「共産党の理論・政策・歴史」投稿文21(宮顕リンチ事件の前提考察)

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件の前提考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「宮本顕治論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており、この方が読みやすい面もあるので、ここにサイトアップしておく。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)

 思えば、宮顕は1908年生まれとあるからして2006年現在98歳になる。この御仁の強靭な生命力については敬意を表しても良いが、このことが、リンチ事件で逮捕された宮顕がた幾つもの病名に襲われ、合同公判の際に決まって重度の病弱となり忌避していたこと、最後に単独の公判法廷で滔々と正義の弁明をし後の「唯一非転向タフガイ宮顕聖像」を生み出した経緯の虚構を逆証明するから皮肉である。余命幾ばくも無い身の者に罵声することは好まないが、余命あるうちに虚像だけは剥がしておかねばならないと思う。

 2006.5.19日 れんだいこ拝


 「宮本顕治論の緊急性」について序章(1999.10.11日)
 「高校時代から大学時代にかけて、私はソ連の共産党史に関する様々な本を読んだ。それらの本は全て内容が全く違っていた。スターリン版の党史では、トロッキーやジノービエフやカーメノフといった有名な革命の指導者たちについて、一言も言及していなかった。フルシチョフの時代には、こういう歴史的な人物が再登場したが、今度はスターリンに関することはほとんど何も知ることができなくなり、スターリンは正史からほとんど抹殺されてしまった。やがてブレジネフが権力の座に着くと、新しい歴史の教科書はフルシチョフについてほとんど何も触れなくなった。したがって、とても信じられないと思われるかも知れないが、ソ連の若い世代の人々はソ連の社会主義制度が誕生してから比較的短い間の歴史についてさえ、知ることを禁じられているのである」(「KGBの見た日本」レフチェンコ回想録180P)。

 これは上記の書で私が一番注目した一節である。ソ連のことだからと思って済ますわけにはいかないのではないかというのが私の主張となる。先の投稿文でも少し触れたが、すでにわが日本共産党においても、徳田書記長時代の記述がずたずたにされている。手柄話のようなところでは宮本氏が出てくるという具合に恣意的な構成になっている。仮に近未来に党の現執行部の腐敗が暴かれる時代がやってきたら、当然の事ながら今の党史は大きく編集し直されることになるであろう。こんなことになるのはなぜなんだろう、こうなるともはや共産主義者の病気の一種と考えた方がよいのかもしれない。恐らく、「真理の如意棒」を持っているという認識の仕方と唯々諾々主義が原因なのではなかろうか。

 私に言わせればこういうことになる。ある客観事象を捉える場合、各自共通の認識のしかたがありえそうでありえないと考えた方がよいのではなかろうか。大雑把な共通認識は出来ても微にいりさいにいろうとすれば違いが生じてしまう、と考える方がよいのではないのか。同じ局面にあっても、人にはそれぞれ急進気質と穏和気質があって、本当に革命を起こす気があるのならどちらも有用であって排除してはならないのではないのか。お互いがマナーを確立して大義に殉ずるべきではないのか。悪意の場合には別の論が必要かも知れないが。

 例えば、同じ景色を見ても、歩いてみた時のそれと自動車に乗って見たばあいのそれとトラックの場合と川岸のボートに乗って見た場合とでは、それぞれ景色が幾分ずつ変わる。むしろ、この差が大事ではないのだろうか。プロレタリアートの視点といったって、同じ視角からみんなが皆見れるというものでもないだろう(ちなみに、プロレタリアートの厳密な定義が私にはわからない。生産手段の話と社会の所得階層の話と公民間の話と子どもはどうなるのか等々がごっちゃになって分からなくなっています。同じ事はブルジョワジーの定義についても云えます。どなたか説明していただけたらありがたい)。ましてや、マルクス主義が対象にする社会の変革という場合の社会は弁証法的変化の中にあるものであって、汲めども尽きぬようなある固定化した「真理の井戸」ではないのだし――。

 したがって、党史にせよ事実は事実で列挙すればよいのであって、有利不利な情報仕訳により取捨選択しない方がよいのではないのかということになる。つまり、その時々の事実の記録こそが後世の者に対する信義なのではなかろうか。時の指導部は見解とか方針の確立をなしえる権限を付託されているということであって、その理論の弁証性によって党員をぐいぐい引っ張っていくのが望ましく、納得しない者を納得させようとして統制化していくのは単に執行部のエゴなのではないのかということになる。話にせよ、行いにせよ、絶対的――うんぬんという如意棒が振り回され出したら警戒した方がよい。左翼陣営にありがちなそういう偏狭さが一般大衆を遠ざける原因になっているのではないだろうか。

 庶民が仕事を終えてビールを飲みながらプロ野球を観戦する。のほほんと見てると思ったら大間違い。選手と監督の動き、選手間の連携と個性化、投手と捕手の呼吸、打者の論理、投手の論理、監督の采配・選手操縦術、監督によるその違い、球団の体質と比較等々にわたって、あたかも自己の仕事になぞらえて興味深く味わっているのではなかろうか。こうして得た智恵で諸事についても応用的に考える。ここにプロ野球観戦の効用がある。むろん草野球で自ら実践すればなおよく見えるかも。仕事の段取りから人間関係づくりにも役立っているに相違ない。

 仮に、党の動きとか組織論について考えてみた場合にも参考になる。その結果は、「党員の皆様ご苦労さん、頑張ってください。私は遠くから見守らせていただきましょう。何か窮屈そうで世界が少し違うようです。失礼致しやす」ということになっているんではないかしら。選挙における最近の党支持投票の増加は、世間の風がそれほど厳しく党のイメージに対する期待が大きいということであって、党の個別の政策に支持が寄せられているのとは違う気がします、と言ったら党員を不機嫌にさせてしまいますか。

 最後にもう一つ。ソ連共産党20回大会でフルシチョフの「スターリン批判」演説を聞いた直後にトリアッチが指摘した一節。
 「全ての悪を、スターリンの個人的欠陥として告発することだけに事実上終わっているから、(批判が)個人崇拝という枠内に留まっているのである。以前は、あらゆる正しさは一人の男の超人的な才能に負っていた。そして今は、あらゆる誤りはその同じ男の、他に類を見ない恐るべき欠陥のせいなのである。どちらの場合をとっても、マルクス主義の本来の判断の基準からはずれているではないか」。

「宮本顕治論」その1.宮本氏の党史的地位の重要性について(1999.10.15日)
 現在の党の在り方について疑問を覚え、そのよってきたるところにメスを入れようとすれば、どうしても第8回党大会から解きほぐさないと解明できない。先の党創立記念講話で、いみじくも不破委員長が「日本共産党の今の路線というのは、いろんな呼び方をされていても、実は、38年前に第8回党大会で決めた綱領の路線そのものなんです」と言っているように、この大会で満場一致された綱領路線のカメレオン化が今日の党の姿であるからにほかならない。ところで、第8回党大会に照準を合わせようとすれば、どうしてもこの大会で採択された綱領の起草者であり、かつこの大会でナンバー1の地位を獲得した宮本顕治氏に注目せざるをえないことになる。私の宮本氏に対する関心はここから始まっている。

 ところが、この宮本顕治氏自身に関する情報が極めて少ない。著作はそれなりに出されているものの党外の者に影響を与える程にはなっていない。当人または出版社が控え目なのか、単に人気を呼ばないだけなのかよくわからない。他方、宮本氏を論じたウオッチ本もまた極めて少ない。どこの国でも党指導者ともなれば、レーニン・スターリン・毛沢東は言うに及ばず誰彼となく賛批両論で論評されている状況を思えば珍しい現象ではなかろうか。宮本氏が自身をカリスマ化させることを好まなかったという「正の面」もあるのではあろうが、不自然な思いが禁じえない。そういう乏しい情報の中からまして時間も能力も足りない私が「宮本顕治論」を試みることにはなおさら困難が強いられる。とはいえ、現在の党を指導する不破−志位執行部の是非を問おうとすればどうしても元締めである宮本論に帰着することになり、ここから扉を開かねば党の再生方向も見えてこないような気がするゆえに立ち向かわざるをえない。

 折に触れて党内批判が漏れてくることがあるが、党内純化が完成した66年の第10回党大会以降においてはそれらのいずれもが宮本氏に対する忠誠を証した上での信任争いの風があり、私の視点とは違うという思いしか湧かなかった。十年ほど前であっただろうか、書店で確か諏訪グループ(?)による党内批判の冊子を見かけたことがある。東大細胞内の指導権争いで志位氏との内部抗争で敗れた恨みつらみの部分が目を引いた。今日私が『さざ波通信』と関わりながら党についてあれこれ発言していることを思えばパラパラとめくっただけで済ましたことがあたら惜しいことをしてしまったように思える。手元に冊子があれば党内民主主義のあり方等々をめぐっての何らかの貴重な資料になっていた可能性があったように思える。

 私はまるで知らなかったが、伊里一智という方が党大会か何かの会場で宮本氏退陣を要望する批判ビラを撒いたことがあったらしい。ビラの内容の粗筋でも知りたいが、こういうものは伏せられるのが現在の党執行部の習癖であるからしかたない。推測であるが、宮本氏の権力的な介入が党活動上大きな桎梏になっているということを指摘していたのではないかと思われる。この場合、宮本氏の活動履歴を一応肯定的に評価した上でこれ以上の介入には害があるとしているのか、そもそも宮本氏の活動履歴を肯定しないのかという二つの見方が考えられる。恐らく伊里一智氏は前者であり、私は後者の立場にある。

 新日和見主義批判の問題もあった。これは一方的に査問され始末書を取られただけのことだから意識的に党批判活動をした前二者の例とは異なる。ただし、党内に及ぼした波紋の大きさという意味では執行部批判の流れに入れても差しつかえないと思われる。本筋とは関係ないが私の目の前で起こった事件であっただけに感慨深いものがある。言えることは、党の新日和見主義批判論文なるものは、批判しやすいように得手勝手に措定された新日和見主義者たちが前提にされており、とてもまともなものではない。リクエストがあれば、私論を提供することが出来ます。

 これらのことに触れる理由は、今日の党内のあれこれの腐敗現象に対して執行部の総入れ替えに向かわない限り解決しないのではないかと思うからである。不倫とか万引きとか横領とかの類の不祥事はどこの世界でもあることだから、いくらそんなことを聞かされてもこのこと自体をもって党の評価を下げようとは思わない。問題は、そういう腐敗現象の奥底に現在の党綱領路線の間違いが起因になっている面があるのではないかと憶測しうることにある。国家の従属規定の変チクリンから始まる「二つの敵論」の馬鹿馬鹿しさが影響しているのではないかと思われることにある。どう考えても講和条約とその後の一連の過程で日本は国家的に独立したのであり、それを従属規定で押し切った現綱領路線は一見アメリカ帝国主義と闘う姿勢を強調したものではあるが、客観性から離れた情緒的な認識でしかない。その後の日本独占資本のフリーハンドな資本蓄積に貢献したドグマでしかなかったのではないか。国家再建のためにはここまでは良かった面もある。ただし、日本独占資本の海外進出が国際資本との厳しい競争の中で行なわれている今却って弱点になっているようにも思う。なぜなら国内で労資が揉まれた経験を持たぬまま浪花節的な労務管理を押しつけていくことになる訳だから、海外現地での雇用軋轢を至る所に発生させてしまう。既に中国市場で次第に米系資本が優勢になりつつあることはその証左であろう。

 話を戻して、現在の党の運動理論は、国家の従属規定から始まってここからあらゆる事象の認識にボタンの掛け違いを招いているのではないか。執行部もまた、この間違いを覆い隠そうとしていたずらに統制的手法で党内整列を余儀なくされているのではないか。以来50年近くなろうとしており、反対派掃討の結果何の不安もなく本質をむきだしにする局面に至っている。今日的状況としては右翼的暴走の観があるが、もはや場当たり主義で理論らしきものさえない。旧社会党路線よりも右よりの旧民社党的路線に進みつつあるのではないか、と思われる。

 こうした方向に進みつつある不破−志位体制批判をしようと思えば、宮本体制そのものから解析しなければ解けないのではないのかというのが私の視点である。というわけで、この観点から当人にまつわる公的な面について研究してみようと思う。ただし、『さざ波通信』誌上は宮本氏にトータルにアプローチする場ではないので、最小限宮本氏を論ずる場合に避けては通れない重要事項についてのみ接近してみたい。その1番目の課題が、「敗北の文学」に見られる氏の特殊感性に対する分析になる。以降順次項目が立つがとりあえずここから入ってみようと思う。既に長文になっておりますので、以下は次回に投稿したいと思っています。

その2「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半)(1919.10.19日)

 「敗北の文学」は、その自殺が大きく騒がれた当代の大御所的文芸作家芥川龍之介の作品及び作家論であると同時に氏の入党決意宣言ともいう意味が添えられていた。29年(昭和4年)4月の頃宮本氏20歳の春の力作であった。これが当時『中央公論』と並んで最も権威ある総合雑誌と目されていた『改造』の懸賞論文で一等当選となるという栄誉を受けることになり注目を浴びた。この時の次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であったというのは有名な話である。宮本氏はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、『戦旗』に働き場所を見つけた。31年5月入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。32年の春より地下活動に入った。

 私が「敗北の文学」に注目する理由は、あまり指摘されていないが、このような経歴を見せていく宮本氏の面目と宮本式原型が良きにせよ悪しきにせよここに躍如としていることにあり、「『敗北』の文学」で見せた氏の文芸理論ないしはマルクス主義に対する思想的態度がはるか今日の宮本式党路線にしたがう日本共産党の現況に色濃く投影されているように思うからである。ここでは、芥川文学に対する宮本氏の作品論は省き、その作家論について検討することにする。ただし、作家論に限ってみた場合でさえこれを順序立てて書いていくと相当長くなるので結論的な要約のみメッセージすることにする。

 その前に芥川氏の人物像をごく簡単にスケッチしておくと次のようにいえると思う。芥川氏は、早くより文筆で身を立てることを志し、一高−東大という当時のエリートコース中のそのまたエリート的な文系俊才として既にこの頃から頭角を現していくことになった。24才の時に著した大正5年の初期作品「鼻」が夏目漱石氏に激賞を受け、その文才が高く評価されることになった。次作「芋粥」もまた名を高からしめた。以後数々の短編・中編作品を著していくことになり、気がつけばいつしか文壇第一人者の地位に辿り着いていた。氏はこうして順風満帆の作家活動に分け入っていくことになったが、文芸上の立場は孤高であった。当時の主流であった自然主義文学でもなく、私小説風でもなく、かといって白樺派的ヒューマニズムとも一線を画していた。よく古典を題材にしながら当世の痛烈な社会時評を得意にして一種奇才を放っていた。表現は的確かつ清新な比喩と機知に富んだ警句をスパイスとし、かつ洗練された文章かつ繊細かつ凝った文体で他を圧倒した。

 まず、宮本氏のヨイショから入ることにする。以上のような特徴を持つ芥川文学は今日のプロ作家間においても玄人受けする日本文学史上孤高の地位を占めているが、この文学を宮本氏もまた高く評価したことは氏の炯眼であると素直に評価したい。文学潮流の背景に社会的情勢の意識への反映を見ようとするマルクス主義的分析からすれば、やや教条的になるが当時の文壇史を次のようにレリーフすることが可能である。意識的かどうかは別にして支配イデオロギーに照応する国粋主義・浪漫主義的傾向(1)、これに一定の距離を保とうとした自然主義.私小説・憂鬱主義・懐疑主義的傾向(2)、これに無縁であろうとした文人主義・嘲笑主義的傾向(3)、若干抵抗しようとした人道主義・ニヒリズム的傾向(4)、最後に支配イデオロギーと闘おうとしたプロレタリア文学運動(5)というように。

 大雑把に見てこのように文壇潮流を分けることができる。この場合、芥川氏はどこに位置していたのであろうか。通常芥川文学は「芸術至上主義文学」とか云われどちらかといえば(3)のジャンルで括られることが多い。これに対して、宮本氏は、とりわけ後期の芥川氏に(5)的傾向を見ようとした。もっともプレ・プロレタリア文学的においてではあるが。実はこの着想が的確であり、私も同感である。ところが、当時の芥川氏を囲む知人・友人たちでさえそのような芥川観を持つ人はいなかった。芥川氏の自殺に接してさえ当時の文芸家はどう解いたかというと、創作の行き詰まり説、健康不安神経症説、女難説、人生倦怠説、世事の多事多端に伴う厭世説等々の理由により真因が定まらなかった。


 ところが、宮本氏は、「敗北の文学」において、社会主義者になろうとしてなりきれなかった氏のプチブル半端性の苦悶に着目し、これを見事に切開して見せた。私は、「『敗北』の文学」が『改造』一等当選の栄誉を得た背景には、宮本氏のこの観点の意外性と説得性が認められたことにあったと思っている。芥川氏をプレと形容しようとも社会主義思想の持主としてみなすことには異論が多いかもしれない。それはそういう風に見ない芥川論ばかしが流布されているからである。芥川文学の場合前期と後期において大きく作風が異なるので、どの時期の芥川を観るかにより見解が異なるのも致し方ない面はある。作品的には初期の頃から文壇の第一人者への地歩を固めていった中期のものに前途洋々・意欲満々の傑作品があるのは確かである。しかし、芥川文学はある種テーマ性・思想性の高い文学であり、その内在的発展という弁証法的行程から観る場合、前期の芥川文学に散りばめられていた諸々の淵源が集結していったのが後期の芥川文学であり、むしろこの後期の芥川文学の方にこそいっそう真価が滲んでいると考える方が自然であろう。かく後期の芥川文学を評価する必要があると思われる。そういう眼で見れば後期の芥川氏は限りなく社会主義者たらんと努力した形跡があり着目されるに値する、と言えば驚かれるであろうか。このように彼が評価されることが少ないが、そのことの方が問題である。今日にもつながる当時の作家及び批評家が凡俗であったことを証左しているように思われる。

 これを長たらしく証明しても仕方ないので端的に彼にまつわるエピソードで例証する。寄せ集めれば様々なデータが揃うと思うが一端を述べてみる。芥川氏は 社会科学について相当勉強した風がある。今東光が或る本屋で芥川とばったり会ったとき小脇にマルクスの英訳書か何かを何冊も抱えていたと伝えられている。芥川が一高仲間の無二の親友恒藤恭(すでにこの頃京大教授であったと思われる)と旧交を温めようとして京都へ行ったときも、祇園の茶屋でエンゲルスのことを話題にし合ったと伝えられている。 中野重治が書いた感想などでも、晩年の芥川龍之介がプロレタリア芸術への好意的理解を持とうとしていたことが伝えられている。芥川は通常理解されている以上に勃興しつつあったプロレタリア文学に理解を寄せており、その延長上で当時の党員活動家にせがまれる都度財政支援していたことも伝えられている。ハウスキーパーならぬ財務キーパー(これをスポンサーというのではなくてどういうのだったかな。思い出せない)の有力な人士であった。

 では、芥川氏のプレ社会主義者としての移行過程はどのようなものであったのであろうか。このことについて少し触れたい。一高時代早くも、「人生は、1行のボオドレエルにも如かない」とうそぶいた芥川氏の精神風景には、すでにこの頃より鋭い社会批判の視点が内在していた。当時の社会風潮とは、日本帝国主義が西欧列強の仲間入りを遂げその傾向をますます雄雄しくしようとしていた時代であり、軍人がしだいに社会の全面に台頭し始めた頃であった。社会全般が天皇制イデオロギーで染め上げられつつ、軍部勢力と独占資本が結託し、国内外に渡っての強権的支配をほしいままにしようとする気運が押し寄せていた時代であった。芥川氏が文芸を志した背景には、こうした時代環境にあって、「中流下層階級の貧困」を認識しつつ、時代の流れに棹さそうとする反骨精神があった。体制内エリートとして同化していくことを良しとせざる自負に立脚しようとする精神があった。このセンテンスでこそ氏の諧謔的・警句的なスタンスがより見えてくる。当時の社会風潮に対する文芸的な抗議が込められていたからこそ構図が大事にされ、一字一句が痛烈であった。

 初期の芥川文学は、金欲・権勢欲・名誉欲に執着しようとしている世上のブルジョア精神と、他方プロレタリアの「生きるために生きる人間のあさましさ」あるいはまた「公衆は醜聞を愛するものである」という大衆心理に対する侮蔑精神を持ち、そのどちらの精神をも俗物根性と否定した。そして文芸的な高踏的な文人墨客趣味生活こそ価値あるとする人生観を確立しようとした。こうして芥川文学の初期のこの頃はとりわけ痛烈な社会批判精神を内在化しつつ、人の心の中にあるヒューマニズム的なるものとエゴ的なるものという背反的なものを相克的に露見させることを楽しんだ。ただし、芥川氏の非凡さは、これを単にニヒリズムに解消させたようとしていたのではなく、主に体制イデオロギーの中にある虚構を暴露しようとしていたことにあった。

 こうして文壇の奇才としての評価を増しつつ作家活動にいそしんだ芥川氏は、気がつけば当代の第一人者としての地位へ登り詰めていた。ところが、皮肉というべきか、功なり名を遂げた芥川氏が絶頂期に達した頃は、わが国にプロレタリア文学が勃興しつつ押し寄せてきた時代であった。この時氏がどう対応したのかが興味深い。彼を取り囲む文壇仲間のほとんどの者がこうした時代の流れと没交渉で創作にいそしんでいた中で、氏は、プロレタリア文学について少々異なる姿勢を、結論から言えば「理解」したのである。ここが氏の凡百の作家とは違うところであった。芥川氏の眼から見て当時のプロレタリア文学は文章表現的には稚拙であったであろうが、柔らかなまなざしを持ったのである。

 ただし、彼はプロレタリア文学に出会うことにより苦悩を深めることになった。後期の芥川文学はここから始まる。芥川氏のこれまでの半生は権力的であることを忌避しつつ世の風潮に半身に構えて対峙してきた。その氏からみて、庶民大衆の生き様の中にある助け合い志向の共働性の意義を見いだそうとするプロレタリア文学はまばゆいものでしかなかった。かって自身が俗物としてあるいはまた下賤として退けてきた世界であり、そうした庶民の心根の中に光を見いだしこれを受け入れるとなれば、営々と築き上げてきた自身の思想的スタンスを大変換せねばならないこととなったのである。「否定の否定」をせねばならぬ勇気を鼓舞せねばならないことになったということである。その経過は苦しい行程となった。芥川氏はこれに挑んだ。しかし挫折した。というより作風的に大衆の息づかいを書くことができなかったのである。その理由として、作風の転換をなすには彼の名声を高めているところの繊細かつ凝縮された技巧派的文体がかえって邪魔になったということが考えられる。あるいはもっと凡俗に彼があまりにも大御所になりすぎていたからであったかもしれない。この頃から「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と書きつづるようになった。それは芥川氏のプロレタリア文学家に転身できないジレンマの表現であったように思われる。

 こうして初期の作品から負わされた名声の十字架を背負いながら彼の後半生の作品は綴られていくことになる。自分の人生は「書物からの人生」でしかなかったという意識のとらわれとの自己格闘が作品化されていくことになった。時にキリスト的な殉教精神を、時に社会主義的な思想を賛美しつつ多少の距離を持つ自身をさらけ出していくことになった。この苦悶・苦闘のウェイトがどれだけ占めていたのかははっきりしないが、やがて彼は精神的な美意識に拘りつつ命を絶っていくことになった。27年(昭和2年)7月24日、芥川は自殺した。享年36才であった。惜しまれる死であった。


その2.「敗北の文学」に現れた特殊感性について(後半)(1999.10.21日)

 このような経過を持つ芥川文学及び氏の生涯を宮本氏がどう評価したか。ここが本稿のテーマである。本投稿を理解していただくために芥川氏について前投稿で簡略に記した。以下、宮本氏の芥川論を解析していくこととする。主たるテキストは、75年初版の新日本文庫の「『敗北』の文学」に拠った。宮本氏は、言い足らなかったのか、続いて「過渡時代の道標−片上伸論−」で、片上氏を論じつつ、一方で芥川論を補足したので、この時点の観点も併用した。「敗北の文学を書いた頃」と同書末尾の水野明善氏の解説も参考にした。

 最初に。芥川氏の文学的軌跡を「敗北」とみなす宮本氏の感性について、少々疑問を挟まざるをえない。タイトルにはネーミング者の最関心事が滲むものであることを思えば、あらゆるものの基準に「敗北」とか「勝利」をもって総括しようとしている宮本氏の感性が見えてくることになる。宮本氏にとって、「敗北」とか「勝利」とかこそが最重要な基準になっており、プロセスはその下僕でしかないということになっているのではないだろうか。

 宮本氏の「『敗北』の文学」の秀逸なるところは、芥川氏の「ぼんやりとした不安」の内容実体について立ち入り、「当時インテリゲンチアの悩み。自殺に行き着いた芥川の文学的内面を批判」し、芥川氏の創作精神に脈打つプレ社会主義思想とでもいえる批評眼が介在していることを指摘し、かつこれをよくなしえたことにあった。芥川氏の辛辣な表現の中にプロレタリア文学的な階級的視点を持つ前の前駆的な汎ヒューマニズム思想が色濃くあることを踏まえたのである。この視点は、当代の文芸評論家の誰もが見抜けぬ芥川論であった。ここに宮本氏の一流な批評眼があったといえる。芥川氏の自殺直後に数多く発表された皮相な死の解釈を退けて、氏の内面心理における思想の揺らぎに着目し、「鋭い分析と明快な判断に基づく力強い説得力で『階級的思想的矛盾の洞察』を為した」(水野明善氏の解説要約)のである。

 宮本氏の執筆動機は次のようなものであった。上述の観点が次のように言われている。

 「当時の既成文壇にもこれらの芸術的・社会的動きに対して、頑固な反対と無関心の古い人々があったとともに、好意的理解者であろうとする一群の人々も生まれた。新しい歴史的方向への芥川の理解の程度は、その文章に現れたところではまだ漠然としていた。しかし、その関心は小市民インテリゲチアとしての自分の位置に安住できないほどに切実なものであった」。
 「晩年の芥川龍之介の語りかけた社会的生活的陰影の中には、中流下層市民層に育ったインテリゲンチアに共通の敏感な苦悩が感じられた。彼は、文学的なレトリックをある抑制をもって語っている。しかし、その本質は、自分たち若者たちの当面している問題とつながっていることを感じないわけにはゆかなかった。ただ芥川は、肉体的にも精神的にも、その苦悩を生き抜くことで克服することができなかった」。
「私は、この過渡的な苦悩に敗北しないで、理性の示す方向へ歩み抜く決意を根本的にゆるがせることはできなかった。私にとって芥川龍之介論は、その決意の文学的自己宣言でもあった。同時に、社会的鈍感さに安住して、芥川の知己をもって任じているそれまでのいろんな芥川観への批判でもあろうとした(「敗北の文学を書いた頃」)。

 問題意識として以上のように捉えた宮本氏の感性に対して何も云うことはない。いよいよ核心に入る。以上のように芥川氏を理解した宮本氏が、ではどのように氏を批評したのか。「時代的であり得た芥川」を認めつつ次のように論断した。

 「芥川の場合、歴史的必然性――新しい時代への理知的理解がもつと明確であり、進歩的インテリゲンチアの存在も時代的な空気としてももっとはっきりしていたら、生きようとする方向がよりつよく支えられただろうと言いえないか」。
 「氏の文学はこの自己否定の漸次的上昇を具体的に表現しているものだ。虚無的精神も階級社会の発展期においては、ある程度の進歩的意義を持つものであるが、今の我々はそうした役割を氏の文学に尋ねることは出来ない。そう云う意味で、我々は氏の文学に捺された階級的烙印を明確に認識しなければならぬ」。
 「ブルジョワ芸術家の多くが無為で怠惰な一切のものへの無関心主義の泥沼に沈んでいる時、とまれ芥川氏は自己の苦悶をギリギリに噛みしめた」。
 「あらゆる文学的潮流の必然的転換期に、保守的な迷妄と、世紀末的な頽廃に抗して、真に新しきものを見失うことなく、文学の正統的河床を掘り続けてきた氏の姿は、日本近代文学史のユニークな存在である」。

 とはいえ、「プロレタリアートの陣列に加わろうとした諸家に比べての芥川の対応」には都会的なプチブル的なひ弱さが克服し得ていない云々(ここは、私の補足)、と喝破した。ここまでは宮本氏一流の批評眼であり、異論はない。

 そして、起承転結の結の部分として次のように総括した。

 「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。
 「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」。

 (話はそれるがここのところの表現は原文通りかどうか少し気になっています。最近手に入れた新日本文庫ではこう記されているが、昔学生時代に読んだ時とちょっと文章が違うような気がしています。その時の本はもうありませんので確かめようがありません。どなたかお手数ですが『改造』誌上掲載文と照らし合わせていただければ助かります。私には時間がない。もっとも気のせいかもしれない)。

 この結の部分にこそ宮本氏独特の感性があると私は睨んでいる。私は異論を挟まざるを得ない。末尾の「ツルハシをうち下ろさねばならない」を修辞上の表現として見逃すこともできようが、宮本氏の場合、どうも修辞上でない傾向にあるというのが私の見方である。

 以下私の感想に入る。私がほとほと感心するのは宮本氏の力強い断定調である。問答無用式に「バールを打ち下ろせ」(昔読んだ本は確かこんな表現ではなかったかと思う。ハードとソフトの違いで意味は変わらないけれど)という宮本氏を支える信念とは何なのか。述べてきたように、芥川氏の良心と誠実さは万人の胸を打つものではないか。仮に我が身に引き替えて見た場合、彼のような誠実な行程を進みうるか自信がない。芥川氏の自殺の直後、確か谷崎潤一郎だったと思うが、芥川ほどの業績があればもう何もしなくても飯が食えるのになぜ自殺なぞしたのかと哀悼したが、実際の大方の思いであろう。

 人は誰しも完成された艶福な者ではない。至らぬ者が至ろうとする軌跡こそ我らが人生であり、何よりも尊く美しく評価されねばならないのではないのか。芥川氏の頭上にバールがうち下ろされねばならない必然性がどこにあるのか。そういう正邪の分別なぞ無用なものではないのか。批評に温かさがなさ過ぎるではないか。芥川氏に宮本氏が指摘するような半端性があったとしてもそれがどうしたというのか。云っている本人も含めて人は皆「ボチボチでんな」ではないのか。仮に、このような論法を許してしまえば、半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上に半端なるがゆえにバールが打ち込まれ、無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシクはないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる。これが芥川龍之介論の世界でおさまっていれば敢えて私は問題にしなかった、と思う。そういう宮本氏流の感性が今日の党活動の背景論理としてこびりついているように思うし、それは良くないと思うから本投稿で闘おうとしている。過去宮本式理論に首肯しない異端者の排斥過程もまたこのセンテンスで行なわれてきたのではないのかということが言いたいわけです。


 自然、宮本氏をして余人をかくも断罪せしめる根拠は何なのかについて考究していかなければならないことになろう。彼は神か、そんなことはない。宮本氏はそのような物言いするだけであり、以下浮き彫りにするが、彼からは「安心立命」的信仰を常人より強く持つ粗野な感性しか見えてこない。どうやら宮本氏の強さを支える信念は、単に当時公式的であったスターリン流のマルクス主義的理解でしかなかった、と思わざるをえない。マルクス主義の理解の仕方がスターリンのそれと非常に似通っていたそれであったと言い換えることもできる。

 そこに在るものは、一つは、哲学的な意味での自己流唯物弁証法的観点の導入による、事象認識のリアルな脳髄への反映を疑わない統一真理的絶対認識観であり、一つは、史的唯物論に基づく社会の合法則的発展を盲信する社会主義−共産主義社会の必然的到来性信仰である。「新しい歴史的方向」とか「歴史的必然性」に対する絶対依拠の精神である。宮本氏は当時の時代感覚としての非常にオポチュニティーなこのようなマルクス主義の哲学と史的必然論を誰よりも生硬に主張していただけではないのか、としか思えない。

 
この二つの観点は、当時にあってさえ七転八倒しつつ学ぼうとしているところのものであった。そういう謙虚さが平均値としてあった。それに引き替え、宮本氏はこの二つの観点を如意棒として手に持ち、自身はその高みにあるとする自惚れから、対象とするものを容赦なく演繹的に断罪して憚らない。自己流のマルクス主義的認識であれ「真理」を手にした者から観れば、過程のすべてが「いらだたしさを覚える。経過した後から過程を見れば退屈に近い」不十分なものでしかないことになる。

 
このような如意棒を手にした者が権力とジョイントしたらどうなるか。何とかに刃物とならざるをえない。その果てにあるものが今日の日本共産党中央委員会の有り姿ではないのか。権力者は「無謬の帝王、真理の体現者」として立ち現れ、いかようにも断定し采配を振るうことができることになる。宮本氏の強靱さとは、この二つの如意棒を振り回しながら、ためらいなく党内整列を優先させることのできる癖の強さにあった。そう、こちらの方の優先こそが宮本氏の特徴であり、私が疑惑する所以となっている。彼が権力と果敢に闘ったという例を寡聞にして聞かない。この強さが余人の追随を許さない異質的な優れものであったというだけのことではないのか。私の辟易させられるところであり、同時に当時の反対派の連中にはこの点が欠けていたところのものであった。当時の反対派の面々を見れば、攻めには強いが守りにはからっきし弱いお人好しという共通項がある。

 とはいえ、そういう如意棒を唯々諾々として受け入れる素地も党内に幅広くあったようにも思われる。コミンテルンに対する絶対拝跪精神がそのまま党内権力者に対するそれに横滑りしており、こうして組織的従順さが当時にあっては党及び党員共通の意識の中に埋め込まれていたように思われる。良く言えば革命の大義の為に殉じようとする精神である。肯かなかったり理解できない者は勉強不足でしかないということにされたし、なった。

 とはいえ、時代の経過が宮本式論理の正否をはっきりさせてしまった。今や二つの如意棒の観点はどちらも総崩れしつつある。つまり、今日的な状況からすれば、大いに問題ありの観点と言えることが露見されつつある。これに同意できない者はオポチォニスト的な幸せ者である。そういう者も次の指摘には肯いて欲しい。宮本氏の論法を評論すれば、没弁証法的思考であり、善悪二元論的な発想であり、権力的論理に染まっているということに特徴があるということ。マルクス主義の最重要部分は弁証法的認識論であると言うのに。マルクス主義者における殉教精神は、宗教的なそれとは区別されるべき常に批判精神を自由闊達に自他内外に持ち合わせねばならないものであり、これが命綱なのではなかろうか。でないと我らの運動もまた絶対的教義に拘束される宗教的団体と何ら変わりはしないことになる。党内に社会観の自由な摺り合わせがあればこそ労働者はこの隊列に参陣して一種開放感に浸ることができたのではなかったか。あるいはそうあるべきではないのか。


 最後に。宮本氏の言いまわしに耳を傾けてみよう。

 「ブルジョア・リアリズムとしての自然主義文学よりプロレタリア.リアリズムの勝利へ――この道程は、近代文学の必然的方向」であり、「より重大なことは、彼らの属した非プロレタリア階級の認識そのものが、既に主観客観の同一性を持ち得なかったのである」、「主観的認識が、同時に客観的認識足り得る歴史的必然に立ち得る文学的見地」、「自己の階級的主観が、同時に世界の客観的認識としての妥当性を持つ者は、プロレタリア階級のみである」という認識に立ち、「現代文学の先端が、プロレタリア文学の旗によって守られているということを認定する」ことが肝心である。「芸術が形象的思想である以上、プロレタリア芸術家は、何よりも骨の髄まで、細胞の中まで、プロレタリア的な感情によって貫かれていなければならないのである」。芥川氏の場合、究極「労働階級を知らず、観念論の無力を自覚し得なかった」、「社会主義の武器を持ってブルジョアジーへの挑戦を試みなかった彼の限界性。根本的批判」がなさればならない、という「批評の党派性」を身につけねばならない。芥川文学に「一つの彷徨時代。社会的進歩性」を認めることができても、「ブルジョワ文学が、他の何物にも煩わされることなく、ひたすらに芸術的完成を辿った過程は、芥川竜之介の自殺を一転機とするブルジョワ文学の敗惨の頁によって、終結を告げたと見ていい」。

 うーーんご立派デスとしか言いようがない。ハイ。


その3.いわゆる「査問事件」をどう読むか(序論)(1999.10.25日)
 今まで『日本共産党の65年』を戦後のくだりから読み進めてきた。もっとも、60年代を経過したところで、その記述のあまりな馬鹿らしさが嫌になって読み止めてしまっている。このたびは「査問事件」に言及しようとする必要から関連する戦前の章を、特に宮本氏への記述を中心に読んでみた。

 感想は、ここでもよくもマァこんな記述ができるもんだとあきれさせられている。恐らく党員の大方はこの記述通りだと了解しているのだろうから、そういう観点の党員の意識と私の以下の分析が噛み合うことはまず不可能としたもんだろう。しかし、私は書かねばならない。疑問を押さえる訳にいかないから。突き動かす衝動の奥にあるものは何かはわからない。一つの理由は、こんな記述では虐殺された党員が可哀想だと思うことにある。なぜなら、宮本氏が生き残ったのは俺は根性がきつかったからと読めるような「党史」中の次のような記述が許せないからである。

その(1)  「−−−その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは『長期戦でいくか』と言って、夜具も一切くれないで夜寝かせないという持久拷問に移った」。
その(2)  「そのころ、面会に来た母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の面影とすっかり変わっていたからだった」(以上、74頁)。
その(3)  「宮本顕治は、警察から予審を経て公判開始までの七年近くを完全黙秘でたたかい抜き、公判でも原則的にたたかった」。
その(4)  「袴田は、非転向ではあったが、密室での審理に応じ、かれのスパイの査問状況などにかんする不正確な供述は当局に利用された」。
その(5)  「宮本は、1940年4月から公判廷にたったが獄中で発病し、公判が中断していたが、その後、単独で、戦時下の法廷闘争をつづけた。宮本は、あらゆる困難に屈せず、事実にもとづいて天皇制警察の卑劣な謀略を暴露し、党のスパイ.挑発者との闘争の正当性を立証しただけでなく、日本共産党の存在とその活動が、日本国民の利益と社会、人類の進歩にたった正義の事業であることを、全面的に解明した」(以上、85頁)。

 こうした記述を見て、信じやすい者は、宮本天晴れと思うであろう。そういう人の脳天気さに万歳だ。私は、とてもでないが提灯記事と見る。とりあえず少しだけコメントしてみよう。

 その(1)の『長期戦でいくか』について。この当時「特高」の取り調べは苛烈を極めていた筈である。党中央委員ともなれば、上田茂樹、岩田義道を見ても判るようにほぼ即日虐殺されている。小林多喜二しかり。直前の野呂委員長も病弱の体に拘わらずひどい取り調べがもとで命を落としている。その他無名の数多くの党員も同様な目に遭わされていた時期である。そういう時期に逮捕されたにも関わらず宮本氏が虐殺を免れた根拠として、「こいつには何を言っても駄目だ」とあきらめさせる強さがあったからというのであれば、虐殺された人はどうなる。強さがなかったというのか。殴打するうちに供述するであろう弱さが見えたから殴打し続けられ、その結果虐殺に至らしめされたとでも言うのか。私はそういう嘘が嫌なのだ。何も宮本氏の虐殺を望んでいるのではない。『長期戦でいくか』を望まなくて言っているのではない。持久拷問化に向かったいきさつと氏のその後の健在を説明するに足りる言い訳としてはオカシイ理屈であるということが指摘したいのだ。

 その(2)の「母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』とつぶやいた」その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮本氏も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、宮本氏に対する拷問状況または拷問後の被害状況についての供述とその裏取りが妙に少ない。私が知らないだけかも知れないのであれば教えて欲しい。出来るだけ多い方がよい。一応可能な限り全部知っておきたいという関心がある。

 その(3)の「完全黙秘でたたかい抜いた」ということについて。何も宮本氏を落とし込めようとして言いたいのではないが、当時虐殺の目に遭わずして完全黙秘を貫くことが本当にできたのか、私は疑っている。完全黙秘で貫くことを皆願った。ほとんどの者が貫く前に虐殺され、または同然の身にされたのではないのか。警察調書、予審調書がないということには三つの理由が考えられる。一つは本当にない。この場合、黙秘権の認められていない時のことであり極めて分の悪い戦いとなる。「特高」が激情することは目に見えている。それを完全黙秘で応じ持久戦に持ち込んだという「タフガイ宮本神話」が私は信じられない。他にそのような者がいるのかいないのか、いるとすればどういう種類の者であったのかに興味が持たれる。調書がないという意味では「熱海事件」をリードした「超大物スパイMこと松村」以外に私は知らない。警察調書がない別な理由としては、そもそも不要とされたか未だに隠されているかどちらかの理由しか考えられない。そう考えるのが自然ではないのか。

 その(4)の袴田が供述したことを咎めていることについて。袴田氏の場合、独特の個性があっていわば得意然として予審調書・公判陳述に応じている。その是非はともかく、今日当時の党活動の貴重な一級資料になっていることは歴史の皮肉と言える。宮本氏の場合、警察調書を取らせなかったというのであればまだしも理解しうる。しかし、予審調書で有れば、少なくとも「査問事件」に対する供述であれば、宮本氏が後に明らかにしている論拠に拠れば、むしろ具体的状況事実について明らかにすることは必要であったのではないのか。「査問事件」は刑事事件として問われようとしていた向きもあり、宮本氏の言うように小畑死亡の原因が「急性ショック死」であるというのであれば冤罪的に免責される可能性もあるのだから、誰彼に罪を被せるというのではなく具体的状況を明らかにすることに何の非があるのだろう。「急性ショック死」を覆い隠すのに革命的精神を発揮せねばならない意味と必要があったのか、疑問としたい。

 党の機密事項の秘匿に黙秘を貫くことは賞賛されるであろうが、ことは刑事事件的な対応が要求されているのであり、完全黙秘の必然性が見えてこない。袴田の場合、確かに自身の立場を考慮しつつ状況的事実を得々と語っているが、党の対スパイ対応としての「査問側の正義」の経過を明らかにしているのであって、果たしてそれ程非難されることであろうか。調書を取らせなかったことを最も善意に拡大解釈してみた場合、「リンチ事件」はあくまで党内問題であり、党内的に総括されることが望ましいという建前に拘ったということであろうが、私は、そういう観点からにせよ鬼神のごとく完全黙秘を貫きえたという宮本氏の言い分をこそ畏怖するものがある。それならそれで戦後自由な身になった時点で、この事件に対して党内的な解明へと向かえば良いではないか。漏れ伝わってくることは、「リンチ事件」解明に関する検閲的態度に終始する氏の姿ではないか。


 その(5)宮本氏が「あらゆる困難に屈せず」戦い抜いたという表現について。大人げない言葉尻の指摘かも知れないが、では聞こう。虐殺されたり獄死させられた党員は困難に屈した末の獄中死であったというのか。ためにする提灯記事にしても同志愛のない表現のような気がするのは私だけだろうか。

 こんなことばかり書いて党員の皆さんのご機嫌を損ねてしまうことは許して貰いたい。視点が変わればかくも見方が異なることになるということだ。私の論の是非はそのうち歴史が明らかにするだろう。一つの見方として参考にしていただけたら良い。この方面に関して言及しようとすれば私は100頁だって書くことができる。しかし、宮本氏を落とし込めようとするのが本意ではない。こういう胡散臭いところの多すぎる宮本氏に依拠した党史とか現在の党の活動方針の見直しに役立ちたいというところに本音がある。野坂氏の場合も同様である。今日では野坂氏が根っからのスパイであったことが明らかにされているのであるから、党史での彼に関連した記述は全面的に書き改められねばならないであろう。しかし、彼にまつわる記述を書き改めるとしたらどう書き改めればよいのだろう。読んでみて更正不可能な記述になっているように私には思われる。現執行部サイドの党史論作成過程に彼がそれほど利害一致的に関与しているということであり、それほど深く提灯記事されているということだ。是非ご一読なされてご判別されるようお願い申しあげる。


 原稿はまだ書き上げていないが、上述のような観点から以下宮本顕治論を継続していくつもりである。興味のある者は読み進められればよいし、目に毒だと思う方は控えた方が良いかもしれない。あらかじめお断り申し上げておく。

 「査問事件」に関する論議は「JCPウオッチ」でも継続的になされているが、私は、「査問事件」の全体像を浮き彫りにする方向で論議を提供しようと思う。全体としての粗筋が判明せぬまま「急性ショック死」の部分的詮議をしても水掛け論に終わってしまうような気がするから。やはり、誰かが全体像をまとめなければいけないと思う。そこから部分と全体にわたる論議を積み上げる方が生産的ではないかと思う。以下、そういう視点も含めてこの事件のドラマを再現させて見ようと思う。参考文献は、『リンチ共産党事件の思いで』(平野謙、三一書房)、『リンチ事件とスパイ問題』(竹村一、三一書房)、『日本共産党の研究』(立花隆.講談社文庫)他を参照した。不思議なことに、松本清張氏の昭和史発掘シリーズの中にこの事件の著作が見あたらない。

 私は、本投稿で、あたかも見てきたかのようなドラマを私論的に綴りたいと思う。なぜなら、この事件をめぐって関係者の供実が一定しておらぬため、甲乙丙丁論に右顧左眄すれば永遠の堂々めぐりに逢着せざるをえないからである。その結果事件そのものがうやむやにされてしまうことが一番変な結果であると思う。われわれはこの世の出来事のほとんどに対して直接見聞することはできない。かといって、直接見聞きしていないから判断できないとしたら、この世のほとんどが闇の中の出来事となる。人はその器量に応じて万事闇に灯りをともすべく乏しい資料とカンを頼りに判断しつつ進まざるを得ない。例えその判断が後に修正されることになろうとも、その時は真剣に全体重をかけてなしたものであればそれがその人の人となりというものであろう。先の参考文献における立花氏、平野氏、栗原氏の各論究があるが今一つ釈然としない。むしろ、本筋から外そうとするかのような論理誘導が気になっている。

 そういう問題意識を持って査問事件の全貌を私流に解くことにする。手に触れることができる範囲の当時の関係者の警察調書、訊問調書、公判陳述、戦後になっての回想録等々を、眼光紙背に徹しつつ解読してみたい。以下、「査問事件」の発生前の状況と事件そのものの経過とその後の経過という三部構成で再整理して見たい。時間と能力が私に備わるように祈るばかりだ。

れんだいじさんの「敗北の文学」論への異論(1999.10.26日、吉野傍)

 れんだいじさんの「敗北の文学」論はなかなかと読ませる力作だと思います。相当長いのに読むものを飽きさせることない筆力に敬服します。しかしながら、その結論には疑問なしとはしません。

 れんだいじさんは、若き宮本顕治(わずか20歳!)が芥川を野蛮な情熱で批判しきらなければならないと論じたことをとらえて、「批評に温かさがなさ過ぎる」と述べた上で、次のように批判しています。

「仮に、このような論法を許してしまえば、半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上に半端なるがゆえにバールが打ち込まれ、無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシクはないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる」。

 しかし、これは的外れな批判ではないでしょうか。若き宮本(歴史的人物とみなして敬省略します)が芥川を徹底して批判しきらなければならないとみなしたのは、まさに芥川が一つの巨大な山脈であり、歴史的人物だからです。いかに芥川が誠実で良心的であるとしても、その山にピッケルを打ち下ろして登りきらないかぎり、その先に進めないし、山の向こうにどのような光景が広がるのかがわからないからです。宮本があえて「野蛮な情熱」と言っているのは、そういう意味です。単なる客観的な人物評価なら、れんだいじさんがおっしゃるようなもので十分でしょう。しかし、革命的情熱を燃やし、新しい歴史を開かんと欲していた宮本にとって、そのような客観的評価が問題なのではなく、すぐれて問題は実践的であり、まさにその実践的課題に照らして、「野蛮な情熱を持って批判しきる」ことが必要だったわけです。そしてそれは単に宮本個人にとってだけでなく、時代的要請としてもそうだったわけです。

 それに対して、「半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパ」の場合は、そのような乗り越えの対象ではなく、むしろ、ともに助け合って、山を登る仲間です。山登りに不案内で、まだ未熟な仲間を連れて山に登ろうとするときには、当然、同志的配慮が必要であり、間違っても頭の上にバールが打ち下ろされることはありません(一部の内ゲバセクトは別にして)。

 しかも、ハタチの宮本が若い情熱にまかせて書いた文章のうちに、れんだいじさんは、その後の独裁者宮本の片鱗を見ようとしています。それはあまりにも不公平な話ではないでしょうか? われわれ自身が若いときに情熱にまかせて書いた左翼文章を思い出してごらんなさい。今から見れば明らかに行きすぎた表現や、打撃的すぎる批判、あまりにも楽観的な未来像、あまりにも単純な確信が見出せることでしょう。そのような個々の表現をとりあげて、あたかも、その人の将来の軌跡がそのような若い時の文章のうちにすべて萌芽として含まれているかのように言いなすのは、生産的とは思えません。

 未来の独裁者スターリンの片鱗を青年だったときのスターリンの文章に見出そうとする試みが、歴史学者や思想家によって今日でもしばしば行なわれていますが、それは、歴史的環境やその後の本人の大きな内的変化を無視した、まったく一面的な方法論です。

 しかも、20歳の時の宮本の文章(改めて読んでみて、宮本のすぐれた文学的力量に大きな感銘を受けた)と比べるなら、われわれが20歳のときに書いた左翼アジビラ文章など、およそ比較にならないぐらい機械的で、紋切り調で、浅薄なのではないですか?

 むろん、若い時の文章が、将来のその人の行動とまったく無関係と言いたいわけではありません。たしかに、若き宮本の文章には、彼の終生の特徴となっているいくつかの要素が見られます。それは、過度の歴史法則主義であり、過度な理知主義的傾向です。しかし、その程度の機械的な歴史認識は、当時にあってはごく普通であり、特殊宮本的とまで言えるかどうか疑問であり、またそのような認識を持っているから、後に独裁者的にふるまったということにもなりません。

 むしろ宮本の問題は、初期のころに芥川に対して示した柔軟な理解(単純な断罪ではなく、その歴史的意義を十分に認めた上で、その限界を指摘するという論理立て)に代わって、いつしか、より機械的で単純化された階級的基準を振り下ろす傾向がしだいに強くなったとみるべきだと思います。

 なお、当時の宮本のマルクス主義理解を、「当時公式的であったスターリン流のマルクス主義的理解でしかなかった」と断定するのも、不正確です。1929〜31年ごろの宮本、すなわちまだ入党していないころの宮本はけっしてスターリン主義者ではありませんでした。もちろん、そのころすでに隆盛を極めていたスターリン主義的な機械的唯物論把握の影響が皆無とは言いませんが、「でしかなかった」というのは、まったく不正確です。

 実際、1931年3月に書かれた「同伴者作家」という批評では、トロツキーが高く評価されています。1931年といえば、すでにトロツキー=反革命という公式が成立し、トロツキーも国外追放され、およそスターリン主義者でトロツキーに肯定的に言及することなど絶対にありえなかった時代です。にもかかわらず、若き宮本は、トロツキーの同伴者作家論を肯定的に紹介し、「同伴者の特徴に対する彼の分析の基本的妥当性」(『宮本顕治文芸評論選集』第1巻、128頁)とまで評価しています。

 このような肯定的なトロツキー評価ができたのは、おそらく、宮本の先生にあたる片上伸の影響でしょう(宮本は同じころ「過渡時代の道標――片上伸論」を書いている)。片上はトロツキーを非常に高く評価し、そのプロレタリア文学否定論には批判的であったものの、トロツキーの柔軟で感性豊かな文芸批評の方法を高く評価していました。スターリン主義者にはけっして見られないこのような資質を、宮本は先生から確実に受け継いでいます。

 しかし、このようなトロツキー評価は、入党後にはまったく見られなくなります。そして、文芸評論においても非常に機械的で、断罪主義的な傾向に陥るのも、入党後です。実際、宮本自身が「あとがき」の中で、「『唯物弁証法的創作方法』論以後の作品論などは、機械論が目立って、自分で読んでも苦痛である」(同前、577頁)と言っています。

 むしろ、私は、れんだいじさんの断定口調の宮本評価にこそ、入党後の宮本の文芸批評に見られるような「機械論」と「リゴリズム」を感じます。おそらく宮本顕治に対する一種の憎悪(こう言えば、れんだいじさんは言下に否定するかもしれませんが)によって目が曇らされ、宮本顕治という偉大な歴史的人物(あえてそう言いましょう)に対する評価が過度に否定的なものになっているのではないかと思いました。私は少なくとも、田中角栄よりは宮本顕治の方を偉大とみなします。


あまりにもひどい言いがかり>れんだいじ氏へ(1999.10.27日、吉野傍)

 れんだいじ氏の最新の投稿を読みました。これまでのれんだいじ氏の投稿については、多々異論はありつつも、それなりに論理的な展開と、れんだいじ氏らしいユニークな観点とがミックスされて、非常に勉強にもなり、楽しみながら読んでいましたが、10月25日付投稿は、ちょっとあまりにもひどいと感じました。まさに、宮本憎しで目も思考もすっかり混濁してしまっていると思います。

 宮本顕治が過酷な拷問に耐えられたのは、その強靭な肉体のおかげでもあるのは、客観的事実です(それと同時に、宮本がそれほど重要な幹部ではなかったということも一因としてあるでしょう)。しかし、どうしてこのことの指摘が、拷問で死んだ同志たちに対する非難というふうに解釈されるのでしょう。どうして「殴打するうちに供述するであろう弱さが見えたから殴打し続けられ、その結果虐殺に至らしめされたとでも言うのか」などという議論になるのでしょう。無茶苦茶ですよ。そんなこと誰も言っていないでしょう。たとえば、私は体も弱いし、根性もないので、拷問されたら簡単に死ぬだろうし、屈服するかもしれません。しかし、だからといって、私が死んだのは体力がなかったからだと言って非難する人がいるでしょうか? どこまでも責任は拷問した側、つまり当時にあっては特高警察と天皇制政府にあるのは自明ではないですか。そんなことは言わずもがなですよ。れんだいじ氏のような解釈は、とんでもない言いがかり以外のなにものでもなく、むしろ、私はれんだいじ氏のような理屈に、スターリニスト的なものを感じます。まさに罪のでっち上げです。


 さらに、れんだいじ氏は次のように言っています。

「『母親が私の顔を見て「お前も変わったのう」とつぶやいた』その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮本氏も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、宮本氏に対する拷問状況または拷問後の被害状況についての供述とその裏取りが妙に少ない」。

 引用するだけでも怒りをおぼえるような文章です。当時の面会は、警察の監視下で行なわれたんです。そういう状況においては、「可哀想」とか、「ひどい目に会ったな」というような、警察を非難していると解釈される可能性のあることは言えないわけです。どうしてそんなことがわからないんです。このとき母親が「お前も変わったのう」と言ったのは、まさにそういう形でしか息子の状態について触れることができなかったからです。そして、このような言い方がなされたということは、当時の具体的な状況でしか出てこない言葉であり、この証言の信憑性を物語っています。

 れんだいじ氏は、あろうことか、この母親の言葉を宮本の下手なでっち上げとみなして、宮本はそもそも拷問されなかったのではないかとさえ示唆しています。他の党員については裏づけがあるのに宮本にはないという言い分には驚かされます。れんだいじさん、いったい何人の党員が拷問されたと思っているんです。その全員についてあなたは裏づけを持っているとでも言うんですか? 宮本だけ、自分の証言しかないとでも言うんですか? 宮本は独房に入れられていたのだから、房仲間の証言がないのは当たり前。そして当時にあっては、共産党員が特高警察によって拷問されるのは当たり前。拷問されたとみなすのが普通であり、それをあえて否定するのだとしたら、むしろその積極的な証拠を出すべきです。密室で行なわれた拷問を、本人以外の証言がないなどといって、拷問がなかったかのように匂わせるのは、まさに特高警察を免罪する許しがたい議論です。

 あなたの議論を聞いていると、自由主義史観を標榜する連中の論法を思い出します。強制連行され、強制的に兵士のセックスの相手をさせられた従軍慰安婦たちに対し、彼らは、本人の証言しかないのだから、嘘を言っているに違いない、従軍慰安婦は慰安所で楽しく過ごしていたのだ、と言っています。あなたの議論はこれと本質的に同じです。

 れんだいじ氏のひどい議論はその後も延々と続いているし、その一つ一つについて反論可能ですが、あまりにも馬鹿げているので、やめておきます。れんだいじ氏は一つ前の投稿で、芥川に対する青年宮本の厳しすぎる批判に難癖をつけながら、宮本顕治自身を評価する段になると、ここまでひどい言いがかりをつけてまで貶めるとは、本当に驚きです。

 れんだいじ氏が、このような、犯罪者を免罪し被害者を貶めるような議論を今後とも続けるのなら、私は今後、れんだいじさんをまともな議論相手とは認めません。本当に残念です。


吉野さんへ、取り急ぎご返信(1999.10.26日)

 吉野さん、早速ご返信ありがとうございます。その主張要旨も明解に伝わっております。一緒にしないでよと言われるかとも思いますが、私のずっと以前の宮本氏に対する評価は吉野さんの意識と同じようなものであったように思います。私の場合、ただ「バール」のところの言いまわしが妙に気になっていました。あれから党周辺を離れてほぼ30年近く経過させてみて、あらためて当時の意識との対話をしているというのが実際です。あの頃覚えた疑問が回りまわって現在の宮本論の立場になっています。すべての間違いは宮本氏の党中央簒奪から始まっているという視点です。もっとも、他の誰が良かったのかというと特別にそう思える人もおりませんので、宮本氏を最大に善意に解釈した場合、こういう党運動の難しさをこそ知るべきかということになるかとも思われますが。

 ところで、「過渡時代の道標」の中で評論された片上伸氏は宮本氏に書簡を送り、その中で宮本氏の才能に対して次のような暗喩をしているようです。親しいがゆえに忌憚のない意見であったと思われます。

 「それは余りに君の自尊心がナーバスになり過ぎているといってもいい」。
 「こっちの方が本気で鎧を脱ぐのにせせら笑うようなら相手は友人でも何でもない」。
 「一度も汚れ傷つけられざるプライドより、汚れ、傷ついてもなおかつめげないプライドの方を取る」。
 「君の手紙を見る度に、君がいつでも全力的に羽ばたつ姿を想像する。それが君を、君の仲間から引き離してさびしくもしていると同時に、君を強くしている。最初から僕の君に感じたのは、このTragicalなはだざわりだ」。(「鎧」と「プライド」のところは、本人の自戒なのか宮本氏のことを云ってるのかどうかははっきりしませんが、私には宮本氏も含めた言いまわしのように思える)。

 なかなか宮本氏に対する洞察が言い得て妙な的確さではないかと思ったりしています。

 ところで、ついでに小林秀雄の「様々な意匠」を読みました。今まで高校の教科書での一節でしか知らなかったのですが、このたび何となく読んでみて驚いた。何と当時のプロレタリア文学運動内部の文芸論だったのですね。知りませんでした。僕は、こちらの方も優れた出来映えのように思っていますが、それより何よりちょうど宮本氏との対極に位置した文芸論になっており、そうした関係に立つ二つの論文が「改造」で一等、二等を分け合ったというのは歴史の皮肉ですねぇ。参考までに次のような一節があります。

 「私には文芸評論家が様々な思想の制度をもって武装していることをとやかくいう権利はない。ただ鎧というものは安全では有ろうが、随分重たいものだろうと思うばかりだ」、「マルクス主義文学、――恐らく今日の批評壇に最も活躍するこの意匠の構造は、それが政策論的意匠であるが為に、他の様々な芸術論的意匠に較べて、一番単純なものに見える」、「私は、ブルジョワ文学理論のいかなるものかも、又プロレタリア文学理論のいかなるものかも知らない。かような怪物の面貌を明らかにする様な能力は人間に欠けていても一向差し支えないものと信じている」、「私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」。

 むしろ、私は、こっちの方の洞察こそ保守的時代迎合的な臭いさえ消せば、文芸論的には鋭いように思えたりしています。

 最後に。訂正です。先の投稿で「あらゆる文学的潮流の必然的転換期に、保守的な迷妄と、世紀末的な頽廃に抗して、真に新しきものを見失うことなく、文学の正統的河床を掘り続けてきた氏の姿は、日本近代文学史のユニークな存在である」(過渡時代の道標)という批評は、宮本氏の片上伸氏に対してなされたものでした。宮本氏の芥川論はここまでは認めていません。まなざしが温か過ぎると思っていました。自分で書いておいてそう感じるのも変ですが。失礼いたしました。取り急ぎレスさせていただきました。


その3.「査問事件」に至る党史の流れと宮本氏の履歴について(1999.10.30日)
 まず、「査問事件」に至る直前の党史の流れから見ていくことにする。当時体制側「特高」は、共産党員を徹底的に捕捉殲滅せんと躍起になっていた。なんとなれば、交戦中の大東亜戦争遂行上、共産党員の存在は敵方内通の懼れある不純分子という認識に拠っていたからであると思われる。これは戦争というものが持つ宿命である。正面の敵は判りやすいが、後方あるいは内部の敵にも気配りせねばならず、内通者は判りにくい分一層ナーバスにならざるを得ないということになるからである。大戦中のアメリカにおける日系米人の隔離政策が今日明らかにされているが、同様の観点による強権発動であったものと思われる。

 こうして、「特高」は、当時の日本共産党の図体そのものは大したものではなかったものの、放置しておけばいつうねりとなって牙を向いてくるか分からない不穏分子的な存在としてみなし、つまり共産主義者をコミンテルンの指示に従う敵方内通のスパイの範疇で捉え警戒を強めた。これが日本共産党徹底弾圧の真因であっただろうと思われる。こうして党内にスパイが送り込まれ、党の動きの逐一把握と有能党員が捕捉されていくこととなった。

 他方、共産主義者は、「聖戦」に向かう日本帝国主義を露骨な反人民的ファシズム国家とみなしてこれを打倒することを戦略に据えていた。被圧迫人民大衆の利益擁護の旗を敢然と掲げてこれに対抗せんとしたのである。こうして、体制側は体制側なりの愛国心と民族主義イデオロギーで国家をリードしようとし、反体制側は反体制側の人民的利益擁護の論理で運動を組織しようとして衝突せざるをえないことになった。この衝突の根は深く、このどちらの言い分が正しいのかをめぐっては今日もなお対立が続いているともみなすことが出来る。

 「特高」の動きを党の側から見れば、送り込まれていたスパイの摘発が急務となっていたことを意味する。「昭和3年のいわゆる3.15事件以来支配階級はあるいは定期的にあるいは不断に我が党に対して弾圧を加え、為に我が党はその陣営から経験有る優秀分子を奪われ、組織を攪乱されてきたのであります」、「優秀な活動家を奪われ、党組織を攪乱される度にその後に結成される組織あるいは機関に常に不純分子が潜入し、それが又次の弾圧の手引きをするということを繰り返えされていたのであります」(袴田「第7回訊問調書」)という経過となった。つまり、党内において、お互いが相手をスパイと考える両極の対スパイ戦争が丁々発止で発生していたということになる。このような状況を俯瞰しつつ以下「査問事件」直前の党史の流れを宮本氏の動きとの関わりの中で見ていくことにする。

 宮本氏の入党経過は既述したので割愛する。宮本氏の入党時の党は既に28年(昭和3年)の3.15事件と翌29年(昭和4年)の4.16事件で党中央が壊滅させられた後であり、党活動自体が極めて困難な非合法下にあった。主だった幹部は獄中につながれもしくは虐殺の憂き目に会わされていた。この両弾圧を経て、29年(昭和4年)7月頃田中清玄を中心とする指導部により党が再建された。この執行部は、党史上初めて武装ストライキや武装メーデーを指針させたことに特徴が認められ、今日「武装共産党」時代と言われている。この執行部時代はスローガンや戦術は先鋭化したが、「特高」の追撃も一層厳しさを加えることとなり、赴くところ大衆闘争との接点が失われていくことになった。この時以降の傾向として、党活動は、労組等の組織建設の替わりに街頭連絡を主とするようになった。党の活動が地下へ地下へと余儀なくされつつ追い込まれていくことになった。この執行部は、武装メーデーの直後から自己批判にとりかかっていたが、各地を転々としつつも翌30年(昭和5年)7.14日から17日にかけてメンバーの大半が検挙されるにおよび壊滅させられた。

 この後半年間党は全国的指導部を持つことが出来なかった。モスクワのクートヴェ(極東勤労者共産大学)に留学していた風間丈吉が帰国して31年(昭和6年)1月頃中央ビューローを再建させた。風間を委員長とする執行部は「武装共産党」方針を政策転換させ、大衆的活動を重視していくことになった。ただし、この頃コミンテルンより「31年テーゼ草案」が発表され、後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階革命論によるプロレタリア革命を指針させていた。3.15事件、4.16事件の統一公判組も早速この新テーゼ草案に基づいて陳述していくことになった。ところが、この当時「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロッキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。こうして翌32年(昭和7年)5月に「日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわゆる「32年テーゼ」)が発表された。「32年テーゼ」は、日本革命の性質を「プロレタリア革命から、社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと変更し、前年の「31年テーゼ草案」と比較すればかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていた。ただし、この新テーゼは、他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという方針を掲げており、運動としては急進主義的な部分も取り込んでいた。この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。

 注意すべきは、この時今日スパイとして知られている「M」こと松村の中央委員会潜入が堂々と為されたということである。この時の中央部は、風間委員長・「スパイM」・岩田義道・紺野与次郎らによって構成された。「スパイM」は、組織・資金関係を担当し、委員長さえ判らない二重の秘密組織を張り巡らすことを成功させ実質上の指導者となっていた。問題は、「スパイM」の存在はそれまでのスパイの党潜入と意味合いが違っていたことに認められる。それまでのスパイは党の情報を取ることに重きがあったのに対して、「スパイM」の場合には意図的に党を操作しはじめたのである。概要「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイをはめこんでいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎していったといえるのではなかろうか」(日本共産党の研究二99P)という立花氏の指摘がある。つまり、「スパイM」一人ではたいした事は出来ないわけだから、この時点で党内におけるスパイ系列の確立がなされたと読みとることが出来るということになる。

 この「スパイM」の指令の下で32年(昭和7年)10.6日に大森銀行ギャング事件が引き起こされた。この事件は新聞でも報道され、党中央では首謀者が「スパイM」であったことが判明していたにも拘わらず、事件発覚後も「スパイM」のこの指導をめぐって中央委員会の中で問題にされた形跡はない。「もしここで党活動、党生活のスタイルが徹底的に再検討され、『スパイM』の責任が追及されていたならば、30日の弾圧(熱海事件)による被害ははるかに少なかったろうし、また後の再建もはるかに容易であったに違いない」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」)と思われるが後の祭りでしかない。こうして同年10.30日に「熱海事件」が引き起こされた。「熱海事件」とは、「スパイM」が「特高」との緊密な連絡の上で全国代表者会議を熱海に召集し、集結してきた地方の主要党員が一網打尽的に一斉検挙を受けた事件である。難を逃れた形になっていた風間委員長も「スパイM」の手引きで都内で逮捕され、こうして風間指導部もまた壊滅させられた。ちなみに、同時に逮捕されたはずの松村こと「スパイM」はその後行方がわからず特高資料においても痕跡さえ消されている。

 「(この『熱海事件』による)全国的大検挙は我が党に対して大打撃を与え、中央を初め全党の諸機関は根本的な立て直しを余儀なくされ」(袴田第7回訊問調書)ることになった。この「熱海事件」の余波として、「熱海事件」は「スパイM」の策謀によって仕組まれたという風評が党内に伝わるに連れ、党員の多くが疑心暗鬼のとりこになった。中央委員が警察のスパイであったという衝撃が走ったのである。とはいえ、潰されても潰されても党を再建させることこそが当時の党員のエネルギーであった。「熱海事件」の直後の同年11.11日逮捕を免れた中央委員の宮川虎雄、児玉静子らによって「臨時中央委員会」が再建された。この「臨時中央委員会」に大泉がこの時初めて委員候補として顔を出している。この「臨時中央委員会」もまた、わずか一月足らずで主要メンバーが検挙され壊滅させられた。

 こうした国内の動きを見て翌33年(昭和8年)1月上旬にモスクワから帰国した山本正美を中心に党の再建が着手された。こうして、1月下旬にはこの山本委員長を中心に、野呂栄太郎、谷口直平、大泉兼蔵、佐原保治を中央委員とする正規の(コミンテルンに承認された)中央委員会が再建された。今日疑問視されることは、ここでも、「スパイM」の党内総括が為されなかったことである。誤りは全て「スパイ・挑発者」と未熟な下部党員の責任で、中央委員会は常に無謬という権威を守ろうとしていたものと思われる。既にこの時期の党内に「党中央権威主義」が支配していたということでもあろう。この時、後に査問事件の主役となる宮本が中央委員候補となっている。もう一人の主役袴田はこの時は東京市委員会のメンバーとして委員長三船留吉の直接の下部にいた。ちなみに三船を東京市委員長に据えたのが大泉であった。

 再建直後の2月に再々度全国一斉規模での党員の検挙弾圧が襲ったが、この頃の拷問は一層苛烈さを増していた。党中央委員上田茂樹、岩田義道、続いて小林多喜二もまた、2月20日今村恒夫と共に、今日スパイとして明らかにされている東京市委員長三船留吉の手引きにより築地署の「特高」に捕まり即日拷問の末虐殺された。その数詳細は判らないが多数の党員が虐殺されているようである。続いて5月山本委員長・谷口が逮捕された。この執行部は再建後わずか4ヶ月あまりで壊滅させられたことになる。

 この山本委員長逮捕の結果「東京並びに地方の党員等は非常に驚愕して又スパイに潜入されて党が売られた結果ではないかと云う疑心を生じ、党員各自が警戒して自己の身辺に対し不審の眼をもって眺めるようになりました」(袴田第7回訊問調書)。ちなみに、この逮捕には党中央委員会のメンバーであり当時東京市委員会の責任者であった三船留吉に嫌疑がかけられた。「査問事件」の関係で述べると、この時党中央部は、大泉を責任者として袴田他同志数名で三船を査問するよう指令した。ところが、大泉は今日ではスパイとして判明している三船を庇い逃がそうとする様な八百長的態度を採り、事実三船はこうした党内の空気を察知していち早く逃亡に成功している。この時の大泉の態度が同志達の憤激を買ったという事実があり、伏流として内向していくこととなった。ちなみに、三船逃亡の後空席になった東京市委員長に座ったのが宮本であり、中央委員でもあった三船の替わりに中央委員に補充されたのが小畑である。

 この間の宮本氏の履歴は次のようなものである。32年(昭和7年)の春より地下活動に入った。以降宮本氏は新人有力党員として嘱望されつつトントン拍子で党内の地歩をかためていった。主に文芸部門に関わり、蔵原惟人のプロレタリア文学理論を踏襲し、蔵原の検挙された後は小林多喜二・中条百合子らと共に専ら党の文化運動の指導者として影響を与えていくことになった。宮本は、蔵原が奪われた後の最も忠実な蔵原理論路線の継承者となり、「政治の優位性理論」や、文学運動の「ボルシェシェヴィキ理論」を主張した。錯綜する党方針・文芸理論の中で生じようとしていた指導部に対する批判や疑問に対して、野沢徹又は山崎利一のペンネーム名でそうした動きを一切認めぬ方針を発信し続け、それらの動きを日和見主義、右翼的偏向として切り捨てて行った。「いわゆる最近流行の転向と、ごっちゃにされるような日和見的潮流が文化運動の一部を根強く流れていることは事実であろう。そうした流れとは、文化芸術運動の原則的方向−いわば議論の余地なき方向そのものを歪めんとする傾向である」、「しかし、どんな新しい意見にしても、それが、文化芸術運動の原則的任務・方向の歪曲を意味するならば、それは積極的展開と全く反対の方向に堕ちてしまうものである」、「原則的問題については中間の道はないのだ」。12.24日「赤旗」での中央委員会の主張なる「今日のわが党の最大の弱点は、正しき政治方針の決定にも関わらず、その実践的遂行が極めて不十分にしか行われていない点にある。而して実に、これは党規律を弛緩させる挑発者の系統的サボタージュによるものである」も宮本の手になる文章と思われる。これらの論文はいずれも宮本の思考様式を実によく表しており、「方針は議論の余地のないもの」であり、党中央を金科玉条視させる傾向と建前主義と異端へのレッテル貼りと実践が足りないと云う下部党員に対する恫喝が見られる。早くもこの時点で、戦後の「第八回党大会」以降満展開することになる宮本式党路線を主張していることが注目される。問題は、党中央が路線的にジグザグしており、かつ深くスパイの潜入に汚染されていたこのような時における宮本氏の「党中央絶対帰依」を主張する感性と背景が分析されねばならないということになろう。

 山本委員長が逮捕された結果、党は、野呂氏を中央委員長に就かせることで党中央を維持していくことになった。野呂は「日本資本主義発達史講座」の主宰者として知られる学者党員であり、片足が不自由な病弱体質であることを考えると委員長は重責に過ぎた。しかし、他に適格な委員長がいないという人選により本人も引き受けることを決意した。この野呂委員長の下に中央委員として大泉兼蔵・小畑達夫・逸見重雄・宮本顕治が配置され、中央委員会は都合この5名で構成された。こうして、この野呂執行部時代に宮本が中央委員として登場してきたことが注目される。この時宮本は若干24才であり異例の登竜であった。(ここで気になることが一つ残されている。果たして宮本氏を中央委員に推薦したのが誰なのか記録がない。この当時中央委員になるためには既中央委員の推挙が必要とされ、しかる後全中央委員の承認が必要であったはずであり、どなたか出典も明らかにした上で教えて頂けたら助かります)。とはいえ、この当時の党中央は党史上最も活動力が低下したとみなされている内向きの党活動に終始した時期であり、宮本氏が戦後になって「戦前最後の党中央委員」という肩書きを触れ回るのは強調のし過ぎのように思うというとまたお叱りを受けるでしょうか。

 中央委員会の職務の内訳は、逸見・宮本が政治局を、大泉と小畑が組織局を構成することとなった。書記局は、当初は野呂、逸見、宮本だったのが、下部からの宮本に対する反対が強く、6月中旬に野呂、大泉、小畑に編成替えされた。この頃6月に旧中央委員佐野・鍋山の「獄中転向声明」が発表され党内に衝撃が走った。党中央は、この問題対策に追われる一方で、中央委員内部の対立も深めていくことになった。大泉・小畑・逸見・宮本の中央委員間の疎通が悪く、困った状況に陥っていたという事実がある。対スパイ対策のため相互に機密保持をなした結果、一層分裂的でさえあったのである。お互いに信用しうる系列が形成され、疑心暗鬼が党内を支配しはじめていた。

 こうして宮本は東京市委員会に転出した。旧東京市委員会責任者スパイ三船留吉の後任となった。後にリンチ事件に登場する袴田は、昭和8年2月上旬からこの時も東京市委員会委員であり、他に荻野・重松が委員であった。この間党中央部から必要に応じて指導がなされ大泉が寄越されていた。そこへ、宮本が転出してくることになり、以後袴田は宮本の管轄の部下という立場になったという関係になる。袴田は組織部会の部長であり、その部員に木島隆明がいた。つまり、宮本−袴田−木島は直系ラインということになる。宮本が東京市委員会の責任者となって以来会合が定期的に持たれるようになった。参考までに記すと、大泉と袴田の折り合いは互いに快く思わぬ程に悪かったが、宮本と袴田の場合ウマがあったようである。後日スパイとして除名された三船留吉は宮本直前の東京市委員会委員長であり、この三船と袴田は折り合いが良かったようである。

 宮本−袴田ラインが東京市委員会でその地歩を固めていたこのような時期「党中央部の優秀分子が続々と検挙されましたので、これを補充して中央部の組織を強化することが党中央部においても企てられ、私たちも東京市及び各地方の優秀分子を集めて党中央部に送りその諸機関に補充して中央部を強化すると云う意見を上申したのであります。中央部でも左様な意見を用いられて」(袴田第6回訊問調書)9月下旬頃東京市委員会から人員補充がなされていくことになった。こうして、この頃宮本グループの党中央進出がなされることになった。この頃の東京市委員会系列の党組織は、最下部が党細胞でその上に地区委員会があり、その上に東京市委員会があり更に最上位に中央委員会があるという形態になっていた。宮本は東京市委員会責任者の地位を去り、後を萩野に譲り、党中央委員会専任で活動することになった。袴田と荻野が党中央組織部員に引き上げられていくことになった。

 「当時党中央組織部には労働者として働いた経歴を持つメンバーが少なかったので、私は労働者を指導する為党中央組織部に労働者出身の者を加えるべきだと云う事を強調しておりましたところこれが容れられ、私と荻野とが組織部に入ることになり、私は組織部の中にある大衆団体係りを命ぜられたのであります」。この供述に拠れば、かなり意識的な働きの結果宮本グループの党中央進出がなされたということになる。東京市委員会における袴田の後を木島隆明が引き継いだ。袴田は、続いて10月中旬の頃野呂委員長と会いその場で中央委員会候補者に任命された。秋笹も中央部員として「赤旗」編集局で働いていたが中央委員会候補者に任命されていた。これが後に主役として登場することになる面々の人間関係の党的位置であった。ちなみに、袴田が小畑を知るようになつたのは、こうして袴田が党中央部に来てからのこの頃のことであったということである。

その3.当時の党中央の党内対立と事件の相関関係について(1999.11.2日)

 この投稿からいわゆる「党中央委員大泉・小畑両名被リンチ査問事件」(以下「査問事件」と単に記す)の考究に入るが、その前にこの事件が提示している争点について明らかにしておこうと思う。通常小畑の死因論争と戦後になっての法的免責処理の了解の仕方に比重が置かれているようであるが、私はこれは本筋ではないと思う。むしろ、この事件をそうした二点に集中させていく手法にこそまやかしがあるとさえ思っている。判りやすく言えば焦点がぼかされ続けているように思うということだ。正確にはそれらは事件全体の一つの因子であって、この事件にはもっと考察されねばならない重要事項がある。この事件に関係した主要争点は以下のように考えられる。

  1. 当時の党中央の党内対立と事件の相関関係
  2. とりわけ小畑のスパイ性の根拠とその評価問題
  3. 小畑の死亡原因の推定
  4. 宮本の獄中闘争の実際の様子
  5. 事件の法的免責考
  6. 事件の党史的総括の必要性等々

 以下、アプローチするが、袴田及び大泉の予審調書を頻繁に採用することになるのでここで予審調書の調書的意味を確認しておくことにする。「『予審』とは、旧憲法下の制度で刑事被告人を公判に付すべきか免訴にすべきかを決定する為並びに証拠保全のために公判では取り調べにくいと考えられる事項の取り調べを目的として予め審理した裁判所の手続きのことをいい、現憲法施行後は廃止された。その予審廷において予審判事の訊問に答えた被告人の陳述を、書記が筆記したものを『予審調書』と云う」(竹村一「リンチ事件とスパイ問題」16P)ということである。

 取りあえず事件の経過からおさえるために、「1.当時の党中央の党内対立と事件の相関関係」から見ていくことにする。従来の「査問事件」論究は、この事件に対して、当時の党中央の党内対立の結果として引き起こされたのではないのかという観点からのアプローチを意識的に避けようとしているように思われる。当時の警察とマスコミは、この事件を「党内労働者派とインテリ派との内部抗争」と発表した。袴田は、そういう見方を躍起になって否定し、大泉・小畑のスパイ性を強調し、第7回訊問調書と第10回訊問調書で概要「この査問問題を惹起した原因は、要するに党内にスパイが相当多数潜入した事実が判りましたので、これを党の清掃問題として捉え、この観点から具体的事実に基づいて彼らを査問し、彼らスパイを党外に放逐し以て党を文字通りプロレタリア階級の前衛党たらしめ真のボリシビキー党としての日本共産党を建設せんとする各々の確信及び熱意の発露に依る同志愛の自己犠牲的信念に基づく党の革命的ボリシビキー的事業として決行せられたものであり、その限りに於いて必要な査問であった」という方向に論をリードしようとしている。平野説を始め多くの論者はこの袴田説を受け入れて、「党内労働者派とインテリ派との内部抗争」的見方を俗説とみなして却下している。興味深いことは、予審判事長尾操の方が余程的確に捉えており、「第10回訊問調書」で袴田に対し、「一体小畑・大泉その他に対する当時の査問問題は、党中央部の権力奪取の為の個人的な勢力争いないしはインテリ対労働者出身の勢力争いに基因して起こったのではないか」と質問しているが、この指摘の方がよほど的を射ているように思われる。

 私の見方はこうだ。インテリ対労働者出身の勢力争いという視点は当たらずとも遠からずであったのではないか。小畑は「全協」、大泉は一応「全農」という労農運動の出身であり、宮本は文芸評論家からいきなり党のアジプロ部員になったという経歴と大衆運動特に労働運動については全くの未経験者であり、逸見は産業労働調査所の出身で野呂委員長の秘書的な協力者であったということを考慮すれば、「党内労働者派とインテリ派との内部抗争」という見方には一定の根拠があるようにみえる。ただし、この説による場合袴田は労働者派ではあるがインテリ派に与していたとということと、野呂はインテリ派であるのに労働者派の方を信用していたという変なことになる。ちなみに、「全協」「全農」「共青」は当時の党の最有力大衆団体であった。

 本音の私の見方はこうだ。この事件は、党内労働者派とインテリ派との抗争とかいう理論的な背景を持った対立ではなく、敢えて言えば、この事件の本質は、野呂委員長逮捕前後における党内指導権をめぐって小畑グループと宮本グループとが私闘的に対立していたのであり、この対立が顕在化していった結果としてこの流れで「査問事件」へとつながっていったのではないのかと思っている。いわば「査問事件」とは、消極的には大泉−小畑派の党内勢力を削ぐ事、積極的には宮本派による奪権闘争にあったとみるのが本筋ではないのか、と思っている。つまり私闘的な党内対立に起因していたという視点こそが必要と思っている。この視点はいずれ関係者の供述で補強しようと思う。警察のリードは、この真実を隠そうとして党内労働者派とインテリ派の対立という漠然とした抽象性の方向へ引っ張ったとみる。そしてみんな騙された。当然の事ながら 袴田は査問側の正義を主張すべく、第一回訊問調書で「控訴事実に依るとリンチが党中央部の内訌に拠ってああした事件が発生した様に為っておりますが、それは全く誤りで、私らは大泉、小畑両名がスパイであると認め、その嫌疑からしてお読み聞けの様な査問行為に出たのです」とか、「この査問問題がリンチ事件として新聞紙上に発表された際にも、ブル新は党内のインテリ対労働者出身の勢力争いとか個々の首脳部を形成せる党員の勢力争いに起因して起こった如く歪曲されて宣伝せられたのでありますが、決してそれは問題の核心に触れたものではありませぬ」(袴田第10回予審調書)とひたすら否定している。私は当人が否定するほどに怪しいと思っている。事実、「(小畑は)常に自分が労働者出身であることを吹聴して、インテリ出身者を軽蔑し又他の方面から軽蔑させる様な言動がありました」(袴田第7回予審調書)とあり、「もっとも査問者と被査問者との間に個人的に多少の反目嫉視と云う様な感情があったとしても、それは単に個人対個人の問題で決してこの事件の主要な原因とし重きを為すことではありませぬ」(袴田第10回予審調書)とも述べている。本人の弁に反してこの供述から伺えることは、少なくとも小畑と宮本の党内対立が存在していたという例証にはなるであろう。この本筋がぼかされているというのが、私の指摘の第一点としたい。

 ここで注意しておきたいことがある。一触即発的な党内空気が充満しつつあったとしても、小畑グループからの宮本グループに対する査問は起こり得なかったであろうということである。私に言わせれば、それは当事者の気質の違いのようなものである。小畑は、宮本を忌避していた。党内で公然とそれを語ってもいた。しかし、小畑は、宮本をスパイという名目で査問しようとは発想できない質の人物であった。小畑自身は非常に非権力的なナンバー2志向の性格の持ち主であったようで、「彼は自分の意見が容れられない場合には、直ちに『それじゃ俺は止める』と云う様な事を軽々しく言って、時々他の同志を威嚇し自分の意見を主張する様な反党的な態度がありました」(袴田第7回予審調書)。「(そういう『俺は止める』と云うことを軽々しく放言することは)規約にもある通り部署を自分で止めると云うことは闘争の放棄であり、党活動に無責任である事に帰着するのであります」(袴田第2回公判調書)と言われているほどに非ナンバー1志向であった。ところが、宮本は違った。党内反目派小畑をスパイと疑い、これを査問にかけようと画策しそして実行した。そういうことが出来る質の人物であるのが宮本だという風に私は考えている。

 戦後宮本が、赤色リンチ事件の真相を語った時、概要「党は、白色テロル調査委員会を設定し」、「調査委員会の構成は、逸見重雄が責任者であり、同志袴田里見、秋笹正之輔などがその委員であった。(その調査委員会の報告に基づいて、党中央委員会は)小畑・大泉両名を査問委員会に附する決定をした。すなわち、両名をのぞく、党中央委員並びに候補者を加えた党拡大中央委員会を開催し、そこで正式に決定したのである」云々と書き記しているが、平野謙でなくても、「なんというものものしい形式ばった書き方だろう」とあきれてしまう。実際は、党中央委員会とか党拡大中央委員会とか区別してみても、査問事件中警備員としての役目を担った宮本のイエスマン木島隆明が入るかどうかの違いに過ぎない。私が辟易させられる形式論的思考の典型がここに見られる。この当時、そんな大層な中央委員会や調査委員会や拡大中央委員会が厳然とあった訳では無かろう。4人しかいない中央委員の2名を欠いた徒党的グループ内のしかも査問現場に居合わせた者だけの打ち合わせに対してこうまで形式張った捉え方で人を煙に巻こうとする宮本氏の思考回路に首を傾げざるを得ない(袴田にもこういう物言いがちょくちょく見受けられる)。しかも、この記述には大嘘が書かれている。あたかも逸見重雄が責任者であったという文句を挿入することにより宮本氏の影を薄く表現しているが、実際はどうであったのか。私は次稿に述べるような再現ドラマの通りであったように思っている。

 各調書を読んでみて興味深いことは、双方が相手方をスパイ呼ばわりしていることである。大泉は、次のように云っている。「然るに宮本一派は私の勢力を党中央部より駆逐する為、大泉一派はスパイであると云う口実を設け、私や小畑を始め私一派に対し残酷なリンチを行って殺害せんとしたのであります」。つまり、大泉は正真正銘のスパイであった訳だから、この言いまわしは大泉自身は同じ穴のむじなの勢力争いであったかに捉えているようにも見える。ここで付言しておけば、大泉は査問中もその後も自らスパイであることを明らかにしているが、単なるスパイではなく「特命を帯びていた」と自認している。「(予審判事が『どんな特命を帯びていたか』と問うたのに対して、私はここでその内容を申し上げる事が出来ませんが、『単なる党員を検挙する様な任務ではなく、もっと大きな任務を負わされておりました』」(大泉第17回予審調書)と述べていることが注目される。私の推測であるが、丁度風間時代の「スパイM」的な任務が期待されていたのでは無かろうか。話を戻して、秋笹は秋笹で、逮捕後の予審調書で次のように云っている。概要「いわゆるリンチ事件なるものは、袴田が警察のスパイとして同じスパイである小畑・大泉を殺害して党に致命的な打撃を与え様として目論んだ一つの芝居であって、それに私(秋笹)・逸見・宮本その他数名の者が踊らせられたに過ぎないのであって、党及び彼らには全然責任の無いものであると云う趣旨に帰着すると考えます」。つまり、事件後における秋笹は、宮本を除いてはいるが袴田と木島をスパイとして誹謗していたということになる。この時の秋笹の思いは、この時点で宮本は早々に検挙されているのだからスパイである筈が無いという判断に拠ったと思われる。

 では、具体的にどういう党内対立があったのか見ておくことにする。この間党中央は全く意志疎通を欠いていた風がうかがえる。いち早く表れるのは大泉の権限によって宮本.袴田の中央委員昇格阻止の動きである。昭和8年1月頃野呂が提議してきた宮本・秋笹の中央委員昇格提案を拒絶したことを明らかにしている(大泉第18回尋問調書)。次に、袴田の場合にも同様の行動を取ったことを明らかにしている。概要「袴田が党に入ってきたのは昭和8年2月頃で、彼は出獄後間もなくロシア・クートベ関係で山本正美の先輩になるところからその推薦に依って野呂の所にやって来て、野呂の推薦で中央委員になろうとしました。野呂が袴田を私の所へ連れてきて中央委員に推薦したいから是非賛成してくれと申しました。私は、政治的に山本正美の勢力が党中央部に伸びることを警戒し、党歴が浅いこととか次に述べる様な理由を付けて反対した。かって袴田が過去に全協の者に対し『俺はやがて党中央委員になるのだ。そしたら全協を指導するのだ』と云った為全協の連中に憤慨され、私の所へ袴田を中央部で中央委員にしてはならないと申し込んで来ているという事情があり、私はむしろ党東京市委員にしたらよいと云ってやりました。野呂は最後に私の意見に賛成し、袴田は変な顔をしていましたがこの時以来私に対して含むところがありました」(大泉「第15回訊問調書」)。大泉は更に追い打ちをかけている。概要「こうして東京市委員会に回されることになった袴田は、本来なら丁度責任者の席が空いていたのでその席に納まるところ、私が三船を責任者に推薦し権限で承認した。袴田は憤慨し、特別に面会を求め、『党は一国の共産党である。権威有るべき人事が大泉一人の判断で左右されると云うことは遺憾である』と抗議し、いやそうではないと理屈を付けて説明するも興奮していました。こんなことが原因で袴田の私に対する反感がますます濃厚になり云々」(大泉「第15回訊問調書」)。


その3.当時の党中央の党内対立と事件の相関関係について(つづき)(1999.11.2日)

 大泉対宮本−袴田の直前の対立は次のように明かされている。その一例を挙げる。昭和8年5月頃三船留吉の査問問題が発生した。やや詳しくこれを見ると、大泉曰く概要「この頃党中央委員会は、三船をスパイと決定しこれを査問して殺害しようという事になりました。私は三船を警視庁のスパイであると睨んでいたが、自分も追って将来に於いて警視庁の下に働きたいと思っていたので何とかして三船を助けようと考えました。しかしながら党決定である以上方針にしたがわねばならず困りました。宮本は右決定の日中央委員に昇格しました。具合の悪いことに私と宮本が三船の処分一切を一任されました。いよいよ実行の段になると宮本は急に逃げ腰となり抜けてしまった。卑怯な奴だと思ったがこれ幸いとして3名で三船を査問にかけた。三船は否認し続けたので注意を与えて放免した。そのいきさつの報告を受けた宮本は私をなじり、中央委員会決議の無視だと食ってかかった。結局のあげく袴田が登場してくることになり、三船の処分を党東京市委員会に任してくれということになった。ピストルの受け渡しを約束させられたが口実を設けて引き延ばしているうちに三船は逃亡した。この時取った私の態度が問題にされ、私が留守の時の後日の党中央委員会会議の席上宮本の提議によって譴責処分に付されそうになった。この時小畑が大泉が居ないという事を理由としてその決定を次回に延期させた。次回の中央委員会会議で私は、『もし自分が譴責を受けるとすれば、最初の査問の日逃げた宮本も同様査問されるべきである』と抗弁し、結局うやむやにしてしまった」(大泉「第14回訊問調書」)という陳述が為されている。

 昭和8年10月初旬頃、党の組織編成替えをめぐって大泉−小畑ラインと宮本−袴田ラインが対立したようである。次のように陳述されている。「党中央組織部に於いて決定されたところの細胞を基礎とする党の再建設と云う事は党のボルシエビキー化の為の最も重要なる意味を持った決定でした。この決定は、党中央部の組織部責任者であった小畑及び荻野等の意識的サボタージュにも拘わらず、その意義は党の発展を図る為に真剣な努力をしていた同志等の間に理解され、着々としてそれが実際の党の再建の為に実行されていたのであります」、「大泉・小畑及び荻野ら党の重要なる地位におる者がこれを妨害しあるいはサボるので、これが我々の思う様に全面的に全党が一団となって実現すると云う様にはなっていませんでした」(袴田「第19回訊問調書」)。どうやら、この対立が背景にあったところへ野呂委員長の検挙が連なり、黙過されがたい情況、一触即発の事態に党内対立が突入していったのではないかと思われる。ちなみに、この党の組織替えの動きに対して、検挙後の秋笹は、予審調書で概要「党の細胞を基礎とする再建設並びに党の重要機関からスパイを排除する為の活動及び以降の党員の再審査が袴田の挑発的な意図によって提議され、秋笹並びに逸見がその意図を看破することが出来ず引きずり回されたものである」と述べている。次のような対立があったことも供述されている。10月頃小畑は独断で通称「党員馬」を上海に密航させたている。この件について、「かようなことは小畑如き者の独断で為し得べきものではありませぬ」(袴田「第2回公判調書」)。この時、小畑が「党員馬」を上海に送った理由は不明であるが、党内の危機的状況をコミンテルンの指示により打開しようとしていたか、小畑執行部を夢想してその信任の取り付けに送ったのかも知れない。なお、大泉第15回調書によると、「国際的な連絡関係を急速に確立し、私の系統からその連絡の為上海に派遣すれば私の勢力が党内に絶対的地位を占めることになるので色々考えた末」、「小畑を利用し」て「党員馬」を派遣したと明かしている。

 以上のようないわば政策的対立にとどまらず、人事あるいはこまごまとした案件処理についての対立があったことが次のように明らかにされている。大泉の第14回訊問調書と第15回訊問調書で、概要「私は宮本の策動を警戒し、一方私の信頼し得る小畑達夫・平賀貞夫を中央委員に引き上げ、中央委員会に於ける私の立場を安全にしようと努力しました」、「(宮本は)個人的連絡を頼り東京市委員会と通じ、私の排撃を策して居た事は小畑達夫を通じ私の耳に入って居ました」、「当時中央委員に任命するには中央委員全部の賛成を必要としたのですが、私が反対すれば必ず小畑が私と同様反対し次いで野呂が反対するに決まって居り、到底ものになりませんでした」、「然しそうなると袴田、秋笹、木島が委員となり宮本系が非常に優勢となるので、私と小畑は之に極力反対し一方私共の陣営を強化する目的を以て小高保・吉成一郎を中央委員に推薦すべく苦心して居ました」、「財政部長の小畑が私の系統であって袴田等に金を遣らなかったと云う事も袴田等が小畑及び私を憎む原因となりました」。なお、この小畑と袴田の金の工面をめぐっての対立の様子は次のような袴田自身の供述によっても裏付けられている。概要「(小畑の態度はボス的であり、同志に冷淡であり、同志に活動資金を与えることはなるべく避けており、私が金が入り用で請求したにも拘わらず)小畑は私に金を渡そうとせず、どうしても渡さねばならぬ時も直ぐには呉れずちょっと待ってくれ今都合してくるからと云って(嫌みをすることがあった)云々」(袴田第一回公判調書)。つまり、袴田は小畑に対して金の恨みを内向させていたことを供述していることになる。

 人事面での党内対立は次のようなものであったようである。大泉と小畑が反宮本連合を形成しており、このラインを支えるグループとして全協中央委員会責任者小高保及び東京市支部協議会責任者古関及び吉成一郎らが居り、大泉−小畑連合はこれらの者を中央委員候補者として推薦しようとしていた。小高保は大泉・小畑の手足となっていた。注意すべきは、大泉−小畑ラインは必ずしも一枚岩ではなく、反宮本連合という点で共同歩調を取っていたという程度であったようである。他方、宮本は、東京市委員会内に強力な一枚岩的統制的な宮本−袴田−木島ラインを形成しつつあった。概要「宮本は、この強力な支持基盤を背景に9月頃袴田・秋笹を党中央委員候補に送り込み、宮本を中心とした勢力関係が党中央部を拡大せんとしておりました」(大泉第15回訊問調書)。してみれば、秋笹は直系ではないが宮本ライン寄りであったことになる。宮本グループのこうした党中央進出に対抗してどうやら大泉−小畑グループもまた系列下の全協責任者小高と全農責任者平賀を抱き合わせで党中央委員候補に送り込んでいたようである。党内バランスを配慮しようとして苦慮している党中央を見て取れるが、こうした動きはどうみても深刻な党内対立を物語っているように思われる。こうして中央委員会内部が疑心暗鬼の状態に陥り、この当時中央委員会は統一的機能を失いつつ、各自の中央委員がそれぞれ各自の党活動を経営するという変則事態に陥っていたようである。野呂委員長の立場は、大泉をスパイと認めず唯一の擁護者であったようである。「野呂は私や小畑を支持してくれていました」、「野呂委員長は私たち一派を支持してくれていたので、私は宮本一派は大したものではないと思っていました」(大泉「第15回訊問調書」)とある。この間逸見は中間派で超然としていたようである。概要「彼は、野呂の助手として中央部の資料部に働き、野呂が肺病であったから野呂に代わって連絡に出ておりました。逸見は野呂を崇拝し野呂の意見に従っており、自分独自の見解を持たない男でしたが非常に善良なところがありました」(大泉「第15回訊問調書」)、「然し私は逸見を前述の如く彼らの中では最も信用していた」(大泉「第16回訊問調書」)とある。 つまり、逸見は野呂の補佐用に引き上げられた学者タイプであって党内抗争には不向きな人柄であったということである。

 以上のまとめとして、「リンチの直接の原因如何」と問うた予審判事に対して、大泉が「それは要するに宮本一派の不平分子の策動に他ならないと思います」、「宮本一派は私の勢力を党中央部より駆逐する為、大泉一派はスパイであると云う口実を設け私や小畑を始め私一派に対し、残酷なリンチを行って殺害せんとしたのであります」(大泉第15回訊問調書)と言っており、「個人的な勢力争いが直接の原因」とみなすことには充分な根拠があると思われる。では、なぜそのような個人的勢力関係が党運動に影響を持ってくるのであろうかについてコメントしてみたい。これは単純な事実に左右されているように思われる。つまり、党の最高機密を掌握できるという組織部と金の工面で自己の支配力が貫徹し易くなるという財政部の二部署に利権が発生しているということである。これは古今東西より組織の鉄則であって党運動に限りこの方程式と無縁というわけにはいかない。事実、野呂執行部体制下にあっては、組織部を大泉が握り財務部を小畑が握っていた。「小畑が私の系統であって袴田等に金をやらなかつたと云うことも袴田等が小畑及び私を憎む原因ともなりました」(大泉「第15回訊問調書」)ということがありうるわけである。ところで、この当時の財政状態は次のように語られている。概要「熱海事件後党は貧乏になり昭和8年となっては漸次窮乏し、6・7月頃の党の収入は一ヶ月僅か7、8百円しか(無くいよいよ底をつく状況に至りました)。宮本は、昭和8年頃確かな金の出所を持っておりました。土方男爵から仙田某の手を通し2、3千円貰っております。又文化団体演劇同盟の方からも財政的支持があり一つの財政的グループを作っていたので同年8月頃宮本の行動は分派的であると云って一時問題になりかけた事がありました」(大泉「第15回訊問調書」)。

 以上のような党内対立を見せていたものの「昭和8年11月頃までは私は野呂と小畑の3人で中央書記局を作り、かなり専制的に党内の事を切り回していました」(大泉「第15回訊問調書」)とあるように全体として大泉−小畑派の優勢に党内が秩序化されていたようである。ところが、このような党内事情を背景にしつつこうした折りの11.19日頃に野呂委員長が逮捕された。こうして、今また中央委員長が逮捕されるという非常事態が発生した。野呂委員長の逮捕は、今日スパイと判明している大泉の手引きであったとされているが、大泉は強くこれを否定している。今日でも真相は不明である。この時、秋笹は、野呂を売ったのは小畑ではないかという疑問を袴田にしたとのことである(袴田第7回予審調書)。こうして大泉・小畑・逸見・宮本の執行委員が後に残された。従来の党史の鉄則からいえば、この間党委員長が田中清玄、風間丈吉、山本正美、野呂栄太郎とめまぐるしく替わってきたように、早急に後がまの委員長を選出して新事態に対応すべきであったが不思議なことにそうした動きが残されていない。思うに、大泉・小畑は委員長の重責を担う能力が不足していることを自他共に認めていた。さりとて大泉・小畑は宮本を委員長に据えることに連合して反対した。逸見ははなから問題にならなかったという事情で暗礁に乗り上げていたのではなかったか。この頃、「野呂が検挙される前頃から病気で引退したところ中央委員の宮本が中央書記局を解散する事を主張し、遂に中央委員会即ち中央常任委員会とする事になり、書記局は解散しました。そして、その後しばしば会合を持たねばならなかったが、アジトと金がないので延期になって居ました」大泉第16回予審調書)ということである。つまり、綿々と培われてきていた後継委員長を選出する鉄則に背くどころか会議そのものが開けなくなっていたと云うことである。

 それもその筈であった。驚くことに、党中央委員候補者として任命された袴田の参加した最初の党中央委員会が11月に入ってから開かれた小畑・大泉の査問をめぐっての謀議であったというのである。これを事実とすれば、この時点で党中央は既に機能麻痺していたということになる。こうした会合は以降中央委員宮本・逸見、同候補者の秋笹と袴田の4名で数回会合が持たれていくことになった。これが党中央委員会の会議であったと弁明されているが、その内容たるや後述するように党中央委員の半数を占める大泉・小畑両名を査問にかけようとする変な会議であった。袴田はこれを党中央委員会の会議と言いなしているが、こんなものが党中央委員会の会議などともったいぶって言えるのだろうか疑問としたい。袴田の心理は、「野呂の検挙は党内に大きな衝撃を与え、当時の中央委員会をしていよいよ党清掃に着手しなければならないと決意せしめたのであります」(袴田第7回訊問調書)ということであったようである。このような経過の中から野呂委員長逮捕一ヶ月後に「査問事件」へと発展していくことになる。 


その3.「査問事件」発生当時の「党内スパイ対策」について(1999.11.4日)

 「査問事件」のドラマ化に入る前に、「査問事件」の背景にあったもう一つの動きとしての「党内スパイ対策」を検討しておく必要がある。この頃「特高」側の一層の暴力的エスカレートに対応させて党の方からもスパイ対策が積極的に講じられていくことになった。宮本氏は、後述する松原スパイ問題に関連させて33年(昭和8年)6.1日の赤旗における「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」の中で、概要「(スパイを見つけたら)ためらうことなく党中央委員会書記局あての密封上申書を信頼できる線を通じて提出すべきである」と警告している。この論文のおかしなところは、不幸にもこの時既に党中央にスパイが潜入しているとしたら、密封上申書がどういう意味を持つかということにある。「査問事件」の理由づけとしてなされた宮本氏らの言い分に従えば、この時点で既に党内の最高機関に二人もスパイが潜入していることになるのだからへんてこなことになる。それはともかく、この頃党内はスパイ対策をめぐって「食うか食われるかの切迫した鍔ぜりあいの状態」に入っていた。この事情は、広津和郎の「風雨強かるべし」(昭和9年7月.改造社刊行)で、「……左翼の運動がだんだん神経質になり、興奮性を帯び、何か落ち着いた、板に付いた感じがなくなって来ているのが感ぜられる。恐らく烈しい弾圧のためだろうが、同志が互いに猜疑の目で見合って、落ち着いた気持ちがなくなって行っているのが感ぜられる」と書いているような状況が生じていたようである。また、「この一年を通じて党がかかる状態に置かれたという事は、党を愛しその発展をねがう幾多の党員をして全党の清掃とボリセビキー化の必要を痛感せしめ、それらの同志の組織革新に関する上申書は幾通と無く中央部に提出されたのであります」(袴田第7回訊問調書)とも明らかにされている。ちなみに、大泉非難の上申書が何回となく提出されていたようである。

 袴田は、この問題に関して「党の清掃問題は、党のボルシェビキー化の問題と共に指導的同志の間には古くから考えられておった事で、その根源は遠く、ただ野呂の検挙を契機として表面化したに過ぎないのであります」(袴田第19回訊問調書)と陳述している。この時点で既に、ここで論究しようとしている12.23日発生の「査問事件」前年あたりから翌34年(昭和9年)の凡そ二年間にかけて、スパイ対策と称する「査問」が共産党の裏方の中心的な活動方針となっていたというのが事実であるようである。このような状況が前提として確認されなければ本稿で扱おうとしている「査問事件」の構図が見えてこない。

 これを一連の経過で見れば、早くも32年(昭和6年)5月頃有能な全協中央委員であった松原リンチ事件が発生している。33年(昭和7年)8.14日に有能な朝鮮人活動家伊*基協射殺事件が発生している。これは5月上旬処分を決定し、村上多喜雄が右処分を担当した。この頃三船査問未遂事件も発生している。同9.14日有能な沖縄出身の活動家であった平安名常孝殺人未遂事件、同12.21日有能な党印刷局局員であった大串雅美査問事件、12.23日「査問事件」、翌年の34年(昭和9年)1.12〜2.17日大沢武男査問事件、同1.17〜2.17日波多然査問事件などがその主なものである。34年頃になると昨日リンチした者が今日リンチされるというような一種の「輪番リンチ」が惹起しつつあったようである。西沢隆二がその例で、加害者であり被害者となったようである。疑心暗鬼に包まれた党内の状況がしからしめたところということになる。この経過で不審なことは、全協の戦闘的活動家または党内の戦闘的有能党員が意識的に狙われている風があることである。

 松原事件の場合、立花氏の「日本共産党の研究」ではじめて明らかにされているようであるが、松原氏は全協内の戦闘的活動家ではあったが非党員ということである。他にこの件に関しての論究を知らないので立花氏の受け売りにならざるをえないが少しみておくことにする。「赤旗」でのスパイの除名広告はいくつも見られるが、これほと大きなものは類例が無いほどの実に4ページにわたる長大な「プロヴァカートル(超スパイ)松原を除名す」(32年6.1日付け)が広告された。先に挙げた「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」と同一文なのかどうか良く分からないが、除名広告は全部で十章からなり、これを読めばなるほどこの男はスパイだったのだなと思わせられるほど手が込んでいるらしい。この事件がなぜ重要な政治的意味を帯びているかというと、「この松原問題で注目すべきなのは、除名広告が出る前に、松原がリンチされ殺されようとしていたことである」(同書271P)、「いわば、この松原事件が、その後のスパイリンチ事件の原点になるわけである」(同書273P)ということの他に、この松原事件について後日宮本が自らの公判陳述の中で触れて、「その後スパイの歴史の中で有名なのは、いわゆる全協に忍び込んだスパイ松原……この男はスパイとしてかなり手腕家であって、単に一つの階級的組織に打撃を与えるに止まらず、大衆団体と共産党との対立を政策的に惹起せしめようとする方針を目論んだのであります」と述べていることにある。驚くことに、こうした歴史的重要な役割を持つ事件の当事者松原氏は党員でもなくましてやスパイでも何でもなかったということが明らかにされている。詳細は同書に譲るが、これは大変なことではなかろうか。今日『さざ波通信』で熱烈党支持を投稿する党員の方は、少なくともこの問題に対して党中央に見解を仰ぐ必要があるように思われる。立花氏は延々4ヶ月にわたる取材で当人と関係者との取材をし、当事者の討論まで行わせ語り合わせた結果、松原氏の冤罪に双方が合意したとある。「まあ、私は45年間、本当に苦しんだですよ。実際、夫婦で自殺することさえ考えたこともあるくらい(松原夫人も全協の活動家だつた)命を懸けて苦しんだですよ」(同書275P)。私には、こんな重大なことがほおかぶりさせられていることが到底理解できない。私は、立花氏とは政治的立場を大いに異にする者であるが、氏に対して浴びせられている「犬が吠えても歴史は進む」などという党の露骨な居直り論理を畏怖せざるを得ない。実際、「犬が吠える」とかの発想はどういう意識からネーミングされるのだろう。卑しさしか感ぜられないのは私だけなのでしょうか。それと、長大文章で松原氏の除名広告をなした執筆者の責任はどうなるのだろう。この当時「プロヴァカートル」的表現で査問をけしかけていた者が誰か想像に難くないが軽断は差し控えることにする。

 なお、34年度の査問はほとんど袴田−木島ラインによって党議決定で行われているのに対し、前年の32.33年の査問事件については党議決定されたものかどうか誰が指令したのかさえ雲を掴むようなことになっている。事実、村上氏は革命的精神をそそのかされ伊*基協を射殺したものの、後に伊*氏の潔白を知ることにより獄中でこの点に拘りつつ悶死している。伊*基協射殺を指示したと言われる首脳部とは誰なのか、平安名常孝殺人未遂事件も含めて党議決定されていたものなのか、その際の提議者は誰なのか今日に至るもこの過程が明らかにされていない。これらの査問のなお犯罪的なことは、査問されたこれらのいずれもと査問に向けられた者らが次代の党を担える資質を見せていた有能な活動家であったことに共通項がある。いわば双葉の芽のうちに将来を消されたのであって、こういう観点からも責任が問われねばならない重大案件であると思われる。

 更に注意すべきは、12.21日大串雅美査問事件であろう。私の知る限りこの件についてもまともに考察されていないが、本件もまた極めて重要なメッセージを発信している。日にちから見ても判るように、本稿で取り扱う「党中央委員大泉・小畑両名被リンチ査問事件」の直前に行われており、いわば予行演習の観があったのではなかろうかと推測される点で見逃せない事件であると思われる。大串雅美は、当時党中央印刷局で同局員であった。ここに袴田の貴重な陳述が残されている。「大串雅美に対し査問を実行したことをたぶん宮本から聞知したと記憶しておりますが、これは宮本と同局責任者の西沢隆二との協議の結果行われた事で、中央委員会としては何ら関知しないことであり又承認した事もありません」(袴田第15回訊問調書)。この陳述は更に次のように修正されている。概要「(大串雅美査問に当たり)この時宮本が果たして西沢と協議していたのかというと、この点については党内でそう云う取りざたがあるのでその頃聞いただけの事で、実際に両名の協議の結果行われたものや否や直接関係がなかつたので私には判りません」(袴田第19回訊問調書)。つまり、この補足に拠れば、理解の仕方によっては大串雅美査問事件は宮本単独主導によって為された可能性が濃いことになる。こうなると、ためにする批判ではなく「査問事件」の発生が宮本氏の指導によって推進されていたのではないかとさえ思えてくる。もう一つ見方を進めて、一連の「査問事件」は、宮本氏の党中央委員進出以降の出来事であることを強調することはさすがにいきすぎであろうか。宮本氏が中央委員に登場して以来「査問事件」が党内に発生してきており、本稿の「査問事件」に先立ついくつかの査問に宮本氏の影が見えているのというのは事実のようである(ようであるという意味は資料が乏しいということである)。少し補足を要するが、大串雅美査問につき、袴田の第3回公判調書では、「西沢が自分に嫌疑がかかっている事を知り、自分はスパイでは無いのだと言う事を証明する為、大串の査問をやったのだと大串の査問に立ち会ったものからの報告書が参ったのです」と陳述している。これによると大串の査問は西沢単独主導ということになる。更に「西沢をこの事件に併合審理される事は、私を始め宮本は勿論希望しておらぬのです」(袴田第3回公判調書)という陳述がなされている。袴田が公判でこのように論調を替えたのはなぜなのかは判らない。余程拘る理由があるように思われる。

 「党中央委員リンチ査問事件」後のことになるが、翌年早々大沢・波多査問事件が発生しており、これらの場合いずれも激しい暴力が行使されている。これら二つの査問は、「査問を中央委員会に於いて承認し、木島をして指導統制に当たらしめ実行せしめたのであります」(袴田第15回訊問調書)とあるように、袴田の承認の下で木島が責任者となり実行された。ちなみに波多然は、手記「リンチ共産党事件について」(経済往来昭和51年5月号)でリンチの様子を次のように明らかにしている。「査問は、実際は、嫌疑ではなく、スパイであることの自白の強要であり、数日間ではなく、数ヶ月間であり、……残忍なテロによる強迫であった云々」。本稿の「査問事件」はこういう党史的背景において捉えられねばならないのではなかろうか。「政治というものが避けようもなくその底に秘めている暴力性に目を閉ざして、うわべのきれいごとで身を装うことの欺瞞性を強く指摘したい」(栗原幸夫「戦前日本共産党の一帰結」)という栗原氏の言葉には説得性があることになる。

 以上を踏まえて、私流ドラマを誌上再現する事にする。但し、非常に長くなるので以下小畑関係を中心に見ていくことにする。 なお 私の手元にあるのは先に挙げた著書の範囲の予審調書及び法廷陳述でしかない。このうち袴田と大泉の予審調書はほぼ出そろっているが他の三人のそれは一部しか漏洩されていないようなので正確は期しがたい。立花氏の「日本共産党の研究」は新資料を駆使しているので参照させていただくことにした。というわけでこれらをどう見るのかについて思案を凝らした。各自はそれぞれ事前に拷問を受けている筈であり(どうやら袴田は受けていないらしい。よくしゃべり協力的であったということであろうか)、警察または予審判事の誘導も大いに考えられるので、採用に当たってはまず作り事とは思えない陳述であるかどうかを重視した。

 次に、各自の陳述とか回想録に微妙な差が見られているところから、逸見・宮本・袴田・秋笹・木島の弁明のうち誰が的確に事態を表現しているのかという観点からの見定めを重視した。その結果私は、党史の流れの中で派閥を形成せず、野呂委員長の補佐役に甘んじようとしていただけの人であり、このたびの査問にも当初反対していた逸見のそれに最も信をおくことにした。逸見は両派のどちらにも与する必要が無く自己の保身以外に嘘を言う必要が見あたらない立場にいたと思えるからである。ところがこれが厄介であった。逸見は余りに凄惨なリンチの様子を陳述しているからである。他の者のそれには見られないほどの露骨さで宮本氏の関与を語っており、この辺りは当事者全員の陳述との整合性を重視すべく神経を使った。ただし、党除名後の袴田が語った事件の真相手記も無視するわけにはいかなかった。事件の流れについては袴田のそれをベースにした。彼がこの事件の仕掛け屋として当初から関わっており最も多弁に語っているからである。部分的な箇所の解明には秋笹のそれをも参考にした。木島のそれはほとんど採用しなかった。彼は宮本−袴田のリモコンでしかなく一部始終の経過についてもさほどタッチしていないからである。ただし、私の勉強不足とも思うが木島の予審調書の詳細は「日本共産党の研究」でしか知らず、立花氏はその著書の中で木島が宮本から受けた数々の指令部分ないしやり取りを明らかにしており、他にないものなので比較出来ぬまま採用した。宮本のそれはあまりにも当事者の供述とかけ離れておりベースとしては採用せず、他の陳述との比較という方法で採用した。この点については別途宮本氏の観点から見ていくことが必要であるとは思っているが。


その3.「査問事件」の総括の現代的意義について(1999.11.5日)

 ともあれ、このような状況下の33年の暮れに「査問事件」が発生し、その三日後12.26日に宮本氏は検挙逮捕されている。宮本氏は、以来敗戦まで12年間を獄中に送ることとなった。敗戦の前年に氏の公判が開かれるているが、検挙以来黙秘を貫き、白紙の調書に象徴される完全非転向を貫いた、とされている。この間の様子は、中条百合子との「12年の手紙」往復書簡集他で知らされている。以下、このような経歴を見せる宮本氏が直接関与することになった「査問事件」について言及してみたい。

 「査問事件」とは、33年(昭和8年)12.23日当時の日本共産党中央委員会内部に発生した「大泉・小畑両中央委員被リンチ査問事件」のことを言う。あらましはこうであった。当時中央委員候補であった袴田が発案したとされており、同じく中央委員候補であった秋笹も同調し、これを中央委員であった宮本がすぐさま支持し、逡巡したもう一人の中央委員逸見を何とか巻き込んで、宮本−袴田ラインであった木島他を警備役として取り込み、他にそれぞれのハウスキーパーを見張り役として利用した。これが総数であり、宮本がリーダーとして指揮することになった。こうして大泉・小畑両中央委員がアジトに呼び出され、この二人をスパイ容疑者として査問するという事件が発生した。この経過で査問二日目の午後小畑が死亡するという突発的な不祥事が起った。査問は頓挫し、責任転嫁と事後処理の打ち合わせが行われた。唖然とすべきは、小畑の死体が放置されたその場であったか階下であったかは別にして、その直後宮本と逸見の協議により袴田と秋笹が中央委員に、木島が中央委員候補に任命されると云う論功行賞を受けている。これが戦後になって吹聴され続けている「戦前最後の党中央委員宮本−袴田」コンビの誕生秘話である。おぞましいと感じるのは私だけでしょうか。新たに中央委員となった袴田と秋笹で事後処理を話し合ってそれぞれ散会することとなった。小畑の死体は床下に隠されることになった。翌翌日の12.26日に宮本氏はいち早く検挙された。大泉とそのハウスキーパー熊沢はその後も翌年の1.15日まで監禁され続けられることになった。この間二人は心中を申し出、遺書を上申した。これを査問側も認め、心中決行のため新アジトに二人を移したが、決行当日不思議なことに監視員が木島のハウスキーパー唯一人という状況になり、大泉は隙を見て逃げ出し当局に転がり込むこととなった。こうして事件が発覚し、マスコミが猟奇的に大きく報道するところとなった。事件の報道は各界に衝撃をもたらし、党の権威と運動が大きく損なわれることになり、実質上党中央は崩壊させられるに至った。

 この事件が今日においてなお重大であり尾を引き続けているのは、党中央執行部員同志による致死を伴った査問事件であったという重大案件であるにも関わらず、この事件に対して党内的な総括が未だになされているとは言い難く、事件の全貌もまた未だヴェールに包まれていることにある。それは、査問の首謀者が今日の党を指導する宮本氏であったことによる政治的複雑性と、査問の経過中での小畑死亡原因をめぐって当事者の主張一人一人に隔たりが見られ、未だに解釈が一定していないという事情が横たわってることにも原因があるようである。今日の党執行部を支持する者は概ね宮本氏の強く主張する平穏無事な査問経過中の「体質的ショック死」に転嫁させ、他方反宮本系の者は「リンチ査問死」であり宮本氏に結果責任を負わそうとする傾向にあるという具合に今日においても著しい政治的色彩を帯びている。

 この件に関する私の考えはこうである。「査問事件」は宮本氏にとって触れられたくない箇所であろうが、臭いものに蓋をせず、公党の責任問題として党史的に総括しておくべき事案のように思われる。その姿勢は党内の自浄能力の欠如を疑わせるものとして受け止められるであろうし、アキレス腱として事あるごとに利用され続けられることになる。決して党百年の計のために役立たない。是非生存中に事案処理をされんことを望む。55年に「50年問題について」で徳田執行部を総括したように、「いわゆる査問事件について」を党内論議的に総括しておく必要があるのではないのか、と思う。

 このことを中野重治は彼らしく一般論的な言い方で次のように述べているらしい。「いわゆるリンチ≠フ件にしてみれば、おれは殺さなかったぞと誰かがヤミクモ言い張ることで事が解決されるのではない。そこへと追い込まれて行ったのには、追い込まれた側に決定的な大きな原因があったことを正面からつかむこと、これが党再生の道だろうと思う」(雑誌「通信方位」昭和51年1月号『歴史の縦の線』)

 にも関わらず、「査問事件」が今日までタブー視されている不自然さには「査問事件」の全面的な解明に対して熱心でない宮本氏の姿勢が大きく関係している。それがために時に応じてかえって猟奇的事件としての興味をかきたてられるというシーソー関係にさらされている。今、こういう状況下にあって私がこの事件の解明に向かおうとすることの意味は、一つは、「査問事件」の発生が党の組織問題としての「スパイ・挑発者に対する摘発闘争」の一環として生じたという歴史的経過を踏まえ、この事件が党の責任において党史的に総括されねばならないと思うことにある。この問題は、再発を防ぐための今後の教訓としても問題を歴史的全体性の中で捉え直される必要があるのではないか。確かに、「当時の味方の中に無限に敵を発見していくスパイ摘発闘争の悪循環を見据えつつ戦前日本共産党史の一帰結として『査問事件』を捉え、日本共産党の過去の革命的運動の反省という環の中での総括が必要」(栗原幸夫「日本共産党史の一帰結」要約)ということではなかろうか。

 もう一つは、この事件を単に猟奇的に見るのではなく、宮本氏の政治的立場にまつわる胡散臭さの逃れようのない証拠事件として解明しようということにある。宮本氏は、この事件ではからずも黒幕から直接の下手人の一人としての役目を果たすことになった。それは突発的であったので、氏の冷静なシナリオを狂わして自らをして手を染めさせてしまったのではないかと思っている。以来この事件は宮本氏の政治的活動の致命的なアキレス腱として内向させられているのではなかろうか、と思われる。

 最後の一つは、「査問事件」の前後の解析を通じて、宮本氏の警察・予審調書が存在しないということに関連させての「完全黙秘・獄中12年・非転向タフガイ神話」の虚像を暴いてみようと思う。なぜなら、戦後直後の有能且つ戦闘的活動家に立ち塞がってきたのがこの神話であり、この如意棒が振りかざされることによって転向組が沈黙を余儀なくされてきている経過があるから。ありえなかった虚構を暴くことはこの意味で必要となっている。ちなみに、『さざ波通信』編集部の方たちにあってさえこの神話が無条件に措定されている文章を読んだことがある。この現実を突破することからしか抜本的な党の再生はあり得ないというのが私の視点となっている。

 ところで、とり急ぎここで指摘しておきたいことは、果たして査問の間じゅう小畑・大泉に食事が提供されていたのかということについてコメントしておきたい。実際には与えられていないように推測されるので、小畑・大泉両名は食事抜きのまま丸一昼夜と翌日の午後まで5食分が抜かされたまま査問が継続されていたことになる。加えて充分な睡眠も与えられず捕虜同然の姿で手足を縛られたままの消耗著しい姿勢で経過させられていたことになる。宮本氏は、こういう査問状況についても否定しているのだろうか。仮に「体質的急性ショック死」を認めたにせよ、これらの事実はその大きな因果になっているのではないかと容易に推測し得ることである。それとも何か、宮本氏並びにその同調者は、テーブル越しに会議でもしているかのようにして査問がなされ、経過経過で食事を与え用足しもさせていたとでも言っているのだろうか。


その3.小畑のスパイ性の根拠とその評価問題(1999.11.6日)

 今日においても小畑のスパイ性をめぐって見解が分かれている。正真正銘スパイであったと疑う者といやそうではなかったとする立場の者とに分かれている。大井廣介の遺書「独裁的民主主義」(昭和51年12月、インタープレス刊行)や亀山幸三の「代々木は歴史を偽造する」(昭和51年12月、経済往来社刊行)は、小畑はスパイでなかったという立場から書かれているらしいが私はこれらを読んでいない。これに対して、平野の場合は小畑に会った第一印象で小畑は臭いと感じたと述べ、この印象を補強する形で誰それの検挙は小畑が売った可能性が強いとか、取調べの際に自白か転向を促すために特高が小畑がスパイであるという秘密を公然と漏らしたとかを列挙している。さすがに立花氏は、もしそうなら逆に小畑がスパイでないことになると指摘している。特高は誰それがスパイであるとか漏らすことは御法度であるから常套的な内部攪乱のやり方であろうと理由を述べている。

 ここで、小畑の履歴について簡単に述べておく。党関係の側からの小畑に関する伝記的記録は見あたらないようなのでやや詳しくは「日本共産党の研究三56P」を参照して貰いたい。同書記述を要約すれば、小畑が非常に誠実有能な活動家であり、主に全協との絡みで党中央に進出して行った貴重な労働者畑党員であったことか判る。常に特高を警戒しながら活動していた様が見て取れるし、事実この「査問事件」途中小畑のアジトが木島によって調べられるが、下宿のおばさんを味方に付けていたこととか机には厳重に鍵がかけられていたこととか、何よりこの査問中完璧な受け答えをしている様が大泉と好一対をなしており(対特高においてもこのような対応をしただろうと賞賛される対応を見せている)、そして最後に渾身の力を振り絞って査問の罠から逃走を試みようとした戦闘力が知れることになるであろう。ここで付言しておけば、小畑の遺体を引き取った弟が郷里の知人に宛てた手紙の一節は次のように記されている。「新聞ですでに詳細ご承知と思いますが、ただ兄は裏切り者ではなかったことを判然とお知らせいたします。兄こそ正しい党員です。兄こそ日本共産党の正統なる後継者だったことを確信を持って云い得ます」、「母は悲しみの中にも元気です。唯、新聞は兄を裏切り者のように書いているので、それを残念がっています」。

 小畑は、質朴な労働者出身であり、半非合法の日本通信労働組合の中央委員長を経験している。昭和6年夏に万世橋署に検挙された。刑務所行きが間違いないと推測されていたところ、起訴されずに警察だけで釈放された。この件に関して、この時スパイにさせられたのではないかとこのたびの査問中厳しく追及されている。この言い分の正しくないことは立花氏が文中で述べているのでそれを参照されたし。昭和8年頃日本通信から全協本部、全協本部中央の常任を経て野呂執行部時代に党中央委員というふうに急速に出世していった。以降の動きについては既に記述しているので割愛する。私は、小畑氏が名誉回復されねばならない根拠が充分あると考えている。とすれば、小畑関係の資料蒐集しておくことは公党としての早急な義務であるように思われる。特に、冤罪事件に奮闘する党員の方は、先の投稿で述べた松原氏に対してもこの小畑に対しても同様まず身内の冤罪事件に取りかかって欲しい。

 ここで、大泉の履歴についても簡単に述べておく。大泉は、その予審調書に拠れば昭和7年1月に新潟から上京し上京後党の農民部との連絡に成功。以後不思議なほど党内出世を遂げ重要な党機関を歴任していくこととなった。新潟時代既にスパイ的動きが見られ、地元党員から党中央あてに上申書がなされている。上京後のスパイ活動は主に「特高」の宮下警部と連絡を取り合っていたと自白している。党内出世の結果、昭和8年8月下旬頃警視庁「特高」トップの毛利課長直轄のスパイとなっているようである。同年12月23日にスパイ容疑で査問されるまでの期間といえば満4ヶ月ということになる。証人として喚問されたかっての同志達は、ほとんど口を揃えて、大泉の指導者としての消極性、無理論、古い型の指導性、呑気なとうさんぶりなどを証言している。無節操・無定見、女と金銭関係において極端に放縦。着服癖。熊沢光子を欺瞞してハウスキーパーとする等非同志的態度が見られた云々。

 宮本氏は、第一回公判廷において「(査問を通じて)彼らは先ず日常活動に就いてのスパイとしての証拠を掴まれるや、その後は最早自分は客観的にはスパイと思われても仕方がないとはっきり言ったのであります。」、「(小畑は)只、『自分はその当時政治的水準が低かったからそういうことをやったのであって、自分としてはスパイではないがスパイと思われても仕方がないから除名は勿論承認する』と自白したのであります」と陳述している。この「客観的には云々」という口癖が宮本論理の特徴である。既に何度か指摘しているが、こういう論理と権力がジョイントすると権力者は大抵のことを思い通りに正当化し得ることになる。反動的理論の典型というべきであろう。

 小畑に対する私の認識はこうである。スパイ性はあったかも知れないが、小畑に認められるスパイ性程度のものは当時の獄外党員の誰しもが背負わされているすね傷ではなかったのか。小畑にかけられた嫌疑程度のものであれば、逆に小畑グループが宮本グループを査問した場合を想定したとき、宮本も袴田も木島も同等かそれ以上のすね傷を露見させられずには済まなかったのではないのか、と私は思っている。では聞こう。この当時には珍しくも宮本は32年(昭和7年)2月頃中条百合子と正式な結婚をしているが、わずか二ヶ月程の期間であったとはいえ駒込と百合子の父の別荘国府津での生活は特高の目をくらまし続けての生活であったと言うのか。歴史の奥底の大事な真実は秘せられるとしたものだからこれ以上の推測は控えるが、次のことだけは言っておきたい。当時にあってはスパイ性も転向性もある種「特高」との駆け引きの中で行われていることであり、獄外党員を見る場合、その党員の本音と活動ぶりが党運動の推進性とスパイ性のどちらに重心を持っていたのかという観点で評価されねばいけないのではないのか。そういう具体的特殊的な考察抜きにスパイ呼ばわりするとしたら、当時の獄外党員は皆スパイにされる可能性がありはしないか。当時のメーデーデモを見てもデモ隊列の両側に二倍の数の警官が張り付いていたようである。検挙しようと思えば容易であったであろうが、却って党の動きが判らなくなる等の理由で見逃されていたのではないのか。「特高」の網に引っかからない機関党員がいたら却って疑わしいのではないのか。

 この当時有能とみなされる活動家ほど抱き込まれる機会を仕掛けられていたのであり、宮本にはそういうお呼びさえかからなかった的な完全無欠神話こそ却って不自然であろう。この当時「特高」は個々の党員をいつでも検挙できる体制下で泳がせていたのではなかったのか。それは今日の公安とオームの、あるいはまた広域暴力団との関係のようなものであり、全国手配者にせよ張りめぐらされた網の中の掌中に入れられているのかも知れないという見方が出来るのと同じである。「特高」から見て落とし込みようのない危険な有能党員は獄外にあることを許さず、適宜に逮捕・拘禁・虐殺の憂き目にあわしていたのではないのか。獄外党員はその動きをチェックされ続けており、真実地下に潜って尾行さえ付かせなかったという絵空事は子供だましの言いではないのか。こういうセンテンスで当時の情況を読みとらなければ賢明な判断がなしえないのではないのか。かたやスパイ、かたや深紅の活動闘士というきれい事過ぎる論調を信じれる者はおめでたい幸せ者でしかなかろう。付言すれば、非スパイ性を拵えるために八百長的逮捕さえ行われていたとか、熱血党員をスパイであるかのように見せかける罠とか様々に混乱の種が蒔かれていたという情況も知っておく必要がある。以上、通説の「査問事件」の不可解な面として、この小畑の非スパイ性の指摘をさせていただこうと思う。第二点としたい。

 少し観点が違うが、この辺りを踏まえて立花氏も次のように言っている。「共産党の内部には、妙に陰湿な伝統がある。それは過去の活動歴の汚点がその党員の党生活に陰に陽に終生つきまとうということである。その人間が党中央に忠誠を誓っている限りにおいては、彼の汚点は表向き無かったことになっている。ところがいったん、その人間が党中央に背くや否や、彼の過去の汚点が洗いざらい暴き立てられ、彼がもともとダメな人間で、党員としてあるまじき行為を過去から一貫して積み上げてきたことになってしまうのである」(日本共産党の研究二74P)、「活動歴の汚点はもちろん、プライバシーに至るまで容赦なくあばかれる。戦前からの活動者の場合、活動歴の最大の汚点は転向である。なにしろ純粋の非転向者は日本中でほんの一握りしかいなかつたのだから、たいていの人は転向歴がある。普段はそのことは問題にされないが、いったん事が起こると、たちまち引き合いに出される」(日本共産党の研究二77P)。

 スパイ考の最後にこのことも述べておきたい。当時のスパイにもいろいろ種類があって、地方出先の「特高」担当のスパイと警視庁(本庁)「特高」担当のそれと「特高」のトップ毛利氏の最高機密下のそれと、更にはこれらの指揮系統とも違うそれという具合に幾重にも(ここが肝心だ!)系統的に組織されていたのではないのか。これらのスパイも弱みが握られてスパイにさせられた者と党への不信から自ら進んで志願した者と元々警視庁から送り込まれた者という風に分類できるのでは無かろうか。更に付加すれば袴田のように特高の期待通りに迎合的にうごめく者も居たようである。大泉の場合、自ら志願した風がある。故郷での事業負債を抱えていたようであり金銭的な渇望と党への不信がオーバーラップしていた形跡がある。恐らく熱海事件の際に見せた「スパイM」を真似て「特高」に党の機密情報を高く売りつけ支度金を貰って暫く満州にでも身を隠そうとしていたのではないかと、これは想像部分であるが根拠がないわけではない。ところが、彼もシナリオが狂ってしまった。査問事件に巻き込まれてしまいスパイであることが暴かれてしまうと同時に出先の警察に飛び込む事により隠蔽が難しくなったからである。

 もう一つの区別も必要である。スパイには、単に情報取りのそれ、「単に一つの階級的組織に打撃を与えるに止まらず、大衆団体と共産党との対立を政策的に惹起せしめようとする方針を目論」(宮本氏の公判陳述)む党の内部攪乱・破壊で動くそれ、「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイをはめこんでいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎して」(日本共産党の研究二99P)行くことを狙ったそれ、そして今日的段階ともいえる「党の用語を縦横に駆使しながら党の本来的活動とは無縁の方向へ引っ張っていくことのできる指導的能力者」としてのそれ、という風にスパイにも進化発展の歴史があるのではなかろうか。

 なお、ここで大泉の第15回訊問調書において彼が指摘している日本共産党批判を見ておくことにする。なかなか鋭い分析が為されているように思われるから。リンチ事件の契機となった大泉−小畑派と宮本−袴田派の対立の背景に政治的遠因があると指摘した上で、「日本共産党はその発生当時から小ブル的要素を多分に持っており、インテリが牛耳り、労働者・農民の生活から遊離し、その活動は従って机上戦術的で何ら労働者農民の実質的利益をもたらさず、党は政策的に破綻に瀕しておりました。又党員採用に関しても無統制でボルシェヴィキ的鉄の規律はなく個人的関係が決定的な力を持って党組織関係は要するにインテリや失業者の集合に他ならず大衆組織はほとんどなかったと云えましょう。云々」。





(私論.私見)