カンテラ時評24(691~720) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評691 | れんだいこ | 2010/03/27 20:28 |
一、かぐや姫のおいたちの巻 (竹の中のかぐや姫) 今は昔、竹取の翁と申す者が居た。野山に分け入りて竹を取り、細工物を拵(こしら)えて暮らしていた。名を讚岐(さぬき)の造麿(みやっこまろ)と云った。 (「今は昔」がいつ頃なのか、竹取の翁が居たのはどの辺りなのかはっきりしない。翁の名が何故「讃岐」なのか、その裏意味も分からない。いずれも何かメッセージ性があるように思われる) 或る日のこと、翁は、竹林の中が華やかに明るく彩(いろど)りしているのを見つけた。訝(いぶか)りながら近寄り、筒の中を覗(のぞ)くと光を放っていた。よくよく見れば身の丈(たけ)三寸ばかりの美しい女性が居た。翁曰く、「この子は私が朝に夕に取るところの竹の中に居た。子のないままに老いた私どもに天祖が賜われたものであり、我が子にせよとのお告げであろう」。翁は、懷(ふところ)に抱いて連れ帰った。 (かぐや姫は何故に竹の中で発見されたのか、桃太郎の桃の中のように他のものではなぜいけなかったのか、ここにも何らかのメッセージが込められているように思われる) 嫗も喜び、ゆくゆくは人が羨む娘に手塩にかけて育てあげ、立派な人に貰(もら)ってもらおう、老いての楽しみができたことよと頷(うなず)き合った。体が殊更(ことさら)に小さいので籠(かご)の中で養うことにした。翁がその子を得た頃より不思議なことに、山へ上り竹を取るのに、筒の中に黄金(こがね)の有るのがしばしばとなった。翁の暮らしは次第に裕福になっていった。 幼児(おさなご)は日毎にすくすくと成長し大きくなっていった。三月ばかり経つと妙齡の乙女子(おとめご)になった。結髮(ゆいがみ)させ裳(も)を着せたところ、玉のように立派な出で立ちになった。翁と嫗の寵愛(ちょうあい)はさらに深まり、養育の楽しみを増した。その間、御簾(みす)の帳(ちょう)の内より出さなかった。乙女子の容姿の清らかなることこの世になく、家の中は常に光に満ち溢(あふ)れ暗きところがなかった。翁は、幾ら世事に忙しくともその子を見れば疲れが取れ、疎(うとま)しいことがあってもその子を見れば苦しさが止み、腹立たしきこともその子を見れば慰められた。 翁夫婦はいつしか大きな家屋敷を構え、使用人も抱える身代(しんだい)になり、近隣で分限者(ぶげんしゃ)と云われる長者になった。乙女子は更に長じて一人前の身になった。三室戸の齋部の秋田を呼んで名を請けさせることにした。秋田は、なよ竹(しなやかな竹)のかぐや姫と名付けた。 (この三室戸の齋部の秋田にも何らかのメッセージがあるように思われる。三室戸、齋部、秋田は、それぞれ当時に於いては聞くだけでピンと来る筋のものがあったと思われる。かぐや姫も然りで、大和の天の香具山との絡みが考えられる。古事記の垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」との記述がある。日本書記では、迦具夜比売命は垂仁天皇の妃となっている。この迦具夜比売命とかぐや姫が同一人なのか偶然一致の架空名称なのかは分からない) 或る時、翁は盛大な宴席を催(もよお)した。貴賤を問わず男女を招き入れ、三日に亘って歌舞、神楽、和歌、音曲に耽(ふけ)り贅沢(ぜいたく)三昧(ざんまい)に興じた。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評692 | れんだいこ | 2010/03/27 20:30 |
二、つまどひの巻 (求婚者ら、難題を与えられる) かぐや姫の噂(うわさ)が噂を呼び、聞きつけた世間の男子(をのこ)が、高貴な者も賤しき者も、かぐや姫をめとることを夢見て色めき惑い始めた。かぐや姫に逢わんとして翁の家の周りをうろつき始めた。夜というのにろくろく眠らず闇に出て、ここかしこに仮の宿の穴を掘り、垣根の中を窺ってはため息をついていた。これにより今日、結婚せんとして夜に徘徊(はいかい)するのを「よばひ」と云う。 男子どもは、近隣の者は無論、家人でも容易(たやす)くは見られないのを知らずか、家人に様子を尋ねては空振りばかりしていた。それでも翁の家の辺りを始終(しじゅう)彷徨(ほうこう)し、夜を明かし日を暮す者が多かった。あきらめの早い者から順に、「わが思い届かず。骨折り損のくたびれ儲(もう)けなり」と云って来なくなった。そういう中でもとどまり続ける猛者(もさ)の者が居た。世評で指折りの色好みと云われる皇子、貴人等(ども)五人衆が最後に残った。 この公家(きんだち)達はかぐや姫に対する思いを捨てきれず、昼夜問わず来ていた。その人の名は、石作(いしづくり)の皇子(みこ)、車持(くらもち)の皇子、右大臣の阿倍の御主人(みうし)、大納言の大伴の御行(みゆき)、中納言の石上(いそのかみ)の麿足(まろたり)であった。 (これらの登場人物も何かの隠喩であろうと思われる。特定の人物なのかどうかは別として、当時の読者にはピンとくるそれぞれの名家を隠喩しており、その御曹司をモデルにしているように思われる。そういうメッセージ性があるように思われる。解説本によると、石作皇子は右大臣の多治比嶋(多治比真人島、701年没)、車持皇子は朝臣の藤原不比等(720年没)、阿倍右大臣は実在の大納言の阿倍御主人(703年没)、大伴大納言は実在の大伴御行(大伴宿禰御幸、701年年没)、石上中納言は実在の石上麻呂 (717年没)と推測されている。推定するに、いずれも672年の壬申の乱とその後の天武―持統朝廷下で活躍した功臣たちと云うことになる。作者は、この者たちを政治風刺的に戯画化していることになる。この辺りを嗅ぐことがより面白さを増すことになろう) この五人衆は、この世をば我が世とぞ思う何の不足もない身分にして、世に少しでも美人ありと聞けば色めき立つ質(たち)の御方であった。かぐや姫を思い焦がれる情止み難く、せめて一目なりともその美貌を見ん、あわよくばかぐや姫と契りたいとの虚仮(こけ)の一念で寝食忘れ、家の周りを行き来し続けていた。或る者は手紙を認(したため)め送れども返事はなかった。或る者は和歌を遣(や)れども返しがなかった。甲斐のないまま霜月(十一月)を過ぎ、師走(十二月)の厳寒を迎え、季節は廻り水無月(六月)の夏の盛りの酷暑にも拘わらず足繁(しげ)く通い詰めていた。 翁に、「どうか私にこそ見合わせさせてください」と揉み手で伏し拜むものの、翁は、「私の一存ではどうすることもできない」とあしらっていた。日が経ち月が変わり、光陰矢のように飛んで行った。五人衆のかぐや姫詣(もう)では続き、或る者は家に帰って願立てし、或いは祈祷(いのり)などしていた。このうちの或る者はもはやこれまでと、かぐや姫に寄せる思いを止(や)めようともしてみたが、それもままにならなかった。翁は、これを見て気の毒になり、「こうなっては見合いさせずにはなるまい」と心定めし、かぐや姫に問うことにした。 翁曰く、「姫よ。そなたがこの世の者ではないことは存じている。転じてこの世の人となった不思議の方だと承知しているが聞き分けてくれ。ここまで育て養ってきた私どもの恩を疎(おろそか)にしてはなるまい。どうかこれから云う翁の言を聞き届けてくれ」。かぐや姫曰く、「勿体ないことを云われます。何なりと云いつけてください。私は化生の身の者ですが、この世の父母に育てていただき本当の親と思って慕っております。何事も承(うけたまわ)ります」。 翁曰く、「嬉しいことを云ってくれたことよ。ならば云わせて貰(もら)うぞ。翁もいつのまにか年を経てしまい古稀(ななそぢ)を越してしまった。今日とも明日とも知らず命の身になった。この際一言云っておきたい。凡そこの世の人は成人すると契りをすることになっておる。男は結婚を望む、女も嫁ぐことを望む。このようにして家門が広がるのじゃ。これが自然なのじゃ。この道に背くことは良くないのじゃ」。かぐや姫曰く、「何故に拒むことができないのですか」。翁曰く、「不思議の人と云えども、そなたは女の身なり。翁の老い先は短い。いつまでも求婚を拒み続けてはなるまい。ここに残った人たちは長年月をひたすらお前を恋い焦がれ、遠来をものともせず一念を通し続けてきた者たちばかりじゃ。いまさら証する必要もなかろう。願わくば、そのうちの一人を選び契り給え」。 かぐや姫曰く、「それがこの世の慣(なら)わしとならば仰せに従うことと致します。但し思いますのに、人の心は移ろい易いものですので後悔しないようにしたいと思います。世に敬われ畏れ多い御方でありましても、選ぶとすれば私に最も深く思いをかけてくださるお方にしたいと思います。気持ちが通わないようでは辛(つろ)うございます」。 翁曰く、「そなたが、そなたへの思いをそれほど大事にしている以上、結婚の条件として相手の思いの深さを見ることにしよう。それにしても、ここに居る人達は皆非凡の志の持主ばかりじゃ。どうやって見極めようぞ」。かぐや姫曰く、「私を慕う気持ちの強さはいずれも優劣つけ難(がた)い者ばかりです。そこで申し上げます。口先の求婚の強さによるのではなく、奥ゆかしきことを試して見とうございます」。翁曰く、「それは妙案(グッドアイデア)じゃ」。 日が暮れて行くうちに、いつものように五人衆が集った。或る者は笛を吹き、或る者は歌を詠(うた)い、詩を吟じ、奏でたり、扇子(せんす)を鳴らすなどしていた。翁曰く、「かくも辺鄙(へんぴ)なるところに長年月に亘りご足労賜わりかたじけのうございます。私も次第に年を取り、今日とも明日とも知らぬ命になりました。故に、我が子に世間の道を勧め、あなたがたの中から婿(むこ)を選べと申しましたところ、御心の深さ次第と申します。それもなるほどの道理かと思われます。但し、思いの深さの優劣を判別しようがありません。そこで、ゆかしきもの見せ給われた方に御志の強さのほどを見てお仕えすることに致します。このように取り決め致しとうございます」。これを聞いた五人衆は口々に曰く、「異存ありません」。 翁は部屋へ入って、そのことを伝えた。かぐや姫、翁に曰く、「石作の皇子様におかれましては、天竺に有るという仏の御鉢(はち)を取って来てください」。「車持の皇子様におかれましては、東(ひんがし)の海に蓬莱の山があり、白銀を根とし、黄金を莖とし、白玉を宝としている木があると聞きます。それを一枝折って持ってきてください」。「阿倍の右大臣様におかれましては、唐土にあるという火鼠の袋を取ってきてください」。「大伴の大納言様におかれましては、龍の首に五色の輝やく玉があると聞きます。それを取ってきてください」。「石上の中納言様におかれましては、燕(つばくらめ)が持っているという子安貝を一つ取ってきてください」。翁曰く、「どれもこれもハードルの高いことばかり云うものじゃ。難題過ぎようぞ」。かぐや姫曰く、「それほど難しいとは思いません。思いやりが深ければ叶(かな)うことばかりです」。 (このお題に挙げられたものにもそれぞれ隠喩的な意味があるように思われる。詳しいことは分からない) 翁曰く、「とにもかくにも伝えてみませう」。部屋より出でて翁曰く、「まことに難しいことばかりですが、この願いを聞き届けてくれた方の願いが叶うことに致します」。これを聞いて五人衆曰く、「了解しました。申し出を違うことなく実現するのは私でせう。かぐや姫様の願いを叶えられなかった者は今後はここへ来てはいけないことにしませう」。かく話が纏(まと)まった。難問を与えられた五人衆はそれぞれに思案しながら帰って行った。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評693 | れんだいこ | 2010/03/27 20:31 |
三、石作皇子の巻 (鉢を拾ってきて仏鉢だと云うも見破られる) 石作の皇子には、天竺に有るという仏の御鉢(はち)を取るようにとのお題が与えられた。この人は思い立ったら吉日ですぐに取りかかる機敏にして気の早い、加えてずるいしかも粗雑なところのある御方であった。 (石作の皇子は、皇子とあるから帝の御子ということになる。石作りとあるからには建築土木関係に関係していたことになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している) 皇子は、「かぐや姫の望むこの世に二つとない仏の御鉢が天竺にあると云うのなら、百千万里の道を訪ねてでも取ってみせよう。手に入れるまで帰らないぞ」と云い聞かせ、善は急げとばかりにあちこちに聞き取りし始めた。早くも願いを果たした暁に思いを馳せ、「今日、天竺から鉢を取り寄せて参りました。これがまさにその物です」とかぐや姫に迫り、そのまま契る姿を夢想していた。 早速かぐや姫の許へ行き、「今日これから天竺へ行き石の鉢を取る為に参ります」と伝えた。しかし、当初の威勢は良かったものの、どこからも色よい報せがなかった。音沙汰なしの三年ばかりがまたたく間に過ぎてしまった。石作の皇子は焦ったか、不意に大和国の十市郡にある山寺に行き、賓頭盧(びんづる)さまの前にあったまっ黒に煤(すす)けた鉢を取り、それを錦の袋に入れ、これに造花の枝をつけて翁の屋敷に向かった。 (大和国の十市郡にある山寺も、隠喩的な意味があるように思われるが詳しいことは分からない。「賓頭盧(びんづる)」とは、仏法に帰依した聖者である十六羅漢の第一番目の賓頭盧の尊者を指す) これを見たかぐや姫は怪しがった。鉢の中に文があり、これを拡げて見れば次のように認(したた)めていた。 「海を渡り山を越え 無辺の道を心尽くし 石鉢を取りに来て長るる」(「渡海亦越山 無邊之道心盡之 取來石缽長流」)(「海山の路に心を盡くし果て御石の鉢の涙流れき」。) かぐや姫が光り具合を見るに、蛍(ほたる)の明かりほどの光さえなかった。そこで故歌を引いて次のように返歌した。 「真物(まもの)ならば光あるというのに 置くものに露の光も見えぬとは 小倉山にて何求めけむ」(「真物當有光 置而露光亦不見 小倉山上何求耶」)(「おく露の光をだにぞやどさまし小倉山にて何もとめけむ」) 返歌を聞いた皇子は、鉢がニセモノであることがバレタと知って門に棄てた。しかるに求婚の思いは捨てず次のように返歌した。 「白山の如き輝きも 美人に会えば光失するかと 鉢を棄てても汝は捨てられぬ」(「輝本如白山 今會美人光自失 吾今棄缽不捨汝」)(「白山に逢へば光の失するかと 鉢を棄てても頼まるゝかな」) 姫は返しをしなくなった。石作の皇子は、かぐや姫の素っ気ない態度に取りつくしまもなく寂しく帰って行った。こうして石作の皇子が一番乗りにして最初の撃沈者となった。皇子が鉢を棄ててもなお妻ごいしたことから、面目なき事をば、「はぢを棄てる」と云うようになった。 (石作の皇子は、ニセモノを俄か拵えして見抜かれ、思いを遂げなかったことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない) (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評694 | れんだいこ | 2010/03/27 20:32 |
四、車持皇子の巻 (ニセの玉を造り玉枝とする) 車持の皇子には、蓬莱山の宝の木を一枝折って持って来るようにとのお題が与えられた。この人は深謀遠慮と云えば聞こえが良いようなものの、目的のためには手段を選ばずの謀(はか)りごとを好む、加えて口八丁手八丁の饒舌多弁な御方であった。 (車持皇子も皇子とあるから帝の御子ということになる。車持ちとあるからには運輸流通関係に関係していたことになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している) この皇子は、端から蓬莱山の宝の木を取りに行く気はなく、精巧な宝木作りの工作に知恵を廻らせ始め、謀議成った。或る時、周りには「筑紫の国に湯治(とうじ)に行くために暫(しばら)くお暇(いとま)します」と公言し、翁には「これから玉の枝取りに行って参ります」と伝えて大勢(おおぜい)の従者を連れて都を下った。人々が難波津まで見送った。港に着くと、「これからはお忍びで参ることにする」と宣(の)べ、側(そば)仕えの供のみを引き連れて出帆した。三日許(ばか)りして密(ひそか)に帰り、かねての打ち合わせ通り家を作って、釜(かまど)を拵(こしら)え、構を三重に張り巡らし人が近づけないようにして、召し抱えた当代一流の鍛冶工匠(かじたくみ)六名と共に引き籠り、玉の枝を作り始めた。 漸(ようや)く、これなら寸分も違わないと人が云うであろうと思われる玉ができあがった。密に難波津に出向き、皇子が船に乗って帰って来ることになったと告げさせた。大勢の者が迎えに出向いて来た。港に着くや皇子は、さも苦労して帰って来たばかりの苦しげなる様子で現れ、玉の枝を入れ覆(おお)いを被(かぶ)せた長櫃(ながひつ)を運び出し、大声で叫んで曰く、「皆の者聞いてくれ。車持の皇子が遂に優曇華(うどんげ)の花を持ち帰ったぞ」。この報(しら)せが翁の屋敷に伝えられた。これを聞いたかぐや姫は胸潰(つぶ)れる思いになり、不安で堪(たま)らなくなった。 暫くして皇子が翁の門を叩いて曰く、「車持皇子只今参上しました。取り急ぎ旅の姿のままにやって参りました」。出迎えた翁に曰く、「命がけでかの玉の枝を持って参りました。かぐや姫様に見て貰いとうございます」。翁は、その由(よし)をかぐや姫に伝えに部屋へ入った。玉の枝には文籤(矢)が付けられていた。 「征(ゆ)く路万里に長く 例えこの身を葬すとも 玉の枝手折らで帰らじと誓う」(「萬里長征路 便是此身葬徒然 不折玉枝誓不歸」)(「徒らに身はなしつとも玉の枝を手折らで更に歸らざらまし」) 皇子の命懸(が)けのご苦労を見てとった翁は急いで部屋に行き、かくや姫に向かって曰く、「車持の皇子が申し伝えた通りの、只の一ケ所も怪しげのない蓬莱の玉の枝を持って参りました。こうなってはかくや姫よ、疑ってかかるようなことを申すべきではない。旅の御姿のまま我家へも寄らずやって参ったのじゃ。皇子の真心(まごころ)のほどを汲み取り、契りの支度をしなさい」。かぐや姫は、ものも云わず頬杖をついて、嘆かしげな素振りを見せた。これを見て皇子曰く、「今さら話を違えてはいけません」と云ううちに縁に這(は)ひ上って来た。翁曰く、「約束通りのこの国に見えぬ玉の枝を持って来られた以上、今更(いまさら)拒むことはできませんぞ。幸いにして人柄も良いお方に見えますぞな」。かぐや姫曰く、「親の仰(おお)せを拒むのは辛(つろ)うございます。得難きものを本当に持って来られましたので困っております」。これを聞き翁は、いそいそと閨房(ねや)に入り、新婚の契りの準備に取り掛かった。 支度を整えた翁が皇子に尋(たず)ねて曰く、「いかなる所にこの木はありましたか。怪しくも麗しくめでたきものでございます」。皇子は、とうとうと語り始めて曰く、「前一昨年(さをとゝし)の二月(きさらぎ)の十日頃でしたか、難波より船に乘りて、海中にいでて、行方も分からぬまま船を漕ぎ出ました。不安ではありましたが、『この願い叶えぬようでは生きても甲斐がない。かぐや姫に寄せる我が愛の深さを試さん』と云い聞かせ風のまにまに任せておりました。道中、万が一の死をも覚悟しておりましたが必ずや蓬莱と云う山に出逢えますようにと念じ続け、漕ぎ続け浪に漂いました。 国の内を離れて外へ出ますと、或る時は浪が高く荒れ、海の底に沈むかと思うような目にも遭いました。或る時は風に吹かれて知らぬ国に吹き寄せられて、鬼のような者が出て来て殺されるかと思うような目にも遭いました。或る時にはどこを進んでいるのかも分からぬまま海を漂っておりました。或る時には食糧が尽き、草の根を食べて飢えを凌ぎました。或る時は例えようのないほど恐ろしいものがやって来て、食いかかられそうになりました。或る時には海の貝を取って命を繋ぎました。旅の空のことゆえ助けてくれる人もいない所で、いろいろの病をしました。もはやどこへ居るのか分からぬまま船の行くに任せて海を漂っておりました。 五百日ほど過ぎた辰の時の頃、海の向こう遙かに山が見えました。舟を近づけますと、海の上に漂う非常に大きな山でございました。高くそびえ立つ威容は見事な麗しさでした。これこそ私が夢見てきた山ではなかろうかと思いましたが、いざその山に逢うと恐れ多く、山の周囲を二三日(ふつかみか)ばかり見廻り続けました。化粧した天人(あまびと)女が山の中より出て来て、金銀の椀を持って水を汲みに参りました。これを見て船より降り、『この山の名は何と云うのですか』と問いましたところ、女答えて曰く、『蓬莱の山と申します』。これを聞いた時の嬉しさよ、感極まりました。女に、『かく云うあなたはどなたさまですか』と問うと、『我が名はほうかんるり』と云い、そのまま山の中に入って行きました。 山を見るに険しくとても登ることができません。山裾辺りを廻るうち、世の中にこれほどのものはないと思われる美しい花をつけた木々が立っていました。金銀瑠璃色の水が流れていました。あちこちに玉の橋も架けられておりました。辺り一面に照り輝く木々が立っていました。山全体が奥ゆかしく世に譬(たと)えようがありませんでした。その中に、仰せられたものに違いない花が咲いておりました。仰せの通り、これを一枝取って参りました。 枝を折りて以降も帰りの道中が不安で一杯でしたが、船に乘ると不思議や不思議に追風が吹いて四百余日で帰って参りました。これこそ大願の力でせう。昨日、難波に着きました。潮に濡れた衣を脱ぎ替える暇(いとま)もないままやって参りました」云々(うんぬん)。 これを聞いて翁、感嘆して次の歌を詠(よ)んだ。 「新竹常竹取り為し野山に入る苦労知るも かくなる艱難辛苦 我知らず」(竹新竹常為取 平生每每入野山 卻是未歷此艱辛)(「呉竹のよゝの竹取る野山にも さやは侘(わび)しき節(ふし)をのみ見し」) 返歌して皇子曰く、 「潮に湿(しめ)る我が袂(たもと) 今日は功成り乾き始めつる 数々の辛酸忘れ晴れの心なり」(潮淚濕吾袂 今日功成衫始乾 數數心酸當不覺)(「ここらの日頃思ひわび侍りつる心は、今日なん落ちゐぬる」) そうこうしているうちに、男ども六人が連なって庭にやって来た。そのうちの一人の男が文挾(ふばさみ)に文を挟んで言った。「私は、作物所(つくもどころ)の寮(つかさ)の工(たくみ)の漢部(あやべ)の内麿と申します。仰せのままに心を碎いて千余日、身を粉にして玉の木を作って仕えて参りましたが、未だに碌(ろく)を頂いておりません。早く碌を頂き家の子に分ねばなりません」。翁が皇子に尋ねて曰く、「この者どもが申すことはどういう意味か」。皇子はあわてふためき茫然自失の態となった。 かぐや姫は、この遣り取りを聞ききながら文に目を通した。次のように認められていた。「皇子の君は、千余日に亘って私どもと共に同じ所に隱れて、『上手くでき上がったら官(つかさ)も授けよう』と云って細工物を作るよう命じました。こうして玉の枝を作りました。しかしながら碌をいただいておりません。どうやらこれは、かぐや姫様の云いつけによるものであることが分かり、本日やって参りました。碌を賜わりたく存じます」。 姫は、先ほどまでの憂鬱な気持ちを和(なご)ませ、笑みを浮かべながら翁を呼んで曰く、「誠に蓬莱の木かと思っておりましたが、あさましきニセモノのようです。早く返してください」。頷(うなず)き翁曰く、「何と細工物であったとは。合点承知の介(すけ)であります」。かぐや姫はあきれて、玉の枝に文をつけて返歌した。 「眞誠(まこと)と聞きて見れば 偽物なること明けらけく 言葉巧みに飾れる玉の枝にぞありける」(聞而似真誠 見則偽物事自明 飾玉枝葉實巧言)(「眞かと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞありける」) 翁は、決まりが悪くなった為か狸(たぬき)眠りし始めた。皇子は立つ瀬もなく居心地悪くなり、逃げるようにして帰ってしまわれた。かぐや姫は、訴えにやって来た工匠等を呼び、「あっ晴なる忠言でございました。お陰で窮地を救われました。褒(ほ)めて遣わしませう」と云って祿を多めにお渡しされた。工匠曰く、「思いがけぬ碌を賜わり、伺わせていただいた甲斐がありました」。工匠等は大いに喜んで辞去したものの、その帰り道で皇子により血が流れるほど打ち据えられ、せっかくいただいた祿をも取り捨てて逃げ帰ったと云う。こうして車持の皇子が二番目の撃沈者となった。 皇子曰く、「かぐや姫の代わりに一生の恥を得た。このままおめおめ生き恥を晒すのが辛い」と云って、山奥深くへ一人で入ってしまわれた。宮司らが総出で手分けして探したが見つからなかった。身を隠したと思われ長年出てこなかった。今日世間で、人がびっくりしてしょげかえる様を称して「魂消(たまげ)る」と云うようになったのは、これよりのことである。 (車持の皇子は、ニセモノを用意周到に拵えたものの思わぬ形で見抜かれ、思いを遂げなかったことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない) (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評695 | れんだいこ | 2010/03/27 20:33 |
五、安倍右大臣の巻 (火鼠の袋のてんまつ) 阿倍の御主人には、唐土にあるという火鼠の袋を取るようにとのお題が与えられた。この人は右大臣(おとゞ)の大金持ちで、大きな家屋敷を持ち、多くの使用人が仕えていた。何事も官吏を使って用を足し金の力で何でも解決しようとなされる方であった。 (阿部家は歴代政務を司どっている。阿倍の御主人は右大臣とあるので、律令制太政官(だいじょうかん)の最高役職になる。左大臣、内大臣と並びあるいはそれを凌ぐ筆頭大臣ということになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している) 唐土(もろこし)から行き来している船主の王卿という方が津の浦に居た。阿倍の大臣は、使用人の中でもしっかり者であった小野房守を選び、彼に書を持たせて王卿の下へ遣わせた。文を覧じて王卿曰く、「火鼠の袋というものを買って貰いたいとの要望ですが、これは大変難しい無理な依頼です。世にあるものならば必ずや貴国にお届け致しませうが我が国にはないものです。その名を聞いたことはありますが、私はまだ見たことがありません。そうではありますが、天竺に出向き、その国の長者辺りに問うて確かめればひょっとして手に入るかもしれません。あれば良いのですが保証の限りではありません。いずれにせよ着手金が必要です」。大臣は、着手金を渡した。 それから数カ月後して、かの唐土船が筑紫に入船して来た。大臣はこれを聞くや、即座に早馬を手配させ小野房守を迎えに行かせた。小野房守は馬を乗り継ぎ、七日の速足で船主の下へやって来た。船主曰く、「火鼠の袋を得るのは今の世にも昔の世にも難しい。ご要望を受けて以来、八方手を尽くして探して見ました。その昔に天竺の聖僧が中国に持って来ており、今は西の山寺にあることを聞き出しました。国司に当たりをつけましたところ、尋常では手に入らないのですが、それなりの金を積めば何とかなることが分かりました。当方の申し出では価の金が少し足りないと申しますものですから、我が主人の王卿が少し上積みして金五十両で話を付けました。船が帰るまでに追加金を送ってくだされば必ず手に入れて見せませうとのことです」。 大臣は、小野房守の文を見て喜んで曰く、「これぐらいのことで何を難しく云うか。金の支度(したく)の方は任せなさい。必ず送ろう。それより何よりぜひとも火鼠の袋を持って来てくだされ」。大臣は居ても立っても居られず、わざわざに唐土船を訪ね、早く送って下さるように船主に拝して頼み込んだ。 かくて、念願の袋が送られてきた。袋の入った箱を見れば、種々のきらびやかな瑠璃(るり)で作られていた。袋を見れば紺青(こんじやう)の色で、毛の末は金の光で輝いていた。まさに宝物と見え、清らかで麗(うるわ)しく、世に比べようのない立派なものであった。大臣曰く、「この世の最高のものじゃわい。かぐや姫がこれを欲しがったのも無理はない。めでたしめでたし、でかしたでかした」。大臣は早速、御身の化粧をし始めた。既に意識がかぐや姫に飛んでおり、舞い上がり始めていた。曰く、「今日これで遂にかぐや姫と契りを得ることなった。その後は邸へ呼び寄せ囲むことにしよう」。やおら詩を詠み、袋と共に箱の中に入れた。歌曰く、 「情(こころ)は火の如く尽きぬとも この袋は火に燃えぬのものと思ふ 今日は晴々(はればれ)袂(たもと)乾きて着らめ」(無盡情如火 此裘思火不得燃 今日方能著乾袂)(「限りなき思ひに燒けぬ裘 袂乾きて今日こそは見め」) 大臣は翁の家へ向かった。家の門に立つと翁が出迎え中へ招かれた。姫に袋を見せた。かぐや姫曰く、「何と見事なまでに麗しき皮でせう。しかし、この火鼠の皮が本物なのかどうかが分かりません」。翁曰く、「とにかくまずは入室して貰いませう。世の中に見えぬ袋のようですので本物かどうか確かめようもありません。こたびは三度目になり、もうこれ以上疑うものではありますまい。徒に人を侘(わ)びしくさせるものではありませんぞ」。 翁も嫗も、この度こそは必ず契らせようと思った。これまで、かぐや姫が長年一人身(やもめ)なのを気に病み、何とかして良い人に見合わせようと思い詰めてきた。しかるに、姫がいつも強く断りばかりしてきた。強いることもできずやきもきしてきたが、今日こそは思いが叶うことになったやれやれと安堵し始めた。 かぐや姫、翁に曰く、「世になきものなれば宝と思いませう。但し、本物かどうか確かめさせて下さい。この袋を火に燒いてください。燒けなければ本物の袋ということになります。焼けなければ、仰せに従います」。翁曰く、「云われてみれば、それもなるほどではある」。大臣に向かって翁曰く、「焼いてみてください」。答えて大臣曰く、「この皮は唐土にもなかったものを苦労して求め手に入れたものです。疑われるとは心外。それほど云うのなら燒いてみませう」。言い終わるや火の中にくべた。袋はめらめらと燒けて灰になってしまった。大臣は顔面蒼白になってしまった。かぐや姫曰く、「あなうれしや」。続いて曰く、「こうなってしまってはニセモノの袋と云うことになります」。かの詠み歌の返しを箱に入れて返した。 「跡方(あとかた)留めず燃え尽きて 凡庸物(ニセモノ)なると知りせばこの袋 あらかじめ気遣うものを」(盡燒痕不留 早知此裘凡庸物 何勞先前枉費心)(「名殘なく燃ゆと知りせばかは衣 おもひの外に置きて見ましを」) 大臣は何も云えなくなり黙ったまま帰ってしまった。こうして阿倍の大臣が三番目の撃沈者となった。世の人々曰く、「安倍大臣は火鼠の袋を持って来たまでは良かったが、かぐや姫に炭にされてしまったとな。遂に逢えなかったとな」。又或る人の曰く、「袋を火にくべたところ、めらめらと燒けてしまったとな。かぐや姫に逢えずお終い」。これより以後、逢いたい思いを遂げないことをば、「あへ(阿部)なし」と云うようになった。 (阿倍の御主人は、大金を払って本物を手にしたつもりがニセモノであることを判明させられ、思いを遂げなかったことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない) (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評696 | れんだいこ | 2010/03/27 20:35 |
六、大伴大納言の巻 (龍の首の玉を取りに行くも) 大伴の大納言様には、龍の首の玉を取るようにとのお題が与えられた。この方は司令官タイプで、加えて直情型の少々そそっかしいところもある御方であった。 (大伴家は歴代軍務を司どっている。この時の大伴氏は大納言として登場している。大納言とは、律令制で太政官(だいじょうかん)の役職のひとつ。長官(かみ)にあたる左大臣、右大臣、内大臣に次ぐ次官(すけ)の役職である。主と家来の結束が強い様子が垣間見える。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している) 大納言も多くの従者を抱えておられた。或る日、屋敷の者全員を召し集めて曰く、「龍(たつ)の首に五色の光を放つ玉があるとのことである。これを取って来た者には願いごとを叶えよう」。聞かされた男(をのこ)ども曰く、「仰せは有り難い話ですが、龍の首の玉は容易には手に入らないものです。どうやって取ればよいのか皆目見当もつきません」。大納言曰く、「いわゆる召し人と云う者は理屈を云わず、主の仰せを命を捨てても叶えんとするのが務めというもの。天竺唐土の物にあらず、龍は我が国の海山に出没しておる。何でこれしきのことが難しいと申すのか」。男ども曰く、「特段の策がありません。とはいえ了解しました。主がそれほどまでに云われるのでしたら仰せの通りに従います」。喜んで大納言曰く、「汝ら、私の召し人の名に恥じぬよう、主の願いが叶うよう全力でことに当たれ.。お前たちが龍の首の玉を取るのに要す道中の糧(かて)、食物については、今から殿中の絹、綿、錢を望むだけ支給しよう。お前らが帰って来るまで私は日々潔(みそぎ)して待つことにする。龍の首の玉を取るまで帰って来るな」。 召し人等は、主の仰せを訝(いぶか)りながらも賜わり物を分け、各々が足の向く方へ出向いた。声を潜(ひそ)めて互いに曰く、「幾ら何でもバカげた仰せである。適当にお茶を濁しませうや」。或る者は出かけたように装いつつそのまま家の中に籠ってしまった。或る者は当てもないままあちこちに赴いた。 大納言は、召し人の気持ちも分からぬまま早くも、かぐや姫を迎えた時に、どこに住まいしていただこうかと思案し始めていた。舘の造りがかぐや姫を迎えるには古臭いと感じ始め、急きょ部屋の改造を命じた。漆を塗り、蒔繪(まきえ)や色彩を施し、天井を綾織糸でしつらえた。檜の壁を葺(ふ)き、閨房(ねや)の中を飾らせた。妻どもはあきれて去って行った。一人身暮しになったものの、かぐや姫を迎える準備に余念がなかった。 こうして、日日夜夜をいつ召し人が帰って来るかと待ち続けたが、待てど暮らせど音沙汰なしであった。大納言は次第に焦り始めた。そこで、舍人(とねり)二名を呼びつけ、難波津へ様子を訊ねに行かせた。船人に問いて曰く、「大伴納言様の召し人が船に乗って出航した筈であるが、龍の首の玉を取ったという噂を聞かなかったか」。笑いながら船人答えて曰く、「オカシナことを云うものだ。そもそも大金持って出船した者はいない」。この報告を聞いて大納言曰く、「こやつらは元々聞きわけのない猫に小判の類の者でしかない。大伴の権勢をもってすれば何事も叶うということを見せつけてやろう。しかしながらもはや余裕がない。我が弓の力で龍を見つけ次第に射殺してしまおう。龍の首の玉を取るのが何でそんなに難しかろう。召し人の帰りが遅い。ええぃもう待てない。もはや私が見事取ってみせようぞ。他の者が後で取って来ても遅いわ」。かく述べて、自ら船に乗り込み、海中を巡遊することになった。 大納言を乗せた船は波のまにまに漂い遠出し、筑紫の海に漕ぎ出でた。この時、俄かに早風が吹き始めるや天地が暗くなり、船が揺られ傾き始めた。為す術(すべ)もなく大海の中をぐるぐる廻り始めた。大浪が船を直撃し、神鳴(かみなり)、落雷(らくらい)、雷鳴(らいめい)が閃(ひらめ)きやまずとなった。困惑して嘆いて大納言曰く、「こんな目に逢ったのは初めてだ。我が命が危ない。助けて下され」。 泣きながら答へて舵取り曰く、「長年船に乘って居りますが、こんな酷い嵐は経験がありません。この船は今まさに沈没し海底に沈もうとしております。神の助けをいただければともかくも神助なければ海の藻屑になってしまうでせう。嗚呼(ああ)この主の仰せを引き受けたばかりにこんな酷い破目に遭ってしまった」。これを聞いて大納言曰く、「乘船した時、お前は、この船は高山を崇める如く丈(たけ)高く、何の心配もいらないと太鼓判を押していたではないか。今になって何を云うか。デマカセ云うにもほどがある」。 かく云ううちにも船酔いが始まり、大納言は反吐(へど)を吐き始めた。舵取り曰く、「私は神ではないので手に負えません。この荒れ狂う風波を鎮めようにも奇策はありません。神鳴落雷雷鳴様、どうかお助け下さい。そもそもあなたが龍を殺そうなどと云いだしたから狂風暴雨となったのです。これは龍神の祟りです。神様に祈り助けてもらうしかありません」。 大納言曰く、「舵取の云う通りだ。今や一刻を争う。神よ聞いてくだされ。私が愚かだった。我欲で龍を殺そうと望んだことを後悔しております。今より後は龍の毛、髪一筋をも傷つけようとは思いません。謹んでお約束いたします。二言ありません、お助け下さい」。かく述べて、大声で泣き喚(わめ)き始めた。起ったり坐ったり落ち着かなかった。急に祝詞(のりと)を唱え始め、必至の形相(ぎょうそう)で千篇繰り返し始めた。 この効あってか神鳴がようやく止まり天が明るくなった。ただ風はなお吹き止まなかった。舵取曰く、「この風は龍神の祟りに違いありません。更に祈りませう。風よ去れ」。続いて曰く、「おや、この風は逆風ではありません。次第に治まりつつあるようにも思われます」。大納言は既に肝を冷やしており、舵取りの言にも上の空になっていた。 三四日(みかよか)経って吹き返しがあり、浜を見れば播磨の明石の浜に辿りついていた。大納言は、「南海の浜辺に吹き寄せられたのだろう」と思って、疲労が極度に達し船中に伏してしまった。船乗りが国府に告げ、国司が慰問にやって来た。大納言は起き上がる力もなかった。仕方なく松原の地面にむしろを敷き、うつ伏せしている大納言をその上に寝かせた。この時、大納言は、南海ではないことが分かり辛うじて起き上った。腹が張り、目も李(すもも)を二つつけたように膨れていた。国司がこれを見て、にんまりと笑った。国司に命じて腰輿(たごし)を作らせ、屋敷に連れ帰った。 大納言の噂を聞き、召し人が屋敷に帰って来て曰く、「未だに龍の首の玉を取れません。しかし主も玉を取れなかったことを聞きました。取らぬままに帰って参りましたが、どうかお許しください」。身を起して大納言曰く、「汝らが取りそこなったことを詫びなくても良い。龍は鳴神の類なり。龍を捕獲し玉をとらんとすれば汝らの命が取られるところだった。捕えそこなったからこそ命があるのだ。取れなかったことを幸いとせよ。私は、かぐや姫の言を真に受け危うく命を失うところだった。今後は二度とかぐや姫の家には訪ねないことにする。お前らも行ってはならない」。こうして、殿中の殘り物を、龍の玉を取りそこなった召し人らに支給した。 これを聞いて、既に離れていた妻等は腹を抱えて笑い転げた。糸を染めて意匠を凝らした家屋は、そのまま鳥たちの巣になってしまった。こうして大伴の大納言が四番目の撃沈者となった。これにより世間の人の云うのには、「大伴の大納言は、龍の首の玉を取りに行ったが取れなかった。取れたのは、両目の上に李のように膨れた玉だとさ」。又、おもしろおかしく混ぜて曰く、「嗟、難以嚥」(おぅ嚥(とも→堪え)難し)。これにより世間では、堪え難きを堪えることを「嗟、難以嚥」(おぉ堪え難し)と云うようになった。これが、この言い回しの始めである。 (大伴の大納言は、前三者と違い自ら本物を得に出向いたことになる。しかし、手に入れる事ができず、自ら求婚を断念したことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない) (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評697 | れんだいこ | 2010/03/27 20:36 |
七、石上中納言の巻 (燕の子安貝を取らんとすれども) 石上の中納言様には、燕(つばくらめ)の子安貝を取るようにとのお題が与えられた。この人は、自分で決めることができぬ右顧左眄型の優柔不断な質(たち)にして、加えて人の云うことを真に受けては失敗する癖がある御方であった。 (石上家は歴代神事を司どっている名家の一つである。中納言とあるから大納言よりは下位の身分と云うことになる。これにどういう意味が隠喩されているのかは分からないが以下の如く描写している) 或る時、屋敷の使用人の許(もと)へ行き曰く、「燕(つばくらめ)が巣を作るのを見つけたら直ぐに知らせよ」。使用人曰く、「なぜそんなことを望むのですか」。中納言曰く、「燕が持つ子安貝を取りたいのじゃ」。使用人曰く、「これまでに燕をたくさん殺して見ましたが、腹の中にもそのようなものを見たことはありません。ひょっとして、燕が子を産む時に出るのかも知れません。しかれども、人が燕を見てしまうと飛び去ってしまうやに聞いております。どうやって取れば良いのでせう」。 こうして、どうやって取るべきかの談議が始まったが、そうこうしているうちに或る人がやって来て曰く、「大炊寮の飯炊屋の棟の上の穴に燕の巣があります。壯夫(ますらお)に命じて梯子(はしご)を架けて子燕を窺わせませう。この時に上手に取るのです」。これを聞いて悦び中納言曰く、「これは妙案じゃ。私は気がつかなかったが、汝の提言はもっともなことと思う」。そこで、壯夫(ますらお)廿(二十)人ばかりが集められ、高い梯子を架け登り、燕の巣の中を窺わせた。中納言見守り、しばしば訊(たず)ねて曰く、「子安貝取れたかや」、「何か探り当てたかや」。巣の中には何もなかった。,燕は恐れて近寄らなくなった。 ここに翁が登場して来た。寮官人の倉津麿と云う。曰く、「子安貝を取るには計略が必要ぞな.」。 中納言の御前に進み出でて、額を寄せて密談する。倉津麿曰く、「燕の子安貝を取るのに、そのようなやり方では拙(まず)い。結果は非を見るより明らか。梯子を架けるようでは驚くばかり。大勢の者が巣に近づけば燕が寄りつかなくなるでせう。高架を毀(こわ)し人を退けなさい。熟練の男子を一人荒籠に乗せ、綱で縛(しば)って掛けるのが良い。その上で、燕が子を産む間際に綱を引き釣り上げるじゃ。そうすれば子安貝を見事に取れるというものじゃ」。中納言曰く、「なるほど」。そこで、高架を毀し人払いを命じた。しかる後、倉津麿に訊ねて中納言曰く、「しかし、燕が子を産まんとするそのタイミングをどう計るのじゃ」。倉津麿曰く、「燕が子を産む時、必らずその尾を七度振ります。燕が尾を七度振った時に綱を引き揚げるのじゃ。そうすれば、籠の中に子安貝が取れようというもの」。中納言曰く、「なるほどなるほど」。 そこで、寮の男を物色し、昼夜なく貝を取るに相応しい者を探し始めた。倉津麿のアイデアがよほど気に入ったと見え、褒めて曰く、「汝は私の使用人ではないが、我が願いめでたしの暁には望みのものを与えよう。しばし協力せよ」。こう云って、とりあえず中納言が着ていた羽織を与えた。倉津麿、これを貰って曰く、「有り難いお言葉です。お任せください。今夜必ず寮に参るつもりです」。こう述べて帰って行った。 日が暮れた時分になって子安貝取り作戦を開始した。中納言と倉津麿は使用人に指示した。下から見上げながら曰く、「燕が尾を振る時、荒籠を引き綱を釣り上げる。その時、手をすっと伸ばして巣の中の子安貝を探すのじゃ」。使用人はその時を待った。燕が尾を振ったのを合図に、さっと巣の中に手をれた。しかしながら曰く、「それらしいものが見当たりません」.。これを聞いて怒って中納言曰く、「汝の探し方が下手なのじゃ」。人を替えて試したが、これも失敗した。改めて曰く、「このへたくそめが。私が登って探そう」。 そこで籠に乘り登って穴を窺った。その時、燕が尾を振り廻り始めた。その刹那(せつな)、手を差し伸べると平たいものに触れた。喜んで曰く、「握ったぞ。さぁ私を降ろせ。倉津麿よ、遂に子安貝を取ったぞ」。大声で使用人を呼び寄せ曰く、「早く私を下せ」。使用人が籠を降ろそうとして綱を引いたが、大慌てで引き過ぎたためプツンと切れてしまった。中納言はそのまま八島鼎(かなえ)の上に落下した。.驚いた使用人急ぎ抱きかかえて曰く、「大丈夫ですか。お気を確かになされませ」。中納言は両の白目をくるくると廻していた。水を口にふくませると漸(ようや)く正気(しょうき)に戻った。幾分か苦しそうにしていたので、鼎の上で手足を揉みさすった。 少々息を荒げながら中納言曰く、「降りるときに失敗した。腰が痛くて動けない。しかし痛さもなんのその子安貝を握っているのでこれに勝る悦びはない。心配ない。それより私が握っている貝を早く見たい。が、起き上がれない。みんなで確認してくれ」。中納言が手を開くと、使用人どもが見たのは何と燕の古糞(ふるくそ)だった。これを見て嘆じて曰く、「ああ、貝を取るのにこんなに苦労したと云うのに」。これより世人、願い事違う時には、「貝なし(甲斐なし)」と云うようになった。 子安貝を取り損ない、唐櫃に入れてかぐや姫に見せに行く夢を叶えられなかった中納言は、腰を痛めて立つこともできぬようになり、氣病みも加わった。弱った両目は相変わらず貝を取りそこなったことを恨んでいるようだった。世人の笑いを懼(おそ)れ、日々鬱々になりとうとう病死してしまった。 (石上の中納言のみ気弱になり日日鬱々のまま死んでしまったとあるのも何らかの裏意味があると窺うべきであろう。中納言は他の方に較べて物入りしなかったが一番慘(むご)い目に遭ったことになる。中納言の様は石上家のそれでもあるように思われる。そういう隠喩が込められているように思われる) かぐや姫、このことを聞いて慰め歌って曰く、 「年を經て浪立たず 住江(すみのえ)の松は何処にあらむ 子安貝得ずと聞き思う」(經年浪不立 訊杳住江松不待 聞是不得子安貝)(「年を經て浪立たちよらぬ住江(すみのえ)の 末(まつ)貝無しと聞くは真ことか」) かぐや姫の慰めを聞いた中納言は、身体(からだ)は弱り床に伏し頭を上げるのも難しかったが、紙を取れと命じ、心中の苦悶を詠んで曰く、 「労したものの貝を得ず 今かぐや姫の一言を得 慰みの良薬とぞ けだし身の救い難しのみ恨み残る」(徒勞不得貝 得汝一言如良藥 只恨殘身難為救)(「かひは斯くありけるものを侘び果てて死ぬる命を救ひやはせぬ」) 中納言は、書き終えるやそのまま死んでしまった。こうして石上の中納言が五番目の撃沈者となった。これにより五人衆は皆思いを遂げられなかったことになる。かぐや姫は、これを聞き少し哀しんだ。かぐや姫の哀しみを貰った中納言は甲斐を得た。これにより歓びごとを甲斐有りと云うようになった。 (石上の中納言は、前四者と違い自ら本物を得んとして危険を冒し、転落して腰の骨を折り、これが元で病に伏し、未練のまま病没したことになる。このことにどういう寓意があるのかは分からない) (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評698 | れんだいこ | 2010/03/27 20:37 |
八、御帝とかぐや姫の巻 御帝は、かぐや姫が世に並ぶもののない傾国の美人であるとの噂を聞き、内侍(ないし)の中臣の房子に詔して曰く、「多くのそれなりの男たる者を慕わせた挙句に惑わし狂わせたかぐや姫の話を聞いた。誰も結婚することができないと云う。いかなる姫なるか見てきて欲しい」。 (内侍は、後宮十二司のひとつである内侍司(ないしつかさ)に所属する女官を指す。従五位相当の掌侍(ないしのじょう)(官職は上から「かみ→すけ→じょう→さかん」)ではないかとされる) 内侍は承りて辞去し翁の屋敷に出向いた。翁は、畏(かしこ)まって請じ入れた。内侍、嫗に曰く、「御帝が、かぐや姫の容姿(みめかたち)をこと細かく見て参れとの仰せです。こういう次第でやって参りました」。嫗曰く、「暫しお待ちください。その由を伝えて参ります」。嫗はかぐや姫に向かって曰く、「急いで御使いの方と対面しなさい」。かぐや姫曰く、「私の容姿は品定めされるほどのものではありません。器量比較されるなど嫌でございます」。嫗が怒って曰く、「失礼なことを云いなさんな。帝の御使いが来ておられるのですぞ。疎かにするものではありません」。かぐや姫曰く、「帝が召しておられるような御方とお会いするのは恐れ多いことです」。こうして、どうしても会見に出向こうとしなかった。 嫗が内侍に曰く、「長年養って参りましたが、未だ外へ出たことがなく、今も催促しましたが恥ずかしげにしております。嫗が強く責め立てましたが、恥ずかしいなどと申して出て参りません。この乙女子は少し変わったところがあり世間の常識を知りません。そういう訳ですのであきらめてくださりますか」。内侍曰く、「御帝がわざわざ必ず見て參れとの仰せです。見ぬままに帰る訳には参りません。国主の命令に従わないとはあまりにもな不心得というものです」。続けて曰く、「国主の令に逆らえば命がなくなることもお覚悟しておいてください。すぐに帰って顛末(てんまつ)を奏上致します。追って沙汰があるでせう」。 内侍の報告を受けた御帝曰く、「許し難い。こういう態度は死刑に値しようぞ。但し、今しばらくの間は措置をせずそのままにしておく」。御帝は、かぐや姫が何を考えているのか、何か謀(はか)りごとがあるのか、逆にこのことが気に掛かり始めた。竹取の翁を召して曰く、「汝が抱えているかぐや姫をつれて来い。みめ形良いと聞き御使いを遣わしたが、会うことさえできなかった。無礼にもほどがある。どういう育て方をしているのか」。 畏まりながら翁曰く、「この乙女子は、みんなが憧れる宮仕えを願わず、そういう気持ちさえないようです。私も持て余しております。帰ってもう一度強く勧めてみませう」。御帝曰く、「翁が手塩にかけて育てたと云うのに、汝の言うことをきかないとは親知らずなことよ。しかしながら云い置く。この女をもし宮仕えさせたことならば、翁に冠位を授けよう。何とかせよ」。翁は喜んで家に帰り、かぐや姫に曰く、「ここに御帝の詔が下った。宮仕えの儀承知か否か」。かぐや姫曰く、「私は、宮仕えさせて貰う気持ちはありません。これを強いて勧めるのならば居なくなりませう。或いは、父上が冠を頂いた後に死んでしまいませう」。 翁は慌(あわ)てて曰く、「滅相(めっそう)もないことを云いなさんな。冠位と引き替えに我が子を失うのでは貰っても意味がない。それにしても、なぜそんなに宮仕えを嫌がるのじゃ。どうしても死ぬほど嫌なのか」。かぐや姫曰く、「もし私の云うことに疑いあれば、宮仕えの後、私の生死がはっきりするでせう。その昔、日々私を求める者が居ましたが、結局は願い叶わぬことになりました。御帝の詔に靡(なび)くとならば、今までの方に申し訳ありません。辻褄が合わなくなります。天下の笑い物になるでせう」。翁曰く、「朕の命令は天下の大事。翁には恐れ多い。お前の命が危ないのじゃ。これから再び参り、お前が頑(かたく)なに宮仕え願わぬ気持ちをよしなに伝えよう」。 御帝の前に参り翁曰く、「詔をいただき大変恐縮しております。しかれども、この年寄りがしばしば勧めてみましたが、乙女子は宮仕えしようとしません。『宮仕えするぐらいなら、いっそのこと死んでしまいます』とまで云います。この子、実は私のところで生まれたのではありません。その昔、山中に見出した者で、どこの生まれの者か定かには分かりません。そういう訳で世離れしております」。御帝曰く、「造麿(みやっこまろ)の家は山麓に近いという。ならば朕が狩りに行くことにしよう。そこで偶然に出会うことにしたらどうだろう」。造麿曰く、「それは妙案です。乙女子が気づかないように居宅の間に居らせませう。陛下が行幸なされ、お逢いするのが良いでせう。そうすれば自然とお会いできるというものです」。 こうして、御帝は俄(にわ)かに狩りに出向くことになった。そこで、かぐや姫の屋敷に入った。屋敷は光に満ちていた。その中に乙女子一人居た。御帝はたちまちその容姿に惑い、姿をもっとつぶさに見たいと思った。御帝曰く、「これこの者よ、もっと近う寄れ」。乙女子は身を起こして逃げた。御帝は衣の袖を捕え、乙女子は袖で顔を隠した。御帝曰く、「放すものか。入宮して我に仕えよ」。かぐや姫曰く、「私の身がこの国のものならば宮仕えせよとあらば致しませう。しかれども、かりそめの身です。私を強く率いる者が居り、それ故に難しいのです」。御帝曰く、「この世に私の詔より強いものがあると云うか。ならぬならぬ、お前を連れて帰ることにする」。御帝が御輿(みこし)を寄せようとした時、かぐや姫の姿がすっと消えてしまった。 御帝は夢か幻を見ているような気持ちになった。御帝曰く、「そなたが誠に常の人ではないことが分かった。このようにされるのでは、そなたを宮中へ連れて帰ることもできぬ。ただ願わくば朕にもう一度姿を見せてくれ。そなたをもう一度見てから帰ることにしよう。朕の約束じゃ」。かぐや姫は元の姿に戻った。かぐや姫が世の常の人ではないことを知った御帝の心中は、思慕の情を更に募らせることになった。しかし、欲すれば消えるのではどうしようもなかった。この間、翁は盛大に宴を催し、御帝に仕える百官の人をもてなしていた。 御帝は約束通り去ることにした。御輿に乗った時、詩を作りかぐや姫に贈って曰く、 「帰る路の哀しさよ 空しく帰る愁い止まず かぐや姫留まり我に来ぬ故になり」(歸道是憂愁 空歸徒駕愁不止 只故姫留君不來)(「歸るさのみゆき物うく思ほえて 背きて留まるかぐや姫ゆゑ」) かぐや姫、返歌して曰く、 「葎(むぐら)が地下深く年を経て往(とどま)るように この身は已(すで)に鄙(ひな)びた陋宅に慣れおりて 金殿玉樓の居を憧れず」(葎下經年住 此身已慣鄙陋宅 金殿玉樓不冀居)(「葎はふ下にも年は經ぬる身の何かは玉の臺をも見む」) 御帝、かぐや姫の返歌に感じ入り引き返そうかと思った。その心は宮中に戻る気をなくしていた。しかしながら、近く寄せようとすると消えてしまうので、どうしようもなかった。既に夜を明しつつあった。今更引き返すこともできず、名残惜しく思いながら宮中に戻った。それからも左右の仕えの者を見にやらせたが、かぐや姫に出会える者はいなかった。 御帝はかぐや姫に恋をした。宮中の女官と比べるのに、それぞれそれなりのものとはいえ、かぐや姫と比べられるものはいなかった。心にかかり思うのはかぐや姫のことばかりとなった。御帝は一人で過しはじめ、よほどの用事でもない限り后妃とも会わなくなった。ひたすらかぐや姫に文を書き、募る思いを伝えた。かぐや姫も、御帝の思いに応え始め歌を返した。この間、魚が泳ぎ行き、燕が往復した。御帝は四季の移り変わりのまにまに季節の趣の詩を作り歌を詠みて、かぐや姫の許へつかはした。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評699 | れんだいこ | 2010/03/27 20:38 |
九、天に舞い上る明月のかぐや姫の巻 このように互いの情を慰め合ううちに三年が過ぎ、春の初め頃より、かぐや姫が美しく出ている月を仰いでは、悲しそうに物思いに耽るようになった。或る人曰く、「月の顔を見るのは忌むべきことです」。家中の者がやめさせようとしたが、ともすれば一人で眺めてはすすり泣きし始めた。 かくて七月(ふみづき)になった。かぐや姫は、十五夜の満月を見て殊更に物思いに耽っていた。近従の使用人が翁に告げて曰く、「これまでにも月の明かりに悲嘆する時がありましたが、この頃更に激しくなっております。注意して見守った方が良いですよ」。これを聞いた翁、姫に曰く、「何で物憂げに月を見るのかや。この世はこの世で素晴らしいのに、何が足りないのかや」。答えてかぐや姫曰く、「月を眺めますと、我が身と人の世の悲しさを感じ入るのです。嘆息しておりますが憂鬱と云うようなものではないのです」。 その後も、姫は月を眺めては眉をひそめ愁(うれ)いていた。これを見て翁、悩みがあるのなら、この翁に相談してみたらどうかと尋ねて曰く、「私は、そなたをいとしく思っている。そなたが痛々しく物思いに沈んでいるのを見るのが辛い」。かぐや姫曰く、「翁や世に対する憂いや患いではないのです。世の定めに思いを寄せ、寂しさのような心細さを覺えております」。翁曰く、「もはや月を見てはいけない。見るから悲しくなるのじゃ」。かぐや姫曰く、「申し訳ありませんが、月の方を眺めずにはおれません」。こうして、月が昇れば縁に出て憂いていた。夕闇の日には憂いの息はなく、臨月の月の宵には必ずすすり泣きするようになった。仕えの者が声を細めて云い合い曰く、「こうも憂い悩むからには何かあるに違いない」。けれども、両親を始めとしてその由を知らぬ者ばかりであった。 八月(はつき)が近づくようになると、姫は人目も気にせず大泣きするようになった。これを見て慌てて翁と嫗曰く、「何事ぞ」。泣き泣きかぐや姫曰く、「これまでに伝えておこうと思っておりましたが、ご両親さまが悲しむだろうと思い語ることができませんでした。今日伝えなくても、必ずその時が来ますのでお知らせします。私の身は、この世の人ではありません。実は月の都の人です。昔の契りによってこの世に降りて参りました。しかし今、帰る時に至りました。この月の十五夜の日に、かの国の人たちが迎えに来ます。このことだけは避け難いのです。ご両親様の悲嘆を思って、この春から憂いております。嘆きを止めようがないのです」。そう云って、更に泣きじゃくり始めた。 (ここで、かぐや姫が月の都の人であることが知らされる。この場合の月は、天空の日月の月と受け取るのが自然であるが、月も何らかの隠喩であるとも考えられよう) 翁曰く、「お前の云うことがさっぱり分からない。お前は、私が竹藪の中から見つけ出し、拾った時には僅かに菜種(なたね)ほどであった。それを養育し今日まで丈夫に育てて来た。何人(なにびと)が来ると云うのじゃ。誰が迎えに来ようと渡せるものか」。更に号泣し曰く、「お前がそんなに悲しむのなら、翁が死んで代われるものなら死んで見せようぞ」。このやり取りの情景は悲しく堪え難いものであった。かぐや姫曰く、「月の都にも父母がおります。月の国を離れ、片時の間をこの世の人となりました。今、千秋の思いで月の国の父母が待ちわびております。月の都の人は容貌端麗にして不老不死、憂苦がありません。訳あってこの世に下り、親を知り、大切に育てられ、情けを通わせていただきました。まもなく故国へ帰りますが後ろ髪引かれる思いです。しかし帰ることになります。これは、どうにもならない定めなのです」。こう言って涙を流し続けた。使用人等も数年共に暮らし、既にかぐや姫と情を通わせており、その美しさ、気品、心根の優しさを敬愛していた。今別離の時となるや悲しみ抑え難く、翁嫗と同じ気持ちで悲嘆した。 御帝が、これを聞きつけ、使いの者を遣わして来た。翁が出迎えた。御帝の詔を伝えて使いの者曰く、「聞くところによると憂いの極みということになるがまことか」。翁は、かぐや姫から聞かされた由(よし)を伝えた。使いの者はこれを聞き、共に泣きやむことができなかった。翁は余りにも哀嘆していたのでまたたく間に老け、髮が真っ白になり、腰が屈み、目がただれ、老人そのままの格好になっていた。泣く泣く翁曰く、「今月十五夜の日、月の都の使いがかぐや姫を迎えにやって来ます。こうなったら、皇尊に助けてもらうしかありません。兵馬を差し向けていただき、十五夜の日に来ると云う月の都の人を捕まえるしかありません」。 使いの者は帰参し、御帝に翁の要請を伝えた。これを聞いて御帝曰く、「朕唯うに、一度の面識でしかないのに、あれ以来かぐや姫の事が忘れられない。こたび翁が朝な夕なに、かぐや姫が月の都に取られてしまうことを嘆いている。かく知った以上、居ても立ってもおられない」。十五夜の月、御帝詔して、敕使として高野大国為近衛少將を派遣し、六衛の司を合わせて二千人を竹取の翁邸に遣わした。屋敷に陣地を作り、築地の上に千人、屋の上に千人を配置した。家の中の使用人等もひとまとめにさせ輪番にさせた。守備を厳重にし、要所要所に守人として弓矢持ちを配置した。嫗はかぐや姫を擁し、身を塗り籠に隱した。翁が籠に鎖をして閉じ込めた。 翁曰く、「これほどに厳重に守備した以上、天の人に負けることはなかろう」。屋の上に居る守人に曰く、「空を翔(かけ)るものを見たら、大小に関わりなく射殺してしまえ」。守人等曰く、「これほど厳重に守っているからには、蝙蝠(こうもり)一匹さえ見つけ次第に射殺して見せませう。ご心配ご無用です」。これを聞いて翁は頼もしく思い心安らかになった。しかし、かぐや姫曰く、「例えどんなに厳重にしても、幾ら謀りごとをしても、月の国の人と戦って勝つことはできません。弓矢を射ても当たらず、深き鎖に閉じ込めても錠を開けることになるでせう。戦(いくさ)しようとしても月の国の勇者が気圧して戦にならないでせう。挑む人は居なくなるでせう」。 これを聞いて翁憤って曰く、「迎えの人が来れば、私の長い爪でその両目を掻きむしってやる。その髪を取って宙に舞わせ、その尻を晒して皆の者どもに見せて恥さらしさせようぞ」。かぐや姫曰く、「そのようなはしたないことを云われませぬよう。屋の上に居る人にも聞こえてしまいます。それはそれとして、養育賜わりました恩を報わぬまま突然帰ることになりますが残念でたまりません。今日まで長らくお育ていただきましたが、愉(たの)しかったうたかたの日々を忘れません。私は、日が出る頃にはお暇することになるでせう。ご両親様は穏やかでは居られないでせうが、それを思うと私も辛いです。衰老の両親の下を去りますことがとても悲しいのですが、両親さまにおかれましては、別離の悲しみをいつまでも引きずられませぬように」。起ちて憤慨して翁曰く、「胸が痛くなるようなことを二度と云うな。迎えの使いが来ても、それがどうした。何の関係もない」。 かゝるうちに宵の刻が過ぎ、子(ね)の時ばかりになった時、家の周りに光が発し昼の明るさになった。望月の明るさを十合せたようになり人の毛の穴さえ見えるほどになった。大空より、人が雲に乗りて降り来て、地より五尺ばかりあがったところに立ち連なった。内外(うちそと)に詰めていた兵士等の心は、ものに襲われたかのようになり、戦う気持ちを失ってしまった。一刻後、思い直して弓矢を射ようとしたが、手に力がなくなり痿(な)え屈(かがま)ってしまった。剛の者が射たが的をはずれ、あらぬ方向へ飛んで行ってまった。何とも戦するどころではなく皆正気を失い、恍惚の様子で言葉を失ったまま天人(あまびと)たちの様子を見ていた。 天人の立てる人どもの裝束は清らで、この世のどんな物にも似ていなかった。飛ぶ車を一つ具していた。その上に羅蓋を掛けていた。天人の中の王者と思われる容貌の人が前に進み出て曰く、「この家に居る造麿、出て来てくだされ」。それまで意気軒昂に猛っていた造麿は、ものに醉うたような気持ちになり、うつぶせに地に伏し拝した。天人宣りて曰く、「愚かなるかな翁、弁(わきま)えよ、翁が功徳の人であるのを見染め、かぐや姫を片時の程降らせた。この間の数年、汝には黄金を与えて財産とさせた。これにより汝の境遇は変わり豊かに恵まれたはずである。かぐや姫は罪をつくったので、かく賤しきおのれが許にしばしの間居ることになった。しかし今罪の期限が来たので迎えに来ている。翁が泣きわめけどもどうしようもないことである。早く返すように」。 応えて翁申す、「私は、かぐや姫を養ひ奉ること二十年余りになっております。片時と仰せなされるが、そうではありません。ひょっとしてよそにもかぐや姫と申す者がおるのではないでせうか。ここに居るかぐや姫は今重き病をしており、出てくることはできません」。天人答えず、屋の上に飛ぶ車を寄せて曰く、「いざ、かぐや姫、穢(きたな)き所に何で久しく居ようとするのか」。 立て籠めたる戸が自然に開き、人の手を借りぬのに格子が開いた。嫗が抱いていたかぐや姫がすっと外に出た。嫗は、止めることができなかったので天を仰いで泣いた。翁も何もできず地面に泣き伏せていた。かぐや姫、翁の傍に寄りて曰く、「不本意でありますが帰ります。せめて天に昇るところでも見送ってください」。翁、泣き続けたまま曰く、「こんなに悲しいのに何で見送りなぞできようぞ。私をなぜこのように捨てて昇りなされるのか。いっそのこと一緒に連れて参ってくれぬか」。かぐや姫曰く、「文を書き遺して辞去します。私を恋しくなった折々に取りだしてお読みくださいませ」。泣きながら書く言葉は、「私は、この世に生を受ける身ならば嫌と云うまで一緒に居りますものを、途中でお別れすることが返す返すも残念です。私が脱ぎ置きます衣を形見と思ってください。月の出た夜に御覧下さいませ。親を見捨てて辞去する空より落ちて参ろうかという気持ちになると思います」。 天人の中に持たせていた箱があり、天の羽衣を入れた。それに加えて不死の薬も入れた。天人曰く、「壺の中の御薬をいただきなさい。きたなき所のもの食べていたので心地が良くなかろうぞ」。そう云って薬の壺を差しだした。かぐや姫、少し嘗(な)めて、形見として脱ぎおいた衣に包もうとした。天人包ませず御衣をとり出でて着せようとした。その時にかぐや姫曰く、「しばしお待ちくだされ。衣を着てしまうと心が別なものになります。一言云い置きたいことがあります」。文を書き始めた。天人、「遅い」と催促し始めた。かぐや姫曰く、「もの分かりのないことを云われますな」。 こうして、靜かに落ちついて御帝に御文を書き始めた。認めた文に曰く、「このように数多くの兵士を警護していただきましたが、どうにもならない迎えが来ましたので、とり急ぎ罷ることになりましたことを残念に思います。結局、宮仕えできませんでしたのも、こういう複雑な身の上によるからです。そういう事情が分からぬまま私を慕っていただきましたが、お断りしました非礼をお詫び申し上げます。このことが心残りです」。和歌を一首付けて曰く、 「人の世を久しく待てず 月に昇らんとして天の羽衣著る折ぞ 帝君憶(おも)えば心哀しきばかりなり」(人世不久待 著天羽衣將昇月 憶及帝君心可哀)(「今はとて天の羽衣著るをりぞ 君を哀れと思ひ出でぬる」) 壺の藥を添えて、書信を中に置いた。天人受取り、頭中將を呼び寄せて渡した。頭中將受け取りの後、天人はかぐや姫の身を羽衣でおおった。かぐや姫、これを着る。翁は悲しく泣き喚いた。かぐや姫は車に乗り、天人百名と共に天に昇った。虹を道として月の都へ帰って行った。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評700 | れんだいこ | 2010/03/27 20:40 |
十、不死の山の富士の岳の巻 その後、老翁と老嫗は血の涙を流して悲嘆にくれた。かぐや姫の書信を聞いて曰く、「何も手につかない。命も惜しくない。誰にも用もない。何もかも意味がなく生きる気力がなくなってしまった」。二人は、これ以上生きることを求めず、薬も飲まず、やがて病み伏せるようになってしまった。中将は、兵士どもを引き連れて内裏へ帰参し、戦をせずしてかぐや姫を留めることができなかった顛末(てんまつ)をるる言い訳した。不死の薬の壺に書信を添えて、御帝に差し上げた。御帝は、文を御覧になって、しみじみと泣いて悲しみ、お食事も召し上がらず、管弦のお遊びなどもなさらなくなった。 或る日、御帝は、大臣、顯達部(かんだちめ)をお召しになり曰く、「天に一番近い山はどの山か」。或る人申して曰く、「駿河の国にある山が、この都からも近く、天にも近うございます」。これを聞き、御帝、嘆息して詠んだ。 「佳(よ)き人に二度と逢えず 断腸の涙に浮かぶ我身には 不死の藥も何の益あらむ」(佳人不復逢 我身斷腸淚涕下 不死之藥焉何益)(「逢ふことも涙に浮ぶ我が身には死なぬ藥も何にかはせむ」) 御帝、調岩笠(つきのいはかさ)と云う人を勅使に召して、駿河の国にあるという山の巓(いただき)に向かうよう命じられた。かぐや姫から貰った不死の藥の壺に御文を添えて渡し、峰にてすべき次第を教え、御文、不死の薬の壺を並べて火をつけてもやすべき旨を詔(みことのり)した。勅使これを承(うけたまわ)り、大勢の兵士(つはものども)を連れて山へ登った。山頂で教えられた通りの行事を執り行った。これにより、この山は不死の山と名づけられ、後に富士の名となる。その煙は今でも雲の中に天まで立ち上り、永遠にやむことなしと云う。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評701 | れんだいこ | 2010/03/28 20:55 |
【小沢パッシングの政治的考察】 2010年3月現在の政局に於いて、小沢パッシングが引き続きやまない。この背景をどう読みとるべきだろうか。誰か、これを的確に捉えられる者が居るだろうか。れんだいこは、れんだいこ史観を媒介せずには解けないと思っている。れんだいこ史観は、それほどに時代を捉えている。とまぁ自画自賛しておこうふふふ。れんだいこはこれまで何度か言及しているが再言及し公にしておく。 小沢パッシングの背景には実は、戦後日本政治の二大基調即ち現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義配下の戦後系タカ派と、大東亜戦争敗戦後の戦後日本再建過程で台頭した在地土着的権力型の戦後系ハト派との抗争がある。前者を最も代表するのが中曽根-小泉派であり後者を代表するのが角栄-小沢派である。歴史の摩訶不思議なところで、角栄と中曽根、小沢と小泉は同年ないしはそれに近い。こう述べると、小沢パッシングの政治的背景は既に半ば回答されたようなものである。 この観点からトレースすると、小沢パッシング派の震源地は国際金融資本帝国主義ということになる。太田龍史観によれば、ロスチャイルド派国際金融資本こそが司令塔と云うことになる。自民党は既に国際金融資本の走狗の巣窟になってしまっている。民主党内の約半数も誼(よしみ)を通じている。新聞テレビの報道系も然りで、言論大砲と位置づけられて呼応している。テレビに登場するコメンテーターの多くは言論売春派であり、為にする批判を性懲りもなく続けている。東京地検特捜部を先頭とする検察司法も然りである。なぜこういう現象が起こるのかというと、己の能力器量を弁えぬ自己顕示的立身出世主義による。そうとしか考えられない。俗に売国奴と云う。小沢を評する視角は実際にはもっと多義的であろうが、れんだいこは、上述の観点こそが核心であると思っている。 中曽根-小泉派的シオニスタン政治には興味ないので割愛し、角栄-小沢派の在地土着的政治の真髄を確認しておく。小沢は衆知の通り角栄の一番弟子であるからして、小沢政治を語るには角栄政治を語った方が分かり易い。角栄政治とはどういうものだっのか、これを確認しておく。 戦後日本は大東亜戦争の敗戦から始まった。当然のことながら、戦勝国側の国際金融資本は、戦後日本の籠絡を策した。戦後日本が国際金融資本に二度と立ち向かうことのないよう軍事、政治、経済、文化戦線にあらゆる仕掛けを施した。この限りで、右翼が云うところの民族主義基盤の喪失は当たっている。しかし、その右翼も過半は国際金融資本に金で久しく飼われている。これが戦後系右翼の実態である。児玉-笹川ライン系にその色が強い。暴力団系も然りである。 他方、この仕組みながら、戦後日本は奇跡的な復興を果たし、続いて高度経済成長の波に乗り、自主国家の道を歩み始めた。1960年代後半がこれに当たる。全共闘運動の華やかな頃である。あれは日本型紅衛兵運動であった。裏で操っていたのは在地土着的政治派だったかも知れぬ。この頃のアメリカはベトナム戦争に足を取られ、国力を疲弊させつつあった。その間、日本はほぼ無傷で経済成長を謳歌しつつあった。日本の奇跡的な戦後復興を、ネオシオニズム派シオニスタンは日米軍事同盟のお陰と評しているが、れんだいこは違うと見立てている。戦後日本は、日米軍事同盟のくびき下にも拘わらず、その従属構造を突き破る勢いで目覚ましい発展を遂げたと評するべきではなかろうか。 その政治は、1970年代初頭の田中角栄政権の誕生でもって頂点に達した。田中政権は、戦後日本史上初めて国際金融資本のコントロールの効きにくい政権として登場した。なぜなら、首相の角栄自身が在地土着生粋型の有能政治家であり、その政権ブレーンがことごとくその類(たぐい)であったからである。案の定、田中政権は就任早々日中国交回復に向かい、その勢いでソ連との経済交流にも向かい始めた。田中政権時代の日本は、日米同盟下ながらアジアの雄としての日本型共栄圏を形成して行く動きを見せていた。日本左派運動は、この動きを日帝の新たな海外侵略と評して批判的に捉える向きがあるが、色メガネが濃過ぎ過ぎよう。事実は、それほどまでに旺盛な経済活動をし始めていたと云うことであろう。経済進出は必ずしも帝国主義化するとは限るまい。 田中政権時代、そういう外交外治のみならず国内政治においても日本列島改造政策で更なる国土の均衡的発展に向かいつつあった。今から思えば立派な都市と農村の共存政策である。間違っても地方切り捨てに派向かわない。貧富の格差も縮小傾向に向かい始めていた。更に世界が羨望する流通ネットワークを構築し始めていた。党人派系の角栄派は、官僚派の大平派と提携して政界をますます壟断しようとしていた。こうなるとコントロールの効かない日本が生まれることが必至であった。 こう解けば、角栄政治が何故にパッシングされたのかはっきり見えて来よう。国際金融資本帝国主義&ネオシオニズム派は角栄の指導能力を恐れ、これ以上日本の台頭を許さない戦略を練った。田中政権は、立花隆-文芸春秋連合による金脈批判で狼煙を上げ、外人記者クラブでの執拗な追及で加速させ、フォード大統領訪日の儀式を経て退陣を余儀なくされた。しかし、角栄がその能力のしからしめるところ、その後も隠然とした権力を保持し続けたことにより、これを葬る戦略が練られた。こうしてロッキード事件が勃発する。 では、角栄政治とはどういうものであったのか、これを確認しておく。れんだいこは、吉田学校系譜の政治のうち、特に池田-角栄-大平政治の流れを、日共、社会-社民、新左翼らの表見左翼と違い、本質的に左派政治と見る。つまり、丁度、日共の偽装左翼とは真反対になるが、自民党と云う保守系政党を基盤にしていながら本質的に左派政治を特徴していたと見る。政治のねじれであるが、政治が高等な故にこういう現象はまま起こり得ると思う。 角栄政治の実際は、左派政治と云うよりも伝統的な大和王朝前に善政を敷いていたと思われる出雲-三輪王朝時代の大国主命政治になぞらえた方がよりピッタリする。角栄派は、はるか昔の大国主命政治を戦後日本政治史に具現化させようとした。それは、戦後憲法と相俟(ま)って馬力を増した。戦後憲法は、その制定過程でとかくの論議があるが、結果的に日本古来よりの伝統的合議制政治と調和しており、世界史上に稀なる秀逸な憲法足り得ている。角栄政治は、戦後憲法の指針する政治を誰よりも強く目指し、これを与党的責任政治の立場から遂行した。ここに角栄政治の白眉性がある。国内的には池田政治以来の高度経済成長路線を、国外的には日米軍事同盟のくびき下ながら国際協調路線を切り開いた。これを仮にハト派系自民党政治と命名する。 ここに真っ当な歴史家が居れば、ハト派系自民党政治は絶賛されるべきものであった。日本政治史上稀なる在地土着的な左派系政治であり且つ責任与党政治であった。この政治は、吉田学校から出自し、池田政権を経て角栄政権の時に絶頂に達した。日本は「ツモローイズ№1」の域まで成長発展した。これを、世界は日本型社会主義の成功と評価する向きがある。その後、ソ連邦、東欧社会主義が崩壊しても、社会主義の理想が崩れなかったのは、戦後日本の成功事例による。今失って分かることは、教育、登用、雇用、保険、年金、医療等々、これみな日本型社会主義の賜物ではなかったか。 時の米国政権を牛耳っていたキッシンジャー国務長官は、日本のこうした自立化を許さなかった。当然、国際金融資本帝国主義奥の院の指令によるものであろうが、再度日本籠絡シナリオを組み立て直した。彼らの走狗と化し、日頃手なづけていた勢力を糾合総動員し、角栄政治の解体一掃に向かわせた。世にこれを対角栄金権批判、ロッキード事件と云う。これがまんまと成功し、以来、当時の保守本流主流派であった与党系ハト派が掣肘され始めた。 この時、日本左派運動は左から呼応している。それは、日本左派運動も又国際金融資本帝国主義の走狗でしかないという裏舞台を垣間見せたことになる。もう一つ、日本左派運動各派は手前らの表見左翼ぶりが露見し無用の長物とされることを危惧したのかも知れない。特に日共が出張り続けたことが記憶に新しい。こう問う者が少ないが、れんだいこはこの見方に自信を持っている。 その結果、角栄政治は、左右両翼から攻撃され続け、直接的には東京地検特捜部の法を曲げてまでの強権立件国策捜査によりはがい締めされ、公判闘争に耽らざるを得なくなった。ここに、国際金融資本の鉄の意思を見てとるのは、れんだいこだけだろうか。国際金融資本の思惑通りに三木-福田を経て1980年代初頭、中曽根政権が誕生し与党系タカ派の主流派時代へと転じることになった。そのなれの果てが森-小泉-安倍-福田の清和会政権であった。以降の日本の姿が今日の日本の姿である。このタカ派系譜によって、国債が刷り抜かれ、今日的惨状を呈していることも見ておく必要がある。角栄は、何度も大蔵大臣を務めているが国債発行に手を染めていない。この禁を犯したのは福田蔵相である。三木が加速させ、中曽根が今日の垂れ流しの遠因を作っている。軍事防衛費の流れもほぼこれに即応している。 小沢は何故に執拗にパッシングされ続けるのか。既に述べた中に答がある。小沢は、失われたハト派系自民党政治の再興を夢見ている。ここに小沢の有能さがあり、ここに小沢パッシングの真因がある。こう窺うべきではなかろうか。してみれば、小沢パッシングはまさに政治そのものであり暗闘していることが分かる。政治資金規正法違反云々なぞ口実に過ぎず、小沢潰しの一材料に過ぎぬ。口をきわめてののしるコメンテータを見つけたら、売文売口芸者と思えば分かろう。 その小沢は、1990年代半ば細川政権を樹立し、国際金融資本帝国主義の走狗政治に闘いを挑んでいる。但し、この時は内部瓦解させられた。以来雌伏20年、昨2009年政変で鳩山政権を樹立した。自民党の余りにもお粗末にして小粒な政治家ばかりという貧相化に助けられ、且つ直前の余りにもお粗末な清和会政治に助けられた面があるが、こたびは圧倒的な衆議院議席差となり勝利を呼び込んだ。昨年の衆院選は歴史の摩訶不思議の一つに挙げられるに値する。 しかしながら、鳩山政権は、選挙前の公約を空証文化させつつある。それもその筈で、当の鳩山首相自体が国際金融資本帝国主義の御用聞きに向かっているのか、小沢政治と一蓮托生しているのか見定めがたいところがあり、これにより民主党政権を誕生させた人民大衆は困惑と失望を余儀なくされている。普天間基地問題その他その他で、まもなく鳩山政治の本質が露呈しよう。「トラストミー」が国際金融資本に対してのものか日本人民大衆に向けてのもかが否応なくはっきりしよう。 この折柄、国際金融資本帝国主義は、次にどういう手を打ってくるのだろうか。もはや自民党は見限られた感がある。なぜなら、長年のシオニスタン化後遺症で総理総裁の器の者は居ない。そういう理由で、何とかして民主党の母屋を乗っ取ろうとする戦略に出てくる筈である。その障害になるのが小沢であり、小沢潰しのためなら何でもありの強権発動することは十分考えられる。目下進行形は、東京地検特捜部を使っての金権批判且つ政治資金訴追の動きである。しかし第一ラウンドは失敗した。次の手として、民主党内の走狗を結集させ小沢追放を執拗に策動しつつある。これに失敗すると次はどういう手で来るのだろうか。我々は固唾をのんで見守るしかない。これが小沢パッシングの政治的背景である。れんだいこはかく考えている。これを小沢政治論の基軸に据えたい。以上、簡略に説明しておく。 しかし、こう捉えない評論家の一人に森田実が居る。このブント右派は昔もそうだったが今も変わらない。人と云う者は幾ら勉強しても知識を増すだけで、れんだいこも含め一度確立した観点はなかなか変わらないものだとつくづく思う。れんだいこ的には、同じブントでも、島さんなら生田さんならどう対応するのだろうかと思う。島さんはそこそこ生きたが、生田氏の変な死に方が気になってしようがない。それはともかく、ブントの頭脳が老いても意気盛んなのが面白い。若いころデモで鍛えたので今も健脚揃いだとかふふふ。 2010.3.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評702 | れんだいこ | 2010/04/04 21:16 |
【「砂川訴訟に於ける日米司法取り決め謀議」考】
2010.4.2日、外務省は、1959年の「砂川事件伊達判決」直後の駐日米大使・マッカーサーによる訴訟指揮問題に関する機密文書を開示した。これを仮に「砂川訴訟に於ける日米司法取り決め謀議」と命名する。 開示を求めていたのは、同事件の被告及び支援者グループである。2008.4月、国際問題研究ジャーナリスト新原昭治氏が、アメリカの公文書図書館で「砂川訴訟に於ける日米司法取り決め謀議」に関する機密文書「伊達判決を早期に破棄させるため、当時の駐日アメリカ大使マッカーサーが、日本の外務大臣、法務大臣、最高裁長官と密談を重ねた公文書14通」を発見した。これを受け、砂川事件の被告達が情報公開請求を行っていた。 昨年9月の総選挙により民主党政権が登場し、岡田外相が一連の日米密約の調査を指示したことで、外務省は「関連文書不存在」としていた従来の姿勢を翻し公開を余儀なくされた。旧自公政権はこれまでこの種の情報を秘匿することに政治力を発揮した。これを思えば、遅まきながらの政権交代効果であろう。 この問題の由々しさは、米国のあからさまな司法介入ぶり、最高裁長官がこれに唯々諾々したことにある。れんだいこは、この問題をなぜ重視するのか。それは、最高裁が、砂川事件のみならず政局絡みの重要案件に於いて「司法権の独立を内部溶解させる」この種の事例を地下ルール化しているのではなかろうかと推測するからである。こたびは田中耕太郎最高裁長官が槍玉に挙がったが、果たして田中氏だけのことだろうか。「伊達判決問題に於ける日米当局の謀議」は氷山の一角ではなかろうかと思うからである。その意味で、これをスクープしたジャーナリスト新原昭治氏の功績、これを情報公開させた岡田外相の政治能力は高く評価されるべきだと考える。 以下、れんだいこならではの日共問題に関する気づきを開陳する。不快の者は読まぬが良かろう。日共がこたび、「伊達判決直後の日米司法取り決め謀議問題」をそれなりに採り上げ、これを批判する立場からの記事を発信しているのは正しい。読売、産経がどう評論したのか分からないが、マスコミが健全ならば「司法権の独立内部溶解問題」として論説すべきであろう。その意味で、そのように問うた赤旗評論に問題はない。 問題は、日共―赤旗が、同種案件と思われる「ロッキード事件問題に於ける日米司法取り決め謀議問題」についてどういう態度を執っているのかにある。砂川事件に見せる論法によれば当然に問題視して批判すべきだろう。ところが実際には、前者では批判するが、後者では何ら問題視せず、むしろ検察司法当局の国策捜査の上前を行く角栄批判に興じた経緯がある。最近の小沢キード事件問題も然りで、「当局が首根っ子を押えている間に下の急所を蹴り上げる」なる珍妙な日共―検察がっぷり提携論を唱えつつ小沢批判を口上していた。 なぜこういうことになるのだろうか。これをどう窺うべきだろうか。日共の変質と窺うべきだろうか。さほどでもない案件に対しては左派ぶり、由々しき事態に対しては左派衣装をかなぐり捨て当局との裏提携をも恥じないと窺うべきではなかろうか。こう窺うとしたなら、そういう日共の変質由来を尋ねるべきではなかろうか。ところが、こう尋ねる人士は異常に少ない。れんだいこの知るところ、サイト「社会主義、共産党問題を考える」を主宰している宮地健一氏ぐらいのものである。 (ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm) 多くの者は、日共の路線的誤りを指摘して悦に浸っている。確信犯的に誤り路線を指導している党中央には何らの痛打を与えないと云うのに。 れんだいこは、こういう関心から戦後日本左派運動史をサイト化している。まだまだ未完の段階でしかないが、既にいろんな場面、箇所で六全協以来の共産党の日共化問題を考察している。この研究成果から判明することは、既成市井の論文は資料的に値打ちが認められるものもあるが、判断が問われる局面になると全くいただけないものばかりでしかないということである。よって、学ぶも良し学ばぬも良しということになる。下手に学ぶと却って真相が曇らされることになる。 しかし、いつまでもそういう按配では良くなかろうという観点から、れんだいこがコツコツと書き上げつつある。そのうち寿命のお迎えが来るから、どこまで研究が進むのかは心もとない。しかしながら、確実な情報に依拠しない限り適正な判断は生まれないと思うから、死ぬまで続けるつもりである。現状のような共産党は共産党である訳がない、気持ちが悪いほどだ。日本人民大衆は左バネをもたぬまま生活に呻吟しており、それはれんだいこも含めて可哀そうと思うからである。 それを読んで合点する者が居られれば良い。どなたかの為になればという思いからサイトアップしている。どうぞ活用くだされ。ご意見あれば聞かせてくだされ。 「戦後政治史検証」(旧題・日本共産党戦後党史の研究(一) (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi /sengoseijishico/index.htm) 「戦後学生運動」考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/) 「砂川事件最高裁判決に於ける日米密談漏洩事件考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/sunagawatoso/sunagawatoso.htm) 2010.4.4日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評703 | れんだいこ | 2010/04/06 20:01 |
【植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申す】 「植草一秀の『知られざる真実』」の2010.4.5日付けブログは、「企業献金全面禁止反対の政党は金権党である」と題して、企業献金禁止論に言及している。れんだいこは、植草氏の論考には日頃学ばせていただくこと頻りなのだが、こたびの論には首肯し難いのでコメントしておく。 (ttp://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-fad5.html) 植草氏は、戦後政治を主導してきた自民党の政治手法が「官僚、大資本、米国」に依存し、マスメディアをも含む利権複合体を形成してきたと分析している。この仕組みを「政官業外電の悪徳ペンタゴン」と呼んでいる。ここまでは良い。その上で「企業献金諸悪の根源論」を唱えている。ここがオカシイ。 ペンタゴン批判と「企業献金諸悪の根源論」は必ずしも一致しない。「企業献金諸悪の根源論」は一見尤もな指摘のようだが同調し難い。政治資金の実際には企業献金、業界献金、団体献金が考えられる。植草氏が企業献金だけを批判しているのか、企業献金、業界献金、団体献金を纏めて企業献金として一括して批判しているのかはっきりしないが、どちらにしてもこの種の論は臭い。 なぜなら、幾ら企業、業界、団体献金を禁止しても政治にカネがかかる現実までは変えられまい。だとすれば、問題はあくまでカネがかかる政治構造の方にあり、それを踏まえてどう調達しどう政治するのかが問われているのではあるまいか。どうしても企業、業界、団体献金を禁止するのなら、その代わりの政治資金調達対案を出さない限り意味を為さないのではなかろうか。 植草氏のこたびのブログは、その対案を出さぬ代わりに「みんなの党批判」にすり替えているように見える。「みんなの党批判」はこの脈絡ですべきではないのではなかろうか。れんだいこには、そこが解せない。論旨が直続しないのだ。植草氏は実践的な対案を出さないまま、「政治の刷新にとって、何よりも重要なことは、大資本=企業のための政治を打破し、一般市民=主権者国民のための政治を実現することである」と述べている。これは日共式のキレイ潔癖型衛生論に過ぎない。衛生論というものは概して一見正当なようで、本質的に反動的な害悪理論である場合が多い。これについては後で述べる。 植草氏は次のように述べている。「企業献金を全面禁止して政治を一般市民のためのものに純化することは、社会主義化を意味しない。日本国憲法の参政権の規定を純粋に解釈するなら、本来、企業献金は成人一人一票の参政権の基礎を歪めるものであり、認められるべきものでないのだ。企業献金を認めないと金持ちしか政治家になれないとの反論があるが、企業献金を全面禁止したうえで、お金持ちでなくても政治家になれる道筋を確保するための制度を検討して導入すればよいだけのことだ」。 この論調は少々歯切れが悪い。もっと歯に衣を着せずに云うべきだ。企業団体献金を禁止するとならば、残るのは市民一人一人の政治献金しかない。政治は市民一人一人の政治献金によってのみ担われるべきだと主張すれば良い。しかし、自由自律なアトム的市民を想定しての政治論は机上の空論に過ぎない。植草氏が一党一派を立ち上げれば直ぐに分かる話だが、「市民一人一人の政治献金」によって政治活動費が賄われるのかどうか。消費税反対を叫ぶ連中が消費税以上の政治カンパを要求される仕組みの愚劣さを思いやってみれば良い。 こういう場合、政治家ないしは政治活動を他人ごとにせず、もし自分が担うことになった場合を想定して考えれば良い。先立つものはやはりカネなのだ。自分は評論活動に徹しており政治活動を担わないので知ったことではないというのでは無責任の誹(そし)りをうけよう。政治言論は実際に有効に機能するものでなくては意味を為さない。植草氏が企業団体献金禁止論を声高にする以上、「お金持ちでなくても政治家になれる道筋を確保するための確かな制度」を具体的に提起せねばなるまい。 植草氏は次のように述べている。「『政治とカネ』の問題が取り上げられ続けてきたが、この問題の根幹に、大企業と政治の癒着、『カネのために政治家になる政治屋』の存在があることを忘れてならない。『脱官僚』以上に、『政治と資本の癒着』、『金権政治家の根絶』が大切なのである。『企業献金全面禁止』に反対する国会議員はすべて、程度の差はあるにせよ『金権政治家』であると見て間違いない」。 この論調で行くと、田中角栄の場合にはどうなるのだろう。日共と同じように諸悪の元凶論で批判するのだろうか。れんだいこの知るところ、角栄は、紐付きの財界からの政治献金を極力避けた。代わりに調達したのが自前調達の資金であり、刎頚の友・小佐野から借りる場合もあった。あるいは角栄が公共事業振興派であったことにより自ずと潤った業界、企業からの政治資金が集まった。あるいは旧財閥系に対抗する形で勃興しつつあった新興勢力からの政治資金が集まった。それらは強制でも受注見返りでもなかった。角栄を研究して判明することは、角栄政治を支持するいわば企業、業界、団体の自主的な政治カンパであった。ここがボンクラ政治家のそれと一味もふた味も違うところである。角栄は、この資金を潤沢にするシステムを作り上げることにより後顧の憂いなく信念に基づく政治を展開した。先ほど亡くなった佐藤昭が金庫番を務めていた越山会が取り仕切っていたのだが、れんだいこには角栄の政治活動総体が議会制民主主義下の政治家の鑑のように思える。 こういう場合、その政治資金調達方法だけを採り上げて、企業、業界、団体献金を受けているから政治家失格として、金権政治家のレッテルを貼って批判轟々するべきであろうか。植草氏がイエスと云うのなら、れんだいこの認識と根本的に交わらない。れんだいこは、政治にカネがかかる現実の下で、自己の信ずる政治を貫徹する為に必要な資金を調達する政治家は、そのことだけで批判されるべきではなく、要は彼が資金を手元にどういう政治を執り行ったのかで総合的に評価されるべきだと考える。外国勢力、財界からの紐つき政治資金と自前調達型のそれとは質的に区別されるべきだと考える。 従って、次のような結論にはならない。「この意味で、『みんなの党』が一般市民=主権者国民の側に立つ政治グループであるのかどうかを判定する基準として、『企業団体献金全面禁止に賛成』であるか否かをぜひ確かめていただきたい。『企業団体献金全面禁止』に反対する政治グループは『金権政党』であるとの基準を置いて、今後の政界再編に向けての動きを観察するべきだ」。 こういう見立ては、主観的にはどうであれ、実践的には何の役にも立たずむしろ反動的なそれでしかない。「政治に於けるカネ」は政治のダイナミズムを担保するものであり、人が空気を吸って生きているのと同じ意味で必要な政治に於ける血液のようなものである。これを絞ると政治は活力を失う。資金栓を絞るほどなるほどキレイ潔癖かも知れないが、政治家の活動域が狭まり、結果的に却って有害なものになる。それが証拠に政治資金不足で音を上げている政治家、政党、それら予備軍が五万といるではないか。その結果、補助金狙いの政治家、政治活動ばかりになっているではないか。 問題はあくまで、政治資金をどういう具合に工面するのか、工面した資金を元手にどういう政治を行うのかが問われている。出てくる結論は、個人献金良し、業界献金良し、団体献金良し、企業献金良しではなかろうか。但し、それら全てをガラス張りにせねばなるまい。故人献金なぞあって良い訳がない。政治献金隠しは悪質と認定されねばなるまい。その上で、過度の族議員化を防ぐ手立てとして上限論を設定すれば良かろう。この適正な数値を設定することこそ叡智なのではなかろうか。議論はここに向かわなければならない。この必要な議論に背を向けさせる企業団体献金全面禁止論は、この叡智に対する冒涜であり、適正値考究を妨げる意味で反動的害悪な理論でしかない。 こういう例は天下り問題にも通底する。一体、天下り全面禁止論は無謀無意味なのではなかろうか。我々が要求しているのは天下り全面禁止論ではなく、官僚の高級制天下りであり、退職金のウグイスの谷渡りの禁止である。その気になれば、有料高速道路の料金底額化と同じで直ぐにでもできるものである。その直ぐできることをやらず、議論を二者択一式に上程し長談議へと誘い、そして結局何もできない。 さて結論。企業団体献金全面禁止論、天下り全面禁止論、有料高速道路無料化論を二者択一式にせぬ方が良い。できるところから、よりましな、漸次見直しできるような、より具体性実効性のある論を提起し、即実行すべきではなかろうか。我々はそれを望んでいる。饒舌長談議は体に悪い。政治を遊びにしてしまう。 2010.4.6日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評704 | れんだいこ | 2010/04/07 21:17 |
【鳩山政権の「米軍普天間基地の移転問題対応能力」考】
2010.4月、鳩山政権の「米軍普天間基地の移転問題対応能力」が待ったなしで問われつつある。この問題に関するれんだいこ見解を発表しておく。 米軍普天間基地の移転は元々、米国側の自主的な基地再編問題として浮上しグアム移転が報道されていた。小泉政権時代のことである。小泉政権がこれにどう対応したか。実際の口上はともかくとしても、「どうか御主人(米国)様、出て行かないで下さい」と言って代替地案を探し始めた。これも狂人政治の一つの表れである。 2005年、小泉政権は、キャンプ・シュワブのある辺野古の沿岸部を一部埋め立てる案で米国と合意した。2006年、沿岸部に「V字滑走路」を建設することが決まった。当時、このV字滑走路案を推し進めたのが、防衛省汚職事件で罪に問われた守屋武昌次官だった。総額1兆円と言われる莫大な普天間移転・辺野古利権を廻って思惑が交差し、その利権割れの余波でその後、守屋斬り事件が発生したのは周知のことである。 これに纏わり次のような逸話が漏洩されている。概要「小泉派官僚の守屋武昌・元防衛事務次官(汚職事件で公判中)は、陸上ではなく沖を埋め立てるについて、利権の発想があったと思う」と証言している(中央公論2010.1月号)。「当時、環境相兼沖縄担当相だった小池百合子氏も、小泉首相に環境への影響が小さくなる独自案を提案したときのことを本誌インタビューでこう語っていた。私が説明すると、『そんなんじゃダメなんだよっ!』と、烈火のごとく怒りだした。こちらの話は全くうけっつけないという感じで、青筋をたてて怒られた」(週刊ポスト2006.10.6日号)。 つまり、この二証言は、小泉政権が「米軍普天間基地の移転問題」を利権的に扱い始めていたことを物語っている。これに日刊ゲンダイネット記事が繋がる。2010.03.05日付け日刊ゲンダイネット記事「辺野古を買っていた『政界9人リスト』が問題化 自民党防衛相経験者3人の名も」が、これを暴露している。 (ttp://gendai.net/news.php?m=view&g=syakai&c=020&no=44905) このスクープによると、「辺野古海上案」が決まると辺野古周辺の土地漁りが始まった。これに関与した政治家が漏洩されている。一人は小沢民主党幹事長とある。但し、「小沢の場合、資産公開で明らかにしている」とある。どこの辺りの土地かは明らかにされていない。これに対して、ダミーを使うなどして隠れてコッソリ買って資産公開していない政治家が「小沢氏以外に少なくとも9人」いるという。そのリストは目下封印されている。いずれも別人の名義にしてあったり、間にいくつも業者をカマせるなどして、本人の名前が表に出ないよう巧妙にカムフラージュされているという。このより質の悪い方が見逃されている。 「9人リスト」は次のように推測されている。 1、防衛庁長官を経験したN。:67代・中谷元、72代・額賀福志郎のいずれかが考えられる。 2、防衛庁長官を経験したK。73代・久間章生になる。 3、防衛庁長官を経験した。69代・石破茂になる。 4、官房長官経験者のN。66代・中川秀直、63代・野中広務のいずれかが考えられる。 5、特命大臣として沖縄問題などを担当したT。安倍内閣の高市早苗になる。 6、首相秘書官の立場で官邸を仕切ったI。小泉内閣の飯島勲首相秘書官になる。 7、民主党の現職閣僚M。前原誠司になる。 8、民主党の現職閣僚K。菅直人、川端達夫、北澤俊美のいずれかが考えられる。 9、国民新党のS。下地幹郎になるのだが。 これによれば、歴代の防衛庁長官の多くが土地漁りしていることになる。何たる腐敗であろうか。江戸時代なら露見次第に即切腹ものだろう。こういう地位利用によるインサイダー取引暴露には定評のある日共がお得意の政治的道義的責任をも云わずダンマリしている。先の小沢キード事件では秘書寮の建設問題であれほど検察との車の両輪論を唱えて徹底追及を呼号していたというのにオカシナことである。それにしても前原誠司が顔を出している。嫌な野郎ではある。 もとへ。鳩山政権は、先の総選挙での公約マニュフェストの他の例と同じく、この問題でもブザマな対応を見せつつある。「9人リスト」の末尾の国民新党のS、俄かには信じられないが下地になる。これが事実なら下地も切腹ものだろう。その下地が早々と「名護陸上案」を提案していた。ところが名護市長選で拒否派の稲嶺氏が当選し困難なことになった。現在、平野官房長官が「徳之島移転」を画策しつつあり、それも怒りの島民大会で破産しつつある。鳩山首相は、どう舵を切るのかが見ものになりつつある。 ここで、れんだいこ案を再度ぶっておく。この問題は、元々に於いて普天間基地住民の基地撤去闘争、米国側の世界的な基地再編問題から発生している。この流れを踏まえるならば、日本政府の立場は普天間基地撤去を粘り強く説くのが仕事である。代替案を用意するなどは米国側の公式要請を受けてからするものである。米国側の公式要請のないままに日本側から代替案を提示しご機嫌を窺うなど卑屈過ぎよう。ましてや、その動きに利権を絡ませるなどあって良いわけがない。 鳩山政権は目下、代替地論議で騒動している。しかしそれは筋か違う。住民の普天間基地撤去闘争の意を汲み上げ、これを後押しして粘り強く交渉すべきである。普天間基地の歴史的由来、これまでの事故事件の流れを踏まえて自主的な撤去を促す以外の方法は考えなくて良い。次の問題として、移転費用負担問題がある。しかしこれも、先進国中随一の巨額国債債務負担問題を抱え、国家予算の半額を国債発行で乗り切ろうとしている自転車操業下の財政状態を伝えることで最小限負担にせねばならない。これを交渉するのが政治能力である。「トラストミー」の真価が問われている。 そういう意味で、鳩山政権の現下の代替地交渉は拙劣過ぎる。基地移転に伴う費用負担問題を意図的故意に隠蔽したまま進めているのも大問題だ。国民に情報開示するのが政治責任である。代替地案でかくも卑屈な低姿勢で終始しているからには、基地移転に伴う費用負担も目を剥くほどお供えするのが目に見えていよう。我々は、かような政権を産むために政権交代させたのではない。小泉式狂人政治からの訣別を期して新たな日本政治を期待していたはずである。ところが蓋をあけると、見たくもない坊っちゃん嬢さん政治を見せつけられている。フザケルナとしか言いようがない。 鳩山政権は、この危機を乗り越えられるかの如くに6月以降の行事、日程を組みつつある。しかし、れんだいこの見るところ、剣が峰に差しかかっている。ひょっとしてその自覚さえないのではなかろうかと思う今日この頃である。鳩山首相は、政権交替効果に冷や水を浴びせ続けている前原を切らねばならない。「徳之島移転案」でウロウロする官房長官を切らねばならない。小沢を切るなど馬鹿にもほどがある。マスコミ論調は国際金融資本統制下のシオニスタン報道のそれでしかないのだから、逆にこそ真の解があると心得るべきであろう。これができないのならお前が早々に止めるが良かろう。これを申し渡しておく。 2010.4.7日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評705 | れんだいこ | 2010/04/10 15:32 |
【鳩山政権の遅すぎた高速道路無料化公約の結末を評する】 2010.4.9日、国土交通省(前原国土交通相)が、高速道路の新たな料金制度を公表した。既に発表している37路線、50区間の無料化とセットになる。来年3月までの試験的導入で効果を検証する。これに伴い、4.1日、国土交通省は組織変更で、道路局の「有料道路課」を「高速道路課」に名称変更している。 以下、「国土交通省の新料金体系施策」を論ずることにする。民主党の総選挙公約である無料化マニュフェストがどう変容されたか、その評価如何が問われている。れんだいこ見解を発表する前に、新料金制度の内容を確認しておく。 まず、6月から実施する予定だと云う。れんだいこ的には遅すぎる気がするが、それなりの調整機関が必要だったと云うことであれば容認できる。新たな料金制度は、首都高速や阪神高速を除いて「上限料金を軽自動車1000円、普通車2000円、中型車と大型車5000円、特大車1万円」としている。併せて、ETC、現金、曜日や時間帯による区別は行わない。これにより、自公政権時末期の政策「休日上限1000円制」は廃止になる。 これをどう評するべきか。れんだいこは、「シンプルで良案」と評価したい。れんだいこ案は、自公政権時の料金体系の「3分の1定額化、交通量5倍化」を打ち出しているが、これと比べて遜色ない。むしろ、従前料金体系のチマチマとした上乗せ制を撤廃してスッキリさせており画期的とも云えよう。この限りで、れんだいこ案より優れている。 例外として、「首都高速と阪神高速では普通車の下限500円、上限900円、大型車下限1000円、上限1800円」を計画している。但し、「両高速は、出口料金所がないため現金利用者は入口で上限料金を支払う」とある。これは理解できない。そもそもの始発が無料化であったことを思えば、ワンコイン化すべきであろう。何らかの方法を編み出して入口料金所の混雑を避けねばならない。 本四連絡橋は、競合するフェリー、JRに配慮して、他の高速よりも割高な3000円料金別枠制を設けた。これも問題がある。別枠制にするにしても1000円上乗せでも良かろう。あるいは方道をフェリー経由で利用する場合には特典付きとするなどもっと工夫すれば良かろう。 2000円に達しない近距離の場合には恩恵を受けないことになった。普通車だと70キロ強で2000円に達するが、「時間帯割引」の縮小も考慮すると却って自公政権時のそれより値上がりすることになる。例えば、東名の東京―厚木(35キロ)は現在、午後10時以降は5割引きで650円。来年3月末までの激変緩和措置では3割引きの900円となる見通しだが、その後は通常料金の1250円となると云う。これも、ワンコイン化で対応すべきであろう。 「新たにエコカー(次世代自動車)割引を導入している。官僚お得意のチマチマした制度にしている。これは全く理解できない。エコカーは購入時に既にエコポイントメリットを受けており、走行時にもメリットがある訳だから屋上屋を重ねる必要はない。その他云々。 結論として「国土交通省の新料金体系施策」をどう評するべきだろうか。れんだいこは、商業新聞の難癖論と違って画期的と好評価したい。問題は、6月からでは遅く何としてでも前倒しで5月連休から実施するのが良いと思う。本来なら、鳩山政権発足直後から実施すれば良かった政策である。 それはなぜか。政策には前衛的なものと後衛的なものがある。鳩山政権の高速道路無料化公約は、数々の後衛的政策ばかりの中で唯一と言っても良い前衛政策である。優し過ぎる後衛的諸政策も良いが、財源を食い合うだけの事だからいずれ行き詰る。その果てに税金増が待ち受けているとしたら、これほど人をバカにした話はない。その点、高速道路無料化公約は景気カンフルとして税収増に繋がる可能性が強い。待ったなしでやるべきだろう。 商業新聞は、高速道路収入の道路財源化が気に入らないらしい。殆どの社がそういう見地から批判している。れんだいこは、こういう手合いとは百年話しても通じない。高速道路収入の道路財源独自化は税金を食わぬだけ良策と評価すべきではないのか。問題は、それにしても料金体系が高過ぎることにあった。例えば瀬戸大橋のように料金高故に通行量が予定値より明らかに下回っていても打開策を打ち出さない官僚式硬直システムが弊害としてあった。これに断を下したことになる。 高速道利用車が増える環境汚染が広がると云う批判がある。こういう連中は、市街地の渋滞に伴う環境汚染を解消させる論とセットでもの云うべきだろう。高額料金でのスイスイ通行論者には、ここはひとつ我慢してご協力願うしかない。何しろ平日の低額開放は初めての事なんだから。案外とスイスイかも知れぬ。温泉旅館は土日祝日ばかり込み合うのがなくなり却って悦ぶかも。 前原交通相のやること為すこと気に入らないれんだいこではあるが、まずまずの案を出したと褒めてやりたい。既に述べたように5月連休から実施させよ。人が遠出して見聞拡げるところから景気が回復すると思うから。これで遅まきながら漸く政権交代改革が始まったとみなしたい。一事万事で、この改革が他の守旧高慢腐敗制度の見直しに繋がれば良いと思う。 2010.4.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評706 | れんだいこ | 2010/04/11 19:03 |
【新党「たちあがれ日本」を論ず】
2010.4.10日、平沼赳夫元経済産業相(衆、70)、与謝野馨元財務相(衆、71)、園田博之前自民党幹事長代理(衆、68)、藤井孝男元運輸相(参、67)、中川義雄元副内閣相(参、72)の国会議員5名が新党「たちあがれ日本」を結成した。代表に平沼氏、共同代表に与謝野氏が就任した。石原慎太郎東京都知事(77)が発起人になり党名の名付け親となった。メンバーの平均年齢は69.6歳。 取りざたされていた鴻池祥肇元官房副長官、鳩山邦夫元総務相、無所属の小泉龍司、城内実両衆院議員らは様子を見守った。後藤田正純元内閣府政務官ら中堅、若手議員は動かなかった。丸山和也参院議員は拒否した。中山成彬元国土交通相(落選中)や歴史認識問題で更迭された田母神俊雄元航空幕僚長に参院選への立候補を打診していると伝えれている。 平沼氏は記者会見で、「民主党政権は絶対に容認できない。自民党も野党として力がない。民主党政権を打破するため、保守の力を結集したい」と訴えた。与謝野氏は「政治人生のすべてをかけた最後の戦いだ。残された体力、気力、使命感を振り絞って新党成功のために身をささげたい」と強調した。 基本政策「日本復活に向けて」を発表した。これによると、自主憲法制定の憲法改正を前面に掲げている。与謝野氏の主張してきた消費税引き上げは明記されなかった。財政再建派の与謝野氏と積極財政派の平沼氏の折衷案として「規制緩和と消費税収で創(つく)る雇用によって『安心』と『成長』を同時に達成する」との表現に落ち着き、両論が混在する自民党に限りなく近づいた。「郵政民営化」についても盛り込まれなかった。「打倒民主党」、「日本復活」、「政界再編」を結党趣旨に掲げ、夏の参院選で与党過半数割れを目指すとしている。 この「たちあがれ日本」をどう評すべきだろうか、これを愚考したい。マスコミも日本左派運動もこのところ失語症に陥っており、ろくなジャーナルを為し得ない。よって、れんだいこが解析しておく。れんだいこの興味は次のところにある。 こたびの新党結成が露骨な政党交付金狙いであることは論をまたない。まさに今や日本は政界の政党助成金から庶民の生活保護金まで税金給付画策に忙しい。日本経済の失速に応じて政治献金も次第に痩せ細りつつあり、平沼派がこれを取れに行った面は否定し難い。企業、団体、業界からの政治資金全面禁止の流れが政党交付金狙いを加速させている感がある。既に論評するにも足らない幾つかの新党が生まれているが、今後もこの式の分党化が促進するものと思われる。 それはさておき、平沼と与謝野の合流の裏にあるものは何なのかを語らねばならない。政党交付金だけのことなら与謝野の他にも候補が居るだろうに、何故に与謝野が加わったのか。平沼が与謝野を取り込んだのか、取り込まれたと見せての与謝野の逆取り込みなのか。興味深いことに、「たちあがれ日本」の命名は石原都知事と報道されているが、このネーミングに早くもケチがついている。既に2001.9月、竹中平蔵と桜井よしこの共著で「立ち上がれ!日本『力強い国家』を創る戦略」なる同名の書籍が出版されていると云う。これを思えば、平沼がシオニスタン系の手のうちで踊らせられようとしていることになる。石原が根回しだけして加わらないのも臭い話である。 与謝野の背後に中曽根-ナベツネが居るのは衆知の通りである。こたびの新党立ち上げに石原慎太郎東京都知事が露骨に立ち働いたのも報道の通りである。いずれも名うてのシオニスタンばかりである。これを思えば、平沼が遂にこの勢力に取り込まれたことになる。それとも、与謝野が長年のシオニスタン政治から決別し真正保守を標榜する平沼側に寝返ったのだろうか。今後、どちらの優位で党運営して行くことになるのかで判明しよう。 「たちあがれ日本」の政策を確認しておく。憲法改正を第一に掲げているのは愛嬌だとしても、消費税増税を堂々と打ち出しせんとしている。これに自衛隊武装派兵、原子力行政の推進が加われば、シオニスタン政治そのものということになる。このアナクロに立ち向かおうとするドンキホーテこそが平沼-与謝野タッグの本性と云うことになる。悪いことは云わない平沼よ、政界引退して政治評論家になれ。その方が「筋を通す男」のまま晩節を全うできよう。 かれこれ思うに、昨年の総選挙での民主党の300議席を超える決定的議席差の圧勝が否応なく政治を変えつつあることが分かる。あれはホント日本人民大衆の投票一揆であった。見えざる神の手が働いたとしか思えない。そういう意味で、「たちあがれ日本」結党は追い詰められたシオニスタン派のもがきと読みたい。第二弾の結集があるのかないのか、恐らくない。あっても政界を震撼させる動きにはならない。そう読むから、躊躇するものが多いということでもある。 ならば舛添派の動きはどうか。舛添派は、与謝野と違い自民党内に渋とく居残り続け、あわよくば党中央を奪還せんとしている。この間中、党中央派の谷垣総裁連合とのキシミが続くことになる。小泉派が舛添を押し立てて失地挽回せんとしている。しかしながら、マスコミが頻りに舛添株を上げようとも越すに越せない関がある。参議院議員が総理総裁になった試しがない。舛添派のもう一つの弱点として、要するに党を飛び出す勇気のない利権派集団でしかない。結局、舛添派も次第に尻すぼみしていくしかないと読む。 かくて、自民党の求心力がますます衰えつつある。党内に小泉派を深く抱え過ぎた咎である。小泉派と反小泉派の共存は限界に達しつつある。にも拘わらず互いが党を割る勇気がない連中ばかりが居残り傷口に塩を塗り合いせんとしている。この浪人暮らしは長くなると云うのに、本質的に共存できないのに互いが共存し合おうとして野合集団化しつつある。自民党の党的生命は終わったとみなしたい。小泉政権時代のレイプ政治による亀裂が予想以上に深い。小泉のかの時の「自民党をぶっ潰す」が歴史の摩訶不思議で本当に自民党を壊したことになる。 こう読むと、政界は今後ますます民主党が壟断して行くと予想することができる。政権交代効果はこれから発揮することになるだろう。有料高速道路の低額限定化政策を手始めに今後ますますはっきりしてくるであろう。日にちが薬となり当面の基盤は盤石とみなしたい。その果てにあるのが民主党内分裂であり、これは小沢派と反小沢派の抗争となる。この間当分、マスコミが反小沢の論評を書き続けるとみなしたい。民主党が、この流動をどう御して行くのかが問われている。 さしあたり鳩山政権が5月危機を乗り切れるかどうか。鳩山首相の手品を見て見たい。米国オバマ政権、中国、ロシア、韓国、北朝鮮、台湾が日本政界の動向を注視している。政治は高等故に何重もの保険をかけながらやりくり算段して行くことになる。故に、どの流れが本ボシなのか見極めないと解けない。 この間、我々が譲ってならないものは、日本の自力更生型の産業的発展であり、二度と参戦しない方向での国際協調であり、財政の健全化である。この三つの解をもって挑めば急進的に処理するのか穏和的に行うのかは別にして課題は一つずつ解ける筈である。「外治より内治優先」、これをカンテラに進めば先行き良し、逆は凶と出る。 最後に付言しておけば、消費税増税論議が喧(かまびす)しくなりつつあるが、れんだいこは料率アップどころか消費税廃止を粘り強く主張したい。その点で、平沼新党の増税論は全くいただけない。平沼は郵政民営化反対では男ぶりを上げたが、消費税増税で過去の人となるだろう。自分で転ぶのだから致し方ない。れんだいこが一言しておけば、消費税は導入させてはならなかった悪税である。これは、国債と同様の国際金融資本の国家籠絡戦略に基づくものである。ということは逆に、これに依拠しない財政健全化の道筋を探ることこそ本当の政治であり、その能力が問われていることになる。これは別の機会に論ずることにするが在地土着派の革命政権の登場によって始めて可能と考える。日本再生にはこの道しかない。 2010.4.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評707 | れんだいこ | 2010/04/13 18:47 |
【植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申すその2】 植草氏の2010.4.12日付けブログ「企業献金全面禁止が日本政治構造を激変させる」を論評しておく。れんだいこは既に「植草氏の企業献金全面禁止論についてもの申す」を発表している。これに対する反論として書かれたものかどうか分からないが再議論しておきたい。 植草氏は、相変わらず「企業献金全面禁止こそ政治改革の核心」とする立場から種々立論している。聞けば逐一もっともなことのように思える。しかし、そのもっともらしさを集合させた結論が現実遊離しているとしたら逐一吟味し直さねばなるまい。れんだいこは、政治にカネがかかる唯物論的現実があり、これを踏まえながら如何なる処方箋で臨むべきかという問いから処方箋を生み出そうとしている。そういう意味で云うなら、植草氏のそれは机上論なのではなかろうか。 植草氏曰く、「『企業団体献金全面禁止』が実現すれば、政治のありかたは根本から激変する。本来の政治活動に必要な資金は国民が拠出すれば良いのだ。企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある。本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良いのである」。 この論は、植草氏が「本当に必要な資金であるなら、国民が負担すれば良い」と明言されたところに意味がある。これによれば、政治献金国民負担論を唱えていることになる。この論によれば、政治献金国民負担論とは個人献金と政党交付金の二種からなるのであろうか。こう前提して、以下、単刀直入に論ずることにする。 繰り返すが、企業献金も団体献金も業界献金も組合献金も個人献金も、みんな有り有りルールで良いのではなかろうか。但し、全てをガラス張りで透明化せねばならないとの条件で。改善するとすれば、それぞれに適正と思われる上限枠を設定すべきであろう。この処方箋の方が良いのではなかろうか。企業献金、団体献金、業界献金、組合献金の全面禁止論は、天下りの全面禁止論と同じく二者択一式の永遠の論議にされてしまうのではなかろうか。天下りの高給問題、退職金の谷渡り問題こそ掣肘すべきなのと同じく、企業献金、団体献金、業界献金、組合献金の適正値を求める営為こそ求められているのではなかろうか。 「企業がカネを出すと言っても、そのカネの源泉は消費者が支払うカネにある」故に「国民が負担すれば良い」などというのは過剰理屈であり、実際局面では企業、団体、業界、組合、個人はそれぞれに質が違うことを弁えるべきではなかろうか。敢えて根本ルーツを訪ねて個人献金限定論へ導くには及ぶまい。今日びは国民負担論の変種と思われる政党交付金がはびこっているが要するに税金給付金であり、ほどほどにしなければならないのではなかろうか。目下、上から下まで給付金と補助金狙いのビジネスが横行し過ぎてやいないか。 れんだいこが「企業献金も、団体献金も、業界献金も、組合献金も、個人献金全て良し論」になぜ拘るのか。それは、人間の諸活動のうち政治を最も高等な頭脳技であると判ずるが故に、その質を認めて優遇し、政治家を自由自主自律的に活動させたいと思っているからである。人間の諸活動に先立つものはやはりカネであり、このカネの苦労を少なくさせたいと思うからである。政治家好待遇は、良い政治を行う為の代価であればお安いものではなかろうか。ろくな仕事をしないのに、あるいは逆走政治をしているのに好待遇しているから腹が立つだけで、好待遇そのものまで否定する必要はないのではなかろうか。 ならば、政治家個人に対する献金は禁止し、政党本部ないしは支部献金で処理すれば良いのではないかとの論が成り立つ。政党本部ないしは支部が一括集金し、政治家個人の資金管理団体へ分配する方式が合理的のように思える。しかし、それも理屈に過ぎない。「政党本部ないしは支部献金制」は、やはり政治家の自由自主自律性を弱めることになる。民主集中制だとかの集権制によって党中央に唯々諾々しかできない議員を作ってしまうことになる。それは造反できにくくし政治家の活力を奪う。してみれば政治にとって致命的な欠陥となるのではなかろうか。そういう訳で、合理主義が良いとは限らないのではなかろうか。 党は党であり、支部は支部であり、議員は議員である。それぞれが必要に応じて資金調達することに何の咎があろうか。我々が留意すべきは、政治家をして自由自主自律的に活動できるように制度保証することではなかろうか。その為にも「企業献金も、団体献金も、業界献金も、組合献金も、個人献金全て良し論」の方がまだしも良いとしたい。政治家を「食える状態」にしておくことが「良い政治」を行わしめる基盤なのではなかろうか。且つ売国奴を失くす有効な処方箋だと思う。却って企業奴隷的業界専属的族議員を失くす処方箋だと思う。他には方法がないのではなかろうか。 その上で議員定数を見直すのが良かろう。現下の衆参両院は共に約100名ぐらいが確実に多過ぎよう。なお、人口指数のみで計るから都市部変調になり過ぎている。選挙区面積、産業力指数なども考慮し総合的な票差バランスを図るべきだと考える。 植草氏は云う。「日本ではこれまで企業献金が容認されてきたが、企業は見返りのない資金を提供しない。見返りのない資金の社外流出は株主の利益に反することから、株主がそのような資金流出を認めることは通常は考えられない。企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は『賄賂性』を伴うものである」。 これは然りである。しかしながら、「政治献金の一切合財のガラス張り透明化義務」を課すことによりチェックアンドバランスできるのではなかろうか。政治家は選挙で洗礼を受ける身である。選挙の際に政治家の政治資金報告書を公開させること、賄賂やダミー献金を重罰にすることにより政治家の質を維持できるのではなかろうか。政治家が、政治献金によって却って自由自主自律性を失うのなら、そういう無能政治家を選ばねば良いのではなかろうか。そういう意味で、選ぶ側の政治目線を高くして行く必要がある。 この処方箋によれば今後はこうなる。最近の事例で云えば、政治資金報告書に記載していた小沢民主党幹事長は無罪。労組献金を受け取っていた小林千代美衆院議員は政治資金報告書に記載してさえおれば無罪。故人献金を列ねていた鳩山首相は有罪。政治献金を政治資金報告書に記載せぬまま着服している政治家は重罰を科されることになる。この基準の方が分かり易くて良いのではなかろうか。 ところがマスコミは逆から騒ぐ。政治献金を政治資金報告書に記載せぬまま着服している政治家に対しては露見せぬ限り騒がず、鳩山の故人献金、マミー献金については笑って許し、小林千代美衆院議員の労組献金に対しては議員辞職を煽り、小沢の政治資金報告書に記載した政治献金には徹底追及で騒ぐ。日共たるや検察とのタイアップで訴追を呼号し道義的責任まで追及すると息巻く。バカバカしくないか。 植草氏は、「公共事業に纏わる政治とカネ問題」を論じている。「金権政治論」を主張し、「利権政治屋」排斥の弁を振るう。これも日共式の弁で臭い。「公共事業に纏わる政治とカネ問題」は「軍事防衛原子力事業に纏わる政治とカネ問題」とワンセットで騒がないとオカシイ。下手をすると公共事業系政治家のみが裁かれる危険性が強い。公共事業は資産として残るが、軍事防衛原子力事業は使い捨てで残らないと云うのに。原子力事業の場合には将来天文学的なツケを残すと云うのに。逆裁きではなかろうか。これでは世の中が良くならない筈であろう。 植草氏曰く、概要「企業団体献金全面禁止に賛成しない自民党、みんなの党の両党とも金権政党であると言わざるを得ない」。「民主党議員は腹をくくって、企業団体献金全面禁止に進むべきである。日本政治構造を変える核心は企業献金の全面禁止である。鳩山首相はこの点を明確に公約に掲げるべきであり、主権者国民にその重要性を、時間をかけて説明するべきである」。 れんだいこは敢えて云う。自民党、みんなの党が企業団体献金全面禁止に賛成しないのは、政治家業の特質を弁えているからではなかろうか。れんだいこは、こちらに軍配を上げたい。植草理論は日共式のものと寸分違わず、その種の企業献金全面禁止論は一見正当なようで、やはり間違っているのではなかろうか。その根底にはどうやら企業活動に対する士農工商的意識に基づく偏見、即ち工商活動に対する蔑視観が介在しているように思えてならない。日共理論で云えばかっての国有化論に繋がるものである。それは歴史的に破産したし、元祖マルクスが唱えていたのは国有化論ではなく戦後日本が具現させていたような親方日の丸式の官民共同ないしは共同事業化論であったと云うのが最新の研究で明らかにされている。この辺りは今一度再確認されねばならないのではなかろうか。 「企業が資金を提供するのは、政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである。本来的に、企業献金は『賄賂性』を伴うものである」辺りの表現が臭い。「企業、団体、業界が資金提供するのは政治家に何らかの便宜を図ってもらうためである」は然りである。しかしながら、「本来的に企業献金は『賄賂性』を伴うものである」とまで敵視するのは云い過ぎではなかろうか。 政治献金の本質は、政治献金側の意思を通す為に使われることは間違いない。しかしそれは正々堂としたものである場合が多い。隠れて行う賄賂性のものはむしろ少ない。なぜなら、送る側も収支報告せねばならず決算書で監査チェックを受けるからである。決算書では、隠れて行う賄賂性のものが基本的に排除される。なぜなら収支が合わなくなるからである。もしも帳簿改ざん、二重帳簿式賄賂性の政治献金が露見するなら、その時こそ東京地検特捜部の出番とすれば良かろう。 東京地検特捜部の実際は逆に立ち回る。小沢キード事件のように政治資金報告書に届け出しているものを「天の声」まで詮索し、「政治的思惑と駆け引きで国策摘発捜査」に乗り出してばかりいる。つまり権力の包丁の使い方が違う。この違う方向での権力の使い方にこそ政治の闇がある。この闇こそ切開されねばならぬのに、闇の勢力の手先となって東京地検特捜部が使われていることに不正義がある。その不正義の塊のような東京地検特捜部が正義を唱えて包丁を使うから、政治が大きく歪められている。それが証拠に、れんだいこ処方箋に基づけば、岸や中曽根や小泉や竹中なぞは即逮捕されねばならぬのに今日まで無傷で、畳の上で往生できるよう最後まで政治生命が担保されている。オカシナことではなかろうか。 結論。企業献金全面禁止論についてはまだまだ議論を尽くさねばならないのではなかろうか。企業献金全面禁止論を強く唱えれば唱えるほど正義とするのは安逸なのではなかろうか。これが云いたい訳である。政治活力は経済活力にも関係し国家の隆盛に関係する。企業献金全面禁止論が政治活力、経済活力、国家の隆盛に繋がる本筋だと云うのであれば問題ないが、逆なら見直しせねばなるまいと思う。次に、この問題に関連させて陳情論について考察する予定である。 2010.4.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評708 | れんだいこ | 2010/04/14 20:44 |
【議会政治家の申し子としての角栄その2、陳情采配能力】
ここで、「議会政治家の申し子としての角栄その1、選挙区守護能力」に続いて「議会政治家の申し子としての角栄その2」として「角栄の陳情采配能力」を確認しておく。これを仮に「角栄の陳情政治論」と命名する。 「田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/sisosiseico.htm) 「議会政治家の申し子としての角栄その2、陳情采配能力」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/gikaiseijikaco2.htm) 2010年の昨今、企業献金全面禁止論が正義の名を持って政界を席巻しつつある。その次に来るのが陳情政治一掃論だとしたら、それにも然りと従うのだろうか。れんだいこは、企業献金全面禁止論も陳情政治一掃論にも与しない。むしろ肯定的に捉えようとしている。議会主義政治には政治献金、陳情政治が付き物と考えており、その質を上げることこそ論の使命と考えている。否定論は、この営為を踏みにじろうとする暴論と考えている。これを証する為に角栄の陳情政治論を窺っておく。 角栄の政治家観を示す次のような言葉がある。 「戦後の政治家は行政に精通し、予算書が読めて、法律案文を修正することが政治だという錯覚に陥っている者が多い(それさえできかねている政治家が大部分であろうが-れんだいこ註)。それもいいが、国民各階層の個別的な利益を吸い上げ、それを十分にろ過した上で、国民全体の利益に統合し、自らの手で立法することにより政治や政策の方向を示すことこそ、政治家本来の機能であることを明確にしておきたいのである」(「中央公論」1937(昭和42).6月号)。 これが角栄の政治家論である。それによると、政治家たる者は、1・行政に精通、2・予算書が読める、3・法律案文を修正することを絶対要件とする。次に4・国民各階層の個別的な利益を吸い上げる能力、5・それを十分にろ過した上で、国民全体の利益に統合する能力、6・自らの手で議員立法することにより政治や政策の方向を示す能力をプラスアルファ―要件とし、これこそ政治家本来の権能であると述べていることになる。銘して聞くべきではなかろうか。 ここには、事業経験者ならではの大局的発想、総合的な比較認識、高等な判断、分別が窺える。加えて、角栄が戦後憲法に則り、それを物差しにしていたことも窺える。こういう観点の下に、角栄は議員活動自体を事業感覚で捉えていたのではなかろうか。してみれば、角栄政治の本質は高度な国家運営事業であったことになる。 角栄は、以上のような観点を前提にして、次のような陳情政治論を唱えていた。陳情について独自の見識を持っていたことになる。 概要「現代は陳情の時代だ。陳情は、現代の議会制民主主義制度下にあっては、必要不可欠な主権者の権利行使ですよ。提言とも云うべきものじゃあないですか。国民が、立法府あるいは行政府に対して、社会生活上の様々な問題を持ち込むというのは、最も至極当然なことじゃあないんですか。陳情という言い方が悪ければ、主権者の提言といってもよい。 マスコミは、癒着の温床だとか、賄賂だ、利権だとか陳情をいけないことのようにいうが何を云うかだ。そういう物差しこそ反憲法的思想で、ものの見方が逆立ちしている。国民が立法や行政府に対して、あれをしてくれ、これをしてほしいと陳情するのは、株主が取締役会に対して意見するのと同じ、取締役会に累積投票権を要求するのと同じことでね。選挙民だから、投票されたこちらとしてはね、請願、陳情は、いつでも聞く耳を持たなきゃなりませんよ。国民に取っても、それが憲法でちゃんと認められた大権なんだから。主権者の請願、陳情権は憲法上の大権といってよいんだ」。 これによれば、角栄は、代議制民主主義の基盤として陳情政治を大事にしていたことになる。実際に選挙区はもちろん持ちこまれた案件、関わった案件について面倒見が良かった。このことは誉れであっても批判されることではなかろう。これを批判するようなインテリが多過ぎるが、果たしてどちらが正論なのだろうか。 これを補足すれば、党人政治家大野伴睦の次のような陳情政治論がある。 「多くの人たちの頼みごとを政治の上にどんどん反映さそうと努力すると、世間では『陳情政治』と批判する。しかし、民主政治から陳情を除いたら、そこに残るものは、明治の初めから築かれてきた官僚政治でしかない。お役所という官僚の安住の地で考えられる政治は、彼らの勢力拡大の政治である」(「回想録」)。 これが、日本の廃墟からの再建に貢献した党人派の心意気であり政治哲学であった。今日から見れば「古典的な民主政治論」でしかないが、ここに見られる「正」の面を見て取ることが必要ではなかろうか。 角栄はいわば本能的に陳情処理を積極的に受け付けていった。こうした角栄の立ち働きは、地元に対する面倒見のよさ、地元サービスに熱心且つ処理に有能なる政治家として頭角を現わしていくことになった。こういう土着志向の強さは、今日利益誘導として非難されているが、地元から選出される選挙制度からして最も自然なあり方であり、なりゆきとでも云えるのではなかろうか。もしこれを否定するのなら、貴族院、元老院政治にでも復古させるしかなかろう。それが良いとする者がいるのならそう弁論すれば良かろうに。 衆議員は特に地域貢献を課せられているのであって、それは議員の重要な仕事ではなかろうか。それが証拠に、地元に貢献しない議員の存在なぞ何の意義があるだろう。参議員ならまだしも衆議員は地元有権者の期待と利益に応えるべき性質を持つそういう性格の議員なのではなかろうか。もしこのことが非難されるとするならば、それは一人議員が責めを負うものではなく、有権者もまた同罪であろう。 こうした「利益」から離れた聖人君子像を求める道徳的な説教こそ軽薄なインテリ性であり、我々は「利益」の中身の精査にこそ関心を持ち続けるべきではなかろうか。陳情政治は確かに金権政治へと繋がり易い。しかしながら、金権政治批判の名目で政治資金を縛り、陳情政治を否定するとしたら「たらいごと赤子を流す」愚に陥るのではなかろうか。 確かに政治資金の自由化、陳情政治の是認は「諸刃(もろは)の剣」ではある。しかし、世の中の何事もそういう面があるのではなかろうか。そういう関心で角栄政治を見て行くと、むしろ案外と身ぎれいでさえあることに気づかされる。角栄は、陳情処理したとして「ハイ幾ら下さい」などという手を出していない。熟し柿的に自然とカンパされるものは有り難く頂戴するという手法であった。陳情も、お国の為にならない案件は受け付けていない面も窺える。ダメなものはダメとはっきり断っていた。つまり権力を私的に行使することなく権力の弁えを持って政治していたことになる。してみると、かなり高等な政治を取り仕切っていたことになる。 こうなると問題は、「政治資金の自由化、陳情政治の是認」は人治主義傾向にあることにある。つまり、角栄なら上手に操れても三文役者が悪乗りしたらどうしようもなくなるという危険性である。これをどうするかが問われているのではなかろうか。現下の政治改革の流れが、この問題に正面から挑むものであってほしいと思う。規制強化は容易且つ安逸なものでしかなく裏表を作り易い。そういう意味で、自主的な内部規律的なものを積み上げることこそ目指すべき政治改革なのではなかろうか。十年、百年の議論を費やしても惜しくないと考える。 2010.4.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評709 | れんだいこ | 2010/04/14 21:16 |
【陳情政治を廻る角栄とナベツネの大バトル考】 1960年代後半か1970年代初頭の頃のやり取りと思われるが、時の幹事長の田中角栄と読売新聞夜回り記者であった渡辺恒雄(ナベツネ)との興味深い陳情政治是非論争がある。これを確認しておく。れんだいこは角栄の言を支持するが、諸氏の見解を賜わりたいと思う。この論争の決着はまだついていない。以下、確認する。 幹事長時代を迎えても角栄の陳情処理は止まず、というか一層門前市を為していった。これを廻って、角栄は、当時の読売新聞夜回り記者であった渡辺恒雄(ナベツネ)と次のような激論を交わしている。 ナベツネ 「田中邸には毎朝何十人もの陳情客が押しかけ、あなたはそれに全部会っているそうだが、(目白邸での陳情処理に対して)大幹事長になったからには、そんなくだらんことは止めたらどうか」。 田中 「そうはいかん。選挙区の連中に会えんようになるのなら、俺は政治家を辞める。それに大野伴睦や河野一郎が死んでからは、陳情に行くところがなくなった連中だっているんだ。俺が会ってやらなきゃ、誰が会ってやるんだ」。 ナベツネ 「それはなるほど結構なことかも知れないが、与党の幹事長たる者は、毎朝、陳情の受け付けをするより、他にもっと大事なことがあるんじゃないか」。 田中 「ないっ、ないっ。俺は陳情客に会っているが、その為に幹事長の仕事をないがしろにしたことは一度もない。政治家が自分の選挙区の者と会うということは、取りも直さず民主主義なんだ。そこで国民の声を聞いて、政治に取り入れるんだ」。 両者とも声が大きく、向こう息が強い。三十人近くの各新聞、放送記者達が居る面前でこの遣り取りが為された。「首をすくめ、目を見張ったものである」とある。 (れんだいこ私論.私見) この「陳情政治を廻る角栄-ナベツネ激論」は貴重である。ナベツネは元共産党員席に一時身をおいていたこともあると触れ込んでいるが、実は当時の戦後共産党運動を右から撹乱した本質的に右派系の、且ついつ頃より転んだのか定かではないがれっきとしたネオシオニズムエージェントである。歴史は正力松太郎の素性を暴いているがナベツネも時間の問題である。角栄失脚後の中曽根政権誕生と共に恣に権力を行使して三十年、我が世の春を謳歌しているが立ち枯れの日は近い。歴史に汚名を遺したことになる。 もとへ。ここで、ナベツネ思想の胡散臭さが随所に露呈している。ナベツネの謂いの方が頑迷な官僚的な発想そのものであり、角栄がこれに堂々と民主政治論で立ち向かっている姿が見えてくる。角栄は、陳情受付が単に選挙目当てのものではなく、民主主義政治の基本であるという認識を示している。角栄の明確な政治姿勢及び哲学をここに窺うことができる。思想的に見れば角栄の方が深く、ナベツネのそれは東大的英才にありがちな凡庸な権力観を披歴しているに過ぎないと思うのは、れんだいこだけだろうか。 角栄は、「政治家が自分の選挙区の者と会うということは、取りも直さず民主主義なんだ。そこで国民の声を聞いて、政治に取り入れるんだ」と説いている。これこそ角栄の本領とも云える実学主義であり、長年シオニズムテキストに浸ると失われてしまう観点ではなかろうか。角栄は、現下の戦後普通選挙システムをそのまま捉えており、選挙区の有権者に選出される以上、選挙民の声を聞き届けるのが当たり前としているように思える。ここに生きた政治があるとして、ここで得た皮膚感覚を大事にしたがっているように思われる。実際にはかなり能力の問われることではあるが。 マスコミはこの政治を嫌い、ナベツネ的見解を学があると評する傾向にある。あるいは地元に寄与しない三木流をクリーンなどと称している。選挙時に敢えて自分の選挙区に戻って運動しないことを誉れとしている小泉を議員のカガミとして阿諛追従したりする。自称インテリの評論というのはこの程度のものが多い。 ミニ角栄的な面を持つ鈴木ムネオが、田中真紀子外相を引きずり降ろした瞬間、もは用済みとばかりに喧嘩両成敗で失脚させられた。この時、「ムネオハウス」などという造語でムネオ批判の先頭に立ったのが日共であった。マスコミ提灯がこれに列なった。つまり、両者とも権力奥の院に上手く使われているということになる。こういう手合いが正義ぶるので警戒せねばならない。 陳情の受付は政治家の最初の政治能力が問われる仕事であり、要は何を受付け受付けないかが問われている。角栄失脚後の中曽根自民党は、国際金融資本の陳情、独占企業体の陳情を受け付けることが夥しくなった。それを思えば、角栄派は地元の声を受付け陳情調理していたことになる。このことはむしろ真っ当な政治だったのではなかろうか。実際にこれやると毎日大変で、門前市を為した目白邸の家族と秘書の苦労ははかりしれなかった。それでもやり続けたのが角栄で、大衆政治家としての面目躍如といえよう。 角栄のすごさは、そういう地元政治をやりつつ国内の大局政治もこなし、国際政治でも対等にわたりあったところにある。ニクソンと呼吸を合わせ、毛沢東―周恩来と肝胆相通じさせ、ブレジネフに舌を巻かせた。それをも金権政治の為せる技と云う者が居るなら、れんだいこが百万言費やしても一生通じ合わない手合いである。 「事の内に屈しなかった角栄は事の外に立つことができた」。まさに百年一人の逸材、否五百年一人の逸材で、角栄こそが織田信長政治と同じ高みにあるといえるように思われる。小泉狂人首相がミニ信長を気取っていたが、これに相槌を打っていた評論家諸氏よ、君らのおべんちゃらオツムの底の何と浅いことか。田原よ、何か弁じて見よ。 結論。政治の世界では一事万事、角栄的なるものと中曽根的なるものが争闘していると見て良い。現代的には小沢的なるものと小泉的なるものとが争闘していると見て良い。このことを知れば後は、我々はどちらの側で弁舌を為し、活動するのかが問われていることになる。この政治座標軸をもって諸事分析すれば間違うことはなかろう。これを難しく語る者が居たとして、その皮をめくって行けば案外詰まらない見解の者が多い。よって、難しく語る者を好評したり恐れぬが良い。れんだいこはそう割りきっている。 2010.4.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評710 | れんだいこ | 2010/04/15 20:04 |
【角栄と財界との確執、三角大福中の資金源考】
田中角栄の政治家論、陳情政治論を確認したついでに「角栄と財界の確執考」を確認しておくことにする。とかく金権政治家の元祖元凶の如く云われ指弾され続けている角栄であるが、その指弾は本当に正しいのだろうか。立花―日共―マスコミ連合は、次のような事実を知りながらそれ故に角栄を糾弾して行った形跡が認められる。ケシカランと思うのは、れんだいこだけだろうか。 歴代総理における角栄の特殊性として財界との確執がある。角栄論が語られる時、この面が意図的故意に隠蔽されている気がしてならない。吉田、鳩山、岸、池田、佐藤、三木、福田、大平、中曽根、竹下等々には財界とのそれなりの支援会が結成されていたのに比して、角栄と財界には一種「君子の交わり」的淡白さが認められる。これはどういうことだろうか。暫し黙考せよ。 この背景に、「『土建屋風情に天下を取らせるか!』、これが財界の基調であった」とも云われている。確かに皮相的にはそのようなものもあったであろう。他方、角栄の方も、「俺はあの財界の野郎どもに這いつくばって銭を求めることはしない。血のしょんべんを流し、地べたを這いずり回っても必要な金は俺が用意する」との意地を見せていた風がある。 事実、「田中と財界人の関係については、世間のイメージに反し、田中からカネを求められた財界人は意外と云えるほど少ない。日本興業銀行相談役の中山素平氏は次のように証言している。「田中さんは自分の才覚にモノをいわせ、自分の事業を通じて政治に必要なカネを賄ってきた。この点が、他の官僚政治家とは違う点だろう」。 その理由として、角栄が次のような言を側近に漏らしていたと伝えられている。 「自民党田中派だけは財界からびた一文も金を貰っていない。あれら(財界人)は、80億円献金したからといって800億円のぼろ儲けをして、国民生活を苦境に追い込んでいく。国民を犠牲にする政治は有り得ない。口先ではきれいごとを並べているが、『政治を切り売り』している連中が自民党内にいる限り、思い切った政治ができない。この長年にわたる財界と反主流派の関係を断ち切り、自民党と財界の関係にとどめ、財界が政治に大きく発言する弊害を最小限に抑えねばならない」。 角栄は、いわゆる「財界のひも付き献金」を嫌った。企業・財界から一億円金を貰うと、百億円の利権と口出しを要求してくるからであった。財界のご機嫌取りしていては思い切った政策ができない。そのかわりに自力調達した。つまり自前の打出の小槌をもった。あるいは刎頚の友から用立てして貰った。どう借りてどう返したのかまでは分からないが。かくて角栄は、自分の金を使って政治活動するから、財界のいいなりにならなかった。こうした事情もあってであろう角栄は財界エリートから嫌われた。 事実、物価騰貴の責任をめぐって角栄は財界と衝突している。第一次第二次オイルショックの際に、石油会社の闇カルテルを追及した。財界は、これに抵抗して「企業別割り当て政治献金」の廃止で対抗している。蛇足しておくが、「企業別割り当て政治献金」は角栄前からの慣例として機構化しているもので角栄が元凶ではない。 角栄は、財界主流との付き合いに距離をおいた分、新興資本と起業企業家を育成しようとした。以下概略するが、企業家として業績良からしめ且つ人物識見豊かな人氏が多い。逆は逆である。それが証拠に中曽根系の人脈対比させて見れば面白い。それはどなたかに任せよう。 財界正統で角栄を相手にしたのは日本興業銀行相談役の中山素平だけであった。当時の財界四天王-小林中、永野重雄、桜田武、水野成夫であったが、そのうち永野は角栄を評価し桜田武は嫌った風がある。永野は角栄のどこを評価し、桜田はどう嫌ったのだろうか。して、二人自身の評価はどのようなものなのだろうか。 他の田中系は今里広記(日本精工)、藤井丙午(新日本製鉄)、松根宗一(大同特殊鋼)の資源派。他には土光敏夫(東芝)、平岩外四(東京電力)、安居喜造(東レ)らが高く評価していた。西武鉄道グループの総裁・堤義明は可愛がられた方であり、堤も評価していた。刎頚の友として小佐野賢治が居た。東急の創始者の五島慶太とも懇意であった(とのことである)。裏で戦前の共産党委員長にして転向後は民族系右翼に転じた田中清玄と繋がっていた形跡が認められる。 こうして、角栄は稀有な政治資金自前調達型の政治家となっていた。但し、政商・小佐野が裏からバックアップしており、その他雨後のたけのこのように出現し成長していた新興企業家からの政治献金、公共事業割り当ての見返り報酬的な政治献金(これは、決して強制的なものではなかった形跡がある)が補完していた風が認められる。私腹を肥やしもしたかも知れないが、政治資金は政治闘争を敢行する為の軍資金として使いきっていたように思われる。 これを、今日的基準で批判することは容易い。しかしながら、れんだいこには、最も経済成長し続けていた時代の雄々しい表裏のない政治闘争を繰り広げる為の必要悪ではなかったかと評している。この辺りがキレイ潔癖になることは望ましいことである。しかしながら、それは政治闘争の隆盛を条件にせねばなるまい。水が澄んだと同時に魚が日干しになった、居なくなったでは取り返しがつかないと思う。日本は国際金融資本から狙われている国である。系統的な籠絡作戦が展開されているさなかである。評論家は多い、されど軍師が居ない。それだけ我々の能力が弱められているように思われる。政治家が畳の上での往生ばかりを考えだしたらお終いだ。この辺りをどう考えるのかが問われているのではなかろうか。 2010.04.15日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評711 | れんだいこ | 2010/04/16 20:38 |
【戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考(角栄の内治主義的政治の特質考)】 はじめに 角栄の政治家論、陳情政治論、政治資金論を確認したついでに角栄政治論そのものを確認しておくことにする。世上に意図的故意に流布されている立花式諸悪の元凶論とは大きく面貌を変えるであろう。なぜ今、角栄を問うのかと云うと、鳩山政権に聞かせたいからである。この思いが通じるだろうか。政治には常に針路をどちらに取り、どう舵を切るのかが問われる。困った時にはカク頼みが良いのではなかろうか。 歴史は妙な縁を取り持つ。ロッキード事件の際に調子こいた捜査主任検事にして、後に第18代検事総長の座を射とめる吉永祐介は1932年の岡山県岡山市生まれである。他方、通産省随一の俊英として評価を得て後に角栄秘書、アラビア石油社長となった小長啓一は1930年の岡山県備前市生まれである。二人は共に東大入学が保証付きであったところ地元の岡山大学に請われて進学した誉れの同期であり、在学時より双璧の秀才として並び称されていた。その二人が後年、角栄を廻って真反対の立場に立つことになる。滅多にあることではなかろう。 れんだいこは、同じ秀才ながら吉永はどこにでいる本質的に利巧バカであり、小長こそ滅多と居ない真正の秀才ではなかろうかと受け止めている。一度お会いしたいのだが、誰か労を取ってくれないだろうか。そういう訳で吉永については関心がない。角栄師事派の小長氏は、次のように評している。「田中さんが節々でやらせたことは後世の歴史家から必ずや高い評価を受けるときが来ると思っています」。 れんだいこは小長氏の眼力に誼を通じる。れんだいこの見るところ、角栄はそのどれもに卓越した政治的先見性、決断力、独創的で高度な政治哲学をもっていた。こう確認すべきではなかろうか。 こう確認しないと、あまたの有能官僚が角栄に靡いた史実が理解できない。低脳評論家は、角栄がカネの力で官僚を手なづけたと何の疑問もなく云う。バカなことを云うでない。カネの力で籠絡される官僚が居たとしてもそれは低脳のシオニスタン官僚止まりであり、優秀な官僚ともなると人物の値踏みによってしか動くまい。普通に考えれば分かることが、巷の角栄論には通じない。 ところで、ロッキード事件の立役者たる立花は「田中真紀子研究」の中で次のように記している。「今の日本の政治に起きていることを本当に理解しようと思ったら、さまざまな意味で、角栄政治、角栄の時代に立ち戻ってみる必要があるということである。そこまで立ち戻ってみないと、小泉改革がなぜ必要になったのかわからないし、小泉改革がなぜうまくいかないのかも分からない」。 この観点は丁度、れんだいこと反対の立場から、「角栄政治、角栄の時代」を見つめなおそうとしている点で興味深い。角栄政治には、「戦後憲法体制上のハト派的首領」という政治史的な偉業が有り、この面での分析を欠いては評せない。にも拘わらず、角栄政治は、立花―日共―マスコミを始めとした自称インテリ派によって金権政治の諸悪の元凶として非難され、政界訴追されていった。 日共に限って云えば、エセ左派運動の為すことはいつも変調である。れんだいこが日共問題に深く言及する所以がこにある。日共式運動を左派運動などと思っている間中、日本左派運動はマガイモノに耽り続けることになるだろう。もうエエカゲンに終わらせなければなるまい。そうなると、少なくとも六全協より語らねばならない。と云って見ても、六全協そのものを知らないレベルではどうにもならない。 もとへ。この間、角栄政治の戦後政治史的位置づけや学問的分析が為されることなく今日に至っている。そこで、れんだいこが角栄論に挑んでいる。いつか次の世代の誰かが継承してくれるだろう。角栄が見直され、真に偉大な且つ独裁化することのないシャイな政治家であたことが共認される日が来るだろう。西郷隆盛論然り、歴史は重要な箇所で大きく歪曲されている気がしてならない。 角栄政治の概要は「田中角栄の政治姿勢」に記したので参考にしていただくとして、ここではハト派的側面に絞って考察してみることにする。題名を「戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考(角栄の内治主義的政治の特質考)」と命名する。要するに、角栄政治とは何かという課題である。以下、角栄の内治主義的政治の特質その1、社会基盤整備行政。角栄の内治主義的政治の特質その2、反防衛族的軍事費支出抑制と題して考察する。 該当サイトは「戦後憲法体制と角栄、そのハト派的意義考(角栄の内治主義的政治の特質考)」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/kakueiseijinohatohaco.htm) 2005.9.11日、2010.4.16日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評712 | れんだいこ | 2010/04/16 20:56 |
【角栄の内治主義的政治の特質その1、社会基盤整備行政】
元全学連草創期の闘士にしてオルガナイザーにであり、後に角栄のスポークスマン的役割を果たした角栄秘書の早坂茂三氏は著書「怨念の系譜」で次のように述べている。 「新潟県の農民は農地改革で自作農になったが、道路や鉄道、河川改修、架橋、多目的ダムなどの社会資本の整備は立ち遅れ、表日本に比べて悲劇的なほど格差があった。豪雪になれば陸の孤島である。零細農地のコメ代では人並みの暮らしもできず、男たちは冬、杜氏(とうじ)や土木建設の出稼ぎに行くしかない。新潟県の農民は日農に代わって、社会資本整備や現金収入が得られる仕事を創り出す政治家を痛切に求めていた」。 増山榮太郎氏の「角栄伝説ー番記者が見た光と影」は次のように評している。 「田中は、土木・河川開発事業の立法化に精出したのは、『出稼ぎせずとも食って行ける』自律農村の建設であった。そして、満を持して発表したのが『日本列島改造論』である。それは、田中がこれまで細切れに立法化した土木・河川開発を集大成し、体系化したものである」。 角栄は、自らの政治的姿勢を次のように述べている。 「国会議員の発言は、国民大衆の血の叫びである。理想よりも現実だ。政治とは何か。生活である」。 「私が道路や橋や川や港、土地改良に力を入れるので、一部の方々は『田中は土方代議士だ』といわれるが、私は原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちで、敢えてこの批判に甘んじておるわけであります」(昭和33年5月の田中6回目当選時の「選挙公報」)。 「田中は新幹線なんかつくりやがって国費の乱費だ、それより世界の平和の為にカネを出せなどと批判するヤツもいたが、バカヤローと答えたいね。そうでしょう、政治というものはまず自分たちがメシが食えない、子供を大学にやれないという悲しい状態から抜け出すことを、先決に考えなければいかんのだ。政治は高々と理想を掲げるとともに、現実を踏まえるものだ」(昭和53年6月、三島郡三島町での三島郡全越山会大会にて)。 角栄は、著書「日本列島改造論(1972年発刊)」の冒頭で次のように述べている。 「都市と農村の人達が共に住みよく、生き甲斐のある生活環境のもとで、豊かな暮らしができる日本社会の建設こそ、私が25年間の政治生活を通じ一貫して追及してきたテーマであった」。 ここに角栄の唯物論的実務志向、事業感覚を垣間見ることができよう。角栄のこの言葉は実績で裏付けられている。主として日共系から「土建政治、箱物行政」として批判されてきたが、マルクス主義的唯物弁証法の視点に立つ時、「土建政治、箱物行政」は批判されるべき筋合いのものではない。むしろ、戦争に金かけるより内治の社会基盤整備に使うほうが理に叶っているであろう。このことさえ弁えぬ自称インテリが多くてお話にならない。 こうして角栄は、地域貢献に立脚しつつ国政全般を俯瞰し、雪国裏日本の格差是正を目指す「暖国政治打破」論で政治家として孵化していった。角栄政治の特徴は、問題意識の深さと、その解決の為の的確な構想力と、大胆な決断力と比類なき行動貫徹力と責任感の厚きにあった。角栄の手掛けた実践例は他にない勝れものであり、格が違う。 孵化した角栄はやがて力強い歩みを見せていくことになる。佐藤昭子は次のように述べている。 「田中は新潟3区の利益だけを図ったわけではない。日本海側はあまりにも恵まれていない。日本海側の住人も太平洋側の住人も、平等に幸せになる権利を持っているはずだ。日本海側の悲惨な状況を改善することが、一極集中を排除し、やがては日本中の発展につながる。マスコミは田中のそういう発想を理解せず、目先のことだけで地域誘導だとか利益誘導だと判断し、自分達の作り上げた虚像しか報じなかった。だから、田中の真の姿は一般の国民には知られないままになっている」。 れんだいこには、佐藤昭子のこの謂いこそ的確であるように思われる。 角栄政治の特徴を物語る次のような話もある。 「『政治とは何ですか』と新聞記者時代の早坂茂三氏は、当時自民党政調会長の角栄にズバリ聞いた。たちどころに『生活だ』という返事が戻ってきた。簡潔明快。絶句した私に43歳の政治家が言葉を続けた。『国民が働く場所を用意して、三度、三度の飯を食べさせてもらう。外国と喧嘩せず、島国で豊かに穏やかに暮らしてもらう。それが政治だよ』」。 同じ問いに「愛」だとか「和」とか答える政治家もいよう。が、角栄の政治観は極めて具体的生活的である。 早坂は、著書「鈍牛にも角がある」(光文社)の中で次のように記している。 「角栄は戦後政治そのものである。角抜きでは戦後政治は語れない。とりわけ昭和47年7月の政権獲得から同60年2月、脳梗塞で言葉を失うまでの間、田中は日本政治の『主人公』だった。田中内閣に続く三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の政権までを『三角大福中』と呼ぶ。ところが、その実質は『田中角栄の時代』だったのである」。 「悪党・田中の力の源泉は最盛期で143人に達した数の威力である。今一つ、角栄は役人操縦術の家元であった。官僚国家、官僚主義ニッポンは、霞ヶ関のスーパーテクニクラート大集団の協力がなければ立法、行政ともに一センチも進まない。この役人達を田中は自在に動かした」。 「持ち駒の主力は大蔵、建設、郵政の三省である。私の親方は田中軍団を一糸乱れず動員して、自分が操縦できる表の政権を作った。国家予算はじめ、政権党のあらゆる政策決定過程に介入し、衆参両議員、大がかりな地方自治体の選挙戦は事実上、自分が取り仕切った。『角影』『直角』『田中曽根』など、田中支配の時代にマスコミが使った形容詞は、歴代政権と田中の関係、距離を端的に表現している」。 れんだいこの戦後政治史研究によれば、角栄は思われている以上に戦後政治史上の政府与党政権中枢に食い入っていることが判明している。そうした位置に居ることで日本復興の立役者となっている。そういう意味に於いて、「エネルギーに満ちた彼は日本を動かす強力なエンジンだった」という表現は適切である。 不幸にもロッキード事件で倒されたが、彼の築いたシステムは生き残った。しかし、日本篭絡派にとって、その角栄システムが邪魔となった。「公共事業敵視論」の登場と共に「角栄の築いたシステム」は次第に失速し始め、小泉政権下の2005年、解体的状況を迎えた。「公共事業敵視論」はこの観点から捉えねばならない。「公共事業より社会保障を」も、この線で捉えねばなるまい。 「田中角栄入門」は、次のように語っている。 「あとにのこったのは、国民に夢を語ることの出来ない矮小な政治家や官僚たち、そして彼らと業界の利権構造のなかで蓄積された目のくらむような国の財政赤字と、未来に展望を見いだせないしょぼくれた大勢の国民である。角栄なき後、政治家はだれも国民に美しい夢を語ることをしなくなった。彼らがやっていることはただの権力闘争であり、自分たちの私腹を肥やすことだけである」。 立花を随所で持ち上げる「田中角栄入門」の観点はかなり酷いが、この指摘はそのまま正しい。 2005.9.11日、2010.4.16日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評713 | れんだいこ | 2010/04/16 21:19 |
【角栄内治主義的政治の特質その2、反防衛族的軍事費支出抑制】
角栄の内治主義的政治の特質その2として、反防衛族的な軍事費支出抑制を政策としていた点が注目される。インガソル駐日大使の国務省宛レポートは、角栄を次のように評している。 「田中はこれまでの長い政治経験の中で、安全保障問題に強く関わったことは一度もなかった。日米の安全保障関係を変えようとする考えはないだろうが、前任者たちほど日本が日米安保に依存していることを強調することもないだろう」。 「アメリカに対する田中の現実的態度は、両国の経済関係を強調するところによく表れている。アメリカとの関係を何度も強調しており、両国の関係を『分かちがたい兄弟』と表現する。だが、それがどういうことかという点は、アメリカが日本にとって最大の市場であるということ以外の説明ができないようだ」。 実際、角栄は、軍事、防衛、安全保障の面については首を突っ込んでいない。防衛関係のポストに就いたことが一度もない。専ら経済専門的な業績を残している。この点で真反対が後の中曽根首相である点が興味深い。 角栄は代議士初当選後次第に頭角を顕わし、その過程で能力と勢力を類稀なく発展させ、とうとう一国の首相の座まで辿り付いた。驚異とすべきは、この時既に国際舞台にも通用した当代一流の政治家に孵化していたことである。首相になって以来の角栄の政治的姿勢を、新たな三つの観点からベクトル化させることが可能である。 一つは、国内政治における1・日本列島改造計画ベクトルである。角栄は、都市政策要綱、列島改造論の観点で、公共投資による社会基盤整備と中央と地方のバランスの良い国土改造計画を指針させた。一つは、国際政治における2・対中・ソ外交ベクトルである。対米協調を基本として維持しつつ中・ソとの友好関係をも築き、こうした等距離外交を通じて交易拡大を求めようとした。一つは、首相在任時の角栄を襲ったオイル・ショックの衝撃を通じての、その打開策としての3・新資源外交ベクトルである。角栄は、石油・ウラニウムを求めて東奔西走の外交活動を展開した。 角栄政治の元々は、格差是正ベクトル、国土復興ベクトル、均衡ある国土の発展ベクトル、経済再建、民力向上ベクトルを原点としていた。その角栄初期政治は孵化して今や、1・日本列島改造計画ベクトル、2・対中・ソ外交ベクトル、3・新資源外交ベクトルの時代へ向おうとしていた。 これらは「国家百年の大計」に基づく果敢な政治の断行であった。前任の佐藤政治とは極めて対照的でさえあった。首相在任時代の角栄は、官邸-砂防会館事務所-私邸の間を遮二無に精力的に仕事をこなしている。その様は歴代首相にあって群を抜いているといえる。この点で急ぎすぎたのかも知れないが、政治の遅滞を特徴とする日本的慣習からそう見なされるだけであって、政治を国際舞台の観点から見れば別な評価の栄誉に値していたのではなかろうか。 その哲学は、軍事より経済主導のハト派政治であり、「安保条約により、予算を防衛費に突出させずに、経済発展に回せ」というリアル認識に支えられていた。そういう意味では、紛れもなく「吉田学校」の継承譜である。その眼目は、自主責任体制と公平市場主義と「財界依存体質からの脱却」、「中央偏向主義の是正」、「対米従属外交の改善」、「『政・官・民』のリアリズム的使い分け」、大衆的議会主義の育成にあった。 角栄のハト派的立場を象徴している次のような言説が残されている。1981.6.21日付読売新聞「元総理大臣が語る」の中の一説である。次のように述べている。 「ソ連は年間国防費が36兆8250億円、中国が14兆1600億円、西ドイツが6兆1千億円、フランス5兆円、日本は2兆2300億円だ。GNP対比0.91%というのは、世界にない訳ですな。中国でも9%でしょう。イギリスは3.3%、フランスは3.9%ですからねぇ」。 これによると、角栄は、日本の防衛費がGNP対比1%以下というのを誇っていることになる。得意とした数字説得で要点を衝いている。確かに角栄時代までは、「軽武装、経済成長」の国家的枠組みを維持してきていたことが認められねばならない。ここに角栄のハト派的面を見て取らねばならない。 だがしかし、「諸悪の元凶角栄説」論者は、角栄のこのハト派的面を無視して金権政治批判一本槍で批判しぬいてきた。それは余りにも愚劣な政治訴追運動であったのではなかろうか。この運動を誰が指導したのか。何と宮顕ー不破系日共であった。しかも、宮顕ー不破系日共は、その後のタカ派系中曽根政治に対しては口先では批判しても大甘な反対運動に止まった。これは何を意味するのだろうか。ここを疑惑せねばなるまい。 もとへ。角栄の憲法観、防衛問題観について、佐藤昭子が「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」の中で、次のように明らかにしている。 1962.2月、後に暗殺されたロバート・ケネディ米司法長官が来日し、政調会長であった田中角栄他、中曽根康弘、江崎真澄、石田博英、宮沢喜一ら当時の自民党中堅代議士と非公式に会談した。その席で、司法長官は日本の防衛力増強を持ち出した。その懇談の席で、角栄は次のように述べて反論している。 「なるほど、あなたの云うのは理屈だ。ただ防衛力増強と云われるが、アメリカが敗戦国である日本に押し付けた憲法は、我が国に根付いてしまった。大きな枝ぶり一本でも伐ろうとすれば、内閣の一つや二つは吹っ飛ぶ。根こそぎ倒そうとすれば、世の中がひっくり返る。しかし、我々にしても、あなたたちにいつまでも、『おんぶに抱っこ』では申し訳ない。だから、どうしても防衛力を増やしてくれ、と云うのなら、アメリカから日本国民に対し、改めて日本国憲法の成立過程について一言あってしかるべきではないか」。 角栄は去る日、日米安保体制観について次のように述べている。 「日米安保条約は、日本だけが得をするとか、アメリカもそれで助かっているとかの損得で片付くものではない。日米が一体となって、北方の白熊がアジアにずかずかと足を踏み込んでこないよう睨みを利かせているところに大きな意味がある。アメリカがいかに巨大な力を持っていても、直接、アジアの全ての国の安全保障を負担するのは無理だ。そこで、日本とアメリカが一つになって、ソ連を注意深く牽制し、アジア各国に脅威を与えないようにする。これが日米安保体制だ。 この日米安保条約のお陰で、我が国の防衛費は世界各国に比べて、驚くほど低い水準にままに抑えられ、それが日本の経済的復興と発展を支えた。だから、同盟国であるアメリカが日本の防衛力に不満を抱いているのなら、日本はアメリカの不満に真剣に応えなくてはならない。この程度の判断ができなければ、日本人はエゴイストと云われても仕方がない」。 この辺りは、れんだいこの見解と異なるが、それはともかく、これが角栄の日米安保体制是認観である。これによると、あくまでも日本の国益から日米安保体制を捉えていることになる。当然の見地では有るが、アメリカ側即ちネオシオニストにとっては御し難い点で始末に困る観点でもあろう。彼らは、彼らの言いなりになる日米安保是認観を欲している。そういう意味で、角栄の日米安保体制是認観の民族主義性を見て取ることが肝要ではなかろうか。 思えば、角栄政治とは、幕末維新、明治維新以来の内治派と外治派の抗争と云う歴史軸に於いて明確に内治派を意識しつつ首相の座に上り詰め、縦横無尽に活躍した稀有な政治家であったのではなかろうか。角栄政治は豊穣にして多角的な面を持っているので一概に捉えられないが、下手な左派運動より何倍も左派的な面を持っていたようにも思う。この路線の下で日本政治が続いていたなら、世界史上画期的な日本政治の質が世界に登場していたのではなかろうか。そう考えると悔やまれること夥しい。 付言しておけば、角栄時代即ち彼が大蔵大臣、幹事長、首相職に在任中、国債発行を抑制せしめていた。当然のことながら、この時代には消費税なる悪税はない。角栄の睨みが利かなくなってより防衛費が突出し始め、国債が刷り抜かれ、3%消費税が導入され、続いて5%になり、地方が切り捨てられ、中小零細企業が切り捨てられ、社会資本的公共事業が抑制され、労働省が廃止され、雇用、年金、医療システムが破壊され、アジア間の対立紛争が煽られ云々。こういう政治ばかりしてきた。これでは世の中良くなる訳ないではないか。 しかし、そういう政治をやると名宰相と囃したてられ、逆に向かうと暗愚と評される。ホワイトハウスから見てそうであっても、日本から見れば違う評価にならなければならぬところ、マスコミはいつもワシントン基準でものを云う。そういう風にしつけされているのだろうが、少しは休み休み云ってはどうだ。 2005.9.11日、2010.4.16日再編集 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評714 | れんだいこ | 2010/04/18 20:01 |
【イソップの「ろばを売りに行く親子の話」考】
2010.4.18日、NHKの日曜討論を聞く機会を得た。そのバカ談議を聞きながら、ふとイソップの「ろばを売りに行く親子の話」を思いだした。れんだいこはこれまでもアンデルセンの「裸の王様」、童話ではないが坂口安吾の「ラムネの話」、「目くそ鼻くそを笑うの寓意考」等々いわゆる「寓意もの」を推敲している。こういう話ををなぜ気に入るのかと云うと、簡にして要を射た話が百万言費やした論文より為になり面白いからである。昔の人は、こういう話とか諺、名言、名句を素養にして日常会話の中にもふんだんに取り入れていた気がする。現代人は知らぬせいか語彙が貧相な気がしてならない。 せっかくだから、この機会に「ろばを売りに行く親子の話」を読み直してみよう。れんだいこが意訳すれば次のような話になる。 「或る時、粉ひきの父親と息子が、ロバを売りに市場へ出かけた。二人でロバを引いて歩いていると、それを見た人が云うのに、『おばかさんだねぇ。せっかくろばを連れているのなら乗って行けば良いのに。歩いているなんてもったいない』。なるほどと思った父親は息子をロバに乗せた。しばらく行くと別の人がこれを見て云うのに、『おいおい。子供の方が乗って親を歩かせるなんてバカなことがあるか。親父も親父だ。子供を甘やかしてどうする』。それもそうだと思い、今度は父親がロバにまたがることにした。しばらく行くと、また別の者が云うのに、『おいおい。どうなっているんだ。親が楽をして子供を歩かせるとは。酷い親だ」。親子はほとほと困った。考えた末に二人でロバに乗ることにした。すると、別の者が見て云うのに、『おいおい。ロバに二人も乗るなんて、ロバが可哀そうではないか』。親子はまたまた困った。最後の名案として、ロバの両足を棒にくくりつけて吊るし、二人で担いで歩くことにした。これで誰にもとやかく云われないで済むと安堵したが、もうすぐ市場に到着するという頃、窮屈な姿勢を嫌がったロバが暴れだした。不運にもそこは橋の上であった。暴れたロバは川に落ちて流されてしまった。結局親子はロバを売り損ない、一文の利益も得られないままとぼとぼと帰って行った」。 この寓話を解説するまでもなかろう。主体性なく人の意見ばかり聞いて右顧左眄するようでは詰まらない。結果として元も子もなくする、時としてひどい目に遭うと云う戒めと解する。 NHK日曜討論を聞きながらこの話を思い出した。というのも、鳩山政権が最近打ち出した高速道路料金政策、これに関連する公共事業の論議が、議論の体をなしていないと思えたからであろう。ほんの少し聞いただけなので推定込みで批判するが、どの党も似たり寄ったりの目クソ鼻クソを笑う程度の漫談でしかなかった。こうなると国会議員が政治の遊び人集団に思えてくる。 本来の議論なら、こたびの高速道路料金新政策に対して従来のそれよりも「よりマシ」として、もっと早く施行すべきだったこと、何でこんなに遅れたのかを詰問する場面が要るだろうに。この観点から批判していた党はなかった。公共事業に対しても抑制論ばかりで必要論を説く党がいなかった。こういうことでは議論にならない。いわゆる出来レース論でしかない。最近の政治論議が不快に思える所以である。 消費税論議然り。最近とみに議論されつつあるが、その必要論議するのなら、その前に軍事防衛費抑制、思いやり予算カツト、公務員給与の高給部分の抑制、天下りの高給部分の抑制、高額退職金の繰り返し取り抑制と云う最大の事業仕訳ターゲットに踏み込んでからのことであろうに。実際には重箱の隅ばかり突いて正義ヅラしている。クダランことである。いつからこんな政治になってしまったのだろう。 れんだいこに云わせれば、消費税増税、憲法改正、自衛隊の海外派兵、原子力発電推進、官営企業の民営化、著作権強化、教育行政の空疎且つ規制強化、メディアの白痴番組化、音曲の植民地音楽傾向化等々、これ皆国際金融資本が裏で糸引くシオニスタン特有の政策ばかりである。現下の政党は、これを急進主義的に主張するのか穏和に主張するのかの違いだけに過ぎない。そういう政治派ツマラン。 鳩山政権が結局のところ、目先のパフォーマンスばかりして肝心な政策をモタモタさせているところに支持率凋落の原因がある。所詮、坊っちゃんは坊ちゃん政治しかできないと云う失望が急速に国民的合意になりつつある。これが支持率凋落の真因なのに、小沢を斬ればあたかも支持率が上がるかのような意図的故意のマスコミ報道が執拗に続けられている。エエカゲンニセンカイ、れんだいこはそう思う。 どうすれば、この状況が変わるのだろう。何度も申し上げているが、日本版アルジャジーラ放送局、同新聞を生み出す以外にない。誰か立ち上げてくれないか。やりくりしてカンパしても惜しくないぞ。ここに関心を寄せない評論はみんなウソと考えている。本当にそうではなかろうか。日本再生のためには、そうはゆっくりしていられないんだけれども。とにかく既成の言論には飽き飽き食傷させられている。 2010.04.18日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評715 | れんだいこ | 2010/04/21 23:12 |
【高速新料金案の再度見直しの動きについて】 2010.4.21日、日経新聞報道によると、 政府・民主党はこの日の首脳会議で、前原誠司国土交通相が9日に発表した高速道路料金案を再度、見直すことを決めたと云う。それによると、新料金案が、自公政権末期の「休日上限1000円制」に対して、都市部の近距離で却って値上がりすることになるのを懸念する声があり、これを受けて民主党の小沢一郎幹事長が「無料化を掲げているのに、値上がりは有権者を説得できない」と見直しを求め、これにより6月に予定していた新料金への変更が先送りされる可能性が出てきた、とある。 これに一言しておく。れんだいこは、小沢提案を支持するが、それにより6月予定の新料金制が先送りになることが最もイケナイこととして指弾したい。本来なら、鳩山政権直後の政策第一弾として、無料化ができなくても「既成料金の一律3分の1低額化、通行量5倍化」を打ち出すべきだった。それをモタモタさせて今日まで日延べしているのが一番イケナイ。 前原国交相は、いの一番にこれをやるべきだったところ、ダム中止から始まりいたるところに首を突っ込んでは中途半端なことばかり云い、鳩山政権の政権交代効果に水を差して来た。これを咎められない鳩山首相の八方美人ならぬハトヤマ美人をみせられ続けてきている。これが、鳩山政権支持率低下の真因である。 森田実の小沢パッシング(正確には「パ」ッシングと云うらしい。パッション又はパス送りを強めるという意味での「パ」ッシングでも意味が通じるかと思うが、ナイタ―のような和製英語として通用させて貰えないだろうか、と言い訳しておく)は、全くナンセンスである。一度、歴史観を廻って、彼と思想問答してみないとイケナイかなとも思う。とにかく、森田の反小沢論調は異常の臭いがする。 もとへ。小沢提言「無料化を掲げているのに、値上がりは有権者を説得できない」それ自体は問題ない。それを口実に先送りするのが一番イケナイ。解決は全然難しくない。自公政権末期の「休日上限1000円制」以上になる区間に対してはワンコイン、ツ―コイン、スリ―コインで対応すればよいだけのことである。やろうとすればすぐできるのに、小沢提言をネタにして先送りするなぞ到底許し難い。 れんだいこは週休一日休みの身である。土、日、祝日は休めないので平日休みになる。そうすると、自公政権の「休日上限1000円制」の恩恵を受けられない。それでも休みには高速使って2時間ばかりの温泉治療に行くことを楽しみにしている。その身からすると、「平日休日とも上限2000円制」は有り難い。即やるべきである。何をモタモタしているのか。こういう声は多い筈である。 れんだいこのように高速使って遠出すれば、行く先々で何らかを消費する。その経済効果が大きい。「平日休日とも上限2000円制」になれば多くの人が繰り出し、現行のスカスカ高額料金収入より却って収入増になる可能性が強い。いわゆるユニクロ経営のようなものであろう。元々高速道無料化は景気刺激策として公約化されたのだから、これを躊躇する理由は何もない。現にユニクロ経営は成功し、百貨店、スーパーの減益を尻目に増収し続けているではないか。乗る人良し、乗せる公団良し、観光地良しの三方良しではないのか。なのになぜ直ぐにしないのか。 環境汚染論を持ち出して反対する者が居る。こういう手合いは、先の投稿「イソップのロバを売りに行く親子の話」で述べたように、いろんな人が勝手に思い付きを云っているだけで、そういう意見に耳を傾けて延々と議論し続けるのが一番良くない。鳩山政権が小沢提言をネタにして先送りするなら、れんだいこは許さない。この内閣を本当に全力で潰そうと思う。原子力発電推進政策だって相当我慢しているんだこちとらは。 学者バカを何人集めて議論してもバカはバカだからしてバカな議論しかできない。下々の生活の呼吸が分かる経世済民学者と政治家が指導力を発揮して、やる時には「決断と実行」あるのみではないのか。これをやった角さんはやっぱり偉かった。彼は公約通りにやった。その意味で裏表がなかった。角さん以降、せめて角さん並みの政治家が出てくれば良いのだけれど、国際金融資本にオツムと金玉の両方を握られたシオニスタン政治家ばかりが逆走政治ばかりしている。小泉のように狂人レイプ式にやるのか、右顧左眄しながらコソコソやるのかだけの違いでしかない。これでは日本が良くなる訳ない。まことにクダラン。 2010.04.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評716 | れんだいこ | 2010/04/22 21:33 |
【高速新料金案の再度見直しの動きについて補足】 国交省の6月から実施予定の新料金政策について、与野党から「実質、値上げではないのかとの声」が上がっていると云う。れんだいこは冗談ではないと思う。そもそも普通車れべるで土、日、祝日にしか適用されない「ET車限定の1000円制」と「全曜日終日2000円制」と比べようがないではないか。「実質、値上げではないのか」論者は、どうやって比較しているのだろう。納得行く説明をお願いしたい。ステキな詭弁を聞かせてくれや。 要するにやるのかやらないのか。というよりやる気があるのかないのかが問われている。「やらない方がマシ」論者にも申し渡しておく。物事はいっぺんには転換できない。こたびの新料金制は「いつでもどこまでも2000円」で分かり易い。恐らく却って現行収入より増えるはずだ。増えた分で新道路建設、補修に回す手もある。税金使わずにやるんだったら一石二鳥だろうが。それでも文句言う奴はよほどへそ曲がりではないかな。 瀬戸大橋で文句言う四国の連中もオカシイ。平日基準で考えれば、現行の確か9000円(しかとは分からない6000円という人もいる。れんだいこは高過ぎるので長い間通ってないから忘れた)が3000円になるんだろうが。これぐらいなら、土佐の朝市に行って見ようかとか、讃岐のうどんを食いに行こうかと云うことになるでせうが。四国の連中もショッピングに出かけやすくなるでせうが。フェリーの件は、通行料収入増えたら補填すれば良いですが。何も難しいことあらへん。 理屈はもういいの。とにかくすぐやるべきなの。アバウトで良い感触のものはやってみなはれでいいの。やらないよりは絶対いいの。やってから、もっと良くなるように改良すれば良いの。ああでもないこうでもないの長談議の賞味期限切れが多過ぎるわ。そういう連中が年収2000万円もそれ以上も取っていたら許されんぞなもし。これを補足しておく。 2010.04.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評717 | れんだいこ | 2010/04/24 12:23 |
【高速道新料金案に対する割高批判のナンセンス考】
2010.4.10日付け毎日新聞社説「高速新料金 無料を掲げ値上げとは」のバカ丸出しぶりを評しておく。他の新聞のそれに目を通していないが、恐らくどこも似たり寄ったりの難癖批判でお茶を濁しているではなかろうか。こういう手合いがジャーナルしているところに政治の貧困が表れているとも云えるのではなかろうか。この連中が高給取りしているとしたら許せないことである。れんだいこは、この程度のオツムは精一杯高めに評価して年収500万円ぐらいを相当と診断するので、それ以上の給金はどこぞのボランティア機関に寄付して社会にお役立ちせよと意見しておく。 社説士は云う。「発表された新たな料金制度によると、長距離の利用以外は、負担が増えてしまう」 、「上限の2000円は約70キロを走行した場合の料金に相当し、これより短い場合は、現在の割引がなくなるため、値上げとなる」。 こういう論が今流行っているが、一体何を基準に云っているのだろう。れんだいこは頭がオカシクなる。自公政権のそれは「ET車に限り且つ土日祝日だけの普通車1000円制」である。国交省発表の新料金制案は「ET車の区別なく且つ曜日の区別なくいつでもどこでも普通車2000円制」である。両者は、基準ペースが異なるのでそもそも比較にならない。社説士が何をもって「負担が増えてしまう」と決めつけているのか、説明責任があると云うべきだろう。 例えて見れば、ウサギとカメはどちらが働きものかの問いに似ている。お題そのものがナンセンスなのに、やれウサギだとかカメだとか云い合っているのに似ている。どちらが速く走るのかだとか、どちらが長寿なのかで比べれぺ自明なのだが、どちらが働きものかは比べること自体に意味がない。 それと同様で、発表された新料金制度が「ET車に限り且つ土日祝日だけの普通車1000円制」と比べて割高かどうか、比べること自体に意味がない。比べるとするならば、同じ土俵の「限定1000円制以前の旧料金制度」と比較せねばならない。そうすると大幅且つ画期的な減額になっていることが自明ではなかろうか。 この比較をしないままに社説士は敢えて逆に割高と云いなして批判していることになる。こういうのを為にする批判又は詐術批判と云うのではなかろうか。現代は、自称インテリによるこういう筋違い批判が多過ぎる。子供の頭がオカシクなるのも無理がないと云うべきではなかろうか。今では大人までオカシクなっているが、それは病状の進行を物語っているとみなすべきだろう。 社説士の論の特徴としてもう一つに、高速道路建設敵視論が垣間見える。いわゆるムダな道路建設批判であるが、これもオカシイ。社説士よ、一体全体ムダな高速道路箇所を具体的に指摘して見よ。それをせぬまま高速道路建設批判をするのは卑怯姑息ではなかろうか。この社説士に、高速道路建設そのものに反対しているのか、「一般税収財源を高速道路建設に回す」ことに反対なのか聞いてみたい。れんだいこには、高速道路建設を敵視する論拠が分からない。ならば自主財源でもダメなのか、返答して見よ。 これに関連する本四連絡橋批判の一つに三本も架橋した論がある。れんだいこに云わせれば、これもナンセンスな批判である。明石大橋と岡山大橋と広島大橋はそれぞれ経済圏が違っており必要な架橋である。それを思えば一本論は机上の空論でしかない。むしろ、かの時に三本架橋できた当時の日本の経済力の強さを称えるべきで、問題ありとすれば、料金が割高故に通行量が伸び悩んでいることが判明しても思い切った低額化対応せずに赤字累積させ続けた官僚式硬直対応ぶりであろう。これを批判せずに過剰架橋論でお茶を濁して評論したつもりになってきた。ナンセンスと云うべきではなかろうか。 社説士はこそっと次のようにも述べている。「一方、恩恵を受けるのは長距離を運転する場合だ。どこまで走っても普通車ならいつでも2000円、中・大型車でも5000円だ。休日1000円がなくなるとはいえ、それでも十分に安い。しかも、ETCの搭載は不要だ」。 本来なら、この下りに続けて、これにより高速道路の利用が増え、全国各地に及ぼす経済効果が期待できると論を張るべきだろう。現行の土、日、祝祭日限定による混雑が緩和されることも考えられると記すべきだろう。 ところが、この社説士は次のように続ける。「ただし、長距離の利用が増えれば、鉄道やバスが影響を受けることになる。鉄道から自動車へとシフトすれば、二酸化炭素の排出量は増える。温室効果ガスの削減で現政権が掲げている高い目標の実現と、どう整合するというのだろうか」。 こういう手合いを「賢こバカ」と云うのではなかろうか。ああ云えばこう云う堂々巡り論を唱えており、漬ける薬がない手合いと云うべきだろう。世の中で、世のすべての人や事を納得せしめられるような名案はないとしたものだ。あちら立てればこちら立たずが相場である。故に政治当局者には高等な判断が要求されることになる。指導者論が必要な所以がここにある。 英明な指導者なら、新料金制度を優先させ、鉄道やバスの影響は様子見する。政策的補助が必要なら、後で手当てすれば良い。その間、鉄道やバス側も知恵を発揮させ新時代の対応を考える。そうやって競合が生まれ次第に世の中が良い方向に変わるのではなかろうか。二酸化炭素排出量危惧論はナンセンスである。第一、そんなに満杯になるほど車が走り続ける訳でもなく、それを云うなら市街地の混雑渋滞こそ問題にすべきであろうが。何をか況やではなかろうか。 社説士は云う。「料金割引の財源のうち1・4兆円を高速道路建設に回す。しかし、値下げの財源を建設に流用するのはルール違反だ。国会の監視をすり抜ける便法として、同様のことが繰り返され、無駄な道路の建設が続くことにつながらないか、心配だ」、「簡素化などのメリットはある。しかし、無料化を掲げながら、利用者の多くが現状より値上げとなってしまう。しかも、それは、道路建設に資金を回すようにしたためだ」。 社説士よ、元々自主財源にしていたのを取り上げおいて、料金割引の財源を宛てるのに文句云いだしたら高速道路道路はできなくなるではないか。もっとも、れんだいこの読みによると、新政策で通行量が増し旧制度時より収入増になる。これを宛がうから「料金割引の財源を宛てる」必要もなくなるであろう。こうなると、残る反対理由は道路建設イケナイ論だけになる。道路建設をそんなに敵視して何が嬉しいのだろうか。 社説士は云う。「高速料金の無料化は、物流などのコストを下げて、経済の活性化につなげることが目的だったはずだ。この点も含め、昨年の総選挙での民主党の主張と、今回の高速料金制度がどのようにつながるのかを、へ理屈や言い訳、強弁ではなく、きちんと説明してもらいたい」。 社説士や。「へ理屈や言い訳、強弁ではなく、きちんと説明してもらいたい」のはお前の方た。どういちお口をしているのだお前は。この減らず口めが。 補足として、小沢幹事長の発言を採り上げておく。小沢幹事長は次のように述べている。 「世界中でこんな高い高速料金をとっている国はありません。そういう意味で我々は皆さんにお約束して選挙戦も戦った。結果としてでてきたのは無料化どころか値上げになっている。これじゃあ、もう説明つかない。無料と言っていたのが無料どころか値上げするって言うのでは、皆さんにウソをついたことになる。そういうことで、皆の意見をぜひ政府もお聞きいただきたいと、私は丁寧に申し上げたわけでございます」、「無料と言っていたのが無料どころか値上げするって言うのでは、皆さんにウソをついたことになる」、「高速道路の新料金については、私が党を代表して発言したのはまちがいない。国民の意見を政府に、ていねいに申し上げたつもりだ。結局は役所を説得できないところに、こういう結果が出てくるのであり、われわれ自身が研さんを積まないといけない」、「このことについては皆を代表して(私が)発言したことは間違いない。私どもはそもそも、高速道路を無料にしようというところから始めたわけであります」。 れんだいこの考えは少し違う。小沢は格好良過ぎることを云わずに、次のように述べるべきである。「高速道路の新料金制は不十分な面があるにしても、実施するに値する政策となっている。故に早急に実施せねばならない。もはや待てない。自公政権時の1000円制に較べて割高な面があるとすれば、ワンコイン、ツ―コインで対応させるべきだと思う。これの検討をお願いしたい。今や早急に実現する段階である。新政策の効果を見て更に公約に近づけるべきだ。国民の皆様の納得をお願いしたい」。 こう述べて、前原国交相がこの発言にも抵抗するようなら、それこそ放り出さねばならない。本来なら、高速道路料金の無料化への見直しは鳩山政権第1号の公約実現施策になるべきだった。今日までお預けしてきたことこそ臭いと云うべきではなかろうか。ハトヤマ美人の指導力を期待したい。 2010.4.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評718 | れんだいこ | 2010/04/24 23:42 |
【世評のジャーナル能力検証考】
2010.4.9日発表の国土交通省の高速道路の新料金制度案の解釈を廻って、「割高論」が為され、れんだいこがこれを懸命に否定している。同じものを廻って、こうも見解が異なる例を他にも確認しておく。 直近の例で、2010.4.17日、ワシントンで開かれた核サミットの鳩山首相とオバマ大統領の夕食会の冒頭10分間の非公式会談の評も見解が分かれている。会談の内容はさておき形式的な面で、「10分会談」は、日米首脳会談が実現しなかったこと、僅か10分間だけであったことを重視して、鳩山首相即ち日本が粗末に扱われた、屈辱的ものと評するマスコミ見解がある。他方、47カ国が集まった晩餐会で主催者の隣に座ったことや、鳩山首相と同じような扱いを受けたのは米国にとっては大切なアラブの王子だけだったことを重視して、破格の好待遇と評する向きもある。どちらの評がが真相に近いのだろうか。 れんだいこは、同じような例で、角栄に纏わる次の話を持ち出したい。角栄が日中国交回復交渉で北京に出向き、根交渉を終えてクライマックスの「毛沢東―角栄会談」の際の出来事である。角栄はこの時、自筆の墨書き4行詩で「国交途絶 幾星霜、修好再開 秋将到、隣人眼温吾 人迎、北京空晴 秋気深」(国交が絶えて久しかったが、今国交回復の機が到来した。北京空港で出迎えてくれた中国人民の眼は温かく、すがすがしい秋の香りがします)としたためた漢詩調の詩文を毛主席に手渡した。毛沢東主席は会談後、お返しに詩経と並ぶ中国詩文の古典「楚辞集注」(「屈原詩註・4冊」)を贈呈した。 毛主席が角栄に「楚辞」を渡した意図について、これをどう解釈すべきだろうか、これが面白い。日本の或る大手新聞社記者は、角栄が読み上げた漢詩を念頭に置いて、「漢字を連ねただけでは詩にならない。少し漢詩の作り方を勉強しなさいという毛主席の皮肉を込めた返礼である」と論評をしている。この評は、当人が当人の器量に応じて解釈した滑稽な例であろう。あるいは、「迷惑論争」で揺れた経緯を踏まえて、中国語の用法がふんだんに使用されている「楚辞」を贈ることにより中国的文意を知らせようとの配慮から贈られた、と解釈する学者も居た。ピンボケの話を小難しく語るのを得意とする学者の典型例であろう。 それに較べて、安岡正篤氏はマシな解釈をしている。安岡氏は、「無礼、返却するのが筋」と云ったとのことである。その意味は、「楚辞」所収の中国楚の時代の政治家・屈原が 「君主に経綸を奏上して容れられず、讒言によって官位を追われ、その不遇を訴えるかの如くに入水して果てた人物」であり、「飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄に不吉な屈原を重ね合わせる非礼」を感知したものと思われる。安岡氏の洞察力がさすがのものであることが分かる。 しかしながら、その後ロッキード事件で倒れた角栄を知れば、毛主席の洞察力がその上を行っていたことになりはすまいか。してみれば、安岡正篤の洞察は深い、毛沢東の洞察はなお深かったことになる。こう確認すべきであろうが、そうすると、日本の大手新聞社記者と学者の評はバカ丸出しと云うことになりはすまいか。穴があったら入りたいと云うのは、こういう心境を云うべきであろうが、こう云う手合いに限ってカエルのツラにションペンであろう。 こういうこともあって、れんだいこは、新聞、書籍からはニュースや資料的なものを拾うが、判断は全てこちらでするという手法を確立している。マスコミや学者程度の頭脳のものから良き知恵を得れることは稀であるからして、見解の孫引きはしないことにしている。 もとへ。2010.4.9日発表の国土交通省の高速道路の新料金制度案の解釈であるが、これを「割高論」で批判する者は、いずれ後で恥を掻くであろう。実施してみればすぐ分かる。多くの者が繰り出せば、何で割高なのに通行量が増えたのか説明できまい。ましてや通行料収入が増えたことも。 各種の割引制度論を持ち出す者も同罪である。そういうチマチマした規制を取っ払えば良いのだ。こたびの新制度にはそういう画期性もある。従前より割高になる例があるのなら、それが通勤者なら通勤割引で対応すれば良いだけのことである。業務用車なら業務用枠を作って対応すれば良いだけのことである。個別のあるいは特殊の例を持ち出して、新料金制度を先送りさせるには及ぶまい。 良いことをやろうとしている時に難癖つけるのが一番悪い。我がたすけあい党は、その点、是々非々で、良いものは良い、良くないものは良くないと見立てる。この見立て力がないと万年一律の旧社会党的「何でも口先批判、裏取引専門の安気な野党暮らし政治」に堕してしまうではないか。そういう口ばかり達者なのは役に立たん。たすけあい党は、好かん前原であるが、その前原が突かれてようやく腰を上げているのにそれをまたまた座らせるような批判はしない。前原しゃんとせぇ、すぐやれ、やらにゃこらえんどと背中を押したい。 2010.4.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評719 | れんだいこ | 2010/04/28 13:18 |
【たすけあい党緊急声明 執拗な小沢政治訴追運動を粉砕せよ】
2010.4.26日、東京第4検察審査会は、鳩山由紀夫首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる偽装献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載など)容疑で告発された首相と元政策秘書(55)を東京地検特捜部が不起訴(嫌疑不十分)とした処分について、「不起訴相当」とする議決をした。これにより、鳩山首相絡みの偽装献金事件の捜査は終結することになった。 他方、2010.04.27日、東京第5検察審査会(検審)は、民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で、東京都の市民団体から政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で告発され、嫌疑不十分で不起訴処分となった件について「起訴相当」と議決した。これを受け、東京地検特捜部は再捜査を行うことになる。 これが黙っていられようか。検察審査会のこの議決は明らかにオカシイ。政治資金規正法の趣旨に照らせば逆裁定であることが明白であろう。この問題の要点は、収支報告書の記載不記載問題にこそある。法の趣旨に照らせば、収支報告書不記載が一番咎められるべきである。その次に故人等の架空記載が咎められるべきである。記載してあれば、よほど悪質でない限り免責されるべきである。悪質か悪質でないかは資金調達の仕方と使途の二面で問われる。こう順序づけるべきであろう。 ところが、検察審査会の判断によれば逆になる。収支報告書に記載した方が咎められ、「天の声」まで詮索される。今後は、赤い羽根募金でも誰から貰ったか相手側の詮索が必要となりそうだ。故人献金が酌量され、不記載は不問にされる。こういうことでは法秩序が壊れよう。頭がオカシクなるような話である。子供が、こういうことを鵜呑みにし始めたら、日本の将来はよほどいびつなものになるに違いない。 そういう意味で、検察審査会とは何者か、どういう風に人選され、審査され、議決されるのかの情報開示が必要となろう。法に基づく機関であるからして公正さが求められるは当り前で、秘密主義こそ咎められるべきであろう。こたび特に問題なのは、小沢幹事長に対する「起訴相当議決の論旨」がかなり政治主義的なところである。「政治不信が高まっており市民目線からは許し難い。裁判所で真実と責任の所在を明らかにすべきだ」と判断しているが、「市民目線」を持ち出せば「小沢クロ」にもっていけるとする論法が臭い。「れんだいこ的市民目線」を持ち出せば「小沢シロ」になると云うのに。 それはともかく、検察司法は、民主党政権になるや「政治とカネ問題」で時の首相と幹事長を槍玉に挙げ始めたが、これは自公政権、自民党政権時には「政治とカネ問題」がなかったと云うことだろうか。有り得ないので、検察司法の動きそのものが臭いと云うべきだろう。検察審査会の結果、「鳩山首相捜査終結、小沢幹事長再捜査」と云う結果になったが、これも臭過ぎよう。 このところ国策捜査の乱脈、乱造ぶりが激しい。あまり多用すると食傷され、魂胆ばかりが透けて見えてくると云うのに。一体、誰がこれを指揮しているのだろうか、こういう風に関心が向かうのが避けられない。これを詮索すると陰謀論だと云う声が為されるが、れんだいこには陰謀が存在するとしか考えられない。陰謀論否定論者は、どうやって否定しようとするのだろう。 小沢を執拗に追撃する裏に、現代世界を真に牛耳っている裏国家たる国際金融資本の意思を窺わずして説明できるだろうか。れんだいこは、この裏国家を、国際金融資本帝国主義又はネオシオニズム又はロスチャイルド帝国等々と命名している。こういう権力が存在するとして近現代史を紐解けば、この裏国家が世界を席巻していることが分かる。この権力体は西欧から始まり、植民地政策を通して世界に支配を拡げ、世界各国の政治、経済、文化、精神を支配していると考えている。この支配に迎合する勢力をシオニスタンと命名している。現代世界政治は、彼らによって操られているとみなすべきではなかろうか。 彼らは、独特の宗教観、社会観、歴史観の下に世界を支配し秩序づけようとしている。その理論たるや超闘争的、権威的、独裁的なもので、そのイデオロギーの下に各国を組み敷き、人民大衆を手なづけけようとしている。これを統合するのが拝金主義であり、途方もない財貨、資本を貯めこんでなお飽きない。好んで戦争を起こし、赤字国債を発行させ、財政的コントロールを通じて忍び寄る。各国に配下のエージェントを育成し、政治目的の下僕として利用する。代価は立身出世による地位と権力である。こういう機会主義者ばかりが登用され、政財官学報司の六者機関を牛耳っている。れんだいこは、この連中をシオニスタンと命名している。 この連中が、小沢民主党幹事長の政治訴追、議員辞職運動を画策し、引きずりおろしに躍起になっている。ということは、「小沢的なるもの」が、彼らの政治支配に邪魔になっていることを示している。この手法は、去る昔の1976年、ロッキード事件で稀代の有能政治家・田中角栄前首相を葬った時にも使われた。今その二の舞を演じようとしている。その意味で、小沢キード事件がロッキード事件化しつつある。 これにどう対応するのか、それが問われている。残念ながら、日本左派運動は、かのロッキード事件の時、全く無能ぶりを示した。というより、社共は率先して角栄退治に興じて手柄を誇り合った。新左翼も又各派とも社共ほど興じなかったが角栄批判のスタンスを執った。「角栄的なるもの」が葬られてより、日本は転落への道が敷かれ、今日へと至っている。代わりに台頭してきたのは「中曽根的なるもの」、「小泉的なるもの」である。この両者は共にホワイトハウスから名宰相として覚えがめでたいことでも知られている。ホワイトハウスに褒められている間に日本は国富をむしり取られてきた。経済成長が逼塞せしめられ、優良企業が外資の傘下に収められてきた。そういう経緯が明白なのに、日本左派運動は再びその愚を犯すのだろうか。それが問われている。 出てくる結論は次のことではなかろうか。国際金融資本帝国主義-日本シオニスタン同盟の言論大砲、司法大砲に抗すべく我々のそれを立ち上げねばならない。国際金融資本帝国主義-日本シオニスタン同盟の誘導する道が、日本属国化のみならず日本解体への道であることを明らかにしつつ、民族の自立自存を賭けた救国共同戦線を構築せねばならない。このせめぎ合いが今後暫くの政治局面となるであろう。 よって、たすけあい党は次の如く声明する。 今日本は、憲法改正による自衛隊の恒常的武装派兵、消費税の更なる値上げによる重税、原子力開発推進政策による取り返しのつかない日本づくりへとワナを仕掛けられている。鳩山政権は、この道を歩みつつある。政策的に国内不況を持続化させ、多くの中小零細業者が死の行進させられつつある。小沢に対する執拗な政治訴追は、これを為す為の地ならしであり、それが国際金融資本帝国主義-日本シオニスタン同盟の鉄の意志である。我々は座して待つ必要はない。幕末維新以来続いている日本の独立か植民地化か、国の在り方が問われている。二股の道のいずれを選ぶのか、それを問う頭脳戦の闘いである。心して参ろう。 以上、緊急声明しておく。 2010.4.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評720 | れんだいこ | 2010/04/29 22:00 |
【情けないほど酷い朝日新聞の低脳化考】 2010.4.28日付けの朝日新聞社説「起訴相当―小沢氏はまだ居直るのか」にコメントしておく。 この社説士に申しておく。題名からしてケシカラン。「起訴相当―小沢氏はまだ居直るのか」の弁には、「検察不起訴―朝日はまだ小沢を叩き続けるのか」とお返ししておこう。いずれ、「朝日はまだ居直るのか」と我々が突き上げる日が来よう。じつとして待っておれ。 社説士よ、「無作為で選ばれた審査員」と書いているが本当かな。ネットでは既に滅茶苦茶な人選ぶりであったと口コミされているぞ。お前は調べてものを言っているのか。社説責任があるのだから、知らぬでは済まされぬぞ。ここのところを説明してみ。公平な人選、公平な議論を経て、満場一致の議決だったと云うなら、それを実証報道してみ。それがお仕事だろうが。 「先の鳩山由紀夫首相に対する検察審査会の議決同様、国民の声を代弁するものだ」と異なことを書いているが、これはどういう意味だ。「鳩山シロ、小沢クロ」の結果となったが、これが本当に国民の声かや。オカシナ判定として燻っているのではないかな。お前のオツムはかなり曲がっていようぞ。 「このいら立ちや閉塞(へいそく)感を生んだのはほかならぬ小沢氏である」もオカシイ。国民は何も、小沢起訴不起訴に対して「いら立ちや閉塞」を感じていまい。もうエエカゲンニセンカイと云う声の方が多かろうに。鳩山政権政治に対する「いら立ちや閉塞」はある。しかしそれは党務の小沢の方の責任ではなく政務の鳩山の方の問題だろうが。 「国会での説明を求められても一切応じない」とも云うが、政治資金収支報告書に記載した内容の「天の声」まで、国会で逐一吟味し質疑させるのか今後は。国会つうところは政策の審議をしてくれんと困るがな。高い税金払っているのだし、互いに先生呼ばわりして談笑するのもエエ加減にして貰いたいわな。それともなにか、国会を議員同士の吊るしあげ査問機関にしたいんかやちみは。インテリつうのはそういう風に考えるのかや。 「民意に正面から向き合おうとせず、居直りというほかない態度をとることへの拒否感、嫌悪感が、政策の迷走とあいまって、鳩山内閣や民主党の支持率を押し下げている。時がたてば忘れられるのではなく、時がたっても手を打たず、自浄作用を働かせないことへの不信が深まっているのだ」。これに文句つけたらキリがないので止すが、朝日らしいイヤラシイ言い回しではある。 社説士は云う。「政治家が資金管理団体や政党支部など数多くの『財布』を持ち、見えにくくしている資金の流れを透明にするにはどうすればよいか。審査会が問題提起している政治家本人と秘書の関係をどう整理し、責任をいかに果たすのか」。この問いはもっともだ。れんだいこが答えておこう。小沢幹事長のように入出金を全て収支報告書に記載することだ。記載しなかったり故人献金を記載するのが一番悪い。分かったかな。 社説士は次のように結んでいる。「議決を受けて小沢氏は幹事長続投の考えを示したが、大局に立った判断をすべきだ。一刻も早く国会で説明する。それができないのであれば、幹事長職を辞し、民主党の運営から手を引く。無駄にできる時間は、もうない」。 要するに、これが云いたかったのだろう。小沢を幹事長職から降ろせ、これがご主人様からのご命令なんだろう。これが云いたい為に、いろいろ胡椒をかけて手を替え品を替え論じていたに過ぎない。そういう裏舞台が透けて見えてくる。こういう論調して居れば、いつでも御身安泰、高給にありつけるという訳か。 朝日が、読売、産経とは物言いが少し違う、しかしながらご主人様のご命令の忠実さでは何ら違わない、日頃小難しく云う癖のある言論機関であるのは知れている。それにしても寂しいものがある。これが云いたい為に採り上げている。しかし、この手の社説士に聞かせてもムダだろうから、何せ聞く耳を持たない者には漬ける薬がない。だから云うまい。寂しさだけを遺しておこう。 2010.4.29日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)