「共産党の理論・政策・歴史」投稿文21(宮顕リンチ事件の前提考察) |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件の前提考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「宮本顕治論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており、この方が読みやすい面もあるので、ここにサイトアップしておく。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した) 思えば、宮顕は1908年生まれとあるからして2006年現在98歳になる。この御仁の強靭な生命力については敬意を表しても良いが、このことが、リンチ事件で逮捕された宮顕がた幾つもの病名に襲われ、合同公判の際に決まって重度の病弱となり忌避していたこと、最後に単独の公判法廷で滔々と正義の弁明をし後の「唯一非転向タフガイ宮顕聖像」を生み出した経緯の虚構を逆証明するから皮肉である。余命幾ばくも無い身の者に罵声することは好まないが、余命あるうちに虚像だけは剥がしておかねばならないと思う。 2006.5.19日 れんだいこ拝 |
「宮本顕治論の緊急性」について序章(1999.10.11日) | ||
これは上記の書で私が一番注目した一節である。ソ連のことだからと思って済ますわけにはいかないのではないかというのが私の主張となる。先の投稿文でも少し触れたが、すでにわが日本共産党においても、徳田書記長時代の記述がずたずたにされている。手柄話のようなところでは宮本氏が出てくるという具合に恣意的な構成になっている。仮に近未来に党の現執行部の腐敗が暴かれる時代がやってきたら、当然の事ながら今の党史は大きく編集し直されることになるであろう。こんなことになるのはなぜなんだろう、こうなるともはや共産主義者の病気の一種と考えた方がよいのかもしれない。恐らく、「真理の如意棒」を持っているという認識の仕方と唯々諾々主義が原因なのではなかろうか。 私に言わせればこういうことになる。ある客観事象を捉える場合、各自共通の認識のしかたがありえそうでありえないと考えた方がよいのではなかろうか。大雑把な共通認識は出来ても微にいりさいにいろうとすれば違いが生じてしまう、と考える方がよいのではないのか。同じ局面にあっても、人にはそれぞれ急進気質と穏和気質があって、本当に革命を起こす気があるのならどちらも有用であって排除してはならないのではないのか。お互いがマナーを確立して大義に殉ずるべきではないのか。悪意の場合には別の論が必要かも知れないが。 例えば、同じ景色を見ても、歩いてみた時のそれと自動車に乗って見たばあいのそれとトラックの場合と川岸のボートに乗って見た場合とでは、それぞれ景色が幾分ずつ変わる。むしろ、この差が大事ではないのだろうか。プロレタリアートの視点といったって、同じ視角からみんなが皆見れるというものでもないだろう(ちなみに、プロレタリアートの厳密な定義が私にはわからない。生産手段の話と社会の所得階層の話と公民間の話と子どもはどうなるのか等々がごっちゃになって分からなくなっています。同じ事はブルジョワジーの定義についても云えます。どなたか説明していただけたらありがたい)。ましてや、マルクス主義が対象にする社会の変革という場合の社会は弁証法的変化の中にあるものであって、汲めども尽きぬようなある固定化した「真理の井戸」ではないのだし――。 したがって、党史にせよ事実は事実で列挙すればよいのであって、有利不利な情報仕訳により取捨選択しない方がよいのではないのかということになる。つまり、その時々の事実の記録こそが後世の者に対する信義なのではなかろうか。時の指導部は見解とか方針の確立をなしえる権限を付託されているということであって、その理論の弁証性によって党員をぐいぐい引っ張っていくのが望ましく、納得しない者を納得させようとして統制化していくのは単に執行部のエゴなのではないのかということになる。話にせよ、行いにせよ、絶対的――うんぬんという如意棒が振り回され出したら警戒した方がよい。左翼陣営にありがちなそういう偏狭さが一般大衆を遠ざける原因になっているのではないだろうか。 庶民が仕事を終えてビールを飲みながらプロ野球を観戦する。のほほんと見てると思ったら大間違い。選手と監督の動き、選手間の連携と個性化、投手と捕手の呼吸、打者の論理、投手の論理、監督の采配・選手操縦術、監督によるその違い、球団の体質と比較等々にわたって、あたかも自己の仕事になぞらえて興味深く味わっているのではなかろうか。こうして得た智恵で諸事についても応用的に考える。ここにプロ野球観戦の効用がある。むろん草野球で自ら実践すればなおよく見えるかも。仕事の段取りから人間関係づくりにも役立っているに相違ない。 仮に、党の動きとか組織論について考えてみた場合にも参考になる。その結果は、「党員の皆様ご苦労さん、頑張ってください。私は遠くから見守らせていただきましょう。何か窮屈そうで世界が少し違うようです。失礼致しやす」ということになっているんではないかしら。選挙における最近の党支持投票の増加は、世間の風がそれほど厳しく党のイメージに対する期待が大きいということであって、党の個別の政策に支持が寄せられているのとは違う気がします、と言ったら党員を不機嫌にさせてしまいますか。 最後にもう一つ。ソ連共産党20回大会でフルシチョフの「スターリン批判」演説を聞いた直後にトリアッチが指摘した一節。
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「宮本顕治論」その1.宮本氏の党史的地位の重要性について(1999.10.15日) |
現在の党の在り方について疑問を覚え、そのよってきたるところにメスを入れようとすれば、どうしても第8回党大会から解きほぐさないと解明できない。先の党創立記念講話で、いみじくも不破委員長が「日本共産党の今の路線というのは、いろんな呼び方をされていても、実は、38年前に第8回党大会で決めた綱領の路線そのものなんです」と言っているように、この大会で満場一致された綱領路線のカメレオン化が今日の党の姿であるからにほかならない。ところで、第8回党大会に照準を合わせようとすれば、どうしてもこの大会で採択された綱領の起草者であり、かつこの大会でナンバー1の地位を獲得した宮本顕治氏に注目せざるをえないことになる。私の宮本氏に対する関心はここから始まっている。 ところが、この宮本顕治氏自身に関する情報が極めて少ない。著作はそれなりに出されているものの党外の者に影響を与える程にはなっていない。当人または出版社が控え目なのか、単に人気を呼ばないだけなのかよくわからない。他方、宮本氏を論じたウオッチ本もまた極めて少ない。どこの国でも党指導者ともなれば、レーニン・スターリン・毛沢東は言うに及ばず誰彼となく賛批両論で論評されている状況を思えば珍しい現象ではなかろうか。宮本氏が自身をカリスマ化させることを好まなかったという「正の面」もあるのではあろうが、不自然な思いが禁じえない。そういう乏しい情報の中からまして時間も能力も足りない私が「宮本顕治論」を試みることにはなおさら困難が強いられる。とはいえ、現在の党を指導する不破−志位執行部の是非を問おうとすればどうしても元締めである宮本論に帰着することになり、ここから扉を開かねば党の再生方向も見えてこないような気がするゆえに立ち向かわざるをえない。 折に触れて党内批判が漏れてくることがあるが、党内純化が完成した66年の第10回党大会以降においてはそれらのいずれもが宮本氏に対する忠誠を証した上での信任争いの風があり、私の視点とは違うという思いしか湧かなかった。十年ほど前であっただろうか、書店で確か諏訪グループ(?)による党内批判の冊子を見かけたことがある。東大細胞内の指導権争いで志位氏との内部抗争で敗れた恨みつらみの部分が目を引いた。今日私が『さざ波通信』と関わりながら党についてあれこれ発言していることを思えばパラパラとめくっただけで済ましたことがあたら惜しいことをしてしまったように思える。手元に冊子があれば党内民主主義のあり方等々をめぐっての何らかの貴重な資料になっていた可能性があったように思える。 私はまるで知らなかったが、伊里一智という方が党大会か何かの会場で宮本氏退陣を要望する批判ビラを撒いたことがあったらしい。ビラの内容の粗筋でも知りたいが、こういうものは伏せられるのが現在の党執行部の習癖であるからしかたない。推測であるが、宮本氏の権力的な介入が党活動上大きな桎梏になっているということを指摘していたのではないかと思われる。この場合、宮本氏の活動履歴を一応肯定的に評価した上でこれ以上の介入には害があるとしているのか、そもそも宮本氏の活動履歴を肯定しないのかという二つの見方が考えられる。恐らく伊里一智氏は前者であり、私は後者の立場にある。 新日和見主義批判の問題もあった。これは一方的に査問され始末書を取られただけのことだから意識的に党批判活動をした前二者の例とは異なる。ただし、党内に及ぼした波紋の大きさという意味では執行部批判の流れに入れても差しつかえないと思われる。本筋とは関係ないが私の目の前で起こった事件であっただけに感慨深いものがある。言えることは、党の新日和見主義批判論文なるものは、批判しやすいように得手勝手に措定された新日和見主義者たちが前提にされており、とてもまともなものではない。リクエストがあれば、私論を提供することが出来ます。 これらのことに触れる理由は、今日の党内のあれこれの腐敗現象に対して執行部の総入れ替えに向かわない限り解決しないのではないかと思うからである。不倫とか万引きとか横領とかの類の不祥事はどこの世界でもあることだから、いくらそんなことを聞かされてもこのこと自体をもって党の評価を下げようとは思わない。問題は、そういう腐敗現象の奥底に現在の党綱領路線の間違いが起因になっている面があるのではないかと憶測しうることにある。国家の従属規定の変チクリンから始まる「二つの敵論」の馬鹿馬鹿しさが影響しているのではないかと思われることにある。どう考えても講和条約とその後の一連の過程で日本は国家的に独立したのであり、それを従属規定で押し切った現綱領路線は一見アメリカ帝国主義と闘う姿勢を強調したものではあるが、客観性から離れた情緒的な認識でしかない。その後の日本独占資本のフリーハンドな資本蓄積に貢献したドグマでしかなかったのではないか。国家再建のためにはここまでは良かった面もある。ただし、日本独占資本の海外進出が国際資本との厳しい競争の中で行なわれている今却って弱点になっているようにも思う。なぜなら国内で労資が揉まれた経験を持たぬまま浪花節的な労務管理を押しつけていくことになる訳だから、海外現地での雇用軋轢を至る所に発生させてしまう。既に中国市場で次第に米系資本が優勢になりつつあることはその証左であろう。 話を戻して、現在の党の運動理論は、国家の従属規定から始まってここからあらゆる事象の認識にボタンの掛け違いを招いているのではないか。執行部もまた、この間違いを覆い隠そうとしていたずらに統制的手法で党内整列を余儀なくされているのではないか。以来50年近くなろうとしており、反対派掃討の結果何の不安もなく本質をむきだしにする局面に至っている。今日的状況としては右翼的暴走の観があるが、もはや場当たり主義で理論らしきものさえない。旧社会党路線よりも右よりの旧民社党的路線に進みつつあるのではないか、と思われる。 こうした方向に進みつつある不破−志位体制批判をしようと思えば、宮本体制そのものから解析しなければ解けないのではないのかというのが私の視点である。というわけで、この観点から当人にまつわる公的な面について研究してみようと思う。ただし、『さざ波通信』誌上は宮本氏にトータルにアプローチする場ではないので、最小限宮本氏を論ずる場合に避けては通れない重要事項についてのみ接近してみたい。その1番目の課題が、「敗北の文学」に見られる氏の特殊感性に対する分析になる。以降順次項目が立つがとりあえずここから入ってみようと思う。既に長文になっておりますので、以下は次回に投稿したいと思っています。 |
その2「『敗北』の文学」に現れた特殊感性について(前半)(1919.10.19日) |
「敗北の文学」は、その自殺が大きく騒がれた当代の大御所的文芸作家芥川龍之介の作品及び作家論であると同時に氏の入党決意宣言ともいう意味が添えられていた。29年(昭和4年)4月の頃宮本氏20歳の春の力作であった。これが当時『中央公論』と並んで最も権威ある総合雑誌と目されていた『改造』の懸賞論文で一等当選となるという栄誉を受けることになり注目を浴びた。この時の次点が小林秀雄の「様々なる意匠」であったというのは有名な話である。宮本氏はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、『戦旗』に働き場所を見つけた。31年5月入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。32年の春より地下活動に入った。 |
その2.「敗北の文学」に現れた特殊感性について(後半)(1999.10.21日) | ||||||||||
このような経過を持つ芥川文学及び氏の生涯を宮本氏がどう評価したか。ここが本稿のテーマである。本投稿を理解していただくために芥川氏について前投稿で簡略に記した。以下、宮本氏の芥川論を解析していくこととする。主たるテキストは、75年初版の新日本文庫の「『敗北』の文学」に拠った。宮本氏は、言い足らなかったのか、続いて「過渡時代の道標−片上伸論−」で、片上氏を論じつつ、一方で芥川論を補足したので、この時点の観点も併用した。「敗北の文学を書いた頃」と同書末尾の水野明善氏の解説も参考にした。
問題意識として以上のように捉えた宮本氏の感性に対して何も云うことはない。いよいよ核心に入る。以上のように芥川氏を理解した宮本氏が、ではどのように氏を批評したのか。「時代的であり得た芥川」を認めつつ次のように論断した。
とはいえ、「プロレタリアートの陣列に加わろうとした諸家に比べての芥川の対応」には都会的なプチブル的なひ弱さが克服し得ていない云々(ここは、私の補足)、と喝破した。ここまでは宮本氏一流の批評眼であり、異論はない。
(話はそれるがここのところの表現は原文通りかどうか少し気になっています。最近手に入れた新日本文庫ではこう記されているが、昔学生時代に読んだ時とちょっと文章が違うような気がしています。その時の本はもうありませんので確かめようがありません。どなたかお手数ですが『改造』誌上掲載文と照らし合わせていただければ助かります。私には時間がない。もっとも気のせいかもしれない)。
うーーんご立派デスとしか言いようがない。ハイ。 |
その3.いわゆる「査問事件」をどう読むか(序論)(1999.10.25日) | ||||||||||
今まで『日本共産党の65年』を戦後のくだりから読み進めてきた。もっとも、60年代を経過したところで、その記述のあまりな馬鹿らしさが嫌になって読み止めてしまっている。このたびは「査問事件」に言及しようとする必要から関連する戦前の章を、特に宮本氏への記述を中心に読んでみた。 感想は、ここでもよくもマァこんな記述ができるもんだとあきれさせられている。恐らく党員の大方はこの記述通りだと了解しているのだろうから、そういう観点の党員の意識と私の以下の分析が噛み合うことはまず不可能としたもんだろう。しかし、私は書かねばならない。疑問を押さえる訳にいかないから。突き動かす衝動の奥にあるものは何かはわからない。一つの理由は、こんな記述では虐殺された党員が可哀想だと思うことにある。なぜなら、宮本氏が生き残ったのは俺は根性がきつかったからと読めるような「党史」中の次のような記述が許せないからである。
こうした記述を見て、信じやすい者は、宮本天晴れと思うであろう。そういう人の脳天気さに万歳だ。私は、とてもでないが提灯記事と見る。とりあえず少しだけコメントしてみよう。 その(1)の『長期戦でいくか』について。この当時「特高」の取り調べは苛烈を極めていた筈である。党中央委員ともなれば、上田茂樹、岩田義道を見ても判るようにほぼ即日虐殺されている。小林多喜二しかり。直前の野呂委員長も病弱の体に拘わらずひどい取り調べがもとで命を落としている。その他無名の数多くの党員も同様な目に遭わされていた時期である。そういう時期に逮捕されたにも関わらず宮本氏が虐殺を免れた根拠として、「こいつには何を言っても駄目だ」とあきらめさせる強さがあったからというのであれば、虐殺された人はどうなる。強さがなかったというのか。殴打するうちに供述するであろう弱さが見えたから殴打し続けられ、その結果虐殺に至らしめされたとでも言うのか。私はそういう嘘が嫌なのだ。何も宮本氏の虐殺を望んでいるのではない。『長期戦でいくか』を望まなくて言っているのではない。持久拷問化に向かったいきさつと氏のその後の健在を説明するに足りる言い訳としてはオカシイ理屈であるということが指摘したいのだ。 その(2)の「母親が私の顔を見て『お前も変わったのう』とつぶやいた」その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮本氏も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、宮本氏に対する拷問状況または拷問後の被害状況についての供述とその裏取りが妙に少ない。私が知らないだけかも知れないのであれば教えて欲しい。出来るだけ多い方がよい。一応可能な限り全部知っておきたいという関心がある。 その(3)の「完全黙秘でたたかい抜いた」ということについて。何も宮本氏を落とし込めようとして言いたいのではないが、当時虐殺の目に遭わずして完全黙秘を貫くことが本当にできたのか、私は疑っている。完全黙秘で貫くことを皆願った。ほとんどの者が貫く前に虐殺され、または同然の身にされたのではないのか。警察調書、予審調書がないということには三つの理由が考えられる。一つは本当にない。この場合、黙秘権の認められていない時のことであり極めて分の悪い戦いとなる。「特高」が激情することは目に見えている。それを完全黙秘で応じ持久戦に持ち込んだという「タフガイ宮本神話」が私は信じられない。他にそのような者がいるのかいないのか、いるとすればどういう種類の者であったのかに興味が持たれる。調書がないという意味では「熱海事件」をリードした「超大物スパイMこと松村」以外に私は知らない。警察調書がない別な理由としては、そもそも不要とされたか未だに隠されているかどちらかの理由しか考えられない。そう考えるのが自然ではないのか。 その(4)の袴田が供述したことを咎めていることについて。袴田氏の場合、独特の個性があっていわば得意然として予審調書・公判陳述に応じている。その是非はともかく、今日当時の党活動の貴重な一級資料になっていることは歴史の皮肉と言える。宮本氏の場合、警察調書を取らせなかったというのであればまだしも理解しうる。しかし、予審調書で有れば、少なくとも「査問事件」に対する供述であれば、宮本氏が後に明らかにしている論拠に拠れば、むしろ具体的状況事実について明らかにすることは必要であったのではないのか。「査問事件」は刑事事件として問われようとしていた向きもあり、宮本氏の言うように小畑死亡の原因が「急性ショック死」であるというのであれば冤罪的に免責される可能性もあるのだから、誰彼に罪を被せるというのではなく具体的状況を明らかにすることに何の非があるのだろう。「急性ショック死」を覆い隠すのに革命的精神を発揮せねばならない意味と必要があったのか、疑問としたい。 党の機密事項の秘匿に黙秘を貫くことは賞賛されるであろうが、ことは刑事事件的な対応が要求されているのであり、完全黙秘の必然性が見えてこない。袴田の場合、確かに自身の立場を考慮しつつ状況的事実を得々と語っているが、党の対スパイ対応としての「査問側の正義」の経過を明らかにしているのであって、果たしてそれ程非難されることであろうか。調書を取らせなかったことを最も善意に拡大解釈してみた場合、「リンチ事件」はあくまで党内問題であり、党内的に総括されることが望ましいという建前に拘ったということであろうが、私は、そういう観点からにせよ鬼神のごとく完全黙秘を貫きえたという宮本氏の言い分をこそ畏怖するものがある。それならそれで戦後自由な身になった時点で、この事件に対して党内的な解明へと向かえば良いではないか。漏れ伝わってくることは、「リンチ事件」解明に関する検閲的態度に終始する氏の姿ではないか。 その(5)宮本氏が「あらゆる困難に屈せず」戦い抜いたという表現について。大人げない言葉尻の指摘かも知れないが、では聞こう。虐殺されたり獄死させられた党員は困難に屈した末の獄中死であったというのか。ためにする提灯記事にしても同志愛のない表現のような気がするのは私だけだろうか。 こんなことばかり書いて党員の皆さんのご機嫌を損ねてしまうことは許して貰いたい。視点が変わればかくも見方が異なることになるということだ。私の論の是非はそのうち歴史が明らかにするだろう。一つの見方として参考にしていただけたら良い。この方面に関して言及しようとすれば私は100頁だって書くことができる。しかし、宮本氏を落とし込めようとするのが本意ではない。こういう胡散臭いところの多すぎる宮本氏に依拠した党史とか現在の党の活動方針の見直しに役立ちたいというところに本音がある。野坂氏の場合も同様である。今日では野坂氏が根っからのスパイであったことが明らかにされているのであるから、党史での彼に関連した記述は全面的に書き改められねばならないであろう。しかし、彼にまつわる記述を書き改めるとしたらどう書き改めればよいのだろう。読んでみて更正不可能な記述になっているように私には思われる。現執行部サイドの党史論作成過程に彼がそれほど利害一致的に関与しているということであり、それほど深く提灯記事されているということだ。是非ご一読なされてご判別されるようお願い申しあげる。 原稿はまだ書き上げていないが、上述のような観点から以下宮本顕治論を継続していくつもりである。興味のある者は読み進められればよいし、目に毒だと思う方は控えた方が良いかもしれない。あらかじめお断り申し上げておく。 「査問事件」に関する論議は「JCPウオッチ」でも継続的になされているが、私は、「査問事件」の全体像を浮き彫りにする方向で論議を提供しようと思う。全体としての粗筋が判明せぬまま「急性ショック死」の部分的詮議をしても水掛け論に終わってしまうような気がするから。やはり、誰かが全体像をまとめなければいけないと思う。そこから部分と全体にわたる論議を積み上げる方が生産的ではないかと思う。以下、そういう視点も含めてこの事件のドラマを再現させて見ようと思う。参考文献は、『リンチ共産党事件の思いで』(平野謙、三一書房)、『リンチ事件とスパイ問題』(竹村一、三一書房)、『日本共産党の研究』(立花隆.講談社文庫)他を参照した。不思議なことに、松本清張氏の昭和史発掘シリーズの中にこの事件の著作が見あたらない。 私は、本投稿で、あたかも見てきたかのようなドラマを私論的に綴りたいと思う。なぜなら、この事件をめぐって関係者の供実が一定しておらぬため、甲乙丙丁論に右顧左眄すれば永遠の堂々めぐりに逢着せざるをえないからである。その結果事件そのものがうやむやにされてしまうことが一番変な結果であると思う。われわれはこの世の出来事のほとんどに対して直接見聞することはできない。かといって、直接見聞きしていないから判断できないとしたら、この世のほとんどが闇の中の出来事となる。人はその器量に応じて万事闇に灯りをともすべく乏しい資料とカンを頼りに判断しつつ進まざるを得ない。例えその判断が後に修正されることになろうとも、その時は真剣に全体重をかけてなしたものであればそれがその人の人となりというものであろう。先の参考文献における立花氏、平野氏、栗原氏の各論究があるが今一つ釈然としない。むしろ、本筋から外そうとするかのような論理誘導が気になっている。 そういう問題意識を持って査問事件の全貌を私流に解くことにする。手に触れることができる範囲の当時の関係者の警察調書、訊問調書、公判陳述、戦後になっての回想録等々を、眼光紙背に徹しつつ解読してみたい。以下、「査問事件」の発生前の状況と事件そのものの経過とその後の経過という三部構成で再整理して見たい。時間と能力が私に備わるように祈るばかりだ。 |
れんだいじさんの「敗北の文学」論への異論(1999.10.26日、吉野傍) |
れんだいじさんの「敗北の文学」論はなかなかと読ませる力作だと思います。相当長いのに読むものを飽きさせることない筆力に敬服します。しかしながら、その結論には疑問なしとはしません。 「仮に、このような論法を許してしまえば、半端ながら党運動を理解しお手伝いの一つでもしようと接近してきたシンパの頭上に半端なるがゆえにバールが打ち込まれ、無縁な者または体制側信奉者は無傷ですむことになる。そういう感性がオカシクはないか。近親憎悪的な論理であり、近しい人ほどチクチクいたぶられることになる」。 しかし、これは的外れな批判ではないでしょうか。若き宮本(歴史的人物とみなして敬省略します)が芥川を徹底して批判しきらなければならないとみなしたのは、まさに芥川が一つの巨大な山脈であり、歴史的人物だからです。いかに芥川が誠実で良心的であるとしても、その山にピッケルを打ち下ろして登りきらないかぎり、その先に進めないし、山の向こうにどのような光景が広がるのかがわからないからです。宮本があえて「野蛮な情熱」と言っているのは、そういう意味です。単なる客観的な人物評価なら、れんだいじさんがおっしゃるようなもので十分でしょう。しかし、革命的情熱を燃やし、新しい歴史を開かんと欲していた宮本にとって、そのような客観的評価が問題なのではなく、すぐれて問題は実践的であり、まさにその実践的課題に照らして、「野蛮な情熱を持って批判しきる」ことが必要だったわけです。そしてそれは単に宮本個人にとってだけでなく、時代的要請としてもそうだったわけです。 |
あまりにもひどい言いがかり>れんだいじ氏へ(1999.10.27日、吉野傍) |
れんだいじ氏の最新の投稿を読みました。これまでのれんだいじ氏の投稿については、多々異論はありつつも、それなりに論理的な展開と、れんだいじ氏らしいユニークな観点とがミックスされて、非常に勉強にもなり、楽しみながら読んでいましたが、10月25日付投稿は、ちょっとあまりにもひどいと感じました。まさに、宮本憎しで目も思考もすっかり混濁してしまっていると思います。 「『母親が私の顔を見て「お前も変わったのう」とつぶやいた』その理由が顔の腫れ具合にあったというのもオカシイ。こういう場合、母親は涙を流し可哀想にとは思っても、自分のせいでない原因で膨らんだほおを見て「変わった」とは普通言わない。皆さんはそうは思われないですか。私には宮本氏も又拷問を受けたという状況を言い繕わんが為の下手な証拠挙げとしか思えない。実際、この母親証言の裏はとれているのだろうか、疑問に思う。他の党員の場合後遺症も含めて房仲間の裏づけが取れる場合が多いのに比して、宮本氏に対する拷問状況または拷問後の被害状況についての供述とその裏取りが妙に少ない」。 引用するだけでも怒りをおぼえるような文章です。当時の面会は、警察の監視下で行なわれたんです。そういう状況においては、「可哀想」とか、「ひどい目に会ったな」というような、警察を非難していると解釈される可能性のあることは言えないわけです。どうしてそんなことがわからないんです。このとき母親が「お前も変わったのう」と言ったのは、まさにそういう形でしか息子の状態について触れることができなかったからです。そして、このような言い方がなされたということは、当時の具体的な状況でしか出てこない言葉であり、この証言の信憑性を物語っています。 |
吉野さんへ、取り急ぎご返信(1999.10.26日) | |||||
吉野さん、早速ご返信ありがとうございます。その主張要旨も明解に伝わっております。一緒にしないでよと言われるかとも思いますが、私のずっと以前の宮本氏に対する評価は吉野さんの意識と同じようなものであったように思います。私の場合、ただ「バール」のところの言いまわしが妙に気になっていました。あれから党周辺を離れてほぼ30年近く経過させてみて、あらためて当時の意識との対話をしているというのが実際です。あの頃覚えた疑問が回りまわって現在の宮本論の立場になっています。すべての間違いは宮本氏の党中央簒奪から始まっているという視点です。もっとも、他の誰が良かったのかというと特別にそう思える人もおりませんので、宮本氏を最大に善意に解釈した場合、こういう党運動の難しさをこそ知るべきかということになるかとも思われますが。
なかなか宮本氏に対する洞察が言い得て妙な的確さではないかと思ったりしています。
むしろ、私は、こっちの方の洞察こそ保守的時代迎合的な臭いさえ消せば、文芸論的には鋭いように思えたりしています。 |
その3.「査問事件」に至る党史の流れと宮本氏の履歴について(1999.10.30日) |
まず、「査問事件」に至る直前の党史の流れから見ていくことにする。当時体制側「特高」は、共産党員を徹底的に捕捉殲滅せんと躍起になっていた。なんとなれば、交戦中の大東亜戦争遂行上、共産党員の存在は敵方内通の懼れある不純分子という認識に拠っていたからであると思われる。これは戦争というものが持つ宿命である。正面の敵は判りやすいが、後方あるいは内部の敵にも気配りせねばならず、内通者は判りにくい分一層ナーバスにならざるを得ないということになるからである。大戦中のアメリカにおける日系米人の隔離政策が今日明らかにされているが、同様の観点による強権発動であったものと思われる。 こうして、「特高」は、当時の日本共産党の図体そのものは大したものではなかったものの、放置しておけばいつうねりとなって牙を向いてくるか分からない不穏分子的な存在としてみなし、つまり共産主義者をコミンテルンの指示に従う敵方内通のスパイの範疇で捉え警戒を強めた。これが日本共産党徹底弾圧の真因であっただろうと思われる。こうして党内にスパイが送り込まれ、党の動きの逐一把握と有能党員が捕捉されていくこととなった。 他方、共産主義者は、「聖戦」に向かう日本帝国主義を露骨な反人民的ファシズム国家とみなしてこれを打倒することを戦略に据えていた。被圧迫人民大衆の利益擁護の旗を敢然と掲げてこれに対抗せんとしたのである。こうして、体制側は体制側なりの愛国心と民族主義イデオロギーで国家をリードしようとし、反体制側は反体制側の人民的利益擁護の論理で運動を組織しようとして衝突せざるをえないことになった。この衝突の根は深く、このどちらの言い分が正しいのかをめぐっては今日もなお対立が続いているともみなすことが出来る。 「特高」の動きを党の側から見れば、送り込まれていたスパイの摘発が急務となっていたことを意味する。「昭和3年のいわゆる3.15事件以来支配階級はあるいは定期的にあるいは不断に我が党に対して弾圧を加え、為に我が党はその陣営から経験有る優秀分子を奪われ、組織を攪乱されてきたのであります」、「優秀な活動家を奪われ、党組織を攪乱される度にその後に結成される組織あるいは機関に常に不純分子が潜入し、それが又次の弾圧の手引きをするということを繰り返えされていたのであります」(袴田「第7回訊問調書」)という経過となった。つまり、党内において、お互いが相手をスパイと考える両極の対スパイ戦争が丁々発止で発生していたということになる。このような状況を俯瞰しつつ以下「査問事件」直前の党史の流れを宮本氏の動きとの関わりの中で見ていくことにする。 宮本氏の入党経過は既述したので割愛する。宮本氏の入党時の党は既に28年(昭和3年)の3.15事件と翌29年(昭和4年)の4.16事件で党中央が壊滅させられた後であり、党活動自体が極めて困難な非合法下にあった。主だった幹部は獄中につながれもしくは虐殺の憂き目に会わされていた。この両弾圧を経て、29年(昭和4年)7月頃田中清玄を中心とする指導部により党が再建された。この執行部は、党史上初めて武装ストライキや武装メーデーを指針させたことに特徴が認められ、今日「武装共産党」時代と言われている。この執行部時代はスローガンや戦術は先鋭化したが、「特高」の追撃も一層厳しさを加えることとなり、赴くところ大衆闘争との接点が失われていくことになった。この時以降の傾向として、党活動は、労組等の組織建設の替わりに街頭連絡を主とするようになった。党の活動が地下へ地下へと余儀なくされつつ追い込まれていくことになった。この執行部は、武装メーデーの直後から自己批判にとりかかっていたが、各地を転々としつつも翌30年(昭和5年)7.14日から17日にかけてメンバーの大半が検挙されるにおよび壊滅させられた。 この後半年間党は全国的指導部を持つことが出来なかった。モスクワのクートヴェ(極東勤労者共産大学)に留学していた風間丈吉が帰国して31年(昭和6年)1月頃中央ビューローを再建させた。風間を委員長とする執行部は「武装共産党」方針を政策転換させ、大衆的活動を重視していくことになった。ただし、この頃コミンテルンより「31年テーゼ草案」が発表され、後にも先にも党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階革命論によるプロレタリア革命を指針させていた。3.15事件、4.16事件の統一公判組も早速この新テーゼ草案に基づいて陳述していくことになった。ところが、この当時「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロッキストであるとして追放された。こうした煽りを受けてコミンテルンの方針もジグザグすることになり、「31年テーゼ草案」ほどなくして新テーゼの作成が模索されることになった。こうして翌32年(昭和7年)5月に「日本共産党の任務に関するテーゼ」(いわゆる「32年テーゼ」)が発表された。「32年テーゼ」は、日本革命の性質を「プロレタリア革命から、社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと変更し、前年の「31年テーゼ草案」と比較すればかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていた。ただし、この新テーゼは、他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという方針を掲げており、運動としては急進主義的な部分も取り込んでいた。この間日本共産党執行部の方針も一向に定まらず獄中党員もまた大きく困惑せしめられることになった。 注意すべきは、この時今日スパイとして知られている「M」こと松村の中央委員会潜入が堂々と為されたということである。この時の中央部は、風間委員長・「スパイM」・岩田義道・紺野与次郎らによって構成された。「スパイM」は、組織・資金関係を担当し、委員長さえ判らない二重の秘密組織を張り巡らすことを成功させ実質上の指導者となっていた。問題は、「スパイM」の存在はそれまでのスパイの党潜入と意味合いが違っていたことに認められる。それまでのスパイは党の情報を取ることに重きがあったのに対して、「スパイM」の場合には意図的に党を操作しはじめたのである。概要「党活動や党人事に関与し、党の内部に組織的にスパイをはめこんでいき、それらのスパイ達を手駒として動かしながら、党を文字通り換骨奪胎していったといえるのではなかろうか」(日本共産党の研究二99P)という立花氏の指摘がある。つまり、「スパイM」一人ではたいした事は出来ないわけだから、この時点で党内におけるスパイ系列の確立がなされたと読みとることが出来るということになる。 この「スパイM」の指令の下で32年(昭和7年)10.6日に大森銀行ギャング事件が引き起こされた。この事件は新聞でも報道され、党中央では首謀者が「スパイM」であったことが判明していたにも拘わらず、事件発覚後も「スパイM」のこの指導をめぐって中央委員会の中で問題にされた形跡はない。「もしここで党活動、党生活のスタイルが徹底的に再検討され、『スパイM』の責任が追及されていたならば、30日の弾圧(熱海事件)による被害ははるかに少なかったろうし、また後の再建もはるかに容易であったに違いない」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」)と思われるが後の祭りでしかない。こうして同年10.30日に「熱海事件」が引き起こされた。「熱海事件」とは、「スパイM」が「特高」との緊密な連絡の上で全国代表者会議を熱海に召集し、集結してきた地方の主要党員が一網打尽的に一斉検挙を受けた事件である。難を逃れた形になっていた風間委員長も「スパイM」の手引きで都内で逮捕され、こうして風間指導部もまた壊滅させられた。ちなみに、同時に逮捕されたはずの松村こと「スパイM」はその後行方がわからず特高資料においても痕跡さえ消されている。 「(この『熱海事件』による)全国的大検挙は我が党に対して大打撃を与え、中央を初め全党の諸機関は根本的な立て直しを余儀なくされ」(袴田第7回訊問調書)ることになった。この「熱海事件」の余波として、「熱海事件」は「スパイM」の策謀によって仕組まれたという風評が党内に伝わるに連れ、党員の多くが疑心暗鬼のとりこになった。中央委員が警察のスパイであったという衝撃が走ったのである。とはいえ、潰されても潰されても党を再建させることこそが当時の党員のエネルギーであった。「熱海事件」の直後の同年11.11日逮捕を免れた中央委員の宮川虎雄、児玉静子らによって「臨時中央委員会」が再建された。この「臨時中央委員会」に大泉がこの時初めて委員候補として顔を出している。この「臨時中央委員会」もまた、わずか一月足らずで主要メンバーが検挙され壊滅させられた。 こうした国内の動きを見て翌33年(昭和8年)1月上旬にモスクワから帰国した山本正美を中心に党の再建が着手された。こうして、1月下旬にはこの山本委員長を中心に、野呂栄太郎、谷口直平、大泉兼蔵、佐原保治を中央委員とする正規の(コミンテルンに承認された)中央委員会が再建された。今日疑問視されることは、ここでも、「スパイM」の党内総括が為されなかったことである。誤りは全て「スパイ・挑発者」と未熟な下部党員の責任で、中央委員会は常に無謬という権威を守ろうとしていたものと思われる。既にこの時期の党内に「党中央権威主義」が支配していたということでもあろう。この時、後に査問事件の主役となる宮本が中央委員候補となっている。もう一人の主役袴田はこの時は東京市委員会のメンバーとして委員長三船留吉の直接の下部にいた。ちなみに三船を東京市委員長に据えたのが大泉であった。 再建直後の2月に再々度全国一斉規模での党員の検挙弾圧が襲ったが、この頃の拷問は一層苛烈さを増していた。党中央委員上田茂樹、岩田義道、続いて小林多喜二もまた、2月20日今村恒夫と共に、今日スパイとして明らかにされている東京市委員長三船留吉の手引きにより築地署の「特高」に捕まり即日拷問の末虐殺された。その数詳細は判らないが多数の党員が虐殺されているようである。続いて5月山本委員長・谷口が逮捕された。この執行部は再建後わずか4ヶ月あまりで壊滅させられたことになる。 この山本委員長逮捕の結果「東京並びに地方の党員等は非常に驚愕して又スパイに潜入されて党が売られた結果ではないかと云う疑心を生じ、党員各自が警戒して自己の身辺に対し不審の眼をもって眺めるようになりました」(袴田第7回訊問調書)。ちなみに、この逮捕には党中央委員会のメンバーであり当時東京市委員会の責任者であった三船留吉に嫌疑がかけられた。「査問事件」の関係で述べると、この時党中央部は、大泉を責任者として袴田他同志数名で三船を査問するよう指令した。ところが、大泉は今日ではスパイとして判明している三船を庇い逃がそうとする様な八百長的態度を採り、事実三船はこうした党内の空気を察知していち早く逃亡に成功している。この時の大泉の態度が同志達の憤激を買ったという事実があり、伏流として内向していくこととなった。ちなみに、三船逃亡の後空席になった東京市委員長に座ったのが宮本であり、中央委員でもあった三船の替わりに中央委員に補充されたのが小畑である。 この間の宮本氏の履歴は次のようなものである。32年(昭和7年)の春より地下活動に入った。以降宮本氏は新人有力党員として嘱望されつつトントン拍子で党内の地歩をかためていった。主に文芸部門に関わり、蔵原惟人のプロレタリア文学理論を踏襲し、蔵原の検挙された後は小林多喜二・中条百合子らと共に専ら党の文化運動の指導者として影響を与えていくことになった。宮本は、蔵原が奪われた後の最も忠実な蔵原理論路線の継承者となり、「政治の優位性理論」や、文学運動の「ボルシェシェヴィキ理論」を主張した。錯綜する党方針・文芸理論の中で生じようとしていた指導部に対する批判や疑問に対して、野沢徹又は山崎利一のペンネーム名でそうした動きを一切認めぬ方針を発信し続け、それらの動きを日和見主義、右翼的偏向として切り捨てて行った。「いわゆる最近流行の転向と、ごっちゃにされるような日和見的潮流が文化運動の一部を根強く流れていることは事実であろう。そうした流れとは、文化芸術運動の原則的方向−いわば議論の余地なき方向そのものを歪めんとする傾向である」、「しかし、どんな新しい意見にしても、それが、文化芸術運動の原則的任務・方向の歪曲を意味するならば、それは積極的展開と全く反対の方向に堕ちてしまうものである」、「原則的問題については中間の道はないのだ」。12.24日「赤旗」での中央委員会の主張なる「今日のわが党の最大の弱点は、正しき政治方針の決定にも関わらず、その実践的遂行が極めて不十分にしか行われていない点にある。而して実に、これは党規律を弛緩させる挑発者の系統的サボタージュによるものである」も宮本の手になる文章と思われる。これらの論文はいずれも宮本の思考様式を実によく表しており、「方針は議論の余地のないもの」であり、党中央を金科玉条視させる傾向と建前主義と異端へのレッテル貼りと実践が足りないと云う下部党員に対する恫喝が見られる。早くもこの時点で、戦後の「第八回党大会」以降満展開することになる宮本式党路線を主張していることが注目される。問題は、党中央が路線的にジグザグしており、かつ深くスパイの潜入に汚染されていたこのような時における宮本氏の「党中央絶対帰依」を主張する感性と背景が分析されねばならないということになろう。 山本委員長が逮捕された結果、党は、野呂氏を中央委員長に就かせることで党中央を維持していくことになった。野呂は「日本資本主義発達史講座」の主宰者として知られる学者党員であり、片足が不自由な病弱体質であることを考えると委員長は重責に過ぎた。しかし、他に適格な委員長がいないという人選により本人も引き受けることを決意した。この野呂委員長の下に中央委員として大泉兼蔵・小畑達夫・逸見重雄・宮本顕治が配置され、中央委員会は都合この5名で構成された。こうして、この野呂執行部時代に宮本が中央委員として登場してきたことが注目される。この時宮本は若干24才であり異例の登竜であった。(ここで気になることが一つ残されている。果たして宮本氏を中央委員に推薦したのが誰なのか記録がない。この当時中央委員になるためには既中央委員の推挙が必要とされ、しかる後全中央委員の承認が必要であったはずであり、どなたか出典も明らかにした上で教えて頂けたら助かります)。とはいえ、この当時の党中央は党史上最も活動力が低下したとみなされている内向きの党活動に終始した時期であり、宮本氏が戦後になって「戦前最後の党中央委員」という肩書きを触れ回るのは強調のし過ぎのように思うというとまたお叱りを受けるでしょうか。 中央委員会の職務の内訳は、逸見・宮本が政治局を、大泉と小畑が組織局を構成することとなった。書記局は、当初は野呂、逸見、宮本だったのが、下部からの宮本に対する反対が強く、6月中旬に野呂、大泉、小畑に編成替えされた。この頃6月に旧中央委員佐野・鍋山の「獄中転向声明」が発表され党内に衝撃が走った。党中央は、この問題対策に追われる一方で、中央委員内部の対立も深めていくことになった。大泉・小畑・逸見・宮本の中央委員間の疎通が悪く、困った状況に陥っていたという事実がある。対スパイ対策のため相互に機密保持をなした結果、一層分裂的でさえあったのである。お互いに信用しうる系列が形成され、疑心暗鬼が党内を支配しはじめていた。 こうして宮本は東京市委員会に転出した。旧東京市委員会責任者スパイ三船留吉の後任となった。後にリンチ事件に登場する袴田は、昭和8年2月上旬からこの時も東京市委員会委員であり、他に荻野・重松が委員であった。この間党中央部から必要に応じて指導がなされ大泉が寄越されていた。そこへ、宮本が転出してくることになり、以後袴田は宮本の管轄の部下という立場になったという関係になる。袴田は組織部会の部長であり、その部員に木島隆明がいた。つまり、宮本−袴田−木島は直系ラインということになる。宮本が東京市委員会の責任者となって以来会合が定期的に持たれるようになった。参考までに記すと、大泉と袴田の折り合いは互いに快く思わぬ程に悪かったが、宮本と袴田の場合ウマがあったようである。後日スパイとして除名された三船留吉は宮本直前の東京市委員会委員長であり、この三船と袴田は折り合いが良かったようである。 宮本−袴田ラインが東京市委員会でその地歩を固めていたこのような時期「党中央部の優秀分子が続々と検挙されましたので、これを補充して中央部の組織を強化することが党中央部においても企てられ、私たちも東京市及び各地方の優秀分子を集めて党中央部に送りその諸機関に補充して中央部を強化すると云う意見を上申したのであります。中央部でも左様な意見を用いられて」(袴田第6回訊問調書)9月下旬頃東京市委員会から人員補充がなされていくことになった。こうして、この頃宮本グループの党中央進出がなされることになった。この頃の東京市委員会系列の党組織は、最下部が党細胞でその上に地区委員会があり、その上に東京市委員会があり更に最上位に中央委員会があるという形態になっていた。宮本は東京市委員会責任者の地位を去り、後を萩野に譲り、党中央委員会専任で活動することになった。袴田と荻野が党中央組織部員に引き上げられていくことになった。 「当時党中央組織部には労働者として働いた経歴を持つメンバーが少なかったので、私は労働者を指導する為党中央組織部に労働者出身の者を加えるべきだと云う事を強調しておりましたところこれが容れられ、私と荻野とが組織部に入ることになり、私は組織部の中にある大衆団体係りを命ぜられたのであります」。この供述に拠れば、かなり意識的な働きの結果宮本グループの党中央進出がなされたということになる。東京市委員会における袴田の後を木島隆明が引き継いだ。袴田は、続いて10月中旬の頃野呂委員長と会いその場で中央委員会候補者に任命された。秋笹も中央部員として「赤旗」編集局で働いていたが中央委員会候補者に任命されていた。これが後に主役として登場することになる面々の人間関係の党的位置であった。ちなみに、袴田が小畑を知るようになつたのは、こうして袴田が党中央部に来てからのこの頃のことであったということである。 |
その3.当時の党中央の党内対立と事件の相関関係について(1999.11.2日) |
この投稿からいわゆる「党中央委員大泉・小畑両名被リンチ査問事件」(以下「査問事件」と単に記す)の考究に入るが、その前にこの事件が提示している争点について明らかにしておこうと思う。通常小畑の死因論争と戦後になっての法的免責処理の了解の仕方に比重が置かれているようであるが、私はこれは本筋ではないと思う。むしろ、この事件をそうした二点に集中させていく手法にこそまやかしがあるとさえ思っている。判りやすく言えば焦点がぼかされ続けているように思うということだ。正確にはそれらは事件全体の一つの因子であって、この事件にはもっと考察されねばならない重要事項がある。この事件に関係した主要争点は以下のように考えられる。
以下、アプローチするが、袴田及び大泉の予審調書を頻繁に採用することになるのでここで予審調書の調書的意味を確認しておくことにする。「『予審』とは、旧憲法下の制度で刑事被告人を公判に付すべきか免訴にすべきかを決定する為並びに証拠保全のために公判では取り調べにくいと考えられる事項の取り調べを目的として予め審理した裁判所の手続きのことをいい、現憲法施行後は廃止された。その予審廷において予審判事の訊問に答えた被告人の陳述を、書記が筆記したものを『予審調書』と云う」(竹村一「リンチ事件とスパイ問題」16P)ということである。 |
その3.当時の党中央の党内対立と事件の相関関係について(つづき)(1999.11.2日) |
大泉対宮本−袴田の直前の対立は次のように明かされている。その一例を挙げる。昭和8年5月頃三船留吉の査問問題が発生した。やや詳しくこれを見ると、大泉曰く概要「この頃党中央委員会は、三船をスパイと決定しこれを査問して殺害しようという事になりました。私は三船を警視庁のスパイであると睨んでいたが、自分も追って将来に於いて警視庁の下に働きたいと思っていたので何とかして三船を助けようと考えました。しかしながら党決定である以上方針にしたがわねばならず困りました。宮本は右決定の日中央委員に昇格しました。具合の悪いことに私と宮本が三船の処分一切を一任されました。いよいよ実行の段になると宮本は急に逃げ腰となり抜けてしまった。卑怯な奴だと思ったがこれ幸いとして3名で三船を査問にかけた。三船は否認し続けたので注意を与えて放免した。そのいきさつの報告を受けた宮本は私をなじり、中央委員会決議の無視だと食ってかかった。結局のあげく袴田が登場してくることになり、三船の処分を党東京市委員会に任してくれということになった。ピストルの受け渡しを約束させられたが口実を設けて引き延ばしているうちに三船は逃亡した。この時取った私の態度が問題にされ、私が留守の時の後日の党中央委員会会議の席上宮本の提議によって譴責処分に付されそうになった。この時小畑が大泉が居ないという事を理由としてその決定を次回に延期させた。次回の中央委員会会議で私は、『もし自分が譴責を受けるとすれば、最初の査問の日逃げた宮本も同様査問されるべきである』と抗弁し、結局うやむやにしてしまった」(大泉「第14回訊問調書」)という陳述が為されている。 |
その3.「査問事件」発生当時の「党内スパイ対策」について(1999.11.4日) |
「査問事件」のドラマ化に入る前に、「査問事件」の背景にあったもう一つの動きとしての「党内スパイ対策」を検討しておく必要がある。この頃「特高」側の一層の暴力的エスカレートに対応させて党の方からもスパイ対策が積極的に講じられていくことになった。宮本氏は、後述する松原スパイ問題に関連させて33年(昭和8年)6.1日の赤旗における「プロヴァカートル(スパイ・挑発者)に対する処置として」の中で、概要「(スパイを見つけたら)ためらうことなく党中央委員会書記局あての密封上申書を信頼できる線を通じて提出すべきである」と警告している。この論文のおかしなところは、不幸にもこの時既に党中央にスパイが潜入しているとしたら、密封上申書がどういう意味を持つかということにある。「査問事件」の理由づけとしてなされた宮本氏らの言い分に従えば、この時点で既に党内の最高機関に二人もスパイが潜入していることになるのだからへんてこなことになる。それはともかく、この頃党内はスパイ対策をめぐって「食うか食われるかの切迫した鍔ぜりあいの状態」に入っていた。この事情は、広津和郎の「風雨強かるべし」(昭和9年7月.改造社刊行)で、「……左翼の運動がだんだん神経質になり、興奮性を帯び、何か落ち着いた、板に付いた感じがなくなって来ているのが感ぜられる。恐らく烈しい弾圧のためだろうが、同志が互いに猜疑の目で見合って、落ち着いた気持ちがなくなって行っているのが感ぜられる」と書いているような状況が生じていたようである。また、「この一年を通じて党がかかる状態に置かれたという事は、党を愛しその発展をねがう幾多の党員をして全党の清掃とボリセビキー化の必要を痛感せしめ、それらの同志の組織革新に関する上申書は幾通と無く中央部に提出されたのであります」(袴田第7回訊問調書)とも明らかにされている。ちなみに、大泉非難の上申書が何回となく提出されていたようである。 以上を踏まえて、私流ドラマを誌上再現する事にする。但し、非常に長くなるので以下小畑関係を中心に見ていくことにする。
なお 私の手元にあるのは先に挙げた著書の範囲の予審調書及び法廷陳述でしかない。このうち袴田と大泉の予審調書はほぼ出そろっているが他の三人のそれは一部しか漏洩されていないようなので正確は期しがたい。立花氏の「日本共産党の研究」は新資料を駆使しているので参照させていただくことにした。というわけでこれらをどう見るのかについて思案を凝らした。各自はそれぞれ事前に拷問を受けている筈であり(どうやら袴田は受けていないらしい。よくしゃべり協力的であったということであろうか)、警察または予審判事の誘導も大いに考えられるので、採用に当たってはまず作り事とは思えない陳述であるかどうかを重視した。 |
その3.「査問事件」の総括の現代的意義について(1999.11.5日) |
ともあれ、このような状況下の33年の暮れに「査問事件」が発生し、その三日後12.26日に宮本氏は検挙逮捕されている。宮本氏は、以来敗戦まで12年間を獄中に送ることとなった。敗戦の前年に氏の公判が開かれるているが、検挙以来黙秘を貫き、白紙の調書に象徴される完全非転向を貫いた、とされている。この間の様子は、中条百合子との「12年の手紙」往復書簡集他で知らされている。以下、このような経歴を見せる宮本氏が直接関与することになった「査問事件」について言及してみたい。 |
その3.小畑のスパイ性の根拠とその評価問題(1999.11.6日) |
今日においても小畑のスパイ性をめぐって見解が分かれている。正真正銘スパイであったと疑う者といやそうではなかったとする立場の者とに分かれている。大井廣介の遺書「独裁的民主主義」(昭和51年12月、インタープレス刊行)や亀山幸三の「代々木は歴史を偽造する」(昭和51年12月、経済往来社刊行)は、小畑はスパイでなかったという立場から書かれているらしいが私はこれらを読んでいない。これに対して、平野の場合は小畑に会った第一印象で小畑は臭いと感じたと述べ、この印象を補強する形で誰それの検挙は小畑が売った可能性が強いとか、取調べの際に自白か転向を促すために特高が小畑がスパイであるという秘密を公然と漏らしたとかを列挙している。さすがに立花氏は、もしそうなら逆に小畑がスパイでないことになると指摘している。特高は誰それがスパイであるとか漏らすことは御法度であるから常套的な内部攪乱のやり方であろうと理由を述べている。 |
(私論.私見)