「共産党の理論・政策・歴史」投稿文41(新日和見事件考)

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件の前提考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「新日和見主義事件解析」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており読みやすい面と、後者は今後益々書き換えられていく予定なので原文を保持する為にもここに取り込んで遺しておくことにした。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)

 2006.5.18日 れんだいこ拝


考察その四、(@)「新日和見主義事件」概観(2000.1.22日)

 いよいよ新日和見主義事件の考察に入るところまでやって来た。以下の記述は、「赤旗」、著書「査問」・「汚名」・「突破者」、「さざ波通信」、「宮地健一HP」等々を参照させて頂いた。

 新日和見主義事件とは、70年代初頭に党−民青同盟−民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向に対し、宮本顕治氏の直接指示の下に党中央が摘発に乗り出したことから始まる。党は、71年12月第6回中委を開き、合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。72年5.7日民青同幹部の党員会議が開かれたが当然のように紛糾した。党中央は、会議直後用意周到に準備させた査問者リストの手筈に従い一斉に「査問」に着手した。民青同系全学連初代委員長・民青同中央執行委員川上徹氏始め有数の幹部達が補足され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。これが新日和見主義事件であり、「日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である」(「さざ波通信」)と言われているものである。「実に共産党系の青年学生運動の根幹部分で起こった査問事件であった」(「査問」前書き)、「共産党の閉鎖的な体質が最も顕著にあらわれたものの一つが、この『事件』だったと考える」(「汚名」)と今日事件の当事者が語っているところのものである。

 この時の「川上徹氏始め有数の幹部達」とは、「60年安保闘争」以降に育った大衆運動畑の青年党員活動家達であり、この間@.革共同・ブント生成期の際にも、A.春日(庄)らの構造改革派分派の際にも、B.志賀らの「日本の声」ソ連派分派の際にも、C.多岐な動きを見せた中国派分派の際にも、D.全共闘運動の際にも動揺せず、むしろ愚頓直なまでに「宮本顕治と日本共産党の旗」を護り、党に結集していたいわばゴリゴリの民青同活動家達であった。この連中が一網打尽されたというのが新日和見主義事件の本質であると思われる。「党最高幹部は年齢問題の仕掛けをつくることで、新日和見主義『分派』のあぶり出しに成功した。そして、本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする人々を排除した」(「汚名」200P)という観点こそが、この事件のキーであると私も同意する。

 新日和見主義事件は、今日の党を実質的に支配する二重構造を改めて露呈させているということにおいて考察に値打ちが認められる。党の二重構造とは、背後に君臨するのが宮本式の治安維持法的陰険狡猾な統制秩序であり、これに依拠しつつ表舞台で活躍するのが不破式スマイルによるソフト路線であり、この両者はあうんの呼吸で一対をなしていることを指す。新日和見主義事件は、この裏の構造が出っ張った事件となった。宮本氏の音頭取りで直接の指揮の下直伝の「査問」が行なわれたが、この経過から見えてくるものは、宮本氏が戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」に何らの反省をしていないばかりか、引き続きここ一番の常套手法にしている様が見えてくるということである。同時に氏が次代を担う青年組織に用意周到に常に警察的な目を光らせている様が自ずと見えてくることにもなる。個々の特徴としては、@.この「査問」が理由づけが何であれ、党指導下の青年運動組織に対する党の露骨な介入以外の何ものでもなかったということ、A.その介入ぶりが「非同志的査問=前近代的警察的訊問」手法を通して行なわれたということ、B.被査問者達がその後マークされ続け、陰湿ないじめられぶりを明らかにしていること、C.この時の査問関係者に警察のスパイが複数いたという事実、D.この事件で主要な役割を果たし真相を熟知している査問官茨木氏・諏訪氏が共に「過労死」しており、査問者側の真相告白の機会が失われてしまったことが惜しい、といったことに認められる。

 それでは、その川上氏らがどのような分派活動をしていたのか見てみよう。事件の概要とコメントが「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか─川上徹著『査問』について―」(1998.1.20日付「しんぶん赤旗」.菅原正伯記者)で為されているので、これを参照しつつ私流のコメントで応戦して見たい。菅原記者は、新日和見主義分派の理論について次のように解説している。概要「川上氏らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、党の『人民的議会主義』の立場に反対して『私的研究会』を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを『雲の上の情報』などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、党への不信をあおっていた」、「川上氏らは、その活動のさい、ある党員評論家(川端治氏のことと思われる−私の注)らを理論的支柱としていた」、「この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(71年7月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年8月、“ドル・ショック”といわれた)、72年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていました。アメリカが中国との接近・対話を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、ベトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視する『アメリカガタガタ論』、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める『日本軍国主義主敵論』、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な『沖縄決戦論』など、どの主張も、運動に混乱をもちこむ有害なものでした」、「川上氏らは、こうした主張の影響をうけて“日本共産党は沖縄闘争をたたかわない”“人民的議会主義はブルジョア議会主義だ”などと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた」、「しかも自分たちの議論を党や民青同盟の機関の会議などできちんと主張するようなことは避け、党や民青同盟の機関にかくれて『こころ派』などと自称する自分たちの会合を、自宅や喫茶店、温泉などで継続的にもって、党の路線に反対する勢力の結集をはかりました」と言う。

 私は、こういう歪曲と捏造とすり替えを見るたびに、既述連作投稿した戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」での宮本氏の詭弁を思い出す。というよりそっくりの論法に気づかされる。赤旗記者とは宮本論法を如何に上手に身につけたかを紙面で競う提灯記事の競い屋かも知れない。新日和見主義者達は、菅原記者が書いているような意味で『アメリカガタガタ論』・『日本軍国主義主敵論』・『沖縄決戦論』を本当に鼓吹していたのか。本当に新日和見主義者達が居たとした場合、彼らに紙上反論権が認められ、その見解が一度でも良いから赤旗で記事掲載されたことがあるのか。そういう事も問題にされぬまま、実際を知らせもせぬまま闇に葬むってしまうやり方はオカシクはないのか。こういう手法は党ならではに通用する封建的な「お白州」政治ではないのだろうか。
 ところで、広谷俊二の無念の死が川上氏の「査問」文中にて明らかにされているが、川端治氏のその後の動静については記述がない。何らかの配慮があるものと思われるが、私は知りたい。いかにもオールドボリシェビキ風の雰囲気を持った軍事評論家であったが、どなたか氏の査問のされ方、その後の様子について教えて頂けたら有り難い。健在なら良いのだけれども。


考察その四、(A)「新日和見主義者の解析私論」(2000.1.24日)

 「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか? 解析をしてみたい。私は、「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」(「汚名」262P)という観点に全く同意する。「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロッキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」というV記の作者(「汚名」262P)の感性を至当としたい。事実は、「新日和見主義者達とは未形成なままに存在していた民青同の闘う分子」であり、「この時点まで党の呼び掛ける民主連合政府樹立をマジに信じてその実現のために労苦を厭おうとしない一群の熱血型同盟員達」であった。でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自明であったから。

 そういうこともあって、あの頃民青同の闘う分子は本気で民主連合政府樹立を目指そうとし、そのために闘うことを欲していた。闘争課題は何でも良かったような気もする。「冷えかかった背後の空気を感じながら、私たちは沖縄闘争を闘っていた。まるでそれは、60年代から引き継いだこの灯を消して仕舞ったら、永遠の静けさの世界がやって来るのではなかろうかという、恐れに近いものでもあったろう」、「新日和見主義『一派』に括られた者たちの一部、主に学生運動の分野には、明らかにそうした傾向があった。運動の重さを辛うじて跳ね返し、なんとか闘争のヤマをつくりかけたさなかであった72年5月、新日和見事件が起こった」(「査問」206P)という語りはさすがに往時の指導者としての状況認識を的確リアルに示しており至当と思われる。

 次のような見方もある。「戦後民主主義の欠陥を指摘する新左翼には、それなりに状況を反映する感性がありました。問題なのは、新左翼の側には感性しかなかったということでしょう。そして、新左翼と正面から闘う民青であったのですが、前衛党の末端機関としての在り方に満足するのでなく、社会状況に主体的に対応する大衆的組織としての道を選ぶ限り、組織形態としては、理念において対決する新左翼と同じ多元構造を内部に取り込む課題が不可避なのでした。新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかったのですが、宮本顕治氏は、前衛組織防衛の本能を発揮し、民青に現れたその動向を『双葉のうちに摘み取った』のです。しかし、この摘み取り作業の結果、日本共産党は、新左翼的感性を取り込むことがないまま旧型左翼として旧世代の支持にのみ依拠する党となり、若者世代から見放される存在となっていったと私は見ています」(川上徹著『査問』の合評会.高橋彦博.1998.3.9日)。こういう高橋氏の好意的見方は伝わるが、少々評論的過ぎるように受け取らせて頂く。「新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかった」というこの見方は、闘おうとする意欲の源泉をこの絡みで見ようとする点で同意しうるが、「新左翼と正面から闘う民青」とその方向に指導した宮本−不破執行部体制に付きまとう胡散臭さに対する批判的観点を基点にしない限り喧嘩両成敗に帰着させられてしまう。新日和見主義の本質は、油井氏の喝破しているように「本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする」70年代初頭に立ち現れた党−民青同盟−民青同系全学連の一群の戦闘的傾向、この傾向には「新左翼と正面から闘う民青」論理の不毛性を突破させ確実な闘争課題に勝利していくことで実質的に社会変革を担おうとする戦闘的分子が混交しており、この動きに対して、元々反動的な宮本一派が正体を露わにさせて乾坤一擲の粛清に着手した事件であったとみなさない限りヴィヴィドな視点が確立されえない。

 事実、70年代を迎えて新左翼運動の瓦解現象が発生したが、党は、これと軌を一にしつつ既にかっての熱意で民主連合政府樹立を説かなくなっていた。この落差に気づいた私の場合、民主連合政府樹立スローガンが全共闘運動を鎮めるために党が用意した狡知であったということを認めるまでに相応の時間を要した。私の政治意識が遅れていたということであろうが、認めたくない気持ちが相応の時間を必要とすることになった。党がこの頃から替わりに努力し始めたことは、「社会的階級的道義」の名で道徳教育の徳目のようなことの強調であり、まるで幼児を諭すようにして党員達に対する注意が徹底されていった。概要「70年代にはいると共に、党内での教育制度がきめ細かく制度化されるようになった。初級、中級、上級といったランク化された試験制度が定められ、それぞれの講師資格を取得することが奨励され始めた。党員全体に独習指定文献が掲げられ、専従活動家はそれを読了することが義務化された」、「党組織全体が巨大な学校のようになった。民青組織においてもその小型版が模倣されるようになっていった。私には到底堪えられる制度ではなかった」(「査問」207P)。私は吐き気を覚えた。

 ところで、宮本氏はこの辺りの変節に対して自覚的であり、意識的に事を進めているように思われる。この冷静さが尋常ではないと私は思っている。氏の眼は、民青同の中に闘おうと胎動しつつあった雰囲気を見逃さなかった。ホントこの御仁の嗅覚は警察的であり、この当時の公安側の憂慮と一体のものとなっている。70年安保闘争後のこの当時に青年運動レベルにおいて勢力を維持しつつ無傷で残ったのは民青同と革マル派であった。革マル派については別稿で考察しようと思うので割愛するが、70年以降「左」に対する学内憲兵隊として反動的役割をより露骨化させていったのが特徴である。となると、残るのは民青同の処置である。元々民青同は青年運動の穏和化に一定の役目を負わされていたように思われる。ところが、この頃民青同は、「新左翼系学生との闘争を通じ、“ゲバ民”のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきました。そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになりました」、「宮本氏にとって、70年安保闘争、大学紛争、“ゲバ民”後の川上氏らの民青中央委員会や民青中央グループの態度は、“分派ではない”ものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映りました」(宮地健一HP)とある通り、新左翼運動を目の当たりにした相互作用からか幾分か戦闘的な意欲を強めつつあった。沖縄返還運動に対してその兆しが見えつつあった。党の議会闘争も成果を挙げつつあり、共産党の選挙での躍進を通じて全国的地方レベルでの革新自治体の誕生と広がり、地方議員の誕生等々が並行して進行していた。

 このような背景を前提にして宮本氏の出番となる。“ゲバ民”武装闘争体験者である川上氏の民青同指導が党の統制の枠を離れて指導部を形成し始め、民主連合政府の樹立に向けての本格的な動きを志向しつつあった、ように宮本氏の眼に映った。恐らく、70年代の青年学生運動の流れを俯瞰したとき、組織的に無傷で温存された民青同は20万人の組織に成長し一人勝ちの流れに乗ろうとしていた。この動きは、対全共闘的運動の圧殺に成功した公安警察側の最後の心配の種であった。既に戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑致死事件」で解析したように宮本氏の奇態な党指導者性からすれば、当局のこうした意向が地下から伝えられ、これを汲み取ることは訳はない。

 こうして、宮本氏の嗅覚は“分派のふたばの芽”を嗅ぎ取ることとなり、後はご存じの通り“例の”党内清掃事業に乗り出すことになった。この清掃事業に対して、新日和見主義者達は「何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」(「査問」226P)。長い自問自答の熟考の末、事件の主役として査問された川上氏は、好意的に次のように理解しようとしている。「共産党はこの『事件』をきっかけにし(ある意味では利用し)、自覚的にか無自覚的にか、自身が一種の『生まれ変わり』を果たそうとしたのではないかと考える。一つの時代の区切りをつけたかったのではないかと。それを『右旋回』と呼ぶか『官僚化』と呼ぶか『柔軟化』と呼ぶかはその人の立場によって異なるであろう」(「査問」152P)。つまり、被査問者達は、宮本−不破ラインの党をなお信用しようとしており、自分たちが党の新路線問題で粛清されたと理解したがっているようである。しかしこうでも考えないと今だに「当事者達が何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかったのである」ということであろう。

 こういう結論に至る背景には、私には根深い宮本神話の健在と宮本式論理の汚染が影響しているように思われる。宮本神話については次のように告白されている。「あの『事件』がおきる一年くらい前まで、私自身は『熱狂的』ともいえる宮本顕治崇拝者であった」、「頼りになるのは宮本顕治だけだと考えた。宮本の話したり書いたりした一言一句といえどもおろそかにしてはならぬと信じたし、これに異議をとなえるものは『思想的に問題がある』と信じた」。この連中に他ならぬ宮本氏その人の指示で襲ったのが「新日和見事件」であった。この衝撃の落差を埋め合わせるのに各自相応の歳月を要したようである。私は既に公言しているように、宮本氏の戦前−戦後−現在の過程の一切を疑惑しているので、この事件の解明はそう難しくはない。現党執行部が公安内通性の然らしめるところ党内戦闘的分子(又はその可能性のある者)を分派活動の理由で処分したものと理解することが出来る。川上氏は現在この立場での認識を獲得しているように思える。今日においては「あれほどコケにされた体験」と公言している。漸く「アノ世界からあれほどコケにされた体験」を客観化し得、この瞬間から「コケにした者達」への疑惑を確信したものと推測される。

 こうした認識上の延長からこそ以下に記す事態の凄みが伝わってくる。「査問」に先だって用意周到な首実検の場面が川上氏の体験で持って明かされている。72年初の新年の旗開きの席のことである。宮本氏は、彼らの“傾向”を直接観察するための場として、代々木の共産党中央本部で党本部幹部多数と民青同中央常任委員の合同レセプションを開いた。その場の宮本氏について次のように書かかれている。「私の眼は、会場のいちばん角の薄暗くなっている一角にじっと座っている、大きな人影を見つけだした。……私はそれまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。冷たいものが走る、という言い方がある。そのときに自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか。誰もいない小さなその部屋で、私は、あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」(川上著「査問」13P)。


「新日和見主義」と「全共闘」によせて(2000.1.25日、金城)

 れんだいじさんが精力的にアップされていますが、この頃の学生運動に関わっていたものとしては、同感できるところ出来ないところあい半ば、という感じがします。

 時間的には「全共闘」が先になりますが、れんだいじさんが言っている「東大-日大闘争」というは単に社会的な注目度が大きかった大学闘争と言うだけで、このころは日本中のほとんどの大学で多かれ少なかれ「闘争」「紛争」がおこっていました。日大と東大では背景に違いが多すぎてとても一つの括弧で括ることができるようなものではなかったです。
 れんだいじさんがとりあげたかったのは、「全共闘」という運動体なのでしょうが、それも東大では(旧)社学同全国書記局派の旧活動家が理論的にも組織的にも核となっていたのにたいし、日大では右翼系暴力にたいする自然発生的な活動家、ではなく、活動的学生の集合体であって、共産党系の「銀鷲行動隊」も参加していた、というのが実態でした。したがって東大の場合は安保ブンドの「大衆運動の前衛からの独立」思想(となってしまった、実は情緒だと思うのですが)が当初から確固としており、これに「自立の思想」「自己否定」だの、「大学コンミューン」「大学解体」だの、「日常性からの脱却」だのといった雑多で錯綜したエモーショナルな空論が絡まっていったわけですが、これはこれで相当の学生の共感をえたわけです。この「大衆的」ともいえる運動に「新左翼」各セクトが指導権を獲得すべくなだれ込んだ訳ですが、党派性をもったセクトと党派性への嫌悪から発生した「全共闘」とは最後まで融合することはなかったですね。最終局面ではセクト間の(とくに革マルvs青解/中核)主導権争い、内ゲバの頻発で「全」共闘が崩壊する訳ですが、組織の出自から(以下、文字化け・・・編集部)。共産党のこの頃の大学問題に対する政策は「大学の民主的改革」ということで、具体的には大学の運営への学生の参加を機構化することだったわけです。

 学生運動の実際面では「正当防衛論」ということで、ある程度の実力行使もやむを得ない、とされました。実際に、セクト各派は徹底した議論の中での多数派を指導部とする、などという「ブルジョア民主主義」は当初から念頭になく、自治会、寮、文化祭や生協の代議員会において多数派である自分達が少数になる可能性がある、あるいは逆に自分達が現在は少数派でも多数派を握れる状況とみれば反対派を単純に暴力で排除する、最初から会場へ入れない、という行動に出るので、代議員会自体が正常に機能しなくなる訳です。さらにエスカレートすると反対派は大学構内で見かけただけで襲撃するというところまでいってしまいます。われわれも当初は暴力反対、ということでビラや立て看板での応戦をしていたのですが、上のような主に自治会関係の指導部争いのほかにも、「XX問題での日共の方針を自己批判しろ」とか言って突然ヘルメット/ゲバ棒で襲撃してくる、単に自分達の拠点が必要だからというだけでサークル室を占拠してしまう、という自体が日常茶飯になると左の頬を差し出す代わりにヘルメットを着用しよう、となってしまうわけでこれは本当に「正当防衛」とし(以下、文字化け・・・編集部)。東大でも同様でした。当初は「全共闘」も思想運動の側面が強かったと思いますがセクトのなだれ込みと同時に、全都動員だ、全国動員だのの組織戦に変容してゆきました。われわれも「都学連行動隊」として駒場や本郷での泊まり込みの毎日でした(ちなみに宮崎学さんの「突破者」で使われている”あかつき行動隊”という言葉は、学生運動に労働者党員がゲバ要員として動員されている、として革マルなどが言い出したデマで、そんなものは存在しません――会社休んでゲバ、なんてできません)。それ自体が目的でしかない「全学封鎖」の阻止、代議員会の防衛、拠点自治会の防衛などなど、我々にとっては議論の場は実力をもってしか確保することができなかったのです。

 これまでのところで、当時の学生運動に関わっていなかった方におわかりいただきたいのは、マスコミにともすれば花々しく取り上げられた暴力問題と言うのは、じつは事の流れからいえば馬鹿馬鹿しい程に単純な、大学問題とは全く関係のない、異次元のことであったということです。問題は大学をどうするか、ということで「全共闘」にしても反日共系セクトにしてもそれにたいしてはなんらの積極的政策はもっていなかった、あるいは組織構造からして持ち得なかった、あったのは「叛XX」という情緒/エモーションだけであった、ということです。

 実はこれからが私個人の問題です。大学問題についてなんらかの提案をできたのは共産党だけでした。このことは冷静になって観察して見れば単純な事実です。しかし、「情緒」をベースとしてかなりの数の学生が「全共闘」運動に参加していったのも事実です。論争になれば我々は必ず勝ちます。でも熱狂している彼等に、これが通用しなかった、ということをどう考えれば良いのか、「左翼小児病」は対処の方法がないのか、今もよくわかりません。いわゆるトロツキストの活動家を徹底した理論攻めで何人かをこちらの陣営に入れることはできました。法学部系で理屈が優先の人たちでした。それにはとても長い時間を要したのですが、「全共闘」が短期間に影響できた数には遠いものがありました。ほぼ同じことでしょうが、共産党系の学生運動はこの種の熱狂、情緒を盛り上げるのがあまりうまくないと思います。当時は「平時の民青、戦時の三派」などといわれたものでした。

 長くなりましたので後は簡単に書きますが、「新日和見主義」について思うのはまず、党指導部にはなんらかの誤解があったのでは、ということです。再建全学連の初代委員長川上さんとか都学連の早乙女さん、宮崎さんとが反党分派などを考えていたとは全然思えません。なぜ党指導部がそんな誤解をしたのかはわかりません。「査問」を読むと、川上さん自身が最後まで「なぜ?」と思っておられる様です。彼等が当時の他の青年/学生運動の幹部とくらべて優秀な運動指導者であったかはわかりませんが、まちがいなく無私と善意の人たちであったと思います。極左暴力傾向と言う批判もありましたが、上に書いたようにそんなことが本質に関わる問題だと考えている活動家なんかいませんでした。この際、誤解とそれに基づく不名誉な取扱いを謝罪して、明日を共有した方が良いと思うのですが。まあ、ことのなりゆきで、言い過ぎはお互いにあったと思います。所詮は人間がした判断ですから、まちがいは避けられないでしょう。

 これは私のまったく個人的な感覚なのですが、じつはあの人たちは先に書いた青年/学生の「情緒」と運動の発展についてなんらかの――無意識かも知れませんが――所感を持っている人たちではないでしょうか。これが正しい方針/政策である、その実現のプロセスはこうこうである、と人から(上から)言われて動ける人と、そうかも知れないがまず自分で考えさせてくれ、という人たちがいますから、この後の人たちへどう働きかけるか、それを考えていたのが「新日和見主義」の人たちではなかったのか、と、まあ彼等の内の何人かの知りあった人との交際から感じているわけです。

 私は今は党外の応援団のオジさんですが、昨年の政治状況など見ていて、なにかしなきゃあ、と思っているところです。そのなかでも若い人にとって魅力に溢れた党になってもらいたい、と思っているところです。あのころの党は輝いていました。


金城さんへ(2000.1.27日)

 取り急ぎ投稿させて頂きます。金城さんは少し先輩の方に当たるようです。恐らく67−69年辺りの闘争渦中を現役しておられたようですので当時のことをもっともっと教えて頂けたらと思います。私は、70年後のキャンパスの動きしか分かりません。従って、全共闘の実体に対して肌で感じたことはないのです。関連諸本からの類推で全共闘運動とは何であったのか総括しようとしております。そう言う意味で、金城さんの手触りと少し違う部分があるかとは思います。私の気持ちとしては、この辺りの実際に対して、この通信紙上で当時の民青同系の活動家・全共闘系の活動家・ノンポリの方たちにより実証して頂きたいと思っています。なぜ拘るかというと、67−69年期の左派運動は、戦後史上の青年大衆闘争としてエポックをなしており、あの時代には今日に有用ないろいろなメッセージが発信されているように思われるからです。小林多喜二的なプロレタリア文芸家がいたら魅惑的な作品が生まれ、今日の若者にも愛読され続けられている内容を持った作品が出来上がっているように思われます。個々の理論の是非は別にして、天下・国家論を多くの若者がコミュニケーションしていた事実こそが大事であり、今日の状況はこの点で閉塞しているのではないかと思っています。もっとも、こうしたパソコン通信が普及し始めることにより、新しいコミュニケーションが生まれつつあるのかなぁとも考えてはいますが。ちなみに、私は、こうしたコミュニケーションを通じた相互作用こそ確実な「生きる、生きている」ことの証なのではないかと考えています。

 金城さんよりそして他の方からも今後も積極的にご投稿頂けましたらホットします。何せ、私の投稿が「さざ波通信」の盛り上がりを邪魔しているのではないかと譴責を受けており、随分気にしているのです。もっとも、一線を踏み越した発言していますので、気分を悪くされる者も多いだろうとは予想しており、全ては我が身が招いていることを承知しています。しかし、私の性格上ほんわかとした発言が出来ないのです。思ったことを思った通りに発言しないと私自身が納得し得ないので目一杯の発言にどうしてもなってしまいます。どうぞそういう私を片隅に追いやって下さい。私もいろんな意見を聞かせて頂いた方が勉強になりますし、いろんな見方を知る方が為にもなります。


考察その四、(B)「党の強権論理の根拠理論」について(2000.1.27日)

 党の民青同に対する強権指導ぶりは、後世において無茶苦茶であったと総括されると思われるが、その理論的根拠の一つに「ベルト理論」がある。「ベルト理論」とは、党の方針・決定が伝達される場合に、党中央→大衆団体内の党員フラクション→大衆団体決議→国民一般への働きかけという図式でなされ、この間民主集中制原則が貫徹されて上意下達式に極力一方通行化するのが望ましいとされる理論である。問題は、党内ならともかくも、大衆団体組織に対してまでその自主性を尊ぶよりは、ベルト式自動調での下請け機関視されていることにある。党中央にとって非常に好ましい組織論・運動論の典型的理論であるということになるが、大衆団体組織を党中央に拝跪させるこうした理論の功罪は罪の方が大きいというのが今日では自明であるように思われる。こうした「ベルト理論」はスターリン時代に満展開された手法であるが、宮本氏の思考スタイルにもぴったりのものであったようで、宮本執行部確立以降においては反対派生息の臭いがし始めるや否や大衆団体諸組織に対してこの理論が堂々と押しつけられてきた。「宮本氏は、その後、このスターリン『ベルト理論』型思考に基づいて、1983年に、『民主文学四月号問題』で、対民主主義文学同盟クーデターを発動しました。そこでは、文学運動とまるで関係のなかった、元宮本国会秘書・宇野三郎常任幹部会員を粛清担当につけました。1984年には、原水協と原水禁・総評との統一行動問題で、対平和委員会、対原水協クーデターを強行しました。この対民青クーデターをふくめて、宮本氏は、共産党系大衆団体への3大クーデター事件を成功させた、『ベルト理論』の偉大な実践者です」ということになる。ちなみに、「民青同は日本共産党のみちびきを受ける」ことを規約に明記した組織で、この「みちびき」を拡大解釈すれば容易に「ベルト理論」と接合することになる。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして「一国一前衛党理論」がある。「一国一前衛党理論」とは、一つの国には一つの前衛党しかあり得ないとする議論で、時の執行部を権威付けあらゆる分派活動を厳格に禁止する論拠となった。こうなると、前衛党の執行部を掌握した者ないしそのグループには正統のお墨付きが授与されることになり、この如意棒を振り回すことで絶大な権力が形成されることは自明であろう。わが国においては、「六全協」後宮本グループが党内権力を確立し、以来反対派はその都度異端視され排除されつつ今日まで至っている。これに対し、70年代の後半からであったか、「当時中野徹三、藤井一行、田口富久治ら一部の党員政治学者たちがマルクスやレーニンの党組織論にさかのぼりながら、それまで共産主義運動の中では自明のこととされた『一国一前衛党』論に対する疑問の提起を始め、スターリン主義の批判的検討に向けて精力的な理論活動を始めていた」、「しかし、理論的に複数の前衛党がありうるとすれば、党内に発生した分派は、もう一つの前衛党の萌芽かもしれない。少なくとも分派だからといって直ちに『反革命分子』と決めつけることは出来なくなる。学者達は、マルクスやレーニンも本当は『一国一前衛党』などとは言っていないはずであり、単純なドグマに仕立て上げたのはスターリンだったのだ、と議論を展開していた」(「査問」176P)。こうした理論的貢献を認めるほど現党中央は度量が大きくはない。党中央は、このような理論的解明に向かおうとする学者達に対する締め付けを強化発動させた。不破氏は、こうした際には最も戦闘的イデオローグとして立ち現れ、口舌家として活躍することになる。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして「民主集中制組織理論」がある。この組織原則の実際の運用のされ方は、「民主」を成り立たしめる手続き的要件の解明に向かうことなく専ら「集中」の作法に則っての恭順を党内に催促することとなり、これに誰も異論を唱えられないという不思議さを生じさせる。こうなると、「民主集中制」とは名ばかりであり、実際には権力掌握者一般が常用してきた権力理論そのものでしかない。しかしながら、これが好評で、国際共産主義運動に広く採用された「不変の原則」的組織論となって今日まで通用している。これを説明すると紙数を増すばかりとなるので、分かりやすい定型句で説明する。「共産党の原則からすると、党中央の方針は絶対のものである」、「共産党には党中央委員会に従わねばならないという原則がある」、「党には、党の決定は無条件に実行しなければならない。個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に、全国の党組織は、党大会と中央委員会に従わなくてはならないという党規約がある」、「忠実な党員ほどこの原則は絶対的なものであり、こうした党員が党を支えている」、「次には疑うこと自体が問題だという思考方法に発展する。こうなると、中央幹部のいうこと以外目に入らなくなる」。

 どうやら、こうした組織論の前提として、「党は組織全体が一つの体のようなものであり、その頭脳は中央委員会であり、個々の党員はその細胞のようなものであり、細胞の情報の一切が頭脳に集中されてこそ」云々(「査問」23P)という頭脳=党中央・その他の身体機能=党官僚組織・身体細胞=個々の細胞党員というアナログ唯物論が背景にあるように思われる。とするならば、最新の大脳生理学とかDNA理論を大胆に取り入れ、身体機能の相互関連の仕方を学び直す作業が急がれており、このことには大いに意味があるということになる。ちなみに、民青同は「日本共産党のみちびきを受ける」手足のような青年組織機関で、「党にとって重要なプール組織である」とも認識されている。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして、党規約「第2条8項違反容疑」というものがある。第2条8項とは、「党の内部問題は党内で解決し、党外にもちだしてはならない」という内容である。この文言だけなら有り得る党規律のようにも見えるが、ここでも問題は基準づくりである。「党内」・「党外」の範囲に対して驚くべき拡大解釈がなされていくことにより、容易に規律違反がでっち上げられ統制処分の対象となる。「党の内部問題」には、専従の就任から解任、会議の内容という事実的事象に留まらず、党の理論問題・党幹部の発言までが含まれ、これらに対する批判的見解、異論の一切が「党の内部問題の漏洩」に結びつけられることになる。不思議なことは、「党外にもちだす」とは、日本共産党の外部というだけではないらしい。民主集中制の垂直制組織原理の下では、共産党内の他支部所属の党員にその批判、異論を話すことも含まれるということのようである。日本共産党の「垂直制組織原理に基づく組織の縦割り的仕組み」からすれば、横どうしの横断的交流は規律違反で、上下関係しか認められていない。日本共産党の一つの支部、あるいは一人の党員にとって、他の支部は「(準)党外にあたる」ということになる。従って、党内での水平的組織交流を通じての批判・異論の開陳は、すべてこの党規約第2条8項違反の規律違反として処罰の対象になる、ということのようである。

 そもそも党組織論における「垂直制組織原理に基づく組織の縦割り的仕組み」の由来は「レーニンとボリシェビキ時代」に遡るようであるが、現在の日本共産党の「人民的議会主義路線」時代には不釣り合いな規定のように思われる。現党中央は、一方で議会を通じての平和革命の可能性の現実性を頻りに説きながら、他方でこうした前近代的とも言える組織論を見直し新しい時代の可能性と現実性に基づいた組織論についてなぜ考究しようとしないのだろう。整合的に説明して貰いたい。今やポルトガル共産党と、日本共産党の二党だけに残る組織原理ということのようであるがオカシクはないのか。このことに関して宮地氏は次のように解説している。「合法政党になったのにもかかわらず、それを放棄しない理由として考えられるのは、一つです。横断的、水平的交流を厳禁し続ける方が、党内管理、党中央批判抑圧の面で最適だからです。この組織原則を堅持する以上、党中央批判が集団的になることは絶対ありえません。なぜなら、一人の意見は、上級機関に対して“垂直”にしか提出できず、それを握りつぶすことも、その批判者に規約外の“陰湿な報復”をすることも、常任幹部会の恣意的な裁量にまかされるからです。それだけでなく、集団で批判を話し合ったり、あるいは提出する動きがあれば、『分派活動容疑』『規約第二条八項違反容疑』で査問し、党内排除・党外排除の粛清をただちに遂行できるからです。常任幹部会の地位安泰にとって、これほどありがたい組織原則はありません」、「専従、党議員、機関役員の党中央批判意見書の提出行為も、ストレートには査問の対象になりません。しかしその提出者に対して、専従の場合は即時解任、党議員、機関役員の場合は次期非推薦という党中央常任幹部会の陰湿な報復をうけます。これは、規約に基づかない報復処分ですので、党内でのそれとの闘争手段はまるでありません。どれだけ多くの党員が、この不条理な粛清に“泣き寝入り”してきたことでしょうか」とある。

 もう一つ、党の強権支配を容認せしめる理論的根拠になっているものとして、「スパイ容疑」理論がある。スパイは、戦前は特高とつながっていたが戦後は公安調査庁との関係となる。公安調査庁は様々な巧妙な手口でスパイ工作を仕掛けるが、スパイはもっともスパイらしくない顔をして働くという単純なことが忘れられやすい。スパイは最も熱心にスパイ摘発を行なう側で画策する傾向があり、言葉尻だけでは判明しないということを付言しておく。ソ連邦等革命政権を樹立した国家においては、更に国家反逆罪容疑、西側のスパイ容疑、トロッキスト断罪、党破壊工作者、反革命罪などが加わる。史上、スパイ容疑者に対する拷問、スパイ自白への巧妙な誘導、スパイを自白した者に対してなされた処分としてのその場での銃殺・強制収容所送り・強制重労働・懐柔の例は枚挙に暇がない。

 こうした様々な党の強権支配を容認せしめる理論が結節したものとして「分派禁止理論」があるように思われる。「 ここでいう分派とは、日本共産党の内部で、党の方針に反対したり、自分たちの方針や考えを党に押しつけるなどのためにつくられる派閥的グループのこと」であり、「日本共産党は、党の規約でこういう派閥活動、分派活動を禁止し、党員は『全力をあげて党の統一をまもり、党の団結をかためる。党に敵対する行為や、派閥をつくり、分派活動をおこなうなどの党を破壊する行為はしてはならない』(第二条)とさだめており」、「これは、1950年に当時の徳田書記長らの分派活動によって党中央委員会が解体され、全党が分裂と混乱に投げこまれた『50年問題』という党自身の痛切な体験を教訓にして確立されたもので、統一と団結を保障する日本共産党の大事な組織原則の一つであり、国民に真に責任を負おうとする近代政党なら当然の原則です」と言う。「徳田書記長らの分派活動」云々と平然と言い放つ感性は共有しがたいが、とりあえず論旨として聞いておくことにする。

 これに対する宮地氏の次のような指摘を紹介しておく。氏は、分派活動には上記のような反「党中央」的分派だけでは無く3つの判定基準があると言う。通常言われる分派とは、「政党の内部で、その綱領や方針と規約に反対してつくられる派閥的グループ」のことであり、反「党中央」分派として立ち現れることになる。これに対して、党中央派の前衛党最高指導者グループによる私的分派もれっきとした分派の一つではないかと言う。それはそうだろう、秘書軍団も含めた宮本グループはれっきとした宮本分派であると私も思う。もう一つ、このたびの新日和見事件で鋳造されたような「2人分派、3人分派と云われる偽造分派」もあると言う。偽造分派とは、偽札や偽造コインのようなもので本来の分派要件を満たしていないが、党中央派により無理矢理でっち上げられる分派のことを言う。新日和見事件の場合、“分派のふたば”を嗅ぎ取れる程度のものでしかなかったが、個人宅、喫茶店、居酒屋などで一回でも党中央批判した者に対して「2人分派」を認定していくことになったのがその好例であると言う。「2人分派」理論は恐ろしい。二人でコソコソないしボソボソと話をしただけでも分派容疑になり、これでは党員同志の本音話しは出来っこない。これに密告奨励が加わると立派な治安維持法下の体制ではないのか、と思えたりする。史上「袴田の分派活動」も宮本式規律違反デッチ上げによる宮本鋳造“偽造分派”ではないかと言う。つまり、こうした新基準で分派認定すれば際限がないことになり、党中央派に対するイエスマン以外は危ないということになる。ただし、こうしたこれほど極限化された分派認定は宮本体制下の日本共産党特有の理論のようである。


考察その四、(D)「査問」の様子について(2000.1.30日)

 私は、本来であれば当局との丁々発止のやり取りの中で続けられる党的運動を思うとき、党における査問自体の必要悪を否定するつもりはない。ただし、胡散臭い連中側からの査問なぞ認めるわけにはいかない。「闘争においては、正面の敵よりは味方内部に『送り込まれた』敵の方が憎いものである。正面の敵に裏から『通じている』者は、闘いの過程で味方の秘密情報を敵に流すことによって味方の被害をより甚大なものとし、時として壊滅的な打撃をもたらすからである」、概要「そればかりではない。正面の敵がふだんは遠いところにいて『つき合い』などすることもないのに、『送り込まれた』敵は、日常生活を通して自分たちの隣にいて良き隣人づらをしつつ、隙を窺い攪乱を準備する(注−この部分は私の追加)」(「査問」74P)という現実があるわけだから、組織防衛上査問自体は必要悪と考えられる。但し、厳格なルールの下に行なわれる必要があるであろう。

 宮本一派が戦前の大泉・小畑氏に対してなしたような、いきなりピストルで脅しての手縄・腰縄・足縄・猿ぐつわの下での食事を供せず便用の自由をも拘束したような査問は、どう強弁されようとも認められない。その点でこのたびの「新日和見主義者」達に為された査問はそのような原始野蛮な手法ではなかったことはやや改善の後が見られる。代わって採用されたやり方は精神的に追い込む手法であった。

 ここで言いたいことは、「民主集中制」もそうであるが、査問についても厳格に運用基準が定められ、その経過と内容に付き極力公表されるべきではないかということである。ここを無視すると査問が権力者の強力無比な如意棒として乱用され、勝者の一方的論理を聞かされてしまうことになってしまう。ブルジョア法の下であろうが、この点において法の運用には一定のタガが填められていることは良いことのように思われる。一般に法律は、「条文」とその理解のための「手引き」と関連した「判例」等により、適用をめぐっての厳格な実施要綱が定められていることを良しとする。これは市民社会下のルールとして歴史的に獲得されてきたものとみなすことが出来、一般に広く支持されている。ところが、党の場合、規約運用は未だ権力者の恣意性に導かれており、適正な遵法のさせ方としては肌寒い状況にあるのではなかろうか。既に多くの法学者が党員として結集しているように思われるのに彼らは一体何を学んでいるのだろう。党外の者に日本国憲法の基本的人権を滔々と説明する姿勢があるのなら、まずは党内にもその眼を向けては如何なもんだろう。党内権力者の恣意性を御用化するような法学者の精神は、官僚機構の「法匪」以下の水準にあると思われる。このようなブレーンに国の運命を託したとしたらと思うとゾッとするのは私だけではなかろう。

 党の規約における査問の根拠は次のように定められている。党規約第59条は、党員でありながら党をあざむきこれを破壊しようと規律に違反した者が出てきた場合に、組織を守るために、党はその者を「処分」することができると定められている。そして同条第二項は「規律違反について調査審議中のものは−−−党員の権利を必要な範囲で制限することができる」とある。査問とはこの「調査審議」のことであるとされている。「正式に査問の意味内容を説明するのは、この四文字だけである」(「査問」前書き)ということのようで、正式用語はあくまで「調査審議」であり、査問という用語自体は党規約、党文書のどこにも載っていないという代物であるらしい。ところが、党内では、早くも戦前の党活動において宮本氏が中央委員に昇格した頃よりしばしば査問が行なわれてきているという事実がある。その実態は、紳士的で、“同志的”な「調査審議」どころではなく、憎悪の掻き立てられた「反党分子、階級敵への調査問責」であり、それは、警察による「犯罪者の取り調べ、尋問」と同じ内容、雰囲気を持っているというところに特徴がある。

 以下、査問がどのような容疑を対象にし、どのような形態で行なわれるかを考えてみることにする。新日和見主義事件に先行して宮地氏の査問の様子が自身によって公開されている。 宮地氏らに対する査問とは、党勢拡大責任の極度な一面的追及、党内民主主義を踏みにじる指導を見せていた箕浦一三准中央委員・県副委員長・地区委員長等への1カ月間にわたる地区党内あげての批判運動が逆に切り返され、追及者等が“分派・グループ活動”と認定され処分された事件であった。新日和見主義事件の5年前の1967年5月頃のことで『愛知県5月問題』と言われている。この分派、グループ活動容疑では、数十名が査問され、そのうち宮地氏等十数名が“監禁”査問された。宮地氏は、地区常任委員としてその“分派・グループ的批判活動の首謀者”と見なされ、21日間にわたって“監禁”査問されたと公表している。宮地氏は、この時の体験を通じて、党の査問が現行市民社会のルールの水準以下の旧特高的やり方であり、「日本共産党に市民社会的常識の秩序の適応を求める法的手段を講じよう」として対共産党裁判を実際に起こしたという珍しい経歴を見せている。この裁判を通じて、黙秘権、弁護士的な第三者機関の立ち会い・連絡、反論権などが全く尊重されていない「疑わしきは、被告人に不利にする」査問の実体が暴露されている。「人民的議会主義」の裏面がこのようなものであるとしたら、かなりの大衆は卒倒してしまうであろう。

 で、新日和見事件の場合、どのように査問が運営されたかを以下見ていくことにする。まず指摘しておきたいことは、「新日和見主義者」達の場合確定した反党活動があったのかというと共通して「何も無かった」という驚くべき事実が報告されている。査問側は査問を通じて必死で裏付けを取ろうとしたが、「組織された反党活動」は見いだされなかった。こうして証拠が出なかったところから、「星雲状態にあった」とか「双葉の芽のうちに摘んだ」とか恐るべき居直りで事後対応せざるをえないことになった。つまり、「新日和見主義者」達は「別件逮捕のようなもの」で査問され、にも関わらず本筋において容疑が確定しなかったという二重の大失態を見せたことになる。今日こういう失態を警察が演じたとしたら大問題にされるところである。巧妙なことは、査問された側に、党の側からの呼び出し状であるとか、処分決定の言い渡し状であるとかが一枚も残されていないことであり、ほとんどを電話とか口頭命令で出頭させていることである。つまり、本人が明らかにしない限り事態の表出が困難にされている。後で見るように本人には堅く箝口令が敷かれている。

 驚くべき事はまだまだこれから明らかになる。川上氏・新保氏・油井氏の例しか伝えられていないのでこれを参照する。査問官は下司順吉・諏訪茂・宮本忠人・雪野勉・不破・上田・小林栄三・宇野三郎・今井伸英辺りが知れるところであるが、他の被処分者も含めてこの時の査問官リストを集計し、後世の記録として公開しておく必要があるのではなかろうか。拘束された被査問者たちに対する扱いは、近代刑事訴訟法上以下の非人道的取り扱いを受けていることが分かる。直接的な暴行が加えられなかったということは評価されるが、これは元々党員同志間のかつ容疑不分明な査問であるのだから当たり前であって、この状態で暴行が加えられるとしたら旧特高以上のやり方になってしまう。非人道的取り扱いぶりは、「君の党員権を今から停止する」の口上から始まり、該当の規約部分を告げながら問答無用式に「今から君を査問する。同意の誓約書を書け」というやり取りへと移る。この時査問理由の開示はない。理由の開示を求めると「分派活動の容疑」と知らされる。分派活動の認定基準を尋ねると、「ここはね、君のチャラチャラしたお喋りを聞く場ではないんだよ」と一喝される。押し問答の末査問に無理矢理同意させられると直ちに私物一切の提出を強要される。ペンも取り上げられることによりメモも取れ無くなり、頭脳の中に一切を記憶して行かねばならないことになった。査問期間中は、査問される者はいっさい外界との連絡は取れない。妻とも取れない。査問の期限は示されない。査問に協力すれば早く終わると「自白」が強要される。

 被査問者に釈明権はない。黙秘権もない。党規約の実行という大義のもとで、容易に人権を蹂躙していく党体質が、ここに鮮明に浮かび上がってくる。「党の決定に反対するような民青なんかいらねえんだよ。上意下達で黙ってろ」、「やったか、やらなかったのか、質問に答えればいいんだ」ということになる。調査問責は分派容疑の解明から始められたようであるが、茶のみ話のようなものに分派の嫌疑が掛けられる。ここで驚くべき事が発言されている。「共産党の分派に対する態度は、疑わしきは罰するということだ」と放言されていたとのことである。これは近代刑事裁判の大原則「疑わしきは被告人に『有利』に処遇する」の正反対の論理であり、「疑わしきは被告人に『不利』に処遇する」という恐怖政治の論理が貫徹されていた。査問官諏訪茂書記局員は、宮本氏の秘書もやった若手党官僚であり宮本氏の薫陶を受けている筈であるが、その薫陶の結果がこういう有様だということを真剣に考えてみる必要があるのではなかろうか。他にも宮本氏秘書出身の党官僚が多くいる筈であるが、この際連中のリストとその薫陶ぶりを一挙に露出させてみたら如何だろう。恐らく愕然とするような事実が目白押しではないかと私は推測する。

 査問官諏訪氏は、「自分が納得する供述書を書かせることに執着」し、気にくわなければ何度でも書き直しを命じたとのことである。査問を通じて、会議打ち上げ懇親会のようなものを分派会議と認定したが、この時「分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ、意識しなくても分派は成立するんだよ」という放言がなされたようである。この論理でいくと、「連絡や打ち合わせはすべて無届けで行なわれるが、この種のものに組織原則を適用すれば、際限なく広がってしまう。世間ではこの種の集まりを慰労会とか、懇親会とか、あるいは単にコンパという。だが、党中央は党と民青に隠れて組織の指導権を握ろうとする分派の密事と見た。組織路線に不一致のある場合ならともかく、課題遂行上の問題は積極的に解決すべきだろう」(「汚名」117P)が、予断を持って臨む査問官には通じない。つまり滅茶苦茶であるが、個人間の話にまで責任を負わしめることになれば党員同志の会話もままならぬことになり、こうなるといかようにも分派認定しうる恐怖政治が待ち受けていることになるであろう。これに報告制度の厳格化を加えれば密告制度を発達させることにもなる。実際にはそれほど心配はない。問題は、党中央に対する造反的な言辞をなす場合に限って厳しく適用される訳だから、イエスマンにとっては別段の脅威にはならないということだ。しかしイエスマンばかりによる党活動というのも変な気がする。

 ちなみに、川上氏の分派容疑は、新保氏との「二人分派」と認定されたようである。「この『二人分派』は党内民主主義がないと言っては党を中傷し、党の掲げる方針である『人民的議会主義』に対して大衆闘争を機械的に対置して党の路線に反対したのだ」と認定された。この「二人分派」規定はかの特高さえなしえなかった論理である。「二人分派」の認定が一人歩きすれば、党員同士の会話さえ危ないということになる。補足すれば、ある市会議員同士が懇親会を用意したところ、共産党議員は参加するしないをめぐっていちいち党機関にお伺いを要するということで馬鹿にされている話を聞いたことがある。茶飲み話の席ではあったが、「あの連中は人種が違う」というオチを皆肯いて聞いていた。こういう「二人分派」の認定とか統制的組織論の然らしめる密告制度の一人歩きを考えれば、そうせざるをえないと言うことなのだろうか。しかしあまりにもサブい話だ。

 党規約は誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁であると定めているので、幹部批判を行なえば、党規違反の責めを受ける危険性もある。ここにも閉鎖的体質を助長する要素がある。同志売りの強要も行なわれ、被査問者の供述書がリアルタイムで攪乱に使われたようである。「全部吐けよ、吐きゃあ気も楽になるし、家にも早く帰れるのにな」はまだしも、「どうしても吐かないっていうんだな。こっちは査問いつ打ち切ってもいいんだぜ。そのかわりにな、お前、新保という人間をな、党内はもちろんのこと、社会的にも抹殺してやる。断固、糾弾していくんだぜ。」、「お前、子供が居るな。民主連合政府になってな、親父は反党反革命分子だということになったら、子供はどうなるんだ。子供の将来のことも考えろよ。おい、吐けよ」、「君らのことを公開すれば道を歩けないぞ。今住んでるところに住めないぞ」となると、これは特高の論理とうり二つではないのか。どうも宮本氏の薫陶宜しきを得た連中の物言いは揃いも揃って品がない気がする。

 除名の脅しも効いたようである。「除名は日本共産党の最も重い処分である。それは運動からの永遠の追放を意味する。被除名者は裏切り者、トロッキスト、修正主義者、外国の盲従分子、敵のまわし者、挑発者、スパイなどと呼ばれた。彼らが行動を開始すれば、たちまち民主的統一戦線の破壊者・挑発者として徹底的に糾弾された。『反党分子』にされ、歴史の彼方に葬り去られる」(「査問」95P)。

 油井氏の査問経過は次のように明かされている。査問は4日続いた。他の被査問者と同じく、残された道は、査問者の望むような自白をすることだけだった。こうして、査問者の描いたとおりの自白と自己批判書がつくられていった。「彼らはよってたかって六中総に反対したことを強要した。私は、査問がふりだしに戻ることを恐れた。また、査問官の心証を悪くすることを恐れた。次第に、この際、査問官のいうとおりに従った方が無難である、と考えるようになっていった。そして、無実の殺人犯[正しくは『容疑者』]が犯行を供述する心理状態をはじめて知った。その場の苦しさからの解放と逃避のため、一時的安楽に妥協することは、ある特殊な条件のもとではいとも容易であった」(「汚名」142P)。相手は、自らのすべての信頼と実存をあずけている党自身だった。「私はいかなる情況のもとでも敵のテロや弾圧に屈服してはならない、ということを党から学んだ。日本共産党の歴史はそのような英雄的先達者によって築かれている。党が誇り、人々から尊敬されるゆえんもここにある。しかし、この理屈は階級敵のとり調べのときに光り輝くものであっても、共産党の査問部屋で通用するものではなかった。味方と命を賭けて闘うことなど、どうしてできよう」(「汚名」43P)。スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、より平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。

 川上氏の査問解除経過は次のようなものであったようである。川上氏がすでに10日以上も監禁状態で査問を受けているだけでなく、川上夫人までが党本部に呼び出されたという時点で、川上氏の両親が心配し、あまりにも「世間の常識」に反し「横柄」であると怒り、父親が日本共産党の本部へ電話し、息子の留置を止めなければ人権擁護委員会に提訴すると通告し、その結果川上氏の監禁状態が解かれたというのが真相とのことである。党活動が「人権擁護委員会」から掣肘されるなどという本来ありうべからざる事態が起こったということになる。この場合、この事件が党中央の行為であることを考えると事は異常に過ぎるという思いを持つのは私だけだろうか。

 被査問者には一様に査問後丁重に釘が差されたようである。「他との連絡・接触を禁止する旨、厳重に言い渡した。査問を受けた者は情報を他に与えてはならない」とされ、「うっかり話もできない。何処で誤解され、密告されるかわからない」という疑心暗鬼に陥った。被査問者は一様に査問後遺症とも言うべき「心の傷」を負って家路についた。川上氏は、この時の体験を、事件から25年経過して「アノ世界からあれほどコケにされた体験」とみなすことができるようになったとのことである。「私も含めてわが友人達は、かくも長き期間、なぜ手を切らなかったのだろうか」と自問しているが、今はやりの言葉で言えばマインドコントロールの世界に陥ったとき自縛の縄をほどくのはそれほど難しいと言うことであろう。

 この査問について、『さざ波通信』は次のようにみなしている。

 「『査問』が出版されたとき、『赤旗』は党活動欄という目立たないところで、その著作に対する批判を試みた。しかし、その批判は、彼らが実際に分派であったことを力説するのみで、査問の実態についていかなる反論も試みていない。苛酷で非人間的な査問の実態については、反論のしようもなかったのである。たとえ、査問が形式的に本人の同意を得たものであっても、十数日間にわたって監禁することは絶対に許されないし、また今回のように重病人を病院から呼び出して4日間も監禁することは、基本的人権を正面から蹂躙する蛮行以外の何ものでもない。党中央が錦の御旗とする『結社の自由』論によっては、けっしてこれらの行為が正当化されないことは、今さら言うまでもない(この問題については、いずれ詳しく論じるつもりである)。今回の『汚名』について、党中央は何か反応を見せるだろうか? おそらく完全に無視するだろう。宮本時代が、批判者に対する徹底した反論と糾弾を基調としていたとすれば、不破時代は、都合の悪い問題に対する沈黙と無視を基調としている。われわれの『さざ波通信』と同様、『汚名』もまた無視されるだろう。不破委員長は、このような問題があたかも存在していないかのごとく、ふるまい続けるだろう。だが、事実は事実であり、歴史をなきものにすることはできない。新日和見主義事件を見直す特別の調査委員会を中央委員会に設置し、改めて関係者から事情を聞き、事実関係を調査するべきである。そして、事件当時には知られていなかったスパイの役割についても改めて検討の対象に加えるべきである。そして、事実関係にもとづいて、あの事件が冤罪であったこと、処分が間違っていたことを率直に認め、すべての関係者の名誉回復を行なうべきである」(1999.7.6日S・T)。

もすこし建設的にいきませんか?->れんだいじさん(2000.2.1日、金城)

 この2-3回の貴氏の論調を見ての率直な感想です。権力と党幹部の陰謀説的な方向へ流れていきそうで、心配です。党幹部が実際に何を考えていたのか、「新日和見主義」の人たちが書いていることが真相なのか、おそらくかなりの時間が経たないと分からないのではないでしょうか。御自分で書いておられるのですが、そのわからないところをいろいろなエピソードから推測して「こうだ、こうにちがいない」というのは、推理小説ならともかく、党史論としてはちょっと受け入れがたい手法ではないでしょうか。

 民青の年令問題にしても、問題となった会議以前から党や民青の支部では漠然とではあっても討論をしていました。具体的に何歳を上限とする、という議論はなかったですが、私が覚えているのは学部から大学院へ進学する時(当然最年少で22才、司法試験絡みの人だと25-30才での入学もある)そのような議論があって、大学院では民青班をもつことをやめて全員党員にするか、というような話をしていました。ほかの大学の大学院を受験する際にそこの組織について事前に問い合わせたこともありますが、大学によってまちまちな対応をとっており、実質的に民青「卒業」年令を規約より引き下げていたところもありました。もちろん全国的な方針としてどうしよう、といった議論があった記憶はありませんし、決定/即実行と党が決めたとしたのなら問題ではあります。でもあの議論は決して「新日和見主義」をおとしいれるための罠とか陰謀とかで突発的に出てきたものではないです。

 負の歴史から将来の方策をたてるための教訓を学ぶ、というのがこの場の共通点にしませんか?積極的には、党の方針について、党内外の議論をどのようにフィードバックするシステムを作るか、党へ提案していくか、と言うことだと思うのですが、このところの議論だと、私はあなたがきらいだ、なぜならば云々という論議、(離婚理由の後付け?)、しかしていないように感じます。言い過ぎでしたら、お許しください。


考察その四、(E)「被査問者の査問実感」について(2000.2.1日)

 川上氏は解放直後の実感として次のように述べている。概要「翌朝、私は初めて査問部屋から解放された。……茨木良和と今井伸英が入ってきた。今井が、『川上君、君、どっか籠るようなところない?ホラ、別荘とか』、『君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茨木さん、ネ』。私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのときのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った」(「査問」109P)とある。同じ気持ちを高野氏も伝えている。1998年5月号「諸君」の「『日共』の宿痾としての『査問』体質」紙上で、「それで僕は査問第一日目の結論として、この党にだけは権力取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてる」と述べている。

 こうした受け止め方に関する考察は重要であると思われる。川上氏と高野氏の実感に拠れば、「日本共産党に天下を取らせてはいけない、大変なことになる」という思いにとらわれたということである。マルクス主義を擁護せんとする見地からすれば、これは困った結論である。こうした思いを反「党中央」的に了解するのならともかくも、汎反共的了解の世界に沈潜させていくことになるとしたら大きな損失のように思われる。党的運動の責任の重さを考えさせられる。私には、胡散臭い宮本系執行部をこれ以上存続させることによって、宮本系執行部的党活動を党運動そのものの宿阿として誤認させることを通じて、日一歩反共主義者を拡大再生産させてしまうことになるのを心配する。私の感性は、現行の宮本系執行部的党活動はあくまで宮本系のそれであり、徳田系であればそれなりの、志賀系であればまたそれなりの、他の誰それ系であればそれなりの党活動になるのではないかと睨んでいる。わが国の民衆的運動にどういう執行部が望ましいのか引き続き課題として見つめていきたいと思っている。だから、私はあきらめない。

 私は次のように思う。左翼運動史上の無数無限の否定的事象の出来にも関わらず、我々は容易に反共主義者になる前に、以下の三つの面からの考察をなしておくべきではなかろうか。その一つは、「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかどうかということ。一つは、共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかということ。一つは、宮本体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということ。こうした観点からの考察は早かれ遅かれ避けて通る訳にはいかない。新日和見主義事件はその格好の教材ではないかと思われる。

 「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかということについては、次のように考えられる。「査問・粛清」は、「暗殺・毒殺」同様に何も左翼運動に限って発生する訳ではない。歴史の中からこれらの事例を拾い出すことは造作もないことを思えば、組織の指導権争いに絡んだ権力闘争一般につきものとみなすことが出来、今後ともこの種の係争には事欠かないものと思われる。問題は、共産主義運動との密接関連性としてどうなのかということになろう。このテーマに対して解析を挑むには私の知識と能力が足りないことと、本投稿のテーマから離れてしまうのでまたの機会とする。ただし、こうは言える。スターリンによる党内粛清・党外弾圧事件(このところレーニンにその起源を求めようとする解明がなされつつあるが)のみならず、共産主義運動の有るところ皆この問題にまといつかれてきたことを思えば、我々の運動は、いくら運動の歴史的正当性を説いたところで、本当のところここの問題を正面から受けとめ有効な解決策を獲得しない限りにっちもさっちも進まないと考えるべきであろう。特に私のように主流派に与しにくい不従順性格を持つ者にとっては、この問題の解明を避けたまま党的運動に身を委ねるとかこれを支援することは自分で自分の首を絞める技になりかねない。

 共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかについては、次のように考えられる。この問題は、小手先の技術的な湖塗策で解決しうるものではなく、党的運動・組織論の「総体」の見直しを通してからしか処方され得ないのではなかろうか。あるいはもっと深くマルクス主義の認識論における「真理」観に関係しているようにも思われる。元々マルクスの功績は、唯物論的弁証法−史的唯物論の発見ないし確立にあったと思われるが、元祖マルクス・エンゲルスの指導能力をもってしてさえ、これを党的運動として推進する段になるやたちまち異見・異論との齟齬をきたすこととなったというのが史実である。それほどに実践運動は難しいというのが実際であるが、その後マルクス主義の正統の継承者を自認するレーニン等によって、資本主義体制下のもっとも弱い環としてのロシアに於いてマルクス主義のイデーが結実していくことになった。ただし、世界を震撼させたロシア十月革命は揺り戻しも大きかった。この過程で、ボルシェヴィキの、その最高指導者であったレーニンの強力独裁指導を生み出すこととなった。こうしてマルクス主義運動は、一個人が獲得したマルクス主義的見地の「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に服従する党的運動に席巻されてしまうことになった。歴史の実際の局面がそういう独裁指導を必要とし、その方が緊急事態対応型の危機管理能力形成に適切であったという面があったとは思うが、この時この独裁体制をして時限的暫定的措置としてのタガを填めることが出来なかった。これを私はレーニン主義に胚胎していた人治主義的傾向とみなしているが、レーニンがこの誤りに気づいた時には、既にモンスター的スターリン権力確立の前夜となっていた。歴史に後戻りは効かない。恐るべき事態を憂慮しつつレーニンはこの世を去っていくことになった。

 私はこの間の闘争を指導したレーニンの偉業をおとし込めようとは思わないが、今日レーニン直の指導による誤りが次から次へと解明されつつある。つまりレーニン主義の「負の遺産」が明らかにされつつある。私は、この時のボタンの掛け違いが、その後のソ連邦の発展と消滅をプログラムしたと考えている。レーニンの後を継承したスターリン権力の功罪は知られているので割愛するが、今日では当人達の主観に関わらずマルクス主義のイデーから大きく逸脱した党的運動であり、新官僚国家形成運動であったとみなすことが常識である。その後ソ連邦は「スターリン批判」を通じて集団指導体制に移行しようとしたが、根本的な「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に対して理論的な切開と打開をなしえる能力を持ち得なかった。つまり、「スターリン批判」は人治主義的傾向に対しての対症療法的なものでしかなく、マルクス主義的運動に発生した「負の遺産」を断ち切ることが出来なかったように思われる。その原因は、資本主義体制下の権力者であれ「社会主義体制」下の権力者であれ、権力の密の味をしめた指導者ないしその官僚機構は道理を説いたぐらいでは容易には権限を手放さないということであろうと思われる。

 私は、「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に道を拓いた党的運動・組織論に対する徹底見直しこそが究極「査問・粛清」体質を除去させ、必要悪最小限の適用基準の確立を可能にせしめると思う。これを具体的に言えば、「絶対基準押しつけ」の対極に位置する「総党員参加型の民主主義の効用」を目を洗って再評価すべきではないかと考える。「民主主義」を空疎空論でブルジョア的だとかプロレタリア的だとかの言辞で弄ばず、なおかつ形式主義に委ねず、「実質的な集団討議的手続きと制度と機構」の確立に向けて党的運動・組織論の変革を勝ち取るべきではないかということになる。充分には出来ないにせよ、まずは我が身内たる党内に於いて実践的に獲得したものを社会一般に押し進めるべきではなかろうかということになる。

 この背景の思想としては次のような簡明なものを措定したい。その@.みんな寿命に限りがある神ならぬ身の存在であり、能動寿命は「たかが、されど人生50年」であることを認識し、人生の有限的関わりで社会貢献を志向すること。そのA.その命に限りある者が「ぼちぼちでんな」の精神で能力・環境に応じて統一戦線的に欠けたる所を互いに補う気持ちで精を出すこと。そのB.党的運動・組織論において絶対真理的教条ないしは権威主義の押しつけを排し、所定ルールに基づき大衆的討議を獲得しつつ「いろいろやってみなはれ」的集団指導体制に向かうこと。そのC.反対派の生息を認めた上で、執行部に指導権限を与えること。ただし、執行部の責任基準を定め、定期的に総党員選挙によって信任を問うこと。緊急事態対応については時限化させること。そのD.このような党的運動・組織論の実践過程に於いてのみ規約とか服務規律の重要性を認め、執行部にこの脈絡抜きに規約とか服務規律を振り回させないこと。

 宮本体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということについては、次のように考えられる。私は、宮本氏の人となりについて直接面識はない。党史を通じて理解するばかりであるが、凡そ共産主義的運動の指導者としては似つかわしくないことを確信している。しかしその宮本氏も高齢であり、今更氏に対してむち打つ気にもなれない。問題は、後継者不破−志位指導部の評価である。この執行部も不破氏から数えれば既に30年の歳月を経ている。人民的議会主義に基づいて民主連合政府の樹立を提唱し颯爽と登場した70年頃から党運動が一歩でも二歩でも前進しているというのならまだしも、昨今の現状は明らかに後退局面にあるのではないかと私は考えている。その根拠の一つは、社会全体からの左派意識者の減少である。最近書店周りで気づいたことは、かってなら存在していた左派思想・運動関係の書棚が消え去っていることがこれを追認していると思われる。こうした傾向は、党運動百年の計から見て左派土壌の枯れを意味する。土壌が枯れたところには花は開かない。お百姓さんでなくても誰でも知っていることだ。

 現下の議会闘争の局面は、審議拒否戦術で自・自・公政権に対決しているが、それならそれでかっての社会党の審議拒否戦術を嘲笑していたことに反省の弁を添えておくべきであろう。私は可能性はともかく現実性が無いと思っているが、よしんば党代表が大臣席の一つにありついたとしても、連合政権維持のためなし崩しの妥協しか待ち受けていないという構図が予想される。細川政権以降橋本政権に至るまでの過程において、旧社会党・さきがけ・江田グループがその事例となっている。不破−志位指導部は、こうした事例に対する理論的研究を獲得しつつ党員に針路を示さないので党員は困惑させられているのではないのか。かの諸党のようにはならないという証文を一筆書き付け、これに執行部の責任を託すということをしないから、万事にそういう「体を張る」作風が無いから延々と30年も座椅子にぬくもってしまうことになる。30年も(宮本氏から数えれば50年も)党最高指導者として留まること自体を自他共にオカシイと考えるべきではないのか。おのれの好みと器量に似せて党をリードすることは党の私物化でしかないのではないのか、とさえ勘ぐってしまう。もっとも、党内から特段の批判が挙がらないことを思えば、私がこういうことを言ってわざわざ皆様から憤激を買うこともないかとも思うがこれが私の性分だから仕方ない。

 ただし、これだけははっきりしている。現下の党運動は、マルクス主義とは無縁の近世的ヒューマニズム運動の延長にあるものであって、この程度の運動で有れば何もマルクス主義の洗礼を通過する必要もなかったし、戦前の非合法下で党員はボルシェヴィキ的活動に殉じる必要もなかったのではないのか。私には草葉の陰から苦虫を噛みしめている祖霊が見える。当人がよく言っているように、いっそのこと「日本道理党」とでも改名して運動を押し進めるのであれば、私もこの党に対してこうも関心を持つこともなく、皆様から不興を買うこともない。お互いにその方が賢明なようにも思うのに。


考察その四、(F)「処分とその後」について(2000.2.3日)

 この時新日和見主義者として処分された党員の数については、全国で600名とも1000名に及ぶとも云われている。党中央は未だに全貌を明らかにしていない。処分は1972年9月末の民青同第12回全国大会で承認された。民青同本部常駐中央常任委員だけでも15名中7名が処分されていた。処分は民青同だけにとどまらず、広谷俊二共産党中央委員や川端治、高野孟などの評論家にも及んでいた。全学連指導部の処分には向かわなかったようである。このことに関して、「党の影響下にあるとはいえ、全学連は大衆団体である。党の指導を公然と認めている民青とは根本的に違う。数十万の学生を擁する全学連が党の統制措置で混乱を来すとすれば、反党的学生運動の再来を招かないともかぎらない。かっての全学連や全自連指導部が党の処分で、逆に結束を固めたことも否めない事実だった。党中央はその経験から深謀遠慮の決定を下したものと思う」(「汚名」251P)とあるが、そうかも知れない。

 「日本共産党の65年312P」は、「72年7月の第7回中央委員会総会、同年9月の第8回中央委員会総会は、新日和見主義、分派主義の問題を解明し、これとの闘争の重要性を強調した。党は、理論上、政治上、組織上の徹底した批判と闘争をおこない、『新日和見主義分派』を粉砕した。この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し、新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」と記している。この記述には二重の詐術がある。一つは、「この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し」の詐術である。この時期民青同は、「一時期の組織的停滞」どころか反代々木セクトが退潮著しい中20万同盟員を擁して存在力を強めつつあった。嘘もいい加減にしないと閻魔様に舌を抜かれてしまうであろう。もう一つの詐術は、「新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」である。既に説明不要であろうが、事実は民青同と全学連の組織的後退が始まる契機となった。現党中央の饒舌もほどほどにしないといけない。今では地区組織も廃止され、2万前後の同盟員に落ち込んでいるのではないのか。事件は「角を矯めて牛を殺す」結果になったのはないのか。私は、こういう詐術ががまんならない質であるが、党員の皆様は「何でもかんでも党中央の云うことはその通り」なのでしょうか。

 これを「結局、党が民青をいじりすぎた」と理解するのは評論的好意的に過ぎよう。私は、企まれ仕組まれた事件であったと凝視している。ちなみに、『さざ波通信』では次のように否定的影響について明らかにしている。「この事件の後民青同盟は衰退の坂をころげ落ちていった。20万の隊列は今では10分の1に縮小している。共産党内部の20代党員の割合も、70年代初頭の50%から、現在の2〜3%に激減した。他の国の共産党ないし後継政党と比べても、日本の党はとりわけ青年党員の比率が低いのではないだろうか。これは単に青年の保守化というだけでは説明できないだろう。新日和見主義事件が残した深刻な爪痕をそこに見出すことは十分可能である」(1999.7.6日.S・T)。正論と言うべきだろう。

 処分された民青同中央・都道府県機関内共産党員等は、引き続き要注意人物として監視されていくことになった。私は党員でないので理解しにくいのだが、この状態に置かれた党員は、「『県直属点在党員』は、水平的・横断的交流全面禁止の民主集中制の下では、単独で、かつ垂直に、党中央に『意見書』を提出する権利以外はすべて剥奪されるという“党内独房”状態に強制的に収監されることになる」(宮地健一氏HP)とあることから推測すれば、「県直属点在党員」となって支部からも外され“格子なき党内独房”下に置かれるようである。“格子なき党内独房”について、宮地氏は自らの体験も踏まえて、特高の「予防拘禁式組織隔離」を真似したものではないかと言う。「そもそも、治安維持法なるものが、天皇制打倒、資本主義体制の暴力的転覆を目指す非合法暴力革命政党コミンテルン日本支部、日本共産党員、シンパの言動を封殺するための予防拘禁的な“格子ある牢獄”、独房隔離措置法律でした。その天皇制の組織隔離独房に、宮本氏12年、袴田氏10年、徳田・志賀氏らは18年収監されていました。宮本氏は、自分が体験した『格子ある治安維持法独房』の言動封殺手口を、今度は合法的革命政党・前衛党最高権力者として、党中央批判者を専従解任後も転籍させない『点在党員』措置という“格子なき牢獄”手法で逆用したのです」とみなしている。

 宮地氏のこの指摘は的確と思うが、一つだけ同意できないことがある。宮本氏12年の獄中生活を徳田・志賀氏らのそれと同格にしていることを疑問としたい。先の連作投稿「その5.宮本の獄中闘争について」で明らかにしたように宮本氏のそれはいかにも胡散臭い。「獄中12年非転向タフガイ神話」はどこから生まれてきたのか不明であるが、真相は大きく違うのではないのか。戦後になってこの御仁から過去の転向を咎められて苦衷に陥った幹部党員がいるが、私に言わせればそのような必要なぞどこにも無いと思われる。考えてもみようではないか。今日戦前からの多重スパイであったと判明させられている野坂参三氏と長年のコンビを組み得た関係というのは、野坂氏一人をスパイ視するには不自然過ぎる史実ではないのか。史実を見れば、「六全協」後この二人が如何に呼吸を合わせて反対派を党外に追いやっていったかの事例ばかりが残されている。片やスパイ片や深紅の指導者の長年コンビなぞそう長く続き得るものだろうか。ましてや、野坂氏のスパイ性は党内の自助努力で判明させられたものではない。ソ連邦の崩壊に伴って機密漏洩した資料を党外の学者から動かぬ証拠として突きつけられて、弁明できなかった野坂氏が単に切り捨てられただけなのではないのか。私の手元の「日本共産党の65年」には、党内反対派を駆逐する過程での党中央代表として活躍する野坂氏の姿が随所に明らかにされているが、その時点で野坂氏がスパイであったとしたら、反対派はスパイによっていろんな理屈をつけられながら党外に放逐されたことになる。これほど具合が悪い史実がなぜ党内で議論沸騰しないのだろう。私にはワカラナイ。単に野坂氏を除名しただけで口を拭っていられるのであろうか。

 スパイとして働く野坂氏の方がより巧妙だったという論が成り立つにしても、それはそれで長年連れ添った方の不明ぶりを露わにさせるだけではないのか。宮本氏をそうは愚頓扱いするのは適切ではないと思われるので、とすれば残された結論として根本的に氏をも疑惑してみる作業が残されているのではないのか。この作業は、氏の存命中にこそ意味を持つのでは無かろうか。指導者亡き後の指導者批判はいつでも誰でも出来る。亡き後の批判は左翼の病弊ではなかろうか。史上宮本氏は幹部も含めた幾多の同士を「調査問責」してきたが、「調査審議」されるべきは氏自身なのではないのか。人民大衆に責任を持つ運動というのは、人民的利益の前には何ものをも恐れない精神の発動からしか生まれない、と私は考える。

 話を戻して、宮地氏によって“格子なき牢獄”の具体的な手法が明かにされているが長文化するので割愛する。「査問」・「汚名」では次のように明かされている。被査問者は罪の軽い重いによって次のように分類された。比較的重い「核」の連中は、川上・宗邦洋・本部役員池田と松木の4名であった。彼らは外界との一切の連絡を禁止され、自宅待機が命じられた。「誰とも連絡を取らず、何処へも出かけてはいけない」と言われ、いわば「座敷牢」に押し込められた。その次に重い者は、分派活動を直接担い率先助勢したグループであり、党本部の新保・党中央委員の広谷俊二ら約20名が該当した。ここまでを待機組という。待機組には、党が指定する文献(大会決定文書、宮本・不破等の論文)の自宅学習とその感想文の提出が義務化された。比較的軽い者は数十名で、釈放された翌日から民青本部への出勤が認められたので出勤組という。出勤組は、仕事には付けられず会館五階にあるホールで学習すること、その結果をノートに記し、党中央委員会に提出することが求められた。その過程で自己批判を一層深めることが要求された。彼らには「五階組」というアダ名がつけられ、要するに窓際族に追いやられた。「五階組」には単純作業が割り当てられ、小型版「収容所列島」の観があったと言う。治安維持法下の予防拘禁制度の真似のようなものであったとも言われている。なお、処分者は、自己批判の誠実度により、一年未満の党員権停止処分から除名処分の間をランク分けされたようである。彼らには「異常な」学習と労働が指示された。「異常な」とは、「新日和見主義粉砕」のポスター書とそれの事務所周辺貼りの強要がなされたことを言う。このエゲツナイ指示を与えて得々としていた者が後にスパイであったことが判明している。ならば、そのスパイを使っていた者、そのスパイを表彰した者の責任はなぜ追及されないのだろう。誰がそのスパイを重用していたのだという当たり前の関心が遮断されている。

 こうして事件は封印させられてきていたにも関わらず、この時のことを川上氏は、事件後25年経過した1997年12月に自ら著書『査問』(川上徹.筑摩書房)で明らかにすることとなった。この川上氏の行為に対して、赤旗・菅原記者は言う。概要「今回出版された本は、このときの『新日和見主義』の分派活動について川上氏が党から調査をうけたことについて書いたものです。その大きな特徴は、川上氏が『分派活動を理由にしてやられた。だが、それは『別件逮捕』と同じようなものではなかったか』と書いているように、この本を読んだ人に“自分は不当な処分をうけた被害者だ、分派活動というような実体はなかった”という印象をあたえるところにある」、「川上氏の著作は、党のこうした配慮ある態度を悪用して、あたかも事件は『冤罪』であったかのようにいつわったものです。当時の関係者の氏名や調査の過程のやりとりなどをあれこれ書きながら、川上氏が実際にとった具体的な行動についてほとんどふれていないのは、それが党規律違反の分派活動であることがあまりにも明白だからです」、「こういう不誠実さは、組織人の立場以前に、責任ある文筆家としての資格とも両立しがたいものです。事実をいつわらず、自分の言葉と行動に責任を負うことは、文筆家の最低限の資格にかかわることだからです」と言う。

 菅原記者ほどの提灯記事屋に「物書きとしての不誠実さ」をなじられたら立つ瀬もないが、世の中は往々にしてそういうところがある。先生先生と言われて善良ぽいことを言ってる者が裏で一番悪事を働いている例に似ている。それはともかく、菅原記者の物言いは、かの「査問事件」で居直った宮本氏とまるで同じ論法である。あの時も、「蘇生の為に努力したのは私と秋笹だけであり」、「蘇生しなかったのは小畑のせいである」という弁明を聞かされた。今また「これほど温情ある態度を党がとったのに、その党に背く行為をするとは何たることか」と叱責されてしまった。これは説教強盗の論理であり、二重三重の居直り論理であり、子供だましの物言いである。相手にすることさえ馬鹿馬鹿しい。

 こうして、宮本・不破・側近グループらは、新日和見主義者達を電光石火の処分に付すことに成功した。新日和見主義者達は揃いも揃って全員が沈黙した。過去の58年時の「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」)時の学生党員の反発に比して奇妙なほどに蟄居させられた新日和見主義者達が見えてくる。恐らく、昨日まで同じような論理で反トロ批判をなしていた民青同運動指導者としてのツケが自家撞着させたものと思われる。もう一つの理由として、こうした粛清にかけては宮本一派の手練れぶりが考えられる。この間の党運動の中で、宮本氏は、片腕として袴田氏をよごれ役とさせて一貫してこの種の闘いに興じて来た。戦前の「大泉・小畑粛清」を核とする一連の査問事件、戦後直後の逸見パージ、徳田執行部との抗争、伊藤律幽閉、「社会主義革命論」者粛清、「構造改革論」者粛清、ソ連派粛清、中国派粛清、「新日本文学」関係者粛清、原水協吉田グループ粛清、袴田自身の切り捨て、野坂の尻尾切り、92年における「ネオ・マル粛清」等々において、他の常任幹部会員・幹部会員・中央委員らにたいして幾度も幾度もやってきた手練れである。宮本一派の特徴は、対権力闘争となると二段階革命論から民主連合政府、当面の要求一致統一戦線へと際限のない右傾化とよりソフトな幅広の「反対」スローガンへと戦術ダウンしていくのに対し、党内闘争においては断固毅然とした容赦のない排除を遂行し、その文句も激烈なる「粉砕・糾弾」となる。私には滑稽であるが、他のどなたからもこうした不自然さが指摘されないのはどうしたことだろう。


考察その四、(G)「事件のその後」について(2000.2.4日)

 さて、ここまで新日和見主義事件を見てきたが、私の観点に拠らずとも次の程度まで総括することはごく自然であるように思われる。「処分された青年党員たちは、基本的に中央に忠実であったとはいえ、多少なりとも自主的に物事を考え、自らの創意と工夫で大衆運動を積極的に切り開く志向が強かった。それゆえ、彼らは、党幹部たちから不信の目で見られたのである。彼らが一掃されたことによって、もはや民青の上級幹部に、自主的に物事を考えることのできる活動家はほとんどいなくなった。民青は、二度と回復しえない大打撃を受けた。そして、これらの血気盛んな青年党員たちによって支えられていた共産党自身も深刻な打撃を受けた。宮本顕治を筆頭とする当時の党幹部たちは、運動の利益よりも、そして党自身の利益よりも、幹部としての自らの個人的利害を優先させたのである」。私は、共産主義運動内に「幹部としての自らの個人的利害を優先」させる作法が発生することなぞ原義に基づいて信じられない思いがするが、これが歴史の実際であり自他共に戒めるべき且つ何らかの制度的措置を講じる必要があることのように思われる。

 いよいよ新日和見主義事件に暗躍した公安スパイの考察に入る。事件から2年後の1974年、前民青同中央常任委員であり大阪府委員長であった「北島」(K)が公安警察のスパイとして摘発された。「北島」の事件渦中の動きの詳細は伝えられていないが、事件後の被査問者に新日和見主義粉砕のステッカーを書かせ、それを民青同事務所の周辺に貼らせる指示さえなす等大阪府委員会における異常な学習と労働の先頭で立ち働き、その後党本部勤務となり要職に着いていたという人物であった。この経過は、党中央と「北島」の利害が一致していたことの例証であると思われる。こうした人物が「党本部勤務となり要職に登用」されることがままあるにしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにもずさんなという思いが禁じえない。

 続いて、翌75年、現職の民青同愛知県委員長らもスパイであることが発覚した。ところが、現職委員長のスパイの親玉は前民青同愛知県委員長「N」であることが判った。ということは、委員長職がスパイからスパイへと回されていることになる。こういう事態をどう了解すべきだろう。この「N」と言えば委員長在職時代に、新日和見主義者を処分した民青同第12回全国大会で、最高の栄誉「解放旗」を授与され、当然「N」の模範的活動家ぶりが評価されたという人物であった。この経過もまた、党中央と「N」の利害が一致していたことの例証であると思われる。物事には過ちがつきものとしてこうした人物に「解放旗」が授与されることが許容されたとしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにもずさんなというか、摘発方向が反対ではないかという思いが禁じえない。

 K、Nの二人について油井氏は次のように述べている。「私は、KとNの摘発記事が『赤旗』に写真つきで載ったとき、強い衝撃をうけた。私たちを処分した主要幹部だったからである。彼らは新日和見主義糾弾で大いに活躍した。KやNは、陰に陽に教育・学習と闘争、拡大と闘争の関係など、民青中央委員会の議論を巧妙にあおってきた人物だった」(「汚名」247P)。こうしたことから「当時の民青中央委員会に、中央常任委員を含む複数の中央委員が公安警察のスパイとして潜伏し、同事件を挑発した形跡がみられる」と結論づけられることになる。私は、これまで述べたことから明らかなように単に公安の暗躍により新日和見事件が起こされたなどとは考えない。公安にしても「K・N」は表沙汰にされた一部でしかないのではないのかと考えている。新日和見事件は党中央と公安とが内通しつつ押し進めた党内清掃事業であったのではないのかと考えている。「K・N」の存在漏洩はその証の一部であったのではないかと考えている。こうして、新日和見主義事件は、民青同幹部にいた最もすぐれた活動家たちを根こそぎ一掃することで公安と党中央の目的を成功させた。もし、この見方が間違っているというのなら、「K・N」摘発後における党中央の俊敏な、事件そのものの見直し作業が自主的に開始されていてしかるべきであろう。

 事件から15年後の1987年4月上旬、なつかしさのこみ上げてきた元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。この動きは、手紙を受けた者の一人が「おおそれながら」と訴えでたことにより、党中央に知られるところとなった。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべきでないというのが党の見解です」と言いながら、党中央は何とかして会を中止させようと介入した。説得と指導を受けた小山は、「誰かの指示かだと? どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」と言い切り、離党届で始末を付けることを決意させた。

 当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求はこの年いっぱい続いた。ここまで至ってさすがに嫌気の世界を誘発させたようである。新日和見主義者達は、これまで「党の内部問題は、党内で解決し、党外に持ち出してはならない」という規約に従ってきた。被処分者の側から反論文書が公表されることもなく、「党員は出版などの方法で党と異なる見解を公表できない。もし、それを行えば規律違反で処分される」ことを恐れて「羊たちの沈黙」を守ってきた。しかし、党中央は、処分した側に警察のスパイがいたという諸事実が判明したにも関わらず事件見直しに着手することも無かった。「新日和見主義者」達は、この間主体的に自ら等が手塩で育てきた民青同の瓦解的現象にも横目で見過ごすことしか出来なかった。党中央の動きは、様々なデータから見てもあの頃より前進どころか後退しているようにしか見えてこない。

 こうしたことが重なってきた結果、「振り返ってみて査問のやり方が気にくわない」という憤然とした気持ちが抑えられなくなった川上徹氏は、「新日和見主義」と称せられる「事件」がおきてから25年になろうとした頃、「私の中でようやく歴史となった」事件として、『査問』を世に問うことを決意したようである。この挙に対して、党中央は、「こういう不誠実さは、組織人の立場以前に、責任ある文筆家としての資格とも両立しがたいものです。事実をいつわらず、自分の言葉と行動に責任を負うことは、文筆家の最低限の資格にかかわることだからです」と叱責するが、ものは言いようでどうにでも言いなしえるのだなぁと深く嘆息させられてしまう。しかし、世の中には次のような見方をする人も居られるから捨てたものでもない。「フェイド・アウト手法によって構成される日本共産党の歴史の虚構を崩すことに社会運動史研究の課題があると自覚している私にとっては、今回の川上さんの著作『査問』の公刊は、戦後日本共産党史におけるブラック・ボックスの一点となっていた1972年の『新日和見主義』問題について、ようやく、その核心に触れ全貌を窺わせる証言がなされることであり、諸手を挙げて歓迎できる快挙でした」。


考察その四、(H)「事件余話」について(2000.2.5日)

 69年の民青同と全共闘との内ゲバ時における宮本氏の関与が明かされている。通常このような青年・学生運動の成り行きに御大宮本氏自身が乗り出してくることは似合わないように思えるが、そこが氏らしい。氏が「新日和見主義事件」も含め、常に青年・学生運動の左翼的成り行きを極めてナイーブに危惧している姿勢が浮き彫りにされており興味深い。「宮本委員長が執務する部屋に直接案内されたこともあった。私がいい気になっていた頃である。あの時、宮本は私に詳細な報告を求めた。『われわれ』の側の武装情況、その指揮系統、食糧の供給状態、学生達の健康状態、ゲバ棒の数に至るまで、こちらが質問に即答できず慌てるほど詳細であった。奇妙な質問もあった。そうした現在の武装状況を一挙に解くことが出来るか。一夜にして『消す』ことができるのかと聞くのである。宮本が何を言いたいのか、私には分からなかった。私は出来ないことはない、と答えた。東大全共闘と全学連(民青系)の行動隊が双方1万人のゲバルト部隊を動員し、武装対峙したときのことである。宮本と会って間もなく、彼が質問した意味を理解することとなった。安田講堂を落とす為に機動隊が構内に突入するという形勢となったときのことである。党本部から緊急の指示が来た。明朝までに、ゲバ棒は一本残らず撤収すること、行動隊も一人残らず東大構内から姿を消すこと、この指示は絶対に守ること。これは、直ちに完璧に実行にうつされたのである。機動隊が導入された時、『われわれ』が拠点としていた場所からは一本のゲバ棒も発見されなかった。もちろんゲバルト部隊の一員たりとも。実行に移したのは『われわれ』であったが、今日そのような事態になることをあらかじめ予測し、詳細なデータを集めた宮本の細心にして大胆なことに舌を巻いた。『武装民青』のイメージは、マスコミから消すことに成功した」(「査問」38P)、「そのころは、学生問題関係は詳細にわたる事項までトップに報告され、少なくともその了解の下に決定され、実行に移されていた」(「査問」126P)とある。

 宮本氏は、新日和見主義者処分の正当性を得々と語っていたようである。「宮本顕治は講演会で、一派の者が書いたという自己批判書の文章を取り上げ、『娯楽』と書くべき所を『誤楽』と書いていたと紹介し、一派の者達の知的教養の低さを嗤った。それを赤旗がそっくり掲載し、その箇所で(爆笑)と記録していた」(「査問」183P)。同様の話として、「民主集中制」を「民主集中性」と誤記しているのを嗤ったという話もある。
 不破氏のトラウマぶりが伝えられている。「この年(1971年)の秋、全学連は沖縄返還協定の審議を始めた国会に向けての抗議行動に移っていった。10.21日から11月初旬に向けて『連続高原闘争』と名付けられた。連日、国会に押し掛けようというものであった。だが、そろそろ息切れの頃だった。国会の議員面会所では不破がにこやかに手を振っていた。だが、翌日、全学連の役員は党本部に呼ばれる。『あのVサインを止めさせてくれないか。不破さんが眼を刺されるようでイヤだと言ってる』。党の側の冷たい対応が続いた」(「査問」205P)。

 川上氏は、次のように厳しい党批判を投げかけている。私も同感である。その一節は、「すべて些末なことと大事なこととが逆転していた。些末なところで党員が規格化されていく」。

 少々長くなるが法政大学教授高橋彦博氏の一節を紹介する。

 「日本共産党の歴史も75年になりますが、第二次大戦後の、いわゆる戦後の党史が70パーセントを占めるようになりました。ところが、戦前の20余年の非合法共産党史についての研究は厚い層を形成するほどの成果を蓄積していますが、戦後の50余年についての日本共産党史研究は、目下のところほとんど手付かずの状態にあります。日本共産党本部が編んだ「正史」が50年史、60年史、65年史、と何種類もありますが、編纂した時点で党の理論的立場や歴史経過の評価を変え、しかも、変えた部分や変えざるをえなくなった経過を明示しないという方法をとっているのがその特徴になっています」、「ベルリンの壁の崩壊とソ連共産党の解体を受けて、日本共産党も崩壊と解体の危機に直面しました。そこで、宮本顕治体制特有の組織防衛の先制攻撃が開始されました。それが1992年の『ネオ・マル粛清』でした。『新日和見主義』の大粛清で辛うじて生き残った川上さんも、『ネオ・マル粛清』の前夜、隠微な処置方法で消去されたのでした」。

 「1992年における一橋大学の某教授の追放を皮切りに、1993年における法政大学の某教授(実は私)、続けて名古屋大学の某助教授、さらに立命館大学の某教授と、ネオ・マルクス主義の理論的立場で発言を続けてきた研究者たちが、何人か、除籍、離党、など、処分以外のなんらかの形で日本共産党から追放されました。かつての分派闘争との違いは、だれがどのような問題で日本共産党から排除されたのか、いっさい、明らかにされることなく、党内論争の浮上が徹底して抑止されたことです。『ベルリンの壁』の崩壊後、党内に急速に浮上した前衛党の構造改革を求める意見が党内に波及することを防ぐ目標で、いっさいのその種の党内論議に厳封を施したまま消去する処置がなされたのが『ネオ・マル粛清』の内容でした。それは、『新日和見主義』の大粛清と同じ性格の粛正工作でした」。

 「私は、この『ネオ・マル粛清』の全貌を把握しているわけではありません。そのような策動を自分の周辺の動きとして感知したにすぎません。それでも、東海道を東から西へ下る方向で各個撃破戦術よろしく辣腕を得意気にふるって歩いたWという『スターリン時代のベリヤ』のような男の存在を私なりに確認しています。彼の名は、最近では日本共産党中央委員会の名簿の末尾に載るようになっています。Wは、川上さんや加藤さんの二世代くらい後になる学生運動出身の活動家でしょうか。Wを見ると、知的誠実さを欠落させた権力志向のパーソナリティが再生産される集権的党構造が現存している実態をあらためて確認させられます」(川上徹著『査問』の合評会.高橋彦博.1998.3.9日)。

 おしまいは私の寓話。「行動心理学」なるものがあるとして次のたとえは私の胸を打つ。コックが食用カエルを調理するとき、カエルをいきなり熱湯の鍋の中に入れるとびっくりして「アッチッチッ」式に飛び跳ねて出てしまう。ところが、鍋の中の水を冷水状態にしておき、ここにカエルを入れると気持ちよく泳ぎ始める。仕掛けは次第にとろ火で熱していくことである。カエルは温泉気分になって我が世の春を謳歌するまもなく次第に眠くなる。こうしてゆでカエルの一丁上がりとなる。マァマァマァのうちに徐々に眠くさせられるところがミソと言える。

 お叱りを受けつつも長々と投稿を続けさせて頂きましたが以上で完結です。時局柄不破執行部の最後の大奮闘期に入っている様子ですので頑張って頂きたいという配慮から暫く静観しておこうと思う気持ちと、客観的に見て紙面を重くした責任を感じていますので雪解け期まで蟄居したいと思います。確かに、金城さんのご指摘為されているように私の個人的感慨を『さざ波通信』でマスターベーションさせた嫌いがあります。ただし、そういう動機であれ、内容的にどうなのかという点で「良薬口に苦し」であった的に受け留めて頂けましたら本望ではありますが。何しろ根が拗ね者ですので今後は許容される限り気ままに投稿させていただこうかと考えています。





(私論.私見)