批判的見解のように思われます。果たして、歴史の実際は、「富国強兵」・「西洋的=キリスト教的発想」・「優生思想」等々のイデオロギー攻撃により、同性愛が排斥されていたのでしょうか。そうであれば私はもっと学ばねばならないと思うが、私には理屈のつけ過ぎのような気がしています。なるほど明治以降は、それ以前に増して「お上」思想を鳴り物入りで喧伝し統制化してきた史実はあります。がしかし、何も性的変調さに対してだけではなく、支配の都合上必要であったことに対しては種種様々なことに対策を講じています。明治維新前までの社会が、私の云う性意識・行動変調者に対するそういう区別的認識のない社会であったとは思えません。むしろ私には暴論のように聞こえますね。 > なお、我々が長い間、日本国内で合法的に性転換手術を受けられなかった理由 も、まさに優生思想に起源を持つ「優生保護法」というおどろおどろしい名前の 法律にあったのだ、という歴史は忘れられません。 もっと別の理由もあるのではないかというのが私のスタンスですね。 > > (13)「オカマ」の恋愛対象が男性であるという認識は大きな誤りである (11)でも展開しましたが、「オカマ」のうちの一角を占める、MtFTG(Male to Female Transgender)の恋愛対象は、男性というわけではありません。 (以下の説明に対しても) そういう意味では、いろいろ認識を的確にしておくよう努力します。 > 一方、確かに、粘膜などの問題は存在します(笑)。ただそれは、膣であろうがなんだろうが、同じ問題として存在していることの 「程度問題」に過ぎません。膣は肛門よりは相対的には頑丈でしょうけど、しか し粘膜には変わりなく、雑菌問題は常に発生します。 > そして、それらは、2人以上で為す性行為が、通常の人間関係と全く同じく、 お互いの同意の下、お互いの尊重の下、お互いが心地よくなれるように行われる べきである、というアタリマエの原則に基づけば、双方がそれに同意すれば何の 問題もないはずです。 だから、認めはするけども、「アタリマエの原則」とは思いませんねぇ。様々な理由があって存在しており、単に「お互いが心地よくなれるように行われるべきである」という観点から発生しているばかりではないでしょう。今問題になっているのは、金持ち先進国の人たちによる、金目当ての後進国の人たち泣かせの性的放縦さの、より悪質な行為としてかようなことが為されていることに義憤しています。 > そして、それが守られるのであれば、お互いが与え合う物理的刺激、性感とい う面ですら「AFの方が通常のセックスよりもよい」という人がたくさんいます。 男と女の「ノーマルなカップル」でも、です。 ここだけで、私はいいたいこともありますが、少し避けたい。 > > そしてそもそも、人間の性感というものは、観念に大きく支配されています。例えば、フェチシズムというものがありますよね。これは、「性器以外の部分にシンボリックな意味での性器性を感じる」という あたりが語源でしょうが、そういう傾向は誰でも持ち合わせています。 > 例えば、れんだいこさんは、行為をする場所、お互いの服装などがどのように 違っていても、快感は常に同じですか?性行為のお相手もそう思われてらっしゃ いますか? そういう、物理的刺激以外の部分での心地よさというものも確実に存在する以 上、お互いの「性的なイメージ」が高められれば、物理的な刺激の問題を大きく 越える可能性すらあるわけですね。 > 例えば、日本が世界に誇る(笑)「ZENTAI」というフェチ形態があります。これは、性器はもちろん顔までもすべて覆ってしまう全身タイツを男女ともに 着用し、それを鑑賞し合う、というものです。当然ながら、挿入どころか、性器 をいじったりすらしないわけです。日本製のタイツ生地が、これを非常に気持ちよくさせてくれる、ということで 始まったフェチらしいのですが、またたく間に世界中にファンが急増し、生地メ ーカーは大もうけになったらしいです(笑)。 で、みなさんそうやって喜んでらっしゃいます。 申し訳ないけど饒舌にしか聞こえません。 > > (15)なぜ、性を語ると言いながら、制度面(法律的上部構造)についての考察が一切ないのか? そんなことないですよ。そこまで触れると紙数が増えすぎるので割愛しています。それと、性と制度面(法律的上部構造)の観点からの考察はしたことありませんので書けなかったのですが、ご希望されれば述べることができるように思います。但し、いずみさんと私の論争点は、もっと入り口段階のあるいは根源的なところでの食い違いと思っており、ある意味で文明論的でもあり、この点に関してどうなのか議論を深めたほうが有益かなと思っています。 > ふだん、政治についてあれだけ語っているれんだいこさんが、なぜここでそう> いう問題について一切考察がないのか?というのは、非常に不可解です。 だから、それは誤解ですといっておきます。 > ものです。そして、そういう制度を許している1つの原因は、れんだいこさんに典 型的に見られるような、「自然の摂理」を観念的・非科学的に捉える発想にもある のではないか?といずみは危惧するのです。。。 そうですか。私の考えは、「自然の摂理」をそれこそ「観念的・非科学的に捉える」のではなく、相応しく捉え返そうとしているつもりなんですけどね。実はですね、ここは私の気づきなんです。ある頃から何か左翼の批判が浮ついている気がして、その原因を考えてみたら、今まで否定していた中にある合理性をどんどん認めていったほうが良いのではないかと気づいたわけでして。ならば、何を引き継ぎ何と戦うのかというところが私のテーマで、この性の問題もその意識に基づいて為そうとしております。 > (17)根本的な問題:それでは、いずみは人間として正しくない存在なのですか? そんなことは全然云っておりません。この世の中を絶対的とか権威・統制・一元的思考で理解しようとはしておりません。非メジャー系は認められるべきであり、もともとこの世の中はカオス的であると認識しておりますので、何があっても驚かない。だから差別しようという気はさらさらないし、不合理な差別とは闘おうと思っています。但し、認識は自由であり、人が認識上より的確さを求めて深めていくことが必要と考えています。私が危惧しているのは、差別につながるからという理由で、何もかもごっちゃにして、思考させなくなる風潮です。これはおかしいと考えています。 > > れんだいこさんの今回の一連の投稿で、「オカマ」と呼ばれる人は、従っていず> みは、単なる「マイノリティ」というのではなく、「本質を外れた人」「摂理に反> する人」として描かれています。 そこまでは云っていないつもりですが、文意尽くすよう努力します。 > > ということは、いずみは、これからどうやって生きて行くのが、れんだいこさん> 的には「まっとう」なのでしょうか? 自信を持って自己の「人生五十年」を有意義に過ごせばよいのでしょう。だいたい経済のほうの心配がみんな深刻で、そこをクリヤーしている人たちにとって怖いものはそうはない筈ですよ。多少の不合理があるとすればそこをどんどん風穴あけていって、よき人生の充実社会目指して同好人士をネットワークしていけば、これ最高の人生と思っていますね。 以下、アメリカの動きは、とにかく商業主義も強いですから、お聞かせいただくだけになります。 > > れんだいこさんの主張には、いじめ問題や、「障害者」問題に関してもひどい混 乱・差別がみられます(というか、「障害者」問題でこのレベルの初歩的混乱を来 している人に共産主義を語ってほしくないです、正直)が、これについてはまた別 の機会にでも。 > ここはですねぇ、このレスが続くようなら私ももっと的確に表現できるようにしたいです。「障害者」問題でこのレベルの初歩的混乱を来している人に共産主義を語ってほしくないですし---、は表現的に僕は好かない。そんなこといってたら、人と人との会話なんてできやしない。私は、今までの人生経験で言えることは、仕事でも何にでも、同じ言葉を使ってでも意味が通じ合わない局面、ましてや腹の中の通じ合わないことなぞあたりまえのごとくで、ここに絶望しつつも挑んでいる一人でして、結局分かり合えないのなら、面白おかしくいずみさん流のパロディー風で生きていけたらこれ本望でして、そうこうしているうち否が応でもお迎えがくると思っていますね。むしろ、私がお聞きしたいのは、この世の中そんな確たる人生の目的とか確かな価値とかこうあるべきだとかがあるのでしょうか。 |
ざっと再反論っす(^o^) 投稿者:いずみ <HOME> ( 11/20 00:46:00 ) |
まず、肝心な部分には何一つ同意も反論もないような気がします。 いずみが、柱の1つとして展開したことは、れんだいこさんが理解する「自然の摂理」は大きな誤りであるということです。(元の文の(5)(9)あたりで触れたつもりです)その上で、逐次反論をば。 (2-1)生物学的性差の重視、という視点 >私が生物学的な性差を重要視していることに対して、過重視であると様々な要因を挙げて説明しておられるように理解しました。 そういう面もありますし、そうでない面もあります。 そうであるという面では、(1)で触れたとおり、我々がふだん性別を認識するのが sexではなく genderである、という事実の例示が該当します。sexと genderが、階層として考えた場合におおむね写像しているのは客観的事実でしょう。しかしそれは階層として写像しているだけで、その表現形態、つまりそれが roleとしてどう現れるのか、現れないのかは、当然ながら時代とともに大きく変化しています。 正直にあらかじめ告白しておけば、いずみは、従来のフェミニズムが主張してきたような「sexと genderが独立したものである」との説には、疑念を覚えてもいます。それは、原始共産制の後の階級社会において、いくつかの例外を除けばこの2つは比較的はっきり結びついている例がほとんどだからです。しかし、それこそ「自然の摂理」(笑)に大きく反することで他の生物との差別化を獲得してきた人間にとって、「反すること」と「sexと genderの階層としての連関」がともに進んでいるということには重大な関心を持たざるを得ません。 そうでないという面は、およそ「過重視」というレベルではなく、そもそもその前提としてある「自然の摂理」に対する重大な疑義です。これは(2-2)で触れます。 (2-2)確認のため質問します。「摂理」ってなんですか? >生物学的な性差を基調にしてその性差に相応しい性意識・行動を摂理に従って機能させていけば良い ここでも強調されている、れんだいこさんがそこまで徹頭徹尾依存するところの「摂理」とは、いったい何なのですか? それをまず明らかにしていただかねば、れんだいこさんの主張は、形而上、空虚な観念論にしかなりません。 いずみは、その「摂理」が、自然科学的な根拠に乏しいことを、反論の(5)などで展開したつもりです。自然科学は、れんだいこさんがイメージする「摂理」などというものは、科学の立場として採用していないはずです。もちろんそれは、仮説としては成り立ちます。しかし、自然科学では、仮説は、検証に足りる形で提出されなければいけないのです。そうしないと、自然科学が想定するところの“客観性”をもった立証、追証が不可能になるからです。 実はこの部分がいずみの「ひっかかり」の最大のキモで、れんだいこさんの主張の、いずみから見たときの違和感のほとんどの部分は、たぶんここから形成されています。 (2-3)道徳や倫理をアプリオリに持ち出す没論理性 >性意識・行動の曖昧模糊性、多様性の是認から、盲目的に優しき理解者、際限のない追随者が生み出されてきつつある社会風潮 また差別語使ってますね(笑) それはともかく(笑)、そのような事実があるのなら、それをまず、部分的な例でよいので示してください。 れんだいこさんの主張は、つまるところ「何らかの倫理が必要だ」というところを持ち出して、しかも、そこに非常に恣意的な「自然の摂理」なるものをアプリオリに展開することで特定の倫理性を押し出す、という形に見えるのですよ。 倫理などというものは、それこそ、「他人を殺すな」ということですら、古今東西、いろいろと変化しているものですよね。 だからいずみは、現実社会では今この現代日本でいずみが相対している領域内での、ネット上ではここ10年の日本語使用圏内での、それぞれの経験則的倫理を最大に尊重して、果実とリスクを十分考えながら、対話や罵倒や戦争を行います。それ以上でも以下でもありません。それは、今いるこの(相対論的な)座標における、切片・加速度における、一時的な倫理として尊重するだけです。 もう1つ、かつて教育現場にいた者として申し述べるなら、道徳や倫理を解いて少しでも世の中よくなるなら、逆にこんな情勢にはなっていないはずですね:-) (2-4)江戸時代の例を無視して戦国時代の例を取り上げるのはなぜ? 戦国時代については、いずみは(12)で「同性愛とは言えない面もある」とはっきり書いています。そして、それに対し、江戸時代の例示ではより具体性を持った記述をしているはずです。 つまり、いずみは、そもそも文意に >それになにせ、『武将のたしなみ』ということ自体が特殊例であるように思われます。 ということは当然込めているわけです。それを指摘しながら、なぜ江戸時代の件については言及されないのか。 申し訳ないのですが、れんだいこさんは、相手が主張してきたことを、相手の力点の置き方から考えず、主観的・恣意的な選択をして、そこに反論して事足れり、としている傾向をお持ちではないか?と正直感じています。 (2-5)れんだいこさん、井原西鶴ってご存じですか?(笑) >当時の大衆レベルで性倒錯が主流であったとか、そこまでいかなくてもかなり一般性があったとか教えてくれないと納得しづらいです。 ですから、江戸時代の展開で触れたつもりです。 (2-6)歴史を語る以上、現代日本の常識に基づかずに、根拠を示してください。 れんだいこさんといずみの間には、世界観や宇宙観のレベルで大きな隔たりがあるのは、ここまでの流れで客観的に示されています。 で、 >明治維新前までの社会が、私の云う性意識・行動変調者に対するそういう区別的認識のない社会であったとは思えません。 というのは、いったい、どのような根拠で示されているのかがさっぱりわかりません。現代日本という、極めて特殊な(←自然科学的な意味合いでの)時空間における倫理に基づいて歴史を語ることができるわけはありません。れんだいこさんが、江戸時代の都市においてもそうだった、と思う根拠をお示しください。 (2-7)れんだいこさんの「性」に関する「幼児性」 れんだいこさんに倣って、タイトルに差別語使ってみました(笑)。 >様々な理由があって存在しており、単に「お互いが心地よくなれるよう>に行われるべきである」という観点から発生しているばかりではないでしょう。 今問題になっているのは、金持ち先進国の人たちによる、金目当ての後進国の人たち泣かせの性的放縦さの、より悪質な行為としてかようなことが為されていることに義憤しています。 論点のすり替えです。 ここでなぜ、後発国人民の性産業における問題一般が唐突に登場するのかが、まったく理解できません。 「今問題になっている」のは、れんだいこさんの性に対する世界観、すなわち、いずみからすれば旧来のかび臭い性的倫理観における「変態的行為」をめぐる問題であって、そのような性産業をめぐる問題一般では決してないはずです。 また、後発国人民に対して行われている、具体的な「より悪質な行為」の例を示してください。 いずみは、この間の議論で、れんだいこさんの性に関する認識の形成過程に、重大な疑義を持たざるを得ません。 AFを否定的に語るれんだいこさんは、AFをしたことがあるのか? 性産業について語るれんだいこさんは、その実態をどこまで把握しているのか? フィールドワークで収集したデータだけをタテにとって自論を押しつける、宮台真司(すまぬ、大学の先輩ナリ^^;;)のような立場が唾棄されるべきなのは当然としても、そもそもそのような立場では、不特定多数が見ているネット上では何の説得力も得られないことを、れんだいこさんは考えるべきです。 #自己保身のために申し述べるなら、いずみは、れんだいこさんの上記引用文#のような実態が確実にあることは承知しています。^^;; (2-8)饒舌すぎる展開を自らした人が、1か所の饒舌を指摘するのは不公平(笑) >申し訳ないけど饒舌にしか聞こえません。 それをおっしゃるのなら、もう1度、前回の3分割文章を推敲されるべきでしたね。(笑) (2-9)「そんなことない」というのは最悪の後出しじゃんけん >そんなことないですよ。そこまで触れると紙数が増えすぎるので割愛しています。 れんだいこさんは、genderについては、「男らしさ女らしさについては触れない」と、「紙片がつきる」という理由を明言してますよね。 しかし、制度面についてはそういう弁明はなかったじゃありませんか。それを「割愛する」というのは、ひどい後出しジャンケンに過ぎません。 >ご希望されれば述べることができるように思います。 ぜひ、希望します。 (2-10)先達の苦闘を一切捨象して「何をひきつぎ」などと語るのは傲慢 >ある頃から何か左翼の批判が浮ついている気がして、その原因を考えてみたら、今まで否定していた中にある合理性をどんどん認めていったほうが良いのではないかと気づいたわけでして。ならば、何を引き継ぎ何と戦うのかというところが私のテーマで、この性の問題もその意識に基づいて為そうとしております。 最初のいずみからの提起で、「70年以降の新左翼は」という説明を、させていただいたはずです。しかし、「何をひきつぎ」とおっしゃるれんだいこさんが、そこを調べて展開した痕跡が、前回の反論には、いっさい、感じられません。もちろん、同性愛やら性同一性障害やらについては、まだ既存左翼陣営のほとんどは確たる見解を提出していませんから、調べようもないでしょう。しかし、性をめぐる問題については、70年以降のフェミニズム運動などによる成果、それを既成左翼陣営や新左翼陣営がどう摂取していったのか、そういった問題は、ネット上で軽く検索をかけるだけで、それこそ取捨選択に困るくらいにたくさん出てきます。その痕跡が一切見られないれんだいこさんがおっしゃる「ひきつぎ」には、いずみは、主観的・恣意的な意図しか感じられないのですよ… (2-11)「自然の摂理に反する」という言い回しの刃性 >そんなことは全然云っておりません。 少なくとも、物理法則・科学法則に基づいて、日々の素粒子反応・化学反応に立脚して様々な活動をしているいずみ(笑)にとって、「自然の摂理に反する」ということは、要するに「まっとうな人間でない」どころか、「まっとうな生物でない」「まっとうな物質でない」と言われているに等しいです。 (2-12)結語における矛盾 >そんなこといってたら、人と人との会話なんてできやしない。 そうですね。そういうことなら、そうでしょう。しかし、いったいいついずみが、「人と人との会話」一般について、れんだいこさんに提起を行いましたか? 「共産主義を語る」という、およそ現代日本においては希有な(笑)行為について、限定条件をつけているだけではないですか。しかも、「欲しくない」という願望を表明しただけなのに… それが容認されないのなら、同様に、「オカマ」だの「盲目」だのの、一般的に 存在する他人を傷つけることが容易に想定し得る語を使うことだって、容認し得ないのではないでしょうか。 (2-13)最後の提起に答えて >むしろ、私がお聞きしたいのは、この世の中そんな確たる人生の目的とか>確かな価値とかこうあるべきだとかがあるのでしょうか。 …開いた口がふさがりません(笑) 一体、どちらが、「自然の摂理」なる「確かな価値観」をアプリオリに持ち出しているのか、れんだいこさんはよくお考えになられるべきでしょう…(笑) |
Re:レスが早くて読みきれないよぉ 投稿者:れんだいこ ( 11/20 02:26:51 ) |
今度は家に帰ってきて、覗いたらもうレスがついているではない今日はアルも入りすぎているので、本格的には明日読みなおします。で、今いただいたレスに従って私も再レスです。どなたか間とっていただいてもいいなぁ。ちかれるわ。 >れんだいこさんが理解する「自然の摂理」は大きな誤りであるということです。(元の文の(5)(9)あたりで触れたつもりです)その上で、逐次反論をば。 了解です。もっともレスは遅れるかも知れない。仕事をためたと思うので。 > そうであるという面では、(1)で触れたとおり、我々がふだん性別を認識するのが sexではなく genderである、という事実の例示が該当します。 いずみさんが怒るかも知れないけど、genderて何だ。社会的性意識という意味なんかな。私なぞは女性とすれ違って一番最初に目が行くところは、女性の性的シンボルの個所でして、これはほかの人も一緒と考える。昔からこの法則は変わらないと推定しています。だから、「我々がふだん性別を認識するのが sexではなく genderである、という事実の例示が該当します」とは思わない。 > sexと genderが、階層として考えた場合におおむね写像しているのは客観的事 実でしょう。しかしそれは階層として写像しているだけで、その表現形態、つま りそれが roleとしてどう現れるのか、現れないのかは、当然ながら時代ととも に大きく変化しています。 ここも「大きく変化しています」とは思わない。むしろ、この方面は昔も今も一緒で、性の問題は面白おかしく、多少の変則・変態も昔から今日まで続いていると思う。 > 正直にあらかじめ告白しておけば、いずみは、従来のフェミニズムが主張して> きたような「sexと genderが独立したものである」との説には、疑念を覚えても います。それは、原始共産制の後の階級社会において、いくつかの例外を除けば この2つは比較的はっきり結びついている例がほとんどだからです。 そこなんですよぉ、いずみさん。 > しかし、それこそ「自然の摂理」(笑)に大きく反することで他の生物との差別 化を獲得してきた人間にとって、「反すること」と「sexと genderの階層として> の連関」がともに進んでいるということには重大な関心を持たざるを得ません。 私も関心があります。 > > そうでないという面は、およそ「過重視」というレベルではなく、そもそもそ の前提としてある「自然の摂理」に対する重大な疑義です。これは(2-2)で触れ> ます。(2-2)確認のため質問します。「摂理」ってなんですか? いわば、本能のようなものと考えています。ここを説明すると長くなり、このノートパソコンでは打ちにくい。 > 「摂理」とは、いったい何なのですか?それをまず明らかにしていただかねば、れんだいこさんの主張は、形而上、空虚な観念論にしかなりません。 ここを述べようとすると、当分れんだいこ節を聞かなくてはなりません。まぁ、いくら聞いたところで、「人生とは何か、芸術とは何か、我々はどこから来てどこへ行くのか」という例の世界に入りこむことになり、結局見事に説明というか定義し得たら、いささか味気ないと思う。 > > いずみは、その「摂理」が、自然科学的な根拠に乏しいことを、反論の(5)などで展開したつもりです。自然科学は、れんだいこさんがイメージする「摂理」などというものは、科学の立場として採用していないはずです。もちろんそれは、仮説としては成り立ちます。しかし、自然科学では、仮説は、検証に足りる形で提出されなければいけないのです。そうしないと、自然科学が想定するところの“客観性”をもった立証、追証が不可能になるからです。実はこの部分がいずみの「ひっかかり」の最大のキモで、れんだいこさんの主張の、いずみから見たときの違和感のほとんどの部分は、たぶんここから形成されています。 私が最近知りつつあることは、自然科学もかなりいい加減で、結局科学者が自分のひらめきに合わせて都合良く資料構成しているらしい。人文科学がそうだとは分かるのですが、自然科学も大差ないらしいですよ。だから、反論しようと思えば、それなりの資料が出来るということになる。まぁこれは全ての自然科学でそういえるのかどうかまでは分からないですが、今論じている内容のことについては、まるであてはまりそう。 > > (2-3)道徳や倫理をアプリオリに持ち出す没論理性 これは為にしている表現だから、お付き合いしない。 > > >性意識・行動の曖昧模糊性、多様性の是認から、盲目的に優しき理解者、際限のない追随者が生み出されてきつつある社会風潮 > > また差別語使ってますね(笑)それはともかく(笑)、そのような事実があるのなら、それをまず、部分的な例でよいので示してください。 急には資料が出せないが、性転換手術が我が国内で為され、それを理解し推進する医師団がいて、希望者も医師団も次第に増えてきつつあるような気がしているところも一つの根拠かな。 > > れんだいこさんの主張は、つまるところ「何らかの倫理が必要だ」というところ を持ち出して、しかも、そこに非常に恣意的な「自然の摂理」なるものをアプリオ リに展開することで特定の倫理性を押し出す、という形に見えるのですよ。 > > 倫理などというものは、それこそ、「他人を殺すな」ということですら、古今東 西、いろいろと変化しているものですよね。 アプリオリに持ち出してはいませんが、それは別にして変化を受け付けやすい倫理もあるし、昔からあんまり変わらない倫理もあるように思っています。 > > だからいずみは、現実社会では今この現代日本でいずみが相対している領域内で の、ネット上ではここ10年の日本語使用圏内での、それぞれの経験則的倫理を最大 に尊重して、果実とリスクを十分考えながら、対話や罵倒や戦争を行います。それ 以上でも以下でもありません。それは、今いるこの(相対論的な)座標における、 切片・加速度における、一時的な倫理として尊重するだけです。 > > もう1つ、かつて教育現場にいた者として申し述べるなら、道徳や倫理を解いて 少しでも世の中よくなるなら、逆にこんな情勢にはなっていないはずですね:-) 私はそういう倫理・道徳を説く者ではないから、それを私に云われても困る。 > > (2-4)江戸時代の例を無視して戦国時代の例を取り上げるのはなぜ? 江戸時代も一緒です。男女混浴風呂もやはり具合が悪かったらしい。いろいろ体面変化が目に付くこと多く、やはり自然に別風呂になったらしい。 > 戦国時代については、いずみは(12)で「同性愛とは言えない面もある」とはっき り書いています。そして、それに対し、江戸時代の例示ではより具体性を持った記述をしているは ずです。 > よく読んでみます。 > > 申し訳ないのですが、れんだいこさんは、相手が主張してきたことを、相手の力 点の置き方から考えず、主観的・恣意的な選択をして、そこに反論して事足れり、 としている傾向をお持ちではないか?と正直感じています。 これは私も持つ恣意的な理解癖によるのかも知れない。但し、このたびは素読による面もあると思われますのでまた明日読みなおします。 > > (2-5)れんだいこさん、井原西鶴ってご存じですか?(笑) 題名知ってる本が何冊かある程度です。 > > >当時の大衆レベルで性倒錯が主流であったとか、そこまでいかなくてもかなり一般性があったとか教えてくれないと納得しづらいです。 > > ですから、江戸時代の展開で触れたつもりです。 > > (2-6)歴史を語る以上、現代日本の常識に基づかずに、根拠を示してください。 > > れんだいこさんといずみの間には、世界観や宇宙観のレベルで大きな隔たりが あるのは、ここまでの流れで客観的に示されています。 > で、 > > >明治維新前までの社会が、私の云う性意識・行動変調者に対するそういう区別的認識のない社会であったとは思えません。 > > というのは、いったい、どのような根拠で示されているのかがさっぱりわかり ません。 これは逆にどのような根拠でいずみ説がなされているのかということにも跳ね返ります。明日読み直ししてみますが、とても充分であったとは思いたくないですね。 > 現代日本という、極めて特殊な(←自然科学的な意味合いでの)時空間におけ る倫理に基づいて歴史を語ることができるわけはありません。 れんだいこさんが、江戸時代の都市においてもそうだった、と思う根拠をお示 しください。 > えらい、いずみさん、江戸時代がいずみさんの思っているような社会であったと思いたいようですね。我々が普通に理解していることは、おいらん花町・遊郭が在所適所にあって、貧乏・分け有り娘が売り飛ばされて、オス‐メス一夜を営んでいたのがメジャーで、この理解どこかおかしいですか。 > れんだいこさんに倣って、タイトルに差別語使ってみました(笑)。 > > >様々な理由があって存在しており、単に「お互いが心地よくなれるように行われるべきである」という観点から発生しているばかりではないでしょう。 今問題になっているのは、金持ち先進国の人たちによる、金目当ての後進国の人たち泣かせの性的放縦さの、より悪質な行為としてかようなことが為されていることに義憤しています。 > > 論点のすり替えです。 > > ここでなぜ、後発国人民の性産業における問題一般が唐突に登場するのかが、 まったく理解できません。 でも、ここは今非常に問題になっているところですよ。 > > 「今問題になっている」のは、れんだいこさんの性に対する世界観、すなわち、 いずみからすれば旧来のかび臭い性的倫理観における「変態的行為」をめぐる問 題であって、そのような性産業をめぐる問題一般では決してないはずです。 > ここはですね、ことは簡単ではなくて太古の昔から続いている論争の一種だと思っています。 > また、後発国人民に対して行われている、具体的な「より悪質な行為」の例を 示してください。 無茶を云ってはいけません。売春帝国主義の犯罪を捜すのは難しくないし、私以外に詳しく論じていただける方がおられると思います。 > いずみは、この間の議論で、れんだいこさんの性に関する認識の形成過程に、重大な疑義を持たざるを得ません。 性というものは、そう難しいことではない。誰でも覚えて教えられぬのに実践します。凡そ学もいらない世界みたいです。それが証拠に‐‐‐といいだしたらきりがない。 > > AFを否定的に語るれんだいこさんは、AFをしたことがあるのか? 性産業について語るれんだいこさんは、その実態をどこまで把握しているのか? > 無茶をいってはいけない。そんなことをしゃべるやつがいるか。 > フィールドワークで収集したデータだけをタテにとって自論を押しつける、宮 台真司(すまぬ、大学の先輩ナリ^^;;)のような立場が唾棄されるべきなのは当 然としても、そもそもそのような立場では、不特定多数が見ているネット上では 何の説得力も得られないことを、れんだいこさんは考えるべきです。 > > #自己保身のために申し述べるなら、いずみは、れんだいこさんの上記引用文 #のような実態が確実にあることは承知しています。^^;; > > (2-8)饒舌すぎる展開を自らした人が、1か所の饒舌を指摘するのは不公平(笑) > > >申し訳ないけど饒舌にしか聞こえません。 > > それをおっしゃるのなら、もう1度、前回の3分割文章を推敲されるべきでし たね。(笑) > > (2-9)「そんなことない」というのは最悪の後出しじゃんけん > > >そんなことないですよ。そこまで触れると紙数が増えすぎるので割愛しています。 > > れんだいこさんは、genderについては、「男らしさ女らしさについては触れな い」と、「紙片がつきる」という理由を明言してますよね。 > しかし、制度面についてはそういう弁明はなかったじゃありませんか。それを「割愛する」というのは、ひどい後出しジャンケンに過ぎません。 > 後出しでも、事実解明のためには許されて。 > >ご希望されれば述べることができるように思います。 > > ぜひ、希望します。 うーーん、そこの考察は今のタイミングが悪い。 > > > 最初のいずみからの提起で、「70年以降の新左翼は」という説明を、させていた だいたはずです。 私は、私ら以降の闘いは少しも理解してないし、それもそのはずで評価しとらんのよ。 > しかし、「何をひきつぎ」とおっしゃるれんだいこさんが、そこを調べて展開し た痕跡が、前回の反論には、いっさい、感じられません。 何か狭い世界へ入ったなという感じだから、調べるのにいやいやだから骨が折れる。 > もちろん、同性愛やら性同一性障害やらについては、まだ既存左翼陣営のほとん どは確たる見解を提出していませんから、調べようもないでしょう。 しかし、性をめぐる問題については、70年以降のフェミニズム運動などによる成 果、それを既成左翼陣営や新左翼陣営がどう摂取していったのか、そういった問題 は、ネット上で軽く検索をかけるだけで、それこそ取捨選択に困るくらいにたくさ ん出てきます。 その痕跡が一切見られないれんだいこさんがおっしゃる「ひきつぎ」には、いずみは、主観的・恣意的な意図しか感じられないのですよ… > 僕は、逆に、豊かさの中でお遊び風に思えて読む気にもなれんのよ。ホント馬鹿馬鹿しい気がするんだわ。 > > 少なくとも、物理法則・科学法則に基づいて、日々の素粒子反応・化学反応に立 脚して様々な活動をしているいずみ(笑)にとって、「自然の摂理に反する」という ことは、要するに「まっとうな人間でない」どころか、「まっとうな生物でない」 「まっとうな物質でない」と言われているに等しいです。 > だからね、ここを論議したいというのが、私のレスの肝の部分なんだな。 > (2-12)結語における矛盾 > > >そんなこといってたら、人と人との会話なんてできやしない。 > > そうですね。そういうことなら、そうでしょう。 > しかし、いったいいついずみが、「人と人との会話」一般について、れんだいこ さんに提起を行いましたか? 「共産主義を語る」という、およそ現代日本においては希有な(笑)行為について、 限定条件をつけているだけではないですか。しかも、「欲しくない」という願望を> 表明しただけなのに… > それが容認されないのなら、同様に、「オカマ」だの「盲目」だのの、一般的に 存在する他人を傷つけることが容易に想定し得る語を使うことだって、容認し得な いのではないでしょうか。 > 私のほうは矛盾してないと思うよ。そういう的確表現は使って良しと敢えて居直っている訳だし。つまり、出来るだけアリアリルールで行こうと云っています。但し、それが社会的差別につながるのかどうか考え直さんといけない、本音と建前の横行を却って許してると云っています。 > > >むしろ、私がお聞きしたいのは、この世の中そんな確たる人生の目的とか確かな価値とかこうあるべきだとかがあるのでしょうか。 > > …開いた口がふさがりません(笑) 一体、どちらが、「自然の摂理」なる「確かな価値観」をアプリオリに持ち出しているのか、れんだいこさんはよくお考えになられるべきでしょう…(笑) いずみさんの口が開いて困っても、私は、マジに云っているんよ。 |
忙しいので簡潔にリプライ。 投稿者:いずみ@お仕事でWindows ( 11/20 04:09:46 ) |
>>
そうであるという面では、(1)で触れたとおり、我々がふだん性別を認識するのが sexではなく
genderである、という事実の例示が該当します。 > > いずみさんが怒るかも知れないけど、genderて何だ。社会的性意識という意味なんかな。私な ぞは女性とすれ違って一番最初に目が行くところは、女性の性的シンボルの個所でして、これは ほかの人も一緒と考える。昔からこの法則は変わらないと推定しています。だから、「我々がふ だん性別を認識するのが sexではなく genderである、という事実の例示が該当します」とは思 わない。 …(笑) れんだいこさんは、出会った男性や女性を、どうやって男性であるとか女性であるとか認識されているのですか?まさか、透視で外性器が見えるとか?(笑) 我々が、性行為という比較的プライベートな関係性で現れる場合を除いて、相手の「性別」を認識する場合、それは genderによって行われているのだ、と明示したはずです。逆に、それで分類されるモノを、genderととりあえずは認識してください。(正確にはこれだと gender roleですが) #女性は化粧をする、女性はスカートをはく、男性は髭がある、etc... >> sexと genderが、階層として考えた場合におおむね写像しているのは客観的事 実でしょう。しかしそれは階層として写像しているだけで、その表現形態、つま りそれが roleとしてどう現れるのか、現れないのかは、当然ながら時代とともに大きく変化しています。 > > ここも「大きく変化しています」とは思わない。むしろ、この方面は昔も今も一緒で、性の問 題は面白おかしく、多少の変則・変態も昔から今日まで続いていると思う。 平安時代の日本で、化粧したのは男性です。中世ヨーロッパで、脚線美を誇ったのは男性です。現代日本の男性は、眉を整えてカチューシャをつけます。 以上の例のごとく、gender roleは大きく、ほぼ無節操に変化しています。 >> 正直にあらかじめ告白しておけば、いずみは、従来のフェミニズムが主張して きたような「sexと genderが独立したものである」との説には、疑念を覚えても います。それは、原始共産制の後の階級社会において、いくつかの例外を除けば この2つは比較的はっきり結びついている例がほとんどだからです。 > >そこなんですよぉ、いずみさん。 れんだいこさんは「genderについてわからない」と書いておきながら、上では「そこなんですよ」と同意する。これは矛盾した姿勢でしょう。 わからないものには同意できないはずです。 >> そうでないという面は、およそ「過重視」というレベルではなく、そもそもその前提としてある「自然の摂理」に対する重大な疑義です。これは(2-2)で触れ ます。(2-2)確認のため質問します。「摂理」ってなんですか? > > いわば、本能のようなものと考えています。ここを説明すると長くなり、このノートパソコンでは打ちにくい。 「本能」…「自然の摂理」とあまり変わらない、不明確な概念ですね。。。「本能」っていったい何ですか? >> 「摂理」とは、いったい何なのですか?それをまず明らかにしていただかねば、れんだいこさんの主張は、形而上、空虚な観念論にしかなりません。 > > ここを述べようとすると、当分れんだいこ節を聞かなくてはなりません。まぁ、いくら聞いたところで、「人生とは何か、芸術とは何か、我々はどこから来てどこへ行くのか」という例の世 界に入りこむことになり、結局見事に説明というか定義し得たら、いささか味気ないと思う。 ということは、れんだいこさんは、「なかなか説明できない」という概念をすべての前提に、自説を展開されていたということになります。 もちろん、通常、議論を行う場合は、お互いの共通了解事項であると推論できる事柄については「自明」として前提にして、議論のコストを下げていくわけです。しかし、今回はその「自明」が成立していないことはもはや明白です。 いずみは既に、いずみが考える「自然の摂理」については一定程度展開済みです。ので、れんだいこさんがそれに答える番です。 > 私が最近知りつつあることは、自然科学もかなりいい加減で、結局科学者が自分のひらめきに合わせて都合良く資料構成しているらしい。人文科学がそうだとは分かるのですが、自然科学も 大差ないらしいですよ。だから、反論しようと思えば、それなりの資料が出来るということにな る。まぁこれは全ての自然科学でそういえるのかどうかまでは分からないですが、今論じている 内容のことについては、まるであてはまりそう。 対立部分で「らしい」と伝聞・推定表現を使うのなら、では、その「伝聞」や「推定」を得た根拠を示してください。それなしには、「前提がかみ合っていない状況下での議論」は成立しません。 自然科学が、その歴史の浅さ故に非常に不完全なものに過ぎないことは、まぁ誰もが認めるところでしょう。しかし、自然科学は他に比べて、 > 急には資料が出せないが、性転換手術が我が国内で為され、それを理解し推進する医師団がい て、希望者も医師団も次第に増えてきつつあるような気がしているところも一つの根拠かな。 ということは、性同一性障害者に対して手術を行うことは、れんだいこさんの倫理からは「許されない」ということですか?? > アプリオリに持ち出してはいませんが、それは別にして変化を受け付けやすい倫理もあるし、 昔からあんまり変わらない倫理もあるように思っています。 これも例示をお願いします。 >> もう1つ、かつて教育現場にいた者として申し述べるなら、道徳や倫理を解いて 少しでも世の中よくなるなら、逆にこんな情勢にはなっていないはずですね:-) > > 私はそういう倫理・道徳を説く者ではないから、それを私に云われても困る。 力いっぱい説いているじゃないですか。「自然の摂理は尊重されるべき」という倫理を。 >> (2-4)江戸時代の例を無視して戦国時代の例を取り上げるのはなぜ? > > 江戸時代も一緒です。男女混浴風呂もやはり具合が悪かったらしい。いろいろ体面変化が目に付くこと多く、やはり自然に別風呂になったらしい。 …これ、どこの何に対する傍証ですか? いずみが元で示した説は「男色は江戸時代にはある程度の普遍性も持ち、恥ずかしい行為ではなかった」ということです。 れんだいこさんの上の傍証は、男女の間での性的な感覚についてのものに過ぎず、これとどう連関するのかまったく理解できません。 ここでもう1つついで質問なのですが、れんだいこさんは、性的志向性を、異性同士・同性同士という2項対立で捉えていたりはしませんか? >> れんだいこさんといずみの間には、世界観や宇宙観のレベルで大きな隔たりが あるのは、ここまでの流れで客観的に示されています。 >> で、 >> >> >明治維新前までの社会が、私の云う性意識・行動変調者に対するそういう区別的認識のない社会であったとは思えません。 >> >> というのは、いったい、どのような根拠で示されているのかがさっぱりわかりません。 > > これは逆にどのような根拠でいずみ説がなされているのかということにも跳ね返ります。明日 読み直ししてみますが、とても充分であったとは思いたくないですね。 確かに明示していませんでしたので1つ。例えば、井原西鶴の本が江戸で売れていた、ということですか(爆) > えらい、いずみさん、江戸時代がいずみさんの思っているような社会であったと思いたいようですね。我々が普通に理解していることは、おいらん花町・遊郭が在所適所にあって、貧乏・分 け有り娘が売り飛ばされて、オス‐メス一夜を営んでいたのがメジャーで、この理解どこかおかしいですか。 その理解はおかしくないです。もう1度言います。いずみが言っているのは、「多数が男女の異性愛だった」という、誰もが承認するようなことへの反論などでは当然なく、「そういうノーマルな人達にとって、同性愛がおかしなことと思われていなかった」ということです。そもそもそれが、いずみの元の文が主張していること=「差別性が付与されたのは明治以降」=それまではそうじゃなかった、ということですが。よく読んでください。 >> >様々な理由があって存在しており、単に「お互いが心地よくなれるように行われるべきである」という観点から発生しているばかりではないでしょう。 今問題になっているのは、金持ち先進国の人たちによる、金目当ての後進国の人たち泣かせの性的放縦さの、より悪質な行為としてかようなことが為されていることに義憤しています。 >> >> 論点のすり替えです。ここでなぜ、後発国人民の性産業における問題一般が唐突に登場するのかが、まったく理解できません。 > > でも、ここは今非常に問題になっているところですよ。 だだっ子じゃないのですから、「でも」なんて使わないでください(笑) いいですか、今我々は、「異性愛・通常の性交」に分類されない事項が、特殊なのかどうなのか、ということについて議論してるんじゃないですか? 上記問題が非常に重要なことは当然ですが、それをここで持ち出すのは、議論の姿勢としておかしいし、議論のコストを上げる、ということです。もちろん、新たにそれを提起される、というのであれば、別スレッドでぜひやりましょう。今、趣味系板でも、「売買春は許されるか否か」という議論が盛んですし。もっとも、「売買春は許されない」という主張の人が現れないのですが。。。(笑) >> また、後発国人民に対して行われている、具体的な「より悪質な行為」の例を 示してください。 > > 無茶を云ってはいけません。売春帝国主義の犯罪を捜すのは難しくないし、私以外に詳しく論 じていただける潟がられると思います。 無茶じゃないです。繰り返しますが、今議論しているのは「異性愛・通常の性交」じゃないものについての話題です。 >> いずみは、この間の議論で、れんだいこさんの性に関する認識の形成過程に、重大な疑義を持たざるを得ません。 > > 性というものは、そう難しいことではない。誰でも覚えて教えられぬのに実践します。凡そ学 もいらない世界みたいです。それが証拠に‐‐‐といいだしたらきりがない。 ここでれんだいこさんが想定しているのは、「性」ですらなく、性交、しかも性交の中の1パターンのみです。 いずみが疑義を発しているのは、「性」というものを、れんだいこさんが非常に狭く理解していることに対してです。ですから、genderとか roleとか gender identityとか sexual orientationとか、そういう概念を説明しながら、その多様さ、不可解さを説明しているつもりです。 >> AFを否定的に語るれんだいこさんは、AFをしたことがあるのか? >> 性産業について語るれんだいこさんは、その実態をどこまで把握しているのか? >> > 無茶をいってはいけない。そんなことをしゃべるやつがいるか。 いくらでもいます。現にいずみは、この議論で、止む無く例示のために告白しています。 >> れんだいこさんは、genderについては、「男らしさ女らしさについては触れな い」と、「紙片がつきる」という理由を明言してますよね。 >> しかし、制度面についてはそういう弁明はなかったじゃありませんか。それを「割愛する」というのは、ひどい後出しジャンケンに過ぎません。 >> > 後出しでも、事実解明のためには許されて。 これはびっくりです。 「事実解明のため」とおっしゃいますが、「制度面での問題を議論する準備がある」という表明をしなかったことのどこが「事実解明」につながるのか、ちょっと理解に苦しみます。 >> ぜひ、希望します。 > > うーーん、そこの考察は今のタイミングが悪い。 急ぎませんので。 >> 最初のいずみからの提起で、「70年以降の新左翼は」という説明を、させていた だいたはずです。 > > 私は、私ら以降の闘いは少しも理解してないし、それもそのはずで評価しとらんのよ。 でも、れんだいこさんのサイトには、70年代の話が出てますよね。 評価してるじゃないですか。 >> しかし、「何をひきつぎ」とおっしゃるれんだいこさんが、そこを調べて展開し た痕跡が、前回の反論には、いっさい、感じられません。 > > 何か狭い世界へ入ったなという感じだから、調べるのにいやいやだから骨が折れる。 > >> もちろん、同性愛やら性同一性障害やらについては、まだ既存左翼陣営のほとん どは確たる見解を提出していませんから、調べようもないでしょう。 しかし、性をめぐる問題については、70年以降のフェミニズム運動などによる成 果、それを既成左翼陣営や新左翼陣営がどう摂取していったのか、そういった問題 は、ネット上で軽く検索をかけるだけで、それこそ取捨選択に困るくらいにたくさ ん出てきます。 >> その痕跡が一切見られないれんだいこさんがおっしゃる「ひきつぎ」には、いず みは、主観的・恣意的な意図しか感じられないのですよ… >> > 僕は、逆に、豊かさの中でお遊び風に思えて読む気にもなれんのよ。ホント馬鹿馬鹿しい気がするんだわ。 それだと、なぜ、これについていずみと論争をしているのかがまったくわからなくなってしまいます。「性」というものについての根本認識がいずみと違っている(上にいずみに対する重大な挑発性を含む)、と直感したいずみがれんだいこさんに指摘を行い、れんだいこさんはそれに反応し、その中でいずみの(()外の)直感が事実だと明らかにされ、さらにそこをめぐって議論がなされているはずです。 そして、その「性」についてのいずみの認識は、いくら結論的に同意ができないとしても、やはりフェミニズムなどが取り組んできた結果得られた果実にも大いに基づいているわけです。議論の相手が明確に示していて、しかもそれがある程度以上の「客観的な検証」をもくぐっている問題について「お遊びだ」と片付けられてしまうと、議論が成立しなくなってしまいます。(逆に、れんだいこさんの説にいずみが反論するのは、その根拠に「客観的な検証」が乏しい、と認識しているからでもあります。何度も触れているとおり。) また、少なくとも、フェミニズムのとりくみがなければセクシャル・ハラスメントの告発という流れは生まれてこなかったわけで、これを「お遊び」で片付けてよいとはさすがに思えません 。 >> 少なくとも、物理法則・科学法則に基づいて、日々の素粒子反応・化学反応に立 脚して様々な活動をしているいずみ(笑)にとって、「自然の摂理に反する」という ことは、要するに「まっとうな人間でない」どころか、「まっとうな生物でない」 「まっとうな物質でない」と言われているに等しいです。 >> > だからね、ここを論議したいというのが、私のレスの肝の部分なんだな。 > >> (2-12)結語における矛盾 >> >> >そんなこといってたら、人と人との会話なんてできやしない。 >> >> そうですね。そういうことなら、そうでしょう。 しかし、いったいいついずみが、「人と人との会話」一般について、れんだいこ さんに提起を行いましたか? 「共産主義を語る」という、およそ現代日本においては希有な(笑)行為について、 限定条件をつけているだけではないですか。しかも、「欲しくない」という願望を 表明しただけなのに… >> それが容認されないのなら、同様に、「オカマ」だの「盲目」だのの、一般的に 存在する他人を傷つけることが容易に想定し得る語を使うことだって、容認し得な いのではないでしょうか。 >> > 私のほうは矛盾してないと思うよ。そういう的確表現は使って良しと敢えて居直っている訳だ し。つまり、出来るだけアリアリルールで行こうと云っています。但し、それが社会的差別につ ながるのかどうか考え直さんといけない、本音と建前の横行を却って許してると云っています。 いずみは「そんなこと」を言いました。いずみとれんだいこさんの議論は「人と人との会話」です。ということは、元のれんだいこさんの文からは、二人の議論は成立しないことになりませんか ? >> >むしろ、私がお聞きしたいのは、この世の中そんな確たる人生の目的とか確かな価値とかこうあるべきだとかがあるのでしょうか。 >> >> …開いた口がふさがりません(笑) 一体、どちらが、「自然の摂理」なる「確かな価値観」をアプリオリに持ち出しているのか、れんだいこさんはよくお考えになられるべきでしょう…(笑) > > いずみさんの口が開いて困っても、私は、マジに云っているんよ。 まじめに言われていることは承知しています。だからこちらもまじめに返しているのですが。もう1度。「確かな価値観とかこうあるべきとかがあるのでしょうか。」という「確かな価値観とかがこうあるべき」というのには、れんだいこさんの「自然の摂理に従う」というのは含まれるのですか、含まれないのですか。 |
(私論.私見)