「共産党の理論・政策・歴史」投稿文23(宮顕リンチ事件その後と公判の様子)

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件そのものの考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「宮本顕治論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており、この方が読みやすい面もあるので、ここにサイトアップしておく。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)

 2006.5.18日 れんだいこ拝


その5.小畑の遺体の発見と司法解剖鑑定結果について(1999.11.19日)

 第9幕目のワンショット。こうして小畑の遺体が発掘されることになったが、その時の状況について次のように明らかにされている。小林五郎が書いた「特高警察秘録」(昭和27年7月に生活新社から出版)に次のように書かれているということである。「玄関の次の部屋の畳を上げて見ると、新しい釘が打ち付けてある。素人が慌てて打ったらしく、曲げて打たれている。ねだを上げたが土を掘るものがない。土は柔らかい。勝手元から木炭用の十能を見つけて少し掘ってみるとシャベルが出てきた。シャベルで三尺程掘ると、むき出しの人間の膝が先ず現れた」という描写がなされている。

 この時の小畑の遺体の検診書が残されている。「村上次男及び宮永学而協同作成に係る小畑達夫に対する死体解剖検査記録並びに鑑定書」(以下「村上・宮永鑑定書」と略す、昭和9年1.30日検診)がそれである。他に8年後の昭和17年6.3日に古畑種基作成の鑑定書(以下「古畑鑑定書」と略す)が出されている。両鑑定書の医学的解説をする力は私にはないので素人の私が判る範囲で大筋のところを整理してみる。ところで、「古畑鑑定書」の出された時期が秋笹第二審判決(昭和17年7.18日)直前であることは判るが、その他の被告人判決との絡みとか宮本の公判の接近との絡みが今一つ解明できない。私の手元に資料がないということであるが、どなたかこのあたりの事情をお伝えしていただければ助かります。それと宮本氏お気に入りの鑑定書も出されていると聞いていますので内容付きで合わせてお伝えしていただければ助かります。

 一応ここで私なりに「宮永、村上鑑定書」に目を通して見ることにする。判る範囲で両鑑定書の鑑定評価とそれぞれの特徴を解析することにする。ここをしっかり確認しておかないと、宮本の弁論はいつも巧妙なので、概要「『宮永、村上鑑定書』は、小畑の死因についても『警察べったり』であり、『でたらめな鑑定』であるとか、『私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった』とか云われているものである」という語りを真に受けてしまうことになる。宮本話法にかかっては批判されている当のものを熟知していなかったらすっかりその気にさせられてしまうという、狡知術的な罠が敷かれているからして、先入観抜きに踏みいらねばならない。「日本共産党の研究三285P」を参照する。

 やはり聞くと見るとでは大違いであった。鑑定人の宮永学而と村上次男は東京地方裁判所医務嘱託医師であったようで、同鑑定書は、昭和9年1.30日に非常に精密に小畑の遺体について書き記している。「今日午前10時30分より、東京帝国大学医学部法医学教室解剖場に於いて、同予審判事裁判所書記渡部正志、検事戸沢重雄立ち会いの上、村上次男執刀、宮永学而補助これを解剖するにその所見左の如し」とある。私はこうした医学的且つ専門的な用語を理解する力がないので、「暴行」と「死因」に関する目についた理解し易いところを書き出してみることにする。同鑑定書はまず、小畑の遺体が死後20日以上(24日)を経過しており、遺体に土砂が付着し汚染されており、体表面の一部にはかびが発生しており、皮膚の表皮のみならずその下部の真皮まで露出する等損傷が有り、そういう状態での鑑定であることを冒頭で明記している。つまり、「本屍の解剖の当時は死後変化がかなり顕著に現れていた」(古畑鑑定書)ということであり、暴行的損傷か腐敗的損傷かまでは判りにくい部分もあったということであろう。次に体の頭部より下肢に至る部位ごとの解剖時の状態と損傷と出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている。次に体の内景鑑定に移り、頭蓋骨及び脳から各内臓器の解剖時の状態と損傷と出血ないし血流の様子別に詳細に鑑定をしている(恐らく、当の鑑定が日本共産党の中枢幹部の奇異な変死事件であることを踏まえて後日に問題を生じぬよう余程留意しつつ解剖し鑑定したのではないかと思われるほどの精密なものとなっている。そこまで留意しつつ鑑定しても「でたらめな鑑定」呼ばわりされてしまったが。私のこの言い方が不審であれば、実際に目を通されるよう希望する)。以上を踏まえて、説明の項目にて暴力と死因に関係した内容を抽出し、最後に鑑定の項目で死因を特定するというおおよそ模範的とも言える学問的手法で鑑定している。

 「宮永、村上鑑定書」の真の意義は、小畑の遺体に実際に接したのはこの両名の鑑定人のみであることによる小畑の遺体の具体的な所見部分にこそある。繰り返すが、余程優秀な医師でもあったのであろうが、後日の争いの元にならぬよう精密を極めた検査をしている。その内容を記したいがとてもではない専門的な分析であるということと、かなり長大なものであることにより紙数が足りなくなる。今日においても、この解剖検査記録のほうは、別に「特高の筋書きに従って」「ない傷をあるとしたわけではなく」、袴田も「解剖の事実にはあまりウソを書いていない」、「解剖の調書にはどこの部分がどうなっているかということは明白に書いてある」と証言している当のものである。従って、詳細は「日本共産党の研究三285P」に各自で目を通していただくとして、私なりに意外に論議されていないにも関わらず重要と思われる事項を抽出してみる。第一点、概要「胃は、小にしてその襞厚く、内に食物残滓を含有せず」とある。つまり、小畑は腹ぺこ絶食状態に置かれていたことを指摘していることになる。「食事を供せず」の被告人陳述が具体的に裏付けられているということである。第二点、概要「左右の指爪及び跡爪は著しく深く煎断せられて、爪床面の前側を露出し、左右の拇指(おや指)端にありては淡赤色にして血液を滲潤す。かく状態は普通の場合多く見ざるところなり」とある他、人差し指、中指等にもほぼ同様の出血・変色・深く煎断した爪跡について記載されている。つまり、「指先リンチ」の可能性があると指摘しているということになる。事件関係者の誰からの陳述にも「指先リンチ」の指摘がなかったことを考えると、このたびの「査問事件」にはまだまだ隠されたリンチの様子があるのではないのかということになる。思うに、実際のリンチはもっと凄惨なものではなかったかとさえ思わせられる。他の部分にも同様な記述が見られるが、例え出血とか異常の有無の記載を転記してみても水掛け論にされてしまうであろうからこれら二点に注意を喚起しておくことにする。

 「宮永、村上鑑定書」はこうしたおおよそ詳細な鑑定に基づき、概要「これら出血は、本死の生前の顔面前ひたい部及び頭部に鈍体の強く作用したる証拠とす」、「脳内損傷のあれこれは暴力の結果とす」、「心臓並びに大血管内の血液は流動性にして急死の像を呈す」、「かく暴力は、『脳しんとう』を惹起し、『急性死』に致すに足るものとす」、「首の鑑定については、外表所見のみにては判断し難し」、「胸部において約あずき大の淡紫色、腹部において約だいず大の淡赤色、変色部あり」、「その他背面部、指、下肢等にいずれも出血を伴なうを認める。すなわち、これらの表皮剥離並びに皮下出血もまた本屍の生前の鈍体によりて生じたるものとす」、その他「本屍の生前に布の類、紐の類をもって緊縛したるものと認める」等々と鑑定した。これを「古畑鑑定書」は次のように纏めている。「被害者小畑達夫の死体顔面前ひたい部、頭部、胸部、上肢、下肢及びその他に大小多数の皮膚変色部、表皮剥脱、皮下出血、筋肉間出血、骨膜下の出血等があり、又頭蓋腔内において約鶏卵2倍大、クルミ大薄層の硬脳膜下出血、約クルミ大、エン豆大各一個の軟脳膜下出血、左右同頭蓋カに約クルミ大の部分にだいず大数個、左右○○骨岩様部にあずき大数個の骨質間出血があったよしである。又心臓並びに大血管内の血液は流動性であったと云う」(後の絡みでここで補足しておけば、以上のような鑑定所見に対して、宮本は、「小畑の身体にあったという軽微な損傷というものが事実とすれば、それは大部分彼が逃亡をこころみて頭その他で壁に穴をあけようと努力した自傷行為とみなされる」とコメントしている。この「宮永、村上鑑定書」から「相当な暴行跡」を読みとるのか「軽微な損傷」と読みとるのか、同じ文面を見て人は判断が違うということになるようである。こうなると法医学医師と国語の読解力の講師連合で説明して貰わねばなるまい。それと、仮に宮本発言に従って小畑が自傷行為をしたとしても、小畑は手縄・足縄・猿ぐつわのままどうやって逃亡しうるのだろう、小畑はそれさえ判らずめくら滅法押入内で暴れたのだろうか。小畑殺害に関与したのみならず、こういう物言いで死人を更に愚弄しようとする宮本氏って一体どういう御仁なんだろう。そういう詐術で我々を煙に巻こうとする物言い根性が不埒である、と私は思う)。

 「宮永、村上鑑定書」は以上のように所見した上で、「本屍の死因は、頭部に加わりたる暴力による『脳しんとう』と認める」のが相当とした。これが最初の死因鑑定となった。こうして「宮永、村上鑑定書」は小畑の死因を「脳しんとう死」とする判定を法廷に提出するところとなった。この「脳しんとう死」をめぐって、袴田の第一審公判法廷で、鑑定人宮永と被告人らが鑑定結果をめぐって争ったようで、「デタラメな鑑定をした最初の鑑定人が法廷に出たとき、わたしがかれにたいして、そのデタラメさを指摘し、追及したときに、彼は最初からひじょうに興奮して共産党員なんかと口をきくものかといわんばかりの態度でした。かんで吐き出すように、一言二言いっただけで、あとはわたしのいうことに返事もしない態度でした」、「宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった」と袴田は記述している。この時の主張は、「解剖の事実にはあまりウソを書いていない」が、結論部分の「脳しんとう」鑑定が「木に竹をついだようなデタラメな結論をくだして」おり、「思想検事や特高警察のいいなりになって書いたもの」であり、殺人罪として起訴しようとする不当なものであると主張したようである。

 次のワンショット。その後のつなぎの経過は良く判らないが、こうして、袴田ら被告人は、最初の鑑定結果から8年後に、新鑑定人として東京帝国大学医学部教授であり法医学教室主任であった古畑氏を登場せしめることに成功したようである。この古畑氏の登場は被告人側の法廷闘争の結果のそれであるというほど単純ではないと思うが、推測部分になるので差し控えることにする。その政治的意味は、殺人罪で起訴されることを結果する「宮永、村上鑑定書」を到底容認できないという立場からの被告人による新たな鑑定要求が裁判長に受け入れられ、その結果新鑑定人として古畑氏に白羽の矢が当たりこれを裁判長が認めたということにある。(「査問事件」に関して暴力は無かった説の者が得手として主張する「暗黒」法廷にしてはなかなか物わかりが良いではないか、と思う。一体どこまでが「暗黒」で司法の健全さになるのだろう。暴力なかった派の人たちは、この辺りを解析して見せて欲しい)。

 話が横滑りするが、「暗黒」に関しては私は次のように思う。戦前の法制度が全て「暗黒」であったとか、江戸時代が厳しい統制社会一色であったとかみなすのは少々漫画過ぎるのではないのか。いずれの当時にあっても「時代の器」の中で人は懸命賢明に仕事をしているのであって、やはりある種その人次第の裁量の部分もあって、「お上」といえども現場においては当時も今も仕事は仕事としてきっちりこなす人もいれば逆の人もおり、情実に弱い人もいれば当局におもねる人もいるというのが実際であって、それらの一切の最終結論が、この場合は予審判事・鑑定人であるが、実効部分について当局奥の院からの最高意思指示が出された場合、これには従わねばならないという政治的組織的解決傾向にあるというのが歴史の実際ではないかと思う。言いたいことは、宮本流の二元的な「暗黒」史観は、現場の実際を知らない者の単に御都合主義史観であって、マルクス主義的歴史観はそうは平板なものではないと思う。

 さて、古畑鑑定人は、鑑定に当たってまずは法廷に登場したようでもある。その際袴田から「共産党、共産党員にたいする先入観によらないであなたはあくまで学者として科学的にこれを検討して結論を出してもらいたい」との依頼を受け、それに対し古畑氏は、「わたしのほうになかば向いて、たいへんに紳士らしい態度で聞き」、「あなたのいわれることはよくわかりました。わたしは先入観やそういうものでこういう問題を検討しようとするものではありません」と述べたという。袴田はこの時の印象を「わたしはこの古畑氏と前の宮永鑑定人とくらべて、同じ学者でありながら、こうも態度がちがうものかと思いました」、「古畑氏のわたしの裁判の鑑定人としての態度は一審の鑑定人とくらべてひじょうに違(った)」と述べている。

 次のワンショット。こうして、古畑種基医師による再鑑定がおこなわれることになった。既に8年の月日が経過してはいるものの、「宮永、村上鑑定書」には詳細な解剖所見が記載されていたので再鑑定されるに充分なものであったということになる。袴田にも「少しもさしつかえなかった」と認知されている。古畑医師は、昭和17年4.30日鑑定に着手し、同年6.3日に終了し、いわゆる「古畑鑑定書」を作成し法廷に提出することとなった。概要「先の鑑定書が『本件被害者小畑達夫の死亡当時の状況に基づく』点が弱かったので、これに留意しつつ『許可せられたる鑑定資料を閲読して本件の概要を知るたる上鑑定事項につきそれぞれ熟考按の上、本鑑定書を作成しました』」と冒頭で述べている。なるほど、「宮永、村上鑑定書」は、遺体発見時直後に解剖所見を出した関係で、「査問事件」の全貌が判らぬままに、遺体に痕跡している暴行的様子をそのまま直接的に死因に結びつけたという鑑定上の欠陥があったようにも思われる。しかし、このことは宮永、村上両医師が不誠実ないい加減な人物であったとは思えない。「査問事件」の経過も判らないままに解剖所見を出せと言われて無理矢理鑑定すれば「脳しんとう死」を結論せざるをえないほどのおびただしい暴行の後があったというのが真相ではなかったかと、私は受け止めている。同時に、この時点では、当局奥の院の御都合が「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」を世間に喧伝することに重点があり、こうした鑑定結果は好ましいものでもあったということでもあろう。この点につき「古畑鑑定書」作成時には、ほぼ「査問事件」の全貌と小畑死亡時の調書が出されていた時点であったから、古畑鑑定人は遺体の痕跡に認められる暴行跡をそのまま小畑の死因に結びつける間違いは起こさなくて済んだという事情があったように思われる。同時に既に党中央壊滅後であったから「日本共産党内党中央の凄惨なリンチ事件」の喧伝に力を入れる必要も無くなったという背景もあったものと思われる。

 こうして「古畑鑑定書」は、まず「宮永鑑定書」の損傷鑑定部分に対して「上述の変化の大部分は同被害者の生前暴行を受けた結果生じたものと推測せられます」とした。続いて「ここに於いて小畑達夫の死因として、『脳しんとう死』と『絞頸死』と『ショック死』が問題となって来ます」とした上で、「脳しんとう死」の可能性に対しては、「本件においては、頭部にかかる強大な鈍力が作用したと言う証拠がありませんから、本件被害者の死因としては『脳しんとう』は適当しません」とした。「絞頸死」の可能性に対しては、「前記索溝を絞溝と確定するだけの確かな証拠が無く、且つ本屍には『絞殺死』に見られる病状が顕著に現れていません。よって本屍の死因を『絞頸死』と見るにはその根拠がかなり薄弱であります」とした。以上から考えられることとして、「本件に於いては、被害者は肉体的にいろいろの外力の作用を蒙って居たこと、空腹、渇きの状態にあった事、精神的苦悶(脅迫、暴行によって)を受けていたと思われる事、且つ死亡の直前に於いては、壮年の男子4名と必死の格闘を為し、その間絶えず大声を出していたと言う事により、肉体的にも精神的にも疲労困憊の状態にあったと認められる事等は、『虚脱死』を起こすことを容易ならしめる様な状態にあったものと推測せられます。私は、本件の被害者小畑達夫の死は私たちの言うところの『虚脱死』であると考えます。但し、これは従来『外傷性ショック死』と称せられていたものと同義のものであります」とした。こうして「古畑鑑定書」は「外傷性ショック死」判定を行った。

 こうして、古畑鑑定によって「宮永、村上鑑定書」の「脳しんとう死」鑑定がくつがえされたことになった。この鑑定結果の違いは、はじめの「村上・宮永鑑定書」の「脳しんとう死」判定は殺人罪につながり、「古畑鑑定書」の「外傷性ショック死(虚脱死)」の判定は傷害致死罪につながるという意味で大きな訴因事由の変更につながることを意味していた。この鑑定結果に対して、袴田は次のように述べている。「同僚ともいえる人の鑑定を否定する結論を出すわけですから、やはり勇気がいったと思います。しかも、戦争がひどくなり、日本が戦時体制にはいり、暗黒な反動の真最中におこなわれている日本共産党の幹部にたいする裁判で、その裁判の鑑定人に指定され、それを引き受けて、前の鑑定人とまったくちがう、学問的に良心的な鑑定書を書くということは、わたしにたいして公判廷であらわした態度ともあわせて考えてみて、ほんとうに学者として、良心的な人だと思います」。

 ここは非常に大事なセンテンスなので別段落で確認する。古畑鑑定は、概要「暴行、空腹、渇き、精神的苦悶、格闘」等の具体的事由を挙げて「外傷性ショック死」と鑑定しているということである。にも関わらず、ここの部分が、袴田・宮本により、あたかも古畑鑑定が漠然とした「ショック死」を鑑定結果させていたかのような詐術が行われることになるので、あえて段落替えで明示した。次稿で、この新鑑定結果に対して、袴田と宮本がどういう態度を取ったかを見ていくことにする。


その5.両鑑定書に対する袴田と宮本の対応ぶりについて(1999.11.20日)

 この新鑑定結果に対して、袴田がどういう態度を取ったかを最初に見ることにする。簡略にまとめるとかく述べているようである。曰く概要「 古畑鑑定書はぜんぶがそうだというわけではないが、基本的にはわたしの結論と同じものでした」と言う。つまり、「古畑鑑定書」に対してこの前半部分では「基本的にはわたしの結論と同じ」とこれを評価していることが判る。これが本来の袴田の了解の仕方であったものと思われる。ところが、この後から論調が急にカーブし始める。曰く概要「なぐって『脳しんとう』を起こさせたとすれば、それだけの傷痕が残っていなければならない。ところが小畑達夫の頭をしさいに解剖した調書を見ても、そういうものはない。だからこれは『脳しんとう』を起こして死んだのではない」と言う。かなり歪曲話法ではあるががまんして聞くことにする。曰く「心臓その他の臓器を調べてみると、心臓は肥大し、膵臓その他も厚い脂肪の層でとりかこまれているおり、心臓の内部にまで脂肪がはいりこんでいて、その結果、心臓肥大ということになっている。心臓や内臓に脂肪がはいりこんでいる、こういう状態は、酒を大量に飲む人のなかに見られる。また、病的に心臓肥大した結果としてそういうこともある。そういうことが再鑑定には書いてある。たしかにスパイの小畑というのは、大の酒くらいで太っていた。こういう心臓をもった人は、突然人からどなられたり、なにかで驚いたりすると、『ショック死』することもある。だから脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」とある。「脂肪の原因は『ショック死』である、とそう書いてあるんです」というこの表現は文章になっていない。これから訳の分からないことを言い繕うぞという兆しであろう。曰く「ですから、私たちが殺人とか傷害を加えて死亡にいたらしめたということは、まったく事実無根であることが証明されたわけです。こうして控訴の公判では殺人という罪名は消えた。殺人未遂というのも消えました。しかし、また傷害致死という不当な罪名をきせられ、一審より二年けずられたが、懲役13年という判決を受けました」とある。あららっ、「事実無根」で「傷害致死という不当な罪名」をきせられとでも受け取れるような調法の言い方で煙に巻かれてしまった。この論旨展開はどこかで聞いたことがある。ソウカ宮本さんのの検閲を受けたていたということだな。一目瞭然だよ。ただし、宮本は同じセンテンスで「梅毒」を持ち出したが、袴田はそれは余りにもと思ったのだろう「酒飲み特有の脂肪肥満」を要因とする「内因性ショック死」を暗示させるという違いを見せてはいる。

 さて、それではこれらの両鑑定書に対して宮本はどう公判陳述をしたのかを見ていくことにする。その前に、この陳述には内容以前の不思議なことがあることを最初に指摘しておく。つまり、宮本の陳述を聞けば、既述したところではあるが、自らの予審尋問調書一切を取らせなかったのに関わらず、逸見・袴田・秋笹ら皆の調書一切に目を通しており、そればかりか袴田調書批判の中で「査問状況に関しては不正確な陳述がある。上告審までの間にかなり訂正のあとはみえるが、なお根本的に是正されていない」とあるように逐一調書内容の訂正の動きまで把握していたようである。更にはこの稿で関係する両鑑定書のみならず関連した医学書にまで精通していることが自ずと知れることになる。一般に、被告人にもそういう機会が与えられることを私は肯定するが、当時の裁判制度上にあっては珍奇な現象なのではなかったのではなかろうか、と思う。他の被告人とのやり取りにおいても、自分の手の内を明かさず、相手の手の内を読みとれるとしたらいかほどか優位に弁論することが出来よう。他の被告も同じ様な機会に恵まれていたのかという疑問と、一堂に会させて訊問すれば余程真実を明らかにしえたであろうになぜそうした合同式の法廷にならなかったのだろう(真実解明のためかどうか新鑑定人まで用意した裁判長がなぜそのように指揮しなかったんだろう)、と疑惑を最初に述べておきたい。以下、宮本が喋りすぎて思わずボロを出している様をうかがうことにする。もっとも蓋然性の高い「外傷性ショック死」について縷々述べれば良いと思うが、ひとしきり「脳しんとう死」の否定講釈を聞かされ、最後の方でやっと僅かに「外傷性ショック死」の否定論拠を聞かされるという流れになっている。

 宮本の「第五回公判調書」陳述を解析する。まず「宮永、村上鑑定書」に対して次のように言う。曰く概要「特に宮永鑑定人は、『脳しんとう』による死亡と断定し、斧かなんかで殴ったのであると斧を推定し、『脳しんとう』以外の死因については考える必要がない」と述べたと言いなす。実際に宮永鑑定人が法廷でそのようにいっているのかどうか私の調べは出来ていない。「『脳しんとう』以外の死因については考える必要がない」とまで本当に言い切っているのであろうか。「宮永、村上鑑定書」中にはそのような記述は無い。お得意の詐術ではないかと私は思っている。こうして、宮本は、この「脳しんとう死」所見に対して、当時の情況を自己流に説明しながら曰く「宮永鑑定人は、その当時の状況を全然しらないのでだいたい想像に基づいて鑑定したものであると考える」、「全体的に宮永、村上両鑑定人の鑑定は頭から『脳しんとう』の予断をもって鑑定し、小畑の体質につき詳細な検討をしていない」、「宮永鑑定人の断定は疎漏である」と反論する。このような結論を出す経過の文章は、どちらが医師かわからぬ程の専門用語を駆使しながら知識を弄ぶ。別にそれを悪いというのではないが、一体独房にあって宮本氏はどうしてこのような博識な知識をえたんだろうかとその方にこそ関心が向いてしまう。背後の知恵者の存在を窺うのは穿ちすぎであろうか。実際の言い様を紹介したいが煩雑になるので略す。ご不審があれば各自でお調べいただきたいと思う。

 次に古畑鑑定人の鑑定について、宮本は次のように云う。曰く概要「『古畑鑑定書』は『宮永鑑定書』にくらべると是正され真実にちかく、結論として『ショック死』を断定している」と、新鑑定が「脳しんとう死」その他殺人罪が問われることになりかねない死因を退けて傷害致死罪に繋がる「ショック死」を考慮したことが偉いと言う。既述したところであるが、「古畑鑑定書は、文中で確かに「ショック死」の学問的吟味をしている。その後でこの度の小畑の死因としては「外傷性ショック死」を鑑定しているというのが実際である。それをわざわざ単に「ショック死」との記述部分だけを取り出してお得意の歪曲すり替え話法へと誘おうとする。こうした下地を準備した後に、曰く「政治犯人に何等の好意を持たない鑑定医さえ、『脳しんとう』を起こすような損傷も打撃もないと証明して『ショック死』と推定した」のだと言い切る。事実はこうだ。古畑鑑定人は、「良心」に従い殺人罪につながる「脳しんとう死」を否定した。同時に同じ「良心」に従い傷害致死罪につながる「外傷性ショック死」を鑑定した。ここまでが被告人達の意向に歩み寄れる氏の「学者的良心」の精一杯のところであった、と私は推定する。

 結局のところ、「古畑鑑定書」もこれ以上の意味役割を果たさなかったから、こうなってしまっては宮本は自力で冤罪説の構築に向かわなければならないことになった。曰く「一応前者の鑑定の曖昧な点が是正されているが、後者の鑑定についても考察すべき問題がある」として、傷害致死罪をもたらすような鑑定もまだ本人の意に添わないという。「その鑑定書を読んでみると小畑は『ショック死』を起こしやすい体質であるということがよくわかる。すなわち、実質性臓器に脂肪沈着あり胸腺残存しおり、『ショック死』をおこしやすい体質であることが同鑑定書の16,17,19,24の記載で明らかである。また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で『脳しんとう』類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている。しかるにその点をよく考察せず、当時新聞で騒ぎ立て事件を誇大に報道した雰囲気に押され学者的冷静と忠実を失ってしまったと思う」と言う。宮本氏の手に掛かってはとうとう古畑鑑定人も「学者的冷静と忠実を失ってしまった」御用人物にされてしまった。宮本のような御仁に気に入ってもらうためには宮本の言いなりにならない限りいかようにもたたかれることが判る。

 曰く「『傷害致死』という罪名について見るに……とくに重大な損傷のなかったことは鑑定書さえ証明したのであるから、この罪名も結局、変節者の陳述によって推定的に加えられたものに過ぎない」、曰く概要「『ショック死』とは、死にいたるような特別の病変なくして突然心臓の停止にいたるもので、軽微な原因でも容易に死にいたることも考えられ、特異の体質の者が『ショック死』をおこすことは大いにありえるのである」と言う。小南又一郎著『実用法医学』、三田定則著『法医学』の当該箇所を参照してもこの点明白であると言う。「古畑鑑定人は神経過敏の者とか、不安定の者は『ショック死』をおこしやすいといっている」ではないかと言う。宮本は、こうして、学者に対しては学者の権威をぶつけながら「内因性ショック死」の可能性を頻りに説いて聞かせる。とはいえ、古畑鑑定人の鑑定の都合の良いところの「ショック死」という言葉だけを上手に引き出しただけであることが容易に見て取れるしろものでしかない。

 以上ひとしきり煙幕を張ってから、何を言おうとしているのかと見ていくと、曰く概要「古畑鑑定の説明にはまだ充分でないところがあり、具体的にとくに小畑の体質について検討をおこたっている点は、宮永鑑定人と同様であり、ただ一般の場合として左様な体質を有する者は先天的に『虚脱死』をおこしやすい素因をもっているというにとどまり、その結果説明の主点を疲労や精神的苦痛においている」と言う。つまり、「古畑鑑定書」が「ショック死」を推測したのは良いが、その要因として「疲労」や「苦痛」という具体的要因を挙げているのがけしからんというわけである。結局ここに戻らざるをえないと言うことでもあろう。しかし宮本氏もさすがの人である。「疲労」や「苦痛」という具体的要因が存在しなかったという論証に自ら向かおうとする。並の精神の人では出来ない。これをどのように言いなすかみてみよう。いかにも宮本らしい話法が聞こえてくる。

 曰く概要「小畑の場合には、苦悶らしい声も出さず」(ボソボソ)猿ぐつわでどうやって声を出すのだ、「のみならずその間隙をみて逃亡さえ計画する余裕をもっていたのである」(ボソボソ)ものはいいようだなぁとつくづく思う、「査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われる」(ボソボソ)マジで言っているんだろうか、「したがって古畑鑑定人のいう著しい疲労困憊はありえない」、「また精神的の苦痛もない」、「暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない」、「しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、それが苦痛であったと思われるくらいのものである」(ボソボソ)この言い方が気持ちが悪い私には。何とも宮本的な断定調だ。それはそれとして、古畑鑑定書も指摘した「飢えと渇き」については言い繕いが出来なかったのかダンマリを決め込んでいる。「外傷性ショック死」を否定するのであれば、この絶食査問についてこそその当否を語らねばならないキー事項なのではないのか。なお、宮本は、小畑の傷は本人が押し入れ内で暴れて自損した傷だろうとも言いなしてもいる。曰く概要「(押入で自損傷していることに触れずに『古畑鑑定書』が)軽率に外傷即暴行としている点は前鑑定者の傾向を踏襲している。査問は静粛に行ない、暴力の使用は極力注意した。手足を縛ったままで彼らを押入から出入りしたから若干の影響は手足に残ったかもしれぬが、特に傷らしいものは見ていないし、また予審終結決定に記載されてあるような暴行は加えていない。したがって外傷を加えられた暴行という鑑定は妥当ではない」。こいういう物言いを詐術と言わずして何と言えばよいのであろう。

 しかしそれでは何が原因なんだということになるが、宮本氏は毅然として以下のように逆推定する。「体質性ショック死」ないしは「持病性心臓麻痺死」ではないかと自ら結論を用意する。「体質性ショック死」については、「法医学によると『ショック死』は激論しただけでも、またちょっと指なんかでさわっただけでも特異体質のものには起こる場合があるというから、『ショック死』であるとすれば死因は体質に置くべきである」と説明する。「持病性心臓麻痺死」については、「小畑の場合は心臓は人並みより大きく、また心臓に脂肪沈着が多くまた心臓に肥厚斑があったという点から『内因性急死として心臓死』も考えられる」、「古畑鑑定人は、『ショック死』と断定したからほかの死については考察の必要がないというが、宮永鑑定人の鑑定書の内臓に関する記載を前提としてみても『心臓死』と考えることは不自然ではない」と説明する。「結論として小畑の死因は、同人の体質の特異性に主因を置くべきであって、自分は小畑の体質の脆弱が死因なりと考える」、「われわれは、むしろ『心臓麻痺』と推定する方が妥当だと公判廷で主張したのである」。ここでも宮本は「古畑鑑定人は、『ショック死』と断定したからほかの死については考察の必要がないと云っている」と言いなしているが、法廷陳述でそう言ったというならともかく鑑定書中にはそのような記述はない。「宮永、村上鑑定書」もこの話法でやり込められていたことは既に見たところである。

 こうしていつのまにか小畑の死因は「梅毒」か「心臓麻痺」か「異常体質性ショック死」にされてしまった。「『ショック死』は激論しただけでも、またちょっと指なんかでさわっただけでも特異体質のものには起こる場合がある」とわざわざ指摘していることを考えると、宮本はひょっとして「ちょっと指でさわった」ので小畑が死んだとでも言いたかったのだろうか。そこまでは言ってないにしても、小畑は自分の体質の責任で偶然にもポックリ死んでしまったというのが真相だという程度には言っていることになる。もはや、私は言葉を失う。


その5.袴田執行部「党中央」の動きについて(1999.11.21日)

 第10幕目のワンショット。こうして我々は「査問事件」における小畑死亡を見てきた。宮本の逮捕も見てきた。驚くことに、この後査問は中止されるどころか一層拍車をかけて進められたという事実がある。つまり、小畑の死亡は「不幸な事件」であったのではなく、党内労働者派もしくは残存戦闘的活動家駆逐の狼煙となったということが分かる。既述したように12.24日の赤旗号外は、「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下で、断固としたスパイ摘発の推進を指令していた。これを指導したのが袴田であり、実行したのが木島ラインであった。34.1.10付けの「赤旗」は国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで「全党の全機関組織を挙げて決起せよ!挑発者を執拗に追撃し奴らを全部的に清掃するために闘え!プロレタリアートの闘争を破壊せんとした裏切り者を組織の隅々から引きづり出して革命的裁判、大衆的断罪によって戦慄せしめよ!」なる激越字句を以てさらなる党内スパイ摘発の続行を煽っている。「さし当たり中央委員会としては、これら不純分子を一括して除名処分に附する旨を決定し、これを当時発行の『赤旗』紙上に発表した」(袴田第15回訊問調書)というのである。こうして前年末の荻野査問未遂事件、翌34年(昭和9年)1.12〜2.17日大沢武男査問事件、同1.17〜2.17日波多然査問事件などが引き起こされることになった。大沢は党中央財政部員であり、その査問は木島と富士谷真之介を中心として行なわれた。波多は党東京市委員会江東地区委員であり、その査問は木島と加藤亮を中心として行なわれた。大沢・波多事件の場合いずれも激しい暴力が行使されている。これら二つの査問は、「査問を中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回訊問調書)、「具体的に査問の状況の報告は無かったが、波多についても又大沢についても彼らは自白こそしないが、スパイである事は客観的に認められたと言う趣旨の報告がありました」(袴田第3回公判調書)とある。この査問が如何にいい加減なものであったかは、「しかし、波多、大沢の両名が警察と連絡のあるスパイであったか否かの点については大泉等ほど明瞭でなかったと思います」(袴田第15回訊問調書)ということでしれる。この後「全協」責任者小高保の査問が計画されていたが、その途中で木島が逮捕されたので中止のやむなきにいたった。小高については「査問は中止されたもののスパイ嫌疑濃厚だったので除名しました」(袴田第3回公判調書)とある。こうなると滅茶苦茶であるがこれが史実である。ここで、木島は「査問事件」に関わる貴重な陳述をしている。「初め私は、査問という事はよく分からず、喫茶店で皆で聞くくらいに考えておりましたが、小畑及び大泉等に対する中央委員会の査問を親しく見聞きするに及んで、党の査問と云うものがどんなものであるかと云うことを知りました。小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまったのであります。しかも大泉に対する場合もあれ程のテロをやり、漸くスパイである事実を白状しました。従って、私もスパイに対してはあれぐらいのテロはやらなければなるまいと考え、波多の査問についても、右の如くテロをやる決心でありました。スパイは万死に値すると徹底的に憎んでいたので、テロの結果あるいは波多が死ぬかも判らない、しかし死んだって構わないという考えは胸中にありました」(木島予審調書)。つまり、木島は、対小畑・大泉の「査問事件」を手本として「小畑の場合、あれ程のテロをやり、小畑を殺してしまった」やり方を真似たと言っていることになる。

 ちなみに波多然は、手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)でリンチの様子を次のように明らかにしている。「査問は、実際は、嫌疑ではなく、スパイであることの自白の強要であり、数日間ではなく、数ヶ月間であり、……残忍なテロによる強迫であった」云々。してみれば、小畑・大泉の「査問事件」はこういう党史的背景において捉えられねばならないということになる。「政治というものが避けようもなくその底に秘めている暴力性に目を閉ざして、うわべのきれいごとで身を装うことの欺瞞性を強く指摘したい」(栗原幸夫「戦前日本共産党の一帰結」)という栗原氏の指摘は史実を的確に踏まえた提言であると言えよう。なお、この査問前後の頃からと思われるが、木島と袴田との折り合いが悪くなっているようである。これが木島転向の伏線となる。私の推測であるが、「さすが労働者だ」とおだてられながら便利に使われてきた木島が、この時点に至ってようやく使い捨てのテロリストとして扱われている己の存在と、スパイとされている被査問者こそが戦闘的活動家であるのではないかと気づきはじめたということではなかったか。これら一連の経過を見たとき、党内査問の黒幕に宮本が位置し、袴田を矢表てに立て、木島を特攻隊隊長として利用していた様が見えてくる。既述したが、宮本氏が中央委員に登場して以来「査問事件」が党内に発生してきており、「査問事件」以前以降に宮本ラインの影が見えており、党内の戦闘的活動家に照準を合わして遂行された気配があるということも又見えてくる。なお、党内査問についてはもう一つのラインも見えているが本筋から外れるので割愛する。

 次のショット。袴田の動きは意図的か結果的にかは別にして至る所変調にしてアヤシイ。「この間両名とも週2回くらい各別にあるいは一緒に連絡を採り、大泉・小畑両名に対する査問終了後の党当面の方針、党員再審査の件につき協議決定しておりました」(袴田15回調査書)とある。党内の清掃事業としての査問事件と並行して彼が手がけたのは、「党員の再審査及び党員の細胞への再編成」(袴田15回調書)であり、「しかし、爾後党中央部並びにその全組織に加えられた弾圧のため、この事業を完成することが出来なかったのははなはだ残念であります」(袴田15回調書)、「これらの任務を遂行する為の基礎工作として且つ党を真のボルシェビキー党足らしむる為その組織整理の必要と不純分子の排除掃討を行いこれによって党を防衛する為、昭和9年1.10日頃逸見、秋笹等と会合して、私の提案に基づき党員資格の再審査を実行することに協議決定しました」、「優良分子のみを党員として再登録することにしましたのであります」、「この整理事業が略完成したのは同年2.20日頃でした」(袴田16回調書)とある。党員の再審査とは、全党員に可及的急速に経歴書を再提出せしめるということであり、これが官憲に奪取される危険を思えば無神経極まりない提議であったことになる。袴田が「私の提案に基づき」と言いなしてはいるが「党内査問の強化」とこの「経歴書提出」が宮本の指示であったことは既述した通りである。

 「経歴書提出」は、、当時の状況からしてあまりにも無謀な方針であったが、強権的に発動され、袴田執行部に対する信任の踏み絵的に取り扱われたようでもある。これを裏付ける次の様な陳述がなされている。「党員再審査に当たり、中央部では、一応彼(山本秋−反中央派であった)に会って意見を聞き警告を発した上、彼が中央部の方針を承服するなら再登録を許し、もし承服しなければ資格停止その他の処分をしようということになり」云々(袴田17回調書)とある。これが本人陳述の史実であることをしっかり銘記せねばならない。つまり、袴田執行部は、一方で公然とスパイ清掃事業を遂行しつつ他方で特高直通の機密漏洩になりかねない背信行為に血眼になっていたということになる。但し、「経歴書提出」はさすがに党内の抵抗があってうまく運ばなかったようである。後日押収を考えると危険極まりないこととされ、会議の席上逸見・袴田・秋笹3名立ち会いの上焼却廃棄処分として粉塵に帰した模様である。この間機密が漏洩されていた可能性は充分考えられる。

 次のショット。1月上旬頃、袴田執行部と「全農」(又は「全会」とも表記する)との会合が持たれ、「査問事件」の経過について説明の会合が持たれた模様である。「全農」は小畑・大泉系の農民運動組織であったから無関心ではおれなかったということであろう。袴田と秋笹・逸見の3名は、党のフラクションであった「全農」の責任者宮内勇と日本消費者組合連盟の元書記長であった山本秋と会見した。この二人は、その場では納得したようであったが、後日分派的動きを始めることになる。ここで貴重な証言がなされている。「(宮内は)爾後全会の指導を担当せる逸見と連絡を執り、なお赤旗編集への協力の為秋笹とも定期連絡を執ることに決定したのでありますが、その後逸見とは連絡を執りましたが、秋笹との連絡は逸見を通じて拒絶して来、逸見以外の者とは連絡することを欲せずと云う態度を表明しました」、「その頃既に宮内が党中央部に対して何ら根拠のない不信を抱いて居ることが窺われたのであります」、「彼は、それから逸見と連絡を執る度ごとに大泉・小畑に対しては党中央部から除名処分の外に死刑の判決が下ったのだろうと云う意味の質問を逸見にしていたとのことで、これに対し逸見も大いに憤慨し私たちも宮内のこの行動に対しては甚だしく不満でありました」(袴田16回調書)とある。会談の結果、宮内・山本らが納得せず、大いに不満を覚え党中央と袂を分かつことになった、連絡線として唯一逸見のラインだけを残したと読みとれる。

 次のショット。2月頃宮本のもう一つの指示であった「全協」解体が策動されている。2.17日赤旗は、「全協内における挑発者の存在を大胆に確認し、彼らに対する断固たる公然の闘争を開始せよ」と呼びかけている。3.8日赤旗は、「全協フラク責任者オッチャン事小高保は全協内に挑発者の元凶で、小畑・大泉の告白によれば、全協関係一切の報告、公文書等を秘密警察に渡しているスパイ」だとして除名広告を出した。「全協と東京市部協議会とが対立しておりましたので、党中央部としては東京市部協議会を中心として全協を再建し関東地方協議会を結成し更にこれを全国協議会に迄発展せしめんとする方針を決定したのです」袴田3回公判調書)とあり、東京市委員会川内唯彦、江東地区委員古川らにこれを命じたという。この背景には、党と「全協」中央との激しい対立があった。小畑がこの「全協」出身であったことは既に見てきた通りである。これに対して「全協」側は、「労新」で、党の方こそ「全協」分裂を策す挑発者だと反論している。以降互いを挑発者呼ばわりするキャンペーン合戦が続けられた。ことここにいたって袴田ら党中央は前述の如く第二全協をでっちあげ「再建」に乗りだそうとしたということである。労働組合に対する党の介入というレベルを越した完全なる分裂策動であったことになろう。他方で、この間「全協」に対する当局の弾圧が苛酷さを増して、1月から4月までの間に専門部員がほぼ全滅、5月には小高委員長を始め残りの中央委員が検挙されて、壊滅状態となった。内から外から「全協」つぶしがなされたことが歴然であろう。

 次のショット。逸見・木島は昭和9年2月下旬、秋笹は4月上旬頃検挙された。秋笹が検挙された後、「宮内勇・山本秋らが中心となっていわゆる『日本共産党中央奪還全国代表者会議準備会(通称多数派)』なるものを結成して、党中央部に対立し分派活動に出ている」(袴田16回調書)。この年4月以降の袴田執行部時代とは、この新たに形成されつつあった潮流との戦いが専らとなり、「私は、爾後闘争の重点を同派の徹底的粉砕に置き、これに対し検挙に至るまで断固として闘争して居りました」(袴田16回調書)とある。「党の鉄の規律蹂躙」、「挑発的分派的行動」、「党の機密事項を党外大衆に暴露」という非難を浴びせて封殺に血眼になり、「私の態度が正しいものであるあると信じて疑わない」(袴田17回調書)というのが袴田の癖でもあった。もはや、ほとんど吐き気がするが、宮本−袴田ラインはこうして残存していた党内の戦闘的活動家に対して内から仮借無き闘争をしかけていたということになる。党内的な戦いにのみえらく戦闘的になるという戦前戦後の一貫した特徴の現れがここでも見て取れるであろう。

 私には、この多数派の主張に数々の評価点が認められる。最大の指摘は、「(査問事件とは、)大泉・小畑の査問当時から党中央部に巣くっていた挑発者一味が組織せるテロであるに違いない」(袴田17回調書)、「党中央部はプロパガートルによって占領せられ、それが為に不祥なる査問事件を惹起し、現在その中央委員として残留せる袴田もスパイである」(袴田18回調書)というものであり、「故に、我々多数派は現在党に中央部が存在するもこれを信頼することが出来ない」、概略「もし、仮に健全なる中央部が存在するとすれば、次の5項目に付き政治的回答を与えよ。……その2番目は『査問真相』の発表である」(袴田17回調書)云々と詰問したことに認められる。つまり、多数派の主張は、宮本−袴田ラインが党内スパイを摘発したのではなく、党内スパイラインによって小畑がテロられたのではないかとみなしていることが判る。こうしてお互いが挑発者呼ばわりすることとなった。概要「最初いわゆる多数派は、宮内等数名より成る党内の一派として結成されたのでありますが、我々との闘争の発展過程において非党員のみならず、党籍を剥奪された者を結合するに至り、最後には党と対立抗争する党外の者とも結託してしまっていました」(袴田17回調書)。つまり、「党中央奪還派」は次第に支持の環を拡げて行き「多数派」になりつつあったということである。この当時の残存活動家の多くが「党中央奪還派」の主張の方を支持していたということになる。このような声明は約4回にわたって発表されたということである。

 袴田は、「最初彼らは、宮本が検挙される前からの中央委員会の行動方針を挑発的なものとして非難したにも拘わらず、後にはその全責任を私にありとして私をスパイあるいは挑発者として取り扱ったのであります」(袴田17回調書)と妙な陳述をしている。つまり、それを言うなら宮本に言え、私だけを挑発者呼ばわりしないでくれと言っていることになるが、検討に値する。袴田はこうも言う。「仮に彼らの意見が全く正当なりとすれども、彼らの提起せる方法が党規約を無視し、党破壊の方向へ進むものであつたが故に云々」(袴田17回調書)。つまり、たとえ「意見が全く正当なりとすれども」規約を守って手順を踏んで欲しいということのようである。「これが党中央部に対する上申書の形式で提出されたものならば解答もするが、右声明書と党員のみならず合法的ないし非合法な広範組織に対し配布された形式であるので、これに対しては党の権威・中央の信頼を傷つけるものであるので何ら解答をせずなおその出所を調査したところ云々」(袴田3回公判調書)。つまり、そういう手順を踏まずにビラを撒いた行為がいけない、そうした行為は「党の権威・中央の信頼を傷つけるものである」というのである。どこかで耳にたこができるほど聞かされているセリフの様な気がするではないか。

 次のショット。こうした党の分裂状態に対する折衷案として、昭和9年7月頃、コミンテルンにいた野坂よりいかにも野坂らしいコメントがなされている。「インプレコールに『党の分裂を防止せよ』と題する論文を発表しておりますが、彼は、この多数派の運動を党下部組織大衆の愛党的精神より出発する一つの革新運動であると見、しかもその運動の手段手法は分派的形態を採るがゆえに誤っておるとしております。しかしてその解決方法として中央委員会と多数派とを融和させる為に双方から信頼され得る同士を以て委員会を構成しそれに総てを一任せよと提案しております」(袴田17回調書)とあるように、野坂は、日本のブル新の報道により材料を得たのであるがと前書きした上で、「かような事が分派的闘争であるならば誤りである。党に分派は許されぬ」(袴田3回公判調書)という立場から、コミンテルンの権威をもって「党中央奪還多数派」の動きの封殺に乗り出していることがしれる。今日、この時点で野坂がスパイであったことが明らかになっている。ということは、このような一見和睦的な仲裁案こそがそうしたスパイ野坂にとって好ましい解決の仕方であったことが知れることになる。それはともかく、「しかし、我々は、コミンテルンの決定ではなく、真の事情を知らぬ誤った前提に基づく野坂の誤った結論であるので之に承服せず、徹底的に多数派の粉砕に努力する事を決定したのであります」(袴田3回公判調書)、「その後コミンテルンが党中央部からのこの運動に関する資料を入手するに及び、コミンテルンは岡野の意見を訂正し、多数派を徹底的に否認するという方針にでるにいたったのであります」(袴田17回調書)とある。心しておかねばならない。このように最初は中立を装いながら介入し、時間を稼ぎながら反対派封殺を画策し、相手の動きを止めたところで除名処分他の極統制的な動きでとどめを刺しにくるということだ。事実「昭和9年9月頃多数派に下った弾圧と共に多数派も全くその勢力を失墜し、その本体を関西地方に移すに至ったのであります」(袴田18回調書)とあるように、こうして「党中央奪還多数派」もまた内から外から弾圧され解体を余儀された。


その5.袴田逮捕、公判の様子について(1999.11.23日)

 35年3月袴田が逮捕された。後を継ぐべき中央委員も決められていなかったので、こうして中央委員会は消滅した。ここまで見て判ることは、何と袴田の動きが特高の意向通りに誘導されていたかと言うことである。詳細は別途の機会に譲るが、戦前の袴田の党活動の経過とは、共青、全農をつぶして、党中央をつぶして、全協、ナップをつぶして、多数派をつぶして後入獄していくことになった。してみれば袴田が拷問に会わなかった不自然さは不思議でも何でもなく、特高からの感謝状勲一等に値していたということになろう。こうして考えると、袴田の予審調書と公判調書での饒舌は、事件の真相を隠蔽し、袴田の語るが如き「宮本−袴田的正義」のプロパガンダを党内に浸透させんがために袴田と特高のあうんの呼吸で合作されたものではないのかという構図が見えてくることになる。手の込んだ罠と言える。ただし、袴田という人物をそういうセンテンスでばかり読みとることもないようにも思われる。期せずしてか袴田の陳述が「査問事件」ばかりか当時の党の動きを克明に語った第一級の歴史的文書となっているという点で重要な功績を果たしている。宮本流の予審調書一つ取らせなかった式の対応ではこうした意義が生まれないことを考え合わせると、袴田がいればこそ今日私式のアプローチが可能となったということから見ても袴田という人物の奇態な面白さがレリーフされてくることになる。ある意味で袴田を最大限善意に評価した場合、権力側の謀略に身を委ねることによりそうした権力側のシナリオを後世に残すため党が放った逆諜報者と言えるかもしれない。それが証拠に宮本の懐の中に入り込むことにより時々の宮本の生態を適宜に伝えている節がある。歴史のまか不思議なところと言えよう。

 ところで、「査問事件」は党の信用あるいはまた、その権威を失墜させんがために大々的に喧伝されたこともあって、被告人たちのその後の動きも注目されることになった。すでに用済みとして闇に葬るわけにもいかなかったのであろう、延長戦として法廷の場での審判もまた世間に晒さねばならないこととなった。この経過を調査した資料が手元にないので伝聞調でお伝えさせていただくことにする。被告人達の公判は、それぞれ予審終結を経て、宮本を除いて1939年(昭和14年)より開始されたようである。宮本はもっとも早く逮捕されてはいるが、病気で裁判を受けられない状態にあったとされていることもあって、38年(昭和13年)10.10日予審調書のないまま予審終結決定、公判に移ることとなったとされている。他の被告人達より一年遅れて1940年(昭和15年)4月18日から7月20日までの6回開かれており、今日その「公判速記録」があるとのことである。この宮本公判には袴田、秋笹も併合で出席し、「転向」していた逸見、木島の出席問題について被告と裁判長とのやりとりなどが記録されているとのことである。どういうやり取りがあったのか知りたいが私の手元に資料がない。この公判の途中で宮本顕治の病状が悪化し公判は中断された。その後、被告たちは分離公判となった模様である。こうして、宮本を除く被告人たちは事件後の8年後辺り1941年(昭和16年)中になされているようである。一斉であったかどうか判明しないが1941(昭和16年)4月第一審判決、1942年(昭和17年)7月18日に東京控訴院第二刑事部で第二審判決がなされ、12月上告棄却で刑が確定しそのまま下獄したということである。秋笹はこの公判途中で「転向」し、1943年(昭和18年)獄死したという。今この量刑を見るに、刑の軽きより木島が懲役2年(早期転向)、大泉が懲役5年.未決通算700日(スパイ)、逸見が懲役5年.未決通算900日(早期転向)、秋笹が懲役7年.未決通算900日(公判で転向)、袴田が懲役13年.未決通算900日(非転向)という順になっている。

 宮本の公判再開は、他の被告人達の確定判決を見届けるかの如く刑が確定した後の、また秋笹獄死後の1944年(昭和19年)6月13日から11月30日にかけて15回開かれた模様である。ここでも速記録はつくられたが、原本は空襲によって消失したとのことである。今日残されている公判記録は速記録を参考にしてつくられていたものということである。同年11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で判決。無期懲役を宣告された。「宮本氏の場合は、裁判が遅れたことにより戦時特例法によって控訴権はうばわれており、大審院への上告のみで」(意味がよく分からないが……私の注)直ちに上告したが、翌45年(昭和20年)5.4日大審院で上告棄却、無期懲役刑が確定し、6.17日網走刑務所に服役したようである。党活動歴2年7ヶ月、獄中11年10ヶ月、麹町署、市ヶ谷刑務所を経て10年6ヶ月を巣鴨拘置所で未決囚として過ごし、網走刑務所で最後の4ヶ月間を過ごしたようである。宮本氏の獄中の様子については次稿で見ておこうと思う。

 大泉に同様の処分がなされていることが奇異に思われるが、本人のスパイ告知による無実の主張にも関わらず治安維持法違反で問われたということでもある。この辺りを考察すれば一稿出来るが割愛する。簡単に言えば、大泉は、裁判を通じて本人が特高のスパイであったと頻りに告白したにも関わらず公式には認められず、治安維持法違反で5年の懲役刑に処せられたというわけである。控訴したが却下され、45年(昭和20年)8月まで入獄し、敗戦で釈放されるまで獄中に置かれた。しかし、そうはいっても大泉の主張は実質的に担保されていたようであり、実際には予審終結決定後ただちに保釈になっており、長期の保釈期間が与えられ、また確定判決後入獄してからも特別に待遇されていた。普通累進処遇が適用されるのは入所後はやくて6ヶ月以降であるのに、彼は入所後すぐ4級となり、それから3級を飛び越して2級、1級、補助看守となり、例外的な出世をして、その優遇ぶりは伊藤律と共に豊多摩刑務所の双璧だったと伝えられている。仮出獄したのも敗戦の年の8.24日、伊藤律の出所の翌日だった。しかし、いずれにしても数奇な運命を歩んだと言える。

 木島のその後のことは分からない。大泉は戦後健在していた由である。秋笹は発狂し獄中死している。発狂の様子、獄中死がいつどこでのことであったか強く関心を持っているが私の手元にはその資料がない。どなたか詳しく教えて頂けたら助かります。逸見についても分からない。無事出所して既述したように野呂全集の編集に参加していたことまでは分かるがその後が分からない。袴田・宮本のことはご存じの通りである。以上が「査問事件」の全貌である。お読み頂いた方には改めて御礼申し上げます。字句の訂正個所等々目に付いておりますが、いずれ訂正したいと思います。このドラマ構成の責任は当然私にありますが、見てきたような嘘と言われても困る面もあります。もし内容において記述間違いが指摘されれば検討にはやぶさかでありません。ただし、基本的な構図としては、私の得手勝手な推断ではなく、見てきた通りほとんど全てを予審調書に拠っていることをご理解賜りたいと存じます。「調書」の誰の言い分が絶対的に正しいとか間違いであると言い合うことは不毛であると思われます。それぞれ保身的な言い分も付加されていることも踏まえつつ真実により一層近づくこと、ここから貴重な教訓を引き出すことこそが、小畑の真の名誉回復になるのではないか、ひいては党の再生に向けてのベクトルを打っ立てられるのではないかと思うわけです。今思うに、宮本氏は、大泉・袴田らの予審調書全文が開示されないことを前提として公判でも回想録においても言いたい放題言っていると言う感じがしています。ところが好事魔多しそうはならなかったということだと思う。大泉・袴田予審調書の全文が竹村一氏に戦後の古本屋で入手され(真偽はどうでも良いと思うが……私の注)、長い間平野謙氏の手元に保管されていたということである。立花氏の「日本共産党の研究」で一級資料が漏洩されたことにより、もはや秘匿の意味が減じ正確を期すという観点から公開されることになったようである。まだまだ解明したいことは山ほどありますが次稿でもって一応この辺りで締めくくりしておきます。

 最後に報告しておきたいことを以下記す。戦後の党の第5回大会(1946.2.24−26日)において宮本顕治らの「査問事件」についての徳田の態度を伝える次のようなエピソードが残されている。この大会の頃徳田書記長と宮本顕治との間で戦前の「査問事件」についての次のようなやりとりがなされていたと伝えられている。例によって袴田氏が明らかにしている。「徳田は、小畑達夫を死亡せしめた査問の仕方を激しく非難し、『不測の事態が起こり得るわけだから、あんな査問などやるべきでなかった。第一あの二人がスパイだったかどうかもわからんし、たとえスパイだったとしても、連絡を断てばそれですむことではないか』と。宮本と袴田は、このとき徳田に食い下がり、『連絡を断ったくらいですむことか』と激論となった」(袴田里見「私の戦後史」)ということがあったと伝えている。このような二人の対立が延々と「50年問題について」まで続いていったというのがもう一つの党史でもあったのではないでしょうか。


「宮本顕治論」その5.宮本の獄中闘争について(1999.11.23日)

 宮本は、治安維持法違反、殺人、同未遂、不法監禁、死体遺棄、鉄砲火薬類取締法施行細則違反という罪名のもとに起訴された。この間の獄中移動は、まず33年(昭和8年)12.26日検挙され、検挙された後麹町署にて留置され、一年ほど経て市ヶ谷刑務所へ移された。「昭和9年の12月初めに、夕刊で顕治が市ヶ谷刑務所に送られたことを知った時は嬉しかった。いそいそと綿入れを縫って面会に行った。それからは一週間に一回ずつ面会差し入れに行って、まずは(百合子の)憂悶の心も落ち着いた」(平林たい子「宮本百合子」233P)とある。百合子は、この年の12月宮本の面倒を見る必要から宮本家に入籍したようである(この「獄中結婚」は商業新聞にも取り上げられ話題を呼んだようである)。この語りによると、割合早い時期から百合子の面会がなされていたことになるが、流布されている「それから5年間、原則的に接見、通信禁止の状態に置かれたまま、予審でさらに黙秘の戦いを進めた」説と整合しない。百合子との往復書簡から推測すると「面会が許されるようになったのは34年(昭和9年)末のことである」の方が正確なように思われる。宮本はこの後巣鴨拘置所で未決囚として「11年6ヶ月」(正確には10年6ヶ月になると思われる)を過ごすことになった。宮本は逮捕された直後猩紅熱、その後脚気、36年(昭和11年)には肺病を発病、長い病舎入りがあったとも、37年(昭和12年)夏には腸結核にかかり危篤に陥ったものの奇跡的に生還したとも言われている。この時百合子の面会は拒絶されているので実際の様子は分からない。以上面会許可時期、病気の様子等々について各書において記述がまちまちであり一定していない面がある。この間未決囚であったためか弁当から書籍の差し入れまで割合と自由であったとも言われている。宮本は統一裁判を拒否した形跡があるとも言われているが、逆に本人はそれを望んでいたかのような第10回公判陳述もあり、これを具体的に明らかにした著作がないのでそのいきさつが分からない。こういうことを書くと熱心なタフガイ宮本神話の崇拝者の憤慨を招きそうであるが、であるとすれば逆に真実を教えて欲しい。封印はよろしくない。宮本の深紅の獄中闘争が事実であるとすれば、世界の獄中闘争史に燦然と輝く道しるべになるはずであるから積極的にこれを明らかにして欲しい。

 それはともかく、38年(昭和13年)10.10日予審終結決定。何の陳述も得られないまま予審終結決定書が出され、公判に移ることとなったとされている。「39年(昭和14年)5月母上京し、巣鴨拘置所に宮本を訪ねた」と言われているが、もっと早く百合子の最初の面会時に母を連れ立って行った様子も明らかにされており、してみるとこの辺りの記述も一定されていないということになる。党史では、「その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせ無いという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。その頃、面会に来た母親が私の顔を見て『お前は変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問で腫れ上がって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった」(「日本共産党の65年」74P)とあることからすれば、もっと早くの麹町署での面会もあったのかもしれない。それならそれで事実を列挙するのに何の躊躇がいるのだろう、と思う。

 宮本の公判は、「40年(昭和15年)4月から7月まで6回、宮本重病のため一時中断した後、44年(昭和19年)6月から11月まで15回行なわれた。11.30日最終陳述」(党史要約)という記述がなされているが、ここの部分も一定しておらず、平林たい子著作「宮本百合子」239Pによれば、「顕治の公判は昭和18年に始まったが、裁判所側の官吏と看守の他は弁護士と傍聴者として百合子が一人という裁判がずっと続いた」とあることからすれば、43年(昭和18年)頃に法廷で「正義の単独陳述」が滔々と為されていたことになる。昭和18年は19年の間違いかも知しれないが、いずれにせよかように奇妙な法廷開陳であったことは事実のようである。弁護士のこの時の回想録的なものがあれば一級の資料になると思われる。44年(昭和19年)11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で判決。無期懲役刑が宣告された。直ちに上告したが、翌45年(昭和20年)5.4日大審院で上告棄却、刑が確定した。この法廷闘争時期を巣鴨拘置所で過ごしたことになる。未決囚であったから比較的自由があったようである。網走刑務所に送られたのは空襲下のあわただしい時期の45年(昭和20年)6月16日、6.17日網走刑務所に入獄した。宮本は、網走に出発する前、面会の百合子に、「まぁ半年か十ヶ月の疎開だね」と言いなしたとある。戦局の帰趨を的確に掴んでいたことになる。10.9日敗戦により「GHQ」の政治犯釈放指令がなされるまでの4ヶ月間をここで服し、この間完全黙秘、非転向を貫いたとされている。獄中11年10ヶ月。

 45年(昭和20年)10.9日午後4時網走刑務所を出所した。宮本37才、百合子46才の時であった。百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。こうして宮本は百合子の元へ帰ってきた。国分寺の自立会を訪れたのは10.21日と言われている。すでに全国から党員が参集し始めており、再刊赤旗の一号を背負って全国に飛び立っていたあわただしい頃であった。百合子はこの頃、宮本に「後家の頑張りみたいなところができているんじゃないか」と言われたようである。これが百合子の12年にわたる心労に報いた宮本の言葉であったらしい。

 この間の獄中闘争として、「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの7年近くを完全黙秘で戦い抜き、公判でも原則的に闘った」、「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争を続けた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実に基づいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露し、党のスパイ・挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」(「日本共産党の65年」85P)と評価されている。「戦前の暗黒裁判においても、結局、宮本を殺人罪にも殺人未遂罪にもひっかけることができなかったという事実」、黙秘権などの認められていなかった戦前において、宮本氏が警察でも予審廷でも一言も口をきいていないとされており、「事件に対する私の陳述は公判廷以外では一切していず、警察調書も予審調書もなかったので、公判陳述が最初で、最後の陳述となった」と記述されている。平野は、こうした宮本氏の不退転の獄中闘争に「心から頭をさげる」、「恐らく自己の姓名さえ承認しなかっただろう。宮本顕治の驚嘆すべき不退転の態度」と感心している。

 この間の獄中の様子として、宮本自身の手になるものとして宮本と中条百合子の間で交わされた往復書簡集「12年の手紙.上下2巻」が出版されており、宮本が検挙されてほぼ1年を経過した時点の34年(昭和9年)の末から、敗戦により宮本が出獄するまでのおおよその様子が伝えられている。この書簡集で気づいたことをまず書かしていただく。二人はナップで知り合い、二人とも他のプロレタリア文学及び文芸評論で、諸作家のプチブル性またはプロレタリア的視点の半端性等々に対して公式論的立場から厳しい批評をなしたという共通項が見いだされる。そのような二人の往復書簡であるから戦闘的左翼の見本になるような通信がなされているものと期待される。が、実際は、そのような二人の書簡集にしては奇異なほどに封建的ないしブルジョアなとも言える精神を横溢させて通信しあってる様がうかがえることはどうしたことだろう。獄中党員は、転向者も非転向者もそれぞれに獄中にあってもコミンテルンの発する新テーゼ、党及び党員の現況と動き、社会情勢の推移について並々ならぬ関心を寄せて探り合っていたのが通例である。例えば、1944年(昭和19年)の頃の巣鴨の東京拘置所のことのようであるが、「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282P)によると、伊藤律とゾルゲ事件の当事者尾崎秀実は「(定時の屋外運動の僅かな隙を窺って、伊藤と尾崎は小声で話する機会が二度会った)私はできるだけ外の情勢、ことに誰が捕まり、だれが無事だとか、家族のことも伝えた。尾崎はあまり話さなかった」という会話をなしていたことを伝えている。が、宮本と百合子の間にはこのようなやり取りの部分は皆無であることに気づかされる。検閲がそうさせたというのであろうが、文芸作家ともなればいかようにも工夫はなしえたのでなかろうか、と思うけど。二人が語り合うのは、専ら宮本の歴史法則的世界観における確固不動の信念の披瀝と相互の古今東西の文芸論の知識のひけらかしばかりである。残りの部分は、それぞれの家族の現況と専ら宮本からする山口の実家に対して百合子が嫁としての孝行を尽くすようにという下りである。もう一つ気になることがある。「査問事件」の真相をめぐって二人の間には箝口令が敷かれていたのかと思うほど触れられていない。二人とも時事社会問題に関心の強い文芸作家である。当然の事ながら宮本が関与した事件の真相をお互いに伝え合うことに何のためらいがいるであろうか。なぜ百合子は尋ねていないのだろう。百合子は法廷にも出ているわけだから確かめることは多々あったと思われるのに。これも検閲のなせる制限であったのだろうか。

 宮本と百合子が唯一衝突した場面が記されている。宮本は、百合子38才記念の贈り物として、第一の贈り物は堅固な耐久力ある万年筆、第二の贈り物はマルクス・エンゲルス二巻全集、これらをどうやって送り得たのかは判らないが贈呈している。この時併せて中条の名前で小説を発表するのを止め、今後は宮本姓にしてはどうかと最大のプレゼントをしたようである。宮本の大変な自信家というかいやはや何とも言えないものがあるが、この時初めて百合子は抵抗を見せている。百合子は「中条百合子」に愛着を示したのである。「あなたはご自分の姓名を愛し、誇りを持っていらっしゃるでしょう。業績との結合で、女にそれがないとだけ言えるでしょうか。妻以前のものの力が十分の自確固としていてこそはじめて比類無き妻であり得ると信じます」と反発したのである。結局、宮本は、百合子の反対の前にこの提案を取り下げた。が、8ヶ月後に百合子は自分から宮本姓を名乗ることを公にした。既述したように戸籍上だけの姓の変更はすでになしていたが、この度ペンネームもまた中条から宮本へと改めることにしたということである。百合子の無期囚の夫に対する思いやりであった。10.17日始めて宮本百合子名で作品発表する。

 以降彼女の身辺も忙しく、検挙・拘留を繰り返す。最終的に保護観察処分に附されるが、担当主事は特高課長毛利基であったようである。偶然かも知れぬが、こうして宮本も百合子も毛利氏の掌中に入れられることになった。ここでも不思議なことが明らかにされている。前掲の平林たい子「宮本百合子」236Pによれば、宮本は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮本は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。

 この間百合子は可能な限り面会に出向きまたは手紙を書き上げており、宮本の健康を案じて言われるまでもなく差し入れ弁当を業者手配で届けており、冬着・夏着・布団と時期に応じて届けている様もうかがえる。言われるままに幾百冊の本と薬と栄養剤を届けてもいる。家計の心配をほとんどすることなく、百合子に注文することができたということであったように思われる。実家の面倒を見ろ云々も半端なものではない。病める体を無理して顕治の要求するままに顕治の実家へ何度も出向かせ、親孝行させるのみならず親戚中にも金払いを良くさせてもいる。こうした百合子が宮本の実家で見せる心配りは封建的賢婦の鏡を彷彿とさせるものがある。書籍に対してあれを探せ、これを送れも次から次ぎの注文であり「甘え」というレベルのものではない。実際に確かめられたら良いかと思う。どうやら百合子の父の財源が頼りにされていた節がある。時に躊躇を見せた百合子に送った手紙の文面は、「金の具合はどうなのか。ユリのゼスチュアはいつもピーピーらしいから−今月はないとか、不定期にしたり、少なくしたり−無理は頼みたくないから本当のところを知らして欲しい云々」というものであった。嫌らしい婉曲話法で百合子の躊躇を叱咤しているように窺うのは穿ちすぎだろうか。

 こうした獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合いかほど奇異な豪奢な生活であったか、と私は思う。他の共産主義者たちは検挙されたその日から我が身に仮借無い拷問が浴びせられ、残った家族の生活を苦慮していたのではないのか。面会人が訪れることもなくあったとしても世間体を憚りながらの僅かにあるかなしかの身の者が通常であったことを思えば、宮本はいかほど幸せ者であったことであろうか。ちなみに、宮本は百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、「他方で、宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかったと書いている。宮本が巣鴨刑務所に服役中、隣の房に入れられていた運動家が証言しているところによると、宮本はいつも上等の差し入れ弁当を食っていた、という。官給のモッソオメシと云われた臭い飯しか食ったことのない者からすれば羨ましい限りであったとも云われている」とも書かれている。(中村勝範「宮本顕治論」217P)。

 ここに貴重な証言がある。前掲の「偽りの烙印」(渡部富哉.五月書房282P)によると、「尾崎と4、5房先に神山茂夫がいた。この二人は顔が利くので、めったに買えない獄内売りのあめだまを手に入れられた。神山は時折房を出て勝手に廊下をよぎり、私の房の扉を開け、『おい、伊藤律がんばれ』とあめだまをくれたりした。その丁度真上に当たる二階の独房に宮本顕治がいた。三度とも差し入れの弁当を食べ、牛乳を飲み、尾崎の薄着とは違いラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていた」とある。屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。

 いわゆる宮本の「網走ご苦労説」も正確に理解する必要があろう。宮本が網走刑務所に服役したのは、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間である。この頃の様子については、宮本自身の「網走はそう長くないんです。戦争が終わる年の6月に行って、10月に出ましたから、一番気候がいい時期にいた訳です」(「宮本顕治対談集」116P)、「(網走には春、夏、秋と一番いい気候のときにおった)網走というのは農園刑務所と云いましてね。農作物を作る刑務所なんですよ。ここでジャガイモがうんととれる。東京の刑務所ではおみおつけの実が何もない、薄いおつゆでしたが、網走ではジャガイモがゴロゴロしていて、ジャガイモの上に汁をかけるようで、食料条件がよかった訳です。(中略)それで体重が60キロぐらいになったんですよ。60キロというのが私の若い頃の標準でね。(中略)そういう訳でむしろ健康を回復したんですね」(「宮本顕治対談集」376P)という回想録がある。

 いよいよ最後になった。袴田は、第7回調書で貴重な「袴田式スパイ判別閻魔帳」を開陳している。参考になると思われるので以下記す(要約)。「4つの基本方針」があると言う。「共産主義的人物道徳観」を聞かされるよりよっぽどためになるように思われる。主に小畑のスパイ性を意識して言ったものであり、袴田が言うのもどうかと滑稽な気もするが本人はマジで言っているようである。その一、その人物が革命運動に対し熱烈な信念を持って行動しているかどうか。この信念を全然欠ける党員ありとすれば、それは不純な分子として先ず目星を付けなければならない。その二、物事を誇張して言いふらすことや偽りを云う様なことはないか。軽い程度の範囲なら見逃すことができるが、これが特にひどい様な場合あるいは重要な事柄をしばしば偽って云う様な場合には常に警戒を要する。その三、言行が一致しているかどうか。スパイはスパイの行動があまりにも明白な非党員的である場合には直ちに摘発されるからして彼らは時には最も真剣に働く者であるというような態度を採る。あるいは或る会場の席上に於いて優れた意見等を提出して他の同志の信頼を深めようとするけれども、いざ実行の段になると彼らはその席上に於いて述べた優れた意見通りに活動せず、且つその意見が他の同志等によって遂行されることを極力妨害したり或いはさぼったりすることは彼らの常套手段である。その四、他の同志に対して同志的であるか或いは冷淡であるか。これはスパイを摘発する場合に重要な事柄であります。弾圧の激しい日本の革命運動の中に於いて活動する共産党員は相互に相扶け合うと云うことは絶対に必要なことであります。スパイは党組織の発展の為に身命を放擲して働く共産党員に対して同志的気持ちを持たない。そしてそのことが意識的に彼の党員に対する非常に冷淡な態度となって現れたのであります。

 最後に。一応ここで本稿終了となります。補足的な論考もいくつか可能ですが、そろそろ幕引きと致します。お読みいただいた方にまことに感謝申し上げます。言いたいことは、たかが人生、されど人生、何事も事実から出発させた英知によるブリッジ的な運動の積み重ねをしたいという気持ちばかりです。





(私論.私見)