カンテラ時評26(751〜780) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評751 | れんだいこ | 2010/06/19 11:38 |
【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その2】
そういう結構な尊徳思想がありながら、その後の日本は幕末維新−明治維新期に遭遇するや在地土着思想を卑下してかなぐり捨て西欧主義的文明開化の道へ向かった。そのこと自体は時代の趨勢であり非ではないのだが、今から思えば和魂洋才で摂取すべきであったところ、この時期のいわゆるエリート族がこぞって洋魂洋才に向かった。かって我々の先祖が漢学、天竺学導入の際に日本学の枠中に導入し見事に咀嚼したように西欧文明を吸収すれば良かったのに残念ながらできなかった。 幕末維新−明治維新以来の文明開化は、和魂和学、和魂洋学を捨て洋魂洋学方向へ舵を切った。これにより祖国と民族のアイデンティティーを失ったインテリゲンチュアを粗製乱造して行くことになった。明治以前以降のインテリの質の差はこれによると思われる。これに悩んだ夏目漱石は相当の智者であったと云うことになる。悩まなかったその他大勢のインテリゲンチュアの軽薄性を知るべきではなかろうか。 洋魂洋学派は概して知能が低い。それが証拠に、文明開化の名の下にテキスト化されていたのが西欧文明一般ではなくネオシオニズム思想に基づく学的体系であったと云うのに、それを見抜けぬままネオシオニズム思想を西欧文明一般であるかの如く錯覚させられたまま吸収して行った。そういう頭脳でしかなかったと云うことであろう。 かって戦国時代に於いては、バテレンによって布教されたネオシオニズム思想に対し、神主僧侶を知的階級として庶民レベルまでも、その一神絶対教の非を問答して応答し、日本宗教の多神多仏相対教の是を逆に説いている。これにより、バテレン教は他の諸国ほどの広がりを見せなかった。バテレン教の流行るところ多くの神社仏閣が焼き打ちされたが、神主僧侶側は更なる策動を許さなかった。日本の在地土着的な神々信仰は揺らがなかった。 当時の最高権力者となった豊臣秀吉は英明にもバテレン教の奥に潜む日本植民地化の動きを察知し、宣教師追放令で取り締まった。後継政権の徳川家康も又その政策を継承した。三代家光将軍の時に鎖国が完成するが、長崎の出島での往来のみ許した。何事にも一長一短あるので鎖国是非論は難しいが、日本植民地化の危機を未然に防いだことは確かである。欲を云えば、これで良しとせず、引き続いて世界の事情にアンテナを張り続けるべきであったであろう。ネオシオニズムに対してはそれほど警戒すべきであった。 それはともかく、かくして太平の世が訪れ約250年続くことになった。その平穏が黒船来航と共に破られた。この時、ネオシオニズムが再上陸したことになる。そういう意味で、幕末の黒船来航は、日本史上初めての過去に例のない日本溶解的目論見を持って登場した異教思想の本格的来襲であったことになる。大いに警戒せねばならなかったが、これに気づく者は少なかった。さすがにと云うべきか孝明天皇及びそのブレーンが逸早く的確に見抜き、公武合体による攘夷運動を盛り上げて行った。但し、攘夷運動の精神的支柱として采配を振るおうとしていた孝明天皇は暗殺され、これに呼応した第14代将軍・徳川家茂も毒殺される。当時の朝廷、幕閣内へのネオシオニズム派の容喙を見て取るべきであろう。 以降、幕末維新、明治維新の底流にこのネオシオニズムが一層浸透し続けて行くことになった。ネオシオニズムの危険性は、在地土着の有能の士を次から次へとテロって行くことでも認められねばならない。今、坂本竜馬ブームであるが、竜馬暗殺はネオシオニズムの線からも洗われねばならない。どういう訳か、ここに目が向かわない詮索ばかりが流行っている。やれ新撰組説、見回り組説、薩摩藩説、紀州藩説、土佐藩説等々があるが、内戦化でひと儲けを企てていた目論見を平和的大政奉還でくじかれたネオシオニズム派による粛清説の線も洗われるべきではなかろうか。 やがて明治維新を迎えるが、明治維新期の薩長門閥の殆どはネオシオニズムのエージェントである。この時期、維新政府内は在地土着派とネオシオニズム派が暗闘する。征韓論争を経ての西郷派の下野、続く各地での士族の反乱、最後の大決戦たる西南の役に於ける反政府闘争とは、幕末維新以来の継続革命を夢見る在地土着派のネオシオニズム派政権に対する抵抗であったと捉えねばならない。かく捉える史観がなさ過ぎよう。俸禄を失った士族の復古的な不平不満運動などと捉える評は余りに平板化していよう。 西南の役後の日本は、ネオシオニズム政権により着々と日本帝国主義化の道へ向かわしめられた。薩長門閥政治はこの頃の政治を云う。ネオシオニズム政策の向かうところ必ず国内収奪、海外侵略即ち戦争の道になる。日本は態良くネオシオニズムの駒として使われ始める。日清、義和団事件鎮圧出兵、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、第二次世界大戦へと行きつくことになる。 時代は明治、大正、昭和へと続く。この間、反戦派の大正天皇は押し込められ、近代史上未曽有の不敬事件が発生している。これにより軍部が著しく台頭し始め、国家予算の半分を軍事費が占めるようになるほど奇形化して行くことになる。ご多分にもれず国債が刷り抜かれ悪循環に陥る。日本帝国主義は国内の疲弊打開と戦果を求めて中国大陸を徘徊し始める。これらはネオシオニズムによりもたらされた奇形政治である。この観点が欲しい。 ところが歴史は摩訶不思議で、日本帝国主義は定向進化し続けることにより次第に自立化し始め、天皇制イデオロギーのみならず被植民地化されたアジア諸民族の解放まで鼓吹し始める。満州国の建国辺りが節目となるように思われる。これに応じて次第にネオシオニズムとの権益紛争を起すようになる。その挙句として第二次世界大戦に誘いこまれ、やむなく大東亜戦争へ突き進み、結果的に敗戦を余儀なくされる。見ようによっては豚の子戦略で太らされた挙句召しとられた格好となる。明治、大正、昭和20年史の歴史ベクトルはおおよそこのように回転したのではなかろうか。れんだいこ史観によればこういう観方ができる。 それはともかく、この時代、ネオシオニズムの日本政界壟断の動きは政界上層部のそれであった面が見受けられる。何となれば、一般の人民大衆レベルではこの時期に於いても在地土着的な生活規範が根強く機能していたように思われる。幕末攘夷思想の大本となった水戸学、伝統的な神仏信仰、幕末新宗教、尊徳思想等々が脈々とあるいは細々と活きていたと思われるからである。これを是と見るか非と見るか、その歴史観が問われているように思われる。これを否定的にのみ捉える歴史学者の評は概いして薄っぺらである。自分の言葉で語れない分、西欧言葉をチラつかせて学があるかのように説く手合いが多い。 2010.6.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評752 | れんだいこ | 2010/06/20 09:31 |
【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その3】
日本史上、敗戦が時代を画することになる。これによって戦前戦後の時代区分けをすることになる。ネオシオニズム問題をこの眼で捉えると、戦前はまだ良かった。なぜならネオシオニズムの国家侵略は未だ各界上層部にとどまり、全体では和魂和才派、和魂洋才派が主力だったからである。つまり、洋魂洋才派が権力中枢の一部を占め、残りを和魂洋才派、和魂和才派と云う構図で三者鼎立していたからである。且つ、ネオシオニズム政権が代々政権を御していたとは云え内部は暗闘していた。つまり思うように易々とはネオシオニズム政策を遂行できなかった。 その戦前日本は世界史的な帝国主義時代の渦に巻き込まれて次第に戦争経済化へ歩を進め始め、詰まるところは各派思惑は違えども洋魂洋才派、和魂洋才派、和魂和才派の三派が戦争政策に一蓮托生し、大政翼賛会体制の下で大東亜戦争に臨み、緒戦優位は束の間で遂にネオシオニズム軍隊たる米英連合軍に完膚なきまでに叩きのめされた。広島、長崎に投下された広域大量市民虐殺の原子爆弾がトドメとなった。 敗戦により戦後日本が幕開けする。戦勝国は「勝てば官軍」で戦勝国の支配を容易にならしめるイデオロギーを注入するのが法理であるからして、戦後日本は洋魂洋学派の教育で染められ、彼らが次第に台頭を著しくする。和魂和才派、和魂洋才派を駆逐し洋魂洋学派であらずんば人でなしの風潮を生むことになる。これにより、戦前の皇国史観イズムはネオシオニズムイデオロギーに転換され、これが新たな神祇となった。この時点で日本は洋魂洋学派の支配する国になる筈であった。 しかしながら歴史は摩訶不思議である。ネオシオニズムのエージェントとして送り込まれたマッカーサー将軍以下、ニューディーラー派と呼ばれる初期のGHQ将校が、「或る種の理想的社会主義国家」を求めて、ネオシオニズムの支配戦略から見ても「行き過ぎ」の左派政策を遂行する。これにより日本左派運動は空前の盛り上がりを見せて行くことになる。この風潮下で戦後憲法が制定され、ネオシオニズムの範疇に納まらない戦後民主主義イデオロギーが育つことになった。 ところが戦後世界は次第に冷戦化し始め、それと共にマッカーサー政策が掣肘され始める。ニューディーラー派が駆逐され、マッカーサー将軍が左遷され、これにより振り子は再び古典的ネオシオニズムの統制下に戻ることになる。この時代の政権を担ったのが吉田茂率いる自由党であった。この時代に戦後日本は主権を回復する。但し、ネオシオニズムもしたたかで、日米安保条約受け入れを余儀なくさせる。これが後々の火種となり今日まで至っている。その後、日米安保条約が独り歩きし始め、至るところで戦後憲法秩序を食いちぎって行くことになる。この間政権与党として君臨した自由党政治は、洋魂洋学派、和魂洋才派、和魂和才派の三者鼎立を特質としており、これにより再度ネオシオニズム派と在地土着派との水面下抗争が開始されることになる。大ざっぱではあるが、戦後直後のGHQ政治、戦後政党政治の動態をこう捉えるべきではなかろうか。 以下、政治闘争の面に特化して見て行くが、実際には政治、経済、文化、思想、競技等々の全戦線で同様の抗争が立ち現われる。これらの全てを確認するのは煩雑になるので政治闘争の面のみ採り上げる。 戦後間もなくの時代は、廃墟となった戦後日本の再建こそ眼前の政治課題であった。この時、国難に立ち上がり有能な働きを為したのは和魂和才派、和魂洋才派であった。かくして洋魂洋学派と合わせた三派が戦前同様に戦後日本政治を担うことになった。GHQ直接統治後の1950年代、続く1960年代、1970年代の三十年間、戦後日本を統治したのは、和魂和才派、和魂洋才派、洋魂洋学派が玉石混交する自民党権力であった。 1955年、政界大編成が行われ、共産党は徳球系から宮顕系へ、社会党は左右両派が合同し、保守系の自由党と民主党が合同し自民党を創出する。これを55年体制と云う。55年体制下では、共産党の戦後革命を標榜する政権取り運動が止み、社会党が万年野党運動に堕し、つまり日本左派運動の系譜上、与党政治責任を担う意思と能力を持つ党派が不在となる。成り行き自民党が政府を構成し政治、政局を御して行くことになった。これに社会党が対抗し、表面的には政争、裏で懐柔される方式が編み出される。これを自社二代体制とも云う。れんだいこ史観によれば、55年体制を創出し、背後でコントロールしていたネオシオニズムの国際政治力を見て取る必要があろうと云うことになる。 自民党政府権力の内部拮抗の中で台頭したのは吉田茂を開祖とするいわば戦後保守内ハト派であった。ここが面白い。この系譜は、吉田茂、池田隼人、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸と続いて途絶える。この時代に戦後日本は見事に再建復興され、世界史上奇跡と云われる高度経済成長時代を築いた。1970年代半ばの時点で、日本はアメリカに次ぐ国富を持ち、このまま進めば「ツモローアズbP」の勢いを見せつつあった。2010年代の今日の日本が幾ばくかの余命を保っているのは、この時代に蓄えられた国富のお陰である。今それもハゲタカファンドに狙われ次々と蚕食され骨川筋衛門にされてしまった訳ではあるが。もはや郵貯資金、各界の積立資金以外めぼしいものは見当たらない。今それが狙われている。 この時代の日本を検証せねばならないのではなかろうか。戦後保守内ハト派政治は田中角栄政権時代に頂点に達するが、れんだいこ史観によれば紛うことなき左派政治であった。左派政治と云う表現が嫌な方に対しては人民大衆政治と言い換えても良い。或るいは大国主の命政治と云うべきか。この時期の日本人大衆は等しく善政のおこぼれに与っている。 日本列島は各地で都市と農村の有機的結合化に向かっており、今日的な疲弊なぞ有り得べくもない。ほんの例外を除き国債は発行されておらず消費税も導入されていない。日本列島は各地で公共事業に沸き、これにより社会資本が整備され、これを背に大中小零細企業が旺盛に事業展開し、日本はうなりを挙げて技術立国化、貿易立国化しつつあった。内治的には雇用、医療、年金が確立され、高福祉社会を実現しつつあった。 内治政治に対する有能さは外治政治にも表れた。日韓協定、日中国交回復、日ソ交渉、西欧各国との対等外交、アジア諸国との友邦外交、アラブ諸国との友好親善等々目覚ましい活躍をしている。つまり、日本型社会主義と規定できる質の善政政治に向かっていたことになる。今日からみれば、日米安保体制のクビキ下でありながら驚きの自主自律外交を展開している。これを最も精力的に押し進めた田中政権外交は、その矛盾故にいずれ手酷いしっぺ返しに遭うことになる。これについては次章で述べることにする。 興味深いことは、戦後保守内ハト派政治を支援していたのが和魂和才派、和魂洋才派であった。各界の有能士が現われ、阿吽の呼吸で活躍していた。その後の日本は、この有能政治、社会を絞殺して行くことになる。この時活躍したのが洋魂洋学派である。和魂和才派、和魂洋才派、洋魂洋学派の識別史観で捉えると、こういうことが見えてくる。恐らくこう云う風に捉える史観はなかろう。れんだいこ史観と云う所以がここにある。この史観に照らすと、これまでの善人が悪人に悪人が善人になる。名宰相が売国奴に諸悪の元凶が有能士になる。学問を机上ではなく市井でせねばならない理由がここにある。 戦後からこの時期まで日本左派運動はかなり隆盛していた。しかしながら、体制転覆ないしは体制批判一辺倒でやり過ごし、日本史上の和魂和才派、和魂洋才派、洋魂洋学派の暗闘に対して余りにも無頓着であった。否むしろ洋魂洋学派と気脈を通じて和魂和才派、和魂洋才派及びその政治を排撃するのに忙しかった。これに違える例があるとすれば、60年安保闘争の岸政権打倒運動であったであろう。かの闘いにより、洋魂洋学派のネオシオニズム政治を排撃し、その後約二十年間を和魂和才派、和魂洋才派を主流とする政治をもたらした。これに貢献した60年安保闘争の意義、特にブント全学連の闘いは称賛されるに値するように思われる。 だがしかし、その後の日本左派運動は、穏和派は穏和なりに急進派は急進なりに60年代、70年代を領導した戦後保守主流派のハト派政治時代に最も激しく反政府運動を展開し、タカ派政治時代になると逼塞する。本来は逆にならねばならぬところ、こういう本末転倒的役回りを演ずると云う愚挙を見せている。これをどう総括すべきだろうか。日本左派運動は、この辺りを総括せずんば明日はなかろう。その明日のないままにここ二十年来やり過ごしているように思われる。今一度軌道を転回せねばならないのではなかろうか。この見立てが、れんだいこ史観の本領であるえへん。 2010.6.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評753 | れんだいこ | 2010/06/20 16:37 |
【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その4】
1976年のロッキード事件は、金権腐敗政治の元凶としての角栄政治の訴追運動として正義ぶられたが、実は戦後世界を支配する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムによる戦後復興してきた和魂和才派、和魂洋才派に対する断固たる鉄槌事件であった。首相辞任後も和魂和才派、和魂洋才派のドンとして日本を未曽有の発展に向けてリードし、政治的影響力を温存していた角栄を標的に政界追放を狙う国策謀略疑獄事件であった。こう捉えないとロッキード事件の真相が見えてこない。 この時、ネオシオニズム派の代弁政治評論家として立ち現われた立花以下その他のジャーナリスト、これを提灯したジャーナリズムこそ今日的腐敗の嚆矢であろう。ところが、こういう手合いほど正義ぶる癖があるので始末が悪い。ロッキード事件を廻って未だに角栄の政界追放是認論を説く自称インテリの一群が存在する。彼らの言とは反対に、我々は、「信の置けない評論家」として確認すべきだろう。 結果的に、この事件騒動を契機に戦後保守内ハト派は政治的地位を追われ、代わりにそれまで冷や飯を食わされてきた戦後保守内タカ派が台頭し我が世の春を謳歌し始めた。1970年代の派閥で云えば、前者が田中派、大平派、後者が福田派、中曽根派、三木派となる。田中派、大平派は落ちぶれ、福田派、中曽根派が主流派に転じ、田中派、大平派内の日和見派がその配下で利権の裾分けに与るようになる。竹下−金丸派は田中派解体に向けてネオシオニズム派の策動により創成された便宜的派閥であり、その功により約束通り一時ながら権力が与えられたが、用済みとなった時点で冷酷に処分失脚させられた。 野中幹事長権力はこの時代のものである。今彼が悔いているのか居直っているのかは分からないが、先だっては貴重な官房機密費漏洩証言をして、「政治とカネ」に正義ぶるマスコミに「言論とカネ問題」を突きつけた。これにより政治評論家の売弁売文ぶりがあからさまにされた。今に至るも新聞各社ともこの問題を採り上げていない。そして相変わらず「政治とカネ問題」で小沢派を叩き続けている。キタナイ、ハシタナイと思うのはれんだいこだけだろうか。これを暴露した野中幹事長の政治的狙いが様々に評されているが、竹下同様に政治的役廻りの軌跡を「われ万死に値す」と評したうえでの贖罪的証言ではなかろうか。れんだいこは、そう解釈している。或るいは、その後の野中の動きから見て深い政治的思惑抜きに単に爆弾証言しただけなのかも知れない。 留意すべきは、戦後保守内タカ派が主流派になって以来、戦後日本はバブル経済、国債刷りまくり、重税化方向に誘導され、公共事業の栓が閉められ、他方で貧富格差を生みだしつつあることである。日本の伝統的「上が下を思い、下が上を思う思いやり」精神が奇形化され、教育が荒廃させられ、世界史上頓馬天狗と云われる経済成長自絞殺時代を築き、今日の無惨な日本へと至っている。この間絞りとれらた国富は天文学的でなものと推定されるが、未だ実態が明らかでない。自衛隊は常時出動でいつの間にか世界各地へ派兵されている。やれ戦争協力金、復興支援金、思いやり予算等々の名目で底なしの軍事出費を強いられ続けている。これで国が逼塞しなければしない方がオカシかろうに。 この政治過程に旧主流派の田中派、大平派が指を咥えていた訳ではない。但し、公家集団と云われた大平派からは特段の動きが為されていない。やはり頼りになるのは田中派の系譜である。二階堂派は筋を通したが政界の表舞台からは遠ざけられた。次に乱を求めたのが田中チルドレンであった。田中チルドレンは様々に分岐するが、その主力は小沢派である。小沢政治と田中政治は必ずしも同じではないが、戦後民主主義的統治制度を是として、その受肉化を図ろうとしている点では一致している。ここで仮にれんだいこ史観の如く戦後民主主義的秩序をプレ社会主義的なものと位置づければ、これを擁護しつつ戦後政治を担ってきた政府自民党ハト派は捩れているものの実は左派であったことになる。そういう目で見れば、政府自民党ハト派時代に多くのかっての転向左派が集っていたのも不思議ではなくなる。 この系譜が現在逼塞させられており、現代政治では唯一小沢派が生き残っている。これに国民新党、社民党の一部が繋がろうとしている。この系譜は左派と云うより或いは日本古来よりの伝統的和合政治の継承派と捉えるべきかも知れない。和魂和学、和魂洋学派であることは間違いない。この灯を消すな、否護れ、否再度政界主流派に転じさせよ、これが日本政治の今後の軌道になるべきであろう。 さて、その小沢派がかって自民党を飛び出し、政権交代を掲げて細川政権を誕生させ、羽田政権を経て潰えた史実を遺している。小沢派は以来、冷や飯を食い続けてきた。紆余曲折の末、自由党を立ち上げ、更に紆余曲折の末、民主党と合同する。その民主党が昨年の2009年、再度政権交代を実現させ、鳩山政権を誕生させ、つい先ごろ鳩山政権は管政権へと移行した。ところが、鳩山政権から管政権への移行過程で「小沢パージ」が目論まれ、小沢は初めて無役にされた。これが現下の政治情勢である。これをどう読むのかが問われている。小沢派の終わりか、雌伏か、捲土重来があるのかないのか、「小沢パージ」の流れは是か非か等々、論者の見識が問われている。 もとへ。こうしてロッキード事件以来再び洋魂洋学派にあらずんば人に非ずの時代を迎えているが、これも歴史の摩訶不思議なことに、丁度この時代になって洋魂洋学派の正体が暴露されつつある。かって、幕末維新−明治維新以来、文明開化の名の下に洋学摂取が進んだが、その洋学の実態はまともな西欧学ではなしにかなり歪んだネオシオニズム学の押し付けに他ならなかったことが判明しつつある。1980年代初頭の中曽根政権以来、これに疑問を覚えることなく受容した粗脳の者のみが登用され、政財官学報司の上層部に住みつき、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの御用聞き政治に忠勤するという痴態を晒し続けている。粗雑な頭脳と性悪の者が権力を握って、日本の為にならない政治を為になると勝手に思い込んで権力を行使している。 こういう政治家は居ない方が国益になるのだが、名宰相、実力派政治家として持て囃される。この時代を如何に止めさせるのかが問われているが、権力中枢の政官財学報司警軍の八者機関中枢がネオシオニズム派に壟断されていることにより、常に事態が逆に喧伝され続けている。これにより、この複雑な政治構造式が解明できず、ネオシオニズム派の我が世の春を許したままの政治が続いている。 2009年、民主党連合政権による鳩山政権を誕生させ、菅政権へとバトンタッチされたものの、菅政治を見ると新たなネオシオニズム派政治を敷設しつつあるように見える。鳩山政権創出前の公約は「子供手当」を除いて何一つ実行されず、郵政再改革は先送りされ、高速道路無料化公約は、経済刺激策として予定されていたものの経済刺激にならない範囲でのみ部分的に実施されると云う変態政治が罷り通りつつある。唯一実施された「子供手当」も、消費税再値上げの導入の口実として利用されつつある。菅政権は、目前の参院選に、何の必然性もないのに消費税再値上げを政治課題に押し上げ、口先では参院選の勝利を云いながらその実は冷や水を浴びせ民主党敗退のレールを敷きつつある。 この政治現象をどう評すべきであろうか。れんだいこは、今や国会は、政治を遊びに弄ぶ政治ピエロの巣窟と化しているのではないかと思っている。ネオシオニズム派政治に異議を唱え続ける小沢派政治、国民新党政治、社民党政治が今や僅かの希望である。しかしながら、この三党でさえ、れんだいこのメガネに叶わない。この三党を左バネで補完する真の人民大衆党が必要であると思っている。そういう意味で、左バネとしての新党創出を廻って日本政治は新たな胎動期を迎えていることになる。残念ながら、久しく無為な時間を浪費しつつあると云うことである。この認識を共にせんか。 2010.6.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評754 | れんだいこ | 2010/06/20 17:05 |
【菅政権に対するれんだいこ書簡−和魂洋学に立ち戻れ。その5】 さて、ここで尊徳先生の出番となる。漸く戻って来れた。ここまで整理しないと、今なぜ尊徳思想が必要なのかが見えてこなかったからである。今はっきりと云える。ネオシオニズム派により仕掛けられている日本凋落、解体、分割統治の悪夢のワナの仕掛けから抜け出す為の叡智として、今こそ尊徳思想が復権されねばならないのではなかろうか。尊徳思想の目線は人民大衆に厳しいが温かい。人の何たるか、世の何たるかを弁えて、辛い甘いの手綱宜しく日本改造を指針させている。れんだいこが思想だと云う所以である。 その中でも、れんだいこがハタと膝を叩いたのは、今で云う起業家、経営者の窮状に適宜な立て直し基金を貸し付け、立派な納税者として再登場するよう救援していることである。決して今時の無償給付金の方法は採っていない。何事も一味違うと云うべきだろう。まず民力を向上させ、その納税増を通して国家再建を図ると云うグランドデザインも打ち出しており素晴らしい。現在の日本の政党で、尊徳思想に基づく政治をはっきりと指針させているところはない。あるのはネオシオニズム派の御用聞きの一番手二番手を争う政党ばかりである。これでは幾ら投票権を得たとはいえ、投票に行くことが空しい。 その尊徳思想は戦前の皇国史観に取り入れられ、皇民教育に利用された経緯があるが為に戦後民主主義時代を迎えるや仕舞いこまれた。戦前は恐らく殆どの小学校に立像されていた二宮金次郎像は、戦後になると意図的故意に取り壊された。よって、れんだいこの如く尊徳思想を知らぬままに還暦を迎える者が殆どとなっている。しかし、尊徳思想を知った今、これを称揚せずにはおれない。戦後教育が天皇制皇国史観を説かなくなったことは良いとしても、尊徳思想を消す必要はどこにあったのだろうか。れんだいこには解せない。察するにネオシオニズム思想から見て好ましくなかったと云うことではなかろうか。 ところで、尊徳と同時代の農政家として大原幽学が居る。尊徳ほど知られていないが大変な人物である。れんだいこ評によれば、尊徳が幕末日本の世直し右派とすれば幽学は左派に位置する。二人は治績の手法に於いて鮮やかな対比を示している。れんだいこには両者とも興味深い。この二人と、もう一人の同時代の天理教教祖・中山みきの生き様とを合わせ、幕末日本に咲いた有能の原日本人的土着思想の質の高みを確認してみたいと思う。 公認歴史教本はこういうところを教えない。故に自力で学ぶしかない。これらの教学が共にネオシオニズム学といかに対極的なそれであるか、ネオシオニズム学の虚妄に比して如何に有能な実用学であるのか、ネオシオニズム学の闘争理論に比して如何に共生理論であるのか、21世紀時代の学問としてどちらが採り入れられるべきなのか、こういう関心をもって追跡してみたいと思う。 興味深いことは、日本史は政治舞台の重要な局面になると地霊とも云える縄文的な知性が湧出し回天運動を起し、あるべき姿に戻すことである。最近の例では、戦後日本の再建エネルギーがそうであった。その前には幕末維新を引き起こしている。その前は戦国時代から織田、豊臣、徳川政権への回天である。その前は云々と辿るとキリがないので控えるが、日本はこうして神州としての自律自存を確保してきた。ここで云う神州とは天皇制と云う意味ではない。もっと奥行きが深く天皇制をも包摂する縄文的神州思想と理解した方が正確であろう。この点でネオシオニズに籠絡された形で始発した近代天皇制をもって天皇制の有るべき姿と勝手に鼓吹する下手な右翼は恥じて口をつむらねばならない。戦後のネオシオニズム化された拝金右翼は云わずもがなである。 さて、今日本は再び回天運動が要請されているのではなかろうか。既に地霊が動き始めているのではなかろうか。それは間違っても、菅政権が向かおうとしている方向ではない。逆の路線である。れんだいこには、この足音が聞こえる。多くの同志が立ち上がり、かってと同様に倒れ、続くであろう。我々にはこの道しか残されていない。それで良いのではなかろうか。今尊ぶべきは義民思想ではなかろうか。下手なイデオロギーを振り回さず、日本古来のたすけあい精神に則り尊徳思想的経世済民の道を尋ねて行くべきではなかろうか。救国、救民族共同戦線の広域ネットワークを構築し、この難局に立ち向かうべきではなかろうか。消費税増税の道は間違いなく滅びの道であり、ゆめ騙されてはなるまい。 2010.6.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評755 | れんだいこ | 2010/06/21 22:32 |
【消費税値上げどころか今こそ廃止に立ち上がれ】
目下、昨年来の政権交代第二番手たる菅政権が突如として消費税増税論議を持ち出している。参院選前に持ち出す拙劣さを問うよりも、敢えて持ち出し政権交代政権の信頼を毀損せしめんとしている魂胆を訝(いぶか)るべきであろう。国民新党以外ではオールシオニスタンばかりを寄せ集めた菅政権の為すことは尋常ではない。問題は、誰がこのように操作しているかであろう。偶然である訳がない。 れんだいこは、消費税そのものの撤廃こそが、迂遠なようで日本再生の近道であると思っている。もし財源不足で成り立たないと云うのなら違うと云い返したい。消費税額5兆円として、これに相当する巨大出費源にメスを入れて捻出し賄えば良い。10兆円でも事態は変わらない。一番手が軍事防衛費、思いやり予算、各種戦争支援金、同復興支援金、米国債の買い支え等々の大ナタ見直しである。れんだいこの理想は、かっての自民党ハト派政権時代の「GNP1%枠」内に戻せば良いと考えている。そこまで行かなくても半減は可能である。 次に、公務員の高給与部分の見直し、天下り先での高給与、高退職金のカット、天下り関連事業への補助金の見直しをすれば良い。真っ先に民間的なボーナスを廃止し、半期ずつ2ヶ月分額支給に切り替えれば良い。公務員、準公務員の月給は年功序列賃金では年収1千万円を越してはイケナイことにすれば良い。役職手当を上乗せるのは結構だが、それなりに理由がつかないとイケナイ。これで抑制する。こうするだけで、消費税額分が捻出できる。否余りかえるであろう。事業仕訳なぞ、その後でゆっくり取り掛かればよい。今はやっていることが反対だ。 こうして消費税を廃止すると、庶民大衆には真の減税効果がある。何も子供手当なんかいらんわい。どうしても必要な家庭には第二奨学資金制を設け、社会人となってゆるゆる返済すれば良い式の貸付制にすれば良い。借りてまでは要らないという層が居る訳だから財源も大幅に節約できよう。普通に発想できるのに何でこうしないのかが問題だ。 企業には、煩わしい消費税徴収、帳簿付け、納付の手間から解放される。良いことづくめである。今どれだけ中小零細企業が消費税で煩わされているか知られているだろうか。決算期に支払えず、確かサラ金並みかそれ以上の14.7%の高金利で追徴され塗炭の苦しみに遭わされている。税務署の胸先三寸で土俵を割る企業が目白押しとなっている。云うに恥ずかしいから云わないだけで実は深刻な社会問題化しつつある。国会議員は今のところ誰も採り上げていない、オカシナことだ。 こういうことを思えば、消費税廃止こそ日本再生のカギであり、そういう訳だからしてマニュフェストに掲げねばならない。その資格のある一番手が社民党であるが、情けないことに消費税導入期には反対したものの、第一次値上げ期には賛成した経緯を持つ。社民党は自己批判し、今こそ消費税廃止、軍事防衛費、公務員高給与削減、同天下り先高給与、高退職金廃止、中小零細企業無条件1千万円緊急融資公約を掲げて闘いを挑まねばならぬ。 問題は口先で反対して責任足れりとしないことである。政権与党に食い込んで、真に実効を勝ち取ることである。先ほどの普天間基地問題で云えば、普天間基地撤去、返還を勝ち取ることである。閣外へ出れば良いというものではない。罷免されるまで闘わねばならない。それでも共同するのが連合政権の意味である。これが責任政治であり、あれこれ云うだけなら責任政治とは云わない。ということなんだな。 こういうことを断固として主張する党が出ないのなら、我がたすけあい党が出張らねばならない。ところがだ、我が党は企業、業界、団体、個人献金等全てアリアリルールにして待ち受けているのだけれども、未だ頂いたのは二人だけのアリサマだ。お二人様有り難う。つまり資金がない。まっ党員も5名だから仕方ないかもね。だがしかしだ、どっかの党を応援するぐらいの事はできる。今のところ、社民党、国民新党、大地党、小沢民主党辺りだな。もっとも、せめて消費税第二次値上げ反対、戦後憲法擁護ぐらいの線は打ち出してくれんとな。国民新党の憲法改正論はいただけないな、惜しいことだ。国民新党が何で憲法改正を打ち出しているのかが分からない。逮捕されてみれば良い。如何に憲法が有り難いかは右翼でもヤクザでも分かっているのに。 もとへ。消費税増税派の魂胆は、日本をますます衰弱させて、国際金融資本売りを加速させようとするワナの御用聞きなんだな。そういう風に日頃から飼われているということなんだな。この手合いばかりが国会に巣くいだしたということなんだな。代わりに出世させ身分と権力と財貨を保証しようという甘言に一も二もなく飛びつき、我さえよければ良いと云う貧相な精神の持主の売国奴ばかりなんだな。 れんだいこは断固闘う。ヤセガエルであろうとも心は売らない。どうせ寿命がある身を安売りしない。そう云えば、ここがイエスの始発だったんだな。「荒野でのささやき」を拒否したところからイエス教が始まっている。昔も今も一緒なんだな。興味のある方は以下のサイトで堪能してくれ。ほかでは書いていない真実を書いているつもりだ。 別章【イエス教論・キリスト教論考】 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/) 2010.6.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評756 | れんだいこ | 2010/06/23 22:10 |
【新安保条約60年考】
今日、2010.6.23日は、60年安保闘争時に改定された新安保条約発効後60年になる。これをどう感慨すべきだろうか。れんだいこが愚考してみる。本格的に言及するには時間的余裕と資料がないので、本日の産経新聞13面のオピニオン「正論」欄に掲載された防衛大学名誉教授・佐瀬昌盛氏の「日米安保に『安住』せず再改定を」を題材にして論じることにする。 れんだいこの読解力に間違いなければ、佐瀬氏は、「10年契約、その後逐年毎の更新」と云う性格の日米安保条約がその後60年も継続していることに「驚きの長寿」を見ている。今やこれを「安住事態」と評している。その上で、現行安保条約の「非対象双務性」に注目し、再改定の必要性を説いている。その趣旨は、「米国は日本共同防衛義務を負うが、日本は米国防衛義務を負わず、代わりに基地提供の義務を負う」のが異例であり、早く「普通の同盟条約」に向けて再改定を考慮すべきとしている。目下の日米安保条約は「国家のモラトリアム欠如」であり、憲法前文の「名誉ある地位を占めたい」と願うなら、自律責任を持つモラトリアム国家に転換すべきと主張している。その模範例としてNATO(北大西洋条約機構)を挙げている。 この佐瀬見解をどう評すべきだろうか。れんだいこは、日本の防衛大学名誉教授の見識がこの程度のものであることに驚いている。この御仁は基本的に狂っているとみなしたい。戦前の軍事学者なら、日本の防衛を鬼畜米英対抗戦略として位置付けていた筈であろうが、戦後の軍事学者は何と親米英協力戦略として位置づけようとしていることが分かる。その構図の上でモラトリアム国家論を吹聴している。幾ら戦争に負けたからと云っても、それはないのではなかろうか。尤も、こういう戦勝国の太鼓持ち量産の姿こそが敗戦国家の宿命と捉えるべきかも知れない。 周知のように、敗戦以来、日本の防衛は、米軍管制下でのみ機能するように制度化されている。この構図の下で自衛隊が創出され、共同訓練が実施され、現在では要請されるままに世界各地への自衛隊派兵が常態化している。現代世界を牛耳る国際金融資本の表出権力が米英ユ同盟とすれば、その傭兵的立場で諸紛争地域に投入されつつある。それも次第に戦闘地域の前線派兵が目論まれつつある。自民党内ハト派が政権を握っていた間は、自衛隊の海外派兵は一度たりともなかったが、1980年初頭の中曽根政権登場によるタカ派の政権掌握以来、自衛隊の派兵レールが敷かれることになった。 問題は、自衛隊派兵のみにあるのではない。日米安保条約の定向進化により、次第に財政出動がうなぎ昇りになり、陸海空三軍の不当価格による兵器購入はむろんのこと当初の米軍基地費用の米軍負担が日本側負担へと転じ、今日では更に再編費用、移転費用まで組み込まれつつある。その金額が天文学的に巨額なものになりつつある。恐ろしいことに、その歯止め論がない。例えばハト派時代の「GNP1%枠」のようなものがなく、この先どこまで絞りとられるのか一向に分からない。しかも、未曽有の国債累積債務を抱え、国家予算の半分を新規国債発行で賄うところまで異常化しており、来る消費税の倍増改定で企業も人民大衆の生活も塗炭の苦しみに遭わされるのが必至の局面で、更に絞りとられようとしている。 日米安保条約の条文問題もある。60年改定時の条文に従う限り、全文10条のうち何度も国連憲章、国連目的、国連任務との絡みに於いて発動することが要件とされているのに、その後次第にこの制限を失い、今日では国連縛りのないままの日米軍事同盟化傾向を深めつつある。既に日米共同軍事対応に於ける極東区域制限が、小泉政権時の自衛隊のイラクへの軍事派兵、インド洋派兵によって最終的基本的に空洞化されている。これは、日米安保条約条文に従う限りデキナイ派兵である。これが問題にされていない。この反法治主義が国際責務論、日米安保深のめり是認論で糊塗されている。 佐瀬見解は、これらの問題に於いて何ら有能な識見を披歴せぬまま、日米安保条約の再改定により更なる「日本防衛の米軍管制下でののめり込み」を指針させようとしている。れんだいこが狂っているとする評の意味が分かろう。この佐瀬見解を「正論」として載せる産経新聞の識見も問われようが、産経新聞そのものが狂っておるからして狂い者同士では何ら問題ないのであろう。ここでは産経新聞を槍玉に挙げているが、読売然り、その他大手新聞各紙とも然りであるのが現実である。 れんだいこは、胸糞の悪いモラトリアム国家論を聞かされて、この後気分転換で飲みに行くことにしている。一度、脳の形を作られると死ぬまで同様の発想しかできぬものらしい。よって、防衛論議にせよ日本の今後の諸問題論議にせよ、既にステロタイプ化された脳者との議論は無意味で、新発想の脳者に委託するに限る。但し、その際の要件は、言葉に酔わない、言葉の内実を吟味して内実に相応しい対応能力を持つ脳者による所為でなければなるまい。 モラトリアム国家論結構である。ならば、どういう国家がモラトリアム的であるのか。NATO(北大西洋条約機構)諸国家がどうモラトリアム的であるのか。エエ加減にして貰いたいと思う。佐瀬氏は一度靖国へ行き、英霊に懺悔した方が良かろう。悪うございました、お調子者でしたと詫びるが良かろう。以上、簡略ながら、「れんだいこの新安保条約60年考」にする。 2010.6.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評757 | れんだいこ | 2010/06/25 19:52 |
【第22回参院選挙に対するたすけあい党声明】 2010.6.24日、第22回参院選挙が公示され、投票日が7.11日と決まった。17日間の選挙戦となる。改選される選挙区73、比例代表(非拘束名簿式比例代表制)48の計121議席を争う。比例代表に12政党・政治団体の187人、選挙区に250人の計437人が立候補を届け出た。届け出候補者数が400人を超えたのは2001年以来で9年ぶり。女性の候補者は選挙区55、比例代表45で計100名。2007年を9人上回った。以下、「第22回参院選挙に対するたすけあい党声明」を党首権限で発表しておく。 こたびの選挙戦は本来であれば、昨秋成立した民主党、社民党、国民新党、新党日本、大地の五党連合による政権交代政権の政権交代効果を問う「押せ押せの信任選挙」になる筈であった。ところがそうはなっていない。これには複雑な理由はない。政権交代政権の一番手として登場した鳩山政権が、政権交代効果を発揮しないよう「上からサボタージュ」した結果に他ならない。これは政治の大きなネジレであるが、こう捉える史観が少ない。 これを確認すると、鳩山政権は、政権交代前に公約した数々のマニュフェスト履行に棹さし続け、事業仕訳パフォーマンス以外は見るところもなく無為に過ごした。世間は、坊ちゃん政治のエエ加減性を嘲笑した。この間、「政治とカネ問題」で、鳩山首相、小沢幹事長が標的にされ続けた。鳩山政治は、本来望まれている景気浮揚、日本再生のシナリオに何ら有効な処方箋を提起し得なかった。 その鳩山政権は最終的に沖縄の普天間基地問題でつまずく。鳩山首相自ら「国外、最低でも県外。決着は5月末まで」の度重なる宣明したにも拘わらず、自公政権時の辺野古案に決着させた。その結果、社民党をして連立枠から降りる事態に到らせた。これにつき社民党に責任はない。発言をくるくる変えた鳩山首相の自爆であり、辺野古案を受け入れた時、鳩山首相は辞任すべきであった。これが「政治の信」と云うものであろう。しかし、鳩山首相は続投せんとしていた。 鳩山政権への高まる公約詐欺性批判、党内からの「これでは参院選を闘えない」とするブーイングを受けて、党務代表の小沢幹事長が政務代表の鳩山首相と刺し違い覚悟の膝詰め談判した。結果的にツ―トップ同時辞任決着となり、鳩山政権は僅か8ヶ月で退陣を余儀なくされた。しかし、どうせこういう結果になるのなら、鳩山前首相は、政権交代政権を後生大事と思うなら、社民党を斬るのではなく自らを斬るべきであった。これが政治のケジメであろう。ところが居座ろうとし、その道が潰えるや、参院選を控えて要の小沢幹事長を巻き添え辞任させた。そのオチが「やったぜベイビー」サインであった。その余りにも軽薄な仕草が総スカンを喰い、一気に鳩山首相辞任へと向かった。この経緯に垣間見えるのは、鳩山首相の政治に対する遊び人性、自公と何ら変わらない度し難いシオニスタン性であろう。 二番手政権として菅政権が誕生した。菅政権は、鳩山政権時の閣僚をほぼ留任させる形で引き継ぎ、返す刀で小沢派の徹底排除人事を押し進めた。これがオカシイ。なぜなら、小沢派は、この間の政権交代の立役者であり推進力である。どこの世界に業績優秀なやり手を斬り捨てる者がいようぞ。政権交代政権の維持存続を図るなら小沢派排除は有り得てならない。ところが、菅首相は、小沢前幹事長に対して非礼にも「暫くの蟄居」を申し渡した。これにより、小沢幹事長の参院選に対する大詰め采配の機会が失われることになった。 民主党の自絞殺であるが、菅政権には何ら痛痒を感じていない政治に対するオタク性が認められる。れんだいこ的には、鳩山前首相の公約履行サボタージュ、土壇場での小沢幹事長道連れ辞任、菅政権の小沢派排除の流れ自体が胡散臭い。 ところが、この経緯を良しとするマスコミの後押しにより、菅政権並びに民主党は支持率をV字回復させた。これにより一路参院選に向かうことになった。これにより、政権交代政権の超目玉政策であり万難を排して成立させるとしていた郵政再改革法案が先送りとなった。これに伴い社民党に続き国民新党も連立を外れるところ、亀井代表の担当相辞任、連立維持の選択でかかと一枚を残すところとなった。高速道路の無料化公約は無惨な形での変則実施が予定されている。子供手当は実施されたが消費税増税の口実にされつつある。 組閣を終えた菅政権が次に繰り出したのは財政危機論であった。俄かにギリシャ危機の二の舞説を唱え始め、自民党と同じ消費税10%案を打ち出し始めた。これにより、政権交代政権発足時の申し合わせ「4年間は消費税を上げない」とした三党合意がいともたやすく崩れ落ちた。「実施は2・3年後」と弁明しているが、来る参院選前の動きとしては何とも不自然極まりない奇妙な動きであろう。 管政権は、来る参院選で消費税増税の国民の判断を仰ぐとしており、露骨な「上からの勝てない選挙戦」に向かって冷や水を浴びせ続けている。今や民主、自民の二大政党が消費税増税を煽り、国民洗脳戦を開始している。一体、誰がこれを指導しているのだろうか。これを偶然とみなすべきだろうか。れんだいこは、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの裏指導によると見立てている。この一連の経緯は、民主党内シオニスタン派の「上からの反革命」以外の何ものでもあるまい。 こう見立てると、第22回参院選挙の空疎性が浮き彫りになる。これにより、恐らく投票棄権者が続出し、投票率低下が避けられまい。しかし、これこそがネオシオニズム−シオニスタン派の狙いであることを思うとシャクながら反撃せねばなるまい。こたびの参院選で問われているのは、1・政権交代政権、2・菅政権、3・消費税10%案の三信任である。これをどう否定しどう本来のものへと位置づけ直して行くかが問われている。こう見立てる政治評論が欲しい。 1・政権交代政権評価で云えば、政権交代そのものを自己目的にさせてはならないのは自明である。政権交代は、それまでの自公政権の余りにもな無能ぶり、シオニスタン政治ぶりに対する否定であった。ということは、無能政治、シオニスタン政治からの出藍こそが政権交代本来の希求であることになる。これに対して、鳩山政権、菅政権が見せている対応は余りにもお粗末と云うか、むしろ逆対応ぶりである。結果的に自公政権政治と比べて「単なる首のすげ替え」でしかない政権交代ぶりを見せつけられている。かくて、菅政権後の三番手政権に対する期待が大になりつつある。その意味で、第22回参院選挙をポスト菅の三番手政権創出の足掛かりとして闘わねばなるまい。 2・菅政権評価で云えば、今のところ見るべきところは何一つない。鳩山政権が党内右派と左派の均衡人事を特徴としていたことを思えば、右派一辺倒にシフト替えした菅政権は反動的である。但し、これについては今しばらく見守る必要があるかも知れない。なぜなら、小沢批判を集中的に喧伝するマスコミ戦略の逆手取りによる支持回復作戦の可能性なきにしもあらずであるからである。もう一つ、小沢派を徹底排除したことにより却って反作用を呼び、政権交代政権の真価を発揮させる道へ却って近づける逆効果があるからである。これは、参院選後の政局流動ではっきりすることになるだろう。 3・消費税10%案評価で云えば、菅首相及び菅政権の政治識見の質のお粗末さが窺えて興味深い。これが菅政治の始発の去る日の社民連的市民運動の帰結である。菅政権の露骨な消費税増税策動は、彼らが紛れもなくシオニスタン派であることをもの語っている。してみれば、日本左派運動が華やかりしころ対抗的に始められた右派系の社民連運動の「正体見たり枯れ尾花」と云うことになる。思うに、鳩山と云い、菅と云い、政治の遊び人ではなかろうか。こういう御仁は口先では正義ぶるが案外と裏で腐敗があることが特徴である。この目線で今後も見ておこうと思う。 もとへ。さて、そういう意義を持つ第22回参院選挙である。菅政権派は、明らかに民主党が負けるように上から仕掛け始めている。政治能力が足りなくてこうなっているのではない。足りない能力を逆に使い始めているということである。政治に真っ当な責任を負う者には有り得ない動きとして指弾せねばなるまい。問題は、菅政権のこの動きを誰が指揮しているのかということになる。偶然である訳がなかろう。この見立てが欲しいと思う。 よって、来る参院選は、ポスト管の三番手政権交代政権を創出する為の前哨戦としての位置づけで闘われるべきであろう。民主党内の政権交代推進派、これに共同する国民新党、社民党を支持し、夢を繋ぐべきである。その見極めについては追って発表することにする。我らがたすけあい党は、面白くなくなってきた選挙に食傷せず、それをワナと見抜き賢明懸命に応戦しよう。 2010.6.25日 たすけあい党党首声明 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評758 | れんだいこ | 2010/06/26 21:40 |
【れんだいこの第22回参院選挙議席予想】 話題を取る為に発表しておきます。第22回参院選は、小沢か幹事長が仕切っていた場合、最大70議席台が可能との託宣がでました。今、菅政権は、何を狂ったか必至で逆漕ぎしております。その結果、随分減りましたがまだ60議席前後可能との符が出ました。この先どうなるかは分かりません。管のアカンタレが引き続き掻きまわすでせう。いずれにしても自民党の凋落が激しく、引き続き陥没との符が出ました。候補者のタマが悪過ぎます。新聞の序盤予想は、世論誘導が入っておりますので当てになりません。 みんなの党が10議席台とも出ました。公明党、共産党が苦戦です。社民党が健闘しております。化けるとしたら、社民党かみんなの党、何より引き続き民主党のようです。れんだいこは個人的には国民新党応援です。亀ちゃん頑張ってや。新党緒雑派はダメとも出ました。れんだいこ予想は割合と当たりますふふふ。 比例区で政策がマシな候補者は、民主党で有田芳生、家西悟、下田敦子。国民新党で敏いとう。社民党で原 和美、浅野隆雄。キャラクターで押すとすれば、民主党の谷亮子、社民党の保坂展人。まっととにかく面白おかしく盛り上げませう。 それにしても、護憲派、消費税反対派、郵政再改革派、景気浮揚派、まじめに政治に取り組む人が当選して貰いたいです。政界には改憲派がひしめいております。怖いですねェ。れんだいこは、選挙に行かない人が増えると見ております。でもこれはやはりダメですね。選挙に行きませう。と自分に言い聞かせる。 2010.6.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評759 | れんだいこ | 2010/06/27 19:40 |
【れんだいこの第22回参院選挙投票戦略戦術】 もう一つ余興をば。れんだいこの処女作「検証 学生運動」の総括から滲み出る教訓は、左派運動に軍師が居ないと云うことです。系統的な運動史学習がないままに場当たり的な運動をしてきた結果が今日のテイタラクに繋がっております。このことを反省せねばなりません。これが運動責任です。この観点からすると、選挙にも軍師的行動が必要です。今までの対応は無茶苦茶です。勝つあてもないのに立候補させ、落ちてもカエルのツラにションペンの毎度毎度は精神に良くありません。泡沫ではイケナイのです。出るからには勝たなければ、勝たせなければならないのです。これが選挙責任です。候補者を代議士にさせ、僅かでも我々の政治への思いを反映させるようにさせねばなりません。その積み上げが大事です。 そういう訳で、自称左派運動研家にして軍師のれんだいこが、第22回参院選挙投票戦略戦術を指南致します。シンプルに致しました。選挙区の場合は次のように投票行動します。 1人区の場合、民主と自民が争っている場合には民主に投票するのが賢い。どちらもがシオニスタンの場合には困りますが、よほど自民候補者に魅力があれば別として民主に入れるのが賢い。なぜなら、民主内は参院選後に土着派とシオニスタン、護憲派と改憲派のドタバタ劇があるからです。これが面白くなりそうです。自民党はオールシオニスタンになっており、既に何の魅力もありません。 社民、国民新党が出ている場合には支援するのも賢い。問題は、候補者が当選を信じ努力しているかどうかです。比例票狙いで出ただけのことなら当選可能性のある民主へ投票するのが賢い。但し、民主党候補者がゴリゴリの改憲派の場合には、懲らしめの為に社民、国民新党候補を選択しませう。これは、革新系無所属が出ている場合にも同じです。 2人区の場合、基本的には1と同様です。民主二人のうちどちらに入れるべきかは、小沢前幹事長に近い候補を選択するのが賢い。見極めは二人目の新たな候補です。京都の河上満栄候補が前原派にイジメられているようです。静岡の中本奈緒子候補も干されているようです。ナニクソで頑張りませう。京都、静岡の有権者の皆さん、たのんまっせ。ボランティア頼むよ。3人区以上の場合、1・国民新党、2・社民、3・民主の順に選択するのが賢いでせう。 比例区の場合は次のように投票行動します。まず国民新党の誰か。次に、社民党の誰か。次に民主党の誰か。候補者名で書くのが良いようです。政策レベルで云えば、1・護憲派、2・消費税増税反対派、3・郵政再改革法案支持派、4・有料高速道路低額化支持派を探します。これに全て叶う候補者は少ないです。しかし、この4点をクリヤ―しない候補者を国会へ送りだしても意味がありません。 それにしても何とかして国民新党をせり出しさせたいですね。今や、国民新党と小沢派が日本政治の良心です。他はどれもこれもダメ。社民党が少しマシぐらいなもんで後はオールシオニスタンです。この連中がいなくなれば日本の政治も経済も随分良くなります。 シオニスタンがなぜイケナイのか。それは政治のヤブ医者だからです。連中に任すと、この国はギタギタに切り刻まれ、国民は壊死させられます。日本政治は今や世界の笑われもんです。連中は、性質穏和にして働き者で助け合い精神に富む日本及び日本人を尊いと思わず、国際金融資本の言いなりで所作する売国奴です。連中は元々オツムが弱過ぎる。下手な勉強してますます悪くなっております。 自由、自主、自律、自存の日本政治の確立は幕末維新以来のテーマです。この回天運動は未だ未完です。これ以上、情況が悪くならないようにしませう。そのうち、たすけあい党も出るからねェェその節は頼むよォォ。とにかく一人で三人はオルグして投票に行くようにしませう。投票率の低下が仕組まれている気がするからです。 2010.6.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評760 | れんだいこ | 2010/06/28 20:04 |
【消費税増税論議に大石を投じる】 第22回参院選前から、自民と民主の二大政党が口裏合わせたかのように消費税増税を持ち出し、顰蹙を買っている。ところが、一部では、財政破綻の折柄止むをえないとする見解がはびこりつつある。連中には、その結果の恐ろしさが見えていない。かって戦前に大東亜戦争へこぞって突入したように、消費税倍額増税へ足並みを揃えつつある。こういう折柄、絶対ダメとする観点を保持したい。その根拠の一つを確認しておく。誰からも指摘されていないようなので、れんだいこならではの指摘として聞き分けして欲しい。 先に、れんだいこは「カンテラ時評755 消費税値上げどころか今こそ廃止に立ち上がれ」で、中小零細企業が消費税納付で苦しめられている悲哀を指摘した。次のように訴えた。 「(消費税が廃止されれば)企業には、煩わしい消費税徴収、帳簿付け、納付の手間から解放される。良いことづくめである。今どれだけ中小零細企業が消費税で煩わされているか知られているだろうか。決算期に支払えず、確かサラ金並みかそれ以上の14.7%の高金利で追徴され塗炭の苦しみに遭わされている。税務署の胸先三寸で土俵を割る企業が目白押しとなっている。云うに恥ずかしいから云わないだけで実は深刻な社会問題化しつつある。国会議員は今のところ誰も採り上げていない、オカシナことだ」。 実際、中小零細企業の消費税の滞納額が急増していることが深刻な問題になりつつある。ここ数年の景気低迷を受け、現在6000億円あると云われている。実際にはもっとある可能性が強く数兆円規模に上っているのではなかろうか。不審があれば、国税庁がはっきりさせれば良い。しかし、社会問題になるのでできないのだろう。 こういうことになるのは、中小零細企業に消費税を別勘定仕分け、プールする管理能力が乏しく、売り上げ勘定と共に日計処理する結果、消費税ごと運転資金に流用され、決算期に払えないという事由が介在している。事業者の消費税納付は年4回(中小事業者は年2回)であるが、この間延びが却って後で苦しめることになる。これは消費税の制度的欠陥と捉えるべきではなかろうか。消費税の場合、これを改良する余地はなく、悪税として廃止するのが良いと思われる。その理由を記す。 消費税は、その徴収を事業者に委ねている。そもそもここに根本的な欠陥が認められる。これにより、徴収を義務づけられた側は、企業活動の何割かを消費税問題で悩まされることになる。この実態は渦中の身の者にしか分からず、サラリーマンでしかないマスコミ記者の理解の及ばないところであり、よって報道されることもない。たまに報道されるとすれば、消費税を払わない悪徳事業者が居る、懲らしめてやりなさい的な安上がりの正義でしかない。 事業者は、年に一度、決算書を策定し、これにより納税が義務付けられる。但し、従来式であれば利益に対する法人税納税である。戦後日本は、この道を上手く走って来た。考えても見よ、仮に利益がなく法人税が払われなくても、その間の社員給与の所得税、保険金その他その他を支払っているので、国家税収的には大いに寄与しているのではなかろうか。法人税が増えればなお有り難いと云うべきではなかろうか。 ところが、消費税導入により、利益に対してではなく売上そのものに対する納税を余儀なくされることになった。実はこれが痛い。原理的には消費税を事前徴収しているのであるから、それを支払うだけのことであり何の問題もないように思える。ところが実際は違う。既に述べたように、事業者のうち中小零細企業レベルでは、消費税を別勘定にしてプールしておくという能力を持たない。その日勘定を合わすことに精力を使っている。実際には、このことだけでも大変である。折に横領、持ち逃げなどもあり、これを防ぐだけでもかなりの労力を必要とする。そう何人も経理マンを抱える余裕はない。 そういうこともあって、消費税を別勘定にする余裕と云うか能力がない。しかし、これは云い訳である。そういうことは通用しないと云う正論がなされるであろう。その正論に対して反論しておくと、或る時点から消費税が導入され、それも売上3000万円以内は控除される云々と喧伝されたこともあって、分けのわからないままに、消費税徴収能力も納税方法も何らの訓練なきままにいきなり海に投げ出された格好となった。この間、海はシケて風雨が強くなっている。へとへとで岸辺に辿り着くと納税が待ち受けており、これを支払いかねる事態が発生した。 これに対して分割納税の道が講じられている。しかし、国税庁は甘くはない。国税の延滞利率は14.7%と定められており、公定歩合、貸出金利の変動に関わらず一定にされている。14.7%の延滞金利は4、5年で元金の倍額に値する金利を生む。つまりサラ金金利になっている。それにしても、この低金利時代の14.7%は異常である。 このワナに陥った法人は永遠に抜け出せれないことになる。なぜなら、分割納税が完済しないうちに新年度の決算がやって来て、新たな分割納税に切り替えねばならなくなるからである。こうして支払えども却って利息が増すと云う悪循環に陥る。これを解消せんとして銀行へ足を運ぶと、門前払いとなる。つまり、税金の滞納事業者には貸し出ししないという基準があるからである。これにより、行き詰った経営者は次第に高金利金融に手を出すことになる。その高金利金融会社のスポンサーが銀行である。これが裏の仕掛けである。 消費税が3%、5%の時なら、優良な中小零細企業はまだしも耐えられる。仮に10%にでもなろうものなら、現在の決算時納税額の倍になる。仮にこれまで100万円から200万円の支払いで良かった会社が倍額を用意せねばならないことになる。その延滞利息として14.7%攻勢が始まるとどういうことになる。空恐ろしい事態が待ち受けていることになる。これが中小零細企業の過半の経営実態である。と思うのだがどうなのだろう、誰か意見を聞かせてほしい。 れんだいこは、消費税なぞなくして、事業者が利益を上げ、法人税を納められるように環境整備して行き、法人税増収を目指すことこそ政治の役目の一つであると考えている。実際の政治はどうか。事業者の経営環境をどんどん悪くして、破産、倒産を余儀なくさせている。逆に優良企業の場合にはハゲタカファンドに掴まえられている。外資系の経営者が乗り込み天文学的高給を漁っている。日本の大手企業経営者の多くがこれを見習いつつある。こういう経営指導してきたのが自公、民主政治ではないのか。時に給付金をバラまくが焼け石に水で何の経済効果もない。却って財政悪化の要因となっている。消費税増税問題を云う時、この観点からの論議が必要である。目下の消費税論議は10%を受け入れさせる為の洗脳論議であり、何の意味もない。 考えても見よ。日本が世界が羨む戦後復興、高度経済成長を遂げていた時、国債も消費税もなかった。公共事業が旺盛であった。この善政を否定し、国債、消費税を導入した頃から、日本の経済成長が止まった。いつの間にか先進国中第1位の国債累積債務を抱えて、1番が自慢かのように錯覚している。政治力をこういう風に使う仕方の全てがオカシイのであり、今やレールを引き直す以外にないということを合点する必要があるのではなかろうか。これを回天と云う又は革命とも云う。これが云いたかった。以上、消費税増税論議の前に大石を投じてみた。誰か、菅のアカンタレに聞かせてほしい。 2010.6.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評761 | れんだいこ | 2010/07/01 21:20 |
【第22回参院選の議席予想その2】 2010年の第22回参院選(7.11日投開票)が中盤戦に突入した。れんだいこが改めて議席予想しておく。 参議院選挙区は1都2府1道43県の47選挙区からなる。そのうち1人区が29、2人区が12、3人区が5、5人区が1となっている。1人区29選挙区のうち、民主党は香川と沖縄を除く27選挙区で公認候補を擁立しており自民と激突している。先の衆院選以来、民主党、社民党、国民新党、日本新党、新党大地の政権交代派と自民党、公明党、その他諸雑派の旧政権派との政権争いが続いている。この構図は変わらない。 鳩山、菅と続く民主党党中央はこの間、社民党を斬り捨て、国民新党との同盟関係に亀裂を走らせ、何をトチ狂ったか躍起になって自ら政権交代政権の支え棒を毀損しつつあるが、小沢前幹事長時代に築いた提携関係は揺らいでいない。恐らくこのまま選挙の日を迎えることになると思われる。これによると、民主党は、岩手、奈良、岡山、徳島、高知などで絶対優位に立っている。他方、自民党の絶対優位区はなく、これまでの金城湯池の群馬、山口でも予断を許さない選挙を強いられている。これが趨勢である。 2人区12選挙区のうち、いずれも民主1は手堅く、残りの1議席を自民、民主が争い、選挙区によってはみんなの党、社民、国民新党が割り込む混戦構図になっている。民主の議席独占を狙う二人擁立が吉と出るか凶と出るか注目されているが、小沢前幹事長の後ろ盾を失った二人目の候補が一部を除いていずれも苦戦を強いられている。但し、競合により比例票を押し上げる効果を持つことには変わりない。 3人区5、5人区1選挙区の場合、民主、自民両党がそれぞれ1議席を手堅く固め、民主党は2議席目を視野に入れている。3議席目以下を公明、みんなの党、社民、国民新党、新党改革、たちあがれ日本、日本創新党が取り合う形になっている。比較的元気の良いのがみんなの党のようである。 ちなみに、各党の立候補選挙区数は、民主45選挙区61名、自民47選挙区49名、みんなの党21、社民党8、新党改革7、たちあがれ日本4、日本創新党4、公明党3、国民新党2、その他となっている。 特異な戦術を採っているのは共産党である。相変わらず全選挙区に独自候補を擁立している。従来、共産党の候補者擁立が自公政権候補当選を間接的に呼び水していたが、このところそれを上回る民主党票が形成されており、共産党の割り込みが功を奏さなくなっている。他方で、共産党票の民主党ブロックへの移動も見られており、全選挙区候補者擁立による比例票獲得狙いが全く機能していない。供託金没収の悲哀のみ味わっているが、党中央の戦略戦術は一向に変わらない。それでいて責任問題も出ない不思議なガラパゴス党になっている。 以上から推定すると、れんだいこ議席数予想は、民主60、自民26、みんな10、公明8、共産3、社民3、新党改革3、国民2、立ち上がれ日本2、日本創新1、革新系無所属2の計120となる。変動するとすれば、みんなの党がそれほど伸びず、減った分を民主が吸収する可能性であろう。結果的に民主は引き続き好調健闘、自民が更に陥没、みんなの党と公明が並び、社民、共産、国民新党がほぼ現状維持、その他新党が僅かに議席獲得と云うことになる。一番割りを食ったのは自民党と云うことになろう。これをれんだいこ予想とする。 この予想が崩れるとしたら、民主党党中央が終盤戦になりふり構わず自絞殺運動を開始することによってである。菅政権は明らかに意図的故意に負けるように逆走し始めている。終盤戦ともなると何が飛び出すのだろう。民主党支持者が、菅政権の短命化を見据え、次の政権を展望していれば動じないであろうが不気味ではある。いずれにせよ、勝っても負けても選挙後の菅執行部への責任追及弾劾は必至となった。菅は思っていた以上にアカンタレである。鳩山のハトヤマ美人、菅のカン文句が新たな政治造語となった。 特段の必然性もないのにわざわざ消費税増税論をぶち上げ、批判が高まると低所得者層には増税分還元するなどという思いつきにダマサレル有権者は居ないのに、ブチ上げ抜いているのは狂態以外の何ものでもない。問題は、誰に指図されてピエロしているかであろう。常識的には考えられない。苦労して組み立てた勝利の方程式構想を壊されつつあるのを見て小沢が怒るのは無理もない。それを逆に怒る枝野、野田とは何者ぞ。尋常ではない。特殊な腹話術師たちではある。 2010.7.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評762 | れんだいこ | 2010/07/03 21:22 |
【公職選挙法考】
今日初めて公職選挙法なるものに目を通してみた。全17章からなる膨大な条文から成り立っている。まだ読んでない。読み切れるものでもない。よくぞこういう煩雑法律を意に介せず立候補したり、僥倖にも当選して代議士になり政治に取り組んでいるものだと感心すると云うよりあきれさせられている。れんだいこは従来、難解膨大文の例として税法、著作権法を挙げていたが、これからは公職選挙法も加えることにする。 それにしても、公職選挙法はかくも膨大な条文で構成せねばならないものなのだろうか。未だ読んでもないのだが、真っ当な選挙活動、政治活動を縛る悪法のタマリになっているのではなかろうかと推定する。本来であれば、公職選挙法自体は誰でも読め習熟できるように簡潔なものにしておき、細かく規定するくだりは別途に細則、施行規則を設けて二段構え、三段構えにしておくのが普通なのではなかろうか。付言しておけば、本来他愛ないことなのに、目下の公職選挙法を盾に誰それの選挙違反をナジる者がいるようだがクダラナイ。 現在、第22回参院選のさ中であり、党ないしは立候補者は議員定数削減を詠い、有権者の関心を引こうとしている。れんだいこに云わせれば臭い話である。昨年の総選挙時の政権交代公約と同じで、政権取ってみれば、この場合は代議士に当選してみれば、喉もと過ぎて熱さ忘れるの類のものでしかなかろう。要するに有権者を嘗めている。 議員定数削減論者に云いたい。君たちがまず為すべきは、公職選挙法の見直しではなかろうか。どう見直すべきかが肝心であるが、要するに金銭買収や利権誘導型はダメとしても、もっと自由に活動、演出、主張、議論、評論できる方向へ、且つシンプルにすべきではないのか。法は守る為だけにあるのではない。どうせ人が作ったものであるからして、適合性を見て具合が悪ければ改変するのも知恵であろう。 これをきっちりやれる能力を身につけてから政治に采配振るえば良かろう。目下のお化け条文からなる公職選挙法を良しとしする感性、能力では碌な政治ができまい。あれもダメ、これもダメを良しとする公職選挙法から生まれる政治家は、あれもダメ、これもダメの政治に向かうのが法理である。お陰で日本は、左右から揺さぶられて高コスト規制社会の土壺に入ってしまっている。一見マジメそうに会議をしたり分厚い文書を渡されるが、本当に議題せねばならないテーマがいつも外されており、何の意味もない他愛ない話しに時間をつぶして仕事をした気になっている。全てが形式に流れている。この現象も又或る意味でのガラパゴス化ではなかろうか。あらゆる方面で日本のガラパゴス化が急速に進みつつある。そんな気がしてならない。 第22回参院選のさ中であるから、これに関連するガラパゴス現象を述べておく。民主党は、昨年の衆院選で政権交代を掲げてこれを成功させた。その時、多くの公約を掲げた。れんだいこは、高速道路の無料化法案に賛成した。無料化にならなくても現行料金の3分の1ぐらいにはなれば良いと考えてのことだ。政権交代後すぐにできるのに延び延びにされ、ようやく過疎地限定の無料化区間が生まれた。随分長くかかった無惨な結末である。「消費税据え置き、その前にムダ節減」も然り。れんだいこは支持した。「ムダ節減」は事業仕訳で評判を呼んだが、重箱の隅をつつくような他愛ない削減に終始している。 そういう訳で、政権交代時公約がたな晒しのまま据え置かれ、遂にカビ臭くなりつつある。というのも政権交代政権一番手の鳩山政権が殆ど手を付けず、二番手の菅政権となると風呂敷にまとめて包んで捨てようとしている。これは、政権交代前公約を信じた側から見れば、公約がレイプされているのに等しい。そう思ってレイプ許さじのブーイングしたところ、政治は生き物論を説き更にレイプに励み始めている。オカシイのではないのかと小沢前幹事長が抗議すると、党の団結を乱すのかとドウカツする。暫く蟄居して黙っておれと云い渡した筈だろうがと。 小沢の為すことは何でもダメ派のマスコミは、小沢が早くも出しゃばり始めたと云ってなじる。これにソウダソウダと合唱する声が高まるに応じて、日本のガラパゴス化が進行する。なぜなら、明らかな正論の小沢がなじられ、逆が支援されるなどと云うのは世界では通用しないからである。小沢前幹事長が、政権交代前公約のレイプ化、風呂敷包み化に抗議するのは真っ当である。ただの一度でもやってみて軌道修正するのならまだしも、やる気そのものが端からない。菅、枝野、野田、仙石よ、小沢前幹事長に対して指をくわえて黙って見ておれとは。それは余りにも筋が違うのではないかな。 れんだいこが告げる。今や、菅派は逆走逆漕ぎに精出しつつある。人は正念場で本性を表わす。連中は、せいぜい評価しても政界遊び人派である。れんだいこは、腹話術師的政界ピエロと命名する。小泉以来である。恐らく裏で繋がっているのだろう。結論はこうなる。菅派を選挙支援に呼んではイケナイ。碌なことにならない。票が逃げるだけである。今からでも遅くない、菅派をカンヅメにせよ。これが民主党各候補者のの唯一勝てる道筋である。まだ日にちがある。 2010.7.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評763 | れんだいこ | 2010/07/05 20:28 |
【第22回参院選の議席予想その3】
第22回参院選がいよいよ終盤に突入した。次第に関心が高まりつつあるが盛り上がりには欠ける。その理由は、昨年の総選挙では政権交代を廻る熱い闘いがあったのに比して、こたびにはそれがないからではなかろうか。本来なら、公約履行の結果としての政権交代効果の信を問う選挙戦になるべきところであるが、鳩山政権の公約サボタージュ、菅政権の公約蹂躙という失望下での公約そっちのけの単なる議席争奪と云う不燃焼選挙にさせられている。 これに加えて、菅政権の挙動不審が目立つ。本来の争点ではないのに俄かに消費税10%増税論を持ち出し、その是非を問う選挙にせんとしている。過去の例に倣えば、増税を持ち出した時、言いだしっぺは必ず手酷いしっぺ返しに遭っている。それを承知で消費税10%増税論を煽る菅政権の魂胆はどこにあるのだろうか。菅政権が自ら勝つ気のない選挙を仕掛けていることがすぐ分る。改選54議席を得れば十分とする姿勢も臭い。端から守りに入っていることが分かる。 評するべきは、一体誰がこういう選挙シナリオを作っているのかであろう。こういう痴態が偶然である訳がない。れんだいこには、裏の策士が透けて見えてくる。思い起こせば、2005.9.11総選挙では「自民も民主も外資系選挙請負PR会社に広報委託」していた例がある。日本政治は選挙まで含めてかようにコントロールされているということであった。こたびも、そういう仕掛けが入っていることは十分に考えられよう。鳩山政権時の参院選挙前の諸新党誕生、社民党切り、小沢幹事長切り、菅政権の唐突な消費税10%増税論持ち出し、国民新党日干しは、この線から窺うべきではなかろうか。鳩山も菅も、シナリオ上で踊るピエロに過ぎない。 そういう訳でクソおもしろくない選挙にされているが、政治は本来真剣なものであるから逃げる訳には行かない。民主党内小沢派、国民新党と、社民の三角同盟こそが日本再生のキーであり、この同盟を強く育てねばならない。このことだけがはっきりしている。それ故に、自民党、民主党、新党諸派の各党内シオニスタンが轡(くつわ)を並べて目の仇にする。これも請負で雇われているからに他ならない。消費税増税、所得格差拡大、自衛隊の海外派兵、優良企業の外資売り、中小零細企業の死の行進、教育の荒廃、日本語不要化、国技相撲の蹂躙等々は皆同じ線で結ばれている日本溶解策動であろう。 これを踏まえてどう闘うべきか。既に戦略戦術は先の投稿で記しているので繰り返さない。社民、国民新党には何とか現議席維持、議席増で踏ん張ってもらいたい。比例票で大きく躍進することを願う。れんだいこの推定するところ、民主は58議席前後、自民は35議席前後(従前の自民党26は有り得ないので訂正しておく)、みんなが10議席前後、公明が8議席前後、社民と国民と共産党が2議席前後、たちあがれと新党改革と日本創新党が1議席前後、無所属2議席となる可能性が強い。結局、民主と自民抗争は改選前とさほど変わらなかったということになろうか。注目すべきは社民、国民新党の伸び具合である。マスコミ予想と違って、国民新党の健闘が光った選挙戦であったと総括してみたい。亀ちゃん頑張れやぁ。 2010.7.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評764 | れんだいこ | 2010/07/09 21:30 |
【第22回参院選の議席予想その4】 残すところ後一日となった。第22回参院選の議席予想の最終章をお届けしたい。新聞論調によると各社一様に「民主苦戦、自民善戦」としている。ほんまかいなぁと思うのは、れんだいこだけだろうか。新聞社の調査能力はさすがのものなので気を揉むが、れんだいこ分析によれば「民主善戦、自民骨折」の卦が出ている。 確かに民主党は、あろうことに党中央の上からの冷や水浴びせ逆采配で苦戦を余儀なくされている。菅政権発足直後のV字回復の勢いは全くない。にも拘わらず菅執行部は引き続き下手な芝居ばかりを演じている。しかしながら、民主党は最終版で盛り返したのではなかろうか。小沢の出向くところ歓声が上がっており、誰が縁の下の力持ちしているのかを如実に示している。結論として不正でもない限り引き続きの政権交代ブーム健在を証することになるのではなかろうか。なぜなら、あらゆる指標からして自民党が復権する要素がないからである。「消費税10%増税」の言いだしっぺは自民党だし。谷垣党中央の自民党は完全に狂っているという他ない。小泉ジュニアの「野党を極める論」も同じく、親父も親父なら子も子で狂っている。 公明党が相変わらず自民党を支えまくっているが、その咎めが公明党自身に及び又も苦戦後退するであろう。最悪、選挙区で1議席取れるかどうか危うい。かっての全員当選法力は完全に消えてしまっている。思えば去る日の小泉政権時に生活与党の弁えを外し、自衛隊の海外派兵に提灯し続けたツケが未だに自家撞着していることになる。宗教政党がかくも露骨に体制擁護に廻る例が珍しい。そもそも教義のどこかにオカシげなところがあるに違いない。次にみんなの党。この党がどこまで票を伸ばし議席を取るのかは分からない。民主票、自民票が流れると予想されるが案外限定的なのではなかろうか。下馬評の10議席取れれば大当たりとすべきであろう。 次に社民党。この党は多少善戦するかも知れない。しなければウソだと思う。しかしながら相変わらず労組票頼みが抜けていない。れんだいこの七不思議で、今日まで社民党に声かけられたことがない。自民、公明、共産、民主はしょっちゅうだと云うのに。この内向き習性から転換しない限り、社会党が社民党になろうとも党勢拡大はなかろう。 次に国民新党。この党がどこまで予想外の奮戦をするだろうか。こたびの選挙の隠れた興味の一つである。国民新党の場合、菅政権になって冷や飯を食わされているが、律儀にも選挙区での民主党候補者を推薦支援し、公明党の自民党支援と好一対を為している。当たり前と云えば当たり前なのだが、他の諸党の殆どの自民支援に比して采配が光る。その功績により、れんだいこは比例区を国民新党にお供えする。 それにしても共産党の対応が理解できない。全選挙区に立候補させ、表からの公明党、裏からの共産党と云う構図で間接的に自民党を補佐している戦略戦術を変えていない。変えようともしていない。この党には供託金没収が痛くないらしい。その資金はどこから捻出しているのだろう。毎回毎回だから相当な金額になっているはずだ。有権者は、この構図を長年これを撥ね退ける力がなかったが、ここへ来て通用させなくなっていることは喜ばしい。これだけフォローの風が吹いているのに、仮に苦戦したとしてどう言い訳するのかが興味深い。たまたま消費税選挙になったので今回はある程度善戦するかも知れない。 たちあがれ、新党改革、日本創新党、女性党、幸福の科学は影が薄い。小選挙区制の制度的仕組みの壁の悲哀を嫌と云うほど味わうことになろう。 ところで、民主は勝っても負けても菅政権執行部の責任を追及すべきだろう。こたびの参院選に突如、「党議を経ていない消費税10%増税」を持ち出したことには政治責任と能力が大いに問われるべきであろう。れんだいこの眼には越権と映る。選挙後、直ちに党内議論を開始すべきである。機関運営主義を遵守できない者に権力を握らせてはならない。如何に「強い日本」を口先で語ろうとも、結果は逆の事態になるであろう。鳩山政権の賞味期限は半年もったが、菅政権の賞味期限は僅か1ヶ月もたなかった。れんだいこは、菅がこれほどアカンタレとはついぞ思わなかった。そういえば遍路装束でのパフォーマンスが臭いとは思っていたが、これほど底浅人物であったとは。 それに引き替え、小沢と亀はいい仕事をする。頭脳戦で常に負けていない。切っ先勝負を挑み戦線を切り開いている。この二人が老骨に鞭うつ限り我々も安心してついていける。これを支持する我々のン千年陶冶の日本文明力を称賛すべきではなかろうか。云いたいことは色々あるが、はしょる。さぁ投票一揆で、引き続きの真の政権交代永続革命に向かおう。後は選挙速報を楽しく拝見したいと思う。スポーツ観戦パブは多いが選挙速報観戦パブはないのだろうか。 2010.7.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評765 | れんだいこ | 2010/07/13 19:53 |
【2010参院選総括その1、議席動向】 2010.7.11日、第22回参院選が行われた。れんだいこの事前予想「何だかんだ云っても民主引き続き伸長、自民退潮」が全く外れ、逆の結果になった。あな恥ずかし。穴があったら入りたいとはこのことだ。それにしても、新聞社の予想はかなり的確だ。ということを教えられた。社説はダメだが、今後は選挙予想だけは重視することにしようと云い聞かせた。次回に役立つ資料として、れんだいこなりの総評を遺しておきたい。 民主の菅政権は、党議を経ずのまま俄かに消費税増税論を掲げて選挙戦に突入した。これにより立候補者は一気に逆風下の闘いを余儀なくされることになった。菅執行部は消費税増税批判が高まるや次々と口先を替え、しかしながら最期まで居直りつつ投票日を迎えることになった。結果は、「民主退潮44議席、自民復活51議席、みんなの党大当たり10議席、公明ジり貧9議席、共産ジりジり貧3議席、社民ジり貧2議席、たちあがれ1議席、改革1議席、国民新党無惨なり0議席、その他諸党0議席の出ただけ選挙」という結果となった。これを総評とし、以下、各党を総括する。 民主党は、選挙区73、比例区48の121議席を争った今回の参院選で、改選数54→44に惨敗した(参院総議席106)。1人区のうち、無所属候補を推薦した香川と不戦敗の沖縄を除く27選挙区で自民と競合したが8勝21敗。2007年参院選では推薦などを含め野党共闘で23勝6敗であったことを思うと今回は元の木阿弥に戻った結果となった。12ある2人区では10選挙区で、2人擁立によるあわよくば議席独占を目論んだが、全選挙区で自民と議席を分け合った。3人区でも自民と議席を分け合い、残り1議席をみんなの党、公明党に与えた。東京の5議席区では辛うじて2議席を確保した。比例区票は、2001年8議席・899万、2004年19議席・2113万、2007年20議席・2325万票、2010年16議席1845万票、31,56%。 自民党は逆に38→51議席獲得した(参院総議席84)。民主党に対して巻き返した感がある自民党の勝因は、手堅い戦略戦術を採ったところに現れている。1人区で21勝8敗、複数区では全区1議席を確保している。但し、比例区では12議席の確保にとどまった。比例区票は、2001年20議席・2111万、2004年15議席・1679万、2007年13議席・1654万、2010年12議席・1407万、24,0%。 公明党は11→9議席となり引き続き退潮した(参院総議席19)。選挙区を絞り込み埼玉、神奈川、大阪で全員当選を果たした。2001年5議席、2004年3議席、2007年2議席、2010年3議席。比例区票は、2001年8議席・818万、2004年8議席・862万、2007年6議席・776万、2010年6議席・763万、13,07%。 旧社共の場合、引き続き土壺にはまっている感がある。共産党は4→3議席となり引き続き退潮した(参院総議席6)。選挙区で議席0が続いている。比例区票は2001年4議席・432万、2004年4議席・436万、2007年2議席・440万、2010年・356万、6,10%。選挙区での議席ゼロ、比例区でのジリ貧という構図が確定しつつある。党中央は比例区の得票数が増えていることを自慢していたが、こたびは大幅に減らしている。あらゆる指標が後退を示しているが相変わらずの捲土重来でお茶を濁そうとしている。つける薬のない処置なし弁明と云えよう。 社民党も3→2議席となり引き続き退潮した(参院総議席4)。共産党同様に選挙区で議席0が続いている。比例区票は、2001年3議席・362万、2004年2議席・299万、2007年2議席・263万、2010年224万、3,84%。かっての自社二大政党時代の面影は微塵もない。福島社民党の限界を示しつつあると云えようか。 国民新党は議席3→0議席の完敗となった(参院総議席3)。比例区は2007年126万、2010年100万、1,71%。民主党連立政権の与党の一角を占めているが、この窮地を脱する特効薬があるのだろうか。郵政再改革法案の行方が気になるところとなった。れんだいこは1票投じたのだが、票が少な過ぎる。まさかとは思うが誰か調べてくれ。 みんなの党が0→10議席となりいきなり第三党に進出した。選挙区で東京、神奈川、千葉で3議席獲得した。比例区票は、794万、13,59%。みんなの党は、自民党、民主党が共に消費税増税を打ち出す中で構造改革優先のアジェンダを唱え、且つ経済成長再建策を提唱したことで支持を増したと考えられる。 たちあがれ日本は3→1議席で敗北した。比例区の得票数は123万、2,11%。新党改革は6→1議席。比例区の得票数は117万、2,01%。創新党、女性党、幸福実現党は0→0。既成政党に抗して新党で闘うことの困難さが浮き彫りになった。全体として、「自民の巻き返し、みんなの党の善戦」が光った。以上を総評とする。 2010.07.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評766 | れんだいこ | 2010/07/13 20:01 |
【2010参院選総括その2、戦記】 民主党は何ゆえにかくも無残な敗北に追い込まれたのか。れんだいこが解析しておく。こたびは個別の戦記はせずに民主党敗北の要因分析とする。 第22回参院選を一言で評すれば、「お灸選挙」であろう。民主党はあちこちの選挙区で灸を据えられた。思えば、昨年の総選挙での大躍進による政権交代は僥倖のものでしかなかった。民主党が政治的能力で勝ち取ったというよりは、自公政治の幻滅から一度民主党に政権取らせやらせてみようと云うテスト的支持であった。民主党は、世論のそうした気紛れ的性格を踏まえるならば、自惚(うぬぼ)れるべきではなかった。公約履行は必須の政治責任で、政権足固めの唯一のチャンスであった。よしんば公約通りにはならないとせよ趣意の一貫性だけは保つべきであった。いずれにせよ直ちに有言実行政治に取り組むべきであった。ところが鳩山政権は政権取りに有頂天になり宴に明け暮れた。またたく間に政権3か月が過ぎ年が明けた。 鳩山政権は年が明けてもサロン風政治が改まらず、結局次から次へと公約を反故にして行った。あるいは大幅に履行を遅延させていった。この間、政治とカネ問題が取り上げられ始め、鳩山首相、小沢幹事長のツ―トップが槍玉に挙げられた。特に小沢幹事長がターゲットにされ、「天の声資金疑惑」が問題にされ始めた。鳩山派はこれをよそごとに受け止め、説明責任があるなどと野党の追及に唱和した。ところが鳩山首相自身の故人献金問題が浮上するや、二枚舌三枚舌を使い始めた。民主党は党として、民主党政権になってなぜ執拗にトップの政治とカネ問題が採り上げられるのかの政治主義性を衝いて切り返すことなく「政治とカネ問題」に忙殺された。 この間、沖縄の普天間基地問題が次第に浮上した。鳩山首相自身が指定した「5月末期限」を迎え、鳩山政権は、紆余曲折右往左往した挙句、自公政権時の辺野古案に決着させた。鳩山首相自身が「国外、最低でも県外」と何度も声明してきた経緯と齟齬しており失笑を買った。少子化相を務めていた社民党の福島党首が閣僚罷免され、社民党は政権与党からの離脱を余儀なくされた。鳩山政権の支持率が急降下し始め、参院選を闘えないとする党内からの突き上げが始まり、これを受けて小沢幹事長が官邸に乗り込んだところ刺し違い辞任となった。こうして鳩山政権は崩壊した。 ポスト鳩山として菅政権が登場した。菅派は、組閣に当たって露骨な反小沢シフトを敷いた。マスコミがこぞって歓迎し、その影響を受けた世論調査でV字回復を果たした。これにより、懸案の郵政再改革を先送りしてまで参院選を急いだ。これも臭い流れであるが、ここでは問わない。ここまではまだ良い、許せるとしよう。 問題はここからである。そうまでして急いだ選挙に突入するや、菅政権は突如何の必然性もないのにいきなり消費税10%増税案をブチ上げ冷や水を浴びせた。浴びせただけではない、浴びせ続けた。候補者の多くは面喰い、防戦一方となった。菅政権は、これが批判されるや、消費税増税案を出したり引っ込めたりし始めた。低所得者層に還元すると云いだし、低所得者層のボーダーラインも次から次へと変わった。しかし、これは自然ではない。意図的故意の失言としか考えられない。小沢前幹事長が異議を唱えると、「暫く蟄居せよと云い渡しておいたろうが」と逆批判する始末であった。 菅政権の変調ぶりはそれだけではない。勝敗ラインを解散前議席維持と云う最低ラインに設定したところにも認められる。この異常性は、端から防戦一方の構えにしたことにあるのではない。物事はハードルを高く掲げて半分叶うのが法理であるのに、端からハードルを下げたらどうなるか。士気が下がりハードル以下のものしか得られまい。菅政権の解散前議席維持は、勝つ気がないことを示していたのではなかろうか。ここに問題を認めるべきであろう。 この消極姿勢が批判されるや、何と菅政権は負けた時を前提にして選挙後の連立組み替えを語り始めた。これもオカシイ。意図的に民主党に幻滅を与える芝居ではなかろうか。選挙のさ中に、党中央自らが敵に塩を送る連立組み替えを語る異常性を見て取るべきではなかろうか。菅政権は総出で選挙区支援に向かったが効き目があったかどうか。行く先々で消費税10%増税の必要を説いたり説かなかったりの腰の引けた、支援にならないアリバイ支援にしかならなかったのではなかろうか。 小沢派は逆風下の中で懸命に巻き返しに向かった。しかし、幹事長権力をもぎ取られており、為し得る事は限られていた。如何せん党中央の「上からの逆采配」の中での巻き返しであり、微々たる助けにしかならなかった。この状況のまま選挙日を迎える事になった。そして負けた。れんだいこは、民主党が最期の局面では底力を出すと期待していたが、選挙結果から見ると逆に離されている。 これらを思い返すに、菅政権は、こたびの選挙を意図的故意に上から負けるように操作した節が認められる。かって、岡田代表の時にも、こういう変調が認められる。民主党は、小沢が采配した時だけまともになる。一応、誰の命令によってかは分からないとしておこう。れんだいこのこういう見方は変調だろうか。しかし、その証拠がある。メディアは一報したのみで隠しているが、れんだいこはオヤッと思った。民主党敗北の報を受けた菅首相が確か官邸から出てきたところが撮影報道されたが、菅首相が車に乗り込みながら真っ先に示したのは妙な「人差し指サイン」であった。鳩山首相の「親指サイン」に続く指サインであるが、これは何の意味だろうか。この仕草は偶然のものだろうか。 この映像は一度きりしか放映されていない。気になるので、もう一度確認して見たいが、恐らく伏せられるであろう。これを紐解くのに、「人差し指サイン」はVサインの片方のサインであり、勝利又は半勝利を意味していると読める。つまり、こたびの民主党敗北は、奇妙ではあるが菅首相の胸中ではシナリオ通りに事が運んだという成功サインだったのではなかろうか。こうなると、誰かに向けてのVサインであったのではなかろうかと云うことになる。しかし、これは、れんだいこの特殊な受け取り方としておこう。 普通に考えられることはこうである。こたびの民主党の敗北は変な負け方である。どう変なのかと云うと、勝ちに行って負けたのではなく、負けに行って負けたと云う謀略性が認められると云うことである。菅派は、こたびの選挙戦をわざと負けるように仕組み、わざわざそのように指揮し続けた形跡がある。力及ばずして負けたのではない、力を尽くさずして負けたのではない。党の最高指導部が逆向きに奮戦して敗北を誘導した風がある。通常は考えられないが、権謀術数渦巻く政治の世界ではあり得ることである。並みの神経ではこういう芸当はできないが、陰謀勢力に雇われている政治ピエロならできる。むしろ得意とする。こういう疑惑の目を持つ必要があるのではなかろうか。鳩山政権−菅政権をこういう目で見れば、胡散臭い御仁がごじゃんと見えるではないか。れんだいこは、かく見立てる。こう見立てない総評は駄弁に陥る恐れがある。 2010.7.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評767 | れんだいこ | 2010/07/13 20:15 |
【2010参院選総括その3、民主党敗北の要因解析】 思えば、政権交代後の民主党は変調続きではなかろうか。第1番手政権としての鳩山政権は意図的故意に公約をサボタージュし続けたのではないのか。辛うじて事業仕訳で人気を得たが重箱の隅をつつくようなものでしかない。本ホシの軍事費削減、公務員高給与見直し、天下り高給与見直し、退職金渡り阻止、原子力行政冗費見直し等々に向かわない形でのすり替えでしかない。やろうと思えばできるのに向かわない。 緊急の景気浮揚、不況打開に向かわない。景気刺激策として期待されていた有料高速道路無料化公約は後回しにされ、鳩山政権末期になってようやく経済効果の最も薄い形で実現されると云うテイタラクを見せている。これって偶然だろうか。子供手当は実施されたが、財政悪化を懸念させ消費税増税の口実にされる形で導入されている。沖縄の普天間基地問題では自公政権案差戻しのみならず、更なる出費を強いる形で新展開されようとしている。他方で、取り返しのつかない危険性が懸念されている原子力開発が推進されている。自衛隊の海外派兵が進行している。鳩山政権下のこうした動きは果たして偶然だったのだろうか。かの郵政再改革法案は先送りされてしまった。これもオカシイ。今や赤信号が点滅したと思わねばなるまい。 多くの論者は鳩山善玉、小沢悪玉論を唱えたが、れんだいこには逆に映る。それはともかく、鳩山政権の坊ちゃん政治が食傷され、政権交代二番手として菅政権へと移行した。菅首相を市民運動上がりというだけで左派者視して警戒する見方があるがナンセンス極まりない。菅政権のどこに左派性が認められると云うのだろう。市民運度上がり程度で左派などと買い被る評者の頭脳がサブイ。 菅政権は鳩山政権より臭いのではなかろうか。鳩山政権が、党内の縁の下の力持ちとしてカゴをかき汗をかいてきた小沢派をもそれなりに待遇したのに対し、菅政権は露骨に排除し、代わりに党内シオニスタン派を大胆に登用させた。これで選挙に勝ちに行ったのならまだ分かる。マスコミの反小沢運動に対する逆手取り戦術として有効であったからである。しかし、こたびの参院選を見る限り、菅政権は先に述べたように負けに行った。こうなるとどういうことになるのか。菅政権はトンデモな喰わせ者政権ということになるのではなかろうか。 菅政権は案の定、こたびの決定的敗北にもかかわらず何らの責任をも負おうとしない。選対責任者はむろん幹事長の責任をも免責し、落選閣僚の千葉法相をもそのまま据わり続けさせようとしている。菅首相は、「私の説明不足から、ご迷惑をおかけした。大変重い選挙戦だったが、私の至らなさだ。結果を真摯(しんし)に受け止め、もう一度再スタート、政権にあたらせていただきたい」と述べ、「執行部人事の凍結」を申し渡して逃げ切りを図ろうとしている。しかし、こういう方便を許すと、政治責任という言葉が死語になるのではなかろうか。忌まわしい先例は作らない方が良い。民主党が野党になった場合、今後はどのように口を回すのだろうか。自分たちは免責、相手には求責という便利なお口を持つ野党暮らしに戻りたいのだろうか。れんだいこは、民主党の日共化と蔑む。 こういう手合いに限って、政治とカネ問題で頻りに小沢を批判する。しかし、どう考えても、収支報告書に記載している小沢を咎め、記載していない者らが免責ではお話にならないのではなかろうか。それでも敢えて小沢批判に興じる癖を持つ政治屋が多いが売弁売文しているに過ぎない。一体誰から身元を安全保証され、免責お墨付きを貰っているのだろうか。これらは、引き続きの民主党幻滅政策への誘導と云わずして何であろうか。 菅政権は組閣の時点から賞味期限が過ぎている。菅政権は本来なら、こたびの参院選敗北を見て退陣すべきである。まずそう述べて、党内からの引き留めを待てばよい。それを逆に居直るのは許されない。少なくとも千葉法相、選対責任者は更迭すべきであろう。消費税増税論議を選挙戦に持ち込んだ者も同様である。それをせぬまま、党内の真っ当な要望を、あたかも敵を見るかのように見立て中央突破なる妄言でスル―しようとするのは正気の沙汰ではないのではなかろうか。れんだいこには、こういう政治痴態をずるずると続けることで早期の衆院解散まで持って行かされようと誘導されているように見える。これが裏からの指令であり、これを引き受けるのが菅政権の使命ではなかろうかと勘繰りたくなる。 民主党内がこう読まず、菅政権を無傷で延命させようとすれば、次の選挙で又お灸を据えられることになろう。そういう意味で、民主党内の能力が問われている。為すべきはケジメである。それがどこまで及ぶのかは別として何のケジメもないままに9月の代表選に進むとしたら民主党の明日はない。要するに民主党の政治能力が問われている。願うらくは、政治の模範基準を創るべきであり逆をするべきではなかろう。一時は逃れても倍する咎めを受けることになろう。党の明日を賭けて正々堂々たる党内抗争を開始されんことを願う。 こういうのが政治であろうが。これができない手合いに消費税増税などされて堪るか。消費税は何度も指摘しているが中毒税である。これに蝕まれると社会が壊死する。その挙句に国が召しとられる。見え見えではないか。以上を、れんだいこの第22回参院選総括とする。 2010.7.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評765 | 武蔵 | 2010/07/13 23:59 |
しばらくです。選挙結果分析拝読中です。新聞の予想が正確なのではなく、予想に合わせた結果を出しているのでは無いかと、下衆の勘ぐりをしてます。かねてから怪しいとにらんでいました。如何でもよい世論調査(本当に調査しているのか疑問)を繰り返し発表し、選挙結果を納得させるように世論誘導したのではないか?国民新党の票数も極めておかしいと思われます。NHKの世論調査で国民新党の表示がなく、その他の中にと括られていたことから、選挙結果を納得させる事前工作と思われますが如何でしょうか。これは状況証拠ですが。 集計経過は一体どのようなものなのでしょうか。大方は機械作業のようですが、全国津津浦々からのデータ集計は電子的通信でやっているのではないでしょうか。ここに大いに操作の可能性を感じますが。若し機械集計であれば、投票用紙がまことにお粗末だとは思いませんか。あれでは多分無効票、読み取り不可能がかなりの数になると思います。鉛筆書きもおかしいですね。投票・集計とも疑念がいくらでもあります。国民新党の票には多くの方が疑問を持たれているようです。何しろ何でもありの官僚組織ですから(多分ね)。武蔵 |
Re::れんだいこのカンテラ時評765 | れんだいこ | 2010/07/14 20:20 |
武蔵さんちわぁ。レス有り難う。 選挙後の菅政権の対応が全くなっていないですねぇ。思うに、昨年の総選挙での民主党の308議席という圧倒的議席を廻って、対日アジェンダ勢力が大いに困惑し、何とかして民主党の議席を減らそうと画策している気がしております。こたびの参院選での民主党の敗北、その後の意図的故意のゴタゴタを通して衆院解散に持って行き、対日アジェンダ勢力が御し易いような政党バランスを画策しているように思えます。この点で、鳩山政権も菅政権も忠実な番犬ではないでせうか。こう考えると辻褄が合います。 仮にそうだとすると、政界は右も左も保守も革新も政治遊び人に占められていることになります。政争は議員貴族の飯の種に過ぎないと云うことになります。政治をまじめに考えるのがなんかバカバカしいですね。ここでひるむのは、れんだいこの性に合わないので、やはり日本版アルジャジーラ放送局、新聞、雑誌の創出、加えて歴史に責任を持つ人民大衆政党の創出が必要と考えます。ここに向かわない評論は、これ又遊びになってしまう。そんなこんなを考えています。 2010.07.14日 れんだいこ拝 |
「人民大衆政党」 | 武蔵 | 2010/07/14 21:59 |
れんだいこ様 今、日本人民・民族に(太田龍氏風に言えば)最も求められている事は、「人民・大衆」自身が行動を共にし、多くの人をして共感させずにはおかない、そのような党を立ち上げる事でしょう。 その萌芽は彼方此方にあるのではないでしょうか。れんだいこさんの「助け合い党」リチャード・コシミズ氏の「独立党」、きっこさんの「オムライス党」等など。それと及ばずながら「武蔵党」、これらが有機的に結び合い、一致協力し、知恵を絞る事が出来る「舞台」が必要ですね。不肖「武蔵」も老いたゆえ、最後のご奉公をしたくてたまりません。 武蔵 |
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Re:「人民大衆政党」 | れんだいこ | 2010/07/14 22:43 |
武蔵さんちわぁ。 > 今、日本人民・民族に(太田龍氏風に言えば)最も求められている事は、「人民・大衆」自身が行動を共にし、多くの人をして共感させずにはおかない、そのような党を立ち上げる事でしょう。 > その萌芽は彼方此方にあるのではないでしょうか。れんだいこさんの「助け合い党」リチャード・コシミズ氏の「独立党」、きっこさんの「オムライス党」等など。それと及ばずながら「武蔵党」、これらが有機的に結び合い、一致協力し、知恵を絞る事が出来る「舞台」が必要ですね。不肖「武蔵」も老いたゆえ、最後のご奉公をしたくてたまりません。 同感です。れんだいこはまもなく還暦を迎えます。今たまたま吉田松陰を確認しております。彼の享年30歳を思えば、れんだいこは倍生きたことになります。無為に過ごしたのか、それなりに過ごしたのかは分かりませんが、何か世の中に役立ちたいです。そしてニコッとあの世へ行きたいです。宜しければホームページ教えてください。 2010.7.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評768 | れんだいこ | 2010/07/16 18:41 |
【投開票疑惑考】
このところ各種選挙に於ける不手際に加え投開票疑惑が詮索されつつある。戦後から今日まで微塵も疑いがなかったが、このところ気になってしようがない。杞憂かも知れないがはっきりさせておかねばならないと思う。疑ってかかるぐいで丁度良いのではなかろうか。これを確認しておく。 確か、いつの年度だったか忘れたが、小泉首相下の選挙の際、神奈川県のとある市で投票数より開票数の方が多かった事例が報告されていた。特段気に留めなかったが、オカシイものはオカシイ。こたびの2010参院選では、国民新党の低票数疑惑が話題になっている。投票数0地域の多さ、「無効票の多さ」等々との関連が問題にされている。 他にも、期日前投票がし易くなり次第に増えているが、保管は大丈夫なのだろうかという疑いの余地がある。投票用紙二重交付、有権者の二重投票、不在者投票の投票箱入れ忘れ、投票用紙の選挙区と比例区逆配布事例等々が報告されている。これらの事例がたまたまの間違いなら許せるが意図的故意な場合にはどうなるのか。疑問が次から次へと生まれている以上確かめて安心しておくべきではなかろうか。 この問題に関して、国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」の2010.7.13日付け配信「突如として消えた国民新党票100万票の行方を探せ 」が、逸早い関心を見せている。それによると、開票作業の迅速化と人件費の削減の観点から全国の自治体に投票読取機が導入されつつあるが、これに疑惑を寄せている。機械は、1分間に最大で約480枚の投票用紙を候補者別に仕分けし、最新機は癖字や続け字も判別できるという。この機械が正確に作動しているのなら良いのだが、不正使用の疑いが払拭できないと云う。 投票読取機導入そのこと自体は時代の流れであろうが、透明性公正性が確保されているのだろうか。危険なことに、最も肝心な集計プログラムソフトが「株式会社ムサシという一社に独占」されており、同社が「手書き文字読み取り機能」と「仕分け機能」を一元管理していると云う。その企業の得体が知れないと云う。概要「株式会社ムサシはジャスダック上場企業であるが株式の三割が誰の所有かわからない。大株主は上位2社が圧倒しているが、トップは平成13年に解散した会社名義になっている。2番目は検索してもまったく見当たらない幽霊会社となっている」と云う。 こういう会社に委託して良いものだろうかと云う疑惑がある。今回の参院選で使われた「自書式投票用紙分類機」には、ムサシのテラックCRS-VAとグローリーのGTS-500の二社製品が使われたと云う。ソフトが選挙要員派遣まで包括的に手掛けており、「ソフトは選挙後に証拠隠滅をはかるためにあたふたとソフトメーカーがやってきて早朝にもちかえってしまう」と云う。こういうことで良いのだろうか。 日本の選挙システムは、何重にも厳格なチェックが入っており、不正が有り得ないように配慮されていると聞かされてはいる。まず手作業で確認し仕分けする。次に機械集計し、最後に選管と開票立会人(各党から派遣)がチェックする。一見、不正は起こりようがないように見える。しかしながら、1・投票箱のすり替えは防げているのか。2・票仕分け、集計、括束、開票、点検、集計、封印の過程で不正防止が徹底しているのか。3・開票の事後再確認はされているのか。この三点に於いて疑惑の余地がある。 何重にもチェックが入るシステムとなっていると云うが、次第に杜撰になりつつあるのではなかろうか。特に、括束の際に一番上の束は仮に正確としても下の束の確認はされていないと云う。「選挙立会人も、端数の票については確認するが、500票束については何束あるか確認するだけです」とある。 更に考えられるのは、投票読取機のプログラムソフトの不正である。ソフト設計の中身については知らされていない。仮に特定の候補者にあらかじる基礎票の上積みを設定していたらどうなるか。あるいは特定政党の票を無効票にするような仕掛けにするとかの危険性はないのだろうか。即ち得票数の改竄は可能なのではなかろうかという疑念が払拭できていない。 これを防ぐためには、全選挙区の再点検は無理としても、アトランダムに抽出した選挙区について封印を解き、再確認するという必要がありはしないだろうか。機械に頼り過ぎると思いがけない落とし穴に嵌まることがありはすまいか。今後の為にも叡智を寄せる必要があろう。火のないところに煙は起たない。選挙管理委員会は今後は投票啓蒙運動だけでなく、投票集計に不正のないことを有権者を安心させる必要があるのではなかろうか。 2010.7.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評769 | れんだいこ | 2010/07/19 20:50 |
【吉田松陰学の勧めその1、はじめに】 2010.7.11日の第22回参院選、その後の政局を見て、日本政治のお粗末貧相ぶりを改めて確認した。昨年の衆院選で念願の政権交代した民主党は、政権交代効果を強めるのではなく鳩山、管の二代にわたって逆走している。こう分析しない限り事態が呑み込めない。 政権交代前公約のメイン部分はこぞって棚晒しにされ、貴重にも履行された子供手当は消費税増税の口実に悪用されている。有料高速道路の無料化は経済刺激策として企図されたにも拘わらず、最も経済効果の少ない手法で限定実施されている。選挙ともなると党首始め執行部は全能力を賭けて疾走するのかと思いきや何と、党が負けるように意図的故意のミスリードして恥じない。そして敗北の責任を何一つ負わず居直り、それが許されようとしている。 加えて、鳩山前首相は、辞任時に次期衆院選への立候補をしないと宣明したにも拘わらず早くも再出馬を意欲し始めている。れんだいこには、この口の軽さ、無責任さが我慢できない。このところの選挙に於いて有能な働きをした功労者の小沢前幹事長に対しては、参院選直前に外し、続く官首相は非礼にも「暫く蟄居せよ」と申し渡し、その挙句に選挙に大敗したというのに馬耳東風の厚顔で事なかれしている。謝罪とかで済む話ではなかろうに。 この政治現象をどう理解すべきだろうか。普通程度の頭脳明晰士では解けないのではなかろうか。余りにも理解できないことが罷り通っており、下手に解くと頭脳がヤラレてしまうに違いない。そこで低脳政治評論家が選ばれて新聞紙面やテレビコメンテーターとして登場することになる。彼らは一様に曰く、管政権続投良し、小沢に対しては政治とカネ問題で引き続き追及すべし、消費税増税論続行せよ、郵政再改革法案阻止せよ云々。産経辺りにになるともう少し進めて衆議院解散せよ論、辺野古基地移転推進せよ論、恐らくグアム移転費もっと出すが宜しい論云々となる。読売辺りになると、憲法改正論、自衛隊の海外武装派兵増強論、日本語廃止論、社会の隅々まで英語一辺倒論こそ国際責務、国際情勢要請なる論を説くのだろうか。読売は取っていないので分からないが云いそうである。 こういう嘆かわしい時局にあって、れんだいこは関心を逸らした。とはいえ政治意識の灯は消えず時空を飛ぶ。なぜだか分からないが急きょ、吉田松陰について知りたくなった。アバウト程度なら誰でも知っていようが、その程度では済まなくなった。なぜ彼が幕末維新最大のイデオローグ足り得ているのか、その所説は如何なるものであったのか、少し詳しく知りたくなった。 そこでサイトを起し、ネット検索し資料を取り寄せ、れんだいこ風に纏めて見た。やはり聞くと見るとでは大違いであった。市井の吉田松陰論は凡庸過ぎて役立たない。史家が己の甲羅に合わせ過ぎて理解するからそういうことになるのだろう。虚心坦懐に対象のもの、人を捉え、能う限り対象のもの、人をそのままに理解せんとしない限り、像が歪む。改めてそう思った。 以上を前置きして、れんだいこの吉田松陰論を開陳する。当然、れんだいこの甲羅に合わせたものになっている。 2010.7.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評770 | れんだいこ | 2010/07/19 21:09 |
【吉田松陰学の勧めその2、なぜ吉田松陰なのか】 なぜ吉田松陰なのか。れんだいこの見るところ、吉田松陰の秘密は血筋的な兵学者性に求められるべきであろう。この実践能力性が他の幕末思想家との際立つ差なのではなかろうか。松陰は、幕末期の被植民地化されんとする日本に対し、兵法学者的感性知性でこれを察知し分析し、敵を知り己を知る必要から西欧的文明をも学ばんと意欲し、他方で諸国に同志を求めて遊学遊説した。未曽有の国難として襲いかかりつつある日本の危機を如何に救うのか、その方策方途を求めて苦吟した。これを思えば、黒船乗船の試みを、単なる好奇心の強さで見ようとする松陰論のバカバカしさが透けて見えてこよう。 吉田松陰の凄さは、日本神州論を基底として保持しつつ、当初は水戸学的尊王論に依拠していたが後に「天朝、幕府共に不要論」に転じ、自力の草葬志士政権創出まで展望したところにある。このイデオロギーと指針が松陰斬首後に引き継がれる。僅かの期間の薫陶でしかなかったが松下村塾塾生に展望を与え、これに薩長土肥その他諸藩の有能士が結合して行くことになった。その後の歴史は松陰が指針せしめた通りの動きとなり、幕末維新、明治維新へと向かう。 その過程で倒幕派佐幕派が血で血を争い、多くの志士が倒れた。最期の回天事業では、討幕軍と幕府軍が内乱期待のネオシオニズムの戦略を見抜き、乗ぜられることなく江戸城無血開城へと導いた。これにより維新政府が成るが、新政府の要人は不幸なことに多くの者がネオシオニズムに籠絡されて行くことになる。これをシオニスタンと云う。だかしかし松陰イデオロギーは続く。幕末維新の良心派は永続革命を求めて士族の反乱へと続く。この抵抗が悉く鎮圧された頃より、明治維新権力の日本帝国主義化が始まる。土着的な松陰的西郷的イデオロギー、政治論は地下に潜る。こういう構図ではなかろうか。 松陰の獄中記「幽囚録」文中の近邦アジア征服論をもって、松陰を排外主義者として捉える評論がある。これに一言しておきたい。松陰の近邦アジア征服論は日本帝国主義的なものとして指針されていたのではなく、あくまで当時の西欧列強による世界の植民地支配の趨勢に対抗せんが為の橋頭保として東亜共栄圏的なものとして構想されていたのではなかろうか。この面を見ずに単に排外主義的日帝論者として看做す論は凡庸過ぎやしないだろうか。日本の被植民地化は日本だけでは護れない国際的なものであることを見据えてのグランドデザインとして理解すべきではなかろうか。その是非は別として、理解だけはかくせねばならないのではなかろうか。 松陰を語る時のもう一つの功績として、「飛耳長目(ひじちょうもく)」を挙げねばならぬ。松陰は、或る対象を分析する場合の要件として、情報収集、動静分析を格別重視している。松蔭自身、日本全国、北は東北から南は九州まで、みずから脚を伸ばし各地の情報収集、動静を探っており範を示している。また長州藩に対して、主要藩へ忍者のような情報探索者を送り込むことを進言したりもしていると云う。これも、兵法学的実践論の観点から生み出されたものであろう。机上のデスクワークでもの知り顔する痴れ者の多い今日、耳の痛い話であろう。 以上、ざっと確認しておく。松陰論の必要は、現代政治のお粗末さの対極にあるものとして捉えられねばならぬ。れんだいこの意識がそのように転じたのだが、これは一人れんだいこだけのものではあるまい。日本政治は明らかに与野党共に変調であり、余りにも遊び人の政治に堕してしまっている。政治が俄か仕立ての政治貴族によって弄ばれている。こう理解しないと現代日本の政局が理解できない。 政治と云うものはそういうものではなく、民族の安穏悠久を求め、その為に命を賭けて歴史にしがみつき、ふるい落とされても新陳代謝して行くものてはなかろうか。こうやって日本の歴史は連綿と続いてきている。基本的な心構えの面で、現代政治は明らかに失格している。政治とカネ利権にうつつを抜かし正義ぶるのは、己の不正精神の裏返しの正義ぶりっこでしかないのではなかろうか。政治の透明性は必要である。それと、政治におけるカネ不要論は何の関係もない。キレイ過ぎる話には裏があるとしたものではなかろうか。 その松陰は、安政の大獄の最期の犠牲者となる。獄中記「留魂録」は 処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられており全十六節からなる。細部の詰めまではできていないが、大凡は分かる程度にサイトアップして見た。先に紹介した二宮尊徳の「尊徳夜話」と並ぶ現代日本人民大衆の必読本としたい。こういう史書が大事にされず、どうでも良いような情報洪水攻めに遭わされているのが現代日本ではなかろうか。ささやかなりとも棹をさしておきたい。 吉田松陰考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuishinco/shishiretuden/tobakuha/yoshidasyoin/top.html) 二宮尊徳考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/ninomiyaco/top.html) 2010.7.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評771 | れんだいこ | 2010/07/20 12:05 |
【第22回参院選の不快さ考】
第22回参院選の不快さはどこから来るのだろうか。結果はどうでも良い。時に勝つこと負けることもあるだろう。だがしかし、こたびの不快さは少し味が違う。敗戦した民主党の執行部が誰ひとり責任をとらない。その不快さもある。だがしかし、その不快さとも違う。選挙の不正の可能性もある。だがしかし、それとも違う。れんだいこに見えてきた結論は、要するに八百長選挙だつたことから来る不快さではなかろうか。 「八百長」を辞書で引くと次のように解説されている。「八百屋の長兵衛(通称八百長)という人が相撲の年寄某とよく碁を打ち、適当に勝ったり負けたりするように手かげんをしたことから出た語という〕勝負事で、真剣に争っているように見せながら、前もって示し合わせたとおりに勝負をつけること。なれあい。いんちき」(三省堂の大辞林より)。何となくピッタリではなかろうか。つまり、第22回参院選は八百長選挙だった。これが不快さの原因ではなかろうか。 では、どう八百長だったのか、これを紐解く。まず、普天間基地移転問題で辺野古案に差し戻した時点で臭い。この案に辿り着いた時、既に参院選八百長シナリオができていたのではなかろうか。まず社民党が政権離脱する。これは織り込み済み。小沢幹事長が乗り込む。ツートップ同時辞任で決着する。これも織り込み済み。菅政権が誕生する。郵政再改革法案が流される。参院選に突入する。これも織り込み済み。 選挙公約に、自民党がまず消費税10%増税案を掲げる。自民党はオカシナ主張をするものだと思っていたら、菅首相がこれに呼応して消費税10%増税案をブチ上げる。ここが臭い。続いて、執行部の責任数値を現有議席に敷く。これも臭い。党内から批判を浴びるや、わざとらしいお粗末な言い換えで糊塗し始める。途中で負けた時の連立枠組みに言及し始める。この一連が臭い。 民主党内は選挙戦最終日まで混乱する。選挙結果が出て敗戦がはっきりしても誰も責任を採らない。落選閣僚まで居座らせる。静岡県連が敗北責任を小沢前幹事長に求める。政治とカネ問題で引き続き小沢を責め上げる。蟄居せよと云っていたのに、今度は出て来いとのたまう。 このお粗末な経緯が果たして偶然だろうか。そう思うと云う人と政治談議しても詰まらない。恐らく、今後の菅政権は意図的故意に更に失言、デタラメを繰り返し衆院解散にまでもって行こうとするのではなかろうか。昨年の民主党の圧倒的議席が邪魔でしようがない連中が、何とかして振り出しに戻そうと躍起になっている。鳩山、管政権は、これを上手に演出する政治ピエロでしかないのではなかろうか。この下手な芝居が日本人民大衆に政治に対する失望を与え、不快さを募らせているのではなかろうか。 こう読むと、我々の対抗策としては、これ以上シオニスタンに好き放題はさせられない。よって政局は俄然ポスト菅に向かう。政権交代の灯を誰が継ぐのか。リレー走者は誰かということになる。この間、菅は生き恥を晒し続けることになろう。既に将棋では詰んでいる、囲碁ではオワとの解説も出ている。醜態を晒すだけに過ぎない。 れんだいこは、菅が、ここまでどうしようもないアカンタレとは思わなかった。既に完全なアホヅラになっており叡智のカケラもない。いつからこういう菅になったのか、その裏事情を勘繰りたくなる。れんだいこ史観によれば、去る日の反角栄運動のなれの果てであり、中身がないこと甚だしい。キレイでもないのにキレイごと云い士の鳩山同様の政界遊び人の愚物でしかない。小泉の時の不快さと似ていると思うのは私一人だろうか。伸子はん、あなたは素晴らしい。早く菅を官邸から連れて帰れ。もう一回お遍路廻りさせよ。 2010.7.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評772 | れんだいこ | 2010/07/21 22:24 |
【カンテラ時評の一括サイトアップのお知らせ】
2010.7.21日現在、れんだいこが主宰する掲示板「左往来人生学院」は次第に円熟しつつある。カンテラ時評はbV71を超えている。途中で番号が間違えていたりするので実際にはもっと多い。その他、カンテラ時評にはなっていないが、参加者との応答もかなりある。最初から確認すると、折々に多くの方から質疑頂いていたことが改めて分かった。この場を借りて改めて感謝申し上げます。 この辺りで、これらを一まとめにしようと思い立った。その最大の理由は、このところ執拗に棲みついているバーゲン情報投稿を払いのける為である。読みづらくてイケナイ。削除せずに晒しているので誰にも判明しようが、とある機関の組織的イヤガラセとみなさない訳にはいくまい。これを、それぞれの個人が販促手段として我が掲示板を利用していると解する御仁がいたら、よほどおめでたい御仁であろう。 ルイヴィトン コピー、M95599激安問屋 新入荷商品!、こんにちは。お客様 、問屋情報提供 、小林 智子◆▽◆、菓子、vcx、高明 百惠、fake-brands激安問屋、★★人気コピー商品★、fake-brands激安問屋、人気唯一ブランド専門店、人気唯一ブランド専門店、グッチコピー、vvvx、xxvvx、fddf、ブランドコピー販売、cxvxc、rrrt、石川亜美沙、小柳 杏子、cxvcx等々。ごく最近のハンドル名だけでも以上に上る。 本掲示板読者に告げておく。れんだいこは、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義とそのイズムにおけるネオシオニズムに対する警鐘を乱打している。彼らをネオシオニストと呼ぶことにしているが、世界各地に公然半公然非公然の「秘密」結社を組織し、各国の政財官学報司警の七者機関を籠絡支配し、これにより各国社会を裏コントロールしている。これに応じて各国の人民大衆は正常な社会的進歩を殺がれ、貧困に辛吟させられている。これを歴史上はユダヤ犯罪と云うが、ユダヤは敬虔なユダヤ教徒からネオコン的なユダヤ教徒まで様々に分立しているので、特に凶悪な選民思想に依拠しているユダヤを識別させてネオシオニストと呼ぶことにしている。 ネオシオニスト犯罪を指摘し、これに立ち向かう運動を展開するところに共通してテロが襲う。人類はこれを何千年来繰り返している。西欧はその争闘史である。この真性テロリストが、テロリスト退治の名目でアフガン、イラク戦争を仕掛けたまま今日を迎えている訳であるが、何とお笑いであろうか。軍事、原子力、資源エネルギー、食糧、医療、文化、精神のそれぞれの界が彼らに牛耳られ、それと共に今日では人類と地球が衰亡の危機を迎えていることは何と恥ずべき「正義」であろうか。 こういう指摘をすると、自称識者がしたり顔して陰謀論云々を講釈してくれる。その手の自称識者の能力は共通して低い。聞き分けのない者に説法して見ても馬の耳に念仏、猫に小判の類で無益でしかないから、れんだいこは語らない。その低い能を高く見せようとしてか隠そうとしてか著作権に異常に執心なのもお笑いである。著作権を生みだした西欧諸国内で強権型著作権の見直しが始まろうとしている折柄、強権型著作権棒を更に振り回して正義ぶろうとしている今日の日本の自称識者の生態は更にお笑いである。 もとへ。はっきりしていることは、我が掲示板に何故に連中が棲みつくかである。現に確認できるわけだから解いて見るが良い。繰り返すが、個々のハンドラ―によるバーゲン情報投稿ではない。或る種暗号めいており、最近流行りの首落としバラバラ殺人の請負者を集っているように見える。相当の報酬を出す、意思有る者は連絡せよとの待ち受け情報のようにも読める。確認すべきは、そういう結社員が現に蠢いているということである。こう感ずるのを、れんだいこの脳病だと思うなら思えば良かろう。れんだいこの身に異変があって初めて事態のなにほどかが呑み込めよう。 そういう緊張感の中である為か却って知恵が増す。れんだいこは、これまでの投稿文を一括しサイトアップすることにした。bPから順次確認して見た。書いた当の本人が忘れており、あるいは改めて興味を覚えたこと等がじんじんと響いてくる珠玉の名言集となっている。言及範囲も広い。政治、政局、選挙、思想、哲学、文学、歴史等、そのつど浮かんだテーマに、れんだいこがのめり込んでいる。共通して、後はこれを足掛かりに更に論を発展させればよい論拠と指針を示している。 これを誰にでも読めるように、読みやすくするようにした。そろそろしておくべきだと思った。れんだいこ蝉は命ある限り鳴き、夏の終わりと共に命果てても悔いなしとしようと思う。その蝉の声だと思って、どなたか読んでくだされば良い。これは最近、吉田松陰から受けた人生論寿命論の一節の影響である。 れんだいこ論評集 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/) 時事評論集 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/jijihyoronsyu/jijihyoronsyu.htm) カンテラ時評 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/jijihyoronsyu/kanterajihyo/kanterajihyo.htm) 2010.7.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評773 | れんだいこ | 2010/07/23 21:06 |
【脳死状態の日本政治からの脱却青写真考】
第22回参院選が終わって2週間経過している。一敗血にまみれた与党の民主党菅政権はカエルのツラにションペンでのうのうと続投を意思し、それがつつがなく今日まで経緯している。いずれにせよ代表選がまもなく控えているという事情によるらしい。 それにしても解せないのは、参院選に厳しい審判を受けるのを承知で消費税10%増税案を持ち込んだと云うのに、参院結果を見て時期尚早に転換しつつある様子である。これは変な話である。ならば結果的に、参院選に負ける為だけに消費税10%増税案を持ち込んだことになりはすまいか。ならば、管政権は何故に意図的故意に参院選敗北シナリオを用意したのか。誰の教唆によったのか。これを詮索せねばなるまい。と思うのだが、余りに生々し過ぎてか特段の議論が持ち上がっていない。 思うに、これは日本政治の現段階的貧相ぶりを象徴しているのではなかろうか。政治が既に真っ当に機能していないのではなかろうか。もっと分かり易く云うと脳死状態なのではなかろうか。誰か、違うと説明して欲しい。日本政治は健全であり、民主党政権になって本来の政治へ刻一刻近づきつつあると説明して欲しいと思う。菅首相が云うところの「強い日本」へ向けて戦線が構築されつつあると安堵させて欲しい。 思えば昨年の衆院選時に民主党は、「ぜひ政権を取らせ民主党与党政治に期待して欲しい。自公政治に代わって日本再生を期したい、政権交代させて欲しい」と呼びかけ、これが有権者の圧倒的支持を集めて政権交代政権を樹立することになった。あれから間もなく10カ月になる。この間、鳩山政権、菅政権へと移行している。で、一体何が変わったのだろう。 民主党は、衆院選時に数多くの公約を我々の鼻先にぶら下げ、れんだいこもその一人だがそれにかぶりついた。れんだいこがかぶったのは、有料高速道路の無料化案であった。無料化まで行かなくても現行料金より大幅安になれば経済も活性化するだろうと考えた。それがどうだろう。前原国交相はあちこちに口ばしを入れては見るが、肝心の有料高速道路の無料化案については後回しし続け、ようやく出て来たのは姑息なお茶濁しのもので最も経済効果の少ない形に変質させられている。一事万事で、あらゆる公約が詐欺化させられている。こうなると、先の衆院選は公約詐欺選挙として無効にされるべきではなかろうか。誰か裁判して見れば良い。 そして、こたびの参院選だ。何の因果関係もないのに民主党内の議決も経ずに菅政権は消費税10%増税案を持ち出した。幹部総出で選挙応援に向かったが、果たして支援になったのだろうか。却って票を減らしたのではなかろうか。この間、党躍進の立役者である小沢幹事長を参院選前に突如辞任させている。「暫く蟄居せよ」と申し渡し、それで選挙に勝ったのならともかく大敗した。菅首相は詫びたいと云うが、詫びて済む程度の話ではなかろうに。 このオカシサをオカシサとして感ずる能力のないままに菅政権が続投しようとしている。それは、冒頭で述べたように脳軟化症故にではなかろうか。してみれば日本政治は今、鳩山と云い菅と云い2代続けて脳軟化首相を戴いていることになる。政治が我々の生活に外在的なもので特段の関係がないのなら、そういう遊びも許されるが、大いに関係している故に許し難い。 思えば、自公政治も民主党政治も、日本経済が長い不況のトンネルを抜け出そうとかま首持ち上げ始め出すと冷や水を浴びせている。小細工的な事業仕訳はするが、軍事防衛関連費、原子力発電行政費、その他国際金融資本好みの冗費は垂れ流し続けている。ろくに大した仕事もしていない公務員が相変わらず高給の碌をはみ、天下りし、退職金の渡りをしている。 こういうところにメスを入れれば消費税10%増税案どころか消費税廃止さえ可能ではなかろうか。これをやるのが、れんだいこが期待していた政権交代政権であった。だが、10か月の民主党政権を見て判明したことは、政権交代政権は自公政権とは何ら変わらないどころか、或る意味でもっと愚昧な国際金融資本御用聞き政権ではなかろうかという疑惑である。鳩山政権時、こそっと原子力発電再開発にゴーサインが出されている。将来取り返しのつかないツケが廻って来る恐れが強い。国債刷りまくりもそうだ。タガをはめようとしているようで実は歯止めがかかっていない。恐らく国債累積債務1千兆円突破に向けて一番を目指そうとしている。その先に待ち受けているのは新たな進駐軍だろう。れんだいこには見える。 こう考えると我々の打つ手は限られている。シオニスタンどもによる政権たらい廻しは日本の危機を解決せず却って日本を悪化させる。菅政権は既にオワっている。為すべきは、非シオニスタン系土着派的政治家を核として民主党、国民新党、社民党、大地党、日本新党を糾合し、救国日本再生政権の樹立である。これによる新生日本を創造していく以外にない。 問題は、誰を首相とすべきかに興味が移りつつある。軍師れんだいこの秘策は、国民新党が民主党に合流し、亀井首相、小沢副首相コンビで政局打開に向かうべきではなかろうか。登用されるべきは、鈴木ムネオ、田中真紀子、田中康夫である。後はそれなりに人選すれば良かろう。補足すれば、防衛相は、辺野古案撤回、思いやり予算見直しを信条とする者に限る。目玉として、政策プレーンに植草一秀、山崎行太郎、副島隆彦、小野寺光一、リチャード・コシミズ、トルシェ、平野貞夫、松田光世を登用する。いずれも命を惜しまず歴史に身を預ける覚悟を持つ気概の有能士である。れんだいこも入れとこふふふ。 こういう構想力がなければ日本は再生しない。というか政治の意味がない。政治の遊び人では対応できない。既成の秩序と機関の上に立って小手先の改変をしても骨折り損のくたびれ儲けになるのは歴史の教えるところであろう。今我々がやろうとしているのは日本的な革命方式としての無血型回天事業である。無血であるだけ余計に知能がいる訳で、日本型政治の真骨頂である「和をもって尊し」の難しさを引き受けつつ進まざるを得ない。日本における成功は世界のモデルとなり、世界は大きく変わるであろう。これが戦後日本の真の国際責務である。この大義に生きる意思失くしては現代政治を御することはできまい。 2010.7.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評774 | れんだいこ | 2010/07/26 21:59 |
【れんだいこ史観を世に問う】 2010.7.26日現在の日本は、累積型の未曽有の財政危機、経済危機下にありながら深刻さがない。ひょっとして、懐の中を見ながら、れんだいこ一人の財政危機、経済危機なのかと辺りを見回したくなる。多くの方がそれなりにのほほんとしているようにも見え、元来楽天家のれんだいこの悲観ぶりが際立つ。しかし、そんなことはあるまい。食えない者が増えており、事業者の経営環境が一段と厳しくなりつつある。してみれば、日本人には悲壮感が似合わないのかも知れない。達観しているのか脳内がピーマン化しているのか、そのどちらかだろうが判断がつかない。 日本政治は昨年の政権交代により新しい時代に入った。これは確実であるが、新政権として登場した鳩山政権、菅政権の治績を見る限り、新時代の創造性は感ぜられない。むしろ、回天事業の原野開拓から逃走し、旧政権時代の政治に戻そうと逆走し始めている気がしてならない。なぜなら、やろうとする意思さえあればできるのに真に有効な財政危機策、経済危機策に対して何一つ手をつけていないからである。7.11第22回参院選での菅首相の逆采配がこれを証明している。こたびの民主党官邸は勝とうとして指揮したのではなく負けるように企んだ。そう理解するより他ない不見識、言動ぶりが目立つ。菅首相は政治履歴にくっきりと汚点を残したが、この重篤犯罪を感知する能力を持たず居直りに汲々している。それが通用しようとしている。れんだいこには信じられない。 この政治状況を見るにつけ、れんだいこは「或る発想」を浮かべた。現代日本人は鳩山の如く菅の如く、その脳内に大きな欠損を植え付けられているのではなかろうか。要するに「学べば学ぶほどバカになる怪しげな学説」を鵜呑みにしており、それを学ぶ程度に応じてすっかり愚頓になってしまっているのではなかろうか。もう一つ気づくことは、植民地根性を植え付けられ、祖国愛、民族愛を喪失し根無し草になってしまっているのではなかろうか。これが、れんだいこの鳩山、菅評である。彼らは元々は阿呆ではなかった。ところが、バカになる学問、政治的トレーニングを積み重ねた結果、どうにも使い物にならない愚物になってしまった。こう捉えれば辻褄が合う。こう捉えなければ説明できない。 思うに、鳩山、菅らに象徴される知性派は明らかに日本の伝統的なそれと切り離されている。顔は日本人のように見えるが既に精神、頭脳は日本人のそれではない。せいぜい評価しても、あるかどうは知らないが西欧的市民社会の無性の抽象的人間である。身も心も戦勝国側の望むように仕立てられたことを意味する。この種の人間が戦後より急増した。これを思えば敗戦の産物であろう。してみれば、敗戦とは生易しいものではないことになる。幸いなことは、多くの日本人がそのように変質させられたのではないことだろう。一部のエリートが戦勝国イデオロギーに染められ、戦勝国政治の手下となり、駒使いさせられ、その代わりとして立身出世を得たということであろう。 という話から急きょ邪馬台国論になる。れんだいこは、先の「カンテラ時評626」、「カンテラ時評628」で新邪馬台国論をぶちあげた。未だ何の反響もないが、れんだいこの新説が無価値な故にではない。否寧ろ想像以上の値打ちものであるが故に既成学説派はたじろぎ、言及する言葉さえ浮かばない故にだと解している。あるいは単に読んでいないのかも知れない。 どこが違うのかと云うと、従来の邪馬台国論は九州説であれ大和説であれその他説であれ、大和王朝に陸続する前王朝として位置づけ、その上で神武天皇東征譚との絡みを念頭に置きながら各所に比定してきた。これに対し、れんだいこの新邪馬台国論は、邪馬台国は大和王朝に攻め滅ぼされ、痕跡を消された失われた王朝であるとしている。ここが違う。今日からすれば共に古代史になるが、れんだいこの新邪馬台国論によると、古代史は邪馬台国時代までの原日本、大和王朝以降の新日本を隔絶的に区別して研究しなければならないことになる。早い話がそれだけのことであるが、この分別を得るのに「れんだいこ登場までの時間」が必要だったことになる。 もっとも、この観点は「ヤマトの地」では当たり前の伝承であり、れんだいこの新説でも何でもない。れんだいこの功績は、伝承を学問化させ、これを元にして古代史を読み直すことを指針させたことにある。これによると、邪馬台国九州説論者は頭を丸め、邪馬台国畿内説論者は大和王朝との連続性を見ようとしていた点で不明を恥じ、その他説論者は所詮は田舎の郷土史家でしかなかったことを悟らねばならぬ。邪馬台国論は出尽くしたのではなく、これから始まる、今は緒に就いたばかりということを弁えねばならないということになる。 この指摘によって何が言いたいのか。それは、今日までの日本史に於いて、滅ぼされたにもかかわらず邪馬台国時代までに形成された原日本人の思想、哲学、宗教、政治、経済、文化こそが基底となって今も息づいており、それは原日本人能力の優秀さ故であり、この原日本人世界観こそが21世紀の地球の破滅を救うかも知れない叡智を秘めていることを指摘したい訳である。この観点も含めてれんだいこ史観と云う。 現代日本の自称知識人の知的貧相は実に、日本史上のこの秘密を知らなさ過ぎることにあるのではなかろうか。原日本人世界観が滅び行くべき低次の自然崇拝教でしかなかったのなら別に知らなくても良かろう。それが今後の人類が範とすべき高次のものであるとしたなら知らぬことは恥でしかない。思えば、原日本人世界観は共生的である。それは宇宙と交信しており、そこから叡智が汲みだされており、自然とも人類とも国家とも民族とも等々のあらゆる空間磁場に対して開放的共生的である。産業、事業、商売、組織等々に対しても同じ原理で応用される。宗教論的に云えば神人和楽的である。 この質が思いのほかに今日的であるように思われる。というのは、この原日本人世界観と全く対蹠的なのが現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の世界観であるからである。何から何まで違う。珍しいほど食い違っている。歴史学の一部で、国際金融資本帝国主義のル―ツである古代ユダヤの失われた支族が日本に辿りついているとして祖先の一致性を見ようとする日ユ同祖論なるものが唱えられている。れんだいこは、この説を受け入れない。これほど発想が違うというのに同祖である訳がなかろう。 敢えて言うなら、邪馬台国を滅ぼした大和王朝の皇統譜に古代ユダヤの失われた支族が加わっていたとする可能性はある。しかし、れんだいこのように、大和王朝以前の原日本を尊ぶ者からすれば否定事象的なものであり、それでどうしたという程度のものでしかない。つまり、日ユ同祖論が仮に天皇家との絡みに於いて認められたとしても底が浅いものと云うしかない。これを踏まえずに、日ユ同祖論を持ち出して祖先の一致性を見、ひいては今日の国際金融資本に対する隷従的関係を肯定しようというのは愚昧な知見というしかない。 もとへ。政権交代政権としての鳩山政権、菅政権に対する不信は、鳩山首相、菅首相とも、政権ブレーンも含めて、日本史のこの悪深さに対する無知ぶりに起因しているのではなかろうか。その彼らが今後何らかの施策をするとして、してくれない方が国の為民族の為になることをし始めることになる。れんだいこの永続革命論の所以がここにある。三番手政権は誰がなるにしても必ずや、原日本人的感性、知性を持つ政治家でなくてはならない。これだけがはっきりしている。思えば、吉田茂、池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸の系譜は素晴らしい原日本人ではなかったか。彼らが政権を御した時、日本は世界に稀なる発展と成長と平和を得ていた。原日本人性を失った首相が指揮した時、日本は今日の日本へと向かった。このことを知るべきだろう。汝、自ら絞殺することなかれ。 2010.7.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評775 | れんだいこ | 2010/07/30 20:29 |
【民主党の参院選総括考】 2010.7.29日、民主党の両院議員総会が東京・永田町の憲政記念館で開かれ、第22回参院選の総括と責任を廻るやり取りがあった。菅執行部は、このところの上げ潮の流れに棹を差す結果を招いたことに対し何ら責任を負わず居直り続けており、これに対する当然の批判が続出した。菅首相はあろうことか、その場で堂々と9月の代表選への出馬を表明した。これを、どこか感が狂っていると勘繰るれんだいこ見解を表明しておく。 結論から言えば、菅派がかように誰一人責任を追わないままにポストに居座り続けるなら勝手にすれば良かろう。恥多き政治生命を晒し続けるだけのことに過ぎない。今後の良い手本になろうぞ。この強気の態度の裏には恐らく、菅政権を後押しする背後勢力が居り、菅体制はそれに乗っかかっているに過ぎないものと思われる。マスコミ各社が一斉に菅政権続投支持評論するのもここに理由がある。そういうものに支えられて強気になるのも良かろうが自ら首を絞めていることに気づかないのが可笑しい。云っておくが、こたびの菅派の手本は、今後は二度と相手方に「選挙結果による政治責任」を取るよう詰め寄る芸ができなくなったことを意味する。大きく見れば、「政治責任を取らない菅」と云う烙印を押されたことになる。菅は政治家として致命的な損傷を負うたことになる。れんだいこには、一時の栄華に酔いしれて全てを失う愚を見せられて気色悪い。 もう一度確認しておくが、先の参院選に於ける菅派の責任は単に敗北したことにあるのではない。真の責任は、党の最高指導者の地位にある者が敢えて負けるよう邪な指導をしたことにある。滅多に見られない事件であるが、こたびはまざまざと見せつけられた。よって、民主党総括の如く「機関決定に拠らず唐突に消費税10%増税案を持ち出した」ことに非があるのではない。それは客観評論に過ぎない。誰がどう言い繕い庇おうとも、「有り得てはならない意図的故意の逆采配」をしたところに非がある。これは通常は追放処分に値する。除名どころの話ではない。査問されてしかるべき反党行為である。もっともこれは、れんだいこの推定である。故に、民主党総括は、そういう勘繰りが成り立つのか成り立たないのか、これを解明するところに意味がある。そういう意味で民主党の総括は物足りない。敢えて控えているのではあろうが。 確かに敗北は菅派だけの責任ではない。政権交代政権一番手の鳩山政権のマニュフェスト不履行8カ月の政治遊び人性の責任も大きい。この場合も問題は鳩山派の政治的能力の限界にあったのではない。もし仮にそうであるのなら、鳩山首相が辞任すれば良かっただけのことである。それでは小沢幹事長の連れション辞任が説明できない。鳩山首相が手前の辞任と引き換えに小沢幹事長をも同時辞任させ、後継の菅政権がそれを踏襲し、「暫く蟄居しておれ」と云い渡した過程が臭い。このことが説明できなくなる。 それで選挙に勝利したのならともかくも敗北した。では、何の為の小沢蟄居申し渡しであったのか。民主党を敗北させる為の伏線であったとしか考えられないではないか。こうしてみれば、民主党は、鳩山政権、菅政権と二代続けて怪しい政権を誕生せしめていることになる。民主党の総括は本来は、これを問うものでなければならない。生臭くなるが、当たり障りのない文章よりよほどましであろう。しかし、これを赤裸々に問えば党内は分解する。それが是か非か、この判断が難しい。 はっきりしていることは次のことである。そういう胡散臭さを示した菅首相が9月の代表選での再選を期して続投を表明した。これを許すのかどうかである。れんだいこ的には、先の参院選で、菅政権が力及ばずして敗北したのなら何も言わない。敢えて逆采配して負け、その責任をビタ一文、誰一人責任を取らさないままの続投なぞ有り得てならないと考える。問題は、仮に菅首相が代表選に落選した場合あるいは可能性が強まった場合、党内右派が一斉に脱党し、自公その他諸新党と合併する可能性である。そして衆院選に突っ走る。シナリオはそこまでできていると考える。つまり、民主党は菅政権を続投させようがしまいが分解するように仕掛けられていることになる。その時、「政治とカネ」で締め上げられている議員連中にはカネがない。新党派には軍資金がふんだんに用意されている。こういう仕掛けであろう。 こうなると9月には政界の大波乱があるということになる。民主党内右派のシナリオがそうである以上、キーは小沢派が握っていることになる。民主党内左派(この場合、護憲派ないしはハト派という意味で使っている)が躍如として全面戦争で闘うのか妥協するのか岐路に立たされていることになる。ならば、誰を御旗の主に据えるべきだろうか、これが問われている。小沢が手を上げれば一もにもない。しかし、「政治とカネ」問題での再燃が懸念されよう。マスコミは、機密費授受を証言した野中証言にも拘わらず、手前らの不祥事たる「言論とカネ」問題には頬かむりしたまま、いけしゃぁしゃぁと未だに「政治とカネ」問題での追及を緩めていない。なぜなら、雇い主が指示しているからである。それだけのことである。 「小沢立つ」は、この勢力との全面戦争になる。それも一法であろう。ここらで、続西南戦争を見たい気もする。しかし、小沢は立たない可能性もある。小沢が陰の指南役に廻るとすると一体誰が立つべきだろうか。原口に意思があるのだろうか。彼が尻込みするとなると他に誰が居る。れんだいこには、亀ちゃんしか見当たらない。しかし彼は国民新党だ。このハードルをどう乗り越えるべきかが問われている。次に考えられるのは生粋の小沢党の中から選出する方法であろう。いきなり党首の荷は重かろうが将来性に賭けるべきだろう。その彼が党首となったとして首相になれる保証はない。なぜなら、この時、民主党は分解するからである。そういう風に仕掛けられているので間違いなかろう。こう思えば、首相まで視野に入れる必要はない。僥倖にも首相になれたら、その時こそ思う存分に政権交代効果を発揮せねばならない。幕末維新から明治維新の群像も皆うら若き青年たちであったのであり、貫目不足を何ら恐れる必要はない。 かく分析すると、今年の8月政局、9月政局は一段と興味深いことになる。願うらくは、一生懸命闘って欲しいことである。政治遊び人どもによる慣れ合い劇場を見させられるのはウンザリである。「政治は生活である」と心がける政治家が、戦後政治史の歩みを真剣に受け止め、目下の閉塞と限界をどうこじ開けるのか、その為にどう踏ん張るのか、これを見せてほしいと思う。世の草葬アルジャジーラ評論員が固唾をのんで見守っているぞ。我々の労働意欲に関係するんだからな。 2010.7.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評776 | れんだいこ | 2010/08/03 23:54 |
【菅政権第二ラウンド考】 2010.7.29日、民主党の両院議員総会。これより菅政権は第2ラウンドへ入ったと思われる。7.30日、第175臨時国会が召集された。会期は8月6日までの8日間。参院本会議は30日午前、議長に民主党の西岡武夫・元文相、副議長に自民党の尾辻秀久・元厚生労働相を選出した。自民党とたちあがれ日本、新党改革は議長選で白票を投じ、みんなの党は同党の江口克彦氏に投票した。公明党、共産党、社民党は西岡氏に投票した。衆院予算委員会は8月2、3日開かれた。参院予算委員会は4、5日に菅首相が出席して質疑を行う。 この間の8.2日、民主党の常任幹事会が開かれ、菅首相の党代表任期満了に伴う代表選について「9月1日告示―14日投開票」の日程で行うことが決まった。菅代表に挑むのは誰か、これが注目されるが本格化するのは盆明けからだろう。小沢か原口か、はたまた第三の人か。れんだいこは、戦後の西南の役と見立てている。あの時は西郷は端から勝つ気がなかったが、こたびは勝つ気で行かなければならない。勝って政権取って政治を執り行うことこそ政治の醍醐味ではなかろうか。 この間の政局は論評に値しない。国会質疑も同様で、論戦そのものが政界遊び人達の漫談でしかない。よって論評に値しない。そこで、れんだいこは考えている。日本政治は何故にかくも劣化したのだろうか。こういう事象には偶然はない。必ず原因がある筈だ。そう云えば、「チェンジ」を掲げて魅惑的に登場した米国大統領オバマも今では何をしているのか分からない。褪せてしまっている。大衆受けは良いのだけれども中身がない。所詮オバマは口先御仁だったんだ。と云う風に思い始めたら、日本政界の昨年の政権交代、華々しい数々の公約、その公約不履行の鳩山政権、それを後継した菅政権の色褪せぶりも何となくオバマの色褪せと似ている気がしないでもない。これは。裏が一緒だからの共通現象ではなかろうか。 こういう時には思い切って、政治の原点論議即ち政治の見直し即ち政治の再検証こそ必要なのではなかろうか。今や、そういう時機に立ち至っている気がしてならない。日本政治は明らかに行き詰っており、レールの敷き替え即ち軌道修正が必要な時に至っているように思われる。全てが根本解決を要求しているのに、目下の対応は小手先細工で糊塗しようとしている。その程度の頭脳では何も解決しない。全て一時凌ぎのものにしかならないのではなかろうか。どうでも良いことばかりに関心を逸(そ)らせマジメぶっている気がしてならない。角栄先生が居たら、どう処方しようとされるのだろうか。 我々の家計も、会社の遣り繰りも、国家のそれも急速に行き詰りつつある。それでいてのほほんとし過ぎていやしないだろうか。この現象は何なのだろう。恐らく、脳活動が脳死させられているのであり、仕事がおざなりになっているのであり、中毒患者のような朦朧とした対応で一日一日が過ぎているのではなかろうか。いやこれは、自戒を込めてれんだいこのことを云っているのであるが、他の人にも当てはまるのではなかろうか。日本政治のありようたるや、もっと酷く、年収ン千万円のぬくぬく手当てで籠絡されており、危機意識に於いて漫然度が過ぎているのではなかろうか。 れんだいこの菅政権に対する倦怠は、ここに起因しているように思われる。一体、彼は、社民連から上り詰め首相にまでなったが、その政治頭脳のお粗末さは卒倒すべき貧層ぶりを晒している。菅はそもそも首相になって日本をどこへ誘導しようとしているのだろうか。日本再生の為に必要な手当てとしてのオリジナリティーはない。やっているのは人気取りの芸能政治まがいのことばかりである。仮に有効なものがあったとして継続しそうなものは何もない。透けて見えてくるのは、国際金融資本の対日施策要請アジェンダのシナリオ通りのものでしかない。それを自公政権的にやるのか民主党政権的にやるのかの手法の違いでしかなく、やろうとしているのは同じことのように思える。つまり自公政権は男的、民主党政権は女形でやろうとしてるだけの違いではないのか。という気がしてならない。 それは滅びの道である。取り返しのつかないヤブ医者処方箋ばかりである。その滅びの道を確信犯的にやろうとしている民主党内鳩山一派、菅一派とは何者なのだろうか。そういう問いかけと疑惑の眼差しなしには、日本政治の貧相ぶりの原因が解けない気がする。今は亡き太田龍・氏が居れば、海外の最新の文献資料を紹介しつつ、こうした民主党内シオニスタンの歴史的由来背景、国際金融資本帝国主義のエージェントとしての忠勤ぶりを説き明かしてくれるような気がするが、この役目を負う者は居ない。その点が寂しい。 代わりに、れんだいこが至らないままにコメントしておく。批評を請う。れんだいこには、民主党内シオニスタンが秘密結社洗脳及びマインドコントロール特有の表情と仕草をしているのが気になってしようがない。共通して痴呆顔している。鳩山政権、菅政権内の重役たちは、小沢系の者を除いて殆ど総員が「とある秘密クラブ上がり」なのではなかろうか。それも幾つもあるのだろう。彼らの狙いは、日本経済を再浮揚させないこと、その芽が出てきたら冷や水を浴びせ潰すこと。財政を更に放漫にさせ悪化させること、国債累積債務を早く1000兆円にさせ更に累積させること。国際貢献と云う名の自衛隊派兵を常態化させ、海外支援金と云う名の尻拭い金をみつぎ続けること。国内優良企業をハゲタカファンドにお供えすること、中小零細企業をもっと淘汰させること。公共事業を止めさせ、明日の活力に繋がるような社会基盤を整備させないこと。戦後憲法を改正させ、国家総動員体制用の憲法に切り替えさせること。日本人の精神を荒廃させ、絆や紐帯を断ちバラバラにさせること。日本人の能力を低下させ衝動的人間にさせること。その犯罪を面白おかしく報道し連鎖させること。日本語を止めさせ英語に切り替えること。所得格差を広げ、リッチマンパフォーマンスを喧伝すること等々。 あぁこんなことを書いていたら嫌になる。数えきれない。こういうアジェンダに向けて、国民をこの方向に如何に納得させて向かわしめるのか、それが政治技術であり能力であるとするような政治家を育成し続け、今日その政治学校卒業生が政界を牛耳っているのではなかろうか。彼らには、権力と身分とカネと女がふんだんにあてがわれる。これがエージェント取引の見返りである。こういう政治家が、民主であろうが自公であろうが、その他諸党であろうが生み出されているのではなかろうか。元は一緒で、この連中は裏の秘密クラブでは、やぁやぁコンニチワなどと云って仲良く食事でもしているのではなかろうか。そういう政治商売しているのではなかろうか。この予測が当たらないことを祈るが当たりそうでもある。 この風紀を一掃させる闘いこそが本来の政権交代であった。政財官学報司警の七者機関にいつの間にか巣くっている売国奴ノ―タリンどもを引きずりおろし、本来の日本的伝統的な「寿命の中でのパフォーマンスと助け合い、棲み分け」を互いが了解する上等な生き方を基盤とする豊芦原の瑞穂社会の再構築へ向かうことこそ21世紀日本の在るべき姿なのではなかろうか。この理念と実践こそが今や恋しい。 2010.8.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評777 | れんだいこ | 2010/08/05 01:52 |
【国技大相撲が危うい日本が危ない】 2010.8.4日、日本相撲協会は東京・両国国技館で臨時理事会を開催し、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)が文部科学省の強権指導により辞意を決断させられた模様である。北の海に続いて後釜の武蔵川までもがかくなった。一体誰が裏で糸引いているのか。さほどでもない事件を大袈裟に仕立て上げ横綱・朝青竜、大関・琴光喜の強制引退まで持ち込んだ経緯も含めて、きな臭いと云うより怪しいと勘繰るべきだろう。 れんだいこは、部外者による強権介入の方こそ問題としたい。これは口蹄疫騒動でも構図が同じだ。目的が正しければ強権介入良しとする風潮の方こそ危ぶみたい。為すべきことはまず業界の自主的対応である。ここで議論を喧しくしないといけない。権力介入はそれからの話である。それを逆にして、強権介入により業界を屈服させる式の方が許し難い。如何に事は急ぐとしても、この順序を逆にしてはいけない。 そういう意味では、理事会に部外者の外人部隊が入り込むのにも反対である。日本相撲協会の場合には検察上がりが乗り込んでいる。検察上がりだけが悪いとは云えないが、よりによってなぜ検察上がりが乗り込むのかを疑問としたい。部外者参入ははせいぜい評議員会、諮問委員会止まりで良いのだ。これを原則としたい。 ところがマスコミが日本相撲協会の不祥事を煽りたて、外人部隊参入を後押しする。こたびの武蔵川理事長退任に於ける文部省権力の介入を正義仕立てで報じる。れんだいこには、これらがみんなウソっぽい。評論家の杉山某だとかヤクだとか女流のチンクシャミの顔が浮かぶがエエ加減二センカイと思う。この三人が出ると吐き気を覚える。 大相撲を愛するのなら、日本相撲協会の自由自主自律的な内部改革を期待すれば良い。強権介入の正義を後押しするなどはもっての他である。今、白鵬が一人横綱を張って懸命に頑張っているが、本来は朝青竜との両横綱体制こそ大相撲ファンが願っていることであった。白鵬の安定相撲も鏡である。朝青竜の切れ味相撲も鏡であった。朝青竜相撲を排斥した罪は大きい。北の海理事長が朝青竜を庇い失脚させられ、斬り捨て派の武蔵川理事長が辞任の憂き目に遭っている。どうしても大相撲を解体させようとしている邪悪な勢力の意思を感じるのはれんだいこだけだろうか。誰を引っ張り出そうとしているのか。どうせエージェント取引しているのだろう。 政界もオカシイ。大相撲もオカシイ。これを正すのは、元に戻って権力の抑制理論を生み出すしかない。これを逆対応報道し続ける率先部隊のマスコミを正すしかない。言論機関を正しくせねば、日本はとんでもないところに連れて行かれてしまう。消費税問題も然りだ。今こそ悪政データばかりが出ている消費税を廃止し、ならば財源をどう調達するのかで真剣な議論をせねばならぬところ、消費税増税こそ命派が中毒税を煽り続けようとしている。 日本は素晴らしい国である。追ってこのことを明らかにしようと思うが、ここでは省く。この素晴らしき国を土足で踏みにじろうとしている野卑な勢力が正義の美名で無茶苦茶なことを仕掛けている。時局のこの認識こそ第一歩すべきではなかろうか。連中のすることは何でも正義で咎められることがない。角栄追討の頃からこの不正が大手を振って始まったと思ううが、ここでは省く。明日はどうせ武蔵川理事長退任騒動で明け暮れるだろうが、誰がお調子に乗っているのか再確認しようと思う。 2010.8.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評778 | れんだいこ | 2010/08/06 20:45 |
【日本神話譚を知ることの意義考】 2010.8月、第175臨時国会の質疑応答の漫談を聞きながらふと思った。日本政治はどうやら日本史上初めて新人類によって担(かつ)がれるようになったのではなかろうかと。その目で見れば、この傾向は既に1980年頃より兆しがあり、今やくっきりと新人類オンリー政治になっているのではなかろうかと。ここで云う新人類とは、日本史の伝統、日本人的知性、思惟様式、習慣から切り離されている人種と云う意味で使っている。民主党政権になって新人類ぶりが加速しているのではなかろうか。それにより、れんだいこが冒頭の思いを深めたのではなかろうか。 それは良いことだろうか。れんだいこは否と答える。日本は、偶然か必然かまでは分からないが、世界史上稀に見る優れた言語を生みだしており、万葉集、古史古伝、記紀等々の古代史書を遺し伝えており、国譲り神話譚以来幾多の政変を経ながらも最終的には「和を以って尊し」とする平和的政争能力を保持しており、「上が下を思い、下が上を敬う」一億一心的結合能力、相身互いを旨とする思いやり能力を持っており、地球環境的にも自然との適応能力を持っており云々。要するに、かなり高度な公共福祉尽力型のいわゆる助け合い能力を持つ。この精神と生き方を基盤とする社会秩序は護持成育せしめて行くべきものであり、この伝統と切断されて良い訳がなかろう。 このところの日本の政治家には、この日本的知性が明らかに欠損している。それは災厄である。そういう連中に牛耳られる国家は破産死滅を余儀なくされる。この道を避けねばなるまい。例えば消費税論議が象徴している。これに与する者は共通して財政危機を唱え、そこからいとも安易に消費税転嫁を声高にしている。その主張は7%論者、10%論者、15%論者、20%論者、25%論者と様々であるが消費税増税こそ政治的使命として正義ぶろうとしている。 れんだいこは次のように反論したい。財政危機を見据え対処せんとするのは正しい。だがしかし、消費税増税で切り抜けようとする姿勢は余りにも安逸なのではなかろうか。今我々が確認すべきは、国債同様に消費税も中毒なのであり、この中毒からの脱却こそ政治的使命とすべきではないのか。覚せい剤に頼るべきではなく、中毒からの覚醒こそ道筋とすべきではないのか。 ところが、日本史の伝統、日本人的知性、思惟様式、習慣から切り離されている新人類政治家には、こう問う能力そのものがない。諸外国の例を鵜の目鷹の目で見渡し、日本の消費税は低過ぎるなどと勝手に判断し、財政危機解決を大義名分として消費税増税案を吹聴する。それは安易な解決であり、取り返しのつかない日本経済の破綻の道であることをキャッチする能力がない。というより、実際は現代世界を牛耳る国際金融資本の対日施策要請アジェンダであり、これに基づき口をパクパクさせているに過ぎない。こういう安逸政治家が与野党共に大量生産されている現実を直視せねばならないのではなかろうか。 今となっては、そういう政治家の個々の政策に逐一反論しても一事万事であるからキリがない。これを打開する道があるとするなら、日本史の伝統、日本人的知性、思惟様式、習慣を説いて聞かせ、その高度性に自信を持たせ、自力で見識を立て直させる方が遠くて近い道ではなかろうか。れんだいこの口説きをもってしても分別できぬ者には他の者の力も借りよう。それでも治癒しない者は処置なしであり徒労であろう。この場合には、これらの新人類を一掃し、新たに日本史の正統嫡出子を生み出す以外にあるまい。これを口説きと同時並行的にやり遂げることこそ要諦ではなかろうか。 さて、そういう訳で、れんだいこは、日本神話考を再考したいと思う。戦後教育は、戦前の皇国史観を批判する余りに日本神話譚で伝えられて来た日本古代史そのものをタライごと流してしまった。批判すべきは、日本古代史の皇国史観的歪曲であり、日本古代史に新たな光を当てることが必要であったのに。日本古代史には、日本人或いは日本国家の型が伝えられている。日本史はこの伝統的型を受け継ぎながら時代に対処し危機を乗り越えてきた。この型は1970年代までの日本に伝えられていた。1980年以降急速に放擲され、2010年現在は冒頭で述べた如く無知無頓着な政治家ばかりがこの国を采配している。そういう意味で確かに戦後教育には卑大なる欠陥があったと云うべきだろう。今そのことに気づいいた。気づけば半ば解決されたも同然である。 知れば、日本古代史の面白さ、我々の先祖が並々ならぬ愛着を持って歴史を生き次の世代に伝えてきたことが分かるであろう。今年のお盆は、これを営為しようと思う。「検証学生運動下巻」の次にこれを世に問おうと思う。これを予告とする。 別章【日本神話の研究】 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/nihonshinwaco.htm) 2010.8.6日 れんだいこ拝 |
2033 【菅政権第二ラウンド考】について | 松本哲 | 2010/08/09 11:16 |
お久しぶりです。お元気のようで安心しました。標記の記事もすばらしくいい内容なので私のブログで転載したいと思います。 > 今は亡き太田龍・氏が居れば、海外の最新の文献資料を紹介しつつ、こうした民主党内シオニスタンの歴史的由来背景、国際金融資本帝国主義のエージェントとしての忠勤ぶりを説き明かしてくれるような気がするが、この役目を負う者は居ない。 < この役目の一人が植草先生ではないかと思っています。 |
Re:2033 【菅政権第二ラウンド考】について | れんだいこ | 2010/08/11 01:44 |
松本哲同志ホント久しぶりです。れんだいこは今、日本神話譚の探求に没頭しております。なかなか面白いんだわ。でもすぐにどうこうできるものではなくて困っております。せっかくのお盆休暇なのですがヤブ用と小旅行が詰まっております。恐らくパソコンができない。困っております。とはいえ小論ぐらいは何とか発表できそうです。 > お久しぶりです。お元気のようで安心しました。標記の記事もすばらしくいい内容なので私のブログで転載したいと思います。 有り難う。どんどん喧伝頼むよ。 > > 今は亡き太田龍・氏が居れば、海外の最新の文献資料を紹介しつつ、こうした民主党内シオニスタンの歴史的由来背景、国際金融資本帝国主義のエージェントとしての忠勤ぶりを説き明かしてくれるような気がするが、この役目を負う者は居ない。 > この役目の一人が植草先生ではないかと思っています。 植草氏は貴重な人です。たすけあい党に入って貰いたいと思います。但し、「政治とカネ問題」では、れんだいこと見解が全く齟齬しております。どっかでケジメつけなくてはならんかなとか考えております。政治におけるカネ問題は代議員制には付き物で、ここをキレイ潔癖にし過ぎると代議員制は成り立たなくなるのではないかと思っております。難しい話ではあるのだけれども。とかなんとかでまた。 2010.8.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評779 | れんだいこ | 2010/08/11 21:49 |
【「「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その1】 2010.8.7日付け毎日新聞余録の「人の情熱は実にさまざまだからこそ…」のエッセイが気に罹ってしようがない。「先代旧事本紀」を偽書とする観点から一文をものしているのだが、れんだいこは、ここ当分頭を悩まされてきた。本文で一応の決着をつけることにする。この余録記事が、れんだいこの「先代旧事本紀」研究に拍車をつけ再度踏み込ませてくれたことには感謝する。「先代旧事本紀」の読解については「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)考」に記す。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/jyokodaico/kujikico/top.htm) 「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)は、単に「旧事紀」(くじき)、「旧事本紀」(くじほんぎ)ともいう。全10巻から成る史書で、記紀神話に添った形で神代の天地開闢から説き起こし、初代の天皇から推古天皇に至る事績を記載している。推古朝に編纂された体裁になっており、蘇我馬子らの序文がある。後に、先代旧事本紀を基にして「先代旧事本紀大成経」が創られている。両書を比較してみるのも興味深いが、れんだいこにはその余裕がない。学会の研究は進んでいるのだろうか。 「先代旧事本紀」の執筆年代で気になるのは、日本書紀の推古二十八年条の次の記述である。「皇太子・嶋大臣、共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部并て公民等の本記を録す」。これによれば、記紀に先だって官選国史が編集されたことになる。これこそが我が国最古の国撰史書と云うことになるが幻の書となっている。 先代旧事本紀の序文から見れば、先代旧事本紀が我が国最古の国撰史書として編纂された可能性がある。しかしながら、「先代旧事本紀は、日本書紀の推古二十八年条の記述に合わせて成立年代をさかのぼらせた偽書である」とする説もあり、そう理解すべき節々があるので真偽の判定が難しい。但し、偽書説の立場に立つと雖も推古朝にわが国最初の歴史書が編纂されたことまでは否定できない訳で、先代旧事本紀の内容を精査して判断するのが学問的営為であろうと思われる。残念ながら、我が国の古代史研究は本来為すべきこうした研究に向かわず、入口辺りでの偽書か真書かの二項判断を楽しむ傾向がある。 留意すべきは、先代旧事本紀の史書としての位置づけであろう。先代旧事本紀は、いわゆる古史古伝の中でも記紀記述とも整合的であり、偽書云々には馴染まない。他の古史古伝が記紀神話の異聞異伝記述であるのに比して、記紀記述を踏まえつつ記紀が触れなかった記述を修正したり、新たな史料を加えているところに特徴がある。もっと踏み込んだ云い方をすれば、記紀が抑制した出雲王朝-三輪王朝神話を大胆に併載している。このような場合でも偽書扱いすべきだろうか。慎重な読みとりを要するとするのが学問的態度となるべきではなかろうか。これについては後述する。 一応、ここまで、「先代旧事本紀」の何たるかを見たとして、2010.8.7日付け毎日新聞余録の「人の情熱は実にさまざまだからこそ…」を批評しておく。次のように述べている。 「人の情熱は実にさまざまだからこそ世の中は面白い。しかし、時にちょっと困った方向にとんでもない情熱が注がれることがある。『旧事大成経』という江戸時代に禁書になった偽書をめぐる騒動も、そんな『困った情熱』の産物だった▲この書物、実に74巻にわたり壮大な古代神話を記しているが、まったくの偽作だ。志摩の伊雑宮(いざわのみや)が天照大神の本宮だと主張するために作られ、偽作にかかわった僧と浪人は流罪に処せられた。驚くのはその迫真の出来栄えで、学者や神道家たちもすっかりだまされた▲『作者、豪才強魄(ごうさいきょうはく)畏(おそ)るべし。真正の歴史を修めば、その功赫然(かくぜん)たらんに。惜哉(おしいかな)』とはある儒者の言だ。その才能で本物の歴史を研究していれば、すごい業績をあげたろうと惜しんでいる(今田洋三著「江戸の禁書」)」。 これによれば、余録氏は、先代旧事本紀偽書説の立場から、「実に74巻にわたり壮大な古代神話を記している先代旧事本紀執筆者の努力」を揶揄していることになる。問題は次の事にある。この余録氏は恐らく旧事大成経を読んだことはあるまい。今田洋三著「江戸の禁書」の観点を鵜呑みにして「変わった情熱」例として挙げているに過ぎない。 余録氏は、先代旧事本紀の記述を荒唐無稽としているようだが根拠があったとすればどうなるのだろうか。れんだいこは、「ある儒者の言」の「驚くのはその迫真の出来栄え」、「作者、豪才強魄(ごうさいきょうはく)畏(おそ)るべし。真正の歴史を修めば、その功赫然(かくぜん)たらんに。惜哉(おしいかな)」の謂いの方に興味を覚える。今日の如く出版するのが困難な時代に、74巻を記すには余ほどの伝えたい遺したい意思と必要があったと窺うべきであろう。 かくて、中身こそが詮索されるべきであるということになるが、記紀を補足する結構な文章になっていることを知るまい。つまり、余録氏は、当のものを読まずして、今田洋三著の「江戸の禁書」の観点を借用して頭から偽書説で事なかれして平然と批評していることになる。安逸極まれりと云うべきではなかろうか。一般に、人の話を受け入れることは必要ではあるが、それは信頼に足る方向でのことであり、逆方向に向かうべきではなかろう。ここに眼力が要る訳で、余録氏の場合は不明眼力の典型であろう。 世にこういう手合いの物知りが多い。少々話を発展させると、偽書説問題は他にもある。オカシナことに国際金融資本の陰謀を明らかにする「シオン長老の議定書」なぞは端から偽書扱いされている。ところが、国際金融資本肝いりのナチス糾弾文書「アンネの日記」については真書扱いすると云う変な傾向にある。これをどう了解すべきだろうか。 要するに、国際金融資本体制テキストの通説に添って受け止める方が無難と云う精神によって偽書、真書が値踏みされているのではなかろうか。更に述べれば、ホロコースト譚でのナチスによるユダヤ人虐殺数なぞは話を大きくすればするほど正義かのように説く傾向がある。これを国際金融資本式「西の横綱級の反戦平和論」とすれば、東の横綱が南京大虐殺で、これも犠牲者数を大きくすればするほど正義かのように説く傾向がある。 その癖、太平洋戦争末期での米軍B29編隊による日本列島各地での市民無差別虐殺の都市空襲、広島・長崎への原子爆弾の投下に対しては止むを得なかった論に加担して恥じない。つまり、戦勝国側の歴史観、同じく戦勝国側に有利な反戦平和論の観点のものを請け売りしているのに過ぎない。その手の内で踊ることしかできない作風によって生み出されたものが通説化されている。戦後65年を経た今、そろそろ根本的に見直すべきではなかろうか。これを歴史再検証と云う。決して修正ではない。 2010.8.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評780 | れんだいこ | 2010/08/11 21:59 |
【「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)考その2】 もとへ。先代旧事本紀の話に戻る。我が国の国定歴史書は、712年に古事記、720年に日本書紀、733年に出雲国風土記、770年頃に万葉集、797年に続日本紀、807年に古語拾遺、815年に新撰姓氏録と云う順になる。先代旧事本紀は、これらの前に綴られたのか以降に記されたのかの詮議をしなければならない。 編纂者として、興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)が推定されている。興原敏久氏は、「諸系譜」によれば物部系の人物(元の名は物部興久)であり、出雲の醜の大臣(しこのおおおみ。物部系の人で、饒速日の尊の曾孫)の子孫であるとされている。平安時代前期の官吏にして明法博士から大判事となり、「弘仁格式」、「令義解(りょうのぎげ)」の撰修に関わっている。その興原氏の活躍の時期が先代旧事本紀の成立期と重なっている。これを踏まえて、国学者御巫清直(みかんなぎきよなお、1812-92)は、著書「先代旧事本記折疑」で、概要「先代旧事本紀の序文はおかしいが本文はよろしい。その選者は興原敏久(おきはらのみにく又はとしひさ)であろう」と述べている。異説として、興原敏久説の他に石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。 その執筆年代の手掛りとして、先代旧事本紀には807年成立の古語拾遺からの引用が為されているからして、成立は807年以降と推定される。但し、その稿は、後の転写者が書き加えたと推定することも可能であり、原文がそれより先に完成されていた可能性は残る。今日に伝わる先代旧事本紀を前提として執筆年代を確認することにすると、研究者の間では、平安朝初期の大同年間(806年〜810年)、弘仁年間(810年〜824年)、延喜年間(901年〜922年)の間と考えられている。特に807年〜833年とみる説が有力である。 本文の内容は古事記、日本書紀、古語拾遺と同文箇所も多い。これをどう見るかと云うことになる。国学者・本居宣長の「古事記伝一之巻」の中の「旧事紀といふ書の論」という一節での先代旧事本紀論が参考になるので確認しておく。(れんだいこ文法に則り書き直す) 「世に旧事本紀と名づけたる十巻の書あり。これは後の人の偽り輯(あつ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子の命の撰び給いし真の紀には非ず。『序も、書紀の推古の御巻の事に拠りて後の人の作れる物なり』。然れども、無き事をひたぶるに造りて書くるにもあらず。ただこの記と書紀とを取り合せて集めなせり。それは巻を披(ひら)きて一たび見れば、いとよく知らるることなれど、なほ疑わん人もあらば、神代の事記せる所々を心とどめて看よ。事毎にこの記の文と書紀の文とを、皆本(もと)のままながら交へて挙げたる故に、文体一つ物ならず。諺に木に竹を接(つげ)りとか云うが如し。又この記なるをも書紀なるをも並べ取りて、一つ事の重なれるさえ有りて、いといとみだりがはし(粗雑である)。すべてこの記と書紀とは、なべての文のさまも、物の名の字なども、いたく異なるを、雑へて取れれば、そのケジメいとよく分れてあらわなり。又往々(ところどころ)古語拾遺をしも取れる、それもその文のままなれば、よく分れたり。『これを以て見れば、大同より後に作れる物なりけり。さればこそ中に嵯峨の天皇と云うことも見えたれ』。かくて神武天皇より以降の御世御世は、専ら書紀のみを取りて、事を略して書ける。これも書紀と文全く同じければ、あらはなり(明らかである)。且つ歌はみな略しけるに、いかなればか、神武の御巻なるのみをば載せたる。仮名まで一字も異ならずなん有るをや。 さて又、某本紀、某本紀とあげたる巻々の目(名前)ども、みなあたらず(内容と合致しない)。凡て正しからざる書なり。但し三の巻の内、饒速日の命の天より降り坐す時の事と、五の巻の尾張の連、物部の連の世次(系譜)と、十の巻の国造本紀と云う物と、これ等は何書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし。『いづれも中に疑わしき事どもはまじれり。そは事の序あらむ処々に弁ふべし(見分けるべきである)』。さればこれらのかぎりは、今も依り用いて助くること多し。又この記の今の本、誤字多きに、彼の紀には、いまだ誤らざりし本より取れるが、今もたまたまあやまらである所なども稀にはある、これもいささか助となれり。大かたこれらのほかは、さらに要なき書なり。『旧事大成経という物あり。これは殊に近き世に作り出たる書にして、ことごとく偽説なり。又神別本紀というものも、今あるは、近き世の人の偽造れるなり。そのほか神道者という徒の用る書どもの中に、これかれ偽りなる多し。古学を詳しくして見れば、まこといつはりはいとよく分るる物ぞかし』」。 本居の上述の観点で明らかなように、江戸期の国学以降の通説は、先代旧事本紀をして、古事記、日本書紀、古語拾遺の文章を適宜に継ぎ接ぎしたイカガワシイ記述姿勢が目立つと見立てている。しかし、これは逆裁定ではなかろうか。少なくとも、先代旧事本紀も含めて記紀、古語拾遺が下敷きにした原文が存在しており、各書がその編纂動機に添って任意に都合のよいところを抜き書き編纂しているに過ぎないとも窺うべきではなかろうか。あるいは、先代旧事本紀執筆者の姿勢は、記紀、古語拾遺の記述を「継ぎ接ぎ」したのではなく、記紀、古語拾遺の記述を前提にして踏まえつつ、新たに挿入したい伝承を「継ぎ接ぎ」したと窺うべきではなかろうか。つまり、「継ぎ接ぎ」の主体を「記紀、古語拾遺と同文」の側ではなく、「新たに挿入した歴史史料」の方に向けるべきではなかろうか。「継ぎ接ぎ」と云う言葉は同じだが、この言葉が指している意味を理解する方向が逆であることを確認したい。 つまり、先代旧事本紀が、記紀、古語拾遺と同文箇所が多いのが「継ぎ接ぎ」ではなく、記紀も含めて他の史書にはない独自の伝承や神名を挿入しているところが「継ぎ接ぎ」と窺うべきではなかろうか。先代旧事本紀の真価はここにこそある。よって、先代旧事本紀編纂者の意図と動機の解明こそが窺われるべきではなかろうか。そういう意味で、「継ぎ接ぎ」を「記紀、古語拾遺と同文」に求めるような逆さ観点よりする世の偽書論は何の役にも立たない。とりわけ注目されるのは、記紀が記述を抑制した出雲王朝、三輪王朝につき相応の言及をしていることである。そういう意味で、いわゆる古史古伝の祖とでも言い得る意義を保っている。これが先代旧事本紀の値打ちと云えよう。してみれば、先代旧事本紀は偽書説で遇されるべきではなく、記紀を補足する第三国撰史書とも云うべき位置づけを獲得しているのではなかろうか。 2010.8.11日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)