「共産党の理論・政策・歴史」投稿文1(一般評論)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 これは「さざなみ通信」の「共産党の理論・政策・歴史討論欄」の「99年〜00年」に収録されているれんだいこの投稿文である。当時は、れんだいじのハンドルネームで登場していた。(適宜に誤記の修正、段落替え、現在のれんだいこ文法に即して書き直した)

 20006.5.18日 れんだいこ拝


投稿 題名
まじめさとはどういうことか
社会党凋落をどう読むべきか
野坂問題とその政治理論についての雑感
「いくら何でもひどすぎる」 
「うーン、論理が違う」
党創立記念講演会における不破発言に思う
「内政不干渉理論」について
「党史の不幸な現状」について
10 「不破委員長の創価学会−公明党批判」について

 題名/まじめさとはどういうことか (1999.6.8日)

 史上マルクス主義は最も先鋭的・徹底的な反体制運動として誕生し展開されてきたことに異論はないと思います。この理論の凄さは、それまでの民衆側からなされた抵抗運動のことごとくが鎮圧されたり懐柔されたのに対して、その原因を突きつめて勝ち戦にするための方途を具体的に呈示したことに認められると思います。その方途は、勝ち戦の究極として支配権力の奪取まで志向させていました。時の為政者が震えあがったことは無理もありません。

 階級分化して以来、個別的な要求闘争の類は枚挙にいとまがないぐらい例はあるものの(マルクスと同時代的なわが国の江戸時代の百姓一揆においてもその域をでておりません)、組織的かつ理論的かつ武装的に、権力奪取の道筋までも視野に入れた反体制運動理論としてはマルクス主義を嚆矢としており、以降もありません。最近起こったオーム真理教はこの点で少し考えさせられるところがあります。しかし、比べるのももったいないお粗末さではあります。もとへ。マルクス主義の理論は、ありきたりの利権エゴ的な運動として推移するのではなく、革命後の社会の総員が納得いくようなあるべき姿としての現実的な仕組みまでコミットしていたことでも評価されます。

 しかし、あれから百有余年変われば変わるものです。恐らく初期の頃は当局が煮ても焼いても食えない筋金入りの活動家集団を核として、広域ネットワークが水を得た鯉の如くに燎原に広がっていったものと思われます。ところがどうなんでしょうか、今では類まれなる温和従順イエスマンの党員活動家しか世渡りできない党がつくられてしまったというこの現実。どうしてこうなったのか、いろいろ原因があるでしょうが、家でたとえれば土台の根元にシロアリが食いつき骨粗しょう症にしているようなもので、お化粧を仕替えたぐらいでは対応できそうにないと思われますがいかがでしょうか。宮本−不破体制に原因があるのか、彼らも一生懸命櫓をこいだけれどもこうなってしまったのか、マルクス主義そのものに隠れた瑕疵があるのか、日本共産党を批判して生まれた諸党派も小さなセクトで留まっていることを考えると余程むずかしいのでしょうが、そのあたりを捉え返さねばならない時期がきているように思います。

 昨今、政党政治の枠内とはいえ共産党も連立政権与党入りの可能性が言われつつあります。野党として留まる批判政党として存在理由があるのか、何が何でも政権入りに向かうのか、これも論議をしっかりしないといけません。にも関わらずそういう声が聞こえてこない。鶴の一声は他の政党に任しておいて共産党の場合は喧喧諤諤して欲しいんだけど。その結果党が二つに割れても仕方ないぐらいの気合が欲しいんだけど。こういうのをまじめさというのではないかなぁ。どちらにしても、政権奪取の革命理論からはほど遠いところの論議だし、所詮チェックマンかアドバイザーとして機能したいように思えるし、後生大事にせねばならない党の姿であるようには思わないけど(また叱られるかなぁ)。

 ソ連邦の崩壊にしても本当は大論議すべきであって、いろんな角度から検討してみる必要があるように思われます。後進国革命のサガだとかスターリン主義の末路だとかの教訓化はどうも頂けない。もっともっといろんな観点がいるように思えます。そこの論議もさることながら、われわれの本当の関心は革命に成功したけど国家建設に失敗した理由のほうにあります。中国をはじめ残余している共産党が四苦八苦しているところでもあり、市場経済の自然性というか生命力にもっと注目せねばならないというのが大事な教訓のように思うんだけど。資本主義的な労務管理や能力活用よりも、もっと素晴らしく合理的かつ人道的なそれらの引き出し方と利益分配の妙案を創造することが課題として突きつけられているんではないのでしょうか。いずれにせよ新社会の青写真を呈示する責務が課せられているように思われます。議論がそういう方向に向かうのをまじめさというのではないかなぁ。

 ところで、日本革命の展望はというと、「七十年代の遅くない時期の民主連合政府構想」アドバルーンは一体どうなっているのか、その始末もしないで「よりましな政権づくり」とは、言うほうも言うほうで聞くほうも聞くほうだなぁ。私の疑問おかしいですか。それにしても「よりましな」という意味では細川内閣時にはどうしたのかなぁ。せっかく殿様が元気出してたのに。なんか見殺しという感じが今でもするんだけど。考えだしたら本音が判らなくなる。何やかやで、まさか今度は知らぬ仏の安全をきして二十一世紀の遅くない時期までに少しはましな政権作りを!とか言うのではないでしょうねぇ。

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 題名/社会党凋落をどう読むべきか (1999.6.21日)
 社会党凋落は真夏の夜の夢の椿事であった。社会党系譜の諸党は今では骨董的でしかなく、これを論ずる現実的な価値はない。とはいえ、運動論的に見てその没落の原因を尋ね、「他山の石」としての教訓を得ておくことは大事であると思われる。そういう観点から以下、私なりのスケッチをお伝えして批評を待ちたいと思います。

 社会党崩落の第一幕は、皮肉なことに89年7月の参議院選挙での大躍進から始まる。戦後は自社二大政党による「55年体制」がシフトされ、この間しだいに公明党と共産党の進出が見られるようになってくるという変動はあるものの、世界的な政治潮流にあっては珍しく安定的な政党政治の枠組みとして機能してきた。しかし、80年代に入ってさすがに長期化の腐敗が噴出し始め、あわせて社会党の長期低落傾向が目立ち始めた。このような中で社会党は土井たかこという史上初の女性党首を据えることで劣勢挽回を図ろうとして いた。ちょうどこの時消費税が浮上し、その導入の是非を最大争点とする選挙が争われることになった。この選挙を社会党は「山を動かそう」というキャッチフ レーズーのもとに果敢に戦い、これが見事奏功し、参議院での与野党逆転を招くほどの大戦果を得た。

 運動論的に見た場合、この経過は次のようにいえたのではないか。労働者大衆は、単に消費税反対で社会党を支持したのではなく、久しぶりに見せる 「山を動かそう」という土井党首の戦いの呼びかけに共感を寄せたのではないのか。すでに大衆は永田町の裏取引政治に飽き飽きさせられており、「何も変わらない」絶望と政治不信に沈殿していた状況下に彼女の呼びかけは新鮮であり、その言葉に信を置いたのではないか。私は、そういう願いが託された結果の社会党の大躍進であったように思料している。なお、名キャッチフレーズが戦いに有効な道具となることが証左された点も記憶に値する。

 さて、いただくものはいただいた後、社会党がどう動いたか。これが次の舞台となる。第二幕は、細川連立政権の誕生をピークにして推移する。この当時自民党は派閥政治の長患いで満身創痍になっており、求心力と制御能力を失った由々しき事態を迎えていた。そのような背景の中から92年になって細川党首の「日本新党」、武村党首の「新党さきがけ」、羽田党首の「新生党」が 生まれた。これらの党はいずれもかっての自民党議員を主力としつつ野党勢力をも巻き込んでいたことに特徴があり、その意義は名前の通りそれぞれに新政治勢力の結集を目指していたことにあった。これらの潮流はいずれも「55年体制」に対する造反であり、とりわけ自民党議員にとっては政権与党からの離脱であったという点で評価されるべきであろう。いずれの新党結集者にとっても政治的な賭けであり、捨て身の出奔的な政治行動であったであろう。今日の地点から総括すれば、まさにこの時期こそ「55年体制」に終わりを告げる鬨の声であったということになる。

 なお、これら新党の特徴として旧田中派の動きが注目される。各新党執行部はいずれも旧田中派の面々が占めており、自民党もまた政権中枢を旧田中派が担っていたことを勘案すれば、旧田中派は二分三分しながらなおかつそれぞれが党内の主流派を形成するという旺盛な生命力を見せているということになる。余談ではあるがこの傾向は今日も変わらない。さらに余談ではあるが、良し悪し抜きにしてこの政局に呼応した共産党議員は一人もいない。

 さて、この政界再編成の渦潮に社会党が交合して、93年8月細川連立政権が誕生するという政局の新展開が創り出された。社会党委員長土井たかこが 衆議院議長におさまるなど、社会党が絶頂期の階段を登り始めた瞬間であった。この結果を自民党サイドから見れば、自民党は結党以来初めて政権から下野させられるという最大の政治的危機に直面したということになる。まさに 「55年体制」の崩壊の瞬間であった。これが細川政権登場の政治史的意義である。

 ところで、これ以降社会党がどう動いたか。ここが本稿のテーマである(ここに至るまでの経過として最小限以上のことが踏まえられておかないと意味をなさないので紙数を費やした。この投稿は長くなりそうだなぁ)。社会党はこう して政権与党の立場にたつことになった。与党とは政権維持を責任とし使命とするが、果たして社会党はどう動いたか。何と!、この社会党は与党政治を担う能力と気概に欠けていたということよりも、それ以前の問題を露呈する。骨の髄まで野党根性に汚染されており、政権維持のために汗を掻くよりも政権与党の地位をいつ投げ出しても良いかのような日和見に終始し続けたのであ る。こうして細川連立政権は呉越同舟政治の波間に漂うことになった。

 ここから我々は何を学ぶべきか。社会党は政権に近づけば近づくほど幼稚な行動を取るということがわかった。考えてみれば万年野党として自民党政策のケチ付けとおこぼれに終始してきた政党であり、与党的責任は能力不相応な 苦痛以外の何物でもなかったというわけである。わかりやすく言えば、世上にもよく見受けられるええ格好しいの楽チン主義者がお似合いだったということである。かくして、94年5月社会党は連立政権から離脱した。こうした経過を通じてやはり自民党でなくては駄目だという国民的気分が醸成されていくことになる。こうして久しぶりに浮上した社会党支持の大票田の多くは再び政治不信として政党離れに向かうことになった。一部は自民党に一部は共産党に流れていったと推測される。

 なお、この時共産党がどう反応したかも考察されるに値する。「よりましな政府」を今ごろ言うのであれば、何より細川連立政権こそ「よりましな政府」の一里塚ではなかったのか。それとも何か、共産党自身が与党の一部に組み込まれない限り「よりましな政府」にはならないという意味なのか。反共シフト連合であったという評価は問題である。自民党のそれよりもどうなのかが問われねばならない。何より自民党を野党化せしめている連立政権である点で最大の功績持ちの政権ではなかったのか。「よりましな政府」を本気で願うならこの政権は一歩譲って「よりましな」ものを引き出すことが可能な双葉の芽を持つ連合政権ではなかったのか。確かに共産党にお呼びはかからなかったにせよ、 この連合政権を第二自民党呼ばわりしてその意義を減殺させたことは犯罪的でもあり、党利党略が過ぎてはいないか。

 結果的に、不破執行部はこの連合政権を見殺しにするというよりは倒閣に精を出すところとなった。こうして細川政権は右と左から挟撃されることになった。この問題を究明することはかなり意味深である。日本左翼の一般的常識でもあるが、共産党は過去大衆闘争の昂揚期を迎えるとここ一番のところから運動鎮静化に乗り出すという知られた史実があり、苦い経験を持つものも少なくない。この度の細川連立政権に対 して取った態度もまたそのようなものとして記憶されるべきではなかろうか。

 この経過を見れば、日本共産党の「よりましな政府」構想も推して正体が知れることになる。不破執行部もまた社会党がそうであったように批判政党として存在したがっているのであり、本気で自民党政治との決別は望んではいな いのではないか。チェックマンとアドバイザーとオンブズマンとコメンテーターと して棲息しようとしているのであって、この域から出ようとする試みに対しては 左から敵対する癖があるのではないか。労働者大衆はこのことを阿吽の呼吸で知りつつあり、深い溜息に沈潜しているのではないか。

 そうは思わないという方にあらかじめ課題を与えておこう。社会党が与党経験時に見せた安直な態度を共産党ならそうはならないという根拠を示してみた見たまえ。現に党内の状況はどうなんだ。新時代を切り開けるだけの気概と能力と責任を引き受けようとする体を張る作風が存在するのか考えても見よ。現に党内に無いものが 政権に入ったら急に生まれるというような奇跡信仰は良くない。政権を取ると いうことは新たな政策を生むということに意義がある。新しい政策は、敵対政党との命がけの闘争を覚悟することなしにはできない。その経過は鬼ごっこで もかくれんぼでもチャンバラでもない。大衆的な真剣白刃の綱渡りである。

 さて、前語りが長くなったが、第三幕はあっと驚く為五郎的事態の勃発から始まる。その6月、村山自社政権が登場した。何のことはない、すったもんだの 挙句の「55年体制」復活の姿でもあった。その歴史的意義は、自民党の政権与党復帰にある。下野させられた自民党にとって政権復帰は執念であった。時が長引けば長引くほど不利になることを知っている彼らは、この執念を如何にして結実させたか。先の社会党の細川連立政権離脱時において既にシナリ オができていたということになろうが、ええ格好を社会党に譲り実を自民党が取るという苦肉の離れ業を演じ、社会党がその仕掛けにまんまと乗った。つまり、村山政権誕生とは、自民党の与党復帰の権謀術数戦の勝利の瞬間であり、社会党の正体が露になったツーショットシーンでもあった。労働者大衆から見れば、政界の複雑怪奇さというよりは社会党の馬鹿さ加減にびっくりこいたというべきであろう。

 この経過に対する政治通の興味は次のことにある。自民党の最大危機を誰が助け起こしたのか? 何のことはない社会党左派系であった。万事窮地のときこそ正体が露になる。なるほどそうか。戦後の「55年体制」の正体という のは単に自社の協調的対立だったのではなく、自民党と社会党左派が結託した裏取引政治であったのか! そういう姿があぶりだされたというわけだ。馬鹿を見たのは社会党右派の連中。これまで、社会党左派のマルクス主義的イデオロギー体質と一線を画し自民党と是々非々の協調路線を模索していた右派こそが本来その指定席券を手にする資格があったと云えよう。事実はさにあらず。その右派がとんびの油揚げ取りにあわされたというへんちくりん。

 労働者大衆にとってこれらのことがまずもっての失望であったが、次の失望を招くまでにそう時間もかからなかった。社会党は、安保防衛・治安等々矢継ぎ早に政策綱領の変更に乗りだし、財政政策等においてもなし崩し的に自民党政策に歩み寄っていくことになる。もとをただせば社会党大躍進と政局浮上は消費税導入阻止を掲げて果敢に戦ったところから始まる。あろうことか今や 消費税の安定化と税率アップの道さえ開こうとする協調体制を見せ始める。こ の時点で大衆は怒ることさえやめた。向けることさえ厭うあの白々とした視線を漂わせることになった。(これを解きほぐすのはややこしいゾ)

 第四幕は、同年暮れの11月「新進党」の結成により幕が開く。その意味するところは、社会党裏切りの政界余波であり、もはや帰る波止場を持てない者同士の大同団結であったように思料される。表面的には細川・海部・羽田等、総理経験者複数を擁する本格的な影響力を持つ新党として結党されたが、自社連合には及ばない。にわか仕立ての寄り合い所帯であり、いずれ破綻の予兆を感じさせる新党でしかなかった。社会党の取りこみに失敗した失意を漂わせる中での船出であり、落日の陽射し以上のものではなかった。マスコミもまたこの新進党攻撃に一枚噛むことになる。その由来は別途考察されるに値するが、マスコミは田中角栄及びその系流に即応性のアレルギーを植え付けら れており、この時も幹事長小沢一郎に集中砲火を浴びせる。こうして小沢は今に至るも「悪の権化」というピエロ役を背負わされることになる。

 余談となるが、 いったい金権政治というものの起源に田中角栄を措定するという論拠は馬鹿 馬鹿し過ぎはしないか。彼が金権能力により長けていたことは事実としても、 金権的であるということは戦後の政治・経済・選挙構造の総体としての仕組みから派生する現象であり、少なくとも個人を元凶視する論理はナンセンスではないか。とりわけマルキストにあっては、単に政敵を倒せば良いというのではなく、政敵を倒す論理そのものもマルクス主義的であらねばならないのではな いのか。

 さて、以降現在までに至る経過が第五幕である。新時代のシナリオにはいく つかの選択肢があるのであろう、離合集散が繰り返されている。今後どう展開していくにせよ、自由党、民主党の動きも目が離せなくなった。公明党の動き は常に不気味でさえある。この党は今後共産党と正面からぶつかりあうことに なることを知っている。皆さん大丈夫かなぁ。さて、最後に社会党の総括をしておこう。労働者大衆は一連の劇場で演じた社会党役者の姿を見終えた感がある。舞台のかぶりつきから一度去った大衆を呼び寄せることはもはや困難であろう。

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 題名/野坂問題とその政治理論についての雑感 (1999.8.10日)
 論議に参加するかしないかは別にして『さざ波通信』を支持する人たちとそう でない人が存在し、後者の側からしきりに党内論議で済ますよう投稿されてく る。そういう人たちの心理が判らない。すでにかなりいろんな角度から是非の議論がされているのだから、それらを踏まえての積み上げ論議でなければ生産的ではない。今後よほどに納得させる意見でない限りご返事は失礼させて頂きます。

 現執行部に至る戦後の党史について読書しています。きっかけは、インター ネット上のHP「古文書研究会」の各資料に触れたことにあります。私が知らな い諸事実が山のようにあり興味深く読まして頂きました。そこから気づいたことでどうしても意見発表しておきたくなったことについて以下投稿させて頂きます。

 野坂参三氏は、党の歴史を語る生き字引のような方でした。92年に除名されましたが、彼の失脚はそれまでの他の除名者と同じレベルで受け止めていてはいけないのではないかという思いがしています。それこそ党外の者を巻き込んではいけない重大事実があり過ぎて、この場で明らかにすることは好ましくないかも知れないと思える諸事実が山積しています。しかし、党が「野坂問題」に対し何らかの真剣な討議をしているようには思えない。恐らくできないのだと思うけど、それは異常なことです。この異常性に気づかないままに、ある いはそこを不問にして「統一と団結」を言い続けることは大いなる不正ではな いか、という思いがしています。「統一と団結」の条件が整備されていてこそその呼びかけが機能するのであり、その条件が充足されていないのに強制されるのは、資本家が労働者に遮二無二賃金据え置き労働強化を強制する姿と何ら変わりはないのではないでしょうか。

 どういう点が問題かというと、数十年にわたる最高指導部者の一人が現役のまま突如として地位を剥奪されたということそのこと自体にあります。その理由が何と、かっての同志を秘密警察に売り渡していたということにあります。それも一人や二人ではない。この事実も、動かぬ証拠が党外の人から明らかに されて初めて党が対応したというお粗末さ。普通の感覚ではこれは責任問題です。野坂氏の場合、ソ連共産党のみならずアメリカ系機関との二股情報員であった可能性が言われております。真実は三股かも知れない。四股かもという薄気味悪ささえ覗かせています。こういう人と長年連れ添ったコンビの方にも疑惑が行くのが自然ですがここでは野坂氏に限定します。

 私がこの投稿で言いたいことは次のことにあります。そういう野坂氏の政治理論が今日の共産党の理論に深く反映しているのではないかということです。 要約すれば、今日の党の議会主義は野坂氏の政治理論に淵源を発しているのではないか、不破さんの「人民的議会主義」が党史上最初に現れたのが46年の野坂理論ではないのかという事について指摘しておきたいと思います。 野坂氏の政治理論とは、簡単に要約致しますと次のような論理構成になっています。支配者側から共産革命の危機が心配されていた戦後直後の45年が暮れて46年になった頃であることを踏まえておけば空疎さが一層はっきり致します。
 「(我々は)平和的に且つ民主主義的方法によって、民主主義人民政 府の樹立を目指すが」、「(その政府の権力は)人民の選挙による、一院制議会を主幹とするものであり」、「ブルジョア民主主義革命が完成されたのちは、 平和的且つ民主主義的方法により、社会主義制度へ発展せしむることを期 し」、「これが実現に当たっては、党は暴力を用いず、独裁を排し、平和的教育手段を以てこれを遂行せんと欲し」、「資本主義を直ちに廃止して、社会主義制度を実現することを主張するものではない」。

 という俗に「平和革命論コース」と 言われるものでした。「人民的議会主義」が誤りであるかどうか軽々しくは断定できません。皮肉な話になりますが、下手に革命を起こさなかったから今日の日本の繁栄があるという視点に立てば、こういう理論で労働者の隊列を行儀良くしたから革命距離を今日の地点まで後退せしめえたのであり、そういう意味ではむしろ愛国者的な観点からの評価が生まれるようにも思います。

 しかし、もし日本に革命政権が誕生していたならもっと良い日本が、国際的にも21世紀を先取りするような平和協調政策を推進する要の役割を果たしている姿も想像されるわけですから、ここでは革命闘争上どうあるべきであったかという視点で話を進めます。はっきりしていることは、「人民的議会主義」的な名目でその実議会運動一本槍にしてしまうと、このたびのような反動的な各種法案をあれよあれよというままに通させてしまうことになるという事実です。 やはり、資本と労働の対立に対する労働側の武器は、争議権であり罷業権であるというストライキ運動を中心としたものであり大衆デモであるということに関 しての認識をしておかないと愚かではないかと思います。(私は、経営者=資本家=階級的という認識はしていません。器量の差もあると考えさせられていますから。その事とは別に、支配者が大衆に耳を傾けるのは、彼らが困らせられた時だけだということを踏まえておきたいのです。道理を説いたぐらいでは 別の道理を用意してくるでしょうから)

 報道によりますと、自殺者が年間何と!3万人を越してなお増えつつあるという社会状況があります。債務破産者もまた、うなぎ登り傾向にあることが伝えられています。リストラの嵐もこれから本番を迎えるかもしれない厳しさが予想されています。一方で、公的資金が湯水の如く大企業救済に使われています。中小零細企業に対し ては一部回されたとはいえ一層威猛々な融資姿勢 が阻んでいます。担保と保証人主義が新規事業の道を閉ざしています。労働者は弱いところから切り捨てられつつあります。裕福層と貧困層の格差が広がりつつあり、貧困層は共働きでも食えない状況に遭遇しつつあります。このようなご時世に対して、労働側は何も対抗できていないように思います。テレ ビでは刑事物とか取り締まり側からばかりのドラマが洪水の如く流され続けて います。こういうご時世に対して労働側から何か有効な戦いが組織されている のでしょうか。議会の議席の変動にうつつを抜かすのは、大衆の欲求のそらせ方としての支配者側の高踏戦術であるかも知れず、実際そういうふうにシー ソーゲームで利用してきている側面があるのではないでしょうか。

 今日の議会は、憲法との絡みで過去のどの時代よりも有効な身の回り改革 を実現することは事実です。それはそれで取り組むべきでしょう。しかし、大き な政治課題に対しては無力なのではないかと、私は考えています。あらゆる角度から世のため人のため良いと思えることは「いろいろやってみなはれ」と いう精神と実際の運動が必要なのではないでしょうか。原水協の分裂も、ルー マニア問題も新日和見主義批判も、その他さまざまなことがわざわざ運動を沈静化させるためにしかやっていないように思われるといったら、言い過ぎにな るでしょうか。

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 題名/「いくら何でもひどすぎる」 (1999.8.29日)
 党のHPに「宗教をどう考える?」が掲載されている。読んでみて、「これは、 いくら何でもひどすぎる」と思った。どういうセンテンスで使われているのか不明のままマルクス・エンゲルスの宗教観のひとくさりが述べられた後で、「宗教を看板にした集団や教団指導者の違法行為には、法的対処とともに厳しい 社会的批判で望むことは当然ですが、一般信者と家族には、社会病理克服のカウンセリングも必要です」と締めくくられています。これではあんまりではないか、と思うのは私だけかなぁ。ちょっと文章を分析してみよう。

 この文章を出来るだけ単純に主語と述語でまとめると次のようになる。「違法行為には、法的対処とともに厳しい社会的批判で臨む」と「信者と家族には、 カウンセリングも必要」ということになる。私がこの『さざ波通信』で常々主張している「党の『お上』的発想」がここにものの見事に表現されている。違うんではないのかなぁ。これは、「お上」が人民大衆の統治術に使う言葉であって、 こういう物言いに抵抗してきたのが左翼精神なのではないのかなぁ。「違法行為」とは何なのか、「法的対処」の手続きはどうなのか、「社会的批判」といったってどういう角度からの批判なのか、その批判は誰が担うのかということに ついて、常々問題にしながら権力と闘ってきたのが左翼の歴史ではないのかなぁ。「平」さんという方が担当したらしいけど、その考え方は警察の発想と寸分違わないんだけど大丈夫ですかぁ。近年久しぶりに驚いたことの一つだなぁ。

 ことのついでにもっと驚ろいちゃぇ。「信者と家族にカウンセリングも必要」ってどういうことですかぁ? これでは心の病を患っているみたいではないですか。「家族」にも必要とはえらい念が入ってますねぇ。僕は、そういう優しさが 嫌いです。それと、この考え方は「アカ狩り」に使った言葉ですよねぇ。家族を 巻き込むなんてとこみると、云うことを聞かなかったら「村八分」にも通じそう。 おお恐っ。

 最後に。こんな「宗教」に対するとらえ方で宗教者との統一戦線組もうとした って、それは無理というもの。怒りますわなぁ。私が、返歌して差し上げましょ う。「革命を看板にした集団や政党指導者の違法行為には、法的対処とともに 厳しい社会的批判で臨むことは当然ですが、一般党員と家族には、社会病理克服の立場でのカウンセリングも必要です」。恐れ入りました、ハイ。

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 題名/「うーン、論理が違う」(1999.9.3日)
 議員さん、早速ご返信ありがとうございます。投稿に対して反応があるということはうれしいです。傾向的に無視されるきらいがあります私には冥利に尽きます。とはいえ、内容的にもう少し掘り下げておきたいこともありまして再投稿いたします。

 私が問題にしているのは、平さんの「論理」構造に対してです。結論が合えば良いという風には思えないからです。「オウム」に対してであれ、新左翼に対してであれ、50年代初頭の党の極左路線に対してであれ、「違法行為に対する法的処罰と社会的批判」と「組織員と家族に対する治療」という発想その ものが、左翼精神とは縁もゆかりもない治安的なそれであると認識すべきではないでしょうか。歴史的に見て、この「論理」で大衆運動が抑圧されてきていると考えられませんか。「オウム」に対しては有効であるとしてこの「論理」を 認めていくことは、この「論理」がしだいに如意棒と化して他の社会的諸勢力にも適用されていく危険を感じています。

 戦前の甘粕事件・亀戸事件に始まり、治安維持法成立後の共産党・労農 党・左派系労働組合の弾圧を経て、遂には社会民主主義者・自由主義者・宗教者へと広がり、挙国一致体制へと完結していった歴史の背景には、「違法行為に対する法的処罰と社会的批判」が「非国民行為に対する法的処罰と社会的批判」にスライドしていった「論理」のお化けがあったように思います。こう いう「論理」に慣れると容易に転化しやすいということです。

 われわれが「オウム」を批判するとすれば、「左翼」を騙った似非ぶりを糾弾し抜くことであって、「違法行為に対する法的処罰」は「お上」に任せれば良い と考えています。蛇足ですが、いわゆる「オウム事件」には得体の知れない諸事実が隠されているようです。それはともかく、「社会的批判」を「お上」的手法 に拠らず、自前の批判でやっていくことが必要と考えています。

 自前の批判とは、彼らの運動論・組織論・社会観総体に対して「左」から解析していくことを 意味しています。「左」とは、人民大衆の利益に合致した観点という意味です。 この角度から見えてくるものは、「オウム」の君主制度であり、親分−子分の組織論であり、陰謀的又は反人民的な無差別「戦争」論であり、財産収奪的な経営論等々です。この観点は、当局といっしょになって「違法行為に対する 法的処罰と社会的批判」を求めていくこととは別個の地平にあります。ちなみに、最近の「オウム」排斥運動の動向には、「左」から注視しておくべ き必要を感じています。「オウム」を擁護する観点は私にはありませんが、没階級的な住民パワーに対しては一定の距離を持ちながら関わる必要があると考えるからです。

 話が横滑りしてしまいました。私が問題にしたいのは、党の上層部の社会観がいつのまにか当局のそれとよく似たものになっていやしないかという危惧についてです。いつからどうしてこんなことになったのか解明しようと思っていますが、今少し時間と能力が必要です。けれども、おかしいことはおかしいと 表明しておかなければ、おぼつかない足どりではあったものの党の戦前以来の輝かしい不屈の戦いの歴史に対して申し訳なく思うからです。個人的な意見ですが、わが国において労働者階級の階級的利益に立ってその心がわかる指導者により党の運動が組織されたことは未だ一度もないように思えたりし ています。

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 題名/党創立記念講演会における不破発言に思う (1999.9.4日)
 『さざ波通信』編集部より近々意見がなされるということなので、私もこの機会に、未投稿にしておいたこの文章を送り、すり合わせしてみたいと思います (少々長くなることは致し方ありません)。

 最初に触れておきたいことは、党創立記念講話であるにも関わらず、諸先輩同志の貢献に対して深甚の意が表されていないことについてです。講演の締めくくりでやっと触れられていますがいかがなものでしょうか。それでも拍手拍手があったようですから、話す方も聞く方も釣り合いがとれているのでしょう。  

 例えば、一般企業の場合でもよいですが、創立記念講演ともなれば、創立者以来の苦難の歴史が振り返られ、エピソードの一つや二つ織り交ぜられて戦線に倒れた故人の労をねぎらうのが通例でしょう。「企業の歩み」が出版され、配布されるようにも思います。ありきたりであろうとも、思いを新たにする意味で必要な儀式なのではないでしょうか。なされた賛辞といえば、現路線の正しさ云々であり、まことにもって自画自賛とはこのようなことを言うのでしょう。

 そうした理由について考えてみました。恐らく1955年の「6全協」から第7 回・8回党大会に至る過程に不明朗な動きがありすぎており、これが原因で振り返ることができないのではないでしょうか。特に現執行部の系譜である宮本グループの動きと戦後直後の党を指導した徳田執行部との確執には死闘的なものがあり、宮本グループは徹頭徹尾徳田執行部に反抗し抜いた過去の行状があります。史実を見れば、「統一と団結」を壊した原因には両派ともどもの責任があるといわざるをえず、宮本グループは「分派の禁止」もものかはという動きで終始しました。徳田執行部に路線の誤りがあったがゆえにそういう動きをせざるをえなかったと総括するのであれば、私も了解します。実際には、分派的な動きの痕跡を留めまいとして涙ぐましい努力をした上で、現執行部への「統一と団結」・「分派の禁止」を徳田執行部の時のそれ以上に言いだすから、詭弁が横行するようになる。史実のつじつま合わせと抹殺・歪曲・修正をせざるをえなくなるわけです。この私の見方が納得できなければどうぞ皆さんでお調べ下さい。私は、現在戦後党史をノートし始めていますが、呆然とさ せられているというのが実際です。

 第2の問題は、不破委員長が第7回・8回党大会で確立された綱領路線の 正しさを強弁するにも関わらず、現実の進行はますますその路線の欺瞞性を明らかにしつつあるということです。特に日本の国家主権の従属性規定は、いよいよ現状にそぐわなくなりつつあります。この「従属規定」と「二つの敵」論は メダルの裏表の関係にありますが、その実際の闘争のされ方は64年の「4. 17スト」の時の対応に本質が現れたように、日本独占資本との労働戦線での戦いを放棄させることにあったことが明白です。あまり振り返られていないのですがなぜなのでしょう。

 第3の問題は、綱領路線の「従属規定」が、今日ますます闘争課題となりつつある日本帝国主義ブルジョアジー権力の動きを免罪する理論であることがますます明白になりつつあります。「二つの敵」と戦うと言いながら、その一方の敵を自民党に落とし込んだ上で、議会闘争の中に鉾を納めてしまう手法に帰結しており、そのような闘いは日本独占資本にとって痛くもかゆくもなく、フリ ーハンドのままにバブル経営のつけを労働者のリストラ政策に転嫁しつつあります。党の運動が、60年代から今日までほぼ40年間にわたって、大衆の欲求不満のはけ口として第2社民的な役割に終始しているのではないかという 正体が露わにさせられつつあり、そうした綱領路線の誤りが明白になりつつある事態に関わらず、その正しさを強弁し抜いたのがこのたびの不破委員長講演でした。

 第4の問題は、当面社会主義に向かわない「資本主義の枠内での民主的 改革」を自画自賛し抜いたことにあります。ひたすら国家権力ブルジョアジーに恭順の意を表しつつ党内的には強面というのが宮本−不破系列の本質といえます。8回党大会での満場一致を誇りましたが、どういう醜いやり方で満場一致に向かったのか皆さんご存じでしょうか。不破の知り尽くした上でのこの言い方は確信犯であり、到底許しがたいものと私は考えています。

 第5の問題は、自主独立路線を随分手前味噌に語りましたが、その元祖は徳田執行部であるというのが史実です。これは所感派と国際派に分かれた系譜を追えば自然と証明されます。ただし、徳田書記長の自主独立路線は弱 く、当時のスターリン指導下の国際共産主義運動の一枚岩的恭順が支配する中では最終的に事大主義に陥ることになりました。現執行部の系譜である 宮本グループは当時国際派であり、自主独立的にうごめく徳田執行部に対 し、国際共産主義運動の統一性という観点からスターリン論評を受け入れるべきであると主張していました。この史実を曲げる訳にはいかない。不破が自主独立路線を自賛するのであれば、このあたりの系譜から引き継がないとおかしいのではないかと考えます。

 第6の点は、問題というより功績に近いのかもしれません。不破委員長の功績を挙げるとすれば、マルクス・レーニン主義の相対化に対する貢献であろう と思われます。それが右翼的な方向からのそれであるにせよ、金科玉条式のプロレタリア革命路線に対して市民運動的な選択枝を広げたことは、まぁ功績 といえるのかもしれない。もっとも、都合の良いところを継ぎ接ぎしただけの折衷理論に毛が生えた程度のものであるかもしれない。

 第7の問題は、個人的に許せない感情を禁じえないが、またしても田中角栄氏を誹謗していることです。いつでもどこでも岸でもなく中曽根でもなく角栄なのです。「私は、いまでも思うのですが、金権政治の元祖といわれた田中角栄氏は、国内で5億円の金を調達できないで、危険だとわかっていながらロッキ ードの献金に手を出して領収書を書いた。それがあの大事件になったわけで しょう。今、5億円――物価が上がっているから、今なら10億円、20億円というお金になるのでしょうが、その程度の金は、自民党のどの派閥でも、どこからでも平気で生み出してきます」という当てこすり的な批判がなされています。

 どうぞ読み返してみて下さい。まっとうな批判というか文意にさえなっていません。何とか解釈すれば、金権政治の元祖がお金に困って、今から思えば僅かばかしのはした金を外国から調達したという論調になります。まことにもって角 栄氏に対する冒涜の極みと言えますが、これが公党の長たる人の発言とは思えません。長くなりますので批判は省略しますが。このあたりに不破の政治的ポジションがあると私は睨んでいます。

 第8の問題に、選挙で負けた言い訳に、「社公合意」、「反動攻勢」、「天安門事件」を指摘しています。それは事実かもしれないが、党の運動がそれらを粉砕するような動きで進められなかった原因についての主体的な反省というものがありません。お勉強坊やが教育ママに言い訳している駄々っ子の図が脳裏に浮かぶのは、私だけでしょうか。

 いよいよ最後になりました。「民主集中制」について述べられています。「党中央が決めたことは、黙って無条件に従うというのが原則で、それとは別の意見などいえないんだ、そういう誤解をしている方がいますが、我が党の規約ぐらい、違う意見を持った人の権利を、きちんと明文で保障している党はあまりほかにないはずです」、「やっぱり、どういう問題でも、事実と道理にあったものが最後の議論には勝つわけであって、そういう道を保障しているのが民主集中制という在り方です」だと。『さざ波通信』投稿者で党の「統一と団結」を呪文の如くに唱えている方は大いに読み返して欲しいですね。こういう言葉を聞く と、しだいに私も入党したくなって参ります。私も生息できるかしら。素晴らしい というかこの二枚舌めっと思うかは、−−−−−(私のヒミツ)。

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 題名/「内政不干渉理論」について (1999.9.28日)

 「東チモール問題」が論議されなくてはいけない。国連軍の評価が難しいけれど、何とか理論的切開をせねばならない。ベトナム戦争時の反戦運動の時は構図がわかりやすかったのかなぁ。あの時は、政府と右翼がアメリカ政府の政策を支持し、左翼がこれに反対した。反対の立場の各党派の論拠はさまざまであったが、今から思うのに、党は、堂々と北ベトナムの民族解放「戦争」を支持していたんですねぇ。最近の論調からは信じられない気がしています。恐らく、最近の論調は、「戦争」そのものに反対という立場のように思います。それだけ構図が難しくなってきたのであり、党執行部の怠慢ですますのは酷かも知れない。本当のところ私もよくわからない。

 はっきりしていることは、帝国主義と共産主義という対峙形の運動論が終焉したことである。以降わかりやすい国際分析ができなくなって久しい。解放後のベトナムがカンボジアの内戦に介入した現実を見て、あの頃のわれわれの反戦闘争はいったい何だったのか疑問を余儀なくされた現実が尾を引いているのかもしれない。アラブ諸国家の民族的抗争も解析できていない。私の場合、イラン−イラク戦争についてもただ目を見張るばかりだった。湾岸戦争も、たとえ罠が仕掛けられていたにせよイラクのクウェート侵攻が許されるようにも思えない。コソボ問題しかり、いよいよもって難しい。

 マルキストは戦争の一般的反対はしないことは承知している。が、現実の戦 争または内紛を前にして対応の仕方がわからなくなってきている。国家間及び共産党間の「内政不干渉理論」が輪をかけて混迷を促進させているようにも 思える。この地球上の同時代の出来事であるというのに、国家が違えば差し 出がましいことを言ってはならぬ、その国民の内政問題であるという見地が果 たして正しいのかどうか。「東チモール問題」は、このような問いかけから出発 しないと解けないし、運動の起こしようがない。

 国連を通してなら内政介入にな らないのかという問題もある。もっとも、国連軍は、民兵の東チモール独立派 虐殺を抑止しようとしているんだなぁ。それは良いようにも思うけど、軍隊の派 遣でなく資金の援助なら良いという理屈が今ひとつはっきりしない。五十歩百 歩ではないのかなぁ。資金の援助なら内政介入にならないのかという問題も ある。インドネシアから見て、日本政府と資本は最も深い政治・経済交流して おり、いわばパトロン的関係だ。この濃い関係の国家に対してであれ、日本政 府または人民は差し出がましいことを言ってはならぬのか。いったい誰がこん な理論を吹聴したのだろう。

 なるほど日本人民は、自らの政府に働きかけるのが仕事なのかも知れな い。しかし、国民の総意は議会に付託されており、そのために議会があるのであり、議会の動きを見守るのが筋であるという理屈がある。今や、自民党から共産党まで議会が動くことで間に合わそうとする平和的議会主義的統治シス テムが完成しつつある。もしわれわれが議会の動きに満足できなければ、次の選挙の時に意思表示すれば良い。時すでに遅かろうともそれが法治国家の 手続きというもんだ。うーーーん誰がこんな理屈を作ったんだろう。ホントこれでは金縛りにあったようなもんだ。

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 題名/「党史の不幸な現状」について (1999.10.5日)

 先の党創立77周年記念講演会における不破発言について論評を追加します。何か言い足りないという思いをしていましたが、ようやくはっきりしてまいり ました。

 不破氏は、堂々と次のように語っています。「1958年の第7回党大会、1961年の第8回党大会、ちょうど今からほぼ40年前の時代でありますが、そこで、今の私たちの大きな路線、方針、そういうものが定められたからであります」、「日本共産党の今の路線というのは、いろんな呼び方をされていても、実は、38年前に第8回党大会で決めた綱領の路線そのものなんです」。何気なく聞き過ごし耳元をすり抜けてしまいますが、これらの発言はかなり重要なことをメッセージしています。今日の党路線の右傾化が誰の目にも明らかになってきていますが、この間情勢に応じて徐々に胡椒が振りかけられてきただけであり、今日の総路線の起点が第8回党大会にあったということをぬけぬけと語っているということです。右傾化は今に始まったのではないということを公言しているということになります。確かに1955年の「6全協」とそれに続く第7回党大会、第8回党大会は党史上の大変換がなされた時期であり、不破委員長はこのことを的確に認識して言っているわけで、私に言わせればかなり確信犯であるということになります。

 このことの重要な意味または私のこの言い回しの意味がわからない党員は、第8回党大会に至る経過について何のことやらわからないままに現執行部の自画自賛を追認し礼賛しているというに過ぎないということになります。恐らく、第8回党大会以降の党勢拡大運動の中で入党した現党員は概ねそういう傾向にあると思います。なぜそのように云えるのかというと、私の学生運動期を通じて「6全協」についての論議なぞ一度としてされたことがないという経験から推量しています。恐らく今日とて変わりはないのではないかと思うわけです。ついでに言わせてもらえば、青年党員の投稿の中身の純朴さはどうみても、支持者周辺の意識のままに既に党員になっていることを示しており、驚かされています。僕らの頃はもう少し――と思うのは、すでに私がおじんになりきっているということなのでしょうか。HP「現代古文書研究会」掲載資料は貴重な宝庫群です。誰でも自由に閲覧できるわけですから是非熟読してみたらいかがかと思います。

 私は、不破委員長の見解とちょうど反対の立場から「6全協」・第7回党大会・第8回党大会を注目しています。この過程で何が起こったのかというと、戦 後直後を指導した徳田系執行部色が完全に払拭され、現執行部系譜である 宮本グループの党内完全制圧が確立されたという風に理解しています。この経過につき不破委員長はソフトに次のように言いかえています。 「この方針を決めるときには、わが党の中でも随分反対論があ りました」、「ですから私たちの党では、第7回大会でも、この 綱領に賛成の意見が多数だったのですが、いっぺんで決めな いで、じっくり議論しようじゃないかということで、結論は次の大 会に延ばし、3年がかりの討論で、第8回大会では、満場一致 でこれを決めたのです」。

 実際のこの経過は対権力闘争そっちのけで熾烈を極め、私に言わせれば宮 本グループによる党執行部の簒奪であり、今日においても微妙な陰を落として いると考えています。ここのところを正確に理解していないと今日の党の執拗 な「統一と団結」論の由来が正しく読みとれないわけです。今日の党史では、 戦後直後から55年の「6全協」に至るまでの徳田執行部の悪戦苦闘の歴史 がほぼスッポリと欠落させられています。私の手元にあるのは『日本共産党 の65年』ですが、情勢分析や社民に対する党の優位性について多くの記述 がなされている割には、徳田執行部の活動状況に対する必要な記述が抑え られているように思っています。

 例えば、45年10月10日に徳田・志賀連名で発せられた「人民に訴う」(い わゆる「獄中声明」)の記述がありません。「人民に訴う」は戦後党史上の出 発点であり、ここに記された方針に従って党の戦後運動が力強く展開していっ たことを思えば、しかるべく記述するのが筋と言えます。この点一つ見ても不自然極まる党史になっていると云わざるを得ません。私は、読み進めれば進 むほど『日本共産党の65年』の党史は全体的に見て滅茶苦茶であり胸が悪 くなってきます。党員の多くが疑問を抱いていないのは、丸め込まれているの か無知すぎるのかどちらかしか考えれません。以下、私がアウトライン的に書 き換えさせていただきます。ご批判には共に検証させていただく用意ができて おります。

 戦後直後の党を指導したのは徳田−志賀執行部でした。翌46年野坂参三が延安より帰国し、徳田−志賀執行部との見解を摺り合わた結果、徳田−野坂執行部へとシフト替えがなされました。相対的に志賀氏の地位が低下していることになります。志賀氏は以後徳田系になってみたり反徳田系になってみたりの変節を遂げていくことになりますが、このあたりの事情も潜在的に関係していたものと思われます。ただし、彼の革命的情熱は正真正銘のものであり獄中闘士の経歴に背かないものであったことも知っておくべきかと思われます。  ところで、今日野坂氏は根っからのスパイであったことが明らかにされています。この野坂氏が与えた党に対する影響は、「愛される共産党」という言い回しに象徴されるように当時の党の急進主義的な運動を穏和化させることにありました。「占領軍統治下における議会主義的な平和革命」路線も彼が提起し影響を与えたところのものです。ちなみにその政治理論は今日の不破理論と酷似しています。46年から50年まで徳田−野坂体制が続きました。この執行部は、徳田が急進主義的運動(左派)を野坂が穏和化運動(右派)を担うという二頭立て体制として機能していきました。結果的に左派・右派が協調して諸戦線で成果を挙げていくことになったようにも思えます。その総決算として49年の衆議院総選挙では35名の議員を当選させ、この年「10月革命」を呼号する勢いを示しました。社会党との連立組閣名簿まで用意されており、徳田・野坂両氏の入閣構想までまことしやかに噂され始めるほどに事が順調に推移すれば現実性があったわけです。とはいえ、時の吉田政府と「GHQ」の反動攻勢も凄まじくなり、すったもんだのあげく「10月革命」はとん挫させられてしまいました。

 この間徳田氏の信頼 厚いヤングリーダーとして伊藤律が活躍しました。ただし、伊藤律氏の登用には羨望と嫉妬がつきまといました。付言すれば、党内でこの伊藤律系と宮本系が激しく対立していくことになりました。この頃党内の状況はといえば、宮本グループが執行部の方針に何から何まで楯突くという具合で煙たい存在になっていました。「10月革命」という政権に近づこうとすればするほど内部かく乱的に動く宮本グループという困った状況が生まれていました。徳田氏は宮本氏に対し「理論拘泥主義」という批判を浴びせましたが、要は足を引っ張るという指摘であったように思います。徳田書記長の指導ぶりに対する「派閥的家 父長制批判」とは、宮本グループから見た言い回しであり、実際にはトップとして苦悩する姿があったように思われます。

 
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 題名/「党史の不幸な現状」について (1999.10.5日)

 こうした折の50年初頭に「スターリン論評」が発表され、野坂理論の下に活動する執行部が手厳しく批判されました。その受け入れをめぐって党内は恐慌状況に陥りまっぷたつに割れることになりました。徳田執行部は、「スターリン論評」に反発しつつ結局これを受け入れ、「所感」で訂正すると同時に執行部の常として「統一と団結」を呼びかけました。この「統一と団結」に従わなかったのが「スターリン論評」即時受け入れを主張する国際派であり、宮本・志賀・神山・春日(庄)等々を頭目とする各グループから構成されていました。この国際派の中にあって、宮本グループは最大グループであると同時に最も徹底して徳田執行部(所感派)と対立しました。50・6・6レッドパージ指令が出され、党中央委員全員他が非公然活動を余儀なくされることになりました。徳田・野坂・伊藤ら党中央幹部は中国に潜行し「北京機関」なる国外司令部を設け、国内は志田.椎野を指導部とする「臨時中央指導部」により指導させるという対応策を編み出しました。ここでも気になることは野坂氏の遊泳術であり、徳田氏の甘さです。

 現在の党史は、この措置をめぐって、反中央派の宮本・志賀中央委員を交えた会議なしに勝手に決定したので徳田執行部が分派化したとみなしていますが、問題ありでしょう。この時期徳田執行部は、宮本グループを公然と内部攪乱者・公安スパイグループとみなしており、時局厳さを増す中この観点から意図的に宮本グループを排除したのであって、この排除行動を分派的行動というには無理がある。どだい執行部党中央の方から分派する理由がない。当然のことながら徳田執行部はこの時点で多数派であり、あくまで党中央意識のもとに宮本グループを排除したというそれだけのことである。この行動・措置の是非を争うことはできるが、執行部の分派化とはみなせない。無理やりそう規定するのは形式主義以外のなにものでもない。勝てば官軍、負ければ賊軍的党史の歪曲の好例であろう。

 この経過の中で、徳田執行部は、野坂理論との決別をきして新綱領を模索していく過程でしだいに中国共産党の影響を濃くすることになり、その革命経験を機械的に適用し、「51年綱領」でいわゆる極左路線により日本革命を指針させていくことになりました。国際派は一歩も引かず分派の動きを強めていくことになりました。時は朝鮮戦争の真っ最中であり、日本の独立をめぐっての講和条約問題の渦中のことでした。つまり、戦後日本社会が最もドラスチックな転換が行なわれている時、党は不幸にも分裂をきたし内部抗争に血眼になっていたという党史があるわけです。

 こうした状況に対し、スターリンが介入し、中国共産党も介入し、徳田系と宮本その他系のどちらの言い分が正しく、日本人民の闘争利益にかなっているのかを検討した結果、徳田執行部のもとに団結せよと裁定することとなりました。この裁定の効果は著しく、こうして党の大同団結が為され、国際派その他の分派組織は解散させられることになりました。国際的事大主義はこの時代の党また党員の不文律として存在していたわけであり、国際的共産主義運動のあるべき姿をめぐって理論的解明が待たれる宿題として今日にも残されているようにも思われます。この間最後の最後まで執行部の「統一と団結」の呼びかけに頑強に非和解的に抵抗したのが宮本グループでした。

 ところが、皮肉にも党の団結が回復した頃には、国際情勢が変化したこともあって執行部の極左路線は混迷を深めていく状況になりました。これが53年頃の状況です。そうこうするうち3月スターリンが死去し、10月徳田書記長も客死しました。徳田書記長死去により後ろ盾を失った伊藤律は、党内諸グループのさまざまな思惑の依頼により中国共産党の手で幽閉されることになりました(この経過にタッチしたのが野坂氏であり、袴田以下何人かの中央委員が幽閉先まで訪ねて、釈放と引き替えに自己批判を求めております。現執行部系列はこの経過を熟知しながら伊藤氏を放置し続けてきた史実があり、日中共産党の決裂により伊藤律が解放され帰国してくるまで明らかにされませんでした。この問題は未だ決着が付けられていません。執行部の権力闘争のどぎつい構図をここに見て取ることができます)。

 このような新しい状況の中で54年頃より党の合同が画策され始め、志田−椎野は、宮本グループとの和解以外に党の再建がなしえないという事情に鑑みて宮本氏のもとを辞を低く訪ねることを余儀なくされました。地下水脈で万端整った結果、55年初頭になって、志田−椎野を代表とする臨時中央指導部は「自己批判声明」を発し、極左路線の破綻を認め、新路線を模索することになりました。こうして宮本グループの株が相対的に上がることになり、主流派登壇の道筋が用意されることになりました。

 「6全協」とは、このような状況の中での徳田系と宮本系その他のグループとの歴史的な和解の大会となり、同時に新路線を模索する大会となったわけです。この時の中央委員の構成は2対1の割合で旧執行部徳田系の委員が多数残存しました。注意すべきは、常任幹部会が創設され野坂氏が第一書記になり宮本氏がナンバー2の立場に立ったことです。野坂氏の遊泳術の見事さがここにも見て取れます。こうしてスパイとして立ち働く野坂氏と宮本氏の連携により以降の党史の歩みがなされていくのであり、ここに私が疑惑を抱くのも無理からざるものがあります。

 この野坂−宮本ラインの下で、第7回党大会、第8回党大会が準備されていくことになり、新たに形成された党新中央への恭順を押しつけていくことになりました。第7回党大会で野坂−宮本執行部の基盤が整備され、2年後の開催という申し合わせの時期を1年繰り延べて党内の地盤堅めをした結果、第8回党大会はイエスマン以外の徳田派中央委員の完全追放に成功することになりました。ちなみに全員一致決議はこの大会から恒例化することになりました。この時点で宮本グループが党内の実権の掌握することに成功し、宮本単独体制が確立されました。これが党史であり、以降宮本式路線が定式化され今日に至っています。

 この間党新中央は、まず徳田派の追放から、続いて春日(庄)ら構造改革派を、全学連反党派を、志賀らソ連派を、最後に中共派と文化人および学者グループの反党員を放逐してしまいました。不破委員長はこの経過を自慢しているわけです。私は、それほど自信があるならこの間の党史を俎上に乗せてきちんと総括して見よと言いたいわけです。仮に現執行部に軍配が挙げられる経過あるのであれば、いっそうのこと史実としてきちんとこれを伝え、新入党員はこれらの党史を学んで、先輩の苦労の次のステップへ自覚的に貢献していくのが 自然であり、この部分を遮断させられている現状をオカシイと言っているわけです。

 以上の経過を単に指導部の指導権争いとして見るだけでなく、綱領路線の争いとして踏まえておくことが必要ですが、すでに長文化していますのでひとまず指先を休めます。「資本主義の枠内の民主的改革という考えは、今世界で大きな評判になっていて、日本共産党というのは素晴らしい方針を持っているそうだと、外国のかなりの人が関心を持ち、私たちに質問してきます」、「既に歴史の答えで、決着はつきました」などと言えるようなものではないことだけは明言しておこうと思います。

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 題名/「不破委員長の創価学会−公明党批判」について(1999.10.8日)

 別に不破委員長に恨みつらみがあるわけではないのだが、どうしても一言し たくなってしまう。久しぶりにテレビで彼の姿を見たが、好好爺然とした風貌を増しつつあるのを知った。優しそうな童顔をたたえており、その彼を叩くことは 忍びないが、事が重要な問題であるだけに放ってはおけない。

 先日不破氏は、自自公路線批判の延長上で創価学会−公明党を下記のような論調で批判したが大いに問題ありとお見受けした。批判の大要は、「公明党という、創価学会を母体にした宗教政党が政権にくわわることには問題がある。公明党の母体は創価学会であり」、以下原文

 「率直にいうが、公明党の基 盤となっている創価学会というのは、『王仏冥合(みょうごう)』『国立戒壇』とか いって、自分たちの宗教の国教化、いわば日本社会の精神的支配という野望 をあらわにして、公然と目的にかかげた歴史をもつ宗教団体だ。公明党の創立自体が、その手段のための政界進出を最大の目的としていた。そのことが言論・出版妨害とあわせて批判されて、旗色をある程度変えたが、この根本が清算されているのかどうかについては、非常に深い疑惑がある。公明党の政権参加について、国民のあいだに非常に強い拒否反応があるのはそのためだ。それについて、政府は、言葉の上で『クリア(解決)している』といいなが ら、実際にはことの問題点をなんら解明しないまま、その政権参加を許した。 これも、たいへんな問題点だと思う」

 と述べている。

 まず、この批判の御都合性について。創価学会も含めた宗教諸団体に対する認識のアナクロ化が問題である。アナクロ的御都合性とは、宗教をあらかじめ批判しやすい範疇に措定しておいて、創価学会がその範囲を逸脱しているからけしからんという言いまわしになっていることを指している。宗教結社がその信条に従って現実政治の改革を志向してはいけないのかという根本問題を不問にして、宗教は精神的なものを取り扱うものと勝手に範疇を囲った上で、創価学会が公明党を使って政治の世界に関与しようとしていることをあたかもいかがわしいことであることであるかに吹聴している。アナクロ的認識に従えば、宗教とは現実の諸問題を精神界の問題に還元させていく手法であり、そうであるが故に、マルクス主義はそうした宗教の阿片性を批判する。この関係にある限り常にマルクス主義は宗教に対する優位性を持つであろう。

 ところが、ある宗教結社が、マルクス主義の批判から悟ったかどうかは別にしてそういう宗教一般が持つ彼岸性論理を克服し、教義は此岸的に役立ってこそ本物という論理に立って、現実の諸問題に対して現世的な対応策でアプローチし始めた場合、このことを批判しうる根拠が我々にあるのだろうか。アナクロ的な宗教観からの逸脱ではあっても、彼らがそう意図すること自体は思想・信条・集会・結社の自由の範疇ではないだろうか。創価学会の場合この希有な例の一つの出色な結社である。自らの信ずる法華経教義こそ仏法の正統のものと認識した上でこれを現世利益と結びつけ、その手法として現世の社会的な諸改革を目指すに至った。その延長線上で公明党を生み出した。いわば公明党とは、創価学会という思想が生み出した物質化であろう。

 彼らは、究極自らの教義に基づく理想社会を具現化させようとしており、その際「王仏冥合(みょうごう)」・「国立戒壇」・「法華経第一義化」はそのエートスである。言論・出版妨害事件の経過で応法上政教分離化させられることになり、これらの教義も内向化させられることになったが、本来市民法の側からの過干渉ではなかったかと私は思っている。教義とその実践形態は本質的に見て連動化することが趨勢であり、無理矢理政教分離させられねばならないものでもなかろう。そういう論調こそおかしいのであって、「旗色をある程度変えたが、この根本が清算されているのかどうかについては、非常に深い疑惑がある」という論調は思想の物質化を否定する者の云いである。こうした論理は天に唾するものであり、後述するように追って我が身に帰ってくるであろう。

 「政教一致」は、思想・信条がその有効性を証左するための必然的帰結であ り、単に思想だけの信条だけの自由のみが認められるという形式主義は本来 の意味での自由ではなかろう。むしろ、創価学会の場合、他の諸宗教団体の多くが自民党の集票組織になっているのに対し、独自のイニシアチブで様々な困難を乗り越えて今日まで至っていることは賞賛ものではないだろうか。逆に、党から見て、創価学会−公明党の成長の軌跡から学ばねばならない多くのものを彼らは有していると認識すべきではないのか。「オウム」に対しても基本的には右同じ視点が必要であるといえよう。

 彼らがどのような教義を構築し実践しようともそれは自由である。問題は、彼らの市民法上の違法行為に対しては彼ら自身が当然に市民法的責任をとらなくてはならないことにある。部外者からすれば取らせなくてはならないことになる。この限りにおいて、場合によっては教義の制限も受けねばならず、構成員の自律自由性のチェックが為されねばならないこともあるであろう。とはいえ事前予防は困難とするのが市民法原理ではなかろうかと考えている。「オウム」の場合の問題は、自らが犯罪を仕掛けておいて冤罪・謀略呼ばわりをして免責を 画策する卑劣さ姑息さにあった。教祖も教祖だが信者も信者であり、左翼もど きの論法を多用した。現在罪のなすくり合いしているさまは異様さを通り越してぶざまでさえある。こうした「オウム」に肩を持とうとした左翼系コメンテーターがいたが、ミソと糞を一緒にする単にお騒がせ好きな輩であることを自ずと露見させていたにすぎない。

 話を戻すが、創価学会−公明党は市民法の枠内で正々堂々と活動しているのであって、これを咎め立てする権限は誰も持ち合わせていない。過去の盗聴事件・替え玉事件等々もない訳ではないが、それは市民法上の違法行為と して責を問われるべきである。創価学会−公明党がこれらの行為に対して反省をなす限りにおいては、党と創価学会−公明党との関係は運動的な競りあいのみが許されるのであり、得手勝手に措定された宗教観に対する不当な論拠で落とし込められるものではなかろう。創価学会−公明党は形の上では政教分離しているとはいえほぼ一体であるとみなすことには異論はない。とはいえ、創価学会−公明党の場合、むしろ逆風をバネにして組織の機能的分担と統一に成功しつつあるのではなかろうか。いわば創価学会を理論部として公明党を政治部として分離させつつ相互に自主性と統一性を連動させようとしているように見える。この手法は、むしろ現代的政党政治のあり方として最も合理的であり、革新的でさえあるのではなかろうか。

 日本共産党に置き換えれば、マルクス主義教義会のようなものが新たに理論部として設置されたことを考えればよい。理論部は日頃より原義とその応用と見解について研鑽を重ね、現状分析と指針を党に提案する。党はその成果を受けて、現実の政治の中において創造的適用と対応を図る。現実政治を担うわけだから妥協もあるということになり、ある自主の幅を執行部と党員は持つ。しかしその対応の後始末は党内に持ち帰って討議する。党としての検証が行われ、理論部としてのマルクス主義教義会もまた検証を行ない、更に両者機関の摺り合わせを行なう。創価学会−公明党を理想的に美化した場合このような関係になる。いわば、機関は機関として独立しつつ有機的な関係づくりを創造しあう。創価学会−公明党はこのような組織関係論を生み出しつつありそれに成功しつつあるのではなかろうか。学ぶことはあっても批判されることはない。

 批判の仕方の反動性には多弁を要しない。不破氏の発言を以下の様に読み替えればよい。
 公明党→共産党
 創価学会→マルクス・レーニン主義研究会
 王仏冥合(みょうごう)→プロレタリアート独裁
 国立戒壇→民主集中制
 自分たちの宗教の国教化→暴力革命による権力奪取
 精神的支配→政治的支配
 宗教団体→政治団体
 言論・出版妨害→50年代の極左冒険主義

 いつの日か党が政権参加にたどり着こうとした日に手かせ足かせになる言辞を不破氏自ら吐いていることがわかるであろう。次のような文章になる。(書き換え部分は●で表示した) よく聞かされている反共批判の論理そのものが聞こえてくる。

 「率直にいうが、●共産党の基盤となっている●マルクス・レーニン主義研究会というのは、『●プロレタリアート独裁』『●民主集中制』とかいって、●暴力革命による権力奪取、いわば日本社会の●政治的支配という野望をあらわにして、公然と目的にかかげた歴史をもつ●政治団体だ。●共産党の創立自体が、その手段のための政界進出を最大の目的としていた。そのことが●50年代の極左冒険主義とあわせて批判されて、旗色をある程度変えたが、この根本が清算されているのかどうかについては、非常に深い疑惑がある。●共産党の政権参加について、国民のあいだに非常に強い拒否反応があるのはそのためだ。それについて、政府は、言葉の上で『クリア(解決)している』といいながら、実際にはことの問題点をなんら解明しないまま、その政権参加を許した。これも、たいへんな問題点だと思う」。

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(私論.私見)