「共産党の理論・政策・歴史」投稿文22(宮顕リンチ事件そのものの考察) |
(最新見直し2006.5.19日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件そのものの考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「宮本顕治論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており、この方が読みやすい面もあるので、ここにサイトアップしておく。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した) 2006.5.18日 れんだいこ拝 |
その4.「査問事件」直前の動きの再現ドラマ(1999.11.7日) |
その4「査問事件」発生、大泉・小畑捕縛時までの再現ドラマ(1999.11.8日) |
始めに。以下、煩雑を避けるために「予審訊問調書」につき単に「調書」とし、「公判陳述調書」につき「公判調書」と記すことにする。逸見と木島の「調書」については第何回目のそれか判らないので不明のまま「調書」とする。 |
その4、査問開始時の再現ドラマ(1999.11.9日) |
次のショット。「小畑・大泉を順次束縛した後、宮本顕治が査問委員長の格で、これを逸見や私が補助し、秋笹が査問の書記局を勤めることにして先ず小畑から査問を開始することになりました」(袴田11回調書)。小畑の方から査問するということあらかじめ決められていたようである。ただし、宮本氏によれば「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮本4回公判調書)と陳述されているようである(私には、このたびの査問が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽しようとする偽証のように思われる) |
その4、23日当夜の査問再現ドラマ(1999.11.10日) |
第三幕目のショット。袴田が査問場所を去った頃宮本が用を済まして帰ってきた。したがってアジトには宮本・秋笹・木島の3名が居合わせることになった。何とこの3名で深夜二時頃まで大泉・小畑の査問が続けられた形跡がある。「午後5時より林・金の両名を帰し、自分は宮本の勧めに依りその夜より査問に関与することと為りたり」(木島調書)とある。しかし、これが事実とすると、この3人の査問が行なわれたこと自体査問規律違反であったのではなかろうか。事は中央委員による他の中央委員の査問である。そういう重大性に鑑みて、このたびの査問は中央委員と同候補に限定して査問委員となしていたのではないのか。査問委員全員立ち会いの下でなされるべき重要なけじめが持たれるべきであり、恣意的になされることは大いなる越権であったのではないのか。特に宮本・袴田は、へいぜいよりこうした形式にはこたわる質の者であるが、こういう重大な事柄に対してそういう者が自らてんとして恥じざる規約違反するとは何ということだろう。あろうことか今日に至るも問題にされてさえいない。袴田は、「私は、同夜査問が続行されたという様なことは少しも知らなかったのであります」(袴田2回公判調書)と述べるだけで私は知らない関知しなかったで逃げている。 |
その4、「査問事件」二日目当初の様子について再現ドラマ(1999.11.11日) |
第四幕目のワンショット。ここは「日本共産党の研究三100P」を引用する。深夜の査問後宮本は階下に行って、徹夜で「赤旗」の原稿を書き、秋笹もちょっと原稿を書いてからアンカに入って仮眠をとった。午前7時頃原稿を書き終わった宮本が階下から上がってきた。秋笹も起き、皆で木俣が作った朝食を摂った。木島は前夜木俣が切っていた原紙の「赤旗」号外を印刷した。この12.24日付け号外は、大泉・小畑両名のスパイ摘発に成功したことと、その除名を伝える内容であったが、その原稿は事前に用意されていたもので、前夜の査問の結果を踏まえて書かれたものではない云々と書かれている。各調書資料をつきあわせるとそういう事になるのだろう。そうとすればひどすぎる。どういうことなんだ! 怒りを覚えざるをえない。 |
れんだいじさんへ(1999.11.12日、浩二) |
11月10日付、れんだいじさんの投稿「その4、23日当夜の査問再現ドラマ」に関して、ひとつだけ質問します。 「全体的に云って各予審調書並びに公判調書は不自然なまでに宮本の関与部分の記述を極力避けようとしているように見える。誘導尋問がなされたのはこのセンテンスにおいてであり、逆ではない。ここのところを踏まえないと論議が噛み合わなくなる。本筋から離れるのでこれ以上述べないが、特高と司法当局奥の院が介入しているのは如何にして宮本勢力を温存するかに傾注していることであったことを知るべきだろう」 これはどういうことでしょう? 「如何にして宮本勢力を温存するかに」? 何のことでしょう? なぜ「特高と司法当局奥の院」は「宮本勢力を温存する」必要があるのでしょう? これには何か確たる証拠というか、資料があるのですか?そ れとも、れんだいじさんの想像ですか? まさか……(以下、あまりにもこわいので略)。PS:私の方も以後、れんだいじさんの投稿を堂々と引用することにします(^-^;)。 |
その4、「予審調書・公判調書の信頼性」について(1999.11.12日) |
いよいよ「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマするところまできたが、ここら辺りで「予審調書・公判調書の信頼性」について再考してみたい。それらを如何に正確に読みとろうとしても、「予審調書・公判調書の信頼性」自体を否定し、あらかじめ結論ありきでこの事件に対する宮本氏の冤罪性を確信する者には役に立たないと気づいたからである。 |
その4、「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ(1999.11.13日) |
第五幕目、いよいよここから小畑死亡時の検証に入る。この死亡原因について、後日宮本氏は珍論を展開することになる。当事者の弁であるからむげに無視する訳にもいかない。以下の再現シーンで宮本氏の言い分の妥当性を検証してみたいと思う。ちなみに、宮本氏は、「第5回公判調書」で小畑の「遺体鑑定書」を読みとりながら次のように云っている。概要「鑑定人の云う如く『脳しんとう死』や『外傷性ショック死』ではない。なぜなら、それらの死因の構成要件である暴力や疲労や苦痛は存在しなかった」、概要「小畑の場合には、苦悶らしい声も出さず、逃亡さえ計画する余裕をもっていたのであり、査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われ、著しい疲労困憊はありえない。また暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない。しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、それが苦痛であったと思われるくらいのものである」(こういうことを本気で言っているのか愚弄しているのかは判らないが正気の沙汰ではない)、概要「むしろ『体質性ショック死』ないしは『持病性心臓麻痺死』ではないかと推定し得る」、のみならず「また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で脳震盪類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている」と「梅毒死」の可能性さえ示唆した。日本共産党の50年来のトップにある者の言い様としては暫し黙しつつ頬をつねらざるをえないが、取り敢えず感情抜きにこういう言い分が妥当なものかどうか以下検証する。 |
浩二さんへ(1999.11.14日) |
その4、小畑死亡に関する宮本氏の弁明について(1999.11.14日) |
小畑死亡時の様子に関するこうした袴田・逸見・木島・秋笹陳述に対して宮本はどのように主張したのか見てみよう。ところで、ここの部分に関して宮本がまじめに言っているのなら私もまじめに考察するが、とうていそのようには思えないので適当にチャチャを入れながら追跡していくことになることをご容赦願いたい。その前に整理しておきたいこととして、宮本は、小畑死亡時のみならず、それ以前の「査問事件」の発生過程と経過についてもすでに大きく異論を唱えていることを確認しておこうと思う。次のような特徴がある(「宮本第8回公判調書」を参考にさせていただいた)。単に小畑の死亡時の状況判断をめぐっての相違というレベルではないことが判る。 以上ここまでの経過でさえこれほど食い違いを見せる宮本氏の言いであるから、小畑死亡の経過に関して認識が異なるのもむべなるかなと言える。宮本は「宮本4回公判調書」で次のように述べている。概要「予審終結決定では、大変誇張して表現しているが、左様な事実はさらにない」、「ただ小畑が逃げようとして暴れた時、ちょっと騒いだぐらいである」。(ボソボソ)「ちょっと騒いだぐらい」とはひどいのではないかなぁ。曰く「従って、決定書に書いてあるようなことは出来る訳がない。この点に関する逸見の供述は相違している。逸見、木島の陳述は迎合的である。硫酸をかけたり、炭団を押しつけたりしたことはない。自分は静かに訊問しただけである」。(ボソボソ)「静かに訊問しただけ」というのもひどいなぁ。曰く「私が一眠りした時、物音で目をさますと、小畑は手足が自由になっていて起きあがろうとしていた。それに袴田が飛びかかって行き、逸見もそこへ来て袴田は足のほう、逸見は頭の方にいた。私も駆け寄って小畑の右手を小畑の横に座って両腕で抱きかかえる形で止めており、木島も来て向こう側で暴れる小畑の手を止めようとしていた」。(ボソボソ)「小畑の手を止めようと」してどうしたんだろう。そこの具体的な行為をちゃんと伝えてよ。曰く「小畑は手足を動かし、声を立てようとするので逸見は声をたてさせまいと口の辺りをおさえた。その時小畑は、風呂敷か外套を頭から被せられていたが、そのまま暴れたので皆で小畑を押さえ付けた。その裡に小畑は声を立てなくなり静かになった」。(ボソボソ)これでは、逸見の「口の辺りをおさえた」のが死因になってしまうではないの。曰く「結局我々としては、彼が騒ぎ出そうとしたので取り鎮めようとしただけに過ぎないのである。我々には殺意は全然なく、みなは蘇生することを希望していたのである。とくに蘇生に尽力したのは自分と秋笹の二人だけである。この点に関する逸見、木島の供述は相違している云々」。(ボソボソ)ソウカ「取り鎮めようとしただけに過ぎ」ず、蘇生に努力したのは「自分と秋笹の二人だけだった」のか。ソウカ救命尽力者として見てくれということか。地下に眠る小畑氏に聞いてみたいところだ。 |
その4、小畑の死亡原因の推定について(1999.11.15日) |
以上の様子から考えると小畑の死因は様々に考えられる。少なくとも関係者の突発性対応による「致死」事件であることには相違ない。この経過からすれば、直接原因は、1.小畑の全力反発による「脳溢血死」か、2.逸見の手による「喉締め窒息死」か、3.宮本の背中からの「圧迫死」か、4.当事者全員による突発性対応型の「暴行致死」ないし「外傷性ショック死」かということになるであろう。5.当事者全員の暴行による「脳しんとう死」はもっとも考えにくいが、最初の「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」の可能性を中心に据えて詮議したことにより、不自然なことに小畑の死因は「脳しんとう死」でありや否やをめぐって争われることになった。「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」を鑑定結果した理由は、小畑の遺体発掘時の稿で少し詳しく触れようとは思うが、遺体に暴行的損傷が多々認められたことにより、小畑死亡時の具体的な様子を理解しないままに損傷の程度から判断して結論づけたものと思われる。これに対して、後で出される「古畑鑑定書」は小畑死亡時の具体的な様子を精細に理解した上で「外傷性ショック死」を鑑定することとなったという違いがある。 |
その4.「小畑死亡」その後の経過について再現ドラマ(1999.11.16日) |
第六幕目のワンショット。何となく査問の打ち切り模様になった。「小畑が死んだ刹那から私共はそれまで続いていた極度の厳粛な緊張感から一時に解放されてホットした気分となり、彼らに対する査問も一段落ついたと思ったのであります」(袴田16回調書)。この「ホットした気分」の考察に注意を要する。今回の査問の主目的が小畑の査問であり、大泉は刺身のつまのようなものであったことを証左しているのではなかろうか。そういうセンテンスでここを読みとる必要がある。単に小畑の死亡により当惑したというのではなく、「とうとうヤッテシマッタ」という気分があふれている雰囲気を読みとる方が正確と思われる。 |
不幸な時代の不幸な出来事(1999.11.17日、木村) |
れんだいじさんの空前の力作が連日投稿されています。私は過去にも投稿していますので、私のだいたいの考え方はおわかりいただけると思います。「スパイ査問事件」については、ロッキード事件が発覚する直前に、国会で春日一幸氏(旧民社党委員長)が取り上げたことによって世間の注目を集めることとなりました。さらに、立花氏の著作が発表され、「犬はほえても歴史は進む」という「赤旗」紙上の反論があったことは覚えています。 さて本論ですが、れんだいじさんの「敗北の文学」に対する評価はたまたま私が考えていたことと通じるものがありました。たとえば、「将軍」という小説があります。あれなどはあの時代に書かれた小説としては高く評価してもいいと思います。 |
その5.宮本検挙とその虚実について(1999.11.17日) |
第7幕目のワンショット。宮本は二日後の12.26日逮捕検挙された。党史では「この摘発の途上で、1933年(昭和8年)12月、東京市委員会にもぐり込んでいたスパイ荻野増治の手引きで宮本顕治が街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて麹町署に検挙された」と書かれている。「党中央は荻野にスパイの疑いを持っていだいていたが、宮本が最後の連絡ということで出かけたところを敵の手にうられたのであった」(「日本共産党の65年」73P)とも追記されている。このような記述によれば、宮本の検挙は党にとって「査問事件」後の重要な時期での痛い検挙であったように受け止められやすいが実際は大きく様子が違うようである。次のようなものであった。「日本共産党の研究三112P」を参照する。概要「前日アジトにやってきた宮本は、今度は東京市委員会キャップの荻野の査問をすることにしたと木島に告げ、それを『木島が責任を持って東京市委員会でやれ』と命じた。しかし木島は、『東京市委員会にはとてもその力がない』というと、宮本は、『では中央委員会でやるから、ついてはその準備が完了するまで、木島と荻野と連絡をとるようにしてくれ』と頼み、木島は了承した。荻野は宮本のおぼえがあまりめでたくなかったようで、同じ東京市委員会に居ながら大泉・小畑の査問に当たっては計画段階から外されていた。この間荻野が受け持っていた下部組織で連続検挙があり、それが原因で荻野は木島にその地位を譲らされていたという経過があり、党内から疑いの目で見られていたとのことである。12.24日つまり小畑が死んだ日には木島と街頭連絡の約束があったが、その場所に行ってみると木島は来ていなかった。実際には木島はリンチ事件で忙しくて連絡どころではなかったのだが、そうとは知らぬ荻野は一層不安になった。翌25日、逸見と連絡をとると、逸見は大泉・小畑の査問の大要を話し、これから宮本に会うようにと指示した。指定された場所に行って宮本と会うと、宮本はこれまで荻野に対して『あなた』とか『きみ』とか呼びかけていたのに、この日は始めから『貴様』呼ばわりをした。宮本は、『大泉と小畑とを査問した結果、党の各機関に多数のスパイが潜入していることが判ったから、今後それらのスパイを徹底的に処断する』と云い、大泉・小畑の除名理由書のプリントを渡して、それを複製する仕事を命じた(この除名理由書の記載内容に興味があるが明らかにされていない−私の注)。 |
その5.大泉のその後について(1999.11.18日) |
第8幕目のワンショット。もはや大泉の査問は中止されたも等しかった。12.25日の朝は、秋笹・木島・木俣の3人が二人ずつ交替でピストルを持って監視したようである。「大体二日に亘る取り調べの結果、我々の予期していた通りのスパイの確証を握り、警察のスパイ政策も大体に於いて聞知したので、これ以上大泉を追及する必要も無し、仮に追求しても党にとって必要な事実も新たに出ないと考え」(袴田16回調書)られたのである。私は、この点につき少々疑惑がある。この言いまわしに見られる悠長さは何なんだろう。この言い回しもまた、そもそもこのたびの査問が大泉には主たる目的が無く小畑の方にこそあったことを示唆しているのではなかろうかという疑惑である。故意か偶然かは別にして、小畑の殲滅がなされた以上大泉はこの時点で厄介なお荷物になってしまったのではないかと推測する。それかどうか、大泉は、直ぐに放免するわけにもいかずという中途半端な状況に放置された。「ほとぼりが冷めて釈放しても党に被害が無いと云う見極めが付いた頃釈放することにし、それまで暫くどこかに監禁することに方針を決定したのであります」(袴田16回調書)。呼び出されていたハウスキーパーの熊沢は、奉仕した相手がスパイであることを知らされ、我が身を恥じた。12.30日頃から専門のピケとして林鐘年がやって来た。 |
木村さんへ(1999.11.19日) |
この度はご返信ありがとうございます。書き上げる私の方も大変でそろそろ潮時かなとも考えています。ただし、「査問事件」に関連した前後のところまでは完結しておこうと思っています。この間政治的影響も考慮しつつ投稿が上滑りせぬよう進めてまいりたいと思います。今後とも忌憚のないご交流をさせていただけますよう私の方からもお願い申しあげます(ちょっと一言。私の理解による木村さんの出足の文章はいつも感性的に私と同じです。ところが後半になるとよれてくるというか党の公式論に寄り添った傾向になります。私は木村さんの前半の問題意識を意固地に拘り続けてきているということになりますが、お互いこの辺りは時局認識等でご意見交流させていただきたく存じます)。 |
(私論.私見)