カンテラ時評8(211〜240)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評211 れんだいこ URL 2006/09/11 20:31
 【太田龍・氏の「アウシュビッツの死者の数。九百万人から七万三千余人へ」考】

2001.9.115周年のこの日、「太田龍・氏の時事寸評」の2006.9.11日付けbP799回は、「アウシュビッツの死者の数。九百万人から七万三千余人へ」を掲載している。れんだいこが転載し、要点整理しておく。(れんだいこ責編集)

 「アウシュビッツ」、これは、過去六十年以上、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツのユダヤ人「六百万ホロコースト」「犯罪」のシンボルであり続けて居る。「アウシュビッツ―最終決算」(ヴィヴィアン・バード編集、1999、ザ・バーンズ・レヴュー刊、未邦訳)によると、ナチスドイツによってアウシュビッツ・ホロコーストで殺された人々の数は、次の如く変遷した。

1  九百万人説  1945年、フランスのドキュメンタリー、「夜と霧」。
2  八百万人説  1943.12.31日、フランス戦争犯罪調査局。
3  七百万人説  1945年、フランス戦争犯罪調査局。
4  六百万人説  1951年、ティベール・クレーマー。
5  五百万人〜五百五十万人説  1945年、モスクワでのアウシュビッツ裁判。
6  五百万人説  1978.4.20日、フランスの新聞、ルモンド。
7  四百五十万人説  1945年、ヘンリク・マンデルバウム。
8  四百万人説  1945.5.6日、ソ連の数字。ニュルンベルグ裁判。
9  三百五十万人説  1991年、クロード・ランツマン。
10 三百万人説  アウシュビッツ収容所長、ルドルフ・ヘスの自白。
11 二百五十万人説  1961年、ルドルフ・ヴルラ。
12 二百万人〜四百万人説  1982年、イスラエルの歴史家。
13 二百万人〜三百万人説  SS士官ペリー・ブルームの自白。
14 二百万人〜二百五十万人説  1945年、フリードリッヒ・エントレス博士の自    白。
15 二百万人説  1951年、1973年、1975年。
16 百六十万人説  1989年、イスラエルの歴史家。
17 百三十万人説  1995年、ワレサ・ポーランド大統領。
18 百四十七万千五百九十五人説  1983年。
19 百四十三万三千人説  1989.9.1日、フランスのル・モンド紙。
20 百二十五万人説  1985年、歴史家。
21 百十万人〜百五十万人説  1984年、1998年。
22 百万人説  1989年。
23 九十万人説  1990.8.3日、ニューヨークで発行されて居るユダヤ人の新聞   アウフバウ。
24 八十万人〜九十万人説  1953年。
25
26 六十三万人〜七十一万人説  1994年。
27 七万三千百三十七人説。(73,137)  1991.3.5日号、ニューヨー    ク・タイムズ。
 
 つまり、アウシュビッツの収容所の死者の数は、九百万人 → 七万三千百三十七人。9,000,000人 → 73,137人と、「変化」したわけである。

 筆者は、今、日本ではこの「アウシュビッツでのユダヤ人ホロコースト」の死者の数が、どのように報道され、放送され、記述され、教えられて居るか、詳しく調べては居ない。しかし、手許の「集英社国語辞典、第二版(二千年九月)」によると、アウシュビッツでのナチスドイツによる捕虜やユダヤ人など、四百万人以上が虐殺された、と記してある。この四百万人以上との説は、ドイツ降伏の直後、ソ連共産政権が出して来た説と一致する。

 しかし、一九九五年、ワレサ・ポーランド大統領は、百五十万人説である。このワレサ大統領の説は、前出日本の国語辞典発行者は、デマ宣伝 と見なすのであろう。いずれにしても、日本のエリート(実は単なる白痴、家畜人ヤプー)の心理は、第二次世界大戦直後のまま、時間は完全に動かないようである。(了)

 (私論.私見) 「アウシュビッツの死者数のものすごい変遷」考

 なんとまぁホロコースト死者数は、細大9百万人説から最小7万3137人説まで27通りあるという。万事アバウト派のれんだいこのアバウト度を越えている。問題は次のことにある。

 鳴り物入りで喧伝され、戦後反戦平和運動の理論的支柱でもあるホロコーストの死者数のこれだけの落差を聞かされて、それがどしたとカエルの面にションベンの手合いは別として、多くの者は捨ててはおけないと思うのではなかろうか。学問が真に学問なら、実態検証に向うべきではなかろうか。それがそうならない現実がある。

 西横綱のホロコーストがそうなら、東横綱の南京大虐殺事件はどうなんだろう。西欧はズボラでも日本は違う、その数はェェェとェェェと締めて60万人説から数百人説までいろいろある、議論はしないのが上策などというのではないだろうな。

 戦後教育は数々の評価点がある。しかし、歴史認識のこの辺りをネオ・シオニスト教学で塗り込められ、それを疑わないのが知性で出世する。現に俺は大学教授だ、恐れ入ったかと成金舶来趣味を見せびらかしてご満悦するのは、戦後教育のお粗末なところだろう。

 そのお粗末シオニスタン三バカ中堅トリオが自民党総裁選を演出しており、読売系が後押ししている。曰く、お前は憲法改正を言え。お前は消費税10%を言え。お前は日米安保深のめり万歳論を唱え。連日これを吹聴することに意味がある。とでもするシナリオが出来ているんだろう。

 思えば、「痛みを伴う改革」で登場した小ネズミ5年有余の施政は、「痛みを伴う」のは本当だった。「改革」は全てコマーシャルに過ぎなかった。せんでも良いことばかりやって米英ユ同盟にはお供えにつぐお供えで国富を吸い取られてきた。云うことと為す事が明らかに狂人であるが、メディアはこれを異能と称えてきた。

 シオニスタン三バカ中堅トリオはこれを継承すると云う。ますますお供えに励み、人民大衆に痛みを強制し、食えなくなったら自衛隊入れ、戦え、危険手当が割り増しで出るぞ、稼いで帰れ、その為の愛国親孝行路線を敷く。憲法改正、教育基本法改正に邁進すると云う。

 しかしなぁ、歴史弁証法は面白い。作用には反作用が伴う。詭弁は所詮詭弁で、化けの皮が剥げる。その為の理論的営為が進行している。これではアカンと憂国する士が澎湃と連帯し始め、シオニスタン攻略に向うことになる。今はその曙光期だと思う。

 2006.9.11日 れんだいこ拝

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評212 れんだいこ URL 2006/09/12 18:20
 【「1971自民党総裁選」考】

 2006年の史上最貧困な自民党総裁選に辟易するにつけ、角栄選出時の総裁選に思いを馳せた。角栄はその時、福田、大平、三木と争った。中曽根は降りた。本命は福田とされていた。

 7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった(有効投票476)。この結果、いずれも過半数に達しなかったため上位二人の決選投票になった。再投票の結果、選挙管理委員会委員長・秋田大助が、「田中角栄君、282票」と読み上げた。田中は282票、福田190票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。

 7.6日、臨時国会召集、佐藤内閣総辞職。衆参両院で第64代内閣総理大臣に指名され、直ちに組閣に着手した。就任直後の記者会見で、「日中関係正常化への機は熟した」と宣言。組閣時に福田派が入閣を拒否、波乱の幕開けとなった。「民族の歴史の1ページを書くつもりで頑張る。働き者の越後もんの名を汚しません」(目白の椿山荘で地元支持者に)の言が残されている。

 新聞各社は、角栄の首相就任を次のように評価している。朝日新聞社説(47.7.7)は次のように述べた。

 「長い間国民の多くは政治に変化を期待することの空しさを感じてきた。しかし、今田中首相の登場を迎えて、変化への予感と期待がよみがえろうとしている。新首相が持つ、内外の情勢に敏感に反応する若さの可能性や、門閥や学閥と無縁の庶民的個性が、今度の新首相登場に、単なる政権担当者の交代にとどまらない政治一新の新風を吹き込むものとして期待させる」。

 読売新聞社説(47.7.6)は次のように述べた。

 「田中角栄氏が自民党の新総裁に選出された。田中氏は新潟県の片田舎の生まれで、さしたる学歴も無い。15才で裸一貫東京に出てから、住み込みの店員、書生などを振り出しに、天賦の分の才幹と努力と、旺盛な行動力によって今日の地位へ驀進してきたといってよい。こういう経歴で政権の座にのし上がった人は、戦前戦後を通じてほかにない。54才という若さも、また異例である」。

 (私論.私見) 角栄の自民党総裁、首相就任考

 角栄の自民党総裁、首相就任は、次の点で画期的であった。1・54歳という若さは戦後最も若い宰相であった。2・大学を出ていない首相としては初めてであった。同時に3・戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破った。

 ここまでは一般に評されているところであるが、れんだいこは、もう一点挙げる。それは、角栄が、戦時中一平卒に過ぎなかった者が首相に辿り着いた稀有な事例であるということに注目したい。このことは本来大きな歴史的意味があるのではなかろうか。

 角栄までの戦後歴代の首相を通覧して見えてくることは、角栄ただ独りが「戦時中一平卒」のいわば百姓であることである。このことは、「存在が意識を決定する」とする唯物弁証法に従えば、角栄が、「戦前の一平卒の眼」で戦後社会を捉え、その舵取りに誤りなきを期す政治を心中に期していた可能性を示唆する。角栄のハト派政治の真髄はまさにこの辺りにあったのではなかろうか。

 れんだいこは、角栄こそは、戦後日本の憲法秩序に内在しているプレ社会主義的秩序をそのままに認識し、受け止め、実践した稀有なる在地型社会主義の指導者足りえていたとみなしている。角栄と同盟した大平もまた百姓のせがれであった。鈴木善幸然り。彼らは共通して下手にイデオロギーに染まらずに、保守権力地盤に立って在地型社会主義政治を実践していった。これは史上例のないもので、もつと評価されて良い。

 これに噛み付いたのが、エセ左翼の社共特に日共の宮顕ー不破ラインであった。いまだにその反革命理論に汚染されているサヨが反角栄を唱えては左派ぶっている姿は嬌態である。れんだいこはかく判じている。

 ところで、戦後政治家の中で、「憲法改正、自主防衛」を唱える者のその多くは、中曽根に典型的なように戦時中は高級将校である。当然ながら彼らは戦争の現場を知らない。つまり悲哀を知らない。御身を常に安全区に置いたまま戦後を迎えた。その精神は安逸である。そういうせいであろう、戦後になってまたぞろ国防論者になりさがっている。

 あるいは2世、3世政治家も又然りで、戦争の現場の悲哀を知らない。一兵卒の眼を持たない。現代世界を牛耳るネオ・シオニストに媚を売り、立身出世権力と金力を得ようとしてシナリオ通りの請売り防衛論を合唱する。反戦平和理論及び運動を観念的と批判して得意がっている。

 れんだいこが逆批判しておく。平和の尊さは実在的なもので観念的ではない。国家予算の中に占める軍事費の増大を次第に増やしていくことこそ観念的で、小泉政権による軍事費を水道の如くに出しっぱなしにする政策こそ観念的で、これを止めずにやれ増税だ財政危機だと煽ることこそ観念的ではないのか。イラク派兵自衛隊の無事生還に安堵するのは良いとしても、一体いくら無駄ゼニ使ったんだ。その天文学的金額を公開せよ。こうしたことに政治責任をとらなくて済ませる政治手法こそ観念的ではないのか。

 その点で、「一平卒首相」たる角栄の政治史的意義は高い。このことが評価されていない政治学は凡庸過ぎよう。かの時代、未曾有の国力発展をもたらした。角栄政権が後数年続いておれば、日ソ国交回復、日朝国交回復までやり遂げていたかも知れない。イフは禁物なので後の弁は差し控える。

 その角栄を葬ることに極端に手を貸した日共指導部の政治反動性は許しがたい。エセサヨを党中央にするとこういうことが起る。れんだいこ研究に拠れば、徳球ー伊藤律ラインの党中央ならこういうバカな指導はしなかったであろう。しかしいけない。そういう徳球ー伊藤律ラインに対して、新旧左翼が共通して袋叩きして今日に至っている。肝腎なところが全て逆さに評されている。これではいくら学んでも、学べば学ぶほどバカになる。

 2006.9.12日 れんだいこ拝

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評213 れんだいこ URL 2006/09/13 20:13
 【「5つの大切、10の反省」考】

 久しぶりに角栄物に関心を移した。こたびは、1974.5.13日、田中首相が、「田中総理を励ます新潟県人の集い」で、徳育のための「5つの大切、10の反省」を提唱したことに関して思案してみた。れんだいこの学生時代のことであり、うっすらと記憶がある。当時のれんだいこは、宮顕系執行部の日共理論に毒されていたので、政府自民党権力の戯言と聞き流してしまった。

 この感覚は今でも為されているようで、ネット検索で調べると、同様見解が発見できる。例えば、「反省から飛翔へ」は、次のように評している。

 「5つの大切、10の反省」というのが田中内閣のときだされて、失笑をかっていたのを思い出すが云々」。
 「あんたに言われる筋合いがないという意見になりますね」。

 「教育改革に関する私見」は、次のように評している。

 「池田・佐藤内閣当時の『期待される人間像』、田中内閣の『5つの大切、10の反省』もお題目としては結構だが、そこに政治の影や国家要請が見え過ぎると、国民の側はかえってしらけてしまう」。

 「日教組『教育基本法』メールマガジン No,5 2003.5.22」は、、次のように評している。

 「『教育基本法は25年前思い切って全面改正しておけばよかった』と発言した田中角栄首相は、1974年『5つの大切、10の反省』を提唱しました」。

 「これは、高度成長で経済大国になった日本人の、国民としての自覚を促そうとしたもののようです。この提唱も田中首相本人の金脈問題やロッキード事件で、やがて忘れ去られてしまいました」。

 今、れんだいこは、違う受け取りをしている。どこに間違いがあったのかに気づいている。それは、政府自民党与党権力を非弁証法的に「権力=悪」と規定して、批判一辺倒運動に堕してきたことに原因が有るのではないかと思っている。

 そういう安逸批判している社共運動は、「口先批判、裏通じ」の万年野党運動でしかなく、それこそ気楽な稼業に過ぎず、最も恥ずべき運動ではなかろうか。戦後政治闘争の最大最深のものは実は、政府自民党与党権力内に於けるハト派とタカ派の抗争であった。この熾烈さに比べれば、社会党、共産党、新左翼諸党派のそれは懐柔され過ぎており、せいぜいコップの中の児童芝居劇に過ぎない。一応党派間抗争は除外しておくけども。

 仮にそういう風に見たてるとする。今れんだいこは、ハト派政治を、特に「角栄ー大平同盟」の政治を、在地型社会主義運動の可能性を秘めた世にも稀な善政であったと判じている。それ故に、現代世界を牛耳る国際金融資本ネオ・シオニズム奥の院の鉄の号令一下で処断されたと思っている。キッシンジャーがこの役割を担い、三木と中曽根が呼応した。

 これを裏から促進したのが、特に宮顕ー不破ラインが牛耳る日共であった。宮顕ー不破ラインの日共は、ハト派には容赦ない批判を浴びせ、タカ派とは手加減批判ないしは是々非々運動を展開してきた。そういう史実ばかりを見せている。日共がましな左派政党であるなら奇妙なことであろう。エセ左派サヨが牛耳るとこういう変態運動が罷り通る。ここに日本左派運動の悲劇と貧困の根源がある。れんだいこは、そう見立てている。

 それはともかく、この時角栄が掲げた「5つの大切、10の反省」の各徳目は、今こそ瑞々しい。れんだいこが判ずるのに、在地型社会主義の有能士育成の要件を記している感さえある。「5つの大切」の「人間、自然、時間、モノ、国、社会を大切にしよう」を思案するのに、もっともなことではないか。

 「十の反省」の「友達と仲良くしただろうか」、「お年寄りに親切にしただろうか」、「弱い者いじめをしなかっただろうか」、「生き物や草花を大事にしただろうか」、「食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか」は、現在の荒れる学校、社会、無気力児童等々を考えると、まことに適切な教育徳目ではなかろうか。これを実践していれば、今流行の犯罪は大きく減ずるだろう。

 「約束は守っただろうか」、「交通ルールを守っただろうか」、「親や先生など、人の意見をよく聞いただろうか」、「人に迷惑をかけなかっただろうか」は、社会性能力の欠如が甚だしい今日を考えると、まことに適切な教育徳目ではなかろうか。「正しいことに勇気を持って行動しただろうか」となると、まことにその通りではなかろうか。今この精神が細りに細っており、時流才覚のみ磨けとばかりの風潮が横行している。誘導されている。

 れんだいこは、現下のシオニスタン政治家による、よりシオニスタン化の為の教育「改革」を厭い抵抗する。彼らが今後何を云うのかを、角栄が指針させた「5つの大切、10の反省」に照らして判断しようと思っている。恐らく、愛国心だの国防心だの唯々諾々精神だの、強い者に巻かれろ等々を涵養せんとするだろう。その時、田中政権が指針させた教育徳目との違いを際立たせ、批判しようと思う。

 愛国心を云うのなら愛国できるような国づくりをせねばならない。そうすれば自ずと愛国心が育つであろう。愛国心というのは民間的自生的に育てるのが望ましいのではなかろうか。国防心を云うのなら国際協調、国際反戦平和に精出す過程で云わねばならない。わざわざ緊迫政争化するように仕向けて国防心を煽るのは卑怯邪道だろう。現に憲法前文が良いこと云っているではないか。軍事利権屋が悦ぶだけではないか。

 唯々諾々精神や強い者には巻かれろを云うのなら、よりましな世の中を創るための権力の暴走を止める抵抗精神の必要をも言い返したい。内部告発の勇気を尊重したい。オンブズマンの役割も高めたい。政治意識の涵養の重要さを指摘したい。無知なままの唯々諾々は大いに危険であることを指摘したい。

 その点で、「5つの大切、10の反省」は誰が作ったのか、わめかず、しっとりと必要事を示唆している。ご時世柄今こそ必要と思う。この教育は、シオニスタン政治家、教育家ではやれない。己自身恥ずるところが多すぎるから。

 そういう、「5つの大切、10の反省」を、れんだいこがかの時聞き流したのは、れんだいこの方がおぼこかったからで、聞き分けの知恵がなさ過ぎたからである。今なら、それは良い提案をしなさる、ぜひやってくれと御意するであろう。

 道に迷えば、角栄に帰れ。政治は特にそうだ、角栄に学べば教えられる。反すれば要諦を失う。角栄ならどうするだろうと考えたほうが、よほど為になる。偉大な者は死してなお生きている。歴史を学ぶとはそういうことでもあると思っている。

 2006.9.13日 れんだいこ拝

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評214 れんだいこ URL 2006/09/15 20:19
 【林彪失脚事件の真相」考】

 2006.9.15日、共同通信社が、中国文革期の「林彪失脚事件」に纏わる、1971.11.20日付けモンゴル政府文書の存在を報じた。同文書は、「中国機がモンゴル領内で墜落した原因に関する確定文書」(16P)と題して、燃料不足による不時着失敗説に否定的見解を記し、機内で争いがあったことを示唆していたとのことである。

 れんだいこの学生時代のことであり、これも記憶にある。当時、中国で進行中の文革は、日本の学生運動にも大きく影響を与えていた。日共を「宮本修正主義集団」と規定し、これと闘うよう呼びかけていた。当然ながら、日共系は文革路線を否定し、反日共系は概ねこれに呼応せんとしていた。真相は分からず、毛沢東の指針せしめた造反有理だけが、カリスマ的響きで作用していた。そういう記憶がある。

 それはともかく、「林彪失脚事件」は未だに歴史のヴェールに包まれ過ぎている。林彪は、毛沢東の盟友として文革を推進し、次第に「毛沢東の親密な戦友」と称えられ、bQの地位にまでのぼりつめていた。1969.4月、北京で開かれた第9回党大会で、林彪が毛沢東の「『親密な戦友』であり『後継者』である」ことが確認された。

 その林彪が突如失脚した。その背景にはどういう事情があったのであろうか。「権力闘争にやぶれ、クーデタまでおいつめられた」とされているが、誰との権力闘争なのか、どういうクーデター計画であったのか等々真相は藪の中である。

 一説はこうである。1969.3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになり、二正面作戦をとるのは上策ではないとして、米帝と罵り敵視していたアメリカに接近を試み始めた。一方、林彪はソ連派で、あくまでも敵はアメリカであると主張し続け、次第に対立するようになった云々。もう一説はこうである。対米緊張緩和路線を廻って、毛沢東ー周恩来はニクソン招請を策し、林彪はそれに反対し続けていた。この対立がのっぴきならないものとなり、毛沢東ー周恩来は、林彪を犠牲として対米緩和を選択した云々。

 れんだいこは、どちらもピンと来ない。そこで次のように推定している。なぜだか誰も指摘していないが、1971.9.12日の「林彪失脚事件」の2ヶ月前の7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交してきた。極秘に北京を訪れ、周恩来との間に米中の和解について、何やら膝詰め談判した形跡がある。7.15日、「ニクソンが訪中し、中国首相・周恩来と会談する」と発表したが、この時何が話し合われたのだろうか。

 「キッシンジャー・周会談」の中身が全く明らかにされていない。それは、ロッキード事件で、三木首相とフォード大統領が首脳会談した際の会談内容が秘匿されているさまと同じである。

 れんだいこは、林彪失脚の影に「キッシンジャー指令」があった、と見立てている。この時、中国は、経済政策に失敗しており、更に文革騒動が重なったため、財政が極度に逼迫していた。キッシンジャーをエージェントとするネオ・シオニスト奥の院は、対中経済援助を約束し、その対価として林彪派の粛清を要請したのではなかったか。「キッシンジャー・周恩来会談」は、その密約を結んだのではなかろうか。れんだいこは、そう推理している。

 では、ネオ・シオニスト奥の院は、何故に林彪派の粛清せねばならなかったのか。林彪派の台頭が、中国の制御をますます利かなくさせ、そのことがネオ・シオニストの世界支配計画に障害となることが見え過ぎていたから、文革の進展がその方向に行きつつあることに危機感を覚えたネオ・シオニスト奥の院が、何としてでも林彪派を粛清すべく動いたのではなかろうか。かくして、お膳立てが整い、キッシンジャーが訪中したのではなかったか。

 毛ー周政権は、財政危機の中背に腹代えられず、清濁合わせ飲んだのではなかろうか。しかし、毛は、盟友を失い、手足をもぎ取られた。この時点で、実質上文革は失敗した。四人組はその後のあだ花に過ぎない。いとも容易く一網打尽にされた。代わりに、文革理念で云えば走資派のケ小平派が台頭した。今日の中共政権は走資派の掌中にある。そうであるからこそ、これまた走資派の不破系日共は、日中共産党の歴史的和解を実現し得た。

 こう読めば、その後の事態が理解できるし、こう読まなければ事象の羅列だけで何も見えてこない。それにしても、「林彪失脚事件」は不思議なほどに究明が制御され過ぎている。直前の「キッシンジャー・周会談」との絡みに向わない考察がはばを利かせ過ぎている。学ぶとは、こういう風に捻じ曲げる手法を学ぶことを云うのであろうか。れんだいこは、素直に見ない学問に嫌気を覚えている。学問とはそんなに難しいものかと嘆息させられている。

 2006.9.15日 れんだいこ拝

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評215 れんだいこ URL 2006/09/19 19:12
 【「贖罪転嫁論法」考】

 世に「贖罪転嫁論法」というのがある。れんだいこの実践論理学ならでは注目する話法であるかも知れない。「贖罪転嫁論法」とは、過去のある時期に於ける相手の非を咎めることにより、咎める方に歴史的正当権を生み出し、以降咎める方が何をなしても大抵免責されるというご都合主義的な免罪符論法のことを云う。

 例として、ホロコーストに纏わる論法を挙げておく。ネオ・シオニストは、第二次世界大戦後、ホロコースト論に基づく免罪符論法を弄んでいる。これにより、イスラエル建国過程の有責行為を免罪し、その後のイスラムに対する加虐行為に対しても免責している。御用家達はもっともだと唱和しているが、やはりおかしい。

 仮にホロコーストが史実だとしても、そのような残虐行為を二度と起さないように手立てする被害者ゆえの権利が生まれるのであって、報復権まで生み出す必要は無い。報復行為免責権までは許容されない。そう判別するべきなのに、ネオ・シオニストは、ホロコースト論を声高にすることにより、彼らの悪事を隠蔽しようとする。それは悪用詭弁論法であろう。まして、ホロコーストの史実性が否定されたらどういう事になるか。ネオ・シオニストこそ真性の罪作り派だということになる。

 2005.12.8日、イランのアハマディネジャド大統領は、「イスラエル、ユダヤ人、ホロコースト問題」につき次のような鋭い発言をした。

 意訳概要「いくつかのヨーロッパ諸国は、ヒトラーが無実のユダヤ人数百万人を焼却炉で虐殺したと主張している。そして彼らは、もし誰かが何がしか反対の見解を論証しようとしたら、そういう人たちを非難し、監獄にぶち込んでいる。我々は、彼らの主張を認めないのだけれど、それが真実だと仮定した場合でさえ、我々は連中に次のように質問してみたい。ヒトラーによって無実のユダヤ人が殺されたとして、そのことが、ユダヤ人のエルサレム占領を支持する理由になるのか。もし、君たちが自分たちの論に正直であるなら、イスラエル国家は虐殺が行われたとされているドイツとオーストリア両国の領内に建設されてしかるべきだ。罪滅ぼしでヨーロッパの田舎のどこぞの地域をシオニストどもに与えるべきではないのか。例えば、ドイツ、オーストリア、その他の。シオニストどもは、ヨーロッパにこそ彼らの国家を樹立すべきだ。君たちはヨーロッパの一部を提供することを申し出よ。そしたら我々はそれを支持しよう」。

 アハマディネジャド大統領は、「贖罪転嫁論法」の非をひねりを利かせた形で鋭く衝いている。即ち、シオニストがホロコースト贖罪を持ち出すにせよ、ならば当事者にぶつけてくれ、イスラムの地で恨みを晴らすのはお門違いではないかと皮肉っている。これを逆に考えれば、なるほど「贖罪転嫁論法」は万能な鬼に金棒的で、相手構わず振り回せられるご都合主義論法という事になる。このバットに当った者が災難という事になる。

 「贖罪転嫁論法」(manabu_ronrigaku_syokuzaironpo.htm)

 2006.9.19日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評216 れんだいこ URL 2006/09/20 19:47
 【シオニスタン首相続投に対するれんだいこ批評】

 2006.9.20日、安倍、麻生、谷垣の誰がなろうと代わり映えはしない自民党総裁選が行われ安倍が選出された。小泉に続いて露骨なシオニスタン首相が続いていくことになりそうだ。この際、シオニスタン首相の資格について詮議しておくことにする。

 サヨ圏が偽書扱いする「シオン長老の議定書」は次のように記している。

【「ゴイム政府の要職(大統領、首相その他)操作」に関する記述一覧】
(seito_palesutina_yudayaginmondai_giteisyoco_seifusosa.htm)

 これを要約すれば、世界最強帝国を形成しているネオ・シオニストの望む首相は次のような者が相応しいということになる。

 奴隷のように従順な資質である者が相応しい。政治能力に長けた人物は相応しくない。将棋の歩(ふ)のような役目を引き受けさせれば良い。とかく過去や世評に何かとあり、国民との間に溝がある人間が望ましい。そういう人物であればいつでも処罰し放逐できるからである。それを見た後釜は恐れをなし、更に云う事をきくようになるだろう。

 我々の計画が然るべき成果を挙げるためには、過去の身上に脛に古傷を持つ候補を選んで立候補させ選挙に臨む。そして当選させる。すると、そういう連中は旧悪を暴露される怖さと権力を得た者の常で、特権と名譽を失うまいとして、我々のの計画達成のに都合の良い代理人となるのである。かくて傀儡大統領ないし首相となる。

 大統領は、幾通りにも解釈できる法律の意味を、我々の意図する通りに解釈するであろう。大統領はさらに進んで、我々が廃止の必要を指示すれば、法律を廃止することもやるだろう。その他に、大統領は新たなる臨時法を提案する権限を持つようにさせる。また、国利国益のためにはこれが必要だと言いつくろって、憲法の枠から逸脱した新しい法案すら提案する権限を持つようにさせる。(要約以上)

 思えば、小泉はまさにピッタリの首相であった。5年5ヶ月有余在任という長期政権を許したが、マスコミは概ね阿諛追従し、その失政を問うことはなかった。同じ穴のムジナだからして、問うこと事態がないものねだりなのだろう。だから、れんだいこは、何も期待しない。思えば、ロッキード事件の際に角栄放逐の提灯記事を書いたものばかりが出世し、最近はテレビのコメンテーターとして登場している。こやつ等に小泉政権批判を願うのが土台無理というものだろう。

 それにしても、現役の首相がプレスリー邸訪問の後イスラエルに立ち寄り、彼らの歴史的怨念復讐誓いの聖地である嘆きの壁にわざわざ出向き、ユダヤ帽被って神妙な顔つきで信仰行為してきたというのに、これを咎めるメディアが無い。靖国神社参拝どころではない、現役首相の外国宗教信徒行為なのに責任が問われない。野党もこぞって未だに沈黙している。

 こうなると、政治は与野党含めて皆談合の積み重ねかも知れない。政府批判も許容範囲のヤラセかも知れない。マジメそうに歳出削減議論しながら、この間湯水の如く軍事防衛費が垂れ流しされていることに見てみぬ振りをしている。思いやり予算段階を負え、至れり尽くせり予算まで計上されつつあるのに、お茶濁し批判で事勿れしている。

 政府の地方交付金削減がそのままスポッと沖縄米軍基地移転に充てられているというのに問題にならない。こたびの総裁選で消費税10%を主張した谷垣は、麻生の票に及ばなかった。それはそうだろう、消費税5%値上げ分がそのまま又お供えされるのが見えているではないか。このことについてダンマリしたままの消費税10%の主張のみが耳に残ってしまった。

 ままよ、安倍のお手並みを暫く拝見しよう。祖父岸は戦前は革新官僚で鳴らしたが、戦後は巣鴨プリズン出獄に当り児玉らと共にエージェント契約結び、以来国益を口にしながら実際にやることは売国奴行為ばかりを積み重ねてきた。中曽根ーナベツネコンビがこれを継承し、小泉ー竹中コンビまで辿り着いている。

 そしてこれから安倍政治が始まる。憲法改正、教育基本法改正を公約としているので、引くに引けないことになるだろう。どう出てくるのか、興味はある。

 2006.9.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評217 れんだいこ URL 2006/09/23 20:43
 【れんだいこの「戦後民主主義」賛辞考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

2006.9.20日、小泉純一郎総裁の後継を決める自民党総裁選が行われ、安倍晋三官房長官(51)が第21代総裁に選出された。安倍は9.26日の臨時国会初日に第90代首相指名を受け、戦後最年少、戦後生まれでは初の首相として新内閣を発足させる予定である。その安倍は、戦後憲法と教育基本法の改正を公約としている。

 れんだいこはここで、安倍とは逆に「戦後民主主義」を賛辞してみようと思う。「戦後民主主義」とは、「戦後憲法秩序」と云い代えても良い。「戦後という時代の質」を捉え直そうと思う。同時に、戦後左派運動の陥穽を明らかにし、如何に虚妄な批判運動に堕してきたのか、よしんば擁護運動にシフトしていても掛け声倒れで受肉化を目指さなかったのかを指摘していきたいと思う。

 テーマが難しいので、何回も書き換えていくことにする。もし反対ないし批判意見があれば、それをこやしにして更に練っていこうと思う。御意のし、このれんだいこブログに列なれ。

れんだいこの「戦後民主主義」賛辞考
 (sengodemocracyco_sanbico.htm)

 2006.9.23日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評218 れんだいこ URL 2006/09/25 12:12
 【「鬼塚英昭氏のネオ・シオニズム研究」考その2】

 鬼塚英昭氏の自費出版「20世紀のファウスト」をようやく読み終えた。第二次世界大戦前後をネオ・シオニズム奥の院メンバーの一人として暗躍したアヴェレル・ハリマン氏の履歴に照準を当てて、近現代史の激動の解析を試みた好著であった。自費出版が如何なくその能力を発揮しており、太田龍・氏が何度も紹介していただけのことがある。他に「天皇のロザリオ」も著作しているとのことなので、これも読もうと思う。

 鬼塚氏は、気の遠くなる作業でコツコツと収集してきたであろう各種資料を、羅列するのではなく、単に字面を読むのではなく、的確に読み取って、場合によれば裏意味まで推理して、諸事象の中に垣間見える歴史意思をあぶり出している。これを能く為し得ていることで、問わず語りでこれまでの歴史家や評論家の無能力を際立たせている。れんだいこが範としたい学風を見せてくれた。

 れんだいこは続いて、久保田政男氏の「フリーメーソン」を読む機会を与えられた。これを鬼塚氏の「20世紀のファウスト」と比較すると、いわゆるフリーメーソン研究も随分と進化発達してきていることが分かる。久保田氏の「フリーメーソン」も好著であり、取り込みたい記述が何箇所もあるが、私的見解を披瀝し過ぎているきらいがある。その分やや実証性に欠ける。致し方ないとしても、今日的研究水準からすれば史実検証的に耐えられない記述が散見する。その点に於いて、鬼塚氏の「20世紀のファウスト」は、私的見解を述べる際には依拠した資料を提示しており、その分説得力を増している。鬼塚氏の読み取り方が正確であるかどうかが問われるが、れんだいこには全て示唆的であった。

 「シオン長老の議定書」に対する捉え方も的確であるように思われる。欲を云えば、小出しにするのではなく、これを廻って奥の院でどういう遣り取りしていたのか解析して貰いたかった。が、そういう資料が漏洩されるはずも無く、ないものねだりかも知れない。ヒトラー、スターリンの素性解析も説得的であった。久保田氏の「フリーメーソン」に於けるヒトラー、スターリン観との際立つ違いである。欲を云えば、ヒトラー、スターリンのそれぞれを、二面性即ちネオ・シオニスト性と反ネオ・シオニスト性のどちらに重きを置いて評するべきかの視座をはっきりさせて貰いたかった。

 マッカーサー、ケネディー、フルシチョフ考も為になった。核兵器開発制限交渉の裏舞台も生き生きと伝えていた。近現代史が、ネオ・シオニストの目論む革命と戦争の時代として推移しており、これに人脈が複雑に絡み合っていることも鋭く暴いている。産軍複合体が第二次世界大戦後も絶えず紛争を求めて暗躍していることも分かった。この辺りを広瀬隆・氏の「赤い盾」と読み比べてみようと思った。

 「20世紀のファウスト」ハリマン氏の晩年の「変節」にどのような要因があったのか。それまでのロスチャイルドのエージェント活動から「自律」し始めた契機は奈辺にあったのか、興趣が注がれる。1970年代、老齢化したハリマンの代わりにキッシンジャーが登場し、ネオ・シオニストをしてはるか今日に繋がる兇暴性を増す陰謀政策へと転換させた。れんだいこはそう理解したが、キッシンジャー登場の経緯が為になった。

 それにしても、政権の重みというものを改めて考えさせられた。トップリーダーの舵取りによって政治の質と世相が様変わりする事を教えられた。俗流自称マルキストが駄弁するへなちょこあんちょこ階級史観なぞ何の役にも立たない人脈が織り成す利権闘争的政治の実態を垣間見せてくれた。政治がまさに生き物であること、日々作り創られていることが分かった。れんだいこが次第に見抜いてきた政治運動の実態、即ち、ネオ・シオニズムの表からのウヨ、裏からのサヨの御用聞き的性格が裏付けられた。連中は口先では対立しているが、裏の奥の院を通じて呼応している。このことが確認できた。

 思いつくままを記したが、「20世紀のファウスト」は、現代政治運動が踏まえねばならない必読本的地位を獲得している。鬼塚氏は次には何を明らかにしてくれるのだろうか。今度は「天皇のロザリオ」の感想を記そうと思う。

 2006.9.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評219 れんだいこ URL 2006/09/26 13:21
 【歴史観、歴史眼考その1】

 単なる年譜の羅列では歴史を貫く原動力が見えてこない。その歴史をどう観るのか、これは非常に難しい。人によって違うし、同じ人でも学び方とか経験によって変わってくる。願うらくは、加齢と共に序々に磨かれるべきであろうが、老齢による思考の退化をも考慮せねばならない。結局のところ、その人自身の時代環境、気質、資質、能力によって個性的に形成されざるを得ないのではなかろうか。

 もう一つ、流布されている歴史観、歴史眼がどれだけ正しいのかを問わねばならない。明確に云うと、通説はあてにならない、あてにしてはいけないその種のストーリーに貫かれている。このことを知らねばならない。むしろ、隠されているあるいは否定的に評されている人物事象の方に正義があることが多い。こちらの歴史観、歴史眼の方により真実があると考えられる。このことを弁えねばならない。

 そういう意味で、通説教本(テキスト)を疑惑しながら読み取らねばならない。この辺りに何の疑問も涌かさず習熟するといわゆる優等生になる。しかしながら、優等生が優秀であるかどうかは保証の限りではない。但し、徒に斜交い構えの歴史観、歴史眼を持つものでもない。この辺りの呼吸を弁えることが必要であろう。

 それやこれやで、歴史をどう観るのかは、かなり高度な学問域ではないかという気がする。鬼塚英昭氏の「20世紀のファウスト」は、これに叶う好著である。れんだいこは、これを取り込もうとしたが、最初から引用転載したくなる記述ばかりであり、却って困った。5ページ読み直すのに2時間かかる。500ページもあるというのに。つらいけどうれしいことだ。

 「歴史観、歴史眼考」
 (ronpyosyu/rekishikanco.htm)

 「日露戦争にヤコブ・シフ(その陰にロスチャイルド)有り」
 (seito_palesutina_yudayaginmondai_roschaild_shifco.htm)

 2006.9.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評220 れんだいこ 2006/10/05 12:11
 【食えない解説、食える解説考】

 月刊誌2006.11月号「正論」に、東北大学名誉教授・田中英道氏の「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」が掲載されている。れんだいこは、田中教授の解説の下りには少しも同意しないが、ここに紹介された資料の方に滅法興味を覚えた。

 こうしたことが常である。思えば、日本の肩書きインテリの程度は、国内の幻資料発掘や外国文献の紹介に於いてのみ精彩を放っているのではなかろうか。これさえ出来れば、博士号や教授職に有りつくことが出来るのではなかろうか。それが良いとか悪いとか云うのではなく、そういうレベルにあるということを確認することが大事だ。

 このレベルの者は、せっかく国内の幻資料発掘や外国文献の紹介で功を為しているのだから、後は簡便な解説で済ませればよいのに、物足りなくなるのだろうか解釈評論に乗り出す。そのサマが良ければなお精彩を増すのだが、往々にしてチンプンカンプン牽強付会要するに下手糞な駄文に堕している。

 れんだいこはだから、彼らが紹介した資料のみを有り難く頂戴する。全文を転載することが時にあるのは、後日の検討を期してのものであることが多い。時にこのレベルを超して全文を頂くことが有る。そういう著者は稀であるが、れんだいこが知る限りに於いて数人存在する。こういう機会に出くわすと、啓発されたという気になる。有り難いことである。可能ならば、れんだいこも与える側になりたいと思う。

 2006.10.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評221 れんだいこ 2006/10/07 16:52
 【平野貞夫「ロッキード事件、葬られた真実」考】

 平野貞夫氏が「ロッキード事件、葬られた真実」を世に問うている。平野氏が次第に角栄を真っ当に評価する目線を嵩じさせていることが判明する。後書きで次のように記している。

「だからこそ、私はロッキード事件で角栄が逮捕された年から30年経った節目の年に、どうしても本書を上梓したかった。新しい日本の政治をスタートさせるために」。

 平野氏は大胆にも、本書の中で中曽根の悪事を衝いている。本来なら、児玉ー中曽根ーナベツネラインの訴追へ向う捜査が、国策捜査で意図的に角栄逮捕へ捻じ曲げられた事を内部証言している。れんだいこは、もっと早くこのことを指摘して欲しかったと思うが、この結論に至るには何がしかの浄化期間が必要であったのかも知れない。

 れんだいこが思うのに、平野氏はあの当時、立花流の「諸悪の元凶田中角栄論」に論理的に組み敷かれ、角栄追放過程の政治史的意味を読み取れず手をこまねいていたまま見過ごしていたのではなかろうか。平野氏は本来なら、戦後保守政権内のハト派対タカ派抗争に於いて、ハト派的立ち回りをすべき位置にいた。にも拘わらず、ハト派の総帥角栄が四面楚歌の中で討ち死にさせられつつあるにも拘わらず、いわば政治的中立性という美名の下に見殺しにしたのではないのか。平野氏は今、そういう風に客観的に自己を捉えることができるようになったのではなかろうか。

 平野氏が、そういう悟りを得るにはある種の時間が必要であった。ロッキード事件以降の政局推移を見て、「角栄的なるもの」から「中曽根的なるもの」への転換を見て、その後のせめぎあいの政局を経て、このところの旧福田派の森ー小泉ー(安倍)と三代続くタカ派政権の動きを見て、政治の質が恐るべき貧困になったことに愕然とさせられ、対極的に角栄時代の政治を愛惜し始めたのではなかろうか。これが、平野氏の「ロッキード事件、葬られた真実」の執筆動機であるように思われる。

 れんだいこは、ここまで辿り着いた平野氏に更に問いたい。そろそろのどに刺さったトゲを抜くべきではなかろうか。「5億円贈収賄」はどこまでが本当なのか、むしろ冤罪ではないのか。この観点に立って検証し直して貰いたい。れんだいこは、ロッキード事件にネオ・シオニストによる謀略的なものを認めているので、こう立論することは容易く出来る。この視点を持たない平野氏がどこまで迫ることができるのだろうか。角栄愛惜も、「5億円贈収賄」を事実と認めたうえで為すのと、冤罪と看做して為すのとでは迫力が違ってこよう。

 「中曽根的なるもの」をもっと検証し直して貰いたい。中曽根の政治論全体が如何に食えない代物で、偽装愛国で、実はネオ・シオニストへの身売り国売り以外の何物でもないことを検証し直して貰いたい。中曽根政治こそが正真正銘の利権政治であることを告発して貰いたい。現下の旧福田派の森ー小泉ー(安倍)と三代続くタカ派政権が、「中曽根的なるもの」の焼き直しでしかないことを検証して貰いたい。現下の政治の貧困を質すにはこの作業を避けては通れないのではなかろうか。

 逆に云えば、平野氏が知る限りの力で「角栄的なるものの実像」を証言して欲しい。角栄政治が如何に有能で且つ議会制民主主義を踏まえたものであったのかを証言して欲しい。金権にまみれたが、独り角栄だけが責められるには及ばない当時の自民党内の仕組みを証言して欲しい。立花式「諸悪の元凶田中角栄論」を自壊させる内部証言に向って証言して欲しい。それにしても我々は、ネオ・シオニストの買弁評論家でしかない立花の諸言説に騙されすぎてきた。中曽根批判の次は立花批判にまで向わねばなるまい。

 れんだいこに云わせれば、角栄及びそのブレーンが指針せしめた「日本列島改造案」は歴史千年の時空に残る名作である。日本がこれをバイブルにして国家建設に向えば誤ることが無かった。今からでも遅くない、読み直して政策の下敷きにすべきであろう。読まない批判家が多過ぎる。読んでも理解できない低脳批判家が多過ぎる。

 「日本列島改造案」の構想と思想を読み取れない自称インテリとサヨイストが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、罵倒し続けてきた。角栄は同書の中で近未来のIT社会の到来をも誤ることなく想定している。環境、クリーンエネルギー対策にも示唆している。物流の速度をもって社会の進歩を計るという卓越した史観を披瀝している。「中曽根的なるもの」のタカ派が為す事は凡そ、反「日本列島改造案」政策ばかりである。小泉政権5年有余は、角栄の指針せしめた総路線を破壊する政策に熱中しただけであった。「自民党内ハト派を、それがねじれハト派であろうとも最終的に解体し、ひいては国家をネオ・シオニズム利権に丸投げする」ものであった。

 そういう政策をマスコミは囃し立てる。御用評論家が持ち上げる。よってたかってイジメられた角栄と対蹠的に、よってたかって褒めそやす。これを覆すには叡智が必要である。まずは頭脳で負けてはならない。次に情報戦で負けてはならない。金力でも負けてはならない。我々の進撃が開始され、何れの日にかきっとシオニスタンを封じ込め、彼らを歴史法廷に引きずり出し、その悪業の数々の裏舞台を明かさせよう。今や、政府自民党がシオニスタン・タカ派勢力に純化された分闘い易いと云うべきではなかろうか。

 2006.10.7日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評222 れんだいこ 2006/10/08 20:22
 【ユダヤ聖書神話の邪宗悪徳性について】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここでは創造主そのものの学問的考察は行わない。ユダヤ聖書的創造主が居たとして、ユダヤ聖書の天地創造譚の記述に対する論評を行う。これは、弁証宗教祖のユダヤ聖書批判である。意図するところは、互いに弁証し合おうとすることにある。

 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その1、「7日間創造説」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、「神は、六日間(七日目は休日)で世界を創造された」ことになっている。具体的には、「セム系一神教(ユダヤ、キリスト、イスラーム)の天地創造説との比較」で考察する。

 (私論.私見)

 これを仮に「7日間創造説」とする。この説の問題性はどこにあるかというと、天地創造、森羅万象をロゴス化して定式絶対命題化しているところにある。天地創造、森羅万象をロゴス化せんとする試みはまだ良い。それを定式絶対命題化するのは僭越ではなかろうか。思えば、西欧的知性はここで躓いている。一見精緻に見えるが、精緻である事が真に正しく対象に迫っているかどうかは定かではない。ある種の弁えが居るところを粗雑無謀に定式絶対命題化し過ぎているのではなかろうか。れんだいこは大いに疑問を持つ。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪はここから始まっていると思っている。 
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 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その2、「月日の創造と天動説」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、神の4日目の御業(わざ)として、月日の創造を為している。それにより「地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた」とある。

 (私論.私見)

 これを定式絶対命題化したことにより、後に天動説と地動説の対立を発生させることになった。ユダヤ聖書の天地創造譚は、天動説的立場を表明していないが、地動説的立場で受け取るには余りにも天動説的である。その天動説的受け取りが、異端尋問による圧政を招いたことは承知の通りである。れんだいこは、天地創造譚が異端尋問を招くのは、天地創造譚が不十分であることに原因が有ると見立てている。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪のその2と受け止めている。
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 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その3、「神の似姿としての人間創造」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、「7日間創造」によって天地を開闢させるが、人間は6日目に創造されている。その際、神は、「御自分にかたどって人を創造された」としている。

 (私論.私見)

 人間創造に当り、「御自分にかたどって人を創造された」は人間賛美のように受け取られがちであるが、実は逆で、神にかたどられること無く創造された他の生物に対する蔑視の意識を醸成する。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪のその3と受け止めている。
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 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その4、「生めよ、増えよ、生き物をすべて支配せよ」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、6日目の人間創造後、創造主は次のような御言葉を与えている。「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。

 (私論.私見)

 しかし、ユダヤ聖書の原罪はまさににここに極まれりであろう。弁証宗教祖れんだいこが論難しておく。創造主をして「人間よ、お前たちは他の生物を支配する義務と権利がある」などと命ぜられたとする「邪な創造主の創造」は許されない。それは創造主に対する限りない冒涜であり許されない。そのような創造主に服従を誓えば誓うほど信仰的従順などと説く宗教は邪宗である。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪のその4と受け止めている。

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 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その5、「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。人は、男と女に創造された」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、まず男性が創られ、その男性を助ける女性を創られた。神は、男性のあばら骨の一部を抜き取り、それを元に女性を創られたとしている。

 (私論.私見)

 だがしかし、男女のこの創造の仕方こそ男女差別の起因ではなかろうか。仮に、創造主が居たとして、その創造主が男女を創造するに当って、「男のあばら骨から女を創った」とする必然性は無い。それをかように神話化することで男女差別を定式化させている。ここにもユダヤ聖書天地創造譚の邪宗性が認められる。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪のその5と受け止めている。

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 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その6、「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。人は、男と女に創造された」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、次のような「エデンの園問答」を説いている。それによると、男女は対のままエデンの園で暮らし始め、悪賢いのは蛇が女に神から禁止されている知恵の実を食べるよう誘惑し、まず女が食べ次に男が食べ、すると「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。

 神は二人が禁断の木の実を食べた事を知り、二人を質した。罰として、ヘビに対し、「生涯這いまわり、塵を食らう。頭を砕かれるか、かかとを砕くかの関係になる」罰を与えた。女イブに対し、「産みの苦しみと男に支配される」罰を与えた。男アダムに対し、「生涯食べ物を得ようと苦しみ、顔に汗を流してパンを得る」罰を与えた。

 (私論.私見)

 ここにも邪宗性が認められる。人間が人間としての存在根拠ともなる知恵について、ユダヤ聖書の天地創造譚では、端から背徳性をもたせている。智恵が悪賢いヘビの誘惑からもたらされているという理由付けは、智恵にそもそもの背徳性をもたらしており、いわゆる悪智恵の起源となっている。ここにもユダヤ聖書天地創造譚の邪宗性が認められる。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪のその6と受け止めている。

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 ユダヤ聖書創世記の邪宗性その7、「アダムのエデンの園からの追放」について

 ユダヤ聖書の天地創造譚では、創造主は、主の戒めを破った罪により、アダムをエデンの園から追放した。その際、「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、輪を描いて回るきらめく剣の炎を置かれた」。

 (私論.私見)

 イブについて記されていないが、不明と云うべきだろう。解せ無い事である。なお、「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、輪を描いて回るきらめく剣の炎を置かれた」も意味深と云うべきか解せない。「二度と立ち入り禁止」と解すべきであろうが、創造主をして峻厳罰神として描くのも邪宗であろう。創造主が峻厳罰神であらねばならない必然性は無い。ユダヤ聖書の天地創造譚の原罪のその7と受け止めている。

 2006.10.9日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評223 れんだいこ 2006/10/11 17:06
 【「2006.10月、与野党国会質疑の歴史認識論の貧困」考】

 2006.10月、安倍新政権の初国会質疑で、安倍首相の歴史認識が槍玉に上がり、「攻める野党、引く首相」の珍芸が披露された。れんだいこは思うところがあるので一言しておく。

 大東亜戦争の責任を問うなら、1・開戦責任、2・指導責任、3・敗戦責任の三種を議論せねばならない。これを議論することは重要であることに異存は無い。更に云うならこの時併せて、幕末維新から説き起こし、明治新政府の内外政策を検証し、大正政変を検証し、昭和の御世に於ける軍国ファシズム化の流れをも検証したい。その流れに大東亜戦争を見据えて「歴史認識」を議論したい。2006.10月の国会質疑はこれをよく為しえたのであろうか。

 れんだいこは実際にはテレビ中継も、新聞報道にも興味が無いので、遣り取りの実際は知らない。しかしながら大概の見当がついている。なぜなら、政界レベルでの議論は1970年代よりもなお後退しており、このところずっとワンパターンだからである。従って、れんだいこが最近のテレビ中継や新聞報道を確認しなくとも的を外さない。その、ワンパターンを俎上に乗せて検証してみようと思う。では、どういうワンパターン遣り取りなのか。

 それは、戦前の日本帝国主義の植民地政策に伴う当該国に於ける人的物的被害等々に対する歴史責任を問うものであり、それでしかない。この範囲のものを、旧社共がこれを強く問い、政府与党が旧社共ほどには問わないというものである。但し、田中政権下での日中国交回復交渉で、1・日本の侵略謝罪、2・A級戦犯責任論、3・賠償責任放棄が約定されて以来は、日中両国が取り決めたこの「歴史的合意」が雛形となり、これに拘束されてきている。

 この「日中歴史的合意」が反故にされつつあるのが目下の政治情勢であるが、旧社共がこのように見立てることは無い。なぜなら、「歴史的合意の雛形」を作った田中首相をロッキード事件で葬った際に最もはしゃいでお先棒を担いだのが旧社共であり、その「田中政権時の歴史的合意」を好評価するのは具合が悪いからであろう。この時以来、旧社共運動はますます捩れてしまい、以来迷走酩酊常態に有ると、れんだいこは見立てている。

 更に云えば、1970年代に出現した政府自民党内の主流派田中ー大平同盟こそ、日本の在地型社会主義政権であった可能性が強い。今でこそ市場性社会主義が理論創造されつつあるが、そうなると何のことは無い戦後日本こそ市場性社会主義実践の最優等生であったのではなかろうか。思えば、官民上げて国富に努め、内治優先諸政策に邁進し、世界史上未曾有の成功裡の発展を遂げてきたのではないのか。

 もとへ。では、良きにせよ悪しきにせよ「日中歴史的合意」はどのように変化しつつあるのか、これを確認する。1・日本の侵略謝罪については、これを強く認識するのか極力否定するのかに再び分岐しつつある。最新の動きとしては、侵略否定思想が生み出されつつある。しかし、ナチス問題となると別で、あれは別格本山というスタンスの者が多い。少数派としてナチスのホローコースト冤罪説が登場しつつある。あるいはナチス犯罪を極力薄めて理解しようとする動きが出始めている。代わりに、ネオ・シオニズム犯罪を見つめようとする動きが出始めている。

 2・A級戦犯責任論についても、これを強く認識するのか極力否定するのかに再び分岐しつつある。これに絡んでA級戦犯を合祀した靖国神社への政府閣僚の公式参拝の是非論が生まれつつある。特に、終戦記念日8.15日の小泉首相の公式参拝の是非が国内外を問わず注目を浴びた。これを積極的に後押しするのか極力否定するのか、という論争及び国家間対立が発生している。これは、「日中歴史的合意外」の新たな悶着であり、内政干渉論も絡まり複雑な駆け引きに転じている。

 3・賠償責任放棄については、国家的賠償は放棄されたが、個々の被害者の民事的損害賠償請求を強く認めるのか極力否定するのかを廻って係争が絶えない。強制労働、慰安婦問題、外国人原爆被害等々広範に争われている。

 もとへ。この状況下で、2006.10月、安倍新政権の初国会質疑で、安倍首相の歴史認識が問われた。旧社共の漫画性は次のことにある。彼らの論法を聞けば概ね、大東亜戦争をネオ・シオニズムの第二次世界大戦論理即ち「民主主義対ファシズムの戦いであった」とみなして、大東亜戦争をそういう西側論理で批判している。

 これによれば、大東亜戦争の1・開戦責任、2・指導責任、3・敗戦責任の全てが断罪されることになる。しかしながら、ネオ・シオニズムの第二次世界大戦論は戦勝国論理であり、彼らの世界支配戦略に基づいたプロパガンダでしかないとする視点は微塵もない。要するに尻馬に乗ってはしゃいでいるだけである。

 本来は、戦後憲法が指針せしめた「非武装・反戦平和・国際協調友好政策・財政健全」に立って、第二次世界大戦総体の批判へ向けた視点に立たねばならない。願うらくは、近現代史の好戦勢力を見据え、大東亜戦争が胚胎し捻じ曲げたとはいえ戦後それなりの成果をもたらした植民地解放の意義を称揚せねばならない。

 この観点に立たない大東亜戦争は無意味であるにも拘らず、旧社共のそれは、単に戦前軍部を罵詈雑言することばかりに傾斜し過ぎている。あの戦争が「民主主義対ファシズムの戦いであった」などとは噴飯もののネオ・シオニスト・イデオロギーに依拠して政府批判するものだから、底が浅いものになるのは致し方ない。

 傑作なのは、小泉前首相は、何しろ日本の現役首相としてユダヤ帽被って「嘆きの壁詣で」するほどユダヤべったりであったから、そういう意味では「あれは民主主義対ファシズムの戦いであった」、「A級戦犯の罪は重い」と述べ、歴史認識に於いて旧社共と奇妙に一致していたことである。

 ただ、8.15日の首相としての靖国神社公的参拝を強行せんとしたことにより、この点のみが見解の不一致となり政争となったという訳である。実に、小泉前首相は愉快犯お騒がせ資質の珍妙な首相であった。そこが受けるという政治貧困現象が生み出されていた。れんだいこに云わせれば、首相も取り巻きもマスコミもまさに狂気の時代を脚色した。

 ところで、安倍政権は、小泉政権の嫡出児として生み出された。当然、小泉政権時の変態史観を継承するはずであるが、安倍首相には小泉前首相のような愉快犯お騒がせ資質は無い。そのイデオロギーはこれまでのところ、戦前の皇国史観を継承しているかに見える。これに、勝共連合の統一原理史観が被さっているように見える。皇国史観と統一原理史観が不恰好に並存しているのが安倍史観であろう。

 故に、質疑されれば、どちらで答えるのかというジレンマに陥ることになる。しかし、これに正面から答えるとなると痛しかゆしとなる。即ち、大東亜戦争の聖戦を称えればネオ・シオニズムの歴史認識テキストと齟齬せざるを得ない、統一原理史観で答えれば皇国史観を自ら否定することになるというジレンマに陥らざるを得ない。

 よって、「万事宜しく逃げる答弁」にならざるを得なかった。よって、いくら押し問答しても結局は、「攻める質疑」と「逃げる答弁」のやじろべえにならざるを得ない。どちらが勝ったのかは、攻める方の観点が観点だから疑問である。

 結論。歴史認識というのは、かなり難しいものである。野党のように、何やらこれが正しいする護符を持って相手の史観を批判し得るようなやわなものではない。当然、政治家はその上に立って政治をするもので、求められれば開陳するのが筋であり政治である。これから逃げるのは、口で云うのと反対の政治をするからに他ならない。安倍政権の危険な体質はここに宿されている。そういう意味で、安倍政権の場合、これまで述べた言辞のあれこれ突くより、今現にやっていること、これからやることを凝視するのが良い。

 2006.10.11日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評224 れんだいこ 2006/10/16 21:19
 【「在地型社会主義」考】

 今、といっても2006.10.16日だが、れんだいこが齢56歳を越えて思うことは、日本の左派運動が在地型社会主義を目指していれば、今よりはよほど良い政治的影響力と党派を形勢し得ていただろうということである。この点で、我が日本左派運動は致命的な間違いを犯し続けてきた。在地型を捨象して国際主義を標榜して見ても、純粋抽象型の国際主義なぞどこにも在りはしない。赤軍派の経験はそれを物語っていよう。あるいはエスペラント語の興亡がそれを証していよう。

 とりわけ、戦前に於けるコミンテルン運動拝跪型の日共運動は、今となってはソ連邦やコミンテルン運動の正体が知れておるからして分かり易いが、決して真に左派的なものではなかった。しかし如何せん情報不足というのは怖い。当時の活動家は、マジメであればあるほどコミンテルン運動に真紅性を見出していた。渡政の悲劇がここに見て取れる。その他諸々多くの有能の士がこの倒錯のまま治安維持法体制にヤラレテシマッタことは惜しいことである。

 しかし、戦後の左派運動も本質的には何も変わっていない。或る時からコミンテルン(コミンフォルム)運動拝跪型から転じたとはいえ、国際主義の理想を求める者は、それに代わる何ものかを求めて、結局は叶わなかった。国際主義の理想を捨てた者は、1955年の六全協後の日共を見ればよい。野坂といい宮顕というトンだ食わせ者に拝跪する王朝運動に屈してしまった。或る者は体制内化してしまい、或る者は反共の闘士として八つ当たりする者も出る始末となった。

 れんだいこは今思う。端から在地型社会主義を目指していればかような失態に出くわすこともないのではなかろうか。一番肝要なものを求めないで、何故脇道を散策することに耽るのか、解せ無い事である。我々が目指す社会主義はそう難しい原理ではない。人はエゴイストとして人生するのか、共生を志向するのかだけのことである。生産力と生産性の向上は必然的に社会化を要請する。そういう時代に合わせた社会の在り方を追求しようというだけの至極真っ当な欲求である。それならそれで、急ぐかゆっくり歩むかは別としてそれを目指せばよかろう。

 そういう運動をかれこれ百年費やして、少しも事態が進展しないのはオカシスギヤしないか。それがれんだいこの疑問である。仮に、徒歩で東京向けて出発してもいつしか辿り着くだろうに。乗り物に乗ればよっと早く辿り着くだろうに。それが辿り着かないのは、東京へ行こうとして反対方向へ歩を向けているからではないのか。あるいは組織の指導者が、そういう風に逆指導しているからではないのか。そう思えば思い当たる節があるというのがれんだいこの気づきである。

 れんだいこが学生時代の1970年代の東京の政治状況は、これを選挙運動で見れば、共産党と公明党の伯仲時代であった。否、やや共産党の方が優位であったかも知れない。あれから30数年、事態はどうなったか。池田大作及びその指導する創価学会ー公明党は着実に組織を伸ばしてきた。あたかも一歩一歩東京へ向けて歩み出し、とうとう東京へ辿り着いたかの如くである。公明党の目下の与党政治の在り方は、まさに愚劣でしかないが、権力へ向けて歩を進めそれに成功したのは疑いなかろう。これは、極端に言えば、誰がやってもそうなるのではなかろうか。

 その誰がやってもそうなるのがそうならないとしたら、どこかオカシイという事に気づくべきだろう。これを指導者論で見れば、野坂や宮顕や不破やその取り巻きの責任という事になるが、彼らがやってきた仕業を判じて見よ。紅い心は元々無くて異邦人が紅い心を演じて党中央を占拠し続けてきているからそうなるのではないのか。平素は紅い言葉をたまには述べるが、一朝事あればせんでも良いことばかりに夢中になってきたのではないのか。その挙句が、かくも惨めに創価学会ー公明党勢力にひけをとっているのではないのか。

 その際立つ特徴は、弁舌が二枚舌、否マルチ舌にある。ああ云えばこう云うで有名になったオーム真理教の上祐なぞまだ可愛いというべきだろう。中学生と大人ほどの格段の差が有る。そういうことをはっきりさせるには、彼らが歩んできた党史を見ればよい。が、彼らが作った党史がこれまたマルチ舌で脚色されているので、下手に読めば却って阿呆にされてしまう。そういう訳で、れんだいこが能う限りの資料を収集しつつある。そして、れんだいこなりのコメントを付しつつある。

 そういう作業から滲んできたのが、れんだいこの気づきの確かさである。れんだいこが20歳過ぎから数年間、かの運動と関わり、抱いた疑問の確かさが確証された。これをどうするか。れんだいこの自己満足に留めるのか、世に晒すのか、積極的に述べ伝えるのか。さしあたりは、れんだいこサイトを公開することで役目としようと思う。

 みんな僅かばかりの余生を過ごしている。どう生きるかは銘々の勝手である。れんだいこは、類縁の友と語り続け、何がしかの世への貢献が出来ればそれで本望と思っている。あと何年生きられるか分からないが、生ある限りはそうしようと思う。とまぁ思うままを書き付けてみた。

 れんだいこの戦後学生運動論雑記

 2006.10.16日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評225 れんだいこ 2006/10/21 18:16
 【「戦後保守主流派の大御心で許容されていた戦後学生運動」考】

 今日は10.21である。れんだいこの若い頃は、10.21と云えば反戦デーだった。れんだいこはあいにく民青同だったので面白くも無いデモに参加して流れ解散した経験しかない。或る時の10.21日、新橋駅辺りで解散したところ、脛と膝を大怪我し両肩を抱えられながらのメットの連中と遭遇した。党派が違うので、当然話す事も無かったが、れんだいこは、あっちの方が闘ったという気がする思いがしたことを思い出した。

 機動隊とやりあうことが意味があったとは思えないが、単なるデモすることで闘ったことにはならないという微妙な気持ちになったことを覚えている。それにしても、ゲバ棒スタイルのメットデモが盛んだった。当時は今より規制が少なく許容されていたのだろう。

 そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚」の凋落原因を愚考してみたい。れんだいこは、1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロの3要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。

 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党であった。ところが、その「政府自民党の変質」によって次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力が無く、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。

 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。

 60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。

 これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、れんだいこは、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうか、という仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的基盤に目を向けるべきではなかろうか。

 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国との駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。

 れんだいこは、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。

 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年有余の政治と現在の安倍政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、小泉ー安倍政治の批判は的を射ないだろう。この観点が無いから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。

 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。れんだいこは、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政・官・財・学・報の五者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。

 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。

 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中ー大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、「戦後学生運動の1960年代昂揚」にとって、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に、与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。

 その結果、1980年代の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による政争を経て、2001年の小泉政権、そして現在の安倍政権によってタカ派全盛時代を迎えるに至った。彼らは、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の御用聞き政治から始まり、今では言いなり政治、更に丸投げ政治を敷いている。現下の政治の貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。今ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。

 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の1960年代昂揚の衰退」はもとより、社会党及び日共宮顕ー不破系の協力あっての賜物であった。彼らは、その党派の指導部を掌握し、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきたこう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙される政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。

 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、宮顕ー不破ー志位系日共理論は特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。れんだいこはことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例が無いなどということが有り得て良いことだろうか。

 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく、それは無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。

 れんだいこ史観で付言しておけば、日共系が右派系運動を抑圧したとするなら、革マル派のそれは左派圭運動を葬送する為に使われてきたのではなかろうか。宮顕の「排除の論理」、黒寛の「諸雑派解体路線」は何やら似て過ぎやしないか。この連中の二元支配により、早大の赫々たる学生運動の歴史が鎮圧された。早大の鎮圧は学生運動の貯水池を枯らし、負の影響を及ぼしていくことになった。日本左派運動に於いて、「早大に於ける民青と革マルの二元支配による共存」を許したことは、そういう意味で重責であるが、民青と革マルにとっては成功事例なのだろう。

 結論。いずれの側であれ、くれぐれも、在地型プレ社会主義政治の最高指導者角栄を悪く罵倒すればするほど左派的なぞと思うなかれ。もしそういう御仁が居るなら、歴史の見立てと真相が掴めない不明を恥じよ。このことが分かるまで蟄居し沈思黙考せよ。しかる後出でて述べよ。簡単ながらスケッチ風に覚書しておく。最後に、その角栄の学生運動論と観点を記しておく。

 角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。昭和38.12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。

 「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまが無かっただけだ」。

 「俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマも無い。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元「全共闘」闘士で、一転「田中イズム」のとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。

 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。

 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。

 私を指差して話を続けた。「彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている」。ギランが「ウィ・ムッシュウ」と微笑み、私は仕方なく苦笑した。

 この見識こそ角栄政治の真骨頂であろう。立花や日共によって逆に描き続けられているが、それは取りも直さず連中が現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の下僕として立ち働いている事を証左しているだけのことである。我々はこの投網から抜け出さねばならない。

 2006.10.21日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評226 れんだいこ 2006/10/22 20:12
 【「ヒトラー評価を廻る最新事情」】

 れんだいこの学生運動論に引き続いて更に刺激的にヒトラー論まで言及したい。その意味は、物言わぬは腹膨るるわざなるからである。いずれ、北朝鮮論にも言及しようと思うが、他にすることが多くて筆(指)が回らぬ。さて、本論である。

 ヒトラーは、「史上最悪の600万人ユダヤ人殺しの主犯」として罵倒され続けてきた。ところが、ここ最近、歴史再検証により、いわゆるホロコースト神話の虚構が崩されつつある。日本左派運動の多くは、未だにこの神話にすがりつき、南京事件同様に大きく交ぜれば混ぜるほど左派的なぞと勝手懸想している手合いが多い。

 9.11テロも然りで、憎きイスラムテロリスト論に同調して、その限りで究極ブッシュ派のテロ掃討戦争を首肯せざるを得なくなっている。悪いけど、そういうのは左派とは言わないのだとれんだいこが指摘しても、勝手に思い込んでいるのだからどうにもならない。サヨ論理と論法から決別して左派のそれを創出せしめねばならない。左派運動が余りにも汚染されすぎている。

 研究者によると、ホロコースト現場とされる「アウシュヴィッツその他収容所のホロコースト記念館」に展示されているようなガス室では多数のガス殺ができる代物ではなく、あれこれ検証していくとむしろガス殺は無かったと看做すほうが史実に近いとのことである。ナチスにより社共運動が弾圧され、ユダヤ人を迫害したことは事実であり、その過程で多くのユダヤ人が命を落としたことも事実であるが、「組織的大量虐殺ホロコースト」なるものは捏造と理解した方が良いようである。れんだいこは現在、こちらの説の方に軍配を挙げている。

 ところが、話は更にややこしくなる。ヒトラーの「史上最悪の600万人ユダヤ人殺しの主犯」容疑が崩れ去りつつある今、新たにヒトラーのネオ・シオニズム・エージェント説が出回り始めている。それによると、ヒトラーは、ネオ・シオニズムの黒幕としての国際金融財閥帝国ロスチャイルドの肝煎りで政権を取り、その指図に従って第二次世界大戦に突入し、ユダヤ人を東方移動させ、彼らの世界支配計画の走狗となっていたという説である。その補強証拠として、1・出自論、2・ヒトラーは実は南米に逃亡し、余生を過ごした云々と語られている。

 れんだいこは、1917年のロシア2月革命、引き続く10月革命にはその臭いをかぐ。故に、ロマノフ王朝崩壊過程にも、ケレンスキー政府にも、レーニンの影にもそれを認め、スターリンについてはもっと大いに認めている。しかし、ヒトラーが国際金融財閥帝国の世界支配計画の走狗であった論には、今のところ与しない。これを安易に認めると、ホロコーストで罵詈雑言されたヒトラーは、その神話が崩されるや新たに国際金融財閥帝国の世界支配計画の走狗論で又もや信用毀損されていることになるからである。

 いきなりそこに向うべきだろうか、早過ぎる、論旨が飛びすぎていやしないか、という疑問を覚えている。むしろ、正々堂々と受け止めるべきは、ヒトラー派が紛れもなくネオ・シオニストの世界支配計画に立ち塞がり、西欧と世界の覇権を賭けて一戦に及び、緒戦優位が束の間で次第に劣勢に追い込まれ、遂に敗戦を余儀なくされたと見るべきではなかろうか。基本的には、大東亜戦争も同じ構図だろうと思っている。

 れんだいこは、なぜそう理解したがるのか。それは、ヒトラーの生き様と諸言説に迸(ほとばし)る反ネオ・シオニズム思想の卓見に耳を傾けるからである。もしヒトラーが、彼らのエージェントに過ぎないのであれば、ああまで「生きた言葉」を吐かないだろう。ヒトラー及びナチス党の幹部の諸言説には説得に富む実在力があると看做すからである。高度な文明論歴史観を説いており、ヒトラー狂人説は成り立たないと考えている。

 今現在の資料では、ヒトラーはネオ・シオニズムと闘ったのか、エージェントであったのかを解くのは難しい問題である。しかし、ここを識別せねば、立論できない関門である。厄介な問題になっているが、この問題に立ち入る者は早晩スタンスを決めねば、いつまで経っても判断が下せないだろう。なぜなら、意図的不正情報がふんだんに流布されており、情報に目を通せば通すほど混乱するようになっているからである。

 こういう場合、投企的に見通しを立て、各種情報を精査検証していくことが望ましい。投企立論が維持できないほどの反対証拠に出くわすや、見通しの変更をすれば良い。新しい見通しが同じような困難に出くわすや、同じように新たな見通しを立てればよい。これの螺旋的繰り返しが論の発展というものだろう。

 かく構えるれんだいこは今のところ、1・ホロコースト譚は虚説、むしろ、ネオ・シオニストの犯罪こそ検証せよ。2・ヒトラーは類稀な能力で、ネオ・シオニズムと闘った。これが基本である。3・その過程で、ネオ・シオニズムの両建て戦略の然らしめるところ、相互に権謀術数駆使して交易通謀した、と立論している。この構図に立たないと、全体が見えてこないと思っている。

 そういう意味で、「ヒトラーは実は南米に逃亡し、余生を過ごした云々」の真偽判定は重要である。れんだいこは、よく似た者が居たことは事実であろうが、偽情報と看做している。これが立証されれば、れんだいこの立論は変更を余儀なくされる。出自論については変更を迫られないが、はっきりさせておくことは必要であろう。

 2006.10.22日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評227 れんだいこ 2006/10/25 17:49
 【2006.10.25日付毎日新聞社説考】

 2006.10.25日付毎日新聞社説「造反組の復党 郵政解散の大義はどこへ」を批評する。この社説に違和感を覚えるのは、れんだいこだけだろうか。毎日新聞社は、記事に就いては記者名を付すことが多いが、社説には不要としているのだろうか記していないので誰の手になる論かは分からない。良し悪しあろうが、無署名に隠れた安逸論はいただけない。以下、執筆氏を仮に甲として論評する。

 新聞に於ける社説の地位は高い。恐らく甲はそれぞれ新聞社の顔となっているはずである。その社説内容の貧困さを問題にしてみたい。一体、どういうことになるのだろうか。

 甲は、郵政造反組の最近の復党の動きが気に召さないらしい。「有権者への背信行為だと言わざるを得ない」とまで云う。甲よ、昨年の衆院選の民意は、得票数では半数の者が反対している。「有権者の背信行為」なぞ軽々に使う勿れ。どうしてもそう云いたいのなら、「刺客候補に投票した有権者への背信行為」と限定的に的確に記すべきだろう。

 昨年の衆院選に対し、甲は次のように述べている。「当時、国民に争点をはっきりさせるという点で、私たちは『公認拒否は当然だ』と主張した。小泉首相は『古い自民党とは手を組まない』とも言い切り、仮に造反組が当選しても、それは復党や連携がないことを意味していた」。

 甲が、居酒屋政談でそのようにぶつのは勝手だが、社説で書くのはどうかな。昨年の衆院選は、ジャーナルが健全なら、いろんな意味で批判的に論評されねばならなかった。まず、参院での郵政民営化法案否決即衆議院解散が違憲ではないかということの検討をすべきだろう。れんだいこは悪弊を刻んだと思っている。次に、郵政民営化という一本立て争点で衆院解散に向うというのも問題だろう。それは政治を余りにも硬直化させ過ぎているだろう。

 更に、選挙突入になるや、小泉官邸が、民営化法案の反対者を公認せず、「刺客」候補をぶつけたことに対し、ジャーナルが健全なら、その手法のイカガワシサを衝くべきだろう。「私たちは『公認拒否は当然だ』と主張した」となると無茶だ。ジャーナリストの面汚しであろう。せめて、理解できると云うのが精一杯で、当然論となると暴走だろう。

 思い起こそう。あの時、地方県連がこの間の経緯を踏まえつつ協議に協議を重ねて選出した候補者を、官邸が拒否し、別の議員を俄か作りして公認立候補として選挙戦に突入した。しかも、それらの刺客は地元とは何の関係も無い落下傘候補であった。

 自民党員ないしはその支持者でない者にとってはよそ事の話ではあるが、党内民主主義の在り方問題として共通しており、その手法の妥当性が問われねばならなかった。その上で、官邸権限の能力と限界が議論されねばならなかった。そういう問題を一切不問にして、「公認拒否は当然だ」なる論をぶつのは、居酒屋政談以下の見識であろう。

 甲は、そうした小泉首相の采配を、「そのけれんみのない姿勢は有権者の心をとらえ」と称えている。「296議席という自民党大勝の要因になった」とも云う。それもオカシイ。自民党の大勝は、刺客騒動を面白おかしく報道し、プロパガンダし抜いたマスコミの協力あっての政・報同盟の賜物だったのではないのか。「小泉首相の采配」は本来はブーイングされるべきものでしかなかった。それを「けれんみのない」などと提灯報道したマスコミ合作あっての勝利ではなかったのか。甲にはそういう反省が微塵もないことが分かる。

 その甲は、「それからすれば、復党の動きは過去の経緯を無視し、来夏の参院選対策を優先したご都合主義である」として批判する。ここで初めて甲の批判が登場するが、何とまぁ最大権力者には阿諛追従し、その政敵には厳しい批判という構図でしかない。甲の本章が見て取れる。こういうジャーナルなら誰でも出来よう、第一頭が要らんがな。

 安倍首相は、郵政造反除名組の救済策を講ずるよう支持した。現在、郵政法案に反対した衆院の造反議員は17人いる。そのうち首相指名で安倍首相に投票した12人が復党の対象となっている。甲は、次のように解説している。「この時期に復党問題が浮上したのは、参院選に向けた参院側の要請という面がある。01年に『小泉ブーム』の中で自民党が圧勝した選挙の改選期にあたり、前回勝った分、苦戦は免れない。自民党には参院での与野党逆転という危機感がある」。

 安倍首相の郵政造反除名組救済策には確かにそういう面もある。しかし、もう一つ触れねばならないことがある。それがジャーナルというものだろう。つまり、時の小泉首相の刺客戦略がまさに暴挙であり、以来、自民党にはその後遺症を修復せねばならない党内事情が続いている。当事者の小泉首相は後始末しなかった。次の首相が為すのは自民党総裁としての義務である。これは至極真っ当なことである、という解説こそが必要なのではないのか。ところが、甲は、小泉阿諛追従が過ぎる余り批判しか出来ない、というただそれだけのことである。

 その甲は、未だに次のような考え方を示している。「自民党は衆院選で、造反組は古い党の象徴であり、抵抗勢力を改革派の刺客が打ち破るという構図を描き、選挙戦全体のイメージを作り上げた。それが今度は、その人たちに参院選での救世主を期待するというのか。あの郵政解散の大義は何だったのか。小泉劇場の木戸銭を返せと怒る有権者もいるだろう」。

 甲の愚昧さが見事に披瀝されているが、何と、「造反組は古い党の象徴であった」と云う。オイオイ、小泉権力にイエスマンしか出来なかったのがその他大勢で、「造反組の造反こそ政治家の矜持であり、義挙であった」とみなすべきではないのか。甲は更に、「あの郵政解散の大義」などと大げさに云う。オイオイ、郵政民営化法案の不義が次々と明るみになっているというのに、それを強行せしめたのが大義などとは、お前はよほどめでたい奴だな。

 「小泉劇場の木戸銭を返せと怒る有権者もいるだろう」とも云う。オイオイ、政治は修羅場ではあっても、劇場ではないぞ。お前が木戸銭感覚で眺めているのは勝手だが、社説執筆氏としては間抜けの極みだな。

 安倍首相の郵政造反除名組救済策に対して、小泉前首相は反対している。甲は、次のように云う。「それは組織選挙を志向する参院幹部への批判であり、造反組と対決した当時の責任者として当然の発言だろう」。オイオイ、甲よ、お前が小泉狂いなのは分かるが、小泉が狂っていたならお前も同類と云うことも分かっているだろうな。お前は、なしてそこまで肩入れするのか。通常は、小泉が狂人でなければ、後のことは後の者に任すものさ。

 甲は、最後にこう記して締め括っている。「滑り出しは好調だ。ただ一つのつまずきで、がらっと空気が変わることがある。世論を軽くみないでほしい」。甲よ、安倍政権がどうなろうが、お前が肩入れして心配するには及ばぬ。それとも何か、お前は、自民党機関紙の編集長のつもりか。ならば、毎日新聞の社説で書くより、自民党広報誌にでも寄稿しいや。

 れんだいこが締め括りなおす。小泉政権5年有余の傷は深い。「聖域なき構造改革」、「自民党をぶっ潰す」というコマーシャルで登場し大受けしたが、政権5年有余で判明したことは、ブッシュのヌ僕であり、云われるがままに大枚の金額をお供えした。「国債発行30兆円枠」の公約はいとも簡単に放り捨て、財政危機を更に天文学的に進行させた。「8.15日靖国神社公式参拝」公約だけは頑なに守り、政権晩年に果たした。

 この間アジア外交は機能停止し、他方で小泉家4代にわたる軍事防衛族のDNAは、この方面にのみ積極的に働き、専守防衛区域の歯止めを取り壊し、自衛隊のイラク武装派兵を実現した。財政危機の最中、これに要した費用の責任も重大である。この間内政不振の惨状覆い隠し、いざなぎ景気を抜く好景気などという大本営発表をし続け、後継安倍政権もこれを踏襲している。「郵政造反組復党問題」は小泉政治の大きなツケとなって、政治火山化しつつある。

 かような小泉政権史に今だ追従し続ける新聞マスコミの言論氏の腐敗が、こたびの社説で浮き彫りにされており、我慢ならずコメントしてみた。恐らく、連中の性根はもう直らない。我々の言論空間を一刻も早く創出すべきだろう。

 2006.10.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評228 れんだいこ 2006/10/26 17:41
 【毎日新聞余禄の放蕩息子論考】

「2006.10.26日付け毎日新聞余禄」が、昨日の社説に続いて「郵政造反組の復党問題」を採りあげている。これにコメントしておく。執筆氏を仮に乙として論評する。

 乙は、いきなり聖書に於けるイエスの放蕩息子問題説教から入っている。それによると、家出した放蕩息子が戻った時、父がそれを許し歓迎の宴を開いた。地道に親孝行をしてきたもう一人の息子はこれを怒った。イエスは、父親の態度を称えたとか。そこから一転、「郵政造反組の復党問題」に入る。早期無条件復党容認派と批判派の対立に触れ、「来るものも、帰ってくるものも拒まないのは自民党の真骨頂だが、世論が放蕩息子の父ほど優しいかどうかは分からない」と結んでいる。

 れんだいこは、小泉政治を提灯していない分だけ昨日の社説の甲の論よりはよりましと判ずる。だがしかし、問題が無い訳ではない。第一、郵政造反組を、放蕩息子に例えていることがペテンである。昨日も批判したが、郵政造反組は、政治家の矜持を賭けた義士と看做すべきだろう。それを放蕩息子に例えるとは何を根拠にそったらこと云うのだろうか。

 第二に、この問題は、小泉政治批判抜きには解けない。そこを素通りするから、ろくな寸評にならない。そういう訳で、れんだいこが代わりに例えばなしを提供することにする。

 仮に江戸時代、徳川政権には実際には居なかったが狂人将軍が居たとする。その将軍が、生類憐みの令のような政策を強行採用させんとして物議をかもした。結果的に反対派の領国に新領主を送ったものだから、一国二領主地帯があちこちに発生することになった。当然、旧領主と新領主の折り合いが良かろう訳がない。そこへ、別権力による第三の領主が登場し、その第三領主と旧領主が提携の動きに出始めた。時を経て将軍様は代替わりし、新将軍は、旧領主と新領主の喧嘩をうまく纏めるよう指示した。こういう経緯であろう。

 問題は、一国二領主を現出した先の将軍の政治手法の拙さにある。それも、旧領主は概ね領国の臣民から支持を受けていた者ばかりで、故に臣民の困惑が激しい。とはいえ、新領主も将軍に任命され赴任してきた訳で、特段の咎が有る訳ではない。さて、どう解決するのか。普通は、どちらも被害者と認め、双方救済の道しか無かろう。但し、そうする為には、先の将軍の政治手法批判を媒介せねばならない。それが出来ぬから混迷を深めていると云う漫画的事態にある。

 それにしても、たまたま毎日新聞論説ばかりを批評したが、他社のそれはどう評しているのだろうか。恐らく、小泉政治を断罪する社は一つもなかろう。よって、ひねくれた、その上で穿った見方しか披瀝しないだろう。これが日本ジャーナリズムの生態である。お粗末というしかない。れんだいこが給与で算定すれば、年収五百万がせいぜいのところである。それを二千万以上も貰うからボケてしまうのだ。

 新聞各社の論説考

 2006.10.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評229 れんだいこ 2006/10/28 20:06
 【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」を読み解く】

 「詩歌・歌曲のフレーズの融通性考」に格好の「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」事例が発生したのでこれを解析しておく。「槇原敬之に『999』盗作騒動」、「弁護士山口貴士大いに語る」を参照する。

 2006.10.19日、漫画家の松本零士氏(68)が代表作「銀河鉄道999」のフレーズを盗作されたとして、歌手の槇原敬之(37)に抗議していることが19日発売の「女性セブン」で報ぜられ、事件が明るみになった。松本零士氏の表記は、「心の旅人」(銀河鉄道999 21 第21巻 小学館)、槙原敬之氏のそれは「約束の場所」で確認できる。槇原の「約束の場所」は現在スープのCMソングとしてお茶の間にも流れ、オリコンチャート4位に入るなどヒット中。

 問題となっているのは、槇原の作詞作曲で人気デュオ「CHEMISTRY」が今月4日に発売した新曲「約束の場所」の「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」の部分が、松本氏製作の「銀河鉄道999」(小学館刊)の第21巻に登場する「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というフレーズに類似しており、これが争点になっている。

 松本氏は、次のように抗議している。
 概要「問題のフレーズは、主人公の星野鉄郎のセリフとして使われるだけでなく、作品全体のテーマにもなっている言葉であり私のスローガンのような言葉。これを題目に講演会などで若者にエールを送っており、ファンにはなじみ深い。彼が知らないわけがなく、勝手に使うのは盗作である。「私の言葉を奪われた。どうしてごめんと言えないのか」。

 槇原側は、次のように反論している。
 概要「盗作呼ばわりされて嫌な気分。法廷で争ってもいい」。

 先週末、両者の話し合いが持たれた。松本氏によれば、電話で2度話したところ「当初は“知らない”と言っていたが、2度目は“どこかで聞いたものが記憶にすり込まれたのかも”とあいまいな説明に変わった」という。さらに、16日にレコード会社幹部が謝罪に訪れ「槇原本人が“記憶上のものを使用したかもしれない”と半ば認めたとの説明を受けた」と強調。「本人の口からきちんと謝ってほしい」と求めている。

 槇原の所属事務所は、次のように反論している。
 概要「槇原が自分の言葉で作ったものであり、『銀河…』を読んだことすらない。そこまで盗作呼ばわりされたら、先生の“銀河鉄道”というタイトル自体、先人が作った言葉ではないのかと言いたくなる。ぜひ訴えていただいて法廷で決着付けたい」。

 「弁護士山口貴士大いに語る」は、次のように述べている。
 概要「結論から言うと、著作権侵害という意味での盗作にはあたらないと思います。記事を見る限りでは、松本零士先生側の分が悪いでしょう。経緯に注目しているようですが、あまり本質的な問題ではありません。著作権侵害の要件は、大まかに纏めれば、1・類似性、2・依拠性の2点と言うことになりますが、1・類似性の要件が満たされない以上、2・依拠性について論じる意味はないからです。

 類似性の要件が満たされていると言えるには、単に比較対象となる表現が一見して似ているだけでは駄目で、著作物中の創作性のある箇所が再生されていることが必要です。例えば、アイデアが似ているとか、未だ、創作性があるとは認められない表現が類似しているというだけでは、類似性の要件は充足されないのです。

 今回の場合、銀河鉄道999の『時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない』というフレーズそれ自体を見た場合、このフレーズに著作物性が認められるかどうか自体が微妙なところですが、仮に認められたとしても、創作性が認められる箇所は、『時間は夢を裏切らない』という文節を受けて、『夢も時間を裏切ってはならない』という価値観を命令形で言明している点にあるのではないかと思います。

 これに対して、槙原敬之氏の歌詞は、『夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない』というものです。『時間も夢を決して裏切らない』というのは、事実の言明を取っています。また、裏切りの主体も、銀河鉄道999のフレーズとは違い、夢ではなく時間です。さらに、『決して』という銀河鉄道999のフレーズにはない言葉が挿入され、事実の言明が強調されています。

 要するに、銀河鉄道999のフレーズ=should ないし sollen、槙原敬之氏の歌詞 =isないしsein+裏切りの主体も違う+『決して』という断定的な強調+語順も違うであり、両者は表現としては全く異なるものであるというのが、私の見解です」。


 次のようなブログが為されている。

 松本氏は言葉を殺そうとしているのか?

 文学には無名性という血が流れている。過去のどんな名作でも完全なオリジナルはありえず、誰だって何かから影響を受けている。 日本はとくに、コラージュ・サンプリングの文学が多い。有名性の文学も過去試みがなかったわけじゃないか、何度もすたれてきた結果、無名性の文学が栄えたのだ。 時間がある人は、「本歌取り」という技法が残って「制詞」がすたれた理由を考えてみてほしい。

 近代に生まれた「著作権」は振りかざし方ひとつで、文学を殺しかねない。松本氏のしようとしている言葉の独占がまかりとおるのなら、この先この国の言葉は死んでしまうだろう。どうして「これは自分の言葉だ」と言い切れるのだろうか。明らかに盗作だと言い切れる確実性がある場合は別だが、影響、イメージが残っていた程度の関連性ならば、言葉を使う仕事をしている身として、騒ぎ出すべきではない。 元をたどれば松本氏の言葉だって、ほぼ間違いなく古人によって使われたことのある言葉だと言っていいだろう。使われた言葉はどんどんと蓄積されていく。新しい言葉には限界がある。だからこそ、文学の無名性が尊重されるべきなのだ。

 彼が金のために漫画を描いているのなら別だが、仮にも芸術として、立派な作品として製作したのなら、だからこそ、言葉の多様性を認めるべきではないのだろうか?

 次のような見解も為されている。
 山口弁護士さんは、言葉の前後を入れ替えたり言い回しを変えたりすればたとえ実質的に盗作であっても法律上は盗作認定できないって言ってるのと同じですよね。 あくまでも法律整備の不備。

 松本先生もその点は理解していて、法整備を進めるべき、と以前から言っていて、今回は単に謝罪の意を示してほしいと言ってるだけなのに、裁判を起こして話をこじらせようとしてるのは槙原側の方ですよ。

 マスコミもマンガ業界より音楽業界の方に弱いから(興業がらみの暴力団との癒着は昔からありますもんね)下手したら松本先生の方が 社会的に抹殺される可能性もありますよ。

 また、この件がパクりではないと認められたら、才能のない奴が他の作品から借用しても平然と自分のオリジナルだと主張する行為が常套化する危険もありますよ(彼らはフェアユースと泥棒行為の区別も分からないような連中が多いですから)。今回の件は、著作権違反かでよく話題になるパロディとかパスティーシュ、オマージュとは全然次元の違う話ですからね。

 マンガに詳しい弁護士さんなんだから、杓子定規に法律を運用しようとするお役人的姿勢を見せるのではなく、ここは敢えて松本先生を擁護するくらいの度量を見せて欲しかったですね。

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【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」に対するれんだいこ見解】

 れんだいこの見解を記しておく。松本氏の抗議は、最近の全方位全域著作権化の流れを受けてのものであり、その論法により生み出された抗議である。これを山口弁護士的に解くのも一法ではあるが、れんだいこは思想的原理的に解析したい。れんだいこの結論は、言語表現に於ける著作権化は極力控えるのが望ましいということである。なぜなら、認識は元々共有性に端を発しており、表現に私物所有権を認めるのは邪道である。この観点を確立すべきであろう。

 著作権法によれば、出典元、引用元、著者、(出版社、初版日)を明記した引用、転載は無条件無承諾で為しえると解するべきである。してみれば、この問題は元々「ルールとマナー問題」として考えるべきだという事になる。そのルールとマナー違反に於いて処罰規定が設けられていると考えるべきで、「引用、転載禁止規定」ないしは「引用、転載承諾要す規定」ではないと解するべきであろう。

 なぜ、そうすべきなのか。それは、社会員相互の認識、言語、コミュニケーションの流通は妨げられてはならないという公理に負っていると考えられる。最近の全方位全域著作権論者はこのことを弁えず、言語空間にも私有財産制を適用させようとしている。その非を知るべきであろうが、それを正義の美名で唱えるから嫌らしくなる。主としてサヨ族がこれに執心している。

 そもそも、全方位全域著作権論者の主張には無理がある。第一、現在使用されている文字そのものが歴史的に無著作権で生み出され使用されていることである。歴史的に作られたということは、神が作ったのではなく、誰かがあるいは誰かと誰かという無限連鎖の中で社会的に作られてきたということである。その誰もが著作権なぞ主張せず歴史に寄与してきた。これを思うべきである。

 第二に、たかだかここ数十年の著作権付き著作は、それ以前の無著作権時代の知識と智恵に負っていると云うべきである。それを、たかだかここ数十年の或る時に、俺はただ知識と知恵を貰ってきたが、これから先は俺の権利を主張する。何人もこの関所を関税払って通れなどというのは不遜欲深過ぎよう。だいたいそんな欲深著作権主張する手合いに限って下手な著作物しか作れないというのが法理で滑稽の極みである。

 第三に、インターネットのウェブ形式も又発想者の好意により無著作権によって利用されている。つまり、一般言語然り、インターネットのウェブ形式然り、土台が無著作権であるところにその上部に全方位全域著作権を創造させようとしていることになるが、恩知らずと云うべきだろう。むしろ、そういう経緯を踏まえて如何に抑制的であるべきかを研究することこそが望まれているというべきだろう。れんだいこ風に云えば、サヨと左派の違いである。

 これを思えば、松本氏の抗議は、最近の全方位全域著作権に汚染された抗議であり、松本氏の人格品性を疑わせるものとなっている。松本氏が早くこの汚染から抜け出さんことを願う。著作物の売れ行きにより飯を食うのは大いに望まれていることであるが、著作権化により以降も印税で飯を食おうだとか、孫この代まで飯を食わさせようとする発想がそも卑しいと知るべきだろう。

 考えてみればよい。「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」が「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」となったからといって、それがどうしたというのだ。そういう事例ならいくらでもあろう。それが良い表現だとすれば、人は自ずと使いたがるものであり、使われた側は誉れとすべきだろう。使った側が、先行表現を知っておれば、それを後書きでコメントしておけばよいことで、知らなかったのであれば、指摘された時点で、はいそうですかと但し書きすれば良いだけのことである。この場合、通知、承諾、頭下げなぞは馴染まない。本家の株が却って上がり、俺こそ本家と売り出せば余計に受けるではないか。ただで本家を売り出してくれて感謝せよとまでは云わないが、物事はそう悟れば良いのではないのか。

 名句を分かりやすく例えると諺著作権のようなものである。諺には著作権は馴染まない。よって正しくは、諺非著作権と云うべきか。その諺に著作権を適用させようとするからややこしくなるばかりである。れんだいこは、「れんだいこ著作権考」で指摘しているが、政党著作権に対しても同じような認識をしている。これも正しくは、政党非著作権と云うべきか。なぜなら、優れて共同性に依拠しているからだ。優れて共同性に依拠しているところには著作権を発生させてはならない、こう弁えるべきだ。

 この歴代受け継がれてきた公理を打ち破ろうとしているのが、最近の自称インテリである。自称だから何の根拠も有りはしないのだが、大学教授や諮問会議委員の肩書きで物言うから騙される。彼らは、社会の健全な発達を促進するという美名で逆に社会を逼塞させる法律を生もうと心掛ける。丁度、音楽著作権で歌唱自粛を余儀なくされているように。問題は、権利権利で何でもゼニにしようとする狙いと、官僚の呼応により次から次へと障壁が設けられ始めていることにある。

 これに棹差すのではなく、これを促進させようとする輩に対して、エエカゲンニセンカイと一喝してやるべきだろう。今日日流行の欲深著作権を如何にせんか、これを考えるべきであろう。松本零士よ、誰に知恵付けられているのか知らんが、頭を冷やせ。どうしても主張したいのなら、知識の滴が智恵になるように、著作物の滴が著作権になるような弁えの有る理論を構築せよ。何でもかんでも私有財産屋にはこう手向けておこう。

 2006.10.28日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評230 れんだいこ 2006/11/02 20:19
 【「全域全方位著作権論被れ度判定リトマス試験紙」】

 れんだいこは、「全域全方位著作権論被れ度判定リトマス試験紙」を開発した。以下の設問により、あなたの全域全方位著作権論被れ度が判明する。興味有る者はお試しあれ。

1 誰でも、何事かを書き付けた時点で、著作物には著作権が発生する。
2 リンクは事前通知許可制であり、非通知で為すのは著作権法違反である。
2´通知しても拒否されたらリンクしてはいけない。
3 引用も、事前通知許可制であり、非通知で為すのは著作権法違反である。
3´通知しても拒否されたら引用してはいけない。
4 転載も、事前通知許可制であり、非通知で為すのは著作権法違反である。
4´通知しても拒否されたら転載してはいけない。
5 インターネット掲示板の書き込みにも当然著作権が発生する。
6 インターネット掲示板の書き込みは、書込者と掲示板管理人に著作権が発生する。
7 インターネット掲示板の書き込みの引用、転載は、事前通知許可制である。
7´通知しても拒否されたら引用、転載してはいけない。
8 著作権法の保護機関は極力長くすべきである。
9 著作権に聖域は無く、今後は全方面全域に著作権法を適用していくべきである。
10 新聞記事、マスコミ報道を無断で引用、転載するのは著作権法違反である。
11 政党の機関紙、パンフ、論文を無断で引用、転載するのは著作権法違反である。
12 図書館、貸本屋の本の貸し出しは著作権法違反である。
13 店舗でのカラオケ歌唱は音楽著作権法違反であり、利用料金を払わねばならない。
14 テレビの歌番組は音楽著作権法違反であり、に応分料金を払わねばならない。
15 NHKの紅白歌合戦番組も同じく応分料金を払わねばならない。
16 私的でなく歌を歌う者は、管轄団体に届けなければならない。
17 今後は、囲碁将棋の棋譜にも著作権を認めるべきである。
18 資料発掘者、資料喧伝者には、労苦に対する著作権を認めるべきである。
19 伝記、事蹟等を著作した場合、著作者は採用資料の著作権を主張できる。
20 判決を編集替えしたりコメント付した場合、著作権が認められるべきである。

 さて、いくらイエスが出来ましたか。オールイエスの方は完璧な著作権急進主義論者です。ちなみに、れんだいこはオールノーです。皆さんの判定は如何に。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評231 れんだいこ 2006/11/06 18:44
 【「アオフヘーベン」の適訳としての「出藍」考】

 2006.8.31日付け「れんだいこのカンテラ時評206、語彙の適切和訳考」で触れたが、マルクス主義用語で重要な意味を持ち多用されているにも拘わらず、その割にはしっくりしない「アオフヘーベン」(Aufheben)の適正訳に決着を付けたい。

 これまで一般的には「止揚」と訳されてきている。戦前戦後の稀代の理論家・福本和夫氏が異議を唱え、「揚棄」と言い換えている。しかし、れんだいこ的には「止揚」も「揚棄」の両訳ともしっくりしない。そう感覚しているのはれんだいこ一人であろうか。とにかく今ひとつと云う感じがしており、こたびれんだいこが新たに造語する。これを世に発表し、賛否を賜りたいと思う。

 ドイツ語の「アオフヘーベン」(Aufheben)は、「auf」と「heben」の結合語である。辞書で確認すればそれぞれの意味合いは分かる。「auf」を仮にネット検索の「アクセス独和辞典」で引けば、次のように記されている。「何々の上に(へ、で)」、「何々を期して」等々。なお、動詞の前綴りに付けられ色々な意味を持つとある。「heben」は、「(持ち)上げる(がる)」等々とある。

 問題は、これを結合させた時化学反応が生じ、新たな意味を持って登場していることにある。だから、「auf」と「heben」のそれぞれの意味を単に結合させただけでは役に立たない。結合語を一挙的にどう理解するのかが問われていることにある。この認識の下に「止揚」ないし「揚棄」と訳されているのであるが、この和訳語が適切かどうか。

 思うに、「アオフヘーベン」の原意には、「持ち上げて脱する、又は入り込んで抜け出す」とかの意味が込められているのではなかろうか。マルクス主義的「アオフヘーベン」は、「否定の否定弁証法を通じての革命的質変換でらせんてき発展していく、或る段階のものがより高次の段階に向う突然変異的経緯の表現用語」ではなかろうか。その意を汲んで「止揚」とか「揚棄」という簡潔二文字訳が為されているのであるが適切であろうか。

 思うに、「止揚」の場合、「止」が決定的に意味が違う。「アオフヘーベン」の原意は止めはしない。「揚棄」の場合、「棄」が幾分筋違いではなかろうか。「アオフヘーベン」には母斑を包摂してままの脱皮的意味が有り、完全純粋に棄てやしない。「揚棄」の方が「止揚」よりは原意に近いとは思うが。

 だとすれば、「アオフヘーベン」はマルクス主義にとって重要な意味を持っているのであるからして、このまま不適切訳や誤訳で済ますのは良くない。この辺りをエエ加減にしたままで推移してきているマルクス主義は、未熟なのではなかろうか。そういう状態であるのに難解に説いてきたマルクス主義学説は、難解に説くほどお笑いなのではなかろうか。

 ならば、どう訳すべきか。れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評206、語彙の適切和訳考」で次のように記した。「れんだいこはふと閃いた。それを記そうと思うが、勿体無いので今は明らかにしない。本掲示板を見ている関心のある者の意見を求めたい。その上で、れんだいこ訳を開陳したいと思う。出来の良いのを造案したので忘れないうちに書き付けてみた」。

 かく意見を求めたが、我ならこう訳すという提案はいただけなかった。つまり、反応は無かった。勿体ぶらずにこの辺りで開陳しよう思う。さて結論である。れんだいこは、「アオフヘーベン」を「出藍」と訳したい。「出藍の誉れ」の「出藍」である。「出藍の誉れ」の故事来歴については辞典で確認していただくとして(「故事来歴」参照)、「アオフヘーベン」の語義は、「止揚」、「揚棄」よりも「出藍の誉れ」の意に近いのではなかろうか。

 マルクス主義的な事象又は認識に冠する「弁証法的らせん発展」とは、「出藍の誉れ」的にもたらされる認識の高次化過程を云うのではなかろうか。それは、内在的に理解せねばならないという意味を付与している。とするならば、外在的な解釈の余地を残す「止揚」、「揚棄」でなく、「出藍」と訳すべきではなかろうか。そういう訳で、よりまし訳として、れんだいこは以降この訳及び理解に従うことにする。

 思えば、マルクス主義用語で生命とも云うべき「アオフヘーベン」を安逸に理解していることからして、既成マルクス主義運動は幼稚なものでしかなかったのではなかろうか。もっとも、マルクス主義の最新研究は、マルクス主義を高みに置くのではなく、マルクス主義から出藍せねばならないところへ来ているのであるが。

 2006.10.6日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評232 れんだいこ 2006/11/09 19:29
 【同志社大社会学部メディア学科内の有力教授間戦争考】

 月刊「紙の爆弾」(2006.11月号、12月号)(ttp://www.rokusaisha.com/0test/top02.html)が、「同志社大学でまだ終わらない“セクハラ疑惑報道合戦”の行方」と題する連載で、興味深い次のような記事を掲載している。れんだいこは、滅法興味を覚えたので検証する。

 同志社大社会学部メディア学科(旧文学部社会学科新聞学専攻)は、これまで「同志社リベラリズム」の先頭に立つ名物教授を輩出してきたことで知られている。その象牙の塔内で、今をときめく有力教授の渡辺武達(わたなべ たけさと、以下「ナベタケ」と略す)氏と浅野健一氏は、同じ学科のことゆえゼミ生を取り合うライバル的鞘当犬猿関係にある。この両教授がケッタイな騒動に巻き込まれている。ナベタケ教授は週刊新潮に、浅野教授は週刊文春にという具合に相次いでゴシップ記事を書かれ、両者とも訴訟に持ち込んでいる。現在、裁判が進行中である。

 ナベタケ教授は、同志社大学文学部教授の他にも創価学会系知識人として知られており、創価学会系雑誌「潮」や「第三文明」の常連寄稿者である。他にも学会の広報ビデオに出演したり、池田名誉会長絡みのイベントで挨拶するなど活動している。浅野教授は、共同通信社の記者を経て同志社大学教授になったという経歴を持っている。こちらも「潮」、「第三文明」にも寄稿経験が有る。新左翼系タブロイド紙人民新聞にも寄稿していたこともある。以上を予備知識として踏まえておく。

 2003年頃、「浅野教授のセクハラ事件」が噂され始め、2005.1月、被害者と称する複数名が京都弁護士会に人権救済の申し立てをしたが、後に門前払い「不開始」となっている。

 2005.7.14日号週刊新潮が、「同志社大『創価学会シンパ』教授の教材は『AVビデオ』」なる見出しで記事を掲載した。件の記事は、当時デスクの大門氏の指揮の下で山室記者が執筆した。それによると、1・ナベタケ教授が、今出川キャンパスの明徳館の大教室で行われた授業教材として日本ビデオ倫理協会製作のAVビデオを使用した。2・件のAVビデオは、ボカシ付きながら男女の騎上位性交場面を映し出していた。3・同時に女性の出産ビデオも流した。これを見た一部の者が騒ぎ出し、件の記事になった。

 7.13日、ナベタケ教授は、講義中に流したビデオは、ビデオ倫理協会の広報ビデオでありアダルトビデオに当らない、あくまで学習用教材であると主張し、週刊新潮を相手取り、損害賠償請求額4639万円の訴訟を京都地裁に提訴した。これを仮に「新潮裁判」とする。

 その5ヵ月後、今度は2005.11.24日号週刊文春が、「『人権擁護派』浅野健一同志社大学教授『学内セクハラ』を被害者が内部告発」なる見出しで記事を掲載した。それによると、1・同大大学院博士課程を満期退学し現在同大嘱託講師を務めるA子が、愛人強要された。2・C子、E子がセクハラ被害を受けた。3・当時同大嘱託講師であったD氏が「アカデミック・ハラスメント」被害を受けた等々と告発していた。更に、B教授の助言で同大の「セクシュアル・ハラスメント防止に関する委員会」(通称セクハラ委)に提訴したものの、今日まで調査が進展せず有耶無耶になっていることも明らかにしていた。付記すれば、被害者達は今に至るまで民事訴訟は起していない。
 
 2006.1.27日、浅野教授は、「週刊文春記事は事実無根。B教授とあるのは同僚のナベタケ教授である」と断言し、「報道被害」による名誉毀損で、週刊文春を相手取り、損害賠償請求額弁護士費用含めて1億1千万円の訴訟を京都地裁に提訴した。これを仮に「文春裁判」とする。松本サリン事件で冤罪を被せられた河野義行氏、ジャーナリストの山口正紀氏らが呼びかけ人となり、「浅野教授の文春裁判を支援する会」が立ち上げられている。

 2006.9.13日、「文春裁判」の第4回口頭弁論が、京都地裁で開かれた。10.18日、「新潮裁判」の証人尋問が行われた。双方とも現在進行形である。

 鹿砦社のその後の調査で、次のようなことが判明している。

 「浅野教授のセクハラ事件」は、2003年頃より働き掛けが為されている。但し、根拠に乏しいとしてどこのメディアにも相手にされなかった。「ナベタケ教授関連の新潮裁判」勃発後、ナベタケ派の強烈な働きかけに週刊文春が飛びつき、2名の記者が調査に派遣され、石井デスクが執筆した。記事掲載に当り編集会議で大もめに揉め、最終的に鈴木編集長の独断で掲載が決まった。

 10.18日の「新潮裁判」の証人尋問で、ナベタケ教授が、山室記者の取材直後より2006.10.22日現在まで、山室氏の携帯番号やメールアドレスなどの個人情報を自身のサイトにアップしている。

 ナベタケ教授の「アカデミックハラスメント」(いわゆるアカハラ)ぶりは衆知のもので、「自分のゼミを取れば、京都新聞か関西テレビに入れる」など喧伝している。但し、ナベタケ教授は、「教え子を、マスコミに多く送り込んだ実績が有るのは事実だが、私のコネというものではない」と反論している。

 ナベタケの「アダルトビデオを観賞しながらの講義」は今に始まったことではなく、同大消費生活協同組合発行の小冊子「東と西と」(1991年12月号)で、「アダルトビデオを観賞しながらの講義」が学生の署名入り紹介記事で「売り」として紹介されている。

 かくなる事件であるが、ケッタイな騒動であろう。両者ともお粗末なのか、ナベタケが仕掛人なのかは今後の裁判で判明しよう。いずれにせよ、ナベタケ教授の人品骨柄は到底学問の府には相応しくなかろう。というか、学問の府とは元々かような手合いの巣窟なのだろうか。

 月刊「紙の爆弾」がこの記事を掲載したのは、同誌発行元の松岡社長の母校愛に拠る。次のように結んでいる。
「同志社大学が、いまや西の私学の雄であることは自他共に認めるものだろうが、巨大なダムが決壊するのは、蟻の一穴かせだといわれる教訓を、すべての同大関係者が肝に銘じないと、気づいた時には取り返しのつかない事態にもなりかねないだろう。今は“勝ち組”でも、将来もそうであるという保証はどこにもないのだから」。

 れんだいこは、母校が違うので、そういう感情ではなく、ナベタケ教授のもう一つの顔である「ホロコースト定説喧伝者の資質問題」として重視している。ナベタケ教授は、ネット界にぷち熟女又はロシアチョコレートなるハンドルネーム名で登場することでも知られており、ホロコースト定説に疑問を投げかけている西岡昌紀氏や木村愛二氏を反ユダヤ主義者として論難し、ホロコースト否定論議を批判する立場で、次のように書き付けている。
「 日本人は欧米を直接批判したくない時にユダヤ批判を持ち出すんだ、きっと陰謀論が面白くて仕方ないんだろう」。

 もっと他にも発言があろうが、れんだいこは知らない。ナベタケ教授の見識を知るにはこの一言でも十分だろう。

 れんだいこが見るところ、ナベタケ教授は極めて政治的且つ権力的且つ陰謀的な動きをしている。そのナベタケ教授は、現代世界の支配者である国際金融資本帝国のネオ・シオニズムに取り入りながら結構な身分を満喫している。小泉ー安倍一派と処世術構図がまるで同じである。そういう御仁の共通項として、「ホロコーストを肯定したがり、アンネの日記に涙し(その割にはパレスチナ難民の悲劇には無関心であるが)、シオンの議定書を偽書とみなし、そこから来るところの陰謀論を否定したがる」と云う風に器用な口先をしていることが認められる。

 小泉が首相現職中に、ユダヤ帽被って嘆きの壁の前で神妙な宗教儀式をしたきたことは知る人ぞ知る。れんだいこに云わせれば、靖国神社公式参拝の是非論よりも、この問題の方が問題にされるべきだろうに、与野党問わず今に至るまで不問である。プレスリー邸での素っ頓狂な仕草は報道されているが、嘆きの壁詣では秘されている。政治見識が狂っているとしか言いようがない。

 もう一つ付け加えておく。「ホロコーストを肯定したがり、アンネの日記に涙し、シオンの議定書を偽書とみなし、そこから来るところの陰謀論を否定したがると云う風に器用な口先」は何も、創価学会シンパ自称知識人のみではない。全く同様に日共シンパ自称知識人も然りである。してみれば、現代史再難関の「ユダヤ問題」に於いては、創価学会と日共は一致しているということになろう。実際、著作権問題の対応も然りで、この両政党こそが全域全方面著作権拡大の急進主義派であるという点でも共通している。体制修繕的穏和主義運動を手掛ける割には、この方面では強硬派であるのが笑える。

 以上からすれば、創価学会と日共はむしろ同床異夢の間柄であり、表見的対立に煽られては消耗するだけということになる。下部党員はそういう風に誘導されているが、上の方ではどう繋がっているか分かりはしない。気脈通じていると見るべきだ。れんだいこは、このことが云いたかった。

 2006.11.9日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評233 れんだいこ 2006/11/23 19:54
 【安倍政権考その1、】

2006.11.23日、旧大蔵省か通産省のいずれが所管なのか分からないが、月例経済報告が発表され、2002.2月以来景気拡大し続けており戦後最長の58ヶ月に至っていると発表された。れんだいこは、これを「大本営景気」と命名した。今後はこの用語が定着することになろう。「大本営景気」は恐らくこれはジョークで、サルの何とかスリと同じで体がガクッとくたばるまで云われ続けることになるだろう。タウン・ミーティングに於ける「やらせ質問」の仕掛けが明るみになりつつあるが、同じ構図であろう。

 小泉時代つうのはホント何から何まで無茶苦茶であった。これから、小泉時代の負の遺産のウミが次々と出てくるであろう。安倍政権はここ暫くその尻拭いを余儀なくされよう。まことに小泉は政治のマジックショーマンであり名ピエロであった。「聖域なき構造改革」、「官業の民営化促進」、「国債30兆円枠」、「自民党をぶっ潰す」、「米百俵精神」云々と数々の名句を残した。判明していることは、そういう事を言わせる振り付け士が居たということである。しかし、5年有余の長期政権となったことにより、皮肉なことに全てがコマーシャルであったことを言い訳が聞かない形にした。もっとも、「官業の民営化促進」のように、コマーシャルで良かった場合もある。

 小泉政治が実際にやったことは、彼が手を染めるところ全てがレイプ手法による強権政治であった。又は官邸政治という名の下での側用人利権政治であった。いわゆる小泉ブレーンの腐敗が今後次々と明るみにされるであろう。それと、小泉政治は直接間接合わせると一体いくら軍事費用に注ぎ込んだのだろうか。国債債務の急伸ぶりも然りである。明らかにされていないので植草氏辺りが指摘してくれねばなるまい。その植草氏が窮地に陥っている。真相は不明だが、意図的に有能士が狙い打ちされているのは事実だ。

 小泉は、道路公団民営化、郵政省の民営化、刺客騒動、靖国神社への8.15日首相の公式参拝等々、それに伴う混乱をレイプ式で強行したが、国益に資することは何もしなかった。今後とも国費の無駄使いとなり、事態は一層悪くなることはあっても良くはなるまい。つまり、いらんことばかりしたことになる。退任間際に、イスラエルを詣で、嘆きの壁参りしたが、あれは何の意味があったのだろう。野党はこれほど重大な事をなぜ問いたださないのだろう。

 小泉政権の後継を任ずる安倍政権は、これら負の遺産を踏襲し続けることしか出来ない。ここに安倍政権の危険性と脆弱性がある。2006.9.26日の安倍政権発足以来2ヶ月が経過しつつある。教育基本法改正を強行的に目論みつつある。目下、造反議員の復党問題が党内を揺さぶっている。造反議員と刺客議員のどちらを立てるのか、ややこしい問題を生んでいる。これまた小泉政治の失政であるが、双方が声高に主張すればするほどもつれた糸が解けない滑稽な様相を呈している。

 政府自民党がそういう苦境にある時、これを迎え撃つ野党の姿勢がお粗末極まりない。安倍政権の評価が定まっていない為に徒なイジメに上滑りしている。タウン・ミーティングに於けるやらせ質問問題は、本来なら小泉政権の痴態を撃つべきところであるのに、安倍政権に対する揺さぶりとしてのみ政治主義的に質疑されている。それは聞く者をして興ざめさせてしまう。

 民主党が、批判するための批判という旧社共式の万年批判姿勢を改めない限り、食傷されるであろう。安倍首相の官房長官時代の責任を問うことはできようが姑息である。ズバリ小泉政治を弾劾すべきであろう。そのことにより、小泉政権の後継を任ずる安倍政権がどう口を回すのか、それを見る聞くするのが政治と云うものだろう。ところが、何の憚りがあってかそういう風に向わない。我々は政権取りに向う民主党に期待しているのであって、ケチ付けイジメ的口先批判など又かよと思うだけである。あぁ政治が権力闘争として位置づけられ、政治路線を廻って党派と党派が鎬を削る時代を見てみたい。

 安倍政権を論ずるのに、一体、安倍政権の基盤は安定しているのか脆弱なのか、崩壊するシナリオがあるとすれば、それはどういうものなのかの見立てができていない。ここでも理論の貧困が見られる。「理論無ければ運動生まれず」は法理であり、早急に安倍政権論が為される必要があろう。そこで、いつものようにれんだいこが体を張り、試論を提供する。

 2006.11.23日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評234 れんだいこ 2006/11/23 20:19
 【安倍政権考その2、安倍政権の危険性と脆弱性考】

 安倍政権を前任の小泉政権と比較した場合、際立つ特徴がある。誰も指摘していないが、小泉首相には全編、頓珍漢な受け答えの妙味があった。安倍首相にはそれが無い。これをどう評すべきか。安倍首相の物足りなさを感ずるべきであろうか。

 これに対するれんだいこの結論は、安倍首相の方を良しとしている。なぜなら、小泉首相の頓珍漢ぶりは、マスコミが面白く採りあげ囃したてることで補完され、政治論法的に有効に使われたが、所詮どう演出しようとも狂人の類のそれであり、とても容認できるものではなかった。恐らく後日「狂人首相時代」と規定され、それを5年有余許した当時の政党政治のお粗末さが指摘されることになるだろう。小泉政治を持ち上げた側の痴性の狂気が問題にされることになるだろう。

 それに比すれば、安倍首相の応答は妙味がなく地味である。が、議論の遣り取りそのものは正常であり、安心して聞けるものである。つまり、まともである。れんだいこは、安倍首相を唯一この点に於いて好評するのにやぶさかでない。小泉首相のそれがよほど酷かったというに過ぎないのではあるが。思えば、小泉首相の一言一句が、それを批評するのに気持ち悪くて仕方なかった。未だに小泉政治を高く評する者が居るが、漬ける薬がない連中である。

 次に評すべきは、安倍政権の政権基盤の安定性如何であろう。れんだいこは、安倍政治を戦前型保守と戦後型保守の相乗りと見る。戦前型保守とは皇国史観に通ずるものであり、戦後型保守とは今をときめくネオ・シオニズムに登用されその配下で利権化しているものである。この両者は本質的には相容れない。それを二頭立てで御しているのところに安倍政治の特質が認められる。この相乗りは、うまく御せるうちはまだしも、いつしか又裂きの刑に向うことを余儀なくされる。

 安倍政治にあっては、ネオ・シオニズム派と皇国史観派の闘いが終始暗闘せざるを得ない。いずれネオ・シオニズム派が皇国史観派を封殺することになろう。つまり、安倍政権の政権基盤の安定性如何とは、ネオ・シオニズム一辺倒化による皇国史観封殺がどの時期に現われるのかによる。目下の教育基本法改正は、表向きは皇国史観派の教育理念に合致しており、憲法改正を視野に置いているネオ・シオニズム派はその為の前哨戦として後押ししているように見える。故に、両者は阿吽の呼吸で支えあっている。この時期の安倍政権は、政権基盤安定で推移するだろう。

 しかしながら、安倍政権はいずれ小泉同様にネオ・シオニズムに人身御供する為の日本ホロコースト化を推進せざるを得ない。それは、軍事、政治、経済、文化のあらゆる戦線に於けるネオ・シオニズムの傭兵化である。もし、ネオ・シオニズムが今後彼らの思い通りの世界支配を成就するとすれば「日本生き残り百年の計」に合致するかも知れない。外務官僚の何某はそう説き続けている。

 しかし、ネオ・シオニズムの選民思想により勝手にゴイム畜生類とされたその他諸民族特にイスラム勢力がこれに抵抗し、次第に力をつけ、全世界の被圧迫被搾取人民大衆が呼応すれば、むしろ逆にネオ・シオニズム派は怨念込めて袋叩きにされることになる。この場合、オ・シオニズムの傭兵と化した日本は、傭兵度に応じて相応の制裁を受けることになろう。それは、「日本生き残り百年の計」に合致しないどころか総スカンを食らう道となる。

 安倍政権は、ネオ・シオニズム傭兵化政策をどこまで押し進めることができるのだろうか。憲法改正による自衛隊の自在なネオ・シオニズム傭兵的派兵を狙いとしているが、この政策を彼らから見てどこまで勝利的に貫徹し得るのだろうか。この政策は、国内の格差社会化即ち食えない貧民創出による自衛隊入隊志願者の急増政策と一蓮托生しているように思える。この政策を彼らから見てどこまで勝利的に貫徹し得るのだろうか。政官財学報の五者機関総動員によりこれをやり切ろうとするであろうが、彼らから見て勝利的に貫徹し得るのだろうか。

 れんだいこは、日本人民大衆の叡智はそろそろ戻ってくると確信している。戦後65年、これを節目として潮流が変わり、敗戦以来のネオ・シオニズム・イデオロギープロパガンダの総点検に入ると思っている。インターネットが情報閉塞を打ち破り、日本人民大衆は真実の情報を手にし始め、我々の叡智がネオ・シオニズムのそれを上回り、日本ホロコースト化に抵抗する戦略戦術を持ち始めると思っている。

 今後は、兵器戦争よりも頭脳戦、知能戦の役割が大きくなる。世の中はそのように推移しているように思っている。ネオ・シオニズムにより勝手にゴイム畜生類化された世界人民大衆は、最終的にネオ・シオニズムに打ち勝つだろう。ネオ・シオニズムはイスラムに破れ、世界中で破れ、日本人民大衆に破れ、総破綻を余儀なくされるであろう。

 そうなると、歴史上かって経験したネオ・シオニズムの所払い(ディスポラ)が再現されることになるだろう。ネオ・シオニズム派がニュルンベルク裁判、東京裁判を為したように、今度は反ネオ・シオニズム共同戦線派がネオ・シオニズム裁判を国際的に開催し、彼らの「シオンの議定書」以来の漫画的世界支配構想を露見させ、二度と目論まれないよう断罪し、サタニズムに対する歴史的鉄槌を下すであろう。

 その為の我々の青写真が要る。これが無い限り海図無き航路になろう。れんだいこはそう思う。

 2006.11.23日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評235 れんだいこ 2006/11/26 20:47
 【自民党造反派の復党問題に寄せて、日共よ正気かよ】

 「自民党の造反議員復党問題お家騒動」が大詰めを迎えている。中川幹事長が迫る踏み絵方式に造反組筆頭の平沼元通産相が膝を屈するのかどうかに注目が集まっている。これに対して、ネット検索する限り日共を除く他党はコメントを控えている。これは、控えているのか、論評する能力を持たない故なのかのどちらであろうか。れんだいこは後者と見る。

 そうした中で、日共は、2006.11.24日付の赤旗で、「狙いは“票と金”ご都合主義に国民もあきれる 自民 郵政造反組の復党急ぐ」(ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-11-24/2006112402_06_0.html)なる見出しで論評している。論評しないその他党派よりは公党の政治責任としてはマシであろう。が、論評内容が酷いとすれば如何せんか。例によって無署名記事であり、執筆責任者は分からないようにしてある。毎度のことながら姑息である。

 さて、日共は、如何なるスタンスでこの問題を採りあげているのだろうか。何と、「無節操あらわ」の小見出しで、「一年余りで手のひらを返すように復党させる―自民党の無節操ぶりがあらわになっています」と述べている。商業新聞や世論調査の声を紹介してこの見解を補強している。

 れんだいこのアンテナが作動するのでこれに言及する。まず、他党内事情干渉問題について確認しておきたい。日共は、自民党の党内事情に対して明らかに見解表明しているが、こうなると逆の場合にも是認されるべきであろう。党中央は今後、日共党内問題に対して他党が見解表明することを是認するのかどうか明らかにせよ。

 この質疑は、事情を知らない者には意味が解せ無いだろうが、事情通には重要な問いかけである。なぜなら、れんだいこの知る限り、手前は云う権利はあるが相手には認めないというのが宮顕系日共党中央の作法であるからである。宮顕系日共党中央は、かのリンチ事件でも、日中出版の出版差し止め事件でも「これは党内問題である。党中央が党員を例えば煮て食おうが焼いて食おうが、それは結社の自由である。他党が口を挟む問題ではない云々」として他党が容喙することを厳しく批判してきた経緯がある。

 次に論評内容の検討に入る。何たることか、郵政民営化法案に共に反対した造反議員に利するようコメントするのではなく、復党させるのは無節操として、受け入れようとする自民党執行部を批判している。一体、どういう神経をしているのであろうか。日共のこの見解も新たな腐敗妄言として刻まれるであろう。党内はこの論評に対しても同調するのであろうが、宮顕系党中央の50年余の洗脳で、ほぼ完全に脳死せしめられていることが分かる。

 日共見解の質が酷すぎよう。なるほど、造反議員は、党中央の民主集中制方針に反対し自由、自主、自律的に行動し、郵政民営化法案に反対した。そのせいで除名され、選挙区に刺客を送り込まれ酷い目にあった。宮顕式党内統制手法にすれば、至極当り前のことではあろう。しかしなぁ、政治運動的には、自民党造反議員は、郵政民営化法案反対という一点に於いては共同戦線的に同陣営の者たちではないのか。そういう連中を見る目線は温かく無くてはならない。これが正常な見識であろう。

 日共党中央は公然と逆裁定している。「造反議員復党問題」は来年夏の参院対策であり、政党助成金増額狙いであり、党利党略だとして批判している。しかしなぁ、そういうスタンスでの自民党執行部批判は明らかに片手落ちであろう。自民党造反議員の野ざらしを勧めるような見解を出すことがより酷いとは思わないのか。日共党中央は妙な見解を出すことで墓穴を掘っている。

 思えば、民主集中原則を振り回しての小泉の踏み絵手法といい、直ちに除名宣告といい、刺客送り込みといい、議院での席次イジメといい、宮顕ー不破式党内運営そのものである。端的に云えば、「大人気ない排除の論理の強権行使」であった。目下の復党に当っての白旗降参式踏み絵強要も然りであろう。党内運営に関する限り、小泉及び安倍政権はますます日共のマネをしてきている感がある。最近露呈しつつあるヤラセ質疑も、宮顕式党内論議のやり口そのものである。

 そういえば、日共は、党の憲法とも云える規約の改悪に着手し、強権的にやり終えた。その手法は、憲法改正はこういう風にやるんだと先例を示したことにもなろう。その日共が憲法改悪反対を唱えても、どこまで本気なのか分かったものではなかろう。どうせ口先だけで、裏では通じているのだろう。そう考えるべきだ。

 ちなみに、日共は、党規約の改定史を一切秘匿している。れんだいこも詳細が分からない。判明することは、まさに改悪に改悪を重ねてきているということである。監査なども酷いもので、わざわざ監査を受ける側が監査するというご法度の方式に改悪してきている。党内をそのようにしておきながら、世間に向っては政府自民党のやり方はケシカラン、民主主義を護れ云々と正義の批判をしているが、れんだいこには信じられない感性である。

 もとへ。自民党がそのように日共化しつつあることを踏まえ、我々は、戦後ルネサンスの再生運動に乗り出すべきではなかろうか。この座標では、面白いことに、政府自民党タカ派系と日共が共に統制式強権派なので、そして共にシオニスタンなので体制派になる。民主党の鳩山ー前原グループ、公明党がこれに列なる。

 我々は、党内反対派の棲息は当り前という組織論の下に党中央の指導性を認める運動を創出しよう。そういう党派が共同戦線運動目指せばよい。これこそ真性の左派運動である。れんだいこ命名では在地型社会主義運動となる。

 最新のヨーロッパでは、日本のマスコミでは新右翼運動と報道されているが、統制式左派運動を毛嫌いしている点で既成の左派運動ではないが、民族と国家の将来は自分たちで考え遣り繰りするという至極真っ当な運動を切り開きつつあり、れんだいこの目から見れば、在地型新社会主義運動と映る。こうなると、概念を緻密にしないとややこしくなろう。結論として、公認党派の指導部は篭絡されてしまっている故に、我々の手作りの運動を東西で創出せよ、ということになる。早くこの一致点が共有できんことを願う。

 2006.11.26日 れんだいこ

Re:れんだいこのカンテラ時評236 れんだいこ 2006/11/27 19:22
 【新聞各社の一斉世論調査発表による世論誘導考、エエカゲンニセンカイ】

 2006.11.27日、新聞各社は一斉に安倍内閣支持率の世論調査結果を発表した。毎日新聞は「安倍内閣支持14ポイント減」とある。全紙の比較をしてみたいが購読していないので分からない。恐らく、造反組復党反対プロパガンダをダシにして安倍内閣支持率低下キャンペーンを張っているだろうことが想像できる。

 ところで、この世論調査の裏付けなるものは、毎日新聞社の場合を例にとると、「25、26の2日間、コンピューターで無作為に選んだ電話番号を使うRDS法で全国の有権者1000人を目標に電話で調査し、980人から回答を得た」という代物でしかない。新聞の1面トップを使って発表するにはお粗末過ぎやしないか。新聞各社一斉に同一論調を発表するのも臭くはないか。

 今や我々は気づかねばならない。小泉政権時代、繰り返し行われた世論調査発表も、一種のヤラセによる世論誘導だったのではなかろうかと。造反組復党問題の端緒を為した、2005衆院解散騒動を想起しよう。2005年夏、小泉政権があれほど締め付けたにも拘らず、郵政民営化法案は衆院で大量造反組を発生させ、参院では法案否決事態となった。

 本来なら、法案差し戻しか面目を失った内閣が総辞職すべきところ、小泉政権は逆ギレして衆院解散の暴挙に打って出た。衆院を開かずのままの衆院解散は憲法違反であり、憲政史上の汚点を刻んだ。野党は、党利党略的な思惑から憲法違反であるとして弾劾せぬまま受け入れ衆院選に突入した。造反組を直ちに除名された。それでも各地の都道府県連が造反組を擁立するや公認を取り消し、刺客候補を送り込んだ。しかし、官邸のこの采配は、普通選挙制による代議員選出制と議院内閣制の趣旨からすれば暴挙と云わざるを得ない。まことにレイプ所業である。

 今日、造反組復党問題を発生させているが、狂人首相小泉の下では不可能であったからであり、遅かれ早かれ日程に上らざるを得ない。安倍政権がこれに取り組むのは至極真っ当にして賢明である。ある特定法案の賛否を廻って、党中央が除名如意棒を振り回したことのほうが愚劣であり、修復するのは義務である。故に、れんだいこは、安倍政権の復党対応を支持する。参院選対策であろうが、政党助成金対策であろうが、それはおまけというものであろう。

 ところが、新聞各社は一斉に、一斉でなくても構わないところ一斉に、ネガティブキャンペーンを張っている。これは三権分立制から漏れていることをいいことに第4権力化しているマスコミのペンの暴力ではなかろうか。一体、世論調査の結果発表するにせよ、たかが1000人程度のアンケートで何が分かると云うのだ。するなら満を持して万単位で臨め。それができぬのに、さも公平そうに装って世論誘導するのはやり過ぎではなかろうか。

 仮に或る学者が登場して、千人程度のアンケートの適正を御用付けるのなら、ついでに万人程度のアンケートよりもより適切と云うことを論証してみよ。逆に500人程度のアンケートならどうなのかにも言及してみよ。れんだいこは、素敵な詭弁を聞いてしんぜよう。しかし、こういう疑問は当り前のことであり、専門家が問われるまでもなく見解発信しておかねばならない。それができない御用性学問がはびこり過ぎている。

 同日付毎日新聞の発信箱が、与良論説室員の「再び復党に反対する」を掲載している。それによると、「だから私は、復党は一種の詐欺だと言っている。造反組は新党を結成する方が、まだ筋が通ると言うべきだろうみ」云々と述べている。与良なるよ、一見若そうだが今からこういう時流迎合評論ばかり稽古してるとろくなもんになりゃしねぇって。

 与良なるよ、次の質問に答えてみ。重要法案の賛否を廻って、或る議員が党議拘束違反を犯したからといって、除名されて然るべきか。普通選挙代議員制の趣旨からすれば、議員は負託された政治責任として時には党議拘束違反をも認められるべきとは思わないか。

 思えば、第東亜戦争開始を廻る御前会議でも、意見が真っ二つに割れ、昭和天皇の裁可を待った。開戦に踏み切ったからといって、開戦反対派が処分されたという話は聞かない。その後も開戦派と非戦派の暗闘は続き、非戦派が終戦のカードを握っていくことになった。これが政治というものであろう。一々の政策で処分ばかりしてたら、最後には手前独りになってしまうのではないのか。

 そういう意味で、目下の問題は、過去有り得てならないことが発生し、お蔭でポスト小泉政権が尻拭いに苦慮しているだけのことではないのか。それにしても興味深いのは、安倍首相が山口で、中川幹事長が広島で、平沼元通産省が岡山で、成り行きを固唾を呑んで見守っているのが島根の青木だわ。何のことは無い、中国地方の政争の感がするな。きっとしこりが残ると思うぞ。

 2006.11.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評237 れんだいこ 2006/11/28 01:35
 【受け狙いで云う広島県人つうのはそんなに筋道にうるさいのか】

 造反派復党問題を廻って市井の幾人かの人と話してみた。みんなマスコミかぶれで、ありきたりのことを云う。面白くないので、れんだいこがもう一言添えておく。広島県人の中川幹事長は、筋道問題を質す資格があるのか。れんだいこの記憶する中川幹事長とは、愛人を、嫁が居ない留守に本宅の夫婦のベッドルームへ誘い一緒に撮った写真をフォーカスされていた人物ではないのか。

 夫婦もマンネリすればいろいろある。浮気もあるだろう。すれば良かろう。だがしかし、愛人を本妻とのベッドルームへ連れ込むとなると許される一線を越していよう。それだけはしてはいけない仁義ではないのか。浮気そのものがいけないと云う手合いには通じないだろうが、れんだいこ的けじめでは、それだけはしてはいけない。れんだいこは、連れ合いと過ごしたホテルでさえ、他の者を連れ込むのを憚るぐらいのけじめがある。(これっておかしいかなぁ)

 れんだいこの記憶間違いで無いとすれば、それを平然とやっていたのが中川だ。その中川が今、造反議員の復党問題で殊更筋道を云うのが滑稽である。ちゃんちゃらおかしい。もっと事情通になれば醜悪と云うだろう。お前にはそういうことを云う資格が無い。これを云いたかったのでコメントしてみた。

 それにしても、山口県人、広島県人、岡山県人、島根県人と近いところに居るけれど、理屈の立て方が違う。己の過去の行状を顧みず、時流に合わせた筋道を云うところが広島県人らしい。広島県人文句あるか。あるなら中川にブーイングせよ。

 少々酩酊のれんだいこ節として聞いて欲しい。

 2006.11.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評238 れんだいこ 2006/11/30 20:31
 【小泉ー安倍の売国傀儡政権を打倒せよ】

 安倍政権は、前任の小泉政権の政策を踏襲し、1・教育基本法改正、2・防衛省法案、3・共謀罪の導入と着々と戦後国家改造に乗り出しつつある。現実に憲法改正が視野に入ってきた。我々はこれを如何に捉えるべきか。はっきりしていることは、自民党+公明党+民主党が組めば、どんな法案をも可決されることである。かっての社共勢力の大いなる後退が否応無く目に付くことになる。新左翼諸党派の凋落も激しい。日本左派運動は根底的に解体絶滅されたのだろうか。

 れんだいこは、その要因を分析し、阻害事由を取り除き、再生せしめねばならぬと考える。その一致点を次のところに求めたい。1・祖国を思い、民族の帰趨に責任を持つ政治の復権。これは、政府与党の排外主義的愛国心、民族主義と理論的実践的に闘う為に必要である。2・左派運動内に共同戦線思想を確立せよ。これは党内にも党外にも要求される。純化衛生主義は邪道と心得、党内反対派の棲息こそ健全な政党の姿と踏まえるべきだろう。その上での党中央指導制を確立すべきであろう。3・戦後憲法及びその秩序をプレ社会主義と見据え、これを擁護し実質化を目指すべし。この観点を失したばかりに無為有害な運動を展開し過ぎたのではなかろうか。4・反戦平和、国際協調運動を称揚せよ。これは、政府与党のシオニスタン的好戦政策と鋭く対立することになるだろう。5・各派共同して議会に進出せよ。その為に合従連衡せよ。

 今からでも遅くない。日本左派運動の潜在能力を顕在化せしめていくべきだろう。こうしない限り、政財官学報の五者機関による日本政治のますますのシオニスタン化を防げない。れんだいこは、日本の歴史的伝統的国体はそれなりに有意義なものであると思料する。日出る、山紫水明、五穀豊穣、豊葦原の瑞穂の国は絵空事ではない。相対比較的に見ればまっこと的確な日本表象概念言語ではなかろうか。これを徒に半身に構えて否定することは無い。その通りと認め、国と民族を愛する文化と伝統精神に支えられた政治が肝要と思う。

 この精神からのみ、小泉ー安倍政権が押し進める売国政策と闘うことができる。この精神を透過してこそ、小泉ー安倍政権の傀儡政権ぶりを炙り出すことが出来る。歴史に責任を持つ主体がどちらなのかを人民大衆に訴えることが出来る。れんだいこはそう思う。久々の「2006.11.30助けあい党声明」とする。御意の士よ、列なれ。

 2006.11.30日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評239 れんだいこ 2006/12/05 21:05
 【小泉ー安倍の売国傀儡政権を打倒せよその2】 

今時、日本神話を再考するのにどのような意味があるのだろうか。れんだいこは廻り回ってここへ辿り着いた。知れば案外と面白い。もっとも、へそ曲がりの癖があるれんだいこは、神話作者の意図のようには読まない。むしろ、作者が隠蔽した、作り変えた、裏の意味を好んで求めたがる。

 戦前の皇国史観ではっきりしていることは、大和王朝の正義を打ち出し、国譲りされた側の出雲王朝はたまたその他まつろわぬ部族を悪し様に書き過ぎていることである。これを正そうと思う。しかしながら何分浅学非才である。史実をそれなりに知るのにれんだいこの寿命がどこまで追いつくのか心もとない。それでも良い、知らぬよりは。

 目下、政府与党は、教育基本法改正に乗り出そうとしている。いよいよ戦後憲法秩序が最終的に瓦解される局面に達したということであろう。それにしても、政府与党は民主党も含め、どういう愛国心、愛民族心を涵養させようとしているのだろう。やっていることは、売国シオニスタン政治一直線である。その連中が何の顔(かんばせ)有りて愛国心、愛民族心を説いているのだろうか。れんだいこには解せない。

 どうせマジメに説いている訳ではなかろう。なぜなら、愛国心、愛民族心の涵養は、互いの国のそれらをも認めることでなければならないところを、政府与党政治は、現代世界を牛耳る米英ユ同盟の尻馬に乗って「金出す、兵隊出す」でしかない。一体、9.11テロからアフガン戦争、イラク戦争にどれだけ莫大な「金出す、兵隊出す」をしてきたことか。「かかって来い」とジェスチャーして始めたブッシュ戦争が今、風向きが変り貧相顔になっている。小泉ー安倍政権はそれでも何ら政策を変えようとしない。最後までお供しますという政治を続けている。

 こったら政府の下で教育基本法改正してどうなるというのだ。この問いかけこそが闘う姿勢となるべきではなかろうか。お前たちの手では何の改正も、改正ではなく改悪しかできないだろうが、やらせない。れんだいこはそう憤怒している。

 2006.12.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評240 れんだいこ 2006/12/09 21:41
 【れんだいこの日本神話考】 

 日本古代史を知るには、日本古代の歴史書である旧事記、古事記、日本書紀、各地の風土記、古語拾遺、古史古伝等々を読まねばならない。但し、それらは時の権力に都合よく改竄されているからして、書かれたものの中から極力真実を見出さねばならない。日本神話考にはそういう困難が伴う。

 そうではあるが、思案するに我々のアイデンティティの確立が今ほど大事な時代は無い。そこで、れんだいこなりの日本神話考に向うことにする。もう一つ意味がある。あのユダヤ神話創世記と比較して思案してみたい。まことに日本神話のおおらかさこそ宝ではなかろうか。逆に言えば、ダヤ神話創世記ほどくだらない殺生なものはない。知ってか知らずか、そのユダヤ神話創世記世界観に身も心も捧げる近時の政財官学報人の底浅さを文明的に卑下させよ。本稿にはそういう狙いがある。

 もう一つ有る。れんだいこは、日本神話をそれなりに読んで見て、戦前の皇国史観は日本神話のご都合主義的読み取りでしかないと思う。日本神話はいびつかされているけれども、それでもなお豊穣である。その豊穣さを見て取らぬままに皇国史観を批判しても内在的な批判にはなり得まい。そういうへなちょこ批判で批判したつもりになっていたのが日本左派運動ではなかろうか。そういう姿勢は万事に繋がっている。そういう姿勢は今日在る如くにしかならないのも道理だ。そういうことも言ってみたかった。

 神話は、歴史上最も遠い時代の逸話ではあるが、妙に生新しい気がするのは、れんだいこだけであろうか。聖武天皇の御世の逸話はこうだ。

或る時、仁徳天皇は高山に登り、四方の国土を見ていた。食事を用意する炊煙が全く見えなかった。これを悲しみ、今より三年間、国民の税と夫役を免除するようにと言い渡した。こうして、三年の間、民の夫役や税を免除した結果、宮殿は破損し、ことごとく雨漏りするようになった。しかし、天皇は一切修理をせず、器で雨漏りを受け、あるいは雨漏りのしない場所に移るなどしてしのいだ。三年立ったある日、国内を見渡すと、いたるところに炊煙が立っていた。「もう税と夫役を課してもよかろう」。こうして、民は豊かになり、賦役を苦しむことはなかった。その御世は、聖(ひじり)の帝(みかど)の御世と称えられた。

 2006.12.9日 れんだいこ拝




(私論.私見)