カンテラ時評23(661~690) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評661 | れんだいこ | 2010/02/02 12:19 |
【小沢幹事長よ、検察マスコミの捏造世論に負けるな。歴史の条理に生きよ】 2.4期限を迎えて、検察マスコミ、党内右派の小沢おろしが喧しい。何とかして小沢を引きずり下ろしたい連中の魂胆だけが透けて見えてくる。しかし、我々は知っている。岡田民主、前原民主が小泉政権の前にへなへなし、小沢を迎えて以降の民主が生き返り、今日の鳩山政権の原動力であることを。それ故に小沢降ろしが執拗な訳だが、所詮無理筋であろう。何処の世界に業績優秀な者を優秀な故に咎めるバカが罷り通ろうか。 民主党内右派の面々を見よ。いずれ馬脚を現すと思っていたが案の定だ。前原、野田、枝野の三バカトリオが名乗りを上げているが、いずれも憲法改正派のシオニスタン政治家ばかりである。いずれ相応の冷や飯を食わせてやらねばなるまい。そもそもお前らは自民党シオニスタンと合流して新党を立ち上げれば良い。獅子身中の虫として居座る理由が分からない。 先の衆院選での民主党300議席の重みはこれから始まる。これは不可逆的な事件であり、小沢パッシングの裏の仕掛け人は悶絶している。それ故に名参謀小沢を外したいのだろうが、そうは行かない。我々には、検察マスコミの捏造世論を見抜く知恵がある。扇動者には、いずれ相応の責任を取らせてやろうと思う。 それはともかく、自民党総裁の谷垣マロが冴えん。晩秋の自民党そのものだわな。「売り家と唐様で書く三代目」の通りで滑稽でもある。そういう訳で舛添が色気を見せているが、シオニスタン政治では日本はますます悪くなりこそすれ救えない。これははっきりしているだろうに。時代が変わったのだ。旧体制で生きた者はそれ故に咎めを受ける。これは歴史の法理だと思う。 小沢よ、捏造世論に負けず歴史の条理に生きよ。角栄はかの集中砲火の下で公判闘争に向かい生きざまを遺した。角栄を葬って以来の日本の貧相化が、角栄を恋しがらせている。歴史評価はこうやって革まる。小沢が権力の横暴に対して闘うこと、これだけが光明の一筋の道となる。我々が勇気をもって苦境を生き抜く力となる。れんだいこの言、心して賜われ。 2010.2.2日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評662 | れんだいこ | 2010/02/03 18:29 |
【れんだいこの立花隆の緊急投稿批判】
小沢キード事件で、立花がおとなしいと思っていたら案の定、2.2日、小沢の不起訴模様がマスコミ各社から伝えられたと同じ頃、見図るように「立花隆が緊急寄稿(1)異例の再聴取の裏を読む『小沢はもう終わりだ』」が配信されている。文芸評論家・山崎行太郎の政治ブログ「毒蛇山荘日記」の2010.2.3日付けブログ「立花隆はもう終わりだ。(笑)」が既にコメントしている。れんだいこも加勢しておく。全文転載は「ヤフ―ニュース」、「毒蛇山荘日記」その他に譲り、ここでは逐条コメント付けする。 立花は、小沢が二度目の検察事情聴取を受けたことをもって、「小沢は生きのびられるのか?小沢は基本的に終った!あと一日、二日は生きのびるかもしれないが、小沢の政治生命はすでに終っている、と私は思っている」と見立てている。 立花よ、検察が不退転の意思で小沢をヤルカヤラレルカで特捜していることは事実だ。しかし、検察が権力を発動した以上どうにもならない、観念せよとするのは権力側、その呼応組の発想でしかない。お前は見事に検察の思惑を吐露し代弁し説法しているに過ぎない。れんだいこ的には、お前の如く検察べったりの評論が評価されること自体が理解できないしケシカランと思う。 立花は続いて、検察に代わって、概要「一見、こたびの嫌疑の筋がただの形式犯にしか問えないようなもののように見えるがさに非ず」と云う。概要「金丸信訴追事件以降、政治資金規正法中心に取り締まりの流れを変えたのである」と云う。「取り締まりラインをあまり低く設定すると、違反事例が多くなりすぎて事務処理に困る。結局、国会議員クラスをやる場合は、違反金額が一億円を超えるケースというのが、ここ数年の事案でなんとなくできかけていたガイドラインだった」。こう胡椒を振りかけて次のように云う。「そのガイドラインからみて、小沢のケースは、四億円(ないし八億円)であるから、文句なしに大きすぎるほど大きい。小沢の四億円は、田中角栄ロッキード事件の五億円、金丸信の五億円(佐川急便事件)とくらべて金額的に文句なしに同列にならぶ事件なのである」と云う。 立花よ。検察がそういう風にシフト替えしてきたことは認めよう。しかしながら、それを是認するかどうかは全く別問題であろう。幾ら積み重ねても形式犯は形式犯である。針は針で棒にはならない。例えば、住所移転不届け即ち住民票移動せずを幾ら繰り返しても殺人罪にはならないのと同様である。我々は、「形式犯の金額選別重罪化」にそもそも疑念を持っている。政治資金規正法を、そういう風に使わうこと疑念を持っている。更に云えば、その基準による政治家選別による恣意的適用を訝っている。立花よ、ジャーナリズムがジャーナリズムとして機能する為には、法の下の平等適用を第一公理とせねばならぬのではないのか。この基準を抜け落とし、検察捜査に徒にエールし続ける立花とは何者ぞ。中曽根、小泉、竹中の際には沈黙し続け、角栄、小沢となると途端に舌鋒を振るわんとする立花とは何者ぞ、我々はか疑念している。 立花は続いて、田中-金丸-小沢ラインの金権手法を嘲笑している。「小沢の場合は、ユーレイ企業の代りに陸山会などの政治資金団体名義にしていたわけで、カタチこそちがえ、構造的には、田中角栄がやっていたこととそっくりである。ここにおいても師匠ゆずりの手法が習い性となっていたといえるのではあるまいか」と云う。ここも臭い分析である。 いわゆる吉田学校生が戦後保守主流派となり、1980年代初頭まで戦後日本の与党政治を取り仕切ってきた。池田以降一様に内地主義を掲げ、その限りで公共事業を優先し、その利権に与ってきたことは事実である。しかしそれを云うなら、かの時反主流派して位置していた岸、福田、中曽根、三木らは清廉潔白で有り得たのか。事実は外治的と云うべきか軍事利権、原子力利権に与ってきたのではないのか。その金額たるや、こちらの方が巨額でもある。立花よ、田中-金丸-小沢ラインの金権手法を嘲笑する暇があるなら、同じ論理と論法でなぜ軍事利権、原子力利権にも言及しないのか。俗に云う片手落ちだろう。お前の癖はここに極まっていよう。 立花は続いて次のように述べている。「小沢は終るが、これで民主党が終るわけではない。もちろん自民党が復活するわけではない。前回選挙で獲得した民主党の議席をここで捨てなければいけないというわけではない。今回の不祥事は小沢一郎という異常な性癖を持った政治家個人の不祥事であって、民主党という政党の不祥事ではないから、この際、責任は小沢に押しつけて、民主党政権は維持しつづけてよい。今回の小沢の不祥事は、むしろ小沢の中の自民党的体質部分がしからしめたものといってもよいのだから、この際、日本の政界は、小沢に日本の政治の古い体質を全部押しつける形でその責任をとらせ、むしろ事件の再発防止にエネルギーを注ぎ、ここで抜本的に日本型政治の古い体質に抜きがたく存続してきた政治資金問題の最終解決をはかれるのがよいと思う」。 この観点こそが小沢キード事件仕立て人のそれであろう。立花がアケスケにそれを代弁していることが分かり興味深い。立花よ、人民大衆はそんなに頭が悪くない。小沢が岡田民主、前原民主時代の低迷を打ち破り、今日の鳩山政権創出の立役者にして名参謀であることを見抜けぬバカではない。立花が、小沢抜きの民主党を願望すればするほど、我々は、小沢抜きの民主党の先行きを危ぶむ。元の木阿弥になることを恐れる。それよりむしろ、小沢抜きの民主党を願望するお前の魂胆こそが怪しい。そうやってお前は、国際金融資本帝国主義の意向を代弁し続けてきたのではないのか。 この傾向は80年代以降とみに強まり、現在の日本は国体的に見て末期的状況を迎えている。GNP1%枠の防衛費を5%以上に押し上げ、更なる思いやり予算を計上し続け、国債を刷りまくり、外資企業の日本企業乗っ取りを促進し、金融はむろん食糧までコントロールされ、国民的資産である郵貯資金にまで手をつけられようとしていた。どこのどいつか、貧乏人は金持ちの栄耀栄華に拍手する自由があるとまでのたもうた。世界一を目指すと云ってかどうか、いつの間にやら国債累積債務は先進国中随一を誇るようになっている。自衛隊の武装派兵も常習化し始めている。 昨秋、そういう日本ではダメだと国民が決起し、投票一揆により民主党政権を樹立した。その際の大功労者が雇われマダム小沢であり、次に反小泉で自民党を飛び出た国民新党、日本新党、大地の党らのスクラムであった。幸いなことに、この結束は強く、検察権力の介入なしには崩されない。否、検察の強権介入もこたびのように失態する憂き目に遭う。 時代の潮流が変わり、売弁政治時代のピエロとして活躍してきたお前の悪事が晒される日は近い。それ故に、延命の道を願望するのは勝手である。その道が小沢抜きの民主党であるということも分かった。だがしかし、潮の流れは変わらない。お前の時代は終わりにせねばならぬ。 立花は最後に次のように述べている。「小沢、小沢で騒ぐのはもういいかげんでヤメにして、日本の政治をよりよくするために、小沢の終りをいかに利用するか、という方向に発想の転換をはかるべきではないか」。その言や良しとしよう。ところで質問がある。お前がロッキード事件で角栄を葬り、それ以降のスッタモンダの挙句、中曽根が登場し、小泉が登場して以来、日本はろくな目にあっていないではないか。この時、お前は沈黙し続けた。ならば、お前には、中曽根時代、小泉時代よりまし論を開陳せねばならない責務がある。これを聞かせてくれ。そうすれば、お前の正体がもっと分かり易く見えてくることになろう。 これがれんだいこ見解である。「立花隆緊急寄稿」を知らせてくれた山崎氏は次のように評している。「これまで、ことあるごとにそれなりの重要な役割を演じてきた立花隆というジャーナリストが、ついに馬脚を現したということのようで、つまり立花隆が、『小沢一郎』に異常ともいえるこだわりを持っていることはわかった」、「頓珍漢なコラムを書いているのを読んで、ちょっと気の毒だが、『終わっているのは小沢一郎ではなく、オマエだろう』と思わないわけにはいかなかった」、「ジャーナリストという存在を、東京地検特捜部の代理人としてしか見ていないということで、東京地検特捜部という組織こそ、権力を象徴する暴力装置だということが、立花隆には、まったく見えていないということだ。結果的には、日本の国益を毀損することになった『田中角栄研究』の中身もかなり怪しいものだったが、いずれにしろ、東京地検特捜部が日本の総理経験者・田中角栄を逮捕するのに貢献した、その時の立花隆のジャーナリストとしての名声の賞味期限もとうに尽きていたのである」、「立花隆みたいな時代的に使い物にならない、またその胡散臭さも時代が十分に証明した人を引っ張り出すくらいしかアイデアが浮かばない媒体も媒体で、ある意味お気の毒ですね。検察もこのまま小沢氏を、無茶苦茶な越権裁量でおかしなことをするならば、国民の不満も頂点に達するでしょう」。 その通りであろう。付言しておけば、「立花隆緊急寄稿」は、小沢を不起訴にした東京地検特捜部に対して起訴せよと叱咤している政治主義文書である可能性が強い。となれば、これはこれで問題である。立花が誰の意向を挺してかくなる発言をしてるのか、この辺りも解明せねばなるまい。 2010.2.3日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評663 | れんだいこ | 2010/02/04 21:00 |
【2010.2.4小沢キード事件における小沢不起訴の歴史的記念日を祝す】 2.4日、ロッキード事件勃発の歴史その時のこの日、東京地検特捜部は、小沢キード事件を廻る一連の捜査の結果として小沢幹事長不起訴とした。但し、既に逮捕されている3名の元秘書については政治資金規正法違反の虚実記載容疑で起訴した。これが、小沢キード事件の第一決着となった。 この結論は、マスコミを扇動役とする捏造世論の盛り上げにも拘わらず、東京地検特捜部が一敗地にまみれたことを意味する。検察庁内部でも、「だから最初から言っただろ!スジは本当に大丈夫なんだろうなってアレほど言ったのに。公判は維持できるのか!? 無罪にでもなってみろ?オマエ、このあとどういうことが起きるか判ってるのか!?」、「オイ!佐久間! オマエが本丸を落とせる!って言ってたんだろ!?」と詰(なじ)り合いが始まり、一枚岩が崩れた瞬間がリークされている。「最高検がひとたび“撃ち方やめ”の判断を下した以上、検察一体の論理からいって、特捜部が独断で次なる捜査に乗り出すことはありえない」とコメントされている。 この結末に功のあったのは、各界からの勇気ある良心的発言であった。一々挙げればキリがないので割愛するが、みんなして手分けして東京地検特捜部の暴走に歯止めをかけた意義は大きい。法理論的にも記載的にも無理筋であることを解析し、東京地検特捜部の政治主義的な立ち回りを咎めた数々の論文がタイムリーに流され人民大衆的共認に役だった。ロッキード事件の時と違い今や、こういうことが可能な時代であることを立証した。 このことを逆に云えば、ロッキード事件に続いてこたびも又東京地検特捜部にエールを送り続けた各界の御用派は大きく恥を掻いたことになる。これも一々挙げればキリがないので割愛するが、東京地検特捜部同様に歴史に負い目を背負ったことは間違いない。 問題は、そういう手合いに限って性懲りもなく「続小沢キード事件」に向かおうとすることにある。厚かましさもほどがなく漬ける薬がない手合いと云わざるを得まい。新聞各社の社説を見よ。今日現在で小沢不起訴を自己批判的に論じた社はない。平素は推定無罪の法理を講釈してくれるが、いざ肝心な時となるやかなぐり捨て、不起訴決着となっても悪びれるどころか、政治的道義的責任は免れないとして更なるパッシングにはしゃいでいる。凡そ自己批判と云う精神を持ち合わさない何とも幸せな口舌種族なのだろう。マスコミの言論リードが、これほど醜悪な形で確認されたのは初めてであろう。 名うての御用新聞・産経新聞はこの期に及んでもなお、「国民が納得できる決断を下してもらいたい」と論陣を張っている。しかして「捏造世論」の正体は国際金融資本帝国主義である。言い換えれば、「国際金融資本帝国主義の指図するままの決断を下せ」と凄んでいることになる。これが戦後保守派の保守言論の内実である。無論、産経にとどまるものではない。明日の朝刊を見れば分かろう。一斉に同一論調のオンパレードしている筈だ。その手は何度も食わぬ桑名の焼きハマグリだ。 小澤キード事件の果実はもう一つある。この事件を通じて日共がまたしても深手を負った。鈴木ムネオ事件の際の外務省経由とされる文書を元にムネオパッシングし、それが後に捏造文書であったことが判明しても知らぬ顔の半兵衛を決め込んだまま今日に至っている日共は訴追パラノイアの様相を見せ始めている。こたびの事件では、権力が首根っ子を押えている間に我々は下の急所を蹴りあげるなる珍妙な「捜査当局とのタイアップ&車の両輪論」なるものを堂々とぶち上げ、権力の走狗ぶりを如何なく発揮した。日共党中央の責任問題が始まらなければウソであろうが、この党にはそういう知能がない。党中央集中制でしかないのに民主集中制なる言葉に酔いしれ、党内には自由がないのに党外には民主主義を護れと説教し続け、それを異常に思わない変態政党と化してしまっている。 こういう言い方が口惜しかったら、れんだいこが既に何度も指摘している「戦前の党中央委員査問致死事件」の闇を切開して見せよ。こたびの小沢キード事件で弄した論理と論法でそのまま事件解明に向かって見よ。どんなステキな論を聞かせてくれるか楽しみにしているぜよ。れんだいこに云わせれば、この喉仏のイガを抜かない限り、この党は市民社会に向かって発言する資格そのものがない。 奇しくもこの日、歴史は立て合う。横浜地裁(大島隆明裁判長)は、戦時下最大の言論弾圧とされる治安維持法違反絡みの「横浜事件」で、「免訴」判決が確定した元被告5人の遺族6人に対し、事件を冤罪と改めて判断し、請求通りの約4700万円の刑事補償金支払いを命じる判決を下した。大島裁判長は決定理由で、「有罪判決は、特高警察による思い込みの捜査から始まり、司法関係者による追認で完結した。警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と司法の責任に言及。特高警察の拷問による取り調べを「違法な捜査」と厳しく批判した。この判決の法理と検察との二人三脚を公言している現下日共との乖離は深い。日共党中央は、どのように口を回してくれるのだろうか。 検察は一足早く戦後処理に向かうそうだ。「2.4日付け政界インサイドレポート」は次のように述べている。概要「検察トップの樋渡利秋・検事総長は、定年より2カ月あまり早く今年6月中旬に勇退する。続いて高検検事長など首脳部の人事が行なわれるが、小沢パッシングに決起した岩村修二・東京地検検事正、谷川恒太・次席検事、佐久間達哉・特捜部長は一足先に4月にも異動になると見られている」。大鶴基成・最高検検事の処遇が語られていないが、小沢パッシング派が相応の責任を問われるのは、法の峻厳さから見て確かであろう。 それを思えば、この種のケジメを持たぬマスコミ一族、日共党中央は気楽な稼業をしていることになる。それは勝手で構わないのだが、どうぞこれからは何食わぬ顔して相も変わらず正義派として登場し一席ぶったてみたり、その際そのつたないオツムで厚かましくも説教などしてくれないように。これのみ願う。耳元で蚊が鳴くようで煩いだけなんだ。 2010.02.04日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評664 | れんだいこ | 2010/02/05 19:04 |
【小沢キード事件の教訓、みんなのカンパで日本版アルジャジーラネット放送局を立ち上げよう】 小沢キード事件に構っているうちに、そのどさくさで朝青竜が引退に追い込まれた。小沢を起訴できなかった腹いせが朝青竜パッシングに向かった感がある。朝青竜には気の毒なことになったが、朝青竜は、不徳の致すところの我が運命と割り切った弁が伝えられていた。円熟期に入った朝青竜相撲を見届けることができなくなったのは寂しい。それにしても小沢パシングと朝青竜パッシングはどこか似ている気がする。恐らく有能実力者がイジメラレル変な世の中になったせいだろう。 大相撲は国技である。その国技が揺さぶられている。貴乃花親方の新理事就任も胡散臭いものであったが、朝青竜パッシング派がこぞって賛美していたことを思うと余計にそう思う。今後、大相撲協会内部で重大な対立が発生して行くように思える。千代の富士親方が割を食う恐れが強い。貴乃花派が大相撲の何を改革しようとしているのか一向に見えない。れんだいこには、小泉式構造改革路線が待ち受けているような気がしてならない。 それはともかく、小沢キード事件の第二ラウンドがこれから始まる。立花隆がしゃしゃり出て来ており、このところ緊急投稿を飛ばし続けている。いくら読んでも、というか読めば読むほど気色の悪い検察応援歌でしかない。日本の言論界が、こういう類の論者をジャーナリストの鏡として祀り上げてきた虚構を今こそ撃たねばなるまい。習性が逆立ちしており完全に狂っている。 それにしても日本言論界の貧能ぶりが危ぶまれる。小沢キード事件では小沢氏の政治団体「陸山会」の収支報告記載が虚偽記載として指弾されたが、蓋を開けてみれば正確厳格に記載されており何ら問題ないとする見解も発表されている。東京地検特捜部が起訴に踏み切れなかった空振りの真因がここにある。このことを問う新聞社は一社もない。敗戦以来、戦前とは違う意味での新たな言論統制下にあると云えよう。 この間マスコミは、検察リーク情報を逐一報道し、しかもそれが次から次へと話が変わる代物でしかなかったというのに扇動し続けた。いつの間にか不記載が虚偽記載となったのに尻を拭かぬまま訴追し続けた。いつの間にか、本質的に見て4億円の原資の出し入れでしかないものをその都度カウントして水増しし、巨額金額虚偽記載と煽り始め、並行してゼネコン裏金を大騒ぎし、果ては立証できないと云うブザマな結果となった。 しかして、新聞社説論士もテレビコラムニストも、この間何が争点なのか、虚構の大騒ぎなのかさえ分かっていないように思える。分かろうとしないのか、分かるだけのオツムがないのかまでは分からないがお粗末なことこの上ない。この連中は、検察不起訴という事態を迎えてもカエルの面にションペンでキョトンなとしたまま、こうなればなったで世間をお騒がせさせた政治的道義的責任があると訴追続編に精出そうとしている。日共論法の受け売りを恥ずかしげもなく借用している。れんだいこが申しつけておく。手前たちの報道こそが虚偽報道であり、報道的道義的責任があろう。君たちの論法に乗っても、虚偽記載が悪くて虚偽報道は許されると云うことにはなるまい。 そういう訳で、今こそ日本版アルジャジーラ放送局を立ち上げねばならない。技能があればネット上できそうなものだが、れんだいこにはそれがない。誰か、容れ物をつくつてくださらないか。トピックスを語り解析する本物のジャーナルが見たい聞きたい。有線放送のネット版のようなもので良いのだから難しくはないと思うのだが。れんだいこには生活余裕はないが、そうなったら工面してでもカンパするぞ。こういうものはヤングの頭脳が向いているのかな。起て青年諸君。 そういうものができたら、れんだいこも出て見たい。ぜひ登場させてくれ。洪水の如く流されるエセ評論を容赦なく斬って見せよう。もっと向きの方が居たら、それを聞くのも楽しい。既成のメディアに代わる「なるほど放送局」の創出、これが小沢キード事件の教訓となるべきではなかろうか。ここに向かわない間は守勢に回る。攻勢的な言論メディアが欲しい。そうすれば、小沢三秘書の即時釈放、朝青竜引退ちょっと待て等々幾らでもタイムリーに正論を放つことができる、できたのにと思う。 今日の国会討論聞いていたら、民主対自民の構図で掛け合い漫談やっていた。小沢キード事件を徹底追及する自民の論客たちは、検察捜査網からあらかじめ除外されている極楽トンボのシオニスタン政治家ばかりであった。それを良いことに好き放題の攻め方をしていた。手前の政治資金リストを開陳してから述べて見よと云いたくなる。それはそうと、自民党内でも、ごく最近の日歯連献金疑惑事件で検察に汲々云わされた田中-金丸(竹下)-橋本-小渕系の元ハト派はさすがに弁えてシオニスタンと論調を一にしていない。 かっての社共ばりの政府追及すればするほど、人民大衆が興ざめする構図さえ分かっていないマロたちが何人束になっても、もはや歴史の歯車は戻らない。お前たちの権勢の時代は終わったのだと云うことをこれから知ることになるだろう。 2010.02.05日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評665 | れんだいこ | 2010/02/06 18:40 |
【小沢不起訴後の流動その1、石川議員辞職勧告運動の胡散臭さ考】 2.5日、小沢キード事件で逮捕され、政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で起訴された衆院議員石川知裕(36)、元私設秘書池田光智(32)両被告の弁護人は、東京地裁に保釈を申請した。小沢氏の公設第1秘書大久保隆規被告(48)も申請した。同日、東京地裁は保釈を認める決定をした。これにより、3人は保釈保証金を即日納付して保釈された。保釈保証金は石川議員が1200万円、大久保被告が700万円、池田被告が同300万円とされた。 保釈された石川議員は、弁護士を通じ、次のコメントを出した。「一部に報道されるような不正な資金を受け取ったことは断じてないことを誓います」。保釈された大久保秘書は弁護士を通じて文書で次のようなコメントを発表した。「関係者の方々にたいへんご心配をおかけし、まことに申し訳ございませんでした。問題とされている政治資金に関しては、私は政治資金規正法の定めに従って適切に処理し、かつ、そのとおり政治資金収支報告書に正しく記載したものであり、法を犯す意図など毛頭なく、やましいことをした覚えはありません。この点は、裁判の中できちんと争うべきことで、自分の主張は法廷で明らかにしてまいりたいと思います」。 かくなる決着を迎え、小沢パッシング劇場が一休みするかと思いきや、日共式政治的道義的責任論の合唱が始まっている。マスコミ各社は、検察の車輪が脱輪したのを確認するや、日共の車輪に乗り換えた感がある。これにもの申しておく。 れんだいこは、バカも休み休み言いたまえと云いたい。日共式政治的道義的責任論は危ない。そもそも道義的責任論なぞ振り回し始めたら、どこに仕切りがあるのか分からず際限がなくなる恐れがあるではないか。道義的責任を誰が裁定するのかも定かでない。近代国家は、そういうあやふやな基準によらず、法によって裁く法治主義の原則の上に成り立っている。これが近代の夜明けであり、歴史の進歩とされている。 日共式政治的道義的責任論は、この法治主義の原則からの脱輪であろう。その昔、ロシア10月革命後の政権足固め過程で、ボリシェヴィキ権力がかような論法を振り回して、幾百万の政敵追放、処断、収容所送りしたことが知られている。曰く、国家反逆罪、反革命罪、敵方内通罪、スパイ罪、国策非協力罪、その他諸々。被告はずれも「社会主義的革命政権に対する政治的道義的責任」を問われ、この万能口実により受刑を余儀なくされた。拷問、即決即断による処刑が横行した。ボリシェヴィキ権力はこれを是認し、その果てに崩壊させられた。 これを思えば、日共がこの種の論を好むのは分かる。しかし、いやしくもジャーナリズムまでもが追随すべきだろうか。目的の正義性が必ずしも手段まで是認しないとして、その粗雑な法理と論法を批判せねばならぬのではなかろうか。そういう意味で、現下のマスコミジャーナリズムが日共式政治的道義的責任論に馬乗りしてけしかけているとは痴態であり、一種の自殺行為と云えるのではなかろうか。誰かがけしかけているからこうなる。 それともひょっとして時代は進化し、法の遵守は当り前で、今や政治的道義的責任まで問われる時代に進歩したとでも云うのだろうか。それならそれでいい。時代がそういう風に変わったのなら、れんだいこは認めよう。しかしどうしても認められないものがある。それは、そういう基準は少なくとも公平まんべんに適用されないといけない。小沢パッシング事件で云えば、小沢に適用した論理と論法を他の全ての議員に適用せねばならない。小沢だけに適用するというのは余りにも恣意的と云わざるを得まい。いくら日共委員長の名がシイだといっても許されまいふふふ。 しかし、れんだいこがいくら説いても、ジャカマシイ、俺たちはこれで飯を食っているんだと居直られたら通じない。立花の緊急投稿第二弾によれば、「そのときをにらんで、いまから身の処し方を考えておくことだ。これからすべての政治家が一瞬たりとも気が抜けない、そしてすべての政治家がその政治家としての器の大きさを問われる日が間もなく連続してやってくる」とある。これは立派な脅しである。立花が、恐い筋と繋がりがあり、その威勢でものを云っていることが分かる下りである。 「今に見てろ。これから恐い人連れてくるから、後で泣きづらかくな」とはヤクザの常套句であるが、立花が連れてくる人はもっとオトロシイ人なんだろう。やけにリアリティがある。それは分かる。分かるが、立花はんはこういう言葉を吐くことでお里を晒してしまった。同時に知の巨人が後ろ盾なしには成り立たない痴の虚人であることを知らしてしまった。 もとへ。娑婆に舞い戻った石川衆議院議員に対して、福島瑞穂消費者・少子化担当相(社民党党首)は、2.5日の衆院予算委で、「(石川被告の)道義的、政治的責任は重い。議員辞職勧告決議の前に進退を判断することを期待する」と強調した。このオバさんの賞味期限が過ぎたことを、これも自己暴露したことになる。 鳩山首相は、「まずは本人が政治家としての意思をどう示すかだ。党としての処分もその時考える」と述べ八方美人対応を見せた。つい先だって自身が説明責任を咎められていた割には能天気な物言いではないか。狂人首相小泉は田中真紀子のスカートの丈を踏んでいたが、鳩山は小沢のズボンの裾を踏んでいる。鳩山政権がパッとしない理由がこの辺りにあると窺うべきではなかろうか。 小沢幹事長は当然ながら、石川議員辞職要請をナンセンスとした。側近の山岡賢次国対委員長も、国対の会合で、辞職勧告決議案の扱いについて「決議案の事項に該当する問題は秘書の時の問題で、国会議員としての事項ではない。審議するに当たらない」と表明した。当り前である。国会議員は、検察暴走容疑に対しては与野党の枠を超えて議員の身分を守るのが務めであり、断じて逆ではない。いわんや政争の具に使う者ではない。こう切れ返せばよいのに。 「一方、民主党幹部の辞職勧告決議案つぶしの言動に野党は反発している」とある。自民党の大島理森幹事長が云々、みんなの党の渡辺喜美代表が云々とある。他の誰でも良い。云っている本人が清廉潔白の士であることを明らかにしてから論ずるが良い。後でビデオ回されて、呂律が回らなくなるようなことは云わぬのが賢明であろう。弁えのない味わいのない政治家が多くなり過ぎた。朝青竜引退の寂しさとも繋がる。 2010.02.06日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評666 | れんだいこ | 2010/02/06 21:33 |
【日共式企業、団体献金禁止論に疑義あり】
日共が、政治資金工面法としての企業、団体献金禁止を声高にしているが、本当に有益な理論なのだろうか。一見正義派の主張のようで実は百害あって一利なしなのではなかろうか。かく問いかけたい。小沢キード事件の解析を通じて、情けないことにマスコミはむろん、野党に転落した自民党の野卑なマロ達が日共理論に引きずられていることが見えてきた。ついでに世話を焼いておこうと思う。 日共理論のウソは数々ある。北方領土問題における千島列島返還論も右翼顔負けの圧巻であるが、公共事業抑制論も然り。何度も食いつかせては引っ込め又出す民主連合政府論も然り。ここでは、もう一つ小沢キード事件に関連したそもそもの観点の相違でしかない企業、団体献金禁止論を槍玉に挙げておく。 れんだいこが体験するのに、個人献金ほど、つまり身銭を切るほどつらいことはない。一度ならまだ良い。二度三度と請われると、いい加減にして貰いたいと思う。それでいて、外向きにクリーンな政治家として売り出しているのは、少し違うのではないかと思っている。 個人献金は良い。これを排除するものではない。しかし、個人献金には限界があり、これのみに頼るようでは碌な政治活動ができないのではなかろうか。それでも個人献金オンリーにするという法理は、結果的に政治活動を衰退せしめることになるのではなかろうか。資金を持たない議員は党中央に生殺与奪権を握られ、党中央に拝跪するしかできなくなる。企業、団体献金禁止論は一見キレイごとのようで、実は無責任冷酷な物言いなのではなかろうか。 れんだいこが体験するのに、業界献金ほど出し易いものはない。大概の業界は、会員料と政治連盟費の二本立てで年度徴収している。このうち会員料は業界団体の経費に充て、政治連盟費は業界的政策の推進に充てる。業界的政策が悪いとみなすのは子供の言で、業界的政策は時の政府の政策に対する提言であったり、訂正であったり、反対の意思表示に使う。これを働きかけるのに最も有効な政党ないしは議員に政治献金し、ひいては政策の実現に期待することになる。これは真っ当な営為であり、これを否定するようでは市場経済の社会的経済活動そのものが成り立たない。 問題は、業界の政治献金を受け取る政党が、今までのところ自民党オンリーになっていたことにある。最近になって民主党が登場し覚束ないながらも食指を伸ばしているが、これは臆することではなく堂々と受け取るべきではなかろうか。業界の会員は、政治連盟費の使途と効果に関心を持つ。個々の会員の意思としては自民党オンリーにする必要はないのだが、業界献金を堂々と受け取るのが自民党しかなく、他の諸党がキレイ潔癖病に侵されて受け取ろうとしないのだから仕方ない。そういう状況にある。 業界献金ほど出し易く額も大きいと云うのに勿体ないことである。れんだいこに云わせれば、労働組合本部も業界別になつているのだから一種の業界と看做す。社会党は、数々の労働組合団体から政治献金を受け取る。これはこれで何ら問題ない。ついでに業界献金も貰えるところからは貰えば良いだけのことである。労働組合本部から貰うことは是だが、業界献金は非とする論法が理解できない。それをマジで云うのなら労働組合献金も禁止すれば良い。 次に、個別企業献金、個別労働組合献金がある。これも業界献金と良く似ており、貰えるものは貰うが良いと思う。但し、特定権益の請負献金的な要素が強まるので、一企業、一労働組合当りの上限額を設定するが良かろう。問題は、こういう献金を堂々と認めた方がよいのではなかろうかというところにある。一企業、一労働組合が、特定権益の請託的なものではなく単純に政党、議員の総活動に対して支援する場合は、上限額設定の上で無条件に認められるようにするべきではなかろうか。 れんだいこはそのように考えている。政治家がある程度の資産を形成したとして何ら悪くない。良い政治をしてくれれば国民的には却って良い。貧すれば鈍すとなるのが一番良くない。政治を売り言論を売る罠に嵌り易くなる。懐を裕かにすることで、目をかけた落選議員一統の面倒を見れるようになる。これと思うところへ寄付もできるようになる。そういう為の財産だと思えば良い。 肝心なことは、受け取った方の政党、議員が、これを漏れなく収支報告することにある。当然支出した方も然りである。追って監査報告を受けることになり、ダメなものは翌年度は削られるだろう。政治資金規正法の元々の趣旨はそういうものであったのではなかろうか。収支報告は年次ごとに公開されるべきであり、これをチェックする機関が総務省内に設けられ、記載漏れ政治献金に目を光らせるべきである。不断に指摘され訂正されるべきである。この経緯を経てなお悪質な時、検察特捜部が登場したとしても、それは不偏不党的立場で徹底してやるべきであろう。 この基準に照らす時、こたびの小沢キード事件、その昔のロッキード事件なぞ大騒ぎするほどのものではないと思う。付言すれば、ロッキード事件に於ける角栄の5億円授受説は冤罪であったと、れんだいこは思っている。ここではこれを問うところではないのではしょる。むしろ、検察が挑むのは、岸政権の日韓疑獄、児玉-中曽根の数々の悪事疑獄、中でもグラマン疑獄などは徹底捜査されるべきであっただろう。その後の例で云えば、リクルート事件、防衛省汚職事件、小泉政権時の数々の不祥事件、中でも郵政民営化疑獄なぞ徹底的に捜査のメスが入るべきであっただろう。 ここまで書けば、東京地検特捜部の逆対応、それゆえの政治主義的国策捜査ぶりが露わになるであろう。東京地検特捜部は、法の番人としての正義の鉄拳を振るうが、その鉄槌が下されるのはいつも内地主義的利権政治家であり、公共事業利権絡みが狙い撃ちとなる。他方、外地主義的利権即ち軍事防衛費的利権政治家に網がかかることはない。原子力利権は、その導入過程から見ても外地主義的利権に列なっている。こちらの利権にメスが入ることはない。ここに、東京地検特捜部が解体再生されねばならない理由がある。 もとへ。日共式企業、団体献金禁止論は一見正義なようで胡散臭いのではなかろうか。その理由は、政治実態、経済実態に即しておらず、余りにも机上のキレイごとに過ぎないから。聞くところによると、個人献金オンリーの日共の財政状態は悪く、本部職員、地区専従者への給与額は不当に低い。あるいは遅配しているとも云う。幹部辺りになると優先的に支給されているようだが、これが又臭い話ではなかろうか。本部職員、地区専従者優先、幹部後回しという作法もあると思う。 一応以上のことを述べ、個人献金、業界献金、企業献金、組合献金いずれも可論、但し、適正な上限額を設け必ず収支報告せよ、収支漏れは罰せられるという風にしたいと思う。中でも税金簒奪の罪は重いとすべしであろう。このやり方には副産物がある。政党、議員の収支報告書を見れば、どういうところと関係が深いのか一目瞭然となる。選挙民は、それを見て支持したり後ずさりするようになる。この方が良いのではなかろうか。 問題は、誰でも気づくこの在り方をさせないところにある。一方で自民党が企業、業界献金を受け取り、他方で政党交付金さえ受け取らない日共が居て、その他の政党がその真ん中に位置すると云う構図で、それぞれが自画自賛し合う。そういう馴れ合いの中で、せっかくの国会を意義のある質疑ではなく漫談の場にする欺瞞性にある。これを質すことこそが本当の意味での政治責任であり道義的責任なのではなかろうか。れんだいこはそう思う。小さな正義論、すり替え正義論は聞きとうない。 2010.02.06日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評667 | れんだいこ | 2010/02/07 22:25 |
【日本政界における「ガラパゴス化現象」考】 最近流行りの政治的道義的責任論、企業・団体献金禁止論、公共事業抑制論等々はガラパゴス化現象であり、その理論なのではなかろうか。以下、これを確認したい。 「ガラパゴス化現象」とは、直接的には、南米エクアドル沖の太平洋上に浮かぶガラパゴス諸島の孤島的進化を指す。それはそれで注目されるべきであろうが、社会学的な意味合いでは評価が変わり、ガラパゴス的進化のように世界標準からかけ離れたところで特殊的に進化し続ける現象を指す。世界標準からかけ離れることが一概に悪いとは云うことにはならないが、狭い視野に基づくタコ壺的営為を揶揄している面もあり、こうなると「井の中の蛙」から脱せよ的裏意味が込められていることになる。いずれにせよ特殊的進化がキーワードである。 この「ガラパゴス化現象」略して「ガラパゴス」と云う寓意は様々な場面に使われている。「ウィキペディアのガラパゴス化」は、野村総合研究所の「『ガラパゴス化』」する日本」を参照して、パーソナルコンピュータ、携帯電話、デジタルオーディオプレーヤー、デジタルテレビ放送、コンピュータゲーム、カーナビゲーションシステム、IDカードの例に於ける「ガラパゴス」事例を解説している。 れんだいこは、機械のメカニズムのことは分からないのだが、政治のことなら分かる。「ガラパゴス化現象」は政治の世界でも蔓延していると思う。冒頭の政治的道義的責任論、企業・団体献金禁止論、公共事業抑制論はいずれも日本型「ガラパゴス化現象」に他ならないと思う。それが証拠に、世界標準は日本ほど偏執的にそういう主張をしていない。なぜなら、過度の衛生思想は危険であると弁えているからだと思われる。人の社会的評価は本業のでき不できを問うべきだと心得ているからだと思われる。 俗に「賢こバカ」と云う言葉がある。過度の衛生理論を唱える論者の大抵は「賢こバカ」なのではなかろうか。この「賢こバカ」が政財官学報司の国家権力中枢六機関を汚染しており、日本をどんどんガラパゴス化へ向かわしめているのではなかろうか。今一度、論の根拠、妥当性を吟味する必要があるのではなかろうか。 中曽根―小泉式民営化論も然りである。目先の利益性のソロバンを弾き続けた結果、見るも無残に地方が疲弊し、これを再開発するとなると天文学的な再開発費を要することになる。原子力発電も然り。「目先の利益性のソロバン」論理そのものがガラパゴスだったのではなかろうか。今頃気づいても遅いのだが、気づかないとどうしようもないので、まずは気づくべきであろう。 こうしてみると、今我々に必要なことは、一見正義の美名に隠れたガラパゴス性を見極め、良いものは良い、その中でも漸次改良、悪いものは悪い、その中でも漸次改良と判断して徒にブームの尻馬に乗らないことではなかろうか。「賢こバカ」が世の中を指導すると、世の中が変にギクシャクし始め小難しくなる。そうだ、強権対価式著作権論もこれに当てはまろう。あれをこのまま定向進化させ続けると、終いには著作権士を抱えないとものが言えなくなってしまう。 我々には、こういう「ガラパゴス化現象」に毅然と立ち向かう新たな知性が要るのではなかろうか。満場一致や一枚岩や抵抗勢力なぞ云い始めたら、臭いと思う習慣を身につけるべきではなかろうか。小沢や朝青竜を止めさせたら世の中が良くなると思っている者は相当にガラパゴス化していることを悟り、勘違い矯正薬を服用すべきだろうふふふ。 2010.02.07日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評668 | れんだいこ | 2010/02/09 19:47 |
【小沢キード事件の真の抗争軸考】 小沢キード事件第一ラウンドが終章し第二ラウンドの幕が開いた。とはいえ第二ラウンドは仕掛け人側が息切れし、いきなり最幕する可能性が大である。そのうち第三幕が開くのかも知れない。ここまでの検証で、れんだいこが気づいたこと、確認すべきことを発信しておくことにする。 設問は、小沢が何故に執拗に攻撃されているのかである。この解を見出さなければならない。れんだいこが見るところ、諸氏の秀論が数多く提起されているものの、この解に対して正面から向き合っているものは少ないように見える。れんだいこが試論を投ぜねばならない理由がここにある。 れんだいこが見るところ「小沢攻撃」の根は深い。こたびの政治資金法違反による事件化自体は矮小なもので、立花が何とかして針を棒に仕立てようとしているが、いくら論理マジックを駆使しても針は針の束にはなっても棒にはならない。政治資金法違反容疑での秘書逮捕、起訴に向かったのは小沢パッシングの口実に過ぎず、狙いはあくまで「小沢潰し」であった。その為なら理由は何でも良い、他になかったから政治資金法違反で秘書を縛り、自供誘導から一挙に小沢逮捕に繋げたかった。そのシナリオが崩れたというのが実際ではあるまいか。こたびの小沢キード事件は、何としてでも「小沢潰し」せんとする魂胆だけが透けて見えてくるものでしかなかった。 これを指揮した検察、これに合唱したマスコミ、これを応援した自、公、共、その他諸党、民主党内反小沢派の行動には、実は深い政治的意味がある。「小沢潰し」は、戦後日本の政治が抱える質そのものを体現していると見立てたい。かく捉えれば、何と何が対立し抗争しているのかを問わねばならないことになろう。 れんだいこがこれを紐解くと次のように云える。戦後政治は分かり易く云うと、象徴的には「角栄対中曽根政治」を廻って暗闘している。この流れが目下「小沢対小泉政治」へと結実している。興味深いことに角栄と中曽根は大正7年、小沢と小泉は昭和17年の同年生まれである。歴史はこういう摩訶不思議な立て合いをさせる。 両者の抗争軸を確認しておく。角栄-小沢ラインの政治は究極、内冶優先政治に特質がある。中曽根―小泉ラインの政治は究極、外冶優先政治に特質がある。前者の活動が公共事業と絡む必然性がここにある。角栄-小沢ラインの公共事業は、国家百年の計を見据えたまさしく文字通りの公共事業を得手としている。これが真相である。この真相を歪めて、角栄-小沢ラインの公共事業政治を利権政治と評判立てるのは為にする批判に他ならない。これを論証せんとすれば、角栄-小沢ラインが手掛けた公共事業を精査すれば良い。どの事業も国家百年の計に資したものであることが分かる。これに伴い多少の利権が生まれるのは致し方なかろう。むしろ健全と云うべきではなかろうか。 後者の外冶優先政治に軍事防衛、原子力事業が絡むのも必然である。中曽根―小泉ラインの軍事防衛、原子力事業関与は、現代世界を牛耳る国際金融資本の御用聞きを専らとしており、巨額の利権を生みだしている。これが真相である。この真相を歪めて、中曽根、小泉を名宰相、角栄、小沢を諸悪の元凶と評判立てるのは為にする評論に他ならない。これを論証せんとすれば、中曽根―小泉ラインが手掛けた軍事防衛、原子力事業を精査すれば良い。どの事業も国際金融資本の思惑に資したものであることが分かる。 戦後政治は、両者の内冶優先政治と外冶優先政治の確執に特徴が認められる。れんだいこは、前者をハト派、後者をタカ派と命名している。両者の政治史及びその絡みを見ておくことは興味深いが、これは長くなるので別稿に譲る。要点は、角栄-小沢ラインの政治の方が戦後日本政治の基調であり、戦後の保守主流派を長らく形成し、この政治は国内外から高く評価されている善政であったということであろう。 この政治が意図的故意に壊された時から戦後日本の低迷が始まる。1976年のロッキード事件がその幕開けとなる。ロッキード事件は、この政争を通じて内治派の角栄-大平同盟が掣肘され、外治派の福田-中曽根同盟が主流派に転じたことに政治史的意味がある。両派の抗争は1980年代初頭まで続き、結果的に中曽根政権の登場により外治派が勝利する。この時、角栄が中曽根政権登場に加担したことをもって中曽根政権に角影色を見立てる評論もあるがピンボケも甚だしい。中曽根は確かに政権を執るまでは角栄に媚びたが、政権を取って以降は悉く反角栄政治にシフトし、角栄に煮え湯を飲まし続けた。これが真相である。未だに「田中曽根政権論」なるものを振りまくのは為にする評論でしかない。 中曽根政権の登場以来、政府自民党内の主流派が交替した。内治派は外治派の軍門に下り、外治派に媚びを売る形でのみ生息を許されるようになった。この時期以降の公共事業は、不要不急の利権型に大きく変質し、今日の公共事業批判の遠因となっている。だがしかし、これをもって公共事業抑制論を唱えるのは早計とすべきだろう。これより出てくる結論は、本来の公共事業の在り方へ軌道を戻すべし論ではなかろうか。 中曽根から小泉政権へ至る20年史は、公共事業の腐敗の他方で軍事防衛費の突出に特徴が認められる。この間、日本は一体幾らの天文的金額を拠出せしめられたのであろうか。国際金融資本の仕掛ける戦争の度に、国際責務論、日米運命共同論で打ち出の小槌を振り続けてきた。連動する形で国債が大量発行され、巨額の債務となってのしかかってきている。いつの間にか消費税が創設され、財源中毒に陥るようになっている。ハト派時代の政治が保護育成した中小零細企業は切り捨てられ、大企業は豚の子戦略で太らせられた挙句ハゲタカファンド系外資に召しとられた。その他その他政治の歪みを取り上げればキリがない。 小泉-安倍-福田-麻生と続いた政権は、中曽根から小泉政権へ至る20年史の腐敗を更に増長させ、国民的信を失った。この時、受け皿として登場していたのが民主党であった。民主党は、自民党からドロックアウトした角栄チルドレンを抱え込むことで政権能力と国民的信を得た。つまり、政府自民党内の旧主流派としてのハト派の嫡出子が紆余曲折の末に民主党と歴史的に合流したことになる。 この政治過程を主導したのが小沢であり、民主党は小沢戦略の下で政権交代を実現した。この前夜、小沢は民主党代表の座を降ろされ、鳩山代表の下で幹事長として采配を振るうことになった。先の衆院選で圧倒的勝利を呼び寄せ、鳩山政権が誕生した。小沢は引き続き幹事長としてと党務を任された。 ここに襲ってきたのが小沢キード事件である。この事件の仕掛け人は、既に述べたことから分かるように、日本政治の真の支配者にして表から裏から糸を引く国際金融資本帝国主義である。ロッキード事件前の御しにくい政権から、脛に傷持つ御しやすい政権へ移行さすべく強権発動したように、再度御しやすい政権作りに向けて仕掛けた謀略事件であったと看做すべきだろう。この視点を獲得することにより、東京地検特捜部、マスコミ、自、公、共、その他諸党、民主党内反小沢派の結託した行動が見えてこよう。マスコミの懲りない執拗な小沢攻撃の意図が透けて見えてこよう。 陰謀論は陰謀論故に却下されるが、透けて見えてくるのは陰謀論の正しさばかりである。国際金融資本帝国主義とそれに列なるシオニスタンの動きは陰謀論なしに解くことは難しい。彼らの国際戦略が存在し、その戦略の下で邪な政治が敷かれているとみなした方が事象を正しく説明できる。陰謀論を陰謀論故に却下するのは論理学上何も論じておらず小児病論でしかない。 かく構図を構えることができたなら、今後起こる政治事象も見立ては容易である。国際金融資本帝国主義が次にどういう手を打つのか。誰と誰を使うのか。どういう機関がどういう役割を担うのか等々。これが分かれば対応も的確になる。政治は、政治目的と手法の不断の闘争である。タカ派の統一戦線に対するハト派の共同戦線の闘いでもある。どちらの知力と精神力と財力が勝っているのかが問われる。キレイごとではない真の実力が問われる。これを引き受けるのを政治責任と云う。道義的なものだけを突出させて問わないのを政治と云う。これが政治のいろはではなかろうか。 目指すべきは、日本には日本なりの在地的土着的民主主義に基づく自律自存の政治である。各国がこういう政治を確立することにより真に対等互恵の国際協調友好親善平和を迎えることができるのではなかろうか。米英ユを基軸とする序列的国際論、これに基づく不断のテロリスト退治政治は絶えざる緊張を強いる悪徳残虐非道政治であり、一刻も早く訣別すべきではなかろうか。 2010.02.09日 れんだいこ拝 |
【れんだいこのネチネチ節】 信じられないことだが、石川議員が急きょ民主党を離党する意向を示していると云う。自、公、共が「離党で幕引き許さず」として更なる追撃に向かうと云う。こうなると民主党のだらしなさが際立ってくる。こたびの小沢キード事件における東京地検特捜部の暴走振りが明らかになりつつあるこの時点で、釈放された石川議員を庇えず、野党に人身御供して恥じないようでは先が思いやられる。 阿修羅で「ネチネチネチネチ、自民党はネオネチか」が投稿されている。言い回しが気に入ったので、れんだいこが引き継ぐ。ネチネチ節を作った。誰か節をつけてくれ。 ネチネチネチネチ、ネオネチ自民党、チネチネチネチネ、ネオチネ共産党。 こいつらどこかでつるんでる。 (合いの手囃し ソウヤロナァ ソウダヨネェ) ネチネチネチネチ、ネオネチ東京地検、チネチネチネチネ、ネオチネ新聞社。 こいつらリークでつるんでる。 (合いの手囃し ソウヤロナァ ソウダヨネェ) ネチネチネチネチ、ネオネチ七奉行、チネチネチネチネ、ネオチネ社民党。 こいつらどこかでつるんでる。 (合いの手囃し ソウヤロナァ ソウダヨネェ) 正体明かせばシオニスタン。いつでもどこでも御用聞き。 道義責任云うけれど、お前らこそが恥ずかしい。 ロッキードの昔からネチネチネチネチ三十年、お国を裏切るシオニスタン。 こいつらみんなつるんでる。 (合いの手囃し ホンマカイナァ ホンマデッセェ) 栄耀栄華極めるも、その分日本が悪くなる。 (合いの手囃し ンダンダンダンタ) 間もなく鉄槌下るぜよ。日本人民醒めたから、投票一揆を見舞うぜよ。(合いの手囃し ヤツタルデェ) 早く出て行け今のうち。許したるから本国へ、頬つねって反省せぇ。 (合いの手囃し ソヤソヤ) 日本の良さが分かったら、悔い改めてやり直せ。(合いの手囃し エライヤッチャ エライヤッチャ) 今からならば遅くない。大御心で見逃そう。 日本万歳良い国ぞ。力合わせて立て直せ。 (以下、繰り返し) 2010.02.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評670 | れんだいこ | 2010/02/11 20:46 |
【れんだいこサイト十周年万歳、自賛演説】 今日2.11日は、れんだいこがホームページを創設しネット界に登場した日である。2000年のことであるから、あれから10年になる。早いと云う思いもあるが、よくぞここまで掘り抜いたと云う気もする。仕事もせずにと叱られているが、楽しいのだから仕方ない。未考察な課題や不十分な論考がまだまだあり、生ある限り根気よく続けて行きたいと思う。 気になることは、れんだいこが特段に奇異な観点を打ち出そうとしているのではないのに、結果的に通説と見解を異にするものが多いということだ。この場合、れんだこの観点、弁証の方に問題があるのかも知れないと思いつつ最初は控え目に検証して行くことにしている。ところが、調べて行くうち、ますます確信を深めることが多い。 その最初が、宮顕の戦前の党中央委員査問致死事件であった。日共問題は、れんだいこの学生運動時代覚えた違和感が元になっており、あの頃抱いた感慨の吟味と決着をつけると云う意味合いでテーマとしている。宮顕の戦前の党中央委員査問致死事件は、宮顕の正体を確かめる格好教材であり、この現場での宮顕を見つめることが宮顕論の核となると云う意味で重視している。多くの者はスターリニスト宮顕論で批判しているが、れんだいこはそういう論を張らない。スターリニスト以前としての宮顕論で十分間に合うと思っている。この観点なきままのスターリニスト宮顕論は、宮顕を左派的指導者として認めたうえでの批判であり、むしろ宮顕擁護ではないかと思っている。そういう違いがある。 宮顕の戦前の党中央委員査問致死事件の通説は、宮顕-袴田派による党内スパイ摘発、査問途上の小畑中央委員の急性心臓麻痺死であり、不幸な事件としている。しかし、調べて行くうち許し難い虚説であることが判明した。まず、スパイ摘発説そのものが胡散臭い。真実は、宮顕-袴田派の方がスパイ派であり、最後の労働者派中央委員であった小畑氏が査問テロに遭ったと認識すべきであることが判明した。この点で、小畑氏をスパイとする見解は如何に様々に衣装されようとも許し難い。小畑氏は冤罪であり、そういう意味で小畑氏、その親族の為にも名誉を復権せねばならない。 次に、小畑中央委員の急性心臓麻痺死が胡散臭い。真実は、それがなぜ可能になったのかは分からないが、縛り縄を解き、査問のワナから逃げ出そうとした小畑中央委員に寄ってたかって抑え込んだ圧殺死の可能性が高い。より詳細には、宮顕が果たした柔道技での締め上げによる圧殺死の可能性が高い。これを「持病併発による急性心臓麻痺死」とする通説は、静かな査問説に繋がるものであるが、クロをシロと言いくるめる詐欺言論である。静かな査問説を主張する手合いに、査問中食事を提供していたのかと問うや、黙り込んでしまった。なぜなら、党中央見解が、そのことに一言も触れていないからである。れんだいこは、こういうところを見逃さない。 この事件の胡散臭さを語れば次から次へと広がりキリがない。重要な個所でウソをつくことにより虚言連鎖になっている。問題は、日共党中央が今日まで一貫して、このウソの連鎖で真相を歪め、居直っていることにある。その党が、こたびの小沢キード事件で、他党のそれにも増して石川議員の証人喚問、真相解明、政治的道義的責任追及していることである。白々しさを通り越した狂態と云うべきではなかろうか。 その2例目が、ロッキード事件であった。通説は、前首相・田中角栄が在任中に航空機商戦に手を染め、見返りにロッキード社より5億円迂回収賄した咎により逮捕起訴され、徹底追及されたとしている。しかし、調べて行くうち許し難い虚説であることが判明した。まず、日本の政府高官にわたった約20数億円は殆どが児玉誉士夫経由であり、だとすれば中曽根-ナベツネラインの方が収賄した可能性が強い。それを無理矢理に刎頚の友・小佐野賢治経由で角栄に渡ったとして国策捜査して行った形跡が認められる。 この点で、5億円収受説の上に立って諸悪の元凶として角栄を批判して行った通説も、それにしても角栄の政治能力は評価されるべきであるとする弁護論も、如何に様々に衣装されようとも許し難い。角栄当人が最後まで否認して公判闘争を継続したことの方に真実があり、事件は冤罪であり、そういう意味で角栄、その親族の為にも名誉を復権せねばならない。 この事件も、胡散臭さを語れば次から次へと広がりキリがない。重要な個所でウソをつくことにより虚言連鎖になっている。問題は、日共党中央が今日まで一貫して、このウソの連鎖で真相を歪め、居直っていることにある。かの時は諸悪の元凶として角栄を糾弾し、今になって云うことに「たかが5億円の外国の金に手を出した金欠角栄論」を振りまいている。こういう冒涜を許せるだろうか。こういうことを平気で云える口にこそ道義的責任を追求すべきではなかろうか。日共は、こたびの小沢キード事件で、他党のそれにも増して石川議員の証人喚問、真相解明、政治的道義的責任追及している。宜しい。同じ論理と論法で証人席に据えてやろう。 この二事件の精査から始まり、関連する歴史事象の解析へと次から次へと向かったのが、この十年である。れんだいこはいつしか「れんだいこ史観」、「れんだいこ観点」と自負するようになった。なぜなら、市井の既成のどの史観、観点とも違う独自のそれだと気づいたからである。そもそも戦後日本の見立てが違う。れんだいこは、敗戦後の日本を日本ルネサンス期と見立て、戦後憲法の導入によるその後の歩みをプレ社会主義と見立てている。この見立ての相違から、何から何までが市井の既成のそれと齟齬するようになる。冒頭で述べたが、れんだいこが特段に奇異な観点を打ち出そうとしたのではない。自ずと導き出されたものが「れんだいこ史観」、「れんだいこ観点」となった。 これ以降、「れんだいこ史観」、「れんだいこ観点」の磨きに大きく寄与したのが太田龍史観、観点であった。れんだいこのそれは太田龍氏のそれとも若干違うが、現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本の生態、その歴史的沿革について学ばせて貰った。氏の生前、一度だけになってしまったがセミナーに参加し、二次会を共にし、少し話をしたのが良い思い出になった。改めて感謝申し上げておきたい。 今日の「れんだいこ史観」、「れんだいこ観点」は、現代史のみならず近世史、古代史、神話史、思想、宗教、哲学、世相ジャーナル、著作権等々何でもござれに及んでいる。その時々にアンテナが作動した事象に取り組み、その都度論考して行くスタイルを確立しつつある。一度ゆっくり腰を落としてみたいのだが、それは世事許されないので、こういうスタイルになる。このれんだいこから見れば、世の識者の営為の安逸さが透けて見えてくる。おっとこれは云うまい。 さて、そういう風に進化を遂げてきつつあるのだが、この先どこまで掘れるのだろうか。願うらくは、れんだいこも、太田龍の如くセミナーで飯が食えるようになりたい。氏に較べて語学ができないので、国際的視野を同時的に持つ芸当ができないが、内容的には自信がある。「れんだいこ史観」、「れんだいこ観点」から見た事象解析を世に知らしめ、何らかの有益な役割に資したいと思う。自分の方からの売り込みは得手でないので自然に熟柿となり、れんだこの見解が求められる時代を引き寄せたいと思う。 そう云えば、この間著作をものした。「検証学生運動」(社会批評社)であるが、上巻としている関係上、下巻を出さねばならない。もうそろそろ原稿を送ろうと思う。問題は、反応の弱さである。左派圏は元々イデオロギッシュで理論好きな手合いで成り立っていると思うのに、最近は失語症に陥っているかのようである。下巻では、そういう風潮をからかうかのように挑発的なものにしてみようかと思っている。 それはともかく、次の著作にも向かいたい。我がサイトは、その際の膨大な原稿になっている。その作風が著作権法違反だと咎められることが多いのだが、云う者は云う。黙って学ぶ者は学ぶ。そういう世の中であるからして、小難しい者とは付き合いを避け、ルールとマナーだけは守って同好の士を糾合して協働して行くことにしたい。生あるうちにどこまで漕げるか、それが問われていると思っている。そうだ。れんだいこ論考楽しみに読ませて貰っています、つきましては些少のカンパをと送金して下さった女史が居る。Kさん有り難うね。れんだいこ勇気凛凛だ。 2010.2.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評671 | れんだいこ | 2010/02/12 17:31 |
【朝日新聞スクープ「中曽根幹事長のフォード大統領宛秘密文書」公開される】 朝日が久しぶりにメガトン級のスクープをものにした。当の記者は恐らく意図的故意に控えめに記事にしているので、そこを忖度して、何が明らかになったのか「我々の言葉」で推理せねばならない。れんだいこは、かく読み解く。 2010.2.12日、朝日新聞(奥山俊宏、村山治)が、「ロッキード事件『中曽根氏がもみ消し要請』米に公文書」記事を配信している。これは、米ミシガン州のフォード大統領図書館蔵の米政府公文書として秘密指定されていた「中曽根幹事長の米国国務省宛秘密文書」が2008.8月に解除され、その内容を朝日新聞がスクープしたものである。文書は、「ジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し」として保存されている。全文は公開されていない。 この文書が差し入れされた当時の状況は、2.4日のロッキード事件発覚により特捜体制で事件解明が始まった時期にして与野党挙げて政府に真相解明の要求が為され、これを受けて2.18日、三木首相が、「政府高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると表明した喧騒下にあった。 三木首相表明直後の3.18日晩、中曽根幹事長は、米国大使館の関係者に接触し、次のようなメッセージを米政府に伝えるよう依頼している。文書によると、中曽根氏は、三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある。日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」、「できるだけ公表を遅らせるのが最良」、「この問題をもみ消すことを希望する」と述べている。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてあり、中曽根幹事長の幕引き工作の動きを露骨に記している。 翌19日の朝、中曽根氏は再度会談し、その際「田中と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得た」と明かしている。その上で、「場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と念押ししている。2.20日、当時の駐日米大使・ジェームズ・ホジソンが、中曽根幹事長の意向を国務省宛てに秘密公電として送り、これが長らく保存されていた。秘密指定解除により、こたびのスクープとなった。 「文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ」と報ぜられている。「結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された」ともコメントされている。 さて、これをどう窺うべきか。れんだいこは、ロッキード事件の根幹に結びつくメガトン級の貴重記事だとみなしたい。朝日新聞記事は、中曽根幹事長が「高官名リスト公表の揉み消し」を図ったことを伝えているが、それは表向きの話であろう。れんだいこの解するところ、この秘密公電の真意は、「中曽根へ嫌疑が向かわないよう、角栄に嫌疑を向かわせるよう」懇請したところにあると思われる。そのやり取りの一端が垣間見える貴重文書とみなしたい。即ち、時の中曽根幹事長が、ロッキード事件捜査の根幹に関わる秘密協定を米国国務省と取り交わしていた動かぬ秘密文書と位置付けたい。しかも、その内容たるや、中曽根自身の嫌疑を角栄になすくろうとしていることが判明する。そういう内容を持つ「当時の中曽根自民党幹事長発言の米国国務省宛て秘密文書」が明るみになった意義は大きい。 これが中曽根の正体であることが分かればよい。愛国者気取りで今日までつつがなく過ごしているが、中曽根こそが真正の売国奴であり、愛国気取りは正体を隠す覆面に他ならない。これを思えば、愛国者然とせぬままお国に奉公し、ロッキード事件ではがい締めされそのまま閉居させられた真の愛国愛民族者・角栄が気の毒でならない。 この中曽根式指揮権発動のシナリオに基づき角栄包囲網が発動され、政財官学報司の六者機関が応答したのが、「その後のロッキード事件の動き」となった。となると、いかにも正義ヅラしてヘラルド的に立ち働いた立花、日共とは何者ぞ、ということになる。目白御殿を御用提灯持って包囲した社共、労組の角栄訴追運動の胡散臭さが問われねばならない。角栄糾弾に口角泡を飛ばしたエセ正義者の見識を問わねばならない。 こたびの小沢キード事件が全く同じ構図で作動していることも考えると、「中曽根、立花、日共の正体見たり枯尾花」でとどまる訳にはいかない。ロッキード事件そのものの再精査が必要となったと云うべきではなかろうか。併せて、現下の小沢キード事件を未だにネチネチと追求せんとしている手合いを、その眼で見ることが必要なのではなかろうか。このシオニスタン連合を一網打尽にせねばならぬのではなかろうか。 こうなったら国会の証人喚問大いに結構。石川は堂々と所信を表明し、何のどこが問題なのか、責める側の腐敗をも突きながら切り返せばよい。ジャーナリスト松田光世氏が明らかにした政治資金規正法の意味と意義に基づき、虚偽だとする側の知の虚偽を衝き返せばよい。 松田氏は次のように説いている。 「入出金は、政治団体の帳簿に記載することが義務付けられているが、収支報告書には、寄付のみを抜き出して記載する。そこには違いがあるのは当然で、そこまで公表すると政治活動の自由が損なわれるという与野党の暗黙の了解の下で、政治資金規正法は運用されてきた。検察は今回、その一線を越えた。入出金をすべて収支報告書に記載しないと現職国会議員でも逮捕、起訴するという検察の方針は、明らかに政治資金規正法の立法の趣旨を逸脱したものだ。検察の言うとおりなら、政治団体の会計帳簿自体の公開を義務付ければいいのであって、わざわざ収支報告書を作って公開する意味はない」。 凄い指摘だと思う。東京地検よ、答えて見よ。立花―日共流のネチネチウソ詭弁術に比して、一刀で袈裟斬りする鋭さがある。 2010.2.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評672 | れんだいこ | 2010/02/14 00:23 |
【日共改めネチ共のシロ証明要請論を嗤う】
れんだいこは、日本共産党を日共と表記してきた。これは、ソ共、中共と対比する意味で日共と呼称すると云う意味合いもある。もう一つは、1955年の六全協以来、野坂-宮顕同盟が共産党中央を掌握して以来、共産党が大いに変質し、とても共産党とは呼べなくなったという歴史的経緯から日共と呼称している。 学生時代、おぼこかったれんだいこは、曲がりなりにも戦前来の共産党の嫡子だろうと思いこみ、日共系学生運動に参画していたが、運動の盛り上げに水を差す指導ぶりと、ロジックの変調に違和感を覚え続けていた。新日和見事件の頃を境にドロップアウトしたのだが、今でもれんだいこの感性の良さを自負している。 もう四十年近くにもなる以前に見限り、十年前に理論的に総括した日共を論評する必要もないのだが、小沢キード事件での醜悪な立ち働きを見ると、出張らざるを得ない。許せないからである。今も連日続く赤旗紙面に於ける小沢パッシングの執拗さは尋常ではない。これからは当分、日共と云わずにネチ共と云い換えようと思う。れんだいこのネチ共批判の場合にはネチとは云わない。なぜなら常に論証的であるから。 そのネチ共は、本日2.13日の赤旗紙面でも、「政治とカネ 集中審議 小沢氏団体の疑惑ただす 佐々木議員」記事を載せている。佐々木憲昭議員と云えばムネオハウス質疑で知られているが、外務省の改竄文書を元手にムネオパッシングした非を咎められているのに未だに自己批判一つしていないという道義的責任に欠けた御仁である。よくも恥ずかしくもなく人前に出てこれることよと思う。ムネオが訴訟すれば、お前は必ず被告席に座ることになる。ムネオの度量に甘えるのもエエカゲンニセイ。ムネオが云わないから、代わりに申しつけておく。 その佐々木ネチ共議員が何を云っているのかと読むと、既に論破され、東京地検特捜部も不起訴にせざるをえなかった虚偽記載とゼネコン裏献金疑惑をバカの一つ覚え見たいに繰り返しているに過ぎない。党中央の指針に唯々諾々しかできない哀れなかごの鳥でしかないので、同じことの繰り返ししか云えないのだろう。目下新鮮なのは、志位委員長が堂々と打ち出している「検察とネチ共の車の両輪論」である。佐々木ネチ共議員にムネオハウス質疑の頃の勢いがあれば、「検察とネチ共の車の両輪論」を得意気に一席ぶつのだろうが、さすがに云い過ぎではないかと思っているのだろう、触れないのがお笑いである。 もう一つ。主張で「小沢幹事長の責任 元秘書の離党でいよいよ重い 」とぶっている。「問われているのは小沢氏自身の説明責任と政治的・道義的責任です」と述べ、小沢パッシング派の狙いを代行代弁している。次に、話法ペテン士・立花の詭弁が振りまいた「総額21億円余の虚偽記載」が気に入ったらしく繰り返している。思えばロッキード事件の時もそうだった。立花式「諸悪の元凶論」に乗って角栄訴追運動の尖兵役を務めた。 何とかして「報告書のミスなどで済ますわけにいかない重大な問題」に仕立てたいらしく、「虚偽記載の疑いがもたれているのは総額で21億6900万円にも上る巨額の資金」とフレームアップさせ、「検察不起訴はシロではない」としてひたすら小沢幹事長の責任を問う方向へリードせんとしている。魂胆だけが透けて見えてくる話でしかない。しかし、こうなると、ネチ共論理によれば我々は誰も今後は、シロ証明せねばならないことになりそうだ。 次に、「公共事業を受注したゼネコンからの裏献金」を持ち出している。東京地検特捜部が新種の「天の声理論」を編み出し、何とかして起訴せんとしたのに不起訴で終わった容疑であることを思うと、ネチ共論法の「天に対するシロ証明論」の執拗さばかりが際立ってくる。懲りないネチ共である。それはともかく、こうなると、雨が降れば降ったで降らねば降らぬで、関わりないことを証明せねばならないから厄介だ。人に云うのは良いが、お前にできるのかよ、そったらこと、と云い返したくもなる。 締めで、「石川氏とともに小沢氏が証人喚問に応じ、公開の場で真相を明らかにすることが待ったなしの課題」と述べている。れんだいこが逆提案しておく。こたびの小沢キード事件での東京地検特捜部の暴走に対して国会の場で真相を明らかにしておくことは必要である。その検察暴走にエールする形で「車の両輪論」を唱えたネチ共の理論創出過程を検証することも必要である。れんだいこから見て、この理論は異常である。ここまで堕ちたかと云いたくもなる醜悪理論である。 もとへ。小沢パッシングで質疑した自民党歴々の議員の収支報告書を俎上に載せ、シロ証明させるのも必要である。何人質疑したのか分からないが、ネットでタイムリーに暴かれている。今日は与謝野が槍玉にあがっていた。次に誰が出てくるのか知らないが、清廉潔白、シロ証明に堪える御仁が登場することを祈る。 小沢キード事件の教訓として、この種の暴走を戒める為にも、「証人喚問に応じ、公開の場で真相を明らかにすることが待ったなしの課題」ではなかろうか。ついでに述べておくが、ロッキード事件の再審も「待ったなしの課題」ではなかろうか。朝日が中曽根疑惑で久しぶりに朝日らしいスクープを飛ばしている。読売、産経の反応を見て見たいふふふ。次に、中央委員同志殺人者・宮顕を参議院にさせたネチ共の、公党としての政治的道義的責任を問うのも「待ったなしの課題」ではなかろうか。志位よ、もぐもぐせずに答えてみ。 2010.2.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評673 | れんだいこ | 2010/02/16 19:58 |
【鳩山政権の高速道路無料化公約の結末をを嗤う】
鳩山政権の二大マニュフェストである子供手当と高速道路の無料化が座礁しつつある。鳩山政権は国策捜査により大きく揺さぶられているが、それは外部的要因であって、事実は内部的な政策的自滅によって倒壊する恐れがある。子供手当については別に言及することにして、ここでは鳩山政権の高速道路の無料化公約がどこに辿り着いたか、これを確認する。子供手当同様に稚拙な対応が透けて見えてくる。 2010.2.2日、国土交通省は、平成22.6月度より社会実験として全国37路線50区間1626キロの無料化を発表した。様々な声を斟酌して、実施対象は地方の交通量の少ない区間を中心とすることになった。大半は100キロ未満で、中には大分県の日出ジャンクション-速見間の3キロ、北海道日高見の沼ノ端西-苫小牧東間の4キロなど極端に短い区間も含まれている。無料化区間は互いに接続されておらず、いわば細切れ指定されている。22年度の無料化区間計1626キロは、首都高速、阪神高速を除く高速道路全体の約18%に過ぎない。 前原誠司国交相は「23年度以降に対象区間を拡大する」と云い、馬淵澄夫副大臣は「財政の制約がある」と言い訳しているが、この弁明は如何なものだろうか。れんだいこは、「高速道路無料化マニュフェスト」の見るも無残な改竄スタートと見立てる。この程度の実施になるのなら、自公政権時の「土日祝日のET車限定千円乗り放題」の方が、まだしも分かり易くマシなのではなかろうかと評したい。政策を戻すべきである。なぜなら、この種の政策の眼目は景気対策にあったことを思えば、こたびの施策がこれに棹差しているからである。本来の狙いと全く切り離されて、アリバイ証明的な辻褄合わせでお茶を濁そうとするのなら止めた方が良いと云わざるを得ない。 一体全体、なぜこういう事態になるのだろうか。これを疑惑したい。元々に於いて、本来の施策は「現行通行料金の一律3分の1化、通行量5倍化」を目指すべきであった。それで十分である。敢えてわざわざ無料化するに及ばない。その経済効果は計り知れない。例えば、中四国を結ぶ瀬戸大橋が現行9千円から3千円になったとすると、通行量が5倍化するのは容易に推定できる。現行料金が高過ぎて敬遠されているという原因が明らかであるからである。 せっかくの公共事業が高料金故に活かされていないという現実があるのに、これまでの自公政権は何ら有効な手を打たなかった。こういう事態が長い間続いた。ようやく手当てしたのが、自公政権末期の「土日祝日のET車限定1千円乗り放題」であった。ET機業界と土日祝日休日者には大いに歓迎されたが、自公政権らしいイヤラシイ政策でしかなかった。 これに対して、民主党政権の掲げた「高速道路の無料化」は、ET機の仕分けせず、土日祝日の区別せず、等しく無料化としており自公政権的選別施策の閉塞を打ち破る画期的マニュフェストであった。それは、れんだいこの「現行通行料金の一律3分の1化、通行量5倍化」を上回る革命的なアイデアであった。それが、こたびのようなゴマカシに決着するのなら公約詐欺と云うべきであろう。誰しも子供の頃に経験したことがあろう、大きな箱の中の次の箱を開けると又箱があり、順次繰り返すうちに最後に小さな身が入っていた。この経験を想起させる期待外れ代物でしかない。 れんだいこ的には「高速道路の無料化マニュフェスト」を意図的故意に愚劣化させたとしか思えない。その裏事情に何があるのだろうか。前原国交相、馬淵副大臣率いる国交省は何故にこういう愚策を採用したのだろうか。これは偶然ではない、工作されたと思われる。故に裏事情を考察せねばならないと考える。 環境問題、混雑問題の見地から「高速道路の無料化」を批判する声が強いが、どれも為にする批判でしかなかろう。環境問題を云うのなら工場、施設のばい煙規制が筆頭だろうに、この問題は一番後回しにされている。混雑問題は、土日祝日から平日適用した場合にはどうなるのか、やってみないと分からない。高速道路が無料化されても走れば燃料を食うのだから誰しも無用な乗り方はしない。それを、土日祝日の混雑ぶりで推し量るのは不当ではなかろうか。これらのマイナス要因よりはるかに経済効果が凌ぐと思う。 れんだいこは、こたびの貧相決着を前にして、要するに鳩山政権は革新的政権効果が生じないように操作されているのではなかろうかと考えている。敵味方論で云えば、敵は何とかして鳩山政権の骨抜きに取り掛かっていると考えている。「高速道路の無料化マニュフェスト」は、この観点から意図的故意に惨めな施策に帰着したと考えている。そういう意味では、前原国交相-馬淵副大臣-国交省も又影の政府の御用聞きをしているに過ぎない。これを俗にシオニスタンと云う。 日本は中曽根政権以来のここ数10年、国内経済が活況化しないよう、内需が閉塞するよう、その結果として中小零細企業が倒産するよう、優良企業が外資ファンドに吸収されるよう誘導されている気配がある。いわゆる政治主導により不況を生みだし、その基盤の上で財政の大盤振る舞いによる更なる赤字国債の大量発行へと誘われている気がしてならない。財源不足を理由に消費税が導入され、それでも不足として第一次値上げされ、それでも不足として第二次値上げが画策されている。 他方で、普通なら事業仕訳の筆頭に軍事防衛費の削減が上がるところ、これを咎めず相変わらず垂れ流しが続いている。そればかりか、思いやり予算のお手盛りが強化されようとしている。影の政府の指令通りにやれイラクやれアフガンやれどこそこへ復興資金の名目で海外援助させられている。米国経済の危機だと云っては株価下支えに巨額の資金が流用され続けている。財政危機だと云っては米国債を買わされ続けている。他方で公共事業が目の敵にされ、必要な事業さえたな晒しされつつある。こんな調子では日本がうまく行くわけないのは自明ではなかろうか。 鳩山政権中枢の鳩山首相、小沢幹事長がこれらの問題にメスを入れようとした時、途端に集中的な国策捜査が始まっている。スッタモンダの挙句、政治的延命との引き替えに、妥協策として「引き続きの奈落の道政策」が維持されている気がしてならない。これに功があるのはご存じのマスコミ-ネチ共同盟である。これに評論家、コメンテーターが列なる。このシオニスタン同盟は「日本の奈落への道」を外野からの囃したて屋であり、雇われていると見るよりほかあるまい。あるいは、そのムードに乗る方が立身出世上好都合と云う単なる処世術屋に過ぎない。 こう見立てると、正義屋が正義ではなくなり、検察に追われる者が不正義と云う訳ではないことになる。政治的道徳的責任追及屋が高潔ではなく、拵えられた時流受け狙いの単なる売文、口舌の徒に過ぎないということになる。子供では分からない政治が高等な所以がここにある。 最後に提言しておく。「2.2国交省施策」は、その他の区間に対する「現行通行料金の一律3分の1化、施策」と結合してのみ機能する。容易に思いつくこの施策をさせない闇こそ窺うべきではなかろうか。 2010.02.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評673 | れんだいこ | 2010/02/20 20:18 |
【ジャスラックに続くビジュアル著作権協会の跋扈に対してマンザイ】
2010.2.18日、毎日新聞が、ビジュアル著作権協会が検察の捜査を受けている模様との記事を配信している。それによると次のように報じている。(他の新聞が採り上げているのかどうかは分からない) 「著名な作家らの著作物使用の許諾代行をしている株式会社「日本ビジュアル著作権協会」(東京都新宿区)が、作家らを原告とする著作権絡みの訴訟を提携先の弁護士にあっせんし、賠償金の一部などを報酬として得ていた疑いのあることが関係者の話で分かった。弁護士以外が報酬目的で法律事務をあっせんするのは非弁活動として弁護士法で禁止されており、検察当局が同法違反容疑で捜査している模様だ」。 これを解説すれば、ビジュアル著作権協会は日本音楽著作権協会の例に倣って、出版社などの学習教材に著作物の2次使用を許諾するかを会員に確認し、代行するのを主な業務としている。これにより、著作権侵害がないか出版物その他に目を光らせ、管理著作物の「無通知、無承諾、無料使用」を見つけるや、該当会員に委任状を求め、担当弁護士を配置し会員を原告とする損害賠償訴訟を東京地裁などで起こしている。現在までに約20件提訴し、一部は和解が成立している。 毎日新聞記事は、この問題を著作権強権化の最新事象と捉えず、同社の賠償金山分け高額報酬が弁護士法に違反する疑いがあるとして採り上げている。本当はここに問題がある。みんなが考えなければならない文明問題がある。それはひとます措いて毎日見解に従う。それによると、 弁護士法第72条は「弁護士又は弁護士法人でない者は、報酬を得る目的で訴訟事件、非訟事件及び審査請求、異議申立て、審査請求等行政庁に対する不服申立事件その他一般の法律事件に関して鑑定、代理、仲裁若しくは和解その他の法律事務を取り扱い、又はこれらの周旋をすることを業とすることができない。ただし、この法律又は他の法律に別段の定めがある場合は、この限りでない」、第27条は「弁護士は、第七十二条乃至第七十四条の規定に違反する者から事件の周旋を受け、又はこれらの者に自己の名義を利用させてはならない」と記している。 ビジュアル著作権協会の訴訟活動は、これに抵触するのではないかとしている。同協会には非弁活動の「前科」があると云う。1999(平成11)年、協会自らが会員作家を代理して、教材会社6社に対し出版差止請求訴訟を起こしている。ところが、教材会社側から非弁活動だと反駁され、第1回口頭弁論の際に自ら請求を放棄する旨を述べて終わりにしたという経緯がある、とのことである。(ttp://blogs.yahoo.co.jp/teabreakt/47586734.html)。 さて、れんだいこ見解を述べておく。こたびの毎日新聞記事は、ビジュアル著作権協会問題を取り上げたことに意義がある。但し、れんだいこは、同協会の弁護士法違反云々には興味がない。れんだいこが注目するのは、司法が後押ししする強権著作権論によって我が社会が次第に窮屈にされつつあることに対してである。この尖兵を日本音楽著作権協会ジャスラックが果たした。ビジュアル著作権協会は文芸版だと思えば良い。 今や、著作権法の解釈-具体的適用に於いて強権著作権論が花盛りである。法論理的には、新聞協会も出版協会も放送協会も音楽著作権協会も文芸協会も皆同じで、著作物の「無通知、無承諾、無対価」を認めない。違いかあるとすれば、ジャスラックとビジュアル著作権協会が「無対価」に対して有料対価を求めて精力的に訴訟に持ち込むのを得手としている相違でしかない。 ビジュアル著作権協会の訴訟で話題を蒔いたのは確か、大学入試問題に採り上げられた誰かの文章に対して、著作権法違反であるして損害賠償請求訴訟を起こした時であったと記憶する。強権著作権論者はこれを是認し、大学側の著作権無理解を嗤った。れんだいこは逆に嗤う。 仮に、れんだいこ文が大学入試問題に採り上げられるとすれば名誉なことであり、大いに箔がつき、れんだいこと文の絶大な効果を持つ無料広告であり、喜ぶことはあれ断じて無断使用許すまじとして訴訟を打つことはない。同じ事態を迎えて、なぜこうも対応が違うのだろうと思う。 人は、れんだいこをアナログ人間だと云うのかも知れない。それならそれで結構だ。変態的なデジタル人間になろうとは思わない。本来なら、こういうことは物別れで済むのだが、著作権問題はこれでは済まない。一方的に訴訟を打たれ、勝手にかなり高額の損害賠償金が課され、借りた金でもないのに利息が発生させられる。これをグル司法が後押しするから勝てない。 裁判でオカシイではないかと訴えても、判事も原告も聞く耳を持たない。なぜなら既に判例が出ており、全てが全て強権著作権論派の云い分が認められている。しかし、裁判と云うのは法を争うところだろう。著作権法によれば、一定のルールとマナーを守れば引用転載可と書いているように思えるではないかと問うと、そういう原理的な判断はしないだと。あなたの主張は得意で変わっているだと。つまり、司法の場が司法判断を避け、ハンコを押すように判例に倣い過ぎている。これを反省する気持は微塵もない。オカシナことであろう。 れんだいこはやはり何か違うだなと云う気持ちを持ちたい。我が社会は著作権病魔に侵されつつある。我々は植物人間にされつつある。あるいはゆでガエルのように眠らされつある。こういう気持ちは普通は詩人が得手とするのだが、あぁイケナイ詩人がビジュアル著作権協会の広告塔の顔だとさ。住みにくいったらありゃしねぇ。漱石先生、どう思うかね。 2010.2.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評674 | れんだいこ | 2010/02/21 18:58 |
【ネチ共無惨なり、次々政治的道義的責任のなさが暴露されつつある】 ネチ共の経理疑惑が浮上してきた。小沢キード事件で検察との車の両輪論を唱えて識者から失笑を買っているネチ共がどう防戦するのか見ものになりつつある。これを確認しておく。れんだいこの予感として、この問題は、腐敗しきっているネチ共党中央崩壊の頂門の一針になる気がする。 「地獄への階段」の2010.2.21日付けブログ「『組織対策費』3億5千万の使途不明 共産党に説明責任」が、日共の経理疑惑に対して情報を発信している。これを読めば、ネチ共収支報告のお粗末さ、イヤラシサばかりが際立ってくる。少なくとも、小沢を追求する資格があるのかとの疑惑が生まれよう。 (ttp://blogs.yahoo.co.jp/voteshop/archive/2010/02/21) 日共は爾来、手前のお粗末は棚に上げ、自民党、民主党だの他党の批判に精力的なことで知られている。他党の経理疑惑に対して最も舌鋒鋭くしているものの、日共自身はどうなのだろうか。今こういう疑惑が生まれつつある。「地獄への階段」氏は、日共党本部、各都道府県委員会、地区委員会の経理報告を調査したらしい。すると、「組織対策費」なる項目で不明朗な経理となっていることが判明したことを明らかにしている。同ブログは、「『政党機密費』不透明な3億5千万の使途について説明責任を果たせ!」とコメントしている。 日本共産党東京都委員会と33ある同地域委員会の20年分収支報告を基に、組織対策費について調査したところ、地区委員会ごとに組織対策費の合計額、1件5万以上の支出額とその比率を記載している。これによると、「組織対策費3億5400万のうち、1件5万以上の支払は460万分、割合1.3%」、「34の委員会のうち21の委員会で、1件5万以上の支払が0件」となっている。 これを逆に云えば、「組織対策費1件5万未満の支払は、収支報告に総額さえ記載すればよく、その裏づけとなる領収書や支払先を示す書類などの提出も不要である」のを悪利用して、匿名支出ばかりの会計報告となっているということになる。 これは、全貌を知るには会計帳簿を見るしかないが、それができるのは検察か警察による強制捜査であるが、この国家権力が踏み込んだ例はない。つまり、真相解明の前に国家権力の厚い壁が立ちはだかっていることになる。検察との車の両輪論を唱えるネチ共が案外と検察、警察と親和しているめことが判明する。これはお笑いの構図ではなかろうか。 ネチ共は何につけても手前たちが一番正しく絶対正義だとすることで知られている。言い得言い勝ちの習性、悪質詭弁話法を常用する調法なお口を持つことで知られている。「地獄への階段」氏の指摘に対し、どう弁ずるのだろうか、興味がわく。 これとは別に、宮地健一氏が、「共産党問題、社会主義問題を考える」(ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htm)の最新論考「党員数と党費収入総額とのアンバランス疑惑」(ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/touhi.htm)で、日共の経理疑惑にメスを入れている。 それによると、「日共政治資金の収入分の総務省宛報告」がウソ報告であることを示唆している。宮地氏は、党費納入党員数減と党費収入減の相関関係を調査し、アンバランスであることを嗅ぎつけている。そもそもネチ共は正確な党員数、党費収入、機関紙収入について正確な発表をしておらず、ウソの虚偽報告している可能性が強い。今日の如くな合法主義活動に於いては特段の秘密性の必要が考えられない。にも拘わらず虚偽報告する裏には、正確な情報を開示すると党中央の無能力ぶりが明らかになり、責任問題が発生することを恐れての糊塗策としか考えられない。 もうこれぐらいの指摘で十分だろう。このような党が、小沢キード事件をかなり立て、政治的道義的責任をネチこく追及したり説明責任を要求する筆頭格で立ち働くのは不正極まる不祥事と云うべきではなかろうか。れんだいこはウンザリだ。政治的道義的責任の被告席に座るのは、お前らが最も相応しい。我々はそろそろ、そういう不祥事まみれのネチ共を政界スキャンダル暴露党として都合良く利用している背後の闇勢力に関心を向けるべきではなかろうか。この党は、そういう為に飼われている党でしかない。早くこのことに気づくべきであろう。 関心は、こういう党にいつから変質したのかの考察に向かうべきである。決して偶然ではない。用意周到に党中央を簒奪したと読むべきであろう。残念ながら、この方面の研究は進んでいない。これについては別の機会に論じたい。というか、れんだいこは、サイトで十分に切開しているつもりであるが、見ようとしない者には見えず、読もうとしない者は読まずで、相変わらず昔ながらの「腐っても共産党」なる神話が通用している。れんたいこ解析が違うと云うのなら誰か弁じてみよ。れんだいこがいつでもお相手つかまつる。 2010.2.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評674 | れんだいこ | 2010/02/22 18:09 |
のんぽりさんちわぁ。レス有り難う。れんだいこもお返ししておきます。 > こういう論理って別に共産党ばかりじゃなくてどこにも当てはまるんじゃないの。現に、民主党は野党時代に自民党を批判しておきながら、政権の座に着いた途端に公約を次々に破っているとか、マスコミは他社の不祥事を大々的に批判するくせに自社の不祥事は隠そうとする。企業も然り、個人も然り・・・。 これはそうです。 > こんな批判のやり方、イデオロギーに縛られて、対抗するものを叩きつぶそうという論理の展開の仕方はいかがなものなんだろうね。ここから何か生産的なものが生み出されるんだろうか?結局は誹謗中傷の応酬になるだけなんじゃないの? ここは、何をおっしゃりたいのか意味がわかりません。「こんな批判のやり方、イデオロギーに縛られて、対抗するものを叩きつぶそうという論理の展開の仕方」はれんだいこに向けられているのですか、共産党の方に向けているのでせうか。 > 共産党の拙いところを責める前に、先ず己の身を振り返り、襟を正すべきを正してからにしなければなにも変わりはしないってことにそろそろみんな気がつかないと。人を振り見てわが振り直せ、隗より始めよだよ。特に政権与党の人間はね。 「共産党の拙いところを責める前に」とはどういう意味でせう。共産党は他のどの政党よりも厳しく激しく他の政党ないしは政治家批判に興じている現実がある訳で、そこを問題視して問わずに「共産党の拙いところを責める前に」なんて言い出したら、まったく免責されてしまうでないの。「検察との車の両輪論」ってオカシクないですか。共産党の場合、これで角栄を葬った前歴がある訳だし。 最後の「人を振り見てわが振り直せ、隗より始めよだよ。特に政権与党の人間はね」は言語明瞭趣意不明です。「特に政権与党の人間はね」と書く必然性が分かりません。与党であろうが野党であろうが「人を振り見てわが振り直せ、隗より始めよだよ」と云うのであれば、れんだいこの趣意と合います。感想として全体的に論旨不明です。レスいただいたのは結構なことなのですが。ノンポリなら許されると云うものではない気がします失礼ながら云わせて貰うと。 2010.2.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評675 | れんだいこ | 2010/02/22 18:41 |
【週刊ポスト&週刊現代論、週刊誌論調の癖比較論】 今日は22年2月22日の2のぞろ目記念日だと云う。いつか言いたかったことを記念に書き付けておく。 小沢キード事件に対する週刊ポストと週刊現代の論調の癖が際立っており、興味深いので一言しておく。れんだいこは、行きつけの喫茶店複数で、この二誌を始め週刊新潮、週刊文春、アサヒ芸能、週刊大衆等々を気紛れに読むのだが、恐らく編集長次第で論調が幾分か変わり始めるのではなかろうか。そういう気がしている。どなたか、どう変わるのか具体的に論じてくれれば面白い。 れんだいこの従来の感じは、ポストと現代との比較で云えば、同じような論調ながらもややポストの方が体制寄りで現代の方がリベラル的な受け取り方をしてきた。ところが最近は逆になっており、ポストの方がリベラル的、現代の方が体制寄りな気がする。このことがはっきりしたのが、こたびの小沢キード事件に対する記事姿勢であった。 現代は、あからさまに小沢パッシングに加担し、あの手この手を駆使して検察エール紙面を構成している。これに対しポストは逆に、検察の暴走ぶりを批判的に採り上げている。あるいは小沢パッシングの背後事情詮索まで記事にしている。これまでは二誌の切り口の違いに妙があったが、紙面がこれほど対照的になった例は珍しいのではなかろうか。 その原因はどこにあるのだろうか。れんだいこは、週刊現代のこのところの露骨なネオシオニズム化に解を求めている。週刊現代の編集長が誰であり、どういう履歴の持主であり、いつから編集長を務めているか分からないが、ここへ来ての週刊現代の御用化は目に余る気がする。対照的なのは週刊朝日であり、小沢キード事件に対して当初より検察批判の姿勢を確立し、いち早く容疑の白黒性を実証的に論じ、言論リード役を引き受けている。山口一臣編集長の気概を感じるのは、れんだいこだけではあるまい。そうだ、日刊ゲンダイも頑張っている。編集責任者が誰だか知らないがジャーナル精神を感じるのは、れんだいこだけではあるまい。 もとへ。れんだいこが週刊現代の変調を認めたのは、松岡農相変死事件の時であった。記憶に従えばかの時同誌は全く報道しなかった。時の大臣が議員宿舎名で白昼に変死したと云うのに何故黙殺したのか、今も疑念が消えない。週刊ポストは辛うじて採り上げていたが、松岡農相の変死そのものに対する言及はなく、他愛ない関連情報でお茶を濁していた。全く紙面にしなかった週刊現代の異様さが目に映った。 このことは何を意味するのだろうか。れんだいこには明らかである。松岡農相変死事件の裏に得体の知れない事情があり、その方面への取材に圧力がかかったということではなかろうか。あるいは週刊現代が自主的に内部規制したのかもしれない。もしそうであるとしたなら、最もジャーナルせねばならぬ時に怯むジャーナル精神の貧困を問題にせねばならぬであろう。 ということは、翻って小沢キード事件にはしゃぐ週刊現代の異様さが逆に浮き彫りになるのではなかろうか。松岡農相変死事件に一切口を閉ざした週刊現代が何故に小沢キード事件では雄弁になり得るのか。眉つばせねばなるまい。考えられることは、週刊現代編集部の好、親ネオシオニズム没ジャーナリズム性であろう。息がかかっていると云うべきか、籠絡されていると云うべきか。週刊現代編集部よ、反駁できるのならしてみよ。 思うに、各紙各誌の論調が同じ色の時、これを臭いと思うべきではなかろうか。どなたの言かは忘れたが、「世論調査の名を借りて世論操作が行われている」。これは名言ではなかろうか。更に思うに、れんだいこの「ネオシオニズムによる情報操作、世論誘導、メディア支配説」に異を唱えるなら、少なくとも現代ジャーナリストの能力、識見不足を嘆かねばなるまい。余りにも不勉強過ぎ、デキが悪過ぎる。この程度の記事しか書けない連中が年収数千万円の身分でぬくぬくしているのは異常であろう。あるいはこの高収入も言論買収の対価かも知れぬ。かく理解しないと説明できない。せめてこの辺りは認めないとお話にならない。 2010.2.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評674 | 韃靼人 | 2010/02/23 11:17 |
何故か、のんぽり氏がこちらへ投稿せず、阿修羅に投稿されたので、転載させていただきます。もし、重複した場合は削除してください。 れんだいこ氏へ:イデオロギーの意味を理解すれば分かること。 (asyura2.com/10/senkyo81/msg/132.html) 投稿者 のんぽり 日時 2010 年 2 月 23 日 09:50:45: 7p9CCripgLT3w 元の投稿が前の板になってしまったため、板を改めて投稿する。 出典:大辞泉 イデオロギー 1 政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態。 2 一般に、思想傾向。特に、政治・社会思想。 思想・思想傾向という意味でとらえれば、右翼から左翼まで幅広く存在する自民党や民主党はイデオロギー政党とは言えない。ただ、政治における社会的立場に制約された考え方ととらえればどうだろう。 民主党支持者の愚民党氏やgataro氏その他のアンチ民主の投稿に対するかなり多くのコメントの内容はまさに、自民党もそれをやってきただろう、共産党もそれをやってきただろう。やられたらやり返すのが当たり前だ、利益誘導の何が悪いといったものまである。 しかし、自分たちよりも自民党は悪い、共産党は悪いといった論理の展開はまさに五十歩百歩の典型な訳だし、法律は人間の作ったものであり、過剰な部分もあれば、足りない部分もある。特に、立法者(ここでは官僚も含まれるが)に関係する法律はどうしても甘くなる傾向がある。 法律的に問題はなくても倫理的に問題がある場合が多々ありうるわけだ。 確かに、れんだいこ氏の投稿は共産党の腐敗ぶりを指摘しているのかもしれない。それは問題ない。ただ、ネチ共だと呼び、検察と車の両輪断定し、手前のお粗末を棚に上げなどと意見を封殺せんとするような文言の羅列をみて、コメント欄の民主党信者と同じような臭いをおいらは感じたのでレスポンス投稿をした。 確かに共産党には崩壊した社会主義国政府のような胡散臭さは見てとれるし、安保や社会体制(例えば、あくまでも社会主義国家を目指すのか、資本主義体制の中で社会民主主義的な国家を目指すのか等々)に不明瞭な点が多過ぎる。 しかし、これまで、自民党長期政権下で確かな野党として、社会党や民社党・公明党といった政党とは一線を画し、様々な視点を我々に与えてくれてきたことも忘れてはならない。 そんなもの党利党略に決まってるじゃんといえばそうだが、それはどの党にも当てはまること。 菅代表時代に唐突に打ち出された高速道路無料化、小沢選挙戦術として出てきた生活者重視政策、これらにはおいらは賛成だが、本気でやる気があるのか訝っていた。なぜならば、数年前まで新自由主義を主張し、勝ち組負け組を云々していた連中が中堅・幹部として存在しているからだ。 案の定、小沢は選挙重視を打ち出し、生活者重視もどこへ向かうのかデラシネのように漂っている。高速道路無料化に至っては大山鳴動鼠一匹の風情においらには見える。 ガチガチの民主党員、イデオロギー命の共産党員、利権に固執する自民党員等々、イデオロギーに縛られている人は、それぞれの立場から相手を叩くことだけ考え、自分を如何に目立たせるかを考えればいい。 しかし、有権者の大多数は党員でも何でもない。4割の無党派層を中心に、是々非々で政策を評価し、その時々のベストの選択をすべきであろう。 その為には小沢問題の問題も、自民党政権時代の問題も、共産党の問題も、個人の資質の問題、政治と金の問題、組織の停滞と腐敗の問題といったように整理して、イデオロギーに拘らない議論をすることこそ肝要なのではないだろうか 。 日本の国会はこれまでずっと政局だけで動いてきたように感じている。特に、小泉時代は酷かった。選挙にぶつけての北朝鮮訪問とか選挙期の予算配分も何もかもが政局だけで動いてきた。安倍、福田、麻生と選挙もせずに頭がすり替わっていったのは、そういった姑息な手段が通用しないほど日本が疲弊してしまったことにあるとおいらは思う。 政権交代に期待したのも変化を求めたのに、国会は相変わらず政局だけで動いている。おいらはそこを問題にして欲しいのに、小沢が悪い、検察がおかしい、マスコミがなっとらんという議論ばかりで終始していてはこれからも何の解決策も見いだせないだろう。水かけ論始まり、誹謗中傷の応酬でますます有権者の政治離れを起こすことがくぐされる。もっとも、今の政治屋にはその方が都合がいい側面もあるのだろうが・・・。 人の振り見てわが振り直せとか隗より始めよと言ったのは、こういうことを実際にできるのは政権政党でしかないからだ。無論、有権者の盛り上がりがなければ政権与党が動くこともないことは自明のことだが…。 >共産党は他のどの政党よりも厳しく激しく他の政党ないしは政治家批判に興じている現実がある訳で、そこを問題視して問わずに「共産党の拙いところを責める前に」なんて言い出したら、まったく免責されてしまうでないの といった「イデオロギー」に縛られてはいけない。共産党の問題点はどこにあるのかどこを改正しなければならないのかという議論の方がおいら達には分かりやすい。 反省だけなら猿でもできるなんてCMがあったが、批判だけなら誰にもできるわけだ。無論、その質は色々ある。誰にでもできるものではない質のいい批判をれんだいこ氏のような識者には期待したいが故に投稿した次第。 論談でも「ノンポリ」として投稿していた際、このHNに対し、色々ご批判をいただいたが、おいらとしては政治に無関心ではなく、政治的に偏らないという意味を勝手に付与して使っている。 > のんぽりさんちわぁ。レス有り難う。れんだいこもお返ししておきます。 > > > こういう論理って別に共産党ばかりじゃなくてどこにも当てはまるんじゃないの。現に、民主党は野党時代に自民党を批判しておきながら、政権の座に着いた途端に公約を次々に破っているとか、マスコミは他社の不祥事を大々的に批判するくせに自社の不祥事は隠そうとする。企業も然り、個人も然り・・・。 > > これはそうです。 > > > こんな批判のやり方、イデオロギーに縛られて、対抗するものを叩きつぶそうという論理の展開の仕方はいかがなものなんだろうね。ここから何か生産的なものが生み出されるんだろうか?結局は誹謗中傷の応酬になるだけなんじゃないの? > > ここは、何をおっしゃりたいのか意味がわかりません。「こんな批判のやり方、イデオロギーに縛られて、対抗するものを叩きつぶそうという論理の展開の仕方」はれんだいこに向けられているのですか、共産党の方に向けているのでせうか。 > > > 共産党の拙いところを責める前に、先ず己の身を振り返り、襟を正すべきを正してからにしなければなにも変わりはしないってことにそろそろみんな気がつかないと。人を振り見てわが振り直せ、隗より始めよだよ。特に政権与党の人間はね。 > > 「共産党の拙いところを責める前に」とはどういう意味でせう。共産党は他のどの政党よりも厳しく激しく他の政党ないしは政治家批判に興じている現実がある訳で、そこを問題視して問わずに「共産党の拙いところを責める前に」なんて言い出したら、まったく免責されてしまうでないの。「検察との車の両輪論」ってオカシクないですか。共産党の場合、これで角栄を葬った前歴がある訳だし。 > > 最後の「人を振り見てわが振り直せ、隗より始めよだよ。特に政権与党の人間はね」は言語明瞭趣意不明です。「特に政権与党の人間はね」と書く必然性が分かりません。与党であろうが野党であろうが「人を振り見てわが振り直せ、隗より始めよだよ」と云うのであれば、れんだいこの趣意と合います。感想として全体的に論旨不明です。レスいただいたのは結構なことなのですが。ノンポリなら許されると云うものではない気がします失礼ながら云わせて貰うと。 > > 2010.2.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評674 | れんだいこ | 2010/02/23 13:27 |
韃靼人さん、阿修羅板へのご紹介有り難う。れんだいこは当分直接投稿は見合わせたいと考えており助かります。以下、のんぽりさんへのレスです。 こたびの投稿で、のんぽりさんの云わんとするところが少し分かりました。やはり尋ねて見ないと通じないところがありますね。 > 確かに、れんだいこ氏の投稿は共産党の腐敗ぶりを指摘しているのかもしれない。それは問題ない。ただ、ネチ共だと呼び、検察と車の両輪断定し、手前のお粗末を棚に上げなどと意見を封殺せんとするような文言の羅列をみて、コメント欄の民主党信者と同じような臭いをおいらは感じたのでレスポンス投稿をした。 これによると、れんだいこの日共批判かお気に召さないことになります。それは分かります。しかし、かくはっきりと批判しないとダメな辺りに日共が来ているとして批判しております。ここがご理解いただければ幸いなのですが。 > しかし、これまで、自民党長期政権下で確かな野党として、社会党や民社党・公明党といった政党とは一線を画し、様々な視点を我々に与えてくれてきたことも忘れてはならない。 ここが問題です。れんだいこから見て、日共が日本政治史上有益有能な働きをしている面とか箇所が見当たりません。さしあたりの反戦平和では異存なかろうと思われますが、彼らの論を突き詰めて行くと社会党式反戦平和でもなく、現代世界を牛耳るネオシオニズムと親和する得体の知れない論であることが分かります。そういう訳で、選挙政策も然り、評価するところはありません。下部レベル、地域レベルの活動まで否定する気はありませんが。党中央は異常です。 > ガチガチの民主党員、イデオロギー命の共産党員、利権に固執する自民党員等々、イデオロギーに縛られている人は、それぞれの立場から相手を叩くことだけ考え、自分を如何に目立たせるかを考えればいい。 「イデオロギー命の共産党員」と看做すのは実情に合いません。日共はかってのイデオロギーも、それに代わるイデオロギーも持ち合わせておりません。単なる体制修繕屋的、且つ「我こそ真の万年野党」なる変な見地から場当たり対応に終始しているに過ぎないと考えております。 > その為には小沢問題の問題も、自民党政権時代の問題も、共産党の問題も、個人の資質の問題、政治と金の問題、組織の停滞と腐敗の問題といったように整理して、イデオロギーに拘らない議論をすることこそ肝要なのではないだろうか。 この見地は、これで問題ありません。 > 政権交代に期待したのも変化を求めたのに、国会は相変わらず政局だけで動いている。おいらはそこを問題にして欲しいのに、小沢が悪い、検察がおかしい、マスコミがなっとらんという議論ばかりで終始していてはこれからも何の解決策も見いだせないだろう。水かけ論始まり、誹謗中傷の応酬でますます有権者の政治離れを起こすことがくぐされる。もっとも、今の政治屋にはその方が都合がいい側面もあるのだろうが・・・。 この見地も、問題ありません。 > >共産党は他のどの政党よりも厳しく激しく他の政党ないしは政治家批判に興じている現実がある訳で、そこを問題視して問わずに「共産党の拙いところを責める前に」なんて言い出したら、まったく免責されてしまうでないの > といった「イデオロギー」に縛られてはいけない。共産党の問題点はどこにあるのかどこを改正しなければならないのかという議論の方がおいら達には分かりやすい。 ここは意味が通じません。れんだいこは、こたびの投稿では「イデオロギー」的見地から批判しておりません。小沢キード事件での日共のロッキード事件以来のはしゃぎぶり、こたびは堂々たる検察との車の両輪論まで持ち出しての小沢パッシングの動きを批判している訳です。「共産党の問題点はどこにあるのかどこを改正しなければならないのかという議論」の方は別の機会に譲っております。話が拡散するので避けております。 > 反省だけなら猿でもできるなんてCMがあったが、批判だけなら誰にもできるわけだ。無論、その質は色々ある。誰にでもできるものではない質のいい批判をれんだいこ氏のような識者には期待したいが故に投稿した次第。 これは、励ましと受け取ります。れんだいこは更に精進します。御期待ください。 > 論談でも「ノンポリ」として投稿していた際、このHNに対し、色々ご批判をいただいたが、おいらとしては政治に無関心ではなく、政治的に偏らないという意味を勝手に付与して使っている。 ハンドルネーム批判ではなかったのですが、そう受け取られないよう書き方に注意したいと思います。今後ともよろしく。あわただしいままのレスで申し訳ない。 2010.2.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評676 | れんだいこ | 2010/02/24 15:00 |
【れんだいこのネチ共批判とネチ共の小沢パッシングの等価性考】 れんだいこが、なぜネチ共批判を続けるのか。それは、ネチ共の小沢パッシングが執拗に続くからである。ここを取り違えてはならない。2.24日の赤旗主張は「『政治とカネ』追及 小沢氏の喚問を実現すべきだ」と題して懲りない主張を続けている。 もし、れんだいこのネチ共批判に不快の念を持つ者がいたら、ネチ共の執拗な小沢パッシングにも不快の念を持ってほしい。そうすれば話が合う。これを等価と云う。ネチ共の小沢パッシングは正当、れんだいこのネチ共批判はやり過ぎなどと云う者が居たとしたら、拵えられた小沢パッシング劇場に相当被れ過ぎていることに気づくべきだろう。気づかぬ者にはカエルのツラにションペンで処置なしと診断しておこう。 2.24日赤旗主張は、小沢氏の証人喚問論を繰り返している。鳩山首相に対し「小沢氏に偽証の罪もある証人喚問に応じるよう言うべき」とも述べている。これによると、鳩山のマミー献金不記載問題は解決済み、小沢の秘書寮建設資金記載不記載問題に対しては未解決としていることが分かり興味深い。不記載を免責させ、検察の望むように記載しなかった場合には虚偽記載としてより悪質とする立場に立っていることが分かる。正常の者は頭がおかしくなろう。ここから透けて見えてくるのは、小沢一本にターゲットを絞っている魂胆である。 ネチ共は同主張で、概要「検察不起訴は潔白証明にならず。自らシロ証明せよ」論をぶっている。補足として、ゼネコンからの“税金還流”につき、「核心となる資金の出所をめぐっても、潔白どころか疑惑は深まる一方」と述べている。「最近の世論調査」を持ち出して、「小沢氏の国会での証言を求める声が圧倒的」として、「鳩山政権が国民の声にこたえるなら、いますぐ小沢氏の証人喚問に応じるべき」で締めくくっている。 この論理論法は既にどれもこれもが破綻させられていることつにき、敢えて述べるまでもない。簡略に答えておけば、「検察の不起訴」はネチ共が云うほど軽いものではない。東京地検特捜部の総力捜査で「公判維持容易ならず」の判断となり不起訴となったことが検証されている。シロ証明論については無茶な法理論であろう。シロ証明責任論なるものは法的に認められていないし、仕切りが不明で際限がなくなるからして認めてはなるまい。ネチ共産が凡そ民主主義の何たるかが分かっていないことを自己暴露している。どうか、ネチ共のせめて党内だけに通用する論にして欲しい。 「ゼネコン還流資金」については冤罪の可能性が強い。贈収賄証言者の虚言常習癖が暴露されている。ロッキード事件の時のようなコーチャンの免責付き証言には信用性が認められない。当然、買収証言は認められないとすへきだろう。「最近の世論調査」については、世論調査は世論操作による面が大きく、公平性が担保された質問形式のもので、且つ無回答率も含めたものでなければ信用できない。それでも錦の御旗とするのは為にする批判でしかない。 「小沢氏の証人喚問に応じるべき」については、政権与党の首相、幹事長につき乱発するものではなかろう、容疑内容から見て在任中に大騒ぎするほどのことかどうか。付言しておけば、在任中大騒ぎするべき事例がある。それは、かの時、小泉首相が米国訪問の際にプレスリー邸で嬌態を見せた後イスラエルを訪問し、ユダヤ教徒の正装でユダヤ教儀式を執り行ったことである。れんだいこは、靖国神社公式訪問問題なぞ比較できぬ重大事であったとみなす。一国の首相が任期中に外国の宗教形式で宗教行為を執り行うなど許されてよい訳がなかろう。ところが、この時の小泉狂事は見逃された。メディアもネチ共も黙殺した。今に至るまで不問視されている。ネチ共論法を借りれば、即刻小泉を証人喚問せねばなるまい。志位君、市田君、どう思うかね。 以上を踏まえてかく問わねばならぬ。ネチ共はなぜ執拗に小泉ではなく小沢を叩くのか、その背後事情に何があるのか、と。れんだいこの解は、ネチ共はそういう役目を持って云わされ続けている、云わしているのは現代世界を牛耳る国際金融資本の意を汲むネオシオニスト奥の院であろう、と読む。このれんだいこ解は正解だろうか。ここが議論されねばならぬ。 興味深いことは、鳩山政権になってみて、野党席に自民、公明、共産と並ぶと以外にこれが何ともサマになっている姿である。これまで政権与党の自公、野党の共産と云う対立の立場に居たのに、もう何十年もコンビを組んでいる自然さが伝わるから不思議だ。この親和性はなぜだろう。れんだいこの解は、国際金融資本の意を汲む表統領の自民、表補佐の公明、裏補佐の共産という構図で80年代以降の日本政治が続いてきたことを示しており、不思議でも何でもない。目下の小沢キード事件追及に於ける自民-公明-共産連合の姿こそ真の正体に他ならぬ、と云うことになる。 この構図を突き崩すのに最大の功のあった政治家が小沢である。これは延々30年の長征史となった。こたびの小沢キード事件、小沢潰しは、この30年長征史を否定し解体せしめよとの当局奥の院指令に他ならぬ。小沢を落とせば、残党狩りは容易であろう。こうしてロッキード事件以来の大型包囲網が敷かれた。新聞マスコミ各誌が声を合わせてハッスルした。しかしながら、その目論見は潰えた。なぜなら、ロッキード事件の検証を通じて、否その後の政治貧困、日本の国富簒奪、経済力衰退、地方荒廃が重しとなって、大本営発表を眉つばさせた。日本人民大衆は、その手は二度とは食わぬ桑名の焼きハマグリと冷静に対応した。日本人民大衆は既に先の総選挙で投票一揆に立ち上がり、自公を完膚なきまでに叩いている。賢明なる政治的経験を積み始めているということである。 この局面で、ロッキード事件の時にはあれほどうまく行ったのに、こたびはなかなか重い、重いが仰せだから仕方ないと主張し続けているのが、ネチ共である。誰の為に、何の為に。ここが問われなければなるまい。れんだいこの解は、決して日本人民大衆の為にではない、このことをきっぱりと告げておこう。後は銘々で考えれば良い。知りたくなれば尋ね来るなら云うて聞かそう。 2010.2.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評677 | れんだいこ | 2010/02/26 18:45 |
【角栄の「政治は力なり。力は数なり」論考】 角栄の「政治は力なり。力は数なり」論が今も歪められて流布している。最近もどこの週刊誌か忘れたが、「政治は数、数は力、力はカネなる角栄式政治論批判」を目にした。ポストか現代か新潮か文春のどれかの記事だったと思う。記者のお粗末さが分かる。書いている本人はそのように理解しているのだろうが、角栄のその種の発言は寡聞である。れんだいこは、角栄が、「数は金なり」と言ったという話が信じられない。悪質な歪曲造語であろう。批判派の話法がこういう悪質論法に拠っていることを知る必要がある。 角栄は「政治は力なり。力は数なり」とは言ったと思う。しかし、「政治は力なり。力は数なり」と「政治は数、数は力、力はカネなり」とは意味が大きく違う。こういう歪曲批判は為にするもので、為にする者の人格識見が疑われよう。角栄批判者は、角栄が言ってもいない言を捏造し「諸悪の元凶角栄論」を幻像化させ批判のボルテージを挙げた。れんだいこが、ここで反論しておく。 角栄政治は専らこうした立花隆-日共流の針小棒大ないしは歪曲批判攻めで、その政治活動の稀有なまでの功績までもがタライと共に流され全否定された。裏金に勤しむ検察、その検察が小沢の裏金を突く国策捜査が不起訴に終わった今こそ、ロッキード事件で嵌められた角栄を歴史的に救済せねばなるまい。のみならず、角栄以降の政治の貧困を思う時、角栄政治を再検証し、好評価すべきところは復権させねばなるまい。角栄政治の見直しこそ、日本政治のカンテラとなるのではなかろうか。 もとへ。角栄の「政治は力なり。力は数なり」は、これは一種の思想哲学である。いわゆる民主主義政治が多数決に基づく制度であることをことを見据えた言辞であり、何ら批判されるには及ばない。もしこれを批判するとするなら、君主政治、貴族政治、官僚政治の側に立たない限りできまい。戦後民主主義のシステムは、三権分立制の上で立法権の裁量を高め、立法権を普通選挙で選出される代議員制に委ね、国会を最高の権力機関とした。これによれば、国会は審議、立法の場であり、異論、異端、分派、野党が堂々と認められつつも最終的には、多数決民主主義の下に政権与党が政府を構成し、責任政治を担うことになる。 してみれば、角栄の「政治は力なり。力は数なり」は、戦後民主主義の何たるかを根底で捉えた見事な表現であろう。この当たり前の見地に対し、戦後民主主義を擁護するかの如くの言辞を弄しながら、角栄の「政治は力なり。力は数なり」を批判する芸当はヌエものでしかない。もっとも、そのままでは批判できないから、こういう手合いは、批判の前に小細工を弄する。言を捻じ曲げ批判し易いように改竄してから叩く。こういう連中が殊のほか著作権に煩い習性がある。れんだいこが告げておく。チョサクチョサク云う前に、性根を直せ。論の技こそ磨け。変則技ばかり覚えずに正々堂々と論には論で挑め。 角栄の金権問題で、一言しておく。角栄式金権が案外と清廉潔白的なものであったことが知られているだろうか。案外知られていない逸話を伝えておく。角栄は大臣になっても、各省に割り当てられていた交際費(大臣機密費)にビタ一文手をつけなかった。交際費(大臣機密費)とは、省庁ごとに予算金額は違うものの数千万円から億単位くらいまで予算化されており、各省庁の大臣、長官の自由裁量に任されている。官僚が新任大臣の評価の尺度の一つにこの大臣機密費のお手並み拝見があると云われているもので、歴代の大臣、長官の中には公私混同して顰蹙を買った者も少なくない。角栄は、「君達に任せるから、必要があったらこの中でやってくれ」と見向きもしていない(小林吉弥「田中角栄経済学」参照)。 こういう面での角栄の実像を知りたければ、以下のサイトを読むべし。 角栄論 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/) 田中角栄の思想と政治姿勢、資金源、人脈考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/sisosiseico.htm) 田中角栄と金権政治問題 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/sisosiseico/kinkenmondaico.htm) 2010.02.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評678 | れんだいこ | 2010/03/01 23:09 |
【党運動、議員活動の財源調達考
(企業・団体献金一律禁止是非考)】 企業・団体献金一律禁止論は本当に正解なのだろうか。れんだいこには解せないので執拗に問うことにする。既にカンテラ時評666「日共式企業、団体献金禁止論に疑義あり」、れんだいこのカンテラ時評667「日本政界における「ガラパゴス化現象」考」で持論を述べたが、その後の政界-マスコミの議論は相変わらずの「キレイ潔癖主義」観点からの企業・団体献金一律禁止論談議に耽っているように思われる。敢えてもう一度ぶって諸賢の判断を仰ぐことにする。同じ論調では意味がないので、少々切り口を変える。課題名を「党運動、議員活動の財源調達考 (企業・団体献金一律禁止是非考)」とする。 世に井戸塀政治家論というものがある。政治家の伝統的な在り方として、国事に奔走した挙句、私財を売り尽くし井戸と塀だけ残った云々という政治家評であろう。政治に賭ける情熱、政治家稼業の悲哀、それに対する揶揄を複合的に語っているように思われる。この対極に利権政治家論というものがある。政治を私物化し、己の私腹を肥やす為に政治家稼業を務める者に対する評であるように思われる。 こういう論は分かり易いが子供騙しの論でしかない。問題は次のことにある。実際には井戸塀政治家でもなく利権政治家でもない、その中間項的政治家ばかりが存在する。絵画の明度論で云えば、井戸塀政治家を白、利権政治家を黒とすれば、その間に無限のグレーゾーンがあるのに似ている。これをリアリズムに於いてどう認めるのか否定するのかが問われているのではなかろうか。 現代の政治家論は、この観点をすっぽり欠如させたまま企業・団体献金一律禁止論に靡いているように見受けられる。だがしかし、それは愚昧な論ではなかろうか。政治には財力も必要と見抜き、彼及びそのグループが何の為に資産形成を図っているのか、それは容認できる範囲なのか限度を超えているのか、それは族議員型か自己調達型か、彼らが何を廻って権力闘争を担っているのか、その為に財力をどう投入しているのか等々を問い、この視点から政治家を論ずる政治評が必要なのではなかろうか。 学者の議論というものは往々にして、こういう真剣の政治論、政治家評を避ける傾向が認められる。その代わりに公式的図式的漫画的な井戸塀政治家論、利権私腹政治家論を作り出し、そういう論議にうつつを抜かす習性がある。学者バカと云われるのはその為であろう。政治学者が政治家になり経済学者が経営者になっても、うまく行かないのは所詮、学者的頭脳でしかないからであろう。我々がそういう論を幾ら学んでも役に立たない。否学べば学ぶほど現実遊離し、その分バカになる。学者バカの論を受け売りすると我々も感染する。ネット空間に現れる論にはそういう論者のものが多い。 以上を踏まえて次のように弁じたい。現代政治家論の特徴として、政治家を品定めするのに彼が手がける政治の質を問うのではなく、つまり本業の善し悪し、出来栄えを問うではなく、その付随事象でしかない資産形成の面で一刀両断する傾向が強い。最近この傾向がとみに強まりつつある気がしてならない。今流行りの企業・団体献金一律禁止論は、この系譜のものであると考えられる。しかし、角を矯めて牛を殺すという論がある。企業・団体献金一律禁止論は、この愚を犯す恐れはないのだろうか。れんだいこは、企業・団体献金一律禁止論に与する輩を一流ではなく二流でもなく三流ないしはそれ以下と見立てている。日共は不治の病に侵されているから論外として、鳩山政権を支える諸党がこの悪夢から早く目覚めることを期待する。自らの首を絞めて正義ぶり恍惚することなかれ。 日共式の企業・団体献金一律禁止論によれば、政治家は私財を求めぬほど上質とされることになる。この基準は、政治家を評する際の一つの目安でしかないのに、この基準を金棒のように振り回し、有能政治家が真剣政治を執り行う過程での資金調達の非を論い、訴追運動に乗り出す。しかも、その刃がタカ派系に向かうことは稀で、ハト派系政治家の失脚に向けて精を出す。これでは良い政治家、有能政治家、運動体が育たないのは自明ではなかろうか。そう分別すべきではなかろうか。 それが証拠に日共議員を見よ。なるほど彼らは清貧の士かも知れない。その代わり彼は常に党中央のロボットでしかない。同じ党内でさえ、横の党員同志の政治議論は牽制されている。いわゆる分派禁止論によってである。そういう按配だから日共議員は皆ヒラメの目式にいつも上目遣いしている。公認権も含め、党中央に生殺与奪を握られているからこうなる。それは悪見本でしかなかろう。 ごく普通に考えれば分かりそうなものだが、政治活動には際限がない。その際限のない政治活動に伴うのは財務である。ここが自立してこそ、彼の政治は誰憚(はばか)ることなく思うところの信念に基づく政治に勤しめることになる。先の郵政造反騒動を見よ。この辺りがしっかりしている造反派だけが生き残った。落選組は陰に陽に彼に世話になった。角栄を見よ。彼ほど財界からの支援を嫌った幹事長-首相はいない。カネも出すが口も出す紐付き政治を嫌ったからである。その代わり彼は刎頚の友・小佐野辺りから用立てていた。しかしながら小佐野に格別大騒ぎせねばならぬほどの利権をもたらした形跡はない。小佐野の経営環境を側面から援助したことぐらいはあったであろう。これが実相である。こう考えれば、どちらを良しとすべきだろうか。れんだいこの結論は申すまでもない。 現在の議員収入は、給与、党からの支給費、派閥費、政党助成金、パーテイ収入、法人寄付金、個人寄付金から成る。これを有りのままに公開させればよいのではなかろうか。このうち、企業・団体からの寄付金を締めだすとすれば、政治活動は大きく制約されることになるのではなかろうか。議員収入が個人寄付金で成り立つのは理想かもしれない。しかし、理想は理想でしかない。第一今後、個人の懐はますます汲々することが予想されており、ない袖は振れないということになるのではなかろうか。この時勢下で、にも拘わらず個人献金に依拠せよなる論を説く者は愚昧と云うべきではなかろうか。 手っ取り早いのが企業・団体からの寄付金である。れんだいこは、それで良いのではないかと思っている。個人では出せなくても企業・団体からは出し易い。出す方も決算書に記載することが義務づけられており、監査報告もせねばならず、而して決してムヤミヤタラに出せるものでもない。肝心なことは、政治家の政治資金収支報告書に明記させることであろう。それを見れば、或る政治家の金筋が分かるのだから、却って正体が見えて良いのではなかろうか。 良くないのは隠すことである。隠さねばならないような賄賂型政治資金を受け取ることである。これが政治を悪くする。これが発覚すれば厳罰に処せられても止むを得ないとすべきではなかろうか。この論で云えば、政治資金不記載が一番悪い。次に故人政治資金記載が悪い。これは姑息な方法であり政治資金規正法の趣意違反であろう。次に悪いのが政治資金不正確記載であろう。これは修正申告で正確を期すべきてあろう。これが犯罪要件を廻る正しい罰則順序であろう。 れんだいこは、かく考えるのだが、「弁護士阪口徳雄の自由発言」の2010.2.27日付けブログ「企業・団体献金一律禁止に反対する抵抗勢力は亡霊学者や民主党の中にもいた(政治とカネ202)」は逆から批判している。「裏のカネであれば、刑法の賄賂罪や政治資金規正法違反で逮捕されるのに、表のカネであれば許されるなどいうゴマカシ論法をどう説明できるのか」と主張している。れんだいこ的には、この御仁の論は狂っているとしか云いようがない。そもそも彼の頭脳に於いて「裏のカネ」と「表の金」をどう仕切っているのか不明であるが、どちらも記載させれば良いだけの話ではなかろうか。記載しない「裏のカネ」こそ最も罪悪視して摘発することこそ本筋とすべきではなかろうか。記載してもなおイケナイとする論は却って「裏のカネ」を生むことになりはすまいか。従って、「基本的には個人献金が定着するまでは、国費で賄うというスタンスで解決すべきである」などは、妄言の類でしかない。国庫財源の乏しい中、碌な仕事もしない議員に更なる国庫支出を賄う必要は一切ない。 そもそも政治とは利害関係の異なる集団、階層、階級間の何らかの支配被支配的な合理的な取り決めを秩序とするものであり、これを体制と云う。この体制を廻る凄まじい闘争が政治の根幹であり要諦なのではなかろうか。そこには政治を担う者達の最高パフォーマンスが要求されている。このパフォーマンスには金力が不可避の要件である。俗に云う、カネがないのは首がないのと同じであり、これが欠如すると首が回らないと云う。これは個人でも組織でも同じである。金力を疎かに語る者の論を書生論ないしは駄弁と云う。 企業・団体献金一律禁止論は、この系譜にある論ではなかろうか。この論の背景には、れんだいこが鑑定するところ、江戸時代の士農工商的意識が介在しているように見える。彼らは、官尊民卑的立場からカネが纏わる商行為を蔑(さげす)み、断固取り締まるべし論に傾く傾向が見られる。その癖、手前たちの給料が天から降ってくるのを当たり前としており、どこから工面されるのか知ろうともしない。何のことはない、彼らが蔑む農工商から生み出される税金に依拠しているというのに、その税金支払いが如何に過酷な状態の中から徴収されているのか知ろうともしない。彼らには有り難うと云う観念が乏しい。 現代政治論には、この平明な理が疎かにされている。ということは即ち現代政治が相当に下等なものとなっており、何ら本当の意味での政治闘争をしていないことを意味する。キレイごとでお茶を濁し、上澄みを撫でるだけの政治に堕していることを意味する。してみれば、企業・団体献金一律禁止論は彼らにお似合いの論と云うべきかも知れぬ。付言しておけば、こういう論を唱える者が本当にキレイ潔癖であるのかは全く別問題で、却ってイカガワシイ手合いが多い。 このことは次の視点から見ればもっと説得的である。現代世界を牛耳る国際金融資本勢力は、或る意味で政治の何たるかを熟知している。政治は究極のところ人が担い、相当の資金を要することを踏まえている。だから彼らは政治資金をふんだんに使う。その癖、靡かない勢力の者たちにはカネの問題で失脚を図ろうとする。お銚子者がそのお先棒を担ぐ。彼らの狡知術に乗ってはならない。 これを敵味方論で云えば、敵がそのように物量作戦で政治に容喙している時、偽善者達の言によれば、こちらの方は素手の徒手空拳で勝負を挑まねばならないことになる。しかしながら、そういう論理論法は無茶苦茶と云うべきではなかろうか。相手は二本足、こちらは片足で相撲を取らさせられる愚に似ている。これでは勝負にならないではないか。そういう意味で、キレイ潔癖ごと政治論は敵方による意図的故意の説教理論、撹乱理論である可能性が強い。これを踏まえずにキレイ潔癖ごと政治論に同調する向きの者が多過ぎる。れんだいこは危険と理解する。 「田中良紹(たなか・よしつぐ)の国会探検」の2010.2.26日付けブログ「『政治とカネ』で沈む日本」は次のように述べている。「星亨や原敬の例に見られるように、この国は明治以来、力のある政治家を『金権政治家』として排除してきた歴史を持つが、戦後もそれが繰り返されている」、「『政治とカネ』の問題は民主主義政治にとってそれほどに重大な問題なのか。騒ぐのは民主主義が成熟していないことの証明である。しかも検察が摘発した『政治とカネ』はほとんどが『でっち上げ』なのである。それに振り回されて国益に関わる重要課題に目を瞑ってきた日本が沈み込んでいくのは当然の話である」。 こちらの論の方がよほど正確を射ているように思える。企業・団体献金一律禁止論を奇果として本当の政治論確立の絶好機会とすべきではなかろうか。こういう本音を問うところから政治が始まるべきではなかろうか。世の実相から離れた駄弁論議はつまらなさ過ぎよう。 2010.3.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評679 | れんだいこ | 2010/03/04 20:08 |
【「政治とカネ問題付録」】
2010.3.3日、れんだいこは期するところあって二時間ほど遠出の神社詣でをした。車中、国会討論を聞いていた。相変わらず「政治とカネ問題」で、自民党が鳩山と小沢叩きに興じていた。れんだいこ的にはもううんざりだ。隣の妙令の御婦人曰く、喧しいから音楽にしてと云うのを、もう少しもう少しと云いながら聞いていた。 そこで思った。この程度のやり取りをさせる為に、我々は高い税金払って政治家を養っているのだろうか。国会質疑では、政府の政策や方針を廻って喧々諤々の議論をさせるべきではなかろうか。肝心のこっちの方が疎かで、下世話な話ばかりに耽っている。或る時は興信所まがいのお尋ねあり、或る時はお代官的お白州裁きの感あり。まさに検察との両輪で狙った獲物は逃さずの感あり。当人は至って真面目に興奮しており、れんだいこは空いた口を押えるのに苦労する。云わして貰おう。いっそのこと議員なんか要らない。官僚と業界の労使双方の委員で会を構成し、議論を練り合わせした方がよほど合理的ではなかろうか。 我々は、議員経費に一体幾ら費やしているのだろう。秘書、地方議会議員まで含めると天文学的な金額になるのではなかろうか。それに選挙費用も嵩む。恐らく毎年数兆円になるだろう。或いは消費税以上かも知れぬ。いっそのこと、国債過重債務問題が見通しつくまで議員職を廃止凍結したらどうだろう。とか考えながら聞いていた。 しかし、これは現実的でない。実際的なのは、議員身分、選挙、政治資金に絡む諸問題の専門委員会を国会とは別に外郭の委員会を設けて、そこで四六時中議論させたらどうだろう。そこで全議員の政治資金収支報告書を吟味する。悪質なのは委員会が告発するようにする。狙いは、国会を基本的に政策質疑する場と位置づけたいからである。その昔、れんだいこが小、中、高、大の頃、自民党が云えばなるほど、社会党が云えばなるほど、民社党が、公明党が、共産党が云えばなるほどと云うような熱い政策議論が行われていた気がする。あれで良かったのではなかろうか。それを思えば、現在の質疑はお粗末過ぎよう。誰か、そう思わないだろうか。「政治とカネ問題」で、国会を空転させるほど冗費はないのではなかろうか。 もう一つ云い添えておく。「政治とカネ問題」は、突如天から降ってきたのではない。明らかに狙いがあって政治主義的に登場しているのではなかろうか。それは一つには小沢潰しであろう。かっての政権与党自公グループから見て、最も煙たい手ごわい相手が小沢であり、彼さえ居なくなりゃ後はどうでも御するとして鳴り物入りの小沢パッシングが始まったと思われる。せめて参院選までに引きずりおろしたいのだろう。あの手この手で仕掛けてきそうだ。今は第一ラウンドが終わったところだ。 「政治とカネ問題」登場にはもう一つ理由がありそうだ。それは、民主連合政権の党是的公約である官僚機構再編、天下り規制パッシングに対して、ならばとして繰り出されているのが「政治とカネ問題」による政治家パッシングではなかろうか。ということはつまり、「政治とカネ問題」は、官僚側の狡知的な抵抗策として政治家のアキレスけん狙いで持ちこまれている騒動なのではなかろうか。政治家対官僚は相互に、「官僚機構再編、天下り規制」と「政治とカネ問題」を綱引きしているのではなかろうか。こう捉えることでなるほどの合点が行く。この辺りを見ずに、「政治とカネ問題」で口角泡を飛ばす正義仮面が登場するとしたら、おめでたい奴と云うべきであろう。 もっと云えば、実は、「官僚機構再編、天下り規制」、「政治とカネ問題」を廻って、内治派の政治家-官僚-マスコミ-シンクタンク連合と、外治派のそれらが相争っている面もある。こちらが本筋なのだが、これについての言及は別の機会に譲ることにする。ともあれ、国会を充実させよ、政策を争う場にせよ。「政治とカネ問題質疑」は別委員会でやれと提案しておく。 2010.03.04日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評680 | れんだいこ | 2010/03/06 11:05 |
【福島社民党の「県外国外論」を嗤う】
2010.3.5日、鳩山政権は、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移転先を協議する沖縄基地問題検討委員会(委員長・平野官房長官)を8日に開き、移設先候補地の絞り込み方針を決めた。既に5月末までの期限で候補地を確定する旨約束しており待ったなしの局面を迎えつつある。鳩山政権がどのように対応するのかの興味はさておき、ここでは、この問題に対する社民党の政治能力を問いたい。 福島社民党は「県外国外論」を主張している。米軍キャンプ・シュワブ(同県名護市)陸上部への移設案(以下、「名護陸上案」と云う)が急浮上しつつある現在どう折り合いをつけるのだろうか。「名護陸上案」への移設が決まった場合、連立から去るのだろうか。それとも、正義の弁明をすることで役目を果たしたとするアリバイ闘争にしけ込む形で連立にとどまるのだろうか。こういうところに関心が向かうように思われる。 れんだいこには社民党の対応について解せないことがある。それは、社民党が移設問題に不必要にのめり込み過ぎていることである。社民党がなぜ、移転先にまで世話を焼き首を突っ込まなければならないのだろう。「県外国外論」は福島執行部の責任問題にまで発展するべきミステークであると見立てる。社民党内が違和感を唱えていない現状は能力の貧相を示している。党内の反福島系の動きが伝えられているが、これを右から批判しているのか左からしているのか定かではない。仮に「名護陸上案」又は自公政権時の「名護海上案」に同調せんとしているとしたら論外の動きと云えよう。こういう連中は社会党の運命同様に早くくたばってしまうが良い。 れんだいこは逆向きに批判しようとしている。れんだいこは、米軍基地の撤去一本槍を主張したい。特に沖縄要塞化の動きを批判したい。普天間基地の度重なる不祥事の責任を徹底追及するのがお仕事であり、どこそこへの移転なぞは米軍が考えれば良い、そういう問題に社民党が関わる必要は一切ない。社民党が説くべきは、現代世界の世界趨勢である反戦平和の観点からの軍拡競争、軍事紛争批判であり、国際協調と平和外交の称揚であるべきである。これを空理空論と云うのは云う方が空理空論であると切り返せばよい。 世界の歩みは戦争を次第に不要なものにしつつあるように思える。人類文明がそこまで熟しつつあるように見える。翻って考えて見れば、近代以降の国際紛争は人造的に作為されたものばかりである。そこには常に暗躍する国際金融資本とこれに合体する武器商人の跋扈があった。この勢力が今でも世界のあちこちに戦争を生起させんとして画策し続けている。人類の英知は次第にこのことを客観化させつつある。我々は、産業の発展、科学技術の進歩にも拘わらず、彼らによってそれを奇形化させられ恩恵を少なく受けさせられている。産業の発展、科学技術の進歩の果実を真っ当に享受せしめれば、飢餓、貧困、これらに基づく紛争は解決される。人類の生産力はそこまで来ている。 歴史はそのように歩んでいるように見受けられる。この流れを頑迷に阻止し、世界に緊張を走らせ、断続的に戦争を呼び水しているのは、一握りの国際金融資本とこれに合体する武器商人とこれに列なるエージェントグループ政財官学報司六者機関の協力によってである。彼らは戦争商売、戦争経済を繰り広げている広域好戦ネットワークを形成している。各国はその費用調達として国債、消費税を導入させられ、経済の歯車を大きく狂わせられている。加えて現在、自衛隊の米軍との合同演習が頻繁化しつつある。自衛隊が米軍傭兵の形で世界の紛争地域に投入されようとしている。青年の失業に伴い自衛隊員化の道が敷かれつつある。これは極めて危険な亡国化の動きである。社民党は今こそ反戦平和の立場から、こういうことを明らかにして警鐘乱打すべきである。これが為すべきお仕事であり、「県外国外論」を主張するなどはどうでも良いことである。 社民党は、戦後世界に於いて世界各地に展開された米軍基地の再編が米国経済の重しになっている現状を確認し、米国がとのように基地再編しようとしているのかを分析するのがお仕事である。その上で、米軍が沖縄を戦略上の重要拠点に位置づけ、更なる軍事強化せんとしつつあることが安全どころか危険であることを論証して行くのがお仕事である。沖縄の人民大衆の自治能力を高め、沖縄振興の立場から「米軍出て行け」の太鼓を叩き続けて行けば良い。これが本来のお仕事である。その後は米軍か判断するのであり、当然ながら費用も米軍負担であり、我が国が代替基地斡旋、移転費用負担する必要は一切ない。思いやり予算の上に更なる移転費用負担まで思いやるのはバカげていよう。 社民党は、沖縄の米軍普天間基地移設問題に対してかく原則的に対応するのが良い。というか、そういう社民党の役割が期待されている。その上で鳩山政権に下駄を預けるのが良い。引き続き鳩山政権を左から支えて行くと弁明すれば良い。細川政権時、社会党は政権与党の地位にありながら細川政権を支えるのではなく瓦解の方向を足を引っ張った。その挙句に首相と幾つかのポストを貰って嬉々として自民党と組むという離れ業で政権与党入りした。早速に自衛隊合憲論、日米安保体制是認論を打ち出し、消費税第一次値上げに呼応した。これにより人民大衆から愛想つかされ解党を余儀なくされた歴史を持つ。 こたびはその二の舞を演じることなく云い聞かせているらしく、福島社民党は鳩山政権を扶翼する立場を明確にしている。これはこれで良い。問題はどう連立するかである。社民党らしく扶翼するという立場を確立していなければ何の意味もない。社民党らしく扶翼するとは、社民党が鳩山政権の左バネとして機能することである。米軍普天間基地移設問題で云えば、社民党が社民党らしい反戦平和論を説き続けることで、鳩山政権の対米交渉切り札を増すことができる。かって自民党ハト派が政権を御していた時代、吉田も池田も佐藤も角栄も、国内の左バネ事情を外交カードに使った。まさに頭脳と頭脳の駆け引きが演じられた。ここに政治の醍醐味を嗅ぐのはれんだいこだけだろうか。社民党は、そういうカード的役割を自覚し責任を果たさねばならない。 ここまで説けば自明であろう。福島社民党の「県外国外論」が如何に無能な対応をしているかが分かろう。やれグアム案、国内の自衛隊基地諸案、離島諸案等々に勝手に代替地を構想しては失笑を買い続けている。れんだいこに云わせれば、慣れぬことをせぬが良かろうと云うことになる。それを奇異に思わないほど社民党の右傾化が進行したことを恥ずかしく思う。 社民党の非武装反戦平和政策はこのところ長らく空理空論と云われ続けているが逆で、社民党の非武装反戦平和政策こそ戦後世界の深部の流れを掴んでいる可能性がある。問題は、どう実現するのかの政治責任と能力である。従来のそれは、非武装反戦平和政策を孤立させた形で単独に主張していたところに限界があった。実践的には経済政策と結びつけねばならない。軍事費用を経済政策、社会政策に回すことを指針させ、公共事業振興、経営環境、労働環境の整備に結び付け、軍事費用を転用すればどれだけのことができるのかの青写真を呈示する必要がある。その上で責任政党として与党政治を狙うべきであった。そうすれば、戦後保守本流を形成していた自民党政権ハト派と連携する道筋が見えていた。それは、戦後型日本政治として世界から称賛を浴びるものになっていた可能性がある。 実際にやったことは逆のことばかりで、政治責任は政府自民党に任せ、その上で万年野党式ケチ付け批判による裏取引政治に没頭した。そもそも政権を担う気概も能力もなかった。これは戦後初期の頃からの体質であり、これにより多くの有能の士に愛想つかされ、彼らは政権与党を求めて自民党入りした。こういう経緯がある。福島社民党が、この辺りをどう見ているのか分からないが、深く肝に銘じるべきだろう。鳩山政権下での与党入りは是とすべきである。しかしながら云うべきことを云いつつ政権を支える能力を示して欲しいと思う。これができないのであれば福島社民党の賞味期限切れと云うべきだろう。 2010.03.06日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評681 | れんだいこ | 2010/03/07 12:45 |
【朝日新聞のロッキード事件続スクープ、三木首相のキッシンジャーとの秘密交渉】
2010.3.7日、朝日新聞(奥山俊宏)が、2.12日の「ロッキード事件『中曽根氏がもみ消し要請』 米に公文書」記事に続き同じくメガトン級の「三木元首相、ロッキード疑獄で米に密使 『自民出て総選挙』を示唆 米政府文書」記事を掲載した。 (ttp://www.asahi.com/national/update/0306/TKY201003060351_01.html) 「このほど秘密指定が解除された米政府の内部文書でわかった。日米関係の裏面史がまた一つ明らかになった」として、ロッキード事件に纏わる三木首相の怪しげな挙動史実を明らかにした。これを確認する。やはりこういう記事を掲載するのは朝日なんだな。読売、産経、毎日にはできない。格が違う。やっぱり朝日は購読せんといかんな。毎日が面白くなくなったから乗り換えよう。 2.24日、三木首相は、フォード米大統領宛にロッキード疑惑に関する全資料の提供を求める親書を送った。その2日後、米政府・国家安全保障会議のピーター・ロッドマン氏に、若泉敬(けい)・京都産業大学教授から電話があった。ロッドマン氏の報告文書によれば、若泉氏は「三木首相がキッシンジャー長官との秘密会談にあたらせるため、平沢氏を『個人的な秘密代理人』に指名した」と伝えた。平沢氏は外交官やNHK解説委員を歴任し、三木氏の外交ブレーンだった。若泉氏は沖縄返還交渉などで佐藤栄作首相の密使を務めた人物で、その後も米政府と連絡を保っていた。 3.5日、三木首相の密使として平沢氏がワシントンでキッシンジャー米国務長官と極秘会談した。国務省の記録によれば、米側は資料提供の条件として「秘密扱い」を求め、平沢氏の同意を得た。両者でフォード返書の文案を検討し、表現をいくつか削除した。 3.12日、返書が日本政府に届いた。両政府は、米国が資料を秘密扱いで日本の検察に渡すことで、同月23日に合意。捜査や訴訟にのみ使うのが条件で、「法執行の責任を有しない政府機関に開示されてはならない」と規定された。 4月上旬、資料が届く前、平沢氏はロッドマン氏に電話し、三木首相からキッシンジャー氏へのメッセージを伝えた。「元首相、現職閣僚、与党幹事長のだれかが事件に関与しているかどうか極秘・緊急に知りたい」という内容だった。この際、平沢氏は「米側の返答次第では、三木首相は無党派の改革案を掲げ、内閣からも党執行部からも離れて国民の信を問うという、前例のない選択肢を実行に移すだろう」と述べた。しかし、米側は4月10日、「日本政府と最近合意した手続きによらなければならない」として、要請を断った云々。 ざっと以上のような内容である。この情報が如何に大事なのか、それは、時の日本国首相が、国際金融資本の筆頭使用人であるキッシンジャーの顔色窺いながら二人三脚でロッキード事件を仕掛けて行った裏舞台があきらかにされたことにある。朝日の先の記事は中曽根の挙動不審を伝えた。こたびの記事によると三木然りとなり、何と時の首相と幹事長が揃ってキッシンジャー指揮下にあり逆指揮権発動したことが判明したことになる。 且つ更なる犯罪性は、同時期のロッキード事件―ダグラス・グラマン事件に於いて明らかに児玉―中曽根―ナベツネラインの犯罪を濃厚にしていたのに、これを免責させ、敢えて前首相の田中角栄の金権腐敗訴追へと捻じ曲げ誘導し、これに立花隆を筆頭とする御用評論家、マスコミ各紙各誌、日共、社会党、労組が大包囲網を形成し翼賛合唱したことにある。その凄まじさは、カラスが鳴かない日はあっても角栄糾弾の声がしない日はないと云われるほどの喧騒となったことで分かろう。 ロッキード事件から30年を経過し、こうして次から次へと真相が現れるようになった。誰か、角栄の冤罪の紐を解かんか。可哀そうでならぬ。れんだいこ史観によれば、角栄政治とは大国主政治であった。大和王朝前の倭国時代の日本列島に於いて善政を敷いていた部族連合国家たる出雲―三輪王朝時代の王朝楽土型政治の20世紀後半型復刻版であった。それ故に人民大衆が今も大国主同様に角栄を懐かしむ。その角栄を理不尽に葬った反角栄連合派の醜態をこそ咎めるべきであろう。誰か、こう共認せんか。 付言しておけば、角栄は戦後日本政治史上のハト派対タカ派抗争軸上のハト派の総帥であった。その角栄が捕縛はがい締めされるに及び日本が国際金融資本にはがい締めされ、今日の如く惨憺たる中国、韓国の後塵を拝する貧相国家となってしまった。戦後日本の社会主義的要素は民営化の名の下に次々毀損され、ハゲタカファンドの餌食にされてしまった。ハト派は内治を重視する。公共事業を重視するのはその為である。タカ派は外治に利用される。公共事業を抑制し、国際金融資本の命ずるままに国富を献上する。 今まではこう説いてきたが、これからは内資派と外資派に分類しようと思う。外治と云う用語は戦前には当てはまるが戦後には似合わないからである。戦後日本のタカ派には外資派の方がよりぴったりする。今や日本政治は、ハト派(内資派)対タカ派(外資派)が抗争している。新党だろうが旧党だろうが、これでふるいにかければ動きが良く分かろう。 2010.03.07日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評682 | れんだいこ | 2010/03/09 21:40 |
【小沢キード事件を逆手に取り、ロッキード事件の闇を追撃せよ】 歴史は摩訶不思議である。東京地検特捜部は、ロッキード事件の再来的な小沢キード事件を仕掛け、こたびは初めて一敗地にまみれた。第二弾を画策しつつあるようだが、そうは思い通りには参らぬ。れんだいこは、こたびの小沢キード事件を逆手に取り、ロッキード事件の闇を追撃せんと思う。こうすることにより、小沢キード事件の謀略性を露わにしたいと思う。人民大衆的に検察捜査の特徴を見破り、二度とこの手の国策捜査ができないようにしたいと思う。 具合が良いことに朝日新聞の連続スクープ「ロッキード事件『中曽根氏がもみ消し要請』米に公文書」、「三木元首相、ロッキード疑獄で米に密使 『自民出て総選挙』を示唆 米政府文書」が出てきた。これにより、ロッキード事件における時の首相、幹事長が名うてのプロ陰謀家キッシンジャーの掌のままに踊らされていたことが判明した。こうなったら、朝日が連続するか、どこの新聞社でも良いから次のスクープに向かわねばならない。これを伝えておく。但しちと手強い。 ロッキード事件の闇でまだ解明されていないことがある。たくさんあるが双璧のド級のものを挙げておく。一つは、嘱託尋問によるコーチャン証言に対する布施検事総長と高瀬東京地検検事正が連名で出した「不起訴宣明」、続く最高裁の「不起訴宣明書」の怪である。同書は、「右確約が将来にわたり我が国のいかなる検察官によっても順守され、本件各証人らがその証言及びその結果として入手されるあらゆる情報を理由として公訴を提起されることはないことを宣明する」と認めている。 これによれば、「仮にコーチャン証言の内容にウソ偽りがあっても、偽証罪の告発を受けない」という奇怪な保証付与となっている。日米間の司法取決めにより、証人が偽証した場合でも咎められることがないと云うのだ。こんな裏取引で角栄は嵌められたことになる。この「不起訴宣明」経過は、「アメリカと日本の司法官僚の出来レース」ぶりを物語っており、ロッキード事件の胡散臭さの動かぬ証拠となっている。 恐怖せねばならぬことは、これらのいずれもが法の番人の世界で起こった取り締まり側からの「上からの法の蹂躙」であるということである。この経過は、法の建前というものが、ここ一番になると如何に政治主義的にかなぐり捨てられるのかを語って余りあるであろう。ちなみに、角栄死去後の榎本らの上告審では、最高裁は嘱託尋問調書を証拠から排除している。それを思えば、極めて政治的な動きを見せたことが裏付けられる。 かくて、このような段取りを経てコーチャン証言が始まった。奇妙なことは、この時の尋問事項があらかじめ角栄との絡みにのみ設定されている節がある。更に奇妙なことは、コーチャンの答弁は「5億円は丸紅に渡されたが、その先が誰に渡されるのか、はっきりしなかった」と述べているにもかかわらず、コーチャンが角栄への贈賄を証言したとフレームアップさせられ、波紋を広げていくことになったことである。実にマスコミの言論大砲の威力は大きい。 この件につき2002.5.23日付けの日経新聞に興味深い記事が載った。それによると、「ロッキード事件で、コーチャン氏ら関係者三人の嘱託尋問調書を巡り、刑事免責を伴う『宣明書』を最高裁が出した際の裁判官会議録などについて、大部分を不開示としたのは権利の侵害として東京都内の団体職員の男性(41)が22日、国に慰謝料など130万円の支払いを求める訴えを東京地裁に起こした。訴状によると、男性は2001.5月、最高裁が1976.7月に開いた裁判官会議録や、宣明書に関し法務省、検察当局、米国の裁判所と折衝した記録など4件の文書開示を請求した。しかし、最高裁は同月、一部を除いて不開示を決定した」とある。この方は今頃元気にしているだろうか、気になる。 こうして、今に至るも、「最高裁の不起訴宣明書経緯」は明らかにされない。つまり、今日なおこの時の最高裁の奇妙な動きについて公表為し得ないと云う立場を取っていることが判明する。何故なのか。この時の最高裁、検察、法務省等司法当局は、未だ自己切開為し得ないほど変調な取引に応じたということであろう。この取引を支持する側で群がった者がその後順調に出世し、逆は登用の道を閉ざされた。これはマスコミ界も然りである。今日、ロッキード事件で角栄糾弾のペンを逞しゅうした者ばかりが出世し、逆の者は窓際に追いやられたり退職の道を敷かれた。 長くなったので以上でとどめる。というか連れが誘いに来たのでこれで止める。まだ大きなのがあるが次回とする。 2010.3.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評683 | れんだいこ | 2010/03/10 00:26 |
【小沢キード事件を逆手に取り、ロッキード事件の闇を追撃せよその2】 ロッキード事件の闇の超ド級のその2は、1976(昭和51).2.4日のロッキード事件勃発4ヶ月後の機の熟した頃の6.30日、三木首相が、プエルトルコで開かれた第2回目の主要先進国首脳会議に出席後ワシントンに向かい、フォード大統領と首脳会談している、その会談内容である。米国側はキッシンジャー国務長官、レビ司法長官、日本側からは宮沢外相が出席している。 この時の会議資料が30有余年を経た2010年現在でも非開示であり、国家機密扱いとなっている。公文書保管所のスタッフは今日においても、「その記録は国家安全保障上の理由で公表されない」としているとのことである。発表されているのは、ロッキード事件の処理が経済分野と並ぶ主要議題になっていたこと、三木首相がロッキード事件究明の協力を要請したと伝えられているだけである。 よって推測するしかない。れんだいこが推理するのに、1・ロッキード事件をP3C哨戒機などの軍用機の解明に向わせないこと。2・民間機購入のトライスター機購入疑惑解明に向かい、角栄逮捕まで漕ぎ着けること。3・児玉逮捕から突破口を開き児玉は始末すること。4・これにつき米国は日本政府の捜査に徹底的に協力支援することを約束する云々ということになる。 1997年に公開されたキッシンジャー・レポートは、この時三木首相が、キッシンジャーともフォード大統領とも「ロッキード事件についての全般的な意見交換」をしたことを伝えている。興味深いことは、田中首相に対する絶賛且つ警戒的評とは対照的に、三木首相に対しては「彼の政策はしばしば詳細に欠け、実質的な内容より広報宣伝的要因から生まれる場合が多い。三木が成功した分野は数少ない」と軽視酷評していることである。要するに、頭が良くないと云っていることになる。故に利用しやすいと云う裏意味であろう。これはユダヤ流リアリズムの為せる技であろう。 月刊ペン10月号は、「日米首脳極秘会談で決まった田中逮捕」との見出しで次のような記事を掲載している。「席上、三木首相が、更なる格段の協力、配慮を要請したのに対し、同席のレビ司法長官は特に協力的で、日本側最高裁のコーチャンら3証人の供述内容に対し免責を保証するならば、嘱託尋問とは別に司法省の手で特別に3証人の田中に関連する証言をとってもよいことを明らかにした。 これに対し三木首相は、帰国してから最高裁の同意を得ることを条件にレビ司法長官の提言を承認したので、レビ長官は直ちに司法省刑事局のクラーク特別検事に電話で連絡打ち合わせ、7.17日に同特別検事をロスアンゼルスに派遣して、その日のうちに証言を取ることを約し、更にスチーブンス連邦地裁判事も、その証言内容を日本政府に伝えることについての証人もとりつけた。 こうして7.23日(日本時間7.24日)、日本側の免責保証を確認して、証言内容を日本側に伝えてきたが、その時司法省によれば、その内容は田中逮捕の決め手になるものなので、これで三木政権は田中逮捕は決定的であることを強く意識した、と思われる印象を得たとしている」。 7.3日、三木首相は、サンフランシスコで同行記者団と懇談し、「ロッキード事件が解明されない限り今後の政治日程は立てられない」、「『三木下ろし』には断固戦っていく」と繰り返した。この頃から、「ロッキード事件の徹底究明に自分の政治的生命を賭ける」と強気に出始めた。 以上の経緯で、れんだいこが何を云いたいのか。それは、この時の首脳会談内容が、卑屈な三木、威猛々なキッシンジャーの構図で、日本側からすれば何ともさもしい親分子分的屈辱的なやり取りになっている可能性を疑うことにある。月刊ペン10月号は、この点での言及がからきしできていない。このようなものとしてロッキード事件が仕掛けられ、あろうことか主犯の中曽根が免責され、角栄が冤罪的に処断された。これが歴史の真相ではなかろうかと思うからである。歴史はこういう風に真相を隠し、どうでも良いような情報を開示するのが相場である。よって、表の資料からだけでは真相に迫れない。常に一定の推理力を媒介せねば真相が見えてこないと云う仕掛けにある。 こういう推理力を陰謀論で片付けて得意がる者は、能力欠損者と云うべきではなかろうか。幾らものものしい肩書をしていても、それはコケ脅しに過ぎない。否能力欠損者ほど肩書に拘る習性がある。東京大学だの名誉教授だの客員何がしだのにはこういう手合いが多い。と云うのは云い過ぎだろうか。 もとへ。こういう胡散臭い事例が多過ぎるロッキード事件を再検証し、角栄の無実を明らかにせねばならない。そろそろそういう時期に至っているのではなかろうか。翻って、同じようにはがい締めされようとしている小沢をエールせねばならない。悪い奴らは習性で死ぬまで同じようなことをする。新しい人材が必要とされる所以がここにある。新しい血で歴史を読み直さなければ、幾ら読んでも読むほどにバカになる。 こう捉えると、鳩山が自らのマミー政治資金問題を棚に上げ、小沢に説明責任を求めるなど片腹痛過ぎる。記載しなかった方が、記載しても故人献金であった方が、記載した方に説明責任を求めるなど、悪い酒でも飲んでいるのではなかろうか。自民党が小沢と鳩山に説明責任を求めて国会を空転させるなどもっと片腹痛い。手前らの不祥事なら掃いて捨てるほどあろうに。よくもおめおめとマジメ顔して正義ぶれることだわ。とか何とか言っておこう。 2010.3.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評684 | れんだいこ | 2010/03/14 18:02 |
【小沢キード事件を逆手に取り、ロッキード事件の闇を追撃せよその3、佐藤昭子追悼】 2010.3.11日、田中角栄の心友にして「越山会の女王」と評されていた佐藤昭子(さとう・あきこ)さんが都内の病院で心不全で逝去した(享年81歳)。告別式(喪主・長女敦子)は近親者で済ませた。長年にわたって田中角栄の政治団体「越山会」の会計責任者として金庫番を務め、金脈事件、ロッキード事件後も一貫して角栄を補佐し続け、政界の女鏡とも云える生き様を遺した。ここに、その佐藤昭女史を称賛し追悼する。 訃報(ふほう)に接して、次のような懐旧が伝えられている。小沢民主党幹事長は病院に駆けつけ、亡きがらを前に「ママ、長い間お世話になったね」と涙を流した。田中派の元参院議員山口淑子(90)は、「田中事務所に行くと、議員から『佐藤ママ』と呼ばれて慕われていた。気っぷが良く、久しぶりに声を聞きたいと思っていたのに本当に残念」と話した。かって越山会の青年部長を務めた自民党県連会長の星野伊佐夫県議(70)は、「会館に出向くと、いつも佐藤さんが手際よく仕事をこなしており、事務所の中心的人物で派閥を束ねる存在だった」と振り返った。田中元首相の地元秘書だった長岡市の丸山幸好さん(77)は、「後輩秘書にも優しかった。当時の先輩秘書が次々と亡くなり、寂しい」としみじみと語った云々。 以下、佐藤昭の角栄に纏わる伝説を確認しておく。 1946(昭和21).4月、佐藤昭は、終戦間もない戦後初の総選挙の際に、進歩党の大麻唯男氏にすすめられて立候補していた田中角栄と面識を得た。佐藤昭著「私の田中角栄日記」によると、生家の柏崎市の雑貨店で店番をしていた昭のところに、「今度立候補した田中です」と店内に入ってきたのが最初の出会いであった。鼻の下にちょび髭を生やし、どう見ても50歳くらいに見えたと云う。あとで27歳と聞いてビックリしたと云う。17歳の昭さんとは十歳違いだった。当時、昭には婚約者がいたが、その青年が角栄の応援弁士を引き受けたのが縁の始まりだった。この時、角栄は惜しくも次点落選している。 角栄は翌年4月の総選挙で初当選を果たした。昭は婚約者と結婚し、夫妻は角栄を頼って上京した。だが二人の結婚生活は長続きしなかった。夫の浮気と借金が原因だったという。離婚を聞きつけて「俺の秘書にならないか」と角栄が誘ったのが二人の政界行脚の始まりとなった。1952(昭和27).2月のことだった。佐藤昭はやがて越山会の会計責任者即ち金庫番となる。よほど有能にして信用され親しくもなったということであろう。 ロッキード事件での角栄の検事調書は次のように記している(佐藤昭子の「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」より)。 「越山会を始めとする私の政治団体を含め砂防会館、関係事務所の事務を取り仕切っているのが佐藤昭君です。彼女は私と同郷の柏崎の生まれで、昭和21年、私が始めて衆議院選挙に立候補した際に、その事務を手伝ってくれ、昭和36年から越山会の事務を引き受け、今日に至っております。彼女は関西財政経済研究会の会計責任者となっておりますが、事実上は砂防会館や関係事務所の総括責任者と申しても過言ではありません。彼女は法律的にも制度的にも責任があるというわけではありませんが、勤務経歴が古く、生き字引のような存在なので、自然右のような立場となっておるものです」。 1961(昭和36).7.18日、角栄は政調会長に就任した。「私の田中角栄日記」は次のように記している。「当選回数を重ねれば、誰でもいずれ大臣のイスに座れる。しかし、党三役になると話は別だ。(略)たとえ田中が大臣を1回か2回やるだけで終わる平凡な政治家であったとしても、秘書を辞めないであろう。けれど、この人は絶対に大物政治家になる。私がどこまでも一緒に走り続けなければいけないという気持ちに変わったのは、政調会長になってからだ」。「田中の頭の中は、すでに王道を歩むという気持ちが戦略的にあった。国対委員長をやらないかという話は、これまで何回も来ていて、なろうと思えばいつでもできた。しかし、田中は『党7役にはならない』といって、ずっと断り続けた。(略)政治団体を作ったのも田中の長期戦略の一つだった」。 佐藤昭は角栄の天下取りに一蓮托生し、角栄を裏から扶翼し続けた。秘書軍団と共に田中派を陰で支え束ね役を引き受けた。当時、田中派の中堅だった小沢一郎らは「ママ」と呼び慕っていた。 角栄と佐藤昭を廻る別れ話譚が次のように伝えられている。 「『日本列島改造論』を書き上げることに尽力した麓邦明と早坂茂三秘書は、その後『オヤジ、小佐野さんと佐藤昭さんを、この際切ってください』と談判している。小佐野は政商として、佐藤は金庫番として、これまで田中と奥深くまで繋がっていたが、首相となった時点で田中政権のアキレス腱になることを憂えたからであった。田中は涙を流しながら次のように語った。『もう俺についてこれないということだな。お前達の言うことは良く分かる。しかしな、この俺が長年の友人であり自分を助けてくれた人間を、これからの自分に都合が悪いというだけの理由で切ることができると思うか。自分に非情さがないのはわかっている。だが、それは俺の問題だ。自分で責任を持つ。責めは自分で負う』。早坂は了承し、麓は去った」。 この言につき、れんだいこは思う。惚れ惚れさせられる角栄の侠気ではなかろうか。角栄と小佐野、角栄と佐藤昭との余人を持って代え難い信頼関係のほどが透けて見えてこよう。感嘆すべきは、これに応える佐藤昭のロッキード事件で角栄が満身創痍になろうとも終生変わらず支え称賛し続けた侠気であろう。 その後の角栄は天下盗り階段を順調に登り詰め、1971年、ポスト佐藤の自民党総裁の座を福田、大平、三木と争い、これに勝利し首相に就任した。田中政権の履歴は別途考察するのでここでは略す。 「私の田中角栄日記」は次のように記している。「あの、総裁戦で勝利した時の田中の堂々たる姿。あんないい顔はなかった。そして稚気あふれた人間田中角栄の顔。ホールインワンをした時の子供のような笑顔。親しい人が来ると1日4ラウンドもした自分のゴルフスコアをメモにして見せる得意そうな顔。秘書相手に将棋をやっている時、相手の駒を取ってニコニコしている顔。そのすべてを、私は好きだった」。 この佐藤昭が世に知られるようになったのはルポライター児玉氏による。当時、児玉は女性週刊誌の編集長代理だったが、佐藤昭に執拗な取材を続け、文芸春秋1974.11月号に立花の「田中角栄研究~その金脈と人脈」と並んで「淋しき越山会の女王」を発表し角栄を撃った。政治家の下半身は記事にしないと云うのがそれまでの政治記者の不文律だったが、それが政治生命を左右するまでになった嚆矢がこの児玉の記事となった趣がある。1979(昭和54)年、佐藤は、「それに対してのささやかなレジスタンスのつもり」で佐藤昭から昭子へ改名している。 佐藤は、「私の田中角栄日記』(新潮45 1994.11月号)で、次のように記した日記を公開している。「昭和49年10月10日(木)晴 『田中角栄研究~その金脈と人脈』を掲載した『文芸春秋』11月号が発売。ゲラの段階で記事を読み、怒りがこみあげる。田中は総理という公人だ。金脈だか人脈だかを追及されても仕方ない面もある。ところが、大変なおまけがついている。『淋しき越山会の女王』という記事。なぜ私のことまで書かれなければならないのか。個人のプライバシ-も何もない。児玉隆也なるライタ-、会ったことも聞いたこともない。ただ田中を蹴落とすために私を引き合いに出すとは、マスコミの卑怯さに腹がたつ。ただ娘がかわいそう」。 その後の角栄は金脈問題に揺れ、政権を辞任、蟄居を余儀なくされた。但し、その能力を惜しむもの多く、政界に隠然とした力を保持し続けていた。そこへ、1976.2月、ロッキード事件がお見舞いされた。以降、角栄は、ロッキード事件公判にはがい締めされ、佐藤昭の献身的な精神的支えが続いた。 「私の田中角栄日記」は、角栄のロッキード事件観を次のように記している。「この裁判には日本国総理大臣の尊厳がかかっている。冤罪を晴らせなかったら俺は死んでも死にきれない。誰が何と云ってもいい。百年戦争になっても俺は闘う」。 佐藤昭のもう一つの著作「田中角栄ー私が最後に伝えないこと」は、角栄のロッキード裁判観を次のように記している。「田中は終生疑惑を否定した。『一銭も貰っていない』と。長期裁判も覚悟の上、元総理の名誉に於いて『5億円授受否認』を争ったのである。田中は誇りの高い党人政治家であり、外国のエージェントからカネを貰うことなど絶対に有り得なく、田中の言葉にこそ真実がある、と私は考えている」。 これらによると、角栄は、ロッキード事件に於ける5億円収賄は冤罪であると明瞭に語り、故に徹底的に闘うとしていたことになる。今日に於いても諸説あるところであるが、れんだいこは、本人のこの観点に立って解析することが真相に迫る道筋であると思っている。冤罪的刑事事件の場合に被疑者の側から見ることが常に正しいという保証はないが、ロッキード事件の場合には被疑者角栄の側から見るほうが正しく見えると思っている。 1985.2月、角栄が脳梗塞で倒れた。その後、角栄の跡目を相続した娘の田中真紀子は角栄政治の清算に向かい、田中派事務所を閉鎖した。佐藤昭は秘書の早坂茂三と共に解雇された。その後、政治団体「政経調査会」を主宰し、角栄派チルドレンの相談相手として隠然とした影響力を保持し続けた。 1994年、「決定版 私の田中角栄日記」(新潮社)を著す。 2005年、雑誌「経済界」に「田中角栄。今、在りせば」と題して連載している。9.27日号は、時の小泉政権の政治を次のように批判している。 「今回の小泉さんのやり方には本当に疑問を感じる。民主主義とはプロセスであり手法である。この原則は、一法案の成否などよりはるかに優先、尊重されるべきものだ。わが国は代議制民主主義をとっている。国民が直接に小泉首相を選んだのではない。国民が選んだ国会議員が小泉首相を選んだのである。独りよがりの解散は国民を愚弄するものだ」、「田中角栄の秘書として三十三年間ともに歩んできた私からすると、小泉さんはかつての「角福戦争」の延長上に存在しているとしか思えない。あの総裁選挙で福田赳夫さんが敗れ、田中が総理大臣になって以来、小泉さんは田中憎し一筋だったのではないか。総理になると、旧田中派潰しと、自身が所属する森派(旧福田派)の勢力拡大に懸命になってきた。(中略)憲政の常道から外れ、覇道を歩む小泉さんには、草葉の陰で福田さんも泣いているのではないだろうか」。 2005.12月、「田中角栄ー私が最後に伝えたいこと」(経済界)を著す。 第1章 田中政治の本質(民主主義を重視する政治、庶民に重きをおく政治 ほか) 第2章 田中角榮の政策(内政外交) 第3章 田中角榮と政治家群像(先輩政治家、同僚政治家ほか) 第4章 田中角榮の生き様(初選挙は落選、演説の名人ほか) 第5章 田中角榮とロッキード事件(事件はこうして起こった なぜ田中は「逮捕」されたのか ほか) 佐藤昭が逝き、生の角栄を語れる者が次第に少なくなる。れんだいこ的には、関係者はもっと精力的に語っておくべきではなかろうか。現下の貧困な政治を思うにつき、角栄を語ることが滋養強壮になるのではなかろうか。 2010.3.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評685 | れんだいこ | 2010/03/16 20:17 |
【鳩山政権六ヵ月考】 2010.3.16日、鳩山政権は発足後六か月を経過した。当初の期待感が薄れ、次第に失望が広がりつつある。マスコミは、支持率低下の要因に「政治とカネの問題」を挙げ、「小沢降ろし」のネタにし続けている。れんだいこは違うと考えている。鳩山政権は確かに人心離れを起こしつつあるが、その理由は、政権交代論の中で打ち上げた数々の公約に対する裏切りが原因だと考えている。試しに、これをネットゴングして見れば良い。どちらに軍配が上がるだろうか。 民主党内の「親小沢対反小沢、非小沢の対立」を論(あげつら)うのは良い。確かにこの問題が存在する。しかれども、反小沢にシフトして小沢パッシングを煽るマスコミ論調は凡庸の極みだと考えている。反小沢グループの筆頭は前原国交相であるが、この御仁を持ちあげ、返す刀で小沢をパッシングし続けるのは為にするもので、外資派の策略プロパガンダだと思っている。 この連中は今、憲法改正、消費税第二次値上げ、自衛隊の海外派兵、米軍基地に対する更なる思いやり予算の計上、国家枢要事業の民営化、民族資本系優良企業の乗っ取り、地検特捜部の暗躍、著作権漬け等々を策し続けている。国際金融資本帝国主義の仰せのままに御用聞きすることで、権力の甘い蜜を吸い続けている。「この連中の政治とカネの問題」が問われることはない。問われるのはいつも内資派のそれである。 鳩山政権は、この問題に対する全く無能な対応に終始している。国民の失望は、これと共に生まれており、鳩山政権支持率低下の真の要因となっている。その意味で、鳩山政権の真価が問われようとしている。鳩山首相は、政権内の「親小沢対反小沢、非小沢の対立」をどう御すのだろうか。ここが見どころとなっていると考える。 鳩山首相は、昨年11月、オバマ米大統領との首脳会談で「プリーズ・トラスト・ミー(私を信頼してほしい)」と発している。その真意を廻って様々な憶測が生まれている。直接的には、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題に関しての「プリーズ・トラスト・ミー」であるが、オバマ政権との蜜月的な「プリーズ・トラスト・ミー」であるように思える。この鳩山首相に、日本国民に向けて「プリーズ・トラスト・ミー」と言わさねば政権交代の意味はない。鳩山首相は、いつになったら我々に「プリーズ・トラスト・ミー」と胸を張ってくれるのだろうか。 鳩山政治は優柔不断の八方美人タイプと云うより得体の知れないヌエ的なところがある。愚昧な評論家は、鳩山に小沢を切るよう具申して悦に浸っているが、云うべきは逆であろう。れんだいこは、鳩山に前原切りを具申したい。ところが、系譜的に見て鳩山は前原に近い。その鳩山が前原を切る訳がなかろう。となると、鳩山が、前原の外資派政策をどこまでいつまで野放しにするのかというところに興味が移ることになる。その度合いに応じて鳩山政権は人心から離れ、小沢側にシフトする度合いに応じて期待値を増すことになるだろう。 早い話が、れんだいこは既に何度も発信しているが、高速道路の無料化マニュフェストの骨抜きを許してはならない。前原政策に従うと、元々経済振興策として打ち出された高速道路の無料化が最も経済効果が薄い形で施行されることになる。こういう風に捻じ曲げられ施行されると、他のマニュフェストに対する期待然りで大いなる失望を与え、政権交代の値打ちそのものを取り返しのつかない形で毀損してしまうであろう。 万人一律の育児手当が施行されそうな動きを見せている。これもオカシイ。大盤振る舞いの結果は、消費税第二次値上げの呼び水になるだろう。れんだいこは早くより、奨学資金制に準じた申請制にせよと提案している。何事も無償給付ほど高くつくものはない。必要な者に国家が貸付け、ある時払いの催促なしにすれば良い。厳として貸し付けにすべきだと思う。こうすれば予算も現行予算より大幅に節約できるだろう。 こういうことは普通に考えられることである。それなのに敢えて混乱を持ち込む鳩山政権の真意を疑惑せねばなるまい。れんだいこには、この国を破綻させるシナリオに基づく迎合政策としか映らない。これらの総決算としてまもなく米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題が期限を迎える。鳩山首相は、国家財政逼迫の折柄、米軍基地移転費用を賄う余裕はないとする立場から米軍再編を見守る政策を打ち出せるだろうか。既定方針の名護市海上案ないしは内陸案に決めて数兆円もの出費をするとしたら、そういう内閣は即刻打倒せねばならないだろう。 社民党もオカシイ。なんで反戦平和の社民党が基地移転のあちこち世話取りまでせねばならんのか。全く狂っているとしか言いようがない。恐らく何でも反対はダメ、対案を示せ要請の結果の動きと思われる。それはその通りであるが世の中には例外もある。対案を示さなくても良い場合がある。そういう場合に対案に奔走し、対案を示さねばならない時に万年野党式反対の裏取引専門に耽るのを本末転倒ずっこけと云う。 こういう関心をもって今しばらく見守ることにする。 2010.03.16日 れんだいこ拝 |
Re:社民党の再生の道を訪ねて | れんだいこ | 2010/03/20 21:36 |
虫の息さんちわぁ。社民もダメ、共産党もダメ、新左翼もダメで燻り続けているのが現状です。れんだいこは後残り少なの寿命を思い、ぼやくだけではダメだと思い、たすけあい党を世に問うております。目下結社員が少なくほぼ5名かな。これがれんだいこの対案です。よく規約を読み、綱領に得心して入党してください。多少考えが違っても良いのです、我が党の場合には。異論、異端、分派常駐型の入党脱党自由の組織にしております。御布施さえいただければ良いのですふふふ。 入党者の入党費、年会費は未だ貰っておりませんが、どこかでケジメをつけたいと思っております。但し、ウェブ上のことでも、実際にそのようにするとややこしい法律に苛まれる気がしておりためらっております。現代は何をやるにして煩わしくされております。著作権も然りでせう。もつと厳しくなりそうです。みんなで推し進めるものだから、次第に首が締まります。 > 貧馬保大衆はすなおに、貧馬保大衆の利益と安全のため、「基地はいらない。」と言えばよい。 > 日米安保と米軍基地を前提にした基地移転の斡旋は、安保体制を容認したといわれてもしかたあるまいね。 > そういう意味で社民党はまったく狂っております。本来であれば、新安保条約50周年と銘打って、戦後の日米関係を総点検し、国民的議論を捲き起こすべきであります。したがって、政策である以上、対案は必要です。行き当たりばったりの応急処置のように、あっち向いてホイ、こっち向いてホイは、社民党の政策です。 社民党であれば、対案は日米安保反対!米軍基地撤去!これしかありまっせん。 ここの件ですが、社会党の反戦平和思想は掛け声運動ではなく実体化させることで値打ちがあったと思っております。軍事と原子力こそ最大の利権構造にあり、天文学的な金額を詐取され続けていると考えております。東京地検は、この方面を聖域として踏み込めず、公共事業と政治資金利権を突いております。しかしそれは御身大事の立身出世絡みの摘発であり、本質的には売国奴的働きだと考えております。こういう連中に限りよく正義を口にする癖があります。 鳩山政権は、自民党的軍事の代わりに原子力発電にのめりこもうとしております。しかしそれは現代を牛耳る国際金融資本の要請であり危険極まりないと考えております。鳩山政権はもう少し様子見しても良いのですが、得体が分からぬところがあり危ないですね。これを潰しても後も同じ、否民主党内外資派が出てくるようではもっと悪くなるということで辛うじて持っている気がしております。それにしても政策がのらりくらりし過ぎており賞味期限がいつ頃だろうか、そんなことを考え始めております。 2010.03.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評686 | れんだいこ | 2010/03/20 21:45 |
【竹取物語かぐや姫譚解説その1】
ここに、れんだいこ意訳文の竹取物語かぐや姫譚を世に送ることにする。その意は、あまねく知られている割には全文を読んだことがない者が多過ぎる故にである。れんだいこもその一人であった。最近の或る時、漠然とながらなぜだか急に読みたくなった。その意味する顛末は以下の通り。 竹取物語の作者は不詳である。よほどの文の名人と思われる。いつ頃作品化されたのかも定かではない。但し、紫式部が源氏物語(絵合せの帖)の中で竹取物語に触れ、「物語の出で来はじめの祖(おや)」と述べているとのことである。してみれば、紫式部の時代に既に読まれていたということになる。原形として万葉集に「竹取翁の物語」があるとのことである。してみれば、相当古くよりの物語り伝承であり、次第に形を整えてきたということになる。 竹取物語かぐや姫譚を評するのに、世の研究者の常として、外国からの輸入品として位置づけ、外国説話との関連を問う癖がある。しかし、れんだいこは違うと思う。関連づけるのは良いとしても、それはそれとして窺うべきであり、基本的には国産オリジナル的なものを嗅ぎとる方が為すべき研究態度ではなかろうかと思っている。似た説話は似た説話どまりであり、一事万事同時並行的に発生することも又よくあることではないかと思っている。 竹取物語かぐや姫譚はいつ頃書かれたものなのだろうか。登場人物から推定するに、7世紀後半の壬申の乱から天武―持統朝の藤原京時代に政治風刺的に作品化されていたように思われる。その後何度か書き換えられているようにも思われる。誰が何故に書き著したのかは分からない。分かるのは、相当な文筆の達者の手になる作品であると云うことである。 この時代には今日と違って著作権などと云うものはない。世の良いことの共通として、現代人のように作品が真似られた、取った取られたなどと自己顕示売りしない。作品が広まり伝わることのみに関心を持ち、人口に膾炙し、より練られることをのみ本望と思っている風が感ぜられる。確かイエスもそういう風なことを云っていた。中山みきも云っている。世の聖人のスタンスは、こういうところが共通している。これを思えば、この善良な伝統に棹差し、万事金権化せんと悪巧みの風潮には逆に棹差し返さねばなるまい。これを推進する例の狂人石工組合の流れの者とは闘うしかあるまい。 もとへ。竹取物語の原文は漢文と思われる。作者がかくも自由闊達に漢文をこなしていたことに感心させられる。恐らく、これを書いたのが漢人と云うのではなく、日本語古語によほど習熟している者が、それを下地にして漢文を咀嚼吸収し、かくなる名文をものしたと窺うべきではなかろうか。その出来栄えは驚くべき技と云う他ない。これを思えば、外国語吸収には、その前提として母国語の習熟が必要であり、日本語は太古の昔よりそれに耐える秀逸な言語足り得ていると思う。 幕末維新期の志士、書生が、現代人の我々よりも欧米語の吸収を能く為し得たのは、母国語の習熟を下地にして外国語である漢文を先行してこなしていたからであり、この能力を欧米語に振り向けたからではないかと思われる。それほど国語を重視する必要があると思う。これを思えば、昨今の英米語の早期学習は、それ自体は悪くないにしても母国語の軽視とセットして行われるべきものではなかろう。母国語の軽視に向かわせるのは、例の狂人石工組合の差し金であろう。 もとへ。竹取物語かぐや姫譚は、そういう名漢文を原典にしてことにより、現代人の我々が、これをそのままに読むのは困難である。そういう訳で、原文たる漢文を日本語古語で和訳した古文の竹取物語を読むことになる。但し、それでさえ、現代人の我々が読むのは困難である。 その困難さには別の理由がある。困ったことに日本語古文は、漢文の竹取物語ほどには情景を生き生きと描写していない。竹取物語のあらましの筋を伝えているが、漢文に読みとれる生き生きとした情意の部分が殺がれている。よって値打ちを損ねており、これが読む人を遠ざけている原因の一つとなっているように思われる。良くできてはいるが漢文には見劣りするという意味である。 更に困ったことがある。実は古文はまだ良い。現代文竹取物語となるともっと酷いものに化けてしまっている。多くの訳者が居るように思われるが、れんだいこの評するところ、伝えるのはあら筋ばかりで、情意の部分は全く殺がれている。よって、読んでも面白さが伝わらない。これが竹取物語を堕作にしてしまっており、特段に読まねばならないほどのものではないものにしているように思われる。実に、竹取物語の面白さは、原文の漢文物語から古文物語、古文物語から現代文物語へと転じるほどに愚作になっている。 このことを知ったので、れんだいこが現代文で竹取物語の粋を再確認することにした。但し、一字一句忠実に訳せないことと、仮に訳してもあまり意味がないと思うことにより、現代感覚に合うように多少意訳した。そのでき栄えは、読まれた方の評に託すしかない。れんだいこ文は今後更に手直しされ、推敲される。永遠の未完になると思う。そういうものであるから著作権には馴染まない。どなたでも良い、自由に活用して下されば良い。 なぜ竹取物語を読むべきなのか。それは、日本人つまり日本文化が過去に於いて生みだした古典文学の傑作品の一つであり、そのやり取りを知ることが現代人の薄っぺらにされた脳を鍛え直してくれると思うからである。こういう優秀作品を知らぬまま死んでいく現代人が多い。これはとても残念なことであると思う。そういうことに気づいたので、れんだいこが、みんなが読み易く、且つ原文に忠実且つ原文通りに面白い竹取物語を創作した。これを天下に公開しておくことにする。 付言すれば、この思いは、「共産主義者の宣言」の時もそうだった。れんだいこは若かりし頃、既存の市井本を幾ら読んでも物足りなかった。重要な個所でピンとこなかった。そういうものを読んで、読んだ気になって来られた共産主義者に脱帽するしかない。れんだいこは、そういう連中に比して頭が良くないので、得心行くよう原文から読み直した。もっとも本当の原文であるドイツ語訳に当たるのは今後の課題として、とりあえず英訳を下敷きとして、その転訳としての日本語訳に取りかかった。マルクス在世中に英訳が出ており、書いた本人が目を通しているはずだから、英訳にはさほど問題がなかろうと思っている。 その英文訳と既存の日本文訳を比べると、明らかに日本文訳の方が見劣りする。意図的故意の改悪訳の箇所が多過ぎる。それを疑問もなしに読み終えることのできた安上がりの共産主義者に脱帽してしまう。それではれんだいこの性が得心できないので、れんだいこ訳を作った。さほど注目されていないが、れんだいこ訳の方がよほど原文に忠実で、原文の意味がより良く通じていることを自負している。これを復読三省するよう期待したい。 もとへ。竹取物語も同じである。「共産主義者の宣言」は政治もの、竹取物語は文学作品と云う違いはあるが、文量が適当で本来読みやすいにも拘わらず悪訳により価値が殺がれている点で同じである。どちらも読むべき読まれるべき語り継がれるべき名作であるのに、ないがしろにされていると云う点でも共通している。 竹取物語の要旨は次の通りである。竹藪で拾われたかぐや姫がその後すくすく成長し、世に並ぶもののない美人の誉れを噂されるようになる。このかぐや姫に求婚するものが殺到し、最後に五名の貴人が残る。この者たちに結婚の条件としてお題が与えられ、それぞれが悪戦苦闘する。この活劇描写が格段に面白い。最後に帝が登場し、恋愛劇の総まとめに向かう。しかし、帝さえ思うようにならないまま八月十五日の満月の夜に天より迎えの者が来て、かぐや姫も去って行く。この道中での、翁のかぐや姫、五人衆、帝とのやり取りも面白い。全体が政治風刺のパロディーにもなっており、その意味するところは未だ分からない面もあるがとにかく比類なき面白い。 れんだいこ文は、これを現代文で当初の漢文レベルの面白さで再現しようと試みている。繰り返すが、原文に忠実に訳すより、その意味するところを汲みとり意訳した。もし面白くないとしたら、れんだいこの一人豪語ということになる。それでも良いと思っている。これをきっかけに誰かが注目し、別訳のもっと面白いものを生み出してくれれば本望であるからである。その間を惜しみなく貰い、惜しみなく与えようと思う。 2010.3.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評687 | れんだいこ | 2010/03/20 21:48 |
【竹取物語かぐや姫譚解説その2】
なぜ竹取物語を読むべきなのか。それは、日本人つまり日本文化が過去に於いて生みだした古典文学の傑作品の一つであり、そのやり取りを知ることが現代人の薄っぺらにされた脳を鍛え直してくれると思うからである。こういう優秀作品を知らぬまま死んでいく現代人が多い。これはとても残念なことであると思う。そういうことに気づいたので、れんだいこが、みんなが読み易く、且つ原文にできるだけ忠実且つ原文通りに面白い竹取物語を創作した。これを天下に公開しておくことにする。 付言すれば、この思いは、「共産主義者の宣言」を訳する時もそうだった。れんだいこは若かりし頃、既存の市井本を幾ら読んでも物足りなかった。重要な個所でピンとこなかった。そういうものを読んで、読んだ気になって来られた往時の共産主義者に脱帽するしかない。れんだいこは、そういう連中に比して頭が良くないので、或る時、得心行くよう原文から読み直した。もっとも本当の原文であるドイツ語訳に当たるのは今後の課題として、とりあえず英訳を下敷きとして、その転訳としての日本語訳に取りかかった。マルクス在世中に英訳が出ており、書いた本人が目を通しているはずだから、英訳にはさほど問題がなかろうと思っている。 その英文訳と既存の日本文訳を比べると、明らかに日本文訳の方が見劣りする。意図的故意の改悪訳の箇所が多過ぎる。それを疑問もなしに読み終えることのできた安上がりの共産主義者に脱帽してしまう。それではれんだいこの性が得心できないので、れんだいこ訳を作った。さほど注目されていないが、れんだいこ訳の方がよほど原文に忠実で、原文の意味がより良く通じていることを自負している。これを復読三省するよう期待したい。いつか、既成訳とれんだいこ訳を参照させてみたいと思っているが、本業ではないのでそのままにしている。どなたかやってくれればよい。サイトは次の通りである。 共産主義者の宣言考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/gensyokenkyuco/kyosansyugisyasengenco/ kyosansyugisyasengenco.htm) もとへ。竹取物語も同じである。「共産主義者の宣言」は政治もの、竹取物語は文学作品と云う違いはあるが、文量が適当で本来読み易いにも拘わらず悪訳により価値が殺がれている点で同じである。どちらも読むべき読まれるべき語り継がれるべき名作であるのに、次第にないがしろにされつつあると云う点でも共通している。 竹取物語の要旨は次の通りである。竹藪で拾われたかぐや姫がその後すくすく成長し、世に並ぶもののない美人の誉れを噂されるようになる。このかぐや姫に求婚する者が殺到し、最後に五名の貴人が残る。この者たちに結婚の条件としてお題が与えられ、それぞれが悪戦苦闘する。この活劇描写が格段に面白い。最後に帝が登場し恋愛劇の総まとめに向かう。しかし、帝さえ思うようにならないまま八月十五日の満月の夜に天の都より迎えの者が来て、かぐや姫も去って行く。この道中での、翁、かぐや姫、五人衆、帝との相互のやり取りが絶妙に面白い。全体が政治風刺のパロディーにもなっており、その意味するところは未だ分からない面もあるが、その言い回しが比類なく面白い。 れんだいこ文は、その面白さを現代文で書き直し、当初の漢文レベルの面白さで再現しようと試みている。繰り返すが、原文に忠実に訳すより、その意味するところを汲みとり意訳した。もし面白くないとしたら、れんだいこの一人豪語ということになる。それでも良いと思っている。これをきっかけに誰かが注目し、別訳のもっと面白いものを生み出してくれれば本望であるからである。その間を惜しみなく貰い、惜しみなく与えようと思う。川端康成氏の訳本があるとのことなので、これを今取り寄せている。読んで更に推敲しようと思っている。 竹取物語考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.3.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評686 | れんだいこ | 2010/03/20 22:36 |
【竹取物語かぐや姫譚解説】
ここに、れんだいこ意訳文の竹取物語かぐや姫譚を世に送ることにする。その意は、あまねく知られている割には全文を読んだことがない者が多過ぎる故にである。れんだいこもその一人であった。最近の或る時、漠然とながらなぜだか急に読みたくなった。その意味する顛末は以下の通り。 竹取物語の作者は不詳である。よほどの文の名人と思われる。いつ頃作品化されたのかも定かではない。但し、紫式部が源氏物語(絵合せの帖)の中で竹取物語に触れ、「物語の出で来はじめの祖(おや)」と述べているとのことである。してみれば、紫式部の時代に既に読まれていたということになる。原形として万葉集に「竹取翁の物語」があるとのことである。してみれば、相当古くよりの物語り伝承であり、次第に形を整えてきたということになる。 竹取物語かぐや姫譚を評するのに、世の研究者の常として、外国からの輸入品として位置づけ、外国説話との関連を問う癖がある。しかし、れんだいこは違うと思う。関連づけるのは良いとしても、それはそれとして窺うべきであり、基本的には国産オリジナル的なものを嗅ぎとる方が為すべき研究態度ではなかろうかと思っている。似た説話は似た説話どまりであり、一事万事同時並行的に発生することも又よくあることではないかと思っている。 竹取物語かぐや姫譚はいつ頃書かれたものなのだろうか。登場人物から推定するに、7世紀後半の壬申の乱から天武―持統朝の藤原京時代に政治風刺的に作品化されていたように思われる。その後何度か書き換えられているようにも思われる。誰が何故に書き著したのかは分からない。分かるのは、相当な文筆の達者の手になる作品であると云うことである。 この時代には今日と違って著作権などと云うものはない。世の良いことの共通として、現代人のように作品が真似られた、取った取られたなどと自己顕示売りしない。作品が広まり伝わることのみに関心を持ち、人口に膾炙し、より練られることをのみ本望と思っている風が感ぜられる。確かイエスもそういう風なことを云っていた。中山みきも云っている。世の聖人のスタンスは、こういうところが共通している。これを思えば、この善良な伝統に棹差し、万事金権化せんと悪巧みの風潮には逆に棹差し返さねばなるまい。これを推進する例の狂人石工組合の流れの者とは闘うしかあるまい。 もとへ。竹取物語の原文は漢文と思われる。作者がかくも自由闊達に漢文をこなしていたことに感心させられる。恐らく、これを書いたのが漢人と云うのではなく、日本語古語によほど習熟している者が、それを下地にして漢文を咀嚼吸収し、かくなる名文をものしたと窺うべきではなかろうか。その出来栄えは驚くべき技と云う他ない。これを思えば、外国語吸収には、その前提として母国語の習熟が必要であり、日本語は太古の昔よりそれに耐える秀逸な言語足り得ていると思う。 幕末維新期の志士、書生が、現代人の我々よりも欧米語の吸収を能く為し得たのは、母国語の習熟を下地にして外国語である漢文を先行してこなしていたからであり、この能力を欧米語に振り向けたからではないかと思われる。それほど国語を重視する必要があると思う。これを思えば、昨今の英米語の早期学習は、それ自体は悪くないにしても母国語の軽視とセットして行われるべきものではなかろう。母国語の軽視に向かわせるのは、例の狂人石工組合の差し金であろう。 もとへ。竹取物語かぐや姫譚は、そういう名漢文を原典にしていることにより、現代人の我々が、これをそのままに読むのは困難である。そういう訳で、原文たる漢文を日本語古語で和訳した古文の竹取物語を読むことになる。但し、それでさえ、現代人の我々が読むのは困難である。 その困難さには別の理由がある。困ったことに日本語古文は、漢文の竹取物語ほどには情景を生き生きと描写していない。竹取物語のあらましの筋を伝えているが、漢文に読みとれる生き生きとした情意の部分が殺がれている。よって値打ちを損ねており、これが読む人を遠ざけている原因の一つとなっているように思われる。良くできてはいるが漢文には見劣りするという意味である。 更に困ったことがある。実は古文はまだ良い。現代文竹取物語となるともっと酷いものに化けてしまっている。多くの訳者が居るように思われるが、れんだいこの評するところ、伝えるのはあら筋ばかりで、情意の部分は全く殺がれている。よって、読んでも面白さが伝わらない。これが竹取物語を堕作にしてしまっており、特段に読まねばならないほどのものではないものにしているように思われる。実に、竹取物語の面白さは、原文の漢文物語から古文物語、古文物語から現代文物語へと転じるほどに愚作になっている。 このことを知ったので、れんだいこが現代文で竹取物語の粋を再確認することにした。但し、一字一句忠実に訳せないことと、仮に訳してもあまり意味がないと思うことにより、現代感覚に合うように多少意訳した。そのでき栄えは、読まれた方の評に託すしかない。れんだいこ文は今後更に手直しされ、推敲される。永遠の未完になると思う。そういうものであるから著作権には馴染まない。どなたでも良い、自由に活用して下されば良い。 なぜ竹取物語を読むべきなのか。それは、日本人つまり日本文化が過去に於いて生みだした古典文学の傑作品の一つであり、そのやり取りを知ることが現代人の薄っぺらにされた脳を鍛え直してくれると思うからである。こういう優秀作品を知らぬまま死んでいく現代人が多い。これはとても残念なことであると思う。そういうことに気づいたので、れんだいこが、みんなが読み易く、且つ原文に忠実且つ原文通りに面白い竹取物語を創作した。これを天下に公開しておくことにする。 付言すれば、この思いは、「共産主義者の宣言」の時もそうだった。れんだいこは若かりし頃、既存の市井本を幾ら読んでも物足りなかった。重要な個所でピンとこなかった。そういうものを読んで、読んだ気になって来られた共産主義者に脱帽するしかない。れんだいこは、そういう連中に比して頭が良くないので、得心行くよう原文から読み直した。もっとも本当の原文であるドイツ語訳に当たるのは今後の課題として、とりあえず英訳を下敷きとして、その転訳としての日本語訳に取りかかった。マルクス在世中に英訳が出ており、書いた本人が目を通しているはずだから、英訳にはさほど問題がなかろうと思っている。 その英文訳と既存の日本文訳を比べると、明らかに日本文訳の方が見劣りする。意図的故意の改悪訳の箇所が多過ぎる。それを疑問もなしに読み終えることのできた安上がりの共産主義者に脱帽してしまう。それではれんだいこの性が得心できないので、れんだいこ訳を作った。さほど注目されていないが、れんだいこ訳の方がよほど原文に忠実で、原文の意味がより良く通じていることを自負している。これを復読三省するよう期待したい。いつか、既成訳とれんだいこ訳を参照させてみたいと思っているが、本業ではないのでそのままにしている。どなたかやってくれればよい。サイトは次の通りである。 共産主義者の宣言考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/gensyokenkyuco/kyosansyugisyasengenco/ kyosansyugisyasengenco.htm) もとへ。竹取物語も同じである。「共産主義者の宣言」は政治もの、竹取物語は文学作品と云う違いはあるが、文量が適当で本来読みやすいにも拘わらず悪訳により価値が殺がれている点で同じである。どちらも読むべき読まれるべき語り継がれるべき名作であるのに、ないがしろにされていると云う点でも共通している。 竹取物語の要旨は次の通りである。竹藪で拾われたかぐや姫がその後すくすく成長し、世に並ぶもののない美人の誉れを噂されるようになる。このかぐや姫に求婚するものが殺到し、最後に五名の貴人が残る。この者たちに結婚の条件としてお題が与えられ、それぞれが悪戦苦闘する。この活劇描写が格段に面白い。最後に帝が登場し、恋愛劇の総まとめに向かう。しかし、帝さえ思うようにならないまま八月十五日の満月の夜に天より迎えの者が来て、かぐや姫も去って行く。この道中での、翁のかぐや姫、五人衆、帝とのやり取りも面白い。全体が政治風刺のパロディーにもなっており、その意味するところは未だ分からない面もあるがとにかく比類なき面白い。 れんだいこ文は、これを現代文で当初の漢文レベルの面白さで再現しようと試みている。繰り返すが、原文に忠実に訳すより、その意味するところを汲みとり意訳した。もし面白くないとしたら、れんだいこの一人豪語ということになる。それでも良いと思っている。これをきっかけに誰かが注目し、別訳のもっと面白いものを生み出してくれれば本望であるからである。その間を惜しみなく貰い、惜しみなく与えようと思う。川端康成氏の訳本があるとのことなので、これを今取り寄せている。読んで更に推敲しようと思っている。 竹取物語考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.3.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評687 | れんだいこ | 2010/03/23 21:48 |
【鳩山政権第一峠考】 2010.3月現在の政局は、小沢パッシングが一段落してつかの間の凪(なぎ)の状態に入っているように思われる。しかしながら今後は分からない。直近で沖縄の普天間基地の移設問題が待ち受けており、鳩山政権がこれを凌げるのかどうか分からない。峠に差し掛かったのは確かだろう。 鳩山政権は発足後六ヶ月に入っても何らの施策らしい施策がない。れんだいこが期待していた高速有料道路の無料化は無惨な形で幕引きされようとしている。その主犯の前原こそが鳩山政権支持率悪化の要因だろうに、マスコミは前原を面白可笑しく持ちあげ、小沢パッシングに興じている。ウェブ上に我々のマスコミを立ち上げるしかなかろう。 鳩山首相は、この動きにのらりくらりで、自身がマミー献金貰っておきながら企業.団体からの政治献金禁止を唱えて来たと云うカラクリがバレてしまったというのに、相変わらず平然と小沢幹事長に政治資金問題での説明責任を求め、北教祖問題では小林千代美衆院議員の議員辞職を示唆している。このチグハグぶりが鳩山政権支持率低下の要因ともなっている。我々大衆は、鳩山が考えているほど頭が悪くない。 これを責める側の自公が又面白いほどに情けない。小泉政権下で我が世の春を謳歌した連中が束になって旧社会党式挙げ足取り批判にのめり込み、そのたびに顰蹙を買っている。政策論議すれば、ズブズブの国際金融資本配下のシオニスタンぶりを恥ずかしげもなく晒している。やれ憲法改正、やれ日米共同型と云う名の傭兵式軍事防衛、やれ原子力行政推進、やれ消費税を始めとする増税、やれ国債すりまくり、やれ民営化、やれ外資の優良企業乗っ取り推進、やれ公共事業削減、やれ地方切り捨て等々を繰り返している。そのシナリオは先の選挙で粉微塵にされたというのに分かろうとせず、昔の杵柄を振り続けている。 自民党は既に賞味期限が終わっている。既に党内はシオニスタンばかりでありお国奉公型の政治家はいない。残っているのは権力の蜜の味被ればかりでしかない。こういう利権徒党は野党になっても党中央権力の側から離れられない。口では党中央批判しても飛び出る勇気がない。与謝野、舛添、中川その他大勢のシオニスタンはこういう手合いである。かって角栄チルドレンは過半が脱党した。中曽根-小泉チルドレンにはそれができない。そういう差がある。自民党は病膏肓に入っている。小泉が本当に自民党を壊したことになる。 それやこれやで鳩山政権がダメ、自民党がダメで、与野党共に内向きの重箱の隅のつつき合いをしている感がある。目下の状況は総じて現代政治の手詰まり感を感じさせる。これを背景にして新党の立ち上げが促進されつつあるが、れんだいこが見るところ、どれもこれもの動きが時代の閉塞を捉えきれていない。よって何ほどのことも起こるまい。期待するのが野暮と云うものだろう。 本当の問題は、日本がこのまま低迷、迷走し続け、米国の一州にされるどころか中国の一省にされるところか韓国に併合される日が来るかもという驚くべき失速を見せつつある中での小平和の危険性にある。この閉塞をどう捉え、如何に打開するかにある。この捉え方の度合いに応じて政党の浮沈が始まるのではなかろうか。これを歴史観と云う。 民主党は、鳩山代表及び政権下で今なお生命力を有しているように思える。なぜなら小沢を筆頭とする内資派が居るから。彼らこそ次の時代の政治を担う能力を保持しているように見える。但し、党内外資派が国際金融資本の差し金通り自公の外資派と連携し、執拗に小沢幹事長パッシングを弄し続けているので予断は許されない。現在、自公共-マスコミ連合で潰しにかかったができないと見るや、民主党内のゴタゴタ増幅に躍起になっている。どうなることやら。 鳩山―小沢党中央は今のところは、この現象を政治の常としてこなしている。が、突然プッツンする懼れなしとはしない。よしんば国内レベルでは反対勢力を封殺し得ても、ロキード事件の如く外国からの不退転の指令が下された場合、二の舞の恐れはないだろうか。何しろ東京地検特捜部を尖兵とした検察司法にマスコミ、右から左までの各党全部、労組までが加わり万力攻めを開始する。先の小沢キード事件はその予行演習であった感がある。 予想されるこの事態にあって、日本人民大衆はどう対応すべきだろうか。世間では今、坂本竜馬ブームで、薩長同盟が持て囃されている。それは悪いことではない。但し、薩長同盟の意味をどう理解するかが重要で、単なる犬猿の仲を取り持ったレベルで評するのは表層的過ぎよう。 れんだいこが思う薩長同盟の意義は、幕末維新の回天軸橋頭保として闘う主体の核を形成したことは無論として、その後の舵取りにこそ意義がある。薩長同盟は、その他の雄藩を吸引しつつ、徳川幕府からの和戦両様の政権交代を目指し、外国勢力の内戦誘導策略を見抜くや半ば内戦半ば無血開城的に日本的和合に転じ、そういう回天運動を遂行したことにある。象徴的には勝と竜馬と西郷が気脈通じて局面を打開した。外国勢力の内戦誘導策略を見抜いて、その手に乗らなかったところがミソである。坂本竜馬の傑出性は、外国勢力の懐に飛び込み且つ抜け出し、次の時代への維新の青写真を呈示したところにある。故に竜馬は暗殺された。竜馬暗殺の真犯人は未だ謎であるが、当時のシオニスタン達の手によって遂行されたと見るべきではなかろうか。そのことはともかく、薩長同盟の意義とは、かくハイレベルの眼力による回天運動ぶりにあったと受け止めるべきであろう。これが薩長同盟の実践的意義であり、この視座を外しては戯言(ざれごと)に変じてしまおう。 薩長同盟の実践的意義はかく確認できるが、ならば理論的意義をどう把握すべきだろうか。思うのに、攘夷運動として始まった幕末志士活動は次第に文明開化路線へと転じて行った。それは日本の近代化の始まりであり、時代の流れであり押しとどめることはできなかった。問題は、その際の文明開化の受容の仕方にあった。れんだいこの眼には、和魂洋才のそれと西欧被れ洋才のそれが重なり合っており、両者が混然としたまま明治維新へと駆け込んで行き、次第に西欧被れ洋才派が台頭して行った様が映ずる。この連中によって近代天皇制が徹底的に悪利用されたように思われる。日清、義和団、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵、シナ事変、大東亜戦争はこの連中に誘導されたのではなかろうか。 ここで立ち止まって考えてみよう。幕末維新から百五十年を経た今確認すべきは、西欧被れ洋才の非、和魂洋才の称揚ではなかろうか。和魂洋才の志士達が最後の闘いを挑み敗れたのが西南の役だったのではなかろうか。以来、当時のインテリたちはこぞって西欧被れ洋才の道をひた走って行くことになったのではなかろうか。しかし、この道はやはり間違いだった。西欧被れが単なる西欧被れではなく、その西欧を牛耳り始めていた国際金融資本被れであったに過ぎないことを知れるようになった今日に於いては。こう確認しないオメデタイ自称インテリばかりが知の巨人だのと互いに褒めそやしばかりしているのだけれども。 れんだいこは、今日の政治の閉塞の背景に、このように問わない理論的な面での貧困が横たわっているとみなしている。現在、オメデタイ自称インテリたちは、やれ財政健全化論対上げ潮論だの、やれ小さな政府対大きな政府論だの、やれ官僚対政治家論等々の議論に耽っているが、明治維新以来の軌道修正に向かわない政策提言はウソウソしいと思っている。そういう議論ではどうにも解決しない危機が目の前に待ち受けているとみなしている。しかるに、矮小な議論にばかりうつつを抜かし、当面の選挙で何事かを期待させ、一喜一憂、悲喜こもごもさせているだけのように思える。それは一種の政治詐欺運動ではないかと思っている。 今我々が為すべきは、時代閉塞をこじ開ける新ビジョンであり、その為の青写真の作成ではなかろうか。それは、政権取っても一向に実現しないような選挙用マニュフェストではなく、仮に実現させても直ぐに財政破綻するような裏付けのない給付金バラマキではなく、今後の日本をしっかり支える仕組みの構築ではなかろうか。これをやるのが革命であり、わが国では古来より回転運動と云う。 ならば、何処に教本があるのか。これが肝心だ。この肝心のところを示したいが、世に智者は多いので、れんだいこがしゃしゃり出て述べるには及ぶまい。もし気になるなら、我がたすけあい党のホームページを詣でて、政策提言集を参考にすれば良かろう。トータルな問題は偏(ひとえ)に、新国際化時代の新文明開化の仕方にこそある。ゆめ国際金融資本的金権序列化運動に騙されることなく、次の時代を見据えた即応の仕方にこそある。どの国も、まずは自国の政治に主体的な責任を負い、つまり在地土着型の政治を執り行い、その上で賢明なる国際的バランスに則った国際友好親善外交の道を切り開かねばならない。国家を個別に国債と増税、軍事と原子力に依存させるのは国際金融資本の籠絡常套手段である。この道に誘われてはならない。 国際金融資本におんぶに抱っこ論ほど興ざめの話はない。今日、国会討論で川口元何とか大臣が、このおんぶに抱っこ論を自慢げに説いていた。このおばさんの頭脳は変わらない。そう信じたいから信じたい根っからのシオニスタンには漬ける薬がない。鳩山を夢想家として批判していたが己のシオニスタンぶりには気づかない。これでは議論にはならない。こういうシオニスタンを早く一掃して新しい皮と人材で在地土着的な日本型政治を復権せねばならない。それにしても鳩山民主党はヌル過ぎようぞ。 その為に何をなすべきか為さざるべきかが問われている。問題がかくに突き付けられているのだが、実際にやっていることは逆で、為すべきことを為さずして、為してはならないことを為そうとする政治ばかりしている。近いところでは小泉政治がこれを蛮行した。あれは狂人レイプ政治だった。小泉-竹中政治が酷い政治だったと云うことが今後ますますはっきりしてくるだろう。その余波で国民新党だの日本新党だの大地党だのみんなの党が生まれた。これが歴史の摩訶不思議なところであろう。何事もやり過ぎはこういうことになる。今、新たな党が次々とスタンバイしつつあるが、逆さ政治同士の五十歩百歩の差でしかないように思えている。 今、鳩山政治は新たな峠を迎えつつある。この船がどう進むのか難破するのか、今しばらく面白そうである。しかし次第に経済苦境が深刻化しつつある。悠然と構えている訳にはいかないのだが仕方ない。今暫く時代と対峙していようと思う。 2010.03.23日 れんだいこ拝 |
Re:人間マルクスに興味あります | れんだいこ | 2010/03/24 16:15 |
NICOさんちわぁ。マルクスの人間性(人柄、ひととなり)に言及している著作というのは、面と向かって尋ねられると分かりませんねぇ。れんだいこは、「マルクス、エンゲルスの履歴と協働と著作集
エンゲルスの履歴
」で若干の履歴を確認しております。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/marxismco/marxism_genriron_rireki.htm) 「マルクスの悪」、「マルクスの超素顔」、EHカーの「カール・マルクス」、エドマンド・ウィルソン「フィンランド駅へ」のどれも読んでおりません。前二書は読んだことがあるかも知れません。マルクス、エンゲルスにつき、もう少し詳しいサイトにしてみようかなと思い立ちました。但しいつから着手できるか分かりません。良いのがあればむしろ教えてください。参考にしながら、れんだいこ言葉で書き換えて見たいと思います。この程度の返事ですみません。今後ともどんどん投稿頼むよ。 2010.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評688 | れんだいこ | 2010/03/24 16:53 |
【川口順子元外務大臣にもの申す】 2010.3.23日の川口順子元外務大臣の参院国会質疑は露骨なシオニスタンぶりを示していた。ほんの少ししか聞いていないのだが、れんだいこはお化けが出てきたのかと魂消て聞いた。新聞各社がどう報道するのか興味があり目を通してみたが殆ど黙殺されている。こうなると逆に掘り出したくなるのが、れんだいこの性分である。どなたか遣り取りをサイトアップしてくだされば良い。ムービーはどうでも良い。音声が聞き取れないので活字の方が良い。れんだいこのコメント入りで記念物として晒しておきたいと思う。 それにしても、小泉政権下の閣僚たちが総出で鳩山政権パッシングに乗り出していることが分かる。決して上手く行かないのに他に方法がないのだろう。マスコミはペンの責任がないらしく、小泉を名宰相と称えたその手で鳩山政権こきおろしに精勤し続けている。その彼らも、昨日の川口発言の余りな国際金融資本被れ発言を採り上げにくかったのだろう。そう考えると可笑しい。 隣の韓国では政権が変わるたびに旧政権の不祥事が暴露され、元大統領と雖も獄舎入りさせられる。どちらが良いのかは分からないが日本の場合には、川口の如き旧政権時代のイデオロギーをのうのうとしゃべられ幸せがある。そのお陰で、昨日の発言のようなことが罷り通る。 それにしても川口元外相は顔は日本人、心はシオニスタンぶりを満天下に晒した。もう言い訳できない。これを、自ら蒔いた種と云う。こういう手合いが小泉政権五年有余にわたって政界に住みついていたことを客観化せねばなるまい。こらっ竹中聞いとるか。飯島も。お前らの悪事はまもなく晒される。川口、君は本国のアメリカかイスラエルへ行った方が良い。蟄居してもう出てくるな。 それにしても、小沢と鳩山に関しては根ほり葉ほり追求する癖のあるマスコミが川口に対しては云いたい放題にさせるマスコミ諸君。ならばもう一回、小泉名宰相論を聞かせてくれや。どこがどんなに素晴らしかったのか、とくと耳を傾けて見るから。当時の記事でも何でも良い集合して聞かせてくれや。お前らの極楽トンボぶりを楽しみたいから。こらっ田原よ、虎の尾に繋がって威勢良くぶっている小泉万歳論を聞かせてくれや。こらっ立花、お前でも良いぞ。 2010.03.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評689 | れんだいこ | 2010/03/24 21:03 |
【言論買収考】
現代マスコミの変調さが誰の目にも明らかになりつつある。それは、日共の変調さの暴露と歩調を合わせているように見える。これは、古い型の支配の構図が綻(ほころ)び始めたことを意味する。 先に日共の変調さについて述べておくと、前門真市会議員の戸田氏が「驚愕!共産党は8年前に三井氏の検察裏金追及要請を『我が党になじまない』と拒否していた!どんな弱みが?」で、日共と検察の異様な提携ぶりを暴いている。 (ttp://www.asyura2.com/10/senkyo82/msg/874.html) それによると、検察の裏金問題を追及し、マスコミ暴露の直前に2002年に逮捕され、以来獄中の身となり、先だって満期出所した元大阪地検検事の三井氏が、逮捕直前に日共の志位委員長に仲介者を通じて国会での追及をお願いしたところ、「そういう問題は我が党になじまない」という不可解な言葉で追及拒否をされたことを明らかにしている。田中角栄-小沢一郎-鈴木宗男パッシングには率先太郎で正義ぶる日共が、検察告発となると途端に腰を引くという貴重な実態を暴露している。れんだいこに云わせれば、変でも何でもなく正体をあらわしただけなのだが、大方の向きは眉をひそめるだろう。 戸田氏は控えめに次のように述べている。「共産党は検察によほどの弱みを握られてしまっているから検察とは金輪際闘えない組織に、かなり以前から腐敗転落してしまっている、という事だったのだ」、「ビラまき弾圧や冤罪事件など個々の事件ではそれなりに検察批判を行ない、取り調べ可視化も主張する共産党だが、検察に取って致命的となる批判追及は行わない、検察の組織存続に関わる批判追及は行わない、そういう『一線を画し』ながら『正義の旗』を振り回すのが共産党の実相である事を、今回改めて知らされた。共産党の中枢はここまで酷くなってしまっていたのか。口の中が苦くなってしまった」。 れんだいこが補足しておくと、共産党は、1955年の歴史的戦後政界再編期に、戦後直後の運動を指導した徳球-伊藤律体制から反動極右の宮顕-野坂体制に移行して以来、共産党とは名ばかりの実は日本左派運動撲滅党に変質した。この当時、社会党も左右合同し、保守派も大同団結して自民党を創出している。背後に大きな力が動いていることが透けて見えて来よう。共産党がそのように変質して以来、変調運動が始まり、急進的学生運動家間では日共と呼び捨てる風潮が始まった。至極もっともなことであろう。こたび三井氏の自身の体験からの日共告発は、日共疑惑の決定的証拠の一つを加えたことになり意義が高い。 さて、本題に入る。そういう変調共産党問題と並行してマスコミの変調にも触れねばならない。れんだいこは、いろんな証拠を見つけては告発しているが、ふと思いついた。あれやこれやの現象批判ではなくズバリと言い当てる観点を獲得した。これをこれから述べる。 要するに日本ジャーナリズムも、現代世界を牛耳る国際金融資本により高額給与で言論買収されているということであろう。全てのキ―はここにあるように思われる。新聞社、雑誌社、テレビラジオの各社の社員は、その仕事のお粗末さにも拘わらず、高額給与で操られていることにより嬉々として自ら言論買収されているということではないか。こう読まないと変調報道が解せない。よって、これらの連中に対して幾ら批判しようとも通じない。何せ、自身が考課査定する能力の数倍以上の収入を得ているのだから、我々の批判を貧乏人のヒガミとしか受け取らない。 この利権構造を徹底解析し対処しない限り、日本に健全なジャーナリズムは生まれない。それはそうだろう、れんだいこだって年収2千万も3千万も貰ったら多少なりとも舌鋒が鈍ると云うものだ。こういう風に金権買収されているのが現代マスコミであろう。我々が幾ら叩いても通じない訳だ、馬耳東風で聞き流し精勤する次第ということになる。 マスコミ言論支配のそういう政策が本当にあるのかどうか、ここが議論されねばならないが、れんだいこはあると見立てる。多くの自称インテリが偽書として退けるところの「シオン長老の議定書」には次のように記されている。詳しくは「言論機関、マスコミに関する記述一覧」に記したが、その中でも次の下りがズバリであろう。ここでは要点だけ確認しておく。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/neozionismco/zionnogiteisyoco /theemabetuco/theemabetuco10.htm) 「近代国家は、大衆の世論を創り出す強力な力をその手に持っている。すなわち、新聞がそれである。我々が練り上げた大規模な計画は今や成功を収めんとする域にあるが、我々はこの計画に従って更にゴイムの政府を誘導せねばならぬ。何によってかといえば、いわゆる『言論大砲』と称する手段を使う。これによりひそかに我々が吹き込んだ世論というものを作り出し政府を砲撃する。『言論大砲』とは新聞である。新聞は、ごくわずか例外はあるが、すでに完全に我らの手中にある。 (中略)一片の記事といえども我々の検閲抜きには公表されることはない。現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められそこから各新聞社、諸官庁に配信されるようになっている。現在ある程度まではそうなっているが、通信社は追って完全に我々の傘下に入り、我々が許可したものだけが供給され一般に公表されるようになるだろう。 (中略)以上の意味で、我らが新聞軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織しなければならない。中央新聞局という名称のもとに、我々は文筆者の会合を設け、そこに我々の覆面の代理人を送り込み、指令と当日の標語を示す。問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、見せ掛けの政府政策批判や反対論を唱えさせ、決して核心に迫らせない。 (中略)我々は、ある時は真実、ある時は虚偽を振りまき、ある時は事実に即して立論し、ある時はの反論を掲げたりする。それは大衆にどんな印象を与えようとするのかによって異なり、その為に常に我々が足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べねばならない」。 手短に記したが、「シオン長老の議定書」を偽書呼ばわりして足りるのではなく、ここに記された内容そのものを吟味するのが態度となるべきではなかろうか。れんだいこにはピタリと当てはまっているように思える。その原因が、要するに高額給与で釣る言論買収に他ならないと云うことだ。これが彼らのマスコミ対策の要点となっている。ということは逆に、現下のマスコミに登場する司会者、コメンテーターは金で釣られた売文屋に他ならないということだ。つまり言論売春しているということになる。これが記事のおもしろくなさ、物足りなさのズバリ原因ではなかろうか。ハタと膝を叩いて気づくことがありはしないか。 2010.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評690 | れんだいこ | 2010/03/27 20:27 |
【竹取物語序文 れんだいこのショートメッセージ】 ここにれんだいこ現代文による竹取物語かぐや姫譚をサイトアップしておくことにする。一々採り上げないがネット検索で多くのサイトから学び、どれも気に食わなかったので、れんだいこ訳を拵えた。しかしながら前作があればこそなので謝しておく。れんだいこ訳も又当然にそのように待遇されるべきだろう。 れんだいこが竹取物語を公開するのは、既に簡単に述べたが、現代世界を牛耳るネオシオニズムの意図的故意の愚民化政策により、目下の我々日本人の脳が急速にピーマン化されつつあるとする危惧による。これに対抗せんが為に、誰もが読めて為になり面白くという、いわゆる良き教材を市井に提供することにする。これを日本人民大衆が自由自主自律的に学ぶことで、祖先の知恵レベルを回復蘇生されんことを願っている。時間があれば、諺、和歌等々の収集にも向かいたい。 現代政治の貧困を見るにつき、れんだいこは根本的には能力の低下に起因していると思っている。だとするならば、基礎から鍛え直さねばなるまい。そうすれば次第に政治の質も上がるだろう。但し一朝一夕にはできないので、牛乳のように毎日飲むことからは始めねばなるまい。こういう思いがある。れんだいこも還暦を迎える年齢になったので、これぐらいは遠慮なく云わして貰おう。 今後はこれを共同作業でやりたいと思う。どなたか有志求む。れんだいこが手分け作業を指示したいと思う。その際の障害は決まって例の著作権である。著作権が、ネオシオニズムの意図的故意の愚民化政策に密接不可分に関係していることが分かろう。著作権の本質はここにありとみなすべきで、金儲けの手段としてのよろづ金権化の動きは不随のものであろう。この白アリに取りつかれると中身が次第にカスカスにされてしまうというのに。それが証拠に、ジャスラックが大手を振って闊歩し始めて、日本の音楽界の質量が上がったと思うか。口ずさめる歌がなくなってしまったのではないのか。それにしても、ちあきなおみの歌が何で聞けないのだろう。 もとへ。そういう眼で見ると、著作権狂に限ってホロコーストだのアンネの日記だのに口角泡を飛ばして語り、反戦平和を唱える割には現在進行形のパレスチナにおけるイスラエルの蛮行に関心を持たない癖が認められる。相当にオツムがヤラレテイルとしか思えないが、当人は至極正義ぶって人を説教することを好む手合いが多い。不快なお笑いである。 おっと、こういうことを云いたいのではない。れんだいこ訳により竹取物語かぐや姫譚の現代文ができたので、これをサイトアップしておく。恐らく骨格はもう変わらない。今後は部分的な面での言い回しが変わるとは思う。特に和歌の訳については直訳過ぎており、今後どう書き替えようかと思案している。そういう道中のものであるが、これがプリントされ読み合わせ賜わらんことを願う。どなたか面白かったと云ってくれ。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/taketorimonogatarico/top.html) 2010.03.27日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)