「共産党の理論・政策・歴史」投稿文22(宮顕リンチ事件そのものの考察)

 (最新見直し2006.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文で、ここでは「宮顕リンチ事件そのものの考察」をしている。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。現在は、れんだいこ論文集の「宮本顕治論」で書き直し収録している。前者の方がコンパクトになっており、この方が読みやすい面もあるので、ここにサイトアップしておく。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)

 2006.5.18日 れんだいこ拝


 その4.「査問事件」直前の動きの再現ドラマ(1999.11.7日)

 まず、第一幕のワンショット。袴田の大泉疑惑は昭和8年9月頃既に発生しているとのことである。袴田が宮本にうち明けている。「私が宮本に会ったときこの事を話すと同人の意見は完全に私の意見と合致したのでありますが、野呂は大泉を信頼しておるし又党の重要な地位にある大泉をスパイと断言する事は軽々しくは出来ぬ故ここしばらく様子を見ていようではないかと云うことになったのであります」(袴田第2回公判調書)という重大な陳述がなされている。他方、小畑疑惑も同様この時期に発生しているとのことである。袴田が秋笹にうち明けている。「小金井の組織部会の後、秋笹にこの間の組織部会の時の小畑の態度をどう思うかと云うと、同人も小畑はスパイだなどと云っておりました。なお、秋笹は、「このことについては宮本には話して呉れるな。宮本は西沢隆二を信用しているが、同人は小畑の下についている男でしかも挑発者の疑いのある男だからうっかり宮本に話すと却って宮本がひどい目に遭うかも知れぬという趣旨のことを云っておりました」(袴田第2回公判調書)。

 さて、ここで気になることがある。「査問事件」は袴田の発議で始まったことになっているが、本当にそうであったのだろうか。昭和8年9月頃と云えば、既に宮本が東京市委員会の責任者として配置されてきていた頃であり、この二人ともかって中央委員への抜擢を大泉に阻止された経験を持っている同士の宮本−袴田ラインの形成期であった。袴田が秋笹に小畑スパイ疑惑を相談するにつき、左様な重大な疑惑を宮本との相談抜きになしたとは思いにくい。通説の「査問事件」に対する疑問の指摘の第三点としておきたい。

 次のショット。そういう伏線を経て「小畑・大泉が怪しいのではないか、スパイではないのか、査問にかけよう」と最初に発案したのは当時中央委員候補であった袴田と秋笹両名の謀議からであったとされている。二人は、概要「査問をやるなら小畑、大泉両名を同時にやらねばならない。一人でやれば他の一人がそれに気づき我々にどんな事をするかも判らぬから、査問するならば二人同時に査問しようと云う事になり」(袴田第2回公判調書)云々と話し合った。しかし、時の中央委員両名を査問にかけるという意味は重大過ぎることでもあり、残りの宮本と逸見の承認と慎重な審議が必要であった。袴田が宮本を、秋笹が逸見を説得することにした。

 さて、ここで押さえておきたいことがある。ここで二人同時の査問を理由づけているが、実体は小畑の査問こそ主眼であり、その実行を首尾良く完遂せんがために大泉が利用されたのであって、そういう理由で二人の同時査問になったのではないかという観点である。事実「査問事件」の経過を見れば、小畑の方に重点が置かれていた様子を見て取ることが出来る。もっともこれは闇の部分であり、私はかく洞察しているということだ。通説の「査問事件」の不可解な面に関する私の指摘の第四点としたい。


 次のショット。そこで、袴田が宮本氏に相談したところ、宮本は一も二もなく直ちに同意した。「同人も小畑・大泉はスパイと云う意見を持っておりました」(袴田第2回公判調書)。他方秋笹が逸見に相談したところ、逸見はなかなか賛成しなかった。小畑はともかくも大泉は信用できると答えて話に乗ってこない(逆ではないかと思われるが実際にそう述べたのか入れ替えられているのかは判らない)。そこで、宮本・袴田・秋笹の3人掛かりで逸見を説得することになった。「宮本・袴田・秋笹の3名は、正式に彼ら両名を査問しなくともその罪状は明らかであると確信していました。しかし、中央委員たる右両名を査問し、党中央部のスパイ対策を決定し、これを党員等に発表して党の防衛を完全にらしむるためには中央委員会として正式に右両名に対する査問を決定しなければならない必要」(袴田第10回訊問調書)があった。

 何のことはない。結論先にありきで、形式上党中央全員を巻き込んだ形式での査問が必要であったというのである。そのためには「中央部員の一人でも右査問に反対する者があっては党中央部としての威信にも関するので」(袴田第10回訊問調書)、逸見を取り込むことがどうしても必要であったというのである。つまり、逸見を味方に付けるのが突破せねばならない最初の難関であったということである。

 こうして、3名が手を替え品を替えて逸見の説得に当たったが、逸見は「従来の関係から大泉・小畑両名に相当な信頼をかけていたため、この査問に対し消極的であった」(袴田第10回訊問調書)。「最初の会合の時は、各自意見を述べ合った結果宮本・秋笹及び私の3人は大泉・小畑の二人をスパイと認めて査問すべきであると云う意見に一致したのでありますが、逸見のみは彼らの行動に非難すべき点があるとしてもスパイとは認めがたいと云う意見であったのです」(袴田第2回公判調書)。この時の逸見は、両名の連絡網を断ち切って党外に放逐すれば良く、中央委員ともあろう者を軽々しく査問までする必要は無いではないかと主張した形跡がある。ところが、「又逸見の云うが如く彼らと連絡のみを切って放逐するだけでは彼らは策動し我々と対抗する組織を作るかも知れぬと云うことは充分考えられます。よって彼らを一時監禁し査問して彼らの罪状を摘発し、党並びにその指導下にある大衆団体を突き止めることにより、スパイに対する党の防衛手段を決定して初めてここに党の安全を確保することが出来るのであって、これが同人等の査問の目的であります」(袴田第2回公判調書)という論調に押し切られることになった模様である。

 「もっとも、逸見は、小畑に対する査問には割り方容易に賛成したのでありますが、大泉に対する査問には容易に賛成せず」(袴田第10回訊問調書)という反応を示した。「それが為査問の必要に迫られながらも、逸見説得の為相当な時間を費やしたのでその為に査問開始を私たちが予定したよりも遅延した訳であります」(袴田第10回訊問調書)。概要「それで宮本や私らは、逸見に対し極力説得に努め、その結果遂に逸見も両名をスパイとして査問することを承認したのでここに全員一致で査問を決行することを決定したのであります」(袴田第10回訊問調書、第2回公判調書)。

 とはいえ、逸見の態度は煮え切らないものであったようで、「2回目の時も逸見の態度は変わらずだったのでありますが、大泉・小畑等の嫌疑事実を一々具体的に話し、これでも彼らがスパイであると云う疑いを持てぬかと云いますと、逸見は自身でも小畑について彼が逸見に対し俺が中央委員でなければ一仕事金儲けが出来るのだと云ったことや、又党に於いては最重要な地位にある組織部長を逸見に押しつけて自分自身は比較的重要性の軽い財政部長となった事などを述べ、怪しいと思えばかようなことも疑えると云っておりました。かような訳で逸見の考えは前回より幾分我々の考えに近寄って来て結局査問しようと云う事になったのであります」(袴田第2回公判調書)。


 次のショット。こうして、大泉・小畑両名をスパイ嫌疑者として査問することが決定された。4名で日を改めること数度この問題を検討した結果、逸見もやっと渋々同意することになったということのようである。この時点の逸見の同意は、二人を査問すれば真偽が明らかになるであろうという消極的同意であったかも知れない。この経過は、「大泉・小畑両名を除く中央委員会メンバーが一所に於いてしばしば会合し、慎重に審議した結果、彼らをスパイ嫌疑者として査問することになり」云々(袴田第19回訊問調書)と陳述されている。

 具体的には、少なくとも第1回目が昭和8年12.3日、2回目が5日、第3回目が7日、第4回目が10日の順でそれぞれ場所を変えつつ会議が持たれた模様である。第1回目と2回目が逸見取り込みに要した会議となり、第3回目及び第4回目の会合はいずれも査問の手順方法や準備等に付き協議決定した会議となったようである。これは宮本・逸見・袴田・秋笹の4名全員が寄った会議という意味であり、この間宮本−袴田の打ち合わせは頻繁であったものと思われる。


 次のショット。こうして種々談合の結果いよいよ謀議の大詰めとなり、査問嫌疑事項の確認を終えると後は各自の役割分担を取り決めて行くことになった。この頃のことと思われるが次のような興味深い陳述がなされている。予審判事の「袴田は、宮本・逸見等に、『大泉や小畑を連絡に連れだしてどこかに行って後ろからガンとやっつけてしまってはどうだろう』と提議した事があるか」という訊問に、一応否定したものの「もっとも、確かに当時冗談に『後ろからガンとやってしまえば世話はない』という様な軽い事を云った事はあるかも知れません」(袴田第14回訊問調書)と陳述している。

 この陳述は、査問が小畑・大泉を葬る口実でしかなかったということを証左している点で重要である。もう一つのそれは、「九段坂の牛肉屋での会合の時だったかその会合で宮本が主として査問に当たることに決まったので私が『それじゃ俺がテロ係か』と冗談に云ったことはあります云々」(袴田第2回公判調書)と云う会話がなされたことを陳述している。おおよそ愚劣な政治意識が感じられる査問側の「正義」ではないか。


 次のショット。一応の手筈を次のように取り決めた。12.16日に査問を決行する、家屋の借り入れは秋笹、警備隊の動員は袴田と宮本、当事者の連行は逸見と宮本が担当することにした。そして査問当日の手順について打ち合わせをした。査問方法も確認したが、大綱の取り決めであった。こうして謀議が終結し、個々に任務を持って散会した。

 次のショット。袴田は、警備隊の動員を引き受けたので、12月中旬「かねて信用していた」木島隆明に大泉・小畑両名の査問することに至った経過と中央委員会決定を伝え、これの警備役を命じたところ、木島は即座に之を承諾した。警備一切の責任を任すことにした。なお、木島に査問道具の調達も命じた。被疑者を縛る針金、細引き、威嚇のための斧、出刃包丁等必要と思われる物品の支度を命じた。「その時の袴田の話で、私は宮本や袴田が党中央委員会のスパイを査問して殺して仕舞うのだなと感じましたが、当時私は党員であって、スパイを極度に憎んで居った際であったから、宮本や袴田等が党中央委員会のスパイを査問して殺すのは当然だと思って居りましたので、前述の如く凶器を買う依頼を承諾しました」(木島訊問調書)。木島は、リモコン的な部下2・3名を警備隊員として動員することにした。

 ここで触れておきたいことがある。威嚇のためとはいえ、調達が予定されていた査問道具を顧慮すれば、この度の査問が同志的な尋問方式によって行われるようとしているのではなく、監禁捕縛の上の強権的な査問方式で執り行われることが予め了解されていたということになる。その様子は追って知れることになるが、査問テロはなかったと主張する者は、こうした査問道具の調達がなされたことまで否定するのか肯定するのかにつきはっきりさせねばならない。

 次のショット。家屋の借り入れは秋笹の担当であったが、いつの間にか宮本が選定することになった。数日後宮本が家屋の借り入れが出来た旨伝えてきた。代々木山谷の一軒家であった。家の間取り図から付近図まで掌握され、査問決行日が決められ全員支度に入った。「朝8時木島はピストルを洋服のポケットに、出刃包丁と薪割を風呂敷包みにして持ち、かねての打ち合わせ通り江戸川橋近くの餅菓子屋三好野で宮本と最後の打ち合わせの為の連絡をとった。宮本は、『全部揃ったか』と尋ね、木島は『揃った』と答えた。宮本は円タクを止め、木島と共に乗り込み、車中で、それから2時間後の午前10時に京王線初台停留所付近に行動隊を引き連れてくるように命じると、春日町付近で円タクを止めて下車した」(日本共産党の研究三40P)。

 こうして当日午前10時頃袴田と木島警備隊他が要所に配置され準備万端整えていたところ、実際に借り入れ交渉に当たっていた某が直前になって家主に怪しまれ断られたという報告にやって来た。「いったん家主は貸すことを承諾したのですが、借り主の身元を調べたところそれが借りに行った者の云った事と違っていたとかで怪しみ貸さなかったとのことであります」(袴田第2回公判調書)。そこへ逸見・秋笹・宮本がやって来た、事情を知らされて結局この日の査問は中止となり他日を期して解散することとなった。ここのところ私の推測となるが、この時の大泉・小畑の呼び出しの様子が誰からも明らかにされて居らず、その点を考えると、慎重癖の宮本の為せる確認の芝居であったのかも知れない。


 次のショット。その翌日宮本・逸見・袴田・秋笹4名が集まり、査問の件について更に協議を行った。各自のアジトが官憲に分かっているようだから至急移転することと新たに査問アジトを探すことになった。秋笹が査問アジトの借り入れを引き受けることを言い出しとされているが、言い出しっぺであったかどうかは別にしてみんながこれに同意し、秋笹のハウスキーパー木俣鈴子がその直接の役に就くこととなった。

 次のショット。2・3日後秋笹が、東京都渋谷区幡ヶ谷にあった都心では珍しい閑静な場所で広さが格好の一軒空き家を見つけてきた。玉川上水路から北に5,60メートル入ったところにあった。ここが実際の査問場所となった。12.22日の夕方、秋笹の案内で宮本・逸見・袴田が下見した。2階に8畳間がありここを査問場所とすることにした。家の全体の間取り・付近の状況を確認し、翌12.23日査問決行を決議した。各自の任務分担と手筈を再確認し別れた。この間木島は宮本と19日、21日、22日と続けて街頭連絡をとっていた。ここまで見て判ることは、この査問事件の立案企画者が宮本氏であり、その実行計画の芯の部分のほとんども彼またはそのラインのリードでなされているということである。以下もそういう彼の能動的役割が見えるが繰り返さないことにする。


 その4「査問事件」発生、大泉・小畑捕縛時までの再現ドラマ(1999.11.8日)

 始めに。以下、煩雑を避けるために「予審訊問調書」につき単に「調書」とし、「公判陳述調書」につき「公判調書」と記すことにする。逸見と木島の「調書」については第何回目のそれか判らないので不明のまま「調書」とする。

 なお、以下かなり長文化するのでここで「査問事件」のその後の展開についてコメントしておく。「査問事件」は事件以降隠蔽され続けようとしてきた。しかし、現に小畑が死亡せしめられているわけだから、事件そのものまでなかったことにするのはさすがに難しい。では、どういう風に隠蔽されたのかということになる。それは、二つの系流で行われた。一つは、宮本氏によって、小畑・大泉はスパイであったのであり、党内の当然の査問過程で小畑の異常体質による急性ショック死に起因して自ら死んだものであり、査問側の責任は一切免責されると云う論調でなされた。宮本氏は、こうして死因の解明を避けつつそういう事態に党を追い込んだ責任として当時の暗黒的政治支配体制の方に目を向けさせる作戦に出た。公判では、専らこの方面での批判を滔々となすことにより一種独演上の舞台を演出し、こうして事件そのものを矮小化させた。他方で袴田は、小畑・大泉はスパイであったのであり、当時の査問側には査問的正義があったとする観点から査問の経過を饒舌に語るという論調で補強しようとした。これを党内問題とみなすことを要求しブルジョア法廷で階級的裁判されるにはなじまないとする作戦に出た。これが二人のあうんの呼吸であった。

 ただし、この論調を貫徹させるためには他の当事者を沈黙させる必要が生じた。最重要人物は秋笹であった。査問発端以来の経過を熟知していることから秋笹の存在は都合の悪いものであった。そうした事情によってか秋笹は発狂の末獄死するところとなった。面会人にも法廷でも誰をスパイと告げていたのか不明であるが「スパイだ、スパイだ」と叫んでいたと言れている。木島はもともと宮本の私兵的な存在であり、査問用具の調達から暴力行為の先兵的な役割を深く果たしていることもあり事件の隠蔽に同意させるのはさほど困難ではなかった。逸見の存在が不気味となったが、逸見自身は深い謀議も知らず単に巻き込まれただけのことを特高側も知っており、秋笹に続いて逸見までもという訳には却っていかなかったのではないかと私は推測している。大泉は当局のスパイであり、当局のシナリオ通りに従った。真相を明らかにするためには統一公判が必要であったが遂に実現していないようである。誰が拒否したのだろう。当局もまたなぜ統一公判を避けたのだろう。こうして、「査問事件」全体がヴェールにつつまれることになった。その解明が進むことになったのは平野の手元に保管されていた袴田・大泉調書の全容漏洩によってである。これがなければ、「査問事件」は永遠に小畑がスパイであり、その死は異常体質による急死であったという説がまことしやかに信じられていたことであろう。


 第二幕目のワンショット。当日の状況を再現する。1933年12月23日、いよいよ手筈通りに事が進められていくことになった。午前8時頃袴田は木島と出会い、いよいよ査問が決行されること、査問場所に関する地理等を伝え、警備に関する手筈を打ち合わせ、先に現場に行っているよう言いつけた。木島は「かねての宮本の指図に従い林鐘年・金秀錫両名を伴い」(木島調書)現場ピケ(見張り)に向かった。袴田はその後で宮本と打ち合わせしたように思うがはっきりしないと言っている。9時頃袴田は現場へ向かった。現場へ到着した時刻ははっきりしないが、査問1時間程前だった。アジトへ着くと木島が既に来ており1階にいた。防衛警備に木島の手の者複数が配備されていた。秋笹のハウスキーパー木俣鈴子も1階にいた。袴田は直ぐに査問予定の二階の8畳間へ上がると既に秋笹がいた。部屋には、木島が用意した斧2挺、出刃包丁2挺、硫酸1瓶、細引き、針金等査問用器具が押入脇の壁の前に置かれていた。部屋の真ん中位の所に瀬戸の火鉢1個、床の前に布団を被せた行火(あんか)1個、床の窓側に謄写版が置かれていた。査問予定時間まで間があったので、袴田と秋笹は火鉢の所に座ってそれまでいろいろ雑談を交わして待った。時刻が近づいて来るに連れて段々緊張して待ち構えた。

 次のショット。大泉は「16回調書」で概要次のように語っている。この日9時10分頃中央委員会を持とうという逸見の誘い出しにより事前の待ち合わせ場所に行ったところ、逸見と思いがけなくも宮本がやって来た。9時40分頃が予定時間であったので3人はタクシーに乗って打ち合わせ場所に出向いた。小畑が既に来て待っておりこうして4人が揃った。すると、宮本が、実は逸見がアジトを用意しており議案がいろいろ溜まっている事でもあり一つそのアジトで協議しようではないかと提議した。既に述べたように野呂検挙以降「その後しばしば会合を持たねばならなかったが、アジトと金がないので延期になって居ました」(大泉16回調書)という事情にあり、懸案事項が溜まりに溜まっていることは事実であった。大泉は、日頃より宮本には無条件で信頼する事が出来なかったのでいろいろ質したところ、信用している逸見までが安全だから行こうよと誘うので同意することにした。続いて小畑も同意した。

 一同はタクシーを拾うことにしたが、宮本は一つ車に乗ろうと提議し、小畑は否、年末で敵の警戒が厳重であるから二つに分乗しようと言い小畑と大泉で一つ車に乗ろうとした(小畑の対特高警戒心と宮本等に対する不信が見て取れるであろう)。宮本と逸見は、否、それは不経済であるし君たちばかりではアジトの場所が判らないだろうと言うので仕方なく4人が一つ車に乗って向かうことになった。現場近くまで来た途中で宮本の危険を避けるためと云う提議に従い二手に分かれ、宮本が小畑を、逸見が大泉を連れて歩いてアジトに向かうことになった。大泉は逸見に連れられてアジトに向かうことになったが、道を間違ったとか言いながら時間をつぶされた。後で考えると宮本らが小畑を処分する時間稼ぎであったことになる。


 次のショット。こうして待ち受ける中、午前10時から11時頃にかけての間と思われるが先ず宮本が小畑を連れてやって来た。二人は何か話をしながら階段を上ってきた。袴田は、それと察し用意してきた実弾装填のピストルを片手に細引きを片手に身構えた。秋笹も立ち上がって待ち構えた。宮本は小畑を先導させつつ二階へ誘導した。宮本は、小畑が部屋へ入るなり後ろから首を羽交い締めする格好で小畑の動きを制止した。宮本は、「これからお前をスパイの容疑で査問する。神妙にせよ」、「絶対に大声を立てたり暴れたりしないよう」と力を入れた。袴田・秋笹も「大きな声を出すな、大声を立てるととんでもないことになるぞ。決して得策ではない」等同様のことを言い渡した。かくスパイの嫌疑で査問する旨を宣言したようである。すると、小畑は、「蒼白な顔色になり」非常に驚くと同時に事態を察知した。「何でも訊いて呉れ」と言って「尻餅を着くようにへたばってしまい」座りながら、「ああ、よしよし絶対暴れなんかしない」と言っておとなしくなった。小畑のこの動きは、誤解を解けばよいと安易に受け取ったものと思われる。この時彼が大立ち回れしておけば未遂で終わったものかどうなったものかはわからないが、少なくともリンチ査問の末の無惨な死はなかったであろう。

 実際は、不承不承ながら小畑は応じることになった。3名は、小畑を部屋の奥の方へ引っ張り込んで、手筈通りに小畑の外着を脱がせた上で細紐で両足首と両手を後ろ手に縛り付けた。身体検査も行った。所持金・名刺入れ・手帖・時計等が押収された。この後直ぐ大泉が来る予定になっていたので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、手ぬぐいで猿ぐつわをして押入に監禁した。この時宮本は懐中にピストル一挺を忍ばせていたと推測されている。


 次のショット。約20分後、逸見が大泉を連れてやってきた。ここのところについて大泉の調書では、概要「大泉が査問アジトの二階へ上がるや否や、木島・秋笹・袴田の3名が飛びかかってきて、各ピストルやドスを突きつけて私を取り巻き、『これから貴様を査問する』、『声を出すと殺す』と脅かした」、「『シマッタ。これは最後だ』と直感しました」と述べている。袴田は、そういう言い方ではなく『騒ぐとどうなるか判らないぞ』と脅かした様に思う」(袴田18回調書)と述べている。なお、木島はいなかつた筈であると指摘している。いた可能性もないわけではないが木島本人の陳述では午後から参加したことになっている。この場面更に補足して大泉は、「部屋にはいると宮本が左手にピストルを持ち、右手で私のオーバーの左襟をつかみ引き倒そうとしました。逸見は階段を私の後ろから追うようにして上がって来ました」(大泉16回調書)と述べている。

 この陳述の意味は、小畑同様の手順で部屋に入った大泉の後方から逸見が首締めを行ったのではなく、宮本がピストルを構え同時に柔道技でつかみ倒そうとしたということにある。いずれにせよ協同して大泉の自由を奪ったことには違いない。袴田調書によると「スパイ嫌疑で査問するからじたばたするな」と口々に言い渡すと、大泉は、このものものしさに大層びつくりして「小畑以上に驚いて蒼白な顔色になり」、「尻餅をついてへたばり、『何でも言うから手荒な事はしてくれるな』と云っておとなしくなりましたので、それ以上脅かした様なことはなかったと記憶しております」(袴田18回調書)とある。「手荒なことはしてくれるな」とは「手荒なことはしないで呉れ」という意味である。大泉の16回調書では、「否、騒ぐと君の方も損だから静かにやろうではないか」と言い返したとあり、その後続いて概要「連中は先ず私のオーバーを洋服を全部剥ぎ身体検査を為し、所持品全部を調べ、その後ワイシャツ一枚にせられ、主として木島・袴田によって針金で手足を縛られました。足は股、膝下、足首の三カ所を縛り、膝下を後ろに回しその針金の続きで後ろ手に縛った針金と結び合わせられ、逸見がご飯粒を錬ったものを耳に入れて詰め込み、手ぬぐいその他で目隠しし、それから猿ぐつわをはめました。次いで一同は私を押入の下段に入れました」とこの時の様子を明らかにしている。この大泉の陳述通りとすれば小畑もほぼ同様の格好で捕縛されていたと考えられる。身体検査の結果所持金・名刺入れ・手帖・時計等が押収された。


 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、小畑・大泉のこの捕縛経過についても異論があるのだろうか、ここまでは大凡その通りであったかも知れないとしているのだろうかにつき、はっきりしてもらいたい。大泉の捕縛された時の状況説明はなかなかリアルであるが、過剰な表現なのかどうか分析していただきたい。それとも何か、このたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。当然ながら小畑には陳述出来ない。

 次のショット。こうして両名の査問が始まった。以降査問は23日と24日の両日にわたって行なわれることになる。注意すべきは、取り調べ状況が第一日目と二日目では大きく様変わりしていくことになり、第一日目は比較的「大泉等に対して査問中暴行脅迫を加えたことは間違い有りません。大泉に対しても又小畑に対してもあまりひどい事はせず」(袴田14回調書)散発的に暴力が振るわれる程度で比較的大人しく推移したと言う。ところが、打ち合わせのないままに第一日目の深夜も査問が続行された模様であり、二日目の査問では「前日より厳しく追及し、従ってそれが為に暴行脅迫の程度も前日に増しておりました」(袴田14回調書)という具合にかなり激しくなされたようである。ただし、ここのところの区別について大泉の調書では明瞭でなく、当初より「殴られたり蹴られたり手荒い事をされたために意識を失ったとか包丁で腹を切られたとか申しておりますがそれなんかは全くのデタラメであります」(袴田18回調書)という袴田氏の言い分と整合しない。

 注意すべきは、「逸見を除く3人は最初から大泉・小畑両名のスパイなりと確信してから決行したのであります」(袴田10回調書)というように、査問に向かう逸見と他の3名の間には姿勢の違いがあったことである。更に注意すべきは、概要「最初から彼らを殺すと云う事を目的として査問した訳ではない」、「査問委員たる4名はそんな極端な考えは持っておりませんでした」(袴田13回調書)が、予審判事により、木島をリーダーとする警備隊の中には当初から殺害意思があったのではないかと訊ねられた際に「木島或いはその他の者の中には、いやしくも中央委員たる者がスパイである事が判ればこれに対し私刑を以て臨まねばならないと云う極端な考えを持っていたかも知れません」(袴田13回調書)と陳述していることである。

 つまり、部下の責任においていつでも殺させる事が出来る体制を敷いていたということになる。なお、査問後の二人の処置について「(査問打ち合わせのどの時点においても)査問の結果スパイたる事実が確定すれば彼らを殺すとかどうするとか云うことは論議しませんでした」(袴田10回調書)とも陳述している。おおよそ、査問する側の無責任無能力ふざけぶりを語っているではないか。この査問中ピストルで脅しながら訊問したかどうかは不明である。袴田は、査問中床の間付近に置いてあったと証言している。「ピストルは大泉・小畑両名に威嚇の為とアジトが警官等に襲撃された場合のアジト並びに同志の防衛の為に用意し、出刃包丁等は右両名に対する威嚇の為でした」(袴田13回調書)とある。


 さらに興味深い陳述がなされている。予審判事の査問中大泉・小畑両名に食事を与えたのかという訊問に対して、「与えなかったように思います」(袴田14回調書)と答えている。何とも無惨無慈悲なことをしてくれるではないか。用足しの記述もない。大泉が押入に小便を二度漏らしたというぐらいで小畑については記述がない。

 更に重大な陳述がなされている。「前回小畑の査問中彼の頭にオーバーが被せて無かった様に述べたが、それは誤りで大泉には被せなかったが、小畑には被せたまま査問したのです」(袴田3回公判調書)という陳述が為されている。これは、第3回公判冒頭での「前回まで被告人が述べた事につき訂正する点は無いか」という判事の定例の問いに対して袴田が訂正をなしたものである。袴田にとっては何の益もない訂正であるからこの証言は恐らく事実と思われる。既に何度も指摘しているが、この陳述はこのたびの査問が小畑にこそ主眼が向けられていたということの裏付けになるであろう。ただし、この陳述を精査していくと、小畑には途中からオーバーが被せられ通しであったということと大泉の場合スパイを自認してからは除されていたというのが実際のようである。


 その4、査問開始時の再現ドラマ(1999.11.9日)

 次のショット。「小畑・大泉を順次束縛した後、宮本顕治が査問委員長の格で、これを逸見や私が補助し、秋笹が査問の書記局を勤めることにして先ず小畑から査問を開始することになりました」(袴田11回調書)。小畑の方から査問するということあらかじめ決められていたようである。ただし、宮本氏によれば「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮本4回公判調書)と陳述されているようである(私には、このたびの査問が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽しようとする偽証のように思われる)

 。査問が開始されたのは、午前11時過ぎ頃から12時頃までの間であった(逸見の調書によると午後1時頃となっている)。「この小畑の査問中は同人の両手を後ろに廻し針金と縄で縛りたるままにて実行したるものなり」(逸見調書)。「彼らが査問を破壊する行動に出るかも知れぬので、査問を平和裡に行うには仕方ない」(宮本4回公判調書)ことだったようである。押入から小畑が引き出され、替わりに大泉が押入に入れられた。こうして査問が始められた。小畑を取り囲むようにして車座になった。まず、宮本が、小畑に対して「これからお前をスパイとして査問を開始する」旨を言い渡した。小畑は、「よく調べてくれ」と素直に応えた。「へき頭宮本は、小畑に対し、『君たちの査問はもっと早くやる筈であったが、延び延びになって今日からやることになった。今度は1週間くらい監禁して徹底的に調べるからそのつもりでおれ。今度は君たちばかりでなく他にも数名同様に査問を進めて居るからデタラメな事を云っても直ぐ判るぞ』と嚇し、袴田は『何遍も同じ事は聞かないから嘘を云って後で取り消す様な事があると承知しない』と云って訊問に入りたり」(逸見調書)とある。

 この時の袴田の感想によれば、要約「いやしくも党の中央委員がスパイ嫌疑の下に査問されようとしているのだからこれを重大な侮辱と受け止め、反抗的態度を取るべきところに拘わらず却って我々の機嫌をなるだけ損ねまいとする態度を装ったのでますますスパイの嫌疑を深めた」(袴田11回調書)ようである。先に小畑を捕捉した際に「大きな声を出すな、決して得策ではない」と言い聞かせていたことを考えるとなにをかいわんやではないか。


 さて、いよいよ査問に入った。宮本4回公判調書によれば、「身上関係、家賃三ヶ月の滞納の件、連絡関係、闘争履歴、入党事情などを質したるあと、前述の嫌疑事項で申し述べた事項に関し、逐次尋問したところ云々」とある。こうして査問側はあらかじめ打ち合わせてあった不審嫌疑事項に基づき小畑を一問一答式に訊問していったところ、小畑は訊ねられたところだけを簡潔に述べたという。事項の一つ一つは「日本共産党の研究三50P」を参照されたし。要するに査問者側の口車には容易には乗せられなかったということになろう。この間小畑は、誤解を招いた諸点については「悪かったと謝罪」している。次に直接的なスパイ嫌疑事項に関して訊問がなされていった。この時小畑は「答弁が曖昧」で「曖昧な言辞を弄して我々の満足する様な返答が出来ず」、「そんな行動をとったことは非党員的で悪かったと申しておりました」(袴田11回調書)。

 興味深いことは、「党内に於けるインテリ分子と労働者出身との離間策を盛んに行ったこと、例えば、自分が労働者出身たることを吹聴し、野呂・宮本等インテリ分子を故意に悪評して、聞く者をしてインテリを蔑視せしむるが如き態度を執った」理由について訊ねたところ、小畑は「自分を故意に偉く見せようとして宮本等をけなし、それによって離間策を行おうとしたのではないが、そういう事実があったとすれば、それは非同志的行動で悪かったと謝罪」(袴田11回調書)したとのことである。語るに落ちる話であって、小畑と宮本との党内対立があったことを如実に物語っていよう。続いて、更に興味深い訊問がなされている。査問側は、小畑が野呂の後がまを狙って野呂を官憲に売ったのではないかと追及したようであるが、これに対し小畑は、そういう事実はなく、ただし通称「馬」を上海に独断で派遣した事実について「党として重要な仕事を他の中央部員にも相談せず、独断で行った事は誤りであると云って陳謝しました」(袴田11回調書)という。これも語るに落ちる話であって、野呂の後がまを狙って官憲に売ったという意識の醸成側こそそういうことをやらかす可能性があるように思われる。


 次のショット。「これ以上の訊問はらちがあかず、ここで一応小畑に対する査問を打ち切り、同人を束縛のまま押入に入れ、代わって大泉を押入から出して小畑同様な順で査問を開始しました」(袴田11回調書)。「同人も同様針金縄等を以て手足を縛りたるまま訊問したり。大泉の訊問中木島が来たり爾後同人も査問に参加するに至りたり」(逸見調書)。ところで、査問テロはなかったと主張する者は、査問時のこうした小畑・大泉の捕縛状況についても否定するのだろうか。ここまではおおよそその通りであったかもしれないとしているのだろうかにつきはっきりして貰いたい。それとも何か、繰り返すがこのたびの査問はお互いにテーブルを挟んで査問会議の形式で行われたとでもいうのであろうか。

 大泉の嫌疑事項には小畑のそれとの大きな違いがあることに気づかされる。その一つは、「中央委員ともある者が自分の連絡を一々手帖に記載しておかなければ覚えておらないと云う事は党員の資格のないことであり、又スパイの証拠ではないか」と訊問されていることである。逆に推測すれば、小畑にはこのようなお粗末さは見られなかったということになる。これに対して、大泉は、「自分は頭が悪いから一々書かないと活動が出来ない」と答えた。「更に連絡相手のペンネーム、連絡場所、時間等を巨細に書いてあるのはどういう訳かと追及すると、彼は返答に窮して只謝罪するばかりでした」(袴田11回調書)。又、嫌疑事項に対する返答においても小畑とは違いが見られた。「客観的にはスパイ的行動で誠に済まなかったと陳謝しました」、「具体的事実について質問すると彼は答弁もしどろもどろ」、「答弁に窮し只陳謝するばかりで辻褄の合った返答も出来ず、この査問を通じて大泉の態度は小畑以上に迎合的であり、また追従的であり、なるだけ寛大な処分をして貰いたいと見える様な哀願的醜態でありました」(袴田11回調書)。「この大泉の査問中木島が二階に上がってきて査問を聞いておりましたが、時たま大泉が返答に窮したときには、『この野郎』と云って、大泉を殴ったり側から口を出したりしていました」(袴田11回調書)。

 この間大泉・小畑の査問のいずれかの際にか両方の際にか不明であるが、「脅したり、頭、顔、胸等を査問委員の者が平手或いは手拳を以て殴ったり又は足で蹴ったりしました。木島も時々脅し文句を言ったりしてゴツンゴツン大泉・小畑を殴ったりして居りました」(袴田14回調書)と陳述されている。つまり、本来、木島は警備隊の役割で参加しており、このたびの査問委員では無かったにも関わらず、いつの間にか特攻隊的な役目で暴力リード係をつとめていたことが伺える。


 この時の査問の様子は次のようであったと大泉は陳述している。概要「目隠し猿ぐつわのまま、宮本が主となって査問が始められました。金の出所の説明、党員除名の承認、スパイ行為の承認、ハウスキーパーの詮議が為された。彼らは査問すると云うより私に発言の機会を与えず計画的に私をスパイだと云って拷問するのであります。訊問事項を訊ねる度に主として宮本・木島・袴田が私を殴ったり蹴ったりします。私は苦しいのでただ首を頷いたり横に振ったりしたので彼らは一層私の態度を曖昧だと言ってテロを加えます」(大泉16回調書)。この後「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本・奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為に血が私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶したように思いますが判然しません」(大泉16回調書)と述べている。但し、歯が折れたという部分は他の者の陳述にはないのでこの部分前後の大泉の陳述の真偽が問題になる。

 査問の動き全体は査問当日直後は比較的おとなしく、(当夜と)翌日の午前からエスカレートしたというのが当事者のほぼ一致した陳述であり、この最初の査問時より殴る蹴る的査問が行なわれていたのかどうか判断が難しい。ただし、前歯と奥歯一本宛が折れていたというのであれば大泉の逮捕後の診断所見ではどうなっているのだろうかと見れば記述がない。私としては、大泉の査問風景の陳述は参考に留めることとする。かたや査問側4名、かたや被査問側1名の言い分であり、もう一人の当事者は死亡しているのでどうしても大泉一人の陳述は分が悪いということと大泉の陳述全体に前後の混乱が見受けられる部分があることによる。可能性の一つとしては、頭被せの例を見ても判るように主な暴行が小畑にこそ向けられていたことを隠蔽するための大泉の過剰陳述が考えられる。


 次のショット。この間小畑と大泉の査問が交互に行われたようである。査問第一日目のこの時は小畑査問の時は大泉は押入に入れられ、大泉査問の時は小畑が入れられるという具合で交互に入れ替えられたようである。一体に言って、大泉はしどろもどろの答弁になり、小畑の場合は簡潔に受け答えがなされたようである。再査問の頃から査問側に次第にあせりと余裕が失われていき、「嘘を着くな」、「素直に白状しろ」の言辞を暴力的に行なっていくことになった。後ろから首を絞めるようにしながら「白状しろ」と迫ると、小畑は、苦しさからか「わかった。云うから待ってくれ」と応えたので緩め「では白状しろ」と迫ると、一見自分の非を認めながら、部分の非は認めても全体としてスパイではないと云う結論に辿り着く。査問側は業をにやした。理詰めでは小畑のスパイ性を明らかにすることが困難であったのである。この時の査問は平穏を基調にして行なわれたとはいうものの次のような陳述がなされている。ただし翌日にも同じようなことが行なわれているのでこの時のことかどうか不明であるが、「午後二時頃自分はタドンを火箸にて挟み、小畑の踵(かかと)の辺りに一回押しつけると小畑は慌てて足を引っ込めることあり」(秋笹13回調書)と述べられている。この様子は袴田によっても「秋笹は、小畑の足の甲辺りに火鉢の炭団(タドン)の火を持って来てくっつけました。すると小畑は『熱い、熱い』と云って足を蹴り上げました」(袴田14回調書)と陳述されている。「訊問中小畑の供述に前後撞着する如き場合には、『何故最初から本当のことを云わぬか』と難詰し、宮本・袴田・秋笹の3名は小畑を打ったりなぐったり蹴ったりし、又秋笹は『何故嘘を云うのか』と云いて薪割用の小さき斧にて頭をコツンと叩きたることあり」(逸見調書)。

 次のショット。この時点の頃と思われるが憤りを覚えざるをえない次のような木島の調書がある。「暫くすると二階から宮本と秋笹が降りてきた。宮本は立ちながら両手を洋服のズボンのポケットに突っ込んで私に対して、『ヤァご苦労だった』と云い、更に言葉を続けて『未だ奴らはスパイとして本音は吐かないが奴らのスパイである事は疑いない事実である。何しろ愉快なことがある。今朝まで彼奴らは我々に対して中央委員会は我が物顔で威張っており、物言い方などもまるで子供にでも対するような態度であったが、我々が彼らを家に連れ込むなり『党中央委員会としてお前達に嫌疑があるから今日査問を行うから神妙にせよ』と云ったところ、彼奴らはブルブル震えだし今朝までの横柄な態度は何処へやらまるで狼の前の羊の様な態度になり下がりへいへいして居った。スパイでなければかかる急変な態度にはならないものだ。その態度たるや実に愉快なものであった』と申して宮本は大笑いしました」(木島予審調書)。その他宮本が木島に、「とにかくこの査問会は党空前の画期的闘争だ。こんな素晴らしい闘争に君が労働者として参加できたことは実に光栄だよ」と言うので、木島は「光栄です」と答えたと言う。

 何と嫌らしい労働者のあしらい方だろう。同じ様な趣旨を秋笹も言い、木島は「力の限り党のために働きます」と答えた、という。そのうち宮本が、「どうだ君二回に上がって奴らのざまを見ないか、実に滑稽なものだよ」と言うので、木島は二人について二階に上がった。木島は目の前にいるスパイを見て興奮し、「この野郎太い野郎だ」と言って大泉を殴ったり蹴ったりした、とある。この時点からどうやら木島は査問に参加したようである。

 次のショット。こうして査問していくうちに全員相談の結果両名の住居の捜査を行なう事に決定した。両名に住居の略図を書かせ、なお大泉にはハウスキーパーがいたため、同女に宛てた簡単な手紙を書かせた上、木島に命じて直ちに捜査に向かうよう指示した。手紙の文面は、概要「急に大阪に出発することになったから党関係の重要な書類や株券等を使いの者に持たせてよこして呉れ、なおお前も一緒に来る様に云々」というものであったようである。「出発に当たり宮本・秋笹より大泉の妻を同伴し来るべきことを注意せられたり。自分はスパイの家へ一人で行くは危険と思い加藤亮に同行を求め同人と二人にて云々」(木島予審調書)(加藤亮については突然触れられているので何者なのかよくは分からない)。こうして査問が続けられていくうちいつしか外はもう暗くなっていた。午後4時頃という陳述もあるが恐らく午後6時から7時頃であったようである。各査問者はそれぞれ連絡を持っていたため、一応両名の査問を打ち切ることにした。「かようにして両人の査問は午後4時頃終わったのでありますが、この間一同が平手或いは拳固で数回両人を殴りつけた事は事実ですが、器物で殴った様なことは一回もありません」(袴田2回公判調書)とある。

 この陳述はすでに見てきた様子と異なるが、私は袴田の責任回避の偽証とみなす。大泉・小畑両名を更に細引き・針金等で縛り直し、更に猿ぐつわ・目隠しを施して小畑を押入に入れ、大泉にも「再び私に目隠しを施してその上頭から何か被せて仕舞いました」(大泉16回調書)。そして、押入側の壁に背をもたせて放置し、特段の連絡を持っていなかった袴田が監視した。逸見・宮本が連絡のため査問アジトを出ていった。


 次のショット。アジトを出た後のそれぞれの足取りは確認されていない。おかしな事だが予審判事が聞いていないようである。ただし、この時の逸見の大体の足取りは割れている。どうやら、逸見は、この査問の経過を信頼できる筋に報告に出向いていたようであり、当時農民組合の党フラク・キャップであった宮内勇に次のように査問の様子を伝えたとのことである。この経過の貴重な証言が残されている。なお、この宮内は、翌年袴田執行部に反旗を翻し、党中央は袴田等のスパイにより乗っ取られたと見て公然と「党内多数派」を結集する動きを見せていくことになる。それはさておき、この時逸見は、「大泉にくらべると小畑の方がどうも大物らしい。小畑は松村直系のスパイかも知れない。奴はなかなか口を割らないので査問に手こずっている。大泉はすぐペラペラ白状したところをみると案外小物かも知れぬ」と宮内に感想を伝えたとのことである。

 ところが、この査問の報告を聞きながら、宮内は次のように考えたと云う。「問題は、(査問側の云うような事が事実だとすれば)つかまったらすぐスパイに転向するような奴が安易に中央委員にのし上がることができたというそういう党の組織と人事のデタラメさである。スパイが中央委員になったのではなくて、中央委員がスパイになったとすればそのことの方がもっと問題だ」、「小畑達夫については、その人物乃至当時の状況判断からしてスパイであったかもしれないと思うが、さりとて彼をスパイであったと言い切る材料は私には全くない」。宮内のこの指摘は、なかなか的確で鋭く核心をついているように思える。


 ところで、宮本のこの時の動きは本人が明らかにしていないようなので判らない。「私はちょっと外出して帰って」(宮本4回公判調書)と述べるにとどまっている。「ちょっと外出して」何をしたのか是非知りたいところだ。

 次のショット。木島は指令を受けるや直ちに出かけた後1・2時間して帰ってきた。木島は、最初小畑のアジトへ行ったが、同人の部屋に入ると下宿先の主婦が非常に不審そうな態度をとるので落ち着いて捜査することが出来なかった。小畑のトランク等には全部鍵がかかっていたので開けて見るわけにも持ってくるわけにもいかなかった。査問時の受け答えもそうであるが、アジトの管理においても小畑の見事な模範的党員ぶりのみが自然伝わってくるように思う。他方、大泉の方はごく有り体であったらしく何事もなくトランク1つか二つ受け取ってきた。ハウスキーパー熊沢光子も連れてきて近所に待たせているとのことだった。木島の報告がなされた頃は既に午後9時半から10時頃であった模様で宮本・逸見が外出した後だったので、この報告に接したのは袴田と秋笹だけであった。袴田は秋笹と相談した上で、袴田と木島の二人で熊沢に会いに行った。約20分ほどかけて熊沢を取り調べた。「私は熊沢に対し、実は大泉はスパイの嫌疑で調べられていると云う事を告げると、同女は大変驚いた様子でただ『そーですか』と云いました」(袴田2回公判調書)。その後、袴田は、熊沢を査問アジトに連れていくよう木島に命令した。その後袴田は巣鴨の自分のアジトに帰ったという。ところで、袴田のこの時の足取りが追跡されていない。通常刑事事件であれば裏取りされるところのように思うが予審判事も尋ねていない。直接は関係ないがこういう部分も調べられるのが捜査の常ではないのだろうか。したがって本人が明かさない限り判らないが故人となってしまっては詮無いことである


 その4、23日当夜の査問再現ドラマ(1999.11.10日)

 第三幕目のショット。袴田が査問場所を去った頃宮本が用を済まして帰ってきた。したがってアジトには宮本・秋笹・木島の3名が居合わせることになった。何とこの3名で深夜二時頃まで大泉・小畑の査問が続けられた形跡がある。「午後5時より林・金の両名を帰し、自分は宮本の勧めに依りその夜より査問に関与することと為りたり」(木島調書)とある。しかし、これが事実とすると、この3人の査問が行なわれたこと自体査問規律違反であったのではなかろうか。事は中央委員による他の中央委員の査問である。そういう重大性に鑑みて、このたびの査問は中央委員と同候補に限定して査問委員となしていたのではないのか。査問委員全員立ち会いの下でなされるべき重要なけじめが持たれるべきであり、恣意的になされることは大いなる越権であったのではないのか。特に宮本・袴田は、へいぜいよりこうした形式にはこたわる質の者であるが、こういう重大な事柄に対してそういう者が自らてんとして恥じざる規約違反するとは何ということだろう。あろうことか今日に至るも問題にされてさえいない。袴田は、「私は、同夜査問が続行されたという様なことは少しも知らなかったのであります」(袴田2回公判調書)と述べるだけで私は知らない関知しなかったで逃げている。

 この時の査問の様子は当事者4名がしゃべらない限り永久に不明となる。この時袴田がいないため詳細が伝えられていないが木島は次のように陳述している。「それより宮本・秋笹・自分にて大泉を査問したる結果、同人は『スパイとなりたる事情を一通り云うから命だけは助けてくれ』と前置きしてその事実を陳述したり。次いで宮本・秋笹は協議の結果熊沢を二階の三尺の押入内に入れて置くことに決定し同女をその押入に入れたり。この大泉の査問に当たっては宮本等は指や拳固にて同人をこづき、又宮本は『告白すれば命だけは助けてやる』云々と申し向けおりたるも蹴ったりなぐったりは致さざりき。その夜は午前2時頃に大泉の査問を中止し自分は二階にて小畑・大泉を監視して夜を明かしたり」(木島調書)とある。この陳述の不自然なところは、宮本が「蹴ったりなぐったりは致さざりき」とわざわざ取って付けたように強調して述べていることと、大泉の査問については語っているも小畑のそれには黙していることにある。翌日袴田・逸見がやって来たときの室内についての「雑然とした様子」と小畑が消耗しきった様子で座敷に放置されていた(大泉は押入に入れられていた)ことを勘案すれば、小畑に対しても査問がなされていたことが歴然としていたのではないのか。なのに語らないのは不自然ではないかと思う。

 ここで見落としてはならないことが少なくとも二つある。一つは、査問者の宮本は松山高校時代柔道の猛者であったということである。こういう者に素人の小畑が引きずり回されたらどういうダメージを受けるかという点である(私はそういうことがあったと推定している)。もう一つは、この後二人は査問疲れもあって休息と仮眠しているが、当然この間食事もしている。問題は、ここでも大泉・小畑には食事が与えられていないように思えることである。関係者のどの陳述からも食事を与えたという話が無い! 翌朝も査問が続けられるが、この間絶食させ続けるとどうなるか。ところで、査問テロはなかったと主張する者は、この当夜のかなり厳しい査問が行なわれたように思われる経過についても否定するのだろうか。宮本は何も語っていないので、宮本が言っていない以上何もなかったとここでも宮本の言うとおりに信じるのだろうか。それとも大泉に対してのみの査問がなされたとでも言うのだろうか。仮に両名への査問を肯定した場合には、逸見・袴田のいない席での査問は規定違反だとは思わないのだろうか。これらの点につきはっきりさせて貰いたい。

 なお、大泉の陳述には一貫性がないのでそのまま鵜呑みには出来ないがこの時の査問の様子について次のように述べている。この時大泉のれっきとしたスパイ性が暴かれたようである。大泉のアジトに行った際に「荷物が着いた直ぐ来い」と書かれている電報が発見され、これは毛利特高課長の呼び出し暗号であったので弁明がしどろもどろになったと云う。「元来、我々同志は皆それぞれ住所を隠しあっており、電報など打つ必要はない。従って、この電報の入ったこと自体が大問題で、この電報によって大泉がスパイであることの確証をつかんだのである」(宮本4回公判調書)。次に、中央委員として一番古株の大泉が保管しておくことになっていた党の重要書類が保管されていないことも追及された。その書類中党の組織内容即ちどの工場には誰々の党員が居ると云ったようなものがある筈のところ、この部分の書類を毛利特高課長に提出していたので欠損しており怪しまれることとなった。こういう言い逃れの効かない事実を突きつけられるに及び、大泉は、概要「逃げることもどうすることも出来ず絶体絶命に追い込まれ、もう駄目だと思いました。苦しさのあまり『実は自分は警視庁のスパイだ』と云うと、彼らは非常に喜び、私の猿ぐつわを外してくれ『如何なる手続きでスパイになったのか』と聞きました。私は、『共青の関係で検挙された際警視庁の宮下警部の要求に応じてスパイとなった。ただ大したことはやっていない』と答えました。次に、『スパイ網を明らかにせよ』と言い寄られ、日頃大泉−小畑派と目されている連中の具体的な名前が挙げられスパイではないかと追及された。私は、共産党の全組織即ち全協・全会・財政部全員を壊し、ここで再組織さすために意識的に嘘を言い、『君たちの疑っている者は皆スパイと云ってよかろう云々』と云ってやりました」と述べている。奇しくもここに、宮本等のスパイ摘発活動の照準が当時の党活動の最後の砦ともなっていた全協・全会・財政部に合わされていたことが知れることになる。大泉はこの査問が終わると再び猿ぐつわをはめられ押入に入れられた。こうした査問は午前2時頃まで続いたらしい。

 この時の様子について秋笹は次のように陳述している。「その夜は小畑、大泉の査問を継続して行いたるが、自分は主として同室内にて『赤旗』の印刷を為しおりたるも時々は出かけていって有り合わせたる物にて大泉をこ突いた様な記憶有り。その時大泉は手足を縛られ、部屋の中に座らせられたるが、査問中は頭巾を取って居たと思う。なお、宮本か誰かが硫酸のビンを栓をしたるまま振り回し『付けるぞ付けるぞ』と脅かしたるはかなり効果有りたり。なお、小畑の査問中大泉の頭にオーバー或いは洋服の如きものを覆せありたるが、その時大泉は『息が苦しいから頭の覆いを取ってくれ、命さえ助けてくれれば何でも云うよ』と申し、それよりスパイたる事実を陳述したり」(秋笹被告第二審判決文)。

 不自然なことは、こうして大泉の査問の様子は明かされているものの小畑に対するそれはいずれの調書にも語られていない。ではなかったのかというと、後述するように袴田と逸見は翌日の小畑の消耗しきった様子を明確に語っており、私もまたかなり手厳しい査問があったと見る。しかしここを書けば言い逃れの効かない宮本の直接的関与を示すことになるであろう。全体的に云って各予審調書並びに公判調書は不自然なまでに宮本の関与部分の記述を極力避けようとしているように見える。誘導尋問がなされたのはこのセンテンスにおいてであり、逆ではない。ここのところを踏まえないと論議が噛み合わなくなる。本筋から離れるのでこれ以上述べないが、特高と司法当局奥の院が介入しているのは如何にして宮本勢力を温存するかに傾注していることであったことを知るべきだろう。

 宮本の「小畑に関しては云々」の陳述があるにはあるが、この時の当夜の査問を語っているのか、前日の査問の時のことなのか、翌日の査問の時のことなのかごっちゃに不明にしたままに「居所問題、郷里へ帰ったこと、彼が万世橋署の高橋警部に活動写真をおごられた際、情報提供を約束し、その後金を貰い連絡をとっていたということ。小畑は大泉がスパイであるといい、大泉は小畑がスパイであると主張したことなどにより、同人がスパイたることもだいたい明らかになったのであるが、突如小畑の死という事件が起き、それ以上明瞭にすることが出来なかった」(宮本4回公判調書)と陳述している。つまり、当夜の査問についてまともに陳述していないということだ。

 ここで、宮本が手足のように使う木島について触れておく。当夜においても翌朝よりの「査問事件」においても切り込み特攻隊員として便利に使われた木島であるが、この後公判廷で述べた宮本氏の言いによれば、「元来彼は、政治的水準が低く、問題を根本的に把握出来ない男であり、かつ彼は単純で粗雑な性格である」、「結局木島は、基礎的な理論の把握がない」、「彼は党の方針は理解してない、又、機関紙も見ていない、昭和八年来、機関紙にスパイ挑発問題を、系統的組織的大衆的に処理するという事を発表してあるのに彼はそれを知らない」(「浩二99/11/10 13:55」を参照させて頂いた)とある。実際の木島氏の人となりは知らないが、宮本氏の対木島認識の根本は、この査問中も公判廷の際にも変わらないと思われるので、木島が如何にいいようにあしらわれ、使い捨てにされたかが判る。やがてそういう木島を小畑死亡直後に党中央委員候補に昇格させた様を伺うことになるが、ホント宮本氏ってどういう性格の人なんだろう。今時こういう人の使い方をするのはく同じ様な事件で捕まっている空中浮揚氏ぐらいしか見当がない


その4、「査問事件」二日目当初の様子について再現ドラマ(1999.11.11日)

 第四幕目のワンショット。ここは「日本共産党の研究三100P」を引用する。深夜の査問後宮本は階下に行って、徹夜で「赤旗」の原稿を書き、秋笹もちょっと原稿を書いてからアンカに入って仮眠をとった。午前7時頃原稿を書き終わった宮本が階下から上がってきた。秋笹も起き、皆で木俣が作った朝食を摂った。木島は前夜木俣が切っていた原紙の「赤旗」号外を印刷した。この12.24日付け号外は、大泉・小畑両名のスパイ摘発に成功したことと、その除名を伝える内容であったが、その原稿は事前に用意されていたもので、前夜の査問の結果を踏まえて書かれたものではない云々と書かれている。各調書資料をつきあわせるとそういう事になるのだろう。そうとすればひどすぎる。どういうことなんだ! 怒りを覚えざるをえない。

 次のショット。前夜の様子は翌24日の午前9時頃代々木八幡町停留場付近で袴田と木島とが連絡を取った際木島から大体の報告がなされたことにより間接的に袴田も知るところとなった。袴田伝聞によると、「それから二人で査問アジトへ行ったのですが、その途中同人から前夜宮本・秋笹・木島等が大泉・小畑の査問を実行した結果遂にスパイたる事実を自白するに至ったと云う報告を聞きました」(袴田2回公判調書)とある。

 袴田は、木島の報告を受けた後二人で査問アジトへ行った。階下には木俣がいた。この途中で、木島は袴田に次のように言ったという。「もしあの二人をやっつけるつもりなら、あなた方は大事の体だから行動隊の連中にやらしてくれとその連中が申し出ている」。これに対して、袴田は、「自分たちは今彼ら二人を殺す事を問題としているのではないから君たちにそんな事を云う必要はないとたしなめました」(袴田12回調書)。「そんなことを君らが云う事はないではないかとたしなめると木島は何も云わず黙っていました」(袴田2回公判調書)とある。ただし、木島の調書によると、「左様なことを云ったのはこの時ではなく12月中旬に予定した第一回の査問が失敗に終わったその日の事である」と言っている。それが事実だとすると一層怪しからんことになる。もっとも「それは木島の考え違いです」(袴田2回公判調書)と再否定している。否定しないと、この度の査問が殺人を前提にしていたことになるのだから大変であろう。どちらの言うことが本当かは判らない。

 次のショット。こういうやり取りの後、袴田と木島は二階に上がって行った。上がってみると、概要「その8畳の部屋は乱雑に取り散らかされており、確か小畑だったと思いますが肌着とズボン下だけにされ、前日同様足首と両手を後手に縛られ、頭から大泉が来ていたオーバーを被せられ、その上を紐か何かぐるぐる巻きに縛られており、壁際に身体を折り曲げた様な格好でうなだれていた」(袴田12回調書)。前夜の相当激しい査問の後が歴然であり、そのことがうかがえる様子であった。「私は今し方木島から小畑がスパイだったと云う事を聞いたしする故、部屋に入るなり同人に近寄り拳固で同人の頭部を殴りつけてやりました」(袴田2回公判調書)。「その側に宮本と秋笹とが徹夜の査問で眼を充血させ、疲れた様子で寝転がって居りました」(袴田12回調書)。つまり、小畑は窮屈な姿勢で放置されており、宮本と秋笹は査問疲れで休息していたというのである。この時大泉は押入の中に居り、熊沢はその押入の仕切りの上のところに居た。

 次のショット。袴田と木島がやって来たのを知り、宮本と秋笹も起きあがり、前夜の査問の結果を報告した。「昨夜査問を続行したらかような事を自白したと云って要領を書き留めた紙片を見せられました」(袴田2回公判調書)。「それによると、大泉は未だ細目に亘っては具体的に述べないが、昭和八年九月共青の山本に売られてからスパイに為ったと自白し、小畑は大泉ほど具体的ではないが、大体スパイであったとのことを認めたということでした」。「何でも小畑は4.5年前万世橋警察署に検挙された際スパイなる約束をして釈放され、それ以来スパイになったとのだと云うような事であったと思います」、「大泉もまた今井に売られて以来スパイとなり、警視庁の宮下警部との連絡と毎月70円ずつ貰っていた事実を自白したと云うような報告だったと思います」(袴田2回公判調書)。

 次のショット。それからまもなく逸見もやって来た(袴田と逸見のどちらが後先か判明しないが一応この順序とする)。この時の逸見の印象は、「二階に上がりたるがその時の二階の様子は窓の所には全部黒い布を下げ、部屋の中は薄暗くなり居りたり」、「小畑は既に押入より引き出され、頭に黒布を覆い縛られ居りたるが、その場の様子から見て前晩小畑、大泉に対し相当手厳しい査問の行われたることを想像したり」(逸見調書)とある。逸見も同様の報告を受けた。この時の様子のこととして逸見の次のような供述がなされている。「翌日自分が再び秋笹宅に至りたる時秋笹より聞きたるところに依れば、自分が昨日秋笹方を去りたる後宮本・秋笹に依りて大泉の査問を継続し、その結果大泉が『スパイ』の嫌疑事実を自白したりとの事なりき」。「報告を受けた逸見は、大泉を拳固で殴りつけて居ったのを見ました」(袴田2回公判調書)。ここで興味深いことは、袴田は木島から報告を受け小畑を殴りつけ、逸見は秋笹から報告を受け大泉を殴りつけていることである。それぞれの立場がうかがえるようである。

 次のショット。こうして、全員が揃い査問が再開されることになった。午後10時頃であった。この査問開始の時より木島が部屋を出たり入ったりするようになったと陳述されているものもあるが、第一日目においてもすでに木島の暴力的行動が明らかにされていることを考えると第一日目は時たまこの二日目からは主として入り浸りで査問に参加していたというのが実際であったのではなかろうか。当初取り決めた査問の目的とか査問委員の選定とかがいかに建前に過ぎなかったかが知れるであろう。なお、この時の査問中秋笹は「赤旗」の原稿を作ることが忙しく、合間合間に査問に加わったようである。査問の経過を「赤旗」に発表することは前から予定されていたようである。この二日目からの査問が激しさを増したことは既述通りである。この日も先ず、小畑から査問が開始された。この時までの小畑のスパイ疑惑は「(小畑の謝罪は査問者側の)意に満たざりし為――前記の手段による暴行のほか云々」(秋笹被告事件第二審判決文)とあるように、ここまで小畑は頑強にスパイ容疑を否認し続けていたと考えるのが相当と思われる。小畑が査問される間大泉が押入に入れられた。

 この時の査問の様子は逸見によって次のように陳述されている。「始めのうちは各自思い思いに小畑に向いて『白状しろ』の一点張りにて詰問し、袴田は撲りつけなと致したり。宮本は『警察の拷問はこんなものではない』と威嚇し、木島は(少々意味不明であるが――私の注)『明日になれば俺達の運命もこういう風になるのだ。自白さえすれば生命は助けるから云ってしまえ』と申したるところ、小畑は『いっそひと思いに殺してくれ』と叫びたり。秋笹は『共産主義者は嘘は云わぬから助けると云ったら助けるから云ってしまえ』と申したり。自分も小畑を二、三回蹴飛ばしたり」。なおこの時のことと思われるが「その時私がやかんの水をこれは硫酸だと云って脅しながら、小畑の腹の上に振り掛けますと、同人は本当の硫酸をかけられたと感じて手で水を除けようとしました」(袴田14回調書)というようなことも行なわれたようである。

 次のショット。こういう査問が一時間ほど続けられると大泉に替わり、これが交互に2回ずつなされたようである。この時の査問は一々具体的な問題について追及した。両名共通に追及されたことは、1.何時からスパイになったか。2.警視庁との連絡関係。3.現在組織内にいるスパイは誰々であるか。4.警察のスパイ政策に関する方針、5.スパイとしての具体的事実及び将来の方針、の5項目であった。これらの訊問に対し、大泉は、ほぼ全面的にスパイを認めた上で詳細内容を語っている。その態度は、「我々の機嫌を取り、なるべく穏便な処分に出て貰おうとして極めて卑屈な哀願的な態度を採っておりました」(袴田12回調書)という風であった。ここで興味深い陳述がなされている。「私たちの様子がどの程度警察に判っているかと云って各自が質問すると、宮本、秋笹はすっかり知れている。逸見は本名は知れないが大体の事は判っていると答え、私のことについては、私が東京市委員に居ることやその他の行動も判っている」(袴田12回調書)とある。「宮本、秋笹はすっかり知れている」とはどういうことだろう。私は本当ではなかったかと推測している。


 他方、小畑は、過去の行動の部分的誤りは認めたがスパイであることを断固として認めなかった。嫌疑事項であった「昭和8年2月の全協中央部の検挙には全然関係がなかったと言い張りました」という風に大泉とは対照的な対応を見せた。組織内潜入スパイについても大泉は語り、小畑は寡黙に答えなかった。

 次のショット。こうして査問が続けられるうちに次第に暴行がエスカレートしていったようである。「同日午後1時頃より査問経過中に於いて自分の知れる限り最も残酷なる査問が行われたり」(逸見調書)とある。「自分はこの査問に当たりては、宮本等が自分に加えたる暴行の種類程度より観ても自分の殺されるはただ時間の問題だと思いたり」(大泉16回調書)。この間の査問者の暴行が次のように供述されている。「『コラッ本当のことを云わぬか』と云って」(袴田2回公判調書)「秋笹が用意してあった斧の背中で大泉の頭をゴツンと殴ると同人が頭から血が出た事を見受けました」(袴田14回調書)。大泉の頭から血が流れ、顔へ2・3滴血が流れたようである。「又誰かが錐の尖端で大泉の臍の上の方をこずきましたら、大泉は痛いと云って悲鳴を挙げておりました」(袴田14回調書)。その全体的印象は、「我々の査問の態度が真剣で、具体的事実についての取り調べが極めて峻烈であったので、大泉・小畑は相当な恐怖を感じ、生命の危険を感じたかも知れません」(袴田14回調書)という程のものであったということである。この査問中は頭被せを取り査問が終わるとまた被せたようであるが大泉に限りのようである。

 「先ず宮本・袴田・木島秋笹が小畑の周囲を取り巻きガヤガヤ申して威嚇し居りたるところ、秋笹が小鉢の火を挟み来たりたる故自分はこれはやるんだなーと思い立ち上がり小畑の側に行きたり。この時足を投げ出して座り居りたる小畑の体を肩の付近を動かない様に宮本が押さえ付け、両脇には袴田と木島とが居りたるが、秋笹は火を小畑の両足の甲に載せたところ小畑は『熱い』と叫んで足を跳ねると火は付近に散乱して畳を焦がしたり。この間『どうだ白状するか、云うか』と云いて一同にて小畑を責めたり」。続いてと思われるが、「(先の袴田の行動)に暗示を得てたぶん木島であったと思いますが、真物の硫酸を持って来て小畑の腹の上にかけました。すると段々硫酸がしみこんでくると見えて痛がって居りました」(袴田14回調書)。ここの部分は逸見によるともっと具体的凄惨に陳述されている。「小畑を長く寝かせて押さえ付け、木島が小畑の胸部のところを掻き分けて腹部を露出し硫酸のビンを押しつけ『ソラ硫酸を付けたぞ、流れるぞ』と云いて嚇かしたり。袴田は小畑の洋服のズボンを外してその股ひきを露出し更に一同にて押さえ付けて締め付けたり撲ったりすると、小畑は『云うから待ってくれ』と申したので一同手を離して聞き込むと、更にまとまった事を云わぬ故一同にて虐めると云う風に致したり。又この間木島は硫酸のビンの栓を外し小畑の下腹部に硫酸をタラタラと垂らし硫酸の付着したる部分は直ぐ一寸巾くらいに赤くなり少しすると熱くなったと見え小畑は悶え始めたり。小畑はこの拷問威嚇に会い非常に疲労したるを以て一時小畑の査問を中止し自分と袴田の二人にて大泉の査問に取りかかりたり」。

 ところで、査問テロはなかったと主張する者は、ここの部分の記述全体が偽証であるとしているようである。警察の取調目録に硫酸の瓶とか錐とかの物証が記録されていないこととか小畑の検死上証明出来ないとかを根拠にしているようである。私は、それまでの記述との整合性から見て実際に行われたと見ている。この後で確認することが出来るが物証のいくつかは後始末されたと陳述されているし、小畑の検死は死後20日を経過していることとか、追って述べる検死調書の内容などからそう推測している。逸見の場合、これらの陳述によって誰それを有利にするとかの偽証を敢えて拵えねばならない必然性が見あたらないからである。水掛け論になる点であるが、否定派の方はこの点を否定するならば逆にどこまでを真相とするのか基準を明らかにして貰いたい、と思う。調書全体を否定するなら、あたかもテーブル越しの査問会議であったという線まで後退させねば不自然になるのではなかろうか。これらの点につきはっきりさせて貰いたい。

 次のショット。この間片方が査問されるときには他方が押入に入れられたが、何度か繰り返すうちに煩わしくなったのか両名居合わせで査問されるようになった模様である。あるいは内容によっての都合で成り行き上同時査問となったようである。その途中で、「大泉は小畑を、又小畑は大泉を互いにスパイだと云い争って居りました」(袴田12回調書)とある。この間熊沢光子は押入中段に何らの拘束なく入れられていた。彼女は査問中は静かに押し入れの中に居て少しも騒ぐ様なことはなかった。この熊沢の陳述調書が知りたいところであるが漏洩されていない。なお、検挙後獄中自殺を遂げることも追って見ていくことになる。

 二人が互いをスパイ呼ばわりし合うということも含めた「以上の収穫を得て、正午過ぎ頃一応査問を打ち切り、皆で替わり番こに食事を済ませたり、前夜からカットされていた原紙に依って同年12月24日付け赤旗号外を印刷したりしました」(袴田12回調書)。「時間も丁度正午頃になったので、昼食をしたり又前夜徹夜で査問した者は疲労してもいるので休憩しようと云うことになったのです」(袴田2回公判調書)。この文章で明らかになることは、「替わり番この食事」には被査問者両名の食事は与えられていないと云うことである。これで都合少なくとも4食分が抜かされたことになるが、査問側のこういう無神経さって何なんだろう。

 ここで「赤旗」号外刷りについて言及したい。被査問者のスパイ告白がなされると同時に「赤旗」号外で大々的な党内宣伝がもくまれることになったようである。「秋笹が赤旗の原稿を原紙に書いておりました」という袴田の公判陳述がある。つまり、この査問の最中に同じ部屋の中で秋笹がガリ版を切っていたということになる。ちなみに、「日本共産党の研究二72P」では、「赤旗」が活版印刷から謄写版印刷に後戻りして最初に出された「赤旗」が、大泉・小畑の査問と除名を伝える号外であったと明らかにしている。「外部の者から見ると非常に激越な調子の文句例えば断罪とか云う字句を用いてあります」(袴田13回調書)と陳述されている弾劾文が印刷されたようである。実際に12.24日付けの「赤旗」は号外として国際共産党日本支部日本共産党中央委員会の署名付きで「革命的憤怒に依って大衆的に断罪せよ」なる題下に、「諸君!挑発者、スパイの全系統を摘発する為に執拗に追撃せよ!彼らの一切を階級的制裁、大衆的断罪に依って戦慄せしめよ!血と汗のプロレタリアートの闘争を破壊せんとする最も憎むべき彼ら裏切り者を革命的プロレタリアートの鉄拳に依って叩きのめせ!」なる激越字句をもっていわゆる党のためスパイ摘発をなしたことを伝えているとのことである。こんな元気は当局の方に向ければ良く(かっての)仲間内に向けるのは如何なもんだろう。宮本−袴田ラインの戦前戦後の共通項であるが、当局には至って恭順な二段階革命方式に基づく政権参加構想でソフトに関わろうとし、身内には激烈なる統制好き傾向が見られる。私が辟易するというのも無理からぬではないか。

 次のショット。この後、徹夜で査問していた宮本・秋笹・木島等は暫く睡眠をとることになり、行火(あんか)の置いてあるところで身体を横たえた。「誰が何処に寝ていたか判然しませんがともかく床の方を枕にして寝ていた事は間違いありませぬ」(袴田12回調書)。秋笹は、この休息の途中で「何時何の用事でか下に降りていた(袴田12回調書)とあるが、秋笹本人は「自分は用便のため階下に下り居るとまもなく二階にて云々」(秋笹被告第二審判決文)とあるからその通りであったのであろう。

 次のショット。宮本等が行火(あんか)に入って横たわった後、袴田と逸見の二人がなお細かな点について大泉の査問を続けることになった。この時小畑は部屋の中央部当たりの所に手足を細引きと針金で縛られ頭からオーバーを着せその上を何かで縛ったまま座らせられていた。大泉は肌着1枚にズボンをはいていた。そして足首と両手を後手に繋げるようにして細引きと針金で縛られ、背広の上着を頭から被せその上を紐か何かでぐるぐる巻きに縛られていたという。ただし、すでにスパイ自白後は大泉には頭被せしていなかったという陳述もあり、私はこの方が本当のように思うからこの時大泉は頭被せさせられていなかったと推測する。頭被せさせられていたというのは、この直後に起こる小畑死亡シーンの陳述を大泉にさせないためのトリックではないかと思っている。大泉は、この時失神していてよく判らないと陳述している。なぜなら、失神していなければ現認していることになり、詳細な目撃陳述が促されるからである。予審調書はこうした肝心なところでの不明さを操作しているように思われる。さて、この時の査問の様子は、「その時私と逸見が大泉に訊ねたことは、大泉が既に自白した事実に対する補足的な事柄でした。そして、その時には大泉は既に平静を取り戻して居たし、私たちも前の訊問の時の様に無理する様な事もなく静かに大泉の言を聞いていたのであります」(袴田12回調書)とある。


 れんだいじさんへ(1999.11.12日、浩二)

 11月10日付、れんだいじさんの投稿「その4、23日当夜の査問再現ドラマ」に関して、ひとつだけ質問します。

「全体的に云って各予審調書並びに公判調書は不自然なまでに宮本の関与部分の記述を極力避けようとしているように見える。誘導尋問がなされたのはこのセンテンスにおいてであり、逆ではない。ここのところを踏まえないと論議が噛み合わなくなる。本筋から離れるのでこれ以上述べないが、特高と司法当局奥の院が介入しているのは如何にして宮本勢力を温存するかに傾注していることであったことを知るべきだろう」

 これはどういうことでしょう? 「如何にして宮本勢力を温存するかに」? 何のことでしょう? なぜ「特高と司法当局奥の院」は「宮本勢力を温存する」必要があるのでしょう? これには何か確たる証拠というか、資料があるのですか?そ れとも、れんだいじさんの想像ですか? まさか……(以下、あまりにもこわいので略)。PS:私の方も以後、れんだいじさんの投稿を堂々と引用することにします(^-^;)。


 その4、「予審調書・公判調書の信頼性」について(1999.11.12日)

 いよいよ「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマするところまできたが、ここら辺りで「予審調書・公判調書の信頼性」について再考してみたい。それらを如何に正確に読みとろうとしても、「予審調書・公判調書の信頼性」自体を否定し、あらかじめ結論ありきでこの事件に対する宮本氏の冤罪性を確信する者には役に立たないと気づいたからである。

 宮本氏は今日の日本共産党執行部の創立者であり、その宮本氏の党活動を否定することは現日本共産党の執行部の信頼性を損なわしめることになるのは致し方ない。そういう観点からであろうが、何とかして宮本氏の無実性に拘ろうとする気持ちは分かる。しかし、ここで考えてもみよう。当時の野呂執行部下の党内分裂状況にあって、宮本一派が小畑派を駆逐するにも一定の左翼的ルールというものがあるべきではなかったのか。当時党内が深くスパイによって汚染されていたにせよ、既に数少なくなっていた戦闘的党員を誰彼構わずスパイ呼ばわりして党内清掃に狂奔していたのは宮本一派ではなかったのか。この事実は隠蔽できないであろう。小畑派は、同じ現象を前にして、党内の信頼できる線を探りひたすらに構築しようとしていた。当時の戦闘的活動家に残された手段はそういう方法しかなかったのである。つまり、小畑派は、党内清掃に狂奔する宮本派の動きを苦々しく見ていたということになる。

 肝心なことは、宮本派のそういう動きが真に党を愛し、党活動の隆盛に向けてなされていたのなら単に方針の違いで済まされたであろうが、実際には当時の特高の狙いに相呼応するかのごとく内から党中央と全協の最終的解体に向けてスパイ摘発闘争が展開されていったということにある。事実、「査問事件」によりほぼ党中央は解体され、以降敷かれた宮本路線に沿って袴田執行部により全協つぶしにいそしまれることになった。これは史実であるから、嫌も応もなく銘々が調べればよい。くれぐれも「赤旗」だけを頼りにしてはならない。小畑は、実質的に見て戦前最後の労働畑出身の党中央委員であった。不運にもスパイの汚名を今日まで着せ続けられているが、この「査問事件」の査問経過によってもスパイであることが明らかにならぬまま、本人も強く否定したまま最後を遂げた。しかも警察権力の拷問によっでも無く内部の白色テロによって。「査問事件」にはこうした意味の重大性が今日尚まとわりついているのではないのか。この見方を否定するなら、今からでも遅くはない小畑のスパイ性を明らかにしなければならない。ここの詰めをなさずに今日まで経過して封印されていること自体異常なのではないのか、と思う。

 最大の争点は、宮本氏一人獄中で非転向を貫いたという神話に依拠した氏の権威をどう見るかになってくる。多くの党員が、宮本氏に対するそういう絶対評価から、あらゆる事実を宮本氏の無謬を引きだす方向に努力しているように見える。毎日毎日「赤旗」論調に慣らされるとそうなるのかも知れない。私は全く逆に見ている。なぜ、宮本氏一人が予審調書一つ取らせず、獄中12年を無事経過し得たのかと疑惑する。言うまでもないが宮本氏が虐殺されるべきだったというのではない、他の有名無名の活動家の多くが虐殺ないし仮死状態の拷問に追い込まれていた中で、なぜ宮本氏は持久戦に持ち込むことが出来たのかが判らないし、むしろ不自然であるということが言いたい訳だ。宮本氏の獄中下の様子についてもおいおい述べることになると思うが、中条百合子との往復書簡を見ても、その他同時期の獄中党員によっても宮本氏の獄中生活の奇異な様子が知らされることになる。この場合奇異とは豪奢なと言い換えてもよい。普通自分一人がぬくぬくと獄中におれるという神経は並ではない。

 それより何より、宮本氏の公判調書を見れば、自分は何一つ調書取らせずいて他の逸見・秋笹・袴田・大泉等のそれには存分に目を通して反論している様がうかがえる。弁論をいかにもっともらしくなしえたとしても、自分は手の内を晒さず相手の手の内を全部知ることが出来る宮本氏の状況こそ変ではないのか。遺体鑑定書もその他関連医学書も実に自由に閲覧していた風が知れる。他の逸見・秋笹・袴田・大泉等の訊問の様子からうかがえることは、食い違い箇所について、他の者の調書を予審判事が読み聞かせた上で陳述を催促されていることである。何と大きな違いであろうか。宮本氏の暗黒裁判、政治批判にせよ、それが当の「暗黒」法廷で滔々となされているという事自体変ではないのか

 こういう観点から見れば、「査問事件」当時の査問状況も極めてオカシイ。なぜ、先輩格の中央委員ともあろう者を拉致監禁した上で査問せねばならなかったのか。なぜ普通に同志的議論でもって大泉・小畑氏に対して相対し得なかったのか。大泉・小畑氏らがそれまで他の同志達をリンチ査問する等凶暴であったというのならまぁ判らないでもない。事実は逆ではないのか。この点について、大泉公判に関連して証人として陳述した中央委員松尾茂樹は、昭和13年4.7日次のように述べている。「宮本等は、田井を全然知らない会ったこともないし且つ労働組合方面の知識は全くない男であります。それにも関わらず、単に三田村が云うたとか部会を開かなかったとか云うことを根拠としてスパイ呼ばわりするのは、彼らの軽挙極まるプチブル性を暴露したセクト的行動であります」、「宮本や秋笹の如きは、根も葉もないことを根拠として同志をスパイ呼ばわりする常習犯であります」、「なお、大泉.小畑の査問に際し、彼らが取った態度も私には全然不可解であります。すなわち、彼らの云うが如きスパイの理由が明白ならば、なぜ小畑だけを殺して弱点の多い大泉を残したのか甚だなっていない処置であります」、「しかも、後になって殺す心組はなかったと云うが如きは非常に卑怯な態度で、もしスパイであることが明らかならば、プロレタリア的断罪としてこれに犯罪をもって望むのが当然であります」、「小畑だけを殺したところに宮本等の意図を窺われるのであって、自己の政治的闘争相手たる小畑を倒し無能な大泉を故意に残したのであります」。偶然ながら、私はこの松尾氏の観点にほぼ全面的に近い。

 この時点では党籍上同志でもあり中央委員でもある査問相手を手縄・足縄・猿ぐつわにして食事を供せずという行為だけでも既に許されざる査問形式ではないのか。それがショック死であろうが心臓麻痺であろうが、それ以前においてさえ弁解不能の行為をしているのではないのか。恐らく後一、二日経緯しておれば実際に体力消耗的なショック死をさせられていたと思う。事実は、小畑は果敢に査問の罠から逃れようと格闘し、一身をあがなうことで今日貴重なメッセージを残すこととなった。恐らく小畑の最後の革命家魂がそうさせたのだと受け止めている。実際、こんな査問が許されるなら、私も含めて庶民大衆は党に近寄ることさえ憚ってしまうべきではないのか。単に除名する、一時拘束するというのが党中央の一致した見解だったなどと強弁するのはいい加減にして貰いたい。それが治安維持法下の特殊情勢で起こったことであるからという特殊事情理論も嘘臭い。治安維持法下の困難な最中であればこそ数少ない活動家はお互い大事にされねばならないのであるし、そういう最中を活動している者に対してスパイ容疑の査問をするのであればなおさらルールが必要であるのだし、ましてこのたびの査問において小畑のスパイ性は非明白にこそなりつつあったのではないのか。スパイであったとして(宮本は、この査問の過程で小畑の明白なスパイ性の根拠として高橋警部の存在を指摘し、小畑を手引きしていたと言い繕ったが、「日本共産党の研究」によれば、高橋警部なる者は所轄にも本庁にもいないということであるが)も、逸見が当初言っていたように党から放逐し連絡線を切ればよいのではないのか。小畑等が反党運動を起こす恐れあると危惧するという姿勢は、党の利益よりも宮本派のセクト的利益を上に置こうとする論理であり、何よりそういうスパイに攪乱される程当時の党員の意識が低いという認識を前提にしていることになり、全く失礼というものであろう。一体全体この宮本−袴田ラインの思考様式こそ一から問題にされねばならないところが多すぎるというのが私の考えである。

 この投稿文の最後に言っておきたいことは、この「査問事件」が反共攻撃に利用され続けるとするならば、これを問題にする方の不当性をなじるよりは、早急に全面的解明を行い党内的に総括しておく方向に向かおうとするのが尋常な思考態度ではないのかということである。

 肝心の「予審調書・公判調書の信頼性」について言及することを忘れてしまった。とりあえず法的には次のように理解するのが相当のようである。時間がないのでそのままお借りする。「スパイ挑発との闘争と私の態度(袴田里見)」(「赤旗」1976年6月10日付け)を拝借させて頂いた。「戦前の刑事訴訟手続きでは、警察の取調べの記録である聴取書をもとに 裁判所の予審がなされ、その予審調書を基礎に公判が進められた。また、裁判官人事も司法省が握るなど、事実上裁判の独立もなく、予審判事らは特高警察や思想検事の判断に依拠した。警察の聴取書は、一般的には、拷問、脅迫、長期の警察拘留による精神的肉体的衰弱につけこんで、被疑者や「共犯者」なるものに「自白」させ、それらをもとに警察が、どういう事件として送検するか、なにをその被疑者の「犯罪事実」とするかについての“構想”をまとめてから、それに合わせた尋問をして作られていく」、「裁判所の予審では、予審判事が聴取書をもとに尋問し、裁判所書記に調書を書かせていく。警察の取調べはもちろん、予審尋問でも、弁護人はつかず、「共犯者」なるものや証人を出席させて被告人からの反対尋問にさらすこともなく、予審判事が自分の都合に応じて、“だれそれはこういっているがどうか”といった質問をするだけである。当時は公判も、予審調書をもとに裁判長が被告人を尋問する形ですすめられ、被告人の陳述もどうしても予審調書によって制約される。その結果、特高が作った事件の構想にもとづく尋問の内容の記録が、訴訟全体の出発点となり、また、密室の審理である予審の調書が、決定的意味をもった。こういう密室の審理では、取調べ側の主張が全体の基調となり、取調べ側の主張の矛盾の追及とか被告人に有利な事実や主張の解明とかはほとんど不可能である。その暗黒性は、治安維持法裁判ではとくにはなはだしい。査問状況にかんする私の不正確な陳述は、警察の取調べや予審という密室の審理のもとで生まれたものである」。

 で、こういう刑事事件的なものについても暗黒政治的圧力が働き、つまりは「査問事件」関係者の調書もあてにならないというのが言いたいのだろう。しかし、痩せても枯れても予審判事は予審判事であり、独立性のかけらもなかったとみなすのは実際にはどうだったのだろう。司法の出先機関は警察とグルであり、予審判事は特高のシナリオ通りに下働きさせられるモルモット的存在に過ぎないということになるが、こうなると予審判事論の範疇になりそうなので法曹関係者により是非解明して貰いたいところだ。それと、「査問事件」の場合、当時の関係者全員がこちらも痩せても枯れても一応党の中央委員ないしその候補者たる者が聴取されたのであり、予審判事との(この陳述時には拷問はなかろうと思われるが)やり取りに全く没主体的に誘導されたとしたら、その方が問題ではないのか。同志かつ自らの党の中央委員たる者をそうは馬鹿扱いしない方がよいように思われるけど。そういう御都合論理を称して天に唾すると言わないのかなぁ。


 その4、「小畑死亡」の経過と様子について再現ドラマ(1999.11.13日)

 第五幕目、いよいよここから小畑死亡時の検証に入る。この死亡原因について、後日宮本氏は珍論を展開することになる。当事者の弁であるからむげに無視する訳にもいかない。以下の再現シーンで宮本氏の言い分の妥当性を検証してみたいと思う。ちなみに、宮本氏は、「第5回公判調書」で小畑の「遺体鑑定書」を読みとりながら次のように云っている。概要「鑑定人の云う如く『脳しんとう死』や『外傷性ショック死』ではない。なぜなら、それらの死因の構成要件である暴力や疲労や苦痛は存在しなかった」、概要「小畑の場合には、苦悶らしい声も出さず、逃亡さえ計画する余裕をもっていたのであり、査問は交互にやったので、押入にいる間は横になれて休息を得られたと思われ、著しい疲労困憊はありえない。また暴行脅迫をしたこともないから、それに基づく精神的苦痛もない。しいていえば、小畑はスパイたることを暴露されたので、それが苦痛であったと思われるくらいのものである」(こういうことを本気で言っているのか愚弄しているのかは判らないが正気の沙汰ではない)、概要「むしろ『体質性ショック死』ないしは『持病性心臓麻痺死』ではないかと推定し得る」、のみならず「また小畑の心臓に粟粒大の肥厚斑数個あるとの記載があるが、これは梅毒性体質の特徴で脳震盪類似の症状によって急死することがあると法医学者も説いている」と「梅毒死」の可能性さえ示唆した。日本共産党の50年来のトップにある者の言い様としては暫し黙しつつ頬をつねらざるをえないが、取り敢えず感情抜きにこういう言い分が妥当なものかどうか以下検証する。

 ワンショット。この大泉の査問の途中、袴田と逸見が大泉の方に気を取られているうちに「初めはどこかへ寄り掛かりたいと云う風に身体を引きずるようにして移動させておった様子だったが気にも留めずおると云々」(袴田2回公判調書)、「小畑は絶えず居座りながら動いて居たので、私はよく動く奴だと思いながら時々振り向いて同人の様子を見ておりました」(袴田12回調書)という具合に小畑の身体の揺れと室内移動が始まっていた。後で分かることであるが、この時小畑は指先で解いたのか査問用具が置かれていたところまでにじり寄って何らかの拍子に包丁を手に入れたのかどうかまでは判らないが、小畑は身をよじりながら手縄と腰縄をほどこうとしていたようである。足縄手縄を解いた小畑は次第に窓際の方に寄りつき逃げ出し格好を見せ始めていた。袴田は、「逃走の危険を感じ、彼を元の所へ引き戻そうとして立って行きますと、後方から見たときは未だ手も足も縛られている様に見えておりましたが、側へ寄って見ると既に手も足も縛ってあったものを切り、頭から被せてあったオーバーもその上を巻いてあった紐を緩めてありました」(袴田12回調書)。

 次のショット。いよいよここから小畑の急死事件が発生することになる。同時に小畑の無念の死が知らされることになろう。この時の様子について査問当事者が各々別々の様子を陳述しており一定しない。真相は「藪の中」に包まれている。最初に述べたように、私は次のように推論する。推論の根拠は、一定しない陳述の中で誰のそれが一番真実に近いものであるかをまず確定し、そこから他の者の陳述を参考にしながら補足するという方法に従った。なぜなら、意識的に予審調書が混乱を招くようリードしている面も想定しうるので、眼光紙背に徹して読みとることが必要であるからである。この時午後4時頃であったとされている。外が暗くなり始めていたので。「そこで私は、(逃走されては)大変だと思って(後方から)抱きしめるようにしてやにわに組み付き、座敷の中へ引き戻そうとすると、既に手足の自由になった小畑は私に(向き直って)自分から組み付いて来ると同時に『オー』と云う様な大声を張り上げました。そこで私もほとんど夢中で同人を引き戻し、略図のDの所へ一緒に倒れたのであります(袴田12回調書)。つまり、逃げだそうと行動を起こした小畑に袴田が組み付いたところ、小畑は袴田に立ち向かいながら更に逃げ出そうとしたので、そうはさせじと袴田は取り押さえ二人は同時に倒れたということになる。小畑の最後の戦闘力であったが、いかんせん既に消耗著しい体力はそれを許さなかった。

 次のショット。「その時私は仰向けに小畑は打ち伏して倒れたのでありますが、倒れた小畑の傍には逸見が座っており、またこの騒ぎに寝ていた宮本・木島の両名が起きあがって来ました」。「私は、逸見に『しっかり押さえろ』と云ったのですが」(袴田3回公判調書)、「その瞬間小畑が起きあがろうとしたので、木島はその両手で小畑の両足を掴んで又打ち伏せに倒し、宮本は、その片手で小畑の右腕を掴んで後ろへねじ上げ、その片膝を小畑の背中にかけて組み敷きました。逸見は、前から座っていた位置に倒れた拍子に小畑の頭が行ったので、その頭越しにすなわち小畑の頭に被せてあったオーバーの上から両手で小畑の喉を押さえて小畑が絶えず大声を張り上げて喚くので、その声を出させない為にその喉を締めました。その時私は、(起きあがり)小畑の腰のところを両手で押さえ付けて居たのであります」、「小畑は糞力を出して我々の押さえ付けている力を跳ね返そうとして極力努力したのであります」(袴田12回調書)。「かくして小畑を皆で押しつけている間小畑は絶えず大声を発して怒鳴っておりました」、「最初私と一緒に同人が倒れた時同人の頭部が逸見の座っている前に行ったので、逸見は、片手で小畑の首筋を上から押さえ付けて片手で小畑の頭を振りながら『声を出すな、出すな』と云っておりました」、「しかし、小畑は大声を出し死力を尽くして抵抗し我々が押さえ付けている手をはねのけ様としたが、我々もそれに対抗して全身の力で押さえ付けて居る中小畑は『ウウ−ッ』と一声強くあげたと思うと急に静かになったのであります。かようにして小畑と我々とは互いに全力を尽くして争って居る中、小畑は最後に大声を一声上げると共に身体から力が抜けて終わったのです」(袴田2回公判調書)。この点に関して、秋笹は次のように陳述している。この間「小畑の声を止める為、逸見が柔道の手で小畑の喉を締めたが、逸見が一旦手を緩めたから自分(袴田)が『モットヤレ、ヤレ』とそそのかすと、逸見は夢中になって又締めたので遂に小畑は落ちてしまったと(袴田が)秋笹に云ったことがある云々」(袴田3回公判調書)。この陳述通りだとすると、袴田は自分の教唆責任を問われると思ってか、「私は逸見に『しっかり押さえろ』と云うと逸見は俯向きになっている小畑の首筋を上から押さえ付けたのでありまして、決して喉を閉めたのではありませぬ」(袴田3回公判調書)と反論している。この袴田証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が主に腰と脚の部分を、逸見が頭と首ないし喉の部分を、木島は足の部分を、宮本は右手を掴んでねじ上げつつ背中側から組み敷いていたということになる。

 次のショット。「すると、喉をオーバーの上から締められたので苦しそうな声で呻いていた小畑が急に静かになりました。そこで皆が期せずして押さえ付けていた手を離し、極度の緊張が突然緩んだのでちょこっとの間ポカンとしておりました」(袴田12回調書)。夢中になって小畑を押さえ付けていたみんなが気が付いた時には、小畑は身動きしなくなっていた。この騒ぎの最中、小畑が押さえ付けられてぐったりなった頃、押入に入れられていた熊沢がたまらず飛び降りてきた。袴田は、「お前の親父じゃないから心配するな」と云うと、熊沢は、「それは知っているわよ」と云った。袴田は、直ぐ再び押入の中に追いやった。この経過は秋笹判決では次のように要領よく纏められている。「たまたま小畑が同日午後一、二時頃隙を窺い逃走を企つるや、その場に居合わせた袴田、逸見、宮本及び木島の4名は相応じて共に小畑を組み伏せ、尚も大声を発し死力を尽くして抵抗する同人を一同にて押さえつけて以てその逃走を防止せんとして互いに格闘し云々」(秋笹被告事件第二審判決文)。

 ここのところの逸見の陳述は次のようになっている。「自分と袴田の二人にて大泉の査問に取りかかりたるが、自分が夢中になって大泉の陳述を聞き居る時自分の横に居たる袴田が突然立ち上がり、後ろにいたる小畑の足に取り付き、その瞬間宮本は小畑のところに行き同人の背後より腕をねじ上げたり。自分も驚きて後を見ると小畑は三尺の壁のところより寄りかかる姿勢にて表通りに面する窓際より一尺くらい手前のところにおり、袴田は『この野郎逃げようとしたな』と云いつつ小畑の両足を押さえおりたり。そこで自分も小畑のところに行き宮本の横側より小畑の肩を押さえ付け、宮本と袴田に向かい『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき。宮本が小畑の手をねじ上げるや小畑は倒れて長く延びたるが非常な力にて抵抗し大声を発しおりたり。その時木島は行火の所より跳ね起き小畑の頸のところを押さえ付けたり。宮本が小畑の腕をねじ上げるに従い小畑の体は俯向きとなり『ウーウー』と外部に聞こえる如き声を発した故、自分は外套を同人の頭に掛けようとしていると、小畑は『オウ』と吠える如き声を立て全身に力を入れて反身になる様な格好をし直ぐグッタリとなりたり。自分が小畑の逃走せんとするを認めてより同人がグッタリする迄はわずか5分間あるいはそれ以内の短時間なりき」(逸見調書)。ここは暫くの沈黙を要する。逸見のこの言いによれば、「宮本と袴田に向かい『早く縛れ』と申したるも両名とも縛る様子はなかりき」のまま4名でよってたかって押さえつけていったということである。どういう意味になるのかお互いよく考えてみよう。急なことで冷静さを失っていたにせよ、既に押さえ込みは完了しているのであり、更に圧迫を加える必然性がどこにあったのか。突発性で思わず本音通りの行動へ宮本と袴田を誘導したのではなかったのか、と私は見る。なお、この逸見証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が両足に取り付き、逸見が横から肩の部分を、木島は頸の部分を、宮本は同人の背後より腕をねじ上げたていたということになる。袴田証言との食い違いはあるが、宮本の位置と行為については変わらない。

 ここのところの木島の陳述は次のようになっている。「自分は行火に入りて寝ておりたるところ、自分の足を誰かがつついたる如き感がして目をさまし見たるに、小畑の頭部の方に宮本が半腰になって丁度同人の股の下に小畑の頭部が入るような格好をして両手で小畑の首の辺りを押さえており、又袴田は、小畑の右側に居て同人の体を押さえ、逸見は、小畑の左側に居て同人の体を押さえおりたり。小畑は言葉では表現できない様な苦しそうな聞く者にとっては不気味な声を立てておりたり。右の如き有様にて自分は小畑の断末魔の悲鳴や宮本らの緊張したる様子に依り宮本等は小畑を殺すのではないかと関知したるを以て皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ、袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたるより自分も一緒になって小畑の体を押さえ付け『黙れ黙れ』と申しおりたるに、小畑は前述した様な不気味な悲鳴を立てなくなって仕舞いたるにより同人の死亡したることを皆が直感し顔を見合わせいたるところへ秋笹が階下より上がり来たりたり云々」(木島調書)。この陳述も貴重である。木島の「皆に『どうしたのですか』と聞きたるところ袴田が『この野郎逃げようとしやがった』と云いたる」という状況からすればかなり間延びした時間があったことになる。小畑は一挙に圧死されたのではなく、4名の再確認の元に引き続き押さえ込まれることにより気絶させられていったのではないのかということになる。もっとも気絶ではなく致死に至らしめられたのではあるが。なお、この木島証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が小畑の右側にいて同人の体を押さえ、逸見は小畑の左側にいて同人の体を押さえ、木島も一緒になって小畑の体を押さえ付け、宮本は半腰になって丁度同人の股の下に小畑の頭部が入るような格好をして両手で小畑の首の辺りを押さえていたということになる。袴田証言、逸見証言との食い違いはあるが、宮本の位置と行為については変わらない。

 ここのところ78年(昭和53年)に至って除名された袴田が事件後45年目にしてその手記(「週刊新潮」78年2.2日号)の中で、「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」事実を明らかにするとして新証言をしている。「小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重を乗せた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて『ウォ−』という小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本の締め上げに息が詰まり、遂に耐え得なくなったのである。小畑はグッタリとしてしまった」。「私は今まで、特高警察に対しても、予審廷においても、あるいは公判廷でも、自分の書いたものの中でも、この真実から何とか宮本を救おうと、いろいろな言い方をしてきた。この問題で宮本を助けるのが、あたかも私の使命であるかのように私は真実を口にしなかった。その結果、私も宮本も殺人罪には問われずに済んだのだ」。

 次のショット。「小畑がグッタリするや自分はその場に呆然として立ち宮本も木島も無言のまま立っており、袴田も小畑の足のほうに無言にて座りいたるところ」(逸見調書)、この騒々しさを階下で聞きつけた秋笹が階下から上がってきました。この時の様子は「用便の為階下に下り居ると間もなく二階にて小畑が大声にてわめき立つる声が聞こえ、次いでそれを取り鎮める為バタバタと非常に喧しき物音が聞こえ7、8分も経るや小畑が虎の吼える如き断末魔的叫び声を上げたと思うと後はひっそりとしたり。自分はただごとではないと思い2、3分の後用便を済ませて二階に上がり見ると云々」(秋笹調書)と陳述されている。秋笹は「どうしたんだ、どうしたんだ」と云いながら、側に寄ってきた。不自然な格好で静かになっている小畑を見て事態を読みとった。この有様を見て驚き「私たちに対して『殺してはまずいぞ』とか『殺すのは反対だ』とか云った様なことを口走り、非常に狼狽した様な様子でした」(袴田12回調書)。「『ここで殺すのは反対だ』とか『殺してはまずいぞ』とかいっておりました」(袴田2回公判調書)。秋笹は、「故意か不注意で殺した様に」なじり、「殺すことはなかった」と思わず叱責し、「殺してしまって仕様がないではないか」といつまでもくどくどと云った。他の者は皆、「関与しなかったからと云ってのんびりしたことを云うな」とムキになり、「殺す心組みで殺したのではないじゃないか。いつまでもそんなことを言ったって仕様がない」と云ってちょっと口論の様な形になった。ここのところ、宮本は「なぜだ」、木島は「殺したって良いではないか」、袴田自身は「殺したって良いではないか、生かすなら早くしないと駄目になる」と云ったようである。「日本共産党の研究三109P」によれば、宮本が、「今更何を云うのだ。妥協主義が悪いと云うことは野呂を例にとってさっき話したばかりじゃないか」と興奮し、二人は激論したが、逸見の仲裁でおさまったと書かれている。

 次のショット。こうして事件発生が明白となった。査問者一同は、しかし、本当に死んだのか、気絶しただけではないのか、再生するものならという思いでいろいろ手当した。「一時気絶して間もなく蘇生する」可能性を考え、秋笹が小畑の脈を取ってみたところ既に脈が切れていた。袴田は引き続き、「まごまごしていると駄目になると云いながら、床の間かどこかにあったやかんの水を持ってきて、小畑の頭から(顔や胸の辺りに)打ちかけました。しかしそれでも駄目でした」。「人工呼吸をやろう」と云うことになり秋笹が人工呼吸を試みた。「秋笹が小畑の体に乗って私が手真似で教えた方法で小畑の両手を上下に動かし、約15分間も続けましたが遂に蘇生しませんでした」(袴田12回調書)。宮本は「俺が活を入れる」と言って数回小畑の背部を叩き柔道の活を入れてみたが息を吹き返さなかった。ここでお互いが言っていることは、皆で取り押さえたのは事実であるが、自分自身の行為が直接死に至らしめたのではないという言い訳と、蘇生の努力をしたのは自分自身であるということを銘々が主張していると言うことである。

 なお、ここの部分「『生かすなら早くしないと駄目になるぞ』と云って人工呼吸をやったと云う様なことがあったのか」という予審判事の問いに対し、「小畑がぐったりなると同時に秋笹が上がってきたのであります。その刹那私たちは皆小畑が一時気絶したのだと思ってただポカンとしておりましたので、秋笹が上がって来ると同時に秋笹との間に色々問答があった訳ではありません。秋笹は先ず小畑の脈を取って見ました。すると脈がありませんので気絶したではないかと考え既に申し上げた様に秋笹に人工呼吸をやらせたり、水をうちかけたりしましたが、その効いなく死んだ事が判りましたのでそれから秋笹が愚痴のような事を申すので、同人と宮本、木島、私らの間に口争いが起こったことは事実ですが、私はその時にも『殺したって良いではないか』と云うような事は云ったことはありません」(袴田18回調書)と述べている。その理由として、「この査問中に起こった小畑の死は、その情況が未だ同人を殺害してまでも党指導部を防衛しなければならない程の情況ではりませんでした。従って、小畑が死んだのは最初から殺害の意見が有ってやった訳ではなく、同人が逃走を企てたのに対しこれを阻止すべく手段を講じた結果死に至らしめたのであります」(袴田「司法警察官の取り調べ供述」18回訊問調書)。予審判事が、この供述の真偽を確かめると、「その通りであります。要するに仮定論でありますが、党の指導部全体あるいはそれを構成する一員例えば宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がないというような極めて逼迫した情勢の下に置かれた場合には、我々は指導部を防衛する為にスパイたる小畑を殺したでありましょうが、事実当時我々はそんな情勢の下には置かれて居りませんでした」(袴田18回調書)と陳述している。「宮本を生かす為に小畑を殺すほかに方法がない云々」とは少々意味深である。


 浩二さんへ(1999.11.14日)

 浩二さん、はじめまして。ウオッチでの奮闘ぶり拝見させて頂いております。大変でしょうが、引き続き座持ちのほどよろしく。こちらからエールをお送りいたします。それと貴重な資料の開示も引き続きしていただれば助かります。すでに使わせていただきましたが、浩二さんなら無断拝借とは失礼なとは言わないであろうと勝手に思いこみ利用させていただきました。当然のことですが、私の投稿で使える部分がありましたらどうぞご利用下さい。事件の真実の解明に手分けしてやって参りましょう。それと、これを機会に浩二さん風の物言いも使わせて下さい。例えば、「ボソッ」とか云う表現、気に入っていますので。

 さて、「それとも、れんだいじさんの想像ですか? まさか……(以下、あまりにもこわいので略)」についてですが、結論から言えば、「想像」の類です。しかし、この「想像」には根拠がありすぎるというのが私の認識です。その根拠については、「査問事件」一つ取ってみてもこれからもおいおい明らかにしていくつもりです。したがいましてせめて「推測」ということにして下さい。なぜこのような「推測」に辿り着いたかというと、遠因としては私の学生時代の運動経験から始まっていると言えます。以来30年来のブツブツを経て、このたび「さざ波通信」との出会いがきっかけとなり、投稿上の責任を感じたところから党の戦後史からの見直しを始めたことを通じて今や「確信」に近いものになっておりますす。長年のもやもやが晴れたような思いをしております。要は、婉曲的に言って「宮本無謬論」は、単に何も知らされていないことが原因になっているということです。だから、今もっと知ろうとしているわけです。もっとも、この「確信」については、せんだって吉野さんから強くお叱りを受けました。しかし、私がためにする批判をしようとしているのではない点については、吉野さんも編集部の方にもきっと手応えで感じていただけているものと勝手ながら思わさせていただいております。

 なぜ「確信」にまで辿り着いているかというと、一つには現況の党のあり方に対しての強い不満があります。先だっても党首会談が行なわれましたが、不破氏は原子力の問題についてあれこれ重箱をつついた様ですが、普通は党の代表が真っ先にせねばならないことは現下の経済不況に伴う大衆の呻吟を伝えることでしょう。あるいはまた経済活性化への道筋の提言などもされても良いでしょう。が、そのような発言はなかったように思っております。こうした不自然さの根は深く、はるか「50年問題」まで遡らねば解けないというのが私の考えです。この時徳田執行部から宮本執行部への「宮廷革命」がなされ、党中央を簒奪した宮本執行部的なあり方の帰結が今日の党の非共産党的状況を生み出しているとみなしています。ところが、そうした「宮廷革命」の「正義」的事実さえ党内的に正確には認識されていないという変りくりんが幅をきかせているように思っています。もっとも私も知らなかったわけですから誰を責めるというものでもありませんが。したがって、情報の閉鎖に対する戦いが今求められているということになります。ひょっとして「しんぶん赤旗」の愚にもつかない長論文は、そこでへとへとにさせてしまう政略かも知れないとさえ思ったりしています(もう、やめとこ、ボソッ)。

 問題をそのように嗅ぎつければ、勢い次の問題は宮本氏その人がどういう人なのかという解析になります。つまり、宮本氏の人物的観察から始めねば宮本執行部をトータルで把握できないのではないかという認識が生まれるわけです。そういう観点から自伝的なものを捜しましたがめっきり少ないということでした。そこで、彼の登竜門をなした「敗北の文学」の解析から論を起こすことにしました。そして今「査問事件」の解析へと踏み込んでいます。今気づきつつあることは、戦後の「宮廷革命」時の原型がこの「査問事件」の前後の経過にほぼ出尽くしているように思えることです。戦後徳田執行部の連中がまんまとやられてしまったのもむべなるかなという思いがしています。話がどんどん長くなってしまいますので、ひとまずこれで失礼させて下さい。


 その4、小畑死亡に関する宮本氏の弁明について(1999.11.14日)

 小畑死亡時の様子に関するこうした袴田・逸見・木島・秋笹陳述に対して宮本はどのように主張したのか見てみよう。ところで、ここの部分に関して宮本がまじめに言っているのなら私もまじめに考察するが、とうていそのようには思えないので適当にチャチャを入れながら追跡していくことになることをご容赦願いたい。その前に整理しておきたいこととして、宮本は、小畑死亡時のみならず、それ以前の「査問事件」の発生過程と経過についてもすでに大きく異論を唱えていることを確認しておこうと思う。次のような特徴がある(「宮本第8回公判調書」を参考にさせていただいた)。単に小畑の死亡時の状況判断をめぐっての相違というレベルではないことが判る。

 その一。宮本が「査問事件」をリードしたというのは嘘であり、今回の「査問事件」の責任者は逸見であった、と言う。その例証は次の宮本の発言が裏付ける。曰く「彼(逸見)自身白テロ調査委員会の委員長であり、その位置はスパイ挑発に対する最重要部署にいた人間であり」。(ボソボソ)「白テロ」とはどういう意味だろう。よく判らない。私から見れば確かに「白テロ」ではあるのだが、宮本氏から見て「白テロ」とはどういう感じなんだろう。解せないがまぁいいや。曰く「組織的には問題提起機関の責任者であり、のみならず、予審の彼の陳述でもわかるごとく、総会においては彼が査問の開催を提議している」。(ボソボソ)「総会」とか「開催を提議」とか何で彼はいつもこういう物言いしか出来ないのだろう。宮本−袴田−木島ラインに秋笹と逸見を取り込んだだけのことでしょうが。曰く「むしろ実状の経過は、逸見ら組織部会に参加した人たちが小畑の不審行動を目撃して、それを一契機として初めは宮本に隠していたが、けっきょく逸見をはじめ白テロ調査委員会の人々から中央部に正式に提起されてきたものである」等々。(ボソボソ)ナルホド逸見が巻き込まれたのではなく、宮本さんが巻き込まれのか。これは初耳だよ。

 その二。今回の「査問事件」は平穏静溢に行なわれた、と言う。その例証は次の宮本の発言が裏付ける。曰く「我々としては査問にあたっては、これが順調にいくよう、混乱せぬよう、外部にもれぬよう十分注意した次第で、大泉のいうような状態であれば、大騒ぎとなり近所の者に気付かれないはずはないのである」。(ボソボソ)充分言い聞かせた上で猿ぐつわまでかましていたのではなかったのかなぁ。窓には黒幕で目張りしていたと言うし。曰く「私は特に周囲への顧慮を念頭においており、かかる混乱を導く行動は取らなかった」等々。(ボソボソ)それはソウダと思う。あなたならそういう目配りに抜かりはなかろう。

 その三。今回の「査問事件」は合議的に行われたと云う。その例証は次の宮本の発言が裏付ける。曰く「 査問においては合議対等性の立場がとられた」、と言う。(ボソボソ)なっなんとぉ、こうなると足縄・手縄・猿ぐつわの真偽をせねばならないことになるなぁ。それにしても「合議対等性」とはよくいうなぁ。また繰り返すけど食事・用便の方はどう配慮したんだっけ。それと「白テロ」と公然と認識しているんではなかったっけ。

 その四。宮本が指導者格で訊問していったというのは嘘である、と言う。その例証は次の宮本の発言が裏付ける。曰く「宮本が査問委員長格であったというのも、秋笹も指摘しているごとく、逸見の歪曲策法のひとつである」、「宮本が議長格であったといっているが、これも秋笹が指摘しているごとく不実である」等々。(ボソボソ)では、誰が音頭取りしたんだろう。烏合の衆で尋問していったのかなぁ。ついでにここでもう一つ確認しておくと、曰く「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」(宮本4回公判調書)と陳述しているようであるが、これは「小畑・大泉を順次束縛した後、宮本顕治が査問委員長の格で、これを逸見や私が補助し、秋笹が査問の書記局を勤めることにして先ず小畑から査問を開始することになりました」(袴田11回調書)と大きく違うけど、やっぱり非転向タフガイの宮本の言っている方が正しいのだろうか。宮本は木島の陳述批判として「大体、一定の場所に一定の時、ある人間がそこにいたかいないかという事は、事件を判断するにつき根本問題である。それがはっきり判らないようでは、他の陳述も信用する事は出来ない。木島の陳述はその点が曖昧である以上、他の陳述も曖昧であると言わざるを得ない」として一掃するが、宮本の「まず大泉から予定表に従い訊問を開始した」の不実陳述が明白となれば、「事件を判断するにつき根本問題である。それがはっきり判らないようでは、他の陳述も信用する事は出来ない」と同じように言わせていただいてよろしいでしょうか。

 その五。査問の過程が暴力的に行なわれたというのも嘘である、と言う。その例証は次の宮本の発言が裏付ける。曰く「宮本らがさんざん殴ったり蹴ったりしたというのも、自己を穏健であったと強調せんとする同一策法である」、逸見による宮本暴行証言の数々は「逸見は、事件を率直に見ていないから、さようなことを陳述」した等々。(ボソボソ)「素直に見る」見ないも何も本人は見た通りを陳述しているように思うけど。

 その六。今回の「査問事件」は党内のスパイ摘発闘争の一環として行なわれたものであり、党内対立が誘引したものではないと言う。その例証は次の宮本の発言が裏付ける。曰く「これは当時新聞などにさかんに書きたてられたことである。個人的争いについては逸見ものべているが、大泉の陳述はその典型的なものである。大泉は私怨により大泉、小畑を排除せんとしたが、大泉自身スパイたる正体をあばかされないために自己勢力の扶植に努力したとかのべ、かつ我々の悪口を種々いっているが、彼らスパイである立場からみればそのような結論になるのであって、その陳述をとりあげる価値は全然ない」。(ボソボソ)「とりあげる価値は全然ない」って言ったって本当のことだったら自然と口の葉にのぼってくるでしょうが。曰く「袴田は労働者出身であり、大泉は農民出身、小畑は半インテリ出身だから、事実上からみても労働者対インテリの問題ではない」。(ボソボソ)労働者対インテリの対立の構図ではなくて、小畑派と宮本派の抗争という図式ならどうなの? 曰く「また彼(木島)は、文化団体と全協の対立であったともいっているが、これも警察で吹き込まれた筋書きをもちだしたものであることは明瞭である」。(ボソボソ)「文化団体と全協の対立」ねぇ、そうも言えるわなぁ。「警察が吹き込んだ」ねぇ、警察も何か理由付けするわなぁ。でも、「労働者小畑派とスパイ宮本派との抗争による小畑派頭目への白テロ」とは口が裂けても言わないよ。曰く「また、中央部内の感情の対立であるとも言っているが、さような事実のなかったことは、今までにたびたび述べたとおりである」等々。(ボソボソ)そうだったら、党中央委員の先輩格二名を査問するのに何で、曰く「我々としては査問にあたっては、これが順調にいくよう、混乱せぬよう、外部にもれぬよう十分注意した次第」の必要があったのかなぁ。動かぬ証拠を突きつけて自己批判を迫るとかもう少し他のやり方がありそうなものだけど。

 その七。大泉のスパイ性については微にいりさいにいり熟知した解説をしているが、小畑のそれについては思わせぶりに述べるに留まる。その例証はありすぎて割愛する。(ボソボソ)大泉のスパイ性論議はどうだってよいの。本人も認めてることだし。問題は小畑の方なの。小畑の明白なスパイ性を指摘するのでないとおかしいと思うけど。死んだのは小畑の方なんだよぉ。なお、宮本の情報熟知ぶりは、次の様な発言が裏付けている。曰く「(大泉は)警察に留置中優遇を受けたので、同房者にスパイたる正体をかくすため、ハンストまでやりスパイたることを努めてかくしていたが、予審でスパイの身分を出しはじめたのである」というようなことまで知っているようである。(ボソボソ)こうなると地獄耳ということになるなぁ。

 その八。木島について、党所属上は宮本管轄の東京市委員会委員であり、今回の「査問事件」に特攻隊員的役割をさせたのにも関わらず、飼い犬に手をかまれた怒りかぼろくそに言いなしている。その言いようについては既述したので繰り返さない。不自然なことは、曰く「彼は小畑、大泉の査問にあたっては委員ではなく、単なる見張りであった」と前半で言っているにも関わらず、後半になると曰く「小畑死亡後、私らは階下におり、木島は2階にいたのであるから、階下で私らが党の方針につき協議した内容は木島が知るはずはない」と木島が二階の査問現場にいたことを認めている。(ボソボソ)見張り以上のことをさせたということでしょうが。何でそんなに木島を上手に使い分けるのよぉ。饒舌過ぎると尻尾を出してしまうという見本でもあるか。

 以上ここまでの経過でさえこれほど食い違いを見せる宮本氏の言いであるから、小畑死亡の経過に関して認識が異なるのもむべなるかなと言える。宮本は「宮本4回公判調書」で次のように述べている。概要「予審終結決定では、大変誇張して表現しているが、左様な事実はさらにない」、「ただ小畑が逃げようとして暴れた時、ちょっと騒いだぐらいである」。(ボソボソ)「ちょっと騒いだぐらい」とはひどいのではないかなぁ。曰く「従って、決定書に書いてあるようなことは出来る訳がない。この点に関する逸見の供述は相違している。逸見、木島の陳述は迎合的である。硫酸をかけたり、炭団を押しつけたりしたことはない。自分は静かに訊問しただけである」。(ボソボソ)「静かに訊問しただけ」というのもひどいなぁ。曰く「私が一眠りした時、物音で目をさますと、小畑は手足が自由になっていて起きあがろうとしていた。それに袴田が飛びかかって行き、逸見もそこへ来て袴田は足のほう、逸見は頭の方にいた。私も駆け寄って小畑の右手を小畑の横に座って両腕で抱きかかえる形で止めており、木島も来て向こう側で暴れる小畑の手を止めようとしていた」。(ボソボソ)「小畑の手を止めようと」してどうしたんだろう。そこの具体的な行為をちゃんと伝えてよ。曰く「小畑は手足を動かし、声を立てようとするので逸見は声をたてさせまいと口の辺りをおさえた。その時小畑は、風呂敷か外套を頭から被せられていたが、そのまま暴れたので皆で小畑を押さえ付けた。その裡に小畑は声を立てなくなり静かになった」。(ボソボソ)これでは、逸見の「口の辺りをおさえた」のが死因になってしまうではないの。曰く「結局我々としては、彼が騒ぎ出そうとしたので取り鎮めようとしただけに過ぎないのである。我々には殺意は全然なく、みなは蘇生することを希望していたのである。とくに蘇生に尽力したのは自分と秋笹の二人だけである。この点に関する逸見、木島の供述は相違している云々」。(ボソボソ)ソウカ「取り鎮めようとしただけに過ぎ」ず、蘇生に努力したのは「自分と秋笹の二人だけだった」のか。ソウカ救命尽力者として見てくれということか。地下に眠る小畑氏に聞いてみたいところだ。

 宮本氏は、「宮本5回公判調書」でさらに死因を自ら分析して次のように述べている。曰く「小畑が逃げかけたので、これを止めようとした当時の状況においては誰も斧なんか手にしていない」。(ボソボソ)それはそうだ。事件は突発したンだし。曰く「自分が目を覚ました時に、小畑は仰向けになって逸見に頭を押さえられ、袴田に足を押さえられていたが、両手を振り回していたので私と木島で左右の手を一本宛押さえていたのである。そのとき両手があいていたのは逸見だけであったが、同人は声を出させないようにかぶせた布がはずれるのを止めていたから、両手の空いていた者は結局一人もなかった」。(ボソボソ)またまた思わせぶりに逸見の行為に因果を持たせようとしているなぁ。曰く「私らは彼の手をねじったことはなく、また頭へ手を回した事実もない。胸、腹部を強圧した事実ももちろんない。左様な必要も余裕もなかったのである」。(ボソボソ)「私らは彼の手をねじったことはなく」というのが違うんではないかなぁ。しかし、この断定調がいかにも宮本らしいわなぁ。曰く「したがって脳震盪による急死は考えられない。また絞扼死もありえぬ。しかもこれは数分間の出来事であって、鑑定書などに格闘したとあるが左様なことはない。昭和九年二月一二日付検証調書中にも顕著な傷は発見しないという記載があり、我々も小畑の死体に傷を認めなかったのである」。(ボソボソ)「格闘」にもならぬまま押さえ込んだんではないの。死因については別稿で分析しようとは思っているけど。

 なお、宮本氏は戦後になって「月刊読売」(昭和21年3月号)誌上で次のように明らかにしている(今度はチャチャ入れないことにする)。「事態の重大性を直感し、私もとびおきて木島とともに小畑の傍らへよった。小畑は、大声をあげ、猛然たる勢いでわれわれの手をふりきって、暴れようとする。私たちはそれを阻止しようとして、小畑の手足を制約しようとする。逸見は小畑の大声が外へもれることをふせごうとしてか、小畑が仰向けになっている頭上から、風呂敷のようなものを小畑の顔にかぶせかけていた。私と木島は、小畑の手をそれぞれ両腕でかかえ袴田は足をかかえて、みな小畑の暴れるのをとめようとしていた。すると、そのうち小畑が騒がなくなったので、逃亡と暴行を断念したのだと思って、私たちは小畑から離れ、事態が混乱に陥らなかったことをほっと一安心した状態であった。そこへ、秋笹が階下からあがってきて、だまって小畑のおおいをとった。すると、顔色がかわり、生気を失っている。これはまったく予期しない事態であるので、ただちに秋笹が脈を取り、人工呼吸をはじめ、さらに私がつづいて、柔道の活をこころみ、それを反復したが、小畑の意識はついに恢復しなかった」。

 これらの陳述がその通りなら良いのだけれど、こうした宮本証言によると、引き倒された小畑に対しての取り押さえ側の位置は、袴田が小畑の足のほう、逸見は頭の方にいた。木島は宮本の反対側で暴れる小畑の手を止めようとし、宮本は小畑の右手を小畑の横に座って両腕で抱きかかえる形で止めていたということになる。暴れようとする小畑をどうやって「止める」のか想像出来るが言葉は至って柔らかい。「ちょっと騒いだぐらい」の出来事だと言いなしてもいる。袴田証言、逸見証言、木島証言との食い違いとして、「(小畑が)声を立てようとするので逸見は声をたてさせまいと口の辺りをおさえた」と逸見の行為による窒息死の可能性を積極的に示唆している点と、「私らは彼の手をねじったことはなく、また頭へ手を回した事実もない。胸、腹部を強圧した事実ももちろんない」と当人の行為の無関係を強く主張していることと、小畑の救命活動に尽力したのは自分と秋笹だけだったという評価点の主張が注目される。

 「査問事件」の全体的経過に対して、当時の情況を理解するという観点から今日でも非は非として認めた上で宮本氏の党史的評価をしようとする者も少なくない。しかし、そういう人たちも、当人がこのような主張をし続けていることを知った上で宮本評価をする必要があるであろう。もし、この語りが全体的に大嘘であったとしたら、逆にこれらの弁明だけで宮本氏は除名されるに値するのではなかろうか。人は時として過ちを犯すことはある。問題はその際の責任の取り方が大事であり、「知らぬ存ぜぬ私は関係ない」、検挙以来宮本盲信癖をすっかり醒ました「部下の木島は理論が低い」と言い張る態度はもっとも愚劣とみなすべきではなかろうか。この後でみるが、査問直後木島は宮本の口から党中央委員候補に大抜擢されていることを思えば、木島を「ノータリン」扱いすればするほど宮本氏自身の責任に及ぶというのが尋常の感性だと思うが。「査問事件」で見せる宮本氏の態度はそのようなものであり、宮本氏のそういう性癖を知れば、氏が戦後の党活動で果たしてきた語り、行ないについても右同様再精査されねばならないのではなかろうか。そういう人物が長年党の最高指導部で実権を握り続けていたことになるこの党は一体何なんだということになるのではなかろうか。野坂問題も本当はこういうセンテンスで総括されねばおかしいように思うけど。

 ところで、宮本は、自身の弁明内容と大きく相違する陳述を行なっている逸見に対してどのように対応したのであろうか。これを逐一見ておくことも意味があるがごく簡単に記すことにする。宮本は、「宮本第八回公判調書」、「宮本第九回公判調書」等で、逸見・木島・秋笹証言に対してそれぞれ論評を加えている。それによると、逸見は、薬物依存性患者であり、従って「逸見の陳述は客観性に乏しいものと言わなければならぬ」。木島は、没主体的な言いなりになる男で、査問当時は意のままになったが今は特高の云うままにリードされている。「(前掲文に続いて)それがはっきり判らないようでは、他の陳述も信用する事は出来ない。木島の陳述はその点が曖昧である以上、他の陳述も曖昧であると言わざるを得ない」。木島の云うような「左様な事はさらに無い」、「断じてない」、「対話等、全部相違している」。秋笹は、現在思想的動揺と情緒不安定期にあり(これも地獄耳だなぁ)、良いことも言うが間違ったことも言う。良いことの方は、今回の査問の正義性を確信していることと、宮本の暴力性をさほど指摘しないことと、小畑の死因を逸見の頸締め窒息死ではないかと想像していることにある。間違った認識は、袴田・木島もまたスパイであった可能性があると言ってみたり、赤旗号外でのプロレタリアートの鉄拳云々を党内スパイに対する鉄拳制裁を加えることだというような意味に解釈していることに認められる。「これは彼の誤解であり、プロレタリアートの強固な意思という意味に解すべきである」(何だか今日的な、プロレタリアート独裁を執権と読みかえるべきだという発想に通じる気がするが)と言う。(おしまいのボソボソ)ちょっと漫画調に乗りすぎて小畑氏に申し訳無かったかなぁ。


 その4、小畑の死亡原因の推定について(1999.11.15日)

 以上の様子から考えると小畑の死因は様々に考えられる。少なくとも関係者の突発性対応による「致死」事件であることには相違ない。この経過からすれば、直接原因は、1.小畑の全力反発による「脳溢血死」か、2.逸見の手による「喉締め窒息死」か、3.宮本の背中からの「圧迫死」か、4.当事者全員による突発性対応型の「暴行致死」ないし「外傷性ショック死」かということになるであろう。5.当事者全員の暴行による「脳しんとう死」はもっとも考えにくいが、最初の「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」の可能性を中心に据えて詮議したことにより、不自然なことに小畑の死因は「脳しんとう死」でありや否やをめぐって争われることになった。「村上・宮永鑑定書」が「脳しんとう死」を鑑定結果した理由は、小畑の遺体発掘時の稿で少し詳しく触れようとは思うが、遺体に暴行的損傷が多々認められたことにより、小畑死亡時の具体的な様子を理解しないままに損傷の程度から判断して結論づけたものと思われる。これに対して、後で出される「古畑鑑定書」は小畑死亡時の具体的な様子を精細に理解した上で「外傷性ショック死」を鑑定することとなったという違いがある。

 秋笹判決では次のように判断された。「小畑に対し、頭部、顔面、胸部、腹部、手足等に多数の皮下出血その他の傷害を負わしめ遂に同人をして前記監禁行為と相まって外傷性虚脱死(外傷性ショック死)によりその場に急死するに至らしめたるが云々」(秋笹被告事件第二審判決文)。宮本判決でもほぼ同様文が採用されている。ところが、宮本氏は、戦後になってこれらの原因説を一蹴して6.「異常体質性ショック死」という死人に口無し説を主張し始めた。この捉え方に近いものとして7.「自然死−心臓麻痺死」も出てくる。8.宮本氏が「梅毒死」の可能性にまで言及していたことは既に指摘したところである。以上小畑の死因については上記8説が考えられることになる。このうち宮本氏の6.7.8説は5説までと大きく性格を異にした大変不自然、狡猾な説ではあるが、当事者の弁明であるから無視することは出来ない。

 とはいえ、宮本氏は戦前の公判陳述においては5説までの容疑を前提にして免責を争ったようである。戦前の「宮本公判判決文」(昭和19年12.5日)を見ると、宮本氏は「正当防衛説」と「党内問題説」(党内問題であり階級裁判にはなじまないとする説)を主張していた様がうかがえる。「正当防衛説」としては概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑は従前より著しく党内を攪乱し道徳的堕落を招来せしめつつありたる為、同人等のかかる急迫不正なる侵害に対しこれを防止せんとして、その自由を拘束したるものなるをもって右行為は正当防衛に該当し、不法監禁にあらざる旨主張すれども云々」とあるように主張していたようである。が、判決では「(これらを口実に−私の要約)これをもって被告人等の法律上保護せられたる法益を侵害する急迫不正の侵害行為なりと云うことを得ざると共に、被告人等の為したる監禁行為がやむを得ざる行為なりとは認め得ざるをもってこれを正当防衛なりと云うことを得ざるところなれば、右主張はこれを排斥す」として退けられている。「党内問題説」としては概要「被告人(宮本)は、大泉及び小畑の両名は党員にして党の規約決定に服従すべきことを承認しつつ『スパイ』活動を為さば、党規約により監禁査問を受くべきことは予め承諾しおりたるものと認むべきのみならず、本件査問開始に当たりても同人等は承諾したるものなればなんら右監禁行為は不法のものにあらず」と主張したようである。が、判決では「被告人の主張の如くたとえ大泉、小畑の両名が入党の際に党の規約決定に対する無条件服従を応諾したる事実有りとするも、これをもって違法性阻却原由となすを得ざるをもって被告人の右主張もまた採用するを得ず」として退けられている。

 ところが、戦後になって宮本は、『月刊読売』(昭和21年3月号)に『赤色リンチ事件の真相』」という見出しの元に『スパイ挑発との闘争』を発表し、小畑の死因について、あれは『異常体質によるショック死』だったと発表するところとなった。概要「小畑の死因を、最初の『村上・宮永鑑定書』は、脳しんとうであるとしたが、事実かれが暴れ出した時、なにびとも脳しんとうを引き起こすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定による『古畑鑑定書』は、脳しんとうとみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろ『ショック死』(特異体質者が一般人にはこたえない軽微の刺激によっても急死する場合を法医学上、普通ショック死という)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」と主張した。

 この主張の欺瞞性は、「再鑑定による『古畑鑑定書』が、『脳しんとう死説』を否定して(ここはまぁ合ってる−私の注)、むしろ『ショック死説』と推定すべきであるとした(ここが詐術である。注意深く単に『ショック死説』としている。−私の注)」と言う言い回しにある。実際に「古畑鑑定書」を読んでみたら判るが、古畑氏は「ショック死」の学問的解説はしているが、小畑の死因を「異常体質性ショック死」とは鑑定してはいない。追って小畑の遺体発掘時の稿で述べようと思っているが、様々な要因が複合した「外傷性ショック死」と鑑定しているというのが実際だ。宮本は、自己流の事件の経過を語った後、主に「脳しんとう死」を否定しながら(打撃を加えず押さえ込んだのが事実であるから、打撃性に依拠した「脳しんとう死」説を否定するのはたやすい)、他の窒息死、脳溢血死、圧迫死、暴行致死、外傷性ショック死の可能性について右同様である的に一括して一蹴し、あたかも「古畑鑑定書」がそう云っているかの如くな誤読を招くような言い回しで「異常体質性ショック死」か「心臓麻痺死」に誘導しようとした。本来は、もっとも蓋然性の高い「外傷性ショック死」こそが詮議されるべきであろう。「古畑鑑定書」もそのように鑑定している。その詮議をせずにもっとも蓋然性の低い説を否定することにより自身の主張する説に導こうとしている。こうなると、もはや我々は、この現場において、宮本のこうした「はぐらかし論法」が氏の最も得意とするやり方であることを怒りを込めて確認すべきであろう。他の著作に目を通しても思うことであるが、この「はぐらかし・すりかえ話法」と詭弁と折衷主義と「客観的あるいは大局的話法」が氏の常套話法であり、我々はこうした論法とはそろそろ決別しても良いのではないだろうか。私自身はもううんざりだ。こうして、今日においても小畑の死因は外傷性か窒息性か異常体質かをめぐって定かでないという世界に誘われうやむやにされるに至った。

 話は変わるが、「リンチ共産党事件の思い出」の中で平野氏は貴重な証言をしている。昭和35年6.19日安保改定阻止闘争の最中、平野謙が手塚英孝(宮本の入党時の推薦人であるという同郷昵懇の文芸作家)と会った。その時のエピソードで、手塚が「査問事件」に関する作品発表をなそうとしていた事に関して、平野が「進んでいるか」と尋ねたところ、大要「実は宮本の検閲に引っかかりましてね。作品発表を見合わせました」(「リンチ共産党事件の思い出」68P)という返事がなされたことを明らかにしている。従って、手塚の5年後の発表作品「予審秘密通報」(文化評論.昭和40年12月号)は、宮本の検閲を通過した作品であることが逆に知れることになる。してみれば、袴田の著作「党とともに歩んで」のこの部分の記述も当然検閲通過させられていることが想像されることになる。ということは、いわずもがなではあるが、「党とともに歩んで」中の「査問事件」の記述もこのセンテンスで読まねばならないということだ。袴田が後日党と袂を分かったことを見てこれを正確視する向きもあるが随分曖昧化されていることを知っておくべきであろう。

 ここで不思議なことがある。少々既述したが、大泉は一部始終目撃していたと思われるが、「再びテロを加えられた結果私は意識を失ったらしく私が意識を回復したのは翌日の夜の8.9時頃でした」(大泉16回調書)と述べて、小畑死亡時の陳述を意識的に避けている観がある。したがって、その前の大泉の被暴行陳述は、意識を失ったことのつじつまを合わせるための過剰作為が考えられることになる。それはともかくとして、袴田と秋笹他の調書では、小畑死亡は大泉査問中の出来事であるのだから、大泉がこの間失神していたというのはおかしい。なおかつこの時点では大泉の頭被せははずされていると読むのがリンチ事件の流れであり、そういうわけで私は、何らかの意図で陳述を避けているとみる。大泉は、小畑死亡時の様子について予審廷でも公判廷でもしゃべっていない。つまり小畑死亡時の現認陳述がない。これを更に考えると、そもそも予審廷において予審判事がその時の模様を突っ込んで聞いていないことになる。予審判事はなぜ大泉に問いたださなかったのだろうか。普通はありえないことである。補足すれば、大泉の最終調書になったと思われる短い第19回調書で「(これまで申し立てた事で訂正又は補充することはないかという予審判事の問いに対して)小畑の殺された前後の模様についてあるいは自分の感違いや記憶違いの為事実と相違したことを申しだてたかも知れませんが、とにかくあの際、意識朦朧とした状態で自分の見聞したことを申し立てたのでありますから、もし間違ったことがあってもご寛恕を願います。それ以外の点については別に申し上げ事はありません」と、わざわざこの部分に対して「事実と相違したことを申しだてたかも知れません」、「もし間違ったことがあってもご寛恕を願います」と強調していることが気になる。

 私は次のように考えている。まだまだ明らかにされていない調書があるとは思うが、おおよそにおいては小畑の死亡経過はここに記したようなドラマ通りであったものと思うので、突発性対応型の暴行致死とみる。肝心な点は、「食事を給せずして監禁を継続」というこの間5食分食事が与えられていないことと、長時間査問による体力消耗の極致にあったところへ最後の死力を尽くして逃げ出しを図ったところを集団で押さえ込まれたことによる、「突発性急性疲労過労ショック性暴行致死」ではなかったかと思う。医学的に正式にはどう言うのであろうか。こういう場合、暴行のうち誰の暴行が決定的要因であったのかを特定することにどれだけ意味があるのかは判らないが、考えられるとすれば逸見による窒息死か宮本による圧殺死であるように思われる。ただし、逸見による窒息死の場合は、喉を締めたのか背中側の頸を締めたのかが多少問題となるがどうやら袴田の指摘する通り後者のようである。ということは、袴田の「生涯を通じて、これだけは云うまいと思い続けてきた」告白こそ真相を吐露しているのではないかということになる。

 なお、既に言わずもがなであろうが、小畑に暴行が加えられていたことさえ否定しようとする見方が根強くあって議論されている。そういう方たちに参考までにお伝えしておくと、内務省警保局保安課刊行の極秘文書〈特高月報〉昭和9年1月分は、「小畑達夫惨殺事件」、「大泉・熊沢惨殺未遂事件」とタイトルを付けている。否定論者は、警察が意識的にフレームアップしようとしてこういう表題を付けていると窺うのであろうが、私の考えでは、これは内部通信でもある点を考えるとフレームアップ視は少々穿ちすぎではないかと思わせていただく。惨殺とまではいかないまでも結果的には暴行致死事件であったことは疑いないように思っている。

 ところで、この査問による小畑の死亡が当時どのように伝えられていたかについての貴重な資料がある。昭和21年2.15日発行の人民社から出版された「日本革命運動小史」が刊行されている。この小冊子には、最後の方に宮本顕治らのリンチ事件が取り上げられていて、大要「党中央にスパイがいる事実が判明したため、自己防衛のために秘密裏に殺すことを取り決め、小畑達夫を殺害した」という意味のことが書かれており、これが当時の党員間での一般的な了解の仕方であったように思われる。ただし、これには後日談があり、同年4.23日アカハタで「党声明」として、「人民者発行『革命運動小史』/ゆるしえぬ誤謬/即時発売停止を要求す」という小見出しの記事を掲載した。宮本のイニシアチブによるものと推定できる。こうして、人民社は要請に応えて絶版にすることにしたという。結果として、宮本のイニシアチブは一出版社の生殺与奪に関与したことになる。が、実際には在庫品に修正の貼り紙をつけるという方法で改訂したようである。その改訂版では次のように記述された。「12月下旬、党中央部はスパイを査問に附した。スパイは罪状の逐一を白状したがその直後、スパイの一人が逃走を企て騒ぎはじめその男は突如死亡した。(後にこれは鑑定書によって法医学上ショック死であると推定された。委員達は公判に於て自然死−心臓麻痺との推定を主張し、あくまで鑑定を求めた。いづれにしろ階級裁判も殺害でないことは認めざるを得なかった)。だが警察はそれを発見するやデマをふり撒いた。新聞紙はリンチ事件∞共産党の殺人事件≠ニきちがいのように叫んだ」。

 もう一つここで触れておくことがある。逸見は予審調書で小畑死亡時の宮本の関与ぶりをあからさまに語ったが、戦後再会することになった逸見に見せた宮本の態度が次のようなものであったということである。「昭和21年、敗戦の翌年に、当時、岩波書店から刊行される予定であった野呂栄太郎全集の編集の仕事を私は手伝っていた。その編集委員の一人にリンチ事件の逸見重雄が居た。まもなく宮本顕治から強硬な異議が出て、彼は編集委員会から去った。逸見のような裏切り者を入れることは、野呂を冒涜するものだという宮本の申し入れによったのである。逸見は長い手紙を野呂未亡人に送って我々の前から姿を消した。私はまだ二十歳になるかならないかの学生だったが、宮本の強さにひどく胸をつかれたのを今に覚えている。逸見が逮捕されてすぐ屈服し、官憲の要求するような供述をすすんで行ったのが事実であったとしても、また、そのような人間が野呂の全集をつくるという仕事に相応しくないという宮本の主張が正当なものであるにしても、やはり少年の私には、かって野呂の秘書であり協働者であった、銀縁眼鏡の学者風の物静かな逸見が気の毒に思えてならなかった」(栗原幸夫「戦前日本共産党史の一帰結」)という貴重な証言がある。

 もう一つ。宮本の異常体質性ショック死論法が特高の拷問死の発表の仕方とよく似ていることを確認しておこうと思う。「特高警察黒書124P」以下を参照した。党中央委員岩田義道は、1932.10.30日検挙され11.3日警察病院で絶命した。拷問死は歴然であったが、警察病院は「肺結核を患い、脚気衝心で死んだ」という死亡届を出した。記事解禁後の新聞報道も、「岩田は肺結核の上に脚気を患っており、逮捕以来連日暴れ狂ったのが原因」(東京日々新聞号外)と、警視庁特高課の発表そのまま書いている。著名なプロレタリア作家小林多喜二は、33.2.20日検挙され即日死亡したが、警視庁は心臓麻痺による急死と発表し、遺体の解剖さえ妨害した。事実は即日なぶり殺しの拷問死であった。毛利特高課長は、「調べてみると、決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げ回るうち、心臓に急変をきたしたもので、警察の処置に落ち度はなかった」と述べている。今日遺体写真が残っているので死因の真相について私が敢えてのべるまでもないが、おおよそ心臓麻痺説を単に信じる者はおめでたい人というべきであろう。宮本の「異常体質性ショック死」論がこの特高の口上と如何によく似ていることだろうか、と思う。宮本の言うことを真に受けるあたりのとこまではその人の勝手であろうが、それを人に吹聴するなどは余程の赤面士であることを自認していただかねばなるまい。


 その4.「小畑死亡」その後の経過について再現ドラマ(1999.11.16日)

 第六幕目のワンショット。何となく査問の打ち切り模様になった。「小畑が死んだ刹那から私共はそれまで続いていた極度の厳粛な緊張感から一時に解放されてホットした気分となり、彼らに対する査問も一段落ついたと思ったのであります」(袴田16回調書)。この「ホットした気分」の考察に注意を要する。今回の査問の主目的が小畑の査問であり、大泉は刺身のつまのようなものであったことを証左しているのではなかろうか。そういうセンテンスでここを読みとる必要がある。単に小畑の死亡により当惑したというのではなく、「とうとうヤッテシマッタ」という気分があふれている雰囲気を読みとる方が正確と思われる。

 次のショット。「自分は狼狽して『もう査問会は中止だ』と独り言のように云い部屋の取り片付けを為し他の者もザワザワ致し居る中」、この後「袴田は急に階下に降り、畳を上げ床板を上げかかり居るにより、自分は同人に対し『昼中かようなことする必要なし』とて押し止め、二階に上がりて一同と前後の処置を考えることと為りたり」(逸見調書)。

 次のショット。上述で査問会が打ち切られ模様になったことを述べたがその前後のどの時点かが特定できないが、大泉の措置が次のように為されている。小畑の死亡が確認された後大泉が査問されることになった。「大泉に対する私たちの峻厳な態度も幾分か緩和される結果を生じたので、大泉もホットしたのではないかと思います。それで、私共は今後の方針を聞くと、大泉は『どうか命だけはお助け下さい』」と繰り返し、『田舎へでも帰って百姓でもして平和に暮らしたい』とか、『これからは警察に就いて活動しないのは勿論組織に就いて運動もしないからこれで勘弁してくれ』と頻りに哀願して居たのであります。それで私たちも今暫くほとぼりが冷めたら釈放する旨申し渡して大泉も大分安心した様に思います」(袴田16回調書)。この時、「その目の前で宮本が小畑の死体を足で蹴ったら『ウウウと微かな声を立てた』といっておりますが、之も言語道断のデタラメであります」(袴田18回調書)という陳述が為されている。大泉調書では、「宮本がその時私に『貴様は幸福なのだ見ろ』と云って其処に長くなっていた小畑を蹴ると、『ウーン』と幽かな声を立てました」(大泉16回調書)と述べていることに照応している。真相は判らない。宮本はそこまでやるのかという思いもある。

 ここで、この二日間に亘った査問における査問者の役割と行動に関して印象を述べた大泉の陳述があるので紹介しておきたい。「この査問の二日間私は人間的に一番恐怖を感じたのは木島でした。木島が一番行動的でありました」、「ここに最も同情すべき人物は木島でありましょう。彼は党に盲目的に忠実で何も判らず彼らの命令通り行動したのではないかと思われます」、「(このたびのリンチは誰が一番首魁であったか、という予審判事の問いに対して)それは勿論宮本が首魁でありました。彼の指図により木島以下の他の連中が私にテロを加えたのでありました。しかし宮本は卑怯な奴で云々」、「秋笹は宮本より余計に臆病で云々」、「袴田も臆病なところがあり云々、決定的の場合には責任を他に転嫁して逃げる卑怯者です」、「逸見は一番人間が善く凡そリンチとは縁遠い部類の人間ですが、恐らく宮本等の行動に参加せねば私と同様な運命に置かれることを恐れ、半脅迫された形でこのたびのリンチに加わったのではないかと思います」(大泉16回調書)。私は、大泉のこの陳述はこれでも随分控えめに言っているようにさえ受け止めている。

 次のショット。こうして善後策が協議されることになった。この会議は小畑が死亡しているその部屋で行われたようである。その後階下で食事をしながら話し合いがなされたということである。「我々としては、大泉・小畑が一日や二日の査問でスパイの事実を自白するとはもとより予期しないところであったので、又我々が下部組織の全部と連絡をつける為にも少なくとも1週間くらい拘禁する必要を感じていたのであるから、査問を始めてわずか二日ばかりで突然小畑の死に直面したということは我々としては意想外の事実の発生に少なからず驚いた訳で、これ以上査問を延引していて又不慮の出来事を起こしてはと思い、大泉の自白にも未だ多分に疑わしい点はあったのではあるが、とにかく自白を得たのであるから査問はこれで中止しようという気持ちになったのです」(袴田3回公判調書)。この陳述で注意を要するのは、「少なくとも1週間くらい拘禁する必要を感じていた」という部分である。少なくとも1週間飲ませず食わせずしたら一体どうなるのだろう。恐らく、小畑は少し触れられただけでホントに「異常体質性ショック死」で自死したことであろう。どうやら宮本−袴田ラインは直接的暴力の加圧に依らず自死することを願っていたのではなかろうか、と思われる。従って、小畑の逃亡行為はそのシナリオを察知した奇しくも偶然な氏の最後の革命精神の発揮であったということになるであろう。 「小畑がいよいよ死んだとすれば、もうこのアジトにも長くいる訳にも行かなくなり、又残った大泉夫婦の処分の問題もありますので、暫く小畑をそのままにしておいて、木島をその席から外させて、宮本、秋笹、逸見、私の4名で会合を持ちました」、「そして、大泉夫婦の処置については、至急にどこか他に適当な場所を借り受け、誰かそこに住み込み、大泉夫婦を暫く監視して、同人等が自首しないと見極めがついた時に釈放することにして、その監視は木島が引き受ける事に決定しました」、「小畑の死体の処分については、正式に協議にかけた訳ではありませんが、この時誰しも死体を外へ持っていって埋める訳にも行かないので、アジト内部に埋める処置しかないことはもちろんのこととしておりましたので、従来のアジトの関係上秋笹が死体の処置を引き受ける様な形となったのであります」(袴田12回調書)。この時かそれ以前かこの後の中央委員昇格決議の後のことか不明であるが、袴田自身が、「死体を埋める為に床下を見ようと思って階下に降り、8畳の間の畳を1枚か2枚上げた事は事実であります」(袴田12回調書)と陳述している。袴田のこの時の動きが袴田らしい。一階の畳を取り外して床下を覗く行為をしているが、特段の指示はしていない。「別に誰の口からもどうしようと云う話は出たわけではないが、死体をそのまま放っておく訳にも行かぬ故、床下にでも埋めねばならぬと考え、床下を見ようと思い階下8畳の部屋の畳を一枚か二枚取って見ました。口にこそ出さぬが一同の考えも自分と同じだった事と思います」(袴田3回公判調書)。

 次のショット。ここに驚嘆すべきことが語られている。暫く失語させられてしまうが語らねばならない。この後中央委員会の構成につき協議し、宮本・逸見・袴田・秋笹の職務分担を取り決めた。「その席上宮本と逸見の相談の結果、従来中央委員候補者であった私と秋笹を中央委員に挙げることに又木島をその候補者にすることに決定したのであります」(袴田12回調書)。恐るべきことのように思われるが、小畑の死体が放置されたその場(当の部屋か階下の食堂でかは陳述が分かれているが)で、宮本と逸見の協議により袴田と秋笹が中央委員に、木島の中央委員候補が平然と決議され、宮本の口から任命されたと云う。中央委員の職務分担は、袴田が組織部を、逸見が財政部と農民関係を、宮本が編集局及び東京市委員会を、秋笹が共青の再建責任者になることを決定した。戦後党活動の再建に当たって、「党中央の戦前最後の中央委員」であるという肩書きを宮本−袴田コンビが吹聴してまわることになるが、その実体はこのような状況下で決議された資格だったということを知っておく必要がある。逸見は呆然とした状況であっただろうから、宮本−袴田らの恐るべきタフネスな精神構造を知るべきであろう。会議を終えたところで木島が呼ばれ、大泉の監視役をすること、これから党の清掃を従来に倍して行う必要があるから下部党員の経歴書を至急取ることなどが宮本から命ぜられたという。ここは注意を要するところである。この後宮本は検挙されることになるが、既にこの時いくつかの方針を指令していることがこの文中からうかがえることである。その一つは、大泉の監視。その一つは、党の清掃事業としてのリンチ査問の強化。その一つは、追って判ることになるが、リンチ査問者の対象が全協及び党内に残存する戦闘的活動家に対してタッゲットされていたということ。その一つは、下部党員の経歴書提出である(この経歴書提出の不当性はこの後の稿で明らかにしようと思っている)。つまり、宮本自身は一早くに検挙されたことにより、袴田執行部の元でなされた以上の方針の実行には無関係と思われやすいが、事実は宮本指令の範疇のことであることを踏まえておく必要があるということになる。

 その会合が終わってから宮本、秋笹、逸見は階下へ降りていった。宮本と逸見はそのままアジトを去ったようである。袴田は、押入から熊沢を出してやった。大泉は、「謝罪状を書くから手を緩めてくれ」と言うので、同人の手足の縛りを緩めてやり、頭から被せてあった背広の上着を除いてやりました(私は、この時大泉が頭被せ状態にあったというのは偽証と推測する。もっとも大泉本人もまたこの時失神中であったと偽証している−私の注)。大泉は約1時間ほど書き続け、その間袴田は監視していた。そこへ秋笹が二階へ上がってきたので、袴田もこの後の大泉等の監視を頼むと同時に事後処理を相談し合って後アジトをでることになった。その時には木島達はおらず(木島は小畑を埋めるためのシャベルの買い出しに出向いていたようである)、木俣鈴子一人階下に居た。木俣は二階の騒ぎの間中一度も二階へ上がってきて居らず、終始階下にいて警戒を兼ねていた。査問から起こる物音を紛らす為に掃除の風を装ってハタキを障子にパタパタと当てる等の役目をしていたとのことである。この木俣鈴子の調書、熊沢の調書全文の漏洩が待たれるところでもある。

 次のショット。ここでも驚嘆すべきことが語られている。暫く失語させられてしまうが語らねばならない。この時小畑・大泉の所持金、時計等につきみんなで分け合っている。宮本・袴田が百円宛、秋笹・逸見が二百円宛、腕時計を袴田が分捕った。秋笹はアジトの費用が要るためであり、逸見は財政担当者としての立場で預かった。並の神経では無かろう。その他の品物は木島か秋笹の手で適当に処分したと思われる。大泉の持っていた手帖は行方不明となっているがこれもオカシイ。 次のショット。袴田は、この査問アジトを引き上げてから後は一度も立ち寄っていない。恐らく後味が悪かったのであろう。以来「毎日の如く木島と頻繁に連絡を取り、同人からその後の状況の報告を受けて居りました」(袴田15回調書)という。

 次のショット。結局秋笹が小畑の死体の処置を引き受けるようになった。「小畑の死体の処置については、自分も袴田の前述の如き暗示に基づき自分方の床下に暫く埋葬するよりほかに方法なしと考え、木島に穴埋用スコップの調達を命じ、その夜の明け方に先ず木島をして階下8畳の間の床下に穴を掘らしめ、二人にて小畑の死体を階下に運びてその穴に入れ土を掛けて埋没したり」(秋笹15回調書)。ここの部分は「日本共産党の研究110P」では次のように書かれている。「夕方7時頃木島はシャベルを買って帰り、暫く秋笹と雑談していた。木島の記憶では、宮本が『明日の明け方に皆で埋めよう』と云っていたのだが(宮本は否定)、何時になっても、誰もアジトに戻ってこなかった。秋笹と木島は憤慨しながら仕方なく二人で埋めようと決心し、明け方まで3時間交替で寝た」。こうして小畑の死体は25日の明け方頃秋笹と木島の手で床下に穴埋めにされた。その様子は大泉の16回調書中にても明らかにされているが割愛する。「その報告によって私は、小畑の死体は右アジトの床下に埋められたことを知り、又大泉はスパイであったこと及びスパイになった事情を手記に書いたことも聞きました。なお、大泉夫婦が自殺の申し出をした事も聞きましたが、いつどこで又いかなる方法で自殺させるかという具体的な問題については、中央委員会としての決定はしませんでした。ただ右申し出を承認して自殺させる事にしたばかりであります」(袴田15回調書)。

 以下は「日本共産党の研究三111P」によると、(概要)この後、木島は、小畑のネクタイ、ハンカチ、細引き、針金などと赤旗の刷り損ないを風呂場で燃やし始めたが、くすぶってなかなか燃えないので、庭に穴を掘り、揮発油をかけて燃やしたが、なおもくすぶるので、土をかけて埋めてしまった。これは事件発覚後全て掘り出され、証拠品として法廷に提出されることになる。また出刃包丁、斧などは風呂敷に纏め、後に木島が下部党員に処分を依頼した。要するに後始末は全部木島がやったのである、とある。ここの部分も注意を要する。「査問事件」における暴力は無かった説を主張する輩は、事件の物証としての「出刃包丁、斧など」が見あたらないとしきりに主張しているが、この文中において「風呂敷に纏め、後に木島が下部党員に処分を依頼した」とあるのをどう読みとるのであろうか、是非聞きたいところだ。立花氏の研究は「犬の吠え」であるから根拠がないとでも言うのであろうか。もう一つ、家宅捜査が入ったのは事件発生後二十日以上経過した後のことである。事件関係者が「出刃包丁、斧など」を始末したことを推測するのに何の不思議があるだろう。

 翌日これをアジトにやってきた宮本に報告すると、宮本は「ご苦労さん」、「さすが労働者だ」とほめたと云う。余りにも馬鹿にした話ではないか。ちなみに、宮本がアジトに再びやって来ていることは次の自身の陳述によっても明らかである。「自分は小畑死亡後、査問アジトに行ったのは、二十五日の夜が最初であって、そのとき死体を処分したことを聞いたのみである」(『宮本顕治公判記録』の第九回公判調書、p.225〜227)と云っている。たあdし、袴田同様に「(死体埋蔵に関しての)特段の指示はしていない」と主張しており、「なお、宮本は、後に裁判で死体遺棄の共謀正犯に問われると、自分は小畑の死体には全く関係が無く、あれは秋笹・木島が勝手にやったことだとの主張を続けて今日に至っている」(「日本共産党の研究三111P」)。実際の言い回しはこうである。「(袴田は)死体の処分に関しては、けっきょく当日は未決定であったと述べている、それが真実であって、当日秋笹が死体の処分を引き受けたとか、私が死体を床下に埋めるよう指揮したようなことはない」(『宮本顕治公判記録』の第九回公判調書、p.225〜227)とある。これではまるで「空中浮揚氏」の言いぐさそのものではないか。もっとも年代的に見て空中氏の方が真似てるということにはなるが。


 不幸な時代の不幸な出来事(1999.11.17日、木村)

 れんだいじさんの空前の力作が連日投稿されています。私は過去にも投稿していますので、私のだいたいの考え方はおわかりいただけると思います。「スパイ査問事件」については、ロッキード事件が発覚する直前に、国会で春日一幸氏(旧民社党委員長)が取り上げたことによって世間の注目を集めることとなりました。さらに、立花氏の著作が発表され、「犬はほえても歴史は進む」という「赤旗」紙上の反論があったことは覚えています。

 その後、何度か断続的に反論が続きました。私の記憶では、野坂氏の『風雪の歩み』(「前衛」)に続いて、袴田氏も回顧録風の連載を同誌上にしたことがあり、それを読んで、詳細は忘れましたが「あれれ、袴田氏がこんなこと(宮本氏にとって具合の悪いこと)を書いていいのかな」と思うような下りがあったことも覚えています。

 その当時の私の対応はどのようなものであったかということを書きます。立花氏の著作等はまったく読みもしないで、基本的には「赤旗」紙上に掲載される記事を読んで納得しました。某巨大宗教団体のカリスマが、わいせつ行為をしたということが週刊誌に報じられたり、その団体の反社会的な行為を暴露する報道があったときに、私は、その信者(私にとっては親しい人でしたが)に対してこれらをどう思うか? と聞いてみました。それは「ためにする批判だ」という一言でした。

 いま思えば、私もその信者も似たようなものでした。その私が、今、苦痛を覚えながらもれんだいじさんの投稿を読み続けるのはなぜでしょうか。この間に30年ほどの歳月が過ぎ、日本共産党も大きく変わってきました。今日、私は日本共産党中央の路線に大きな疑問を抱いていますが、その疑問は一夜にして生まれたものではありません。最初は、「大衆闘争をやらない」、「拡大と選挙だけ」という程度のことでした。この程度のことは一般党員なら平気で言うことができます。しかし支部担当の党の専従に何回言っても事態は改善されませんでした。さらに羅列すれば、原水禁運動、たとえば古在さんとの軋轢(古在さん死亡記事さえ「赤旗」には載らなかった)、統一労組懇の結成、「新日和見主義」への対応、「人民的」議会主義路線、ソマリアへの米軍の派兵に賛成する宮本議長の発言…、そして近年では、不破政権論、日の丸・君が代…などの問題が、マルクス主義の古典から学んだことや私自身の実践活動から学んだことに照らしてどうしても「おかしい」と思わざるを得なくなり、疑問として胸の中に沈殿していきました。

 そういう疑問は、一面では理論的上の課題として考えなければならなかったし、他面では日本共産党の固有の体質のようなものに向けられていきました。良きにつけ悪しきにつけ、日本共産党の今日の基礎を築いた宮本氏に目がいくのは当然のことでした。党員であれば、日本共産党の「はてな?」の部分について誰でも多少は考えており、少なくとも年輩の党員の中では「宮本無謬論」は、れんだいじさんがいうほど堅牢なものではありません。

 私自身の「党中央の路線への疑問」の変遷は、具体的なもの、個別のことがらから、より抽象化されたものへ、より一般化したものへ発展していったように思います。このことは認識論的にいってもだいたいそうであろうと思います。現状では、結集している多くの党員が日本共産党の現在の路線を支持しており、また、特別に宮本氏への批判的な評価をしているとも思えません。

 今日の日本共産党の路線の抱える「諸問題」を「50年問題」にまでさかのぼり、かつ、宮本氏の強烈な個性をキーワードとして解明するという発想はユニークですが、あまり唯物論的な方法だとは私は思いません。私の考えでは、もし、党内で宮本氏に対するほぼ正確な評価が定まることがあるとすれば、それは現在の政治路線が全体として検討された後になるでしょう。

 れんだいじさんがいうように、「現下の経済不況に伴う大衆の呻吟」という政治情勢の特徴から考えても宮本氏に対する評価を定めることは急を要するものだとは思われません。

 党外から日本共産党を批判されることは自由でしょうし、「さざ波」編集部も設立の趣旨からいって、よほどのことがない限りその投稿を掲載するでしょう。誤解のないようにいっておきますが、私は日本共産党の現指導部に対して批判的な立場の党員です。そして、その批判的立場の核心は「綱領路線の擁護」です。また、個人的には宮本氏に対してもそれほど肯定的な評価をしているわけではありません。

 現在、少なくない一般の日本共産党員は職場におけるさまざまな差別や偏見と闘いながら日々苦労して活動をしています。彼らの献身的な努力は是とされなければなりません。これらの人々こそ日本共産党の主人公です。これらの人々は、かつての私がそうであったように、おそらくれんだいじさんの投稿の内容を肯定的には受けつけないでしょう。これらの人々の中には、このサイトの存在さえ「反党的」と考える人が少なくありません。しかし、彼らとて日々の実践の中でさまざまな疑問にぶつかるわけであり、具体的な政治上の問題について疑問を持つでしょう。そういったときにこのサイトをのぞき、投稿していく党員がしばしばあります。

 れんだいじさんは引き続き投稿を続けられればいいでしょうし、それを止めてほしいなどという気は更々ありません。ただし、れんだいじさんが党指導部の現在の路線を懸念されるならば、そういう一般党員の存在を念頭に置いて執筆されることを希望します。おそらく、私の考えは「さざ波」にときどき投稿する党員の受け止め方とそれほどかけはなれてはいないと思います。

 さて本論ですが、れんだいじさんの「敗北の文学」に対する評価はたまたま私が考えていたことと通じるものがありました。たとえば、「将軍」という小説があります。あれなどはあの時代に書かれた小説としては高く評価してもいいと思います。

 「スパイ査問事件」に関する投稿を毎日読ませていただいていますが、私は別な面つまり、歴史的な背景を考えています。暗黒の天皇制支配の中で「天皇制打倒」、「侵略戦争反対」を掲げて闘った日本共産党の歴史はあまりにも重く、日本共産党の一員としてこれを否定的に評価することはできませんが、検討する価値がありそうな点を紹介しておきます。

 れんだいじさんの投稿にも詳しく書かれていますが、戦前から戦中にかけての日本共産党はその存在さえも許されないほど弾圧を受けました。有名無名の党員が逮捕、拷問、虐殺されました。また、党内には無数のスパイが放たれ、疑心暗鬼の状態が蔓延しました。まずもって、残虐で卑劣な天皇制権力、特高警察が断罪されるべきです。

 当時の日本共産党にはほとんど大衆的基盤がありませんでした。この意味で、当時の日本共産党の現実的な影響力は皆無に近かったといえるでしょう。これは第一義的には天皇制権力の弾圧によるというべきでしょうが、一方で、党の綱領上の問題はなかったか、という疑問があります。

 エンゲルスが、「1891年の社会民主党綱領草案への批判」(「エルフルト綱領批判」)の中で、興味深いことを述べています。社会主義者取締法が廃止になって間もない時期のことですが、これが復活するのを恐れたのか、この綱領の中には(君主制の廃止を意味する)「共和制の要求」が入っていませんでした。これに対して、エンゲルスは「共和制のことはやむをえなければ避けてとおりすぎることもできる。…ぜひともいれなければならないし、また、いれることができると思われるのは、全政治権力を人民代表機関の手に集中せよという要求である。そして、もしこれ以上にすすむことができないならさしあたってはこれだけでもよい」としています。当時のドイツ社会民主党は党員数、得票率、議席とも戦前の日本共産党とは比較にならないほどの大きな政党でした。

 加藤哲郎氏のHPに「1922年9月の日本共産党綱領(上)」という氏の労作があります。党の創立年月日についても異説を紹介してありますが、これによれば当時の綱領には「天皇制問題が不在」であったとのことです。通説とは著しく異なることになります。私にはこれをどう判断してよいのかわかりませんが、「君主制廃止要求」があるいはコミンテルンからの「強力な指導」によるものであった可能性もあります。

 当時のきわめて強力な天皇制によるイデオロギー的支配を考えれば、「君主制廃止要求」が当時の日本共産党の存立基盤を著しく狭めることとなったことも考えられます。エンゲルスの柔軟な思考を参考にすれば、当時の日本共産党のあり方をもう一度考えてみることも必要かもしれません。

 繰り返しますが、私は当時の日本共産党の存在を全体として崇高なものであったと評価しています。あの状況の中ではたがいにスパイではないかとして査問しあうような事態は避けられなかったという感じがしてなりません。

 当時の法制をよく知りませんが、おそらく官憲による死に至らしめるような拷問が許されていたわけではなかったでしょう。にもかかわらず、ほとんど白色テロルに近い形で党員の命が奪われるという状況で、つまり武力弾圧に等しい状況があって、もしスパイあるいはその容疑が極めて濃厚であることが判明したら、(査問が宮本氏の述べる様子とは異なる、れんだいじさんの描く状況であったとしても)、「任意の調査」程度のものですますことができたでしょうか。結果として宮本氏も袴田氏も生きて戦後をむかえることができたのですが、それはあくまでも結果です。天皇制権力と日本共産党との闘いは文字通り生死をかけた闘いであったことは、当時の日本共産党の路線についての評価は別にして、事実として認めなければなりません。

 誤解を恐れつついいますが、ここに大衆的基盤が薄弱な左翼の闘いの収斂する姿を見いだすのは私だけでしょうか。私には不幸な時代の不幸な出来事としか表現のしようがありません。そして、小畑氏がスパイでなかったとしたら(れんだいじさんの投稿によれば、そのことに関する傍証には説得力がありますが)、それは何としても歴史に銘記されなければならないでしょう。特に彼の母親の話は印象的でした。


 その5.宮本検挙とその虚実について(1999.11.17日)

 第7幕目のワンショット。宮本は二日後の12.26日逮捕検挙された。党史では「この摘発の途上で、1933年(昭和8年)12月、東京市委員会にもぐり込んでいたスパイ荻野増治の手引きで宮本顕治が街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて麹町署に検挙された」と書かれている。「党中央は荻野にスパイの疑いを持っていだいていたが、宮本が最後の連絡ということで出かけたところを敵の手にうられたのであった」(「日本共産党の65年」73P)とも追記されている。このような記述によれば、宮本の検挙は党にとって「査問事件」後の重要な時期での痛い検挙であったように受け止められやすいが実際は大きく様子が違うようである。次のようなものであった。「日本共産党の研究三112P」を参照する。概要「前日アジトにやってきた宮本は、今度は東京市委員会キャップの荻野の査問をすることにしたと木島に告げ、それを『木島が責任を持って東京市委員会でやれ』と命じた。しかし木島は、『東京市委員会にはとてもその力がない』というと、宮本は、『では中央委員会でやるから、ついてはその準備が完了するまで、木島と荻野と連絡をとるようにしてくれ』と頼み、木島は了承した。荻野は宮本のおぼえがあまりめでたくなかったようで、同じ東京市委員会に居ながら大泉・小畑の査問に当たっては計画段階から外されていた。この間荻野が受け持っていた下部組織で連続検挙があり、それが原因で荻野は木島にその地位を譲らされていたという経過があり、党内から疑いの目で見られていたとのことである。12.24日つまり小畑が死んだ日には木島と街頭連絡の約束があったが、その場所に行ってみると木島は来ていなかった。実際には木島はリンチ事件で忙しくて連絡どころではなかったのだが、そうとは知らぬ荻野は一層不安になった。翌25日、逸見と連絡をとると、逸見は大泉・小畑の査問の大要を話し、これから宮本に会うようにと指示した。指定された場所に行って宮本と会うと、宮本はこれまで荻野に対して『あなた』とか『きみ』とか呼びかけていたのに、この日は始めから『貴様』呼ばわりをした。宮本は、『大泉と小畑とを査問した結果、党の各機関に多数のスパイが潜入していることが判ったから、今後それらのスパイを徹底的に処断する』と云い、大泉・小畑の除名理由書のプリントを渡して、それを複製する仕事を命じた(この除名理由書の記載内容に興味があるが明らかにされていない−私の注)。

 さらに、『大泉・小畑がスパイであったことを認めるか』と聞くので、荻野は、『大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない』と答えると、宮本は一瞬ギクッとしたようだったが、鼻先で『フン』と笑い、それから、荻野は東京市委員会から解任され、今度はアジ・プロ部で働いて貰うことになったと告げて、『そこで貴様をうんと叩き上げてやる』と云った。(ここは暫く黙そう。この時宮本は24才である筈であり、何とも超大物な口ぶりをするこの背景は一体何なんだろう。それと「ギクッとした」というのが何ともリアルな気がする。それはそうだろう「大泉はスパイだと思うが、小畑はそうは思わない」こそ「査問事件」の本質に迫った認識であり、当の宮本だけには絶対漏らしてはいけない考え方であった訳だから。しかし、そこまで読みとれなかったからといって荻野の迂闊さを見るわけにもいかないであろうが−私の注)。荻野は、宮本の口ぶりから、大泉・小畑は査問されて殺されたに違いないと判断し、これから他のスパイ容疑者にも査問が広がり、自分もその一人で殺されることになるかも知れないと考えた。この日の夜一晩考えたあげく、翌26日の朝、警視庁に自首して出た。荻野と宮本は、前日別れるときに、この日の午後3時に連絡を取ることにしていた。宮本はそこで荻野と会ったら、木島に任せて査問させようと考えていた節がある。自首した荻野は、この日の連絡を警察に告げた。予定通りやってきた宮本は乱闘の末逮捕された」。

 宮本検挙の真相は以上の通りということだ。荻野が宮本を売ったことは明らかであるが、宮本の逮捕は単純にスパイに売られたとかいうものではない異色のそれであることが判る。ちなみに、荻野は除名され、その除名広告によれば31年(昭和6年)頃からスパイであったとされた。そうであれば、ほぼ二年間一緒に活動していた同じ東京市委員会の宮本−袴田−木島ラインを始め他の党幹部はそれまでになぜ売られなかったのかが不自然ではないだろうか。あらゆる視点を宮本神話から見るからこういう不自然さが見えてこないことになる。

 なお、この宮本検挙について不審な点がある。宮本は、松本清張に次のように話しているということだ。何とかして荻野を落とし込めスパイに仕立て上げようとしていることが判る。概要「(前にも一度逮捕されそうになったことがあるとして)会合の為に三田のアパートへ行ったら、張り込んでいましてね。手帳を取られたんです。これは駄目だと思ったんで云々。後から思うと、私がやられたのは、通称“高橋亀”こと荻野っていうスパイに売られたのです」(宮本顕治対談集238P)。この話の珍奇なところは、「手帳を取られて、駄目だと思った」ことにある。ということは、手帳に克明なメモがなされていたことを意味する。すでに我々は「査問事件」中大泉の手帳嫌疑を見てきた。宮本自身が次のように述べているほどの「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる」危険な行為として、当時党員は手帳を持たないというのが鉄則であったはずである。宮本なら所持しても良いということにはならないであろう。それともこの御仁の癖の一つであるが、自分は例外が許され相手には厳しくという常用なのであろうか。そういえば、「空中浮揚」氏も自分は見るだけで水中クンパカを信者にさせていたなぁ。

  ところで、この時宮本が、こうした「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。袴田の話によると、袴田も宮本も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮本に危ういという意見を言う者も居たが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。荻野が最後なのか宮本が最後なのかはっきりしないが暫し黙して考えてみよう、あらかじめ自身の入獄を自身が知っていたとも受け取れる実に謎めいた言葉ではないか。一仕事やり終えたという意味なのか……。それはともかく、宮本の逮捕により宮本が職務分担として引き受けていた「赤旗」編集と東京市委員会の指導は袴田が引き受けることになった。

 なお、この逮捕時の様子を伝えた宮本の回顧録の内容に重大な疑惑があることも指摘しておかねばならない。宮本氏は、昭和15年4.18日公判の冒頭陳述で、「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた」(文化評論昭和51年臨時増刊号、「リンチ共産党事件の思い出」87P)と述べたという。これに対し、平野謙は貴重な疑惑を呈している。概要「大体私が麹町警察署に検挙された時は12.26日の筈であり、しかし昭和8年12.24日に小畑は急死したが、その事実を当局が確認したのは、大泉兼蔵が逃亡した翌昭和9年1月15日直後のことである。宮本顕治の検挙された昭和8年12.26日から1.15日までの二十日間ほどのあいだに、宮本顕治の警察に対する根本態度が確立されたのではなかったか」と。つまりそういうことになるが、宮本氏が公判冒頭陳述で述べたように宮本の逮捕時に特高が既に小畑のリンチ死を知っていたとはどういうことなんだ。これが真相かも知れないし、宮本が拷問的虚実をデッチ上げんがために脚色した詐術かもしれない。ひょっとして両方の意味があるかもしれない。いずれにせよことは極めて奇っ怪なことになるし、私が宮本を胡散臭い人物だということの根拠の一つでもある。

 しかし、世の中にはいろんな見方があるもんだと思う。この特高発言がなされたのは小畑の遺体の検死が行われた直後の1934年(昭和9年)1月17日頃であり、宮本の取り調べにあたっていた山県警部らは、麹町警察署の拷問部屋で宮本氏にむかって「共産党をデマる絶好の材料だから、今後とも党と大衆を切り離すためにつかってやる」とうそぶく、という記事が「ウオッチ」で紹介されている。この1.17日説の根拠は判らないが、この場合、昭和15年4.18日公判の宮本の冒頭陳述での「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は云々」発言が確かになされているのかどうか調べればはっきりすると思う。私は、「リンチ共産党事件の思い出」を参照しているだけであるので心細くなってしまう。しかし、平野氏が自分で掲載しておいて「不自然だ」と言っているのだからあながち嘘ではないと思うけど。どなたかチェックしていただきたいと思う。

 ちなみに、宮本は、麹町署に検挙され、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから、失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと本人が明記している。しかし、このように主張しているのは宮本であって、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨しているということのようである。この発言の真偽もどなたか確認していただけたらありがたい。私でさえ、あまりに重大なことなので、にわかには信じられない。

 なお、ここでこの当時の通常の取り調べの水準がどの程度のものであったのかを見ておくことにする。これは「特高警察黒書」(新日本出版社)113Pの一節である。俳優の松本克平氏が自らの体験を語ったものである。松本氏は党員でもなかったがナップの連絡係をしていたようである。そういう者にさえこの程度の拷問がなされるのが普通であったことを例証したいため以下記す。概要「私は築地署へ引っ立てられ、激しい拷問を受けた。二人の訊問係りは交互に連続的に機関銃のように尋問する。即答しないと二人のテロ係りが間髪入れず竹刀と藤の太いステッキで私の太股を気違いのように殴りつけた。反抗心と昂奮で最初はそれほど痛く感じなかった。たがいっぺん叩かれたところは既に内出血している。体をあちこちひっくり返されながらムシロのように2時間も叩かれると同じ箇所を三度四度と叩かれることになる。三度同じ所をやられると頭にキリを突き立てられたように痛く、体がピクピクして意識不明に陥る。唇はカラカラに乾いて声も出ない。私は43度の高熱に浮かされ1週間以上動けなかった。心臓の弱い人ならとっくに心臓麻痺で死んでいただろう」。続いて同書は作家の中本たか子氏の手記を載せている。彼女も当時は党員ではなかった。関連するところだけ抽出する。概要「鈴木警部がまず私に姓名、住所から聞き始めた。私は答える必要がないので、口を開かなかった。特高どもは、見る見る顔色を変えて総立ちになった。『なめるなら、なめてみろ!』というなり、私の顔を殴り、髪の毛を手に巻いて引っ張り、足を上げて背中を蹴りつけた。なぐられっぱなしの私は頬がゆがみ、髪の毛はばりばと抜け、背筋の骨が痛む。竹刀を持ってきて私の頭を殴りつけた。三人の男どもはそれぞれに力を込めて、ふんだり、蹴ったり、殴りつけたりして、私を責め続けた。私は意識がくらんできた。以下略。私は意識を失った。私が意識を取り戻すと、太股をこづき始めた。みるみるうちに、私の太股は赤くなり、はてはどすぐろくなって腫れ上がった。痛さに泣き叫ぶ私を面白そうに眺め、三人の特高は代わる代わる、三時間ぐらいこづき続けた。翌日もまた、同様の拷問を繰り返した。私は立ち上がることも、歩くことも出来なかった」。

 党員でなくてもこれぐらいの拷問がなされていたのであるとすれば、党員か朝鮮人活動家に対してなされた程度が想像されよう。小林多喜二の「1928.3.15日」の文中はその実態を暴露した名著ではないのか。この当時皆なぶり殺しか気絶するまで激しい拷問がなされ続け、彼らの意に従うまで何日も続けられたというのが当時の関係者の一致して明らかにするところである。まして中央委員ならどうなるか判りそうなものではないか。野呂の例を見てみよう。野呂こそはと言うべきか最後まで調書を取らせなかったが、彼は明らかな肺炎性病弱を見せていたにも関わらず各署をたらい廻しにされて厳しい取り調べを受けた。獄中で健康状態が急激に悪化し、流動食しか取ることが出来ないため、看守にオートミルを作らせ、移動する時は他の者に担いで貰わなければならぬほどだった。34年2.19日病状があまりに悪化したため、品川書から北品川病院に入院させるため運ばれたところで絶命した。32才の若さであった。

 宮本は、この時の拷問の様子について次のように語っている。「特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て、『世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか』、『この間良い樫の棒があったからとってある』と云いながら、椅子の背に後ろ手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水を掛けた。そして、『岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか』とうそぶきながら拷問を続けたが、私は一言もしゃべらなかった。歩けなくなった私を、看守が抱えて留置場に放りこんだ。12.26日で、監房の高い窓からは雪がしきりに吹き込んだ。一切の夜具もなく、拷問の痛みと寒さのため私は眠ることが出来なかった」(宮本「私の50年史」.「日本共産党の65年」73P)。私には具体性の乏しい非常に嘘っぽい文章であるように思うがこれ以上は控えることにする。

 この時のことを宮本はこうも語っているらしい。「追憶談」(週刊読売)で、「(彼の追憶によると)はじめは、猛烈な拷問を加えられたが、そのうち向こうが、『こいにつは何をやっても無駄だ』とあきらめて、持久戦に入った。寒中でも夜具を与えず、寒さで眠らさないような悪どい拷問に出てきた」、「それも一年ほどして切り抜けると、府中警察に、足錠、手錠をかけたままの姿で、二ヶ月置かれた」、「警察にいる期間は、ほとんど風呂にも入れず、本も全く読ませないで、一年間ただ座らされていた」という。宮本は、これを称して「原始野蛮による人間への持久拷問」と言っており、この記者も「信念のない者ならたちまち拘禁ノイローゼにかかり、警察側の思い通りにされてしまったことであろう」と妙な感心の仕方で提灯している。これでは宮本が受けたそれの方が虐殺拷問よりしんどいみたいに受け止めてしまうではないか。宮本の場合、他の多くの党員になされた虐殺もありえた即日拷問を、なぜ持久戦にまで持ち込めえたのかその丁々発止の様?を問う方が自然ではないのか。提灯持ちは何人いても役に立たない。


 その5.大泉のその後について(1999.11.18日)

 第8幕目のワンショット。もはや大泉の査問は中止されたも等しかった。12.25日の朝は、秋笹・木島・木俣の3人が二人ずつ交替でピストルを持って監視したようである。「大体二日に亘る取り調べの結果、我々の予期していた通りのスパイの確証を握り、警察のスパイ政策も大体に於いて聞知したので、これ以上大泉を追及する必要も無し、仮に追求しても党にとって必要な事実も新たに出ないと考え」(袴田16回調書)られたのである。私は、この点につき少々疑惑がある。この言いまわしに見られる悠長さは何なんだろう。この言い回しもまた、そもそもこのたびの査問が大泉には主たる目的が無く小畑の方にこそあったことを示唆しているのではなかろうかという疑惑である。故意か偶然かは別にして、小畑の殲滅がなされた以上大泉はこの時点で厄介なお荷物になってしまったのではないかと推測する。それかどうか、大泉は、直ぐに放免するわけにもいかずという中途半端な状況に放置された。「ほとぼりが冷めて釈放しても党に被害が無いと云う見極めが付いた頃釈放することにし、それまで暫くどこかに監禁することに方針を決定したのであります」(袴田16回調書)。呼び出されていたハウスキーパーの熊沢は、奉仕した相手がスパイであることを知らされ、我が身を恥じた。12.30日頃から専門のピケとして林鐘年がやって来た。

 次のショット。「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になったのであります」、「大泉が自殺して死ねば事件の後始末も好都合に運ぶし、それによって党が新たに被害を受けると云う危険もありませぬでしたから自殺するなら自殺させようと云う気持ちで自殺させることに決定したのであります」、「(熊沢が)大泉に繋がる縁で自殺しようと云うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)。こうして、大泉夫婦は心中を試みようとし始め、査問者側もそれを期待し、偽装自殺の「遺書」まで書かせられることとなった。大泉にとって小畑殺害におびえた窮余の一策だったことになる。秋笹らがいろいろ注文付けて書き直させている。この経過は、「監禁中大泉夫婦が自殺を申し出たので、中央委員会で協議の結果、その申し出を採用して自殺せしめる事になった」、「(熊沢の方はスパイである確証はなかったが−要約)大泉に繋がる縁で自殺しようと言うならどうでも勝手にするが良いという気持ちで、大泉と共に自殺させる事になったのであります」(袴田16回調書)とある。

 次のショット。「私は、大泉夫婦に自殺させる場所の選定、その方法等はすべて木島に一任してありました」(袴田16回調書)。1.9日頃からアジトを他に移すことに決定したようである。こうして、木島が目黒方面に一戸建てを借り受け、その新しいアジトに大泉夫婦の身柄を移すことを取り決めた。1.13日、熊沢が大泉の髭を剃ったり、洋服の塵を払ったりした。1.15日、夜殺害することを取り決め、1.14日夜、目黒の木島宅に移動させた。二階6畳の間に監禁した。木島・横山・林鐘年の3名で監視した。「いよいよ同人等が自殺を決行すると云うのでその前夜一緒に寝かせてやったと云う報告を受けました」(袴田16回調書)。この日の夜大泉と熊沢が逃亡の是非の相談をしていたことを明らかにしている(大泉17回予審調書)。ところが、熊沢が反対したためいよいよになると実行されなかった。翌1.15日午後、大泉は脱走に成功した。

 その経過はこうであった。「木島も又見張り役として動員されていた林鐘年もアジトを出て居た留守に、大泉は木島のハウスキーパー横山操の監視の隙を窺い逃亡した」というものであったが、「本来ならば当日木島は見張り役の林が所用の為外出する事を知って居り、木島自身も外出すれば後は当然横山一人となる事を知りながら外出してこの失態を惹起したのです」(袴田16回調書)という不自然なものであった。この時木島と林はわざわざ大泉に聞こえるように出かけていくことを伝えており、仕組まれた芝居臭さがうかがえよう。この時か前の晩だったか木島のハウスキーパー横山操が大泉等に餞別の玉子丼をつくってご馳走している。この後大泉はトイレを口実に足縄を解かせ、結び直しの際に横山に組み付く事になる。横山を押さえ付けながら、大声で「人殺し」と数回叫んだ。熊沢が大泉の口を塞ごうとして逆に噛みつかれ、傷つけられた。おおよそ30分ほど横山とピストルの争奪戦を繰り広げた。この間熊沢は呆然自失のていで傍観した。こうしているうちに巡査がやって来て横山を逮捕した。この後タクシーを拾って麻布鳥居坂署に駆け込むことになった、という。こうしてみると大泉のこの一連の脱走劇は仕組まれたような逃げ出し方であるとも言えるであろう。「この失敗によって、木俣鈴子・林鐘年・横山操・大泉兼蔵・熊沢光子等は一網打尽的に検挙」(袴田16回調書)されることになった。


 次のショット。麻布鳥居坂警察署に着いた大泉の行動について17回調書は次のように明らかにしている。大泉は、署に着くなり概要「自分は警視庁の人間だ。共産党の殺人事件が有る。警視庁特高課長を呼んでくれ」と要求した。間もなく警視庁から庵谷警部以下数名の者がやって来た。簡単に事件の経過を説明し、小畑の査問死を始めとする諸事実を暴露した。興味深いことは、予審判事の「被告人はその後警視庁の毛利特高課長に会ったか」という問いに対して、「私はそれきり会いません」と述べている。わざわざの設問のようにも見えるし、実際だったとしたらどういう事情によるのか不明であるが不思議なことである。

 次のショット。1.19日、麻布鳥居坂警察署に於いて警察医中村康が「検診書」(「中村検診書」.昭和9年1.19日付け)を作成している。この「検診書」を一見して判ることは、小畑の遺体鑑定書に記載された内容に比して暴行的痕跡が妙に少ないことである。手足に縛創性痕跡がそれぞれ位置、径、長さ、特徴別に記されている。大泉は、「その通りか」と問う予審判事に対して「その通り間違い有りません」と答えている。ただし、補足として概要「傷を受けてから20日以上も経過しており、又秋笹等が傷のアルコール消毒をしてくれたこともあり、そのお医者さんに見て貰った頃には治癒しその後だけが残っていました。その後3年以上経過した今日なおいろいろ後遺症が出ている」と陳述している。秋笹第二審判決文では「大泉の手足に数カ所の縛創を蒙らしめ」とある。そのまま受け取れば、査問によって蒙った暴行は相当程度回復していたため「検診書」に記載されるほどのものでなくなっており、わずかに縛り跡傷が残っていた程度であったということである。大泉の暴行ハイライトシーンである「遂に錐であったか斧の峯の方で私の口の辺りを殴った為に前歯一本、奥歯一本が折れ、又斧の峯で頭を殴られた為か私の顔を伝って落ちるのを覚えました。又私の背中を斧で殴られたので気絶した様に思いますが判然しません」(大泉19回調書)中の前歯・奥歯の毀損についての所見はない。中村医師が検診しなかったのか、大泉陳述が過剰であったのか判明しない。いずれにしても妙なことである。

 私は次のように理解している。大泉のこの部分の被暴行陳述は大泉が小畑死亡時に失神していたことを説明する下りで述べられていることを考えると、このシーン全体が失神経過を作為するための過剰陳述であったのではないかという可能性が考えられる。ということになると、大泉に対する極端な暴行シーンはこの部分以外には無いことからして、今回の「査問事件」の遂行意図とリンチ的暴行は小畑にこそ照準が合わされ集中していたのではないのかということになる。そういう観点から予審調書を読み直していくと実際宮本−袴田ラインの訊問・暴行が主として小畑に向けられていた様子が見えてくる。逆に逸見のそれはほぼ大泉に向かっており、秋笹・木島のそれは気まぐれに双方に向けられているという構図が見えてくる。

 大泉の「検診書」の記載内容からこのたびの「査問事件」に暴行が極力無かったことを推測させることが可能であろうか。私は次のように考える。そういう見方も理論的には成立するが、実際にはやはり難しい。なぜなら、この後で考察することになるが、小畑の遺体に痕跡されている多数の被暴行的損傷(医学的所見から見て腐敗の進行とは認められない多数の痕跡)と胃袋内に内容物がないという絶食査問とか、これは触れられず見過ごされているところであるが指爪にリンチ跡らしきものがあるとかを考えると、小畑に対する暴行もまた大泉程度のものであったとみなすことは困難である。むしろ、真相は小畑にリンチが集中していたのではないのか、大泉にも殴る蹴るはなされたであろうがかなり加減されていたのではなかろうかという可能性が高いということになる。

 次のショット。大泉の駆け込みによって事件が明白となり、警視庁は直ちに捜査に入ることになった。同時に新聞発表され、各社は「赤色リンチ事件」として大々的に報道することになった。(宮本はこの当時「白テロ」と認識していたようであるが、どういう位置づけによって「白テロ」としていたのかは解せない)昭和9年1.16、17、18日にかけて、朝日新聞を初めとする各紙は一斉に共産党の赤色リンチ事件なるものを報道した。当時の朝日新聞は、1.16日に「共産党の私刑暴露/裏切り者惨殺さる」という見出しでまず事件の輪郭を伝え、1.17日には「殺された小畑達夫」と「私刑された大泉兼蔵」と「大泉の妻熊沢光子」の顔写真と共に、「加害者秋笹正之輔」と「秋笹の妻木俣鈴子」の顔写真が掲げられ、リンチ事件の首謀者として宮本顕治、秋笹正之輔の名前が挙げられた。

 この時の袴田の心情が次のように語られている。「1.16日各新聞の朝刊に右査問事件が発覚し、党の残酷なリンチ事件として報道されていたので非常に驚きました」(袴田16回調書)。報道の基調は、「このリンチが党中央部の指導権を握るためインテリ分子が労働者出身の者を排撃したのである」というものであった。この日「この事件が全国一斉に諸新聞に報道されたのでありますが、其処に表れたものは日本共産党は相次ぐ党員の検挙により、党内には疑心暗鬼が生じ且つ少数のインテリ分子が党中央の指導権を掌握せんとして反対分子を殺害したものであると云うことでありました」、「かく日本共産党は醜悪なる陰謀団体であると報道されたのを見たときは、私は例のブルジョワ新聞一流のデマと思っていたのであります」(袴田1回公判調書)。袴田がこの報道をデマと思う感性が頂けないが、「我々のやった事は決して個人的な野心からではなく日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃であった」(袴田1回公判調書)として認識していた氏の事件が発覚した当日当時の様子が伝わってくる。袴田は、「その日の夕方木島と連絡した際に」前日の午後の大泉逃亡のあらましの報告を受けたという。

 こうして「小畑査問死事件」は、検挙された宮本の取り調べの際に特高が、「『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た」とあるように、そのような意図の下に大々的に喧伝されていくことになり、実際にその後の党運動にはかりしれない衝撃を与え大打撃を蒙らしめることになった。これに対し、袴田は、いやそうではないのだ「日本共産党を真実プロレタリアートの前衛党とする為の不純分子の排撃」闘争であったのだと言う。そう思わねば自身が納得できないほどに深く手を染めたということであろうが、実際は仮称「東京市委員会宮本グループ」によるどす黒い党中央簒奪劇であったのではなかろうか。


 木村さんへ(1999.11.19日)

 この度はご返信ありがとうございます。書き上げる私の方も大変でそろそろ潮時かなとも考えています。ただし、「査問事件」に関連した前後のところまでは完結しておこうと思っています。この間政治的影響も考慮しつつ投稿が上滑りせぬよう進めてまいりたいと思います。今後とも忌憚のないご交流をさせていただけますよう私の方からもお願い申しあげます(ちょっと一言。私の理解による木村さんの出足の文章はいつも感性的に私と同じです。ところが後半になるとよれてくるというか党の公式論に寄り添った傾向になります。私は木村さんの前半の問題意識を意固地に拘り続けてきているということになりますが、お互いこの辺りは時局認識等でご意見交流させていただきたく存じます)。

 「査問事件」の考察は本来党外の私がせねばならない必然性はないのですが、宮本ご神体無条件護持派と興ざめ派と罵詈雑言派とが感性一つ頼りに混在しているだけという状況が今日まで続いており、いずれにも共通するのは没実証性です。これは不真面目な精神と考えています(私が真面目だという意味で言っているのではなく、とかく人のことは批判しやすいというただそれだけのことですが)。日本左翼の再生があるとしたら、こういう不毛な対立手法を終焉させることであり、少なくともその役割の一つを私のレポートで果たすことが出来たらという思いを込めて発信しています。

 なお、この私の投稿につき「さざ波通信」誌上でなされていることを評価していただきたいという思いもあります。もしこれが反党派のどこかの掲示板でなされたとしたら、そして私の指摘が事実に近いものであればあるほどこの問題につき各党員の党派的立場は苦戦を免れ難いと考えています。少なくとも「さざ波通信」誌上であれば、党の自浄能力の範囲として受け止められうるのではないでしょうか。私はそのように考えています。同時に私の政治的立場も自ずと明らかにしているということにもなります。党のダメージを狙っての伊達酔狂で投稿しているのではありません。その辺りのことをご理解賜れば本望と申せます。


 「査問事件」に関わる没検証性は党の存立根拠に関わる重大欠陥と考えています。ある時に党の中央委員が別の中央委員に査問され死亡しており、死亡した方に冤罪の余地が残されていながらほおかぶりさせられたまま経過しており、死亡させた方が今日の党中央に君臨し続けており、その言いぐさが私が明らかにしつつある通り今日までまるでなっていない言い分で居直っているという状況があるわけです。このことをうやむやにして社会の恥部を暴くだとか変革を呼びかける精神は偽善ぽいというか無茶苦茶であると考えています。外に対する要求は同時に内に対するそれでなくては世間が信用しない、世間はそういうところを見ており、このあたりを未切開のままきれい事ばかりを云う者を警戒します。

 世間はそうは愚か者の寄り集まりではなく、各自が自身の生活体験を元にして常にその真偽を判断しているように思います。話がずれますが、身近に自民党の議員がおりますが、連中は政治も利権もエロ話も結構あけすけです。建前よりも本能本意とも云えるバイタリティーを特徴としています。金の力でモテルるのではなく裏表のないエネルギッシュさが支持者を形成しているという面があるように思うわけです。これは選挙レベルのことであり、自民党を党としてどう見るのかというマクロの認識とはずらしたところでご理解ください。私は、党の運動もまた同様にそうあるべきではないかと考えています。もっと自由にこうあるべきだという主張を自身で作り出していけば良いのではないでしょうか。その結果が党の政策・方針と一致すれば党執行部の指導性が機能しているということであり、ずれてくるに従ってどちらかがあるいは双方が変調だということになるのであって、それでよろしいのではないでしょうか。福祉だ医療だと言っておりさえすれば、こっちが先だそっちが後だとか言い争っているうちに票がころがり込むだろう的運動は我々を馬鹿にしていると考えています。


 宮本批判については次のように考えています。世界の共産党運動史の上で、トップ指導者は死して後功罪が暴かれるという不幸な歴史が目につきます。レーニン、スターリン、毛沢東その他ほとんどの各国の指導者の公然批判は棺を閉じて後はじめて生み出されてきたという傾向があります。左翼世界に鎮座するそういう中世的神聖化傾向を打破してみたいという狙いをも併せて持っています。宮本氏の生存中にこそその批判を生み出し、釈明を聞いてみる値打ちがあり、おおよそそれは近代民主主義精神の精髄に関係していると私は考えています。

 私の立場も恐らく党員の皆様の本来の立場も、元々を考えてみれば、みんな命に限りある者が何とか努力し合ってよりよい社会の創造を目指そうとして左翼理論にかぶれたのではなかったのでしょうか。そういうボチボチでんなというお互いの限界をさらけ出したところから左翼運動をも再出発させたいというのが私の願いとなっています。本来誰も偉そうにする必要のない党運動に再生させたいと考えています。宗教であれ政治であれ「真理の体現者」的物言いが現れたら警戒する必要があると考えています。組織の幹部あるいは機関の役割でさえ、各自の能力・適正・関心度・人と人との相性度等何らかの合理性に裏打ちされたものを根拠にしてお互いがブリッジ的に繋がる組織論で党組織の再構築が出来ないのかどうかに関心を持っています。党運動の中に絶対的君臨者を生み出す必要が私には判らないのです。みんな人生50年の中である種まじめに、またある種いい加減にそれぞれの生命燃焼しつつ次世代へバトンタッチしているというのが実際なのではないでしょうか。


 私は以上のようなこだわりを持ちつつ宮本氏を解析しようとしています。そういう私の思いの対極にいる人物であるからです。指導者の組織内影響を考えることは唯物論的ではないという考えは解せません。そういう認識は平板な唯物論であり、ミクロの現場においては随分と作用力が強いと考えています。宮本氏の場合、彼もまたスターリン的な影響力の強い党運動の「時代の子」であったのか、野坂氏同様当局の意をていして進入してきた元々スパイであるのか判然とはしません。但し、彼が一貫して党内の清掃事業として有能な活動分子を排斥してきた事実は隠しようがありません。おおよそ彼が対権力闘争指導において党内統制で見せる以上の獅子奮迅ぶりの記録があったというのであれば教えてください。田中角栄氏政界追放以外でお願いいたします。あの事件は少々も多少もそれ以上に複雑な事件ですので。仕事の途中なのでまとまりをえませんが、「さざ波通信」を党運動発展を観点に据え、こうして見知らぬ人との幅広い社交場として引き続き活用させていただけましたら冥利です。今後ともよろしくお願いします。





(私論.私見)