カンテラ時評9(241〜270)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評241 れんだいこ 2006/12/10 21:30
 【社共ー民主党野党の馬鹿さ加減考】

 2006.12.10日のNHK政治討論は、社共ー民主党野党の馬鹿さ加減が際立った。いわゆる道路財源の一般予算化を廻って、一定躊躇する政府与党に対し、一般予算化せよと迫っていた。れんだいこは、馬鹿の極まりと思う。「道路財源の一般予算化」は、先の狂人首相小泉政権が兇暴に押し進めたものであり、そこには何の正義もない。歴史の逆行愚行でしかない。それを後押しする社共ー民主党野党は狂っているとしか言いようがない。

元々の経緯を見ればはっきりする。道路財源の特定財源化は、去る日、田中角栄が議員立法で、大蔵省との熾烈な権益争いの中から生み出したものである。それは、国の予算を凡て牛耳る大蔵省権力に対する戦いとして、例外的に生み出したものである。それは、慧眼で有りこそすれ逆ではない。

 角栄は、道路整備こそ国土計画の基幹事業として位置づけ、国土の均衡的発展を促進する事を願って、熱弁を奮った。それはいきなり可能になったのではない。大蔵省との頭脳戦争で国会での何度にもわたる論戦を通じてしぶしぶ認めさせたという稀有なる事例である。

 そういう歴史的経緯のある「道路財源の特定予算化」を一般予算化に戻して何の利益があるのだろう。承知のように、今や我が国家は、米英ユ同盟の御用聞きとして言われるがままに野放図に「金と兵隊と兵器」に予算を注ぎ込みさせられている。道路財源を一般予算化したとして、その水路に引き込まれるのは火を見るより明らかであろう。

 消費税の目的税化が云われている。ならば、「道路財源の特定予算化」は、その先を云っている英明策と考えて何らおかしくない。れんだいこの見るところ、明治以来、我が国家は、内治優先か外治優先かで鋭く対立してきた。戦後の公共事業優先は、特に道路事業主体の国土総合開発は、内治優先派の凱歌的政策であった。これを誉れと思わず何とする。

 社共ー民主党野党は、そういう経緯を知りつつ反公共事業政策の一番雄たけびを競おうとしている。漬ける薬が無いとはこのことだ。そして、「金と兵隊と兵器」への予算注ぎ込みには、腰を引かせたアリバイ的な反対で遣り過ごしている。結果的に、我が国家は、米英ユ同盟の云うがままにあやつられている。「道路財源の特定予算化」の切り崩しは、戦後の良質英明政策の橋頭堡の切り崩しであり、更に売国奴道に向うことを余儀なくされよう。

 そういう意味で、国民党の亀井の発言は際立って賢明であった。地方の利益の立場から、道路行政のますますの意気軒昂を要請していた。まさに戦後が生んだハト派的政治の観点からの発言であった。今は皆して左右からこれを抑圧しようとしている。れんだいこの見るところ、歴史的左派は僅かに国民党に残滓しており、政府与党、民主、社共は揃いも揃って売国派に成り下がっている。彼等は討論の途中でよく意味のない笑いを交し合う。政治をお遊びにしているからであろう。

 れんだいこ党は、党首責任で、今日より国民党支持に転換した。小沢民主党は、鳩山ー岡田ー前原ラインを斬るか抑圧しない限り、ますます愛想尽かされるだろう。社共から人心が離れた今、民主党しかないのであるが、民主党の防衛庁の省格上げ推進、憲法改正、「道路財源の一般予算化」等々は怒るに怒れない寂しさをもたらす。民主党に期待されているものは、社共の口先だけでない責任政治にしてハト派政策の貫徹だろうが。これをやらない民主党なぞ何の用もないわい。

 それにしても、不用道路云々と云う。社、共、民主よ、一体、不用の道路がどこにあるのだ。例示してみたまえ。それなりの箇所を示してみよ。それをせぬまま言い続けるのは悪質だろう。れんだいこは、道路こそ地域発展の要と思っている。当然その集積が列島発展になる。公共事業への投資は、下手な文化事業より国防へのそれよりも数十倍も恵みが大きいと考えている。不用道路云々は休み休み云うべきだろう。

 2006.12.10日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評242 れんだいこ 2006/12/11 19:27
 【道路特定財源制度の一般財源化の虚妄】

 2001年誕生した小泉政権によって「道路特定財源制度の一般財源化」への見直しが強調され、道路特定財源制の暴力的改変が迫られることになった。小泉政権の正統の後継である安倍政権は、小泉政権時に打ち出されたこの方針を推進する以外に無い。ところが、党内からの根強い反発に遭い、実質上骨抜きの法案へと転換させた。

 それに対して、野党の民主、共産、社民が一斉に批判し、「道路特定財源制度の一般財源化」を迫っている。今、この制度の生みの親田中角栄有りせば、どのように発言するであろうか。如何なる対応策を講じるであろうか。

 れんだいこの見るところ、政府官庁及びその諸機構の腐敗は民営化で解決することはなく、むしろ外資ファンドの好餌にされるだけのことである。「道路特定財源制度の一般財源化」も然りで、その予算は軍事防衛費に化けるだけのことである。狂人小泉政権は、元々オツムの弱いマスコミを飼いならし総動員して、あたかも民営化すれば、「道路特定財源制度の一般財源化」すれば問題が片付くかのようにプロパガンダし続けてきた。

 れんだいこの見るところ、民営化は、中曽根政権以来の米英ユ同盟売国奴が推進した悪政である。民営化すれば、目先のゼニ効率で回り始め、採算の悪い地方が切り捨てられることは火を見るより明らかであった。しかも、民営化のターゲットとなったのは国家中枢機関ばかりであった。国家国民にとって何の利益も無い、今日の外資ファンドの暗躍する舞台が整えられたに過ぎない。「道路特定財源制度の一般財源化」もこの流れにある。地方議員が抵抗するのは当り前と云えよう。

 真の問題は次のことにある。政府官庁諸機関の特権的独善的権益にメスを入れ、これを如何にして国民受益の方向に改善するかである。道路特定財源制で云えば、それにより造られた有料道路の料金の引き下げ。債務超過にも拘わらずの特権官僚の優遇の廃止。天下り、指名業者制に伴う各種利権の廃止等々。これを議論することこそが肝要で、民営化するしないは何の関係も無い。おかしなことに、肝腎のこれを議論せず、民営化云々で大騒ぎする。中曽根ー小泉政権下で改革と称して為されたものは改悪でしかない。

 参考に述べれば、次のようなくだらない議論が横行する。本四架橋を三本も建設したことがケシカラン、あんなのは一本でよいのだなどと。無駄な公共事業として例示したりする。しかしなぁ。東京から見ればそう見えるだけのことで、本四架橋三ルートはそれぞれ経済圏が違い、かの時期に建設し得たことは壮挙であった。こう看做さないといけない。

 問題は、明らかに料金が高すぎて試算より通行量が少なすぎることにある。宝の持ち腐れが判明しているのに、諮問会議を開いてみても料金を目先いじることしかできない。資金不足となれば補助金を当てにして次第に累積債務が広がっている。しかるに問題を先送りして、誰も我が事のように動かない。ここに問題がある。

 早い話、本四架橋現行料金の「料金3分の1、通行料5倍化」すれば良い。あるいはいっそのこと、一般有料道路並の距離料金にすれば良い。これにより通行量が伸びれば廻り回って地域を活性化し、ひいては税収増になるというものだろう。これは普通に考えられる対策である。これに向わず、ヤレ三本作ったのが大間違いだとか、利権大橋だとか批判して事足れりとしている。気楽な野党稼業であり過ぎようぞ。一事万事これであるから情けない。

 もとへ。小泉後継の安倍政権は苦吟を余儀なくされる。なんとならば、小泉構造改革路線なるものが狂人路線であったからに他ならない。かの路線は身も心も米英ユ同盟に捧げるところに成り立っている。安倍がそこまで道化ることができるかどうかが問われている。道化れば政権安泰であり、道化なければ潰されよう。今は誰がなっても、この属州政治の構図から逃れられない。ここに現代日本政治の悲劇がある。

 我々は、かって現に存在した戦後保守本流のハト派政治こそが史上稀なる真の在地型左派政治であったと見直し、その復権と出藍をこそ目指すべきだろう。興味深いことに、そのハト派政治の総帥田中角栄を失脚させんとして躍り出たのが日共宮顕ー不破一派だった。彼等の本質反共性が分かろう。その癖、人を反共と云う。残念ながら、この認識が共有できない。今日の日共を人民大衆の味方だなどと信じている部分がまだ居る。政治的に遅れ過ぎているとしか言いようが無い。

 2006.12.10日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評243 れんだいこ 2006/12/16 21:22
 【愛国心と大本営景気の相関考】

日本神話をれんだいこなりに一応渉猟して見て、字面だけをどんなに丹念に追うても真相には近づけないことを知った。むしろ、記録者がどんな裏意味をもたせているのか、隠語でどう語っているのかを詮索しないと解けない。しかし、そうなると、千差万別の日本神話観が生まれそうである。それで良いとも思う。一旦はそうやって精通すべきだろう。その中から、こう理解した方がより適切かという筋道が生まれ、それを何度も練り直して、そこから以前とは違う日本神話観が生まれるのだと思う。それを更に何度も繰り返せばよいのだと思う。俗にこれを弁証法と云う。

 時は今、戦後の教育基本法が初改定され、愛国心を強調される時代に入った。ならばはっきりさせねばなるまい。どういう国造りに向うのか、日本のどのような伝統を尊び継承しようとさせるのかを。それは案外と為政者の手足を縛るものになるだろう。れんだいこは、日本神話考で、戦前の皇国史観が隠蔽した出雲王朝史の重みを指摘した。古代政治史上最大の政変で、今日まではるけき影響を与えていると思われる国譲りの遣り取りの重みを衝いた。この辺りに言及なき天皇制的愛国心の強調は今後は許されない。平成天皇もお望みでは無かろう。信じられない向きの方は、れんだいこの日本神話研究を一旦は学べば良かろう。

 今日本は、安倍首相の采配の下で、中曽根から小泉政権以来の「日本のユダヤ属州化の悲願」へ向けて急ピッチに国づくりが行われようとしている。この流れと新教育基本法的愛国心がどう絡むのか、考えよう見ようによっては興味深いものがある。端的に言える事は、日本は国譲り以前も以来も「談じ合い、練り合い」を重視してきた国柄である。政敵の止めを刺さず、和を以て尊しとしてきた国柄である。小泉式の「イエスかノーか」。従わなければ刺客を送り込み、止めを刺す。よしんば復権させても、耐え難い踏み絵を強要するなどという手法は、歴史的ユダヤ聖書式のそれではあっても、日本式のものではない。日本神話を学べば、そういうことも見えてくるだろう。

 それとも何だろうか。今この国を支配するシオニスタンどもは、日本のそういう国柄をも変えようと使命しているのだろうか。そういえば、富める者を更に富まし、貧する者を更に貧させる格差社会へと強引に向かわせているが、これも意図的政策なのだろうか。いざなぎ景気を凌ぐ大本営景気が云われ続けているが、このままで行くとヘトヘトになるまで云われ続けることになろうが、これも意図的政策なのだろうか。その辺りを考えながら、師走の景気を確かめにうがいでもしに行こう。

 2006.12.16日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評244 れんだいこ 2006/12/21 18:52
 【れんだいこの聖徳太子の憲法17条現代文訳】

 推古天皇の御世12年夏(604.4.3日、皇太子自らが筆を執り憲法十七條を策定する。

(第1条、総合規定その1、「和を以て貴しを旨とせよ」の規定)

 一に曰く、和を以て貴しと為し、争い無きを宗とせよ。人は皆、党派に属して群れたがるものであり、道理を弁える物分りの良い者は少ない。そういう訳で、君主の命に従わぬこともある。あるいは隣近所と仲違いを起し祖法に違うこともある。しかれども、上和し下睦み、互いが襟を正して事を論ずれば、物事の理自ら通じ、不祥事は起きないとしたものだ。
 
(第2条、総合規定その2、「仏教の教えを国の基本とせよ」の規定)

 二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝者とは、仏法僧のことである。仏教は、あらゆる生き物が最終的に帰すところの万国の極めの宗である。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざるか。人は、はなはだ悪しき者は少なし。能く教えれば之に従う。それ、仏法に基づかね何を以て曲がれるを直さん。
 
(第3条、官吏服務規程その1、「天皇の詔勅を尊び従え」の規定)

 三に曰く、詔を承りては必ず謹め。君は天であり臣は地である。天が地を支配するからこそ四季が正しく廻り、四方の万物に精気が通うとしたものだ。逆に、地が天を覆うことを欲するときは、秩序が破壊され雑音がかまびすしくなる。君の言を臣が承わり、上の行いに下は靡くとしたものだ。故に、詔を承ては必ず従え。尊び従わねば自滅しようぞ。

(第4条、官吏服務規程その2、「役人は礼儀を重んぜよ」との規定)

 四に曰く、役人は、礼を以て本と為せ。それ民を治むるの根本は礼に在る。上に礼無ければ下が従わない。下に礼無ければ必ず罪人を生む。君臣に礼有るときは職位の席次が乱れない。百姓に礼有れば国家は自ずと治まる。

(第5条、官吏服務規程その3、「役人は職務を私物化する勿れ」との規定)

 五に曰く、役人は、饗応接待を絶ち、私欲を棄て、訴訟に対しては公明厳正に審査し判決しなければならない。それ百姓の訟えは一日に千件ほどあり、それ以上の日もある。一日でもこのありさまであるから、これを毎年累積させればどうなるか。

 この頃、訴訟を担当する者に私利私欲に走る者がある。彼らは、賄賂を見て裁決する。財力有る者の訴えは石を水中に投げるように受け入れられ、貧しき者の訟は水を石に投るに似て聞き入れられない。こういうことだから貧民は頼るべきところが持てず困惑せしめられている。こういうことが罷り通るのは役人が君臣の道に背いているからである。

(第6条、官吏服務規程その4、「役人は阿諛追従を戒め忠義を重んぜよ」との規定)

 六に曰く、勧善懲悪は古の良き法である。これにより人が善に欠けること無く、悪を見ては必ず正すことになる。それ、諂い偽る者は、国家を覆す利器であり、人民を滅ぼす鋭利な剣である。又、妬み媚びる者は、上に対しては好んで下の者の過失を言いつけ、下の者に会えば上の過ちを誹謗する。それ、これらの人は皆、君主に対する忠義心が無く、人民に対する仁徳が無い。これは大乱の基いである。

(第7条、官吏服務規程その5、「役人の権力乱用の戒め」の規定)

 七に曰く、役人には各々任務があり、権力を乱用してはならない。それ、賢哲が官に任ぜられれば良い評判が立ち、悪賢い者が官に任ぜられれば災禍が多くなる。世の中の人で道理を弁える者少なけれども、心掛け次第で聖人になることができよう。

 諸事大きなことも小さきことにも適任の人を得れば治まる。有事の急無い折には緩めるのが良い。賢者が出れば自ずと寛がせるものである。これによって国家は永久となり、朝廷が危うくなることは無い。故に、古の聖王は官職に相応しい人を求め、誰でもあてがったのではない。

(第8条、官吏服務規程その6、「役人の出仕と退出の要領」の規定)

 八に曰く、役人は朝早く出仕し、遅く退出せよ。公務には暇なく一日中限が無いぐらいで良い。逆に、朝遅く出仕すれば緊急の用に間に合わない。早く退出するようでは、事務を中途半端にし残してしまうことになろう。

(第9条、官吏服務規程その7、「役人には信義誠実が肝要」との規定)

 九に曰く、信はこれ義の根本である。事を司るに当っては、信有れ。それ善悪成敗の肝要は信にある。君臣共に信あるときは、不祥事は起きないとしたものだ。君臣間に信無ければ、万事にことごとく失敗しよう。

(第10条、官吏服務規程その8、「役人は恣意的な怒りの専横を慎むべし、衆議を重んぜよ」との規定)

 十に曰く、怒りを絶ち、不明を棄て、人の間違いを怒ってはならない。人には皆心が有る。心には各々拘りが有る。彼が是としても我には非なり、我が是としても彼には非なり。我は必ずしも聖に非ず。彼も又必ずしも愚に非ず。共にそれ凡夫としてあるのみであろう。是非の理、誰が能く定めることができよう。

 賢なる者も愚なる者も相共に、耳輪の端が無いようなものである。故に、彼が不明なる者と雖も、却って我が過ちを恐れよ。自分独りが能く会得していることであっても、衆議に諮り言と行いを協同せよ。

(第11条、官吏服務規程その9、「役人は信賞必罰を厳正にせよ」との規定)

 十一に曰く、功罪を明らかに察して、賞罰を厳正にせよ。この頃、賞が適正でなく、罪が罰として罰せられていない。最高権限を持つ官僚は、賞罰を厳正にせねばならない。

(第12条、官吏服務規程その10、「役人による民百姓に対する圧政厳禁」の規定)

 十二に曰く、国司、国造よ、政治に於いて民百姓を苛斂誅求すること勿れ。国に二君居ることが非のように、民百姓にも両主は無い。国内の億兆の民百姓は王を主と為している。任に就いた役所の官吏は皆これ王の家臣である。税を賦課するのに何ぞ敢て百姓に苛斂誅求するのか。

(第13条、官吏服務規程その11、「役人の職務精通と業務引継ぎ」の規定)

 十三に曰く、諸々の任官者よ、職掌を相応わしく精通しなさい。或る者は知り、或る者は未熟の者が有り、職能不足の者も居る。そうこうするうちにやがて業務に精通する日がこよう。知ったならば前々より精通していたかの如く振舞いなさい。それ、自分の管轄外だと云う理由で、前任者のしたことは分からないなどと云って公務を防げること勿れ。

(第14条、官吏服務規程その12、「役人は相互の嫉妬を慎め」の規定)

 十四に曰く、役人よ、互いに嫉妬してはならない。我が人を妬めば、人も又我を妬む。嫉妬の患いは極まりを知らない。そういう手合いは、相手の智が自分より勝っていれば悦べず、相手の才が自分より優れていれば妬む。五百年ぐらい経てば賢者に遇うことはできるかも知れない。しかし、たった一人の聖人が出現するのは千年でも難しい。それ、聖と賢なる者を得ぬままどうやって国を治めようか。

(第15条、官吏服務規程その13、「役人は私心を慎め」の規定)

 十五に曰く、私心を捨てて公務に就くのが臣の道である。凡そ人に私心あれば必ず恨み有り。憾み有れば必ず独断を招く。独断の私心は公務を妨げる。憾み起れば制度を狂わせ、法秩序を害う。故に、第一条で上下相和し襟を正して議論しなさいと指摘している。それは、こういう心情からであるぞよ。

(第16条、官吏服務規程その14、「役人による民百姓に対する労役賦課の際の原則」の規定)

 十六に曰く、民百姓を使役せしめるには時期を考慮せよとは古の良典なり。それに拠れば、冬の月には暇有り。よって民を使うべし。春より秋に於いては農業や養蚕の季節であるので民を使うべからず。それ、農ならざれば何をか食はん。養蚕ならずば何をか着ん。

(第17条、官吏服務規程その15、「役人は万機公論を重んぜよ」の規定)

 十七に曰く、それ、何事も独断すべからず。必ず衆議により共に宜しく論ずるべし。些細なことは衆と論ずることもない。但し、大事を論ずる際には万一の過ち有る事を疑い、衆と共に相弁ぜよ。そうすれば道理にかなう結論が得られよう。

 聖徳太子の十七条憲法の研究(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rendaizi_rekishikankei_syotokutaishico.htm)

 2006.12.21日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評245 れんだいこ 2006/12/23 20:41
 【日本神話に於ける二つの国譲り考】

 ここまで日本神話をれんだいこなりに辿って見て、一つの成果を得たと思うのでこれを世間に問うておくことにする。日本神話の最大の特徴は、他の諸民族のそれと比して何ら遜色の無い、否更に優れて精緻な否難解多重とも云える伝説群を記録していることに有る。これを今更知ってどうなるというものでもないが、民族的財産と分別し、知らぬより知っておくべきであろう。あるいは知らなくとも感得しておくべきであろう。そういう気がする。

 寂蓮法師は、出雲大社を次のように詠じている。「やわらぐる光や、空に満ちぬらん。雲に分け入る、ちぎのかたそぎ」。西行法師は、伊勢神宮を次のように詠じている。「何事のおわしますを知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。吉川英治は次のように詠んでいる。「ここは心のふるさとか。そぞろ参れば旅ごころ。うたた童にかえるかな」。

 さて、ここで発表するのは、日本古代史上最大の政変である「国譲り」に関してのれんだいこ見解である。れんだいこは、恐らく史実と思っており、それは二度行われている。一つは、高天原王朝と出雲王朝長との間で行われた「いわゆる大国主の命の国譲り」で、これにより大国主の命は、政治の表舞台から身を引き精神的な宗教界のみに影響力を残すことになった。

 この時の譲りの言葉は、「我々は賢明懸命に国造りを行ってきた。この国の統治権を譲れと云うのなら、どうか良い政治を行っていただきたい。それが条件である」というものであった。高天原王朝は、その申し出を承った。この「言伝(ことづて)引継ぎ」の中に日本政治の質が刻印されていると窺うのがれんだいこ史観である。

 れんだいこの観るところ、もう一つの国譲りが有るように思われる。それは、神武天皇東征譚に発するが、天孫族が瀬戸内航路を通って河内へ攻め上り、待ち受ける出雲王朝系ニギハヤヒーナガスネ彦連合と戦い、手痛い敗北を帰し、紀州熊野へ廻り、ここから権謀術数と武運を尽してヤマトへ辿り着く。

 両者は、最後の一大決戦を前にして決戦の道を選ばず大和議により手打ちした。天孫族の神武天皇が即位し、ヤマト王朝を創始したが、ヤマトは大和と漢字訳されるほどに、大きく和して成した王朝であることを表象していた。このことは、ニギハヤヒーナガスネ彦連合下の諸豪族が新王朝下で重用されたことを意味している。この「大和議による手打ち」の中に日本政治の質が刻印されていると窺うのがれんだいこ史観である。

 この二回にわたる国譲りに於ける和議こそ日本政治の真骨頂であり、国譲りをそのようにせしめた旧勢力の政治的経済的文化的精神的能力の高さこそ認められるべきであろう。この後の日本史は、天つ神族、和議派国つ神族、反体制派国つ神族の三つ巴の協調と暗闘と武闘により推移していくことになる。以降、王朝政治、貴族政治、武家政治、官僚政治と続き今日の日本へと辿り着いているが、政治的経済的文化的精神的分野に於ける「天つ神族、和議派国つ神族、反体制派国つ神族の三つ巴の協調と暗闘と武闘」こそが演ぜられつつ歴史を創ってきているのではなかろうか。

 問題は、日本史のこの特質の中に、黒船来航以降、もう一つのファクターが入り込んだことである。れんだいこは、それをネオ・シオニズムと命名している。ネオ・シオニズムは正体を隠すことを特徴としており、表向きはキリスト教的に振舞うが、その内実は「シオンの議定書」を総路線とするユダヤ教原理派のネオ・シオニストの教義である。

 この連中こそ、近代史に踊り出てきて、彼らの云う新世界であらん限りの略奪と収奪を恣にして原住民の文明と原住民そのものを抹殺してきた極悪非道の者達である。植民地政策は専らこの連中が敷いた政策であり、それを云うなら資本主義なるものも、この連中が押し付けている主義的体制であろう。近時の著作権云々による知識の利権化も、この連中が押し付けようとしている愚民化政策の一環のものであろう。

 留意すべきは次のことである。日本政治史上のそれまでの天つ神族と国つ神族の抗争は和議と武闘のいずれをも選択し得る余地の有るものであることを特質とするが、ネオ・シオニストの政治学は「殺るか殺られるか、原住民を屈服せしめられるかできないか」の二者択一のもので、共存的な観点は微塵も無い。あるとすれば、「殺るか殺られるか、原住民を屈服せしめられるかできないか」の戦略上の過程的なものでしかない。

 日本民族は今、史上初めてそのような相手と交わらねばならない局面に立ち至っている。このことを客観的に了解するのが現代政治学の眼目とならねばならない。その為にも日本史を精通し世界史をも精通しておかねばならない。知識を持たないと、何と戦うのかどう戦うのかの座標軸が定まらない。これを養うのが学問であろうが、現代政治学は何と、こう問わないよう、こう問う方向に向わないよう躾しようとしており、その様は嬌態と云うべきか滑稽である。

 思えば、れんだいこが習ったマルクス主義は、この観点を得るには少しも役立たない。それの役立つ点もあろうから今や大改造し、ネオ・シオニズムの来襲内襲と闘い、自前の民族のより良き国家造りへ向うものにせねば何の訳にも立つまい。旧社共的、現社共的サヨ運動は、人民大衆の不満のガス抜き的運動に終始することで体制に奉仕しており、このままで有り続けるとなるとむしろ有害でしかなかろう。

 新左翼運動の系譜から唯一、旧社共的、現社共的サヨ運動と全く違う人民大衆の抵抗権、革命権を打ち出しつつ、「日本民族存亡の百年の計」を以って現実的政策と運動で共感を獲得していく道を選ぶなら、その能力を証するならここに初めて日本左派運動の再生を生み出すだろう。この道こそが諸民族との共和を生み出し、ひいては国益に叶うだろう。我々の潜在能力にはこれをやり抜く力が有るのではなかろうか。以上提言しておく。

 2006.12.23日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評246 れんだいこ 2006/12/26 14:03
 【「教育ニ関スル勅語」発布】

 1890(明治23).10.30日、山縣有朋内閣は、「教育ニ関スル勅語」(通称「教育勅語」、英: Imperial Rescript on Education)を天皇の勅語形式で発布した。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。発布の後には、日本のすべての学校に下賜(配布)され、その後の教育制度の根幹をなすことになった。

 原案は、伊藤博文の下で大日本帝国憲法・皇室典範の起草にあたった内閣法制局長官の井上毅(こわし)と枢密顧問官にして侍講(じこう、天皇・東宮に書を講じた官職)の元田永孚(ながざね)によって起草された。天皇親政論者として知られていた元田永孚は、明治維新後の西欧化の流れに危機感を抱き、日本古来よりの伝統的精神の確立の必要を覚えた。明治天皇に進言したところ、井上毅と元田が任に就くことになった。

 「教育勅語」の原文が作成されたが、井上毅は教育勅語が思想や宗教の自由を侵さないようにすることを重視し、対して元田永孚は国家神道的な教典とすることを重視し、見解の相違を調整したとされている。最終的に、父母への孝行や夫婦の和合、遵法精神、忠孝、節義、誠実、義勇心など12の徳目を臣民の情操教育とし、天皇が徳治政治を旨とすることを詠い、臣民がこれに倣う形式でまとめられることになった。

 文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本臣民(国民)の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ第二教育勅語を起草した。但し、西園寺の大臣退任により実現しなかったとされている。

 発布翌年の1891(明治24)年、内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)をきっかけに、大切に取り扱う旨の訓令が発せられた。同年、小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900(明治33)年に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、学校などで式典がある場合には奉読(朗読)されることとなった。1907(明治40)年には、行政が英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳された。

 昭和時代に入ると国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語額が、天皇皇后の真影(写真)とともに各学校の奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。生徒には、教育勅語の文章を暗誦することが強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938(昭和13)年に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、教育勅語は「軍人勅諭」、靖国思想とともに天皇制国家イデオロギーの支柱として利用された。

 大東亜戦争後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP)が教育勅語を問題視しした為、1946(昭和21)年、文部省は奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないこととした。1947(昭和22).3.31日の教育基本法の制定によって教育勅語の内容が否定された。

 その後1948(昭和23).6.19日に、衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」により、「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、基本的人権を損ない、国際信義に対して疑点を残すものとなる」として、「軍人勅諭」、「戊申詔書」、「青年学徒に賜わりたる勅語」とともに排除・失効が確認された。
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 教育勅語の原文は次の通り。(中段はれんだい式現代文、下段はれんだいこ現代文訳)

 教育勅語

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此 レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シコ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開 キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々 服膺シテ咸其コヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

 明治二十三年十月三十日   御名御璽
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 朕惟(おも)うに、我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に徳を樹つること深厚なり。我が臣民、克(よ)忠に克く孝に億兆心を一(いつ)にして世世厥(そ)の美を済(な)せるは、これ我が国体の精華にして教育の淵源(えんげん)又実にここに存す。爾(なんじ)臣民、父母に孝に、兄 弟(けいてい)に友に、夫婦相和シ、朋友相信じ恭倹(きょうけん)己れを持し、博愛衆に及ぼし、學を修め、業を習い、以って智能を啓発し、徳器を成就し、進んで公益を広め、世務(せいむ)を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵(したが)い、 一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以って天壤無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし。是(かく)の如きは独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以って爾祖先の遺風を顕彰するに足らん。 斯(こ)の道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所、之を古今に通じて謬(あやま)らず。之を中外に施して悖(もと)らず。朕、爾臣民と倶に拳々服膺(けんけんふくよう)して咸(みな)其のコを一にせんことを庶幾(こいねが)う。

 明治二十三年十月三十日   御名御璽(ぎょめいぎょじ)
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 朕思うに、我が皇祖皇宗がその昔に国を始めるに当って、徳治を広く及ぼしていく政治姿勢を打ち樹てたことには実に味わい深い意味が有る。これによって、我が臣民は心を一つにして忠と孝の道を代々能く受け継いできた。このことは、日本歴史の精華であり誉れである。教育の眼目根本はここにこそ在すと云うべきである。

 臣民は引き続き、父母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦相和し、朋友には信を立て自身は慎み深く、博愛の心で世間に役立ち、学問を学び、業を習い、これらの精神に支えられて知能を啓発し、徳と才覚を磨き上げ、世間に役立つような人となり、各自仕事を通じて社会に貢献し、常に憲法を重んじ、その他法律を遵守せよ。もし、国家に緊急事態とならば、義勇を奮い立たせて公に奉じよ。

 このようにして世界に冠たる皇国の存亡と繁栄に役立つべきである。この伝統を臣民に教え、合わせて祖先の遺風を称えよう。この伝統こそが我が皇祖皇宗の遺訓であり、子孫臣民は相共に遵守すべきこととして尊び、事実道から外れることがなかった。この伝統は、国内だけでなく外国においても通用する立派なご政道である。朕は、臣民と共に心に銘記して政道を行う事を約束しよう。皆もこの伝統的な美徳に心を一つに合わせて奉らんことをこい願う。

 明治二十三年十月三十日 御名御璽(ぎょめいぎょじ)
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 (私論.私見) 「教育勅語考」

 さて、教育勅語をどう受け止めるべきだろうか。サヨ風の条件反射的毛嫌いの精神から離れて、これを左派風に検証してみたい。教育勅語が、記紀の日本神話に基づく祭政一致的天皇制精神を称揚し、一億一心精神を涵養しようとしていることは明らかである。幕末期の水戸学の精神を継承しているように思える。これを一概に否定すべきだろうか。

 れんだいこは、教育勅語イデオロギーの背後には徳治政治の前提が有り、仮にお上が徳治政治の遺風から外れたときには、臣民にはどういう権限が与えられるのかの下りを欠如させたところに欠陥が認められるべきで、このことを除けばそれなりに名文ではないかと思う。

 国際化の流れが押し寄せる明治の時点で、日本史の伝統的徳治政治を称揚することにどれだけ意義があったのかの判断は難しいが、21世紀の今日の時点で「非武装国際協調」を説く戦後憲法の精神を称揚することにどれだけ意義があるのかを問うことと通じている気がする。

 述べたように、教育勅語は人民大衆を臣民と規定し、臣民には無条件的恭順のみが説法されている訳であるが、その欠陥を除けば、「母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦相和し云々」はこれを暗誦したとして有益無害ではなかろうか。戦後教育基本法はこの面を削除したが、それが正しいというものではなく功罪両面と云うべきではなかろうか。

 今、教育基本法が改定され、戦前の教育勅語的観点が移入された。れんだいこは新教育基本法を検証していないので論評を差し控えるが、次のことだけは云える。教育勅語は露骨に国体を称揚し、偏狭ながらも民族的独立精神を涵養した。今、教育基本法改正に従事している小泉ー安倍政権は名うての売国奴である。その連中が教育基本法を改正して何らかの有益なことをしでかすだろうか。れんだいこはここに不信がある。

 思うに、来るべき軍事事態に於ける国家的要請での臣民教育、戦争動員教育、愚民教育、恭順教育に向けての改正であり、教育勅語をより悪しくしたものにして、戦後教育基本法をより悪しくしたものにしかならないのではなかろうか。そういうことを確認するためにも、戦前の教育勅語そのものに精通しておくべき必要を感じ、ここに解析した。日本神話同様に知らないよりは知ってよかった気がする。

 2006.12.26日 れんだいこ

Re:れんだいこのカンテラ時評247 れんだいこ 2006/12/31 15:49
 【イラクのフセイン元大統領死刑執行を糾弾せよ】

 2006.12.30日、イラクのサダム・フセイン元大統領(享年69歳)が首都バグダッドで絞首刑に処せられた。2003年の旧フセイン政権崩壊後、同政権の犯罪を裁くためにイラク高等法廷が設置され、この12.26日、イラク上訴裁判所が一審の死刑判決を支持する決定をしていた。

 一審の「イラク高等法廷」のシャヒン所長は記者会見で、「三十日以内に死刑が執行される。政府は明日から三十日の期間で執行日を選ぶことができる」と述べていた。実際には判決四日後で死刑執行されたことになる。12.29日深夜、マリキ首相が米側と会談し、その際に執行時間が確定したとみられる。

 かくて、1・「人道に対する罪」等で罪を問われ、2・体裁上の裁判形式を経て、3・絞首刑執行されるというお決まりのコースで、フセインは処分された。ニュルンベルクおよび東京裁判とほぼ同じ構図でであることに気づかされる。勝者側の意志を押し付けるだけのものでしかない裁判制度を悪用するこの手法に義憤を抱くべきであろう。

 フセイン大統領の治世のあれこれをこのように問い処分できるならば、ブッシュよ、その他悪政の限りを尽くしている者どもよ、手前たちも首を洗って待っておけ。勝者敗者の風向きが変われば、同じ論理と論法と手法で処刑台に立たせてやろう。

 それにしても、近現代史の本当の歴史を学ぶ者なら、「人道に対する罪」なるものが如何にいい加減なものかは明らかなはずなのに、「人道に対する罪」の恣意的適用を訝る者が少な過ぎる。そういう風に教育され、何の疑問を抱かずそういう風に認識する者が成績優秀者として合格されていき、その果てに博士号が待ち受けているというこの茶番構図そのものが不正であろう。お陰で、今回の蛮行を批判する論調が起こらない。

 日本左派運動よお前も黙して語らずか。否、日共の赤旗は漫然と報道することにより概ね処刑支持を語っている。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。思えば、第二次世界大戦論を民主主義対ファシズムの闘いなどという構図で捉え、戦前のナチス、日本軍国主義を誰よりも悪し様に批判するのが左派などという安逸頭脳で理論化しているサヨにはお似合いの帰結ではある。

 今現実のこれほどの一方的な勝者裁判を目の前にして糾弾し得ない左派運動なら、いったんは失せてしまったほうが良いのかもしれない。何もかも理論と論法と運動形態を一から組み立てなおした方がよほど有益かも知れない。以上、フセイン死刑執行に一言申しておく。

 2006.12.31日 れんだいこ

Re:19世紀の時点での必要性ですね れんだいこ 2006/12/31 16:39
 パルタさんちわぁ。教育勅語についてですが、今現在の視点から批判するばかりでは片手落ちです。まさに「19世紀の時点での必要性ですね」です。

 史実は、黒船来航で幕開けしたネオ・シオニズム型帝国主義による植民地化政策と対峙せざるを得なくなった当時の日本人が、これと太刀打ちする為のイデオロギーを如何に形成獲得したのか。この必要から生み出されたのが水戸学であり、天皇制復古であり、陽明学的儒教精神であったのではないでせうか。このイデオロギーを獲得したお陰で、日本人民大衆の攘夷運動が高まり、その限りではありますが有益な働きをした面を見失ってはならないと思います。

 日本左派理論は、この面を評する視点を全く欠如しておりますね、戦前も戦後も、れんだいこの知る限り。分かりやすく云うと、「敵は敵、味方は味方」の二者択一論であり、「敵の敵は味方」という弁証認識ができません。そういう連中がことさら気難しくもったいぶった理論振り回すので滑稽です。

 もとへ。但し、明治新政府の天皇制イデオロギーはその後とどまるところを知らず、遂には攘夷思想から転じて日本の帝国主義化へと進みました。本当は、この間には相当の飛躍があります。この道へ踏み込むことに抵抗したのがいわゆる士族の反乱であり、俺たちが目指した革命とは違うとして抵抗しました。その総決算として西郷隆盛を押し立てて西南の役を起しましたが、それが敗北することにより、日本の帝国主義的海外侵略の道筋がつけられたと認識しています。

 従って、西郷派の征韓論、大久保派の内治優先論というのは大嘘で、歴史の詐術でせう。真実は、西郷派は征韓論を唱えたのではなく、極東アジアの植民地化的脅威に対抗する為のアジア同盟を提唱していたのではないでせうか。士族の反乱が、俸禄を失うことになったことに抵抗し決起したというのも俗論ではないでせうか。れんだいこは、幕末維新の内実を賭けてのもっと深い意味があった、と見なしております。

 その士族の反乱が鎮圧されて以降の日本は、日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、満蒙開拓、日支事変、大東亜戦争へと筋書き通りに誘導され、その間金融はいつもネオ・シオニズムの盟主ロスチャイルドに握られていました。豚の子で太らせられた挙句最後には締め上げられました。この過程で、教育勅語イデオロギーが戦争動員に利用させられ、有効に機能いたしました。教育勅語イデオロギーに露骨に宣明されていた臣民教育の賜物でした。

 教育勅語を読む場合、上記の二点の観点から是非を分別せねばならないと考えております。戦後教育は、教育勅語的臣民教育を否定しました。それは是でせうね。但し、教育勅語的イデオロギーにあった攘夷思想まで捨ててよかったかと云うと疑問のように思います。

 第二次世界大戦後の世界はますますネオ・シオニズムが牛耳りだし、どこの国においても政財官学報の枢要五者機関を占拠して悪辣な売国主義政策を推し進めております。この勢力の蠢動がある限り、それぞれの民族と国家は、これに対抗するイデオロギーを持たないと思う壷ではないでせうか。持てなくされているのではありますが。

 そういう意味で新教育勅語が必要と考えておりますが、現下の小泉ー安部政権のような戦後タカ派系売国奴の下で為される諸改革は、ネオ・シオニズムにますます奉仕するためのものでしかなく、期待されている本来のものとは逆のものであります。それを改革だとしてマスコミが扇動しているので、この手合いは本当に戦前も戦後もたちが悪い。マスコミと云うものがそういう役割を果たすために生み出されたものと知れば、納得ではありますが。

 まっ連中もそうでないと出世できないし、出世させてもらった御礼で提灯しているのでせう。元々頭脳が弱いと云うことにも原因があるとは思います。この手合いが幅を利かせられるのですね。れんだいこの見るところ、政治家や評論家で有能な者は登用されず理屈をつけられて処分されていますね。世の中つうのはいつの世もそうであるのかも知れませんが。

 2006.12.31日 れんだいこ拝

れんだいこのかんてら時評248 れんだいこ 2007/01/04 21:03
 【2007.1.1たすけあい党、謹賀新年声明】

 謹賀新年おめでとうございます。2007年の抱負を述べたいと思います。

 昨年一番残念なことは、戦後日本の体制危機がより深化し爬行しているにも拘らず、日本左派運動が引き続き低迷したことにあります。個別的にはそれなりに取り組んでいるのでせうが、うねりにはなりません。日本左派運動はもはやこれまでなのだろうか、そういう暗澹とした一年になってしまいました。これまでのような左派運動なら沈没しようが停滞しようが一向に構わないのですが、やはり闘う砦は要ります。日本左派運動そのものは埋没してはなるまい。そう考えております。

 その要因ははっきりしています。日本左派運動が、その隊列の中に紛れ込んで来た反革命に長い間やられてしまっていることにあります。彼らの反革命は当局に陰に陽に支援されており、その分厄介ではあります。問題は、日本左派運動が総体としてこのことを認識し得ていないことにより、紛い者の口舌と運動を跳ね返す力を持たないことにあります。

 少し考えれば分かることです。本来、権力に対して弱い方の人民大衆運動は猫の手でも借りてのたすけあいによってしか前進しません。思想と云うものは見立てと云うものは幾通りもある訳だから、そのどれが正しいかを容易には判定できない訳だから、最低限「左派の心を持つ」者同士が共同戦線運動の観点に立てば良いのです。穏和系と急進系は一見対立しているようであっても、深部では案外役割分担できるたすけあい関係にあります。穏和系と急進系の差は、ある種気質の差、事情の差によって分岐しているのであって、対立しながらも提携している関係にあると考えるべきです。そこにむしろ知恵がある訳です。歴史上勝利した闘争は全てここがうまく機能しております。世間を狭くする「排除の論理」や「他党派解体運動」は百害あっても一利もありません。

 このことに気づくべきですが、日本左派運動はこれまで一貫してこの自明なことを分別せず、互いが互いを排斥することで己の正しさを証してきました。そういう余りにもな宗派的な独善主義が左派運動全体に悪影響を与えております。穏和系と急進系がそのように対立するのならまだしも、穏和系の内部が同様に然りであり、急進系の内部がこれまた同様に然りです。余りにも馬鹿げているこの現実は何に因るのか原因を尋ねねばなりません。

 少し考えれば分かることです。なるほど各党派がお山の大将式に手前味噌な能書きを喧伝するのは自由です。組織の自閉化は良くありませんが、党員が民主集中性なる言い回しでのその実党中央集中制でしかないトップダウン制のものを良しとするならそれも勝手でせう。しかし、党と運動のそういう在り方が自然にもたらされていると考えるのは思慮が足りない。当局の誘導によりそのように仕向けられている面もあるのではないでせうか。ここを考えて見ればならないと思います。

 つまり、我々は、戦前同様に当局の敷いた狡智に負けており、諸党派の指導者が漫然と当局の狡智に乗る形で陰的指導をしているのではないでせうか。その種のタコツボ的運動からの脱却が求められていると考えます。運動上のそういう悪習と理論的貧困が相俟って、日本左派運動は低迷し続けていると考えます。

 思えば、戦後日本左派運動史を客観的に評すれば、1945.8.15日の戦後直後から1947.2.1ゼネスト時までが最大ピークで、1949年時の社共合同による政権奪取運動までが次のピークで、その破産により戦後革命の波は流産して以来、次第に影響力を減じて今日に至っております。こう捉えるべきです。

 最悪なことは、50年代初頭に日共内部で政変が発生したことです。それまで指導してきた徳球−伊藤律系が北京に追いやられ、野坂−宮顕のスパイ集団により日共党中央が簒奪されました。曲がりなりにも左翼船を漕いでいた徳球−伊藤律系党中央に比して、野坂−宮顕系党中央になるや、今日に至るまで「左派に位置しながら左派運動潰しを本旨にする変態運動」を繰り広げております。彼らは権力に立ち向かう時は穏和になり、権力に立ち向かう者を批判する時は超過激になるという構図はお笑いです。このことを確認せねばなりません。

 残念ながら、徳球−伊藤律系運動を最悪として罵倒する知識人ばかりがその後の左派運動を牛耳ってしまいました。そういう訳で、日本左派運動の観点は大きく捩れており、本当に明晰な左派は居りません。今に至るまで日共に代わる左派政党が出ないのはこの辺りにも原因があると考えます。ここに日本左派運動の歪みと不幸があると考えます。

 以来、闘う者は、正面の敵のみならず、裏面と横腹からの変態敵をも引き受けながら進まざるを得なくなりました。しかし、この程度の困難はどこにでもあるものでせう。この仕掛けを打ち破れないまま今日に至っていることを痛苦に反省せねばなりません。とはいえ、60年安保闘争では昂揚を見せました。残念ながらこの時既に政権狙いの観点が喪失されており、単なる政権批判運動、ないしは掛け声だけの体制打倒運動に堕していました。運動そのものが次第に矮小化していったことが分かります。それでもよく闘ったのが60年安保闘争で、唯一左派運動が時の政権打倒を勝ち取った栄誉を歴史を刻んでおります。主として第一次ブントが牽引しましたが、まさに天晴れと云うべきです。この認識もなかなか共有できておりません。

 60年安保闘争後、第一次ブントは自身の切り開いた運動に自信が持てず内部分解しました。しかし、60年安保闘争の功績は着床します。戦後タカ派の盟主であった岸を首相の座から引き摺り下ろしたことにより、以来タカ派は中曽根の登場まで雌伏させられることになりました。それに代わって、政府自民党内には、世界史上珍しい在地型社会主義性を併せ持つハト派政権を誕生させ、中曽根政権の登場まで以来20数年にわたって政府自民党を牽引することになりました。池田の高度経済成長政策は奏功し、日本は未曾有の発展期に入りました。それに応じるかのように左派運動は低迷期に入ります。体制批判一辺倒の左派運動は未だに池田政権の功を見る眼を持っておらず、それが字面の経文読みしかできない左派の能力の限界と申せます。

 60年代後半に入ってベトナム反戦運動が始まり内外問わず呼応しました。丁度その頃、高度経済成長政策の綻びが各所で生まれ始めており、これら諸要因に呼応して、丁度団塊の世代が青春を迎えており、この世代が遂に全共闘と云う日本左派運動史上初の共同戦線運動を創出しました。当時の全共闘八派こそ日本左派運動を担える資格者であると思います。但し、この時も既に、政権狙いの観点を喪失した負の構図のままの単なる反体制運動に堕しており、そのことが最大の欠陥でした。最終的には過激な闘争の競り合いによる各派の誇示運動に堕してしまいましたが、この時の経験は貴重だと考えます。その運動も70年代までがピークで、以降は次第に痩せ細ってしまいました。以来今日まで、左派はいないかの如くの地平まで堕しております。

 この間、書店から左派運動系書籍が姿を消しており、これを痛苦と受け止める感性も萎えています。テレビ電波では御用派のコメンテーターが朝から晩まで提灯報道し続けています。左派がいないままのその空間に彼らの弁舌のみが流されており、日本人民大衆は判断する暇もなく丸め込まれております。そういう訳で、日本人民大衆は、生活に苦吟しながらも、拠るべき党派を見出せぬまま逼塞させられており、この間次第に愚民化させられております。この不幸を苦衷に感ずる力が我々にあるのだろうか。そこが問われているように思います。

 あれこれ考えるのに、2007年は日本版アルジャジーラ放送局を建設し、日本人民大衆に世直し世の立替の意気を鼓吹し続けねばなりません。ただの一局でも良いから我々の運動のプロパガンダ塔を打ち立ち上げねばなりません。イスラムでできていることがどうして日本でできないのか、それを反省せねばなりません。各党派、支持者が共同戦線で支えれば運営できるはずです。日本版アルジャジーラ放送局創始を阻む法の壁があるなら、それを突破せねばなりません。

 各派の意見の違いは喧々諤々の討議によって処理すればよい、さしあたり為さねばならぬことをしなければ道が拓けないと考えます。これがあれば、我々は生き甲斐を持てます。マスコミの影響力の大きさを考えると、日本左派運動は、遅まきながらでもそういう能力を獲得せねばならないと考えます。このままでは余りにも幼稚で自滅させられるでせう。我々の眼の黒いうちにせめて、これをやり遂げようではありませんか。

 北海道夕張市の財政破綻の悲劇は残酷です。今や、この国の統治者は、ネオ・シオニストの顔色を伺い、命ぜられるままに大枚の大判小判を海外には放出する癖に、国内の地方自治体の破産には馬耳東風の如くです。夕張予備軍が目白押しで事態は猶予なら無いところまで来ております。思い返せば、中曽根政権時の国鉄民営化に反対したハト派の総帥・田中角栄は、あのロッキード渦中で痛めつけられながらも、これだけは云わなければならないと次のように予見していました。民営化路線を推し進めれば早晩北海道が破産を免れない、これまでの開発投資が無駄になってしまう、目先の利潤を追うことが却って取り返しのつかない不経済になると。あれから25年過ぎその通りになって参りました。夕張で狼煙した地方自治体破産は2007年更に続き、列島各地を襲うでせう。我が支配階級は手前達の私利私腹を肥やすことに忙しく、北朝鮮問題に殊のほか執心して有事論を先行させて居りますが、内治的な有事にはその対応能力を喪失しているのがお笑いです。

 今やこの国の権力者どもは、イザナギ景気を超える未曾有の好景気といつ果てるとも分からない大本営景気をプロパガンダしております。その煙幕に隠れて戦後体制の改革と云う名目での改悪に狂奔しています。戦後の法秩序が自縄自縛しつつあり、法的整合性を失いつつあります。これも国家危機の進行とみなすべきでせう。

 この間、民営化音頭の下で、基幹産業と優良企業の殆どが外資の軍門に落ちつつあります。今後は地域の外資売り事態まで予想され、まもなく外資系租界が現れるかも知れません。その連中は昨年、日本再建上虎の子の郵貯資金を外資の手に委ねることを国策としました。それら全ての請負師が中曽根政権以来のタカ派系売国奴どもです。国家財政は、小渕−森−小泉−安部政権下でますます悪化しております。彼らはどう見ても、国債累積の天文学的過重債務の重圧に対する処方箋を持っておりません。今や国会議事堂は無能力者の巣窟であります。今年の毎日新聞社説によれば世界一を目指せということですが、妙なところで張り切っているようです。

 この連中は、靖国神社参拝で愛国を気取りながら、その裏で売国的施策に狂奔すると云う共通項があります。小泉はそれを露骨に演じました。政権末期の外遊時にはわざわざイスラエルを訪問し、彼らの聖地をユダヤ帽被って彼らの宗教的儀式に則り参拝するという本性さえ見せました。本来即退陣の愚挙の筈ですが、政界は与野党問わず未だノーコメントのままです。これは恐ろしい痴態です。この国の政治家が与野党問わず如何に深く国際金融資本ユダヤに飼われているかを物語っていると考えるべきでせう。

 事はさほどに今や政財官学報の五者機関が丸ごとネオ・シオニストの息のかかった者達で占められています。身も心もユダヤに委ね、手前達だけが良ければ良いとする劣悪資質の連中を社会上層部にのさばらせているこの不幸を如何せんか。これが2007年度の政治課題となります。この仕組みに打ち勝つには、既成の党派は余りにも無力であります。左派新党、新左派運動の創出が期待される所以です。どうぞ懐の深い人民大衆運動を目指しませう。

 さしあたりは、2007夏の参院選が注目されます。今更選挙でどうなるものではありませんが、一縷の望みを繋ぎたいと思います。その際の最低限の戦略は、民主党−国民新党を核とする護憲派を当選させることでせう。社民党は余りにも弱小過ぎる政党になっており、長年の永田町政治の病膏肓に陥っており、自力更生能力を失っております。責任与党政治を旨とする民主党−国民新党を核とする護憲派支援に向かうことが賢明で、そうしなければ更に凋落する以外に無いでせう。

 日共は相変わらず独善的に立ち回り、結果的に自公体制に裏から協力することになるでせう。この党中央に説教することは、魚を取りに山へ、栗を拾いに海へ行く愚でせう。この党中央は名ばかりの共産党で、実体は左派潰しの為に飼われた極悪反動保守系分子の寄せ集めになっております。我が党は全く相手にしません。相手にするような自称左派政党がいるとすれば見識を疑います。

 それにしても、叶う事なら日本左派運動の各党派は独自に候補を立て、共同戦線でこれを後押しすべきでせう。それなりの党派がマニフェストを掲げ、左派運動全体に協力支援を仰ぐべきです。立候補に意味があるのではありません。それは日共式対応であり、自公を有利にするだけのことです。何としてでも勝てる戦略を採り、地方区での護憲政党支援、一人でも二人でも全国比例区での当選を目指すべきでせう。至極当然のこの戦略さえ打ち立てられない日本左派運動の貧困を呪え。我が党は然るべき左派系候補が出れば支援を惜しみません。

 あれこれ情勢分析するのに、2007年度の国民生活は更なる厳しさを増すでせう。待ったなしの増税路線が待ち受けており、日本人民大衆の生活力の弱い環は棄民化されるでせう。他方で、米英ユ同盟の対日戦略はますます露骨化し、彼らの戦略に沿った資金と人員の提供を強制することになるでせう。老人、子供、負債者の自殺と棄民化がますます進むことになるでせう。

 中小零細企業の経営環境も然りで切捨てられる運命にあります。戦後保守本流ハト派は培養政策を採りましたが、売国奴系タカ派は残酷無残に切り捨てようとしております。ハト派とタカ派の違いは思想理念のみならず、政治経済文化の舵取りに根源的な対立があります。我々はこれを見て取るべきです。通り一遍の政府自民党万年批判は百害あって一利無しです。中小零細企業の経営者も今や政治に目覚めるべきです。政府はますます戦争政策に向かおうとしております。現下政府の政策は戦争政策関連事業に利益をもたらせますが、平和あっての事業に生計する企業は冷や飯を食らい続けさせられます。これらの事業従事者は業の存亡を賭けて、平和と内治優先政策の採用を政府に迫るべきです。

 この時代、局面によって暴動的事態が発生することも予見できます。そうすることによってしか政治主張できない状況になりつつあるからです。あれこれの法規制が更に増え、次第に窮屈な社会に入りつつありますが、抑えればいつか暴発するのが道理です。我が党は、暴徒に正義があれば聞き分け致します。その頭脳になりたいと考えます。歴史はそのようにして創られてきたというのは政治のイロハです。日本人民大衆は久しく怒りを忘れている気がしてなりません。穏和従順の良い面もあり、それは日本人民大衆の習い性となっておりますが、政治がそこそこに機能している時にのみ許される道徳であり、のべつくまなくな従順は美徳とは云えません。今日の局面では怒らないと政治が良くなりません。

 思えば、日本は、近代史上、米英ユ同盟の植民地の歯牙から抜け出ることのできた稀有の誉れの国です。それは、政治を与る上の者も下の者も、日本と云う国を大事に育み、そこに住まう民族が相互にたすけあいしてきたからではないでせうか。先人がそのように培った伝統を今我々の世代で潰してはなりません。生活上の私利私益を図るのは良いでせう。しかし公的精神を弁えてその範囲で為さねば何の意味も無いことに気づくべきです。この道理が分からない為政者は放逐すべきです。

 以上、たすけあい党の新春のメッセージと致します。

 2007.1.1日 たすけあい党 党首れんだいこ

Re:れんだいこのかんてら時評249 れんだいこ 2007/01/07 20:17
 【たすけあい党よ驀進せよ】

 松本哲さん入党有難うございます。メールでもお伝えしましたように、たすけあい党はネット空間に於ける仮想劇場として生み出しましたが、次第に本気になりつつあります。尤も云うは易く行いは難しで党勢は停滞しておりますが、れんだいこはある信念を持っております。

 人が入党しないのは、入党に値する内実になっていないからであり、一層の内的激励を要するばかりである。これさえできれば、後はうなぎのぼりに日の目を見るだろうと。そういう意味で、ホームページの充実、活動の紹介と実態を精査するばかりです。

 もし、躊躇している方が居れば、どうぞ受身ではなく、自分が主体者としてその役割を担うという気概を持って欲しいと思います。やった人にはやっただけの手ごたえと経験が蓄積されます。この差は大きいと考えます。

 両面相まって我が党は今年猪突猛進したいと思います。願うらくは党大会開催まで漕ぎ着けることができますように。党員の皆様、お元気ですか。無沙汰しておりますが、ご連絡ください。

 2007.1.7日 たすけあい党 党首れんだいこ

Re:れんだいこのかんてら時評250 れんだいこ 2007/01/18 19:37
 【マルクス資本論の史的意義考】

幸か不幸かれんだいこは齢60を前にして嵌ってしまったけれども、今時、マルクス資本論を読んでなんになると云うのか。それは既に歴史博物館入りしているのではないのか。否、ますます生命力を保持しているのとでも云うのだろうか。ここがまず問われねばならない。実際どうなのだろう。

その前に、マルクス資本論はどれだけ正確に理解されてきたのだろうか、ここが問われねばならない。聞くところによるアインシュタインの相対性理論に似て、マルクス資本論はその字義通りに読まれていない可能性もある。

 それはともかくとして、日本人の場合、マルクス資本論の意義を問う前に、和訳本が正しく訳してきただろうかが更に問われねばならない。れんだいこは、マルクス資本論の和訳に着手してみて、「共産主義者の宣言」、「ユダヤ人問題について」同様に、既成の訳本では意味がますます以って分からないだろうと云うことが分かった。

 訳がこれだけ違うのなら、今後は誰それ訳のマルクス資本論として流布せしめねば不当だろう。それは何もマルクス資本論に限らず、文化圏の違う書物の訳本全てに共通適用させるべき作法かも知れない。和訳本は決して信用できない。こういうことが分かった。

 それはともかく、マルクス資本論の解読に勤しんだインテリは五万と居るだろうが、なぜ定訳本を生み出さないのだろう。大学の経済学部にはマル経の講座があった由であるが、彼らはせめて資本論の翻訳テキストぐらいは定本化しておけば良いのに。そういう時間はあったろうに。

 様々な訳本が巷にあるのであれば、知恵を結集して誤訳訂正ないしはより適正訳で共同テキスト策定しておけば良いのに。キリスト教聖書がそのようにして出版されていることを思えば、定本ができないことはないだろうに。それとも何か、そういうものを作り出すのは宗教的とでも云って内部から営為を排斥するのだろうか。

 俺は原本派だからそういうものは不要と強がるのもオカシイ。たいした理解能力が無かったことを間接的に証しているのではなかろうか。なぜなら、優れた内容のものを読み取った者は本能的に、それを広めることを希求するものだから。その希求欲が無いということは、あまり意味が分かっていないことを知られるのを恐れる気持ちの方が勝っているだけのことではないのか。

 それはともかく、れんだいこには比較する能力が無いので何とも言いにくいが、経済学というのはこういう風にちまちまと一から論証していくものなのだろうか。マルクス的知の真骨頂であり、誰かが為さねばならない企てだったかも知れない。その点は高く評価する。が、れんだいこには、マルクス資本論の一から説き起こし最終的に全てを解明する式の論理立てと意気込みがまばゆいというよりは却ってこそばゆい。疲れる。
 
 それはまぁ良いとしても、「マルクス資本論の試み」は、我々に何を語っているのだろうか。第一章辺りを読み取ったぐらいで意見を云うのは早いかも知れないが、「半面真理」のようなものでしかないと思っている。それが資本の搾取理論に傾斜し過ぎた為、資本のもう一つの役割である雇用面を軽視し過ぎ、そのことが左派運動全体に奇形をもたらしたと思っている。

 いずれにせよ、この種の社会分析が十分になされると云うことは永久に無いとみなして弁えるべきところを、マルクスは異常とも云うべき情熱で、社会の総体分析の決定版として取り組んでいるように見える。その熱意に、れんだいこはむしろ魂消る。

 それはまぁ良いとしても、日本左派運動は、その資本論をどう遇してきたのだろうか。想定されるのは、読みもしないで、否読んではいるが碌に理解もしていないのに、否理解したからと云ってどうなるものでもないのに、資本論を「全てを解き明かす究極真理のバイブル」と崇め奉って、神棚に供えてきたのではなかろうか。それを思えば滑稽でさえある。

 れんだいこは、神棚に供えたままの資本論では意味が無いと思い、こたびそのご神体を手元に戻して解析に挑んだ。一応第一章第一節、二節辺りを読み進め、第3章の半ば辺りまで訳すに至っている。第3章になると急に妙に長たらしい構文が増えてきて、れんだいこの訳力ではどうにもならない。内容的にも迷路に入るばかりである。何度も読み返し、腕組みしながら思慮すれば理解が伴い、適訳を見出せるのであろうが時間が無い。それに能力が伴わない。そういう訳で、この辺りでひとまず退散することにする。

 それはそれとして、資本論は人民大衆的に読み語り継ぐべきだろうか。一部の学者に任せておけば良いのだろうか。れんだいこは今そのことを考えている。どうしても普及せねばならないものならば、れんだいこは意地でも最後までお付き合いして訳本を完成させねばならない。今は、その意義を評する確信がないので、ここで頓挫させることにする。

 ただ、こうは云える。マルクス主義の集大成作であるマルクス資本論に対して、これをよく読み且つよく精通している者がマルクス主義政党の指導者として登場するのが筋だろう。実際はどうも違うようだ。マルクス資本論とは無縁の指導者が、マルクス主義の名と権威を借りて、非マルクス主義的弁舌を振りまいているという現実がある。日共の宮顕−不破ラインの指導はそのようなものである。

 かの連中は、1955年の六全協で宮廷革命で奪権した異筋の闖入者でしかない。れんだいこが断言するが、日共の宮顕−不破ラインの指導は断じて左派のそれではない。連中の言説に丸め込まれると左派脳がやられることを請合う。だから、本当は、指導者の地位に就かせるべきではなかった。

 この物言いが嘘と思うのなら、現下日共の何でも良い、これは正しい指導だろうと思うものを挙げてみたまえ。れんだいこが悉く反証して進ぜよう。そういう連中の指導によって、日共は既に五十有余年にわたって変調指導をし続けており、自民党も驚く長期安定不倒権力を樹立しているのが現実だ。この認識がなかなか共有できない。

 他方、そういう日共党中央の変質に対抗して生まれた急進主義左派党派も冴えない。思うに、連中は、マルクス資本論をご神体にして、マルクスもどきの社会観世界観で武装してきただけのことではないのか。日共のそれと比べて五十歩百歩ではないのか。だから、前衛の地位を日共にとって代わると公言しながら未だに並び立つことさえできず後塵を拝するばかりなのではないのか。

 ここにきてどうやらマルクス教条主義の虚構も見えてきた。マルクス資本論の例で言えば、一体、当のマルクスさえ未完に終わらざるを得なかった、かの大それた試みでしかないマルクス資本論を真理本であるかのようにご神体にしてどうなるというのか。ご神体を供えて、信仰しているかのように気取ってきただけではないのか。本当は、マルクス資本論は学問的に精通するぐらいで良いのだ。精通したふりをすることはないのだ。

 れんだいこは何を云いたいのか。我々はもう、いったんはマルクスを横に置いて、マルクスよりもマルクスらしい新派の運動始めようや、これである。マルクス主義の歴史的制約、変調さをも見据え、特にそのネオ・シオニズム的思想圏のしがらみから抜け出し、在地型社会主義とでも云うべき新思想を生み出そうや。これである。そうとならば、史上の有益なその他思想をも左派的に取り込み、そのエッセンスを抽出して、ザ・左派運動つうものを新創造せしめようではないか。

 この精神に基づく運動は、喧々諤々の、異論、異端大いに結構の競り合い式共同戦線運動を生み出すもので無ければならない。著作権如意棒を振り回すものであってはならない。人民大衆の知の啓蒙と生活上の活性化を生み出すもので無ければならない。政治と正面から取り組み、いつしか我々が権力を掌握するものでなければならない。そういう思想と運動を獲得しようではないか。これを一応左派ルネサンス運動と仮称する。目下の左派運動は余りにも矮小であり、ルネサンス性が無さ過ぎる。

 方や、今や我が日本の与党権力は、自由、自主、自律的なルネサンス型政治能力を全く欠如しており、ひたすらネオ・シオニズムの傀儡政権化への水先案内に勤しんでいる。自ら好んで売国奴化し、そうすることで自らの権力と地位の安泰を図ろうとしている。誰しも避けられない寿命を考えれば泡沫でしかないのに、そういう小権力に与ろうとしており醜悪極まりない。

 戦後タカ派の生態とはまさにそのようなものであり、品格が悪過ぎる。彼らは、云われるままに教育基本法改正、憲法改正、自衛隊の傭兵的武装派兵、増税による人民大衆の一層の貧困化、それに伴う志願兵化の道を敷こうとする請負師である。まもなく、チェイニー副大統領が来日するようだが、何かきっと重大事を催促されることだろう。

 我々は、この動きに指を加えてただ見ているだけでよいのだろうか。そこが問われているのではなかろうか。れんだいこは、この問いに答える一助になればと思い、マルクス資本論の解読に着手したが、道が遠過ぎる。一体全体難し過ぎる。ちょっとやそっとでは履修できない。そういう訳で、引き続き宿題にしつつ、目前の関心事に対し、我々の頭脳で紡ぐ左派思想と運動を創造した方が賢明と思うようになった。こう理解できたのが唯一の収穫だったと云えるかも知れない。

 そうとならば、この間次第に網がかけられつつある我が国家の予防取締法的法律の繰り出しに断然抗議する事にする。阿呆が政治を牛耳れば、人民大衆生活がますます締め上げられる方向にのみ精出すのは歴史の通例だ。こうして、いわゆる窮屈な社会が生まれつつあるが、その道は違うと乱打する太鼓を打ち鳴らし続けたい。

 先の首相小ネズミ一派が返り咲きを狙って蠢動している。安部政権は、野党によってではなく小ネズミ一派によって潰されようとしている。これでいいのか日本、そこが問われている。

 2007.1.18日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評251 れんだいこ 2007/01/20 20:17
 【予防規正法洪水考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 最近思うに、予防法的悪法が無造作に導入され過ぎていやしないだろうか。これが悪意なき導入であればまだしも、意図的作為的に拵えられ、人民大衆生活規制の網が被せられていたらどうする。誰も問題にしていないようだが、れんだいこのアンテナにかかってしようがない。そこで、この問題を愚考することにする。

 今まさに導入されようとしている共謀罪はその典型であるが、盗聴法ともどもで、民間スパイが要請されることになるだろう。互いが監視と密告し合うと云う恐ろしい社会が作られようとしている。その癖、権力派の共謀は不問で、反権力派の共謀に適用されるというのだから、ご都合主義なことこの上ない。ひとたび権力握れば鬼に金棒になりそうだ。

 共謀罪の地ならし前段階として、このところれんだいこが知る限りでも嫌な法律が増えてきた。昨年の駐車禁止法も然りである。市街地の不法駐車を取り締まると云う名目で発動され、一方的に摘発に踏み出した。反感よりも支持する論調が多い為、問題にされていないが、れんだいこには大いに問題ありと云う気がする。

 れんだいこは、駐車禁止法を導入するなら、少なくとも5年前から喧伝し、その間、国及び自治体には駐車能力を高めることが義務付けられて然るべきだと思う。駐車場を持たない店舗が対応するなり、移転するなりの猶予期間があってしかるべきだと思っている。かの小泉時代にまさに小ネズミらしいやり方で鳴り物入りで暴力的に適用された悪法であると思っている。ところが、野党も同じ穴のムジナで、特段の抗議を挙げていない。むしろ積極的に後押ししているような気がする。そういう野党は要らん、くたばってしまえ。

 飲酒規制法も然りである。なるほど、駐車禁止法同様に大義名分があり、飲酒に伴う事故が後を絶たないので時宜にかなった法のように一見見える。しかし、酒気帯び運転の罰則金を仮に5万円から50万円に引き上げる手法は解せない。なぜ50万なのか、理由がはっきりしない。れんだいこは、消費者金融業団体が後押しした、いわゆる利権法なのではないのかと疑っている。金額で規制するのなら、いっそのこと100万円、1000万円、1億円に釣り上げてしまえ。

 飲酒規制法は更に、同乗者罰則規定をも導入している。更に、酒類提供者罰則規定をも導入している。こういう芋づる処罰法なぞおかしくはないか。こう原理的に問う声がなく、抜け穴探しとか悪知恵を働かす方に関心を向けたがる。代行運転業団体は歓迎しているようだが、全体として街へ飲みに繰り出す者が減れば、一時効果でしかなかろうに。昨年から今年にかけての飲み屋街の好不況の実態を知りたいが分からない。恐らく、店舗を閉める店が続出しつつあるのではないかと推測する。飲食業はまさに踏んだり蹴ったりの散々な目に遭わされているので可哀想。

 音楽著作権料支払い拒否カラオケ利用店舗取締法も然りである。最近どこかの県警が張り切って摘発していた。なるほどこれも、一方の話を聞けば、無断で音楽を聞くなり歌うなどして商売に利用するのはけしからんということになる。最近の全域全方位拡大著作権論者が当然論を振りまいている。しかし、れんだいこの見立てるところ、一見正論のようで実は悪法なのではあるまいか。一体、これまで流行歌が生まれてきたのは、音楽を聞くなり歌うなりの広範な裾野があってのことなのではないのか。歌は口ずさまれるべきものであり、その練成によって愛好家が生まれ、CDの一つでも買ったり、演奏会やディナーショーに出向くようになる。してみれば、裾野を広げる場所を提供する者は、援交して役立っているのであり、逆ではない。これを規制する方がオカシイのではないのか。

 そもそも、カラオケ機器販売ないしリース業者は、業者段階で一括して相応の著作権料を支払っている。末端の我々が口ずさむのに二重取りされる必要はなかろう。しかも、歌った歌が判明して、それに課せられるのではない。そういう技術が追いつか無い限り徴収してはいけないところ、店舗の面積に応じて課金されている。あるいはカラオケ機器の台数で課金されている。その課金も全体徴収額がいくらで、いくら著作権者に廻ったのかもはっきりしていない。恐らく、徴収団体の人件費や経費に大方食われているのではなかろうか。何しろ、著作権管理団体は文部省の天下り先であるからして、連中の利権がらみの臭いがする。

 賞味期限法も然りである。不二家が摘発されたが、一体、被害が出ていないうちの摘発は罰則を減ぜられるべきで、被害後の摘発は逆に重課されるのを相当とすべきではなかろうか。産地法も然りである。そういえば、広告文章規制法も然りである。驚くことに今や、「特選」という言葉さえ規制されると云う言葉狩りが作動している。明らかな誇大広告なり不当広告なら規制されても致し方なかろうが、「特選」表記のどこがいけないのか。エエカゲンニセンカイ。

 以上、思いつくだけでも、嫌な法律が目白押しで生まれている。今後ますます増えるだろう。これのオカシサの真因はどこにあるのだろうか、それを愚考してみたい。れんだいこはいつでも述べることができるので、本投稿では書かない。要するに、あの手この手で、ネズミの集団が崖っぷちへ向かって走りこんでいる姿が見える。誰かが逆規制して流れを変えなければならないのだが、与野党共々、もっと規制せよもっと強くの大合唱している。お調子もんが、旗を立て笛を吹いている。いつからこんな世の中になってしまったのだろう。これは偶然であるのか、そこを問いたい。

 2007.1.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評251 れんだいこ 2007/01/22 20:58
 【イザヤ・ベンダサン氏の「日本人とユダヤ人」の一節考】

 イザヤ・ベンダサン氏の「日本人とユダヤ人」(山本書店、1970.5.20日初版)を手にして読んでみた。そこには、いわゆるホロコーストについて次のように記している。

 「これから先は、ユダヤ人である私には、書くのが苦痛だが、アウシュヴィッツとはまさにそういうものであった。だから、このユダヤ人という、伝染病にかかった家畜は殺されて焼かれた。そして家畜だから、当然のことのように、その骨は肥料にされ、その髪は何かの原料にされ、その他、利用しうるものは全て利用され、その上、遺族には屠殺料が請求された」。

 学生時代のれんだいこなら、ほんにナチスは酷いことをしたものよ、それにしてもユダヤ人は何と可哀想なことか、と思ったに違いない。そう思うように、我々は、戦後教育において、ユダヤの悲劇については可哀想と同情する心象を植えつけられてきた。同時に、現に繰り広げられているパレスチナ−中近東一体のイスラムの悲劇については無関心を装うことのできる心象を植えつけられてきた。それほど親ユダヤ的に洗脳されていることを気づかず、戦後政治と教育とマスコミ三者連合の繰り返しの刷り込みによって、歴史的ユダヤ同情論を当たり前と思うようになっている。

 こういうことを云うと、西欧では極右とみなされ法的に罰せられている。幸いなことに、我が日本では今のところ大丈夫たが、まもなく取り締まられることになるのだろうか。

 しかしだ、イザヤ・ベンダサン氏の「その骨は肥料にされ、その髪は何かの原料にされ、その他、利用しうるものは全て利用され、その上、遺族には屠殺料が請求された」の根拠を知れば更に合点できように、ホロコースト吟味に向かわせないよう、ひたすらそう思うように仕掛けられているとすれば不正ではないのか。不正の上に成り立つ論拠はいつでも怪しい、我々は経験的にそのことを知っている。

 ところでどっこい、戦後60年を過ぎた節目辺りから、「いわゆるホロコースト」は戦後最大の歴史的偽造事件であることがますます判明しつつある。目下イランのアフマディネジャド大統領が精力的にこの問題について取り組んでいる。先ほどは国際会議を開いたようである。会議での具体的なやり取り、その水準が分からないが、政治議題に挙がったこと自体が歴史的意義を持つだろう。今後ますます虚構性が暴かれることだろう。

 そろそろ、このウソの仕掛け人が誰なのかを明らかにせねばならないだろう。れんだいこの知る限り、ネット畏友の木村愛二氏が取り組んでいるようである。更に深められ、分かりやすく伝達してくれることを願う。

 翻って、これまで、このウソを誰が吹聴してきたのかを明らかにせねばならないだろう。これは、人民大衆が自生的に語り伝えたものではない。明らかに知の外入であり、これを請け負った知識人が居る筈である。続いて、戦後左派運動が、このウソの尻馬に乗って反戦平和思想の橋頭堡としてきたことも見据えるべきだろう。今や、彼らの責任所在を明らかにし、しかるべき自己批判を要求せねばなるまい。我々は、虚構論理及び論法及び運動と決別せねばなるまい。

 西欧の反ナチス用ホロコースト、それに見合う形での東洋の反日用南京大虐殺事件は、東西の大虐殺事件として喧伝され、マスコミ電波を通して繰り返し聞かされ、左派圏でも同様のロジックを振りまくことで、我々は右に行こうが左に行こうが洗脳される羽目になった。

 そこでは、東西の両事件をより厳しく指弾すればするほど左派の証であるとする論理と論法が組み立てられており、これに一点の曇りなき確信を持つことがより左派的一丁前であるかのように仕組まれている。今日でも、この類のロジックを説き聞かせる弁士がゴマンと居る。

 れんだいこはかって、そういう弁士になれなかったことで左派の席から降りた。しかしあれから三十数年、これらの弁士の素性が明るみにされつつある。連中は本当は左派とは無縁の、単にユダヤナイズされた歴史テキストを鵜呑みにするしか能のない、愚の骨頂型エセインテリでしかなく、それを説くことを商売にしている単なる雇われもしくはお調子乗りであることに気づき始めた。そういう目で連中の過去のあれこれ、現在の運動論を精査すると、上記の思いは確信に達するようになった。

 残念なことに、この種のインテリは社会党は無論、何も日共周辺ばかりにたむろしている訳ではないことである。反日共を掲げ対抗してきた新左翼も同様に陳腐でしかない見解を未だ護持している。れんだいこの理解に誤りなければ、彼らの戦前批判の視点は、社会党、日共のそれとさほど変わらない。悪いのは軍部であり、帝国主義の為した仕業であり、明治維新はブルジョア革命であるからして好評するには足らない云々という歴史観から一歩も出ていない。

 僅かに、現実政治を批判する行動が直接的で、社会党、日共のそれよりも急進主義的であるに過ぎない。運動論的に、ユダヤ対イスラムに於いて、社会党、日共が親イスラエル的であるのに比して、新左翼がイスラムのレジスタンス運動を高く評価しているという違いがある程度である。問題は、行動は理論に裏打ちされるべきであるからして、、一刻も早くユダヤナイズされた歴史テキストの線から這い出ることであろうに。

 こうなるともはや明らかだろう。既成サヨは病膏肓ゆえに論外として、新左翼こそはユダヤナイズされた左派運動と決別して、それに変わる別の、例えば在地型左派運動を創出せねばなるまい。この地平から虚構の反戦平和論を撃たねばなるまい。反ナチ、反天皇制軍国主義に対するお灸理論でしかない薄っぺらなものと決別し、歴史を見直し、昔から今に至るまで一貫して真の好戦勢力である拝金教徒ユダヤ教パリサイ派しかして現代のネオコンに至るネオ・シオニストに対抗する新反戦平和論を打ち建てねばなるまい。

 アンネの日記に涙するのなら、同様の心情で今現に血が流されているアラブの悲劇を語れ、「喝!」。あれはテロリストだから成敗されても仕方ないと云うのなら、ブッシュ派の所業は何なんだ。内政干渉戦争テロではないのか。そう問う目を瞑るその精神を恥じよ。ブッシュ派の所業を正義と思うなら、お前はかくまで深く洗脳されていることに思い至れ。お前がサヨなら、国内的に左派ぶっているだけで、国際的には極悪反動陣営に列なっている雇われ右翼である事を知れ。

 付言すれば、西欧極右と報道されている連中の方が実は左派的であったりして。もっとも、右派と左派の定義が少々難しいが。イザヤ・ベンダサン氏の「日本人とユダヤ人」の一節に対し、れんだいこは以上の見解を述べておく。

 2007.1.22日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評253 れんだいこ 2007/01/30 21:08
 【たすけあい党の緊急声明、チェイニー来日粉砕闘争を呼びかける、急げ】

 2006.1.30日、安部政権は閣議で、米国のチェイニー副大統領が2003.4月以来の来日で、2.20日から22日までの日程で訪日(公式実務訪問)することを了承した。安倍晋三首相や麻生太郎外相らとの会談や天皇陛下との会見が予定されている。ブッシュ米大統領が発表したイラク新政策や北朝鮮の核問題への対応、在日米軍再編などについて協議し、日米の緊密連携の重要性を改めて確認する見通しである。

 たすけあい党は、チェイニー副大統領来日粉砕闘争を呼びかける。なぜなら、チェイニー副大統領こそ米国の実質的な黒幕大統領であり、この間の戦争政策の最高責任者であるからである。このような御仁が来日する意図を読み取れば、会談により日本が更に戦争加担させられ、極めて危うい状況に引き込まれることが疑いない。我々はこの反動会談を指をくわえて見過ごすことができない。よって、チェイニー来日粉砕闘争を呼びかける。

 残念ながら、我が党は東京に拠点を持たない。しかるべき党派による共同戦線運動呼びかけを期待したい。かの60年安保闘争時のアイク訪日阻止闘争の成果を想起せよ。日本人民大衆はかってこれを勝ち取り、その後の内治優先政策を誘導し、未曾有の経済的発展を得た。それは、日本左派運動と政府自民党内のハト派との阿吽の呼吸による連衡運動であった。日本はこの時期、真の国際的協調、平和友好政策に舵を取り大いに世界に貢献した。

 ロッキード事件でハト派の総帥田中角栄が捕捉され、田中−大平ハト派同盟が鉄槌を食らわされたことにより、日米反動勢力の後押しでタカ派の総帥中曽根が政権を握った。以来、今日の小泉−安部政権に至る過程は、タカ派の純化増殖過程以外の何物でもないお粗末な政治史でしかない。それは同時に売国傀儡政権化への道のりでもあった。そして、この道のりは、現代世界を牛耳るネオコン即ち現代ネオ・シオニストの焚きつける世界戦争化への道のりでもある。

 我々は、先の大東亜戦争の敗北を貴重な経験として、二度と戦争の無い世界創造に尽力することを国際的に誓約することで戦後を踏み出した。あれから60年有余、この国是は国際社会に歓迎され有効に作用機能してきた。今、国際反動勢力により頻りに、この政策の廃棄が要求されている。

 こともあろうに中近東紛争への日本軍の投入が策謀されており、アジアとアラブの抗争が仕掛けられようとしている。これを牽引するのがチェイニーであり、安部政権は御身の政権保全と引き換えに全面協力を強いられようとしている。

 安部政権は、チェイニーにイエスしか云えない状況にある。してみれば、今や国難に遭遇している。こう捉える歴史眼が要求されている。れんだいこの眼には、チェイニー来日が黒船来航と重なる。時代を画する凶暴なる悪事が共謀されようとしている。御意の同志よ、共に決起されんことを。日本左派運動諸党派がひさかたの大型阻止闘争を組み、共同戦線で立ち向かい、集結場所から国会へ向かう大隊列を生み出さんことを。我が党はかく提起する。今からでも遅くない直ちに組織せよ。

 2007.1.30日 たすけあい党 党首れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評254 れんだいこ 2007/02/05 19:52
 【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂う】

 れんだいこがなぜこの問題に拘るのか。それは、本末転倒現象が濃厚に認められるにも拘らず、その論が正義の美名で後押しされている不正を嗅ぎ取るからである。丁度、左翼党派に異分子が闖入して、左派運動を捻じ曲げている現象と通底しているからである。根は同じということになる。

 れんだいこに云わせれば、スナックであろうがカラオケボックスであろうが、機械を設置しただけでは音楽著作権料を課金されるには及ばない。どうしても徴収するというのなら、あくまでも実際の歌唱選曲に対して課金されるべきであろう。店主は、それを誘引しているわけだから、ジャスラックに感謝されこそすれ、告訴されたり逮捕させられる覚えはなかろうに。

 ところが、実際には、顧客の歌唱に応じて課金されると云う機械は開発されていない。ならば、それが開発されるまでは課金されてはいけないというべきだろう。なぜなら、アイデア段階にとどまっているのだから。アイデアだけでは権利行使できないのは常識である。もし、アイデアだけで認められるのなら、アイデアマンのれんだいこなぞ一夜にして超セレブになろう。

 こう弁えるところ、天下り団体のジャスラックは、権力をバックにして、泣く子も黙る鬼の取立てに忙しい。これにより高額料金が課せられることになる生演奏系店主が被害を受け、抵抗するや訴訟され、遂には逮捕にまで及びつつある。その癖、テレビ、ラジオ、優先などの歌番組に課金されたと云う話を聞かない。あれはどうなっているんだ。年末の紅白歌合戦は著作権料払っているのかいな。

 こう考えてみると、要するに弱い者イジメしているだけではないかと思えてくる。民間企業は、商店は今や青息吐息の苦しい経営を余儀なくされているところが殆どだろう。そこへ、新たな徴税人がやってくる。権利と国家権力をバックにして恫喝してくる。NHKの徴収なぞは手ぬるい方で、こちらはれっきとした歩合給でせかされた社員がやってくる。裁判するぞ、逮捕されるぞとの脅しは開口一番の乗りである。

 こういう実態を野放しして良いのだろうか、と問うのがれんだいこである。ところがいけない、自称知識人は、それは知的所有権であるからして払うのは当然で、それが分からないのは文明人ではないと云う。おいおい、どちらが野蛮人かはっきりさせようか。

 それはともかく、音曲文化を育てると云う名目で実際には逆の倒錯行為ばかりする現象を規制する知恵は無いものだろうか。このままでは、流しのギターも、店内ピアノ演奏も、生バンドも、ひょっとしたら花見や宴会の席での歌唱にも支障が出よう。スナックも、家賃やカラオケリース料や酒代や給料や光熱費の支払いで舞が回らないところ、更に課金されるのでダメージが深い。

 こうして、ジャスラックの奮闘によりますます音曲文化の灯が消されるという皮肉なことが起こっている。考えて見れば、政治家が下手な政治をすることによりますます世の中が悪くなっている現象と通底している。何とかせんとなぁ。

 この問題については、れんだいこの最新の論文集にサイトアップした。ご意見頼む。

 2007.2.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評255 れんだいこ 2007/02/06 20:06
 【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその2】

 JASRAC(日本音楽著作権協会)の取立てに対して妥協、逃げ口を目論む者は却って掴まる。れんだいこは断然、JASRAC的攻勢に対する逆攻勢で立ち向かうべきだと考える。JASRACは元来、他の財団的団体と同じで、その業及び業者の保護と振興の為に設立されていると考えるべきだ。それは、業者の保護のみを突出させるものではない。

 発想を変えて考えればよい。もしJASRAC的音楽管理権を主張し得るならば、ラジオはラジオなりに番組管理権を、テレビはテレビなりに同種の権利を主張し得るのではなかろうか。しかしてそういう話は聞かない。NHKのみが受信料を取立てているが、これは国策によって認可されたものである。それでさえ多くの不払い者を抱えている。もっとも料金が高すぎると云うこともある。

 一般に、財団的意味合いの強い団体は、「その業及び業者の保護と振興」のバランスを第一義にして活動している。そういう仕組みになっている。そういう基準で認可されている。JASRACだけ例外とするには及ばぬ。JASRACも元々はこの種の弁えをもって発足したと思われる。それがいつしか利権団体に転化させられと思われる。誰が舵を切ったのか、この辺りが解明されねばならない。

 こうして、本来なら表彰せねばならない音曲文化愛好者を逆に告訴し逮捕に及ばせている。この姿勢が改められる様子はなく、一罰百戒的に成敗したとのたまう始末である。欲ボケ極まりの感が有る。JASRACは一刻も早く、他の団体がするように、管轄する業の普及者を毎年顕彰するような機関に転化せよ。

 問題は、こうしたJASRACを叱りつける団体が居ないことである。なぜなら、手前たちもどんどんJASRAC化させているからである。せいぜいJASRACほど強引な権利主張していないというだけのことである。新聞、テレビ、出版、図書館、学会、政党これら皆が皆今では揃いも揃って生硬な著作権主張者に成り下がっており、為に批判しようにもできない。皆で首を絞めあうことを恍惚する同じ穴の特権ムジナでしかない。

 れんだいこは、カラオケ機器の場合には、第一次的にカラオケ機器販売業者が著作権料を支払っており、その料金込みで販売したりリースしている以上、それを設置した店舗が負担するには及ばないと考えている。現在多くのスナックが裁判沙汰を恐れて支払っているようだが、二重払いの気がしてならない。故に、今までに払わされたきた料金は違法として逆取立てすればよかろう。初年度からさかのぼれば結構な金額になるのではないのか。

 どうしても請求したいのなら、実際に歌唱した者から取ればよかろうが、そのような機器は開発されていないので確かめようがない。ならば取れないと弁えるべきだろう。そこで、編み出したのが、店舗の面積割り計算式による取立てである。しかしそれは余りにも胡散臭い。歌唱と店舗の面積は何の関係もない。一体、こういう計算で、どうやって著作権者に利益分配するというのか。彼らの言わんとする本来の趣旨は、著作権者に支払う為の音曲利用に対する権利主張であるからして、実際に歌われた音曲に応じて分配するものだろうに、面積割では誰にどう払うのか計算できないではないか。

 生演奏店となるとかなりの面積の店舗が多いであろうから、請求額も高くなる。出演料支払いもあり、その上高額の音楽著作権料まで払わされたら死活問題になるではないか。こうして生演奏店や楽器演奏店が閉鎖に追い込まれつつあり、それでも音楽の灯を守り続けようとする経営者が逮捕されつつある。おかしいではないか、こう問うことから、この問題を解かなければならない。

 JASRAC的取立て攻勢を容認する者は、事態の深刻さが何も分かっていない。ここには、最近の全域全方位型著作権化の動きに対する是非が問われており、それは勝れて思想的哲学的問題であるということを認識せねばならない。いわゆる知的所有権の野放図な拡大が文明の貧困を招きつつあることに対して、それに加担するのか抵抗するのかの問いかけが為されねばならない。

 幸いなことに、憲法同様に著作権法も、次第に切り崩されつつあるとはいえ、本体は抑制的な法文を戴いている。我々は、それ故に、改正前の今のところは法の正義の名において、蹂躙者に対して闘うことができる。問題をややこしくさせるのは、憲法では護憲を云う者が著作権法では改正派の者が多いことである。れんだいこは故に、連中の護憲論なぞ胡散臭くて端から信用しない。

 JASRAC問題はこのように関係してくる。最も露骨な強権著作権を主張し、実際に権力を行使しているJASRACと闘うことは故に護憲に繋がる。我々はかくて、法の空洞化に対する抵抗戦線を押し広げていかねばならない。護憲と強権著作権を並立させて何とも思わないサヨ的在り方とは違う我々の戦いの戦線を構築せねばならない。我々の開放型の文化空間を創出せねばならない。こういうことになろう。

 2007.1.6日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評256 れんだいこ 2007/02/12 12:31
 【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその3】

 JASRAC問題をここまで考察してみて、官僚の天下り利権構造もさることながら、その背後にはJASRAC構成員である音楽著作権者(いゆゆる作詞家、作曲家等々)の後押しがあり、この圧力こそがJASRAC問題を作り上げている真因ではなかろうかということに気づいた。

 彼らも又現行のJASRACに不満を抱いているが、その声を聞き分けると、どこで知恵をつけられたのか何と!自分の著作物が無断利用されるのが我慢ならない、もっと権利主張せよ、取り立てよという類のものである。それは、れんだいこの不満とは正反対に位置している。

 彼らの権利主張は、著作物の利用請求権ないしは「享受対価著作権」なるものと了解できようが、最近こういう権利が万展開されつつある。我々は、著作物の利用請求権ないしは「享受対価著作権」なるものに対して原点から考えてみる必要がありはしないだろうか。れんだいこが知らないだけかもしれないがそういう論考にお目にかかったことがない。そこで、いつものように体を張って解析してみる。初見ということで面食らう向きの方も有ろうが、十分に傾聴に値する筈である。

 音楽も又いわゆる芸術ないし技芸の範疇で考えることができるが、芸術ないし技芸にこういう「享受対価著作権」なる権利を発生せしめて良いものだろうか。史上、これまではとんと無かった珍しい権利なのではなかろうか。しかも、何故に音楽著作権だけが突出して「享受対価権」を主張し、著作権者はそういう権利を逆享受でき得るのか。この問題の哲学的思想的文明的考察をせずんば事態は何ら解決しないのではなかろうか。誰かこの問題を解ける者が居るだろうか。れんだいこはかく問題を提起たい。

 いわゆる芸術ないし技芸に著作権を持ち込み始めたのは何時ごろからであろうか。今日では当たり前の如くに認知され、これに得心するのが文明ナイズの証とでもするような風潮が有るが、そんな遠い日のことではない。たかだかここ百年ぐらいの闖入でしかない。れんだいこの見るところ、最近の全域全方位著作権は変態知のような気がする。この変態知は社会の発達と共に自然に形成されてきたのではなく、意図的人工的異物的に編み出された拝金病に列なる権利の一種なのではあるまいか。それは文明ナイズ化と云う美名で押し付けられつつあるが、文明の進歩ではなく退歩なのではなかろうか。

 この変態知的全域全方位著作権論は、丁度、近世から現代にかけて西欧列強が世界を植民地化した際の論理と史実の経緯に酷似している。変態史学はそれを文明化と云い為して正当化して教えているが、真相はまったく違う。西欧列強に植民地化された諸国は、西欧列強の火器と狡知に負けたことは史実であるが、未開であった訳ではない。その国固有の歴史と風土に規定されたそれなりの発展段階を示していた社会を生育させていた。尺度を変えればそれなりに文明ナイズされていたところ、西欧列強の野蛮な収奪により破壊されただけのことである。

 彼らは、侵入してきた西欧蛮人の危険性を認識する能力に欠け、道徳的に長け、当初共通して礼節でもてなしたことが判明している。西欧蛮人は、シルクロード史のように東西の文化交流に向かうのではなく、礼節でもてなす連中に対し、文明化と云う名目で懐柔と分断政策で篭絡し始め、彼らが気がついた時には既に遅く反発すれば根こそぎ殺戮された。 被殖民者は、西欧蛮人の狡知に負けたのは史実であるが、彼らを未開人扱いするのは歴史の歪曲であろう。これを未開と云うのなら、文明とは如何に薄汚れた狡猾なものであることか。

 れんだいこの目には、昨今の全域全方位著作権振り回しは、この時に征服者側が論拠とした文明化論的正当化の論理に似ている気がする。あの時、原住民側は、そういう文明化は不要と拒絶すべきであったが、耳慣れない新しい概念により騙されてしまった。これを思えば、我々は、著作権万能に向かわせようとしている知とそうはさせてはならないと思う知の対立を知るべきである。我々は、そのどちらに組して物申すのかを旗幟鮮明にせねばならない。

 著作権万能に向かわせようとしている知とそうはさせてはならないと思う知について、思うところを述べてみる。著作権万能に向かう知の実態は、現代世界を牛耳る国際金融資本派がこれを推し進めており、いわゆる拝金商法的資本主義化知であり、そこから由来する「知の囲い込み」であろう。そうはさせてはならないと思う知とは、伝統的在来知然りであり、社会主義化知もこれに列なる。知には分岐するレールが敷かれており、我々はどちらのレールに乗り、又はそのどちらの側で理論形成するのかと云うことが問われている。この識別なしの知一般的物差しで全域全方位著作権論を押し進める者は最も貧相な知であり、前者の回し者でしかない。

 れんだいこに云わせれば、近時の左派政党が、政論その他著作物に対して排他的著作権を堂々と主張しているのはお粗末の極みである。彼らは口先では資本主義体制を批判しながら、既に著作権論では堂々とたっぷりと社会の一層の拝金商法的資本主義化のお先棒を担いでいることになる。馬脚がこういうところで露われているというべきである。

 宮顕−不破系日共党中央時代に、日共の著作権主張が開始されている。彼らの弁舌を聞けば、なるほど既に体制修繕屋でしかなく、云うことと為すことの辻褄は合っている。それなら、党名をそれに相応しいものに変えればよいのに、共産党と云うそれなりの心血と由緒を持つ党中央の座椅子を放そうとしない。あたかも党名を変えぬままこれをやるのが任務としているようである。この落差に気づかぬ者も節穴過ぎよう。


 2007・2・12日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評257 れんだいこ 2007/02/12 12:43
 【ジャスラック暴力により音楽愛好普及経営者が逮捕されつつある現状を憂うその4】

 最近の全域全方面的著作権論は、知的所有権の保護の美名の下で、これまで未踏分野である「著作物の利用に対する課金」を当然視しつつある。これは、著作物に於ける「引用、転載の要通知・要承諾権」の発展系であると思われ、引用、転載の要通知、要承諾の代わりに課金しようというものではなかろうか。音楽著作権がその先鋒を為しつつある。(以下、「享受対価権」と命名する)。最近この種の課金が増えつつあり、リース関係の貸し本やビデオにも適用されつつある。こうなると、公営図書館の貸し出しもいずれ有料化され始めるだろう。

 ところで、音楽著作権の厄介さは、音楽が芸術ないし技芸の中で飛びぬけて愛好汎性が高いことに認められる。恐らく音楽は人間の本性の最も深いところに関係しているのであろう。人は音楽なくしては存在しておらず、いわば空気のようなものとして否応無く馴染んでいる。故に、そのようなものに「享受対価権」的関税を設けると、その金額が天文学的にならざるを得ない。つまり利権大鉱脈が出現することになる。

 このようなものに「享受対価権」的関税を設けることの適正が問われねばならないにも拘らず、いわばムードでこれが正当化されつつある。れんだいこは、これを断ち切らねばならないと考える。あるいは利権大鉱脈の温床とならない程度に「享受対価権」を徹底して低く抑える以外には無いと考える。なぜなら、音楽も含め芸術ないし技芸はなべて稽古事であり、稽古事教材に使われるのは栄誉であっても、教材自体がカネを産むようなものであってはならないと弁えるべきであろうから。

 大衆が自然に愛好する稽古程度のものに金がかかるようでは技芸は普及しない。そういう無償の稽古を経由して、或る段階の習熟度に達した者たちが彼らの世界を作り、中には家元制度を生み、その中で互いの生計を維持する為の工夫をする。それが上手く機能することによって伝統が守られ育成発展する。これまでそうやって成り立たせてきた世界であり、それは何も著作権の世話にならなくても成り立つ。いわば自由、自主、自律的に構築されてきた世界であり、拝金病に冒される必要はない。

 この仕組みを思えば、人が任意に芸術ないし技芸を稽古するのは、業界からすれば有り難いと思うべきで、稽古を制約するようなことをすべきではない。それは逆行であろう。裾野形成を怠る者は、ひいてはその世界の衰亡に道を開く者である。これを思えば、芸術ないし技芸のそれぞれの団体は、そもそも稽古を奨励する側に回るべきで、抑圧する側に立つのは背任であり、いわゆる本末転倒である。かく認識すれば、「享受対価権」は、本末転倒であるが故に認めてはならない。

 こたび、生演奏ないしはピアノ演奏を売りにする店舗経営者が逮捕されたが、本来は彼らは音楽普及功労者として表彰されるべき側の者である。そういう人物が告訴され逮捕されるという本末転倒を許してはならない。しかしながら、こういう事象が正義として罷り通っている。というか、誰も咎められない。なぜなら、それぞれの職域の者及び団体が今やそれぞれの「享受対価権」的著作権の競い合いをしているからである。これをインテリを自称する者が熱心にやるからお笑いである。

 さて、れんだいこ見解の如く「享受対価権的著作権」を否定したとして、では、業界の者は何によって生計を立てるのか、という問題を考察せねばならない。この問題を解くには、「享受対価権的著作権」が発生していない時代の業界人の生計ぶりを考えればよい。果たして、飯が食えなかったのだろうか。れんだいこは、十分ないしはそれなりに食えたと思っている。なぜか。不断の普及活動によって裾野が広く形成されており、そこからそれなりに合理的な収益システムが形成されていたからである。本質的に見て、それで何ら不都合ない。

 近時の「享受対価権的著作権」は、目先の利権を掴むことにより、従来の広大な裾野形成による生計システムを破戒し、ファン層を先細りさせている。やがてそれは業界の首を絞めることになろう。それが分かっていながら止められないのは、既に権利中毒に冒されているからである。彼らは、この世の全てのものを権利と義務と金銭多寡で推し量ろうとする。そうしない者を未開人と決め付け、文明化と云う名で教育し直そうとする。果たして、我々は本当に、そのようなもので教育されねばならないのだろうか。そのような文明人にならなければならないのだろうか。

 音楽で考えてみよう。歌手、作詞家、作曲家、その他関係者は、作品を拵え、普及せんとすることで利害を一致させている。これが成功するとヒット曲となり、レコードが売れ、出演料が入る等々で相応の報酬が入る。ショーが満席になり、本を出せば売れる。音楽指導料が取れ、ゲストとして招かれることが多くなり、これにますます成功すれば業界の顔役となる。更にヒットを重ねれば更にそうなる。ヒット作を創造できない者はヒット者の前座を務めたり後塵を拝する。それは仕方ないことではないのか。

 これが世の倣いであり、それで良いではないか。今までみんなそうしてきたではないか。それを、人が歌えば歌を盗られたとでも勘違いしてかどうか、一曲歌えば幾ら、面積で幾ら払えなどとする神経がサモシイのではないのか。元々言語も五線譜も誰かが発明し無償で提供しているものではないのか。それを使って欲張りするのは如何なものだろうか。どうしてもそうしたいのなら、従来言語、五線譜に代わる自前のものを創造してから言え。それなら理屈が合っていよう。今流行り病のように音楽著作権を主張して、一曲歌えば幾ら、面積で幾ら払えと手を出す者は、どっかで頭脳の配線が狂わされたに違いない。その論を後押しするものが居るからややこしくなる。それだけのことだろう。

 れんだいこは歌が好きである。それも音痴と云われる時代からやっと人前で歌えるようになった経緯があってこその歌好きである。次に好きなのは囲碁将棋である。この問題を囲碁将棋の例で捉えれば、棋譜が著作権に値するのだろう。しかし、囲碁将棋があるいは棋士が、棋譜著作権を盾にして幾ら払えなどと請求した事例を聞かない。碁会所に対し、囲碁将棋著作権を主張して対価を要求した事例を聞かない。それは、囲碁将棋界の者が文芸に関する見識を保持しているからであろう。その他文芸界の多くがそうであろう。

 しかしながら、世の中に次第に拝金病が蔓延しつつある。何より好きだから飯が食えればいいんだ俺はいう気分の値打ちが軽視され、カネの上積みこそ我が生き甲斐とばかりな芸術商売家が増えつつある。そういう訳で、利用対価著作権時代が襲来しそうでも有る。しかし、芸術商売家は不思議なことに良い作品を残さない。嫌な時代なってきた。

 2007.2.12日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評258 れんだいこ 2007/02/17 20:08
 【左派運動圏に於ける日共式穏和主義反対運動の欺瞞性考】

 ここで「左派運動圏に於ける日共式穏和主義の欺瞞性」に言及しておく。日共は、1955年の六全協で宮顕−野坂派が指導部を簒奪して以来、左派運動内に穏健主義の種を蒔き、右傾指導に熱中してきた。それだけならまだしも、逆に急進主義的に闘う者、党内の非イエスマンに対しては暴力的牙を剥いてきた。

こうして、「権力に対する穏和主義、闘う者に対する急進主義」という倒錯運動が訝られず今日まで経緯している。そういう執行部が延々50年以上に亘って日共を指導し、党中央を形成している。今も彼らは党中央の座椅子を手放さない。こういう変態運動が罷り通ってきたという事象に対して、そろそろこれを総括せざるをえまい。

 れんだいこが注目するのは、政治スローガンに見る「反対」表現を好み、粉砕表現を嫌う裏意図である。60年安保闘争時の指導が如実に物語っているので、これを検証する。興味の有る者は、「れんだいこの戦後政治史1960年」の項で確認すべし。

 この時、日共は、世上の通念と違って悉く闘わない方向へ指導してきたことが判明する。60年安保闘争の昂揚は、れんだいこの見立てるところ主として、穏和主義を社会党が、急進主義を第一ブントが担うことでもたらされた。我々は、ここで、穏和主義と急進主義の共同戦線化による成功事例を学ぶことができる。

 ところが、日共は、そのように了解しない。手前たちの運動こそが是であり、それ以外の運動は非であり、もし共同戦線に立つならば、ひたすら右傾化させる条件に於いてのみそれを欲する。即ち、排他的独善的右傾化を特質とする。かくて、その運動は、より多くの者たちを参加させるためと云う口実で幅広主義を採る。その結果、政治スローガンも最も穏和な「反対」表現を常用する。それは気の抜けたびーるのようなものでしかない。

 しかして「粉砕」とか「阻止」なる急進的表現は、使用しないのではなくサセナイ。デモも、秩序だった請願デモを好む。間違ってもジグザグ・デモはサセナイ。60年安保闘争では、実際にこれを廻って議論が白熱している。こういうところは学ばないと分からない。

 その結果、日共式反対主義、穏和な請願デモでは闘った気がしないと感ずる者たちは、ブントのデモに出かけた。お焼香デモ粉砕を叫び、ジグザグ・デモで鬱憤を晴らした。その第一ブントは、国会議事堂にも羽田空港にも首相官邸にも突入し、シュプレヒコールで気勢を挙げた。多くの逮捕者を出し、多くの者が負傷し、樺美智子女史が死亡する悲劇もあったが、幅広主義が幅広くしなかったのに対し、多くの者を引き付け運動の裾野を広げた。何しろ、デモが通るとパチンコ屋ががら空きになったと伝えられているほどである。多くの子供が「安保粉砕」を口真似して遊び始めたとも伝えられている。

 仮に賢明な社会学者が登場すれば、日共式幅広主義が、運動を沈静化するのに役立っており、少しも幅広くしないことを例証するであろうが、れんだいこはそのような社会学者の分析を知らない。それはそれとして、「いくら言葉を過激にしても、それが実現した例を知らない」という口実で、穏和な反対表現で良いとする主張を検討してみることにする。

 一体、我々は、粉砕とか阻止とか打倒とかの政治用語をどういう基準で使っているのだろうか。実現可能性のある用語のみが使われるべしとするような基準が必要であろうか。れんだいこは、違うと思う。反対表現は、賛成か反対かの判断だけであり、忽ちは政治的見解の表明に過ぎない。事案が、許し難いものである場合、反対表現では物足りない。どちらへ転んでも良いが俺は反対だと云う場合には、反対でも良い。だがしかし、これは絶対に認めてはならない、強く反対すると云う場合には、それに相応しい表現を模索する。それが粉砕とか阻止とか打倒とかになる。それで良いではないか、その方が言葉の厳密な使い分けをしており、作法にかなっていると思う。一律に反対表現で済ませるほうが粗雑だと思う。

 第一、反対なる言葉は単に見解及び態度表明に過ぎず、反対したと云うアリバイ証明でしかない。粉砕とか阻止とか打倒とかは逆に、実現しようがしまいが、運動主体者として歴史に責任をもとうとしている。そういう意味で、歴史的責任を引き受けた表現と云えよう。それが実現しないのなら、次には実現するように工夫すればよい。その繰り返しでよい。何で、この姿勢がなじられるのか分からない。逆に聞きたい。アリバイ証明的事なかれ主義的反対運動こそ政府当局者に対して何らの痛痒も与えず、実はガス抜き的役割で裏からの体制支援に堕しているのではないのか。

 60年安保闘争は空前の盛り上がりを見せ、米国大統領アイゼンハワーがフィリピンまで来てスタンバイしていたにも拘らず来日を阻止し、岸政権の面子が失われ、内閣総辞職を余儀なくされたた。それは日本左派運動史上、1948.2.1ゼネストに次ぐ壮挙であった。ところが、日共は、70年安保闘争の方が空前の盛り上がりであったと嘯く。何とならば、デモ届出数、参加者数が60年安保闘争時のそれを上回るものであったからなどと云う。しかし、70年安保闘争は、時の政権を何ら痛打しておらず、明らかに60年安保闘争に及ばなかったのではないのか。しかるに事態を逆に描いて恥じない。

 我々は、ウソで塗り固められたこういう変態運動、詭弁運動から脱却せねばならないのではないのか。しかしながら、日共式論理と論法はあちこちに伝播しており、急進主義的盛り上がりを抑圧させる格好で通用している。そして、それを誰も訝らないように堕している。れんだいこは、言葉も運動も、それに最も相応しい体裁をとるのが望ましいと思っている。

 さて、明日か明後日にも米国副大統領実は真の裏大統領チェイニーが物騒な話を持ってやってくる。日共は例によって反対とのみ表現するのかと思いきや、反対そのものも控えているようである。こうなるとお笑いではないのか。人は話し合いで全て分かり合え、道理を説けば聞いてくれると云う特殊な思い込み信仰に耽っているようである。そういう世の中がくれば良い事はみんな分かっているが、世の中、道理説教だけでは何の役にも立たないことも知っているのも事実だと云うのに。

 他にももっと愚考してみたいことがあるが、とりあえず思いついたままを記しておく。

 2007.2.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評259 れんだいこ 2007/02/20 21:44
 【チェイニーは来たのかな】

 これほど重要な政治的出来事であるチェイニー来日を報ずるメディアが無いと云うことは、左派が阻止闘争を組めなかったということは、ミジメの一言だな。お蔭さんで、チェイニー来日を報ずるところを他の報道することで、それらの報道の馬脚を表したようなもんだな。夕方テレビのチャンネルを回してみたが、このタイミングで拉致事件を報道していると云うことは、上手く利用されているんだな。

 明日からのチェイニーの一挙手一投足を検分してやるぞ。安部はんはどう対応するのかな。今のところはかわしているみたいだけど、有無を言わせぬ圧力で呑ませられるのと違うかな。カネ出せ、兵隊出せ、協力せぇ、俺がわざわざ乗り込んできたんだぞていう訳か。その間隙で小泉一派が出番の機会を窺っているのと違うかな。誰か、お前の出番は終わったと因果言い含める者は居らんのかな。安部政権は何か不自然にゴタゴタさせられてるわな。

 ここ数日目が離せないのは確かだな。どうぞ体調不良にでもなって謀議どころではなくならんかな。神風が吹かんかな。それにしても左派運動が行儀よくなり過ぎたな。調教がこれほど上手くいくとは。イラクへ向かって、日本を見よというはずだわな。

 2007.2.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評260 れんだいこ 2007/02/22 00:07
 【それにしても恐るべき報道管制だな】

 確か来日しているはずのチェイニーの動向がいっこうに分からない。新聞からもテレビからも。一体全体、米国副大統領の地位がそれほど落ちたのか。ならば、天皇と会見すること自体が不敬に当ろう。天皇と会見するほどの力ある副大統領と読むべきか、マスコミが黙視するほど地位の低い副大統領と読むべきか。しばし腕組みしてみよう。どちらにしてもこたびのことは後生に語られべき白昼夢事件ではある。

 しかしながら、れんだいこには、左派運動圏内のダンマリが余計に気に食わない。この程度のことが論評できないのなら、平素難しいことは云わんこった。今最肝要な話題にコメントせず、どうでも良いことにうつつを抜かすその能力が好かん。れんだいこの鬱憤は晴れない。なにやらよその星に来たような気分で、今起こっていることが信じられない。マジで新党立ち上げようか。

 恐らく報道管制説の方が当りなのだろうけれど、それにしても、文筆屋はただの一社でも一人でも意見を述べられないほどへっぴり腰になってしまったのか。そっちの方も問題だ。ならば、平素人様に説教してくれるな。お前達には資格がない。そういえば、社説が自前で書けず、どうせバレル剽窃をして一時しのぎするご時勢ではあるな。

 それにしても何から何まで狂っているとしか考えられない。れんだいこは、寂しいぞ。れんだいこのこの思い違うかな。あまりなことが目の前で起こっており、それが何とも奇異に感ぜられず普通とされるなら、れんだいこの方が間違っているといわれるのなら、れんだいこの住めない世の中だな。おいとまするべきか。

 詩人たら云う感性の鋭い人間も居るはずだが、連中何をしてるのかな。手前らの感性つうのはこの程度のものなのかよ。

 2007.2.21日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのかんてら時評261 れんだいこ 2007/02/26 21:19
 【解せないいつまで経っても参考書、解説本、その又参考書の繰り返しについて】

 これもいつか云いたかったことだけれども、原文もしくは本人にいつまで経っても当たらず、その参考書を読み、その解説本を読み、又もや参考書を欲するという、原書ないしは本人不在のこの現象は何なんだろう。これは単に性分の差なのだろうか。

 仮に、イエスの場合なら、少なくとも4種の福音書がある。イエスを知ろうとするならそれらの福音書を読むことから始めねばならない。それぞれのイエス像があるなら、本当のイエス像を訪ねればよい。それは結構楽しいことだ。そんなに分厚い分量ではないのだから読めばよいのに。まずここができてから、弟子の著作に精通すべきだろう。イエスを知らぬままに弟子の膨大な資料に頭でっかちになっても、どっか違んだな。たいして意味はないと思うのだけれども。

 マルクスの場合なら自身の著作がある。それを読めばよいのに解説本ばかり読もうとしている。なぜそういい切れるか。それは、和訳本の場合、恐らく故意にだと思うほど意味が通じにくくされており、そんなものを読んで分かったつもりになっていること自体が臭いから、結局読んでないんだ。れんだいこは、共産主義者の宣言、資本論のほんの前半部、その他数点を訳してみたことで、自信を持って言い切れる。

 本当に読んでたら、既成の訳本のオカシサが事件にされている筈だから。にも拘らず、原書ないしは適訳書を求める声は少ない。もっともらしい解説本は多いが、これも分かったつもりにされるだけで、本当は小難しくされているだけである。原文の方がよほど論理的でリズムがあってすっきりしてらぁ。とにかく、原書不要にされ過ぎている。そういうオカシサが通用している。

 中山みきの場合、自筆のお筆先と側近が聞き取りしたみ言葉がある。まずは何でもこれに目を通せば良いのに、どこまでが教祖みきの本当の言葉なのか判然としない。しないまま信徒形成だけが進んでおり、結果的に停滞している。この間任意なみき像が勝手に一人歩きしている。

 イエスもマルクスもみきも、れんだいこは当の人の本当のところの発言、意味、意思を尋ねてみたい。その吟味なら努力を惜しまない。これって真っ当なごく自然の欲求なんだけれども、どういう訳か研究が進んでいないように見える。関連書はあまた有り過ぎるほどだというのに。この現象って何なんだ、性分の差かなぁ。

 2007.2.25日 れんだいこ拝

Re:「おふくろさん事件」考 れんだいこ 2007/03/05 19:56
 何やら、人生学院掲示板がバツの悪いことになっておりますが、悪しからず。いかがしたものかと思案中です。新掲示板の出どきかな。それはともかく、お約束の「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」考を発表しておきます。ご意見お聞かせください。
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_sakushisakkyokuco.htm

 気づいたことは、偏狭な現代著作権論と闘う意義は極めて大きいということです。連中の著作権論は、人民大衆の情報交差を掣肘する為に悪用されており、ここが主眼であり、対価請求という利益をエサに誘導しております。これに乗せられるのはサヨであり、現代パリサイ派の系譜ではなかろうか。このことを理解するにはイエス論が必要になります。れんだいこのイエス論は、下記に記しております。

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/religion_christ.htm

 れんだいこ史観に拠れば、歴史はまことにイエス派とパリサイ派の闘いなのかも知れない。パリサイ派の論法が浸潤しつつありますが、彼らはその論の特徴としていずれ自縄自縛に陥るでせう。日本神道は、それらとは別個の独自の思想形成しておりますが、いずれロゴス対カオスの思想的決戦に向かわざるを得ない。そんな予感がします。

 2007.3.5日 れんだいこ拝

たすけあい党の掲示板の開設ご挨拶とご案内 れんだいこ 2005/10/21 20:31
 れんだいこは、世の中での面白系を追求している。そういう訳で、こたびはたすけあい党の掲示板を作った。直接的には期限切れかどうか、各所に設けている他の掲示板が開かなくなったからである。ならばと思い、又しても人の力を借りて開設した。

 しかし、要領が分かったので増やそうと思えばいつでも増やせることになった。それにしても無料というのが有り難い。ライブドアが関係しているとは思わなかった。なかなか良いことしてるではないか。

 それはともかく、ここでは、我が党の方針、運動論、組織論、理論研究、入党者挨拶等々をやって生きたい。それに伴い、「左往来人生学院はトピックスを語るものにしたい。まっ今までのやり方でで何ら構わないけど。「居酒屋」は、名の通りクダを巻くところにしたい。あまり酒癖が悪いのは困るけど。

 まだまだいろいろやりたいことがある。しかし一日が短い。読まねばならない本も溜まっているのに読めない。ただ、ホームページ持ったことで、読み流しせずに取り込めるようになったのが有り難い。取り込まれるのが嫌だという人のは極力取り込まない。れんだいこなぞは名誉に思うのだけれど、気難し屋には叶わないので避ける。

 さぁ腹の足しになる議論をしよう。議論通と口先が上手いのとは違う。人は、生きてる限り議論通を目指さねばならない。それが日本を救う一里塚であると確信する。思えば、幕末は、この議論通が史上珍しいほど輩出していたんだな。なんでそうなったんかいなぁ。あれを目指さねばならない。あの水準に至るのを二里塚と云う。

 本日はここまで。これ読んだ方、ご贔屓頼むよ。

 2004.10.21日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評264 れんだいこ 2007/03/07 21:31
 (れんだいこのショートメッセージ)

 「作詞家川内氏の森には歌わせない事件考」をネット検索したところ出てきた「■「北朝鮮・チベット・中国人権ウォッチ」のアンテナ」に、「南雲和夫(本物)の怒りのブログ−根源主義者の主張(無断転載禁止)」に出くわした。それによると、2007.3.5日の読売新聞報道「2ちゃんねる管理者、敗訴43件も制裁金4億円不払い」がリンク紹介されている。記事は、次のように記されている。  インターネット掲示板「2ちゃんねる」への誹謗(ひぼう)中傷の書き込みなどを巡り、管理者西村博之氏(30)を相手取り、名誉棄損などを訴える民事訴訟が全国で50件以上起こされ、少なくとも43件で西村氏側の敗訴が確定していることが読売新聞の調べでわかった。
 この結果、西村氏に命じられた賠償額は約5800万円、仮処分命令などに従わないことによる「制裁金」が1日当たり約88万円、累計約4億3400万円に上るが、西村氏が自ら支払いに応じたケースはほとんどないと見られる。原告側は勝訴にもかかわらず賠償を得られない状態で、ネットの無法状態と司法の限界が露呈した形だ。

 西村氏に対する訴訟は2001年以降、東京地裁だけで50件以上が起こされ、うち40件の敗訴が確定。ほかにも札幌、大阪、神戸の各地裁で計3件の敗訴が確定している。

 
 この事件に対し、南雲氏は、次のような見解をブログしている。  世の中を、いつまでもなめきっていると、いずれ社会からしっぺがえしをくう、ということが、この男にはいまだに理解できていないらしい。こんなんで、よくも社会人などといえるものだ。
 結局、司法の判決がどう確定しようがそれを受け入れないというのは、所詮駄々っ子のわがままの水準でしかないだろう。そんなやつを、英雄扱いするネットの住人連中も同罪である。

 同じ事件を前にして、れんだいことまったく違う見解を吐露している。そう云えば、この御仁はその昔、「JCPウォッチ」で、戦前の日共党中央委員小畑リンチ致死事件を廻ってのやり取りで、宮顕無罪冤罪説を説いていた。れんだいこは参加しなかったが、滅法日共党中央委員見解を代弁する曲者として記憶がある。その御仁が、2チャンネル管理者への巨額賠償金訴訟でも、妙に権力寄り見解を打ち出しており、またもやれんだいこと大きく対立していることが判明する。そういえば、日中友好協会の善隣館事件でも日共党中央の対応を支持していのではなかったかこいつは。ここは定かではないけど、そういう記憶がある。

 興味深いことは、この御仁はいつでもどこでも日共党中央のエピゴーネンとして登場していることである。仮に、見解そこするとすれば、日共に残滓ししている僅かな革命的民主主義の見地を、それをも放擲させるような右より見地からのものであろう。そういう類の御仁であることが判明している。ご丁寧なことに、そういうサヨ急進主義のこの御仁は、著作権論でも強権支配論を振り回していることである。日共も又政党の中で突出して強権著作権論を掲げている。妙にサヨウヨと強権著作権論がハーモニーしていることに気づかされる。

 それはともかく、れんだいこは只今より、2チャンなる管理人支援闘争に入る。たすけあい党の諸氏、党首に続け。まずはコメントだけしかできないが、2チャンなる管理人にエールを送る。君の為したことは、人民大衆の井戸端空間を大きく広げるべくネット空間で提供したことである。それが咎められ、巨額の賠償金が課せられる不正があってはならない。君は咎められる地位にはなく、称えられる地位にある。どうしても咎められるとすれば、向かうべきはインターネットの能力に対してであり、その能力を悪用する直接の御仁たちであるべきである。場の提供自体は無罪であるべきである。俗に、愛国無罪、革命無罪と云う。

 この論法でいけば、乗用車開発メーカーは、車両事故者に責任を負わされ、年間の死傷者数の累積からすれば、さすがのトヨタも一夜にして破産宣告させられるだろう。そういうとんでもな法理論で君は処罰されようとしている。れんだいこは見逃せない。この貧しき法理論の支援たちよ、君たちは君たちで闘えば良かろう。我々は我々で闘う。

 それにしても、日共党中央の悪質さは、こういう支持者と連動し、世に害悪ばかり垂れ流している。れんだいこが憂うのは、サヨが左派の振りをして言説を飛ばすので、左派の信頼失墜を招いていることである。世の青少年よ、サヨと左派は違う。どうか、左派運動に真っ当な見解を保持されんことを。

 2007.3.7日 れんだいこ拝
Re:れんだいこのカンテラ時評264 れんだいこ 2007/03/07 21:45
 いきなり転送になり修正できなかったので訂正文を明記しておく。

 2チャンネル管理人西村博之氏(30)を支援せよ!

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_2channeru.htm

問う論場2開設のあいさつ れんだいこ 2007/03/07 15:30
 皆さんちわぁ。従来の掲示板が役目を終えたことを察知し、ここに第二集を開設する運びとなりました。これまでたすけあい党の掲示板として使ってまいりましたが、急遽これを左往来人生学院問う論場2に使うことになりました。たすけあい党の掲示板は別途に開設しようと思います。

 それにしても、第一掲示板に対して皆様お世話になりました。投稿数も6500を超えました。有難うございます。数々の思い出があります。もっと詰めたい議論もありました。当時の皆さん、どうしているのでせうか。れんだいこの采配が悪かったのかな。しかし、何がしか充分問う論できていたように思います。第2掲示板も、第1掲示板に負けず劣らずの議論場にしたいと思います。皆様ご協力よろしくお願いいたします。

 第1掲示板に執拗に繰り返され、最後の最後まで登場した「れんだいこの著作権法違反」批判によって、れんだいこは思いがけぬ機縁から著作権法について学ぶところとなりました。そして苦闘の末ようやく辿り着いたのが、現代著作権法の思想的根拠に対する徹底した闘争の必要でした。れんだいこの著作権法は他に例の無い実践的解説が凝縮されております。きっと為になると思います。今後、このサイトはますます発展して行くことになるでせう。これはお約束しておきます。

 さて、「左往来人生学院問う論場」は、れんだいこが世に送り出す命を賭けた掲示板です。れんだいこが病気にせよ、テロられるにせよ後何年生きられるか自分でも分かりません。その間を何の憚りも無く思う存分の議論で命を燃焼したいと思います。れんだいこの知識に誤り無ければ、かのイエスだって、ヨハネの洗礼、新派の立ち上げ、エルサレム行き、ゴルゴダの丘での十字架処刑まで何と僅か3年です。それを思えば、れんだいこは、人生50年のところを過ぎ既にその後半に達しております。もう充分長生きしていると思っております。油の乗った頃でもあります。

 もっとも、れんだいこにもバイオリズムが悪いときもあります。皆様の議論を読むのが精一杯の時もあると思います。そういう場合を除いて極力、カンテラ時評を書き続けたいと思います。不思議なほど、書きたい事案が現れてまいります。いずれ365まで達し、その繰り返しのブログにしたいと思っております。その他、皆様のご指摘とか意見に対して、尋ねられれば答弁してみたいと思っております。

 そういうわけで、いざ出航です。どこへどこまで辿り着くのか、誰もわからない。それを面白がるれんだいこが居る。皆様が居られる。それで良いですよねきっと。

 2007.3.7日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評265 れんだいこ 2007/03/10 20:17
 【オカシナ政治現象をどう読み解くべきか】

 れんだいこはオカシナ政治現象に気づいている。田中角栄を悪し様に述べる者が共通して第二次世界大戦時のナチス批判、日本軍部批判の戦闘的人士として立ち現れているということである。連中のロッキード事件糾弾と、ホロコースト大虐殺論、南京大虐殺論、百人斬り事件、従軍慰安婦事件の批判の音量がハーモニーしている。これに拠れば当然、ニュルンベルク裁判も極東国際軍事裁判も極悪戦犯を裁いた正しき法理の下での法廷であった論になるものと思われる。日共の理論及び史観が妙にこれに照応している。このことに如何なる接点があるのだろうか。これを問わねばなるまい。

 これを解くには、太田龍史観、れんだいこ史観をもってすれば容易であるが、他の方法では理解できないだろう。これを仮に「サヨ政治論」と命名する。近時は、左派の名を騙ってのこうした「サヨ政治論」が横行しており、左派の信用失墜毀損をもたらしている。由々しき事態なので、れんだいこは、「サヨ政治論」に代わる「左派政治論」の旗手として日本政治史に役割を果たしたいと思う。

 「サヨ政治論」の典型例は、五十嵐仁・氏(法政大学)であり、その他大勢である。五十嵐氏は、ロッキード事件では、徳本栄一郎−五十嵐仁−立花隆のトライアングルを形成し、今ならでははっきりとしたロッキード事件の胡散臭さを指摘する流れに対し、それを再否定することで一役買っている。多くの者が、その説法に同調しているように見える。れんだいこは、「徳本栄一郎ー五十嵐仁−立花隆の御用漫談考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rokiido_goyomandanco.htm)で検証しているが、ここではこのことを問わない。

 その五十嵐氏は、「2007.3.7日付け転成仁語」(ttp://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm)で、次のように述べている。
 先の大戦(というのは、第2次世界大戦のことです。念のため)では同盟国として同じような過ちを犯した日本とドイツですが、過ちに対する反省、その精算のしかた、戦後の歩みや周辺諸国との関係は大きく異なっています。なぜ、日本は、ドイツと同様の歩みを辿ることができなかったのでしょうか。なぜ、日本国民は、ドイツのような政府を実現することができなかったのでしょうか。 (引用以上)

 これによれば、五十嵐氏は、ナチスの蛮行としてのホロコースト大虐殺論を史実と是認し、日本はドイツの大反省に見習い、南京大虐殺論、百人斬り事件、従軍慰安婦事件その他戦争犯罪全般に大謝罪すべきだと主張していることになる。一見、反戦平和的見地からの指摘であるように見えるが、実は単なるネオ・シオニズム・テキストの受け売りしている可能性がある。連中は、そういうことを思っても見ない。正しい立論だから鼓吹せねばと正義感に駆られているのだろうか、そういう訳で持論の怪しさを夢にも疑うことをしない。そればかりか、その立論をことさら戦闘的に述べることが義務とでも考えている節がある。

 れんだいこは違う。周知のようにロッキード事件に於ける田中角栄の冤罪を説いている。5億円授受を認めてもなお且つ角栄の政治能力を買うのではなく、5億円授受説そのものを虚構とする立場を採っている。ロッキード事件は、国際ネオ・シオニズム奥の院の指令に基づき、用意周到な証拠を捏造し、罠が仕掛けられ、政治的に羽交い絞め絞殺されたと思っている。

 逆に、戦前日共の党中央委員小畑の査問致死事件では、宮顕主犯有罪を説いている。スパイ視されている小畑の方が正統の日共党員嫡出子であり、スパイ摘発を呼号した宮顕の方が当局側のエージェントであったと思っている。そういう訳で、宮顕が獄中下で予審調書を一切採らせなかった唯一の非転向指導者である云々聖像論を有り得ない事として否定している。むしろ宮顕こそスパイM以降の党中央潜入スパイ系譜の真の頭目とみなしている。野坂も別系統のネオ・シオニズム・エージェントであったと思っている。

 だから、れんだいこは、角栄に対しては冤罪を、宮顕に対しては有罪、小畑冤罪を説いている。世のサヨ系自称知識人の角栄=有罪、宮顕=唯一非転向指導者、小畑=スパイ説と真っ向から対立している。こういう大事な問題で議論が為されない現象を理論の貧困とみなしている。

 そういう見解を採るれんだいこが、ロッキード事件、戦前日共の党中央委員小畑の査問致死事件等々の検証で編み出した時系列論証法でもってホロコースト大虐殺論、南京大虐殺論、百人斬り事件、従軍慰安婦事件その他諸々を検証して行くと、通説の薄っぺらさばかりが浮き出てくる。基本中の基本である「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのようにして」という5W1Hの徹底解明原則が守られていない事例が多過ぎ、信用するに足らない。しかし、そういうものが公認教説としての地位を獲得している。

 興味深いことは、この公認教説を廻って、これを護持せんとする者が体制派となっていることである。彼らは、政治情勢論では概ね野党革新派としてのスタンスを見せているが、国際的公認教説を廻っては与党保守派として位置していることを自覚しているのだろうか。そのことに何の違和感も持っていないようである。この場合、公認教説が史実に照らして正しければ問題ない。間違っていたとすれば、どういうことになるのかという問題になる。

 他にも、連中にはもう一つの共通項があるのではないかと思っている。それは、著作権論に於ける強権派の立場である。今や著作権論も国際的公認教説は強権化しつつあり、為に人民大衆の知的欲求が閉塞されつつある。西欧諸国ではとっくの昔から、第二次世界大戦の史的検証が制約されており、ナチス犯罪を説く側に回らない限り公職を追放されたり逮捕されている。その際、著作権法が暗躍悪用されている。これについては資料確認でき次第に現場保存していくことにする。

 さて、結論である。この動きは何やら赤い糸で結ばれているように見えるのだがどうであろうか。赤と云うのは左派の専売ではない。ロスチャイルドも赤の盾を紋章としている。「サヨ政治論」を説く連中は恐らく、史実を検証して論をで紡ぎだしたのではなく、あつらえられたネオ・シオニズム・テキストをオウム返しにプロパガンダしているだけの機会主義者でしかないのではなかろうか。そう説くことが御身保全と立身出世の機会に恵まれることを察知し、そのように振舞っているものと思われる。

 してみれば、本来の学問上そうであってはならない学的態度が流行していることになる。由々しき事態である。そう云えば、テレビのコメンテーターとして登場している最近の学者知識人がどれもこれも賢そうでないのは理由があるということになるだろうか。政治家も然りであるが。

 2007.3.10日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評266 れんだいこ 2007/03/11 20:46
 【米国議会下院に「従軍慰安婦問題法案」が上程されたのはなぜか考】

「従軍慰安婦問題」が奇妙に政治課題として持ち上がりつつある。れんだいこは、「従軍慰安婦問題」につき「従軍慰安婦考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_jugunianfu.htm)で考察している。それを踏まえて以下発言する。

 「従軍慰安婦問題」が米国議会下院に上程されようとしている。これまで米下院では、慰安婦に関する決議案が7、8回上程されたが、いずれも廃棄されているとのことである。ここにきて再度決議されようとしている執拗さの裏には何があるのか、それを読み取られねばならない。何だか共謀罪の執拗な上程と似ている気がする。

 この動きを、米国民主主義の為せる技としてエールを贈る者は今時居るまい。では何なのか。れんだいこは、自衛隊派兵及びイラク戦争負担金問題等々で前任の小泉ほどには言うことをきかない安部政権脅しであろうと推測する。先だっては久間防衛大臣が頑張ったので先送りになったはずだ。お陰で無礼な恥掻かされたな。マスコミは問題にしていないが。本当はブーイングするところだろうに。

 日共が例によってはしゃぎ回るとすれば、これが日共党中央の正体と見据えねばならない。ロッキード事件の時には見事に呼応した事例を残している。お陰で戦後保守ハト派は衰退し今日の如くタカ派全盛時代になった。鈴木ムネオ潰しの際のイカガワシイ外務省資料の悪乗りも記憶に新しい。日共のターゲットが奈辺に向かっているのか透けて見えてこよう。そういう訳で、この問題における日共の動きについては、刻々確認して行くことにする。

 米国下院議会への「従軍慰安婦問題上程」は、ブッシュ−チェイニー派による「対日タカリユスリ」として利用されようとしているのではなかろうか。安部のアキレス腱は、戦後タカ派的ネオ・シオニズム拝跪性と戦前タカ派的皇国史観性の両面を持つという二股性にある。今ネオ・シオニストは、安部に対し、戦前タカ派的皇国史観性を捨て、小泉の如くに戦後タカ派的ネオ・シオニズム拝跪性に純化し、旗幟鮮明にせよと迫ろうとしている。つまり、つべこべ言わずに何でも云うことを聞けと云われている。

 安部のお坊ちゃま的能力は恐らく、「イエス・サー」を返答するであろう。この場合は政権が安堵される。但し、我が国家から大枚の金が又もやむしり取られる。あるいは自衛隊のイラク軍事派兵を撤退どころか逆に増強させられる。安部が夕張問題等々持ち出して渋るものなら、安部政権は一夜にして瓦解させられる。そういう運命にある。そういう訳で、阿部は、身も心も更にネオコン系サタ二ズムに預けるのか、踏み絵が迫られている。

 「従軍慰安婦問題」は、そういう政治的思惑で仕掛けられ利用されようとしているのではないのか。つまり、持論を捨て「イエス・サー」するのかしないのか、はっきりせよとの踏み絵として持ち出されようとしている。ブッシュ−チェイニー派は、議会の後押しを得た形でこれをやりたいのだろう。そういう筋書きを描いているのだろう。

 となると、安部が「イエス・サー」するのかしないのかに関心が向かざるを得ない。「イエス・サー」の瞬間に内閣打倒に総力で向かわねばならない。そうでなくても、改憲でうるさくて仕方ない。安部が見捨てられた時、次は誰かを予想せねばならない。色気を出し始めているのが麻生であるが、祖父吉田茂の能力の足元にも及ばない単なる偏屈に過ぎない。小泉出戻りと云う狂態までありそうであるが、勘弁でっせ。人心が許すまい。それにしても恐ろしいほど間抜け腑抜けな政治政界になってしまったものだ。

 今新聞ジャーナリズムは、朝日、毎日は先のチェイニー来日時には論評一つ為し得なかったのに、「従軍慰安婦問題」ではこぞって健筆を振るおうとしている。興味深いことは、今なぜ米国議会にこの問題が上程されたを問う、その政治的意味を説き明かそうとするものがないことである。安部政権が踏み絵を迫られようとしていることを嗅ぎ取る知恵がない。通り一遍の史実論か便宜論を振りまいているに過ぎない。これは期待しても無理、無駄というものか。

 それにしても日本は米英ユ同盟によって更にしゃぶり尽くされようとしている。どうやら天皇制も議題に上っているらしく、パッシングが強まっており、菊タブーが解禁されつつある。これを喜ぶべきかどうか。逆に国際金融資本タブーが築かれている。徳間書店が脅されているらしい。どう対応するのか興味がある。

 2007.3.11日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評267 れんだいこ 2007/03/14 21:22
 【日共党中央は公明党に遅れをとった責任を取れ】

 れんだいこは、現下の日共党中央に「公明党に遅れをとった責任を取らせたい」と思う。しかるに、誰もこれを追及していないように思えるのはなぜだ。れんだいこが学生時代、選挙闘争に取り組むのは社共で、新左翼系はブルジョア議会のめり込みと見てか背を向けていた。社会党は表で戦い裏で取引する習性が鼻についており、頼むに値しなかった。民社党は資本側の懐柔労組合運動に埋没しており対象にならなかった。そういう意味で、左派運動圏では共産党が頼りだった。

 あの頃の共産党は、新左翼系の当てのない破壊運動に比して、民主連合政府の樹立、首長選では社共統一候補による革新自治体の創出に取り組んでいた。れんだいこは、「よりマシ論」により、それが堅実な社会改革になると思い、それもまぁいいや的にその頃の日共運動を支持していた。美濃部都政実現の頃だから1970年初頭辺りのことである。ちょうどこの時、公明党の政界進出も進んでおり、あの頃の公明党は何やら人民運動的要素を持っており、共産党と厳しい競り合い運動を繰り広げていた。ポスター剥がした剥がされた云々のいろんな面白い話がある。れんだいこの実感として、当時ではまだ共産党優位であった気がする。

 あれから30数年経った。日共は惨めな凋落を続けており、今や解体寸前である。というかとても共産党ではない共産党と云う党名のみの変な運動しながらしぼんでいる。それに比して公明党は着実に前進し、今や政府与党に仲間入りしている。公明党の体制内化が良いかどうかは別にして、組織の進捗問題として見れば、日共の暗、公明の明という評定は狂わない。興味深いことは、公明党はこの間党中央内に異変を数次発生させていることである。次第に右傾化しているので好評するには足りないのだが、執行部交代と云う新陳代謝に成功していることは評されるに値しよう。

 それを思えば、日共党中央内の牢化現象は社会学的興味をひくべきではなかろうか。少なくとも1955年の六全協から計算すれば既に50有余年にわたって同一系執行部が君臨し続けていることになる。この間、自民党内では何度政変があったことだろう。それらを思えば、日共の一枚岩的体質の異常性にもっと関心を注ぐべきではなかろうか。この党はこのまま行くと徳川三百年の記録を抜くのではなかろうか。

 この異常を誰も問おうとしていない。よしんば、日共党中央が1970年代より引き続き組織的運動的進展を勝ち取り続けているというのなら別だ、不問にしても良かろう。いわゆる業績が良いのだから。問題は、業績が落ち込んでおり、引き続き低迷することが自明なのに、上からも下からも責任を問う論議が為されていないことにある。

 こういう党内状況にある連中が、政府に対し日本建て直しの議論をする資格があるだろうか。一向に意に介していないようであるが、れんだいこには馬鹿馬鹿し過ぎる。そう云えば、世間に向かっては民主主義を護れ、我々は科学的社会主義、他の連中のそれは云々と云っているが、それを云うのならその前に手前の党内の民主主義成熟度を示さねばなるまい。選挙総括に於いても科学的分析をせねばなるまい。

 れんだいこは、先ほどの規約改正にせよ、ご都合主義的選挙総括にせよ、お粗末過ぎる経緯と痴態を見せているのに、世間に向かっては我こそは唯一真性の正義の士であるなどと胸を張る神経が信じられない。それを許す日本人民大衆の懐の深さが信じられない。ミソとクソ、馬と鹿の区別ができないだけなのではないかとからかいたくもなる。

 それはともかく、日共は、マスコミと共に何だか安部政権追い落としにあの手この手を使っているように見える。それは良いのだが、安部の胡散臭さを問うならば、なぜ小泉の胡散臭さを問わなかったのだろう。小泉こそは叩けば埃が出る、否、埃どころではない胡散臭さを抱えている御仁であるが、なぜかの時は日共もマスコミも行儀良くしていたのだろう。マスコミはむしろ名宰相論で提灯し続けていたな。

 この現象は、日共もマスコミも黒い糸で操作されているとしか考えられない。これを逆に問えば、安部は何故に国際金融資本帝国ネオ・シオニズム奥の院から覚えがめでたくないのだろう、という疑問になる。れんだいこの結論は、それなりに奉仕しているのだが、小泉に比べてゆっくりし過ぎており、連中が小泉的な暴力的レイプ的手法の欠如に生ぬるさを感じているということではなかろうか。

 とすれば、次に出てくるのは、小泉的な暴力的レイプ的手法の引受屋である。しかし、小泉以外にそういう際どい奴が居るかな。飯島秘書官が議員会館かどこかで陣取って未だに采配を振るっているのは、そういう空気を察知しているからではなかろうか。出番を信じているのではなかろうか。

 これを更に逆に言えば、安部政権が御身保全する為のもう一つの秘策は、安部派対小泉派の暗闘に於いて、小泉派が転ぶことであろう。事態がそのように動いているのか、安部が一方的に追い詰められつつあるのか、この辺りが目下の見所となっている。こうした政争に、野党が何の影響力も持っていないのはお粗末と云うより滑稽である。

 2007.3.14日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評268 れんだいこ 2007/03/15 20:45
 【「ヒトラー古記事問題」で見えてくる著作権の本質】

 れんだいこに対する著作権違反云々の指弾が耐えない。窮すれば通ずという訳で、次のような有益情報を見つけた。「『ヒトラーを褒め称えた古い雑誌記事』のウェブログ掲載で著作権論議」(日本語版:藤原聡美/長谷 睦)(ttp://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20030925208.html)であるが、これは非常に重要なことをメッセージしており、現代著作権法の本質について考えさせられる。次のような内容になっている。れんだいこ風に分かりやすく編集し直せば次のようになる。

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【「その1、発端。ウォルドマン氏がヒトラー記事掲載】

 1938年、イギリスの「ホームズ&ガーデンズ」誌が、ヒトラーのバイエルン地方での山荘生活の様子を伝えた記事を掲載した。記事は、「バッヘンフェルトの名士」という表現でヒトラーを次のように賛美していた。

 概要「ヒトラーには建築家や室内装飾家としての才能があり、才気あふれる外国人、とくに画家や歌手、音楽家たちの一団を大いに楽しませる話し上手」云々。

 時日が特定できないがその後、イギリスの日刊紙「ガーディアン」紙デジタル版の発行責任者であるサイモン・ウォルドマン氏が、この記事を発見し、同氏のインターネットサイト「ウォルドマンの言葉」(Words of Waldman)に「ヒトラーの山荘、ハウス・バッヘンフェルトを訪ねて」と題する3ページものを掲載した。

 ウォルドマン氏は後日、自身のウェブログにこう書いている。
 概要「当時、イギリスでは中流の上の階級や上流階級に属する人々が、『ヒトラーという男はなかなかいいことを考えている』と感じていたらしいという話はよく耳にする。しかし、こんな風に滑稽なまでにこびへつらった内容の記事を見ると、後になれば嫌悪の対象にしかならないような人物が、その時代にあっては、人々に魅力的に映ることがあるのだととてもよくわかる」。

 概要「この記事は現代社会にさまざまな教訓を教えてくれると思う。最近は、外交政策において何が道義的に正しく、また何が間違っているのか混乱してしまうことが多い。良い人間と悪い人間の区別がまるでつかないこともしょっちゅうだ。うぬぼれの強い我々現代人は、こういったことは新たに出てきた風潮だと考えがちだ。だが、この記事を見れば、そんなことは昔からあるのだと教えてくれる」。 

 これによれば、ウォルドマン氏がヒトラー記事に注目し掲載したのはヒトラー賛美ではなく、「ヒトラー賛美を風潮としていた時代のニューマを揶揄する」観点からであったことが分かる。ところが、この記事がホロコースト見直し論者に見直され、ウェブサイトも含め、このページのミラー版がウェブ上に広がった。僅か数週間でウェブログへのトラフィックは1日1万件にも達し、訪問者の大多数が記事をダウンロードした。 

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【その2、抗議。「ホームズ&ガーデンズ」誌社が著作権を主張して抗議】

 これに対し、版権を持つ「ホームズ&ガーデンズ」誌社が、ウォルドマン氏に著作権を主張して抗議した。ウォルドマン氏は、「ホームズ&ガーデンズ」誌の論説委員にして英国IPCメディア社のイソベル・マッケンジー=プライス氏に電子メールを送り、この記事の掲載誌を持っているかと尋ねた。

 これに対し、マッケンジー=プライス氏は次のように返信した。れんだいこの理解に誤りなければ次のような内容となっている。

 概要「かなり古い記事なので、当社は該当記事が掲載された雑誌を持っていない。しかし、IPCメディア社としては、著作権及び版権を主張する。当該記事が掲載されたのがいつであるにせよ、当方がその雑誌を保存していないにせよ、記事が版権者IPCに許可なく複製され公にされることを黙認するわけにはいかない。それゆえ、そちらのウェブサイトからこの記事を削除していただくようお願いする」。

 ちなみに、英国IPCメディア社は、米AOLタイムワーナー社の子会社で、「ホームズ&ガーデンズ」誌のほか、「イン・スタイル」誌、「マリ・クレール」誌、「ファミリー・サークル」誌のイギリス版など76の雑誌を発行している。

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【その3、ウォルドマン氏がヒトラー記事削除】

 ウォルドマン氏は、IPCメディア社の要請に応じ、記事を削除した。但し、記事が見られるミラーサイトへのリンクは削除しなかった。この時、サイト上にマッケンジー=プライス氏との遣り取りの経緯を掲載し、次のように述べている。

 概要「私は、この記事で金儲けをしているわけではなく、貴社の利益を奪うようなことはしておらず、誰であってもこの(ひどく質の悪い)スキャン画像を使って金儲けなどできず、『ホームズ&ガーデンズ』誌を毀損するような言動は、ほのめかしさえしていない。あなたがたはいささか大げさに騒ぎすぎている。こういった記事は重要かつ興味深い歴史文書だ。それははっきりおわかりのことだろう。こういうものはできるだけ大勢に見せ、そこから学んでもらうべきだ」。

 ウォルドマン氏は、マッケンジー=プライス氏にコメントを求めたが、返答はなかった。ウォルドマン氏は後日、「著作権を行使するというIPCメディア社の決定に異議を唱えるつもりは全くない」と述べている。

 テクノロジー専門家でネオテニー最高経営責任者(CEO)の伊藤穣一氏は、ウェブログ上で、記事のスキャンはおそらく著作権法に違反するだろうと指摘している。

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【その4、アービング氏が、ウォルドマン氏のミラーページを掲載】

 事件は更に展開する。ヒトラーの再評価を主張するイギリス人歴史家のデビッド・アービング氏は、自身のウェブサイトでヒトラー関連コンテンツのインデックスを管理しており、ホロコーストなど起こらなかったとの信念を持っている。そのアービング氏が、ウォルドマン氏の元記事に注目し、ミラーページを掲載した。アービング氏は次のように述べている。

「自分なら圧力をかけられても、妥協をせずに掲載を続けようとしただろう」。

 アービング氏は、ワイアード・ニュース宛ての手紙の中で、次のように書いている。

 概要「都合の悪いものを押さえ込むために何かが動いていると感じる。今回の『ホームズ&ガーデンズ』の行動の裏にはそうした意図があるのではないかと思う。私ならもっと断固とした態度を取り、限界まで頑張るだろう」。

 「自分なら記事の掲載は言論の自由を保障した合衆国憲法修正第1条によって保証され、公益に適う行為だと主張する」。


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【その5、全域全方位著作権者によるアービング氏批判】

 しかし、アービング氏の言に対して次のような反論が為された。

 「イギリスの法律は米国の修正第1条を認めていない。故に、ウォルドマン氏の行為は著作権違反に当たる」。

 アメリカン大学のピーター・ヤーシ教授(法学)は、そのほかの点でもアービング氏の反論は通りそうにないとして、次のように述べている。

 概要「米国の法律は著作権適用の例外事項として『正当な利用』によるケースを認めているが、これは、オリジナル作品の市場に影響しない批評や風刺、教育目的で使われる場合にのみ、複製を認めるというものだ。一方、イギリスの著作権にも『公正使用』と呼ばれる類似の概念が存在するが、米国における正当な利用の概念より適用範囲はずっと狭く解釈されることが多い。現行のイギリスの法律において、『公益性』に基づく例外扱いは理論上のものであり現実性はあまりない。故に、今回のケースには適用されないだろう」。


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 (れんだいこ私論.私見) 「『ヒトラー古記事問題』で見えてくる著作権の本質」について

 「極まった時こそ事象の本質が見えてくる」という公理に従えば、「ヒトラー古記事問題」は、著作権の本質の何たるかを浮き彫りにさせている。

 一体、「ヒトラー関連の古記事」を紹介したところで何の害があろう。害が有ると主張する者はあまりにも傲慢僭越だ。我々は、いろんな知識を知り、学び、咀嚼して自前の見解を練る必要がある。例え、ヒトラーであろうとも歴史から隠蔽されるには及ばない。それこそ姑息な焚書的対応ではないのか。「雑誌マルコポーロ廃刊事件」も背景が同じであろう。

 これを思えば、著作権の本質とは要するに、学術的に考察される問題であるというよりは元々非常に政治主義的なものであり、時の最強為政者にとって不都合な記事が情報化され共認されるのを抑止する為の抑圧理論でしかないのではなかろうか。つまり、著作権の本質とは、時の最強為政者の支配基盤を有利にする為のプロパガンダを容認し、不利な言説に対しては反対に、著作権法を盾にして「表現の自由、知らしめる権利の抑圧」として機能させている、のではなかろうか。

 戦前では、マルクス主義関係文献が同じようなめに合わされた。戦後は規制できぬとなるや、人畜無害への表記書き換え、誤訳化、原典読まさず代わりに二束三文解説書を押し付けている。これらは同じ流れなのではなかろうか。

 これを思えば、いわゆるサヨ、ウヨが著作権に執心している様の反動性が見えてこよう。れんだいこは早くより、政党、宗教、ジャーナリズムがその言論紙に著作権を被せる行為を変調として批判しているが、「ヒトラー古記事問題」を通じてその権力的仕掛けが浮き彫りになったと思う。「『ヒトラーを褒め称えた古い雑誌記事』のウェブログ掲載で著作権論議」(日本語版:藤原聡美/長谷 睦)は、そういう意味で貴重な指摘をしていることになる。

 2004.10.30日、2007.3.15日再編集 れんだいこ拝

 「ヒトラー古記事問題」で見えてくる著作権の本質 

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/hittler/tyosakukenco.htm

Re:れんだいこのカンテラ時評269 れんだいこ 2007/03/16 21:07
 【イエス教聖書の構成考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 れんだいこは、キリスト教の現行までの教義構成に異を唱えたい。現在の聖書構成はいかにもキリスト教的であるが、元々のイエス教の観点から見ると大いに問題があると考える。というのは、イエスに於いては、キリスト教では旧約聖書とされている本来はユダヤ教聖書に対し、踏襲すべきほどの大きな意味を持たせてはいないと考える。実際には、パリサイ派その他本部神殿派、律法学者との論争の都合上、熟知しておく必要があり、その限りで引用したり説法したに過ぎないと考える。

 とならば、キリスト教教典に於ける旧約聖書は、元に正しくユダヤ教聖書としての座に戻すべきだろう。そして、イエス教に於いては、それに参考文献としての地位を与えるべきであろう。しかるに、何故に旧約聖書としたのかと考えれば、原始イエス教時代の教徒が福音書執筆に向かった時代において、転向ユダヤ教徒がそれを作成したからであり、この時ユダヤ教的神学の理論と話法に依拠して書き上げたからに他ならない、と考える。こうして、キリスト教が生み出されたが、この時点で本来のイエス教から離れたと思う。福音書にはそういう功罪がある、とみなすべきだろう。

 従って、イエス教の立場からは、第一にイエス言行実践録、第二に福音書、第三に使徒言行録、第四に書簡、第五に黙示録となるべきであり、これをイエス教ないしはキリスト教聖書と名づけるべきであろう。旧約と新約の識別は不要だと思う。ところが、実際には、キリスト教に於いては、第一に旧約聖書、第二に福音書、以下同順という構成にしてしまった。

 それによって、イエスの御教えが隠されてしまった。逆に、第一に位置づけられたユダヤ教聖書を学ぶことが信仰の始まりとされ、こちらが主にされ、イエスの御教えそのものが従になり、その御教えもユダヤ教神学的にねじ曲げられた福音書を通じてしかイエスを窺い知ることができなくなってしまった。ここに、キリスト教のそもそもの教義ねじ曲げと云う胡散臭さがあるとみなすべきだろう。

 そうは云いながら、各福音書でイエスの残像を偲ぶことはできる。その程度にはイエスが記載されている。しかしながら、それぞれの福音書のイエス像がかなり隔たっており、一向に実際のイエスに迫れない仕掛けにされている。そういう訳で、トンデモキリスト教徒が生まれることになる。どこから見てもイエス教徒では在り得ないブッシュご一統がキリスト教徒として振る舞い、神の名において聖戦を煽り、残虐非道な戦争を仕掛け、それが通用するという痴態が罷り通っている。

 悲しいことではあるが、これが実際である。そういうことから、れんだいこは、今からでも遅くない、キリスト教に代わるイエス教の再興と教義の再編成に向かうべしと思う。イエスの御教えは今もみずみずしいと考えるから。パリサイ派時代の今日、求められていると思う。

 イエス論・キリスト論考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/religion_christ.htm

 2007.3.16日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評270 れんだいこ 2007/03/17 19:26
 【イージス艦巨大利権を暴け】

 天木氏は、2007.3.16日付け「ミサイル探知のできないイージス鑑を米国から買わされている日本」(ttp://www.amakiblog.com/archives/2007/03/16/)の中で、次のような重要な指摘をしている。

 1・日本が米国からイージス艦の追加導入を迫られている。
 2・イージス艦は、巨額の税金を費やす割には、その能力が不自然に限定されている。
 3・一隻のイージス鑑に搭載されるイージスシステムの購入費が言い値の数百億円で売りつけられている。
 4・一隻のイージス鑑建造費が約1000億円といわれている。
 5・国内軍需産業と防衛省が癒着しており、談合と天下りの巣窟となっている。
 6・米国から、日本の負担は少ないと防衛予算の増額を迫られている。

 締めくくりとして、「日本経済は破綻に瀕しているというのに、米軍再編に本格的に協力させられるようになると日本国民の生活は軍事費の負担で押しつぶされてしまう」と述べている。正論であろう。れんだいこは、天木氏の上述の指摘に対し、以下の文を補足しておく。

 れんだいこが、「イージス艦購入史」に注目する訳は、イージス艦1艦で、航空機数十から百機に値する桁外れに巨額な費用が動いているからである。行政上、防衛費は原子力と並ぶ超巨大二大利権源であり、当然ながら企業と役人、政治家が結託し蠢いている。

 そのイージス艦の購入史を調べようと思ったら、グーグル検索でも充分なものが出てこない。これだけ検索が充実してきているにも拘らず、いざ肝心な情報を調べようとすると役に立たない。重要情報が秘匿されている好例だろう。こういう事例はままあるので驚きはしないが、ここにも闇を見つけた思いがする。

 イージス艦とは駆逐艦や巡洋艦などの軍艦の種別ではなく、「イージスシステムを搭載した艦艇の総称」である。ちなみにイージスとは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが、娘アテナに与えたというあらゆる邪悪を払う盾(胸当)アイギス(イージス)の名であり、これを冠している。

 イージス艦は、対空戦闘能力が優れているというのが触れ込みで、その技術は艦隊防空の要となっている。その「イージスシステム」はアメリカが開発した軍事技術であり、1983年、アメリカ海軍に「タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦」の一番艦「タイコンデロガ」が就役した際に初めて搭載された。元々は原子力を動力源とする艦艇にシステムの搭載を予定していたが、コスト高などの問題により搭載された、と云われている。判然としないのは、この技術及び権利を誰が所有しているのかである。民間が持っているのか国家が持っているのか知りたいが分からない。

 1988(昭和63)年、中曽根政権が、「シーレーン防衛論」に基づきイージス艦導入と海上自衛隊への配備を決定した。「シーレーン防衛論」とは、島国である日本は、資源・エネルギーを海外からの輸入に依存しており、海上輸送路の防衛は重要課題である云々というものである。日本に於けるネオ・シオニスト随一政治家の「誉れ」高い中曽根の時代に購入決定されたところがミソである。思えば、中曽根は、「ロスチャイルド産の原子力、自衛隊機、イージス艦」導入と云うトンデモ話に必ず顔を出していることになる。

 政府決定に基づき、一番艦として「7200トン型護衛艦」である「こんごう型」護衛艦が建造され、1993年に竣工した。約1200億円を費やした。続いて、同じくこんごう型のきりしまが1995年、みょうこうが1997年、ちょうかいが1998年、合わせて4隻が建造された。都合5000億円が費やされたことになる。

 現在、護衛艦隊隷下の1個護衛隊群に1隻ずつ配備され、艦隊防空の要となっている。目下ヘリコプター搭載能力とミサイル防衛を考慮した「あたご型」護衛艦が就役中で、一番艦「あたご」が2007.3月に竣工、二番艦「あしがら」が三菱重工長崎造船所で現在艤装中で2008.3月に竣工予定である。更に、現在配備されている「こんごう型護衛艦」1隻をミサイル防衛に対応させる為の予算が2004年(平成16年)度予算で認められた。イージス艦は合計6隻を目指している。

 してみれば、日本は、中曽根のイージス艦導入決定以来今日まで、絶えず建造されたり改造され続けていることが判明する。で、この費用は合計幾らになるのであろうか。興味深いことは、イージス艦建造が、システム料に数百億円と云われる巨額を費やしつつ日本の造船所で建造されていることにある。それは、「元請け米国、下請け日本」を象徴している。つまり、「理想的」日米関係の下で、両国にまたがる利権構造下でいわゆる「死の商人」が徘徊していることになる。

 メディアは、こういう重要事案を追求しない。政官財のちまちました腐敗を突くことを好む。大概ハト派系が狙い撃ちされ、大物とならば日共が裏から挟み撃ちする。日共は、現代最大の巨大利権にメスを入れようとしない。公共事業をムダとする弁論では正義のペンを振るうが、軍事費用についてはせいぜい解説するぐらいで済ませている。考えてみれば、どちらにも利権が発生しているとして、公共事業の場合には後々社会基盤整備に役立つ。軍事費用はまるでムダになってしまう。軍事事業の方がより酷いムダなのではなかろうか。つまり、日共は、逆の攻撃ばかりしていることになる。れんだいこは、そう思う。

 2002.12.4日、小泉政権の下で、そのイージス艦を、テロ対策特別措置法による後方支援の一環としてインド洋へ派遣することが決定された。イージス艦は建造に莫大な費用を投じているばかりでなく、日米合作の悪事に利用されていることになる。注目すべきは、小泉政権時代、中曽根政権と匹敵する軍事傾斜ぶりを見せていることであろう。イージス艦追加のみならずミサイル防衛網整備と云う巨額つぎ込みも決定している。この両者が、海外から名宰相ともてはやされ、西欧事大主義を特質とする我らが自称知識人が「その通り」と追従する。メディアがこれを煽りに煽る。こういう風に名宰相が作られている。

 現在イージス艦を保有、配備しているのはアメリカ、日本、スペイン、ノルウェーのみであるが、韓国、台湾もこれに加わる予定であると云う。中国も加わろうとしている。「イージスシステム」のパテント所有者は笑いが止まらないだろう。1200億円の1割の120億円が営業費に使われても割に合うだろう。

 現在、海上自衛隊は、護衛艦(旧海軍の巡洋艦程度の大きさ)を63隻程度、その他ミサイル艇3隻、潜水艦16隻他の艦艇多数を保有している。ミサイル艇、航空機艇、掃海艇など補助艦なども保持している。米国の沿岸警備隊に相当する海上保安庁の巡視船は15〜50隻程度ある。これらも有事には動員される。

 イージス艦購入史考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/zieitaico/iigiskankonyuco.htm

 ちなみに、こういう論考をする場合、全てあちこちからパクッている。それをれんだいこ文にしているだけである。中には似た記述が痕跡しているだろう。れんだいこは、著作権法違反として咎められるのだろうか。関係者に通知し承諾を要するのだろうか。著作権が煩わしい時代になったもんだとつくづく思う。一句申そう「物言えば著作権騒がしパリサイの言」。

 (以上、スケッチしておく)

 2007.3.17日 れんだいこ拝




(私論.私見)