「共産党の理論・政策・歴史」投稿文41(新日和見事件考) |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件の前提考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「新日和見主義事件解析」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており読みやすい面と、後者は今後益々書き換えられていく予定なので原文を保持する為にもここに取り込んで遺しておくことにした。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した) 2006.5.18日 れんだいこ拝 |
考察その四、(@)「新日和見主義事件」概観(2000.1.22日) |
いよいよ新日和見主義事件の考察に入るところまでやって来た。以下の記述は、「赤旗」、著書「査問」・「汚名」・「突破者」、「さざ波通信」、「宮地健一HP」等々を参照させて頂いた。 |
考察その四、(A)「新日和見主義者の解析私論」(2000.1.24日) |
「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか? 解析をしてみたい。私は、「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」(「汚名」262P)という観点に全く同意する。「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロッキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」というV記の作者(「汚名」262P)の感性を至当としたい。事実は、「新日和見主義者達とは未形成なままに存在していた民青同の闘う分子」であり、「この時点まで党の呼び掛ける民主連合政府樹立をマジに信じてその実現のために労苦を厭おうとしない一群の熱血型同盟員達」であった。でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自明であったから。 |
「新日和見主義」と「全共闘」によせて(2000.1.25日、金城) |
れんだいじさんが精力的にアップされていますが、この頃の学生運動に関わっていたものとしては、同感できるところ出来ないところあい半ば、という感じがします。 時間的には「全共闘」が先になりますが、れんだいじさんが言っている「東大-日大闘争」というは単に社会的な注目度が大きかった大学闘争と言うだけで、このころは日本中のほとんどの大学で多かれ少なかれ「闘争」「紛争」がおこっていました。日大と東大では背景に違いが多すぎてとても一つの括弧で括ることができるようなものではなかったです。 これまでのところで、当時の学生運動に関わっていなかった方におわかりいただきたいのは、マスコミにともすれば花々しく取り上げられた暴力問題と言うのは、じつは事の流れからいえば馬鹿馬鹿しい程に単純な、大学問題とは全く関係のない、異次元のことであったということです。問題は大学をどうするか、ということで「全共闘」にしても反日共系セクトにしてもそれにたいしてはなんらの積極的政策はもっていなかった、あるいは組織構造からして持ち得なかった、あったのは「叛XX」という情緒/エモーションだけであった、ということです。 実はこれからが私個人の問題です。大学問題についてなんらかの提案をできたのは共産党だけでした。このことは冷静になって観察して見れば単純な事実です。しかし、「情緒」をベースとしてかなりの数の学生が「全共闘」運動に参加していったのも事実です。論争になれば我々は必ず勝ちます。でも熱狂している彼等に、これが通用しなかった、ということをどう考えれば良いのか、「左翼小児病」は対処の方法がないのか、今もよくわかりません。いわゆるトロツキストの活動家を徹底した理論攻めで何人かをこちらの陣営に入れることはできました。法学部系で理屈が優先の人たちでした。それにはとても長い時間を要したのですが、「全共闘」が短期間に影響できた数には遠いものがありました。ほぼ同じことでしょうが、共産党系の学生運動はこの種の熱狂、情緒を盛り上げるのがあまりうまくないと思います。当時は「平時の民青、戦時の三派」などといわれたものでした。 長くなりましたので後は簡単に書きますが、「新日和見主義」について思うのはまず、党指導部にはなんらかの誤解があったのでは、ということです。再建全学連の初代委員長川上さんとか都学連の早乙女さん、宮崎さんとが反党分派などを考えていたとは全然思えません。なぜ党指導部がそんな誤解をしたのかはわかりません。「査問」を読むと、川上さん自身が最後まで「なぜ?」と思っておられる様です。彼等が当時の他の青年/学生運動の幹部とくらべて優秀な運動指導者であったかはわかりませんが、まちがいなく無私と善意の人たちであったと思います。極左暴力傾向と言う批判もありましたが、上に書いたようにそんなことが本質に関わる問題だと考えている活動家なんかいませんでした。この際、誤解とそれに基づく不名誉な取扱いを謝罪して、明日を共有した方が良いと思うのですが。まあ、ことのなりゆきで、言い過ぎはお互いにあったと思います。所詮は人間がした判断ですから、まちがいは避けられないでしょう。 私は今は党外の応援団のオジさんですが、昨年の政治状況など見ていて、なにかしなきゃあ、と思っているところです。そのなかでも若い人にとって魅力に溢れた党になってもらいたい、と思っているところです。あのころの党は輝いていました。 |
金城さんへ(2000.1.27日) |
取り急ぎ投稿させて頂きます。金城さんは少し先輩の方に当たるようです。恐らく67−69年辺りの闘争渦中を現役しておられたようですので当時のことをもっともっと教えて頂けたらと思います。私は、70年後のキャンパスの動きしか分かりません。従って、全共闘の実体に対して肌で感じたことはないのです。関連諸本からの類推で全共闘運動とは何であったのか総括しようとしております。そう言う意味で、金城さんの手触りと少し違う部分があるかとは思います。私の気持ちとしては、この辺りの実際に対して、この通信紙上で当時の民青同系の活動家・全共闘系の活動家・ノンポリの方たちにより実証して頂きたいと思っています。なぜ拘るかというと、67−69年期の左派運動は、戦後史上の青年大衆闘争としてエポックをなしており、あの時代には今日に有用ないろいろなメッセージが発信されているように思われるからです。小林多喜二的なプロレタリア文芸家がいたら魅惑的な作品が生まれ、今日の若者にも愛読され続けられている内容を持った作品が出来上がっているように思われます。個々の理論の是非は別にして、天下・国家論を多くの若者がコミュニケーションしていた事実こそが大事であり、今日の状況はこの点で閉塞しているのではないかと思っています。もっとも、こうしたパソコン通信が普及し始めることにより、新しいコミュニケーションが生まれつつあるのかなぁとも考えてはいますが。ちなみに、私は、こうしたコミュニケーションを通じた相互作用こそ確実な「生きる、生きている」ことの証なのではないかと考えています。 |
考察その四、(B)「党の強権論理の根拠理論」について(2000.1.27日) |
党の民青同に対する強権指導ぶりは、後世において無茶苦茶であったと総括されると思われるが、その理論的根拠の一つに「ベルト理論」がある。「ベルト理論」とは、党の方針・決定が伝達される場合に、党中央→大衆団体内の党員フラクション→大衆団体決議→国民一般への働きかけという図式でなされ、この間民主集中制原則が貫徹されて上意下達式に極力一方通行化するのが望ましいとされる理論である。問題は、党内ならともかくも、大衆団体組織に対してまでその自主性を尊ぶよりは、ベルト式自動調での下請け機関視されていることにある。党中央にとって非常に好ましい組織論・運動論の典型的理論であるということになるが、大衆団体組織を党中央に拝跪させるこうした理論の功罪は罪の方が大きいというのが今日では自明であるように思われる。こうした「ベルト理論」はスターリン時代に満展開された手法であるが、宮本氏の思考スタイルにもぴったりのものであったようで、宮本執行部確立以降においては反対派生息の臭いがし始めるや否や大衆団体諸組織に対してこの理論が堂々と押しつけられてきた。「宮本氏は、その後、このスターリン『ベルト理論』型思考に基づいて、1983年に、『民主文学四月号問題』で、対民主主義文学同盟クーデターを発動しました。そこでは、文学運動とまるで関係のなかった、元宮本国会秘書・宇野三郎常任幹部会員を粛清担当につけました。1984年には、原水協と原水禁・総評との統一行動問題で、対平和委員会、対原水協クーデターを強行しました。この対民青クーデターをふくめて、宮本氏は、共産党系大衆団体への3大クーデター事件を成功させた、『ベルト理論』の偉大な実践者です」ということになる。ちなみに、「民青同は日本共産党のみちびきを受ける」ことを規約に明記した組織で、この「みちびき」を拡大解釈すれば容易に「ベルト理論」と接合することになる。 |
考察その四、(D)「査問」の様子について(2000.1.30日) | |
私は、本来であれば当局との丁々発止のやり取りの中で続けられる党的運動を思うとき、党における査問自体の必要悪を否定するつもりはない。ただし、胡散臭い連中側からの査問なぞ認めるわけにはいかない。「闘争においては、正面の敵よりは味方内部に『送り込まれた』敵の方が憎いものである。正面の敵に裏から『通じている』者は、闘いの過程で味方の秘密情報を敵に流すことによって味方の被害をより甚大なものとし、時として壊滅的な打撃をもたらすからである」、概要「そればかりではない。正面の敵がふだんは遠いところにいて『つき合い』などすることもないのに、『送り込まれた』敵は、日常生活を通して自分たちの隣にいて良き隣人づらをしつつ、隙を窺い攪乱を準備する(注−この部分は私の追加)」(「査問」74P)という現実があるわけだから、組織防衛上査問自体は必要悪と考えられる。但し、厳格なルールの下に行なわれる必要があるであろう。
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もすこし建設的にいきませんか?->れんだいじさん(2000.2.1日、金城) |
この2-3回の貴氏の論調を見ての率直な感想です。権力と党幹部の陰謀説的な方向へ流れていきそうで、心配です。党幹部が実際に何を考えていたのか、「新日和見主義」の人たちが書いていることが真相なのか、おそらくかなりの時間が経たないと分からないのではないでしょうか。御自分で書いておられるのですが、そのわからないところをいろいろなエピソードから推測して「こうだ、こうにちがいない」というのは、推理小説ならともかく、党史論としてはちょっと受け入れがたい手法ではないでしょうか。 |
考察その四、(E)「被査問者の査問実感」について(2000.2.1日) |
川上氏は解放直後の実感として次のように述べている。概要「翌朝、私は初めて査問部屋から解放された。……茨木良和と今井伸英が入ってきた。今井が、『川上君、君、どっか籠るようなところない?ホラ、別荘とか』、『君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茨木さん、ネ』。私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのときのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った」(「査問」109P)とある。同じ気持ちを高野氏も伝えている。1998年5月号「諸君」の「『日共』の宿痾としての『査問』体質」紙上で、「それで僕は査問第一日目の結論として、この党にだけは権力取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてる」と述べている。 |
考察その四、(F)「処分とその後」について(2000.2.3日) |
この時新日和見主義者として処分された党員の数については、全国で600名とも1000名に及ぶとも云われている。党中央は未だに全貌を明らかにしていない。処分は1972年9月末の民青同第12回全国大会で承認された。民青同本部常駐中央常任委員だけでも15名中7名が処分されていた。処分は民青同だけにとどまらず、広谷俊二共産党中央委員や川端治、高野孟などの評論家にも及んでいた。全学連指導部の処分には向かわなかったようである。このことに関して、「党の影響下にあるとはいえ、全学連は大衆団体である。党の指導を公然と認めている民青とは根本的に違う。数十万の学生を擁する全学連が党の統制措置で混乱を来すとすれば、反党的学生運動の再来を招かないともかぎらない。かっての全学連や全自連指導部が党の処分で、逆に結束を固めたことも否めない事実だった。党中央はその経験から深謀遠慮の決定を下したものと思う」(「汚名」251P)とあるが、そうかも知れない。 |
考察その四、(G)「事件のその後」について(2000.2.4日) |
さて、ここまで新日和見主義事件を見てきたが、私の観点に拠らずとも次の程度まで総括することはごく自然であるように思われる。「処分された青年党員たちは、基本的に中央に忠実であったとはいえ、多少なりとも自主的に物事を考え、自らの創意と工夫で大衆運動を積極的に切り開く志向が強かった。それゆえ、彼らは、党幹部たちから不信の目で見られたのである。彼らが一掃されたことによって、もはや民青の上級幹部に、自主的に物事を考えることのできる活動家はほとんどいなくなった。民青は、二度と回復しえない大打撃を受けた。そして、これらの血気盛んな青年党員たちによって支えられていた共産党自身も深刻な打撃を受けた。宮本顕治を筆頭とする当時の党幹部たちは、運動の利益よりも、そして党自身の利益よりも、幹部としての自らの個人的利害を優先させたのである」。私は、共産主義運動内に「幹部としての自らの個人的利害を優先」させる作法が発生することなぞ原義に基づいて信じられない思いがするが、これが歴史の実際であり自他共に戒めるべき且つ何らかの制度的措置を講じる必要があることのように思われる。 事件から15年後の1987年4月上旬、なつかしさのこみ上げてきた元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。この動きは、手紙を受けた者の一人が「おおそれながら」と訴えでたことにより、党中央に知られるところとなった。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべきでないというのが党の見解です」と言いながら、党中央は何とかして会を中止させようと介入した。説得と指導を受けた小山は、「誰かの指示かだと? どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」と言い切り、離党届で始末を付けることを決意させた。 |
考察その四、(H)「事件余話」について(2000.2.5日) | |
69年の民青同と全共闘との内ゲバ時における宮本氏の関与が明かされている。通常このような青年・学生運動の成り行きに御大宮本氏自身が乗り出してくることは似合わないように思えるが、そこが氏らしい。氏が「新日和見主義事件」も含め、常に青年・学生運動の左翼的成り行きを極めてナイーブに危惧している姿勢が浮き彫りにされており興味深い。「宮本委員長が執務する部屋に直接案内されたこともあった。私がいい気になっていた頃である。あの時、宮本は私に詳細な報告を求めた。『われわれ』の側の武装情況、その指揮系統、食糧の供給状態、学生達の健康状態、ゲバ棒の数に至るまで、こちらが質問に即答できず慌てるほど詳細であった。奇妙な質問もあった。そうした現在の武装状況を一挙に解くことが出来るか。一夜にして『消す』ことができるのかと聞くのである。宮本が何を言いたいのか、私には分からなかった。私は出来ないことはない、と答えた。東大全共闘と全学連(民青系)の行動隊が双方1万人のゲバルト部隊を動員し、武装対峙したときのことである。宮本と会って間もなく、彼が質問した意味を理解することとなった。安田講堂を落とす為に機動隊が構内に突入するという形勢となったときのことである。党本部から緊急の指示が来た。明朝までに、ゲバ棒は一本残らず撤収すること、行動隊も一人残らず東大構内から姿を消すこと、この指示は絶対に守ること。これは、直ちに完璧に実行にうつされたのである。機動隊が導入された時、『われわれ』が拠点としていた場所からは一本のゲバ棒も発見されなかった。もちろんゲバルト部隊の一員たりとも。実行に移したのは『われわれ』であったが、今日そのような事態になることをあらかじめ予測し、詳細なデータを集めた宮本の細心にして大胆なことに舌を巻いた。『武装民青』のイメージは、マスコミから消すことに成功した」(「査問」38P)、「そのころは、学生問題関係は詳細にわたる事項までトップに報告され、少なくともその了解の下に決定され、実行に移されていた」(「査問」126P)とある。
おしまいは私の寓話。「行動心理学」なるものがあるとして次のたとえは私の胸を打つ。コックが食用カエルを調理するとき、カエルをいきなり熱湯の鍋の中に入れるとびっくりして「アッチッチッ」式に飛び跳ねて出てしまう。ところが、鍋の中の水を冷水状態にしておき、ここにカエルを入れると気持ちよく泳ぎ始める。仕掛けは次第にとろ火で熱していくことである。カエルは温泉気分になって我が世の春を謳歌するまもなく次第に眠くなる。こうしてゆでカエルの一丁上がりとなる。マァマァマァのうちに徐々に眠くさせられるところがミソと言える。 |
(私論.私見)