時事評論(1) | れんだいこの最初の投稿文(一部字句修正) |
6400 | ちょこっとご挨拶 | れんだいこ | 2001/05/22 19:32 |
カラバさんの紹介を受け只今書き込みしているれんだいこです。今後ともみなさんよろしくお引き回しのほどお願い申し上げます。
最近れんだいこは気の向くままに大東亜戦争の見直しに着手しました。わからないことが一杯な中で、何とか外観図をつくっては見たもののこれから先は五里霧中です。只今こちらの掲示板で為されている遣り取りはそういう意味で大いに勉強になります。著作権もあるとは思いますが、どんどん取り込みさせていただけたらありがたいです。当然私の拙文がお役に立つことがございましたら任意にどうぞの姿勢にあることも申し添えておきます。 私の大東亜戦争見直しの意図は次のことにあります。今日から見ると何と軍部は突出し、無謀な戦争に駆り立てられ、挙句の果てに敗戦の憂き目にあわされたか、その拙劣さばかり知らされております。何と愚かな二度と繰り返したくない時代であったことよと受け止め、この認識にさして不都合を感じて参りませんでした。 しかし、かの時代をそのような後付け論理で総括して中身を考証しようとしないのはおかしいのではないのか。実際には、時代の雰囲気の中で一歩一歩叡智を寄せて鶴首会議した結果の歩みであり、必然的ともいえる流れでかの時代もまた経過したのではないのか、その叡智は今日の我々の能力と何ら相違していないのではないのか、という気がしています。 確実に違うとすれば、かの時代は明治憲法下の天皇制時代であり、今日は戦後憲法下であるという法律的制度的な大綱でしょうか。共産党、宗教勢力等反対派を徹底駆逐、隔離した点も違うといえば違う。これらの違いは分かるが、状況分析力、対応力、時局打開力ではちっとも変わっていないか、今日の我々のほうが劣っているのかも知れないのではなかろうか、などと思ったりしています。 そういう思いでかの時代を追跡してみたいと考えています。この限りではウヨもサヨも関係なく史実検証してみたいと考えています。但し、私一人の手には余ることゆえ嘆息しつつ歩んでおります。こちらの掲示板での遣り取りからも学ばせていただきたいと考えております。これを機会にちょくちょくお邪魔虫したいとも思っていますのでよろしくお願いします。れんだいこ拝 |
6417 | Re:ちょこっとご挨拶 | おっちゃん | 2001/05/24 12:30 |
こんちはれんだいこさま。
私は祖母の膝の上でかの戦争の話を耳にタコができるほど聞かされました。祖母には若くして寡婦となり長男(私の父)を陸軍将校として戦地におくり、戦時中は空襲の下ひとり暮らしながら、ひたすら戦争の終わるのを願った経験がありました。庶民にとって戦争が割に合わないことを身をもって知っていた世代の人だったと思います。そしてたしかに、いつも祖母は「大東亜戦争」と称しておりました。懐かしい響きです。ある時期まで、日本人にとってかの戦争は「大東亜戦争」という名の戦争であったわけです。(これが史的事実というものです) >かの時代をそのような後付け論理で総括して中身を考証しようとしないのはおかしいのではないのか。 さて、その「中身」でありますが >今日から見ると何と軍部は突出し、無謀な戦争に駆り立てられ、挙句の果てに敗戦の憂き目にあわされたか、その拙劣さばかり知らされております。 おっしゃるように、私も「稚拙」で片付けられない部分が重要であるとの思いを抱いております。そしてそれはむしろ、誤解を恐れずに言わせていただけば、戦(いくさ)の動機やあるいは上海事件、慰安婦等の枝葉の問題でウロウロするのではなく、明らかなる敗色を察知した以降において戦争終結への正しい道筋が辿れなかったこと、この一点により重きを置くべきだとの認識であります。 |
6448 | Re:東京裁判批判 | れんだいこ | 2001/05/29 20:31 |
前後の事情、どなたとどなたの意見がどう食い違っているのか分かりませんが、小林さんのこの観点に同調致します。特に最後の > それよりは、日本人自身が戦争責任を追求してこなかったのが、問題だと言いたいのです。こういう簡単なことを放置してきた日本の左翼のだらしなさを、痛切に反省してもらいたいのです。 という一節に共鳴します。旧大戦論は、今後の教訓としてどう実践的に総括するのかというレベルで為される必要があると考えます。聖戦であった、自虐すべしその他いろんな角度から批評するだけでなく、二度と起こさない為には、あるいは再び左様な世界に突入したときに今度はどう対応すべきなのか、という問題として提起されていると考えます。 ところが、このようなレベルから為されている旧大戦論にあまりお目にかかったことが無い。小室直樹さんの一風変わった戦記論を読んだことがありますが、左派的な立場からの実践的総括論には接しておりません。こういうのがあるよと教えてくだされば読んでみたいと思いますのでご紹介ください。 アジア各国の対日批判も、本筋としてはこのレベルで為されているのではないでしょうか。我々が何ら実践的な教訓をしていないことに対する不満を不快的にあれこれ表現しつつ、意見書を突きつけているのではないかと考えます。 ともすれば損害賠償問題と絡んでみたり、内政干渉的なレベルで為されてきていますので、それはそれで我々も不快を覚えますが、要点は、過去の大戦の総括を為しえていない、政府レベルのみならず左派レベルにおいても一向に為されていないことに抗議しているのではないかと私は受け止めています。 右派・左派どちらからも、聖戦であった、侵略であったの公式的な見解声明にとどまっており、バトルを通じた相互検証は為されていません。南京事件はその恰好例でしょう。上から下までの各界の実態解明はなおざりにされている、次第次第に生き証人が没しつつあるというのに聞き取りせずのままやり過ごしている、そのことに奇異を覚えていない、いつのまにか改憲論が浮上し、またぞろマスコミがこれに唱和し始めているというのが目下の状況であり、いかんせんこれでは二等国以上にはなれそうにないとか考えています。 |
6501 | memoさん、ちわぁです。 | れんだいこ | 2001/06/04 11:13 |
memoさん、このたびはレスありがとうございます。
>南京事件はむしろ、「相互検証」や「聞き取り」の進んでいるケースではないでしょうか。クマさんのHPにある、「南京大虐殺関連文献一覧」を御覧下さい。 とありますが、「相互検証」や「聞き取り」の進んでいるケースのようで、実際に立ち入ると少しも精査されていない気がしています。電脳・日本歴史研究会の「南京大虐殺は嘘だ」 http://www.history.gr.jp/nanking/ の方が歴史考証的にはよく説明されている気がしております。 肯定派と否定派の双方を読み比べてみての感想は、丁度邪馬台国論争と同じで、魏志倭人伝そのものが信用されるに足りない説から、畿内説、九州説、その他説とあり、それぞれの論も更に論者によって食い違いがあります。邪馬台国の場合ははるか昔の一種のロマン的世界でも良いでしょうが、南京事件の場合はまだ生き残り証人がいるホットな事件です。その事件の検証が出来ないのはおかしいと考えています。 私に時間があったら、両論を一度コンピューターで解析させて、どこが見解が分かれているのかはっきりさせ、追跡していきたいと思いますが、私はそういう性能のよいコンピューターを持っていません。なにやら一方通行な主張が横行しているだけの気がしていますが、勉強不足なからでしょうかねぇ。 事実をしっかりと踏まえなければ、お詫びするにも、歴史責任を負うにも、今後のチェックにも、何をどうしたらよいのかパワーが湧かないのではないかと考えるから、こだわりを持っています。どちらの側からであれ、反論が為されていれば、それに再反論し、更に反論し実事訴求するのが議論足りえると思います。 どちらの見解に立つにせよ、情緒だけでは危険が過ぎる、それは必ず政治主義的に利用され堕落するという観点を持っていますので、正確に検証しておくに限ると思います。 |
6514 | Re: 渡辺さん、はじめまして。 | れんだいこ | 2001/06/05 09:35 |
「南京大虐殺」に興味を持って勉強している渡辺さんには看過できない書き方をしたことに責任を感じています。こうなった以上、私のほうからもええかげんに書いたつもりではないことを弁明せねば申し訳ないですね。私自身が感じている南京大虐殺観への疑問を晒してみようと思います。
「南京大虐殺は嘘だ」というHPが良く出来ていると感じているのは、「歴史考証的」な順序で記述している姿勢についてです。記述内容以前の問題としてそう感じています。「まともに相手にできない内容」かどうかは、そこについて事件肯定派と否定派が議論して精査して行けば良いと思います。お互いの主張は明らかにあちこちで齟齬しています。それぞれが鵜呑みにするのは良くないと考えています。私なりの南京事件考を書き上げる際に勉強になる構成になっているという点で評価しているのです。そう受け止めてくだされば幸いです。 いろいろお尋ねしたいことがあるのですが、とりあえず渡辺さんのレスに合わせて応答して行きます。再度勉強し直してからの方が私の質問もクリヤーにできると思いますが、少し時間がかかりますので、とりあえずレスを急ぐという気持ちから書きこみます。 「なにしろ、このHPのベースになっているのは松井日記を平気で書き換えた、Mr.改竄の著書です」とするなら、この種の考察の場合一番しては行けないのは「改竄」ですよね。そこはまったく同意です。但し、 > Mr.改竄の「人口」説の根本的誤りは、「虐殺」が「案全区」の中で行われたと誤解している点です。「案全区」にいた難民は「虐殺」から逃れた人で、犠牲者は南京城内では2〜3万人と考えられます。 とのことですが、さてそのような記述であったかどうかもう一度読みなおしてみようと思います。こうして渡辺さんに指摘されるまでそのようには読みこみしていません。 > 「虐殺」のほとんどは、城外にいた人々に対して行われたものです。 ここですが、かのサイトでは、南京政府の寄せ集め軍が南京から逃亡する時に放火、略奪、恐らく強姦、虐殺も一部されており、これらの全てが日本軍の犯行とされているのではないかと述べています。私が知りたいのは、肯定派から、いやそうではないのだ、南京政府軍のやったことはこれこれ、日本軍のやったことはこれこれの識別をしてもらいたいのです。南京政府軍の逃亡時の乱行があったのかなかったのかの考察を、肯定派は、否定派がそう述べている以上答えねばならない、それが議論だろうと思います。この点、渡辺さんのお考えはどうなんでしょう、お聞かせ下されば助かります。 以下、同様にお尋ねしたいことがたくさんありますが、私の出勤時間がやって参りましたので、とりあえずはこれにて。ええとそれから、渡辺さんの為になる発言は取りこみさせていただきたく(実は既にそうしているのですが)ここであわせてご了承御願いしときます、こういう便で済みませんです。 |
|
6940 | 南京幕府山捕虜殺害事件など: れんだいこ様 渡辺様 小林哲夫様 とほほ様 | memo | 2001/07/08 22:47 |
** 誤字訂正(6848) ** 端陸相 → 畑陸相 中興文庫 → 中公文庫 どうも失礼しました。 ** 6792番 れんだいこ様 ** 前回(6848番投稿)の続きです。国民党軍の「用務員」であった当時約20歳の唐広普さんが、夜の長江の川岸で、他のたくさんの捕虜たちと共に、日本軍の一斉射撃を受けたところまで説明しました。 唐さんの証言を続けます。以前の投稿(6569、6639、6778)も参考にして下さい。 > たぶん4、5分ほどのち、一斉射撃が再開された。ほとんど同時に、唐さんは右肩に打撃を感じた。このとき弾丸が命中して貫通したのだが、すぐには痛みを覚えなかった。肩にできた二つの穴からあとで考えてみると、、これは川岸の軍艦(memo注:唐さんによると2隻いた)の上から発射された角度による弾丸が命中したものらしい。 2度目の掃射が終わったとき、康鶴程(memo注:南京城から一緒に逃げてきた同僚)にまた小声でささやきかけたが、今度は返事がなかった。左手でそっと彼の身体をなでると、頭が血にまみれている。もう死んでいた。康鶴程の死を知ったとき、はじめて自分の肩の痛みを覚えた。 詳しくは「南京への道」(本多勝一 朝日文庫 1989年)を読んでいただきたいのですが、唐さんのここからの生還ぶりは見事です。銃剣での刺殺には死体の下でじっと我慢し、放火に対しては見つからないように水際まで這い、呼笛で兵隊たちが集合したチャンスを捕らえて下流へ逃げ出します。翌朝には、八卦州(長江の中州)の農民の舟に乗せてもらって、長江を渡りました。 一方、日本軍第13師団山田支隊の下士官であった当時約24歳の田中三郎さん(仮名)は、12月17日夜の一斉射撃後の行動について、以下のように証言しています。 > 死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのが熱さに耐えきれずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。折り重なる層をくずしながら、ちらちら燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた。靴もゲートル(脚絆)も人間の油と血でべとべとになっていた。こんなひどい「作業」も、「敵を多く殺すほど勝つのだ」「上海以来の戦友の仇だ」「遺族へのはなむけだ」という心境であれば疑問など起こる余地もなかった。動く者を刺すときの脳裏には、「これで戦友も浮かばれる」と「生き残りに逃げられて証拠を残したくない」の二つの感情だけしかなかった。これも作戦であり、何よりも南京城内の軍司令部からの命令「捕虜は全員すみやかに処置すべし」であった。 この後、12月18日と19日の二日がかりで、死体にガソリンをかけて焼いて長江に流しました。 最後に、「上海いらいの・・・」という部分について少し補足します。1937年8月23日から11月9日にかけての上海戦で日本軍はかなり苦戦し、約1万人が戦死しました。田中さんのいた中隊でも、198人のうち65人が戦死しています。 >この激戦の延長としての南京進撃だったことを考えてほしい。捕虜が降参したからって、おいそれと許して釈放するような空気じゃ全然ない。あれほどにもやられた戦友の仇ですよ。この気持ちは、あのとき戦った中国側の兵隊にだって分かってもらえると思います。仮に10万殺そうと20万殺そうと、あくまで戦闘の継続としての処理だった。 田中さんの推定によると、この時「始末」された捕虜は約1万3500人、南京全体では約7万人です。ただ、田中さんは全く触れていないのですが、「南京事件」(笠原十九司 岩波新書 1997年)によると、幕府山捕虜の殺害は16日にもあったようです(約5000人)。 ** 6510番 渡辺様 ** 上の文章について、一つ意見をお聞きしたいと思います。 6569番からの一連の投稿のメインとして取り上げてきた、唐広普さんの証言についてです。実は、本多勝一氏は、唐さんを「幕府山捕虜」の生き残りとはとらえていません。現に、284ページから唐さんの証言を紹介しながら、307ページでは幕府山捕虜の殺害について、「だが生存者が一人もいなかったためか、中国側には直接的被害者の証言はまだない。」と断定しています。 ですが、唐さんの証言のうち、12月14日朝に燕子磯の西の畑で捕らえられたという部分(6639)は、かなりの信頼性があると考えます。これが第13師団山田支隊の行動にぴたりとあてはまるので、あえて幕府山捕虜とみなして説明してきました。 この推定について、率直な見解を教えて下さい。 もちろん、一連の投稿の他の部分についての批判とか、ほかの方からの横レスも歓迎します。 ** 6832番 小林哲夫様 ** 権力についての私の考えは、どちらかというと小林哲夫さんより加減乗除さんに近いと思います。つまり、権力は必要であると考えています。 > 我々は権力の行き過ぎを監視すると同時に、安定した権力を破壊しようとするものを監視すべきだと思いますが、いかがですか? (6836:加減乗除) ですが、台湾やチベットの独立を助けるために自衛隊を動かす(6842)のには反対します。来週以降、詳しく説明したいと思います。 ** 6873番 とほほ様 ** > 私とおっちゃんとmikimamiはこの板では嫌われ者さ、人気者をひがみたおそうぜ。(6873:とほほ) そう、ひがんでいるだけです(^^)、、(゚゚;)バキッ\(--; ** 余談 ** ウサギの眼さんの6876番投稿「教科書展示会へ行こう!」を興味深く読みました。 |
6952 | Re:南京幕府山捕虜殺害事件など: 渡辺様 -唐広普証言 | 渡辺 | 2001/07/09 15:20 |
memoさん、
複数の人への返信は読みずらいので、できましたら[枝分かれ式一覧表示]で見たとき,テーマや相手ごとに表示されるように投稿して、あとは「返信」で応答していただけないでしょうか? (引用文略―れんだいこ) 侵華日軍南京大屠殺偶難同胞記念館「『この事実を……』「南京虐殺」生存者証言集」(星雲社,2000年)P19-22、に唐広普氏の証言が掲載されていますが、これと照合しますと「幕府山捕虜」と思われ、処刑の日は12月18日になります。 「幕府山捕虜」は新聞に発表された 14,777名以外にも相当増えたと思われ、増えた中の一人だったと思われます。 「目黒福治」日記[註1]では、12月16日「約七千人を銃殺す」、17日「約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万近く銃殺す、各部隊の捕慮[虜]は全部銃殺するもの、如す[し]」、18日「一万三千程銃殺す」とあります。 「目黒福治」日記では、当日は晴天となっていますが18日には初雪が降ったとあります。他の日記を見ますと17日は晴天で、18日から少なくとも19日の朝は曇天でかなり寒く、雨や雪が降ったとあります。 一方、唐広普証言では「曇っている空は暗く、ときに小雪もちらつく夜だった」[註2]と記述が一致します。 また、助けてくれたのが「長江対岸の南の方にある八卦州の農民」[註3]と言っていることから、場所が現在では確定されている「大湾子」付近と思われます。その他、可能性のある場所としては上元門から上流ですが、ここですと八卦州の南端になりますので「南の方にある八卦州」ではなくなるように思います。 「南京への道」はかなり初期の作品で、そのときは唐広普と「幕府山捕虜」との関係は判定できなかったのだと思います。 [註1]小野賢二他編「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店,1997年)P373 [註2]本多勝一「南京への道」(朝日文庫,1992年)P293 [註3]同書 P249 |
7057 | memo さん、渡辺さんへ。 | れんだいこ | 2001/07/16 23:31 |
次々と貴重な資料のご提供有難うございます。大いに勉強になっています。唐広普さんの証言は、実際には半軍半民という立場の方のようですが、南京事件での「武力制圧下での市民虐殺の様子と死者数」資料として貴重と思われます。他にも、日中比較証言で推定証明し得るこのような証言がどれくらいあるのか興味があります。便でよいですのでお知らせくだされば助かります。
ところで、変な質問になるかと思われますが、次の点が理解できにくく思い切って聞いてみることにします。この疑問氷解は証言の価値を高めるために必要ではないかと思っています。 一、「南京政府軍の逃亡時の乱行があったのかなかったのか」(6514:れんだいこ)という問いかけに対しては、「あった」とお答えします。これについてですが、大虐殺肯定派の方は、「あった」乱行の規模と殺害人数をどの程度とみなしているのでしょうか。 一、この時の日本軍は第13師団(仙台)の山田支隊ということですが、「前代未聞の大捕虜軍」をもてあまし、まずは付近の兵営に押込み、以後1週間詰め込むことになりますが、「これでは餓死するので、せめて水をくれるように日本兵に懇願すると、4日目にようやく飲むことが出来た」という記述は、どうも理解できません。 4日目に初めて水だけ与えたということになりますが、不自然ということはないのでしょうか。続いて、たぶん七日目の朝、「ここは食糧がないので、城内の食事できるところへ移動する」と告げ、4キロか5キロ、長くても6キロ以下の道のりを誘導し始めますが、そういう体力が本当に残っているのでしょうか。 一、午後1時頃、大量の捕虜軍をしばり終え、四列縦隊で歩きだし、夕暮れ近くに虐殺現場に辿りつき、到着して1時間くらいたつと思われるころ枯草に一斉に点火され、よく燃え上がって明るくなった後に一斉射撃が始まった。「動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。折り重なる層をくずしながら、ちらちら燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた」とありますが、1万有余の人数に対する確認作業が終わるには深更に及んだと考えられますが、薄明かりの中でさような確認ができるとするには無理があるような気もします。その終了時の時間とか様子についての記述が無かったとしたら少し変な気がします。 一、山田支隊の下士官であった田中(仮名)証言では、上からの「捕虜は全員すみやかに処置すべし、始末せよ」の命令のもと、推定約1万3500人、南京全体では約7万人が虐殺されたとしているようですが、この証言では逆にかなり統制の取れた虐殺シーンが伝わって参ります。全体的に、アナーキー状態での無差別大量暴行、虐殺ではなかったと理解して宜しいのでしょうか。虐殺人数の30万人説との落差も含め少し気になります。 一、二日がかりで、死体にガソリンをかけて焼いて長江に流しました、とあります。ここが疑問なのですが、死体を長江に流す前に「ガソリンをかけて焼く」必然性はどういうところにあるのでしょう。私にはその意味が分かりません。当時ガソリンは非常に貴重な燃料のように思われますので余計に分かりません。 一、こうして見て来ると、「南京事件」(笠原十九司 岩波新書 1997年)によると、幕府山捕虜の殺害は16日にもあった(約5000人)のに、現場に居た田中さんが全く触れていないことも不自然な気がします。唐広普証言について、筆者の本多勝一氏が、284ページから唐さんの証言を紹介しながら、307ページでは幕府山捕虜の殺害について、「だが生存者が一人もいなかったためか、中国側には直接的被害者の証言はまだない。」と断定しているのもチグハグですよね。渡辺さんの、「南京への道」はかなり初期の作品で、そのときは唐広普と「幕府山捕虜」との関係は判定できなかったのだと思います、というのもなんだか釈然としません。 とまぁ、聞いてしまいました。別に他意はありません。私にこういう疑問が湧くとするのなら、他の人にも同様に湧く可能性が高いです。いずれ質問されることですから、はっきりさせておいた方がよいと思い、お尋ねすることになりました。 |
7084 | Re:memo さん、渡辺さんへ。 | 渡辺 | 2001/07/17 23:52 |
れんだいこさん: > 次々と貴重な資料のご提供有難うございます。大いに勉強になっています。唐広普さんの証言は、実際には半軍半民という立場の方のようですが、南京事件での「武力制圧下での市民虐殺の様子と死者数」資料として貴重と思われます。他にも、日中比較証言で推定証明し得るこのような証言がどれくらいあるのか興味があります。便でよいですのでお知らせくだされば助かります。 幕府山に収容された捕虜については、中国人の証言は少ないようです。史栄禄氏の証言に、12月に大湾子で3回虐殺されるのを見たというものがあります。前日に殺害した死体を、「中央軍と無辜の民衆」に長江に捨てさせてから、その人たちを銃殺したとあります。[侵華日軍南京大屠殺偶難同胞記念館「『この事実を……』「南京虐殺」生存者証言集」(星雲社,2000年)P23-24] 兵士の日記に12月19日のみ、5〜6時間くらいかかった死体「清掃」の記事があることと関係があるかも知れませんが、他には証拠がなく詳細は不明です。個々の部隊の行動が克明になっていない他、証言者自身が場所や状況を把握できていない場合があります。良く似た事件でも同じかどうかの判定が難しいものがありますので比較はなかなか難しいと思います。 なお、幕府山の場合は小野賢二氏の努力によるもので、捕虜や市民を殺害した記事を含む兵士の日記というものは、あまり公開されていないようです。 今後の課題として日本軍の行動を個々の部隊ごとに日時、場所を追ってリストアップしたいのですが、せめて戦闘詳報がもっと残っているといいのですが... > ところで、変な質問になるかと思われますが、次の点が理解できにくく思い切って聞いてみることにします。この疑問氷解は証言の価値を高めるために必要ではないかと思っています。 > 一、「南京政府軍の逃亡時の乱行があったのかなかったのか」(6514:れんだいこ)という問いかけに対しては、「あった」とお答えします。これについてですが、大虐殺肯定派の方は、「あった」乱交の規模と殺害人数をどの程度とみなしているのでしょうか。 「乱行」というのは正確な表現ではないように思います。12月12日〜13日にかけて、中国兵、民間人が南京市内で食料品、衣類を略奪したことが知られています。このとき死者は出ていないようです。 それとは別に、12月12日にパニックを起こして中山北路を通って逃走しようとした中国兵と、命令により(手へんに)邑江門を閉ざして警備していた第八八師の一部が衝突し、ロイター通信のスミス記者によると兵士と市民の「約一千名がここで命を失った」としています。[石田勇治 編集・翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店,2001年)P46] 阿(土へんに)龍[アー・ロン]の「南京慟哭」(五月書房,脱稿1939年,日本語訳1994年)12章に小説形式でその様子が描かれています。なお阿氏自身は上海戦で重傷を負い南京戦は体験しておらず、取材により書いたものと思われます。 > 一、この時の日本軍は第13師団(仙台)の山田支隊ということですが、「前代未聞の大捕虜軍」をもてあまし、まずは付近の兵営に押込み、以後1週間詰め込むことになりますが、「これでは餓死するので、せめて水をくれるように日本兵に懇願すると、4日目にようやく飲むことが出来た」という記述は、どうも理解できません。4日目に初めて水だけ与えたということになりますが、不自然ということはないのでしょうか。続いて、たぶん七日目の朝、「ここは食糧がないので、城内の食事できるところへ移動する」と告げ、4キロか5キロ、長くても6キロ以下の道のりを誘導し始めますが、そういう体力が本当に残っているのでしょうか。 おしっこを飲んだという証言もありますが、「天野三郎軍事郵便」の中に、12月17日に捕虜から「報告」(嘆願書)を受取り手紙に写したものがあります。これによりますと、 「しかしここに来てから三日たちましたが結局のところ、どうとりはからっていただけるものか分りません。数万人のあわれな者達は四日以上も、ひもじい思いをしています。重湯は少しも腹の足しにはなりません。」[小野賢二他「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店,1997年)P252の日本語訳] とあり、「重湯」をもらった人たちもいるようです。 > 一、午後1時頃、大量の捕虜軍をしばり終え、四列縦隊で歩きだし、夕暮れ近くに虐殺現場に辿りつき、到着して1時間くらいたつと思われるころ枯草に一斉に点火され、よく燃え上がって明るくなった後に一斉射撃が始まった。「動きがあればただちに銃剣で刺し殺した。折り重なる層をくずしながら、ちらちら燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた」とありますが、1万有余の人数に対する確認作業が終わるには深更に及んだと考えられますが、薄明かりの中でさような確認ができるとするには無理があるような気もします。その終了時の時間とか様子についての記述が無かったとしたら少し変な気がします。 回顧と思いますので、あいまいな点や思い違いもあるでしょう。被害者のほうでは時刻はわからないと思います。 時刻については日記に書いている兵士もいますので、時間関係はこういうものを集めて判断するしかないと思います。 12月16日「九時半頃帰る、一生忘るゝ事の出来ざる光影[景]であった。」 [[近藤栄四郎]出征日記,「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P326] 12月16日「午后十時に分隊かへる。」 [[本間正勝]戦闘日記,「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P239] 12月17日「午後五時敵兵一万三千名を銃殺の使役に行く」 [[目黒福治]陣中日記,「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P373] 12月17日「今日一万五千名、午后十一時までかゝる」 [[本間正勝]戦闘日記,「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P240] 12月18日「午後五時敵兵一万三千名程銃殺す」 12月19日「休養の筈なる処午前六時起床、昨日銃殺せる敵死体一万数千を揚子江に捨てる、午後一時まで、」 [[目黒福治]陣中日記,「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P373-378] 半円に囲んだ端に松明を立てて目安とし、2つの松明の間を掃射することで、日本側に向かって銃弾が飛ばないようにしたと思われます。そのため、松明が認識できるくらい暗くなってから処刑したのではないでしょうか。 > 一、山田支隊の下士官であった田中(仮名)証言では、上からの「捕虜は全員すみやかに処置すべし、始末せよ」の命令のもと、推定約1万3500人、南京全体では約7万人が虐殺されたとしているようですが、この証言では逆にかなり統制の取れた虐殺シーンが伝わって参ります。全体的に、アナーキー状態での無差別大量暴行、虐殺ではなかったと理解して宜しいのでしょうか。虐殺人数の30万人説との落差も含め少し気になります。 戦闘のいきおいで投降兵も市民も一緒に殺害した場合もあるでしょう。捕虜として一旦収容したものの殺害は組織的で統制がとれていたと思います。戦闘詳報にも記載され、命令がでていたことを記載しているものもあります。 > 一、二日がかりで、死体にガソリンをかけて焼いて長江に流しました、とあります。ここが疑問なのですが、死体を長江に流す前に「ガソリンをかけて焼く」必然性はどういうところにあるのでしょう。私にはその意味が分かりません。当時ガソリンは非常に貴重な燃料のように思われますので余計に分かりません。 石油をかけて死体を焼いたという証言はたくさんありますので、そのこと自体は疑いないと思います。12月19日「午前七時半整列にて清掃作業に行く、揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に警[驚]く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、」 [大寺隆陣中日記,「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P197] 焼いた理由についての証言があったか思い出せませんが、生存者を残さないためと思われます。撃っただけでは絶命しない場合があるとのことです。 どういう石油を使用したかは知りませんが、南京には石油の基地もあったようなので中国軍のを使用した場合もあるかも知れません。 > 一、こうして見て来ると、「南京事件」(笠原十九司 岩波新書 1997年)によると、幕府山捕虜の殺害は16日にもあった(約5000人)のに、現場に居た田中さんが全く触れていないことも不自然な気がします。唐広普証言について、筆者の本多勝一氏が、284ページから唐さんの証言を紹介しながら、307ページでは幕府山捕虜の殺害について、「だが生存者が一人もいなかったためか、中国側には直接的被害者の証言はまだない。」と断定しているのもチグハグですよね。渡辺さんの、「南京への道」はかなり初期の作品で、そのときは唐広普と「幕府山捕虜」との関係は判定できなかったのだと思います、というのもなんだか釈然としません。 「田中さん」が関与したのが1回ということではないのでしょうか? 「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」は初版が1996年で、私が参照している「南京への道」第3刷が1992年です。従って「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」の成果のまだ一部が知られていたという状態ではないでしょうか。 > とまぁ、聞いてしまいました。別に他意はありません。私にこういう疑問が湧くとするのなら、他の人にも同様に湧く可能性が高いです。いずれ質問されることですから、はっきりさせておいた方がよいと思い、お尋ねすることになりました。 何でも、きちんと調べれば新しい疑問や、更に調べたいことがでてきます。 当初、幕府山捕虜殺害も証言によって数の違いがある(ので信用できない)という指摘がありました。 しかし、小野氏の努力で日記が集められ、3日に渡って銃殺されたことがあきらかになり、どの日についての証言かで状況が違うことが分りました。証言の間に違いがあることにも意味があるわけです。同じ現場にいても視点により見え方が違うはずで、あまりにも一致する場合は、逆に同じ情報源をもとにした記述である危険性があります。 「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」は\6,000ですが、価値は十分あります。 捕虜については、笠原十九司「南京事件」(岩波新書,1999年)P224-225 の表がよくできていると思います。合計すると、最低でも約85,000人になりますが、大本営発表、日記の記述と符合するように思われます。 (P224-225で、根拠となっている資料をなるべくご自分確認することをお勧めします。) 一般市民の被害者数のほうが、判定が難しいと思います。「南京事件資料集」というHPに以前投稿いたしましたが、当時の人口統計より、戸の構成人数の減少を基に、南京城市(都市部)の市民で一家全滅などにより戸が崩壊しなかったの市民の、南京戦による死亡者数は10万人前後の規模と、私は推定しています。 全滅した戸や、農村部の住民の死亡者数はこれでは判定できませんが、とりあえず一般市民の被害者数の「規模」の目安にはなると思います。 この件は、或る程度まとまりましたらまた投稿いたします。 --------------- 註:引用した資料でカタカナ表記のものは、かな表記にしました。 |
7127 | Re:memo さん、渡辺さんへ。 | れんだいこ | 2001/07/18 19:51 |
渡辺さん、レスありがとうございます。いろいろ勉強になっています。補足していただいた資料に疑問をつけていくと際限無くなりそうなので、観点を変えてもう一つもやもやしていることについてお尋ねしてみようと思います。
れんだいこは、日本軍が優越思想をほしいままに中国大陸へ軍靴を乗り入れて行ったことに、歴史的に観て植民地主義時代であったにせよ、容認しないので、侵略責任は負うべきだと考えています。右派論者は大陸進出にもいろいろ理屈をつけて正当化しているようですが、それは左派論者を粛清しきった社会の悲劇から生まれた流れであり、到底私を納得させられる論ではありません。 しかして責任を負うとはいうものの、その実態を極力精緻に明らかにして謝罪し、史実に基づいて関係し合わねばならないとも考えています。但し、南京事件でもそうですが、被害の規模とか実態に対して極力野蛮に大規模化で認識していくのが国際友好的態度だとするかのような風潮には、ついていけません。もちろん虐殺実数が真実三十万人いな五十万人いなそれ以上であるというのなら、それに依拠したいと思います。しかし、今日の判明レベルで、少なくとも三十万人以上説に従うのが正しいのかどうか疑問視しています。この認識が分岐点で、それ以下に認定する者は事件否定派に与するものだという主張には腰が引けてしまいます。 同様なことは、虐殺の実態に対しても云えます。極力アナ-キーに無差別に大虐殺が為された論に与することが出来ません。事件否定派は、戦闘行為と便衣兵の摘発に絡んでの処刑が為されたことを認めており、その主張は概ね軍の統制が取れていたと見なすところにポイントが置かれているように思われます。この観点からは、強姦とか一般市民に対する虐殺は極力無かった論になります。案外史実はそうなのではなかろうかと、私は考えています。ラ-べ日記他ジャーナリストの外信が日本軍の蛮行を伝えており、松根大将の慨嘆もあるからには、一定あったのは事実だろうと思われます。が、現在の大虐殺肯定派論者が当然のごとく指弾しているような質量においてそうであったのかどうか、やはり疑問があると考えています。 その理由についての私見を述べてみます。ナンセンスといわれるかも知れませんが、日本人の内地の歴史にはそういう蛮行例が無いというのが、れんだいこの観点です。「アナ-キーにして無差別な大虐殺」は、そういうDNAが無いと出来にくいと私は考えています。現場の兵士は、内地で赤紙で召集された出自庶民の我々の一世代前の父たちであります。それぞれの師団はほぼ県単位で寄せ集められていたと理解しています。その県民性によって多少乱暴狼藉するところがあったのは事実だろうと思われますが、聞かされているような集団大虐殺を為し得るようなDNAは日本人には無い、それぞれ精神性の奥底に仏教的な神道的な『相身互い主義』が形成されており、まして上官の命令を無視しての個々人得手勝手な蛮行なぞ非常に不向きな民族性を持っているのが日本人ではないのか、と考えている訳です。南京事件の際に突然蛮行精神に憑依された背景が見えてこないのです。上官が無理やりそうさせたというのなら別ですが。 この観点は、確たる自信がある訳では有りません。歴史を画するひどい実態があったのかも知れない、分からない。そう云う風に考えるから、いやそうではない、厳然とこういう史実がある、確かに憑依されていたという動かざる史実を捜しております。残念ながら、私のこの観点を変えるような資料にまだ目を通し得ておりません。 もう一つ、次のようにも考えています。南京事件の頃は、日本軍の日の出の勢いの頃で、日清、日露の時よりは落ちてはいるものの日米開戦以降の連中よりは軍上層部の人材も良く、軍内の規律、統率も取れていたとも見なしています。内地でもお得意の、憲兵手法による執拗な摘発と容疑者の拡大解釈による処刑があったことは絶対の事実でしょう。が、聞かされているような日常茶飯な強姦、しかも極力凌辱的なそれ、無差別大虐殺があったとはどうしても考えにくい。 にも関わらず、見てきたような当然あった論を唱えるから被虐的史観だと云われているのではないのか、その限りにおいては当たっているというのがれんだいこ観点です。この点どうなのでしょう、ご教授いただければありがたいです。 |
7248 | Re:memo さん、渡辺さんへ -「南京大虐殺」 | 渡辺 | 2001/07/22 01:17 |
れんだいこさん:> > しかして責任を負うとはいうものの、その実態を極力精緻に明らかにして謝罪し、史実に基づいて関係し合わねばならないとも考えています。但し、南京事件でもそうですが、被害の規模とか実態に対して極力野蛮に大規模化で認識していくのが国際友好的態度だとするかのような風潮には、ついていけません。もちろん虐殺実数が真実三十万人いな五十万人いなそれ以上であるというのなら、それに依拠したいと思います。しかし、今日の判明レベルで、少なくとも三十万人以上説に従うのが正しいのかどうか疑問視しています。この認識が分岐点で、それ以下に認定する者は事件否定派に与するものだという主張には腰が引けてしまいます。 まずご指摘しておきたいのは「虐殺実数が真実三十万人」かどうかなど、昔はほとんど問題になっていなかったという事実です。南京で残虐行為があったとする「南京大虐殺」の記述が文部省の保守的転換で教科書から消えたのは、1950年半ばから1970年代です。[註1] 国内での論争の発端となったのは、1972年に本多勝一「中国の旅」に対し 鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』が出版されたことによります。 私が「南京大虐殺」について書かれた本を読んだのは、実はこの本が最初です。ところが、内容は「大虐殺」ではなく、写真や「百人斬り」否定で変な本だと感じましたので、秦郁彦「南京事件」(中公新書)を読んで当時は納得しました。 その頃、再び教科書に「南京大虐殺」が掲載されるようになり、家永教科書裁判などがありました。1980年代になると家永判決に関連して教科書に対する攻撃が強くなりました。一方、この頃から「多くの教師が、たんに犠牲者としてだけでなく侵略者としての日本の役割をも重視するようになった」[註2]のです。つまり、この頃までは太平洋戦争の被害者としての意識が強くあったのです。 「侵略」が「占領」や「大外膨張」などの表記になるのも1980年代の初めです。 実は、国際的に「南京大虐殺」や日本の侵略の記述が大きな問題となるのは、中国、韓国、ベトナムが「侵略」という語を「進出」に書き替えたなどとして抗議し、アジア諸国で話題となった1982年頃からなのです。 教科書検定において近隣諸国への配慮をすることになったのは、この時で1982年のことです。 このような流れの中で上智大学英語学教授 渡部昇一が「進出」に書き替えたさせたことはない、「南京大虐殺」は20〜30万の虐殺ではないとし、また成功を収めたのが田中正明の「南京大虐殺」否定論でした。今日の「南京大虐殺」の全面否定論も田中説によっているのはこのためです。「南京大虐殺」は (1)東京裁判でのでっちあげ,(2)戦闘員まで虐殺に含めている、(3)便衣隊戦術を中国がとった、(4)中国軍のした掠奪暴行などを日本軍のせいにしているなど、田中説です。これらは、すでに刊行されていた日中戦争資料集を使ったものです。 一方、これに対し南京事件調査会などが設立され、資料の収集が積極的に始まりました。従って、現在のような「南京大虐殺」論争は1980年代に始まったと言っても過言ではありません。「南京大虐殺」に関する書籍の多くは1982年以降に出版されたのですが、それはこのような経緯によります。 このような中で、陸軍の退役軍人・遺族の団体である偕行社が、「南京大虐殺」を全面否定をしようと会員に寄稿を求めたところ、南京で捕虜が組織的に多数殺害されたという証言が寄せられ、全面否定はできなくなり、表現は微妙ながら 捕虜「処断」約16,000人、市民被害約15,000人に落ち着きました。この編集委員の一人が板倉由明で、少数の「虐殺」はあったという説の元になりました。板倉氏は田中正明「松井岩根大将の陣中日誌」が意図的に改竄されていることを最初に指摘した人です。 「20〜30万の虐殺」の数字が問題となったのは1985年前後で、国際的にも1985年「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」開館、中国の「公式」の被害者推定が30万人とされました。1987年には「侵華日軍南京大屠档案」が出版されました。教科書に犠牲者数が20万以上、中国では30万以上とされるという記述が現れたのは1980年代末です。(この記述は洞氏らの専門家による研究を反映したものです。) このようなことを背景に、日本の歴史を見直す運動が1990年代になってから、東京教育大学教育学 藤岡信勝らによって開始されました。 以上のように、当初は国際的には「南京大虐殺」の被害者数など中国でもほとんど問題にされていなかったのです。(これは抗日戦争を戦ったのが国民党ではなく、中国共産党であるとしてきた中国の国内事情もあるように思います。) これが国際的に関心を呼んだのは、日本国内の事情が発端なのです。それを今になって何か国際的陰謀があるかのように藤岡信勝らが言っているのです。 [註1]ジョシュア・A・フォーゲル「歴史学のなかの南京大虐殺」(柏書房)3章 吉田裕「歴史をめぐる闘い―南京大虐殺は日本でどう見られてきたか」P106 [註2]同書 3章 吉田裕「歴史をめぐる闘い―南京大虐殺は日本でどう見られてきたか」P119 > 同様なことは、虐殺の実態に対しても云えます。極力アナ-キーに無差別に大虐殺が為された論に与することが出来ません。事件否定派は、戦闘行為と便衣兵の摘発に絡んでの処刑が為されたことを認めており、その主張は概ね軍の統制が取れていたと見なすところにポイントが置かれているように思われます。この観点からは、強姦とか一般市民に対する虐殺は極力無かった論になります。案外史実はそうなのではなかろうかと、私は考えています。ラ-べ日記他ジャーナリストの外信が日本軍の蛮行を伝えており、松根大将の慨嘆もあるからには、一定あったのは事実だろうと思われます。が、現在の大虐殺肯定派論者が当然のごとく指弾しているような質量においてそうであったのかどうか、やはり疑問があると考えています。 すでに投稿しましたように、捕虜を組織的に殺害したことは明白であると思います。また、元兵士とされた市民も「捕虜」として殺害されました。南京だけを見ていると一般市民の殺害は不思議に思われるかも知れませんが、上海から南京まで、日本軍によって何が行われたかを見れば理解できる思います。中国での日本軍の蛮行は1937年が最もひどく、それは日記、回想録から明白であると思います。 日本軍の市民虐殺、掠奪を最初に記述したのは1938年に発禁となった石川達三「生きてゐる兵隊」です。当時の日記としては、小川関治郎「ある軍法務官の日記」(みすず書房,2000年)を見ればその様子がわかります。軍の命令で整然と捕虜を殺戮することと、出会った市民を殺傷したり徴発と称して略奪することは別なのです。 ご要望であれば、そういった証言、日記をこちらに投稿いたします。 > その理由についての私見を述べてみます。ナンセンスといわれるかも知れませんが、日本人の内地の歴史にはそういう蛮行例が無いというのが、れんだいこの観点です。「アナ-キーにして無差別な大虐殺」は、そういうDNAが無いと出来にくいと私は考えています。 それまでどういう歴史が「内地」であったかは関係ないと思います。「支那事変」そのものが、すべての人にとって初めての経験なのですから。DNAという言葉をそんなところに使うと専門家に叱られてしまいます。実態は当時書かれた文書や、回想などによって明らかにするしかありません。民族性は関係ないと思います。中国で残虐行為をした中には日本軍の中には朝鮮人、台湾人兵士もいます。 > もう一つ、次のようにも考えています。南京事件の頃は、日本軍の日の出の勢いの頃で、日清、日露の時よりは落ちてはいるものの日米開戦以降の連中よりは軍上層部の人材も良く、軍内の規律、統率も取れていたとも見なしています。内地でもお得意の、憲兵手法による執拗な摘発と容疑者の拡大解釈による処刑があったことは絶対の事実でしょう。が、聞かされているような日常茶飯な強姦、しかも極力陵辱的なそれ、無差別大虐殺があったとはどうしても考えにくい。 憲兵隊について誤解があるように思います。これは軍事警察のことで、処刑は軍法会議、占領地では軍律会議によります。警察が市民の見方になることもあれば抑圧者となることもあるように、憲兵隊が市民、占領地住民の保護者になることもあれば、拷問する側にもなりえます。一般には昭和になって軍紀という面で軍人の質が低下したと考えられていました。現在でもそう考えている人が多いと思います。(しかし、日清戦争当時にも規模の小さい虐殺事件があったことが知られています。) 東京裁判での武藤章尋問調書にこのような個所があります。ここでサイベリアというのはシベリアのことです。 ------------------ 答 日清戦争及び日露戦争中には斯様な残虐行為は日本陸軍にあつた、ためしがありません。 それは一九一五年日本軍がサイベリアに派遣された時からの斯の様な残虐行為の傾向があらはれて来たのでして、之れは日本人の素質人格が漸次低下して来たことを証するものです。就ては此状態に処する為に家庭並に学校に於ける教育を改善しなければなりません。 <途中省略> 問 日本の兵隊の素質が低下し始めたと云ふが、サイベリアに於てどんなことがあつたのですか。 答 徴発と申しますか、むしろ窃盗です。そして強姦・強盗と云ふた様な事柄です。 [「日中戦争史資料8 南京事件T」(河出書房新社,昭和48年)P171-174] ------------------ > にも関わらず、見てきたような当然あった論を唱えるから被虐的史観だと云われているのではないのか、その限りにおいては当たっているというのがれんだいこ観点です。この点どうなのでしょう、ご教授いただければありがたいです。 事件の有無は史観に左右されるものではありません。「被虐的史観」云々はすでに述べましたように、1970年代頃から加害者としての日本という面が強調されたことを捕らえて言ったものだと思います。 満鉄に勤務していた親戚や、中国へと従軍した人から直接話を聞いていますが、中国においてはかなり残虐なことが行われていたのです。はっきり言えば、中国へ兵隊に行った人ならほとんどそんなことは知っていたのです。 私はフィリピンで残虐行為を行ったのは中国から転戦してきた部隊であると、現地で聞いたことがあります。つまり中国で覚えた事をやったのであると。それを聞いたときは興味がなかったのですが、今思い起こしますとなるほどと思います。南京事件の中心であった第一六師団は、レイテにおいて残虐行為を行い、住民、ゲリラの襲撃を受け、最後は米軍の攻撃で凄惨な最後を遂げたのです。もちろん、当時の師団長は中島今朝吾ではなく、兵士も多くが補充されていたとは思います。 [参考図書 NHK取材班「レイテに沈んだ大東亜共栄圏」(角川文庫,平成12年)P136-154,P171-193] 南京事件の被害者数については、本来、歴史の専門家の研究にまかせるべきところだと思います。「侵略戦争 -歴史事実と歴史認識」(纐纈厚[こうけつあつし],ちくま書房\660) は沖縄戦や戦後処理を含め、侵略戦争の本質を短くまとめた内容の濃い本です。「はじめに」で著者はこう述べています。 「アジア太平洋戦争の研究レベルや戦争観から言えば、アジア太平洋戦争を侵略戦争と明確に規定し、また多くの日本人が、侵略戦争あるいはきわめて侵略性の高い戦争との認識を抱いていることは間違いない。だが、それにも拘らず、それが同時的に戦争責任や加害責任の問題にまで意識化されている現状はないことも確かである。つまり、日本人の戦争意識が依然として確立されていないということだ。それが侵略戦争否定論者たちの格好の狙い目とされているのである。」(P010) 「歴史修正主義者たちは、実証的な歴史研究を専門的職業とする歴史家たちではなく、その限りでは学問上の論争の相手ではないにしても、その社会的な影響力は無視できるものでは決してない。」(P011) |
7325 | 南京幕府山捕虜殺害事件など(2): 渡辺様 小林哲夫様 れんだいこ様 八木沢達夫。様 | memo | 2001/07/22 21:38 |
** 6952番 渡辺様 **
たくさんの情報提供を、ありがとうございます。7084番投稿や7248番投稿も含めて、大変勉強になります。 > 複数の人への返信は読みずらいので、できましたら「枝分かれ式一覧表示」で見たとき、テーマや相手ごとに表示されるように投稿して、あとは「返信」で応答いただけないでしょうか? (6952:渡辺) 仰る通りなのですが、筆の遅い私には苦しいのです。私が「遅い」と言うより、むしろこの板の常連の方々が「速い」のではないかという気もいたします。 唐広普証言について、一ヶ所だけ意見を述べたいと思います。 > 曇っている空は暗く、ときには小雪もちらつく夜だった。 (「南京への道」 本多勝一 朝日文庫 1989年 p293) 唐さんが殺害から生き延びた夜の天気についての証言ですが、これは12月17日の夜とみなして差し支えないと考えます。 「南京大虐殺の研究」(洞富雄・藤原彰・本多勝一 編 晩声社 1992年:「声」は旧字)に載っている将校B氏の日記(p133−)から、天候について触れているところを引用します。 >12月16日、晴。・・・ 12月17日、晴。・・・ 12月18日。・・・寒風吹き募り同3時頃より吹雪となり骨まで凍え、夜明けの待ち遠しさ言語に絶す。同8時30分完了。風稍々治り天候恢復。・・・ 12月19日、晴。・・・ 山田支隊長の日記でも12月18日は晴れとなっています(「南京事件」笠原十九司)し、17日の晩から18日の朝にかけて、一時的に天候が崩れたということではないでしょうか。 ** 6842番 小林哲夫様 ** 権力についての一連の議論には、加減乗除さんの見事な回答がありますから、蛇足を避けて、以下の考え方について意見を述べたいと思います。 >例えば、イラクのクウェート侵略、中国のチベット侵略、中国の台湾に対する武力威嚇などは、世界の平和秩序を脅かすものであり、秩序維持のために、日本軍が貢献すべき分野である。 (6842:小林哲夫−「権力必要論」のまとめ) 私も加減乗除さん同様、権力は必要だと考えています(6940)が、これには賛成できません。日本軍が敵に回ることで、中国人の戦意を高揚させてしまう危険が大きいからです。言い方を変えるなら、中国にいる「ハト派」の方々の立場を損ねてしまうということです。 ** 6792番 7057番 れんだいこ様 ** > 一応念のために申し述べておきますと、私は、南京事件の大虐殺論に依拠しなくても、戦前の流れについて左派的に総括することは十分可能という考え方をしています。南京事件大虐殺論に力を入れすぎるのはむしろ危険と考えていますが、ここの掲示板のスタンスには不向きな議論のような気もして腰を引かせて書いております。 (6792:れんだいこ) これは意義のある問題提起だと考えます。 例えば、民間人の犠牲者の数で言えば、私は、南京事件より三光作戦の方が多かったと考えます。その割に三光作戦が目立たないのは、多分、東京裁判で裁かれなかったからでしょう。 三光作戦 :主に日中戦争後期の華北における、日本軍による共産ゲリラの掃討作戦を、中国側からこのように呼んだ。殺光−殺し尽くす、焼光−焼き尽くす、そう光−奪い尽くす、で三光。(「そう光」の「そう」の字は手扁に倉。「略光」と記している文献もあります) まあ、南京事件で5投稿も引っ張った人間が書いても、あまり説得力はないですけど。 7057番投稿における、幕府山捕虜殺害事件に対する疑問点の指摘(私の投稿を丁寧に読んでもらえたようで、ありがたく思います)については、渡辺さんが7084番投稿で詳しく説明して下さっていますから、重複を避けて、一ヶ所だけ補足いたします。 > 死体を長江に流す前に「ガソリンをかけて焼く」必然性はどういうところにあるのでしょうか。 (7057:れんだいこ) 田中さん(仮名、当時約24歳の下士官)の証言を引用します。 > 死体の山のあとかたづけで、この日(memo注:12月18日)さらに別の隊が動員された。この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。銃殺、刺殺のまま川に流しては、何かとかたちが残る。可能な限り「かたち」をかえて流すためであった。しかしこの大量の死体を、火葬のように骨までにするほどの燃料はないので、焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。これを長江に流すための作業がまた大変で、とても18日のうちには終えることができない。ヤナギの枝などでカギ棒をつくり、重い死体をひっかけて川へ投げこむ作業が、あくる19日の昼ごろまでつづいた。 (「南京への道」 本多勝一 朝日文庫 1989年 p315−p316) |
7351 | Re:南京事件アラカルト | れんだいこ | 2001/07/23 15:02 |
memoさんならずとも、この板の「速さ」に敬服しております。この間渡辺さん、とほほさんからもご説明いただき感謝しております。私がレスしようすれば、何となく嫌味な指摘になっていきますがご容赦のほどをお願いします。
唐広普証言で、その夜が「ときには小雪もちらつく夜」だったのか、「晴れ」だったのか、証言の信憑性を高めるためにはチグハグな記述は好ましくないと思います。「17日の晩から18日の朝にかけて、一時的に天候が崩れたということではないでしょうか」と善意に補強しても、事件否定派には通用しにくいと思われます。 田中さん(仮名、当時約24歳の下士官)証言での概要「死体の山のあとかたづけで、さらに別の隊が動員され、この段階でドラムカンのガソリンが使われ、死体全体が焼かれた。可能な限り『かたち』をかえて流すためであった。焼かれたあとは黒こげの死体の山が残った。これを長江に流すための作業がまた大変で、重い死体をひっかけて川へ投げこむ作業が、あくる19日の昼ごろまでつづいた」(「南京への道」本多勝一)とありますが、 どうも私が「南京への道」を読んでいない限りスッキリした応答が出来ないなぁという気がしています。なるだけ早く読んでみたいとも思いますがいつの日になることやら。この証言で気になることは、異臭についてのコメントが為されるのが普通なのになぜないのか気になります。と書くと、異臭についての記事も後から出てくるのかなぁ。 あの手の異臭は相当広範囲に広がり、あちこちで焼かれたとすると、証言が頻出しないとおかしいですよね。それは南京市民のみならず日本兵のほうからも異口同音に証言されるだろうと思われますが、この点どうなんでしょうね。どうもスッキリしません。 【南京事件をめぐっての諸見解グループについて】次のように整理してみました。 70年代以降、日本国内では、南京大虐殺の史実の真実性をめぐって激しい論争がおこなわれてきた。こうした論争を通じて、南京大虐殺の研究が発展を遂げている。この論争をめぐって日本国内では三つの学派ができている。 「虚構まぼろし=居直り派」(南京大虐殺の真実性を否定する人たちであり、その代表的な人物は、鈴木明、山本七平、田中正明氏らである)、「虐殺=謝罪派」(虐殺の真相を明らかにし、もって中日友好の礎にしようとしている人たちであり、南京事件調査研究会の洞富雄、藤原彰、本多勝一氏などを代表としている)を両翼として、「過小損失=中間派」という三つ目のグループが形成されている。 「過小損失派」は、両翼からそれぞれに批判されているようです。「虐殺=謝罪派」からは、「虚構派」の破綻があちこちで出て来る状況の中で、秦郁彦、板倉由明氏などを代表とするグループが扮装して登場してきたと非難されています。「ある学者が指摘しているように、『中間派』は『大虐殺はなかった』ことを大いに宣伝することを通じて、人々に『南京大虐殺はなかった』かのように思わせようとしており、これは一種のさらに巧妙な虐殺否定論である」とも非難されています。「虚構まぼろし=居直り派」の論拠は未整理ですが、丁度マ反対の見地からやはり批判されているようです。 で、私の投稿に対する論調から窺うと、渡辺さん、とほほさんは「過小損失派」ということになるのでしょうか。結局そういうことになるのではないかと思われるのですが、私の興味としては、「虐殺=謝罪派」からの「虚構まぼろし=居直り派」の論拠に対する真っ向批判を聞いてみたいというところがあります。どうも不十分な気がしてなりません。 どなたか既に指摘していたと思いますが、「虚構まぼろし=居直り派」は自前の教科書づくりに向かってきた段階なわけですよね。「虐殺=謝罪派」からも同様の自前教科書をつくって採択を目指すというのが普通な発想と思いますが、なぜそのようにならないのでしょう。 家永教科書訴訟というのは、いわばリベラル良識派的な受身の闘争でして、それを踏み台にして「虐殺=謝罪派」からディス・イズ歴史教科書的な動きがなされてもおかしくはないのに、なぜなされないのでしょうね。「虚構まぼろし=居直り派」教科書の検定不許可を目指す運動などというのは、それ自身いくら戦闘的にやっても本質的には守りの陰気な運動でしかないなんていうと反発食らうかな。 |
7446 | 返信 | Re:南京事件の構図について。 | れんだいこ | 2001/07/26 00:31 |
小林さんちわぁです。私の論と関係するところにレス入れときます。
> 渡辺さんの文章からは、捕虜16千、市民16千人程度と、渡辺さんも考えているような印象ですが、そうではないのですか? 南京市民の減少数から、市民虐殺者数を推定する文章も読みましたが、この手法はちょっと無理な感じがします。議論の前提としての、素人の感触として、私は4万人程度という数字を持って、この事件を捉えているのですが、いかがでしょうか? > この感触をもって、中国政府の主張する30万人に異議を申し立てるだけの根拠があるかどうかと言う事は、別問題です。 ここのところですが、通常「大虐殺」として捉えられている南京事件の「虐殺」内容を精査して行くと、@・戦闘による死傷者、A・投降兵へのそれ、B・便衣兵へのそれ、C・ゲリラ市民へのそれ、D・純市民へのそれ、E・婦女暴行ないし致死、F・食料強奪等々を含めて一括して云われていると思われます。なお且つ、A・それらの行為が軍の指揮命令の下で行われたのか、B・軍のコントロールの効かないアナ-キー状態でも行われたのかという両観点で識別しつつ、事件の概要を理解する必要があるように思われます。 いわゆる南京事件否定派は、A観点から@・A・Bについては否定していないようです。問題は、C・D・E・Fについて極力過小であった、南京事件大虐殺派が云うような実態はなかったと云っている訳です。これに対して、南京事件肯定派は、A・B両観点から全てが為された、その規模は虐殺者数で三十万人説、婦女暴行はアナ-キー状態で、食料強奪もかなり手荒に為されたと認識するのが日中それぞれの研究で判明しつつあるという立場のようです。この立場からは、数万人説は事件否定派に通じた間違った認識であるとされています。 結果的に、ナチスの象徴的な蛮行がガス室大虐殺であり、日本軍のそれが南京事件としてこの両事件が歴史的に位置付けられ、戦争責任問題の格好教材として問われ続けているという構図に有るように思われます。興味深いことは、両事件とも否定派と肯定派が論争し続けており、それぞれ連動しているやに見うけられることにあります。別に連動する必要はないとも思われますが、不思議とそういう関係にあるようです。 れんだいこ見解は今もってどちらの説が正しいとの判断を為し得ません。今現在の本音で云うと、否定派のそれに説得力があるような気がしております。今後更に調べてみようと思っています。私が本当に云いたいことは、既述しておりますが、明治よりこの方安易に大陸侵略していった当時の国内外の統治手法に対する批判をもっと精力的に為すべきというところにあります。小林さんの観点と通ずるところがありますが、付け加えれば、背景に国内の需要を喚起できないような市場にしていったツケでもって大陸進出に向かわざるを得なかったという事情があったのではないのかという観点です。こういう内的要因の分析抜きに戦争責任を謝罪してみても上滑りで又繰り返すし、政治主義的な引き回しに終始せざるを得ないのではないのか、そんなのは本当の意味での反省になり得ないとか考えています。戦後左翼はこの方面の分析を放棄して、平和主義の観点からのみ旧大戦を総括しようとしているが片手落ちではないのかと考えています。 > 実はれんだいこさんの7127番の「日本人のDNA=平和的性格」に賛成なのです。 > DNAという言葉を使うと専門家に叱られるという指摘は全くその通りなので、これは比喩として理解頂きたいのです。(つまり日本文化論として考えたのです。) これについてですが、「れんだいこさんは、日本歴史から推定して、南京虐殺は有り得ないと推論しましたが」とありますが、「あり得ない」とまでは主張していません。この観点から、南京事件に付いては余程慎重に大虐殺論を述べねばならないというスタンスにあるということが言いたかった訳です。「事実を推論で否定する事は出来ない」という嗜みはわきまえているつもりです。だから、史実の検証をもっともっとすべきなのです。日韓、日中合同の戦史調査を精力的にすべきなのです。今日程度のレベルで、口角泡を飛ばすほどの罵倒をし合う必要はないというスタンスです。そりゃぁ、日本が侵略して行っているという史実があって、まして戦争ですからそれなりのことをやっているのは当たり前で、加えて西洋に卑屈でアジアに尊大な意識を持って乗り込んでいる訳ですから、かなりのことをしていると思います。そういう意味において歴史責任を負うのは当たり前のことで、決して聖戦論を容赦しようとは思いません。但し、何でもかんでも話を大きくすれば良いというものではないように思うということが言いたいわけです。 |
(私論.私見