カンテラ時評21(601~630) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評601 | れんだいこ | 2009/09/03 22:31 |
【第45回2009.8.30衆院選考その3、世界がどう伝えたか】 8.31日、2009衆院選について、各国メディアがどう伝えたかを見ておくことにする。(2009.9.1日付け毎日新聞その他参照) 米国のウォールストリート・ジャーナル紙は、「日本現代史の分水嶺(ぶんすいれい)として後世に伝わるだろう。米国などにとって、自民党政権に比べ対応が難しくなるが、より意欲的な同盟国となるかもしれない」とジャーナルしている。冷静客観的に事態を分析していることが伝わる。 英国のフィナンシャル・タイムズ紙は、「極めて日本的な反乱。民主党に革新的な新政策が見られないのは、日本人が今もそれなりに現状に満足しているからだ。社会的な革命を求めたものではなく、これまでとは違った手法で現状を維持しようとする試みに見える」。インディペンデント紙は、「民主党の外交方針は、日本がようやく冷戦終結を確認したことを示す。アジア重視の姿勢から『地域勢力』化する可能性がある」。9.1日付けのアル・ハヤート紙(ハージム・サーギーヤ)はコラムで、「日本の政権交代について」採り上げ、「日本の革命?」との見出しで、「日本で、第二次大戦後と呼ばれた長い時期、自民党がその象徴であった時期は終了した。そのかっての盟友イタリアでキリスト教民主党が去ったのと同様に」とした上で、意訳概要「第一党となった民主党の鳩山代表は穏和系であり、革命的な動きは採らないだろう」と評した。 イスラエルのイスラエル民放は、「鳩山氏は日本のオバマ」と報じた。8.31日付のイスラエル有力紙ハーレツは、「鳩山政権は、例えば(パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム原理主義組織)ハマスの承認に踏み切るなど、より親アラブ的な姿勢を取るようになりそうだ」と分析した。執筆者は知日派の大学教授で、鳩山代表が選挙戦で自らをオバマ米大統領になぞらえて変革を訴えていたことを指摘し、「対イスラエル政策について、オバマ、鳩山両氏はイスラエルが望まない形の協調を進める可能性がある」と懸念を示した。 イタリアのメッサジェーロ紙は、「イタリアと日本は人口減、移民規制、年金問題など似た問題を抱え、右派から左派への政権交代が必要だった」と論じた。8.31日付のイタリア紙コリエレ・デラ・セラは、「東京に(政治的な)津波」との見出しで国際面の見開きで伝えた上で、鳩山代表を「日本のケネディ」に例えた。政権交代を翻訳することなくそのまま「セイケンコウタイ」と記し、歴史的な出来事として紹介した。 欧州のベルギー紙は、概要「民主党政権が、自民党の対米追従路線から、日米同盟を維持しつつ対米依存を軽減する方向へどこまで外交方針を軌道修正するのかに注目している」とコメントした。欧州のラジオは、「民主党は米国から多少距離を置き、アジアの近隣国との和解を進めようとしている」と伝えた。民主党内に意見の相違があることを指摘した。EU筋の「政権公約が政策にどう反映されるかを見極める必要がある」との声も伝えられている。 仏国際関係研究所(IFRI)アジアセンターのバレリー・ニケ所長は、「米軍基地の扱いなどを見直す余地はあるだろうが、米国は日本の安全保障戦略の中心であり続け、(日米関係の)激変ではない」と分析している。 オーストラリアのオーストラリアン紙は、「日本の近代史において、明治維新や戦後の経済復興に並ぶ大きな変革だ」と評した。 ロシアの政府紙「ロシースカヤ・ガゼータ」は、「震度7級の出来事。米国が終戦後の日本で2大政党制を根付かせようとしたが、当時の日本は受け入れられず、巨大な自民党と政権を担えない野党による『1・5党制』が続いたが、(経済)危機に耐えられなかった」と伝えた。 中国の京華時報は、鳩山氏のあだ名を「宇宙人」と紹介した上で、「『宇宙人』鳩山の夢かなう」と見出しに書いた。広州日報は、「吉田茂、鳩山一郎両元首相の孫同士の戦い。政権は代わっても、世襲政治は変わらない」と評した。 韓国の朝鮮日報は、「政権交代後の日本がどこに向かうかは非常に不透明」と伝えた。北朝鮮の朝鮮中央通信は、論評なしで「自民党が大惨敗を喫した」と選挙結果だけを伝えた。 インドのタイムズ・オブ・インディア紙は「鳩山氏は『新しい侍』」と伝えた。シンガポールのストレーツ・タイムズ紙は、「民主党のマニフェストからは、不振が続く日本経済をいかに上向かせるか、はっきりしない」とコメントした。 中東諸国でも関心をもって取り上げられている。中東の大手紙の大半が「自民党長期政権の終焉」を大きく取り上げた記事を流した。汎アラブ衛星放送の「ジャジーラ」は、投票日当日深夜、大勢が判明するとすぐ「野党、圧勝」の一報を流した。エジプトの最大日刊紙のアルアハラム紙は、「民主党の地滑り的勝利は、国民生活重視の政策を掲げ、官僚の政治支配に反対したことが背景にあった」と解説した。汎アラブ紙で「アラブのワシントン・ポスト」とも呼ばれるインテリ日刊紙の「ハヤート」は、9月1日付けのコラムで早速、民主党の成り立ちや鳩山代表の出自にまで触れて、「実は政策的には自民党とたいした違いはない」と分析している、とある。 もっともっと多くの情報を得たいが分らない。いずれにせよ、かなり注目されたこと自体は確かで、今後の成り行きに相当な関心が払われていることも間違いない。 れんだいこが興味深く思うことは、「2009衆院選政変」を「革命政変」と読むのか「穏和政変」と読むのかで両論が生まれていることである。れんだいこが、海外メディアにサジェスチョンするとすれば、「日本型平和革命」として評するべきであろうということになる。 1993年時の細川政変に比するならば、こたびは格段に重みが違う。この流れは不可逆的で、自民党の亀裂の深さから見て復権はもう有り得ないだろう、よって米英的な二大政党制による政権交代は有り得ないだろう、欧州的な多党化も有り得ないだろうということである。民主党が、かっての自民党の座に深く納まって盤石の政権与党化し、恐らくかっての自民党がそうしたように、左右両翼を抱えたまま「大同一致」で政局をこなして行くことになるだろう。そういう新たな日本型政治の始まりが予見できるということである。民主党の308議席の重みは、それほど画期的で、八百万の神々の為し給うた叡慮のように思われる。 国際金融資本勢力が、これを無理やり突き崩すとするならばクーデター的な非合法手段に打って出るよりない。しかし、日本政治に於いてそのような方法が受け入れられるだろうか。「和をもって尊し」とし、「談じ合い」に世界一長けている日本政治には邪道が過ぎるのではなかろうか。つまり、もはや民主連合政権を突き崩す方法はないということになる。こう認識すべきだろう。 かくて、日本の新時代がが始まったと受け止めるべきであろう。問題は、新日本政治が、どのように動き出すかである。それは恐らく、オバマ流のチェンジ、イエス・ウィ・キャンに感化されながら、日米同盟に依拠しつつも共に非軍事的な国際協調路線へと向かうことになるだろう。戦争に明け暮れる時代が食傷され、裏の仕掛けも見えてきたことでもあり決別へと向かうであろう。産業と通信技術の発展により世界はますます緊密化を深め国際化時代になる。これをこなす能力に於いて、日本的な在り方を追求する政治へと向かうであろう。 なぜなら、この道以外に現代世界の苦悩から脱出できないからである。なぜなら、それが国際社会の中で日本が生き延びる道であるからである。それは同時に国際金融資本への隷従から遠ざかる道である。その意味で革命的な政変であったことが、これから分かるであろう。中曽根政権以来営々と敷設してきた邪悪な政治が、この政治の日本における奥の院である中曽根、ナベツネの寿命が尽きるのに応じて一掃されるであろう。なぜなら、それが歴史の法理であるからである。れんだいこにはそのように世界が見える。 2009.9.3日 れんだいこ拝 |
選挙結果のネタです | えこね | 2009/09/04 19:17 |
れんだいこ先生、こんばんは。選挙結果のネタです。 政党名 得票数 得票率 議席数 ※A ※B -------------------------------------------------------- 民主党 29844799 42.411% 87 76 204 自民党 18810217 26.730% 55 48 128 公明党 8054007 11.445% 21 21 55 共産党 4943887 7.026% 9 13 34 社民党 3006160 4.272% 4 8 21 みんな 3005199 4.271% 3 8 20 国民新 1219767 1.733% 0 3 8 新党日 528171 0.751% 0 1 4 幸福実 459387 0.653% 0 1 3 新大地 433122 0.615% 1 1 3 改革ク 58141 0.083% 0 0 0 新本質 7399 0.011% 0 0 0 -------------------------------------------------------- 合計 70370256 180 180 480 -------------------------------------------------------- 幸福実現党でさえ、3議席分の有権者の声を獲得していたことになります。 ttp://6305.teacup.com/mappen/bbs/6479 |
Re:選挙結果のネタです | れんだいこ | 2009/09/05 17:08 | ||
えこねさんちわぁ。貴重情報有難う。ただ、既に取り込んでおりますよ。サイトは、ホームページ上にアップしております「2009衆院選」です。こうしておけば、次回の選挙の際に役だちます。こたびも、2005衆院選の資料が役立ちました。れんだいこは、著作権棒振り回す輩がいるので、自分で情報収集することにしました。こうしておけば責められないで済むからふふふ。著作権棒振り回す輩のサイトには近寄らないことにしました。だいたい臭いが分かるようになりました。れんだいこの、この姿勢が、ごく普通になりますよう願っております。互い助けられ助けで何も問題ないんだ実は。そう思うんだがなぁ。 2009.9.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評602 | れんだいこ | 2009/09/09 22:46 |
評論家として一定名の売れている森田実が、相も変わらぬ小沢パッシングで悦に入っている。「すべての権力は小沢一郎氏に一元化された。鳩山・小沢並立時代は終わり、小沢氏が唯一の大権力者になった。もはや二重権力ではない。「小沢独裁」だ。小沢氏へのオールゴマスリに抵抗する」、「鳩山氏は小沢氏に大政奉還した。権力は小沢一郎氏に一元化されたのだ。「鳩山」という名の小沢政権なのである」、「重ねていう。新聞は真実を報道すべきだ。権力者におもねってはならない」
などとコメントしている。
ttp://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C05652.HTML この御仁の底の浅さが透けて見えてくる話ではある。この間の歴史的必然の政治ドラマを、小沢パッシング史観、その奥にあるのは角栄パッシング史観であろうが、どんな政権ができても、できようとしていても万年俗説正義の弁舌をして事足れりとする羨ましい知性の御仁ではある。れんだいこに云わせれば、政治闘争の流れが全く見えていない奴である。いずれはっきりさせようと思う。 れんだいこの処女作「検証学生運動」との絡みで云えば、島-生田らが第一ブントを結成しようとしていた際に、それまでの学生運動の指導者の一人でありながら、その際の主力になり得なかった理由が分かろうと云うものだ。余りに凡庸過ぎる。それでいて知識だけは多いという、この種のインテリの標本みたいな御仁ということになる。 2009.8.30政変以降の政治情勢の絡みで、評論家が真に言論すべきは、細川政変以来の政権交代の際に見せた社会党の無能、無責任に対して喝を入れ、二度とブザマな真似をするなと言い含めることであろうに。あの時の社会党は、細川-羽田と続く政権の与党側に位置していながら、好んで自民党にすり寄り、元の木阿弥政治に戻してしまった張本人である。これが人民大衆の怒りに触れ、解党を余儀なくされた。 その流れを汲む社民党に、新政権内で汗を搔け、縁の下の力持ちを目指せと説くのが評論だろう。小沢が、かの時の経験を活かして最後のご苦労をしようとしているとき、小沢パッシングで堪能できるなどというのは、よほどよろづに斜め読みが好きな御仁とお見受けする。一言しておく。 2009.9.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評603 | れんだいこ | 2009/09/10 22:08 |
【鳩山新政権誕生前の関心事としての細川政権考】 間もなく非自民系の鳩山新政権が誕生する。この政権考の前提として、先例である細川政変について確認しておくことにする。この政権がどのように誕生し、どのような経緯で推移し、どのように座礁転覆したのかを見ておくことにする。教訓は何なのか、鳩山新政権が二の舞にならないためには何を為すべきなのかを引き出してみたい。 ところで、これをネット検索から引き出そうとすると、れんだいこの旧作が出てくるぐらいでお粗末な限りである。これは何も細川政変考に限らずで、真に知りたい有益なものに限って閉ざされている感がある。これは偶然ではなかろう。ネオシオニズム系の研究の際にしばしば現れる現象なので、連中が一枚噛んでいるのだろうということになる。よって、サイトヒットの順位を誇る云々など、本当は馬鹿げたことでしかないということになる。 さてそういう訳で情況に合わせて急きょ、人に頼むにあたわずで、れんだいこが、サイト「細川政変考」を立ち上げた。まだ読み直しておらず、れんだいこコメントも付し切れておらずの不十分なものでしかないが、流れぐらいは分かるだろう。あるいは流れも、ひょっとして一部の年次がずれているところがあるかも知れぬ。そういうものでしかないが、ないよりはましだろう。どなたかの参考になればと思う。サイトは次の通り。 「細川政変考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/minsyutoron/hosokawaseihenco/top.html) れんだいこが受け止める教訓は、細川政権を支えた連合与党が、政治そのもののカオス性を認め、自派の思う通りにはならないことを弁える能力、そこから導き出される共同戦線論に立ち切れておらず、「俺が俺が」でツノ突き合わせた結果、下野させられていた自民党の復権力に負けてしまったという経緯に対する反省であろう。 自民党復権に手を貸したのは社会党であった。それも党内ではやや左派系の連中によってであった。実にお粗末な限りであった。富市は今頃どうしているのだろうか。穴にも入らずのうのうと暮らしおおせているのだろうが、自己批判ぐらいはしておくべきだろう。ここに細川政変考をしておかねばならぬ重要性がある。その末裔の社民党は、今度こそはそういうお粗末な対応はしないであろうが、厳に戒めねばならないであろう。原則を打ち出しつつ和し、立場をキープしつつ影響力を行使することと、原則論を振り回し搔き乱し続け、最後には敵側と内通し呼応するのとは、在り方がまるで違う。どうか、後者にならないように願う。 「細川政変考」からもう一つ判明することは、2009.8.30政権交代政変は、急きょ起った椿事ではなく、1993.8.9細川連立政権誕生以来の15年有余の苦闘史の結果であるということである。権力の蜜に群がらず、敢えて損の道を選んだ有徳の士の苦節ン十年の歴史の賜物としてもたらされた政権交代であるということが分かるということである。それを知るためにも、様々な角度からの「細川政変考」が必要なのではなかろうか。 興味深いことは、自民党の格段の劣化である。細川政権の時には捲土重来力を遺していたが、今はない。あっても相当に困難なように思われる。なぜなら党内が大きく割れており、しかもそれが相当に根深いからである。2009衆院選前にも党内に怒号が飛び交ったが、選挙後にも相変わらず飛び交っている。これが建設的な怒号ならともかく、互いが修羅場を見ずには済まない対立だからどうにもならない。 それはそうだろう。小泉改革は概ね正しかった、途中でやめるから変なことになったとする側と、小泉改革は基本的に間違っていた、過ちは改めるに如かずとする側とが、いくら話し合ってもろくなことになりはすまい。こうなると党を割るしかなかろう。問題を更にややこしくするのは、その両派が両派とも自民党を飛び出る胆力を持たないことにある。両派は、権力の蜜に群がってしか生き方を知らない点でのみ共通している似合いものでしかない。 この連中には、小沢-羽田グループがかって党を飛び出し、細川政権の中核を担ったような万が一の冷や飯覚悟ができない。そういう連中ばかりが今の自民党に残っており、ああでもないこうでもないと坊ちゃん政治にうつつを抜かしてきた。せいぜいできるのはヤクザ的凄味を利かすことぐらいで、肝腎のオツムが弱い。それはそうだろう現代世界を牛耳る国際金融資本の御用聞きするには能があっては却ってできないだろう。 そういう訳で、民主党政権は、八百万の神々に授けられた308議席に助けられると同時に、ブっつぶされた自民党の混迷にも助けられて政権が安定する。問題は、三本の矢、五本の矢的結束ができるかどうかにかかっている。誰が支え、汗をかき、誰がかきまぜばかりするのか、これを見るのが当面の関心になる。鳩山がどう動くのか、日本の国父になるのか、宇宙人になるのか、友愛メ―ソンになるのか、こういうところに関心が寄せられることになる。 日本人民大衆の秘めた能力がここ一番で阿吽の呼吸で発揮され、お陰で政治が面白い時代になった。マスコミ評論士の愚論は既に食傷されているので、新たなコメンテーターが待ち望まれている。ネット言論か、ネットテレビで為になる言論の飛び交う空間を創出して欲しいと思う。これが早急に待ち望まれているように思うがどうだろう。 2009.9.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評604 | れんだいこ | 2009/09/11 20:10 |
【「2008.4.18星島猟奇殺人事件」の第二審判決考】 本日2009.9.11日と云えば、「2001.9.11同時多発テロ」の8周年日である。あの事件も、各方面の識者が疑惑を提起している。イスラム側のテロの動きを逆さにとってブッシュ側が仕掛けた可能性が指摘されている。れんだいこは、さもありなんと思っている。ここでは、これについて触れない。昨日の奇妙な判決というか事件そのものを俎上に上げ、議論を巻き起こしたいと思う。 2009.9.10日、「2008.4.18星島猟奇殺人事件」の第二審判決があり、東京高裁の山崎学裁判長は、一審判決同様の無期懲役を言い渡し、死刑を求めていた検察側の控訴を棄却した。新聞論調は一様に、死刑判決が相当か無期懲役が妥当かを廻る裁判として注目する記事を載せていた。 れんだいこは、この事件に於ける量刑論議には関心がない。否馬鹿げていると考えている。感心があるのは、事件の猟奇性が本当のことであるのかどうかを廻る真偽である。未だにかの密室神隠し事件そのものが信じられない。多くの者は、「2001.9.11同時多発テロ」同様に報道されるところの筋書きをそのまま信じているようだが、有り得ないことはやはり有り得ないのだ。そういう疑問が禁じえない。そういう疑問が起こらないことが信じられない。 どう疑問があるかというと、事件は、直後よりマスコミ監視下に置かれ、多くの報道陣が詰める中で、警察の現場検証が直ちに開始される中で、星島被告の室内への立ち入りが数次にわたって行われる中で、ワンルームマンションの中で二日間にわたって東城瑠理香(るりか、当時23歳)さんの死体がバラバラにされ、神隠しされたというのだ。凶器は文化包丁2本で、死体は粉々に砕かれてトイレや風呂場の排水管に流され、流しきれなかった骨体は持ち出され、近くのマンションのゴミステーションに捨てられたという。これってオカシクないか。 本当の事件なら、警察の失態責任が免れまい。誰か責任をとっただろうか。それよりも一体全体、文化包丁如きで、人間の死体をバラせるものなのか。排水管を詰まらせずに流し終えられるものなのか。しかも、特段の音を立てずにだ。骨を割ったり切ったりするのに、文化包丁で為し得たり、音を立てずにできるものなのか。且つ又しかも、臭いを出さずにだ。というのも、警察は複数名で室内の立ち入りを複数回しているのだから。頭蓋骨が近くのマンションのゴミステーションに捨てられたというのも臭い話だ。あの時既に星島被告はマークされていたはずだ。頭蓋骨の如く大きな骨体を隠して持ち出したり捨てることなどできっこないだろうが。しかも、それを誰にも発見されず足がつかない方法でなど。 事件は、本人がやったと自供したことにより、やったとされ、何の疑問も湧かさずにマスコミが報道し続けたが、れんだいこに云わせれば、本人が認めようが認めまいが臭いものは臭い。かの状況下で、東城さんの神隠しなどできたとするのがオカシイとして取材に励むべきではないのか。本人が認めた裏には何があるのだろうか。これを詮索するのが、もう一つのジャーナル精神ではなかろうか。法曹関係者然り、何万人も居るだろうに特段の疑問の声が挙らない。 これってオカシ過ぎやしないか。れんだいこが孤軍奮闘で異議を申し上げるのがオカシイように受け取られているが、真実は一つであろう。れんだいこは、数々の疑問が氷解しない限り本事件の筋書きを認めるわけにはいかない。そういう偏屈人間が居たって良かろう。 れんだいこのこういう疑問は数々ある。ロッキード事件に於ける田中角栄の5億円授受説然り。れんだいこは、角栄が冤罪を主張して公判闘争を闘い抜いたのは、真実受け取っていないからだろうと考えている。マスコミは違う。判決前から犯人扱いして有罪真っ黒説で糾弾して行った。戦前共産党の宮顕一派による「党中央委員・小畑の査問致死事件」然り。小畑はスパイであり止むを得なかった論から、小畑は急性心臓麻痺で持病により勝手に死んだ説等が通説となっているが、真実は逆で、スパイ派の宮顕派が労働者派の小畑を査問致死させたと解析している。れんだいこ見解が通説と違う例は他にも五万とある。星島事件もその一つに過ぎない。 れんだいこが目立とうとして珍説を唱えている訳ではない。真実は違うと思うから意見を申し立てしているに過ぎない。こういう場合の通説とれんだいこ説は決して混ざらない。折衷して足して二で割るという風にはならない。どちらかが間違いであり白黒つけねばならない。ところが世のなか、こういう場合には曖昧にして、れんだいこから見て曖昧で良いもの、さして重要でもないものを採り上げて口角泡を飛ばして議論している例が多い。住む世界、見える世界が違うということになる。寂しいことではある。 さて結論。奇しくも日が立て合った「2008.4.18星島猟奇殺人事件」、「2001.9.11同時多発テロ」につき、世に再考を求めたい。仮に、通説が間違いだとしたら、こういう間違いが意図的に流布されるような世の中を変えたい。そうしないと、我々が真っ当に生きられないからである。まずはここから始めねば、世の中が良くならない気がする。というようなことが、「この日」に云いたかった訳である。 2009.9.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評604 | れんだいこ | 2009/09/12 21:10 |
【「激安問屋、市場、セール、バーゲン」屋に再度告ぐ】 最近、我が掲示板に執拗にまといつきアラシ行為を働いている「激安問屋、市場、セール、バーゲン」屋の尻尾を確認したので報告しておく。全く同様のアラシ投稿が、「デサフィナード掲示板」に登場している。とうとう尻尾が見えてきた。 (ttp://8725.teacup.com/desafinadobbs/bbs) 我が掲示板と「デサフィナード掲示板」との共通項は、社団法人・日本音楽著作権協会(通称「ジャスラック」)との抗争にある。デサフィナード氏は最近泣く泣く和睦し、心機一転しているようであるが、れんだいこは百年戦争を覚悟している。デサフィナード氏とれんだいこに纏いつく「激安問屋、市場、セール、バーゲン」屋とは何者か。容易に推測がつくが断定はできない。迂回してきている場合があるから軽断告発はできない。いずれ正体が分かるだろう。司直の調査は既に完了している。それはこちらには伝わらない。自絞殺でアラシ証拠を積み重ねるが良かろう。 せっかくだから、現代強権著作権論のナンセンスさについてもう一度明らかにしておく。現代強権著作権派は、ジャスラックはその先兵であるのだが、著作権法の制限をも超えて、いわば非合法的な著作権解釈と判例の積み重ねで、著作権ビジネスをユダヤ商法的に開拓しているアウトローである。そのアウトローが、著作権法の禁止するコピー商売者に対して刑事及び民事告発して取り締まっているのが現状である。警察と裁判所が、その下僕として使われている。れんだいこには両者ともお笑いでしかない。 現代強権著作権派の著作権理論のどこが間違いか。それは、引用転載行為、音楽であれば歌唱演奏行為に対して、著作権者の許可なくしてはできないとしているところにある。つまり、「要事前通知、要事前承諾、対価制」を敷いているところにある。だがしかし、著作権法は、人民大衆的な、引用転載行為、歌唱演奏行為に対してそのような規定はしていない。 規制しているのは、著作権者と管理権者、出版社間の権利の分かち合いと、同業他社の海賊行為に対する規制である。これを骨格とする。そもそも、著作権法制定時、この段階にとどめることをくれぐれも申し合わせていた節がある。そうやって導入された著作権なるものが次第に定向進化し、今や人民大衆の著作物享受に対して無断使用、権利侵害、損害賠償の著作権攻めにまで肥大化しつつある。 そういう訳で、歌の場合なら、個人が風呂で歌う非営利的行為はともかくも、集団の中での歌唱には、ジャスラック調査員が付きまとい、権利侵犯だ、金を出せとユスリタカリ行為にまで及んでいる。ここに大学教授が登場し、著作権は文明的進歩的先進国的権利であり、ジャスラックのこの行為は当然の権利である、それが理解できないお前は田舎者に過ぎぬと講釈してくれる。 それで「悪うございました」と引き下がる連中ばかりなら世の中天下泰平なのだが、「何を云うか。俺はボランティアで無料広告宣伝隊を務めており、こちらが宣伝料をもらいたいぐらいだ。そもそも歌唱演奏の自由は人民的基本的権利の一つだ」と主張する者がでてくるからヤヤコシイ。これは、よくよく考えると後者の言い分の方が正しい。一体、人民大衆が歌唱演奏して金が要るなどということが馬鹿げているのだそもそも。 しかしながら、ジャスラック式ユスリタカリが何故認められるのか。ジャスラックは国策会社ではない。公益法人的な一社団法人に過ぎない。この種の社団法人は五万とある。なぜジャスラックだけが著作権利権に有りつけるのか。それは、去る日の文部省著作権課官僚とジャスラックの典型的な行政癒着による共謀により「カラオケ店舗課金システム」を作り上げたからに他ならない。何しろここにはⅠ千億円の利権が絡んでいたから、つい触手が伸びたのも無理はない。 しかし、イケナイものはイケナイ。第一、著作権法と整合しない。徴収現場的にも無理がある。これをどう乗り切ったか。一つはオベンチャラ低能学者を使い吹聴させまくった。一つは裁判攻勢で云う事をきかない経営者ないしは店舗を告訴し続けた。見せしめに逮捕までさせた。別会計料金で締め上げ法外な権利侵犯料金を請求し震え上がらせた。政治家のパーティー券を買い増し、これを後ろ盾とした。既に歪んでしまっている司法がこれを後押しした。 そういう何やかにやで音楽著作権分野を食い物にし、音楽文化の裾野形成を損傷毀損し続けてきている。これが現状である。現状ついでに云っておけば、長らくの不況でカラオケ店舗は減るばかりで、滞納者も続出しており、必ずしも収益は上がっていない。 もとへ。こういう風潮に棹差す稀有な店舗のデサフィナードとれんだいこの掲示板に「激安問屋、市場、セール、バーゲン」屋が登場するのはなぜか。偶然ではあるまい。他に登場する掲示板を線で結んでいけば、ある傾向が見えてくるに違いない。もう暫く様子見しておこう。民主党政権になると、こういう従来式の社会システムの見直しまでするようになるのだろうか。それとももっと酷い権利商法を流行らすようになるのだろうか。それはなんとも云えない。れんだいこが見るところ、民主党には両面の動きがある。 せめて、小沢のいっちゃん派ぐらいは、デサフィナードとれんだいこに対し、イジメにも屈せず音楽文化を守り通したとして表彰してくれるような世の中にしてもらいたいものだ。日本全国至るところで、著作権攻めに遭わないのびのびとした歌唱演奏が聴けるような世の中にしたいものだ。 2009.9.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評605 | れんだいこ | 2009/09/15 21:30 |
【「下半身問題」を取り上げ正義ぶるマスコミ野郎に告ぐ】 2009.9.15日、先の衆院選で「森の伐採」を合言葉に森首相に挑み惜しくも比例区で復活当選した石川2区選出の民主党の田中美絵子衆院議員の経歴を面白おかしく問い、あたかも議員失格であるかのように問い詰めるマスコミ野郎に一言しておく。田中議員が、ホラー映画へのヌード出演や風俗ライターがあったとして、それがどうしたというんだろう。田中議員は「厳しい経済状況の中で、生きるためにいろんなことに挑戦した」としたうえで、「社会的弱者の目線に立ったぬくもりのある政治をしたい」と述べた、とある。それで良いではないか。何か鬼の首でも取ったような採り上げ方をしている記者の方がゲスなのではなかろうか。 この程度の問題を採り上げるくらいなら、小泉元首相の神楽坂芸者殺し容疑の方へペンを向かわせるのが筋ではなかろうか。あの事件は決して決着がついていない。飯島元秘書官の暗躍も見え隠れしており、それは飯島が松岡農相の変死事件でも登場したことと奇妙にダブって見えるのだが、こういうところにこそペン勇を揮うべきではなかろうか。ところがイケナイ。9.11テロ事件問題も含めて、こういうところには決まってへたってしまう。 先の参院選でも、自民党の大物議員であった同党参院幹事長の片山の虎を「姫の虎退治」で打ち破った姫井議員について速攻の不倫スキャンダル騒ぎが始まった。れんだいこには、こたびの田中美絵子議員騒動とダブって見える。何でこうも、しょーもない騒ぎにうつつを抜かすのだろう。ペンの正義と云うにはおこがましいのではなかろうか。 既に述べたことがあるが繰り返しておく。人は本業の仕事でもって判断されるのを第一とすべきではなかろうか。いくらボランティアや寄付したからといって、本業で罪業なことをしていては有り難味が薄い。相撲取りは土俵の上で、歌手はのどで、落語家は話し方で等々、まずもって本業で評価されるべきであって、政治家も同様である。下手な相撲取りが平素幾ら行状が良くても、肝腎の良い相撲がとれなくては面白くない。不倫しない芸能人がいたとして、芝居が下手くそではいただけない。歌手の歌が人の心を打たなくては聴こうとは思わない。政治家も然りではなかろうか。 その昔、戦後まもなくの頃のことだが、保守系の大物議員三木武吉が選挙演説会の際に、社会党系の聴衆から「妾を何人持っているのだ」と野次られた際に、「云われた数より少し多い。不肖武吉は捨てるに捨てられず面倒みておる」と答え、あっけにとられたかそれきりその種の突っ込みが止んだという。これもその昔、評論家として名をはせていた大宅壮一は、「ペンはふるえども、人の下半身の行状は問わぬ」ことを戒めにしていたという。そういう評論がゲスだと心得ていたからであろう。 今日びはこの原則が崩れ、小さな問題を大げさに、大きな問題をノーコメントにする風潮がある。そういう連中がマスコミ人として大きな顔しているのは胸糞が悪い。せいぜい年収300万円止まりの脳で、世渡り上手故に何千万も稼いでいるのを見ると、ええかげんにせーよーと言いたくなる。不倫追及の取材記者が不倫中だったと後でバレタ例も多い。自分がその渦中なのに、平気で不倫告発の正義のペンを揮うあつかましさよ、恥を知れと言いたくもなろう。 こういう世の中からの転換が、これから始まると思って多少希望をつないでいるのだけれども。さぁて明日は鳩山内閣の出航、閣僚人事の発表だ。どういう顔ぶれになるのかな、興味深い。マスコミはどうせ、ノリピー問題をぶつけて効果を半減させようという魂胆だろうが、そういう芸風はもう見破られとんよ。性懲りもなくやってくれてらぁ。こういう世の中変えたいなぁ。これが有権者の願いだったはずだ。鳩山君以下民主連合の皆さん、頼むぜよ。 2009.9.15日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評606 | れんだいこ | 2009/09/17 22:00 |
【鳩山内閣をどう評するべきか、鳩山政権門出への祝辞】 2009.9.16日、鳩山政権が誕生し、1993(平成5)年の細川政権以来の16年ぶりの非自民勢力による政権交代となった。 鳩山新首相は直ちに組閣に着手。新官房長官・平野博文氏が閣僚名簿を発表した。この顔ぶれをどう評するべきか。 「阿修羅政治版71」で知ったが、「田中良昭の国会探検」が「真っ当な組閣」と題して論評している。れんだいこは、久しぶりに「真っ当な評論」に出会った気がする。 (ttp://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/09/post_186.html) うれしかったのは、次の下りである。「池田内閣で総理主席秘書官を務めた伊藤昌哉氏から聞いた話だが、昭和37年に第二次改造内閣を組閣する際、伊藤氏は池田総理から組閣案の作成を依頼された。箱根に籠もって色々考えたがどうしても収まりが悪い。1週間経っても満足な案が出来なかった。山から下りて『こんな案しか出来なかった』と総理に謝ると、池田総理は『こんな案を持って来た奴が居る』と言って1枚の紙を見せた。そこに書かれた人事案は伊藤氏を驚かせるほど見事だった。作成したのは田中角栄衆議院議員で、角栄氏はそれによって自らを最年少の大蔵大臣として入閣させた。伊藤氏は政治家としての田中氏の力量を思い知ったと言う」。 れんだいこは、この情報は初見である。角栄を有能性に於いて評している点で、そんじょそこらのボンクラ政論とは一味違う。田中良昭氏がこの史実を教えてくださったことに感謝申し上げる。れんだいこは、伊藤昌哉は好かんタイプだが、その伊藤氏からの言質であるところが面白い。角栄再評価論が強まることを期待したい。 鳩山内閣評について、れんだいこの所見は田中良昭氏のそれとほぼ同感であるので繰り返さない。足らずを補うとすれば、鳩山首相が手堅い人事能力を見せており、鳩山らしい八方美人ならぬ八ットー美人内閣になっているということであろう。国会の各種委員会の委員長人事まで含めて、細かいところまでは分らないが、「老、壮」のバランスが良い。次期民主党を背負う管、岡田、前原を然るべき地位に立て、若手では多士済々居る中で原口、長妻、小沢を登用し、他党の亀井、福島を似合いのところに配置した等々なかなかの味がある。総じて仕事師内閣となっており好感が持てる。 れんだいこの危惧する民主連合政権の政策は、原子力発電の強力推進を図ろうとしている点と、景気回復の起爆剤的政策を持っていないところであるが、その他についてはマニュフェスト通りということであるから、当面は見守るしかない。どうか、三本の矢、五本の矢となり、烏合の衆にならないように望む。 これに比して自公の動きが鈍い。総裁選も魅力がなさそうだ。小泉時代の狂人政治にイエスマンばかりしたきた連中に何ができようか。且つ又いまさら小泉前時代に戻せもすまい。余りに傷が深く、政策論争しようとすれば怒号し合うしかできまい。とんでもない事態になってしまったものだ。何事も有頂天の時こそ恐いと改めて教えられる。公明党も脳震盪ショックから立ち直れまい。余りにも深く小泉政治に深入りし過ぎた。且つ同党の本質が体制保守にあり、国際金融資本の御用聞きを担う自民党と同じ穴のムジナであることを晒し過ぎた。恐らく当分党勢回復できまい。 時代は動く。15年周期説もあるが、30年周期、60年周期で見ればより分かる。今や新しい政治が始まるのは疑いない。マスコミ、その同類どもは小沢二重権力論でビンボケ評論しているが、好きに云わせておけば良かろう。人民大衆は、どの方向が良い政治で逆は逆であることを既に見抜いている。ネットの威力を思い知るが良い。さてさて、「日本ルネサンスよ起これ、鳩山新政権に期待する」。これをれんだいこの鳩山政権門出の祝辞とする。 2009.9.17日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評607 | れんだいこ | 2009/09/20 11:00 |
【鳩山政権の第一関門、記者クラブ制考】 2009.9.16日の鳩山民主連合政権の登場と共に、記者クラブ制問題が浮上してきた。民主党は、政権奪取前の公約で、「記者クラブ制を開放し、他のメディアにも参加させる」方針を打ち出していた。ところが、平野官房長官が就任直後、記者クラブ開放について消極的姿勢を見せ始めたという。政権奪取後、いきなり「記者クラブ開放公約」を反古(ほご)するようでは、他の公約も同じ運命を辿ることが予見されるという意味で、この問題の持つ意味は大きい。 他方、岡田克也外相は9.18日の記者会見で、概要「閣議後の首相官邸や国会でのぶらさがり取材は、記者クラブ所属以外のメディアが参加できておらず、これでは十分な情報発信はできない。今後は定例会見を原則週2回とし、同省記者クラブ所属の報道機関に限らず全メディアに開放する。但し、会見への参加は、危機管理上の配慮から、事前登録を前提とする」と発表し、記者クラブに所属する報道機関以外にも参列の道を開く方針を明らかにした。これにより、日本新聞協会、日本民間放送連盟、日本雑誌協会、日本インターネット報道協会、日本外国特派員協会の会員のほか、外国記者登録証保持者やフリーランスの記者が対象となり、従来の記者クラブ以外にも スポーツ紙、週刊誌、月刊誌、外国人向けメディアなどが参加できるようになる。 鳩山政権は、記者クラブ開放を廻って早くも平野官房長官と岡田外相との間に齟齬を見せ始めていることになる。この問題を愚考する。れんだいこの解析するところ、この問題は、記者クラブ制そのものの在り方と、著作権問題の二面が絡んでいる。 記者クラブ制とは、政府の記者会見の際、閉鎖的に選別された有力マスコミ各社の会員に絞って参席が許されている取材体制を云う。この特権的な地位をpreferred access(優先的アクセス)とかprivileged access(特権的アクセス)と呼ぶ。これにより、「政治の第一次情報が、記者クラブというフィルターを通してからでないと、国民へ到達しない」ことになっている。この制度の由来には歴史的経緯があり、それを無視しては是非判断できないにせよ、記者クラブ制が情報公開という時代の流れに反していることは間違いない。 物事には是非があるとして、この観点から記者クラブ制を評すると、この制度には、参席する記者の身元素性が知れており、要人の警備上安全という利点がある。デメリットは、質疑が慣れ合いに流れ易く、ジャーナル的に急所を突く質問が排除される傾向を生む。時には格好の政府広報や単なるセレモニーの場に変質したりする。この両面の功罪を踏まえて政治的にどう打開すべきか、これが問われていることになる。 しかしながら、れんだいこには、こうしたレベルでの評論にとどまるならば表層的であり、真の問題に踏み込んでいないように思われる。記者クラブ制問題がクローズアップされつつある裏事情には、次のような問題が宿されているのではなかろうか。即ち、現下の有力報道機関、総じてマスコミは、現代世界を牛耳る国際金融資本(以下、ネエシオニズムと仮称する)の支配下にあり、厳しく情報統制されている。彼らのメディアリテラシーに監視され、スルーした情報のみが伝達されている。逆は逆である。それは同時に長期的な愚民化政策に基づいており、世界一識字率の高い日本人民大衆の軽薄化、野番衝動化を画策している。このことを踏まえなければ事の真相の深層に迫れないのではなかろうか。 これについて詳しく知りたければ、「シオン長老の議定書の言論機関、マスコミに関する記述一覧」で考察しているので参照されたい。れんだいこは、あらゆる兆候から、この問題を真実とみなしている。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/neozionismco/zionnogiteisyoco/theemabetuco/theemabetuco10.htm) このクビキの下で、日本マスコミ界は本来のジャーナル精神を歪められ、ネオシオニズムのエージェントとして彼らを利するプロパガンダを一方的に垂れ流したり、その意を汲む政府の御用聞きに勤め、その意を汲まない政府、政治家に対する当てこすり、針少棒大批判に耽っている。しかも、近年、こういう姿勢をますます強め次第に顕在化させつつある。かのロッキード事件における稀代の有能政治家・田中角栄失脚訴追キャンペーンなど最たる例であった。ここ十年で見れば、自公政権、これを背後で操る国際金融資本のメディア戦略は、マスコミを駆使して世論誘導し、新自由主義政策という名のハゲタカ利権擁護のペンを思う存分ふるってきた。小泉政治を称揚し、狂人小泉を名宰相としてもてはやした。これに一定の距離を保とうとした安倍、福田、麻生の各政権に対しては批判の舌鋒を鋭くしてきた。ペンの正義を云うには恥ずかしい政治主義ぶりを発揮してきた。 この間、新聞紙面が活力を失い、新聞各社が系列支配しているテレビメディアは、日常的にこれでもかというほどバカ番組を粗製乱造し、1億総白痴化を画策している。そういう事情によって、多少なりともまともな者のテレビ離れを促しつつある。他にも、中近東に於けるイスラエルの蛮行が国際的批判に遭っている時には決まって北朝鮮のテポドン、拉致問題を採り上げ、関心をそらせるという新たな機能をも露骨化させつつある。直近の例でいえば、2009総選挙、これに引き続く鳩山政権誕生前後に合わせて報道され続けた酒井法子大麻事件の執拗さは、その好例である。同事件が総選挙過程で発生し、逮捕、釈放が政局の重要な節目に合わせて演出されたのは決して偶然ではなかろう。かく共認したい。 日本マスコミ界がネオシオニズムにコントロールされる度合いに応じて、記者クラブ制の弊害が目立ち始めた。これには以上のような相当の根拠があるとみなすべきであろう。既存メディアは役に立たないばかりか今や腐り抜いている。この認識が元になって、記者クラブ制という大手メディアのプレス特権からの開放が迫られつつあると認識すべきではなかろうか。もはや大手メディアは当てにならないのであり、彼らに代わるあるべきメディアの創出こそが真に望まれている。記者クラブ制問題をこの座標で位置づけて解く必要があろう。 鳩山民主連合政権が、かく腐敗堕落しきっているマスコミ、その表出権力体としての五大新聞による報道管制システムと闘わず、逆にその圧力に迎合するようなことでは先行きが暗かろう。世間では、鳩山政権に於ける小沢幹事長との二重権力問題に講釈を垂れる手合いが多い。しかしながら、れんだいこの見るところ、それを咎めるならメディア権力問題の方が本ボシであり、これを切開することこそが真の政治評論であるように思われる。誰か、かく共認せんか。 ところで、記者クラブ制には、もう一つ著作権問題が絡んでいる。現代マスコミは業界上げて著作権狂いしている。その酷さは、著作権法が開放しているところの時事報道ニュース、死亡記事に対しても、利用規制網を仕掛けているところにある。「要事前通知、要事前承諾、要対価制」という檻を設け、著作権利権に囲い込み、その圧力をますます強めつつある。「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」がその申し合わせであり、以来猛威をふるいつつある。 これの音頭取りしたのがナベツネ派である。ナベツネ派の生息する読売新聞が記事と云う記事の末尾に「無断転載禁止」を但し書きし顰蹙を買っているのは偶然ではない。読売系は、見出しにおいても著作権を主張し、いくつかの訴訟に持ち込んで得意然としている。バカさ加減も極まれりというべきではなかろうか。いずれにせよ、ナベツネ派が画策し読売系が水先案内した結果、この風潮が全マスコミ界を汚染し、今や自縄自縛に陥っているという滑稽さを見せつつある。にも拘わらず、更に著作権狂いせんとしつつある。こうなると不治の病に陥っていると見立てるべきであろう。 この問題は、著作権棒を振り回しながら、その実狙いは報道管制にある。この報道管制は、愚民化政策と一体となって推進されつつある。ここを見てとらねば、著作権問題の深刻さに至らない。著作権棒をもっとも強引に振り回す読売-日テレ系が殊のほかバカ番組に執心し垂れ流し続けているのは偶然ではないということになる。 かく判ずれば、我々は、その対抗策として、既存メディアとは違う別系の政治情報に於ける人民大衆的利用を良しとするメディアを創出せねばならないことになろう。記者クラブ制は、この問題を見据えて議論していかなければ十全な解決にはならない。つまり、プレス特権による優待つきの著作権棒を振り回すような輩に特権は与えられないとする立場から、どちらかを選択させねば解決しない。特権まみれにしがみつくのか、特権を離すのか、はっきりさせねばならない。手前が特権まみれに居りながら官僚特権の舌鋒を振り回すのを茶番劇という。 鳩山政権は、記者クラブ制にとどまらず現代メディアが陥っている奇形化、著作権狂いに対して踏み込む力があるだろうか。否逆に、これを更に推し進める恐れはないのだろうか。こういうところが関心にならざるをえない。れんだいこ的には、著作権、プレス特権からの楽市楽座的開放政策こそが望まれており、この方向に針路を執らなければ、初手から危ういと見立てる。旧政権のウミをださせるとは、こういう問題にも及ぶべきだと考える。 2009.9.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評608 | れんだいこ | 2009/09/28 22:59 |
【朝青龍相撲の醍醐味考】
2009大相撲秋場所千秋楽の両国国技館での西横綱・朝青龍と東横綱・白鵬との優勝決定戦は、相撲史に残る名勝負であった。これを確認するため記憶の定かなうちに以下印象記を記しておく。 9.28日、14全勝で迎えた朝青龍と13勝1敗の白鵬が、横綱の意地と威信を賭けて両者気合い十分でぶつかった。本割は、白鵬の頬が良い感じで紅潮させており、気合い十分万全の立ち合いで激突した。朝青龍はやや半身気味の受けに回り、この差が白鵬の怒涛の押しに繋がり、体制の崩れた朝青龍をそのまま投げ切った。朝青龍の裏返しはめったに見られるものではない。白鵬の集中力が勝り、且つ地力で既に朝青龍を超えている強さを見せつけた。僅か数秒の決着ではあったが見応えのある一戦だった。この時点で、朝青龍もそれまでかと思わせられた。 暫し間を置いて後、14勝1敗同士の優勝決定戦となった。朝青龍の心境や如何に。れんだいこは固唾をのんで見守ることになった。決定戦は、ゆっくり落ち着いた睨みあい仕切り直しの数次を経て雰囲気も最高潮に盛り上がった。又も両者気合い十分でぶつかった。まことに圧巻の両者の立ち合いで幕が開き、観ていて気持ちの良い相撲の醍醐味を堪能させてくれた。結果は、本割とは逆に朝青龍の俊敏さが勝り、粘る白鵬を終始先手で撹乱翻弄し、息もつかせぬ数秒の攻防戦を制し投げつけ返した。 かくて、朝青龍の渾身劇的な勝利となった。良い立ち合いで激突し横綱相撲を取ったからして、負けたことに白鵬に非はない。問題はむしろ、ここ一番に見せる朝青龍の予想を上回る非凡な敢闘能力ではなかったか。こういう力がどのようにしたら生まれるのか分らないが、朝青龍の天賦の才であろう。白鵬も魂消る異常能力ではなかろうか。そう認めるからこそ、負けて悔いなしのさばさばした白鵬の姿が見られたように思う。 朝青龍も又白鵬の強さを認め、尋常では勝てぬほどに地力を増した白鵬に正面から闘いを挑み勝ったことの喜びを自然と湧かしたのであろう。平凡が非凡を評するには弁えがいるのではなかろうか。込み上げる歓喜が例のポーズを生んだ。しかし、誰が咎められようか。と、れんだいこは思う。これだけ良い相撲を見せてくれたのだから、そう野暮な批判はしなさんな。又もパッシングが始まるのかと思うと、この連中とは通じないことおびただしい。この取り組みは大相撲史の新しいページを飾ったように思う。数々の名場面の中でも特筆の勝れものとなったのではなかろうか。これが云いたかった。このことを確認したかった。 翌日の、というのは今朝のことになるが、出勤前のテレビでこの名勝負を確認したかった。ところが、どのチャンネルひねっても放映されていない。これを偶然と見る者はおぼこ過ぎよう。れんだいこには、圧力が働いているとしか思えない。誰が何の為に。それは本稿では触れない。テレビ番組がそれほど意図的故意に邪悪な勢力の者に操作されていることを確認すれば良い。 それはそうと、場所中の内館牧子発言の度が過ぎていやしなかったか。発言の一言一句の再現は譲るとして、あのチンクシャミが何でこう朝青龍を目の仇にしたがるのか不自然過ぎる。どういう経緯で日本相撲協会横綱審議委員になったのかも分らない。彼女なりに大相撲を愛しているつもりかも知れないが、れんだいこには逆の印象に映る。早く辞めさせるに越したことはない。やく某と杉山元アナが三馬鹿トリオであるが、大相撲を愛しているポーズで内部から壊そうとする輩はさっさと引きずりおろさねばならない。これはどこの世界でも云えることだ。 もとへ。それにしても朝青龍は凄い。大相撲史の記録を全て塗り替えようとしていた全盛期に理不尽に休場を言い渡され、二場所明けで戻ってきたものの以来微妙にリズムを狂わされていた。朝青龍相撲を愛する者にはまことに惜しい休場命令であった。その朝青龍の今場所は別バージョンで復調した感がある。しかし、強さに於いてはもはや既に白鵬に席を譲っているのではないかと思わされた。その両者が大相撲の醍醐味を見せつけてくれた。モンゴル出身の非日本人力士ではあるが、もうそんなことはどうでも良い。相撲たるものの圧倒的な臨場感を遺憾なく発揮してくれた。日本の国技の素晴らしを堪能させてれた。このことを感謝したかった。白鵬、朝青龍、その他関係者の皆さん有難う。これが云いたかった。 2009.9.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評609 | れんだいこ | 2009/10/09 22:18 |
【民主党の子育て給金政策ナンセンス考】
民主党の子育て給金政策について、れんだいこが意見申しあげておく。給金政策は自公時代の公明党側からの発案により始まったと記憶する。公明党はそれを手柄話にしているがナンセンスも甚だしい。民主党が、これに追随するとするなら無能甚だしい。これを論証する。 本来なら、どのように立案されるべきであるのか。この見地から評してみたい。れんだいこなら、ということは、れんだいこ率いるたすけあい党なら、子育て支援は、奨学資金制度を応用したいと思う。小泉政権時代、民営化路線の派生的な動きとして、いわゆる善政政策の賜物である奨学資金制度の解体に向かったが、不快きわまるものであった。れんだいこは、鳩山民主連合政権が一連の小泉政策を見直し、小泉以前、中曽根以前の政治に一刻も早く戻すよう要請したい。ついでにのべておけば、防衛費も中曽根政権前のGNP1%枠に戻せ。国債発行も、田中蔵相時代までの発行禁止に戻せ。消費税も廃止させよ。あんなものは邪道だ。この三種が日本再生のガンである。仕掛けられた外道政策である。 もとへ。我が党は、子育て給金ではなく奨学資金その2政策として、要望する家庭の育児扶助に取り組みたい。どこがどう違うのか。それは、給金が無償贈与なのに比して、奨学資金は貸付であるところにある。この差は大きい。これによれば、帳簿上は恐らく国家債務にはならない。ここが肝心なところである。なぜなら、国家債務をこれ以上膨らませてはいけないから。例え目的が正義であろうとも、方法を間違えてはいけない。 奨学資金その2とする理由は、従来の奨学資金その1は、貰う側にとって請求を伴う借入であるのに比して、2の場合には「催促なし」にしたいからである。受給した児童は、国家手当てに感謝し、社界有用の社会人を目指し、社会人となって稼ぎだして以来は、自由自主自律的に返済に努めるべきであろう。それが仁義であろう。その原資が次の世代の奨学資金その2に廻るという循環システムを作りたい。この方法なら、教育政策上のメガネに適っている。賢明な政策であると思う。 奨学資金その2は、奨学資金であるからして当然に、受給するためには申請を要する。この時、奨学資金その1より緩やかな基準で審査されるのが良かろう。こうすることにより、いわゆる金持ち子女は、必要がなければ申請せねばよい。催促なしとはいえ債務を背負うわけだから、背負いたくない者は受け取らねばよい。貰いたければ貰うが良い。これにより必要なところに支給され、不要なところにはされず、経費節減になるはずだ。ちまたで云われるところの7兆円規模の支出は半減し、政策の実効性も増すはずだ。国家累積債務が天文学的な現下の日本に於ける一律支給ほどバカな政策はない。 こういう手法があるのに、民主党の「子育て給金政策」は一律支給に向かおうとしている。他方で財源が危ぶまれている。為に消費税の大幅アップを招くとしたら、国債発行に拍車がかかるとしたら、愚策極まる政策ということになろうことが火を見るより明らかである。官の冗費削減は当然推し進めるべきであろうが、軍需費の削減に向かわないままの公共事業の抑制は、これまた危険極まれない。戦後日本の復興と高度経済成長が公共事業の促進と軌を一にしていたことを思えば、公共事業の徒な抑制は愚策と云うべきであろう。社会基盤の整備は、徴収権の対価としての国家責任なのであり、これに向かわない国家は無能無策と評されるべきであろう。利権まみれの不要な公共事業は見直しが是としても、必要な事業は積極振興すべきであろう。今は逆ばかりしている。目利きを失うと、こういうことになる。 鳩山政権よ。戦後政治史上、片山政権、細川政権に続く第三の政治ベクトル変動革新政権として登場しているが、政治は真の実効力を持たねばならない。いわゆるまんじりと眠れぬ夜を持つような与党責任を引受ねばならない。人民大衆が一挙手一投足を固唾を呑んで見守っている緊張感を裏支えに、どうか賢明なる政治に向かって欲しい。必要なのは政策を裏付ける思想であり、その思想に基づく政策である。没思想場当たり的な歓心政策はいただけない。政治は決してゲームではない。リセットは利かない。知恵が足らないのなら、れんだいこが授けようかふふふ。まっしっかり頑張れや。 2009.10.9日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評610 | れんだいこ | 2009/10/11 14:16 |
【亀井モラトリアム法案に一言考】
亀井静香金融・郵政改革担当相がぶちあげた「返済猶予(モラトリアム)法案」が国会に提出されることがほぼ確実になった。亀井が、現下の不況打開策として、中小零細企業の再生に目をつけ、「返済猶予(モラトリアム)法案」という意表を突く政策を打ち出した点は評価できる。しかし、中小零細企業が真に望んでいるものは何なのか、モラトリアム法案は却って混乱を生むのではないかとの疑念が湧くので一言しておく。 現下の中小零細企業の不振の原因は何なのか。大局的にみれば、国家予算が内治に使われるのではなく、軍事防衛、請われるままの海外支援大盤振る舞いに象徴される外治に予算を底抜けさせた結果であろう。その分少なく予算が回された内治予算においても、公務員が給与で食ってしまい、天下り外郭団体に突っ込み、代わりに合目的な公共事業まで削減し、民営化という名の下で押し進めたハゲタカファンドの荒稼ぎ支援、何の益もない政策的企業統合、銀行の貸し渋り、貸しはがし等々により、意図的故意に作りだされた不況であろう。こう考えなければ、かくも長期の不況が説明できまい。 その昔の去る日に自民党系の代議士と話する機会があったが、経済再編のために、あらゆる業種業界の企業を再編整理する云々と胸を叩いていた。しかし、それは、タコの吸盤をなくして大企業をツルツルテンにする自殺行為であるという認識はなかった。1970年代までの日本経済が中小零細企業を擁護育成し、大企業がその基盤の上に花咲いているという認識が著しく欠如していた。今、彼は、どう感慨しているのだろうか。政治家たる者は、バカな学者の口車に乗ってはしゃぐのではなく、手前の見立てで活動せねばならぬのではなかろうか。 もとへ。こうやって苦しめられてきた中小零細企業の再生策として、亀井式モラトリアム法案は真に有効に機能するのだろうか。れんだいこは疑問に思うので、代替策を授ける。まず第一に、企業歴15年以上、すぐには倒産しそうにない見込みの会社にして決算税延滞による14.7%の地獄責め取り立てに遭っている企業に対して無条件1千万円融資を実行するのが良い。当然、延滞税一掃に使われる。その際、一括清算とならば5%ぐらいに計算し直せ。借入1千万円の利息は5%ぐらいが良かろう。これによって救われる企業はかなり多いと見る。銀行も国家保証付き融資が増えるので嫌がる理由がなかろう。れんだいこには、この政策をなぜ実行しないのかが分からない。この政策が実行されたら、亀井もれんだいこも福の神と云われるだろう。 次に、中小零細企業への担保、保証人不要の1千万円融資策を講ずれば良い。こちらは国家保証が付かないが、銀行がむやみな貸し渋りをしないよう行政指導すれば良い。こちらも金利は5%以下にすれば良い。貸出し条件は別途個別に詰めればよいが、企業存続見込みさえあれば過去の決算内容を問わないことにせねばなるない。要するに、従来の融資基準を緩めなければならない。これを指導するのが行政なのではなかろうか。銀行がこぞって、金持ち、医師、公務員捜しに夢中になり、圧倒的なボーダーライン層を切り捨てている現実ほど見苦しいものはない。 れんだいこは、亀井金融・郵政改革担当相に申し上げたい。早急に対策すべきは、かような政策であり、モラトリアムではない。借りた金は返すべきであり、返しやすい環境を整えることこそ政治の責務である。企業と銀行は二本立て走行車であり、双方をあるべき活動に指導するのが政治の本懐ではなかろうか。銀行が従わなければ、国金等の国営金融公庫で対応すれば良い。そうい意味で、小泉政権時代の中小零細企業向け国営金融公庫の縮小政策は大間違いだったということになる。まったく小泉狂人は、わが日本に何をやらかしてくれたんだろう。 亀井よ、このれんだいこ提案をどう思うのか。やるなら、こういう政策をやってくれ。上滑り政治は良くない。誰か、この提案を届けてくれ。 2009.10.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評611 | れんだいこ | 2009/10/16 22:17 |
【れんだいこの手動蓄電懐中電灯論】
れんだいこはこのところ、手動蓄電懐中電灯を得て満足している。手持ちのそれが電池を替えたばかりなのに電球がやられ、その電球を替えるのが並大抵でないところから手動蓄電懐中電灯を思い出し、買ってきてもらった。この三日間、夕暮れの散歩時に重宝している。灯りは月明かりとよく似ており、電池のそれに比べ比べ少し物足りないが自然光に近く風情がある。こういう良いグッズと出会うと機嫌が良くなる。 思えば、れんだいこは、こういう工学的知識が皆無だ。鉄の船が浮かぶのも、飛行機が空を飛ぶのも未だ解せない。そればかりか自動車が走る仕組みも良くは分らない。パソコンも然り。どうやってこういう文明の利器ができるのか知らない。医学の進歩もそうだ。昔では考えられない手術が可能になり、命を長らえることに成功している。理工医系頭脳、恐るべしであろう。 ここまでは理工系頭脳賛美である。ここからは視点を変える。そうやって次から次へと生まれた理工系頭脳産物をもってしても、なぜ社会がより良くならないのだろうか。このことこそ愚考するに値するが、案外と疎かにされている。この時点に至って初めて、れんだいこの出番となる。理工系的進歩にも拘わらず世の中が良くならないのには理由がある筈である。これを確認してみよう。 まず、理工系頭脳産物そのものに、社会を良くする作用と悪くする作用の両面があると考えるべきだろうか。そういう説もありそうだが、れんだいこ見解は、これを採らない。理工系頭脳産物そのものには何の責もない。この利器をどう使うのかは、あくまでも使う側の責任ではなかろうか。それは刺身包丁と人切り包丁の例に似ている。仮に包丁で人を殺められるにしても、包丁使用禁止令に及ぶのは行き過ぎだろう。包丁製造者に製造責任負わすのは酷だろう。最近、「ファイル交換ソフト・Winny(ウィニー)事件」を廻って、高裁がこの趣旨の判決を出した。当然であろう。 ならば、理工系頭脳産物は良いことずくめで、悪いことは少しもないとすべきだろうか。そういう説もありそうだが、れんだいこ見解は、これを採らない。なぜなら、科学の進歩はあらゆる方向に伸びるが、それは認められるにしても適切な倫理基準を要すると考えるからである。物事には神の領域、悪魔の領域があり、これを見極め、それらの領域には分け入らない方が賢明と考えるからである。神の領域とは例えば、世界中の部族の男女比が自然とほぼ同数になっている釣り合いを云う。これに表象されるような神秘域に頭脳を注ぐより、これを踏まえた調整脳を磨くべきだと考える。悪魔の領域とは例えば、原子力科学のような後世に破滅的な影響を及ぼす危険なものを云う。これに表象されるような悪魔域に頭脳を注ぐより、より安全性の高い代替分野を発掘し、そちらの方へ頭脳を向かわせるべきだと考える。つまり、現代的発展段階においてはなおさら理工系頭脳にも、自由自主自律的基準が要請されているとしたい。 という訳で、理工系頭脳産物をそれぞれに社会的に的確に査定評価し、その機能を発揮させる度合いと手法に於いて、これを指導する政治的頭脳が別に要るということになる。理工系頭脳にそれができれば良いのだけれども、天は二物を与えずで、総合的頭脳までは持ち合わせない。よって、法文系頭脳を介在させねばならないことになる。理工系頭脳と法文系頭脳がうまく噛み合うのが理想だが、何事も、そうならないのが現実で、故に現実の対語として理想ということになる。故に、永遠の彼岸としての理想を此岸に近づけるべく努力するのが道しるべということになる。 あっこんなことが云いたかったのではない。もっと分かり易く云おう。手動蓄電懐中電灯のような利器を発明してもなお世の中が良くならないのは、やはりオカシイのだ。ラディオ、テレビが登場しても、国民の頭脳が啓発されず、バカ番組や評論で総白痴の道具に使われているのは、やはりオカシイのだ。これは避けられないのではなく、利器をして利器の持つ能力を貶め、最も愚劣な使い方に於いてのみ機能せしめられているからなのだ。ならば、文明の利器をそういう風に捻じ曲げている権力者の逆掣肘に向かわねばなるまい。そういう権力者は居るのか居ないのか。れんだいこは、居ると考えている。 これが普通に導かれる発想である。ところが、今日びの学問し過ぎると、これを社会一般の所為(せい)にしてしまう。なぜなら、そういうテキストばかりだから。あるいは、真の責任権力者批判に向かわず、そのコブン的ピエロ役者辺りに的を絞らせたり、任意にでっちあげられた個人、集団、機関批判に向けさせられてしまう。我々は既にそういう批判にたけた三文学者を見飽きた。こういう連中は知性を売り物にしながら、自らそれを損ねていることに気付く知性を持ち合わさない本質的にバカ者でしかない。つまり、本質的なバカは勉強すると余計にバカになり、始末に負えなくなる。いわば知性狂人となる。こういうところには腐敗が似合う。 そういう意味で、今こそ別系の知恵、それに基づくテキストが欲しい。文明の利器が、それの持つ良き機能をすくすくと育てるような社会を夢想してしまう。これを牽引する智者なり政治が欲しいと思う。本来、こういう転換をこそ我々が望んだ革命というのではなかろうか。何でもブルジョワだとかプロレタリアだとか民主的だとか社会主義共産主義だとか、そういう言葉を冠すれば済むというものではない。思考を更に推し進め、あくまでも統治機構を変えること、仕組みを変えること、その為にどこをどういう風に変えるのか議論を活発にすること、時には街頭デモすること、こういう生き方を我々は望んでいたのではなかろうか。ならば道中で死のうとも悔いはない。これを、れんだいこの手動蓄電懐中電灯論とする。 2009.10.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評612 | れんだいこ | 2009/10/18 21:53 |
【佐藤栄佐久・元福島県知事国策逮捕-裁判考】 2009.10.14日、東京高裁は、佐藤栄佐久・元福島県知事の贈収賄事件控訴審で、懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。一審の東京地裁は懲役3年、執行猶予5年だったことを思えば罪が軽くなったとみなせようが、事実はさにあらず。事件がミニロッキード事件の様相をますます示しつつある。かの時の判決もデタラメなものであったが、本事件では更に定向進化しており、かような容疑で罰せられるものかという呆(あき)れた法理論と論法を晒している。到底容認できないので、れんだいこが反発しておく。 既に「『物言う知事』はなぜ抹殺されたのか【佐藤 栄佐久前福島県知事】(マル激トーク・オン・ディマンド)」が発信しており、次のように述べている。概要「佐藤前知事を有罪とする前提が全て崩れているにも拘わらず、『無形の賄賂』や『換金の利益』など従来の法概念にない不可思議な論理と論法で有罪にしている。不可解極まる判決であり、一体何の罪で有罪になったのかが、全くわからないような内容になっている」。 (ttp://www.asyura2.com/09/senkyo73/msg/478.html) れんだいこは、この一文でピンときた。これは、ロッキード事件と同じ臭いがする。ならば確認してみなければなるまい。そういう訳で、ネット検索から情報を仕入れ整理してみた。多くの評者が例の如くピンボケ評論しているが、れんだいこプリズムを通せば、かようなことになる。 佐藤栄佐久氏は、1939年、福島県生まれ。1963年、東京大学法学部卒業。1983年、参議院議員選挙で初当選。1987年、大蔵政務次官。1988.9月、松平勇雄が勇退した福島県知事選挙に、伊東正義や斎藤邦吉らの支援を得て出馬し初当選。以来、連続5期、18年務めていた。このことは、手堅い県政で県民の支持を得ていたことをもの語っていよう。 ところが、2001年の小泉政権の登場とともに暗転し始める。小泉政権の「三位一体改革」と称しながらの地方切り捨て、東京一極集中政策が、「地方主権」を唱える佐藤知事を悩まし始める。やがて、佐藤知事は、「地方の痛み」を強調し続け、一貫して小泉政治に異議を唱える知事の一人となっていった。小泉政権の道州制推進策に対しても、「道州制によって、大都市一極集中を招いてはならない」と消極的な姿勢を採った。佐藤知事以外に道州制を拒否する県知事には、井戸敏三・兵庫県知事や西川一誠・福井県知事がいた。佐藤県知事は、自治体合併(市町村合併と県合併の両方)ブームにも棹差した。国策に反して「合併しない市町村も支援する」立場を明言し、田中康夫(2000年秋~2006年秋の長野県知事。その後、新党日本党首)と共に孤高の反中央知事の立場を維持していた。やがて田中康夫の落選と佐藤栄佐久の辞職により、「合併しない市町村も支援する」立場を掲げる知事は1人もいなくなる。この間、片山義博元鳥取県知事や 浅野史郎元宮城県知事は、出身母体である中央省庁に尻尾を振って寝返っていた。 こういうユニークな姿勢を見せる佐藤県政の圧巻は、国策の原子力行政に対するアンチの姿勢にあった。1989年正月、福島県浜通り内の東京電力の福島第二原発で再循環ポンプ破損の大事故が起きた。チェルノブイリ事故から間もない頃で、原子力発電の危険性が指摘されている時機でもあった。当然、地元で原発の安全性への不信が高まり、原発の運転再開を巡って2年越しの真剣な反対運動が繰り広げられることになった。しかし、県は中央の要請を無視しえず、運転再開の地元了解を発し、1990年末、再稼動に至る。 1999年秋、隣県の茨城でJCO臨界事故が起こる。折から福島第一原発3号で開始されるプルサーマル用燃料が専用港に入港した翌日であった。3年越しの反対運動にもかかわらず、県は前年の夏、他県に先んじてプルサーマル実施の地元事前了解を与えていた。しかし同時に輸送されてきた関西電力のプルサーマル燃料を巡る不正が確認され、原子力行政への不信は頂点に達した。東電は自主的にMOX燃料の装荷を見送った。 この間、東電や経産省は事故隠しに躍起となった。佐藤知事は、この過程で、プルサーマル計画の政策変更のいい加減さ、官僚の絶対無責任体制を危惧し始め、次第に原子力発電行政そのものに反対の立場を明らかにして行った。2003年、経済産業省原子力安全・保安院が 福島第一原発6号機の「安全宣言」を出したことで同機の運転を福島県が認めるか否かが焦点となったが、佐藤県知事は、「県民 の意見を聴く会」を予定するなど慎重を期す姿勢をとった。同年6.19日、グリーンピースが、福島第一原発6号機の運転をするべきではないという趣旨の書簡(添付資料参照)を送り、慎重姿勢を見せている知事にエールしている。 佐藤知事は、郵政民営化、飲酒運転厳罰化などへの姿勢も含めて、一貫して反小泉政治の姿勢を際立たせていた。小泉政権にとって煙たい存在№1知事となっていた。この情況を見据えながら、次の動きを見てとらねばならない。 佐藤知事の身辺捜査が執拗に開始された。時に尾行までつき、一挙手一投足が監視されるようになった。 佐藤氏自身が、自分が検察に狙われなければならない理由はわからないとしながらも、1年以上もの長期にわたり、佐藤氏の周辺を検察が捜査しているとの情報はあったと述べている。 2006.7.8日、佐藤県知事の実弟・祐二が営む縫製会社「郡山三東スーツ」本社が、不正な土地取引の疑いで検察の家宅捜索が入り、一挙に耳目を集めることとなった。この頃から例によって検察とマスコミの二人三脚が始まる。ロッキード事件と瓜二つの構図となる。2002年に「郡山三東スーツ」が水谷建設に土地を売った際の価格が時価より高額との嫌疑が寄せられ、水谷建設の所得隠しとその使途への捜査から収賄の疑いで知事周辺へと特捜の手が伸びていった。やがて「県発注の公共工事を巡る談合汚職事件」として仕立て上げられていった。 9.25日、佐藤県知事の実弟・祐二が競売入札妨害の疑いで逮捕された。続いて、福島県発注工事を巡る談合事件の絡みで元県土木部長が逮捕された。佐藤の辞職を求める動きが強まり、マスコミが後押しする。9.27日、佐藤県知事は、実弟や元県土木部長が逮捕されたことに対する道義的責任を取る形で任期途中での辞職を表明するに至った。概要「県民に迷惑をかけ、心からおわびする。道義的責任を取り、18年間の職務に自らの手で終止符を打つ決意をした」と辞職表明した。9.28日、県議会で辞職が許可された。 10.23日、佐藤県知事は、東京地検によりダム工事発注をめぐる収賄の容疑で逮捕された。例によって東京地検であることに注目されたい。当時の大鶴部長が、「福島県汚職を絶対に上げろ。そうでないと俺の出世にかかわる」と部下に語ったと、最近の週刊誌で報じられている。 当時の民主党幹事長・鳩山由紀夫は、「佐藤栄佐久・前福島県知事の逮捕にあたって」と題する次のようなコメントを発している。「本日、佐藤栄佐久・前福島県知事が収賄容疑で逮捕された。容疑通り、佐藤前知事が公共工事の発注をめぐり不正な利益を得ていたとすれば、県政のトップとしてあるまじき行為であり、その責任は極めて重大である。発端となった談合事件では、すでに佐藤前知事の実弟らが逮捕・起訴され、謝礼を受け取り県知事選挙に利用した疑いももたれている。捜査を通じて一連の事件の全容が解明され、その責任が明らかになることを期待する。3日後には、佐藤前知事の辞職に伴う県知事選が告示される。県政を刷新し、公正公明で県民の立場に立った県政を実現するよう全力を挙げたい。 以上」。 このコメントから、佐藤氏の県知事としての有能性を認め、これを支援するのではなく、検察、マスコミと一体となった包囲網を敷く同じ穴のムジナ的本性が透けて見えてこよう。これが鳩山式正義の裏舞台であろう。但し、鳩山ばかりが責められるには及ばない。当時の他の政党がどう対応したのだろうか。共産党は、ロッキード事件の時と同じく、「佐藤金権」を仕立て上げ攻めまくったのだろうか。社民党も御用提灯もって参列したのだろうか。 逮捕された佐藤知事は当初は全面的に関与を否認したが、その後の連日の聴取を経て全面的に自身の関与を認め、自白調書に署名をしている。これを受け、起訴される。佐藤氏はこの点について次のように述べている。概要「苛酷な取り調べによって自白に追い込まれたのではなく、自分を応援してきてくれた人達が検察の厳しい取り調べに苦しめられていることを知り、それをやめさせるために自白調書にサインをした。また、早い段階で自白をしたおかげで、真実を求めて戦う気力を残したまま、拘置所から出てくることができた。自白調書に署名をしたこと自体は悔やんでいない」。 なお、同年11.15日、和歌山県の当時の知事・木村良樹が、12.8日、宮崎県の当時の知事・安藤忠恕が、同じく官製談合事件で逮捕された。3ヶ月間に3人の知事が、同じような事件で刑事責任を追及される事態となり、大きな波紋を広げる事態になった。 2006.11.13日、東京地裁で初公判。佐藤元県知事は、「火で焼かれるような取り調べを受け、支援者への迷惑を食い止めるため、体験していない事実である収賄を認める供述をした。日本は法治国家と信じている」と述べ、裁判所に真相解明を訴えた。実弟も「検事から怒鳴られたりした恐怖心で、1日も早く出たかった」と法廷で証言している。弁護側は「初めから栄佐久被告を狙った極めて不当な見込み捜査。脅迫や暴力など常軌を逸した取り調べによる供述で立証された冤罪(えんざい)事件だ」と主張した。主任弁護人の宗像紀夫弁護士は元東京地検特捜部長で、“古巣”の捜査手法を知る。「主任検事に何度か(抗議を)申し入れた」と語る。 2008.8.8日、東京地裁刑事第5部(山口雅高裁判長)は、佐藤元県知事を収賄罪で懲役3年(執行猶予5年)、実弟祐二被告を収賄罪の共犯と公共工事の競争入札妨害で懲役2年6カ月(執行猶予5年)、追徴金7372万円余りの支払いを命じる有罪判決を言い渡した。東京地裁判決は、検察側の主張に沿って被告・弁護側の無罪主張をほぼ全面的に退けた。 同日、佐藤被告(69)と弁護人が東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見した。佐藤被告は、概要「一切、事実がないことは、わたしが一番よく知っている。存在しない事実が認定された。弁護団がつぶしてくれたと思った検察側の主張が、判決では生き返っていたのが残念だ」と話した。弁護人は、判決を不服として「控訴を検討している」とした。宗像主任弁護人は、「今回の判決は誤判である。裁判所は真実にたどり着いていない。承服できない」と言い切った。 弟の祐二被告(65)は、弁護団を通じて概要「法治国家日本は偽りだったのかと憤懣(ふんまん)やるかたない思いです。人格を否定し、事実をねじ曲げる検察を許容する裁判所による刑事司法が許されれたのでは、だれもが犯罪者に仕立て上げられてしまいます」とのコメントを発表した。 一方、東京地検の渡辺恵一次席検事は「有罪は証拠上、当然だ。主張の一部が認められず、執行猶予が付いた点については判決を検討し、今後の対応を決めたい」と話した。8.20日、佐藤元福島県知事は、1審東京地裁判決を不服として抗訴した。実弟の祐二被告(65)側も控訴した。かくて、公判闘争が続行する。 2009.10.14日、控訴審の東京高裁は、佐藤元福島県知事に対し懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。一審の量刑より軽くなったが、判決の法理と論法が更に滑稽なものになった。ロッキード事件同様、「始めに判決ありき」の感を深めるものになっている。 元々の賄賂の根拠というのは、佐藤氏の弟が経営する会社が水谷建設に土地を売却した際、その売却額が市価よりも1割ほど高かったので、その差額が佐藤氏に対する賄賂に当たるというものだった。東京地検特捜部は、著者の実弟が経営する会社の土地をゼネコンが買った価格と、市価との差額1億7千万が賄賂だとしていた。ところが、弟の土地取引から得た利益を佐藤氏自身が受け取ったわけではないことが明らかにされた。しかも、買った側の建設会社はその後更に高い値段で土地を売却していることが判明させられ、「市価より高い値段による賄賂」の大前提が崩れてしまった。 二審判決は、これを踏まえ、賄賂の金額が「ゼロ」だと認定した。つまり、一審で佐藤前知事が弟の土地取引を通じて得ていたと認定されていた賄賂の存在を否定せざるを得なかった。にも拘わらず、罪を被せる為にどのように言い渡したか。「無形の賄賂論」なるものを編み出し有罪判決に踏み切っている。検察が、仮に正当な値段であったとしても土地を買い取ってあげたことが「無形の賄賂」の供与にあたると主張し、裁判所もそれを認めたことになる。他にも、佐藤前知事時代のダム事業が槍玉に挙げられている。一般競争入札案件であるにもかかわらず、佐藤氏の「天の声」が認定されている。佐藤元県知事は、「セミの抜け殻のような判決」と評している。 ところで、検察-裁判所司法の、こういう法理と論法を許して良いものだろうか。この法理と論法によれば、人は誰でも容易に罪を被せられることになろう。これは、法の正義を守る立場の司法当局による「上からの法破り」であり、この判決に加担した者は訴追されるべきではなかろうか。鳩山政権が、司法のかような暴走を許すようではお先真っ暗と云わざるをえまい。れんだいこに云わせれば、東京地検と裁判所司法の結託による「上からの法破り」に対して、人民大衆的糾弾闘争で責任者を処罰することこそ法治国家の責務であろう。こういうところを見落とすと、後々暗い時代に道を開くことになろう。 さて、最後に云い添えておく。佐藤元知事逮捕の舞台裏事情を詮索しておこう。佐藤元県知事は、原発銀座とまで呼ばれ10基もの原発を有する福島県で原発が止めた。このことが、日本の原発政策責任者の怒りを呼び、報復逮捕となった可能性が強い。日本の原子力行政は、ナベツネの親玉にして戦前は治安警察のドンとして、戦後は国際金融資本のエージェントとして今日的に知られている正力松太郎と小玉、中曽根のスリータッグにより始まった。戦後の再軍備も、この連中により後押しされた。逆に云えば、日本の防衛政策と原子力政策こそが国際金融資本の意を挺したキモであり、ここにこそ真の金鉱利権が介在していることになる。これにメスを入れようとした者は次から次へと葬られる。佐藤元知事もその犠牲者の一人として遇するべきではなかろうか。かく見立てれば、この事件は小さくない意味をもっていることになる。誰か、かく共認せんか。 2009.10.18日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評613 | れんだいこ | 2009/10/20 18:58 |
【民主党の高速道無料化公約考】 れんだいこは既に民主党の目玉公約の実施に於ける修正提言をしてきた。一つは、子育て手当の奨学資金制による貸出にせよ云々。一つは、亀井モラトリアム法案に代わる国税滞納一掃金としての1千万円及び事業資金としての1千万円につき国家裏保証付き融資の方が現実的で効果的云々。ここで、高速道無料化法案に代わる現行通行料金の3分の1引き下げを提案しておく。 民主党政権が一ケ月を越そうとしているが、選挙前の目玉公約の全てがもたもたし始めている。こうなると国民的冷笑を生むのが必至で、その怒りの頂点はいかなる暴動へ向かうやも知れない。れんだいこの気分は、それで良しと考えている。現状の景気悪化を知れば、さほどに待ったなしの局面にあると見立てているのだが、議員貴族たちに、この思いが伝わるだろうか。 鳩山政権はとりあえず直ちに高速道無料化公約の実施に向かえ。但し、無料化が真に望まれているとは思わないので、現行料金の3分の1化、料金単位は500円で臨め。案外、通行量が伸びて、却って採算が上がると思われる。この案で行くと、料金所及び機械の撤去、人員解雇に要する費用、あるいはひょっとして将来の再設置再雇用費用も掛からず、誰も反対しないだろう。 問題は、政治がなぜ容易に思いつくこの施策に取り組まず、大上段に構えての無料化是非論にうつつを抜かすかにある。この構図上で議論する限り、賛否両論で日が暮れよう。この種の議論は天下り制でも同様である。天下り御法度か容認かで日が暮れている。国民は何もそんなところで怒っているのではない。天下り官僚が利権先を不要なところまで張り巡らし、高給、高退職金の渡り取りの巣にしていることに対してエエ加減二センカイと至極真っ当な怒りを表明しているに過ぎない。その気になればすぐ止めさせることができるのに、わざわざ議論を難しくして徒な日数を費やしている。 そういう政治は見飽きた。やるならやる、制度的にこうやるというスッキリした政策を直ちに実行して欲しい。そういう意味で一番やり易いのが、この高速道料金直ちに3分の1化である。これもできないのに、為さずして、高速道無料化の是非論に日数を費やし続けるなら、議員定数削減化運動に向かわねばなるまい。バカを何人集めても所詮バカの集まりにしかならず税金の無駄遣いだろう。ならばいっそのこと議員数を削減すれば良かろう。 れんだいこが見るところ、衆議員定数は100ほど多い。議員給与、手当、秘書給与を計算すると、一人当たりの議員経費はバカにならない。これを100倍すれば、どういう金額になるか。官僚制批判のみならず議員制にも目が向かわねばなるまい。目下のもたもたは、そういう疑惑へと関心を向かわせることになる。 もとへ。議員諸氏よ、一連のれんだいこ提案は、真に意欲すればできることばかりである。問題は、なぜこれをやろうとしないのかにある。無駄な議論で遊ぶうちに景気が底割れし、国債大幅増発、消費税再値上げに向かうシナリオが見え隠れしている。所詮民主党も、自公とは別の形での御用聞きでしかなかったということにならないよう、くれぐれも頼むぜよ。 さぁ、少なくとも本年末内に「高速道料金直ちに3分の1化」を実施せよ。せめて一つぐらいは実行してくれんとなぁ、新年祝いしてくれんと燻ぶりがおさまらぬ。前原国交相が盛んにあちこちに出張って話題を取っているが気に入らない。お前のすることは、高速道無料化公約の実現だ。これが仕事だ。ここを外して、そう急ぐことでもないことに何やかやせわしくしても意味がない。君は防衛大臣でもなって、防衛予算削減に立ち回り大ナタふるった方が良かったかもしれんな。そしたら認めてやるわい。ところが、防衛費についてはお手盛り増額派だったりして。目下は芸能タレント気取りにしか映らぬ。気にいらん。誰か、そう思わんか。 2009.10.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評614 | れんだいこ | 2009/10/21 19:24 |
【民主党公約実現第一号(西川・日本郵政社長辞任追い込み)を祝砲する】 2009.10.20日、遂に日本郵政グループの持ち株会社である日本郵政の西川善文社長が辞任に追い込まれた。席上、かんぽの宿問題についての質問に対し、「かんぽについては、反省すべき点はあったが、不正な点は一切なかった。それが、辞任の理由になるとはまったく考えておりませんでした」と開き直った。今日、小泉さんとあったのかの質問に対し、「コメントできません」と述べた。会見は、わずか十数分で終了した。 かくて西川辞任が、民主党公約実現第一号となった。れんだいこは、これを祝砲する。小泉-竹中ラインによる筋書き通りに事が運ばれれば、虎の子の郵貯資金がハゲタカにさらわれるところだった。民営化という名の外資売りに身を委ねるところだった。これを未然に防いだ功績は大きい。これに功のあったのは亀井郵政改革担当相と原口総務相である。このことは、鳩山政権の各閣僚のうち最も有能なのが、このコンビであることを示したことになる。ということは逆に、前原国交相、岡田外務相は目立つ割に公約実現をサボタージュしていることになる。マスコミが、この二人を褒め易しとみて持ち上げているということでしかないのだが、いずれこうして誰が仕事をしているのかが知れることになる。 もう一度確認しておこう。民主党の目玉政策は数々あるが、日本郵政の西川社長引きずり降ろしは実現したので外すとして最重要なのは、前原国交相担当の高速道無料化、岡田外務相担当の海上自衛隊のインド洋からの帰還、川端文部科学相の子育て支援である。よってこの三大臣の動きが注目されることになるが、れんだいこの眼には、逃げ回っているように見える。前原はダムや空港問題にすり替えており、岡田は海上自衛艦をインド洋での給油を止めさせる代わりに海賊退治に向かわせようとしている。アフガン支援という名の米英ユ同盟協賛金をお供えせんとしている。川端の子育て支援給付策は財源難でできない。れんだいこ策のように奨学資金制にする動きも見せていない。つまり、本気度が見えない。 鳩山政権はこうやって追々に誰が仕事をし誰がサボタージュしているのかをはっきりさせよう。いずれ民主党内は、この二派の衝突が待ち受けているように思われる。自民党は再生できない。石原都知事の息子と中川辺りが怒鳴り回すぐらいのものだろう。自民党は小泉改革継続派と断念派の同居により、この先ますます亀裂を深める以外にない。小泉が本当に自民党をぶっ壊したことになる。 もとへ。問題は、景気後退が激しくなり始めていることである。この危機感を善用して一刻も早く有効な景気打開策を講ぜねばならない。公共事業は有効な手法であり、これを狭めてはいけない。必要な事業と無駄な事業の見極めが肝心で、全部ダメとか縮小化はナンセンスの極みである。他方、財源不足を云うなら、軍事防衛予算に大ナタを振るわねばならない。公務員給与、せめてボーナスには大ナタを振るわねばならない。天下り機関での人員削減、高給及び高退職金カットに大ナタを振るわねばならない。いずれも、やる気になればできるものである。さて、どうなるだろうか。 やる気があるのだろうか。 2009.10.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評615 | れんだいこ | 2009/10/22 20:27 |
【平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」の重要性考】 平野貞夫氏は、「昭和天皇の『極秘指令』」を著わしている。れんだいこは、読んでも今一つピンとこなかった。ところが、2009.10.19日、古川利明ブログ「三井環(元大阪高検公安部長)氏の『口封じ逮捕事件』に対する上告棄却決定を弾劾する(承前)」は、文章中段で平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」に言及し、ロッキード事件の際に昭和天皇の果たした役割をより鮮明にしている。れんだいこは、この古川ブログの補足によって、平野氏が抑揚を利かせ過ぎた点が分かり合点するところとなった。歯に衣着せず読解すると次のような証言になる。 昭和天皇は、戦後の象徴天皇制にも拘わらず、案外と政治に容喙している。戦前に果たした能動的役割が敗戦によって政治責任を問われ、天皇制廃嫡の危機にあったことを思えば、懲りていたのかと思うとそうでもないらしい。大事な局面では相変わらずくちばしを入れていたことになる。その様子は、「昭和天皇・マッカーサ会見」(豊下楢彦、岩波現代文庫、2008年)、「新潮45」8月、9月号(2009年)連載「パケナム日記で紐解く戦後日本秘史」(青木富貴子)でも知ることができるが、ロッキード事件の際の角栄訴追に見せた昭和天皇の態度も一例である。 ロッキード事件が勃発した1976(昭和51)年の通常国会において「核防条約」(「NPT」)が批准されることになったが、その裏には「昭和天皇の意思」があった。どういうことかというと、この時の通常国会はロッキード事件で喧争し、野党側はいつものように審議拒否の連続で国会は空転した。ともかく予算を通過させ、解散、総選挙へなだれ込もうとしていた。この流れに棹差したのが「昭和天皇の意思」であった。昭和天皇は、当時の衆院議長だった前尾繁三郎にNPT批准審議を進めるよう「指示」を下した。その裏意味は、「核防条約」(「NPT」)審議という名目で国会を開会させ続け、これを利用してロッキード事件を徹底追及解明させよという要請にあった。前尾議長は、この「指示」に従い、「解散阻止」に動いて審議軌道に戻した。これにより、「ロッキードの徹底解明」を旗印にした国会が再開した。この流れで、角栄逮捕へと辿り着くことになった。 それはそれで良いのだが、この流れの臭さは次のことにある。ロッキード事件はそもそも発生過程からして謀略的なものであるが、それはさておいても元々は児玉-中曽根-ナベツネラインこそが本ボシの軍事関連贈収賄事件であった。それを無理やりに小佐野-角栄ラインの悪事にすり替えて追撃して行ったのが当時のロッキード事件騒動の真相である。当時の国際金融資本-キッシンジャー権力は、何としてでも角栄を失脚させたかった。なぜ角栄を許さなかったかの解明は別の案件になるので、ここでは触れない。 そのユスリの種として用意周到に拵えられたのが角栄逮捕型ロッキード事件であった。ロッキード事件の真相の深層をかく解する必要がある。大方の見方は、この説を採らず、立花隆-日共式「諸悪の元凶=角栄金権論」に熱狂して訴追弾劾して行った。国際金融資本戦略に踊らされるピエロでしかないのだが、この見方が今日まで続いている。これが、現在の小沢パッシングの背景でもある。日共はともかく、新左翼系の一部でも未だこの観点からの批判が強いが、彼らは歴史をどう観ているのだろうか。れんだいこに云わせれば、言論を時流に売る貧相頭脳と性悪精神にお似合いの御用説でしかないというのに。この手合いばかりがテレビ評論に登場し、金満痴言を垂れ流し続けている。新聞各紙の社説を見よ、くつわを並べてのうんざり評論ばかりだ。 平野貞夫氏の「昭和天皇の『極秘指令』」は、もう一つ大事な言及をしている。当時の検事総長・布施健が、かなり早い段階から「角栄がバッジを外したら、タイホは見逃してヤルで」と事前に何度も持ちかけていたことを明らかにしている。ということはつまり、布施健以下当時の検察-裁判司法がグルになって国際金融資本-キッシンジャー権力の下僕となって立ち働いていたことを示唆している。実に「上からの法破り」が、この時点から露骨になったと云えよう。その後、司法権力はとめどなく腐敗し始めるが、それはこの時暗躍した角栄訴追仲間が揃って出世階段を登りつめて以来のことである。かの連中の登用により、司法は上から腐った。これが、「三井環(元大阪高検公安部長)氏の『口封じ逮捕事件』」へと至る伏線になる。かく関係している。 まことに、物事には原因と要因があるという例証であろう。れんだいこは最近著作権でイジメられているが、この連中が著作権万能時代を作った側でもある。まことに一事万事とは、昔から云われる通りである。この連中を一網打尽にして、別系のタレントを登用しなければ世の中は良くならない。鳩山政権にその能力があるだろうか。平和革命は云うに易いが、行うに難しでもある。無欲至誠の西郷ドンが各界から出ずんば世の中は変わらないのではなかろうか。 2009.10.22日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評617 | れんだいこ | 2009/10/23 22:17 |
【マスコミの発言歪曲記事報道考】 「市民の市民による市民のためのメディア」を標榜するネットサイト「JanJan」が「『新聞記者は出て行け』 佐藤退陣会見から37年~TVからネットへ 田中龍作2009/10/21」記事を発信している。これを解析しようとしたところ、トップページ末尾に「JanJanに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。全ての内容は著作権法並びに国際条約により保護されています」と但し書きしているので、れんだいこ作法により採らないことにする。 該当記事は、かっての佐藤栄作首相の退陣記者会見での佐藤首相の「新聞記者は出て行け、偏向している新聞は嫌いだ、私は直接国民に語りかけたいんだ」発言を紹介している。次に、2009.10.20日の岡田外相の同主旨発言を伝えている。岡田外相は、核の先制不使用とインド洋での給油をめぐる発言を伝えた新聞記事に対し、自分の意図とは異なる記事内容であると不快感を示し、外務省会見室での定例会見でこう述べたという。「私の発言が正確に受け取られていないことが最近いくつかあって…(中略)…私の発言は正確に引用して頂いたうえで『こう判断する』と記者の判断であることが分かるように記事にして頂きたい。私が言った趣旨とは違う勝手な解釈をして書くようなことは止めて頂きたい」。 この問題について、れんだいこが言及しておく。これは岡田発言が正しい。そういう意味では、佐藤発言にも、それなりの根拠があったのではなかろうかと今にして思う。JanJan記事発信者の田中氏は次のように述べている。概要「オリジナル発言とは随分違った記事になることが多い。発言した側にすれば『俺はこんなこと話してないぞ』ということになる」。 これは内部発言だからして重みがある。これが常態とならば、マスコミのこういう作風は大変な悪事ではなかろうかということになる。そもそも論で云えば、記者が、取材発言をどのように加工して記事にするかは、その記者と記事を掲載する報道各社の自由自主自律に任されている。それはそれで構わない。そうでなくては報道の自由、言論の自由がなくなるから。問題は、第四権力と云われるマスコミ人の責任感と能力にある。すべからく「取材発言趣意を正確に伝える記事」に傾注努力すべきで、御用提灯化したり曲解報道に耽るのはご法度とすべきであろう。この自覚なき無責任な記事は自由自主自律的にチェックされ自制されねばならないのではなかろうか。却って報道の自由、言論の自由を内部から崩すのではなかろうか。 問題は、「当事者たちの発言内容とその趣意を正確に伝える記事」を発信しようにも、それはかなり高度な技であり、昨今のマスコミ人にそれが可能であるのかどうかというところにある。この能力に於いて彼らは既に著しく能力を欠損しており、その代わりにバカの一つ覚えのような著作権主張に明け暮れているのではなかろうか。チョサクチョサクという暇があるなら正しく報道する能力を磨いたらどうか。それができない代わりにチョサクチョサクと煩いだけのことではないのか。というようなことを述べてからかってみたい。 もっとも、この傾向は昔からあるといえばある。気になっている発言があるので、この機にこれについて確認しておきたい。1950年代のこと、後に首相になる池田隼人は、「貧乏人は麦を食え」、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」発言で物議を醸している。れんだいこは、何気なくやり過ごしてきたが、この発言にも「マスコミ操作」の臭いがし始めたので解析してみる。 「貧乏人は麦を食え発言」については、「第009回国会 予算委員会 第9号」で確認できる。(ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/009/0514/00912070514009c.html) 今、これを読み取ると、1950(昭和25).12.7日、池田蔵相は次のように発言している。「御承知の通りに戰争前は、米100に対しまして麦は64%ぐらいのパーセンテージであります。それが今は米100に対して小麦は95、大麦は85ということになつております。そうして日本の国民全体の、上から下と言つては何でございますが、大所得者も小所得者も同じような米麦の比率でやつております。これは完全な統制であります。私は所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持つて行きたいというのが、私の念願であります」。 この池田蔵相発言に対し、質疑者の木村禧八郎・社会党議員が、「所得の多い者は米を食え、所得の少い者は麦を食え、例えば農村に例をとればお百姓さんは昔のように稗です粟でも食え、米を食うのは主食の統制の結果だ。それだから食習慣を昔に戻すためにこういう食糧の価格体系を考えたのである。こういうような答弁でありましたが云々」と意訳させて問題発言化させた。 このやり取りを、「池田蔵相の『貧乏人は麦を食え』発言」として報道して行ったのが当時のマスコミであった。果たして正確であったであろうか。事実は「貧乏人は麦を食え」とまでは述べておらず、「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則」についての池田流発言とみなすべきであり、さほど目くじらするほどのことではない。むしろ、前後のやり取りを読めば、当時の国会質疑の互いの真剣さ、質問内容の質の良さ、答弁の質の良さが見えてくる。こういうところを踏まえねばならない。この池田蔵相食言報道は為されたものの、これによって池田蔵相の問責にまでは発展していないので、多少は茶目っ気として許されるかも知れない。 もう一つの「中小企業の一部倒産もやむを得ない。経済原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」発言については、「第015回国会 本会議 第7号」で確認できる。 (ttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0512/01511270512007c.html) 今、これを読み取ると、1952(昭和27).11.27日、池田通産相は次のように答弁している。「なお、特に御質問のありました昭和二十五年三月一日の私の言として新聞に載りましたことにつきましては、その直後、この壇上で私の心境を話しております。その後におきましても何らかわりはございません。ここではつきり申し上げますが、インフレ経済から安定経済に向いますときに、この過渡期におきまして、思惑その他の普通の原則に反した商売をやられた人が五人や十人破産せられることはやむを得ない――お気の毒ではありまするが、やむを得ないということをはつきり申しておきます」。 これに対し、加藤勘十・社会党議員が、問題発言であるとして次のように述べている。「ただいま私の質問に対して、各大臣はまつたく焦点をはずれた、でたらめな答弁をされておる。(拍手)のみならず、外務大臣は答える道を知らない。このような不誠意な内閣が一体どこにあるか。(拍手)しかも、通産大臣のごときは、みずから五人や六人……。〔発言する者多し〕。一体、五人や六人の国民は死んでもいいのか、それはどうかと聞いておるのである。これに対して通産大臣は一体何と答えたか。(拍手)ひとり議員を侮辱するばかりではない。全国民を侮辱するものである。(拍手)私は、通産大臣の明確なるお答えと、外務大臣のはつきりしたお答えを聞きたい。(拍手)」。 社会党らしい揚げ足責めが見えてくる。池田通産相が大局的に分析して企業淘汰論を述べているのに対し、社会党は、個別特殊例をことさら取り上げて、「一体、五人や六人の国民は死んでもいいのか」と迫っている。これに対し、池田通産相は次のように述べている。「私の心境は、インフレ経済から安定経済に参りますとき、やみその他の正常な経済原則によらぬことをやつている方がおられた場合において、それが倒産をし、しこうしてまた倒産から思い余つて自殺するようなことがあつてお気の毒でございますが、やむを得ないということははつきり申し上げます」。 このやり取りを、池田再食言として問責報道して行ったのが当時のマスコミであった。果たして、正確であったであろうか。事実は、朝鮮動乱下の好景気に沸く中での企業倒産に対してまで責任を持てない云々と、ある意味で当たり前のことを述べているに過ぎない。池田通産相は、この発言報道により、翌日に不信任案が提出可決され辞任に追い込まれている。こうなると報道責任もあるように思われる。本当にケシカランのはどちらであったのだろうか。 思うに、マスコミには、この当時からこのような習性があり、かなり政治主義的なペンを揮っていたことが分かる。一連の池田食言報道は、その例証である。ただ今日との違いは、当時は社会党にシンパ的な報道であり、日本左派運動的には、当時のマスコミが左寄りであったことが分かり興味深い。ところが、現下のマスコミは違う。こういう習性だけは引きずりながら国際金融資本寄りの「売国正義」のペンを振るい続けている。今や食えたものではないという違いがある。 文章が長くなると読みにくいので、以下はしょる。「取材発言趣意を正確に伝える記事責任」は、報道を生業とするものの義務である。この義務に対する練磨をせずに、著作権に狂っているのが昨今のマスコミの現状である。これを嘆かわしいことと思うのは、れんだいこだけだろうか。恐らく、人の頭と云うものは一度形成されたら治りにくい。そこで、新しい感覚の人材が登用されて新しい時代を切り拓かねばならない。こうしないと時代が変わらない。既成の秩序と機溝をそのまま使う訳には参らない。鳩山政権は、これを知り、この負託に応える能力を持っているだろうか。ここが見極めどころとなっている。 2009.10.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評618 | れんだいこ | 2009/10/28 22:19 |
【鳩山首相の所信表明演説考】
2009.10.26日午後2時、第173臨時国会が召集され、鳩山首相(62)が衆参両院で就任後初の所信表明演説をした。「友愛」の政治理念を強調した演説は衆参両院とも52分間、文字数1万2905という異例の長さとなった。首相就任直後の所信表明演説の長さは、2001.5月の小泉首相が約6450、2006.9月の安倍首相が約8300字、2007.10月の福田首相が約6400、2008.9月の麻生首相が6026文字。この内容をどう評すべきか。れんだいこ評を発表しておく。 この日のテレビ各局は、まともな国民なら誰しも奇異に思う形で、鳩山首相初の所信表明演説を伝える代わりに覚せい剤取締法違反の罪に問われた女優・酒井法子被告(38)の初公判の報道に集中させた。ナベツネ法王のプロパガンダ機関と化している日本テレビを筆頭に民放4局が、午後5時前からのテレビ各局の報道番組で酒井被告の初公判をトップで扱い、延々と報道し続けた。所信表明の扱いはわずか数分程度にとどまった。首相演説をトップで取り上げたのはNHKとテレビ東京だけという有り様で、この二局の相対的健全さが確認されることになった。夜のニュース番組では所信表明がトップ扱いで伝えられ、時間も多少増えてたものの「のりピー報道」にのまれた印象はぬぐえなかった。 まず、かように歪められている現下マスコミの状況を確認しておく。これは決して偶然ではなかろう。新聞、テレビ、ラディオ、雑誌の総マスコミが、現代世界を牛耳る国際金融資本のスピーカーとして、その意向を挺して日本人民大衆の愚民化政策を実演中である証拠として見据えておかねばならない。とある情報によると、新聞、テレビ、ラディオ、雑誌は全て国際金融資本ネオシオニストの監視網下で検閲されているという。よって、報道される時事とは日本人民大衆の愚昧化に資するものであって、啓蒙に資するものであったり歴史の真相に迫るものはことごとくチェックされお蔵入りさせられるという。なるほど、こう思えば、事態がスッキリ見えてくるから不思議だ。 もとへ。れんだいこは、こたびの鳩山首相の所信表明演説を、米国大統領オバマのそれを意識したかなりの名調子ものであったと看做している。このところの歴代の首相の生気のないそれに比べれば、格段にできの良い演説であったと思う。食べ物と一緒で上手いものを食べると、不味いものが食えなくなる。そういう意味で、鳩山演説を歴史的に評価しても良いと思う。 問題は、鳩山総論は良いとしても、具体的に何を約束したのかという点で覚束ないものがあることであろう。こたびの演説の中身を章分けすると、はじめに、首相としての約束と決意、本論各論、むすびの四章構成になっている。本論各論は、その1・友愛政治の推進、その2・年金について、その3・医療、介護について、その4・子育て、教育について、その5・地方再生について、その6・日本再生について、その7・国際貢献について、その8・日米共同について、その9・国際問題について、その10・東アジア共同体構想についての10本立てとなっている。いろいろ述べてはみているものの各論とも印象が弱い感がぬぐえない。 こういう場合には、比較してみればよりよく分かる。このところの森、小泉、安倍、福田、麻生のそれと比較してみても意味はないので、れんだいこが師事する田中角栄のそれと比べてみることにする。「1972.10.28日、第70回国会に於ける角栄の初の所信表明演説」は、どのように述べていただろうか。全文は、ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/enzetu/syoshinhyomei.htmで確認するとして、非常に濃密な言行一致的内容であることが分かる。恐らくここが鳩山所信表明演説との違いとなるのではなかろうか。 角栄は、冒頭挨拶に続いて次のように述べている。「戦後四半世紀を過ぎた今日、わが国には内外ともに多くの困難な課題が山積しております。しかし、これらの課題は、これまで多くの苦難を乗り越えてきたわれわれ日本人に解決できないはずはありません。私は、国民各位とともに、国民のすべてがあしたに希望をつなぐことができる社会を築くため、熟慮し、断行してまいる覚悟であります。七○年代の政治には、強力なリーダーシップが求められております。新しい時代には新しい政治が必要であります。政治家は、国民にテーマを示して具体的な目標を明らかにし、期限を示して政策の実現に全力を傾けるべきであります」。 今にも通用する抱負である。続いて次のように述べている。「私が日中国交正常化に取り組み、また、日本列島改造を提唱したのも、時の流れ、時代の要請を痛切に感じたからにほかなりません。政治は、国民すべてのものであります。民主政治は、一つ一つの政策がどんなにすぐれていても、国民各位の理解と支持がなければ、その政策効果をあげることはできません。私は、私の提案を国民のみなさんに問いかけると共に、広く皆さんの意見に耳を傾け、その中から政治の課題をくみ取り、内外の政策を果断に実行してまいります」。 この角栄の言に照らせば、鳩山のそれは冗長なだけで子供じみた表現であることに気付かされる。角栄のそれは、簡潔にして的を射ている。それはともかく、角栄は、国際緊張緩和の動きを伝え、日中国交正常化を成し遂げたことを報告し、続いてインドシナ半島、朝鮮半島に於ける南北融和に対する寄与を表明している。日米関係、アジア太平洋全域の安全と繁栄、日ソ友好親善、北方領土問題の解決にも言及している。角栄の場合、これを言及だけでなく実際に政策的に取り組んだという史実を残している。その意味で、角栄の所信表明演説にはウソがなかったことが分かる。 次に国内問題に言及し、次のように述べている。「われわれは、戦後の荒廃の中からみずからの力によって今日の国力の発展と繁栄を築き上げてまいりました。しかし、こうした繁栄の陰には、公害、過密と過疎、物価高、住宅難など解決を要する数多くの問題が生じております。一方、所得水準の上昇により国民が求めるものも高度かつ多様化し、特に人間性充実の欲求が高まってきております。これらの要請にこたえ、経済成長の成果を国民の福祉に役立てていく成長活用の経済政策を確立していくことが肝要であります」。 こう述べた後、具体的にどうするのかについて次のように指針せしめている。「この観点から見て、日本列島の改造は、内政の重要な課題であります。明治以来百年間のわが国経済の発展をささえてきた都市集中の奔流を大胆に転換し、民族の活力と日本経済のたくましい力を日本列島の全域に展開して国土の均衡ある利用をはかっていかなければなりません。政府は、工業の全国的再配置と高速交通・情報ネットワークの整備を意欲的に推進するとともに、既存都市の機能の充実と生活環境の整備を進め、あわせて魅力的な地方都市を育成してまいります。経済と人の流れを変えることにより土地の供給量は大幅に増加されます。また、全国的な土地利用計画の策定、税制等の活用によって土地問題の解決は一そう促進されるのであります」。 続いて、公害対策、物価安定に対する尽力を約束した後、社会保障について次のように述べている。「豊かな国民生活を実現するために欠くことのできないものは、社会保障の充実であります。このため、今日までの経済成長の成果を思い切って国民福祉の面に振り向けなければなりません。特に、わが国は急速に高齢化社会を迎えようとしており、総合的な老人対策が国民的課題となっております。また、今日の繁栄のために苦難の汗を流してこられた方々に対する手厚い配慮が必要であります。中でも年金制度については、これを充実して老後生活のささえとなる年金を実現する決意であります。さらに、寝たきり老人の援護、老人医療制度の充実などをはじめ、高齢者の雇用、定年の延長などを推進してまいります。以上のほか、心身障害者をはじめ社会的に困難な立場にある人々のため施設等の整備、充実をはかり、難病に悩む人々に対しては原因の究明、治療方法の研究、医療施設の整備など総合的な施策を推進いたします。なお、国民が十分な余暇を利用することのできる社会を実現するため、週休二日制をはじめ余暇利用の条件の整備につとめてまいります」。 続いて、農業政策、中小企業対策、教育政策、国際収支対策、公務員給与の改善、公共投資補正予算について言及している。既述したが、角栄の場合、これを言行一致させることになる。ここが凄いところであったといえよう。 結びはこうだ。「戦後四半世紀にわたりわが国は、平和憲法のもとに一貫して平和国家としてのあり方を堅持し、国際社会との協調融和の中で発展の道を求めてまいりました。私は、外においてはあらゆる国との平和維持に努力し、内にあっては国民福祉の向上に最善を尽くすことを政治の目標としてまいります。世界の国々からは一そう信頼され、国民の一人一人がこの国に生をうけたことを喜びとする国をつくり上げていくため、全力を傾けてまいります。あくまでも現実に立脚し、勇気をもって事に当たれば、理想の実現は可能であります。私は、政治責任を明らかにして決断と実行の政治を遂行する決意であります。以上、所信の一端を申し述べましたが、一そうの御協力を切望してやみません」。 角栄のこの演説に比して、こたひの鳩山のそれの水準はどの位相にあるかが問われねばなるまい。れんだいことしては、あれこれ饒舌するよりも角栄の言と姿勢に学び、手本とすべきではなかろうかと思う。思うに、角栄の政治は、著書の日本列島改造論で明らかにされた如く国家百年の計たる秘策を啓示している。この道を辿れば日本の将来は明るく逆は逆になる。そういう意味で、再評価されねばならないと思う。 中曽根、小泉は、逆政策を国際金融資本の言いなりに意図的故意にしてきた双頭であり、故に名宰相としてもてはやされてきている。阿呆のマスコミは、ワシントンが云うのだから名宰相なのだろうと提灯する。そして、真に千年に一人の逸材であった角栄を悪しざまに罵詈雑言して悦に入る。漬ける薬がないとは、このことを言うのではあるまいか。 2009.10.28日 れんだいこ拝 |
Re:故田中角栄氏 | れんだいこ | 2009/10/29 13:10 |
こうもりさんちわぁ。 > れんだいこのカンテラ時評618で故田中角栄氏の所信表明演説を読ませて貰った。見事な演説である。国土破壊の元凶と思い込んでおった小生の無知を恥じねばならぬ。 レンダイコ氏に感謝である。 レス有難う。補足すれば、角栄の時々の演説は、こたびの鳩山演説同様に、角栄自ら起草しています。日経の私の履歴書連載文然りです。それを読んで、川端康成が激賞したとか。そういえば、角栄は少年時代に作文投稿で受賞しております。幼少より文筆に才があったことになります。角栄観については、こういうところから見直しが必要だと思われます。 角栄は国会議員になって以降、国家予算に目を通し続け、バランスを重視しチェックしていました。大蔵省主計官が舌を巻く数少ない予算が読める議員でした。大蔵大臣任期中は、憲法規定通り国債発行禁止を守っております。この禁を犯したのは福田蔵相です。もちろん消費税導入も拒否しており、産業活性化による法人税自然増で賄っておりました。今にして思えば正解で、消費税は税の薬物中毒です。 国鉄民営化にも猛反対しておりました。北海道が危なくなる、一時は良いけれど長い目では取り返しのつかない荒廃をもたらし却って損失化すると警鐘しておりました。事態はその通りになっております。この論法で行けば当然、郵政民営化にも反対であった筈です。社会資本整備、僻地へのサービスは税を収奪する国家が国民に返す責務であり、採算重視による徒な赤字路線廃止は本末転倒と心得ていたと思われます。 なんだかんだ考えると現在の政治は、角栄指針の逆ばかりしております。それで国が良くなるのなら良いのだけれど、結果は今ある通りです。ハゲタカ路線は目先の利益ばかりを追う無責任学問でしかないと早くより見抜いていたと思います。そういう偉才たる角栄を訴追したのは、ネオシオニストエージェントたる立花であり日共であり、これに列なるマスコミ、検察、裁判官らでした。この連中が、1980年代初頭の中曽根政治の頃から今日までの30年間、日本の政財官司学報の六者機関を主要とする各界に跋扈し始め我が世の春を謳歌して参りました。これにより日本の国富は蝕まれ凋落することになりました。 この流れを変えねばなりません。無血であろうが有血であろうが変えることが先決です。鳩山にその意思があるだろうか。鳩山政治は、党内の右派と中間派と左派のうち、右派と中間派にやじろべえする日和見機会主義を特質としているように見えます。このバランスがどう揺れ動くのか目が離せません。れんだいこは、そのように見立て、見守っております。我々が進むべきは、今風の角栄政治の復権と再生です。これに誰が唱和し誰が敵対するのか、この辺りが見どころです。政治って面白いですね。 2009.10.29日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評619 | れんだいこ | 2009/10/31 18:25 |
【民主党の高速道無料化公約考その2】 鳩山民主党連合政権が発足後2か月にならんとしているこの時、れんだいこは、選挙前公約中の目玉公約の一つである高速有料道路の無料化につき何ら進展がないことに怒りを覚える。担当の国交省大臣・前原は、やれダム、空港、日航問題でマスコミ受けする処断で話題をとっているが、お前のすることはまずもって高速有料道路の無料化公約に対する対応であろうに。未だ何ら進展が見られない。 れんだいこは既に、できないのなら代案として「現行料金の一斉3分の1、通行量5倍化案」を提案している。誰が聞いても反対しようのない、やろうと思えばできるのに徒に無策のままで推移する前原にそろそろ言論鉄槌を浴びせねばなるまい。 問題は、鳩山といい管といい、いつまで様子見するのかにある。そろそろ出番ではなかろうか。前原は、国交相よりも防衛相になれば良い。ダムや高速道計画を廃止したように防衛費予算の大幅削減に向かわせれば良い。この点で、鳩山の前原国交相任命は不適格失敗であったと云わざるを得ない。もっとも、前原が防衛費削減に向かう場合の話ではあるが。仄聞するところ、前原は防衛費増強論者である。だとすれば、そういう前原を国交相に任命して内治予算を削らせているのは、鳩山の任命責任に関わることになろう。 かく問う者は他に居ないか。れんだいこは、前原といい岡田といい民主党内のシオニスタンと看做しており、大臣に任命されるや本性露に活躍していると評している。岡田外相は、公約上は一刻も早く海上自衛隊の帰還に措置すべきところ、この話も有耶無耶にしつつある。逆に平和維持活動費を計上しそうな雲行きである。沖縄の基地移転問題でも、米軍要請に対し弱腰過ぎる。全く不適任という以外にない。その様は、前原のすりかえ術と変わらない。 鳩山は、名うてのシオニスタンをなぜ登用したのか。いつまでのさばらせるのか、これに対する自身の態度を明らかにせねばならない。早晩かく問われることになろう。饒舌が飽きられたとき、鳩山の真価が問われる。まもなくその日が来よう。思えば、総選挙前、小沢代表を引きずり降ろす時に説明責任論をぶった。公選法違反で云えば、よほど手前のそれの方が臭いのに。一連託生するからとも述べていた。それがどうだ、手前が代表に返り咲いた。 それはまぁ良い。我々は何とか許している。だが、かくも公約不履行の様子を見せつけられると、どんどんメツキが剥げつつあるといわずにはおれない。こらっ鳩山、聞いとるか。「あの人の云う事には間違いがない」と評され信用を得るのと、あいつはチャラ介だと云われるのでは雲泥の差がある。公約を、その通りに実現しなくても良いのだ、筋道が通っているのかどうかが肝心だ。その点よろしく頼むぞ。れんだいこの支持は、この辺りまでが限界ぞよ。 2009.10.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評620 | れんだいこ | 2009/11/01 21:05 |
【「思いやり予算」考】 最近、「思いやり予算問題が」が政局浮上している。これについての、れんだいこ見解を打ち出しておく。いつのまにか「思いやり予算」なるものが計上され、日本の税金を激しく蝕んでいる。重要な問題なのだが理解しにくくされている。そこで、れんだいこが、誰にでも分りやすいように解析に向かう。最初は覚書程度にしておき、次第に要点を掴んでいくことにする。 1、思いやり資金の導入経緯 在日米軍基地は、そもそも米国の思惑による国際戦略に基づき強権的に占有使用されているからして、日米安全保障条約及び同法に基づく日米地位協定その他関連法には、その維持費用の負担を日本側に求めるなどという条項はない。日本は、アメリカ軍に対して施設の提供をすることを認めてはいるが、その為の維持費用は米国が負担することになっている。日本側の負担は、僅かに基地用地の賃貸料などに限られている。そういう取り決めの下で日米安保条約が締結、更新延長されていた。 ところが、1970年代のアメリカは、長期化したベトナム戦争の影響で財政危機とドル価値の急落に陥った。他方、日本は高度経済成長政策が軌道に乗り、日の出の勢いとなった。1976年、ロッキード事件でハト派の総帥・田中角栄がはがいじめされ、鉄の軍団と云われた田中派が分裂した。これに功のあった竹下-金丸ラインがちやほや台頭することになった。アメリカは、ころあい良しとみて日本政府に米軍駐留経費の分担を求め始めた。これに竹下-金丸ラインが呼応し、この汚れ役を引き受けることで、角栄失脚後の権力を保証を取り付けるという取引があったと思えば良い。これは、ネオシオニストの常套手法である。竹下-金丸ラインはこれに籠絡される。 1978.6月、ブラウン国防長官は、金丸防衛庁長官を訪米させ、円高を理由として在日米軍基地で働く日本人従業員の給与の一部(62億円)などへの一層の日本側負担増を求めた。金丸防衛庁長官は、「駐留経費の問題について、思いやりの立場で地位協定の範囲内でできる限りの努力を払いたい」と返事をし、ここから「思いやり予算」なるものが創出されることになった。同年、「特別協定」を締結した。これが「思いやり予算」誕生のいきさつである。 つまり、「思いやり予算」は極めて政治主義的に導入された違憲違法なものであるということになる。故に別枠の特別協定によって無理矢理に導入された。「思いやり予算」は、アメリカ本国でも「Omoiyari Yosan」と呼ばれている。「思いやり予算」を直訳すると「Sympathy Budget」(同情予算)となる。公式な英訳としては「Host Nation Support」(駐留国受け入れ支援)が使われる。 2、在日米軍基地思いやり資金膨張の様子 日本側が思いやり予算を出し始めると、味をしめたアメリカ側は毎年にわたり経費の増額を要求してきた。「軍事的支援の代わりに資金援助を」と要請し始め、歴代日本政府はズルズルとこれに従う。この間、中曽根政権時代、1987年度の防衛費が初めてGNP比で1%を超えている。その後、防衛費予算は急速に膨張し始め5%域に達して安定している。この過程には相当の利権がつきまとっているが聖域となって現在に至っている。 「思いやり予算」は、1978年に基地従業員の人件費として始まり、1979年からはアメリカ軍の施設建築費用を賄い始める。1991年からは電気代・水道代など光熱費の施設維持費用などにも使われ始め、1996年からは訓練移転費(日本側の要請によるアメリカ軍の訓練移転のための経費)などを含むようになった。かく膨張定着しつつ今日に至っている。現在、「思いやり」予算を使った施設建設は66基地、その項目は家族住宅、学校から「航空機掩体(えんたい=耐爆シェルター)」、桟橋などの戦闘作戦支援施設まで64項目にわたっている。 日本共産党の要請により防衛省が提出した資料や予算要求資料などから、1979年度から始まった基地建設費(提供施設整備=FIP)が2008年度までの30年間で約2兆1283億円に達すること、全国66の米軍基地で1万2872件の施設が建設・改修されていること等々が判明した。米同盟国で基地建設費のほとんどを支出しているのは日本だけである。当然、これを税金で賄っている。 驚くべきことに、他にも在沖縄海兵隊訓練移転費が1997~2008年度までに109億円。「思いやり予算」以外のものとして、1・SACO(沖縄に関する特別行動委員会)経費が1996年度より、在日米軍再編経費が2009年度より計上され屋上屋を重ねるように新たな費目を次々と生み出している。他にも防衛省以外の他省庁予算があるが実態不明となっている。 3、金丸の使い捨て考 1992年、脱角栄以来、政権中枢に上り詰めていた「思いやり予算立役者」の金丸は、東京佐川急便からの5億円ヤミ献金問題で失脚する。例によって東京地検特捜部が動き、政治資金規正法違反で略式起訴され、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受ける。マスコミが激しく糾弾する。1993年、東京地検がは金丸を脱税容疑で逮捕する。1996年、失意のまま脳梗塞で死去する。 要するに、用済みとなり、目ざわりとなり、使い捨てされたということになろう。問題は、こうして竹下-金丸ラインは使い捨てにされるが、他方で最後まで権力を与えられ続ける中曽根-小泉派のような連中もいる。その差はどういうところにあるのだろうか。角栄はなぜ執拗に葬られたのか、こういうところを詮索せねばなるまい。 4、小泉政権下の軍事予算膨張考 小泉政権下で天文学的に「思いやり予算」を含めた防衛費、戦争支援金が湯水の如く使われたのは周知の通りである。この時期、「思いやり予算」自体は2000億円強で高目安定で推移しているが、他にも地位協定分の負担額等があり、全体額の全貌は明らかにされていない。2004年度の在日米軍駐留経費負担額は約2440億円となり、額の多さから、日本は「世界一気前のいい同盟国」、「重要な戦略的貢献となっている」。「日本はとても良い子」と褒められていることになる。 「思いやり予算」だけに限ってみても、1979年度の開始以来2000年度までの22年間で1兆6000億円使われている。1999年の2756億円が最高額で、その後は他の名目で同様の出費を強いられるようになり、「思いやり予算」そのものは微減し始める。2004年度の思いやり予算は2441億円(他に地位協定分の負担額として1820億円)。2006年度予算では2326億円(内、特別協定分1338億円、前年度比2.22%減)が計上されている。 この時期、米軍海兵隊基地の米領グアム移転問題が日程化している。米軍海兵隊の一部の沖縄からの移転という絡みで、日本に負担が求められている。小泉自公政権はどう対応したか。これを「思いやり予算」で賄うとすれば、「思いやり予算」を国外の米軍基地建設費用まで及ぼそうとすることになる。自公政権は、いともたやすくイエスと快諾しテーブルについている。この計画の内訳を見ると、件数で家族住宅1万1363件、兵舎230件と住宅関連が約9割を占めている。家族住宅は建築費だけで1戸あたり約4800万円で、狭いものでも約100㎡、最大で約230㎡に達する豪華住宅になっている。その他学校や娯楽施設、病院、運動場、艦船や航空機などの修理施設、戦闘機の格納庫や耐爆シェルター、滑走路、原子力空母が接岸できるバース(係留施設)など68項目に及んでいる。2009年度予算で初めて建設費346億円が計上され、これから出費が続くことになる。 2006.1.23日、麻生太郎外務大臣、ゼーリック国務副長官が、「思いやり予算」の期間を5年から2年に短縮した新特別協定に署名した。同年3.14日、衆議院本会議で承認され、参議院に送付された。これにより、暫定的に内容を変えず2年毎に延長することになった。 5、ローレス国防副次官声明考 2006.4.25日、在日米軍再編の米側担当者であるローレス国防副次官は、ワシントンにある国防総省で記者会見し次のように述べている。概要「日米間のこれまでの調整により、米国の沖縄海兵隊のグアム移転に関する在日米軍の再編にかかわる日米分担額が確定した。経費の総額が約300億ドル(約3兆4300億円)、日本側負担が計約260億ドル(約2兆9900億円)、米側負担分は41.8億ドル(約4800億円)に上る見通しである。100億ドルのグアム移転経費については、23日の日米防衛首脳会談で、日本側の負担が59%、60.9億ドルとすることで決着した。公平にまとめられた取引だと思う。米軍普天間飛行場移設経費など日本国内の再編・移転費は今後6~7年で約200億ドルとなり全額が日本負担となる。同盟に対する日本側の投資は膨大な金額だ。日本側は海兵隊のグアム移転費だけでなく、かなりの出費をする。財政支出上の義務は多くが2012年までの時期に入っている。再編終了時期を基本的に2012年に置く。普天間飛行場移設に伴う米軍キャンプ・シュワブ沿岸部の代替施設建設は、厳密に12年までに実施されるかはわからない。数年の延長がありうる。海兵隊のグアム移転は「普天間飛行場移設の着実な実施にかかっている。これら大規模な統合が2~3年かけて実施された後、日本に旧施設が返還される」云々と声明した。 かくて、日本は、当初見込んでいた2兆円超を大幅に上回る3兆円近くの負担を強いられることになった。ローレス発言は、国内分の具体的な内訳には触れておらず、「控えめな試算」としている。こうなると、日本側負担の総額は3兆円を超える可能性があることになる。 4.26日、安倍晋三官房長官は、記者会見の席上、ローレス発言につき、「どのような内容か承知していない。印象としては途方もない金額なのでコメントを差し控える。国内の費用については基本的にしっかり精査していく」と述べた。さすがにタマゲタということであろう。 6、日本国破産状況下の「思いやり予算」の扱い考 アメリカは、在日米軍再編費用につき日本に過分な負担を強いつつ、「思いやり予算」についても更なる増額要求の姿勢を崩さない。自公政権は、これを引き受け続け、2007年度に於いても2173億円計上した。その他、地代や周辺の防音工事、自治体への補助金、無償提供中の国有地の推定地代を含めると日本の負担は年間6092億円、米兵1人当たり約1800万円に達している。2008年度以降については、2007.12月、日米両国は次の3年間で光熱水費8億円を削減するだけで協定を更新することで合意した。 この間、日本経済は下降に次ぐ下降局面に入った。疲弊する日本経済が、「思いやり予算」を許容し得なくなりつつある。2008.4月、参院で「思いやり」予算特別協定が否決され、日米両政府に大きな危機感を与えた。しかし、米国側は強気で、「思いやり予算は日本が同盟の継続に熱心かどうかを示す象徴」として位置付け、更なる出費を要請している。これに防衛省、外務省が呼応している。 7、鳩山政権の対応考 「思いやり予算」史は凡そかような流れになるが、鳩山政権はどう対応しようとしているのだろうか。2009.8月末、日本政府は、年間30億円以上の思いやり予算の削減を米政府に要請したと云われているが、この程度の削減で果たして削減と云えるだろうか。 「2009.10.24日付け赤旗、米軍『思いやり』聖域化 前政権下の予算要求額と変わらず」によると、2009.10.23日、防衛省の2010年度軍事費(防衛関係費)の概算要求(15日決定)で、「思いやり予算」が1919億円(歳出ベース)と、8月末の自公前政権下の概算要求額とまったく変わらないことを明らかにしている。米軍再編経費では、自公政権が決めた新規事業をそのまま盛り込み、SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)関係経費も同額となっている。「思いやり予算」とこれらを合わせた総額は2870億円で、09年度予算の2879億円とほぼ同額。鳩山新政権でも“聖域”化されていることが明確になった、とある。 防衛省は、米軍再編経費の内訳で、在沖縄米海兵隊グアム移転関連の「民活事業」を新規に盛り込んでいることを認めた。同事業は、米兵家族住宅約3500戸の建設や電力などのインフラ整備のための民間事業者の選定、出資等を行うもの。これ以外では、パトリオット(PAC3)追加配備をはじめとした「ミサイル防衛」予算に1662億円(契約ベース)を計上。09年度予算と比べて550億円もの増額を要求している。装備関係では、新戦車の調達量を8月時点の58両(561億円)から16両(157億円)に減らしているが、防衛省は、「(8月の時点では)2010年度から4カ年度分の集中調達を計上していたが、今回は10年度分だけにした。11年度以降は改めて要求する」と、新戦車の調達量を変更したわけではないとしているという。 2009.10.20~21日、ゲーツ米国防長官が訪日し、岡田外相、北沢防衛相、鳩山首相と相次いで会談した。普天間飛行場をキャンプ・シュワブ(同県名護市)に移設するという日米合意を履行するよう強硬な姿勢で求めた。 8、れんだいこの「思いやり予算」粉砕論 この問題に対するれんだいこの態度は決まっている。端から認めない。粉砕あるのみである。そもそも、在日米軍の存在そのものが憲法上認められない。憲法上認められないものに対する予算計上は有り得てならない。いわんや更に増額するなどとは。それにしても政治のだらしなさが極まる事例ではなかろうか。国内的にはすぐ財源がないという癖に、アメリカの要請となると一も二もなくイエスとしか言えないぶざまさを知るべきだろう。 日米安保条約をして日本の安全買いとして認める者も多かろうが、この不況下にも拘わらずとめどないボラレタカラレ構造に対して、連中はどこまで是認するのだろうか。せめてどこまで責任を負うべきなのかのガイドラインを設けるべきであろうが、それさえ交渉する勇気と知恵がないらしい。国際金融資本の鉄拳にひれ伏し、云われるままに動くことで手前だけが権力の蜜を吸いたいのだろう、誰もものを云わないばかりか更にすりよろうとしている。こういうふうなのは政治とは云わない。普通は、エージェント活動という。とならば、国会に巣くう連中はエージェントばかりということになる。 それにしても、今から思えば、1970年代初頭の角栄-大平ラインの頭脳が評価されよう。角栄-大平ラインの政治であれば、こういうテイタラクは見せなかったはずだ。日本政界のハト派からシオニスタン系タカ派への転換は、こういうところにも表れていることを知るべきではなかろうか。鳩山政権は恐らく、これに立ち向かう勇気はない。小手先細工でごまかすぐらいが関の山だろう。これが日本政治の現実である。ところが、歴史は意外なところから動き始める。国際金融資本帝国主義の世界支配のほころびが始まっているようにも見える。連中内での軍拡派と軍縮派の闘いが起こり、意外な展開を見せるかもしれない。「思いやり予算」処遇は、そういう流れの中でのかじ取りの話になるだろう。 2009.11.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評621 | れんだいこ | 2009/11/05 22:48 |
【鳩山政権2ヶ月後考】 鳩山政権がどうも、もたもたしている。政権後2か月にならんとしているのに、何をやったかというと西川の首を切ったぐらいのことしか思い浮かばぬ。対ネオシオニズムとの交渉は、自公政権同様にぬかるみに入っており、やれ基地移転だの海賊対策だのイラク、アフガン支援だのという名目で引き続き大判小判を注ぎこまされつつある。誰の目にも国家予算がひっ迫しているというのに、この程度の対応しかできない。 思えば、小泉が総裁選登場過程で約束したのは、国債発行枠30兆円とする云々であった。何と今、40兆円枠で攻防しつつある。小泉政権以来今日までの10年たたぬ間に毎年10兆円もの上乗せを余儀なくされたことが分かる。戦後未曽有の好景気と囃したてつつ、ネオシオニズムにどんどん貢いだ結果に他ならない。このことが歴然としているのに、かく論を立てようとする者がいない。 鳩山政権は、財政の苦況打開策として鳴り物入りで「事業仕分けチーム」を発足させている。しかしこれもオカシイ。「事業仕分け」に興じるなら、同時に「公務員給与仕分け」に向かわねばならないだろう。こちらの方を後回しにして事業仕分けに汗をかいても、ろくな結果にならないだろう。れんだいこなら、公務員のボーナスは春1.5、秋1.5の計3か月も出せば十分だ。国家公務員より地方公務員の給与が高いなどというのは馬鹿げている。国家公務員が100なら県の役人は90、市町村は80ぐらいが良かろう。地方公務員の中堅で年収800前後などというのは許されまい。実際はもっと多いのかもしれない。こういうところに手をつけないで、何が「事業仕分け」だ。 たびたび指摘しているが、高速有料道路の無料化は案外と面白い。それができぬなら、せめて現行料金の3分の1、通行量5倍化に着手せよ。経済効果が計り知れないほど大きい。この方法だと、料金所撤去費用も、人員解雇もする必要がない。レジをチェンジすれば良いだけのことである。これをなぜしないのだろうか。前原がサボるのなら、管が乗り出せば良い。それも今年中に間に合わせねばならない。鳩山が首相権限で命令すれば良い。 日本の立て直しは、国家予算を極力国内に使い、対外予算は大幅に削ることによってしか道は開けない。分かり易く云えば極力内治に使え、公共事業大いに結構、但し必要な事業を見立てることが肝心だ。これはとりもなおさず極力外治に使うなということになる。この逆のことばかりしてきたのが、1980年代初頭の中曽根政治以来である。お陰で、日本は、かくも惨めな社会に誘われてしまった。阿呆とネオシオニズム奴隷が政治をやると、こういうことになるという見本だろう。 公務員の天下りにも言及しとく。問題は、天下り是非論にはない。こういう形でばかり議論しているが、これもすりかえである。国民が怒っているのは、省権益機関としての天下り機関の各省競っての粗製乱造創設に対してであり、そこに天下っての高級取りシステムに対してであり、退職金泥棒、鶯の谷渡り泥棒に対してである。さしあたり大急ぎで、これを止めさせれば良いだけのことである。このことが明白なのに、天下り一律禁止を廻っての無駄な議論で呆けている。 こういう100か0かという二項対立的議論にうつつを抜かしていては結局何もできない。そのうち風向きが変わって政権のたらい廻しになる。気がつけば、国債枠50兆円議論で攻防しているというお粗末な光景が目に浮かぶ。こんなことなら、国会議員も大幅削減すれば良い。秘書まで含めると、一人当たり議員に一体いくら国家予算を使っているんだ。こういう話になる。ついでに選挙も止めてしまえ、あれも税金だろう。この部分だけ採り上げられても困るので、議員がろくな仕事をしないのなら、いっそのことという意味での提言であると但し書きしておく。 もとへ。結局、鳩山政権では何もできないのだろうか。次にスタンバイするのは管だろうが、管の時ならできるのだろうか。鳩山人事と比べてどう変わるのだろうか。誰が登用されるのだろうか。さしあたり、防衛相にはネオシオニズムの言いなりにならない政治家を登場させねばなるまい。目下の北沢ではどうにもならん。辞めさせてしまえ。これを鳩山政権第一号の大臣替えにせよ。 2009.11.5日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評622 | れんだいこ | 2009/11/06 22:04 |
【読書の勧め、山岡淳一郎「田中角栄 封じられた資源戦略」只今読書中】 過日、久しぶりに書店に立ち寄った際、山岡淳一郎「田中角栄 封じられた資源戦略」を見つけ、秋の夜長の読書としている。れんだいこに云わせれば、こうやって角栄ものが出版されることは望ましい。去る日の増山榮太郎「角栄伝説ー番記者が見た光と影」も面白かった。増山氏は、角栄番記者としての角栄の追憶を記していた。反角栄に立ち回り舌鋒鋭くした者は出世階段を上り、逆は逆となった。増山氏は、時代に迎合しなかった角栄シンパの一人であるように思う。そういう意味で、貴重な肉薄証言を得て為になった。 山岡氏は1959年生まれとあるから現在50歳か。れんだいこより9歳若いなかなかのジャーナリストである。まだ前半の下りしか読んでいないが、れんだいこが取り込みたい記述が随所に溢れている。角栄を核として時代の流れ、対抗的な岸、正力、中曽根らの動きに言及しているところも面白い。中身が濃いのに読み易いからして敬服至極である。れんだいこの角栄論によっては蒙を開かない者は、本書で得心するが良かろう。角栄批判に興じて正義ぶり続けたい者は、読まぬが良かろう。れんだいこは、この種の本が出版されるようになった時代の流れを好感したい。 テレビのバカ番組に流されることなく、こういう本を読まなければならないと思う。ところで、増山榮太郎「角栄伝説ー番記者が見た光と影」、山岡淳一郎「田中角栄 封じられた資源戦略」は、新聞の書評欄に登場するのだろうか。徳本栄一郎「ロッキード事件無罪論を一蹴する機密資料!『角栄の犯罪』25年目の新事実」のように反角栄物だと容易に紹介されるのに、親角栄物だと敬遠されるのではなかろうか。この背景に何があるのだろうか。出版の自由の中に仕掛けられている妙なる検閲の臭いを嗅ぐのは、れんだいこだけだろうか。 2009.11.6日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評623 | れんだいこ | 2009/11/12 22:38 |
【「島根女子大生・平岡ミステリー殺害事件」考】 2009.11.10日、千葉県市川市の英会話講師、リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の死体遺棄容疑で指名手配され、潜伏中の市橋達也容疑者(30)が、大阪市住之江区内の南港フェリーターミナル付近にいるところを2年7カ月余ぶりに逮捕された。マスコミは目下、この事件報道で狂奔狂騒している。当分続くであろうが、れんだいこには、直前の島根県立大総合大学生・平岡ミステリー殺害事件(以下、仮に「島根女子大生・平岡ミステリー殺害事件」と呼称する)の方が臭い。この事件の「闇」を消す為に、いつでも掌中にしていた市橋逮捕事件を合わせ技されている気がしてならない。小刻みに出される「平岡ミステリー殺害事件」の各種情報を整理して、れんだいこ見解を付しておく。 2009.10.26日午後9時過ぎ、以来消息不明となっていた島根県立大総合政策学部1年、平岡都(みやこ)さん(19歳、香川県坂出市出身、島根県浜田市原井町在住)が消息不明となった。平岡さんは、香川県立高松商業高校2年の夏、米国・ソルトレークシティーでホームステイを経験している。応援部に所属し、昨年夏の高校野球県大会でははかま姿でスタンドから懸命に声援を送る映像が残されている。今春、県立大に入学し、発展途上国を支援するボランティアサークルに所属する等、国際的な援助活動にも関心を寄せていたことが伝えられている。 平岡さんは身長約147センチ。細身で髪はセミロング。10.26日午後3時ごろ、大学から女子寮に戻り、午後4時半ごろからショッピングセンター内にあるアルバイト先のアイスクリーム店に出勤。午後9時すぎに退店してから行方が分からなくなった。店を出る平岡さんの姿が防犯カメラに映っており、白色に黒のしま模様の入ったフード付きのワンピースを着ている。女子寮までは約1キロで周辺は山林が続き街灯も少ない。平素は暗道を徒歩で通っていたが、当日は何らかの異変を感じていたのかバスで帰ろうとしていたと思われ、あるいは呼び出しでもあったのか反対方向のバスターミナルへ向かって歩いているところを見たとの目撃証言が寄せられている。 平岡さんは今年5月ごろからこの店で働いており、先月28日には辞める予定だったという。同大によると、大学や女子寮周辺では今年4月ごろから、女子学生が見知らぬ男に声をかけられるなど不審者情報が十数件あったため、教職員らが夜間パトロールをしていた。しかし、夏休み明け以降は目立った情報はなく、見回りも行っていなかったという。10.28日、香川県坂出市の平岡さんの母親が「連絡がつかない」と浜田署に捜索願を出し、11.2日、浜田署は顔写真を公表し情報提供を呼び掛けていた。 警察発表によると、携帯電話がつながらない。平岡さんの部屋は荒らされていない。預金口座から現金も引き出されていない。自宅とアルバイト先間の道路などでも事件や事故につながるような痕跡は見つかっていない。家族への身代金の要求はされていない。何らかのトラブルがあった形跡もない。男女関係のもつれも確認されていない。これらは、事件がありがちな強盗、金銭目的誘拐、痴情怨恨ではないことを証している。 11.6日、キノコ狩りをしていた男性が、平岡さんと見られる頭部を、広島県と島根県との県境の山間部に位置する島根県境から南東約5キロの広島県北広島町東八幡原の臥龍山(がりゅうざん、標高1223m)山頂8合目付近の山中で発見した。生首は、平岡さんが最後に目撃された島根県浜田市の中心部から直線距離で約25キロ南の山頂付近に通じる道路の車両転回場の約10mがけ下のなだらかな斜面にある落ち葉の上で見つかった。これに伴い、島根・広島両県警の合同捜査本部が設置された。 11.7日、DNA型鑑定の結果、本人のものと判明した。警察発表、マスコミ取材を総合すると次のように確認することができる。目が充血するなどうっ血しており、生前に首を強く絞められた可能性が高い。顔面に殴打痕、足跡がある。顔に手袋を着けた手で強い力を加えた跡がある。首には、ひものようなもので絞められた跡やのどをかきむしったような跡がある。首の切断面には生活反応がなく、死亡後に胴体から切り離されたものと思われる。首の切断面の形状から、ナタ又はオノなどの大型の鋭利な刃物を使って一気に切り落とされたとみられる。 11.7日、大腿(だいたい)骨1本も付近の雑木林で見つかり、DNA型鑑定で平岡さんのものと判明した。大腿(だいたい)骨の一部は血液や肉片が付着しておらず、犯人が肉をそぎ落とした可能性が高い。 11.8日、同地の別所で胴体が発見され、広島県警がDNA型鑑定を行った結果、平岡さんのものと断定した。衣服を着けておらず、胴体の胸には刃物で繰り返し切りつけられた痕跡がある。両腕、両脚が付け根からなくなっている。引きずられた跡がある。動物に食べられた形跡はない。 11.9日、臥竜山山頂付近に通じる林道入り口から約2.5キロ地点で、捜索中の警察官により足首が発見された。左足首の骨には切断されたような跡はなく、関節を外されたとみられる。これによると、犯人が人体について相当な知識を持っていることになる。遺体付近で大量の血痕や遺留品などは見つかっていない。捜査本部は、残りの部位の発見に全力を挙げている。 以上より、何者かが別の場所で切断し、遺体を車に乗せて林道を進みながら途中で複数回停車し、車外に降りて遺体の各部分を林道脇の斜面に運び出し捨てたとみられる。誘拐、残忍な殺害、死体冒涜、遺棄等々どの手口を見ても手だれたプロの仕業であろう。 さて、この事件をどう窺うべきであろうか。「★阿修羅♪政治・選挙74」の「女子島根県大生のいきなり”斬首”と広島県側に捨てられた理由…亀井大臣の首を落とす事を、西川首切りの報復として祈念する為」その他を参照する。(ttp://www.asyura2.com/09/senkyo74/msg/533.html) 本事件は、断じて普通の殺人事件ではない。被害者は何らかの理由で生贄(いけにえ)にされた可能性が強く、政治的メッセージ性を帯びたある種の儀式殺人の線が考えられる。遺体を埋めるでもなく、隠すでもなく公然と野ざらしにする手法は、例のゴイム(畜生獣類)は埋葬されるに値しないとするネオシオニズム系の秘密陰謀結社連中のお手のもので、そうなると組織的計画的な黒ミサ猟奇殺人事件であるということになる。この仮説が正しいとすれば、平岡さんは、或る政治目的のために犠牲に供されたことになる。従って、捜査本部の従来手法の聞き込み調査はほぼ無駄足になろう。国際的な援助活動絡みの交友関係を洗う必要があろう。捜査は果たして、この線に向かうだろうか。 10.26日は、イラクで香田さんが斬首されてから五年が経過した日であった。これが偶然か意図的なのかは分らない。もし繋がりがあるとすれば、本事件然り、香田生首事件も例の連中による政治的儀式殺人であったと云うことになる。 次に、生首がわざわざ広島県に運ばれていることが臭いことになる。広島県と云えば、目下、郵政民営化不正問題にメスを入れようとしている亀井大臣の選挙区である。つまり、亀井大臣の首が落とされることを暗喩している。バラバラ殺人は、亀井一家の皆殺しを暗喩している。平岡さんの身体全体への暴行は憎しみを現わしている云々。というようなメッセージ殺人であることになる。よりによって亀井は警察官僚である。その警察官僚の亀井が恫喝されていることになる。こうなると日本警察のメンツも関わってくることになる。 相手は、このような事件を平気で引き起こす邪悪な国際的秘密結社勢力にして、文字通り真性のテロリストである。この連中の根は深い。はっきりしていることは、ここにメスを入れる者は歴史上負ければヤラレ、勝てば一味を一網打尽にしている。そういう絶対戦争になるということである。既に相当汚染されている日本警察がどこまで捜査することができるだろうか。 亀井大臣がこれに身を震わせスクムのか、逆切れし事件の徹底捜査を促すのかどうかまでは分らない。そういう意味で、れんだいこは今後一層、亀井大臣の一挙手一投足をより注視していくことになる。日本左派運動にかような目線がないとしたら堕落以外の何ものでもなかろうが、ないのが現実だ。これは、ロッキード事件に一家言持つれんだいこならではの見識である。心して賜われ。 補足しておけば、「飯山一郎のちいさな ホームページ」の10.18日付けブログ「いま,壮絶な死を覚悟した男が…」(ttp://www.geocities.jp/o118016/)によると、2009.10.18日、つまり、本事件が発生する約1週間前、亀井大臣は、「この亀井静香をCIAが暗殺でもしない限りは、アメリカの言うとおりにはならない!」と重ねて発言している。10.9日、金融庁大臣室で「アメリカの言うとおりにはならない!」と発言しているので繰り返したことになる。「この命懸けの発言は,金融庁のHPに載っている」とある。この発言に対するネオシオニストの返礼が「平岡ミステリー殺害事件」だった、という見方ができるのではなかろうか。 2009.11.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評624 | れんだいこ | 2009/11/16 19:39 |
【「国債発行の元凶は誰なんだ」考】 ネット情報で最近、次のような発言を目にした。 概要「建設国債を発行することを合法化した財政法改正は1965年、田中角栄が大蔵大臣や自民党幹事長をやっていた時代に行われた。主に田中角栄蔵相が中心になり、山一証券の破綻など“戦後最大の不況”を口実として財政法4条1項末尾に但書》を追加し、特別立法による『歳入補填国債』を発行可能にした。そして、翌年の1966年に『歳入補填国債』を『建設国債』へ名称変更して、建設国債が公的に発行できるようになった。更に、1975年、田中角栄が首相をロッキード事件の影響から退任した直後に時限立法による『特例債』、つまり赤字国債を発行するようになった。このような経過を考えると、田中角栄の権力の源泉のひとつは、巨額な公共事業を建設国債を発行して行い、ゼネコンから上前をはねると言う形で得た金にあるのではないかと思えてくる。多分、それらの金のかなりの部分がアメリカ政界へ行っていたはずだ。大きなうそには必ずうそをつくための動機が存在する」。 この論者の名誉を労(いたわ)る為に発見元を記さないことにするが、この論者の頭脳配線がかなり支離滅裂なことに気付かされる。これによれば、現在先進国中断トツの国債発行債務の責任は田中角栄にあることになる。しかし、れんだいこの研究によれば、角栄は国債発行に踏み切っていない。これを推し進めたのは専ら福田である。概要は、「戦後国債発行史」に記している。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/cokusaico/history1.htm) れんだいこの認識間違いだろうかと思い、久しぶりに目を通してみた。ついでに必要な情報を新たに加え書きなおした。判明したことは、れんだいこの認識に間違いない。とすると、この論者は何故に「国債発行元凶角栄論」をぶつのだろうかということになる。人を批判するのは良い。それも自由の一つだ。問題は、正しく認識理解した上で批判せねばならないということだ。この能力の乏しい者が知識を得ると、何とかに刃物になる。危なかっしくて見ておれない。 それにしても、この論者は相当に頭脳がイカレていることが分かる。引用文中段の「1975年、田中角栄が首相をロッキード事件の影響から退任した直後に時限立法による『特例債』、つまり赤字国債を発行するようになった」と自ら書きつけておきながら、このような経過を考えると云々と「国債発行元凶角栄論」を繰り返している。普通の頭脳さえあれば、角栄失脚後に赤字国債が発行されだしたのなら、角栄失脚後の政権担当者に責任を被せるであろうが、この論者は、失脚後にまで角栄の責任を問おうとしている。「多分、それらの金のかなりの部分がアメリカ政界へ行っていたはずだ」とまで推測する。「大きなうそには必ずうそをつくための動機が存在する」とまで指南してくれる。 れんだいこの能力を自賛したい為に云うのではないけれど、今日びの自称インテリにはこの種の読解力、推理力の欠けた者が目に付く。れんだいこは、彼らほど外国語に精通している訳ではないが、推測するに、母国語の読解力に欠けた者が幾ら外国語を学んだとしても、外国語になると途端に読解力が増すということにはなるまい。所詮は母国語の読解力以下の水準にしかなるまい。してみれば、彼らの外国語能力もたいしたものではあるまい。この種の自称インテリが多過ぎる気がしてならない。 さて、話を著作権に持って行くことにする。この自称インテリ達は共通して著作権を振り回す癖がある。れんだいこが忠言しておく。君達は著作権を振り回したがる前に、文章を読む際の読解力を高めるべく精進した方が良い。その為には、碁打ちが負かされ負かされ続けて漸く手を覚えるのに似てマネび学びが必要になる。その際に著作権壁が邪魔になるのは云うまでもない。後生大事にするほどのものでもないものを、盗った盗られたとかで隠し合う芸を覚えるより、マネび学び能力を磨くが良い。君達の努力方向は逆になっているのではないのか。こうまで言っても分らん奴には漬ける薬がない。 もとへ。それにしても何かにつけ悪事=角栄元凶説をぶつ手合いはどんな御仁なのだろう。れんだいこは元々は、角栄を持ちあげる誼は何もない。公平に評論すれば角栄の凄さと有能さを認めるばかりで、それが世の見識と違うから闘っているに過ぎない。正を邪とみなし、邪を正とみなすようなことでは原義としての学問にならないと思うから、認識を正しく据えることに意味を見出している。この観点から世を眺めると、イカガワシイ通説が多い。これと闘っている。 昨今は、この構えが不要なのか、時流に媚びた、早分かりし過ぎた間違いの所見、あるいは練れてなさ過ぎる論説が多過ぎる。こういう手合いが評論家として売れっ子で飛び回っている。寂しいと云えば寂しいものがある。歌手なら、ひばりやちあきなおみのように人の胸を打つ歌い方。相撲なら、朝青竜のようにスカッとした技の冴えが良い。他の歌い方もあるだろう、相撲もあるだろう、しかして良いものが良いと云われる時代の方が良い。今は無茶苦茶になっている。命は短いのだから勿体ない。そんなこんなの、れんだいこ発信でした。 2009.11.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評625 | れんだいこ | 2009/11/17 19:16 |
【小沢民主党幹事長のキリスト教排他的発言考】 2009.11.10日、民主党の小沢一郎幹事長は、弘法大師・空海開祖の高野山金剛峯寺を訪れ、高野山真言宗の管長にして全日本仏教会(全仏)会長の松長有慶氏と会談した。小沢氏の高野山訪問は、信徒の姫井由美子参院議員が昨年夏以来、働きかけていた。小沢氏は当初、「自民党の巣窟(そうくつ)だろ」と渋っていたというが、和歌山方面の選挙区廻りの合間に訪れた。松長氏との会談は、司会役の全仏関係者が「政権党の民主党と健全で良好な関係をつくる」と言及するなど和やかに進んだ、と云う。 その直後、和歌山県高野町で記者団との質疑に応じ、「キリスト教もイスラム教も非常に排他的だ。その点仏教は非常に心の広い度量の大きい宗教、哲学だ」と語った。来年にスイスで開かれる国際会議に松長管長が出席することから、「欧米人に仏教の神髄を説いてやるのは非常に意義がある。大変うれしい」、「排他的なキリスト教を背景とした文明は今、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ」と文明論にまで言及した。 11.11日、日本キリスト教連合会(山北宣久委員長)は、小沢氏の発言を「一面的理解に基づくそれこそ『排他的』で『独善的』な発言で、見識を深く疑わざるを得ない」と批判し、抗議文を送り発言の撤回を求めた。11.16日、小沢氏は、記者団の前で、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明、重ねて持論を展開した。 これが本稿の設定課題である。我々は、小沢発言、マスコミの小沢パッシングの動きについてどう窺うべきだろうか。これを愚考してみたい。 結論的に申せば、小沢発言は全く問題ない。これを、さも問題発言であるかのように取り上げるマスコミ諸君の不見識こそが甚だしい。例によって、正義ヅラしてパッシングに興ずる記者が出るならば、どの社の何記者かを確認しておく必要がある。彼の本意で云っているのか、社からの命令で問題化させようとしているのかの二通りが考えられるが、振ったこぶしは追って手前に帰ってくることになるだろう。 そもそも、政治家のこの種の発言は封ずるより語らせた方が良いのではなかろうか。政治家が宗教を語ってはならないと云うことにはなるまい。むしろ、語らない方こそが物足りなくさせよう。その際、八方美人的に語るのがありていではあるが、こたびのように西欧系宗教と東欧系宗教を比較してお国自慢的に語るのも面白い。全く的外れな見解なら顰蹙を買おうし、的を射ているなら味わい深いのではなかろうか。 れんだいこ説によれば、小沢発言の西欧系宗教の排他性、仏教の寛容性指摘は的確である。もっと語れば、キリスト教が排他的と云うより、キリスト教の母体のユダヤ教が排他的なのだ。さすがにそこまでは主張せず、キリスト教と控えて述べたのだろう。ちなみに、キリスト教とイエス教は違う。本来、イエス教として生育すべきものをキリスト教に捻じ曲げて発展してきたのがキリスト教史である。キリスト教は、イエス教とユダヤ教の折衷宗教であり二股膏薬性に特徴が認められる。これを踏まえてキリスト教を学ばないと知ったことにはならない。 他方、日本仏教は、日本の神道それも古神道と繋がっており、世界各地の他の仏教と比較しても更に寛容である。物事には善し悪しの両面あるからして日本仏教が世界一とまで云う必要はないが、日本仏教がとりわけて共生共存並立的なことは間違いない。それが証拠に、日本では宗教戦争なるものがめったに起こらないではないか。ほどほどに信じているからそうなるということでもあろうが、関係者各位が分別で弁えているともみなせよう。こういうレベルのことは既にかなり衆知されていることである。小沢が、この程度のことを語って何が悪かろう。 思い出すのは、森首相の神の国発言である。あれも、それほど目クジラされには及ばないものであった。それを、しゃかりきに批判し正義ヅラする向きの者もいたが馬鹿げていよう。れんだいこ的には、日本は神々の国だと云えば満点であった。神の国と神々の国の差は存外大きい。こう語ってもイチャモンつける者がいるとしたらどうにも話が通じない手合いだということになる。もっとも、こういうことは戦後教育の中では教えてこなかったから、知らない者がいても不思議ではない。 マスコミがこたび、小沢発言をどれほど追及するのかしないのか分らないが、この程度の発言でムキになるとしたらバカ丸出しと云うべきではなかろうか。マスコミは、小沢だと一々突っ込みを入れる癖がある。ところが小泉だと何をしても見て見ぬふりをする癖がある。去る日、首相時代の小泉が訪米し、ブッシュとプスリー邸に行き、阿呆丸出しのプレスリー真似して男芸者ぶりを発揮したことがある。マスコミは、これを愛嬌だと称えた。それはまだ良いとしても、そのあとイスラエルへ行き、ユダヤ教式の礼服を着て聖地詣でし宗教的行為をした。マスコミは、これを伝えていない。 れんだいこに云わせれば、かの時の小泉の行為は靖国神社の公式参拝騒ぎどころではない由々しき重代事で、小泉は即辞任を余儀なくされてしかるべき首相犯罪とでも云うべき禁を犯したものであった。何とならば、日本の首相がユダヤ教儀式にユダヤ教徒的に参拝するなど売国奴シオニスタンそのものの奇態でしかないから。日本の一億の民をユダヤ教に売り渡す行為として批判されても仕方なかろう。単なる一議員の身なら許せ、市民の一人としての身なら勝手かも知れないが。 ところが、かの時マスコミは一斉に見て見ぬふりをした。従って日本国民の殆どが、小泉首相がさような行事をしたことさえ知らない。知るのはプレスリーマネの嬌態ばかりである。こういう報道の仕方がそもそもケシカランと思う。これは何故そうなるのか、ここが問題だ。結論は申すまでもなかろう。 もとへ。こたびの小沢発言のどこが問題なのだ。手ぐすね引いて問題化させようとしているマスコミ諸君、君達の論理と論法を開陳してくれや。ついでに、政治家たる者は政治に関係することのみ発言しておれば良く、他のジャンルでの発言は口封じすべきを良しとするなる新理論を開陳してくれや。俺はタイガースファンだとかジャイアンツファンだとか、今日はジャイアンツが負けてうれしいとか、その逆を云う役職議員がいたら、それを面白いとみなすのではなくケシカランと真面目顔で問題にしようとする魂胆を聞かせてくれや。 お前たちが正義ぶればぶるほど、著作権同様に次第に社会がせせこましくなる。れんだいこはお陰で、スナックで歌を歌うにも一々ジャスラックに事前に書面を提出し了解なければなければ歌えない身にされてしまった。これ以上抵抗すると逮捕され僅かの預金を封鎖される身になった。それを良しとする正義論を聞かせてくれや。正義もどきもエエカゲンにせいや。 2009.11.17日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評626 | れんだいこ | 2009/11/21 20:09 |
【箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考】 2009年、箸墓(はしはか)古墳を廻るニュースが報道を賑わした。これについて、れんだいこコメントを発表しておく。箸墓古墳は「纒向(まきむく)古墳群」のヌシ的な古墳である。その古墳が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとの関心から脚光を浴びている。いずれにせよ、「纒向古墳群」の科学的考証が進むにつれ、日本古代上の闇の部分が明らかにされつつあることは疑いない。ごく最近発表された箸墓古墳調査は、その歩を大きく進めた。まず、このことを確認しておきたい。以下、れんだいこ史観による日本古代史上の大胆な邪馬台国論争の時代を画する新分析を発表する。既に発表されているのかもしれない。そうだとすれば、その見解を支持する。 「纒向古墳群問題」の隠された真のテーマは、「纒向古墳群の解明」によって、新たな邪馬台国論を浮上させることにある。爾来、邪馬台国論は、いずれもが大和王朝に接続する式での、九州説、畿内説、その他説の三スクミの中で論争されて来た。「纒向古墳群の解明」は、その虚構を撃ちつつあるのではなかろうか。目下、畿内説論者は、「纒向古墳群の解明」が畿内説邪馬台国論を補強するものとして期待を膨らませている。それに反して、九州説邪馬台国論者はしかめ面を増しつつある。そういう拮抗関係にある。 しかしながら、れんだいこの見るところ、両者とも一喜一憂するには及ばない。「纒向古墳群の解明」は、かって纒向に大和王朝とは違う別系の王権が存在していたことを示しつつあると窺うべきではなかろうか。即ち、大和王朝に接続しない式の邪馬台国大和説を浮上させつつあると認めるべきなのではなかろうか。同じ邪馬台国大和説でも、大和王朝へと陸続する説と断絶しているとする説では面貌が大きく変わる。 後者の説を採るならば、「纒向古墳群の邪馬台国」は大和王朝側に滅ぼされたのであり、為に「纒向古墳群の邪馬台国」は表向きの痕跡を消されたのもむべなるかなであり、これによりこの時代の解明は容易なことでは進まないようにされていることになろう。「纒向古墳群の解明」は、消された王朝とその時代を復元するものであり、即ち「纒向古墳群」は滅ぼされる前の邪馬台国として位置付られるべきものである。かく構えることによって却って光芒を放ちつつあるのではなかろうか。 こう窺うことにより、次の推理が説得力を持つのではなかろうか。日本古代史の新視角として聞き流してほしい。論旨は異なるが「邪馬台国近畿説を往く -纒向遺跡-、歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)奈良県桜井市巻向」に触発されたので謝しておく。 「かって倭国は、その豊富な天然資源の賜物によってか平和的分棲の部族連合国家として独特の王朝楽土を形成していた。ここでは一々採り上げないが、その様は中国の各史書の記す通りである。邪馬台国は、この時代の最後の精華となる諸国連合国家であり、迫り来る高天原王朝迎撃を使命としていた。案外と高度な宗教的国家であったと思われる。この時代の政治、精神、文化が今日にも深く伝統化されていることを知るべきだと思う。 その邪馬台国の比定は難しい。何とならば、邪馬台国の痕跡が一切消されているからである。唯一の手掛かりとして、魏志倭人伝の記述が遺されている。しかしながら、どういう事情によってかは定かではないが、記載された通りの方位と里程距離を辿ると邪馬台国に辿り着けない仕掛けになっている。なぜこのように筆法されたのか、その理由は今も分らない。 そこで、後世の史家は、自説に不都合なくだりは記述が正しくないとして無理矢理に方位を替え、あるいは里程距離を訂正する解釈を生みだしこじつけた。それにしても、邪馬台国のみならず邪馬台国に至る直前の投馬国から途端に推定できない。直前の投馬国が推定できないからして投馬国の先に予定されている邪馬台国がまちまちにならざるをえない。九州説、畿内説、その他説然りで、これにより、投馬国、邪馬台国比定地が百家百言といっても良いほど様々な比定地を登場させることになった。 いずれにしても、邪馬台国の後に大和王朝時代が始まるのは確かだ。ところが、日本は無論、中国、韓国の史書にも、魏志倭人伝記載後の邪馬台国のその後の動向が記されていない。奇妙なほどにプッツリ途絶えている。日本古代史書正史とみなすべき地位を得ている古事記、日本書紀があれども(以下、「記紀」と記す)、且つ記紀双方の記述が互いに訂正していると見られる箇所が相当数有るにも拘わらず、邪馬台国に関する記述は共にない。記紀以前の書と云われるいわゆる古史古伝にも記述がない。これは非常に不自然なことである。 これをどう窺うべきか。一つは、魏志倭人伝を架空のユートピア論とみなせば足りる。もう一つは、れんだいこはこれに従うが、大和朝廷が邪馬台国の流れを汲んでいない故、否むしろ邪馬台国を撲滅解体した側に位置する故、痕跡を消すのに忙しく、意図的に抹殺したとみなしている。しかし、例えそうであるにしても、西欧系世界史の如くにその征服史を堂々と記載すれば良かろうと思うが、それを不名誉なる恥とした弁えなのか、それとも別の理由によってか邪馬台国を不問にするという措置に出た。辛うじて屈折した形で邪馬台国の存在を語らしめており、いわゆる暗諭方法を採用している。これにより、日本古代史の読み取りが極めて困難なものとなっている。史書があるだけマシとの判断もできるが、非常に複雑な日本古代史になっていることは疑いない。よって凡庸な頭脳では迷路に入ることはできても抜け出すことができない。 もとへ。大和王朝時代の初期、全国各地に古墳が造営される。この時代を古墳時代とするならば、この時代のイメージは凡そ邪馬台国のもつそれとは程遠い。記紀神話に従う限り、大和王朝派は新天地を求めて海を渡ってきた。どこから来たかは定かではない。高天原とあるばかりで、その比定はない。その高天原系渡来人が天孫降臨により日向の高千穂の峯辺りに降ったとある。その彼らが周辺諸国を次第に従え、海を越えた向こうにあるという豊芦原瑞穂の国の算奪を決意する。その手始めと地均しに出雲王朝に闘いを挑む。これによれば、出雲王朝が日本史上最古の在地土着系連合王権国家であったことになる。この出雲王朝と邪馬台国の繋がりが不明であるが、大和王朝と邪馬台国の疎遠さに比すればよほど近いと推定し得よう。但し、この解明は進んでいない。 かくて、高天原王朝対出雲王朝の闘いと云う古代史上最大の政変が始まる。これは記紀神話の記すところである。この神話を否定するようでは古代史の解明は進まない。この辺りは各地の神楽が伝えるところである。記紀記述のそれよりも、神楽演劇の方が史実に近い伝承をしている可能性が強い。戦前の皇国史観の犯罪は、出雲王朝を下賤、高天原王朝を高貴とする史観に塗り込めていたところに認められる。このような史観では、日本古代史はさっぱり要領を得ないことになろう。それはともかく「ドラマティックな国譲り」を経て、神武東征譚に至る。 高天原王朝はやがて畿内に攻めのぼり、二ギハヤヒと長脛彦率いる河内王権派との激闘に入り、艱難辛苦の末に紀州の熊野経由で大和の地を掌中にし、大和王朝を創始し古墳時代を造る。これを系譜的に見れば、高天原王朝による倭国乗っ取り完遂と云えよう。この時期が、微妙に邪馬台国時代と重なっていることが興味深い。仮に、邪馬台国勢力を当時のヤラレタ側に比定するならば妙に辻褄が合う。 かくて畿内を統一した大和王朝は、縄文-初期弥生時代を牛耳っていた旧政権たる邪馬台国連合系の依然としてまつろわぬ諸国の豪族狩りに出向き、屈服させ、有力者を殺し、抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、和を請えば許して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、力づくで倭国を支配した。ヤマトタケルの征服譚は、この視点から見れば理解し易い。ヤラレタ側は土地に封じ込められ鬼化させられる。あるいは東へ東への移動を余儀なくされた。アイヌ蝦夷系の北上逃亡史はこれに歩調を合わしているように見える。倭の五王の一人が中国に送った『我が祖先は闘いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず』という状況はこの時代のでき事を書き残したもののように思える。 彼らは、稲と鉄器を持ってやって来た。この二つが先進的文明的な利器となり大いに力を発揮した。まず、北九州を征服し、神武東征譚に表象される如くに次第に東漸し、遂には大和の地を掌握した。それまでの銅鐸を用いていた民族は屈服させられ、銅鐸は急ぎ山腹に隠された。三十諸国が集まって一人の女性をたて、それで国中を平和裏に治めていた邪馬台国連合国家は遂に滅ぼされた。こうして大和朝廷が創建された。かく推定できるのではあるまいか。 但し、大和朝廷は、国譲り譚で明らかな如く、征服過程で懐柔策を用いざるを得なかった。政治権力は譲らせるが宗教的権威とその限りでの活動は認めるというものであった。それほどに征服される側の国家及び社会秩序形成能力が高かったということでもあろう。これにより、西欧史に見られるような完全絶滅ジェノサイド策は採られていない。懐柔策のもう一つとして、在地土着系豪族のうち有能なる者の登用を約束していた。こうしなければ邪馬台国征服が首尾よく進展しなかったからであると考えられる。 これにより、大和王朝は、高天原王朝系、出雲王朝系その他を問わず官吏に用い、律令国家に向けての歩みを始めることになる。新国家は大陸文化の咀嚼に向かい、和魂漢才を発揮し始める。その摂取の仕方に於いて古尊派、革新派が競い始める。且つ新たな日本政治、社会、文化を発酵させ始める。大和朝廷内の権力は、高天原系、出雲系、邪馬台国系の内攻的な闘いへと向かい暗闘し続けることになった。 大和王朝前の時代を画していた出雲王朝、邪馬台国の記憶は、出雲系、邪馬台国系官吏の能力に応じて温存され、辛うじて痕跡を留めることになった。ざっと荒削りであるが、これが日本古代史の流れであり伝統であり今も息づいているのではあるまいか。『これが私がたどり着いた邪馬台国の姿であるが、さてその理論武装はどうしようか』」。 2009.11.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評627 | れんだいこ | 2009/11/25 20:24 |
【鳩山政権の事業仕分け考】 鳩山政権の事業仕分けが後半に突入した。ここまでの営為をどう評価すべきだろうか。れんだいこは、大いに不満である。事業仕分けに踏み込んだこと自体は了とする。が、事業仕分けの観点が悪すぎる。前者を評して画期的、後者を評して茶番劇と評したい。なぜ茶番劇か、これを愚考する。 本来、鳩山政権が着手すべきは、経済不況と累積過重国債債務を見据えての打開策を講じることである。事業仕分けは、その一里塚的な一手法に過ぎない。その一手法も、経済活性化と国債債務負担の軽減に向かう観点からのものでなければならない。あるいは、次世代スーパーコンピューター予算等々長期的視野からの構想をも持つものでなければならない。鳩山政権は、この期待に応えているだろうか、ここが問われねばならない。 これまでの事業仕分けは、財務省主計局の下働きをしているに過ぎないように見える。財務省即ち旧大蔵省は省庁の中の省庁つまり省庁の元締めである。その財務省の従来式の予算配分に対して、真っ向から別系の予算配分システムを構築していくことこそが望まれている。これを為すのが本来の仕事であり、財務省主計局の下働き的なことをするものではない。今のままでは単なる人気取り政策と評されても仕方あるまい。 れんだいこなら、どう組み立てるのか。これを示唆しておく。まず何より内治予算と外治予算に識別し、内治予算を増やし、外治予算を減らすことから始めねばならない。内治予算を増やすとは、公共事業を振興することであり、必要な箱ものや道路、港湾、空港整備に向かわねばならない。外治予算を減らすとは、軍事防衛費を削り、海外援助を精査し抑制することを意味する。「思いやり予算」なぞ論外である。既に至れり尽せりできるほどの国庫金はない。バサッと切ってしまわねばならない。金丸以来のものであり、歴史も浅い。 鳩山政権は、この観点からの政治をしているだろうか。目先は自公政権のそれとは違うが、相変わらずの外治予算垂れ流し、内治予算削減方向に向かっているのではなかろうか。この道は不況を長期化させ、国内を疲弊させ、つまるところ今日のような日本をつくることになる。我々は、自公政権時代何ど、国内問題では財源がないと説教され、その癖海外に向けては大判振る舞いするファンキー政治を見てきたことか。表沙汰になっていない資金も含めると天文学的に吸い取られているのではないのか。 小泉政権十年で、いったい幾らブッシュご一統の命のままに国富を減らされてきたことか。お陰で日本経済は崖っぷちの底割れ局面にある。去る日、小泉が自民党総裁選で公約したことは「国債発行30兆円枠縛り」であった。今、鳩山は、「国債発行40兆円枠縛り」を云々している。小泉政権十年弱で、毎年10兆円増やさねばならない事態になったことが分かる。しかもこれは利払いの為の発行である。あぁ氷嚢が。 次に、上述の構図に立って、事業仕分けならぬ公務員の給与仕分けに向かわねばならない。有能な官僚を維持するためには本給は高めに維持せねばならない。然しながら民間的ボーナスなぞ必要ない。予算の健全化を成し遂げて初めて支給されるべきであり、今後はカットすれば良い。いきなりが無理というのなら、年間支給額をせめて月給の3カ月分以内にとどめなければならない。事情ある者は申請して厳重な審査のうえ受給すれば良かろう。同時的に天下り規制に向かわねばならない。よしんば機関そのものの必要が認められても、天下り役人の高給待遇なぞ有り得て良い訳がない。二次奉公なら奉公らしくせぇ。退職金の谷渡りなぞ論外であろう。 さて、そのようにして浮かした財源を何に使うのかが肝要である。れんだいこなら、角栄政治が指針させた日本列島改造に向かう。当時はインフレの波が襲う節目に遭遇し、日本列島改造は緒に就いたばかりで頓挫させられた。今こそ日本列島改造の再チャレンジの出番ではなかろうか。こういうと、立花史観の受け売り調の批判ごうごうが始まろうが、云わせておけば良い。事の道理とわけのわからん者はいつでもいる。自分の首を締めながら恍惚する変態野郎に何を言っても無駄というものだろう。 ごく少数にならざるを得ない英明なる指導者が、角栄式列島改造論にシフトさせれば良い。日本人民大衆は優秀だから、すぐに受け入れ、新日本建設に向かうだろう。中曽根以来、小泉政権まで、その亜流の安倍、福田、麻生まで、天文学的に巻き上げられた国富を恨まず、水に流してせっせせっせと建設し始めるだろう。問題は、これをさせない勢力がいるということである。しかもかなり根を張っており、日本攻略の下働きに勤めている。この売国奴達とどう闘うのか、ここが問題となっている。 しかし、問題が立てば半ば解決である。日本は、戦後憲法原理と共に世界史上未曽有の戦後復興、高度経済成長を遂げてきた。この間、大きく見れば戦火に巻き込まれることなく不戦の誓いを遵守してきた。これが国債的信用にもなっている。国民総生産1%枠の軽武装で、過半を社会基盤整備と福祉に予算を回してきた。年金、医療、雇用もまずまず確保されていた。それが経済の好循環を生んだ。その複利で海外援助にも向かうことができた。いわば理想の国家運営をしてきたことになる。一体誰だ、この素晴らしき戦後日本を解体させたのは。かく問題が立てられれば、半ば解決したも同然であろう。 最後に。民主党の衆院選公約で一番できの良いのが「有料高速道の無料化」であった。鳩山政権が真面目なそれであれば、景気浮揚策の魔術としてこれを実行せねばならない。経済に対する波及効果が高い。既に何度も述べているが、いきなり無料化が難しいのなら「現行料金の一律3分の1」にすれば良い。ところが交通量が伸びて却って収入が増える。これならだれも反対ない。それでも文句言う奴はだいたいが、金で買われて云わされている奴だと思えば良い。鳩山政権がこれに向かわないのなら、意図的故意に向かわないようにしているピエロ政治だと思えば良い。 2009.11.25日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評629 | れんだいこ | 2009/11/28 22:05 |
【「田英夫がもらした『秘話』」考】 2009.11.28日付け毎日新聞の「近聞遠見」の「田英夫がもらした『秘話』」コラムを批評しておく。執筆者の岩見は、毎日新聞東京本社編集局顧問(政治担当)とのことである。最近テレビにもちょくちょく出ているので向うは知らないが、こちらは知っている仲である。岩見はちょくちょく角栄を採り上げるので、角栄教のれんだいことしてはどうしてもアンテナが働き目を通すことになる。もっとも、岩見のそれは難癖調の角栄譚なので、義憤なしには読めないことが多い。 ジャーナリストで角栄を称揚し切ったのは、戸川猪佐武であった。戸川は読売新聞政治部記者上がりの政治評論家で、その後の読売を仕切ることになるナベツネが中曽根シンパであるのに対し角栄シンパとして終始一貫した。不朽の名作、吉田茂から鈴木善幸に至るまでの保守政界の内幕を描いた実録政治小説「小説吉田学校」全八巻をものしている。その戸川は、角栄をはがいじめしたロッキード事件の胡散臭さを厳しく批判して活動していたさなかの1983.3.18日、映画化された「小説吉田学校」の試写会、続く竹下登のパーティなどに参加した直後、翌日未明に急逝した(享年59歳)。死因について腹上死説が流されるなど名誉を汚されている。角栄を擁護した者はこうなるという見せしめの一つであろう。れんだいこは、大いに戸川猪佐武の死因に不審を抱いている。ただ確かめようがない。 その点、これから述べる岩見は対比的で、角栄を採り上げながらくさす手法でジャーナリストとしての遊泳の才を見せている。他方、中曽根、小泉を名宰相として持ち上げ、席を同じくして会食したことを栄誉と思う与太もんぶりを自ら語る俗物性を、そうは思わず得意げに語ることでも知られている。たいこ腹をさすりながら世相の貧困問題、政治の貧相に言及する芸を披瀝し続けている。同じ毎日新聞政治部上がりの三宅久之と双壁のお銚子もんぶりを発揮しているふふふ。 もとへ。その岩見が貴重な裏話を披瀝している。それによると、先日86歳で亡くなった田英夫が、今から30年ばかり前の社民連代表に就任した頃の1971年、佐藤政権末期の田中通産相の大臣室を訪ねたところ、快く迎え入れられ、去り際にさりげなく田のスーツの内ポケットに札束を押し込み、受け取るべきか逡巡している田に「カネはあって邪魔にならんよ」と云われ、そのまま辞去した。札束は100万円だった云々。 さて、これをどう評するべきか。岩見は、「戦後政治のひとコマである貴重な証言の開陳」と自負しつつ、首相の座が間近の保守実力者が現金を渡す行為は、「もしその時点で暴露されていたら、田中は首相のチャンスを失っていただろう」、「戦後60年余の政界は、カネを媒介にした<ぬるま湯>の世界だったことを改めて思わないわけにはいかない。その祭司が田中角栄だった」と批判する。「民主党政権に切り替わっても、残滓(ざんし)があるのではないか」と、金権元凶角栄論で締めくくっている。 この凡庸さが、ジャーナリストとしての長生きの秘訣のように思えてくる。阿呆には阿呆に似合いの受取しかできない見本みたいな評論である。政治家であれ、官僚であれ、ジャーナリストであれ、この種の阿呆が幅を利かせ始めると世の中ろくなものにならない。れんだいこが、この裏話の政治史的意義を書きつけておく。 角栄が、社民連代表に就任したばかりの田代表に100万円の祝儀をプレゼントしたのは、角栄政治の本質としての親社民連性を物語っている。角栄亡きあとの角栄票の行方を調査したところ、かなりの票が社会党に流れていたとの調査がある。そういう目で見れば、代議士始発の頃の角栄の選挙区耕作は、単に旧来の保守票を取り込んだのではなく、社会党系農民を支持者にして行った形跡が認められる。当時の社会党候補者が角栄に惚れ、積極的に越山会の中核になって行った流れがある。 れんだいこは、これを角栄政治のハト派性と評している。この観点から見れば、角栄こそ戦後政治家のうち頭抜けた、保守系偽装の実は縄文系革命家ではなかったかと思われる。盟友大平正芳も出自平農民であり、角栄ともども階層的には左派シンパシーを持ちやすい「階級的存在」であることが分かる。滑稽なことに、共産党、社会党の幹部こそ出自小ブルの「階級的存在」であることが分かる。存在が意識を決定するという法理にならう限り、戦後保守本流のハト派が実は左派、左派政党指導者が単なる駄弁家であったと云う構図が見えてくることになる。 その角栄は、誰に教わったのではない闘争戦略戦術として中間地帯論なるものを会得していた。これはつまり、政治目的を達成するためには、味方を多く敵を少なくせねばならない。その為に中間層を引きつけなければならないとするものであった。次のように述べている。 「第一は、できるだけ敵をへらしていくこと。世の中は、嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自らの損得で動くということだ。第二は、自分に少しでも好意をもった広い中間層を握ること。第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」。 「山頂をきわめるには、敵を減らすことだ。好意をもってくれる広大な中間地帯をつくることだ」。 概要「世の中は、白と黒ばかりでは無い。敵と味方ばかりでもない。その真ん中にグレーゾーン(中間地帯)があり、これが一番広い。そこを取り込めなくてどうする。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなれば、決して取れない。真理は常に中間にありだ。このことを知ることが大事だ」。 「相手が立ち上がれなくなるまでやっつければ、敵方の遺恨は永遠に去らない。対立関係にあっても、徹底的に論破してしまっては、相手が救われない。土俵際には追い詰めるが、土俵の外に押し出してしまう必要はないんだ」。 「田社民連代表に100万円プレゼント」は、角栄の中間地帯論に基づく親左派性の為せる技であった。こう受け取るのでなければなるまい。岩見如きは、金権角栄の又一つの例証譚として受け取るのであろうが、この程度のジャーナリストをして社の重鎮顧問としている世相を嘆くべきではなかろうか。これは何も毎日新聞社に限ったことではない。朝日も陳腐、読売、産経はシオニスタン極道、最近の日経然りという構図にある。これを如何せんか。 それにしても、角栄の政権取り運動こそ実は戦後左派運動の捩じれた精華であった。故に、日中国交回復交渉時に、毛沢東-周恩来との秘密会談では肝胆相照らした。野坂、宮顕は毛嫌いされていたのに。今にして、その角栄を葬った側の連中を胡散臭い奴ばかりと思う。驚くことに、社会党、共産党のみならず革マル、中核まで打倒角栄にシフトしていた。当時の資料が開示されていないが、開示させればこのことを確認できるであろう。れんだいこが長い間、居所がないというのも分かるではないか。 2009.11.28日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評630 | れんだいこ | 2009/12/06 19:20 |
【「島根女子大生・平岡ミステリー殺害事件」考その2】 「島根女子大生・平岡ミステリー殺害事件」が迷宮入りしつつある。この間、マスコミの報道は抑制的で、小出しに情報が流され続けてきた。れんだいこが、考察その2を発表しておく。この事件を執拗に追及したいからである。 れんだいこは既に、本事件が、ネオシオニスト系秘密結社特有の儀式殺人の様相を示していると指摘した。その後の展開には、この仮説を覆すものはない。マスコミ報道は、本人の名誉の為か残虐非道さを正確に伝えていないように思われる。れんだいこが確認すると次のような遺体バラバラ遺棄殺人事件であることが判明する。 被害者の遺体はバラバラに解体され遺棄された。埋めるでも隠すでもなく野ざらしに投げ捨てられている。これは、ネオシオニスト系秘密結社特有のゴイム(犬畜生類下等人種)に対するもてなし方である。彼らには、埋葬してはならないとする掟があり、その通りにしていると推定できる。西欧圏ではこの種の事件が後を絶たない。ユダヤ禍とされているが、ユダヤ禍とするのはともかくもネオシオニスト系秘密結社禍とするぐらいは許されよう。これも許されないのなら、許されないとする論者のオツムが相当イカレテイルと言わざるを得まい。 生首の顔面は、ここは推定であるが、眼球がすくい抜かれ、鼻が削られ、口元が裂かれている可能性がある。マスコミは、ここまでは報道していない。儀式殺人は、生贄をこのようにもてあそぶと伝えられているので、こういう推理が可能になる。捜査本部が顔面の損壊状況を発表すれば、白黒つくだろう。その上で、顔全体が靴で踏みにじられている。これについては一部報道された。 生首は、鋭利且つ鈍重な刃物で切り落とされている。この切り口から見て、素人ができる技ではないことが判明しよう。これも儀式殺人用のナタ斧なら説明がつく。これを一体どこでやったのか、そのアジトの摘発が待たれるが、捜査の手が及ぶのだろうか。 胴体は、胸部と下腹部が執拗に損傷され切り取られている。胸部は心臓めがけて儀式会員によって順繰りに刺されていると見られ、胸部がえぐられているのは、その痕跡を隠すためと思われる。下腹部も同様に損傷され、えぐり取られている。まさに猟奇殺人である。報道によると、内臓が摘出され、血も抜き取られているという。これも、ネオシオニスト系秘密結社特有の儀式殺人の仕業と考えられる。 大腿部が切断されている。これもよほどの鋭利且つ鈍重な刃物でなければできまい。肉がそぎ落とされているとも報道されている。何のためにそうしたのかは分からないが、執拗さが判明する。手足は一部しか発見されていないが、発見された左足首の骨には切断されたような跡はなく、関節が外された形跡がある。これによると、犯人が人体について相当な知識を持っていることになる。いわゆる手慣れた者の犯行ということになる。 その後、爪、骨片の一部、遺体を包んだと見られる血液が付着したプラスチック製の袋の一部が発見されている。プラスチック片の端が熱で焼き切れたような跡がある。胴体も焼き損じた形跡がある云々。 もうこれぐらいで良かろう。変質者レベルではない尋常でない殺され方をしていることが確認されれば良い。次に、誰が何のために、かような残虐非道な儀式殺人をしたのかの解明に移らねばなるまい。捜査本部は、犯人が身近に居ると考え、交友関係、変質者の洗い出しに向かった。事件から1か月を経過して、なんらの進展を見せていない。このことは、当初浮上した容疑者ならざる容疑者がすべて捜査線上から消えたことを教える。 この間、インターネット上に奇妙な情報が流されている。出所不明の「ZAKZAK政治・社会」記事は、 「被害者は素朴な印象が先行しているが、実は胸にタトゥーを入れた、都会なら珍しくない“いまどきの子」なる捜査関係者の言を伝えている。真偽不明ながら、意図的にイカガワシイ情報がリークされていると考えられる。真偽不明でいえば、「自宅と反対方向のバスターミナルへ向かって歩いているところを見たとの警備員目撃証言」も疑わしくなりつつある。もしそれが事実なら、タクシー運転手の同様証言があってもよさそうなところ、伝えられていない。 今現在はっきりしつつあるのは、最新情報の2009.12.6日付けの読売新聞記事「争う声なく顔見知りの犯行か…島根女子大生遺棄」が示唆した如く、平岡さんは、アルバイト先のショッピングから出てすぐに「何らかの顔見知り」に誘われ、車に拉致された可能性が強い。なぜなら、ショッピングから出て以降の足取りが全く絶えているからである。こうなると、「平岡さんは知らない人に誘われてついて行くような性格ではないことなどから、両県警は、犯人と面識があったと判断。幅広く知人から事情聴取を進めている」と記事にあるのが頷けることになる。しかし、今頃こういうようなことを云うのは遅きに失しているのではなかろうか。 こうなると、平岡さんが、声をかけられれば車に乗り込む必然性のある因果関係を持つ相手とは誰か、この線が探索されねばならないことになる。この目で見れば、平岡さんが高校時代にアメリカユタ州ソルトレークシティーにホームステイした時の人間関係、接触した会、島根県立大の国際関係のボランティアサークルを通した人間関係、接触した会が気にかかることになる。彼女が断れない線の人物に辿りつかねばならない。 そういえば、携帯電話の交信記録の線からの情報がないことに気づかされる。携帯電話の交信記録が判明すれば、直前の呼び出し電話のやり取り等貴重情報が得られると思うが、通信の秘密保持の壁があり、捜査の手が及ばないとでも云うのだろうか。高速道路や一般道路交差点に設営されている監視カメラの線からの情報も開示されていない。捜査を首尾よく進展させるために未発表ならまだしも、捜査のメスが肝心なところを意識的に避けているとしたら問題だろう。 警察情報は何を発表し、しないのかにつき、何を何処を捜査し、しないのかにつき、後手後手に回っている気がしないでもない。「女子大学生被害の死体遺棄等事件情報提供のお願い」を呼び掛けている以上、捜査の為に適宜な発表をするのが筋というものだろう。本部長が自ら「何の落ち度もない平岡さんの無念さ、ご家族の悲痛な気持ちは想像を絶するものがある。卑劣な犯人を許すことはできず、警察組織の総合力を結集し、必ず犯人を捕まえることをここに誓う」と慰霊の言葉を述べた以上、メンツにかけて本ボシに向かうと思うが、さてどうなるか。興味はここにある。 2009.12.07日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)