カンテラ時評22(631~660) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評631 | れんだいこ | 2009/12/09 21:08 |
【鳩山政権の「米軍普天間基地移転問題」対応考】 「鳩山政権の『米軍普天間基地移転問題』対応」についてのれんだいこ見解を発表しておく。鳩山政権のこの問題に関する迷走ぶりは暗示的であり、先の総選挙前公約の帰趨とハーモニーしているように思われる。そこで、どう解決すべきか、れんだいこ処方箋を提起する。 2009.12.9日、北沢俊美防衛相は米領グアムの米軍基地視察後、同行記者団に次のように語った。 概要「社民党などが求める米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)のグアム移設について日米合意から大きくはずれる。そのことを期待して何かをしようと思うと頓挫(とんざ)する。移転先の選択肢には入らない。(移設問題の年内決着を先送りする政府方針について)決着の遅れは米軍再編にかなり影響が出る。日本の責任も重い」。 この北沢防衛相発言は、自公政権時の対応と軌を一にしており、彼の根っからのシオニスタンぶりを物語っていよう。民主党内は左右、民族派とシオニスタンの混交から成っており、北沢防衛相は右派且つシオニスタンの徒輩であることを自己暴露している。この手合いを防衛相につけたことにつき、鳩山首相の任命責任が問われよう。というか、マルチ舌を持つ鳩山首相のシオニスタン性の露呈と受け取るべきであろう。 考えても見よ。「米軍普天間基地移転」の本質は、「基地移転問題」にあるのではない。「米軍基地の世界的再編問題」としてあり、米軍の自己必要から生まれたものである。このことは、現代世界を支配する米英ユ同盟が、これまでのように野放図に世界中に軍事基地を敷設する時代が終わり、軍事的環境が変わったということと、軍事費の重圧に苦しめられだしていることを示している。直接的理由は後者であり、これまでのように軍事費を垂れ流しできないという米英ユ同盟内の経済的ひっ迫から発生していることを示している。 つまり、日本の立場からすれば、単純に米軍の「引き上げ」を歓迎すれば良いだけの話である。「思いやり」の発生する余地はいささかもない。しかしながら、米英ユ同盟は、これまでのユスリタカリの経験から味をしめており、日本に対する相応の移転費用負担を申しつけようとしてきた。これに、歴代の自民党政権が唯唯諾諾してきたところに、目下の「米軍普天間基地移転問題」の本質がある。それは、日米軍事同盟とこれに癒着する日米外交が「維持系思いやり予算」なるものを生み、更に「移転系思いやり予算」なるものを計上させられようとしているに過ぎない。 ここまで述べれば結論は明らかであろう。日本経済に、そのような出費をする能力も必要もないということが。鳩山首相の採るべき態度は、「勘弁してください」で良かろう。でないと、先の事業仕訳パフォーマンスで、国内予算の執行停止に喧々諤々したものの、なんということはない国内予算を削ったもの全てが米英ユ同盟にお供えさせられるだけのものでしかないことになろう。人民大衆がこれに気づいたら、暴動を起こすべきであり、国会を占拠すべきであろう。そもそもレンボウのはしゃぎは一体何だったのか。そういえば、軍事費を削る話になると途端に腰を引かせ、「思いやり予算」のごく一部を弱弱しく突いて節約するよう哀願し始めていた。レンボウよ、君の果たした役割を弁じて見よ。 してみれば、社民党党首の福島瑞穂消費者・少子化担当相の「キャンプ・シュワブ沿岸部への移設反対」は当然であり、「(海上埋め立て工事の)利権のために基地をつくることは許されない。党としてきちんと調査する」などは生ぬるい。お前が主張すべきことは、反戦平和の観点からの「移転などとんでもない、引き上げしかない。これを強く要請する」であろう。大阪府知事橋本の関空移転なぞ論外の提案である。こうなったら成田闘争が容赦しない。「軍事空港を廃港にせよ」が先見の明として俄然現実味を帯びてこよう。 戦後65年、国際環境は大きく変わりつつある。軍事問題も然りである。防衛は何も軍事だけに限られるものではない。経済的文化的精神的にも相関しており、にも拘わらず軍事費増強にひたすら走るのは軍需派を喜ばすだけの利権構造によるものでしかない。米国内でも旧来の軍需派に代わる新外交派が台頭しつつあり、彼らの要請から米軍基地の再編問題が浮上していると読むべきであろう。 日本が徒に「米英ユ奴系一蓮托生式国家百年の計外交」にのめり込むのは賢明ではない。日本の外務省トップは長らくこの手合いに牛耳られている。ところが、気がつけば米国は既に米中関係を最重要にしており、日米関係は従的役割しか果たしていない。この傾向はますます強まると読むべきだ。国際環境はゆっくりながら変化しつつある。日本が、「米英ユ奴系一蓮托生式国家百年の計外交」に専念した果てに捨てられることも考慮に入れておかねばならない。この緊張感の下でやり取りしていくのを政治と云うのでなければ、政治なんか誰でもできるだろう。 その誰でもできる式のお粗末政治をやっているのが現代日本政治である。こういう場合に考えるべきことは、吉田茂ならどう解くか、角栄ならどう動くのか、大平なら云々である。間違っても中曽根-小泉ラインなら云々とは問わなくてよい。シオニスタン政治なら頭がいらない。名宰相と云われてはいるが、ワシントンから見た名宰相であり、日本から見た場合には極悪売国奴でしかない。その極悪シオニスタンを名宰相として今も囃すジャーナリストがいるとすれば、その連中が権勢をほしいままにしているとすれば、打倒する以外になかろう。日本版アルジャジーラ放送局、新聞社、雑誌よ、早く出でよ、これが結論となる。 2009.12.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評632 | れんだいこ | 2009/12/09 21:37 |
【1974.5.13日、「田中総理を励ます新潟県人の集い」における首相挨拶考】 田中角栄なら、世界情勢をどう読み、国内政治も含めてどう対応するのか。格好の教材を示しておく。ここで紹介するのは、「田中総理を励ます新潟県人の集いにおける首相挨拶」である。角栄が、県民のお上り詣でに対してまでこれほど真面目に政治を論じていることが分かればよい。決して選挙の時だけの票としてではなく、耳を傾ける支持者の熱意をバネに政治していたということが分かろう。平素は面白おかしく分かりやすく論じるが、こういう風に真面目に語りかけるひとときを持つ角栄でもあったということであろう。実に素晴らしい。データベース「世界と日本」(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 )所収の左枠「国会外の演説・文書 総理大臣」より転載する。(れんだいこ責で編集替えした) 新潟県人のみなさん!! すっかりご無沙汰しております。日頃から、私のために、ご支援、ご鞭撻いただいているみなさんが、このような形で、私を励ましてくださることは、本当にありがたいことであります。私がこんなに晴れがましい席で公の形での激励を賜わることは、今から三十五年前、それは昭和十四年春、私が現役兵として入営したとき以来、初めてのことであります。私は、心暖まるふるさとの心に接し、しみじみたる思いであります。 私がみなさんの支持を得て、内閣を組織いたしましてから、二年間の月日がたとうとしております。内閣総理大臣に就任した際「前線にむかう一兵卒のような気持ちだ」と言ったことがありますが、それは、つい昨日のような気がいたします。そしてその時の心境は二年後の今日も全く変わっておりません。国民のみなさんと手を携えて歩み、国民のための政策を勇断をもって実行していく事には、極めて重い責任を伴うのであります。私は、すぎこし方をかえり見ながら、その重みをあらためて、心にきざみつつ、前進を続けて参る決意であります。 二年間は、人類悠久の歴史の中にあっては、まばたきする程の時間にすぎません。しかし、世界が、新たな転換の時代を迎えている時だけに、かつて私共が経験した事のない激動が、相次いでおこった長い二年間であったともいえるのであります。世界は、緊張緩和の方向に進みながら、新しい国際秩序の確立にいわば産みの苦しみを味わっております。西欧先進工業国は、いずれも、転換期の困難に直面していますが、わが国も例外ではなく、物価、公害、エネルギーなどの諸問題の解決を迫られていることはご承知の通りであります。みなさん。私も人の子であります。国の運命にかかわる大問題を前にして、いかにして国民生活の安定をはかるかを思い悩み、眠られぬ夜をすごしたこともまま、あったのであります。 昨年末には、顔面神経炎という病気にもかかり、口が曲がりみなさんに随分ご心配もかけました。しかし、ご覧のとおりすっかり元通りとなりましたし、健康は、最良の状態にあります。いかに難しい問題にぶつかろうとも、いますぐに「新潟へ帰りたい」などと泣き言は申しません。現在新潟県に在住するもの二百四十万、全国に、私と同じく出かせぎに出ておられる方々二百六十万、合計五百万人ものみなさんが、私と共にある事に勇気づけられて、新たな問題に精力的にとりくんでまいります。そして、私は、理想の旗を高々と掲げつつ、当面する問題を一つ一つ、現実的に解決し、国民みなさんの負託にこたえてまいる決意であります。 これまでの日本は、先進諸国に追いつくことを目標に、「成長が成長を呼ぶ」という成長追求型の経済運営を行なってまいりました。政府の政策も、重化学工業化を中心に経済成長の維持と拡大に重点をおき、企業も経営の規模拡大をおもな目標としてきました。この結果、日本経済は、世界有数の実力を持つにいたり、企業は、経営基盤を拡大し強化することに成功し、国民の所得もふえ生活水準も向上しました。これまでのわが国経済の歩みは、疑いもなく成功の歴史であったのであります。これは、自由民主党が、長期間にわたって政権を維持し、政策にあやまりなかった結果、といささか自負するところもございます。しかし何よりも、国民みなさんの努力と英知のたまものといわなければなりません。 しかし、経済社会をとりまく諸条件は、大きく変化いたしました。今後は、成長のみを追求するのではなく、成長によって拡大した経済力と成長の果実を、国民福祉の充実と国際平和の推進に積極的に活用してゆくことが強く要請されているのであります。すなわち、公害の防除、土地、水、資源の有限性に対する配慮、労働時間の短縮、定年延長、社会保障費用等福祉コストの負担、省資源・省エネルギー化の促進、消費者主権の尊重、経済協力の推進など、国民の量質ともに高度化した社会的ニーズにこたえて各般の施策を展開してゆかねばならないのであります。私は、これまでの成長追求型の路線追求をやめて、「福祉と平和」を軸とする経済社会の運営方式に切りかえてまいります。これまでは、私たちの前には、先進諸国に追いつくという目標が厳然と存在していたのであります。ようやくにして先進諸国群の一角にたどりついた今日、私たちは、みずからの目標を樹立し、それに向かって挑戦しなければならない地位に立たされております。いわば、日本民族が独自の実験を行なうべきときが来ているわけであります。私は、日本民族のもてるエネルギーを活用し、潜在的エネルギーを引き出し、これを有効に組織化し、誘導すれば、必ずやこの実験に成功できると信じて疑わないのであります。 私的消費から社会的消費へ、フローからストックへ、量か質へ、物から心へ、効率から・バランスへ等……転換を求める声は各方面に高いのであります。私の「日本列島改造論」をきっかけにして、わが国が内政の時代を迎えたといわれるのは、私にとって望外の幸せでありました。私が、国土改造に取り組み実現しようと願っているのは、失われ、破壊され、衰退しつつある日本人の“ふるさと”を全国的に再建して、私たちの社会に落着きとうるおいを取り戻すことであります。今日の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれた違いはあったにせよ、ともに愛すべき“ふるさと”のなかに不滅の源泉があったのであります。 このため、二〇〇〇年までを展望した長期にわたる国土改造のビジョンを樹立するとともに、それに沿って国土改造の十カ年計画を早急にスタートしていきたいと考えております。この新しい計画は、人口、食糧、水、などの長期展望のうえに、美しい自然に恵まれ、人間性の豊かな“新しいふるさと”=高度福祉社会を建設してゆくプログラムを明らかにするものであります。これは、難しいことを言っているのではなく、ふるさとに住む親のところへ息子達、娘達をかえし、都会に出稼ぎしている人達をふるさとで暮らせるようにすることなのです。産業構造は、資源やエネルギーをたくさん使う重化学工業から、人間の知恵や知識をより多く使う産業、つまり知識集約産業へと産業のウエートを移してゆくこととなります。他方、農業およびそれが営まれている農村は、福祉社会形成の基盤ともいうべき根本的な役割をになうこととなります。第一に、食糧を安定的に供給いたします。第二に太陽と緑のある快適な生活空間を提供いたします。第三に自然を保存し管理いたします。したがって、農工両全のバランスのとれた開発をすすめてゆく場合には、町にも、村にも、工場の周辺にも豊かな空間と色こい緑地を設け、新しい鎮守の森を復活させてゆきたいと考えます。 ふるさとには、家族や隣人を愛する心が残っております。戦後、封建的な村落社会や伝統的な家族制度から解き放たれた人間性は、いま都市化と工業化の流れのなかで再び失われようとしているのであります。カサカサした現代社会を救うのは、正しい自己意識の上に立脚した温かい連帯感であります。私は、ふるさとに温存されている連帯意識の輪を広げて、新しい地域社会や職場環境を形成してゆくべきものと考えます。“ふるさと”を愛し、“ふるさと”を豊かにする運動を新潟から広げてゆこうではありませんか。日本列島全体を、人間と太陽と緑が主人公となる人間復権の新しい文明社会をつくりかえ、心のふるさとをよみがえらすことが、私の政治目標であります。 「民族の魂」「国家の顔」ともいうべき最も重要な国政の課題は、教育の問題であります。すでに学制百年を過ぎ、戦後あしかけ三十年を迎えた現在、今の教育制度は、定着してきました。しかし、新しい時代と社会の要請に対応して、常に“教育の原点”に立ち返って反省するとともに、改善の努力を続けていかねばなりません。その意味で、とくに最近、私が強く感じるのは、徳育、知育、体育が三位一体となったバランスのとれた教育の必要性であります。確かに知育と体育の点では、戦前と比較にならないほど高水準に達し、四人に一人は大学に進む状態となっております。しかし、その半面、いまの教育は、知育偏重のきらいがあり、いわば「知恵が太っている」割りには「徳がやせている」青少年を育てる教育風土が定着していると考えられます。 両親を大切にし、兄弟は仲よく、共同生活の中にあっては、市民として、日本国民として、アジアの一員として、人類の一員として自分中心の考えでなく、常に相手の立場に立って考える。--そういった基本的な「教育」は戦前、戦後を問わず、また、資本主義とか、社会主義とかの体制の違いを越えた普遍的な原理だと思います。 私自身のことを振り返ってみても、人生を処する考え方は、いずれも初等教育段階に身にしみこんだものであります。当時、私の通学した西山小学校の校訓「至誠の人、真の勇者」は、いまだに脳裏に鮮やかであります。学校にあっては、先生の、家庭にあっては母の教えが、まさに私に対する「徳育」であったと思われます。 そこで、私は、「五つの大切」「十の反省」をあえて提唱したいと思います。義務教育段階における子供たちの生活規範として、たとえば、「人間を大切にしよう」、「自然を大切にしよう」、「時間を大切にしよう」、「モノを大切にしよう」、「国、社会を大切にしよう」という「五つの大切」を教えようというわけです。そして毎日の生活のなかで、「友達と仲良くしただろうか」、「お年寄に親切だったろうか」等々と自省する「十の反省」を設定してはどうでしょうか。 次に大切なのは、義務教育をしっかりやる「先生」の問題であります。教師、教育者という仕事は、他の職業と違って、育ち盛りの子供を親や世間に代わって正しい人生観をもつ、しっかりとした人間に育てあげる大きな使命と責任をもっているのであります。 それだけに、小・中学校には、最も優秀な人材、教職意識に燃えた情熱的な人物を必要といたします。そのためには、身分や報酬なども他の公務員より安定し、かつ手厚いものでなければなりません。同時に、先生は、子供の先生としてたけではなく、親達や社会の先生として尊敬されるような存在でなければなりません。社会全体から尊敬されるためには、先生の教育に対する真摯な情熱もまた求められてしかるべきものと考えます。その意味で、今回「教員人材確保法」が成立したのであります。また、教育の資質向上のため教員養成大学の設置、身分の確保、待遇改善についての施策等を一層拡充推進してまいります。 次に、大学の運営に関する臨時措置法について一言いたします。この法律は、今年の八月で期限切れになりますが、私は本来ならあのような法律はいらないと思っております。罰則規定はないとはいえ、大学を対象にあんな法律があるということ自体日本の教育行政の恥部をさらけ出しております。しかし、大学の中で、たとえ一件でも白昼堂々と殺し合いか行われている状態が続いているかぎりは、政府として、何らかの責任を持たなければなりません。 学校の管理にあたって、学問の自由と学園の自治が確保されなければならないことは言うをまちません。しかし大学が教師だけのものでないことは当然でありますし、また学生だけのものでもありません。国民全体のものなのであります。その意味で、次代の望ましい国民を教育するためにふさわしい大学はどうあるべきかを、真剣に考える必要があると考えます。その一環として、地方の高等教育機関の充実は、国土改造の文化的な核ともいうべきものであります。これからは、大都市における大学の新増設の抑制と地方における大学の拡充によって全国的に均衡のとれた大学の配置を行なってまいります。同時に諸外国の大学にみられるように、地方の環境のよい都市に大学を整備し、あるいは、全く新しい視野と角度から環境のよい湖畔、山麓など山紫水明の地に広大な敷地を確保して新学園を建設してまいりたいと考えます。このほか医学部未設置県の解消、新構想の教員大学院大学、放送大学などの創設も促進してまいります。 次代をになう日本人を育成する教育の任務は、重かつ大であります。それだけに、私は、教育問題をタブー視することなく、全国民的立場から問題を提起し、広く国民の声を聞きながら真正面から取り組んでまいる決意であります。 私は、内閣を組織して以来、アメリカ、中国、西ヨーロッパ、ソ連、そして東南アジア諸国を歴訪し、各国首脳とキタンのない意見交換をしてまいりました。そして、わが国にとって最も重要な盟友であるアメリカとの関係の調整を行ないました。また極東の安定にとって不可欠な日中の国交正常化を実現しました。さらに、疎遠であった欧州との緊密化をはかり、また忘れることのできない隣国ソ連との関係改善のための第一石を投じたのであります。また本年初めには、東南アジア諸国を訪問して、これらの国々の国造りに貢献することを改めて約束してまいりました。今後、さらに大洋州や中南米カナダを訪問する予定にしております。 現下の国際情勢はいっそう多様化の度を加え、わが国をとりまく情勢は、戦後かつてないほどに複雑かつ厳しいものとなっております。米ソは、依然軍事超大国ではあるもののその影響力は相対的に低下してきております。自由陣営を支えるものとしては、米国のほかに、ヨーロッパ共同体、それに日本が台頭してまいったのであります。社会主義圏においては、中ソの激しい対立が解消をみないまま、分極化は恒久化しようとしております。これに加えてアラブ世界は、石油を外交戦略の武器として立ちあがりました。社会主義圏における農業の不振は、食糧危機として世間を騒がせました。戦後の国際経済を支えてきたドルの地位の下落は、世界経済の先行きに不安をなげかけています。開発途上国の国造りは、遅々として進まず、人口、食糧などの悩みは、深刻であります。 これらの問題は、いずれも「自分さえよければ」という利己的な態度では、決して解決できません。すべての国は、新しい連帯感に立ったすそ野の広い協力・協調関係を打ち立てることが必要であります。とくに、資源に乏しく狭い国土に一億一千万人をかかえるわが国は、四方の海をこえて資源を輸入し、それに付加価値を加え、製品として海路をわたって輸出するという貿易形態をとっております。海洋国家日本は、世界の平和なくして生きていけないし、日本経済は、自由な国際経済環境のもとでのみ発展することができるのであります。その意味で私たちは永続的な世界平和の創造と新しい世界経済秩序の再建のために、積極的な国際協力を推進してゆかねばなりません。 ところが、ここで私が強調したいのは、これらのことが理くつではわかっていても、肌ではまだわかっていないということであります。特定の国に個人的な親近感をもち関心を有することは、好ましいことですし、また必要でもありましょう。しかしながらそれが万事であとは一切まかりならないというのでは、健全な外交にならないのであります。物ごとを一面的、近視眼的にとらえることなく、最善をつくしながらも次善、三善の策を考究することが必要です。白か黒か、南か北か、戦争か平和かという単純な思考方式は、もはやできないのであります。私は、観念的な独善を戒め、国際経験の未熟に由来する極論を排しつつ、国民的基盤に立って根気強く、きめ細かく、誠実に、国際協力の実をあげてまいりたいと考えます。 私は、さき頃五十六歳の誕生日を迎えました。会社でいえば定年を過ぎたわけですが、定年なんて言ってはいられない。国と国民のために果たすべき責務は、内政、外交両面にわたって数多く残されているのであります。しかし、高い理想をかかげ、しかもあくまで現実に立脚し、勇気をもってことの処理にあたれば、政治の理想は実現できるのであります。しかし政治は、一政府一政党のものではありません。国民全体のものであります。当面するどの課題をとってみても、国民の参加と協力なくして解決できるものはありません。 私たちは、後代の日本人のために、あしたの日本のために、親が私たちのためにかいた汗以上のものをかこうではありませんか。みなさん。私たちの生活は、忽然として今日ここに存在するのではありません。何十万年、何万年の歴史の上に今日があることを知らねばなりません。同時に私たらの今日を一コマとして未来永劫に日本人の生命は続くのであります。私たちの祖先が日本人の歴史の一コマを切らなかったように私たちも、これから未来に続く民族の一コマを切ってはならないのであります。私は、そういう意味で、その責任を果たさねばならないと考えているのであります。 新潟の“ふるさと”も、次第に青葉をまし緑濃くなっておりましょう。鮮やかな新芽が柳色を新たにするように、私は、日々決意と希望を新たにしつつ、国政に取り組んでまいります。私は、私に与えられた公の責任を果たすため全力投球いたします。最後に、重ねてご参集の県人のみなさんのご好意、ご声援に心から感謝しつつ、みなさんのご自愛ご健勝をお祈りして私の挨拶を終わります。 2009.12.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評633 | れんだいこ | 2009/12/13 20:14 |
【亀井政治考】 いずれ小沢一郎も書き上げたいが、こたびは亀井静香論とする。亀井政治の特質が見えてきた。伝えられるところによると、2009.9.30日、亀井金融相は、フジテレビの番組で、亀井氏の主張する「モラトリアム(支払い猶予)法案」に関する鳩山首相との連携について質問され、「齟齬(そご)なんか起きようがない。私はハト(鳩山首相)を守るタカだ」と強調した。これを見出しで表現すれば、「私はハトを守るタカ、モラトリアム法案成立に自信」と云うことになろう。 れんだいこは、その見出しのうちの「私はハト(鳩山首相)を守るタカだ」表現にいたく感心する。これを大きく広げ鳩山首相のハトに限らず、もっと一般化させて「ハトを守るタカ」と表記替えしたいと思う。こうすれば、「ハトを守るタカ」概念がかなりな政治眼力であることが判明すると思っている。この視点で政治家としての亀井静香を評してみると、「ハトを守るタカ」ぶりが浮き上がってくる。亀井が、いつの頃より自らをそう位置づけ始めたのかは定かでない。亀井の政治家履歴を見ると元々は福田系であるが、同じ派閥の小泉に対して、一貫して反小泉の姿勢で身を所作させてきていることが判明する。「亀井の反小泉」が何を原因として、どのようにして形成されているのかは分からない。いつの時点でか、「こいつだけは許せない」とするスタンスを確立したものと思われる。 その小泉が首相になるに及び、経緯からして亀井が徹頭徹尾干されたことは想像に難くない。その亀井は、小泉―竹中ラインが「郵政民営化」に大ナタを振るい始めた時点より不退転の決意で確信犯的に反小泉・竹中の急先鋒として再登場し、以降自らをそのように積極的に位置付け活動し始めているように見えてくる。れんだいこは、亀井政治のこの眼力、思想、所作を称賛したい。これが云いたい為に以下立論することにする。 れんだいこ史観によれば、戦後政治は実は、へなちょこマルクス主義派の云うがごとくな階級闘争、反アメ帝闘争に重心がある訳ではない。へなちょこマルクス主義派が、そのような見立てで戦後日本を解析し、運動を組織してきたのは大いなる不毛の闘いであったとみなしている。日本左派運動の今日的惨状は、この見立ての不如意により然るべくしてもたらされていると見立てている。にも拘わらず未だに切れない包丁を振り回しているのは時代錯誤であり、ドンキホーテの愚の誹りを免れないとみなしている。 れんだいこは何を云いたいのか。それは、れんだいこ史観によれば、戦後日本はプレ社会主義的な始発をしており、決して資本主義対社会主義論による体制論で、戦後日本を資本主義体制と見立てて体制打倒を図るようなものではなかった。むしろ逆にプレ社会主義的戦後日本を如何に擁護受肉化せしめて行くかが問われていた。然るに戦後日本左派運動は解禁されたマルクス主義系諸本を字面的に鵜呑みにし、体制打倒一本槍でもって進撃するのを最も左派的とする愚を犯してきた。この誤りは、戦前では、天皇制打倒こそ真性左派の証として一本槍して来た愚行にハーモニーしている。つまり、思想構造がなんら変わっていないことに気づかされる。 れんだいこが観るところ、戦前左派運動に望まれていたのは、定向進化させられ続けている軍拡政治との闘いであった。戦後左派運動に望まれていたのは、世界史上稀なるプレ社会主義的戦後日本の体制補強、建設であった。そういう意味で、何としてでも政権党に辿り着き、与党責任的政治を御すべきであった。残念ながら、その灯は、1947年初頭の2.1ゼネスト、1949年の9月革命呼号、1950年代初頭の武装闘争の破産で潰えた。もっとも、この当時の理論的レベルでは、潰えて正解であったように思える。 そういう目で見れば、戦後日本の政権を掌握し、戦後復興から高度経済成長期まで采配を振るってきた政府自民党内の戦後保守本流派即ち吉田茂派閥即ち吉田学校の吉田―池田―(佐藤)―田中―大平―鈴木政権に於けるハト派治世の方こそ、「曲がりなりにもプレ社会主義的戦後日本の体制建設者」であったのではなかろうかという気がする。そういう眼で見れば、池田、田中を支持してきた影の軍団に戦前来の左派軍師が見え隠れしているのが偶然ではないということになる。かの時期、官僚でも財界でも学者でも、かなりの元マルキストがブレーンとして補佐している。そういう史実がある。もとより政府自民党内はハト派とタカ派の混成であり、そういう事情だからしてこの時期の政府自民党政治を「プレ社会主義的戦後日本の体制建設者」視する訳にはいかない。しかし、実相は、自民党系ハト派政治が、タカ派との調整に揉まれながらも政権を維持し続け御していた有利さは認められねばならないと思う。十分なものではなかったとはいえ、自民党系ハト派政治がタカ派を籠絡する形で支配権を有していたことの値打ちを認めるべきではなかろうか。 こういう時勢下に於いては、戦後日本左派運動が戦後革命を流産させ、政権党化する可能性を失っている以上、それならそれで政権与党内のハト派政治の左バネとして有無通じて補完して行くのが戦後日本左派運動の責務となっていたのではなかろうか。こういう動きは通常は右派のそれとみなせられるが、戦後日本≒プレ社会主義という観点を生みだせば、当時の右派系潮流の中にも奥深いものがあったと評価替えされるべきではなかろうか。もっとも玉石混交ではあるが。後述するように、国際金融資本に飼い慣らされた右派系潮流もあったし、いつまでも反対運動ではなしに政権与党内のハト派政治と呼応しようとする右派系潮流もあった。その中間的な潮流もあった。これらを今一度解析し直す必要があろう。 ところが、史実は、戦後日本左派運動は、60年安保闘争時の極右の岸政権打倒闘争を除いて、ハト派政権時代に最も逞しく反政府反体制闘争を繰り広げ、その後の三木―福田―中曽根政権以降のタカ派政権時代になるや鳴りを潜めると云う犯罪的な愚を犯してきた。その筆頭は、宮顕―不破指導下の日共であり、黒寛―松崎指導下の革マル派であった。社会党は、万年野党の呑気なアリバイ闘争にしけ込み、いつでも裏取引するテイタラクぶりを演じ続けた。社会党左派位置し続けた村山富一が、細川政変で下野させられた自民党を助け起こしたことでも、社会党のエエカゲンさが知れよう。これらの愚行の跳梁跋扈を許した度合いに応じて戦後日本左派運動は逼塞させられ、今日的惨状まで迎えている。それまでの歴史を踏まえれば、我々は、ハト派政権時代に最も鋭く闘い、タカ派政権時代に鳴りを潜め、否それ以上に裏協力する自称左派なる存在を許してよいものだろうか、かく問わねばならない。 これを、もう少し大きなスケールで俯瞰すれば次のように云える。おざなりの教科書、教本では知ることができないことなのでしかと聞け。今は亡き太田龍・氏ならかく論ずるのではなかろうか。第二次世界大戦後の世界は、近現代史上次第に勢力を増してきた国際金融資本の独壇場支配として立ち現われた。米ソの冷戦構造は、表面的にはそうであっても、真実はいつでも裏で通じていた国際金融資本のシナリオ下のそれでしかなかった。第二次世界大戦後の世界は、各国政府要人は彼らのエージェントでなければ登用されないという奇態に陥った。これをリードした秘密結社がフリーメーソンでありイルミナティであり、その配下の各種委員会であった。国際金融資本は、この人脈を拡大再生産する形で各国の政治に容喙し、更に、この人的支配を通じて法制支配、産業支配、情報支配、軍事支配、その他その他あらゆるジャンルにわたって網目上のコントロール支配体制を確立した。この支配の集中による悲劇はパレスチナで見受けられる。パレスチナの惨状を見れば、彼らの支配が如何なる酷いものであるのか瞭然としよう。 戦後日本も当然ながらその例に漏れなかった。しかしながら、戦後日本の特殊な質として、彼らの想定を超える動きが生まれた。それは、政権党内に彼らのコントロールの効きにくい前述した吉田学校出自の池田―(佐藤)―田中―大平グループが生まれ、このハト派系政治の操舵の下で戦後日本は奇跡的な復興、続いて世界に冠たる高度経済成長をうなりをあげて遂げて行った。世界の称賛羨望の的となる戦後日本の湧出であった。折り悪しく、この頃の国際金融資本の本家たるアメリカはベトナム戦争の泥沼に引きずり込まれ、国力を大いに疲弊させて行った。かくて、戦後世界№1たるアメリカの対日ジェラシーが生まれ、国際金融資本の断固たる決意の下で戦後日本解体戦略、ハト派人脈の一掃指令が発動された。このシナリオに組みしたのが三木―福田―中曽根政権以降の歴代自民党政権である。国債が刷り抜かれ、公共事業が抑止され、国家枢要機関の民営化が始まり、消費税なる悪税が導入され、軍事防衛費の突出が始まった。ハゲタカファンドの来襲もこの流れに即応している。教育が破壊され、植民地特有の文化、精神が注入され始めた。 お陰で、現代日本は惨憺たる状況に陥ってしまった。大企業は統合され、中小零細企業は切り捨てられ、つるつるてんのタコ足のような危険なガリバー型企業群のみが生き残ろうとしている。やがてそれらの企業も、目下の日航のように順次召し取られてて行くことになるだろう。銀行、生保、損保、証券の金融企業、軍事産業はいち早く傘下に収められてしまっている。自動車産業その他その他も順次首縄付けられることになるだろう。この売国奴政治に表協力したのが政財官学報司の六者機関であり、裏協力したのが、これも前述した日共、革マル、社会党であった。かく構図を据えることができよう。 さて、本題に戻る。亀井の「ハトを守るタカ」とは、どういう位置づけになるのか。1980年初頭の中曽根政権登場以降、急速に始まった戦後日本解体戦略に呼応するタカ派、抵抗するハト派と云う構図に於ける、タカ派のハト派支援ということになろう。つまり、タカ派も、国際金融資本にべったり寄り添う極右派から、一定の距離を持つ中間派、相対的に民族主義の立場を保つ土着系タカ派という三派に分かれる。亀井は、このうちの土着系タカ派とみなせるのではなかろうか。このことは、ハト派も、国際金融資本に籠絡された迎合ハト派、迎合ハト派までは靡かない中間派、相対的に民族主義の立場を保つ土着系ハト派派という三派に分かれる。亀井の「ハトを守るタカ」なる政治姿勢は、中間系タカ派、土着系タカ派と親疎することを意味しよう。つまり、タカ派内の逆流、ハト派内の逆流が始まっており、複雑な政界絵巻を呈し始めていることになる。 ご多分にもれず、鳩山政権も、この複雑な政界絵図の中で政権を御している。前原、岡田、北沢らの典型的なシオニスタン、中間的な仙谷、平野、長妻、川端、直嶋ら。非シオニスタン系の原口、藤井、小沢、管、亀井。一応左派系の輿石、福島らが複雑に絡み合って鳩山政権を支えている。これに、鳩山政権を早急に空中分解させようとする動きと求心力を高めようとする動きが重なっている。ここに、「ハトを助けるタカならぬカメ」の亀井が鎮座していることになる。してみれば、「亀井式タカ派」は現代日本政治史上、貴重な立場に位置していることになる。「亀井式タカ派」が今後、どのように勢力化するのか、弾圧されるのか、どの勢力と結び、どの勢力と闘うのかが見ものとなっている。つまり政治は常に生きている。予断許しがたい刻々の政治ドラマが続いている。船体本丸に浸水しつつある日本丸の救命が託されているが、眼を離せない興味ある流れではなかろうか。 2009.12.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評634 | れんだいこ | 2009/12/16 02:00 |
【羽毛田・宮内庁長官発言考】 思わぬところから「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭、官僚愛好御用事件」を思い出すことになった。2009.12.14日、中国の習近平国家副主席が来日し、翌12.15日、皇居で天皇陛下と会見したが、これに先立つ12.12日、羽毛田信吾・宮内庁長官が、天皇陛下と中国の習近平(シー・チンピン)国家副主席の会見が決まった経緯に関して記者会見を開き、次のような異例のコメントを発表した。 「今回、外務省を通じて内々に宮内庁の窓口に打診をされてきたのは1カ月を切った段階でしたから、ルールに照らしお断りをした。その後、官房長官から、ルールは理解するが日中関係の重要性にかんがみてぜひお願いするという要請があり、私としては、政治的に重要な国だとかにかかわらずやってきたのだからぜひルールを尊重していただきたいと申し上げました。その後、再度、官房長官から、総理の指示を受けての要請という前提でお話がありました。そうなると、宮内庁も内閣の一翼をしめる政府機関である以上、総理の補佐役である官房長官の指示には従うべき立場。大変異例なことではありますが陛下にお願いした。が、こういったことは二度とあってほしくないというのが私の切なる願いです」。 このコメント後、自民党の「天皇の政治利用批判」が相次ぎ、これに唱和する形で鳩山首相と小沢民主党幹事長辞任批判が巻き起こった。例によって読売が音頭を取っている。「宮内庁には羽毛田の発言について1千件の電話やメールが届き、多数が羽毛田の発言を支持するものであった。逆に民主党に対しては批判が殺到した」とある。 12.14日、安倍元首相は、天皇陛下が中国の習近平国家副主席と特例で会見されることについて次のように批判した。去る日、やんちゃな坊っちゃん元首相は、ブザマナ引き際をしたことを棚に上げて、すっかり元気を回復しているように見える。意訳概要「今からでも遅くないから、陛下との会見は中国側に取り下げてもらうよう要請すべきだ。民主党の小沢一郎幹事長、鳩山由紀夫首相が国益ではなく自分たちのために天皇陛下を政治利用したと断じざるを得ない。強い憤りを感じる」。 12.14日、これに対し、民主党の小沢幹事長が、語気鋭く次のように反論した。まま正論であろう。 意訳概要「『1ケ月前ルール』なるものは2005年以来のものであり、法律で決まっているものではない。そもそも天皇の国事行為、公的行為は内閣の助言と承認によるべきと憲法上明記されており、こたびの習・中国国家副主席と天皇の会見セツトはこれに当たる。天皇の公的行為を内閣がコントロールするのは日本国憲法の基本精神であり、これまでも同様の内閣判断により天皇のお出ましを願ってきた。こたびの宮内庁判断が内閣の判断に優越するかのようにふるまう羽毛田宮内庁長官発言は日本国憲法の基本精神を逸脱するものであり、私には信じられないほど日本国憲法、民主主義というものを理解していない発言である。内閣の一部局の一役人は内閣の方針、内閣の決定を順守する責務を負うところ、記者会見してくちばしを挟むのは越権であり、日本国憲法の精神、理念を理解していない。否民主主義そのものを理解していない。宮内庁の長官ともあろう者がかくなる発言をする以上、その重大性に鑑みれば辞表を出してから言うべきである。これが筋というものである。マスコミ諸君がこういうところを踏まえずに、役人の言う通りの発言を追従報道するのは同様に憲法に対する読解不足を示している。もし天皇陛下のお体がすぐれない、体調がすぐれないというのならば、それよりも優位性の低い行事をお休みになれば良い。羽毛田宮内庁長官発言に理があるかの如く云う諸君の理解はまったくオカシイ。内閣の助言と承認に基づく天皇陛下の国事行為を政治利用だと批判するのなら、この原則を否定するのであれば、天皇は内閣に助言も承認も求めないで単独で国事行為を行うことを良しとすることになる。それこそオカシイ」。 続いて、前原国交相が15日の記者会見で、天皇陛下と中国の習近平国家副主席の会見が特例的に実現したことについて次のようにコメントし、自民党の天皇の政治利用批判を牽制した。意訳概要「この話は元々元首相から話があったと聞いている。元首相の要請が官邸に届いたのであって、われわれがルールを曲げたわけではないと聞いている」。 前原国交相の伝聞が確かなものとすると、自民党のこたびの批判は何をかいわんやということになる。投げたブーメランが手前のところに戻って頭に当たっていることになる。この騒動を、れんだいこなりにもう少し愚考したい。 羽毛田長官のいう「天皇陛下への面会を希望する際は、1カ月前に文書で申し込むという慣例」が不可侵的なものなら一応の筋は通っている。ところが、この「1カ月前慣例」について、「この慣例は戦後から続くものではない。2004年以降のものであり、それも、2005.1月にタイの上院議長が訪日した際も、申し込みが1日遅れたにもかかわらず、同国は直前のインド洋大津波で被災していたため『やむをえない』と政府が判断し、天皇陛下は慣例を破って会見を行っている事例がある」ことが判明している。 こうなると、問題は、この筋論が、「民主党の天皇の政治的利用批判」をぶちあげながら、羽毛田発言そのものが極めて政治主義的な発言であることになる。既に「羽毛田長官こそ政治利用しているのではないか」という逆批判が生まれているが、実にその気配が強い。問題は、羽毛田発言が、どういう筋の差し金により為されたかにある。羽毛田発言は、宮内庁を代表しての義憤的な「民主党の天皇の政治的利用批判」である訳がない。これを思うべきだろう。 ここで、羽毛田宮内庁長官と「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭、官僚愛好御用事件」の絡みが出てくる。この事件を持ち出すのは、単に羽毛田の品性劣悪を再確認する為ではない。事件の持つ深い政治的意味を再確認せんが為である。同事件は、1998(平成10).2月頃、発覚し、官僚腐敗の極致事件として注目されたが、それは表層的な受け止めようでしかなく、この事件の持つ真相は、当時に於けるシオニスタン官僚の炙り出しにこそ意味があるのではなかろうか。今日、ここに参画した官僚名簿は「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭 顧客名簿(平成10年2月26日)」で公開されているが、楼蘭に参集した官僚群こそ「手前の立身出世の為にシオニスタン官僚として売国奴的に身売りした連中」なのではなかろうか。かく位置付けることによって、名簿の重要性が浮き上がってくることになる。 シオニスタン官僚はそれ故に、武家時代なら切腹申しつけられるべきところ、意外や意外逆に「約束通りの立身出世街道」へ向かっている。これが、今日的官僚腐敗の真の原因であり温床となっているのではなかろうか。その典型が、事件当時の日銀副総裁・福井俊彦であり、事件後、日銀副総裁を辞めた後、翌1999(平成11)年に富士通総研理事長に就任。2003(平成15)年、小泉内閣時に日本銀行総裁に就任している。この期間中に大枚の日銀資金をブッシュの戦争政策に注ぎ込んだのは衆知の通りである。羽毛田宮内庁長官の例も然りで、事件当時は老保福祉局長であったが、事件後と思われるが厚生省保険局長に転じ、1999(平成11)年、何と厚生事務次官に上り詰め、2001(平成13)年、宮内庁次長、2005(平成17)年、宮内庁長官に就任している。この二例しか判明しないが、小泉政権が、同事件関係者を意図的故意に重用したことが透けて見えてくる。 ここでは、羽毛田宮内庁長官を論じているので、彼の宮内庁での立ち働きを確認しておくが、「ウィキペディア羽毛田信吾(2009.12.15日現在)」を参照すれば次のように記されている。概要「宮内庁長官就任時の任命権者である小泉首相と同じく、女性天皇・女系天皇を容認する皇室典範に関する有識者会議の結論を支持している。寛仁親王が男系維持を希望する発言をした際には、発言を自粛するよう要請している。悠仁親王が誕生した直後に、皇位継承の安定は図れないとして、女性天皇・女系天皇の容認に含みを残した。2009年9月10日、記者会見で民主党などの連立政権による内閣が近く発足することに関し『皇位継承の問題があることを(新内閣に)伝え、対処していただく必要があると申し上げたい』と述べ、皇位継承の対象を男系の男子皇族に限定している皇室典範の改正問題に取り組むよう要請する考えを示した。厚生省出身であり、有識者会議の古川貞二郎とは先輩・後輩の関係である」。 天皇制是非問題はさて措くとして、小泉派の「女性天皇・女系天皇の容認運動」が伝統的天皇制の慣例を破る異色の対応策であることは論をまたない。してみれば、こたびの宮内庁長官発言は、天皇の政治利用批判を口実にして天皇制擁護のポーズを見せているものの、実は羽毛田宮内庁長官その御仁が天皇制の破壊者であり、天皇制の政治利用の請負屋であるというパラドックスを孕(はら)んでいることになる。 こうなると逆に、「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭、官僚愛好御用事件」に関与したような不届き者を宮内庁長官に認容した政治主義的登用こそどす黒い意図に貫かれていることになる。よりによって例のごとくシオニスタン狂人首相小泉その人の采配である。全く、小泉のしたことでろくなものがありゃしない。その狂人を名宰相として囃したてた田原以下の評論士よ、口を拭うことは許されない。小泉名宰相論を堂々と弁じて見せよ。 さて、ここまで確認すれば、こたびの羽毛田宮内庁長官発言の後処理をどうすべきか明快ではなかろうか。同時に、「ノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭、官僚愛好御用事件」そのものの再検証が必要で、単に官僚腐敗の例証としてのみ位置付けるのは片手落ち過ぎるのではなかろうかということになる。誰か、この認識を共にせんか。 2009.12.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評635 | れんだいこ | 2009/12/19 22:22 |
【小沢パッシング考、歴史の醍醐味に生きよ】
鳩山政変により民主党政権誕生以降今日まで3か月を経過したが、この政変の立役者であった小沢幹事長に対する坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりの執拗なパッシングが続いている。この背景に何があるのだろうか、これを解析しておく。 2009.12.16日、小沢幹事長は、小沢パッシング情勢下で、田中角栄元首相の17回忌の法要の為、新潟県柏崎市に出向いた。法要には出席せず、同党の田中直紀参院議員、妻の真紀子・元外相に案内され、元首相の墓に手を合わせた。法要や墓参りには、元首相の後援会の元幹部や、一般の支持者ら数十人も参加した。小沢はその後、記者団に、「政界で活動できるのも、田中角栄先生のご指導のおかげだといつも思っている。先生に負けないような政治家になるように、今後も一生懸命、できる限り頑張りたい」と抱負を語った。 これこそ小沢の真骨頂ではなかろうか。れんだいこは喝采を贈りたい。れんだいこが小沢抱負を解釈すれば、小沢は、戦後政治の対抗軸が角栄的なるものと中曽根的なるものに由来していることを熟知した上で、俺は角栄的なるもの路線に乗るとの決意を公然と宣言したことになる。現在の政治家で、かく座標軸を据え、かく旗幟鮮明にし得る政治家は小沢以外にいないのではなかろうか。身の危険を顧みずの士道精神を感じるのは、れんだいこだけだろうか。 この小沢政治を酷評するのがへなちょこ評論士である。それは、現代の権力機関である政財官学報司の六者機関に巣くうシオニスタンどもの代理人エージェントに過ぎないことを自己暴露している。世が世なれば売国奴として指弾され、決して表舞台には出られない連中である。今は彼らの天下だからして、堂々と好き放題のわが世の春を謳歌し続け、ろくでもない評論を吹聴しまくっている。 残念なことに、この政治抗争軸に対して、日本左派運動が全く無見識の対応を見せていることを指摘しておかねばならない。日本左派運動のかくもみじめな生態は、いわゆるシオニスタン系サヨ運動と呼ばれるのが相応しい。シオニスタン系サヨ運動が久しく左派運動を壟断している。いずれ早急に本来の左派運動に戻さねばならない。彼らは、ロッキード事件以来、角栄的なるものに対する徹底糾弾、その後に立ち現われた中曽根的なるものに対しては是々非々のアリバイ的反対運動でお茶を濁し、間接的に裏から支援するという役割を果たしてきた。日本左派運動の逼塞は、この傾向強化と共に深まり、払拭と共に再生するという加減にある。誰か、この認識を共にせんか。 その小沢が今、「公設第一秘書・大久保隆規被告の公判」で又もイジメられようとしている。容疑は、西松建設のダミーとされる政治団体による献金に伴う政治資金規正法違反なるものであるが、れんだいこは到底納得し難い。その内容を確認するのに、小沢幹事長の資金管理団体収支報告書が「新政治問題研究会」、「未来産業研究会」なる団体からの寄付金合計3500万円を記載していたところ、東京地検がこれを西松建設からの迂回献金であり政治資金規正法違反であるとして政策秘書の大久保氏をいきなり逮捕し、筋書き通りの供述を強制し長期拘留に至るも思う通りの自白が取れず、今日の裁判を迎えているという経緯を見せている。 2009.12.18日、初公判が開かれ、大久保被告は当然ながら起訴内容を否認した。「あくまで政治団体からの献金としか思いませんでした」と述べ、起訴内容を否認、無罪を主張した。次の法廷は1月13日に開かれ、早ければ3月にも判決を迎える見通し、ある。 あきれることに東京地検は、「天の声」なるイカガワシイ法概念まで持ち出している。どうやら本気で「天」を裁くらしい。どうやら、雨が降るも振らぬもお天とう様のせいにして罰したいらしい。しかし、この式の法理論を振り回すのは狂人と云うべきだろう。なりふり構わぬ小沢パッシングの意図だけ見えてくる話である。「疑わしきは罰せず」なる抑制的法理論はとうの昔に捨て去ったらしい。れんだいこが指摘しておく。お前たちが「天の声裁き」に耽ればふけるほど、「シオニスタンの声」が聞こえてくるぞ。「シオニスタンの声」に忠勤することで出世街道切符を手にせんとしている性根の悪そうな生態が見えてきてイヤラシイぞな。 れんだいこ史観によれば、かような東京地検の国策捜査はロッキード事件から始まる。かの時から、東京地検の正義が大きく捩れた。この捩れを捩れと思わぬ程度の頭脳の主が出世し権力を得てから、検察の正義は地に堕ち、数々の「上からの法破り」事件を引き起こしつつ今日まで至っている。この腐敗がいつまで続くか分からないが、破綻するところまで定向進化することは疑いない。それはともかく、この東京地検の国策捜査にエールする形でシオニスタン傭兵たちが口先を尖がらせて小沢パッシングし続けている。 こうなると、れんだいこがしゃしゃり出ねばなるまい。こら!シオニスタンめ、どこの世界に貰った金を届け出たことにより制裁を受けるような理不尽があろうぞ。「貰った先がイカガワシイ、よって罰せられるべし」などとする法理が許されようぞ。そったらことなら、貰った金を届けぬことが良くなるではないか。中曽根みたいに届けぬ者が見逃され、届け出た者が罰せられるのをマジで良しとする連中はよほどオツムが狂っていよう。 罰せられるべきは、「貰っているのに届け出していない罪」であろうに。最近は「貰っていないのに貰っているとして届け出ている」不思議な例もあるが、不届罪が重罪であり、その逆ではない。「貰ったと届け出た方が罰せられる」なんてことが罷り通れば、これを世の末と云う。これを良しとせんとする法曹界は狂っている。その狂人どもが小沢パッシングを続けている。全くもって脳味噌が腐っているしか言いようがなかろう。 この腐れウヨが今、小沢テロを呼号し始めている。当然これを始動せしめているのがシオニスタン奥の院であり、国際金融資本帝国主義ネオシオニストである。最近、中国要人と天皇陛下の会見を廻る騒動が勃発したが、ブッシュの№2・チェイニー副大統領の場合には咎められず、中国の№2・習近平国家副主席の場合には大騒ぎするとはこれ如何に。たまたま右翼の論客と自称する知り合いにかく問うたところ、アメリカは何をしても良いのだ、中国は許されないと堂々と述べ給うた。戦後右派運動がシオニスタン系ウヨ運動に堕していることの生々しい証言であろう。ウヨもサヨも金と地位に弱い。甘言で言論を売る手合いでしかないことが分かろう。それか元々オツムのデキが悪過ぎるのかも知れない。 今、小沢は恐らくヒシヒシと身の危険を感じつつ最後のお国奉公に精出している筈である。日本が国際金融資本帝国主義ネオシオニストに捕捉され解体溶解される動きに座して見やることは堪えられず、原日本の培ってきた悠久の歴史を守るため奮闘努力している筈である。師を角栄に置くという宣言が、これを語っている。これ以外の小沢論を奏でる必要はない。これ以外の小沢論ばかりであるが、れんだいこが許さない。 もとより小沢は角栄ほどには実力者ではない。しかしながら磁石が鉄粉を寄せるように、小沢政治に期待を寄せる向きも強い。世界の動向は次第に小沢の背に角栄を観て、これを支えんとしているようにも見える。なぜなら、この動きをもってせずんば国際金融資本帝国主義ネオシオニストとの対決ができないからである。彼らの悪どい支配を終わらせる為には、闘う主体が確立されねば前に進めないからである。この力関係がどう動くのかは分からない。しかし、歴史に生きる為にはこの程度の不退転の決意が要る。これがそもそもの政治の醍醐味である。我々もまた醍醐味に生きようではないか。以上、一言しておく。 2009.12.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評636 | れんだいこ | 2009/12/21 18:35 |
【阿久根市・竹原市長の「差別用語言論問題」考】 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が「差別用語言論問題」で騒動に追いやられているようだ。これに関して、れんだいこ見解を出しておきたい。 れんだいこは、竹原信一市長の委細の履歴までは知らぬが、同市長が先だって市役所職員の給与明細を公開した挙については高く評価している。これについては、「公務員給与考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/komuinkyuyoco/kominkyuyoco.htm)で言及している。 公務員給与を廻る問題提起の原資料を提起した竹原市長が今、「差別用語言論問題」で「謝罪と辞職」を要求されているとのことである。具体的にどのような状況下でどのような発言をしたのか、それを伝えると差別を助長するとの配慮でか報道されていないように見受けられる。もどかしいが、れんだいこにも分からない。分かるのは次の経緯である。 11.8日、竹原市長は、ブログに「医師不足の原因は医師会」と題して論じる中で、医師不足問題で医師会を批判する内容を記した後、「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰(とうた)された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった」、「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」(原文のまま)と記載していたとのことである。全体の論調が分からないのでコメントしにくいが、現代社会の微妙な問題に土足で分け入り快刀乱麻していることが分かる。「目の不自由な人に対する差別的な発言をした」、「ブログに障害者の出生を否定するような文章を掲載した問題」とも書かれているので、この辺りも関係しているらしい。 早速、竹原市長ブログが噛みつかれることになった。「市長という公的な立場にある者のブログとして不適切」と云うことになった。市議会で激しく追求され、「竹原市長の答弁に当惑と怒りが渦巻いた」様子である。 2009.12.17日、竹原市長に謝罪を求める決議案が、何と市議会ではなく県議会(金子万寿夫議長)に於いて出席議員50名の全会一致で採択されている。一自治体の首長たる市長に対して県議会が非難決議するのは極めて異例なことであろう。県議会が県知事を弾劾するのなら分かる。県議会が市長を弾劾する作法が分からない。こうなるといずれ、国会が県知事や市長を弾劾する時代がやって来そうだ。 同18日、障害がある全国の議員らでつくる「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」(入部香代子代表、30人)が抗議に訪れ、自身が障害者である平野みどり熊本県議(51)ら3議員が代表して竹原市長と面会した。同日、竹原信一・阿久根市長の差別的記述に対する市議会の「取消と謝罪を要求する決議」が賛成11反対4で可決された。採決に先立つ討論では、決議に反対した市長派市議が市長擁護論を展開している。同日、阿久根市職労(花木伸宏委員長・200人)は、差別的記述に対する抗議声明を総務課を通じて市長に渡した。文面は、「障がいのある方の福祉を増進すべき立場を否定したもの」と非難し、「不適切な記述を直ちに削除し、真摯(しんし)な反省を持って謝罪すること求める」などとしている。これらの動きを踏まえてと思われるが、午後、ブログの問題部分は削除され、「ただいま修正中」と書き込まれた。 興味深いことは次の問答である。12.18日の竹原市長と平野県議のやり取りで、平野県議が、「差別するつもりはなくても、相手が傷つけば差別になる」と指摘した。その後、障害者の表現をめぐる話になたらしい。竹原市長が、「めくらとか、ちんばとかいう言葉は禁止用語なのか」と述べたのであろう、平野県議が「めくらとか、ちんばとかいう言葉は今は使わない」と応えている。続いて市長は、「『めくら千人、めあき千人』との言い回しがあるが、言い古されてきたこういう表現も駄目なのか。どう言えばいいのか」と質問している。平野県議らが「差別語で傷つく人がいるから現在では使いません」、「絶対に使ってはいけない言葉。市長が、そういう表現を使うことが残念でならない」と諭したという。それに対して、竹原市長は、「言葉を制限すると文化がしぼむ」などと持論を展開した。平野県議が「『視覚障害者』と言うべきだ」などと言うと、「そういうふうに言うんですか」と答えたという。竹原市長は、問題の記述について「乱暴で誤解を招いた。誤解を招かないような表現に修正する」と「反省」したものの、他方で「障害者団体などの批判は誤解だ」との姿勢を崩さず、「謝罪はしない」とも述べたという。 マスコミは、「差別用語を持ち出して反論していたことが、関係者への取材で分かった」、「めくら千人……は、世の中には道理の分かる人もいるが、分からない人もいるという意味で差別的表現とされる」とのコメントを付し、竹原市長の見識を批判している。この問題を愚考してみたい。 れんだいこは既に、「いわゆる「差別用語と言葉狩り」について」を発表している。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/burakukaifoundo/sabetuyogoco/kotobagarico.html) 繰り返すことになるが、「めくら」とか「ちんば」なる言葉を差別用語として規制するのは構わない、それに代わる適宜な表現があればという但し書きで。問題は、言葉を規制しただけでは終わらないのに、いつも言葉尻を咎めて解決せんとしているエエ加減さにあると思っている。もっと云えば、差別用語の規制は構わないのだが、その対価として、用語上それらの既成表現に代わる簡に要を得たしてものを生み出さねばならないと思っている。それができない以上、批判は片手落ちにとどまるということである。政界における万年野党の対案示さずの反対討論染みて聞こえるのは、れんだいこだけの感慨だろうか。 「めくら」を「視覚障害者」、「ちんば」を「下肢不自由者」、精神病者を「統合失調者」と云い換える場合、新表現の方がより適切、より的確である方が望ましい。れんだいこには、学術論文の場合の精密規定による長たらしい表現は別として、一言で対象を表現でき且つ表現し易い語調のものを捜している。そういう意味で、新表現が旧表現よりも適切かどうか疑問を抱いている。なぜなら、人の頭脳と云うものは、より的確な認識を求めるのを本性としていると思うからである。より的確な認識を求めること自体には咎はない。そのこと自体には差別性はない。差別性が生まれるのは的確な認識獲得後の社会的対応からである。その語を差別傾向に使う者も居るだろうし、是正方向に使う者も居るだろう。それは各人の性向、時代の性格に依るのではなかろうか。 れんだいこが、このように云うと、差別表現固持者であるとして批判が聞こえてきそうである。そういう批判者に逆批判しておく。差別問題の本質は、表現を難詰、言葉狩りして正義ぶることにあるのではない。対象とされる側の者の層の政治的、制度的、社会的に的確相当な対策が講ぜられるべきことにある。もとより、相手が傷つくのを承知で不用意不必要乱語的に多用されるべきではない。問題は、一々目くじら言挙げして封じ込めれば解決済みとするものでもないところにある。目指すべき地平は、ハンディー者をして勇気づけ、ハンディーを抱えながらもけな気に生きて行こうとする者に対する生活支援、愛情配慮することにある。このことの方がよほど大事なのではなかろうか。文言を避けて通れば良いというものではないということである。 付言しておけば、現在、「気違い」なる表現は不適切とされている。しかしながら、れんだいこが解するところ、この表現は「気違い」者に対するかなり温かい眼差しを持つ表現であると思っている。なぜなら、「気違い」とは「気の間違い」の略であろうから、「狂人」表現に比べて「気の間違ったお気の毒な身の上」とする配慮が働いているのではなかろうか。つまり、「気違い」なる表現のそもそもは決して差別語として退けられるものではなく、逆に温かい眼差しに根差した表現なのではなかろうか。こういう例は、捜せば他にもあるだろう。今一斉に「古来表現の自粛」が風潮となっているが、無批判な迎合は禁物とすべきではなかろうか。 差別用語ではないが似たような表現に「腹下げ」というのがある。一般には「下痢」と表現されているが、れんだいこには「腹下げ」の方が的確且つ雅びな表現のように思っている。こういう言葉は大事にしなければならないと思っている。「古来表現の自粛」は「古来伝統の自粛」に繋がり、「古来風習、しきたりの自粛」にも繋がると見立てている。それは危なかしい風潮ではないかと棹差したくなる。 もとへ。「竹原市長の差別用語言論問題」は、言論批判に求めるべきではなく、竹原市長は行政の長であるからして、竹原市長の行政に対する見識と施策評価に於いて是非判断されるべきではなかろうか。肝心かなめのこの施策における反動性と言論が重なる時、批判を逞しゅうすべきではなかろうか。入口の差別発言問題だけを取り出す作法は、今日びのマスコミ的正義ではあっても、れんだいこ的には理解できないところである。マスコミ的正義は大概、手前たちは年収ン千万円でぬくぬくしながら、世の貧困問題を論うところに特徴がある。我々は何度、たいこ腹をさすりながら飢餓問題を論ずるコメンテーターを目にして来たことか。彼らの言葉狩りもそうで、一見親切そうでも何らの役に立たない。そういう連中のコメントは常に上から目線の思いつき程度の思いやりでしかない。あるいは、解雇問題の時に残業問題を論じるようなすり替えでしかない。そういうものに騙される方も方ではなかろうか。 竹原市長は、「ブログを読んでもらえれば私の考えは理解してもらえる。メディアが一部を取り上げ、大騒ぎしているだけ」と答弁し、関係者に謝罪する意思がないことを明らかにしている。「言葉を制限すると文化がしぼむ」、「タブーを作ってはいけない。現実を見つめる視点が必要だ」なる発言もしている。れんだいこは、竹原市長のブログを読んでいないが、かなり確固とした信念と世相に流されない文明批評家の眼を持った市長ではなかろうかと思っている。問題は、竹原市長の数々の提言の革新性の良きところを受け止めず、揚げ足取り的な批判ばかりに専念する傾向にある。マスコミはいつしか重箱の隅太郎になり下がっている。 高給でぬくぬくとした生活をエンジョイしながら、如何にも優しそうに寄り添い正義ぶる。そういう正義よりも、もっと大きな正義に向かってほしい、不正義を告発するペンを振るってほしいと願うのは、れんだいこだけだろうか。竹原市長は堂々と所信を貫き、選挙の洗礼を受ければ良い、これがれんだいこの結論となる。 2009.12.20日 れんだいこ拝 |
Re:「日本共産党」の党員・支持者へのよびかけ | れんだいこ | 2009/12/24 00:03 |
sagesageさんちわぁ。コメント付けます。 > すでに かんぜんに 議会主義・民族主義に転落し、 れんだこの見立てによれば、議会主義・民族主義に向かったことは「転落」ではないのです。むしろ慧眼なのです。戦後直後の徳球―伊藤律指導部も、宮顕―不破指導部よりも熱心に取り組みました。問題は、議会主義・民族主義に向かうことにより、何をどう取り組むのかにあります。徳球―伊藤律指導部は政権奪取に向かいました。宮顕―不破指導部は「本物野党」を売り出しております。ここには天地の差があります。徳球―伊藤律指導部は労農学の運動的結合を目指しました。宮顕―不破指導部は議会主義に専一化しました。ここには天地の差があります。徳球―伊藤律指導部は、アメ公にもロスケにも何を抜かすかと闘いました。宮顕―不破指導部は親スタから反スタ、アメ帝論から親オバマへと転じています。ここには天地の差があります。 > プロレタリア革命を放棄し、「ルールある資本主義」をかかげる「日本共産党」は、社会主義革命の敵対物です。 プロレタリア革命とは何ものか。言葉に酔わずに分析すれば、戦後日本の場合、戦後民主主義をプレ社会主義と規定し、護持発展生育せしめるべきだったと思います。体制打倒論は掛け声だけ勇ましく、むしろ反動的であったともみなせます。「ルールある資本主義をかかげる日本共産党は、社会主義革命の敵対物です」についてですが、宮顕―不破指導部は日本左派運動の解体撲滅を請け負って党中央に闖入してきた異分子です。その連中の指導が「社会主義革命の敵対物」化するのは必然でせう。問題は、彼らは意図的であり、それを見抜けないこちら側にも責任がありませう。 > 不破が豪華な山荘でボディガードと専属料理人つきの生活をおくるために あなたがたがはたらく必要は ありません。 不破がどういう生活しているのかは分かりませんが、理論マジシャン的ペテン師であることは確かです。問題は、それを見抜けないことら側にも責任がありませう。理論には理論で立ち向かうべきなのです。 > 「日本共産党」はプロレタリアのあらゆる闘争をうらぎり、また部落差別を扇動してきました。 そういう役目を負って登場してきた指導部ですから、そういう役割を果たすでせう。 > 「日本共産党」は スターリン主義的「国際共産主義運動」すら放棄し、世界最悪の暗黒国家サウヂアラビアなどとの「野党外交」をおこない、反共政権から接待をうけてよろこんでいます。 そういう指導部ですから、そういうことにもなるでせう。 > 不破は、市場経済をほめたたえ事実上、完全に社会民主主義へと移行しました。 不破が、社会主義的市場経済論を創造するのなら意義があります。不破のそれは、修正資本主義的なもので、社会主義論的には反動的な役割を果たしています。そういう不破に対して「完全に社会民主主義へ移行」なる規定は間違いで、「単なる修正資本主義へ移行」したとみなすべきでせう。要するに、老いて緊張感を失い、地金をあらわしたということです。 > 志位は、訪米して、米帝から政権いりのおすみつきをえようとしています。徹底した新自由主義・反動政権である鳩山政権にたいして「建設的野党」などといって事実上鳩山政権打倒の闘争を否定しています。 不破―志位指導部の、やれ財界から評価された、やれワシントンでも国連でも云々なる宣伝に気持ちが悪くならない党員ばかりではどうにもなりません。こったら運動に共産党という名のつく党名を名乗らせている方がオカシイのではないでせうか。全く狂っているとしか言いようがありません。鳩山政権打倒論は、これからギリギリの評定が為されるべきだと思います。徒に鳩山政権打倒論を唱え急進主義ぶるのはいただけません。よりマシ論の筋から言えば、もう少し様子を見る手もあります。れんだいこの評定は新年からにしております。 > 党大会では中央に忠実な党員のみが代議員に選ばれ、「笑い」と「拍手」の満場一致が演出されるでしょう。 共産党は少なくとも国会よりは民主主義的ルールで党大会を為さねばならない運動論的責務がありますが、民主主義を護れは外向けの言葉で、内では無茶苦茶な党運営をしております。しかし、党員が怒らないのだから辻褄は合っております。 以下略。sagesageさん的檄は、私とは少し観点が違うようです。問題は、日共に代わる闘う前衛党が必要なのにも拘わらず出てこないところにあります。どこかの党派が手をあげても、日共よりマシかどうか疑問がある場合が多い。ここに日本差は運動の貧困問題があると考えております。れんだいこが見渡したところ、良さそうなのは、れんだいこ党首率いるたすけあい党ぐらいかなマジふふふ。 2009.12.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評637 | れんだいこ | 2009/12/29 20:05 |
【「1票の有権者数格差問題」で正義ぶる連中に告ぐ】 2009.12.29日、新聞各紙は一面トップで、選挙票格差訴訟の大阪高裁判決を伝えた。先の8月の衆院選小選挙区比例代表並立制に於ける大阪9区と有権者数全国最小の高知3区の「1票の格差」が問題にされ、大阪府箕面市の有権者団体が憲法に違反するとして選挙無効確認を求めた訴訟の特例一審高裁判決である。成田喜達裁判長(異動の為、菊池徹裁判長代読)は、選挙自体は有効とするも、「2倍に達する格差は違憲の評価を免れない」と判示した。 原告側弁護団は判決に対して「歴史的な判決」、「訴訟費用を被告の負担にするという点は、実質的に全面勝訴に近い」と評価し、新聞各紙の論調もこれに応じている。果たして、そう受け止めるべきだろうか。れんだいこは異論を持つので、これを発表しておく。 そもそも、「1票の格差」を有権者数割でのみ評価すべきだろうか。「憲法が保障する参政権の平等」を求める趣旨は良い。問題は、「憲法が保障する参政権の平等」を有権者数割でのみ判断すべきだろうかという点にある。この観点に立つと、弁護団やマスコミが持ち上げる「歴史的な判決」なる評価は胡散臭いものでしかないことになる。世の中は、この程度のことを「歴史的」なる冠詞で持て囃すことが多い。とんだ茶番劇というべきではなかろうか。 この連中の論旨に従えば、今後ますます人口の都市集中が始まるとして、都市部の代議士数が増え、郡部のそれが減らされることになる。先の衆院選でも、東京、大阪、愛知他の大都市圏の代議士数の多さ、それに比較して島根、鳥取の二選挙区という異常さに気づかされたところである。「1票の有権者数格差是正」を主張する手合いは、この傾向をますます広げようとして正義ぶっているだけに過ぎない。 れんだいこは違うと思う。本来は「1票の格差是正問題」であり、「真の1票の格差是正」は有権者数のみの指標で計られるものであってはならない。れんだいこ説によれば、1・有権者数、2・選挙区面積、3・産業力の3ベクトルで選挙区数を確定せねばならない。これこそが「1票の重みの真の格差是正」である。 このことは、大都市圏の代議員数の大幅抑制を意味する。その他都道府県の現状維持ないしは再編を意味する。翻って考えれば、最小の島根、鳥取の二選挙区を基準として各都道府県の適正選挙区数の見直しに向かわねばならないということになる。れんだいこが見立てるところ、衆議院議員数は100名ほど多過ぎる。一議員を養うに要する国家費用の年間数億円供与はかなりの負担であるので、早急な見直しが要請されている。憲法が保障する選挙権問題は、かく思考が及んでいかなければウソだ。 ところが、これには厄介な問題がある。というのは、大都市圏内の代議員数を多くすることで、弱小野党の議席が辛うじて守られているという具合になっており、大都市圏内の代議員数を減らすことに、これら小野党の強い反対が予想される。これをどう解決するのかという問題がある。 れんだいこは、政治家が官僚冗費批判を徹底するのなら、その前に手前たち政治家の冗費を見直しておくのが筋だと考える。現行議員数の約500名を300名にするぐらいが丁度良いと思っている。但し、これをいきなりするのは問題なので400名とするか。これを、申し合わせとして20年後からの選挙から実施するとすれば良い。 あるいは、日本が国家的に500名の代議士を養うだけの国富があるのなら、それこそ「1票の適正さ」を廻って、上記3指標の見地から選挙区割りを変更せねばなるまい。現行の大都市圏集中制は明らかに異常なのであり、その異常性を更に強めるような「1票の有権者数格差是正運動」の正義性の虚構を衝かねばならない。それは、歴史的進歩であるどころか地方を更に弱める悪制でしかない。 思えば、マスコミが持ち上げるような「歴史的云々」にはウソが多い。連中が持ち上げるものには大抵、ろくなものがありはしない。万事において我々はこう確認すべきだろう。今小沢パッシング、かっての金丸パッシング、その前の角栄パッシングの裏には透けて見えてくるものがある。金丸なぞどうでも良いが、歴史上は、ヤラレタ側に正義があるとしたものだ。かく分別すべきだろう。これが云いたかったので記しておく。 2009.12.29日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評638 | れんだいこ | 2010/01/02 19:23 |
【2010.1.1たすけあい党新年声明】
2010年、単に新年と云うばかりでなく、新しい時代の潮流の息吹を伝える新時代元年の年が明けました。皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。 (個人的なことではございますが、昨年末にメール操作の誤りか過去3年分の交信記録が消えてしまいました。その為、あの方この方に年賀メールを出せておりません。本声明をもって、賀正挨拶とさせていただきます) 昨年は遂にと云うべきが、衆院選で戦後史の与党政治を司どってきた自民党政権が壊滅的打撃を受け、民主党に政権を明け渡しました。これにより自公政権から民・国・社政権への転換が為されました。民・国・社政権の政権運営は3カ月を経過しておりますが、選挙前の数々の公約実現に未だモタモタしております。日本人民大衆はヤキモキしておりますが、今しばらく様子を見守ることになりそうです。 この間、検察の突撃隊たる東京地検が民・国・社政権中枢の鳩山首相、小沢幹事長に対する執拗な国策捜査を開始しております。政治と云う子供の喧嘩に大人たる検察が介入し、民・国・社政権壊滅に一役買っている感があります。三権分立が制が、よりによって法の番人たる司法の側から攻撃されると云う異常事態に陥っております。不快ではありますが却ってロッキード事件以来の検察の政治主義ぶりが露わになって、それも良いかなと受け止めております。いずれまもなく東京地検の異常なハシャギを指示している背後の勢力、その奥の院の動きが見えてくることになるでせう。この連中を成敗しない限り日本の再生はあり得ないと思われます。 2010年は、新時代の動きと反動のそれが交差しつつ揺れ動いて行くことになると思います。思えば、2010年は、1945.8.15の大東亜戦争の敗北降伏より65年目に当たります。歴史哲学の世界に65年周期説があります。それによると、歴史は65年単位で新しい革袋を生みだしているということです。平家物語の一節に「奢る平氏は久しからず」とある通りです。この説に従えば、丁度2010年が戦後から数えて65年目の節目になります。れんだいこは、この説を受容し、2010年を新時代元年と認識しております。 この新時代を捉える際の留意点について述べておきます。従来、日本左翼運動は、その標榜するところの革命的観点から既存の体制を否定するところから論を起こしがちになる傾向があります。戦後秩序をブルジョア的なそれとして否定し、右派は体制修繕運動、構造改革路線へ向かいました。左派は体制転覆、プロレタリア革命を呪文のごとく唱えて権力と武闘して参りました。その結果の現状は、今あるがままの皮肉な情勢でしかありません。こうなるとどこが間違っていたか総括すべきです。方法論ではなく原理論的なレベルで歴史を掴み損ねていたと受け止めるべきです。 れんだいこは、別の観点を打ち出したいと思います。日本は、太古の昔から今日に至るまで、世界史上稀なる「なんだかんだ云っても割合と良い社会、国」であった。他国との相対的な比較に於いてですが、ますかく認識する必要があるように考えております。更に云えば、戦後日本は、大東亜戦争の敗戦を通じて、歴史の僥倖か必然かは定かではありませんが結果的に、戦後憲法秩序に体現されたプレ社会主義的体制を獲得していたと窺うべきです。ソ連邦の解体後もマルクス主義の魅力が踏みとどまり得たのは、「実はソ連邦、中国、東欧等々の社会主義は社会主義ではなかった。戦後日本が具現したものこそ社会主義であった」とする知見によってです。戦後日本はそれほど魅力的な社会だったと考えるべきです。その「割合と良い社会、国」が次第に、中曽根-小泉政権以来は急速に破壊されつつある、故に闘わねばならないと考えております。この時代に、中曽根-小泉政権的構造改革路線と親和するような動きを見せた日本左翼運動内の党派、自称インテリ左派が居たとすれば論外として放逐、自己批判を迫らねばならないと考えております。 我々が今闘う基点は、日本が悠久の歴史を通じて培ってきた共生共存の思想、仕組み、共同体の護持です。故に、この基盤を壊す者たち、制度、手法と対決せねばなりません。このことをしっかりと踏まえなければなりません。日本が悠久の歴史を通じて培ってきた共生共存の思想、仕組み、共同体の擁護と発展を目指すのが是の流れであり、これを壊す流れを邪と分別すべきです。これを論証するのは別の機会に譲りますが、世界史上に於ける日本の位置づけをかく確認すべきです。この認識に至らない自称インテリばかりを輩出しておりますが、根本のところが分かっていない無知蒙昧な輩でしかありません。 それもその筈で巷に溢れているのは邪道テキストばかりであり、それ故に下手に学問すると学んで余計にバカになります。そういうバカな自称インテリが大量生産され、その一部がマスコミの寵児となって日ごとに我々を説教し続けております。現代日本を牛耳っている政財官学報司の六者機関の上層部は、こういう連中ばかりで占められております。そういう日本になってしまった訳です。我々はまず、この構図を打破せねばなりません。その為に各戦線に於いて有益な学問テキストを創出しなければなりません。その見分けをどうすべきか。これを簡単に申せば、我々の脳のシワを増すような学問に営為せよ、脳を骨粗鬆するような学問を唾棄せよ、云い伝えされてきているところの年齢に応じた季節感のある寿命の費やし方を工夫せよ、規制強化による生きた屍的生活化への謀りごとと闘え云々と云うことになります。この観点から、各自が営為努力すれば宜しかろうと云うことになります。 れんだいこは、階級闘争論を拝戴致しません。ああいうものの見方は思想の通過点として反面教師的に学ぶべきです。学ばないより学ぶ方が良いのですが、学んで咀嚼すべきです。生硬な階級闘争論は、害にはなっても役に立ちません。もっとも、学ばずして排撃するばかりの手合いに対しては、階級闘争論の値打ちを語り反駁したいとも考えております。しかしながら、階級闘争論はそのままでは使えない、もっと練らねばならないと考えております。生産管理、職場管理の思想を打ち出し磨くべきです。労農階級は歴史の主人公足る能力を身につけ、その大道へ歩を進めるべきです。 もとへ。2010年は、民・国・社政権が切り拓く地平の成果を継承し、これを更に強固なものへとすべしと考えております。第一次内閣として鳩山政権が登場しましたが、左右連衡のやじろべえ的性格を持っております。我々は、この政権の左バネとして位置し扶翼し、右派的動きに対する警戒を強めねばなりません。これを代表するのは、目下のところ前原国交相、北沢防衛相、中井国家公安委員長、続く岡田外務相ラインです。他にもいるのでせうが動きが見えておりません。このラインは、自公のシオニスタン政治と何ら変わるところがなく、否むしろもっと露骨に現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の下僕としてエージェント化しております。この連中が、かく働くであろうことを承知していながら登用した鳩山首相の胡散くさいところです。 我々は、「外治より内治優先、軍需費より公共事業優先、軍事産業ではなく平和環境産業の育成、中小零細企業まで活性化する経済成長政策による税収の自然増、国民の生活と諸権利擁護、消費税の利率アップどころか悪税の廃止、公務員の天下りに伴う高給制度の廃止、国際友好親善協調政策への取り組み」等々を掲げて、これと真っ向から敵対するシオニスタン政治と闘わねばなりません。思い描くべきは、戦後日本の国土復興から高度経済成長時代の在りし日の日本の姿です。軍事予算はGNPの1%枠に閉じ込められ、消費税などなく、雇用・年金・医療制度が確立していました。必要な公共事業が次々と着手され社会資本基盤が整備され続けました。あの頃の日本は、世界史上のお手本的な善政であったように思います。これを論証するのは別の機会に譲りますが、かの時代の日本をかく確認すべきです。その時代のコンピューター付きブルドーザーが角栄であったのは云われる通りです。れんだいこが角栄を信奉する所以です。 その時代は、ロッキード事件勃発、続く1980年代初頭の中曽根政権の登場とともに壊されました。「あれから40年」、日本はかくも惨めな国に転じてしまいました。国債の累積債務は天文学的です。遂に国庫収入が新規国債発行額を下回ると云う異常事態に陥ってしまいました。一体、誰がこんな時代を呼び水したのか、憤りなしには認められません。とはいえもはやあれこれ云ってもキリがありません。後悔よりもこれからが大事です。2010年は、失われた日本の値打ちを認め、再興すべき年の元年とすべきです。れんだいことたすけあい党は不惜身命、歴史に身を預けたいと思います。本年も熱い支持と御カンパよろしくお願い申し上げます。 2010.1.2日 たすけあい党首れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評6398 | れんだいこ | 2010/01/10 16:32 |
【「小沢対検察の攻防戦」考】
2010年早々、東京地検特捜部による執拗な小沢パッシングが始まっている。これに対するれんだいこの不快を吐露しておく。検察司法の蓬莱的役目は、「法の番人」としての正義を護持するところにあると思わるのだが、東京地検特捜部はそのような役割を果たしているのだろうか。あまりにも露骨な「上からの法破り」により法秩序そのものを毀損せしめている張本人なのではなかろうか。だとすれば、こういう法匪を成敗する政治を執行せねばならないのではなかろうか。 小沢パッシングの何がやり過ぎなのかというと、法というものは万人に等しく適用される法理で裁かれねばならぬところ、小沢パッシングの為の特殊な法論理によって小沢裁きに興じているように見えてならない。ここがやり過ぎと云わざるを得ない所以である。こたび喧騒されている「陸山会の4億円収支報告書問題」では、収支報告書への記載がなかったことによる咎めを受けようとしているのではない。小沢氏側は、これを記載報告しているところ、その支出経緯の疑惑問題へと発展せしめられようとしている。 この際、使途目的が問題なのではない。使途目的は秘書団の寮建設であることが判明しており、これを咎められる筋はない。東京地検特捜部が問題にしようとしているのは、寮建設の為の土地取得に絡む資金捻出疑惑である。しかし、果たしてそのような疑惑を生みだすべきであろうか。通常は事件化されるとしたら、政治利用による不当払下げであろうが、本件の場合にはそのような疑惑は見当たらない。市場の中から任意の物件を見つけて相場で取引しているからである。取引過程での詐欺とか恐喝とかの事件が発生している訳でもない。そこで検察は無理矢理にも資金捻出疑惑を仕立てようとしている。 しかし、それなら、資金捻出疑惑は小沢一人の問題としてではなく等しく適用されねばならない。しかしながら、東京地検特捜部はそのような訴追の仕方をしているのだろうか。というより、そういう訴追の仕方が許されるのだろうか。これを論理的に云うと、資金捻出の金種と金主責任論と云うことになろうが、こういう法概念が有り得て良いことだろうか。人がある取引行為を為す場合、今後はそこに支出する金銭の透明性、正当性を証明せねばならないことになるが、こういう法概念を弄び始めると際限のないことになりはすまいか。 東京地検特捜部は、今後こういう法概念を使って取り締まり始めようとしていることになる。こうなると、これは立派すぎる予防取締法である。最近はこういう事前取締まり予防法がめたらやたらに増えつつある。しかし、これは、危険極まりない権力万能に道を開く「上からの法破り」ではなかろうか。かく問わねばなるまい。ケッタイナことに、「社会の木鐸」を任ずるマスコミが、検察の後押しをして検察の正義を吹聴している。とんだ「社会の木鐸」ではなかろうか。どいつもこいつも狂っていよう。れんだいこの子供時代の記憶によれば、新聞は冤罪事件史を好んで取り上げていた。それが今や、検察エールで旗振りすることを得手としている。いつからこんな世の中になってしまったのだろう。れんだいこには分かる。ナベツネが台頭し始めてからのことである。 れんだいこは、東京地検特捜部の動きは職権乱用罪に抵触すると見立てている。東京地検特捜部の動きがハト派に厳しくタカ派を見逃し、国際金融資本の御用聞きによる政治主義的立ち回りをしていることを思えば、なおさら断じて許し難い。日本国憲法はオオトリの第99条で「憲法尊重擁護の義務」を課し、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と記している。検察庁は、これを監視する役目を持つ司法官庁である。その検察が、好んで法破りしている痛ましい現象を思わねばなるまい。 こういう検察の露骨な法破りは、ロッキード事件から始まった。かりそめにも直近の前首相であった田中角栄を外為法違反容疑で別件逮捕した。ちなみに、外為法なるものは為替自由化の波に洗われて死文法でしかなかった。そういう法の違反容疑で前首相という要職にあった者を、しかも別件逮捕するようなことが果たして許されるであろうか。三権分立に対する弁えの喪失というべきではなかろうか。その角栄に対して検察は、外為法違反と受託収賄罪で起訴した。「5億円は全日空のトライスター機導入に絡む賄賂である」として受託収賄罪が適用された。角栄は、これにより「総理大臣より一転して刑事被告人」の立場に追いやられることになった。マスコミと日共が、判決前から容疑クロ一色で包囲網を敷いたのは衆知の通りである。 その角栄の受託収賄罪容疑の証拠固めが無茶苦茶なものであった。伊藤調書と桧山調書がこれに手を貸したが、桧山氏は後に「検察ストーリーでしかない絵空事」として自身が調書内容を否定している。鳴り物入りで「コーチャン証言」なるものを引き出したが、コ―チャンに免責特権を与えての、反対尋問を許さない一方的な供述でしかなく、そのようなものに証拠価値を認める訳には行かないとすべきだろう。その後コ―チャンは姿をくらまし、ロッキード事件の取材を拒否し続けるというオマケ付きである。日本の刑事訴訟法には「免責特権付き供述」なるものは認められていない。それを最高検察庁と最高裁判所が「不起訴宣明」までだして証拠採用した。問題は、「コーチャン証言」が正しい供述ならばまだしも、角栄を貶める為の意図的悪意な供述であったとするなら、どういうことになるのか。これについての司法決着はまだついていない。というかつけようともしないで今日まで経緯している。 角栄は、「5億円収賄」につき徹底否認し最後まで法廷闘争を繰り広げた。この間、マスコミと日共、社会党は、角栄の政界追放を掲げて検察裁きに呼応し続けた。さて、裁判の決着はどうなったか。 1993(平成5)年12.16日、角栄は、別件逮捕劇から17年、有罪か無罪かロッキード最高裁判決の日を見ることなく上告審に係属中のまま逝去した。最高裁は、本人死亡により「控訴棄却」を決定し、裁判終結。つまり、確定判決はないまま公訴棄却となった。つまり、事件の真実は何ら明らかにされないまま終結させられている。 1995(平成7)年2.22日、最高裁は、榎本と桧山に上告棄却を言い渡す。この時の論法が凄い。判決は、事件当時のロッキード社コーチャン社長に対する嘱託尋問に関して、証拠能力を否定していた。ということは、「嘱託尋問問題」は角栄を葬るために援用された特殊法理論であったということを、角栄死去後初めて最高裁が認めたということになる。最高裁が一度認めたものを否定するということは重大な事態であり、本来であれば、このことだけで角栄有罪判決は破棄されるに値する。ところが、角栄に対しては「嘱託尋問手法が否定されてもなお有罪」という果実だけ残されることとなった。法とは、かくも政治主義的なものであることがここに判明する。これまで「嘱託尋問問題」に問題なしとしてきた学会・マスコミがこれに口を閉ざすことが許されないにもかかわらず、この検討が為された形跡がない。 参考までに、刑事裁判での「毒樹の果実」理論について触れておく。これを角栄のロッキード裁判に当てはめると、「嘱託尋問調書という違法な手続きについて捜査が進められて、榎本や伊藤の調書が取られている。それは毒樹になった果実のようなもので、全て汚染されているから、証拠としては排除しなければならない筈である」ということになる。 この時の判決は、こうして「嘱託尋問」の有効性を否認したことから、「嘱託尋問」から発生する受託収賄罪によって角栄を裁くことが出来ず、かわりに援用されたのが「内閣総理大臣の(過剰)職務権限」論であった。ところが、この論も又杜撰な様が露呈している。判決文には、判決書に名を連ねた12名の判事全員が、単独あるいは連名の補足意見をつけているという異例になっている。つまり、職務権限論での統一的な考えが為されないままの「為にする法理論」を又もや駆使していることが明らかにされていることになる。これがわが国の最高の法規判断機関の実体であることを銘記しておく必要があろう。 「小沢対検察の攻防戦」は次第にミニロッキード事件化しつつあるように見える。検察が何らの反省なく、昔取った杵柄で小沢を掣肘せんとしているように見える。日本人民大衆はまたもや、これにだまくらされるのであろうか。あの時と違って、我々にはインターネットいう武器がある。このウェブ上では何らの利益誘導も効かない。これが見ものの言論戦世界である。このことを深く肝に銘じたいと思う。 2010.01.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評639 | れんだいこ | 2010/01/10 16:39 |
【「小沢対検察の攻防戦」考】 2010年早々、東京地検特捜部による執拗な小沢パッシングが始まっている。これに対するれんだいこの不快を吐露しておく。検察司法の本来的役目は「法の番人」としての正義を護持するところにあると思わるのだが、東京地検特捜部はそのような役割を果たしているのだろうか。あまりにも露骨な「上からの法破り」により法秩序そのものを毀損せしめている張本人なのではなかろうか。だとすれば、政治の力で、こういう法匪を成敗せねばならないのではなかろうか。 小沢パッシングの何がやり過ぎなのかというと、法というものは万人に等しく適用される法理で裁かれねばならぬところ、小沢パッシングの為の特殊な法論理によって小沢裁きに興じているように見えてならない。ここがやり過ぎと云わざるを得ない所以である。こたび喧騒されている「陸山会の4億円収支報告書問題」では、収支報告書への記載がなかったことによる咎めを受けようとしているのではない。小沢氏側は、これを記載報告しているところ、その支出経緯の疑惑問題へと発展せしめられようとしている。 この際、使途目的が問題なのではない。使途目的は秘書団の寮建設であることが判明しており、これが咎められる筋はない。東京地検特捜部が問題にしようとしているのは、寮建設の為の土地取得に絡む資金捻出疑惑である。しかし、果たしてそのような疑惑を生みだすべきであろうか。通常は事件化されるとしたら、政治利用による不当払下げであろうが、本件の場合にはそのような疑惑は見当たらない。市場の中から任意の物件を見つけて相場で取引しているからである。取引過程での詐欺とか恐喝とかの事件が発生している訳でもない。そこで検察は無理矢理にも資金捻出疑惑を仕立てようとしている。 しかし、それなら、資金捻出疑惑は小沢一人の問題としてではなく等しく適用されねばならない。しかしながら、東京地検特捜部はそのような訴追の仕方をしているのだろうか。というより、そういう訴追の仕方が許されるのだろうか。これを論理的に云うと、資金捻出の金種と金主責任論と云うことになろうが、こういう法概念が有り得て良いことだろうか。人がある取引行為を為す場合、今後はそこに支出する金銭の透明性、正当性を証明せねばならないことになるが、こういう法概念を弄び始めると際限のないことになりはすまいか。 東京地検特捜部は、今後こういう法概念を使って取り締まり始めようとしていることになる。こうなると、これは立派すぎる予防取締法である。最近はこういう事前取締まり予防法がめたらやたらに増えつつある。しかし、これは、危険極まりない権力万能に道を開く「上からの法破り」ではなかろうか。かく問わねばなるまい。ケッタイナことに、「社会の木鐸」を任ずるマスコミが、検察の後押しをして検察の正義を吹聴している。とんだ「社会の木鐸」ではなかろうか。どいつもこいつも狂っていよう。れんだいこの子供時代の記憶によれば、新聞は冤罪事件史を好んで取り上げていた。それが今や、検察エールで旗振りすることを得手としている。いつからこんな世の中になってしまったのだろう。れんだいこには分かる。ナベツネが台頭し始めてからのことである。 れんだいこは、東京地検特捜部の動きは職権乱用罪に抵触すると見立てている。東京地検特捜部の動きがハト派に厳しくタカ派を見逃し、国際金融資本の御用聞きによる政治主義的立ち回りをしていることを思えば、なおさら断じて許し難い。日本国憲法はオオトリの第99条で「憲法尊重擁護の義務」を課し、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と記している。検察庁は、これを監視する役目を持つ司法官庁である。その検察が、好んで法破りしている痛ましい現象を思わねばなるまい。 こういう検察の露骨な法破りは、ロッキード事件から始まった。かりそめにも直近の前首相であった田中角栄を外為法違反容疑で別件逮捕した。ちなみに、外為法なるものは為替自由化の波に洗われて死文法でしかなかった。そういう法の違反容疑で前首相という要職にあった者を、しかも別件逮捕するようなことが果たして許されるであろうか。三権分立に対する弁えの喪失というべきではなかろうか。その角栄に対して検察は、外為法違反と受託収賄罪で起訴した。「5億円は全日空のトライスター機導入に絡む賄賂である」として受託収賄罪が適用された。角栄は、これにより「総理大臣より一転して刑事被告人」の立場に追いやられることになった。マスコミと日共が、判決前から容疑クロ一色で包囲網を敷いたのは衆知の通りである。 その角栄の受託収賄罪容疑の証拠固めが無茶苦茶なものであった。伊藤調書と桧山調書がこれに手を貸したが、桧山氏は後に「検察ストーリーでしかない絵空事」として自身が調書内容を否定している。鳴り物入りで「コーチャン証言」なるものを引き出したが、コ―チャンに免責特権を与えての、反対尋問を許さない一方的な供述でしかなく、そのようなものに証拠価値を認める訳には行かないとすべきだろう。その後コ―チャンは姿をくらまし、ロッキード事件の取材を拒否し続けるというオマケ付きである。日本の刑事訴訟法には「免責特権付き供述」なるものは認められていない。それを最高検察庁と最高裁判所が「不起訴宣明」までだして証拠採用した。問題は、「コーチャン証言」が正しい供述ならばまだしも、角栄を貶める為の意図的悪意な供述であったとするなら、どういうことになるのか。これについての司法決着はまだついていない。というかつけようともしないで今日まで経緯している。 角栄は、「5億円収賄」につき徹底否認し最後まで法廷闘争を繰り広げた。この間、マスコミと日共、社会党は、角栄の政界追放を掲げて検察裁きに呼応し続けた。さて、裁判の決着はどうなったか。1993(平成5)年12.16日、角栄は、別件逮捕劇から17年、有罪か無罪かロッキード最高裁判決の日を見ることなく上告審に係属中のまま逝去した。最高裁は、本人死亡により「控訴棄却」を決定し、裁判終結。つまり、確定判決はないまま公訴棄却となった。つまり、事件の真実は何ら明らかにされないまま終結させられている。 1995(平成7)年2.22日、最高裁は、榎本と桧山に上告棄却を言い渡す。この時の論法が凄い。判決は、事件当時のロッキード社コーチャン社長に対する嘱託尋問に関して、証拠能力を否定していた。ということは、「嘱託尋問問題」は角栄を葬るために援用された特殊法理論であったということを、角栄死去後初めて最高裁が認めたということになる。最高裁が一度認めたものを否定するということは重大な事態であり、本来であれば、このことだけで角栄有罪判決は破棄されるに値する。ところが、角栄に対しては「嘱託尋問手法が否定されてもなお有罪」という果実だけ残されることとなった。法とは、かくも政治主義的なものであることがここに判明する。これまで「嘱託尋問問題」に問題なしとしてきた学会・マスコミがこれに口を閉ざすことが許されないにもかかわらず、この検討が為された形跡がない。 参考までに、刑事裁判での「毒樹の果実」理論について触れておく。これを角栄のロッキード裁判に当てはめると、「嘱託尋問調書という違法な手続きについて捜査が進められて、榎本や伊藤の調書が取られている。それは毒樹になった果実のようなもので、全て汚染されているから、証拠としては排除しなければならない筈である」ということになる。 この時の判決は、こうして「嘱託尋問」の有効性を否認したことから、「嘱託尋問」から発生する受託収賄罪によって角栄を裁くことができず、かわりに援用されたのが「内閣総理大臣の(過剰)職務権限」論であった。ところが、この論も又杜撰な様が露呈している。判決文には、判決書に名を連ねた12名の判事全員が、単独あるいは連名の補足意見をつけているという異例になっている。つまり、職務権限論での統一的な考えが為されないままの「為にする法理論」を又もや駆使していることが明らかにされていることになる。これがわが国の最高の法規判断機関の実体であることを銘記しておく必要があろう。 「小沢対検察の攻防戦」は次第にミニロッキード事件化しつつあるように見える。検察が何らの反省なく、昔取った杵柄で小沢を掣肘せんとしているように見える。日本人民大衆はまたもや、これにだまくらされるのであろうか。あの時と違って、我々にはインターネットいう武器がある。このウェブ上では何らの利益誘導も効かない。これが見ものの言論戦世界である。このことを深く肝に銘じたいと思う。 2010.01.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評640 | れんだいこ | 2010/01/12 19:45 |
【「節目節目で政局を左右する東京地検特捜部~米保守本流の別働隊~ 沢対検察の攻防戦」考】
「小沢対検察の攻防戦」に関連する情報を探っていたところ、「節目節目で政局を左右する東京地検特捜部~米保守本流の別働隊~ 沢対検察の攻防戦」にヒットした。 (ttp://www.akashic-record.com/y2003/prosec.html#01) これを確認する。前半は東京地検特捜部の胡散くさい正体を指摘しながら、結論部がデタラメな内容になっている。看過し難いので指摘しておく。こういう論法が時にある。気をつけねばなるまい。 論者は、冒頭より米国諜報機関CIAによる政界要人暗殺、失脚、追放史を物語る。ロッキード事件を採り上げ、「田中角栄元首相を金権政治家として失脚させたロッキード事件(ロ事件)という名のスキャンダル工作」について触れる。同事件が石油とウランを廻る米系メジャー派と反メジャー派の抗争によるものだったとして、「角栄の資源外交は、米国にとって絶対に容認できないものだった」と説く。れんだいこは、単なる経済戦争だとはみなさない。国際金融資本帝国主義派の世界支配戦略上、由々しき動きをする角栄に対する鉄槌であったと見立ててるが、この程度の違いはまだ良い。 次に、角栄を首相の座から辞退させた契機として74年10月の月刊誌『文藝春秋』(74年11月号)、それに続く東京外国特派員協会(外人記者クラブ)での会見による袋叩きに触れ、「謀略」を説く。ここはこれで良い。次に、首相の座を降りていた角栄のその後の隠然とした権力に対して、ロッキードスキャンダルの仕掛けを説く。それでも「キングメーカー」であり続けた角栄、その角栄を連日、「金権政治家」、「目白の闇将軍」と非難し続けたマスコミの生態を説く。ここまでは良い。 次に、ロッキード公判闘争に触れ、検察側の訴追論理を「日本法曹史上の汚点」として、その論拠の怪しさを衝く。ここまでは良い。「ロ事件の残したもの……それは、金権政治を糾す司法の正義などとはほど遠いものだ。いちばん重要なことは、日本の司法、とくに東京地検特捜部が、米保守本流の利益のためなら平気で恣意的な法解釈をする、という事実が判明したことだ」と説く。ここまでは良い。 次に「東京地検特捜部 vs. 旧田中派」と題し、「米保守本流の意を受けた東京地検特捜部と、田中角栄とその後継者との戦いは、76年8月に始まり、いまも続いている」とする。ここまでは良い。その後の政界流動、竹下派経世会の創出による田中派の分裂、分裂音頭派の裏リーダーであった金丸の失脚、小沢―羽田派創出による経世会の分裂、小沢―羽田派主導による細川政権の誕生を説く。ここまでは良い。 問題の記述はここから始まる。「細川内閣発足に先立って、その立役者である小沢が著した『日本改造計画』(講談社93年6月刊)はCIAの手で英訳され、全世界で発売されたが、その英語版の序文は、なんとJ.D.ロックフェラー(4世)米上院議員が執筆した(講談社インターナショナル94年9月刊の英語版初版本のオビに「CIA訳」とある)。 これによって、小沢がロックフェラー人脈にスカウトされて旧田中派から引き剥がされ、米保守本流の「お気に入り」となったこと、また今後いかなるスキャンダル工作によっても失脚させられない(CIAが小沢を守る)ことが全世界に明らかになった。旧田中派に「残留」した野中は、のちに小沢のことを「悪魔」「国を売るような者」と罵るが、それは、小沢が角栄の教え子でありながら、角栄の仇敵ロックフェラーの配下になったことを指している」。 この表記によると、角栄チルドレントップの小沢がいつの間にか国際金融資本帝国主義の走狗に仕立て上げられている。あの半端者・野中を引き合いに出して「悪魔、売国奴」と罵らせる。以下、この見立てに転じ、「すでに03年9月、自民党に不利に、民主党に有利になるように、東京地検は秘書給与詐欺疑惑を問われていた田中真紀子元外相を、衆議院の解散直前にわざとらしく不起訴処分にし、彼女が「反自民の旗手」として03年の衆院選に立候補し当選することを許した(真紀子は、竹下らが田中派を乗っ取って以来、彼らと敵対する小沢と親しい)。これこそまさに、地検がいまだに米保守本流の支配下にあることの証拠だ」と云う。 あららっ、いつの間にか角栄の薫陶宜しい小沢と角栄の愛娘・真紀子が、仇敵東京地検と誼を通じ、「米保守本流の支配下」にあるという筋書きに転じている。この結論は何なんだ。ここまで人をその気にさせる記述で誘引し、結論はトンデモになっているではないか。こういう論法はイカガワシイ。右翼がテロリストを使って請け負い刺殺に駆り立てる際の煽り論法に似ている。前半ですっかりその気にさせ、後半で前半の論法とは反対の使命を与える。これを思い出す。 この論者が如何なる人物かは分からないが、「東京地検特捜部と小沢、真紀子が阿吽のツーカーの仲」なる見立ては、白を黒、黒を白と云い立てるさかさまイカサマ論法に他ならない。ロッキード事件で云えば、角栄邸の運転手兼私設秘書だった笠原の東京地検による事情聴取後の変死に対し、当時気鋭のジャーナリストにして現東京都副知事の猪瀬直樹が、著書「死者達のロッキード事件」で、田中側からの謀殺疑惑を微に入り細に入り実証せんとしている変態論法に似ている。 れんだいこは逆である。笠原謀殺は、角栄を窮地に落とし入れようとする側が仕組んだものではないのか。わら半紙4枚の供述書を無理やり書き上げされた笠原氏は、決定的証拠物を提供したことにより既に用済みとなったのであり、かくて葬られたというのが闇の実際ではなかろうか。それが証拠に、笠原氏の死亡で困ったのはむしろ田中側の方である。反証しようもなく、決定的な供述書のみが一人歩きさせられていったのだから。こう推理しない猪瀬直樹とはどういう人物だろう。世に一事万事という言葉がある。猪瀬なるものは一事万事逆さ見解を得手としている厚顔無恥の手合いと心得るべしであろう。 もとへ。文章は、その論理性に於いて説得力を持たねばならない。その上での起承転結である。こたびのそれは、起承転→逆結である。つまり論理が繋がらない。案外こういう文章が多い。こういう文が独り歩きし始めるのは良くなかろう。そういう意味で採り上げた。それ以上の他意はない。 2010.01.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評641 | れんだいこ | 2010/01/13 19:46 |
【「小沢対検察、いよいよロッキード事件化し始める」】
2010.01.13日、東京地検特捜部が、小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」(東京都港区)の捜索に入った。容疑は、「陸山会」が2004年に取得した土地の購入原資4億円が政治資金収支報告書に記載されていないとする問題で、陸山会の事務所やゼネコン大手「鹿島」本社など関係先の家宅捜索を始めた。 また同日、事務担当者だった元秘書・石川知裕衆院議員(36、同党北海道11区)に対し、2回目となる任意の事情聴取をした。原資について解明するため小沢氏本人の聴取が不可欠と判断して年明けに任意の聴取を要請したが1週間たっても応じていない、と伝えられている。 東京地検特捜部は、昨年の2009..3月にも小沢氏周辺を強制捜査し、西松建設による違法献金事件の捜査に着手した。小沢氏はこれにより民主党代表の座を降りることを余儀なくされた。以来10カ月ぶりの再捜査であるが、執拗に小沢追い落としを画策していることが判明する。こたびの捜査により、いよいよミニロッキード事件化し始めた感がある。 さて、我々は、この事件をどう受け止めるべきであろうか。東京地検特捜部の過度の政治主義的な立ち回りを目にしているが、これを掣肘できる術はないのだろうか。そろそろこれを叡慮せねばなるまい。東京地検特捜部の政治案件の捜査が、戦後政治構図上のハト派系政治家に集中し、タカ派系政治家はお目こぼしにあずかっているのは、既に指摘されているところである。ハト派系が公共事業を利権化し、タカ派系が軍需、原子力事業を利権化している棲み分けからすれば、東京地検特捜部の公共事業利権摘発、軍需、原子力事業利権免責の実態が浮き彫りになる。 問題は、東京地検特捜部のこういう性格はどこから由来するのかにある。既に次のように告発されている。「東京地検特捜部の歴代トップは、全員CIAに留学し、CIAの対日工作員としての徹底的教育を受け、日本に帰国する。この教育を受けた者でなければ、東京地検特捜部、そして日本の警察機構の中で、上層部に出世する事はできない」。 しかしながら、こういう実態があるとしても何ら咎められていない。なぜなら、この間の政府自民党、続く自公政治の期間中、同じ穴のムジナが権力者であったからに他ならない。これらを指揮する黒幕は誰か。れんだいこは、国際金融資本帝国主義ネオシオニストと断じている。その胞友はハゲタカファンド一族であり、小泉―竹中政権時代、わが世の春を謳歌して日本の国富を食い荒らし、今も画策し続けているのは衆知の通りである。既に、銀行、証券、生保、損保の金融は彼らの軍門に下り、その他工業、商業、情報も傘下に収められつつある。 この動きを強めようとする連中にとって、一番目障りなのが小沢であり、そのグループである。そういう訳で、かってその師角栄を葬った如く牙を剥き始めている。例によって東京地検特捜部―マスコミ―日共―御用評論家の四者連合がはしゃぎ始めている。今のところ立花が出ていないが、そのうちしゃしゃり出てくることになろう。当分、これを観劇するしかなかろう。 しかしながら、我々は徒に傍観する訳にはいくまい。その前に知識教養としてこの種事件の元祖ロッキード事件を再検証せねばなるまい。ここより教訓を引き出し、有効な対応策を考えねばなるまい。これに関しては、れんだいこの以下のサイトが必読であろう。手前みそながら記しておく。こうやって整理しておくと、役に立つ日が来るとしたもんだ。 ロッキード事件 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rokkidozikenco/rokkidozikenco.htm) ロッキード事件についてはまだ未解明なところが多い。とはいえ、構図として、本来は児玉―中曽根ルートの20数億円こそが摘発されねばならぬところ、こちらは免責され、恐らく受け取っていないであろう角栄の5億円授受が執拗に摘発され、遂に刑事被告人、政界追放の糾弾の嵐へと誘われることになった。ロッキード事件の不正はここに極まる。免責された中曽根は、その後のグラマン事件、リクルート事件でも取りざたされたが、今日に至るまでオール免責と云う不思議な遊泳術を見せている。これななぜなのか、ここに闇がある。検察の正義などといっても、こういう仕掛けの中のものであることを確認すれば良い。 検察が、真に正義を詠うのであれば、郵貯簡保の不正払下げ事件を摘発すれば良かろうに。こちらはダンマリである。なぜか、ハゲタカファンドが絡んでいる。単にそれだけのことである。そういう構図における小沢パッシングであることを確認すれば、論がずれることはない。 2010.01.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評642 | れんだいこ | 2010/01/14 20:41 |
【小沢騒動勃発、日共の蠢動を注視せよ】
2010年早々、東京地検特捜部はどうやら座して死を待つよりはということからであろう、不退転の決意で小沢征伐に向かっている感がある。このころの検察による小沢叩きは、はますますロッキード事件化しつつある。よって、これをもじって仮に「小沢キード事件」と命名する。以下、その兆候の見逃せない動きを指摘しておく。 ロッキード事件の勃発は、今を去る34年前の1976(昭和51).2.4日の米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会でのチャーチ委員長による爆弾発言によってであった。それから7カ月後の7.27日、田中角栄が逮捕された。この間、日米合同捜査と国会における角栄追い詰めの為のみのロッキード質疑が並行した。その中でも奇妙且つ顕著な動きとして日共のそれがあった。れんだいこならではの嗅覚アンテナであるが、これを試論として提供しておく。 当時、日共は、同年秋に予定していた定期党大会を異例中の異例なことに翌52年に延期することとして急きょ、角栄逮捕の翌日の7.28日、第13回臨時党大会を開いている。大会の冒頭、ロッキード事件の勃発直前まで、戦前の小畑中央委員リンチ致死事件の蒸し返しによる疑惑渦中の人であった最高指導者の宮顕が登壇し、シャカリキになって「角栄訴追、対角栄闘争の徹底推進」を呼号した。党内がこの呼び掛けに意志一致させたのは云うまでもない。 そういう史実がある。さほど注目されていないが、れんだいこは、日共党大会の期日が余りにもタイミング良過ぎることを疑惑している。「角栄逮捕翌日の臨時党大会」とは、あたかも角栄逮捕の期日まで予知していたかの如くではないか。もちろん真相は定かではない。そういう疑惑が残るということである。 それはそれとして、日共は、「小沢キード事件」に於ける東京地検特捜部の小沢事務所捜査の同日、2010.1.13日、第25回党大会を開催している。これは果たして偶然だろうか。偶然かも知れない。しかしながら、次のような奇妙な兆候が既に見えている。同党のインターネットホームページの本日1.14日付けトップを見れば分かる。 (ttp://www.jcp.or.jp/) 「国民とともに新しい政治を探求/激動の情勢 日本共産党25回大会始まる」と「第25回党大会での志位委員長の開会あいさつ」タイトルの間に「小沢氏関係先を一斉捜索/東京地検」と「陸山会の土地購入 強制捜査/原資 ゼネコン裏献金か」、「主張/土地資金疑惑/小沢氏は国民に説明すべきだ」を差し挟んでいる。普通には、「国民とともに新しい政治を探求/激動の情勢 日本共産党25回大会始まる」と「第25回党大会での志位委員長の開会あいさつ」が対であり、この順に並べるところ、敢えて党大会記事の間に「小沢キード事件」3本立て記事を挿入している。こういうことは、意図的故意にしていると読みとるべきではなかろうか。 つまり、日共が如何に「小沢キード事件」を重視しているかが透けて見えてくる。ロッキード事件同様に「小沢キード事件」を仕立て上げ、今後徹底追及する意志を表明していると窺うべきではなかろうか。では、誰に決意表明しているのか。それが肝要である。れんだいこは、「小沢キード事件」を指令している黒幕奥の院に対して「徹底的にやります宣言」であると読む。なぜ分かるのか。 それは、日共のイカガワシサを追求し続けているれんだいこならではの嗅覚によってである。この党は、戦前の共産党運動を最終的に解体せしめた戦前来の宮顕―野坂コンビが1955年の六全協宮廷革命により党中央を簒奪して以来、共産党とは名ばかりの実は現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の裏御用聞き的立ち回りを使命として存続し得ているケタクソの悪い変態共産党に他ならぬ。平素は戦前来の共産党らしき言辞を弄ぶ。しかし一朝事ある時には、国際金融資本帝国主義の要請通りの反革命にシフトする。これにより、二枚舌ならぬマルチ舌を余儀なくされ又は得意とすることになる。不破の呂律なぞその典型であろう。 さて、日共の決意は分かった。問題は、我々の戦略的対峙の仕方こそにある。ロッキード事件の二の舞を避け、日共反革命のペテン性を満天下に知らしめる好機とせねばならない。敵もこちらも問題は絞られている。所詮は土地購入資金の調達利権騒動でしかない小目的を操って、小沢の政界追放、小沢逮捕、これによるこのところの民主党主導による日本再生運動総体を解体せしめようとする国際金融資本帝国主義の大目的が課題である。我々に問われているのは、日共のエージェント活動に対して、これに加担唱和するのか、これを覆すのかである。 敵はケタ違いの権力を行使している。たがしかし、彼らにも弱みがある。一つは、土地資金調達疑惑程度の問題により果たして小沢を葬れるのかと云う目的の正義性の脆弱さである。もう一つは、国際金融資本帝国主義の思惑による日本溶解解体計画の野蛮性であり、ここまで生活苦を悪化させている日本人民大衆がこれ以上、連中の思惑をすんなりを受け入れることはよほど困難であるという見通しである。連中には、悪あがきをせねばならない苦しさがある。 つまり、こたびの「小沢キード事件」の基盤は弱いと云うことである。もし、彼らが敗北すると、国際金融資本帝国主義の御用聞き派は壊滅的打撃を見舞われることになる。なぜなら、この事件の捏造過程の解明を通して相応の責任を取らされるからである。その勢いは、簡保施設の不当払下げ疑惑の徹底究明へと接続する。「小沢キード事件」は、これをさせぬ為のかく乱的動きと読むこともできる。 そういう意味での闘いの火ぶたが切って落とされたと受け止めるべきであろう。この勝敗は国際情勢にもよる。国際金融資本帝国主義の復元力に応じて彼らは勝利し、国際金融資本帝国主義の勢威衰えに応じて、彼らの野望は破綻する。我々は、どちらを見てとるべきだろうか。れんだいこは、国際金融資本帝国主義のシナリオ総崩れ必至と見立てる。なぜなら、案外彼らのシナリオは、その思想と同じく児戯的狂的であるからである。動けば作用を生むが倍する反作用なしには進めない。 以上、気づいたことを発信しておく。早く日本版アルジャジーラ放送局を創ろう。そうすれば、手もなくひねり潰すことができように。くだらない論説委員の顔色論なぞ聞かなくて済むだろうに。 2010.01.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評643 | れんだいこ | 2010/01/18 20:59 |
【2010.1.18日 たすけいあい党 党首れんだいこ声明】
「小沢キード事件」とも云うべきミニロッキード事件が政界を激震中である。ロッキード事件の際にもそうであったが、御用評論が総出で「検察の法の正義」を説きまくっている。果たして「検察の法の正義」なるものが存在するのかどうかの詮議を抜きにして、日共が又もや「検察仕立ての容疑」を錦の御旗にして、小沢の政界追放を騒ぎ始めている。ロッキード事件と構図が全く同じである。 多少違うのは、ロッキード事件以降の政界のハト派からタカ派への転換に伴い、日本の国政が政治経済文化の総体に於いて資質が劣化し、シオニスタン政治に誘導された結果、見るも無残な日本国へと凋落しているという環境激変である。さしもの「検察の法の正義」阿諛追従派も、当局の正義プロパガンダをこれ以上鵜呑みにできず首を傾げ始めている。そういう現象が生まれつつあるということだろうか。 2010.1.16日、小沢・党幹事長は、民主党の定期党大会で、資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で子飼いの秘書三名が逮捕されたことを廻り、三権分立に基づく戦後民主主義の危機として、検察との全面的対決を決意表明した。幹事長辞職を促すマスコミ取材陣に対して、「こんなやり方をされて辞職するつもりはない」と述べ、夏の参院選勝利を目指す意向を示した。 この小沢幹事長に対し頼もしい助っ人が登場した。新党大地の鈴木宗男代表が来賓としてあいさつし、自身の経験を伝えながら検察の不当捜査、暴走を弾劾し、小沢幹事長に「自信をもって幹事長としての役割を果たしていただきたい」とエールを贈った。 これが真っ当な政治感覚であるべきところ、シオニスタン政治家、シオニスタン評論家ばかりであることにより、新聞、テレビでは逆の論調の嵐が執拗にプロパガンダされている。そういう者どもに告ぐ。君たちのそういうシオニスタン御用姿勢は不治の病であるからして治癒し難しとしても、歴史の転回点にあっては無用な遠吠えに過ぎない。いずれ言論責任が問われることになるであろう。なぜなら、今日の情報社会では、逐一の言論が映像と共に保存されているからである。頭を隠して口を拭えば忘却されるというものではない。このことを知って心して発言するように。老婆心ながら忠言しておこう。 かのロッキード事件の時、元警視総監にして法相を歴任した秦野章・氏は、「コーチャン嘱託尋問は違憲」、「政治家に徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」、概要「法治国家における法と政治の関係は性格がまるで反対だ。法の世界の正義は政治の世界のそれとは違う。法の世界の正義は政治の世界のそれを超えるものであつてはならない」と述べ、検察の暴走に釘を指し続けた。「昭和元禄田舎芝居」という言葉も放ち流行語となった。 秦野発言の興味深いことは、検察の法理論と警察の法理論が違うと云うことであろう。検察と警察は必ずしも一体ではないということであろう。だが、あれから30年、警察の側から秦野式発言をする猛者は生まれてこない。警察も次第にシオニスタン化させられたということであろう。 対比的に興味深いことは、「小沢キード事件」を陣頭指揮している「東京地検特捜部長・佐久間達哉氏の経歴」であろう。神奈川県横浜市出身、東大法学部卒の佐久間は、1983年に任官し、1980年代を在米日本大使館1等書記官として駐米日本大使館に勤務している。そこで、太平洋戦争当時から中曽根康弘と戦友の駐米日本大使・大河原良雄の忠犬として宮仕えし、中曽根首相と二人三脚の親米外交に傾斜した。大河原は、退任後に外務省管轄ではなく防衛省の管轄の「財団法人世界平和研究所」の理事長に就任している。同財団には名誉会長に中曽根康弘、ブレーンにナベツネの名が連ねられている。中曽根&ナベツネ-大河原-佐久間ラインの線が見えてくる話である。 その佐久間は、元々が法務省官僚なのか外務省なのかはっきりしないが、後に東京地検特捜部検事、法務省人権擁護局調査救済課長、刑事局公安課長、刑事課長や東京地検特捜部副部長などを歴任している。佐久間の上司は岩村で、この二人が旧日本長期信用銀行の粉飾決算事件で元頭取らを逮捕した。岩村が特捜部副部長、佐久間が主任検事だった。(後に、元頭取ら3名は最高裁で無罪勝訴している) 佐久間の東京地検特捜部副部長時代、佐藤栄佐久前福島県知事汚職事件や防衛施設庁の談合事件などを手掛けている。佐藤栄佐久事件は冤罪、防衛施設庁の談合事件はもみ消しの胡散臭いものである。その後、東京地検総務部長を務める。2008.6月、岩村派の後押しで、東京地検特捜部長を拝命している。 小沢民主党党首の周辺への「国策捜査」の陣頭指揮をとったのは「佐久間達哉特捜部長と樋渡利秋検事総長」の二人と云われているが、この履歴を見れば、何が「検察の法の正義」であるものかは。現代世界を牛耳る国際金融資本の走狗として「政治主義的国策捜査」に蛮勇を振るっているに過ぎないことが透けて見えてこよう。 日本サッカーの監督を経験していたトルシェが、2009.5.21日付けブログ「トルシェの世界」で鋭く分析している。次のように述べている。 「小沢の秘書を無理やり逮捕した、東京地犬特捜部。彼らは、本当に正義の味方なのであろうか? 彼らの前身は、1947年(昭和22年)「隠退蔵物資事件」 を契機に、戦後隠された旧日本軍の軍需物資をGHQ(米国)が収奪するために作られた組織なのである。つまり、地検特捜部とは日本の検察が独自に作ったものでは全くないのであり、単なる「米国の出先機関」であったというわけだ。 そのため、これまでも米国にとって都合の悪い人間は、事あるごとに逮捕し政治的に抹殺してきたのである。 田中角栄、金丸信、橋本龍太郎、鈴木宗男、中村喜四郎、今回の小沢の秘書…。逮捕されるのはなぜか旧田中派の人間ばかりで、今回の西松献金事件においては、自民党からもたくさん名前が挙がったわけだが、疑惑としてメディアに名前が頻繁にあがったのは、なぜか二階俊博(旧田中派)だけであった。そのかわり、米国にとって従順な人間にはどんなに疑惑があがっても、常に無事であるのはなぜだろう(特に清和会 )?(岸、佐藤栄、小泉、森、尾身、中曽根ら) 少し考えてみるといい。自民党は半世紀以上にわたって、政権を維持し続けてきたのである。いわば独裁だ。その政党が自分らがもしかしたら捕まるかもしれないような組織をわざわざ作り、長い間放置しておくであろうか?普通に考えてありえない話である。とすれば、必ずしも、この東京地犬特捜部とは自民党のコントロール下にあらず、もっと別の影響下にあるのでは?と思うのが自然であろう。今回の小沢の秘書逮捕も、小沢が「米国の極東における存在は第7艦隊で十分」とヒラリー国務長官に述べた直後に起こったのである。決して偶然とは言えないのではないか」。 実に鋭い。れんだいこは、トルシェ監督は、こういう慧眼の主でもあるということが分かり驚いた。何事も、一芸に秀でると他もよく見えると云うことか。「トルシェの世界」の舌足らずなところを補足しておくと、検察にやられたのは「田中角栄、金丸信、橋本龍太郎、鈴木宗男、中村喜四郎、今回の小沢の秘書」であるが、他にも変死又はテロの可能性として辻政信、浅沼稲次郎、中川一郎、新井将敬、石井こうき、松岡利勝、中川昭一等々の面々の位牌が連ねられている。 この共通項は何か。日本の自主独立的政治を目指そうとして粉骨砕身政治に生きた者達である。若干の例外は別として概ね遵憲派である。逆に云うと、改憲、自衛隊の海外武装派兵派且つ原子力行政推進派はことごとく法網から逃れていることが判明する。あらゆる疑獄事件に名を連ね、いつも逃れる中曽根大勲位はなぜなのか。自ずと透けて見えてくる話ではないか。小泉―竹中ラインの悪行が不問にされ続ける不思議さが不思議てなくなる話ではないか。 「東京地検特捜部の歴代トップは、全員CIAに留学し、CIAの対日工作員としての徹底的教育を受け、日本に帰国する。この教育を受けた者でなければ、東京地検特捜部、そして日本の警察機構の中で、上層部に出世する事は出来ない」。この指摘の持つ意味は大きい。れんだいこは、そう考える。 さて、結論だ。我がたすけあい党は、こたびの「小沢キード事件」に対する小沢民主党幹事長の不退転の闘争決意を熱烈エールする。一度は、日本政治史上こういう闘いをやらないと世の中が変わらない。シオニスタン検察コントロール下の国会権力なぞ何の興味もない。人民大衆的なものにした上での国会権力の創出こそ善政の第一歩、橋頭保と為すべきではないのか。下野した自民党の面々が検察の背後に廻って検察を押し立てての政権奪取など見とうももない。国会権力を内部瓦解させる自民党のの瓦解は止まらない。 問題はここからである。さて、日本政治はどう流動するのか。一言だけ申し伝えておく。日共、社民がいずれ小沢邸に御用提灯下げて包囲する日が来る。頼むから全学連の勇志よ、検察庁包囲の方へ廻ってくれ。指をくわえてポカンとせずに検察庁糾弾闘争を組織せよ。 2010.1.18日 たすけいあい党 党首れんだいこ声明 |
声明への賛同表明 | こうもり | 2010/01/19 10:02 |
現在の事態を、私「こうもり」は、「金権」を過大に騒ぎ立てて「売国」のたくらみを隠蔽せんとの、検察マスコミと背後の国際金融資本家供による政府転覆の陰謀であると見立てている。従って、【2010.1.18日 たすけいあい党 党首れんだいこ声明】に賛同する。検察庁へのなにがしかの行動を提起されたい。 |
Re:声明への賛同表明 | れんだいこ | 2010/01/19 12:03 |
こうもりさんちわぁ。 > 現在の事態を、私「こうもり」は、「金権」を過大に騒ぎ立てて「売国」のたくらみを隠蔽せんとの、検察マスコミと背後の国際金融資本家供による政府転覆の陰謀であると見立てている。 > > 従って、【2010.1.18日 たすけいあい党 党首れんだいこ声明】に賛同する。 > 検察庁へのなにがしかの行動を提起されたい。 趣意賛同の御意有り難う。財政余裕が許せば、れんだいこも検察庁包囲闘争に向かいたいです。三井環事件で内部告発されておりますが、検察庁が法の正義を説くには汚れ過ぎております。その政治主義的捜査ぶりは、法の正義を御旗とするには資格喪失者と言えます。断固糾弾に立ち上がりたいです。 2010.01.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評644 | れんだいこ | 2010/01/19 20:47 |
【三井環・氏の検察内部告発考その1】 「小沢パッシング」のさなか、三井環・元大阪高検公安部長が刑期満了出所した。歴史は不思議な廻り合わせをする。これが何とも味わい深い。 2010.01.18日、稀代のシオニスタン検察官僚「佐久間達哉特捜部長と樋渡利秋検事総長」コンビの指揮による東京地検特捜部のなりふり構わぬ「小沢パッシング」が暴走しているさなかの丁度折も折、捜査情報漏洩(ろうえい)の見返りに元暴力団組員から接待を受けたとして収賄罪などに問われ、懲役1年8月などの刑が確定、平成20年10月に収監され服役していた三井環・元大阪高検公安部長(65、懲戒免職)が刑期を満了し静岡刑務所を出所した。 その三井氏の検察内部告発を確認しておく。東京地検特捜部が、「法の正義」の名の下に小沢氏の政治資金団体「陸山会」の土地購入を廻る不記載ないしは虚偽記載を容疑としての 強制捜査及び秘書団の強権逮捕に向かえる資格があるのか、炙り出してくれよう。「小沢パッシング」に興じるマスコミと御用評論家への煎じ薬としたい。 三井氏の「2002(平成14)年5月13日声明文」は次の通り。 声 明 文 日本の司法界の腐敗構造、検察庁、裁判所によるでっち上げ冤罪事件 - 日本に正義はありません (ttp://www.kyudan.com/opinion/kensatsu2.htm) 私は2002年5月10日、収賄等により再逮捕されました。この事実も私に遺恨を抱いていた暴力団組員の利害と、私が検察の組織的裏金づくりを実名で公表しようとした口封じをする検察の利害とが一致し、暴力団員の嘘の供述をまにうけた検察とが結託して、虚構の事実をデッチあげて犯罪事実を構成したものであります。 犯罪事実はいずれもデッチあげであり、本来は真白であって明らかに捜査権の濫用であります。かようなデッチあげ捜査がまかりとおるならば、世は闇であります。 取調べはほとんどなく、保釈も許さず長期予防拘留を目的とする捜査、起訴であることは明らかであります。 収賄罪という国民受けの罪名を暴力団員の嘘の供述のみによって、犯罪事実をデッチあげ、それを真実として私の真相供述は否認と位置づけ、検察の組織的裏金づくりを闇にほうむろうとするものであります。私が実名をもって裏金づくりを公表するならば、検察首脳は辞職せざるを得ず、森山法務大臣への政治的責任にも発展するものであり、今回の検察の強制捜査は自らの保身を狙った逮捕であります。この事件の真の意図がどこにあるのかよく考えてもらいたいと思います。 私はかような不当逮捕、起訴に対して断固闘います。 (声明文以上) 三井環・氏は、現役の大阪高検の三井環公安部長であった。その三井氏が、「調査費の裏金」を乱費していることに痛痒を感ぜずの検察の実態を内部告発せんとしていた。 2002年4月22日、テレビ朝日のザ・スクープの取材に応じ、実名で検察上層部の組織ぐるみの「活動調査費横領疑惑」について内部告発しようとしていた取材当日の,鳥越キャスターと待ち合わせの3時間前に逮捕され、2010.01.18日の出所まで服役を余儀なくされることになった。これに暗躍したのは、原田明男検事総長、松尾邦弘元法務事務次官、加納駿亮(しゅんすけ)福岡高検検事長、東条信一郎等々の8名の検察官僚であった。 留意すべきは、ロッキード事件の際に決定的な訴追証拠とされた「丸紅専務の伊藤宏調書」を採った松尾邦弘が顔を出していることであろう。その後の2004.6.25日、原田明夫の後任として検事総長にまで上り詰めている。順調過ぎる出世街道を歩んでいることが判明する。現在は、弁護士として法律事務所を経営しているとのことである。 さて、三井氏が如何なる論旨で検察を内部告発していたのか確認してみよう。読まれた方は、東京地検特捜部がどのツラさげて小沢パッシングに興じているのか、その様が逆彫りで見えてこよう。これ請け合う。 この問題について、前・門真(かどま)市議会議員(権力弾圧で09年3月24日失職)・戸田ひさよし氏の主宰する「自由・論争 掲示板」が精力的に扱っておられる。これらを参照する。 「自由・論争 掲示板」 (ttp://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=;id=01) 「参考(1~4)三井環事件とは何か?【発端は元「関西検察のエース」の逆恨み】」 (ttp://www.hige-toda.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=6299;id=01#6299) 「三井環HP」 (ttp://www012.upp.so-net.ne.jp/uragane) 「KU会第4回勉強会に於ける三井氏の内部告発講演録」 (ttp://blogs.yahoo.co.jp/ku_kai2006/17841263.html) れんだいこは、「三井氏の内部告発講演録」を読んでなかった。これを知るきっかけを戸田氏が与えてくれたことに感謝する。これを熟読精査すれば、目下の「小沢キード事件に於ける検察の正義の虚構」が露わになり過ぎる。そういうきつい内部告発証言であることが判明する。 2010.01.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評645 | れんだいこ | 2010/01/19 23:49 |
【三井環・元大阪高検公安部長の検察内部告発その2、事件の顛末】 大阪高検の三井環公安部長・三井環・氏逮捕事件の顛末は次の通り。 2002.年4月22日。大阪高等検察庁公安部長検事の三井環(みつい・たまき)氏はこの日、昼間にテレビ取材に対して検察の裏金作りの実態を実名告発する予定になっていた。しかし、まさにその直前、その日の朝、彼は待ち構えた検察職員によってでっち上げ逮捕されてしまう。明らかな「口封じ逮捕」である。 このとき大手マスコミは、こぞって検察側からの一方的な情報を垂れ流し、〝悪徳検事・三井環〟像を作り上げた。以後、起訴された三井氏は長期勾留を経て、翌2003年3月15日に保釈。そして2005年2月1日、一審大阪地裁で懲役1年8カ月、追徴金約22万円の不当有罪判決を言い渡される。現在、三井氏は大阪高裁で控訴審〝闘争〟中である。 (※06年7月段階の話) 「内部告発を思い立ったのは、ある人物に対する個人的な恨み、つまり私憤(しふん)だった」と、三井氏は言う。事の発端は、1997年にさかのぼる。 【発端は元「関西検察のエース」の逆恨み 】 1997年11月、特捜部長時代「関西検察のエース」と呼ばれていた大阪地検次席検事(当時)の加納駿亮(かのう・しゅんすけ)氏が指揮した京都地検での贈収賄事件で、三井氏(当時、大阪高検刑事部検事)の進言により、ある教授の逮捕が見送られた。この事件は内偵不足が明らかだったのだ。結局、この独自捜査は失敗に終わる。そしてそれは、指揮官である加納氏の責任であった。 その後、三井氏は当時の高松高検の村田恒検事長にこの京都事件の顛末(てんまつ)と自身の意見を手紙に書いて送った。ところが、この手紙が思わぬ災いのきっかけとなってしまう。1998年春、村田検事長が京都地検の武内徳文検事正と会い、彼に手紙の件を話し、それが大阪高検の幹部に伝わった。そして、それが加納氏に伝わってしまったのだ。それ以降、加納氏は三井氏に対し不快感を露骨に表すようになる。そして、三井氏は関西検察にいることができない状況になってしまった。 そこで、三井氏は大阪高検・荒川検事長に異動願いを出した。1998年4月、三井氏は名古屋高検総務部長に着任。その年の末、法務省筋は三井氏の高松高検次席検事への異動を提案したが、加納氏らがこれに異を唱え、見送りとなる。このことは、三井氏が加納氏を告発する遠因となる。 1999年7月、三井氏は名古屋高検総務部長から大阪高検公安部長へ異動になった。ここでまた加納氏らの〝横やり〟が入る。本来、高検公安部長の給料は検事2号俸ポストなのだが、三井氏は3号俸ポストのまま据え置かれた。これは加納氏の逆恨みによるものであった。 このとき三井氏は、この加納氏の行為を自分に対する侮辱であると同時に、自らが愛する「検察への冒とく」と受け止め、調査活動費・裏金問題で加納氏を告発しようと決意する。三井氏は加納氏を告発することで関西検察の性根を叩き直し、逆恨みや私情で人事を左右する不正義を正そうと考えたのだった。 【 加納検事正を刑事告発! 】 2000年5月、三井氏は信頼する川上道太(四国タイムズ社社長)氏にこの件を相談する。これに対し川上氏は全面的に三井氏に協力することを約束。その後、三井氏と川上氏は協力して告発を進め、同年12月ごろ、月刊誌「噂の真相」の取材を受ける。 そして、2001年1月10日発売の「噂の真相」(2001年2月号)に、<加納駿亮・大阪地検検事正が、高知地検検事正時代に約400万円にも上る調査活動費を私的に流用していた>、というスクープ記事が載る。しかしこの時、他のマスコミは後追い記事を書かず、大きな社会的影響力を与えることはできなかった。 三井氏と川上氏は裏金追及第2弾として、2001年3月29日、このとき大阪地検検事正になっていた加納氏が高知地検検事正だったころの裏金作りを「虚偽公文書作成、同行使、詐欺」などの罪で最高検に刑事告発した。表向きの告発人は川上氏になっているが、実質的な告発人は三井氏だった。 この捜査が始まる前に、早速告発の効果があらわれた。加納氏の検事長人事に影響を与えたのだ。刑事告発したのと前後して、加納氏が高松高検検事長に就任することがほぼ内定していたのだが、それが直前でひっくり返った。結局、加納氏に代わって入省年次が1つ下の宗像(むなかた)紀夫氏が高松高検検事長に就任した。 加納氏の検事長人事は見送られたが、捜査が始まる気配は見えなかった。そこで、三井氏と川上氏は同年5月11日に、加納氏が神戸地検検事正だった当時の裏金作りについても最高検に刑事告発した。 【検事長に昇任されるその裏で・・・ 】 一旦は検事長の線が消えた加納氏だったが、元大阪高検検事長の逢坂貞夫氏や、元検事総長の土肥孝治氏らの強烈な巻き返しがあり、同年11月15日発令の検事長人事で、勇退する飯田英男福岡高検検事長の後任として、加納氏が昇任する案が浮上した。人事のゴリ押しである。 ここで三井氏は、被告発人である加納氏がシロ・クロはっきりしないまま、天皇の認証官である検事長に就いていいはずがないと思い、自らが表に出てこの不正を告発することを決意する。「週刊文春」、「週刊朝日」に対し三井氏本人が匿名で告発し、その内容がそれぞれに掲載された(「週刊文春」2001年11月8日号、「週刊朝日」2001年12月7日号)。 しかし法務省は、こうしたマスコミの批判に対して委細構わず、同年11月1日、加納氏の福岡高検検事長昇任内示を発表した。実はこのとき、この裏で、検察の原点を崩壊させかねない信じられない事態が起きていたのだ。これが三井氏をして現職のまま実名で検察の裏金作りをマスコミなどに公表する決断をさせたきっかけだった。その信じられない事態とは何か? それはこれから、三井氏本人に語ってもらおう―。(以下、略) 2010.01.19日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評646 | れんだいこ | 2010/01/19 23:57 |
【三井環・元大阪高検公安部長の検察内部告発その3】
三井氏の「検察の裏金作り」に言及した部分を抜き書きする。この実態を知れば、手前たちが裏金作りに細工をしてきた前歴を頬かむりしたまま「小沢キード事件」に意気がる資格があるのかなぁと思うであろう。御用評論家は、この点どんな器用な口を回すのだろう。 (以下、転載) 次に、いわゆる「検察の裏金作り」のお話です。私は高知地検次席検事3年、それから高松地検次席検事3年、通算6年間それを実際に経験しました。もうどっぷりと裏金には浸かってきました。 検察庁には「調査活動費」の予算があるんです。調査活動費というのは、情報提供者に対して謝礼を払うことを本来の目的として設けられた予算なんです。公安労働事件に関する情報提供に対する謝礼、それが出発点だったようです。 そういうお金が裏金として使われるようになったのがいつ頃からなのか、私には分かりません。誰がこういう仕組みを考えたのかも分かりません。少なくとも、私が任官した昭和47(1972)年当時、裏金作りはなされていました。 どういうかたちでやるのかと言いますと、まず、架空の情報提供者を3、4人でっち上げるんです。例えばAという情報提供者を作ります。架空ですから実名ではありません。住所についても、もちろん実際にはそこにはいません。そして、その架空の人間に対して、原則5万円を謝礼として支払うんです。 例えば、ある右翼団体がいつ街宣するという情報をもらったという名目をでっち上げて5万円渡すことにする。そして、本来はその人から領収書をもらわなければいけないわけですが、架空の人物ですからもらえません。領収書は、その架空の人物の名義で検察事務官が作成します。そうやって5万円の現金を浮かせるんです。 中小の地検であれば調査活動費の年間予算は400万円です。大阪地検であれば年間2000万円、東京地検では年間3000万円です。そして、中小の地検で考えてみますと、1件5万円とすると年間80通の領収書を作らなければならないんです。それは事務官が全部作るんです。 領収書だけではありません。Aという架空の人物に支出するという「伺(うかが)い書」、「この人に支出してもいいですか」という書類があるんですが、それも作らなければなりません。一生懸命80通作るんです、事務官は。だから事務官から「検事正が使う金のために何でこんなことをしなければならないのか」と文句が出るんです。 そして、そういう風にして金が浮きます。浮いた金はどこに保管するのかと言いますと、それは事務局長の部屋です。これは個室なんですけれど、そこの金庫に保管します。常時30~40万円くらい保管しています。足りなくなったらまた架空の伺い書・領収書を作って金を浮かします。それでまた保管する。 そうやって浮かした裏金を一体何に使うかと言いますと、一つは接待です。最高検、高検、法務省などから高官が来た時の接待費です。そして、検事正自らのゴルフ代。それはここから全部出ます。マージャンをする人はマージャン代がここから全部出ます。ある検事正がマージャンで10万円使ったとします。その時、帳簿(裏帳簿)はどうなるのかと言うと「10万円検事正渡し」となります。検事正に渡すから領収書は取らないんです。 これは、検事正しか使えない一身専属的な(その人のみに属している)金なんです。次席など他の人間は使えません。私は通算6年間次席をやりましたが、次席は使えませんでした。次席は職員が亡くなったり結婚したりする場合は、自費でお金を包みます。検事正はその裏金から包みます。部下を連れて飲みに行く場合でも、次席は自費で出しますが、検事正は裏金から出ます。なので、検事正は給料以外に約30万円くらいの副収入があるんです。昼も晩もそれで払うから自分のお金はいりません。 だから、はっきり言ってしまうと調査活動費というのは、検事正が自由に使えるお金なんです。高検であれば、検事長の一身専属。高検でも次席は使えません。最高検では検事総長の一身専属。法務省であれば事務次官、官房長、刑事局長が使えるんです。これは一身専属です。 そういうかたちで、1円も「表の金」として使われていないんです。平成10(1998)年当時の調査活動費の年間予算は約6億円ありました。全部裏に回っている。そういうウソの領収書を作って金を浮かし、全部裏金として保管し、それが接待費用や自らの遊興(ゆうきょう)費用等に使われている。これが裏金問題なんです。北海道警察の裏金問題も新聞等で報道されていますけれども、大体似通っています。警察は「捜査費」ですね。 そして、この裏金問題というのは、検察庁内部におれば公然の事実なんです。裏金のウソの領収書を作るのは公安事務官か総務課なんです。そこを経験した人なら全部知っています。そして、検事正・次席検事経験者、事務局長経験者は全て知っております。これが、検察の裏金問題です。 そして、私が内部告発をしようとした動機と言いますのは、最初は人事上の私憤(しふん:個人的な事柄でのいきどおり)なんです。しかし、ある時期を境にして義憤(ぎふん:道義にはずれたこと、不公正なことに対するいきどおり)に変わります。まず、その経過をお話します。 平成12(2000)年の6月頃でありましたが、高松市で四国タイムズという新聞を発行している川上道太社長という人がいるんです。その人に裏金問題を話したんです。彼は義憤にかられる人間なんです。そしたら、川上氏は「三井さん、あなたは裏で私を指示して下さい。私は表で動きます」と言ってくれました。そこから始まったんです。そして、最初は平成12年の9月頃、朝日新聞の論説委員の村山さんのところに持ち込んだんです。東京のホテルで会いました。 少し話がそれますが、村山さんというのは、いわゆる則定(のりさだ)問題(元東京高検検事長・則定衛氏の愛人疑惑)を報道した人です。この問題は最初、月刊誌「噂の真相」の西岡研介氏が情報収集して、「噂の真相」に載せたんです。 「噂の真相」だけであれば、則定衛という当時の東京高検検事長は辞めることはなかった。その後、朝日新聞がトップで報道しました。しかし、則定氏は3日で辞めました。なぜ辞めたかと言いますと、当時、法務委員会に(則定氏が)出て追及されました。そして銀座のバーで飲んでいることが分かった。飲んだ金は裏金から出てるんです。だから辞めたんです。 女性問題だけであれば、検察も助かるんです。法務委員会で追及されて裏金問題にまで発展したら大変です。つまり、則定問題というのは打算の産物なんです。女性問題だけで終わることによって、彼も助かりました。懲戒免職にならなかったんです。一方の検察も助かったんです。裏金問題にまで発展しなかったからです。このとき、内部では「これは行くかも知れない」「裏金がやられるかも知れない」というような雰囲気だったんです。それで3日で辞めた。 このように、裏金問題の最初の危機は則定問題だったんです。3日で辞めることによって、裏金問題まで発展せずに済んだんです。この則定問題のときは、まだ私は別に裏金問題をやろうとは考えていませんでした。 話を戻します。まず、その朝日新聞の村山さんと会いましたけれども、彼は「則定問題をやったばかりだから、同じ検察のことはできません」という返事だった。そして、今度はこの話を週刊新潮に持っていったんです。週刊新潮は編集会議を開いて、「やる」という決断を示した。それを土壇場(どたんば)で社長が反対した。それで週刊新潮もだめになった。 その次に「噂の真相」に行ったんです。今話した西岡研介です。西岡研介が平成13(2001)年の1月号で報道しました。もちろん、匿名の取材というかたちです。この時も、検察当局は大分動揺したんです。しかし、「噂の真相」しか報道しなかった。後追い報道がなかった。特に大手新聞社のそれがなかったんです。 そして、これではいけないということで、平成13年の3月末に四国タイムズの川上氏が、当時の大阪地検検事正である加納駿亮(かのう・しゅんすけ)氏を刑事告発しました。「公文書偽造、同行使、詐欺、私文書偽造」という罪名です。高知地検検事正時代の400万円と、神戸地検検事正時代の1000万円、合計1400万円の犯罪ということで、検事総長宛に告発しました。 すると検察当局は、なぜ四国タイムズはこんな告発をするのか、告発する意図を必死で探しました。昔のものから四国タイムズを全部読んだらしいです。これは公安調査庁の方からの情報です。川上という男は北朝鮮問題に強いんです。公安調査庁の情報提供者なんです。検察にはいませんが、公安調査庁には実際の情報提供者がおるんです。 検察は必死で調べました。そうする内に、私が高松地検次席検事当時、川上氏からいろいろな情報をもらって、独自捜査したということが分かった。私が浮かび上がってきたのです。私が後ろで川上氏を操っているんだということが分かったんです。それがその年の5月頃です。 そして、6月の上旬、北新地の料亭に元大阪高検検事長の逢坂(貞夫)から私は呼び出されました。「三井君、ちょっと飯でも食べよう」と言われました。私は行きました。そしたら彼は、「今日も松尾事務次官から、三井君のことを心配して電話が何回もかかってきた」と言うんです。裏金問題のことは言いません。裏金の「う」の字も言いません。それでも分かります。そして、1時間くらいご飯を食べて、酒を飲んで、彼が「わしのところ(弁護士事務所)に弁護士として来ないか?」と言ったんです。私はそこで断ったんです、「行きません」と。 そしたら、彼は何て言ったと思います? 「モリカズのようになるぞ」と言ったんです。「モリカズ」というのは手形詐欺事件で東京地検特捜部に逮捕されたヤメ検(検事を辞めたあとで弁護士になる人のこと)の田中森一氏のことです。これは脅かしです。 話は戻りますが、3月末にそういうかたちで刑事告発しました。そして、その3月末頃の情報では、当時大阪地検の検事正だった加納駿亮氏が高松高検検事長になるということが事実上内定していたんです。検事長人事というのは内閣の承認がいります。法務当局はどうしたのかと言いますと、当時は高村法務大臣ですが、高村法務大臣にはこの告発の事実を隠していたんです。隠したまま、「加納氏を高松高検検事長に」という上申を高村法務大臣にしたんです。 そして、4月23日がその内示予定だったんです。その直前に川上氏が高村法務大臣の秘書官に告発状を全部持って、会いに行ったんです。そこで初めて、この事実が高村法務大臣の知れるところとなった。そのために、加納氏の人事は先送りです。 この時期、4月28日の政変で森総理から小泉総理に代わりました。法務大臣は森山真弓に代わりました。それでもまだこの人事をあきらめきれずに、法務当局は交渉した。しかし、連休明けの5月7日、結論は先送りになったんです。加納氏の1期下の宗像(むなかた)氏が高松高検検事長になった。これが5月の人事です。ここまではいいんです。 2010.01.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評647 | れんだいこ | 2010/01/20 00:07 |
【三井環・元大阪高検公安部長の検察内部告発その4】
三井氏の「検察上層部と小泉首相の裏取引」に言及した部分を抜き書きする。これはメガトン級の内部告発である。れんだいこには、裏金告発より、こちらの小泉政権との蜜月ぶり、野合、談合、裏取引ぶり証言の方が興味深い。 これが真実なら、国会は直ちに小泉元首相と原田明夫検事総長、事務次官の松尾邦弘、刑事局長の古田佑紀を証人喚問して徹底的に締めあげねばならない。日共はん、宜しく頼んまっせ。なんでこっちの方は見て見ぬ振りするんかいなぁ。それにしても管直人も鳥越俊太郎も野中もあかんたれやなぁ。 (以下、転載) 次に、その年の11月15日に福岡高検検事長が定年で辞めることになったんです。この時も、やはり森山法務大臣です。今度は、法務省は福岡高検検事長に加納氏を上申したんです。しかし、(大臣は)なかなか難色を示して、どうにもならなかったんです。そこでどうしたのかと言いますと、検察・法務当局は困ったんでしょう。いわゆる「けもの道」を通ったんです。 「けもの道」というのは私が付けた名前ですけれども、当時の原田明夫検事総長、事務次官の松尾邦弘、刑事局長の古田佑紀、古田は後藤田正晴氏が法務大臣だったときの秘書官だった人間です。その3人がそろって、10月26日だったと思いますが、東京・麹町の後藤田事務所を尋ねました。そこには後藤田元法務大臣と秘書官がいました。 それで、彼らは「加納の検事長人事を内閣で承認してくれないと検察が潰れます」と泣きを入れたんです。潰れるというのは、検察の裏金問題が表ざたになるという意味だと思います。当時は、週刊文春とか週刊朝日がすでに裏金問題を報じていました。そして、(後藤田氏は)小泉の秘書官の飯島に電話連絡しました。そして、その日の会談はそれで終わって、翌日、小泉に原田検事総長が直談判をした。そこで事実上、加納の検事長人事が承認されました。正式な閣議は11月13日なんです。そこで正式に承認されました。 こんなことをしたらどうなりますか。「検察が内閣に借りを作る」という一番やってはならないことをやったんです。内閣の助けを求めた。こんなことをしてしまったら、内閣を構成している大臣クラスを事件にはできません。ここまでやるんです。 「国策捜査」は昔からありましたが、私は、ここが最近の国策捜査の原点だと思っています。例えば、内閣の誰かを逮捕できるような事件があったとします。そしたら、小泉が「裏金どうするの?」と言う、それだけでいいんです。事件にできません。できるはずがないんです。後藤田さんはもう亡くなりましたけれども、この事実は彼の秘書から聞いた話なんです。 本来、検察というところは真実を明らかにするところなんです。加納の事件は、この直後に「嫌疑なし」になりました。「真っクロ」なのを「真っシロ」にしてしまったのです。内閣にとってみたら、加納の刑事告発が残ったままでは承認できません。それでは内閣の責任になります。「真っシロ」なんだという判断が下っていれば、内閣の責任ではないんです。刑事告発事件で「真っクロ」であるものを「真っシロ」にしてしまった、これは検察の原点の崩壊です。これが1点。 もう1点は、最もしてはいけないことをしてしまった。内閣を利用してしまった。 その2点なんです、私が義憤を感じたのは。それから先は義憤だけです。加納のことは頭にありませんでした。そして、この問題を追及するために私が協力を求めたところは、やはりマスコミと政治家です。それからは、マスコミにずっと会ってきました。政治家では、民主党の管直人。彼には大阪の財界人を通して3回ほど会ってもらって「了解」を得ました。「了解」というのは法務委員会でこの問題を追及するということです。 新聞では朝日新聞東京本社の落合博実さん。最終的には4月18日に心斎橋の日航ホテルで会って最終了解を得た。その内容は、5月の連休明けに朝日新聞東京本社が裏金問題を1面トップで報道する。 社会面では、私が実名のまま1問1答形式で答える。そういう方法です。そして、NHKとか他の新聞社は、「朝日が書くのなら後追いします」ということを言った。 そして、管直人氏の方は朝日新聞の記事を持って法務委員会で追及する。そして、その過程で私を参考人招致して、私が証言する。そして、私が国会で記者会見して、検事のバッチを外して辞める。そういう段取りが全部できあがっていたんです。それが4月18日です。 そして、4月22日に何があったのかと言いますと、その日の昼から「ザ・スクープ」の鳥越俊太郎さんが大阪に来て、裏金問題についての取材・収録の予定だったんです。あとは、4月24日に大阪の毎日テレビの取材・収録の予定がありました。 4月22日。昼に「ザ・スクープ」の取材・収録をするその日の朝、私は8時半頃任意同行をされて、何の弁解も聞いてもらえずに逮捕された。これが第1次逮捕なんです。これがもし、私を逮捕していなかったらどうなっていたと思いますか? その予定通り進みますと、朝日新聞東京本社が報道する、管直人氏が法務委員会で追及する、私が証人として出廷し証言してバッチを外す。これは、外務省の機密費どころの話じゃないんです。 まず、当時の現職検事70名が辞めなければいけない。検事総長ももちろん、森山法務大臣も辞めなければならない。それだけではありません。引退したOB連中、何人生きているか知りませんけれども、1000人くらいはいるでしょう。その人たちもみんな勲章を剥奪(はくだつ)されます。使った金を返さなければいけません。当然、国民から刑事告発を受けます。そうなれば、一時検察機能が麻ひします。 私を逮捕しなかったらそうなっていたんです。だから相手も必死だったんです。その辺のことを考えてもらえば分かると思います。検察の置かれた立場、検察の組織的な裏金作り、これは事実です。それを隠蔽(いんぺい)するということです。仮に、私がもう少し早く公表しておればこの逮捕はなかったんです。逮捕できません。 5月の連休を挟むと報道が途切れるから公表を連休明けにしたんです。それをもっと前にすれば、私の逮捕はなかった。 裏金というのは、国民の血税なんです。にもかかわらず、こんなことまでするんです、検察は。確かに、検察はちゃんとしたこともやってきました。国会議員を逮捕したりして、ある程度は国民の期待に応えてきました。しかし、自らが犯罪者になるとこんなことまでやるんです。これが許せますか? 最近の国策捜査の原点はその「けもの道」なんです。10月の末に裏金問題で内閣を利用したことです。それから何がありましたか。鈴木宗男の逮捕がありました。昔は、贈賄者が時効になった事件では逮捕しなかったんです。時効になればいくらでも自由に話ができるじゃないですか。しかし、鈴木宗男の事件では、本来目的としていた事件では逮捕できずに、昔の事件についてのみで逮捕起訴した。捜査の失敗です。 それから、社民党の辻元議員の問題もありました。あれは衆議院総選挙前にやられたんです。その2年くらい前に彼女の議員秘書の問題は発覚していたんです。全部、弁償しました。なのにそれを総選挙前にやられて、社民党はどうなったと思いますか。事実上崩壊したじゃないですか。これが、内閣指導による国策捜査なんです。 最近は、ホリエモン(堀江貴文・前ライブドア社長)とか、経済犯罪の方に特捜部は向かっておりますけれど、そうやっている限りは10月末のその問題、「けもの道」は問題になりません。私の予測では、小泉が辞めても自民党内閣が続く限りは自民党の大臣クラスは事件にできないでしょう。「けもの道」が平成13年の10月の末でしょう。そこから現在までの5年間で東京地検特捜部がやった事件を見てもらったら分かります。誰もやっていません。できないのです。 先ほどのお話にありました「日歯連事件」、あれは橋本(龍太郎・元首相)と青木(幹夫・自民党参議院議員会長)と野中(広務・元内閣官房長官)、村岡(兼造・元内閣官房長官)の事件ですね。あれを私はどう考えているのかと言いますと、野中は、私が逮捕される前の平成14(2002)年の3月の末頃、京都府知事選挙の応援に来たことがあったんです。 そのときに、京都の事務所の秘書から私に連絡がありまして「(野中氏が)会いたいと言っている」と言われました。そして、京都駅前の都ホテルに当時彼の事務所があったんですけれど、そこに行ったらすぐに案内してくれました。彼が事務所に一人でおりました。それで、裏金問題を1時間ぐらい話しました。 私は、彼がそれを利用したんじゃないかと思っています。野中は全部知っています、裏金問題は。日歯連事件で野中もやられなかった、橋本も青木も。それを利用して取引したんじゃないかというのが私の考えなんです。あんなつまらない捜査はないです。村岡は起訴されて無罪になりました。あの捜査は誰が考えてもおかしい。 そして、問題は裁判所なんです。最近の裁判所というのは、逮捕状でも勾留状でも〝自動販売機〟なんです。チェックしないんです。そして、裁判そのものが最近おかしいです。 昔「大津事件」(1891年)というのがありました。ロシアの皇太子(ニコライ)が巡視に来た時に、津田三蔵という巡査がサーベルで切りつけてけがを負わしたという事件があったんです。当時は、日本の皇族に対してけがを負わせたり殺したりすると死刑になったんです。法文上は、ロシアの皇太子は日本の皇族ではないから死刑にできなかったんです。いわゆる罪刑法定主義というものがあるでしょう。 しかし、当時のロシアは日本にとって大国です。日本は開国したばかりの弱小国です。その大国の皇太子にけがを負わせた。そしてその上、その犯人に対する処罰が軽かったらロシアは日本を攻撃(戦争)するかも知れません。それだけでなく他の国からも野蛮な国だと思われてしまう。そう日本政府は考えたのです。 ときの政府も、法務大臣も、裁判を担当する裁判官に働きかけました、「津田を死刑にしろ」と。しかし、当時の大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙(こじま・いけん:写真左上)がその政府側の要求を突っぱねて、日本の司法の独立・法治国家を守ったと言われる事件なんです。死刑にしていれば、罪刑法定主義の崩壊だったんです。 しかし、この事件にもいろいろ問題があるんです。児島惟謙が他の裁判官に「死刑にしてはだめだ」と働きかけたのです。本来、裁判官というのは独立性を保ち、自分で判断しなければならないのです。大津事件は日本とロシアの問題だった。私の場合は、検察組織と私個人の問題なんです。この大津事件に対比してもらえれば、ある程度私の事件の構図が分かってもらえるんじゃないかと思うんです。 検察組織というのは非常に重要です。これはなくなったらいけません。検察組織が国民からそっぽを向かれて崩壊してはだめです。検察組織はどうしても守らなければならないと思います。それを裁判所は考えるんです。口封じ逮捕、裏金も認めるべきなんです。裁判官は独立性を守って良心に従ってやってもらいたい。そうすれば私の事件は結論(無罪)が出るんです。しかし、それがなかなかできないんです。彼らも人間だから出世があります。だからできない。そこが大きな問題です。 2010.01.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評648 | れんだいこ | 2010/01/20 00:18 |
【三井環・元大阪高検公安部長の検察内部告発その5】 「千葉法務大臣に対する10/9要望書:検察のウソと暴走を新政権は追求して下さい!」を転載する。これが真っ当な人民大衆の声であり、マスコミの世論調査は作られた迎合発言のオンパレードでしかなかろう。 (以下、転載) 【 要望書 】 千葉法務大臣殿 平成21年10月9日 三井環を支援する会 TEL・FAX 078-261-//// 携帯 090-////-//// m-may@rd6.so-net.ne.jp 別添の資料1.「法務省関連組織改革案」、資料2.「仮釈放」、資料3.「けもの道」、資料4.裏金づくりの隠ぺいと今後の展望に記載のとおり、静岡刑務所が上申し関東地方更生保護委員会が6月中旬頃仮釈放との予定を面接2日前の5月11日検察がこれを覆して反故にしました。検察にはその権限は全くありませんのでこれは検察の暴走以外の何ものでもありません。「検察の暴走をチェックする」と発言されていますが是非実行されることを切に望みます。 小沢代表の公設秘書の逮捕でも選挙に影響を及ぼす時期には強制捜査をしないという検察の鉄則を破ってまで逮捕起訴したのです。検察の最大の弱味は組織的裏金づくりの犯罪を平成13年11月原田検事総長が「裏金づくりは事実無根である」と記者会見し国民に大嘘をついてあらゆる方法で隠蔽し続けていることにあります。 政権はこの最大の弱みを利用しない手はないでしょう。「けもの道」において詳述しているとおりです。不偏不党の検察の伝統さえかなぐり捨てたのです。何故かような事態になったのでしょうか。それは国会議員、マスコミが裏金づくりの犯罪を知りつつ検察を恐れて黙認し続けた結果なのです。検察は何をやっても大丈夫とたかをくくっているのです。 犯罪を隠蔽しようとするのは何も検察だけではありませんが、表では犯罪を検挙しその裏では犯罪を自ら犯して血税を流用する、口封じ逮捕する、仮釈放にさえ横槍を入れる、こんな不正義が許されるでしょうか。巨額の犯罪を免れた検察幹部はのうのうと闊歩しているのです。 他方、三井はあのような事件で325日間勾留され、さらに受刑中でさえ報復されているのです。現検事総長の樋渡利秋氏は刑事局長当時、「裏金づくりは業務上横領、詐欺、私文書偽造罪などが成立する」と参院予算委員会(2004年3月19日)において犯罪であると明確に答弁しています。 又三井裁判の控訴審でもそのことは認定されています。法治国家であるなら判決に従うべきではありませんか。国民に謝罪して使った金(年間6億・10年で60億)を国に返還すべきではありませんか。従前の政権はこれを黙認しましたが、無駄使いをマニフェストとする現政権においてはまず犯罪を一掃すべきではありませんか。それは全く必要もない裏金づくりの原資となる調査活動費予算の全廃なのです。是非強い姿勢で臨まれることを期待しています。 また仮釈放については余りにも不正義ですので善処方をお願いする次第です ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※戸田の責任において、読みやすいように原文の改行を行なった。また「三井環を支援する会」のTEL・FAXや携帯電話の番号は取りあえず伏せ字にしてメールアドレスのみ表示した。三井さん支援の立場から連絡を取りたい人は、そこへメールして連絡を取って下さい。 2010.01.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評649 | れんだいこ | 2010/01/20 00:34 |
【三井環・元大阪高検公安部長の検察内部告発その6】
「1/18(月)朝、戸田と元連赤の植垣さんと一緒に静刑前で三井さんの出所を出迎えます!」を転載する。検察総体なかんずく東京地検特捜部をコントロールする国際金融資本大国主義ネオシオニズム奥の院の「小沢撲滅指令」を語らない点で物足りないが、法の正義を錦の御旗とする検察の不正義を告発している点で大いなる意味があろう。 (以下、転載) 検察の異様なまでの小沢攻撃の昨今ですが、裏金問題告発を決意したためにデッチ上げ逮捕→投獄されていた元公安検事の三井環(たまき)氏が時あたかも1/18(月)の朝8時頃に刑期満了で静岡刑務所から出所します。 連帯労組は反弾圧の立場で三井氏と交流してきましたが、出所にあたって関西地区生コン支部武委員長の名代として戸田が激励出迎えに行くことになりました。前日夜から静岡入りしてスナックバロンで元連合赤軍兵士で電脳キツネ目組仲間の植垣康博さんと久々に懇談し、1/18朝に一緒に三井氏出迎えに行きます。 参考:スナックバロンと植垣康博(【さらば革命的世代】) ttp://sankei.jp.msn.com/photos/affairs/crime/090207/crm0902071801015-p2.htm そのまま神戸の自宅に帰るのか、どこかで取材を受けるのか不明ですが、1/18夜のフォーラム神保町・緊急シンポ ttp://www.forum-j.com/index.html に飛び入り参加、とかなったら面白いやろね。 今の検察の暴走を止めるには三井さんを大いに活用すべしと思うが、元検事で民主党側の郷原信郎氏も検察裏金問題を認めないというあたりが弱みかな? 「現職の時は私も裏金に手を染めてました。今は反省してます」ってあっさり認めて三井氏と共闘してくれたらパワー3倍増するのにね。 参考:1/18夜のフォーラム神保町・緊急シンポ ttp://www.forum-j.com/index.html ↓↓↓ 「『新選組』化する警察&検察&官僚がニッポンを滅ぼす!」 ~1.18緊急シンポジウム開催~ 【日時】 1月18日(月)19:00~21:00 【場所】 角川文化振興財団(角川書店本社第一ビル2階ホール) 【出席者】 魚住昭 大谷昭宏(ジャーナリスト) 岡田基志(弁護士) 木村三浩(一水会代表) 佐藤優 田原総一朗 前田裕司(弁護士) 宮崎学 青木理(ジャーナリスト) 【開催主旨】 今なぜ、緊急シンポジウムを開催するのか!? 昨年(2009年)8月の「政権交代」で、民主党中心の政権が誕生した。その鳩山首相率いる新政権の中味への評価は別として、今、最も注視すべき最大の焦点は、「司法権力」の狼狽とその後の迷走にある。 東京地検特捜部は、まず、昨年の衆院選前から、「小沢一郎」へのピンポイント攻勢 をかけ、小沢主導の政権交代を阻止すべく、その臣下的存在であるメディアを駆使しての政治介入を行った。ところがこの思惑は完全に裏目となり、逆に国民の反発を買うところとなって、結果、「政権交代」を後押しする役回りを果たすこととなった。 そして、こうだ。東京地検特捜部はこの失地を回復し、また、地検特捜部の威信を回復するためにも、どうしても小沢潰しを徹底貫徹しなくてはならなくなった。それが最近の民主党・石川知裕議員への事情聴取と起訴につながり、最後の狙いである 小沢一郎事情聴取に巡り着こうとしている。 検察の「最終戦争」が始まった・・・。一方、警察は警察で、慢性的な内部不祥事と犯罪検挙率の低下を抱え、「犯罪と戦う 警察」をアピールせんがため、「反社会勢力との戦いのためには『ありとあらゆる法 律』を駆使していく」と、意味不明の「力み(りきみ)」を示している。 今回のシンポジウム開催は、いよいよ、こうした「司法官僚」の姿の是非を徹底的に 議論しなければならないタイミングが来た、と考えるからだ。フォーラム神保町および現代深層研究会に関わる論客を総動員して、大いに闊達な議論を繰り広げたい。 フォーラム神保町(世話人/作家・宮崎学) 2010.01.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評650 | れんだいこ | 2010/01/21 22:46 |
【検察とマスコミ二人三脚の謀略事件仕立て又は揉み消し考】
ここで、れんだいこの「検察とマスコミ二人三脚の謀略事件仕立て又は揉み消し」見解を発表しておく。この件については、一章設けて別途の歴史的考察をしておきたいと思っている。それはともかく、 こたびの「小沢キード事件」は、犯罪容疑に於けるロッキード事件ほどの衝撃はない。ロッキード事件の場合には、それが真実かどうかは別として時の首相角栄が外国の金を不正に収賄して自派の政治権力確立のために政治利用していたという、もしそれが真実なら怒りを買う要素はあった。「小沢キード事件」の場合は、議員秘書団の寮建設のための、これも真実かどうかは別として政治献金を政治資金規正法の定める通りに記載しなかったという、いわば云いがかり的な容疑でしかない。 これを飼い犬に例えてみれば、ロッキード事件の場合には飼い犬が他人を咬んで殺傷したという事件に相当する。「小沢キード事件」の場合は「動物の保護及び管理に関する法律」に違反して、繋いでおかねばならない飼い犬を放し飼いにしていたという事案に相当する。つまり、容疑のものが小さい、小さ過ぎる。ところが、重箱の隅を突いて大騒ぎするのが当世流行っている。それだけのことである。 それをさも大仰に騒ぎ立て重大事案であるかの如くに錯覚ヌプロパガンダしているのが「検察とマスコミ二人三脚」である。これにより、狙い通りの小沢民主党幹事長の政治訴追、議員失職にまで追い詰めようとしているのだが、そうは筋書き通りには行くまい。その根拠は、結局のところ「容疑のものが小さい、小さ過ぎる」ことにより人民大衆が食傷することにある。ロッキード事件の時には適えられなかったインターネットの普及により、人民大衆が超スピードで真相を知ることにある。これが、「小沢キード事件」の反作用となって、「検察とマスコミ二人三脚組」の脳天にブーメランのごとくに舞い戻って来ることになるだろう。 しかし、そのことが分かっていても「検察とマスコミ二人三脚組」は、「小沢キード事件」を仕立て上げねばならなかった。なぜなら、それは、ご主人様の国際金融資本帝国主義奥の院からの絶対指令であるからである。「検察とマスコミ二人三脚組」には、この命令を拒む権限はない。なぜなら、そういうエージェント契約になっているからである。もし彼らがこれを拒めば、用意周到に拵えられた彼ら自身の暗黒犯罪が暴露され、政治生命どころか市民的生活権までもが奪われるからである。そういう脛に傷持つ凶状持ちにされているから、命令には絶対無条件に従わなければならない。これが「小沢キード事件」の裏の真相であろう。れんだいこは、かく見立てている。 そういう風に飼い殺しされている「検察とマスコミ二人三脚組」がどういう手を使って、事件を仕立てたり揉み消しするのだろうか。ここに想起せねばならない事案がある。これを知らしめたいので記しておく。ロッキード事件の際、角栄と共に逮捕された榎本秘書は取調べの際に、検事から、「田中五億円受領を認める」と一面トップにデカデカと書かれたサンケイ新聞の記事を見せられた。榎本秘書は恐らくこれを手に取り、ウソかマコトか暫し確認したが、正真正銘の新聞社名入りのトップ記事であった故に動揺した。榎本秘書は、「おやじさん(田中総理のこと)は何らかの意図があって認めたのだろう。秘書としてそれに合わせなくてはいけないのかなと思った」(「田中角栄の真実」より)とある。 ここで確認すべきは、産経新聞が本当にそのように検察に協力して虚偽報道紙面を作ってまで協力していたのかどうかである。証言者は榎本秘書一人である。彼が虚言している可能性もある。なぜなら榎本秘書は、容疑を認めた調書を遺したことで角栄もしくは秘書団に相すまんと云い訳せねばならない立場に追い込まれたからである。但し、榎本証言の信憑性も強い。なぜなら榎本秘書が、「検察とマスコミ二人三脚」によるトリックに引っ掛った可能性も十分に考えられるからである。 この真偽を確認する為には、当時の産経新聞の最高責任経営者もしくは編集責任者の証言が必要となるが、オカシナことに当時の最高責任経営者であった鹿内信隆―春雄父子は一切釈明せぬまま逝去している。1988(昭和63)年、鹿内春雄氏は43歳と云う若さで、ゴルフ中に心筋梗塞という変な急死を遂げている。信隆も語らぬまま逝去した。よってつまり確かめようがない。 れんだいこは断定まではできないが、榎本秘書が見せられた「田中五億円受領を認める」の一面トップ記事は真正の産経新聞であったと推定している。しかし、そうなると事は由々しきことであろう。世間の多くの者は今でも「田中五億円受領」を真実と思っているように思われるが、真相は奇々怪々で未だ司法決着がついていない。当の本人の田中角栄は断固否認して死ぬまで公判闘争に向かった。裁判は最高裁まで持ち込まれていたが、角栄はこの道中で逝去した。最高裁は、「本人死亡による控訴棄却」を決定し、裁判が終結するという何とも半端な決着となった。つまり、確定判決が出されないままの公訴棄却となっている。これが真相である。 となると、逮捕直後の時点で、「田中五億円受領を認める」なる虚報を報じた産経新聞の責任は重いと云わざるを得ない。今からでも構わない。産経新聞は、そういう事実があるのかないのか説明責任を果たさねばならない。産経新聞は今、読売と連合で小沢の説明責任を説教し続けているが、それを云うなら手前もせねばならぬことがあろうと告げておく。 産経新聞の虚報が真実とすると「検察とマスコミの二人三脚ぶり極まれり」と云うことになろう。れんだいこがなぜ、このことを執拗に論うかと云うと、これに似た「検察とマスコミ二人三脚」ぶりが政治の重大局面で常態化しているからである。既に幾人かの論者が指摘しているが、ハト派にめっぽう厳しくタカ派に緩い習性を見せ続けている。それが証拠に、軍事利権と原子力事件については隠蔽派に廻って恥じない。こちらの方の額が天文学的だというのに。 しかして、マスコミはペンの責任を取ったことがない。戦前は大東亜戦争聖戦論を煽り、大本営発表を鵜呑みプロパガンダし続け、敗戦となると手のひらを返して軍部糾弾にシフトし続けて今日に至っているのは衆知の通りである。政治と行政と司法は三権分立制の相互チェックアンドバランスの下で機能せしめられているが、マスコミはこの種の縛りを受けない超越した第四権力となっている。つまり政敵追放云いたい放題が許されている稀有な権力となっている。そろそろ合理的、自由自主自律的な内部基準を作りださねばならないのではなかろうか。 そういう第四権力たるマスコミが今、「小沢キード事件」を頻りに煽っている。冒頭で述べたように「容疑のものが小さい、小さ過ぎる」のに重大事案であるかのように騒ぎ立て、何とかして小沢の失脚を画策している。既に「石川容疑者が小沢氏の事件への関与を認める供述をしている」なる報道を流し始めている。弁護人の安田好弘、岩井信両弁護士連名で、「石川氏がそのような供述をしたことは全くない」と報道各社に文書通知しているが、我関せずで煽り続けるであろう。続いて小沢の事情聴取に廻り、これ又喧騒するであろう。 ところが、タッグ相手の東京地検特捜部の小沢訴追容疑が混迷しつつある。当初は収支報告書に於ける「4億円の不記載疑惑」としていたが、これが記載されていることが判明するや「4億円の虚偽記載疑惑」へと転じている。ところがこれも、個人「小澤一郎」と政治家「小沢一郎」の使い分けで見るならば「虚偽記載とは言えないのではないのか」とする反論が登場しつつあり、こうなると「一体何が悪いのか何が犯罪なのか、さっぱりわからない」ということになりつつある。 「検察とマスコミ二人三脚組」は、それでも執拗に小沢を訴追し続けるであろう。但し、容疑のタマが次第になくなりつつある。それでも訴追し続ける「検察とマスコミ二人三脚組」から透けて見えてくるのは、要するにご主人様のご命令しかない。それは又、法の番人が法を蹂躙し、社会の木鐸が虚報の売人に成り下がっている醜い姿を晒し続ける道のりとなる。これに恥じない獰猛な精神の持主がコメンテーターとして懲りない説教を聞かせることになる。 我々は、こういう世の中の洗濯に向かうことを志している。鳩山-小沢政権誕生の歴史的意義はここにある。但し、民主党の中には自公と何ら変わらない否自公以上のシオニスタンが巣くっているのも事実である。これは、憲法改正派か擁護派かのリトマス試験紙で判定すれば容易に分かる。「小沢キード事件の徹底捜査」を呼号しているのは憲法改正派の面々ばかりである。こういう連中は早期に自公の同志と共に新党を作れば良かろうに。れんだいこが名付けてあげよう。日本シオニスタン党と。阿諛追従するマスコミ諸君も旗幟鮮明に日本シオニスタン放送局とすれば良い。 それにしても、法曹と放送は発音が同じで昔からどこか通じているのかも知れない。同じ発音に包装がある。隠し合う仲間という意味にも取れて可笑しい。もう一つ疱瘡という言葉がある。これに罹らなければ良いのだがふふふ。 2010.1.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評651 | れんだいこ | 2010/01/22 20:01 |
【最高検公判部長・河上和雄の三菱重工転換社債贈収賄事件揉み潰し考】
目下、民主党幹事長小沢の秘書寮建設用地取得を廻る資金調達疑惑なる無理筋な事件仕立てに大わらわの東京地検特捜部の「法の正義」が聞いてあきれる事件史実がある。「阿修羅昼休み33」の小沢内閣待望論氏の2010.1.18日付け投稿「alternative、日テレ解説員・河上和雄元・検事総長、自民党から受け取っている『裏金』」を参照する。原文は、「オルタナティブ通信」の「暴力団のトップに居座り、暴力団から金を巻き上げる犯罪組織=警察・検察トップ=検事総長が、小沢一郎摘発をデッチアゲタ」のようである。 (ttp://alternativereport1.seesaa.net/article/138664300.html) 1986年、中曽根政権時、「三菱重工転換社債贈収賄事件」が発生している。三菱重工と云えば、日本の代表的な軍事産業にして原子力発電所のメーカー、即ち防衛省(当時は防衛庁)への戦車等の兵器販売、原子力発電の中心的な推進役である。その三菱重工が1000億円もの多額のCB(転換社債)を発行した。この莫大な金額のCBはバブル景気に乗り完売した。CBは株価と連動して価格が上昇する仕組みになっており、1000億円のCBは発売されて2週間で額面100円が206円に上昇し2倍の価格になった。 三菱重工はこの時、主として自民党の御用達政治家達に、このCBを発売前に100億円分販売していた。この構図から見れば、後のリクルート事件の前例となっていることが判明する。但し、リクルート事件が大騒動となったのに比して「三菱重工転換社債贈収賄事件」は問題にもならなかった。なぜ江副はやられて、三菱は同じことをしても免責されるのか、ここに闇がある。 この「恩恵」に浴した御用達政治家達は総計で、100億円が2週間で206億円になる「大儲け」を手にした。三菱重工がなぜ1この「大儲け」を供与したのか。それは、御用達政治家達が、三菱重工の兵器を特命でで購入し、「三菱側の言い値」で兵器を購入するよう防衛庁に働きかけ、「優遇措置」を廻らしてくれたからである。三菱からすれば当然の返戻金であった。原子力発電所建設についても然り。三菱重工は、原子力発電の技術的に危険な面に「うるさい事を言われず」、建設費への補助金等も「三菱側の言い値」で工事を受注することに成功した。してみれば、三菱重工の転換社債前売りは、仲介成功報酬であったことになる。 これは、三菱重工側からすれば一般的な商行為のように見える。しかし、民間のやり取りではない。「国民の税金を湯水のようにムダ使いした」ことの上に成り立っている、れっきとした贈収賄である。自民党の御用達政治家達は、ご丁寧にもあつらえられた三菱重工の系列である三菱銀行から借り入れてCBを購入し、2週間後それぞれが市場に売却し、総額で106億円もの利益を得ている。これは事実上のワイロである。この106億円の内、最も多額なワイロを受け取っていた政治家が、軍需利権族筆頭にして日本に原子力発電を初めて導入するのに功のあった中曽根康弘、時の首相その人であった。 さて、問題はここからである。東京地検は、この「三菱重工転換社債贈収賄事件」を摘発しようと捜査に乗り出した。ところが、この捜査は、時の最高検察庁検事局トップの「捜査停止命令」により頓挫せしめられている。この時のトップが誰であるのか、調べれば判明するであろうが目下は不詳である。巷間伝えられているのは、ロッキード事件の花形検事として注目されていた河上和雄の横槍であった。河上は、その後順調に出世し、この頃 最高検検事に名を列ねていた。その履歴によれば、1986年―最高検検事、1987年―法務省矯正局長、1989年― 最高検公判部長とある。 その河上和雄が、最高検察庁検事局トップの意向を挺して「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家達のワイロ受け取り事件を見逃す役を買って出ている。その時の言い草が、「自民党の各派閥のリーダー全員が、このワイロを受け取っており、事件として立件すると自民党の政治家の大御所全員を逮捕する事になり、自民党が潰れる」という理由であった。河上は、捜査官達に向かって、「お前達は自民党をツブシ、野党に政権を渡す気か?」と怒鳴り付けたと云う。こうして捜査は打ち切られた。 こうした履歴を持つ河上和雄が臆面もなく、目下の小沢一郎の政治資金疑惑で、徹底捜査の檄を飛ばしている。現在、日本テレビの解説員として、また日本テレビの顧問弁護士としてTVに出演し、小沢一郎の摘発に関し「法の正義」を説教し続けている。 このこと自体が、今回の小沢政治資金疑惑事件の本質を良く物語っていよう。河上和雄は、警察が支配下に置き有力の天下り先となっているパチンコ業界取り仕切り組織「社団法人遊技産業健全化推進機構」の代表理事でもある。これを見れば、検察庁内の出世階段を上手に登り、退官後も利権の甘い汁を吸い続けて上手に世渡りしていることが分かる。かって「自民党を潰す気か」と恫喝した河上が、「小沢徹底捜査の檄」を飛ばしている。この御仁をどう評すべきか。 れんだいこのように現代世界を牛耳る国際金融資本の最も忠実なエージェントの一人と読めば、読売配下の日本テレビ客員解説員、同顧問弁護士、社団法人遊技産業健全化推進機構の代表理事、学校法人駿河台大学理事、駿河台大学名誉教授という肩書が何の不思議でもなくなる。 こう読まない者に告げておく。現下の小沢訴追派の政財官学報司の六者機関のトップの座にある者殆どすべてが、かってのロッキード事件訴追派の面々ではないのか。違いと云えば、立花隆が今のところおとなしくしていることであろうか。日共の異様な過激化、解放同盟に対しては糾弾闘争をたしなめ続けた日共は、こと角栄関連となると色めき立ち急に過激化する。これも同じ構図である。マスコミの先陣争い、これも然り。 しかし、この手合いが日本政界を牛耳って以来、日本はとめどなく地盤沈下させられ続けている。国家予算の収入より借入金利息払いが上回ると云う奇形化、天文学的国債累積債務の重圧、消費税などと云う安逸な打ち出の小槌による収入源化による国内経済低迷逼塞化。これは、戦前並み水準への回帰であろう。戦後保守主流派と云われる吉田―池田―佐藤―田中―大平―鈴木政権のハト派系譜を解体せしめた結果がこのザマであろう。それは、善政時代を悪しざまに言い、悪政時代に無力化させられている日本左派運動のバカさ加減に比例している。ニセモノを本家としホンモノを咎め続けた罪と罰でもあろう。 もとへ。河上関連の付録として次のような声がある。「河上は後輩の松尾邦弘(元検事総長)に追い抜かれた。検事正時代は裏金に手をそめてるはず。勲章は勲二等どまり」。「1981年―法務大臣官房会計課長をやっていて松尾元検事総長が特捜時代に河上の部下だったということが事実ならば、三井氏の言っている裏金貰っている悪い奴等、数十人の中の一人である事は間違いなさそうですね」。 2010.1.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評652 | れんだいこ | 2010/01/23 12:01 |
【マスコミの検察情報垂れ流しプロパガンダ御用常習性考】
2010.新春早々、検察による小沢パッシング騒動が再燃した。これを報じるマスコミの「検察リーク情報垂れ流しプロパガンダ」が問題になってきた。これを受け、原口一博総務大臣が「『関係者によると』という報道は公共の電波を使ってやるには不適」と発言したことから、これに反発するマスコミとの間にバトルが発生すると云うオマケがついた。れんだいこが、この問題を考察する。その前に、原口総務相発言とこれに対するマスコミの論調を確認しておく。 1.19日、原口総務大臣は、閣議後の会見で、民主党の小沢幹事長の資金管理団体の土地取引をめぐる政治資金規正法違反事件の報道について次のように述べた。概要「『関係者』という報道は、検察、被疑者どちらの関係者か分からない。少なくともそこを明確にしなければ、電波という公共のものを使ってやるにしては不適だ。鈴木宗男さんの事件でも、過去、権力側から出た情報でマスコミと一緒になって追及してしまった。反省している」。 マスコミが、「『関係者』とのみ附しての検察、被疑者どちらの関係者か分からない情報源を特定しないままの一方的な報道のあり方」に難色を示したことになる。 1.20日、平野博文官房長官が、記者会見で、原口総務大臣発言を受けて、「(『関係者によると』との表現について、)すべてとは言わないが、記事の中身によっては公平でないものがあると思う」と述べ、「関係者」の所属をより明確にすべきだとの認識を示した。記者団の「報道にとって情報源の秘匿は非常に重要だ」との指摘には、「(容疑者の)弁護側からの話が出てこない。『関係者によると』との表現で一方的に出てくる点が少し偏っている。利害が相反する時に一方的にやられるのはよろしくない。(検察と被疑者の)双方の言い分を並べて初めて国民が判断されることになるのではないか」とも語った。原口総務相発言を擁護した格好である。 1.22日、原口総務相は、.閣議後の記者会見で、1.19日発言について釈明を求められ次のように述べた。概要「誤解を受けるような発言は避けないといけない。但し、先の発言が不適切という気はまったくない。取材源そのものをオープンにしなければいけないと言う気もないし、マスコミに介入する気も全くない。言論の自由を守り、国民の知る権利を守ろうと思っている。ある捜査機関が、『関係者』と報道しないと『出入り禁止』にしたと聞いた。検察のリークを『検察によると』と書くと(検察側が記者に)『出ていけ』とするのはだめだと申し上げている。報道の自由とジャーナリストを守るためにも発言したので、感謝されこそすれ非難されるいわれはない」。 これによると、原口総務相の真意は、捜査当局の報道機関への対応を批判する趣旨だったことになる。至極真っ当な発言だと思われるが、この総務相発言にマスコミがどう反応したか。朝日新聞の社説「総務相発言―政権党の短慮にあきれる」は、次のように批判している。「情報源は可能な限り明示するべきだ。しかし取材源を隠さないと得られない情報もある。その場合、情報源を守るのは最も重要な報道倫理の一つである。必要な情報を社会に提供し、民主主義を守るというジャーナリズムの役割を果たすために不可欠なことだ。報道に携わる者は安易にあいまいな表現をしないよう、自らを厳しく律しなければならない。しかし、最終的にどう報じるかは、あくまで各報道機関が独自に決めることだ」。 れんだいこが朝日新聞社説士のこの主張を評すれば、この御仁は相当オツムがヤラレテイル。なぜなら、「取材源を隠さないと得られない情報」云々は、あくまでも真実の蓋然性が高い情報の入手の方法として顧慮されている訳で、「真実の蓋然性が高い情報」精査判断を抜きにして「当局情報の一方的な垂れ流し」をする際に持ち出す理論ではなかろう。「取材源を隠さないと得られない情報」を錦の御旗に当局情報プロパガンダをも良しとする理屈は通るまい。 この御仁は次のようにも云う。「それを規制するかのような発言を、放送局に免許を与える権限を持つ総務相がした。原口氏はその後、『放送内容に介入する気はない』と釈明したが、自らの言葉が報道への圧力になりかねないということについて、あまりにも自覚がなさすぎる」。 つまり、原口総務相発言を「放送局に免許を与える権限を持つ総務相権力の報道規制論」として捉え批判していることになる。しかし、これもオカシイ。聞こえてくるのは徒な反権力批判であって、独善主義と云わざるをえまい。原口総務相発言は至極真っ当な指摘をしているのであって、これに耳を傾けようとしない御仁の理屈こそ報道権力側の露骨な居直りでしかなかろう。他の報道機関の主張、学者の発言も大同小異で、マスコミ権力の横暴さのみ透けて見えてくる。 しかし、これらの発言はなべてウソ臭い、かび臭い。マスコミが正常であれば、つまり本来のマスコミであれば、東京新聞が唯一「検察によると」として記事を発信したところ、検察側が東京新聞記者に「出ていけ」と追放し出入り禁止にしたことを重大視し、取材仲間の東京新聞を擁護すべきであろう。この問題に触れぬまま当局情報プロパガンダをも良しとする理屈は通るまい。 云えることは、現下のマスコミはかくも腐れ外道のけもの道に堕している様が見えてくるということである。その昔、マスコミは冤罪事件を採り上げ、社会に注意を喚起させる木鐸の役割を果たしていた。最近は、日共同様、事件の容疑がはっきりしないさなかであるにも拘わらず、警察検察の御用提灯を振りかざして得意然としている。れんだいこが、相当オツムがヤラレテイルと評するのも仕方あるまい。 それはともかく、原口総務相は、「twitter」で次のような「報道5原則」を発表しているとのことである。なかなか秀逸な提言であるように思われる。今後の手引きとして活用するが良かろう。 1・「推定無罪の原則」最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと。2・「公正な報道」検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること・3・「人権を配慮した報道」他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること。4・「真実の報道」自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること。5・「客観報道」問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること。 この問題を、れんだいこが一刀両断すれば次のように云える。検察リークが悪いとか、それを報じる事が悪いというものではない。「リークなどあり得ない」も「あり得てよくない」も共にナンセンスであり、有るのが常態とすべきであろう。但し、出所、出典元は明記せねばならない。これが原則である。従って、公務員の機密情報漏洩は公務員法*条による*とか違反で責めるのは、れんだいこ的には良しとしない。拘るべきは報じ方である。マスコミの自由自主自律的な報道倫理を磨くことこそが望まれている。 実際には、報道倫理はますます疎かにされている。代わって磨きだしたのは著作権倫理である。著作権法上は時事ニュース的なものには非適用との文意を捻じ曲げ、事前通知事前承諾要対価制をますます声高に主張し始めている。その他方で、報道倫理的には過剰加熱暴行的取材、扇動、ヤラセ、捏造、歪曲等々由々しき事態をはびこらせつつある。つまり、資質劣悪化を促進しつつある。 これに関連して、米ニューヨークタイムズ紙が次のような興味深い評論をしている。見出しは「Japan Stalls as Leaders Are Jolted by Old Guard(保守派による指導者揺さぶりで立ち往生する日本)マーティン・ファックラー」で、小沢対検察のバトルを新興政治家対官僚のそれとして描き、「少数精鋭の検事たちの巨大な裁量権」に初めて疑惑が向けられつつあることを伝えているとして次のように述べている。(阿修羅政治版情報。煩雑を避けるため出所元は割愛する謝謝) 「この国の制度が変化することの兆しの中で、この対立の行き詰まりは、いつもとは違うパターンの批判の声の奔出を招いている。今回は批判が小沢氏だけではなく、腐敗した企業経営者や政治家の天敵として長く社会から賞賛されてきたにも向けられているのだ。検事たちが、(社会正義とは)何か別のものを守っているのではないかということへの疑問もまた提起されている。すなわちこの国の停滞した現状維持勢力であり、強力な権力を有するが、ほとんど説明責任をもたない官僚制度に対する批判だ」。 更に、鬼の検察の選別的正義にも言及し、次のように述べている。「郷原氏やその他検察に批判的な人々は、古い政党政治の名人小沢氏を擁護するというよりは、検事たちによって適用されるを批判しているのである。検事は、これまでも、日本の戦後体制に対する挑戦に対しては厳しく、体制の内部者には寛大だったのである。こういった疑惑は昨年の初めごろから強まっている。当時、政治資金規制法違反への初期の捜査によって、重要な衆議院選挙の直前に、小沢氏は民主党党首から辞任するまでに追い込まれた。検察に批判的な人々は、検察が西松建設から資金を同じく受け取ったにもかかわらず。自民党議員の追求を行わず、小沢氏だけを追求したことを指摘している」。 メディアの検察迎合ぶりについて次のように論評している。「実際、メディアの専門家たちは、検察は大手のニュースメディアとの密接な関係を享受しているという。こういった関係の結果ニュースメディアによる今回の小沢氏の捜査に対しては概ね好意的(Positve)な報道が行なわれている。ニュース報道は、検察からのリークに基づいて予測可能なパターンのストーリーに従って行われている。たとえば検察が小沢氏が東京の土地に投資することによって隠そうとしていると思っている4億円に関する詳細事実が、ニュース報道の中では現れてくる」。 さすがにジャーナルの意味を心得た先達の意見ではある。恐らく、イエローモンキーのジャーナル度の低さを嗤っているのであろう。もうひとつ、1.20日付けNYタイムズは次のように述べている。概要「検察と大マスコミが密接な関係にあり、小沢報道はほとんど検察寄りのものばかり。事件の報道は検察のリークに基づき、容易に予想がつく物語パターンで展開されてきた」。 1.21日、自民党衆議院議員の河野太郎氏が自身のブログ「ごまめの歯ぎしり」で検察・マスコミ批判をしている。自身の体験から次のように述べている。 「最近の石川某がこういう供述をしているという報道は、明らかにおかしい。日本の司法制度では、有罪が確定するまでは無罪である。被疑者の段階で、あたかも被疑者が悪人であるというような世論を作らんが為のリークを検察がするのは間違っている。(そんなリークをする弁護士は懲戒の対象になるかもしれない)。被疑者の人権問題になりかねない。 検察のリークがほしいマスコミは、まるで飼い主からえさをもらう犬のように、飼い主には吠えず、ただ気に入られようとするあまりにしっぽをちぎれんばかりに振ることになる。検察のリークで紙面や番組を作っている新聞やテレビに検察批判ができるのか。検察がもし間違ったことをしたときに、マスコミがどれだけそれを報道できるのか。 一部のマスコミはそれを報道の自由だという。接見した弁護士が漏らしているという検察と同じではないか。今回の事件で、検察のリークを批判し、検証したマスコミがあったか。記者クラブなる既得権にしがみつき、取材対象となあなあになっているマスコミが報道の自由などという錦の御旗をふりかざすべきではない」。 つまり、マスコミの現下の検査情報垂れ流しプロパガンダは問題があり過ぎ、マスコミ側は謙虚に反省し自主自律的な対応を講ずるべきだということが確認されれば良い。権力側の云うことはダメという理屈で検察リークに対しては鵜呑みにし、原口総務相に対しては報道規制で居直るのはバカ丸出しでしかない。こういうことが確認されれば良い。一言しておく。 2010.1.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評653 | れんだいこ | 2010/01/24 10:19 |
【日共のストーカー理論を嗤う】
小沢キード事件勃発に際して、れんだいこの予想通り日共が牙を剥いている。連日赤旗で攻撃しているが、ロッキード事件の喧騒時に較べて反応が弱いのが不満らしく何とかして火を焚きつけんと焦慮しているように見える。注目すべきは、新ストーカー理論を編み出しているように見えることである。否、ロッキード事件の時にも同様の理論を振りかざしていたのかもしれない。これに一言しておく。 政権交代前のころより、検察が小沢をストーカーとなって捕縛せんとつきまとっているのは誰の目にも明らかであるが、日共によれば、ストーカーされている小沢の方に道義的責任があり、そのことを釈明せねばならないらしい。日共式ストーカー理論によればこういう風になる。いつからこういう理論がさもらしく通用するようになったのだろうか。ストーカーの方が免責され、された方に落ち度があると云う。これによれば、冤罪事件も、容疑がかけられた側に問題があり責任があるということになろう。こういう論法が通れば世も末である。そう思わないか皆の衆。 日共によれば、小沢が東京地検特捜部の事情聴取を受けるようになったこと自体に政治的責任があるらしい。1.23日、市田書記局長は、「政治とカネをめぐり、政権与党の幹事長が事実上の被疑者というべき扱いで、司直の事情聴取を受けること自体、戦後政治史上、前代未聞の異常事態だ」と述べている。これによれば、検察は法の正義の番人で疑問の余地ない正しい機関らしい。戦前、治安維持法下で虐殺まで含む過酷な取り調べで泣かされた履歴を持つ共産党が今では、日共に変じて以来であろうが、警察・検察の側に与してエールを贈るようになっていることが分かり興味深い。 これによれば、小沢は、捜査機関に容疑をかけられたこと自体に対して不徳の責任を負わねばならないらしい。なぜストーカーされているのか国民の前で釈明せねばならないらしい。仮に検察の立件が不首尾に終わるとしても、それは法的に立件できなかったということであって、政治的・道義的責任なるものが別に残ると云う。日共は、検察ができない限界を肩代わりして、ならば「国会で国政調査権を発動して疑惑解明に取り組み、衆院予算委員会での集中審議の開催を求める」とまで云う。 これについては、志位委員長が既に「検察捜査と国会追及は車の両輪」であると公然と述べており、市田書記局長発言はこれを受けてのものであることが分かる。しかし、「権力が首根っ子を押えている間に、下の急所を蹴りあげる」という理論はどこかで聞いたことがある。かくも公然と権力とのがっぷりさを公言して恥じない左派政党など有り得て良いことだろうか。学生運動検証に一家言を持つれんだいこならでは見えてくる裏の仕掛けである。 れんだいこが、同じ論法で日共の急所を蹴りあげてやろう。衆知かどうか、日共には致命的なアキレス腱がある。この問題を抱えている限り、日共は本来なら「国政調査権の発動」、「検察の捜査と国会での追及は車の両輪である論」、「政治的道義的責任追求」、「真相究明努力が不可欠」なぞ口が裂けても云えない。それを堂々と云えるのが日共のらしさではあるが、れんだいこが「この問題」を再燃させた時、彼らがどういう風に口を回すのか牙を剥くのか見てみたい。もし、れんだいこに得心できるようなステキな論法を編み出し得たなら異常感覚の持主と云うことになろう。「この問題」が何なのか、ここでは記さない。聞きたくば、尋ね請うなら云うて聞かそう。 それはそうと、検察と日共が頼みの綱としている「水谷建設元会長の裏金政治献金証言」の根拠が危ういらしい。2010.1.23日付けゲンダイは、「 水谷建設元会長に『偽証』の過去」記事を掲載している。それによれば、中堅ゼネコン水谷建設元会長・水谷功(64歳)の「胆沢ダム工事の下請け受注の見返りに、2004年と2005年に5000万円ずつ、計1億円を小沢の秘書に渡した云々証言は信用置けないらしい。「水谷には特捜部の□車に乗って、”偽証”をはたらいた前科があるのだ」としている。 どういう前科かというと、2006年の佐藤栄佐久前福島県知事の収賄事件の際に、目下、小沢キード事件を捜査指揮している佐久間特捜部長が副部長時代に手がけたのだが、この水谷証言を決め手として起訴したものの、当の水谷が2審公判中に服役中(法人税法違反(脱税)の罪で実刑判決が確定し、獄中の身となる)の津刑務所で、佐藤の主任弁護士と面会し次のように語ったという。「1審での供述は、当時自分の裁判(脱税事件)が進行中で、実刑を回避しようとして検察から言われたままを証言した」。 佐藤前知事の汚職事件で特捜部が描いたシナリオは、1・県発注のダム工事の入札をめぐり、2000年1月に前知事が”天の声”を出した。2・その見返りに、落札企業の意向を受けた水谷建設が、前知事の親族会社の所有地を時価よりも高く買い取った。3・時価と買い取り額の差額が賄賂にあたる、という筋書きだった。ところが、面会した弁護士に対し、「1審で、受注の礼に土地を高く買うのだと思ったと証言したが、土地取引は自分が儲けようとしてやった。賄賂行為はない。ダムの受注は1999年5月に、仙台の有カゼネコンOBらとの会合で決まった。出廷して正直に話してもいい」と新たに証言した。佐藤の弁護側は2審で水谷を証人申請したが、東京高裁は却下した。が、弁護側が昨年7月の最終弁論で水谷新証言を暴露した。これにより、佐藤栄佐久前福島県知事の収賄事件の底が割れた。 佐藤栄佐久前福島県知事収賄事件、小沢キード事件を指揮しているのが現特捜部長の佐久間である。佐久間は懲りない御仁なのだろう、そういう曰くつきの前科を持つ水谷証言を厚顔にも再利用して小沢パッシングに興じている。こうなると、佐久間にストーカー罪が適用されるべきではなかろうか。これが本来の真っ当な感覚になるべきところ、ストーカー佐久間は免責され、ストーカーされる小沢に責任がある云々なる珍論が罷り通ろうとしている。変態そのものではなかろうか。とてもではないが臭すぎる話ではないか。 この話は既に流布されている。日共が知らない筈がない。にも拘わらず、水谷証言を根拠として立件に及ぼうとしている検察捜査に対し叱咤激励し続ける日共とはそも何者か。日共は何故にしゃかりきになるのか。こういう風に論が提起される。れんだいこ以外に、これを解ける者が居るだろうか。 2010.1.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評654 | れんだいこ | 2010/01/25 20:56 |
【新聞各紙の奇妙な同一性論調考】
マスコミの奇妙なほどの論調の同一性を確認し、この背後にある仕掛けを暴いてみたい。目下、小沢キード事件がかまびすしい。小沢の首がとられるまで果てしなく続きそうな局面下にあるが、これを促している背後勢力こそ凝視せねばならぬのではなかろうか。新聞であれテレビであれ雑誌であれ、この仕掛けから一歩も出ることが許されない中で、ピエロばかりが得意げに売文、売口している様は滑稽と云うよりやはり寒い。日本の夜明けは遠い気がする。 2010.1.25日付けの産経新聞13面の鳥海美朗「オピニオン社説検証、小沢幹事長」が面白い。面白いと云っても、書き手の鳥海氏の論調が面白いと云うのではない。逆で、鳥海氏が書けば書くほどこの御仁も相当オツムがヤラレテイルことが分かり、それが面白いと云う類のものである。 どこが面白いかと云うと、鳥海氏が各紙の小沢パッシング競い合いの様子を暴いているからである。鳥海氏は、どこが一番先鋭的に小沢パッシングしているかを秤にかけ、「小沢氏に対し、最も明快に進退の決断を迫ったのは産経だった」として胸を張っている、その姿が滑稽という他ない。 鳥海氏は、1.16日から24日まで、各紙が申し合わせたように三度、小沢パッシング社説を書いている見出しの品評をしている。れんだいこに云わせれば、これが秀逸である。これを転写したいが骨が折れる。仮に転写しても、「見出しにも著作権が働いている」とするのが今日び流行病の新聞著作権狂時代であるから迂闊には書けない。昨今のマスコミたるや、リークプロパガンダで居直り、著作権でも威猛々しいので触らぬ神に祟りなしとしておこう。 れんだいこには、鳥海氏の目線と違って、まず気になることがある。鳥海氏がはしなくも明らかにしたように何故に新聞各紙は三度、回数まで同じの小沢パッシング社説を書いているのか。これは偶然だろうか。それは良い。問題は、なしてかくも各紙とも「ほぼ同じ論調」になっているのかというところにある。申し合わせたように、小沢責任論、退陣論を手を変え品を変えて論じている。小沢退陣に向けてのペンの威力の競い合いを演じている。それも表現の自由、報道の自由、出版の自由だろうが、本当の自由とは、異論、異端、反論まで含めてのものでなければ値打ちがなかろうに。 ただの一社でも、小沢パッシングの異常さに警鐘を鳴らすところが出てこないものだろうか。翻って、ロッキード事件以来の我が戦後日本政治上のハト派叩きの異常さを指摘し、法の適用の公平さの観点から社会の木鐸としての役割を果たす社が出てこないものだろうか。鳥海氏よ、君が為すべきは、同じ論調の急進性を比較することで意気がるのではなく、大きく見解の違う甲乙丙丁のバラエティを良しとして、それを楽しみ、それに意見するのが元々の意味でのジャーナルなのではないのか。 れんだいこは、イエスの言葉を思い出す。律法学者やパリサイ派の面々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせイエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。明らかにイエスを試そうとしていた。イエスを訴える口実を得ようとして、このように問うた。 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。律法学者たちやパリサイ派の面々がしつこく問い続けた。イエスは身を起こして宣べられた。「あなたたちの中で、心の中でさえ姦通の罪を犯したことのない者が居れば、その人たちがまず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、最後にイエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 れんだいこが解説するには及ぶまいが分からずやが多いので、説いておく。イエスは、表面的な偽善者を嫌った。法を盾にして人を責める者に、責められる人と同じ境遇になった時、己は違うと云い切れる者が果たして何人いるのかと問うた。潔白と云い切れる者が居るのなら、どうぞと問うた。イエスならではの見事な対応、口上ではなかろうか。とはいえ、新約聖書上は「一人また一人と立ち去ってしまった」とあるが現実はそうはいかない。何人何十人の者が石つぶてを投げ始めるのだろう。 もとへ。そういう石つぶて派の一人であろう鳥海氏に申し上げる。どうぞ君のペンが小沢パッシングの時のみのものでないように。これまでもこれからも、もっと悪質な政治犯罪が生まれると思われるが、どうかその時には倍する正義のペンをふるってくれますように。戦後日本政治史上の本物のワルに怒りのペンが及びますように。 これぐらいにしとこふふふ。 2010.1.25日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評655 | れんだいこ | 2010/01/26 23:37 |
【れんだいこの小沢キード事件論】
よろず危機窮地の時ほど事象の姿形がくっきりと表れてくる。取り繕う余裕がなくなるからである。そういう意味では、平素の姿は仮のものでしかない。これを人に例えれば、敵も味方も結束する一方で、味方の一部が敵になり、敵の一部が必ずしも敵でなくなる。そういう多重構造の中で社会は営まれている。子供には分からない世界である。 このことは、小沢パッシング喧しい現下の状況に当てはまる。れんだいこ分析によれば、ロッキード事件の時の構図と瓜二つで、当時の役者が寸分の狂いもなくこたびも又演じている。このことは、ロッキード事件の仕掛人が小沢キード事件を操っていることを示している。2009年末の鳩山政権樹立後、当局奥の院指令が降った。それ同時に、ロッキード事件以降あまたの金権腐敗事件が漏洩したにも拘わらず、そういう時には鳴りを潜めていたエージェントが、またぞろ動き始めたことを意味する。 こう読まないと、現下の政局が読めないのではなかろうか。こう読むことにより、現下の政局が不都合なく理解できるのではなかろうか。一体、小沢パッシング派の精神構造はどのような仕掛けになっているのだろうか。れんだいこは訝らずには語れない。今次第に共認されつつあることは、東京地検特捜部なるものが、捜査権と公訴権の両方を持つ世にも珍しい、戦前の特高権力をも凌ぐ超法規的権力であるということ。この絶対権力が小沢に襲いかかり万力攻めを開始しているということ。これに第四権力たるマスコミが太鼓持ちとなって小沢キード事件を両者で遂行中ということ。この両超法規的権力が当局奥の院の指令に合わせているということ。このことに疑問を抱かない程度のオツムの御用評論家、御用学者がしたり顔して小沢政界追放後のバラ色政界をおしゃべりしているということである。 よろず危機窮地の時ほど事象の姿形がくっきりと表れてくるとは、こういう意味である。これが当局奥の院の政局操作術である。こういうことが誰の目にも明らかになりつつある。検察特捜部―マスコミジャーナリズムは、当局奥の院の指令のままに、憲法改正タカ派の生態に対しては権力を控えめに行使し、憲法遵守ハト派のそれに対しては微に入り細に入り事件化せんとして躍起となる。こういうことが、誰の目にも明らかになりつつある。 ややこしいのは、平素は憲法遵守ハト派と見られる反戦平和派が、こういう時に決まって憲法改正タカ派と合従連衡して当局奥の院の指令そのままに動き始めることである。これも見えてきた構図ではなかろうか。ここでいう反戦平和派とは日共のことを指している。こうなると日共とは、正義仮面と云うべきではなかろうか。頓馬天狗と言い換えても良い。 木村愛二氏が常用する「偽の友は公然の敵より悪い」云々の名言が光る。その意味するところ、ニセモノ正義は悪人よりタチが悪いと云う指摘であろう。なぜなら、正面の敵には身構えて対応することができるが、背後の同志の裏切りは予想外のことゆえ油断のスキを突かれて不覚をとるから。日共が、そういう役割を意図的確信的に引き受けていることを再確認するのが小沢キード事件の副産物となるべきであろう。早くかく気づいて日共の解体再生を目指すべきであろう。あるいはもはや日共なぞ当てにせず、本来的な左派運動の結集体を新たに作るべきではなかろうか。これは第一次ブント以来の見果てぬ夢であり、未だに迫られている。ということは、時計の針がここで止まったままで事態が少しも進行していないことを意味している。もう50年にもなる。 ロッキード事件狼煙役を引き受けた立花隆がまたぞろ蠢き始めている。れんだいこはまだ読んでいないが(明日にでも読もう)最新号の週刊現代に登場し、元特捜部長・宗像紀夫との対談で当局奥の院の筋書き通りのスピーチをしているようである。これについては、れんだいこが立ち向かおう。この根っからのネオシオニストエージェントを知の巨人と崇めてきた連中には、立花の腐敗を語る資格もないし能もなかろう。れんだいこは、立花隆汚染との対決なしにはジャーナリズムの良質化は望めないと思っている。 それにしても、「検察―マスコミの一体化、これに列なる日共」という図式が否がおうにも露骨化している。れんだいこには、現代世界を牛耳る国際金融資本のエージェント同盟と映る。この連中はナチス論を語る時に「地獄への道は、善意で敷き詰められている」と説教するのを得意としているが、れんだいこはそっくりそのままお返ししようと思っている。お前たちの「正義棒」こそ、当局奥の院の敷く地獄への道へ誘っているのではないかと。 今争われているのは、日本の真正の知性を廻ってのものである。どちらの知性が歴史の正義に適っているのか、それが問われている。少々荒っぽいが分かり役云えば、小沢が代表するのは日本型政治である。角栄のそれの方がピッタリするのだが角栄はいない。小沢が準角栄型政治を踏襲せんとしているので良しとしよう。それは、一言でいえば日本の伝統的な和合政治とでも云えるものであろう。それに対して、当局奥の院が狙っているのは、米英ユ配下の傭兵政治とでも云えるものであろう。これは滅びの道である。彼らは、最悪として大和民族の抹殺まで視野に入れている。少なくとも、アメリカンインデアンの末裔の如く牙を抜かれた無能民族へと落としこませようとしている。国債発行垂れ流しと自衛隊の海外派兵政策は専らこの連中により仕掛けられたということも見据えねばなるまい。 この両政治のどちらを採るべきか自明ではなかろうか。その自明が自明にならないのは、我さえ良ければ良しとする機会主義者、出世主義者、よほどオツムがヤラレタ変態者が米英ユ配下の傭兵政治に呼応するからである。この種の手合いがいつの間にか日本の政官財学報司の六社機関のトップを簒奪している。ここに日本政治の貧困があると云うべきではなかろうか。この連中との死闘なしには日本政治の再生はないと心得るべきではなかろうか。 もっと云えば、この種の対立はそもそも西欧で発生している。これが西欧諸国が負っている深い傷である。してみれば、ロッキード―小沢キード事件とは、西欧における政治の型の争いの日本版と捉えるべきかもしれない。根は相当に深いということになりそうである。確かにロスチャイルド派の威勢は強いようにも見える。しかし、日本の自称インテリが我も我もとたなびき始めた頃には威勢凋落の時機を迎えていたと云うのも良くある話ではある。そういうことをも見据えながら、我々個々がどちらの側につくのかが問われているのであろう。 れんだいこ的には、いずれ僅かな寿命のものをたかが一時の威勢の為に身を売る者の気が知れない。ぼろは着てても心は錦という言葉もあるではないか。時にうまいもの食うからおいしいのだろう。心と口先を売ってまでそんなに出世したいか。東京地検特捜部諸君、マスコミ諸君、評論家諸君、君のことを云っているのだよ。 よろず危機窮地の時ほど事象の姿形がくっきりと表れてくる。平和の時には問われないものが、矛盾立て合う時には否が応でも問われるようになる。平時に反戦平和を説いていた者がいかに豹変するのか見るのも見ものだろう。かく了解すべきだろう。 2010.1.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評656 | れんだいこ | 2010/01/27 18:24 |
【日共の1.27日付け赤旗主張をパロる】
日共は、1.27日付け赤旗の主張で、「民主党小沢幹事長 政治的道義的責任は明らかだ」なる見出しの社説を掲げている。(ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-27/2010012701_04_1.html) れんだいこがこれをパロることにする。「」内はそのままの記述とする。地文も極力、赤旗の主張に合わせた。この党に、正義ぶる資格があるのかどうかを問う為に発表する。余りにも得手勝手が過ぎよう。且つ小沢キード事件に異常な熱意を凝らす日共を疑惑する為に発表する。この党は確実に当局奥の院に操られている。この疑念を増す為に発表する。 日共の最高指導者であった宮顕の戦前の党内リンチ事件による小畑中央委員査問致死事件を再精査せねばなりません。「検察の捜査とともに、国会での真相解明と政治的道義的責任の追及が焦点となっています」。 宮顕は、小畑中央委員の死因は急性心臓マヒ死だったとし、巷間云われるところのリンチ致死についての関与を否定してきましたが、「疑惑は解明されていません」。本人死亡により刑事責任を求める機会は失われていますが、宮顕弁明を擁護し続けてきた共産党の「政治的道義的責任は明らかです」。共産党は、「国会での参考人招致に応じるなど、国民の前に真相と責任を明確にすべきです」。 急性心臓マヒ死説は重大な疑惑 宮顕の戦前の党内リンチ事件をめぐる「疑惑はますます深まっています」。宮顕は、当時の党内査問はスパイ摘発の正義の聖戦であったとし、この問題に関する外部干渉を拒否し続けてきました。死因は、急性心臓マヒ死だったとし、責任は死んだ側の小畑の方にあると言い繕ってきました。そもそも査問の云いだしは逸見中央委員であり、自身は積極的な関与はしていない、査問は静謐穏和なものであった。小畑の死亡後の死体遺棄についても、床下埋葬につき特段の指揮をしておらず不関与だと説明する等、終始責任逃れをして参りました。ところがその後、事件関係者の陳述調書が漏洩されるに及び、宮顕のそうした言い逃れが真っ赤なウソであることが判明して参りました。 宮顕は一時、参議院議員でもありました。共産党には、そういう履歴を持つ宮顕を国会議員に押し立てたことに対する政治責任があります。「政治的道義的責任を追及されるのは免れません」。共産党はこの間一貫して、復権証明書を根拠にして宮顕の戦前の党内リンチ事件は解決済みとして参りました。しかしながら、戦後の釈放過程の特別便宜問題もあり、復権証明書は政治的解決ではあっても刑事法上の解決にはなりません。法務省見解も不可解としており未だ決着しておりません。「責任追及を逃れようとしているのは明らかです」。そもそも、事件に関して下部党員が「勝手にやったといえば、政治的道義的責任までなかったことになるわけではありません」。宮顕は当時、僅か4名の党中央委員の一人であり、そのうちの2名の中央委員が残りの2名の中央委員を査問するということ自体異常です。「『監督責任』を認めるなら」、共産党は「責任を明白にすべきです」。 疑惑の核心は、小畑中央委員の死因が持病死ではなく明らかに査問致死ではないかというところにあります。加えて、「党内査問はスパイ摘発の正義の聖戦であった説」にも疑問があります。小畑中央委員の方が労働者派の最後の代表であり、これを摘発した宮顕―袴田側にこそスパイ性が認められております。こうなると小畑氏の容疑は冤罪の可能性があり、彼及びその親族のの名誉のためにも今からでも遅くない事件の真相を解明せねばなりません。 共産党はこの間、党内外からの訴えに対し、宮顕弁明に沿って反論し続けて参りました。こうなると、「真相の徹底究明と政治的道義的責任の追及はいよいよ免れません」。事件が事実なら監禁罪、殺人罪などでの刑事責任もありうるだけでなく、本人死亡によりたとえ逃れても、共産党そのものに「政治的道義的に」政党としての「資格が問われることになるのは明らかです」。 共産党は自浄能力示せ 宮顕及び共産党への「政治的道義的責任の追及は、検察による刑事責任の追及と“車の両輪”であり、『検察の捜査を見守る』という態度では、その責任を果たすことはできません。国会の自殺行為になります」。共産党が「自浄能力を持つなら、なにはさておいても、代表者の参考人招致などに応じるべきです」。 2010.1.27日 れんだいこ拝 |
RE:【日共の1.27日付け赤旗主張をパロる】 | こうもり | 2010/01/28 20:03 |
レンダイコ氏は下記について根源的な疑念を提起する: 『(宮本氏の)この時の「復権証明書」の文言にも問題が残されている。「勅令第730号」は、次のように記している。 「人の資格に関する法令の適用に付いては、将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとの同令第一条に則り、資格を回復したることを証明す」。』 レンダイコ氏の上記についての疑念は真に筋が通っており論理的であると私は思う。何故なら、宮本顕冶氏はこの時点では、政治犯ではなく殺人を問われた刑事犯であった。宮本顕治氏の周辺に「スパイ」にまつわるエピソードがある。 以下は関連情報: (1)中央公論九月号(2009年)「社会主義者を捨てなかった文人経営者の軌跡」と題して原武史氏(明学大)が辻井喬氏、「実業家・堤清二」にインタビューしている(148-159頁)。 途中抜粋 辻井兄の上田耕一郎氏とは同じ年で非常に仲が良かったんですが。不破さんは随分損をしている気がします。でも自由になったせいか、最近の彼の書くものはいいですね。「マルクスは生きている」は、実に分かりやすい本で「ああ不破さんもこう言う風にかける人なんだ」と、思いました。 原:「叙情と闘争」のなかで辻井さんは除名されて共産党から抜けて行くわけですが、不破さんも相当な目にあっています。 辻井:学生時代には彼もスパイ容疑などで査問を受けています。後で知ったんですが、随分辛い状態にあったんですね」 %%%投稿者注*、私、こうもりは、どうも不破も怪しいと見るに至った。奴はこの頃より官憲のヒモつきであったのではと疑うならば、2001年の講演(良い資本家としてロックフエラと仲の良いソニの社長を礼賛し、且つホロコーストを是認した)なぞも合点がゆく。(後略) (2)通称ナベツネは宮本顕治氏を語るときは必ず「スパイ」のことを語る。私は、「ナベツネ」が正力より事前にこれについての事実を語られており、これをちらつかせることにより、宮本氏の支配勢力への屈服(あるいは政治的転換点での「もっともらしい屁理屈による裏切り」)を強いたものと見立てている。つまり「牽制」であろう: 以下「渡邉恒雄回顧録」、中央公論社、2000年1月より %%%%%引用初め #####真下真一と主体性論、元富士警察スパイの嫌疑、新人会結成(経緯語られず) 47頁:新人会で代々木に喚問され、宮本、山辺に詰問さる。 11月30日 31番教室での細胞会議、「虎の威を借る狐」と宮顕を面罵。宮顕退出、細胞員代々木に召集され新人会の解散命令,上田(耕一郎)は復帰、氏家、堤清二は離党、上田誠吉は弁護士になるため偽装離党(でっかい家、マントリピース、一つの茶椀で女と酒) ##49頁:その頃、青年共産同盟本部に「断罪状」 1.三田村四郎から金を貰っていた;2.河野密などの追放戦犯と通じ金をもらっていた;3.党の文書を本富士警察にまわしていた。渡邉の反論「私は新人会財政部として若干の寄付として三田村氏から得たほかに今日に至るまでなんら同氏の指導なぞ受けておらず、また河野氏とは一面識も無く本富士警察書はその所在地すら知らない」 #51頁:神山は僕が除名された後、激励の言葉をある人に託した。黒木重徳中央委員は「君は誤解されて裏切り者にされている。俺も除名された経験がある。俺は、警察のスパイという理由で除名になった。ところが、俺を警察のスパイと告発した男がその後本物の警察のスパイとわかって、復党できた」 60-65頁:日記11月8日(土)~12月18日(木) 11.8 野坂の演説に涙、11.9出隆(いでたかし)先生より「哲学青年の手記」、11.11 映画館で中村・橋本と合う、赤い指輪は冷ややかに凍結でもしてしまったようだ。うつろな喜びがもだえていた。弱きものよ、何時の名は男なり、11.13 青共本部キャップ会議。猿のような沖浦のデマゴギを憎む、11.15宮顕、山辺と東大細胞会議、指導部のペテンにかかる。俺の世界は今こそ独立宣言すべきときだ。11.16 赤き指輪声なきや.leben ist einsam sein!,11.25 雨はやんだ、冬空を思いがけなく暖気が漂い始めた。故知れぬ暖気の中で赤い指輪は遠く冷ややかに凝固してゆくのだろう。何度あの恐ろしい言葉がこうして俺の耳にやきつけられたことか。Sie ist die ereste nicht! 11.29 11.30 全体会議、党生活とはこういうものなのだ、味噌汁を頭からかぶったような奴等が共産党員の面相だ。帰途宮顕と赤門で談ず。12.5(金)中村調査委員会。突然脱党を宣す。12.18東大細胞解散再登録を宣さる。 53頁:ある意味で、自民党にとっても共産党ぐらい都合の言い政党はなかった。彼等は他の野党と強調しないから体制外政党として共産党の議席を差し引いておけば、反対勢力がカウントできた。選挙においても共産党が勢力を持てば明瞭に社会党が減った。共産党が候補を立てないで社会党を支持しておけば自民党がやられていた可能性があったのに共産党のおかげで野党勢力の票が食われ社会党が落選し自民党が勝った選挙区が僕の計算でも二十いくつかあった。 新人会の活動の中で読売新聞と接触(安田正二社長)。それが、読売入社のきっかけ。 #1951 鳩山番、氏が倒れる現場にいあわせる。首席秘書官は朝日の若宮小太郎 #1952 山村工作隊潜入(警察譲歩に基づき) 読売社会部の遠藤はこだまの子分であった。 • 昭和27年(1952年)10月:日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)。 • 昭和28年(1953年)8月:日本テレビ放送網本放送開始。 #1954 吉田自由党担当、正力「緒方竹寅を叩け、緒方は226では、果敢に抗議したように書くが、実際は真っ先に逃げた」 120頁:僕は正力さんに可愛がられたから、あまり反感は無かったが、やはりこうした命令はきもちよくない。 (3)昨年、ナベツネは「文藝春秋」誌で宮本顕冶氏の長男と対談をしている(何月号であったか失念)。そこでも再度「スパイ」話をエピソードとして息子に語っていた。 %%%%%以上引用終わり これらは「ナベツネ」による共産党への脅しであるのだろう。昨今の検察との連携をきわめて明瞭に理解できる構図である。 |
Re:RE:【日共の1.27日付け赤旗主張をパロる】 | れんだいこ | 2010/01/28 20:48 |
こうもりさんちわぁ。 > レンダイコ氏は下記について根源的な疑念を提起する: > 『(宮本氏の)この時の「復権証明書」の文言にも問題が残されている。「勅令第730号」は、次のように記している。 > 「人の資格に関する法令の適用に付いては、将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなすとの同令第一条に則り、資格を回復したることを証明す」。』 > レンダイコ氏の上記についての疑念は真に筋が通っており論理的であると私は思う。何故なら、宮本顕冶氏はこの時点では、政治犯ではなく殺人を問われた刑事犯であった。 この評、有り難う。問題は、れんだいこが例の事件の分析を公表してかれこれ十年近くになりますが、日共系はむろんのこととしても新左翼系からも特段の賛否が生まれないことにあります。平素、理論を非常に難しくして煙に巻いてくれるのですが、宮顕問題一つに判断できないような頭脳で難しくしゃべられても信用できません。 マルクス主義関係の訳本も然りです。れんだいこは、幾冊か試みましたが、よくも既成の訳本で理解できたことよとあきれております。れんだいこは、何冊か道中で読むのを止めましたが、あれは正しかったのです。このことを確認して以来、難しく書く、小難しく語る連中を信用しないことにしております。それはそうと、れんだいこブログ評どんどん頼みます。ぬか釘は慣れっこだけど辛いんだわ。 2010.1.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評657 | れんだいこ | 2010/01/28 20:58 |
【2.4勾留(こうりゅう)期限考】
東京地検特捜部(以下、「特捜部」と云う)に小沢パッシングの人身御供として逮捕されている当時の秘書3名の勾留(こうりゅう)期限が2.4日、後一週間に刻々と迫ってきている。漏洩されている情報によると、特捜部は、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で逮捕したものの、虚偽記載は愚か本旨の「ゼネコン裏金による土地購入容疑」立証に難航している。三氏とも、小沢幹事長の収支報告書記載関与を否認し続けている。特捜部の目論見は画餅に帰しつつある。 このまま勾留(こうりゅう)期限を迎え釈放となると、特捜部の失態の誹りは免れない。そういう意味で、この局面での特捜部の禁じ手発動、如何なる奥の手を使うのかが見ものになりつつある。但し状況はますます悪くなりつつある。小沢を口汚くし批判していた自民党の町村信孝元官房長官が、手前も政治資金で不動産を購入していたことが判明させられた。町村氏が代表を務める信友会が北海道江別市の不動産を取得しており、収支報告書では取得日と記載日が違っていると云う。みんなの党の江田憲司議員も政治資金で不動産購入していたことが露見させられている。その気で調べれば他にも一杯出てくるだろう。「ダブルスタンダードはダメ」とコメントされている。 そもそも小沢民主党幹事長の政治資金額は、全議員のうち確かトップ10ないしは20以下であったと記憶する。誰かこれを、もう一度明らかにして貰いたい。これが明らかになれば、小沢以上の献金額を受けている者が詮索されず、小沢を特命捜査している不正義性が浮き彫りになろう。「特捜部」が誰に教唆されているのか、関心は次第にそちらに向かうことになろう。 1.27日、特捜部は小沢民主党幹事長への再事情聴取を見送る方針を固めたと伝えられている。これを勘案するのに、検察当局内部で、こたびの捜査のやり過ぎを廻って疑念が巻き起こりつつあるのではなかろうか。特に、小沢パッシングの旗振りピエロの最高検検事・大鶴基成と東京地検特捜部長・佐久間達哉の品性能力共々の劣悪ぶりが検察内部でも問題とされ食傷されつつあるのではなかろうか。庇いきれない局面を迎えつつあるのではなかろうか。 いずれにせよ、こたびの一部始終経緯を通じて検察の権威は地に堕ちた。にも拘わらず、特捜部が、これ以上小沢パッシングに興じるならば、我々もいつまでもジッとはしていない。次の対抗措置に向かおうと思う。一つは、東京地検特捜部に対して人民大衆的包囲闘争を組むこと。次に、検察の国策捜査に「車の両輪論」で呼応しエールし続ける日共本部に対して人民大衆的包囲闘争を組むこと。前代未聞の椿事となろうがやむをえまい。検察に対しては裏金問題を突きつけよう。日共に対しては、戦前党中央委員小畑氏のリンチ致死事件の真実の解明を迫ろう。共通することは、それぞれの組織の長年のウミを出し切らせることである。 誰かこれを組織せよ。れんだいこ党も馳せ参じよう。鳩山政権が様子見することは当面は一方法であろうが、断じて優柔不断であってはならない。明らかに検察の暴走、「上からの法破り」が歴然としており、法の正義に殉ずる検察の在り方の根本を問うべく、小沢パッシングに興じた検察の面々を国会喚問せねばなるまい。取り調べ専門の輩に、取り調べられる経験を味わわせてやらねばなるまい。 日共よ。同じ国政調査権発動でも、れんだいこのそれと手前らのそれはかくも違うぞ。どちらが左派的で、どちらがエセか競ってみようか。それにしても、検察の面目丸つぶれと日共のそれが軌を一にしているのが歴史の摩訶不思議でもある。帳尻はこういう風にあわされるんだなきっと。 2010.1.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評658 | れんだいこ | 2010/01/30 23:11 |
【鳩山施政方針演説批判で見えてきた鳩山見識と、批判派のノ―タリンぶり考】
2010.1.29日、鳩山首相は、施政方針演説で「新日本の舵取り」を声明した。しかしながら、その内容を吟味するよりも、片言隻句の「労働なき富」を廻って揶揄するしかない批判組のノ―タリンぶりが見えてきた。れんだいこがからかっておく。 鳩山首相が、「非暴力・不服従運動」で知られるインド独立の父、マハトマ・ガンジーの「七つの社会的大罪」を引用して発言した際、「労働なき富」を廻って、野党側が一斉に「おまえのことじゃないか」、「税金払え」などとやじを飛ばし衆参両院本会議場は騒然となったと云う。この文言を盛り込むことに「母親からの月1500万円もの贈与を想起させる」と閣僚からも官邸内からも反対の声が出たとも云う。これが事実なら、れんだいこが告げておく。君たちのノ―タリンにもほどがあるぞ。 鳩山首相はエライ。敢えて演説に盛り込んだと云う。それはそうだろう。言葉の意味の次元が違う。れんだいこは、こたびの鳩山演説を美化するつもりはない。施政方針演説と云うよりは文学青年調の書生論を聞かされた気がしないでもない。有言実行のために何をなすべきかが聞かされたが、それを阻害するものにどう闘うかが示されていない。そういう意味で、政治願望を語っただけの誹りを受けねばなるまい。 但し、鳩山首相が「ガンジーの七つの社会的大罪」をわざわざ持ち出したことはエライと思う。これを揶揄しようなどとは微塵も思わない。批判を浴びせる者はノ―タリンを自己暴露していると思う。そういう意味で、小沢パッシング、鳩山パッシング、小沢パッシングと続くこの間の喧騒に於いて、パッシング組のオツムがこの程度のものであることを確認する良い機会になったと云えようか。 鳩山首相が「ガンジーの七つの社会的大罪」をわざわざ持ち出したことは実は意味が深い。鳩山首相がこれを自らの意思で引用したのか、誰か知恵者が居るのか分からないが、この一事に於いて、こたびの鳩山首相施政方針演説は歴史に刻まれるに値する。かく評すべきである。 「ガンジーの七つの社会的大罪」とは、「理念なき政治」、「労働なき富」、「良心なき快楽」、「人格なき教育」、「道徳なき商業」、「人間性なき科学」、「犠牲なき宗教」を指す。鳩山首相は、この大罪からの転換こそ文明的課題とした。「人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済、政治、社会、教育が望ましいのか。今、その理念、哲学が問われている」と提起した上で、自らの政治理念や政策を訴えた。 れんだいこに云わせれば、「ガンジーの七つの社会的大罪」とは、植民地インドの国際金融資本支配からの解放を思念しての対抗理念であることに本質的な値打ちがある。「理念なき政治」とは、シオニスタン政治に明け暮れる当時のインド政界への批判、「労働なき富」とは国際金融資本のあくどい収奪と搾取に対する批判、「良心なき快楽」とは、権勢を恣にする国際金融資本派の道徳的退廃を揶揄している。「人格なき教育」とはシオニスタン教育に明け暮れる当時のインド教育界への批判、「道徳なき商業」とは国際金融資本の悪辣な資本増殖主義、「人間性なき科学」も同様にの科学の利用の仕方の悪辣さを批判している。「犠牲なき宗教」とは宗教紛争の迷蒙からの脱却を指針している。 ガンジーが掲げたこれらの指針はいずれも、国際金融資本の不当な支配からの脱却を企図しているものである。ガンジーの指導者としての英明さは、運動の未来への展望に於いて、単なる抵抗、暴動、武装によって徒な弾圧で消耗させられるのではなく、敵の内腑を衝く思念を勝ち取ることにより、長期的持続的対峙的に闘争を発展させ、且つ国際情勢を巧みに利用して遂にはインドの独立を勝ち取ろうと云う長征戦略に基づいていた。 鳩山首相が、ガンジーをそのように捉え称えたのかどうかまでは分からない。はっきりしていることは、そういう奥行きの深さを持つ「ガンジーの七つの社会的大罪」を施政方針演説に採りいれたことである。これは、戦後日本の歴史の転換シグナルだったとして後年評価されることになるのではなかろうか。 これが受け取りようとなるべきところ、ノ―タリン組はどう批判したか。マミーマネーは「労働なき富」そのものではないかと嘲笑した。自民と日共はよほどウマが合うのだろう。同様の反応を示しているのがお笑いである。世間では自民と日共は相容れず対立していると云う。れんだいこは、ロッキード事件然り、小沢キード事件然り、ここ一番の肝心な時の対応を見よ。見事に連携しているではないかと云う。 ここで、もう一度確認しておく。れんだいこは、ガンジーの「労働なき富」の指摘は、国際金融資本の搾取に対する批判の言辞だったと云う。自民と日共は、マミーマネーのような貰いカネを「労働なき富」の典型だと云う。お望みなら、どちらの理解が是でどちらの理解がノ―タリンか白黒つけようか。 もとへ。鳩山首相は、「宇宙が生成して137億年」、「地球が誕生して46億年」、「人間圏ができて1万年」と畳みかけ、今や「約3千万とも言われる地球上の生物種のうち、現在年間約4万種が絶滅していると推測されている」危機の時代を迎えているとして、「私たちの叡智を総動員し、地球と云うシステムと調和した人間圏の在り方」を問い、これに応えるのが政治だと述べている。この論法、論理は至極真っ当であろう。問題は、ならば具体的にどう政策対処するのかということになるが、ここら辺りになると鳩山首相は急きょ八方美人型に転じて軟弱ぶりを発揮する。 鳩山政治の矛盾は恐らく、沖縄の米軍普天間基地移転問題で頂点に達する。期限は5月末までとされている。鳩山首相が人類の危機、日本の危機を云うのなら、戦争経済、軍事力学的な国際関係論との毅然とした決別を打ち出さなければならないのだが、この観点から渡りあえるだろうか。相手はオバマではない。国際金融資本の世界支配戦略である。これに立ち向かう胆力があるだろうか。 この胆力のないままに「命を大事にする政治」を百万言唱えても、小泉型の狂人政治の愚よりはましであることは論をまたないとはいえ、空疎とならざるをえまい。 鳩山が本気なら、就任早々着手すべきは高速道の無料化ないしは一律大幅値下げであっただろうが、未だにああでもないこうでもないと無駄な時日を浪費している。担当大臣の前原は、意の一番に手掛けねばならないこの施策から逃げ出し、ダムがどうだの道路がどうだの空港がどうだので何ら実を結ばない愚策でパフォーマンスばかりしている。 まぁここまでは良しとしよう。これからが正念場だろう。それともう一つ、検察の出方によっては、担当検事を国会喚問せねばなるまい。題して「政治資金法特捜の意義と限界」としようか。検察万能を防ぐチェックアンドバランス策を講ぜねばなるまい。一事万事、生起した事案に正面から取り組み、より良い基準を作りだす。よいこういうことをするのが仕事と云うのではなかろうか。 2010.1.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評659 | れんだいこ | 2010/01/31 13:08 |
【「戦前の宮顕派による共産党内査問致死事件」徹底解明必要の今時の理由考】 1.30日、日共の穀田恵二国対委員長は、テレビ朝日系番組「朝まで生テレビ」に出席し、小沢キード事件を廻る見解として、疑惑徹底解明を主張し続けた。その論旨は、概要「ダム受注工事の裏金が原資になっているのではないか。この疑惑を晴らす責任が小沢氏にはある。国民は、ゼネコンからのヤミ献金ではないかとの疑いが強い。政治的道義的責任を追及する舞台は国会だ。国民の判断を仰ぐべきだ。国会で自ら疑惑を説明するよう求める」と云うものであった。党中央見解をそのまま主張していることになる。 れんだいこ既に何度も指摘しているが、日共の場合、それを云うなら手前も戦前の宮顕派による党内査問致死事件に対する説明責任があると云いたい。日共にとって、これは喉仏に刺さり続けているトゲである。これを解明しない限り、釈明しない限り党利党略的な御都合主義批判だと云われても仕方なかろう。 れんだいこの「戦前の宮顕派による党内査問致死事件」持ち出しは決して唐突なものではない。日共がロッキード事件並みの精力と構図で小沢キード事件を持ち出す以上、ロッキード事件と密接不可分な関係にあり、未だ尾を引き続けている「戦前の宮顕派による党内査問致死事件」に対する政党としての説明責任が不可避であると主張したい。 どう関わるのか不審な向きの方もあると思われるので説明しておく。「戦前の宮顕派による党内査問致死事件」が本格的に問題になり国会質疑されたのはロッキード事件勃発直前のことであった。ロッキード事件勃発は1976.2.4日であるが、僅か1週間前の1.27日、春日一幸民社党委員長が、衆院本会議で「宮顕のスパイ査問事件」を質問している。春日委員長は先の参院選で突如この問題を持ち出し、それが問題発言として政治化させていた。なぜ持ち出したのかの説明責任を問われていた。そういう緊迫の中での質問である。 春日委員長は、「共産党は、リンチによる死亡者の死因は特異体質によるショック死だとしているが、真実は断じて一つ」として、事件の究明と戦後の宮本の公民権回復に関しても疑義を表明した。「裁判所の判決に示されたものが真実なら共産党の抗弁はウソであり、共産党の主張が真実なら、あの判決は宮本氏らに無実の罪を科したことになりましょう。すなわち、裁判所のあの判決は真実に即した正当なものであるのか、それとも日本共産党が主張するがごとき、それは当時の特高警察によってデッチ上げられ、かつ、その云うところの天皇制裁判によるデタラメな判決であったものか、このことは本件がいかに戦前の司法機関の責任に属するものとはいえ、問題の重要性に鑑み、その真相をこのまま曖昧にしておくことは、本件に対する国民の疑惑はますます大きくなるばかりであります」。 「あのリンチ共産党事件なるものの事実関係を、あらためて国民の前に明らかにする必要があると思うが、政府の見解はいかがでありますか」と、政府の見解を迫った。「共産党議員のヤジと怒号、一方では自民、民社党議員の拍手に包まれて春日一幸民社委員長がゲンコツでテーブルをたたきながら熱弁をふるった」(鈴木卓郎「共産党取材30年」)とある。 1.30日、塚本民社党書記長がスパイ査問事件についての詳細な質疑を行い、果ては宮顕の「復権問題」、刑の執行停止に伴う残余の期間にまで及ぶ質問(衆院予算委員会)まで及んだ。稲葉法相は、質問に答え、「宮本、袴田らの手で行われた凄惨なリンチ殺人事件」の事実を認めている。 不破書記局長が、衆院予算委員会での春日質問を非難、「国会を反共の党利党略に利用するもの。宮本委員長の復権は法的に決着済み。暗黒政治の正当化だ」と反論。但し、「判決に不服なら再審の請求という手段がある」という稲葉法相の指摘に対してはノーコメントで通している。 この時、マスコミは、ロッキード事件、小沢キード事件の際のように疑惑解明を後押しするのではなく、例えば朝日新聞などは「歴史の重み、矮小化の恐れ、醜聞の立証に終始する政争次元の論議は疑問」という見出しで、「この事件を論ずるためには、小畑氏の死因の究明ではなく、こうした政治社会的な背景の分析に力点が置かれるべきであり、しかもそれが戦争から敗戦につながった歴史への反省を込めて行われるべきであろう」と述べ、「小畑氏の死因の究明不要論」を述べている。他社の論調も同様で、毎日新聞は今さら論を述べ、読売新聞コラムは、「春日演説が暗黒政治と軍国主義の復活を推進することになりはしないか」と憂えている。 1.30日、不破が、衆院予算委員会で、戦前の治安維持法関連の質問をした。その論調は、事件の疑惑解明ではなく、当時の特高警察の非道ぶりを非難することで免責を図ろうとしていた。1月末、自民党が「共産党リンチ事件調査特別委員会」を設置し、事件解明に向かおうとした矢先、ロッキード事件が勃発した。これにより、政治の関心が急きょロッキード事件の方へ転じ横滑りして行くことになった。 鈴木卓郎の「共産党取材30年」は次のように述べている。「助かったのは『スパイ査問事件』を追及されていた共産党である。『査問事件』のナゾは解かれたわけではないが、要するに話題はロッキード献金の方へ移ってしまい、話題としては急速にしぼんだ。宮本を獄中から釈放したのはマッカーサーであった。今度はロッキードが宮本を世論の総攻撃から救った。これで宮本は二度『アメノか帝国主義』に助けられたことになる。なんとも運の強い皮肉な共産党委員長といわざるを得ない」。 興味深いことは、ロッキード事件勃発と同時に、それまで疑惑の当事者であった宮顕その人が水を得た鯉の如くにしゃしゃり出し、ロッキード事件徹底解明の音頭と指令を発し続けたことである。国会内を堂々と闊歩し始め、各党協議会を主導し角栄訴追の機運を盛り上げて行った。宮顕のシャカリキを誰も訝らなかった。というか、訝る向きを掣肘したと見るべきだろう。 以来、日共は、この種の疑惑解明の率先徹底追及政党となって今日に至っている。最近では鈴木ムネオ徹底訴追が記憶に新しい。この種の疑惑とは、専ら検察にリークされ主導される政治家訴追事件であり、そのターゲットが常に戦後政治構図上の内治優先派即ちハト派に向かい、国際金融資本の御用聞き派即ちタカ派に向かわないのは衆知の通りである。となると、日共がどういう役割を果たし続けているのか、果たし続けさせられているのか、もはや説明を要すまい。 こたびの小沢キード事件における日共が果たさんとしている役割を客観化すれば、以上のような流れが見えてくる。れんだいこが、「戦前の宮顕派による党内査問致死事件疑惑」を持ち出し、日共に対し、小沢キード事件追及論理と論法で事件を解明せよと迫るのも納得していただけるだろうか。日共は、論理と論法を先鋭化すればするほど自らの首を絞めることにもなるというジレンマにある。しかし、そのことさえ分からない程度のオツムで御用聞き忠勤しているのが実際であろう。というか、ロッキード事件、小沢キード事件を糸引く当局奥の院の意向のままに操られているということになろう。 「戦前の宮顕派による党内査問致死事件疑惑解明」には、こういう意味がある。ということは、これをさせない側の企みこそ、日共を引き続き利用したいと云う思惑によってであるということが透けて見えてこよう。かく判明したとならば、政治の公正さを取り戻すためにも日共の変調訴追の動きを止めねばなるまい。「検察と日共の車の両輪論」を得意気にのたまう異常さを糾弾せねばなるまい。志位―市田党中央の辞任は免れまい。興味はこういうところにも生まれつつある。誰か、そう思わないか。 2010.1.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評660 | れんだいこ | 2010/02/01 20:25 |
【歴史の摩訶不思議考】
歴史は摩訶不思議な立て合いをする。8.15日もそういう日であるが、2.4日もそういう地位を得つつある。この日、小沢キード事件で1.15日に逮捕されている大久保隆規(48)、石川知裕(36)、池田光智(32)元秘書の勾留期限が切れる。無事釈放を祈る。 2.4日と云えば何と、ロッキード事件勃発の日である。1976年のことだから丁度35年前のことになる。まさか検察がこの日に合わせて逮捕した訳ではなかろう。れんだいこは歴史の摩訶不思議と見る。これから検察のなりふり構わぬ強権発動を目にすることになるだろう。ロッキード事件と構図が全く同じであるから、今後起こることはロッキード事件を調査しておけば予想できよう。とすればいずれ国税庁も動き始めることになろう。針のようなことを棒にまで仕立て上げるだろう。 ロッキード事件は今から思えばまことに滅茶苦茶な政治訴追事件であった。これにより、かの有能な角栄がはがい締めされ身動きとれなくされてしまった。これにより戦後日本の発展が止まった。小沢キード事件でも同様の憂き目を見ることになろう。但し、一つ違うことがある。今ではネット通信があり、何事も当局の思惑通りには行かない。鋭い監視の中で事件化させる分、検察もしんどい筈だ。しんどくなければパラノイアということになる。 さて問題は、国会権力が、検察の暴走にどう立ち向かえるかにある。法の適用の公正さ、国会議員の不逮捕特権、取調べの可視化、検察リーク、メディアの垂れ流しプロパガンダ等々の諸問題を廻って、今後に有効な処方箋を生みださなければならない。ロッキード事件の時のように政敵追放の為に検察にエールを送るなどという痴態を再演してはならない。もし国会が無能を晒すなら、所詮お飾り儀式の駄弁の場でしかないブルジョワ国会なるものの本質を確認することになるだろう。 小沢つぶし派と抵抗派の死闘が演ぜられるのは間違いない。「保釈後のせめぎあい」が楽しみになってきた。マスコミの大勢は訴追派である。一部週刊誌辺りで疑問派が生まれつつある。この声が強まりますよう願う。ネット界では検察批判が主流である。これは当然のことで、何の利害もないのにシオニスタン検察の強権発動に眉をひそめないとすれば、相当オツムがヤラレテいるという以外にない。 それにしても、日本左派運動が、この政争に対し口をポカンと開けたまま為す術を持たないのは痴呆性を示している。日共が、検察とのタイアップによる車の両輪論を堂々と掲げて検察シナリオの尻馬に乗ってはしゃいでいるというのに、反日共の栄えある伝統を持つ新左翼系運動が無聊をかこつなどというのは到底信じられないが、これが現実である。恐らく連中の戦後体制論、政治論の不在もしくは構図の間違いのせいだろう。 たすけあい党は彼らを当てにしない。その眼は既に東京地検包囲闘争に向けている。小沢を逮捕するような不届きをすれば幾万幾十万幾百万の人民大衆の抗議の渦を夢見ている。誰か、今からでも手配するよう。頼りにするとすればやはり第一ブントの古参の皆さましかないか。頼む。 2010.2.1日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)