「共産党の理論・政策・歴史」投稿文23(宮顕リンチ事件その後と公判の様子) |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件そのものの考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「宮本顕治論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており、この方が読みやすい面もあるので、ここにサイトアップしておく。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した) 2006.5.18日 れんだいこ拝 |
その5.小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について(1999.11.19日) |
その5.両鑑定書に対する袴田と宮本の対応ぶりについて(1999.11.20日) |
この新鑑定結果に対して、袴田がどういう態度を取ったかを最初に見ることにする。簡略にまとめるとかく述べているようである。曰く概要「
古畑鑑定書はぜんぶがそうだというわけではないが、基本的にはわたしの結論と同じものでした」と言う。つまり、「古畑鑑定書」に対してこの前半部分では「基本的にはわたしの結論と同じ」とこれを評価していることが判る。これが本来の袴田の了解の仕方であったものと思われる。ところが、この後から論調が急にカーブし始める。曰く概要「なぐって『脳しんとう』を起こさせたとすれば、それだけの傷痕が残っていなければならない。ところが小畑達夫の頭をしさいに解剖した調書を見ても、そういうものはない。だからこれは『脳しんとう』を起こして死んだのではない」と言う。かなり歪曲話法ではあるががまんして聞くことにする。曰く「心臓その他の臓器を調べてみると、心臓は肥大し、膵臓その他も厚い脂肪の層でとりかこまれているおり、心臓の内部にまで脂肪がはいりこんでいて、その結果、心臓肥大ということになっている。心臓や内臓に脂肪がはいりこんでいる、こういう状態は、酒を大量に飲む人のなかに見られる。また、病的に心臓肥大した結果としてそういうこともある。そういうことが再鑑定には書いてある。たしかにスパイの小畑というのは、大の酒くらいで太っていた。こういう心臓をもった人は、突然人からどなられたり、なにかで驚いたりすると、『ショック死』することもある。だから脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」とある。「脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」というこの表現は文章になっていない。これから訳の分からないことを言い繕うぞという兆しであろう。曰く「ですから、私たちが殺人とか傷害を加えて死亡にいたらしめたということは、まったく事実無根であることが証明されたわけです。こうして控訴の公判では殺人という罪名は消えた。殺人未遂というのも消えました。しかし、また傷害致死という不当な罪名をきせられ、一審より二年けずられたが、懲役13年という判決を受けました」とある。あららっ、「事実無根」で「傷害致死という不当な罪名」をきせられとでも受け取れるような調法の言い方で煙に巻かれてしまった。この論旨展開はどこかで聞いたことがある。ソウカ宮本さんのの検閲を受けたていたということだな。一目瞭然だよ。ただし、宮本は同じセンテンスで「梅毒」を持ち出したが、袴田はそれは余りにもと思ったのだろう「酒飲み特有の脂肪肥満」を要因とする「内因性ショック死」を暗示させるという違いを見せてはいる。 |
その5.袴田執行部「党中央」の動きについて(1999.11.21日) |
第10幕目のワンショット。こうして我々は「査問事件」における小畑死亡を見てきた。宮本の逮捕も見てきた。驚くことに、この後査問は中止されるどころか一層拍車をかけて進められたという事実がある。つまり、小畑の死亡は「不幸な事件」であったのではなく、党内労働者派もしくは残存戦闘的活動家駆逐の狼煙となったということが分かる。既述したように12.24日の赤旗号外は、「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下で、断固としたスパイ摘発の推進を指令していた。これを指導したのが袴田であり、実行したのが木島ラインであった。34.1.10付けの「赤旗」は国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで「全党の全機関組織を挙げて決起せよ!挑発者を執拗に追撃し奴らを全部的に清掃するために闘え!プロレタリアートの闘争を破壊せんとした裏切り者を組織の隅々から引きづり出して革命的裁判、大衆的断罪によって戦慄せしめよ!」なる激越字句を以てさらなる党内スパイ摘発の続行を煽っている。「さし当たり中央委員会としては、これら不純分子を一括して除名処分に附する旨を決定し、これを当時発行の『赤旗』紙上に発表した」(袴田第15回訊問調書)というのである。こうして前年末の荻野査問未遂事件、翌34年(昭和9年)1.12〜2.17日大沢武男査問事件、同1.17〜2.17日波多然査問事件などが引き起こされることになった。大沢は党中央財政部員であり、その査問は木島と富士谷真之介を中心として行なわれた。波多は党東京市委員会江東地区委員であり、その査問は木島と加藤亮を中心として行なわれた。大沢・波多事件の場合いずれも激しい暴力が行使されている。これら二つの査問は、「査問を中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回訊問調書)、「具体的に査問の状況の報告は無かったが、波多についても又大沢についても彼らは自白こそしないが、スパイである事は客観的に認められたと言う趣旨の報告がありました」(袴田第3回公判調書)とある。この査問が如何にいい加減なものであったかは、「しかし、波多、大沢の両名が警察と連絡のあるスパイであったか否かの点については大泉等ほど明瞭でなかったと思います」(袴田第15回訊問調書)ということでしれる。この後「全協」責任者小高保の査問が計画されていたが、その途中で木島が逮捕されたので中止のやむなきにいたった。小高については「査問は中止されたもののスパイ嫌疑濃厚だったので除名しました」(袴田第3回公判調書)とある。こうなると滅茶苦茶であるがこれが史実である。ここで、木島は「査問事件」に関わる貴重な陳述をしている。「初め私は、査問という事はよく分からず、喫茶店で皆で聞くくらいに考えておりましたが、小畑及び大泉等に対する中央委員会の査問を親しく見聞きするに及んで、党の査問と云うものがどんなものであるかと云うことを知りました。小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまったのであります。しかも大泉に対する場合もあれ程のテロをやり、漸くスパイである事実を白状しました。従って、私もスパイに対してはあれぐらいのテロはやらなければなるまいと考え、波多の査問についても、右の如くテロをやる決心でありました。スパイは万死に値すると徹底的に憎んでいたので、テロの結果あるいは波多が死ぬかも判らない、しかし死んだって構わないという考えは胸中にありました」(木島予審調書)。つまり、木島は、対小畑・大泉の「査問事件」を手本として「小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまった」やり方を真似たと言っていることになる。 |
その5.袴田逮捕、公判の様子について(1999.11.23日) |
35年3月袴田が逮捕された。後を継ぐべき中央委員も決められていなかったので、こうして中央委員会は消滅した。ここまで見て判ることは、何と袴田の動きが特高の意向通りに誘導されていたかと言うことである。詳細は別途の機会に譲るが、戦前の袴田の党活動の経過とは、共青、全農をつぶして、党中央をつぶして、全協、ナップをつぶして、多数派をつぶして後入獄していくことになった。してみれば袴田が拷問に会わなかった不自然さは不思議でも何でもなく、特高からの感謝状勲一等に値していたということになろう。こうして考えると、袴田の予審調書と公判調書での饒舌は、事件の真相を隠蔽し、袴田の語るが如き「宮本−袴田的正義」のプロパガンダを党内に浸透させんがために袴田と特高のあうんの呼吸で合作されたものではないのかという構図が見えてくることになる。手の込んだ罠と言える。ただし、袴田という人物をそういうセンテンスでばかり読みとることもないようにも思われる。期せずしてか袴田の陳述が「査問事件」ばかりか当時の党の動きを克明に語った第一級の歴史的文書となっているという点で重要な功績を果たしている。宮本流の予審調書一つ取らせなかった式の対応ではこうした意義が生まれないことを考え合わせると、袴田がいればこそ今日私式のアプローチが可能となったということから見ても袴田という人物の奇態な面白さがレリーフされてくることになる。ある意味で袴田を最大限善意に評価した場合、権力側の謀略に身を委ねることによりそうした権力側のシナリオを後世に残すため党が放った逆諜報者と言えるかもしれない。それが証拠に宮本の懐の中に入り込むことにより時々の宮本の生態を適宜に伝えている節がある。歴史のまか不思議なところと言えよう。 |
「宮本顕治論」その5.宮本の獄中闘争について(1999.11.23日) |
宮本は、治安維持法違反、殺人、同未遂、不法監禁、死体遺棄、鉄砲火薬類取締法施行細則違反という罪名のもとに起訴された。この間の獄中移動は、まず33年(昭和8年)12.26日検挙され、検挙された後麹町署にて留置され、一年ほど経て市ヶ谷刑務所へ移された。「昭和9年の12月初めに、夕刊で顕治が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った時は嬉しかった。いそいそと綿入れを縫って面会に行った。それからは一週間に一回ずつ面会差し入れに行って、まずは(百合子の)憂悶の心も落ち着いた」(平林たい子「宮本百合子」233P)とある。百合子は、この年の12月宮本の面倒を見る必要から宮本家に入籍したようである(この「獄中結婚」は商業新聞にも取り上げられ話題を呼んだようである)。この語りによると、割合早い時期から百合子の面会がなされていたことになるが、流布されている「それから5年間、原則的に接見、通信禁止の状態に置かれたまま、予審でさらに黙秘の戦いを進めた」説と整合しない。百合子との往復書簡から推測すると「面会が許されるようになったのは34年(昭和9年)末のことである」の方が正確なように思われる。宮本はこの後巣鴨拘置所で未決囚として「11年6ヶ月」(正確には10年6ヶ月になると思われる)を過ごすことになった。宮本は逮捕された直後猩紅熱、その後脚気、36年(昭和11年)には肺病を発病、長い病舎入りがあったとも、37年(昭和12年)夏には腸結核にかかり危篤に陥ったものの奇跡的に生還したとも言われている。この時百合子の面会は拒絶されているので実際の様子は分からない。以上面会許可時期、病気の様子等々について各書において記述がまちまちであり一定していない面がある。この間未決囚であったためか弁当から書籍の差し入れまで割合と自由であったとも言われている。宮本は統一裁判を拒否した形跡があるとも言われているが、逆に本人はそれを望んでいたかのような第10回公判陳述もあり、これを具体的に明らかにした著作がないのでそのいきさつが分からない。こういうことを書くと熱心なタフガイ宮本神話の崇拝者の憤慨を招きそうであるが、であるとすれば逆に真実を教えて欲しい。封印はよろしくない。宮本の深紅の獄中闘争が事実であるとすれば、世界の獄中闘争史に燦然と輝く道しるべになるはずであるから積極的にこれを明らかにして欲しい。 |
(私論.私見)