カンテラ時評4(091〜120) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その91 | れんだいこ | 2005/09/02 00:53 |
【全くくだらない党首会談】 たまたま先ほど党首テレビ会談を見た。全くくだらない。今喫急に小ネズミに詰め寄るべきは、イラクへ派兵された自衛隊の撤退だろう。これまでイラク戦争に注ぎ込んだ巨額の実態と自衛隊駐留費の現在経費とこれからかかるであろう金額を質せ。あろうことか自衛隊の増派が予定されつつあり、軍事国防費がいろんな名目で増やされつつある。これを衝かねばならぬのに。 これを質さずして何の構造改革だろうか。ここから入らないような構造改革論議は不正不義であろう。社共は犯罪的なことにここに食いつかずあれこれの言質を捉えて難癖つけようとしている。せいぜい重箱の隅をつついているだけである。こういう偽の友党派はもう要らない。れんだいこの不快指数が上がるばかりである。 公明党はすっかり腰巾着ぶりが板について、かっての中道路線の面影もない。今更戻れないだろうから、いずれしっぺ返しがお見舞いされるだろう。これが大作の政治能力の限界とみなせる。それにしても、ここまでたどり着いたのは、他の指導者に比べれば有能ではあった。しかし、それは、他の指導者のたまさかの貧能によって相対的に成功しただけのことであろう。そういうからくりが見えてきた。 それにしても民主の岡田の変調振りはどうだろう。彼は、ここ一番の肝心なこの局面で、極力民主ブームを起さないよう火消しに指導能力を発揮しているように見える。裏から小ネズミを助け起しているように見える。彼もアメリカ帰りだから何となく胡散臭い。 岡田執行部の旗振り方向はことごとく変調である。民営化路線推進、憲法改正、各種増税、消費税率アップ、自衛隊派兵、公共事業抑制、年金一元化等々、どれもこれも無茶なアメリカ好みの政策である。小泉との違いは小泉が口先だけなのに、我々はやるといったらやるんだ、そこが違うと云っている。実にくだらない。 しかし、そうはいっても小ネズミサイコパスを引き摺り下ろさねばならないので、他の民主党指導者を辛うじて信じて民主の政権取りに向かわせねばならない。社共の裏切りと無責任には見飽きたので仕方ない。彼らは反対を唱えれば責任は足したと思い込むことのできる極楽トンボである。我々は実際に小泉を総辞職させ、岡田を放逐し、(恐らくこの両グループはいずれ結託するだろう)もう少しはましなハト派系民主政権を樹立せねばならない。 それから政界再編成が行われる。タカ派はますます米英ユ連合依存体質を露にするだろう。またぐらをしっかり掴まれているのでそうするしか身動きできない連中である。我々は、これに抗する諸派共同戦線で自律的国政運営能力を勝ち取らねばならない。幸い米英ユは長引くイラク戦争で国力を疲弊しつつある。そのパワー・バランスの中で日本は賢明に懸命に舵をとらねばならない。捨てる神あれば拾う神ありで、収まるところに収まる。これをやりぬくハト派政権を樹立せねばならない。 これが近未来の政局になる。そういうことが云いたくて、眠い目をこすった。この期に及んでの岡田の上からの変調を許すな。 2005.9.2日 たすけあい党党首れんだいこ声明 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その92 | れんだいこ | 2005/09/03 20:46 |
【角栄の「ロッキード釈明」考】 今日の政治の貧困それも末期的症状を見るたびに、れんだいこは角栄に立ち返る。角栄は、中曽根が国鉄民営化しようとしていたかの時、それに異議を唱えていた。確か月刊現代に掲載されていたが、すこぶる説得的であったのを覚えている。どなたかサイトアップして欲しい。ぜひ読み直してみたい。 それはともかく、角栄がロッキード事件に巻き込まれそうになっていた1976(昭和51) 4.2日、角栄は、砂防会館での田中派7日会の臨時総会で「私の所感」を発表し疑惑を否定した。その時の談話が手に入ったので転載しておく。 (「ロッキード事件の概要」kakuei/rokiido_zikennogaiyo.htm)。 今これを読めば、角栄の苦悩とむしろ高潔な人格が伝わる。何でも反対の立場から、角栄のこの所感に対しても批判めいた言辞をすることでサヨぶる者が後を絶たないが、虚心坦懐に読めば、角栄冤罪説の方に軍配が上がる。 まことに角栄をロッキード裁判にはりつけ、その政治的能力を失わしめたことは痛恨の極みである。目下の小泉政治のような痴態なぞ起こしようも無かった。今たまたま衆院選に突入しているが、小ネズミのやる事なすことが幼稚極まり、現場を知らぬ者が無茶苦茶に権力棒を振り回しているに過ぎない。その咎めが早くもあちこちで起っている。 しかしよくできたもので、小泉が悪あがきすればするほど、政権交代を唱える民主岡田がやれ増税だ、やれ郵貯一千万円枠を外す、造反派相手せず云々と幻滅的言辞を繰り出し、小泉政権延命策に手を貸しつつある。 日共志位は、参院採決前は小選挙区での立候補を抑制するとぶって自民党造反派の動きを牽制していたが、効き目が無かったとなると相変わらず野党分裂を仕掛け、自公体制を裏から補完しようとしている。お陰で寄ってたかって右へ右へと誘導されている。 ------------------------------------------------------------------------------ それはともかく角栄の「ロッキード釈明」は次の通り。 ロッキード釈明 昭和51年4月2日 一、国際通貨危機や石油問題の発生によって、国際的にも、国内的にも、激動が4、5年続きました。経済の安定、不況からの脱出など、国民が今国会に期待したものは、たくさんあります。我々は戦後20年に終止符を打ち、新しいスタートを切るよう強く求められています。その意味で、私は今こそ、与党、野党を問わず、内外に山積する諸問題と正面から取り組み、具体的な施策を国民に打ち出すべき国会にしなければならないと考えておりました。 二、しかるところ、ロッキード問題によって、国会審議は完全に停滞し、政局は予想もできない混迷に陥りました。いうまでもなく、ロッキード問題は、徹底的に究明されなければなりません。また私は、真理の解明が必ず為されるものと確信しており、それを心から望んでおります。本件については、すでに日米両国政府の間で、資料の提供など相互協力について合意が得られました。国内捜査権は、すでに発動されております。今後の問題の解明は、挙げて当局の努力に待つべきであり、それが三権分立を基本とする民主国家の原則であります。我々もまた当局を信頼すべきであります。 三、政治は今、経済的混迷の中で、景気の回復を軌道に乗せるよう、国民から緊急に求められています。一部では雇用不安、社会不安の発生も予想されております。我々は国民の要請に応えなければなりません。今為すべきは昭和51年度予算案、及び関係法案を一日も早く成立させるため、全力を傾けることであります。このため党執行部が明確なる方針を打ち出し、行動に出れば、我が7日会は率先して、これに全面協力すべきであります。 政府、自民党は、今こそ一体になって、この難局処理に当たるため結集しなければなりません。議員個人の立場や派閥の思惑を先行させることは厳に慎むべきであります。政府、自民党に課せられた政治責任を、いかに果たすかという責めに対してのみ、我々は決断し、行動すべきであると考えます。 四、今日、ロッキード問題を廻り、あらゆる揣摩臆測(しまおくそく)が乱れ飛んでいることは、きわめて遺憾であります。しかし真相は、必ず解明されます。また、私は自分自身に対し、ひそかに誇りを持っております。各位に置かれましても、今後の政局に臨むに当たっては、自信を持って、堂々と行動されるよう願いたいので有ります。 五、ロッキード問題に関連して、私のことがいろいろ取沙汰され、各位にも少なからず迷惑を掛けていることと思います。私が今日まで発言に慎重であったのは、一党の総裁、とくに一国の代表として公的な立場にあった者は、その職を離れてからも言動に慎重を期さなければならないと判断していたからで有ります。 しかし、今日の状況からみて、私がこれまでの状態を続けることは、私自身、政治家としての責任を果たす上で障害になるばかりでなく、各位の今後の政治活動に影響を及ぼしかねないと考えるに至りました。従って、このさい若干の発言をしたいと思います。 六、昭和47年8月、ハワイで行われた日米両国首脳会談で、ロッキード問題に関して何らかの取引があったのではないかとという言動が見受けられます。この会談に就いては、当時発表された「日米共同声明」に、すべてのことが盛り込まれており、私として、これに付け加えるものは何も有りません。また航空機の問題については、鶴見・インガソル会談に関する発表がすべてであります。互いに一国を代表する首脳会談の席で、一民間航空会社の問題が議論されるなどあり得るはずもなく、事実、まったくなかったことをあきらかにしておきます。 七、いわゆる久保発言についていえば、四次防大綱を読み、これを二次防大綱と比較して分かるように、政府がPXLの国産化を決めたことは一度も有りません。PXLの輸入か国産かの問題は、我が国最高の専門家が英知を傾けて決定すべきものであります。政治が介入する余地の全く無い問題であることは、2月21日、坂田防衛庁長官の「久保発言は事実誤認」という発言によって明確になったと思います。 小佐野賢治君は、私の古くからの友人ですが、互いの交際の中で、公私のけじめをはっきりさせてあります。今回の問題は一小佐野君との関連はまったくありません。なお私は、この15、6年間、児玉誉士夫氏と会ったこともなく、公私いずれの面に於いても付き合いが無いことは、世間衆知の通りであります。 八、今回の問題が発生して以来、巷(ちまた)には憶測や独断にもとづく無責任な言動が横行しております。憲法に保障された基本的人権、プライバシーの権利などを論ずるまでもなく、こうした風潮は、真の民主体制を維持し、発展させていく上で、はなはだ憂うべき現象で有ります。しかし、伝聞、風説、噂、デマなどにもとづく奔流のような言動に対し、ひとつずつ反論を加え、完璧な対応をすることは困難なことであります。時の流れの中で真実が明らかにされることと思います。 しかるところ、先日、社会党の石橋書記長が遊説先で演説し、私の名誉を傷つける発言をしたことが一部に報道されたことは、ご承知のことであります。一党の責任者の発言として黙過できないので、二階堂代議士を通じ、ただちに抗議したところ、同書記長から、「報道は事実を伝えていない」旨の釈明がありましたので申し上げておきます。 九、この際、私のいわゆる資産形成について一言いたします。この問題については、公正な第三者による事実調査と確認などの作業が続けられておりますので、結果が確定すれば、これを明らかにし、世の指摘に応え得るものと考えます。 十、現在、政府も党執行部も局面の打開に尽くしておりますが、本年度予算成立のメドさあ立っていないのが国会の実情であります。我が7日会も、政府、党執行部と渾然一体となり、難局の打開に全力を傾けるべき時を迎えました。国権の最高機関たる国会は、いまや、その責任を果たし、国民の負託に応えるべき関頭(かんとう)に立っておると思います。 我々は、戦後30年の長い間、困難な国政処理に当たり、今日の我が国を築きあげてまいりました。我々は、そうした実績と誇りの上に立ち、全党員一致結束して、限りない前進をすべき時であります。ご清聴を感謝いたします。 ---------------------------------------------------------------------- (私論.私見) 「角栄の『ロッキード釈明』」について 今日冷静に見るに、角栄は終生疑惑を否定している。それを居直りと受け取る向きもあろうが、この強い否定の仕方から見て冤罪説は傾聴するに十分に値するのではなかろうかと思われる。 今日角栄を擁護する者の中にも、5億円授受をあったとしてそれでも角栄を支持するというスタンスの者が多い。しかし、真実角栄は貰っておらず全くの濡れ衣的冤罪として見直してみる余地があり過ぎるのではなかろうか、というのがれんだいこ見解である。もしこれが真相だったとなると、角栄政界追放過程に荷担した者は、相応の責任を負わねばならないであろう。少なくとも坊主ザンゲで済まそうとするのは虫が良すぎよう。 考えて見れば、角栄は、民族派的誇りの強い党人派政治家であり、国内の金はともかく外国のエージェント機関から金を貰うことに対しては慎重であった、と考えることが十分可能である。確かに角栄は、金配りの名人であった。しかし、金の集め方にはナイーブであり、それが証拠に財界に頭を下げて出向くことを良しとしなかった。ある種の拘りを持ち、筋道の通らない金の調達を避けており、秘書軍団にも徹底させていたことが明らかにされている。児玉の如き口と腹が異なる作風を最も軽蔑する人士でもあった。こういうことを勘案すると、角栄の否定にこそ真実があり得る、と私は考えている。 ロッキード社からカネがばら撒かれたことが事実だったとしても、それが誰に渡ったのかまではコーチャンは証言していない。私には、角栄には渡っていない可能性のほうが高いように思われる。後に見るが、現金授受の様子は漫画的且つスリラーもどきであり、当時そのような危ない目をして金を貰う作法は角栄及びその秘書軍団にはなく、仮にそのような受け渡しがあったとしても、意図的に角栄にすりかえられている可能性がある。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第13弾である。 2005.9.3日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その93 | れんだいこ | 2005/09/06 15:33 |
【2005総選挙考】 2005総選挙は、自民圧勝の勢いと報ぜられている。9.4日、大手の各新聞社が一斉にこれを報じている。これが実報か虚報かはさておき(否応無く9.11には明らかになる)、自民の強さ要因を推測してみる。 その第一は、ブッシュー小泉連盟の好軍事性のアキレス腱である「自衛隊のサモアからの即時撤退」を打ち出さないバカさ加減に有る。代わりに、バカの一つ覚えのような政権交替論、郵政については郵便局が無くなる論、年金その他の増税必死論、憲法改正問題に逃げ込んでいることに有る。 れんだいこには、「自衛隊のサモアからの即時撤退」を打ち出さない理由が分からない。これを打ち出さないのには、大政翼賛会化しているか、「自衛隊のイラク派兵」については与野党一致しているからとしか考えられない。 社共は口先で批判するが、この時期に於いて自衛隊撤退を強く打ち出さないということは単なるアリバイ的職業的反対屋でしかなく、裏から小ネズミ・シナリオを支えているように見える。日本左派運動の活性化の為にはこうした社共のエセ運動を退け、真に闘争を組織し得る党派を登場させねばならない。 もう一つ野党非勢の要因が考えられる。小ネズミ首相の手法としてのレイプ政治はここでは問わないとして、彼の打ち出す民営化論法に対して、理論的にも標語的にも太刀打ちできていないことにくすぶりがあるのではなかろうか。要するにオツムで負けているのではなかろうか。小ネズミ・シナリオの裏には電通的な智恵袋が見え隠れしている。この連中が作り出すコマーシャルに野党がこぞって太刀打ちできていない気がする。 曰く、「官から民へ」、「郵政民営化こそ構造改革の関門」、「死んでも構わない。私はこれに命を賭けている」という単純明快分かりやすい論法に対して、各野党のそれはややこしくちまちましたものになっている。むしろ、小ネズミ・シナリオ上で駆け引きしているものだから旗色が悪くなるのも当然だろう。つまり、オツムで負けているように見える。他にも、選挙地盤に対する日頃の扶植活動の差が考えられよう。 この三つの要因が重なって、「自民圧勝の勢い」が生み出されているように思える。こうなると、野党は負けるように負けるように協力している気さえしてくる。民主の政権交替論は本来は値打ちものなのに、繰り出す政策アドバルーンが幻滅を与えている。わざとやっているようにさえ思える。 社共の現指導部は、日本左派運動をあれこれの選択肢の中から議会政治専一主義運動へ流し込んできた責任が有る。それならその責任に応えるのかというと、万年執行部体制を敷き勝っても負けても御身安泰の中で取り組むという無責任さを常態としている。そういういろんな事情が重なりパワーにならない。鳴り物入りの議会闘争がこのテイタラクであり、道理で世の中が右へ右へと靡いてしまう訳である。こういう運動を十年一日の如く垂れ流すのは犯罪的と云えよう。 れんだいこは、この劣性を覆す術を次のように考える。一つは、「自衛隊のサモアからの即時撤退」であり、これによりブッシュー小泉連盟の好軍事性をさらけだす。構造改革を云うのなら、これの是正こそ第一歩にして本筋であることを訴える。過重国債論もこの観点から訴える必要があろう。一体、小ネズミ悪性で国債がどんなに膨張した事か。その要因に軍事傾斜があるのではないのか。 民営化論に対しては、「官から民へ」ではなく「官と民の棲み分け」を訴える。官業が良い場合もあれば民業が良い場合も有る。これは当たり前のことである。中曽根以来の「官から民へ」は実は国家機密解体的外資売り政策であり、国益に何ら合致しない。このことを訴える。 官から民へ、民から官への適正さこそ政治の見識と云うべきであろう。官の事業を民の事業の物差しで計るのは馬鹿げている。これらのことを明らかにして、「小泉改革路線」の虚を撃てば良い。それが出来ないのは、小ネズミ・シナリオに乗っているからにほかならない。 「選挙地盤に対する日頃の扶植活動」については如何ともし難い。選挙になって急に猫なで声されても誰も相手にしないのが当然だろう。自民は理屈を凝らさず、個人、企業、業界、団体、協会への日常的働き掛けに取り組んでいる。それが野党にはできない。せいぜい労組依存ぐらいで後は個人を対象にしている。 それは恐らく日共式個人主義的政治論に汚染されているからであろう。日共論法に追随すると実態に即しないものだから次第に無気力症に陥ってしまう。その無気力症を党中央専制によって引っ張っているのが日共式運動論組織論であるというのにその悪影響に引きずられている。 ろくなもんではないのにそれが通用している。それを痛痒と考える知力が無い。日共はこたびも相変わらず分裂選挙しかけ、唯我独尊的に悦に入っているが犯罪的な役回りをしている。それやこれやで野党の足腰は弱く分裂しており、為に政府与党の権力体制の独走を許している。角栄式ムネオ式議員活動には何らの咎が無くむしろ理に叶った運動をしているのに、これを率先してとっちめることにより、政界全体に一罰百戒式悪影響を与えている。 いわゆる利権論を振りかざしているが、地域から選出される議員が地域の面倒を見るのは当たり前のことである。問題は面倒を見る質であるが、面倒を見ること自体が悪いわけではない。日共利権政治論のウソを誰も衝かない。むしろ、日共の説教を許している。キレイ清潔運動がどの勢力を利しているのか、その先を問うものがいない。 政党も個人と同じで「カネが無いのは首が無い」のと同じである。それを思えば、党派は自律的な運動を推進するためにも、第一に財政を豊かにせねばならない。政党助成金を貰う貰わないには何の意味も無い。要するに如何なる政策を掲げ、如何なる運動力を示し、歴史に如何なる影響を与えたのかが評価の基準とされるべきである。土俵外で、キレイ清潔を競って何の意味があろう。むしろ、財政逼迫が、思わぬところからのヒモ付き政治献金を受けやすくさせる方がより危険であろう。 このことを考えると、政党が個人、企業、団体、業界、協会へ資金無心に働き掛けることに何の罪があろう。問題は、献金のヒモ付き性であり、額の適正化であり、出入りの透明化であろう。この当たり前のことが出来ないように出来ないように「左」から仕掛けられ、野党の足腰を弱めていることに気付かねばならない。日共不破式政治論は意図的にこの道に誘っている気配がある。これをどう粉微塵に砕くか、これも問われている。 結論として云えることは、自公体制を覆すには、政策でも動員力でも資金力でも総じて政治能力において優らねばならないということである。それが出来ない間には本当の意味での政変は起らない。そうは云っても人民大衆は常に賢いから、こたびも素敵な結果を生み出すだろう。政財官学報の五者同盟が体制同盟でブロックしようとも、それをかいくぐるシュートを決めるであろう。しかし、ゴールを決めた瞬間から政治効率をより高める政治を創造せねばならない。それは楽しい道のりになるはずである。 2005.9.6日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その94 | れんだいこ | 2005/09/06 21:40 |
【2005総選挙に於ける日共のイラマカシ考】 2005.9.11総選挙は、稀代の弱脳首相小泉の爬行的裁断により突入した。今自民党内は未曾有の分裂に揺れており、小泉政権イエス派とノー派が血で血を洗う抗争過程に入っている。この時、我が日共の不破ー志位ラインは如何なる選挙戦略戦術に耽っているのか。彼らは選挙後、こたびの事象をも逆風とみなすのだろうか。 その昔、不破は人民的議会主義なる標語を打ち出し、その後の選挙戦略戦術の指針としてきた。その結果は、70年代には登り竜したもののその後一進一退し始め、ここ10年のスパンでは明らかに退潮傾向をみせている。この間、日共は、選挙専一運動に転換しており、選挙及び議会闘争で見るべき成果を生み出さなかったら党的存在根拠は何もない。そう断定してよいほど畸形化した党運動を続けている。 今や、不破式議会主義の功罪を総括せねばなるまい。 今頃になってと云うべきか、日共の小選挙区しただけ立候補による野党内分裂方式の愚行が批判され始めている。もとより野党第一党の民主党が人民大衆的に見てメガネに叶うとは思えない。しかれども、確実に政権交代のチャンスが訪れており、この機会を失するならば逆に自公磐石体制が長期安定的に敷かれることが予想される故に、日共の選挙戦術に関心を持たざるを得ない。 そういう中にあって、2005.9.5日、日共委員長・志位は、日本外国特派員協会で記者会見し、「郵政法案再提出の場合、反対勢力結集目指す。法案に反対するすべての政党に国会共闘を呼びかけたい」と述べたとのことである。 他方、「郵政民営化そのものに反対をつらぬく日本共産党がのびることが、小泉・民営化法案をほうむるうえでも、いちばんたしかな力になることを訴えて、選挙戦で大いに前進を期したい」と強調し、国会共闘との関係で、選挙後の野党の政権共闘の可能性について質問が出されるや、「政権協力の余地はない」と改めて否定したとのことである。 要するに民主党その他野党諸党をイラマカシていることになる。国会共闘の引き出しと、政権協力の余地はない引き出しを交互に操りながら、分裂選挙を仕掛けて独善しつつ辻褄の合わないことを饒舌している。 その志位は党首の面子に賭けて小選挙区で闘うこともせず、南関東ブロックの比例第一位に鎮座し、執行部の責任数値を設けず、「オラが正しい、オラのところが一番」とラッパを吹いている。以上まとめて、そったらバナナな話が有るだろうか。 日共の当選見込みのないしただけ立候補戦術と野党間の分裂選挙の恒常化は、果たして左派運動の戦略戦術からみて適正なのだろうか。その参考になるのがマルクス・エンゲルス共著の「共産主義者の宣言」の示唆であろうと思われるので以下これを検証する。「共産主義者の宣言」の指針と如何にかけ離れているかとくとご照覧あれ。 以下は、「日共不破の人民的議会主義論の犯罪的役割考」(miyamotoron/miyamotoron_hosoku17_gikaisyugico.htm)に記した。 2005.9.6日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その95 | れんだいこ | 2005/09/08 12:05 |
【角栄のこの声を聴け】 1976.5.24日、第77通常国会の衆院本会議が満期終了した。通常国会が延長されずに終わったのは戦後初めてであった。この年の2.4日、ロッキード事件が海の向こうから仕掛けられ、日本政界は大混乱に陥っていた。 れんだいこはちなみに、ロッキード事件とは、児玉ー中曽根ーナベツネ派の悪事を角栄ー小佐野に切り替えて弾劾していった政治謀略であったとみなしている。これに呼応した検察、最高裁、マスコミ、宮顕ー不破系日共の胡散臭き生態をも見据えねばなるまい。 それはさておき、5.25日、角栄は、ホテル・ニューオータニで田中派の国会終了慰労会パーティーを開いた席上で、次のように挨拶している(現代政治研究会「田中角栄 その栄光と挫折」)。 -------------------------------------------------------------- 「きのうをもって、150日の国会会期は終わりました。こうしてグループを組んでいる一座が、一息ついて『一杯飲もう』ということは、長い日本人の伝統で、いい催しで、ここに日本人の良さがあります。 私も戦後30年の国会を見てきましたが、150日で終わった例はあまりない。150日は長いが、それ以上延長するという悪い習慣が、だんだん定着してきました。(国会改革の持論をひとしきり述べた後) こんな顔ぶれが集まったところで、自由にしゃべれないのだったら、民主主義なんぞ、あったもんじゃありません。いろいろ党内には派閥はあるけれど、オープンなのはわが7日会だけである。時と場合によっては、本当のことが言えなければダメであります。 戦後30年、悪い慣例ばかりが残って、自民党が『悪い、悪い』と言われるが、悪いばかりじゃない。何万年という人類の長い歴史の中で、日本は退歩することはないし、人類の流れに停滞をもたらしてはなりません。これが政治の要諦です。 参院選挙は一年前、衆院は6ヶ月前ーそれだけになったら、もう選挙戦は始まったも同然と言われます。これからは、お互いに選挙に当選するために努力しましょうよ。 (ガラッパチ調に一変して)議席を持たないで、どんなに高い理想を持っていても、社会が悪い、制度、環境が悪い、ロッキードが悪いと言っていても始まりません。議席は自らの努力を持って確保するものなり。 いよいよ危なかったら、私を呼んでください。人集め、見世物になるから(云々)。あと、どう集票するかは、諸君自らの力だ。こんな時期にガタガタすることはない。自ら国家の求めに応じて任ぜよーです。そのためには、私は見世物にもなる。 我が派には、西村英一先生、橋本登美三郎専制以下、日本のための政治を推進する自民党の総裁候補はたくさんいる。田中総裁の時は、あまり政治は良くならんかったが、これからは、政治が退歩しないーそんなスタートにしてもらいたい。 私は今日、皆さんに一杯ずつ注いで、黙って帰ろうと思ったが、つい長々としゃべってしまいました。ご健闘を!30年、ここまで努力してきた日本を、退歩させないこと、そのためには諸君が引き続き議席を確保することーその為に頑張ろう」。 -------------------------------------------------------------- (私論.私見) 「この時の角栄スピーチ」について 「この時の角栄スピーチ」も又角栄のらしさが随所に出ている。且つ寸分無駄が無く味わい深い。戦後憲法秩序を尊重し、三権分立下の議会制民主主義を称揚し、政権党による責任政治を引き受けることこそ政治家の本領とする立場からコメントしている。 現在を何万年という人類の長い歴史の流れに於いて捉え、日本の良き伝統をも見据え、「日本は退歩することはないし、人類の流れに停滞をもたらしてはなりません。これが政治の要諦です」と云う。逆に云えば、「戦後30年、ここまで努力してきた日本の今後の退歩」を危惧していることになる。れんだいこには、まことに識見であるように思われる。 田中派を最も自由闊達な議論の許容された派閥であることを誇っている。自由な議論こそが民主主義の要諦基盤であることを指摘し、「時と場合によっては、本当のことが言えなければダメであります」と断じている。 ここから先のコメントはもう不要だろう。思えば、こういう歴史眼と政治能力を持つ角栄を日本政治史上から追放したのがそも間違いであった。あれから30年、日本は角栄が心配した通り、途方も無くダメな国に変質せしめられてしまった。 「改革」という名の下に、ペテン師達によって更に悪い国にさせられようとしている。口先や見せ掛けだけではなく、誰が売国奴シオニスト被れで、誰が愛国愛民族士か見極め、相応しいもてなしをせねばなるまい。 9.11まもなく結果が出る。小ネズミ政権に群がった一族徒党は崖っぷちに追い込まれている。我々の青票で、稀代の愉快犯首相の結末に相応しい愉快なサプライズ・ピリオドが打たれるだろう。れんだいこは今から楽しみにしている。 2005.9.8日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その96 | れんだいこ | 2005/09/09 20:06 |
【説明がつかない話だとは、志位よ、よくも云うてくれたな】 2005.9.8日、共産党の志位委員長は高松市で街頭演説し、民主党のマニフェストを批判し、その勢いで、一部の小選挙区で社民党が民主党と選挙協力していることについて「社民党は護憲というなら、なぜ民主党と選挙協力するのか。これは説明がつかない話だ」と述べたようである。 れんだいこが既に指摘しているように、日共の宮顕ー不破ー志位と繋がる現執行部の悪指導50年の軌跡は、マルクス・エンゲルスが「共産主義者の宣言」の中で指針したものとほぼ凡てにわたって逆行する対応をしてきているところに特質が認められる。 これは偶然ではない。偶然なら何もかも逆対応になるはずが無かろう。疑惑せよ、反共の士が共産党中央の座椅子を占拠し、せねばならぬことを不作為し、してはならないことに興じていると見立てるのがれんだいこ史観であり、今日なお論証に努めている。まだ認知されていないが、必ずやれんだいこ観点が受け入れられる日が来るであろう。 それにしても驚くのは、日共系ならともかくも新左翼系も結構無視してくれるではないか。案外、日共が口先だけ政府自民党批判し、新左翼が口先だけ日共批判し云々という役割分担になっているのかも。本当の左派運動つうのは今何処にもありゃしねぇ。 それはともかく、「社民党は護憲というなら、なぜ民主党と選挙協力するのか。これは説明がつかない話だ」とはよくも云ってくれるではないか。れんだいこが返歌しておく。「共産党は小泉政権反対というなら、なぜ社民党、民主党、造反派と選挙協力しないのか。これは説明がつかない話だ」。 これだけではピンこない向きも有るのでもう少し語ってみる。「日本左派運動は、小泉政権打倒というのなら、国会で現にできることだからして、なぜ反小泉勢力の選挙協力に向けて努力しないのか。分裂選挙していることで自公政権を裏から助けているのではないのか。公明党は自民党と選挙協力しているではないか。野党が分裂状態で選挙に挑めば二乗倍で不利に作用し、それでは勝てる訳が無いではないか。 投票棄権組はそのバカバカしさで出向かないのではないのか。口先だけの反対は、小泉政権の好き勝手をのさばらしているだけではないのか。これらは説明がつかない話だ」。 あぁいよいよ残すところは明日一日。9.11選挙がもたらすものは何か。れんだいこは、日本人民大衆の青票を信じている。きっと素敵なことが起るだろう。 2005.9.9日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その97 | れんだいこ | 2005/09/10 21:10 |
【もう今から泣いても遅い】 いよいよ明日はお待ちかねの9.11総選挙投票日になった。選挙は現代の祭りである。祭りは楽しく興じねばならない。小ネズミ一派は窮鼠猫を噛むで、無い知恵絞りメディア戦略で攻勢かけてきた。それは、女、子供、老人を狙った大衆愚民視政策の為せる技であった。 明日は、不正投開票でもされない限り上手にやったつもりが足元をすくわれ、油でつるつる滑りっぱなしになるであろう。愉快犯首相の愉快な結末を見ることになるであろう。その時の表情こそが見物である。 れんだいこはこたびばかりは、早朝より繰り出して投票に行くつもり。みんなで開票速報見るつもり。小ネズミ派の最大の誤算は、刺客騒動で異常に投票率を上がたことだろう。へいぜい行かない連中がなんで行かなかったのか教え込んでくれるだろう。 とまぁれんだいこ式の予見しとこ。 2005.9.10日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その98 | れんだいこ | 2005/09/12 20:53 |
【2005.9.11選挙戦について】 2005.9.11総選挙が終わった。れんだいこの事前予想は全く外れ、各新聞社の予想が正確ということになった。穴があったら入りたい、貝になりたいとはこのことだ。れんだいこ予想は、参院での郵政法案否決までは当たったが、小泉総辞職が外れ総選挙突入となり、以来狂いっぱなしになった。思えば、選挙となると選挙制度のリアリズム分析から始めなければならなかったのかも知れない。 造反ブームに手踊りし、事態の推移を冷静に分析すべきところを情緒で見始めたようだ。造反派出現による政界地殻変動を期待し過ぎたのだろう。それと、無党派層に対するれんだいこの見立てが狂っているのだろう。選挙に行かないのは与党政治に対する間接的ノンの印しと理解していたので、あるいは若いときはとかく批判派になりがちという先入観を持っており、政権与党乗りの無党派層という新たな世代が出現していることに無自覚すぎた。そういう意味で、政治的リアリズムに立ち返らねばならないと自戒させられる結果となった。 後付け分析によって見えてきたことを記しておく。れんだいこは、小選挙区制の怖さについて改めて教えられた。候補を一本化するという与党自公の戦略戦術こそが理に叶っており、野党が、一人しか当選しないにも拘わらず分立立候補する手法では到底勝てない。互いに足を引っ張り合うだけのことで、これでは永久に勝てないということをまざまざと教えられた。 最大野党民主党の単独政権構想は有り得ない。社共、造反派を相手せずでは結局こたびのようになる。造反派が二党発生したけれども、互いが連携しないようでは結局こたびのようになる。これは普通に算数で分かる話であった。実際には相乗効果というものがあろうから、与党は一本化でより強化され、野党は乱立でより弱くなるという仕掛けになっている。誰かが高等数学で分析すれば、こういう闘い方では政権移動が有り得ない話だと云うことが証明されよう。道理で、政権与党が気前良く党首討論会に臨み、少数政党にも発言の機会を等しく与えるという鷹揚さの意図も分かった。政権与党に取って、野党各党が互いに分裂的に票を分け合うことほど望ましいことは無い訳だ。 れんだいこは、小選挙区制が必ずしも悪いとは思わない。小選挙区制になっても、従来の中選挙区制時の頭で対応しようとしている野党各党の対応が悪いと思っている。いつもの定番では有るが、日共批判をしておきたい。同党・志位委員長の「国会共闘はすれども政権共闘、その為の選挙共闘はしない」という戦略戦術ほど政権与党を有利にさせる手法は無い。「本物の野党」なるコマーシャルで選挙区に分け入り、野党間をかき混ぜているが、悪質と断定すべきではなかろうか。自公のように「小選挙区共闘、比例区分かち合い」まで行かなくても、「小選挙区共闘、比例区競合」という戦術がありそうなところ、それに向わない同党指導部の意図はナヘンにありや。 もっとも、民主党・岡田代表の対応も変調過ぎた。ポーズとしては懸命に闘っているように見受けたが、肝心なところでいつもズッコケていた。最初のズッコケは、参院で郵政民営化法案が否決された時、直ちに内閣不信任決議案をお膳立てしていたところに認められる。あの時点では、内閣総辞職の選択肢も十分に有った訳で、与党内のゴタゴタを引き出すべきだった。あの時、衆院解散をお膳立てする内閣不信任決議案を提出したそのシナリオは誰が作ったのか。そういう訳だから、小泉政権が衆院解散を宣言した時も、違憲の動議を出すことさえなかった。 第二のズッコケは、早々に単独政権論をぶち上げ、刺客騒動に揺れている造反派を見殺しにしたことだった。これは間接的に小泉政権の造反派テロルを追認していたことになろう。本来であれば、互いに提携し、自公戦略戦術の如く「小選挙区共闘、比例区分かち合い」の道があった筈である。そういう機敏な対応をすれば民主党の政権取りブームが生まれる可能性があったところ、その芽を潰した。 第三のズッコケは、「本物の野党」を歌い文句に、立候補しただけ戦術に固執する日共の場合は止むを得ないとしても、社民党との場合には「小選挙区共闘、比例区分かち合い」の道があった筈である。現に選挙後半戦ではそういう動きが自然発生的に生まれていた。願うらくは、選挙前の協議を持つべきではなかったか。そういう機敏な対応により、民主党の政権取りブームが生まれる可能性があったところ、その芽を潰した。 第四のズッコケは、これは民主党の党是に関わってくるが、同党が「自衛隊のサモアからの撤退」を力強く打ち出せなかったところに限界が認められるように思われる。小泉政権との際立つ違いは、この争点によってこそ浮き上がるところこれを争点にせず、何やら小難しい「改革本物論争」に引き込まれ、却って訳の分からない争点ボケ現象が生まれてしまった。 第五のズッコケは、マニュフェストを掲げたものの、郵貯金限度額段階的引き下げ論、年金対策増税論などという、凡そ反発を買うような政策を矢継ぎ早に出すに至っては、何をしているのかといいたくなった。マニュフェスト論争により余計にちまちました論争の道に分け入り、為に小泉首相の郵政民営化一本槍路線、即ち改革を止めるな論への共感の下地を醸成した。 以上、5つの要因で、民主党・岡田代表はわざとではないかとみなしたくもなるような下手な選挙闘争を繰り広げることになった。そして、結果は、ボーダーライン上の競り負けを相次がせることになった。早々と代表辞任を声明する破目となったが致し方ないと云うべきだろう。 他にも考察せねばならないことが有る。最近のヤング世代の政治感覚が分からない。れんだいことはよほどずれている。マスメディアの言論大砲的役割ももっと注意されるべきだ。公正な大衆メディアを創出しない限り今後もヤラレ続けるだろう。天木氏の何の功もない小泉選挙区出馬も理解できない。社共系以外の左派系党派の沈黙と傍観も理解できない。 れんだいこは、よしんば仮に新党を立ち上げるにしても、前途が容易でないことを痛いほど教えられることになった。もはや議会闘争に対する失望を育むべきだろうか。いろんな意味で貴重な示唆の多い選挙結果となった。 2005.9.12日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その99 | れんだいこ | 2005/09/15 12:41 |
【2005第44回衆院選総括】 2005.9.11日、第44回衆院選が行われた。全国300の小選挙区と11ブロックの比例区(総定数180)で投票が行われ、即日開票された。投票率は67.52%(小選挙区が67.51%、比例代表が67.46%)。前回2003総選の59.86%(小選挙区59.86%、比例代表59.81%)を7.66ポイント上回っており、有権者の関心の高さを裏付けた。1996年に小選挙区比例代表並立制が導入されて以降、計4回の衆院選で最高の投票率となった。 衆院選では3回目となる比例代表選挙だけ投票できる在外投票の投票率は25.84%で、前回の15.93%を9.91ポイント上回った。当日有権者数は1億298万5213人。在外投票有権者数を含めると1億306万7957人だった。 小選挙区の男女別投票率は、男性が66.80%(前回比7.12ポイント増)、女性が68.18%(同8.15ポイント増)。都道府県別で投票率が最も高かったのは島根の75.81%で、次いで山形、鳥取の順。最低は沖縄の62.35%で、高知、茨城の順。沖縄は台風15号など悪天候の影響もあったとみられる。 選挙結果の総評は、「政府与党の自公が解散前の246議席から327議席を獲得し、歴史的勝利を収めた」ということになる。300小選挙区の内訳は自民219、民主52、公明8、国民新党2、社民1、無所属18議席、共産党0議席。自民党議席の衆院定数に占める割合は61・7%で、過去2番目に高かった。比例代表では、全国11ブロック合計で自民党は77議席を獲得、比例第一党となった。これに対し民主党は前回の72議席から61議席に後退した。公明は前回議席を確保できず23議席。共産は横ばい、社民はおこぼれの1議席増だった。 これを各党ごとに分析する。 自民党は、各地で地滑り的勝利を収め、単独での絶対安定多数(269議席)を上回る296議席を獲得した。目標責任数値としていた自公での独過半数(241議席)どころか、定数の3分の2となる320議席を超える327議席を占めるという空前の大勝利となった。自民党が衆院で単独過半数(241議席)を回復したのは15年ぶりで、中曽根内閣時の86年衆参同日選挙での300議席(定数512)に次ぐ記録となった。小選挙区比例代表並立制が導入された96年以降4回の衆院選では初めての事態である。 小選挙区の都市部で軒並み議席を奪還した。特に、東京、埼玉、千葉、神奈川4都県の小選挙区71のうち63対5と民主党に圧勝し圧倒的な強さをみせた。東京では25選挙区中23で自民党候補が当選しており、比例東京ブロックでは名簿登載候補全員が当選し、復活当選させる候補者が不足する異例の事態となった。さらに1議席を確保する得票だったが、登載候補がいないため、公職選挙法の規定で社民党に議席が回った。 小選挙区での自民と民主の議席数は219対52で、直接対決した280選挙区では214対52と4倍以上の差をつけた。自民党は都道府県庁所在地があり、無党派層が多いとみられる「1区」で32対13と大きく勝ち越した。前回は民主党に26対19と7議席差に迫られたが、今回は東京や静岡、滋賀、佐賀などで取り返した。自民は青森、群馬、栃木、石川、島根、愛媛など13県で小選挙区を独占した。 公明党は、小選挙区候補を前職9人に絞る守りの選挙に徹したが、沖縄1区で敗れ、公示前の34議席を維持でず31議席を獲得の3議席減となった。手堅く候補を絞り込み全員当選方式で完勝してきた経緯から見ると限界値が見えてきたとも云え、今後の自公体制の成り行きが注目される。 前自民党議員らが結成した国民新党は、小選挙区の綿貫民輔代表(富山3区)と亀井静香氏(広島6区)のほか、比例北信越、中国両ブロックでも議席を獲得した。新党日本は近畿ブロックで議席を得た。新党大地は、鈴木宗男氏(新党大地)が比例北海道ブロックで当選した。 郵政「反対組」27名のうち、15名が当選。国民新党の綿貫民輔氏(富山3区)、亀井静香氏(広島6区)、無所属の野呂田芳成氏(秋田2区)、野田聖子氏(岐阜1区)、平沼赳夫氏(岡山3区)、保利耕輔氏(佐賀3区)らが勝った。自民党は小池環境相(東京10区)、片山さつき氏(静岡7区)、西川京子氏(福岡10区)ら13名が勝った。 恐るべきは、自民党系無所属及び造反派政党及び大地党を含めると与党で350議席を越す結果となった。民主党のうち自民党系譜のものを含めると全480議席中の450議席に至ると思われ、戦後60年を経て遂に「国策政治」が完了したことになる。 これを逆に云うと、日本左派運動は、街頭闘争を封じ込まれ、団体闘争を空洞化させ、議会闘争でも全くの無力に追い込まれ、総じて破産させられたことになろう。「2005.9.11総選挙」は、このことを象徴する選挙となったように思われる。 民主党は、政権取りを目指して闘ったが、解散時勢力(175議席)から議席を大幅に減らし(64議席減)、113議席にとどまった。96年の結党以来、国政選挙ごとに議席を伸ばしてきた同党としては、初めて議席を減らす結果となった。政権取り構想は大きく後退し、浪速の夢と消えた。 民主党は政権交代を目指したが、「牙城」だったはずの首都圏の小選挙区が総崩れとなり、東京(25選挙区)で1議席、神奈川(18選挙区)でゼロ、千葉(13選挙区)で1議席、大阪(19選挙区)で2議席となるなど、東京、埼玉、千葉、神奈川の4都県での獲得議席数が前回の36から5に激減。小選挙区全体で前回の105議席から52議席に半減させた。比例代表では前回、自民党を3議席上回る72議席で「比例第1党」となったが、今回は61議席にとどまった。藤井裕久党代表代行らが落選した。 敗北を受けて民主党の岡田克也代表は12日未明、記者会見で「私は民主党代表を辞職する。すみやかに次のリーダーを選定してほしい」と代表辞任を正式に表明した。後任の代表選びが難航する可能性もあり、正念場を迎えている。 共産党は、公示前の9議席を確保し、公示前勢力を維持した。志位執行部は、自公、民主が責任数値を明らかにして選挙戦に臨んだが、その作法を踏まぬまま「本物の野党」を打ち出して闘った。別途考察するが、こたびの選挙結果に対して、「ジリ貧を踏み止めた実質上の勝利」なる珍見解を披瀝している。 社民党は、沖縄2区で小選挙区唯一の議席を維持したほか、秘書給与詐取事件で議員辞職した辻元清美氏が比例近畿ブロックで当選するなど、公示前の5議席を上回る7議席を得た。実質フロックの1議席増で僅かに上向いた。比例区に単独立候補した社民党の土井たか子元衆院議長は落選した。福島執行部も、責任数値を明らかにせぬまま選挙に臨み、護憲政党色を打ち出して闘った。選挙結果に対して、「比例選挙区では前回得票数を20%上回る約360万票を獲得」なる善戦見解を披瀝している。 さて、かように分析できるが、我々はどう受け止めるべきだろうか。れんだいこは、日本左派運動の合法的壊死と見立てる。今回の与党圧勝は、日共、社民の党中央声明に明らかな如く、こたびのような結果に対しても「善戦」的総括しか為し得ない無茶苦茶な指導部の裏協力によって可能になったと考える。 左からかように体制翼賛運動を組織する指導部が鎮座する限り、日本左派運動は永久にうだつが上がらないだろう。議会闘争は、政府与党のオールマイティーを演出する為の合法的芝居として今後も演じ続けられるだけであろう。 ならば、我々は如何に対処すべきか。政治情勢の窮迫化を歓迎する左派運動もあるだろう。だがしかし、れんだいこは、あれもやりなはれそれもやりなはれで何らおかしくないと観る。闘争の道を一本に絞ることは右からのそれであれ左からのそれであれ胡散臭いと観る。故に、共同戦線理論で下から盛り上げる戦略戦術に基づく日本左派運動のルネサンス的再建に着手する絶好機会と観る。戦後60年の緩慢運動でスッテンテンになったと認識し、「一からの出直し」に向かえ。これが手向けの言葉となる。 2005.9.15日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その100 | れんだいこ | 2005/09/15 17:12 |
【日共の2005第44回衆院選総括考】 日共は、「総選挙の結果について(2005年9月12日 日本共産党中央委員会常任幹部会)」(http://www.jcp.or.jp/giin/senkyo/2005_syuin/20050912_com.html)を発表した。これを歴史的文書として転載しておき、コメントつけておく。 れんだいこは、こたびの日共の選挙総括ほど「らしさ」を如実に示している文書はないと考え、これを永久保存しておくことにする。日本左派運動の盛り上げに対する真性の敵対者としての姿を確認することができよう。しかも、史実から何も学ぼうとせず、反革命言辞を平然と連ねているところに重症を見て取れよう。 こたびの選挙戦は、政府与党自公が旧与党系無所属、旧与党系造反派政党も含めれば480議席中の350議席を越す歴史的圧勝という結果になった。民主党も又自民党出自を過半とすることを考えれば、自民党系が480議席中の450議席を越すのではなかろうかと推定し得る。 この事態に対して痛苦に受け止めるべきところ、日共は何とノー天気にも手前の党の議席数の増減だけを問題にし、現状維持だった結果を踏まえ「善戦・健闘」などと総括している。実際には、改選前の9議席維持、比例代表選挙で得票率減、得票数増という誇るほどのものではないにも拘わらず、政治情勢全般の配慮なき党利党略のみの総括で事勿れしている。執行部延命の為の口実づくり的総括でしかないかような総括をして恥じない日共党中央の醜態が白日の下に晒されている。 こたびのように自民党内が大揺れに揺れ、政権与党が背水の陣から始まった選挙でさえ、「"小泉突風”がふきすさぶ難しい条件のもとでのたたかいでした」と云う。一体、どういう条件が揃えば、この党中央にとって順風なのだろうか。甘えるのもエエカゲンにして欲しい。この歪んだ観点はナヘンから生まれるのだろう。正気ではない。 更に、「今の政治にはたしかな野党が必要です」と訴えたことを自画自賛し、「政権交代を呼号した民主党が議席を大きく失うなかで、得票を増やし現有議席を確保したことは、この間の国政選挙での連続的な後退を押し返したものであり、今後の本格的な前進を築くうえで重要な土台となるものだと考えます」との見解を披瀝している。見よ!聞け!この総括を。 政権与党自公をどう切り崩したのかではなく、「自民党は多くの議席を獲得しました」と客観論評しており、それに対して野党最大の民主党が「議席を大きく失う」ことに好転的関心を披瀝している。小選挙区制下で引き続き野党分裂選挙を仕掛ける従来戦術を是として、「どんな激動の情勢でも、主体的にきりひらく実力をもつ党を築くため、大運動の成功に全力を尽くす決意です」で結んでいる。 マルクス・エンゲルスが「共産主義者の宣言」で指針させた概要「党利党略を排して階級情勢全体の左傾化の為に粉骨砕身努力せよ」という姿勢は微塵もなく、我が党の成長こそが全て式独善主義を再指針させている。この間判明しているようにその分裂選挙手法により、結果が政府与党をいくら利そうと我関せずの見地を披瀝している。 容易に透けて見えてくることであるが、表から公明党が、裏から日共が体制安泰を支えていることになる。表見的な対立に幻惑されて日共をそれなりの左派とみなして支持する者も依然多いが、もう食傷すべきではなかろうか。 日共の現下の執行部の反革命戦略戦術が続く限り、この仕掛けから抜けださない限り日本左派運動の進展は無い。そこまで云うかと怯む向きもあろうが、戦前戦後の党運動を検証してきたれんだいこの観点では、明らかに異分子が闖入していると断定する。彼らは驚くことに根っからの反共主義者ですらある。決して単なる凡庸という問題ではない。この観点を共有したい。 れんだいこがこの間指摘し続けているように、現下日共党中央は体制が送り込んだスパイ系列によって支配されている。宮顕を見よ! 「敗北の文学」で文壇デビューしたものの日本左派運動に貢献したものは何も無い。むしろ逆に、左からの鎮圧者として悪行の限りをしてきた御仁でしかない。「戦前党中央委員小畑査問致死事件」の実相を知れ。 不破を見よ! 「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」の実相を知れ。かの時の不破は明らかに挙動が変調である。その後奇しくも宮顕に登用されたが、不破は宮顕路線を忠実に敷設し、その悪行は大衆運動、団体運動の盛り上がりに水を差し続け、議会専一運動に流し込んできただけであり、その結果がこたびのような政府自民党派の究極の圧勝を呼び水したきただけの口舌詐欺師でしかない。志位の「東大院生支部の宮顕勇退勧告鎮圧事件」の実相を知れ。志位は宮顕ー不破系列の小判でしかない。 よりによって宮顕も不破も志位も大衆運動を成功裏に指導した経験が何一つ無いという書斎派系の指導者である。共産党という思想、主義、運動に於いては有り得てならない現象ではなかろうか。このことが疑われていないがもっと疑惑せねばならない。その論調も長大饒舌、すり替え、詭弁、偽造、歪曲話法に満ち満ちた悪文を特徴としている。左からいつも絶えず体制にとって人畜無害の恭順論法と社会主義への幻滅を説き続けている。れんだいこは、近時の青年の保守化に過半の責任が有ると思っている。 この連中が党中央を占拠し続ける限り日本左派運動は如何ともし難い。そういう意味で、れんだいこは、日共反革命と断乎として闘い抜くことを改めて決意する。「2005.9.11総選挙の地平」を見据え、日本左派運動の一からの出直しに着手しよう。小手先改良策では如何ともし難い、これがこたびの選挙戦の教訓である。 2005.9.13日 れんだいこ拝 「2005.9.11総選挙の選挙結果の総評」(senkyo_syugiin_result2005co.htm) |
Re:れんだいこのカンテラ時評その101 | れんだいこ | 2005/09/16 19:25 |
【自民も民主も外資系選挙請負PR会社に広報委託考】 こたびの選挙戦が何と、自民も民主も外資系選挙請負PR会社に広報委託していた事実が漏洩されている。自民も民主も連中がが作成した選挙シナリオに基づいて選挙戦を演出していたことになる。これを仮に「外資の二大政党コントロール事件」と命名することにする。 日本を代表する二大政党がこぞって外資の頭脳に身を委ねており、国政選挙も又操作されているというのだから、これは本来スクープであろう。が、日本政界はこういう事実を知らされても無痛のようで何とも傷ましい。これは由々しき事態であるのでノートしておく。 思えば、こたびの選挙戦の数々の場面で違和感を感じるものがあり、れんだいこのアンテナが作動していた。そのことには十分な根拠があったということになる。こたびの選挙戦は劇場型と云われたが、まさに作られた芝居を見ているようなな気がしてならなかった。彼らの想定通りに、政治おぼこの「女、子供、老人、ヤング」が狙われ、うまく操られたのではなかったか。 憲法にはこういうことの規制はないから憲法違反にはならないのかも知れない。しかし、規定が無いということは想定外ということであり、それだけ事態が異常という風に受け止めるべきではなかろうか。この国の右翼よ、君達は何とも感じないのか。米英ユにはダンマリで北朝鮮と中国とロシアに対してのみキャンキャン云うばかりの右翼でしかないのか。 れんだいこは、国と民族と人々を愛する沽券にかけて、「外資の政党コントロール禁止法案」を提起する。民主党の新代表が誰になるにせよ、その最初の仕事は、このぶち上げから始まらねばならない。これができないような代表ならツマラン。しかし、岡田も胡散臭い奴であることよ。常識外である。小泉の場合は想定済みで、身も心もとろけているので云わん。何か似たような臭いがしてならなかったがそういうことか。 こたびの選挙では、苦戦する筈のあるいは小泉政権立ち往生必死と見えたのが、蓋を開けてみれば史上空前の小泉政権完勝に終わった要因は何か。一体どのような手品が仕掛けられていたのか。思いつくままに追想してみる。 衆院で郵政民営化法案が可決されるも造反派が出現し、5票差の際どい通過となった。造反派には綿貫、亀井、平沼という自民党実力者が含まれており、自民党内の内ゲバが開始された。小泉政権は参院採決に当たり問答無用の締め付けを開始した。それにも拘わらず造反組が更に増え、同法案は参院で否決された。 小泉政権は窮地に陥り、内閣総辞職が点灯した。遮二無二衆院解散に打って出ようとしたが、云うところの首相専権論は違憲の恐れが強い。この時、民主が、助け舟とも思われる内閣不信任決議案を提出している。これは誰がシナリオしたのか。外資系選挙請負PR会社の悪智恵がそうさせたと思えばよい。あまり問題にされていないが、れんだいこは拘りたい。 民主の内閣不信任決議案提出が衆院解散了承の合図となり、小泉首相は提出された内閣不信任決議案を審議することもなく勇躍解散に踏み切った。案の定、異議の動議も出されなかった。小泉首相は最大のピンチの山を越えた。小泉首相は、衆院解散をぶち上げるや、執行部信任の責任数値を表明した。民主の岡田代表も同じく責任数値を発表した。これにより、一挙に選挙戦モードへ突入した。この流れに外資系選挙請負PR会社の仕掛けがあったと想定すれば良い。 こうして、後は、次第に小泉ブームが演出されていくことになる。小泉首相派は、ワンフレーズ型の分かりやすいコマーシャルをぶち上げ、殺されても良い、断乎として改革に邁進するとの首相の美談決意が流されていく。対して、岡田代表の方は煮え切らないモードで放映される。偶然ではなく故意に変調だった気がする。反対派への刺客送り込みが始まり、ニュース番組とワイドショーが面白おかしく取り上げていく。新聞・テレビ・雑誌メディアが総動員され、多数の御用評論家が登場し始める。殆どが、刺客に対する好意的報道、造反派に対する批判報道に終始し、小泉政権の暴挙が隠蔽される。 この時の岡田の対応もナンセンスであった。単独政権論をぶち上げたが、それは造反派見殺しを示唆していた。続いて、郵貯限度額の段階的引き下げ政策を発表する。民営化推進か反対かについてもロジックの切れが悪く、この時点で、民主への国民的期待は色褪せていった。こうして小泉側の攻勢が更に強まった。 岡田は、劣勢挽回とばかりに二党首討論を呼びかけ、マニュフェスト論争が始まり、各党党首討論会へと移行する。記者団質問は、小泉首相の弁明を長めに上手く引き出し、岡田の弁明は野党間の足の引っ張り合いによりかすむ。これも仕掛けられた罠であったような気がしてならない。もとより岡田自身の変調がそうさせた面もあろう。 地方県連と党本部の対立が報ぜられるが、地方県連のほうが悪代官にされる。各社新聞が一斉に世論調査を発表し、小泉ムードと与党圧勝気運の盛り上げを企む。海外からの小泉首相べた褒め提灯記事が報道され、「海外の意見」に弱い世論が大きく小泉信任に傾く。新聞とテレビが数次にわたって世論調査を発表し、勝ち馬ブームを演出する等々。こうして、「史上空前の小泉政権完勝劇」が完結した。 それでも日本人民は賢いと信じたれんだいこは甘かった。してやられた。このクツゾコは晴らさで済むものかは。唯一救いは、何が幸いするか祟りかは後でないと分からないということか。 この劇を裏方で企画進行させたのが外資系選挙請負PR会社であり、自民党側がプラップジャパン、民主党側がフライシュマン・ヒラード・ジャパンであった、と云う。プラップジャパンとフライシュマン・ヒラード・ジャパンが真に対決したのならまだしも、裏でつるんでいたならどうなるか。それと、そういう外資系選挙請負PR会社が議員個人の身上調査を引き受け、下半身行状録は無論のこと生殺与奪権を握ったらどうなるのか。政治の機密事項が全て筒抜けになったらどうなるのか。 ここで冷静に考えてみよう。政党が自前の選挙対応能力を持たず、外注するなどという事態が許されることだろうか。しかも外資系選挙請負PR会社などに。それは恐らく例のユダヤ系だろう。その外資系選挙請負PR会社がCIAと有無通じているとしたらどういうことになるのだ。 今や世は民営化ブームで、軍隊の民営化として民間警備会社が登場している。「各国での選挙介入と政権操作」を専門にしてきたCIAの民営化が外資系選挙請負PR会社だとしたらどうなるのか。 「長周新聞」は「民意を表さない自民圧勝、衆院選・アメリカの選挙介入、メディアと選挙会社の選挙」(http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/miniwoarawasanaijiminaltusyou.htm)の中で次のように記している。 「『各国での選挙介入と政権操作』は、アメリカ(というよりユダヤ)の得意わざだ。ウクライナ大統領選も『勝つまでジャンケン』をやった。親ロシア的な候補がとおったら『選挙違反』と騒いで、反乱を起こさせ、勝手に臨時政府をでっち上げる。そしてアメリカが『経済制裁する』と脅して、選挙をやり直させ親米政府をつくった。グルジアやリトアニアやセルビアなどでも同じ調子だ」。 こういう事実が漏洩されても、今や我が政界は馬耳東風の如くある。れんだいこは、民営化論の行き着く先を見た思いがする。民営化とは、恐らくユダヤ系外資であろうその頭脳が日本を調理する一連の政策を云うのだろう。そのお先棒を担いで、シナリオ通りに弁舌をよく為しえる者が勝ち上がり生き延びていく社会づくりなのだろう。 (補足) プラップジャパン(http://www.prap.co.jp/)は、在日米国商工会議所に所属する選挙PR会社で、独立系のPR会社としては国内最大規模を誇っている。マスコミへの情報提供を行う「コミュニケーション・サービス」、広報に係わるクリエイティブな活動を行う「クリエイティブ・サービス」、企業トップのマスコミ対応法や危機管理法をアドバイスする「トレーニング・サービス」等々を行っている。2005.1月、自民党と契約を結んだ。2005.7月にジャスダックに上場。 自民党が電通のような広告会社ではなく、PRを専門とする企業を使うのは初めて。当然、外資系の選挙請負PR会社に外注するのも初めて。自民党が同社の起用を決めたのは、03年の衆院選、04年の参院選で、民主党の攻勢にあって期待した結果を残せなかった反省から、「プロの知恵を借りたい」(党幹部)という理由から外資頭脳の活用に踏み切った。 同社は、「立党50年プロジェクト」、「候補者公募」などのほか、党内のさまざまな広報活動を請負い、影の指南役を務めている。 民主党は、自民党より早く外資系選挙請負PR会社に外注している。フライシュマン・ヒラード・ジャパン(http://www.fleishman.co.jp/)と提携し、同社は既に過去2度の選挙で民主党の躍進を支えた実績を持つ。世論調査などマーケティング手法を取り入れたメディア戦略がうまいとの評判を得ており、04年参院選で岡田克也代表の“頑固さ”を売り出したのも同社の手法だった。岡田代表のテレビ出演では、限られた時間内で収まるメッセージをつくり、併せて話し方も指導。化粧もするというきめ細かさだ。「党が決めた方針を具体的なカタチにするのが彼らの仕事。キャッチフレーズやコピーなどイメージづくりに長けている」(民主党関係者)、とある。 2005.9.16日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その102 | れんだいこ | 2005/09/20 20:23 |
【中内功追悼】 2005.9.19日、戦後の流通王と云われたダイエーの創業者・中内功・氏が逝去した(享年83歳)。れんだいこは、政治の田中角栄、経済界の中内功に同じような匂いを嗅ぎ取る。もう一人徳田球一を挙げても良い。三人とも、戦後日本の再建に精出し、類稀な実力を見せ、その間愛嬌振りまき国民的人気を博し、世界に乗り出して渡り合える人士でありながら晩年不遇となり潰えた。 徳球は1950年のレッド・パージで中国への逃亡を余儀なくされ、まもなくその地で客死した。角栄は、1974年の金脈追求、1976年のロッキード事件で虎バサミに挟まれ、政治活動を封殺された。中内功は、1990年代のバブル経済の崩壊と共に、それまでの積極経営が裏目に出始め、経営責任を問われ最後には身包み剥がれた。 自称知識人たちが揃ってこの三人を極悪非道人の如く云う。れんだいこが、徳球を持ち上げれば何を馬鹿なと云い、角栄を持ち上げれば不快を見せ、中内功を持ち上げれば不満する。では聞くが、この3人のどこが間違っているのだ。これほど世のため人のために奮闘努力したというのに。己の見解を述べよとれんだいこが迫れば、どうせありきたりの批判しかできゃしない。要するに誘導されているだけのことでしかない。 本当はれんだいこの評の方が真っ当なのではなかろうか。下手に勉強するから本末転倒してそれも分からず、単に小難しく言っているだけのことではなかろうか。安上がりの生議論ほど聞いて退屈なことは無い。 れんだいこが、なぜこの3人を高く評価するのか。それは、この三人が戦後の憲法秩序を踏まえつつ、戦後国是の内治主義の指針に従って精力的に働き、名指導ぶりを見せ、飛びぬけて能力を花開かせたからである。その果実は国民が味わった。それを評価せず、逆に悪批判して溜飲下げるとは。漬ける薬が無いとはこのことを云うのだろう。 問題は次のところに有る。れんだいこが好評するこの三人に対する悪批判という点で、政府与党の親シオニズム系タカ派も、同様マスコミも、社共も、特に日共系の徳球批判、角栄批判はヒドイ。この点で、彼らはあたかも共同戦線張っている感がある。連中は、もっと大きな仕掛けに誘導されているのではないかという視点を持たない。中にはエージェントとして確信犯的に意図的に割り切っている者も居るだろうが。 彼らは、日本を悪い方向へミスリードしている。戦後国是の内治主義を閉塞させ、公共事業を停止させ、必要な事業まで切り捨てさせ、その一方で軍事防衛予算にはたっぷり金をつぎ込ませ、自衛隊を地球の裏まで派遣させ、戦闘に参加させようとしており、更なる人民大衆課税に勤しみ、ブッシュ派の要請するまま巨額の金を吸い取られ続け、それを構造改革だと称している。 嫌な時代になりつつある。中内功よ、れんだいこにはあなたの悲劇が分かる。あなたの景気変動観では日本経済はいつかは持ち直し、積極経営が正解という結果になるという見立てがあったのだろう。本来ならそうなる筈だ。しかし、それは、吉田ー池田ー(佐藤)ー角栄ー大平ー善幸らの戦後ハト派が政局運営していたらの話だ。何とか処方箋を見出し、景気回復させていただろう。 しかしだ、タカ派の連中の経済政策を見よ。日本経済には中小零細が多過ぎ、これを淘汰するのが経済政策という観点から施策し続けている。「景気回復」政策も、今や世界を牛耳る国際金融資本のシナリオに委ねての対策だからロクなもんができやしない。英国でのサッチャーブームの後に残ったのが、外資の累々とした英国企業乗っ取りであったように、使えそうな日本企業が安たたき売りされている。 れんだいこには、意図的に政策不況が作られているような気がしてならない。ダイエーもその企業の一つとして狙われた。このヘビに睨まれたらもう為すすべは無かろう。外堀を埋められ内堀が埋められ、城門が開かれ、解体と模様替えに勤しんでいるのが昨今だ。西武もやられ、堤も二の舞にされつつある。妙なもんで、岡田のジャスコは隆々している。ヨーカドーはどうなるか知らん、勢いが落ち始めたようだ。米の自給率ではあれほどキャンキャン騒いだのに、大衆の消費生活と直結している流通店舗が怪しげになりつつあるというのに危険が叫ばれない。小ネズミ政府はそれを促進せしめている。 この国は死んだのかも知れない。それがはっきりするのはもう少し先だろうが。中内の死は、戦後内治主義の時代が完全に終わったという、最後の象徴的シグナルかも知れない。とりあえずご苦労さんお疲れ様よくやった、と声かけてやりたい。 2005.9.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その103 | れんだいこ | 2005/09/23 12:57 |
【首相指名選挙で見えたことー与野党実数考】 2005.9.21日の首相指名選挙で与野党の実数が判明した。次のような表になる。「2005.9.11総選挙結果」(senkyo_syugiin_result2005co.htm) 衆院 参院 合計 小泉 340 134 474 綿貫 6 3 9 前原 114 84 198 志位 9 9 18 福島 7 6 13 徳田 1 0 1 無効 2 0 2 合計 479 236 715 これによると、「自公」は「衆院340、参院134、合計474」。これに民主党の前原派を合わせた総計が親シオニズムとみなせられ、先の民主党総裁選での前原票が194のうち96票、管が94票(首相指名選挙では、無所属からの前原票が4票入っている)であったことを踏まえると、自公+民主前原派の親シオニズム勢力は、最小値でも「474+96=570」。 これに対し、憲法護持派はどうだろう。最大値は、「共産18+社民13+民主管派94+綿貫派9=134」。つまり、「570対134」となり、親シオニズム勢力の議席占有率は、715分の570で約79%。護憲派は715分の134で約18%。憲法改正に必要な3分の2は66%だから、親シオニズム勢力の79%は、必要数値を大きく上回っていることになる。 なお、民主管派94のうちの半数47が条件付改憲派であるとみなせば、「570+47=617」で議席占有率は実に86%になる。つまり今や、親シオニズム派はやろうと思えば何でもやれる局面を得ていることになる。 これが、旧社共が善戦総括した2005.9.11総選挙の舞台裏の仕掛けである。日本人民大衆は、失望せよ。怒れ。それを通り越して新たな左派運動を創造せよ。思えば、日本左派運動の決定的な欠陥は、軍師を持たないことにあるのではなかろうか。評論インテリの烏合の衆と云わた通りに動く肉体派の合作でしかなく、闘争につきものの戦略戦術に対してあまりにおぼこなのではなかろうか。 加えて、れんだいこが指摘しているように、旧社会党も共産党も労組もその上層部は本質体制派で、日共の場合は生粋のスパイ派によって党中央が占拠され続けている。このスパイ派は昔は特高奥の院と気脈通じていたが、今では何と親シオニズムの一員となっている。野坂ー不破理論はその典型である。これについては別途論証していく予定である。 この貧困を如何にせんか、今それが問われている。軍師を出でよ。その前に少なくとも自律的なメディア空間を立ち上げねばならない。今や多チャンネル時代である。党派及びリベラル市民運動は、一刻も早く自前の放送局を持つ必要があろう。これをさせない規制の網を打ち破れ。ジャーナル精神の灯があるうちに。れんだいこはそう思う。 朝から昼から晩まで愚民化テレビに漬けられているので、テレビ病者の頭の中がヤラレテシマッテイル。今や、テレビを見ない運動まで視野に入れねばならない。しかし既に習慣化されているのでどこかのチャンネルに合わさねばならない。こうなると、それに足りるチャンネルがいるということになるだろう。早く、よりましな政権さ拵(こしら)えて少しはましなメディアに触れてみたい。 2005.9.23日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その104 | れんだいこ | 2005/09/27 19:47 |
【「筆坂失脚事件」考】 20003.6.23日、突如「筆坂失脚事件」が報ぜられた。この時日共は、第7回中央委員会総会を開いており、30数年ぶりの新綱領採択問題で緊迫した遣り取りが為されているものと思われていたが、何と23日の閉会の席上発表されたのは「筆坂氏の常任幹部会委員ポスト解任決定」であった。 筆坂は、以降、例の党規約により沈黙を余儀なくされた。ところが、次第に我慢できなくなったようで、2005.7.7日、離党届を提出し、常任幹部会で承認された。党幹部が「除名処分」を受けた事例は故野坂参三名誉議長など過去に3件あるが、幹部経験者が自ら離党したケースは「前例がない」(党関係者)とされる。 その筆坂が、2005.9.29日号の週刊新潮に「日本共産党への弔辞」と題する小論を寄稿している。早速日共は、赤旗に「『週刊新潮』編集部の質問と日本共産党広報部の回答」、「『週刊新潮』での筆坂秀世氏の一文について」(日本共産党中央委員会広報部)を発表し、反論しているが中身がお粗末極まりない。 本来、「筆坂失脚事件」は考察するに値するほどの事件ではないのだが、日共の相変わらずの詭弁が満展開しており、例によって丸め込まれている向きも有るので、れんだいこが叩いておく。 サイトとして「筆坂失脚事件考」(nikkyonofuhaico_fudesakaziken.htm) に記した。お読みくだされ。 2005.9.27日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その105 | れんだいこ | 2005/10/04 08:07 |
【「時代閉塞」考】 ryoさんちわぁ。こちらに振ります。 > 多分、小泉とブッシュのうらに同じアドバイザーがいたとしても不思議はないですね。 れんだいこは、この辺りをかなり凝視しております。歴史には表に出る人と黒子役とがいて、黒子役の方を見ないと理解できない。学者はいるけれども、その人の器量によって、表に出る人の分析で満足する人と、黒子役ないしは黒子事情の解析に向かわずには居られない人と二種類あるように思われます。本当は、いつの時代でも後者の分析が必要と思うのだけれども。 > 小泉は一つの社会の病状で、これを超えることが、新しい時代の幕開けになると思います。 社会はいろんな気質の人から成り立っていて、要はどういタイプの人が上に立ち権力握っているかで時代の特質が見えてくると思っております。今は「小泉的時代」なのでせう。かっては、そういうサイコパス手法は頭を押さえられており、「君は何をバカなことを云っているのだ」と一喝されておしまいだったのが、今は囃されて大手を振り始めている。明らかに時代の質が変わったと思っております。 > 新しい価値はまず、様々な歴史をみなおして、新たな歴史観でとらえ直すことも必要ですが、その際いかに歴史修正主義の罠にはまらないかが大切だとおもいます。また新たな倫理が必要ですが、その際原理主義にはまらないようなことが必要だとおもいます。そういう意味で、マルクスの歴史観を捨てるのでなく見直すことや、対謝のような基準は将来性があると思います。 了解です。但し、少し訂正させていただきたいことは、「歴史修正主義の罠」についてです。れんだいこは、「歴史再検証主義」の立場に立っております。「歴史修正主義」については分かりませんが、「歴史再検証主義」の立場は必要と思っております。なぜなら、今の史学と史観がそもそも「悪しく修正されている」からです。この修正を訂正し、その「罠」から抜け出さないとより能く闘う観点が生まれてこない、エセ運動に堕してしまう、と考えております。 れんだいこはそういう意味でやはり「常識」は疑われるべきで、「歴史再検証」と新史観を産み出す必要があると考えております。特に、ネオ・シオニズム(これはれんだいこの造語です。ネオコンというのではピンとこない。ネオ・シオニズムと見るべきだと考えるに至りました)の思考汚染と対決せねばならない、と考えております。 この立場に立つ時、最近の著作権ばやりが邪魔になります。学会、マスコミは無論のこと政党までもが知識の囲い込みと高塀により創造力が生まれないように工夫しているように思えます。ネオ・シオニズム系がこれまた著作権にはうるさいのでその悪影響かも知れません。公明党と共産党が特に熱心なのはお笑いです。 諸子百家による争鳴こそが進歩発展の土壌でせうが、彼らは恐らく意図的にそれをできにくくしております。滑稽なことは、その影響受けてか己の創作物でもないものに対してまで著作権を適用する動きがあります。連中は、過去の史上人物の言説にとどまらずネット掲示板の発言にまで適用させようとしております。それを是認する人が多いときている。そういう時代になったのでせうか。れんだいこは何をタワケタコトヲと一蹴しておりますが、劣勢です。 気難し系とサイコパス系が連合して、世の中をどんどん悪くしている気がしております。昔からこの手の連中に権力取らせるとろくなことをしない。だから歴史を学ぶとは、気難し系とサイコパス系連合の頭を如何にして押さえ込むかにある訳だけれども、ひとたび連中に権力握らせると追い出すのが難しい。この閉塞を如何に打開するのか、ここが問われているのだと思っております。 2005.10.4日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その106 | れんだいこ | 2005/10/04 20:49 |
【「ホロコースト展」考】 ryoさん皆さんちわぁ。こちらに振ります。何せ、れんだいこのカンテラ時評がぶりがついてしまってbP06になっしまいました。どこまで続くのか分かりませんが、れんだいこらしい誰憚る事のない観点からのコメントを打ち出し続けたいと思います。 2005.10.4日、東奥日報が、「弘前でホロコースト展開幕」(http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2005/1004/nto1004_16.asp)なる記事を掲載している。それによると、ホロコースト展巡回展実行委員会主催、東奥日報社など後援の「勇気の証言−アンネ・フランクとホロコースト展」で、次のように説明されています。 「同展は、第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人などに行ったホロコースト(大量虐殺)の事実を伝え、悲劇を二度と繰り返さないために1994年から始まった全国巡回展。弘前は64会場目で、県内では初開催となる」。 「証言写真約二百枚を配したパネルや毒ガス缶、囚人服などから歴史的事実を伝えているほか、アンネ・フランク姉妹の直筆の手紙などを展示、アンネの生活と当時の状況を紹介している」。 れんだいこは、「勇気の証言−アンネ・フランクとホロコースト展」そのものに異議は唱えない。問題は、現下の逆ホロコースト状況がパレスチナからイラクへ至る中近東地帯で行われていることに対する告発展もせねばならないだろうに、こちらはどういう訳か取り組まれていないことにある。仮にやろうとすると、例の「ユダヤ人人権擁護団体(略称SWC)」辺りからの抗議でやれない。 こういう状況の中で「勇気の証言−アンネ・フランクとホロコースト展」が続けられていくことに不快を覚えるのはれんだいこだけだろうか。こう意見表明することは左派失格なのだろうか。れんだいこもマルクスにならって次の言葉で締め括ろう。 “汝の道を進め、そして人々をして語るにまかせよ! Segui il tuo corso,e lascia dir le genti! ” (原典は、ダンテの「神曲の浄化編第五曲。マルクスの資本論第1版序文の末尾) 2005.10.4日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その107 | れんだいこ | 2005/10/05 20:46 |
【「ロッキード事件に果たした皇室のミスリード」考】 「2005.9.11総選挙」は小泉新党圧勝となり、大敗北を喫した民主党は小泉新党寄りの前原ー鳩山ラインを新執行部に選んだ。民主党の内紛必至で今後が危うい。もはや政局は、小泉新党+民主党+公明党で何でもできることになった。自衛隊のイラク派兵の長期固定化、むしろ増強。組織犯罪取締法等に於ける共謀罪の新設、大衆課税強化。これからいろいろやってくれるだろう。首を短くして待っておこ。 れんだいこは、現代政治の局面分析を暫く放棄し、こういう政治になった転回点たるロッキード事件について更なる関心を寄せようと思う。ここのネジレを打開しないと闘おうにも闘えないと思うから。日本サヨ運動は今でも角栄糾弾闘争を誇りにしている。その非、そのウソを暴いていこうと思う。なかなかこれが通用しないんだけれども、漬ける薬がないものだろうか。 そういう時、平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」(講談社、2004.4.10日初版)を手にした。れんだいこは、「ロッキード事件に果たした皇室のミスリード」と題してサイトアップした。kakuei/rokiido_koshitunoicoco.htm 昭和天皇が戦前のみならず戦後に於いてもかなり自身の嗜好を政局に反映させようとしていた形跡が見えてくる。れんだいこは、対象天皇論をサイトアップしている。daitoasenso/daitoasensootou_taisyotennoco.htm それによって見えてくるのは、昭和天皇は根っからの政治好きな面である。大正天皇は、戦争よりも内治主義を好み、その気風が政局に影響を与え大正デモクラシーを生んだ、と思える気配がある。平成天皇は、こちらの大正天皇に近い。してみれば、昭和天皇は、独特の個性を放っていたことになる。 それはともかく、小泉の暴政を止めるには何をすれば良いのだろう。国民の半分はまだ酔わされている。中国、韓国、北朝鮮には意気軒昂だが、イスラエル籍には弱いらしい。マスコミも及び腰で、当て逃げされたというのにいつものようには取り上げない。それが訝られない。もっとも、れんだいこはテレビを見ないのでそうではないかという推測だが、恐らく当たっているだろう。 2005.10.5日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その108 | れんだいこ | 2005/10/07 21:59 |
【著作権硬派読売新聞のマジさを哂う】 2005.10.7日、読売新聞社説は、「[情報の価値]この『見出し』はタダですか?」なる愚見を載せている。(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20051006ig91.htm) この御仁に云わせれば、情報には価値があり、「知財高裁が、見出しの財産権を認め、賠償を命じる判決を出した」ことがよほどうれしいらしい。あらぬことを口走っている。これを解析する。 「ネットを通じて、さまざまな情報が広がって行くことは望ましい。だからこそ読売新聞は、ネット向けのニュース配信にも力を入れている。通常の利用なら全く問題はない。十分に活用してほしい。そこから多彩な意見が生まれ、人と人のつながりができ、その結果、社会が豊かになればいい」。 ここまでは良い。続いて次のように云う。「だが、残念なことに、ネットには、風聞や誹謗(ひぼう)中傷があふれている。だからこそ確かな情報を伝える努力をしたい。そこにタダ乗りした商売でトラブルが起きれば、見出しを発信した側の責任も問われかねない」。 オイオイ。「タダ乗りした商売でトラブルが起きれば」つうけど、「見出し」如きでどういうトラブルが起きるつうだよ。 「今回の訴訟で、読売新聞は見出し一般の著作権も主張した。これは認められなかったが、どこまで権利が守られるか、一定の歯止めは示された。見出しは、記事の飾りではない。新聞ではなおのこと、ネットでも、確かな情報への道しるべ、と見てほしい」だと。 本人は至ってマジに云っている気がするが、いわゆる「短語」にまで著作権適用当然論を述べている。ならばれんだいこが聞こう。おぬしの論法では当然、流行歌の題名も保護されてしかるべきだわな。こうなるとみんな逸早く商標登録つうのか何つうのか知らんが権利主張しておけ。 「りんご恋しや」と登録しておけば、勝手にりんごを使うなとか恋しや使うなとかいちゃもんつけられらぁ。人の名前も皆登録しておけ。となるとだな、その風潮華やかなる宴の後は、みんなもうものも云えず手話で話し出すしかなかろう、極端な話がだけど。もうじき文字のみならず口語にも著作権がやってきそうだから云っておく。 しかしこういう新聞社ばかりだと、偶然似た題名つけてもいちゃもんつけられようから、見出しも本文もルールさえ守れば引用転載リンクもオーケーつう新聞作らんと狭くるしうて叶わぬ。 この社説書いた論説員はまず率先して、言葉を作った祖先を探り当てよ。思えば我々はいたるところで無償の愛のお陰を蒙っている。新聞社の情報力をもってすればそれぐらいはできよう。で、その子孫のところへ行って、ひたすら感謝申し上げつつタダ乗りしてごめんよぐらいは云わんとあかん。バチが当たるぞな、都合が良すぎるがな。 れんだいこなら、「[情報の価値]この『見出し』はタダですか?」なんて云わん。「この『見出し』お気に入りましたら広めてください」云うわな。口コミ記事コミしてくれるつうことは認められているということだがな。度重なれば、購読してみようかないう気持ちにもなるがな。それでええがな。なんにも難しう云うことあらへんがな。 嫌な時代なったなぁ。話代わるけど、れんだいこの左往来人生学院のトップページにこれを書き加えた。 「この萎えた時代をあきらめず本当の話をしようや。仕事でもなんでもとにかくは造反有理こそ生きてるつうことやないか。何や最近はイエスマンの手合いが多過ぎるがな。ものたりんがな」。 気に入ったら使ってな。 2005.10.7日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その109 | れんだいこ | 2005/10/09 09:55 |
【ネオ・シオニズムのプロパガンダ考】 ryoさんちわぁ。こちらに振ります。 > この事件は、田中の日本自主路線、自主外交路線を危惧する米国の何かの組織が田中をはめた。 そうでせうね。それに国内での角栄派の台頭を危惧していた守旧派が乗り、日米両権力の合作で万力攻めしていったのでせうね。 >そして、そのころから、小泉と米国とが結びついてきたという流れで、理解しているのですがどうでしょう。 中曽根がその構図を敷き、小泉が悪乗りしている感じですね、れんだいこ的には。 >小泉=米国の組織は、その後田中をはめたのとどうように、次々に政敵に嫌疑をかけ、現在の地位に昇ったと思っています。小泉は地位を得、米国は日本を得る。どうでしょうか。 その通りでせうね。興味深いことは、かってイエスは「悪魔の囁き」を拒否したところから福音を宣べ始めております。大昔から「出世と引き換えの精神売り」があるのではないでせうか。小泉に限らず、米国帰りの連中は皆この手合いの気がしますね。民主の鳩山、岡田、前原、その他若手の右派も皆この類の気がしております。今や「政官財学報問わず」で蔓延しておりますね。 > なおこの前の件との関係で、イスラエルの逆ホロコーストという考えには賛成です。というか、ホロコースト的なもの進歩の歴史への逆行などではなくて、国民国家的なものの成立過程で、規模の大小はあれ、論理的にいって、起きてしまうものだと私は思っています。 そうでせうね。付言すれば、れんだいこ観点に拠るとナチスによるホロコーストはかなりうそ臭い。戦後60年でこういうことが明らかにされつつあるように思います。逆ホロコーストは現に進行しております。パレスチナ、アフガン、イラクで起っていることは酷い酷すぎる。ところが、こちらの方の告発が弱い。なんなんでせうね。 こう考えると、テロリズムや無慈悲なる虐殺はむしろネオ・シオニストの専売手口で、それもかなり大昔から続いているのではないかと。それを逆に描いてプロパガンダしているのではという気がしております。 だから、このプロパガンダを歴史的真実と受け止めて常識化させると本当の歴史の流れが見えてこないのではないか、それにも拘わらずこのプロパガンダに乗って正義ぶる輩が多過ぎるというか圧倒的で、れんだいこは貝にならざるを得ません。 もう一つ付け加えると、最近の極端な著作権化の流れは、ネオ・シオニストのプロパガンダを真実と思い込ませ、逆の見解を押さえ込むために用意されつつある気がしております。読売辺りつまりナベツネがこれを先導して扇動していることから見えてくることですが。原子力史もよく似ております。そういう背景を見ずに、著作権を強硬に主張して正義ぶる手合いが多い。今はこの観点を精査中です。 2005.10.9日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その110 | れんだいこ | 2005/10/10 15:48 |
【ネオ・シオニズムの「ホロコースト・プロパガンダ」考】 「ホロコーストの史的真実」を廻って、「ガス室論争」はかなり為されている。ところが「死体焼却論争」はあまりお目にかかれない。そういう中で、木村愛二氏の季刊誌「真相の深層春号」の「ホロコーストは真実か、虚構か?」(イラク共産党カーデル派のヌーリー・ムラーディー氏著、斎藤力二郎氏訳)が貴重な見解を披瀝している。これを検証する。 イラク共産党カーデル派とは、現在イラク暫定政権に参加しているイラク共産党とは袂を分かつ別党である。各国各地の共産党は日共もそうであるが、今やネオ・シオニズムに取り込まれている。イラク共産党カーデル派は、そういう仕掛けを拒否して反占領姿勢を鮮明にしている良質な党である。そのイデオローグであるムラーディー博士は次のように云う。 ヒットラーが600万人のユダヤ人をガス炉で焼却したというこの事件が起きた時期は、第二次世界大戦(1939ー1945年)の最初の3年間とされている。このような大規模で恐るべき犯罪行為は、以下どちかの可能性がなければ起こりえなかったであろう。 1、どのような形にせよ、世界中がこの犯罪行為に加担したか。 2、加担者の誰かがこの物語を創作し、これを事実として世界中に宣伝したか。 どちらかである。どちらの可能性がより高いのであろうか? ムラーディー博士はこのように問いかけ、「ホロコーストの各要素を見てみよう」と述べて、概要以下のように主張している。(れんだいこ風に意訳している) 1 焼却炉 これが当該焼却炉だとされているガス炉を実際に目にすれば、600万人もの人々をとても焼ききれない代物でしかない。 2 焼却灰 600万人を焼いたとされるならその灰も厖大な量になる。その灰はどこに行ったのだ。なぜ消え去ったのだ? 3 殺戮の手段 ヒットラーはなぜ、手間と費用のかかる殺戮方法を選んだのか。人間一人を毒殺し灰にするには2キロのプロパンガスが必要であり、600万人ともなると1万2千トンが必要になる。当時の局面にあって非常に貴重な燃料の使い方としても問題がある。爆発事故の報告例も無い。 4 人口 戦前戦後のユダヤ人の人口統計上、戦前(1939年)1600万人、戦後(1946年)1800万人と発表されている。むしろ200万人増えていることになるが、600万人を失ってなお200万人増える増殖の仕組みが解せない。 5 600万人 600万人はむしろ戦禍で蒙ったドイツ人の人口数である。ひょつとしてすりかえられているのではないのか。 6 全欧州のユダヤ人人口 当時の全欧州のユダヤ人人口は200万人と推定されている。そのうちナチスの支配下に置かれていたのは水増ししても20万人を超えない。如何にして600万人ものユダヤ人を調達しえたのか。 7 ヤルタ会談 テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談で、ユダヤ人の600万人虐殺は話し合われていない。なぜ、この時、ナチスの犯罪を暴かなかったのか。世界に訴えなかったのか。 8 イスラエル イスラエルへの移住は100年間に300万人である。ヒトラーは、3年間に600万人を集めたというがそれこそ不思議極まる。 以上のような疑問から、次のように結論している。概要「ネオ・シオニストはメディアを握っており、ホロコースト物語を作り上げた。それは、彼らの信奉する旧約聖書の記述により発想されている。歴史的史実とは関係なく、悲劇のユダヤを作り上げることで他民族抹殺の権利を得ようとする宗派的プロパガンダでしかない」。 (れんだいこの私論.私見) れんだいこは思う。ムラーディー氏の検証にはなかなか説得力がある。れんだいこもホロコースト物語のウソにうすうす気づき始めているが、新観点で補強されたことになる。未だに尻馬に乗り正義ぶる手合いが後を絶たないので貝にならざるを得ないが、いずれ決着付けねばならない。 戦後左派運動は、新旧左翼を問わずその反戦平和運動理論を再検証すべきではないのか。「作られた常識」なら覆さねばなるまい。こういう理論的営為をおろそかにしてはなるまい。 2005.10.10日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その111 | れんだいこ | 2005/10/13 18:48 |
【「日共の2005.9.11総選挙総括」考】
2005.10.10日、日共は党本部で第4回中央委員会総会を開き、2005.9.11総選挙の総括を行った。「第4回中央委員会総会 志位委員長の幹部会報告」及び「志位委員長の結語」、日本共産党中央委員会書記局の「第4回中央委員会総会について」が発表された。 日共は、こたびの選挙戦で「改選前の9議席を確保し、比例代表選挙で、前回よりも得票率を若干減らしたものの得票を33万票のばし492万票を獲得した」。この結果は、ここのところの選挙のたびごとの後退により、捲土重来呼号を余儀なくされていた党中央にとって、こたびは現状維持故に安堵することが出来たということを物語っている。よって、「確かな野党」路線に手ごたえがあった、「善戦健闘」と評価した。 これが、憲法改正をも可能にする「小泉与党の歴史的大勝利」を受けての日共党中央の選挙総括である。かような総括をして恥じない日共党中央を疑惑せよ。問題は次のことにある。れんだいこが3論文を読んで見て、何ら為すべき総括が為されていない。ダラダラと無内容な駄弁を弄しているだけに過ぎない。一体、この痴態をどう評すればよいのだろうか。 れんだいこは、次のように断罪する。日共の議会闘争とは、自民党内のタカ派とハト派の混交に対し、この間一貫してハト派に厳しく、タカ派に是々非々路線を採っていることに特質が認められる。ロッキード事件を通してハト派が脳震盪を見舞われて以来のタカ派系政権の下での政局に対してその政権の長期安定政権化に手を貸し続けている。ここに、日共の議会闘争の特質がある。 こたびの「確かな野党」路線による野党内分裂選挙方式もこの流れで見れば見えてくる。それは明らかにネオ・シオニズムに言いなりのバター犬小泉政権の長期安定政権化に手を貸している。公明党が露骨に表から、日共、社民が巧妙に裏から支えている。 政権交代を唱える最大野党民主党がこれまた胡散臭い。選挙後の前原代表選出過程から分かることは、この党も明らかにネオ・シオニズムに篭絡されている。これが現下政界の実相である。この本質をはぐらかす為に、各党は手前都合の自己讃美を売り出している。日共の「本物の野党論」も一皮向けばこの手のものである。公明党との犬猿関係も実は意図的に作り出され操作されているものでしかない。根は深いところで繋がっている。 こういう構図が分からないままに各党の「手前都合の自己讃美キャンペーン」に踊らされる者は政治おぼこである。何事も経験だから政治に関わること自体が悪いとは思わない。一定の冷静沈着さで政界に関わるのがよろしい、と老婆心で申し上げておく。 こういう状況を思えば、今喫急に要請されているのは、「大きな政府より小さな政府」と云うのなら、まずは議員定数を大幅に縮小して、我が身の手本から示せ。既に国費の冗費でしかない。然る後、高級官僚の高給天下りを規制し、公務員を削減せよ。れんだいこが見るところ、比例議員は半減されるべし。 ついでに「日共党中央問題」に言及しておく。宮顕にせよ不破にせよ志位にせよ、日共党中央の駄弁に付き合うのはエエカゲンにしたいのだが、「戦前以来の不屈の伝統を持つ庶民の味方の正統政党」というコマーシャルに騙されている向きの者も多いので、そのウソを告発しておく。 れんだいこが見るところ、「戦前以来の不屈の伝統を持つ庶民の味方の正統政党」なる言が通用するとするなら、それは戦後直後から5年間ほどの期間を指導した徳球ー伊藤律系党中央時代においてのみである。 しかし、徳球ー伊藤律系党中央は、朝鮮動乱前夜レッド・パージより公職追放され、中共を頼って出向き北京機関を作ったものの、国際共産主義運動の要請であった武装闘争を余儀なくされた挙句ことごとく失墜し、その権威は地に落ちた。未だに旧左翼、新左翼の双方から悪し様に云われているが、功罪併せて見直されるべきであろう。 その党中央の後釜として宮廷クーデター方式で党中央に登壇してきたのが現下の指導部であり、徳球ー伊藤律系党中央の党旗を正式に継承をしたものではない。そういう訳で、現下党中央は、そのエポックとなった1955年の六全協前後の経緯を未だに整合的に語れないという負の歴史を抱え込んでいる。党創立記念日の不破講話はいつもここで途切れ、はぐらかしている。 それもその筈で、六全協で誕生した野坂ー宮顕系党中央とは稀代の戦前来のスパイグループであり、戦前も党中央を解体させた履歴を見せている。この連中が再び党中央権力を握ったのが、1955年の六全協である。以後の彼らの所業を見よ。戦闘的左翼の立ち上がりを挫き、何の役にも立たない人畜無害の党にさせる為にのみ没頭してきた。 不破、志位は、この系譜から生まれているからして云うこと為すこと同様である。この連中に、日本左派運動の前進の為の何らかのものを期待すること自体が馬鹿げていよう。こたびの選挙総括もこの流れの中で行われている。連中が党中央の座椅子を占拠し続ける為の弁論であって、左派運動にとってどうあるべきか、何を為すべきかを問う意思なぞ端からない。 彼らは、日本左派運動に対し愚民教育を強いている。故に、日本左派運動史は愚か手前たちの党史さえ学ばせない。ネット上のホームページを見よ、戦前来の党と云うならその歩みを概略しておくべきところ何も語っていない。手前味噌の党史論を作成しているが、まさに手前味噌であるがゆえに歪曲、改竄、すり替えのオンパレードであり、読むに堪えない代物でしかない。下手な学ぶとますますバカになること、れんだいこが請け負う。我々は、そういう実態を知っておくべきだろう。 ケッタイなことにというべきか、この現象は何も日共だけのものでもない。社民党も同じである。党史で云えば何と、自民党が最も精緻に歴代の政権を跡付けてサイトアップしている。うそと思うなら確認して見よ。自民党はハト派とタカ派の混交政党であるがゆえに史観は一致していないが、書き付けているだけでも大したものである。それに比べれば、公明党の党史も物足りないがそこそこには記している。民主のそれは社民、共産のそれよりはマシだがお粗末極まりない。 今我々はそういう肌寒い仕掛けの中に生きている。この状況を悪し様に云う時節はもう終わっている。我々は今何を生み出さねばならないのか、この段階に至っている。今日の国会質疑を少し窺った。れんだいこは、国会にもはや何も期待するものがない。しかと衝くべきところを衝かず、おべんちゃらと皮肉を云うぐらいのもので政治を漫談ものにし合っている。食傷とはこういうことを云うのだろう。 2005.10.14日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その112 | れんだいこ | 2005/10/14 21:33 |
【サイコパス愉快犯にしてバター犬の小ネズミはんの次の狙いは共謀罪創設だと】 郵政民営化法案は衆参両院で可決され法律となった。次に、サイコパス愉快犯にしてバター犬の小ネズミはんの次の狙いは共謀罪創設だと。それにしてもタフだなこの御仁は。 他方で、「確かな野党」が引き続き議席の増減で勝った負けたとはしゃいでくれよう。れんだいこはかれこれ30年間ゲームをみさせられている。その間ますますネオ・シオニストどもがはびこり、世の中をままにしつつある。「確かな野党」ぐらいは朝飯前で引き続き上手に飼ってくれよう。れんだいこはそういう構図を見飽きた。だがしかし、これにどう立ち向かうか。いかんせん全く貧困で無力だ。 いつも云うが、第一次ブントのあの国会包囲闘争は凄かった。日本左派運動史上の金字塔となっている。あの運動が組織できない。その大きな理由は、左派圏内の分裂というよりも、ハト派が清掃されていることにあるのではなかろうか。思うに、ハト派がおればこそ50年、60年、70年代の急進主義派の街頭闘争も許容されていたんだな。大きな構図で見ればそういうことになる。 そのハト派がほぼ壊滅的状況に陥ったことで、あらゆるところで強権支配が始まり、日本左派運動は何もできない。そういう風に理解すべきではなかろうか。ルネサンスの気風が全くますます細りつつある。これは、れんだいこならでは見えてくることであるかも知れない。つまり、ネオ・シオニストの頭脳にやられているんだな。連中はン千年のノウハウを持っているからして、赤子のてひねりのようなものなんだろう。 共謀罪が成立すると、卑近な造反派潰しの例で分かるように目ぼしい左派は徹底的にシラミツブシでやられることになるのだろうな。れんだいこも今から腹を据えておこ。自分のことは構やしないけど、21世紀がこういう世の中になるとはね。 2005.10.14日 れんだいこ拝 |
Re:加藤寛と「慶応社中」 | れんだいこ | 2005/10/15 09:15 |
ryoさんちわぁ。加藤寛についてどこに書き付けておいたのか分からなくなりました。教えてください。少し前に「私の履歴書」に載りましたが、読んでみて自ら冒頭に記している通り友人の言のウツケ呼ばわりが正確だと思いました。 加藤寛の政界指南役ぶりは丁度、ロッキード事件で角栄派がやられた頃から始まっております。ということは、あの事件を境に人材登用のレールが変わったということだと思います。この傾向はますます強まり、今はチルドレン全盛時代になっております。その又チルドレンが最近の国会大量進出組になるようです。連中の共通項は、日本の歴史を知らなさ過ぎることにあります。コスモポリタン気取っておりますが、彼らが師事するユダヤの民自身が世界一熱心なナショナリストだということを思えば滑稽なことです。 「慶応社中」の分析もせねばなりませんね。地方の卑近な例についてならまだしも、中央政界でのネオ・シオニズムの先兵役は許せません。それというのも、福沢諭吉が西洋事情の肝心なところを見抜けなかったところに遠因があるように思います。日清、日露戦争推進の旗を振り、戦争への道を煽ったのも胡散臭い。 小沢、橋龍、小泉を比較しておりますが、くだらない評論でした。この手合いが民営化と消費税と教育改革を唱えて主導しているのでろくなことになりゃしない。別レールの人材登用の道を産み出さないと、日本は溶ける。れんだいこが心配してもどうにもなりませんが、この予想は当たっているだけにいじましい。 |
Re:近頃なにやら変な逮捕が多過ぎる | れんだいこ | 2005/10/16 17:29 |
ryoさんちわぁ。れんだいこは植草氏の所論に就いて知りません。メディアが伝えた事件がでっち上げかどうかも分かりません。 > 私は、植草氏のことは良く知らなかったのですが、あの事件は小泉が(たぶん米国の情報網を使って)目の上のたんこぶにスキャンダルを起こすいつもの手だったので、逆に、植草氏の主張はかなり意味があるのだろうと気がついた次第です。 同感です。植草氏は主流同調派アナリストではなかったのでせうね。ご時世を危惧しており、そういう発信していたのが睨まれたのでせうね。ということは、今テレビに出ている連中はというと、なんだかんだ云っても皆主流同調派故にお呼びが掛かっているということになるのでせう。 れんだいこは思う。連中の性根は治らないのであれこれ云っても仕方が無い。我々が我々の我々の為のメディアを作れがいい。今れんだいこのお気に入りは、木村愛二氏の「真相の深層」と「阿修羅」です。こういう空間がますます広まれば良いのだけれど。 これが本当の規制緩和なんでせうが、こっちの方はますます厳しくなりつつあるようです。「紙の爆弾」の鹿砦社の松岡氏は不当逮捕されております。共謀罪も上程され審議に入っております。21世紀がこういう風な世の中になるとは、予想を超えております。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その112 | れんだいこ | 2005/10/18 20:04 |
【「価格: ¥945 (税込)氏」考】
「アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘)」(ティル・バスティアン (著), 石田 勇治 (編集)他、白水Uブックス)の紹介のされ方を見て一言したくなった。仮に「価格: ¥945 (税込) 」氏(以下、「価格氏」と云う)とすると、「価格」氏の紹介の仕方には不愉快なものがある。なぜなら、紹介者は自身のハンドルネームを記しておらず、つまり主体抜きの書物の紹介の仕方そのものが怪文書染みていることにある。 更に、とかく論争の多い事柄に関しての参考文献の紹介に於いて、主体者「価格」氏が注釈をつけているのは良いとしても、単に本の権威を利用して論証抜きの感想を書き付けているだけてあり、その作法がいただけない。 れんだいこは、文書紹介のルールとマナーとして、ハンドル名と書評ないしは注釈を為すことが欠かせないと思う。書評ないしは注釈はあまり長すぎずほどほどが良い。短い文でも良い。これが無いと、どういう意味で読ませようとしているのかが分からない。無言の明示と云うのもあろうが、不親切には違いない。次に、書評ないしは注釈を為すにしても、ほどほどには公正で無ければならない。単に結論だけならまだしも、公正そうに装って結論を一方的に書き付けるのは卑怯姑息だろう。れんだいこはそう思う。 これに伴う記憶を蘇らせる。れんだいこがピークから一年遅れとなった1970年に東京へ出向き、探せど見当たらなくなった全共闘に寂しさを覚えつつも縁あって民青系自治会活動に取り組んでいた頃のことであるが、マルクス主義教本の理解を廻って、あるいは現状分析を廻って、あるいは闘争方針を廻っていろいろ論争しあった時、決まって持ち出されたのが「お前、深まっていないなぁ」だった。 それを云われるのは辛かった。なぜなら、感性一つで疑問を覚えているだけのことであったから、僅か数冊程度しか読み終えていないれんだいこはひるまざるを得なかったからである。その自称「深まっている」連中が、これ読めよと示唆したのが宮顕の「日本革命の展望」だった。 民青系全学連の機関紙「祖国と学問の為に」はいつ読んでも腹の足しにならなかった。赤旗読んでも長大饒舌玉虫色見解文に辟易させられるだけのことだった。日共系のは何を読んでも詰まらなかった。論理が繋がっておらずしっくりしなかった。 れんだいこは当時20歳の頃のことだからして、我が身の社会経験の少なさが疑問を生んでいるのだろうと内向させ、疑問を持ち出して議論することを途中から止めた。そうこうしているうち仁義面での肌合いの違いを感じ、自治会活動を止めサークルへ潜った。今となっては、この時多少本を読んだことが為になっている。そうこうしているうち新日和見事件が起こったが、党員でなかったれんだいこには関わりが無かった。しかし、結局はこの頃嫌気が差して活動を止めた。 やがて卒業しいわゆる社会人になった。20代、30代、40代は政治を忘れた。50代手前の頃から政治の虫が持ち上がり始めた。恐らく、結局は人は、二十歳代の頃の脳形成が一番性に合っているのだろう。一度は捨てた政治への思いを復活させた。手始めは、長年の疑問だった日共運動の妥当性検証であった。当時、自称「深まっている」連中が推賞した宮顕、その著書「日本革命の展望」から検証していった。 今れんだいこが云える事は、自称「深まっている」連中が実は少しも深まっておらず、むしろ感性と頭が悪すぎる故に宮顕の「日本革命の展望」を推賞したに違いないということである。れんだいこは今や、あの時と比べて社会的経験も積んでおり、もうこれ以上世の中に揉まれてもさほど得るものはなさそうなところまできている。だから、かってのようにひるむ必要は無い。 今れんだいこは、あの頃覚えたれんだいこの感性の良さを感じ取っている。あんなインチキでまやかしで二枚舌マルチ舌の運動なぞに付き合えるものか、と憤然として思う。そして、ネオ・シオニズムに虜にされたエセ運動を冷ややかに見ている。不破の最新著作「私の戦後60年」を一瞥している。 もとへ。こたびの「価格」氏の「アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘)」の紹介の仕方に、かっての「お前、深まっていないなぁ」を感じてしまった。実際には、何が云いたいのかは分からないが、恐らくそう云いたいのだろう。 くだんの書物は、ホロコーストに疑問を持つ者及びその見解に対する批判本のようである。ホロコースト疑問派の見解を列挙し、というかしただけで、本当にそうかどうかも分からないのに「これらは、数々の歴史家、研究者によって、すでに何度も何度も何度も反論・論破されつくしています」と結論させて、「リビジョニストたちは、どんな明確な証拠にも、どんな合理的な反論にも、決して耳を貸そうとしません。間違いを指摘されると平気で話をそらして煙に巻く、卑怯な人々です」と云いきる。 オイオイ、「どんな明確な証拠にも、どんな合理的な反論にも、決して耳を貸そうとしません。間違いを指摘されると平気で話をそらして煙に巻く、卑怯な人々です」とは、マジでリビジョニストたちかよ。お前たちの方ではないのか。 何なら今、「阿修羅」に「ホロコースト版」が出来ている。疑問派ないしは否定派のオーソロティー西岡氏と木村氏が待ち受けている。そこで議論バトルすれば良いではないか。なぜ出向かないのだ。まさかそういうサイトかがあるのを知らぬ訳ではあるまい。 れんだいこが知る限り、「否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだと述べています。私はこの意見に賛成です」なる珍妙な論法を振り回して議論を避けているのは、ホロコースト史実派の方ではないのか。 「 無知は罪ではありませんが、無知ゆえに罪を犯してしまうことはあります。それを防ぐためにはただ一つ、正しい知識を身につけること。この本はそのための格好の入門書となってくれることでしょう」と云うが、お気に入りの見解ばかりを求めていくら書物を読んでも、それだけでは無知は治癒しない。むしろ反対弁論の方にも通じねばならない。その上で、各自が己の能力によって見解を磨けば良い。とかく喧騒な分野に於ける学問的とは、そういう態度のことを云うのではなかろうか。 「 ただし、あくまで基本図書であり入門図書であるために、すでにホロコーストについて基本的な知識をお持ちの方にはやや物足りなく感じられる部分はあるかもしれません。さらに深く知りたい方は、ぜひ他の本を手にとってみられることをお薦めいたします」など示唆されるのは、むしろ気持ち悪い。 物足りなく感じるのなら、物足りるような本を求めればよい。生み出せばよい。あるいは自分で纏めればよい。あるいは、物足りなさの原因をもっと深く探ればよい。 親切そうな示唆で人を煙に巻くのは良くない。れんだいこが畏敬する木村氏が常々指摘しているのは、「ニセの友は公然の敵よりたちが悪い」ということである。れんだいこもそう思う。 定番のオチになるが、宮顕ー不破系日共運動がまさにその種のニセの友運動である。これに連れられると脳がスポイルされて体がスポンジになってしまう。所帯は小さくても良い。方針が正しければそれが次第に大きくなるのだ。ニセの友運動はいくらやっても積み木崩しになるだけのことである。戦後60年、ニセの友運動ばかりだから、左派運動が少しも進展しない。 経済的に裕福なうちはまだしも、これが長期低落、破産したら、そこから立ち上がる能力を持たねばならないのに、ヒラメの目式脳軟化運動ばかりさせられていたらそういう元気も出まい。 それはそうと、小ネズミ首相のやり方が、あの排除の論理は日共特有のそれですねぇ。党中央の云うこと聞かなければ支部廃止だと。マスコミがこれまた当然論でお調子こくから始末が悪い。金王朝批判してるけど、本当に資格があるんかいなぁ。日本は益々政治が劣悪愚昧化している。小ネズミのあの靖国参拝みたかや。まったく、こそこそ小ネズミらしい。行くなら行く、行かぬならいかぬでしゃんとせぇ。 2005.10.18日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その113 | れんだいこ | 2005/10/19 17:13 |
【「靖国神社のそもそもの創建に疑義あり」】 靖国訴訟得の「 準備書面(原告ら第5回)」(http://www1.odn.ne.jp/hyakuman-chbaich/yasukuni-siryou/genkoku-jyunbi-syomen-05.html)に次のような記述がある。 国家神道は,基本的には神社神道と宮中祭祀を結合させることによって成立したが、これだけでは十分でないとして、神権天皇制確立の目的の下に新たな宗教施設を幾つも創設した。靖国神社もこれら一群の「創建神社」のひとつである。わが国古来の伝統としてはなかったものを,近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである。(引用以上) 「準備書面(原告ら第5回)」の「靖国神社もこれら一群の創建神社のひとつである。わが国古来の伝統としてはなかったものを,近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものであることが留意さるべきである」の指摘は正しい。但し、「わが国古来の伝統としてはなかった云々」で何をどう理解すべきか、ここが肝心である。 れんだいこは、「近代天皇制がその特殊な目的から作り出したものである」的理解は、半面の真実を伝えているだけのように思う。もう一つ重要なことがあるのではないのか。それは、「神道と仏教の歴史的棲み分け」に於いて、神道が概ね生前の行事に関わる面を受け持ち、仏教が概ね死後に関わる面を受け持ってきた一千年来のしきたりに対して、靖国神社はこのしきたりを壊してはいないだろうか。 つまり、靖国神社は、神道をして死後の世界を受け持たせるという新たな職掌に関与させたのではなかろうか。これは一種の「宗教界に於けるクーデター」ではなかったか。そのことがある故に、靖国神社は、まずは招魂社として結社されたのではないのか。それを政治利用するために、靖国神社化させられたのではなかったか。 これの是非論が為されて然るべきであるが、これまでさほど問題にされていない。れんだいこは、靖国神社に対し、神道をして死後の世界へ関与させた「いわば掟破り」の珍しい事例を認める。それは、是とみなされるべきことではないように思われる。むしろ、生前祝祭に関与し続けてきた神道イデオロギーの質の高さを踏みにじっている、つまり神道を冒涜している、とさえ見立てる。 靖国神社の存立的基盤の危うさがここに認められるのではなかろうか。この基盤の危うさ故に、靖国神社は創建時より政治権力の庇護に依拠せざるを得ないのではなかろうか。ここに結社として自立し得ない靖国神社のアキレス腱がある。靖国神社考に於けるこの面での考察が欠けているように思われる。 もっとも、ならば仏教側が靖国的寺院建立に向えるのかというとこれもそれなりに難がある。死後の世界を職掌するとはいえ、例えば宗派の壁を乗り越えられない。仏教的反戦平和思想と唱和し得ない。政治権力の直接的支配下に立つ事の是非等々。 つまり、政府主導による御霊祭は本来は、神道によっても仏教に拠っても難がある。それを無理矢理に国家神道形式で始発させたところに靖国神社の特質がある。俗に云う、無理筋の気配が濃厚である。 もし、それでも現実が靖国神社を必要とするというのなら、それを是とするイデオロギーを生み出さねばなるまい。然る後に建立せねばなるまい。本来は、神道でもなく仏教でもない「社会不条理を見つめる」新種イデオロギーによる国家鎮護の社ないしは座を生み出さねばならなかった。その上で、誰が管轄するのか、その際の儀式はどうするのか、皇室との関係如何等々が解決されねばならなかった。このあたり諸外国の事例を知りたいところだが、れんだいこにはそういう知識は無い。 その労を執らず、その後の軍国主義化日本への水路を敷く意図で「靖国」を神道神社として建立させたところに歴史の過ちが見て取れるように思う。しかしてそれは神道の歴史的枠に対する逸脱でもあったのではなかろうか。その程度の頭脳が押し進めた戦の道が先行き覚束ないのは自明であった。ここが検討されねばなるまい。 戦後左派運動は、神道、仏教に対する外在的批判で事勿れしているので、この方面の問いかけにはさほど関心が無いのかも知れない。しかし、その態度は歴史に対する非弁証法的態度であって有害無益なものでしかない。それが証拠に、通り一遍の批判するばかりで相手の臓腑まで撃つことができない。いわゆる○×の域を出ない。批判というのは謀議を生み、やがて結社化して運動にまで高められるのが理の勢いである。単なる口先批判なぞ本来の意味でのものではなかろう。 補足。こたびの小ネズミ首相の参拝ほど醜悪なものはなかった。アリバイ参拝丸出しではないか。当人はうまく切り抜けたとでも思っているのだろうが、バカ丸出し振りが歴史に残されただけのことである。当然、小ネズミが日頃口にしている英霊との交信なぞある訳が無い。あれでは、一度は国家の二度目は首相による英霊に対する冒涜ではないのか。 本当は、遺族は怒らねばならない。 しかし、小ネズミは良い事を一つ云った。小ネズミ首相の靖国神社参拝に対する隣国からの批判に対して、「参拝は本来、心の問題だ」と述べ、それに干渉する隣国に対して不快感を表明した。小ネズミはんが、かく「心の問題を重視する」御仁であることが分かった。共謀罪の時には手のひらをかえすことはあるまいな。 2005.10.19日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その114 | れんだいこ | 2005/10/20 00:00 |
【「10・19小泉対前原党首討論考」】
2005・10・19日、小泉対前原の党首討論が行われた。れんだいこはニュースで概要を知った。小ネズミの由々しき内容の見識が披瀝されているのでここに記録しておく。 民主党前原代表が、小泉首相の靖国神社参拝論を質した際に、小泉首相は次のように見解披瀝している。概要「思想、良心の自由は憲法で保障されている。なぜいけないというのか理解できない」。 小ネズミが憲法持ち出して、靖国神社参拝を正当づけているのは滑稽である。それはともかく、一体この御仁は、私服で庶民風参拝すれば私的参拝になると本気で思っているらしい。一国の首相の挙措動作の重みを全然理解していないことが判明する。これが小ネズミの政治責任観であることを知る必要があろう。要するに、バカだということである。もっとも、この小ネズミの論に耳を傾ける者もいるからややこしいけれども。昔から、くだらん公人私人論やってるバカが後をたたない。 次に、前原の方が少し賢い。小ネズミのこの弁に対し、概要「憲法持ち出すなら、政教分離も書いてある。こちらはどうだ」と切り返している。これに対し、小ネズミは、苦笑してもぐもぐ。つまり、反論できなかった。小ネズミのご都合主義の詭弁が打ち負かされた瞬間だった。しかし、仲良しクラブの前原君はここで助け舟を出し、それ以上追求しなかった。つまり、八百長であろう。前代表岡田にもこういうところがあった。 次に、前原が、「この4年半は外交不在の小泉政権だった」と小ネズミの外交能力を質したのに対し、次のように見解披瀝している。「中国に日米関係を離間させようという動きがあることは承知している。私は、日米関係が良いほど、中国ともより良い環境を維持できると考えており、日米関係を多少損なっても他国との関係で補うという考えはとっていない。日米離間策に乗ってはいけないということを前原代表もわきまえてほしい」。 これは、前原の「中国は日米関係を離間させようとしている恐れがある」との誘導尋問に釣られて吐いた言葉であるようである。前原もそう考えている節があるので両者の呼吸は一致している。つまり、日本を代表する政党の代表が奇しくもこういう考えをしていることが分かり興味深い。 それはそうと、小ネズミの「私は、日米関係が良いほど、中国ともより良い環境を維持できると考えており、日米関係を多少損なっても他国との関係で補うという考えはとっていない」は、ヒドスギやしないか。ここには独立国の自負はかけらもない。究極の日米同盟主義、米奴主義、米英ユ同盟配下路線を声明していることになる。 「何があってもどこまでも親分ブッシュはんにツイテマイリマス」と述べていることになるが、一国の首相の政治責任として問題があり過ぎやしないか。たまげるべきであろう。普通には本心はそうでも、公的記録に残る会話ではこうは云えない。それをあっさり言うところに小ネズミの貧困な能力がある、と見る。要するに、こうもあけすけに言えるということは政治家としてはバカだということである。とても首相の器ではない。 何があってもアメリカはんを支持しますと云っていることになるこの発言をメディアが追求しないのなら同罪である。れんだいこは、独立国の首相が、こうもうあけすけなアメリカオンリー主義を国会答弁する者を知らない。メディアが容認する例を知らない。 れんだいこは究極の失言と思う。今のところネット情報で指摘されていないようだが、みんなあきらめているからなのか。そうだとしたら病み過ぎている。れんだいこは、即刻辞任を要求する。 「日米関係を多少損なっても他国との関係で補うという考えはとっていない」てなことを云っているんですぞ。裏を返せば、「どんなささいなことでもアメリカはん(党中央)の云うことはその通り」と云っているんどすえ。この問題は特に共産党はんにご意見賜りたいところである。 2005.10.19日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その115 | れんだいこ | 2005/10/20 20:15 |
【「靖国神社の祭神が兵士英霊であることについて」】 靖国神社では、兵士英霊の御霊を祭神としている。こういう例は極めて珍しいのではなかろうか。れんだいこは、数々の神社を思いめぐらせているが見当たらない。これにより真実、兵士英霊の御霊が慰霊されるのならそれも方法かも知れない。事実、靖国神社派は次のように述べている。 靖国神社は国民みんながお参りする神社です。靖国神社の神さまは、日本の独立と平和が永遠に続くように、そしてご先祖さまが残してくれた日本のすばらしい伝統と歴史がいつまでもいつまでも続くように、と願って、戦いに尊い生命をささげてくださいました。日本が今、平和で栄えているのは、靖国神社の神さまとなられた、こういう方々のおかげなのです。この方々が戦争の時、ご自分の生命までささげて守ってくださった『私たちの日本』を、これからも大切にしていってください。そして、みんなで靖国神社にお参りし、神さまに感謝の気持ちをささげ、立派な人となることを誓いましょう。(以上) しかし、この方法に拠って更に英霊の御霊が増やされていく仕掛けにされていたとしたら、それは多いに問題であろう。国が靖国されるばかりで兵士英霊が慰霊されないのなら、靖国神社の社是の原理原則からしておかしかろう。史実は、日本人民大衆は、靖国思想をも含む天皇制軍国主義的日帝イデオロギーにより戦地に狩り出され、屍を晒していくことになった。ここに靖国問題の本質的課題がある。 靖国問題はこう問いかけるべきではなかろうか。しかるに史実は、特に左派運動は、英霊の御霊を祀ること自体に対する批判運動をしてきたのではなかろうか。それを強く言えば云うほど左派的であるかのように欺瞞してきたのではないのか。それは多いに間違いであると、今になってれんだいこは思う。これでは戦没者遺族は二重に且つ両面から凌辱されていることになろう。 かっての国策戦争に殉じた英霊の御霊は、それはそれで慰霊されるべきではないのか。かっての戦争の要因も複合的に捉えねばならない。この観点を封殺するために、大東亜戦争を極力悪し様に描き、南京大虐殺事件を煽り、百人斬り事件を誇大させ、戦犯を極悪犯人視させる歴史観を生み出しているのではなかろうか。仮に、個々の事例でそうであっても、歴史的位相は又別の物差しで計らねばならないのではなかろうか。A級戦犯論も本来は、生易しい問題ではない。 日共の最高指導者・不破は、最新の著作「私の戦後60年」で、かっての戦争を「連合国民主主義軍対ファシズム枢軸国軍」の闘いに描き、ファシズム枢軸国軍として闘った戦前日本を落し込めれば込めるほど左派的という観点を披瀝している。 何を馬鹿な、と思うのはれんだいこだけだろうか。あの戦争は、旧制帝国主義対新制帝国主義の利権と覇権を廻る帝国主義間戦争であり、「民主主義対ファシズムの闘い」である訳が無い。不破の観点は、今日になっては明らかなネオ・シオニズムの歴史観そのものの請け売りでしかないのではないのか。正統を任じる共産党の指導者が採る歴史観ではあるまいに。 れんだいこは、我々が慣らされてきた歴史観そのものの再検証を要求したい。あまりに馬鹿げた歴史観が「左」から鼓吹され続けている。左ではないのに「左」からというところがミソではあるが。それは何の役にも立たないばかりかむしろ有害無益ではなかろうか。 2005.10.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その116 | れんだいこ | 2005/10/20 20:42 |
【「10・19小泉対前原党首討論考」その2】 案の定というべきか、「2005・10・19日小泉対前原党首討論」に見せた小ネズミの売国奴見解を批判する論調が生まれていない。商業新聞はどこもかしこも、前原なかなかよくやった論で提灯している。日共の赤旗も批判らしい批判も無く漫然と遣り取りを記している。ネット掲示板ではどうなっているのか知らないが、相変わらず優先順位番外の話にうつつを抜かしているのだろう。 れんだいこはこういうところを許さない。小ネズミの米奴見解は臨界点に達していると思う。憲法裁判所があるとしたら、一国の主権問題に於いて由々しき発言として被告席に立たせるべきであろう。 なんてたって、「私は、日米関係が良いほど、中国ともより良い環境を維持できると考えており、日米関係を多少損なっても他国との関係で補うという考えはとっていない」発言ですぞ。この意味は、日米関係を損なうことは露ほども考えておりません、アメリカはんの要望なら全て従うのが日本の採る道、と述べていることになる。 こったら発言許していいものかや。実際、小ネズミはこの発言通りにブッシュの言いつけ通りにしてきている。これからもずっとそうなるだろう。読売がことごとくヨイショしている。金も無いのに相変わらず大盤振る舞いに興じている。国内の必須案件が財源難で次々と見捨てられているというのに。 これが問題にならないなら全てが許されよう。れんだいこのこの理解が間違いというのなら、れんだいこはもう一度一から国語の勉強しなおさねばならん。ふぅぅぅとため息もつきたくなる秋の夜長の怒りの日。 2005.10.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その117 | れんだいこ | 2005/10/21 09:18 |
【「再び小ネズミ首相考】 れんだいこはこれまで、小泉首相を小ネズミと云い、ポチとも云い、バター犬(これは「きっこの日記」にあった表現)、サイコパスとも云ってきた。今思うにより正確には、「サイコパス系雇われ首相」にして「軍需政治請負い手配師」なのではあるまいか。 「サイコパス系雇われ首相」の地位は、彼自身が魂を売ることにより手に入れた地位と名誉と権力である。誰に雇われているのかということになるが、世界最高権力体のネオ・シオニストにあごで使われていると見るべきだろう。強い者に「あごで使われている」者は逆に、弱い者に対しては尊大になる。 この観点で見れば、小ネズミの言動の裏意味が良く分かる。「おい、誰にものいっているんだ、楯突いているんだ。俺のバックには○×組がついているんだぞ。甘くみるんじゃないぞ。覚えてろ。ギャフンといわしてやる」。この恫喝政治が小ネズミの特質である。 これを実際にやりぬくところにレイプ性と首絞め性マニアぶりが見て取れる。これを政治の非情性と云っておべんちゃらしている評論氏が一杯だが、この連中は知識を持てば持つほどミソとクソの違いが分からなくなるアホでしかないので何の役にも立たない。 もう一つ、「軍需政治請負い手配師」ぶりも確認しておく。これはどうやら小泉家のDNAらしい。曽祖父・小泉由兵衛以来の血統で、純一郎で四代目になる。れんだいこは、「小泉首相の出自考」(daitoasenso/koizumiseikenco/syutuzico.htm)に記した。 更に、「阿修羅政治版15」のあっしら氏の投稿「小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導」(http://asyura2.com/0510/senkyo15/msg/922.html)が、父・純也の「在日朝鮮人の北朝鮮送還事業」との関わりをサイトアップしている。この検証もしておこうと思う。 いずれにせよ、我が日本は、稀代の異邦人首相を国政トップに抱え、ほしいままにさせていることになる。そしてまっとうな政治家が苛め抜かれていることになる。れんだいこ的には、角栄を失った日本の悲劇がじわりじわりと浸透し、かくまで無惨な政情に至ったという風に捉えている。 2005.10.21日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その118 | れんだいこ | 2005/10/24 12:27 |
【この時代、我々は、誰を相手に何と闘おうとするのか考】 皆さんちわぁ。「小泉と現代社会」について次のように思うに至りました。中曽根は「戦後原理の総決算」を美名に今日の路線を敷いた。小泉は今「戦後原理からの脱皮決別」をテーマにしている。このラインが80年代以降台頭著しく、今や政財官学報を牛耳っている。問題は、彼らがどういう新原理を据えようとしているのかにある。憲法改正論とダブるが、どういう憲法を拵えようとしているのか。 れんだいこは、それが多少なりとも歴史の進歩をもたらすものであるのなら認めようと思う。事実は、小ネズミのコソドロ的靖国参拝で判明したように愛国は付け刃の見せ掛けで融通できるものでしかない。彼らが非妥協的に鉄の意志で断乎遂行するのは、日本解体、日本のユ奴化の道ではなかろうか、あらゆる兆候からそういう青写真が見えている。 この道をマジに進めようとしておる連中が登用され、地位と権力にありついている。我が世の春をおごっている。彼らの頭脳は、その道こそ歴史的正義と思っている節がある。つまるところ、オツムがその程度ということになる。俗に云うマインドコントロールかけられており処置なしで、顔は日本人でも心と頭脳は既に洋獣ネオ・シオニストになっている。 我々はこの連中を相手に闘わねばならない。日本史上前例のない闘いが始まっていると考える。今や、従来式の和式体制派との闘いに加え、洋獣奴体制派との闘いを加えねばならない。そういう二正面闘争時代に入っている。 こういう時代に、片方だけとの闘争を採りあげるのはそれこそ片手落ちだろう。この時代に於ける従来式の和式体制派との闘いに片手落ちすることは許し難い。この手合いも又裏からの洋獣奴にほかならない。しかるにこの手合いの正義気取りが多過ぎる。宮顕ー不破系日共の正体はここにある。れんだいこは見飽きた、聞き飽きた、食傷している。 この観点からの論評を尽くさねばならない、れんだいこは今そう考えている。もし同感の士あらば、議論を逞しゅうしよう。れんだいこは、腹の足しになる議論はこの方面に於いてこそと思料している。左派戦線は、この歴史のトリックを見破らねばならない。頭脳で負けたら、有益な闘いができまい。左派戦線には今ここが問われているのではなかろうか。 2005.10.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その119 | れんだいこ | 2005/10/25 19:59 |
【増山榮太郎氏の「角栄伝説ー番記者が見た光と影」を評す】 小泉政治の狂態をみせつけられるほどに角栄が懐かしい。こういう折柄、増山榮太郎氏が「角栄伝説ー番記者が見た光と影」(出窓社、2005.10.20日初版)を出版した。これを仮に「増山本」と云う。 角栄についてはこれまであまたの著作が為されている。角栄ほどその見解が批判と擁護に分かれる人物は珍しい。れんだいこはおおかたの角栄本に目を通しているが、読めば観点が余計に歪んでくる本と為になる本がある。「増山本」は当然後者の有益本である。これがれんだいこの総評となる。 増山氏は、早大文学部卒の時事通信社の政治記者である。運命の僥倖であろう増山氏は、要職時代の角栄が首相になるまでの期間の番記者を勤めた。増山氏は添え書きで、「本書は、戦後政治の結晶として『総中流社会』をもたらし、巨悪論によって追われた田中政治を再検討・再評価するものです」、「私自身、長年の政治記者生活の総決算のつもりです」と記している。 増山氏は、角栄政治と余りにも対極的な小泉政治下の現下の時局を憂い、角栄政治を懐旧し、ありし日の角栄の実録証言を世に明らかにすることを使命と思い立った。その内容は、既成の角栄本と重複しないよう随所に有益な新証言、逸話を持ち込んでおり、角栄研究本の新ページを開いている。 文章は新聞記者だけあっててだれており、非常に読みやすい。れんだいこは一気に読み上げさせてもらった。「れんだいこの角栄論」に取り込むべき多くの逸話を聞かせて頂いた。ここに感謝し、併せてこの場で了承を得たいと思う。 あとがきで、「おそらく田中氏のような天才政治家はこれまではもちろんのこと、これから二度と現われることはあるまいというのが、本書を書き終わっての私の結論である」と記している。 思えば、角栄と身近に接してその息遣いさえ知っている者ほど好意的且つ信奉的であり、角栄の人となりが偲ばれる。佐藤昭子女史の「私の田中角栄日記」、辻和子女史の「熱情ー田中角栄をとりこにした芸者」は、角栄の裏表のない生き様をいずれも称えている。秘書早坂茂三は、角栄政治の何たるかを縷々語り続け、噛めばかむほど味があった好人物ぶりと政治能力の高さを評している。 「増山本」は、角栄出自の新潟の原風景、幼少時の角栄、上京後の角栄、実業家時代、政治家駆け出し時代の記述が目新しい。願うらくは、「世界で最も成功した社会主義国ニッポン」を底上げした要職時代の角栄の逸話をもう少し詳しく聞かせて欲しい。思うに、増山氏の情報力を以てすれば、恐らく全三冊ぐらいにはなりそうである。そういう意味で続刊を期待したい。 角栄は不幸なことにロッキード事件で虎バサミされ、以降その政治能力が羽交い絞め封殺された。右派と左派が奇しくも連衡し、日本政界から実に惜しい人物を訴追していった。今なおしたり顔して角栄批判に興じている手合いを見るが、食傷である。 不破の角栄イジメは病的であり、新著「私の戦後60年」では何と、それまでの金権の元凶批判から転じて「角栄は僅か5億円の調達に困って外国の金に手を出した」云々なる誹謗を浴びせている。あまりにも酷いと云うべきではなかろうか。ニセの友は老いても悔いることがないようである。 その点、増山氏の角栄を見る眼は温かい。というか、その温かさは角栄自身が増山氏に注いでいたものであり、増山氏は今その温かさを思い出しながら懐古しているのではなかろうか。小泉名宰相論に興じるメディアの嬌態下の今、「増山本」の素顔の角栄論は貴重である。他の角栄番記者よ、今からでも遅くないそれぞれの実録角栄像を語り伝えて欲しい。「角栄は日本政治史上孤高の座を占めている」と判ずるれんだいこは、このことを強く願う。 れんだいこ的には、「増山本」が角栄政治の左派性に光を当てているところが特に良かった。「角栄政治の本質左派性即ち土着左派性の解明」はこれからもっとも急がれるところであり、ひょっとしてロッキード事件勃発の最深部の真相かも知れない。「増山本」は、ゴルバチョフ談話「世界で最も成功した社会主義国ニッポン」を紹介しながら、この方面への関心を誘っているところに良質さを見せている。この観点は、増山氏が実際に接していた当時には見えずして、今になって遠望して気づかされた角栄観なのではあるまいか。 角栄はこれまで余りにも、立花史観と不破史観により栄誉と実像を著しく傷つけられてきた。この両者はネオ・シオニズムと親和して、この観点から角栄批判に興じているところで共通している。猪瀬直樹の論もこの類のもので、許し難い逆さま観点からの角栄批判を開陳している。田原総一朗、岩見隆夫らの論は上げたり下げたりで常に日和見なそれである。小林吉弥、北門政士、久保紘之、水木楊らの論はややましな中間派のものである。 他方、小室直樹、新野哲也、岩崎定夢、青木直人、三浦康之らの好意派のものがある。秦野章、後藤田正晴、木村喜助、小山健一らは、ロッキード事件に対する疑義を表明することで間接的に角栄を擁護している。政治評論家では早くより馬弓良彦、砂辺功、戸川猪佐武、岩崎定夢、新野哲也、渡辺正次郎が角栄政治を高く評価している。戸川氏は不審に急逝してしまったが実に惜しまれる死であった。「増山本」には、戸川氏が生きておれば一献傾け合うであろうシンパシーがある。 惜しむらくはと記しておこう。増山氏はよほど穏和な性質の御方なのだろう、ロッキード献金5億円授受説に対して、これを冤罪とする立場からは論じていない。最近の徳本栄一郎氏の「角栄失脚歪められた真実」、これをヨイショする五十嵐仁氏の「転成仁語」の「最終的に否定されたロッキード事件アメリカ謀略説」らの観点に対して宥和的である。この点に関しては、れんだいこ的には角栄冤罪説に立って欲しかったと思う。 歴史のトップ・シークレットは嗅ぎ分けることでしか判断できない。れんだいこは、ロッキード社5億円献金捏造説、ロッキード事件国策捜査説、角栄政治土着系左派説、角栄外交日中同盟説に立っている。この観点からの角栄論はまだ曙光でしかない。「増山本」は角栄政治土着系左派説に道を開いており、番記者の証言であるだけに値打ちがある。 「角栄ー大平同盟の絆の裏話」の下りも良かった。補足すれば、れんだいこが最近聞いた話はこうである。大平急死を聞きつけた角栄は善通寺での通夜に駆けつけ、大平の死装束を前にして十数分余嗚咽男泣きしていたという逸話である。今、政界で、こういう掛け値無しの絆を持つ者がいるだろうか。角栄ー大平同盟が夢見た真実一路の政治は戦後ルネサンスに咲いた日輪であった。今は跡形も無く土足で踏みにじられている。残念無念至極というほかない。 いずれにせよ、「増山本」は新たな角栄観に向けて一石を投じたことになる。その波紋や如何に。 2005.10.25日 れんだいこ拝 |
Re:日本国民が、平和ボケ・危機意識ゼロから脱出するには? | れんだいこ | 2005/10/25 21:52 |
taさんちわぁ。 > 自衛隊派兵はすべきではありませんでした。 了解です。れんだいこは、自衛隊の武装派兵そのものに反対している面と、国費の無駄遣いになっている面の両面から反対しております。一体、小ネズミはこの間どれだけの金額を投じているのか誰か明らかにして欲しい。恐らくたまげる。 > 日本政府はアメリカの機嫌を損ねぬようにしたいというのが、自衛隊派兵の一番の理由でしょう。 そういうレベルではなく、米英ユ軍の指揮の下で傭兵として使われ始めている、この傾向はこれからますます拍車がかかる、という認識を共有したいです。 > しかし、気分屋で自分勝手なアメリカからは、いずれ距離を置くべきだと思います。 思っただけではどうにもならない。事態はますます距離が密接不可分方向に向っております。 > とある大学の教授は、日本の軍事費を削って、中国の環境対策を支援すべきだという妄言を吐いたことがあります。 教授の全体の趣旨が分かりませんのでコメントしにくいですが、半分当っていると見ます。黄砂を見ても日中は繋がっているのです。 > そのような国ですから、日本から環境対策として資金を支援してもらっても、軍事費に転用されるだけです。 れんだいこは、文革後の現中共政権をさほど評価しておりませんので、現下の日中両政府の動向はただみつめるだけです。 > 私は、平和を説くことを否定しません。 > 日本国は、今後も戦争回避の努力を怠ってはいけません。 了解です。あまりにもその力が弱いと考えております。戦争で得するのはいつも軍需政商とその取り巻きだけで、人民大衆的にはいつの時代でも戦争は欲しておりません。そう考えております。特殊宗教戦争とか、祖国奪還とかの戦争を余儀なくされることがありますが。 > 現状では、理想論となってしまいますが、日本単独で国防できる程の軍事力は必要です。 戦争で負けていなければそういうことも云えますが、その時でも軍事費支出をどう押さえ込むのかが肝心でせう。歴史を見ればその手立てを持っておりません。今となっては机上論の絵に描いたモチの話です。 > アメリカは、地理的条件から、日本をなかなか手放さないでしょう。 > しかし、難しいことですが、アメリカとの距離を置くことを模索する必要はありと思います。 云っていることぱ分かります。しかしねぇという感じです。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その120 | れんだいこ | 2005/10/25 22:17 |
【「小泉首相の5回目のコソドロ式靖国神社参拝」考】 小泉首相は、2005.10.17日、秋季例大祭に合わせて第5回目の靖国神社参拝を挙行した。こたびは私的参拝を演出し、一市井人並に一般通路から詣でポケットから引き出した賽銭を投げ、手合わせ30秒という略式参拝ぶりであった。不思議なことに、中国、韓国から又もや抗議がお見舞いされ、国内ではこたびのような私的参拝なら可論が生まれている。 れんだいこは、1・小泉首相の私的参拝も、2・中、韓の抗議も、3・国内の私的参拝可論のいずれもナンセンス極まりないと思う。その理由を書き付けておく。 1・小泉首相の私的参拝について。小ネズミは、誰に知恵をつけられたのか、首相たるものの私的性がどうやって確保されるのか不明であるが、私的参拝の要領でやれば首相が参拝しても私的になるとのかなりオツムの悪い論法でこたびの靖国神社参拝を挙行し、居直った。だがしかし、それは、小ネズミの靖国神社参拝精神の底浅さを見せており、靖国詣でが己の売国奴性を隠すイチジクの葉でしかないことを証左しており、靖国の英霊を侮辱している。 小ネズミに申し渡しておく。一般に職階が付けば、それが重責であればあるほどましてや公的なものであればなおのこと私人性は無くなる。人は職階の責務からみなされるようになるという意味である。僅かに、公務を離れた時間帯、純然たる私用の時のみ、大目に見られるに過ぎない。これが、官民問わずの職責原理である。 よって、一国の首相の靖国神社の参拝に於いて私的参拝というのは有り得ない。首相を辞め、議員を辞め、一民間的市井人になった時のみ私的参拝が有り得る。これが常識であるところ、かって三木首相が戦後初の8.15日首相の靖国神社参拝に際して私的参拝論を詭弁して以来、罷り通ることになった。云う方も云う方だが聞く方も聞く方だろう。 れんだいこ観点からすれば、首相の靖国神社私的参拝は有り得ない。ならば、行かざるべきか行くべきか思慮せねばならない。敢えて政治信条によって参拝するのであれば、首相らしい格式で参拝せねばならない。こたびのようなコソドロ的参拝は有り得てならない醜態である。まさに小ネズミならではのサイコパス性によってもたらされた参拝であり、靖国神社の首相参拝史に於いて醜態が歴史に刻まれたことになる。普通には、穴があったら入りたいほどの痴愚ぶりを見せた事になろう。 2・中、韓の抗議について。中、韓のこたびの抗議は、今以上強く打ち出されるのなら馬鹿げた内政干渉である。従来、靖国神社の春季秋季例祭に於ける首相の参拝に対してまで抗議されることは無かった。これが問題にされたのは、終戦記念日の8.15日に於ける首相の参拝を廻ってのものであった。 それは、大東亜戦争の功罪が鋭く問われるからであり、一方的な片手落ちの英霊慰霊に対する抗議であり、8.15日参拝批判は時の軍事増強化の動きに対する批判として首肯できるものがあった。しかし、春秋の例祭にまでくちばしを入れるとなると別である。中、韓外務当局は、今頃になって春秋の例祭にまで抗議し始めた論拠に付き弁明せよ。 3・国内の私的参拝可論について。こたびの小泉首相の参拝に対し、これを受け入れることは無思慮が過ぎよう。凡そサヨがこの手の論を吹聴しており、愚劣さを示している。首相の靖国神社私的参拝可論者は、いかにすれば首相職の者が私的に成りえるのか論証してみよ。それとも何か体の半身が公職で残りの半身が私的な仕掛けにでもなっているとでもいうのか。あるいは首相ともなればカメレオンの如く表皮が変色するとでも云うのか。 「誰にも知らせず、早朝、警護の警官1人をともなって靖国神社を参拝し、そのことを誰にも知られなければ、それが問題になることはありません」もウソクサイ。人に見られる見られないで公職性が減じたりするものではなかろうに。 この手合いは、持論に裏づけをもたないから、外国ではどう報じられているのかを気にし第二の判断基準にする。云っておくが、中、韓が米が西欧諸国がどう伝えようと、首相の私的参拝論の詭弁が剥がれるだけのことで、それは手前達の「首相の靖国神社私的参拝可論」の論拠が崩されだけのことであろうに。 れんだいこは、以上から次のように結論する。 第1に、靖国神社は英霊の御霊の鎮守府(又は社又は座)として再生されねばならない。国策に殉じた者を国家が慰霊する精神は必要なことである。これを他に代替施設を求めようとする動きは、これまでの歴史の積み重ねを愚弄し過ぎていよう。国費の無駄使いの冗費にしかならない。 第2に、首相が春季、秋季例祭に参拝することは歴史的に認められてきた経緯がある。今後も、英霊の御霊の鎮守府詣でという意味に於いて限り参拝するが良かろう。但し、こたびのようなコソドロ式参拝は英霊の御霊を愚弄するものである。厳に慎まねばならない。 第3に、首相職の私的性は極端に薄い。それは公的職務の最高峰のものであるが故に仕方ない。この職にある者は我が身を弁え、どうしても私人に憧れるのであれば一刻も早くその座を降りねばならない。世の中にエエトコ取りはない。 第4に、首相の終戦記念日8.15日靖国神社参拝は許されない。その根拠は、先の大戦大東亜戦争の総括を廻って、我が国でも関係職国との間に於いても何ら合意が為しえていないからである。これが出来ない期間に於いては、首相は政府主催の戦没者慰霊祭を催し、ここで所信表明することがむしろ望まれている。 第5に、A級戦犯分祀論について言及しておく。近時のA級戦犯分祀論はこれまたウソクサイ。大東亜戦争の指導責任者として最も憎むべきとする戦犯論に依拠しているが、かっての大東亜戦争を遂行した責任をA級戦犯のみに帰着させるのは便宜的手法でしかない。 正しくは歴史の趨勢であり、直接的には昭和天皇の関与も疑わねばならず、裏方の財界の牽引も見ねばならず、当時の御用勢力の役割も判定せねばなるまい。決してA級戦犯論で片付くものではなかろうに。よって、合祀されたA級戦犯の御霊を分祀すべし論も今となっては手遅れで余計に事態をややこしくさせよう。 以上、「小泉首相の5回目のコソドロ式靖国神社参拝」の教訓を記しておく。 2005.10.25日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)