カンテラ時評15(421~450)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評421 れんだいこ 2008/07/25 09:39
 【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その2、神道と仏教の関係】

 日本への仏教伝来は、6世紀頃の蘇我氏の台頭時代に始まった。聖徳太子がこれに関わり推進派として活躍した。蘇我氏が渡来氏族なのか、高天原王朝天孫系なのか出雲王朝国津神系なのか分からない。ただ深く韓国ルートと絡んでいるのは間違いない。

 この時期、仏教の受容を廻って伝統的神道派の物部氏派と革新的仏教派の蘇我氏派が大いに争い、最終的に仏教派が勝利し、物部氏派の主流は壊滅させられ叉は逃亡を余儀なくされ地下に潜ったことは衆知の通りである。こうして、天皇家は、上からの革命」式にそれまでの神道とは別に新たに仏教的祭祀制を取り入れ、全国各地に積極的に寺院建立に向かう等手厚く保護し、氏族系神社と拮抗させ、仏教国日本の創建に向かった。これを仮に「国策仏教」と命名する。

 しかし、このことを知ることは単なる知識であり、問題は仏教の受容の仕方され方に対する認識の方にこそある。仏教の伝来、普及により神道が滅びたのではない。政治の表向きを仏教が、裏向きを神道が司るようになると云うイニシアチブの交替が起こったが、そういう体裁で両者が鼎立共存したことにこそ嗅ぎ取るべき意味があるのではなかろうか。そうなると、世界史的に見ればかなり珍しい「仏教と神道の鼎立共存」は何ゆえにもたらされたのであろうか、ここが問われねばならない。

 結論的に述べると、れんだいこは、先行して存在していた神道の方の優秀性こそがキーワードではないかと考えている。これは丁度、言語学も同じで、漢字の輸入にも拘らず原日本語は滅びず、否むしろ原日本語の方が漢字を咀嚼吸収し、その結果平仮名、カタカナを創造し、新たなる日本語を創造していった例に似ていると考えている。してみれば、注目すべきは、日本語同様に在来文化及び精神としての神道の共生能力及び器量の広さの方ではなかろうか。

 仏教もまた共生能力及び器量の広さを有していた故に併存が可能になったのであろう。少なくとも、神道と仏教は鼎立共存できる関係を互いが持っていた。こういう観点を持ちたい。両者のこの共生構造が、国策仏教を次第に大衆仏教へと生育させていく事になる。それは同時に仏教の土着化であり、神道との混淆化の道のりでもあった。即ち日本仏教化であり、これは極めて日本的現象であった、そう考えるべきではなかろうか。

 この竿頭に立ち、仏教の真髄を的確無比に捉え、それを日本神道と格闘させ、これを取り込み練り合わせる形で日本仏教化の先鞭を付けたのが役行者であり、その意味で特筆に価するのではなかろうか。結果的に汎神論的神仏習合が編み出されたが、この役行者式神仏習合がその後の日本仏教の在り方を定式化させた。最澄も空海もこの路線に沿って日本仏教化を促進させた気配が認められる。その後の法然、親鸞、日蓮、道元、栄西その他然りとすれば、元一日を打ったてた役行者の果たした役割は大きいと認めるべきではなかろうか。

 日本文化は練りの文化ないしは発酵文化だと云われる。そのことは、日本宗教史の中にも見て取れる。れんだいこはそのように考えている。この柔軟な仕組みが、仏教受容の時にも働いたと受け止めている。国策的に導入された仏教がやがて日本社会に根付き、今度は神道と仏教が共存的に併存する道を見つけていくことになった。これにより日本は仏教国と云われるようになっているが、注目すべきは、日本語同様に在来文化及び精神としての神道の共生能力及び器量の広さの方ではなかろうか、ということになる。

 だが、これは自然にそうなるのではない。何事も、時代のテーマを嗅ぎ取った能力者が死に物狂いの格闘の末に活路を見出し、これが伝授受容されることにより新たな発酵文化が形成すると云う経緯を見せる。役行者は、宗教史の面でこれに取り組み為し遂げた稀有の超能力者であった。かく観点を据えたい。

 補足すれば、日本神道が唯一相容れないものがあるとしたら、史上いわゆるユダヤ教と呼ばれる、特にネオ・シオニズム系の選民主義思想ではなかろうか。そのネオ・シオニズムの襲来が著しい今、日本史上初の未曾有の椿事が起こっている。明治維新以来、欧化知識人が、この思想史的意味を弁えぬままネオ・シオニズムの尖兵としてあるいは御用聞きとして立ち回ってきている姿はあさましい。

 彼らは本質的に低脳インテリなのではなかろうか。故に何を遣らせても上手く漕げない。ただひたすら気難しく語り、徒に規制に夢中になり、権利病に侵され、何食わぬ顔で利権にありつき、仮に口先で良きことを云っても裏では利権に手を突っ込んでいる。総じて虚学派であり無責任を習性とする。この連中を大目に見ながら結果的に円く治めてきたのが伝統的な実学派のインテリであった。そろそろ我慢にも限界はあろうが。こういう観点を持ちたい。

 2008.7.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評422 れんだいこ 2008/07/25 17:45
 【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その3、伊勢神道と出雲神道の関係】

 上述で日本神道が如何に優れているか、その構造の柔軟性について記したが、未だ漠然と結論的に指摘したに過ぎない。もう少し細部に立ち入って確認してみる必要がある。日本神道は内部で自己変革を遂げており、興味深いことに、神道と仏教の共生関係と同様なものが既に神道内部で経験されていたという史実がある。

 これを分かり易く確認すれば、後に伊勢神道として結実する新神道と出雲神道に結実した古神道の関係にも共生関係が見て取れるということである。両者を神道と云う名目で一括りするならば、神道は多重構造ということになる。これを別物として見るならば、伊勢神道と出雲神道双方の共生能力及び器量の広さ問題になる。

 現代の自称インテリ達が一口に神道と云う時、そういう風に教育されてきたからでしかないのだが、決まって伊勢神道を指している。ここで止まっており、出雲神道には目もくれないと云うか記紀神話の記述をそのまま鵜呑みにして邪教扱い叉は顧慮しない。

 彼らは、明治維新以来の天皇制を眼前に置いて、その王朝系譜を古代まで遡り大和王朝まで辿り着く。大和王朝は、高天原王朝譚、国譲り譚、神武東征譚と続いて創建に辿り着く。この歴史を正統御用化し、先行して存在していた出雲王朝の古神道をも一部ミックスしながら新神道を創ったのが、いわゆる伊勢神道である。

 明治維新以降の自称インテリ達は、御用系も批判系もここを始発としており、それ以前を顧みない。これを仮に「新神道」叉は「伊勢神道」叉は「弥生神道」叉は「天皇制神道」と命名する。ここでは「伊勢神道」と表記する事にする。これが一般に認識されている神道であり流布されている神道である。

 付言すれば、左翼は、この伊勢神道を批判して神道問題を解決したかの手前味噌に陥っている。記紀神話的天地創造譚の荒唐無稽性、皇統譜の連綿性、八紘一宇観、神州不滅観を批判なり否定して事足れりとする習性がある。しかし、その程度の批判は子供騙しの類いでしかない。

 史実はもっと奥行きが深い。伊勢神道以前に、古代日本には既にれっきとした出雲神道が先行的に確立されていた。ここに着目しないと古代史の秘密の扉が開かない。その出雲神道を遡れば更に先行的に縄文神道が形成されており、これを更に遡ればアイヌ神道まで辿り着く。これを仮に「古神道」叉は「出雲神道」叉は「縄文神道」叉は「部族連合制氏族神道」と命名する。ここでは「古神道」と表記する事にする。

 神道と云うとき、この流れを押えなければ正しい理解にならない。かく構図を構えなければ神道問題の入り口を潜れない。左翼が、神道問題に対して理論的に解決済みと嘯くなら、この古神道まで視野に入れて批判せねばならない。果たしてうまくできるだろうか。察するに、伊勢神道以前の神道は仮にあったにせよアニミズム段階のものであり、論評するに足らないとでも云うのだろう。その言で納得できるものは幸せであるが、れんだいこのように納得できない者も現に存在する。

 れんだいこの見立てるところ、日本神道は、古神道と新神道である伊勢神道が綾なしてきた多重構造的生成発展型宗教である。日本神道を理解せんとするならば、この軟構造を無視しては神道の何たるかが理解できない。世上の神道認識はこの点で大雑把過ぎており、学問的に堪えられない。「神道の共生能力及び器量の広さ」を云うとき、このことを認識していなくては全く役に立たない。

 付言すれば、日本神道の構造式は世界に誇る開放系教説の宗教であり、行き詰まることが無いと云うすぐれものとなっている。対照的に、ユダヤ-キリスト教的教義は一見精緻に見えるが、完結系の為に却って危ない。論の前提が崩れれば収拾が尽かない。現在、地球環境問題がクローズアップされつつあるが、ユダヤ-キリスト教的教義に基く「神言による自然支配命令」の結果であり、その論理の破綻であろう。

 日本神道は、その他の良質的な宗教も然りであるが、支配と云う概念を持ち込まない。むしろ、諸氏族、民族間の共生は無論のこと、自然摂理、環境との共生をも指針させている点で、例えアニミズムと云われようともむしろ奥が深いと云うべきではなかろうか。

2008.7.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評423 れんだいこ 2008/07/25 17:57
 【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その4、日本神道の多重構造、三極構造考】

 もとへ。そういう訳で、日本神道の何たるかを知る為には古神道にまで至らねばその秘密が解けない。こうなると必然的に日本神道の原基としてのアイヌ神道こそが探られるに値する事になる。但し、河川の上流を尋ねれば源流はとある地点の一滴の水に過ぎなかった例に似てアイヌ神道はアイヌ神道として形成されている訳ではない。否形成されていたのかも知れないが文書としては残されていない為に口伝に拠るしか捉えようがない。その口伝も断片的なものしか残されていない。故に、アイヌ神道なるものを無理矢理に想定して確認しようとしても無為に終わってしまう。

 と云う訳で、神道を知るためには、はるけきアイヌ神道から縄文神道、縄文神道から出雲神道までの長い道のりの間に発酵醸造形成された古神道を知らねばならない。その古神道の精華が出雲神道であり、伊勢神道が伝来してきた時既に在来土着系の氏族宗教が生まれており、その氏族宗教の連合型宗教の粋として国津神系王朝御用神道即ち出雲神道として確立されていた。このことが確認されねばならない。

 この出雲神道の内実を問うと紙数を増やすばかりなので、別途「出雲神道考」で確認する。(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/izumotaisyaco.htm)
驚く事に、出雲神道の智恵は今日なお連綿と日本精神の根底に息づいていることが確認できよう。早い話が、各種各様の神事、地鎮祭、厄除け、正月初詣で、七五三、神前結婚式、奉納相撲、奉納芸能等々がこれ皆、出雲神道時代に確立されていた儀式である。

 その出雲神道は、古代史上の最大政変である国譲りにより、「記紀神話」説話によれば主流の大国主系が幽界に隠れることになり、裏世界即ち非政治的宗教的世界でのみ活動が許容されると云う手打ちで生き延びることとなった。これにより、表舞台としての神道を渡来系の高天原王朝御用神道即ち伊勢神道が支配し、国譲りの際に功の有った出雲神道の事代主系が伊勢神道を補完するという体裁で三者が共存的に棲み分けすることになった。この構図が確認されなければ古代史の流れが読めない。

 冒頭の話に戻るが、「神道の共生能力及び器量の広さ」がここで確認できる。古代史上最大政変である国譲りにより登場した伊勢神道は、先行する出雲神道を駆逐できず、結果的にむしろ共生共存した。あるいは共生共存的新神道を醸造したと見なすべきかも知れない。

 ここで問われねばならないことがある。伊勢神道はなぜ、世界の諸文明勃興史の如くに先行する出雲神道を一掃駆逐できなかったのか。ここに日本史の秘密がある、とれんだいこは考える。それは、アイヌ神道から発する縄文神道、出雲神道が偏に有能であり、天地自然の理に叶っていたから否定しようにもしきれなかったと云わざるを得ない。

 つまり、潰すに潰されず、それをうまく利用した方が賢明と云う裏事情があったのではなかろうかと考える。これを逆に云えば、先行する文明がそれほど優秀であったと考える。それを許容した伊勢神道も共生的であったということにもなろう。

2008.7.25日 れんだいこ拝

Re:【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その1、神道とは】 彼岸楼 2008/07/25 20:08
 れんだいこさん、こんにちは。
 予備知識の段階でコメントするのは、少なからず躊躇いを感じていますが、何卒ご容赦のほどをお願い申し上げます。

 >もう10年ほど前になるだろうか。森首相が「神の国」発言した。これにマスコミと左派、サヨ陣営が批判のボルテージを上げた。どういうセンテンスの「カミの国発言」であったか忘れたのでなんとも云いようがないが、れんだいこが思うに、これはマスコミと左派、サヨ陣営の方が分が悪いのではなかろうか。日本史の底流を見ずに、幕末以来の西欧史観に呑み込まれた挙句、さほどメクジラするほどのことでもない批判の為の批判をしたに過ぎない。れんだいこは、あの当時も今もそう思っている。

 現憲法に規定されている政教分離の原則の観点からなる頗るコモンセンスに基づいた批判だったと記憶しています。この一件だけが原因ではないのですが、森首相はその粗忽な言動によって所謂“神の国解散”に追い込まれることになります。

 >今日、仏教も神道も日本社会にすっかり根付いている。だから日本を仏教国と見なして差し支えはない。だが、詳細に見ると、神道の方こそ真に底流で根付いているのではなかろうか。神道の発展バージョン系として仏教、道教、儒教その他諸々が取り入れられているのではなかろうかと思っている。

 例えば、葬送や竣工式等で行なわれる儀式、諸々の参詣の様子を指して仏教や神道が日本に浸透していると判断されるのでしょうか。仏教や神道がどのように根付いているのか、詳細の解説をお願いしたいと考えます。

 >現代日本はこれら東洋系思想の切磋琢磨とは別に既に西欧的なキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の各派を抱えている。日本神道が有りながらこれを知る事もなく、西欧宗教を受容した者に於いては、日本社会に伝統的に根付いている神道的精神、価値基準は幼稚なものに見えたのであろう。

 ユダヤ教、イスラム教のことは分りませんが、キリスト教徒にとって日本の神道が幼稚なものに見えたかどうか私には推断がつきかねます。しかし、内村鑑三のように日本の伝統的な精神からキリスト教にアプローチし、両者の融合化を模索し続けた事例もあります。

 >しかし、れんだいこは逆に考えている。日本神道の方こそ本来最も優れた思想ないしは宗教ではなかろうか。日本神道には、世界の四大宗教の如くな精緻な教義、経典がどうやら意図的なようであるのだが、無い。故に、何か劣等なもののように受け止められているのだろうか、日本人自身が日本神道を世界に冠たるものとして位置づけ称揚しようとしない。実にそういう在り方が神道的なのではあるが。

 それは多神教系宗教の特徴の一つとして世界各地の土着の民俗信仰にも観察される現象で、日本に固有のものではないでしょう。しかし、日本列島という風土的な条件が他の地域と比べて永きにわたり自然神崇拝を醸成して来た要因になったと謂うことができると思います。

 >今後、日本社会の精神界は、近現代史の主潮である国際金融資本の植民地化政策及びそのイデーとバッティングし、日本神道を廻るせめぎあい時代を迎えるかも知れない。そんな予感がする。こうした時代にあっては特に、在来の伝統的精神、価値基準、日本神道、日本精神を学びでおき且つ重んじたいと思う。

 宗教がある種のシステムを有するものならば、対極にあるのが神道だと謂ってもよいでしょう。神道の唯一の美点は一人を済度しようとするところにあり、またそれが思想的に裾野を持たない神道の限界を顕しているのであって、それ故に公的には祭祀に力点がおかれるような構図になっているのではないでしょうか。
 翻ってみれば「国際金融資本の植民地化政策及びそのイデー」を受け止めるだけの大いさや普遍性が日本の神道に具わっているかどうかの問題と捉えることも可能でしょう。その対応策を見出し得るかどうかについて、私は楽観視してはいません。何故なら、日本は未だに朝貢主義的な傾向と事大主義を克服してはいませんので、太平洋戦争の指導原理に持ち上げられ、敗北をきした国家神道に復権への道筋など見えて来る筈もないからです。
 一方の仏教が何故日本に流入、あるいは導入されることになったのか、概括的には仏教がシステム(構造)を有していたからであり、また当時の日本社会の成長が何らかのシステムを必要としたからに外なりません。その過程において神道がどんな条件を満たすことになったのか、さらには役行者が如何なるコーディネーターであり得たのか、れんだいこさんによる真相究明に期待したいと考えます。

 Auf Wiedersehen.

Re:【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その2、神道と仏教の関係】 彼岸楼 2008/07/25 20:20
 れんだいこさん、こんにちは。
 このスレはこのままですと、論考ではなくて単なるアジ原稿と受け取られないともかぎりませんので、少しチェックを入れさせていただきたく存じます。尚、他のレスと重複することも考えられますので、その場合は適宜にご判断をいただきますようお願いいたします。


 >しかし、このことを知ることは単なる知識であり、問題は仏教の受容の仕方され方に対する認識の方にこそある。仏教の伝来、普及により神道が滅びたのではない。政治の表向きを仏教が、裏向きを神道が司るようになると云うイニシアチブの交替が起こったが、そういう体裁で両者が鼎立共存したことにこそ嗅ぎ取るべき意味があるのではなかろうか。そうなると、世界史的に見ればかなり珍しい「仏教と神道の鼎立共存」は何ゆえにもたらされたのであろうか、ここが問われねばならない。

 神道が滅びたのではないことは空海が“護摩”をプログラム化したことが根拠の一例として挙げられるかも知れません。しかし、「政治の表向きを仏教が、裏向きを神道が司るようになると云うイニシアチブの交替が起こった」原因は何だと思われますか。

 >結論的に述べると、れんだいこは、先行して存在していた神道の方の優秀性こそがキーワードではないかと考えている。これは丁度、言語学も同じで、漢字の輸入にも拘らず原日本語は滅びず、否むしろ原日本語の方が漢字を咀嚼吸収し、その結果平仮名、カタカナを創造し、新たなる日本語を創造していった例に似ていると考えている。してみれば、注目すべきは、日本語同様に在来文化及び精神としての神道の共生能力及び器量の広さの方ではなかろうか。

 優秀性(=加工力に富む)という理解で宜しいのでしょうか。「神道の共生能力及び器量の広さ」について詳述していただくと助かります。

 >仏教もまた共生能力及び器量の広さを有していた故に併存が可能になったのであろう。少なくとも、神道と仏教は鼎立共存できる関係を互いが持っていた。こういう観点を持ちたい。両者のこの共生構造が、国策仏教を次第に大衆仏教へと生育させていく事になる。それは同時に仏教の土着化であり、神道との混淆化の道のりでもあった。即ち日本仏教化であり、これは極めて日本的現象であった、そう考えるべきではなかろうか。

 「少なくとも、神道と仏教は鼎立共存できる関係を互いが持っていた。」ことの顕れは具体的に何に反映され、人々はそれをどのような形で目にすることが出来たのでしょうか。

 >この竿頭に立ち、仏教の真髄を的確無比に捉え、それを日本神道と格闘させ、これを取り込み練り合わせる形で日本仏教化の先鞭を付けたのが役行者であり、その意味で特筆に価するのではなかろうか。結果的に汎神論的神仏習合が編み出されたが、この役行者式神仏習合がその後の日本仏教の在り方を定式化させた。最澄も空海もこの路線に沿って日本仏教化を促進させた気配が認められる。その後の法然、親鸞、日蓮、道元、栄西その他然りとすれば、元一日を打ったてた役行者の果たした役割は大きいと認めるべきではなかろうか。

 「この竿頭に立ち、仏教の真髄を的確無比に捉え、それを日本神道と格闘させ、これを取り込み練り合わせる形で日本仏教化の先鞭を付けたのが役行者であり、その意味で特筆に価するのではなかろうか。」の箇所は論理の飛躍があると感じます。役行者(修験道)に原初的にそのような意図があったのかどうかは推論の域を出ないのではないでしょうか。寧ろ、相当の期間、役行者(修験道)は独自の歩みをしていたと見る方が妥当ではないかと思われます。

 >補足すれば、日本神道が唯一相容れないものがあるとしたら、史上いわゆるユダヤ教と呼ばれる、特にネオ・シオニズム系の選民主義思想ではなかろうか。そのネオ・シオニズムの襲来が著しい今、日本史上初の未曾有の椿事が起こっている。明治維新以来、欧化知識人が、この思想史的意味を弁えぬままネオ・シオニズムの尖兵としてあるいは御用聞きとして立ち回ってきている姿はあさましい。

 日本神道がネオ・シオニズム系のそれのような選民主義思想を生まなかったのか、れんだいこさんはそれは何故だと思われますか。

 >彼らは本質的に低脳インテリなのではなかろうか。故に何を遣らせても上手く漕げない。ただひたすら気難しく語り、徒に規制に夢中になり、権利病に侵され、何食わぬ顔で利権にありつき、仮に口先で良きことを云っても裏では利権に手を突っ込んでいる。総じて虚学派であり無責任を習性とする。この連中を大目に見ながら結果的に円く治めてきたのが伝統的な実学派のインテリであった。そろそろ我慢にも限界はあろうが。こういう観点を持ちたい。

 上記は論考の予備知識とは全く無関係の一節であり、とりわけこのことが当該スレを単なるアジ原稿となしてしまっている所以のものと謂わざるを得ません。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その1、神道とは】 れんだいこ 2008/07/25 20:33
 彼岸楼さん早速にレス有難う。

>  現憲法に規定されている政教分離の原則の観点からなる頗るコモンセンスに基づいた批判だったと記憶しています。この一件だけが原因ではないのですが、森首相はその粗忽な言動によって所謂“神の国解散”に追い込まれることになります。

 森の能力問題は別として、政教分離問題で「神の国発言」を批判するとしたら、ブッシュやフセインが声明の後にアーメンなりそれらしい言葉を使っている場合、咎めなければおかしいことになります。それとも、政教分離は日本特有の主義として尊重せねばならない決まりでも有るのか、ということになると思います。どういう状況下での「神の国発言」であったのか詳細は忘れましたが、他愛ないシチュエーションの中での発言だったと記憶しております。それでも言上げされねばならないのか、やはり疑問です。

> 例えば、葬送や竣工式等で行なわれる儀式、諸々の参詣の様子を指して仏教や神道が日本に浸透していると判断されるのでしょうか。仏教や神道がどのように根付いているのか、詳細の解説をお願いしたいと考えます。

 例えば、正月の初詣に嬉々として参列し、露天商の店列にくつろいでいる姿、地鎮祭も然り、神仏に手を合わす姿に等々感じますね。

>  ユダヤ教、イスラム教のことは分りませんが、キリスト教徒にとって日本の神道が幼稚なものに見えたかどうか私には推断がつきかねます。しかし、内村鑑三のように日本の伝統的な精神からキリスト教にアプローチし、両者の融合化を模索し続けた事例もあります。

 内村鑑三や新渡戸稲造ら初期クリスチャンが、キリスト教をイエス教とユダヤ教との識別を踏まえながら信仰していたかどうか、西欧社会の深刻なイエス教的なるものととユダヤ教的なるものとの相克に気づいていたかどうか、れんだいこは知りませんが興味のあるところです。
 
>  それは多神教系宗教の特徴の一つとして世界各地の土着の民俗信仰にも観察される現象で、日本に固有のものではないでしょう。しかし、日本列島という風土的な条件が他の地域と比べて永きにわたり自然神崇拝を醸成して来た要因になったと謂うことができると思います。

 日本神道が形にまで作り上げている奥義はかなり深いものがあると認識しております。

>  翻ってみれば「国際金融資本の植民地化政策及びそのイデー」を受け止めるだけの大いさや普遍性が日本の神道に具わっているかどうかの問題と捉えることも可能でしょう。その対応策を見出し得るかどうかについて、私は楽観視してはいません。何故なら、日本は未だに朝貢主義的な傾向と事大主義を克服してはいませんので、太平洋戦争の指導原理に持ち上げられ、敗北をきした国家神道に復権への道筋など見えて来る筈もないからです。

 れんだいこは、「太平洋戦争の指導原理に持ち上げられ、敗北をきした国家神道」を復権させようなどとはしておりません。逆です。かの時代の天皇制神道は政治的に拵えられたもので、日本神道史の中でも邪道でせう。
 
>  一方の仏教が何故日本に流入、あるいは導入されることになったのか、概括的には仏教がシステム(構造)を有していたからであり、また当時の日本社会の成長が何らかのシステムを必要としたからに外なりません。その過程において神道がどんな条件を満たすことになったのか、さらには役行者が如何なるコーディネーターであり得たのか、れんだいこさんによる真相究明に期待したいと考えます。

 どこまでできるか自信が有りませんが、せっかく分け入った役行者論ですので、ある程度得心するまでは解明してみようと思います。

>  Auf Wiedersehen.

 引き続き論評頼みます。他の方もどうぞご参加ください。

 2008.7.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評424 れんだいこ 2008/07/26 11:44
 【既成の役小角論の典拠と物足りなさについて】

 いよいよこれから役行者(えんのぎょうじゃ)論に入る。まずは生涯履歴を確認しようと思う。ところが、はっきりしていることは、続日本紀の「699(文武天皇3).5.24日の条、役君小角は伊豆大島に流された」ということだけであり、後は評者が任意にその背丈と甲羅に合わせて創った「つくりごと」評伝でしかない。そういう意味で参考にはするが範とするには足らない。れんだいこが大きく書き換える事にする。

 役行者は後世の尊称である。帰幽後300年頃に成った「三宝絵詞」の中で始めて用いられ、以降これが通称となった。実名は役小角と云う。「えんのおづの、叉はえんのおつの、叉はえんのおづぬ、叉はえんのおづね」と読む。

 小角と命名されたことに関して、室町期の「本記」は、「額に小さな角の形をしたものがあったので小角と称した。あるいは名は豆ともいう」と記している。「役行者御伝記図絵」は「小角の額には生まれながらに一本の角があった」と記している。孔子も「額の中央には三日月の骨が張り出していた」と伝えられているので、史上の聖人にちなむ伝説か実際にそのような隆起があったのではなかろうかと拝される。

 生没年は、「634年 - 706年」とされている。これには諸説あり、はっきりとしない。飛鳥時代から奈良時代に実在した修験道の行者であることは疑いない。

 れんだいこが役行者に注目するのは、彼が日本在来の古神道に位置しつつ伝来してきた仏教、道教と教義格闘し、日本方式的に受容する道筋を創ったのではなかろうか、「洋もの」に被れるのではなく在来の知性を駆使して主体的に咀嚼したと云う意味で極めて日本主義的な伝統的営為の流れに添っていたと考えるからである。これこそ、こここそが役行者論の視角となるべきではなかろうかと考えている。その点で、既存の役行者論は上っ面なものでしかない。

 役行者が登場する史書を見ると次のようなものがある。
 1、「続日本紀」。697-797年にかけて完成した編年体の勅撰史書。日本書紀の後を受けて編纂された国史。文武3.5.24の条に登場する。
 2、「日本霊異記」(正式名は「日本現報善悪霊異記」)。薬師寺の景戒という僧侶が仏教の霊力を広める目的をもって8世紀末~9世紀初頭に編纂した日本最古の仏教説話集。上巻第27に登場する。
 3、平安時代中期以降の役行者伝説としての「三宝絵詞」。984(永観2)年に成った源為憲が著述した仏教説話集。聖徳太子の次に登場し、小角の次が行基となっている。
 4、「本朝神仙伝」。大江匡房の撰述。37人の神仙家の一人として登場する。
 5、その他「今昔物語」、「扶桑略記」、「諸山縁起」、鎌倉時代の「水鏡」、「古今著聞集」、「私聚百因縁集」、「沙石集」、「元亨釈書」、「源平盛衰記」。南北朝時代の「金峰山秘密伝」。室町時代の「三国伝記」、「行者本記」等々。

 これらがそれぞれの役行者を記し消息を伝えているが、ガイドブックにはなっても役行者論には成り得ていない。参考文献として、藤巻一保氏の「役小角読本」(原書房、2001.6.13日初版)、銭谷武平「役行者ものがたり」(人文書院、1991.1.20日初版)、「修験道の本」(学習研究社、1993.12.15日初版)その他を参照した。

2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評425 れんだいこ 2008/07/26 12:00
 【役行者成育時代の時代状況】

 役行者が生育していた時期は、蘇我-聖徳太子派による仏教伝来に伴う様々な軋轢が生まれていた時代であった。大和王朝により創出された天皇制も後継紛争と政治貧困により座礁しつつあった。これが壬申の乱へ向かう。そういう伏線時代であった。このことを確認しておきたい。

 時代考証は、「日本神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/nihonshinwaco.htm)の「大化の改新前後神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/taikanokaishinshinwaco.htm)、「壬申の乱前後神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/jinshinnoranshinwaco.htm)でスケッチする。

 役行者が誕生した頃の内外情勢は多事多難、内憂外患の時代であった。蘇我氏が専横し続けており、既に聖徳太子は没していた。舒明天皇から皇極天皇の時代になり、645(皇極4、大化元).6.12日、蘇我入鹿が、藤原鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)によって皇極天皇の御前で誅殺される(「大化の改新叉は乙巳の変」)という事変が起こっている。蘇我蝦夷も自殺し、この間109年間権力の頂点で栄華を極めた蘇我氏本家は滅亡した。

 孝徳天皇の御代に成り皇極天皇が斉明天皇として重そ(最即位)し、政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執っていた。有間皇子が絞首刑にされ、 阿倍比羅夫が蝦夷国征討に向かう。660年、大和朝廷と同盟関係にあった百済が唐と新羅によって滅ぼされた。663(天智天皇2)年、朝廷は、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになった。これを白村江の戦いと云う。この戦いで朝廷軍は大敗を期し、百済復興戦争は大失敗に終わった。これに伴い、百済の官僚層が大挙して来日し、大和朝廷を支える新官僚群となった。

 朝鮮ではその後、668年、高句麗が唐に滅ぼされ、672年、新羅の文武王が百済の地を併合した。この間、大和朝廷に於いては次第に律令制度が組織されつつあった。ざっとこういう時代であった。

 2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評426 れんだいこ 2008/07/26 12:58
 【役行者の概要履歴その1、役行者の出自事情】

 634(舒明天皇6)年、聖徳太子が亡くなってから12年後の頃とされるこの頃、役行者は、葛城山の麓の大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれた。父は、出雲系氏族の高賀茂氏の役公(えんのきみ)の十十寸麻呂(とときまろ)。音曲に優れ、雅楽の君の異名を持つ家系の出自と云われている。母は白専女(しらとうめ)叉の名を刀自女(とらめ)と云う。こちらも出雲系の物部氏の流れである。

 葛城山も叉三輪山と並ぶ古くよりの出雲系の神々を祀る聖地である。記紀に拠れば、天孫族の神武東征の際、国津族のニギハヤヒーナガスネ彦連合がこれを迎え撃った。この時呼応したのが葛木の土蜘蛛族であった。「土蜘蛛」とは、土着系の出雲族と云う意味を伝える当て字であろう。その土蜘蛛族は最終的に帰順するが、新朝廷に対して常に面従腹背的立場を保持することになる。

 古代史上、この地に古くより葛城族が存在する。葛城族が出雲王朝系か高天原以来の大和王朝系氏族かは定かではない。その点で、銭谷武平氏の「役行者ものがたり」は次のように記している。
 「(役行者が誕生する地の)茅原には古くからの豪族である賀茂氏の一族が住んでいました。葛城氏というのは、加茂氏とは違って、元々この地に昔から住んでいた土地の民ではなかったのです。その元を訪ねると、神武天皇に従って、はるばると九州からやって来たのです。その時に、葛木山に古くから住んでいた土蜘蛛という人たちが、激しく抵抗したので、大変苦しめられました。ようやく、彼らを皆殺しにして国造(くにつくり)になったのが葛城氏の祖先なのです」。

 この記述に拠れば、葛木の元々の土着豪族は土蜘蛛族であり、役行者の先祖となる賀茂氏はこの系譜と云う事になる。この地にやって来た葛城氏は渡来してきた高天原王朝の官僚豪族であり、治政に失敗した後新たにやって来たのが蘇我氏と云う事になる。れんだいこは、葛城氏をこのように捉える見方は初見であるが興味深い。

 役行者の父系に当る賀茂氏は、出雲王朝系である。出雲王朝は、高天原王朝との国譲りの際に、和睦派の事代主(ことしろぬし)と武闘派の建御名方(たけみなかた)の二派に分かれた。この経緯については、「日本神話の研究」の「国譲り神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/shinwa2co.htm)でスケッチする。

 賀茂氏は、和睦派の事代主に列なる名門氏族であることは疑いない。故に、事代主即ち叉の名を一言主(ひとことぬし)とも云うが、代々この神を氏神として祀る。大和王朝創建前後に出雲系ながら協力派として重要な役割を果たすことにより登用され歴代を経ていた。大和王朝下で、出雲王朝以来の神事祭祀、神託の取り次ぎ、呪術などの司祭を務めていた。これによればシャーマン色の濃い血筋を持っていることになる。こうした事情が、役行者の出自の背景として踏まえられねばならない。

 これを、事代主の側から記述すれば次のようになる。事代主は、国津神の棟梁格の大国主(「おおなむち」とも云う)の神の一番手有力神であり、大国主の神を祀る三輪山の大神(おおみわ)神社から「葛木の鴨の神奈備」に分霊したと云う関係にある。事代主は、国譲りの際、率先して高天原王朝に帰順の意を表し、出雲王朝系の諸豪族の過半の反乱を防いだ功により、大和王朝創建の際に一族が登用された、その一族の守護神として尊崇され続けた。

 よりによってこの地に、後に韓国の百済(くだら)からの帰化人が住み着き、彼らは中国系仏教、道教、陰陽道、医法などの知識を持ち込み、朝廷や有力豪族に仕え始めた。当然、賀茂氏との軋轢は避けられまい。この新思潮を背景に台頭していくのが蘇我氏で、葛城氏没落後この地域を支配した。蘇我氏はその後、大和王朝創建時の諸豪族のうちの有力氏族であった大伴氏、物部氏らを押しのけ一人勝ちの勢いで政界中枢に迫り、子姫が天皇と閨閥を結ぶことで歴代天皇をも支配する権勢を誇るようになる。

 2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評427 れんだいこ 2008/07/27 12:32
 【役行者の概要履歴その2、山岳修行者となるまで】

 この時代に役行者が生まれ、幼少より天性聡敏で早くより宗教的天分を見せていた。次のように記されている。「役の優婆塞は、生まれながらに知があって、博学なること当代一にして、三宝(仏、法、僧)を信じ、これを以ちて業(わざ)とす」(「日本霊異記上巻第28」)。

 仏教的脚色が施されているが、「生まれながらに知があって、博学なること当代一」とは、かく評されるほど神童ぶりを発揮していたことを伝えているのではないかと思われる。溢れる才能が近所近在に伝わるほど抜きん出ていたのは事実であったのではなかろうか。

 13歳の頃、毎夜、葛木山に登り、明け方に帰宅すると云う修法に取り組んでいる。この伝承は、既に13歳頃に於いて熱心な修行者になっていたことを逸話していると窺うべきだろう。

 日本古神道では古くより、山岳信仰を発生させている。麓に神社、山頂に「奥宮(山宮)」を創建し、神社の背後の山を「御神体(=神体山)」としていた。神威感を与える山岳は霊山として神聖視され、「神奈備山(かんなびやま)」とみなされた。奈良の大神神社は三輪山を御神体としており、滋賀県御上神社は三上山を御神体にしている等がその例である。

 これに関連して、佐藤氏の「役小角とは何者か?」(ttp://www.st.rim.or.jp/~success/ennoozuno_ye.html)は次のように述べている。
 「仏教が拡がる以前に、山伏のスタイルで修行をする古神道が、日本の山々をネットワークする形で確立していたとみるべきではないかということになる」。

 実にそうではなかろうか。

 17歳の頃、優婆塞(うばそく)として飛鳥の元興寺(現在の飛鳥寺)で学ぶ。「優婆塞」とは、インドのサンスクリット語の「upāsaka(ウパーサカ)」の音写語で、仏教用語で僧侶ではない在家の信者を云う。これより推測するのに、役行者は賀茂氏と云う神道系の名門家柄であるからして仏教に敵愾するところ、積極的に仏教を究めんと欲し、いわば非正規の資格身分で強引に在家的私度僧として仏教門を叩いたと云う事になる。

 元興寺の慧観和尚が、役行者の才を見出し招門したとも考えられる。いずれにせよこの時、密教呪術の一つである「孔雀明王の呪法」を伝授したと云われる。「孔雀明王の呪法」とは、インド以来の毒蛇を捕食する孔雀の力を神格化させた呪法を云う。

 役行者はこの後一層熱心に山林修行に篭るようになった。19歳の頃、いつものように修行していた際、夢に生駒明神が現われ、次のように託宣された。「お前に授けたい経がある。この経を伝えられるのは、天下広しといえどもお前しかない。生駒山に登れ」。

 そこで、生駒に登り、更に北西の箕面(みのお)の山中に分け入り、3年間に及ぶ滝修行に取り組んだ。滝修行は、古神道の禊作法により霊力を高める伝統的修行であり、役行者がこれに熱心に取り組んだことが興味深い。

 22歳の春の頃、いつものように滝修行をしていると、滝の上の闇から金色が放射したと思うと、仏に仕える童子が次々と現われ、列を作って滝の上に並ぶと云うイリュージョン(幻影)を見た。童子に誘われるままに滝の奥の岩屋に導かれると、そこにはまばゆい浄土が広がっていた、と云う逸話が伝えられている。

 658(斎明天皇4)年、25歳の時、箕面の滝の龍穴で龍樹菩薩の影現に遭い、修験独特の灌頂の秘法を受けた、と云う。この頃既に近辺の諸霊山を踏開しており、近畿一帯の大嶽で役行者の足跡を印さない所はなかった、と云われている。

 2008.7.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評428 れんだいこ 2008/07/27 13:07
 【役行者の概要履歴その3、山岳修行一条者となる】

 663(天智天皇2)年、朝廷は、百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦い(白村江の戦い)、この戦いで朝廷軍は大敗を期し、これに伴い百済の官僚層が大挙して来日し、大和朝廷を支える新官僚群となったことは既述した通りである。

 685(天智天皇の4)年、32才の時、家職を捨て葛城山(金剛山)で山岳修行を行う身に転じた。こうして専従の信仰者一条になった。白村江の戦いに大敗し国内が騒然としていた時期に当る。

 役行者が専業として山に篭り修行する背景には余程の決意と転機を誘う精神的衝動事情があったものと思われる。いずれにせよ命懸けのことであった。役行者は日々山野を踏徊し「行者の滝」に打たれ思念を凝らした。「滝打ち」は古神道以来の行であり、禊(みそぎ)と霊能力を磨くのに効能が有ると云われている。この間、藤葛の皮で編んだ衣を着て、山菜食を専らとして松の実を食べていたと云われている。穀類は食べない。これらは皆、古神道以来の行法である。この行法は、中国の道教的神仙修行とも共通している。

 役行者は、その効あって霊能者として頭角を現わし、奇異の験術、呪術的能力も身につけた。その後の修験道の絡みで云えば、透視、祈祷、病気平癒祈願等々の各種修法を確立したということになる。

 667(天智天皇6)年、34歳の頃、役行者は、修行の仕上げとして大峰(大峯)-熊野連峰に向かった。銭谷武平氏の「役行者ものがたり」は次のように伝えている。「ある日のこと、小角が影向(ようごう)の石の上に坐って、経を読んでいましたが、ふと夢にうつつのような気持ちになってまどろんでいました。丸い小山を背にして明神さまが現われました。小角に、これから吉野の山に登り寺を建てるようにと告げました。それは、三輪明神であったのです。お告げに従って、小角は吉野山を開きました」。

 銭谷氏は、役行者の大峯山行きを仏教的に脚色しつつ読み取っているが、後段の「三輪明神のお告げ」に意味があると云うべきだろう。既に解説したが、三輪明神とは正しくは大神神社と解すべきであり、その大神神社は出雲神道の大和の惣領寺社である。従って、この逸話の裏メッセージは、役行者が大峯山に向かうに当り、出雲神道の本家である大神神社との打ち合わせに拠った、少なくとも霊的な、と云う事になる。

 大峯連峰は、今日千本桜で有名な吉野山(青根ガ岳857.9m)から熊野まで、山上ヶ岳(1719.2m)、大普賢岳(1779.9m)、行者還岳(1646.2m)、弥山(1895m)、近畿の最高峰でもある八経ヶ岳(八剣山、1914.9m)、頂上に大きな釈迦像が鎮座している釈迦ガ岳(1799.6m)、地蔵岳、涅槃岳、行仙岳、笠捨山(1352.3m)、玉置山(1076.4m)五大尊岳(825m)へと続き、大和王朝以前のはるか昔から続いている熊野本宮大社の座す霊山熊野の古道へ至る。熊野には那智の滝がある。

 役行者が入寂し、修験道が仏教化するに及び後に、大峯-熊野連峰全体が大菩提山、大峯連峰は別名金峯山(きんぷせん)と云われ始める。この山系全体が曼荼羅の世界に例えられ、大日如来の浄土とされるようになる。

 奈良県生駒の鳴川千光寺の縁起は、次のように伝承している。「鳴川の里に入り小さな草堂で荒行を続ける小角を思い母も供にこの地に住し、さらに小角が大峯山に入ると母は鳴川にとどまり小角の無事を祈った」。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評429 れんだいこ 2008/07/27 13:32
 【役行者の概要履歴その4、壬申の乱との関わり】

 役行者が大峰(大峯)-熊野連峰に篭り、思慮に余念の無いこの頃、後の壬申の乱に至る政争が勃発している。既成の役行者論はさほど検証しないが、役行者がこれに深く関っているとみなすべきだろう。

 671(天智天皇10).10.17日、天智天皇晩年、大海人皇子は、大友皇子との皇位警鐘問題を廻って政争に巻き込まれることを嫌って大津から吉野べ向かい遁世した。この経緯と役行者の繫がりは分からないが、大海人皇子一行が吉野に到着した時点よりは、既に名声を高めていた役行者と何らかの気脈が通じていたことは容易に窺えるところであろう。

 同12.3日、近江宮において天智天皇が崩御した(享年46歳)。同12.5日、大友皇子(24歳)が後継宣言し、第39代弘文天皇となる。これを近江朝と云う。672.5月中旬、弘文新天皇と大海人皇子の対立が激化する。これは、弘文新天皇と大海人皇子間の反目と云うより、それぞれを支える勢力間の対立が抑えきれない形で噴出し始めたと云う事であろう。以降の流れを「壬申の乱」と云う。

 672.6.24日、大海人皇子が挙兵し、吉野から大津へ向かう。伊賀国を縦断し伊勢美濃へと進軍した。美濃兵3千名が呼応し、わざみ(関ヶ原)を封鎖した。6.26日、大海人皇子は、東海道、東山道-尾張、三河、信濃方面に兵要請の勅令を出す。伊賀、伊勢、美濃の三国を制圧し、鈴鹿と不破を抑えて東国と近江朝廷を切り離すことに成功する。

 672(天武天皇元).7.22日、役行者39歳の時、大海人皇子軍は、瀬田川を挟んだ勢田橋(滋賀県大津市唐橋町)の最終決戦で勝利した。弘文天皇(大友皇子)は宮を脱出したが、7.23日、山崎で自害した。左右大臣群臣、みな散亡し乱は収束した。約1ヶ月に渡る後継者争いは大海人皇子の勝利となり、反乱者側が勝利するという日本史上例の少ない内乱事件史となった。壬申の乱と呼ぶ理由は、この年の干支が壬申(じんしん、みずのえさる)に当ることによる。

 役行者はこの時、大海人皇子に味方して戦を勝利に導いている、と云う。詳細は不明であるが、役行者が、霊力による衆生救済のみならず、既成本が触れないところであるが時の政治動向に関心を払い、否むしろ積極的に関与しているということになろう。ちなみに、 事代主も、高市県許梅に憑依託宣して大海人皇子軍を助けている。こうなると、出雲系が総呼応している事になろう。

 余談ながら、今日の政教分離論派は、宗教勢力のこのような政治介入を道徳的に批判して事足りるのだろうか。宗教勢力の政治関与、世直しを否定したとして、ならば政治勢力は代わってどの程度の事が為し遂げられたと云うのだろうか。特に議会専一主義者は、この問いに答えねばならないのではなかろうか。「70年代の遅くない時期」が「20世紀の遅くない時期」に代わり、「21世紀の早い時期」へ転じ、その頃になると、言いだしっぺは誰も居なくなっていると云う無責任政治を地で行く恥じない懲りない科学的社会主義屋よ聞け。君達は、云うところの政教分離論が単なる党利党略的なものではないということを理論的に証明し無い限り、恥の上塗りを晒し続ける事になるだろう。

 もとへ。673(天武2).2月、大海人皇子は第40代天武天皇と称し、飛鳥浄御原(あすかのきよみはらのみや)を造営し、即位した。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。正妃に菟野皇女を立てて皇后とした。

 天武天皇は大臣を置かず、皇后や皇子らとともに天皇の親族や皇族からなる皇親政治体制を確立し、兄の天智天皇の遺業を発展させ、法典である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)や、八色姓(やくさのかばね)の身分制度の制定、冠位制度の改定等に取り組み、中央集権国家体制づくりをめざした。大和朝廷がそれまでの「倭」を改めて、「日本」という国号を使いはじめたのもこの時期であると云われている。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評430 れんだいこ 2008/07/27 13:51
 【役行者の概要履歴その5、金剛蔵王大権現を感応】

 675(天武天皇3)年、41歳の頃(38歳の頃とする説もある)、役行者は、「大峯奥駆け千日修行」の末に 吉野の心臓ともいえる金峯山で金剛蔵王大権現を感応した。山上ケ岳頂上の巨岩の前で祈祷していたところ、その岩上に蔵王権現が湧出し、龍穴に降り立ったと伝えられている。山岳修行によって霊力を身につけた役行者はこうして修験道の開祖として世に登場することになった。

 江戸時代の山伏の行智は次のように称えている。「皇朝に於いて修験山伏の根元、役の行者を以って顕密二教ままの辺り修行の法祖と仰ぎ奉る」(「踏雲録事」)。

 これによれば、仏教の顕教と密教の日本柱的権威、法祖として評価している事になる。この観点の是非は別にして、役行者の偉大さが読み取れよう。

 「役行者本記」は次のように記している。概要「小角は空海より先に龍樹から『大日経』と『金剛頂経』の伝授を受け、大峯に封じた」。

 仏教的に解釈すればこのように評するのも道理であるが、巨岩の前に正座しての祈念は何より巨岩信仰を前提にしており、これは古神道系の信仰によるからして、蔵王権現は古神道的神格のものと窺うべきであろう。但し、それは仏教的菩薩とも読み取れる独特のものと云うべきではなかろうか。

 修験道考で再度触れることになるが、役行者がこの時感応した「金剛蔵王権現」は、釈迦如来でも阿弥陀如来でも弥勒菩薩、観音菩薩でもなく、それらが合体したものと考えられている。仏教的に考えればそういうことになるが、これを古神道の観点から見れば、仏教には無い「金剛蔵王権現」をご神体にしているところに意味がある。

 その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表わし、片足を高く上げて虚空を踏むものである。作者は不明であるが、技量のみならず役行者に対する深い理解に基いており、同時に作者自身の精神性の高さを語る彫像になっている。

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 【役行者の概要履歴補足、役行者の風体】

 役行者の画像や彫刻は数多く作られたが、その姿は、僧衣に袈裟をまとい、長いひげをたくわえ、手には錫杖を持ち、高下駄をはいて岩に腰かけ、斧を持つ前鬼(ぜんき)と棒を持つ後鬼(ごき)を従えているのが一般である。役行者が従える鬼については五鬼とする説もある。悪鬼を従え、天を飛ぶという役行者は、日本で最も強力な呪術者として広く知られ、さまざまな伝説を生み、歌舞伎の「役行者大峯桜」をはじめ、舞台や物語に登場し、坪内逍遥の「役の行者」も近代の戯曲として名高い。

 しかして役行者の当時の実際の姿は分からない。案外とシンプルな風体ではなかったか。但し、眼光、滲み出る智力は人の心を射るものであっただろう。れんだいこはそう解する。  

 2008.7.27日 れんだいこ拝

原因の解明を等閑(なおざり)にした論考は砂上の楼閣を築くようなものでは。 彼岸楼 2008/07/27 14:49
 れんだいこさん、こんにちは。

 >>そこで、もし希望を言わせていただければ、役行者の思想と修験道の歴史に関する真相の究明から役行者と修験道を生んだ原因の解明までを視野に入れていただくと、その過程において課題が明確になり、さらには問題解決のための処方箋を見出すことも可能ではないか、そんな気がしています。尚、下記の<参考URL>のスレでも触れていますように、おそらく日本霊異記が生まれた背景を含む解明が考察上の重要なポイントになるのではないかと想われるのですが、後のことはれんだいこさんにお任せしたいと思います。 [521 Re:【れんだいこの役行者論】 彼岸楼2008/07/24 20:22]

 諸事情により一年で停止せざるを得なかった修士課程の専攻分野は宗教心理学及び社会心理学でしたが、宗教に関する論理的説明体系を構築するためには当該宗教を記述している文献(キリスト教ならば旧・新約聖書等)が生まれた真相(時代背景)の究明や、特に発生原因(成立要件)の解明をしなければならないという学問的認識がありました。このプロセスを等閑視したケースが所謂信仰ということになり、ここでそれについて言及する考えはありませんが、砂上の楼閣を築くことはれんだいこさんの本意ではないだろうと察しましたので、老婆心を承知の上で余計なことを申し上げた次第です。

 勿論、すべての宗教を網羅できることなどあろう筈がありませんが、特定の信仰の普遍性を問う場合にもその真相の究明や原因の解明が必須条件になることには変わりがないと考えます。すなわち、(古)神道はどんなもの(構造)で、どうして(地理的・歴史的条件等)生じたのか、とりわけ蓋然性の解明が普遍性の構成要件を成すのではないでしょうか。そんなことをれんだいこさんの考察に期待しています。

 Auf Wiedersehen.

Re:原因の解明を等閑(なおざり)にした論考は砂上の楼閣を築くようなものでは。 れんだいこ 2008/07/27 20:06
 彼岸楼さんちわぁ。レス有難う。いろんな方の視点を聞くことが大いに参考になります。今のところのれんだいこの役行者論は、れんだいこ自身の理解を深める為のものです。その点で、より根本的な問いを投げかけられる方にとっては、それでどしたということになるのではないかと思います。

 ただ言い訳がましくなりますが言わせてもらえば、れんだいこの役行者論の視点は、従来のそれより抜きん出ている自負が有ります。それは一つは古神道の流れをベースにして考察していること。従来、あまり目にしておりません。二つ目は、国譲り以来の出雲系の政治的宗教的流れの中で踏まえようとしていること。これは歴史学の問題になりますが、これもあまり目にする事は有りません。この点だけでも評価されるに足りると思っております。

>  諸事情により一年で停止せざるを得なかった修士課程の専攻分野は宗教心理学及び社会心理学でしたが、宗教に関する論理的説明体系を構築するためには当該宗教を記述している文献(キリスト教ならば旧・新約聖書等)が生まれた真相(時代背景)の究明や、特に発生原因(成立要件)の解明をしなければならないという学問的認識がありました。このプロセスを等閑視したケースが所謂信仰ということになり、ここでそれについて言及する考えはありませんが、砂上の楼閣を築くことはれんだいこさんの本意ではないだろうと察しましたので、老婆心を承知の上で余計なことを申し上げた次第です。

 有難う御座います。ただ難しゅうございます。

>  勿論、すべての宗教を網羅できることなどあろう筈がありませんが、特定の信仰の普遍性を問う場合にもその真相の究明や原因の解明が必須条件になることには変わりがないと考えます。すなわち、(古)神道はどんなもの(構造)で、どうして(地理的・歴史的条件等)生じたのか、とりわけ蓋然性の解明が普遍性の構成要件を成すのではないでしょうか。そんなことをれんだいこさんの考察に期待しています。

 whatとhowまでは行けるかと思います。whyは難しゅうございます。後半で、修験道論を載せる予定です。ご教示よろしくお願い申し上げます。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評431 れんだいこ 2008/07/27 20:18
 【役行者の概要履歴その6、全国各地の霊山開闢】

 役行者はその後、大峰(大峯)の山々に天河神社や龍泉寺など至るところに修験道の霊場を創り、後の修験道の行場とした。これに倣ってか、全国の霊山の多くが役行者の開山と称され、修験道の聖地として今日に伝えられている。その総本山として、熊野から吉野にいたる 大峰山系が霊山のメッカとなっている。

 これに関連して、佐藤氏の「役小角とは何者か?」は次のように述べている。「今日本中には、役行者が来た修行の山というのが沢山ある。これはヤマトタケルに縁の地に負けない位の数に上るに違いない。山岳修行者ある所に役小角伝説ありと言っても過言ではない」。

 この時代、役行者は、日本列島各地の霊山開闢(かいびゃく)と関わっている。実際に足跡したのか同系伝承に過ぎないのか別にして、日本全国各地の役行者系譜の霊山は次の通りである。

 これを北から窺うのに、恐山(青森県下北郡)、岩木山(青森県)、出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山。山形県)、早池峰山(岩手県)、葉山(山形県)、日光山(栃木県日光市)、赤城山(群馬県)、筑波山(茨城県)、高尾山(東京都八王子市)、大山(神奈川県)、箱根山(神奈川県)、富士山(静岡県、山梨県)、秋葉山(静岡県)、七面山(山梨県)、白山(石川県)、立山(富山県)、石動山(石川県)、木曾御嶽山(長野県、岐阜県)、戸隠山(長野県)、飯綱山(長野県)、葛城山(奈良県、大阪府)、金剛山(奈良県、大阪府)、大峯山(奈良県)、熊野三山(和歌山県)、比叡山(滋賀県)、比良山(滋賀県大津市)、愛宕山(京都市右京区)、鞍馬山(京都市左京区)、伯キ大山(鳥取県)、石鎚山(愛媛県)、英彦山(福岡県)、求菩提山(くぼてさん、福岡県)等々。修験道については、別途「修験道考」で考察する。 

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【役行者の概要履歴補足、陀羅尼助丸について】

 天武天皇の時代、各地に疫病が流行り、役行者が、茅原の寺(現在の吉祥草寺)の門前に大きな釜を据えて、薬を作り人々に飲ませた。これが、胃腸の良薬として知られる丹薬の陀羅尼助(だらにすけ)丸の始まりとされている。陀羅尼助丸は、大峯の山中に自生している黄はだと云う木の皮を剥いで、水で煎じ詰めたもので、「良薬は口に苦し」の諺通りの苦薬で、「陀羅尼」とは仏さまにお唱えする真言を意味する。その製法が代々伝わり、今日でも洞川名物になっている。

 この逸話は、役行者が、山中より仙薬の材料を収集し、漢方及び和法の医薬に通じていた事を窺うことができよう。役行者が薬草から薬を調整し、諸病に悩む大衆に施していた事は、藤原鎌足に飲ませたところ、腹痛が嘘のように治り、役行者の験力が著しいのに感心したとの伝でも裏付けられる。

 薬草学はなにも漢方ばかりが専売ではなく、日本古来の和薬草学としても自律的に発展しており、役行者の賀茂氏は代々の取り次ぎであった。それは恐らく出雲王朝時代の医薬の系譜を継いでいると思われる。こういう事情も窺わねばなるまい。

 2008.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評432 れんだいこ 2008/07/27 20:39
 【役行者の概要履歴その7、天武天皇との蜜月関係】

 ところで、役行者と天武天皇は相当深く関わっているように推定できる。しかし、この辺りのことが従来の役行者論には出てこない。そこで、れんだいこが現在知る限りのことを書き付けておくことにする。

 679(天武8).5.5日、天武天皇が吉野に行幸している。翌5.6日、草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基を集め、「相扶けて逆ふること無きこと」を盟約させている。 

 681(天武10).2.25日、天武天皇は、律令を改め、法式改定を命じている。これが飛鳥浄御原令となる。同日、草壁皇子を立太子させ(20歳)、一切の政務に与からせる。3月、川嶋皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、美努王(栗隈王の子)、中臣連大嶋らに「帝紀及上古諸事」記定を命じている。これが古事記、日本書紀編述の出発点となっている。

 683(天武12).2.1日、大津皇子に初めて朝政を執らせる。同3.2日、僧正・僧都・律師を任命。僧尼を国家の統制のもとにおく僧綱制度を整える。

 天武王朝のこれらの施策に、役行者がどれほど関与しているのかいないのか分からないが、「帝紀及上古諸事」記定を命じ、これが古事記、日本書紀編述の伏線となる背後に訳行者の智力が働いていたと見ることは十分可能ではないかと思っている。

 役行者と天武天皇の関係を知る一つの事例が、銭谷武平氏の「役行者ものがたり」に記されている。貴重と思われるので概略を記しておくことにする。役行者は、亡き聖徳太子の弟の麻呂子君の孫に当る当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)の寺院再建に大きく協力している。

 国見は、壬申の乱の時、大海人皇子に味方をして大手柄をたてた。その国見が、613(推古天皇20)年に麻呂子君が河内の国の交野(かたの)の山田郷に建立していた万蔵法院禅林寺を移転することを願い、天武天皇が壬申の乱の時の功により後援することを命じ、役行者がこれを受け、自らが管轄していた当麻の地を提供している。

 684(天武天皇13)年、万蔵法院禅林寺の本堂や塔が完成した。役行者はこの頃、大峯山で修行していたが、落慶式に列席している。この時、役行者は、寺院が成り立つように山林や田畑など数百兆歩の土地を新たに寄進していると云う。この逸話は、役行者がこの頃、天武天皇の心服を受け非常に親しい関係にあり、既にそれなりの権勢を得ていたことを裏書しているように思われる。

 天武天皇のその後の事跡は次の通りである。
 685(天武14).1月、冠位四十八階を制定。親王や諸王も冠位制の中に組み込んだ。 3.27日、「国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよ」との詔を出す。7.26日、朝服の色を定める。9.24日、不豫。11.24日、天皇のため招魂(魂振り。魂が体から遊離しないよう鎮める)を行う。

 686(天武15).5.17日、重態。川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させる。6.10日、天皇の病を占い、草薙の剣に祟りがあると出る。熱田社に送り安置する。7.15日、政を皇后・皇太子に託す。7.20日、朱鳥に改元。宮を飛鳥浄御原と名付ける。 

 686(天武15).9.9日、崩ず。漢風諡号は天武天皇、和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評433 れんだいこ 2008/07/27 20:59
 【役行者の概要履歴その8、引き続き持統天皇との蜜月関係】

 天武天皇没後、皇后の菟野讃良皇女 (うののさららのひめみこ)が天皇を後継した。これを持統天皇と云う。持統天皇は直後の10月、姉であり、大海人皇子の妃でもあった大田皇子(おおたのひめみこ)の子にして甥の大津皇子を謀反の罪で自殺に追い込んでいる。飛鳥浄御原令を施行し、翌年1月、第41代天皇として飛鳥浄御原宮で即位した。

 持統天皇は、これより701(大宝元)年に至るまでの間、32回にも及ぶ吉野行幸を繰り返している。この類例の無い頻繁な行幸は何を意味するのだろうか。天武、持統両天皇の行幸には、柿本人麻呂、山辺赤人らを初めとする万葉歌人達が多く随行した、と伝えられている。これによれば、役行者は、持統天皇の御世に於いても心服関係を得ていたということになる。

 れんだいこは、柿本人麻呂、山辺赤人らの万葉歌人に対する知識が無いので推測するしかないが、この時代、大和朝廷に対する扶翼的立場を前提にしつつも、出雲王朝時代の憧憬追憶が解禁され、非常に伸び伸びとした精神文化が花開いていたのではなかろうか。国史編纂も進んでおり、各方面に非常に高い能力が発揮されていたのではなかろうかと推定したい。

 689(持統3)年、天武天皇の第二皇子にして皇太子の草壁皇子に先立たれた。以後は草壁皇子の御子、持統天皇の孫の軽皇子の成長に望みをかけるようになった。

 690(持統4)年、伊勢神宮の外宮で第一回の式年遷宮を行った。庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作るとともに、日本最初の都城制に基づく都を造営し、694年、藤原宮に遷都した。

 696(持統10)年、軽皇子の伯父に当る高市皇子が薨ず。 

 697.2月、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させ、同8.1日、持統天皇が譲位し、軽皇子が15歳にして第42代の文武天皇として即位した。持統天皇は天皇を後見し、 初めて太上天皇(上皇)を名乗った。

 701(大宝元)年、藤原不比等を用いて大宝律令を完成させ、翌年公布。冠位制は廃止され、律令官位制に移行している。基本となっているのは冠位四十八階であるが、名称を正一位、従三位などとわかりやすく改訂し、四十八階を三十階に減らしている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評434 れんだいこ 2008/07/27 21:22
 【役行者の概要履歴その9、一言主との関係】

 思うに、役行者は、文武天皇の御代の頃から要注意人物と見られ始め、運勢が暗転した気配がある。この頃のいつの時点か不明であるが、葛木山の祖神である国津神系の一言主(ひとことぬし)との絡みが伝えられている。

 一言主については既述したが「我は悪事(まがごと)も善事(よごと)も一言で言い放つ神」と云われており、葛木山一帯は古くから事代主の命即ち一言主神をまつる勢力が根付いており、大和朝廷に対して面従腹背是々非々的な微妙な関係を維持し続けていた。

 或る時、役行者は、大峯と葛城山との間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。霊異記は次のように記している。「孔雀の呪法を修習(おこな)いて、証に奇異(あや)しき験術を得。鬼神を馳せ使いて自在を得、諸々の鬼神を唱(うなが)して、催して曰く、大倭国(やまと国)の金峯と葛木峯とに、橋を度(わた)して通わん、と云う。ここに神ら皆愁(うれ)う」。

 つまり、役行者が、「大倭国(やまと国)の金峯と葛木峯の間に石橋を架ける」よう申し出たところ、一言主は動かなかった。これに対し、役行者はこれを激しく難詰したと伝えられている。ここは考えるに値するところで、「大倭国(やまと国)の金峯と葛木峯の間に石橋を架ける」とは例えであり、政治的同盟を意味していると受け取ることができるのではなかろうか。

 この頃、どういう政治的背景があったのかまでは分からないが、役行者は、大峯と葛木の歴史的な政治的同盟を提案したところ、一言主が最終的に受け入れず、一定の緊張関係に入ったということであろう。この逸話は、役行者が出雲系の一言主(ひとことぬし)とただならぬ関係にあったことを伝えている事にこそ意味がある。国譲り以来幽界に隠れている出雲本家系と表に出ている分家系の一言主との何らかの手打ちあるいは決起を促す政変が画策されており、この動きと絡んでいたことは大いに考えられる。

 逸話では、一言主は、自分の姿が醜いのを恥じて夜だけ働こうとした。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、明王の呪法をもって責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、貴族の夢に現れ「役小角は神通力で天皇に災いをなそうとしている」と告げ天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴した、とある。

 前段はともかく後段の「一言主が天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴した」は、史実を歪める詐術であり、意図的故意の悪脚色であろう。あるいは史実を奴隷の言葉で語っているのかも知れない。いずれにせよ、役行者と一言主の対立は親しき関係ゆえのそれであり、讒訴に及ぶような関係ではなかろう。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評435 れんだいこ 2008/07/28 09:26
 【役行者の概要履歴その10、讒訴され伊豆へ配流される】

 この頃、元弟子の韓国連広足が、「役優婆塞は陰謀を企て、天皇を傾け滅ぼそうとして謀っている」、「小角が人々を言葉で惑わしている」と讒言したため、役行者は朝廷に追われる身になった。続日本紀の「699(文武3).5.24の条」に次のように記されている。  意訳「役行者の小角、伊豆島に配流される。小角は初め葛木山に住し、呪術の力によって世に知られるようになった。外従五位下の韓国連広足は役行者を師としていたが後に、小角の呪術の能力に嫉妬してか、人を幻惑しているとして朝廷に讒訴した。役行者は故に、遠国の地に配流されることになった。世間の評判では、小角は能く鬼神を使役し、水を汲ませ、薪(たきぎ)を採らす。もし命を用いなければ、即ち呪術を使ってこれを縛したとのことである」。

 ちなみに、広足は、「続日本紀」の「732(天平4).10.17の条」に次のように記されている。  「外従五位下の物部の韓国連広足を典薬頭に任ずる」。

 これによると、広足は、物部氏の人であり、役行者讒訴後に出世を遂げ、医療官僚として最高の地位である典薬頭(てんやくのかみ)に抜擢されたと云う事になる。

 但し、日本霊異記の既述に拠れば、伊豆流罪の原因となる讒訴をしたのは一言主の神だとしている。れんだいこは、続日本紀を採る。なぜなら、役行者と一言主は共に出雲系であり、何らかの行き違いはあったであろうが、讒訴する関係にはならないと見立てるからである。

 ところが、役行者は、呪術と忍述の遁甲を使って翻弄し神出鬼没で自由自在に身を隠したため捕まらなかった。霊異記は次のように記している。「験力に因りてたやすく捕られず」。

 追捕役人はならばと、母を人質として「母親を解放して欲しければ投降しろ」と呼びかける及び、自ら出頭し捕らえられた。この逸話は、わざわざ古神道的には反目関係にある韓国の連の讒訴により訴追される身になった、としているところに意味があろう。

 699(文武天皇3).5.24日、66歳の時、役行者は伊豆大島に流された。島での様子は殆ど伝わっていない。昼は伊豆におり、夜には富士山に行って修行したと伝えられている。ところが、小角が流されてからのち各地で気象の異変などが起きた。天皇がその対策に心を痛めていると、夢枕に北斗七星の化身の童子が現れ「聖人を無実の罪に陥れたからこのようなことになったのだ」と告げた。天皇は小角のことに思いが及び、役行者を放免したと云う。

 これには異聞がある。れんだいこは、こちらの方が史実ではないかと思っている。それによると、役行者が伊豆大島に流刑された後、葛城山から金峯山一帯の山岳修行者達の間に謀叛の動きが出てきた。文武朝は、事が起こる前の対策として役行者の斬首を決定した。

 701(文武天皇の大宝元)年、検察使が伊豆大島に派遣され、役行者を砂の上に敷かれた藁むしろの上に正座させた。刑吏が振り下ろした瞬間に刀身に富士明神の秘文が浮かび上がり、刀が三つに折れ、役行者が折れた刀をなめると餅飴のように溶けて滴がしたたり落ちた、と云う。この逸話の裏メッセージは、役行者はかく斬殺されたと云う事ではなかろうか。

 2007.7.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評436 れんだいこ 2008/07/28 11:11
 【役行者の概要履歴その11、晩年、昇天】

 異聞説に立つと、以下の伝承は全て脚色評伝と云うことになる。伝承では役行者は赦免され、大和に帰郷する事になる。

 配流より2年後の701年、役行者は大赦により故郷に帰った。朝廷に仕えず、大峰山に入り一千の塔婆を立てる等で余生を過ごした。巷間伝わる話として、「小角は能く鬼人を使い、水を汲ませ、薪を取らしむ。もし鬼人が命に従わないときは、呪をもってこれを縛った」、「鬼神を馳せ使いて自在を得」と伝えている。この頃いわゆる仙人になった。

 701(大宝元).6.7日、68歳の時、役行者は老母を連れ箕面の天上ヶ岳へ登り、 「本覚円融の月は西域の雲に隠るるといえども、方便応化の影はなお東海の水にあり」とのご遺偈を残し、五色の雲に乗って母とともに天上に登った。また一説には唐の国に渡られたとも伝えられている。 天井ヶ岳にて入寂したと言われる。後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。

 その後の伝説として次のような逸話が伝えられている。「日本霊異記」上巻28によると、道照法師が唐へ向かわれた時の道中の新羅で、五百の虎の要請により法華経を講じていたら、聴衆の中に日本語で質問する者がいて、名を尋ねると「役優婆塞」と名乗ったと伝えられている。この逸話は、役行者が並々ならぬ学識を持っていたことを伝えているように思われる。

 その後の一言主について、「役行者に呪縛せられ、今の世に至るまで解脱(と)かれず」とある。その後の修験道については、別途「修験道の歩み」で考察する。修験道については「修験道考」で考察する。

 以上「れんだいこの役行者伝」とする。ネットからも情報収集できるが、それぞれが断片的な憾みがある。これらの情報を寄せ集め生涯履歴の流れで確認してみた。その際特徴として、従来の仏教的叉は道教的読み取りよりは古神道の流れを汲む行者として位置づけた。底流に流れているのは、雌伏を余儀なくされている出雲系の復権と云う日本古代史上の正統の流れであろう。新たな役行者論としてご理解賜れば有り難い。

 現下日本は政治的にも経済的にも文化的にも精神的にも行き詰まり閉塞している。この閉塞の次にやってくるのは、ネオ・シオニズムに完全占領された日本で有り、それは連綿と続いてきた大和民族の最終的解体を意味する。アメリカンインディアンが辿った歴史の通りのものが待ち享けていると思えばよい。この国難期には、役行者的侠気を澎湃と起せずんば、この悪しき流れを変えられないのではなかろうか。れんだいこにはそういう気づきがあり、役行者論に向かわせられることになった。時代に何がしかお役に立てばこれに勝る喜びはない。 

 2007.7.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評437 れんだいこ 2008/07/29 00:18
 (れんだいこのショートメッセージ)

 ここで、役行者が開教した修験道について確認する。修験道はその後、仏教修験化を主流としつつ神道修験化の両方向へ分岐して行くので、役行者段階の修験道を役行者式修験道として識別する事にする。これが神仏習合の原修験道であると思われる。

 【役行者式修験道の特徴その1、金剛蔵王権現】

 役行者が切り開いた大峯山の山頂には、日本で一番高い所にある木造建築物にして国重要文化財である大峯山寺本堂がある。山麓の吉野山には金峯山寺蔵王堂がある。本尊は、三体の金剛蔵王権現で、不動明王を中心に蔵王菩薩、金剛童子が配置されている。現在の堂宇に有るのは、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来世)とされているが、本来の金剛蔵王権現の姿であるかどうかは疑わしい。

 本来の金剛蔵王権現は、神格仏とも云うべきご神体にして仏である。仏教にはない権現を敢えて神格仏にしているところに意味があり、役行者が切り開いた修験道の原点はここに有ると云うべきだろう。後年、修験道が仏教化を強めるに及び、釈迦如来でも阿弥陀如来でも弥勒菩薩、観音菩薩でもなく、それらが合体したものと考えられるようになった。こう理解し無いと解けないのが権現であり、してみれば役行者は極めて日本的な神格仏を生み出したことになる。

 三体の金剛蔵王権現の中心を為すのは不動明王である。「不動金縛り」に使われる不動であり、験力を表象している。その像容は、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表わし、片足を高く上げて虚空を踏んである。作者は不明であるが、役行者式修験道の核心を捉えた質の高さを示す彫刻像になっている。

 役行者式修験道の不動明王は何ゆえかく「忿怒の相」で刻まれたのか。れんだいこは、ここに役行者式修験道の本質があるように思う。これを説き明かす役行者論が為されているだろうか、れんだいこは知らない。よって、れんだいこが次のように窺うものとする。れんだいこは次のように窺う。

 役行者は獲得した修験力で、単に精神的世界を渉猟するのみならず、世の変革にも立ち向かった。当然、政治に深く関わり、それは単なる利権に於いてではなく、悠久の歴史を見つめており、国譲り以来の歪みと、大和王朝的政治の諸施策の政治貧困に対して不正を質した。あるいは王朝史をも質そうとしたのかもしれない。他方で人民大衆の生活基盤の擁護、善導即ち衆生済度に向かった。不動明王の「忿怒の相」は、そうした役行者の烈火の怒りと深い慈愛、透徹した眼力を表象しているのではなかろうかと窺う。

 かく捉えれば、金剛蔵王権現信仰は役行者式修験道のエートスであり、これを抜いては成り立たない。そういう重要な教義であろう。これある限りに於いて役行者式修験道が生きていると云えよう。まずはこのことを確認しておきたい。

 2007.7.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評421 こげぱん 2008/07/29 00:50
> 【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その2、神道と仏教の関係】
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>  この時期、仏教の受容を廻って伝統的神道派の物部氏派と革新的仏教派の蘇我氏派が大いに争い、最終的に仏教派が勝利し、物部氏派の主流は壊滅させられ叉は逃亡を余儀なくされ地下に潜ったことは衆知の通りである。こうして、天皇家は、上からの革命」式にそれまでの神道とは別に新たに仏教的祭祀制を取り入れ、全国各地に積極的に寺院建立に向かう等手厚く保護し、氏族系神社と拮抗させ、仏教国日本の創建に向かった。これを仮に「国策仏教」と命名する。
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出典は忘れてしまいましたが、物部氏滅亡前後では神道も多少変容しているらしく、現存する神道のキーワードが(祝詞に見られるように)「祓い、清め」であるのに対し、物部系神道のキーワードは「乞い(=恋)」である、という話を耳にしたことがあります。

ただ「祓い、清め」にしろ、「乞い」にしろ、他者を支配しようとする思想とは縁遠いものであり、この点支配概念を持ち込んだ戦前の国家神道とはかなり異質のものに見受けられます。故司馬遼太郎氏は昭和初期の日本を評して「異胎」と表現していましたが、神道史上では国家神道も「異胎」とでも考えるべきかもしれません。

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>  しかし、このことを知ることは単なる知識であり、問題は仏教の受容の仕方され方に対する認識の方にこそある。仏教の伝来、普及により神道が滅びたのではない。政治の表向きを仏教が、裏向きを神道が司るようになると云うイニシアチブの交替が起こったが、そういう体裁で両者が鼎立共存したことにこそ嗅ぎ取るべき意味があるのではなかろうか。そうなると、世界史的に見ればかなり珍しい「仏教と神道の鼎立共存」は何ゆえにもたらされたのであろうか、ここが問われねばならない。
>
>  結論的に述べると、れんだいこは、先行して存在していた神道の方の優秀性こそがキーワードではないかと考えている。これは丁度、言語学も同じで、漢字の輸入にも拘らず原日本語は滅びず、否むしろ原日本語の方が漢字を咀嚼吸収し、その結果平仮名、カタカナを創造し、新たなる日本語を創造していった例に似ていると考えている。してみれば、注目すべきは、日本語同様に在来文化及び精神としての神道の共生能力及び器量の広さの方ではなかろうか。
>
>  仏教もまた共生能力及び器量の広さを有していた故に併存が可能になったのであろう。少なくとも、神道と仏教は鼎立共存できる関係を互いが持っていた。こういう観点を持ちたい。両者のこの共生構造が、国策仏教を次第に大衆仏教へと生育させていく事になる。それは同時に仏教の土着化であり、神道との混淆化の道のりでもあった。即ち日本仏教化であり、これは極めて日本的現象であった、そう考えるべきではなかろうか。
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仏教も日本に定着するにつれ変容しているらしく、仏教世界では珍しい妻帯僧の存在など「無規範化」している様子が窺えます。小室直樹氏はこの「無規範化」を評して「渡来宗教は日本教化する」と書かれていたように記憶してますが、言い換えれば「日本教」のバックボーンである神道の影響力や受容力の大きさを表しているかもしれません(余談ですが、神社で753を祝い、教会で結婚式を挙げ、葬式を坊主が執り行うという日本人の無規範ぶりも、良く言えば神道的なおおらかさのなせる技かもしれません)。

あとカタカナですが、中国語を読んでいると外国人の固有名詞までいちいち漢字化しているのには閉口することがあります。もちろん一般名詞などを漢字化すると概念がわかりやすくなる場合もあります(例:computer→「電脳」) ので、中国語と日本語のどちらがすぐれているかについては一概に決められませんが、何からなにまで漢字化すると、とりわけ外国人には理解が困難になることが多々あります。この点日本語がカタカナを創造し、非漢字外来語の日本語化を容易にしていることは興味深いといえます。

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驚く事に、出雲神道の智恵は今日なお連綿と日本精神の根底に息づいていることが確認できよう。
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出雲系神社には時折足を運びましたが、大抵美田の中にこんもりと鎮守の森があり、さらにその中にこじんまりと神殿が鎮座しています。言い換えれば出雲系神社(大抵の場合伊勢系も)は自然調和的といえますが、この自然調和的思想は、低燃費車などの形で戦後日本産業に何らかの影響を与えている可能性は考えられます。

これは余談ですが、今日土建屋の乱開発により美田や鎮守の森が破壊されていくケースが散見されます。これは出雲神道の自然調和的思想が戦後日本産業の競争力に好影響を与えているとすればですが、日本の原風景ともいえる美田や鎮守の森が破壊されていくのは、長期的に見れば日本の競争力に悪影響を及ぼすと考えられます。選民主義は神道の外患かもしれませんが、土建屋の乱開発は内憂といえるかもしれません。

Re:れんだいこのカンテラ時評438 れんだいこ 2008/07/29 01:16
 【役行者式修験道の特徴その2、神仏習合】

 役行者は、一冊の書物も著していない。れんだいこは、「修験道の奥義は以心伝心により感応体得するもの。云うに云われず、著して著しきれないところに真理が有るゆえ著さない」とする弁えに拠っていたのではなかろうかと拝察する。役行者の実際の理論的質の高さについて、霊異記は次のように伝えている。概要「百済滅亡に際して日本に渡った百済人で難波の百済寺に入った義覚という高僧が『大日経』や陀羅尼などについて小角に尋ねたところ、その明確な返答に感動して弟子入りした」。

 信憑性は分からないが、この逸話は、役行者の教義能力の高さを逸話していることになろう。

 堂宇にはその後、三体の金剛蔵王権現の廻りに仏教の千手観世音菩薩、弥勒菩薩、釈迦牟尼佛、 阿弥陀佛、 毘遽謝那佛(大日如来)を配するようになった。それは、役行者式修験道の神仏習合的性格よりする自然派生であったと思われる。ここに修験道の特徴が認められる。この流れを確認する。

 役行者式修験道は、在来の古神道に立脚しつつ、伝来の仏教的教説の精髄を嗅ぎ取り、これを調和的に習合させ、古神道的道教的山岳神仙修行と仏教的菩薩修行を総合させているところに意味がある。ここに、役行者型修験道の第二の特徴があると見立てたい。

 爾来、古神道では、宇宙、自然、生物と云う森羅万象の即自的在り方そのものの中に生命を認め、その循環摂理を知り、人智を超えた神秘なる調和を嗅ぎ取った故に、そのそれぞれに神名を被せて神格化させ尊崇してきた。それは、豊葦原の瑞穂の国と云われる環境的恵みから生まれた自然発想のような気がする。

 日本の地勢は、内陸から海岸まで世界的に珍しいほど高山低山に囲まれている。その水系は、山岳を源流として河川、地下水となり、海へ流れ込むまで山野海域に恵みを与えている。れんだいこが思うに、森羅万象との共生観を本質とする古神道は、万物に恵みを与える「お山」の果たしている役割を的確に古代科学的に捉えていたのではなかろうか。それは或る意味で、近現代科学よりも本質的により科学的であるとさえ思う。

 これが「お山信仰」を生みだすルーツではなかろうか。かくて古神道に於いては、霊山は祖霊の鎮まるところでもあり且つ生命の始原と云う意味に於いてもお陰を感ずべき対象として位置づけられてきたのではなかろうか。「お陰思想」は古神道の基本概念であり、こういうところからもたらされているのではあるまいか。

 それらの諸山の中で、いわばその地域を守護する霊力の強く、且つ眺望のよい主たる山を見出して霊山とし、風水的なイヤシロ地に神社を創建し祀ると云う霊山信仰を培ってきた。霊山には諸神や祖霊が宿っているのみならず、他の小山にも増して清澄な空気、自然、樹木、巨岩、清水、滝、風光明媚があることで共通している。結果的に金銀銅鉄脈を埋蔵する鉱山系の山が選ばれていることでも共通している。そこへ住む生物も愛護され、徒に狩られることはなかった。「神聖禊観」は古神道の基本概念であり、こういうところからもたらされているのではあるまいか。

 この霊山信仰は、採集経済を基調とする縄文時代も水稲耕作を採り入れた弥生時代に入っても続いた。信仰原理を変える必要が無かったからであると思われる。かくて霊山信仰は古神道の原形として保持されてきた。
いつの頃からか、こうした霊山で山岳修行する事で大自然の神的霊気に感応し、霊能力が磨かれるとする行法が生まれた。役行者に先立つ先達が歴史的に綿々と修法してきたであろう。

 役行者も叉その一人となった。ただ役行者ならではのこととして、役行者は超傑出した験能力を獲得した異能の士となった。その能力のこまごまは略すとして、衆生救度、社会善導を目指す実践的な宗教を開闢する身と成った。その教義は、日本古来の山岳信仰をベースにそれまでの古神道的生命観、神祇信仰、シャーマニズム的託宣作法を受け入れ、これに加えて伝来の仏教、陰陽道、道教、儒教を習合させたところに特徴が認められる。その道筋を創ったのが役行者であり、この修養法を修験道と云う。こうして役行者は修験道の開祖となった。修験の由来は、「修行により験力をあらわす」を約して造語されている。

 ここで留意すべきは、役行者の特殊能力に負うところ大なるものがあるにせよ、役行者型修験道開闢に当たっては古神道の柔構造がそれを可能にしたと云うことではなかろうか。日本神道にはそういう能力、魅力があることが知られねばならないと思う。考えてみれば、神道には、他の世界宗教の如くな大冊の経典は無い。その精髄は、体得で感応し、口伝していくことにある。厳罰を招く戒律も無く、あるのは作法ばかりである。その作法も絶対遵守が強制される命令的定言的なものはない。

 役行者は、この古神道を基盤に修験道を生み出した。日本古来の霊山信仰を縦糸とし、仏教、その密教、道教、陰陽道等々が横糸の役目を果しつつ、神仏習合的修験道と云う布を織り上げた。神を垂迹神(すいじゃく神)、仏様を本地仏(ほんち仏)とする本地垂迹説を創造した。本地垂迹説とは、 神道の神をして仏教の仏が仮(権)の姿で現れたものだと考える考え方を云う。細かく見ればニュアンスの差は有ろうがそれはともかく、これにより神仏を権現と呼ぶ。考えようで、伝来された外来宗教や思想を見事なまでに、汎神論的な生命思想を持ち開放的な古神道的教義世界の中に組み込み、新たな宗教を創造したことになるのではなかろうか。

 興味深いことは、この定式が権現信仰同様にその後の日本仏教に脈々と息づいていくことである。その後の宗祖となる空海も最澄も法然も親鸞も日蓮も禅宗も、役行者が定式化した権現信仰及びこれに基く神仏習合を否定することはできなかった。ここに日本仏教の特質がある。これを思えば、役行者の偉大さは時空を越えたものであることが確認できよう。

 このような習合理論はユダヤ-キリスト教圏内には見られないことであろう。これを語れば叉別の話しになるので割愛する。ここでは役行者式修験道の習合理論性を確認して意義を認めることにする。

 2007.7.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評439 れんだいこ 2008/07/29 01:36
 【役行者式修験道の特徴その3、在家、自律共生信仰】

 役行者式修験道は、「野に伏し、山に伏し、我、神仏とともに在りと修行する役行者世界」を創出した。山伏はこれに由来する。修験道は一宗一派に片寄らず、体験体得的悟りの修験で以心伝心的に宗祇を開く道である。

 修験道の特異性は、役の行者を開祖とするが教祖ではないところに認められる。特定教祖の教説にもとづく創唱宗教とは違い、先師の教えに導かれ、各々が山岳修行による霊力を磨き験力を高めることを旨としている。

 修験道は、在家で誰でも参加でき良き先達指導者のもとで野性的な荒行を修行し、霊性の啓発と呪術能力を磨く。森羅万象万物に生命を認め、これらを神仏と化身とみなして大切感謝し、お陰思想に基く人格、霊格の浄化と向上を図り、自身の生命のいやましの活性充足と社会への恩返し的献身貢献を目指す。

 それは叉、宗旨に拘束されず、神道から仏教各派をそのまま受け入れ且つ共存共生競合せしめているところに特質が認められる。在俗中心の宗教で有り続けているところにも特徴が認められる。本質的にどこかで日本精神の琴線に触れているのだろう、全国各地の霊山については既述したが、修験道はそのどこの霊山に於いても現在に至るまで今も脈々と息づき受け継がれている。

 但し、結界門から山中は長らく女人禁制となってきた。妻帯禁止では無いが、相撲の土俵内への立入りを許さないのと同じ不浄観でもあるのだろうか。れんだいこは、戦後民主主義の男女同権思想の中で育ってきたので、これについては何とも云えない。ただ、永らく護られてきたものはよほどの事が無い限り事情変更せぬが善かろうぐらいには思っている。

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【役行者式修験道の特徴その4、忍者の祖】

 修験者は山中の地理に詳しく、敏捷壮健だったこともあって武術家集団としても重視された。義経と弁慶に於ける弁慶の立ち働きは修験者そのものであろう。こういう例は無数に刻まれていると思う。

 役の行者は忍者の祖とも云われている。山伏は忍者だったと云う説が古来からある。決定的な文献資料は無いが、伊賀の上忍百地三太夫が次のように述べている(「忍者と宗教」参照、)。  「前略 ~ そもそも、忍術とは、天智天皇の御世、役の行者小角を頭といただき、天台・真言の両密教の山伏どもが、仏法を広め、守るがために始めた術じゃ。我ら忍者が、印を結び、呪を唱えるは、これみな、天台・真言からの頂戴もの。この尊い仏法に弓引く信長めは、我ら忍者にとって、天魔・悪鬼にもまさる仇敵といわねばならない」。

 これによれば、忍者、間諜も修験道と深い関係にあることが判明する。

 2007.7.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評440 れんだいこ 2008/07/29 01:46
 【れんだいこの役行者論結び】

 一気呵成に書き上げてみました。後、「その後の修験道史」がありますが、掲示板投稿は打ち切りにします。サイトを設けておりますので、全文はここでご確認ください。既に、気づき次第訂正、加筆しております。参考になる情報をご提供くだされば、補足致します。久しぶりに精神集中した三日間となりました。時にはこういうこともやってみないといけないなぁ、次は何に向かうかなぁと考えております。

 「山伏修験道考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/yamabushisyugendoco/yamabushisyugendoco.htm)

 お読みいただいた方有難う御座います。好評悪評すり合わせなんでも結構でございますのでご意見賜れば冥利です。

 2007.7.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評421 れんだいこ 2008/07/29 02:19
 こげぱんさんちわぁ。丁寧にお読みいただいており有難う御座います。どんどん頼むよ。

 れんだいこ知識によれば、物部氏も出雲系ですね。「物部系神道のキーワードは「乞い(=恋)」である」というのは初耳ですが、全体の見方が当っておればそれで良いのかも知れません。

> 仏教も日本に定着するにつれ変容しているらしく、仏教世界では珍しい妻帯僧の存在など「無規範化」している様子が窺えます。小室直樹氏はこの「無規範化」を評して「渡来宗教は日本教化する」と書かれていたように記憶してますが、言い換えれば「日本教」のバックボーンである神道の影響力や受容力の大きさを表しているかもしれません(余談ですが、神社で753を祝い、教会で結婚式を挙げ、葬式を坊主が執り行うという日本人の無規範ぶりも、良く言えば神道的なおおらかさのなせる技かもしれません)。

 小室さんはこれまで十分啓発してくださっております。「戦後直後から再建期日本=世にも珍しい蓮華国家論」は長年もやもやしていたものを取り除いてくれました。れんだいこは今、この観点から歴史の見直しに入っているほどです。

> あとカタカナですが、中国語を読んでいると外国人の固有名詞までいちいち漢字化しているのには閉口することがあります。もちろん一般名詞などを漢字化すると概念がわかりやすくなる場合もあります(例:computer→「電脳」) ので、中国語と日本語のどちらがすぐれているかについては一概に決められませんが、何からなにまで漢字化すると、とりわけ外国人には理解が困難になることが多々あります。この点日本語がカタカナを創造し、非漢字外来語の日本語化を容易にしていることは興味深いといえます。

 れんだいこは既に日本語論についても着手しております。世界の公用語になる資格の有る人類史の発明品の最右翼(左翼でもどちらでも構いません)と位置づけております。

> 出雲系神社には時折足を運びましたが、大抵美田の中にこんもりと鎮守の森があり、さらにその中にこじんまりと神殿が鎮座しています。言い換えれば出雲系神社(大抵の場合伊勢系も)は自然調和的といえますが、この自然調和的思想は、低燃費車などの形で戦後日本産業に何らかの影響を与えている可能性は考えられます。

 そういうことになると思います。

> これは余談ですが、今日土建屋の乱開発により美田や鎮守の森が破壊されていくケースが散見されます。これは出雲神道の自然調和的思想が戦後日本産業の競争力に好影響を与えているとすればですが、日本の原風景ともいえる美田や鎮守の森が破壊されていくのは、長期的に見れば日本の競争力に悪影響を及ぼすと考えられます。選民主義は神道の外患かもしれませんが、土建屋の乱開発は内憂といえるかもしれません。

 多少補足すれば、土建ブルドーザー宰相と云われた角栄は、既にかの時点で環境問題に対策を講じようとしておりました。日本列島改造論の中で指摘しております。近未来の電子産業社会をも見通しております。やはり凄いと云わざるを得ません。れんだいこは、現代の大国主の命であったと判じております。

 秘書の早坂氏はスサノウ政治だと述べておりますが、恐らく古代史をあまり知らないままに感覚的に述べたのだと思います。どちらも出雲系では有りますが、例えるならば断然大国主の方だと思います。

 角栄時代までの土建事業は、今日から見て全て国家百年の計に資するものばかりです。角栄の実際は、不要なものと要するもの、緊急なものと不急なものの識別が的確で、結果的に回り回って利権にはなっても直接的に利権を目指したものは有りません。これは調べれば分かります。

 それ以降の政治家は角栄と逆のことばかりしており、それでいて利権批判浴びると角栄元凶説を唱え転嫁しております。この観点からの「土建屋の乱開発は内憂といえるかもしれません」批判は良いと思いますが、角栄まで巻き込む利権批判は、当局のプロパガンダに乗せられていると窺うべきです。一言添えておきます。

 2008.7.29日 れんだいこ拝

論理が少々飛躍しているように見受けられます。 彼岸楼 2008/07/29 12:02
 れんだいこさん、こんにちは。
 シリーズ【日本式古神道の秀逸考】を拝読していて気になるところが何点かあるのですが、下記の箇所については思わずチャチャを入れてみたくなった次第です。

 >役行者は、この古神道を基盤に修験道を生み出した。日本古来の霊山信仰を縦糸とし、仏教、その密教、道教、陰陽道等々が横糸の役目を果しつつ、神仏習合的修験道と云う布を織り上げた。神を垂迹神(すいじゃく神)、仏様を本地仏(ほんち仏)とする本地垂迹説を創造した。本地垂迹説とは、 神道の神をして仏教の仏が仮(権)の姿で現れたものだと考える考え方を云う。細かく見ればニュアンスの差は有ろうがそれはともかく、これにより神仏を権現と呼ぶ。考えようで、伝来された外来宗教や思想を見事なまでに、汎神論的な生命思想を持ち開放的な古神道的教義世界の中に組み込み、新たな宗教を創造したことになるのではなかろうか。 [550 【役行者式修験道の特徴その2、神仏習合】 れんだいこ 2008/07/29 01:16]

 神仏習合の潮流が本地垂迹説に結実したと見ることは可能だと想いますが、その過程において役行者の存在がどんなモメントであり得たのか具に伝わって来ませんので、ご説明いただけないでしょうか。 尚、併せて、(役行者が)「神を垂迹神(すいじゃく神)、仏様を本地仏(ほんち仏)とする本地垂迹説を創造した。」とのことですが、根拠をご提示いただければ幸いに存じます。

 Auf Wiedersehen.

Re:論理が少々飛躍しているように見受けられます。 れんだいこ 2008/07/29 14:11
 彼岸楼さんちわぁ。

>  神仏習合の潮流が本地垂迹説に結実したと見ることは可能だと想いますが、その過程において役行者の存在がどんなモメントであり得たのか具に伝わって来ませんので、ご説明いただけないでしょうか。
>  尚、併せて、(役行者が)「神を垂迹神(すいじゃく神)、仏様を本地仏(ほんち仏)とする本地垂迹説を創造した。」とのことですが、根拠をご提示いただければ幸いに存じます。

 云われてみれば痛いところを衝いてくだりますねぇ。役行者の具体的な教義は定かでは有りませんので、役行者自身が本地垂迹説を唱えていたとする記述は適当で無いかも知れません。従って、「根拠の提示」はできかねます。安全策としては、役行者型修験道は後に本地垂迹説として確立されていくことになる云々でせうか。追々書き換えていきます。ご指摘有難う御座います。

 2008.7.29日 れんだいこ拝

Re:論理が少々飛躍しているように見受けられます。 れんだいこ 2008/07/29 18:46
 彼岸楼さんちわぁ。今次のように書き直しました。いかがでせうか。

 役行者は、この古神道を基盤に修験道を生み出した。日本古来の霊山信仰を縦糸とし、仏教、その密教、道教、陰陽道等々が横糸の役目を果しつつ、神仏習合的修験道と云う布を織り上げた。この教義は次第に神を垂迹神(すいじゃく神)、仏様を本地仏(ほんち仏)とする本地垂迹説を創造するに至る。役行者型修験道教義の発展系なのか飛躍なのかは、役行者の教義が今ひとつ定かでないので評するに難しい。

 本地垂迹説とは、 神道の神をして仏教の仏が仮(権)の姿で現れたものだとする考え方を云う。本地垂迹説は更に神道と仏教のどちらに重点を置いて理解するのかによってニュアンスの差が生まれることになる。仏主神従説、神主仏従説、それらの玉虫色説等々様々な理論が登場する事になった。それはともかく習合理論と云う点では一致している。

 その元一日の地歩を固めたのが役行者であり、考えようで、伝来された外来宗教や思想を見事なまでに、汎神論的な生命思想を持ち開放的な古神道的教義世界の中に組み込み、新たな宗教を創造したことになるのではなかろうか。

 2008.7.29日 れんだいこ拝

Re:556 楼さんちわぁ。今次のように書き直しました。いかがでせうか。 彼岸楼 2008/07/31 08:15
 れんだいこさん、こんにちは。

 >本地垂迹説とは、 神道の神をして仏教の仏が仮(権)の姿で現れたものだとする考え方を云う。本地垂迹説は更に神道と仏教のどちらに重点を置いて理解するのかによってニュアンスの差が生まれることになる。仏主神従説、神主仏従説、それらの玉虫色説等々様々な理論が登場する事になった。それはともかく習合理論と云う点では一致している。
 >その元一日の地歩を固めたのが役行者であり、考えようで、伝来された外来宗教や思想を見事なまでに、汎神論的な生命思想を持ち開放的な古神道的教義世界の中に組み込み、新たな宗教を創造したことになるのではなかろうか。

 上記の論理にはやはり無理があると感じます。それは、役行者が奈良時代後期から平安時代にかけての本地垂迹説を基調とする神仏習合現象のメディアであり得たのかどうか、その痕跡を見出すのが困難なことによります。
 それよりも、伝えられる役行者(634~706)の活動期間(650?~706)や仏教公伝の時期のことを勘案するならば、山岳信仰は時系列的には役行者が生きた時代やその後暫くの間、仏教とはパラレルな関係を保ちつつ修験道化し、やがてその過程において密教(806~)と遭遇した結果として、“護摩”等の密教伝来に伴って伝えられた修法や行法を採り入れて進化して行ったと見る方が妥当だと考えます。

 この件ではこれ以上の論及を避けたいと思います。『泥海古記』(天理教)や『聖書』(キリスト教)の場合もそうでしたが、れんだいこさんの論考は宗教の本質ではなくその周辺部をやや遠巻きにしながら堂々回をしているような気がします。その理由(わけ)を問うことは僭越の謗りを免れませんので差し控えますが、宗教の本質に迫るためには何事も人間の宗教心の所在と外的な要因を探究するに如かずであるとの想いを懐きながら、れんだいこさんの考察が新たなる段階に向かうことを期待したいと考えます。

 私自身、社会人となってからも、哲学や宗教関係の書籍と全く縁がなかった訳ではありません。天理教学の支柱でもある松本滋氏による『宗教心理学』(1979)や『父性的宗教・母性的宗教』(1987)は人間の宗教心の発生について、地理学者鈴木秀夫氏の『森林の思考・砂漠の思考』(1978)や『超越者と風土』(2004再刊)は宗教を生む諸条件とそれが創り出す宗教の性格(世界観)について、理解を深めることに役立ちました。また、最近のものでは中沢新一氏の『古代から来た未来人 折口信夫』(2008)や宗教学者の島薗進氏の研究が大いに参考になっています。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:556 楼さんちわぁ。今次のように書き直しました。いかがでせうか。 れんだいこ 2008/07/31 11:15
 彼岸楼さんちわぁ。

>  上記の論理にはやはり無理があると感じます。それは、役行者が奈良時代後期から平安時代にかけての本地垂迹説を基調とする神仏習合現象のメディアであり得たのかどうか、その痕跡を見出すのが困難なことによります。
>  それよりも、伝えられる役行者(634~706)の活動期間(650?~706)や仏教公伝の時期のことを勘案するならば、山岳信仰は時系列的には役行者が生きた時代やその後暫くの間、仏教とはパラレルな関係を保ちつつ修験道化し、やがてその過程において密教(806~)と遭遇した結果として、“護摩”等の密教伝来に伴って伝えられた修法や行法を採り入れて進化して行ったと見る方が妥当だと考えます。

 これについてですが、既に後に南都六宗と云われる学問仏教が始まっていることでも有り、役行者もこれを学生としてではなく「うばそく」として学んでいたと思われます。「仏教とはパラレルな関係を保ちつつ」の面と役行者的に習合させた面との両面があるのでは無いかと思います。さて、これを如何に記述するのか、暫く苦吟してみたいと思います。

>  この件ではこれ以上の論及を避けたいと思います。『泥海古記』(天理教)や『聖書』(キリスト教)の場合もそうでしたが、れんだいこさんの論考は宗教の本質ではなくその周辺部をやや遠巻きにしながら堂々回をしているような気がします。その理由(わけ)を問うことは僭越の謗りを免れませんので差し控えますが、宗教の本質に迫るためには何事も人間の宗教心の所在と外的な要因を探究するに如かずであるとの想いを懐きながら、れんだいこさんの考察が新たなる段階に向かうことを期待したいと考えます。

 彼岸楼さんが、れんだいこの『泥海古記』(天理教)や『聖書』(キリスト教)論に目を通していただいていることが分かりうれしゅうございます。どうしてもれんだいこの能力の限りの考察になりますが、それは致し方有りません。今後とも更に磨こうと思います。少し居直らせていただければ、宗教の本質に迫るため云々の「宗教の本質」ですが、哲学的な「りんご論」に繋がっており、これは誰がやっても難しいのではないかと思っております。れんだいこにできることは、より良質のガイドブックであり、それで構わないと思っております。

>  私自身、社会人となってからも、哲学や宗教関係の書籍と全く縁がなかった訳ではありません。天理教学の支柱でもある松本滋氏による『宗教心理学』(1979)や『父性的宗教・母性的宗教』(1987)は人間の宗教心の発生について、地理学者鈴木秀夫氏の『森林の思考・砂漠の思考』(1978)や『超越者と風土』(2004再刊)は宗教を生む諸条件とそれが創り出す宗教の性格(世界観)について、理解を深めることに役立ちました。また、最近のものでは中沢新一氏の『古代から来た未来人 折口信夫』(2008)や宗教学者の島薗進氏の研究が大いに参考になっています。

 れんだいこは、お教えいただいたテキストのどれも読んでおりません。興味深げなものばかりですね。追々読み込んでいこうと思います。その他よろしくご教示ください。

 2008.7.31日 れんだいこ拝

:れんだいこのカンテラ時評441 れんだいこ 2008/08/03 12:43
 役行者論の際、革めて古代史上に於ける高天原王朝派と出雲王朝派の抗争軸に行き当たった。かの時代、当然壬申の乱も含めて、両王朝が暗闘していた。これを、役行者論の中で採り上げるのは難しかったが、れんだいこの興味は勝手に動き、日本古代史上の最大政変にして両王朝抗争の元始まりである高天原王朝派と出雲王朝派の国譲りに関心が向かった。

 この史実確認なくば日本古代史の秘密の扉が開かない。この扉を開けないままの古代史論はまことに味気ない通り一遍なものにしかならない。そういう訳で、国譲り譚解明に向かおうと思った。記紀神話、その他史書により文字的解明はできる。しかし、単に字面を追うだけでは真相に迫れない。編者の筆法を探り、眼光紙背に徹して読み取らねばならない。

 そうした折、れんだいこは備中神楽に行き当たった。れんだいこはまだ目にした事は無いが、驚く事に、備中神楽で演ぜられる国譲りこそが史実を最も忠実に保存伝承している気配がある。もとより現在のそれは現代的バージョン化されており、或る意味では古代史実を茶化しているので、今我々が目にする備中神楽が如何ほど国譲りを正確に伝えているかの検証はと云うと別問題になる。しかしながら、骨格は変えられていまい。これにより、万巻の書よりよほど史実性が高い国譲りの経緯を伝承していると云うべきではなかろうか。

 そこで、備中神楽とは何ものか、以下これを検証する。とはいえ、今着手したばかりなのでどんどん書き換えていく事にする。良い情報が有ればご提供頼む。

 蛇足ながら、れんだいこが国譲りに注目する理由は、今に濃厚な日本政治の特質がこの時に作られ、型となったのではないかと思うからである。邪馬台国論も然りで、卑弥呼女王型政治ももう一つの型である。これらを知ることにより、はるけく現代政治をも照射したい為である。

 2008.8.3日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評442 れんだいこ 2008/08/04 23:59
 【神楽の起源】

 「ウィキペディア神楽」その他を参照する。但しれんだいこ流に取り込む。

 我が国では古来より、神楽(かぐら)と呼ばれる神道的歌舞が伝承されている。日本芸能の原点となっていると思われるので、一定の知識を得ておきたい。

 「かぐら」の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的である。神座とは「神の宿るところ」を意味し、先ず神座を設けて、神座に神々を降ろし、巫女が集まった人々の汚れを祓ったり、神懸かりとなって神の意志を伝えたり、また人の側からは願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられている。神楽には鎮魂を目的とした呪術神楽という面もある。いわば、神々を神座に招じて、そのもとで行われる神聖なる芸能であり、それ故に神の憑りやすい採り物として幣・榊・太鼓、鈴などが小道具として用いられる。

 れんだいこが思うに、神楽とは文字通りに解して良いのではなかろうか。「神が見て、その意に叶い、神と人とが楽しむ為の神人和楽の神事儀式且つ歌舞活劇」と規定できるのではなかろうか。敢えて「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする必要があるだろうか。語源を求めるのなら、「カグラ」そのものの古代言葉に於ける意味であるべきではなかろうか。

 神楽の発祥は、古事記および日本書紀において記述されている「天照大御神の岩戸隠れ譚」に措定されている。面白おかしく伝えられているアメノウズメの神懸り半裸舞があり、この神話が神楽と舞踊の起源であるとされている。アメノウズメの子孫とされる猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、このことから神楽の元々の形は鎮魂、魂振に伴う神遊びであったとも考えられている。

 しかし、この説明は通俗過ぎるように思われる。神楽は元々出雲王朝の御代で歴代を経て育まれて来た神人和楽の神事且つ興行神楽であったと考えるべきではなかろうか。高天原王朝が、出雲王朝の国譲りを経て大和王朝創建に向かった後、国津族の伝統的神楽を取り込む必要が生まれ、出雲王朝神楽に倣って大和王朝神楽を生んだとすべきではなかろうか。従って、同時並行多発的に神楽が生まれたとするのならまだしも、高天原王朝系の「天岩戸神楽」を神楽の嚆矢とする伝は採り難い。

 この見方は、神楽を出雲王朝に発祥せしむることになるが、案外これが史実ではなかろうかと思われる。高天原王朝-大和王朝、出雲王朝のどちらにも伝承的神楽が有ったとみなすよりも、出雲王朝内発祥説の方がその後の神楽史を見る場合に透けて見えて来る自然な見方のような気がしてならない。

 それは、神楽の発想がまさに出雲神道の極意と通じており、これにより生み出されたものであると分別すれば容易に分かる事である。出雲神道を理解しない一知半解の者が解するので、こういう初歩的誤解が生まれることになる。従って、「神楽の歴史、形態、規模等をみれば、出雲は神楽の故郷であり、島根県は神楽の宝庫といえるであろう」と見立てるのが自然だろう。

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 【神楽の種類】

 「ウィキペディア神楽」その他を参照する。

 神楽は、宮中で行われる御神楽(みかぐら)と、民間で行われる里神楽(さとかぐら)に分けられる。御神楽は、宮中の賢所で行われる御神楽(賢所御神楽)のことで、古くは内侍所御神楽と云われた。雅楽(国風歌舞)に含まれる。大嘗祭の清暑堂での琴歌神宴(神楽)、賀茂臨時祭の還立の神楽、園并韓神祭の神楽、石清水八幡宮臨時祭の神楽から成立したと考えられている。1002(長保4)年あるいは1005(寛弘2)年から隔年で行われるようになり、後に毎年の行事となった。簡略化されてはいるが宮内庁式部職楽部によって、現在も毎年12月中旬に賢所で行われ、大嘗祭でも行われる。

 里神楽は民俗芸能研究の第一人者である本田安次(1906-2001)がさらに大きく巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子舞神楽に分類した。他にも山伏神楽があり、獅子舞を得意にする。これらの流れを汲んだ神楽が各地に存在する。しかし、この分類では不都合なことも生じてきており、近年里神楽の分類方法の見直しも考えられている。近代に作られた神楽もあり、その中には多くの神社で行われているものもある。

 と云うことである。これを基礎知識としようと思う。

 2008.8.4日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評443 れんだいこ 2008/08/06 07:33
 【出雲神楽考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 備中神楽を知る為に「神楽基礎知識」を得た。次に、備中神楽の源流となる出雲神楽を見ておくことにする。ところが実際には「出雲神楽」というものは存在せず、「佐陀神楽」(これが出雲流神楽と呼ばれる)、「隠岐神楽」、「石見神楽」という三派形式で保存伝承されている。

 それぞれ出雲神話を題材とする神事神楽から始まり興行的な神楽を創作しているところは共通しているが、妙な事に高天原神話の影響を好んで受け入れている。興行神楽でヤマタノオロチを退治するスサノオの命神楽を採り入れている割には、日本古代史上の最大政変であり且つ当地の出来事である国譲りを伝承する国譲り神楽の影が薄い。高天原神話に基く岩戸神楽その他を採り入れる等、時流迎合ぶりが見て取れる。好んでそうなったのか止むを得ない事情が有ったのかまでは分からない。

 本場出雲での神楽がこういう事情であることにより、国譲り神楽は、出雲神楽よりも備中神楽に於いて手厚く保存伝承されてきたという経緯がある。どうしてこのようになったのか興味深いが分からない。それはさておき、とりあえず出雲神楽の様子を見ておくことにする。付け刃で学んだので、多少誤読があるかも知れない。

 2008.8.6日 れんだいこ拝

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 【佐陀(出雲流)神楽 】

 出雲神楽の本家本元は佐陀神楽に始まる。これを出雲流神楽とも云う。神楽の源流を出雲神楽に求めるとすれば、出雲神楽の源流を為す佐陀神楽こそが神楽の始発と云えるかも知れない。

 佐陀神楽はどのようにして生まれたか。これを確認する。これは出雲王朝史から紐解かねばならない。これについては、れんだいこは、「日本神話考」の「出雲王朝神話考」の「出雲王朝史考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/shinwa1co.htm)で考察している。

 それによれば、出雲王朝の始まりは元出雲から始まる。この時代の出雲は、記紀神話で「根の堅国」、「母の国」等々と表現されており、熊野大神、佐太大神、野城大神と云われる三柱の大神を核としてそれぞれ独立的に統治されており、それぞれが、日本古来の信仰の原点である1・精霊信仰、2・祖霊信仰、3・首長霊信仰に基づく祭政一致政治を執り行っていたと推定される。

 その後、国引き神話譚に登場するヤツカミズオミヅの命が登場し、原出雲を創始し大国化させている。特徴的なことは、この時点でも首長連合国家であったことにある。元出雲から原出雲へ発展する事により、出雲王朝は、八十神(やそがみ)と云われる在来の族長達の連合国家となった。出雲風土記は、ヤツカミズオミヅの命が、島根と名称したと記している。その原出雲にスサノウが渡来し、原出雲に対抗するかの如く西域にスサノウ王権を創り上げ、それを大国主の命が後継しいわゆる出雲王朝を創出する。そして国譲りへと至るように思われる。

 佐陀神楽は、この流れを踏まえての最も古い元出雲時代より発祥している。熊野大社、野城大社と並んで中枢神社的地位にあった佐太(陀)大社の御座替神事を源流としていると考えられる。佐陀大社は、出雲國風土記」に佐太御子社と記され、延喜式には出雲二ノ宮、また、出雲國三大社の一つとして「佐陀大社」と称されている古くからの御社である。本殿三社に十二柱の神々を祀るが、主祭神は猿田毘子古大神である。勇壮な大社造りの御本殿三殿、扇面絵画が描かれた物としては国内最古クラスである彩絵桧扇(さいえひおおぎ)など国指定の文化財を数多く所有している。

 なぜ佐陀神社に神楽が発生したのかまでは分からないが、11月に執り行われる神在祭(じんざいさい)には出雲大社同様に八百万の神々が集まり、様々な神事が執り行われることから「神在の社」とも呼ばれ、この時の神事と祭神・猿田毘子古を祭る歌舞として佐陀神楽を発生させたものと思われる。

 その神事(佐陀神能)は、毎年9.24日に行われる古伝祭「御座替祭」に象徴されている。本殿や摂社末社十八座のご座を新しい物に取替える祭りで、一畳御座を敷く前の取り祓いの舞が二日に亘って18回行われ、その間に能が舞われる。この時執り行われるのが神事・祭礼そのものである1・ 神事としての湯立(ゆだて)神事、 託宣(たくせん)神事、 二柱(ふたはしら)神事、2・ 素面で舞う七座(しちざ)神事である。これが出雲王朝の最も古い祭式であり神楽となる。「七座神事」では、神職が直面(ひためん)で鈴や剣など、神霊が依り憑く採物(とりもの)を持って七曲の舞が演じられる。

 翌9.25日には御座替祭を無事終えたことを祝し、祭礼後の法楽(ほうらく)として祝言舞の「式三番」(しきさんば、能では「翁」と呼ばれる)と着面(ちゃくめん)による古事記・日本書紀を題材とした神話劇を舞う「神能」が行われる。

 これにつき、慶長年間(1596-1615)年に、佐太神社の幣主祝(禰宜)・宮川兵部小輔秀行らが都に上京して、当時吉田神社で行なわれていた神事や「大和猿楽(現代の五流能のルーツ)」を学び、それまでの七座の舞に加えて新たに「式三番」や、猿楽の所作を取り込んだ神能を構築したと云われている。現在の能に見られる所作、舞事とは異なり、世阿弥的な要素のない独自のものになっている。1639(寛永16)年の文書に、神能が行なわれた記述があることや、寛永末年(1643年頃)の銘のある神能面が残存している。

 これよりすれば、慶長年間以前のものが古典佐陀神楽であり、以降のものが今日に至る新版佐陀神楽と云う事になる。新版佐陀神楽により体裁が整えられ、佐陀大社の神職等によって演じられる「七座神事」、「式三番」、「神能」の三部構成の神事舞が確立され(これを「役目能」と云う)、佐陀神能と呼ばれるようになった。取り替えた御座を清める為の手にものを持って舞う直面(ひためん)の採物舞(とりものまい)と着面の能系統の舞を交えて演じる神話や神社縁起を劇化した神能などから成る。 

 この佐陀神能が出雲神楽の源流となり、後のスサノウ王朝、大国主の命の出雲王朝期に引き継がれ、更に手が加えられ出雲大社神楽へと繋がったように思われる。この流れを汲んだうえで「修験者色の劇的な」演劇性を高めた神楽が中国地方を中心に全国へ広がったと推定される。こうして「出雲流神楽」が登場することになったと思われる。

 元々は、佐陀大社系神主が演じ、次に神主と修験者たちが共同で作り上げた「神主神楽」が主流であったが、明治3年の「神職演舞禁止令」によって多くの神楽が里人の手に委ねられることになり、里神楽として伝承されることになった。この経緯で古典の六調子の穏やかなテンポであったのが八調子を基調にしたテンポに変えられ、次第に劇的、娯楽的な要素が加味され「観せる神楽」に変貌していったものと思われる。現在、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 佐陀神楽は概略このようなものとして了解できよう。国譲り譚との絡みで云えば、出雲王朝たる大国主の命治世以前の元出雲時代の神楽であり、その元出雲は大国主の命時代に覇権を奪われた側であるからして、大国主の命の国譲りには是々非々の立場で臨んでおり、これを継承する側には居なかった、ということになるのだろうか。

 【隠岐神楽】

 隠岐神楽は、神事としての性格が濃く、社家(しゃけ)と呼ばれる神楽を本業とする家筋の専門家である神楽師により舞い継がれてきたもので、神楽の中でも巫女の儀式舞が重要な部分を担う古風な形式の神楽である。つまり、新版佐陀神楽やこの後で見る石見神楽とは対照的に古典佐陀神楽段階のものを保存している今となっては隠岐でしか見られない貴重な神楽ということになるのではなかろうか。

 2008.8.6日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評444 れんだいこ 2008/08/06 19:09
 【石見神楽考】

 出雲神楽には、佐陀神楽とは別系の石見神楽が存在する。島根県西部の邑智郡石見地方から広島県北西部に亙るいわゆる石見一円に伝わる出雲神楽を総称して石見神楽と云う。この石見神楽は、「大元神楽」、「大原(おおはら)神楽」、「大土地(おおどち)神楽」の三派を主流とする。それぞれが微妙に一味違う出雲神楽になっている。

 その演目を見るに、佐陀神能と共通のものもあるが違う演目もある。これより推定するに、石見神楽は佐陀神楽の影響を受け出雲流神楽を継承しつつも、石見地方に元々存在した大元信仰から来るところの農神に捧げる「田楽」の流れを汲んでいるように思われる。これが大元神楽へと発展し、今日の石見神楽へと至っていると考えるのが自然であろう。

 現在、石見神楽には、花形演目である「大蛇(おろち)」をはじめ、「鐘馗(しょうき)」、「塵輪(じんりん)」、「恵比須(えびす)」など30以上にもわたる演目があり、最近では新作の神楽もこれに加わっている。その昔、日向の国から宇佐八幡の御分霊を勧請した折、高千穂の「岩戸神楽」が導入されている。仔細に見れば石見神楽三派のそれぞれの演目の違いもあろうが分からない。

 石見神楽の演目は凡そ次の通りである。神楽(かぐら)、塩祓(しおはらい)、真榊(まさかき)、帯舞(おびまい)、神迎(かんむかえ)、八幡(はちまん)、神祇太鼓(じんぎだいこ)、かっ鼓(かっこ)、切目(きりめ)、道がえし(ちがえし)、四神(よじん)、四剣(しけん)、鹿島(かしま)、天蓋(てんがい)、塵輪(じんりん)、八十神(やそがみ)、天神(てんじん)、黒塚(くろづか)、鐘馗(しょうき)、貴船(きふね)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、岩戸(いわと)、恵比須(えびす)、大蛇(おろち)、五穀種元(ごこくたねもと)、頼政(よりまさ)、八衢(やちまた)、熊襲(くまそ)、武の内(たけのうち)、五神(ごじん)、大江山(おおえやま)。

 この演目の多さを知れば、もう一つの見方が生まれる。佐陀神楽と石見神楽の間には、佐陀神楽が元出雲-原出雲時代の神楽として、石見神楽はそれ以降のスサノウ王朝-大国主の命王朝いわゆる出雲王朝時代の神楽と見立てることができ、両者にはそういう差があるのではなかろうか。

 もう一つ、どちらも出雲地方の神楽ではあるが、妙な事に出雲ならではの国譲り神楽が打ち出されるのが自然なところ、後ほど述べる備中神楽ほどのウェイトを置かず、否むしろ高天原-大和王朝神楽の演目を意識的に取り入れ混淆化させている叉はさせられているように思われる。

 しかしこれは何とも変調ではなかろうか。ところが、取り入れられている高天原-大和王朝神楽の演目と内容を仔細に見ると、どれもひねりが効いている。裏メッセージ性が認められ、苦心の後が見られるように思う。そういう意味では何やら国譲り神楽に力点を置く事ができず、高天原-大和王朝神楽の演目をも取り入れざるを得なかったと云う歴史事情に在った、こうして取り入れたものの出雲神楽風のうら悲しさを打ち出すことで出雲神楽らしさを辛うじて維持しているということになるのであろうか。

 なお、石見神楽は、六調子の古典佐陀神楽に対し八調子の快適なリズムであること、地味な佐陀神楽に対し華麗であることで共通している。これは、明治17年頃、那賀群の国学者の藤井宗雄等によって改革された。言葉も古語調に変える等、数々の手が加えられた。この改革が時代の要求にも応じる形となり、八調子の石見神楽が急速に発展した。神楽衣裳や小道具も華美になり、観せる要素が強調され、様々な工夫を生みだして、今日に至っている。

 上演者が神職から民間へと変わったことも石見神楽を盛んにさせる要因となった。 現在、石見神楽団の数は、八調子神楽の地域、六調子神楽の地域を合わせると百楽団にも達する。夜を徹して上演されることも特徴の一つとして挙げられる。

 2008.8.6日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評445 れんだいこ 2008/08/06 22:33
 【備中神楽考】

(れんだいこのショートメッセージ)

 さて、いよいよ備中神楽の考察に入ることになった。まず、備中神楽なるものの概要を確認しておく。情報収集としてネット検索による各サイト、書籍からは神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)、藤原昌孝「神楽一代記」(備中神楽保存振興会、1997.5.30日初版)、「備中神楽のあれこれ」(「岡山の自然と文化」第27号)、逸見芳春氏の「神楽絵巻」(備北民報社、2000.10.10日初版)等々を参照した。何せ急遽思いついたので、不備な点については今後書き直していくことにする。

 【備中神楽考その1、特徴】

 備中神楽の発祥経緯と時期の正確な確定は不明であるが、出雲暦で神々が留守になる10月(神無月)、荒神の魂を鎮めるために始まった荒神神楽が起源とされている。故に荒神神楽、神代(殿)神楽とも呼ばれる。 
 「出雲暦で神々が留守になる10月(神無月)」に行われるということ自体が、「出雲王朝と関わりの深い神楽」であることを示している。これが備中神楽の政治的本質を規定する。そうであるが故に、実際には政治性を薄めるための様々な工夫を凝らし、傍目には単なる伝統神楽の一つとして演出していく事になる。ここに備中神楽の特異性が認められるように思われる。

 荒神神楽の「荒神」とは、一般的には火の神、竈神とされる。「鎮魂」は古神道以来の行法である。古神道では、森羅万象を司るものとしての諸神を崇め、森羅万象に神の分霊としての生命を認め、祖霊を崇祖し、産土(うぶすな)神を尊崇する。農業の場合には農作の豊穣祈願と感謝、漁業の場合には操業の安全と大漁を祈念する。神の氏子たる諸人の寿命の長久を祈願する。神がかりになって、分身である人間の体内へ神を呼び戻すことによって願いを達する。これを執り行うのが荒神神楽であり、元々神事色の濃いものである。これを能く為すのが古神道経由の出雲神道であり、即ち出雲王朝と関わりが深い。

 逸見芳春氏の「神楽絵巻」(備北民報社、2002.10.10日初版)は次のように記している。「荒神は、土及び火の神のことで、大地の恵みを与えてくれる神でもあり、災害をもたらす神でもある。農民達の切実な祈りとして、この荒神を鎮める祭りが荒神神楽として伝わった」。「農村の素朴な信仰心から、五穀豊穣と家内安全を願うための神祭りが、神楽の始まりであった」。

 備中神楽を普通に規定すれば、そういうことになるのであろう。れんだいこは、単にそれだけではないと思う。「神楽絵巻」的規定+アルファーとして、古代史上の出雲王朝史の伝承、出雲王朝時代の政治、信仰、精神、文化、その他伝統の子々孫々への伝承と云う意義を担っていると拝察する。

 備中神楽の元々は、清めの儀式から始め、悪霊払いの先舞(猿田彦の舞い)、五行・悪霊払いの後舞(剣舞い)が基本となっていた。これを近在の神職のみが行っていた。毎年演ずるのが宮神楽、7年目、13年目などの式年祭に演ずるのを荒神神楽と云う。宮神楽は宮内で行い、荒神神楽は野外に神殿(こうどの)を作る。或いは氏子の民家を利用する。これを内容で見れば、神事神楽と荒神神楽から成り、これに他の要素が組み合わされている。

 四囲に注連縄を巡らし、神殿(こうどの)を作り、呉蓙(ござ)を敷く。この二つが神楽場で最も神聖なものである。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。 「神殿の四隅の柱には榊や竹をくくりつけ、柱と柱をつなぐ横木には巻き藁をして、日本六十余州の国津神を表わす六十数本の御幣を取り付け、ぐるりに注連縄を廻らせる」。

「日本六十余州の国津神を表わす」とは、国津神系の出雲王朝の勢威が、高天原王朝の来襲前に日本六十余州の連合国家から成り立っていたことを暗喩していると思われる。果たして、これが案外史実に近いのではなかろうか。

 神楽場では斎灯が焚かれる。神殿の中央に四人の神楽太夫が着座し、真ん中に太鼓を置き、表(主)太鼓打ちと裏(副)太子鼓打ちが坐る。両側に笛と手拍子が座す。氏子が集まり観客となる。表太鼓の打ち合わせに合わせて裏太鼓が応じ、笛と手拍子が囃子を受け持つ。こうして備中神楽が始まる。

 演目として、白蓋(びっかい)行事による荒神歓請から綱舞による結願のお託宣まで、数々の神事と神事舞、神能を行なってきた。これを全部演ずると十数時間かかる。観衆を興奮と感動の渦に巻き込みながら、夜が明け、中入れと云われる休憩を挟みながら翌朝の8時、9時頃まで延々と行われる。祭りの後、お神酒を戴き、「ご馳走お呼ばれ」があり歓談する。これを「直会(なおらい)」と云う。神人和楽、神人共食となる。出雲神道の極意を地で行くとも云うべき備中神楽は民俗芸能として育てられつつ、秋祭りや正月などに欠くことができない郷土芸能として本場の「出雲神楽」を凌ぐ勢いで成長して行った。

 備中神楽は、大幕、小幕、言い立て、名乗り、歌ぐら。囃子と続いて本番に入る。この式次第を持つのは備中神楽だけであり、神楽を本格的にさせており質の高さを見せている。備中神楽の魅力に取り憑かれた者は、「飽きることがねえですなぁ」、「わしらには備中神楽しか合わん。他の神楽を観てもぴったりこんが」と云う。

 備中神楽の筋立てストーリーと舞、拍子道具立て(太鼓、笛、扇子、御幣、鈴、手拍子)、神歌、囃子は日本芸能の祖とも云うべき原形を見せている。ストーリーは芝居、講談、浪曲に繫がり、舞は能、歌舞伎、舞踊に繫がり、道具立ては阿波踊りその他の祭りのそれに繫がり、神歌、囃子は民謡へと繋がっているように見える。日本芸能の殆ど全てが神楽に胚胎しており、してみれば、神楽の果たしている役割には絶大なものがあると云うべきではなかろうか。

 道具立てのそれぞれが神楽に合わせて拍子を執るもので熟練を要する。太鼓の叩き方には8種類有り、神学太鼓、曲舞太鼓、シメ太鼓、釣り太鼓、鎧下太鼓、トーロ太鼓、試合太鼓、ミドリ(準備)太鼓からなる。太鼓の打ち方を変える事で、神々の性格や局面が表わされる。そういう意味で太鼓の良し悪しで舞が左右される。囃子も神格により変わる。

 剣はその昔は真剣であったが、戦後のGHQ統制時に「神剣を持ってやるのは相成らん」とされ、以来模造刀に切り替えられている。今日に伝わる備中神楽は、道中で時代に合わせて手直しされている。誰が脚本しているのかは分からない。その手直しが改訂か改悪かの評価が分かれるところであろう。

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 【備中神楽考その2、発祥】

 備中神楽の発祥の地は成羽町と云われ、現在の岡山県西部に当たる旧川上、小田、井原、後月、高梁、上房、阿哲、総社を中心とする備中一円で伝統的に継承されてきた。次第に興行芸能的神楽色を深めて今日へ至っている。なぜ成羽に発祥し、備中一円で保存されてきたのかは分からない。古より次のように云われている。  「備前へ行けば筆持つな。美作へ行けば棒持つな。備中へ行けば神楽声するな」。
 (備前の筆は和気閑谷学校の土地柄、美作の棒は宮本武蔵の土地柄、備中は神楽の本場という土地柄を意味している。上手いことを云うものではある)

 その備中神楽を今日的体裁に整えたのが西林国橋(こっきょう)である。西林は、1764(明和元)年、高梁市福地に生まれ、青年期に京都へ出て国学を学び、帰国して神官を務めつつ国学者としても知られた。江戸時代の文化文政の頃、京、上方で諸芸(能、狂言、歌舞伎、浄瑠璃、落語、曲芸など)が盛んなのを見聞きして、記紀はもとより古代文献を渉猟してそれらを参考に、日本神話の中から「天の岩戸開き」、「大国主命の国譲り」、「素戔鳴命の大蛇退治」の三編を選び劇化した。これを「神代神楽三曲」と云う。前段に榊舞、導き、猿田彦の舞を加え、全体に古今和歌集を中心にいくつかの和歌を引用する等、バラエティーに富んだ芸能性の高い民族芸能に仕上げた。

 備中神楽では全体に、神事、神事舞、歌舞舞、演劇舞、教化問答の五段階の形を厳守し、神事は、巫女舞系の清めの舞と出雲神話に基づく神能が整然一体となり進められている。荒神神楽は史実を踏まえながら、これを神楽一切で表現すると云う濃密な工夫が為されている。古い信仰の精神を受け継ぎながら、その時代時代の人々に受け入れられる魅力を引き出す高い芸能性が要請されている。

 国橋の神代神楽登場と共に、それまで神官が演じていた神楽は、神楽を舞う玄人衆「神楽太夫」を生み、太夫は熟練の芸を競うようになった。「神楽太夫」には年季の功が必要で、かっては厳しい師弟制度があった。次のように云われる。「桃栗3年、柿8年、梅はすいすい13年、柚子の大馬鹿18年、神楽太夫は40年」。

 備中神楽はこれにより神事色の強い社家神楽と芸能色の強い歌舞神楽の二系統を持つ。今日では、その両方を神楽太夫が演じる場合が多い。一社中の正太夫は6名ないし7名で構成される。1979.2.24日、国の重要無形民俗文化財に指定された。

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 【備中神楽考その3、演目】

 備中神楽の演目は次の順序で進む。社中によって多少の差がある。れんだいこは観ていないので後日確認する事にする。

 1・湯祓い神事、2・役指し舞、3・呉座舞、4・土公舞、5・榊舞叉はたくさ舞、6・猿田彦の導き舞(曲舞)、7・猿田彦の命舞。ここまでを「七座神事」と云う。この後が「神代神楽」となる。8・神々降臨舞、9・白蓋行事、10、神殿神事、11・天の岩戸開き譚能(西林神能その1)、12・こけら払い。

 これより13・長編「国譲り譚能」(西林神能その2)に入る。「国譲り譚」は、両神の舞、大国主の舞、国譲り掛け合い、稲背脛命の舞、国譲り仲裁、事代主の舞、大国主と事代主の親子勘評、国譲り再掛け合い、建御名方命の舞、合戦、祝い込みと続いて完結する。

 ここで中入れ。14、五行幡割り、15・吉備津、16・玉藻の前。これより17・長編「スサノウ譚」(別名、八岐大蛇&お田植え、八重垣の能)(西林神能その3)に入る。「スサノウ譚」は、須佐之男命の舞、両翁媼嘆きの舞、翁と素戔鳴命の語り、奇稲田姫、松尾明神、酒造り、大蛇の酒呑み、大蛇退治、祝い込みと続いて完結する。

 ここで一時休憩。続いて、朝舞と呼ばれる。18・「蛇神楽」がある。19・剣舞、20・布舞、21・綱入れ、22・綱舞、託宣、23・石割り神事と続いて24・神送り神事で完演する。以上が備中神楽の流れである。

 2008.8.6日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評446 れんだいこ 2008/08/07 12:51
 (れんだいこのショートメッセージ)

 いよいよ神楽考の本命中の本命、国譲り譚の考察に入ることにする。れんだいこは、神楽の演目はそれぞれ深い意味が有り、どれも外す訳にはいか無い事を承知しつつも、国譲り神楽さえあれば満喫できる。とは云うもののまだ観た事は無いのだけれども。

 2008.8.7日 れんだいこ拝

 【備中神楽に於ける国譲り譚の歴史的意義考】

 れんだいこの判ずるところ、「国譲り神楽」は本質的に政治性を帯びており、危険な裏史実伝承神楽であるやに見受けられる。その「国譲り」が、地元の出雲神楽に於いてよりも備中神楽でこそより生き生きと伝承されており、その意味で備中神楽は稀有希少な神楽に成り得ている。これを逆から云えば、「国譲り」をメインに採り上げ、かくも正面から神楽しているのが備中神楽であり、素晴らしいということになる。してみれば、この価値を減ずる方向の改訂は存在意義をなくし、これを当初より伝えられているところの生硬な形で保持する事が使命と云う事になろう。

 「国譲り」が、なぜ出雲神楽にではなく備中神楽に於いて保存されてきたのかが興味深い。推測するのに、地元出雲の地での国譲り神楽が陰に陽に行政的規制ないしは禁止されていた。為に出雲圏に有りながら出雲本地とは隣接しつつも中国山地で隔絶されていた備中に於いてこそ秘かに継承されてきたと云う事情に拠るのではあるまいか。

 「出雲王朝の高天原王朝への国譲り」は、日本古代史上の最大政変である。それは、高天原王朝による何の咎無き出雲王朝簒奪劇であった。それは、文明的に優れている方が劣っている方に恫喝と武力で王朝を奪われた事を意味している。日本史は全体的にこの時より大きな歪みを伴って今日へ至っている。

 記紀はこの史実を、高天原王朝-大和王朝の正義を裏付けるべく詐術しながら記述する事に並々ならぬ心血を注いでいる。これが当局肝いりの御用史観であるからそのプロパガンダ力は強く、通念となって今日に至っている。戦後になって、その通念的皇国史観は打破されたが、それはあくまで高天原王朝-大和王朝体制批判であり、出雲王朝論は依然として手付かずで現存している。この闇が知られ、探られねばなるまい。

 「備中神楽国譲り譚」は万巻の凡史書を退け、圧倒的迫力で史実をより克明に神楽で表現している。備中神楽は、その日本古代史上の最大政変である高天原王朝と出雲王朝の国譲り譚を、出雲王朝の正義と悲劇を語る観点から史実を忠実に神楽で伝承しているところに値打ちがある。

 御用史学が、当局ご都合主義的に編纂されている記紀神話に依拠して、高天原王朝-大和王朝史を正統的に記述する傾向があるのに対し、備中神楽は出雲王朝側からする政変ドラマを再現保存している。その史実性が高く評価されて然るべきほどに学問的水準以上のものを表現し得ている。ここに備中神楽の不朽の値打ちが認められる。

 加えて、面、踊り、囃子それぞれが有機的一体となって演じており、観客と一体になり、演劇的に堪能するのは無論、自ずと歴史を学ぶ効果を伴っている。しかもそれが、大和王朝的天皇制史観に拠らず、高天原王朝襲来以前の出雲王朝時代の政治を郷愁する役割を果たしている。神楽に興じながら触れるうちに自ずと裏歴史、実は本当の歴史が分かると云う仕掛けになっている。これは凄いと云うべきではなかろうか。
 
 2008.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評447 れんだいこ 2008/08/07 13:16
 【備中神楽に於ける国譲り譚のあらすじと史実証言】

 まず、高天原の勅使として経津主(ふつぬし)の命、武甕槌(たけみかづち)の命の両神が稲佐の浜をさして舞い下る。この神楽を「両神の舞」と云う。荒舞が荒々しく動きの激しい武装した舞であるのに対し、「両神の舞」は地舞であり、優美で端正な舞い方を特色としている。両神が一対となって舞うので高い技巧が要求される。それ以前にも複数の使者が派遣され、出雲王朝に取り込まれた経緯がナレーションで伝えられる。これにより、こたびの両神が有無を言わさずの国譲り使者として来朝したことが示唆される。

 次に、大国主の命が登場し「大国主命の舞」となる。大国主命は出雲統一王朝の国治めの神であり、日本書紀に「その子凡て百八十一神ます」と記される福徳円満の神として尊敬されている。王者の気品と威厳を漂わせながら八畳の間一杯に舞い広げる。神楽では、葦原中津国の竈(かまど)廻りをし、餅の福蒔きをした後休息する。

 次に、両神が大国主命に出合い、国譲りの談判をする。これを「国譲りの掛け合い」と云う。その遣り取りがさもありなんと思われるほど双方論証的説得的であり興味深い。大国主命は拒否し、小競り合いとなる。

 次に、そこへ稲背脛(いなせはぎ)の命が仲裁に入る。史実性は明らかではないが、あるいはこういう史実があったのかも知れない。神楽では「稲背脛命の舞」から「稲背脛命と両神の掛け合い」へと続く。稲背脛命の仲裁は功を奏せず、事代主(ことしろぬし)の命に下駄を預けることになる。

 こうして、事代主命の下へ伝令を送り、事代主命が登場し「事代主命の舞」となる。興味深いことに、事代主命は島根半島突端の美保の関で鯛(たい)釣りしていたとされている他方で、「馬を駆り、関に着き、諸手船に乗って海を渡る」仕草を演じる神楽社もあり、 「急ぐには、風の袴に両の駒、千里の道も今ぞひっと飛び」と歌われており、これによるとかなり遠隔地、恐らく大和の神であることが示唆されている。大国主の命の子供とされているが、実際の子供と云うより親子関係的なブレーンであり出雲王朝№2的地位にあった神と考えた方が適切と受け取ることができる余地を残している。案外これが史実ではなかろうかと思われる。

 次に、「大国主命と事代主命の親子勘評(かんひょう)」となる。「勘評」と云う言葉は漢和辞典をひいても見あたらない。「勘」は勘当の「勘」であり、「評」は評議の「評」である。語感からすれば、相当きつい相談、評定(評議)が為されたと云う事を伝えているように思われる。

 その結果、高天原王朝の命に従い国土を奉献することとなる。この時の遣り取りも興味深く、政治の実権を高天原王朝に譲り、幽界に隠れる経緯顛末が明かされている。それによると、出雲王朝は、無用な戦いを避け「万事和を以って尊っとし」と為し、高天原王朝が創出する新王朝に参画し勢力を温存する作戦に向かったと裏読みする事ができる。案外これが史実かも知れない。れんだいこは、日本型和合政治の原型がここに定まったと窺う。とにもかくにもこうして国譲りが定まった。

 次に、この国譲りに反対する建御名方(たけみなかた)の命が登場し「建御名方命の舞」となる。建御名方命も類推すれば、事代主命同様に大国主命の息子と云うより親子関係的なブレーンであり出雲王朝№3的地位にあった神と考えることができるのではあるまいか。建御名方命は、事代主命が和睦派となったのに対し武闘派として抗戦していくことになる。

 かくて、建御名方命軍と高天原王朝軍との間に一大決戦が始まる。神崎宣武氏の「備中神楽」(山陽新聞社、1997.4.26日初版)は次のように記している。「建御名方命の面は凄まじい鬼面で、これにより荒鬼と呼ばれる。口は耳まで裂け、牙を剥き出している。蓬々たる髭髪が面を覆い、動くたびにその隙間からのぞく鬼面をより凶悪なものにする」。

 これによれば、建御名方命は鬼として表象されている。ということは、古代史上の「鬼退治」は、高天原-大和王朝に服属しなかった出雲王朝内の建御名方命系残党派征伐であったと考えることができる余地を残していることになる。全国各地の鬼退治譚の真相は案外そのようなものであるかも知れない。

 この戦いは備中神楽上最大の激闘となる。前半は幣を使い、後半は刀を用いる。刀を使う合戦になると、両神側に助太刀と云う舞い手が加わる。これは、両神側の軍勢の強さを語っており、建御名方命側が多勢に無勢で押されたことを暗喩して入るように思われる。

 建御名方命軍は次第に追いやられ、信州諏訪大社へ逃げ込む。高天原王朝軍はこれ以上深追いできなかった。そういう拮抗関係上で和睦となる。神楽では、建御名方命が遂に力尽き、両神に降参したことになる。実際には、建御名方命は、大国主命、事代主命同様に政治的支配権を譲り、その土地の守護神として非政治的に生息する限りに於いて許容されると云う「日本型特殊な手打ち」を見せている。れんだいこは、日本型手打ち政治の原型がここに定まったと窺う。

 「祝い込み」で完結する。かくて国譲りとなり、高天原王朝への国土奉献が完了する。備中神楽はこの一部始終を神楽で表現している。 

 一般に、日本古代史上の歴史通念は、国史書である古事記、日本書紀の記述に従い、高天原王朝の渡来的正義を確認する意識下に有る。ところが、備中神楽ではこの通念に棹差すかの如く、「記紀通念」に歪められることなく出雲王朝時代を追憶し伝承している。この神楽が悠久の歴史の中で保存され今日に至っている価値は大きいと云うべきではなかろうか。

 もっとも、このように自覚され保存伝承されてきたのではない。神楽太夫達は古来よりの伝承を非政治的にひたすら墨守する作風で神事芸能神楽として伝承請負して今日へ至っている。下手に政治性を帯びなかったことが弾圧される事なく生き延び得た要因でもあるように思われる。れんだいこ的には歴史の摩訶不思議と云うしかない。

 2008.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評448 れんだいこ 2008/08/07 19:17
 【猿田彦の命舞】

(れんだいこのショートメッセージ)

 備中神楽のメインは国譲り譚であるが、猿田彦の命が格別に位置づけられ盛られている気配がある。猿田彦の命とは何者か、備中神楽は何ゆえ重視しているのか、これを愚考する。

 【猿田彦の命舞】

 猿田彦の命舞は、出雲神楽考で確認したように出雲神楽の本家本元となる佐陀神楽を発祥させた佐太(陀)大社の祭神・猿田彦の命を敢えて登場させる舞である。その舞には日本古来の武術の原型が組み込まれており、その勇壮な舞は鎧下太鼓に合わせて演じられる。

 その出で立ちは、面は眼光鋭く目が赤くホオズキのように輝いており、鼻は天狗鼻、赤ら顔、猿づら、髪は白髪をしている。赤地に金銀を配した鎧を着けており、下半身には、袴を着けている。腰に刀を差し両手に扇子をもっている。これは何を証しているのだろう。何かをメッセージしているのだろうが分からない。

 サルタ彦の命は、記紀神話に拠れば、後の神武東征に繋がるニニギの命の天下りの際に、道案内役として登場する神である。その様子については、「日本神話考」の「天孫降臨神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/tensonkorinco.htm)に記している。

 記紀神話は次のように記している。「ニニギの命が天降り始め、地上へと続く道が八本に分岐する天の八またのところに差し掛かったとき、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす見たことのない一人の神が道に立った。アメノウズメが呼ばれ何者であるか探った。アメノウズメ「これからアマテラス様のお孫様が天降りする道に、遮るごとくにそこに立っておられるあなたはどなたですか?」。サルタ彦「私は国つ神のサルタ彦(猿田昆古)と申します。アマテラス様のお孫様が天降りされるとお聞きして先導したいと思い、こうして出てきたのです」。

 かくて、サルタ彦が水先案内することになった」。天孫族の不審を解いたサルタ彦の命は広矛を受け、皇御孫ニニギ命一行を日向高千穂へ案内すると共に、陸路、海路の導き守神となる。

 そのサルタ彦の命が、備中神楽に於いて格別に位置づけられているところが興味深い。れんだいこがこれを判ずるのに、古事記では「猿田昆古」と書かれているが、佐太(陀)大社の「佐太(陀)彦」と読めるのではなかろうか。「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」と形容されているのは、高天原と葦原中国の双方に事情通であったという意味であろう。

 思うに、サルタ彦は、大国主の命が形成した統一出雲王朝前の元出雲から原出雲王に関わる時代即ち旧出雲時代の統領格の系譜の者ではなかろうか。猿田彦の命舞をもって神事が終わるのも、昔からの神様であることを示唆しているのではなかろうか。

 その猿田彦を擁する原出雲勢力はこの間、スサノウ-大国主の命と続く統一出雲王朝即ち新出雲時代になるや影が薄くなり、要するに冷や飯を食わされる立場に追いやられていたた。高天原王朝系天孫族の降臨は、これと組むことによりかっての王権を復興せしめる絶好機会でありと判断して、自ら案内役を買って出たのではなかろうか。こう理解すれば、サルタ彦の微妙な立場、動き、その後の大和王朝創建と共に使い捨てにされる末路等が整合的に理解できることになる。

 れんだいこは、サルタ彦の命を出雲王朝史に於けるスサノウの命登場以前の元々の地元神であり、スサノウの命の王位を継承した大国主の命王朝と一定対立関係にあり、そういう事情から高天原王朝の天下りの際に先導役を引き受けたと見なしている。それは、高天原王朝にとって願っても無い助っ人になったと見なしている。そういうサルタ彦の命を格別に登場させ神楽舞させる備中神楽は、出雲王朝史を丹念に歴史的に伝承していることになろう。

 猿田彦の命の舞う剣舞を、剣舞の原形とする見方があるようである。れんだいこは、例え神楽的にはそうであっても、剣舞の本当のモデル(ひな形)では無いと思う。「猿田彦の舞」を剣聖的に格別評価するのは、いわゆる当局の目を眩ますカモフラージュではなかろうか。荒神鎮魂の剣舞とあらば「猿田彦の舞」と云うよりも、国譲りの際に於ける「建御名方命の舞」と受け止めるのが自然ではなかろうか。こうして、表向きは「猿田彦の舞」としつつ実際には「猿田彦の舞」に建御名方命を仮託させ、「国譲り時の建御名方命に纏わる武闘史」を秘かに伝承してきたというのが裏史実なのではあるまいか。

 2008.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評449 れんだいこ 2008/08/07 19:36
 【神楽考終わりに】

 急遽思い立って神楽考に取り組んでみた。役行者考から来る流れであった。どちらも知らぬよりは知っておきたい歴史事項のような気がする。思えば、れんだいこは、こういうところの知識を全く知らぬまま今日まで過ごしてきた。いつまで経っても教科書的な歴史書に載らないのなら、自前の歴史書を作り出す以外にない。道は遠いが少しずつ整備されている気がする。

 サイトを次のところに設けた。後日何度も書き換えようと思う。それにしても何人かは読んでくださっておられる皆様方の無反応なところが気に掛かる。れんだいこの議論下手によるのかと反省するものの恐らく直らない。困ったことではある。

 古代史考
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/kodaishico.htm)
 日本神道考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/nihonshindoco.htm)
 神楽考
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/kodaishico/nihonshindoco/kaguraco/kaguraco.htm)

 2008.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評450 れんだいこ 2008/08/11 00:07
 古代史ばかりに夢中になるわけには行かないので再び現代政治批判に向かうことにする。但し、その際の観点を磨くと云う意味で、再び「戦後学生運動論」に戻る事にする。約束からすればブックにできるぐらいの体裁にしておかなければならないのだけれども、もう少し見直したいと思う。

 れんだいこは、ネットの能力を最大限駆使し、それを引き出す方法を考えている。そこで、サイトに晒し、皆様方からの意見を聞かせてもらい、再度練りなおすのを良しとしている。仮にブックになったとして、サイトに晒しているのであればそれを読めばよいという考え方もできようが、れんだいこは違うと考えている。

 パソコン上で読むのとブックで読むのとでは読み方が違う。手ごたえも違う。ブックならいつでもどこでも仮にトイレにでも持っていける。赤線、黄線引くのも自在で、どこまで読んだか折り曲げることもできる。当然書き込みもできる。パソコンではこうは行くまい。但し、パソコンには情報を膨大に乗せることができる等、パソコンならではの利点もある。

 となると、情報程度のものはパソコン上に記しておき、それを凝縮するのはブックと云う使い分けが正解かも知れない。材木資源の無駄を省くという意味でも、そういう使い方が期待されているのではあるまいか。そのパソコン上にも著作権がやかましくなっているので自重自戒せねばならないのではあるけれども。

 もとへ。「れんだいこの学生運動論」は下記の通りです。今見直して書き換え中です。ご意見頼みます。まず資料を集め、基本情報を抜き書きして、それにコメント付けるという作法を確立しました。この手法は、れんだいこ式でとても重宝です。パソコンあればこそできる訳で時代に感謝しております。悪筆のれんだいこには特に有り難い。

 戦後学生運動論新版
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/)
 戦後学生運動史論
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/top.htm)
 れんだいこの概略戦後学生運動史論
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/gairyaku/gairyaku.htm)
 この概略論を見直し中です。

 2008.8.10日 れんだいこ拝

Re:グルジアでの戦争の件 れんだいこ 2008/08/12 23:30
 えこねさんちわぁ。グルジア情勢ですが、詳しいことは分かりません。今は成り行きを見守るばかりです。思うに、歴史的事情と、現下の政治局面の裏にあるものを嗅ぎ取る必要があるやに思います。その昔よりバルカン情勢が火薬庫であるように、あの辺り一帯がキナ臭い。反戦平和論だけでは解決しない現実があるようです。

 一つのスタンスとして、東欧の民主化が叫ばれたとき、多くの者はそれを支持しましたが、結果から見ると、人民大衆的には馬鹿らしいものでしかなかったことが判明しつつ有ります。それが証拠に、対イラク戦争に、これらの東欧諸国が米英ユ側に加担して派兵させられております。東欧の民主化とは、そのようなものでしかなかった、と云う見方も必要だと思います。

 れんだいこは、グルジア情勢そのものについては全く知識が有りません。おおまかに、東欧民主化的連鎖としてのロシアからの分離独立と、それを許さないロシア側の鉄のカーテンの二項対立が続いているのではないかと思っております。これ以上のことは分かりません。教えてもらいたいぐらいです。

 2008.8.12日 れんだいこ拝

Re.現代中国をどう捉え評するか えこね 2008/08/13 17:19
 毛沢東(まおつおとん)から 胡錦トウ(ふーちんたお)までの派閥の歴史と経済発展の比較(開放政策[鄧小平]と守旧派)が分からないので私には何とも説明が出来ません。すみません。確かに難問です。

 党が軍や政治を指導する体制には違いは無いようですが。。。政治局員とかの類で。共産党の独裁で一貫しているというか何と言うか。ですねぇ。

Re:Re.現代中国をどう捉え評するか れんだいこ 2008/08/13 21:06
 えこねさんちわぁ。現代中国論ですが、れんだいこは「文革考」を手掛けましたが中断しております。時田氏の貴重な論考が為されておりますが、読みきれておりません。れんだいこの観点は確立されておりますが、それを裏付ける内容を持ち合わせておりません。これをやるとなると膨大な時間を食いそうで、敬遠しております。

 結論的に云えば、日共史の中で徳球系から宮顕系に転換したように、毛系から鄧系に指導部が代わり、その鄧系は現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義に通じている、分かり易く云えばロス系に組み込まれたのではないかとの観点を持っております。但し、これを徒に否定批判するばかりでなく、そうなった内的必然性とか進歩性反動性を総合的に見て取り探らねばならないと考えております。返す刀で、現代日本を捉え直すと云うことが必要ではないかと考えております。

 しかし、これを論証的にやる事は大変で片手間ではできません。凝り性のれんだいこはこれを恐れて打ち切っております。人の評論なら気安く読めます。但し、鄧系礼賛論ばかりなので食傷しております。日共不破の文革否定、鄧化中国礼賛論なぞは噴飯ものです。大なり小なりこの観点ばかりが受け入れられておりますが、情報統制の臭いを感じております。その中でもサンケイの文革特集は資料的に値打ちものでした。新聞連載が単行本になり買っておりますが、まだ読んでおりません。そういうところです。

 2008.8.13日 れんだいこ拝

Re:グルジアでの戦争の件 こげぱん 2008/08/17 21:55
 れんだいこさん こんばんは

 グルジア情勢について、ブログ記事書いてみました。長くなりますが、ブログともどもご笑読いただければ幸いです。

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 ttp://ameblo.jp/sunshine-berkeley

 2008-08-16 18:45:23
 サーカシビリ大統領が蘇らせるヒトラー電撃外交
 テーマ:国際関係

 (Written by こげばん)

 平和の祭典・北京オリンピック開催に水を差す形で開戦した南オセチア紛争。

 アメリカのシンクタンクや日本マスゴミの論調では、先に手を出したグルジアではなく、何故かロシアが悪者扱いされているが、南オセチア紛争開戦前のサーカシビリ・グルジア大統領の行動を良く見ると、先制攻撃の天才・ヒトラーを彷彿させる手際のよさが目に付く。まずは開戦前のサーカシビリ大統領の行動からみることにするが、
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 ttp://critic5.exblog.jp/9269246/#9269246_1
 しかも8月8日という北京五輪開催日を選んでいる。これには意味がある。五輪に集中している中国が国連で身動きがとれず、安保理でロシアを完全に孤立状態にさせることができる。

 8月8日はロシアの事実上の最高指導者であるプーチンが北京にいて、モスクワでロシア軍首脳と国防会議を開けず、情報収集と作戦指令を出す環境に不具合がある。無論、現地の南オセチアでは情勢は緊迫していて、8月6日には自治州の独立派勢力とグルジア治安部隊の間で小競り合い的な交戦状態が起きていたが、この直後の8月7日(日本でのニュース配信時刻は8月8日1時24分)、サーカシビリは「一方的停戦」と「南オセチアへの自治権拡大提案」の演説を行い、ロシアを巧妙に欺いている。つまりは騙し討ち。

 8月8日の10時23分までにはグルジア軍は州都ツヒンバリを完全に包囲、ミサイル攻撃の集中砲火で市街を無差別攻撃し、1400名の死者を出している。問題はまさに、この1400名を超える死者という点だろう。(出典:「世に倦む日々」)
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 何か絶妙のタイミングを見計らったような、からくり細工のような精緻極まりない流れるような手際のよさに目を奪われたが、これをポーランド侵攻前夜のヒトラー外交と比較すれば、その類似性が一層際立つ。
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 (1939年)
8月23日 独ソ不可侵条約締結
8月24日 ドイツ軍、戦闘序列下令
8月25日 ドイツ巡洋艦、旧ドイツ領ダンチヒ(現グダニスク。当時ドイツ-ポーランドの係争の焦点であった。今日の竹島のようなもの。)に「親善航海」で入港。
8月25日-9月1日 密使ダレルスによる対イギリス和平(切り離し)工作
8月30日 ドイツ、ポーランドに16項目からなる和平提案提示、ポーランド代表の即時ベルリン訪問を要求。
8月31日 ドイツ、ポーランド代表未着を理由に交渉打切りを発表
8月31日 ナチス武装親衛隊(SS)、ポーランド国境グライビッツでポーランド軍国境侵犯事件を自作自演
9月1日 ドイツ軍、ポーランド侵攻。ワルシャワ空襲。

 (出典:児島襄「第2次世界大戦 ヒトラーの戦い」)
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 これを見れば、ヒトラーもサーカシビリ大統領も和平を演出しながら抜かりなく軍事作戦を準備して、最高のタイミングで侵攻に踏み切っているのがわかる。

 さて、いかにサーカシビリ大統領がヒトラー流「天才的手腕」を有していたとしても、小国グルジアが単独で大国ロシアに強気の外交を挑めたか、という疑問が残る。

 この点については、イスラエルHaaretz紙がイスラエルのグルジア支援(イスラエル自慢のメルカバ戦車供与、民間軍事会社によるグルジア軍訓練)を具体的に報じていて興味深い。以下一部引用する。
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Israel predicted Georgia and Russia headed for war in 2007
ttp://www.haaretz.com/hasen/spages/1011344.html

Israel decided to scale back its arms deals with Tblisi in late 2007
because it believed Georgia was heading toward an armed conflict with
Russia.

The defense and foreign ministries started ordering military exports to
Georgia be cut last year, thwarting a major deal for Israeli-made
Merkava tanks.

Privately-owned Israeli military contractors, like those operated by Major
General (Res.) Yisrael Ziv and Brigadier General (Res.) Gal Hirsch,
continued training Georgian security forces, though they had reduced
their activities over the past few months.(後略)
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 またアメリカ有力シンクタンクCSISは下記レポートでロシアの「汎ユーラシア覇権主義」を非難した上でレポートをこう結んでいるが、
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ttp://www.csis.org/component/option,com_csis_pubs/task,view/id,4752/type,1/
Georgia: Epicenter of Strategic Confrontation

The Russia-Georgia war has become a test case for EU and NATO unity and
their effectiveness in dealing with a major crisis in the wider Europe.
An inability to pressure Russia to withdraw its troops, to emplace an
international peacekeeping mission in Georgia’s disputed territories, or
to restore Georgia’s territorial integrity will send a negative signal
to all nearby states threatened by Russia’s expansionism. It will also
encourage Moscow to pursue more vigorously its broader “Eurasian” agenda.
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 裏返せばこれを機に、(アゼルバイジャンから西欧への石油パイプラインが通る)グルジアの紛争地域にNATO主体の平和維持軍を駐留させ、あわよくば南オセチアをグルジアに再統一させ、さらにはロシアを封じ込めることを望んでいるとも読める。

 いずれにせよ、サーカシビリ大統領は西側諸国の各種援助を期待し得る立場にあり、それが大統領の強気の戦略の裏づけとなっている可能性は捨てきれない。

 かつて朝鮮戦争前夜、米国務省ダレス顧問(のち国務長官)は38度線を視察して、李承晩・韓国大統領に
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ttp://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/251_300/275_07.htm
「いま始まろうとしている偉大なドラマで、貴国が果たすことができる決定的な役割を大いに重視している」
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 と述べたと言うが(開戦はその5日後)、サーカシビリ大統領が西側諸国などの支援に気を大きくして、李承晩の二の轍を踏み、最悪WW3を招きかねない危険な地域での戦火を拡大することのないよう強く自制を望みたい。

 おまけ:アメリカ・ネオコン系シンクタンクAEIでのサーカシビリ大統領演説要旨

Georgia after the Rose Revolution
AEI Newsletter
Posted: Thursday, August 24, 2006

ttp://www.aei.org/publications/pubID.24819,filter.all/pub_detail.asp

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 (コメント by sunshine)

 ■グルジアの背後にはアメリカありと元CIA幹部
bill

 アメリカとイスラエルが”ブラザー”なら、ロシアとイランは”ブラザー”である。”情報・心理戦”が、イスラエルの得意分野なら、イランもイスラエルの向こうを張るくらい、その分野にかけては”負けていない”のだ(笑)。

 そのイランの「Press TV」が、8月14日、CIAの元上級政治アナリスト、ビル・クリスティソン(Bill Christison)のコメントとして、「アメリカがグルジアの背後から南オセチア攻撃を行うよう差し金をした可能性は大いにある」と彼が語ったとの記事を掲載している。

 ttp://www.presstv.ir/detail.aspx?id=66624§ionid=3510203

 顔写真がちゃんと入っているので、まんざらすべてが捏造記事ということもないだろう。

 日頃から笑わないプーチンではあるが、オリンピック開会式での彼の表情からは何とも苦々しい表情が読み取れたし、ロシア選手団が入場してきてもしばらくはにこりともせず、苦虫をかみつぶしたような顔をしており、やっと立ったかと思う間もなくすぐに着席した。

 それに比べ、ブッシュは全く対照的で、長い間立ち、愛想を振りまき、大はしゃぎだった。まるで「やってくれたか、イヒヒヒヒ…」とでも言わんばかりに。彼は芝居が下手だから、すぐに裏心が透けて見えるので、分かる人には分かったのではないか。
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 (レス by こげばん)

 ■ロシアに遅れをとったアメリカ外交

 この情勢下北京に4日も滞在したブッシュが、とりあえず停戦が成立した今頃になってこのようなこと言っておりますが(Haaretz)、
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 ttp://www.haaretz.com/hasen/spages/1012079.html

Last update - 17:46 16/08/2008
Russia signs cease-fire agreement with Georgia

Bush: Russia's actions in Georgia 'completely unacceptable'

U.S. President George W. Bush called Russia's actions in Georgia "completely unacceptable" and said that Moscow must end the crisis.

"The world has watched with alarm as Russia invaded a sovereign neighboring state and threatened a democratic government elected by its people," Bush said in his weekly Saturday radio address, which the White House released on Friday.
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 北京で「やってくれたか、イヒヒヒヒ…」とほくそえんでいる間にロシアの反撃が成功するなどとは想定外だったのか、対応が後手に回っている印象を受けます。

 イラク戦争の時もそうでしたが、このところアメリカが描く絵は極めて雑なものが多く、近い将来アメリカがさらなる大失敗をしでかすのではないかと不安にさせます(アメリカがボロボロになった後は、多極的新世界秩序に移行してロシアなどを封じ込めるというシナリオはあり得ると考えておりますが…)。

 マスゴミで巻き返しを図る? アメリカ

 外交戦ではロシアに遅れを取ったアメリカですが、外交の遅れをメディアで取り戻そうとしているのか、西側メディアではロシア非難の論調ばかり目に付きます。

 とりわけかの愛国心溢れるFOX Newsなど、ロシア軍に救出されたSFの少女のことを報道しなかったようです。

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ttp://www.russiatoday.com/news/news/29075

August 15, 2008, 21:46
Fox News cuts American child for thanking Russian troops
A 12-year-old American girl visiting relatives during the conflict in South Ossetia has thanked Russian soldiers for saving her from the Georgian attack. However, America’s Fox News attempted to cut her and her aunt off air.
ttp://jp.youtube.com/watch?v=5idQm8YyJs4

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 マスゴミの堕落は日本だけのことかと考えていましたが、どーやら認識を改めたほうがいいのかもしれません。
こげぱん 2008-08-17 01:17:38

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 (レス by sunshine)

 ■多極的新世界秩序への移行もまたよしかも

 ブッシュの任期もあと4,5か月。下記のビデオのようにオリンピックでアメリカ男子バスケットの試合に“ダディー”ともども観戦し、おまけに“憧れ”のドリーム・チームのメンバーとタグを組み、”Go!"とか言って興奮している姿を見ると、グルジアをそそのかし、あとは”さあ、自分は関係ないね” とポーカーフェイスを決め込んで、残りの任期を思い切りエンジョイしようとの魂胆がみえみえです。

 ttp://www.huffingtonpost.com/2008/08/10/usa-beats-china-in-olympi_n_118006.html

 9.11の時も幼稚園か小学校にいて、子供たちに絵本を読んでいる最中にニュースを耳打ちされ、眉毛を少し上にあげただけで、また黙々と絵本読みを続けた(笑)。普通に考えれば、国家の一大事だという事件に対して。あの時も普通の常識人なら「おかしい」と思ったはず。しらばっくれる時の表情はもう、慣れた人なら読み取れるほどにまでなっているのです(笑)。

 ブッシュ後は(多分、オバマが次期大統領になるでしょうが)、さまざまな言説を見ても分かるようにオバマがヨーロッパ勢の言うことを聞いて、多極主義を推進することでしょう。世界をブロックに分け、その中で秩序を保つ。”かつて”のアメリカの一国主義的覇権主義がまかり通るよりも、これの方がましでは?ただし、これらのブロックの総元締めにあの連中がいなければの話ですが(笑)。

 これに対してロシアや中国がどういう反応を示すか。“20世紀のアメリカ”のような”覇権主義的超大国”を目指すか?ロシア人はもともとは農耕の民。メンタリティーの点ではアジア系に近い。そこまでの貪欲さはないのでは?ユダヤ系ロシア人がシャシャり出ないかぎりは(そうさせないようにプーチンが頑張っている様ですが)。中国人はあのオリンピックの開会式を見る限りでは、相当にアグレッシブで騎馬民族的。しかしアメリカのような“超大国”を目指すにはまだまだ基礎が整っていないのでは?

 いずれにしても石油欲しさに“民主化”と”カラー革命”という偽善的なキャッチフレーズで、地政学的・軍事学的に重要なコーカサス、東欧、中央アジアのすべてを我が物にしようとしている(または、していた)アメリカの野望を打ち崩すというロシアの思いも分かりすぎるほど分かる、そんな今回のいざこざでした。

Re:グルジアでの戦争の件 れんだいこ 2008/08/18 19:12
 こげぱんさんちわぁ。グルジア情勢についてのご示唆、為になりました。とりあえず御礼をば。




(私論.私見)