カンテラ時評17(481~510)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re:「日本人女性人身売買考」について れんだいこ 2008/10/22 22:04
 出入りの住人さんちわぁ。ご指摘の件、只今手直しいたしました。貴重なアドバイスだったと感謝しております。れんだいこサイトはまだまだ書き直さねばならない点が他にも多々あると思っております。観点の違いの場合は別として、明らかな表記違いについては即手直しさせていただく所存です。ご協力くださればありがたいです。

 それはそれとして、出入りの住人さんが「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」氏と同一人なのか別人なのか分かりませんが、少しコメントしておきます。

 れんだいこは、山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』と鬼塚英昭氏「天皇のロザリオ」との記述にそれほどの違いを認めることができません。山田女史の記述にも「硝石と交換し」とある訳ですから、両者の大意は似ていると思います。従って、「蔵太」氏がどこに拘っているのか、何を云おうとしているのかが分かりません。

 戦国大名が「硝石欲しさ」に宣教師と遣り取りしたのは「鉄砲伝来史」からも判明している訳で、日本女性の売買まで絡んでいたことが史料にある以上、豊臣秀吉のバテレン禁止令の条項にもある以上、結びつけるのが当然と考えます。その点で、「蔵太」氏の読解力の方に疑問を感じます。

 「蔵太」氏の読解には妙な癖があります。仮にですがナチスによるユダヤ人虐殺ホロコーストの場合はアリアリのバリバリ派の方だとした場合、妙なことになります。バテレンによる日本婦女子奴隷交易ではこれを否定し、ホロコーストでは肯定すると云うことになります。この方の精神は一体どこの国の方なんだろう、と云いたくなります。

 そういう意味で興味がわきますので、「蔵太」氏のホロコースト観を知りたくなりました。一般的には関係ないように思われますが、れんだいこのアンテナは妙な繫がりを感じております。手間を取らせますが、記述があるようでしたら宜しければ教えてください。

 2008.10.22日 れんだいこ拝

Re:「日本人女性人身売買考」について れんだいこ 2008/10/22 22:10
 手直し箇所を記すのを忘れておりました。

 別章【イエス教論・キリスト教論考】
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/)

 別章【キリスト教史その6、イエズス会宣教史考】
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/iezusukaico.htm)

 豊臣秀吉の「伴天連(ばてれん)追放令」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/baterentuiforei.htm)

 日本人女性人身売買考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jesukyo/iezusukaico/zinshinbaibaico.htm)

Re:「日本人女性人身売買考」について 出入りの住人 2008/10/23 18:49
 >  それはそれとして、出入りの住人さんが「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」氏と同一人なのか別人なのか分かりませんが、少しコメントしておきます。

 「蔵太」氏と別人です。

>  戦国大名が「硝石欲しさ」に宣教師と遣り取りしたのは「鉄砲伝来史」からも判明している訳で、日本女性の売買まで絡んでいたことが史料にある以上、豊臣秀吉のバテレン禁止令の条項にもある以上、結びつけるのが当然と考えます。その点で、「蔵太」氏の読解力の方に疑問を感じます。

■「火薬」「硝石樽」に関しては

 既知外テキストの元をたどったらさらに既知外テキストに行き当たる - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
 ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070831/kichi

 【大村由己】が、秀吉のお供で九州に行ったときの見聞録
 →「朝鮮出兵の従軍記者」関係ないじゃん!

 株式日記と経済展望 NHKの大河ドラマの「功名が辻」は単なるホームドラマ
 別に「火薬」「硝石樽」で釣ったわけではないみたいです。
...
 キリシタン大名が火薬と引き換えに売った、などと書いてある事が確認できないのです

 実は『九州御動座記(九州動座記?)』が掲載されているという『織豊政権とキリシタン : 日欧交渉の起源と展開』(清水紘一・2001年)にもざっと目を通してみたのですが、「火薬」「硝石樽」に相当するテキストは見当たらなかったのでした。

>  「蔵太」氏の読解には妙な癖があります。仮にですがナチスによるユダヤ人虐殺ホロコーストの場合はアリアリのバリバリ派の方だとした場合、妙なことになります。バテレンによる日本婦女子奴隷交易ではこれを否定し、ホロコーストでは肯定すると云うことになります。この方の精神は一体どこの国の方なんだろう、と云いたくなります。

 ■ホロコーストに関しては

 2006-02-21 - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
 ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060221

 日本には、「反ユダヤ主義的な思想の持ち主がいたりする土壌」はあると言った方がいいと思います。
...
 『真に受けた人がいなくても、複数の執筆者・編集者・出版社が関わっているだけでも土壌というには十分です[け]どね。

 2007-06-06 - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
 ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070606

 revisionismってのは、ホロコーストに対する歴史的見解の見直し(ホロコーストはなかった、あるいは、間違っていなかった)に関する主張だと、ぼくは認識してたんですが、ぼくより英語にくわしい人はたくさんいると思うので、そこらへん教えてください。ホロコーストというのは、ナチスによるユダヤ人虐殺以外の意味で使うとユダヤ人が激怒する、限定用語としてのホロコーストです。

 ■検索キーワードは
 蔵太のもう少し調べて書きたい日記 ホロコースト

Re:「日本人女性人身売買考」について 出入りの住人 2008/10/23 19:15
 先生こんばんは、出入りの住人改めえこねです。驚かせて済みませんでした。

 さて、出典引用したHPは、リンクなどを、さかのぼって読んでいかないと判らない内容のHPでしておおきく2点(①火薬・硝石と日本人を交換について、②ホロコーストについて)は、次のようだと思われます。これらのHPの主張は

 火薬を得るのと得ないとに「関係なし」に日本人を奴隷とする「奴隷貿易はあった」と言う主張です。「天皇のロザリオ」の元ネタだった「ウサギが渡った断魂橋」のテキストも間違いを記していた。とする見解です。

 ホロコーストの件は、歴史修正主義を英単語から理解するという見解で、ホロコースト以外にホロコーストという単語を使うとユダヤ人を激怒させるから注意しましょう。という主張です。

 2007-06-06 - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
...
 原爆投下は正しかった、とか、正しくなかったとか「思ってたり主張してたりする人間が」そんなに「主流(多数意見)」であるわけがないでしょ。という見解から言って「?狩り(ハテナがり)」を感じさせます。たぶん、そんな感じの主張の記事だと思われます。

Re:「日本人女性人身売買考」について れんだいこ 2008/10/23 19:34
 えこねさんちわぁ。「愛・蔵太」の文章は本人が何を云いたいのかが分かりにくいです。日本人ではないのかも知れません。日本語の使い方と云うか文章の調子全体が何か変ですから。何か政治目的があって、ああいう文章をサイトアップしておきたいのでせう。れんだいこは、関わりたくないですね。そんな臭いがします。

 「日本人女性人身売買問題」は史実から隠されている事ですので、これを衆知させようとした人の功績を称えるのがスタンスとなるべきです。枝葉末節を取り出して間違いを指摘したからといって、「日本人女性人身売買問題」がなくなるものでは有りません。最近、こういう論法が流行っておりますが。というようなところがれんだいこの感想です。

 2008.10.23日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評481 れんだいこ 2008/10/24 21:26
 【新聞週間に寄せて】

 毎年10.15日から1週間が新聞週間であるらしい。新聞界のメーンイベントとして新聞週間関連行事が行われると云う。平素は学識者を集めて紙面検討委員会のようなものを開いている。これらがおざなりでなく機能しているのなら、普通ならば新聞は年々立派なものに仕上がっているはずであろうが、どう贔屓目に見てもニュース以外には役に立ちそうもない。

 ジャーナル面は昔も酷いが今はもっと酷い。その出来映えをれんだいこが年収換算すれば、せいぜい500万円止まりの知能しか示していない。実際には一千万も二千万もあるいはそれ以上取っているのだろう。ここに腐敗があると見立てたい。もっともこれは新聞人に限ることではない。分不相応の高額収入を手にしてろくでもない仕事しかしていない者が目に余る。そう云う者に限って、上目遣いが得意なのと、なんだかんだと云っても最終的には保守的であるところが面白い。まことに、存在が意識を規定しているのだろう。

 マスコミ言論士がまともな批評ができるようになる為には、給料のうち自分の能力以上と思える分をどこか役に立ちそうなところに寄付すれば良い。そうすれば何とか辻褄が合おうが、無能言論士に限って将来に不安でニギニギするしか能がなかろう。そう思えば可笑しくもなる。

 れんだいこは、新聞読む日もある。読むのを忘れる日もある。気に掛かることがあると各紙を比較してみる。図書館に行けばメジャー系全紙に目を通すことが可能であるが、あそこへ行けば何が有るぐらいのことは頭に入っているので、近くの喫茶店のはしごで済ましている。

 それはともかく今や、新聞が書くことよりも書かないことの方に重大事件が有ると云う変な時代になった。このことを強く指摘しておきたい。いつごろからこういうことになったのか定かではないが、大いにオカシナ現象では有る。れんだいこは、これが云いたくて、我が掲示板に書きつけている。こういう現象は自然に起こることではなく、情報統制コントローラーが存在すると見立てている。なぜなら、そう仮説すると解けるからである。

 週刊現代が今、大相撲の八百長問題に執心している。れんだいこに云わせれば、それはコントローラーに許容された告発であることを意味する。逆に週刊現代が書かなかった記事の方が気に掛かる。さて、何を書かなかったか。最近では松岡農相不審死事件、ごく最近では三浦ロス市警留置所内不審死事件である。本来なら飛びついて仰々しく書き立てても良さそうなネタだが奇妙なことにことに記事そのものがない。その昔、現代とポストは同じ事件を切り口違って分析しているところが面白かった。今やそれができない。こうなると、週刊現代が張り切っている大相撲の八百長問題告発の裏の方が気になってしまう。

 ならば他の雑誌、新聞はどうかと云うと、これまた問題の本質を外した記事でお茶を濁している。松岡農相不審死事件、三浦ロス市警留置所内不審死事件の奇奇怪怪に筆を振るった社は見当たらない。いずれも自殺報道で、そう云えばこういう思い当たる節があると云う変な提灯記事しか書いていない。紙面検討委員会と云うようなものがあるのだろうが、こういう筆法に特段の疑問も湧かさないらしい。

 イージス艦の漁船転覆による親子行方不明事件もそうだ。イージス艦側の事故直後の救出活動にメスを入れた社はいない。赤色灯がどう青色灯がどうと云うさほど本筋でないことに関心を引っ張って、そのままいつしか終わっている。

 ごく最近の麻生首相のホテルバー多用問題採り上げも変調だ。くだらんことを槍玉にするより、れんだいこなら、「ところで総理、三浦事件の件でアメリカ政府なりロス市警に抗議するつもりがありますか」と聞いてみる。留置場内が一番危ないなんてことになると世も末ではないか。それとも警察に自殺発表されたら仰せの通りと受け止めねばならない決まりでも有るのだろうか。いつごろからこういうことになってしまったのだろう。こんなことでは頭が要らん。推理小説無用時代になってしまったことになろう。

 これも書いておこう。ロッキード事件で、検事作文の5億円授受ストーリーを、何の疑問も湧かせず鵜呑みにし、戦後政治家の大逸材角栄を葬ることに興じた連中に限って、その後出世しておるからして、新聞週間と云う結構な行事を毎年していても、新聞紙面が良くなることはあるまい。おざなり行事にするぐらいはまだましで、連中が悪い頭脳を働かせこうしようと云って何事か決めたら、その方が恐い。

 さて、云いたいことは云ったので、これぐらいにしておく。そうだ、これを足しておく。そういう低能ジャーナリストに限って著作権に煩いのもお笑いだ。著作権強化の流れと紙面劣化の流れが同時歩行しているのが面白い。先だっては毎日英字サイトが醜態を晒した。手前は記事をタダ取りしていて、相手が使うとなるとカネ寄こせで稼いでいたらしい。それで問題になったのではなく、ネット紙面の内容が余りにも劣化しており、苦情が寄せられ、調査したらそういうことだったというお粗末。

 この先、我らがジャーナルはどこまで腐敗していくのだろう。新聞が売れないのはネットで読めるようになったからだ、ならばネット読みに課金せよ、あるいは記事のネット出し制限せよ、無断利用者摘発に乗り出せ、監視委員会を設置せよてな智恵を出すのが精一杯だろう。口をそろえてそうだそうだの合唱するだろうなこの手合いは。

 2008.10.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評482 れんだいこ 2008/10/25 21:46
 【日本左派運動はマルチ商法を取り込め】

 2008.10.25日付け毎日新聞3面の「マルチ商法つてどんなもの」(回答者は(生活報道センター)板垣博之)記事にコメントしておく。

 くだんの記事内容が特段間違っている訳ではない。敢えて言えば、相変わらず胡散臭い商法であるとして「被害者が相次いでいる」ことを強調している姿勢だろうか。ネズミ講は非合法である。それに比べてマルチ商法は合法であるが種々規制されている点につき、なぜ合法であり規制付きなのか、なぜ多くの者がこのビジネスに参入するのかの要因分析は全く無い。

 れんだいこは、与えれたスペースに限りがあるので仕方なかったとみなすより、板垣氏のこの方面の知識が欠如している故と思う。日共の赤旗は久しぶりの正義面できる格好ネタだと思い特集を組んで批判し続けている。馬鹿丸出しでしかないが、日共反革命の立ち位置が分かって興味深い。

 れんだいこは、この問題につき既に2008.10.16日付けの投稿№700、【マルチ商法の左派的対応考】で触れたが、これは既に十分なる社会的問題であり、これを規制するよりも日本式マルチ商法の型を生み出すのが得策と判断している。これについて、もう少し触れておく。

 マルチ商法は、これを純理論的に見ればある種の流通革命である。革命である以上、日本左派運動は「どういう革命なのか」、「組める革命なのか反革命なのか」判断せねばならない。日共の全否定スタンスは、マルチ商法に拘らず世事全般の反革命意識の反映であり、思わず地金が出ていると思った方が良い。その点で、民主党の幹部が深くかかわっているが、革命シンパ的であると判断され、日共の思惑とは違って却って好ましい。れんだいこは、そう考えている。

 そもそもマルチ商法と云うのは、どういう経路から生まれたマーケッティングなのか。それは、徒手空拳の起業家が、アイデア一つで既成体制派の秩序に抗して挑んだ流通革命と云う面がある。このビジネスは幾多の屍を晒しつつ、厳しい淘汰の中でなお一群の革命旗をたなびかせつつ進撃し続けていると思えばよい。日本左派運動が徒にこれを否定するのは自己否定でしかなかろう。むしろ大いに学ぶべしでもあろう。

 問題はなへんにあるのか、それを問うのがマルチ商法論とならなくてはオカシイ。れんだいこは、既成秩序でうだつの挙がらないものが同調し、あるいは生活基盤の不安を抱える落ちこぼれ組が生活の足しと思って引き込まれる成り上がりビジネスであり、そこに向かわねばならなかった感性に哀しいサガを見る。

 このビジネスは漸次進化しており、既に言われるような被害者を生み出すものではない。最近の良質商品を見れば被害は購入者に生まれるのではない。成り上がりを夢見た会員がやはり成りあがれず、マルチジャンキー化する生態に発生している。こう捉えるべきだろう。その点で、回答者の末尾の言葉「しかし、リスクの高い商法であることに変わりは有りません」のスタンスは実態を踏まえていない。ネズミ講に対する目線をそのまま適用しているに過ぎない。これは、ビジネスに取り組む必要の無い恵まれた者の側からの目線でしかない。

 れんだいこは、もう8年ほど前にこのビジネスを手掛けたことがある。その時の感慨は、米国制の青天井報酬制とランク維持制、トップのまばゆいばかりの自動金貨集積、それに憧れ目指す万年お疲れ組み、これらのシステムに貫かれるユダヤ商法的機略に代わる日本式和的なビジネスを生みだす必要があるというものであった。日本企業も生まれているが旧式代理店システムであつたり、米国制の猿真似でしかなかったりで却ってお粗末なものでしかない。

 れんだいこは、時間と労力を費やすならサイドビジネスより本業の方に精出す方が賢明と云う弁えを得て去ったが、マルチ商法そのものがイケナイと思ったことはない。やる前にある程度調べて良しとゴーサインした。その気持ちは今も変わらない。むしろ、これなら行けるという良い商材を見つけることができたなら、れんだいこが編み出すシステムで乗り出してみたいとさえ考えている。上も下も喜べる共生ビジネスシステムを構築するつ信があるから。

 そういう風に考えることなく、頭からイケナイビジネスと決め付けていたら何にも生まれない。相変わらずの資本の大きな旧態墨守の、最近ではハゲタカファンドが経営に一枚かみ始めた既成秩序による、大枚の広告宣伝費が価格に転嫁されるメーカー主導型流通秩序に馴致される以外に無い。

「マルチ商法つてどんなもの」という問いに対する答えは、このような俯瞰から出てこなくてはならない。板垣回答は通俗過ぎて何ら面白くも為にもならない。と考えたので一言しておいた。

 付言すれば、日本左派運動は自らマルチ商法を手掛け、資金を潤沢にすれば良い。カンパ頼りの、それも次第に先細っている現状の中で正義を説いても先立つものが無ければ何もできない。資金の自力調達、その一法方としてのマルチ商法研究、これぐらいの度量が要るのではなかろうか。株に手を出すよりはよほど賢明なのではなかろうか。いざやったらかなり難しかろうが。

 2008.10.25日 れんだいこ拝

社会で一番大切なのは誠実さ パルタ 2008/10/26 11:13
 かつてドイツ国民は熱狂的にナチスを支持しましたが、敗色が濃くなり国民にも厭戦気分が蔓延し始めました。その時に国防軍の中から反ヒトラー蜂起があり、これに関わった幹部は虐殺されました。その後ドイツは東西に分割され、ベルリンは地獄になりましたが、その最中に市民を守る為の終戦工作もせずに多くのナチ幹部が逃亡しました。そして、ドイツ軍がソ連に抑留されている最中、すでに彼らは敵国アメリカの手先となったのです。はっきり言ってベルリン市民と抑留独軍兵士を見捨てたナチ幹部がイスラエルやユダヤ機関に暗殺や処刑されても同情できないんです。逆に彼らには「どうしてドイツ国民を見捨てたんですか」と聞きたいのです。ソ連やユーゴ国家崩壊の際、国民見殺しの事態が起きました。アルバニアでは、ねずみ講が大問題となりました。日本左翼の内ゲバは末端の活動家を犠牲にし、明らかに学生運動、労働運動の停滞を招きました。我々の学生時代ですら「学生運動に関わったら殺される」と怯えていたのです。今、左翼は資金繰りが苦しいので、追い詰められた幹部がどんなビジネスに手を出すか分かりませんが、どうか一般の労働者に迷惑をかけるようなビジネスだけは避けて欲しいです。生活が苦しければビジネスをしてもいい。しかし、共存共栄でなければなりません。事業を経営する者は人間として誠実であって欲しいです。

Re:社会で一番大切なのは誠実さ れんだいこ 2008/10/26 13:44
 パルタさんちわぁ。コメントします。

> はっきり言ってベルリン市民と抑留独軍兵士を見捨てたナチ幹部がイスラエルやユダヤ機関に暗殺や処刑されても同情できないんです。

 ここ、おかしくないですか。ナチス批判の論法は、そのままイスラエルやユダヤ機関批判に向けられるべきですよ。イスラエルやユダヤ機関は何をしても良い、許されるというのが問題になるべきではないですか。現代史は今、ここを廻って争闘している面が有ります。ナチス以降のイスラエルやユダヤ機関の犯罪を厳しく問わない限り、ナチス批判をすればするほど空疎になると思いますよ。

> 日本左翼の内ゲバは末端の活動家を犠牲にし、明らかに学生運動、労働運動の停滞を招きました。我々の学生時代ですら「学生運動に関わったら殺される」と怯えていたのです。

 日本左派運動の貧困は、そういう現象面だけで片付けてはいけないと思っております。大いなる理論の間違い、組織論の間違い、運動論の間違いが介在しており、なるべくしてなっていると考えております。ではどこが、という問いかけをしていかない批判は生産的でないと思いますよ。

> 今、左翼は資金繰りが苦しいので、追い詰められた幹部がどんなビジネスに手を出すか分かりませんが、どうか一般の労働者に迷惑をかけるようなビジネスだけは避けて欲しいです。生活が苦しければビジネスをしてもいい。しかし、共存共栄でなければなりません。事業を経営する者は人間として誠実であって欲しいです。

 例えば、パイウォーターという浄水器が有ります。かなりよく出回っております。あれも確かマルチ商法システムです。れんだいこは、価格が市場並であれば別段オカシイビジネスだとは思いません。他のグッズも然りです。

 「事業を経営する者は人間として誠実であって欲しいです」は万古の法理でありまして、事業経営だけに問われるものではありません。あらゆる業種、業界、身分、地位の者が弁えなければならない公理と思います。要するに「我さえ良ければ」で行くのか、共生公務的に行くのかの問題だと思います。人は気質とか環境とか時代状況によって前者的になったり後者的になったりすると思っております。

 マルチ商法だけを槍玉に挙げるのは魔女狩りだと思います。何度も言いますが、マルチ商法は案外魅力的なビジネスなのです。問題は、今現在のシステムの場合、れんだいこは手を出そうとは思いません。食えるところまで行くのは大変だと思います。歌い文句は共生ですが、実際にはそうなっておりません。しかし、そういうシステムは作ろうと思えばできると思っております。頭から否定するのではなく一つのマーケッティング手法として考えられるべきで、改良に改良を積み重ねるべきと思っております。

 2008.12.26日 れんだいこ拝

北朝鮮での問題 えこね 2008/10/27 23:04
北朝鮮・金正日総書記の後継候補で長男とみられる男性、パリで脳外科医と接触のもよう
ttp://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00143036.html

 脳出血で倒れた北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の健康状態が注目される中、後継候補で長男・正男(ジョンナム)氏とみられる男性が、このほどパリを訪れ、フランス人脳外科医と接触したもよう。 その後、この医師は、北朝鮮のエスコートでパリを出発し、ピョンヤン入りしたとみられる。 先週、正男氏とみられる男性が、パリ市内にある病院に入っていった。 脳神経外科の病棟に入ったとみられ、2時間後、病院から出てきたところを直撃した。 正男氏とみられる男性は「お父さんの病状について何か? 病状はよくなってますか?」との問いに、無言っだった。 正男氏とみられる男性は、金正日総書記の病状や、後継についての質問には何も答えなかったが、時折笑みを浮かべ、去り際には、手を挙げる余裕を見せた。 パリ有数の病院に、正男氏自らが訪れたことから、父・金正日総書記の健康管理問題に関しては、長男の正男氏が直接指揮を執っていることがうかがわれる。 また、正男氏の余裕の表情などから、金総書記は、脳疾患を患っているものの、危機的な状況ではないと推測される。 そして、この2日後には、正男氏が病院を訪問した際に接触したとみられるフランス人脳神経外科医が、パリに駐在するユネスコ北朝鮮代表部の車でシャルル・ドゴール空港に現れた。 フランス人医師は「(金正日氏総書記の治療に行くんですよね?)知りません。(これからどこへ?) 北京に行きます」と答え、「ピョンヤンに行くのか?」との質問には、否定しないまま、出国した。 この医師は、金正日総書記が、脳出血で倒れた際も治療にあたったとみられ、今回も継続治療の一環として、ピョンヤンに向かったとみられている。 コリア・リポート辺 真一編集長は「これまでの正男氏の姿や身なりは、とても次期後継者とは思えない。今回は非常にまともな格好ですね、倒れた父親・金正日総書記のために奔走している」と話した。 (10/27 11:52)

Re:北朝鮮での問題 れんだいこ 2008/10/28 11:54
 えこねさんちわぁ。北朝鮮問題の情報有難う。れんだいこは、北朝鮮、韓国、中国、台湾問題について、日本史上の幕末維新以来、本来はアジア共栄圏に向かうべきだったところ捻じ曲げられて、アジア諸国の分裂と抗争に誘導された近現代史と見なしております。今後の歴史的方向は、この捻じ曲げに対する是正になるべきだと考えておりますが、さらに分裂抗争するよう仕掛けられていますので予断できません。

 この間、隣国事情として北朝鮮、韓国、中国、台湾問題に精通していかねばなりません。れんだいこは、案外と連動しているとみなしております。日本左派運動が勇めば韓国、中国、台湾に連動します。逆もそうでせう。その点、北朝鮮だけは孤高のあるいは孤低の地位を保っているようです。しかしいずれ変化するでせう。どう変化するのか、それが肝心ですけれども。

 2008.10.28日 れんだいこ拝

Re:イラク戦争の戦費「少なくとも3兆ドル」 れんだいこ 2008/10/29 21:26
 えこねさんちわぁ。貴重な情報紹介有難う。

 米国の著名経済学者、ジョゼフ・スティグリッツ(Joseph Stiglitz)氏の「The Three Trillion Dollar War: The True Cost of the Iraq Conflict(3兆ドルの戦争:イラク戦費の真実)」の刊行、「イラク戦争戦費少なくとも3兆ドル(約305兆円)」、「イラク戦争における米国の出費は、12年にわたったベトナム戦争をすでに上回り、朝鮮戦争の2倍以上に膨れ上がっている」との指摘こそ真の学問らしいやね。

 同じ事を先にいえない日本の学者はダメですねぇ。狂人小泉時代に名宰相と持て囃していましたが、全く学ぶほどに馬鹿になる漬ける薬が無い連中ですネェ。この手合いは今、サブプライムがどう、金融危機がどう、思い切った補正予算がどうと懲りない説教聞かせてくれております。

 その点、西欧系の学者の学問センスはまだましですね。遅まきながらもこういうことを指摘してくれました。誰が考えてもオカシイわね。ベトナム戦争時に戦費問題が喧騒されたのに、現下のアフガンーイラク戦争では今日まで誰も問わない政治が続いてきております。れんだいこはもやもやが消えず燻っておりましたが、少々スッキリしました。もっとも英文では読めませんので、どなたかの翻訳をあてにしたいです。訳が拙ければ、これまたもやもやしますので、れんだいこ訳を出します。

 それにしても、イラク戦争戦費少なくとも3兆ドル(約305兆円)と云うからには実際には5兆ドル(約500兆円)になりますか。これに日本政府と銀行が幾ら注ぎ込んだのか、これを明らかにせねばなりませんね。聞くところによると銀行はこの間、法人税が無税に優遇されており、この相当分がそのまま海外へ持って行かれているようです。それでいて国内融資には傲慢不遜な姿勢で臨み、海外にはザル審査。無茶苦茶ですね。でも誰も怒らない。これもまた無茶ですね。

 マスコミは、あれほど騒いだロス事件の被疑者三浦が不審死したと云うのに、各社郭を並べて追跡しませんね。今や必要な情報が報道されず、官許情報のみが喧騒されております。嫌な時代ですね。れんだいこは堪りかね、ネット・メディア立ち上げに向かおうと思います。ご支援よろしくね。

 2008.10.29日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評483 れんだいこ 2008/10/30 21:56
 【れんだいこの新邪馬台国考】

 2008.11.1日、映画「まぼろしの邪馬台国」が間もなく全国一斉放映される。内容は、昭和40年代に邪馬台国ブームを巻き起こした「まぼろしの邪馬台国」の著者にして盲人の宮崎康平氏の邪馬台国探求の旅史のようである。監督・堤幸彦、主演・吉永小百合、竹中直人。これを機会に、れんだいこの邪馬台国論をもう一ひねりしておく。

 邪馬台国論の意義について確認しておく。紀元3世紀頃の日本の国状を記した中国の魏の史書に通称「魏志倭人伝」が遺されている。同書は邪馬台国と女王卑弥呼について詳述している。他方、日本の自前の国史は7世紀に編纂された「記・紀」から始まるが、奇妙なことにこの「記・紀」には邪馬台国の記述が全くない。女王卑弥呼についても僅かに神功皇后のくだりに出て来るぐらいで抹殺されている。古史古伝各書にさえ出てこない。

 これは何故か。その理由は不明であるがここが詮索されねばならないのではなかろうか。考えられることは、魏志倭人伝の記述する邪馬台国がそもそも今日の日本列島上のできごとではなく、これに繋がる歴史を記述したものではないという場合と、何らかの理由で伏せられていると云うことのどちらかであろう。さて、どちらの判断を選択するべきか。

 れんだいこは、「何らかの理由で伏せられている」と読む。その理由までは分からなかった。云えることは、中国の三国志時代つまり曹操、劉備、孫権、諸葛孔明等々錚々たる人士が活躍していたあの時代に、日本では邪馬台国女王卑弥呼が遜色ない存在振りを示していたことである。魏志倭人伝には、この卑弥呼の特異な能力、日本の国勢図、風俗習慣、法律、社会組織等々が格調高く且つ簡潔に述べられており、極めて意義が高い史書となっている。ところが、繰り返すが、それは中国の史書に記載されているだけで、日本の史書には対応する記述が出てこない。オカシナことである。

 今日、日本という国家の破局、破滅、溶解が視野に入りつつある。この時、魏志倭人伝を相聞し、古里を訪ねるようにして故事来歴を紐解き、我が国の最も古い時期の日本の国家創世記を知ることは貴重と覚える。綿々と続いてきたこの歴史のうちの何を失ってはならないのか、それを一人一人が胸に治めることが必要なのではなかろうか。「古きを尋ねて新しきを知る」の言葉通りである。

 邪馬台国論争の意義について確認する。以下の観点の打ち出しは、目下れんだいこの独眼流となっている。この観点が広く認められれば、邪馬台国論争は一層内容豊かなものになるであろう。れんだいこに云わせれば、邪馬台国論争の核心は、邪馬台国の所在地を野次馬的に凡百の処々に比定することにあるのではない。又、3世紀頃の日本の国体国勢状況を明らかにするという意義に止まるのではない。これらに終始するならば片手落ちと云える。

 この論争の歴史的な責務は、魏志倭人伝乃至その他各史書により明らかにされる紀元3世紀頃の倭国の国体状況としての邪馬台国及び女王卑弥呼及びその他諸国の存在と、後に「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる大和王朝建国神話との整合性を探査することにある。わが国の最初の王制国家として認められる大和朝廷との絡みの解明と言い替えても良い。

 つまり、プレ大和朝廷としての邪馬台国及びその連合国家の存在を、大和王朝とどう絡ませるのか。次のように案が分かれる。1・直系説(邪馬台国を大和朝廷の【直系】先行国家として了解するのか)、2・亜系説(大和王朝は邪馬台国と対立していた狗奴国が創出するのか。この場合は【亜系】先行国家として了解することになる)、3・異系説(邪馬台国、狗奴国いずれもが新興国家としての大和朝廷に滅ぼされた側なのか。この場合は邪馬台国を【異系】の先行国家として了解することになる)。4・他系説(邪馬台国と大和王朝には歴史的なつながりが認められないのか、この場合は邪馬台国を【他系】の先行国家として了解することになる)。

 邪馬台国論は、上記4説のどちらが歴史の真相なのかという王統譜の究明にこそ核心的な意義が認められるというべきである。そのいずれの場合においても、大和朝廷は畿内に発生した訳であるから地勢的には畿内が焦点となる。邪馬台国の比定を廻って三分される畿内説.九州説、その他説は、当然のことながら以上の緊張関係を廻って論争されるべきで、かく意義づけられなければならない。ところが、実際には、この緊張を欠いた邪馬台国論が横行している。

 邪馬台国と大和王朝の関係如何と云う王統譜の究明は、実践的には「記.紀」により語られる神武天皇東遷説話とこれに纏わる建国神話に対する認識の差となって表れる。直系.亜系.異系の場合には、畿内説の立場に立てば神話的な色彩を強めることになり、九州説に立つと史実的な色彩を増すという構図になる。他系の場合には、実践的な変化を蒙らない。

 王統譜問題を通俗的に概略すれば、「記.紀」神話において古代の神々が天津神系と国津神系とに二分されていることに鑑みて、邪馬台国はどちらの神々の系譜に列なる国家であったのかという問題とも言い替えることができる。肝心のここのところを究明しようとする緊張感のないままに論を拡散させることは、いたずらなミステリーの意味しかもたないことになるであろう。

 この王統譜の解明は史実上の意義に止まらない。邪馬台国から大和朝廷に至る政変は、日本史上の権力移行の質的な大変化を招来した歴史的一大事件であったことにより、この時のドキュメント委細が恐らく我らが祖先の遺伝子にくっきりと情報として刻み込まれており、この情報は、はるけく今日現代までわが国の政治状況、経済、文化への影響が認められ、つまり国民性の特質を形成してきており、諸般の歴史的な因果にまで影響を及ぼしている。かく推測できると思われる。そうであるが故に、邪馬台国論争は単に古代のロマンを追うに止まらない。極めて現代的な課題を衣装しているテーマでもあり続けているということにもなる。

 長くなったが、これからが本題である。2008.10.30日、れんだいこはふと気づいた。邪馬台国の所在地論争はひとまず措いておくことにしよう。れんだいこは未だに確定できないから。それはそれとして、邪馬台国が何ゆえ史上抹殺されたのかに付き正面から詮索すべきではなかろうか。かく論を構える必要を感じた。

 これにつき、れんだいこは、古代史のあれこれを渉猟するうちに、大和王朝以前に縄文系アイヌ蝦夷王朝がかって存在したと考えるべきで、邪馬台国はアイヌ蝦夷王朝の興亡史と関係しているのではなかろうかと気づいた。大和王朝が結果的に平和的連合部族国家として存在していたアイヌ蝦夷王朝を暴力的に打倒し、記紀神話がその正統性を記した為に、先行して存在していたアイヌ蝦夷王朝史を批判的にすら採り上げて記すことができず、故にむしろ意図的故意に抹殺されたのではなかろうか。

 卑弥呼女王率いる邪馬台国は、日本列島上に連綿と続いてきていたアイヌ蝦夷王朝の最後の精華なのではなかったのか。記紀による卑弥呼女王率いる邪馬台国抹殺は必然的にアイヌ蝦夷王朝封印に向かわざるを得なかった。つまり、これを逆に云えば、卑弥呼女王率いる邪馬台国は、アイヌ蝦夷側の王朝であり、少なくとも深く関わっているのではなかろうか。こう考えると、新たな視野が開けてきそうな気がする。

 今のところ、この観点は誰からも披瀝されていない。正確に云えば、れんだいこは知らない。それは荒唐無稽故と云うより存外核心を突き過ぎている故ではなかろうか。そもそも学問と云うのは周辺部分を触って良しとする、政治の風下に立つ学風があるから。魏志倭人伝で仄聞される当時の日本の政体、風俗風習は、弥生文化で跡付けるより縄文文化に近いのではなかろうか。というかそのものではなかろうか。

 このれんだいこ説によると、邪馬台国の卑弥呼は、アイヌ蝦夷王朝の末裔女王として独立の勢力圏として樹立し、古代史上の動乱期を巧みに操舵した。時は、渡来系の高天原王朝侵略軍が日本列島を襲い始め、弥生文化なるものをもたらしつつあった。邪馬台国の卑弥呼は、この期間を数十年に亙って綿って政権運営し、弥生文明の良きところも消化吸収しながら孤高のアイヌ蝦夷王朝を保持したのではなかったか。

 アイヌ蝦夷王朝たる邪馬台国は、卑弥呼没後、当然の如く動乱に巻き込まれた。壹與が後継するが、卑弥呼時代の如くに操舵することはできなかった。時は既に渡来系侵略軍の主導する弥生時代に入りつつあり、縄文時代を象徴するアイヌ蝦夷王朝は斜陽化する以外になかった。

 もう一つ。この壹與の時代のアイヌ蝦夷王朝と出雲王朝が深く関わっているのではなかろうか。アイヌ蝦夷王朝と出雲王朝は、女王権力系のアイヌ蝦夷王朝、男王権力系の出雲王朝と云う点で質が違うので区別されるべきだろう。恐らく女王指揮下のアイヌ蝦夷王朝は騒乱時代を生き延び得ず滅び、代わって政権が出雲王朝に引き継がれ、その出雲王朝が数十年の抗争を経て国譲り政変で最終的に高天原王朝に支配権を奪われる。

 その高天原王朝が追って天孫降臨し、九州の地からうまし国として知られる畿内へ向けて東征に向かう。これが神武天皇東征譚であり、大和王朝建国譚へと至る。大和王朝は、高天原王朝を正統としながら、国譲り政変で恭順した出雲王朝内事代主派を取り込むことで建国に成功する。ここに渡来系天津神と在地系国津神の連合政権として発足する。これが皇紀元年となる。

 ところで、この連合政権大和王朝にまつろわなかった勢力として出雲王朝内タケミナカタ派が考えられる。この派はその後、鬼族として追討される。アイヌ蝦夷派も然りで、蝦夷叉は土蜘蛛族として追討される。こうして、鬼族、蝦夷、土蜘蛛族は、まつろわぬ分子として徹底的に排除討伐されて行く。この過程で、同化帰順した派と転戦し抗戦し続けた派に分かれる。抗戦派は全国に散り、その主力は次第に東へ北へ逃げ延びた。これを追って討伐したのが大和王朝の阿倍比羅夫-坂上田村麻呂に至る征服史なのではなかろうか。

 さて、話を戻す。邪馬台国は、アイヌ蝦夷王朝系の話なのではなかろうか。とすると、高天原王朝系の正統ぶりを記す記紀神話から辿ろうとしても所詮どだい無理な話ということになる。邪馬台国論を究めんとするなら、アイヌ蝦夷王朝史に分け入るべきではなかろうか。出雲王朝譚はその入り口であり、その入り口に辿り着こうとしない史学の現状では遠く及ばないと云うべきではなかろうか。

 この指摘は、興味のない者にはどうでも良い話に過ぎず、興味有る者にはそれなりの反応が生まれて良い衝撃推理の筈である。後は諸賢に任せることにする。

 2008.10.30日 れんだいこ拝

Re:三浦事件雑感 れんだいこ 2008/10/31 19:21
 えこねさんちわぁ。「パナウェーブ事件」、「松岡農相不審死事件」、「イージス艦の漁船衝突による親子行方不明事件」、「三浦ロス市警留置所内不審死事件」等々は最近の見逃せない「マスコミタブー事件」ですね。裏に共通するのは何か、ここがキーになります。「マスコミが採り上げないタブー事件を採り上げるメディア」の創出が望まれていることになります。れんだいこは、これをやろうと思います。

 2008.10.31日 れんだいこ拝

Re:著作権について れんだいこ 2008/11/01 11:23
 松本哲さんちわぁ。久しぶりですね。共生たすけあい党を何とかして踊りださせたいですね。「植草氏のブログがアクセスできなくなり、その理由が毎日新聞の記事を全文転載したことのようで」とのこと、まさに憂慮すべき事態に向かっていますね。著作権問題については、れんだいこは一家言も二家言も盛ってります。新たに分かり易いように然るべき見解を出そうと思います。

 要するに、文章の引用・転載、音楽の歌唱・演奏は同じ事で、著作権法上は所定のルールとマナー的方式さえ守れば「できる」と解するべきところ、現代強権著作権論者は勝手に「できない」解釈し、「要事前通知、要事前承諾制」を持ち込んでおります。場合によっては「承諾の代わりの対価制」を敷いております。これを、著作権法を変えずに手前達が都合のよいように作った業界内規を通用させ、裁判所がこれに追随しているところに悶着の原因があります。ジャスラックの場合には、著作権法違反の酷い悪法を国会通過させ承認させたことにより、これを鬼に金棒として振り回し裁判攻勢で締め上げております。その実態は無茶苦茶です。

 我々が対抗すべきは、現場での抵抗のみならず、著作権法違反ではないかと法律論争でも立ち向かうべきではないかと考えます。当然、政党が国会質疑して問題化させねばなりません。ところが、これをやる代議士が居りませんね。もっと取り締まれ派の議員ばかりです。

 理屈上は、憲法9条と自衛隊の関係に酷似しております。残念な事は、野党は概ね憲法9条問題では護憲するのに、著作権問題では著作権法破りの急進派になっていることです。共産党、公明党はバリバリの強権著作権論派で、ホームページ上でも「勝手に引用転載相成らぬ」と読み取れるような姿勢を他の政党に増して明記しております。実は似たもの同志なんですね。

 こういう訳で、著作権問題は由々しき事態にあります。れんだいこ的には、自称正義派のニセモノと本物を仕分けするリトマス試験紙になっていると考えております。松本哲さん、我らがたすけあい共生党は人民大衆の文化享受、知的欲求充足に対する全幅の権利擁護目指して闘いませう。こんなところで闘わなければならぬお粗末さが現下の日本の政治情況です。自称インテリ派の強権著作権網をペンチで断ち切らねばなりません。

「植草氏のブログがアクセスできなくなり、その理由が毎日新聞の記事を全文転載したことのようで」の内容が判りませんが、様子が明らかになれば、れんだいこが毎日糾弾論をぶち上げたいと思いますので、どなたか情報提供ください。毎日新聞は先日英文サイト「毎日ディリーニューズ」のコラム「WaiWai」の閉鎖事件を起したばかりですが相当狂ってますね。いらわれている気がします。

 2008.11.1日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評484 れんだいこ 2008/11/01 19:32
 【れんだいこの植草ブログ閉鎖事件考】

 松本哲さんの「ご意見を聞かせてください」にお答えいたします。この場合は著作権問題になりましたが、何でも良いです。トピックスな話題についての判断に関わること、その他分からないことについてお尋ねください。れんだいこが分かる範囲でお答えしようと思います。未考察の場合にはそういう風に返答いたします。れんだいこの生をそうい形で燃焼させて見たいのです。参考意見になるぐらいのできにはしたいと思います。実は、そういう掲示板にしたいんだ。皆さん、よろしくお願いますね。

 れんだいこの「植草ブログ閉鎖事件」見解は、植草氏無罪です。でも、当人が「メールを見損なった」とか言い訳しておりヨタヨタしているみたいですね。誰か、このれんだいこ見解を届けてあげてください。

 植草氏は無罪である。なぜなら、推測するのに植草ブログの原文は、1・自身の主たる文章に対する従たる引用転載にして、2・出所、出典を明らかにし、3・何らの改竄、歪曲加工もしていないからである。著作権法上許容されている時事評論の引用転載要件を全て満たしており、これが著作権法違反とされるには及ばない。これを正式の受け止め方とすべきです。

 しかしながら、毎日新聞社は、次のような妙な抗議をしている。その1は、「毎日新聞の記事が全文転載されている」と云う。毎日よ、ちょっと待て。同じ利用されるのなら、全文転載は却って望ましいのではないのか。部分引用転載の場合こそ、よほど上手にしなければ趣意違反になる恐れがある。れんだいこは、そういう引用転載を見てきた。そもそも 著作権法では、引用転載につき「主たる自身の文章、従たる引用」という規定はあっても、「される側の文章の全文引用転載不可、部分引用可」というような規定はない。つまり、毎日新聞社側は、法に拠らず恣意的解釈による批判をしていることになろう。

 その2は、「前後の脈絡から掲載する必然性もなく、著作権法上認められた引用にあたらない」としている。毎日よ、ちょっと待て。「前後の脈絡から掲載する必然性」判断は主観的なものであり、毎日新聞社から見ればそうであっても、する側から見れば必然性があるかも知れない。実践的には、必然性はなくても参考、補強として引用転載する場合もある。そもそも著作権法では、「引用転載必然性あれば可、参考補強的引用転載不可」というような規定はない。つまり、この場合も法に拠らず恣意的解釈による批判をしていることになる。

 こうなると、毎日新聞社の批判の源泉を訪ねねばならない。れんだいこ調査によると、毎日みならず新聞各社、のみならずマスコミ各社が著作権狂いしている。その原点は、「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」である。ナベツネ派のマスコミ支配と共に導入されたものであり、それだけで胡散臭さが分かろう。

 彼らが何故に著作権法違反までして「引用転載制限」に興じているかを問題とせねばなるまい。この流れは1980年代に入って強められたもので、それから30年になるが決して長い間認められていると云うほどのものではなく、歴史に定着したものではない。否、戦後日本政治がハト派からタカ派へ転換した1980年代初頭の中曽根政治の登場と共に強められている政治現象でしかない。そう弁える必要がある。

 ジャスラックの場合は、対価制による収入源として強権的著作権を弄んでいるのだが、メディア各社の場合には必ずしもそうではなく偏に情報規制の観点から導入しているように思われる。そもそも強権著作権論の登場は、ヒトラーの在りし日の人格識見についてやや好意的に言及していた文章に対する弾圧から始まった。そういう極めて政治性の強い規制であることが知られねばならない。

 れんだいこに云わせれば、言論は自由であるべきなのではないのか。仮にヒトラーは望ましくないとしても、ヒトラー関連記事そのものまで規制すべきであるのかは疑問とすべきだろう。でないと、我々の知の欲求が扁平なものにされてしまうではないか。政治も、歴史も、文化も、学問となれば異論、異端がつきものであるべきであり、通説しか学ばせないとするのはオカシイのではないのか。善意面で規制論を説く者は思い上がりも甚だしいと云うべきではなかろうか。

 これを思えば、我々は、「情報規制」に対する反対、粉砕、打倒を掲げて闘わねばなるまい。何やら安保問題と通底していることが分かろう。ややこしいのは、安保反対、粉砕、打倒を掲げる政党が著作権問題では強権派に位置して推進派になっていることであろう。

 しかし、これでさえ、れんだいこにはいとも容易く解ける。安保反対、粉砕、打倒派にして著作権強権派なる存在は有り得てならず、それが存在すると云うことはニセモノだということに他ならない。そういう意味で、著作権問題はまさに左派識別のリトマス試験紙的地位を占めていることになる。日本左派運動が長らく、このニセモノによって主導されていることが日本左派運動の貧困をもたらしているのであり、一刻も早く人民大衆の利益に立脚する左派運動へ転換させねばなるまい。そういうことになる。

 最後に補足しておく。著作権法は税法並みの膨大且つ難解な法規にされている。そういう意味で、じっくりと目を通すこともなく安逸に時代迎合している強権著作権派が多い。実際の著作権法は、旧法は憲法との絡みを留意しており、新法はかなり強権著作権派の主張を取り入れているが、全体的には旧法の精神を受け継いでいる。

 故に、近時の強権著作権派が説くような「要事前通知、要事前承諾、要対価制」など記していない。新法になって規制しているような規定も挿入されたが、依然として骨格は「引用転載できる」立場から諸規定している。その条項が圧倒的に多い。いずれにせよ、論議の対象となるべきである。この時点で、「解決済み」などと云うおめでたい輩が登場して著作権棒振り回すのはよほどの事大主義者と云うほかなかろう。このことを知っておく必要が有ろう。

 参考までに、れんだいこの労作を示しておく。

 著作権考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/)

 植草ブログ閉鎖事件考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/webtyosakukenco/uegusabrogheisazikenco.htm)

 「ヒトラー古記事問題」で見えてくる著作権の本質
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/tyosakukennohonshituco.htm)

 著作権法考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/lawco/lawco.htm)
 
 「日本新聞協会編集委のネットワーク上の著作権に関する協会見解」考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/kigyotyosakukenco/shibunkyokainokenkaico.htm) 

 2008.11.1日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評484 松本哲 2008/11/02 11:12
> 【れんだいこの植草ブログ閉鎖事件考】
>
>  れんだいこ党首、見事なご意見改めて感動しました。今日の植草氏のブログに補足説明が掲載されていますから転載しておきます。
植草一秀氏の『知られざる真実』
ttp://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/
ブログへのアクセス禁止措置に際しましては、多くの皆様にご心配をおかけしまして、誠に申し訳なく存じます。ココログ様からのメール確認が遅れたことが、ブログ一時閉鎖の原因になりましたが、若干の補足説明をさせていただきます。


10月28日付のココログ様からのメールには、以下の記述がありました。


「毎日新聞社より著作権に関するご連絡をいただいた内容について、権利者の許諾を得ていない場合は速やかに該当箇所を削除いただくよう弊社より連絡させていただきましたが、あらためて確認いたしましたところ、現在も状況に変化が見受けられませんでした。


つきましては、10月30日(木)正午までに、下記の項目についてご対応いただきますようお願いいたします。期限までに対応を行っていただけない場合には、弊社会員規約に基づき、やむを得ず弊社側で該当記事を削除させていただきますので、ご承知おきください。」


ところが、その後、期限日時経過とともに、突然、ブログへのアクセス禁止措置が取られ、事後的にブログを閲覧できない状況にしたとの通知がありました。


ココログ様の事前通知通りに、該当記事が削除されたのであれば大きな混乱は生じなかったはずですが、事前予告なく突然、ブログへのアクセス禁止措置が取られたために、皆様に大変なご心配をおかけしてしまうことになってしまいました。当日午後は、朝日放送で民事訴訟和解に基づく「お詫び放送」が実施されましたので、ブログへのアクセス数が急増することが予想されておりましたが、そのタイミングに合わせてブログへのアクセス禁止措置が取られたことについては遺憾に感じております。

Re::れんだいこのカンテラ時評484 れんだいこ 2008/11/02 12:20
 松本哲さんちわぁ。

> >  れんだいこ党首、見事なご意見改めて感動しました。今日の植草氏のブログに補足説明が掲載されていますから転載しておきます。

 お褒めいただき有難う。「植草氏のブログに補足説明」につき、少しコメントしておきます。

> 10月28日付のココログ様からのメールには、以下の記述がありました。
> 「毎日新聞社より著作権に関するご連絡をいただいた内容について、権利者の許諾を得ていない場合は速やかに該当箇所を削除いただくよう弊社より連絡させていただきましたが、あらためて確認いたしましたところ、現在も状況に変化が見受けられませんでした。
> つきましては、10月30日(木)正午までに、下記の項目についてご対応いただきますようお願いいたします。期限までに対応を行っていただけない場合には、弊社会員規約に基づき、やむを得ず弊社側で該当記事を削除させていただきますので、ご承知おきください。」
> ところが、その後、期限日時経過とともに、突然、ブログへのアクセス禁止措置が取られ、事後的にブログを閲覧できない状況にしたとの通知がありました。

 流れが分かりました。ニフティーも現代強権著作論派の見解に与して、何ら闘う事もなく言いなりになっているようですね。少しは2チャンネルの確か西村氏を見習ったらどうなんだ。

> ココログ様の事前通知通りに、該当記事が削除されたのであれば大きな混乱は生じなかったはずですが、

 ここですが、植草氏は、「削除の必要無し」とする立場で争えば良いのにと思いますが、これ以上裁判攻めにされるのは厄介と思ったのかも知れません。彼の本当のところの考えが分かりません。

> 事前予告なく突然、ブログへのアクセス禁止措置が取られたために、皆様に大変なご心配をおかけしてしまうことになってしまいました。当日午後は、朝日放送で民事訴訟和解に基づく「お詫び放送」が実施されましたので、ブログへのアクセス数が急増することが予想されておりましたが、そのタイミングに合わせてブログへのアクセス禁止措置が取られたことについては遺憾に感じております。

 そうなんだ。植草氏はこの頃、朝日放送との民事訴訟和解顛末でメールに目を通すどころではなかったんだということがわかりました。「ヨタヨタしている」というのは訂正しようと思います。願うらくは、彼も著作権問題の被害者になった訳であり、これを機会に「強権著作権論粉砕打倒」人士に移し身して欲しいと思います。

 新聞情報の引用転載できないのなら、彼らにプレス特権与えてはなりません。官邸情報、政府要人の記者会見情報は彼らの一手独占になっておりますが、これに著作権適用し、我々が利用するのに「要事前通知、要承諾」の障壁を設けるのは問題ありでせう。ならば、引用転載自由とする我々のプレス代表を送り込まない限り、我々は情報閉塞されてしまう。公正取引委員会に判断して貰わねばなりません。公正取引委員会があてにならないのなら、れんだいこが腕章つけて乗り込み、すぐさま記事にして世間に広報せねばなりません。それをできないようにしておきながら、著作権棒振り回すというのは、かなり得手勝手な連中ということになります。

 新聞各社を筆頭とするマスコミ業界は、こういう「エエトコ取り」に浸っております。しかしながら、そういう「エエトコ取り思想と行動こそが諸悪の元凶」であり、そのニギ二ギ派のプレス各社が天下りに典型的な「官僚のエエトコ取り」を批判しております。マンガですね、同じ穴のムジナでせうに。やっぱ体制打倒ですな。この腐った構図を世直し世の立替せねばなりません。たすけあい共生党の出番なんだきっと。松本さん、植草氏をオルグってくれませんかふふふ。経済部門担当相になってもらおうと思うんだ。

 2008.11.2日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評485 れんだいこ 2008/11/04 20:26
 【著作権収入で身を滅ぼした小室哲也考】

 2008.11.4日、小室哲哉・音楽プロデューサー(49歳)が逮捕された。直接の理由は、兵庫県内の個人投資家に音楽著作権の譲渡を持ちかけ5億円をだまし取った容疑とのことである。「元妻に離婚慰謝料7億円を請求され、著作権使用料が差し押さえられている。本契約を締結したいので、差し押さえの解除に必要な5億円を先に支払ってほしい」と相談し、自身が関係する口座に5億円を振り込ませた。ところが、著作権の一部は既に音楽会社「エイベックス・エンタテインメント」などにあり、小室プロデューサーに著作権譲渡の権限はなかったという。

 2007.10月、小室プロデューサー側は逆に投資家を相手取り、慰謝料など1億円や債務不存在の確認を求める訴訟を神戸地裁尼崎支部に起こした。一方、投資家も5億円の返還などを求める反訴を提起した。2008.7.23日、小室側が、投資家の逸失利益1億円を加えた6億円を支払うことで和解が成立した。しかし、期限の9月末までに一部しか支払われず、10月初め、投資家は、小室プロデューサーを詐欺罪で大阪地検に告訴した。かくて大阪地検特捜部が詐欺容疑で逮捕するに至ったという顛末のようである。

 我々は、この事件から何を窺うべきだろうか。れんだいこは、いとも容易く解くことができる。これを披瀝して、諸賢の賛否を仰ぐことにする。

 この問題は、小室が思いもかけぬ高額の音楽著作権収入を得て却って我が身を滅ぼした社会的事件であると断じたい。根源は、「行き過ぎた音楽著作権収入の構造問題」にある。こう述べただけでは、どこが行き過ぎの不当利得なのか分からない者も多かろうから、れんだいこが解析しておく。

 一般に、近現代に入って以降、著作権収入なるものが登場し始めた。いわゆる著作権者及び版権者の他の著作権者及び同業他社に対して主張する権利である。当初は貞女の如くひそやかに登場した。仮にここまでは認められても良い。著作権法は、ここまでを仕切りとして認めている。

 だがしかし、著作権が著作権法の枠を食い破って暴走し始める。貞女が悪女へと化け始める。管轄する旧文部省と日本音楽著作権団体ジャスラックが癒着し、特殊権益化へ向けて悪巧みし始める。創作時の著作物の権利を仮に第1次著作権(創作著作権)とすれば、これでレコード、CDなどから稼ぐ。次に第二次著作権(カラオケ機器等の送信著作権)を生み出しカラオケ機器メーカーから稼ぐ。仮にここまでは良いとしよう。

 更に第三次著作権(店舗向け歌唱演奏著作権)まで行き着き、歌唱演奏させる機会を提供した店舗に対して利用対価料なる料金を発生させて行く仕組みを構築している。店舗はこれにより、カラオケリース料にジャスラック料を別々に払わされる。当然それが顧客の料金に転嫁する。次に予定されているのは第四次著作権(個人向け歌唱演奏著作権)であろう。こうして末端レベルでの歌唱演奏が次第に馬鹿高くなりつつある。

 このマジックにより、徴税機関としてのジャスラックが社団法人格であるにも拘らず、まばゆいばかりの金貨を集積し始め1兆円産業化し始めている。そのおこぼれが著作権者、版権者に配分されていくことになっている。この恩恵を最も享受したのが小室プロデューサーであり、いったん稼いだあとの作品で更に労せずして1億円に優る収入が年々約束されることになった。

 小室プロデューサーは、この金貨に目がくらみ、人生を大きく狂わせて行くことになったと推測される。恐らく様々の事業に手を出し、俄か成金ゆえに予定外の高収入を手にしたことにより杜撰経営に陥る。毎年入金してくる著作権料を担保にして事業継続する。だがしかし、音楽創造能力と事業能力は別物であり、小室プロデューサーは次第に深みに嵌る。こたびの事件が報道された通りのものとすると、その延長線上でもたらされた金欠詐欺事件なのではなかろうか。

 一体、何が小室プロデューサーを狂わせてしまったのか、どこがオカシイのか、これを明らかにせねばなるまい。れんだいこの著作権法理解によると、ジャスラックが頻りにプロパガンダし、云う事を聞かぬとなるとサラ金も驚く金利以上の別枠料金に切り替え、裁判攻め、逮捕攻めしているところの、第三次著作権(歌唱演奏著作権)こそがオカシイと考える。これにより、全国数十万店のスナック、カラオケボックスが徴収対象とされている。集金が順調に行けば笑いが止まらぬ美味しい話だろう。

 ところで、他の業界の著作権と比較すると、このような課金制はない。最近文芸著作権団体が猿真似し始めて入るけれども。業界団体は本分として業の目指す文化の普及に勤め、庶民大衆が愛好すれば普及ボランティア功労者として感謝状を出すことこそすれ、著作権法違反だとして料金請求するなどという発想が思いつかない。むしろ邪道として却下している。れんだいこは、これが健全な業界の在り方だと思う。

 ところが、ジャスラックの音楽著作権法理解は断固として異なる。彼らは、我々の著作権理解が先進国的文明国的であり、旧式のそれは時代遅れの野蛮であると説教して聞かしてくれる。しかしながら、れんだいこは、ジャスラック式音楽著作権理解こそ野蛮であり、分かりやすく云えばユダヤ商法化しており、ゼニの臭いのするところなら何にでもどこにでも首を突っ込み、理屈を創造し、業界の健全な発展を建前のお題目にさせ、金貨の自動集積システムを創り上げんとしている。れんだいこは、邪道と断じる。

 小室プロデューサーは、ジャスラック式音楽著作権理解の手の内の踊り子に過ぎなかった。遂にバブルに溺れ、疲れ、創作能力にまでダメージを負った。今やミニ小室があちこちに現出している。それはそれとして、ジャスラックの役員になることにどれほどの余得があるのか判らないが、評議員、理事、その他役員の数が滅法多い。これも問題であろう。

 事情通にしか分からないが、ジャスラックの歌唱演奏課金制は、実際に歌唱演奏された音曲につき課金すると云うシステムを開発しておらず、便宜法としてスナックの場合には面積割、放送局の場合には営業収入の5%としている。れんだいこは、こういう杜撰な課金制がよくも通用しているとあきれてしまう。そうやって集めた料金を分配しようにも、誰にどう分配すれば適正かと云う基準がないのは当然で、つまりはさじ加減にならざるを得ない。これが罷り通っている。

 それらを思えば、阿久悠の潔さはどうだ。あれほどヒット曲を量産しながら、ジャスラック如きと無縁に身を保全した気配がある。れんだいこは、阿久悠は最後まで意志的にジャスラック役員にならなかったのではなかろうかと推定している。詳しいことは分からない。仮にそうであれば、我々は、その姿勢を高く評価すべきだろう。

 以上が、「れんだいこの小室逮捕事件考」である。我々は、この事件を奇禍として、我が国の著作権行政の本来のあり方を求めた方が良い。現下の著作権侵害理論による集金制は、著作権者にも版権者にも人民大衆的にも良くない。つまり、みんなをそれぞれに不幸にしている。一体、我々が歌を歌ってカネが要ると云うのが変ではないか。本当に要るのか。

 我々が相撲をとったからといって、相撲協会に金を払わねばならないというような理論は聞いたことがない。送信料を取った上に歌唱料がいるとしたら、いつの日か聴衆料までとられることになるのではないのか。あるいはジャンル別課金まで可能性が考えられる。つまり際限がない。そういう理論はいったんぶち壊した方が良い。小室事件を、そういうことを考える契機にしたいと思う。

 小室プロデューサーは一から出直した方が良い。もは金輪際、金貨に振り回されぬ方が良い。溜まってしょうがないなら世の然るべきところに寄付などしてボランティアすれば良い。戦後日本には、こういう芸人が少な過ぎる。その他委細言及すれば長くなるので簡潔に以上の発言とする。

 2008.11.4日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評486 れんだいこ 2008/11/06 19:40
 【まともな政治論評のなさは何なんだ】

 この間、上耕が死に、航空幕僚長の田母神論文問題が発生し、オバマが次期米国大統領に選出されると云う事件が発生している。これに対するまともな政治論評が見受けられない。この現象は何なんだろうか。れんだいこは、マルチ商法問題、植草転載事件問題、著作権問題、小室詐欺事件問題に言及してきた。上記の事件にも言及しようと思えばできぬ訳ではないが、れんだいこが何もかも発信せねばならぬこともなかろう。そういう思いでやり過ごしているが、それにしてもスローモーだ。いつからこんな時代になったんだろう。

 れんだいこのスタンスをスケッチしておこうと思う。上耕論で、巨星落つなる表現で追悼するのは違うと思う。上耕が穏和な人柄であったことは分かるが、彼は政治家であるからして第一に政治業績で表現されねばならない。この観点から評すると、彼は歴史に何らか良い仕事を遺しただろうか。日本共産党の要職にありながら、仮に彼の路線が正しかったとして、目指すところの政権に一歩でも近づけただろうか。ノーであろう。そういう意味で、彼は誉められるよりは政治責任を問われるべきであろう。この間の数々の論文で、今日時点で指で目を覆わずに読めるものは何もない。「畳の上で死ねた革命家列伝史」に登場することは許されようが、革命家としては出来損ないには違いなかろう。このスタンスの上で評されるべきではなかろうか。いずれ、折を見て評論しようと思う。

 航空幕僚長の田母神論文問題は難しい。問題は歴史観にあり、左派が田母神論文の諸内容に対して対抗弁論できる能力があるかどうかが問われている。明治維新論、大東亜戦争論、戦後に本論に繋がるが、左派は受け止める力を持っているだろうか。れんだいこは不審を抱いている。この辺りにつき演繹法的なおざなりの反論で糊塗し、その腹いせの代わりとして政治責任追及運動に流れようとしているのではなかろうか。肝腎の、「田母神論文登場の政治的意味の考察」に向かうのは視野外であろう。これも、いずれ折を見て評論しようと思う。

 2008.11.7日、オバマが米国大統領選に当選すると云う事件が起こった。この解析はもっと難しい。れんだいこは、忽ちは情報収集に入ろうと思う。オバマがこのまま順調に大統領に就任するとして、オバマ政治がどのようなものになるのか、その正邪、近現代史に於ける歴史的意味を問おうと思う。これは容易にはできないが、これができないと評論できまい。

 興味深いことは、日本の言論界が、ブッシュの時にあれほど阿諛追従し、その政策転換を掲げて登場したオバマの時にも同じく盲従するとするならば、この連中のペンの責任は一体どういう構造をしているのか、ということになる。我々は、その厚かましさを見せられていくことになるのだろう。そして、誰も、それを不自然とも思わない。こうして、便利なペンの正義が永遠に超伝導の如く続いて行くことになる。こういう推移が予想されるが、れんだいこには真似のできない芸当ではある。こういう人間性でないと、この時代を生き抜くのが難しいのかも知れない。

 それはともかく、上記三事件は、何らかの言葉にしておかなければ気が済まない事件である。にも拘らず、何事もなかったかのように新しい政治に向かっての饒舌が始まっている。しかしながら、過去の事件に於いて必要な言及ができないままの能力で論評するのであるからして無内容なことは論をまたない。そういう訳で、れんだいこは、この時代を「饒舌無内容失語症、著作権隆盛時代」と断じている。オバマならずともチェンジを言いたくなるではないか。

 2008.11.6日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評486 こげぱん 2008/11/06 23:30
 れんだいこさん、ご無沙汰しております。

さてオバマですが、ブログに駄文を投稿しました。
ブログともどもご笑読いただければ幸いです。

小室哲哉氏については、機会があれば著作権とは別の観点から見ることにしたいです(予定は未定w)。

---
ttp://ameblo.jp/sunshine-berkeley

2008-11-05 07:25:30
”モーセ”オバマは、世界をどこに導くか
テーマ:オバマ

(by こげばん)

本日はいよいよ今後4年間の世界を左右する、アメリカ大統領選挙の投票日。よほどの変事がなければ下馬評通りオバマが次期大統領に当選するであろうが、気の早いThe Economistなど、投票開始前から早々にオバマ当選と上下院での民主党勝利を予測している。
---
ttp://www.economist.com/world/unitedstates/displayStory.cfm?story_id=12542484

The presidential election
The end of the ride

Nov 4th 2008
>From Economist.com
After an exhausting contest, Barack Obama is expected to win today
---

さて「規定路線」ではあったろうオバマ大統領誕生を見越してか、アメリカ民主党リベラル系シンクタンク・ブルッキングス研究所所長Strobe Talbott氏(クリントン政権国務次官)が、次期大統領に対し以下のような提言を行っている。
---
ttp://www.brookings.edu/opinions/2008/1102_governing_talbott.aspx?p=1

America's Next President Must Master the Tyranny of the Urgent-ThePresidency, Proliferation, Climate Change, Terrorism, Trade

Strobe Talbott, President, The Brookings Institution
Financial Times
November 02, 2008 ―
---

上記論文でタルボット氏は、次期大統領が解決すべき課題として、

・京都議定書に代わる、新しい地球温暖化防止枠組の創設
・核不拡散体制弱体化阻止、または再活性化
・ドーハラウンド行き詰まり後の、新世界貿易秩序の蘇生
・実効性のある手段をもって、世界的貧困との戦いを推し進める
・必要なら、世界的疫病の発生に備え、その予防策を講ずる
・「非民主的国家」や、彼らが支援するテロリスト集団を制御する(ブッシュ政権の「対テロ戦争」に代わる)新しい方法を構築する

の6点を指摘している。

さらにタルボット氏は、上記課題解決の前提条件として金融危機脱却と自由貿易体制堅持を指摘しながらも、環境対策として原子力への依存を主張し、それ故に核不拡散体制強化が必要であると指摘し、つまるところアメリカ次期政権最大の任務は、「相互依存を深める世界を管理する、よりすぐれた方法を見出す」ことであるとし、「それのみが陰りの見えるグローバリゼーションを活性化する方法である」と結んでいる。

ブルッキングスは以前にも「アメリカ次期大統領が直面する10大世界経済問題」と題する論文を発表していることを本ブログでもとりあげたが、

ttp://ameblo.jp/sunshine-berkeley/entry-10153116586.html

こちらの論文では地球温暖化対策として、排出枠上限設定と排出権取引(cap-and-trade)や環境保護へのインセンティブ設定、環境対策への長期的投資、貧困対策など、どれをとっても統制経済色の強い政策が提言されている。

これらの論文を見る限りでは、オバマ次期大統領はこれまでの軍事偏重・乱稚気レッセフェール経済に代わり、自由貿易体制を堅持しつつも統制経済色の強い政策を導入すると予測される。

このオバマの環境志向を楽観的にとらえれば、環境技術で世界をリードする日本企業の出番といえるかもしれないが、反面環境保護の美名の下、産業発展が厳しく制限されたり、新世界秩序の下、米中による東アジア共同管理が進み、Japan Nothing状態がさらにひどくなる事態も考えられる(現にブルッキングス10大世界経済問題には、日本は含まれていない)。

わかりきった話と言われればそれまでだが、日本にとってオバマ政権の誕生は、決して手放しで歓迎できるものではないといえるかもしれない。

追記

タルボット氏論文の表題にある'the Tyranny of the Urgent’とは、旧約聖書・出エジプト記に由来する言葉のようだが(引用文略)、血迷える暴君・”ファラオ”ブッシュの手から迷えるアメリカ人を救い出した?”モーセ”オバマが、アメリカ人や世界をどのように導くか興味深い。


Re::れんだいこのカンテラ時評486 れんだいこ 2008/11/07 20:22
 こげぱんさんちわぁ。こげぱんさんに啓発されてオバマ考のサイトを作りました。(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/obamaseikenco/obamaseikenco.htm)

 今はまだ何も書いておりませんが、為になる情報を仕入れていきたいと思います。しかし、著作権強権時代にはこれが非常に難しいです。何しろ、新聞情報を取り寄せるにも、一々事前連絡し了承を取り付けなければならないみたいです。自称インテリさんが、そうだそうだと合唱しており、この手合いに下手に立ち向かうのは消耗ですので、極力れんだいこ言葉で書きつけようと思います。その分スピードが遅くなるのは止むを得ません。

 それはそうと、今日は良い話を聞きました。次のような内容です。歌という言葉には本来「訴える」という意味が込められているようです。訴えるの「うた」が「歌」に通じているという次第です。れんだいこはここから次のような論を生み出します。歌の訴えるには二つの意味が考えられます。一つは、プロテストと云う抗議的訴え。もう一つは、プロパガンダ的な広報的意味の訴え。これが本来の歌の意味と云うことになります。

 和歌然り、俳句然り、川柳しかり、狂歌然り。流行歌然り、演歌然り。そう云えば確かに抗議的意味と広がりを念ずる意味の二つが重なっているように思えます。この原義に対して、今日びの自称インテリが小難しい理屈を仕掛けております。俺の著作物を誰に断って利用しているんだ云々。ここでアゴをしゃくるとヤクザの兄さんのする格好の通りとなります。この手合いの著作権論が異常な勢いで我が社会を侵食しつつあります。

 これにより、ホント世の中が非常に小難しくなりつつあります。小人閉居して不善を為すとは言い伝えられている名句ですが、その通りです。政府の政策も、景気対策と称して何の効果もないオモチャのような対策を講じようとしており、野党の方も負けじとばかりより大きなオモチャで対抗しようとしております。又してもそのツケが我々に回されます。エエ加減にしてくれよなぁ。れんだいこは訴えます。チェンジ! やっぱぬるいなぁ。世直し立替えレボリューション! うんまずまず。

 2008.11.7日 れんだいこ拝 

Re::れんだいこのカンテラ時評487 れんだいこ 2008/11/08 15:18
 【オバマ民主党候補の大統領選勝利演説(現代和訳文)】

 「オバマ次期大統領の勝利演説」を、れんだいこが和訳しておく。諸訳を参考にしました。追って、より適訳に手直ししようと思います。(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/obamaseikenco/syorienzetuco.htm)

 2008.11.4日夜、民主党のバラク・オバマ氏は、約20万人の支援者を前に次のような勝利演説をしました。歴史に残る名演説となっています。銘々が味わえばよかろう。それにしても、勝ったオバマ、負けたマケイン両者のエールが見事ですネェ。比較するに日本政治はまるで子供です。オバマ政権がどういう政治をするのかはこれから判明しますが、能力的に凄いのは確かです。ブッシュ派がしょぼんとさせられている姿が目に映ります。まさに時代はボンクラ悪態派の出る幕を閉じ、チェンジしつつあることになります。

 (本文開始)

 こんにちわシカゴの皆さん

 もし、ここに集まった人たちの中に、アメリカは、あらゆることが可能なところであるのに、未だにそれを疑う人がいるなら、アメリカ建国の父祖たちの夢がこの時代にまだ生き続けているのに、これを疑う人がいるなら、この国の民主主義の力を未だに疑う人がいるなら、今宵こそがその人たちへの答えです。

 あちこちの学校や教会の周りに、この国が未だ見たこともないほどの大行列が伸びていました。並んだ人たちは3時間も4時間も待っていました。人によっては生まれて初めての経験でした。そういう人たちは、今度こそは違うと信じたから、今度こそは自分たちの声が違う結果を作り出せると信じたからでした。

 若い人たちも年取った人たちも、金持ちも貧乏人も、民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、同性愛者(ゲイ)も非同性愛者(ストレート)も、身体障害者も健常者たちも回答しました。アメリカ人は世界へ向けてメッセージを送りました。私たちはただ単に個人がバラバラに集まっている国だったこともなければ、(共和党が強い)赤い州と(民主党が強い)青い州の集まりだったこともないと。私たちは今までもこれから先もずっと、アメリカと云う合衆国として在り続けるのです。

 やればできることなのに、今まであまりにも長いこと皮肉屋になったり臆病になったり不信屋になったりしてやり過ごして来た人たちが答を出しました。歴史を自分たちの手に握り、より良い日への希望に向けて歴史をやり直すために。ここまで来るのにずいぶん長くかかりました。しかし、今宵、この選択をすることで、この決定的瞬間に於いて、変革がアメリカにやってきたのです。

 今夕のつい先ほど、私は、マケイン上院議員から実に丁重な電話をいただきました。マケイン議員はこの選挙戦を長く厳しく戦って参りました。議員は、愛するこの国のために、以前からずっと長く厳しく戦って来た人です。マケイン氏がアメリカの為に尽した犠牲のほどを、殆どの私たちは想像すらできません。こうした勇敢で自己犠牲的指導者が献ずる奉仕のおかげで世の中がまずまずのものとなっております。

 私はマケイン議員を称えます。そしてペイリン知事を称えます。マケイン議員たちが成し遂げてきたことを称えます。そしてこれから、この国を前進させて行くという約束を再生させるため、マケイン氏たちと共に働くのを楽しみにしています。

 私は、この旅路を共にしてくれたパートナーに感謝したい。彼は心を尽くして戦い、(ペンシルベニア州)スクラントンの街で一緒に育った人たちに語ってきました。デラウェアの自宅に電車で帰る際、一緒に乗り合わせた人たちに語ってきました。アメリカの次期副大統領ジョー・バイデン、有難う。

 そして、16年前からの、私どもの家族の礎にして私の人生の愛人である最高の親友の絶え間ない支えがなければ、私は今夜ここに立つことができませんでした。この国の次期ファーストレディ、ミシェル・オバマ。
サーシャとマリーヤ。私は、君たちにはちょっと想像もつかないほど愛しているよ。君達が頑張ったので、約束した通りホワイトハウスに新しく飼う子犬を一緒に連れて行けるよ。

 祖母はもうこの世にはいませんが、今日の私を作り上げてくれた家族と一緒に見守ってくれています。今夜ここに家族の全員がいたら良いのですが、今宵見つけることができないのが寂しいです。両親や祖父母が私に与えてくれたものは量り知れません。妹のマヤ、姉のアルマ、そして兄弟や姉妹全員の皆様、これまで私に与えてくれたご支援を本当に有難う。みんなに感謝します。

 選対責任者のデビッド・プラフに。この選挙戦の縁の下の英雄です。アメリカ合衆国の歴史で最高に尽力し、最高の選挙運動を設計してくれました。戦略責任者のデビッド・アクセルロッドに。最初からいついかなるときもずっと連れ添ったパートナーです。この選挙戦の為に集められた、政治史上最高のチームに。あなた方が、この結果を作りました。これを成し遂げる為にたくさんのことを自己犠牲にしてこられました。私は皆様方にいつまでも感謝し続けます。

 けれどもほかの何を差し置いても、今夜のこの勝利が真に誰のものなのか、私は決して忘れません。この勝利は、あなた方のものです。あなた方のものなのです。

 大統領の職を目指した人たちの中で、私は決して有力候補では有りませんでした。私たちは、豊富な資金があったわけでもなければ、大勢の後援を受けていたわけでもありませんでした。私たちの選挙戦はワシントンの広間で始まったのではありません。この選挙戦は、(アイオワ州)デモインの裏庭で始まったのです。(ニューハンプシャー州)コンコードの居間で始まりました。(サウスカロライナ州)チャールストンの玄関ポーチで始まったのです。この選挙戦は働く人たちがなけなしの貯金をはたいて、5ドルや10ドル、20ドルを提供して、そうやって築き上げていったものです。

 若者は無気力だという神話を拒絶した若者たちの闘いから幕が切って落とされました。彼らは、僅かの報酬で、睡眠時間を削ってまで労力を提供し、家と家族から離れて協力してくれました。そういう若者の踏ん張りにより力をいただきました。

 あるいはそれほど若くない人たちから。彼らは、凍てつく寒さと焼け付く暑さにもひるまず、まったく知らない人たちのドアをノックしてくれました。あるいはボランティアとなって組織を作って活動した何百万人というアメリカ人たちから。そういう人たちの踏ん張りにより力をいただきました。建国から2世紀年以上たった今でも、人民の、人民による、人民のための政府はこの地上から消え去ってはいないのだということを証明してくれました。これは、あなた方の勝利です。

 私は、皆様方が選挙に勝つ為にだけ参加したのではないことを分かっています。そして、私のために参加したわけでもないことも分かっています。前途に横たわる難事を理解しているからです。今晩みんなでこうやって祝いながらも、明日からの挑戦を知っています。目下の最大の課題、即ち二つの戦争、危機下の惑星、今世紀最悪の金融危機が待ち受けていることを承知しております。

 今夜ここにこうして立つ今も、私たちは知っています。イラクの砂漠とアフガニスタンの山岳で目覚めようとする勇敢なアメリカ人たちがいることを。彼らが、私たちのために命を危険をさらしていることを。

 子供たちが眠ったあと、どうやって住宅ローンを払ったらいいのか、病院の請求書をどう払ったらいいのか、子供の大学進学費をどうやって貯めたらいいのか、まんじりと眠れずにいる母親や父親がいます。

 無害の新エネルギーの活用問題も有ります。新しい仕事を創り出さなくてはなりません。新しい学校を造り、脅威に立ち向かい、同盟関係を修復しなくてはなりません。

 私たちの前には、長い道のりが待ち受けています。目の前の斜面は急です。目指すところに、1年あるいは1
期ではたどりつかないでしょう。しかし、アメリカよ、私たちは希望を失うことはありません。絶対にたどり着きます。私は今夜ほどその期待を強くしたことはありません。私は、皆様方に約束します。私たちこそが、そこへ辿り着くことのできる国民なのです。

 これから先、挫折もあれば過ちも犯すでしょう。私がこれから大統領として下す決定や政策に賛成できない人も多くいるでしょう。私達は、政府がすべての問題を解決できるわけではないことを知っております。

 けれども、私は、私たちがどういう挑戦に直面しているのか、いつも皆様方に正直に話すつもりです。私は皆様方の声に耳を傾けます。特に意見が食い違うときには。そして何よりも、私は、皆様方に、この国の再建作業に参加するようお願いします。国を建て直すとき、アメリカでは過去221年間、いつもこのようにやってきました。ささくれたタコだらけの手で、ブロックを一枚一枚積み上げ、レンガを一枚一枚積み上げてきたのです。

 21カ月前、真冬の最中に始まったものを、この秋の夜に終らせるわけにはいきません。私たちが求めていた変革は、ただこの勝利だけではありません。この勝利はただ、求めていた変革を実現させる為のチャンスを得たに過ぎないのです。そして以前と同じようなやり方に戻ってしまったら、変革の実現などあり得ません。皆様方なしでは、変革は起こりません。新しい奉仕の意欲的精神、新しい自己犠牲の意欲的精神がなくては変革は実現しないのです。だからこそ私たちは今、新しい愛国心、新しい責任感を呼び覚ましましょう。もっと努力して、自分達だけではなくお互いの面倒を見るように、私たちが互いに共同して解決に向かいましょう。

 今回の金融危機から得たほかでもない教訓というのは、メーン・ストリート(普通の町の中央通り)が苦しんでいるのにウォール・ストリートだけ栄えるなど、そんなことがあってはならないということ。それを忘れずにいましょう。

 この国では、私達は、一つの国として、ひとつの国民として、共に栄え共に苦しむのです。この国の政治はあまりにも長いこと党利党略で毒されてまいりました。相変わらずの党派対立やくだらない諍いや未熟さに再び落ち入らないよう、その誘惑と闘いましょう。

 共和党の旗を掲げて初めてホワイトハウス入りしたのは、この州の人でした。そのことを思い出しましょう。共和党とは、自助自立に個人の自由、そして国の統一という価値観を掲げて作られた政党です。そうした価値は、私たち全員が共有するものです。そして民主党は確かに今夜、大きな勝利を獲得しましたが、私たちはいささか謙虚に、そして決意を持って、この国の前進を阻んでいた分断を癒すつもりです。

 かって、(第16代大統領の)リンカーンが、今よりもはるかに分断されていた時に国民に語ったように、私たちは敵ではなく友人なのです。感情はもつれたかもしれませんが、だからといってお互いを大事に思う絆を断ち切ってはなりません。

 そして私がまだ支持を得られていない皆さんにも申し上げたい。今夜は皆さんの票を得られなかったかもしれませんが、私には、皆様方の声にも耳を傾けます。私は、皆様方の支援を必要としております。私は皆様方の大統領にもなるつもりです。

 この国から遠く離れたところで今夜を見つめているみなさん。外国の議会や宮殿で見ているみなさん、忘れ去られた世界の片隅でラジオの周りに身を寄せ合っているみなさん、私たちの物語はそれぞれ異なります。けれども私たちはみな運命を共有しているのです。アメリカのリーダーシップはもうすぐ新たな夜明けを迎えます。

 この世界を破壊しようとする者たちに告げます。私達は、あなた方を打ち破るでしょう。平和と安全を求める人たちにお伝えします。私たちはみなさんを支援します。そしてアメリカと言う希望の灯はかってのように輝いているのかと疑っているすべての人たちに告げます。私たちは今夜この夜、再び証明しました。この国の力とは、我々の武器の威力からくるのでもなく、富の巨大さからくるのでもありません。この国の力とは、民主主義、自由、機会、そして不屈の希望という私たちの理想が内包する、その揺るぎない力を源にしているのです。

 それこそが、アメリカと言う国の本当の素晴らしさです。アメリカは変われるという、まさにそれこそが宝なのです。私たちの連邦はより完璧に近づくことができます。私たちがこれまで達成してきたことを見れば、これから先さらに何ができるか、明日には何をしなくてはならないかについて希望を抱くことができるのです。

 今回の選挙には色々な「史上初」があり、これから何世代にもわたって語り継がれるでしょういろいろな物語りがありました。けれども私が今夜なによりも思い出すのは、アトランタで投票したひとりの女性の物語りです。彼女はほかの何百万という人たちと同様に、この選挙に自分の声を反映させようと行列に並びました。ただ1つだけ、ほかの人と違うことがあります。アン・ニクソン・クーパーさんは106歳なのです。

 彼女は、奴隷制が終ってから一世代後に生まれました。道路を走る自動車もなければ、空を飛ぶ飛行機もなかった時代です。その時代、彼女のような人はふたつの理由から投票できませんでした。女性だから。そして皮膚の色ゆえに。

 私は今晩、アメリカで生きた100年以上の間にクーパーさんが目にした、ありとあらゆる出来事に思いを馳せます。心を破られるほどの悲しみ、そして希望、闘い、進歩。そんなことはできないと云われ続けたこと、にも拘らずひたむきに前進し続けた人たちのこと。あのいかにもアメリカ的な信条を掲げて。Yes we can。私たちにはできるのです。

 女性は沈黙させられ、女性の希望は否定されていた時代にあって、クーパーさんは生き続け、女性が立ち上がり、声を上げ、そしてついに投票権に手を伸ばすのを目撃したのです。Yes we can。私たちにはできるのです。

 アメリカの大草原に絶望が吹き荒れ、大恐慌が国を覆ったとき、クーパーさんは(フランクリン・ルーズベルト大統領の)「新しい契約(ニュー・ディール)」と新しい仕事と新しく共有する目的意識によって、この国が恐怖そのものを克服する様を目撃しました。Yes we can。私たちにはできるのです。

 爆弾が我々の湾に落下し、独裁が世界を支配しようとしたとき、時の国民が立ち上がり、偉業を達成し、そして民主主義を救うのをクーパーさんは見ていました。Yes we can。私たちにはできるのです。

 クーパーさんは(人種隔離政策が行われていたアラバマ州)モンゴメリでバスが黒人を差別するのを知り、(同州)バーミングハムで警官が消火ホースの水でもって黒人を抑圧するのを知り、(流血のデモ行進が行われた同州)セルマの橋を知り、そしてアトランタからやってきた(キング)牧師と時代を共にしました。その牧師は人々に「We shall overcome(私たちは克服する)」と語りました。Yes we can。私たちにはできるのです。

 人が月面に着陸し、ベルリンの壁が崩壊し、世界は、私達が生み出した科学と想像力によってつながりました。そして今年、この選挙で、彼女は指でスクリーンに触れ投票したのです。なぜならアメリカで106年生きてきて、幸せな時代も暗い暗い時代もこのアメリカでずっと生きてきて、クーパーさんは知っているからです。アメリカと云う国が、どれほど変われる国なのか。Yes we can。私たちにはできるのです。

 アメリカよ、私たちはこんなにも遠くまで歩んできました。こんなにもたくさんのことを見てきました。しかしまだまだ、やらなくてはならないことはたくさんあります。だから今夜この夜、改めて自分達に問いかけましょう。もしも自分の子供たちが次の世紀を目にするまで生きられたとしたら。もしも私の娘たちが幸運にもアン・ニクソン・クーパーさんと同じくらい長く生きられたとしたら。娘たちはどのような変革を見るのでしょうか? 私たちはそれまでにどれだけ進歩できるのでしょうか?

 その問いかけに答えるチャンスを今、私たちは手にしました。今この時こそが、私たちの瞬間です。今この時にこそ、仕事に向かわなくてはなりません。子供たちのために機会の扉を開かなくてはなりません。繁栄を取り戻し、平和を推進しなくてはなりません。今この時にこそ、アメリカの夢を取り戻し、原理的な真理を再確認しなくてはなりません。大勢の中にあって、私たちはひとつなのだと。息をし続ける限り私たちは希望をもち続けるのだと。

 そして、悲観し、疑り深い人たちに出会ったときには、そんなことできないという人たちに対しては、国民の魂を端的に象徴するあの不朽の信条で、必ずやこう答えましょう。感謝します。神様の祝福を。そして神様がアメリカ合衆国を祝福しますように。 Yes we can。私達はできるのです。

 (以上)

 2008.11.8日 れんだいこ拝

Re:新型のファシズムが登場か!? れんだいこ 2008/11/09 19:51
 えこねさんちわぁ。太田龍・氏の謦咳は傾聴するものだと思っております。それはそれとして、れんだいこは自られんだいこ史観の創設者であるからして、オリジナルなオバマ見解を持とうとしております。そういう意味で注意深く見守っております。

 今現在云えることは、首席補佐官エマニュエルの登用が早くも臭いなという感じです。どういう仕掛けと裏事情があるのか分かりませんが、半端ではないですね。アメリカ国民にイラクからの撤退を約束し、軍事費を削るのかと思っていたら、アフガンに増兵するみたいですね。国内景気対策はこれからでせうが、以上の二点で赤信号が点滅しております。

 しかし他方で、れんだいこは、オバマの殉教者的な悲哀の表情を見ております。彼は或る意味で、現代社会と文明の矛盾を一身に背負っております。その中から生まれ出てきた能力者です。リンカーン2世を任じている気概を感じております。さきほどの勝利演説も見事なものです。日本のハイスクールは、これを教材として英語学習に使うべしと云いたくなるしろものです。れんだいこが寺小屋の先生なら、必ずそうします。

 それはともかく、太田龍・氏の謦咳に接しながら、もう一つのオバマをも確認したいというのが、れんだいこの心境です。ネオ・シオニズムは歴史的に見て、いつも内部で見解が割れています。時に血で血を争う政争を演じます。一枚岩ではないということです。今はこれぐらいしか言えません。

 2008.11.9日 れんだいこ拝

Re:2chに、こんなスレッドが れんだいこ 2008/11/11 21:01
 えこねさんちわぁ。2chの「バラク・オバマは現代のアドルフ・ヒトラー」という題名からして、ナンセンスです。そもそもアドルフ・ヒトラーに対する認識からして、れんだいことは違いますので、話が噛み合いません。現代政治論の水準の低さのみ伝わります。

 バラク・オバマを誰に例えるべきか。これはまだ分かりません。今段階で例えるとするなら、良い評価でイエスになりえるかとか、リンカーンになりえるかとか、ケネディー、クリントンと比べてどうかだとかの方がまだしもだと思います。悪い評価で、所詮は現代パリサイ派の下僕か云々というところだと思います。何事も今程度の段階で先に決め付ける必要はないと思います。警句的には良かろうぐらいに考えております。

 そんなことより、翻って我が日本の政治のお粗末さは何なんだ。態を為していないですね。漫画首相の能力も次第に地が見えてきております。田母神空幕長の居直りも許し難い。その居直りに論には論で向かえない政治家の能力がこれまた許し難い。国民におしゃぶりを与えて歓心を買おうとしている政治家の方がおしゃぶり棒を加えて物言っているような馬鹿さが目に付きますね。ダメですわこれは。いつからこんなダメ日本になったのかいなぁ、よほど深刻です。

 2008.11.11日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評488 れんだいこ 2008/11/12 20:21
 【れんだいこの上耕論】

 上耕論
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/jinbutuhyoden/uecoco.htm)

 果たして、上述のような履歴を見せる上耕をどう評するべきだろうか。世評では、上耕・不破兄弟を比較して、理論フェチ的怜悧な不破に対する人情派の上耕を好評する向きが有る。しかし、この評はもう少し吟味されねばならないと思う。

 良かれ悪しかれ、上耕は、弟の不破を引き上げ引き立て終生の絆で二人行脚の兄弟ブロックを形成し、党内遊泳に成功した。この兄弟が仕えたのが、1955年の六全協以来、日本共産党党中央と化し、今日の日共の在り姿の礎を築くことになったた野坂-宮顕同盟であった。この同盟は次第に宮顕独裁化して行くが、この宮顕独裁化の最右翼としてこれを補佐したのが上耕-不破兄弟ブロックであった。この系譜が、今日の「日共式外に柔、内に剛」なる穏和化路線を敷設していくことになった。そういう意味で、上耕は、現下日共の在り姿に対する全面的な責任を負っている一人である。

 「共産党問題、社会主義問題を考える」サイトの管理人・宮地健一氏は、「追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪」(ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/uedasikyo.htm)の中で次のように評している。

 「というのも、彼は、地区専従を経ないで、いきなり共産党中央本部の理論幹部専従に抜擢され、幹部会員→常任幹部会員→06年まで副委員長を務め、宮本体制の中心幹部だったからである。よって、彼は、最高権力者期間39年間宮本顕治の問題点・誤り・党内犯罪の側面にたいし、半ば一心同体であり、彼の党内犯罪については、弟・上田建二郎=不破哲三とともに、兄弟揃って、共犯者の役割を果たした」。

 この観点がほぼ的確な評ではなかろうか。れんだいこが補足するとすれば、上耕、不破兄弟は、「宮顕に登用された場合決まって汚れ役をヤクザじゃあるまいし引き受けさせられ、最後には切り捨てられた、あるいは過労死した」他の死屍累々に比して、「最後まで党中央に居残った」という点で特筆されねばなるまい。見えて来るのは処世術の上手さであるが、こういう世渡りは、左派運動の場合には好評される筋ののものではあるまい。

 お陰でと云うべきか、弱き者の味方として、不屈の革命事業の担い手として人民大衆から支持を受けていた不撓不屈の共産党イメージをすっかり損じ、今日の如く似ても似つかぬ旧民社党よりなお右派系の共産党に変質させ、今日では公然平然と「資本主義の修繕屋運動に挺身する共産党」と云う世界に先駆けての恥ずべき共産党へと転換せしめることとなった。

 今日の如くの共産党を果たして共産党と云うべきだろうか。れんだいこには、旧共産党的在り姿の抑圧体として機能している新共産党の犯罪的役割ばかりが見えて来る。野坂、宮顕、上耕、不破は、この変質を意図的故意に遂行した党中央指導者であり、イデオローグであった。上耕がこの責任の一端を担っていることは間違いない。

 彼らには次のような共通項が認められる。そもそもから党内エリートとして始発している。これによりどぶ板政治に関わる訳でもなく、大衆運動の指導者として頭角を現した履歴もないのは無論のこと、それでいていつの間にか党中央に参内し、それぞれ国会議員の経歴を持つも、その活動に於いてさえ左派的運動を牽引した例もなく、千年一日的な政府自民党批判に明け暮れたに過ぎない。イデオローグとして見た場合でも、彼らの理論的功績により後々の日本左派運動に資する何らかの成果を挙げた訳でもなく、むしろ今日時点で読み直してみて指で顔を覆わざるには読めない愚昧駄文ばかりを遺している。とどめの共通項は、死ぬ間際まで党内エリートとしての身分が保証され、畳の上で往生できたことである。不破のみ未だ健在ではあるけれども。

 その上耕が死したことにより、人は、上耕をもまた革命家列伝の中に入れようとするだろう。れんだいこは冗談だろうと云いたい。このエセ革命家をして革命家列伝に加えざるを得ないのは日本左派運動の貧相故であり、痴態でしかない。但し、そういうエセ革命家列伝に代わる真性の列伝がないので玉石混交として止むを得ない面はある。いつの日か早急にこういう変態から脱却したいと思う。

 れんだいこが上耕を評し得るとするなら、彼らが、共産党中央の座椅子を手放し、自ら信ずるところの右派系左派運動と云う新型民主主義道理的新党を結成し、これに汗を掻き、今日の政界に一定の影響を与えるほどに党派形成し得た場合である。これなら辻褄が合っていると思う。それならそれで評価に値すると思う。

 実際にはどうであったか。遮二無二党中央を簒奪し、共産党の左傾化許さじの立場から左派運動の穏和右傾化に尽力し、これというめぼしい戦闘的大衆運動を見つけるやその分裂化を画策し影響力を殺ぎ、世間に向けては民主主義の守り手として打ち出しながら党内には治安維持法的監視体制を敷き、異論異端許さじの極統制化に鞭打ってきた軌跡ばかりを遺している。

 彼らが手掛けた日共は現在長期低落状況に陥っており、未だ蘇生の兆しが見えない。これを痛苦に受け止める姿勢を見せないのは無論のこと常に詭弁を弄して居直り続けている。政治運動史上、左派圏内に向けては相変わらず強面の顔を見せつつ体制圏内に向けては度の過ぎる柔和な愛想を振りまいている。リストラが課題となっている議論に於いて残業問題を持ち出し、自衛隊の派兵阻止が課題となっている議論に於いて国連への手紙を送りつけたことで自画自賛し、自公政権打倒の機運が盛り上がるときに「確かな野党」論で足並みを崩す云々という挙げればキリのない変態的役割を果たし続けている。角栄追討も然り。

 上耕は、これに責任を負う立場の日共指導者の一人である。この上耕を評すのに、歯の浮くような追悼で慰労すべきだろうか。れんだいこはそうは思わない。宮地氏が「上田耕一郎副委員長の多重人格性」を問うているが、けだし当然と云うべきだろう。我々は一般的所作として、党派の別を超えて称える人は称えねばならないが、称える必要のない御仁まで称えるには及ばない。この弁えが大事ではなかろうか。

 れんだいこは、日共が資本主義修繕運動是論を提起し、我々をして得心せしめるものを打ち出さない限り、上耕もまた野坂、宮顕同様に本来日本左派運動内に参集すべからざる異邦人であり、この異邦人が指導者として立ち現われ有害無益なことばかりに熱中し、共産党を滅茶苦茶なものに変質させた挙句、自らも砂をかむような味気ない人生を軌跡したと評する。我々は、かような轍(わだち)を踏むべきではなかろう。詰まらないくだらない。

 こう観点を据えたとき、上耕の悲哀が見えて来るように思う。これを、れんだいこの弔いの辞にしたい。

 2008.11.12日 れんだいこ拝

Re:予告 こげぱん 2008/11/15 01:51
>  「田母神航空幕僚長論文舌禍事件」(略称「田母神論文舌禍事件」)に言及することにしました。どなたか資料面での貴重サイト、先行言論をご教示ください。参考にしたいと思います。
>
>  2008.11.14日 れんだいこ拝

・株式日記と経済展望
・神州の泉
ttp://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/

・ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報
ttp://amesei.exblog.jp/8855880/

などなど、です。


おまけ
参考サイトというほどではありませんが、受験狂育関係者
ttp://www.asyura2.com/08/social6/msg/133.html
ttp://www.asyura2.com/07/social4/msg/644.html
の田母神論文批評

ttp://plaza.rakuten.co.jp/taerinkawaii/bbs/
靖国と前空幕長 いえいえさん
田母神前空幕長問題。その思想を疑問視し、アパとのただならぬ関係を質すのはいい。だが退職金返還せよ、はおかしい。
「靖国」と聞くだけで身構える。だが先の大戦で国のために殉死した人間に感謝することは何がいけないのか。
日本は先の大戦で敗れた。GHQの管理下に置かれて以来、「君の国は悪いことをした」と言われ続け、自虐史観を植え付けられた気がする。
そもそも国連の常任理事国とは、先の大戦の戦勝国、つまり連合国で占められている。「勝てば官軍」だがそんなものは正義でも何でもない。
日米安保に思いやり予算。いつから日本は植民地なのか。自国防衛のための航空機もミサイルもアメリカ製、おまけに米軍が快適に暮らせるよう莫大な税金をつぎこむ。どこにそんな国があるのか。
専守防衛であれ、国防は自前の兵器を使わずどうして戦えるのか。
新聞をにぎわす田母神問題はこっけいだ。一人の幹部の発言に政府はただただアメリカ様に頭を下げなさい、と諭す。だが「国を守る」気概なしに自衛隊など存在できぬ。日米安保下における異常な日本を憂いてこそ、本物ではないのか。
こんな問題をここに書くことはおかしいかもしれない。だが少しは考えてくれないか。国防とは何か。特攻隊は天皇のために死んだのではなく、母や恋人の暮らす故郷を守るため、米の本土侵攻を阻止しようとしての殉死だ。私たちには彼らの死に報いるためにも「いい国」にする責任がある。私が教職を選んだ原点もそこにある。
靖国参拝や日米安保の問題はみんながもっと真剣に考えるべき問題だ。わが子の受験にヒステリックになる近視眼しか持たぬ親をみていて、この国の未来を憂う。このことは受験勉強よりずっと大事なのだよ。
来春、教え子十人少し、灘を受ける。彼らとの約束。「先生、合格したら知覧にみんなで行こうね」。
これは危険思想か。私はこんなことを真剣に考える12歳と出会えたことを誇りに思う。
(2008年11月12日 10時06分57秒)

その他この方の興味深~い書き込み

入江神風特攻隊 いえいえさん
中学にも行かず「灘高撃破あるのみ」の入江塾生を世間はそう呼んだ。現に私自身も「灘必中」の自分をそう捉えていたし、灘体当たり前に弾幕にて墜落すれば「生きるに値せぬ生」とさえ考えた。まさに特攻隊である。
だが入江先生はそう呼ばれることを極度に嫌った。体に大きな持病を抱え、戦役を免れてしまった自分が、大君と国家のために死んだ多くの特攻隊の名前で呼ばれることは、沖縄海域に散った多くの若者に対して申し訳ない気持ちだったのだろう。
そして受験前には疑わなかった灘必中と特攻の同一性だが、それはまったく異なることを知ったのは受験後だった。灘高に合格、つまり体当たり敢行した私にあったのは火だるまとなって敵空母の上で爆死した特攻隊とは違い「無上の歓喜」の世界があったのだから。
戦後63年、そして今私は思うのだ。やはり特攻隊も同じではなかったかと。一分間に百万発とも言われる弾幕をくぐりぬけ、見事敵艦に体当たりできた確率は沖縄戦では10パーセントといわれる。国家から命令されるわけでもなく、特攻として散華した若者の何よりの願いが「体当たり撃破」だったのだから。東シナ海に堕ちた命より、敵艦体当たりは「無上の歓喜」とともにあった死だったろうと。
それでも。その先にある生と死。やはり比べることは不遜なのか。国のためにすすんで命を落とした若者がいた日本と、道路をわたる男性をはね、車の下にまきこみながら3キロ走り逃走した者がいる日本と。
彼らの御霊のためにも、こんな情けない日本にしては申し訳ない。世のために、人のために自己を捨てられる覚悟をもつ若者を育てることこそ、教育者のつとめだ。 (2008年10月25日 00時29分44秒)

とかとんとん いえいえさん
太宰治の小説だ。なんだかエデュがヒート。非難されても擁護されてもむなしいだけ。
別に質問「無視」でもなく、単に私が書き込んでいたら「飛び込み」があっただけだが。ともあれ。
現役時・共通一次872点
東大理一× 早大理工○慶大工○慶大医×
浪人時・共通一次886点
東大理一× 早大理工○慶大医×大阪医大○同大工○

これが私の受験戦績である。ちなみに共通一次は1000点満点。今のように前期後期はなかった国立一発勝負の時代。つまり。近畿予備校一年の果てにつかんだものは何もない。一年余計にカネをつぎこんだだけ。私の友人でそれ以上の年月を費やしたのもいるがそれほどの戦果をあげていない。(中略)

ともあれセンター試験も近付いた。「一浪すりゃ何とかなるでしょ」。それは甘い。浪人してもたいていどうにもならん。ならば、乾坤一擲、特攻隊となって敵艦にぶちあたれ。予備校講師の身でこんなことをいうのはアウトだが実際そう思う。
高三の君よ。苦しんで苦しんでもがけ。そして来春にすべてをぶつけよ。受験だけは歳月を重ねれば有利かといえば「不利になる」というのが偽らざる感想だ。
だから、特攻隊なんだ。武運を祈る。 (2008年10月25日 22時32分10秒)

オバマをめぐる二つの世界 こげぱん 2008/11/15 01:54
ttp://ameblo.jp/sunshine-berkeley

オバマをめぐる二つの世界
テーマ:オバマ

(by sunshine)

 今回の大統領選挙では、”伝統的な”白人大統領からアフリカ人の血が半分混じったハーフの大統領誕生ということが必要以上にクローズアップされた感があった。そして混血大統領(厳密にいうとアメリカの黒人はほとんど全員が混血だが)の誕生は、あたかも今までアメリカ社会をむしばんできた人種問題がこれで一気に解消されて、「アメリカにはもう人種問題などなくなった。アメリカ国民は人種的偏見など持たない、大変民主的でオープン・マインドの国民へと進化したのだ」ということを広く世界にアピールするかのような、そんなメディアのはしゃぎ様だった。

 百年に一度といわれている世界的金融危機のさなかにあって、どこまでも明るく、楽天的な20世紀型ディズニーランド文化の再現を演出することにより、大衆の目を本質的な問題からそらす目的も担っていたのかと勘繰りたくなるような、そんな祭り騒ぎだった。

 「LA Times」によると、2042年にはヒスパニックの人口が白人人口を追い越して、アメリカの多数派になると予測されており、そういった意味からもこのタイミングで(世界的金融危機のさなか)非白人のオバマが大統領になったということは、さまざまな角度から色々なことが想像されて、面白いことではあるな、と思う。

 ttp://latimesblogs.latimes.com/laplaza/2008/08/latinos-will-be.html

 White people of European descent will no longer make up a majority of the U.S. population by the year 2042 -- eight years sooner than previous estimates

 現在のアメリカでは、経済格差が人種問題以上の問題となっている。そして、アフリカ系アメリカ人(黒人)間での経済格差も大きな社会問題となっている。

 しかしながら、どの大統領選でも候補者達は「中間層」への政策についは色々と公約をするが、それ以下の貧困層については、完く眼中にないかのように”無視”するのが通常のパターンとなっている。これは黒人問題などやっていると誰もが言うことだが、今年8月1日にはフロリダ州でのオバマの選挙演説会場に数人の黒人の若者たちが訪れ、垂れ幕を垂れ、突然、「黒人コミュニティーについてはどうしてくれるんだ、オバマ!」と叫び、オバマがいら立った模様が全米で流された。下記のサイトでビデオも見れる。

 ttp://blogs.abcnews.com/politicalradar/2008/08/protesters-what.html

 下記のビル・モイヤーズも、また彼のTVトーク・ショーのゲストであるストーニー・ブルック州立大学(ニューヨーク州)の経済学教授でワーキング・プアーの研究をしているマイクル・ズウェィグ(Michael Zweig )教授も同じことを言っている。

ttp://www.pbs.org/moyers/journal/10172008/watch2.html

Center for Study of Working Class Life
ttp://www.stonybrook.edu/workingclass/ecostimulus.shtml

 これは10月17日にアメリカの公共放送PBSで放送されたものだが、これによると2人は、「約2千3百万所帯、約6千万人(アメリカの総人口約3億1千百万人)がワーキング・クラス。ここでいうワーキング・クラスとは、トラック・ドライバー、ウェイトレス、店員など働けど、働けど暮らしが楽にならず、衣食住といった人間の基本的生存のためのものを維持するだけで精一杯の人たちのことだ。”ワーキング・プアー”と言ってもいい。オバマやマケインが全く無視している、“忘れられた人たち”のことだ」と言っている(この放送の後、オバマは演説の中で、”ミドル・クラス”という言葉を使わなくなり、”ワーキング・クラス”という言葉を使うようになった)。

 アメリカの経済階層は5つに分類されているが、

1.アッパー・クラス

2.ミドル・クラス

3.貧困でないワーキング・クラス

4.ワーキング・プアー・クラス

5・アンダー・クラスー失業者

 ちなみに、2006年版「National Urban League」によると、アメリカ全体の貧困率は1969年の12.7%から1986年には19%、そして現在は上記のように上昇している。そして黒人コミュニティーでの貧困率は1998年には26%の貧困率だったのが、現在では46%が貧困ラインまたはそれ以下にいるとされている。それに対して、アッパー・クラスの黒人人口は増え、彼らの年収も年々伸び続けている(1990年大手CEOの平均所得は労働者の100倍だったが、アメリカ労働総同盟産業別組合会議(AFL-CIO)によれば、2004年には、その比率は430倍になっている)。

 こうした「忘れられた人々」への政策はどうするのか。またしても「切り捨て状態」といった感じになるか。

 二つの黒人教会での反応

 とはいえ、黒人コミュニティーの人たちが、今回の選挙をどう思っているのか、その生の声を聞きたくて、11月8日、9日の二日間、サンフランシスコのイースト・ベイにある黒人教会に行ってみた。ひとつは黒人中産階級が多いあるメソジスト教会、もう一つは低所得・貧困層が多いあるバプティスト教会である。

 なぜ二つの教会に行ったかというと、これら異なる階層におけるオバマに対する期待や思いに相違はあるのか(またはないのか)ということを知りたかったからである。分かっているとはいえ、じかに聞きたかったからだ。

 まずメソジスト教会の方だが、身なりの立派な人々が多く、黒人イエスの肖像画を壁に飾っているとはいえ牧師の説教も知的で抑え気味。オバマが大統領に選ばれたことに祝意を表して、「これで我々、黒人にもやっと一抹の光が差し込んできた。これから徐々に黒人の社会的地位も高まってくるだろう。めでたいことだ。金融問題で世の中は大変だが、彼が頑張ってくれるよう、皆で祈ろう」というような内容だった。

 翌日行ったのは、スラム地区にある大変ファンキーなバプティスト教会だった。ここは音楽が大変ファンキーで乗りやすく、ガンガン行きまくるので時々音楽を聴きに行っているところだ。牧師も踊りながら、声をからしながら、その辺のラッパーなどぶっ飛びそうなほど次から次へと言葉を機関銃のように発しながら、汗をかきかき乗りまくるのである。

 そしてここではアフリカの伝統にのっとって、説教者と参加者が呼応形式で掛け合いを行いながら、会場をがんがん、盛り立てる。 「兄弟、姉妹達よ! ブラザー・オバマがとうとうこの国の栄えある大統領になった! 素晴らしいことじゃないか!」。 「エーメン!」。 「今度こそ、ユダヤ系やアジア系の連中がもらったような政府からの賠償金が我々、奴隷の子孫にももらえるよう頑張ってもらおうじゃないか!」。 「ザッツ・ライト(そうだ)!」。 「兄弟、姉妹達よ、我々のビッグ・ビジネスマンのブラザー達もずいぶん頑張ったじゃないか!」。 「ザッツ・ライト!」。「しかしおかしなことに、オバマの側近にはジューイッシュ・ボーイズが決まったぞ!」。「ザッツ・ツー・バッド(そりゃあいにくだ)!」。「2人のジューイッシュ・ボーイズがブラザー・オバマを脇で支えるらしいぞ!」。「ザッツ・ツー・バッド(そりゃあいにくだ)!」。「我々、ゲットーのニガー(貧民街の黒人)には、今回もおこぼれなしかもな!」。「ウーン、ウーン、ウーン!」。「しかし兄弟、姉妹達よ、我々にはイエス様がついているぞ!」。「ハレルヤ!」
。「神に祈ろう、ブラザー・オバマが邪悪な悪魔に魂を抜かれてしまわないように!」。「エーメン!」。「邪悪なジューイッシュ・ボーイズに魂を抜かれてしまわないように!。「ハレルヤ」。「神の愛をブラザー・オバマに!」。「ハレルヤ!」。「神の愛で邪悪な悪魔を追っ払うことを!」。「ハレルヤ!」。「エーメン!」

 という調子でどこまでもラップ調の説教は続き、ドラムスとベースが絡み合いながら演奏を開始したかと思うと、ジミヘン(ジミー・ヘンドリックス)ばりのギンギンのエレキギターが入り、ホーンセクションが負けまいとがなりたてる。会場ではタンバリンをたたいたり、体をゆすって、踊りだしたりと。ついでに私もタンバリンをガンガン鳴らして、リズムセクションに貢献した。

 貧困層の人々は、はなからオバマには期待していないことが今さらながらだが分かった。こうした社会から隔離された貧困層の人々は、政治には夢も希望も持てないと諦めきっているからだ。それよりも教会の方がよほど頼りになるというわけだ。

 ユダヤ系対黒人

 大変ステレオタイプ的な言い方をすれば、ユダヤ系と黒人は昔から仲が悪い。中には一緒に音楽グループを組んでいる人たちもいるが、一般的には仲が悪い。そこで今回の選挙で、黒人の実業家や大学教授といった黒人社会のエリート達も多くオバマ支持のために働いたが、まっさきにユダヤ系の参謀2人がオバマの政権移行しームに決まったことで、黒人達の中には「やはり」との思いを抱いている人たちも多い。

 オバマの政権移行チームの首席補佐官にラーム・イマニュエル、そしてこのブログでも2月に書いたことがあるやり手のキャンペーン・マネジャー、デイビッド・アクセルロッドがシニアー・アドバイサーに指名された。

 ttp://ameblo.jp/sunshine-berkeley/day-20080219.html

 イマニュエルとアクセルロッドは共にユダヤ系。「何があってもイスラエルを守り抜く」とイスラエル建国記念日に公言したオバマである。当然の帰結であるかのように、しっかりと両脇をユダヤ系に支えられての出発となった。

 ラーム・イマニュエルはユダヤ系の中でも特にイスラエルへの愛国心に燃えた人物。もう大手メディアでも紹介されているが、1991年湾岸戦争では「イスラエル防衛隊」の志願兵として非戦闘任務にも就いている。

 ttp://en.wikipedia.org/wiki/Rahm_Emanuel

 また彼は2006年の議会選挙で民主党議会選挙委員会の議長を務めたが、ジョン・ウォルシュの「イマニュエルの民主党戦争計画:ラーム書」によれば、接戦の議会選挙に出馬する22人の民主党員のうちの20人は「戦争支持派である」と太鼓判を押したのだった。

 ttp://www.counterpunch.org/walsh10242006.html

 John Walsh:The Book of Rahm

 ttp://www.counterpunch.org/walsh11112006.html

 John Walsh:Rahm's Losers

 彼は現在議会幹部会の議長を務め、シオニスト・パワー体制の上級メンバーとして有名。彼の著書「The PLan :Big Idea for America」(2006年)の中で、「我々は世界中の手薄な“グリーンライン”を強化する為、米国特殊部隊と海兵隊を増大し、米国陸軍をさらに増大して10万人規模にする必要がある(中略)。我々はMI5のような、国内における対テロ部隊を設けることによって自国と自国民を守るべきだ」と書いている。大変危険な人物であることは知る人ぞ知る人物である。しかし「金を出せば口を出す」のが常識。オバマにとっては潤沢なユダヤ・マネーを集めてくれた恩人。こうなることは見えていた。

 ttp://www.amazon.com/Plan-Big-Ideas-America/dp/1586484125

 そして後の面々は、ABCによると下記のような下馬評が上がっている。


ロバート・ギブス(Robert Gibbs)ー選挙対策委員会の広報マン

ディック・ルガー(Dick Lugar)ー共和党上院議員

ビル・リチャードソン(Bill Richardson)-ニューメキシコ州知事。ヒスパニック系

ジョン・ケリ(John Kerry)ー民主党上院議員

ボブ・ゲイツ(Bob Gates )ー国防長官。これを継続するのではないかといわれている

チャック・へーゲル(Chuck Hagel)ー共和党上院議員

ポール・ヴォルカー(Paul Volcker)ーカーターとクリントン政権の連邦準備制度委員長、今回の選挙では経済問題アドバイサー

ティモシー・ゲイスナー(Timothy Geithner)ーニューヨーク連銀の代表。JP モルガン・チェイスのベアスターン買収では一役買った。

ローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)ークリントン政権の財務長官を経てハーバード大学長。元世界銀行チーフ・エコノミスト。オバマの経済問題アドバイサー。

ジョン・ポデスタ(John Podesta )ー元クリントン政権主席補佐官

スーザン・ライス(Susan Rice)-元クリントン政権の副国見長官。オバマの外交問題アドバイサー、アフリカ系アメリカ人(女性)

フェデリコ・ぺーナ(Federico Pe醇oa)ー元クリントン政権閣僚、今回の選挙では交通問題担当。ヒスパニック系の集票に貢献した。

ジャネット・ナポリターノ(Janet Napolitano )ーアリゾナ州知事。オバマの政権移行チーム・メンバー
ttp://abcnews.go.com/Politics/President44/story?id=6199499&page=1

 ここでオバマの“ブラック・ブレーン”達はどうなるのか。彼らも今回の選挙戦では頑張ったわけだが、ウォールストリート・ジャーナルがユダヤ系新聞らしく、11月6日の記事の中で、「そうそうたる黒人のパワー・ブローカー達が新大統領のもと、どんな要職に就けるか首を並べて待ちわびている」との記事を掲載している。黒人社会では、知る人ぞ知るエリート達のオン・パレードだ。しかもいずれも「生まれついてのお坊ちゃま、お嬢ちゃま」の黒人ばかり。肌の色こそ黒いが、スラム街の黒人教会に行ったこともなければ、ゲットーでの生活をつゆほども知らない、”黒人らしくない ”“オレオ”的な人がほとんどだ。

 Black Power Brokers Ready to Rise In Tandem With New President

 ttp://online.wsj.com/article_email/SB122593315880903557-lMyQjAxMDI4MjA1NzkwMzczWj.html

 「ウエスト・サイド物語」ではないが、”ジューイッシュ・ボーイズ”対“ブラック・ボーイズ”。さあ、この結末はどうなるか。下手をするとオバマは両サイドからつまはじきにされる可能性もあるかも?

Re::れんだいこのカンテラ時評489 れんだいこ 2008/11/15 20:35
 【「田母神論文舌禍事件」考その1、事件の孕む諸問題】

 現役の田母神航空幕僚長が民間の懸賞論文に応募し最優秀賞を受賞したが、その論文内容は歴代の政府見解と大きく齟齬する大東亜戦争聖戦論をぶちあげていた。それが表ざたになるや、任命責任の追及を恐れた麻生政権が速攻で解任し、退職させるという事件が発生した。これを仮に「田母神論文舌禍事件」と命名する。

 多少余韻が燻るも、この問題はもう終わったのかもしれない。れんだいこは、タイムリーに発信したかったができなかった。この間にコメントした植草ブログ閉鎖事件、小室著作権詐欺事件、上耕論のようには行かなかった。なぜなら、それらは判断が容易であったのに比して、「田母神論文舌禍事件」は評するのにかなり高度な内容であると考えたからである。順を追って整理する必要もあり、経緯を当分様子見せざるを得なかった。ようやく態勢が整ったので、れんだいこ見解を発表する。結果的に随分長い文章になってしまった。

 我々は、「田母神論文舌禍事件」にどう対応すべきだろうか。れんだいこは、この事件は、今後に賢明なる善処を要請する種々の内容、課題を孕(はら)んでいるように思われる。一つは、論文内容に関しての物議である。一つは、文民統制に関する物議である。これを二本柱とする。これはこれで値打ちのある取り組みである。

 が、その他にも考慮すべき諸問題がある。一つは、組織に於ける異論異端の取り扱い問題も秘めているように思われる。なぜなら、田母神論文はズバリ通説に対する異説を唱えた故に発生した事件なのだから。こう捉えないと、「田母神論文舌禍事件」の考察が生産的にならない。これはしかも、いわば組織内の異論異端の取り扱い問題、国家機関に於ける異論異端の取り扱い問題の二面から考察されねばならないように思われる。

 こうなると当然、言論の自由問題にも繋がる。組織機関員である場合、異論、異説、異端を述べることができないのか、どの程度までなら許されるのか、望ましいのかと云う問題になる。特殊的には、文民統制下にある自衛隊機関に於いて、隊員の言論及び行動の自由の制限如何問題となる。この場合、更に仕分けされねばならないように思われる。即ち、制限の一般的基準と、上級幹部と下級幹部及び一平卒自衛隊員の身分差に伴う制限如何問題の考察も必要とされるように思われる。この制限は内規とも絡んでいる。凡そこのようなことを考えさせるのがこたびの「田母神論文舌禍事件」であるように思われる。

 現下の日本政治の管掌者がこれらの諸問題に能く対処し得るだろうか、ここが問われている。結論は云うまでもなかろう。現代政治家の能力は我々が推定している以上に貧相であると認識すべきだろう。そういう訳でつけ刃の応急措置しかできないと心得るべきだろう。事件と並行して麻生首相の漢字語彙力お粗末事件が露見したが、それはそのまま政治能力を示していると窺うべきだろう。

 興味深いので、麻生首相の漢字語彙力を確認しておく。「未曾有」を「みぞうゆう」、「踏襲」を「ふしゅう」、「詳細」を「ようさい」、「措置」を「しょち」、「有無」を「ゆうむ」、「前場(ぜんば)」を「まえば」、「思惑」を「しわく」と読んだという。「頻繁」を「はんざつ」と読んだと云う。前者はともかく後者は決してそうは読めない。読めない文字に出くわした場合、無理矢理に言い換えてでも読む癖がある御仁だということが分かる。まさか、面白おかしくギャグって読んだというのではあるまい。

 れんだいこは、麻生首相がマンガを愛読するのは、現代若者考とか世相考のゆえにと推測してきた。秋葉原詣でもその一環と受け止めてきた。が、これを改めねばなるまい。マンガ入りでないと読むのが疲れる叉は理解できないせいだと云うことになろう。いやはや大変な首相が日本国、民族の舵取りに当たっていることになる。しかして、これこそマンガだろう。

 その麻生氏を首相として担ぎ出さねばならないほどの末期的症状を見せているのが自民党であると窺うべきだろう。麻生以外にこれというタマが居ないのだ現実に。その麻生は狂人小泉よりはまだしもましであろうが、何分能力の低さをかくも晒したわけだから、求心力が極度に落ち始めるのも止むを得まい。衆院解散どころか内閣又しても俄か崩壊と云う線も考えられる事態になった。

 麻生が続投しようが次の政権が生まれようが、現下の自公政権に何事かを期待するのはどだい無理というものではなかろうか。この連中は、馬鹿の一つ覚えみたいに日米心中論を唱え、ひたすらご奉公することで互いの地位と権力と金力の保全を図ってきた。そうやってポストにつけば、当然ながらご恩返しとばかりにブッシュの戦争政治に忠犬してきた。そういう仕掛けにより、小泉以降今日まで、日本の国富と税金を一体幾ら巻き上げられてきたことだろう。叉は持参金をお供えし続けてきたのだろうか。恐らく、例の民営化と云う名目でのハゲタカファンドへの便宜まで含めると途方もない金額に上っているはずである。

 そのアメリカでオバマが登場せんとしており、本家では逸早くチェンジの風が巻き起こっている。ブッシュ一途に与してきた日本政治は、これにどう対応してよいのか分からないというのが実情ではなかろうか。機能障害というより全般的な機能不全と脳梗塞に陥っているとみなすべきだろう。この連中が揃ってオツムが悪く、世渡り上手だけが取り柄と云うことで共通しているのは既に指摘した通りである。

 今や新しい皮袋が必要な訳であるが、これ対する野党の政治能力はどうだろうか。れんだいこが評するところ、これまたお粗末極まる。日本政治の貧相は、対抗軸の貧困ゆえにもたらされていることを知るべきだろう。田母神論文に纏わる参考人質疑、集中質疑が開かれたが、質疑内容は柿のヘタのようなところばかり突いて終わってしまった。与野党一致で、早く禊の儀式を済ませて幕引きとしようというのが本音だったのではあるまいか。

 この大政翼賛会政治は、1・文民統制問題、2・自衛隊員の言論統制問題、3・退職金自主返納催促に限定して言及していたが、答弁する首相、防衛相との掛け合い漫談でしかなく、互いが仲良しクラブであることを晒しただけで終わった。呼びつけた当の田母神前航空幕僚長は手持ち無沙汰の態あり、時に質せば云いたい放題であった。各党代表が及び腰で質問したが貫禄負けであった。そう貫禄がある御仁でもないのに議論負けするのだから、よほど貧能極まれりというべきだろう。矮小な者が取り扱えば、大事な事柄でも矮小にしか論ずることができないという格好見本事例を遺すことになった。

 結論として、この不満の解消を現下の政治に求めるのは無理と云うべきだろう。

 2008.11.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評490 れんだいこ 2008/11/15 21:24
 【「田母神論文舌禍事件」考その2、文民統制規定考】

 本題に入る前にそもそも「文民統制規定」とは如何なるものであるのだろうか、これを考察しておきたい。「ウィキペディア文民統制」その他を参照しつつ確認してみる。

 日本国憲法上の文民統制規定は、第66条第2項の「内閣の組織」の項で、次のように規定されている。 「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(The Prime Minister and other Ministers of State must be civilians)

 戦前の帝国憲法には文民規定はない。逆に、陸海軍の統帥権は天皇にあると定められ、統帥権は独立した存在であった上に、職業軍人のみが陸海軍大臣を務め、時に首相にもなった。軍部が気に食わない政権と見るや、陸海軍大臣の任命をしないという組閣強請(ゆす)りも多々為され、戦後憲法に於いてはこれらの反省から文民統制規定が生み出された。第66条第2項が日本国憲法に於ける唯一の「文民規定」となっている。

 「日本国憲法に於ける文民統制の由来」が次のように説明されている。これが大いに憲法9条と関わっていたことが判明する。戦後憲法を生み出す最終詰めの制憲議会で、第9条に関して芦田修正が行なわれた。まず、原案たる帝国議会に提出された憲法改正草案は次のように規定していた。

 「第9条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない」

 これに対し、芦田委員長が次のような試案を示した。
 「第9条 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。

 これを「芦田試案」と云う。いきなり戦争放棄するのではなく、前振り条件を付けたことになる。これを基に議論が煮詰められ、最終的に次のように修正することを決定した。

 「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 これが現在の憲法第9条の規定である。但し、前半を1項、後半を2項と仕分けしている。何とかして「陸海空軍その他の戦力不保持」を後へ持ってきたことが分かる。それはともかく、れんだいこが英文に基き訳せば次のようになる。

 「憲法第9条1 正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求鼓吹しつつ、日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes)

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍はその他の潜在的戦力も同様に、これを決して保持しない。国の交戦権は、認められない
 (In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea,and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized)

「陸海空軍その他の戦力」の英訳は「陸海空軍その他の潜在的戦力」であり、「潜在的戦力」まで不保持とされていることが分かる。それはともかく、当初は総司令部側からの異議はなかった。が、まもなく総司令部や極東委員会の内部で、「芦田修正により、日本が defence force を保持しうる」とする見解が生まれた。これにより、「自衛(self-defence)を口実とした軍事力(armed forces)保有の可能性がある」と危惧を感じた極東委員会が、芦田修正を受け入れる代わりに「civilian条項」を入れるように求めることになった。

 しかし当時の日本語には「civilian」に対応する語がなかったため、貴族院の審議で「現在、軍人ではない者」に相当する語として「文官」、「地方人」、「凡人」などの候補が挙げられ、「文官」では官僚主義的であるとされ、最終的に「文民」という語が選ばれた。

 ところで、「文民」を英訳すると「シビリアン・コントロール(civilian control of the military)」となる。これを直訳すれば「軍に対する民即ち議会の統制」ということになる。ところが、戦後憲法は第9条で軍隊不保持を規定したことにより、存在しないものに言及することもできぬ為、憲法9条上では隠れることになった。こういう経緯で、日本国憲法第66条に文民統制規定が挿入されたということになる。これが、第66条第2項規定の裏意味である。

 ところがその後、朝鮮動乱が発生し、戦後日本の国際社会入りとなるサンフランシスコ講和条約と同時に日米安保条約が締結された。この条約で、在日米軍の引き続きの常駐と日本軍の米軍指揮下での育成強化が確認された。これにより自衛隊が登場することとなった。当初、自衛隊は警察予備隊として発足した。このことから明らかなように、自衛隊は憲法規定からは生まれ得ず、日米安保条約に基き創設されたことになる。憲法9条規定に縛られた結果、変な話ではあるが、「軍隊ではない軍隊」として発足した。

 そういう日陰者の形で発足した自衛隊に対して、「シビリアン・コントロール(civilian control of the military)」が適用された。これにより、歴代防衛庁長官には文民が要件とされ、現職の自衛官や自衛隊員が就くことは認められないこととなった。これが「憲法上の不文律」となり今日へと及んでいる。こう考えるべきではなかろうか。

 しかしこれは、日本国憲法の不文律であり、規定によりもたらされているものではない。あるのはあくまで、第66条第2項の「内閣の組織」に関する規定で、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」である。してみれば、自衛隊の文民統制規定は、日米安保条約と云う憲法とは別法の秩序下の「シビリアン・コントロール」概念に基き導入されたものであり、「日米安保条約から見て都合のよい文民統制」として導入されていることが分かる。これに日本国憲法の文民統制規定が被さっているとみなすべきではなかろうか。たまたま整合したから問題を発生させなかったと思えばよかろう。但し、先の安部政権下で防衛庁が防衛省となるに及び、第66条第2項の規定を直接受けることになった。

 以上、文民統制規定の意味と経緯について確認しておく。これを確認する理由は、こたびの田母神論文の是非を正確に問う為である。

 2008.11.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評491 れんだいこ 2008/11/15 21:55
 【「田母神論文舌禍事件」考その3、社共質疑のお粗末考】

 こう捉えたとき、「田母神事件」対応で見せた旧社共の対応には解せないものがある。蛇足すれば他の党のそれが良いというのでは決してない。こたび彼らの質疑は、元々に於いて憲法違反の自衛隊の存続を何ら問題視せず、これをそのまま認めたうえで修繕的な提言で臨んだ。これを誰も訝らない。しかし、これが果たして護憲を旨とする政党の採るべき対応だろうか。旧社共は既にここまで病んでしまったことを確認すべきであろう。

 れんだいこは、歴史的に見て許せないと思う。護憲を旗印とする日本左派運動の見地からは、自衛隊を既存のままで認めたり活用することはできない。権力を掌握次第まずは早急な自衛隊解体に向かうべきであり、次に現実路線として専守防衛的且つ救援的なものへの改組を視野に入れねばならない。且つ、良き伝統となった文民統制を継承し、その上での新たな在り方を問うというのが筋とならねばならない。これが執るべき態度ではないのか。

 この主張と姿勢を放棄して、体制修繕運動の一環として自衛隊の現在の在り方をそのまま踏まえて、ノー天気な提言に向かうのは醜悪と云うほかない。旧社共のこたびの対応は、彼らがいつのまにか我々が気づかないうちに今日の自衛隊を今日のあり方に於いてそのまま認め、駄弁している様を見せ付けた。既にどっぷりと体制化していることをあからさまにした。

 れんだいこは、とても容認できない。社民党には恥を知れと云いたい。日共にはウンザリさせられ、物言う気もしないが、丸め込まれている者も居ろうから批判しておく。日共は、こたびの対応で、自衛隊員の末端レベルまでの規制強化へ誘導せんとしている様を見せつけた。これは、正義ではなく逆に犯罪的な役割を果たしているのではなかろうか。自衛隊をして日共党内の如くトップダウン化さすとすれば、それこそますます手のつけられない凶器の自衛隊、脅威の自衛隊になる怖れが強くなるばかりではないか。

 我々が、本事件で提言していくとすれば、少なくとも「上からの統制の緩和」に向けてであり、「上からの統制の強化」では決してない。つまり、批判の自由が担保されなければオカシイ。有事対応的命令に対する指揮遵守義務は遵守させるにせよ、自衛隊内に於ける隊員個々の歴史観、政治観、世相観まで一層縛り、異論、異説、異端を監視する方向に誘導するのは逆行ではないのか。自衛隊のマシーン化を促進するだけではないのか。

 我々は逆に、右からのものにせよ左からのものにせよ、現役退役問わず自衛隊員の思想の自由を認めていく方向に叡智を寄せるべきではなかろうか。公的活動時の指揮遵守義務は公僕的に遵守させるにせよ、私的活動時には手綱が緩められ、特に論文執筆の自由は極力認められるべきではなかろうか。自衛官、学生生徒の宣誓には「政治的活動に関与せず」の文言があるとも云うが、何事にも上司上申せねばならないとされているとも云うが、これではまるで生きた屍ならぬロボットにされてしまうではないか。

 そういう意味で、次のような見解はいかがなものだろうか。

 「シビリアン・コントロールの下、軍事的組織は政治的中立性、非党派性を保つべきものとされ、軍事的組織構成員が政治的活動を行い、政治的意思表明を行う場合には、まず軍務を辞するべきものとされる」。

 れんだいこ的には、シビリアン・コントロール理論の悪用でしかなく、さような見解は過剰統制と云うべきで邪道ではなかろうかと思う。日共党中央が、党内の数十年にわたる整序に味を占め、日共の如くな政治秩序を国会にも自衛隊にも警察にも日本社会全域に適用せんと思うのは勝手だが、それこそ独裁政治を招来する道なのではないのか。

 れんだいこは、そのような社会は真っ平御免にして貰いたい。私のように唯々諾々しない者も居るというのも事実であるして、そういう層が圧殺されない社会をこそ望みたい。日共は、ソ連邦が解体した時、諸手を挙げて歓迎するなる声明を読み上げたが、ソ連政治の何を否定したのだろうか。単に時流迎合の声明を発しただけなのではないのか。むしろ、スターリニズム的な統制政治については、これを良しとして継承せんとしているのではないのかと勘ぐりたくもなろう。となると何にも歴史から学んでいないのではなかろうか。そういう気がするので聞いてみたい。

 現在、日本の現行国家公務員制度においては、一般職国家公務員の政治的行為が禁止されている。これは元々の規制ではなく、戦後直後は官民問わず、かなり自由に認められていた。ところが、1947年の「2.1ゼネスト」に象徴される官公庁の労働運動の高まりを受け、当時の戦後日本を統治していた連合国最高司令官マッカーサーが急きょ政策転換指令し、以降徐々に規制強化されつつ今日へと至っている規定である。

 日共の如くな「自衛隊別論」は「警察別論」を生み、「党内別論」を生み、「公務員別論」を生み、「教師別論」を生み、その他理屈をつければ無制限に広がるのではなかろうか。こたびの事件で、「現役自衛隊員が内規に反して上司に届け出ぬまま応募した」ことを指摘し、以降はそういうことができぬように統制強化を指針せしめているが、この方向を是とするべきだろうか。

 「一般職国家公務員の政治的行為禁止」は、本来の左派運動に於いては批判の対象であった。ましてや言論の自由まで奪うに於いてをや。ところがイケナイ、その末裔であるとされる旧社共勢力が今やこぞって言論統制強化まで叫び始めている。どうしてこういうありえべからざる逆指導が正義の名で堂々開陳され、誰も訝らないのだろうか。この現象を、誰か、れんだいこ以外に説明し得る者が居るだろうか。

 事は、右からのものであれ左からのもの者であれ、理屈は一緒にならなければおかしい。この基準を失うのを政治主義というのではなかろうか。目的が正しければ良いと云うものでもない。目的は正当な手続きをもって遂行されねばならない。これも学ぶべき公理ではなかろうか。以上、本題に入る前にコメントしておく。なかなか本題へ入れない。今日はここまでとする。

 2008.11.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評492 れんだいこ 2008/11/16 12:15
 【「田母神論文舌禍事件」考その4、どう善処すべきか】

 恐らく、旧社共の田母神批判は、その論文内容に関係しているのであろう。彼らの信奉する第二次世界大戦論、戦後民主主義論からすれば田母神論文は到底容認できないのだろう。その分ヒステリックにならざるを得なかったのであろうが、実際には遠吠え程度の反応しか為し得ていない。こうなればズバリ論文内容を分析せねばなるまい。田母神論文の妥当性を判断せねばなるまい。ここに丁々発止の言及して後に、事件考その1冒頭で指摘したような諸問題に向かうべきであろう。肝心の論文の歴史観、諸内容に立ち入らず蓋をしたままの文民統制強化策談義は下策の骨頂でしかなかろう。

 ならば、肝心の田母神論文はどう扱われているのだろうか。例によって右派は「よくぞ云った」と称賛し、左派は非難轟々している。そしてお互いが正義ぶっている。れんだいこには、又しても決して交わらない交わろうとしない談義で事勿れしているように見える。こういう遣り取りは既に我々は食傷しているというのに。

 れんだいこは、ここで提案をしておく。この事件を契機に政府部内に「近現代史研究会日本史版」を組織し、日本国及び人民大衆の手で史実検証を行うべしと思う。靖国神社への公式参拝の際にも問題になったが、この水路へ向かうのが肝心ではなかろうか。ここへ向かうのが政治のイニシアチブであるべきだが、どういう訳か云うだけで決して向かわない。いったい誰が、どの勢力が邪魔しているのだろうか。ここを問いたい。

 それはともかく、麻生政権は事件が発覚するや電光石火一閃で解任人事措置した。政権の危機を感じて双葉の芽の内に摘んだと思われる。しかし、野党は許さない。麻生政権の任命責任を追及し、専ら文民統制違反の見地から批判を強めている。しかし、麻生政権の速攻の解任措置の後では空を斬る仕草にならざるを得ない。

 野党の追求は、田母神論文の諸内容の解析に向かわねばならないところ、これに斬り込めない。そういう訳で、徒に呪文を繰り返すだけのブザマさを見せている。しかし、田母神論文が指摘した歴史観との齟齬をそのままにしておいては、いつまでたっても火種が燻り続けることになろう。マスコミが、通説御用系のコメンテーターが評する田母神論文幼稚論を流そうとも、事態は何ら変わらない。野党が、田母神論文批判の定型句を繰り返すだけで、論文諸内容の解析に向かわぬまま発言阻止に向けての文民統制強化論を説くのは「物言えぬ隊内作り」に結果するだけで、事態をより悪くすることはあっても、良くすることにはならないだろう。こういうことは自明なのに誰も指摘しない。解せないことである。

 政府の解任措置による沈静化も与野党の任命責任追及もどちらも、いわゆる形式批判に終始している。真に為すべきことは、賢明に対処することの難しさを弁えつつ、革めて必要な文民統制基準、自衛隊員の言論統制基準を生み出すことであろう。かなり叡智が必要とされており、生半可にできるものではあるまい。当代一流の碩学を集めて用意周到な時間と研究が必要なのではあるまいか。これをより良く為すのを政治と云うのではないのか。

 既に述べたが繰り返しておく。留意すべきは、日共式統制化論に引きずられないことではなかろうか。我々は、事が起こるたびに規制強化で対処していくやり方に対して、それを愚策とする観点を保持したい。昨今の強権著作権論の流れを見よ。著作権強化の流れが独り歩きし始めており、我々の生活レベルまでもがギクシャクさせられ始めている。そのうちニュースに於いても人の顔が映せない、車の№プレートが映せない、建物さえ映せなくなるだろう。服を着た女性の胸部、臀部が映せない、ならば男性の場合にも適用されることになるだろう。お仕舞いにはどこまで辿り着くのやら。

 もとへ。大衆団体であれ政党であれ国家機関であれ、異論異説異端を包含しつつ機能する組織こそ健全であるとする立場に立ちたい。その上で、指揮権限の考察に向かいたい。本件の場合は、そもそも憲法違反の日米安保同盟により育成された曰くつきの自衛隊の機関及び隊内の言論の自由問題となる。現役トップ級の言論の自由と制限、下士官レベルの自由と制限、一平卒レベルの自由と制限と云う重畳的考察が要求されている。

 自衛隊に対する過度の制限論はひいては警察に転用され、国家公務員一般に転用され、ひいては政党に宗教結社に社会一般に向けられよう。そういう意味で、私事レベルに於いては今後も言論の自由の許す限りに於いて発言及び執筆の自由が認められるべきとしたい。但し、公私の別は難しいので、この辺りの賢明な基準作りに向かうべきではないかと思われる。

 田母神論文の異色性は、現役の航空自衛隊トップの幕僚長が、「大東亜戦争の通説批判」を試みたところに認められる。遂にそういうご時勢に至ったかの感を深くする。大東亜戦争の通説はいずれ俎上に乗せられるべきではあるが、「現役制服組にして且つトップの言論の自由に対する法理的考察」が要請されたことになろう。

 以上を前置きとする。以下、いよいよ田母神論文の諸内容を考察することにする。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評493 れんだいこ 2008/11/16 12:49
 【「田母神論文舌禍事件」考その5、田母神論文の諸内容解析とれんだいこコメント】

 「田母神論文舌禍事件」は、田母神論文が指摘した歴史観の判断を要請しているのではあるまいか。そういう意味で、れんだいこは、論には論を対置したい。その上で田母神論文の判定に向かいたい。ここにこそ、本事件考察の意義があると思うからである。以下、田母神論文の解析に向かうことにする。

 肝腎なことは、「大東亜戦争の通説批判」をどういう見地からするのかにある。このこと自体は真っ当な営為なのであるが、田母神論文は、この歴史的期待にどう応えているだろうか。これを確認する。

 冒頭で、「アメリカ合衆国軍隊の日米安全保障条約による日本国内駐留」例を引き合いにして、戦前の日帝の中国、朝鮮への軍靴乗り入れも同じで「条約に基づいたものである」と強弁している。更に次のように述べている。「日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置した」、「この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない」。

 こういう見立ては、日帝の植民地支配に対する云い得云い勝ちのご都合主義的弁護でしかなかろう。元々、西欧列強の猿真似して植民地支配に乗り出さねば良かっただけのことであろう。ここを是認するから二枚舌になっていくのではなかろうか。

 「コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった」とも云う。

 これも単なる裏読み史観に過ぎない。それが当たっていれば良いけど、当たっていないとなると何の意味もなかろう。れんだいこの見立てるところ、コミンテルンは国民党と共産党を両刀使いしていたのが実際で、最終的に共産党の能力が国民党を上回り、国共内戦に於ける共産党勝利に決着したと読むべきではなかろうか。

 「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである」、概要「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている」、概要「廬溝橋事件も中国共産党の仕業」云々とも述べている。

 こういう見立ては、単なる泣きごとではなかろうか。逆恨みしていることになる。向こうには向こうの正義があろうから、両者の言い分を聞かねばなるまい。

 「もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と云う。

 この指摘は正しい。通説は、「勝てば官軍、負ければ賊軍論」式に拵えられた「西のナチスヒットラー、東の日帝軍部原罪論」を説いており、これに食傷する向きには「良くぞ云ってくれた」ということになろう。しかしそれを云うなら、「よその国がやったから日本もやっていいということにはならない」の方の重みを噛み締めるべきだろう。ここを軽く扱ってはいけない。

 「我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである」、「実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである」、概要「学校教育、インフラ整備、陸軍士官学校入校、李王朝待遇、清朝待遇等は善政であった」、「一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている」とも述べている。

 これも正しい。しかし、あくまで「穏健な植民地統治」であって植民地統治には変わりあるまい。「それまでの圧政から解放され」も相対的なものであり、日本盟主的立場からの天皇制下の共栄圏構想に基くものでしかなかったのも史実であろう。中国人民独自の建国革命の意義には及ぶまい。「欧米列強の植民地支配と比較しての日帝統治の協和的治世讃美」はほどほどにせねばなるまい。

 次に、1900 年の義和団事件、1901年の義和団最終議定書締結、1915 年の対華21箇条の要求について是認している。「これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない」と云う。

 これも、ひとたび日帝による植民地支配を是認したならばの話で、それを批判する側には通用しまい。現に、当の中国で反日運動の起点になったではないか。日本でも、「明治維新裏切られた革命説」の立場からは容認できるものではない。

 次に、日米戦争突入につき、「これも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している」と述べた後、ヴェノナファイルのアメリカの公式文書を引き出し次のように説明している。概要「ルーズベルト政権の中には3百人のコミンテルンのスパイがいた。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトで、日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人との説がある。彼がルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。真珠湾攻撃に先立つ1ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる」。

 この下りは、かなりな通説批判しかもアキレス腱を突いたものとなっている。他にも多々あるが、これらについて歴史検証されていくべきであろう。

 「さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ」。

 かく日帝の歴史的意義を称賛している。半面の真理であろうが、西郷指針の如く明治維新後の日本が、朝鮮維新、支那維新を手助けしていく道もあったはずである。この道を閉ざして日帝化していった功罪を両面から問うべきであろう。

 「東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている」。

 この下りも、かなりな通説批判となっている。これはこれで良かろう。

 「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない」、「アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている」、
「自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある」。

 これは、自衛国防論を述べていることになる。果たして、自衛国防論が叶うのか叶わないのか、当の本人が一番良く知っているだろうに。

 「タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである」。 

 これも通説批判であろう。以上、「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である説」を拝聴した。通説批判としての意義は認められるであろう。これが現職の航空幕僚長論文であるところが凄い。この後総評することにする。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評494 れんだいこ 2008/11/16 16:10
 【「田母神論文舌禍事件」考その6、田母神論文の総評】

 以下、田母神論文を総評する。論文は、大東亜戦争聖戦論を主張し、当時の西欧列強の帝国主義政策を不問にして、日帝のみが責めを負わされるのは不当とする見地を披瀝している。この見地は是認されて良い。「勝てば官軍、負ければ賊軍」論法により定式化されている戦後日本から現在に至る第二次世界大戦論、大東亜戦争論通説に対する批判として首肯されて良い。日本軍政がひいてはアジアの植民地的地位からの解放に繋がったと見立てる見地も、確かにそのような側面がある訳だから是認されて良い。

 つまり、第二次世界大戦を「ファシズム対民主主義の闘い」として、「ナチス・ヒットラーを極悪狂人、東条をA級戦犯」として仕立て上げ、戦勝国裁判で責任者達を絞首刑にした上になお足りずののしり続け、その他方で戦勝国側の政治を押し付けていった経緯に対する疑問を提起した点では、何らとやかく云われるものではなかろう。むしろ、この至極当然の見地が披瀝し得ない、披瀝すればこたびの如くパッシング責めにされる当世の在り姿の方がオカシイ。

 しかしながら、歴史の真実はそう単純ではなかろう。田母神論文は通説見解に対する批判と云う意味でのみ正しいレベルのものでしかないとみなすべきではなかろうか。というのも、初手に戻って、我が日本軍がそもそもなぜ朝鮮、台湾を併合し、大陸へ軍靴を乗り入れる必要があったのか、果たしてこの方向は幕末維新から明治維新の流れに於いて正当化されるだろうか、につき問いかけが必要とされているはずである。この点で、田母神論文は、端から考察を懈怠しているのではないのか。

 幕末維新を経て、明治維新政権を樹立させたまでは是としよう。その後の士族の反乱、その最終戦となった西郷派の西南の役をどう見るのか。通説は、征韓論争の真実を捻じ曲げ、西郷派が韓国征伐に乗り出そうとしていたと史実を捻じ曲げている。士族の反乱も、士族解体政策により俸禄を失った武士の時代遅れの反乱と見なしている。真実は、幕末維新で夢見た回天運動が裏切られつつあることに対する抵抗の武装闘争であったと見なす方がより真実に近かろう。この頃まではアジア同胞主義であったことも見逃せない。

 その鎮圧を経て日本の帝国主義化が公然と始まる。田母神論文は、この流れを不問にしたまま、その後の日帝の植民地支配史を全的に是認する形で論を構築しているように見受けられる。これは臭い歴史観ではあるまいか。通説とは違うがもう一つの事大主義的歴史観と云うべきではないのか。

 そういう訳であるからして、日帝の機略と軍靴の爪跡に対して、ご都合主義的な事件のみを採り上げ、 不都合な事件につき意図的に言及を避けている。日清戦争、日露戦争は偶然発生したものではあるまい。これを裏で糸ひき財政支援した国際金融資本の思惑があり、これに応じた当時の売国奴系日帝主義者が居てこそ成り立ったのではあるまいか。李氏朝鮮宮廷に対する不当な容喙然り、台湾併合時のゲリラ鎮圧然り、義和団事件の際に果たした日本軍の役割然り、ソ連革命権力創出時に於けるシベリア出兵然り。その他枚挙すればキリがない。

 元々に於いて他にも賢明な方法があったところを、即ちアジア同胞主義の立場からのそれぞれ当該国の革命支援と云うあり方があり得たところを、無理矢理に日帝化へ突き進み、西欧列強の仲間入りを自慢し、国際金融資本のアジアの傭兵として立ち働いたのではないのか。日本帝国主義は結局のところ国際金融資本に養豚化させられたのではないのか。こういう目線を持ちたい。

 確かに歴史は摩訶不思議で、その後の日帝は一定の自律化へ向かう。第1次世界大戦後、日帝の野望はあからさまになる。満州国の建国、それに伴う満蒙開拓団の派遣、日独伊枢軸同盟締結、大東亜共栄圏構想の打ち上げ、そして自立自存を掲げての大東亜戦争への突入。この道は、国際金融資本に対する叛旗の道でもあった。いずれ不可避の、かなり苦難の、敗北予兆の濃い、叉は内部溶解させられるのが必然の道であった。日独伊はこのグラントに於ける軍事同盟であり、最終的に叩きのめされた。

 田母神論文は、本質的に重要な、避けて通れないこれらの諸問題に言及せず、既に流布されている通説に対抗弁論し得そうな事件のみを抽出して論を構築しているに過ぎない。どう評価してみてもせいぜい「大東亜戦争批判の通説に対する批判」に堪えられる程度の歴史真相しか明らかにしていないように思われる。

 こういう性格を見せる田母神論文をどう評するべきか、ここが問われている。明治維新以来大東亜戦争へ至る行程及び大東亜戦争の全行程の検証は、通説的見地、その批判の見地も含め、洗いざらい再度検証せねばならない課題が遺されているのに、田母神論文には、その契機になるであろう点は評価できるが、この歴史負託に応えられるような論証性、指針性は認められない。

 意味があるとすれば、現役航空幕僚長の身で、敢えてこういう私見を披瀝する必要がなへんにあったのであろうか。れんだいこの関心はそこへ向かう。単なる思い上がりで感覚ボケしていたのか、何か裏事情があるのであろうか。用意周到さの欠ける論文応募であったことには違いない。れんだいこは、その動機を知りたい。ここを知らされない限り、考察は終了しない。

 以上を、れんだいこの田母神論文総評としたい。最後に、論文が田母神氏の政治姿勢とどう絡んでいるのだろうか、これを検証する。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評495 れんだいこ 2008/11/16 17:45
 【「田母神論文舌禍事件」考その7、政治姿勢と論文の整合性如何考】

 田母神論文はさておき、田母神氏の政治的スタンスには妙な癖(正確には処世法と云うべきか)があることに気づかされる。田母神氏は仄聞するところ、憲法改正派であり、自衛隊の海外武装派兵推進派であり、現地戦闘鼓舞派として種々言説している。しかしこれは、何のことはない現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の意向と要請に添うものでしかない。

 田母神論文は大東亜戦争聖戦論で耳目をひいているが、田母神氏の政治姿勢と大東亜戦争聖戦論はどう接合しているのだろうか。れんだいこには理解できない。論文は最後のくだりで自主防衛論にシフトしているのに、田母神氏の実際の政治姿勢は国際金融資本帝国主義の買弁ズバリなのだからして、これを難なく接合し得るとしたら、一種のピエロ的な芸人理論家であろう。

 田母神氏の真意は分からない。以下、ピエロ芸人と仮定して言わせて貰う。氏にあっては論文は振り掛け胡椒に過ぎず、政治的な真の狙いは自衛隊の更なる中曽根-小泉式国際貢献論へと繋がっているのではないのか。こちらの狙いの方に力点があり、大東亜戦争聖戦論は今後の自衛隊に期待されている現地武闘を是認する為の地ならし勇武論としての役割を果たそうとしているのではなかろうか。

 自衛隊員内に、国民に銃口を向けるのことに抵抗する気分のあるところを、田母神論文によって是認化させ、行け進めの乃木式武闘路線で部隊教育せんとしているのではなかろうか。れんだいこは、そう解析する故に極めて危ない誘導理論ではないかと判別する。現役トップがかような指針を掲げて部隊教育に乗り出しているのなら、下士官以下総員はこれを批判する自由を得るべきである。そういう意味で、麻生政権が果断に解任処置したのは正しいと思っている。もっとも、当の麻生政権は政権保全の見地から措置したのであって、たまたま結果的にれんだいこ的要請と合致したに過ぎないのであろうが。

 田母神論文が大東亜戦争聖戦論を述べることについては、れんだいこは言論の自由と認めたいと思う。航空幕僚長としては暴走ではなかろうかとも思うが。問題は次のことにある。田母神論文は、戦後日本が、大東亜戦争の教訓から不戦の誓いを引き出し、これを憲法9条で確定し、外治主義から内治主義へ転換させ、戦後復興を経て未曾有の高度経済成長を引き出し、軍事とは無縁の否戦後的軍事であるかも知れない国際経済援助で国際貢献し、これらを総合して大いなる役割を果たしてきたハト派式善政に対して全く言及していない。逆に、タカ派式憲法改正、自衛隊の海外派兵、現地武闘路線にエールしている。

 この姿勢は、大東亜戦争に敗北した結果、戦後日本が再び現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の下で養豚化させられ、軍事もまた露骨に然りであり、このクビキとの闘いに向かうよりも、これらに更なる迎合せんとする隷従の道そのものではなかろうか。大東亜戦争聖戦論から説き初めて結果的にかような隷従の道を説く論法こそ臭いと云わざるを得ない。

 以上、れんだいこの「田母神論文舌禍事件」考とする。

 2008.11.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評496 れんだいこ 2008/11/18 19:20
 【「田母神論文舌禍事件」考補足、新聞各社の社説比べ】

 2008.11.17日付産経新聞9面の「(論説委員室から)社説検証」が興味深い記事になっているので、これを確認する。記事は、「田母神論文舌禍事件」に対する各紙の論調を比較検討している。それによると、「産経と他紙の論調は大きく分かれた」と前置きした上で、事件発覚直後の11.2日の社説を次のように紹介している。

 産経論調は次の通り。「歴史観封じてはならない」の見出しで「第一線で国の防衛の指揮に当たる空自トップを一編の論文やその歴史観を理由に、何の弁明の機会を与えぬまま更迭した政府の姿勢も極めて異常である。疑問だと言わざるを得ない」、「談話は政府の歴史への『見解』であつて『政策』ではない。しかも、侵略か否かなどをめぐってさまざまな対立意見がある中で、綿密な史実の検証や論議を経たものではなく、近隣諸国への配慮を優先した極めて政治的なものであった」。

 (れんだいこコメント)産経は規制批判派として登場していることになる。

 朝日論調は次の通り。「ぞっとする自衛官の暴走」の見出しで「こんなゆがんだ考えの持ち主が、こともあろうに自衛隊組織のトップにいたとは。驚き、あきれ、そして心胆が寒くなるような事件である」。

 (れんだいこコメント)朝日は守旧派として登場していることになる。

 毎日論調は次の通り。「トップがゆがんだ歴史観とは」の見出しで「航空自衛隊のトップがゆがんだ歴史認識を堂々と発表する風潮に、驚くばかりだ」。

 (れんだいこコメント)毎日は規制派として登場していることになる。

 読売論調は次の通り。「立場忘れた軽率な論文発表」の見出しで「田母神氏は自衛隊の最高幹部という要職にあった。政府見解と相いれない論文を発表すれば重大な事態を招く、という認識がなかったのなら、その資質にも大いに疑問がある」。

 (れんだいこコメント)読売は、政府見解擁護派として登場していることになる。

 11.11日の参考人質疑を受けての11.12日の社説論調は次の通り。

 産経の論調は次の通り。「本質議論聞きたかった」の見出しで「本質を避ける政治の態度が、憲法論や安保政策のひずみを生んできたのではないか」、「政府は田母神氏を更迭する際にも本人に弁明の機会を与えなかった。政府見解や村山談話を議論することなく、異なる意見を封じようというのは立法府のとるべき対応ではない」。

 (れんだいこコメント)規制するより盛んに議論せよと述べていることになる。

 朝日の論調は次の通り。「『言論の自由』のはき違え」の見出しで「航空自衛隊を率い、統幕学校の校長も務めた人物が、政府方針、基本的な対外姿勢と矛盾する歴史認識を公然と発表し、内部の隊員教育までゆがめる『自由』があろうはずがない」。

 (れんだいこコメント)村山見解政府方針を遵守せよと述べていることになる。

 毎日の論調は次の通り。「隊内幹部教育の実態解明を」の見出しで「文民統制の問題も隊内教育の疑惑も解明されたとは言い難い。麻生太郎首相が出席した審議は必須である。田母神氏再招致も検討してしかるべきだ」。

 (れんだいこコメント)不祥事を解明せよと述べていることになる。

 読売の論調は次の通り。「『言論の自由』をはき違えるな」の見出しで「空自トップが政府見解に公然と反旗を翻すのでは、政府も、自衛隊も、組織として成り立たなくなってしまう。政治による文民統制(シビリアンコントロール)の精神にも反している」。

 (れんだいこコメント)文民統制に従えと述べていることになる。

 執筆者の津田俊樹氏は次のように結んでいる。「文民統制の確保はもちろん、空幕長だった田母神氏が部外への意見発表の手続きを完璧に踏まなかったことの責を負うのは当然である。その一方で、安全保障政策や歴史認識に対する自由闊達な議論が求められている事も忘れてはならない」。

 (れんだいこコメント)文民統制は大事、さりながら議論を尽す事も大事とのべていることになる。

 なお、日経は、11.3日「田母神空幕長の解任は当然」、11.12日「田母神氏だけなのか心配だ」を発表している。

 以上の総評として、各社が各社らしい論調で各様の見解を披瀝しているところが興味深い。こういう「新聞各社の社説比べ」はもっと適宜にされるのが面白いとも思う。いわゆる内部啓発になろう。テレビの「訴えてやる」もそうで、同じ議案を廻っての弁護士同士の見解の相違が知らされるのが面白い。結局、我々の思案が深まる方向の試みは有益で、逆は有害と考えれば良かろう。

 それはそれとして、これに関連して「新聞各社の社説比べと著作権問題」に言及しておきたい。新聞協会の著作権論によると、こういう記事比較する際の引用転載は「要事前通知、要承諾制」になっているはずである。この記事の執筆者は、これを踏まえているのだろうか。それとも仲間内の場合には無条件で許されているのだろうか。仮に後者の場合、一般の我々が同じようなことをしてはなぜイケナイのだろう。れんだいこは、この記事の執筆者に、どう思うか聞いてみたい。

 なぜ彼に質したいのか。それは、執筆者の津田氏が末尾で「空幕長だった田母神氏が部外への意見発表の手続きを完璧に踏まなかったことの責を負うのは当然である」とべているからである。津田氏が仮に新聞協会著作権論による引用転載に際しての「要事前通知、要承諾制」を踏まえてないとしたら、どうなるのか。自分もまた同じ不首尾の側なのではないのかと気づいて欲しい。

 れんだいこは、それを批判しようと云うのではない。逆に、そういう在り方の方を是認して手続き簡素説の方に向かうべきだと思っている。今日び流行りのエセ智恵浅智恵に加担して貰いたくないと思っている。故に、彼は、本当は次のように述べるべきではなかったか。

 「そろそろ我々は、空幕長トップの田母神氏が部外への意見発表できる為の要件作りに向かうべきではなかろうか。安全保障政策や歴史認識に対する自由闊達な議論が求められているのではなかろうか」。

 2008.11.18日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評497 れんだいこ 2008/11/20 21:06
 【日教組批判考その1】

 2008年の論調として見逃せない日教組批判の動きが連発した。偶発的に生まれたものなのか、この背景に何らかの政治的事情があるのかどうか分からない。教育現場がとめどなく荒廃しつつあるのは事実で、従来例のない粗暴な青少年犯罪が頻発しつつあるのも事実で、これに何とかせねばという思いが日教組批判に結びついていたように思われる。これに一定のシンパシーが生まれているやに思われる。

 詰問されている側の日教組はどう反論しているのだろうか。ホームページ(ttp://www.jtu-net.or.jp/)を覗いてみたが、受身の反論に終始しているように思われる。残念ながら、日教組の猛烈な反論が聞こえてこない。当の本人側がその程度なので、れんだいこが何もしゃしゃり出る必要はないのだけれども、得々として日教組批判に向かって正義ぶる輩を容認できないので代わって天誅しようと思う。しかしそれにしてもダラシナイのは日教組である。なぜ事を大きくしようとしないのだろうか。

 れんだいこの学生時代に於いて、日教組の教師と懇意にした経緯はない。つまり特段世話になった覚えはない。れんだいこが言及する所以は、学生運動を通じて世の中の見方を覚え、家永教育訴訟以来教育問題にも関心を持っているからである。恐らく教育は国の基いとする本能的な察知が関心を深めさせているだろう。

 あれこれするうちにふと思い出した先生方が居た。一人は中学時代の美術の先生である。中1の担任でもあった。ホームルームか何かの機会に一度だけ学生運動の経験を語っていたような記憶がある。話の内容は思い出せないが、「今俺は何をすべきか。こうやって私は過ごしてきた」云々てなことを云っていたように思う。くだらないことには拘らないアバウト派の割合い話の分かる先生だった。

 一人は高校時代の化学の先生である。この人は高3の担任でもあった。賃上げ闘争で頑張っていたような気がする。教育者的には既に受験体制派としてシフトしていたので、れんだいことはソリが合わなかった。つまり、日教組の先生の中でも、れんだいことウマの合う人と合わない人が居るということになる。

 歴史の先生も居た。この方は学年主任でもあり教師間にも信頼の厚い先生だった。れんだいこが所属していた剣道部の顧問でも有った。かといって親しく話したことはない。この先生が注目を浴びたのは、当時の全共闘運動に共鳴し、或る時の学生デモに参加し、それがすぐさま教育委員会にバレて飛ばされるという事件を起こしたからである。事情を知る教師-生徒間でオカシイという声が挙がっていたが、大きなうねりにはならなかった。れんだいこは、そういう問題には未熟で傍観して過ごした。

 日教組と分かる先生を思い出せばまだ多少は居るだろうとは思う。いや当時は殆どがそうだったのかも知れない。気がつかないのは、日教組的に目立つ先生ではない方ばかりだったからであろう。れんだいこと日教組の先生の付き合いはその程度である。つまり殆ど関係ない。

 なぜこういうことを記すのか。今れんだいこが振り返るのに、日教組の先生とそうでない先生を仕分けしてみて、日教組の先生の方にシンパシーを感じるからである。中にはその後教育委員会入りして、生長の家の信者であった先生をイジメ、それで左派ぶっていた先生の噂を聞いたことある。お袋が、どこからか話を仕入れてきて、夕飯時に語っていたのを思い出す。お袋の見解は生長の家の先生に与しており、子供思いの良い先生なのにイジメられてかわいそうというような話だった。イデオロギー過剰な故に閉口するような日教組の先生も居たことになろう。

 が、概ね良い先生だったという気がする。れんだいこが理論的に解析すれば、反戦平和のヒューマニズムを大なり小なり受け入れており、出世亡者ではない一介の教師として筋を通していた人が多かったような気がする。れんだいこが今思うに、これは教育者として大事な資質で、比較的相対的にではあるが教育者の片鱗を見せていたのではなかろうか。

 こういう日教組の先生モデルと対極的なのは、えこひいき派であった。金持ちブゲンシャの子供には愛想良く貧乏人の子供には見向きもしない先生群が居た。子供にも分かる子供そっちのけの出世主義者がいた。塾派、金儲け派が居た。高校になると受験派が居た。以上でだいたいのパターン分けができる。今はこれに無気力派と偏執エロ派、不倫派を加えねばなるまい。他には昔も今も御身安泰派というのもいるかも知れない。この中にも日教組の先生が居たのかも分からないが、ある程度の抑制を利かしていたのではなかろうか。

 れんだいこは何が言いたいのか。そろそろお分かりいただけるだろうが、こういう教師群を考えた時に、日教組の先生方を批判して事足りるのか、あまりに安逸な日教組批判ではないかと思うということが云いたい訳である。日教組運動には確かに功罪がある。罪の部分として、偏狭なサヨイズムに染まっており、未だに抜け出していないように思われる。しかし、それらの罪の部分をもってして、今日の教育腐敗、顕著に頻発する青少年犯罪の粗暴性の主因であるとは思えない。これが云いたい訳である。むしろ、教育界の惨状を告発するのなら、長年の文部省行政こそ主因なのではなかろうか、これが云いたい訳である。

 この文部省行政の告発に向かわない日教組ウルトラ批判に何の意味があるのか。れんだいこには、ここに怒りがある。右翼が「日教組解体、北方領土返還」唱えているのは耳タコで、職業的にそう云わざるを得ない裏事情なり確信があるのだろうとは思うが、中山前国土交通大臣の如き自民党のお偉方の口から唐突に日教組批判が飛び出るとは思わなかった。余りにも安逸お粗末としか言いようがない。

 誤解していただきたくないのは、日教組に対する批判を止めろというのではない。何事も議論が大事だから、それはそれで良かろうと思う。問題は、日教組を批判するのなら、同時ワンセットでその何十倍も責任の重い文部省行政の告発にも向かわねばオカシイのではないのか。なぜこちらに向かわないのか、ここが不自然である、こういうことが云いたい訳である。

 2008.11.20日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評486 れんだいこ 2008/11/07 20:22
 こげぱんさんちわぁ。こげぱんさんに啓発されてオバマ考のサイトを作りました。(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/obamaseikenco/obamaseikenco.htm)

 今はまだ何も書いておりませんが、為になる情報を仕入れていきたいと思います。しかし、著作権強権時代にはこれが非常に難しいです。何しろ、新聞情報を取り寄せるにも、一々事前連絡し了承を取り付けなければならないみたいです。自称インテリさんが、そうだそうだと合唱しており、この手合いに下手に立ち向かうのは消耗ですので、極力れんだいこ言葉で書きつけようと思います。その分スピードが遅くなるのは止むを得ません。

 それはそうと、今日は良い話を聞きました。次のような内容です。歌という言葉には本来「訴える」という意味が込められているようです。訴えるの「うた」が「歌」に通じているという次第です。れんだいこはここから次のような論を生み出します。歌の訴えるには二つの意味が考えられます。一つは、プロテストと云う抗議的訴え。もう一つは、プロパガンダ的な広報的意味の訴え。これが本来の歌の意味と云うことになります。

 和歌然り、俳句然り、川柳しかり、狂歌然り。流行歌然り、演歌然り。そう云えば確かに抗議的意味と広がりを念ずる意味の二つが重なっているように思えます。この原義に対して、今日びの自称インテリが小難しい理屈を仕掛けております。俺の著作物を誰に断って利用しているんだ云々。ここでアゴをしゃくるとヤクザの兄さんのする格好の通りとなります。この手合いの著作権論が異常な勢いで我が社会を侵食しつつあります。

 これにより、ホント世の中が非常に小難しくなりつつあります。小人閉居して不善を為すとは言い伝えられている名句ですが、その通りです。政府の政策も、景気対策と称して何の効果もないオモチャのような対策を講じようとしており、野党の方も負けじとばかりより大きなオモチャで対抗しようとしております。又してもそのツケが我々に回されます。エエ加減にしてくれよなぁ。れんだいこは訴えます。チェンジ! やっぱぬるいなぁ。世直し立替えレボリューション! うんまずまず。

 2008.11.7日 れんだいこ拝 

Re::れんだいこのカンテラ時評487 れんだいこ 2008/11/08 15:18
 【オバマ民主党候補の大統領選勝利演説(現代和訳文)】

 「オバマ次期大統領の勝利演説」を、れんだいこが和訳しておく。諸訳を参考にしました。追って、より適訳に手直ししようと思います。(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/obamaseikenco/syorienzetuco.htm)

 2008.11.4日夜、民主党のバラク・オバマ氏は、約20万人の支援者を前に次のような勝利演説をしました。歴史に残る名演説となっています。銘々が味わえばよかろう。それにしても、勝ったオバマ、負けたマケイン両者のエールが見事ですネェ。比較するに日本政治はまるで子供です。オバマ政権がどういう政治をするのかはこれから判明しますが、能力的に凄いのは確かです。ブッシュ派がしょぼんとさせられている姿が目に映ります。まさに時代はボンクラ悪態派の出る幕を閉じ、チェンジしつつあることになります。

 (本文開始)

 こんにちわシカゴの皆さん

 もし、ここに集まった人たちの中に、アメリカは、あらゆることが可能なところであるのに、未だにそれを疑う人がいるなら、アメリカ建国の父祖たちの夢がこの時代にまだ生き続けているのに、これを疑う人がいるなら、この国の民主主義の力を未だに疑う人がいるなら、今宵こそがその人たちへの答えです。

 あちこちの学校や教会の周りに、この国が未だ見たこともないほどの大行列が伸びていました。並んだ人たちは3時間も4時間も待っていました。人によっては生まれて初めての経験でした。そういう人たちは、今度こそは違うと信じたから、今度こそは自分たちの声が違う結果を作り出せると信じたからでした。

 若い人たちも年取った人たちも、金持ちも貧乏人も、民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、同性愛者(ゲイ)も非同性愛者(ストレート)も、身体障害者も健常者たちも回答しました。アメリカ人は世界へ向けてメッセージを送りました。私たちはただ単に個人がバラバラに集まっている国だったこともなければ、(共和党が強い)赤い州と(民主党が強い)青い州の集まりだったこともないと。私たちは今までもこれから先もずっと、アメリカと云う合衆国として在り続けるのです。

 やればできることなのに、今まであまりにも長いこと皮肉屋になったり臆病になったり不信屋になったりしてやり過ごして来た人たちが答を出しました。歴史を自分たちの手に握り、より良い日への希望に向けて歴史をやり直すために。ここまで来るのにずいぶん長くかかりました。しかし、今宵、この選択をすることで、この決定的瞬間に於いて、変革がアメリカにやってきたのです。

 今夕のつい先ほど、私は、マケイン上院議員から実に丁重な電話をいただきました。マケイン議員はこの選挙戦を長く厳しく戦って参りました。議員は、愛するこの国のために、以前からずっと長く厳しく戦って来た人です。マケイン氏がアメリカの為に尽した犠牲のほどを、殆どの私たちは想像すらできません。こうした勇敢で自己犠牲的指導者が献ずる奉仕のおかげで世の中がまずまずのものとなっております。

 私はマケイン議員を称えます。そしてペイリン知事を称えます。マケイン議員たちが成し遂げてきたことを称えます。そしてこれから、この国を前進させて行くという約束を再生させるため、マケイン氏たちと共に働くのを楽しみにしています。

 私は、この旅路を共にしてくれたパートナーに感謝したい。彼は心を尽くして戦い、(ペンシルベニア州)スクラントンの街で一緒に育った人たちに語ってきました。デラウェアの自宅に電車で帰る際、一緒に乗り合わせた人たちに語ってきました。アメリカの次期副大統領ジョー・バイデン、有難う。

 そして、16年前からの、私どもの家族の礎にして私の人生の愛人である最高の親友の絶え間ない支えがなければ、私は今夜ここに立つことができませんでした。この国の次期ファーストレディ、ミシェル・オバマ。
サーシャとマリーヤ。私は、君たちにはちょっと想像もつかないほど愛しているよ。君達が頑張ったので、約束した通りホワイトハウスに新しく飼う子犬を一緒に連れて行けるよ。

 祖母はもうこの世にはいませんが、今日の私を作り上げてくれた家族と一緒に見守ってくれています。今夜ここに家族の全員がいたら良いのですが、今宵見つけることができないのが寂しいです。両親や祖父母が私に与えてくれたものは量り知れません。妹のマヤ、姉のアルマ、そして兄弟や姉妹全員の皆様、これまで私に与えてくれたご支援を本当に有難う。みんなに感謝します。

 選対責任者のデビッド・プラフに。この選挙戦の縁の下の英雄です。アメリカ合衆国の歴史で最高に尽力し、最高の選挙運動を設計してくれました。戦略責任者のデビッド・アクセルロッドに。最初からいついかなるときもずっと連れ添ったパートナーです。この選挙戦の為に集められた、政治史上最高のチームに。あなた方が、この結果を作りました。これを成し遂げる為にたくさんのことを自己犠牲にしてこられました。私は皆様方にいつまでも感謝し続けます。

 けれどもほかの何を差し置いても、今夜のこの勝利が真に誰のものなのか、私は決して忘れません。この勝利は、あなた方のものです。あなた方のものなのです。

 大統領の職を目指した人たちの中で、私は決して有力候補では有りませんでした。私たちは、豊富な資金があったわけでもなければ、大勢の後援を受けていたわけでもありませんでした。私たちの選挙戦はワシントンの広間で始まったのではありません。この選挙戦は、(アイオワ州)デモインの裏庭で始まったのです。(ニューハンプシャー州)コンコードの居間で始まりました。(サウスカロライナ州)チャールストンの玄関ポーチで始まったのです。この選挙戦は働く人たちがなけなしの貯金をはたいて、5ドルや10ドル、20ドルを提供して、そうやって築き上げていったものです。

 若者は無気力だという神話を拒絶した若者たちの闘いから幕が切って落とされました。彼らは、僅かの報酬で、睡眠時間を削ってまで労力を提供し、家と家族から離れて協力してくれました。そういう若者の踏ん張りにより力をいただきました。

 あるいはそれほど若くない人たちから。彼らは、凍てつく寒さと焼け付く暑さにもひるまず、まったく知らない人たちのドアをノックしてくれました。あるいはボランティアとなって組織を作って活動した何百万人というアメリカ人たちから。そういう人たちの踏ん張りにより力をいただきました。建国から2世紀年以上たった今でも、人民の、人民による、人民のための政府はこの地上から消え去ってはいないのだということを証明してくれました。これは、あなた方の勝利です。

 私は、皆様方が選挙に勝つ為にだけ参加したのではないことを分かっています。そして、私のために参加したわけでもないことも分かっています。前途に横たわる難事を理解しているからです。今晩みんなでこうやって祝いながらも、明日からの挑戦を知っています。目下の最大の課題、即ち二つの戦争、危機下の惑星、今世紀最悪の金融危機が待ち受けていることを承知しております。

 今夜ここにこうして立つ今も、私たちは知っています。イラクの砂漠とアフガニスタンの山岳で目覚めようとする勇敢なアメリカ人たちがいることを。彼らが、私たちのために命を危険をさらしていることを。

 子供たちが眠ったあと、どうやって住宅ローンを払ったらいいのか、病院の請求書をどう払ったらいいのか、子供の大学進学費をどうやって貯めたらいいのか、まんじりと眠れずにいる母親や父親がいます。

 無害の新エネルギーの活用問題も有ります。新しい仕事を創り出さなくてはなりません。新しい学校を造り、脅威に立ち向かい、同盟関係を修復しなくてはなりません。

 私たちの前には、長い道のりが待ち受けています。目の前の斜面は急です。目指すところに、1年あるいは1
期ではたどりつかないでしょう。しかし、アメリカよ、私たちは希望を失うことはありません。絶対にたどり着きます。私は今夜ほどその期待を強くしたことはありません。私は、皆様方に約束します。私たちこそが、そこへ辿り着くことのできる国民なのです。

 これから先、挫折もあれば過ちも犯すでしょう。私がこれから大統領として下す決定や政策に賛成できない人も多くいるでしょう。私達は、政府がすべての問題を解決できるわけではないことを知っております。

 けれども、私は、私たちがどういう挑戦に直面しているのか、いつも皆様方に正直に話すつもりです。私は皆様方の声に耳を傾けます。特に意見が食い違うときには。そして何よりも、私は、皆様方に、この国の再建作業に参加するようお願いします。国を建て直すとき、アメリカでは過去221年間、いつもこのようにやってきました。ささくれたタコだらけの手で、ブロックを一枚一枚積み上げ、レンガを一枚一枚積み上げてきたのです。

 21カ月前、真冬の最中に始まったものを、この秋の夜に終らせるわけにはいきません。私たちが求めていた変革は、ただこの勝利だけではありません。この勝利はただ、求めていた変革を実現させる為のチャンスを得たに過ぎないのです。そして以前と同じようなやり方に戻ってしまったら、変革の実現などあり得ません。皆様方なしでは、変革は起こりません。新しい奉仕の意欲的精神、新しい自己犠牲の意欲的精神がなくては変革は実現しないのです。だからこそ私たちは今、新しい愛国心、新しい責任感を呼び覚ましましょう。もっと努力して、自分達だけではなくお互いの面倒を見るように、私たちが互いに共同して解決に向かいましょう。

 今回の金融危機から得たほかでもない教訓というのは、メーン・ストリート(普通の町の中央通り)が苦しんでいるのにウォール・ストリートだけ栄えるなど、そんなことがあってはならないということ。それを忘れずにいましょう。

 この国では、私達は、一つの国として、ひとつの国民として、共に栄え共に苦しむのです。この国の政治はあまりにも長いこと党利党略で毒されてまいりました。相変わらずの党派対立やくだらない諍いや未熟さに再び落ち入らないよう、その誘惑と闘いましょう。

 共和党の旗を掲げて初めてホワイトハウス入りしたのは、この州の人でした。そのことを思い出しましょう。共和党とは、自助自立に個人の自由、そして国の統一という価値観を掲げて作られた政党です。そうした価値は、私たち全員が共有するものです。そして民主党は確かに今夜、大きな勝利を獲得しましたが、私たちはいささか謙虚に、そして決意を持って、この国の前進を阻んでいた分断を癒すつもりです。

 かって、(第16代大統領の)リンカーンが、今よりもはるかに分断されていた時に国民に語ったように、私たちは敵ではなく友人なのです。感情はもつれたかもしれませんが、だからといってお互いを大事に思う絆を断ち切ってはなりません。

 そして私がまだ支持を得られていない皆さんにも申し上げたい。今夜は皆さんの票を得られなかったかもしれませんが、私には、皆様方の声にも耳を傾けます。私は、皆様方の支援を必要としております。私は皆様方の大統領にもなるつもりです。

 この国から遠く離れたところで今夜を見つめているみなさん。外国の議会や宮殿で見ているみなさん、忘れ去られた世界の片隅でラジオの周りに身を寄せ合っているみなさん、私たちの物語はそれぞれ異なります。けれども私たちはみな運命を共有しているのです。アメリカのリーダーシップはもうすぐ新たな夜明けを迎えます。

 この世界を破壊しようとする者たちに告げます。私達は、あなた方を打ち破るでしょう。平和と安全を求める人たちにお伝えします。私たちはみなさんを支援します。そしてアメリカと言う希望の灯はかってのように輝いているのかと疑っているすべての人たちに告げます。私たちは今夜この夜、再び証明しました。この国の力とは、我々の武器の威力からくるのでもなく、富の巨大さからくるのでもありません。この国の力とは、民主主義、自由、機会、そして不屈の希望という私たちの理想が内包する、その揺るぎない力を源にしているのです。

 それこそが、アメリカと言う国の本当の素晴らしさです。アメリカは変われるという、まさにそれこそが宝なのです。私たちの連邦はより完璧に近づくことができます。私たちがこれまで達成してきたことを見れば、これから先さらに何ができるか、明日には何をしなくてはならないかについて希望を抱くことができるのです。

 今回の選挙には色々な「史上初」があり、これから何世代にもわたって語り継がれるでしょういろいろな物語りがありました。けれども私が今夜なによりも思い出すのは、アトランタで投票したひとりの女性の物語りです。彼女はほかの何百万という人たちと同様に、この選挙に自分の声を反映させようと行列に並びました。ただ1つだけ、ほかの人と違うことがあります。アン・ニクソン・クーパーさんは106歳なのです。

 彼女は、奴隷制が終ってから一世代後に生まれました。道路を走る自動車もなければ、空を飛ぶ飛行機もなかった時代です。その時代、彼女のような人はふたつの理由から投票できませんでした。女性だから。そして皮膚の色ゆえに。

 私は今晩、アメリカで生きた100年以上の間にクーパーさんが目にした、ありとあらゆる出来事に思いを馳せます。心を破られるほどの悲しみ、そして希望、闘い、進歩。そんなことはできないと云われ続けたこと、にも拘らずひたむきに前進し続けた人たちのこと。あのいかにもアメリカ的な信条を掲げて。Yes we can。私たちにはできるのです。

 女性は沈黙させられ、女性の希望は否定されていた時代にあって、クーパーさんは生き続け、女性が立ち上がり、声を上げ、そしてついに投票権に手を伸ばすのを目撃したのです。Yes we can。私たちにはできるのです。

 アメリカの大草原に絶望が吹き荒れ、大恐慌が国を覆ったとき、クーパーさんは(フランクリン・ルーズベルト大統領の)「新しい契約(ニュー・ディール)」と新しい仕事と新しく共有する目的意識によって、この国が恐怖そのものを克服する様を目撃しました。Yes we can。私たちにはできるのです。

 爆弾が我々の湾に落下し、独裁が世界を支配しようとしたとき、時の国民が立ち上がり、偉業を達成し、そして民主主義を救うのをクーパーさんは見ていました。Yes we can。私たちにはできるのです。

 クーパーさんは(人種隔離政策が行われていたアラバマ州)モンゴメリでバスが黒人を差別するのを知り、(同州)バーミングハムで警官が消火ホースの水でもって黒人を抑圧するのを知り、(流血のデモ行進が行われた同州)セルマの橋を知り、そしてアトランタからやってきた(キング)牧師と時代を共にしました。その牧師は人々に「We shall overcome(私たちは克服する)」と語りました。Yes we can。私たちにはできるのです。

 人が月面に着陸し、ベルリンの壁が崩壊し、世界は、私達が生み出した科学と想像力によってつながりました。そして今年、この選挙で、彼女は指でスクリーンに触れ投票したのです。なぜならアメリカで106年生きてきて、幸せな時代も暗い暗い時代もこのアメリカでずっと生きてきて、クーパーさんは知っているからです。アメリカと云う国が、どれほど変われる国なのか。Yes we can。私たちにはできるのです。

 アメリカよ、私たちはこんなにも遠くまで歩んできました。こんなにもたくさんのことを見てきました。しかしまだまだ、やらなくてはならないことはたくさんあります。だから今夜この夜、改めて自分達に問いかけましょう。もしも自分の子供たちが次の世紀を目にするまで生きられたとしたら。もしも私の娘たちが幸運にもアン・ニクソン・クーパーさんと同じくらい長く生きられたとしたら。娘たちはどのような変革を見るのでしょうか? 私たちはそれまでにどれだけ進歩できるのでしょうか?

 その問いかけに答えるチャンスを今、私たちは手にしました。今この時こそが、私たちの瞬間です。今この時にこそ、仕事に向かわなくてはなりません。子供たちのために機会の扉を開かなくてはなりません。繁栄を取り戻し、平和を推進しなくてはなりません。今この時にこそ、アメリカの夢を取り戻し、原理的な真理を再確認しなくてはなりません。大勢の中にあって、私たちはひとつなのだと。息をし続ける限り私たちは希望をもち続けるのだと。

 そして、悲観し、疑り深い人たちに出会ったときには、そんなことできないという人たちに対しては、国民の魂を端的に象徴するあの不朽の信条で、必ずやこう答えましょう。感謝します。神様の祝福を。そして神様がアメリカ合衆国を祝福しますように。 Yes we can。私達はできるのです。

 (以上)

 2008.11.8日 れんだいこ拝

新型のファシズムが登場か!? えこね 2008/11/09 18:45
 れんだいこ先生、こんばんは。いきなりですが、太田龍の時事寸評では、新型のファシズムが登場したとしていますが、この説は将来的にも正統的評価を得られそうでしょうか。

----------------------------------------
 ファシズムは甦るか? これは、間の抜けた言い方である。今、まさに、全世界の人々の前でアメリカに、オバマを主役とする新型のファシズムが舞台に登場したのだ!!

太田龍の時事寸評
ttp://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi
----------------------------------------

Re:新型のファシズムが登場か!? れんだいこ 2008/11/09 19:51
 えこねさんちわぁ。太田龍・氏の謦咳は傾聴するものだと思っております。それはそれとして、れんだいこは自られんだいこ史観の創設者であるからして、オリジナルなオバマ見解を持とうとしております。そういう意味で注意深く見守っております。

 今現在云えることは、首席補佐官エマニュエルの登用が早くも臭いなという感じです。どういう仕掛けと裏事情があるのか分かりませんが、半端ではないですね。アメリカ国民にイラクからの撤退を約束し、軍事費を削るのかと思っていたら、アフガンに増兵するみたいですね。国内景気対策はこれからでせうが、以上の二点で赤信号が点滅しております。

 しかし他方で、れんだいこは、オバマの殉教者的な悲哀の表情を見ております。彼は或る意味で、現代社会と文明の矛盾を一身に背負っております。その中から生まれ出てきた能力者です。リンカーン2世を任じている気概を感じております。さきほどの勝利演説も見事なものです。日本のハイスクールは、これを教材として英語学習に使うべしと云いたくなるしろものです。れんだいこが寺小屋の先生なら、必ずそうします。

 それはともかく、太田龍・氏の謦咳に接しながら、もう一つのオバマをも確認したいというのが、れんだいこの心境です。ネオ・シオニズムは歴史的に見て、いつも内部で見解が割れています。時に血で血を争う政争を演じます。一枚岩ではないということです。今はこれぐらいしか言えません。

 2008.11.9日 れんだいこ拝

Re:2chに、こんなスレッドが れんだいこ 2008/11/11 21:01
 えこねさんちわぁ。2chの「バラク・オバマは現代のアドルフ・ヒトラー」という題名からして、ナンセンスです。そもそもアドルフ・ヒトラーに対する認識からして、れんだいことは違いますので、話が噛み合いません。現代政治論の水準の低さのみ伝わります。

 バラク・オバマを誰に例えるべきか。これはまだ分かりません。今段階で例えるとするなら、良い評価でイエスになりえるかとか、リンカーンになりえるかとか、ケネディー、クリントンと比べてどうかだとかの方がまだしもだと思います。悪い評価で、所詮は現代パリサイ派の下僕か云々というところだと思います。何事も今程度の段階で先に決め付ける必要はないと思います。警句的には良かろうぐらいに考えております。

 そんなことより、翻って我が日本の政治のお粗末さは何なんだ。態を為していないですね。漫画首相の能力も次第に地が見えてきております。田母神空幕長の居直りも許し難い。その居直りに論には論で向かえない政治家の能力がこれまた許し難い。国民におしゃぶりを与えて歓心を買おうとしている政治家の方がおしゃぶり棒を加えて物言っているような馬鹿さが目に付きますね。ダメですわこれは。いつからこんなダメ日本になったのかいなぁ、よほど深刻です。

 2008.11.11日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評488 れんだいこ 2008/11/12 20:21
 【れんだいこの上耕論】

 上耕論
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/jinbutuhyoden/uecoco.htm)

 果たして、上述のような履歴を見せる上耕をどう評するべきだろうか。世評では、上耕・不破兄弟を比較して、理論フェチ的怜悧な不破に対する人情派の上耕を好評する向きが有る。しかし、この評はもう少し吟味されねばならないと思う。

 良かれ悪しかれ、上耕は、弟の不破を引き上げ引き立て終生の絆で二人行脚の兄弟ブロックを形成し、党内遊泳に成功した。この兄弟が仕えたのが、1955年の六全協以来、日本共産党党中央と化し、今日の日共の在り姿の礎を築くことになったた野坂-宮顕同盟であった。この同盟は次第に宮顕独裁化して行くが、この宮顕独裁化の最右翼としてこれを補佐したのが上耕-不破兄弟ブロックであった。この系譜が、今日の「日共式外に柔、内に剛」なる穏和化路線を敷設していくことになった。そういう意味で、上耕は、現下日共の在り姿に対する全面的な責任を負っている一人である。

 「共産党問題、社会主義問題を考える」サイトの管理人・宮地健一氏は、「追悼・上田耕一郎 その歴史的功罪」(ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/uedasikyo.htm)の中で次のように評している。

 「というのも、彼は、地区専従を経ないで、いきなり共産党中央本部の理論幹部専従に抜擢され、幹部会員→常任幹部会員→06年まで副委員長を務め、宮本体制の中心幹部だったからである。よって、彼は、最高権力者期間39年間宮本顕治の問題点・誤り・党内犯罪の側面にたいし、半ば一心同体であり、彼の党内犯罪については、弟・上田建二郎=不破哲三とともに、兄弟揃って、共犯者の役割を果たした」。

 この観点がほぼ的確な評ではなかろうか。れんだいこが補足するとすれば、上耕、不破兄弟は、「宮顕に登用された場合決まって汚れ役をヤクザじゃあるまいし引き受けさせられ、最後には切り捨てられた、あるいは過労死した」他の死屍累々に比して、「最後まで党中央に居残った」という点で特筆されねばなるまい。見えて来るのは処世術の上手さであるが、こういう世渡りは、左派運動の場合には好評される筋ののものではあるまい。

 お陰でと云うべきか、弱き者の味方として、不屈の革命事業の担い手として人民大衆から支持を受けていた不撓不屈の共産党イメージをすっかり損じ、今日の如く似ても似つかぬ旧民社党よりなお右派系の共産党に変質させ、今日では公然平然と「資本主義の修繕屋運動に挺身する共産党」と云う世界に先駆けての恥ずべき共産党へと転換せしめることとなった。

 今日の如くの共産党を果たして共産党と云うべきだろうか。れんだいこには、旧共産党的在り姿の抑圧体として機能している新共産党の犯罪的役割ばかりが見えて来る。野坂、宮顕、上耕、不破は、この変質を意図的故意に遂行した党中央指導者であり、イデオローグであった。上耕がこの責任の一端を担っていることは間違いない。

 彼らには次のような共通項が認められる。そもそもから党内エリートとして始発している。これによりどぶ板政治に関わる訳でもなく、大衆運動の指導者として頭角を現した履歴もないのは無論のこと、それでいていつの間にか党中央に参内し、それぞれ国会議員の経歴を持つも、その活動に於いてさえ左派的運動を牽引した例もなく、千年一日的な政府自民党批判に明け暮れたに過ぎない。イデオローグとして見た場合でも、彼らの理論的功績により後々の日本左派運動に資する何らかの成果を挙げた訳でもなく、むしろ今日時点で読み直してみて指で顔を覆わざるには読めない愚昧駄文ばかりを遺している。とどめの共通項は、死ぬ間際まで党内エリートとしての身分が保証され、畳の上で往生できたことである。不破のみ未だ健在ではあるけれども。

 その上耕が死したことにより、人は、上耕をもまた革命家列伝の中に入れようとするだろう。れんだいこは冗談だろうと云いたい。このエセ革命家をして革命家列伝に加えざるを得ないのは日本左派運動の貧相故であり、痴態でしかない。但し、そういうエセ革命家列伝に代わる真性の列伝がないので玉石混交として止むを得ない面はある。いつの日か早急にこういう変態から脱却したいと思う。

 れんだいこが上耕を評し得るとするなら、彼らが、共産党中央の座椅子を手放し、自ら信ずるところの右派系左派運動と云う新型民主主義道理的新党を結成し、これに汗を掻き、今日の政界に一定の影響を与えるほどに党派形成し得た場合である。これなら辻褄が合っていると思う。それならそれで評価に値すると思う。

 実際にはどうであったか。遮二無二党中央を簒奪し、共産党の左傾化許さじの立場から左派運動の穏和右傾化に尽力し、これというめぼしい戦闘的大衆運動を見つけるやその分裂化を画策し影響力を殺ぎ、世間に向けては民主主義の守り手として打ち出しながら党内には治安維持法的監視体制を敷き、異論異端許さじの極統制化に鞭打ってきた軌跡ばかりを遺している。

 彼らが手掛けた日共は現在長期低落状況に陥っており、未だ蘇生の兆しが見えない。これを痛苦に受け止める姿勢を見せないのは無論のこと常に詭弁を弄して居直り続けている。政治運動史上、左派圏内に向けては相変わらず強面の顔を見せつつ体制圏内に向けては度の過ぎる柔和な愛想を振りまいている。リストラが課題となっている議論に於いて残業問題を持ち出し、自衛隊の派兵阻止が課題となっている議論に於いて国連への手紙を送りつけたことで自画自賛し、自公政権打倒の機運が盛り上がるときに「確かな野党」論で足並みを崩す云々という挙げればキリのない変態的役割を果たし続けている。角栄追討も然り。

 上耕は、これに責任を負う立場の日共指導者の一人である。この上耕を評すのに、歯の浮くような追悼で慰労すべきだろうか。れんだいこはそうは思わない。宮地氏が「上田耕一郎副委員長の多重人格性」を問うているが、けだし当然と云うべきだろう。我々は一般的所作として、党派の別を超えて称える人は称えねばならないが、称える必要のない御仁まで称えるには及ばない。この弁えが大事ではなかろうか。

 れんだいこは、日共が資本主義修繕運動是論を提起し、我々をして得心せしめるものを打ち出さない限り、上耕もまた野坂、宮顕同様に本来日本左派運動内に参集すべからざる異邦人であり、この異邦人が指導者として立ち現われ有害無益なことばかりに熱中し、共産党を滅茶苦茶なものに変質させた挙句、自らも砂をかむような味気ない人生を軌跡したと評する。我々は、かような轍(わだち)を踏むべきではなかろう。詰まらないくだらない。

 こう観点を据えたとき、上耕の悲哀が見えて来るように思う。これを、れんだいこの弔いの辞にしたい。

 2008.11.12日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評498 れんだいこ 2008/11/20 21:13
 【日教組批判考その2】

 では、文部省行政のどこがオカシカッタのか、今もオカシイのか、これについてコメントする。れんだいこが思うに、1950年代後半から始まった「教師の勤務評定制」からではなかろうか。あの縛り以来、教育現場から戦後ルネサンスの気風がきえたのではなかろうか。良かれ悪しかれ名物先生が消え、面白くない先生方が大量生産されていくことになったのではあるまいか。

 今現在のれんだいこは、「教師の勤務評定制そのもの」はあながち批判されるものではなく、それなりの尺度は要るのではなかろうかと思い始めている。だから、「教師の勤務評定制そのもの」よりも、勤務評定の中身検証即ち「より合理的な教師の勤務評定制づくり」の闘いにも向かっていくべきではなかったかと思っている。しかし、当時のニューマに於いては、そういう闘い方はなかった。左派運動全般がそうであった。体制派の押し付けとこれに反発する左派という構図の下でのイエスかノーの二者択一式闘争が全てを縛っていた。

 そういう訳で、かの時、日教組は、「文部省基準の教師の勤務評定制押し付け」を廻って闘うのではなく、「教師の勤務評定制そのもの導入阻止」で文部省と鋭角的に闘った。ここでも対抗軸は体制対反体制であった。これを全学連が支援した。この時の全学連は、宮顕が牛耳り始めた共産党が大きく変質し、統制的穏和主義運動へ誘導し始めていた日共運動と決別して、闘う全学連再創出に向かいつつあった。この連中が、砂川基地測量阻止闘争、勤務評定反対闘争、警職法粉砕闘争を通して力を蓄え、やがてブントを結成し、60年安保闘争を牽引していくことになる。それはカラリとした闘いだった。懐かしのゼンガクレンである。

 もとへ。戦後の教育行政は、この時文部省の断乎たる意思でもって導入された「教師の勤務評定制」により、教師の自由自主自律的な教育活動が大きく掣肘され始め、その統制が次第に強まり、教育現場がギクシャクし始め、その縛りが教育現場の荒廃の下地を作って行くことになった。その定向進化の果てが現在の教育腐敗、荒廃に至っているのではなかろうか。れんだいこは、そういう風に考えている。

 今でも思う。れんだいこが教師なら、江戸期の寺小屋風な師匠の教育をしてみたい。最低限の読み書き算盤を教えた後は、これと思う教材を見つけ、例えば大塩平八郎の檄文だとか五箇条のご誓文だとか聖徳太子の17条憲法だとか、リンカーン演説だとか、こたびのオバマ勝利演説だとか、日本国憲法だとかを徹底的に読み合わせ、和文、漢文、英文で鍛え、もって思案を良くするような指導をしてみたい。結果的にこの方が子供の学習能力が向上しよう。あるいは子供から教えられることもあろう。歌を教材にするのも良い。その他いろんな工夫が考えられよう。こういう教育現場を創ってみたい。

 文部省がこういう教育をできなくしたところに、日教組がこういう教育を憧憬しなかったところに、今日の教育現場の荒廃と腐敗が始まったのではなかろうか。現場が面白くないと堕落が始まるのは世の倣いである。これを人材論で言えば、政治派、思想派、学究派の教師を生息しにくくさせ、代わりにえこひいき派、出世機会主義派、塾派、金儲け派、受験派、無気力派、偏執エロ派、不倫派、御身安泰派を引き立て、そういう連中を庇護登用したことが、今日の教育界の貧相を招いたのではなかろうか。

 制度を改変するたびに、あれも止めとけ、これも止めとけ、規制万歳を強めることになった。一々ご無理ごもっともの規制であろうが、その積み重ねが劇的変化して異様な副産物を生む。この路線の長い蓄積の結果今や、教育現場にイジメ、青少年犯罪の粗暴性、能力低下、不登校、引きこもり等々様々な問題が発生しているのではなかろうか。

 これを日教組批判で片付けられる者が居たら、よほどおめでたい御仁と云わねばなるまい。そういうことを主張する者が文部省の大臣になったら、教育界の混乱と荒廃がますます進む。首相になったら、日本を何もかも壊してしまう。我々が痛みに堪えるのは未来が良くなるからであり、悪くなる一方のシナリオに堪える必要はなかろう。しかし、そういう首相が名宰相と囃し立てられる。今は降りているから止めるけど、無茶苦茶な狂人ではあった。

 田母神航空幕僚長論文舌禍事件に関連して日教組問題にも言及してみたくなったのだが、何事も言いたいことを言えるのは言えない環境よりは良いとして、言い合える環境づくりに向かうべきではなかろうか。当然右からだけではなく左からも云えるようにしなければならない。右からはオッケー、左からはダメと云うのでは片手落ちだろう。

 こたびの問題は、右からの攻撃であった。我々は、この攻撃を認めよう。故に、我々の攻撃をも許容せよ。この問いに、田母神がどう答えるのか聞いてみたいところである。いずれにしても、こたびは論文である。論文ぐらいは、そういう風に言い合える環境を作るべきではないのか。立場上と云う問題はある。しかし、論文は認められても良いのではなかろうか。

 こう考えると、政府見解と異なる現場指導の方が重責だろう。これが見逃され、論文に目クジラするのは逆ではなかろうか。そして、こういう事件が起こると、二度と勝手なことができないように封殺せよと智恵を絞り始める。最近の論調はどれもこれも何もかも何か違うだな。「饒舌無内容、肝腎なことへの失語症」の域から脱し得ていない。そういう気がしてならない。これを、れんだいこの「日教組批判の批判考」とする。

 提言として、批判を浴びた当事者の日教組が主唱者として、「どうする教育」の一大国民的議論運動の環を創出せよ。大臣から仕掛けられたのであるから、政府の責任で場を設けさせよ。こういう闘いが欲しいんだな。チェンジは海の向こうばかりでは詰まらない。

 2008.11.20日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評499 れんだいこ 2008/11/22 19:47
 【小室保釈考】

 2008.11.21日、著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺罪で逮捕されていた音楽プロデューサー小室哲哉容疑者(49歳)が大阪地検特捜部に起訴され、保証金3千万円を支払い大阪拘置所から保釈された。大阪地裁は、小室被告が起訴事実を全面的に認めており、逃亡や証拠隠滅の恐れが低いと判断し、保釈を認めた。

 保証金は、小室被告が楽曲提供していたレコード会社のエイベックスと妻のKEIKO(「globe」のKEIKO、ソロ活動はkco)らが用立てた。エイベックスは、「当社に多大なる貢献のあった方。今の状況は当社にとっても大変忍びなく、再起していただくきっかけになれば」と救いの手を差し伸べた。

 同日午後6時30分過ぎ、17日ぶりに保釈された小室被告は黒のタートルネックにジーンズ、スニーカー姿で現われた。暗闇の中、拘置所前で100人を超える報道陣の前に何度も頭を下げ、「このたびはお騒がせしました。できることなら、また音楽で頑張っていきたいと思います。よろしくお願いします」と再起を誓った。

 起訴状によると、小室被告らは2006年8月、これまでの作品806曲分の著作権のうち既に793曲を約40の音楽出版社に譲渡しており、そのうち主要約300曲を小室被告が役員を務めるプロダクション「トライバルキックス」社などに二重譲渡していたことを隠し、兵庫県芦屋市の投資家男性に10億円で売却する契約を締結した。その上で、「印税収入は前妻に差し押さえられていて、解除に5億円が必要」とだまし、2回に分けて計5億円を先払いさせたとされる。

 小室被告は起訴事実を全面的に認め、「逮捕されてよかった」、「返済期日が迫り、何としても金をつくらなければ破産すると思った」と供述している。犯罪に至った経緯についても、「ピークを2回経験したアーティストは自分しかいない。周りが誰も文句を言わない中、それに疑問を持ちながらも豪奢(ごうしゃ)な生活を続け、裸の王様になった」と内省し、こたびの逮捕に対し、「人生を振り返るチャンスを被害者に与えてもらい、感謝している」、「自分には音楽しかない。人生をリセットしたい。いま一度人生をやり直すチャンスを与えてほしい」と復帰に意欲を見せていると云う。

 小室被告は、佐藤貴夫弁護士を通じ、「家族とともにできる限り早く償いをし、一日でも早く音楽活動をやらせていただきたい。ファンの方々に待っていただければ最高に幸せです」とのコメントを出した。 「これまでの音楽活動の中で“チャンス”という言葉を軽々しく使っていた。これからはその重みを認識して頑張りたい」とも述べている。但し、被害金を弁済できるめどは立っておらず、公判では実刑となる可能性も高い。いばらの道が待ち受けている。

 れんだいこが、かく「小室保釈」の様子を確認したのは、小室氏が巨額の音楽著作権で却って身を滅ぼしたことにつき、何をどう反省したかを知る為である。残念ながらそういう気配はない。もう一山当てて一挙挽回せんとする決意のみが伝わってくる。果たして首尾よく行くだろうか。

 それはともかく、この間のメディアは折に触れ音楽著作権を解説していたが、問題を問題化させるのではなく、強権著作権論のプロパガンダというろくでもない解説しかしていないことで共通している。ただの一社でも、ジャスラック式強欲理論の非を衝いただろうか。逆に、ジャスラック式強欲理論を啓蒙するばかりではなかったか。メディアも同じ穴のムジナゆえ当然そうならざるを得ないのだが、我々はそろそろチェンジの声を挙げるべきではなかろうか。

 れんだいこが解説しておく。著作権は、権利行使としての著作権、財産権的著作権、利用対価的著作権と三種類から構成されているように思われる。一般の我々に関係するのは利用対価的著作権である。これも、同業他者(社)を規制する第一次著作権(川上規制と思えばよい)、問屋的営利事業を目論む者を規制する第二次著作権(川中規制と思えばよい)、引用転載演奏歌唱による利用を規制する第三次著作権(川下規制と思えばよい)の三種類あると思われる。

 問題は、対価請求できる権利として著作権法が認めているのは第一次著作権であり、つまり川上規制でしかないというところにある。第二次著作権は、法的には裏付けられないが、ご時勢の要請に合わせてアバウトながらやむなく認められている権利に過ぎない。ましてや、第三次著作権となると禁じられていると読むのが正しい。つまり川下適用までは御法度である。そうであるところ、第三次著作権を無理矢理に請求できるとしたことから一変して巨万化し、音楽関係者垂涎の利権と化して今日に至っている。

 こういう著作権読解は今のところ、れんだいこの独壇場であるが、こう理解した方が立体的に分かり易い。こう理解せず漫然と著作権法の森に入り込むと道に迷い始めることを請合う。著作権は他の知的所有権に比べ、権利取得に厳しい要件を持たない分、本来相対的に軽い権利のはずである。そういう著作権が最近に於いては特許権、商標権よりも強い権利を持ち始めており、法秩序を壊しつつある。終いには著作権を知的財産権の雄にまで位置づけて得々とする変態に陥ることを請合う。

 これは、法解釈と云うより法哲学的な思想無しには解けない。法解釈に長けた者は多いが、思想には滅法貧相なのが我がインテリの弱みである。法解釈脳しか持たない連中がどんどん接木して、著作権法をウドの大木に仕立てつつある。現下の強権著作権論はかく見立てられるべきである。一刻も早くかく共通認識を得たい。この大木は倒されるべきである。

 もとへ。れんだいこは、小室氏が債務一掃次第に、こういう利権構造と決別し、自作が歌われるのは大いに結構、無償でどうぞ、私は川下に対する権利侵犯料などというチンケな権利を主張致しませんと声明し、第一次第二次著作権料で生計を図り、今後は人民大衆側に立つ音楽家として処世するという方針を打ち立てて欲しいと思う。かく自己否定しない限り何度も繰り返しそうな気配ゆえ、意見しておく。

 2008.11.22日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評500 れんだいこ 2008/11/23 21:02
 【「たすけあい党の緊急政策提言」】

 れんだいこのカンテラ時評が号数500に達することになった。記念号として「たすけあい党の緊急政策提言」を世に送ることにする。しかと味わえ。

 2008.11月現在、定額給付金騒動が起こっている。我が党は、受給資格制限を設けようが設けまいが国費の無駄遣いでありナンセンスとしている。この種の政策の愚挙を戒めたい。第二次補正予算案騒動も起こっている。麻生自公政権と小沢民主党が解散含みの綱引きをしている。どういう内容のものか一向にはっきりしないのにコメントするのも気が引けるが、どうせろくな予算案ではなかろう。

 なぜなら一事万事で、他の議案を廻ってお粗末な遣り取りしか為し得ない者が、補正予算案となると急に名案を出すということは有り得ないからである。この点では民主党案とて同じであろう。案が出せないその他の党は云うに及ばずである。

 先の田母神論文舌禍事件でも見てきたが、せっかく国会喚問までしておきながら、当の田母神に対し質疑を集中できず、どいつもこいつも己の歴史認識論を突き出すことができず、たまに為しかと思えば独演会を許すという痴態ぶりであった。かような政党、国会議員が束になって烏合の衆の質疑をしても意味がなかろう。

 そういう政党、議員が政策立案しても、せいぜい「バラマキによるバラマキの為のバラマキ政策」しか為し得ないであろう。その癖、この連中は、アメリカが風邪引いた肺炎起したといっては条件反射的にお供え太郎となる。次から次へと大盤振る舞いする。どうせやるなら効果的にという名目で感覚麻痺の天文学的献上金を貢ぐ。先進国中随一の国債累積債務比率ワーストの日本がこれをやるのだから、世界のお笑いでしかない。

 その癖、国内対策はというと、どこに財源が有るんだ、ええ格好ばかり言うなと恫喝して胸を張る。これが現下の政権政党議員の生態である。これが野党議員となると、ここン十年にわたって責任脳が無く攻撃脳しか持たない。これも叉世界のお笑いでしかない。

 以下、たすけあい党が緊急政策提言する。政府案、野党案が問題の急所に向かって居らず、かゆいところに手が届かないのに対し、ズバリ効く案を提出する。たすけあい党が尊崇する戦後日本の名舵取り人列伝を為した政権本流ハト派以外には、このような提言ができない。現下のタカ派政治は、もはや従来式の金の落とし方では何ら成果が上がらないというのが分かっているのに、懲りない対策に終始している。所詮性根が国際金融資本かぶれの雇われでしかないので、致し方なかろう。

 我が党は、次の政策を指針させる。一刻も早く施策せよ。全てその場を取り繕うものではなく、三年もすれば大いに効果の上がる政策ばかりである。名付けて「日本再生改造法案」とする。当然、名宰相角栄の改造案を意識している。あのバイブルに則れば日本再生する。逆をやれば今日のようになる。

 「たすけあいれんだいこ党の総路線(選挙時政策マニュフェスト」

 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/tasukeaito/manefest/manefest_sorosen.htm))


 以上を踏まえて、次の政策を緊急提言する。

 仮に、定額給付金予算に合わせて対策費2兆円とする。我が党は、これを雇用に使うべきであると考える。なぜなら、労働こそ国の柱であるからである。政府は、社員100名以下の中小零細企業に対し、給与の5分の1を補填せよ。まず第一に働き手が安定して給与を受け取れる体制を構築せねばならない。これで家族が生きていける。

 次に、経営の苦しい企業の救済に向かわねばならない。その具体策として、黒字企業に対する貸し渋り、貸し剥がしを止めさせなければならない。税金を納めている黒字企業が融資を受けられないと云うことは有り得てはならない。行政指導するか政府系銀行の融資で対応せねばならない。

 決算がボーダーライン企業で、消費税の延滞利息14%強攻めに陥っている場合、少なくとも同額を無条件低利融資し救済せねばならない。企業存続可能見込みがある場合、一千万円まで無条件融資せよ。赤字企業の場合、存続可能の可否を判定し、可能と判断される場合には同じく一千万円まで融資が受けられる仕組みが講ぜよ。これが早急に為されねばならない実効性のある対策である。

 次に、生活困窮世帯に対し、仏の顔は三度まで、総額百万円の低利貸付けをせねばならない。これが国の責任である。奨学資金枠を広げ、義務教育段階から適用せねばならない。この場合、給食費が天引きされる。労働意欲のある者に対して、政策的に就業促進せねばならない。政府は都道府県単位の職業訓練学校を複数開校し奨労資金を貸し付けよ。

 これらは国の貸付けであるから、焦げ付かない限り損をする訳ではない。要はやるかやらないかの意志の問題である。できるのにやらない、ここに政治の貧困が極まっていると云うべきだろう。田母神ではないが、良い国だと思わないと祖国愛も生まれないだろう。こうやって国に助けられるから、早く元気印になって恩返ししよう思うのだろう。

 これが、総国民的に数万円のはした金を貰うより、ブッシュ派の意向に添って際限の無いカネを貢ぐより、切に望まれている救済施策である。我が党が政権を担った場合、直ちに着手することを約束する。それにしても、揃いも揃ってこの反対の政治ばかりをようもやってくれるなぁ。痛みに耐え過ぎてヒリヒリどころか骨が見えてるわい。

 2008.11.23日 たすけあい党首れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評501 れんだいこ 2008/11/24 20:24
 【転載引用の恣意的解釈によるれんだいこ解釈批判に対する批判】

「れんだいこ」でグーグル検索していたところ、「ARIA’s RSS Reader」の「無断転載はダメ絶対」に出くわした。これを無断転載しておく。  

 「無断転載はダメ絶対」
(ttp://72.14.235.132/search?q=cache:8VIo0wT9DE4J:r.hatena.ne.jp/ariasblog/04:%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E7%B3%BB/+%E3%82%8C%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%93&hl=ja&ct=clnk&cd=248&gl=jp)

 ご覧のように、れんだいこの「植草ブログ閉鎖事件考」に対する批判的言説をしているので、反批判しておく。「れんだいこの植草ブログ閉鎖事件考」に目をつけたのは良いことなので、控え目に述べることにする。

 このサイト管理人は、「著作権上の引用と転載の違い」を「転載 - Wikipedia」、「引用 - Wikipedia 」リンクで済ました後、著作権法の絡みでの違いを次のように説明している。それによると、転載は「許可を得ないで転載してはいけないし、転載する場合も出典を明らかにするのが基本」で云々、引用は「著作者に承諾は必要ありませんが、特に引用する必然があるか否かが問われ、引用元を明記し、引用した部分を本文と区別できるようにしなければならない」云々。

 「ARIA’s RSS Reader」氏よ、この説明をどこから仕入れてきたのか君は。れんだいこは、著作権法上、そのような規定を知らない。あるのなら条文を明示してくれ。「というわけで、植草ブログ閉鎖事件考 のれんだいこさんの転載OKという考えには賛同できません」と云うのは勝手だが、法文によらぬ規定を振り回されて被害を受けるこちとらの身にもなってみよ。

 著作権法のように慣習法に拠らぬ意図的故意の政策法の場合は特に、法治主義を原則としてもらわねば困る。「我こう思う。ダメなものはダメ」なる如意棒を私的に振り回すのは我が家だけにして、公共的なインターネット空間に勝手に持ち込んでもらっては困る。

 どうしてもさように主張したいのであれば、著作権法何条に「転載は、許可を得ないでしてはいけないし、転載する場合も出典を明らかにするのが基本」、「引用は、著作者に承諾は必要ないが、特に引用する必然があるか否かが問われ、引用元を明記し、引用した部分を本文と区別できるようにしなければならない」と規定しているのかどうか、それを示してからにしてくれ。

 最近どうも、法文に拠らぬ法を押し付け、世間を狭苦しくして正義ぶる自称インテリが多くて困る。これはまだ他愛ないが、ジャスラックとなると始末におえない。勝手に料金請求し、従わぬとなると法外な請求を押し付け、従わぬとなると延滞金利まで押し付け、裁判攻勢は無論のこと逮捕請求までして実際に逮捕させるという事件が起こっている。これを音楽文化擁護の大義名分でやる。

 ところが滑稽なことに、否滑稽では済まされないのだが、ジャスラックの「演奏歌唱=著作権侵犯論」、「利用対価制」、「応じない者に対する懲罰課金制」、「課金基準=店舗面積制」なるものは、どうみても著作権に拠らない。つまり法的裏づけがない。今や法文に拠らない法が独り歩きし始めており、裁判所と警察がこれを後押しし、多くの者が阿諛追従的に先進国的文明権であり応ずべきものという嗜み教育されつつある。

 れんだいこは違うと云っている。法が予定しているのは、著作権者対著作権者、著作権者対出版権ないし管理権者、出版権ないし管理権者対同業他社に対する規制であり、それ以下の人民大衆的引用転載、演奏歌唱についてまで縛るものではない。人民大衆的引用転載、演奏歌唱については、一定のルールとマナーを守ればできると明記している。これが条文解釈的に正解である。著作権法史の流れから見ても、こう理解するのが正しい。

 それを、どこでどう道を間違えたか、否実際には意図的故意に、ハゲタカ利権業界が著作権法の満展開化に目をつけ、族議員と管掌役人を手なづけ、暴力的に洗脳教育してきた賜物であり、でしかない。たかだか1970年辺りから導入され、以来どんどん定向進化し続けつつある利権暴力の一種でしかない。

 「ARIA’s RSS Reader」氏は、この流れに迎合している訳であるが、言論は自由であるから良いとしても、頼むから説教するのだけは止めてくれ。これをお願いしておく。

 「無通知無承諾「引用、転載」は泥棒、盗用か考」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/webtyosakukenco/web_mutuchiinyotensaico.htm)

 2008.11.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評502 れんだいこ 2008/12/13 12:58
 【ハマコー毒舌考】
 
 週刊新潮2008.12.18日号の「うそうそ」欄4「ハマコー氏に『人殺し』呼ばわりされた『中曽根大勲位』」記事がなかなか興味深い内容となっているので確認しておく。

 「政界の暴れん坊」として知られるハマコーこと浜田幸一(80歳)が、12.3日の日比谷プレスセンターで開かれた藤波孝生・元官房長官を偲ぶ会の席上、中曽根大勲位のスピーチの際に、「この人殺し!お前が殺したんじゃないか!」と発言し、座を凍りつかせたという。

 発言動機として次のように記されている。概要「中曽根さんの演説を聞き始めて7~8分経った頃、私は急に藤波さんが可哀相になったんだ。88年のリクルート事件の折、自民党議員としてただ一人起訴された。藤波氏は黙して語らなかった。その後復党も許されず選挙にも落ちた。その藤波氏に、派閥の親分であった中曽根は、一度も救いの手を差し伸べなかった。藤波は、中曽根を守り、死んでいった。藤波の胸中を考えるといたたまれなくなって、瞬間的にああ言ってしまった」。

 このハマコー発言に対し、「場を弁えぬ失礼なヤジ」との批判は当然として、「ハマコーよくぞ言った!」とする雰囲気も生まれていた。平野貞夫・元参議院議員は、「彼は霊感が強い男だから、藤波さんの霊でも憑いた感じだったよ」と評している云々。記事は、ハマコー発言武勇伝として、1988.2月の衆院予算委員会での「宮顕人殺し発言」、1993年の著書「日本をダメにした九人の政治家」での「中川一郎を殺したのは誰か」と題した考察、小泉元首相に対する「この芸者殺し野郎!」ヤジを紹介している。

 れんだいこが思うのに、上記の「ハマコー発言」はどれも由々しき話である。週刊新潮が、新たな「中曽根スピーチ事件」を採り上げたついでにこれらの諸事件に触れたのは大いなる意義があるというべきだろう。問題は「ハマコー発言」の真偽に係っている。ガセネタでも「ハマコー発言」なら許されるのか、否「ハマコー発言」にはどれも裏づけがあるとみなすべきかという問題がある。

 れんだいこは後者の側に立つ。それにしても、ハマコーがこの種の発言をする際の裏づけが興味深い。資料をどこから入手し、どのように見立てたのかが興味深い。れんだいこは、伊達酔狂発言ではない十分なる根拠を持って発言しているとみなす。霊能力の強さが関係するのかどうかまでは分からない。いずれにせよこうなると、「ハマコー発言」の検証に向かわねばならないことになろう。だがしかし、日共は、「宮顕人殺し発言」の指摘する事実解明に向かえるだろうか。小泉は、「この芸者殺し野郎!」の指摘する事実解明に向かえるだろうか。妙なことに、日共と小泉派が共に矢面に立たされていることになる。まるで、ハマコーの目線から見れば、両者は同じ穴のムジナと見立てているかの如くである。

 れんだいこは、日共も小泉も、「ハマコー発言」に対する弁明をせねばならない義務があると考える。いつまでも臭いものに蓋は許されない。ことは、公党の最高指導者、元首相が侮辱されているわけである。この発言を権力的に葬るのではなく、公開討論するか名誉毀損に訴え法廷の場で決着させねばならないと考える。さて、どう出るのだろうか。暫く見守りたいと思う。ハマコーの身に異変が起こらないことを願う。れんだいこも然りであるが。

 多々有る情報の中で見過ごされても良い情報がある。逆に見過ごしてはならない情報もある。こちらの例は滅法少ないが、週刊新潮が何気なく伝えたこたびの「ハマコー発言」は久々の見逃してはならない情報だと思う。こういう情報が見逃され、どうでも良いようなことを喧騒するのが倣いではあるが。誰も指摘していないようなので、れんだいこが敢えて注意を喚起しておく。

 2008.12.13日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評503 れんだいこ 2008/12/15 22:05
 【砂川事件際高裁判決に於ける日米密談漏洩事件考】

 2008.4月、砂川事件に関連して日本の研究者により、当時の米国大使が司法に対して露骨に政治介入し、外務大臣及び最高裁判所長官が唯々諾々していたことを裏付ける公文書が米国立公文書館で発見された。これに関連して2008.12.8日、元被告の土屋源太郎さん(74歳、静岡市葵区)が同市で記者会見し、当時の駐日米大使と最高裁長官の密談について、来月中にも外務省と最高裁に日本側文書の情報公開を
請求する意向を明らかにした。土屋さんは、概要「「最高裁では異例の早さで合憲判断が下された。司法は中立であるべきで、この事実は見逃せないし、許せない。全国の人にも請求者に加わるよう呼びかけたい」と話している。最高裁や外務省は、密談の有無や外交文書の内容については「コメントできない」、但し開示請求があれば手続きに従って対処する方針を示している。この事件を確認する。

 砂川事件とは、1957(昭和32).9.22日、米軍の旧立川基地(東京都立川市)拡張に反対したデモ隊の一部グループが立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、日米安全保障条約の刑事特別法違反の罪で起訴された事件を云う。全学連小野寺書記長、土屋都学連委員長等9名の学生、労働者14名が逮捕され、7名(学生3名、労働者4名)が起訴された。「そもそも在日米軍の存在そのものが憲法違反ではないか」、「条約と憲法ではどちらが優先されるのか」を廻る司法判断が注目されることになった。

 1959(昭和34).3.30日、「砂川事件」の第一審で、東京地裁(裁判長判事・伊達秋雄)が「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」即ち「米軍駐留は違憲」とする法理による全員無罪の判決を出した(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集)。世に「伊達判決」と云われる。検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告した。

 こたび明らかにされたところによると、「伊達判決」を受け、ダグラス・マッカーサー2世米国駐日大使が藤山愛一郎外相に跳躍上告を勧めて外相も同意した点や、同大使が裁判を受け持つことになった田中耕太郎最高裁長官と非公式に接触し(これを俗に「密談」と云う)、上告審の時期の見通し聞くなど露骨に政治介入したいたことの様子が報告書の体裁で記載されている。

 同年12.16日、最高裁(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)が、第一審の伊達判決の破棄を言い渡した。最高裁は次のような法理論で処理した。概要「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」即ち「安保条約のように高度の政治判断を要するものについては極めて明白に違憲と認められない限り、違法審査権の範囲外であり司法判決にはなじまない」(最大判昭和34.12.16 最高裁判所刑事判例集13・13・3225)。1963(昭和38).12.7日、被告人の有罪(罰金2千円)が確定し最終判決となった。

 最高裁判決は、安保体制と憲法体制との矛盾をどう裁くかで注目されていたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。以降、この法理論が定式化され違憲審査が忌避されることになった。立川砂川基地はその後、米軍が横田基地(東京都福生市)に移転したことにより、1977(昭和52).11.30日、日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。

 れんだいこがなぜこの事件に注目するのか。それは、一事万事で他の政治事件でも同じようなことが起こっているのではないのか、こたびの漏洩はその氷山の一角に過ぎないのではないか、ロッキード事件の場合にもこういう密談が交わされていたのではないのかと思うからである。

 一体、政治制度としての三権分立からくる司法の独立、裁判官の職権独立及び身分保障はどうなっているのだろうか。司法権の独立は明治憲法下においても比較的よく守られ、日本国憲法下においては著しく強化されている既に伝統的なものである。この法治制度が全く無視されているのではなかろうか。関連する条文次の通りである。

 憲法76条1項「すべて司法権は、最高裁判所及び法律(裁判所法)の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」、2項「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない」、3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」、第78条「裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない」その他。

 ここからがれんだいこの独眼流になる。しっかり聞いてくれ。本来、法治主義に従う限り、これらの規定は格別に尊重され遵守されるべきものであるところ、この規定をいとも容易く骨抜きにする者がいる。こやつらこそまさしく文字通りの意味でアウトローと云うべきであろう。ところが世の中、アウトローに限って法の遵守を声高にしつつテロリスト退治に向かうという性癖が有る。我々は、これにどう対処すべきだろうか、こういうことが問われている。

 こたびの「米国による司法に対する政治介入、最高責任者の唯々諾々文書漏洩」は、冒頭で述べたが本当にコレキリのことだろうか。れんだいこのアンテナは忽ち作動する。ならば、ロッキード事件での法破り異例のコーチャン免責証言の採用、検察の不起訴宣明、最高裁の不起訴宣明の経緯の裏にもこのような政治介入が無かったと言い切れるだろうか。否あったと推定するのがまともな知性だろう。

 まことに角栄は、法に拠らぬところの万力攻めで政治能力を羽交い絞めされた。今でも腹立たしいことは、よりによって労組が御用提灯を引っさげて目白邸を連日包囲したことである。これを社共が後押しした。新左翼は沈黙した。しかし、こんなバカな話があるだろうか。日頃取り締まられる側の労組、社共が、取締り用の御用提灯を持つと云う感性が信じられない。誰が企画し演出したんだあの馬鹿騒ぎは。誰か、これに答えてくれないだろうか。あの頃、今のようなインターネットが有れば、れんだいこが激しく糾弾できたものを。れんだいこにはそういう思いが有る。

 こたびの機密文書発見は、そういう意味でかなり重要な事件である。れんだいことしては、土屋さんの呼びかけに答えたい。どこへ申し込めばよいのだろう。最高裁や外務省が「開示請求があれば手続きに従って対処する」とのことなので大いに見守りたい。それにしても、歴史は段々に真相を明らかにするものだな。

 2008.12.15日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評504 れんだいこ 2008/12/16 21:55
 【政事に於ける麻薬汚染考】

 今年は大麻汚染について何度かの報道があった。これに関連してコメントしておく。れんだいこは、政事に於ける麻薬汚染の方がずっと心配だ。「政事に於ける麻薬汚染」とは何か。それは、国債刷りまくりと補正予算と消費税を三種の常習器とする。これをやり出したら止まらない。段々雪だるま式に定向進化し、国家を蝕み壊死するまで行き着く。何事も最初はチョロチョロ始まる。それが癖になり常習化する。

 日本は確か先の大戦の総反省として、この汚染から決別したはずだった。憲法前文の国際平和希求と協調主義の称揚と憲法9条による戦争政策の放棄は、その宣言であった。かく了解すべきだろう。戦後与党政治を担ったハト派ラインは、この理念及び政策を、日米安保のクビキの中でも賢明懸命に護持した。れんだいこの見立てるところマスコミ評とは反対に「諸悪の元凶=角栄」を指弾し退陣せしめた直後から、つまり三木-福田-中曽根ラインの政治からオカシクナッタ。この間、大平-善幸政治をはさむが、角栄が羽交い絞めされており次第に形勢を悪くした。その結果が今日の政界絵図である。

 現在、角栄を悪し様に罵ることを競うことで登用されていった連中による政治貧困が見せ付けられている。こういう輩が景気回復策を講じようが、より悪くなることはあってもその反対はなかろう。もし有能な士が現れるとしたら唯一、角栄政治の復権からしか道はなかろう。こういう政治家が出てこない。革命起さない限り無理かもしれない。

 こういうと、金権政治が良いのかという批判が予想される。これに反論したい。角栄=金権政治は本当の話なのだろうか。確かに軍資金を無造作に配った。恩着せがましく云わず政敵にまで配った。しかしそれで政治が曲げられる事は無かった。角栄はヒモ付きの財界からの支援を嫌った。そういう意味で極力自力調達した。小佐野はその際の有力スポンサーだった。しかしこれって「諸悪の元凶」視されることだろうか。政治家は政治の中身が問われるべきで、「政策をカネで買う」のも便法としては許されるべきで、あくまで中身勝負ではなかろうか。現在の政治が良くないのは、「政策をカネで請け負う」シオニスタン政治家ばかりだからではなかろうか。

 カネはやはり道具であって、カネにかぶれ溺れる者も居れば上手に使う者も居る。確かに外国産のカネは良くない。逆に云えば国産のカネの場合には大目に見られるべきではなかろうか。政治にカネがかかるのが現実なのだから。とすれば、それを上手に使った者がそれほど批判されるべきだろうかということになる。金権政治問題を、こういう原点から考え直してみたい。

 2008.12.16日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評505 れんだいこ 2008/12/17 21:12
 【「政事が政治にならない」政治考】

 現下政治のお粗末さは「政事が政治にならない」ことにあると気づいた。戦後政治は、戦前の外治主義を反省し、内治に力を入れることを国是とした。軍事防衛費に振り向けていた予算を公共事業、産業育成、技術革新、社会保障に振り向けることになった。これは大正解であり、世界羨望の奇跡の戦後復興を為し遂げることになった。中曽根の戦後の総決算路線辺りからこの道から外れることで今日の長期不況に陥っている。この政策が偶然か意図的故意かはここでは問わない。これにより「政事が政治にならない」ことになった。景気が上向けば冷や水を浴びせる逆行政治が横行し始めた。それは丁度、最近のマスコミがマスゴミになってもジャーナルにならないのと相補している。余りにも気に入ったので、このコメントだけ発信しておく。

 2008.12.17日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評506 れんだいこ 2008/12/21 20:36
 【もっと危機感を持たねば、日本経済負のスパイラル局面を憂う】

 報道によると、2009年度国家予算案で、歳入面での税収の落ち込みが鮮明になった。税収見積もりは46兆1030億円となり、08年度当初予算(53兆5540億円)に比べ7兆4510億円減収している。法人税収は10兆5440億円と、08年度の当初予算(16兆7110億円)から6兆も大きく減る見通しとなっている。歳入総額(88兆5480億円)に占める税収の割合は52.1%と、08年度の64.5%から急低下した。新規国債の発行額は33兆2940億円と5年ぶりに増額(当初予算ベース)となる。

 政府は、景気が後退局面を迎えた云々、世界同時の景気悪化云々で責任逃れしている。マスコミがこれまた追認している。ところで果たして、そういう他人事説明で済ませられる事態なのだろうか。与野党ともども大幅補正予算を組む事で景気悪化に対処せんとしている。政府は歳入不足を消費税アップで補おうとしている。これは正しい政策だろうか。ますますの滅びの道へ深入りせんとしているのではなかろうか。そったら政治なら子供でもできように。

 れんだいこは、善政を敷いていた池田-角栄-大平-善幸政治を否定して、ことごとくその反対政治にうつつを抜かしてきた30年来のツケが自己撞着し、もはやいかんともし難い事態に陥っているとみなす。こういう事態に陥らせた張本人たちに対処させようとすること自体が間違いで、即刻首を刎ね引退させたい。世は革命を要求しているとみなす。問題は革命派に青写真が無く、徒に批判に終始していることが革命を遠ざけさせているとみなす。

 こういう場合、正しい処方箋を持った党派が登場し、一気呵成に権力を掌握し、早急的確な処置をせねばならないと考える。しかしそれは断じて軍人的頭脳による戦争政治への移行であってはならない。この道が敷かれ始めているだけに言い添えておく。ならば、どう処方するべきか。

 これを話せば長くなるので簡単に言う。要するに、戦後ハト派政治の金字塔となった池田-角栄ラインの政治を再興させ、戦後タカ派政治の悪見本である中曽根-小泉ラインの政治の全否定に向かうことである。それでも分からないという者には角栄の日本列島改造論を熟読吟味せよと云っておこう。れんだいこは、あれは日本のみならず世界の政治のバイブル、家庭に一冊必携本だと思っている。

 れんだいこに余裕があれば、自費出版しようと思っている。誰が著作権、どこが版権持っているのか分からないが、角栄ならみみっちいこと云わないだろう。大いに結構、ぜひやってくれたまえと云うだろう。これがハト派政治である。誰に断って勝手なことをするんだ権利侵害甚だしいというのがタカ派政治である。両者には、これほどの差がある。

 それはそれとして、れんだいこは、上層部を潤すだけの従来式の単なるバラマキ補正予算に猛反対する。消費税値上げに大反対する。この税は廃止させようと思う。なぜなら、ハト派政治時代には無かった税だから。国債発行も禁止する。なぜなら、ハト派政治時代には発行しなかったから。そういうものに頼るのではなく、官民が心を合わせて苦境を乗り切る内治優先政策に邁進したい。公共事業は不要なものは別として社会基盤整備に繋がるものは大いに奨励する。軍事は大幅に削減し、被災地救援活動に向かわせる。イージス艦やら軍用機やら思いやり予算は計上しない。

 公務員の給与は本給を高級化しバリバリ働いて貰う。ボーナスは当面支給せずとしたい。住宅ローンを抱えている者には別途、申請審査により救済されることにしたい。有料道路、公営入場料は大幅減額し、少なくとも現行の3分の1料金にする云々。銀行に公的資金を注ぎ込む場合、融資姿勢にメスを入れ「金持ち融資、貧乏人泣かせ」を止めさせ、「金持ち後回し」とする。その他権利病で高くついている一切に対し関税フリーにさせる。

 おっと簡単に言うつもりが長くなった。とにかく、現下の政治家がやろうとしている反対の政治をやれば、世の中が良くなるということである。ブッシュも訴追される動きが出てきた。海の向こうで責任追及があるのなら、こちらであってももオカシクはない。小泉政治の狂奔者よ、覚悟しておけ。

 2008.12.21日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評507 れんだいこ 2008/12/22 13:21
 【コーチャン逝去考】

 2008.12.14日、元ロッキード社副会長にしてロッキード事件の「重要証言」の役割を果たしたことで知られるアーチボルド・カール・コーチャン氏が米カリフォルニア州レッドウッドの病院で死去した(享年94歳)。12.21日、、ロサンゼルス・タイムズ紙(電子版)が報じた。葬儀は行われず、ノースダコタ州で埋葬の予定。れんだいこには感慨深いものがあるので、これにコメントする。

 ロッキード事件とは概要次の通りのものである。米ロッキード社は、ダグラス、ボーイング社とともに日本市場への軍用機及び民間旅客機商戦に参加し、1972.11月、丸紅経由で全日空機へのトライスター21機受注に成功した。1機50億円、全機1050億円の商戦となった。軍用機商戦も凄まじく、児玉誉士夫との間に「P3Cオライオン対潜哨戒機を50機以上販売できた場合は、報酬として総額25億円を支払う」旨のコンサルタント契約を結んでいた。1977.12月、国防会議がロッキード社からP3C-45機の購入を決めている。 

 1976(昭和51).2.4日、米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会の公聴会証言で、ロッキード社の会計監査に当たった会計士W・フィレンドレーによってロッキード社の対外秘密工作が漏洩された。日本関係のくだりで、「裏金を政商・小佐野、右翼の大物である児玉誉士夫、総合商社の丸紅を仲介とする政府高官たちに1千万ドル(当時の円換算30億円)の工作資金を流した。そのうち708万5000ドル(当時のレート換算で約21億円相当)が児玉に秘密コンサルタント料として渡った」と証言した。

 2.6日、ロッキード社の前副社長アーチボルド・カール・コーチャンが同じ委員会での公聴会尋問に答えて次のように証言した。概要「児玉に払った21億円のうち、いくらかが国際興業社主小佐野賢治に渡ったと思う。我が社の日本での代理店丸紅の伊藤宏専務に渡った金は5億円であり、そのうちから日本政府関係者複数に支払われた。そうした支払いの必要性を私に示唆したのは丸紅会長の桧山広か、専務の大久保利春だった」。

 この二つの爆弾証言がロッキード事件の幕開けとなった。これによれば、工作費30億円の大半を受け取った児玉-中曽根ラインこそが事件の主役となるべきところ、どういうわけか小佐野-田中元首相ラインへの訴追運動へと向かう。結果的に、政治家、丸紅、全日空の幹部ら計16人が受託収賄、贈賄などの罪で起訴された。不思議なことに中曽根には捜査の手が向かっていない。小佐野、田中元首相は最後まで頑強に否定したが、「始めに判決ありき」の流れが工作され、田中元首相は東京地裁で懲役4年の判決を言い渡された。その後公判闘争となったが、上告中の1993.12月、死去した。こうして、ロッキード事件は、元首相の容疑否認のまま長期裁判となり、死去するまで続くという前代未聞の異例の日本政治史上最大の首相訴追疑獄事件となった。

 コーチャンの概要履歴は次の通りである。ノースダコタ州生まれ。スタンフォード大学で経営学修士(MBA)取得後、1941年にロ社の子会社に入社。ロ社の筆頭副社長を経て1967年、ロ社社長に就任。トライスターの名前で知られるL1011型旅客機を開発、1976年までの任期中に販売を指揮した。ロッキード事件勃発により上院の委員会で日本への航空機売り込み工作を証言。ロ社退職後は、ロサンゼルス郊外などに住み、ビジネスコンサルタント業などを営んだ。コーチャン氏の息子のロバートさんはロサンゼルス・タイムズ紙に、ロッキード事件について「父は会社のために正しいことをしたと思っていた」とする一方で、「父は板挟みになっていたのかもしれない」とも語っている、とある。

 ロッキード事件勃発後、コーチャンは、東京地検特捜部の事情聴取を拒否した。このため日本の検察庁は不起訴を約束、最高裁もコーチャン氏の不起訴を容認する異例の宣明となり、その後東京地裁の依頼を受けたロサンゼルス連邦地裁の嘱託尋問で贈賄工作を証言した。東京地検特捜部の異例の奮闘の背後に何が有ったのか。嘱託尋問そのものの違法性問題もある。そういう嘱託尋問する為の検察の不起訴約束、最高裁の容認宣明も前代未聞措置であり、誰がどの勢力がこれを後押ししたのかと云う疑問が残されている。とにかく異例尽くめであった。

 「コーチャン証言」は、「ロッキード事件勃発時のコーチャン証言」、「嘱託尋問調書のコーチャン証言」の二系で構成されている。問題は、「コーチャン証言」が「田中元首相への5億円の供与裏づけ証言」とされているが、原文開示されぬままフレームアップ式に改竄されていることにある。「コーチャン証言」は、児玉疑惑を明らかにしているが角栄疑惑には及び腰の証言になっているとの指摘もなされている。これによれば、震え上がるのは中曽根であって角栄ではない。

 そういう曰くつきの嘱託尋問調書が日本側に渡され、捜査に大きな影響を与えることになった。マスコミの低級安上がり正義頭脳が飛びつき以降、「元首相の判決前の有罪決め付け報道」に明け暮れ喧騒し続けた。これを競って加担した者がその後出世街道を歩み、今日のマスコミ界上層部に君臨している。繭唾した記者は冷や飯を食わされ干されたまま今日に至っている。マスコミが祝詞(のりと)の如く唱えるジャーナル精神の質とはかようなものであることを知らねばならないであろう。

 れんだいこがロッキード事件に注目するのはもう一つ、この事件を通じて戦後日本政治の質があからさまにハト派政治からタカ派政治へ転換させられる起点となったと思うことにある。これが今日の貧相政治の始まりであり、日本経済破産の道の根源となっている。れんだいこは、そう見立てている。ここではこれを問わないが、「コーチャン証言」はそういう重要な役割を担ったという意味で歴史性を持つ。

 その当人がその後、人目を忍ぶようにして隠遁生活に入り、そのまま逝去したことになる。その罪は大きいというべきであろう。どうせ、こうやって死す身なのに何を恐れたのか、誰がそうさせたのか、マスコミ取材から逃げ回っている。れんだいこは、ここに闇があると窺う。陰謀史観を批判する者は、この問いに答えねばならないであろう。

 2008.12.22日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評508 れんだいこ 2008/12/24 21:10
 【懐かしの角栄-大平同盟を再評価する】

 れんだいこは今、中野士郎「田中政権886日」(行政問題研究所、1985.12.20日初版)を読んでいる。迂闊にも今までこの本を読み損なってきた。著者は元読売新聞政治記者で、日中国交正常化交渉に向かった機内で田中首相の横に坐るという椿事を経験している。そういうこともあって、日中国交正常化交渉の舞台裏を相当詳しく明らかにしている。

 交渉は予想外に困難に逢着していた。日本は日本の立場で台湾との関係を主張せざるを得ず、中国の云うように「台湾は中国の一省、日華条約を廃棄せよ」を受け入れ難かったからであった。二階堂官房長官が、「第1回会談に引き続き、広範な具体的問題について精力的に意見交換が行われた」とスポークスコメントしたが、内実は剣呑そのものだった。同書で、次のような遣り取りが披瀝されている。

 遅い昼食となった。大平外相と高島条約局長は食事がのどを通らず、水ばかり飲んで考え込んでしまっていた。田中首相 「どうしたんだい君ら」。(座を持ち上げようとしても塞ぎこんでいた)田中首相「そんなに心配してもしようがないじゃないか。だから大学出はダメだというんだ。また明日やりゃいいじゃないか」。大平外相「だけど、どうすりゃいいんだ」。田中首相「そりゃぁ、お前ら大学を出ているんだから考えろよ」。(沈黙の後)大平外相「なあ田中君、君は越後の田舎から出て来たとき総理になれると思ったかい」。田中首相「冗談じゃない。食えんから出てきたんだ。お前だってそうだろ」。大平外相「俺もそうさ。讃岐の水のみ百姓の小せがれじゃ食えんからのう」。田中首相「それなら当たって砕けても、元々じゃないか。できなけりゃできないでいいさ。このまま帰るさ。責任は俺が取る」。

 れんだいこは、この遣り取りはどこかで既に仕入れている。改めて読み直して、政治の真剣みに感慨した。それと、この水のみ百姓コンビが一時でも戦後政治の権力中枢を占め、采配を振るっていたことを懐かしむ。この時代、日本左派運動は政府自民党批判に明け暮れ、現在のような貧困政治時代になると口先三寸批判でお茶を濁すという犯罪的役割を果たしている。連中は基本的に狂っている。

 れんだいこは今、「戦後日本=プレ社会主義論」を確立している。この目線で見れば、角栄-大平同盟こそが、イデオロギーに頼らず実践的な嗅覚での「戦後日本=プレ社会主義」の牽引者であったと思っている。水のみ百姓出自は、唯物論的にも裏付けられよう。これに比べて、日本左派運動派の出自こそ胡散臭い。それを過度に問うのは問題ありなのだけれども、やはりこういう線も踏まえておく必要はある。オカシナことに子供の頃から性悪坊ちゃんばかりだったりして。コラッ不破、聞いとるか。れんだいこは、お前と宮顕と立花の角栄叩きだけは堪(こら)えん。まっその他大勢も同罪ではあるが。

 いずれにせよあの頃は、政治家の発言が正攻法で堂々としていた。云うだけではない責任政治の真骨頂を見せていた。おまけに話が面白い。味があった。つまりそれなりの深い思想があった。それに比べて何だ昨今の政治は。ちまちましており小難しいことばかり言って、その場繕いばかりで、嫌われても国家百年のため根本解決策を提起すると云って持ち出すのが消費税アップだと。馬鹿ばかしいったらありゃしねえ。

 どいつもこいつも目がワシントンの方に向いており、もうブッシュは引退興行しているというのに、未練がましく出世と利権の引き換えに何でもすると今更ながら申し出る請負師ばかりではないか。トラック競技で云えば二周も3周も遅れすぎている。よって使いものにならない。ウヨサヨは表見的には対立しているようで、歴史観なぞ存外通底している。公共事業抑制論でも一致している。馬鹿らしいので、もうこれぐらいにする。

 2008.12.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評509 れんだいこ 2008/12/29 19:56
 【新たな自由論開眼の一席】

 2002.12.23日、れんだいこは、兄の形見としてほぼ4ヶ月前に引き取った愛犬ジャンといつもの散歩に出て、丁度「自由と規律」について考えていた時、ジャンが道路上に飛び出て車に跳ねられた。ドンと云う鈍い音がしてキャンと云う鳴き声がして、それきりジャンが居なくなった。生きていたなら犬猫病院へ連れて行こうと捜したが、リードが絡んで引きずられて行ったのだろう跡形さえない。辺りを捜したが居ない。車の走り去った跡を1キロほど追ってみたが居ない。消えてしまった。

 9月にジャンを引き取って以降、最初の散歩が夕方5時だったのを覚え催促するので、それが日課となった。或る時、夜中の11時頃にも連れ出したら、それも覚えて一日二度の散歩となった。訓練を受けていないせいで常にひっぱり抜くので当初は力比べであった。そのうち人気と犬気がないところで放す術を覚えた。これがジャンにも好評で、こうして互いに快適な散歩が始まっていた。特に河川敷では思い切り自由奔放を満喫していた。道路往来でも片側斜線を上手に行き帰りし始めていた。

 時に大通りの向こう側に渡っていたが、あれが悪かった。ジャンが道を覚え、この時、急に飛び出てしまった。れんだいこには一瞬のことで為す術もなかった。今は無念と寂しさが一杯で、翌日もその翌日も犬小屋を見ては居ないのを確認させられるばかりである。気休めを云えば、ジャンが跳ねられた時、瞬間に、亡き兄の「ここまで大事にしてくれて有難う。もういいよ」という声が聞こえたことである。言い訳がましく申し訳ないことだけれども、本当にそういう声が聞こえたのだから仕方ない。

 それにしても妙なことになった。この日なぜだかジャンの飼い方に味をしめ、「日本一自由にして規律有る犬にしてやろう。人間社会に於ける自由と規律を考える際のモデルにしてみよう」とあれこれ思案しながら散歩を楽しんでいた。よりによってそういう時、こういう現実となった。いっぺんに冷や水を浴びせかけられ打ちのめされた。今もショックが隠せない。

 兄が、「お前の自由論は違う。書生っぽ過ぎる。考え直せ」と訓戒を垂れてくれた気がしてならない。いずれにせよ、「日本一自由」というれんだいこの自由概念が現実に打ちのめされたことには相違ない。ジャンの死が身をもって教えてくれた気がする。ジャンには何の責任もなかろう。ジャンの能力を知って、れんだいこが正しくリードしておれば防げた事故である。ジャンには買主として申し訳ないという以外にない。

 れんだいこの「自由な飼い方」の咎めがこれだ。「真空無制限な自由」なんてないんだ。むしろ、ジャンの命が最大限に安心して過ごせる配慮を尽した飼い方こそがジャンの「真の自由」だったんだ。れんだいこの自由の考え方の間違いが、ジャンの命を縮めたんだ。自由とは安全規律の躾(しつけ)の上に花開くものであり、安全規律の担保されていないところの自由なんて有り得ない、それは「無謀の自由」に過ぎない。リアリズムに基かない自由のはき違えに過ぎない。無謀の自由は現実に裏切られることになる。

 れんだいこは、自由概念の思惟を根本から立て直さなくてはならないことになった。ジャンの死を教訓にすることが、ジャンの死に対するせめてもの償いとなるべきで、かくお詫びしなくてはジャンに相済まぬ。ジャンよ御免な。俺の浅はかさで取り返しの付かないことになった。責任を感じている。兄貴の形見をこんな形で亡くしてしまった。済まぬな兄貴よ、せめて引き取ってやってくれ。

 と書き付けておいた。12.4日のクリスマスイブが過ぎ25日のクリスマスが過ぎた。この間、居酒屋へ行っても寂しかった。ジャンを失ってから三夜を越えた26日の朝朝、窓越しにジャンの鳴き声を聞いた気がした。飼っていた場所は事務所で、自宅から500メートルほどある。ジャンが元気な時は時々、夜鳴きの遠吠えを聞いていた。近所に迷惑掛けているだろうなぁと冷や冷やだった。

 ジャンの鳴き声を聞いた気がして、連れ合いに「オイオイ早く。ジャンの鳴き声がする」と云ったら、「あんたは思い込みが強い人だから幻聴よ。もう四日過ぎてるのよ」と叱られた。鳴き声はすぐ止んだので、やはりあれはよその犬の鳴き声か幻聴だったのだろうと思ってテレビニュースを見始めた。

 8時過ぎ、向かい隣の所長さんの電話から発信があった。出てみると、ジャンに餌を与えてくれていた事務員さんからだった。後でわかったことだけど、れんだいこの電話番号知らないので所長が来るまで待ったと云う。丁度昨日、ジャンが居ないけどどうしたのと聞かれ、実はかくかくしかじかと伝えたところ、放したあなたが悪い、それは無謀というものよと散々叱られ、少し落ち着いてから涙を流しながら、でもよく可愛がっていたから幸せだったかも、仕方ないねと慰めてくれたばかりだった。

 その彼女が声を弾ませ「**、**(私の職名)、ジャンが帰って来ているわよ」が第一声だった。「エエッ」、「そうよ、早く行ってあげて」、「分かった」。

 すぐ着替えて会社に向かった。連れ合いに「ジャンが帰ってきたんだ」と云ったら、「私が祈ってあげたからよ」だと。便利な性格してるわ。いつものことながら可笑しくなった。会社へ行くとジャンが居た。「おぅよしよし」と撫でさすりながら互いの信頼を確認した。驚いたことにビっこも曳いていない。全身完璧な肢体だった。これは奇跡だ。帰って来た奇跡と無傷の奇跡。れんだいこは神に感謝した。

 しかし、三日間、ジャンはどこで何をしていたんだろう。不思議と云えば不思議である。それはどうでも良い。今再びジャンとの愛の散歩が始まった。心なしか互いに情愛が深まっている気がする。今日も河原で放し飼いした。ジャンも満足、私も満足のメタボ対策の散歩を終えた。そうこうしているうちに年の瀬になった。さぁこれを投稿しとこ。れんだいこの新たな自由論開眼の一席。

 2008.12.24日 2008.12.29日再書き込み れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評510 れんだいこ 2009/01/01 21:58
 【2009.1.1たすけあい党新年声明】

2009年は早々と不快極まる事件で染められました。昨年12.27日、イスラエルがガザ地区を空爆し始め、情報によると2009.1.1日現在で六日連続の空爆になっており、死者数は少なくとも400名以上、負傷者数は2000名以上に達しているとのことです。12.29日、イスラエルのバラク国防相は、「われわれはハマスとの全面戦争を行っている。作戦は必要なだけ拡大、強化させる」と宣言し、ガザとの境界には数十両の戦車や装甲兵員輸送車が集結、地上部隊の侵攻準備を進めているとのことです。ガザ周辺は軍事閉鎖地区に指定され、記者団が入れない事態になっております。  

 12.27日夜、国連安全保障理事会により緊急協議が開かれましたが、「全ての暴力の即時停止」を当事者に要請する声明を発表しただけで、イスラエルの暴挙に対する実効力の有る制裁は課されておりません。イスラエルのシャレブ国連大使は、「ハマスのロケット弾攻撃に対する自衛権を行使しているに過ぎず、責任はハマス側にある」と主張し、米国のハリルザド国連大使は、今回の暴力沙汰を中止するのはハマス次第だとするイスラエルの主張を支持しました。イギリスも同様の見解を示しております。こういう論法が罷り通るのが国連の実態です。

 西欧各国の過半が現代世界の真の巨悪である米英ユに同調しており、我が日本政府も例によって、その尻馬に乗り叉もや追随しております。2009年は年初から、現代世界が抱える最大矛盾とも云えるイスラエル問題を突きつけながら始まりました。ガザ地区の皆様の必死の苦悩に対しては申し訳ないのですが、問題が分かり易くなったという意味で是としたいと思います。我々は、この問題を正面から引き受けなければなりません。

 それにしても、イスラエルには何故に何事も許されるのでせうか。戦後65年にわたって我々は、アンネの日記とナチスホロコースト糾弾を叫べば同情が集まり、何をしても全てが是認されるという「悲劇の民ユダヤ人法理」に騙されてきたのではないでせうか。この仕掛けを一体誰が作っているのでせうか。そろそろこれを対自化させるべきです。れんだいこは怒りを禁じえません。この期に及んで、なおイスラエルを身びいきする人道主義者や詩人が居るなら、唾棄すべきニセモノでせう。れんだいこは、黙れうるさいと一喝致します。

 2009年は、このキナ臭い硝煙の臭いの中で幕開けしました。今年一年を象徴しているように思います。大変な事態が予想されます。これを踏まえて、我々はそろそろ次のように見立てすべきではないでせうか。現代は、国際金融資本帝国主義、その表出体としての米英ユ同盟に支配されております。その支配も次第に見境のない凶暴なものになりつつあります。それは、強さの現われではなく、逆に基盤の焦りを感じさせます。そう、彼らは次第に追い詰められつつあります。

 こう確信すべきではないでせうか。戦後65年という歳月が潮の流れを変え、彼らのウソを歴然とさせるようになりました。イスラムも次第に隊列を整えつつあります。世界の論調も変わりつつあります。国際金融資本帝国主義は至るところで破綻しつつあり次第に追い詰められつつあります。歴史は繰り返すの法理に則れば、再度所払いされるでせう。悪あがきが酷ければ酷いほど、歴史法廷の場でそれに似合った処罰を受けるでせう。そうしないと辻褄が合いません。我々は、これに向かって状況証拠を集め始めるべきです。既に始まっているかも知れません。

 それにしても、ブッシュ在任時代は戦争に明け暮れ、最後の最後までこういう仕打ちを通しました。歴史の狂人と云うべきでせう。その狂人と最もハーモニーしたのが日本の小泉首相でした。彼もまた狂人です。狂人と狂人はウマが合うのでせう。二度と狂人政治が起こらぬよう彼らを歴史法廷へ引きずり出さねばなりません。一刻も早くその日が来ますよう祈ります。

 それにしても、我が日本は、世界の新潮流に全く気づかず、相変わらずの昔の杵柄で米英ユ同盟配下での延命を策しております。こういうオツムしかないようです。この傾向は1980年代初頭の中曽根政権政治以来強められ今日に至っています。この間、日本は、戦後の廃墟から営々と積み上げた高度経済成長時代の国富を貢ぎ続け、今日ではそれも底を尽き始めております。財政破綻必死の状況に至っております。それにしては我が政界は相変わらずのんびりしております。事態を感知する能力さえないのでせう。世界のお笑いです。

 日本はいつのまにか政治も経済も文化もが、そういう唾棄すべき人たちによって主導される時代に入ってしまいました。それが証拠に、イスラエルの暴挙を糾弾する感性が歪められているばかりか、この場に及んでもなお支持し続けようとしております。これが、明治維新以来の帰着です。こういう時代を創る為に幕末維新があったのでせうか。私達は、どこかで捻じ曲げられたことを悟らねばなりません。当時の志士の死と思いをムダにさせてはなりません。

 時代は明らかに転換を要請しております。既成政党と党派が動かないなら、れんだいこ及びたすけあい党は堪りかね、打って出ようと思います。れんだいこ個人は正義の為に身命を歴史に捧げようと思います。不実な世に徒に長生きしようとは思いません。自死はしませんが、日本の国家と民族の百年の計に殉じようと思います。その過程で奪われる命なら本望としたいと考えます。

 時代がそれを要求し始めたように思います。大人しい物分かりのよい穏和な対応では、世の中が何も変わりません。資本はますます横暴を極めようとしております。というか粗野性を丸出しにしつつあります。企業と経営者とハゲタカファンドが最大利潤を手にしつつ、正規雇用の破壊と労働者の無慈悲な切り捨てにより経営危機をやり過ごそうとしております。この手法が我が物顔で罷り通り、そのおこぼれ貰いの既成政党とマスコミがこれを追認しております。

 長い不況は政策的に作り出されているものです。経済循環的に明らかにオカシイ。景気回復の腰を折る政策を意図的故意に導入することで経済失速せしめられているとみなすべきです。我々は今やはっきりと、こういう構図で事態を確認する必要があると思います。性悪連中による搾取と無能政治にこれ以上引きずりまわされては堪りません。彼らは基本的に政治を与る資質と能力に欠けております。そういう連中に限り余計に権力の蜜に群がる性質があります。そういう連中の繰り出す諸政策を反動政治と云います。

 これは倒すしかありません。我々はこれ以上、反動政治の犠牲にされる必要はありません。これに抗する人民大衆の抗議運動の組織化を始めねばなりません。否既に始まっています。諸戦線のこの闘いの結合の仕方が肝心です。統一戦線論ではなく共同戦線理論で繋げ、穏和主義と急進主義が見事な連携をすることで敵の本丸に乗り込まねばなりません。これに適する者とも闘うべきです。我が党は今年、これに共同します。闘わなければ生きられない時代に入ったからです。大人しいのは決して美徳ではない、これが今年のテーマになるだろうと予測します。

 人民大衆の怒りを共有できない運動体は一気に滑り落ちるでせう。社共運動は既にそのようなものでしかありません。不満の空気抜きを策すアリバイ闘争でお茶を濁す口舌の徒輩ばかりです。我々は、もう騙されてはなりません。新左派運動を創出し、一挙に政治闘争の前面に躍り出るべきです。具体的に何をどうすべきか、これを議論しつつ既に足を前へ進めねばなりません。走りながら考えねばなりません。そういう作風の左派運動にしたいと決意いたします。

 2009.1.1日 たすけあい党首れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評510 松本哲 2009/01/02 12:56
> 【2009.1.1たすけあい党新年声明】
>
 私も入党して2年になりますがこの声明のとおりです。2年前にはここ以外2つのネットの組織に加盟しましたが雲散霧消のようになり、自衛隊イラク派兵差止訴訟の3000人の原告の一人として違憲判決を勝ち取り、また、トヨタ過労死裁判(内野健一過労死裁判勝訴)の支援で活動に満足感を感じただけでした。ブログ活動も3年目に入るのでこの声明のように前進したいと思います。
党首、今年もよろしくお願いします。

Re::れんだいこのカンテラ時評510 れんだいこ 2009/01/02 16:41
 松本哲同志ちわぁ。本年もよろしくね。勝手に声明しましたが御意とのこと有難うございます。本年は波乱の中の地固めと場合によっては決起に向かいたいと思います。

 2009.1.2日 れんだいこ拝




(私論.私見)