カンテラ時評2(031〜060) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その31 | れんだいこ | 2005/03/24 21:14 |
【日本語論、日本文の白眉考】 れんだいこは何時の頃からか日本語の素晴らしさに気づき始めた。今後世界交流が深まり、英語が公用語として使われるようになったとしても、この素晴らしい日本語は独立自存して保持していかねばならない、と考えるようになった。 その日本語の乱れが酷く、それも知識人と称する側からの一風変わった芸風による使われ方が目に付いており、これは掣肘せねばならない、と考えるようになった。 具体的には、句読点「、」の代わりに「,」、「。」の代わりに「.」のことを指しているのだが、胸糞が悪くなる。連中は何を気取っているのだろう。こういう差し替えして良い場合は、そのことの方にメリットがある場合だけである。 「、」の代わりに「,」、「。」の代わりに「.」を使って何の進歩があるだろう。それは畢竟、日本語の良さを敢えて貶(けな)そうとする俗悪趣味以外には理解できない。それが偶然なら良いのだけれど、単なる西洋事大主義の為せる業だとしたら滑稽なことではなかろうか。シオニズムの影響だとしたら、これはこれで一考に値する。 れんだいこは、日本語の素晴らしさにどこで気づいたか。はっきり形をとって現われたのは、漏れ伝わる「毛沢東ー田中角栄超秘密会談」時の毛沢東発言によってである。これについては、「【毛沢東―角栄会談秘話】と田中角栄の悲劇性」(kakuei/phirosophy_higekisei.htm)に記した。 ピックアップすると、毛沢東は次のように述べている。 「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です。今日本語の勉強をしています。日本に留学したいと思っているのですよ」。 和気藹々のうちの幾分冗談も込められている中での発言であるが、毛沢東は、「いろは、アイウエオ。平仮名とカタカナを創り出した日本民族は偉大な民族です」という認識を示している。何気なく聞き流してしまいそうだが、今のれんだいこは、流石に毛沢東は慧眼であることよ、と思っている。 中国語と比較した場合(れんだいこは中国語は知らないのだけれども)、中国語の全文漢字構成文より、日本語式の漢字とひらがなの併用、漢字を受けてのひらがな接続、適宜カタカナ利用は、文章を柔らかくさせるし、何より文章作成上開かれた構造にしており便利なのではなかろうか。覚えるのに苦労があるとはいえ、一定の作法さえマスターすればそれほど難しいとは思えない。 恐らく、どこの国語も、外来語の取扱いに難渋しているのではなかろうか。日本語ではそれがいとも容易くカタカナ表記で済ませられる。あるいは感嘆句のような異種語もひらがな、カタカナ取り混ぜてそれらしく表記できる。これは日本語の素晴らしい特性ではなかろうか。他の国の言語はいかように解決しているのだろうか。 日本語は大きく見れば漢字文化圏の言語である。しかし、恐らくそれ以前にあった和文字と独特の組み合わせで新文字スタイルを発明したのだろう。誰がこれを為したのか知らない。世に真に価値あるものの例に似て、その功績者は今日び流行り病の著作権なぞ云々しないから余計に分からない。 話を戻す。実に、このような構造を持つ日本語は世界に類い稀な言語となっており、西洋文字、漢字、ハングル文字よりも優れた面を持ち過ぎているのではなかろうか。従って、今後、公用語として英語、中国語が普及する時代がやってこようとも、日本語は独立自存して発展せしめられていくべきだ、意識的に取り組めば日本語は世界の公用語に為り得る資格がある、今後は母国語と英語と日本語の三本建て時代となるだろう、というのがれんだいこの予見となる。 何故なら、良いものは政策的に根絶やしにされない限り伝え伝わっていくものだから。日本語の構造そのものが何となく日本人のらしさを語っているようで興味深い。 2005.3.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その32 | れんだいこ | 2005/03/27 21:18 |
【ブント系運動のフィルムが常時見られる通信局創出考】 このところれんだいこは不摂生がたたってか風邪が治らない。今日も早く帰って養生している。今、テレビの「帰ってきた昭和の名曲」を見ている。次から次へと懐かしの名曲が聴けてる。 先ほどビリー・バンバンが「いちご白書をもう一度」を歌っていた。れんだいこは思わずテロップされている背後の映像に食い入った。メットとゲバ棒で武装した巨大なデモ隊のうねりが途切れ途切れに写っていた。セクトは良くわからなかったが革マル派のところだけは確認できた。どういう訳か市販の例えは連合赤軍派のビデオを買ってみてもやけに革マル派が宣伝されている。体制の許容範囲が逆に透けて見えて興味深い。 しかし、戦後学生運動を語るなら写すなら公平に見てブント運動の方こそ取り上げられるべきだろう。最大勢力で見るなら中核派と社青同解放派のデモ、アジを写すべきだろう。それなのにいつも定番で革マル派が写される。胡散臭くて興ざめさせられてしまう。 そこで気づいた。本当の史実を映像で見られる通信局が欲しい。有料でも良いからどなたか立ち上げてくれないか。イスラム圏の放送局は命がけでやっているのだから、できぬ訳がなかろう。 戦後直後から50年の武装闘争時代、血のメーデー、砂川闘争、60年安保闘争、ベトナム反戦、全共闘運動、70年安保闘争等々。この間の映像を日常的に見たい。というのも、見ているだけで理屈ぬきにれんだいこは勇気付けられ風邪が治る気がするのだ。恐らく最高のビタミン栄養剤になるような気がする。 あぁあのん千人の隊列の中に身を置きたかった。れんだいこの学生時代に悔いがあるとすれば、民青系のお焼香デモの中に居たことか。それは少しも面白くなかった。後の党派間ゲバルトのことを考えると、簡単に悔いる訳にはいかないが、より戦闘的なところに身を置きたかったという思いは変わらない。 2005.3.27日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その33 | れんだいこ | 2005/03/30 14:42 |
【田中角栄のフィルムが常時見られる通信局創出考】 「れんだいこのカンテラ時評その32」で、風邪ひいた時の特効薬として戦後学生運動の主として60年安保ブント、中核派、青解派、全共闘運動のフィルムを見る例を挙げたが、もう一つあるので書き付けておく。それは角栄の映像を見ることである。あぁどこかの通信局よ、繰り返すが有料で良いから常時見られるようセットしてくれないか。 れんだいこは、角栄が好きでたまらない。分からない奴には分からないだろうが、分かる者には分かる。それが世の中というものだろう。こたびも、角栄サイトの見直ししているうちに次第に快調になってきた。まことに角栄神社のお陰はゼツなものがある。れんだいこにネット・グラフィックの才があるなら、角栄神社を作って毎日参拝しようと思うのだが。 今日書き直したのは「田中角栄の業績」(kakuei/tanakakakuei_giyoseki.htm)欄の「日ソ平和・北方領土返還交渉」(kakuei/giyoseki_niisokosyo.htm)。 大平外相の次のセリフが特に気に入った。 「私は、日ソ交渉の時、角と一緒にソ連に行ったが、あの時、角は、ブレジネフを相手に、机をガンガン叩きながら、国交断絶寸前までいくほど、がなりたてて、その晩は、ブランデーを飲んでグーグーと寝てしまう。そんな角の姿を見たとき、これは、わが国が生んだ大日本男児だと思ったもんだよ。この男にあるところまでやらせておいて、ピッチャー交代の時は考えなければならないが、しかし、わしなんか、とても角のあとをやれる器ではないよ」。 思えば、かような逸材の角栄を落としこめる現代政治の思潮からの転換をやり遂げない限り日本政治の再生は無い。現下の国債垂れ流しの責任を角栄に求めるなどのトンデモ見解が罷り通っており、そういう意味でのナンセンス・ウヨサヨ論が大手を振っている。云いたい者には云わせるしかないので、我々は我々の見解を磨き合うべく切磋琢磨せねばと思う。 2005.3.30日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その34 | れんだいこ | 2005/03/31 19:47 |
【出版妨害事件考】 世の批評で悪質なものは、血塗られたその手で相手の血を咎める類のものであろう。我が身を省みず、我が身を例外として適用除外したまま相手の非を突く論法が許されるなら、それは云い得云い勝ちであって、云っている当人は気持ちよくても、「オマエモナー」の一言でペシャンコにされてしまう手前勝手論でしかない。 1969−1970年に発生した「創価学会ー公明党の出版妨害事件騒動」は、責める側にある種の倫理を要請している。この弁え無しに事件を徹底追及するのは単に党利党略のものでしかなかろう。この種の党利党略ばかりが流行る政界ではあるが、それで良いというものでは無かろう。 「原水禁運動考」(gensuikinnundoco.htm)の中に、「党中央出版妨害事件考」(gensuikinnundoco_syupanbogaizikenco.htm)を加えた。諸賢の見解を賜りたい。 2005.3.31日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その35 | れんだいこ | 2005/04/02 19:04 |
【読解力不足によるあてこすり批判考】 れんだいこがインターネット界に自前サイトを持って登場したのが200.2.11日を期してである。もう5年になる。その間気づいたこととして、議論があちこちで為されているが、往々にして読解力不足の例が見られるということである。 れんだいこの立論に何人かがいちゃもんつけてきたが、その多くが曲解的な批判であった。そういう御仁がいっぱしのインテリサヨぶっている姿がさもしく、れんだいこは正面からの遣り取りを忌避した。逆恨みされては叶わんという思いからであった。この姿勢は今も変わらない。議論つうのはし甲斐のある相手とやるに限る。大人が小学生の子供をいたぶっても面白くもおかしくも無いからである。 しかし、ある程度は火の粉を拭っておかねばならない。れんだいこが相手にしないことによって成り立っている曖昧さが、れんだいこの立論にも非があるというどっちもどっち的に処理されるのは迷惑至極だからである。 武士の情けで許容しているのに過ぎないだけで、是非の白黒付けようとすればそれは造作も無いことなのだということを時には知らしめておく必要がある。普通なら気にかけないのだが、このところの体調不良がれんだいこの堪忍袋を切れやすくしており従来の曖昧さを質す方向に向ってしまう。 ここでは、宮顕の芥川論におけるピッケル問題を取り上げる。主として猛獣文士氏の「善隣学生会館事件HPの掲示板」(http://www.konansoft.com/cgibin/zenrin_wforum.cgi)で遣り取りされたのだが、ある時、大阪の人なる御仁が、れんだいこの「宮顕式芥川文学論批判」にいちゃもんつけてきた。 その内容は、宮顕が「敗北の文学」文中で「氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」と述べている件りに対して、れんだいこが何とも宮顕らしい無慈悲な観点よと批判していたところ、大阪の人なる御仁が、「何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」なる批判言辞を書きつけた。 これに対して、れんだいこは、れんだいこが誤読なのか、大阪の人の方が誤読なのか、白黒付けようかと提案した。「宮顕の芥川論におけるピッケル記述問題」は、読解力さえあれば解ける問題である。 れんだいこはその後、「果たして『野蛮』の読みそこないか」、「大阪の人はんの中傷に駁す。(2003.2.21日)」(miyamotoron/miyamotoron_2.htm)で立論している。「善隣学生会館事件HPの掲示板」で決着つけようと管理人氏の猛獣文士氏が配慮された。 大阪の人氏は登場しないままに「梁山泊掲示板」に次のような一文を書き付けている。「猛獣さんは私に彼のHPに戻ってきて、彼のヨタ話に付きあえと口説いているようです。何かね。宮本顕治さんの『「敗北」の文学』を読んで若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさんに調子を合わせて『私もそう読む』とか猛獣さんが書いていたのをBBSで読んで、暗澹としまして、もう猛獣さんやれんだいこさんのHPから得るものは何もないな、と思ったので、おいとま致しました」。 これによると、大阪の人氏は、れんだいこの誤読に調子を合わせて「私もそう読む」と相槌するような管理人氏のところには出入りしないという方便で、議論を避けていることを合理化せんとしていることになる。 しかしこれはおかしな手品ではある。大阪の人氏の方から振ってきた問題であり、ならば議論の場を提供しようとしているのだから大阪の人氏は据え膳を蹴っていることになる。本来なら、大阪の人氏はれんだいこの立論に反論せねばならない。これが大人の議論の嗜みであろうに。 結局、大阪の人氏は現在に至るまで頬被りし続けている。氏はそのことで氏の信用を毀損せしめられていることに何とも痛痒を感ぜず、相変わらずの厚顔無恥さでインターネット掲示板界を世渡りし続けている。宮顕・不破系日共理論を賛美し万歳論を伝道し続けている。れんだいこにはかような劣性人士によってしか支持されない日共のブザマさが分かり興味深い。 ここで問題をもう一度整理する。宮顕の原文はこうである。 「だが、我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。『敗北』の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かなければならない」。 「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」。 この文章をどう読解すべきか、これが問われている。大阪の人氏のれんだいこ誤読説から推理すれば、氏はどうやら、「ツルハシをうち下ろさねばならない」を山登りの際に打ち下ろすピッケルの意に捉えているのだろう。そのように芥川文学を乗り越えるのだという意味に理解しようとしていることになる。 しかしだ、「日本のパルナッスの山頂で」とあるからには「ツルハシをうち下ろさねばならない」とは、脳天にバールを打ち下ろせの意であって、山登りの際に打ち下ろすピッケルの意では無かろう。 大阪の人氏がどうしてもそのように理解したいというのは勝手である。しかし、その勝手な持論の為に「れんだいこの誤読」をあちこちで吹聴されるとれんだいこには迷惑な話である。この際決着付けようとの配慮を無視して相変わらず「若き宮本氏が芥川竜之介の頭部にピッケルをふりおろせと殺人を扇動したと誤読したれんだいこさん」と逃げながら鉄砲撃つ芸当だけは忘れない。 れんだいこと大阪の人氏との絡みはこれだけである。直接議論したことは無い。仮にしたとしても、こういう風に読解力が基本的に欠けている者との間には有益なものは生まれないだろう。 他にに記せばキリが無い。その都度大阪の人並みの残骸が上がるのが避けられない。それはれんだいこの趣味ではないのでここではこれぐらいにしておき、必要の発生次第に記しておくことにする。 2005.4.2日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その36 | れんだいこ | 2005/04/05 11:01 |
【リンカーン大統領のゲチスバーグ演説考】 れんだいこ英文訳をもう一つ付け加える。「翻訳文一覧」(honyakubun/top.htm)の「リンカーン大統領のゲチスバーグ演説」(honyakubun/linkaan.htm)に収録した。 「れんだいこ訳リンカーン大統領のゲチスバーグ演説」 ゲチスバーグの演説 1863.11.19日、ペンシルバニア・ゲチスバーグにて 4世代と7年前に私たちの祖先たちはこの大陸に、新しい国を創った。その国は、自由の理念を尊び、全ての人は平等に創られているという命題を遵法していた。 今、我々は大きな内戦の最中にある。この内戦は、かの国が、あるいはそのような理念され遵法された国が、如何に長く持ちこたえられるものかどうかを試している。 我々は、その戦争の大戦闘の最中で会している。 我々がやってきたのは、その国を生き延びさせねばならないとの信念で生命を犠牲にした人々に対して、我々も又最後の安息の地として戦場を共にするためである。 我々がかく為すべきであるということは、全く時宜にかなっており正義である。 しかし、より広い意味でいえば、我々はこの大地に献身、神聖化、清めることができない。 ここで奮闘した勇敢な者たちは、生ける者も死せる者も、この地を神聖化してしまっており、我々の貧弱な能力をもってしては何かを付け加えたり取り除いたりすることなどできやしない。 世界は、我々がここで言うことなどほとんど気に留めないだろうし、それを長く記憶にとどめることもないだろう。しかし、彼らがここで為したことを決して忘れることができない。 我々生きる者の使命とはむしろ、ここで戦った人々がこれまで気高く前進させた未完の仕事に身を捧げるべきであるということか。 ここにいる我々の使命とはむしろ、我々の前に残されている偉大な任務に専念することである。この名誉ある死者たちから一層の熱意を持って、彼らが最後の完全な献身を捧げた理念に対し、我々が更に身を捧げるべきである。 その任務とは、あの死者たちの死を無駄にはしないこと、この国が神のもとで自由の新たな誕生を生み出すこと、人民の、人民の手による、人民の為の政府を、この地上から消え去さらせはしない、と深く決意することである。 THE GETTYSBURG ADDRESS by ABRAHAM LINCOLN, November 19, 1863 Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent a new nation, conceived in liberty and dedicated to the proposition that all men are created equal. Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation or any nation so conceived and so dedicated can long endure. We are met on a great battlefield of that war. We have come to dedicate a portion of that field as a final resting-place for those who here gave their lives that that nation might live. It is altogether fitting and proper that we should do this. But in a larger sense, we cannot dedicate, we cannot consecrate, we cannot hallow this ground. The brave men, living and dead who struggled here have consecrated it far above our poor power to add or detract. The world will little note nor long remember what we say here, but it can never forget what they did here. It is for us the living rather to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us--that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion--that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain, that this nation under God shall have a new birth of freedom, and that government of the people, by the people, for the people shall not perish from the earth. 【「リンカーン大統領のゲチスバーグ演説」の歴史的意義について】 「リンカーン大統領のゲチスバーグ演説」は、革命的精神と献身に対する普遍の激励メッセージとなっている。「11.19精神」とでも云うべきか、リンカーンならではの言い回しで、既に倒れた者を聖化し、後に続く者を鼓舞している。見事と言う他無い。 そのリンカーンの結びの言葉が、「人民の、人民の手による、人民の為の政府の擁護」であった。末尾のこの一節が有名であるが、前段の「革命的精神と献身に対する普遍の激励メッセージ」と対になって生み出されていることを見て取るべきだろう。 ちなみに、「人民の、人民の手による、人民の為の政府」の訳を改変する向きがあるが、却ってややこしくさせるばかりだろう。れんだいこは、「人民の、人民の手による、人民の為の政府」で良いと思う。実に、その後の歴史もまさに正しくその意でこのフレーズを復誦していったのではなかったか。それを思えばなおさら「人民の、人民の手による、人民の為の政府」を正訳としたい。 もう一つ付言しておく。ここで述べられているリンカーンの「自由の国アメリカの擁護」と、近頃ブッシュが狂信化させている「自由の輸出」の間には千里の距離があるというべきではなかろうか。我々が評価してきたのは「自由の国アメリカの擁護」止まりであり、「自由なる革命の輸出国アメリカ」では無かろう。 この差を弁えない米英ユ同盟礼賛論を事もあろうに外務省高官が唱える時代に入っている。その下僕が一国の首相となり、官邸主導という名目で傀儡政治する時代に入っている。典型的な売国奴の癖に「国家百年の計」を付け加えて説教するから嫌らしいことになっている。 2005.4.4日 れんだいこ拝 |
Re:日共批判、日本政治批判、無責任体系を凝視せよ | れんだいこ | 2005/04/06 08:25 |
お笑い日本共産党さん皆さんちわぁ。 「宮顕・不破系党中央のマルチ舌問題」はあちこちで確認できます。お笑い日本共産党さん指摘の「わが党は一貫して、すべての核兵器に反対してきました」のウソもその一つに過ぎません。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-09-08/08_0402.html問題については、「れんだいこの原水禁運動考」(gensuikinnundoco.htm)のトップページと「原水禁運動分裂経過に対する赤旗論文の詐術考」(gensuikinnundoco_akahatasajyutuco.htm)で言及しております。 れんだいこの個人的関心としては、「民主連合政府の呼びかけ変遷の無責任体系考」の方がピタッと来ます。なぜなら、党中央の「70年代の遅くない時期の民主連合政府の樹立」呼びかけを信じていたからです。よしんばそれが実現しなくても良いのです。問題はその際の責任の取り方にあります。 宮顕・不破・上耕はどう舌を廻したのか。不明を釈明したことは一度も無い。「70年代の遅くない時期」が年限を短く仕切って外れたことを反省し、思い切って「21世紀初頭の早い時期」(正確にはどういったのかこれを機に確認してみます)という具合に先延ばししました。これが連中の責任の取り方というか対応だった訳です。 しかし、当時ではずっと先であった「21世紀初頭の早い時期」が今やその時節を迎えることになりました。となると、党中央はどう舌を廻し始めたか。それまでのやり方なら「21世紀の遅くない時期」と言い回しを変えるところでせうが、さすがにオオカミ少年の言の類であることを恥じているのでせう、最近はダンマリ戦術に切り替えております。 問題は、党中央の無責任体系にあります。この間選挙でもジリ貧を深めております。最近の千葉県知事選では選挙総括コメントさえ出しておりません。不都合なことはノーコメント、好都合なことは多弁という方程式を編み出したようです。自称するところの科学的社会主義で分析すればそういうことが可能なようです。 問題は、これほど無責任な党中央であるのに政府自民党の無責任を追及するお仕事に精出し続けていられることにあります。誰も奇異に感じていないのでせうか。れんだいこには、この国では誰も真面目に政治をやっていないように見えております。 問題は、政府自民党がハト派主導で何とかうまく切り盛りできていた時代ならそれでも良かったことが、今日のごとくシオニズム傀儡系政治の下でおざなり政治を続けていることにあります。これは決して許されないことです。この国は近々とんでもない事態へ突き落とされるでせう。 マスコミは今、郵政民営化路線の「骨抜き」を指摘して騒ぎ立てております。この観点に拠れば、郵政民営化は構造改革で是認すべきことなのでせう。それを抵抗勢力が邪魔しているので小泉首相頑張れ、骨抜きを許すなとでも云いたいのでせう。かってのようにはっきり云わなくなりましたが、マスコミメガネは相変わらずこの図式で物言いしているようです。 しかし、郵政民営化路線に何の正義がありや。国家の重要基幹産業は公営化であるべきなのです。国家主権および独立の指標なのです。国鉄も日銀も電電公社も専売公社も道路公団も郵政も国営であるべきなのです。当局の腐敗是正は、民営化で治癒する必要はありません。それは公営化の下で為すべきことでありできるのです。 それがなべて民営化幻想で誘導されている。その先に待ちうけているのは国家の主権および独立の物質的根拠の解体です。国際金融資本のハゲタカファンドの好餌にされるだけで、小泉・竹中ラインはその要請を受けて立ち回っているだけです。これが実相でせう。 左派運動はそれを咎めねばならないところ、同じ穴のムジナの無責任野郎が野党で口先を廻しているだけなので政治が茶番劇になってしまう。これが日本政治のここ数十年間の構図です。世界史の流れで見れば、日本政治は停滞しており淀んでおります。これでは韓国、中国の日進月歩に比べて大きく遅れをとることになるでせう。今まではバカにしてきましたが、バカにされる日がそう遠くない時期に来てると思います。これも歴史の弁証法のひとコマなのかも知れません。 2005・4・6日 れんだいこ拝 |
Re:「原水禁と原水協の分裂と、共産党の歪んだ報道」考 | れんだいこ | 2005/04/09 21:08 |
お笑い日本共産党さんちわぁ。「原水禁と原水協の分裂と、共産党の歪んだ報道」(http://www.niji.jp/home/junp/page017.html)読ませていただきました。おっしゃる通りのように思います。 1962年の「前衛」10月号の「上耕論文」はご指摘のように言い逃れできない歴史文書となっております。日共は、これに対する現在的コメントすることが道理にかなっているでせう。しかし、人には説くが自らは縛られないご都合人種であります故に頬かむりしております。 その上耕が先だって、憲法改悪反対運動の第一線に立つとか見解表明しておりました。れんだいこに云わせれば、原水禁運動総括、先進国革命論総括、民主連合政権論総括してから人前に出てきてくれやという気持ちになります。不破も含めて当時の著作の見解を表沙汰にしたら、とてもではないが恥ずかしくて穴に入ったきりでてこれないのではと思いますが、みんなも本人も忘れるというのか人が良すぎるというべきかか、相変わらず人気があるんだそうな。 本田記事に対する赤旗の批判論文は全編詐術です。「原水協は、結成以来、一貫して、核兵器廃絶を緊急の課題として正面にかかげ、一致点で共同するという二つの原理、原則を守ってきました。社会党、総評の特定の見解を世界大会に押し付けようとしたのが原水禁でしたが、二つの原理、原則は原水協によって守り抜かれました」なる見解は、事情を知らない者を誑かすには便利な言葉ですが、知っている者にとっては「なに勝手なことを云ってやがんでえ」という代物でしかありません。 お笑い日本共産党さんご指摘のように、原水禁のそれが「特定の見解」なら、原水協のそれも「特定の見解」であり、見解というものはいつでも「特定」でせう。それを原水禁のそれは「特定の見解」であり、我々のそれは「正義の見解」などといったら、勝手が良すぎませう。 しかも、今日では、「原水禁の特定の見解」即ち「如何なる国之核実験にも反対」の方が市民権を得ており、「原水協の特定の見解」即ち「ソ連、中国の核実験擁護、アメ帝の核実験反対」の方は破産しております。日共も遂に見解転換させ、「我々こそが如何なる国之核実験にも反対してきた本家であるぞ」と聞き間違うような詐術を弄しております。 このご時勢でなお且つ「我々は正しかった、昔も今も」などという弁明が許されるなら、黒いものでも日共党中央が白いと云えば白くなるのか、という問題になります。お笑い日本共産党さんご指摘の「共産党は、ジャーナリズムについて批判をしていますが、自分のことは棚に上げっぱなしです」、はどうも染み付いた陋習のようです。 れんだいこは、宮顕運動を異筋のそれとして批判しております。徳球運動の方を高く評価しております。しかし、その徳球運動にさえご都合主義論法を見て取ることができます。顧みれば、コミンテルン運動にも、レーニズムにもマルキシズムにも見て取ることができます。 しかし、それは、マルクス主義の特徴というより、人の世の思想のエエカゲンさを知るべきか、それをマジに信じてしまうと泡を食わせられる、それが不満なら自前の信に足りるものを生み出す以外にないか、あるいは手探りでブリッジ共闘していく姿勢そのものが尊いかも、という風に考えております。 2005.8.9日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その37 | れんだいこ | 2005/04/13 19:44 |
【日本政治の死相考】 今や、日本政治は全く機能していないように思える。れんだいこがとうの昔に見抜いた小泉レイプマンの珍芸政治がまだ許されている。的確な文言を拾い出せないが、その国の政体、政治状況と国民の間は相関関係に有るとの卓見からすれば、小泉レイプマン政治を許しているということが取りも直さず我々にお似合いということになるのだろう。オラはやだ。 泥沼の財政赤字と政策不況としか思えない景気低迷に背を向けたまま、為さなくて良い民営化に精出す小泉は果して何者か。単なるパーとばかりは云えない。むしろ、あれこれ動きを見ると、熱狂的なシオニストではなかろうか。ブッシュのポチというより、ブッシュも又世界を牛耳る裏政府の忠犬であるからして、その忠犬の忠犬という地位に位置しているのではなかろうか。あるいはずばり、その種のパートナーとして位置づけるべきか。 これはなぜ分かるのか。小泉政治が、あらゆる方面で、角栄式日本列島改造案の解体に勤しんでいることで判明する。現代の自称知識人は、諸悪の元凶角栄論に染まっているから、それが見えてこない。そういう按配だからもっとやれとエールを送ったりする。 しかし、れんだいこの見るところ、角栄式日本列島改造案こそは「共産主義者の宣言」に示された青写真以降では随一の「土着型社会主義革命バイブルにして先見力と実効力のある教本」であった。それは何も日本だけに適用されるのではなく、諸外国でもこの指針に基づいて国づくりすれば大いに役立つというものである。現にそういう使われ方していると聞いた事がある。 中曽根ー小泉ラインの政治は、そういう歴史的高みにある角栄式日本列島改造案に何から何まで敵対し、それを骨抜きにし、その分国家百年の計に何ら役立たない施策ばかりに耽っている。誰が示唆しているのか、それが問題だ。偶然ではあるまい、だから問題なのだ。今日に於いてはその反動政治が完結しつつあり、角栄式日本列島改造案の余韻の最後的一掃に狂奔している観がある。 れんだいこが観るところ、このところの中国、韓国の排日運動は、そういう小泉頓珍漢政治に異議と抗議をぶつけない日本政治総体に対し、沈み行く日本を確認しつつ侮蔑して、その分ある種優越的な感覚で為されている排日運動ではなかろうか。 してみれば、排日運動の中身もかってのようなジェラシーに拠るものではなく、見下しつつ騒擾しているところにかってのそれとは質が違うものが見える。そういう質的転換を見て取ることができるのではなかろうか。それほど日本がヒドイ状態に陥っているということだ。 活力が衰退しつつある日本、ルネサンス期に入った韓国、台湾、高度成長で悲喜こもごもの中国、何とか局面打開せんと懸命な北朝鮮という構図が定着しつつあるように見える。そういう東アジアの力学変化はそれで良いのかも知れない。日本はここ百年偉そうにし過ぎてきた。その責めを受けるのも良いのかも知れない。 しかしだ。それは日本が国として溶解すれば良いというものでは断じてない。中曽根ー小泉一派は、愛国を口先にしながら日本を国際裏政府に売り渡す提灯族である。我々は、それを指をくわえながら座死すれば良いというものではない。 政治は本質的に闘争である。それを議会で裁判でやるならやる。街頭でやるならやる。決起でやるならやる。この三者を結合して、我が身と一族さえ良ければ何をやっても良いのだという手合いを放逐する必要がある。 それにしても、あまりにも反応が悪すぎる。攻めの運動が展開できていない。そろそろ何とかせんとあかん。その為にはやはり左派戦線を整序して、組める相手と組む、組めない相手とは組まない、左派らしい名前付けているからといっても、過去の行状見て判断する、そういう流れの全共闘を再組織すれば良い。 こうして薩長土肥が生まれ、それで回天運動に乗り出す。既に一度経験したことでないか。だから出来ない訳ではなかろう。徹底的に史実から学べばよい。そこに汲めども尽きぬ叡智が宿されているはずだ。れんだいこはそう思う。 2005.4.13日 れんだいこ拝 |
Re:歴史教科書考 | れんだいこ | 2005/04/16 09:41 |
お笑い日本共産党さん皆さんちわぁ。歴史教科書問題は難しいですね。昔と違って国際化時代になっており、互いの国の教科書への関心が高まっているように思います。それを互いに見過ごす方法もあるし、干渉しあう方法もある。日本は干渉しないのにされるところに不快感が発生しているようです。 れんだいこに云わせれば、要望と干渉には質的差がある。その違いを弁えず政治問題化させるのは如何なものかと思います。だいたい、毛ー周時代の中国はかような問題にくちばしを入れただろうか。そういう事には関心を寄せつつもアバウトにしながら、大局的な見地で日中同盟化を目指していたのではなかったか。 今、中国が執拗に排日主義を煽る背景には何があるのだろう。それを考えることの方に関心が向かいます。確かに日本政治の保守反動化が進み、彼らの我慢の限度を超えつつあるともみなせます。そういう意味では示唆的警告かも知れません。 もう一つの理由として、日中政府同士が意図的に反中、反日に向かう流れを作り出そうとしているように思えます。互いに危機を煽り排外主義の流れを敷きつつあるようにも思えます。これは何ゆえ産み出されているのか。やはり、米英ユ同盟の仕掛けを疑うべきかとも思っております。してみれば、日中両政府とも今や連中の息のかかった人物に牛耳られており、シナリオ通りの役者稼業しているのかも知れない。 そういう意味で、教科書問題、領土問題の本当の解決は、日中双方の代表、官僚及び知識人が共同テーブルに付き、十年がかりで見解の摺り合わせをする、この間人民大衆的な喧々諤々を行い、マスコミがその流れを報道することで可能でせう。 しかしながら、それは絶対に許されない。北朝鮮との拉致問題でもそうですが、六カ国会談になり必ずアメちゃんが出てきます。そのアメちゃんの意向抜きには当事国解決は許されない。マスコミは、それを不自然だと指摘せずに、アメちゃんの下での協議こそ正道とばかりに社説し続けております。世の中の仕組みがそういう具合になっているのでせう。 > 教科書問題は、サヨクの自虐史観を持った論客が撒いた種のように僕は思います。 「自虐史観問題」は確かにあるように思われます。それというのも、戦後左派運動の軸足が反戦平和運動に据えられており、その論拠が例の反ナチス、ホロコースト糾弾、その限りでの国際主義プロパガンダという国際的申し合わせに基づいて為されているところに原因があるように思われます。日本の場合には原水禁運動が加わりますが、それも分裂させられております。 れんだいこは、体制変革論者であり、反戦平和運動擁護者であります。その限りで一致するところもありますが、「国際的申し合わせ式反戦平和運動のウソ」に気づき始めております。そういうものに依拠せず、自前の運動論を作り出さねばならないと考えております。 元々、排外主義につながらないような民族主義、過渡期的国家主義は必要と考えております。シオニズム旋風吹き荒れるこの時代に民族主義に立脚しない運動は危険と考えております。これを失念しているから戦後左派運動はいつまでたっても大人になれない、よって人民大衆に対する政治責任を顧慮しない単なるガス抜きケチ付け式批判運動に終始している、と見立てております。「自虐史観」はその変種で生み出されたものだろうと理解しております。 そういう意味で、小林よしのりの一連の告発は意味あることと理解しております。憲法改正、軍事防衛増強に至らない観点で、氏が「歴史再検証」するのなら学ばせてもらおうと思っております。 2005・4・16日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その38 | れんだいこ | 2005/04/20 08:29 |
【「自虐史観」考】 「自虐史観」の定義が為されていないままこれに触れるのは議論が空回りするおそれがあるが、れんだいこ見解を披瀝しておく。 思うに、先の大東亜戦争の総括において、戦争の必然過程を歴史的に検証しないままに当時の戦争行為を今日的価値観から道徳的に断罪する史観から産み出されているものではなかろうか。その際の道徳的基準とは、一つは普遍的反戦平和思想であり、一つはこれにシオニズム的国際主義的見地からの戦争責任論が被さっている。 そのようなものとして産み出されているのがいわば独特の「自虐史観」ではなかろうか。これを論ずる場合、普遍的反戦平和思想からくるものとシオニズム的国際主義に基づく戦争責任論からくるものとを仕分けしないと議論が込み入るばかりで議論足りえなくなる。 「自虐史観」の格好例題として例えば、A級戦犯論、南京大虐殺事件、百人斬り事件、従軍慰安婦事件等々が挙げられているが、これを検証していけばいずれも雲をつかむような話になっている。それでもこれらの事件が糾弾され続けているところを称して「自虐史観」と命名されているのではなかろうか。 目下、米英ユ同盟がアラブ中近東で為している無慈悲な戦争行為は意図的確信的なそれである。あらゆる指標の国際条約を踏みにじり、それが許容されている。彼らは「自虐」していない。大東亜戦争を批判しぬく日本の平和主義者の糾弾の声は弱い。 よって、れんだいこは、「自虐史観」と云われるのには十分な根拠があると考える。それは、例題を断罪する二大基準の曖昧模糊性あるいはナンセンスさからもたらされていると考える。真に為すべきは、当時の戦争過程の歴史的必然性の検証であるのに、これが少しも為されぬままの断罪であるから「自虐史観」になってしまう。 もとより、「時の戦争過程の歴史的必然性の検証」はそれを肯定しようというのではない。「肯定」も又「自虐」の裏返しとしての道徳的基準の押し付けであろうから。為すべきことは、幕末から明治維新を通じての近代的国家への脱皮、その後の国家主義的帝国主義的「アジアの盟主」化政策、その先に待ち受けていた「世界の盟主」との争闘、その敗戦。これらを歴史的過程において位置づけ総括すべきことではないのか。 しかしながら、この本線の検証には全くといってよいほど手がつけられていない。にも拘らず、批判だけがなされる。その精神から産み落とされているのが「自虐史観」ではなかろうか。 ならば、それを批判する歴史観が産み出されても良いのだけれど、これが又厄介なことになっている。なぜなら、「シオニズム的国際主義及びその限りでの反戦平和主義という国際的申し合わせ」に抵触してくるからである。この抵触を恐れず歴史検証しようという動きはない。 むしろ、「シオニズム的国際主義及びその限りでの反戦平和主義という国際的申し合わせ」枠に羽交い絞めされたままの歴史見直しというおずおずとした論及しか為されていない。れんだいこに云わせれば、それも茶番だろうに。 よって、「左」からも「右」からも本来の議論に向かっていないことになる。「自虐史観論」というのは、その限りでのどちらの側からのそれも単なるお遊び風批判合戦でしかないように思える。だから、れんだいこは、この問題に対しては熱くなれない。これが、れんだいこの「もう一つの自虐史観論」である。 考えてみれば分かりそうなものである。今日の政治状況もかの時のそれも、いわば歴史的趨勢の中でそれなりに懸命に政治しているのであって、後世から道徳的に断罪されるには及ばない。むしろ、何が原因でそうなったのか、何が闘われていたのか、誰が仕掛け仕掛けられていたのか、別の動きに転換するには何をなすべきだったのか、何が足らなかったのかを、当時の情況に即して検証する方が余程有益なのではなかろうか。 「自虐史観論争」というのはこの問いかけに対するすり替え代償的論争のように思える。だからあんまり役に立たない。 2005.4.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その39 | れんだいこ | 2005/04/21 20:28 |
【「幕末回天運動」考】 「れんだいこの幕末回天運動論」を論文集の中にサイトアップしていろいろ書き直している。ほぼ一段落した。折を見て気づいたところからぼちぼち直していきたいと思う。 この過程で、昨日の事だが国会の党首討論を見た。小泉はんと岡田はんが紙芝居のような問答していた。れんだいこは、「幕末回天運動」の頃に比べて何とお粗末な議論が白昼堂々と国権の最高機関で為されていることよと思いあきれた。政治の死臭がただよっていた。 岡田はんと小泉はんの間にはどうやら基本的な違いが無いように思える。岡田はんの議論からは、小泉はんの掛け声は良いのでもっとしっかりやれとエールしているように聞こえた。 こうなると、民主党というのは自民党タカ派の別働隊で、長年かかって民社党と社会党を上手く吸収した政治劇だったのではないかと思えてくる。 蛇足だけど言い添えておく。だから共産党が良いのだとか云う気はさらさら無い。れんだいこが若い頃は、民社党ダメ、社会党ダメ、共産党が一番と思っていた。新左翼は何となくその理論が小難しかった。しかし今は、共産党はまるでダメ、ああいう友のような顔と声してこちらのエネルギーをスポイルさせる連中こそもっとも悪質と思っている。 云いたいことは要するに、幕末回天運動時のあの志士達の鼓動を受け継ぎたいということか。志士達の理論と行動はあまりにも錯綜しており、攘夷派が正しかったとか公武合体派が正論だったとか佐幕派が忠義であったとかは単純に言えない。しかし、手前の理論と行動に命を賭して「明日の日本」の為に資しようとした史実が刻まれており、それは値打ちものではなかろうか。カネとか出世権力とは無縁の生命のたぎりを表現したそのことが尊いのではなかろうか。 それにしても幕末時には、追悼しようにもしきれないほどのあまたの草莽の士が輩出していることに驚かされる。なしてかようにイデオロギッシュな人物が生まれたのだろう。れんだいこはそのことに興味を覚える。 それと、70年代前半のひと時ではあったけれども、政治活動に取り組んだれんだいこはその良き伝統に列なっていたことを自負する。あの時分、政治的であったことを自分で自分を褒めてやりたいと思う。 とまぁほんの感想を記しておく。 2005.4.21日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その40 | れんだいこ | 2005/04/25 21:55 |
【世論調査に見る田中角栄】 読売が今頃何の顔(かんばせ)ありてか分からないが、2005.4.23日付で「日本の発展、最大の功労者は田中角栄氏…読売世論調査」(http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20050423it12.htm)なる記事を掲載している。同社は、何の必要があってかは分からないが、あらゆる記事に「読売新聞 無断転載禁止」なる注意書きをしているので、無用なトラブルを避けるため転載しない それによれば、調査は9、10の両日に実施。「『戦後60年』関する全国世論調査(面接方式)で、戦後日本の発展の功労者を聞いたところ、「トップは田中元首相で、ほぼ5人に1人がその名を挙げた。2位は吉田元首相、3位は佐藤栄作元首相で、ベスト3の顔ぶれは1994年調査と同じだった」、「多くの国民が“人間ブルドーザー”“ワンマン”との異名をとった田中角栄、吉田茂両元首相ら力強い指導者を、改めて高く評価していることがわかった」とある。 さて、これから先の分析がれんだいこの本領である。以下、記す。 確かその昔の日経新聞調査でも同じような結果が出ている。これを見て、ロッキード事件勃発から公判闘争渦中の角栄が選挙のたびに史上未曾有の高得票を獲得し続けたのに対し、当時の自称インテリ族が「新潟3区県民の政治意識の低さ」を嘲笑したように、「政治意識の低さ」を論(あげつら)うべきだろうか。お調子者の野坂昭如が、識者のそういう語りを真に受けて立候補し、恥を晒したことに対し残念無念と云うべきだろうか。 れんだいこは違う。思えばマルクスが、ヘーゲル哲学を左派的に吸収しつつフォイエルバッハ的転回を経てヘーゲル哲学批判者となった時、概要「ヘーゲル哲学の弁証法は頭で逆立ちしているそれである。我は、人は足で大地に立ち頭脳で考えている本来の姿に戻し思索する。そのことにより弁証法をもっと生き生きとしたものにする」と述べた如く対せねばならないのではなかろうか。 自称インテリ達はそのこましゃくれた貧相な頭脳で、角栄批判を得意にしてきた。しかし、語らざる大衆は物事の本質を極めて正確に把握し続けている。戦後憲法秩序の成果然り、角栄然り、池田然り、吉田も然り、マッカーサー然り。大衆生活に恩恵を与えた者を正確に見抜き評している。それを思えば、自称インテリ達の何と恩知らずの愚昧であることか。 へなちょこ理論の付け刃で政治語り、語れば語るほどその先は無責任になり、破産の挙句急遽転向し、そうなると今度は一瀉千里で既成権力ににじり寄り、栄耀栄華の蜜の味に群がろうとする。そういう手合いが多すぎる。そういう手合いがまことしやかに説教垂れ始める。何とかならんかと思うが、それが現実だから仕方ない。 最近の規制強化の流れも然りであろう。何か事あるたびに取り締まり強化をアジり、当局の怠慢を突く。その結果、何の整合性も無き法律網が被せられつつあり、日本社会は窒息寸前の域に達しつつある。今では、あなたの名前はと聞いただけで、個人情報だから答える必要は無いというところまで進みつつある。これらを押し進める輩が決まって自称インテリ達である。 頭の良さは如何に規制せざるべきかに心血注ぐところ、自称インテリ達はいとも安易にやれこれが足りない、あれも規制が無い、法律が無いのはそれだけ野蛮の証だとしてタコ足配線の如く規制を生み出していく。それでいて、当局は上のほうへ行けば行くほど無規制で無礼講三昧だと云うからあきれてしまう。 例えて云えば、小泉の如く自分は何でも許され、「人生いろいろ」で罷り通る。その癖、政敵となったら途端に「説明責任がある」となじり始める。国家機密費は掴み放題、政治資金規正法は自身には適用されずの便利な法の中で安住し続けられる。しかし、反目の者がそれを真似したら大変だ。ムネオの如くなる。 そう云えば、角栄の時もムネオの時も、何で日共はこういう時になると熱心に訴追し始めるのだろう。どこかしら機密情報が流れ込み、それを手にかざしながら弾劾する。する方は格好良いのだろうけど、それで票を掠め取れると思ったら大間違いだぞ。我々は、手にかざしたお前の情報の出所元を注意深く見ているのだぞ。 おぅ定番のここへオチがきた。これ以上書いてもダラダラ長くなるだけだからお終いにする。結論として、れんだいこは次のように結んでおきたい。角栄政界追放に手を染めた御仁たちの自己批判無き政治活動を認めない。 その挙句が中曽根然り、小泉然りの脛傷持つ売国首相を登場させ、日本企業を売り渡し、そのたびに構造改革が進んでいる証拠などと称して万歳させ、超巨大累積債務国家へ駆け足させられているのではないのか。我が社会は、元一日からの出直しに無しには再生できまい。 2005.4.25日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その41 | れんだいこ | 2005/04/26 21:34 |
【打倒小泉政権!
れんだいこ党緊急宣言】 2005.4.26日で、小泉政権は発足以来丸4年を終え、5年目に入る。来年9月末までの自民党総裁としての任期を全うすると、戦後の歴代政権では中曽根康弘政権を抜き、佐藤栄作、吉田茂政権に次ぐ3番目の長期政権になるという。 しかし、あらゆる兆候から分別するのに小泉首相の人格識見、魑魅魍魎ぶりは受忍限度を越えていると云うべきではなかろうか。こったら御仁に政権を任すなどという事を日一日長くすることは恥辱でしかない。小泉政権をこれ以上のさばらせる訳にはいかない。そういう訳で、一刻も早い倒閣が日本人民大衆の歴史責務である。れんだいこは、「遅くとも本年8月うちの小泉政権打倒」を期して本サイトをれんだいこ論文集の中に加える。 自称インテリのマスコミ遊泳術士達が未だに小泉政権に阿諛追従し続けている。それは自称インテリたちのメッキ度を証して余りある。しかしながら後釜が居ないのも事実だ。今や誰が出てきても、アーミテージタコ入道のあごのしゃくりに合わさねば政権延命できない。日本政治がそういう傀儡植民地政治に堕しているのは事実だ。 登場すべき本来の首相はタコ入道派の戦略に抵抗する者で無ければならず、戦後憲法政治を再興しその理念を展開する者でなくてはならない。この関門を通り抜けなければ日本は沈没させられてしまう。我が日本が沈没させられてその後起き上がり出来ればよいけど、国際情勢はそう甘くは無い。戦後再建の復興過程はたまさかの僥倖の奇跡と理解すべきだ。大和民族が二度と浮上できず、アメリカインディアンの如く囲われてしまったら、我々はご先祖様に何とお詫びすれば良いのだ。このことに深く思いを深めるべきだ。 このところのいわゆるタカ派の国際的にはシオニズム、アジアでは傲慢不遜、国内では強権警察化という貧困政治は見飽きた。愈愈(いよいよ)我らの政権創出に向けて諸勢力を糾合しよう。幕末志士の爪の垢を煎じ煎じしてでも突き進もう。果たせぬ夢を見ようではないか。 我が党は呪詛してでも小泉政権を倒壊せしめる為に率先する。「為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」(上杉鷹山) 。政治にはある種の予知、予見能力が必要であろう。「遅くとも本年8月うちの小泉政権打倒」を誓う。以上、れんだいこ党の党首宣言とする。 2005.4.26日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その42 | れんだいこ | 2005/05/01 21:15 |
【小泉政権打倒 かやつの人格を疑え】 2005.4.16日号「週刊現代」は、「小泉純一郎躁と鬱」と題する記事を掲載している。内容を見るのに非常に重要な指摘をしているが、これが騒がれない。世の中には「2チャンネル」というこういう話題を特異とする掲示板があって、くだらない話に興じているというのに。日本の知性は今や狂っているとしか言いようがない。れんだいこがこれにコメント加える。 「『血族のタブー』を知るキーマン」の見出しで、小泉首相の元義兄(長姉の元夫)が京都刑務所を出所したことを明らかにしている。この男性が何故重要かというと、「A氏は小泉首相の姉との離婚後、窃盗などの犯罪を繰り返し、刑務所を出たり入ったりの生活になってしまった。A氏は周囲に、『自分の人生は小泉家のせいでメチャクチャになってしまった』と漏らしているという」ことにある。 伝聞でしかないが、『自分の人生は小泉家のせいでメチャクチャになってしまった』は精査される必要がある。なぜならば、小泉政治の変調に何らかの因果関係を認めることが出来るかも知れないからである。レイプ事件、あるいは履歴でもそうだが、この御仁には得体の知れないところがある。義兄問題はその絡みで政治性を帯びていよう。 次に、「郵政巡り強気と弱気が交錯」の見出しで、「この間の3月29日に、小泉首相は映画『SHALL WE DANCE?』のPRのために来日し、官邸を訪れた俳優リチャード・ギアと会談を行っている。このときのはしゃぎぶりは尋常ではなかった。ギアから『僕の家族は、首相を日本のギアと言っている』と聞かされ大喜び。自ら女役を買って出て、無理矢理ギアの手を取ると社交ダンスを踊ってみせた」とある。 れんだいこに云わせれば、何となく胡散臭い。何時から政治は芸能のしもべになったのか。有頂天になるほどのことではあるまいに。 次に、「『眠れない』と漏らした小泉」」の見出しで、最近の小泉首相の感情の起伏の激しさ、「抗うつ剤使用疑惑」、不眠症問題に触れた後で、次のような話を紹介している。「再婚は絶対にしません。自分には合わない。若い人は寝るときダブルベッドで一緒に寝なきゃいけないんでしょう? ダブルベッドなんて信じられないよ。コトが終わってベッドを離れたら変人扱いされちまうでしょ」までは趣味嗜好の話として聞けるが、続いて「ブッシュ大統領にそう話したら、『広いベッドで寝ればいい』と言われたけど、そんなことをしても(一人で寝ないと)意味がないよな(爆笑)」 これも問題だろう。記者も、「なんと日米のトップが下ネタで盛り上がっていたのだ。『日米首脳下ネタ♂談』など前代未聞である」と記している。「下ネタ会談」自体が悪いのではない。日米首脳会談の際にそういう弛緩した話で歓談するという精神構造の問題である。この記事の信憑性が問われるが、かなり重要な内幕暴露をしているように思われる。 小泉首相は、「郵政民営化」に対して記者団との遣り取りで次のように述べたと紹介している。「自分は自民党の中では異端だ。三役もやっていないし、官房長官もやっていない。しかし総理大臣になった。郵政民営化をやらなければ、総理になった意味がない」。 この記事の信憑性も問われるが、事実としたら大いに問題であろう。「郵政民営化」自体の是非が問われているのではなく、首相の見栄でこれをやり切ると述べていることになるのだから。こうなると政治がまことに学芸会に堕しているのが分かる。一体、彼は政治を難だと心得ているのだろうか。これも、かなり重要な内幕暴露をしているように思われる。 「『怠慢ブラザーズだ』とヤジ」の見出しで、小泉首相が、2005.3.11日、党本部で自民党神奈川県連学生部り学生たちを前に語った言葉を紹介している。「頭のいい人が当選するかと言えば、選挙はそうではない。必ずしも優秀でない人が総裁になったりするでしょ(笑)」、「ブッシュ大統領、クリントン前大統領、レーガン元大統領、彼らも政治を必死に勉強して理論を深めたかというとそうではない」。 この記事の信憑性も問われるが、事実述べているなら見識が問われるべきだろう。政治において権力闘争を至上視しており、政策能力の研鑽を露骨に否定していることになる。小泉首相の脳内の変調さを証しているに思われる。冗談軽口にしてもヒドイと思うのはれんだいこだけだろうか。 2005.4.23日号「週刊現代」は続いて、「小泉政権 内ゲバが始まった」と題する記事を掲載している。内容を見るのに、次の話が注目される。武部自民党幹事長の伝であるが、「総理は桶狭間の戦いのような(奇襲)のチャンスをうかがっている。あの人は信長のように情報を集約して判断する直観力がある。これは、誰にもマネできない。総理から桶狭間の話を聞いたのは、去年の暮れ、総理の前で郵政民営化の紙芝居をした日だ。あれ以来、総理は頻繁に桶狭間の話しをしている。今のところ小泉信長を倒せるような明智光秀はいないな」。 この記事の信憑性も問われるが、事実とするならヒドイ話だ。小泉首相の歴史観は、坂本竜馬の新婚旅行が阿蘇山廻りだったと云うほど無茶苦茶なことで知られているが、自身を信長気取りするとはこれも滅茶苦茶だ。信長がいつ時の最大権力の後ろ盾を頼みに威勢を張ったか。確かに「天下布武」戦略を打ち出したが、それは人材登用然り、経済革新然り、政治革新然り一級であった。小泉のやっていることは、そうやって営々として創られた日本の外国売りであり、比較するだにおぞましい。 次に、麻生、青木、橋龍のボケ組三人トリオの話を載せているが詰まらないので割愛する。最後にこう締めている。「もはやその程度のパフォーマンスで誤魔化されるほど国民は愚かではないし、自民党内の小泉首相に対する怒りも軽くない。決定的名スキャンダルが暴かれ、小泉首相が致命的な反撃を受ける日も近いだろう」。 何やら思わせぶりである。 2005.5.1日 れんだいこ党党首 「小泉政権を本年8月末までに打倒するために」呪詛 拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その43 | れんだいこ | 2005/05/05 12:47 |
【大塩平八郎の檄文が現下の政治腐敗を撃つ】 1837(天保8).2.19日、「天保の大飢饉」の最中、元与力にして陽明学者として私塾を開いていた大塩平八郎が同志を糾合し、「腐敗した幕府役人とこれと結託して暴利をむさぼる豪商人達に天誅を加え『救民」せよ』」と、その旗印をたてて乱を起こした。幕府役人や豪商達の家を襲撃し、奪い取った金銀を窮民に分け与える計画の下、大砲、火矢などを放ち大阪の天満一帯を火の海にした。世に云う「大塩平八郎の乱」である。 この乱には、農、工、商、神職、被差別者等の様々な階層の人たちが協力していたことが判明している。この乱の30年後に体制を揺るがす内戦を経過し明治維新に至る事になる。 ここで、その時発せられた「檄文」を確認しておく。 檄文は、「天より下さる村々小前の者に至るまで」と表書きした大神宮の落とし文の形をとって配られ、末尾は「摂河泉播村々の庄屋年寄百姓並びに小前百姓共へ」としていた。 その内容を見るに、大塩の御政道観に裏打ちされた世相弾劾文となっており、特に商人と結託し役人らが私腹を肥やすことに執着している有り様を激しく非難している。 その原文は、「大日本思想全集第16巻」(昭和6年、先進社内同刊行会)にあるとのことである。ネット検索で得たものを、れんだいこ有責現代文訳で記す。 (始め) 四海の世間が困窮し続ければ天禄は長くは立たない。能の無い者に国政を任すと災害が襲い掛かってくるとは昔の聖人が指摘しており、天下後世の君、臣たる者に深く戒めおいたことである。 その昔、東照神君(徳川家康公)はこの辺りを熟知し、「依る辺もない孤独の弱者にこそもっとも憐れみを為す政治を執り行うべきこと、これが仁政の基なり」と仰せ下されているところである。 然るに、ここ二百四五十年の太平の間、上層の者が贅沢三昧でに驕(おご)りを極めるやうになり、大切な政事に携わっている諸役人共は今や公然と賄賂を授受し合っている。又、奥向女中辺りに縁(よし)みを通じて、元々道徳仁義に欠ける格下身分の者が成り上がっており、連中は政事の素養に欠けるからして我が身と一家の私腹を肥す為にのみ智術を廻らし、その領地、知行所の民百姓共に過分の用金を申付け悩ませている。 これまで年貢諸役の甚しきに苦んでいる上に、更なる無茶苦茶なことをやらかすので次第に入用かさみ、故に四海の世間が困窮させられている。よって、今日では人々がお上を怨(うらま)ざる者無き有り様である。江戸表より始め諸国一同までがこの風潮に陥っている。天子は足利家以来全く御隠居同様で、賞罰の柄(権)すら失っているので頼むに甲斐無しで、下民の怨みを何処へ告発しようにも訴え出る術が無いという乱れぶりである。 人々の怨みが天に通じたか、このところ年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他様々諸々の天災が流行しており、遂に五穀飢饉になっている。これ皆、天の深き誠に拠る有り難き御告げである。 しかるに、上層の者がこうした事に一向に気遣いせず、なおも小人奸者の輩が大切な政事を執り行い、ひたすら下々の者を悩まし、金米を取立てる手段ばかりに取り掛かっている有様である。心ある者が、小百姓共の難儀を草の陰より常々察し怨んでいれども、湯王武王の勢位なく、又孔子孟子の道徳もないので徒に蟄居を余儀なくされている。 当節、米価がますます高直に成り、大阪の奉行並びに諸役人が、庶民が苦しんでいるのにも拘わらず、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、江戸への廻米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米の世話をせず、そればかりか僅かばかりの五升壱斗位の米を大阪に買いに来た者共を召し捕るなどひどい事を致している。実に昔、葛伯といふ大名は、その領地の農民に弁当を持運んできた子供を殺したとか云う、言語道断であろう。 いずれの土地であっても人民は徳川家御支配の者に相違ない、それをこの如く隔(へだた)りを付けるのは奉行等の不仁である。その上、勝手我儘の触れを出して、大阪市中の遊民ばかりを大切にするのは、前にも申したように、道徳仁義を弁へぬ拙き身分の者であり、甚だ以て厚かましく不届きの至りである。 又、三都の内大阪の金持共は、長年にわたって諸大名へ金を貸し付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠(かす)め取っており、未曾有の裕福な暮しをしている。彼らは町人の身でありながら、大名の家へ御用人として取入れられ、自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮している。 この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、餓死の貧人乞食を敢て救おうともせず、その口には山海珍味の結構なものを食らい、妾宅等へ入り込み、あるいは揚屋茶屋へ大名の家来を誘引しては、高価な酒を湯水を呑むかのように振舞い、四民が難渋している時節を弁えず絹服をまとい、芝居役者を妓女と共に迎え、平素から遊楽に耽っているとは何たる事か。 それは紂王長夜の酒宴も同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り、下民を救うべきである。連中は為すことをせぬまま日々堂島に入りびたりしている。実に俸禄盗人と云うべきであって、決して天道聖人の御心に叶わず許し難い。 故に、これまで蟄居してきた我々の堪忍が難しくなった。湯武の威勢、孔孟の仁徳は無いが、天下の為めと存じ、血族への禍の禁を犯し、このたび有志の者と申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐致し、引き続いて驕りに耽っている大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等はそれぞれ分散配当することにする。 摂・河・泉・播の国々の者で田畑を所有せぬ者、例え所持していても父母妻子家内の養いが難渋な者には右金米を取分けるから、何時でも大阪市中に騒動が起ったと聞き及んだことなら、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい。各々へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意である。当面の饑饉難儀を救い、もし又その内で器量才力等がこれある者は取立て無道の者共を征伐する軍役にも使いたいと思う。 これは、決して一揆蜂起の企てとは違う。追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、中興 神武帝御政道の通りに寛仁大度の取扱いに致し、年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思い、父母妻子をも養い、生前の地獄を救い、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したい所存である。 この書付けを村々に一々知らせたいが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付けて置き、大阪から巡視にくる番人共には知らせないよう心懸け早速村々へ相触れ申して貰いたい。万一、番人共の目に付き、大阪四ケ所の奸人共へ注進致すようであったなら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すように。 もし右騒動が起ったことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかったり、又は遅れ参ず るやうなことがあっては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取り失う事に成る。後になって我らを恨み、宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにしてもらいたい。その為、一同に向ってこの旨を布令している。 もっとも、これまで地頭、村方にある年貢等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てるつもりである。これは深慮による事で、人民を困窮させるやうな事をしない為である。さりながらこの度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類していると申すのも是非のある道理ではあるが、我ら一同心中に天下国家を簒盗しようとする欲念は更に無く、日月星辰の神鑑に基づいて行う事であり、つまりは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔い君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何ものでもないのである。もし疑わしく思うなら、我等の所業の一部始終を汝らは眼を開いて見届けよ」。 但し、この書付は小前の者へは道場坊主あるいは医師等より篤と読み聞かせられたい。もし、庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らいで隠しおくならば追って急遽その罪は処断されるであらう。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。 天保八丁酉年 月 日 某 (終り) (れんだいこコメント) 時代の差による価値基準の違いを差し引けば、大塩の檄文の内容は現代そのままに通用する。政治権力、官僚の腐敗を鋭く告発している。仮にこれを読んだとして頭の痛くなる連中が居るのではなかろうか。 興味深いことは、天災地変に付き、それを「天の声、地の諭し」として聞き分けるよう指摘していることか。現代科学はこういう捉え方はしないが、「天の声、地の諭し」の聞き分けはあながち非科学的とは云えないのではなかろうか。むしろ、現代科学のほうが没歴史学的に過ぎて未だ非科学的かも知れぬ。 それはともかく、「大塩の檄文」はもっと読まれて良いと思うからここに掲載しておく。史上有益な情報はもっと開示されねばならぬ。名文となっている。これをせぬまま思いつきの罵倒が流行っているが、時間の無駄ではなかろうか。 れんだいこサイト「人生学院」は、知っておくべき必須のものを更に取り込み続け、現代の寺小屋にしたいと思う。思えば、寺小屋教育こそ真に有意義なものを生み出したのかも知れぬ。文部省教育はそれを骨抜きにしたばかりかむしろ愚民化教育を仕掛けているような気がしてくる。 小泉内閣に対しては、いけないものはいけないと判然たる態度を確立しておこうと思う。未だこれを好評価する自称インテリが居ることに対し、憤然論争を挑もうと思う。言論は自由だが、小泉内閣が倒壊した途端に口先を代え、新権力に追従する者が居たとしたら、厳しく自己批判を迫ろうと思う。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その44 | れんだいこ | 2005/05/10 12:01 |
【小泉純一郎の政治能力論】
2005.5.9日、訪ロシア中の小泉首相は、同行記者団とのやり取りで次のように述べている。毎日新聞(モスクワ支局・佐藤千矢子氏の記事)のスクープとなっており、これを参照する。 小泉首相は、郵政民営化関連法案成立へ向けての決意を次のように述べている。 まだ会期末までは時間がある。どのように成立させるか執行部に任せてある。まだ会期延長を考えるのは早い。自民党、公明党とも十分協議して作った案だから、修正は考えていない。廃案は考えていない。成立しか考えていない。廃案になった後は何が起こるか分からない。 (れんだいこコメント) この論法全体がレイプ手法であり、末尾の「廃案になった後は何が起こるか分からない」は、首相権限の乱用による解散含みを臭わしているのだろうが、まさにサドサイコパスの典型的な物言いである。いやはや大変な首相が史上三番目の長期政権を目指しつつあるということになる。 小泉首相は、首相後継候補に対し、郵政民営化関連法案に於ける君たちの採るべき態度はこうでなければならないとして、次のように述べている。 「郵政法案に賛成か反対か。これから総裁(首相)になろうと思う人には、今国会は非常に重要だ。中立はあり得ない。反対とか中立は許されない状況になる」。 (れんだいこコメント) この論法も又レイプ式であり、もはや食傷気味のイエスかノーかを迫る二元式硬直論法である。独裁者の好む恫喝論法でもある。首相後継候補がこの言に易々と組み敷かれるとしたら、あぁぞっとする。 小泉首相は、後継者問題につき、次のように述べた。 「(首相は同時に後継総裁の条件として)小泉改革を推進する人でなければ無理だ。国民の支持を得られない。次の総裁は国会議員の多数だけで選ばれればいいという状況ではない。党員をはじめ国民の支持が得られないと難しい。小泉改革に反対とか、今までの路線が間違っていたという人が私の後の総裁に選ばれるのは疑問だ」。 (れんだいこコメント) この論法も典型的な、二元式硬直論法である。「小泉改革を推進する人でないと無理だ。国民の支持を得られない」の真意は、小泉路線の継承者でないと今や世界を律する米英ユ同盟が許さないぞ、その後ろ盾為しにどうやって首相になるのだ、ついでに俺に院政を敷かせろ、という意味であろう。 一般に、政策は、例えば緊縮財政か積極財政課のように高度に難しい故に争われ、歴史の弁証法に委ねられるべきものであるのに、定向進化しか許さないと述べていることになる。歴史上バカ殿が好む論法で、政治腐敗が忍び込むことになる。 小泉首相は、秋の内閣改造・党役員人事との関連で、将来の首相候補の要職経験につき、次のように述べた。 「総裁選前に(自民党)三役(など)になった方がいいか、無役がいいかはその人による」。 (れんだいこコメント) 「総裁選前に(自民党)三役(など)になった方がいいか、無役がいいかはその人による」もイカガワシイ論法だ。小泉自身が要職を経験せぬままヘリコプター首相として降下してきた事情があってそう述べたのであろうが、将来の首相候補を要職に就かせ政治経験を積ませるのが賢明なことは云うまでも無いことだ。それを逆さに述べ、実際に要職に就かせないばかりか芽を摘み取ることに専念するこの御仁の見識を疑うべきだろう。 彼の場合、云うこと為すことの一事万事が倒錯している。この倒錯がマスコミ、政治評論家受けしているが、連中もまたそれだけ倒錯している証左だろう。 小泉首相の政治能力の低さは、逐一挙げればキリが無い。我々はいつまでこの御仁のレイプ政治に甘んじねばならないのか。あらゆる指標が悪くなるばかりで、地方は既に取り返しのつかない荒廃過程に入っている。 れんだいこ党は、人事利権の甘言で操られ身動きできない自民党派の無能を見据え、「遅くとも本年8月末までの小泉政権打倒」を誓う。為せばなる、同志よ共同せよ。 2005.5.10日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その45 | れんだいこ | 2005/05/12 20:36 |
【最高裁判決に登場した「疑わしきは被告人の利益の方に」の法理考】 2005.5.12日付け毎日新聞は、「連続女性殺人 『疑わしきは無罪』はルール」なる社説を掲載している。読売新聞も「[佐賀地裁判決]捜査のあり方に猛省を迫った」なる社説を掲げている。歯切れの良いのは毎日社説の方である。以下にリンク先を記すので各自確かめれば良い。 毎日新聞社説 http://www.mainichi-msn.co.jp/column/shasetsu/news/20050512k0000m070153000c.html 読売新聞社説 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050511ig91.htm れんだいこが興味を覚えるのは、事件の概要の方ではない。第一審で死刑が求告されていた被疑者が、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の法理により無罪を言い渡されたという論法のほうである。こたびの最高裁判決は、被告の犯罪者としての可能性を認めつつも、「犯人と積極的に推認する証拠や事実はない」と断じ、無罪を言い渡した。 毎日社説は次のように云う。「『疑わしきは罰せず』との原理は、犯罪という人権侵害を裁く際に重ねて人権を侵す愚を避けるため必要不可欠な考え方だ。たとえ刑事責任の追及が不可能になろうと優先されねばならない。一般論としては、巧妙な犯罪が増えれば、迷宮入りや無罪となる事件も増加するだろうが、それでも誤判を防ぐのが法治主義のルールだ。その意味で刑罰に報復を求めるかのような風潮には、危うさを感じざるを得ない。 民主社会の市民は順法精神にのっとり、不正を許さぬ正義感と共に、無罪判決をも冷静に受け入れる理性と寛容さを求められている。厳正な裁判では「疑わしき」を無罪として当然だ。死刑求刑事件では41年ぶりというのは、考えてみれば不思議である。捜査当局の一部にある無罪判決を恥とする考え方も間違いだ云々」。 そして、お定まりと云うべきか立証主義の必要、自白強要、自白偏重主義批判、公正捜査の実現について言及している。これに比して、読売社説は、「警察、検察の捜査のあり方に猛省を迫る無罪判決だ」と指摘しつつも、毎日の如くに「疑わしきは罰せずの法理」について言及していない。 さぁ、れんだいこが云いたいことが既に分かっていただける方もおられると思う。この社説を書いた評論員よ、ならばロッキード事件はどうなんだ。首相職まで務めた者を前例の無い外為法違反という微罪の別件で逮捕し、被疑者の段階で既に犯人扱いし、プライバシーもあるものかは轟々たる批判報道に終始してきた新聞人よ、 これまた前例の無い「逆指揮権発動」を喝采し、違法性の強い嘱託尋問を擁護し、その際に反対尋問を許さずという証拠採用の非を批判せず、検事による作文調書に従ってクロ説を報道し抜き、サンケイ新聞が「田中5億円受領を認める」の一面トップ記事の虚報で捜査に協力した非を咎めず、判決前から頻りに重罪を科せと合唱し、選挙の洗礼受ければ新潟県民の見識を嘲笑し、終始「諸悪の現況」として極悪非道人扱いしてきた新聞人よ。 今頃になって、「疑わしきは罰せず」を説くとは恥ずかしくないのか。もっとも、それを恥ずかしいと思ってか、このことに触れなかった読売社説の姑息さよ、あるいは社説にさえしなかった他の新聞社評論氏の方がもっと悪質ではあろう。だから、毎日社説をこれ以上批判しようとは思わない。否、今からでも良い、ペンの責任に於いて自己批判せよ。 お陰で、我が日本では戦後政治の屋台骨を牽引してきた戦後与党主流派のハト派が一掃され、剥き出しのタカ派が反法治主義政治を何臆することなく満展開させている時代になった。何でも世界一が良いというわけでは無かろうに、国債発行残高累積一位の座を突っ走り続け、こうなったら行くところまで行け、ぶりがついたとばかりにはしゃいでいる。 とりわけ小泉はんは民営化がお気に入りらしく、そのうち自衛隊の民営化、学校法人の民営化、最後に国会民営化まで云い出すだろう。云っている訳ではないが、彼らの論法からいけばそうなるべきだ。 一足早い国鉄の民営化は大惨事を起こした。これは郵政民営化の先に待ち受ける明日を予見しているだろう。もうこうなったら原子力発電の民営化、警察の民営化、行政全体の民営化で全てを完遂すれば良かろう。あらゆる部門を突いて突いて突きまくればよかろう。 さて、締め括りはこうなる。れんだいこ党は、世の風潮に棹差す。この棹のしなり具合が政治の醍醐味と考え、棹士を目指している。政治は大切事という考えの持ち主よ、我が党に結集され同じ舟に乗られんことを。 2005.5.12日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その46 | れんだいこ | 2005/05/13 21:40 |
【緊急国際民営軍隊(現代傭兵軍)考考】
(れんだいこのショートメッセージ) 読売、産経が、2005.5.10日に発生した仮称「斉藤捕虜事件」に言及しないとしたら滑稽なことだ。自己責任論の論陣を堂々と張ってみよ。且つこうした「現代傭兵軍」の実態を明るみに出して是認してみよ。お前達の口の廻し方を聞いて見たいぜよ。 -------------------------------------------------------------------------------- 2005.5.10日、イラクのバグダッド西方約180キロのアルアサド付近で、英国系民間軍事及び警備会社ハート・グループ社の邦人社員・斎藤昭彦(東京出身の44歳)氏が、武装組織「アンサール・スンナ軍」に拘束されたとみられる事件が発生した。 ハート社担当者から入った連絡では「7遺体を確認。生存者はイラク人4人、英国人1人、南アフリカ人1人」とされた。斎藤さんの安否は不明、但し襲撃の際に斎藤さんがけがをしたという生存者の目撃情報が寄せられている。 一行を襲撃した武装勢力のアンサール・アルスンナ軍は、イスラム教スンニ派の武装組織。これまでもイラクで多くの外国人拉致、殺害を行ってきた。犯行声明で、全員を拘束して16人を殺害、1人を拘束したとしている。 イラク戦争後に現地で日本人が巻き込まれた事件としては、2003.11月の外務省の奥克彦参事官(当時)ら2名殺害事件。2004.4月のファルージャ西方でNGO活動家の高遠菜穂子さんら3名拘束事件。同年4月のバグダッド西方でフリージャーナリストの安田純平さんらが武装グループに拉致された事件。同年5月のフリージャーナリストの橋田信介さんら2人が殺害された事件。10月の旅行者香田証生さんが人質に取られ殺害された事件がある。 5.11日、小泉首相は、午前の参院本会議で、「仮に(斎藤さんの)拘束が事実であるとすれば、一刻も早い無事の解放に向け全力をあげて取り組む考えだ」と述べた。細田官房長官は記者会見で「拘束されているかどうかを含めて安否は不明だ」と語った。 ちなみに、ハート・グループ社の履歴は次の通り。1997.7月、SAS士官のリチャード・ベセル氏が設立した。ほかの警備会社も英国のSASに起源がある。SASは1941年に対ドイツ戦のため、創設された。その創始者デビッド・スティアリング氏が1967年に設立した「ウオッチ・ガード・インターナショナル」社が一連の傭兵警備会社のはしりとされる。同社は当時、主に湾岸首長国の軍の訓練に当たっていた。1975年にもSAS士官の三人が「コントロール・リスク」社を設立している。 1980年代に入り、米レーガン、英サッチャー両政権が掲げた民営化政策では軍も例外ではなく「軍隊の民営化」が加速。米国では1985年、LOGCAP(兵站(へいたん)民間補強計画)が導入され、チェイニー副大統領が最高経営責任者(CEO)を務めていたハリバートン社の子会社「ケロッグ・ブラウン・アンド・ルート(KBR)」社が急成長する。 ある米民間機関は「(米国の)28%の武力が既に民間に委ねられており、民間軍事会社抜きに戦争はできない」と推定する。ちなみにこのKBR社と米ブーズ・アンド・ハミルトン社の二社だけで、イラクに限っても国防総省発注業務の九割を受注している。 1990年代には冷戦崩壊と南アでのアパルトヘイト(人種隔離)政策の禁止で、旧ソ連兵や南アの白人兵士があふれた。米中枢同時テロ後のアフガン、イラク戦争で市場は空前のバブルに沸いているという。 「傭兵の法的な立場」が問題になる。「傭兵はジュネーブ条約で保護された兵士ではなく補償はない」「民間警備会社の傭兵が人を殺害した場合など傭兵の行為は、法的にどうなのか」。 この事件により、国際民営軍隊(現代傭兵軍)の驚くべき実態が露呈しつつある。斎藤氏は、陸上自衛隊勤務2年間(その間、対テロ・ゲリラ戦部隊にも人材を出すエリート集団第一空挺(くうてい)団にも所属)を経てフランス外国人部隊に21年勤務したエキスパート軍人だった。高給に釣られてのビジネス感覚ないしは「実戦経験を磨きたい」という思惑ないしは何らかの事情で志願する者が多い、と云う。 フランス外国人部隊の場合、志願者の国籍や宗教、政治信条が一切問われず、5年間勤務すれば仏国籍を取得でき、5年の契約期間を更新して、計15年勤務すれば年金も受給できることから旧東欧諸国の出身者が増えている。約7600人の隊員を抱える同部隊の2003年の入隊者は、1位がルーマニアの138人で、ポーランド(65人)、ハンガリー(58人)、ロシア(54人)、スロバキア(45人)と続き、上位5位を旧東欧諸国が占めている、と云う。 こうした「アウト・ソーイング」系軍事請負民間会社PMCは既に50ー60社存在し、進出外資企業の保全は無論のこと非政府組織(NGO)、国連機関もPMCなしには活動できない現実があると云われている。「イラクには、戦争請負会社、民間警備会社を通じて、傭兵が二万人入っているといわれている」。 「民間軍事会社の分類と主な業務」は次の通り。 1、軍事戦闘 戦略や作戦の立案に関する助言、実際の戦闘に部隊や兵士や指揮官を派遣している。 警備(安全保障) 政府、軍隊、国際機関、企業や関係者の警備、危機管理などを担当している。 軍事コンサルティング 戦略や作戦の分析、軍組織運営などに関する助言や訓練を実施している。 軍事支援 軍隊の補給、輸送、情報収集などに関する助言や業務を行っている。 捕虜の尋問拷問 アブグレイブ刑務所でのイラク人尋問、拷問には米国の警備会社がかかわっている。 日本人傭兵はどのくらいいるのか。「湾岸戦争時には、フランス外人部隊八千人のうち、1%に当たる八十人が日本人だった」と云われている。民間警備会社は詳細を明かさないので実態不明。 2005.5.12日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その47 | れんだいこ | 2005/05/16 21:38 |
【国会質疑考】
2005.5.16日、衆院予算委員会で、仙谷由人氏(民主)氏が小泉首相の靖国神社参拝観について質した。れんだいこは遣り取りの一部を聞いていたが、拍子抜けというか全く議論になっていない。民主党では無理なのだろう。社民党もダメ、共産党もダメ、あぁこの国では漫談しか出来ない。やはり代わる党派がいるんだな、改めてその思いを深くした。 小泉首相の靖国神社参拝は確信犯なので、その「非」を咎めても無駄だろう。今日の答弁でも、「どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきでない。(元首相の)東条英機氏のA級戦犯の話が出るが、『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ。何ら問題があるとは思っていない」との認識を示した、とある。 むしろ、小泉首相の大東亜戦争観、それとの絡みで英霊観を質せばよい。確か、国会答弁で、「強大な米英国を敵に廻して戦争したこと自体が間違い」なる見解を披瀝したことが有る。どなたか調べて、発言箇所を転載してくれれば有り難い。 れんだいこが何を云おうとしているのか。小泉首相はどうやら、かっての戦争は無謀で、だから当時も今もますます世界最強帝国である米英ユ同盟と一蓮托生することこそ国益と考えている節がある。そういう歴史観だから今も、連中の云われるままに自衛隊を派遣し、更なる参戦の道へ進みつつある。それを首相責任と考えている節が有る。 その歴史観の是非をめぐって遣り取りすることこそ本当の議論足りえるものであり、自衛隊の派兵存続か撤退かを問う真剣な議論に至る道筋だと思う。首相の靖国神社参拝の是非論は、この流れで位置づけられねば空回りする。というか、『罪を憎んで人を憎まず』などと逆に説教される始末である。 この御仁は都合の良い言葉は何の恥ずかしげも無く利用する癖がある。手前の行状には「人生いろいろ」で、政敵の行状には「説明責任がある」と平気で言える厚かましさがある。「自己責任論」も都合の良いときに押し出し、悪いとなると知らぬふりをする。 小泉はんは、意訳概要「靖国神社参拝は、平和の為の鎮魂の為に出向いている。それのどこが悪いのか」と旨をそらして平気で言うことができる御仁である。しかし、「平和の為の鎮魂」に出向いているのなら、憲法上で出来ない自衛隊派兵強行とどう整合するのか述べてみよ。ましてや、当時の英霊は鬼畜米英と闘った人士達である。今、その鬼畜米英の配下の軍としてイラク戦争に参戦させている。どうも辻褄が合わぬではないか。 否、小泉はんにはおかしくないのかな。英霊の声に耳を傾けたら、自衛隊を武装派兵させ、現地のレジスタンスと闘えなどと言ったのかな。そこら辺りを質してみるのが議論だろう。 れんだいこは何度も述べているように、小泉首相の靖国神社参拝は、タカ派的且つ国際シオニズムの御用聞き政治を隠すイチジクの葉として政治利用しているところに本質がある。これを暴き出すことこそ国会質疑の責務であろうに。ところがダメダメ全然なっとらん。これでは民主党はますます色あせていくことになるな。 2005.5.16日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その48 | れんだいこ | 2005/05/19 18:57 |
【ハト派の時代を慈しめー日本社会主義論の一定の根拠考】
今から思えば、戦後日本を主導的に牽引した自民党ハト派系の本質は、日本的土着型社会主義とも言える世にも珍しい蓮華国家形成に資するものであったのではなかろうか。今日、そのハト派系が完全窒息し、タカ派系の全盛時代となった。それ故に見えてくる世界である。 そのタカ派系は、「戦後日本は社会主義だった」として、「ハト派系が扶植した社会主義的諸要素を日本から払拭し、米国型という名のシオニズム的自由社会に純化させることを政治使命とする」としているように見える。小泉的構造改革論の本質は、この類のものであり、その限りにおいてイデオロギッシュであるのではなかろうか。 森田実氏は、「日本は社会主義だ論」を屁理屈と見なして、「今までの日本が社会主義だったとする議論は間違いである。『中央官僚主導の国家資本主義』と見るべきだろう」と云い為している。 森田氏の云わんとする眼目は次のことに有るようである。 「日本のエリートは、米国指導層のマインドコントロール下におかれている。快楽と欲望を追い求める米国的生活は日本人には適さない。日本人は米国賛美主義を捨てて、日本的生活様式を求めるべきであると思う。日本人はもともと質素で堅実な生き方をする国民である。小泉首相と小泉構造改革の推進者がモデルにしているのは、米国型自由競争社会である。より具体的に言えばワシントン・ニューヨーク型社会である。弱肉強食の非情な競争社会である。小泉構造改革推進者は『優れた力のある者がその能力にふさわしい利益を得られないような(日本)社会なら、崩壊した方がよい』と語っている。これがエリートが考える米国流の生き方なのであろう。エゴイズムの達成を人生の目的にしているエリートの存在はまことに情けない。こんなのはエリートではない」(「米国的過剰快楽追求の風潮を憂う」)。 れんだいこは、この見識にとやかく言うつもりは無い。問題にしたいのは前半部分の認識である。森田氏は、戦後日本の再建過程を「中央官僚主導の国家資本主義」と見なしているが、果たしてそうだろうか。「中央官僚主導の国家資本主義」なる規定は、確かにそうだが、今ひとつピントが合っていない気がする。 その原因を尋ねるのに階級的視点が無いということになるのだろう。れんだいこは思う。この件に関しては、タカ派系の「戦後日本は社会主義だった論」の方こそ案外と核心を射ているのではなかろうか。現代タカ派族は、ハト派が本質的に戦後日本の社会主義性を護持せんとしていることを見抜き、それ故にこれを憎むというイデオロギーに染まっている。ここに、ハト派とタカ派が徹底対決せざるを得ない要因があるのでは無かろうか。 「戦後日本は瓦解させられつつある」故に見えて来たものがある。想起して見よう。十分とはいえないが、教育、医療、年金、最低限生活の保障、失業手当等々に見られる社会保障制度、重要産業の公営企業化、公共事業への精力的取り組み等々は、「世界に誇れる質」のものでは無かったか。 れんだいこは、「共産主義者の宣言」を訳してみて改めて知った。末尾の「当面の青写真」で提起されている社会秩序は、戦後日本がその通りだったのではなかろうか。詳しくは、「本文2 プロレタリアと共産主義者(proletarians and Communists)」(marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen_ikkatubun.htm)末尾に記している。 田中角栄の政治的業績に一貫して社会基盤整備が認められる。これを土建国家論として悪し様に云う者が幅を利かせているが、れんだいこ史観に拠れば、社会基盤整備こそマルクス主義的唯物弁証法的実践の賜物である。巨万の大言壮語、空理空論よりは確実に日本社会主義の下地を整備していくものである。 このことを知る故に、戦後日本を主導的に牽引した自民党ハト派系の支持勢力は彼らを支持してきていたのでは無かろうか。してみれば、真に賢かったのはこちら側の大衆たちではなかったか。金権力により大衆も官僚も丸め込み、支持を獲得したなどという論で安住できる者は、自身の論の安普請性を知る必要があろう。 今日、崩壊した社会主義圏のその後の動向、居残った社会主義諸国のそれを見るに、いわゆる市場主義社会主義へと転換しつつある。これをよくよく思案すれば、戦後日本は当たり前の如く市場主義に立脚しており、加えて官業と民業のバランスも良く運営してきていた。何の事は無い、「戦後日本」こそがそのモデル足りえているのではなかろうか。となると、戦後日本は、今日的社会主義運動の「先取り社会」であったのではないのか。 「戦後日本」は、新憲法秩序の下で主権在民、議会制民主主義、基本的人権の尊重、社会的生存権の確保、非軍事平和愛好、国際協調主義等々の上に立脚した市場主義社会主義を逸早く実践してきた稀有なる実験蓮華国家であった、のではなかろうか。 この観点からの種々の考察はこれからである。しかし、こうみなすことにより新たな視野と展望が切り開かれるのではなかろうか。今のところ、この史観はれんだいこの独眼流かも知れない。しかし、この観点が受け入れられる下地は十分にあると自負している。これが、「宮顕論」、「角栄論」、「戦後日共運動論」を経由し辿り着いたれんだいこの結論である。 こうなると、日本左派運動の不毛と消耗性は、ここのところで認識違いをし、戦後日本を主導的に牽引した自民党ハト派系のそれをも保守反動視して、いたずらな敵対を繰り返してきたことに有るのでは無かろうか、ということになる。それは、「共産主義者の宣言」の読み損ないでもあろう。 中でも、宮顕―不破系日共党中央の自民党ハト派系と徹底対決し、タカ派糸とは是々非々路線で親和するという趣向こそ、宮顕―不破系日共党中央のとんでも性を物語っている。性悪い奴は悪い奴と組むという法理が見えてくる。れんだいこには、かように漸く見えて来た構図が有る。 してみれば、既成の歴史観、諸理論は一切あてにならない。今や、日本左派運動が歩むべきレールを一から敷設し直さねばならない。これを分かりやすく説き明かすことがれんだいこの評論的使命かも知れない、そう考えている。 加藤寛・氏は、次のように述べている。「(結局のところ)日本は市場経済の国ではなく、計画経済・社会主義経済の国だ。日本は、共産党の代わりに官僚機構が支配統制する『最も成功した社会主義国家だ』。そういう側面を強く感じた」(2005.5.17日付日経新聞「私の履歴書」、加藤寛bP6)。 加藤寛・氏はかく述べ、戦後日本の社会主義性を覆すためのイデオローグとしてその後随所で活躍していくのであるが、敵ながら否敵故に事態を的確に捉えているというべきではなかろうか。 2003.12.5日、2005.5.19日再編集 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その49 | れんだいこ | 2005/05/23 19:00 |
【戦後ハト派はどう位置づけられるべきか】
れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評その48 ハト派の時代を慈しめー日本社会主義論の一定の根拠考」で、戦後政府与党政治を一時期ながらも主流派として形成したハト派の見直しを主張した。 最近2チャンネル辺りにれんだいこ評として「何で左派であるものかは」的批判が飛び交っている。その根拠は、れんだいこが、木村愛二氏や太田龍・氏を評価すること、南京大虐殺事件を否定すること、百人斬り事件捏造説を唱えること、田中角栄を評価すること等々が挙げられている。 もっと挑発的に述べれば、ホロコースト捏造説を唱え、シオンの議定書ホンモノ説も加えて主張したとしたら、連中は卒倒するのだろうか。ついでにヒトラー狂人説否定論も入れようか。アンネの日記捏造説もどうだ。 非難轟々を我が身に引き受ける用意があるから、論には論で批判してみよ。今述べたことは、総てれんだいこ論文集の中に入れてある。つまり、れんだいこの方はすでに論を提示している。宮顕論からはじめ新日和見主議論、不破論、大東亜戦争論その他等々総て論として提起している。 さて、戦後与党政治を一時期ながらも主流派として形成したハト派の見直しにより、ハト派とは是々非々で行くべきであったと立論することは、左派運動がバイブルとする「共産主義者の宣言」(れんだいこは、「共産党宣言」と訳さない)と如何に整合するのだろうか。 気になって、「『共産主義者の宣言』読み損ない考」(marxismco/marxism_genriron_gensyo_sengen_neuthico.htm) を見直ししてみた。かなりの分量になっており総てを推敲し直すことはできないが少し書き換えた。「共産主義者のいわゆるハト派政権との関わり方考」を書き加えてみた。 眼目は次のことにある。マルクス、エンゲルスが、戦後日本国憲法とその下位法からなる法体系秩序と、それを曲がりなりにも遵守しつつ政局運営していた政府与党ハト派の政治に接したら、どういう態度を採るべきと主張したかにある。 宮顕ー不破系日共党中央のように、ハト派の総帥田中角栄の議員辞職、政界徹底追放を指針させたであろうか、というところに関心が移る。 今日でも、新旧左翼を問わず、ハト派の総帥田中角栄を「諸悪の元凶」と看做しての議員辞職、政界徹底追放こそ溜飲を下げるとして支持する見方がある。果して、これがマルクス主義運動なりしや、という思いがれんだいこにはある。 もし仮に、マルクス、エンゲルスが世にも不思議に再臨したとして、田中角栄とその政治を絶賛し、角栄の政界追放は反動的悪行であると非難したとしたら、世の自称マルクス主義者は何という口ぶりをするのだろうか。我こそはマルクス主義者である、マルクスよお前は本当のマルクス主義者ではない、お前の論は間違っていると難詰するのだろうか。 れんだいこの眼には、こういうマルクス主義者が見える。否、連中はもはやマルクス主義をどんどん変造しており、マルクス主義とは名ばかりの否今では名も科学的社会主義と書き換えておるからして、マルクス主義は骨皮筋エ門と化している。その上で、かっての民社党のその更に右派的見解を恥ずかしげも無く共産党の権威でもって主張している。 こうなると何が何だか分からなくなってしまう。その癖、党名は変えない、党中央の座イスからは何としてでも降りないという。捲土重来を耳タコになるまで聞かせてくれる。党員支持者は相変わらず、党中央の云う事はその通りとして取り巻き支持している。 こうなると稀代のサイコパス首相小泉純一郎を批判することもできまい。なぜなら、批判するその論法で、お前はどうなんだと云われたら逃げ出すしかできないだろうから。一時万事がそうなる。そういう訳で、許された範囲内での反対屋稼業しか為す術が無いのもむべなるかな。道理で、腹に力の入らない口舌で口をパクパクさせるしか出来ないのもむべなるかな。 あっ又ここへ論が来た。これを云いたかったのではない。日本左派運動は、戦後与党権力を形成したハト派をどう位置づけるべきか、これを論ぜねばならない、これが云いたかった訳だ。これはかなりユニークな提案であるが、非難轟々の栄誉に与るだろうか、それとも相変わらず万事黙殺されたまま推移するのだろうか。 2005.5.23日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その50 | れんだいこ | 2005/05/24 20:57 |
【政教分離問題について】
これもいつかは主張しておかねばならないことなので、bT0記念で書き付けておく。 「創価学会・公明党の政教一致ないしは分離問題」を廻って、特に日共不破のあてこすりが激しく、その指弾に同調する自称左派もんが多い気がする。れんだいこはナンセンスと思っているので以下記す。 「政教分離」に関する公明党の見解は、れんだいこ意訳概要「政党を支持する団体が、労働組合であろうが宗教団体であろうがそれは自由。憲法20条の政教分離規定は、憲法が宗教団体の政治活動を禁止しているということではない。国およびその機関が権力的に宗教に介入しまたは利用することを排除する趣旨である。宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。国家権力が、ある特定の宗教を擁護したり、国民に強制するようなことを禁じているのが政教分離原則の意味である」というものである。 この見解は妥当であろう。法治主義の原則に則り法文解釈に随う限りこうなるし、これで良いのではなかろうか。にも拘わらず、主として日共系から異論、抗議が為されている。れんだいこにはその方がイカガワシイと思われる。 日共系の論法からすれば、現在中国で注目されつつある法輪功が今後政治運動化するならば更に厳しく取り締まられねばならないということになろう。現に中共政府はそうしているが、そしてその中共と日共が手打ちして友誼を取り戻したということは、万一日共が政権取ったら同様の弾圧をするということであろう。れんだいことしては、双葉の芽の内から垣間見える日共の非マルクス主義的治安警察論法に警鐘しておかねばなるまい。 「創価学会・公明党の政教一致問題」は政争の道具にされてはならない。公明党が創価学会という宗教的教義に則り政治運動を展開することは、それが現行法秩序を遵守して運動する限りに於いてはそれは公認され容認されるべきものであろう。 その組織的運動的成長を嫌悪するのなら、それに対抗する党派が「創価学会ー公明党」に優る運動を創出すれば良いだけのことである。というかそれしか為すすべがない、そう解するのが法治主義であろう。 現に、1970年代に於いては共産党と公明党は激しい競り合いしていたではないか。それで良いのではないのか。分が悪くなった今頃になって、「創価学会ー公明党関係は憲法の政教分離既定に抵触する怖れ有り」など改めて言いだし、当局へ取り締まり要請するなどは卑怯姑息であろう。 「創価学会・公明党関係問題」で真に問題となるのは、己たちが法治主義によって公認されているにも拘わらず自己都合主義で法治主義の原則を踏みにじる行為を為す場合である。過去に「出版妨害事件」、「電話盗聴事件」等でその種の例を引き起こした。これは社会的に大きく糾弾され、この件では当時日共内に登竜中の不破が大いに活躍したことは記憶に残るところである。 「三つ子の魂百まで」という倣いで観れば、「創価学会・公明党」が何時法治主義の原則を放棄してそのファッショ体質を万展開するか分からない不気味さは有る。しかし、「創価学会・公明党」は事件以来少なくとも表街道では法治主義に転換しているように見える。こうなると、法治主義社会にあっては取り締まる術は無いと心得るべきだろう。危険性を警鐘乱打するぐらいのことは良かろうが。 れんだいこの感心するところは次のことである。「創価学会ー公明党」の党的能力の素晴らしさは、これらの事件を賢明に総括し、第一に、「やって良いことと悪いことの分別」をしたことである。第二に、未だ充分ではないとはいえ機関運営主義にシフト替えすることに成功したことである。以来、宗教は宗教(創価学会)、政治は政治(公明党)と分別し、お互いが「自由、自主、自律」的に運動することを良しとし、その上で創価学会ー公明党は適宜且つ定期に意見交換し、互いの見解を摺り合わせるという、「自由、自主、自律」に基づく支援関係を構築している。 それに比べるや、この間に於いて日共系には何ら本質的成長が無いことに驚かされよう。仮に党内に理論部が機関として生まれたにせよ、その理論部は党中央のプロパガンダ機関にしかならない。そういうことも含め、党内の機構改革は旧態依然で何も進歩していない。理論と運動が右へ右へと誘導されつつあるが、これに異論を唱える自由がない。相変わらずの分派禁止理論と民主集中制という名ばかりの実は党中央集権制を維持したまま、大衆団体にもフラクション意識で統制化を強めたままの「王朝制」を敷き続けている。 そういう遅れた実態にある日共系が、「創価学会ー公明党関係問題」で政教分離論を振りかざして非を咎めるのは党利党略以外の何ものでもなかろう。バカも休み休み云いたまえとはこのことだろう。日共不破がこれを云うならば、手前の組織を機関運営主義に則り、執行部責任制を明確にし得てからであろう。今は云う資格さえない。にも拘らず云々しているというのが実際のお粗末なところである。 「創価学会ー公明党問題」の最新のテーマは、政教分離問題にあるのでは決してない。このことを別の角度から述べてみる。なぜなら、宗教だ、政治科学だと言い合っても、政治科学(科学的社会主義)を主張する側の科学性は誰によってどういう風に証明されるのだ。どこにも証明されていないし証明されようがないではないか。単に、俺達のは科学、お前達のは宗教と得手勝手な論理を弄しているに過ぎないではないか。 れんだいこが滑稽に思うのは、例えば選挙分析での、公明党と共産党のそれは、どちらかというと公明党の方が科学的であり、共産党のほうが恣意的である。とても科学的社会主義の見地から分析したとは思えない珍妙な論法で、負けた選挙を勝ったと云う。あらゆる指標のうちの一つでも有利な材料がないとなるや、捲土重来を期すと云う。しかして、党中央の責任は、ここで責任を取るのではなく捲土重来に責任をとることこそ真の責任の取り方であるなどと云う。 歴代の自民党の政権側がこういう論法を使ったことはない。この詭弁が通るのなら、自民党政権は一度権力を執った側が永代の執行部に有りつけよう。現に、共産党の執行部はそうやって1955年の六全協以来宮顕派が党中央を占拠している。これに異議を唱える党内反対派はいかような名目つけても弾圧されるから育たない。イエスマンしか生き残れないという仕掛けになっている。 「創価学会・公明党問題」で真に問題とされつつあるのは、「創価学会ー公明党のシオニズム化」である。今や、世界権力と化している米英ユ同盟の配下として権力基盤を扶植し始めているその危険性にこそある。「統一原理・勝共連合」が逸早くこの軍門に下っているが、近年「創価学会・公明党」の仲間入り傾向が促進されつつある。これこそ国政上由々しき事態と云えるであろう。 しかし、れんだいこの観るところ、この問題にも日共は立ち向かえない。なぜなら、日共こそが、少なくとも1955年の六全協以来の宮顕ー野坂系党中央こそは逸早くシオニズムの軍門に下った系譜でしかないから。野坂の胡散臭さは、ソ共のスパイ性にあるのではない。彼は、英国諜報機関、米国諜報機関、シオニズム諜報機関、当然日本の当時の特高報機関との関係が露呈しつつある。それ故に、指弾されねばならないという位置に居る。 ところで、宮顕はどうだ。れんだいこの観るところ、日本の当時の特高報機関との関係は無論のこと、戦後の釈放時のイカガワシイ経緯から判明することはシオニズム系諜報機関に取り込まれている可能性が強い。不破もこれまたイカガワシイ。 つまり、こうなるとあらゆる意味で、宮顕ー野坂ー不破系日共党中央は「創価学会ー公明党」にしてやられているのに過ぎないのであって、そういう意味で用済みにされつつあるということになる。それが歯痒くて単に嫉妬的感情でいちゃもんつけているだけのことに過ぎないということになる。実際にはもっと複雑なドロドロした面があるのであろうが、能力的にヤラレテイルのは確かなことのように思える。 これは下部党員レベルまでそうかというと、そうとも云えない。その分、日本左派運動には潜在的可能性能力は有るとみなせ、救いといえば救いだろう。 以上から云える事は、我々は、日共レベルの低次元論争に付き合う必要はない。あくまで、「創価学会ー公明党派」に伍する競って負けない否彼らを取るに足らない勢力として退け得る党派とその運動の創出と力強い歩みを目指すべきである。これを世に、正々堂々と云う。この正面から受けてたつ気概の欠けた連中による逃げ逃げ鉄砲撃つ醜悪な弁論士の指導する運動では今後もやられ続けるだろう。 以上、思いつくまま記しておく。 2005.5.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その51 | れんだいこ | 2005/05/25 15:37 |
【レイプ政治に漬ける躾け薬について】 2005.5.25日付けの読売新聞編集手帳は、問題発言している。 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050524ig15.htm れんだいこがこれを取り上げ指弾する。読売は、無断転載禁止をあらゆる議事に貼り付けのを常習しており、無署名であるからして余計に云いたい放題している観がある。この論者がペンの責任を問う能力が有るのなら、取らせねばなるまい。 編集手帳氏は、「躾(しつけ)」論から書き出し、先だっての中国の呉儀副首相が、先方の申し入れで決まった小泉首相との会談を突然取り消し、帰国した非をなじっている。中国政府に躾け教育を施し、「しつけ自習」させねばならないという。結びはこうだ。「毎度毎度、自習を手伝わされる側はいい迷惑だが、さりとて、こちらが頭に血をのぼらせれば相手の蛮風に染まる。中国政府、中国の人々にはいままで通り、礼節をもって接することが肝要だろう。躾の本家として身を美しく保ちたい」。 これによると、中国政府の小泉首相靖国神社参拝を廻る不快感を表明しての政治的キャンセルは、躾け対象であるらしい。何と傲慢なと思うのはれんだいこだけだろうか。この論法に拠ると、交渉の相手国がどんな理不尽を為そうと、為された方は「痛みに耐え」恥辱まみれの礼節を尽くさねばならないということになる。 いわゆるレイプ犯に対して、被害者は抵抗することも許されずひたすら恭順すべしということになる。もしリアクション起こせば躾けが悪いと批判されることになる。 なるほど、国内では、我が従順な国民性は耐えることにならされている。小泉首相がいくら狂い咲き政治しようとも根強い支持率がこれを支え、変態と変態とのバランスで安泰ではある。 しかし、国外の者が同じように従順かというとそうはいかない。ましてや中国ともなると先の被侵略体験が有り、「罪を憎んで人を憎まず」という割り切り方ができるには時間が足りないほどに未だ生々しい。 故に、第一次世界大戦の懲罰でナチスを台頭させた非に鑑み、第二次世界大戦では過酷な懲罰をされなかったのを良いことに、再び敗戦国日本が傲慢不遜な態度を採り出すことに対しては反発を押さえきれない。あまりにも虫が良すぎる。本音で言えば、我々には報復の権利が有るのを断腸の思いで控え、国交回復に応じた。その時の相互の精神を踏まえず、踏みにじり一方的な論法で神経を逆撫でするとは、レイプされているにも等しい。甘えるのもエエカゲン二センカイというところだろう。 小泉はんは例によって頓珍漢な話法を聞かせてくれる。犬養首相を知ってか知らずでか「話せば分かる」だと。中国の呉儀副首相が会談に応じ、話しても分からなかったり、余計に怒り出したらどう始末つけるつもりだろうか。きっと何か別のステキな言い回しをするのだろうこのサイコパスは。 それはともかく、読売の編集手帳氏は、小泉はんに向けての躾けには一言も言及していない。ということは、時の権力の云うこと為す事はその通りの論調編みだしこそ我がお仕事であり天職であるとでも言い聞かせているのだろう。 マスコミの御用化は既に常態化しているからして今更不快を覚えないが、れんだいこは、この手合いに漬ける躾け塗り薬を開発せんとあかんと思っている。西日本JRの経営陣と編集手帳氏一派を「缶詰反省教育」し、お詫びするまで草むしりさせてやらねばならないと考えている。 2005.5.25日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その52 | れんだいこ | 2005/05/30 20:44 |
【小泉首相の靖国神社参拝問題の本質について】
れんだいこは、「小泉首相の靖国神社参拝問題の本質について」を「靖国神社の再創建に向けてのれんだいこ提言(れんだいこの靖国神社論)」 (daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._saisoken.htm)に記した。ここではその一部を転載する。 【小泉首相の靖国神社参拝問題の新展開】 2005.4月、中国で、日本右傾化の象徴的現象批判として、小泉首相の度重なる靖国神社参拝問題が槍玉に挙げられ、反日デモにより在中日本大使館や企業、商店が投石されという騒ぎが発生した。日本のナショナリズム派はこれを批判して悦に入っている。しかし、れんだいこは首肯し難く、この際れんだいこの観点を披瀝しておこうと思う。 「首相の靖国神社参拝」は、小泉式政治手法ではますます事態をこじらせるだけであろう。それを構わず強行突破するのが如何にもレイプ犯小泉らしさではあるが、それはどうぞ個人的趣味の世界に止めてくれ。政治は、日本の国家と人民の現在と将来を与る重責大切事であるが故に、そういう個人趣味嗜好による政治はよしこにしてくれ。 「靖国神社参拝問題」は何処に問題性が認められるのだろうか、これについて論ずる。れんだいこ史観に拠れば次のようになる。靖国神社は明治維新以降に創建されたという神社の中では非常に新しい神社であり、その由緒縁起は幕末志士を弔うことから始まっている。よって、このこと自体に非はない。且つその優れたところは、仏教式宗派毎の弔いに拠らず神道形式で一括菩提化させたところに斬新さが有り、これが受けたように思われる。このこと自体にも非はない。 この手法が明治維新以来の国家ナショナリズムの気運と合致し、その後の日清、日露以下の国策戦争の度に発生した戦死者を祀ることで人柱を増やして行き、靖国神社イズムとでも呼べるものを生み出していった。これが習い性となり軍部直轄運営の神社として昇格していった。兵士は、戦地で惜しくも生命を落とせば靖国神社に祭られるという事で安んじて国策に殉じていった。遺族は、戦地に散った我が子に会いに靖国神社に参詣するという方式が確立されていった。 「靖国神社問題」は実に、靖国神社イズムのこの手法の是非を問うのが本論である。国家が国策に殉じた者を祀るのが悪いはずがない。遺族が訪れることが悪いはずがない。むしろ、国策で遂行した以上国家にはかく為すべき政治責任があるというべきだろう。 ということは逆に、日本の左派運動が運動途上で倒れた者を祀る術を生み出していないことを考えると、それは左派党派のお粗末さを示しているのであって政治責任を果たしていないとさえ考える。 しかしながら、問題はここから始まる。靖国神社は、等しく戦死者を祀るといいながら、人柱に対してかなり政治性のある祀り方をしていることに気づかねばならない。まず、門地門柄に於いて皇室に対しては格別の祀りをするという階級的差別を敷いている。これはご神体の祀り方にも現われている。 次に、国策に殉じた者を祀るという資格要件に拘り、不幸にして幕末時に於ける幕府側の戦死者、官軍のその後の追討戦による犠牲者例えば会津白虎隊の兵士は祀られていない。明治維新以降に於いても不幸にも政策の違いにより国家に反逆した咎で散った例えば萩の乱、西南の役等々の戦死者は祀られていない。他にも、当然の事ながら、明治から大東亜戦争の過程で国策上反逆を為したと判定された者は祀りから排除されている。 ここから判明することは、靖国神社は創建以来かなり政治性のある動きをしており、時の政治権力と歩調を合わせ政治利用したりされるのを好んできた傾向が有るということである。「靖国神社参拝問題」は実に、靖国神社のこの時局迎合的政治的体質を告発するのが次の本論となるべきである。 敗戦により、靖国神社は、解体寸前に追い込まれた。一民間宗教法人と格下げされることにより辛うじて存続を認可された。以来、靖国神社に牢として染み付いたこの体質は大きく掣肘され、戦前の賑わいは見る影も無く細々と生き延びることになる。 ところが、戦後政府与党内のハト派とタカ派の政争に於いて、ロッキード事件という青天の霹靂事件の勃発と共にタカ派が次第に優勢になっていくのに応じて、靖国神社が政治舞台に復活し始める。 三木首相はハト派のバルカン政治家として知られているが、れんだいこ史観に拠れば何のハト派であるものかは。彼は穏和系タカ派に位置づけられるべきであろう。それはともかく、その三木首相の「私人資格参拝」を経ての中曽根首相の「公式首相参拝」辺りから、靖国神社と時の政権との露骨な政治的結託が露骨になり始めた。 目下の小泉政権ともなると、靖国神社側の協力の実態までは分からないが、首相の靖国神社参拝こそが政治責任として両者呼吸を合わせて「首相の責務としての靖国神社公式参拝論」を常態化しつつある。 先の、中国人民の反日デモは、小泉政権の下で急速ファナティックに進行しつつある右傾化に対する言いしれぬ不快感から発生したものと思われる。あるいは、日中友好の動きを面白からぬ勢力が背後で糸を引いているかも知れぬ。いずれにせよ、その責任は、かっての大東亜戦争の国策責任を未だ総括しない日本国の対応の拙さと、それを無反省にしたまま再び戦前並みの手法で政府と靖国神社が提携し始めている愚策ぶりにあると云えよう。 「日本国首相の靖国神社公式参拝」に対する中国政府及び人民の不快感には道理が有る。案外このことが知られていないのでれんだいこが立論しておく。 「日本国首相の靖国神社公式参拝問題」は、1972年の田中政権下での日中国交回復交渉の評価と継承に関わっている。つまり、田中首相ー大平外相コンビがものした日中国交回復交渉史を国家責任に於いて踏襲するのか反故にするのかに関わっている。こう立論すれば驚かれるだろうか。れんだいこはそう思っている。 本来、国家は連綿責任が有る訳だから、革命ないしはクーデターでも発生しない限り歴代政府は国と国の約束を遵守する義務が有ると云える。 想起しよう。田中首相ー大平外相コンビ.による日中国交回復交渉は、戦前の日帝による軍靴の損害賠償責任問題を廻って大いに対立した。しかし、日中国交回復を押し進めたい日中両国政府は、ある種の政治的取り決めを為すことによりこの問題を解決した。それが、概要「戦前の不幸な戦争は、日本軍部が引き起こした歴史的犯罪であり、日本人民にはその罪はない。悪かったのは日本の一部の戦争指導者であり、一般の日本国民ではない。日中両国人民は友誼を求める」というものであった。 それはいわばA級戦犯をスケープゴートにして罪を被せることにより、天皇も含めた国家責任を免責するという政治的トリック論法であった。しかしながら、こういう風に立論しない限り、戦災賠償責任問題における中国側の請求権放棄及び日中国交回復推進の打開の扉が開かなかった訳である。事実、日中平和友好条約協定交渉は、この歴史観を産み出すことにより条約締結の関門を突破した。 してみれば、「A級戦犯罪被せ論(スケープゴート論)」は、時の日中両国政府が編み出し共通の歴史観として獲得したものであり、相互にこれを守ることが国際的信義に関わる問題となっている、と受け取るべきだろう。事実、中国政府はこの歴史観により中国の人民大衆をなだめ、歴代政権がこの観点を継承してきている。日本政府もこの観点を保持してきた。何とならば、これは国家と国家との取り決めであったから。 問題は次のことにある。小泉首相は、こういう歴史的積み重ねに対してもレイプ式で、無造作にこれを投げ捨てて顧みない癖を持つ。小泉政権が今後とも、「日中両国政府が維持してきた取り決め歴史観」を変更し、「A級戦犯罪被せ論は間違い」で、「罪を憎んで人を憎まず論」で、A級戦犯の靖国神社への合祀、それを踏まえての首相の公式参拝、且つ終戦記念日に合わせた首相の公式参拝を強行しようとするなら、これは恣意的にできることではない。このことを分からせる必要が有るのだが、彼は聞く耳を持たない。というかそもそも聞き分け能力が欠損しているのではないか、と思われる。 本来であれば少なくとも、政府は審議会を設け、国民的合意の得られる新たなる見解を産み出す必要が有る。なぜなら、「A級戦犯罪被せ論(スケープゴート論)」には学術的には根拠がある訳で、「A級戦犯の見直しが良くない」という訳ではないから。 然しながら、日本側の天皇責任免責、中国側の対日賠償権放棄の双方をクリヤーし、日中友好を推進させるための「新たなる論理」を生み出すことはかなりの難事であろう。なぜなら、「A級戦犯罪被せ論(スケープゴート論)」は、にはとはいえ、A級戦犯には申し訳ないが上手く出来た政治的解決策であるから。 小泉首相が、首相の公式参拝を強行し続ける為には、「新たなる論理」を生み出す必要が有り、それを獲得し得て後に事前に中国政府と外交的折衝する必要があろう。それらを一切為さずして、神学論争一蹴の類の論で小泉首相のワンマンポリテックスで転換できるとするなら、この国は法治国家ではない。それは王権的独裁政治である。且つ、何らの「新たなる論理」を生み出すことなくこれを遣り続けるのは痴愚政治でしかない。 「日本国首相の靖国神社公式参拝」は概ね以上のような問題を抱えているのではなかろうか。これを認識せずに、中国政府及び人民の造反有理的反日運動に対して「内政干渉であり」、「躾け教育の必要有り」などと論ずる輩は、手前こそ躾け教育されねばならない側の御仁であろう。 問題は次のことにある。国会で新論拠を獲得しないままの小泉首相の靖国神社公式参拝強行は、まさに政治的レイプ所業である。思えば、この御仁は徹底的に反法治主義である。憲法改正ならぬままの現行憲法下でのイラクへの自衛隊武装派兵も然りで徹底的に反法治主義である。法治主義に随う限り出来ないことを平気で為す政治的サイコパスである。れんだいこは、戦後首相の中で、これほどアウトローな人物を知らない。そのサイコパスぶりが受けて支持率が高いという何とも妙ちくりんな日本政治の現状では有るが。 識者は云わないが云うべきである。上が乱れれば下も乱れる。上が法を守らなければ下も守る必要がない。こういう時代には、法の番人はあっても、れんだいこに云わせればロッキード事件での政治主義以来頭がヤラレテイル。もはやあっても無き存在で、そういう訳で社会規範がますます乱れていくことになろう。今、上からの火付け強盗の類が進行中である。これを支持するマスコミ族の犯罪も含め、正されるべきであろう。世の中は次第にアナーキーに向う。アナーキーならまだしもやがてアノミーと化してこの国は滅びるだろう、と。 2005.5.30日再編集 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その53 | れんだいこ | 2005/06/01 19:04 |
【ウォーターゲート事件黒幕考】
2005.6.1日、「ウォーターゲート事件」の際に内部情報を提供し続けた謎の情報源「ディープ・スロート」の身元が本人の口から明かされた。歴史はいつかは真実を明らかにする。 米誌バニティ・フェアは31日、連邦捜査局(FBI)のナンバー2だったマーク・フェルト氏(91)が「私がディープ・スロートと呼ばれていた男だ」と語ったことを伝えた。同氏の家族も追認しており、詳細は同誌7月号で明らかにすると云う。 米大統領選のさなかに発生した同事件は、72年6月17日、ワシントン市内のウォーターゲート・ビルにあった米民主党本部に共和党ニクソン陣営の関係者が侵入し、盗聴器を仕掛けようとして逮捕され明るみに出た。その後、ニクソン大統領の指示が、ホワイトハウスの録音テープで判明。弾劾を避けるため同大統領は74年8月、辞任した。これを世にウォーターゲート事件と云う。 ウォーターゲート事件は、ワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン両記者の特報で明るみに出た。2人は「ディープ・スロート」と呼んだ協力者を情報源として「巨悪」のベールをはがした、と評されている。 しかし、「ディープ・スロート」の身元についてはヘイグ元大統領首席補佐官など様々な名前が取りざたされてきたが、両記者は「情報源との約束で本人が死去するまで公表できない。生存している間は明らかにするつもりはない」としていた。こうして、ディープ・スロートの正体は、「米メディア最大の謎の一つ」とされてきた。 こたびそれが明かされ、連邦捜査局(FBI)のナンバー2だったマーク・フェルト氏であったことが、自身の口から明かされた。フェルト氏は「私は義務を果たしただけだ」と話しているという。その真意は奈辺にありや、冥土の土産か。 ウッドワード氏らは31日、「マーク・フェルトがディープ・スロートであり、ウォーターゲート報道では計り知れないほど助けられた。ただ、他にも情報源はあった」とする声明を発表した。フェルト氏は、ウッドワード氏らが集めた情報を確認したり、調査報道の方向性について助言したりしたとされる。 れんだいこは、こたびの「マーク・フェルト証言」にアンテナが働く。今日に至るまで、ワシントン・ポスト紙記者の事件報道は「メディアの鑑」として位置づけられ、快挙とされてきた。これに遅れを取るなとばかりに、日本のメディアが「田中角栄訴追のキャンペーン」を張ったことでも知られている。 こたび、その裏舞台が明かされた。ワシントン・ポスト紙記者がFBI高官との連携で、かなり臭い政治的役割を担って事件報道していたことが判明したことになる。こうなると、「マーク・フェルトの背後の教唆人」へと関心が走ることが成り行きであろう。そこまで解明が進むだろうか。 日本のメディアは、早くも及び腰になっているのだろうか。米誌バニティ・フェアのような姿勢を期待しても無駄と思われる。しかしながら、米国の例に倣うのを得意としている日本メディアの最低限の義務として、「田中角栄訴追のキャンペーン」の背後で蠢いていた仕掛け人の正体を吐露させねばならないだろう。角栄の批判記事ばかりが提灯され、逆記事がボツにされた経緯を明かすことから始めればよかろう。 つい先だっては、NHKの最後のドン海老沢会長追い落としの際に「高邁なメディア論」を聞かせてくれたばかりである。どうぞ「言うは易し行なうは難し」のところを実践してくれんことを願う。ついでに、かなり知能の遅れているサヨ派の妄念の蒙を啓いてくれんことを。 2005.6.1日 れんだいこ拝 |
Re立花隆のこと | れんだいこ | 2005/06/05 17:54 |
ももんがさんちわぁ。 > 少し前になりますが、読売新聞の世論調査の結果は角栄ファンにとっては嬉しい限りでしたね。官僚の力が増大しているとの結果もあわせて載っておりこちらも興味深いと思いました。 ももんがさんが角栄ファンとのことで胸襟を開く思いです。 > 最近、立花隆の「田中真紀子研究」を読み返したりしているのですが、れんだいこ氏はこの本についてはどのような感想をお持ちでしょうか? 私は、突っ込みどころが多い本ではないかと思ってます。例えば木村博保氏が、金大中拉致事件の秘密の示談金を角栄に運んだと文藝春秋に載ったスクープ記事を持ち出し日常的に現金の受け渡しがあったのだろうと決め付けてますが、新野哲也の本ではあり得ないと明確に否定されています。私も現実離れした話であり、木村氏は詐話師の類ではないかと思ってます。30年以上の昔の話だけど追跡調査をして欲しいです。立花隆は、自分に有利な情報に関しては疑うことをせずに信じ込む傾向があるような気がします。 れんだいこは、立花隆についてかなり曲者と見ております。いつも良いところに 目をつけておりますが、国際シオニズムの回し者でしかない観点を晒し続けております。そういう意味で、この御仁の若い頃よりのイスラエル詣での実態を精査する必要が有ります。れんだいこには時間と資料が無さ過ぎる。どなたか頼む。いかんせん、コヤツを提灯する者が多過ぎる。 > 最後になりますが、角栄神社の建立楽しみにしています。 そうですね、これはれんだいこ余生のテーマです。靖国神社の隣り辺りに敷地を買って建立してみたい。靖国行くのも良し、しかれども角栄神社参らねば片手落ちという風にしたいと思います。 ちなみに、最近のA級戦犯分祀論は底が浅い。A級戦犯分祀しても基本的な解決にはならないというのに。小泉の靖国参拝に対して、「英霊の鎮魂のために、二度と戦争を起こしてはならないという不戦の思いを込めて参拝しているというのなら、自衛隊のイラクへの武装派兵、やっていることは間接参戦、今後は直接参戦化させようとしているお前のやっていることはまるで辻褄が合っていないではないか。整合的に持論を述べてみよ」と迫り、小泉首相の歴史観を問いただし、支離滅裂振りを晒けさせることが大事でせう。 ごく普通に考えて、こういう質問を為すべきなのに誰も云わない。これは「政治の不作為」ではないでせうか。社共も民主党も、イラク派兵自衛隊の今ある危機危険に対して、小泉政府を追及しない。これはなぜなんだろう。形を変えた追認ではないでせうか。 郵政論議にしても、巨大な郵政マネーがハゲタカファンドの餌食にされようとしている、ここがポイントでせう。特定郵便局が潰れる潰れないの良し悪し論議はこれまた争点ぼかしでしかない。 何でこの国は本当の話をしないのだろう。こんな手合いに税金食い潰しされるのを許すのが恐らくブルジョア民主主義議会の本質だろう。最近そんな風に考えております。 それを思えば、角栄の民主主義論は真っ当な感覚を持っていた。真の姿を蘇らせ再評価させねばならないと考えております。 2005.6.4日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その54 | れんだいこ | 2005/06/06 20:34 |
【戦後民主主義の申し子としての角栄考】 ももんがさんとの遣り取りの末尾に「それを思えば、角栄の民主主義論は真っ当な感覚を持っていた。真の姿を蘇らせ再評価させねばならないと考えております」と記した。これを補足する。 れんだいこは、角栄語録を「田中角栄論」(kakuei/tanakakakuei.htm)の「田中角栄語録」(kakuei/goroku.htm)で集めている。 もう一つ、「自由討議」(kakuei/giyoseki_giyutogi.htm)でも検証してみたいと思っている。 興味深いことは、角栄は、民主党議員として本会議場に初デビューし、初当選初国会の場で、この頃制度として発足した「自由討議」(フリートーキング)に参加し、次のように述べていることである。 「新国会法によりまして、本会議において、議員相互に自由討議の機会を与えられましたことは、形式主義に流されやすい本会議に、清新なる活を入れたものでありまして、新国会運営上、重大視せねばならないと思うのであります」。 「本会議場において活発なる討議の展開ができますことは、明朗なる政治、すなわちガラス箱の中での民主政治の発達助長に資すること大なりと思うものであります」。 「おのれのみを正しいとして、他を容れざるは、民主政治家にあらず、それもし一歩誤れば、戦時下におけるあの抑圧議会の再現を見るのであります。米国議会においては、他党所属議員の登壇発言に際しましては、挙党拍手をもって送り、拍手をもって迎えるのであります。 名論なりと思いながらも、他党なるのゆえをもちまして、拍手もせず、(先般和田長官に対して)、落第坊主と叫び、保守反動、右翼黙れ、何を、というがごとき応酬は聞きにくく、民主議会の発展の上に遺憾に思うものであります。すべからく、わが民主党の議席のごとく、低級なる野次も飛ばさず、名論出でたるときは全員拍手するの、この状況になっていただきたいと思うのであります」。 「明治大帝陛下も、『よきをとり悪しきを捨てよ』と仰せられましたごとく、他議員の発表はこれを聴き、しかして、その賛否は自由なのです。おのれのみ正しいとして、他を入れざるは民主政治家にあらず。それをもし一歩譲れば、戦時下における、あの抑圧議会の再現を見るのであります」 。 「議員は一人というものの、この背後には15万5千人の国民大衆があって、議員一人の発言は、まさに国民大衆の血の叫びなのであります」。 この発言により、角栄が如何に議会を重視し、議会討論を重視し、率先したかが分かろう。事実、この姿勢は角栄政治の政治原則として終始遵守されていた。 もっとも、画期的な意義を持つ「自由討議制」はその後空文化し、わずか数回行われただけで、8年後の1955年の国会法第5次改正によって実益の無い制度として削除された。こうして、国会における自由討議の芽は、育てられることなく、双葉のうちに摘まれてしまった。 それはともかく、角栄語録には次のような言葉が有る。 「政治家にはオール・オア・ナッシングというのはない。まず最善手を指し、次善、三善の策を考えることだ」。 「政治に金がかかるのは事実だ。酢だ、コンニャクだと、理屈をこねても始まらない。池田や佐藤にしても、危ない橋を渡ってきた。きれいごとだけでは済まないんだ。必要な金は、俺が血のしょんべんを流しても、自分の才覚で作る。君達は俺の金を使い、仕事に活かしてくれれば、それで良い」。 「池田、佐藤は京大、東大だ。財界の連中もだいたい、そうだ。みんな先輩、後輩、身内の仲間なんだ。俺は小学校出身だ。ひがみじゃないが、俺は彼等に頭を下げて、おめおめとカネを貰いに行く気はない」。 「私はメシも仕事も早い。一生の間理想を追っても結論を見いだせないような生き方はキライだ。すべてのことにタイム・リミットを置いて、可能な限りの努力をするタイプなんだ」。 「ロッキード事件というトラバサミにかけられた。足をとられた方が悪いのか、トラバサミを仕掛けた方が悪いのか、それは後世の学者が判断するもの。私は断じて何もしておりません」。 いろいろいいことを云うなあさすがに。これぐらいにしとこ。 2005.6.6日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その55 | れんだいこ | 2005/06/09 21:10 |
【スパイ呼ばわり考】
2005.6.9日、急遽「スパイ呼ばわり考」をサイトアップした。思いついたのは、「2ちゃんねる、ニュース議論の政治版 田中角栄パート2」のbW68投稿「名無しさん@3周年」氏による「日米同盟が日本の生命線だとまだ分からん香具師こそ、大 馬 鹿 w」を目にしてである。そうだ、云いたいことを云い忘れていたことを思い出した。以下、書き付けておく。 字面を読んで批判能力のない者は、学習はし得た証にはなっても、それだけでは海のものとも山のものとも分からないものでしかない。なのに、世の中では、学習したというそれだけで先生といわれる身分になりインテリ面する者が多い。 昨今、シオニズムが威勢が良いが、こういう時代にはシオニズム追従学問がはびこり、それを如何に習熟しているかで識見を競う手合いが増えてくる。要するに「強い者に靡け巻かれろ」式の立身出世学でしかないのだが、それに群がる手合いが増えている。 「日米同盟が日本の生命線だとまだ分からん香具師こそ、大 馬 鹿 w」なる論は、さしずめその典型的な学徒であろう。己こそ香具師なのに、その香具師が人を香具師呼ばわりして胸を張る。こういう手合いに漬ける薬が無いので永遠にはびこり続けるだろう。 慧聴の人は既に閃いているであろうが、「スパイ呼ばわり」もこれに似ている。己がスパイなのに、そのスパイがよりによって人をスパイ呼ばわりして、世渡りし続けている。れんだいこに云わせれば構図が瓜二つである。 字面を読んで批判能力のない者は、学習の結果、スパイ呼ばわりされている者をスパイであろうと推断し始める。この間、スパイ呼ばわりしている者へのスパイ疑惑には向わない。こうして「云い得云い勝ち」が横行する。 れんだいこが、誰を念頭に於いてものを云っているのか、「左往来人生学院」を読んでいる者には自明だろう。しかし、何も宮顕や野坂や不破ばかりが対象ではない。日頃、相手を異常にスパイ呼ばわりししている者や党派が居れば、疑ってかかれば良い。「お前こそどうなんだ」と逆疑惑の眼を向ければよい。 相互にスパイ呼ばわりしている場合には、昔から云う言葉を思い出せばよい、「云っていることよりやっている事を見て判断せよ」と。良い事を云う者は多い。しかし、良い事を云う者が良い事をしているとは限らない。むしろ、逆の場合が多い。昔から云う、この手合いの説教には「眉に唾して聞け」と。これこそ智恵と云うものだろう。 しかしながら、批判精神抜きの字面追いが多い。書いてあることを直ぐに間に受け、人が二言三言言うのを三倍にも四倍にも云うことで正義の気分を満喫させる者が多い。賢者はそう単純にはならない、むしろ慎重である。相手が有る場合には「お互いの言い分を聞いて得心してからでなければ尻馬に乗らない」からである。これを経験智というのか批判精神というのか分からないが、賢者はこういう態度を採る。 昨今、この精神が弱すぎる。良いこと云う者が居れば単純にその言葉を真に受けてしまう。誰かがスパイ呼ばわりしていれば、単純にその言葉を真に受けてしまう。マスコミが洪水の如く情報を垂れ流せば、いとも容易く世論誘導されてしまう。偏に経験智というのか批判精神の欠如が原因だろう。 そりゃぁ確かにそういう共通認識を獲得せねばならないこともある。しかし、その場合には「確定された事実の根拠の積み重ね」によってそうするのであり、軽挙妄動によってスパイ呼ばわりするのではない。スパイを摘発したからといって直ぐに査問すれば良いというものでもない。戦線放逐もあろうし、逆利用もある。むしろ、冷静に逆観察する場合もある。スパイ問題は、最も高度な知能戦として対応せねばならない。これが正式の態度では無かろうか。 それを、誰それ捕まえてはスパイ呼ばわりし、査問し、その結果相手が瀕死の重傷負ったり死亡したりすれば、「自損傷、予期せぬ死亡、教育的措置、急性自死により結果した」などと居直るなど許されることではない。 本来の左派運動にはこういう陰気なものは無縁である。見解は分かれるのが普通であって次第に常に練り合わせていくものでしかない。党中央には指導権はあっても強制権は無い。そう分別すべきではなかろうか。絶対的云々なんて云いだしたり如意棒振るい出したらむしろ警戒すべきだろう。 党派運動であるなら、むしろ下部段階では防ぎようが無いが、上部段階には潜入させぬ工夫こそに心血注ぐべきものであろう。これこそ歴史的教訓である。それを、いとも安易にスパイ呼ばわりしたり、規定したり、香具師呼ばわりする者こそ気をつけよ。 結論として、カオス的ルネサンスの気風を理解しない相互に相手を認めようとしない唯我独善ロゴス派の輩、党派、党中央には気をつけよ。「あれもやりなはれそれもやりなはれ」で何ら構わない。世には相乗効果というものがある。これを掣肘する者こそ警戒せよ。これを云っておきたかった。 2005.6.9日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その56 | れんだいこ | 2005/06/17 20:12 |
【日共の靖国神社批判について
】daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._left.htm
「小泉首相の靖国神社参拝」を廻って議論が為されているようで空回りしている。宮顕ー不破系日共の靖国神社論を検討してみるのに、表面的な左派的言辞を取り除けば、その中身は粗雑である。これを検証する。 日共は、靖国神社について次のように規定している。 意訳概要「靖国神社は、軍国主義と侵略戦争推進の精神的支柱であり、内務省所管の一般の神社とは違い、陸・海軍省所管で、。文字通り別格の、『天皇のための名誉の戦死』をとげた人々を『英霊』としてまつる軍事的宗教施設であった」。 この規定は、日本左派運動の本家としてそれなりのものであるように思える。しかし、実は問題が隠されている。靖国神社が日帝の精神的支柱であり、軍事的宗教施設であった云々は事実認定であるからして異論は無かろうが、要は中身である。「軍国主義と侵略戦争論」がそれに当たるが、この認識に於いて、日共は共産党とは思えぬ独特の観点を披瀝しているからして割り引かねばならない。 2005.5.13日け赤旗掲載の「日本外交のゆきづまりをどう打開するか 戦争終結60周年・アジア諸国との最近の関係をめぐって 時局報告会 不破哲三議長の講演」(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-13/25_01_0.html)に拠れば、宮顕ー不破系日共党中央の歴史観による第二次世界大戦とは、次のようなものである。 意訳概要「第二次世界大戦に於ける日独伊枢軸同盟は、いかなる大義もない侵略戦争―不正不義の犯罪的戦争だった。先の戦争に於ける日本軍の蛮行は、『現に行われているイラク戦争にくらべても、不正不義の度合いがケタ違いにひどい』。日本とドイツの侵略戦争を断罪し、このような戦争を二度と引き起こさない世界をめざすことが戦後の世界政治の共通の原点となったおり、日独伊のファシズム・軍国主義の侵略陣営とたたかった反ファッショ連合国の聖戦の意義を再確認せねばならない」。 不破は、いつもヌルヌル述べはっきり云わないが、れんだいこが要約すれば上述のようになる。不破演説のこの観点が特段に問題にされていないので、これが現下日共党中央の第二次世界大戦観として受け取れば良かろう。以下、れんだいこが、これを批判する。 諸君! 第二次世界大戦をこれほど連合国側に立って弁論するのは異常ではなかろうか。かの戦争は、旧帝国主義派の連合国側と新帝国主義派の日独伊枢軸同盟側との世界再分割戦争であった、と看做すのが左派見識ではなかろうか。不破にはこの観点は微塵もない。あるのは、連合国側=反ファッショ=正義、日独伊枢軸同盟側=ファッショ=不正義という漫画的な善悪論による断罪史観である。これは余りにも子供だましの論理であり馬鹿げていないか。 更に許せないことに、「先の戦争に於ける日本軍の蛮行は、『現に行われているイラク戦争にくらべても、不正不義の度合いがケタ違いにひどい」の一節である。不破は、日本軍の蛮行を際立たせるために敢えてこのように述べているのであろうが、断じて許せない。現在進行中の米英ユ同盟によるイラク戦争の残虐非道さよりも、かっての日本軍の蛮行の方が「不正不義の度合いがケタ違いにひどい」とは。 この見解は、目下進行中の米英ユ同盟によるイラク蹂躙を余りにも免罪せしめていよう。これが、永らく日共の最高指導者として君臨してきた不破の見解だと。不破にはイラク人民の声は聞こえないらしい。米英ユ同盟軍の「ファールジャでの蛮行」は目に入らぬらしい。れんだいこに云わせれば、目下の米英ユ軍の残虐非道さこそ最新兵器を交えたものであるだけに、国際法蹂躙の質に於いても史上最大のものとして糾弾せねばならぬというのに、これを逆に描くとは。 一体、不破のオツムの中はどうなっていいるのだろう。それを咎めない左派運動のオツムの中はどうなっているのだろう。この発言が問題にならないとすればその方が問題であろうに。 このような発言を不問している日共党内の「民主集中制」とは何ものぞ。要するに「民主集中制」とは、党中央の言説を学習するばかりの上から下への機関主義の代名詞であって、党中央見解批判が許されない集中制でしかないシステムであるということだろう。そういう次第で、不破は言いたい放題でこれまで来れたし、これから先もボケるまで云いたい放題するのだろう。 このような歴史観に立っているものだから、A級戦犯は、その悪逆非道戦争を指揮した最高司令官ということになるようである。次のように規定している。 意訳概要「A級戦犯は、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で、侵略戦争を計画・実行したとして『平和に対する罪』で裁かれました。太平洋戦争を始めた東条英機元首相ら25名に有罪判決が下り絞首刑されましたが、当然の措置です。 そもそも、日本が無条件降伏して受け入れたポツダム宣言は、『一切ノ戦争犯罪人』にたいし『厳重ナル処罰』を加えることを明記しております。サンフランシスコ条約でも、日本は、東京裁判をはじめ連合国戦争犯罪法廷の『裁判を受諾し、刑を執行する』ことを受け入れました」。 日共ははっきり云わないが、れんだいこ理解に拠れば上述のように云っている。この「A級戦犯論」も本来の左派的見解ではない。A級戦犯に限って云えば、誰の眼にも、勝者側が都合の良い理屈で敗者側を裁いたのが国際軍事法廷であり、その結果生み出されたのが「A・B・C級戦犯」であろうに。 れんだいこに云わせれば、「A・B・C級戦犯問題」には、指導者か否かという識別以上の意味は無い。戦争で負けたことにより責任を問われ、スケープゴートにされただけのことではないか。それをどうしても悪玉のチャンピオンとして描き出す日共流歴史観の心理には何が影響しているのだろうか。 本来なら、左派は、特殊日本的には天皇制軍国主義批判に向うものであり、世界的には世界の再分割戦争批判に向うべきであろう。歴史は善悪道徳では測れないのに、何故善悪道徳基準で裁こうとするのだろう。理屈は後から貨車でやって来る、とは有名な言葉ではないか。 宮顕ー不破系日共党中央は、A級戦犯そのように規定しているものだから、「A級戦犯の靖国神社合祀」は心情的にも許し難いものになるようである。「A級戦犯を祀った靖国神社を首相が参拝することは、侵略戦争を肯定することになる」として、首相の靖国神社公式参拝を批判している。 今現在で云えば、「小泉首相は、憲法違反という判決がすでに確定しているのに、なぜ公式参拝にこだわるのか」と難詰することになる。その挙句に、次のように云う。「どうしても行くなら国立の千鳥が淵戦没者墓苑へ行け」。なぜなら、「国立の千鳥が淵戦没者墓苑は特定の宗教には関係のない施設であるから」。例によって、お気に入りの最高裁判決を持ち出し、「さきの最高裁判決でも、戦没者の慰霊自体は、特定の宗教とかかわりを持った形でなくても行うことができるとのべているからしてそうすべきだ」と云う。 日共ははっきり云わないが、れんだいこ理解に拠れば上述のように述べている。しかし、これもオカシナ話だ。本来なら、小泉首相の「戦没者追悼」名目での靖国神社参拝は、次の点から批判されねばならない。 第一に、何故8.15日に拘るのかの批判に目を向けるべきである。それは余りにも侵略された側の神経を逆撫でしよう。8.15日には大東亜戦争史的総括の国家的行事があっても良さそうなのに。 第二に、小泉首相は、「戦没者追悼」と云いながら新たな参戦を仕掛けている。しかも英霊が闘った相手の配下軍として派遣している。その理屈の非をこそ衝くべきではないのか。「国立の千鳥が淵戦没者墓苑へ行け」などは、お門違いの話だろう。 不破は、先の講演で、「なぜ靖国なのか。今日の靖国問題には、互いに深くかかわりあった二つの側面があります。一つは、戦没者追悼に名を借りた侵略戦争の美化。歴史教科書問題と軌を一にした歴史の偽造です」と述べている。 これもオカシナ話である。自衛隊のイラクへの武装派兵、米英ユ軍の手下の同盟軍としての派遣との絡みでこそ「小泉首相の靖国神社参拝問題」を論うのなら分かる。その目下喫急の問題と結びつけず、かっての侵略戦争の美化である云々とはこれ如何に。 不破の手に掛かると、一事万事がこういう味気ない調子のものになってしまう。それと、不破が、「歴史の偽造批判」をするのはおこがましい。お前は、党史を偽造し抜いているではないか。何なら、党史全編にわたってれんだいこと突き合せて議論してみようか。幾らでも暴いてしんぜよう。 なお、蛇足しておくと、日共は、「靖国神社の遊就館批判」を好んでいる。その論拠は、靖国神社の遊就館はかっての戦争を聖戦化し、歴史責任を正当化しようとしているからだと云う。意訳概要「日本の総理大臣の行為によって、『靖国神社式歴史観』に市民権を与えることは、絶対にあってはならないことです」と云う。 れんだいこが思うに、「日本の首相の行為が『靖国神社式歴史観』に市民権を与える」ことを批判するのなら正しい。しかし、「『靖国神社式歴史観』に市民権を与えること自体」を批判するのなら正しくない。なぜなら、教科書問題も然りだが、右派が右派系教科書作って採択運動起こすなり、遊就館で聖戦イデオロギーをプロパガンダするのは基本的に自由であろうから。 気に入らないのなら、左派も又負けずとばかりに左派系教科書作って採択運動起こせば良い。「人民の日本史」でも作って太古から現代まで記述したものを作成し普及を目指せばよい。遊就館イデオロギーに対抗するのにどこかにそれなりの反戦平和館あるいは人民大衆闘争館なり作って反戦平和、抵抗革命イデオロギーをプロパガンダすれば良い。そういう正々堂々とした運動こそ望まれているのではないのか。 そういうことをしなくてケチ付け批判ばかりでお茶を濁している。原水禁運動の分裂固定化、憲法記念日のオザナリ集会を改め、年々盛大化させれば良いのに。なぜそれをしないで、保守反動派、米英ユ配下売国派の動きにのみ過敏なふりをするのだろう。それはあらかじめ負ける戦ではないのか。だから、世の中が右へ右へとたなびいているのではないのか。 不破は、「日本外交のゆきづまりをどう打開するか」などと云う前に、「日本左派運動のゆきづまりをどう打開するか」と問いかけてみるべきだろう。俺のようにやればこうなると胸をふさいで見せるのがよかろう。 2005.6.17日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その57 | れんだいこ | 2005/06/19 00:05 |
【「国策捜査」考
】 今日、ロッキード事件考サイトの中に「国策捜査考」(kakuei/rokiido_kokusakutaihoco.htm) を書き加えた。これは重要な指摘であるが、どうもそれを感知する力が足りないのだろう、早くも情報洪水の中で風化しつつある。もう一度、この貴重暴露を押し戻して俎上に乗せる。 佐藤氏は、自らの体験をもって検察の最近の政治主義化の異常を告発しているのではなかろうか。多少ソフトに書きぶりしているが、それは処世法上そうしているのであって、本来は怒り心頭に発した権力腐敗暴露なのではなかろうか。 それを忖度せず、ソフトにしている面を生真面目に受取り、この方面に意味有るかのごとくああでもないこうでもないと解釈していくのは如何なものだろうか。れんだいこには馬鹿げているように思える。 とはいえ、佐藤氏は、あまりにも穏和に書き過ぎているように思える。異例の長期拘留に対して怒りをぶつけず、自ら好んで体制側の懐に再び舞い戻ろうとしているように思える。自分に仕掛けられた仕打ちに対して、何とか善意に解釈しようとしているように見える。 れんだいこの臭いとして、日共内新日和見主義事件の被査問者の心理と似通っているような気がする。あの時も、査問された側は、査問した党中央の意図を勝手に善意に憶測し、怒りを向けるよりは理解しようと務めたことが体験報告されている。こういう処世法は日本人特有なのではなかろうか。 普通には、佐藤氏は、自分が生体験した「国策捜査」の背景を探り、それが小泉官邸の指令であるなら断乎として告発して闘うべきだろう。あまたの評論氏は何とかしてここへ向わせないような駄文を書き連ねているように見える。佐藤氏は、その第一号としてのロッキード事件にまで思いを及ぼし、田中角栄の悲哀を知るべきだろう。そして、その振幅が次第に乱脈になっていることを乱打して知らすべきだろう。 残念ながら、佐藤氏にはそういう姿勢が見えない。相変わらず田中真紀子批判を外務省高官と同じレベルで蒸し返していることでそれが分かる。真紀子と角栄とは違うとはいえ、このセンテンスでは同じだろう。本来なら憎き親米英ユ派の野上外務次官との意思疎通振りをも得々と披瀝している。 つまり、真に闘う相手が見えておらず、未だ自己が対自化できていない、そう思うのはれんだいこだけだろうか。それはともかく貴重な告発であることには相違ない。 2005.6.18日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その58 | れんだいこ | 2005/06/20 10:33 |
【小泉首相の外交能力考】 小泉首相の政治能力、外交能力が問われる正念場の舞台がやってきた。2005.6.20日、小泉首相は、訪韓し、ソウルで、盧武鉉(ノムヒョン)大統領と7回目の会談を行う。 どうしても避けて通れない問題として、小泉首相の靖国神社公的参拝に伴う歴史認識問題がある。韓国側は、「靖国問題を含む歴史認識問題が重要議題の一つになる。韓国政府と国民は、過去の謝罪に見合った実践を求めている」と事前通告してきているとのことである。 つまり、こたびの首脳会談では、先の戦争の史的総括が鋭角的に問われており、小泉首相がどう遣り取りするのかに注目が集まっている。物別れ会談となるのか、小泉首相が一方的に聞き役に終始するのか、官僚シナリオの答弁棒読みでお茶を濁すのか。いずれにしても和やかな会談というのは考えられない。 れんだいこの予想として、会談は、小泉首相の胆力負けで終わるであろう。なぜなら、彼には真剣な会談に耐え得る歴史哲学も識見もそもそも持ち合わせていないからである。よって胸襟相照らす仲になることは考えられない。 れんだいこが思うに、これは日韓の頭脳戦である。このところ日本側はタカ派政権になって以来次第に能力が低下しつつある。タカ派政治は米英ユ同盟の腰巾着路線一辺倒であるからして自分で考える必要が無い。そういう訳で、その皺寄せとして脳軟化症が進みつつある。逆に、韓国側は、近現代史上最高のルネサンス社会を形成しつつあり、能力向上が著しい。 妙なことだが(実際は妙でもないが、その論及は割愛する)、韓国は今や囲碁棋界世界一の座を席巻しつつある。日本は逆にプロ数は断然一位を誇るものの各種の世界棋争で韓国に負け中国に負け台湾に負け続けている。そういえば北朝鮮にも囲碁ブームが始まりそうな気配である。次世代の台頭ぶりから見るにこの傾向は今後ますます強まると見られている。 れんだいこは、何が言いたいのか。それは、明治維新以来百有余年、日本が東アジアの雄国である時代が終り、経済的にも外交的にも遅れを取る時代が遣ってきた。こたびの日韓首脳会談はそれを証する会談になるであろうという予想をしておきたいということである。 問題は、日本は再起するのか、永遠にこの土壷にはまり続けるのかにある。れんだいこの見るところ、今の政治が続けば国債処理同様に自力解決する能力を持たず治癒し難しではなかろうか。 なぜかような日本になったのか。右翼は、大東亜戦争の敗戦後遺症を云う。れんだいこは、その説は採らない。むしろ、戦後憲法秩序は「新時代の青写真」として稀有な蓮華国家を指針せしめており、これはむしろ戦争ー敗戦で贖った代価として獲得したものではないかと見立てている。下手な左翼は、ポツダムヤルタ体制の落とし子としてこれを批判してきたが、れんだいこはそのような説を退ける。 れんだいこ史観は、戦後憲法秩序の上に花開こうとしていた戦後政府与党自民党のハト派政治を高く称賛する。その失脚転回点となったロッキード事件を疑惑する。あれ以来、日本は最終的に独立国家の気概を失ってしまった。あれ以来、日本は米英ユ同盟の露骨な支配下に置かれ、政治経済文化外交が手玉に取られ始めた。それまでのハト派政治は何とか遣り繰りしてきていたが、米英ユ同盟が許さない時代に入ってしまった。 小泉政権は、そういう時代の行き着いた結節点であり、臆面も無く米英ユ同盟の配下国家へと日本を仕上げせんとしている。これをマスコミが囃し、評論家諸氏が追従し続け、国会は大政翼賛会の湯船の中で宴会政治を謳歌している。醜悪極まれる図柄であるが、何せこれを批判する主体が出てこない。 ちらほら台頭の望まれる党派はいるにはいるが、れんだいこ史観に立ち切れておらず、為に舌鋒が弱すぎる。地方議会選挙あたりで苦労するようでは先が思いやられる。それというのも、共同戦線式共闘会議が創出されないからであろう。 こうなったら、組める同士で組んで二、三、四の潮流を生みだしたら良いではないか。でないと日が暮れる。れんだいこはそう思っている。れんだいこ党は僅かの手勢ではあるがその為に用意してある。党員諸君宜しければ意見聞かせてくれ、公開で構わない。 2005.6.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その59 | れんだいこ | 2005/06/21 20:16 |
【小泉首相の大東亜戦争観、A級戦犯論考】 2005.6.20日の日韓首脳会談は、あらかじめ官僚が草稿していた文章を順番に読み合わせただけの惨めなほど低レベルな会談に終始した模様である。小泉首相は会談道中で、ああ云えば瀬こう云う式のいろいろ約束しているようだが、端から実現性のない実現したとして何の実も結ばないその場しのぎの空手形乱発ばかりである。次回の首脳会談を年内に日本で開催することで合意したことのみが成果というお粗末なもので終わった。 異例なことに、共同会見で質問を受け付けなかった。この種のことは異例でない、質疑応答がなくなったのは韓国側からの要請のせいであるとの報道が為されているが、ちゃんちゃらオカシイ。小泉首相はとかく望み通りする癖のある御仁であるからして、共同会見で質問受け付けずがオカシイと思うなら、質問受付スタイルにすれば良かろうが。 それはともかく、我々は、小泉首相の大東亜戦争観をもう一度確認する必要が有りそうだ。小泉の強行的靖国神社参拝論の論拠はどうも支離滅裂が激しすぎるから。彼は一体、大東亜戦争をどのように史的総括しているのだろうか。 確か、これを廻っての希少な遣り取りが国会質疑されている。残念ながら、れんだいこはこれをノートしていない。どなたか検索して教えてくれないだろうか。れんだいこの記憶によれば確か、「大東亜戦争は無謀だった。かの強大な米英軍に戦いを挑んだこと自体が判断の誤りであった云々」というような答弁をしていたように思う。 してみれば、そこには右派的な聖戦イデオロギーは微塵も無い。あるのは、現代風に云えば、現代世界を牛耳る米英ユ同盟との親和論であり、これこそ日本の目指すべき進路との観点から批評しているに過ぎない。 してみれば、目下、シオニズムに拝跪し、諸政策を先頭切って協力しているのは不思議でもなんでもない。しかしてこれは、勝共統一原理的思想と近似している。小泉首相が福田赳夫の秘書時代、勝共連合と密接な関係にあったことがリークされているが、実にこの頃より洗脳されている根深い歴史観ではなかろうか。 よって、A級戦犯論にしても然りである。小泉首相のA級戦犯論は、右派的なA級戦犯気の毒論ではない。6.2日の衆院予算委員会で、小泉首相は、民主党の岡田克也代表の質問に答弁し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪とされたいわゆるA級戦犯について、「戦争犯罪人であると認識している」と述べている。 我々は、小泉首相が、A級戦犯に対して、「戦争犯罪人であると認識している」論拠をもう少し聞きだしてもよかろう。他言が無いので推測するしかないが、「勝てる見込みの無い戦争に引き込んだという意味での戦犯論」に立っているということか。あるいは、米英ユ同盟として立ち現われているシオニズム的世界観、歴史観こそ正であり、その他は駆逐されるものとして了解し、A級戦犯はそれに立ち向かった故にA級戦犯として看做しているのではなかろうか。 いずれにしても、これは異筋な戦犯論であろう。小泉首相が急に左派になったという訳では有るまいから、これも勝共統一原理的シオニズム思想に被れていると受け取るべきではなかろうか。 その小泉首相の靖国神社参拝論も変わっている。彼は、首相になる前に特段に靖国神社を詣でていた訳ではない。2001年の総裁選の最中に、「終戦記念日の8.15日靖国神社参拝」を公約明言したことに対する「信義」に基づき参拝し続けているに過ぎない。 ちなみに、この公約は、国債30兆円枠のように「この程度の公約が破られたからといってたいしたことではない」という訳にはいかないようである。とかく、アジアで揉め事を起こし続け、とかくアメリカはんのご登場お出ましを図るのが言いつけられている命令なのだろう。 もとへ。何事も大義名分がいるから次のように述べている。「首相の職務として参拝しているのではない。私の信条から発する参拝である」。しかし、これもオカシイ。靖国神社イデオロギーからすれば、公的参拝こそ首相の政治責務論であるからして、小泉式私人資格参拝論は歴史的後退でしかない。 しかも、こたびの日韓首脳会談でも述べているように、概要「戦争を美化したり、正当化しているのではない。心ならずも戦場に赴いた戦没者たちの追悼のために参拝し、二度と戦争を起こしてはいけないという不戦の誓いを込めた気持ちから参拝している」というのが持論である。 しかし、これもオカシイ。「不戦の誓いから何度も何度も参拝している」者がなんで戦争で被害にあった方への配慮が出来ないのだ。辻褄が合わんではないか。なんで専守防衛区域から大きく外れているイラクへ自衛隊を初武装派兵しているんだ。お前ほど露骨に戦争事態へ日本を引き込もうとしている者は居らんではないか。 云うこととやっていることがちゃらんぽらんではないか。 思えば、小泉は、先に中国副首相が会談をキャンセルして帰国したのに対し、「話せば分かるのにね」と短いコメントを発していたが、ならば問おう、こたびの会談で盧武鉉(ノムヒョン)大統領を分からすことが出来たのかね、相手は分かってくれたかね。 2005.6.21日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その60 | れんだいこ | 2005/06/22 20:31 |
【小泉首相のサイコパス性について】 今日、運転の道中で国会質疑を聞くことが出来た。自民党、公明党の質疑の悠長さは話しにならない。民主党の質疑も似たりよったりであるがややましか。それはともかく、小泉首相の答弁を聞いて改めて思ったことは、全編が質問に対する答弁になっていないということである。あるのは聞かれたこととは関係ない自己主張だけである。 れんだいこは割合早くより「小泉首相性事及び政治的サイコパス論」を唱えている。「打倒小泉政権! れんだいこ党緊急宣言」の「小泉首相売国奴性サイコパス論の検証」に記している。 今日の質疑での答弁「私の靖国神社参拝が日中関係、日韓関係の核心とは思っていない。過去の歴史を直視しながら未来志向で友好関係を重視するのが核心だと思っている」などは、かなり重度の開き直りではなかろうか。 サイコパスの特徴として、相手の意見を受け止め、自分の見解とすり合わせ、議論の餅をつくことができないというのがあるように思われる。これだけ、小泉首相の靖国神社強行参拝が近隣諸国と軋轢を生んでいる以上、小泉首相は、自身の参拝論を意を尽くして語らねばならない責務が有る。相手を説得させられなかった場合、不徳の致すところとして何らかの思いやりを為すのが通常の感性だろう。 国家の私物化は罷りならぬと弁えるのが普通の感性であろう。ところが、小泉首相は誰が意見しても聞かない。これは異常である。唯一人ブッシュが命令すれば途端にヘナヘナするだけだろう。こういう御仁を首相に据え続けていて良いのか、これは、小泉の問題というよりもはや我々の問題ではなかろうか。 既に、天変地異は早くよりお告げしている。こたびの梅雨時の渇水は異常中の異常であり、今後いよいよ深刻になりそうである。たまさかではあるかも知れないが、天地の声を聞くのは昔から教えられてきた知恵である。今我々は変な科学主義によりそれができなくなっている。 れんだいこ党は、党首独断声名では有るが、今日の岡田民主党党首のように小泉首相が任期一杯を務めるのを前提とした質疑を許さない。遅くとも、本年8月末までに引き摺り下ろして見せる。 この謂いを傍観する者を哂う。為せばなる、為さねばならない、天地が既に執拗に啓示していることを聡く聞くのも政治の要諦である。 マスコミは、秘匿してきた情報を開示せねばならない。如何にくだらん小泉であるか、如何に国家を私物化しているか、如何にお手盛り利権で国家機能を歪めているのか、報道せねばならない。君達は根っからイエスマン精神しているからして論評するに及ばない。取材した事実を単に報ずれば良い。料理はこっちがやる。 2005.6.22日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)