カンテラ時評27(781~810) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評781 | れんだいこ | 2010/08/11 22:08 |
【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その3】 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」で、尾張氏、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する記述をしている。神武天皇の東征以前に物部氏の祖・饒速日(にぎはやひ)の尊が畿内大和へ東遷降臨し、河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天下り王朝を創始していた云々と記している。現存するかどうかは別として尾張文書、物部文書の伝承ないしは文献からの引用ではないかと考えられる。 これにつき、日本書紀は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)について、神武天皇の東征以前に大和に天降り、「天神の子」を称して神武天皇もそれを認めたとしている。しかし、饒速日尊がいつ天降り、神々の系譜上どこに位置するのかには触れていない。これに対し、先代旧事本紀では、「神代本紀」では神武天皇系譜とは別系と記し、「天神本紀」などでは同じ天孫系に位置づけている。この二元記述をどう窺うべきだろうかと云うことになる。 また、物部氏が「食国(おすくに)の政(まつりごと)を申す大夫」、「大臣」、「大連」といった執政官を多く出し、代々天皇に近侍してきたことを強調している。物部氏と石上神宮のつながりも精緻に言及している。物部氏の政治的権威付けが見て取れるが、問題は、その記述の正確度であろう。虚史を記して居れば偽書と云うことにもなろうが、それなりの史実を記しているとすればむしろ研究対象とすべきではなかろうか。 付言しておけば、饒速日(にぎはやひ)の尊譚は他の古史古伝でも伝承されている。これにつき、佐治芳彦氏は、著書「超古代の謎を解く13の鍵」の中で、「長髄彦(ながすねひこ)こそ日本民族の国主であった」と題して次のように述べている。 「神武天皇の東征軍に対して、先住民のチャンピオンである長髄彦が果敢な抵抗を行い、神武軍を苦戦に追い込んだが、結局敗れたことは記紀とほぼ同じである。だが、問題は、その長髄彦が戦死していないことである。長髄彦は『大倭国ヲ棄テ、陸奥国ニ往ク」とあるからだ。陸奥に亡命した長髄彦は、塩を焼き、それを民に施したとある。『東日流外三群誌』では、津軽の十三湊(とさみなと)に亡命し、先住民や漂着民を合同して『荒吐(あらはばき)』族として統一し、その荒吐王となり、善政をしいて民力を増強、故地回復を狙うことになっている。それに対して『大政経(たいせいきょう)』では、宮城県の塩釜付近に落ち着き、製塩の法を民衆に教えたことになっている。だいぶスケールが小さいが、それでも記紀の叙述よりはマシであろう。結局、記紀がどの様に長髄彦を逆賊視しようとも、日本民衆の意識の底には、この神こそ、やまとのくにの国主であったという記憶が残っていたということである。おそらく『大成経』も、この記憶を忠実に伝えようとしていたといえるだろう」。 つまり、「饒速日(にぎはやひ)―長髄彦(ながすねひこ)神話譚」は記紀神話には隠されているが、異聞異伝としてはかなり有力な伝説で、敗者側の神話故に隠されてしまったと見ることが可能なのではなかろうか。日本の古代史研究における記紀神話依拠では見えてこない世界があるということである。 巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」にも、他の文献に存在しない独自の所伝がみられ、およそ130の国造名や設置時期、初代国造の系譜が掲げられている。702(大宝2)年に編纂された「国造記」に基づくものであることはほぼ確実である。そこに記された原資料としての各国造の系譜や伝承は、6世紀中頃から後半に形成されたと推定されている。国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見が有力である。そういう意味で、先代旧事本紀は記紀ないしは他書に見られない所伝を載せた貴重な歴史資料となっている。 このことから判明することは、先代旧事本紀執筆者の狙いが、大和王朝の官僚ないしは統治機構の正統性を裏付ける為の各氏族の歴史的素性を明らかにさせることにあったのではなかろうかと云うことになる。平安朝時代になるや歴史的な反目主体である天孫族と国津族の仕切りが不明となりつつあった。その時代に於けるおける各氏族の箔付けをせんが為の新たな歴史書が必要となり、先代旧事本紀執筆者がこの負託を引き受けたのではなかろうか。物部氏の役割を贔屓目に記述すると云う偏りが目立つのは事実であるが、それに伴い出雲王朝―三輪王朝系の伝承を大幅に取り入れたのはむしろ功績ではなかろうか。こう理解すると、世上の単なる偽書判断の皮相さが分かろう。 そういうこともあって、先代旧事本紀は、江戸中期までは日本最古の歴史書として記紀より尊重されることもあった。つまり、記紀を踏まえつつ、記紀の足らざるところを補っている先代旧事本紀の価値が史料的に認められていたと云うことであろう。読み取り方としては、この方が正解ではなかろうか。鎌倉時代の僧・慈遍は、先代旧事本紀を神道の思想の中心と考えて注釈書「舊事本紀玄義」を著し、度会神道に影響を与えた。室町時代、吉田兼倶が創始した吉田神道でも先代旧事本紀を重視し、記紀と先代旧事本紀を「三部の本書」としている。これは、記紀よりも出雲―三輪系王朝譚を採りいれた先代旧事本紀の価値を正当に評価していたと云うことであり、この方が正解であろう。 江戸時代に入って、先代旧事本紀の内容に推古朝以降の記述もあることが問題にされ始めた。徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らの研究によって偽書であるとされた。1670(寛文10)年、水戸藩の今井有順が「神道集成」を編纂し、続いて「三部本書弁」で旧事紀(くじき)に疑惑を投げかけた。徳川光圀は「後人の贋書」とし、信用できないとした(栗田寛「国造本紀考」)。1731(享保16)年、多田義俊は「旧事記偽書明証考」(「旧事紀偽撰考」ともいう)を著し、偽書説を後押しした。1778年、伊勢貞丈(1715-1784年)は「旧事本紀剥偽」を著し、「舊事本紀(先代旧事本紀)は往古の偽書なり」と記している。「神道独語」でも同様の主張を展開した。考証の大家として有名だった伊勢貞丈が偽書説を打ち出して以来、「大臣蘇我馬子宿弥奉勅集撰」という序文だけでなく、内容の全てまでが無価値とされるようになった。 以降、次第に読まれなくなってしまった。明治以降、序文に書かれた本書成立に関する記述に関してはともかく、本文内容に関しては偽書ではないとする学者もあったが、通説は偽書説となっている。この流れが本当に正しいのかどうか。江戸期の国学、明治以降の皇国史観、今日に至る歴史学の古史古伝偽書包囲網、これをもっとアクロバット的に記紀まで否定した津田史学的な偽書観こそ変調であり低能さを示しているのではなかろうか。 本居史学の真の意図がどうであれ、本居に代表される偏狭さが後の皇国史観の水路になっており、この閉塞を打開する為にも偽書説の再考こそが望まれていると窺うべきではなかろうか。学問とはこういう風に問うべきものであり、決して正しくない偽書説を振り回して学問的営為を止めるべきではなかろう。しかも、偽書、偽説と看做すべきものを真書とし、真書、真説と看做すべきものを偽書と評するをや。そう、これが云いたかった。漸く結論に辿り着いた。 2010.8.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評782 | れんだいこ | 2010/08/21 21:45 |
【「れんだいこの1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」】 123氏の投稿を機縁として、ここ暫く「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故」情報を確認した。次のような見解を打ち出しておく。但し、第一次見解とする。今検証に着手したばかりなので未熟ではあるが、れんだいこの事件考はこうである。 この事故が、内部要因的飛行機事故ならまだしも許せる。問題は、外部要因だとしたらどうなるかであろう。この事故はその可能性が強い。そういう意味で、事故ではなく事件になっている。では、どういう事件なのか、これを検証せねばならない。これが基本見解である。 蓋を開け中を覗くと諸説飛び交うノンフィクションミステリーとなっている。臭いとして「国策事故」の可能性が強い。故に、容易には解明し難いよう情報撹乱されている。航空事故調査委員会の報告書は、論の中身以前に委員の人選に於いて失格している。委員長を含め定員5名の殆どが運輸省内部委員であり、いわば身内を裁く委員会となっている。独立性に大いに疑問がある構成になっているからして「まともな結論」が出る訳がない。これは常識である。 案の定、報告書は外部原因説の可能性に一切言及せず、内部原因説の「後部圧力隔壁破損説」を打ち出した。日航の従業員組合の組織である日航乗員組合連絡協議会は納得せず、「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。被害者の遺族たちも同様で、1999年1月に事故原因再調査要求を提出した。しかし、事故調査委員会はこれを完全に無視し今日に至っている。それどころか、JAL123便墜落事故関係の全書類を1999年11月にすべて廃棄処分にすると云う挙に出ている。一体何の為に証拠書類をすべて廃棄処分にしたのだろうか。このことを知るだけでも事件の真相が解明されようとするのではなく意図的故意に隠されようとしていることが分かろう。とにかく異常である。 こういう場合には、次の4原則を顧慮しなければならない。第1原則は、公式見解が打ち出されても鵜呑みにしてはいけないということである。事件の真相がけっして掴まえられないよう巧妙に細工されているので、これを疑惑せねばならない。我々は、報告書のウソを見破らねばならない。第2原則は、核心を衝く情報が他の情報で撹乱されることである。これを精査し、本筋情報を繋げていかねばならない。第3原則は、重要情報が隠蔽されることである。これを許さず全ての情報を開示させねばならない。第4原則は、マスメディアを使って興味本位方向に誘導され、それは決して事件の真相解明に向かわせないことである。我々は、マスメディアの情報操作に騙されず、あくまでも事件の真相を粘り強く追わねばならない。 JAL123便墜落事故に関する情報を分析すると、これらの4原則にぴったりと当てはまる。こういう場合の「れんだいこ常法」として、まず信頼するに足りる情報を見定め、これを芯として追跡して行くことにする。まずは情報の見定めが能力である。ここが狂うと、以下論旨を幾ら展開しても却ってこんがらがってくる。 れんだいこは既に「宮顕の党中央委員査問致死事件考」を手掛け、スパイを摘発したと云う宮顕側こそ真性のスパイであった、日本共産党は戦後も1955年の六全協以来、この系譜に党中央を占拠されており今日まで続いているとの逆真説を獲得した。田中角栄を研究することにより、角栄が「諸悪の元凶」どころか「戦後左派運動側の無能を尻目に、偽装保守となることにより政権奪取した元来は左派系人士であり稀有の有能政治家であった。と云うか左派とか右派とかの仕切りでは評し得ない土着縄文系の能力者であり、現代版大国主の命であったと評されるべきである」との逆真説を獲得した。南京大虐殺事件は、ナチスのホロコースト事件同様にネオシオニストに都合の良い反戦平和論を生む出す為のフレームアップであるとの逆真説を生みだしている。その他その他。これらの考究の経験を生かすことにする。 「論より証拠」と云う諺がある。これは、凡百の推理論より一つの証拠主義の是を云うばかりではない。もう一つ裏意味が有り、口先のあれこれで優劣を競うより、後に見えて来た諸事象の姿形を見て元に戻って判断せよと云う意味合いを含んでいるように思われる。そういう意味で、事件後何が起こり何が変わったのかを見る方が良い。後付けになるが、先決めよりはよほど正確な判断を得るであろう。 この線から追うと、「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」の一ケ月後にバブル経済に繋がる「プラザ合意」が為されていることは注目されるに値しよう。「プラザ合意」以降、日本の国富が天文学的にむしり取られることになったのは事実である。「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」と「プラザ合意」の因果関係を窺う説は既に出されているが、説得力があるように思われる。これが本筋ではなかろうか。一見関係ないように思われるが案外繋がっていると云う事は時にあることである。 「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」は、その後の中曽根政権の政策と深く関わっていると考えられる。ここに本件事故事件の重要性がある。この因果関係において、中曽根首相は蚊帳の外に置かれたのではなく積極的な役割を果たしているように思われる。或いは脅された側かも知れない。どちらにせよ、中曽根首相がどう対応したかが問題である。危機の時にこそ、その人の本性、能力が顕われる。かの時の中曽根首相の対応ぶりの拙劣さが後に脅され、何らかの迎合政治を余儀なくされたと考えられなくもない。そういう意味で、「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件」は中曽根政治のアキレス腱になっている可能性がある。但し、これは、事件の間接的真相である。 事件の直接の真相を廻っては三説あるように思われる。一つは、海上自衛隊の演習上のミスによる123便尾翼損傷を奇禍としての事故隠蔽工作説である。山崎豊子著「沈まぬ太陽」始め事件不可解派の多くが、この説に傾いているようである。しかし、この説を採ると、後で述べるグリコ・森永事件犯暗殺説と繋がらない。れんだいこは、グリコ・森永事件犯の方を本ボシと見るので、この説は採らない。仮に採るとしても、「演習上のミス説」ではなく「意図的故意の尾翼攻撃説」となる。 もう一つは、国家的頭脳であった洗脳専門家の塚原仲晃(つかはらなかあきら)教授の暗殺である。これについては分からない。と云うか疑問である。一体、どんなに裏事情があるにせよ、一教授暗殺の為に520人をも巻き込む航空機全体の爆殺なぞするだろうかという思いが強い。 もう一つは、グリコ・森永事件犯の暗殺である。この説は説得力がある。なぜなら、日航123便にグリコ・森永事件犯に企業恐喝されていたハウス食品の浦上郁夫社長が搭乗し帰らぬ人となったのは事実であり、123便墜落後、グリコ・森永事件犯の動きがピタッと止まったのも事実であるからである。如何にも因果関係がありそうではなかろうか。 123便にはグリコ・森永事件犯の主役「キツネ目の男」も搭乗していたとの説がある。123便でハウス食品社長と最終取引する為に同乗していた可能性が云われている。この機会を捉えて、123便爆破と云う荒業で処理したのではなかろうかと云うことになる。では、なぜ、そのような荒業をしてまでグリコ・森永事件犯を抹殺する必要があったのか。このことは、森永事件犯が単なる刑事事件犯ではなく政治犯でもあったことを窺わせることになる。犯人側から見て敵であったのか、仲間であり用済みとして始末されたのか、どういう奥行きがあったのかは分からないが。時間が有れば今後追跡して行きたいと思う。 れんだいこの仮説はこうである。どういう経緯と理由でグリコ・森永事件犯が登場したのかは分からない。とはいえ、時の中曽根政権の面目が丸潰れにされる形で愉快犯的な事件を連続させており、中曽根政権は何としてでも犯人一味を検挙せよと指令していた。こういう背景に於いて、国際金融資本系諜報機関が、日航123便にグリコ・森永事件犯の主役「キツネ目の男」が搭乗していることを逸早くキャッチし、日本政府に始末を要請した。中曽根政権―自衛隊最高司令部は了承し、自衛隊戦闘機に命じて尾翼に最初の一撃を加えた。これで日航123便は墜落する予定であった。予定地は海上であった。なぜなら、証拠品が全て海の藻屑となるからである。 ところが、123便は類まれなる名操縦で乗り切った。そればかりか、交信により横田基地へ向かおうとした。しかし、着地の仕方で大惨事が予想されることと、何より123便撃墜の真相が明らかになることを恐れてか拒否された。123便ピットもうすうす気づいており、わざわざ敵地に乗り込むことを望まず羽田へ向かい始めた。これに慌てた中曽根政権―自衛隊最高司令部はミサイル攻撃を指令した。これを受けて戦闘機3機が123便の廻りを周回し始め、長野―群馬県境の山岳地へ誘導した。この間、ピットと横田基地、ピットと戦闘機とは相応のやり取りが為されている筈である。ボイスレコーダー非公開の秘密はここにあるのではなかろうか。今後仮に公開されたとしても改竄を疑わねばなるまい。最終局面で、戦闘機はミサイル攻撃でトドメを刺した。二発撃ちこんでいるとの説が有る。 123便ピットは、山中墜落必至を覚悟した。その中でも最も生存者が出る可能性の強い地形を探し出し、名操縦で御巣鷹山(群馬県多野郡上野村)の尾根に激突した。と云うか「胴体着地」した。この時点では、搭乗者の多くの者が生存していた。犯行側は秘密部隊を現場へ逸早く乗り込ませ、戦闘機攻撃、ミサイル攻撃の証拠品を回収させた。手間を取らせたコツクピット内の操縦士を焼き尽くした。グリコ・森永事件犯を割り出し死の儀式を執行した。或る遺体は黒こげだったと云われている。主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化しており、遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)は、概要「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。二度焼きしたような状況だ」と証言している。 このひと仕事が終わるまで捜索隊が上らぬように墜落現場を錯綜させ混乱させた。放射能説を流し足止めさせた。全員死亡を確認して現場を立ち去った。これが真相ではなかろうか。してみれば、4名の生環者は奇跡の僥倖であったと云うことになる。或いは女性と云うことでターゲットから外されたのかも知れない。 この一部始終で官邸が胡散臭い立ち回りをしており、中曽根政権はユスリのタネを持たれたのではなかろうか。こう解くと、中曽根政治の本質とその後の一連の流れが整合的に理解できるようになる。但し、これは現段階での推理である。この事件に関わって亡くなった多くの方々の無念は未だ晴らされてはいない。一応これで第一次検証を終えることにする。 「1985日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故事件考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/zikenzikoco/kokuzikoco/osutakayamazikenco/top.html) 2010.8.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評783 | れんだいこ | 2010/08/22 20:56 |
【2010.9.14民主党党首選考】
2010年の盆明けと同時に民主党党首選の火蓋が切って落とされた。「9月1日告示―14日投開票」の日程で行うことが決まっている。既に菅首相が続投の意思表示しており、対抗馬は誰かと云うことになりつつある。衆目の推すところ小沢前幹事長であろう。他の候補では菅政権の続投を許すことになり、小沢が出ざるを得ない。原口一博総務相はその後を窺うと云うことになろう。この次第はあと数日ではっきりしよう。 マスコミが例によって、日本の為にならない方向で論陣を張っている。各社ともなべて「首相が一年に三人も替わる痴態をしてはならない」などとの愚見で菅続投をエールしている。首相が一年に三人も替わらざるを得ないような政治そのものが痴態なのであり、首相が替わるのはその結果に過ぎないと説かず、上述見解をぶつと云う事は、マスコミを支配している国際金融資本ネオシオニズムの指令が菅続投を欲していることを示している。これを思えば、日本の為にならない論陣を張り続ける御用聞きマスコミの政権交代を目指さねばならないと云うことになる。出でよ和製アルジャジーラ放送局よ新聞よと云うことになる。れんだいこは既に何度も指摘しているのだが、その気配が伝わらない。 さて、小沢が出るとして、小沢派は何を闘おうとしているかの解析をしておかねばならない。れんだいこの見るところ、最も分かり易く云えば「大人の政治」に戻そうとしていると云うことになる。れんだいこの見るところ、日本政治はロッキード事件で田中角栄-大平正芳の鉄のブロック政治同盟が掣肘されて以来、三木―福田―中曽根系シオニスタン政治に転換することにより大人の政治から子供の政治へ堕してしまった。これに応じて日本の国際的地位が地盤沈下し始め、今では極東アジアにおいてさえ中国には無論のこと韓国にも追い抜かれ後塵を拝する始末になっている。小沢派は、この通史的危機感を持って日本政治の大転換を求めている。こう捉えるべきであろう。 このままでは日本は融解させられてしまう。否、既に九分型ワシ掴みされているのだけれども、残る一分の望みに希望を繋いで日本政治の打開から始めて経済再生、文化、精神の振興へと向かおうとしているように思える。ロッキード事件以降が反動型文化大革命であったとしたなら、反反動型文化大革命即ち否定の否定により日本のあるべき姿を再構築せんとしているように思える。これは小沢派だけにできるのではない。日本人民大衆が改心して本来の能力を取り戻す意思と能力が有りや否やが問われている。この結節点が来る2010.9.14民主党党首選の意義である。ここは小沢が出張るしかあるまい。 これを阻止せんとする売国派即ち国際金融資本ネオシオニズムのエージェント派の云い分は、「政治とカネ問題」で刑事被告人にされる恐れのある小沢を首相にするのは如何なものかと云う論法である。これで鬼の首を掴まえた気分になっている。こういうシオニスタンに告げておこう。その昔、イエスは云った。イエスがエルサレムに乗り込んだ時、律法学者やパリサイ派の面々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」とイエスを試そうとした。 この時のイエスの御言葉である。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。律法学者たちやパリサイ派の面々がしつこく問い続けた。イエスは身を起こして宣べられた。「あなたたちの中で、心の中でさえ姦通の罪を犯したことのない者が居れば、その人たちがまず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、最後にイエスひとりと真ん中にいた女が残った。 新約聖書では「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、最後にイエスひとりと真ん中にいた女が残った」となっているが、我が日本の政界では通用しないらしい。それならばと女に石を投げ始めた構図になる。しかしながら、聖書の記述の方に味わいが有る。なぜなら「心の中でさえ姦通の罪を犯したことのない者」は居ないだろうからである。してみれば、無作法にも石を投げ始めた連中とは何者か。要するに、カネで買われた雇われであると云うことになろう。彼らはそれがお仕事なので、正しいとか正しくないのはどうでも良い。しかし、こうなると、幾ら紳士ぶっていても、心の中は鬼畜そのものと云うことになろう。聖書は、そういう者の為には書かれていないので、「恥じて一人一人去った」とある。 日本のマスコミ人がこの程度のことを知らない訳がなかろうに、小沢前幹事長に対し相変わらず石を投げ続けている。ところが世の中面白い。野中元幹事長が「機密費バラマキによるマスコミ人の言論買収」を証言した。いわゆる「言論とカネ問題」が発生した訳であるが、滑稽なことに日本マスコミ界はこぞって未だにダンマリしている。これにより、「言論とカネ問題」で弁明できない者が「政治とカネ問題」で説教し続けると云う痴態が罷り通っている。恥知らずも程度が深まればバチ当たりになろうぞ。 普通の者なら、れんだいこのこの諭しで改心する筈なのだが、今日びのマスコミ人士は国際金融資本ネオシオニズムに飼われたシオニスタンばかりなので、カエルのツラにションペンで一時キョトンとするものの直ぐに元に戻る。カネと地位と権力と女をあてがわれたうま味がよほど忘れられないらしい。故に説法は無駄と云うことになる。故に、政界の政権交代の次には言論界の政権交代を目指さねばならないと云うことになる。これは人を替える以外にない。新しい人材を登用して、新風で旧弊を一掃せねばなるまい。これを回天運動と云う。そう今こそ、この回天事業に向かうべきである。 では、何を目指すのか。これを確認しておく。れんだいこの見るところ、戦後政治史の深層は戦後ハト派とタカ派の抗争になっている。前者は土着型日本政治派であり、戦後憲法を評価し、この基本線で自由経済市場を守り、日本民族百年の計を図るという政治を良しとする。内治を重視する傾向にある。この政治の粋は池田隼人―田中角栄に見られる。後者は、戦後憲法改正を目指し、国際金融資本型世界体制に殉じることで日本民族百年の計を図るという政治を良しとする。外治を重視する傾向にある。この政治の粋は岸信介―中曽根康弘―小泉純一郎に見られる。色を出さない政治家は、ハト対タカの対決構図の適当なところを遊泳しているということになる。 小沢の有能さは、日本政治の底流がここで暗闘していることをキャッチしているところにある。その上で自らを戦後ハト派の系列に位置づけたうえで、自分の色を出そうとしているように見える。この小沢政治を、日共を代表とする日本サヨ運動派は自民党政治より悪質として目の敵にして政界追放を叫ぶことで知られつつある。しかし、それが通用するのは、れんだいこ以前までである。れんだいこ以降は、れんだいこが一人でも応戦する。小沢政治の方が、手前たちのニセ左派よりは随分マシな左派的要素を持っていると弁じて聞かせよう。角栄-小沢政治を糾弾する側こそが偽装左派であることを証して弁じよう。この眼で見ると、日共は政治上の重要な対決場面では決まって国際金融資本の意を挺して一定の役割を果たしていることが分かる。ここを突かない日共論はツマラナイ。 さて、そういう訳で、小沢が代表選に出るとしたなら、大人の政治に戻して日本政治を再出発させると宣言せねばならない。子供の政治は、菅政権の如く要職を自派の連中で固め、党内反対派を干し冷や飯を食わせる。大人の政治は人事バランスを心がけ、自派であろうが他派であろうが明日の日本を担う人材を見定め要職を経験させる。これを挙党一致体制と云う。日本政治はこのところ、これができぬ子供首相が相次いでおり、これが真の原因で首相交代を余儀なくされている。小泉首相以来はこれに加えて「政治の遊び人」ぶりが目立つ。これは、本質的に国際金融資本に飼われている人間に特徴的な軽率頭脳を示している。この点では、政権政権交代したものの鳩山、菅にも「政治の遊び人」ぶりが見て取れる。但し、人事の点では鳩山の方がまだしも公正であり、菅となると聞かん坊性を増幅しており、とても日本丸を運転する資質はない。 先の参院選では、菅首相は八百長選挙を仕組んだ。党の代表にして首相たる者が上から反党活動して選挙で惨敗し、これに対する責任を微塵も取らない。そのまま続投宣言している。消費税増税10%案を出したり引っ込めたりしているが、その政治論から見えてくるのは一事万事の軽薄さである。それは、去る日の市民運動のなれの果てであり、この程度のものでしかなかったことを証している。 民主党右派政治が、かくも国際金融資本に籠絡されているのかと愕然とさせられるばかりである。今や民主党の歴代代表鳩山、菅、岡田、前原のお粗末さは満天下に知られた。民主党の能力は次の世代にバトンタッチされねばならない。その繋ぎをするのが小沢であり、小沢を措いてはない。このことを確認すべきだろう。ことは首相問題にとどまらない、もっと大きな日本の将来に関わる話である。 であるが故に、国際金融資本側のあの手この手の妨害が鳴りやまないだろう。政財官学報司警の七者機関のシオニスタンどもが束になって第二のロッキード事件を仕掛けるだろう。しかし、これを撥ね退けて、押して進むのが政治闘争だろう。怯んでどうするぞ。幸い今はネットが有る。かの時のようには行かない。正義の為にはいつ死んでも惜しくない命知らずの者が居る。共に情況をこじ開けよう。 2010.8.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評784 | れんだいこ | 2010/08/24 21:55 |
【2010.9.14民主党党首選考その2】
9.14民主党代表選に向け再選を目指す菅派連合が動き出した。菅派は、「脱小沢」を旗印に合同選挙対策本部を週内に発足させる。一方、小沢派は26日にも出馬を正式要請する。樽床伸二国対委員長や海江田万里衆院議員の名前も取りざたされていたが「菅対小沢」に収斂されつつある。代表選はいよいよ激闘モードに突入してきた。小沢の出馬確認を経てコメントしたかったが待てない。れんだいこは出馬宣言に安堵したい。労働意欲に関わるから頼むぞ。何とか経済を立て直してくれ。小沢―亀井派による政治にしか期待できない。 小沢出馬を前提とすると、9.14民主党代表選は民主党分裂を覚悟した壮絶な権力闘争が予想される。久方の政界版「仁義なき戦い」が始まりそうな気配である。小沢首相誕生となれば党内シオニスタンの一斉離党による政界再編が目論(もくろ)まれている。但し、シナリオ通りに運ぶかどうかは分からない。案外引きとの手がなく往生することもあろう。つまり踊らされている。とはいえ、「仕組まれた民主党分裂」は仕組まれている故に止めることができない。 云えることは、菅派連合には目下の日本閉塞情況をこじ開ける力はないということである。現代世界を牛耳る国際金融資本に御用聞きするしか能がない連中なので、自力再生の際には使いものにならない。改心を期待するのも無理と云うものだ。政界から足を洗い、一介の労働者として勤務し始めることを望む。そうすれば、日本労働大衆の辛吟が初めて骨身にしみようぞ。以下、各種情報を参考にしながらここまでの動きを確認しておく。 8.20日、党内シオニスタン筆頭の前原派が、港区赤坂のホテルで50人規模の会合を開き、菅続投を申し合わせた。他方同日、親小沢派の樽床国対委員長、三井弁雄国対委員長代理ら「七人の侍」も会合も開いた。幕末の志士・坂本龍馬を意識したと思われる土佐料理店に集結し、「小沢一郎さんじゃないと、ここは乗り切れない。最終的には輿石会長に一任しましょう」と確認している。 8.22日、菅首相は、地元の東京都府中市の大国魂神社を参拝、玉ぐしを奉納。参拝後、記者団に「首相になった報告に参りました」と説明するだけで、「代表選の必勝祈願か」との問いかけにはダンマリを貫いた。「参拝で戦闘モードにスイッチが入った」と評されている。 8.23日午前、菅首相は、衆院議員会館事務所で新人議員18名と懇談し、「1年間では、自分たちのやっていることがすべてできない。3年間はしっかりやらせてもらいたい。3年後に(参院選との)ダブル選挙でやればいい」と述べ、首相の衆院解散権をちらつかせながら、他方で早期の衆院解散に脅える新人議員の不安感を払拭する甘言を弄した。 「支持基盤のない新人議員を萎縮させるようなやり方は卑怯」(鳩山由紀夫前首相側近の中山義活前首相補佐官)との批判にも馬耳東風のようで、新人議員囲い込みに露骨に乗り出した。新人議員懇談は、23日を皮切りに6回にわけて25日まで開催する予定で、招待した計157人のうち3日間で計100人程度の参加を見込んでいる。菅首相の求心力が試されているが、どうせこれもシナリオ通りの振り付けだろう。 菅首相支持陣営の動きは次の通りである。8.23日午後、菅グループ「国のかたち研究会」(座長・江田五月前参院議長)は、東京・永田町の憲政記念館で国会議員33人による事実上の決起集会を開いた。首相自身は姿を見せなかった。江田前参院議長は、「国民は(政権獲得から)3人目の代表を選ぶどんちゃん騒ぎの代表選を望んでいない」と述べた。集会後、記者団に対し「首相は今週末か来週に正式に出馬表明するだろう。それを受けて来週、首相を支持する(菅、前原、野田の3グループの)合同選対を設ける」と語った。菅を出自の岡山グループが支えているが、そういう地縁結合は政治の遊びでしかなかろう。 菅再選に向けて党内シオニスタン衆が蠢いている。民主党内シオニスタンを確認する絶好機会であり、これを確認すると、主なところで仙谷由人官房長官、枝野幸男幹事長、岡田克也外相、前原誠司国土交通相、野田佳彦財務相、玄葉光一郎内閣府特命担当相、蓮舫行政刷新担当相、小宮山洋子財務委員長、最高顧問の渡部恒三等である。どういう媚薬を嗅がされたのか、ここにきて系譜的には小沢派の藤井裕久、石井一が官続投派に転じている。菅、前原、野田の3派連合で約100人規模となる。 菅派は、検察による小沢前幹事長ハガイ締めを助っ人にしている。政治資金規正法違反容疑について検察の暴走を咎めるのではなしに、露骨に“口撃”を開始している。岡田外相は、「起訴される可能性のある方が、代表・総理大臣になるということに違和感を覚えている」、7.29日のTBS番組収録でも「まだ1カ月の政権を代えることがどういう意味を持つか考えた方がいい」、「(首相が短期間で代われば)日本の存在感が小さくなりかねない」と発言している。 野田財務相も7.30日の記者会見で、「トップがころころ代わることは不安定につながる」と発言している。8.18日、自派の会合で、「わたしはもう、すでに菅総理続投支持をお話をしてますんで、ほかに誰が出てくるかわかりませんから、対立軸を設けるとするなら、そのあえて戦う人の側が、まず第一義的に、その説明をすべきだろうと思います」と発言している。 蓮舫が出席発言し、「民主党に求めていただいたのは、クリーンな政治、その国民の声をわたしは無視できないと思ってます」、「代表選があること自体は歓迎したいと思うが、もしここで仮にまた代表・首相が代わるとなると、個人的には(解散)総選挙が筋だと思っている」、「総選挙になった場合は10月末に予定されている特別会計の事業仕分けにも大きな影響が出る。その影響を最小限に抑えるためにも、菅首相を支持したい」と発言している。衆院解散をチラつかせながら官続投を支持せよなる論を展開している。れんだいこは、この発言により、最終的にこ奴を見限る。さしづめ小泉政権時代の小池の如き役割をしているが、行き過ぎた迎合は、潮がが変われば後でその分人より多めに恥を掻くことを覚悟しておかねばなるまい。 「ニセ黄門」で知られつつある渡部元衆院副議長も、露骨に反小沢攻撃に加担している。これを確認しておく。この御仁は手前が数多くの疑惑履歴を持っているにも拘わらず、それには口をつむったままこう述べている。「小沢氏が首相になれば、指揮権発動よりもっとひどい疑惑隠しになる。しばらく休んでいろというのが国民の声だ」。8.21日、テレビ東京番組に出演し、「(小沢が)首相になると検察は小沢氏を起訴できなくなる。彼が今、首相になるというのは悪いことをした人間を政治がかばうことになる」、「55年体制の政治家はだんだん引退していい。小沢氏は最高顧問にでもなってもらえばいい」。子供騙しの弁で弁じているが、これが早大雄弁会で鍛えた舌のなれの果てである。 鳩山前首相が長野県軽井沢町で開いた懇親会に小沢が出席し共に「気合い」を入れたのに対しても、「(同党議員約160人が集まったことにについて、小沢氏への)ごますりで恥ずかしい。大邸宅の別荘で『国民生活』なんて言っても滑稽だ。昔の自民党の悪いことばっかりまねしている」と批判した。小沢一郎前幹事長に対して、「たった1人が諸悪の元凶だから、この人がいなくなればすぐ挙党一致できる。党を分裂させている元凶が『挙党一致』なんて(言うのは)こっけいな話だ」と語っている。代表選に小沢氏が出馬した場合については、「国民世論を無視した結果は出ないと私は確信している」と述べ、菅直人首相の再選は動かないと強調している。 この渡部恒三について一言しておく。渡部恒三は、1969(唱和44)年の第32回衆院総選挙で、羽田孜、小沢一郎、梶山静六、奥田敬和、高島修、佐藤恵、石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治らと共に初当選している。これを角栄チルドレン「44年組」と云う。他派系同期に浜田幸一、森喜郎らがいる。この時、渡部恒三は公認漏れし無所属で立候補し、「会津のケネディ」(「ワタスは東北のケネデイダす」)を自称して初当選した。 その後自民党入りし田中派に所属することになるが、時の田中幹事長は、公認しなかった不明を詫びたと伝えられている。しかし今になって思うに、渡部を公認しなかった田中角栄はやはり慧眼だったのではなかろうか。はるか昔に渡部恒三のニセ黄門化を見抜いていたのではなかろうか。他方、小沢を愛でた。次のように評している。「小沢一郎はいい。黙々として、人の為に汗を流している。愚痴は言わない。こういう奴が伸びる。陰で人の為に黙々と汗を掻いている。弁解をしない。地位、肩書きにも拘泥しない。『カミソリ』ではなく、『大ナタ』の魅力がある。こういうのが総理になる器なんだ」。この言は、渡部恒三への当てこすりかもしれない。そう思うと可笑しい。 8.23日、西岡参院議長がイナゲな発言をしている。政党会派を離脱中の議長が政党の党首選に言及するのは極めて異例だ。こういう時には注意を要する。国会内で臨時の記者会見を開き、9月の民主党代表選に関し次のように述べている。「(首相に)対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。首相を蹴(け)落とそうとするのだから、敗れた場合、敗れた場合の立場は惨めでなければ理屈に合わない。党を去ることも選択肢に入る」、「敗者に党の要職や閣僚ポストが与えられる仕掛けは茶番劇だ。政権政党が甘っちょろい党内の陳腐な就職運動劇をしている余裕は断じてない」と指摘した。 この発言に対し、「政府・民主党役員人事での処遇を期待した候補擁立の動きをけん制したものと見られる」などとピンボケ評論されているが、小沢擁立の動きに対する露骨な牽制発言であろう。これを逆読みすれば「心して掛かれと云う裏からの厳しい激励」と読めなくもないが、普通にはドウカツであろう。発言する必要のない立場の者が敢えて発言しているところが臭い。 これに対し、小沢派の動向は次の通り。あまり伝えられていないが透けて見えてくるのはこうである。 8.14日、民主党の小沢前幹事長側近として仕えた高嶋良充前参院幹事長、佐藤泰介前参院総務委員長らを慰労する会が、小沢氏の主催で京都市内の料亭旅館で開かれた。「今、勝負しなくても、菅政権は来年春には行き詰まる。その時に小沢さんが出ればもっと支持は集まる」発言に対し、小沢はこう言い切った。「正々堂々と戦うのなら、9月の代表選しかない」。小沢は、8.19日、長野県軽井沢町での鳩山グループのバーベキューパーティーに参加し、小沢―鳩山連合による挙党一致体制の確立を確認した。但し、例によって鳩山前首相は両マタ戦術に出ている。当人は一旦は次期衆院選に立候補しない旨声明しているので気楽であろうが、残された鳩山派の面々はそうは行くまい。党内情勢のメを読み取るのに懸命になっていると窺うべきだろう。 この間、山岡賢次副代表が小沢出馬に向けて精力的に根回ししている。8.24日、小沢は、都内の個人事務所で党所属議員らと面会し、桜井充政調会長代理に対し次のように述べている。「せっかく政権交代したのに、このままでは国民の信頼を裏切る」。永久革命論をぶったことになる。但し、代表選への対応については言及しなかった。8.25日、小沢前幹事長が「小沢一郎政治塾」で講演する。小沢待望論がある中で、どのような発言をするかが焦点となっている。「一新会」のほか衆院当選1回の「一新会倶楽部」のメンバーも参加する予定。山岡副代表は26日にも、同氏に出馬要請するとしている。 他の閣僚の発言を確認しておく。原口総務相は、8.22日、佐賀市内での民主党佐賀県連の会合で、「民主主義の原点を踏み外した発言をすべきではない。推定無罪の原則が民主主義の鉄則だ」と語った。検察審査会の議決を控えた小沢一郎前幹事長の立候補に問題はないとの考えを示したことになる。岡田外相の「起訴される可能性がある方が代表、首相になることには違和感を感じている」発言に対する反論になっている。8.24日、CS番組収録で、「自分が出る資格もないし、闘うタイミングでもない。総理(の職務)はもっと上の世代にしっかりとやってもらいたい」と述べ、自らの出馬には慎重な姿勢を示した。菅直人首相を支持するかどうかについては「まだ代表選の構図がない」として明言しなかった。 総務相はまた「地域主権などの改革の道筋を示しており、僕はこれを実行しなくてはいけない」と述べ続投に意欲を示した。「誰か特定を排除したりしていれば、自民党さんのときの政権がまさに派閥抗争で崩れていったのと同じ運命をたどる。誰かを排除して、何かをやれるような、まだ体力はない」とも発言している。原口の対応にいつも感じることだが良識的である。松下政経塾上がりとしては異色の大器の気がする。今後、ネオシオニズムの甘言に捕まらないことを祈る。 山田農水相は、「『政治とカネ』の問題で出馬できないことはないと思っております」と述べている。れんだいこは、山田農水相の先だっての防疫対応には釈然としていないが、この見解は至極真っ当なものである。 2010.8.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評785 | れんだいこ | 2010/08/26 19:18 |
【「小沢遂に起つ」考】
2010.8.26日、小沢が遂に「起った」。最後まで優柔不断ぶりを見せていたが、この日午前の鳩山事務所での小沢-鳩山会談で、「前日の鳩山―菅会談」の報告を受けた直後、意を決したようである。菅首相サイドの高飛車な態度が、伝書鳩交渉の任に就いた鳩山前首相の態度まで硬化させ、小沢の決意を誘引した模様である。読みの甘い菅首相は今のところカラ元気を見せているが追って総スカンを喰らうであろう。これを予言しておく。伸子夫人よ、早く菅を官邸から連れて帰れ。 さて、「小沢起つ考」に入る。小沢は遂に民主党代表取り、首相取り決選に向かった。これを史上に例えると西南の役に於ける「西郷起つ」に匹敵しようか。かの場合には、西郷ドンは幕末維新の如く知略尽した獅子奮迅の働きをせず、単に神輿に乗り戦地に向かった。そして勇戦の挙句散った。敢えて負け戦にした気がする。それは、日本の植民地化を虎視眈々と狙う国際金融資本帝国主義の策謀を見抜き、内乱の危機を回避した為と思われる。故に、全国の志士を糾合し死闘戦に持ち込めば勝てる戦を勝たずに「滅びの美学」に殉じた。れんだいこは、そう解釈している。しかし、やはり西郷ドンの「滅びの美学」は間違いだった。 その後の日本を見よ。西南の役後の日本は国際金融資本帝国主義にワシ掴みにされた。早速に好戦政策に向かわされ、幕末維新が指針させていたアジア圏の平和共存構想を粉々にした。朝鮮人、シナ人に対する蔑視はこれより増幅された。日本は養豚的に日本帝国主義化させられた。これに呼応する売国奴勢力が生まれ、地位と権力が与えられた。そして使い捨てにさせられる。 日本帝国主義は台湾、朝鮮を併合し、義和団事件鎮圧、シベリア出兵、中国大陸への軍靴の乗り入れ、満州建国、更なる中国大陸各所への侵略に向かう。次第に国家予算の過半を軍事に使うようになり、これを補うための軍事国債が刷られ、これをスポンサーするのが国際金融資本帝国主義と云う構図になった。その挙句に権益紛争となり第二次世界大戦に引き込まれ、日独伊三国同盟で対国際金融資本帝国主義戦争に向かうことになる。日本帝国主義は、遅咲きの大東亜共栄圏を吹聴してみたものの歴史的形勢利あらずで次第に戦局不利となり、敗戦を余儀なくされた。 この戦争をどう読みとるべきか未だ議論が尽くされていないが、はっきりしていることは、戦後、殊のほか日本軍の残虐非道ぶりが指弾され、逆に戦勝国側の非道ぶりは免責されると云う国際金融資本帝国主義サイドの「勝てば官軍式反戦平和論」ばかりが奏でられることになったことであろう。日本左派運動の反戦平和論もこの域を出ていない。それが証拠に日共の不破式第二次世界大戦論を聞いてみれば良い。民主主義対ファシズムの闘いであったと臆面もなく吹き続けている。この無茶苦茶な歴史観が訝られずに通用している。 だがしかし、全国各地の主要都市が空襲され、広島長崎には原子爆弾による市街地全面廃墟と云う状態から始発した戦後日本は奇跡的な復興を遂げた。それは世界の羨む日本民族の能力を証した。日本は続いて高度経済成長を迎えた。戦後日本の総路線である軍事にカネを使わず内治に励むと云う申し合わせに則り、公共事業による社会基盤整備を押し進めた結果の発展であり有能政治の賜物だった。この善政が、1970年代の田中角栄―大平正芳―鈴木善幸政権を最期に潰えさせられ今日に至っている。戦後善政の終焉は、国際金融資本帝国主義の策謀による。決して偶然だとか文明の爛熟によるものではない。 1980年代初頭に中曽根政権が登場し、「戦後の総決算」なる名目の下に反動が始まり今日まで至っている。この間の日本は、国際金融資本帝国主義にレイプされ続けていると看做すべきであろう。戦後日本が営々と蓄えた国富が順次むしり取られつつ今日に至っている。これに群がる売国奴こそ真の利権屋であろうが、検察のメスはここには向かわない。この手の真の利権屋が拡声器で利権批判をするものだから始末が悪い。女、子供には分からない政治の仕組みである。 既に国際金融資本帝国主義のエージェントと化している検察は、経済活動の派生的利権に対して殊のほかメスを入れる。マスコミがこぞってこれをエールする。この捜査はエージェント派には向かわない。土着型の戦後ハト派系政治家をターゲットにする。これにより内治主義の鏡であった官民共同式経済政策が大きく支障され奇形化されることになった。今日、過度の建前社会、規制強化管理社会が到来しているが、この奇形化の定向進化と看做すべきであろう。こうして、現代日本は、何をするにも息苦しい不自然な高度自殺社会になってしまった。役人が、期待されている本当の仕事をせずにお茶濁しの仕事に屋上屋を重ねる消耗な仕事に専念させられることになった。この悪弊が今日本全土を覆っている。 もとへ。かの時、西郷ドンが「滅びの美学」に殉ずることなく回天事業に向かい、あるべき日本を起ちあげていたなら、タラの話ではあるが、その後の日本は一味違っていたのではなかろうか。今日のような日本にはならなかったのではなかろうか。とはいえ、こういう夢想は何の意味もないので、実際に成ったところから発想しよう。よって、西郷ドンの話はお仕舞い。小沢ドンの話をする。小沢ドンは、「勝ちの美学」に向けて全力を尽くさねばならない。そして日本を再興せねばならない。これが、小沢ドンに与えられた歴史的使命である。仮に途上で暗殺されても政治家の本懐とすべきだろう。 小沢は、師たる角栄政治を乗り越えよ。かの時とは幾分か情況が違っている。しかし、角栄政治路線を継承するのが良かろう。まもなくマニュフェストが打ち出されるであろうが、内治重視を掲げ、公共事業を振興せねばならない。但し、要不要の精査を厳しくせねばなるまい。所要投資金額を適正化せねばなるまい。かの時と決定的に違うのは赤字国債の累積債務である。これに何とか英明に対処せねばならない。社会の冗費節減、民間活力の向上、地球環境整備に向かわねばならない。要するに健康な社会にせねばならない。在りし良き日の助け合い社会を再創造せねばならない。子供の政治を断ち切り大人の政治に再転換させねばならない。 ここまで書いて思った。「小沢が遂に起った」。それは良いのだが、いわゆる反動派がどういう汚い手を使って潰しにかかるのかである。既に御用マスコミの生態は満天下にしれるところとなっている。これがネット効果であろう。これにより、彼らの言論が狡猾になるのかと思いきや、バカ丸出しの御用弁論を余計にぶつと云う痴態を見せている。れんだいこの見るところ、野球やバレーや歌手上がりの政治が分からん者に発言の機会を与え、シナリオ通りの弁論をさせると云う芸風に転換しつつある。いずれテレビ局に猛抗議が始まるだろう。危機の時にこそ牙が剥かれる。つまり牙が見えてくる。事象、事件で見るのも良いし、誰がどの党がどう動き立ち回るのか見守るのも良い。友が友でなく、友でないものが友であったと云う逆様相も見えてくる。これらを興味深くウォッチしよう。 小沢が起ったことで、久しぶりに政治に活況が戻った。これが小沢効果であろう。日本政治に起こることは、政治のカタとしてアジアに波及する。当然逆もある。この注視の中で、小沢の王手が始まった。いや小沢は囲碁六段なので、ここ一番の絶妙のキリを入れたと云うところだろうか。麻雀で云えば役満をテンパッタと云うことになろうか。面白いではないか。固唾をのんで見守ろう。いやこの政局流動に参加しよう。時代と共に生きる、これほど生きている証はあるまい。 2010.8.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評786 | れんだいこ | 2010/08/27 19:36 |
【「燕雀の鴻鵠論を嗤う」】
「小沢起つ」の報を受け、志ある日本人民大衆は安堵し決意を固めたが、我らがマスコミ諸氏は頑迷が過ぎる。相も変わらず売文売弁呪文を繰り返している。8.26日付け朝刊では「起てない小沢」を揶揄し、小沢が起ったとなるやカエルのツラにションペンで、翌8.27日付け朝刊では何食わぬ顔して「刑事被告人容疑者小沢論」を振りまき叱責している。平素云うところの「報道の公正」をかなぐり捨て、燕雀( えんじゃく)式正義論を振りかざしている。これはペンの暴力ではなかろうか、許されることだろうか。確認すべきは、しかも各社各紙がなべて均一の反小沢論を唱えていることである。これは果たして偶然だろうか。。 れんだいこにはすぐ解ける。一つは、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義派の筋書き通りにプロパガンダしているに過ぎないと云うことである。つまり、マスコミ上層部は国際金融資本帝国主義派のエージェントで占められており、まともな評論をする意思も能力も持ち合わせていないということである。もう一つは、燕雀故の矮小正義論を奏でるしか能がない連中であるということである。この二要素が混ざってピンボケ評論、反動評論を垂れ流しし続けている。この習性は既に治癒し難しであり、我々が和製アルジャジーラ放送局、新聞を創り出さない限り処置できまい。 こういう連中が年収ン千万円を手にしながら駄弁を貪っている。これを逆に云えば、売文売弁の見返りとして高額報酬にありついている。この生態こそ不正義ではなかろうか。官僚の不正を批判するのも良いが、同じメジャーで手前らも計られねば不公平と云うものだろうに。マスコミ問題は、政権交代永続革命の或る段階で俎上に乗せねばなるまい。 それは何も政権交代革命を支持するとかしないのかを尺度にはしない。右であろうが左であろうが擁護派であろうが批判派であろうが構わない。肝要なことは、言論が真に言論足り得ているのかである。これを精査せねばならない。低レベルの言論にはそれに相応しい待遇でなければオカシイ。売文売弁で高給与待遇している不正を撃たねばならない。問われているのはまさしく「言論とカネ問題」であり、重みは「政治とカネ問題」と等価である。手前たちを自省せぬまま云いたい放題する精神はサモシイと云わねばなるまい。 そういう手あいの燕雀頭脳が、小沢代表選出馬の背景事情として、検察の訴追を免れる為に小沢が出馬したなる珍論を振りまいている。確認するだにバカらしいが、小沢は憲法75条の「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は害されない」の適用を求めて、御身保全の為に民主党代表になり首相になろうとしているなどと講釈している。 子供騙し論に過ぎないが、と云うより頭がオカシイのではなかろうかと思われるがシラフで説いているから可笑しい。これが日本ジャーナルの水準だと云うことになる。悪いことは云わん、今からでも遅くない、高給部分を返上するなり、れんだいこの推奨するカンパ先へ救援せよ。貧相評論―高給待遇は犯罪である。国際金融資本の言論買収政策である。 鴻鵠(こうこく)の志を知るには、その言、立ち居振る舞いをそのままに見るべきである。下手に己の甲羅に合わせて理解せぬが良い。同じ鴻鵠の士であれば自然に意が通じるものだ。そういう訳で、れんだいこが小沢の心情を確認しておくことにする。小沢は遂に西郷どんの心境に立ち至ったことについては既に述べたので繰り返さない。もう一つは、どうやら殉教の旅に出た感があるので、これを確認しておく。 小沢は、立候補声明前日の8.25日午前、東京・新宿の日本青年館で開かれた「小沢一郎政治塾」で約1時間30分講演した。塾生約60人、小沢グループの国会議員約50人を前に次のように弁じている。(日々坦々さんが全文書き起しが阿修羅で転載されており、読ませて貰った謝謝) 小沢は、恐らく訥々(とつとつ)と語りかけている。いきなり日本精神を掲揚している。右翼的な日本精神論に於いてではなく土着縄文的な日本精神論を語っている。現在の日本人の精神の荒廃、日本人の劣化を嘆じ、「自立した日本」の再確立の必要を説いている。これに関連して教育を重視、人づくりによるモラル、美徳の涵養を語っている。日本にはかって素晴らしい文化、社会があったことを指摘し、その毀損を憂いている。それは何も日本だけではなく、かってのアメリカ民主主義にもそのようなものがあったとも指摘している。 ここから話を次のように繋げている。「ぼくはまた、今度のね、オバマ大統領の、絶対黒人大統領なんかはありえないと思ってたアメリカ社会、黒人の大統領が誕生した。しかも、アメリカではケネディに始まってね、大統領暗殺の歴史も沢山あります。リンカーンもそうですし、だから、黒人が候補者に出たら必ず暗殺されるんじゃないか、という噂さえ事前にはずっとあったんですね。だけどこの危機にあたって、変化を強調したオバマ大統領を彼らは選んだ。現実、今、オバマ政権が言ったとおりやってっかどうかは別といたしまして、黒人の大統領をあえて歴史上はじめて彼らは選択した。私は、そういう意味でね、決してあまりアメリカ人を利口だとは思ってませんけれども、そういった意味での民主主義と、そして危機にあたっての国民の選択という自由な、自分の意思による選択というものが、きちんと実行されているということについて非常に高く評価をいたしておるところでございます」。 この発言は異例ではなかろうか。小沢は敢えて、アメリカ史に於ける大統領の暗殺に言及している。小沢にそう云わせた背景を忖度(そんたく)すべきではなかろうか。この弁は、小沢が暗殺される可能性、危険性を承知していることを示唆している。小沢は、それでも起った。 その他、第二次世界大戦時の捕虜の行動パターンに於ける日米英の兵士の差についてわざわざ論じ、映画「戦場に架ける橋」のイギリスの捕虜の毅然とした態度に言及し、「感動した場面でしたね」と述べている。イギリスとアメリカを採り上げお国柄を際どい表現を使いながら論じている。 小沢は、この講話で何を語っているのか。あるいは語ろうとしているのか。れんだいこには、今後の日本の在るべき指針を示唆したと理解する。それは「小沢一郎政治塾」参加者に対してだけでなく、小沢を注視している国際金融資本帝国主義の知恵袋と裏対話していると看做す。文明論を語ることで間接的に大人の付き合いをしようと呼びかけていると窺う。彼らは、尻尾を振って付いて来る者には上手にアメとムチを使うだけで敬意を払わない。尻尾を振らない者に対しては却って丁重に取り扱う習性がある。但し、容赦ならずとした場合には始末する癖がある。小沢は、このことを百も承知で、歴史に身を預けた感がある。小沢が起つまでの優柔不断は、この決意の確認の為に要した時間であろう。 こう窺うのが鴻鵠論である。それをよりによって、御身保全の為に首相になろうとしている論を得々と説くとは。穴が有れば入りたいでは済まないだろうに。仮に今後小沢が暗殺されたとしたらどうなるのか。燕雀は、御身保全を求めて首相になろうとして殺されたと揶揄するのだろうか。れんだいこは、「御身保全式代表選立候補論」を説く者に対して即刻辞職を命ずる。菅御一行様として最低三カ月のお遍路廻りを命ずる。頑迷にも治癒しない者には所払いを命ずる。 最後に確認しておく。小沢的有能にして初めて現代政治が執り行えるのであって、このところの首相のお歴々の頭脳ではとても立ち向かえないと云うことであろう。小沢は、1980年代以降久方の日本政治が生み出した頭脳である。現代政治家の囲碁棋力№1としての六段は伊達酔狂のものではない。三段程度の菅の頭脳の及ぶところではない。「暫く蟄居しておけ」なる言は無礼にもほどがあろうぞ。政治を弄ぶ者は政界から去らねばならない。日本にはそういう余裕がなくなっている。小沢と菅では格が違う。まずはこの確認から始めなければならない。 2010.8.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評787 | れんだいこ | 2010/08/28 12:23 |
【小沢再登場の合理性考】 2010民主党代表選が「菅対小沢の一騎打ち」になるや、マスコミの小沢パッシングが又一段と激しくなった。この連中は、「政治とカネ問題」を執拗に論(あげつら)うが、「言論とカネ問題」で買収供応されている国際金融資本エージェントであることが次第に周知されつつある。そう云う訳で「為にする批判」を繰り返しているのだからしてまともに付き合う必要はないのだが、これに誤魔化され一定の影響を受ける者も見受けられるからして、適宜な批判をしておかねばならない。 「御身保全式代表選立候補論」のナンセンスについては先のブログで言及したので、ここでは「蟄居した筈なのになぜ再登場したのか叱責論」について検討しておく。結論は、小沢は好き好んで再登場したのではなく、歴史的要請に応えて再登場したのだと回答しておこう。以下、簡略にこの流れを確認しておく。 鳩山首相は、政権末期に於いて各所に無能を呈示し、これでは参院選が戦えないとする党内ブーイングが強まった。それまで党務専念で政務に口ばしを入れないことを旨として来た小沢幹事長は、その圧力に押されて官邸に談判に向かった。その結果、ツ―トップ同時辞任となった。この流れを見れば参院選対策が主因であったことが分かる。後継した菅政権は「小沢的なるもの排除」を露骨化させ、それが支持率をアップさせるという形で出航した。この勢いで参院選を迎えたが、これに見事に勝利しておればツ―トップが再登場することもなかった筈である。 ところが、参院選に突入して菅政権が為したことは、何ら持ちだす必要のない消費税10%値上げ論であった。それは党内議論を経ぬままの官邸独裁の形で発表されプロパガンダされて行った。候補者は面喰い防戦一方を余儀なくされた。菅政権は党内ブーイングを受け底辺生活者救済に言及し始めた。が、あちこちで年収制限を云い換え、やれ300万円、350万円、400万円ボーダーライン説を飛び交わした。同じ口からのデマカセ発言であったが、果たして健忘症によりこういうチグハグ発言になったのだろうか。意図的故意のデタラメ発言と捉えるべきではなかろうか。これが有権者の怒りを誘った。昨年の衆院選では自公政権にお灸を据えるとした有権者は一気に民主党にお灸を据えることに転じた。これにより参院選挙は惨敗した。 この惨敗は、明らかに仕組まれたものであった。つまり、先の参院選は八百長選挙であった。なぜなら、消費税10%値上げ論の突如の持ち出し、年収ボーダーラインの次から次への云い換えが不自然過ぎるからである。民主党が負けるようにシナリオされ、菅首相がこれに乗ったと見るべきであろう。そういう目て見ると、鳩山は坊ちゃん政治であったが、菅はピエロ政治のように映る。鼻に大きな赤い玉を乗せ三角帽子を被れば似合いそうである。 しかも、菅政権は、選挙結果に対して何一つ責任を取らなかった。仮に首相引責にまでは及ばないとしても、せめて幹事長は責任を取るべきだった。仮に幹事長引責にまでは及ばないとしても、せめて選対責任者は責任を取るべきだった。仮に選対責任者引責にまでは及ばないとしても、せめて落選閣僚は交代させるべきだった。驚くことに菅政権は何一つ対応せず、あろうことにその舌で9月の代表選出馬を宣言した。菅の政治履歴にこういう醜態が刻印されたことになる。普通はオワである。 菅政権は、鳩山政権の命取りになった普天間基地移転案としての辺野古案に対してもあっさりと受け入れを表明した。2009衆院選公約のマニュフェストに対しても一たびは実現させ、後に軌道修正するのならともかくも、やらぬ前から早々と見直しを公然化させ始めた。こうなると一事万事であるからして、菅の約束は全てが空約束と受け止めざるを得まい。政治の不信極まれりではなかろうか。 この菅政治を見て、先に辞任したツ―トップが動き始めた。参院選対策として辞任した結果が参院選に敗北し、鳩山政権時には配慮されていた挙党態勢が壊されて片肺飛行化し、マニュフェストの改竄が公然化し始め、消費税10%値上げ論が出したり引っ込められたりする。菅政権登場以来3カ月を超すが、景気浮揚上の有効な政策の何一つが打ち出されず、官邸内で熱い議論がされている風もない。これを見て、党内が菅政権不信任の動きを強めたとして、それは健全であっても逆ではなかろう。故に、ツ―トップの再登場は致し方ないと受け止めるべきであろう。 この党内ブーイングの與望を担って小沢が遂に起った。かって一度は首相を掌中にしていたのを断った小沢が、こたびは迷いをふっきって政権取りに向かったことを意味する。これが今日までの経緯である。どこに叱責されねばならない謂われがあろう。政治をマジメに考える者なら等しくエールを送る話ではないか。これを逆に説き、我らを説教するマスコミの御仁とは何者ぞ。 マスコミは執拗に「政治とカネ問題」を持ち出し、小沢の失格性を論う。しかしながら、云われているところの秘書寮建設問題では検察が起訴できなかった。つまり、相当無理のあるコジツケ捜査であったことになる。ならばと得体の知れない勢力か告発し、検察審査会がこれを受け、マトモな議論を経ぬまま政局の節目ごとに起訴相当だの不起訴不当だのを出し続けている。つまり政治利用されている。マスコミ諸君は、この間の攻防書面を読解する能力がないのか、為にする批判であるから目を通す必要もないのか、相変わらず十年一日の如くの破れ太鼓式「政治とカネ問題」を吹き続けている。 検察以上に検察的に小沢疑惑を奏で続けているが、これは決してマトモではない。冤罪の可能性ある者を弁護するのではなく、冤罪承知で犯人扱いしようとしている。これが昨今のマスコミのペンの正義である。後世の史家がブゼンと判ずることになろう。これに関わった者はペンの責任を取れ、これがれんだいこの申し渡しである。この変態は、ロッキード事件以来の悪しき伝統であるというのが、れんだいこ史観である。以上、「小沢起つ」の歴史的合理性を説いたつもりである。 もう一つ、云いたいことを添えておく。れんだいこは、民主党の政権交代前の小沢、鳩山、菅の立ち位置について、漠然とながら左から見て菅> 鳩山> 小沢と見ていた。しかしながら、今はっきりしたことは、小沢> 鳩山> 菅だと云うことである。何の事はない、保守系の権化のようにみなされている小沢の方が左派的で、菅が一番右寄りと云うことが判明した。菅は鳩山よりも右ということになる。してみれば、1970年代の市民運動のベ平連運動とも違う形で発足した社民連運動は本質的に右派系市民運動であったということになる。今我々は、そのなれの果ての菅を首相として見ていることになる。どうでもよい御仁ではなかろうか。その菅が格別に登用している仙石、枝野にしても、仮に履歴上は左派系だとしても同じムジナのペテン連中と云うことになろう。 2010.8.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評788 | れんだいこ | 2010/08/29 11:15 |
【今度は「党内分裂必死論」にすがる菅派の狂態考】
2010民主党代表選に「小沢起つ」や、マスコミ蝿が批判のボルテージを一段と高くして今日に至っている。れんだいこは、彼らの論理を一つずつ解析し、その鉄条網をペンチで取り外している。一つは、「御身保全式代表選立候補論」である。彼らの弁に従うと、何と小沢は逮捕を免れたい為に民主党代表に挑み、一国の首相になろうとしていると云うことになる。れんだいこは、誰が好き好んで身の危険も構わず成りたがるかバカ者、ヨタ話もエエ加減二センカイと怒鳴り返した。「御身保全式代表選立候補論」は、小人は小人の関心でしか理解できない典型勘繰りであり、記念物にしておこうと思う。 次に、「蟄居した筈なのになぜ再登場したのか叱責論」に反論した。それは、菅政権が先の参院選で勝利し、その後の政局運営でもまずまずの合格点がつく場合の理屈であり、鳩山政権より酷い政治能力でしかないことが判明し、選挙敗北責任を何一つ取らず居直り、なお且つ政権にしがみ続け、政権交代時のマニュフェストを着手する前から反故にして痛痒を感じず、財政再建と云う名の日本経済破綻の道へ誘いこもうとしている時局がら、小沢が出ざるを得なかった合理性があると述べ擁護した。この見地を否定するなら誰か、参院選での消費税10%増税案の持ち出しの是非、選挙の敗北責任取らずの是非、政局運営能力の是非を論じて見よ。その論理を記念物にして展示しておこう。 次に、今頻りと囁かれている「党内分裂必死論」に棹さしておく。なるほど党内分裂は仕組まれているからして確かに予想される。但し、問題は、菅派が離脱するのか小沢派が離脱するのかの詮議にある。まず小沢系の下野が有るかどうかを推理して見よう。れんだいこが思うに、よほどのことがない限り小沢系の離脱はない。これを、あたかもあるように説くのがマスコミである。だがしかし、党内分裂が有り得るとしたなら菅系即ち党内シオニスタンの方である。既にそれらしきシナリオが漏洩されている。 しかし、この論法のオカシサはすぐ分かる。彼らは、2010民主党代表選に際し小沢出馬を挑発した。出れるものなら出てみよ、「政治とカネ問題」でハガイジメされている小沢は出られまい、仮に出てきたら容赦なく徹底的にいたぶってやると尊大に構えていた。ところが小沢が起つことになった。この報に接するや菅はカラ元気を口にしたものの、周りが途端に慌てだした。アングラ情報にしていた「離党対抗」の脅しを現実化せねばならない恐れが出てきたからである。頼りは検察―マスコミであったが役に立たなかった。小沢が起った以上もう振り子は戻せない。それでも「党内分裂必死論」が頻りに流されているのは最後のお願い、悲鳴でしかない。 しかし、どう考えても、公正堂々と勝負して負けたら離党するなる論は卑怯な駄々っ子論以外の何ものでもない。手前らの思い通りにならなかったなら捨て鉢になる、何でもアリと云うのは、みっともない話である。これは悪質な独裁者特有の我がまま論理であり、民主主義の敵である。そういうレベルの御仁が日本政治を預かっていると云うことになる。こうなると、そういう子供政治を打倒する為にも「小沢起つ」の正義が際立つことになろう。 仮に、菅派に結集したシオニスタン同盟が一斉に離党したとしてシナリオ通りには進まない。彼らの行き先が自民党へ行くのか、みんなの党へ行くのか、どこへ行くのか分からないが、こういう厄介者を受け入れる訳がなかろう。そこで政界再編成論が仕組まれる訳だが、それはそれで難事であり、梯子を外されることはよくあることである。ナベツネが得手としてきた手法であるが面倒見が悪いことでも知られている。かれこれ思えば、彼らには政権党を離脱してまでリスクを選ぶ胆力、能力はない。つまり、菅派は「党内分裂必死論」で「小沢起つ」を牽制し脅しているに過ぎないことになる。いわゆるキタナイ手を使っていることになる。云えば云うだけ男を下げ女を下げることになるが、そういうことさえ分からないほど操られている政界遊び人でしかないということになろう。 次に、「レンボウ式衆院解散論」を指摘しておく。この怪女は今頻りに菅政権擁護の詭弁を振りまいている。しかし、これも云うだけ品を落とすだけの話である。政局安定論を唱えて菅政権を擁護しているかと思いきや、代表選で菅首相が落選するや衆院解散当然論をぶって政局不安定論を説いていることになるが、こういうのを二枚舌と云う。レンボウ式政局安定論が見え見えのマヌーバーでしかないことを晒しているだけである。 この怪女は、鳩山政権時の事業仕訳で名を売ったが、やったことはやらなくても良かった仕事館とアニメ館を廃止し、その他将来有益な事業を狙い撃ちするかのように予算カットしただけのことである。一体、お前は誰の為に何の為に働いているのだと憤然とするのは、れんだいこだけだろうか。何を勘違いしてか既に大物ぶろうとしているが、お前の政治生命は終わった。これを託宣しておく。お前程度の口先女に政治を任せる訳には行かないのだ。小泉の小池に匹敵する菅のレンボウと位置づけ銘記しておこう。 さて、次に何があったかな。「政治とカネ問題」では、檀公善氏の「小沢真っ白、100%冤罪、検察審査会に大打撃。石川・大久保・池田各氏も完全無罪-収支報告書を徹底検証」が名解析している。(ttp://www.asyura2.com/10/senkyo93/msg/316.html) それによれば、「陸山会の報告書には不記載も期ずれも虚偽も無い。形式犯でも微罪でもなく、白より白い真っ白なの」とある。メディアマスコミの自称インテリは、この解析を読解できないのだろうか。その程度の頭脳が延々と小沢叩きに興じているとしたら、そのサマは狂人変質者のそれであろう。というかミジメな雇われ売文売弁しているに過ぎないことを示している。ペンを折れと申し渡しておく。 さて、これで一応鉄条網を外した。後は正々堂々と2010民主党代表選が演ぜられることを願う。菅に残された道は急遽汚い裏取引を申し出る可能性だけである。しかし、その機会は失った。だから云わんことではない、人を追い詰めるにもほどほどにしておかねば。権力の尻馬に乗って党内の同志を叩くのはエエ加減にしておかねば。余りにもゲスな振る舞いであり品が悪過ぎる。 いずれにせよ菅よ君では無理だ。政治ができず政局のみで遊泳する政治屋として自己形成してきたことを晒しているに過ぎない。悪いことは云わん、念願の首相になれたことを褒美として得心し、早く官邸から抜け出せ。お前の政治能力は僅か三ヶ月で食傷された。何事も引き際が肝心で跡立ちを良くせよ。濁してはならん。今度は長期のお遍路参りに汗を流せ。伸子夫人よ、連れて帰れ。それが良妻賢母の仕事だ。 2010.8.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評789 | れんだいこ | 2010/08/29 18:47 |
【新聞社説士のペンの責任を問う】 「小沢起つ」の報を受け、雇われ言論大砲ぶりを発揮しているペンの責任を問うことにする。「小沢起つ」前日の8.26日付け朝刊の見出しと比較してみたいが、その暇がないのではしょることにする。「小沢起つ」翌日の8.27日付け朝刊の見出しは次のようになっている。朝日は「小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない」、毎日は「民主党代表選 大義欠く小沢氏の出馬」、読売は「小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に」、産経は「小沢氏出馬 国の指導者に不適格だ 『政治とカネ』で信頼失った」、日経は「主導権争いだけの党代表選なら不毛だ」、東京は「国のかたちこそ争点だ」。その論説内容も酷似しており、衆院解散で民意を問えを基調にしている。これを論評する。 見出しだけで判断すると、読売の「小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に」が一番マトモだ。なぜなら「小沢氏出馬表明」で事実を伝え、「日本の針路を競う代表選に」で意見を加えると云う最も基本に忠実だからである。中身は別にして見出しから云えばこう云える。 他社のそれは全くナンセンスである。特に朝日の「小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない」が最もヒドイ。朝日論説士よ、一体君は何さまのつもりなのだ。政党の最高行事である党首選に出る出ないは政治家が判断する政治行為であり、マスコミに出よ出るなを意見する権限はない。読売の如く、こういう代表選にしてくれと意見を具申することは望まれているが、党首選に立候補することの是非まで意見するのはヤリスギだろう。そういう権限は誰も持ち合わせていない。戦後民主主義ではそういうことになっている。 してみれば朝日よ、君は何の権限で、何様のつもりで偉そうな口を叩けるのだ。越権甚だしい社説と云うべきではなかろうか。政策に口ばし入れるのは構わない。政治家の行動まで縛ろうとするなら、その言論の自由の大義について弁明して見よ。できぬなら筆を折れ。政治の世界は三権分立の上に成り立っている。四権目のマスコミだけがノ―チェックの云いたい放題と云うのは制度的欠陥ではなかろうか。どうチェックするのかは難しいが、こうお粗末だと何らかの規律基準が必要とされることになろう。 朝日は、「8.27日社説」の異常性に気付いたようである。翌日の「8.28日主説」の「菅VS.小沢―政策を競うのでなければ」で次のように訂正している。「しかしながら、小沢氏が人事で裏取引して立候補を見送ったり、傀儡(かいらい)の候補者を立てたりすることに比べれば、表舞台で正面から戦う方がまだしも、ましかも知れない」。そう、この観点ならまだしも許される。似たり寄ったりの見出しを掲げた毎日、産経には未だ問題の在りかが分からないらしい。なしのつぶてになっている。 繰り返すが、小沢氏が党首選に出る出ない自体について新聞社にとやかく云う権限はない。それが許され権限を持つとしたら天皇か検察だろうが、戦後民主主義では両者にも弁えを持たせており、そういう無作法はしない。してみれば、新聞の絶対権力者然ぶりが際立つ。弁えがないみたいである。これはかなり本質的なところで阿呆人種と云うことになる。 この手合いには云わねば分からぬようなので説いておく。新聞社説に望まれるのは、「菅対小沢の一騎打ち」となった民主党代表選について、まず報じ、次に各社が各社らしい論調で赤勝て白勝てを論じたり、お粗末さ、画期性、注文を云々することである。その点では、日本の新聞はもう少し特徴があった方がよいほどに平凡な均一論調になっている。反省すべきはこのことであり、あれほど攻撃したのに意に反して出馬したとして腹いせ紛れに小沢に罵声を浴びせることではない。 もし許されるとしたら、小沢氏に何らかの資格喪失事由がある場合であろう。いわゆる「小沢氏に纏わる言論とカネ問題」がこれに該当するとは思われない。なぜなら、法は等しく適用されねばならないからである。衆知のように小沢氏の場合には政治活動の入出金については政治資金収支報告書に正確に記載している。他の政治家のそれと比較しても手本のように書き分けていると云う。この言に疑問があるなら比較して見れば良かろう。 小沢氏の政治資金収支報告書が槍玉に挙げられるなら、収支報告書に記載していない政治家の場合にはどうなるのだ。鳩山の場合にはこれに該当した。しかし早々と免責された。こういう例は探せば五万とあるだろう。不記載が咎められず、記載した方が「天の声」まで詮索されて容疑者扱いされては法秩序が保たれない。検事の真っ当な部分が、これに頭を悩ましているのが実際である。専門家の検事が辛吟しているというのに、トウシロ―のペン屋が執拗に小沢攻撃をしているのは滑稽と云うより人間的な資質問題に関わっていると云うべきではなかろうか。 出馬批判が許されるとしたら、小泉の場合ではなかろうか。彼は、その履歴において学生時代に女子大生レイプ事件を引き起こしていると云われている。政治家になっても神楽坂芸者殺しが囁かれている。首相時代にプレスリー邸でプレスリーの真似をした後、イスラエルへ向かいユダヤ教徒の正装で嘆きの丘で宗教行為をしている。この重大案件のどれもが問題にされていない。小沢には執拗な癖に。森元首相の学生時代の買春事件は公にされたと云うのに。 小泉のような場合には資質資格の観点から彼の政治行為の一挙手一投足が論ぜられても良いかもしれない。しかしながら、そういう胡散臭い小泉に対して、その任期中、名宰相として持て囃したのが言論界である。これはどういうことか。その御仁が小沢となると途端に執拗にパッシングし続けている。狂っているのかカネと地位保全で売文売弁しているのかのどちらかであろう。 もとへ。ことほどさように言論界の醜悪さが満天下に知れ渡りつつある。これをどうすべきか、そろそろ問わねばなるまい。戦前、新聞社に勤めていた或る者はブンヤにだけはなるなと云い残して死んだ。それは、そういう汚い裏の世界を知り過ぎたからであると思われる。れんだいこの見立ては、昨今のブンヤは、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムに雇われたエージェントの陰謀的売国活動の引き受け手ではないかと疑惑している。 多くの者はそういう見地には立てないだろう。それは良い。れんだいこも、れんだいこの見地にまで至れとは申さない。必要なことは、言論界の歪みを正すことである。こたびのように民主党代表選への出馬そのものに対してイチャモンつけるような説教社説を許してはならない。分別がないこと激し過ぎるのではなかろうか。これは子供水準の言論ではなかろうか。政治の世界で子供政治が流行っており、それに釣り合うように言論界も子供言論が横行しているということであろうか。 昨年の政権交代はそもそも、こういう国の形を変えることを発意していたのではなかろうか。僥倖なことに絶対多数と云うべき300議席を越す大台が民主党に与えられた。これを何とかして突き崩したい、云うことを聞かない勢力としての小沢派が邪魔でしようがない。この意を挺して小沢パッシング、衆院解散を吹いているのが政界シオニスタンゴロである。これに呼応しているのがマスコミ界シオニスタンゴロである。 しかし、ネット社会においては動きが刻々と伝わる。お前たちの思う通りには事は運ばない。民族と国を売った者は追って身を蝕まれる。なぜなら、身体が不正を知っているからである。社説士よ、このところ胸の動機が異常ではないかな。 2010.8.29日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評789訂正文 | れんだいこ | 2010/08/29 19:05 |
【新聞社説士のペンの責任を問う】 「小沢起つ」の報を受け、雇われ言論大砲ぶりを発揮しているペンの責任を問うことにする。「小沢起つ」前日の8.26日付け朝刊の見出しと比較してみたいが、その暇がないのではしょることにする。「小沢起つ」翌日の8.27日付け朝刊の見出しは次のようになっている。朝日は「小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない」、毎日は「民主党代表選 大義欠く小沢氏の出馬」、読売は「小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に」、産経は「小沢氏出馬 国の指導者に不適格だ 『政治とカネ』で信頼失った」、日経は「主導権争いだけの党代表選なら不毛だ」、東京は「国のかたちこそ争点だ 菅・小沢氏一騎打ちへ」。その論説内容も酷似しており、衆院解散で民意を問えを基調にしている。これを論評する。 見出しだけで判断すると、読売の「小沢氏出馬表明 日本の針路を競う代表選に」と東京の「国のかたち」こそ争点だ 菅・小沢氏一騎打ちへ」が一番マトモだ。なぜなら小沢氏出馬表明の事実を伝え、「日本の針路を競う代表選に」(読売)、「国のかたち」こそ争点だ」(東京)で意見を加えると云う最も基本に忠実だからである。中身は別にして見出しから云えばこう云える。昔はこういう伝え方だったのではなかろうか。 朝日、毎日、産経のそれは全くナンセンスである。特に朝日の「小沢氏出馬へ―あいた口がふさがらない」が最もヒドイ。朝日論説士よ、一体君は何さまのつもりなのだ。政党の最高行事である党首選に出る出ないは政治家が判断する政治行為であり、マスコミに出よ出るなを意見する権限はない。読売の如く、こういう代表選にしてくれと意見を具申することは望まれているが、党首選に立候補することの是非まで意見するのはヤリスギだろう。そういう権限は誰も持ち合わせていない。戦後民主主義ではそういうことになっている。 してみれば朝日よ、君は何の権限で、何様のつもりで偉そうな口を叩けるのだ。越権甚だしい社説と云うべきではなかろうか。政策に口ばし入れるのは構わない。政治家の行動まで縛ろうとするなら、その言論の自由の大義について弁明して見よ。できぬなら筆を折れ。政治の世界は三権分立の上に成り立っている。四権目のマスコミだけがノ―チェックの云いたい放題と云うのは制度的欠陥ではなかろうか。どうチェックするのかは難しいが、こうお粗末だと何らかの規律基準が必要とされることになろう。 朝日は、「8.27日社説」の異常性に気付いたようである。翌日の「8.28日主説」の「菅VS.小沢―政策を競うのでなければ」で次のように訂正している。「しかしながら、小沢氏が人事で裏取引して立候補を見送ったり、傀儡(かいらい)の候補者を立てたりすることに比べれば、表舞台で正面から戦う方がまだしも、ましかも知れない」。そう、この観点ならまだしも許される。似たり寄ったりの見出しを掲げた毎日、産経には未だ問題の在りかが分からないらしい。なしのつぶてになっている。 繰り返すが、小沢氏が党首選に出る出ない自体について新聞社にとやかく云う権限はない。それが許され権限を持つとしたら天皇か検察だろうが、戦後民主主義では両者にも弁えを持たせており、そういう無作法はしない。してみれば、新聞の絶対権力者然ぶりが際立つ。弁えがないみたいである。これはかなり本質的なところで阿呆人種と云うことになる。 この手合いには云わねば分からぬようなので説いておく。新聞社説に望まれるのは、「菅対小沢の一騎打ち」となった民主党代表選について、まず報じ、次に各社が各社らしい論調で赤勝て白勝てを論じたり、お粗末さ、画期性、注文を云々することである。その点では、日本の新聞はもう少し特徴があった方がよいほどに平凡な均一論調になっている。反省すべきはこのことであり、あれほど攻撃したのに意に反して出馬したとして腹いせ紛れに小沢に罵声を浴びせることではない。 もし許されるとしたら、小沢氏に何らかの資格喪失事由がある場合であろう。いわゆる「小沢氏に纏わる言論とカネ問題」がこれに該当するとは思われない。なぜなら、法は等しく適用されねばならないからである。衆知のように小沢氏の場合には政治活動の入出金については政治資金収支報告書に正確に記載している。他の政治家のそれと比較しても手本のように書き分けていると云う。この言に疑問があるなら比較して見れば良かろう。 小沢氏の政治資金収支報告書が槍玉に挙げられるなら、収支報告書に記載していない政治家の場合にはどうなるのだ。鳩山の場合にはこれに該当した。しかし早々と免責された。こういう例は探せば五万とあるだろう。不記載が咎められず、記載した方が「天の声」まで詮索されて容疑者扱いされては法秩序が保たれない。検事の真っ当な部分が、これに頭を悩ましているのが実際である。専門家の検事が辛吟しているというのに、トウシロ―のペン屋が執拗に小沢攻撃をしているのは滑稽と云うより人間的な資質問題に関わっていると云うべきではなかろうか。 出馬批判が許されるとしたら、小泉の場合ではなかろうか。彼は、その履歴において学生時代に女子大生レイプ事件を引き起こしていると云われている。政治家になっても神楽坂芸者殺しが囁かれている。首相時代にプレスリー邸でプレスリーの真似をした後、イスラエルへ向かいユダヤ教徒の正装で嘆きの丘で宗教行為をしている。この重大案件のどれもが問題にされていない。小沢には執拗な癖に。森元首相の学生時代の買春事件は公にされたと云うのに。 小泉のような場合には資質資格の観点から彼の政治行為の一挙手一投足が論ぜられても良いかもしれない。しかしながら、そういう胡散臭い小泉に対して、その任期中、名宰相として持て囃したのが言論界である。これはどういうことか。その御仁が小沢となると途端に執拗にパッシングし続けている。狂っているのかカネと地位保全で売文売弁しているのかのどちらかであろう。 もとへ。ことほどさように言論界の醜悪さが満天下に知れ渡りつつある。これをどうすべきか、そろそろ問わねばなるまい。戦前、新聞社に勤めていた或る者はブンヤにだけはなるなと云い残して死んだ。それは、そういう汚い裏の世界を知り過ぎたからであると思われる。れんだいこの見立ては、昨今のブンヤは、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムに雇われたエージェントの陰謀的売国活動の引き受け手ではないかと疑惑している。 多くの者はそういう見地には立てないだろう。それは良い。れんだいこも、れんだいこの見地にまで至れとは申さない。必要なことは、言論界の歪みを正すことである。こたびのように民主党代表選への出馬そのものに対してイチャモンつけるような説教社説を許してはならない。分別がないこと激し過ぎるのではなかろうか。これは子供水準の言論ではなかろうか。政治の世界で子供政治が流行っており、それに釣り合うように言論界も子供言論が横行しているということであろうか。 昨年の政権交代はそもそも、こういう国の形を変えることを発意していたのではなかろうか。僥倖なことに絶対多数と云うべき300議席を越す大台が民主党に与えられた。これを何とかして突き崩したい、云うことを聞かない勢力としての小沢派が邪魔でしようがない。この意を挺して小沢パッシング、衆院解散を吹いているのが政界シオニスタンゴロである。これに呼応しているのがマスコミ界シオニスタンゴロである。 しかし、ネット社会においては動きが刻々と伝わる。お前たちの思う通りには事は運ばない。民族と国を売った者は追って身を蝕まれる。なぜなら、身体が不正を知っているからである。社説士よ、このところ胸の動機が異常ではないかな。 2010.8.29日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評790 | れんだいこ | 2010/08/30 20:55 |
【「呂新吾『呻吟語』の大臣六等分論」考その1】
「阿修羅情報」で知ったのだが、元毎日新聞記者にして現フリー評論家の板垣英憲(いたがき えいけん)氏の「マスコミに出ない政治経済の裏話」の8.29日付け同名題ブログ「第2等の小沢一郎と第5等の菅直人、仙谷由人、野田佳彦、枝野幸男4人組の『人物対決』が佳境に入る」で、中国・明末の元高級官僚にして碩学、思想家・呂新吾の「大臣六等分論」が紹介されている。著作「呻吟語」の一節らしい。非常に為になったので、これを確認しておく。これを機会に「マスコミに出ない政治経済の裏話」れんだいこサイトのリンク集に入れさせていただく。 (ttp://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/d/20100829) 板垣氏は、「大臣六等分論」の元ネタを、経済雑誌「財界」の元副主幹を経て評論家に転身して活躍した伊藤肇・氏の著書「現代の帝王学」の「呻吟語」としている。「呻吟語」考については他にも安岡正篤氏の「呻吟語を読む」(致知選書)、中島孝志の「呻吟語」、守屋洋・氏の「呻吟語」(徳間書店)等があるようである。 板垣氏は同ブログで、「大臣六等分論」を援用して現代政治家を俎上に乗せて評しつつ、その合間で興味深い政界裏話を書き付けている。元毎日新聞記者と云うことなので情報嗅覚が働くのだろう。まずはこれを確認しておく。 「岡田克也外相、野田佳彦財務相、直嶋正行経済産業相が28日北京で開かれた『日中ハイレベル経済対話』に出席したが、『レアアース輸出枠』について、中国側から『ゼロ回答』という残念な結果になった。中国側は、いまでは、小沢前幹事長しか信用していない。小沢政権ができれば、この交渉はうまくいく公算が大である。そう見てよいだろう」。 「民主党の渡部恒三・元衆院副議長、石井一副代表(参院議員、元自治相、国土庁長官)、藤井裕久前財務相らにこれらの特徴が顕著に見られる。渡部・元衆院副議長は、政権交代直前に『次は私が衆院議長だ』と衆院事務局などに吹聴していたが、実際に就任したのは、横路孝弘衆院議長だった。小沢前幹事長の推挙と知ってからは、昭和44年当選組の同期で41年もの長い付き合いを裏切り、『小沢は悪い奴だ』とマスメディアで悪口の限りを尽くしている。TBS番組『時事放談』の8月29日放送でも小沢前幹事長を終始口汚くののしり続けており、『友情の儚さ』を痛感させられるばかりで、恍惚老人の醜悪さだけが、テレビ画面を汚していた」。 「石井参院議員は、これまでの小沢擁護の立場を翻して、代表選では菅選対本部の副本部長に就任して、小沢前幹事長の敵に回っている。藤井前財務相は、『幹事長室に陳情一元化』の原則に反して日本経団連の御手洗富士夫会長に会って意見交換したのがバレ、小沢前幹事長の怒りを買い、財務相をクビにされたのを恨み、『反小沢』に転んだ。この陰で、仙谷由人官房長官が配った官房機密費という『毒饅頭の毒』が効いているという噂が絶えない。このなかで、とくに石井副代表は、『筋の悪い借金に苦しんでいたところ、仙谷官房長官に救われた』とも言われている。財務官僚は、官房機密費として資金をどんどん注ぎ込んで、仙谷官房長官に小沢前幹事長潰し用に使わせているという」。 「この説明から真っ先に思い浮かぶのは、菅直人首相、仙谷官房長官、野田佳彦財務相、枝野幸男幹事長の4人組の顔である。『オリジナルメンバー』『脱小沢』などの言葉が、偏狭な排斥主義を言い表している。『挙党態勢』に真っ向から反する政治思想と言えよう。この4人組は、『脱小沢』の旗印の下で、小沢前幹事長追い落としを狙い、幹事長時代の小沢前幹事長の民主党の資金の使途について、データをマスメディアの一部にすでに流していると言われ、前例のないネガティブ・キャンペーンを開始している。さすがの自民党も左翼政権特有のえげつないやり方にあきれ果てている。とりわけ、暴力団・総会屋専門の弁護士である仙谷官房長官の『インテリ・ヤクザ』さながらの手法は、『政治家の品性』が問われており、『インテリ・ヤクザ左翼政権』の継続が国政を危うくすると多くの国民が憂慮し始めている。マルクス以来、マルキストの最終目標は、『国家の死亡』にあるので、国政が危うくなるのは当たり前である」。 「フランス革命時の恐怖政治は、それを行ったダントンやロベスピエールを断頭台に送ったように、仙谷官房長官自身が、今度は朝日新聞の8月29日付け朝刊1面トップ記事『仙谷政治資金 長男側に 計320万円ビル賃料に充当』と書かれ、社会面(39面)で徹底的に『槍玉』に上げられているのは、何とも皮肉である。これもレッキとした『政治とカネ』の問題である。朝日新聞社会部は、手を抜いてはならない」。 「菅首相については、東京・赤坂の韓国クラブの女性(韓国情報部のスパイ説あり)との親密な関係が取りざたされており、韓国に帰国している女性とその子ども、そして生活費の資金源を追って、大勢の取材陣、調査陣が、大挙して海を渡り裏づけ調査に奔走しているという。仙谷官房長官が握っている菅首相の弱みが、これだという情報もある。このスキャンダル合戦は、いよいよ佳境に入っているようである。実に面白い限りだ」。 「菅政権が、新左翼、革マルといった極左暴力集団の影響下にあるとすれば、これは警察庁・警視庁の警備・公安部の仕事である」。 上記の情報はどれも非常に興味深い。れんだいこ的には、元親小沢の渡部恒三、石井一、藤井裕久がここへ来て急激に反小沢に転化した裏に、それぞれの弱みに付け込んだ「仙谷官房長官工作」があるという指摘が面白かった。真偽不明であるが妙に説得力がある。疑問が解けた気がする。 板垣氏の論でどうにも承服できないのは次の下りである。「過去には、吉田茂、鳩山一郎、岸信介、田中角栄、中曽根康弘らがいた。自民党の小泉純一郎元首相は、自民党をぶ壊すと公言して、それぞれ物議を醸しながら、やるべきことはビシビシやってのける政治家であった。敵からの反発、妨害し熾烈を極めながら、果敢に驀進した。いまは、剛腕政治家と言われる民主党の小沢一郎前幹事長が、このタイプである」。 「第2等人物」に触れた下りの話であるが、中曽根康弘、小泉純一郎を持ちあげているところがイタダケない。ミソとクソを一緒にしてしまっている。と云う訳で、アングラ情報としては有益ではあったが、政治家品評でとてもではないが使えないと云うことになる。 それはともかく、板垣氏の論で開陳された、呂新吾の「大臣六等分論」は非常に有益にして面白い宰相論、政治家論であるように思われるので、これを検討しておくことにする。但し、れんだいこが焼き直しする。且つ但し、れんだいこは現時点では同書を読んでいない。専らネット情報から組み立てるものとする。 2010.8.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評790 | れんだいこ | 2010/08/30 21:08 |
【「呂新吾『呻吟語』の大臣六等分論」考その2】
呂新吾は、著書「呻吟語」の中で「大臣」を六等分している。「大臣」とは今風に云えば「首相」のことであり宰相論と云うことになる。或いはもう少し広く政治家論と受け止めても良い。呂新吾は同書で、一口にリーダーと言っても、その資質は最上等から下等までを六段階に分けられるとして分析している。興味深い言説なので、これを確認する。 ちなみに、呂新吾(りょしんご)は、1536-1618年の人で中国・明末の時代を生きた、陽明学の始祖・王陽明(1472-1528)より百年後の人物と云うことになる。その呂新吾が、恐らく王陽明の「「古本大学」、「伝習録」等を意識しながら「呻吟語」を著したのではなかろうか。内容的に近似しているので、そう読みとれるように思われる。と云うことは、合わせて読めばなお良いと云うことになる。 呂新吾は当時の高級官僚であり地方長官などを歴任した経歴をもっている。若き時代に官僚として大活躍し、やがて政争に巻き込まれ讒言で失脚し官界から退いた履歴を持つ。晩年はもっぱら著述と講学に専念し83歳で生涯を終えた。何となく王陽明の生きざまに似ているように思われる。呂新吾が残した言葉の数々を弟子たちがまとめたものが「呻吟語」である。 「呻吟」とは、「病気に苦しみながら発する沈痛なうめき声」という意味と解されている。「呻吟語」は、人とはどうあるべきか、どう生きるべきか、世の中はどうあるべきか、人間観察論等々につき様々な角度から解き明かしており、これを読む者に多くの示唆を与える内容になっている。この思想を生む営為を「呻吟」と表意したのではなかろうかと思われる。佐藤一斉など江戸の学者に影響大きな影響を与えたという。 さて、本題に入る。 「第1等の人物」とは、曰く「寛厚深沈。遠識兼照。福ヲ無形ニ造シ、禍ヲ未然ニ消シ、智名勇功ナクシテ、天下、陰ニソノ賜ヲ受ク」。「深沈厚重これ第一等資質」とも云い換えられている。 これを解説すれば次のように云えようか。「寛厚深沈」とは、「器量寛容にして、温厚で懐広く、思慮深い」と云う意味であろう。「遠識兼照」とは、「学識、思索に優れ、それが元で物事に処する判断が明るい」と云う意味であろう。「福ヲ無形ニ造シ」とは、「あたかも人間が日光に浴し、空気を吸い、水を飲みながら、これを意識しないと同じように、何となしに人々を幸福にする政治を行う」と云う意味であろう。「禍ヲ未然ニ消シ」とは、「国家的危難や禍に処するに果断で未然に防ぐ」と云う意味であろう。「智名勇功ナクシテ」とは、「頭脳明晰、勇猛果敢を売り込まず功を露わにしない」と云う意味であろう。「天下、陰ニソノ賜ヲ受ク」とは、「世の人民が知らず知らずのうちに善政のお陰を受け、天下泰平を楽しむ」と云う意味であろう。 こういう大臣が第1等であると云う。「第1等の宰相」が史上に居たのかどうか分からない。と云うより滅多に居るものではないので理想像として述べているのであろう。れんだいこがこれを無理矢理に史上に照らせば、池田隼人―田中角栄―大平正芳政治が近いのではなかろうか。この三人セットで、それぞれの長所を括れば第1等政治に近いのではなかろうか。 「第2等の人物」とは、曰く「剛明、事ニ任ジ、慷慨敢テ言イ、国ヲ愛スルコト家ノ如ク、時ヲ憂ウルコト病ノ如クニシテ、太(はなは)ダ鋒芒ヲ露(あらわ)スコト免レズ。得失、相半バス」。「磊落豪雄これ第二等資質」とも云い換えられている。 これを解説すれば次のように云えようか。「剛明、事ニ任ジ」とは、「磊落豪雄、剛直にして明敏で、職に就いては事を正面から引き受け、テキパキと処理する」と云う意味であろう。「慷慨敢テ言イ」とは、「政策課題を直言し、議論を提起し、改革に着手する」と云う意味であろう。「国ヲ愛スルコト家ノ如ク」とは、「国を我が家の如く愛し思いやる」と云う意味であろう。「時ヲ憂ウルコト病ノ如クニシテ」とは、「時局を憂うこと病に苦しむ様の如く見立てて真剣に対処する」と云う意味であろう。「太(はなは)ダ鋒芒ヲ露(あらわ)スコト免レズ」とは、「いかなる障害があろうとも敢然と主張すべきは主張し、やるべきことを為すが、時に物議をかもしたり反発、抵抗を招く」と云う意味であろう。「得失、相半バス」とは、「こういう政治がうまく行く時もあれば、失敗する時もある」と云う意味であろう。 こういう大臣が第2等であると云う。これを史上に照らせば、日本の政治史には居ないようである。無理矢理に探し出せば、幕末維新―明治維新過程の英傑辺りが該当するのかも知れない。有能の士の多くが倒れたのは衆知の通りである。れんだいこの知見不足によってか、西郷隆盛以降は見当たらない。 「第3等の人物」とは、曰く「安静、時ニ逐(お)イ、動(やや)モスレバ故事ニ循(したが)ッテ、利モ興ス能ワズ。害モ除ク能ワズ」。「聡明才弁これ第三等資質」とも云い換えられている。 これを解説すれば次のように云えよう。「安静」とは、「ひたすら事なかれ、御身保全、地位汲々主義」と云う意味であろう。「時ニ逐(お)イ、動(やや)モスレバ故事ニ循(したが)ッテ」とは、「時局に追随しがちで、万事を旧弊故事に倣って処理する」と云う意味であろう。「利モ興ス能ワズ」とは、「そういう政治であるから有益な政治を執り行えない」と云う意味であろう。「害モ除ク能ワズ」とは、「国家的危難や災害に対して有能に対処できない」と云う意味であろう。 こういう大臣が第3等であると云う。「聡明才弁これ第三等資質」と云い換えられているが誤訳であろう。原文別文で「聡明才弁これ第三等資質」とあるのかどうか分からないので何とも言えないが、「聡明才弁」とは読みとれまい。むしろ「旧態墨守の事なかれ主義これ第三等資質」の方が近いのではなかろうか。「聡明才弁」は、「第1等の人物」、「第2等の人物」に関わっており、且つそういう記述がないことを考えると重視されていないのではなかろうか。しかし、ここまではまだ有能政治家の部類である。 「第4等の人物」とは、「禄ヲ持シ、望ヲ養イ、身ヲ保チ、寵ヲ固メ、国家ノ安危モ略(ほぼ)、懐(こころ)ニ介セズ」。 これを解説すれば次のように云えよう。「禄ヲ持シ、望ヲ養イ、身ヲ保チ」とは、「俸禄、地位、身分を守るのに汲々している」と云う意味であろう。「寵ヲ固メ」とは、「私利私欲、私物化で徒党を組む」と云う意味であろう。「国家ノ安危モ略(ほぼ)、懐(こころ)ニ介セズ」とは、「国家の安危を口にはするが、実際は自分のことしか頭になく、真剣には気にしない」と云う意味であろう。 こういう大臣が第4等であると云う。頭が痛い政治家が多かろう。殆どの政治家がこのタイプではなかろうか。 「第5等の人物」とは、「功を貪り、衅(きん=ちぬる、あらそい)ヲ啓キ、寵ヲ怙(たの)ミ、威ヲ張リ、是ニ愎(もと)リ、情ニ任セ、国政ヲ撓他(どうらん)ス」。 これを解説すれば次のように云えよう。「功を貪り」とは、「立身出世の亡者」と云う意味であろう。「衅(きん=ちぬる、あらそい)ヲ啓キ」とは、「常に政争を好む」と云う意味であろう。「寵ヲ怙(たの)ミ、威ヲ張リ」とは、「背後の支持勢力におもね、権勢に乗じ威張る」と云う意味であろう。「是ニ愎(もと)リ、情ニ任セ」とは、「そういう訳で政治を情実化させ、自分に組する人間だけを用い、そうでない人間を排斥する我欲、私心の塊」と云う意味であろう。「国政ヲ撓他(どうらん)ス」とは、「公儀を無視し、国政を乱してはばからない」と云う意味であろう。 こういう大臣が第5等であると云う。誰かの顔が浮かぶような話である。典型的には菅なぞこのタイプではあるまいか。 「第6等の人物」とは、「奸険、凶淫、煽虐、肆毒(しどく)、善類ヲ賊傷シ、国家ノ命脈ヲ断ジ、四海ノ人望ヲ失ウ」。 これを解説すれば次のように云えよう。「奸険、凶淫、煽虐、肆毒(しどく)」とは、「邪悪な奸漢にして陰険、凶淫、残虐、毒性政治を好む」と云う意味であろう。「善類ヲ賊傷シ」とは、「国を思い、民を愛する政治家を排斥し処罰する」と云う意味であろう。「国家ノ命脈ヲ断ジ」とは、「国家の重要な資産を食い潰し命脈を断つ」と云う意味であろう。「四海ノ人望ヲ失ウ」とは、「天下の怨みを買い人望を失う」と云う意味であろう。 こういう大臣が第6等であると云う。小泉の顔が浮かぶような話である。 この分析は、中国・明末の元高級官僚にして碩学、思想家だった呂新吾の透徹した歴史観、人物分析から生み出された評である。なかなか鋭い知見ではなかろうか。れんだいこは、そういう書があることを教えてもらって感謝している。 2010.8.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評792 | れんだいこ | 2010/08/31 14:11 |
【「何をいまさら」。サイは投げられた】 8.26日に「小沢起つ」が決まって以降、あれほど尊大に構えて「『政治とカネ問題』で金縛りされている小沢君、出られるものなら出て見よ」と挑発していた菅首相支持派は途端に腰砕けし、鳩山前首相に泣きつくと云う醜態を見せて「8.31日歴史その時」を迎えている。この間の経緯はまさに臆病な犬ほどよく吠えるを地で行く感があった。菅故にキャンキャンカンカン鳴く訳か。その正体はカンカラカンと云う訳か。鳩山前首相の周旋もほどほどにせねばなるまい。前首相たるものは度の過ぎた干渉をすべきではなかろう。細川を見習い陶芸にでも励め。 まもなく「菅―小沢会談」が開かれると云う。時刻は分からない。政治に関心のある人民大衆は固唾をのんで見守っている。恐らく小沢は、「何をいまさら眠い話を」と突っ張るであろう。小沢は、こうならないようどれほど自重してきたことか。赤子、子供をあやすように見守り続けてきたが、我慢にも限界がある。 小沢が云いにくいところを、れんだいこが云ってしんぜよう。「いざ戦闘のゴングがなってへなへなとするようでは、平素から大口を叩かぬが良い。政治は遊びではないんだよ。無論パフォーマンスでもない。人民大衆の生活がかかっている真剣な祀り事なんだよ。私もひとたび起つと口にした。口にした以上、政治の信に於いて引けない。今更どうにもならない、そこのところを分かってくれ。日本の現在と未来を賭けて堂々と闘おう。挙党態勢は約束する。菅式挙党体制といかほど違うか見せつけてあげよう」。てなことが喉から手が出るほど云いたいんだが、恐らく手短かに云うであろう。 こうして、会談は戦闘開始を告げる呼びリンとなる。つまり、「サイは投げられた」。これで良いではないか。よほどスッキリしよう。安逸なトロイカ体制は却って害である。菅派に結集したシオニスタンは今度は逆に「暫く蟄居せよ、それが日本の為にも党の為にも自身の為でもある」と云い聞かせられねばなるまい。仕返しではなく、これが正しい流れだからである。前原、岡田、仙石、枝野の顔は当分見たくない。 マスコミ諸君が、民意と云う名を騙って情報操作し続けようが、あまり常用すると次第に利かなくなるのが法理である。恐らく、新しい時代の流れを感じ取った要領の良い者が小沢派にたなびき始めるだろう。小泉、鳩山、菅にエールシフトしてきたネオシオニズム拝跪型構造改革派は、頑迷な痴呆ぶりを見せ続けるだろう。そしてまもなくここ30年の悪の震源地の中曽根―ナベツネが世を去る。小泉―竹中では脳が貧相過ぎる。つまり人材が枯渇している。 これに引き替え、小沢政権の下に結集した逸材は水を得た鯉になる。滝昇りも見られるようになるかも知れない。その日を待ちたい。歴史の流れはいっぺんには変わらない。但し、変われば二度と後戻りできない。これが歴史哲学の教えるところである。いわゆるエピゴーネンは屑かごに入れられる。覚悟しておけ。 2010.8.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評793 | れんだいこ | 2010/08/31 21:56 |
【2010.8.31民主党代表選ゴング考】
2010.8.31日、来る民主党代表選一騎討ち候補同士の菅首相と小沢前幹事長の直接二者会談が行われた。両者は、1・選挙戦を正々堂々と闘うこと、2・選挙後にしこりを残さず挙党体制を確立することの二点を確認し、「9.14民主党代表選」を申し合わせた。事前の根回しによる「トロイカ体制復活取引による小沢前幹事長の代表選出馬取り止め策動」は蜃気楼となって消えた。かくして、「9.14民主党代表選」の火蓋が切って落とされた。 これをどう評すべきか。れんだいこは、日本政治史上久方の大型の権力闘争勃発と看做し歓迎する。現在の政党の中で、こういう活力ある党首選ができるのは民主党だけと云うことを賛辞したい。かっての自民党を除き、老舗の社民党、共産党、公明党ではこれができない。密室政治批判を得手としているが、手前らの党首選自体が似たり寄ったりだというのに。これがまず第一座標となるべきであろう。 次に、申し合わせ1の「正々堂々選挙戦誓約」の推移を確認したい。両陣営がこれを如何に守り、如何に逸れるのかを見守りたい。次に、票数の帰趨を確認したい。国会議員票、地方議員票、党員票がどう出るのかに興味が湧く。次に、申し合わせ2の「選挙後の挙党体制確立」の出来栄えを確認したい。最後に、マスコミメディアの公正報道ぶり、或いは菅陣営に加担する言論大砲ぶりを確認したい。凡そ以上の関心を引くのが、こたびの代表選であろう。 とはいえそれらは選挙戦の表層的な意義である。我々は、真の政治的意味を確認しなければならない。れんだいこが思うに、こたびの選挙戦は本質的にかなり重要である。と云うか、本質的にかなり重要なところを廻って闘われる可能性が強い。これを端的に云えば、時計の針が今から35年前に戻る。1970年代半ばの田中政権退陣、続くロッキード事件による田中―大平同盟への鉄拳制裁以降35年来の日本政治の変質に対して、これを是とするのか非とするのかが問われている。 ロッキード事件そのものの解析はここでは行わない。問題は次のことにある。ロッキード事件以降の日本政治は、それまでの戦後ハト派的政治が掣肘され、代わって現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の御用聞き政治へ転換させられ、その流れを加速させた。この際の歌い文句は金権政治批判であった。且つ公共事業批判であった。且つ日米同盟の軍事的同盟への加速化であった。この三基準を廻って、これを是とし、それまでの戦後ハト派的政治を非とするのがロッキード事件以降の日本政治の流れとなった。以来、35年経過している。 昨年の2009年衆院選に於いて民主党の歴史的圧勝により政権交代がもたらされたが、その一番手政権として登場した鳩山政権、二番手政権として登場した管政権は、この抗争軸において全く無能を晒した。民主党内右派も又国際金融資本帝国主義の御用聞き派であることを歴然とさせた。鳩山政権、管政権とそれ以前の自公政権の違いは、本質的に同質政治であり、単に政治手法の違い程度のものでしかないことをはっきりさせた。 この見立てにつき、菅首相が早速に証明してくれている。菅首相は、直接二者会談後の記者会見で、財政再建と云う名目での消費税増税路線を打ち出した後、ロッキード事件をわざわざ持ち出し次のように述べている。概要「(菅首相が)政治を志した原点がロッキード事件に対する憤りだった。政治の生い立ちという意味では、小沢一郎前幹事長とわたしとはかなり違ったところからスタートした。そういった意味で、政治とカネの問題で混乱したり左右されたりすることがないような政治をぜひつくっていきたい」。 ここで見て取るべきは「政治とカネの問題」の方ではなく、ロッキード事件を持ちだしたことであり、これを廻って、追及した菅と首をかしげた小沢の違いであろう。菅は、ロッキード事件の被告となった田中角栄の愛弟子である小沢一郎に対する政治の原点的な敵意、対抗意識を剥き出しにしている。その言に従えば、小沢と菅は元々「水と油の関係」であり、交り合わないことを確信的に述べていることになる。 れんだいこ史観によれば、小沢の政治上の天敵は小泉であるが、ここに新たに菅が登場していることになる。興味深いことは、敵の敵は味方と云う理屈で云えば、菅の敵は小沢、小沢の敵が小泉と云うことになるからして、菅と小泉は親しい関係にあると云うことになることである。実際、これは当たっている。であるとしたら、小泉時代の民主党の対応は芝居だったことになる。実際に口では闘っているふりをして裏では繋がっていたのではなかろうか。小泉長期政権の秘密はここにあったのではなかろうか。この時代の民主党代表が鳩山、菅、岡田、前原、小沢へと流れている。小沢代表になって初めて小泉政権と厳しい対決に向かった史実が得心できよう。 さて、その小沢が遂に起った。小沢の最後の政治闘争となるであろう小沢派の菅派に対する真っ向勝負が始まった。この動きは、国際金融資本帝国主義の御用聞き政治からの歴史的転換を企図しているように見える。日本の国益の自律自存を求める土着政治への憧景が内在しており、日本の国威的ジリ貧、経済的破綻、精神的文化的アイデンティティの喪失を見兼ねて、止むにやまれぬ決起のように映る。かっての日米同盟下ながらも、外務省のそれは別として政治家がそれなりに自主的外交し得た、角栄時代までの政治能力を復権させ、政治家が政治家として時代を主導できる「生きた政治」を目指すことを良しとしていると思われる。小沢はこれを「普通の政治」と云いなしているが、正確には「御用聞きでない普通の政治」と窺うべきであろう。こういう「普通の政治」は難しいのだけれども。 と云うことからすれば、「9.14民主党代表選」は、民主党代表選は当り前のこととしても、その視野にあるのは、日本政治の根本的な在り方を廻る闘いである。御用聞き派と自主独立派と云う両派による一大関ヶ原決戦と看做したい。菅派の勝利は、現代世界を支配する国際金融資本帝国主義の御用聞き政治を強める。自公政治的表からではない裏からの一層ののめり込みを意味する。恐らく日本は更に籠絡され、しゃぶり尽くされた挙句に溶解解体され、米国の一州か中国の一省に取り込まれる流れに向かうであろう。 これに対して小沢派の勝利は、日本の新しい在り方としての自律自存を求め苦闘することになるだろう。菅の道は安逸であり、小沢の道は茨である。処世法としては菅派のそれの方が賢い。だがしかし、政治家のあるべき姿としては人民大衆を食わす為の経済がどうなるかが肝心であり、菅派政治には明日はない、小沢政治には例え茨でも希望があると考えるべきではなかろうか。 れんだいこ予想では、小沢派が勝利する。それは、この間の政治への反作用であり、右に振れ過ぎた振り子が元へ戻ろうとする自然作用に似ている。問題は、この流れが如何にして暴力的に壊されるのかの危惧にある。小沢暗殺、小沢派要人テロ的暴挙も考えられる。だがしかし、油断はできないが衆人環視の現代社会で粗野な蛮行はやり辛いとすべきではなかろうか。当然その抑制力も働く。この緊張関係の中で、選挙戦と首相選出と組閣が行われる。組閣に興味があるが、今はそれを問う時機ではない。ましてや、小沢がそこまで御身保全し得るのかどうかも分からない局面においてをや。 それはともかく、小沢は遂に西郷どんになった。既に先の投稿で述べたが、かの時の西郷どんは勝利の執念が薄かった。その歴史的間違いを確認して、こたびは勝利に向かわねばならない。そして、日本の政治の根本的刷新即ち回天事業に向けて出発せねばならない。日本の国内政治の諸改革、国外政治の出番は小沢政治の始まりと共に始まる。この道には、世界平和と反戦に真に貢献し、21世紀の豊かな生産力を分かち合う新しい国際秩序を創造し得る可能性がある。これこそが真の日本の生き延びる道であり、頼もしい限りの前途洋々ではなかろうか。 そうだ、その前に、こたびの選挙戦で、誰がどのように立ち回るのか観察しておかねばならない。どうでも良いようなことだけれども、新時代を切り開く有能士を探すのが面白いからである。 2010.8.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評794 | れんだいこ | 2010/09/01 21:57 |
【「2010.8.31民主党代表選ゴングの裏話」考】
「2010.8.31民主党代表選ゴングの裏話」を確認しておく。民主党代表選が遂に一騎討ちとなることが確定したのを見届け、この間伝書鳩としてパシリを務めた鳩山前首相が思わずつぶやいた言葉が「ボクはいったい、何だったんでしょうね」だった。一見滑稽なのだが、裏舞台が見えてくると滑稽だけでは済まされない事情があるので、これを確認する。役職は煩雑なので呼び捨てにする。 そもそも伝書鳩パシリがいつから始まったのか。確実なのは、8.24日の小沢出馬直前の動き辺りからである。小沢は、翌8.25日の「小沢一郎政治塾」での講演後、出馬表明する予定であったと思われる。これを阻止するべく鳩山が動き、8.24日夜、都内のホテルで小沢前幹事長と会談し、代表選への対応を協議している。当然、菅の要請を受けてのものである。この時、人事的配慮を媚薬にして「翌日の出馬声明」を思いとどまらせた風がある。小沢は渋々同意した。 翌8.25日、小沢は、「小沢一郎政治塾講演」で「下世話な政局話をする場ではない」と述べ、出馬表明を見送った。この頃、菅が挙党体制論に転じ、小沢派に対するポストの冷遇をしないとする約束がアングラ情報として伝えられていた。小沢の出馬声明見送りは、これにハーモニーしている。 「小沢の出馬表明見送り」を確認するや、その8.25日夕刻、鳩山が首相官邸を訪れ、前日の人事媚薬の裏取りを始めた。ところが、「小沢の出馬表明見送り」後の菅は強気に転じていた。いろいろ理屈を並べて渋り始めた。要請されているのは最高度の政治的密約であり、菅にはその度量がなかったとも読める。この辺りは市民運動上がりのキレイゴト云い師の限界かも知れない。こうして、鳩山周旋は「事実上の決裂」となった。 8.26日朝、小沢は、東京都内で鳩山と会談し、話が違うではないかと事情を質した。鳩山は、前日夕の菅会談の内容を伝えた。小沢は「よし分かった」と述べ、恨み節を云うでもなく出馬の意思を伝えた。菅に頼まれて周旋したのにコケにされた鳩山は同調し、小沢支持を約束した。鳩山の顔を立てた小沢とメンツを潰した菅と云う温度差によったものと思われる。小沢は直ちに記者団に向けて不退転の出馬表明した。鳩山も、小沢支持を言明し、小沢発言を裏付けた。これにより、民主党代表選は菅首相対小沢前幹事長の対決構図が確定した。本来であれば、鳩山の伝書鳩パシリはこれでお仕舞いであった。鳩山はその後、確か息子の所用でモスクワへ向かった。 問題はここからである。モスクワまで出向いている鳩山に度々匿電が鳴った。一体、誰が鳴らしたのか。又しても菅である。或いは菅派の別要人も鳴らしていたのかも知れない。こうして、モスクワからの帰国後、鳩山の再度の伝書鳩パシリが始まった。鳩山のこの行為は軽薄と云えば軽薄であるが宇宙人的感性の賜物であろう。なぜなら、一度コケにされた者は二度目は受けないのが普通だから。それとも、受けざるを得ない筋がらの要請もあったのだろうか。 8.29日、鳩山が帰国する。仙谷官房長官が東京都内のホテルで面会を求め、「ギリギリまで妥協点を探りたい。争わずに一つにまとまる方向を追求すべきだ」との考えを伝えている。こうして、鳩山の伝書鳩パシリが再開した。鳩山がその後、菅と小沢の間を何往復したのか分からない。稲盛和夫・京セラ名誉会長(内閣特別顧問)とも会食している。他の誰それとも、ひっきりなしに会っただろうと思われる。 確かなことは、8.30日夜、菅と鳩山が首相公邸で約1時間10分間にわたって会談していることである。両者は「トロイカ体制」の構築で一致した。鳩山は、会談後、記者団に対し次のように述べている。「(鳩山、小沢、菅の3氏に輿石東参院議員会長を加えた)『トロイカ+1』で行こうではないかという思いを首相からいただいたので、明日、私が責任を持って小沢先生に伝え、首相と会談していただく」。この日、小沢の意を受けた輿石が菅に「本当に受け入れる腹はあるのか」と詰め寄り、菅は「ある」と応じているともある。 「トロイカ+1」を廻って、菅派、小沢派の派内でそれぞれ悶着した。対決回避の楽観論が広がる中、 主戦論と様子見論が二分した。菅・鳩山会談後の深夜、小沢側近は、「不出馬の可能性もある。相当高いポストでの処遇ということかもしれない」と語り、ポスト次第で小沢の出馬見送りアリ説を披歴している。但し、小沢派内では依然として「鳩山氏の調整には応じず、小沢氏は出馬するべきだ」とする声も根強かった。 そして、運命の「歴史その時」を迎える。8.31日、鳩山のお膳立てで小沢と輿石が招かれ、菅が来るのを待ち受けた。ところが、菅が一人で行くことを嫌がった。鳩山が何度かアポしている。菅は、前原らとの相談の結果、小沢とのサシ勝負なら応ずると述べ、二者直接会談に切り替えた。菅は、如何なる話の展開になろうとも菅一任を取り付けて出向いた。夕刻、菅―小沢会談がセットされた。会談は30分に及んだが両者の人事談合はなく、代表選を闘う上での申し合わせに費やした。こうして、両者の代表選出馬表明へと雪崩れ込んだ。 この経緯からすれば、鳩山は完全にダシにされたことになる。少なくとも、8.26日早朝の小沢の出馬声明時点で役目を終えていた筈である。それを再度引きずり出された挙句、何の効もなかったことを思えば、鳩山が、「ボクはいったい、何だったんでしょうね」と述べた言葉は滑稽であるが的を射ている。要するに、前首相ともあろう者がかくも安易に使われ、結果的にコケにされたことになる。宇宙人の鳩山ならではのトボケで済んでいるが、他の者では烈火となって怒るところであろう。れんだいこは、これが云いたかった。 もう一つ云いたいことがある。板垣 英憲氏の「マスコミに出ない政治経済の裏話」の8.31日付けブログ「菅首相の伸子夫人が夫に与えた『潔く討ち死にしなさい』の叱咤から、小沢一郎前幹事長との一騎打ちに突入へ」が興味深い裏話を伝えている。 それによると、「トロイカ+1」で決着せんとしていた8.30日当夜のことであろう、伸子夫人が「トロイカ+1決着」に異を唱え、談合ではなく討ち死に覚悟の決選勝負をけしかけたと云う。本文は、「これまで支持してくれた仙谷さんや前原さん、枝野さんたち仲間を裏切って、小沢さんに付いてはいけない。妥協してよいことはない。ここは格好よく討ち死にしなさい。これは、代表選なんですよ。負けて意地を通しなさい」と述べたとある。修飾句を取れば要するに談合解決を否定したことになる。「夫人の言葉に目が覚めた菅首相は、31日午前、周辺に『討ち死に覚悟で代表選を戦う。勝敗は時の運だ』と決意を披瀝した」とある。板垣ブログではその他いろいろ評しているが、「伸子夫人の一言働き」を紹介しているところに値打ちがある。 れんだいこは、この話が本当だとして初めて、鳩山の「ボクはいったい、何だったんでしょうね」が得心できた。要は、菅が盟友の鳩山よりも夫人の言を採り入れたと云うことである。こういうもので歴史が作られるのかどうかは分からないが、滑稽でもある。これによれば、「鳩山よ、あきらめろ。妻は強かった」と云うことになる。まさに歴史は夜つくられるを地で行く話である。この逸話は後世に残るであろう。これを伝えた板垣ブログの価値も高い。 れんだいこは、「伸子夫人の一言働き」を喝采する。伸子夫人よ、あなたはやはり偉かった。サスガと褒めたい。なぜなら、小沢が鳩山周旋に乗ったとすると、それは釣り針付きの疑似餌だったのであり危なかったと思うからである。恐らく、「トロイカ+1決着」は、民主党選に小沢を起たさない為の鳩山、菅をも操る政治マジシャンのシナリオであり姦計であった。そう気がつかせないよう、いろんな役者を使って政界を催眠術にかけながら用意周到に事が運ばれていた。結果的に、「伸子夫人の一言働き」が、これを突き崩したことになる。その言に従った菅は、政治的能力のない政局男でしかないが、憎めない奴と云うことになる。これが、れんだいこが初めて菅を好意的に評する言である。伸子夫人は、主人である菅も、その政敵である小沢も救った。 確認すべきは、「小沢起つ」がそれほど嫌がられていると云うことであろう。小沢を嫌がる勢力は、これまで検察を使って小沢を金縛りにし、マスコミメディアの言論大砲を使ってパッシング大包囲網をつくり、何が何でも小沢を起たさないよう、あの手この手で策動してきた。しかし、その手が利かなかった。9.1日、両者の民主党代表選の立候補届け出が粛々と行われ、夕刻、共同記者会見が催された。今後も菅の口からは否応なく日本政界をワシ掴みにしている黒い魔手の囁きが聞かされることになるだろう。小沢の口からは否応なく日本の在るべき別の道が説かれることになるだろう。これと共に日本政治を蝕んでいる催眠術が解け始めるであろう。これが「9.14民主党代表選の裏意味」である。 2010.9.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評795 | れんだいこ | 2010/09/02 19:55 |
【2010.9.14民主党代表選の争点考その1、「菅派のネガティブキャンペーン」の卑劣考】 9.1日、民主党代表選のゴングが鳴り、明けて9.2日、公開討論会が行われた。菅首相は早くも激烈なネガティブキャンペーンを開始している。菅自身が如何に金権と無縁なのか、自身の政治資金収支報告書を明らかにして記載漏れのないこと、記載内容が「天の声献金」とも無縁なことを比較的に論ずるのならともかく、マスコミの小沢パッシングに悪乗りする形で小沢前幹事長の政治とカネ問題を取り上げ誹謗し、「お金にまみれた政治、政治文化を変えなければならない。クリーンでオープンな政治を目指していきたい」と吠え続けようとしている。 小沢前幹事長は、ロッキード裁判を欠かすことなく傍聴し、こういう時に備えて収支報告書に落ち度のないよう、むしろ手本の如くにガラス張りにしている。そういう小沢に対して菅が一方的に攻撃を続けるのなら、自身の政治資金収支報告書を公開して比較的に論ずるのが公平正義と云うものだろう。まともな報道機関なら、そこを問うべきなのだが、それを期待するのは野暮と云うものだろうか。 「菅式ネガティブキャンペーン」はまもなく食傷されよう。なぜなら、政治的抱負や実績を述べて政治能力を競うのではなく、相手の弱点を激しく突く手法は国際金融資本帝国主義者の常用するネオシオニズム政治の特徴であり日本的感性に馴染まないからである。。菅が平気でこれを繰り出していることは、菅が身も心も脳も籠絡されているネオシオニストの徒党であることを物語っていよう。我々は、その惨めさを見て取るベきではなかろうか。小沢は政治信条において「百術は一誠に如かず」を座右の銘にしている。菅は、煎じ薬にして味わうべきではなかろうか。 以上が結論であり、以下、「ネガティブ・キャンペーンとは何か」につき確認しておく。「ウィキペディアのネガティブ・キャンペーン(Negative campaigning)」その他を参照する。 「ネガティブ・キャンペーン」とは、要するに次のようなものである。「選挙戦術の一つで、相手の政策上の欠点や人格上の問題点を批判して信頼を失わせる弁舌手法を云う。マスコミの広告媒体を使っての、人物や組織のウィークポイントを集中的に攻撃する手法もネガティブ・キャンペーンと呼ばれる。根拠のなない中傷である場合もあるが、事実に基づいた批判もネガティブ・キャンペーンの範疇に含まれる。いずれにせよ、相手の信用を失わせることで、自分を相対的に高めることを目的としている。この他、あえて自分にとって不利になる話題を取り上げて、自分への注目を集める行為もネガティブ・キャンペーンと呼ばれることがある」。 れんだいこが思うに、この手法は一般的なものではない。日本政治史上に於いては、厳しく戒められていた外道政治手法である。特に、徳治主義を旨とし、切腹と云う責任の取り方を課せられていたサムライ政治の倫理に於いては内省なき他者批判はご法度であった。こうした政治手法は、国際金融資本帝国主義の影響下にあるところで多用されている。特に米国で常用されていることが、これを証左する。 政治学上、ナチスのゲッペルス宣伝相の「ウソも百万篇費やせば真実になる」弁が引用されるが、濡れ衣に近い。正しくは、こういう政治手法の本家本元はネオシオニズムであり、ゲッペルス宣伝相が同様の言を述べたとしたら、対抗上の失弁であったと思われる。ネオシオニズムのネガティブ・キャンペーン術磨きの歴史は古い。つまり筋金入りのものである。イエスがパリサイ派との論争で反駁したのも、このパリサイ派の思考回路であった。その選民主義、金貨蓄財主義、報復主義的論理と共に激しく弁難したものである。 最近の政治家は、ネオシオニズム・テキストで学習するせいか、こういうネガティブ・キャンペーンを習熟するのが政治能力の向上と勘違いしている風がある。本来の政治能力を磨くより、この邪道スキルの習熟に励む傾向がある。政局男として名をなす菅式弁舌は、この典型であろう。菅の政治歴三十年は、これを習得しただけのように思われる。 日本政治の能力は、この種の政治家の跋扈と共に歪められ、政治課題に向けての真摯な取り組み、事態打開と云う本来の能力を磨かず、政治を商売にする口先政治家、政治家の身分を現代貴族にさせた上での貴族主義的な遊び人風政治家を増産しつつある。こたびの民主党代表選はくどいほど菅の口からネガティブキャンペーンを聞かされることになろう。番外編の楽しみとすべきかも知れない。これぐらいの説明で良かろうか。 2010.9.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評796 | れんだいこ | 2010/09/02 20:52 |
【2010.9.14民主党代表選の争点考その2、「菅派の角栄的なるもの政治弾劾」の愚見考】 民主党代表選は二週間の日程で争われる。この選挙戦で何が争点なのか。マスコミメディアの解説は「為にする小沢批判の見地からの菅続投プロパガンダ報道」に流されると思われるので、我々の目線で確認しておく。れんだいこが、菅式論理論法の詭弁を俎上に乗せ、逐一晒して見ようと思う。 第一に確認すべきは、既に先の投稿で明らかにしたように、菅首相自身が持ちだしたことでも分かるように、ロッキード事件を廻り、これを契機として始まった「角栄的なるもの政治」を政治訴追し、その政治の後継者である小沢政治批判に結び付けて行くのか、「角栄的なるもの政治」の是の面を再検証し、歴史見直しして行くのかの争点である。 多くの人民大衆の意識は既にロッキード事件を風化させている。故に、菅首相が出馬声明に於いて敢えてロッキード事件を持ちだし「私の政治の原点」と強調したことの意味が分からないであろう。しかし、れんだいこ史観によれば、これこそまさしく真の政治闘争軸であり、その限りで菅首相がロッキード事件を持ちだしたことの意義は大きい。もっとも、菅首相は、政治とカネ問題に纏わる政治糾弾の原点としてのみロッキード事件を捉え、ネガティブキャンペーンに利用しようとしているようで、同事件の持つ複合的な政治的意味を矮小化させている。つまり、菅の意図に反して菅の政治能力のお粗末さを晒している。とはいえ、ロッキード事件自体を持ちだしたことの意義の方を評価すべきであろう。 れんだいこに云わせれば、ロッキード事件は、戦後日本政治を廻る在地土着派による自主自律政治を掣肘し、現代世界を牛耳る国際金融資本の御用聞き政治へ水路を開いた一大政治謀略事件であり国策捜査事件であった。現在50代以上の者は記憶しているであろうが、当時、現在の小沢パッシングなぞ比ではない、けたたましい角栄パッシングが連日続けられた。それも、御用評論家は云わずもがなとして与党自民党のみならず野党諸党をも巻き込んで、否それどころではない右翼から左翼、労組まで、否それどころではない検察から裁判所の最高機関まで巻き込んで角栄包囲の政治訴追運動が展開された。日共の宮顕、不破、上耕の異常な出張り、こともあろうに社共、労組が御用提灯を提げて目白邸を包囲すると云うバカ騒ぎが演ぜられた。一体、この狂気を誰が画策したのだろうか。 こうして、日頃は政治的ポジションが大きく異なるにも拘わらず、「角栄の政治訴追、政界追放」と云う一点で野合した醜悪な共同戦線運動が繰り広げられた。当時は、今日のようにインターネットがなかったので、これを不快に思う人民大衆の声は公にされず、故に一方的な角栄パッシングとなった。これに対して新左翼系がさほど動かなかったのは僥倖の見識であった。れんだいこは、そのように理解している。 菅首相はこたび、この時の喧争を是として、「私の政治の原点」とのたまわった。結構、結構。ならば、これを逆手に取り、ロッキード事件とは一体何だったのか、「角栄的なるもの政治」の本質とは一体どのように捉えられるべきものであったのか、「政治とカネ問題」とは如何なる政治制度の宿アなのか、今後如何に合理的なものにすべきなのか、これを問う絶好の機会にしたいと思う。但し、これを述べればかなりの紙数を費やすので、この概要を知りたければ、自薦ながられんだいこサイトの「角栄論」で確認すれば良かろう。角栄政治の何たるか、ロッキード事件の闇についてそれなりに言及している。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/) 菅首相に問いたいのだが、菅がロッキード事件を「私の政治の原点」として、角栄の政治訴追、政界追放を是認するのは勝手だとしても、「角栄的なるもの」を政界追放した結果として、その後の日本政治は果たして良くなったのか逆なのか、これに応えねばなるまい。 れんだいこの見立てによれば、「角栄的なるもの」が機能していた日本政治は国内的には世界が羨む史上未曽有の経済成長を遂げ、対外的にも日米安保同盟下の制限を受けつつも戦後憲法の掲げる国際協調と平和創造に向けて大きな役割を果たしていた。何より政治の裏表がはっきりしていた。政権奪取前に掲げた政策課題は政権発足後直ちに着手され実行に移された。「政治とカネ問題」では今日的基準では色々不首尾な面があったが、大きく見れば必要経費のようなものであった。何より、そういう面を埋め合わせても政治の実効による成果の方が大きかった。これを評価すべきではなかろうか。現下の政治尺度は、この仕事の功績を見ずに、「政治とカネ問題」に対する異常執着している気がしてならない。 特徴的なことは、国債が発行されていない善政であったことであろう。それまでは、憲法憲法第7章の諸規定、戦後財政法のいわゆる健全財政主義原則の諸規定に従い、国債発行禁止を遵守していた。1960年代末までの田中蔵相時代まではこの原則を守り、高度経済成長路線を稼働させ歯車が噛み合っていた。この原則を破り禁じ手の国債発行に踏み切ったのが佐藤政権下の福田蔵相であり、大量発行に向かったのか三木政権であり中曽根政権であり、以降の歴代政権の慣わしとなった。今日の天文学的な異常累積債務はこうして積み上げられたのは衆知の通りである。 菅は、これをどう考えるのだろうか。国債発行をせずして高度経済成長していた良き時代が有るのであるが、これを是とするべきではないのか。逆に云うと、国債発行してなお且つ低成長にあえいでいるのはどういう訳なのか。菅が角栄批判に酔うのは勝手だが、角栄批判に興じるのなら、この辺りを政治責任に於いて説明せねばなるまい。 角栄時代までの政治に特徴的なその二は、消費税が導入されていないことである。それまでは、全国的に法人活動を活性化させ、その営業利益から法人税を取ると云う直接税方式を基調にしていた。景気下支えとしての公共事業振興により法人活動を活性化させ、その好循環の中で雇用が確保され、社員の正規雇用が当然視され、各々が受け取る給与から相応の所得税を支払った。この方式で国庫収入が増えて行った。今にして思えば、この直接税徴税手法こそ正当で範とすべきではなかろうか。 間接税式の消費税導入はこの経済循環をズタズタにさせた。企業は、利益が上がろうが上がるまいが売上に対して一定料率の消費税が課税されることにより、途端に経営を苦しくさせられることになった。その他その他経営環境を圧迫させるばかりの諸施策が講ぜられることになった。企業は、それらの対応策として正規雇用を打ち切り、臨時雇用社員に切り替えるなどして利益の確保に努めざるを得ないことになった。大企業は無理難題を下請企業に皺寄せすることになった。そのようにして生みだされた利益がハゲタカファンドにさらわれると云うケッタイなことになった。 こうした下手くそな政治のツケが廻り回って社会保障費の異常増大を促すと云う悪循環に陥っているのではないのか。その備縫策として補助金制、補償金制等々で対応しているが、これでは財源が幾らあっても足りなくなるであろう。その他方で、軍事防衛費が増大し、思いやり予算が計上され、今や至れり尽くせり予算化へと向かいつつある。普天間基地移転問題でも、グアム移転費、辺野古移設費がどれほど計上されようとしているのか、菅政権はこれを明らかにせねばならない。あれこれ思えば、消費税がない時代の政治の方を是とすべきではないのか。逆に云うと、消費税を導入してなお財政が逼塞し、消費税増税中毒に陥っているのはどういう訳なのか。菅が角栄批判に酔うのは勝手だが、この辺りを説明せねばなるまい。 時代は、消費税増税を要請しているのではなく、消費税廃止を促しているのではなかろうか。この地平に立って財政のムダを省き、真に景気浮揚に功のある諸施策を手当てし、もって税収の自然増へと導くべきではないのか。ここに政治家の能力が期待されているのではなかろうか。この点で、菅政治の対応は全く逆走している。こういう政治をやる為に命を賭けるなどと云われると、小泉政治の再来ではないかと危惧するのは、れんだいこだけだろうか。迷惑な意気がりでしかない。 その他云いたいことは山ほどあるが省略する。結論は、菅がロッキード事件を政治の原点として政界に入り今日に至っていることを勝手であり、愛想上は慶祝するにしても、その政治活動を通して日本が一体良くなったのか良くなりつつあるのか逆なのか、これを説明せねばなるまい。国債と消費税について云えば、これに依拠することなく経済発展を指導した「角栄的なるもの政治」と、これに依拠しつつ経済失速し続け、それどころか日本経済破綻へと指導する「反角栄的なるもの政治」のどちらが望ましいのか説明せねばなるまい。軍配は自明ではなかろうか。 菅は、小沢の政治履歴上の親角栄性をもって弾劾するネガティブキャンペーンに乗り出しつつあるがエエ加減にするべきではなかろうか。無知と恥の上塗りなのではなかろうか。反角栄プロパガンダには何の根拠もない。むしろデタラメであり、今こそ角栄政治の有能性を検証するべきである。これが云いたかった。菅派が繰り広げ始めている「角栄筋の小沢批判キャンペーン」に対して、それがどしたと反撃しておきたかった。今や長い迷妄から醒める時である。これが本稿の意義である。 2010.9.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評797 | れんだいこ | 2010/09/02 21:50 |
【2010.9.14民主党代表選の争点考その3、「菅の西郷論、歴史観」のお粗末考】
れんだいこは、「小沢起つ」を西南の役の「西郷起つ」になぞらえて賛辞している。興味深いことに、菅が同じく「小沢起つ」を西南の役の「西郷起つ」に例えているようなので確認しておく。サイト「ライジング・サン」の2010.9.2日付けブログ「菅直人とはこういう男である」によれば、菅首相は、公式に出馬声明した9.1日の夜、野田財務相グループの会合に出席し、次のように述べたと云う。「明治維新には西郷隆盛の力が必要だったが、西郷さんはああいう(西南戦争で敗れて自決する)末路をたどった。西南戦争があって、本格的な明治政府ができた」。 れんだいこは、菅のこの発言は、由々しき悪しき歴史観、処世観を披歴しており、菅の首相職失格を証左して余りあると考える。これをコメントしておく。 これによれば、「西南戦争があって、本格的な明治政府ができた」として、西郷なき後の明治政府を好評価していることが分かる。れんだいこは、聞き捨てならない歴史観だと思う。今日、幕末ブームであり坂本竜馬の歴史的偉業が見直されつつあるが、西郷隆盛はその坂本竜馬の盟友であり、幕末維新の立役者であった。内戦回避の江戸城無血開城の英断が高く評価されている。明治維新後の奉公もその無私の精神ゆえに未だに慕われている。 通説では征韓論を唱えていたとして論断されているが、本当の史実では西郷式征韓論は成立しない。西郷は、西欧列強の世界の植民地化に抗する為に日本、朝鮮、中国(当時の清国)との友那的アジア主義を唱え、その説得に出向こうとして権限を与えるよう談判し、これが聞き入れられず、その他その他新政府の政治的手法を廻って幕末維新永続革命派が一斉に下野した。これが、征韓論争の真実である。下野した側にこそ有能な士が見て取れる。 彼らは各地で「士族の反乱」を起したが、個別分散的な抵抗であった為に鎮圧された。その最期の大戦争となったのが西南の役である。「政府に訊問の筋あり」とのノボリを翻して鹿児島を起った。この反乱は、西欧れ今日のテコ入れもあり奮戦むなしく鎮圧された。菅の弁によると、こうした履歴を持つ西郷が何の惜しみもなく否定され、用済みとされている。してみれば、彼の歴史観では、坂本竜馬も同様に用済み末路を辿っただけのことになるのではなかろうか。 菅は、前段で、「明治維新には西郷隆盛の力が必要だったが、西郷さんはああいう(西南戦争で敗れて自決する)末路をたどった」と述べている。あたかも「政権交代には小沢一郎の力が必要だったが、小沢さんはああいう末路をたどった」と言いたげではなかろうか。ここに、菅のゲスな処世観が見て取れないだろうか。人を駒として使い捨てにすることを何ら意に介しない冷利な機会主義者の臭いを嗅ぐことができるのではなかろうか。こうなると政治の信以前の人間的な信の問題になる。 菅は、9.1日の共同記者会見の席上でも、小沢の首相資質、能力問題を問うた。一言一句は再現できないが、「俺は今現に首相である。お前にその能力が有るのか。『成りたい』のなら能力を実証せよ」と云う意味合いの傲慢な問いかけだったように思う。その後で、予算委員会に座り続ける小沢が想像できないと揶揄していたと記憶する。小沢は苦笑しながら、「私は二十年前に閣僚経験がある。あなたにそういう心配をお掛けするには及ばない」と返答していた。小沢は大人しく述べていたが、「失礼な質し」そのものであった。「暫く蟄居しておれ、それが国家の為にも党の為にも自身の為でもある」に続く尊大非礼な云い方ではなかろうか。 こうして見ると、菅は、小泉とハーモニーしており、小泉に続く人格的に何か大きな欠陥を持つ権力パラノイアではなかろうか。且つ西郷論、明治維新論に見られるように低俗な歴史観、歴史眼の持主であることが判明した。こういう人格、能力者に日本丸の舵取りを任せては危ない、一刻も早く政界から退場させるべきであるとすべきではなかろうか。 至らないながらも至ろうとするのならまだしも、先の参院選指揮の如く「あらぬ采配」を平気で振るう御仁であり、その責任を取る意思も能力もない御仁であることが判明している。菅には唯一、愛嬌が有ることで辛うじて許せるが、断じて首相職に就けさせるような人物ではない。現に首相であることは由々しき国家的一大事である。鳩山以下である。こう確認すべきではなかろうか。これが云いたかった。 2010.9.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評798 | れんだいこ | 2010/09/03 19:55 |
【民主党代表選の序盤考】 9.1日の民主党代表選の幕が開くや、早速に菅のネガティブキャンペーンが始まった。それが却って顰蹙を買いつつある。マスコミは、「国民の声を聞け」をうたい文句にして、菅続投をエールしまくって来たが、「ここは一つ小沢にやらせた方が却ってすっきりする」と云う最新の国民の声を報ずることができるのだろうか。公正報道を旨とするマスコミメディアの報道責任が問われるが、今度はどういう詭弁に転じるのだろう。 ところで、朝日新聞の例の社説士の口は塞がっただろうか。依然として空いたままだろうかと考えると可笑しい。そろそろテレビに出てきて、書いたのは私だが「それが何か」と、とぼけた顔を見せるべきだろう。れんだいこは、今現在の口のあき具合を見たいと思う。まだ「開いた口がふさがらない」のかどうか確かめたい。 それはともかく、民主党代表選のお陰で、菅が西郷隆盛を嘲笑し、その後の明治政府を高く評価すると云う歴史観を持っていることが分かった。西郷、大久保亡きあとの政府を指導した伊藤博文派以来の政治を是認していることになるが、こういう観点でどうやって官僚制批判ができるのだろう。れんだいこには解せない。菅の西郷論、明治維新論をもっと聞いてみたい気がする。菅は、政権取るまでは官僚批判で飯を食い、政権取った今は官僚のイエスマンぶりを発揮している。どちらの菅が本当の菅なのだろう。いずれにせよ菅が予想以上に右派系思考の持主であることが判明した。社民連系市民運動上がり故に多少左派的な面が有るかと思ってきたが、トンだ期待外れだった。 そう云えば、菅の出自である岡山民主党系の江田が菅派の選対本部長を務め、子飼いの津村と柚木がサブで走り回っている。岡山民主党系では姫井だけが反旗を翻し小沢派に陣取っているようである。それもその筈で、津村はゴリゴリの改憲派であり、江田、菅はいつの間にか改憲派に転じている。姫井は護憲派である。護憲派が小沢を押し、改憲派が菅を押していることになる。これが、江田―菅の現在的な政治的位置である。イメージとは随分違うことになる。 マスコミは、新世論に棹さすように、小沢の失言を引き出そうとあの手この手で挑んでいる。今や映像社会なので誰が何を云ったのか、言葉だけでなく当人の顔ごと我々の記憶に焼きつけられることになる。この際、しっかり確認しておこう。してみれば国際金融資本の御用聞き稼業も楽ではない時代になりつつあると云うことか。とはいえ、この連中は今までウマ飯を食わせてもらっているので、今更ヤメタができないのだろう。そういう訳で、哀れな立ち回りを見せられるばかりとなる。 日本記者クラブ主催の民主党代表候補公開討論会で、小沢候補に「政治とカネ」でいちゃもんをつけていた4人組が明らかになった。「悪徳ペンタゴン4人衆」と規定すべきか「国際金融資本4人組」と云うべきかの詮議は別にして、これを確認する。1・原田亮介(日本経済新聞編集局次長。ワシントン帰り)、2・倉重篤郎(毎日新聞論説副委員長)、3・橋本五郎(読売新聞論説委員、渡邉恒雄の腹心)、4・星浩(朝日新聞編集委員、ワシントン帰り)とのことである。 この4人組は、「野中証言」によって暴露された内閣機密費貰いの「言論とカネ問題」に頬かむりしたまま何食わぬ顔をして「政治とカネ問題」を追及していることになる。それができる厚顔の持主であることを晒している。しかしながら、せっかくの追及も小沢候補に見事に肩すかしを食わされたのがお笑いである。れんだいこは、こういう手あいが年収ン千万円を取り、ぬくぬくしている世の中を変えねばならぬと思う。分不相応の高給が売文売弁不善を為す原因と思わるので、次回の給与から世の為人の為になるようカンパするよう要請する。どうせ馬の耳に念仏だろうが。 菅派が、今後も政治を論ぜず一つ覚えの「政治とカネ問題」を繰り出すなら、そろそろ誰かが質問せねばならない。「菅さん、あなたが小沢候補がされたような捜査を東京地検特捜部から受けた場合、不起訴を勝ち取る自信が有りますか。あなたの政治資金収支報告書を見せてください」。菅はお口をどう廻すのだろうか。まさか領収書の要らない企業、団体から闇献金を受けていながら何食わぬ顔しているのではあるまいな。こう問えば、菅派は総崩れになるではなかろうか。それを思えば卑怯な追及派でしかない。 さて、選挙戦は後10日ばかりとなる。論戦はますます小沢有利に推移すると見るが、アンダーグラウンドでは何が起きているのか分からない。今は拮抗しているようなので大丈夫だが、形勢不利となるや国際金融資本派は何をしでかすか分からない。次にどういう技に転じるのだろう。この辺りが見どころになりつつある。 2010.9.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評799 | れんだいこ | 2010/09/04 14:45 |
【朝日社説士の懲りない説教考】
9.4日付け朝日新聞社説「小沢氏とカネ―仮に訴追を受けたなら…」が又もや珍奇な説教を繰り返している。「開いた口がふさがらない」社説士の手になるものと思われるが、名前入りでないので同一人物かどうか分からない。こうなると、我々は、各新聞社に著名入り社説を要求すべきではなかろうか。「クリーンな政治」の等価は「クリーンな言論」ではなかろうか。 毎日新聞は一般記事には記者名入れが多い。ならば、社説も署名入りにすれば良いのに。社説を執筆者名入りにしてはならない理由が分からない。全てとは云わないが、「開いた口がふさがらない」とか「小沢氏とカネ―仮に訴追を受けたなら…」とかの個性的な主張をされる場合には名入れが義務と責任とされるべきではなかろうか。 さて本題に入る。こたびの朝日社説「小沢氏とカネ―仮に訴追を受けたなら…」はもはや難癖そのものである。この社説士は「政治とカネ問題」追及に飽いたのか、思うようにならないので転じたのかは分からないが、今度は「検察審査会起訴問題」に転じている。代表選記者会見の席上、小沢候補が「堂々と受けて立つ」と表明したのが気に入らないらしく、そうなると意訳概要「首相が被告席に立つと云う前代未聞の事態になる」として、そうなる事態そのことを批判して首相責任を問おうとしている。 しかし、この論法に従えば、小沢候補は一体どうすれば良いのだろう。朝日社説士に気に入られる為には、首相になってはならず、そうとすると民主党代表選辞退以外に方法がない。どうやらこれが狙いのだろう。「開いた口がふさがらない」の論旨と合う訳だ。 しかし、こうなると、くだんの朝日社説士は引き続き小沢の立候補そのものが間違いとして、立候補させない論、立候補後は取り下げ論を展開していることになる。これについては、れんだいこは先に「言論の自由を超える強権力的物言い」だとして批判した。これが耳に張っていようがいまいが構わないが、相変わらず強情な論陣を張る懲りない御仁だと云うことになる。そうまで云うのなら、いっそ表に出てくれば良かろう。私が書いたのだが「それが何か」と不遜ぶる姿が見たい。このままでは物陰から矢を射るようで卑怯姑息過ぎよう。 社説曰く、「小沢氏は訴追を受ければ国会での説明に応じる考えも示したが、その前に、この代表選の中できちんと疑問に答えてもらわなければならない。4億円の土地購入の原資をめぐる小沢氏の説明は二転三転した。手元資金があるのに、利息を払ってまで銀行融資を受けるといった不自然な資金の流れについても、納得のいく説明はない。小沢氏の了解なしに秘書が独断で処理したというのも、額面通りには受け取りにくい」、「収支報告書の虚偽記載を、相変わらず『手続きミス』だと言っているが、収支報告書の記載が信用できなければ、政治資金公開制度の根幹が揺らぐ。単なる形式犯ではない」。 この論理論法もオカシイ。社説士がここまで云うのなら、既に出されている検察の不起訴文、検察審査会の見解模様、その他ネット情報で展開されている事件解析等々に目を通して、その上で自身の見方を披歴しながら論評するのが筋だろう。自身をシロウト席に置いて白紙の状態からの高みの見物批判するのはオカシイのではなかろうか。社説は常に「言論の責任問題」と直通しており、その緊張関係で論ぜられるゆえに値打ちがある。無責任云いたい放題は許されまい。ましてや偏した迎合記事をや。 社説士よ、「今回の代表選では、カネと数の原理が幅をきかす『古い政治文化』の是非も重要な論点となる。説明責任を軽んじる政治もまた、古い政治である」などと偉ぶるのはエエ加減にして貰いたい。れんだいこが云い換えておく。「今回の代表選報道で見られる問題は、一方の側を意図的故意に持ち上げ、他方を貶す不公正さである。こういう手法が幅をきかす『古い報道文化』の是非が問題にされねばならない。言論責任を棚上げにした報道の仕方は『古い報道』である」。 既にボチボチ云われ始めたが、これを機会に和製アルジャジーラ放送局、新聞、雑誌を急いで立ち上げねばならないのではなかろうか。原口が総務相の今なら許可される可能性がある。善は急げ、誰か出でよ。れんだいこを評論員として雇ってくれふふふ。 2010.9.4日、れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評800 | れんだいこ | 2010/09/05 00:04 |
【2010.9.4たすけあい党時局声明(800号記念)】
2010.9.1日、民主党の代表選が始まりました。菅首相と小沢前幹事長の一騎打ちとなりました。9.14日が投開票です。序盤の論戦に於いては、菅首相の饒舌能弁だけの空疎性、傲慢不遜な態度、ネガティブキャンペーンが際立ちました。反対に小沢前幹事長の訥々と語る政界実力者としての弁、マスコミ虚像の剛腕イメージとは違う素顔が好感を持って迎えられました。これにより、国会議員レベルでは小沢候補の優勢が伝えられております。但し、地方議員レベルではマスコミメディアの菅エールプロパガンダの影響を受けている者が多いと伝えられております。党員、サポーターレベルでは、更に影響を受けているのかも知れません。 いずれ、終盤戦になると大きく小沢候補優位に傾くでせうが、問題は、菅派及びその背後の国際金融資本派がどんな手を使うか分からないことにあります。彼らが云うところのクリーン政治は表向きで、裏では汚い手を使うことが十分考えられます。何せ、彼らの言葉は全部マヌーバー(策略的言辞)です。何一つ、言葉通りのものはありません。2009年衆院選マニュフェストの不履行がその好例です。本来ならすぐさま着手して、然る後に徐々に見直されるべきです。しかしながら、実際に起こったことは碌に取り組むことなく放置し、取り組む段になるや見直しです。つまり、政権交代こそが狙いで、マニュフェストは愚頓な大衆を引きつける為の撒き餌にしか過ぎなかったと云うことになります。 先の参院選でもそうでした。この場合は逆にしなくても良いことをやりました。官邸権限で消費税増税案を持ちだし、低所得者層の保護基準に対して意図的故意に云い違いし、有権者に民主党に対する幻滅を与えました。つまり、トップが民主党を敗戦に導くように逆指導し、驚くことに何ら誰も責任を取らぬまま今日に至っております。菅首相派は、これに口をぬぐったまま「三ヶ月では何もできない、これからが本当の仕事だ」と云って支持を取り付けようとしていますが、信じられるでせうか。何事も一事万事ではないてせうか。何をしでかすか分からない、云うかわからないとして警戒するのが当たり前でせう。 幸い、あらゆる妨害の仕掛けを乗り越え、小沢候補が出馬の運びとなりました。伸子夫人の土壇場の機転が代表選談合を砕いたようです。これにより正々堂々とした代表選が執り行われる運びとなりました。二週間に及ぶ代表選の一日一日が、代表選談合を仕掛けた陰謀派の目論見を砕くことになるでせう。今、久しぶりの爽やかな選挙戦が行われております。この流れを加速させ、代表選候補の弁舌に耳を傾けるべきです。両者は智力を尽くして代表の座を争うべきです。今これが理想通りに進んでいるのは幸いです。本来であれば、マスコミメディアは両者の弁舌を正確に報道し、評論すべきです。残念ながらこれは期待できません。しかし、それでも良いのです。マスコミメディアがこれほど狂っているサマを確認すれば良いのです。この連中は飼われているので直りません。我々がこれを押しのけて判断を獲得すべきです。 以下、れんだいこ及びたすけあい党の見解を発信します。我が党は断固、小沢候補を支援します。小沢氏の政治履歴の総決算として思う通りにさせて見たいと思います。小沢候補は、今日まで花も嵐も乗り越えて参りました。菅首相のように「首相になりたい」と思ったことは一度もなく、こたびは万止むを得ず立候補しております。西郷どんの無私の精神に通ずる義挙と受け取るべきでせう。それ故に、我が党は、これを左から支えたいと思います。ちなみに菅首相は、西郷どんを評して「明治維新には西郷隆盛の力が必要だったが、西郷さんはああいう(西南戦争で敗れて自決する)末路をたどった。西南戦争があって、本格的な明治政府ができた」などと述べております。「西郷用済み論」を唱えておりますが、許し難い歴史観だと考えます。れんだいこは、歴代首相の中で「西郷用済み論」を唱えた者を知りません。こういう見識の者に首相を務めさせるわけには参りません。 我が党は改憲を許さず、自衛隊の武装派兵を許さず、国際貢献は現地に真に効果が有る場合にのみ検討したいと思います。国際金融資本派の要請のままに世界中へ派兵され、次第に前線に押し出され、交戦も止むを得ないとする目下の流れを断じて許しません。「アジア人をアジア人と闘わせる」、「アジア人をアラブ人と闘わせる」企みに引き入れられてはなりません。核廃絶に向かうのではなく非核三原則、武器輸出禁止を崩す動きにも反対します。鳩山政権、菅政権の防衛論、日米同盟進化論は自民党のそれとハーモニーしており、それよりもさらに右傾斜しております。原子力発電にも力を入れようとしており、非常に危険な政権です。こういうことがはっきりして参りました。 沖縄基地問題も然りです。沖縄全土に於ける米軍基地の過重存在、特に沖縄中央部における嘉手納基地の存在は沖縄経済の正常な発展を阻害しております。普天間基地の存在は危険過ぎます。これまでにも事故を多発させており、これ以上の存続を認める訳には参りません。米国は既に戦後冷戦構造の構造的変化や財政事情から、世界各地へ展開している米軍の再編成に向かっております。グアム移転は米軍の必要から生まれております。普天間基地移転問題で云えば、日米の軍事利権派が辺野古案を策しているに過ぎません。彼らは常に危機を煽り、時には実際に緊張関係を創り出し、その度に軍儒族としての利権に与っております。そういう連中です。騙されてはなりません。 軍事防衛費は大幅に削減すべきです。イージス艦を購入した歴代の首相は中曽根と小泉です。一艦五千億円で購入しております。その他その他目いっぱいの御用聞きをしたのが中曽根と小泉です。その対価が、名宰相の誉れの授与であり、首相引退後の身分保障と云う仕掛けになっております。引退後、褒美として利権的な財団をつくって貰い、その顧問として末代まで一族郎党が食うに困らない安穏が保証されております。愛国者然として靖国神社に公式参拝しましたがトンだ曲者売国奴です。許すわけには参りません。ところが、マスコミメディアは名宰相の誉れで称え続けております。反対に、田中角栄、小沢一郎になると手のひらを返し、悪の権化としてパッシングしております。我が党は、この虚構を撃ち続けます。 我が党は、小沢政権の政治を内治優先にさせるべく左から支えたいと思います。且つ大盤振る舞いではなく、真に効果のある景気対策を提案したいと思います。その秘訣は、真に有益かどうかでセレクトされた公共事業の振興です。公共事業の抑制は大間違いです。国は、民間経済活動の裏から支援として計画的に施行するのが責務です。日共式詭弁に騙されてはいけません。 同時に公務員給与の見直しを致します。労働意欲に関係しますので中間層の給与は手厚くします。基準は年収八百万円に設定したいと思います。年収1千万円以上の給付は大幅に削減します。天下り問題も然りです。天下り自体を禁止しようとは思いません。高額報酬天下りを全面禁止したいと思います。退職金の谷渡りなぞは許しません。この基準で国家公務員、地方公務員まで見直しますと、ン兆円が浮く勘定になります。国の地方への交付金配分も小沢代表の云う通りです。不合理なヒモ付きを見直し、地方の能力において采配させることでン兆円浮きます。これらを財源すれば消費税を上げる必要がないばかりか廃止できます。人民大衆は助かり、勝手に徴収義務を負わされた企業も助かります。消費も増えるでせう。 もう一つの内治の要は、政府系金融機関、民関系銀行の融資基準の見直しです。国内企業に向けて融資させなければなりません。或いは起業を援助しなくてはなりません。経営基盤の発展が雇用に繋がるのであり、雇用だけを目的にしても意味がありません。現行は融資の敷居を高くして門前払いする他方で甘言につられてハゲタカファンドの餌食にされているのが現状です。みんな外国へ投資させられております。その挙句大損させられ召し上げられております。たまに国内に向かいますが企業買収、不当廉売価格での資産購入、或いはその転売に使われております。全く日本の政治経済をバカにしております。これを構造改革と称して更なる御用聞きをしたのが小泉政権でした。菅政権は第二小泉改革化する危険性があります。 凡そ以上のような観点及び処方箋から、小沢政権の創出を祈念し、左バネとして監視し又は協力して行きたいと考えております。目指すべきは日米同盟の深化ではなく、序序にでも自律自存の国造りです。これが却って良好な日米関係を築くことになります。逆は逆です。日本社会には歴史的に陶冶されたきめ細かい助け合いネットワークが構築されております。これは誇って良いことです。このきめ細かい助け合いネットワークこそ日本の真の財産です。今これがズタズタにされようとしております。妙な犯罪の激発は、このことを危険信号しております。異常な自殺者増も然りです。家庭内の不和も然りです。今やこれらの立て直し、世の立て替えに向かうべきです。 その最初の歩みが小沢政権の誕生ではないでせうか。菅政権は僅か三ヶ月でしたが余りに無能です。同時に、仙石官房長官、枝野幹事長、岡田外相、前原国交相、野田財務省は共通して異常人格者です。彼らの、こたびの選挙戦での言動が証左しております。国家機関の枢要なところにこういう人物を登用した鳩山-管政権は任命責任を問われるべきです。日本は決して良くなりません。真っ逆さまに転落させられる可能性が大です。こういうことが分かっていて菅政権を続投させるのは自殺行為です。 以上、目下の政局に鑑み、れんだいこ党首責による助け合い党声明と致します。人民大衆的議論、討議が生まれることを望みます。危機とチャンスは紙一重です。この危機をチャンスに切り替えねばなりません。日本人民大衆には、そういう能力が有ると確信しております。 2010.9.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評801 | れんだいこ | 2010/09/05 19:42 |
【2010民主党代表選中盤戦考】
2010民主党代表選は殊のほか収穫が多そうだ。一つはスパリ代表選そのもので、菅首相の続投か小沢の最期の御奉公かを廻って堂々たる権力闘争となっていることである。久方の党内二分の関ヶ原的闘争であり、こういう活力を持っている党は民主党しかないと云う意味で間接的に民主党自体の格好の宣伝戦にもなっている。大いにやるべきであろう。こう見立てるべきところ、民主党のコップの中の争いであり、円高株安の時局がら相応しくない云々の声もあるようであるが為にする批判でしかない。マスコミの場合は意図的故意に、ノンポリの場合にはノンポリ故の意見であり聞き流すが良かろう。二週間なんかすぐ経つ。とやかく云う方がオカシイ。 聞くところによると、公開遊説会が9.4日、東京新宿駅西口街頭で、9.5日、大阪大阪梅田駅街頭で開かれたが鈴なりの人出だったと云う。大いに注目され関心が持たれていると云う証拠であり結構なことではなかろうか。9.9日、札幌大通駅街頭にても行われると云う。この頃には勝敗の帰趨も決まっているであろう。この流れを作ったのは菅首相の夫人・伸子氏であり、小沢政権が誕生した場合には、目玉として無任所大臣・菅伸子が登用されてしかるべきであろう。誰か、この意見を届けてくれまいか。菅首相は「暫く蟄居」を云い渡される番であろう。 政治は本質的に権力闘争である。議会制民主主義に於いては、首相の座イスを廻る争いはその最高形態である。なぜか。それは、時の政治課題をどう処理するかを廻る最高指導者を選出するからであり、政治責任の究極となる。いわゆる指導者論の問題である。故に、ゆるがせにして良い訳がない。指導者によって政治質と政治局面が大きく変わるのであり、誰がなっても同じと云う事は有り得ない。 これを思えば今、民主党が政権与党として首相職を視野に入れながら党の代表選を闘っている姿は至極真っ当なものであり、故に正々堂々とやり抜いて貰いたい。「大いにやれ、質し従来型の金権絡みであったり、ポスト釣り抗争に堕して貰いたくない」、これが世論となるべきではなかろうか。よって、マスコミメディアの意図的故意の「民主党内の恣意的な権力争い」視する報道は無視すれば良い。彼らの言論は現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義によって操作されており、意図的故意の歪んだ報道を得手としている。偶然である訳がない。我々は何度も騙されない。 こたびの民主党代表選は他にも副産物が生まれている。菅首相の「私の政治の原点論」によってロッキード事件が採り上げられたことにより、ロッキード事件、田中角栄が俄かに回顧され始めている。これはとても良いことである。これを引き起こした菅の弁を高く評価すべきであろう。次第に判明する菅政治は空疎且つ愚昧なものでしかないが、どこか憎めない愛嬌がある。ロッキード事件、田中角栄持ち出しもそうで、菅の政治史上に残る功績となろう。当人の思惑は批判する為に持ちだしたのであるが、そこが菅のご愛嬌だろう。 既に、脳科学者・茂木健一郎氏がツイートで「田中角栄論」を書きつけている。これによれば、そこで角栄を28文節に分けて語っており、最期の28文節は、「人間は、過去を振り返り、反省することで、未来への指針を得ることができる。日本の国の将来を、小学生の学級会のような幼稚な『正義』で危うくしてはならない。今こそ、田中角栄さんをめぐる一連の事態は一体何だったのか、真剣に検討すべき時期が来ているのではないか」と語っている。 (ttp://www.asyura2.com/10/senkyo93/msg/839.html) その通りである。今まで立花隆式角栄論で騙されてきたが、そろそろその迷妄から醒める時ではなかろうか。胡散臭いのは角栄ではなく立花の方ではなかろうか。何が「知の巨人」であるものかは。正しくは「知の虚人」とすべきである。立花史観の登場以来、マスコミメディアは、被疑者を検察以上に容疑者扱いし犯人扱いする風潮が生まれ、今日に至っている。マスコミの正義が大きく変質したことを見て取るべきだろう。現下の小沢パッシングはその延長のものであり、「古い思考様式」として決別すべきであろう。マスコミメディアの任務は、それぞれの眼力による評こそ命であり、全社軌を一にした弾劾評論なぞ評論とは云わない。単に御用聞き政論でしかない。 もう一つの副産物は、これまた菅が述べたらしい「西郷隆盛論使い捨て論」により、幕末維新、明治維新が回顧され始めていることである。首相たるものが歴史に通じておくのは絶対必要要件であり、これを持ち出した功績は大きい。問題は、菅式「西郷隆盛論使い捨て論」の是非であるが、菅が西郷どんをそのように見立てしていることが分かっただけでも収穫である。そういう意味では、菅首相にはもっと能弁して貰った方が良い。彼が首相職に相応しい人物であるかどうかが自ずと透けて見えて来よう。 他にも副産物がある。検察審査会論、首相の在任中の訴追論等、従来の未考察課題が生まれている。これらに通じておくのも悪くはなかろう。してみれば、2010民主党代表選は殊のほか収穫が多いと云うことになる。このまま投開票に向かえば歴史に残る名代表選だったと云うことになるのではなかろうか。「能弁・菅対訥弁・小沢」の図式で、これまでマスコミにさほど登場しなかった小沢の実像が広く知れ渡ることになった。これも収穫だろう。 民主党員がどう判断するのかは分からないが、菅続投を選択したとしたなら、この党はオワである。菅が名人的芸で小沢を上手に引き出し、小沢政権誕生に力を貸したとするならば、最期までヤキモキさせてそうなったら、これは神技であると云うことになろう。歴史は実に面白い。 2010.9.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評802 | れんだいこ | 2010/09/06 20:10 |
【「空いた口はまだ空きっぱなしだろうか」考】 朝日社説士の「空いた口」はまだ空きっぱなしだろうか。なしのつぶてのなので分からないが気になる。空きっぱなしだと、顎が外れはしないかとか、雨の日には困るだろうにと心配させられている。それはそれとして今度は毎日新聞を採り上げる。9.6日付け朝刊は、2面で山田孝男氏の「風知草」の「『剛腕』の先にあるもの」、8面で鳥越俊太郎氏の「またぞろ『制度とカネ』」の好一対評論を載せている。これを確認しておく。 山田氏は凡庸な切れ味の悪い政治評論することで知られており、毎日の人材逼塞ぶりを示している。こたびは民主党代表選挙論をものしているが例に漏れず俗っぽ過ぎる。あれこれ書いているが、何とかして小沢候補をとっちめようとする魂胆しか伝わらない。概要「小沢は田中角栄流の利益誘導政治の継承者であり、『古い政治』そのものと云うべきだろう」、「小沢の財源論は、案外平凡で説得力に欠ける」、「天下にケジメを示した幹事長が、アッという間に首相候補に返り咲く不思議」云々と揶揄している。 これを仮に山田見解と命名すると、山田見解は例の「空いた口が塞がらない」氏とほぼ同様の観点に立っていることが分かる。口先だけは達者らしく、手前のことはさて置いといて「案外凡庸」などと評している。凡庸士に凡庸呼ばわりされると、その凡庸はどういう凡庸になるのかなどと余計なことまで考えねばならない。世話の焼ける御仁ではある。 こういう御仁にあれこれ云っても詰まらないので結論だけ申しておく。ジャーナルとは、「田中角栄流の利益誘導政治」なる定説に対して、そろそろ見直すべきではなかろうかと述べるのを云う。小沢の財源論を凡庸と云うのであれば、どういう財源論が望ましいのかを述べるのを云う。小沢の代表選出馬を訝るのであれば、「返り咲く不思議」を考察するのを云う。山田見解は、そのどれもできず、見事なまでになぞっているだけではないか。「風知草」とある題名通りであるのかも知れないが、こういうのを卑怯姑息と云う。 これに対して、鳥越氏の「またぞろ『制度とカネ』」は、バサッと斬っている。「小沢を廻る政治とカネ問題」に対して、「事実関係について正しい知識もなく、ある種のレッテル張りに使っているケースが多くて不愉快」と述べている。或る日のテレビ朝日「スーパーモーニング」での生方幸夫議員と山口一臣・週刊朝日編集長の遣り取りに触れ、山口氏が概要「『政治とカネ』とあなたは言うが、被疑事実は何なのか知っているんですか」と踏み込み、ムニャムニャ訳のわからないことを述べ始めた生方議員に対して「生方さん、あの事件は虚構ですよ」と断じたことを紹介している。続いて、「捜査のプロ・東京地検特捜部が必死になって捜査して出した結論が不起訴」と云う重みについて言及している。「もし強制起訴になれば小沢氏も堂々と受けて立てばいいだけの話なのです」と評している。最期を、「空いた口が塞がらない」と述べた朝日社説士に対して、「あいた口がふさがらないのはこっちだよ。新聞は小沢氏が嫌いらしい」で締めくくっている。 れんだいこはこれまで、鳥越氏と筑紫哲也氏のイメージが重なって区別がつかなかったが、この評論をもって筑紫は筑紫、鳥越は鳥越と識別できたと思う。評価したいと思う。鳥越を見習って皆も、食うに困らないのだったら、云いたいだけのことは云わなくっちゃ。生きてると云う事はそういうことではなかろうか。 毎日新聞は、この鮮やかな対比評論を併載している。それで良い。山田見解だけ聞かされるのなら購読を止めようと思う。それにしても、山田孝男程度の「風知草」なら、れんだいこがいつでも代わって書いて見せよう。もじって「嵐血房」とでも題名にしよう。「嵐血房」ならこう書く。こういうのがそもそもの評論ではなかろうか。 「小沢は田中角栄流の利益誘導政治の継承者であり、『古い政治』そのものと云われ批判される。そろそろこの構図を疑惑すべきではなかろうか。田中角栄政治、利益誘導政治、古い政治の中身を精査し、引き継ぐもの、捨てるもの、高次にするものと仕分けすべきではなかろうか。全否定は何も生まない。そういう清算は歴史の冒涜ではなかろうか」、「小沢の財源論は案外平凡で説得力に欠けると評する者も居る。勝手に云わせておけば良かろう。予算の組み立て直しと経費の大胆な見直しは政権交代時の公約である。公約である以上取り組むのが筋である。問題は、どこまで可能で不可能なのかにある。やってみなければ話になるまい」、「天下にケジメを示した幹事長がアッという間に首相候補に返り咲く不思議を述べる論がある。しかしながら後継の菅政権が参院選でブザマな敗北をし、何ら責任を取っていない以上、党内の輿望を担って再登場したきた経緯に不思議はない。ここは一番、党内がどう反応するのか見極めたい」。 2010.9.6日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評803 | れんだいこ | 2010/09/07 18:52 |
【2010民主党代表選中盤戦その2考】 2010.9.6日、民主党は、「9.14民主党代表選」臨時党大会のスケジュールを固めた。会場は東京都港区にあるホテルのコンベンションホールで午後2時に開会。菅直人首相と小沢一郎前幹事長が、それぞれ15分程度の最後の演説をした後に、党所属衆参両院議員による投票と開票を行う。順調に進めば、午後3時半ごろから4時ごろには新代表が選出される見通しとなった。党員・サポーター票と地方議員票は9.11日に郵便投票が締め切られ、開票作業は14日午前、同じホテル内の別の場所で実施し、国会議員票と合わせて発表されることになった。当初、前日の13日に開票され国会議員票とともに14日に公表される予定だったが、事前の情報漏れで国会議員の投票に影響を与えるのを防ぐため変更したとみられる、と云うことのようである。残すところ一週間となったことになる。 9.7日現在、両陣営のつばぜり合いは次第に小沢候補の方が押し切りつつある。マスコミメディアが幾ら虚報を打とうと利かない。何せ、権力の甘い蜜に群がろうとするだけの野合の菅集団と、酸いも甘いも噛み分けヤキの入った年季入りの小沢集団との争いだから地力に差が有る、いわゆる貫目が違う。顎を挙げるのは菅派の方に決まっていよう。しかし、小沢候補の身に危険が迫るので余りに一方的になることは良くない。どちらが勝つか分からないぐらいで雪崩れ込むのが良いのかも知れない。 それはともかく菅陣営の内紛が公然化し始めた。潰走し始める兆候かも知れない。形勢非と見る菅首相は、6日の日本テレビの番組収録で、再選された場合の小沢候補の処遇について「特に選挙の指導が非常に的確だ。得意な分野で活躍していただけたらありがたい」と述べた。これ対して、「小沢派排除」の雇われで任に就いている仙石官房長官、枝野幹事長らが納得せず収拾不能となりつつある。7日午前、仙谷官房長官は、記者会見で、首相から6日夜に「要職起用を言ったものではない」と説明を受けたと明かし、「今からとやかく言う話でない」と述べた。首相を補佐する任の官房長官としてはイタダケナイ発言であるが、マスコミは騒がない。オカシナことである。 だがしかしイケナイ。「仙石シナリオ」は次から次へと破綻する。本日付け産経新聞は「菅伸子・首相夫人 小沢内閣『大丈夫かしら?』」記事を掲載している。この記事は称賛に値する。昨日の毎日の鳥越記事に続く朗報である。これにより読売、朝日、日経の頑迷ぶりが際立つことになった。同記事は、タイトルからすれば菅エールなのだが、記事の中身は菅敗北を見据えての挙党一致論を説いて次のように述べている。 「党がガタガタしていては選挙は戦えないでしょ」、「小沢さんは一緒に話していると穏やかで、ごついとか怖いということは全くない」、「菅と小沢さんのどちらが勝つのがいいのか。本当のところそれは分かりません。でも『二重権力』はよくありません」、「小沢さんが代表選に出たのは彼本人にとってもよかったのではないでしょうか。トップになっておやりになられた方がいいんです」、「実は、冬物の衣類は公邸に持ち込んでいません。代表選後に持ち帰るなんて気分悪いじゃないですか。最後は怨嗟(えんさ)の声に送られて出ていくことも覚悟しています。菅が『もう少し公邸の主でいてほしい』とも思っていません。選挙で負ければ仕方がないでしょ」。 これを敗北宣言と見るか見ないかは自由であるが、信子夫人の見識は高い。「西郷どん用済み論」を平気で唱える菅首相を上回ることは確かだ。れんだいこは既に指摘しているが、こたびの民主党代表選一騎打ちの立役者は信子夫人である。疑似餌人事談合をあわやのところで蹴ったのは信子夫人の慧眼であった。小沢政権は必ず大臣登用するように。小沢陣営は、この言を小沢候補に伝えるように。今後は信子夫人が選挙区を継げばよい。菅は第一秘書になれば良い。 2010.9.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評804 | れんだいこ | 2010/09/09 08:54 |
【善政悪政考】
民主党代表選のさ中、最高裁により鈴木宗男議員の公訴が棄却され実刑が確定させられた。これが偶然なのか因果関係があるのかの詮議は別にして、れんだいこにはふと見えたことがある。これを書きつけておく。 目下の民主党代表選での小沢派と菅派の対立も、はるか昔からの政治的諸抗争も、実は権力の善用派対悪用派の対立なのではなかろうか。善政とは前者が権力を握っている時代の政治であり、悪政とは後者が権力を行使している時代の政治なのではあるまいか。これが、一番分かり易い捉え方なのではあるまいか。 付言せねばならぬことは、権力悪用派の現代的な生態は時代劇の水戸黄門的時代と違い、現代世界を支配している国際金融資本の御用聞きを主にしており震源地としているということであろうか。国際金融資本と云う外国資本の対日施策方針アジェンダを専らとする政治に向かうので売国政治と云われることになる。こういう時代の変化がある。こう捉えると辻褄が合う。 我々が小沢政権を通して或いはその後の政権を通して確立すべきは権力の善用派による善政であり、逆政を抑圧することである。だがしかし現実はそうはなっていない。それ故に、善政派が疑獄事件で訴追され、逮捕され、政治生命を強権的に失わされる。刺客に襲われたり自殺に見せかけて殺される。これをエール拍手するメディアが総動員され、事情に疎い人民大衆が洗脳操作される。その対価として、この逆政に貢献した者が高額報酬で待遇され立身出世を得て権力を行使したり、権力の蜜に群がることになる。テレビのコメンテーターの殆どがこの類であり、ろくなもんではない。我々の政治に対する不快さは実にこのことに起因しているのではなかろうか。 だがしかし、日本人民大衆は優秀である。ひとたびはそういう悪政を許しても、序々になり一気になり善政に戻して行く能力がある。これはン千年の抗争となっており、史上の数々の場面で確認できる。ここではこれを語らない。 日本の戦後政治は、戦後保守ハト派と云われる吉田茂を開祖とする系譜の池田-(佐藤)-田中-大平-鈴木政権までは善政であった。日本左派運動は、この見立てを欠くことで理論の貧困を示している。途中、悪政見本の岸政権があるが60年安保闘争により打倒された。これに功のあった第一次ブント全学連の輝きは不朽の金字塔となっている。但し、第一次ブントのその後は、この功績をみることができず四分五裂化し、今では見る影もなくなってしまっている。 この善政がひっくり返されたのはロッキード事件による田中角栄政治の弾劾、田中角栄の政界追放、田中派、盟友の大平派の解体によってであった。これを促進したのが三木派、福田派、中曽根派の政治であった。この流れが今日まで続いており長期の悪政となっている。この間の日本は、国債が刷り抜かれ、消費税が導入され、料率が上がり、中小零細企業が整理され、これにより吸盤を失った大企業は利益を国際金融資本勢力にむしり取られ、次第に国際競争力を失いつつある。日本の財政は、「入り」がますます貧し「出」がますます増えつつある。尋常なことでは打開できない深刻な事態に突入している。 「2010.9.14民主党代表選」は、この難局をどう打開するのかを廻る善政派と悪政派の抗争になっている。悪政をいつまで許すのか、もはや期限切れなのではなかろうか、旧善政派の最後の大物政治家・小沢一郎の旗の下での世直し世の立て替えに向かう最後のチャンスなのではなかろうか。こう捉えるべきではなかろうか。鈴木宗男議員に対する容疑程度のことであれば、同様の論法で悪政派の議員の過半が逮捕できるのではなかろうか。小沢候補に対する容疑も然りである。司法権力は、善政派に対しては訴追ハードルを低くし、悪政派に対しては高くすると云う二重基準で権力を恣意的に行使している。 これを思えば、司法権力内の良識派に政権交代させる必要があろう。でない限り解決しないと思う。してみれば、政界における政権交代の意義は、やがてそれが言論界にも司法界にも官僚界にも財界にもと云うように連鎖して行くことにある。逆は逆である。これを思えば、ゆるがせにできない重要な政治戦と云うことになる。 2010.9.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評805 | れんだいこ | 2010/09/11 11:40 |
【民主党代表選に於ける国会議員の旗印考】
「2010.9.14民主党代表選」の帰趨が見えてきた。後三日間、両派は最期の勝負に向かう。堂々とした良い選挙戦だったと思う。かっての1970年代までの自民党政権内の権力闘争の熾烈さには及ばないが、政治闘争とはかくあるべきの範を示したと思う。政治はこうでなくてはならない。 先ほど自民党で政務三役の人事異動があったが小泉派の堂々たる復権であり気色悪さを強めた。小沢政権登場を見据えた登用であるが、自民党の党的瓦解を強めよう。それに比して民主党の株はますます上がりつつある。「分裂含み」が云われ続けたが、小沢派の分裂はない。あるとすれば、民主党内シオニスタン派の側であり、誰が出るのか出ないのか、まもなくはっきりしよう。その時こそ正体がますます見えよう。 代表選は、全国で一括集計し100P(ポイント)を配分する地方議員(2382人)と、衆院300選挙区に1Pを割り振る党員・サポーター(34万2493人)の郵便投票が11日に締め切られ、14日に開票される。同日の臨時党大会で1人2Pを持つ国会議員(411人、822P)が投票し、計1222Pの過半数を得た方が勝者となる。 現時点での形勢は、菅票は衆院で127、参院41の168票。小沢票は衆院136、参院44の180票と推定できる。テレ朝出演の鳥越俊太郎が、鳩山Gの情報として、「小沢174、菅145で、残りは未定」と発言している。一見ほぼ拮抗しているように思える。残すところ63名の態度保留派がどう出るかにかかっている。最新情報では、態度未定保留派の国会議員は25名(衆院19、参院6)まで煮詰まっていると云われている。両陣営は、相手側の支持に回ったとみられる議員を翻意させることも含め、支持獲得に全力を挙げている。 態度保留派の票の行方について、れんだいこが推定するのに、その過半は小沢候補票に向かう。なぜか。これが深読みを要するが、要するに態度保留派がなぜ態度保留しているのかの理由を考えれば分かる。一つは、菅を支持しないと云う積極的態度からの保留である。そう意思表示していることになる。もう一つは、何らかの理由で小沢支持を明らかにし得ない事情があると読み取るべきであるからである。後一つは、どちらも支持し難いが強いて選ぶとすれば小沢と云うことで雌伏していると思われる。そういう訳で、これを仮に40対23と配分する。 加えて、現在に於いて主権力を握っているのは菅派であるから何かと働きかけが優位であり、そういう事情で菅派の票は水増しされている可能性が強い。蓋をあけると相当数目減りすると読むべきであろう。これに比して、小沢支持派の場合には小沢バッシングの嵐の中での旗幟鮮明であるからして票は固いと読むべきであろう。こういう変数を考慮すると、菅票は191票を最大とし150票まで目減りする可能性がある。これに対し小沢票は220票を下限とし、261票まで届く可能性がある。差し引き29票から111票差になる。真ん中を取れば70票差辺りが見当と云うことになろう。地方議員票、党員・サポーター票を考慮しても小沢圧勝は揺るがない。地方議員票、党員・サポーター票でも小沢候補の善戦が予想される。 問題は、こういう形勢にも拘わらずマスコミメディアは何故に執拗に「菅優位」をプロパガンダし続けるのか、し続けたのかにある。既に、ネット情報では様々な調査のどれもが小沢完勝の卦が出ているにも拘わらずである。何とかして菅票を競り上げようとして無駄な努力をしている魂胆が見え見えで、言論バイニンの生態を示して余りあると云えよう。選挙後、こたびの報道の客観性、公平性が槍玉に挙げられ検証されるべきであろう。三権分立のチェックアンドバランスから外れた第四権力然として恣意的に権力を行使しているマスコミメディアの言論大砲ぶりが俎上に乗せられるべきであろう。もっとも、これを直すには、新たな新聞、テレビ、雑誌を生みだし対抗する以外にないと思われる。和製アルジャジーラ言論を登場させ対抗言論させるべきであろう。これが言論規制に向かわない賢明な方法であろう。 さて、そういう訳で、そろそろ組閣人事に関心を寄せねばならない。巷間、鳩山前首相、菅首相の閣僚入りが囁かれている。しかしこれはオカシイ。元首相は顧問として据えられるべきではなかろうか。これが嗜みとなるべきではなかろうか。鳩山首相はその栄誉を授けられても辞退すべきであり、鳩山派の有能議員に座を譲るのが筋だろう。菅首相は伸子夫人に座を譲るべきである。こたびの代表選は伸子夫人の慧眼の賜物であった。これを高く評価したい。 先の参院選での官邸権限発動による消費税増税持ち出しの責任が取られていない。二度と起こらないよう対策を講ずるべきである。挙党一致を組むべきであるが、2009政権交代マニュフェストの不履行閣僚は解任されるべきであり、そうすれば残るのは数閣僚しかいない。派閥、グループの別は問わないが、2009政権交代マニュフェストの強力履行意思を持つ者を登用すべきだろう。レンボウは既に口先ぶりが食傷された。民主党内には有能な女性代議士が数多くいることを示す為にも交代させるべきであろう。その他云いたいことはあるが見守りたいと思う。最終盤と新政権登場過程で変事が起こりませぬように。 2010.9.11日 れんだいこ |
Re::れんだいこのカンテラ時評806 | れんだいこ | 2010/09/11 22:06 |
【民主党国会議員のプロの見識を問う】 「2010.9.14民主党代表選」のカウントダウンが始まった。考えて見れば、小沢候補が勝つのに何の不思議もない。マスコミの執拗な小沢パッシングプロパガンダで催眠術に掛けられているが、解けてしまえば何でもない。そもそも政権交代選挙となった2009年総選挙は本来なら小沢代表の下で闘われる筈であった。こう確認すべきではなかろうか。 小沢氏は、2006.3月、前原代表が偽メール事件を受けて辞任表明したのを受け、民主代表選で、小沢副代表(63)が菅元代表(59)を119対72で破り、新代表に決定した。以来、2007.9月、臨時党大会で無投票で代表再選され、2008.9月、臨時党大会で無投票で代表3選された。無投票の再選は、代表の指導者としての能力が評価された為である。事実、民主党は小沢代表になって以来、小沢、鳩山、菅のトロイカ体制の下で各種の選挙戦で躍進を続け、次は2009年の総選挙での政権交代を期すを誓いに着々と布石し始めた。 この情勢下で突如、政治とカネ問題による小沢パッシングが執拗に展開され始めた。2009.3月、西松献金問題で小沢代表の公設第一秘書が逮捕、起訴されるという事件がぼっ発し、同年5月、指導能力に何の落ち度もなかった小沢代表が辞任を余儀なくされた。同年5月、両院議員総会で鳩山氏が代表に選出された。同年7月の東京都議会議員選挙で、島部を除く全ての選挙区で1位当選を確保するなど地滑り的大勝を飾り、第1党に躍り出た。そして同年8.30日の第45回衆議院議員総選挙で悲願の「政権交代」を成就する。絶対安定多数を超える308議席を確保して衆参ともに第1党となった。こうして鳩山政権が誕生し、衆知のような経緯で退陣、菅政権の誕生となった。衆知のような経緯で、こたびの代表選となっている。 この代表選への小沢前幹事長の出馬に対し、朝日新聞論説士は「空いた口がふさがらない」と不快さを主張し、各新聞社とも同様の見解を示したが、本来なら「空いた口がふさがらない」のはこっちの方であろう。何とかして小沢政権の登場を阻止せんとしてあの手この手の禁じ手を使いながら躍起になってきたのが平素は不偏不党を標榜するメディアの方であった。マスコミメディアが1970年代までの弁えを持って居れば、本来なら2009年総選挙を受け、首相の座を射とめるのは小沢候補であった筈である。それを鳩山政権、菅政権と云う回り道をして1年後の今ようやく手に入れようとしている。この1年が有意味であったのかどうかは歴史の女神のみが知ることであろう。 単純にすれば凡そ以上のような話である。小沢政権が誕生しても大騒ぎするほどのことではなく、むしろ何の不思議もないと云うことだ。一度小沢にやらせてみようと云うのが、人民大衆の真の声である。ウソと思うならメディア諸君が巷に出れば良い。居酒屋でもどこへでも出かけて声を聞けば分かる筈だ。それを逆に宣伝し抜いた訳であるが、投票するのは国会議員、地方議員、党員、サポーターである。票の比重は国会議員が重いようにしてある。国会議員は国権の最高機関の政治プロである。その政治プロの判断をセミプロがあれこれ云うのはおこがましいと云うべきだろう。囲碁の初級者が上級者の手をヘボ批評しているようで気持ち悪い。アマがプロを評するには自ずと弁えがあると云うべきではなかろうか。 とか云いたかった。れんだいこは明日、明後日と所用で旅に出る。小沢政権が誕生しますように。議員の皆様が一つここは小沢にやらせてみようと思い直してくれますように。プロの見識を示しますように。催眠術が解けますように。念じながら携帯ニュースで終盤情勢を確認することにする。 2010.9.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評807 | れんだいこ | 2010/09/14 20:31 |
【「2010.9.14民主党代表選」の残念な結果に寄せて】
2010.9.14日、菅首相と小沢前幹事長の一騎打ちとなった民主党の代表選挙が都内のホテルで行われ、菅候補が小沢候補に圧勝した。この冷厳な事実を見据えねばなるまい。 内訳は次の通り。党員サポーター票(34万2394人)300ポイント、地方議員(2382人)票100ポイント国会議員411名(衆院305、参院106)のうち409人が投票(無効票3)、1人2ポイントの822ポイントで争われ、菅首相は、党員・サポーター票249ポイント、地方議員票60ポイント、国会議員票206人(412ポイント)の合計721ポイント。小沢前幹事長は、党員・サポーター票51ポイント、地方議員票40ポイント、国会議員票200票(400ポイント)の合計491ポイント。予想を上回る200ポイント以上の大差となった。 これを分析するのに、菅候補は、党員・サポーター票で圧勝し、地方議員票で優勢、国会議員票で僅差で勝利したことになる。党員・サポーター票の開票結果は、有権者342,493名 投票数229,030人の得票数・菅直人137,998票、小沢一郎90,194票、無効838票とのことである。票差の割にはポイントで大差となっている。「世論の声を聞く」と云うのなら国会議員の投票まで党員・サポーター票、地方議員票を隠す必要があるのかを含め、民主党代表選の仕組みに今後の改良があるように思われる。 それはともかく、れんだいこの予想は見事に外れた。今後この種の予想は新聞情報に謙虚になろうと思う。新聞情報はかなり正確と云う事が又しても裏付けられた。れんだいこは最後の最後まで小沢候補の勝利を確信していたが、テレビ中継に映し出されるノーネクタイの国会議員の多さを見て嫌な予感がした。小沢派でノーネクタイの者は少なかろうと思われるので、この連中は何らかの申し合わせでノーネクタイしていたと思われる。津村なんかはワイシャツ姿で登場していたが奇異であった。今後の為、映像で確認しておく必要があると思われる。 それにしても、党最高の厳粛な政治儀式においてノーネクタイで登場するとは。彼らは天皇陛下がお出ましでも、外国要人を迎えてもノーネクタイで通すのだろうか、ワイシャツ姿で迎えるのだろうか。その際は背広でネクタイするとするなら、党の代表選を安く見たもんだと思う。政治の遊び人性を見せられて不快である。小泉政治以来の現象であることが不快さを増幅させる。 これで衆院選の流れが確定した。恐らく近未来、衆院解散に誘われるであろう。そういうシナリオになっているように思われる。或いは政界再編があるかも知れない。今後我々は又、子供の政治を見せられ続けることになるだろう。イケネェ又予想しようとしている。反省の為、今月中は貝になる。好きな歴史の世界に耽ろうと思う。今夜は歴史の女神の思惑を探ろうと思う。 小沢候補、支持者の皆さん御苦労さん。力及ばずして政権交代二幕が開かなかったことになるが、力を尽さなかったのではない。一応満足しよう。そして何が足りないのか確認しよう。一つは金力である。ない方が金権だとして、クリーンな方がダーティーだとして責められ、これに防戦一方では勝てない。もう一つ、マスコミメディアの言論大砲力を知ることだろう。対抗力としての和製アルジャジーラ新聞、放送、雑誌を産み出さねばなるまい。事は一朝一夕にはならない。新たな布石を打たれんことを願う。 れんだいこは今思う。云い訳は要らない、慌てることもない。こたびの代表選の意義を高く評価し、次のステップに向かうべきであろう。軍師が登場する必要がある。結束せよ。そして新たな展望を見出そう。シオニスタン派は勝手に転ぶ。我々は日本の未来を切り開かねばならない。そういう歴史責任の引き受け手になろう。問題は金力である。如何に自前で調達するか、ここが最大の難関であろう。支持者を増やさねばならない。地塩のネットワークを構築せねばならない。ウンウン次第に元気が出てきたぞ。 2010.9.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評808 | れんだいこ | 2010/09/16 23:31 |
【「2010.9.14民主党代表選」考】 「2010.9.14民主党代表選」は二週間の日程を無事終え、菅、小沢の両候補が理想的な闘いで日程をこなしたことは慶祝に値する。小沢候補は、これから述べるような条件下でまな板の鯉となり且つ可能な限り泳いだ。敗れたとはいえ失ったものはないのではなかろうか。 それはともかく既に幾人かが「党員サポーター票のうちの小沢票の抜き取り疑惑」を取り沙汰している。れんだいこ検証によれば大いに有り得る話であると云うことになった。この辺りを見据え、こたびの民主党代表選に於ける不備と違和感を箇条書き式にコメントしておく。 選挙管理委員会は、「2010年9月民主党代表選挙の結果に関する公告(pdf)」と「民主党代表選挙 一般党員・サポーター投票 開票結果(pdf)」を発表している。これを元に検証する。国会議員の投開票は衆人環視の中で行われたので疑問はない。地方議員票については情報がないのでコメントできない。そういう訳で、党員サポーター票に限定して疑問を提起しておく。 その1、党員サポーター票(342,394人、300ポイント)、地方議員票(2,382人、100ポイント)、国会議員票(411名(衆院305、参院106)、1人2ポイントの822ポイント)で争われたが、党員サポーター票の比重が大き過ぎることが判明した。本来なら、党員サポーター票は地方議員票ポイントに並ぶか、それ以下にすべきではなかろうか。これを逆に云えば、地方議員票ポイントが低過ぎると云うことにもなる。党員サポーター票は元々はなかった票であり、これを地方議員票より重くする合理的理由が分からない。早速に議論されるべきではなかろうか。 その2、党員サポーター票が一括りにされているが、党員(年間党費6000円)とサポーター(年間会費2000円)では重みが違う。党員票1ポイントに対してサポーター票0,5ポイントぐらいの差があっても良いのではなかろうか。あるいはサポーターには投票権なしとしても何らオカシクない。これを逆に云えば、党員票とサポーター票を同価値ポイントにするのは党員を軽視していることになりはすまいか。これも早速に議論されるべきであろう。れんだいこが党首を務めるたすけあい党では将来党員が増えたとして、こういう扱いはしない。サポーターはサポーター止まりであり、それ以上の権利を欲するなら党員になれば良いだけの話ではなかろうか。 その3、党員とサポーターは日本国籍を有する必要がないとのことである。これを逆に云えば、在日外国人にも資格があると云うことになる。思うに党員、サポーター要件としては構わないが、代表選投票権には在日年数とか登録年数が条件化されて然るべきではなかろうか。海外居住者党員、サポーターも然りである。何らかの基準が定められるべきではなかろうか。こたびは非党員、非サポーターへの投票用紙誤配送、名義貸し党員、同サポーターの存在も明らかになった。より厳重な認定ないし確認方法が講ぜられるべきではなかろうか。これも早速に議論されるべきであろう。 その4、党員サポーター票の集荷、開封、仕分け、集計手法につき様々な疑惑が生まれている。本来なら、選挙管理委員会の管理の下で各候補より推薦された開票要員をセットし、両派立ち会いの下で一挙に開票作業を行うべきであろう。こたびはそれを外部業者(「データ集計業者」と表記されている)の手に委ねたと云う。党の代表を選ぶのに外部業者の手を借りる必要がない、と云うか外部の者に任せてはいけない。その為に選挙管理委員会があるのであり、外部業者の手に委ねるのは自殺行為ではなかろうか。これも早速に議論されるべきであろう。 これをもう少し詳しく確認する。外部業者は、1、投票用紙の送付先を9.11日必着締め切りで「筑波学園支店留 民主党中央代表選挙管理委員会行」、住所は「筑波学園支店留」に指定した。2、投票用紙をいったん茨城県内の倉庫に保管した。3、それを衆院選の区割りに合わせて300小選挙区ごとに仕分けした。これを倉庫内でしたのかどうか分からないが、外部業者が集荷、開封、仕分け、集計したとのことである。れんだいこには信じられない。4、これを保管し、14日未明から投開票が行われる都内のホテルに運んだ。ざっとこういう手順であったと云う。 早速に疑問が湧く。外部業者による「仕分け」に際して、選挙管理委員会がどう関与したのか明らかにされていない。なぜ外部委託したかにつき次のように説明されている。「移動のコストは発生しますが、保管場所を党本部にすると、議員が自分の選挙区の集票状況や支持候補の優劣を盗み見る恐れがあるのです。倉庫の住所は党内でもトップシークレットで、業者も限られた要員しか入れない金庫のような厳戒体制です。守秘義務も徹底させています」。この弁が誰の弁であるか判明しないが。外部委託の是を巧妙に説いている。が、事は民主党の代表選である。党が直接関与することこそ責務であり外部委託ほど非常識なことはあるまい。選挙管理委員会は、誰が何の権限で外部業者に委託することを発案し、党内合意されたのか、その経緯を明らかにすべきである。その上で、外部委託による万一の不正に対し、どのようにチェックしたのか明らかにすべきである。 ふと思い出した。小泉政権下の2005.9.11総選挙の際、自民も民主も外資系選挙請負PR会社に広報委託していた事実が判明した。日本を代表する二大政党がこぞって外資の頭脳に身を委ねて国政選挙を闘っていたと云う話であるが、この時の民主党代表は岡田であった。選挙結果は、小泉政権完勝であった。岡田民主党は、郵政民営化法案を廻って自民党内が分裂したまま選挙に突入していたにも拘わらず惨敗させられた。あの時も、各社新聞が一斉に世論調査を発表し、小泉ムードと与党圧勝気運の盛り上げを企んだ。この劇を裏方で企画進行させたのが外資系選挙請負PR会社であり、自民党側がプラップジャパン、民主党側がフライシュマン・ヒラード・ジャパンであった。こたびの外部業者に同じような臭いを嗅ぐのはれんだいこだけだろうか。 その5、こたびの党員サポーター票は、有権者数342,394人に比して投票者数229,030人で投票率66・9%になっている。棄権者数は113,463人で棄権率33,13%にも達していることになる。一般の国民投票ではなく党員投票であることを考えると異常に低い投票率、異常に高い棄権率と云うべきではなかろうか。それを思えば、選挙管理委員会は、投票率66・9%の検証をすべきである。党員サポーターに投票したかどうか確認をすべきであると考える。どういう理由で棄権したのか調査すべきである。全選挙区が無理ならせめて棄権率の高い選挙区を抽出し調査すべきではなかろうか。或いは有権者の少ない選挙区で調べるのも一法であろう。やる気になればできる筈である。 その6、候補者の獲得票数は菅候補137,998票、小沢候補90,194票で、獲得比率は「6対4」、無効838票であった。しかしながら、衆院300小選挙区ごとに票数の多い候補が1ポイントを獲得する「総取り方式」にしていた為に、菅候補249ポイント、小沢候補51ポイント、獲得比率「83対17」(略して「8対2」)と云う大差となった。敢えて「総取り方式」にする必要があったのかどうか宿題を残すことになった。単に票数割で良いのではなかろうか。衆院300小選挙区ごとの仕分けは良いとしても党内世論バロメーターとして活用すれば良いだけのことで、「総取り方式」にする必要、合理性が分からない。 その7、こたびの代表選では党員サポーター票及び地方議員票の結果が事前漏れした。これをオカシイとする説もあるが違うと思う。開票すれば漏れるのは予想されることである。これを防ぐ手はイタチごっこの徒労になると思われる。それを思えば、選挙管理委員会の指揮下で開封されると同時に仕分け集計され、その場で結果が公表されるべきではなかろうか。これが一番安全確実な方法であると思う。国会議員は世論の声を聞く必要があり、投票する前に党員、サポーター、地方議員の党内世論の声を聞くのに何の憚りがあるだろうか。 選挙管理委員会は終始、開票会場に立ち会い、直ちに公表するべきである。それが選挙管理委員会の役目である。これを逆に云えば、外部業者に委託したり、その業者が開封し仕分け集計したものを厳重保管させた意味が分からない。厳重隠匿保管するのであれば未開封であるべきではなかろうか。開封したなら直ちに開票集計し結果発表すべきではなかろうか。実際には、間違いを起さない為と云う名目で一番間違いが起こり易い手法として外部業者に委託し、開封仕分け後の票保管と云う最悪の手法を採っているように思われる。誰が何の為にこういう方法にしたのか、胡散臭いと思うのはれんだいこだけだろうか。 その8、「党員サポーター票の小沢票抜き取り」が疑惑されている。選挙管理委員会発表の「一般党員・サポーター投票開票結果」を見れば確かに怪しい。各選挙区ごとに仕分けされた票を前提にして菅候補票を上回る選挙区の小沢票を抜き取ったとする疑惑が成り立つようである。但し、これをやると投票者数が減るので、有権者数との乖離が発生する。実際にこういうことが起きている。 と云うことは棄権率の高い選挙区を集中して洗えば良いことになる。国会議員が小沢支持を強く打ち出している選挙区での取りこぼしが多過ぎるようにも思える。菅派の中心人物の票は手堅く選挙区を押さえているのに比して、小沢派の中心人物の票が弱過ぎる。国会議員のメンツコケンに関わる話であり、検証すべきであろう。こういうことが実際に起こったのかどうかは分からないが、疑惑があるなら追及すべきと云うのが「政治とカネ問題」に於ける小沢責任追及派の論理論法であるからして、その論法通りに「抜き取り疑惑」を解明すべきではなかろうか。 凡そ以上の疑惑、疑問が残った。もう終わってしまったことであるが教訓を次回に生かす為にも調査検証しなければさねばならないと考える。もし不正があったとしたなら本来はこたびの代表選は無効である。今更できないとしても、不正派が同じ手口で国家を運営することになる。とても許されることではあるまい。ゾッとする話ではあるまいか。 選挙管理委員会は外部委託の経緯と是非見解を出すべきである。不正の余地のないようどう配慮し責任を果たしたのか釈明すべきである。問われているのは責任能力である。これができない党に日本政治の与党として政権を任せるには危な過ぎよう。どうせ碌なことになりはすまい。小泉政権同様に上手に口を回す度に巨額の資金が国際金融資本に吸い取られよう。代表選直後の各国に対して何の根回しもせぬままのドル買い数兆円介入は早速のご祝儀のような気がする。今後こうしたことが連続することが火を見るより明らかではなかろうか。 2010.9.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評809 | れんだいこ | 2010/09/17 18:06 | ||||||
【「2010.9.14民主党代表選」考その2】 「2010.9.14民主党代表選の党員サポーター票に於ける小沢票抜き取り疑惑」を検証して見ることにする。外部委託業者が如何に巧妙に抜き取ったかを仮定して、これを見破る頭脳ゲームになる。こういう場合、推論を押し進めて行った結果、次々と不都合事象が生じるかどうかで仮定の正しさが判断されることになる。間違った仮定の場合には推論を積み重ねて行くうちに辻褄が合わなくなる。推論を積み重ねても破綻しない場合には仮定の正しさが裏付けられることになる。論理学の世界であるが、ではやってみよう。 「小沢票抜き取り疑惑」を仮定すると、どういうことが見えてくるだろうか。これが宿題である。相手はゴマカシのプロだと看做す必要がある。プロの狙いを見抜かねばならない。或いはそのプロの失策を掴まねばならない。噂されている「小沢票抜き取り疑惑」は投票率の低化と連動する。現に投票率は党員選挙にしては不自然なほど低い66・9%になっている。よって、ここまでの推理は正しいと云うことになる。 但し、これは尻尾である。この尻尾を手繰り寄せ正体にまで辿り着かなければならない。思うに、国会議員票では70議席、140ポイントの差が予想されていた。従って、これを覆す為の100議席、200ポイント変動工作が発動されたと思われる。問題は、どういう基準でこれを為すかである。その手の内を推理して見ることにする。 まず菅票の出方を確認する。菅派の中心核となった国会議員の選挙区では、圧倒的に菅票が支配している。最も高いのが岡田外相の三重3区の小沢票率12%である。前原国交相の京都2区の小沢票率は15%である。仙石官房長官の徳島1区の小沢票率は16%である。玄葉特命担当相の福島3区の小沢票率は18%である。菅首相の東京18区の小沢票率は18%である。これは、菅改造内閣の組閣において、これらの者が重要視されるよう裏メッセージされているように思われる。 9.17日、菅改造内閣の顔ぶれが決まったが、登用された大臣の選挙区の小沢票率を確認しておく。参議員は対象にできないので割愛する。上記の他は、財務相の野田佳彦の千葉4区で24%、文部科学相の高木義明の長崎1区は39%、厚生労働相の細川律夫の埼玉3区は31%、農林水産相談の鹿野道彦の山形1区は47%、経済産業相の大畠章宏の茨城5区は29%、国土交通相の馬淵澄夫の奈良1区は27%、環境・防災相の松本龍福岡1区は26%、経済財政・科学技術相の海江田万里の東京1区は48%。こうなるとあまり関係があるように見えない。 これに対して、小沢派の中心核となった国会議員の選挙区ではどうであろうか。小沢氏の地元である岩手が軒並み高い。小沢候補当人の岩手4区の小沢率は93%、畑浩治の岩手2区の小沢率は93%、階猛の岩手1区の小沢率89%、黄川田徹の岩手3区の小沢率88%となっている。次に沖縄が高い。玉城デニーの沖縄3区の84%、沖縄1区の73%、沖縄2区の69%、瑞慶覧長敏の沖縄4区62%。ここは操作の手がつけられなかったと考えられる。 後は田中美絵子の石川2区の小沢率73%、山岡賢次の栃木4区の小沢率68%、津島恭一の青森4区の66%。中野渡詔子の青森2区の63%、小泉俊明の茨城3区の61%、奥田建の石川1区の61%、鈴木克昌の愛知14区の61%、橋本清仁の宮城3区の60%。岡島一正の千葉3区の57%、金子健一の千葉11区の57%、柳田和己の茨城7区の55%。 他は軒並み辛うじて50%を上回る程度の票しか出ていない。53%代は中後淳の千葉12区、青木愛の東京12区、東祥三の東京15区、坂口岳洋の山梨2区、山田農相の長崎3区。52%代は中野譲の埼玉14区、樽床伸二の大阪12区、空本誠喜の広島4区。51%代は松木謙公の北海道12区、京野公子の秋田3区、福田昭夫の栃木2区、内山晃の千葉7区、中塚一宏の神奈川12区、田中眞紀子の新潟5区、村井宗明の富山1区、近藤和也の富山3区、近藤和也の石川3区、宮島大典の長崎4区、川内博史氏の鹿児島1区、皆吉稲生氏の鹿児島4区と圧倒的に多い。50%代は羽田孜の長野3区の50,9%。大西孝典の奈良4区の50,4%。 以上の選挙区は、小沢優位が歴々としており、これを落とすと疑惑が強まり過ぎることを懸念して小沢票ポイント選挙区として配慮されたことを意味するのではなかろうか。それにしても田中眞紀子の新潟5区、川内博史氏の鹿児島1区までが51%、羽田孜の長野3区が50,9%とは悪意が見え見えではなかろうか。ここを菅票ポイント区にしたら疑惑が増すのでイヤイヤ小沢票ポイント区にしたものの当てつけでギリギリの%にしたと思われる。 と云う事は、これから確認する選挙区はそこまで評価されず地盤がヤワだったことを意味する。国会議員がナメられていると云うことでもある。怒れ、ヤワ評価された小沢派国会議員よ。 その前に確認しておく。妙なことに民主党議員を持たない空白選挙区で決まって小沢票ポイントが出ている。埼玉14区の52%、富山2区の54%、富山3区の51%。鳥取1区の58%、広島6区の67%、宮崎3区の60%、沖縄1区の73%、沖縄2区の69%。石川は3区とも小沢ポイントとなっている。民主党議員を選出していない空白区であれば、小沢、菅が票を分け合ってもオカシくない。ところが全て小沢票ポイントになっている。これは何を意味するのだろうか。これについては末尾でコメントする。 以下、思いがけぬ取りこぼし例を確認する。小沢率基準で、横路孝弘の北海道1区30%、三井辨雄の北海道2区40%、鳩山由紀夫の北海道9区43%。太田和美の福島2区45%、小宮山泰子の埼玉7区49%、松崎哲久の埼玉10区49%、海江田万里の東京1区48%、中山義活の東京2区46%、松原仁の東京3区43%、江端貴子の東京10区45%、細野豪志の静岡5区35%、赤松広隆の愛知5区38%、平野博文の大阪10区35%、滝実の奈良2区40%、野田国義の福岡7区49%、原口一博の佐賀1区45%、福田衣里子の長崎2区49%等々。 判明することは不自然な取りこぼしであろう。凡そ国会議員が支持を打ち出せば支持者はこれに従うのが世のナライである。このナライが菅派の場合のみ成り立ち、小沢派の場合にはそうならなかったというのが解せない。マスコミメディアの言論大砲威力があったにせよ、それだけで説明できるだろうか。実際には小沢票が上回っているのに削られたと見るべきではなかろうか。鳩山グループの小沢率が低いことも気になる。結局、鳩山グループは力にならなかったと云うことか、あるいは故意に削られたと見るべきだろうか。 しかし、削れば投票率が落ちる。その選挙区が目につく。そこで全体的にまんべんなく削る必要がある。そういう理由により各選挙区で200票余が削られと思われる。菅票の水増しは考えにくいので、これを基礎として菅票を上回る部分がゴッソリ抜き取られ、更に菅票を下回るように調整されたと思えば良い。では幾ら抜くのが適正か。外部業者の苦心、プロの技の冴えがこの辺りにあったと思われる。これには指令者が居る筈である。倉庫内で何が行われていたのか内部告発を待ちたい。しかし、幾ら巧妙にしても副作用が生まれる。それが投票率の低下、棄権率の高さとなったと思われる。 こういう風に推理できるとすると、小沢派は取りこぼし区での調査を始めるが良い。ただの1区でも不正が発見されれば決定打になる。後はイモヅル式に右ナラエの推理が成り立つ。この推理を否定する為には、選挙管理委員会は、こたびの票の出方が自然であったことを逆論証せねばならない。れんだいこは選挙管理委員会に尋ねたい。投票紙は保管されているのか、早くも処分されているのか明らかにせよ。これはとても大事な質問である。保管されているのなら再点検せよ。処分されているのなら猛然と抗議せよ。いずれにせよ返答させねばならない。次に棄権率の高さ即ち低過ぎる投票率を説明せよ。これほど盛り上がった代表選にしては考えにくい。 最後に、空白区でなぜ小沢票ポイントばかりが出たのか誰か説明せよ。れんだいこは、余りに抜き過ぎたので小沢票ポイント区が減り過ぎ、その調整の為に空白区が使われたと推理する。結果は、国会議員票でも菅候補が上回った。これは予想を超えた善戦であり、抜き過ぎたことが際立つことになった。上手の手から水がこぼれるの話である。 2010.9.17日 れんだいこ拝 |
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Re::れんだいこのカンテラ時評810 | れんだいこ | 2010/09/20 |
【押尾学事件判決の欺瞞考】
「2010.9.14民主党代表選」を廻る前後、押尾事件公判が纏わりついていた。例の朝日新聞社説論説士の手になるものかどうかまでは分からないが、9.18日の社説「押尾被告判決―市民の力が発揮された」で「推定無罪原則の適用」として賛美している。れんだいこの不快指数が高まった。この国は上から狂っている。他にも解せないことが多過ぎるのでコメントしておく。 2009.8.2日、タレント芸人の押尾学被告は、六本木ヒルズのマンションの一室で田中香織(30歳)を呼び込み、合成麻薬MDMAを服用した。共に服用したのか、田中香織のみ服用したのか、田中香織のみが多量に服用させられたのか、この肝心な点が明らかにされていない。田中香織の容態が急変した。押尾被告は救命措置を講じた。悶絶する田中香織を前にして「空白の3時間」を経た2日夜になって119番通報が入り事件化するところとなった。どういう経緯を経て誰が通報したのか、事件を詳細に検討していないので分からないが、遅過ぎる通報であることは間違いない。公判では通報しても助からなかったかどうかのやり取りが為されたようだがウソ過ぎよう。直ちに通報するべきところであり、直ちに通報しなかったこと自体の責任が問われるべきであろう。通報が非常に遅れた理由の開示こそ解明すべきではなかろうか。 同年12.7日、警視庁捜査1課は、押尾学を田中香織に合成麻薬(MDMA)を譲渡したとして麻薬取締法違反(譲渡)容疑で逮捕。翌2010.1.4日、女性の容体が急変したのに適切な救命措置を取らず放置して死亡させたとして、同容疑者を保護責任者遺棄致死容疑で再逮捕した。 2010.9.3日、「2010.9.14民主党代表選」のさ中、押尾学被告の初公判が東京地裁(山口裕之裁判長)で開かれた。この公判期日が「2010.9.14民主党代表選」とたまたま重なったのか政治利用されたのかは分からない。9.11日第2回公判、9.7日第3回公判。9.9日第4回公判、9.10日第5回公判、9.13日第6回公判を経て、9.、17日第1審判決が下された。裁判長は、保護責任者遺棄、麻薬及び向精神薬取締法違反により懲役2年6月(求刑・懲役6年)を言い渡した。 押尾被告及び弁護団は裁判を通して一貫して「この部屋で女性と一緒にいた。女性に異変を感じたため自分のマネジャーを呼び、その後部屋を出て行った」、「合成麻薬MDMAは田中香織が持ち込んだものであり、私はむしろ誘われた方」、「放置した訳ではない。適切な救命措置を取っており、私はむしろ救命者」、「いずれにせよ助かる見込みがなかった。119番通報することは思いつかなかった」等々と弁明し無実を訴え続けた。 れんだいこは思うに押尾事件とは本来なら、殺人罪まで視野に入る事件ではなかろうか。最近は微罪を重罪化させ重罪を微罪化させる正義がはびこっている。検察は、殺人罪からの事件究明せず、保護責任者遺棄致死のみ問い懲役6年を求刑した。判決は保護責任者遺棄のみ認め、麻薬及び向精神薬取締法違反と合わせ懲役2年6カ月の実刑を科した。押尾被告は不満のようで抗告の意思表示をしている。れんだいこは脳がオカシクなる。警察、検察、裁判所は、どういう訳か押尾学被告に対して寛大に対応し過ぎているように思われる。 この事件は、例の六本木ヒルズで発生していること、背後の人脈が胡散臭いこと、田中香織氏は裏事情を知り過ぎたとしてか何らかの事情で組織的に暗殺された疑いがあること、裁判が「2010.9.14民主党代表選」前後に政治利用されていること等々で疑惑が強い。押尾学被告の事件に対する反省の余地のない居直り、無罪へ向けての自信満々の姿勢が気にかかる。何が彼をして強きにさせているのだろうか。 極めつきは、マスコミメディアの「疑わしきは罰せずの推定無罪論」の合唱である。ちょっと待てよ。ついこの間まで小沢幹事長に対しては「疑わしき推定有罪論」で「説明責任あり」として政治訴追、政界追放まで合唱してきたのに。同時並行して起こっている押尾事件に対しては「推定無罪」を唱えるとは、余りにも二枚舌ではなかろうか。誰かこの不正の正義を説明せよ。朝日新聞社説論説士に返答して貰いたい。れんだいこの脳では解けない。気分が悪い。こんなことでは日本人民大衆の精神の背骨が曲がってしまう。うつ病が増え続けよう。れんだいこには、政財官学報司警の上層部に巣くうシオニスタンどもがそういう時代を意図的故意につくろうとしている気がしてならない。 そういう眼で政界を眺めて見る。菅政権は、外部委託選挙で続投を可能にした。待ち受けているのは外部委託政治である。一事万事の原則からすればそうなる。これから嫌と云うほど見せつけられることになろう。菅改造内閣では「菅首相、仙石官房長官、岡田幹事長、前原外相」が揃い踏みしたが、名うての極右シオニスタンばかりではないか。小泉政権下で暗躍したタコ入道のアーミテ―ジまで公然登場している。連中は当分「我が世の春」を謳歌し続けようが、歴史の条理は厳然たる回答をもたらすのがナライである。壁に耳あり襖に目ありで必ずや不義の告発が待ち受けていよう。我々は見たくもない菅―江田の晩節を知ることになるだろう。 2010.9.20日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)