カンテラ時評19(541~570) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評541 | れんだいこ | 2009/02/20 21:46 |
【2008.4.18星島猟奇殺人神隠し事件総論】
れんだいこが「2008.4.18星島猟奇殺人神隠し事件」になぜ拘るのか。それは、この事件が、見逃せない数多くの要素を抱えているからである。それと、れんだいこがこれまで暴いてきた通説批判の「宮顕派による戦前共産党内党中央委員小畑査問テロ致死事件」、「稀代の有能政治家田中角栄羽交い絞めロッキード事件」、「戦前軍部の犯罪フレームアップ式南京大虐殺事件」、「ナチスの犯罪フレームアップ式ホロコースト事件」「松岡農相変死事件」と同じ臭いがするからである。「2001.9.11同時多発テロ事件」も然り。これに言及せずんば、れんだいこの評論能力に関わる。こう思い、急きょ取り組むことになった。 その直接のきっかけは、確か朝ズバで司会者のみのもんたが「星島被告の名演技」に対して驚きジェスチャーしているくだりを見たことによる。それによると、被告人は、1LDKの被告の部屋の家宅捜査に訪れた警察官に対し、三つの箱を見せ、自ら一つ目の箱を開け、中身がパソコン機器のガラクタであることを示し、実際には被害者の胴体やら腕や足の入っている残り二つの箱を指差し、「次も見ますか」と促したところ、その堂々とした仕草を敬して、警察官が「それには及ばず」と云って立ち去ったという。 多くの者は、みのもんた同様、被告の名演技に感嘆する。しかし、れんだいこはオカシイと直ぐに気づいた。そんなことはある訳がない、被告が名演技しようとしまいと関わりなく捜査は捜査である。トイレや風呂、押入れ、天井裏から床下まで調べるのが捜査の基本である。それに既に死体の生臭い臭いがしていように。そったらことは有り得ない、こんなウソが罷り通るなら、れんだいこが調べないとイケナイと思った。以来、それなりに検証してきた。 2009.2.18日の東京地裁の「平出判決」は全くの茶番である。事件の不透明性を訝るべきところ、検事論告を全て是認し、ただ一点、死刑にするか無期懲役にするかに傾注し、トンデモ論法により無期懲役刑を下している。世論は、この事件のオカシサを訝らず、判決の無期懲役が生ぬるいと批判して正義面している。操作誘導された世論でしかないのに、口角泡を飛ばす者が居る。れんだいこは、こういう連中と席を同じうしとうない。 本事件の問題性の一つは、冤罪的要素である。厳密には、被告人が事件を認めているので冤罪とは云えない。しかしながら、検察の起訴状通りの犯罪である訳がなく、あまりにも疑問が多過ぎる。そういう意味で、どういう事情によってかは分からないが「検察シナリオ請負的な狂言事件」である可能性が強い。最近新たにこの種の事件が増えているような気がする。「2001.9.11同時多発テロ事件」もよく似た性格の事件である。よって、今後の為にもこの種事案の再発を防ぐ為にも本事件を検証し、我々はウソを見破る能力を持たねばならない。 もう一つの要素は、本事件が来たる裁判員制度の先取り予行演習的に行われたことに対する不快さである。「性奴隷」と書いた紙を貼り付けたボード、大型テレビモニターを活用しての視覚効果まで取り入れた映像手法は、従来の裁判に比して余りにも異様であった。事件の真実に迫るために、真実を分かりやすく伝えるために為された試みなら受忍できるが、検事の三文小説染みた論告求刑文を聞いたか。れんだいこは、あきれてものが云えない。検察能力が地に堕ちた感がある。 事件の最大の物証となる包丁とノコギリが映像化されていない。誰しも刃こぼれの様子を確認したいだろうに。事件のキーパーソンとなっている階下の住人や、来訪5回、室内立ち入り3回した警察官の証言が採用されていない。衆人環視の中で音も臭いも詰まりもさせず、文化包丁とノコギリで遺体を完全神隠ししたという不思議性についての究明が何ら為されていない。みのもんたよ、驚くなら、こういうことを驚くべきではないのか。商売上手もエエ加減二セイ。 本事件を通して、我々はもう一度、裁判員制度の危険性を考えねばならないのではなかろうか。いきなり導入され、しかも死刑求刑を含むような重大事案に利用されようとしている。話が違うではないか。透けて見えて来ることはつまり、日本人民大衆間の憎悪を生みだす意図的故意の反動政策として導入されようとしていることになる。そういうことが判明する。本事件が、その裁判員制度の予行演習的に仕掛けられたという意味において、本事件を裁判員制度の魂胆を暴くためにも検証せねばならない。 もう一つの要素として、本事件のような杜撰且つ恣意的な論告と判決を許すような愚昧さを許すことが、過去及び将来の同様事件を生む温床になるからである。過去の事件の通説を覆すためにも、将来の同様事案に対して正しく対処する為にも、事件そのものの解明を徹底せねばならない。ここを軽々に断定して、死刑処罰求刑、無期懲役判決に向かう速断を許してはならない。その為にも本事件を注意深く検証せねばならない。 それにしてもマスコミの能力が格段に落ちていることが判明する。一昔前、といってもロッキード事件の前つまり30年以上前まで戻らねばならないが、あの頃までのマスコミならお上情報を鵜呑みにして垂れ流すことは有り得なかった。今は全く駄目でジャーナル精神が機能していない。我が党が日本版アルジャジーラ放送局を立ち上げない限り無理なのだろうか。 もう一つの要素として、歴史の摩訶不思議なところであるが、判決前に並行して起こった朝日新聞社神戸支局襲撃事件との対比を確認しておく必要がある。どういうことかというと、朝日新聞社神戸支局襲撃事件の場合、真犯人と称する者が名乗り出た。ところが、被害者側の朝日新聞社もその他マスコミも信憑性を認めない。ならば、本事件の場合でも被告人が犯罪を認めても信憑性を訝らねばならないところ、どういう訳か鵜呑みにしている。 この落差が奇異ではなかろうか。当の本人が追認しても、朝日新聞社神戸支局襲撃事件の場合は否定され、本事件の場合にはソノ通リとされる精神はこれ如何に。オカシナことではなかろうか。誰かこの不思議に答えてくれ。 本事件に関するれんだいこ研究は次のサイトに設けた。誰か確認してみてくれ。 別章【2008.4.18星島猟奇殺人事件考】 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/rinksyu/enzaigiwakukei/2008hoshijimajikenco/2008hoshijimajikenco.htm) 2009.2.20日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評542 | れんだいこ | 2009/02/21 20:57 |
【2008.4.18星島猟奇殺人神隠し事件補足】
れんだいこが思うに、この事件は結局、検察論告求刑と判決がそのまま正しいとすれば、被害者の親族は、警察に対して損害賠償を請求できる事案となっている。なぜなら、余りにもドジで間抜けな捜査を延々と続けていることになるからである。失態の最初は、被告の室内を最初にノックした時、被害者は拉致監禁されていたものの生存していた。この時の聞き込み捜査が却ってアダになって、被告は殺害を決意したと云うシナリオになっていることで確認できる。 以降、警察の捜査の落ち度が延々と続くシナリオになっている。れんだいこが今現在確認できるところで事件の疑問が34、警察の失態が14件となっている。警察は広くもない1LDKの被害社宅を来訪5、室内立ち入り3回している。それでいて、変事に気づかなかったと云うお粗末さである。 しかし、こうなると本当は、事件が捏造されているのであり、少なくとも被告の室内に於ける犯罪は成立し難いとすべきだろう。しかしながら、検事、裁判長は無論、本人、弁護士までがヤリマシタと追認している。これにより、警察の間抜け振りが浮き上がっている。しかし、それならそれで、被害者の親族は、国家に対して責任を問い損害賠償を請求すべきである。この事件はそうすべき事案であろう。裁判員制度の導入がま近いこの時点で、この制度のイカガワシサを確認する為にも必要なプロテストだろう。第一、闇が多過ぎる。 ところで、被害者の親族が表に出てこないのはどうした訳だろう。それぞれ事情が有るのだろうが、相撲の時泰山事件を見てみよ。無念さを晴らすべく、親父は必死ではないか。これが真っ当なのではなかろうか。本事件の場合は、警察捜査の不当な杜撰さを問題にして相手にすべき事案である。やるべきである。 そうしないと世の中が良くならないからである。世の中が、小泉のような狂人ワルを再登板させ、これに喝采を贈るボケが増えるからである。こういう連中をのさばらせてはいけないからである。かんぽ問題を突破口にワルの正体を明らかにすべきである。本事件は、こういうことと微妙に繋がって居ると考える。この事件に関心持たぬ者も、れんだいこのこの精力的な問いに目を覚ますべきである。なぜなら、この事件は普通の猟奇事件ではなく、仕組まれている臭いが強くするから。 2009.2.21日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評543 | れんだいこ | 2009/02/23 20:43 |
【れんだいこの砂川闘争訴訟の最高裁判決、最高裁裁判官・田中耕太郎補足意見考】 れんだいこは、国際問題研究ジャーナリスト新原昭治が暴露した「1959.12.16砂川闘争訴訟に於ける最高裁長官まで巻き込む日米政府の裏秘密交渉」の尻馬に乗って云う訳ではないが、「1959.12.16砂川闘争訴訟に於ける最高裁判決」に意義を申し上げておきたい。なぜ、尻馬に乗る訳ではないのかと云うと、それまで砂川闘争訴訟の第一審の伊達判決も最高裁の田中判決も読んでいなかったからである。それまでは通説的解説本に依拠して発言してきていた。「新原暴露」により興味を覚え、こたび初めて両判決文を通読し精査してみた。これによる見解を披瀝しておく。 こたび、れんだいこの学生運動論の中に別章【砂川闘争】を設けた。事件及び裁判の概要は、こちらで確認して貰いたい。 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/sunagawatoso/sunagawatoso.htm 結論から申すと、もっと早くに両判決文に目を通し読んででおくべきだった。これを読んでおけば、ロッキード事件に於ける最高検察庁-最高裁の供述人証言の免責対応にも手厳しい批判を為し得たものをと反省している。かの時も、司法当局の対応は無茶であったが、その端緒を砂川闘争訴訟に行ける最高裁の対応に見て取ることができる。「1959.12.16砂川闘争訴訟に於ける最高裁判決」は、その意味で責任が重いと云うべきだろう。 こたび、「新原暴露」により、時の最高裁長官の田中耕太郎が駐日米国大使のマッカーサーと気脈を通じて、日米政府の意向に添うよう第一審の伊達判決を覆し、差し戻しとする判決を下していたことが暴露されたが、その際の法理が無茶苦茶である。これを長らくの間野放しにしてきていることも問題であろう。最高裁判決の法理に対して、多くの法学者が批判をかまびすしくしてこなかったのも問題ではなかろうか。では、どこを問題とすべきだろうか。、れんだいこが、次のように指摘しておく。 最高裁判決が、日米安保条約とそれに基く行政協定に対して、「高度な政治判断を要するものであり、司法判決に馴染まない」としたことはまだ許せる。本来は許せないのだが、一応そうしておく。問題は、この結論を導くに当たって最高裁及び最高裁長官・田中耕太郎が採用している法理論である。 それによれば、憲法9条解釈に於いて、それを自衛権まで否定するものではないとして、次に国際連合の安全保障理事会基準に沿うものであれば問題ないとして、次に、日米安保条約とそれに基く行政協定に対して国策決定であるから問題ないとして、次に米軍基地の在日恒久化はこれによりもたらされているものであるから問題ない、次に日米両政府合意による米軍基地を通しての軍事力の担保は、自前の国防軍ではないから憲法9条で禁止する戦力に当たらず違反ではないとして、次にそのように認められている米軍基地内への反対派の突入は刑事特別法二条その他の法律によって処罰されるべきだとしている。 要するに、護憲的使命を基礎としているはずの裁判所の最高権限機関が、上述のような詭弁を弄して堂々と護憲破りを公言していることになる。いわゆる「上からの法破り」である。こういうことが許されるのだろうか。「1959.12.16砂川闘争訴訟に於ける最高裁判決」をその後通用せしめてきたと云うことは、許されてきたことを意味する。しかし、それにしても何と法番人と学者の頭脳が低いことであろうか。 近代的国家の特質は、よろづ法治主義と、権力の行政立法司法の三権分立制を基礎として成立していることは衆知の通りである。だがしかし、「1959.12.16砂川闘争訴訟に於ける最高裁判決」は、司法の最高権限機関をして自ら司法の独立を毀損せしめて恥じない法理を開陳している。判示した「高度な政治判断を要するものであり、司法判決に馴染まない」は、問題の難しさを指摘して逃げている消極的法理論ではなく、「司法の行政に対する屈服」を引き出す為に援用している事大主義的積極的法理論である。ここを踏まえなければ成らない。しかし、こったら不正が許されようか。 時の最高裁長官・田中耕太郎の犯罪は、駐日米国大使マッカーサーと気脈を通じて、日米政府の意向に添うよう判決を下したことのみにあるのではない。この時の法理論をして「司法の行政に対する屈服」を定式化せしめたことにこそある。こう窺うべきではなかろうか。 この姿勢が、1976(昭和51).2.4日のロッキード事件勃発に際して、日米政府間の「司法共助協定」の調印、事件供述者に対する検察の「不起訴宣明」、続く最高裁の「不起訴宣明」、三木首相の逆指揮権発動、そして田中角栄逮捕へと繋がる。結果的に、本来の黒幕である児玉機関-中曽根-ナベツネラインへの捜査が放棄され、限りなく冤罪に近い元首相・田中角栄逮捕へと一瀉千里に向かい、角栄は政治的に羽交い絞めされやがて絞殺されることになった。 こたびは砂川闘争訴訟に於ける日米両政府の最高裁まで巻き込んだ政治的陰謀が暴露されたが、ロッキード事件に於ける日米両政府の最高裁まで巻き込んだ政治的陰謀が暴露される日が来ないとは云えない。最大のキーは、同年6.27日の第2回目の主要先進国首脳会議がプエルトルコで開かれた後の6.30日のワシントンでの三木.フォード会談の内容である。この時何が謀議されたのか。1997年に公開されたキッシンジャー・レポートは、この時三木首相が、キッシンジャーともフォード大統領とも「ロッキード事件についての全般的な意見交換」をしたことを伝えている。しかし、どういう遣り取りが為されたのか一切明らかにされていない。 歴史は徐々にヴェールを剥ぐ。これが公開される日が来るだろうか、「三木首相がひたすらフォードとキッシンジャーに指示を仰ぐ土下座外交」の余りに生臭い内容は永遠に閉じられるだろうか。こういう関心が生まれることになった。 2009.2.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評544 | れんだいこ | 2009/02/25 23:17 |
【オバマ大統領の初の議会演説を聴いて】 2009.2.25日、れんだいこは今日思い立ったが吉日の250キロ先の神社参りに行く途中で、オバマ大統領の初の議会演説を聴いた。約1時間にわたる米国再建改造計画の演説であった。経済大国再生を目指してエネルギー、医療、教育先進国を目指し、自動車産業を国策産業として保護再生させる云々と云う内容だったように窺う。 れんだいこは聴きながら思った。これはアメリカ版田中角栄式改造論だなと。政治をまじめにシンキングすれば必ずそうなる。オバマは、角栄路線でアメリカの再生を宣言したことになる。こうなると奇妙なことになる。日本で生まれた日本列島改造論に対して当の日本が解体撲滅にしゃかりきになっているというのに(小泉政権時代の施策を見よ。悉くが反角栄政治であり、その遺産の撲滅であった)、それを指示したアメリカがちゃっかり角栄式政治を学び処方箋を引き出そうとしている。滑稽なことであるが本当にそういう時代になった。 こたびの「オバマの初議会演説」は約1時間相当を要しているから、これを文書にすればかなりな長文になるだろう。しかし、れんだいこが学生なら、英語学習を兼ねて読書会テキストにしたいと思う。生きた政治を学びながら英語学習になると云う一石二鳥ものだろう。どこぞの高校か大学でやって見れば良かろう。そういう粋な先生は居らんだろうな。 もとへ。オバマ政治は、初議会演説の草稿通りに向かうことができるのだろうか。れんだいこは、具体的且つ細かい指示と情緒性の濃い美文がセットにされているのを見て逆に危ぶむ。恐らく、オバマがマニュフェストした通りに進もうとすれば、麻生の苦吟の数百倍の抵抗が待ち受けて居るだろう。オバマ船は難破せずに進むことができるだろうか。興味はそこにある。 オバマ政治の最も近道は軍事防衛予算の一挙的削減によるニューディールニュー政策の推進だろう。これしかないのだが、ここに最大の政治的軋轢が待ち受けて居る。既にアフガン増兵にサインしている。結局のところ迂回して、つまり本当にナタを振り下ろさねばならないところを放置したまま経済政策に邁進するだろう。となると、予算が足りなくなる。これをどこから調達するかだ。いずれ政策がどっちつかずで股裂きに遭うだろう。 この間、オバマの日本を注視する目線は熱い。恐らく既に官僚レベルでの地下協議が始まっているだろう。日本が幾ら出せるのか、財源をどこから持ってくるのか、日本人民大衆をどうなだめるのかのシナリオが練られているだろう。ワシントンは中国と両てんびんに掛け、競らせて調達するうまいシナリオを描き始めているはずだ。 さぁて我が日本はどう対応すべきか。最悪のシナリオは狂人小泉君の再登場による「持って行け全部持って行けの行け行け路線」であろう。それだけは御免蒙りたい。痛みに堪えるレイプ政治の再来は真っ平ごめんだ。それより奴を早く喚問台に立たせ、小泉政治の一部始終と裏舞台を証言させねばならない。とにかくこの御仁が狂っているのは確かだ。手加減して愉快犯お騒がせ犯と云う向きがあるが、狂人サイコパスとはっきり認定すべきだろう。手前の政権の時は党中央の云うことはその通り式にしておいて、反対派には刺客を送り込んで無慈悲なことをしてくれたというのに、給付金問題では欠席すると公言して憚らない。この落差を堂々居直るところが小泉らしいが狂人サイコパスならではの珍芸であろう。 さて、麻生はどうするか。麻生政治は今、国内国際両問題で正念場に辿り着いている。国内には解散請求と補正予算問題がある。新たにオバマの期待に応えねばならないことになった。さて真に弱ったというところか。解散はできず、政権求心力もない、後釜を誰が引き受けても同じ。この三難問をどう解くのか、ここが見ものになってきた。 2009.2.25日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評545 | れんだいこ | 2009/02/27 23:44 |
【自民党内全面戦争、公取委とジャスラックが全面戦争】 自民党内で麻生派対小泉派が全面戦争に突入した模様です。公取委とジャスラックが全面戦争に突入した模様です。前者がまま良識派、後者がワルと考えればよい。やれぇやれぇもっとやれぇ。今日は短いコメントです。 2009.2.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評546 | れんだいこ | 2009/03/01 19:58 |
【公取委とジャスラックが全面対決模様事件考】 2009.2.27日、公正取引委員会は、社団法人「日本音楽著作権協会」(JASRAC、東京都渋谷区、以下「ジャスラック」と記す)に対し、放送事業者向け音楽の著作権管理事業に於けるテレビなどで放送される音楽の著作権使用料をめぐり、同社が他事業者の新規参入を阻んでいるとして、私的独占による独占禁止法違反で排除措置命令を出した。3.2日にも、具体的な改善策を指示する方針を示している。 これに対して、ジャスラックは即日、加藤理事長と菅原常務理事、顧問弁護士の矢吹氏が約50人の報道陣を前に記者会見し、加藤衛理事長が代表して縷々反論し、徹底抗戦する旨を決意表明し驚かせた。一体ジャスラックとは何者かと。 驚くのも無理はない。この事件の興味は、社団法人格の事業体が国家機関である公取委の行政指導に公然と叛旗を翻しているところにある。通常であれば、人民大衆の支持が得られるところであるが、この場合はどうであろうか。れんだいこは逆に公取委を支援しようと思っている。むしろ、これまでさんざん国家機関の司法裁判所や警察を使って攻勢的に弱いものイジメしてきたジャスラックが初めて逆に防戦を強いられているケースとして注目している。 ジャスラックは追う立場から追われる立場へと移った。してみれば遂に時代の潮の流れが変わったということであろう。ということは、知的所有権とか先進国権利だなどと云われると、分けもわからいのに何となく追認してきた多くの著作権病者がそろそろホンマかいなぁーと反省し始める契機になることを意味する。「公取委とジャスラックが全面対決模様事件」の歴史的意義はここにある。 今、公益法人が儲けるのはケシカランとして漢字検定協会が槍玉に挙げられている。同じような例として財団法人やら社団法人の幾つかが藪を突かれつつある。しかし、マスコミはこれまで、売上の桁が二桁も違うジャスラックに対してはなぜだか及び腰で言及を避けてきた。アンフェアこの上ないが、これが実際の話である。ジャスラックは社団法人なのだが、マスコミ記者諸君はまさか国営企業だとは思っては居るまいに、これまでいつもジャスラック的正義をプロパガンダしてきた。 しかし、ジャスラックは自ら墓穴を掘りつつある。公取委の行政指導に対してが楯突くと云う前代未聞のドラマを開演しつつある。当然相応の責任が伴う。真実と実態が解明されねばなるまい。遂に臭いものの蓋が開いた感があり、今後否応無く注目を浴びることになるだろう。そうなればなるほど、ジャスラック式著作権論の著作権法を無視したえげつないマルチ商法振りが露見することになるだろう。官僚天下りの実態が白日のもとに晒されることになるだろう。利用料金取立ての権利暴力ぶり、サラ金をも驚かせる暴利ぶりが明るみにされることになるだろう。余りにも数多くの理事、評議員がぶら下がっており、利権に群がっている生態が暴かれることになるだろう。 そういうこともあって、れんだいこは成り行きに注目している。それにしても我々はそろそろ、あるべき著作権行政の確立を目指して奮闘せねばならない。問題は靖国神社同様であり、単に機械的に反発するのではなく、革命的再生を目指さねばならないだろう。業の理念と業界の利益と著作者の権利のあるべき在り方を同時的に追求達成する制度を創造せねばなるまい。 その為にも、現下のジャスラックの実態解明、検証に向かわねばならない。良い季節になった気がする。小泉政権の売国奴ぶりと同様、国会で採り上げ、喚問し証言させるべきであろう。問題は、切れ味鋭く糾さねばならないのだが、質す者がジャスラック式強権著作権論を信奉しているようではどうもならん。それが心配だ。 2009.3.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評546 | れんだいこ | 2009/03/01 19:58 |
【公取委とジャスラックが全面対決模様事件考】 2009.2.27日、公正取引委員会は、社団法人「日本音楽著作権協会」(JASRAC、東京都渋谷区、以下「ジャスラック」と記す)に対し、放送事業者向け音楽の著作権管理事業に於けるテレビなどで放送される音楽の著作権使用料をめぐり、同社が他事業者の新規参入を阻んでいるとして、私的独占による独占禁止法違反で排除措置命令を出した。3.2日にも、具体的な改善策を指示する方針を示している。 これに対して、ジャスラックは即日、加藤理事長と菅原常務理事、顧問弁護士の矢吹氏が約50人の報道陣を前に記者会見し、加藤衛理事長が代表して縷々反論し、徹底抗戦する旨を決意表明し驚かせた。一体ジャスラックとは何者かと。 驚くのも無理はない。この事件の興味は、社団法人格の事業体が国家機関である公取委の行政指導に公然と叛旗を翻しているところにある。通常であれば、人民大衆の支持が得られるところであるが、この場合はどうであろうか。れんだいこは逆に公取委を支援しようと思っている。むしろ、これまでさんざん国家機関の司法裁判所や警察を使って攻勢的に弱いものイジメしてきたジャスラックが初めて逆に防戦を強いられているケースとして注目している。 ジャスラックは追う立場から追われる立場へと移った。してみれば遂に時代の潮の流れが変わったということであろう。ということは、知的所有権とか先進国権利だなどと云われると、分けもわからいのに何となく追認してきた多くの著作権病者がそろそろホンマかいなぁーと反省し始める契機になることを意味する。「公取委とジャスラックが全面対決模様事件」の歴史的意義はここにある。 今、公益法人が儲けるのはケシカランとして漢字検定協会が槍玉に挙げられている。同じような例として財団法人やら社団法人の幾つかが藪を突かれつつある。しかし、マスコミはこれまで、売上の桁が二桁も違うジャスラックに対してはなぜだか及び腰で言及を避けてきた。アンフェアこの上ないが、これが実際の話である。ジャスラックは社団法人なのだが、マスコミ記者諸君はまさか国営企業だとは思っては居るまいに、これまでいつもジャスラック的正義をプロパガンダしてきた。 しかし、ジャスラックは自ら墓穴を掘りつつある。公取委の行政指導に対してが楯突くと云う前代未聞のドラマを開演しつつある。当然相応の責任が伴う。真実と実態が解明されねばなるまい。遂に臭いものの蓋が開いた感があり、今後否応無く注目を浴びることになるだろう。そうなればなるほど、ジャスラック式著作権論の著作権法を無視したえげつないマルチ商法振りが露見することになるだろう。官僚天下りの実態が白日のもとに晒されることになるだろう。利用料金取立ての権利暴力ぶり、サラ金をも驚かせる暴利ぶりが明るみにされることになるだろう。余りにも数多くの理事、評議員がぶら下がっており、利権に群がっている生態が暴かれることになるだろう。 そういうこともあって、れんだいこは成り行きに注目している。それにしても我々はそろそろ、あるべき著作権行政の確立を目指して奮闘せねばならない。問題は靖国神社同様であり、単に機械的に反発するのではなく、革命的再生を目指さねばならないだろう。業の理念と業界の利益と著作者の権利のあるべき在り方を同時的に追求達成する制度を創造せねばなるまい。 その為にも、現下のジャスラックの実態解明、検証に向かわねばならない。良い季節になった気がする。小泉政権の売国奴ぶりと同様、国会で採り上げ、喚問し証言させるべきであろう。問題は、切れ味鋭く糾さねばならないのだが、質す者がジャスラック式強権著作権論を信奉しているようではどうもならん。それが心配だ。 2009.3.1日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評547 | れんだいこ | 2009/03/04 21:32 |
【大祓詞(おおはらへの言葉)「宣命書き」読み下し文】
高天原(たかまのはら)に神留(づま)り坐(ま)す。皇親(すめらがむつ)神漏岐(かむろぎ)、神漏美(かむろみ)の命(みこと)以(も)ちて、八百万(やおよろづ)の神等(かみたち)を神集(つど)へに集へ賜(たま)ひ、神議(はか)りに議りひて、我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと)は 豊葦原水穂國(とよあしはらのみづほのくに)を 安國(やすくに)と平(たひら)けく知ろし食(め)せと 事(こと)依(よ)さし奉(まつ)りき。 此(か)く依さしりし國中(くぬち)に、荒振る神等をば、神問はしに問はし賜ひ、神掃ひに掃ひ賜ひて、語(こと)問ひし。磐根(いわね)、樹根立(きねたち)、草の片葉(かきは)をも語止(や)めて、天(あめ)の磐座(いわくら)放ち、天の八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて、天降(あまくだり)し依さし奉りき。 此く依さし奉りし四方(よも)の國中(くになか)と 大倭日高見(おほやまとひだかみのくに)を安國と定め奉りて、下(した)つ磐根に宮柱(みやはしら)太敷(ふとし)き立て、高天原に千木(ちぎ)高知(たかし)りて、皇御孫命の瑞(みづ)の御殿(みあらか)仕(つか)へ奉りて、天の御蔭(みかげ)、日の御陰と隠(かく)り坐して、安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出(い)でむ。天の益人等(ますひとら)が、過(あやま)ち犯しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は、天つ神、國つ罪、許許太久(ここだく)の罪出でむ。 此く出でば 天つ宮事(ごと)以ちて 天つ金木(かなぎ)を本(もと)打ち切り、末打ち断ちて、千座(ちくら)の置座(おくきら)に置き足(た)らはして、天つ麻菅(すがそ)を本刈り断ち、末刈り切りて、八針(やはり)に取り辟(さ)きて、天つ祝詞(のりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ。 此く宣らば 天つ神は天の磐門(いはと)を押し披(ひら)きて、天の八重雲を伊頭(いつ)の千別きに千別きて 聞こし食さむ。國つ神は高山(たかやま)の末、短山(ひきやま)の末に上(のぼ)り坐して、高山の伊褒理(いぼり)、短山の伊褒理を掻(か)き別けて聞こし食さむ。 此く聞こし食してば、罪と言ふ罪はあらじと 、科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の 御霧(みぎり)、夕(ゆふべ)の御霧を朝風夕風の吹き拂(はら)ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居(お)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち、艫解(ともと)き放ちて、大海原(おほうなばら)に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本を、焼鎌(やきがま)の敏鎌(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く、遺(のこ)る罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふ事を高山の末、短山の末より佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ。 速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神、大海原にも出でなむ。此く出で往(い)なば、荒潮(あらしほ)の潮の八百道(やほぢ)の八潮道(やしおぢ)の潮の八百曾(やほあひ)に坐す。速開都比賣(はやあきつひめ)と言ふ神も加加呑(かかの)みてむ。 此く加加呑みてば 気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし)と言ふ神、根国(ねのくに)、底国(そこのくに)に気吹き放ちてむ。 此く気吹放ちてば、根国、底國に坐す速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言ふ神も、佐須良ひ失ひてむ。此く佐須良ひ失ひてば罪と言ふ罪はあらじと祓へ給ひ清め給ふ事を天つ神、國つ神八百萬神等共に 聞こし食せと白(まを)す。 (れんだいこ読解意訳文、現代口語訳) その昔、原日本には八百万(やおよろず)の国津神の住む豊葦原の瑞穂の国と云われる中国が在った。高天原王朝は、豊葦原の瑞穂の国を治める出雲王朝に国譲りを仕掛けた。度々の使者を送ったがらちが開かず、遂に軍事戦と談判により投降させることに成功した。その国譲り戦で勝利したフツヌシとタケミカヅチが高天原に凱旋してきた。 高天原を治めるカムロ「ギ」の命(みこと)とカムロ「ミ」の命の発令により、高天原系の八百万の神々が天の安の河原に集まった。出雲王朝の支配者であり、豊葦原の瑞穂の国の盟主である大国主命の国譲りの件が報告され、議論に議論を重ねた結果、いよいよ豊葦原の瑞穂の国の平定に乗り出すことに評定が決着した。 アマテラスは、オシホミミの命に、葦原中国を統治するよう命じた。オシホミミの命は、息子の天津彦火のニニギの命に役目を譲った。アマテラスは、オシホミミの命の進言を受け入れ、「ニニギの命よ、そなたに葦原中国の支配を任せます。さっそく取り掛かるように」と命じた。こうして、アマテラスの命で、ニニギの命が天降ることになった。 アマテラスは、出発に当り、ヤタの鏡と草薙の剣と八坂の勾玉(まがたま)を授け、これをお守りとして祀るよう言い渡した。これを三種の神器と云う。最後に稲穂を渡し、豊葦原の瑞穂の国の食物とせよと命じた。オモヒカネには祭事と政事を執るよう言い渡した。他にアメノコヤネ(中臣氏の祖神)、フトダマ(忌部氏の祖神)、アメノウズメ(猿女氏の祖神)、イシコリドメ(鏡作の祖神)、タマノオヤ(玉作の祖神)が従った。他にアメノオシヒ(大伴氏の祖神)、ヒコホノ二ニギ、アメノイワトワケ、タジカラヲ、アメツクメの各命が随伴した。これを仮に天孫族叉は高天原軍と命名する。 ニニギの命は、国津神の神々に使者を送り、大国主命の国譲りの件を伝え、豊葦原の瑞穂の国の統治権を渡すよう迫った。国津神系は大混乱に陥り騒々しくなったが、拒否して一致共同して抗戦する旨伝えてきた。抗戦派の荒ぶる神々は大倭日高見の国を盟主として抵抗の構えを見せた。 高天原軍は遂に討伐に向かうことになった。ニニギノ命一行は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、幾重にも折り重なった分厚い雲を掻き分けに掻き分けて、日向の高千穂の峰に天降った。この地に堅い基礎に太い宮柱を建て、屋根は千木に高く聳え立つ豪勢な宮殿を建て、国津神を威圧した。稲作を進め、国津神の蒙を開き、高天原の征服事業は着々と進展した。 しかし、完全制圧できず、国津神軍との抗争が続いた。高天原は業を煮やして、徹底した軍事行動による殲滅を宣言した。残虐非道の掃討戦が始まった。それでも国津神は降伏せず、地の利を生かして各地の高い山低い山に立て篭もって抵抗し始めた。高天原は手を焼いた。 高天原軍は遂に軍事による徹底殲滅方針をあきらめ、武装解除し恭順するならば反逆した過去の罪を問わず制裁処罰しないこと、過去を祓い給い清め給いきれいさっぱり清算して公平な人材登用を進め、共に和して新日本を創建することを明らかにした。反逆徒が立て篭もる各地のアジトへ使者を送り、出向いて告げた。 これにより、或る神達は豊葦原の瑞穂の国から立ち去り大航海に出向いた。或る神達は投降し始めた。豊葦原の瑞穂の国は溶解状態に陥り、投降相次ぐ事態となった。豊葦原の瑞穂の国の皇統を為す根の国、底の国の代表が高天原軍と協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うなことを条件に帰服した。これが、高天原と豊葦原の瑞穂の国の合意となって、その後の日本が開かれた。 祝詞(のりと)は、この経緯を確認するために遺す奏上文である。この国の成り立ちに於ける「抵抗の罪を問わず、過去を洗い流し、祓い給い、清め給い、天津神と国津神の八百万の神々が相和して新日本を創ることを申し合わせて、国が開かれた」と云う史実の重みを子々孫々に伝える為のものである。 -------------------------------------------------------------------------------- 【大祓詞(おおはらへの言葉)考】 以上、「大祓詞(おおはらへの言葉)」をれんだいこ式に解読した。既成の下手にして拙い解読よりよほど値打ちがあるだろうと自負する。れんだいこが、「大祓詞(おおはらへの言葉)」に注目するのは、そこに大和王朝創建時の歩みと確認事項、国づくりの理念及び精神が格調高く濃密に詠われていることを認めるからである。事実、「大祓詞(おおはらへの言葉)」は、永らく日本政治の原理として踏襲伝統とされてきた。今この価値が忘れられようとしている。 他方で思うのは、パレスチナに於けるイスラエルの飽くことなき徹底殲滅思想である。これを思えば、「大祓詞(おおはらへの言葉)」の価値が際立つ。そういうメンタリティーから急きょ、「大祓詞(おおはらへの言葉)」を解読することになった。現代は、イスラエル軍の徹底殲滅思想とハーモニーするような政治、経済、文化、学問が幅を利かせている。が、れんだいこは、これらを推進する国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの頭脳は案外賢くないのではなかろうかと思っている。もっと云えば、中身が空疎な狂人思想ではなかろうかと思っている。 そういうものなら我らが学ぶに値せずである。そうとならば、我々の政治、経済、文化、学問システムを我らなりに再度創出せねばならないのではなかろうか。既成のインテリはここが分かっておらず、今もひたすらネオ・シオニズムイデオロギーの捕囚に甘んじ、これを良しとしている。ウヨサヨはとてつもない腐敗した知性の汚濁のなかに在る。共に著作権狂いしているが、定向進化の法理によりもっと狂って盛んに小難しい社会へと誘い、終いには自分で自分の首を絞めて恍惚するところまで向かうであろう。 そんなこんなを確認するための「大祓いの祝詞考」となった。 「大祓いのりと考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco/noritoco.htm) 2009.3.4日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評547 | れんだいこ | 2009/03/08 13:08 |
【たすけあい党声明「2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件」考】 「2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件」に端を発して、早くも小沢辞めろ論が跋扈している。れんだいこがたすけあい党を代表して声明しておく。 この事件は明らかに国策捜査である。小沢民主党代表の国策捜査批判は当然の反論であり、我々はこの反論観点を支持する必要がある。民主党内部から小沢代表に対する「云い過ぎ」批判の声が聞かれるがお粗末限りない。断然、新政権の芽を潰させないとする観点から一手一つになって検察批判に向かうべきである。我々は、ロッキード事件以来ぶりがつき日常茶飯となった「検察の政治主義性捜査」に批判の声を挙げるべきである。 検察が正義ぶるなら、このところの国民的政治関心である「かんぽ元国有施設の不正払い下げ事件」の究明に向かうべきであろうに、何ゆえこれに向かわず黒にするには相当無理がある選挙資金規制法違反容疑で逆対応的「小沢潰し」に向かっているのか。これを訝らねばなるまい。この疑問を解くには、ある歴史観が必要である。この歴史観がなければ、いつもの世論誘導に乗せられてしまう。ロッキード事件の時は酷かった。今から考えると全てが無茶な角栄潰しであった。 その歴史観とは、日本のみならずであろうが現代世界の政財官学報司の六者機関を牛耳る真の支配者として影の政府となっている国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの暗躍をトレースする手法を云う。この観点から政治事象を読み取れば、戦争も革命もクーデターも、こたびの「2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件」も裏事情が容易に透けて見えて来るから不思議だ。 2009年は、イスラエルのガザ攻撃で幕開けした。国際金融資本帝国主義ネオシオニズムがパレスチナに於ける大イスラエル計画構想アジェンダの下に執拗に策動し続けていることが判明する。彼らにとっては、国際金融危機も織り込み済みのことかも知れない。ただひたすらに狂気の世界支配に向かい続けていることが分かる。れんだいこは、現代パリサイ派の悪行とみなしている。 その彼らは今、養豚政策で太らせた戦後日本を便宜に利用しようとしている。一つは国富の収奪であり、いろんな名目をつけては支援金、協賛金を収奪している。この政策の還で、民族系優良企業の外資化、「埋蔵金」の濡れ手にあわ式詐取が進行している。国営企業の相次ぐ民営化もこの流れで捉えれば良い。もう一つは、一刻も早い自衛隊の参戦化である。日本をアジア、アラブと闘わせるシナリオが進行中である。自衛隊は既に日米合同軍事訓練を年々積み重ねており、いつでも参戦できるようスタンバイされつつある。憲法改正はこの流れで捉えれば良い。若年層の派遣社員化も自衛隊員予備軍づくりとして政策的に生み出されている可能性がある。 もとへ。その彼らの日本政界を御する戦略から見て邪魔な存在がある。れんだいこの見立てるところ、日本戦後政治史上のハト派である。現在に於いては既にかって存在した保守主流としてのハト派は居ない。吉田茂-池田隼人-(佐藤栄作)-田中角栄-大平正芳-鈴木善幸系譜の政治イデオロギー及びその政策は久しく地下に潜っている。現在残っているのはねじれハト派でしかない。ネオシオニストは、この勢力による昨今の自公政権打倒の動きを警戒している。それゆえ、ねじれハト派でしかなくても陰に陽に機会を見つけては最後的掃討に目を光らせている。 この間、対極的に勢力を増長してきたのは福田、中曽根系のタカ派である。この戦後タカ派は、戦前の皇国史観に基く右派系タカ派ではない。現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の御用聞きを専らにする売国奴系タカ派である。これに忠勤すればするほど名宰相の称号が与えられる。逆の場合には暗愚とののしられる。この仕掛けを思えば、中曽根、小泉が名宰相とされている秘密が分かろう。定見の無いマスコミはワシントン情報を基準にする癖があり、これに従って今も御用提灯している。ここまで述べれば、「2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件」の裏事情が透けて見えて来たであろう。 この問題で確認せねばならないもう一つの視点を提供しておく。一般論になるが、我々はそろそろ「政治とカネ」の基準目線を確立しておくべきではなかろうか。政治家には、私腹を肥やす場合と党ないしは派閥を維持する場合と政策実現の為の三方の理由からカネが掛かる。これをどう容認し規制すべきか、この基準を確立せねばならないのではなかろうか。 一見、共産党的個人のみ献金論が正義のように思える。しかし、何事にも物事には良い面と悪しき面の両面が不即不離にある。「共産党的個人のみ献金論」は、政治家を常に金欠状態に追いやり、党中央の言いなりロボット党議員にしてしまうと云うデメリットがある。政治のダイナミズムの見地からすれば、決して正論ではない。他方、献金を野放図にすると、議員が巨額献金先の言いなりロボット族議員にしてしまうと云うデメリットがある。つまり、「政治に於ける政治とカネ問題」はジレンマにあるということを知っておく必要がある。 これについて思うのに、こたび小沢代表が弁明した際の論法は傾聴に値するものがあった。曰く、政治資金をいただくのに個人からも企業からも業界からも可であり、但しいずれも政治資金帳簿に記載し公開する義務がある。議員は選挙の洗礼を受ける身であり、選挙民は議員の政策と活動と献金リストを判断しつつ投票することで政治に於けるチェックアンドバランスが担保されている云々。企業献金に基く特定受注活動が露骨に行われていたとしたなら政治責任が問われるべきであるが、そういう事実はない云々。 思うに、これは卓越した見解ではなかろうか。政治の現実を踏まえた良識的叡慮を語っているのではなかろうか。マスコミと自称知識人は条件反射的に政治に纏わるカネを批判合唱する癖があるが、いくら正義ぶってもぶてばぶつほど現実から遊離するのではなかろうか。こういう小正義派が跋扈し過ぎており、その分本音の話ができないのではなかろうか。 これをたすけあい党の例で考える。我が党はこうしたいと思う。個人献金も企業献金も業界献金も、くれるところから全部貰いたい。企業献金に基く特定受注活動も、それが社会公益的に役立つことであれば遠慮なくさせて貰う。口利き料として謝礼が為されるなら全部貰い政治献金帳簿に漏れなく記帳する。但し、献金受け取りの上限額を決めておきたい。個人は自由、企業献金は1千万円以内、業界献金は1億円以内としておきたい。選挙等で必要な際に借りることができるようにもしたい。党議員の場合には、個人は毎月1万円以内、企業献金は1千万円以内、業界献金も1千万円以内としたい。パーティー券は、党の場合にも議員の場合にも常識の範囲としたい。これらはすべて帳簿付けせねばならない。 かく思っている。これで何らやましいことはないと思っている。政治家は政治が本業であり、本業で精査批評されるべきであり、下半身やカネ目の問題でスキャンダル化されるには及ばないと考えている。現代政治批評はここが逆転しており、政治家が政治で判断されず、スキャンダルで失脚させられてばかりいる。これでは政治家が育たず、結果的に良い政治が行えなくなるのも自明であろう。相撲取りは土俵で、歌手は歌で判断されるべきであり、政治家も同じことであろう。 もう一つ、「2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件」の臭い面を確認しておく。仮に政治利権が悪いとして、利権は大きく見て公共事業利権と軍需利権に分かれていることを知らねばならない。ハト派が前者に食いつき、タカ派が後者に群がる傾向が認められる。興味深いことは、検察司法が槍玉に挙げるのは専ら公共事業利権の方である。中曽根-小泉系譜の軍需利権は叩けばホコリが出るであろうが、検察は向かわない。先の防衛次官の不正追求も不自然な形で沙汰止みにされてしまった。この選別特捜は何を意味するのか。れんだいこが繰り返すまでもあるまい。 結論。アメリカではオバマ革命によりチェンジが始まろうとしているが、それが上手く行くかどうかは別としてアメリカではブッシュ的戦争政策からの転換が始まっているこの折に、日本は手薄になる米軍の後釜の役割を引き受けさせられようとしている気配がある。日本は相変わらずブッシュ的戦争政策に追随していることになる。その為に日本版チェンジを画する頭目の小沢が邪魔になっており、こたび司直の手で潰されようとしている事態として受け止める必要があるように思う。検察の正義と云っても、この程度のものでしかなかろう。検察の正義を提灯する者が揃って馬鹿顔しているのも辻褄が合っていよう。 2009.3.8日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評548 | れんだいこ | 2009/03/11 22:18 |
【2009.3.11日付けの毎日新聞社説「著作権問題」考】 2009.3.11日付けの毎日新聞社説「著作権問題」が興味深い観点を披瀝しているのでコメントしておく。 社説は、公取委によるジャスラックに対する独占禁止法に基く排除命令行政指導とこれに対するジャスラックの反発と云う最近発生した事象に対して、コメントしている。次のように述べている。 「著作物にまつわる権利関係の情報を集めてデータベースをつくり、各種の手続きも行えるようにしたら便利だ。手間とコストが節約できれば、コンテツン配信ビジネスの拡大に役立つはずだ。そうした役割を果たす機関として著作権情報集中管理機構(CDC)が設立された。(中略)包括契約ではなく、放送局が使用した楽曲ごとに使用料を個別に徴収する方式にすべきだろう。しかし、現実にはそれを実現する基盤がない。CDCがサービスを開始すれば、放送での楽曲使用料の問題も解決に向かうはずだ」。 この社説士は、従来の如くジャスラック見解を鵜呑みにせず、新たな発想を示している点で一定の見識を示している。れんだいこが補足すれば、社説士が今になってそういうことを云うならば、これまで現在確立されようとしているCDC機関がないままにジャスラック式包括契約が何故に許されてきたのかと云う問題を指摘せねばなるまい。この点では頬かむりのようだ。恐らく、疑問を感じていないのだろう。 とはいえ、社説士が、実際に歌唱演奏された曲目に対して課金されるのが合理的という見解を示している点では、一歩前進ではあろう。これまで、カウントできないから店舗の場合には面積割、マスコミメディアの場合には営業収入割という杜撰な取立を許してきたことを思えば。 社説士は次に、テレビ番組の国外放送サービスを廻っての裁判で、地裁が著作権法違反として違法と判断したのに対し、知財高裁が著作権法で認められている私的複製に当たると認定し適法とさせた逆転判決を評価し、次のようにコメントしている。 「情報技術の発展は、違法コピーの横行など著作権に対する脅威とみられてきた。しかし、後ろ向きの対応だけでは、時代に取り残されてしまうのも事実だ。インターネットの登場を想定していない著作権法の改定も含めて、柔軟な対応が必要だ」。 つまり、著作物利用に対するジャスラック式何でもかんでも著作権侵犯論に基く課金制の横行に対して、この社説士は一定の疑問を披瀝していることになる。「後ろ向きの対応だけでは、時代に取り残されてしまうのも事実だ」が、これを裏付ける。これも、従来といってもこのところの従来であるが強権著作権論に対する疑問を吐露しており、一歩前進だろう。 これに、れんだいこが補足しておく。今のところ認知されていないが、これはれんだいこの発見なんだけれども、著作権法の歴史を確認し、著作権法を読む限り、現今流行の強権著作権論はそもそも違法であり法的裏づけがない。これを厳格に確認しないと問題が解けない。どういうことかというと、流通商業論で云えば、著作権法が規制しているのはメーカーから問屋段階までの川上規制であり、人民大衆的利用に関わる川下規制までは予定していない。というか、何度も注意を喚起して、川下規制まで及ぼしてはならないとの懸念を持って著作権法を導入した経緯が認められる。 ところが、ひとたび著作権法を認めると定向進化し始め、川上で認められたものを川下まで適用せんし始める。これに族議員と官僚が絡む。強権著作権論は、この要請を受けて導入され、今や著作物の存在するところ四方に適用されている。ジャスラックが先導役であり、水先案内人として旗振りしている。連中の論法に従えば、歌唱演奏の商的利用は即権利侵犯であり、文化庁に認められた料金規定表を当てはめ徴収こそ正義という論法で裁判攻めし続けている。従わない者に対しては、これまた文化庁に認められた別枠料金表に基き、歌唱演奏機器を導入した時点に遡り請求している。この時、サラ金をも驚く制限利息法違反の高額課金に跳ね上がっている。一体、何千の店舗が恫喝され、何百の店舗が閉店を余儀なくされ、何十の店舗経営者が裁判に持ち込まれ、何人が逮捕されたことだろう。 この不正義を誰も問わない。一体、これは正義なりや。ここで、れんだいこが新視点を提供する。れんだいこは囲碁将棋を嗜むが、最近インターネット上で指すことができるようになった。ところが何と囲碁将棋協会は、これにいちゃもんつけず、むしろ多くの専門棋士が参加しファンの要望に応えている。基本的に無料であり、プロの指導を受けたり棋譜を採る等のサービス機能付きの場合には有料となっているケースが多い。ここには強権著作権論の入る余地はなく、最低限の必要経費を算定して会員制月額料金として設定されており、凡そ2千円から3千円辺りとなっている。 れんだいこがなぜ注目するのかと云うと、言わずもがなであるが、囲碁将棋棋院に対してジャスラックのようにネット利用の場合の著作権料を取ればと進言しようとしているのではない。逆に、ジャスラックに対して、囲碁将棋棋院を見習え、人民大衆の歌唱演奏に対して高額料金取立てに向かうのではなく普及に向かえ、むしろ推進する立場からアシストせよ、それが真っ当な在り方ぞ、権利侵犯論論に基く料金取立ては異筋なもので早晩転換せよと申し上げたいために言及している。 さて、この社説の言論士に尋ねてみたい。あなたは、ジャスラック的在り方と囲碁将棋棋院的在り方のどちらに与するや。どちらも文化芸能伝統の受け皿団体である。どちらの文化芸能伝統の育み方に与するや。蛇足しておけば、新聞協会は無断引用転載罷りならぬとしており、公然とジャスラック式権利侵犯著作権論に与している。「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」がこれを証している。つまり、ジャスラックと新聞社、その他大勢のマスコミは同じ穴のムジナ関係にある。 これを伝える訳は、そろそろ強権著作権論の行き過ぎを認め、著作権法が示している基準辺りに戻す契機にしたらどうだと喚起したい故である。これは国民的議論にする必要がある。問われているのは思想である。西欧思想的レベルで言えば、イエス派とパリサイ派の対立に酷似している。両者は同じ神の御名を唱え信仰を口にしながら態度がまるきり異なる。この対立が未だに続いている。つまり歴史的に根が深いということになる。 よってこうなる。あなたはどう思うのか、どちらの見解に与するのか。 2009.3.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評549 | れんだいこ | 2009/03/12 21:12 |
【グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化考】 ネット検索最大手の米国グーグルが、生物科学者のDNA遺伝子情報解読に比するかの如き熱意で、米国内の図書館などと提携し、蔵書のデジタル・データベース化を図っている。本来であれば、国益上は日本もこの競争に遅れじとばかり参入して行くべきであろうが、日本政治は事態を理解する能力そのものがないのだろう、口をポカンと開けたまま指をくわえ、為すことと云ったら「無通知無承諾で転載デジタル・データベース化するなら金払え」が精一杯と云う惨状を呈している。 メディア情報によると、2005年、米国の 全米作家組合と全米出版社協会が、米国グーグルの書籍検索サービスに対して「著作権への重大な侵害」などとして著作権侵害集団訴訟を提訴し、間もなく和解すると云う。両者は昨年10月に 和解で合意、今夏にも出される連邦裁判所の認可を待って発効する。 合意の対象は、2009.1.5日以前に出版された書籍で、同社は、1・著作権保護のために設立される非営利機関の費用3450万ドル(約32億円)、2・無断でデジタル化 された書籍などの著作権者に対しての補償金総額4500万ドル(約42億円)以上をそれぞれ支払う。見返りとして同社は、絶版などで米国内で流通していないと判断した書籍のデジタル化を継続し、書籍データベースアクセス権の販売や、広告掲載などの権利を取得することが定められた。また、対象書籍に関連して同社が今後得る総収入の63%を著作者らに分配する云々。 著作権者は、オンライン上での使用を望まない場合、2011.4.5日まで、同社側に自著の削除を求めることができる。さらに、和解に拘束されることを望まない著作権者に対しては、和解からの「除外」を認め、2009.5.5日を除外通告期限としている。和解の効力は米国での著作権を有する人すべてが対象となる。著作者らが自ら申請をしなければ、米国内でのデータベース化を拒めない内容で、 その効力は日本の著作者にも及ぶ云々。 2009.3.2日、日本文芸家協会(坂上弘理事長)がは理事会で、著作権管理を協会に委任している作家ら約5千人に対し、和解の意思を確認し、合意者をとりまとめて和解金の請求を代行することを決めた云々。これが、日本側の対応だと云うのだからお粗末極まりない。 これは由々しき事件であるのでコメントしておく。仮に「「グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化事件」と命名する。これのどこが滑稽かと云うと、グーグル社は、インターネットの能力と技術の可能性に基き、世界の著作物のデジタル・データベース化に勤しんでおり、その際「無通知無承諾」で取り込みつつあるところ、強権著作権派がか細い声で「金払え」と請求しているところにある。 れんだいこの見立てるところ、グーグル社は、英米日で流行の強権音楽著作権論に基く人民大衆の歌唱演奏に対する課金制にヒントを得て、これを書籍の世界でも展開しようとしていることになる。これが首尾よく行けば、ネット上で書籍が読まれるごとに天文学的金貨が転げ込む仕組みになる。当然、情報統制も今よりますます強化されよう。究極のユダヤ商法知財ビジネスと云うべきか。 本来であれば、日本及び各国の検索会社がバスに乗り遅れじとばかりに参戦すべきなのだが、強権著作権論の「無通知無承諾引用転載罷りならぬ」に縛られており身動きできない。普通これを自業自得と云う。おっつけ、各国の検索会社は、米国グーグル社が整備したデジタル・データベースに対価を払って利用させて貰うという上手い具合の話になるのだろう。 れんだいこは、これにより料金が安ければ、それも良かろうとは思う。しかし、予想されることとして最終的には結構な金額になるだろう。音楽をネット配信で聴くのに一曲100円から200円するように、馬鹿高くなることが予想される。それよりも問題は情報統制の方にこそある。グーグル社サイドが流してよいと思われる情報はすいすいと流れるが、逆は制約される。容易に透けて見えて来る事態である。 ならばどうすべきか。日本も、国策として一刻も早い書籍のデジタル・データベース化に向かい、著作権侵犯論に基く対価請求ではなく、最低限必要経費から割り出した適正金額での利用促進に向かうべきであろう。これが望まれている日本方式なのであるが、日本でこれをやろうとすれば必ずや袋叩きに遭うハメになる。これを俗に病膏肓と云う。かくて、グーグルの独り舞台独演場になる。 これは普通の感性なのだが、これを云う者が居ない。寂しいこと限りない。問題はどこにあるのか。れんだいこが答えないと誰も言わないだろうから指摘しておく。全ては強権著作権論にある。この法理に縛られる限り、理工系科学の成果が悉く歪曲されてしまう。人工衛星が飛ぶ時代に、我々の精神界は不似合いなほど窮屈にされている。それは、生産力が高まっているのに飢餓が蔓延しつつある構図に似ている。 つまり、世の中の仕組みがオカシイということになる。このオカシサを指摘する陣営の者が余計に強権著作権論を振り回しているのが更にオカシイという構図にある。その点、グーグル社は頭抜けており、将来ビジネス原野をせっせと開墾中と云う訳か。 考えてたら堪らんから、碁でも打ちに行こう。今日は勝てるだろうか。昨日はヤラレタ。ヤフー碁でやっと2100点を超し赤マークに達した。早く2500点を越せる身分になりたいもんだ。 2009.3.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評550 | れんだいこ | 2009/03/16 23:44 |
【戦後政治史に於ける疑惑疑獄事件史考】 れんだいこは、小沢秘書逮捕事件の関心から「戦後政治史に於ける疑惑疑獄事件史」を確認しようと思った。そこで急きょサイトを書き直した。ここに紹介しておきます。 「戦後の疑惑、疑獄政治史」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/seitoron/seijikasotuishi/sengoshi.htm) これはタイムリーにして必見です。まだまだ不十分ですが参考にして下さい。 云えることは、2009.3.8日付けのれんだいこのカンテラ時評547「たすけあい党声明-2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件考」で指摘した次のくだりが誠に適切な分析になっているということである。次のように指摘している。 もう一つ、「2009.3.4小沢第一秘書逮捕事件」の臭い面を確認しておく。仮に政治利権が悪いとして、利権は大きく見て公共事業利権と軍需利権に分かれていることを知らねばならない。ハト派が前者に食いつき、タカ派が後者に群がる傾向が認められる。興味深いことは、検察司法が槍玉に挙げるのは専ら公共事業利権の方である。中曽根-小泉系譜の軍需利権は叩けばホコリが出るであろうが、検察は向かわない。先の防衛次官の不正追求も不自然な形で沙汰止みにされてしまった。この選別特捜は何を意味するのか。れんだいこが繰り返すまでもあるまい。 これをもう少し詳しく述べておく。戦後政治は、ハト派総帥角栄的なるものとタカ派総帥中曽根的なるものが暗闘している。下手なマルクス主義者はここがまつたく理解できていない。よって役に立たない。奇しきなことに両者は1918(大正7)年生まれである。れんだいこの無き親父も同じ年生まれである。従って、れんだいこの親父世代と云うことになる。戦後政治史を見立てる時、この眼力がないと流れが解けない。 角栄的なるものは軍事、原子力利権を不得手とし、その代わりに公共事業利権を得手とする。中曽根的なるものは逆に公共事業利権を不得手とし、その代わりに軍事、原子力利権を得手とする。これを政治概念で云うと、前者が内治主義、後者が外治主義に立脚しているということになる。前者は大衆路線、後者は国際金融資本御用聞き路線を執るので選挙に強いのは前者である。マスコミは角栄的なるものを見下し、中曽根的なるものを提灯する癖があるが、人民大衆の眼力は鋭いというべきか角栄シンパは根強く、中曽根シンパは形成されない。 さて、「戦後政治史に於ける疑惑疑獄事件史」から見得てくるのは、中曽根派の悪事が免責され続けており、角栄派の「悪事」は針ほどのことを棒にされて執拗に訴追、逮捕、勾留されているということである。角栄派の「悪事」は民間利権に絡むものが多く、中曽根派の悪事は税金に絡むものが多い。こういう場合、税金悪事の方が悪質とみなされるべきであろうが司直の手は伸びない。こういう傾向がある。検事も判事も人の子で立身出世にばかり目がくらむのだろう。こういう系譜がトップを牛耳っているのでそうなる。 結論。「検察の正義」を声高に語り、エールを送る評論家諸氏しか見当たらないが、まさに体制に飼われた犬でしかない。これを走狗と云う。この走狗のおべんちゃらばかり聴かされるテレビは見ない方が良い。代わりに、れんだいこサイトを覗いて少しずつでも読むのが良い。三年も読むと随分賢くなることを請合うふふふ。 このところ、れんだいこ掲示板を汚すことを仕事として忠勤しているバーゲン情報投稿者は知るが良い。命は短く儚い。魂を汚すと病魔が忍び寄る。人は知らなくても己が悪事を知っている。短い命をあたら惜しくも邪心で染めること勿れ。どこの政治結社か宗教結社か知らぬが改心せよ。そろそろここに初宣告しておく。 とまぁこういうことを発信してみました。 2009.3.16日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評551 | れんだいこ | 2009/03/22 14:48 |
【ETC車に限り乗り放題1千円政策を批判せよ】 高速有料道路乗り放題1千円政策はETC車に限ると云う。それでも人気で週末には多くのドライバーが繰り出していると云う。れんだいこは、導入せぬよりした方が良いとの持論であるが解せない。どうしてETC車に限るのか、どうして普通車以下に限るのか、週末に限るのかにつき疑問が解けない。自公の政策は、どこまでいっても何をやらしても胡散臭い。 れんだいこは極力自動引き落としせぬのでカードもETCにも縁がない。それにはいろんな理由があるが、とにかくそう決めている。そうすると、こたびのような恩恵に与れない。しかしそれし変だ。景気浮揚策として導入するのなら、平日も含めた全車種に適用しなければオカシイ。それで混雑するのなら適宜対応策を講ずればよかろうに。ひとたびはそうすべきだと思う。 それにしても、自公政策はなぜこうも琴線が触れないのだろう。バカな定額給付金制も然り。まじめに国策しているとは思えない。国会質疑をちらちら見るのに、与野党こぞって如何にもまじめそうに論議しているが、ウソウソしいと思うのは、れんだいこだけだろうか。期待されている措置とは全くずれているように思えて仕方ない。 天下り問題もそうだ。我々が不快に思っているのは、官僚の天下り自体というより、天下って高給、高退職金、それもウグイスの谷渡り的な何度にも及ぶ不正に対してではなかろうか。二次奉公なら二次奉公らしゅうせぇと云いたいのが本音ではなかろうか。ところが、国会質疑となると、天下りイエスかノンかの二者択一論議にされてしまう。馬鹿馬鹿しい。 自衛隊の恒常的派兵もそうだ。役にも立たない派兵で一体幾ら国税を費消しているのだ。そのカネがあれば他に何ができるのだという比較考量議論のうえで、どうしても派遣派兵せねばならぬのかどうか議論展開すべきではなかろうか。ところが、国会質疑では、この肝腎な費用部分の論議がスッポリ欠けている。これには社共の責任があるが、この連中のツッコミがアリバイ的反対論だけで空々しい。 景気対策の補正予算組みもそうだ。徒に予算のバラマキをして良い訳がない。銀行の融資姿勢、政府系金融機関の融資姿勢のどの部分のコックを緩めるのか具体的に指図せねば何の意味もない。「不要な者に借りてくれ依頼、必要な者に貸し剥がし」という相変わらずの姿勢が続く中では放漫経済化するだけではないのか。 この国は頭が狂っている。難破漂流中の日本に必要な指導者を専ら標的にして検察の正義が見舞われる。東京地検が特捜体制組むのならかんぽ不正に向かえばよいのに向かわない。スッキリしないこと夥しい。誰の目にもこの仕掛けが明々白々なのにマスコミは検察の正義を後押しして中立公正を気取っている。自衛隊派兵世論を煽っている。狂っている者が正義ぶっている。何とかならんか。等々恨み節を発信しておく。 2009.3.22日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこ先生、著書宣伝を発見しました。 | れんだいこ | 2009/03/25 21:38 |
えこねさんちわぁ。処女作見つけていただいて有難う。丁度本日の25日で発売1ヶ月目になります。頃合いを見て自著紹介しようと思っていましたら風邪気味で気合が乗りません。もう少し様子見します。それはともかく、れんだいこは今カタカムナ文献に辿り着きました。このところ、これの解析に夢中です。サイトも起こしましたので見てください。 「カタカムナ文字考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/mojikakutokuhico/katakamunagoco/top.htm) まだ取りかかって1週間ですので不十分です。例によってどんどん進化させます。なぜ注目するかと云うと、れんだいこが知る限り、カタカムナ哲理が初めてマルクス主義的唯物弁証法を出藍しているからです。時代的には逆ですので、次のように言い換えねばなりません。 マルクス主義は唯物弁証法を得て思想的高みを最高度にさせたつもりになっていたが、カタカムナ哲理に照らせばヒヨコみたいなものに過ぎず、日本左派運動は大まじめにカタカムナ哲理の解析に向かわねばならない責務がある。今までこのことに気づかなかったのは例によって西欧かぶれ現象に汚染されているからに過ぎない。 れんだいこがなぜカタカムナ哲理の研究に向かうのか。それが処女作『検証 学生運動―戦後史のなかの学生反乱』にも関係しているからです。れんだいこは、本書で学生運動史を通覧しながら、その卑大なる不作を見ております。あれだけのエネルギーを投入しながら現在の惨々たる情況は何故なのか、これを問い続けております。そういう流れからカタカムナ学に辿り着いているように思います。 しかし、既成のカタカムナ学は、ここでも例によって難し過ぎる。これは内容が難しいのではなく、難しくされているに過ぎないと考えております。それが証拠にネット検索でカタカムナ文字を個別ごとにコピーしようと思ってもできない。できないようにわざわざガラス張りされているようです。48首の歌があるようですが、これも一部しか公開されておりません。そんなチンケな発想ではイケナイと思いますね。 れんだいこが、これからカタカムナ学をオープンにします。何と現代物理学がカタカムナ哲理に驚嘆しているようです。れんだいこは思想的に検証するつもりですが、既に大いに学ぶべしの気がしております。古来よりの八百万神観に基くたすけあい思想の原点が確認できるのではないかと期待しております。 2009.3.25日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評552 | れんだいこ | 2009/03/26 21:00 |
【カタカムナ学研究者・関川二郎氏の名言】
関川二郎氏の著作「潜象道シリーズ」(博進堂、1997.4.30日初版)の№7「道徳と価値論」の前書きが内容のある提言をしている。但し、部分的に首肯し難い箇所があるので、同意できる部分を抜き出し、多少アレンジし次のようにれんだいこ言葉で語ることにする。 「私たちの社会秩序は、いわゆる常識によって支えられている。常識、あるいは定説と云われるものは、その時代の社会通念として誰もが心得、誰もが行動の基準とする最大公約数である。従って、この常識に外れた考えや行為は『非常識』として非難され、場合によっては法律的叉は社会的制裁を受けることになる。 ガリレオは当時の常識である天動説に逆らって地動説を唱えた為に処刑された。しかし、常識は常に正しいとは限らない。全ての人がこの常識に満足していたら世の進歩は有り得なくなる。進歩は今の常識に疑いを抱き、これを超越するところから始まる。 『常識のウソ』という言葉があるように、世間の常識には仔細に検討するといかにも論理的に矛盾がないように見えても、それが必ずしも真実を正しく反映しているとは限らない。『論理の無矛盾性は必ずしも真理を証明するものではない』という言葉の示すように、実は自己の主観に都合の良い事象のみを抽出して、一見矛盾のない論理の体系を完結することは至って簡単なことなのである。しかし、たいていの人はこの論理の無矛盾性に幻惑されて、それがあたかも絶対の真理だと思い込み、それがいつの間にか常識として定着してしまう。 私たちの身の回りの常識と称するものに、少しも疑いの念を持たないことは、ある意味では大変危険なことである。常識の変遷は、日進月歩する科学技術の世界だけではなく、万古不変のものと誰でもが信じて疑わなかった論理や道徳の分野でも存在するのである。常識は常に変化するものである。今日の常識は必ずしも昨日の常識ではない。同時に明日の常識であるとは限らない。日本の常識が世界の非常識であることも有り得るのである。 私達は、今の常識が常識として定着するまでの歴史的必然性あるいは作為性を考察し、その中に潜在する矛盾あるいは詐術を捉えて、その発展あるいは仕切り直しの方向性を予察し、かく対処する知恵を持たなければならない。今の常識に拘泥せず、これを超えたあるいは打ち破る発想を常に心掛けなければ、世の中の進歩に寄与することは不可能であると確信する」。 2009.3.26日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評553 | れんだいこ | 2009/03/27 23:59 |
【宮家邦彦氏の「陰謀説のウソは看過できない」考】
小沢騒動に関連して、2009.3.26日付け産経新聞が、13面のオピニオンで、宮家(みやけ)邦彦氏の「陰謀説のウソは看過できない」と題する一文を掲載している。これにコメントしておく。 宮家氏は、冒頭で、小沢騒動に関連して飛び交わされている「今回の捜査は米国CIAの陰謀だった」、「ユダヤにやられた」なる論調が気に召さないようで、「どうしても看過できない」、「知的戯言(ざれごと)」、「いちいち目くじら立てる話ではないかもしれない」と述べ、デマを糾す立場から一文をものすと立論している。 しかし、幾ら読んでも、どうデマなのか要領を得ない。その癖、次のように結んでいる。「世界におけるユダヤ陰謀説も、不都合な国際政治現象を自分たちに都合良く解釈するための効果的な手段として繰り返される。もし今でもこんなことを言う人が周囲にいれば、よくよく注意していただきたい」。 かく結論するからには、もう少し論証しておけばよいものの、屁理屈を列ねた挙句、「この種の陰謀説を直接間接に喧伝する向きが絶えないことは実に驚くべきことだ」、「知識人としての人格を失う」と述べているばかりである。せっかく「シオン賢者の議定書」を採り上げながら、「1921年以降、この書物が偽者であることは欧米知識人の間で既に常識となっている」との弁で却下している。 れんだいこは思う。「シオン賢者の議定書」が実書か偽書かは、現代学問の最肝要な究明テーマである。未だ議論が尽せていないと云うべきだろう。それをかくも安直に断ぜられる宮家氏とは何者か。プロフィールによれば、1953年生まれ。東大法学部卒。外務省入省。中東課長、中国大使館公使、中東アフリカ局参事官を経て退官。阿部内閣の首相公邸連絡調整官を経て現在、立命館大学客員教授云々とある。 れんだいこより3歳下になるが、今日まで一貫して日の当たる出世街道を歩んできたことが分かる。何の苦労もない坊ちゃんのまま60歳の齢になろうとしているように見受けられる。ここまで牢として体制側で遊泳してきたこの手合いに漬ける薬はもはや無いというべきで、れんだいこが反論しても通じないだろう。見れども見えず聞けども聞こえずで、その気にない者に説教しても無駄な故にである。 しかし、タバコ吸いにはタバコの臭さが分からない、ニンニク食いには臭さが分からないのと同様で、現代世界を牛耳る国際金融資本の御用聞きばかり勤めてきた者には、国際金融資本の網の目権力が分からないだけのことではないのか、ぐらいには言わせて貰おうと思う。 もとへ。この御仁は、小沢騒動に対して検察の正義を疑う者に不快感を表明している。ならば問おう。小沢騒動の政治資金規正法違反なる容疑は、果たして正気の沙汰なりや。巨額の政治献金を記帳せずに闇貰いしている場合が一番悪いとすべきところ、歴代巨悪のそれを問わぬまま、記帳したことが虚偽記載とみなされ、記帳した政治家に対し金種詮索責任を負わそうとしているが、これは愚挙とみなすべきではないのか。こういうことを許すと検察独裁国家になってしまうのではないのか。今後はお札に氏名履歴を書かさねば防げないことになるのではないのか。恐らく、この御仁はそういう風には考えられないタチなのだろう。 ならば更に問おう。小沢騒動前、かんぽ施設の不当払い下げが問題になり、関与した政治家、官僚に対する追及が始まっていた。1円や千円や1万円落札なぞ、馬鹿げ過ぎていてお笑いであった。れんだいこは、事の重大さは、小沢に対する金種詮索責任よりも、国有施設の不当払い下げ事件の方が数百倍責任が重いと思う。検察は、小沢捜査に乗り出すぐらいなら、国有施設の不当払い下げ事件摘発向かわないと断じて正義ではなかろう。この御仁は恐らく、否小沢の金種詮索責任が世の中で一番重い罪なことと平気で答えるタチなのだろう。 あれこれ考えると、この御仁は、世の時の最も強い権力に対して身を寄せ、何の疑問も湧かさず今日まで、この権力と権威を傘に結構づくめの世渡りしてきたのだろう。そういう処世術がならい性になっているのだろう。こういう御仁に、国際金融資本権力論を幾ら聞かせても無駄ということになろう。しかし、余りにも露骨ノー天気にテキスト通りの文句を紙面に載せられたら、これぐらいのことは言わせてもらわねばなるまい。いい歳こいて、こういう坊ちゃん嬢ちゃんセレブがいるのは確かである。 2009.3.27日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評554 | れんだいこ | 2009/03/29 19:52 |
【2009.3.29日付け朝日新聞社説「高速道値下げ―景気への賢い策なのか」のつまらなさ考】 2009.3.29日付朝日新聞社説は、「高速道値下げ―景気への賢い策なのか」と題して、政府の「土日・祝日は上限1千円制」施策に対して批判的見解を打ち出している。れんだいこが、これにコメントしておく。 その論旨は、高速料金の値下げに10年間に総額3兆円、国民1人当たりの負担2万4千円の税金がつぎ込まれることを危惧している。当面は2年間とされている「土日祝1千円」を3年目以降も続けるとすると、国民は1人当たり毎年2千円ずつ負担を増やさなければならない。納税者の立場になってみても、高速値下げに「それだけの価値がある」と支持できるだろうか、と疑問を提起している。他にも、地球温暖化対策と矛盾する云々、道路公団民営化に伴う経営努力に水を差す云々と述べている。結びは、「しかし、こんな時だからこそ「賢い政策」を選ばねばならない。高速値下げは、その点で問題が多すぎる」。 れんだいこは今縁あって、たまたま朝日新聞を購読したので紙面を読み始めているが、かなり質が堕ちた気がする。昔もたいしたことはないのだけれども、今はもっと劣化していることを憂う。朝日新聞が、政府の「土日・祝日は上限1千円制」施策を社説する場合、こういう隔靴掻痒の見解を対置すべきだろうか。このことが云いたい。 れんだいこなら、端的にせっかく導入してみたもののETC車に限るとしているところが胡散臭いことを論う。その拝背景事情を詮索したいが、どうせろくなもんではなかろう。カードを持たぬ主義のETC装置を付けていないれんだいこは今、連れ合いから毎日催促され、腹を立てている。人件費節約のため云々はウソっぽい。ETC車の政策的導入促進策であり、業界の思惑と更にその奥の院の思惑が見え隠れしていよう。 次に、普通車以下に限るとしていることの胡散臭さを論う。景気対策上、業務用輸送車こそ恩恵に与ってしかるべきではなかろうか。なぜ締め出したのか解せない。トラックが高速道へ向かえば、一般道は走りやすくなるようにも思う。輸送コストが下がれば、製品コストも下がる。波及効果は大きいと窺うべきではなかろうか。 次に、土日・祝日に限るとしているのも胡散臭い。土日・祝日を公休にしているのは公務員と民間企業の一部でしかない。平日を公休にしている者に対して不公平が過ぎよう。業務用輸送車に対する恩恵排除政策でもあるが、その理由が分からない。 そういう欠陥だらけの制度であるが、国民的には歓迎されており、もっと早くに措置すべきではなかったかと窺うべきであろう。この制度の効用評価はこれからであろう。ところが、朝日新聞社説は早くも、れんだいこ的疑問を一切封じたまま、税金の無駄遣いなる観点から批判している。果たして正論足りえているだろうか。地球温暖化対策と矛盾する云々は朝日らしいこじつけ批判の気がする。 道路公団民営化路線を支持し、その立場から経営努力に水を差すなる批判も路に伴う経営努力に水を差す論もかなりエエ加減な論評であろう。元々道路公団の民営化が必要であったかどうかの問いが残されているべきであるのに、この観点は微塵もない。れんだいこに云わせれば、中曽根以来の民営化政策はろくなもんではない。いずれ自衛隊も教育も自治体も国会も民営化に向かわねば理屈が合うまい。この道は、歴史の逆行ではなかろうか。 かく問うべきであろうが、朝日新聞社説は漫然と為にする批判を掲載しており、朝日らしいと云える。それにしても、こういうおざなり社説が通用しているところが現代日本を象徴していよう。マスコミは、北朝鮮の拉致事件、テポドン問題と国会内の政争、刻々の猟奇事件さえあれば飯が食える体質に染まっている。この間を、どうでも良い評論でお茶を濁しておれば仕事したことになっており高給にありつけている。 しかし、その裏で、恐ろしいほどの日本溶解が進んでいるように思える。それが自然現象ではなく、単なる制度疲労からくるものではなく、意識的故意に仕掛けられており、このワナにスッポリ入ったままぬるま湯にひたらされており、このまま行けば世の末の奈落に転落することが間違いなかろう。官僚の士気粗相が目立ちつつある。上部にろくなもんが坐らず、政治が下等化すると必ずそうなる。 本来これに警鐘乱打する使命を持つ社会の木鐸が、こたびの社説のような漫然批判で済ましたり、僅かに残っている気骨系政治家に対して御用提灯もってはしゃま回るご時勢を如何せんか、ここが問われているように思う。 2009.3.29日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評555 | れんだいこ | 2009/03/31 21:54 |
【2009.3.31日付け産経新聞特集のジャスラック提灯記事考】 2009.3.31日、産経新聞社(企画・製作-産経新聞社生活情報センター)は、16、17面の2ページ組でジャスラック広報特集を組んでいる。16面は「歌の心と日本人」と題して、藤原正彦と黛まどかの対談記事となっている。小見出しは「悲しい歌に勇気づけられ、心のヒダにすんなり届く」。17面は「歌謡曲の巨匠たちが残した音楽の力を伝え続けて」。小見出しは、「4人(古賀政男、服部良一、吉田正、遠藤実のこと)はジャスラック歴代会長」、「音楽著作権管理と音楽文化の普及・発展につとめた70年」。 この時期、なぜこの企画が紙面に登場したのかの詮索も面白いが省く。タイトルだけを見れば普通の広報文句であり、目クジラするには及ばない。しかし、内容を読むと露骨なジャスラックピーアールになっている。それはともかく、数々の貴重情報が開示されており、唯一その点が為になった。それはともかく、これを論評しておく。 16面の「歌の心と日本人」で、藤原正彦、黛まどか両氏は、歌の果たしてきた歴史的役割を讃美する観点からそれぞれの体験を語り合っている。それはどうでも良いのだが、れんだいこの窺うところ恐らく深い考えもないままに、黛「著作権管理の大切さを痛感したそうです」、「日本は万葉の昔から誰もが詩歌を詠んでいました。歌の力や大切さを誰もが知っているはず。著作権についても、皆がもっとその大切さを意識すれば、深く理解できると思います」、藤原「作り手にとって著作権は生活の糧となる大事な財産だから」と相槌を打たされている。 参考になったのは、藤原氏の「明治時代にポルトガルから神戸、徳島にやってきた作家のモラエスは日本について、『こんなに歌であふれた国は見たことがない』と絶賛しました。昔の日本人は歌うことの素晴らしさを誰よりも知っていた」のくだりである。これは確かにそうなんだ。この観点からの突込みがもっと欲しい。 もとへ。れんだいこが両名に告げておく。それほど歌を愛し伝統的に愛唱してきた日本的システムを評価するのなら、ジャスラック式著作権活動が闖入して以来、ジャスラックがその文化の灯を守り育てているのか破壊しているのか、これを客観化させることが必要なのではないのか。両名には、ここを全く問う姿勢が見られない。黛は知らないが、藤原よお前もかという気がしないでもない。 次に、17面の「歌謡曲の巨匠たちが残した音楽の力を伝え続けて」にコメントする。古賀政男、服部良一、吉田正、遠藤実と繋がる4名の歴代ジャスラック会長が、如何に音楽著作権管理と音楽文化の普及・発展につとめたかを力説している。が、書けば書くだけ読めば読むだけ空々しくなる類のものに過ぎない。所詮は作曲家能力しかない巨匠を会長にまつりあげ、実質は文部省天下り官僚が理事長以下要職を取り仕切り、会長、理事、評議員を上手に操りながら、音楽著作権を食い物にしてきた結果が今日の歌謡文化の衰退局面ではないのか。 こう問う姿勢なくして、ジャスラック論は語れない。にも拘らず、産経新聞社生活情報センターは、阿諛追従ものに典型的な日本音楽発展史を綴ろうとしている。それは、大東亜戦争末期にノー天気に日本軍略史を語り讃美し、大本営発表を繰り返すさまと酷似しており、何の意味もない、というか反動的醜悪でしかない。 今、ジャスラックが顧みるべきは、創立70年の総括として、人民大衆的愛唱につき、著作権侵犯論からではなく音楽基盤の培養、ファン育成観点からの在るべき姿の提示であろう。これまでのような日本列島の津々浦々の音楽愛好者の集いを見つけては、著作権侵犯非国民のレッテルを張りつけ、過去に遡っての高額請求で神経を傷めさせ、弁護士を使って訴訟に持ち込み、演奏楽器を撤去させ、店舗経営者を逮捕させるという常套手段を猛省すべきであろう。こういう活動が果たして日本音楽著作権擁護の為の正当な在りかただったのかどうか自己批判するべきであろう。 公益法人として突出した売上を誇り、なお且つ漢字検定協会の如くに調査、批判されないのを良いことに、音楽の奏でられる森を見つけては槍を持って料金徴収に勤しむ野蛮さが果たして先進国的文明的なりやと問いかけることであろう。現下のジャスラックは全くのところ、権利暴力団の走りであり親玉である。そういう地位に居りながら、この道をますます暴走しようとしているのが現経営陣の姿勢である。これを糾弾せねばなるまい。 今、ジャスラックは公取委の調査対象になり、行政指導を受ける立場に追い込まれている。これまで攻める一方であったジャスラックが初めて防戦を強いられている。驚くべきことは、そのジャスラックは、徹底抗戦を表明している。ジャスラックが尋常でない団体であることが暴露されつつある。今後ジャスラックの膿がますます出て来るだろう。ジャスラックに大枚のパーティ券の世話になっている議員諸氏よ、今から首を洗っておけ。小沢批判の際の口舌をそのままお返ししてみせようぞ。天下り問題も然りで、他の団体のそれは指摘されつつあるが、ジャスラックのそれは優るとも劣らない。等々書き始めたらキリがない。 問題は次のことにある。このジャスラック式音楽著作権論と、これに基く活動は、著作権法に照らしてみてもジャスラック定款(仮にこれを音楽著作権法とする)に照らしてみても違法の可能性が強い。にも拘らずジャスラック式音楽著作権論が常態となり、これが定着化し更なる猛威を振るおうとしている。それはあたかも、憲法9条と自衛隊の関係に相似している。憲法9条と自衛隊の関係については、社共始め日本左派運動は概ね憲法9条擁護にシフトしているが、著作権問題については逆で、法破りのジャスラック式強権著作権論に加担し更なる強権化にエールして正義ぶっている。 れんだいこは、この異常性に早く気づくように思念している。日本左派運動に覚醒を促している。未だに友、遠方より来たらずではあるが、なぁに構やしねぇ。こういうものは一夜のうちに変わる。ジャスラックのお化け振りがさらされるにつけ、れんだいこの指摘の正しさがいやましにくっきりと浮き彫りになるだろう。その日が来るのは時間の問題に過ぎないと確信している。 2009.3.31日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評560 | れんだいこ | 2009/04/11 21:57 |
【邪馬台國論争終結宣言させない宣言】 阿修羅の歴史02版で、山形明郷氏の「邪馬台國論争終結宣言」なる書と栃木県婦人ペンクラブ会長の吉田利枝書評が紹介されていた。れんだいこの観点と異なるのでコメントしておく。れんだいこは読んでいないので書評を参照しながら論評する。 「著者・山形明郷氏は、在野の古代東アジア史研究家である」。在野という意味では、れんだいこも同じである。「この著作は、日本史学界はもとより、我が国史を後世に伝承させる汎日本国民への空前絶後の一大偉業である」。こういう書評に出くわすと、れんだいこも読みたくなる。しかし、れんだいこの処女作にも、こういう書評が欲しいな。 結びは、「まさに著者・山形明郷氏ならではの蘊蓄に彩られた峻厳・明晰の一大論証であり、余りにも長歳月に跨った紛々の論争に、鮮烈な「終結」を宣した我が国古代史界希有の大書である」とある。これは読まんといかんかな。 しかし、気になるのは内容である。◆ 古代朝鮮・楽浪・前三韓の所在地は、旧満州であった(現在の朝鮮半島ではなかった)◆ 卑弥呼の正体は、遼東侯公孫氏の係累であった(日本の卑弥呼ではなかった)◆ 倭の所在地は、古代「韓」半島であった(日本ではなかった)を骨子として「邪馬台國論争終結宣言」へと導いているようである。 こうなると、れんだいこの立論と全く対立していることになる。れんだいこは、邪馬台国研究はこれからであり、今までのそれは緒についたばかりと認識している。よって、「邪馬台國論争終結宣言させない宣言」をしたい。どちらの認識が正しいのだろうかと云うことになる。 ちなみに、れんだいこは、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説を唱えようとしている。邪馬台国は大和王朝によって滅ぼされたのであり、よって記紀から抹殺され封印され、痕跡さえ破壊尽されたとみなしている。九州説なり大和説なりその他説は、所在地論争で対立しているように見えて、邪馬台国の延長上に直系的な大和王朝を捉えようとしている点で同じ視点であり、この視点からは真相が見えないと仮説している。 記紀記述に於いて封殺されている大和王朝以前の日本の実相を捉え直すことが研究課題となっているのであり、邪馬台国=アイヌ蝦夷王朝説の視点は始まったばかりであり、どういう展開を見せるのか見当もつかない豊穣な沃野が待ち受けているとみなしている。つまり、どう見てもこれからの研究である。四角四面コチコチの著作権狂いの学会人の頭脳では解けまい。在野が開拓する以外あるまい。そう云うときに終結宣言されたら堪らない。早分かりも困る。これが云いたいのでコメントしておく。 邪馬台国考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/yamataikokuco.htm) れんだいこの邪馬台国論 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/yamataikokuco/rendaiconoyataikokuron.htm) 2009.4.11日 れんだいこ拝 |
新著のこと | 山椒魚 | 2009/04/13 14:13 |
一冊ご送付下さい。前もって振り替え用紙を送って下されば即座に送金致します。 |
Re:新著のこと | れんだいこ | 2009/04/14 09:42 |
山椒魚先輩ちわぁ。今、郵パックで送らせていただきました。読了後の手厳しかろうともご意見お待ち申し上げます。いよいよ下巻の推敲に入ろうと思います。問題は、どうすっきりコメントできるかだと思っております。その為にはかなり難事なハードルを越さねばなりません。苦しいような楽しいセカンドワークになっております。叱咤激励頼みます。 2009.4.14日 れんだいこ拝 |
おひさしぶり | 松本哲 | 2009/04/15 20:15 |
7日と10日の発言拝読して流石、あらためて見事な内容です。いつまでたってもくだらない現在の自公政権に今年に入ってから趣味の将棋に夢中になっていてネットの情報から少し離れていましたが、10日の記事は転載したいのでお知らせと了解してください。早く選挙になって自公政権を倒したいと思っています。 | ||
Re:おひさしぶり | れんだいこ | 2009/04/15 21:51 |
松本哲たすけあい党官房長官さんちわぁ。たすけあい党はこのところ入党者が続かず党首一人が裸単騎で奮闘している感があります。これではいけません。わが党はマジに最大党派になる目標を設定しております。いずれパレスチナ問題にも介入し、世界平和の基底軸を作り出そうと思っております。日本人民大衆の胸襟に迫れていないことを非力として反省しております。電脳空間とはいえ、せっかくユニークな党を結成しているのですから、生ある限り奮闘努力しませう。一騎当千のつわものを寄せてせめて30万人の党派を結成し、日本武道館辺りを借り切って盛大白熱の党大会をしてみたいものです。頑張りませう。 2009.4.15日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評561 | れんだいこ | 2009/04/17 00:28 |
【どうみても小ワルでしかない漢字検定協会叩きに正義ぶるが大ワルのジャスラックには尻尾を振るマスコミ正義を嘲笑せよ】 2009.4.15日、漢字検定を受検者数280万人というブランド検定に育て上げた財団法人「日本漢字能力検定協会」(京都市下京区)の大久保昇理事長(73)と長男の浩副理事長(45)の記者会見の様子が報ぜられ、マスコミの臭い正義振りが聞かされている。れんだいこが、これに不快の念を表明しておく。 結論から云って、れんだいこは、正義ぶっているコメンテーターに、漢字能力検定協会程度の不正に目クジラするなら、ジャスラックの大不正をどうするのだと嘲笑しながら問いかけたい。こう云ってもキョトンとして何を云っているのか分からない程度の頭脳の正義マンガ多かろう。あるいは、ジャスラックの著作権狂いは正義であり、その為には人肌も二肌も脱ごうとする手合いが多かろう。 結論から云って、手前は狂っていると宣告しておこう。そう云われて不快なら、漢字能力検定協会を問い詰めた同じ論理でジャスラックにも当たって見よ。漢字能力検定協会が子供かヒヨコに見えるような不祥事がゴロゴロしていよう。なのに立ち向かえないのなら、悪いことは言わん。正義ぶるな。 考えても見よ。漢字検定協会は、近頃の幼児教育からの英語ブームに対して棹差しているではないか。ろくに日本語が書けない老若男女に対して、日本語熱を喚起しているではないか。検定料が高いと云っても法外な金額ではない。もっと安くなるのは結構なことだが、口角泡を飛ばさねばならないほどのことではない。 以上を前提にジャスラック論に入る。ジャスラックは社団法人である。社団法人と云えば、各業界の団体がこの資格を持つ。事務局は別にして大概の業界団体役員は手弁当で運営に協力している。これが相場である。ところが、ジャスラックの売上と役員理事の法外の給与と退職金を見よ。漢字検定協会が50億円とすればジャスラックは2000億円で、社団法人中突出した売上を誇っている。漢字検定協会の公益法人性を指摘して不正を正したコメンテーターよ、同じ論理でジャスラックを叩け。途端に尻込みするのは承知せんぞ。 漢字検定協会は、漢字の普及と咀嚼に貢献している。ジャスラックは、歌謡文化の普及に貢献しているのか棹差しているのか。貢献している方が叩かれ、棹差している方が許されることこそ不正ではないかな。最近は、こういう本末転倒批判が隆盛しており、つまり世の中が狂っているので、頭脳が整理できない善良な市民のうつ病が増えている。これもむべなるかな。 そのジャスラックはこれまで、音楽を愛好し利用する店舗経営者を見つけては高額料金をふっかけ、応じないとなるとが裁判に訴え、時に逮捕までさせて一罰百戒の見せしめにしている。著作権正義の如意棒振り回しながら、中小零細店舗を見つけては徘徊している。ホテルやら観光バスなぞに向かうと、その計算式で行くと何せ面積割だから巨額の請求額になり、ジャスラックの方が卒倒して尻込みせざるを得ないのかお目こぼしとなる。何のことはない、弱い者イジメでしかないという話になる。 そのジャスラックが公正取引委員会の行政指導を受ける立場になった。どうするのかと思っていたら何と、徹底抗戦だと。こうなるると、ジャスラックの特異性に気づかざるを得まい。権力を恐れない社団法人ジャスラックとは何ものぞ。何がジャスラックをして元気印にさせているのかと。我らが支援する相手かと。 止めはこうだ。そのジャスラック理論は、著作権法に照らして違法の可能性が強い。著作権法には、流通論で云うところの川上規制はしているけれども、川下適用までは書いていない。というか、著作権法は人民大衆レベルにまで課金するのを慎重に抑制している気配がある。にも拘らず、法律でもない文化庁に提出した書面認可でしかないものを錦の御旗にして徴収に明け暮れている。 取り立てたら何ぼと云う歩合給社員を雇って、音楽の奏でる営業スペースと云う空間を見つけては脅し回っている。カセットだろうがBGMだろうが関係ない。音楽の営業的利用そのものが即著作権侵犯と云う独特の教義に基き正義棒を振り回している。これに対して、公益法人にあるまじき行為となじれば、過去に遡っての利息制限法も驚く高額請求書に切り替えて脅しまくる。実際には裁判攻めにされる。既に述べたが逮捕まで要求する。音楽機器は撤去させられ、あるいは見せしめ的に封印される。 結論。漢字検定協会に正義舌を弁ずるコメンテーターよ、その口をジャスラックに向けたらどうだ。それなら辻褄が合っていよう。現愛媛県知事の加戸守行よ、お前が文化庁次長の時にこういう仕掛けを仕組んだことが判明している。その後ジャスラックの理事長に納まり高額給与と退職金を得て知事選に出向いたことも判明している。扶桑社版(いわゆる「つくる会」教科書)の是非は別にして、これを全国に先駆けて採択せしめたことも判明している。一事万事で、ろくでもないモンはろくでもないことばかりしよる。れんだいこには愛媛の血が半分流れている。愛媛が心配でならん。 マスコミよ、こいつに経過を糾せ。ジャスラック式著作権論が著作権法に照らしてどう合致しているのか弁明させてみよ。川下徴収が音楽文化をどう愛育発展せしめたのかしゃべらせてみてくれ。漢字検定協会叩きのヒマがあるなら。 2009.4.16日 れんだいこ拝 |
Re:内ゲバを語る前に | れんだいこ | 2009/04/19 20:12 |
一夫さんちわぁ。れんだいこの著作が生み出した議論として受け止め、コメントしてみます。 中核派、革マル派の分裂について、それなりの見識を持つことは必要と思います。そういう意味では、両派が、自前の党史に於いて、このま辺りをはっきりさせておくべきだと考えます。今両派のホームページを確認しましたが、革マル派の場合には、そもそも党史のサイトそのものがありません。中核派の場合には、「革命的共産主義者同盟(革共同)とは」が代行しているように思いますが、両派の分裂時の論理について「1962年、革共同の第3回全国委員総会(3全総)で、「戦闘的労働運動の防衛と地区党建設」を柱とする大路線を決定しました。社会党・共産党に代わる新たな闘う労働者党を建設するという大方針です。この3全総路線に反対して、黒田寛一(2006年没)を頭目とするカクマル一派が革共同から脱落・逃亡し」とあるばかりです。 当事者の両派がこういう按配ですから、よほどマニアックな人でないと事情は分からないと思います。一夫さんのように「『内ゲバ』を語る前に、両派の将来を決定した事実を学ぶべきである。それ無しには、『内ゲバ』は、語れない。」とするなら、当事者がまずもって大衆的に明らかにしておかねばならないと考えます。れんだいこは、どちらが正しかろうが、両派の変調ぶりの方が気にかかります。しかし、これは何も両派だけの問題ではなく、日本左派運動全体が党史を重視しない傾向に陥っております。れんだいこは、この方が問題と考えております。歴史を粗末にする者は現在も未来も粗末にするのが法理です。 その点、日共は何度にもわたって書き換えておりますが、それなりの党史を作成しております。この点は、評価されるべきでせう。しかし、なぜかホームページ上にアップしておりません。オカシナコトデス。もっとも、日共の党史ほど勝てば官軍式の現下党中央讃美型の御用党史論は珍しい。いたるところの記述が無茶苦茶です。これが通用しているからオゾマシイ。 以上を踏まえて云えることは、或る発言を為す時に「学習すべき最少文献」を読了しておかねばならないというのはいかがなものでせうか。それを読めばなお良く、読まずとも発言、提言はできると思います。なぜなら、現に結果がここにあるからです。結果を元に論評することは、些かも問題ではありません。むしろ、現実を直視している分、優れた手法だと考えます。学究派とかユダヤ-キリスト教系の宗教派の方は、現実を見るのに本から説きます。れんだいこは、逆ではないかと考えております。 付言すれば、派読了することによって中核派びいき、革マル派びいきになる必要はなく、オカシイことはオカシイと云える感性を保持すべきと考えております。れんだいこが読むとすれば、このスタンスから両派分裂の事情を窺うことになると思います。 それと、学生運動論を展望する時、れんだいこは、中核派、革マル派の対立よりも、第1次ブントと革共同の対立の方に原理性を感じております。日本左派運動が学び直すとすれば、1950年代後半の革共同、第1次ブントの発生過程の方に興味を覚えます。これができていない時に、いきなり中核派、革マル派の対立考に入るのはいかがなものか、いささか視野が狭いのではないかと考えております。 当然、中核派、革マル派の対立と分裂過程も大事で教訓が多い思います。しかし、そこを考察すれば、それで全てが解けるというものではないと思います。というようなことでまた。 2009.4.19日 れんだいこ拝 |
学問に王道は無し | 一夫 | 2009/04/20 00:30 |
れんだいこさん、コメント、ありがとうございます。 「或る発言を為す時に「学習すべき最少文献」を読了しておかねばならないというのはいかがなものでせうか。」と言われますが、勉強を省略して、発言できるほど、社会現象というものは、単純なものではありません。実証なくして、語れるような理論も存在しえません。三全総というものも、極めて、複雑な社会現象なのです。それを、実証的に、分析する事を、回避して、三全総における革共同第三次分裂を語る事は、できません。 できるとすれば、学問は、不要だと断言することに、なります。私は、社会科学を軽視することは、出来ません。地区党建設と産別委員会の関係の問題にしても、日共の組織論以来の深い問題を、はらんでいるのです。この問題を論じるだけで、長時間を要すると思います。 |
Re:学問に王道は無し | れんだいこ | 2009/04/20 09:34 |
一夫さんちわぁ。学問は、学べば余計に自由になり、見識が富み高くなるのが理想です。逆になると、学問の意味がないと考えます。れんだいこの「或る発言を為す時に「学習すべき最少文献」を読了しておかねばならないというのはいかがなものでせうか」の問いは、学問を否定しているのでは有りません。学問は学問です。 即自的な見解も、学問後の見解も、いろいろ交差すれば良いのではないか、我々が生活上で生んだ知恵やら生産点で得た知恵やら学問で得た知恵やらが交差するうちに練りが入り高次化すると考えております。そういう意味で、あらかじめ仕切りを高くされるとものが言えなくなるではないかと思い、意見させていただきました。そういうスタンスで述べていると理解してくだされば有り難いです。 2009.4.20日 れんだいこ拝 |
Re:日共と中核派の産別委員会否定の本質 | れんだいこ | 2009/04/20 09:53 |
一夫さんちわぁ。党派組織の産別委員会方式と地域別方式のそれは、どちらかにせねばならないものではないと考えます。物事には長短所が不即不離になっており、絶対こうすべきとする必要はないと考えます。より適正の方を採用し、不都合があれば改良し続けるのが良いのではないでせうか。 一夫さんの指摘により、中核派、日共、革マル派には組織論の違いがあるということは分かりました。そこに大卒と高卒の登用の仕方の違いがあるということを知りました。「産別委員会重視の革マル派の路線が、ここで、人間変革による組織建設の重視に、結びついてくる」、「そうした「伝統」を打破した、革マル派の産別委員会重視の路線は、画期的である」ということも。 組織論は確かに重要で、それにより党派の伸びが決まる面があります。そういう意味では規約の内容も大事です。運動論も大事です。結局、それらの総合力で各党派は今あるようにあるのではないでせうか。1970年代よりも今日の方が格段に隆盛しているのならまだしも、今日の低迷時点で革マル派組織論の優位性を告げられても、なんだかなぁという気もします。 れんだいこの関心は新しい皮袋に方にあり、その為にも既成党派の皮袋を検証するというスタンスであり、中核派、日共、革マル派のどちらが正しいという興味は有りません。恐らく真実は、どちらにも半面の真理があり、欠点があるのではないでせうか。でないと、現状を説明できません。 2009.4.20日 れんだいこ拝 |
Re:第3節 国家権力の謀略 | れんだいこ | 2009/04/21 20:23 |
一夫さんちわぁ。「第3節 国家権力の謀略」読ませていただきました。れんだいこも著作ではっきり書いている以上、この問題から逃げる訳には参りません。れんだいこのスタンスとかくも違う見解を披瀝されて、どう立論しようかと思案しております。とりあえず逐条コメントしておきます。 > 以上のように、国家権力者は、革マル派を「放置しておけば革命が成功」する可能性が高いという危機的状況を、いかに、乗り切ったのか。弾圧による乗り切りを主張していた田中角栄の子分=後藤田正晴が掌握していた公安警察は、革マル派系労働者、学生に対する謀略殺人という手段に訴えた。 国家権力者は、革マル派を「放置しておけば革命が成功」する可能性が高いという危機感を持っていたということですが、エエッそんなぁという思いがします。それと、「田中角栄の子分=後藤田正晴」という認識もいかがなものか、ここでわざわざ角栄を引き出す魂胆が同調できません。 > 1970年代、80年代には、78名もの革マル派系、また、戦闘的、あるいは良心的な労働者、学生、市民が虐殺され、数多くの者が、半身不随になり、頭脳を破壊されて正常な思考能力を失った。青年労働者を中心とするランク・アンド・ファイルの組合員の反幹部闘争が高揚していた全逓東京地本は「第二の動労」になることが予測されていたが、謀略殺人、謀略襲撃によって、革マル派の力は微弱なまま推移した。国労、全電通、日教組、自治労など、他の官公労における勢力拡大も壁に直面した。 お互いさまなのではないでせうか。 > 日本帝国主義は、革マル派系活動家に対する残虐な謀略殺人によって延命する事が可能となったと言っても過言ではなかろう。 日本の警察は、これらの謀略殺人のすべてが、革マル派と対立する極左集団(中核派、革労協)による「犯行」だと発表している。それに対して、革マルは、殺人襲撃の一部が極左集団によるものと認めつつも、その多くは、国家権力の謀略部隊の凶行だとしている。 これも、ナンダかなぁ独尊独善的という気がします。 > まず、我々は、国家権力者が、放置しておけば革マル派による革命が「成功」する可能性が高いと考えていたことを想起すべきである。権力者には、革マル派系活動家を大量に虐殺、または、廃人にする動機が有ったのである。 これも同じで、ナンダかなぁ独尊独善的という気がします。 > しかし、謀略であることが明白な事件が起こった。1974年12月16日、マサカリ等の武器を持った襲撃部隊は、革マル派系活動家が住む東京都内3ヶ所を同時襲撃した。しかし、墨田区のマンションでは、全学連戦士は、襲撃者の一人を打ち倒した。このテロリストは、パトカーによって板橋区にある都立豊島病院に運ばれて入院した。この襲撃は、中核派が追認した。しかし、彼の同志であるはずの中核派のメンバーは、誰一人、一度も、現れず、警護には、刑事達が当たっていた。革マル派系活動家が現れると刑事はピストルを抜いて威嚇した。 > 警察は、この男を、殺人未遂・凶器準備集合罪で逮捕したと発表した。しかし、12月25日、警察は、この襲撃者を退院させ、どこかへ運び去った。そして、この男の所在、正体は不明となり、闇に葬り去られてしまった。殺人未遂等で逮捕された「犯人」が警察の手によって「隠匿」されたのである。 > この「犯人」が、中核派のメンバーではなく、国家権力の謀略部隊の隊員だったからこそ、警察が、このような行動をとったとしか考えられない。「犯人」の「身元」が判明すれば、国家権力による謀略だということが、誰にも否定しえなくなるからである。 こういう話は、双方から聞いてみないと分かりません。以下、水本事件について触れられておりますが、この事件については、れんだいこも関心があります。水本氏がなぜ消されねばならなかったのか。しかも替え玉によって死体確認されねばならなかったのか。この裏に何が有るのか知りたいところです。 > 1977年4月15日には、頑丈な自動車に守られた4人の活動家が、ナパーム弾だと推測される武器によって焼殺されるという事件が起こった。日本の「過激派」の殺人の手口とは、あまりにも、かけ離れた、ベトナムのアメリカ軍まがいの「焼殺」という手段だったため、虐殺を追認した革労協(革命的労働者協会=解放派)は、「焼き殺した」という事実を、その機関紙『解放』上で公表できなかった。 この事件と水本事件が絡むという認識はしておりません。直前の2.11日の革労協(社青同解放派)最高幹部の「中原一」氏虐殺に対する、最高指導者を殺された社青同解放派の怒りとして引き起こされた事件とみなしております。「『焼き殺した』という事実を、その機関紙『解放』上で公表できなかった」事実があるのかどうか、それが事実ならその事情を確認しておきたいところです。 > > 謀略は政争の具としても利用された。成田空港建設反対闘争(三里塚闘争)においては、「第4インター」「ブント戦旗・日向派」「プロ青同」から成る「赤ヘル集団」が、管制塔に登り、管制室の機器を破壊したが、「赤ヘル集団」が管制室に到達する前に、管制室がある16階には、機動隊や制服警官が居たのである。『読売新聞』(1978年3月31日、夕刊)に掲載された写真が、この事実の証拠である。「赤ヘル集団」は機動隊に邪魔されることなく、管制室内の機器を破壊できた。管制塔占拠は、公安警察によって演出された事件である。この事件によって、福田赳夫首相の国際的威信は傷つけられた。福田が田中角栄を逮捕させた事に対する田中派の公安警察のボス・後藤田正晴による福田首相に対する復讐であった。 党派間ゲバルト事件とは関係しませんけども、成田空港開港直前の第4インターらの管制塔占拠、機器破壊事件が胡散臭いというのは、有り得るかも知れませんね。事件が、「福田が田中角栄を逮捕させた事に対する田中派の公安警察のボス・後藤田正晴による福田首相に対する復讐であった」なる推理は首肯できませんね。なんでここに田中派が出て来るのでせうね。これこそ謀略的見解ではないでせうか。 > 謀略部隊による、数多くの活動家の虐殺、廃人化、負傷によって、国家権力者が、「このまま放置しておけば官公労全体を制し、革命が成功する可能性が高い」と認識した革マル派の伸長は、多くの組合でストップした。あるいは、組合内の党組織が破壊された場合も少なくなかった(玉川信明編著『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪(上)』2002年、あかね図書販売、147頁、337頁、『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪(下)』18頁) まっ立場の違いによる見解の相違ということになるのでせうか。れんだいこは、戦後学生運動史の解析を通じて違う見解を披瀝しております。できれば、私の見解を早飲み込みせず、味わって欲しいと思います。裏で公安が暗躍したのは事実と思います。それが革マル派にはなくて、中核派、社青同解放派にはあったということになると、恐らく相手は怒りますよきっと。それを押しのける強い証拠があれば別だけども。どういう事情でかは分かりませんが、革マル派の秘密アジトが摘発された時、公安との通謀証拠がぞろぞろ出てきたという事件も考慮に入れないと片手落ちだと思います。 2009.4.21日 れんだいこ拝 |
Re:中核派と革マル派の労働運動の違い(左翼運動の歴史、8)。 | れんだいこ | 2009/04/22 16:51 |
一夫さんちわぁ。貴重な資料を続々開陳されており、勉強にはなります。問題は、或る党派が急進主義的運動を展開している時、他の党派は特別の事情がない限り、それを邪魔することはないと思うのです。追って、その党派が自己責任を負う訳ですから。中核派と革マル派がそれぞれ運動展開すれば良いのであって、つまり競り合いすれば良いのであって、棹差さねばならないことはないと思います。 れんだいことしては、「検証 学生運動」の中で記しましたが、我こそ絶対正義として諸雑派一掃、他党派解体の向かうロジックこそ臭いと認識しております。その昔の創価学会式釈伏に似通っておりますが、創価学会は基本的に理論闘争の範疇に於いて正義性を争っておりました。他山の石にすべきではないでせうか。感想としてそう思います。 釈伏レベルの論争は、機関紙誌、公開論争その他で大いにやるべきだった、昔も今も。日本左派運動には、この論争が足らなさ過ぎる、それを難しい言葉で煙幕張るのではなく、極力日常用語で手前達の意見が良く分かるように、相手の見解の非が良く分かるように訴えるべきでする。それをやらずに、いきなり宗派活動する、それはないでせう、そう思っております。 2009.4.22日 れんだいこ拝 |
Re:共産主義社会とは。 | れんだいこ | 2009/04/23 20:59 |
一夫さんちわぁ。ここで述べられた一夫さんの共産主義社会象はかなり意味ある提起だと思います。というのも、マルクス主義に於ける社会主義、共産主義の抽象的理念は語られているものの、具体的にどのような社会なのか知る機会が無いからです。もし、具体的に述べられた文章があるなら、れんだいこは確認させて貰いたいと思います。 一応無いとして立論しますと、マルクス主義的共産主義社会象は、マルクス主義がキリスト教批判を始発として科学的社会主義なるものを理論創造したという割には、未来社会象が宗教的天国論、仏教的涅槃論と何ら変わらぬ没解析的なユートピアを展望していることになります。ここへ至れば何もかもが解決するとして、道中のプロセスばかりを論う従来式理論と何ら変わらないことになります。れんだいこは、そのように思います。 そういう意味で、 > 共産主義社会とは、「好きでもない仕事をやって、下げたくもない頭を下げて、わずかな給料しか、もらえない」という問題が無くなる社会である。 という規定は、ユニークで面白いです。もっとも、この論で行くと、理想社会では好きな仕事ばかりできるのかとか、適宜な給与の基準は何によって計られるのかとか、一体何時間労働が適正なのかとか、男女の性差はどのように組み込まれるのかとか、いろいろな未解明な面を残しており、充分な規定ではないと思います。但し、こういう立論する価値は大いにあると考えております。 > マルクス、レーニン、トロツキー、そして、ロシア革命当時の、すべての共産主義者が、思想・信条、言論、結社の自由を認める考えであった。 ここですが、れんだいこもそう思いたいのですが、どうもそうではないような研究が為されつつあります。問題は、いろんな齟齬事象が認められたにしても、マルクス主義の否定に向かうのではなく、更に優れた思想、理論の創造へ向けて為されねばならないことにあります。しかし、この場合でも、事実史実に則らねばなりません。 > さらに、マルクスは、労働に、おける自由が不可欠であり、それがなければ、労働者階級の解放=人間解放は、ありえないと考えた。 とすれば、良い理論だと思います。れんだいこ的には、自由、自主、自律の三点セットで捉えたいと思います。自由だけでは、平等理論との絡みで、理論が浮つくからです。 > 資本主義では、地球環境を破壊する自動車を作るのが、嫌でも、それしか、仕事がなければ、自動車工場で働かなければならない。 マルクス時代に於いては、ワンワールドの志向はあったとしても、今日的な地球環境汚染問題まで視野に入っていたかどうかは疑問です。労働については搾取理論を本体としており、より合理的な被搾取されることのない社会を展望しており、その為の階級闘争論を創造していたと考えます。そういう歴史理論に止まっており、この過程に於ける労働者個々の生活欲求の在り方にまでは言及し得なかったと思っております。 マルクスの疎外論についてですが、鋭い分析であると同時に、西欧式ユダヤ-キリスト教式労働観を基礎にしており、東洋的日本的な労働の中に生命の充足を見出し、自然と帰一する形での生活志向観との差異を無視して展開させると却ってそぐわない面があるように思います。従って、 > 労働が、終わって、工場を出た時に、初めて、自分の体が、自分の、もとに、もどり、本当の自分に帰ることが出来たと実感する。 のが実際であったとしても、職場での充足、職場を離れての充足という在り方を追及するのが本来の社会主義運動になるべきと考えています。だから、マルクス的疎外論の狭い枠からどう出藍するのかが問われていると思っております。 > 共産主義者は、疎外の無い社会の建設のために闘う。共産主義社会では、工場も、社会全体も、労働者共同体が支配する。共同体の指導者(委員)は、民主的な自由選挙で選ばれ、労働者の討議によって、何を、いかなる方法で、どれだけ作るかが、決定される。共産主義社会は、世界革命の勝利の後にしか、建設されえないので、共産主義においては、国境が存在せず、全世界の資源、土地を適切、公平に分配することができる。 ここで云われている社会的生産-流通-消費の過程では国有制を意味しない、国営と民営の合理的関係が問われている、生産管理方式に於ける経営総体の合理的関係が問われていることを前提にしておくべきだと思います。後半の「共産主義社会は、世界革命の勝利の後にしか、建設されえない」とするのは宗教的思弁的で、理想社会は一挙的にもたらされるのではなく、ぼちぼちでんな式の実験的な共産主義社会がミニチュアモデル的に生み出されつつ、幾世代にもわたって試行錯誤されて行くべきなのではないでせうか。オールオアナッシング論法は危険です。とかいろいろ考えました。 2009.4.23日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評562 | れんだいこ | 2009/04/26 20:58 |
【グーグル図書館問題をどう解くべきか考】 ネット検索最大手の米国グーグルの蔵書のデジタル・データベース化、これによるネット上で書籍を閲覧検索できるサービス即ち「クーグル図書館」が問題になっている。これにコメントしておく。既に20009.3.12日のれんだいこのカンテラ時評549「グーグルの無通知無承諾書籍のデジタル・データベース化考」で言及しているので、極力ダブらないよう新たに論説しておく。 メディア情報によると、2005年、米国の 全米作家組合と全米出版社協会が、「グーグル図書館」に対して、「著作権への重大な侵害」などとして著作権侵害集団訴訟を提訴した。両者は2008.10月 和解で合意、閲覧サービスによる収入の63%を著作権者に配分し、無断でデータベース化した場合には著作権者に一点当たり60ドルを支払う等々で合意した。今夏にも出される連邦裁判所の認可を待って発効する。問題は、米国での和解が自動的に世界に及び、不服ある者は5月5日までに事前に申し出ねばならない、データベースからの削除は2011.4月までに申し立てる必要があるようにされていることにある。著作者らが自ら申請をしなければ、米国内でのデータベース化を拒めない内容で、 その効力は日本の著作者にも及ぶ。 1998年、ネット検索会社としてデビューし急成長してきたグーグル社はこれまでも、無料動画ユーチューブや街並みの実写画像ストリートビューなどで物議を醸してきた。一貫して共通しているのは「まず革新的で便利な技術やサービスを提供し、収益化の方法は後で考える」という同社の経営方針である。「クーグル図書館」は、この思想に基いて生み出され、ネット利用者の利便性を徹底追及する善意が生んだサービスでフェアユースの精神に立脚しているとされている。既に700万部を超える書物をデジタル化したと云う。 これに我が日本はどう対応しようとしているのか。2009.3.2日、日本文芸家協会(坂上弘理事長)は理事会で、著作権管理を協会に委任している作家ら約5千人に対し、和解の意思を確認し、合意者をとりまとめて和解金の請求を代行することを決めた。続いて、4.15日、「日本の著作権者と出版各社を大混乱に巻き込んだ」と批判する声明を発表した。日本文芸家協会の「報道関係各位 グーグル書籍検索和解案からの集団和解離脱に関して」(ttp://www.jvca.gr.jp/oshirase/oshirase20090425.pdf)によると、4.25日、協会会員著作権者174名が、グーグル書籍検索に対するクラスアクションによってもたらされた和解案から離脱とある。 問題は、彼らが何を不満としているかにある。恐らく、グーグル社と米国の作家組合、出版社協会が取り決めたものを一方的に押し付けられる不快さを表明しているものと推測されるが、れんだいこの考えはちと違う。問題は、著作物の「フェアユース論」(社会的に公正に利用されるのは著作権侵害に非ず論)を一顧だにしない、著作物利用即権利侵犯論に立つ強権著作権論者が、グーグル社の著作物のデジタル・データベース化に対して著作権侵害と息巻いているのではないかと思われる。だとすれば、れんだいこは、全くナンセンスと判じたい。 著作物のデジタル・データベース化は本来、国策として為されねばならない事業である。なぜなら、それらは人類の精神的遺産と考えられるから。ところが、強権著作権論者の著作権侵犯論の壁によりこれができない。グーグル社が、この壁に挑んだと考えれば良い。この場合、グーグル社の快挙を喜ぶべきではない。民営事業体のグーグル社の手で為されることにより、将来高額利用料が課され大いなる利権となる可能性が強い。叉はより一層巧妙に情報統制化する恐れもある。これを思えば、複数の同種企業が行い平準化させるか、国策的に国営で整備するしかない。 「グーグル図書館問題」は、かく論ぜられねばならない。日本文芸家協会は、音楽界のジャスラックに続く文学界の強権著作権論者の溜まり場である。この手合いが、この問題を解ける訳がなかろう。米国式解決法のゴリ押しの前にひれ伏すか、イチャモン付けるかの対応しか遺されていない。れんだいこは、この手の正義には食傷し過ぎており、何の関心も無い。 関心があるのは次のことである。果たして、強権著作権者らが説く「人民大衆的著作物利用即著作権侵犯論に基く対価課金制」は正しいのか。理論が転倒倒錯してやいないか。これを機会にそろそろ頭を冷やしたらどうか、冷やせるだろうかということである。何のことか分からないだろうから、れんだいこが説明しておく。 「人民大衆的著作物利用即著作権侵犯論に基く対価課金制」が如何にオカシなロジックかについて、れんだいこはこう考えたい。市場では一般に商品を流通販売するのに莫大な広告宣伝費を掛けている。車のトヨタ、化粧品の資生堂、ビールのアサヒ、キリン等々を思い浮かべればよい。不動産市場での物件広告を思い浮かべても良い。こういう経済システム下に於いて、人民大衆がネット上であるいは書籍上で口コミした場合、企業は、「当社の商品を黙って品評口コミするのはケシカラン」と抗議するだろうか。普通は、むしろ慶ぶ事態ではなかろうか。 ところが、著作権業界は、「当社の管理物を黙って品評口コミするのはケシカラン」と抗議した上で、従わないとなると裁判攻めにした挙句、消費者金融をも驚く高額ペナルティ料金を吹っかけ、利息を附して請求し続け、破産、閉店、逮捕の三点セットで締め上げる。ジャスラックと日本文芸家協会はその双璧団体である。 一体、著作権者は、自分の作品が巷で演奏歌唱されたり、引用転載されることに腹立たしく思うべきだろうか。幸にしてれんだいこは、こたびの処女作出版で著作権者となった。その気持ちは、もっと騒いでくれ、引用してくれ、転載してくれ、議論してくれと思う。れんだいこに黙って、引用転載することがケシカランとは絶対に思わない。れんだいこの場合、著者名、出典元を記さないで、れんだいこのフレーズを借用してくれても、よくぞ気に入って使ってくれたと感謝したい。 これが普通の感性ではなかろうか。良い作品と認められれば認められるほど、人は口コミしたがるものだし、気に入った文面を使いたくなるとしたもんだろう。著者にとって、それは誉れであろう。そういう風に認められ、名が売れることにより追って副次効果が生まれるとしたもんだろう。例えば、演奏会、歌唱界、講演会をした時に満席になり算盤が合うとと云う風に。 ところが、現代強権著作権論者はこう考えない。俺の作品を誰かが黙ってカネも払わず歌ったり引用転載していやしないだろうか、もし見つけたら吊るし上げしてやる、今日も検索の旅に出る云々。こういう手合いが芸術家ぶって先生先生と云われてその気になっている。口先ではいいこと云うかも知れないが、その精神構造たるやかなり蛮人であろう。ところが、この蛮人が、先進国では文明国では知的所有権と云ってね、こういう権利は大事にしなければいけないのだよと説教する。 れんだいこは、違うと申し上げたい。我々は飯を食わねばならないのは事実だ。但し、飯の食い方が正道に就かねばならない。強権著作権論は追って首を絞めることにしかなるまい。そういうことに気づくのが本当の小説家であり詩人であり作曲家なのではなかろうか。そこから芸術が生まれるのではなかろうか。そういう風に伝統が作られてきたのではなかろうか。それを思えば、今日びの著作権論は、狂った時代の狂った権利主張のように思えてならない。 2009.4.26日 れんだいこ拝 |
Re:武装蜂起主義の犯罪性 | れんだいこ | 2009/04/29 21:02 |
一夫さんちわぁ。理論の革マルと云われるぐらいですから、革マル派の論法を持ってすれば、他の党派はそれぞれに欠陥と理論的間違いがあるのでせう。しかし、それだからといって解体せしめて行くのはいかがなものでせうか。それだけ理論が優れているのなら、実践で模範を見せ、競り合いでぐんぐん頭角を現していけば良い訳で、あれが邪魔これが邪魔という論法が馴染めません。 結局、ここに問題があると思います。れんだいこは、「検証 学生運動(上巻)」で少し触れました。日本左派運動に於ける対比として、徳球対宮顕、島対黒寛という指導者の質の違いを確認することができます。この問題で云えば、島対黒寛という対比になりますが、島氏なら仮に中核派を批判する場合に於いても別の対応を見せるでせうねきっと。「傍観は、許されなかった」、「こうした事態を避けるためにも、中核派を解体する必要があった」とはせずに、なおさら明るく陽気なブント運動の盛り上げを責務としたのではないでせうか。 両者のどちらの対応がただしいのかについて、かなり難しいので、れんだいこは一応は気質問題としております。革マル派の言い分が正しいと思う人も居るだろうし島氏の言い分が正しいと思う人も居るでせう。それで良いのではないでせうか。人は気質に応じて好みの理論を受け入れるという法理があると思います。これは一事万事で、他の問題に対しても使えると思っております。れんだいこは、ロゴス派とカオス派の処世法の違いとみなしております。 どちらの派でも良いのですが、良くないのはオーム式ポア理論です。道に迷った今生の命を生まれ変わらすために召し捕って輪廻転生してあげるという親切さです。それだけはご勘弁願いたいと思うのですよ。これをマジにやられると、人はそれを狂人と云います。ロゴス派の場合、この域に至らない防波堤理論を構築しなければならないと思います。 2009.4.29日 れんだいこ拝 |
Re:貧困層の奨学金を給付制に! | れんだいこ | 2009/04/29 21:09 |
パルタさんちわぁ。ご指摘ごもっともと思います。そもそも、テポドン騒動に費やした金、海賊船退治に向かわせている自衛隊派兵の予算の一部を回すだけで解決する話です。要は、国内問題に対してはカネがないと云い、米英ユ同盟の国際責務要請にはン千億円からン兆円をすぐ引き出す、この国の政治の在り方問題だと思います。この手合いばかりが政治を担っております。これが問題なのに、2世議員、3世議員問題で口角泡を飛ばしております。シラケますねぇ。 2009.4.29日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評563 | れんだいこ | 2009/04/29 21:28 |
【マスコミ各社一斉の小沢辞任要請論調執拗考】 マスコミ各社一斉の小沢辞任要請論調が執拗に繰り広げられている。この辺りで、れんだいこが一括しておく。地方選、首長選の動向は明らかに「小沢続投」を示している。マスコミ各社の執拗なプロパガンダにも拘らずだ。ここがミソである。れんだいこの関心は、民主党内の誰とどこのグループが小沢退陣を画策しているかのチェックにある。「小沢第一秘書逮捕事件」は、これを明らかにしつつあるところに意味がある。それだけでしかない。 「小沢第一秘書逮捕事件」はミニロッキード事件化しつつある。役者が揃ってきているという意味に於いてである。当時の角栄弾劾派がこぞって小沢辞任節をぶっているところが興味深い。してみれば、小沢続投を廻る闘いは、ロッキード事件に於ける角栄擁護を廻る闘いと重なり始めている。ロッキード事件に於ける角栄擁護派の声は強権的に掻き消されたが、今は状況が違う。インターネットという格好の通信がある。マスコミ各社が如何に一斉に小沢辞任要請論調を声高くしようとも、我々の口コミの方が優る。なぜなら、日本史はかなり大昔から「賢き大衆、愚昧なインテリ」と云う構図で動いているからである。 如何にネオシオニズムが「愚昧なインテリ」を使って説教させようとも、我々には通じない。我々は古来よりの祖法と感性により真偽を瞬時に見抜き、云いたい者には言わせればよい、判断はこっちでするという作法を心得ているからである。世論調査によると云々プロパガンダは全く通用しない。我々は、調査会社が気に入るような返答ぐらい平気でできる能力が有るから。そんなものは何の指標にもなりはしない。どうせインチキに決まっているだろうが。それをマジに説く「愚昧なインテリ」の馬鹿ヅラを見るためにテレビのスイッチを入れているだけである。 というようなことを、この局面で一言しておく。 2009.4.29日 れんだいこ拝 |
Re:過激派の幹部は警察のスパイだ(左翼運動の歴史、11)。 | れんだいこ | 2009/04/30 21:50 |
一夫さんちわぁ。いろいろご教示いただいておりますが、ここのくだりの田中清玄論は食えません。コメントしておきます。 > 全学連幹部は、岸首相の手先であり、戦前の日本共産党委員長であった田中清玄に多額の金をもらっていたのである。田中清玄は、左翼運動破壊のプロであり、政府から資金をもらっていた。岸首相、その実弟の佐藤栄作首相は、左翼対策のために、アメリカのCIAから莫大な資金をもらっていたので、全学連幹部が受け取った金は、CIAの金である。岸信介首相、田中清玄は、CIAの金を全学連幹部に渡し、警官隊との武力闘争をやらせたのである。 これが通説のようですが、田中清玄と児玉誉夫を入れ替えた方が史実に合います。田中清玄=CIAエージェント説が論証できるのなら教えて欲しいと思います。児玉はロッキード事件その他で馬脚があらわれました。60年安保闘争時、児玉は全学連テロを策動していましたが、田中は全学連テロに対する抑止で動いております。両者は天敵関係なのです。これが本当の史実です。両者に繋がる人脈が見事に異なります。敢えて言えば、児玉は中曽根、ナベツネと懇意です。清玄は角栄と懇意です。表には出ておりませんが、こういうことが透けて見えてまいります。 > その事は、田中清玄と全学連の多数の幹部が、ラジオ番組「歪んだ青春」の中で証言し、世間を驚かせた。 この説が革マル派の見解とすれば、日共式プロパガンダを丸呑みしていることが分かります。少しも「乗り越え」ておらずむしろ悪乗りしております。黒寛と宮顕は、こういう大事なところで観点が一緒のケースがままあります。これはなぜなんでせうと問うのが、れんだいこ史観です。 2009.4.30日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評564 | れんだいこ | 2009/04/30 23:26 |
【神戸支局朝日記者殺傷事件を廻る週刊新潮のブザマな対朝日新聞白旗土下座事件考】 神戸支局朝日記者殺傷事件を廻る週刊新潮の「犯人と名乗る者の手記連載事件」の決着の経緯に解せないものがあるので、忘却せぬうちにコメントしておく。結果的に、「週刊新潮のブザマな朝日新聞社に対する白旗土下座」で終幕したが、週刊新潮の言い分、朝日新聞社の言い分、週刊新潮側の全面謝罪は果たして今後のマニュアルづくりに資しただろうか。誰も問わないが、れんだいこには燻り続けている。 週刊新潮の「犯人と名乗る者の手記連載」に於ける事前の裏取りのお粗末さは判明した通りである。しかしながら、手記者が犯人であると名乗り、事件に対する新視点を提起していた以上、採り上げるのもマスコミの在り方の一つではなかろうか。誰も相手にされないほどのお粗末な内容ならともかく、こたびの指摘は、事件と米国大使館員との繫がりを挙げている点で見逃せない面がある。本来なら、襲撃時の証言の詳細の確認と同じ精力で、事件と米国大使館員との繫がりを追うべきであろう。 れんだいこは、後者の方に滅法関心が行く。朝日新聞側は、この問題にどうコメントしていたのだろうか。荒唐無稽説で却下したのだろうか。朝日新聞なりの調査発表を待ちたい。犯人と名乗る者は一体、何を好んで「事件と米国大使館員との繫がり」に言及する必要があったのだろう。この場合、該当米国大使館員が単数か複数なのかにも関心が湧く。「犯人と名乗る者の手記」は、このことに言及していた点で滅法異色の「証言」足り得ている。 そう思うとき、朝日新聞社側の遺族の心情にかこつけての週刊新潮に対する「掲載批判」がむしろジャーナリズムに於いての記事規制に繫がり、いささか変調ではないかと思う。週刊新潮の手記連載は事件の風化に棹差した訳で、事件解明を願う立場にあるはずの朝日新聞が激怒するには及ばない。遺族の心情は複雑であろうが、真相の解明こそが知りたいところのはずであるべきで、連載批判に及ぶのはいかがなものだろうか。 そう思うとき、朝日新聞社側のエリート然とした週刊新潮批判に対して、週刊新潮側が女々しい謝罪と言い訳に終始したことの方が情けない。れんだいこは、どちらの肩を持つ訳でもないのだが、ジャーナリズムの在るべき姿論で言えば両者お粗末な気がしてならない。 朝日が高邁なジャーナリズム論で説き伏せるのも、実は胡散臭い。なぜなら、歴史の摩訶不思議なところであるが、同時並行的に進行した「小沢第一秘書逮捕事件」に於いて、同社は他社と相呼応して「秘書が容疑認める」なる報道をしている。秘書の弁護士が接見で再確認したところ、容疑否認最中であり、新聞各社こぞっての(毎日を除く)ヤラセ報道であったことが判明している。このことを指摘された朝日その他は今日まで知らん顔してすましている。確か朝日の週刊新潮叩きの最中の出来事である。 朝日が高邁なジャーナリズム論で説き伏せるのなら、少なくともその渦中での勇み足報道、その後の知らぬ存ぜぬ逃げ切りはないだろう。と思うのだけれども、やり過ごしている。そして性懲りも無く「小沢辞任せよ」論の言論大砲を放ち続けている。トンだインテリぶりではないか。れんだいこはそう思う。 実のところ、ジャーナリズムが機能していないのではないか。何か事件が起るたびに小難しく云いはじめ、ピンボケ論議で結果的に段々報道しにくい世界へ集団で向かいつつあるのではないのか。それは自絞殺の道ではないのか。とある弁士は「これは社長引責辞任当然ですな」と述べてもいた。これを正義ヅラ、インテリヅラして述べ競う神経が理解できないところではあるエヘン。誰かそう思わないか。 2009.4.30日 れんだいこ拝 |
Re:一夫先生、質問です。 | れんだいこ | 2009/05/02 10:49 |
通行人さんちわぁ。一夫氏の一連の投稿については、れんだいこ著作の関連のもので、これも一つの流れだと受け止めております。どこまでが革マル派の見解なのか分かりませんが、革マル派の思考様式が分かり興味深く拝聴しております。れんだいこ的には、他の適当な掲示板があれば良いのですが、無ければここで議論するのも一興と考えております。日本左派運動には罵倒癖がありますが議論癖が弱い。どこかで思う存分な各派の見解を聞いてみたいと思っております。できればテーマを決めての。どなたかに構想して貰いたいです。そういうきっかけになれば生産的かと思ったりしております。 それはともかく、れんだいこの「検証 学生運動」がじわりと売れつつあるようです。そろそろ感想、批判、御意なぞ出て来ても良いように思います。れんだいこ的には、どこかの新聞社の書評でその様子が取り上げられることを願っております。その昔、広瀬氏の「赤い盾」が採り上げられる代わりに「血族」なるものが書評されておりましたが、新聞社のそういう癖を暴いてみたいところです。とかなんとかでまた。 2009.5.2日 れんだいこ拝 |
Re:失礼ですが。了解です。 | れんだいこ | 2009/05/05 12:25 |
通行人さんちわぁ。ご忠言有り難う。より慎重に言葉を使おうと思います。少し疑問は、今までの投稿内容での歴史的事件の解析に於いて、一夫氏の見解と革マル派のそれのどこが違うのでせうね。社会主義社会論、労働論、結婚適齢期論については独自の見解というのは分かりますが、中核派批判、謀略論、水本君事件、公労協スト問題等については観点が一緒なのではなかろうかと思っております。そう了解して、「どこまでが革マル派の見解なのか分かりませんが、革マル派の思考様式が分かり興味深く拝聴しております」と書かせてもらいました。しかしまぁ、この種の議論の微妙性を踏まえ、れんだいこの方から踏み込む必要はないです。そういう辺りを弁えようと思います。 2009.5.5日 れんだいこ拝 |
アララ大変! 正体をますます自己暴露 | 荒 | 2009/05/07 04:31 |
アララ大変! 正体をますます自己暴露 嘘つきは泥棒の始まりというのは、昔の話。昨今では、「嘘つきは警察の始まり」ってことになっている。警察が嘘つきなら警察のお友達も嘘つき。「キツネ目の男」は大嘘つきで、実は警察のお友達だった。この「キツネ目の男」のお友達である荒岱介ことアラタイヘンは、どうかなぁと思ったら、やっぱり大嘘つきだった。 アラタイヘンは、かつてパクられたとき、勾留もつかずに一泊二日で釈放された。『大逆のゲリラ』という本に本人が書いている、〝荒は熱弁をふるって公安検事を説得した、公安検事をして納得ずくで釈放させた〟と。……ってことは、アラは公安検事を「話せば分かる」個人と見ているんだ。権力の手の中にいるのに、検事と対等に論議していると思いこんでいる。「完全黙秘の原則」なんて全然無い。国家暴力装置の凶暴さを知らない若者ならいざ知らず、一応は「新左翼党派」を自称していた当時から、すでに党首がこの感覚。こりゃ正真正銘のスパイだよ。 こういうことを、本紙第一七四一~二号「『大逆』ならぬ大嘘の『ゲリラ』」で暴露した。そしたら「SENKI」第一〇九三号に反論がのった。曰く、「一泊二日で釈放されただけでスパイ呼ばわりしている。言いがかりだ」と。エッ、これが反論かよ?ひでぇスリカエだ。荒派ってのは低劣だね。こんな〝反論〟が通用すると思ってるんだから。問題の核心は、荒がどうやって「一泊二日」で出てきたのか、荒じしんがそこんところをどのように説明しているかってこと。この核心問題をごまかすために、暴露されていることをまるっきりすりかえて、わら人形をつくったうえで混ぜっ返している。 そもそも『大逆のゲリラ』っていう本は、「実録、過激派ゲリラ」っていう副題が付いているのに、ゲリラそのものをどうやって実行したのかの、実行行為者しか知りえない〝秘密の暴露〟がまったく、まったく無い! すべて公安警察の捜査記録(検事側公判記録)の引用。荒派が公判記録を持っていない八五年四月八日のゲリラ事件については、まったく触れていない。てことは、荒派はゲリラの実行者でもなんでもない、ただの追認役だったってことだ。 こういう核心問題に答えないで、「『権力の厳重な警戒下ではゲリラなんてできっこないから謀略だ』と革マル派は言っている」なんて〝反論〟。これも稚拙な詐欺、すりかえ、ごまかし。「大嘘のゲリラ」って言われてるんだから、「自分たちはこれこれこのようにやりました」って書けばいいのだ。だけど、自分たちにはまるっきり資料も、もちろん記憶もない。書けないってことをさらけだすと、「やっぱり『大嘘』だったんだ」てことになる。そこで、問題をすりかえたうえで〝反論〟の格好をつけたってこと。あらイヤダ。 で、荒派が権力の謀略を否認する理由は次のことにつきる。 「もし戦旗派のゲリラが『権力の謀略』なら、二人の指名手配者が……共謀で全国指名手配されたこと自体、つじつまが合わない。」――〝警察が指名手配までしたんだから謀略じゃない〟。 「もし七十八名もの労働者・学生・市民が国家権力に殺されていたのなら、国をあげての大問題になる。そうなってない。だから権力の謀略ではない。」――〝世間の大勢は謀略があるなんて思ってないのだから謀略ではない〟。こういう〝俗見〟にすがりついて権力の謀略を否定しようなどと試みているところに、荒派という集団の幼児性が端的にしめされているのだ。語るに落ちるとはこのこと。「完全黙秘」もできないで、スパイ宮崎学とお友達になった荒。彼をオーナーとする「党派」の〝反権力〟感覚なんてこんなもの。こういう〝俗見〟こそ、権力の謀略やあまたの冤罪事件の横行をゆるす社会的土壌になってきた。それは実のところ権力の情報操作によって醸し出されてきた。情報操作こそ〝ぬえ的ファシズム〟の最大の武器。一人でも多くの人が、こういう〝俗見〟を疑い、恐るべき権力犯罪に目を向けるようにと、革マル派メンバーではない一作家が編集したのが『内ゲバにみる警備公安警察の犯罪』上下二巻。編著者は、「まえがきに代えて」に書いている。「……謀略説をあくまで否定するのならば、まず謀略事件とされている一事件をとりあげて、ちゃんと自分の足で調べてからそう言って欲しいものである。そうすれば、自分の肉体で人間の組織(社会)というものの真の構成がきっと分かるであろう。」 |
Re:竹田誠先生のお言葉 | れんだいこ | 2009/05/08 15:24 |
通行人さんちわぁ。いつもと云ってはなんなんだけど適切なお知らせ有り難う。確かはるか昔、トロッキズム表記をトロツキズムと改めるよう示唆してくれたのも通行人さんではなかったかなとか思っております。そうだとすれば感謝しているわけですが、ただこたびはもう食傷です。 一夫さん効果は、このところの当掲示板を悩ませてきた妖しげなバーゲン情報投稿を抑制することにあったと思います。連中はドギモを抜かれたのか、このところめっきり少なくなりました。一夫さんには失礼ながら、毒には毒をもって制すの役割を引き受けてくださったと評しております。しかし、こういうことを書くと、連中が叉繰り出してくるやも知れません。人の世のことですから万事解決という妙案はありませんね。 それはそうと思うに、れんだいこも一夫さんも、既に時代から遅れた左派頭脳の持主であることでは同じです。見解は違うのですが、違いを認めたうえでの交流ができれば良いかなと思っております。過去我々は党派のタコツボの中で、「党中央考える人、党員一般拝聴する人」という思考様式を受け入れて参りました。れんだいこは、若い時はこれを批判し切ることができなかったのですが、50歳を過ぎ60歳を迎えるようになって、考える人の党中央の見識がデタラメであることを確信するようになりました。それも意識的故意に左派運動鎮圧のワナと種を撒き散らかしていることを知るようになりました。 れんだいこは今、長年の閉じこもりを止め、友を求めて遠方まで至るようになっております。恐らく今後も財政と健康の続く限りそうするだろうと思います。そうやって得た新たな知見を大事に育もうとしております。こう書くと冷静そうに見えますが、直ぐに口角泡を飛ばしあったりして。それでも青春です。暴力や卑劣な仕掛けがなければ楽しい出会いではないかなと考えております。どうせ滅する命を徒に費消させたくありませんので、慈しみながら出かけようと思います。 出かけないときには、史上の朋に逢いに行こうと思っております。まるで戯曲のように対話を楽しみたいと思います。れんだいこの連れ合いは、そういう暇があったら仕事をせよとけしかけますが、オマンマさえ食えれば戯曲の幕を開けたいと思います。何事も楽しさには勝てません。というようなことでまた。 2009.5.8日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評565 | れんだいこ | 2009/05/10 20:22 |
【ETC効果考】 2009.5月連休は、各地でETC効果に沸いた。最も分かり易い指標が瀬戸大橋交通量である。西日本高速道路会社、本州四国連絡高速道路会社調査によると、4.25~5.6日までの期間の交通量が、瀬戸大橋は65%増、瀬戸内しまなみ海道は73%増で一日の交通量の過去最多を更新した。瀬戸大橋は、開通直後の1988.5.3日の約5万7千台を大幅に更新し5.4日に約6万9千台を記録した。これをどう考えるべきかコメントしておく。 れんだいこ党首のたすけあい党は政策として早くより、「瀬戸内三架橋の通行料金を大幅減額させ、往復3千円にせよ。料金3分の1・交通量5倍化で採算が合う」、「全国有料道路の通行料金の大幅減額、少なくとも現行の半額以下にせよ」、「全国有料道路の通行料金の車種別料金差額制を簡素化させよ」を打ち出している。こたびのETC(自動料金収受システム)政策は、本質的には狙いが違うけれども、料金大幅低額化という意味ではこれを実践したことになる。 さて、その結果をどう読むべきか。れんだいこは、ETC搭載車に限る、日祝祭日に限る、業務用大型車非適用という制限下で施行したことは容認し難いが、政治が人民大衆の望む方向に舵を切った点は評価する。特に細部は異なるが「どこまで行っても千円」というのが分かり易かった点も良かった。問題は、民主党以下全野党がこれを突破口に「ETC搭載車限定、日祝祭日限定、業務用大型車非適用」制限の撤廃に向けて政治を行うことができるかどうかにある。云うだけでなく実際にこうやって施策化できるかどうかにある。 自公政権のETC専用制限は利権臭い。日祝祭日限定は公務員や大手企業優遇政策でありはなはだケシカラン。恩恵を大衆的開放に向けさせるべきである。我々は今、戦後の政府自民党派ハト派時代に於ける軍事費ではなく社会基盤整備に金を使う政策として重視された公共事業の恩恵に浴するべきである。タカ派政策がこれを抑圧し反対の事ばかりに夢中になって今日に至っている。これを止めさせるべきである。必要な公共事業再建に向かうべきである。その為には、こたびのように恩恵に与り実感せねばならない。 ETC政策は、このことを主張し得る根拠データを作った。瀬戸大橋最多交通量更新は各地での経済効果を予想させる。混雑や事故を伴い手放しでは礼賛できないが、それは本質的なことではない。見るべきは、本土から四国への移入、四国から本土へのそれ、かなり遠方からの出入のもたらす経済効果であろう。追って各地の温泉街の賑わいぶり等が確認されることになろう。実際には渋滞の影響で予約者の入館が遅れて大変だったと云う悲喜こもごもであろうが。 しかし、踏まえるべきことは次のことである。こういう政策はやろうと思えばこうやってできるのに、なぜ今までできなかったのか。なぜこたびもちまちました規制を設けているのか。業務用車非適用はオカシイではないか、トラック業界はなぜ強く抗議しないのか。石油価格がジリ高になっているがオカシクないか云々。 麻生政権はバカ殿政治宜しく何でも一番がお気に入りで、小渕政権の大盤ふるまいの記録更新目指して大型国債発行の補正予算組みに向かっている。景気対策と云いながら、そのカネが下々のどこまで降りてくるのか何の裏づけもない。恐らく相当な金額が又してもハゲタカグループに吸い上げられる仕組みになっているであろう。国内還元用もどうせ上の方でたらい回しされるだけで終わるだろう。そう考えると、気の滅入る話である。 こういう政治をヨシコにしようとして政権交代一途にしてきた小沢民主党代表の引き摺り下ろし工作が執拗に続いている。小沢的ハリほどの不正が仰々しく非難され、中曽根的小泉的その他大勢の棒ほどの不正が問われない。思えば、小沢問題の直前は、かんぽ施設の不正払い下げに国民的関心が高まり、小泉-竹中ラインの国会喚問が必至的流れになりつつあった。結果はどうだ。ものの見事にカワサレテシマッタ。これをリードするのがマスコミである。「シオン長老の議定書」マニュフェストでは言論大砲という位置づけが為されている。思うに、書かれている通りのことが実際に行われているではないか。偽書説を唱えるのも良いが、一応はその前に読んで通暁しておくべだろう。 もとへ。時代は大きく回帰しつつあり、日本的良さが見直されつつある。足下から一歩一歩見直し、早急に直すべきところは手直しし、人民大衆の活性化政策に舵を切るべきだろう。これが本当の不況対策であろう。大盤振る舞いの散財政策はバカ殿政治の極みであろう。自公政権は狂人政治からバカ殿政治へと変遷したが、この次の政治は既に決まっている。定向進化で次は垂れ流し政治ということになろう。よほど変態的な首相が出番を窺っていると読むべきだろう。 2009.5.10日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評566 | れんだいこ | 2009/05/11 21:30 |
【小沢突如引退表明考】 2009.5.11日、小沢民主党代表が突如引退表明した。プーチン来日というこの日に何故こういう表明をしたのか気に掛かるところである。偶然とは考えにくいので何か裏がありそうだ。それはともかく、記者会見席上でのどこぞの女性記者が「議員辞職、政界引退を考えないのか」と質問していた。どうせ上からのヤラセ質問であろうが不快な印象が残った。 かくて舞台は、民主党代表の後継問題へと移った。誰がなるにせよ、小沢代表の下での地滑り的圧勝の線は消えた。れんだいこは暫く静観するが、誰がどのような動きをするのかウォッチだけはしっかりしておくつもりだ。有能な若手が出て来て瓢箪から駒となれば小沢も望むところだろう。例によって自民党若手よりなおシオニスタンな売国奴が出てきたら民主党もお終いだ。 しかし、それにしても、これしきのことで大騒ぎにさせた補佐役の鳩山、管の踏ん張りがなかったことが臭い。表向きは火消しのような言辞を弄しながら、裏では煽っていた可能性がある。この辺りも、これからはっきりしてくるだろう。鳩山、管がマジに支えようとして支えきれなかったと云うなら、悪いことは云わない政界引退せよ。そういう能力の者に国政を与らせる訳には行かない。 検察の小沢秘書逮捕の結末も気になるところである。これにより一件落着とさせるのか、池に落ちた犬を更に叩くのか、これも見どころとなる。検察がかんぽ施設の不正払い下げ捜査に着手するのかどうかも気になるが、こちらはなかろう。 いずれにせよ、これで、民主党の押せ押せムードは陰り、国会論戦も生彩を欠くことになろう。この間、党内で小沢辞任を画策していた者にとってはお気に入りの事態になったのだから奮闘を期待する。れんぼうとか云う御仁の立ち働きを期待する。前原一派がどう出るのか。望み通りになったのだから、党代表選に出れば良い。出ないのなら離党して新党でも自民党にでも好きなところに行け。 さっ民主党の正念場である。どういうことになるのか。この政治ゲームを見てしんぜよう。日頃キレイごと云い士の清廉な動きを確認させて貰おう。以上一報しておく。 2009.5.11日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評566補足 | れんだいこ | 2009/05/12 10:22 |
【小沢突如引退表明考】 くだんの質問記者は日テレということのようである。又してもということになる。 2009.5.12日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評567 | れんだいこ | 2009/05/13 21:48 |
【民主党代表選考】 小沢の代表辞任声明から急転直下、民主党代表選が始まった。立候補するのは鳩山と岡田だと云う。しかも確か5.16日の国会議員選挙で決すると云う。これにより、どちらがなっても面白くない民主党になることが判明した。しかし、一体誰が、この絵図を描いたのだろう。あたかもプーチン来日に合わせたかのようではないか。これは偶然か、裏があるのか。今のところは分からない。 分かっているは、鳩山が小沢降ろし工作に向かったことだけである。小沢が降りるなら自分も幹事長としての責任を取ると述べ、暗に小沢降ろしを誘導していた口先の乾かぬうちにやおら立候補するとは。しかも、かくも短時日に代表戦をやるとは。愚劣愚策としか言いようがない。しかし、れんだいこは、鳩山をしてそうさせている裏の糸を感じる。 鳩山-岡田-前原、これは民主党内シオニスタン系譜である。この系譜の誰がなっても、憲法改正、消費税増率、自衛隊の海外派兵、著作権の強権化等々に向かうことになる。こうなると、日本政治は全くクソ面白くもない米英流の保守的二大政党制化する。問題は、社共も小沢降ろしにエールし、この流れに加担したことにある。よほど強い意志が介在していると読むべきだろう。 こうなると見どころは、若手の動きとポスト争いになる。誰が登用され、誰が干されるのか。小沢時代とどう変化するのか。これが辛うじての興味となる。しかしいずれにせよ、何が起こるかわからない政界の一寸先の闇を見せられたことには違いない。 この変化は、麻生政権にとって有利なのか不利なのか、それも分からない。はっきりしていることは、中曽根ー小泉派の暗躍だろう。麻生降ろしに向かうのか、萎(しぼ)むのか。現代世界を牛耳る国際金融資本は、日本をどう調理しようとしているのか、誰を使おうとしているのか。この辺りが見どころとなる。マスコミの政治評論士は雁首並べて叉も売言を競い合っている。売女は春をひさぐが彼らは風向きに合わせて口先を売る。どいつもこいつもそうだから、誠に面白くない。 そういうことはもう良い。民主党がこういうことになると、残された道は、本当に人民大衆の生活利益に即した党派を立ち上げる以外にない。もう時間がないので、いきなり向かう以外にない。もう一つ、ネット上でも良いから人民メディアを創らねばならない。この二つを同時的に出航しないと首尾良く行かないことが自明である。誰か有為の士よ、この指針の下に党派形成せよ。我が党はいつでもスタンバイしちょるぜよ。面白うせんとなぁ。 2009.5.13日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評568 | れんだいこ | 2009/05/14 19:39 |
【自民党、民主党の財務考】 ネットジャーナル誌「JANJAN」の2009.5.13日付けの山崎康彦「小沢前民主党代表は既に『角栄型政治』から脱却していた」が興味深い内容を盛っているので確認しておく。評論的な面では角栄批判が出すぎており、れんだいこと観点が違うので取り合わないことにする。参照:植草一秀の『知られざる真実』とある。 (ttp://www.news.janjan.jp/government/0905/0905123230/1.php) 2007年度の政治献金総額は、 自民:総額224億円、うち企業献金168億円 民主:総額 40億円、うち企業献金 18億円 経団連加盟企業の経団連を通じる企業献金は、 自民:29億1000万円 民主: 8000万円 これによると、自民党が2007年度に受け取った政治献金総額は、民主党の約5.6倍、そのうち企業献金額は約9.3倍、経団連から受け取った企業献金の総額は民主党の約48.5倍ということになる。 「2007年の政党交付金支給額 」は、 ・自民党 165億9583万7千円 ・民主党 110億6382万4000円 ・公明党 28億0607万円 ・社民党 9億6822万3000円 ・国民新党 3億2940万3000円 ・新党日本 1億7863万9037円 自民党の政党支部は、2008年1月1日時点で7726、民主党の政党支部は551。自民党は、民主党の約14倍以上の政党支部を持っていることになる。 マスコミは「小沢民主党代表は過去5年間で約3億円の政治献金を受け取り不動産取得などで莫大な蓄財をしてきた」と批判してきたが、小沢代表が過去5年間に年平均で6000万円の政治献金を受け取った額を、「2007年度政治家別政治献金実績」でトレースすると次のようになる。 第一位は、自民党の中川秀直衆議院議員で約4億5000万円。小沢前代表が5年間で受け取った政治献金約3億円の約1.5倍の金額を一年で受けとっていることになる。2位は、亀井静香(国)の約3億7700万円、3位は、平沼赳夫(無)の約2億9500万円、4位は古賀誠(自)の2億7800万円、5位は、山田俊男(自)の2億7600万円、6位は松木謙公(民)の2億7600万円、7位は森善朗(自)の2億7000万円、8位は麻生太郎(自)の2億3300万円、9位は鳩山邦夫(自)の2億3100万円、10位は鳩山由紀夫(民)の2億2100万円。 政治資金収支報告によると、小沢前代表が受け取った2007年度の収入総額は全国会議員中71位、企業団体献金額は全国会議員中27位とのことである。マスコミは、「小沢一郎は田中角栄や金丸信などの旧自民党の金権体質そのまま企業に便宜をはかり政治献金を受け取って莫大な蓄財をしてきた」なる情報を流し続け、「西松建設の政治資金疑惑」、「蓄財疑惑」に関して「説明責任を果たせ」と執拗に攻め立ててきたが、71位で責められるなら70位までの者はもっと説明責任があると云うべきであろう。 しかし、小沢辞任後にこういう資料が呈示されるのは、されぬよりは良いが、なぜ小沢代表在任中に知らされなかったのだろうかと悔やみたい。それにしても、鳩山も良くぞ自分のことを棚に上げて説明責任なぞと云っていたことよ。臭い。何もかも臭い。 2009.5.14日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評569 | れんだいこ | 2009/05/14 21:41 |
【小田嶋著作権論をエールする】 ここで、コラムニスト小田嶋 隆(おだじま・たかし)氏の明快なる強権著作権批判を確認しておくことにする。プロフィールによれば、1956年生まれの早大卒とある。れんだいこは先の著作で明らかにしたので明快に述べようと思う。小田嶋氏はれんだいこより6歳下の同じ稲門と云うことになる。既に早稲田の大先輩・吉村作治氏も昨今の強権著作権論に対する疑問を提起しているので、これで三人揃ったことになる。稲門はやはりこうでなくっちゃ。 小田嶋氏の著作権論とはどういうものか、これを確認する。小田嶋氏は、「『アナロ熊』が暴いてしまった『地デジカ』の秘密」の文中で著作権に関連して次のように述べている。 (ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090508/194086/) とにかく、「著作権」がからむと、人は曇った目で世の中を見るようになる。別の言い方をするなら、著作権を意識した人間の心の内には疑心暗鬼が生じるということだ。著作者は、多かれ少なかれ、宝くじを買った人間と同じタイプの幻想(「夢」と呼ぶこともできる。が、私は単に「欲」だと思っている)を抱いている。夢を見ているだけならたいした実害はないのだが、彼は、いつしか、遺産を争う兄弟みたいに、自分以外のあらゆる人間に疑いの目を向けるようになる。ばかな話だ。 おそらく、著作権をかかえこもうとしている人々は、この先、ろくなことにならない。不労所得や既得権益を守りたい気持ちはわかる。でも、守ろうとするその気持ちがクリエイターの魂を腐らせてしまう。そこのところに気づかないといけないと思う。きれいごとだと言う人もあるだろう。が、きれいごとをきれいに言えない人間は、そもそもものを創る資格を持っていないのだ。 著作権は、海賊版を売って儲けようとする業者を取り締まるために発明された概念であって、著作物を買ってくださったお客様の利用を制限するためのものではない。 落語の小話にこんなのがある。「お前の吊ってくれた棚だけどな。あれ、落ちたぞ」。「落ちた? そんなはずはねえんだが」。「いや、落ちたよ。ゆんべ。ストーンと」。「ストーンって……お前、何か乗せやしなかったか?」。 つまり、アレだ。「二次創作禁止のキャラクター」や、「複製と編集が禁じられている映像」や、「教科書に載せることができない詩」や、「図書館に置くと著者が怒る書籍」や、「ネット上で閲覧させると作家先生の団体が訴訟を起こす芸術作品」は、どれもこれも、「なにかモノを乗せると落ちる棚」なのだ。 つまり、「編集しない約束で録画できる動画」や「転載、引用をしない範囲内で暗誦するべき詩」や「人前で演奏しないという前提で販売されている楽譜」は、「モノを乗せない条件下でのみ機能する棚」と同じで、インテリアであって実用物ではない。そういうことだ。 ちなみに、私のテキストは、どこに書いたものであれ、全面的にコピーフリー。リンクフリーだ。無料ならば、金儲けに使わないならば、どんどん配布していただいて結構。というよりも、無料で読まれて私にどんな被害がある? 「有料で買うかもしれない予定読者を失うことになる」と? なるほど。読み捨てのクズ原稿を書いている著者にとっては、あるいはそういう次第になるかもしれない。 が、読者に感銘を与えるテキストを書いている書き手は、自分の作品が無料であれ有料であれ、多数の人々の目に触れれば触れるだけ、自分のファンが増えるはずだ、というふうに考える。ん? 思い上がりだと? 思い上がっていない人間は、原稿なんか書かないよ。 (引用転載以上) れんだいこが、小田嶋著作権理論を称賛しておく。上述の小田嶋理論の素晴らしさは、れんだいこが営々と積み上げつつある法的解釈による強権著作権論とは叉別に、作品論の観点から強権著作権論を鋭く批判しているところにある。落語の小話のオチをダシにして、分かり易く説いているところに値打ちがある。シメの「書き手は、自分の作品が無料であれ有料であれ、多数の人々の目に触れれば触れるだけ、自分のファンが増えるはずだ、というふうに考える」と述べているところがスバラシイ。 確かにソウナノダ。書き手は下手に自惚れない方が良い。自分の作品を広く市井に通すことにより、その反応に揉まれるようにして作家も学ぶのだ。双方通行で共に益する仕掛けになっているのだ。こうして得られるのが人気であり、人気こそが究極対価となって回り回ってくるのだ。 この仕組みを理解せず、作品利用即ハウマッチ式な昨今の著作権侵犯論はナンセンスの極みなのだ。面白いことに、そういう手合いの作品は利用されるほどのものではないことが多く、よってハウマッチと手を出してみても幾らも入ってこない。さもしい根性のみが残るという仕掛けになっている。拙い者には拙いだけのものしか報われないのだ。これが法理だろう。 問題は、この癖を、連中が芸術やら学問の世界でやることにある。恥さらしでしかないのだが、当の本人はいたってマジメくさって口を尖がらせたり手を出すから可笑しいやら滑稽やら、そして遂には不快になる。この不快方向にエールする者がその他大勢いるからややこしくなる。 れんだいこがこれを採り上げたのは、小田嶋著作権理論にやはり稲門の臭いがするからである。早稲田はやはりこうでなくっちゃ。ところが、著作権論でマトモナ線を打ち出しつつあるのが東大の方である。東大の中山信弘教授の退官前の置き土産講話、東大大学院文学資源学の渡部裕(ひろし)教授の論考を見よ。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/) 東大の先生が強権著作権論の定向進化に疑問と危険性を警鐘しつつあるというのに、在野の早稲田以下その他大勢は未だに強権著作権論の旗振りに精出しているという現状がある。やはりオツムの差かということになる。これを何とかせんとなぁ、そんなことを考える。余計なことを書いて〆るが、ここがれんだいこらしいところか、そういうユダヤ商法と決別せんとなぁ。 2009.5.14日 れんだいこ拝 |
Re:ガラパゴス化現象と強権著作権の行く末 | こげぱん | 2009/05/14 22:56 | |
著作権とは直接関係ありませんが、現在日本企業が陥っている罠に「ガラパゴス化現象」があります。 --- 参考サイト:ガラパゴス化する日本 ttp://www.nri.co.jp/navi/2008/080213_1.html 現在、研究開発、精算、販売などあらゆる領域で企業活動のグローバル化が進んでいます。一方で、良い技術や多種な機能を誇りながらも、海外では存在感を示すことができない製品・サービスも多く見受けられます。技術やサービスなどが日本市場で独自の進化をとげて、世界標準からかけ離れてしまうという現象が起こっています。このような現象は、生物の世界でいうガラパゴス諸島における現象にたとえられて「ガラパゴス化」といわれています。 --- (参考書籍「ガラパゴス化する日本の製造業」宮崎智彦、東洋経済新報社) ガラパゴス化とは、これまで巨大だった日本市場で日本企業が熾烈な競争を繰り広げていく過程で、大企業が下請け企業を垂直統合して知的財産を強固に囲い込み、日本市場向けの高性能製品開発に熱中している間に、水平分業で合従連衡した海外企業-主にアメリカ・台湾連合-に標準規格を握られ、海外市場で苦戦を余儀なくされることを言うらしいですが、これが合従連衡と知的財産権有効活用のすすめであるとするならば、ガラパゴス化現象は強権著作権支配下社会の行く末を暗示している可能性があるかもしれません。 日本社会といえば、たとえば家元制度などで門外不出の秘伝などの継承を重視してきた仏教や茶道などの各派にみられるように、もともと強権著作権とは親和性が高いといえるかもしれませんが、それでもこれまでのような闇雲な知財囲い込みではなく、守るべき知財と公開して活用したほうがいい知財を区別した上で、(とりわけ非技術分野では)知財を有効活用していくことを考える時期にきているのかもしれません。 |
Re:ガラパゴス化現象と強権著作権の行く末 | れんだいこ | 2009/05/15 10:03 |
こげぱんさんちわぁ。「ガラパゴス化現象論」興味を覚えました。教えてくれて有り難う。恐らく、没思想的凝り性に通じているのだと思います。著作権論で云うと、川上でのみ適用されるべきものを、何の検証もなく川下まで適用して更に隅々まで摘発せんとする狂的正義に通じているように思います。 > 日本社会といえば、たとえば家元制度などで門外不出の秘伝などの継承を重視してきた仏教や茶道などの各派にみられるように、もともと強権著作権とは親和性が高いといえるかもしれませんが、それでもこれまでのような闇雲な知財囲い込みではなく、守るべき知財と公開して活用したほうがいい知財を区別した上で、(とりわけ非技術分野では)知財を有効活用していくことを考える時期にきているのかもしれません。 家元制度はトップの能力次第で左右されますが、文化的伝統を護持発展させる手法には違いなく、考えてみれば、著作権的囲い込みとは別智の業界人の飯の食い方でもあるように思います。れんだいこ的には、勝手な利用罷りならぬとするような強権著作権的発想によるより、家元制度の合理的改革の方が向かうべき道筋のように思います。 著作権利用=著作権侵害なる論は邪道で、小田嶋理論はそのことを感性的に指摘している点で値打ちが認められます。著作権利用=芸の肥やしと捉えるべきです。著作権法を読み取りますとこれを踏まえており、但し、引用転載に当たって著者名、出典出所元を明記するようルールとマナー化しています。これを逆に云うと、それらのルールとマナーを踏まえる限り引用転載自由としていると理解すべきです。 観点をかく据えると、著作権利用=著作権侵害論の有害性が見えてまいります。彼らは、文化を護ると口先で云いながら抑圧しているという自己撞着に陥っております。それだけなら勝手ですが、特許権侵害以上の制裁を課し迫害しております。迫害されている者の多くは本来ならボランティア的な文化普及者、無料広告隊員として表彰されるべき人たちです。そういう人を逮捕させて悦に入るような本末転倒社会を呼び水しており看過できません。 強権著作権論の危険性は、版権元が情報を出し惜しみすることにより情報統制の手段としていることにも認められます。これにより、彼らにとって気に入らない情報は籠の中に入れられてしまいます。そうでなくても閉塞なのに、著作権論で更に締め付けようとしております。この弊害に気づいて欲しいと思います。 政党で云えば、共産党と公明党がかなりタカ派です。表面的には対立しておりますが、体質的にはどちらも権力的という点で似ていることが分かります。こういうことを述べ始めるとキリがありませんので結論としますが、著作権はどこまで認められるべきかを廻る仕切り論議をしっかりしないといけません。現下の野放図な『発展』は決して社会のためにならない、そう気づいて欲しいと思います。 2009.5.15日 れんだいこ拝 |
Re::れんだいこのカンテラ時評570 | れんだいこ | 2009/05/15 22:23 |
【明日の民主党代表選の前に一言申しておく】 明日は民主党代表戦である。どちらに転んでも面白くない民主党ができあがることになる。報道によると、鳩山、岡田が並んで街頭演説したそうな。れんだいこは聞かなくても分かる。どうせ政治芸人の口先三寸話しを聞かされ、そのショーを見せられるだけだろう。れんだいこ指標によると、鳩山-岡田-前原は民主党内右派系の同じ穴のムジナである。そういう二人のガチンコを見て何が面白かろう。小沢時代が恋しくなるだけのことだろう。 日本政治の二大政党制はかくて両党ともシオニスタン勢力に御される事態になった。つまり、両党の党中央が戦後特有の売国系タカ派に占拠されることになったことを意味する。その政治家も次第に資質能力が劣化しつつある。自民党は逸早く狂人、ボンボン、気ムラ、バカ殿という政治のゲーム化に入っているが、民主党もこれを後追いすることになるだろう。 かくて近未来に待ち受けて居るのは憲法改正、自衛隊の恒常的海外派兵、租税の更なる高負担、優良民族系企業の外資化、中小零細企業の更なる淘汰、金持ち優遇政策の満開、国債債務の更なる重圧化、更なる著作権強権化等々である。これを自公民がゴリ押しし始め、社共がアリバイ的に反対して空気抜きし、現代版大政翼賛会の公然登場となる。 かく見届け推理して、対応策を練らねばなるまい。悲観するだけでは詰まらない。どこかに対処策があるはずだ。連中のシナリオを見抜き、合法的非合法的な闘い方があるはずだ。ここに叡智を見出さないと、日本左派運動のコケンに関わる。と、れんだいこは考える。一言申しておく。 2009.5.15日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)