カンテラ時評18(511〜540)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評511 れんだいこ 2009/01/04 12:28
 【イスラエルのガザ侵攻糾弾】

 2009.1.3日夜、大規模空爆開始から8日目を迎えたこの日、イスラエル軍がパレスチナ自治区ガザに地上侵攻した。ガザ地区北部のヘイトラヒヤ付近など4カ所から一斉に突入し、ハマスとの間で激しい交戦が始まり戦闘が激化している。双方の死者数などは確認できていない。

 我が掲示板は、枢要な世界情勢の動向をチェックし続けたいと思う。そういう意味で、ここに確認しておく。

 イスラエルのオルメルト首相の報道担当は「イスラエル軍は、ハマスの武装勢力がロケット弾を撃ち込む拠点を制圧し、大きな打撃を加えることになるだろう」との声明を出した。イスラエル首相府は「ロケットが発射されている地域の制圧が目的であり、イスラム原理主義者(ハマス)に手痛い打撃を与える」との声明を発表した。バラク国防相は「作戦遂行は簡単ではなく、短期間で終わるものではない」と述べ戦闘長期化を示唆した。他方、ハマス側の報道官は「ガザはイスラエル軍にとっての墓場と化す」との声明をテレビ放送で読み上げ、徹底抗戦の構えを示している。

 イスラエルの不義の建国以来の怨念史が続いている。しかも、次第に劣勢を余儀なくされつつあるといえども、イスラエルの蛮行がますますエスカレートしつつある。日本が、これを対岸の火事視しているうちに、足元に火がつき始めるのは時間の問題である。問題を正確に受け止め、対処法に熟達する必要がある。これを眼力と云う。 

 国連はどう対応しているか。1.3日同夜、潘基文事務総長は、報道官を通じて声明を発表する弱腰で、オルメルト首相との電話協議で「地上作戦開始への非常に深い憂慮と失望」を伝えるにとどまった。国連安保理事会は機能していない。諸外国政府の反応はどうか。米英政府はイスラエルのすることは何でもその通りの姿勢で同調している。フランス外務省は声明で非難したものの「双方に自制」を求めるお粗末。日本の麻生首相も形だけの非難をして見せたものの、パレスチナ自治政府に対し「イスラエルとの停戦に向けて努力」するよう求めるお粗末。

 日本のメディアは、新聞はまま報道するもののテレビでは報道管制が敷かれているかの如く抑制している。時代は大きく変わったことが判明する。1960年代後半のベトナム戦争の際には動向が克明に報道されたが、200年代の今、北朝鮮に対してはテポドン一つで大騒ぎし連日非難轟々するものの、イスラエルに対しては見て見ぬする。これは、メディアが国際金融資本の支配下にあることを証佐している。報道が逐一チェックされイスラエル批判には向かわせない。コメンテーターも御用発言家ばかりを登場させている。あの三宅なんとかつうの、顔を見るだけで胸糞が悪くなる。

 あれこれ考えるにつき、一刻も早い人民大衆メディアの創出が望まれている。2009年は、何とかして「人民大衆メディアの創出」に向かいたい。脳内がスッキリしなければ闘おうにも闘えない。愚民政策に抗して起ち上がれ。ヤング諸君のうちのネット習熟者よ、既成メディアを打ち壊し、真に望まれているメディアを創造してくれんか。馬鹿番組の食傷者の怨念が渦巻いているぞ。

 もとへ。イスラエルはなぜかくも何をやっても許されるのか。連中は、こういうことを大昔からやり続けてきており、西欧のユダヤ人嫌いには相当な根拠があるのではなかろうか。尋常で無さ過ぎよう。れんだいこは、こういう風に考えている。ナチスのホロコースト批判で口角泡を飛ばす者よ、イスラエルのガザホロコーストになるとなぜダンマリするんだ。説明してくれんか。手加減無き容赦無きをもって正義とする論法の正義を開陳してくれんか。ついでに日ユ同祖先論で詭弁する者よ、どこが同祖なのか説明してくれんか。れんだいこには遺伝子が正反対のように思えて仕方ない。

 2009.1.5日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評512 れんだいこ 2009/01/07 20:28
 【イスラエルの暴挙糾弾緊急闘争を訴える】

 「イスラエル政府による2008年末−9年初のガザ無差別テロ」に対して、国際社会は紛れのない形でイスラエルの正体を見抜いた。イスラエルがハマステロ対策と弁明しようとも、現代版ホロコーストの行状を世界に焼き付けた。れんだいこは、その損失はことのほか大きいと考える。何とならば、彼らが戦後構築していた「悲劇の民ユダヤ説」を根本から疑惑せしめる機会を投じ、「史上最凶の悪質極まるシオニスト」批判の水路をこじ開けたからである。この水路は今後広くなる事はあっても逆はなかろう。

 それにしても、日本政界は相変わらずコップの中のいざこざに明け暮れている。政争のどれもがちまちましており、解散から逃げまくる竹光派の政府与党と解散に追い込む嘗胆派の野党の綱引きゲーム政局でしかない。それはそれとして、「イスラエル政府による2008年末−9年初のガザ無差別テロ」という緊急事態に対して、堂々と抗議声明を発表する識見はないのか。政府がダメでも野党ならできるはずではないのか。その野党が叉だらしない。というか、イスラムよりもイスラエルひいきなんだ実は。野党もまた腐っている証拠がここに認められよう。

 ならば国際法学者はどうだろう。大東亜戦争で人道の罪、平和の罪での断罪にことさら批判をたくましゅうしてきたのではないのか。今目前のイスラエルの暴挙に適用せずんば何のための学問か。北朝鮮のテポドン批判にはすぐさま反応してきたではないか。北朝鮮体制の解析には微に入り細に入り検証能力を発揮してきたではないか。同じ手法でなぜ「イスラエル政府による2008年末−9年初のガザ無差別テロ」の解析に向かえないのか。学者もまた腐っている証拠がここに認められよう。マスコミ論調然り。

 結局のところ、我々が、我々の空間で議論を創出する以外にないということになる。それを世論化し、政財官学報司の六者機関にフィールドバックさせる以外にない。他にやるべきは大衆的抗議デモだろうか。どうせ政府はまた打ち出の小槌を振ってイスラエル寄りの政策に基く海外支援、自衛隊派兵を画策するであろう。国内向け施策については金がないといい、ブッシュの一声で数十兆円をホイホイ引き出し、どれもこれもが何の役にも立たず海の藻屑と消えてきた。定額給付金の子供騙しにも怒るべきだ。我々はそろそろエエカゲンニセンカイと鉄槌をお見舞いする一手だろう。今年はそういう政治運動をやってみたいもんだ。長らく忘れてきてしまっているが、昔とった杵柄だ、すぐ思い出すだろう。以上、時局提言しておく。

 2009.1.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評514 れんだいこ 2009/01/09 22:20
 【今こそホロコーストのウソ疑惑の解明に向かえ】

 「イスラエルの2008年末−9年初のガザ無差別テロ」は、2009年初の象徴的事件になることによって、誰の目にもイスラエル政府の犯罪を焼き付けることになった。れんだいこは今こそホロコーストのウソの検証に立ち向かうべきだと考える。戦後左派運動は、その反戦平和思想に於いて長らくの間、「ユダヤの民の悲劇」を起点にしてきた。それはナチス批判に向かう。他方、アジアでこれに匹敵するのが南京大虐殺事件である。それは日本軍国主義及び天皇制批判に向かう。これと同格のものにファシズム批判がある。考えてみれば何のことはない、第二次世界大戦時の日独伊枢軸同盟批判に帰着している。戦後左派運動の反戦平和思想がこれに立脚しているとすれば、いわば戦勝国論理の範疇のものでしかないということを物語っている。

 れんだいこはあいにく、ナチスホロコーストにも南京大虐殺事件にもファシズムにも、戦勝国論理よりする批判の構図に馴染めない。むしろ徹底した検証の必要を感じている。長年もやもやしているのだが、果たして本当に云われるところのようなナチスホロコースト、南京大虐殺事件が存在したのか疑問を覚えている。それなりのものが存在したのかも知れないが、現在通説化しているものは何十倍にもフレームアップされており、そのアップ分が、第二次世界大戦後のイスラエル建国過程の非道を免責させる役割を果たしていると考えている。

 イスラエルの建国以来今日に至る暴虐無尽のさまは、身の毛のよだつほどおぞましい。ナチスホロコーストの悲劇の民なら許されるのかと云う問題と、この残虐非道ぶりはナチスホロコーストの裏返しから生まれたのではなく、悲劇の民そのものが作られた神話であり、連中の伝統的常套的なものなのではないのかという推測まで呼び込む。そういう目で歴史検証すると、諸民族のうち最も徹底したニヒリズム、テロリズム、選民主義、エゴイズムに汚染された稀有な宗教的紐帯の民であることが分かる。近世から近代現代に至る過程での地球的規模で起こった植民地支配も、彼らの政策の産物であったことが分かる。

 日本史は有り難いことに、西欧ほど彼らの影響を受けなかった。おかげさまと云うべきだろう。しかし今や否応なく世界はワンワールド化しつつあり、気づいてみれば日本も明治維新以来彼らの支配に呑み込まれている。彼らが最も得手にしているのが戦争政策であり、定期的に戦争を勃発させねばならない事情でもあるのだろうと勘ぐりたくなるほど専らとしている。国債すりまくり多重債務国家誘導も然りである。軍事用民間用を問わずの原子力政策も然りである。政情不安誘導と傀儡政権の創出と独裁化誘導も然りであると云う風に思えてくる。

 れんだいこの不審に根拠があるのかないのか、それを確かめる格好の例題が現在進行中の「イスラエルの2008年末−9年初のガザ無差別テロ」ではなかろうか。彼らがどういう手口で経済封鎖し、学校、病院、公社に対して何の躊躇もなく無差別爆撃と殺戮を繰り返すことができる民であるのか、これを確認せねばなるまい。ガザで起こったことは多少は体裁を変えたものになろうがいずれ必ず我が身に降りかかってくることを分別して、備えるためにも目を放してはならないと思う。

 戦後左派運動は今こそ自前の反戦平和思想を生みだす好機であると考える。連中のシナリオに乗った反戦平和運動に取り組むことで左派面するような勘違いから一刻も早く脱出せねばならない。第二次世界大戦をファシズム対民主主義の闘いであったなどという戯画化で納得するような知性から決別せねばならない。これを歴史再検証主義と云うべきだが、これを批判する者も唱える者も自ら歴史修正主義などと規定しているからしてお話にならない。歴史再検証主義は至極真っ当な時代の要請であると、れんだいこは考える。御意の士よ列なれ。

 2009.1.9日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評515 れんだいこ 2009/01/12 20:33
 【産経新聞2008.12.23日付け記事「豪腕に郷愁? 今なぜか田中角栄ブーム」考】

 ネット検索で角栄を拾っていたら、産経新聞の2008.12.23日付け記事「豪腕に郷愁? 今なぜか田中角栄ブーム」を目にした。これについてコメントしておく。

 記事は冒頭で次のように述べている。「麻生太郎内閣の支持率低下が顕著になるなか、「平民宰相」「今太閤」の異名をとった田中角栄元首相が、にわかにクローズアップされている。雑誌やテレビが相次いで田中元首相を取り上げ、存命ならどんな政策を打ち出すかと特集を組んだ。不況や雇用不安が続く現状を踏まえ、改めて田中元首相の手法に学ぶ視点だ。一方、清濁併せのんだ“昭和のカリスマ”の再評価を懸念する声もある。(伊藤弘一郎)」。

 これは、中立公正を旨とするマスコミの立場を思えばまずまずの書き出しのように思われる。とにかく「角栄ブーム」を報道したこと自体に価値があると云うべきだろう。

 記事にも書いているが、これに先立ち次のような動きがあった。「週刊ポスト」が「いまこそ田中角栄流」、「角栄政治にヒントがあった」の見出しで、田中元首相が蔵相時代の政策を例に挙げ、現在の不況対策としても通用するとの提言記事を掲載した。隔週誌「SAPIO」は計27ページを割いて特集、TBSでも情報番組で「静かなブーム」と題し、田中元首相を取り上げた。

 記事はこれを踏まえて「豪腕に郷愁? 今なぜか田中角栄ブーム」 とネーミングし、「首相の座を降りて34年、死去から15年。なぜ今、スポットが当たるのか」と問うている。れんだいこに言わせれば遅すぎる問いだが、他社が採り上げない中での先乗りを評価すべきだろう。産経新聞はこのところ、かっての学生運動を問う「さらば革命的世代」でもヒットを飛ばしており、なかなか出来が良い。恐らく、新聞を通じて読者と共に思考を練るという使命に目覚めたものと思われる。読売とはひと味違う保守路線をひた走っており部数も伸びるだろう。

 記事は続いて、角栄ブームの火付け役の企画者のコメントを披瀝している。興味深いのは、毎日放送プロデューサーの次の発言であろう。「田中氏が首相だったころは日本が元気だった。不況が続く今、田中氏を懐かしく思う人がいるのではと考えた」。

 その通りであり、素直なコメントとして好感が持てる。産経記事は、読者や視聴者からの声として、「角栄さんならスピーディーに的確な施策を打って不況を救ってくれていた」、「政治に、ああいう力強さが欲しい」と支持する感想を紹介している。「多数、寄せられた」とも書いている。

 れんだいこ的には、記事が誉められるのはここまでであり、後はどれもいただけない。三浦副編集長コメントの「安倍晋三氏以降、小粒な首相が続き、存在感を示せないことも人気復活の要因では」とあるが、「安倍晋三氏以降、小粒な首相が続き」としているのが気に入らない。ならば安倍の前の小泉は大粒なのかということになろう。れんだいこに云わせれば、彼は狂人である。日本は狂人政治を「5年5ヶ月1980日、戦後第3位、平成に入ってから初めての長期政権」を許したことになるが、小泉政治を断罪しないコメントは無意味と云うか有害であろう。この後、小林吉弥、福岡政行のコメントを紹介しているが共にくだらない。れんだいこの評に値しないのでノーコメントとする。  

 れんだいこが、角栄ブームの背景を素描しておく。日本は先の世界大戦で敗北し、戦勝国の分割統治の憂き目に遭う寸前であった。詳しい事情は分からないが結果的に米国の単独占領支配という形で再出発することになった。まずは戦後復興から始まり、戦前のように軍部を持たないことで国家予算の全てを民生用に振り当てていった。世界の羨む予算の配分時代となった。1950年に朝鮮戦争が始まり戦争特需が干天の慈雨となった。その後も内治主導で猛進し奇跡的とも云われる復興を遂げた。

1960年安保闘争で、日米新時代を構想し米軍支配下での再軍備化を目指していた岸政権が打倒され、池田政権が誕生した。池田政権は、戦後の国是としての経済成長政策に邁進した。この間、各種公共事業が矢継ぎ早に着手され社会基盤が整備されて行った。池田政権の後を継いだ佐藤政権時代も基本的に戦後の国是路線にシフトし世界史的に未曾有の高度経済成長時代を謳歌して行った。

 この後を継いだのが田中政権である。角栄は、日本列島改造計画なるマニュフェストを打ち上げ自民党総裁選に堂々挑んだ。金権選挙と云われるが、既に歴代のものであり角栄だけが批判されるには及ぶまい。角栄の時代既に高度経済成長政策のヒズミが生まれており、インフレの波に襲われていた。そこへオイルショックが重なり、威勢の良い日本列島改造計画が相乗し狂乱物価時代へと突入した。

 しかし角栄は、日本経済の底力と次に来る雄雄しい成長時代を確信していた。その後の歴史は、角栄の読みの方が正確だったことを教えている。力強く成長し続ける日本にならなかったのは、意図的に解体したからであり、その後の政治家がこれを引き受けたからである。この見解を補足しておく。

 その角栄は、時代の課題にどう対処したか。まず日中国交回復を成し遂げ、その勢いは止まらず各国歴訪、遂にはソ連との経済提携にも向かい始めていた。まさに縦横無尽とも云うべき活躍ぶりを示している。その特徴は、国民生活の安定どころか実質向上を目指し、さらに戦後憲法が詠うところの国際協調友好親善の力強い推進であった。戦後日本の首相の中で、各国首脳と角栄ほど対等に渡り合った政治家は居ない。そういう意味でまさに不世出の首相であった。

 マスコミ人士の世評では中曽根と小泉を名宰相と持て囃すが、何のことはないワシントンから見ての名宰相論であり、それだけ過分にワシントンの指令通りに立ち働き貢いでくれたことに対する返礼のリップサービスでしかない。それも分からず、ワシントン評をそのまま猿真似して名宰相と相槌しているに過ぎない。こういう場合には繭唾するものだが無節操が身上の低脳頭脳ゆえに直ぐに外電に飛びつく。

 もとへ。現在の角栄ブームは、その角栄が今居たならどういう政治をしてくれるか、その包丁裁きを期待してのものである。それはとりもなおさず辛辣な現代政治批判となっている。かく受け止めるべきであろう。恐らく、このブームにはバイアスがかかり火消しされるであろう。だから我々がふいごで吹くようにしてそのつど燃え上がらせる必要がある。

 それにしても、麻生がもう少し角栄に薫陶受けていたなら随分今と違った味を出すのだろうが、少々軽薄が過ぎる。しかし断じて小泉よりは良い。小泉チルドレンの跋扈する悪政時代に戻してはならないことだけは確かだ。これをどう切り盛りするか、ここ暫くの政治の見どころはここにかかっている。

 2009.1.13日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評516 れんだいこ 2009/01/13 12:53
 【「警告 危険なWebブサイト」考】

 2009.1.13日、れんだいこの「左往来人生学院掲示板」を開けると「警告 危険なWebブサイト」表示が出るようになった。誰が何の権限でこういう操作をしているのかできるのかが分からないが、いよいよこういう政治論評方面への規制が始まり始めたということか。ある意味で光栄なことである。そのうち開けように開けられずの閉鎖仕掛けに追い込まれるのかもしれない。この邪悪な勢力がガザで残虐非道のし放題をしているのだろう。一応確認しておく。

 れんだいこは、ネット空間の仕組みとか機能については何も分からないのだが、こういうことを誰ができるのか、その責任主体は誰なのか、どなたか教えてくれないだろうか。

 2009.1.13日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評517 れんだいこ 2009/01/13 20:37
 【世界の反帝反戦人民はシオニストの悪あがきを封じ満腔の怒りで糾弾せよ】

 予想通りイスラエルの残虐非道が連日繰り返されている。歴史上あれほどナチスホロコーストをプロパガンダし続けてきた連中がガザホロコーストに首ったけになっている。その悪事をノートし続けておかなければならない。仮にナチスホロコーストが史実だったとしても、イスラエルは単純な悲劇の民だけではなく、それを嵩に報復する民しかも徹底して残虐非道を為し得る民であることを天下に知らしめている。

 ナチスホロコーストを見てきた様に罵詈してきた連中は、ガザホロコーストにどう対応しているのだろうか。イスラエルのやることは何でもその通りでエールしているのだろうか。この連中には漬ける薬がない。それにしても何とも薄っぺらなホロコースト論者であったことか、今自己暴露させられようとしている。その程度のホロコースト論なら、もう二度としたり顔して説くな。

 他方、ナチスホロコーストを糾弾し、ガザホロコーストをも糾弾する反戦平和主義者はまだしも許されよう。一応辻褄が合っているから。しかし、これから辛い目に遭うだろう。なぜなら、ナチスホロコーストは史実偽造で、人工国家イスラエル建国の為の国債世論誘導でしかなかったことを知らされるからである。この声はまだ弱い。しかし次第に歴史の真実として受け入れられるようになるだろう。

 ウソだと思うなら今こそイスラエル建国過程の残虐非道を検証せねばなるまい。片手にナチスホロコーストの犠牲の民であるという御旗を振り翳しながら、片手でパレスチナホロコーストを今日まで延々と繰り広げているイスラエルの民の二枚舌を検証せねばなるまい。パレスチナの民が怒るのはもっともであり、抵抗するのは正義であり、少なくとも原状に戻す闘いこそが歴史の法であることを理解せねばなるまい。

 そのイスラエルは建国初期のころはワンサイドゲームで勝利し続けてきた。しかし、パレスチナ、イスラムの民はそう馬鹿ではない。闘い方を次第に習熟し、ここへ来て持久戦に勝利しつつある。むしろイスラエルの方こそ焦りを呼び、迫り来る恐怖にさいなまれつつある。こたびのガザホロコーストはこの手のものでしかない。非道の限りをするのも良かろうが、高い代価を払わされることになろう。

 結局のところ、パレスチナ、イスラムの民は賢かったということになる。正義を通し貫く力を持っていたということになる。化学兵器で満身装備したイスラエルの民こそ実は愚かだったということになる。なぜなら、65年で世界の周期は変わり、怒った良貨が悪貨を駆逐し始めるからである。なぜそうなるか。良貨は連帯できるのに対し悪貨はできないからである。歴史の積み重ねは良貨に軍配を挙げる。

 れんだいこは、パレスチナ紛争をそのように見ている。予断は許されず緊迫しているが、イスラム力は必ずやシオニストの策謀を打ち倒すであろう。その後の世界がどうなるか。興味はこちらの方へ移りつつある。諸国民が協和し二度と戦争を起さない起させない世界を創造せねばならないであろう。イスラエルの非道と狡知と悪行の数々を展示したシオニスト博物館を造り、世界中の人々が詣で、こういう連中の跋扈を許さない決意を固める資料館にせねばなるまい。

 2009.1.13日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評518 れんだいこ 2009/01/14 22:40
 【西岡論文と西岡氏のコピペフリー考】

 西岡昌紀氏が、「阿修羅ホロコースト5」に2009.1.14日付け投稿「『ガス室』の真実」第一章(「マルコポーロ」廃刊事件)全文(転載自由)」を発表している。
 ttp://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/160.html

 ホロコースト再検証論の火付け役として知られる西岡氏は、「イスラエルが、ガザで行なって居る民間人への残虐行為に強く抗議します」と声明している。自著の下記の一文の「コピペによる転送、転載を歓迎します」とも述べている「これは、私のインティファーダ です」と結んでいる。れんだいこは、これを支持する。

 興味深いことは、「コピペによる転送、転載を歓迎しますとも」である。まことに不思議なことに、ホロコーストのみならず第二次世界大戦後の「作られた戦勝国史観構図」、もっと云って良ければネオシオニストの歴史観をそのまま吹聴する者は強権著作権論で規制をかけることを得手としている。「誰に断ってリンクしてんた」から始まり引用、転載について厳重に「要事前通知、要事前承諾制」を敷いている。

 奇妙なことに、著作権法にはそのようなことは書いていない。むしろ、出典出所元明記で歪曲改竄なければ宜しいと何条にもわたってくどいほど書き付けている。つまり、強権著作権派は法に基かぬ恣意的な規制を弄び、独りよがりしていることになる。つまりアウトローということになる。もっとも最高裁が、こともあろうにこれを支持しているから始末が悪い。しかし、それだけのことである。

 れんだいこには、憲法9条があるにも拘らず自衛隊が創設され、自衛隊発動は専守防衛区域内に限るとしていたものがいつのまにかペルシャ湾まで派兵され、さらに野放図に万年化世界全域に展開されんとしている動きに重なって見える。少なくともどこかで制限せねばなるまいが空しい国際責務論が今も続けられている。これをオカシイと問うのが真っ当な政治能力ではなかろうか。

 ところが、著作権論になると、与党も野党も、驚くことに公明党も共産党はなおさら強権著作権論にシフトしている。これって何なんだと思う。最近は著作権規制に加えて、「危険なサイト」通知までしてくれだした。最初は青少年保護対策と云う名目で導入され、次に気に入らないサイト取締りに使い出す。ホンマようやってくれるわ。イスラム関係の知識を得ようと検索すると異常に「危険なサイト」通知に出会う。これは偶然ではあるまい。

 もとへ。西岡氏の労作に目を通し、「常識」を疑う作業が必要なのではなかろうか。現にアンネの日記とナチスホロコースト批判で反戦平和を声高にしてきた米英ユ派がこぞって現代版ホロコーストに向かっているではないか。どっかオカシイのではないかと疑問を湧かすのが真っ当な感性というものではなかろうか。れんだいこは、西岡論文に批判をたくましゅうしてきた連中の文章を読んだが、真偽判定以前の品性劣悪、論理破綻な物言いをあちこちで目にしてきた。この問題に関する限り、ナチスホロコースト史実派の方が明らかに形勢が悪い。

 れんだいこは、サヨはホロコースト派が似合うのに対し、左派は検証派に立つべしと考えている。ついでに言えば、サヨは宮顕を持ち上げ徳球をくそみそに云う。田中角栄を根限り悪し様に評する。れんだいこは、逆ではないかと思っている。大事なところが全て逆にされていると思っている。だから、学んで余計に馬鹿になると思っている。そういうことを議論する場が有れば登場してみたい。れんだいこの考え違いでした、見識不足でしたと頭を差そげる機会が来るだろうか。

 2009.1.14日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評519 れんだいこ 2009/01/16 22:12
 【続「警告 危険なWebブサイト」考】

 れんだいこの「左往来人生学院掲示板」に対する「警告 危険なWebブサイト」表示は消えたりついたりしているが、妙なことに気づいたので発表しておく。これが点灯するサイトには次のような特徴がある。一つは、政治評論掲示板。これは今後とも増えていくように思われる。もっとも一生つかぬ栄誉な掲示板がウヨサヨするだろう。

 もう一つは、ジャスラックがらみの掲示板である。当然、ジャスラック式著作権論は正当であるとエールするような掲示板にはつかない。ジャスラックと訴訟し、その非を打ち鳴らす掲示板に点灯する。もう一つはパレスチナ問題での反ネオシオニズム系掲示板である。当然イスラエル万歳型の掲示板にはつかない。ことの真相に迫ろうとして有益な情報を流すところに点灯する。

 もう一つある。これが書きたかった。妙なことに、実は妙でもないのだろうが、戦前の特攻兵士の遺書を読もうと思って検索していたところ、悩みとか肉親とか平和希求型の遺書開陳コーナーにはつかない。が、時局挺身型の勇武遺書コーナーには滅多やたらに点灯する。あるいはサイト閉鎖が多い。

 さて結論。この因果関係はどの辺りにありや。これで我がサイトは永遠のつきまくりになるだろうか。

 2009.1.17日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評520 れんだいこ 2009/01/20 19:00
 【2009年初頭のガザホロコースト考】

 2009.1.19日、イスラエル軍とイスラム原理主義組織「ハマス」は暫定的停戦に漕ぎ着けた。イスラエル軍は、1.20日のアメリカに於けるオバマ氏の大統領就任前に、パレスチナ自治区ガザから全面撤収することを表明した。こたびのイスラエル軍による戦禍の実態は判明しないが、空爆で破壊された家屋の下敷きで生き埋めになっている人たちまで含めると数千人の死亡者、万余の負傷者が推定される。

 こたびの戦闘で、イスラエルが得たものは何であったのだろうか。その狙いは何であったのだろうか。この種の戦闘が一朝一夕には実行できないことを思えば、用意周到に画策され実行された背景が詮索されねばなるまい。「ハマスに対する打撃」は一定の戦果を挙げたであろうが、ガザホロコーストぶりを世界にまざまざと植えつけたことやパレスチナ難民のイスラエル憎悪に向けての結束強化と比較して算盤が合っているだろうか。れんだいこには、焦りのような無謀なガザホロコーストぶりのみが印象に残っている。

 それにしても、この時期のイスラエルのガザホロコーストが理解できない。どういう内的事情、歴史的必然性があったのであろうか。これを読み取らねばならない。そのキーは、1.19日の暫定的停戦が1.20日のオバマの大統領就任式に合わせて手打ちしたことのうちに認められるのではなかろうか。オバマ新大統領にとっては、これがイスラエル式就任祝いとなった。

 これを逆に云えば、イスラエルは、オバマ大統領の下ではブッシュ時のように阿吽の呼吸での戦争政策ができないと読み、やるならブッシュ政権時に限るという判断に基いていたのではなかろうか。恐らく、イスラエルの読みは当たり、オバマはブッシュ政権の戦争政策からの転換に向かうのではなかろうか。これを大胆にやるのか徐々にやるのかが問題となるが、れんだいこは、戦争利権屋との軋轢を通じながらも次第に指導力を発揮し始めるとみなす。

 イラク派遣兵のアフガンへの横滑り政策アドバルーンは、大統領就任前に於ける好戦勢力宥和のリップサービスで、大統領就任以降は空手形に終わる可能性が強いと見る。なぜなら、実際にアフガン派兵を強化するとなると事態は何ら変わらず、つまりはオバマの選挙戦での公約全体が崩れてしまうからである。それは、ただでさえ危ぶまれているオバマ暗殺の可能性を更に手繰り寄せる自殺行為に他ならない。そういうこともあり、れんだいこは、オバマはチェンジ政策に本気で向かうと見立てる。この判断が正しいかどうか難しいが、当面その動向をウォッチせねばなるまい。

 もとへ。書きたかったのはそういうことではない。こたびのガザホロコーストで象徴されたイスラエルの余りにも無慈悲残虐非道な意図的故意の虐殺政策の裏に秘める特殊なイデオロギーを解明しようと思う。イスラエルは何故に、自らを悲劇の民として打ち出しすことで世界から同情を得ることに成功し、ナチスホロコースト糾弾権を持つ身でありながら、その立場を自ら放棄するような行動に躊躇なく向かうことができるのだろうか。これを問わなければなるまい。

 これを簡単に説き明かすのは困難だが、はっきりしているのは彼らが信仰の基礎としている選民意識、その対極としてのユダヤ人以外に対するゴイム畜生意識、そういうメンタリティーとイデオロギーに基くタルムード的優勝劣敗的価値観、徹底した権謀術数陰謀主義、ユダヤ王国再建思想が核になっているのではなかろうか。

 そういう意味で、イスラエル問題を解く為には、彼らの依拠する思想、哲学、宗教、処世観、社会観、歴史観総体の研究に向かわねばなるまい。その根源を見定めて、合理的な対応策を生みだす営為もまた必要なのではなかろうか。パレスチナの平和を語るとき、現象的な一時的平和のみならず、政治の奥に潜むこれらの諸問題にもメスを入れなければ解決しないと、れんだいこは考えている。以上、発信しておく。
 
 2009.1.20日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評521 れんだいこ 2009/01/22 19:54
 【オバマの米国大統領就任式考】

 2009.1.20日、米国の前上院議員にして大統領選に勝利していた民主党のバラク・オバマ(47)氏がワシントンの連邦議会議事堂前で大統領就任式に臨み、「奴隷解放の父」エイブラハム・リンカーン第16代米大統領が1861年の宣誓で使ったのと同じ聖書に左手を置き、「私、バラク・フセイン・オバマは、合衆国大統領の職務を誠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持、保護、擁護することを厳粛に誓う」と宣誓を行い、第44代米国大統領に就任した。これにより、米国史上初の黒人大統領が誕生した。副大統領には、ジョゼフ・バイデン前上院議員(66)が就任した。

 米国大統領は、就任式後に最初の大統領演説を行うのが恒例である。式典最大のヤマ場で、任期4年間の政権運営に向けた所信を表明し、国民を導く決意を示す。名演説として名高いのはゲティスバーグでの名文句「人民の人民による人民の為の政治」で知られる第16代のリンカーン、「自分が国家のために何ができるかを問いたまえ」と訴えた第35代のケネディらが有名。演説のうまさに定評があるオバマ大統領の就任演説も、どんな文句が飛び出すのか世界中から注目されていた。

 以下、「オバマの大統領就任演説(れんだいこ和訳文)」をサイトアップする。新聞各社の訳を転載すると著作権法違反だというそしりを気にせねばならぬので、れんだいこ訳を市場提供する。まことにケッタイナ時代になった。これは引用転載リンクフリーにしているので自由に使って欲しいと思う。

 オバマ演説を聴いてどういう感慨を持つかは各自の自由である。以下、れんだいこの感想を発信しておく。この草稿を、オバマ自身が書き上げたものかライターがいるのかどうかは分からない。文章がやや込み入っており、簡明さを売りにするオバマ文言としては異例の気がしないでもない。

 それはそれとしてはっきりしていることは、これが現代政治の最先端且つ最深部の識見だということであろう。さすがに米国は米国であって、ロシアは無論、他のどの諸国の指導者ももかような見識を示し得ない。遠く及ばないというべきか。これに匹敵するものがあるとすれば、れんだいこの知る限り日本の鬼才政治家・田中角栄の「1973.9月、新しい日本への道」であろう。角栄の面目躍如の感がある。その角栄は内外圧力で葬られて久しいが、米国が今、田中角栄政治の入り口に立とうとしている。実際にどうなるかは別にしてそう思えなくもない。

 それにしても、現代日本政治の貧相がかわいそうでならない。米国大統領は、大統領就任宣誓式で、「憲法に従い、誠実に任務を遂行する」を声明し署名する。つまり、法治主義を宣誓するしきたりになっている。こたびの米国大統領選と勝利したオバマの大統領就任式の経緯を見て得た収穫はこのことだった。これに比べて、日本の首相は、世界に冠たる名憲法をいただきながら軽んじ、否憲法改正を平然とのたまう。法治主義の国に於いては本来有り得てならないことが、平然と罷り通っていることになる。

 これを思えば、日本でもせめて首相就任式では、「第99条(憲法尊重擁護の義務)天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」を読み上げさせなければならぬ、そう思った。こらっ麻生、聞いとるか。お前はまぁたいしたことはないが、こらっ小泉、中曽根、手前は恥ずかしくないのか。爪の垢でも煎じて飲めとはこのことだ。

 ついでに云っておこ。こらっ読売、産経、憲法改正の旗を振るのは勝手だが、法治主義を理解せぬ者がいくら過激派学生を批判してもテロ退治をけしかけても資格がなかろうが。こらっ朝日、毎日、日経よ、日本の首相就任式ではなぜ憲法第99条宣誓しないのかぐらいは筆にしておけ。どいつもこいつも性根が腐っとる。インテリ云うても肩書きで云うとるだけで、本当にインテリかどうかは全く別問題だ、そういうことになる。

 2009.1.22日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評522 れんだいこ 2009/01/22 20:20
 【オバマの大統領就任演説(れんだいこ和訳文)】

 オバマ新大統領の就任演説全文は次の通り。

 REMARKS OF PRESIDENT BARACK OBAMA〈英語全文〉Inaugural Address Tuesday, January 20, 2009 Washington, D.C.

 親愛なる市民の皆さん。私は今日、私達の前にある職務に対して厳粛な気持ちを抱きながらここに立っています。あなた方から与えられた信頼に感謝し、我々の祖先が支払った犠牲を心に留めながら。私は、ブッシュ大統領の我が国への奉仕、並びに大統領がこの政権移行期間に示した寛容さと協力に感謝します。

 これで44人の米国人が大統領就任宣誓を行うことになりました。宣誓は、繁栄の隆盛期や平和で静かな時に行われたこともありました。しかし、しばしば暗雲が垂れこめる時や荒れ狂う嵐の時にも行われました。こうした折、米国は、指導者たちの技量や理念だけに頼ることなく、私達人民が祖先の理想に忠実で、建国の文言に正直であることによって乗り切って参りました。ずっとそうやって参りました。この世代の米国人も同様にしなければなりません。

 私達が危機の最中にいることは、今や誰もが知る通りです。私達の国家は、暴力と憎悪の広範なネットワークを相手に戦争中です。経済はひどく弱体化しています。それは、一部の者の強欲と無責任の結果であるだけでなく、厳しい決断をし損ない、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗の結果でもあります。

 家は失われ、職はなくなり、ビジネスは閉じられております。我々の健康保険制度は金がかかり過ぎております。学校は余りにも本来の役目をし損なっております。さらに、私達のエネルギーの消費の仕方が敵を強化し、私達の惑星を脅かしているという証拠が日増しに増え続けております。

 これらは、データと統計に基づく危機の指標です。予測は困難ですが、間違いなく深刻なのは、私達の国土に広がる自信の喪失です。米国の凋落(ちょうらく)は避けがたく、次の世代はうなだれて過ごさなければならないというぬぐいがたい恐怖に見舞われております。

 今日、私はあなた方に告げます。私達が直面している試練は現実のものです。試練は深刻で数多い。この試練は容易に又は短期間で対処できるものではありません。しかし、米国よ、わかって欲しい。これらの試練は対処されるのです。

 この日、私達は、恐怖ではなく希望を、紛争と不一致ではなく目的を一つにする為の選択をして集っております。この日、私達は、ささいな不満や偽りの約束、非難や言い古された定説を終わらせることを宣言致します。それらは、私達の政治をあまりにも長い間阻害して参りました。

 私達の国はなお若い。しかし、聖書の言葉には、子どもじみたことに幕を閉じる時が来るとあります。私達の忍耐に富んだ精神を再確認し、より良い歴史を選ぶ時が来ました。貴重な才能と、世代から世代へと引き継がれてきた尊い考えを発展させる時が来ました。それは、すべての人は平等で、自由で、あらゆる手段により幸福を追求する機会を授けられているという神の与え給うた約束のことです。

 私達の国の偉大さを再確認する時、私達は、偉大さが決して与えられたものではないことに気づきます。それは勝ち取らなければならないのです。私達の旅は、近道でも安易なものでもありませんでした。私達の行路には、仕事より娯楽を好み、富と名声の喜びだけを求めるような、邪悪な者のための道筋はありませんでした。むしろ、私達の旅には、危機に立ち向かう者、仕事をする者、生産者が居ました。それらの人々は、著名な人たちというより、しばしば無名の働く男女で、長い険しい道を繁栄と自由を目指して導いて参りました。

 私達のために、彼らは、わずかな荷物をまとめ、新たな生活を求めて大洋を旅して参りました。私達のために、彼らは額に汗してせっせと働き、西部に移住し、むち打ちに耐えながら、硬い大地を耕しました。私達のために、彼らは、(独立戦争の戦場の)コンコードや(南北戦争の)ゲティスバーグ、(第2次大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンのような場所で戦い、命を落としました。

 しばしば、これらの男女は、私達がより良い生活を送れるように、手の皮がすりむけるまでもがき、犠牲になって働いてまいりました。彼らは米国を、個人の野望を合わせたものより大きく、生まれや富や党派の違いの全てを超越する偉大なものとみなしておりました。

 これが今日も我々が続けている旅なのです。私達は依然として地球上で最も繁栄し、力強い国で在り続けています。私達の労働者は、このたびの危機が始まった時と比べ生産性を低くしたわけではありません。精神は相変わらず創意に富んでおります。私達が生みだす物やサービスは先週や先月、昨年と同様相変わらず必要とされております。能力も衰えておりません。しかし、同じ手を用いるだけで、狭い利益にこだわり、面倒な決定を先送りしております。そんな時代は確実に終わったのです。今日から立ち上がり、私達はホコリを払って、米国再生の仕事に向かって着手しなければなりません。

 いたるところに為すべき仕事があります。経済状態は、大胆かつ迅速な行動を求めております。そして私達は、新規の仕事の創出のみならず、新たな成長の礎を整えるべく行動せねばなりません。道路や橋や電線やデジタル通信網の建設に向かうべきです。それらは、商業に役立ち私達を結び付けます。科学を本来あるべき地位に戻し、テクノロジーの威力を用いて医療の質を引き上げながら且つそのコストは減らさねばなりません。太陽、風や土壌を利用して自動車を動かし、工場を動かすべく向かわねばなりません。新時代の要請に合うよう学校や単科大、大学を変えていかねばなりません。私達はこれらすべてのことができるし、やって行くことになるでしょう。

 私達の抱負の大きさについて疑念を抱く人がいます。私達のシステムは余りにも多くの大きな計画に耐えられないと指摘する人達です。そういう人達は、この国が何を成し遂げたてきたかを忘れてしまっています。そういう人達は、想像力が共通の目的と出合った時、必要が勇気と結びついた時、自由な男女がいかほどのことを為し得るのかを忘れています。

 皮肉屋が理解し損なうのは、彼らがよって立つ地面が動いてしまっているということです。長い間、私達を虜にしてきた陳腐な政治議論はもはや通用しません。私達が今日問うべきことは、政府の大小ではありません。政府が機能するかどうかなのです。政府が、家族が人並みの給与の仕事を見つけたり、負担できる(医療)保険や、それなりの退職資金を手に入れることの助けになるかどうかなのです。

 答えがイエスの場合は、その施策を前進させます。ノーならば終わりとします。公金を管理する者は賢明適切に支出し、悪弊を改め、誰からも見えるようにガラス張り業務を行うのです。それによって初めて、国民と政府の間に生き生きとした信頼を回復できるのです。

 問うべきなのは、市場の良しあしではありません。富を作り自由を広げる市場の力に比肩するものはありません。しかし、このたびの危機は、監視がなければ市場が統制を失ってしまい、国家が豊かな者ばかりを優遇するようなことでは繁栄を長続きすることができないということを再確認させてくれました。経済の成功はいつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、繁栄の広がりや、意欲のある人にどれだけ機会を広げられるかの能力にも関わっております。それらは慈善として為されるものではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としての拠りどころなのです。

 我々の共通の防衛についてですが、私達は、安全と理想とを天秤(てんびん)にかけるという誤った選択を拒否致します。建国の父たちは、私達の想像を超える危機に直面して、法の支配と人権を保障する憲章を起案しました。憲章は、何世代もの血の犠牲によって拡充されました。

 これらの理想は、今日でも世界を照らしており、私達は便宜主義的な都合で手放したりはしません。今日(の就任式を)見ている他国の国民や政府ら、巨大都市から私の父が生まれた小さな村までの人たちが、米国が、平和と尊厳の未来を求めるすべての国々、すべての男女と子供の友人であり、私達がもう一度、指導力を発揮していく用意があることを知っています。

 前の世代は、ファシズムや共産主義に対してミサイルや戦車だけではなく、強固な同盟と強い信念を持って対峙(たいじ)したことを思い出しましょう。彼らは、力だけでは守れず、好きに振る舞う資格を得たのではないことも理解していました。逆に、力は慎重に使うことで増すことを理解していました。私達の安全は、大義の正当性や模範を示す力、謙虚さ、自制心から生みだされるものなのです。

 私達は、この遺産の継承者です。こうした原則にもう一度導かれることで、私達は、一層の努力や、国家間の一層の協力や理解が求められる新たな脅威に立ち向かうことができるです。私達は、イラクをイラク国民に委ねる責任ある撤退、アフガニスタンに苦労しながらも平和を築くことを始めます。古くからの友やかっての敵とともに、核の脅威を減らし、地球温暖化を食い止めるためたゆまず努力致します。

 私達は、私達の生き方について取り繕いしないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しません。目的の推進を図る為にテロを引き起こし、罪のない人を虐殺する人々に対して告げます。私達の精神は今、より強固であり、壊すことはできないと。あなたがたは、私達より長く生き延びることはできません。私達は、あなたたちを打ち破ります。

 私達のつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではありません。私達は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家です。私達は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっています。私達には、南北戦争や人種隔離という苦い経験を味わっており、その暗い時代から抜け出て、より強くより団結するようになっています。私達は信じています。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる境界も消えることを。世界が小さくなる中で、私達に共通の人間愛が現れることになることを。米国が、新しい平和の時代に先駆ける役割を果たさねばならないことを。

 イスラム世界よ、私達は、相互理解と尊敬に基づく新しく進む道を模索します。紛争の種をまいたり、自分たちの社会の問題を西洋のせいにしたりする国々の指導者よ、人々は、あなた方が何を築けるかで判断するのであって、何を破壊するかで判断するのではないことを知るべきです。腐敗や欺瞞、さらには異議を唱える人を黙らせることで権力にしがみつく者よ、あなたたちは、歴史の誤った側にいます。私達は、あなた方が握ったこぶしを開くなら手をさしのべます。

 貧しい国の人々よ、私達は誓います。農場に作物が実り、きれいな水が流れ、飢えた体に栄養を与え、乾いた心を満たすため、共に取り組むことを。私達と同じように比較的満たされた国々よ、私達が国境の向こう側の苦悩にもはや無関心でおることや、影響を考慮せず世界の資源を消費することはできません。世界は既に変わったのです。故に、我々も世界と共に変わらなければなりません。

 私達の前に広がる道について考える時、私達は、今この瞬間にもはるかかなたの砂漠や遠くの山々をパトロールしている勇敢な米国人たちに、心からの感謝をもって思いをはせます。彼らは、アーリントン(国立墓地)に眠る英雄たちが時代を超えてささやくように、我々に語りかけています。私達は、彼らを誇りに思います。それは、彼らが我々の自由を守ってくれているからだけではなく、奉仕の精神、つまり自分自身よりも大きい何かの存在の意味を見いだす意思を体現しているからです。これこそが時代を決するこの時に、私達すべてが持たねばならない精神です。

 政府はやれること、やらなければならないことをやるが、詰まるところ、わが国がよって立つのはアメリカ国民の信念と決意に関わっております。堤防が決壊した時、見知らぬ人をも助ける親切心であり、友人が職を失うのを見て、傍観するのではなく自らの労働時間を削ってでも助け合おうとする労働者の無私無欲の心です。これにより暗黒の時を切り抜けることができます。煙に覆われた階段を突進する消防士の勇気であり、子どもを育てる親の意思です。これが最終的に私達の運命を決めるのです。

 私達の挑戦は新しいものになるでしょう。私達がそれに立ち向かう手段も新しいものになるでしょう。しかし、私達の成功は、勤労や正直さ、勇気、公正、寛容、好奇心、忠誠心、愛国心といった価値観にかかっています。これらは、昔から変わらぬ真実です。これらは、歴史を通じて進歩を遂げるため静かな力となってきました。

 必要とされるのは、そうした真実に立ち返ることです。いま私達にに求められているのは、新しい責任の時代に入ることです。米国民一人ひとりが自分自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのではなく喜んで機会をとらえることです。困難な任務に全力で立ち向かうことほど精神を満たし、人格を磨くことはありません。

 これが市民精神の真価であり約束なのです。これが我々の自信の源なのです。神が、我々に未知の運命を形作るよう命じている命題なのです。

 これが我々の自由と信条の意味なのです。なぜ、あらゆる人種や信条の男女、子どもたちが、この意義ある広場の至る所で祝典のため集えるのか。そして、なぜ60年足らず前なら地元のレストランで食事することを許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、最も神聖な宣誓を行うためにあなた方の前に立つことができるのか。

 だから、この日を記憶に刻むことにしましょう。我々が誰なのか、どれほど長い旅をしてきたのかを。米国誕生の年、酷寒の中で、愛国者の小さな一団は、氷が覆う川の岸辺で、消えそうなたき火の傍らに身を寄せ合いました。首都は見捨てられました。敵は進軍してきました。雪は血で染まりました。私達の革命の結末が最も疑わしくなった時、私達の祖国の建国の父祖は、次の言葉を人々に読むよう命じました。

 「酷寒の中、希望と美徳しか生き残ることができない時、共通の脅威に気づいた町も田舎もそれに立ち向かうために進み出た、と未来の世界で語られるようにしよう」

 アメリカよ。私達自身が共通の脅威に直面している時に、私達自身の苦難の冬に、時を超えたこれらの言葉を思い出しましょう。希望と美徳を抱いて、この凍てつく流れに再び立ち向かい、どんな嵐が訪れようとも耐えましょう。

 そして、我々の子孫に言い伝えられるようにしようではありませんか。私達が試された時、旅を終わらせることを拒み、後戻りすることも、くじけることもなかったと。そして、地平線と神の慈しみをしっかりと見つめ、自由という偉大な贈り物を受け継ぎ、未来の世代に無事に届けた、と。ありがとう。神の祝福が皆さんにあらんことを。そして、神の祝福がアメリカ合衆国にあらんことを。

 2009.1.22日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評523 れんだいこ 2009/01/23 21:47
 【オバマの大統領就任演説考】

 オバマの大統領就任演説をどう評するべきか、以下これを記しておく。個々の内容にコメントするのは深入りし過ぎで要点を見失う怖れがあるので、同演説に見て取れるオバマ大統領の政治姿勢、識見、政策について検証しておくことにする。

 結論から云えば、右顧左眄的な要領を得ない内容になっていることを指摘せざるを得ない。こういう場合の政治座標軸として有益なのは、本質的に守旧派なのか革新派なのか、タカ派なのかハト派なのか、右派なのか左派なのか、外治主義なのか内治主義なのか、国際派なのか民族派なのか等々であろうが、オバマ演説はいずれも両股天秤に掛けているところに特徴が認められる。

 現代世界の政治経済文化総体を動かしている国際金融資本帝国主義の行動計画アジェンダに対する立ち位置も重要な判定軸となるが、これに照らしてみても今ひとつはっきりしない。突出させた自由礼賛的言辞は、連中のイデオロギーと共通するフリーメーソン思想、イルミナティ思想を基調にしているように見えるが、他方で厳しくブッシュ的な過激主義に陥ることを戒めている。もっとうまくやるべきだとする観点からあれこれ言及しているようにも見えるが、ブッシュ政治批判を通じてフリーメーソン思想、イルミナティ思想の非を間接的に衝いているようにも聞こえる。

 アメリカ政治を評するもう一つの重要なファクターとして、国際金融資本勢力のアジェンダともまた違う、いわばもう一つのアメリカ即ち多様な価値と文化を認める人種のるつぼとしてのアメリカの建国精神を称揚せんとしている面も見受けられる。この観点から有色人種の社会的進出と人材登用にエールしている面もある。

 つまり結論として、オバマの大統領就任演説は、一筋縄で解けない様々な観点からの政治姿勢、識見、政策を散りばめているところに特徴があるということになる。従って、オバマの正体は未だよく見えない、就任演説では明らかにならないとすべきだろう。これが計算ずくの演出なのかジレンマに陥っているのかは分からない。

 米国国民は、オバマの就任演説に歓呼するより、なにやら高邁な教えを説かれた気がしているのではなかろうか。興奮の中の静寂で聞いたのではなかろうか。この訓戒が本物なのかトリッキーなものなのか追って見えて来るだろう。れんだいこは、米軍のイラクからの撤退スピード、派遣兵のアフガン横滑りに向かうのか否や、総じて軍事費の大幅削減に向かうのか否やで正体がはっきりすると思っている。

 その際、日本がどのように取り込まれ、肩代わりさせられるのか。これに自公民がこぞって向かうよう仕組まれているのは確かであろう。米国の軍事費削減、日本の更なる国際軍事貢献深のめりだけはご免とすべきだが、どうせマスコミがそういう風に誘導してくれるだろう。そういえば、海上自衛隊がまた派遣されるそうな。これを拙速とする声が聞こえない。そういう絡みで日本政治の動向にも目が放せない。とりあえず以上、感想を記しておく。

 2009.1.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評524 れんだいこ 2009/01/24 11:34
 【田中角栄の首相就任草稿考】

 序文

 日本のエセインテリのレベルにより大きく値打ちを毀損され続けている田中角栄であるが、れんだいこは、オバマの大統領就任演説に接して角栄の「1973.9月、新しい日本への道」を思い出した。第一次田中内閣が発足が1972.7.7日であるから、この草稿は政権一年後の油の最も乗り切った時期の論文と云うことになる。どこで発表され掲載されたのかは分からない幻の草稿となっている。内容を読むに、これこそ戦後日本の道しるべとなっており、埋もれさせ続けるにはまことに惜しいので、ここにサイトアップしておく。

 それにしても、角栄政権までの時代、日本は国債発行を抑え、消費税なども無かった。それでいて、日本は世界に冠たる高度経済成長を謳歌し、世界に羨望されていた。社会保障、年金も充実し、れんだいこの親父もその恩恵にあずかり、自分は尋常高等小学校卒ながら息子を大学へやるという充足の子育てを終え第二の人生に向かっていた。思えば良き時代の日本を創り上げていたことになる。

 角栄の政治に対するまじめさ、識見、英明なる指導力を、外圧のみならず我が内部から崩した日本はその後、迷走したまま今日へいたっている。現下の麻生政権は消費税料率引き上げに執心し、小渕政権の二の舞の何の役にも立たない大盤振る舞い路線に向かおうとしている。これに対して、今日のテイタラクを引き起こした側の旧小泉政権派が恥ずかしげもなく消費税反対派として登場し、正義ぶろうとしている。且つ双方が国際金融資本の指図のままの軍事費増強路線、自衛隊常時派兵路線の音頭取りを務めている。

 日本政治はまったく歪んでいる。さて、そこでだ。ここで、在りし日の日本政治の肉声を聞くのも意義なしとは云えまい。れんだいこは、日本再生のキーがここに刻まれていると思っている。これをバイブルとせねばならないとも思っている。なぜこうならないのか。エセ自称インテリの年棒を500万ぐらいに落として覚醒させなければ、あるいは新たな質の政治家、評論家に入れ替わらなければ無理なのかとも思う。我がたすけあい党の進撃の日も近いとも思っている。

 2009.1.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評525 れんだいこ 2009/01/24 11:40
 【田中角栄の首相就任草稿考】

 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」1】

 私たち日本人は、三十年前、第二次大戦の不幸な体験を通じて、力をもってすることの限界を全身で知った。そして、世界に例のない平和憲法をもち、国際紛争を武力で解決しない方針を定め、非核三原則を堅持し、平和国家として生きてきた。この間、世界では、局地的な国際紛争が繰返されてきたものの、基本的には、戦後を支配した東西の冷戦構造は、くずれ、多極化と平和共存の時代に入った。人類の英知は、明らかに、力による対決の不毛を悟りつつある。

 いま、世界ががかえている重要な問題、あるいは人類社会に生起しつつある新しい危機−−地球的規模での汚染の進行、資源・エネルギー源の枯渇化、食糧不足、インフレーション、南北問題など−−はいずれも力をもって解決することが不可能であり、また、そうしてはならないものである。

 ある意味では、戦後の“驚異的な”経済成長をつうじてせまい国土に短期間のうちに高度工業社会を築きあげた日本には、人類社会が直面する矛盾の多くが濃縮され、尖鋭的に現われているとみることができる。都市、公害、世代間の断絶、教育の混迷など先進社会共通の悩みも、狭小な住宅、社会資本の不足、社会保障の立遅れなど、後進社会にありがちな問題も混在している。都市と農村とのさまざまな格差は、国内における南北問題ともいえよう。

 しかし同時に日本は、高い成長をつうじて、内在するこれらの問題を克服するだけのゆたかな可能性を蓄えてきた。しかも、もともと日本列島の自然は、潤いと変化に富んでいる。日本人は、明治維新から一世紀、高度に発達した西洋の産業文明を吸収し自己のものとして消化する一方、先祖から受け継いだデリケートで暖かな伝統的文化を保ってきた。一億をこえる明るく、勤勉で、感受性に富む日本人がいま、なすべきことは、民族の英知を結集して、直面する試練を乗りこえ、人間復権の新しい文明社会を創造することである。

 わが国の進路を一言にしていえば「平和」と「福祉」につきよう。外にたいしては、戦後四半世紀を一貫してきた平和国家の生き方を堅持すると同時に、すすんで世界の人々と繁栄をわかちあい、それをつうじて国際社会の協調と融和に貢けんしていくことである。内については、自然と文化と産業か融和した地域社会を全国土におし広め、すべての人が、安らぎのなかでいきいきと働き、住み、楽しむことができるようにすることである。このような国民のための福祉は、短期的な安堵感に立脚したものではなく、過去から末来にまたがる歴史的展望の上に立ったものでなければならず、人間本来の姿である精進と勤勉に支えられた永続性のあるものでなければならない。

 こうした内外両面からの要請に応えるための壮大なプロジェクトこそ、私の提唱してやまない日本列島の改造なのである。これは、人数の理想実現への野心的な挑戦であり、雄大な平和計画でもある。この成果をつうじて、日本は、二十一世紀に向かう人類社会の前進に、先駆的な役割を果たすことが可能となり、国際社会における名誉ある地位を占めるための礎石を据えることかできるに違いない。私は、これこそが新しい日本への道であると信じて疑わない。

 第一章 真の豊かさを目指して

 (一)

 一九四五年、第二次大戦に敗れた日本は、見渡す限りの廃墟のなかから立ち上がった。国土面積の四四%が失われ、四つの島には、復員軍人や海外からの引揚者をふくむ膨大な失業者が溢れ、鉱工業生産は、戦前(一九三五〜三七)のわずか六分の一の水準にまで落ち込んでいた。飢餓と窮乏からの脱出、理窟抜きの課題であった。ボロをまとい空腹をかかえ、その日暮らしの生活に耐えながら経済の復興に取り組む人々の姿を私はいまも忘れることができない。

 国民の生活水準が、戦前の段階に回復するまで、およそ十年の歳月を要した。一九五六年度の経済白書は「もはや戦後ではない」と、日本経済が復興期を終え新しい発展期にさしかかったことを指摘した。事実、そのころからわが国経済に高度成長時代の幕が開けつつあった。石油、石油化学、鉄鋼、自動車、家庭電器など次々と主導産業が登場、重化学工業が飛躍的発展をとげることになる。

 一九六〇年、政府は、国民の厚い支持を得て十年後を達成時期とする「国民所得倍増計画」を掲げた。その刺激を受けてわが国の経済は一層、成長のスピードを早めた。投資が投資を呼ぶ拡大循環のもとで、慢性的失業は解消し、労働需給は様変りに逼迫した。勤労所得は恒常的に上昇するようになり、テレビや自動車が飛ぶように売れ出した。

 東京オリンピック大会が開かれたのは一九六四年である。この年、わが国はIMF八条国となり、また資本取引の自由化を原則とするOECDへ加盟が認められた。日本は開放経済体制のもとで国際経済の荒波へ乗り出すことになったのである。

 産業の国際競争力は強化され、六八年以降の国際収支は黒字基調が定着、国際収支の天井は取り除かれた。

 このようにして、わが国は、復興経済−−高度成長経済−−国際経済の三段飛びをなしとげた。これは、教育水準の高い豊富な労働力、高い貯蓄率、積極的な技術導入による急速な技術進歩などによって支えられ、また、国民の勤勉さとすぐれた適応能力、旺盛な企業家精神によって実現された。一九五五年から七〇年までのわが国経済の実質成長率は一〇・四%に達し、この間に、日本経済の規模(GNP)は四・四倍に拡大し、アメリカに次ぐ自由世界第二位の水準となった。国民一人当たりの所得もほぼ欧州なみの水準に到達した。欧米先進国にキャッチ・アップするという国民的熱望は、ようやく達成されようとしている。

 (二)

 私たちは、これまで成長の延長線上にめざす果実があるものと信じ、一日も早くそれに到達しようと努めてきた。だが、いまや内外の情勢は大きく変わった。巨大な規模となった日本の経済社会の行手には、環境や資源の壁がたちはだかり、また、社会資本ストックの不足、社会保障の立遅れなどの問題も強く意識されてきた。

 また、わが国では、いま、脱工業化社会(情報化社会)への志向のなかで、豊かさの質が急速に変化しつつある。これまでの企業の豊かさから個人の豊かさへ、フローの豊かさからストックの豊かさへ、そして単なる経済的、物質的豊かさから心の豊かさ、ないしは時間の豊かさへと人々が求める豊かさの内容が変わってきている。人々の欲求は多様化し、高度化しつつある。

 従来、日本人の特性ともみられていた企業中心の生活意識も最近では後退しつつある。生産第一主義の時代においては、個人が勤務先の企業で全力を尽して{前3文字ママ}働けば、企業は成長し、国富が増強され、ひるがえって、個人生活や個人の社会的地位が向上するという価値観が一般にいきわたっていた。

 しかし、所得水準が高まった現在、自然環境や生活環境が、新しい尺度で見直され人々は、勤労とならんで文化、スポーツなど社会生活のいろいろな分野に積極的に参加し、その場をつうじて自己実現を求めるようになっている。人々は、自らの、より高い生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)を追求するようになってきた。そのための自由時間の増大は社会的な要請である。

 こうした情勢に対処するためには、思い切った発想の転換が必要である。震動や衝撃に対する対症療法的な手段だけを講じても、かえって矛盾を深めるばかりである。長期的展望に立って生産力増強・輸出優先から、生活優先・福祉充実へと政策の重点を切替えなければならない。勤労者の立場から産業活動のありかたを見直すとともに、潤いのある生活空間と多彩な余暇空間を積極的に創造することが、内政の最大目標とされるべきである。働く人々の豊かな老後と不幸にして病いに倒れた場合の医療などを十分に保障することも、もちろん、新しい福祉社会の必須の条件である。

 ところで、私たちのめざす福祉社会は、活力にみちたものでなければならない。それは個々の人間が自由な選択をつうじて自らのもつポテンシャルを十分に発揮していける人間尊重社会である。だが、そのことは、決して、利己的で断絶的な社会の形成を意味するものではない。権利はつねに義務を、選択はつねに責任をともなう。他人に対する暖かな配慮が、自田と民主主義のうえに立つ真に人間尊重社会を支える基本である。

 (三)

 この場合、強調しておきたいのは、経済社会の直面している問題の多くは、国土の利用構造と切離して論じることが、不可能たということである。

 集積の利益を求める近代産業は、都市に集まり、高い所得と便利な暮らしをのぞむ人々がそれを追って都市に流入する。集中が集中を呼び、競争が経済発展のエネルギーを生み出す。世界各国の近世経済史は、一次産業人口の二、三次産業への流出、つまり農村から都市への産業や人口の集中をつうじて経済が発展してきたことを示している。日本もその例外ではない。国勢調査によると、一九五〇年に、三千百二十万人だったわが国の都市人口は、七〇年には七千四百八十五万(総人口の七二%)にふくれあがった。都市人口が二十年間に四千万人以上も増加した勘定だ。

 太平洋ベルト地帯、とくに東京、大阪、名古屋の三大都市圏には、産業人口の集中がいちじるしい。三大都市圏の人口は一九六〇年から七〇年までに一千六十二万人ふえ、四千五百五十八万人(総人口の四三・九%)に達した。また、三大都市圏の工業出荷額は全国の六〇・五%(七〇年)を占めている。

 日本の国土面積は三十七万平方キロメートルで、アメリカのカリフォルニア州一州よりもやや狭い。その国土のわずか一%の地域に十年間でスエーデンの総人口を上回る人口の増加が起こり、フランスの総人口をやや下回る数の人間が集中するに至ったのである。しかもその地域ではイギリスと同じ程度の規模の物的生産か行われている。この結果、巨大都市は、過密のルツボで病み、あえぎ、いらだち、公害、土地、住宅、ごみ問題、水不足、物価などの問題が激発する半面、農村では、若者が減って高年齢化が進み、成長のエネルギーを失おうとしている。しかも、農村から一世帯が都市にでることにより、その労働価値に数倍する公共投資を必要とし、社会保障費も増大する。

 明治百年をひとつのフシ目として、都市集中のメリットは、いま明らかにデメリットへ変わった。いまや、都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力を日本列島の全域に向けて展開すべきである。それによって、過密と過疎を同時に解消し、地方も大都市も、ともに人間らしい生活が送れる状態につくりかえることこそ、新しい福祉社会建設の大道である。高齢化社会の到来をひかえて、わが国が力をいれなければならない老人対策や医療対策、さらに明日を担う青少年の教育問題なども国土空間の再編成をぬきにしては、真の成果をあげることはできないといっても過言ではない。

Re::れんだいこのカンテラ時評526 れんだいこ 2009/01/24 11:42
 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」2】

 第二章 世界と繁栄をともに

 (一)

 「宇宙船・地球号」の乗組員である人類は、自らの生存についての問題意識を互いにわかちあい、新しい連帯感に立ったすそ野の広い協力・協調関係を打ちたてることが必要である。地球的規模での環境汚染の拡大、エネルギー資源の枯渇化の懸念など人類社会に生起しつつある重要な問題は、いずれも「自分さえよければ……」という利己的な態度では、決して解決できないからである。

 環境問題を克服するためには、大気や水が世界の共有物であり、それを汚すことは人類の危機につながるという認識が必要である。また、急速に政治性を帯びてきた資源問題が平和への脅威となることを食い止めるためには、地球上の資源が全人額のためにあることを全世界が認識し、狭いナショナリズムにとらわれず、エゴイズムに走らず、資源の効率的活用と公平な分配を目指して協力し協調してゆかなければならない。もとより、全人類の連帯意識は、一朝一夕には生まれるものではないか、いま、大切なのはそのためのあらゆる努力である。

 幸いにも、第二次大戦後、四半世紀の歳月を経た現在、国際政治は、力による対立の時代を経て協調と交流の段階へと移行した。このなかにあって、大きな経済力をもつにいたったわが国は、平和の享受者たるにとどまることなく、新しい平和の創造と世界経済秩序の再建にすすんで参画し、その責務を果たすことを要請されている。最近の国際通貨、資源、南北問題にみられるように、国際経済秩序は、いま苦痛にみちた再編成の途上にある。日本は、アメリカ、ヨーロッパなどと協力して、平和と国際協調をつくりだす新秩序の形成のために積極的に行動しなければならない。

 日本と各国との間で、かりに部分的な利害の対立があるとしても、国際経済社会の発展と平和に寄与することを、互いに基本目的としている限り問題は話合いで必ず解決できる。大切なのは、そうした率直な話合いができるような全体的なふん囲気を各国との間につねに保ちつづけ、話し合いの結果を、臨機応変に実行に移せるような弾力的で奥行のある国内体制を確保することである。

 (二)

 地下資源に乏しく、狭い国土に一億を越す人口をかかえるわが国は、四方の海を越えて資源・エネルギーを輸入し、それに付加価値を加え、製品として海路をわたって輸出するという貿易形態をとっている。海洋国家日本は、世界の平和なくして生きていけないし、日本経済は、自由な国際経済環境のもとでのみ発展することが可能である。

 その意味で、私たちは、永続的な世界平和の創造と新しい世界経済秩序の再建のために、これまでに蓄積した経済力、技術力、情報力などを活用、投入して積極的な国際協力を推進しなければならない。

 新国際ラウンドといわれる世界貿易の拡大と一層の自由化をわが国が率先して提唱しているのも、これまでのように与件としての国際経済秩序をひたすら享受するという姿勢を捨てて、保護貿易の回避、開発途上国のテイク・オフの機会の確保など、新しいより高度の国際経済秩序の創造に積極的に参加しようとしているためである。このためには、過去の発展の過程で築き上げてきた産業の構造や体制に固執することなく、これを国際協調の見地から、惜しみなく改変して行くことも必要であろう。

 一方、私たちが、言語や慣習、民族性を異にする世界の人々と心からのつき合いをしてゆくためには、相互に相手の歴史や文化を正しく理解し合うことが大切だ。経済面での国際協調とならんで海外との学術や文化やスポーツなどの交流を活溌化し、それらをつうじて、世界の人々との間に、金では買うことのできない友好と信頼の太いきずなを作ってゆきたい。

 (三)

 とくに、これからの世界の平和にとって、南北問題の解決は、重要な課題である。一九六〇年代において、「南」の発展途上国は、平均五・五%の経済成長をとげ、先進諸国の四・八%をリードした。しかし、この間においても「南」の人口が爆発的に増加したため、一人当たり所得の南北格差はかえって拡大した。また、一部の発展途上国の工業開発によってとり残された国々との間に“南のなかの南北問題”が新たに生じている。さらに一九七三年には世界的な天候不順もあって一部の国では食糧問題が深刻な様相を呈している。

 わが国は「南」の発展途上国に対し、一九七二年において二十七億三千万ドル(対GNP比〇・九三%)の経済協力を行ない、うち政府開発援助は六億一千万ドル(対GNP比〇・二一%)であった。一九八〇年には、この経済協力を七十五億ドル以上に拡大しなくてはならない。援助すべき対象が日本と関係のあるアジア、アフリカ、ラテン・アメリカ全域にわたることはいうまでもない。

 また、石油資源を保有し経済的には富裕国である中近東などに対しては、資源の加工、砂漠の緑化、海水の淡水化など相手国の要請と実情に応じた知的援助方式も採り入れていくべきであろう。発展途上国への援助が、自らの利益追及に傾むきがちだった過去を反省し、多くの発展途上国が歩みつつある工業化と近代化の道が、明治以来百年間にわたってわが国が踏破してきたものであることに思いを寄せ、本当に役に立つ援助方式をきめこまかく誠実に実行することが必要である。

 少数の先進国だけで国際経済の問題を談合し、取り決める時代はすぎた。日本は、公正で合理的な国際分業の再編成を求める「南」の声に耳を傾け、多くの発展途上国と互恵平等、自他ともに繁栄できる道をさぐるため、国内の産業構造を高度化し、地域構造を改善して必要な国内改革をすすめ、「南」をはじめ広く世界に向かって開かれた経済社会を形成してゆかなければならない。

Re::れんだいこのカンテラ時評527 れんだいこ 2009/01/24 11:43
 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」3】

 第三章 新しい展望に立つ産業調整

 (一)

 いきいきとした福祉社会をつくるとともに、世界と繁栄をわかちあっていくためには、新しい努野と角度と立場から思い切った産業調整を行なう必要かある。

 高度成長時代をつうじて重化学工業は、経済全体を引張る中核産業として、歴史的な役割を果してきた。しかし、その半面で、資源の過大消費、汚染の深刻化、海外との貿易面での摩擦の増大などを招いたことも事実である。

 これからは、経済成長の視点だけではなく、公害や自然破壊がすくないかどうか(環境負荷基準)、国民が誇りと喜びをもってあたれる仕事かどうか(勤労環境基準)といった尺度にてらして、産業を選択し、長期的展望のもとにスクラップ・アンド・ビルドをすすめることが必要である。

 また、国際協調の面では、わが国が、あらゆる種類の産業を、国内で保有するのではなく、他国にゆずるべき産業はゆずり、先進国との間の水平分業、発展途上国の工業化への協力という方向で、産業調整を推進すべきである。自国の工業化を目指す発展途上国の条件と合致するならば原材料の一〜二次加工は、なるべく原産地ないし中間地で行ない、わが国が、それを輸入するというのも一つの方式であろう。

 このような視点に立つと、わが国の産業構造は、資源やエネルギーをたくさん使う重化学工業から、人間の知恵や知識をより多く使う産業=知識集約産業へと産業のウエートを移動させなくてはならない。知恵や知識をより多く使う産業は、その生み出す付価価値にくらべて、資源・エネルギーの消費量がすくなくてすむ。汚染物質の発生量も当然すくない。また、教育水準の高くなっている国民の知識欲求をみだす働きがいのある職場をふやすことにもなる。国際分業体制形成の方向にも合致する。いわば産業構造の知識集約化こそは、外にひらかれた経済体制のなかで、福祉と産業の共存を可能にし、豊かな人間性を回復させるカギをもつものである。

 産業構造の知識集約化は、具体的には、加工度の高い製品の開発、高級化、システム化、在来産業の工程の高度化などさまざまの形ですすむが、そうしたなかで、すでに、新時代の社会的ニーズにマッチする中核的産業群が、台頭しつつある。研究集約産業(電子計算機、航空機、電気自動車、産業ロボット、海洋開発など)、高度組立産業(通信機械、事務機械、公害防止機器、教育機器、工業生産住宅など)、ファッション産業(高級衣類、家具、調度品など)、知識や情報そのものを生産し提供する知識産業(情報処理サービス、ビデオ産業、システム・エンジニアリングなど)などがその例である。

 これらの知識集約産業は、スケール・メリットをひたすら追求する資源依存型の重化学工業と違って、知的活動のにない手である人の資質、能力が発展のカギを握っているだけに、中小企業にも多様なチャンスを提供する。新たに開花する産業群をつちかうものとしての素材産業やエネルギー産業の役割も、依然として重要であり、新しい観点からの国際分業の確立に配意しながら日本列島のなかに適切に配置してゆくことも忘れてはならない。

 (二)

 このように、工業部門の知識集約化を進めるのと歩調を合わせて、農業部門のありかたについても、長期的展望に立った進路を明らかにする必要がある。農林水産業およびそれらが営まれている農山漁村は福祉社会形成の基盤ともいうべき根本的な役割を担っている。第一に国民が生存するために欠かすことのできない食糧の安定供給の確保。第二に緑のある快適な生活空間の整備、提供。そして第三に国土における自然の保全と管理である。農林水産業は国民の生活環境そのものに根ざす産業であり、また、他産業や人間の社会活動から発生する廃棄物を自然の循環のなかにとり入れ、浄化する能力をもつ縁の産業である。

 一九七三年の世界的な食糧需給の逼迫は、食糧を海外に過度に依存する場合、安定した供給が、つねに保証されるとは限らないことをあらためて示した。この年の食糧需給の逼迫は、短期的にみればソ連、中国の大量の穀物輸入と世界的な不作が重なったために起きたものである。しかし、それだからといって単に偶発的な出来事とみるのは当たらない。なぜならば、長期的には欧米、日本さらにソ連・東欧圏をも含めて世界の蓄産物需要は増大の一途をたどっており、そのために必要な飼料穀物の供給が追いつかないのが実情だからである。したがって今後、年によってかなりの波動はあっても世界の食糧事情は基本的には“不足型”となる可能性がある。

 わが国の場合、主食のコメは幸いにも一〇〇パーセント自給を確保しているが、飼料穀物を含めた穀類総合自給率は四二パーセントにすぎず先進国のなかでも最低である。イギリスは第一次大戦前にも四〇パーセント台に落ち込んでいたが、その後、自給率引上げに力を注ぎ、現在では六二パーセントに達している。イタリアは七〇パーセント台、EC諸国のうちでも最も農業が弱体といわれた西ドイツですら八〇パーセント台、一四〇パーセント以上のフランスを含め、EC九カ国全体の穀物自給率は九〇パーセント台を保っている。これがアメリカの農産物自由化要求と衝突しながらもECが共通農業政策を守り抜こうとする姿勢の根源にある。

 このような内外の食糧需給の変化、蓄産物需要の増大に対処し、わが国としては今後ともコメの一〇〇パーセント自給を堅持するとともに麦、大豆、牧草の三作物については全力をあげて効率的な国内生産の推進に努めるべきである。その場合でも、当面、これら作物の一〇〇パーセント自給は不可能である。そのため需要に応じた輸入先の多元化および開発輸入を同時にすすめていかなければならない。

 一九七二年度の農業白書によると、製造業の一日あたりの賃金(常用労働者五人以上平均)にたいする農業所得の水準は、五四%であった。これでは、農民は兼業や出稼ぎに走らざるを得ない。一九七二年の農業就業人口は、六百八十二万人で、全就業人口の一三・三パーセントであった。第二次大戦前から戦後の一九五三年までわが国の農業就業人口は約一千五百万人たった。毎年、約四十万人の新卒者が農業の後継者として農村に残った。しかし二十年後の一九七二年には新卒者の農業への参入はわずか二万二千人と二十分の一に減少し、農業就業人口はついに七百万人を割って、半減したわけである。農業就業者の年齢構成は高齢者ほどふくらんだジョウゴ型になっている。農業における中核的働き手は農業就業人口の四、五パーセントにすぎないといわれる。しかも中核的働き手の多くは中小蓄産、果樹、施設園芸など土地節約型農業に専念している。

 こうした情勢に対応しながら、基幹食糧の安定した自給度を保つためには、地域の風土や農業基盤に適合した作柄を正しく選択した上で、農業の経営規模を拡大し、機械化、装置化、組織化をはかり高能率、高収益農業をつくりあげることが必要である。その場合、専業農家一単位の経営規模は、二十ヘクタール程度に拡大することがのぞまれる。しかし、現在の分散した零細な土地所有や根強い土地への愛着などから考えて、農家単独での経営規模の拡大は容易ではないので、協業、請負、賃耕などの形態をとらざるをえない。

 農業経営の規模の拡大を可能にするためには、全国的な土地利用計画を定め、そのなかで豊民自らが組織した農地利用組合を中心に永久農地を宣言させ、永久農地に対しては、財政援助によって集中的な土地基盤整備を行なう。同時に、自作農の既得権を尊重しながら、現行農地法を見直して、農地の流動性を回復するなど国土計画と関連させながら農地政策を確立することが必要である。

 一方、林業のもつ緑と水の保全、管理の役割の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。治山、治水が完全にできてこそ、産業の発展も可能であり、都市と農村を含めた地域社会の整備も安心してすすめることができる。森林は手入れをせずに放置すれば荒れ果ててしまう。下草を刈り、間伐を施し、人手の及ぶ限りの管理をして、樹木を育て、保水力を豊かにすることが必要である。わが国では原生林はすくない。現存する森林のほとんどは私たちの祖先か植え、育ててきたものである。私たちは祖先が築いた緑を守り、さらに私たちの時代にも子孫に残す緑を創造していかなければならない。そのために必要なら有効な方法で国家資金の投入も考えたい。

 また、私たち日本人の食卓に切っても切れない水産物を提供してきた漁業を水の汚染の被害から救出し、安心して働けるようにしなければならない。工場排水などによる海や川の汚れをこれ以上許さず厳重に取り締まることは当然だが、すでに公害が発生し、汚染した日本列島の各湾や沿岸の水質浄化もすすめていきたい。

 (三)

 工業の知識集約化と農業の高能率化を軸に、国内で産業活動の再編成を進めることは、別の面からみると、わが国をめぐる物と技術の流れが、国際的な広がりを大きくしていくことを意味している。

 資源の現地加工、労働集約型商品の買付け、農産物の開発輸入などが、ますます盛んになる。その場合、われわれが、厳に注意しなければならないのは、問題を日本の利益中心に考えず、繁栄をわかちあうという視野からとらえることである。パートナーとなる国の発展段階や経済的・社会的・文化的基盤に即応して、長きにわたって根を下ろし、枝を張り、果実をみのらすような技術を移植し、これを支える社会資本の整備を考えるべきである。「魚を与えれば一日の飢えをしのげるが、魚の釣りかたを教えれば一生の食を満たせる」という中国の古典の教えは、まことに示唆に富んだものというべきである。

 このような努力を積み重ねることによって、はじめてわが国の産業調整を、国際的協調のなかで、軌道にのせることができる。わが国の企業の海外立地が、公害輸出とうけとられたり、開発輸入が相手国の土地生産力の収奪を結果するようなことは、厳しくつつしまなければならない。これこそが、海洋国家日本の誇りと節度であろう。

 (四)

 国際的視野に立った産業構造の転換とあわせて、重要性を強調したいのは、国内における工業の再配置である。

 一九七〇年のわが国の国民総生産(GNP)七十三兆円をベースに、仮りにわが国の経済が、こんご年率一〇%の成長を続けるとすれば、一九八五年には、GNPは、三百四兆円(七〇年価格)に達する。成長率を年八・五%とみれば、二百四十八兆円、七・五%とみれば、二百十六兆円である。日本では、実質的な不況状態に陥るおそれのある年率五%まで成長率を減速するとしても、一九八五年のGNPは、百五十二兆円の規模になる。このように大型化する日本経済にとって、経済活動の地域的かたよりを是正することなしに、その発展をはかることは、困難だし、過密と過疎を解消せずに、国民の福祉を実現することは不可能である。

 したがって、すでに工業の集積度の高い太平洋ベルト地帯への工業立地の流れをくいとめ、さらに過密都市地域から地方に向けて工業を移転させる。この工業の地方分散を呼び水にして、各地域に、商業やサービスを誘導し、また農業など一次産業を高度化する。それをつうじて地域経済の振興を促し、日本列島全体の均衡のとれた発展をはかることが必要である。行政や政治のような管理機能の分散も忘れてはならないが、まず工業の再配置に積極的に取り組むこととしたい。

 工業再配置は、全国的視野に立つ工業生産機能の再配分である。それは、一九八五年までに、太平洋ベルト地帯の工業出荷額を、現在の七三%から五〇%に引下げること、また、東京、大阪、名古屋の三大都市とその周辺部を含む大都市地域の工業用地の面積を、半分に減らすことをメドとしている。既に、そのための法制上、財政上、税制上の措置かととのい、推進機関としての工業再配置・産炭地域振興公団(近く国土総合開発公団に改組の予定)も活動を開始している。

 工業の地方分散は二つの流れに大別することができる。

 主流となるのは、内陸型工業の地方都市や農村地域への展開である。内陸型工業の多くは、知識集約的であって、わが国の産業構造が高度化していくなかで高い成長を持続する可能性をもつ分野である。一九八五年には、工業出荷額に占める内陸型工業の比重は、七〇〜八〇%程度まで高まるものと推計される。しかも内陸型工業の多くは、資源消費量が対的にすくなく、汚染や自然破壊もすくない。このような内陸型工業をインダストリアル・パークに計画的に立地させて、地域社会との協調、融和に万全の注意を払いながら地方都市や農村地域に配置するのである。

 これに対して、臨海型の基幹資源工業は、これからは、前述のような方向にそって海外に立地してゆくものが増えてくるであろうが、国内に残るものについては、三大都市圏から思い切った遠隔地に大規模な無公害工業基地を造成して配置することがのぞましい。市街地と工場との間には十分な距離を保ち、工業基地の周辺や内部にも広大な緑地や公園や河川、遊水池なとをとり入れる。場合によっては、このような緩衝地や緑地に、牛が放牧され、自然と近代技術が共存するといったイメージで新しい工業基地を設計すべきである。

 (五)

 ところで、工業の地方分散に当たって、とくに強調しておきたいのは、日本列島の約半分を占める豪雪単作地帯でこそ工業化を推進すべきだということである。世界全体をみると、百四十カ国のうち先進工業国十一カ国は、日本より北にあり、北緯四十度から五十度が世界の工業地帯である。アメリカでは、重化学工業は、五大湖の周辺に集まっており、南部は伝統的に農業地域である。欧州大陸のザール・ルール地方は、北緯五十度、イギリスのマンチェスター、リバプールは、北緯五十二、三度に位置している。南部は、日照時間が長く、温暖、肥沃で、本来農業に適する。これに対し、北部は、日照時間が短かく、冬の間は、雪や氷が地表をおおうが、士地と水にゆとりがある。これに対して日本では、世界の先進工業国とは反対に、温暖な地域を工業に快い、寒冷地を農業に使ってきた。ここでも従来の発想の転換が必要である。

 工業の再配置と農業構造の改革とは、一体の関係にある。地方都市や農村に、工業が進出し、その地域の人々に新しい職場を提供する。それに刺激されて商業やサービス業も発達し、職場の数がふえ職種も多様化する。農業経営の高能率化と大規模化の過程で農業就業人口が減少することは避けられないが、農業から離れる人々は、大都市に出なくとも、自宅から新しい職場に通うことができる。出かせぎの悲劇も解消し、過疎化はとまる。農業の側では、少数精鋭の高生産性農業が実現し、農業所得は、二〜三次産業とならぶ水準まで高まる。それが、農工一体化である。農業に従事する人も、農業から離れる人も、ひとつの地域社会でともにゆたかな生活を楽しむことができるようになってこそ、はじめて新しい広い展望に立った産業調整が完結することとなる。

Re::れんだいこのカンテラ時評527 れんだいこ 2009/01/24 11:44
 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」4】

 第四章 魅力ある生活・余暇空間の創造

 (一)

 東京、大阪、名古屋など過密化した巨大都市の住民を、公害、交通戦争、水不足、地価の異常な高騰、住宅難などから解放することは、緊急の課題である。だが巨大都市だけを改造するという視野のせまい対症療法では、問題の根本的解決は不可能である。なぜならば改善された巨大都市をめざして地方からさらに人口が流入、巨大都市の過密化と地方の過疎化を一層激化するからである。

 東京をとりまく首都圏(一都七県)の人口は、一九七〇年時点で三千二十六万人である。一九六五年から五年間に三百二十九万人もふえた。従来の勢いのままでふえ続ければ一九八五年には四千万人を突破することは確実である。

 ところが、首都圏で、それに見合うだけの水と電力を確保することは困難である。なかでも過密の東京圏(一都三県)では、それだけの人口増を支える宅地、教育施設、交通施設、廃棄物処理施設などの確保がもはや物理的にも不可能である。毎日の食卓に欠かせない生鮮野菜の供給すら不安定になるという。巨大都市の膨張は、限界に達しているのである。巨大都市の膨張をくいとめるためには、工業の全国的な再配置に加えて、教育、文化、医療などの諸機能のほか行政をはじめとする中枢管理機能も積極的に地方に分散すべきである。これとあわせて、地方の生活基盤の強化に力をそそぎ社会資本ストックの先行的整備を行なう。そして地方の各地城の機能の自己完結性を強め、個性を十分に生かした新鮮な魅力をもつ地方都市を育てる。大都市と地方都市、地方都市と他の地方都市や農村との間では機能の連帯、有機的な分担をはかる。このようにしてバランスのとれた地域構造が実現するなかで、巨大都市の改造も真の効果をあげることができる。その意味で、都市改造と地方開発は、同義語である。

 (二)

 バランスのとれた国土の発展は、すぐれた交通や情報のネットワークに支えられてこそ可能である。日本列島の縦横を貫く基幹交通ネットワークとして一九八五年までに新幹線鉄道九千キロメートル、国土開発幹線自動車道路一万キロメートルなどを建設、それによって時間距離を短縮、全国を一日行動圏に再編成することが私の基本構想である。現在の時速二百キロメートルの新幹線鉄道のほか、時速五百キロメートルをめざすリニアモーター方式の新幹線鉄道も完成させたい。すでに手がけている本四連絡橋三橋、青函海底トンネルは、それそれ本州と四国、北海道の一体化を促すであろう。このような高速交通ネットワークは、遠隔地の農水産物を都市の多様でぼう大な需要と結びつけ、各地の農山漁村に新たな活気を与えよう。農業政策も、今や交通政策や都市政策と有機的連けいを保ってゆかねばならない。また人口、産業の分散により必要となる工業港湾、流通港湾、空港などの整備も全く新しい立場から再検討し、早急に総合交通体系を確立する必要があるし、パイプ・ライン網をととのえることも急務である。

 一方、コンピューターを中核とする情報化社会の開幕に対応し、日本列島を一つの情報列島に再編成していくことも重要である。現在の電話回線とは別に広帯域交換網によるデーター通信回線百万回線の実現が必要である。情報列島への再編成に当っては、これまで陽のあたらなかった僻地、離島こそ優先的に配慮されるべきである。さらにCATVとデーター通信を組合わせた教育、医療、流通情報、広域公害防止、交通制御などの新しい社会情報システムを中・長期計画で開発し、地域社会の情報化をすすめる。人、物、情報の大量移動が、早く、確実に、便利に、そして快適にできるようになってこそ、都市と地方の情報格差が解消し、人々は、国土のどこに住んでも都市と変わらない便益を享受できることになる。

 また、これから国民の価値観が多様化していくのにともなって人々は生活や教育や余暇の場をいろいろなところに求めるようになる。ライフ・サイクルに応じて学園都市から工業都市へ、あるいは農村へ住みかえるといった暮らし方もふえてこよう。住みいい地域社会をつくる一方で、また人々の自由な選択にもとづく移動を容易にするという要請にもこたえていくことが、新しい国づくりにとって必要である。

 (三)

 東京など巨大都市の魅力は、情報の集中、高度の自由選択性、便利性およびそれらが人間に与える刺激の大きさなどにある。その魅力がまた、半面では巨大都市の欠点を生み出す原因として作用している。

 巨大都市問題解決の基本的立場は、その魅力を失わせることなしにいかにしてマイナス面を取除いていくかにあるといえよう。工場、大学、研究機関などの地方分散が必要なのは巨大都市を解体するためではなく、再生するためである。なによりも、まず、これまでの急激な人口流入の過程で悪化した環境を人間生活にふさわしい水準まで回復することが第一である。そのための都市改造の基本戦略は、コンパクト化である。低層建物が薄く広く拡散している平面都市を再開発して高層化し立体都市に切りかえるのである。高層化は、零細な敷地のうえに、鉛筆のような細いビルを建て周囲の日照を侵害したり、環境を破壊するものであってはならない。高層化は、街区単位で考えるべきである。

 それによって限られた土地を活かして使い、道路の拡張、狭い住宅の建てかえなど都市環境の改善に必要なスペースを生み出す。公園、広場、運動場、サイクリング・ロードなど人間性回復のためのさまざまな空間を創造する。コミュニティ・スポーツなどを通じてコミュニティを復活し、緑の木蔭での語らいのなかから住民の連帯感を高めて、大都会の孤独を解消しなければならない。

 都市の立体化は、都市全域を高層化することを意味するものではない。高層地域と低層地域を適切に配置し、都市にアクセントをつけるほうが好ましい。都市再開発のなかでも緊急にやらなければならないのは地震や火災の発生に備えて住民の生命の安全を守るための防災対策である。個々の建物の不燃化、耐震化とともに共同建築による防災を推進することが必要である。その場合、再開発を円滑化するため、従来の権利者には地区内のビルへの入居を保障しながら収用するといった方式を創設すべきである。都市の高層化を促進するためには、民間のエネルギーを活用する。そのため、地域を指定して低層建築を制眼する。そして期間内に長期低利融資など孜府の助成のもとに権利者に高層化を行なわせる。その場合、住宅対策をも勘案して四階以上の住宅に提供する部分については固定資産税を長期にわたって減免する。立てかえのため一時たちのく人々には公共住宅を提供する。そして期限内に再開発ができないときは、公的機関が権利者に代わって再開発するといった方式の確立が必要である。

 また、巨大都市の再開発は、市街地だけではなく、その都市をとりまく五十キロメートル圏においても都市機能や人口の適正な再配置を計画的に実施すべきである。

 巨大都市で解決を求められている問題に都市交通がある。わが国の自動車保育台数は、一九七二年二月現在で、二千百十万台であり、このままに推移すれば、八五年には、四千万台の水準を突破するものと想定される。都市内の交通混雑や車公害は、一層激化する。したがって都市交通には、国鉄、私鉄、地下鉄など大量輸送の可能な公共的輸送機関を中心に据え、さらに新しいシステム技術、情報技術などを積極的に応用していくべきである。過密の市街地内の自動車交通については、規制措置を検討する。

 (四)

 豊かな自然と伝統文化に恵まれた地方都市は、若々しく、魅力的な生活、余暇空間を創造していくのにふさわしいところといえよう。

 地方都市の発展は、地方都市がすべて小型の東京をめざすといった画一的な方向であってはならない。情報都市、学園都市、工業都市、商業都市、観光都市など機能面でのそれぞれの都市の個性があり、あるいは森の郡、水の都といったように地形や自然環境に応じて特色ある都市づくりをすすめるべきである。

 地方都市の整備は大きく三つに分けて考えることができる。

 第一は、札幌、仙台、広島、福岡などの地方ブロック中枢都市および、これらに準ずるような県庁所在地の中枢管理機能の強化である。

 広域的な計画に基づく新市街地の形成と既存市街地の再開発と結びつけ総合病院、地方大学などをはじめ教育、医療、文化、娯楽の施設を整備していくのが共通の課題であろう。これらの都市にこんご導入する産業は、ファッション産業、研究集約産業、情報産業、サービス産業などを主体とすべきである。

 第二は、既に相当程度の都市機能をもち広域的な経済、社会・生活圏の中核としての役割を果たしている都市の整備である。

 その場合、教育、医療、文化、娯楽の施設を整備し、周辺地域へのサービス機能を増大させるほか、周辺部にインダストリアルパークの手法で新しい工業団地を造成し、知識集約産業を誘導する。または大学を誘致する。既存の市街地の単純な拡大は極力さけて、学園やインダストリアルパークをテコにして、既存の市街地とはやや離して新市街地を形成し、両方の市街地の機能を有機的に連系、補完させ、都市の面目を一新する。

 第三は、ほとんど既存の都市集積のない地域に五大都市から分散する工場や大学などを誘致し、それを核に新都市を形成するタイプである。

 このような方向にそって地方都市の整備をすすめるに当たっては、いずれも周辺の農村部などを含めた広域的な経済、社会、生活圏にその恩恵が及ぶようなゆきとどいた計画づくりが必要である。都市は、地域の上に咲く花であるとともに、広く周辺地区にその香りを及ぼすものだからだ。

 都市人口は急速に増大している。東京をはじめとする巨大都市の過密が、限界に達している以上、この圧力は、地方都市で受け止めなければならない。

 一九八五年までには、地方都市の人口は、およそ千五百万人程度ふえるものと予測されている。私は、その大半は、ニュータウンに収容したいと考えている。既存の市街地の周辺に計画的につくられる新市街地と既存の都市集積のほとんどない地域に新たに建設される都市が、ここでいうニュータウンである。ニュークウンなら公害のない職場、便利でゆったりした住居、緑と陽光にあふれる公共広場などが確保できるし、最新の技術を応用した都市施設も意欲的に導入できる。運動場、散歩道、サイクリングロード、集会場などを十分に配置し老若男女がそろって余暇を楽しみ、連帯感を高めることができる。まさしく魅力ある新しい勤労空間、生活空間、余暇空間が生まれるわけだ。

 地方都市の整備は、地方公共団体を中心にすすめるのが当然であるが、国としても積極的に力をかしていく必要がある。そのため工業再配置・産炭地域振興公団を国土総合開発公団に改組して、工業の再配置と地方都市の整備を相互に関連をもたせながら推進できる体制をととのえることにしている。

 ここで大学の地方分散は、大都市の過密を解消するとともに地方都市育成の有力な戦略手段であるということを強調しておきたい。

 現在、わが国には約九百五十の大学があり、百八十四万人の大学生が在学している。そのうち六一%の学生が東京都および政令指定都市に集中している。進学率の上昇が地方から激しい勢いで若者を大都市に吸い上げてきた。

 戦前はナンバースクールといわれる旧制高等学校が地方の中都市にあり、豊かな個性と伝統をもった学風をつくって地元の文化の向上に大きく貢献してきた。地方の高等教育機関の充実は日本列島改造の文化的な核ともいうべきものである。地方の環境のいい都市に大学を整備し、あるいは既存の都市にとらわれない新しい視野と角度から湖畔、山麓など山紫水明の地に広大な敷地を確保して、新学園を建設していきたい。その場合、一学園都市あたりの規模は千五百〜三千ヘクタール、うち大学のキャンバスは三百〜九百ヘクタール程度を考えたい。

 (五)

 農村が都市と結びつき両者が相互にメリットをわかちあうときに近代農村の繁栄の道がひらける。農村は、都市と対立するものではなく、また、都市に従属するものであってはならない。そのためには、農村の基礎集落と圏域内の中心都市、あるいは他の基礎集落を交通体系で結びつける。流域下水道などの広域的施設も、できるだけ農村と都市を一体としてとらえて整備することがのぞましい。そして、農民の生活様式、生活意識の都市化に対応し、住宅を改良し、病院、診療所、運動場、文化センター、農村公園なとを整備する。若い人々が、心のかよい合うコミュニティで新しい農村文化を創造していけるような環境をつくることが重要である。

 農村地域は、食糧生産の場、農民の生活の場としての役割のほかに国土の緑なる部分を維持し、国民全体のいこいの場を提供する役割が一層強く要請されるようになってきている。これに応えるためには広域公園、ハイキングコース、キャンプ場など、山や森、湖、海岸と農村を一体とする総合的な自然のレクリエーション体系を確立しなければならない。

 (六)

 国土空間の再編成にはすぐれた計画性と先行性か必要である。国土計画は各省の個別の施策や計画に対し上位に立ち、それらの積極的な詞整をはかりうるものでなければならない。そのため強力な企画、調整機能をもつ機関として国土総合開発庁を早急に新設する方針である。

 また、従来の新全国総合開発計画を総点検するとともに二〇〇〇年までを展望した長期にわたる国土改造のビジョンを樹立することにしており、それにそって一九七五年から十年間にわたる新計画をスタートさせる予定である。この新しい計画は、人口、資源、食糧などの長期展望のうえに美しい自然と人間性豊かな高度福祉社会の建設プログラムを明らかにするものである。

 しかし、最も大切なことは、国土開発は、その対象となる地域社会の発意のうえに立って推進するということである。各地城社会の意思と選択を無視して国の計画を押しつけるようなことがあってはならない。国の役割は、全国的視野に立った将来への展望を明らかにし、そのなかでの各地城の位置づけを提案することにある。各地城は、これを基にしながら、具体的な方針の選択と計画の決定を自主的に行なう。この過程で、中央政府と地方自治体との間で対話の積み重ねと率直な意見の交換が行なわれるべきである。自治体が、国土空間の再編成の方向にそって地域開発を推進するに当たっては、地域住民の希望と筋の通った意見をくみ上げ、その理解と協力を求めることが必要である。

 そのためには、地域開発のプランづくりの段階から住民の参加を求め、住民とともに開発の基本的問題からじっくり討議する態度がのぞまれる。そして「開発をやるべきである」という大筋の意見が固まったあとの具体的な開発計画については、可能な限りの代替案を作成、提示し、各案の利害得失を明らかにして地域住民の合意をとりつける。

 新幹線、高速道路、ダム、発電所など全国的ないし広域的観点から整備を必要とするプロジェクトではあるが、建設予定地域にとってメリットのすくないものについては、地域に与えるデメリットを極小にし、また地域に十分な補償を行なうことが必要である。金さえ払えばいいというような考え方を排除し、道路と市街地の間に運動場をつくるとか、発電所の温排水を利用してセントラル・ヒーティング、温水プール、養殖漁業に役立てるなど開発の内容を地域の福祉向上に結びつけ、地域住民に広くメリットを還元していく工夫ものそまれる。

Re::れんだいこのカンテラ時評527 れんだいこ 2009/01/24 11:45
 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」5】

 第五章 自然、風土、人工の調和

 (一)

 もともと、日本の国土は、山、川、海、緑などのいずれをみても、豊かな自然に恵まれている。日本民族にとって、自然は、親しみ深いものであり、苛酷なものではない。しかし、自然に甘えることは、許されない。

 自然が、微妙な循環と連鎖のなかでバランスを保っているものであることは、最近とみに注目されるようになった生態学(エコロジー)によって明らかにされつつある。産業と生活と余暇という人間活動の全局面にわたって国土利用の再編成を進めるに当たっては、自然の循環と連鎖のなかに組みこまれた人間活動が、これに回復不可能な痛手を与えないように配慮することが必要不可欠である。このような配慮を怠って、自然に甘えれば、自然は、必ず環境破壊あるいは公害という厳しい返礼をもたらすであろう。したがって、土地利用計画のなかには、森林地帯や自然公園や自然保存地域を不可欠の要素として組み込むこととしたい。

 次に、産業や生活空間の開発を考える場合には、自然界と人間活動を、総合的な循環系あるいは連鎖系としてとらえ、新しい生き生きとしたバランスが形成できるような自然の受容能力の範囲内に開発の規模や態様を抑えることを基本として、事前に十分な調査検討を行なうべきである。これは、自然の受容能力あるいは浄化能力の範囲内に汚染物質の排出量を抑えることにつながる。汚染物質を薄めさえすればいくら出してもいいという濃度規制では不十分である。汚染物質の発生の絶対量を抑える総排出量規制にまで持っていかなければ、問題は解決できない。

 こうなれば、公害防止技術の開発に対する各方面の力の入れ方も、様相を一変するであろう。さらに、有害物質を全く外部へ排出せず、生産工程のなかで回収、再生処理するクローズド・システムの開発も進むであろう。日本の技術開発のニュー・フロンティアが、ここに大きくひらけているというべきである。

 自然と人間の触れあいをめぐってとくに強調しておきたいのは、緑地の保全と再生である。緑地が、大気の循環系を維持するために果たしている役割は、子供でも知っているし、水辺に誕生した人類の心の安らぎのためには、緑地の存在が必須の条件である。工場の周辺にも、町にも、村にも、豊かな空間と色濃い緑地を設けたい。「鎮守の森」は、日本民族の魂の安息所であった。開発は、自然と人工の新しいバランスを生み出すものであり、「鎮守の森」を復活する機会であると考えるべきだ。

 (二)

 国土利用の再編成は、土地と切り離して考えることはできない。土地は、国民生活、国民経済の基本的条件であり、国家形成の土台であるが、再生産は、できないし、移動もできないという特殊な性格を有している。土地は、利用するために存在し、利用によってのみ価値を生む。地価は、所有者の努力によるよりは、土地の利用をめぐる環境の変化、経済社会の発展などにより変動する。このような土地という財の特異性を考えるとき、ともすれば絶対的権利が主張されがちであった士地の所有権を公共の福祉に適合させることは、全国民的要請である。そのために、土地の所有権に制限を加えることは、国民一般に素直に受け入れられるべきものである。土地をめぐる最近の状況をみると、人口、産業の大都市集中は、大都市地域における土地利用の混乱、地価の異常な高騰等を招き、このため大都市地域での宅地難は、庶民のマイ・ホームの夢を遠いものにしている。加うるに、不幸なことに、一昨年来のいわゆる過剰流動性の発生と各種の思惑を背景として、大都市周辺のみならず全国にわたって土地投機の動きもみられた。

 長い目でみれば、日本列島改造というプロジェクトの推進は、かたよった土地需要の平準化を通じて土地問題の解決に寄与するに違いないが、最近の状況を克服するとともに、日本列島改造の条件を整えるためには、憲法が認める範囲内で最大限に公共の福祉を優先した土地対策を展開する必要がある。このために、新しい国土総合開発法の制定を発議したのである。

 土地対策の基本は、全国土にまたがる総合的な土地利用計画をたてることである。この土地利用計画は、都市は、都市計画、農村は、農村振興地域整備計画というような枠をのりこえて、国土の保全と利用の総合的バランス、広域的な経済社会生活圏の整備、全国的にみた各地域の機能分担等の視点に基づいて、地域住民の意思を的確に反映してつくられる。この計画は、たんなる色分けであってはならず、法的な拘束力をもつものでなければならない。また、土地の取引き、持主の都合や思惑に委ねないようにするために、土地をめぐる権利の移転について、公的なチェック(届出、勧告制、場合によっては許可制など)を加えることも必要である。このためには、国の地価公示制度の適用範囲をひろげ、士地評価の目安を明らかにするとともに、国、地方自治体、各種公団なとが、取引対象の土地を優先的に取得できる仕組みを整えなければならない。

 土地取引や土地投機による莫大な利益の発生を防ぐために、税制を活用することも必要である。土地譲渡益に対する特別課税や、土地の思惑的な取得、保有に対する新税の賦課などが既に実施に移されている。

 しかしながら、規制だけでは問題は解決できない。宅地の大量供給の体制をととのえなければならない。このため、地方中核都市の整備などをすすめるとともに、公的機関による大規模な宅地開発事業を大都市地域において緊急に推進することとしたい。

 (三)

 水は、土地とならぶ国土資源である。人間は、水と離れて生きることはできない。これまで、わが国は、雨がよく降り、水資源には恵まれた国であるといわれてきた。しかし、人口一人当たりの年間降雨量でみると、わが国は、アメリカやソ連の五分の一にすぎない。しかも、わが国の河川には急流が多く、降雨も梅雨期、台風期に集中しているという風土面での不利な条件をかかえている。

 日本とイスラエルを比較して広い話題をまいた書物のなかでは「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」という一句に羨望と警告の念を含めて日本人の現状意識が紹介されている。浪費を「金を湯水のごとく使う」と表現するのは、いまでも通例である。このような通念は、いまや訂正を余儀なくされつつある。供給サイドにおける前述のような制約に加えて、急速な経済成長、生活様式の高度化などによる水の需要の増大によって、水の需給は、重大な危機にさしかかっている。既に、東京および大阪の大都市圏においては、夏季の給水制限が常態化している。国土利用の再編成は、この面からも、焦眉の急を要するわけである。

 最近、建設省が発表した広域利水調査第二次報告書によると、昭和六十年における人口は、一億二千百万人、工業出荷額は二百四十一兆円(昭和四十五年価格)と想定し、人口の各地城への配分割合は人口の集中抑制と地方分散によって現状を維持し、工業は、広域的に再配置したとしても、いわき郡山地域、南関東地域、京阪神地域、備後地域、高松地域、東予地域、松山地域、北部九州地域の八地域では河川水必要量の需給がひっぱくすること(年間不足量合計約四十億トン)が予測されている。とくに、南関東地域では、年間約二十億トン、京阪神地域では、年間約十二億トンが不足するとみられている。全国的にみると、新規河川水必要量約四百億トンに対して、約五百八十ヵ所のダムを建設することによって約四百六十億トンが供給可能とされているわけであるから、八地域以外では、約百億トンの余裕があることになる。

 したがって、今後、ダムの建設をはじめ水資源の開発を強力に推進することは、もちろん、人口、産業の大都市への集中抑制と地方への分散を従来考えられていたよりも、はるかに大規模に展開する必要がある。北海道、東北、南九州などがますます大きくクローズ・アップされることになろう。

 しかし、需要の分散だけでは、危機をのりきることは難しい。工業用水については、工場内での回収利用を徹底的に推進しなければならない。使用合理化のための指導、助成などについて立法措置も考えるべきであろう。新しい人工的な水源をエ夫していく必要もある。通産省では下水、産業廃水を高度処理して再生利用するための研究開発を推進しているが、このような工夫は、家庭用雑用水、ビル用水などにも及ぼしたい。こうした技術は、いわば水使用のクローズド・システム化であり、自然環境の保全にも大きく寄与するであろう。

 海水の淡水化にも力を注ぐ必要がある。河川やダムからの取水だけでなく、新しい技術を応用する努力もしなければならない。

 (四)

 ローマ・クラブのレポート、さらにはニクソン大統領のエネルギー教書は、資源やエネルギーの有限性に対する認識を急速に深めつつある。また、石油産出国の新しい動向は、エネルギー調達に対する安易な考え方に強い警鐘を鳴らしている。

 もともと日本の国土は、資源に乏しい。しかし、第二次大戦後においては、このことがかえって成長、発展に寄与したといっても過言ではない。大局的にみれば、世界の資源需給にはゆとりがあり、日本は、恵まれた海岸線を利用して工業港湾、流通港湾を整備して、国内資源にこだわることなく、好むところから資源を輸入することができた。タンカー、鉱石船などの大型化、高速化もこれに輪をかけた。海洋国家日本は、海を利用して豊富低廉な資源を確保して、めざましく飛躍した。

 いま、この状況が急速に変わっている。しかも、豊富低廉な資源の消費が自然環境に対して過大の負荷をかけて、公害問題を激化させていることも広く指摘されるようになっている。日本は、「平和」と「福祉」の基本ラインにそって、この恐るべき「おとし穴」から早急に脱出しなければならない。

 あくまでも国際協調の精神を尊重しながら多角的な資源開発、資源調達を推進することが、対策の基軸に据えられるべきであるが、国土利用の側面からみると、省資源、省エネルギー化にも格別の力を注ぐことも急務である。前述したような産業構造の知識集約化は、このための妙手であるが、このほかにも資源・エネルギーの節約、再生利用に関する諸方策を全面的に展開すべきである。とくに再生利用については、廃プラスチック、家電製品、廃車(自動車)、非鉄金属くず、古紙など多くの分野があり、システム的に技術開発を促進して、全経済社会にわたるクローズドリサイクル・システムの形成を考えたい。

 新しいクリーン・エネルギーの開発も今後の課題である。既に開発体制の整っている原子力のほかに、太陽エネルギーの利用、潮汐発電、地熱発電、石炭ガス化、水素エネルギーなどについて西暦二〇〇〇年の展望をふまえた革新的な技術開発に取り組むことにしたい。日本の国土に、輝く太陽と青ぃ空をとりもどすためのフロンティアがここにも存するのである。

Re::れんだいこのカンテラ時評527 れんだいこ 2009/01/24 11:47
 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」6】

 第六章 経済社会運営の発想の転換

 (一)

 これまでの日本は、先進諸国にキャッチ・アップすることを目標に、民間設備投資を軸にして、「成長が成長を呼ぶ」という成長追求型の経済運営を行なってきた。政府の政策も、重化学工業化を中心に経済成長の維持と拡大に重点をおき、企業も経営の規模拡大をおもな目標としてきた。この結果、日本経済は、世界有数の実力を持つにいたり、企業は、経営基盤を拡大し強化することに成功し、国民の所得もふえ生活水準も向上した。これまでのわが国経済の歩みは、疑いもなく成功の歴史であった。

 しかし、経済社会をとりまく諸条件は、大きく変化した。こんごは、成長を追求するだけでなく、成長によって拡大した経済力と成長の果実を、国民福祉の充実と国際協調の推進などに積極的に活用してゆくことが強く要請されている。すなわち、公害の防除、土地、水、資源の有限性に対する配慮、労働時間の短縮、定年延長、社会保障費用等福祉コストの負担、省資源・省エネルギー化の促進、消費者主権の尊重、経済協力の推進など国民の量質ともに高度化した社会的ニーズにこたえて各般の施策を展開してゆかねばならない。私たちは、これまでの成長追求型の路線追求をやめて、「日本列島の改造」という大プロジェクトを軸として経済社会の運営を成長活用型に切りかえるべきときを迎えている。

 (二)

 このためには、まず財政の役割に期待されるところが極めて大きい。いわゆる財政主導型の経済運営に移行することが基本的に重要である。その際、こんごの財政運営にあたっては、単年度均衡の考え方から脱して、長期的な観点に立った財政の均衡を重視していくべきである。すなわち、現在の世代の負担だけではなく、未来の世代の負担をも考慮した積極的な財政政策を展開することが必要である。子孫に借金を残したくないという考え方は、一見、親切そうにみえるが結果はそうではない。生活空間や余暇空間や生活関連の社会資本が十分に整備されないまま、次の世代に引きつがれるならば、その時代の国民生活に大きな障害がでてくるのは目にみえており、これを回避するためにも、世代間の公平な負担こそが重要である。

 また、経済成長の成果を国民福祉の向上に役立たせていくためには、インフレーションの回避に十分配慮しつつ、公的分野に対する資源配分をより一層拡充しなければならない。公共投資の重点は、限られた資源で最大限の効果を発揮するためにも、国民生活の充実に直接つながる生活空間、余暇空間、生活関連施設の整備および幹線交通通信ネットワークの形成等国土の有効利用のための関連事業に指向さるべきであろう。その際、財政資金の先行的、重点的な投入がのぞましく、実績主義による後追い投資は、財政に対する負担をかえって大きくするだけであることを銘記すべきである。

 さらに、社会保障の充実も、重要な政策課題である。早急に社会保障に関する諸施策の長期計画を策定して資源配分の増大と制度の充実整備を具体化し、経済成長の成果を社会のすべての階層に対していきわたらせ、ゆとりのある生活の基盤を確保してゆかねばならない。社会保障の将来における望ましい姿として、わたしは、(1)すべての老人が、親族による扶養、貯蓄等国民生活の実態からみて生活設計の基礎となりうる水準の年金を受けうること、(2)国民の多様化し、高度化する医療サービス需要が、予防、治療、リハビリテーションのそれぞれの局面において高い水準でみたされうること、(3)広く国民一般の社会福祉分野における施設やサービスに対する需要が適切にみたされうること、を頭に描いている。

 また、変動する経済社会のなかで、個々人が、自らの道を適切に選択し、天分とその可能性を生かしてゆくためには、人間資質の向上が必要である。とくに国際人として誰からも尊敬され信頼される新しい日本人を育てることは急務である。そのため、理想的な教育の条件と環境の確立に全精力を傾けなければならない。

 次に、これまで経済社会の発展の原動力として営々と努力してきた勤労者の財産づくりのために、積極的な政策をうちだして、これに報いなければならない。国民の大多数を占める勤労者は、賃金水準の向上により所得面では一応の充実をみているものの、資産性の貯蓄や持家などの資産保有面では著しく立ち遅れている。さらに、すでに資産をもっている者とこれから資産を持とうとする者との間の格差は拡大する傾向にあり、これが勤労者の社会的疎外感と不公正感を助長し、一般的には豊かな社会といえるこの世の中で生活への不満を深める大きな要因の一つとなっている。このため、わたしは、日本列島改造政策の一環として、全国各地に五百万戸分の宅地を整備するとともに、大都市近郊には五百万戸の高層住宅を昭和六十年までに提供して、勤労者の財産づくりにも役立たせたいと考えている。

 しかし、その一方で現在、わが国は激しい物価騰貴に見舞われている。これは、主として世界的インフレによる国際商品の値上がりと国内の旺盛な需要拡大に起因している。潮のみちるようにやってくる世界的インフレに対しては、これを阻止するための国際協力への努力を強めるとともに、国内においては、物価抑制策を手をゆるめることなく継続、強化することが必要である。同時に、企業や国民に対して、消費の自粛や資源・エネルギーの節約を強く求め協力をえながら、他面、いわゆる「インフレ心理」の伝ぱんは、絶対に阻止しなければならない。日本列島の改造など福祉社会の実現は、急ぐべきではあるが、インフレをひきおこしたのでは、その目的は、達せられない。こういう大事業は、国家百年の大計という長期的観点に立って、総需要の動向などを勘案しながら、適度なテンポで着々と実現してゆくことが肝要である。未来を望んだ強固な意思の貫徹と、現実の事象に対処する機動的、弾力的な決断の使い分けこそが、政治にたずさわる者の責務である。

 (三)

 長期的な見地にたった弾力的な財政運営にあわせて、新しい政策手法を積極的に導入することも必要である。

 まず、税制の政策的な調整機能の発揮、つまり禁止税制と誘導税制を積極的に活用することが必要である。西ドイツが、総合交通体系を確立するために、税制を調整手段として活用していることは広く知られている。超重量貨物を積んだ大型車が、道路の補装強度を無視して走れば、道路は破損する。そこで道路を破損するような重量物は、鉄道に移し、それでもカバーできないものは、船舶を使うように調整しなければならない。ちなみに六トン車に対し、西ドイツでは、百六十万円以上の税制が課せられている。これは、明らかに禁止税制である。同時に、「重量物は、オート・バーンを使うより鉄道や船舶を使ってくれ」という誘導税制でもある。このような発想は、都市の立体化、工業や中枢管理機能の地方分散等日本列島改造の大事業をすすめるために、十分活用してゆくべきである。

 また、各種の事業を進めるに当たっては、政府だけが主体となるのではなく、これまでの成長、発展の過程で蓄積され、醸成されてきた民間の資金、技術、バイタリティーを税制や利子補給などによって、上手に制御しながら活用する方策を工夫する必要がある。

 そのためには、まず、政府が、自らの責任でなすべきことを明確にし、やるべきことはやらなければならない。その他の領域では、公共性と収益性の兼合いに応じて、民間に委ねて適切な制御と助成を行なったり、公的主体と民間との協力形態を考えてゆく。事業の公共性を確保する必要があるとき、あるいは、多大の初期投資を要し投資の懐妊期間が長い事業について民間企業に投資決意を行なわせる必要があるときなどは、第三セクターを活用したり、国土総合開発公団などの公約機関が基盤づくりをした上で一定のルールに従って民間企業に施設整備なとを担当させる等、新しい方式を注意深く育てていきたい。

 民間の活力を利用しながら適切な制御と助成を行なっている例として、ニューヨークの不良街区の改良と、イタリアの労働者住宅の建設方式がある。前者では、公社が不良街区を全面買収し、住民には一時立ちのき先の住宅を提供する。買収した不良街区は、とりこわして整備し、民間デベロッパーに払い下げる。民間業者は、そこに新しい高層賃貸住宅を建てるがその家賃は安い。公社が、あらかじめ家賃から逆算して民間業者が採算のとれる安い価格で士地を払い下げるからである。他方、公社の赤字は、連邦政府および市の補助金で埋められる。後者では、生命保険と損害保険の剰余金は、労働者住宅の建設以外には使うことができない。しかし半面、固定資産税の二十五年間免税、国有地の無償払下げなどの恩典が用意されている。これらの事例を、他山の石として、わが国でも、民間の創意と活力を日本列島改造の大事業に自発的に参加させるために、資金、税制面で助成措置をとるとともに、これを適切に制御し誘導する方策を具体化してゆくべきであろう。

 (四)

 自由主義経済体制の下において、民間企業は、自発的な創造力と積極的な企業家精神を発揮することが基本であり、これが海洋国家日本、福祉国家日本を支える経済的な基盤である。しかしながら、経済社会運営の基本が転換されてゆく過程では、国際的信頼の確保、自然や資源に対する節度、地域社会との融和、消費者主権の尊重など民間企業に求められる社会的ルールの幅と深さは、増大しつつある。このような国際的、国民的、社会的要請に応えて、企業がその負うべき責任を十分に果たしてゆくため、企業は、自らの責任体制を自主的に強化してゆくべきであろう。新しいルールの確立とその順守は、政府の個別的介入にまつような領域ではない。内外の経済社会の各層のコンセンサスに支えられた共通基準が明らかにされ、これに即してそれぞれの企業が、自主的に行動規範を定め、これをひろく経済社会に宜明して自からを厳しく律してゆくことが望まれる。既に、対外投資とか商社活動の分野では、こうした努力が進みつつある。自由と規律の正しいバランスこそ、新しい経済社会を支えるルールの基本であるというべきであろう。

 結び

 第二次大戦後、四分の一世紀の間にアジアでは最初の高度工業国を築きあげた私たちは、いま、それを足場に平和と福祉のための新しい日本の創造に取り組もうとしている。私たちは、私たちの住むこの日本を、もっと美しく、もっと住みよく、もっと心豊かなものにしていきたい。また、世界の人々と、人種やイデオロギーの違いを乗り越えて、相互に深い理解と信頼の上に立つ友情を築いていきたい。

 私が二十六年間の政治生活をつうじて一貫して追及してきたテーマも畢竟、そのことに集約される。私は一九四七年、新憲法のもとで行われた第一回総選挙で衆議院に議席を得た。そして一九五〇年、国土総合開発法をつくったのを手はじめに道路法改正、有料道路制の創設、ガソリン税の新設、河川法改正、水資源開発促進法の制定などを手がけ、一九六八年に都市政策大綱をまとめ、一九七二年に日本列島改造論を公表し世に問うた。この間の本州四国連絡橋公団の新設、全国新幹線鉄道整備法の成立、自動車重量税法の実施および工業再配置促進法の制定など日本列島改造の骨組みをなす一連の重要な施策はいずれもそこに盛られた思想をひとつひとつ具体化したものである。

 日本列島改造を含む新しい日本への道はけわしく困難である。しかし、私たちが、いまやらなければ日本はやがて行きづまってしまうことは目に見えている。新しい時代を切りひらく牽引力となりうるのは常に青年の特権である。明日の日本を担う青年たちが理想への挑戦、人類への献身、歴史への参加のなかに自らの生きがいを見出すことを期待したい。

Re::れんだいこのカンテラ時評528 れんだいこ 2009/01/24 22:08
 【田中角栄首相論文、1973.9月「新しい日本への道」考】

 締めとして、「田中角栄首相論文、1973.9月 新しい日本への道」の感想を記しておく。それにしても現代にも瑞々しい観点から、1973年時点で日本の進路を指針せしめている角栄の能力に恐れ入るばかりではなかろうか。

 この角栄を諸悪の元凶呼ばわりして葬った国際金融資本のエピゴーネンたちよ、その罪は重い。今からでも遅くない、20世紀の大国主の命であった角栄を祀れ。そして禊せよ。狂わされた政治軸を戻せ。その気になれば容易である。なぜなら、明治維新以来のたかだか150年のネオシオニズム洗脳は数千年にわたって陶冶された我が民族の智恵の重みに及ばない。

 問題は、中曽根−小泉的狂人政治に引き続き群れようとする根性にある。それさえ直せば日本は再生する。オバマのチェンジは容易には進まない。なぜなら軸がぶれているから。結局、救世主になり損ねる公算が高い。それに比べて、我が日本には、「田中角栄首相論文、1973.9月 新しい日本への道」と云う素晴らしい教本がある。我が民族には上が下を思い下が上を思いやる一億一心力がある。上が悪けりゃ覆す一揆力がある。故に毎日これを誦読せよ。

 たすけあい党員は今後、ボケ対策を兼ねて暗誦に向かえ。いずれCDにせにゃいかんと思う。般若心経より値打ちがあると思うから。坊主も神主も今から読経のりとせよ。中谷巌・一橋大名誉教授には写経を命ずる。悔い改めぬ竹中平蔵・慶大教授には地元に帰ったブッシュの下足番を命ずるふふふ。

 2009.1.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評529 れんだいこ 2009/01/26 18:21
 【続続「警告 危険なWebブサイト」考】

 れんだいこの「左往来人生学院掲示板」に対する「警告 危険なWebブサイト表示」以来、れんだいこのセンサーが働き始め、現代日本が如何に精神的思想的規制下に置かれているかと云うことに気づき始めた。れんだいこは、日本語の秀逸さに気づき始めており、ネット検索で情報を採ろうとしたところ「警告 危険なWebブサイト表示」に出くわした。こんなところにまでと驚かされている。こうなると、最近の幼児の頃からの英語教育論の称揚も胡散臭い面があることになる。

 こうした精神的思想的規制が日本人の民族的意識溶解という観点からああちこちさこらじゅうに総合的に張り廻られており、政治的規制はその一種に過ぎない、仕掛けはもっと大きい、そう気づき始めた。由々しき事態であるが、これが見えて来た真相である。

 ならば、誰が何の為にが問われねばならないだろう。これに答え得る者が何人居るであろうか。最も縁遠い衆生は、陰謀論否定論者であろう。彼らは、何を根拠にしてか分からないが、現代世界のみならず太古の昔より陰謀集団が存在し悪事を働いて居るという歴史の実証主義的研究に基く指摘に対し、陰謀史観であるとして一蹴する。れんだいこには、陰謀史観が存在すると云う指摘に対し陰謀史観であるとして一蹴できる神経が分からないが、彼らにはこれで事足りるらしい。

 本来は、歴史の実証主義的研究に基く陰謀史観の指摘に対し、これを実証主義的に批判すれば良かろうものを、「それは陰謀史観である」という一言で一蹴する。あるいは叉一笑に附す。仲間内ではこれで通用するらしい。とかく議論が噛み合わない連中ではある。俗流マルクス主義者もこの巣窟のムジナ住人である。恐らく、マルクス主義的歴史観と齟齬するという理由で却下しているものと思われる。しかし、連中のマルクス主義的歴史観たるや、その理解の底は浅く単に字面の経文読みに過ぎない。分かったような顔をしているだけで実は少しも分かっていない。れんだいこは、左翼と冠するのが勿体無いのでサヨと命名している。

 サヨが特にサヨらしさで立ち現われるのは著作権を廻ってである。著作物を人民大衆の利益の側に立って極力利用の自由を主張するのかと思いきや、著作者の利益を擁護すると云う美名の下で小難しい実は中身が空疎な著作権全域全野的適用とそれに伴う利用課金制をプロパガンダする。その癖、その種の著作権論が情報統制に資していることについては見て見ぬ振りをする。これを強権著作権論と云う。これを正義の美名で振り翳すものだから始末が悪い。

 もとへ。新手の情報規制として「警告 危険なWebブサイト表示」が猛威を振るいそうな勢いである。こうなると、この表示が立ち現われる箇所に留意せねばなるまい。そのメルクマールは、「日本の民族的文化的陶冶伝統の溶解」である。この分野に於ける点灯はむしろ、我々が学び生育せねばならないものと逆に心得るのが良かろう。

 これを分別と云う。昔の人には分別があった。最近のインテリは滅法これが弱い。こういう連中が社会の支配的勢力となり、元々弱い貧脳でかきまぜるから事態が余計に悪くなる。これを改良主義で解決するのは不可能ではなかろうか。時は今、回天を促しているのではなかろうか。我が社会に染み付いたネオシオニズム勢力シオニストを弾劾し、日本式縄文ルネサンスを再生させよ。これが導かれるテーゼとなろう。

 2009.1.26日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評530 れんだいこ 2009/01/27 12:48
 【2008.4.18猟奇殺人事件考】

出勤前の午前のニュースで、裁判員制度の先取り事例として「2008.4.18猟奇殺人事件公判」の模様を採り上げていた。れんだいこには腑に落ちない点が払拭できないので発信しておく。

 事件は、2008.4.18日、33歳派遣社員・星島が、2部屋隣に住む23歳女性会社員・東城さんの帰宅直後を狙い、自室に連れ込んで殺害。遺体を細かく切断し、トイレなどに捨てた。5.25日、住居侵入容疑で逮捕され、犯行を認めた事件である。2009.1.13日に初公判が開かれ、星島被告は「その通りです。違っていることはありません」と起訴事実を認めた。審理は集中開廷し、1.26日の第6回公判で検察側の論告求刑、弁護側の最終弁論を経て結審。2.10日に判決が言い渡される予定のところ18日に変更された。

 この事件に関して、れんだいこが合点できないのは次の諸点である。星島被告は、事件当初よりマークされており、マスコミ、警察によりいわば監視されていた。その環境下で猟奇殺人と死体遺棄が粛然と進行したことになる。警察が数度立ち入り調査しているが異変を把握ミスしている。

 それはともかく、東条さんの遺体処理につき、星島被告の云うが如くな方法で遂行できたのだろうか。肉片をすり潰しトイレ、風呂の排水溝に流したというが、詰まらなかったのはなぜか。当該マンションの配管口径が気になる。そもそも遺体処理を何時間で為し得たのか。どうやって階下の住人に物音も聞かさず為し得たのか。近隣に汚臭が漂わなかったのか。

 もし、これらの苦情から警察が立ち入り調査したのなら、その時点で肉片が詰められていたダンボール箱を開閉しなかったのはオカシイ。テレビニュースでは、捜査員が、星島被告の巧みな演技により、三つあるダンボールのうちの最初を確認しただけで後は確認しなかったという。れんだいこは、そういうことは断じてありえないと思う。そもそも臭いもしていただろうに。オカシナことばかりである。

 次に骨が問題になる。どういう風に砕いたのか。頭蓋骨もあれば背骨、腰骨、手足の骨もある。かなりの衝撃を加えなければ砕くことはできまい。骨片皮にするとなると大変な作業ではなかろうか。やさ男の被告人が短時間で為し得るとは思えない。遺体の一部を別のマンションのごみ置き場に捨てたとも云う。

 話を戻すが、これが衆人環視下の作業である。怪しまれずに為し得ることが信じられない。本人も認めていることであるからして信じるより他ないが、一体警察は何度失態を演じていることになるだろうか。死体を流したとされるトイレ、風呂場の血液反応を探らなかったのか。これについての報道がない。相当硬い頭蓋骨の処理をどうしたのか。凶器となった出刃包丁、ノコギリの刃こぼれも知りたいが、絶対的証拠物である現物の報道がなされていない。

 「検察官は、昨年5月28〜6月6日の間に発見された骨49片、肉片172個を次々とテレビに映し出した」とあるので、これを信じざるを得ないが、それにしても音も臭いもさせず、警察の立ち入りも目くらましさせて完全神隠したという本事件の疑問はつきない。こういうことって有り得るのだろうか。疑問を呈しておく。

 2009.1.27日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評530 れんだいこ 2009/01/27 23:53
 【2008.4.18猟奇殺人事件考続】

 飲んだ勢いで書いておくが、飲みながら考えたことだが、この事件はマンションの密室内では絶対にできない。臭いと音と数次の警察の立会いをクリヤーすることは不可能である。他所で殺害され、肉片骨片が排水溝から収拾されたようにして、本人が演技して辻褄合わせることによってのみ可能な事件である。この裏に何があるのかは分からない。マンション内での完全抹殺処理、神隠しは到底不可能である。これが云いたかったので書き添えておく。こう思わず報道誘導を鵜呑みにするしか能のない人は不明を恥じるべきだ。疑問と思うなら、一斉に各所の警察の刑事課か鑑識に問うてみれば良い。オカシクナイデスカと。誰か、その反応を教えて欲しい。この事件の猟奇性はむしろ、有り得ない辻褄合わせのオカシサの方にこそあると云うべきだろう。

 2009.1.27日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評531 れんだいこ 2009/01/28 20:56
 【知財高裁の画期的な新判決考】

 2009.1.27日、「テレビ番組の録画転送機器レンタルを廻る著作権訴訟」で、知財高裁が画期的な新判決を打ち出した。これを確認しておくことにする。

 当該訴訟は、テレビ番組を日本の親機で録画し、海外の子機にネット経由で接続すれば視聴できる「インターネット親子ビデオ機器HDDレコーダー『ロクラク』」のレンタルサービスを提供していた日本デジタル家電(浜松市)に対し、NHKと民放テレビ局9社が著作権法違反であり、番組複製権の侵害にあたるとして総額約1億3800万円の損害賠償などを求めて提訴したことにより勃発した。

 2008.5月、一審の東京地裁は、「著作権侵害にあたる」として日本デジタル家電に対し計733万円の損害賠償金の支払いと録画機器の廃棄などを命ずる判決を下した。「日本デジタル家電が、サービスを利用するための環境の提供も含め、親機を実質的に管理し、テレビ番組を複製する行為も管理支配して利益を得ている」との法理であった。日本デジタル家電はこれを不服として知財高裁に控訴していた。

 この日、知財高裁(田中信義裁判長)は、「著作権侵害にはあたらない」として、差し止めと賠償を命じた一審判決を取り消し、テレビ局側の請求を棄却した。「番組を録画、転送しているのは利用者自身で、著作権法で認めた私的使用のための複製に当たる」、「日本デジタル家電は利用者の意思に基づく適法な行為をサポートしているにすぎない」との法理を示している。これにより、テレビ局側の請求を棄却し、1審・東京地裁判決を取り消し、テレビ局側敗訴の逆転判決を言い渡した。

 日本デジタル家電の代理人は、「著作権法の趣旨に合致する全く正当な判決だ」とのコメントを声明した。これに対し、テレビ各局は、「判決内容を精査して対応を検討する」とのコメントを出し困惑振りを見せている。

 れんだいこが評するにこういうことになる。こたびの知財高裁判決は、ここ30年来の強権営利主義式著作権行政の流れを変える初見的意義を持っており、アリの穴より堤が崩れる頂門の一針になる可能性がある。司法判決が、強権的な著作権行政の根本的見直しにようやく辿り着いた感がある。

 判決全文が分からないので詳しい法理論の精査まではできないが、次のように理解すべきであろう。当局は1970年代より次第に、ユダヤ商法と云うべき徒な権利偏重営利主義に基く判例の積み重ねにより「そこのけそこのけ著作権が通る」とばかりな強権著作権行政を強いてきたが、こたびの知財高裁判決は、あくまで依拠すべきは著作権法であるとして著作権法の規制趣旨レベルに立ち戻り、本邦初の是非判断に及んだ。これを打ち出したのが知財高裁というところに値打ちがある。

 現代の文明的な問題として、著作権規制の乱舞により却って科学技術の成果が引き出せず、あちこちで宝の持ち腐れが起き技術の成果が不当に押さえ込まれているという現象が頻発している。加えてジャスラック式課金制の満展開により、結果的に文化団体各界の事業の進展を損ね当該文化の健全な発展を齟齬させているという逆事象が際立ちつつある。これにどう対処すべきなのか。ここが問われている。

 滑稽なことに、著作権行政に対する危機意識では、何と官学の雄である東大の中山信弘教授(現在既に退官)、渡部裕(ひろし)東大大学院文学資源学教授の方が現体制批判的であり、反東大でジェラシーするその他大勢の教授の識見の方が現体制迎合的であり、あるいは更に強権著作権論の更なる強権化の旗振り役を務めたりしている。こうなると、去る昔の保守体制派としての帝大系、民主的進歩派としての私学系という構図が全く破産していることになる。れんだいこが分かりやすく説けば、やはり東大頭脳は賢く、その他の頭脳はお粗末と云うことになる。

 それはともかく、「2009.1.27知財高裁判決」は、著作権訴訟を抱える裁判官に、最高裁判決をダシにしてその他各種の判例のコピペで済ませていたこれまでの安逸に対して、新たな頭痛の種を与えたことになるのは間違いない。成り行きに注目しよう。

 2009.1.28日 れんだいこ拝

Re:カルロス・マリゲーラの本 れんだいこ 2009/02/01 19:52
 えこねさんちわぁ。れんだいこは、「カルロス・マリゲーラと都市ゲリラ・ミニマニュアル」についてまつたく知りません。いま少し読んででみました。これもご縁だと思い、れんだいこの「マルクス主義考」の中のしかるべきところに章を設け、考察してみたいと思います。

 丁度今、蔵田計成先輩の新稿を読ませていただいており、いわゆる革命的暴力問題について一考してみたいと考えているところです。クラウゼヴイッツの戦争論に対応する暴力論を書き上げられたら良いなと考えております。れんだいこにできるかどうかは別として、試論が試論を呼び徐々に煮詰まるのが弁証法的だと考えております。この分野は、誰かが挑まないといけないんですよね。

 「カルロス・マリゲーラと都市ゲリラ・ミニマニュアル」について少し読んだ限りでの印象は、非合法活動専門に特化してしまっている面を感じます。実際に必要な運動は、それにも増して必要なのが合法活動であり、それより何よりどういう社会を構想するのか、現状のどこを否定してどこを受け継ぐのか、具体的な制度をどう構築するのか等々についての青写真づくりだと思っております。これなくしての非合法活動はめくら滅法ではないかと考えております。

 幕末維新も、最後には船中八策に結実し、五箇条のご誓文へと至りました。これを思えば、細かい規定はともかくグランドデザインでも良いということになります。今我々にはこの構想力が欠けている、しかも誰も生み出そうとしていないように見受けられると思っております。これは、知の貧困であり精神の貧困であると考えております。

 仮にれんだいこが暴力論を論考するとして、それを通じてどういう社会を具現しようとしているか、ここに結びつかないと消耗ではないかと考えております。この目的が柔構造なもので展望され、これに手法、手続きが関係してくるのではなかろうかと考えております。戦略戦術は、この関係の中で生きてくるものだと思っております。

 それにしても、21世紀の初頭の現在、あらゆるイズムが混迷しているように思っております。一から仕切り直しして再構築に向かわなければと思っております。「カルロス・マリゲーラと都市ゲリラ・ミニマニュアル」がヒントを与えてくれることを願っております。思いつくまま。

 2009.2.1日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評532 れんだいこ 2009/02/02 21:56
 【2008.4.18猟奇殺人事件考続続】

 ますます腑に落ちないので、「2008.4.18猟奇殺人事件」について更に言及しておく。事件に対し、星島被告自身が犯罪を認め、「地獄でおわびする。本当にすみませんでした」、「死刑になり、地獄でおわびするつもりです。早く処刑していただければと願っています」と話していることにより、一見何の疑問の余地も無いように思われる。

 ところで、2009.1.31日、産経新聞(芦川雄大記者)が、事件に関して興味深い言及をしている。今最も元気が良いのが、なぜだか産経新聞で、他社のそれは本来の新聞の役目を果たしていない。どうでも良いような記事と解説を巻き散らかしているだけに過ぎない。

 「【衝撃事件の核心】死刑? 無期? 検察側と弁護側の主張の“急所”は…神隠し公判」
 (ttp://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090131/trl0901311300004-n1.htm)

 記事はいろいろ述べているが、1.26日の東京地裁第6回公判での検察側の論告の「分かりやすさが求められる裁判員制度を意識してか、通常の公判以上に感情的な表現が交えられた」ことを指摘し、次のように述べているところが白眉である。

 「素人裁判の練習台として素人向けなパフォーマンスを加えた『ワイドショー』」めいた演出」、「損壊された遺体の一部の写真もパネルで見せた。論告でもかなり感情的な言葉が使われた…。裁判員裁判を強く意識した公判。慎重に導き出された結論は、どんな量刑になるのだろうか。判決は裁判員裁判にも何らかの方向性を示す可能性がある」。つまり、事件が、来る裁判員制度の予行演習的な裁判にされていることを鋭く指摘している。

 記事は、具体的に次のように描写している。公判で、ボードに赤い字で「性奴隷」と書いた文字がはられたこと。検察側が、捜索で見つかった東城さんの所持品や、遺体の一部などの証拠物を次々と大型テレビに映し出したこと。下水管から発見された免許証の一部として縦に6等分に裁断したとみられる4枚の破片、5センチ角程度に切り刻まれている肉片172個、骨49片を次々とテレビに映し出した云々。

 こうなると星島被告の犯罪を疑うことができまい。だがしかし、れんだいこはそれでも首肯し難い。以下、その理由を記す。遺体が東条さんのそれとすれば東条さんが殺害されたのは事実であるとして認めることはできる。警察の捜索で排水溝から発見されたというのなら、それも認めよう。星島被告自身が犯行を自認しているのでそれも認めよう。だがしかし、認めることができるのはそれまでである。

 何とならば、検察は、裁判員制度を意識してボードやらテレビを駆使して映像化したり、論告求刑文を硬い法律的表現から驚くほど小説染みた分かり易い文言で仕立て替えようとも、肝心の点をさっぱり明らかにしていないからである。

 この事件の核心的物証は凶器である。出刃包丁とノコギリで死体を刻んだというのであれば、それを映像で見せねばならない。いかに刃こぼれしているかを語らせねばならない。どういう訳か、肝心の物証のこれが出てこない。当然、出刃包丁、ノコギリの入手経路も問題となる。人を切り刻んだり、骨を砕いたりすることができる性能のものなのかどうかも検証せねばならない。れんだいこは、これを見せられない限り、星島被告が室内で遺体解体処理したことが信じられない。

 次に、5センチ角の肉片をトイレや風呂の配水管を通じて流し得たことが信じられない。生身の人間の脂分がぬめって詰まることが必定と思うのに、詰まらないまま流しおえたことが信じられない。次に、骨を砕いたというが、東条さんの骨を砕くのに出刃包丁程度のもので為しえることが信じられない。次に、被害者の部屋には急を聞きつけ親御さんも居たと云う。隣の隣の星島被告人の部屋で被害者親族や階下の住人に気づかれないほどに音を立てず解体処理し得たことが信じられない。

 星島被告は事件当初よりマスコミにも警察にもマークされており、何度かインタビューを受け、警察の捜索も入っている。遺体解体処理すれば当然、部屋にもそこらじゅう星島被告自身にも臭いが付着しよう。その臭いもさせずにマスコミと警察の目をごまかせたことが信じられない。

 事件が報道された通りとすると、警察のドジぶりがやたら目に付く。東条さんが生きていた時に面会しており、遺体解体処理されていた最中に部屋に入っており、遺体を入れていた段ポール箱を目にしながら開けぬまま退散したと云う。その際、トイレや風呂の血液反応もしたのかどうか、それさえ分からない。それにしても、伝えられる通りの犯行が為されていたのなら、よほど酷い臭いがしているだろうに。

 星島被告は、別のマンションのゴミステーションに切り刻んだ遺体の一部を捨てたとも云う。警察は、マークしておきながら、その人物の追跡もしていない。当然、捨てられた「ゴミ」の中身の検査もしていない。警察のドジがこれほど続いたのなら、現場責任者、指揮責任者、監督責任者は揃って辞表を出さねばなるまい。そういう声が上がらないのもオカシナことである。

 以上より考えられることは、星島被告が犯行を認めている以上事件に関係していることは間違いない。間違いなく東条さんの遺体が排水溝から発見されたのなら、東条さんが殺されたことは間違いない。しかし、どう考えても、衆人環視のあの部屋の中で、昼は勤めながら夕方帰宅してから数日間にわたって、音も立てず、臭いもさせず、配水管を詰まらせず、コツコツ営々と死体解体し得たことは有り得ない。

 本ブログをお読みの方はそう思われないですか。最悪のシナリオは、東条さんが裁判員制度の模擬演習に利用されたと思えなくもない。そういう意味で、なにやら気持ちの悪い事件ではある。間もなく判決がでるだろうが、以上の疑問点がどう判示されているのか注意深く読み取りたいと思う。まさか、すべては芝居でしたというのではあるまいな。

 2009.2.2日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評532 れんだいこ 2009/02/03 21:58
 【選挙に於ける投開票の不正を憂う】

 2009.2.2日、毎日、読売新聞報道によると、2.1日に行われた北九州市議選(7選挙区、総定数61)で不正選挙が行われていたことが判明した。偽投票用紙が計63枚が確認された。偽用紙63枚はいずれもほぼ同質の紙で、正規の投票用紙とそっくりの色と大きさにそろえていた。他にも正規の投票用紙を持ち出し他の選挙区で使われた疑いもあるとのことである。偽用紙は小倉北区選挙区で20枚、戸畑区で12枚、小倉南区で27枚、八幡東区で2枚、八幡西区で2枚見つかり、小倉北区選挙区では、投票総数が投票者数より35票多く、戸畑区選挙区でも1票多かった。

 この事件は、選挙制度の根幹を揺るがす大事件と受け止めなければならない。「これまでの調べでは、投票された偽用紙63枚のうち、名前の記述があったのは1枚だけで、他は候補者の名前を書かずに白紙で投票されていた」と発表しているが、当落への影響があったかどうか以前の問題と位置づけねばならない。偽投票用紙63枚の使われ方からすると明らかに組織的に為されていることが判明する。今後の大掛かりな不正選挙を策すための予行演習として行われた可能性も有り、今後の常態化を視野に入れて厳に警戒せねばならない。
 
 公正選挙は大衆民主主義の根幹である。これが崩されるとなると、政治の信の基盤が危うくなる。フィリピンやどこそこの選挙と変わらなくなる。今や、戦後から今日まで曲がりなりにも維持されてきた投開票の公正選挙が遂に崩れ始めた感がある。自民党のハト派が政権運営していた時代には有り得なかった事態である。

 タカ派なら許されるかと云う問題ではない。特に、投票者総数がよりも投票数が増えることは絶対にあってはならない。こたびは35票多かったという。投票用紙の持ち帰りチェックは難しいが、適正対応策を講じるべきであろう。

 れんだいこは、記事保存し損なったが、確か衆院選だったと記憶するが、小泉時代の神奈川県選挙区のどこかで投票数の方がが多かったと報じた記事を目にした気がする。選挙結果とは関係なかったが、してみれば投開票不正が瀰漫しつつあるのではないかと憂う。投開票は各政党の立会人も含めての選管業務にしており、不正は起こりそうもないが、世の中次第にアノミー化しつつあるから何が起こるかわからない。

 法の番人の司法が上から法破りするご時勢であるから、かんほ資産の売却を推進した審議会責任者が受け皿となり、総務相がオカシイ、李下に冠をたださずではないかと弁じたところ、新聞各社が何を今更寝言を云うかと叱りつけるご時勢であるから、ハゲタカファンドが国内企業や資産のおいしいとこ取りするのを構造改革民営化と称して囃したてるご時勢であるから、政界がそれなら選挙も細工してしまえと不正に手を染めるのも勢いかも知れないが、やはりそれをやっちゃぁおしまいよと思う。恐らく選管も警察も臭いものに蓋してしまうのだろう。恐ろしい時代になりつつある。

 それはそうと、令の星島事件だが、ネット検索すると、それなりにオカシイという声が公開されている。れんだいこは、それらと何の関わりも無く同じ疑問を持つに至った。直接は、ダンボール箱が三つあって、星島が自ら箱を開けて古びたパソコン機器を見せ、こちらも見ますかと催促したところ、警察が星島の余裕たっぷりの演技により「分かった。見せるに及ばず」として確認しなかったという、確かみのもんたのニュース報道だったと思うが、れんだいこはこれを見てオカシイと感じたことから始まる。

 それは警察を余りにも愚弄し過ぎており、実際上有り得ない。云われなくても天井裏から床下まで調べるのが警察捜査の基本である。警察を愚弄するみのもんたこそ愚弄されるべきであろう。警察が、これに抗議しないところに本事件の闇がある。そこまで愚弄させて甘受せざるを得ない事情とは何なのか、本来のマスコミはここの探索に向かうべきだが、それはできないようにタガハメされているのだろう。とにかく恐い時代になったもんた。

 2009.2.3日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評533 れんだいこ 2009/02/06 21:04
 【円天事件と漢字検定協会事件とジャスラック】

 2009.2.5日、疑似通貨「円天」を発行する等で独特の商法を展開している健康商品販売会社「エル・アンド・ジー(L&G)」(東京都新宿区、破産手続き中)の会長・波和二(かずつぎ、75歳)が久々のマルチ商法がらみで逮捕された。これを仮に「円天事件」と命名する。ここでは、これを問わない。並行して「財団法人日本漢字能力検定協会(以下、単に検定協会と記す)問題」が浮上しており、これを問題にする。

 同協会は、本部を・京都市下京区に置き、検定事業で多額の利益を出している。2006.2007年度に、検定事業などで計約15億円の利益を上げていると云う。同協会の大久保昇理事長の私物化とも思える広告会社への業務委託費(2006−2008年度に計約8億円)を、大久保理事長が代表取締役を務める広告会社「メディアボックス」(同市)に支払っていたことなどが判明している。

 文部科学省は、2.9日にも立ち入り検査を行うことを決めた。文科省によると、協会は必要以上の利益を出すことが認められていない公益法人法違反の疑いがあり、併せて業務委託などで協会の取引などに問題がないかも確認する、と云う。これを仮に「漢字検定協会儲け過ぎ事件」と命名する。

 この事件が興味深いのは、偶然かどうか「漢字検定協会儲け過ぎ事件」と「円天事件」が同時発生していることである。れんだいこは、「漢字検定協会儲け過ぎ事件」から目をそらせる為に「円天事件」が俄か拵えされていると見立てる。なぜなら、「円天の波会長逮捕」はいつでもスタンバイされており、何もこの期に逮捕されねばならない必然性が見当たらないからである。何らかの裏の意図が動いていると読む必要がある。

 では、「漢字検定協会儲け過ぎ事件」がなぜ大騒ぎされてはならないのか、これについて言及しておく。恐らくマスコミは、「漢字検定協会儲け過ぎ事件」よりも「円天事件」の方を大きく採り上げよう。それは丁度、パレスチナでイスラエルの暴挙が開始される時に決まって北朝鮮絡みの拉致事件、テポドン問題が採り上げられる様と構図が同じである。そういう訳で、「漢字検定協会儲け過ぎ事件」は大きな事件にはならない。それはなぜか。

 検定協会にとっては有り難いというべきか、同協会をつつけば同じ公益法人の他の団体に問題が広がりヤブヘビになるからである。同協会が、文科省に対し、俺のところを問題にするなら一桁も二桁も売上が違うあそこの問題はどうなんだと居直れば、収拾がつかなくなるということである。これを逆に云えば、文科省が正義ぶって、より大きな公益法人の不正に向かわず検定協会に限りメスを入れようとするのはなぜかということになる。

 そうではなく、文科省は、検定協会を突破口に、より大物の公益法人の過剰利益問題に立ち向かうのだろうか。それなら辻褄が合うのだが。れんだいこはこれを期待する。恐らく期待倒れになるとの予感を持ちつつも。

 そろそろ「より大物の公益法人」の正体を表わそう。それはジャスラック(日本音楽著作権協会)である。検定協会が仮に50億円規模の売上だとすれば、ジャスラックは2000億円規模と推定される。検定協会が財団法人なのに対して、ジャスラックは社団法人である。れんだいこは、検定協会の漢字教育は社会的に有益と考えるが、これが懲らしめられようとしている。確かに私物化が目に余る面もあるようではあるが。それに比して、ジャスラックは音楽文化擁護を定款に掲げながら実際には営利主義路線を驀進し続けている。いわゆる権利暴力の走りキング的地位にある。

 れんだいこは、ジャスラックは今、先の公取委の初の立ち入り調査に続いてこたびの「漢字検定協会儲け過ぎ事件」勃発でいつ火の粉が飛んでくるか分からないとして戦々兢々に陥っていると読む。なぜなら、同じ論理で立ち入り検査されるのは必定だから。検査されないとしたら狂っていよう。

 この事態だけは何とか避けたいとあちこちに手を回していると読む。マスコミ記者よ、これを嗅ぎつけた方がよほど為になるぞ。ジャスラックの根回しが首尾よく成功するかどうか、文科省の2.9日の立ち入り検査とマスコミの報道振りを見てみたい。誰ぞ熱ペンを奮え。

 2009.2.6日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評534 れんだいこ 2009/02/11 19:41
 【建国記念日考】

 今日は建国記念の日であった。これを機会に建国記念日の歴史を確認しておく。

 日本書紀は、神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと記している。明治維新政府は、この記述を、カムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇が即位した日と読み取り、日本国創建日として称え祝日とすることにした。但し、時の明治政府は、旧正月を日本国創建日と定め祀ることを良しとしなかった。なぜなら、和暦から西欧暦への転換を押し進めており、旧正月を祝うのではなく西洋式の正月を祝わせようとしていたからである。

 ちなみに、日本が西暦を導入したのは、1872(明治5)年で、この年の12月2日で太陰太陽暦法(月の満ち欠けを基準にした暦)の天保暦を打ち切り、翌日を1873(明治6)年1月1日とした。これにより、太陽暦が使われるようになった。この時導入したのはグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦であった。日本がグレゴリオ暦に移行するのは27年後の1900(明治33)年である。

 これにより、月の満ち欠けと密接に結びついていた農業や漁業などのサイクルや、七夕や十五夜などといった生活習慣がうまく対応できなくなり、旧暦が生まれることにもなった。旧暦は天保暦の計算方法を用い、実際の計算に使う数値(1太陽年など)はグレゴリオ暦に使われる値を使って計算したものを云う。つまり、旧暦とは過去に用いられた天保暦を太陽暦と折衷したカレンダーということになる。正式な暦ではないが、現在まで重宝されている。

 もとへ。旧正月と日本国創建日が重なることは、西欧暦に転換させ旧正月を廃止せんとする政府の意向に添わなかった。そこで、水戸家の「大日本史」編集員・藤田一正氏に命じて、日本書紀の期日を西欧暦に当てはめ換算させた。これにより、「神武天皇の辛酉の年の春正月庚辰朔」は「BC660.2.11日」とされた。1872(明治5)年、2.11日を紀元節祝日とする法が制定された。1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年として「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。

 これによれば、紀元節の創設そのものが、明治維新政府の西欧暦導入に象徴されるような欧化主義、その奥に潜んでいる国際金融資本のシナリオに沿って創設されたものに過ぎない、少なくとも明治維新政府の目指す天皇制国家主義が国際金融資本の植民地主義のシナリオ下に於いて機能させられていたという政治性が見て取れよう。ここまで窺うのは窺い過ぎだろうか。 

 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止された。これに伴い日本国憲法の精神にそぐわないとして紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。

 ところが、1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、1957(昭和32)).2.13日、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として建国記念日制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が、建国記念日の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」との理由により反対したため廃案となった。以降9回の議案提出、廃案を繰り返す。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協した。

 1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加した。同6.25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立した。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」第2条で、建国記念の日の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定している。

 但しこの時、同附則3項は、「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定め、日附の確定を審議に委ねた。

 内閣は「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定め、建国記念日審議会を発足させた。議論の末、委員9名中7名の賛成により戦前の紀元節と同日の2.11日とする答申を纏め、同年12.8日に提出され、翌日政令が公布された。これにより、1867(昭和42).2.11日より施行されることになった。

 概略以上のような流れが確認できる。れんだいことしては、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。もっとも「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと」のは元一日にならない。それより以前の国の成り立ちをも視野に入れて、この国及び民族の過ぎ越しこの方、行く末を考える祝日としたい。以上コメントしておく。

 2009.2.11日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評535 れんだいこ 2009/02/11 20:37
 【れんだいこサイト左往来人生学院万歳】

 れんだいこのサイト左往来人生学院は、開設日が2000.02.11日である。丁度10年経ったことになる。当初より随分深く掘り下げたし、未だなにほどの寄与もできていないことをも恨む。れんだいこの寿命が何年あるのか判らないが、死に土産にしておこうとは思っている。世の中の誰か一人にでも良い感化が与えられたなら本望と割り切っている。

 それにしても、気づいたことは、著作権がうるさいということである。連中は、言葉も文字も音符も五線譜も、ついでに云えばネットに於けるWebの創成も、先人の無著作権営為により生み出されたものであり、その恩恵を受けて居ることを弁えず、ひたすら権利亡者に成り下がって正義ぶっている。それも日ごとに権利強化の種探しに明け暮れ得々としている。この手合いに漬ける薬は無い。

 許しがたいのは、著作権法では「引用、転載できる。但し、著者叉は出所元明記、趣旨改変御法度」とは書いているが、「要事前通知、要承諾制」にはしていないのに、これを押し付け悦にいっていることである。これにより、議論の場合でさえ自分の文章しか引用、転載できず、歯の抜けた櫛のようなみっともない経過文を晒して、私はここまで著作権法の理解が進んでいると阿呆丸出しにしている。

 その程度の著作権法理解で、我こそは著作権法のマスターと自惚れている者が居る。申し訳ないけど、著作権法は未だ生成中で、少なくともここ数年間の強権化は行き過ぎと反省し始めているのが最新の動きである。最新と云えば、漢字検定協会が公益法人にあるまじき儲け過ぎとして問題にされ、司直の手が入った。ならば、悪名高きジャスラックはどうなんだと向かうのが筋のところ、イスラエルのガザ攻撃と同じで、これに正面から立ち向かう言論士が居ない。

 もとへ。我がサイトの10周年を祝おう。この間は貴重なカンパ第一号をいただいた。これは有り難い。これに続け皆の衆と煽りたい為にわざわざ書き付けておく。そうやって、れんだいこを執筆専門にさせてくれ。有益情報を根限り提供してしんぜよう。いずれサイトオリンピックができれば応募してみようと思っている。とまぁ、10周年の抱負を述べておく。

 2009.2.11日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評536 れんだいこ 2009/02/12 22:21
 2009.2月現在、政局が面白い。麻生連合対小泉連合が抜き差しならないところまで対立を激化させつつある。例によって野党は全く無力で、麻生連合対小泉連合抗争を注意深く見守るのではなく、麻生首相発言に対して「それを云っちゃぁおしまいよ」的観点から麻生パッシングに走るお粗末振りを見せている。確か、社民の福島がそんなことを云っていた。

 れんだいこが思うのにそうではなかろう。自民党内に於ける麻生連合の小泉離れは、小泉的ネオシオニズムの御用聞き政治に対する「やり過ぎ」を咎めようとしているリバウンドであり、当然の流れと受け止めるべきであろう。野党が真に野党らしく迫るなら、小泉政治の検証に向かうべきであり、特別調査委員会を設け、弁明させるべきであろう。こう後押しすべきところ、麻生首相発言封じに向かおうとするところが凡庸極まる。

 鳩山総務相のかんぽ施設のオリックスへの払い下げストップ然りである。これについては野党は概ね「遠山の金さん的名裁き」として歓迎しているが、もっと深めてオリックスの落札過程を徹底検証すべきだろう。竹中、小泉の采配関与度を確認するために喚問も要求すべきだろう。これがなぜできないのだ。

 政治をかく面白くせねばならない。それにしても、新聞各社の社説が、鳩山総務相批判で口裏合わせていたのも興味深い。どの社とどの社が呼応したのか、これも銘記されるべきだろう。「かんぽ施設のオリックスへの不正払い下げ」が明らかであるのに、例によってハゲタカファンドが絡んでいるのが見えているのに、これに対する追求の姿勢は微塵もない。新聞社のジャーナル精神がかくもいびつなものになっていることを確認すべきだろう。恐らく、長年の高給システムが禍(わざわい)している。

 もとへ。麻生連合対小泉連合の抗争は久々の大型政争になり得ている。元々政治とはそういうものでなければならない。政権取りだけを自己目的にするようなことがあってはならない。政策遂行責任に於いて、頂点である権力を取りに行かねばならない。角栄はそのようにして政権取りに向かった。今にして思えば天晴れな、政治原則に忠実な真の政治家であったことが分かる。麻生連合にそのような志操があるとは思えないが、小泉的ネオシオニズムの御用聞き政治に対する「辟易」ぐらいは嗅ぐことができる。

 当然の感性だろう。寿命は先年も万年も有るのではない。60歳を越したお歴々には僅か10年ぐらいしか政治生命は残されていない。その10余年ぐらいは国家と民族の行く末に貢献しても良いのではなかろうか。それが政治家としての政治の醍醐味と云うべきではないのか。死ぬまで国際金融資本とハゲタカファンドとつるんで悪事を働くことを恥じない連中とは闘う以外にないではないか。麻生パッシング派には単純なこのことが分からない。

 れんだいこは特段に麻生を評価する気持ちはないが、麻生連合対小泉連合の死闘には断然、麻生連合を支持する。なぜなら、ここから始めなければ政治が変わらないから。民主党は、麻生連合対小泉連合の闘いに於いては麻生連合を良しとしながら政権取りに向かうべきである。消費税増税その他のお粗末政治には、それはそれとして批判して闘うべきである。間違っても、前原の如き小泉式構造改革路線の徹底遂行を弁じさせるべきではない。言論は自由ではあるが、党の責任が伴う。

 とか言い出したらキリがないのでこれぐいにする。明日からの麻生連合対小泉連合の死闘を注視したい。それにしても、れんだいこは、麻生が憎めない。あのキャラは八方破れなところが面白い。誰か、そう思わないか。鳩山も最近、果然良い男になった。悪い憑き物が落ちたのだろう。

 2009.2.12日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評537 れんだいこ 2009/02/13 19:10
 【麻生政権の正念場考】

 種々情報の寄るところ、麻生政権は遂に正念場に達した模様である。れんだいこは、麻生政権潰れて良し、凌いで良しの両面戦略を立てている。潰れてよいと思う理由は、無能であるからである。凌いで良しと思うのは、小泉派の即ちその奥の院の国際金融資本ハゲタカグループの容喙に唯々諾々する無能振りを見たくないためである。

 ここでは、凌いで良し論の立場から立論する。麻生政権は、遂にもろ肌脱いでネオシオニズムモンモンを見せた小泉元首相の逆上にひれ伏すしか能がないのか。ここが問われている。れんだいこならロッキード事件を逆手取りし、元首相訴追で抵抗する。角栄は5億円でやられたが、しかもそれは児玉−中曽根ルートの話を横曲げして被せられた冤罪かも知れぬような話であったのに逮捕された。保釈後も公判で締め上げられた。あの貴重な頭脳が、これにより羽交い絞めされた。かえすがえすも惜しいことであった。

 角栄に比して小泉の場合、ネタはいくらでもある。かんぽの不正払い下げ事件などほんの一角に過ぎない。要はやるかやらないかだ。麻生政権は、最後のお国ご奉公と期して小泉政権史の検証に乗り出さねばならない。犯罪要件に該当するとならば、小泉派討伐に乗り出さねばならない。下手に尻込みすると、後で後悔する目に遭わされるだろう。同じことならやるっきゃない。

 この時、民主党を始めとする諸野党がどう動くか、言論するか。これが本当の政治の見どころである。残念ながら、そういう流れには向かわないだろう。鳩山−前原ラインが相変わらず親小泉的動きをしている。まずは、これを吹き飛ばさねばならない。次に、マスコミと警察と自衛隊と司法が揃いも揃って国際金融資本の御用聞きしているのを突き崩さねばならない。これは、変えようと思えば変えられる。トップを替えれば良いだけのことである。断固として売国奴討伐派の人材登用を進めねばならない。

 かくて、21世紀初頭の政治史を飾らねばならない。麻生政権よ、最後の玉砕戦術に向かえ。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。今ほどこの歌が相応しいときはない。

 2009.2.13日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評538 れんだいこ 2009/02/14 21:17
 【京都地裁の「着うた違法配信で有罪判決考】

 2009.2.13日、京都地裁は、「着うた違法配信訴訟」の被告松岡隆司氏(53)に懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)の判決を言い渡した。判決理由で、坂口裕俊裁判官は、「違法と認識しながら満足感を得るため犯行に至った」、「常習性は明らかで被害結果は重大だが、犯行による利益は全く得ていない」と述べた。れんだいこには多々腑に落ちないことがあるので、この事件を確認しておく。

 携帯電話で音楽が聴けるようになり、これを「着うたフル」と云う。現在、1曲200〜400円程度とのことである。既に協会が設立されており、昨年の市場規模は約344億円に上ると云う。ところが、無料配信したり、協会に所属しない「違法」なダウンロードが後を絶たず、昨年には約2億1000万回に達しているという。

 ここで考えねばならないことは、「1曲200〜400円」が法外に高いということではなかろうか。「1曲10円」ぐらいにして、もっと多くの利用を得た方が賢明なのではなかろうか。「1曲200〜400円」の垣根は、進化し続けるパソコン−携帯電話ハイテク技術の果実に対する逆行的抑制ではなかろうか。一体、配信料原価は幾らなのかを明らかにせねばならないのではなかろうか。これをせぬままの「1曲200〜400円」はなにやら取らぬ狸の皮算用的な利権が絡んでおり、これこそ不正なのではなかろうか。こう問う姿勢が大事なのではなかろうか。

 2006年、兵庫県姫路市の藤本継矢氏は、「着うたフル」を無料で配信するサイト「第(3)世界」を開設した。どの時点でかは分からないが約2万曲を登録し、利用者も100万人以上という国内最大規模の音楽配信サイトとなり、中高生を中心に人気を集めるようになっていた。藤本氏は、サイトの広告料として2年間で約1億2000万円の収入を得ていたという。

 2006.10月、兵庫県川西市の松岡隆司氏は、藤本氏と面識がないままメールや掲示板でやりとりを続け、藤本氏の呼びかけに応じて洋楽を中心に楽曲をアップロードするようになった。テレビ番組「情熱大陸」のテーマソングを提供し、不特定多数が携帯電話にダウンロードできる状態にした。「自己満足のため、趣味でやった」と話しているという。

 これに対し、ジャスラックと日本レコード協会(東京)が例によって、レコード会社の著作権を侵害する違法配信であるとして著作権法違反の容疑で提訴した模様である。

 2008.10.21日、京都府警(ハイテク犯罪対策室)は、著作権者に無断でヒット曲を違法配信したとして、藤本氏と松岡氏をの2名を著作権法違反容疑で逮捕した。「着うたフル」を巡る同法違反容疑の初めての摘発となった。

 2008.12.26日、京都地裁(坂口裕俊裁判官)で初公判が開かれた。藤本被告は、「サイトの広告料目当てに開設した」と供述、「違法と分かっていた。間違いありません」と起訴事実を認めた。松岡被告も起訴事実を認めた。

 以上のような経緯を経て、冒頭の判決となった。奇妙なことに、松岡氏に対する判決は「懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)」とあるが、藤本被告のそれが報道されていない。各新聞社が記事にしているが、どの社も似たり寄ったりで同じ原稿を使っている気配がある。それには藤本氏に対する判決が出ていない。

 それはともかく、松岡氏の場合、本当に罰せられるべき犯罪要件に該当しているのだろうか。彼は趣味で参画し、利益を得ていない。れんだいこは、「懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)」は重いと思う。彼の行為が罰せられるなら、かんぽ施設の不正払い下げ事件関与者などは終身刑に相当すべきだろう。今の世の中、些細なことが大袈裟に処罰され、重大な背信が注意処分で済まされるという変な具合になっている。オカシナ話のオカシナご時勢である。

 もとへ。れんだいこが云いたいことは、この事件は「着うたフルの1曲200〜400円制」の見直しに向かわないとオカシイと云うことである。れんだいこ的著作権論からすれば彼は無罪であるが、世の中には強権著作権派の理論が幅を利かせているからして折衷する以外にない。松岡氏が法廷でどう抗弁したのか分からないが、彼は堂々ラムネ氏になるべきであったと思う。

 そもそも著作権法では、人民大衆的な音楽利用について対価制を規定していない。規定しているのは、著作権者の広報権であり、この条文から対価制を引き出すのはちと無理がある。松岡氏は、私はボランティア的に無料広報宣伝員としてテレビ番組「情熱大陸」のテーマソングを提供したに過ぎない。私が罰せられるなら、せめて「着うたフルの1曲200〜400円制」の見直しに向かって欲しい、「着うたフルの1曲200〜400円のコスト根拠」を明示せよ、その為に人身御供になった次第であると居直ることもできたと思う。こういう風に闘わねばならないと思う。

 新聞各社の無能記者よ、ジャスラックが違法配信と云うからオウム返しに違法配信と記事にするのはいかがなものだろうか。ジャスラックは国の機関ではない。公益法人資格の社団法人に過ぎない。社団法人は世にゴマンとあり国家機関ではない。そのジャスラックと無契約のまま配信し続けたのは事実であろうが、違法であるかどうかは司直が決めることであって、あらかじめ判決先取りの「違法配信」と書くべきではなかろう。君達はいつから頼まれもせぬのに護民官になったのか。これ如何に。

 警察に風俗営業許可を取らなかったなら違法ではある。保健所に食品衛生管理士の届出をしなかつたら違法である。法務局に法人登録せずに企業活動したらモグリではある。しかし、社団法人ジャスラックと契約しなかったからといって違法呼ばわりされるのはちと早過ぎよう、違うか。そういうのを走狗というのではないかな。

 それにしてもジャスラック権力の次第次第の膨張化が定向進化し続けている。息苦しい世の中に向かいつつある。京都府警がはしゃいでいるようだが、著作権法に基いて取り締まるのが本来のお役目のところ、ジャスラックのパシリに堕ちている。みんなで何とかせんとな。

 2009.2.14日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評539 れんだいこ 2009/02/17 19:17
 【読みがない時代考】

 今日ふと気づいた。現代は、読みのない時代に入ってしまっているのではなかろうか。「読み」とは、囲碁将棋で云うところの読みの意味で使っている。この「読み」が滅法弱くなっているのが現代人ではなかろうか。

 その原因として、日々洪水の如く伝えられるニュースを単に聞かされるばかりであることにより、仮に解説があったとしても事の本質に迫らない上っ面をなでただけの皮相見解ばかりを聞かされることにより、現代人は恐ろしいほど自分自身で考える「読み」を無くしてしまっているのではなかろうか。これは、精神の生活習慣病ではなかろうか。

 例えば、中川昭一財務・金融相のドランカー記者会見ニュースを見たとする。「読み」が無ければ映像を見るだけのことである。「読み」があれば、その背景に何が有ったとのかを詮索することになる。その詮索が外れたとしても、「読み」そのものは必要な訳で、読みが要らないということにはならない。現代人は、聞く方も取材する方も滅法「読み」がなくされている。

 考えてみれば、これは恐ろしいことである。仮に意図的故意に取捨選択された情報が流されているとしたら、言いなりロボット人間しか生まれないと云うことになる。現下の政局で云えば、麻生降ろしと小泉カムバックがセッティングされていたとしたら、テレビラジオを無造作に聞き入れているととんでもないことになる。我々は、どこかでバランス感覚を持っており、マインドコントロールや洗脳を説く力があると信じるが、余りにも長期間の刷り込みをされたら次第に難しいことになる。

 こたびの中川昭一財務・金融相のドランカーぶりに際して、映像的事実の裏読みこそ必要であろう。しかし、これを問いかけ詮索する者は居ないみたいだ。れんだいこは、中川が自主的逃避的に悪酔いしたのか一服盛られたのかが気になる。周りの者がいて、こういうことが平然と起こるということが分からない。

 分かっていることは、こたびの会議参加にかこつけて、2.13日、日本政府がIMF(国際通貨基金)に最大1000億ドル(約10兆円)の融資を誓約し、中川財務金融相が文書に正式署名捺印したことである。一体、日本政府の懐はどういう具合になっているのだろうか。一々チェックしていないが、厳しい財政事情だと云い云われながらも次から次へとお供え太郎している。純一郎と云い太郎と云いろくでもない。

 このこととドランカーぶりがどう絡むのか絡まないのかは分からない。直前のロシア政府との会談も気になる。クリントン国務相の来日も気になる。あれやこれやありそうだが、要するに、ドランカー記者会見の裏には何かが作用しているというぐらいの読みは必要なのではなかろうか。

 2009.2.17日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評540 れんだいこ 2009/02/18 23:36
 【星島猟奇殺人神隠し事件考】

 2009.2.18日、「星島猟奇殺人神隠し事件」の判決が下った。死刑か無期懲役かに関心が持たれていたが、裁判長は後者を選んだ。この事件と判決について、れんだいこがコメントしておく。

 この事件は、それにしても何から何まで奇妙奇天烈な事件となっている。被害者及びご家族には申し訳ないが、れんだいこが推測するのに未だに信じられないのではなかろうか。集中公判で事件の闇が検証されたが、れんだいこが検察の論旨と法廷指揮を確認する限り、こちらの方も猟奇的である。テレビモニター、ボードを多用し、被害者のプライバシー、被告人の性癖の極致まで暴いて饒舌多弁するものの肝腎なところがいっこうに明らかにされていない。疑問は益々深まるばかりである。

 問題は次のことにある。マスコミと警察と被害者家族の疑惑の中で、被告人が密室殺人と死体神隠しを完璧に為し得たとする不思議性にある。それも凶器が包丁とノコギリだと云う。こんなもので人を解体し得たとする方がオカシかろうが疑問にされていない。しかも解体音も臭いもさせず、トイレや浴槽の排水溝に流し得たと云うのだ。処理できないものは近くのゴミステーションに捨てたというのだ。これを衆人環視の中でやり終えたと云うのだ。

 しかも、警察が数次にわたって室内を捜索に来ているというのだ。最初に来たときはノックだけの遣り取りで、その時は生きており、その後刺殺したと云う。解体処理中に数度立ち入りしていると云う。部屋の広さは1LDKか2DKぐらいのものだろう。その室内点検で、解体中の作業を見逃したというのだ。頓馬ドジ極まる話ではないか。何度も云うが、だつたら責任者は辞職せよ。これも問題にならない。

 とにかく、有り得ないことが有り得たように辻褄合わせされている変な事件であると窺うべきだろう。こたびの判決は、これらの疑問に何一つ答えていない。判決文全文を読んでいないが、伝わる論旨を読んで、これまた奇妙奇天烈なものになっている。量刑判断の基準で、被告人の犯行が被害者を一気に殺しており、つまり長期間いたぶるよう執拗な殺害の仕方ではない点を考慮するというのだ。しかしそれなら、前代未聞の完全バラバラ解体の悪質執拗さはどうなるのだ。思うに、裁判長の頭脳の中では、死んでしまってからの被害者の人権なり名誉は関係ないらしい。法律家諸君はオカシイと思わないか。

 これは、死刑にせよとかどうか以前の量刑判断の問題として捉えねばならない。この事件はとにかく被告人も検察も裁判長もオカシイ。このオカシサをオカシイと思わず伝えるマスコミも、それを聞き流す者もみんなオカシイ。このオカシサが今の日本全体を覆っている気がする。ドランカー中川もオカシイ。小泉再登板を誉めそやすのもオカシイ。

 もとへ。この事件は被告人が全面的に罪を認めているので冤罪とは違う。しかし、どういう事情が有るのかは知らないが、何らかの請負狂言という線は考えられる。日本左派運動は、今後は冤罪事件のみならず、こういう請負狂言事件まで視野に入れねばならなくなった気がする。それらが全てゼニで動いているとしたら、嫌な時代になったと思う。以上コメントしておく。

 2009.2.18日 れんだいこ拝




(私論.私見)