カンテラ時評14(391〜420)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝



Re:れんだいこのカンテラ時評341 れんだいこ 2008/04/07 00:09
 こげぱんさんちわぁ。

 角栄の日本列島改造案は、日本のみならず世界各国の社会構想として普遍的な教本になっていると思います。それにわれば、25万人規模の中核都市を作り、農業と工業、流通を有機的に結合しようとしていると思います。これは自然、都市と農村の格差是正にも繋がります。れんだいこは、社会主義的政策だと考えております。その後の社会変化に対しては、当然それに応じた構想を打ち出したと考えます。

 スーパーには長所もあれば短所もあります。百貨店然りです。通販やネット販売も然りです。問題は、そういう新事象に応じた小売業の革新が進まねばならないところにあります。相対的に弱い中小零細に対しては、行政が後押しすれば共存できる、できたと思います。問題は、行政が無慈悲に切り捨て、強いところに巻かれて迎合することにあると思います。かといって、進出反対は逆行対応だと思います。

 中内氏の悲劇は、強気一辺倒で規模拡大に走り過ぎたことにあると思います。但し、中内氏のそれまでの経験からして、いずれインフレが来て結果的に強気経営が成功すると確信していた訳で、それは景気循環史的には正しい。ところが、1980年代の中曽根政権以降、政治が国内の経済発展を支援しないどころかブレーキを掛け続け始め、為に長期低迷不況に陥り、中内氏のそれまでの経験による積極経営が裏目に出てしまいました。中内氏の悲劇は、そういう政治の潮の変わり目に対して無知覚だったことにあるように思います。れんだいこに云わせれば、政治の犠牲者です。それと、経営者が政治にも関心も関心持たねばならないことを示唆しているように思います。自民党のハト派政権が続いていたら、さらに驀進していたでせうきっと。

 道路投資について一言すれば、街づくりはやはり道路から始まります。道路効果は他の様々な投資より一番福利効果が大きいと考えるべきです。最近、道路は既に充分整備されたとかの論が罷り通っておりますが、違うと思います。まだまだやりたい、やらなければならない道路がたくさんあります。基幹道路だけでなく、准基幹道路、生活道路まで視野に入れれば永遠に続くべきだと考えます。人民大衆が利用し易いようにできれば無料が望ましい。これをやるのが政治だと考えます。

 次に、鉄道や港湾や空港やいわゆる箱物や公共下水や環境保全や等々の社会基盤整備を進めねばなりません。日本は、軍事に予算を注ぎ込むより、こういった整備に向かうべきです。その技術を輸出すべきです。これに応じて産業立国、技術立国、貿易立国、平和立国の日本が自ずと生まれ、世界に枢要な地位を得られると思います。米英ユ同盟の使い捨て傭兵化の道葉は日本を破滅させると思います。

> 付加価値と正規雇用をもたらす産業を振興して、ストロー現象を阻止する必要があるように思えます。

 それはそれ。但し、流通近代化の意義は少しも変わらないと思います。ある意味で士農工商は正しく、士が良い政治をして指導し、農工商を支えるのが理想だと思います。ロッキード事件以降、日本はシオニスタンに乗っ取られ、連中の日本列島解体計画シナリオに沿った政治を続けております。与野党が翼賛会政治で、してはいけないことばかりに精出し、せねばならぬことを放棄しております。

 さしもの日本経済もギブアップ寸前です。暴動が起こらないのが不思議です。それというのも、ヤングの頭脳がシオニスタンテキストによりヤラレテシマッテイルからでせう。小手先の金儲けに忙しく、世の中全体を考える習慣が無いみたいです。それは我々の頭脳の反映でもあるからして、結局みんなヤラレテシマッテイルことになります。当たり前のことが斜視され、曲がったものが正義に見えてるみたいです。強権著作権論なぞ最たるものでせう。あれで次第にスポイルされつつある。れんだいこは拘るんだこれに。

 2008.4.6日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評342 れんだいこ 2008/04/11 19:52
 現実政治にかなり食傷気味のれんだいこは、偶然立ち寄ったコンビニで関裕二氏の「出雲抹殺の謎」を手にし刺激を得た。前半が特に為になり、後半は関流史観についていけなかった。それはともかく新たな知識を加えて「れんだいこの出雲王朝考」を「れんだいこ論文集」の中に採録することにした。従来、「れんだいこの日本神話考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/nihonshinwaco/nihonshinwaco.htm)の中に取り入れていたが一本立ちさせることにした。

 れんだいこは何を求めて出雲に向かうのか。それは、現下政治の逼塞を打破せんが為である。現下政治は、与野党ともどもシオニスタンに占拠され過ぎており、本質的に同じ穴のムジナの翼賛政治の中で政争を演出しつつ現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオ・シオニズムの指令に基づく日本改造計画に勤しんでいる。社共運動も例外では無い。彼らはその昔から飼われている可能性が強い。目下の全政党一致で道路特定財源の一般財源化に向かいつつある流れなぞその極みであろう。政財官学報の五者機関がこれを押し進めるから如何ともし難い。

 日本人民大衆は、これに抗する手立てを講ぜねばならない。先ず為すべきは、れんだいこが見立てるところ、我々の情報機関を創らねばならない。現下マスコミの愚民化マインドコントロールとネオ・シオニズムプロパガンダの一方的洪水に対処するにはこれしかなかろう。これを批判する段階は済んだ。今や、日本人民大衆は自前のマスコミを創造せねばならない。人民大衆的機関が送り手になるブック、テレビ、ラジオ、有線、ネット網を創出せよ。

 次に、ネオ・シオニズム的歴史観、社会観、これに基く選良政治に抗する為に、諸民族協和志向の別系の歴史観、社会観、これに基く共生政治理論を創造せねばならない。ネオ・シオニズムを対自化させ批判する仕事はまだこれからで、早急に取り組まねばならない。市井にあふれているのは、ネオ・シオニズム系テキストばかりで、学べば学ぶほど阿呆に成る。そういう阿呆な自称インテリがどこにもここにもあふれている。

 今や、日本人民大衆はネオ・シオニズム批判に並行して自前の思想を打ち出さねばならない。下手に洋物思想に被れず、それらは咀嚼する対象にせねばならない。こうした折に、我々が依拠すべきが出雲王朝下の史実にある豊富な諸果実ではあるまいか。れんだいこは、そのように考えている。

 戦前は、出雲王朝史を抹殺した上に成り立つ近代皇国史観に依拠した為に、愛国愛民族を云いながら却ってミスリードされたのではなかろうか。近代皇国史観はこの観点から批判されるべきであったところ、近代皇国史観の全的否定に向かった事により出雲王朝は却って更に奥深く隠蔽されてしまう結果に成ったのではなかろうか。本当は、戦前も現在も、出雲王朝史を受肉化すべきではなかったか。

 れんだいこはそのように受け止めている。ここにれんだいこの出雲王朝考の意義がある。これをれんだいこが独りで為せる訳ではない。共同作業が望まれている。これを通じて、日本の土着型在地主義的共生主義に基く出雲王朝的政治論を確立する。その成果を現代政治に適用していく事により初めて、シオニスタン政治と鋭角的に対決していく事ができるのではなかろうか。

 それができていない今は全くダメだ。ここに思い至っただけでも大いなる成果である。そんな風に受け止めている。諸賢のご意見求む。

 2008.4.11日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評343 れんだいこ 2008/04/13 20:03
 このところ強権著作権論者側からの著作権強風が吹き荒れているようである。いずれ、れんだいこの身にも及ぶのであろうが、信念のみならず弁論も鍛えておかねばなるまい。そういうこともあって、膨大になりつつある人生学院を細分化し言語学院に取り込んでいた著作権法考を一本化独立させる事にした。今後とも考察対象が増えそうだからである。

 著作権、著作権法考(
ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/tyosakukenco/)

 著作権問題は生半可な法理論では解けない、優れて思想性の強い分野の法理論であり、思想的に説き分けるところから論を起こさないと解決しない、それは太古以来の政争に関わっている、つまり人類社会を強権支配秩序化させるのか共生棲み分け化するのかを廻る闘争であり、それぞれが膨大な学的体系を確立していると見なしている。

 しかし、人類社会を強権支配秩序化させる側の支配のタガはあちこちでほころび始めている。彼らは貧富の差を極致化させ、地球環境を壊し続けており、人類の精神を過度に卑屈卑猥強欲虚栄に走らせている。既に行き着くところまで辿り着きつつあり、彼ら自身はもはや調御能力を失っている。だからして滅びざるを得ない。滅びなければパラノイア性を増すだけで、それは人類を更に悲哀にさせ、リバンドを強くさせよう。

 情況がこうであるからして、人類社会の共生棲み分け化が台頭してこざるを得ない。著作権法も実はそろそろ、共生棲み分け理論で再構築せねばならない。例えて云えば、現代パリサイ派が強権著作権論を振り回すのであるからして、我々はそれに滅法徹底抗戦したイエス派の理論を学び、共生著作権論を創造せねばならない。そういう段階を迎えている。

 こう立論せずに著作権法の藪を突くと、道を見失う事が考えられる。あるいは学んで、小難しい事を云うだけの偏屈理論を弄びつつ生を終える身に落ちてしまう。いっぱしの智恵がついた頃には我が身は後わずかだと云うのに、世の中にさっぱり役だたない生き方をするしか能のない人間になる。そういうのは嫌だ、というようなことを考える次第である。

 2008.4.13日 れんだいこ拝

Re:理論するゆとりがない今の若者 れんだいこ 2008/04/14 13:26
 パルタさんちわぁ。「今の若者は云々、昔は云々」し始めると、こちらが随分年取ってしまうので控えます。「今の若者が理論しない」のは事実だと思います。それは精神的には退行だと思います。但しこれは、意図的に作られている面もあるし、依拠し得る思想がなくなったことにも拠ると考えております。

 その昔の我々が依拠していたのはマルクス主義ですが、今から思えば言葉に酔っていただけで、理論を深めてはいない。辟易するほど難しく語ることで庶民大衆の知の欲求から離れており役立たなかった。それは、自信の無さの裏返しであったに過ぎない、そんなにたいしたものではなかったとか考えております。だから、その昔に議論した若者と議論しない今の若者の価値は同等と考えるべきではないでせうか。

 かといって、思想の価値が無くなったとは思いません。問題は、ユダヤ−キリスト教的な閉鎖的完結系の理論に依拠するのではなく、東洋的日本的な開放的受容系の理論を新創造すべきではないでせうか。我々が学ぶと云えば通常は前者的なものになるので、本当はあんまり意味が無い、というか却って脳がヤラレテシマウ。

 そこで、れんだいこは、読み書き算盤的実益知と、社会的経験知を踏まえたところから形成される処世学的思想を編み出そうとしております。しかしこれは大変な事で一人で出来るものではありません。それと、例の強権著作権理論が邪魔しており、彼らによると逐一「事前通知、要承諾制」に拠らざるを得ず、それも彼らに不都合な文章や記事の引用転載は罷りならぬという訳で、これでは学問が進歩しません。

 学問を担う立場の連中がこれをやるので、世の中転倒、倒錯しております。自身の著作物が世に流れたり喧伝されたり批判されるのは光栄のはず、無料宣伝を兼ねている訳ですが、それに対して著作権侵犯だ、削除せよ、中には対価を出せの三拍子合唱で身動き取れません。ご丁寧な事に、強権著作権論を理解しないのは野蛮人だとまで云う。

 れんだいこは、手前達こそ野蛮人で、知の世界の森に著作権槍持って分け入り藪を突き回っている姿がダブります。この手合いが跋扈すればするほど、議論が出来にくくなります。ネット掲示板のやり取りでさえ著作権が発生させられており、云いたい放題の相手の論に反論しようにも、相手に対する「事前通知、要承諾制」が要るんだと。これでは云い得云い勝ちになってしまう。ご都合な仕掛けにしております。

 そういうようなことから、現代は精神の萎縮症時代を迎えつつあるように思います。これは偶然ではなく、そういう風に誘導されており、知の自認者がこれを説いて回り水先案内している。世の中無茶苦茶だと思います。

 結局、若者も我々もよってたかって「理論するゆとりがなくされている」のではないでせうか。世のカラオケブームは、そういう時代の代償物になっており、これにも著作権法の法網が被せられつつあり、窮屈なことになりつつある。デモも暴動も起こらない。こんな時代に誰がしたんだ、礼賛するのもエエ加減にセンカイ。これが云いたかったのです。

 2008.4.14日 れんだいこ拝

Re:理論するゆとりがない今の若者 れんだいこ 2008/04/20 12:32
 パルタさんちわぁ。思想が深められないのは日本史の伝統でせうね。その分、定言的強制を持たぬ良い面もありますが、今日のように全体が萎縮衰微すると困りものです。但し、どう思想形成するのかが肝腎で、この方面に強いとされる西欧系の学問を習いす過ぎると却って阿呆になります。れんだいこはそういうことに気づき始めており、少なくとも原基的な日本思想、精神を知っておく必要が有ると考え模索しております。

 我々は、戦前の機械的反動で、戦後教育でこの方面の基礎知識さえ失われされてしまっています。これでは会話が成り立ちません。今からでも遅くない、必須知識は学ばねばなりません。れんだいこはそのように考えております。気づく事は、日本神話から何を学ぶかでさえ、俗流理解が主流でありあんまり為にならない。議論の積み重ねができておりません。これが現実実際のようです。

> 我々の知の体系は誰かの知識に基づいて成り立っているのであって、
> それら全てに著作権を言い出したらキリがないと思います。
> 極端に言えば、世の中には印税というものがあるのだから、それで五月蝿く言わなくても
> 良いのではないでしょうか。

 皆さん、ご存知でせうか。彼らが云うところの著作権侵犯には利息制限法さえ適用されず、暴力金融並みの莫大な損害賠償金を発生させております。これが罷り通って居るという現実が有ります。無茶苦茶なんです。これが近時の自称インテリの自称先進的文明流やり方なのだと云うからしてお笑いです。「ペンは強し」とは、ペン勢力がどこからもチェックされず第四超然権力として思うがままに世間を脅しつけたり説教することができる「王様の正義」を云うみたいです。

 その昔、織田信長が楽市楽座制で市場を活性化させました。目下の混迷から脱する為には、これを導入する必要があると思います。現在、国内市場は規制でがんじがらめにされ続けており、楽市楽座制は外資導入にのみ使われており、それは丁度人民大衆には痛みを伴う改革が押し付けられ、米英ユ同盟には思いやり予算がつけられ続け増えつつあるのと同じ構図です。

 この辺りまで視野に入れて、現下世相の思想の貧困の真因に迫りたいと思います。思いつくままに一方的に書いてみました。というようなことでまた。

 2008.4.19日 れんだいこ拝

Re:共済 れんだいこ 2008/04/16 19:18
 カラバさんちわぁ。本当にお久しぶりです。民衆自発的な共済制度が解体されたとのこと、「この国はリスクを恐れるあまり大切な何かをぶち壊そうとしている」との指摘承りました。れんだいこ的にはシオニスタン政治万能社会に誘われつつあるということになります。何とかせんといかんですね。

 それはそうと、れんだいこは今、最近通いだした公営温泉に行って参りました。入浴料600円と云う格安と露天風呂も含め全体的にのんびりとした良さを作り出しているのでお気に入りです。シオニスタンどもに云わせると、箱物行政の産物でケシカランらしいです。他にも簡保の宿などがありますが、これも批判の対象にされているようです。

 れんだいこは、道路も箱物もとても大事で、いけないのは料金が高すぎる事で、我々レベルが利用し易くすればとても調法なものと考えております。こういうものは個人の資産ではできません。我々が税金を納め、それが効果的に使われるなら、一般財源だろうが特定財源だろうが我々レベルでは関係ありません。天下りも一緒で、高給や退職金のウグイス渡りでなければ、我々レベルではどうでも良い事です。

 これが政治の手に掛かると、我々レベルではどうでも良い事にメクジラし、大いに関心ある事に対しては議論しなくなるようです。イージス艦事故騒動もそうでした。我々レベルでは、事故直後の救出活動の様子と行方不明になった因果関係が知りたいのに、その話題だけは避けて事故原因だとか報告の遅れだとかばかりを採り上げて大騒ぎし、それも三浦ロス事件騒動に誘導されてお仕舞いにされました。これに誰も異論を唱えない、おかしなもんです。

 運転しながら考えました。れんだいこが畏敬する角栄時代の政治は、政治と経済が連動しておりました。つまり、政治家が経済を知り、経済家が政治に関心を持っておりました。その例証として次の逸話があります。れんだいこが就職活動で銀座か丸の内辺りの商社を廻っていた時、昼食で喫茶店に入ったところ、隣の席で、商社の一団が「今フランスから帰ってきた。空港をたつときジスカールデスタンがこんな事を言っていた」云々とボスが話しかけており、周りの皆がフンフンと耳を傾けていました。

 あの時のことを急に思い出しました。さすがお江戸東京よと感心した事を思い出しました。それと、あの頃は政治と経済の歯車が噛み合っており、人間性の発露が素直と云うか正攻法だったんだなということに気がつきました。それに比べて今は逆で、政治が経済を知らず、経済は政治に関心を持たず、両者共々大衆生活に対する労りが無い、野党は批判するけれども選挙の票狙いでしかなく、みんなまとめてやる事為す事が逆なでしているように思います。これも一種の体制疲労ではないでせうか。

 問題は、これに抗する主体が無いことです。現下の与野党対立演出的芝居政治に食傷しているけれども、これを打倒し、これからは我々がこうやるんだという党派が生まれていないことにあります。この状態がいつまで続くのか、このままシオニスタンに呑み込まれ日本が解体されるのかどうか分かりませんが、何とかせねばならん事だけは確かです。

 というようなことでまた。カラバさんその他の皆さん、この掲示板を有意義なものに仕上げるために積極投稿お願いいたします。れんだいこの生あるうちに交流いたしませう。その昔、確かまーさんが、れんだいこは小さく叩けば小さく大きく叩けば大きく響くと云ってくれくした。ほんとに貴重な人物なんです。と自分から言うからダメなんかなぁ。

 2008.4.16日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評394 れんだいこ 2008/04/20 23:15
 【日本神話の最大の謎としての邪馬台国と出雲王朝の抹殺考】

 日本神話を渉猟してみて気づいた事がある。それは、記紀の日本神話のみならず古史古伝と云われる上古代史書の全てにわたって邪馬台国の記述が見当たらない事である。不自然極まりない。魏志倭人伝は、紀元3世紀頃の倭国の様子をかなり克明に記しており、卑弥呼の支配する女王国とその直接の統治国・邪馬台国についても言及している。倭国の様子の正確さからすれば、女王国及び邪馬台国の記述も然りで正確とすべきだろう。距離と方位の問題でなかなか辿り着けないのだけれども。

 ところが、記紀の日本神話だけならまだしも、既に幾多も世に出ている古史古伝でさえ女王国及び邪馬台国に関する記述が無い。これは非常にオカシナことである。記紀が何らかの事情で邪馬台国に言及し得なかったとするなら、古史古伝が訂正するべきだろう。ところが、この古史古伝にも記述が無い。気の遠くなるような超古代史に言及している割には肝腎な箇所の記述が欠落している。これは蜃気楼的幻である。

 それと同様に、記紀の日本神話に事あるごとに登場する出雲王朝についても、古史古伝も含めて正面からの記述が無い。正確には、れんだいこはそれら全てに目を通している訳では無いので、公開されている記述からすると無いということになる。これはとても不思議な事である。れんだいこは、そういうことに気づいた。

 邪馬台国と出雲王朝、両者がどのように関係するのかしないのか不明であるが、面と向かった記述が無い点で驚くほど共通しており、古代史上の最大ミステリーの双璧となっている。この点に注意を喚起しておく。どなたか為になる、為りそうなのでもよいから何か聞かせてくれないだろうか。

 れんだいこがこれに拘るのは、日本古代の原基的な社会の在り方、政体の在り方、古代人の生活の様子を知りたい為である。現下の政治の貧相を思うとき、別に理想視する訳では無いけれども、唐文明、西欧文明に汚染される前の日本的政治の良さと限界を見極めたい為である。

 ここをしっかり把握しておかないと、唐文明、西欧文明の吸収の仕方の偏向に気づかないのでは無いかと思っている。唐文明、西欧文明を知る事学ぶ事は大いに結構だが、鵜呑みにしてはいけないと思うからである。唐文明、西欧文明の限界が明らかになりつつある今、土着的在地主義的な共生主義に基く現代的価値観、政治論を生み出したい為である。

 穀物だって身土不二と云う。伝来のものが一番馴染んでおり、その良さと限界をうまく知りつつうまく漕いで行くのが望まれているのではなかろうか。その点、明治維新以来、戦後以来、我々は大事なことを知らぬまま駄弁ばかりしてきたのではなかろうか。日本左派運動が身につかないのは、こういう理由に拠ってではなかろうか。れんだいこにはそういう思いがある。何とか切り拓きたい。諸賢のご示唆求む。

 2008.4.19日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評395 れんだいこ 2008/04/24 19:10
 【再びジャスラック問題を訴える、ジャスラックの独占禁止法違反抵触考その1】

 2008.4.23日、公正取引委員会が、著作権管理団体の日本音楽著作権協会(JASRAC、以下ジャスラックと云う)に対して、テレビやラジオなどの放送局に音楽の使用料を一括して支払わせていることについて、同業他社の市場への新規参入や事業展開を不当に制限しており独占禁止法違反(私的独占)の疑いがあるとして、同協会の本部(東京都渋谷区)に初めて立ち入り検査した。

 ジャスラックは、作詞家や作曲家から著作権を預かり、音楽の利用者から使用料の支払いを受けて著作者に還元する業務を行っている。1979(昭和54)年、NHKや民放各局に対し、歌唱演奏放送が著作権侵害であるとして課金制を適用する旨通告し、これに応じた各社と契約を締結した。

 その際、番組内で流す楽曲の使用料については使用する回数が多いことと使用状況が把握しにくいことから流した回数や時間ごとに計算するのではなく、つまり実際の歌唱演奏に課金するというのはもなく、放送局の年間放送事業収入(NHKは受信料収入)に一定率(1.5%)を掛けたものを音楽著作権使用料として徴収する包括的利用許諾契約を締結した。

 ジャスラックは、各放送局のサンプリング調査をもとに、作曲家らへの配分を計算していると云う。しかし、そもそもみなし課金であるので、実際の配分はさじ加減にならざるを得ない。優遇配分される著作権者は良いとして不遇の著作権者からの不平は絶えない。これが問題とされ燻り続けているのが実際である。

 音楽放送分野の市場規模は年間約260億円で、ジャスラックは、約264万6000件の音楽著作物のうち約261万4000件を管理しており、シェア占有率は約99%となっている。2006年度は全体で約1110億円の音楽著作権使用料を徴収している。2001年以降に参入した事業者は数億円程度だという。

 音楽著作権の使用料を徴収し、作曲家や作詞家に分配する業務は、かってはジャスラックの独占市場だった。2001(平成13).10月施行の著作権等管理事業法改正で業者の新規参入が認められ、文化庁への登録制になった。現在イーライセンス等7社がすでに事業を開始している。

 関係者などによると、新規事業者は楽曲が使用されるごとに支払う個別処理方式での契約にしていたが、ジャスラックが包括契約方式をとってきたため、放送局はジャスラック以外に新たな追加支出コストが発生するのを嫌って新規事業者の管理楽曲の使用を控え、作曲家など権利者も新規事業者への楽曲の管理委託をとりやめるなどするため、新規のライバル社の参入を困難にしている疑いがあるという。こうして、参入はしたものの、ライバル社は使用料徴収額で圧倒的な差を付けられている。

 楽曲の使用をめぐる独禁法違反事件では、公取委が2005.3月、音楽配信会社への利用許可を不当に制限したとして大手レコード会社5社に排除勧告を出した例がある。

 ジャスラックは、こたびの立ち入りに対し次のようにコメントしている。

 概要「検査が入ったことを真摯に受け止め、立ち入り検査には全面的に協力している。具体的な容疑は分からないが、我々は適正に音楽著作権の管理業務をしてきた。検査の結果が出しだい、迅速に対応していきたい」。

 2008.4.24日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評396 れんだいこ 2008/04/24 20:06
 【再びジャスラック問題を訴える、ジャスラックの独占禁止法違反抵触考その2】

 れんだいこは、ジャスラックの解体再生を指針させている。この論法は靖国神社考と通底している。その趣旨は後で述べるとして、こたびジャスラックが「独占禁止法違反の疑い」で公正取引委員会の立ち入り検査を受けたとの報道が為されていることにつき見解を述べておく。これまでジャスラックは手前達が立ち入り調査することはあれ、初めてされる立場に追い込まれたことになり皮肉である。

 この事件をどう受け止めるべきであろうか。れんだいこは、ジャスラックが特有の著作権論を編み出し、課金制と暴力金融並みの強引な取り立てによる悪徳商法に走っており、その結果なるほど売上は定向進化で巨大化し続けているが、同時にその使用料金徴収実態が社会問題化しつつあり、そういうこともあってこたび公正取引委員会がようやく重い腰を上げざるを得なくなったと見立てている。

 れんだいこは、公正取引委員会の摘発とは違う面でジャスラック商法のイカガワシサを告発している。公正取引委員会は、独占禁止法違反で実態解明に向かえば良い。そもそも公益性の強い社団法人格であるはずのジャスラックが民間の営利企業さえ恥じろいたじろぐばかりの儲け商法に走り始め、市場独占し続けている不当性は糾弾されて然るべきと考える。政治家は、パーティー券をたくさん買ってくれるので知らぬ顔をしているという腐敗がある。

 れんだいこは、ジャスラックの偏狭強権的な著作権論に着目し、著作権法並びに音楽著作権法違反で実態解明に向かおうと思う。以下、れんだいこの趣意を述べる。

 ジャスラックは、著作権法並びに音楽著作権法が本来要請していない著作権侵害論を編み出し、人民大衆の音楽愛唱演奏にのべつくまなく課金し、その責任を店舗経営者に転嫁し、強引な取立で顰蹙を買い続けている。一体全体、人民大衆が歌唱演奏したとして、店舗がカラオケ機器を置いて営業利用したとして、何でそれが著作権侵害であるものかは。ジャスラックは本来、音曲文化の裾野形成として喜ぶべき事象に対し、著作権侵害だとして罵詈雑言しつつ取り立てに向かっているが、狂気の沙汰ではないのか。

 暴力団はその昔、恐いお兄さんやオジさんを連れてきて嫌がらせをしてミカジメ料を取り立てた。ジャスラックは暴力団の代わりに弁護士を連れてくる。それでもラチがあかないとなると法廷闘争で脅迫する。この時、請求額が、暴力金融さえ驚く高額請求に跳ね上がっている。これができるよう一応法律で通しているが、金銭消費貸借でもない著作権侵害で、金銭貸借上の延滞金利上限枠以上の暴利を取ることができるのかどうか。これを誰も問題にしていないが違法性が強いと云うか違法そのものだろう。仮に著作権侵犯だとして、金銭貸借以上の制裁を科すのは狂気の沙汰ではないのか。

 そういう問題があるというのに、裁判所司法はジャスラックに迎合的で、あたかも手足の如く立ち振る舞う。裁判官から書記官、執行官までがグルになっている。人民大衆は、ジャスラックの強引さに反発しつつも司法当局まで巻き込んだ権力の壁の前で切歯扼腕し、滂沱の涙を余儀なくされる仕掛けになっている。ここにジャスラック問題の由々しき深刻さがある。

 れんだいこはこれに闘う。ジャスラックの著作権理論にどこが問題があるか。これに答えられる者はそう多くは無い。むしろ、ジャスラック的著作権理論を最近流行の知的所有権論の一種として受け入れ、尻馬に乗って講釈したり薀蓄たれたり説教する者が殆どである。人は、文明的だとか先進的だとか知的所有権云々と聞かされると、これに異議を唱えると知性がないことを見破られるのを恐れて、分かったような顔をして相槌を打つ。これが、ジャスラック式著作権論をのさばらせる要因になっている。

 れんだいこは、ジャスラック式著作権理論の野蛮性を告発している。著作権槍で文化の森を突いて獲物を追う姿をダブらせている。何が先進的で文明的であるものかはと。これに合点する者が少ない、というか居ない。しかしながら、れんだいこの著作権論の方が数等倍洗練されていることがそのうち分かるだろう。今は堪えるしかない。

 ジャスラック式著作権理論の野蛮性は、音楽の奏でられるところなら何でも金儲けの対象とするところにある。歌唱演奏それ自体を著作権侵犯とする野蛮な法理論を構築している。問題の原点はここにある。しかし、考えてもみよう。本来の著作権法の引用転載条項は、1・「できる」規定している。2・但しとして同一性保持や著者名、出典元、引用先の明記を条件つけている。3・著作者が敢えて拒否するときその意思が尊重されるとしている。これを仮にソフト型著作権論と命名する。

 これに対し、ジャスラック式著作権論は、1・引用転載は原則として不可として理論構成している。2・利用するなら事前通知要承諾制であるとしている。3・引用転載するなら承諾の対価料を支払えとしている。こういう三段論法を編み出している。こうして課金制が生み出されているが、ここにマヤカシがある。これを仮にハード型著作権論と命名する。

 しかしこれは何もジャスラックのみが咎を受けるものではない。昨今の自称インテリの著作権論は皆これにシフトしている。従って、ジャスラック式著作権論は彼らの論法の当然の帰結であり、独りジャスラックのみが責められる筋のものではない。新聞協会の著作権論然り、出版協会、放送協会、各種学会の著作権論然りである。彼らは皆、同じ穴のムジナである。故に、ジャスラック的行き過ぎを咎められない。咎めれば、お前もナーと返答されるからである。

 違いがあるとすれば、ジャスラックが承諾対価料としての課金制をシステムアップして実践していることにある。しかも、弁護士を尖兵として裁判所を巻き込んで、云う事を聞かなければ利息制限法さえたじろぐ高額の懲罰金制裁を課し、更に延滞金利でも稼ぐと云う傍若無人、無法ぶりで取り立てている。つまり、理論的には他の業界のそれも似たり寄ったりだが、ジャスラックが傑出して理論を生硬に実践しているところに特徴が認められる。

 ならばどこが間違いと云うべきか。ここで、れんだいこが伝授しておく。そもそも著作権法は、人民大衆の著作権付き著作物の利用に関して対価制を認めたものではない。この観点をしっかり持つことが肝要だ。そもそも著作権法は、著作権者と版権所有出版者と同業他社との関係に於いて、海賊版を取り締まることから始発しており、当時に於ける在るべき姿を定めた権利調整法であると弁えるべきである。(ここでは、権力側が、不都合情報を規制する為に設けた経緯の面は問わない)つまり、業者間規制法であり、そういうタガハメされた法として生まれたものである。この観点をしっかり持つことが肝要だ。

 このようにして始まった著作権法がやがて一人歩きし始める。著作権法の打ち出の小槌的活用に目をつけた或る邪悪な勢力が、これを悪徳商法的に利用し、人民大衆の利用に対する課金制へと発展させたのが現代強権著作権論である。この理論は1970年代に始まり、80年代から強力に吹聴されてきているという経緯がある。今日では、こちらの著作権法の方が通念化している。

 この悪智恵を誰が付けたのかはここでは問わない。いずれにせよ、この飛躍は大いなる不正である。この観点をしっかり持つことが肝要だ。始発時点での著作権の目的趣旨からすると、著作権者と版権者の権利を擁護しつつ業界と目指す文化の健全な発展が義務付けられている。この後段の「業界と目指す文化の健全な発展」を阻害してまで著作権者と版権者の権利を擁護することまでは法が予定していない。にも拘らず、著作権者と版権者の権利を万能化させたのが現代強権ハード型著作権論である。この観点をしっかり持つことが肝要だ。

 それはあたかも、憲法9条が有りながら、警察予備隊が自衛隊となり国防軍とならんとしている現下の状況、防衛庁が防衛相となり、イージス艦が漁船を真っ二つにしても直ちに救助活動せず被害漁民を放置し行方不明に追いやった様と似ている。法や機関がどんどん本来の目的から疎外しつつある。著作権法も叉弁えのない方向にどんどん資質劣化させられつつある。

 れんだいこは、かく捉えている。だがしかし、このような著作権論が生まれず、現代強権ハード型著作権論に引きずられっぱなしで定向進化し続けているのが現下の状況である。何がうれしいのか知らんが、自称インテリは自分の首を絞めて恍惚している。その程度のインテリが多過ぎる。これを如何せんか。ジャスラックへの公正取引委員会の立ち入り事件は、この由々しき事態を考える記念すべき元一日にしたい。

 2008.4.24日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評397 れんだいこ 2008/04/25 21:40
 【世相雑感】

 世の中が次第に気難しくされ、本質的には重箱の隅的な軽いものが仰々しく批判罵倒され、本当に糾弾せねばならぬ中心的課題がやり過ごされ、徒に時間が浪費されて駄弁ばかりが行き交っている。高倉健、鶴田浩二、勝新太郎のどちらの言か分からなくなったが、右も左も真っ暗闇じゃごぜえませんか、嫌な渡世だなぁと云いたくなります。

 今日、久しぶりに或る人と話した。曰く、仕事がやりにくくなりました。もう調査も何もできゃしません。個人情報保護の行き過ぎを咎めているのだが、れんだいこに言わせれば、お上に思想が無くなったことに起因しているのではなかろうか。あれもこれもがつぎはぎで、何の為にどういう程度で適用するのかの弁えが無い。手加減知らぬ法と命令が押し付けられ、これまた手加減知らぬ役人により振り回され、業務停止、免許取り上げが横行し、拍手喝采されている。マスコミが、その尻を叩いている。

 道路財源問題だって、我々が要求しているのは、異常な石油高に対応する為に暫定税率の暫定凍結である。これが本筋なのに、与野党こぞって一般財源化の競いあいしている。福田政権が間もなく暫定税率の暫定凍結解除に向かうと云う。そして、道路特定財源が一般財源化され、どうせハゲタカに吸い取られてしまう。

 違いまんがなぁ。異常な石油高の上に暫定税率が掛けられたらガソリン価格は一体どうなるのか。公共料金値上げ、諸物価高騰、医療費負担増が重なると、このトリプルダブルパンチの複合威力はどうなるのか。弱き者よ汝臣民死ねということになるのではないのか。

 このままいくと本当にそうなってしまう。その危機感が無い。暴動も無い、デモすら消えた。その他方で一泊一千万円の芸能人を語って聞かせてくれる。昔の事ではない、れんだいこが生きている今こったらことが進行しているのが情けない。あぁ頭が重くのども渇いてきたのでこれぐらいにしてうがいしに行くことにする。

 2008.4.25日 れんだいこ拝

Reジャスラックの独占禁止法違反抵触考その2 松本哲 2008/04/27 03:46
 お久しぶりです。以前から著作権の考えでも基本的にれんだいこ党首の考えに全面的に支持してきましたが、理論的にはよく理解できなかったところがありました。しかし、今日この発言を熟読してよくわかりました。感謝します。今後もよろしくお願いします。

Re:Reジャスラックの独占禁止法違反抵触考その2 れんだいこ 2008/04/27 10:48
 松本哲さんちわぁ。ほんとにお久しぶりです。もっとなんでもかんでも積極的に投稿してくださいよ。僅かの党員が熱心に議論しているのを見て、入党者が増えるんだ。やっぱ我が党がせめてネット上でも良いから数十万規模の党にならないと世の中良くなりません。一騎当千として精鋭数百名が結集しないといけませんねぇ。

 れんだいこの著作権論に賛意賜り有難う。れんだいこが著作権論を重視するのは、これが我々の知育形成、能力練磨に棹差しているからです。しかもこれが意図的に日本人民大衆の愚民化政策として導入されていると思うからです。この種の著作権論、れんだこの命名するところの「現代強権ハード型著作権論」を熱心に推進しているのが、新聞で読売、政党で日共と公明党です。こういうところに馬脚が現われております。木村愛二さんが偽の友に気をつけろ云々と述べておられますが、まさにその通りです。

 話は飛びますが、これは松本さんに賛意を得られるのかどうか分かりませんが、同じような例に「道路特定財源の一般財源化論」を問題にせねばなりません。今や与野党一致で強力推進の競い合いをしており、反対派を抵抗勢力として指弾しておりますが、れんだいこが見るところ正義は逆です。

 道路財源を一般予算の中から特定財源にせしめた田中角栄の政治的指導力は歴史的小革命であり、この制度を維持することこそが正義です。現下の制度疲労的腐敗は田中−大平の戦後保守真正ハト派が解体せしめられて以降の政治腐敗であり、それとして是正していけばよい、一般財源に戻したからといって良くなるものでは無い、却って元の木阿弥に戻るに過ぎないと考えます。

 小沢党首は、基本的に道路行政の役目は終わったとしておりますが識見不足です。高速基幹道の第1次整備は終わった、これからは第二次整備に向かうとすべきでせう。準基幹道整備、一般道路の拡幅整備等々取り組まねばなら無い事は幾らでもあります。道路整備こそ、都市と農村の格差是正の第一歩だと考えます。先ほどストロー効果理論を教えていただきましたが駄弁です。ああいう手合いの学者がはびこるから世の中良くならない。

 政界は、与野党一致で「道路特定財源の一般財源化」に向かうことで混迷を深めております。野党が逆行批判悪リードしているので、何がなにやら分からなくなりつつ有ります。自民党が小泉政治の悪遺制で失点を重ねている時、これを批判すべき役割を担う野党が小泉政治の悪遺制政治推進を掲げるものだから、しっちゃかめっちゃかになりつつあります。

 あれやこれや考えると、現代日本政治は能力的に既に終わっております。自分たちが何を求めて政治しようとしているのか理念、倫理を喪失しております。現代国際金融資本の御用聞きを小泉派みたいに狂的なまでに熱心にやるのか、適当にやるのか、利権ばかりに走るのか、裏から協賛するのかの四派しかいない。いずれもお国の為にはなりません。

 こうなると今や、政治家は不要です。官僚、業界代表、労組、市民団体代表で国会質疑して事を進めたほうが安上がり且つ有効な対応ができるでせう。ワシントンが許さないのならワシントン代表も加えればよい。その方が正体がはっきりしてよい。というようなことまで考えます。政治家に秘書手当まで付けて巨額税金をつぎ込むのはムダというか愚の骨頂です。選挙費用まで含めると一体幾らになるのでせうね。

 結論。れんだいこは、仮に後15年達者としてこういう発言するとして、与えられた時間は13万1400時間です。一日のうち3分の1が自由になるとするとそのうち4万3800時間です。この僅かな余命をどう使うか考えております。この数式は皆さん一緒です。

 豊葦原の瑞穂の国と云われてきたほどに恵まれている世界が羨む日本をわざわざ住みにくくするのが政治だと勘違いしたまま骨折り、仕事した気になる自称インテリの愚昧狼藉に抗して別智別系の政治を打ち立てよ。面白くも無いこの世をば、甲斐ある生を分かち合うべく共に切り拓かん。

 2008.4.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評398 れんだいこ 2008/04/29 01:23
 【福田政治考】

 この辺りで福田政治考をしておきたい。福田政治の反人民大衆性は、4代続く旧福田派のイデオロギーと体質に根ざしている。福田自身のキャラは、森ほど極楽トンボでもなく小泉ほど狂的でもなく安倍ほど小児的でもない。良きにせよ悪しきにせよ議論が議論として受け答えできる点で一番安定感があるとも云える。とはいえ、出自が官僚でもないのにその頑迷固陋ぶりは官僚そのものである。

 現下の自民党が如何に愚昧にして資質劣化しているかについて言及しておく。一言で言えば、どいつもこいつも「行け進めの乃木将軍」になっており、政治政局が読めるリアリストが居ない。ワシントンから打ち出される指針書通りに動いてきたツケが自己撞着したものと思われる。

 山口補選の結果を見て危機感を痛痒する能力も無く、後期医療の負担当然論、ガソリン価格暫定税率の暫定凍結解除の申し合わせ、道路特定財源の一般財源化強力推進、公共料金及び諸物価高騰止むなし論、米軍思いやり予算継続論、ミサイル防衛網早急導入論、軍事兵器共同開発推進論、自衛隊の海外派兵国際責務論、原子力発電まだまだ続けるぞ論、消費税値上げ止むなし論、ハゲタカファンド更に導入市場開放論等々と書いているうちに、書いている方が嫌になる。

 これらは話したら分かるのだと云う。日共の、選挙敗北は、我が党の政策が浸透しなかったことによる、もう少し時間があれば勝利したはず、党中央は間違っていない論と何やら符合していて可笑しい。自民党の場合、「行け進めの乃木将軍」的であるだけまだ元気が宜しい。恐らくこのまま掛け声合わせて続々と断崖絶壁に驀進し続けてくれるだろう。れんだいこも期待している。

 それは良いのだけど民主党が気になる。前原だとかその他数十名は陰でこそこそせずに、お気に入りの小泉同志と新党立ち上げたらどうだ。元気があるなら飛び出せ。それが男ぞ女ぞ、度胸ぞ愛嬌ぞ。ワシントンの方で資金はたっぷり用意してくれてるがな。何をためらう。民主党はこうすっきりしてくれんかな。

 社民党よ。状況切開的に民主と組むのは正しい。問題は、手前の足腰を鍛えつつ共同戦線化する能力にある。能力の無いままやるのは、やらないよりはマシだけど、しっかりせぇよ。戦後史を少しは知る者からすると涙がチョチョン切れるぞよ。

 日共よ。山口補選に候補者立てなかったことは良い事なのに居直る事はなかろうに。お前のとこの役割は、自民党の万年政権に裏から手を貸していることは知れ渡りつつある周知のことだ。いつの間にかよりマシ論が消え、原則論に立ち返っているが妙な事よ。お前のとこが口先は別にして肝腎なところはいつも、本当は自民党内ハト派に徹底抗戦、タカ派に是々非々路線つうのは、これから知れるだろうよ。

 最後に公明党。すっかり神通力が消え、自民党のつっかい棒にならなくなったようだな。このツケは大きいぞ。もうもたもたするぐらいが関の山だな。生活与党の成れの果てがまもなく見えて来るだろう。

 2008.4.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評399 れんだいこ 2008/04/30 19:28
 【道路財源の暫定税率復活法案採決考】

 2008.4.30日午後、政府与党は、衆院本会議で、揮発油税(ガソリン税)などの暫定税率復活を盛り込んだ租税特別措置法改正案を与党の3分の2以上の多数で再可決した。投票総数は348票で、賛成336票、反対12票(再可決に必要な3分の2の票数は232票)。民主、社民両党は欠席。

 採決に至る経緯は次の通り。同法案は、2月29日に衆院で可決、参院へ送付された。参院送付後60日が経過したが、参院での可否が示されなかったことで「みなし否決」とされ、憲法の規定により衆院で再議決の手続きが取られることになった。政府与党は、採決に先立ち、憲法59条「みなし否決」規定の適用を求める動議を河野洋平衆院議長に提出、可決された。「みなし否決」規定による再議決は昭和27年以来、56年ぶり2例目となる。

 法案成立を受けて、政府は臨時閣議で、施行日を5月1日にする政令を閣議決定する方針で、ガソリン1リットルあたり25.1円の暫定税率が1カ月ぶりに復活する。

 ところで、民主党の中堅・若手の一部が、本会議前、衆院議長室前の廊下でプラカードなどを手に抗議活動を展開した。これをどう看做すべきか。これに言及する。

 れんだいこに云わせれば旧社会党的対応をしたことになるが、これはこれで良かろう。重要法案の場合、例え数の力で可決されると分かっていても、阻止ないしは見直しを求めて抗議行動することは、国会議員ないし政党の意思表示としてあるいは院外の大衆的抗議運動を含めて許容されるとすべきではなかろうか。

 問題は、口先で反対し採決に応じる、毎度繰り返される日共の対応の方にこそある。彼らの正義の弁に拠れば、国会は審議するところで、法案採決に当たってはとにかく参加するところに意義があるらしい。それならそれで徹底すれば良いのに、時に野党共闘に参加し妙な審議拒否をするからややこしい。。ここで、日共の採決に於けるオリンピック的精神によると思われる採決参加主義について、れんだいこの考えるところの意見を表明しておきたい。

 日共の採決参加主義は、結果的に政府与党による「強行採決」ぶりを隠蔽する役割を果たしているのではないのか。小泉の時もそうだったが、日共さえ採決していなかったら重要法案の悉くが強行採決になっており、小泉政権の強硬採決ぷりが際立つことになり、それとして問題にされたであろうが、日共の採決参加により隠されてしまった。日共の採決主義にはそういう役割がある。

 日共は、自称するところの科学的社会主義の政党である。れんだいこには、科学的社会主義になるとこういう対応になる、野党協議には応ずるが法案採決には出席すると云う必然性が分からない。日共式対応を是とすると、他の野党の対応は非科学的社会主義になるということなのだろうが、本当にそうだろうか。日共のヌエ的体質が露呈しているだけなのではなかろうか。

 日共のヌエ的体質と云えば、首長選挙、国政選挙に於ける独善的立候補主義により、与野党伯仲戦を自公候補を助ける結果となる幾多の例も然りであろう。何度煮え湯を飲まされたことか。先の参議院線での民主党の大幅躍進による与野党逆転が、今日の政局を生んでいることを否定できるものはいない。日共、社民党式な万年野党式アリバイ批判運動ではこうはならない。自公に代わる政権づくりの急務を確認すべきだろう。社民党は新政権づくりに時に協力するから良いが、日共の場合は自前政権創出の展望をますます後景化させるに応じて独善主義を強硬化させつつあり、結果的に変な役割を露骨に演じつつある。

 民主党が党内に改憲派を抱えていたり、自衛隊の武装海外派兵を後押ししたり、消費税率アップを推進したり、現下のように、揮発油税(ガソリン税)などの暫定税率暫定凍結論は良いとしても、道路特定財源を一般財源にせよという凡そ反動的対応で精力的に活動するから、民主党の意義が分からなくなり政治は混迷し続けるのだけれども。今は他に受け皿が無いのだから、ハト派的民主党を左から支える為にも、政界からのシオニスタン一掃の為にも致し方なかろう。実は与党も野党もシオニスタンばかりであるからこうはならないのだけれども。

 もとへ。我々はそろそろ、日共のこういう反動的対応の真因を究明し対自化させねばならないのではなかろうか。「共産党は支持しないけれども、一番良い事を云っている」と云う連中がまだ多いが、れんだいこに云わせれば認識不足も甚だしい。それは、戦前来の共産党の幻影を云っているに過ぎず、目下の共産党は、1955年の六全協で、戦後直後の党運動を指導してきた徳球−伊藤律系党中央を排撃し、野坂−宮顕が指導部を簒奪して以来、名ばかりの共産党で実はいわゆる日共化し始め、賢明なる人民大衆から顰蹙を買う運動しか組織していない。これは一事万事である。不破−志位と続く現下の党中央派はその末路でしかない。

 違う、こんな良いことをしているというものがあるなら、その論を主張して聞かせてみたまえ。れんだいこが、悉く論破してしんぜよう。仮に一部で良き事を唱えている場合には、なるほど口先ではそう云っているけれども、実際にはこういうことをしておりますよ、その真意はこうですよと説明してみせよう。

 だから、社民党、日共に代わる人民大衆の生活利益と国家及び民族の百年の計に違わない政策を持ち且つ運動を推し進める土着的在地主義的な新左派運動が必要なのだけれども、新左翼運動がこれに失敗して以来、次の運動が生まれていない。ここに本当の政治貧困がある。ここに早く気づいて共同戦線型の運動を各戦線から盛り上げるべきだろう。

 以上、こたびの道路財源の暫定税率復活法案の採決に鑑みコメントしておく。

 2008.4.30日 れんだいこ拝

Re:日共理論の反共性カルト性について れんだいこ 2008/05/06 21:11
 パルタさん皆さんちわぁ。今れんだいこは、5月連休を利用しての長旅から帰ってまいりました。今回は諏訪大社をメインにして昇仙峡やら富士の河口湖を散策して参りました。ガソリンがめっきり高くなっており忌々しく思いましたが、私の力ではどうすることもできません。道中有料高速道路の有り難味をひしひしと感じました。これなかりせば、二泊三日で帰還することは不可能だったと思います。願わくば、料金がもっと安く、現行の半額ぐらいにならんことを。

 こたびの旅で、日本アルプスの北と南の違いを確認する事ができました。やはり現地へ行かないと実感がわきませんね。諏訪大社も上社と下社が数キロも離れた別のところにあることを知りました。伊勢神宮の内宮外宮のように一応繋がっているのかと思っていたら、全く違う立地に有りました。縁起、由緒、故事来歴を記した本が有れば購入しようと思っていたのですが、神社の社務所売店には有りませんでした。無頓着なのか事情があるのかどうかは分かりません。

 それはそれとして、パルタさんの日共批判に補足しておきます。日共は、宮顕−不破以来、妙に倫理道徳道理を説くようになりました。この御両人がその資格の有る御仁ならまだしも、全く相応しからざる素行を見せているのに、頻りに倫理道徳道理を説き、党員が妙に納得している姿は既にカルトです。この不自然さに気づくべきですが、ン十年も罷り通っております。

> この社会はすでに崩壊しているのである。
> 日共の正気こそ狂気なのである。この国では今や狂気が正気であり、正気が狂気になりつつある。
> 殺人・心中・自殺が止まらないこの国には、日共のお上品な採決参加主義は似合わない。
> 民主・社民の行動主義こそがふさわしい。一度下げたガソリン代をまた引き上げ、混乱を繰り返す政府。

 人民大衆の政治とは為政者の政治に対する抗議であり糾弾であり、それらからくるところの政争であるべきです。その形態はいろいろあるべきです。れんだいこはそのように考えますが、日共の手に掛かると秩序整然としたデモであるべきで、口先アリバイ的批判、投票、議会主義で鬱憤を晴らすべきとしているようです。このベルトラインから外れる人民大衆運動には「左」から敵対し抑圧する癖が有ります。

 よしんばそれを認めるとしても、戦後政治に於いて英明な政治を担ったとれんだいこは考えている政府与党のハト派系政治に対しては徹頭徹尾反目し、ろくでもない政治に耽っていると考えているタカ派系政治に対しては宥和的です。ここが許せないところです。実例を挙げれば、読売の正力−ナベツネ系は戦後右翼の児玉−中曽根系と懇意ですが、宮顕も叉ナベツネ系とその昔から通じています。反面、角栄に対しては恐るべき牙を剥いた。これはなぜなんだ、と捉え返す必要があります。

 れんだいこは、ロッキード事件を究明しております。かの時、丁度今と同じように、右も左も与野党も検察も裁判所も学会もマスコミも、一部の例外を除いて反角栄の大包囲網を形成しました。こういう政治現象が起こると、眉唾すべきです。重要な事案に限って、こういう現象が起こります。そういう風に考えると、目下の道路特定財源の一般財源化も然りです。奇妙な政治現象が起こっていることを思うべきです。その背後に何があるのか究明すべきです。

 今、日本の政治は脳死状態です。この脳死がどこに漂着するのか、今後の政治流動はどうなるのか、新しい胎動が聞こえるのか等々に関心を持ちながらウォッチして行きたいと考えます。というようなことで叉。

 2008.5.6日 れんだいこ拝

元伊勢・元出雲 こげぱん 2008/05/06 23:12
 れんだいこさん、長旅お疲れ様でした。

 「出雲王朝考」に記述があった元伊勢・豊受大神宮は8年前くらいに、元出雲は5年ほど前に行ったことがあります。今日の伊勢神宮同様、元伊勢にも外宮と内宮があり、豊受大神宮が外宮、少し奥の皇太神宮が内宮となっています(天橋立・籠神社とは別。こちらが外宮という説もありますが)。
ttp://inoues.net/tango/motoise_shrine.html
ttp://kammuri.com/s1/motoise2/toyouke/index.htm
ttp://www.izumo-d.org/top.htm

 出雲神宮は西に移り、伊勢神宮は東に移ったあたりに、出雲王朝の衰退と大和王朝の勃興が読み取れるかもしれません。

 さて豊受大神宮も皇太神宮も妖気というか霊気あふれる神社でした。とりわけ皇太神宮の御神体、日室嶽は一部では「日本最大のピラミッド」といわれているらしく、荘厳な雰囲気に包まれていました。霊感が強いとかいう知人が天岩戸神社(皇大神社の奥宮)から日室嶽を遥拝したら「日室嶽からUFOが飛び立つのが見えた」そうです(笑)。
ttp://kammuri.com/s1/motoise/koudai/index.htm

 これは余談ですが、元伊勢は高速(舞鶴道)ではなく、車があまり通らない快適極まりない国道を高速並みにすっ飛ばして参拝してきました。元出雲もやはり、車も人も通らない立派な農道を高速並みにすっ飛ばして参拝してきました(すぐそばを「山陰高速」こと国道9号が走っているというのに(笑)。さらにその脇に「京都縦貫道」なる高速道路もありますが、わざわざ高速を使う車あるのかな?)。角栄以来の道路行政の賜物ではありますが、この地域の道路整備はすでに一段落し、「限界効用逓減の法則」の世界に入りつつあるのかな、という感を強く受けました。

Re:元伊勢・元出雲 れんだいこ 2008/05/07 15:20
 こげぱんさんちわぁ。元伊勢・豊受大神宮、元出雲のご紹介有難う。れんだいこはまだ行っておりません。
籠神社には行ったことがあります。

> この地域の道路整備はすでに一段落し、「限界効用逓減の法則」の世界に入りつつあるのかな、という感を強く受けました。

 これですが、第1次国道建設は終わったのかも知れません。しかし、第二次国道建設に向かわねばなりません。県道、市道の拡幅工事、バイパス道の建設にも向かわねばなりません。これらの工事は今後も永遠に続くべきものなのです。欲を言えば、けもの道に配慮して欲しい、環境適合型の工事にして欲しいと願っております。

 肝腎な事は、税金を国内の社会基盤整備に使うということです。港湾、空港、下水道、市民ホールその他その他が考えられます。これを仮に内治主義と命名しております。これを逆に言うと、税金を極力軍事防衛費、国際金融資本の要請するままの戦争支援費に使わせないということです。外地主義を戒め内治主義に向かったのが戦後日本の成功の基因であったと考えております。この基本を崩してはならないと考えております。

 今の状態で、道路特定財源を一般財源化すると、何の役にも立たないどころか海外から恨みを買う結果しかもたらさないあぶくゼニに使われてしまいます。社共は社会保障費に使うから云々と理屈をつけておりますが、それは願望であって何の保証もありません。いつも数の力で押し切られているではありませんか。この間、良い事を言っただけでは何の役にも立ちません。このことが見え透いているのにキレイごとで済ませている万年反対主義の野党が信じられません。

 そういうことが明々白々なのに、与野党こぞって道路特定財源を一般財源化する動きに対して、れんだいこは反対します。制度疲労はそれとして改革すれば良い、やる気さえあればすぐできることは五万と有る、民営化したらとか一般財源化したら良くなるというものではありません。それなのに、なんで急いでこぞって向かうのか。ここを疑惑するべきです。

 れんだいこはそのように考えております。それはともかく、こげぱんさんの神道学がかなりなものと分かりうれしいです。もっともっと教えてください。ご指摘ください。れんだいこは手探りです。思い立ったら吉日とばかりに見てやろう聞いてやろうしている段階です。今度アイヌ学にも向かおうと考えております。

 2008.5.7日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評400 れんだいこ 2008/05/10 21:07
 【時評400回記念はやはり角栄考】

 今日は久しぶりに角栄のことを強く思う。今角栄が居たら、日本の政治の現状をどう感慨するのだろう。れんだいこは惜しい事に、彼が幹事長、首相時代に東京に居たにも拘らず、今ほどには角栄を評価せず、従って門を叩いたことも無かった。日共流の角栄叩きに同調しなかったのがせめてもの救いだろうか。

 今の日本の政治家の首相、閣僚、重役を、角栄−大平時代のそれらに比べればめっきり見劣りし、いわば中堅辺りが首相だの次期首相候補だのを務めているのではなかろうか。それだけ全体的に力量が落ちたと思っている。与党系がそうだから野党系の出番かと思うと、野党系はそれより以下だったりして。ここに政治貧困があるような気がする。

 頼みは小沢だが、小沢自身の政策、識見を窺うのに、元々のDNA的地としての小沢と角栄薫陶の賜物としての小沢の両面から構成されているように思う。れんだいこ的には前者的小沢は詰まらない。後者的小沢に意義が認められる。実際の小沢は、両者をジグザクして綱渡りしているように思う。

 角栄薫陶的小沢をどう引き出し支援していくのか、れんだいこの関心はここにある。民主党の党内が角栄政治的なものに回帰しつつ日本政治を再生させていくのか、若手右派的な自民党より酷いシオニスタンの道のりへ傾斜していくのか、興味がここにある。

 これにより、民主党は将来分裂を余儀なくされよう。しかし、面白いのは、自民党もまた同じく分裂を余儀なくされ、いずれハト派とタカ派に再編成されていくことになるだろう。但し、互いに若干の敵方配置をする事になるので純化はしないとも思う。これが政治の奥深いところのように思う。

 そういう状況下にあっては、政治理念、姿勢、政策の切磋琢磨こそ命であり自由とすべきであるが、小粒ばかりの政治家になるとこれができない。重箱の隅のような話にばかり目が行き、話し合えば合うほど紐がよじれてこんがらがってしまう。その様は滑稽でさえある。当分そういう醜態とつき合わされそうに思う。

 例の道路財源問題においては、れんだいこは、1・暫定税率の暫定凍結。2・道路特定財源の一般財源化反対。3・官僚利権の総摘発・4・受益者負担に見合う受益者利益の創出つまり道路整備推進、有料道路の低料金化と云う政策を良しとしている。

 実際にはどうだろう。1については与野党対立。れんだいこは民主党政策を支持する。2については与野党一致。れんだいこは強く反対する。3、4については、これに若干ながらも触れている政治家を支持する。残念な事は、一番肝心な特定財源制の維持のところで、れんだいことウマの合う政党が無いということである。社共については何と、特定財源制の一般財源化を云い始めたのはうちが先と云いかねないほどの馬鹿馬鹿しい旗振り役だから論外。

 れんだいこ的には至極当然のこの政策がなぜ登場しないのだろう解せない。与野党が話し合うと云っても、道路財源の一般財源化を本年度中にやるのか来年に延ばすのかの駆け引きだから、どっちへ転んでも所詮くだらなさ過ぎる。そんな議論を百万回やっても何の意味も無いのに、さも真面目そうな顔してやってくれるのだろう。

 角栄が居たらどう云うのだろうか。道路特定財源制の意義は歴史的使命を終えたと云うのだろうか。馬鹿を云うでない、まだまだやることは幾らでもある。但しだ、目利きの俺が見ると100億の工事で済むものが何で500億の工事になるのだ。こんなことではどうにもならんだろうが、せっかく造っても料金が高くて通行しないのでは料金下げねばいかんだろうが、と云う可能性も有るだろう。ところがそういう議論は出てこない。二者択一式の芝居臭い対立ばかりしている。

 おっと、ここまで書いているうちにトップセールスの時間になった。テレビの時間だ。これから見に行こうっと。70年代の風景が出ていて結構面白いんだこれが。やっぱNHKには受信料払わにゃいかん。

 2008.5.10日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評401 れんだいこ 2008/05/14 18:32
 【道路特定財源の一般財源化本番を迎えて】

 2008.5.13日、道路特措法が賛成多数で可決、成立した。福田政権は引き続き、道路特定財源を2009年度から一般財源化する「構造改革」に不退転の決意で取り組むと云う。問題は、これを批判する野党側のお粗末さにある。これにコメントしておく。

 批判側の全ての誤りは、道路特定財源制の一般財源化要求にある。民主党は、この端的な誤りを糊塗しようとして専ら手続き的不備や、道路特措法と一般財源化の不整合を論点にしようとしている。社民党は、一般財源化要求をトーンダウンし始めているように見える。日共は唯一、断固とした一般財源化を今なお主張している。小泉式構造改革路線の裏からの旗振り役であることを、宮顕以来変な共産党に堕している事を自己暴露している。

 れんだいこは、そして幾人かに過ぎないとは云え我が党は、この局面で唯一堂々と道路特定財源制を維持せよ、暫定税率の再度暫定凍結に向けて舵を切れ、国交省のみならず官僚機構腐敗を始末させよ、石油異常高の時局に鑑み有料道路の半額化、3分の1化で対応せよと主張する。

 道路特定財源の一般財源化により社会保障費に回すと云う日共式宣伝に騙されてはいけない。道路特定財源を一般財源化すれば、それが社会保障費に回されるより軍事防衛その他関連費用に掠め取られる可能性の方が高い。それを思えば、道路特定財源制を維持したまま一部予算を環境対策や社会保障費に回した方が合理的だ。

 普通に考えられるこの方式を議論するのではなく、与野党一致で、政財官学報五者機関の大政翼賛会方式で道路特定財源制の一般財源化へと雪崩れようとする動きを訝るべきだ。これは、ロッキード事件現象の再来であり、断じて許す訳にはいかない。あの時もそうだったが、裏の仕掛け人が居ると知るべきだ。あの時にはインターネットが無かったが、今は有るからこういう発言もできる。

 そういう観点から、れんだいこ及び我が党は、一般財源化大合唱に断固反対する。続いて日本たばこ産業が狙われており、そのハゲタカ身売りの動きにも反対する。民営化とは何の事は無い、順次ハゲタカに御供する手立てに過ぎない。そう云う事が誰の目にも判明しつつある。そこにこそ本当は巨額の利権があるのに、国交省のちまちました用具購入問題で世論を煽るみのもんた式報道の姑息さを笑う。世渡り上手もエエ加減二センカイ。

 民主党は、この局面を迎え綱渡りを余儀なくされる。己の政策の貧困を隠そうとして、衆院解散を煽り始めているが卑怯姑息だ。福田政権が一般財源化論に乗ってきたのだろう、ならば「我が党の政策が受け入れられた」として喧伝し後押しセンカイ。それが筋と云うものだろう。これ以上いちゃもんつけると、何でも反対の社会党を思い出して食傷されるぞ。

 一事万事で、民主党の政策の貧困は、果たしてこの党が自民党の代わりに政権を運営できるのかどうか危ぶませる。しかし、民主党は、一般財源化にのめり込めば込むほど魅力を色褪せさせよう。自業自得と云うものだ。党的分解が仕掛けられている今、党中央がこの紐のもつれをどう解きほぐすのか、対応するのか暫く見守りたい。

 2008.5.14日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評402 れんだいこ 2008/05/15 21:53
 【ジャスラック理事長の居直りの弁を許すな】

2008.5.14日、楽著作権協会(JASRAC)の加藤理事長は、この日の定例記者会見で、去る4.23日に公正取引委員会から独占禁止法違反の疑いで初めてのは立ち入り検査を受けたことについて次のように述べた。れんだいこがこれにコメントしておく。

(「JASRAC理事長、公取委の立ち入り検査『どこが問題なのかとびっくり』」
 ttp://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMITba000014052008その他参照)

 加藤理事長は、概要「具体的な疑義の理由がわからない。公式な見解は調査結果が出ないとコメントできない。調査には全面的に協力する」としながらも、問題視されている著作権料の包括許諾契約については概要「いきなり来られてびっくりした。包括契約はそもそも放送事業者の要望で始めた仕組み。どこが問題なのかという気持ちが強い。30年も続いている仕組み。利用者ニーズに対応したものだ」と存在意義を訴えた。

 加藤理事長の弁か記者の解説か分からないが次のように報道されている。JASRACには1曲ずつ使用料を許諾する仕組みもあるが、利用曲数の多い放送局やラジオ局などがすべての利用状況を把握することは困難。JASRACは利用楽曲を自動的にカウントするシステムの開発にも取り組んでいるが、導入のメドは立っていない。「(加藤理事長は)ユーザーにとっても便利な仕組みという自負がある。楽曲を自由に使えるのは音楽文化の多様性を担保しているとも言える」と理解を求めた。

 関心のない方にはどうでも良い記事のように思えようがさにあらず。ジャスラック著作権理論は、現代強権派著作権論の急先鋒で、この連中が世の中を次第に住みにくくしている張本人であり、傍観は許されない。最近「讃岐うどん」の商標登録が話題になったが、世の中隙があるところ何でもゼニの対象にしようとしており煩くてかなわん。

 それはともかく、れんだいこは、ジャスラックのふてぶてしいウソの塊のような弁を許さない。「包括契約はそもそも放送事業者の要望で始めた仕組み」と云うのなら、30年前の包括契約の証拠を示して見よ。「利用者ニーズに対応」というのも馬鹿らしい。「利権ニーズ」だろうが。

 後段の「JASRACには1曲ずつ使用料を許諾する仕組みもあるが」もウソウソしい。1曲使用料をスナック等の場合、最低一曲90円制にしているが、放送局にこれを当てはめ計算すると天文学的な金額になるだろうが。「利用曲数の多い放送局やラジオ局などがすべての利用状況を把握することは困難」と云うのなら、徴収できないとすべきではなかろうか。著作権侵犯の推定見込みという法理の方がオカシかろうが。それと、放送局が音楽流してどこが著作権侵犯なんだ。無料で広告宣伝してくれているようなものだろうが。

「JASRACは利用楽曲を自動的にカウントするシステムの開発にも取り組んでいるが、導入のメドは立っていない」と云うのなら、その間は対価料など課金できないとすべきだろうが。アイデア段階のものを無理矢理課金して、放送局は強い権力持っているからまだしも相対的に弱いスナック、カラオケ店に皺寄せして、裁判攻めで脅したり経営者を逮捕させてイジメているのだろうが。歩合給バイトを雇い、取立てに向かわせているのだろうが。

 そうやって取り立てた著作権料の経理公開、分配公開していないだろうが。さじ加減で利権族がウマウマしているのだろうが。理事長他理事や評議員の高給とバカ高退職金に使われているのだろうが。違うというのなら、それも公開してみ。

 手前達は今まで好き放題してきたのに、公取に立ち入りされたとなるやビクついているとはザマが無かろう。それにしてもお得意のウソで塗り固めて居直るところがジャスラックらしいや。これを機会に、ジャスラックの生態をとことん知ってもらうが良かろう。

 2008.5.15日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評403 れんだいこ 2008/05/22 21:24
 【JASRAC訴訟に於ける官僚癒着、司法癒着考】

 (最新見直し2008.5.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 れんだいこのジャスラック批判は遂に官僚癒着、司法癒着を指摘するところまで辿り着いた。ジャスラックが何ゆえ使用料徴収に暴力金融さえ驚き羨望し得るような強権発動し得るのか、訴訟でほぼ99.99%勝訴し得るのか、その秘密を暴きたい。これをサイトアップし、世に問おうと思う。

 2008.5.22日 れんだいこ拝

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【JASRAC訴訟に於ける官僚癒着、司法癒着考】

 ジャスラックは、「週刊ダイヤモンド2005.9.17日特大号」の「企業レポート、日本音楽著作権協会(ジャスラック)/使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態その1」、「企業レポートその2」が暴いたように旧文部省の有力な天下り先である。

 週刊ダイヤモンド誌は、単にそのことを指摘しただけだが、これが告訴され、賠償金を払わされるという憂き目に遭わされるところとなった。れんだいこに云わせれば、週刊ダイヤモンド誌は、「何をいうか。実態はこうだぞ」と続々編で対抗するべきだった。あっさり兜を脱いだようなので、れんだいこが代行する。

 「旧文部省のジャスラック天下り」には、他の省官庁のそれに比して許されざる秘密がある。実際には、他の省官庁の天下りも同様なのかも知れないが、れんだいこは、格別悪質とみなしている。それはどういうことか、以下解析する。

 ジャスラックは現在、カラオケや生演奏を代表とする歌唱、演奏に関して音楽著作権侵犯だとして使用対価料を徴収している。1970年代まではこのような権利金は要らなかったので、中小零細店舗は、「そんな馬鹿な、そんなものが要る訳が無い」と応じず反発したのは無理も無い。ここからがジャスラックのらしさであるが、ならばと一曲90円制をふっかけ、開店以来に遡り徴収するという芸当で心胆寒からしめるという挙に出た。

 暴力金融さえ驚く高額なものに跳ねているのに驚いた経営者は震え上がり、次々と否応無く屈服させられ、和解を余儀なくされた。他方で、大型ホテル、旅館、観光バス等々のカラオケは見過ごされているように思われる。なぜなら巨額になるから、取り立てようにも取り立てる側が卒倒することになるから。

 ジャスラックのこの悪徳権利商法、権利暴力に「旧文部省のジャスラック天下り」が関係している。つまり、旧文部省の役人は単に関係先としてのジャスラックに天下りしたのではなく、天下り前にジャスラックに優遇されて天下りできるよう特殊利権を開発創設し、その功績を手土産にジャスラック入りし、高給、高退職金の稼ぎ場にしていると云う腐敗があるということである。

 この場合、問題は、そういう天下り利権だけにあるのではない。その利権が憲法に照らして、著作権法に照らして違法不当なものであるところにもある。どう違法不当なのかと云うと、著作権法、音楽著作権法には、末端のエンドユーザーレベルに対する使用料課金制なぞ規定されていないのに、後の天下り官僚が著作権局の現役官僚の時に職権で「取れるように工作」したというところにある。

 これが使用料規定なるものであり、れんだいこもまだ十分には解明できていないが、「1987(昭和62).4.1日より使用料規定に基づき使用料徴収業務を開始」とあるので、1987年前直近の著作権部局の官僚が胡散臭い事になる。そういう目で探してみると、彼一人の仕業ではあるまいが、現愛媛県知事・加戸守行の素行が怪しい事になる。

 加戸は、1983.6月に文化庁文化部長になり、1983.10月、文化庁次長として著作権法一部改正など5本の法案を担当・成立させている。現行著作権法の草稿執筆者としても知られ、著作権に関しての著作もある。これらの功績によってと思われるが、1988年、同省の大臣官房長に就任。よりによって中曽根政権時代の悪事である。興味深いことに、この中曽根時代と小泉時代にこぞって著作権の強権化が大いに進んでいる。これに、社共が反対した形跡が無い。

 だがしかし、加戸はよほど利権が好きなのかリクルート事件に連座して1989.4月、辞職を余儀なくされている。その後、日本芸術文化振興会理事長、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事長などに就任している。更にその後、1999年、愛媛県知事選に出馬、現職の伊賀貞雪を破って初当選を果たした。2003年、2007年と再選され、現在3期目となっている。

 余算ながら、加戸知事は、2001年、2002年の県立中学(中高一貫校)、県立学校の教科書採択に際し、注目された歴史教科書について、賛否両論があるなか、「扶桑社版がベスト」と発言し、愛媛県教育委員会が扶桑社版(いわゆる「つくる会」教科書)を採用する水路を創ったことで知られている。

 これについては、当時の県教育長も知事の意向を汲んだとの発言をしており、知事の教育への介入ではないかと議論を呼んだ。2005年夏の愛媛県下の市町村教育委員会による採択では、扶桑社版を採用する市町村は結果的に一つもなかった。この結果について、加戸知事は1990年の旧・文部省の通知を引き合いに出し、現場教員に対するアンケートや採択委員会での順位付けを重視するのではなく、教育委員会が主体性をもって決すべきとの立場から、疑問を呈する発言を行った、とある。

 もとへ。現在、ジャスラックをして著作権使用対価料徴収の蛮勇を振るわせている発端が、現愛媛県知事・加戸が文部省著作権局の総責任者であった時に作成された使用料規定なるものに始まるとすれば、その作成責任者がこれを手柄土産にジャスラックに天下りし理事長に納まり高給高退職金に舌鼓を打つなぞモラルハザードの極みと云うべきではなかろうか。余りにもな出来レースではなかろうか。

 こうしてひとたび強権化されたジャスラック式著作権論はその後定向進化し続け、加戸時代には幾分か配慮されていた抑制機能が次々と剥がされ、今やノンストップで暴走し始めている。これに歴代の天下り役人が絡んでおり、加戸に倣えとばかりに忠勤に励んではジャスラック入りし続けている。

 週刊ダイヤモンド誌は、こういう風に取材を続けるべきだった。ところが、2005.11.11日、ジャスラックに提訴され、2008.2.13日、東京地裁(加藤謙一裁判長)により550万円の支払いを命じられ、ギブアップしている模様である。商業新聞にこれ以上求めるのは酷かも知れないので、れんだいこは、ジャスラック批判記事を他社他誌に先駆けて掲載した意義の方を高く評価している。

 問題は、この「ジャスラックの対週刊ダイヤモンド誌訴訟」に於いてもジャスラック側に翼賛し、ジャスラック式著作権の正義を讃美し続ける一群のエセ左派即ちサヨ族の醜態にある。この連中がこういう役割を果たし続ける限り世の中は良くはなるまい。この手合いはよほどオツムが凡庸なのか字面に酔う癖が有る。民主化とか民主集中制と記されておればそれで満足し、実態に関係なく諸手を挙げ満場一致する一枚岩体質がある。

 この連中は同じ感覚で、文明化だとか先進的だとか知的所有権だとか聞かせられると忽ち反応し、俺は野蛮人ではないゾ後進的でもないゾ非知的とは見られたくないゾとしてか逸早く万歳斉唱し旗振り役を買って出る癖がある。現在、道路特定財源の一般財源化を良しとして弁論を逞しゅうしている。歴史はまもなくそれらの犯罪性を明らかにし、彼らはイチジクの葉で隠し回ることになろう。見飽きた光景ではあるが。

 ここでとりあえず一服する。評判が良ければ次に、ジャスラックの裁判勝訴99.99%の秘密を解き明かすことにする。

 2008.5.22日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評404 れんだいこ 2008/05/26 19:02
 【JASRACに続けとばかりな教材著作権考】

 2008.5.26日、産経新聞が、振り付け著作権報道に続いて(やがて、身振り手振り著作権時代に入る前触れということか)、「過去問集から長文が消える 著作権で引用できず」(ttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/0805/26/news025.html)、「国語問題集消える現代文」、「著作権提訴増え、引用自粛」の見出しで、「著作物の引用、転載に当っての要事前通知、要承諾制に基く混乱」を報道している。これをれんだいこ流に解析する。

 これまでは、「教育目的の場合には無許諾利用可の慣例」により任意利用できていたというのに、利用された者はそれが誉で帳尻が合っていたというのに、このところの著作権法の解釈変えで難しくなった。小賢しい気難し屋が世の中を万事かくリードし始めている。

 「教育分野の著作権」なるものが吹聴され始め、学校の入学試験や定期テスト、教員が配るプリントなどは無許諾、無補償で著作物の引用可、但し、入試問題集やインターネット上での公開、予備校の模擬試験は営利目的とされ利用許可が必要とされ始めた。教科書は無許諾で転載できるものの、作者への連絡と補償金支払いが義務づけられるようになった。

 この背景に、現代強権著作権論の跋扈がある。れんだいこに言わせれば、著作権法と現代強権著作権論には千里の隔たりがあるが、現代強権著作権論による「引用、転載に当っての要事前通知、要承諾制」が通念化し始めて以来、大学入試の過去問題集などで執筆者からの著作者利用許諾が取れないケースが頻発しており支障をきたしつつある。この変化に対応しなかった大手予備校や出版社など69社が相次いで提訴され、引用自粛傾向が目立ち始めている。

 今や、音楽関係の日本音楽著作権(ジャスラック)に引き続き、文芸関係には日本ビジョアル著作権協会(JVCA)が創設され、作家の著作権処理を仲介している。曽我陽三理事長は、「教育業界は著作権に無造作過ぎる。きちんと権利処理せずに経費を抑えるのは言語道断」と主張している。ジャスラックのそれと瓜二つの見解である事に気づかされる。

 日本ビジョアル著作権協会になだいなだ、谷川俊太郎ら350名が関係しているらしい。ネット検索で、「塾教材で著作権侵害…谷川俊太郎さんらが差し止め請求」記事に出くわしたので、これにコメントする。

 2007.6.21日、詩人の谷川俊太郎さんら27名が、学習塾が出版、販売している教材に作品を無断使用され、著作権を侵害されたとして、大手進学塾の「SAPIX」と「希(のぞみ)学園」の運営会社などに、出版や販売の差し止めを求める仮処分を東京地裁に申し立てた。13名は仮処分とは別に、約2400万円の損害賠償を求める訴訟も起こした。

 SAPIX側は「著作権侵害があったのは事実で迷惑をかけ申し訳ない。現在書店で回収作業をしている」とコメント。希学園は「著作権については誠実に対応したい」としている、とのことである。

 SAPIXも希学園も、著作権法の定める著作権、現代強権著作権論のそれとの識別できぬままひたすら恭順していることが分かる。それにしても恐ろしい時代になったと云う反発も無く、堪忍堪忍しているところが情けない。

 ところで、谷川俊太郎とは何ものぞ。ウィキペディァを参考にすれば、哲学者で法政大学学長の谷川徹三を父として、1931.12.15日生まれ、東京都杉並区に生まれ育つ。詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家とある。2008年現在、御年77歳と云う事になるが、老いて権利病に侵されている姿がおぞましい。

 れんだいこの理解する詩人と云うのは、こういう不正に義憤して、世にプロテストするのかと思っていたら、最近の詩人は違うらしい。「俺の作品を俺に黙って利用するとは何事ゾ。使うならゼニ出せ」などと云うケッタイナ詩人が詩人の通り相場のようである。ほとんどビョウキの世界と云うかやってられんなぁもう。

 2008.5.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評405 れんだいこ 2008/06/01 00:13
 【般若心経れんだいこ訳】

 著作権考に分け入る事で、これが思想問題であることに気づきました。このことに気づかないまま小正義を振り回して、世の中を息苦しくしていく輩にどう対応すべきか。その一法として般若心経を考察する事にしました。直接的には関係有りませんが、大いに参考になる面があるように思います。

 但し、般若心経の訳たるや非常に様々で、いろんな風に説かれております。それらのうち、れんだいこが満足できるものはありません。そういう訳で、れんだいこ訳を市井提供いたします。ぜひ参考にして下さい。検索していましたら、この世界にも著作権が徘徊しております。れんだいこは無茶と思うけども、これが只今の世の倣いのようです。この先どこまで首絞めが続くのか。頼むから正義面だけせんで欲しい。

 原文はこうです。

 仏説摩訶般若波羅蜜多心経

 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩? 依般若波羅蜜多故 心無?礙 無?礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶 般若心経

 【訓み下し和訳】

 仏説摩訶(まか)般若波羅蜜多心経

 観自在菩薩が、般若波羅蜜多を熱心に行じし時、五蘊(ごうん)は皆、空(かいくう)と照見して、一切 の苦厄を度したまえり。

 舎利子。色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち空であり、空は即ち色である。感覚、思うこ  と、行う事、識ることも叉かくの如しと云われた。

 舎利子。諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢(あか)つかず、浄からず、増えず減らず、この故に空の 中には色無く、受無く、想無く、行無く識無い。眼無く、耳無く、鼻無く、舌無く、身無く、意も無い。  色も声も香も味も触も法も無い。

 眼界も無く、ないしは意識界も無い。無明も無く、叉無明が尽きることも無い。ないしは老も死も無く、 叉老と死の尽きることも無い。苦も集も滅も道も無い。智も無く叉智を得ることも無い。得ること無い故に である。

 菩提薩?(ぼだいさつた)は、般若波羅蜜多に依る故に、心に悩み心配無し。悩み心配無き故に、恐怖も無い。一切の転倒妄想を遠離し、涅槃(ねはん)を極める。三世諸仏(さんせぃしよぶつ)は、般若波羅蜜多 に依る 故に、得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみやくさんぼだい)を得る。

 故に知るべし。般若波羅蜜多は、これ大神呪(だいじんしゅ)なり。大明呪(だいみやうしゅ)なり。無上呪(むじょうしゅ)なり。無等等呪(むとうどうしゅ)なり。能く一切の苦を除き、真実にして虚ならず。

 故に説般若波羅蜜多の呪を説く。 即ち、呪を説いて曰く、羯諦(ぎやてい)羯諦波羅(はら)羯諦、波羅僧(はらそう)羯諦

 菩提薩婆訶(ぼじそわか) 般若心経


 【れんだいこ意和訳】

 この世の真実を知る根源的な叡智としての摩訶(まか)般若波羅蜜多の神髄を表わす仏説経文を奉る。

 この世の真理真実を悟り賜われた観自在菩薩であられる釈迦(釈尊)は次のように説かれました。釈迦が修行時代かって深い悟りの瞑想に入り、熱心な行により、奥深い真実の智恵である般若波羅蜜多を会得せんとしていました。或る時、この世の全ての物の性質や形あるものの姿である五蘊(ごうん)の存在、その相関を自問自答の末に、五蘊の本性は皆、空であると見定められ、悟りを開かれました。以来、一切の苦厄から抜け出すことができたのです。

 釈尊の高弟の一人で、バラモン教経由の智慧第一と云われていました舎利子(シャーリプトラ)が、かって釈迦に、「最深最高の智慧とはどのようなものでしょうか。それ得ようとすれば、どのように学び修行すべきでしょうか」と尋ねられました。

 釈迦は次のように説かれました。この世に於いては、あらゆる物質、事象即ち色なるものは実体が在るようで有りません。究極、空として捉えるべきです。その空から色が生まれるからして空は色とも云えます。色は即ち空であり、空は即ち色であると認識すべきです。かく捉えないから拘りが生まれ、諸苦、諸病、諸厄の原因になっているのでは有りませんか。

 感覚、想念、思想、意思、思考、行動、実践、知識等々も然りで、本性上空と了解すべきです。これが世の実相なのでは有りませんか。この理を知れば執着が生まれません。執着在るところに災禍が生まれております。更に云えば、世の中に絶対的にこうである、こうでなければならないとするのも執着で、これから解脱せねばなりません。この世の理法に反するからです。にも拘らず理法に反する規則や命令が出され、人々がこれを受け入れております。これらは世の実相に反しています。ここに全ての過ちが起因しているのでは有りませんか。

 舎利子は更に問い、釈迦は次のように答えました。世の諸法は究極空相であり、これを大きな循環で観れば本質的に生ぜず滅せずでは無いでしょうか。この世に絶対的な汚れや穢(けが)れは有りません。絶対的な聖や浄も有りません。万事、増えもせず減りもせず大河の流れの如く悠久です。これが天地自然の理法です。

 能く考えてみましょう。この世に存在するもの一切が本質上空では有りませんか。それ故に、思索抽象的に捉えられるもの、例えば色(物質、事象)、受(感覚、意識)、想(思想、概念)、行(行動、実践)、識(知識、分別)等々も叉生成変化の流転中に在り、絶対的真理だとして定言的にこうだと云えるものは何一つ有りません。にも拘らず、人々はこれに捉われております。ここに間違いが認められます。

 感覚的具体的に捉えられる六識も然りです。例えば眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身体(痛覚)、意識(知覚)も叉相対的なもので、絶対的なものは何一つ有りません。更に云えば、六境を形成する色も、声も、香も、味も、触も、法も然りです。これらの基準は全て比較的なものであり諸行無常なものです。にも拘らず、人々は絶対的な基準を押し付け押し通そうとしております。これらは皆、誤りです。

 眼界で捉えられるもの全てが相対的なものでしか有りません。当然にそれを反映する意識界もそのようなものでしか有りません。かく悟れば、不明や迷いも相対的なものでしか無いと気づくべきです。且つ叉、不明や迷いが解消されることも有りません。老も死も相対的なものでしか有りません。叉、老と死の意味が解明されることも有りません。

 無苦集滅道の四諦と云われる苦しみ、集(執着の積み重ね)、滅(煩悩)、道(人倫の理想郷)も相対的なものでしか有りません。絶対的な智というようなものは無く叉そのような智を得ることも有りません。得ようにも得られないことを弁えるべきです。かく分別すべきではないでしょうか。

 菩提薩?(ぼだいさった)は、この真実の般若波羅蜜多の神髄に依る故に、心に障りや妨げ、拘りが有りません。それ故に恐怖も有りません。一切の顛倒した妄想の類いから遠離していますので、迷いから脱した境地である涅槃(ねはん)を極め住しています。過去、現在、未来にまします諸仏であります三世諸仏(さんせぃしよぶつ)は、真理である般若波羅蜜多に依る故に、この上なく正しく目ざめており、本物の悟り仏であると云えます。

 それ故に知るべしです。般若波羅蜜多は、究極のマントラ(箴言、神言)です。悟りのマントラです。これ以上の悟りは無く、無比なるマントラです。能く一切の苦を除き、真実にして虚ならずのマントラです。

 釈迦はかく教え、般若波羅蜜多の呪(秘法)を説き伝えました。即ち曰く、生きとし生ける者よ、極めんとする者よ、修行する者よ。

 この者たちに幸いあれ、この尊い御教えである般若心経を日々唱えて導きとせよ。

 般若心経考

 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/hannyashingyo/hannyashingyo.htm)

 2008.5.31日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評406 れんだいこ 2008/06/03 18:44
 【渡部裕(ひろし)教授の著作権論考】

 (最新見直し2008.6.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 このところ、新聞メディアの著作権関連記事が増えてきている気がする。ここでは、毎日新聞の2008.6.3日付け「考える耳」の渡部裕(ひろし)東大大学院文学資源学教授の「一人歩きする著作権問題」を採り上げ、愚行する事にする。

 2008.6.3日 れんだいこ拝

 【渡部氏の著作権論】

 渡部教授は、戦後日本が世界に冠たる年金、医療制を構築していたにも拘らず、ここへきて解体されつつある状況を嘆き、「音楽の世界も似たような状況になっている」との視点を披瀝している。れんだいこは、渡部教授が、著作権問題を、文明的先進国的に発展しつつあるとせず、年金、医療制同様に破壊されつつあるとの観点を披瀝していることに同意する。このように捉える論者はまだ少ない。

 但し、渡部教授は次のような歴史観を披瀝している。「せっかく長い時間かけて作ってきた福祉制度がいとも簡単にこわされ、弱肉強食の世の中になりつつある状況には、時計の針が逆廻りして封建時代に戻っているような印象さえおぼえる。金の話に気を取られている間に、近代社会が築いてきた人間の平等や人権といった基本理念そのものが危うくなっている。そんな危機感を感じる」。

 (れんだいこコメント)

 現代学問の水準に合わせれば何ら疑問の無い分かり易い指摘で有るが、れんだいこは少々違うと思う。後段の「近代社会が築いてきた人間の平等や人権といった基本理念そのものが危うくなっている」はその通りとして、果たして云われるように「封建時代に逆戻り」していると捉えるべきだろうか。

 これを本格的に論ずると難しくなるので、簡単にコメントする。一つは、封建時代は果たして、云われるように近代社会よりも遅れた社会だったのかという点で、実際は物差しが違うだけで、近代社会の方が格段に勝れているとするのは早計な理論ではなかろうかという問題が有る。精神的自由にしても、却って封建時代の学問、娯楽の方がより非統制的であった面を窺うべきではなかろうか、という問題が有る。

 いわゆるルネサンス的自由精神が近代精神を培養し、近代社会を招来せしめたのは史実であろうが、その近代社会から接続している現代社会になって何ゆえにルネサンス的自由精神を喪失せしめ、今日の如く次第に牢獄化しているのかを糾さねばなるまい。

 これを解くには、既成のインロー的インテリには無理な話かもしれない。太田龍的アウトロー的インテリに拠らずんば解けない。太田龍・氏に拠れば、れんだいこ流理解になるが、封建時代から近代資本主義を生み出す過程は、いわゆるロスチャイルド派国際金融資本勢力の暗躍を媒介せずんば真相に迫れない。彼らが、植民地と戦争と革命を意図的に引き起こし、近代から今日に至る現代世界を創造してきた。こう理解せねば真相に迫れないのではなかろうか。

 その昔のイエス在世時代のパリサイ派との論争で明らかになるが、パリサイ派ははるか昔から今日の社会を現出すべく営々と努力してきた事が判明する。ロスチャイルド派国際金融資本勢力は現代パリサイ派であり、彼らが世の中を牛耳ると、イエスが危惧した通りの社会を構築するところとなった。イエスの炯眼恐るべしであろう。

 「現代著作権問題」は、このセンテンスで読み取らないと何が起こり起こりつつあるのかが解けないのではなかろうか。かく視点を定めたい。残念ながら、渡部教授にはこの視角は窺えない。それとも用心深く奴隷の言葉で語っているのだろうか。(コメント終わり)

 それはともかく、渡部教授は、著作権をめぐる度重なる法改正の流れを次のように捉えている。「著作権制度が複雑化し、一般の音楽家や聴き手から遠いものになってゆく中、もっぱら音楽産業の意に沿って制度改正が進められ、著作権本来の精神が歪められたばかりか、いつの間にか公共の法益が損なわれ、人権まで侵害される事態が引き起こされているというのだ」。

(れんだいこコメント)

 渡部氏のこの観点も素晴らしい。教授は、概要「著作権をめぐる度重なる法改正は、著作権本来の精神が歪められた過程である」と指摘している。現代強権著作権論に与する自称インテリは、爪の垢でも煎じて飲めばよかろう。(コメント終わり)

 では、どのようなものが本来の著作権であったのか。というか、どういう限定付きで著作権が生まれ認められてきたのかを確認せねばなるまい。渡部氏は次のように述べている。「著作権は元来、権利者の利益を守ると同時に、権利者が権利を独占することによって作品の公共性が損なわれる弊害を防ぐ仕掛けでもあった。複製行為もそれ自体が違法とされたわけではない。実際に著作権者の権益が損なわれたことが立証された上で、その複製が『公正な使用』の枠を超えているか、作品の流通に及ぼした影響を及ぼしたか等々を総合的に勘案し、違法性を判定するのが本来のあり方だった」。

 (れんだいこコメント)

 渡部教授のこの指摘は実に素晴らしい。れんだいこは今までこのように説いた法学者にお目に掛かったことが無い。れんだいこはこれまで同様の指摘を執拗に繰り返してきたが、れんだいこ論の正当性が初めて法学者に裏付けられた気持ちがする。(コメント終わり)

 渡部教授は続いて次のように指摘している。「たしかに違法コピー問題は深刻だが、それを防御するあまり、アクセスの勝手なコントロールを容認すれば、作品の公共は失われる。それ以上に、『知る権利』の侵害や検閲、差別など、あらゆる人権問題を呼び込む危険性が有る。著作権を守れ、という至極もつともなスローガンの裏で、いつの間にか、こんな恐ろしい事態が進行しているのである」。

 (れんだいこコメント)

 素晴らしい指摘ではなかろうか。(コメント終わり)

 渡部教授は続いて次のように指摘している。「1993年のTRIPS(知的所有権の貿易的側面に関する協定)の話にも驚いた。これによって著作権問題は貿易一般の枠組みに組み込まれ、著作権保護が不十分とされる国に対し、他の品目での経済制裁を行う事も可能になったという。様々な経緯を持つ国ごとの文化状況の違いを考慮しないまま、金の力を借りたほとんど脅しのようなやりかたで、西洋の音楽産業の利害を他国に押し付けるようなことが平然と行われうるのである。著作権問題は知らないうちに独り歩きし、手に負えない力を持つものになりはじめているのだ」。

 (れんだいこコメント)

 これも素晴らしい指摘ではなかろうか。(コメント終わり)

 渡部教授は次のように結んでいる。「音楽があふれている現代社会にあっては、音楽産業はもちろん欠かせない存在だが、そのロジックに幻惑されている間に、長い間かけて作り上げてきた社会や文化の根幹部分を揺るがす変化がひそかに進行しているとしたら、大変な事だ。その構図は、目先の問題に気を取られているうちに、福祉や医療のあり方を根本から崩壊させるような見えない動きがひそかに進行しつつある、今の日本の状況とも重なり合っている」。

 (れんだいこコメント)

 良い話を聞かせてもらったことを感謝する。

 それはともかく、渡部教授のこんなに素敵な話を勝手に引用転載させていただいたが、これが著作権法に触れるか触れないかと云う問題が有る。渡部教授の論旨からすれば、れんだいこのこたびの利用は著作権法違反ではないということになろう。

 だが、ややこしいことはこれから始まる。毎日新聞の加盟している新聞協会の著作権論に拠れば、れんだいこのこたびの引用転載は事前通知、要承諾制になっている。新聞協会は情報統制に意味を持たせてか単に権威ぶっているのか、使用を認めるか認めないかだけだが、ジャスラックになると一曲幾ら、もしくは店舗面積割で幾ら、もしくは営業収入割で幾らという課金の対象になる。これはおいしい話だとして、ジャスラックに続いて(株)日本ビジュアル著作権協会も参入し、活字著作物に対する課金制商売に精出し始めている。

 多くの論者は、この動きを知的所有権の在り方として当然で、文明国ならではの先進的権利で世界に広げねばならない、日本は米国と並んでそのパイオニアを務める云々との業者の弁に加担して恥じない。しかし、それは単にいゆわるユダヤ商法の走りであって、排斥する意味はあっても真似するようなものではない。

 それはともかく、れんだいこが知る限り、日本史上初めて、大学教授としての然るべき名誉と地位を持つ人物が、現代強権著作権の動きは文明的でも先進的でもない、却って封建時代の逆戻り現象として批判したことになる。

 してみれば、この小論文の功績は大きいと看做すべきではなかろうか。この陣営に与するれんだいこはうれしさの余り早速コメントしてみた。どうか皆さん続いてください。これに勇気付けられて、どんと行きませう。

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 2008.6.3日 れんだいこ拝

Re:【般若心経れんだいこ訳】 彼岸楼 2008/06/04 02:09
 れんだいこさん、こんにちは、ご無沙汰しております。
 旧HN[如往]改め、新HN[彼岸楼]と申します。
 前ハンドル・ネームを模索したときも、今回も“般若心経”に立ち返って考案し直したことから、また、れんだいこさんによる“般若心経考”に触れて、僅かばかりの雑感を寄せたいと思い立った次第です。尚、評論家のひろさちや氏、宗教学者の紀野一義氏、作家の瀬戸内寂聴氏による般若心経の解説を参考にしました。

 さて、般若心経で説かれているのは「世の真実を悟って生きること(覚悟して生きること)」に尽きると考えています。けれども、その意義(価値)が叙述されている訳ではありません。現世利益的な志向が強い人間にとってはそれが不満の原因にもなり得ますが、逆に価値観を排除していること、それ自体に般若心経の本義があると思っています。
 経文中では最終節の「羯諦 羯諦、波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」が、「往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ さとりよ 幸あれ」(紀野一義氏)の訳とともに最も気に入っている箇所です。要するに生きとし生ける物にたいする応援歌であり、此岸から彼岸に向かって(自己という乗り物を)漕ぎ出すときに、そっと背中を押してくれる一陣の風のようなものが般若心経なのかも知れません。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:【般若心経れんだいこ訳】 れんだいこ 2008/06/04 22:15
 彼岸楼さんちわぁ。旧HN[如往]はどう読むのか分からなかったので新ネームの方がありがたいです。般若心経考は突如やってみたくなり、ご覧のようなれんだいこ訳を作って見ました。今後折を見て書き直そうと思いますが、今のところれんだいこ訳の方が適訳と自負しております。ご意見してくだされば、納得でき次第書き換えますのでよろしくご協力ください。著作権が煩いので、れんだいこがなるほどと思うものが出る前に世に出そうとしております。まさか、れんだいこ訳を採用しながら著作権主張なぞできますまい。そう考えてのことでも有ります。

 それはともかく、本日、若松監督の「実録・連合赤軍」を見て参りました。ホットなうちに感想文を書いておこうと思います。あの事件は、れんだいこの学生運動時代の真っ只中で起こった事件であり、心因的に今も尾を引いております。何とかそれなりの総括しておかねばと考えております。考えてみれば、若松監督の映画が登場するまで誰も手をつけなかったのですね。こたびの若松作品にはそういう意味で値打ちが有ると考えます。

 というようなことでまた。この後、イエスの「山上の垂訓」を投稿します。これも自信作で、同様の趣旨です。ご意見お聞かせください。

 2008.6.4日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評407 れんだいこ 2008/06/04 22:57
 【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】

  釈迦の「般若心経」を学んだのを機に、ここで、「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。福音書四書のマタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝のうち、ヨハネ伝を除く三書がそれぞれの「垂訓」を記している。ヨハネ伝に無いと云うことは、ヨハネ伝が異質な福音書であることを物語っていよう。れんだいこは、他の三書がキリスト教的立場から福音記述しているのに対し、ヨハネ伝はユダヤ教的立場からイエスを「理解」せんとしている違いと見立てたい。ここでは福音書考を為すところではないのでこれ以上は記さない。

 それはともかく、マルコ伝の場合は「湖畔の垂訓」となっている。ルカ伝の場合には「山上の垂訓」であるが、マタイ伝の場合は12使徒形成前の垂訓であるの比して、ルカ伝の場合には12使徒形成後の垂訓となっているという違いが有る。そういう違いは有るが、三書に記述されていることからして、よほど重要な史実ないしは教話であったことが分かる。

 問題は次のことに有る。三伝ともこれを採り上げながら、それぞれ異なった記述となっている。足らずを補う関係とも云えるが、重要な解釈の差も有り却って混乱を生む仕掛けになっているとも云える。れんだいこは、「福音書による山上の垂訓」が、イエスの御言葉を正しく伝えているとは限らないと推定している。むしろ、「山上の垂訓」の価値を落としこめ混乱させる為に意図的に駄文、捏造文が挿入されている気がしてならない。

 例えば、次のような言葉は云うはずかない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事は無かろうに。

 この種の捏造文がこの後続いている。そういう意味で、この種の雑文を除外し、こういう場合の通例として、本当は次のように述べたのではなかろうかとれんだいこが概要推定して御言葉にしてみることにする。

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 イエスは付き従う人々と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。既に、大勢の弟子とおびただしい数の民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、あるいは病気を癒していただくために来ていた。イエスは、御技で、汚れた霊に悩まされていた人々を癒した。群衆は皆、イエスの霊気の裾分けを得ようとして何とかしてイエスに触れようとした。一通りの手当をした後、イエスは目を上げ弟子たちを見てこう宣べられた。

 「貧しい人々は幸いです。天(神)の国はあなた方の為に開かれています。悲しむ人々は幸いです。あなた方は慰められます。柔和な人々は幸いです。あなた方は神にも好かれます。義に飢え渇く人々は幸いです。あなた方は満たされます。憐れみ深い人々は幸いです。あなた方は恵みを受けます。心の清い人々は幸いです。あなた方は神を見ます。平和の為に尽す人々は幸いです。あなた方は神の子と呼ばれます。義のために迫害される人々は幸いです。天の御国はあなた方を癒します。

 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなた方には天において大きな報いがあります。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害され、天の国で癒されました。

 あなた方は地の塩です。地に塩気がなくなれば、何によって塩味が付けられましょう。あなた方は世の光です。山の上にある町は四方の印になります。灯し火を下に置く者はいません。燭台の上に置きなさい。そうすれば、家の中のものすべてを照らします。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父を崇(あが)めるようになるでせう。

 私が来たのは律法や預言者を破棄する為ではありません。私は、破壊する為ではなく、律法や預言者の御言葉を成就しようとしています。はっきり言っておきます。天地が消えうせない限り、律法の文字が一点一画もすたれることはありません。

 律法学者やパリサイ派の人々は、これらを捻じ曲げています。このことに気づかねばなりません。言っておきますが、あなた方の信仰の義が律法学者やパリサイ派の人々の義にまさらなければなりません。これが叶わない限り本当の信仰が生まれず、あなた方は決して天の御国に入ることができません。

 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださります。この愛を学びなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、報われるほどのものではありません。嫌われ者の徴税人でも同じことをしています。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、優れたことをしたことにはなりません。天の父を見ない人でさえ同じことをしています。あなた方は、あなた方の天の父が為されているように全ての人に慈愛を注ぎなさい。これが、私達の信仰の基本になるべきです。

 人に見せる為に人前で善行をするようなことをしないように気をつけなさい。天の父は、そういう善行を受け取りません。天の父の報いをいただけないことになります。あなたが施しをするときには、偽善者たちが会堂や街角でするような、注目を得る為のラッパを吹き鳴らしてはなりません。あなた方に言っておきます。彼らは既に地上で報いを受けており、それ以上の報いを受取る事はできません。それ以上の報いを受取る事はできません。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはなりません。あなたの施しを人目につかせないためです。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が働き、あなたに報いてくださります。祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはなりません。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがります。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。

 あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が働いてくださります。そこでこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。

 断食するときには、あなた方は偽善者のように沈んだ顔つきをしてはなりません。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうとして顔を見苦しくします。はっきり言っておきます。彼らは既に報いを受けています。

 あなた方は地上に富を積んではなりません。そこでは虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりします。富は天に積みなさい。そこでは虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともありません。あなたの心に富を積みなさい。

 体のともし火は目に表われます。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るく、濁っていれば暗くなります。あなたの中にある光が消えれるに応じて暗くなります。体のともし火を輝かしなさい。

 神を取るか富を取るか。誰も、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかです。あなた方は神と富の両方に仕えることはできません。

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩まないようにしなさい。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切です。これを逆にする者たちの信仰に染まってはなりません。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。それでも、あなた方の天の父は鳥を養ってくださります。あなた方は、鳥よりも優れたものではないですか。

 あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができましょう。なぜ衣服のことで思い悩むのでしょう。野の花がどのように育つのか、注意して御覧なさい。働きもせず、紡ぎもしません。言っておきますが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも美しく着飾ってはいませんでした。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださります。まして、あなた方にはなおさらのことではないですか。

 だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩む必要が有りません。それらは皆、神の義の信仰に疎い者達が切に求めているものです。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じです。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます。だから、明日のことまで思い悩む必要は有りません。明日のことは明日自らが思い悩みます。その日の苦労は、その日だけで十分です。

 私の言葉を聞いているあなた方に言っておきます。あなた方を苦しめる者を愛し、憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。求める者には与えなさい。

 あなた方の敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となることができます。神の御名を唱えながら仕返し、報復を好む人たちがいます。これを互いにやれば果てしの無い連鎖を招きます。それは神の御心に叶いません。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い人になりなさい。

 神の御名を唱えながら人の過ちを過度に懲らしめ人たちがいます。神の御心に叶いません。もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになります。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 神の御名を唱えながら安易に人を裁く人たちがいます。これに従ってはなりません。神の御心に叶いません。あなた方も裁かれないようにするためです。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られることになります。

 あなたは、兄弟の目にあるオガ屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのでしょう。自分の目に丸太(梁)を付けたまま、兄弟に向かって、『あなたの目からオガ屑を取らせてください』と、どうして言えましょう。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えるようになり、兄弟の目からもオガ屑を取り除くことができるでしょう。

 求めなさい。そうすれば、与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかります。門をたたきなさい。そうすれば、開かれます。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれます。何事でも、してもらいたいと思うことを人に施しなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄です。

 この狭い門から入りなさい。多くの人は、広い門、広々とした道を入りますが、滅びの道です。命に通じる門は狭く、道は細く狭い。この道を見いだす者は稀です。

 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところにやって来ます。その人たちの心の内側は貪欲な狼です。正しいか正しくないかは、口先ではなく実を見れば分かります。実を結ぶ事があっても、茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。口先を見分けるのではなく実を見分けなさい。万事良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出します。

 口先の偽善の信仰は受取られません。私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではありません。天の父の御心を行う者だけが入ることができるのです。かの日には、大勢の者が私に迫り、『主よ、主よ、私たちも御名を唱え、預言を守り、御名によって悪霊を追い出し、奇跡を信仰の杖にして参りました』と言います。そのとき、私はきっぱりとこう告げます。『あなたたちのことは全然知りません。信仰を汚し不法を働く者どもよ、私から離れ去りなさい』。

 ここまで私が説いたことに得心がいったなら、あなた方は種蒔く人になりなさい。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行きました。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、すぐ芽を出しましたが、日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいました。ほかの種は茨の中に落ちました。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結びませんでした。ある種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなりました。

 正しき信仰の御技はそういうものです。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのです。道端の信仰は、御言葉を聞いても、すぐにサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い去られます。石だらけの信仰は、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れますが、根がないのでしばらくは続いても、難渋が起こるとすぐにつまずいてしまいます。茨の信仰は、御言葉を聞けどもこの世の煩いや富の誘惑その他いろいろな欲望に御言葉を覆がれ実りません。良い土地に蒔かれた信仰は、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのです。

 私のこれらの言葉を聞いてそのままに行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。岩を土台としてしっかりとした基礎を立てているからです。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ています。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどい」。

 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、同じ神の御名を口にしながら、これまで聞かされてきた律法学者たちの教えと違って、イエスの教えこそ本当の神の教えであることに感銘したからである。

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 イエス伝
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 2008.6.4日 れんだいこ拝

Re:【渡部裕(ひろし)教授の著作権論考】 彼岸楼 2008/06/05 08:33
 れんだいこさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
 本当に生き難い世情になって来ましたね。

 ところで、ブレーキをかけてばかりいるとギクシャクした走行しかできませんし、とは云ってもブレーキがなければ人間は暴走しかねません。しかし、他者にブレーキをかけてもらうことは現実的には不可能ですし、他者にアクセルを踏まれることなどは以ての外でありましょう。公が個別の表現を規制することには自ずと限界があり、逐一範囲を限定することなどできるはずもありません。

 >>「著作権は元来、権利者の利益を守ると同時に、権利者が権利を独占することによって作品の公共性が損なわれる弊害を防ぐ仕掛けでもあった。複製行為もそれ自体が違法とされたわけではない。実際に著作権者の権益が損なわれたことが立証された上で、その複製が『公正な使用』の枠を超えているか、作品の流通に及ぼした影響を及ぼしたか等々を総合的に勘案し、違法性を判定するのが本来のあり方だった」。

 そもそも、権利に対価が派生するようなシステム(金利)は暫時解体すべきではないでしょうか。確かにそれに替わるシステムが直ぐには浮かばないかも知れませんが、解体しても問題ができるだけ起きないような対策を考案すると云った途もあると思うのです。そこに衆智を集めようとする営為があって然るべきではないでしょうか。
 当該著作権の有効期間がどう設定されているのか存じませんが、でき得る限り短期にし、また特許に関しては適用範囲を限定して、不特定多数の参入の可能性が担保されていること(無利子)が望ましいでしょう。しかし、改めて考えてみるならば、何らかの権利が対価を生じさせることの蓋然性はありません。ですから、これは著作権に内在する不自然さを是正することに過ぎず、上記の見識に立ち返るならば然程困難な問題ではない筈なのですが、それを妨げているのが公権力(の濫用)であることは言辞を要さないと考えます。

 Auf Wiedersehen.


Re:【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】 彼岸楼 2008/06/05 08:48
 れんだいこさん、こんにちは。
 私は自身の人生のCredoを聖書に求めたことはありません。けれども、“スーフィズム”や“泥海古記”と同じく社会心理学の研究対象にしょうとしたことがあります。そこで、これは極大雑把な捉え方ですが、キリスト教典における神話と律(法)の集大成が旧約聖書であり、説話と徳(理)の集大成が新約聖書だと見ています。したがって、現状は個人的には改めて聖書解釈を行なうことに躊躇せざるを得ませんが、以上の視点によるものとの但書きをして所感めいたものを述べてみたいと考えます。


 >例えば、次のような言葉は云うはずかない。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。イエスが、「裁きを受ける」だとか、「最高法院に引き渡される」だとか、「火の地獄に投げ込まれる」などの脅し文句を、間違っても云う事は無かろうに。

 新約聖書は“律”を説いたものではないとの認識から、応報論的な言説はイエスのものとは考え難いですので、れんだいこさんの見解を支持したいと思います。

 >>「貧しい人々は幸いです。天(神)の国はあなた方の為に開かれています。悲しむ人々は幸いです。あなた方は慰められます。柔和な人々は幸いです。あなた方は神にも好かれます。義に飢え渇く人々は幸いです。あなた方は満たされます。憐れみ深い人々は幸いです。あなた方は恵みを受けます。心の清い人々は幸いです。あなた方は神を見ます。平和の為に尽す人々は幸いです。あなた方は神の子と呼ばれます。義のために迫害される人々は幸いです。天の御国はあなた方を癒します。

 「山上の垂訓」の中でもよく引用される有名な箇所ですが、ここの解釈が全体の文意を汲み取る上での重要なポイントであると思っています。
 少し前に読んだものに本田哲郎著『釜ヶ崎と福音』がありますが、フランシスコ会神父の著者は「心の貧しい人々は幸いである」(新共同訳)に触れて、「心」を「霊」(神とコミュニケイトできる存在様態)と位置付け、「貧しい」とは「霊」として満たされていない状態を云い、そうした「霊」と共にあって神が力づけてくれるのだから、それが「幸い」であると解釈しています。すなわち、「霊」として貧しいからこそ神は寄り添い力づけてくれる、だから願っていることの実現のために行動を起しなさい、そうイエスは自身も貧しき人々の中にあって説き明かしているのが、「山上の垂訓」を貫いている文脈であるとしています。
 ここにも表出していますように、“人々(我々)の境遇をよく知りつつ、いつも人々(我々)と共にあって力づけてくれるのが神(イエス)である”というのがキリスト教徒の心の底流にある神に関しての認識であり、こうした観点は新約聖書を読解する場合の一助になるかも知れません。個人的には般若心経の「羯諦 羯諦、波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」が醸し出している風景にも一脈合い通じるところがあるのではないかと思っている次第です。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】 れんだいこ 2008/06/05 11:10
 彼岸楼さんちわぁ。

> これは極大雑把な捉え方ですが、キリスト教典における神話と律(法)の集大成が旧約聖書であり、説話と徳(理)の集大成が新約聖書だと見ています。

 この捉え方は面白いですね。こう理解すると良く分かるのでそうかも知れません。但し、れんだいこは、次のような観点を持っております。ご検討くだされば幸いです。

 れんだいこの理解するところ、イエスは、いわゆる旧約聖書にはあまり重きを置いていないように見受けられます。イエスが、旧約聖書に言及するくだりは、エルサレム神殿本部派、パリサイ派との論争に於いて相手の土俵に乗る形でのものであり、あなた方の御教えに照らしても現況の信仰形態はオカシイデハナイカといわば逆手に取って論難しているように見受けられます。イエスの御言葉は、それ以外には不思議と旧約聖書を重視していないように見受けられます。預言者の言葉を活用する場合を除いて。

 ということは、本来は、イエスの御言葉はイエス教として形成されるべきではなかったか、と云う仮説を持っております。であるところ、どういう必然性に拠ってか歪曲に拠ってかは定かでは有りませんが、彼岸楼説の如く「キリスト教典における神話と律(法)の集大成が旧約聖書であり、説話と徳(理)の集大成が新約聖書」的に教義形成してしまいました。これが正しかったかどうか、良かったかどうか、根本から問い直すべきではないかと考えております。

 あるしゅ、ユダヤ教側からのイエス教の取り込みとしてキリスト教なるものが登場し、キリスト教は、或るとき或る人はイエス教的に、或るとき或る人はユダヤ教的なキリスト教を唱えるという具合に、キリスト教はイエス教とユダヤ教のやじろべえ的釣り合いの中で揉まれていくことになったように思います。そして昨今は、ユダヤ教的に取り込まれたキリスト教の方が隆盛しており、イエス教的キリスト教の良さが失われつつあるように思っております。

 れんだいこがキリスト教を観る場合、イエス教を見出そうとしております。イエスの本来の御教えを探し出そうとしております。これは、中山みきの場合にも釈迦の場合にも同じスタンスです。どういう訳か、開祖の御教えを捻じ曲げ世俗化させたところで布教なり教団形成するのが一般化しております。しかしてそれは、あまり意味の無い教えに堕落させられるのが通常です。マルクスをどう評価するかは別として、マルクス主義もそのように変質させられております。

 良い教えを受け継ぐ場合の、妙な癖を感じております。恐らく、受け手が己の甲羅と身の丈に合わせて理解するからこうなるのではないかと思っております。こういう場合、受け手に謙虚な弁えがあれば良いのだけど、俺の解釈が正しいのだと云い始めるから段々堕落し、気づいたときには本来の教えと何ら関わりの無い、あるいは真反対の教説まで辿り着く事もあります。そしてそれが開祖の名前で喧伝されるという。

 これは何も宗教に限ったことではなく、政治史でも同様のことが認められます。史実が隠され、変にアレンジされた通説が流行っております。どうでも良いような場合も有るし、それではいけない場面も有ります。それらがごっちゃになってテキストが作られておりますので、その種の本を読んでも少しも賢くならない。そんな気がしております。

 そういう疑問を沸かさない人も居るけど、れんだいこは妙に反応してしまいます。気になると、或る程度途苦心するまで詰めないと気が納まりません。これは性分ですから如何ともし難い。結局は掘れば掘るほどさらに奥が見えてきて、そのうち寿命のお迎えが来てしまうのだろうけど。というようなことで叉。

 2008.6.5日 れんだいこ拝

Re:Re:Re:【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】 彼岸楼 2008/06/06 02:44
 れんだいこさん、こんにちは。

 >ということは、本来は、イエスの御言葉はイエス教として形成されるべきではなかったか、と云う仮説を持っております。

 新約を重視するという意味において実質的にはイエス教と看做しても差支えがないのではないでしょうか。

 >そして昨今は、ユダヤ教的に取り込まれたキリスト教の方が隆盛しており、イエス教的キリスト教の良さが失われつつあるように思っております。
 >れんだいこがキリスト教を観る場合、イエス教を見出そうとしております。イエスの本来の御教えを探し出そうとしております。これは、中山みきの場合にも釈迦の場合にも同じスタンスです。どういう訳か、開祖の御教えを捻じ曲げ世俗化させたところで布教なり教団形成するのが一般化しております。しかしてそれは、あまり意味の無い教えに堕落させられるのが通常です。マルクスをどう評価するかは別として、マルクス主義もそのように変質させられております。

 おそらく、「イエス教的キリスト教の良さ」とはその救済思想的な側面を仰っているのではないでしょうか。本来は個の救済が優先されるべきなのでしょうが、近頃はキリスト教界だけでなく仏教界においても、団体の存続ばかりを最優先にする風潮が殊更目につくのは嘆かわしいことです。

 >良い教えを受け継ぐ場合の、妙な癖を感じております。恐らく、受け手が己の甲羅と身の丈に合わせて理解するからこうなるのではないかと思っております。こういう場合、受け手に謙虚な弁えがあれば良いのだけど、俺の解釈が正しいのだと云い始めるから段々堕落し、気づいたときには本来の教えと何ら関わりの無い、あるいは真反対の教説まで辿り着く事もあります。そしてそれが開祖の名前で喧伝されるという。

 これは現代人が如何に自己を相対化して捉え直す作業を怠っているのか、その表れであると謂ってもよいでしょう。
 先にとりあげた本田哲郎氏がキリスト教徒でありながら自らの信仰を相対化していることに驚いたのですが、それが氏をして新約が救済思想であるとの認識に至らしめた要因にもなっているのではないかと想われます。つまり、“人々(我々)の境遇をよく知りつつ、いつも人々(我々)と共にあって力づけてくれる”のがメシア(=イエス)であり、このプロセスそれ自体に救済がある、そんな確信を伴なったものが本田氏の到達した境地なのかも知れないのです。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:Re:【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】 れんだいこ 2008/06/06 12:19
 彼岸楼さんちわぁ。

> 新約を重視するという意味において実質的にはイエス教と看做しても差支えがないのではないでしょうか。

 そういうことになります。が、ことはそれでは終わらないようにも思います。というのは、新約聖書の基軸である福音書四書が、別々のイエス像を伝えているからです。云ってみれば、人間臭いイエス像から、神の子イエス像、神そのものイエス像と云う風に分裂しているからして、信徒はどのイエス像に拠るのか基準が有りません。

 恐らく、信徒は、福音書の中のお気に入りのイエスの御言葉を見出し、信仰を固めているのではなかろうかと思います。下手に神そのものイエス像に被れるよりは賢明では無いかと考えております。

 れんだいこが見るところ、新約聖書はどうも本当のイエス像を伝えていない気がしております。それは丁度天理教本部の中山みき教祖伝が本当のみき像を伝えていないのと同じです。仏教と釈迦の関係もそうかも知れません。というようなことでまた。

 2008.6.6日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評408 れんだいこ 2008/06/06 19:21
 【連合赤軍問題の本質についてその4】

 2008.6.4日、若松監督の「実録・連合赤軍」を鑑賞した。既に「連合赤軍問題の本質についてその1、2、3」を発表しているが、読み返してみて云い忘れに気づいたので書き留めておく。これを「その4」とする。

 れんだいこは日頃、物事を分析したり実践する上でのロゴス思想とカオス思想の二元的対比対立の存在を考えている。大げさに言えば、人類はその昔よりこの二者の抗争史ではないかとさえ思っている。この基準を戦後日本左派運動史に当てはめれば、戦後日共運動内の徳球派対宮顕派の対立、第1次ブントと革共同の対立、中核派と革マル派の分裂等々の際の考察にそのまま適用できる。何れも前者をカオス派、後者をロゴス派と識別する事ができる。「連合赤軍問題」も然りではないかということに気づいた。

 れんだいこは、万事にロゴス派的なるものを排斥しカオス的に立脚すべしとしている。これは何もロゴスそのものを捨象せよと云う事ではない。ロゴスは尽すべきで極めるべきであるが、所詮カオスの内にあるものとして弁えさせたいとしている。ロゴス派にはこの理が分からない、というか無視し自らの絶対論理を押し付けることを使命とする。よって、権力的にならざるを得ない。彼らは一見、賢げに気難しく語ることにより煙に巻くが、カオス派のロゴスの方が、ロゴス派のロゴスより深いということは大いにある。

 この例えは、仏法の孫悟空譚に見ることができる。孫悟空がキントン雲に乗り世界中へ向かい八面六臂(ぴ)の活躍をする逸話はロゴス的能力の例えであろう。ところが、孫悟空が蛮勇を振るってロゴスを振り回しては見るが、気づけば所詮はお釈迦様の手のひらの中のことでしかなかった。この逸話は、お釈迦様をカオス的能力として表象しているのだろう。つまり、どんなに勝れた者でも、その技量はカオス内ロゴスのものでしかないことを諭しているように思える。

 れんだいこは、この教えを、仏法の何たるかを語る真髄であり醍醐味であるように得心している。この観点の一点で、れんだいこは、東洋思想の叡智を感じている。西欧思想の小児性を見て取っている。西欧思想の思弁性は習うべきであるが、東洋的弁えまで捨ててのめり込むほどのものではない。まして盲従するをや。

 この例えに照らすと、赤軍派、革命左派、連合赤軍は、始発はともかく途中からロゴス派の見地に転身し、その論理の下で営々挺身し、相互を何らかの絶対主義的ロゴス的教条で縛りあった。自然にそうなったのか、誰かに入れ智恵させられたのかも知れない。その結果、自滅を余儀なくされたのではないかと愚考する。つまり、連合赤軍の間違いは、本来万事に於いてカオス的に構えるべきであるところ、何らかの経緯でロゴス派のそれに感染し、これを生硬に実践していったことにあるのではなかろうかということになる。

 自然宇宙の理は本来カオス的であるのに、そう気づくべきであるのに、ロゴスが登場するや自らを絶対としてカオスを駆逐する癖がある。ユダヤ教的ネオ・シオニズムの論理はその典型であろう。彼らは、生息する社会の政治、宗教、思想、文化運動を彼らの望む秩序の中に組み入れようとし始める。ユダヤ教的ネオ・シオニズムが人類史に登場して以来、そうはさせじとする側と不断の紛争を起こしている。不幸な事に歴史は彼らの方に軍配を挙げさせ、今やその権勢が猛威を振るう時代に入っている。こうして、世界中で、ロゴス派とカオス派が常に暗闘している。それが歴史の裏真実ではなかろうか。

 連合赤軍の連中はこの抗争に全く気づいていない。歴史の深遠に気づかないまま、二股に分岐しているカオスとロゴスの門のうち、入ってはならぬ方のロゴス派の道へ分け入り突進していった。ここに、そもそもの過ちが有ったでのではなかろうか。「連合赤軍問題」はここが根本問題なのではなかろうか。思えば、近代の革命というものは、そのほとんどが連中が仕掛けたものであり、範とするほどのものではない。ところが、このことに無自覚なまま、直接的な関連がある場合も無い場合もあるにせよ、革命的青年が取り込まれ編入されていった。

 我々が反省し教訓とすべきはこのことではなかろうか。我々の運動は本来カオス的なものであり、これに終始すべきであろう。ロゴス派の門に入ってはならず、間違って入ったとしても、二度とロゴス派的絶対的真理の如意棒を振り回さない、させないことではなかろうか。

 れんだいこは、このことを云いたい為に世の事象のあれこれを思想的に検証している気がする。そういうことを踏まえつつある程度解明しつつあるれんだいこにとって、「連合赤軍問題」を解くのはそうは難しく無い。難しくしている我々の態度の方に問題があるのではなかろうかとも思う。この気づきでどうだろうか。

 2008.6.6日 れんだいこ拝

Re:Re:Re:【「れんだいこ推定訳「山上の垂訓」】 +【教理の水脈】 彼岸楼 2008/06/07 06:06
 れんだいこさん、こんにちは。

 >恐らく、信徒は、福音書の中のお気に入りのイエスの御言葉を見出し、信仰を固めているのではなかろうかと思います。下手に神そのものイエス像に被れるよりは賢明では無いかと考えております。

 教理は水源からこんこんと湧き続けているものなのか、水脈のどの辺の水を掬い取るべきなのか、本当にアポリアですね。

 >れんだいこが見るところ、新約聖書はどうも本当のイエス像を伝えていない気がしております。それは丁度天理教本部の中山みき教祖伝が本当のみき像を伝えていないのと同じです。仏教と釈迦の関係もそうかも知れません。というようなことでまた。

 それを信じるか否かは別にしても、メシアとしてのイエスを語り尽くそうとしているとは感じます。究極的には教理が有する“普遍性”が重要なのであり、それを今までは“奇蹟”が担保して来たものの、最早その有効性が消失していることが今日の諸宗教に内在する問題の主因になっていると考えます。
  
 Auf Wiedersehen.

 (↓の「よしのぶ」名のスパムスレは消去できないものでしょうか。寄稿する気分が失せてしまいます。)

Re: 「よしのぶ」について れんだいこ 2008/06/07 10:45
 彼岸楼さんちわぁ。

>  (↓の「よしのぶ」名のスパムスレは消去できないものでしょうか。寄稿する気分が失せてしまいます。)

 これに関してですが、過去にも何度かこの種の投稿が紛れ込んでおります。時には組織的な嫌がらせも有りました。相手が何者なのか、その気になれば追跡可能と思っております。れんだいことしては、記録に残しておき後日の証としたいと考えております。削除するより、この方が有効対策と考えております。こたびは「よしのぶ」個人の嫌がらせなのか、かってのような組織的な嫌がらせの前兆なのか識別しようとしております。

 旧掲示板は、つくってもらったものなので削除の仕方を忘れてしまいました。新掲示板は、れんだいこではないのですが、近いところで手続きしましたので削除しようと思えばできます。ご迷惑おかけしますが、今しばらく様子を見させてください。

 ところで、れんだいこを検索で出しますと、グーグルでもヤフーでもグーでもモーターでも、かなり意識的に毎日ヒットさせているのでせう上位3番目辺りに「れんだいこ君へ」なるものがでてきます。議論で勝負できないのでせう、著作権がらみの事前通知要承諾制の立場から難癖つけ、れんだいこを誹謗する事を使命としている姑息な、それがお仕事の連中です。れんだいこは反論サイトを書き上げておりますが、相手にしても益がないのでアップしておりません。

 れんだいこは、この手合いが居るということを前提に対峙しております。そういう状況をご理解賜りまして、ご迷惑をおかけしますが倍する支援で盛り上げていただきますと助かります。というようなことを少し弁明させていただきましたまた。

 2008.6.7日 れんだいこ拝

現在の若者 パルタ 2008/06/08 21:19
 れんだいこさん、こんばんは。

>日頃、物事を分析したり実践する上でのロゴス思想とカオス思想の二元的対比対立の存在を考えている。大げさに言えば、人類はその昔よりこの二者の抗争史ではないかとさえ思っている。この基準を戦後日本左派運動史に当てはめれば、戦後日共運動内の徳球派対宮顕派の対立、第1次ブントと革共同の対立、中核派と革マル派の分裂等々の際の考察にそのまま適用できる。何れも前者をカオス派、後者をロゴス派と識別する事ができる。「連合赤軍問題」も然りではないかということに気づいた。

 中核派はロゴス派の一面を持っていると思います。むしろ、成田での他党派や住民への恫喝はパリサイ的ですらあります。中核シンパはこの点にあまり触れませんが、彼らは新左翼の中で最も独裁的であります。中核派の独裁性を隠して、賛美を行なう意見には賛成できません。日本で最も殺戮を実行した部隊なのですから。

>この例えに照らすと、赤軍派、革命左派、連合赤軍は、始発はともかく途中からロゴス派の見地に転身し、その論理の下で営々挺身し、相互を何らかの絶対主義的ロゴス的教条で縛りあった。自然にそうなったのか、誰かに入れ智恵させられたのかも知れない。その結果、自滅を余儀なくされたのではないかと愚考する。つまり、連合赤軍の間違いは、本来万事に於いてカオス的に構えるべきであるところ、何らかの経緯でロゴス派のそれに感染し、これを生硬に実践していったことにあるのではなかろうかということになる。

 それは新左翼全体に言える事だと思います。

>我々の運動は本来カオス的なものであり、これに終始すべきであろう。ロゴス派の門に入ってはならず、間違って入ったとしても、二度とロゴス派的絶対的真理の如意棒を振り回さない、させないことではなかろうか。

 それは70年代から80年代にかけて多くの人が感じたのではないかと思います。現在はカオス的でメンバーが固定されない緩やかな運動に若者を、いかに組織化するかが課題となっていると思います。今の青年は貧困家庭に育つと進学できない日本のシステムと長期不況故に、学生運動にも労働運動にも組織化できず、孤立しています。70年代のような硬直した党派に支配されるのでは意味がありませんが、青年に人殺しをやめさせ、社会を良くするには組織化自体は必要です。今の青年は自分の不幸から出発しても60年代のように社会を良くするより、他の人も出来るだけ不幸にする事を望む人が増えています。この点で日本は韓国や中南米より遅れていると思います。2ちゃんねるには前向きな言葉やビジョンが少ないです。このまま青年が社会化されなければ、悲劇は繰り返され、私達は怯えて暮らさねばなりません。

Re:現在の若者 れんだいこ 2008/06/08 21:47
 パルタさんちわぁ。少し酔ったまま書くことになりますが悪しからず。

> 中核派はロゴス派の一面を持っていると思います。むしろ、成田での他党派や住民への恫喝はパリサイ的ですらあります。中核シンパはこの点にあまり触れませんが、彼らは新左翼の中で最も独裁的であります。中核派の独裁性を隠して、賛美を行なう意見には賛成できません。日本で最も殺戮を実行した部隊なのですから。

 れんだいこは、中核派との接点は有りません。そういう意味では傍目からですが、まずまず良く闘っていると思います。恐らく基礎力があるのでせう、この党派には。よりまし論の見地から云えば、れんだいこはシンパ的です。「日本で最も殺戮を実行した部隊」との批判も有りますが、情況の中でのことなので、一概に批判しようとは思いません。れんだいこが法政に入っていたら、同派の活動家になっていたかも知れません。そんな感覚です。何事も機縁の差でせうねきっと。

> それは新左翼全体に言える事だと思います。

 というか、旧左翼も含め左翼全体の傾向だと思っております。なんでこんなことになったのか、その真因を探るのがれんだいこのテーマになっております。れんだいこはたまたま中山みきの思想に触れましたが、みきの思想にはそういうロゴス派の絶対思想は有りません。ということは、要するに在来の一揆思想を捨て、自由民権運動に被れた辺りから洋ものに拝跪し始めたのかも知れません。その点、幸徳秋水、大杉栄辺りには洋ものをこなすバランス感覚が有ったような気がしております。よりによって、そういう優れものが絞殺されております。憎むべき事です、あたら惜しいことです。

> 現在はカオス的でメンバーが固定されない緩やかな運動に若者を、いかに組織化するかが課題となっていると思います。今の青年は貧困家庭に育つと進学できない日本のシステムと長期不況故に、学生運動にも労働運動にも組織化できず、孤立しています。70年代のような硬直した党派に支配されるのでは意味がありませんが、青年に人殺しをやめさせ、社会を良くするには組織化自体は必要です。今の青年は自分の不幸から出発しても60年代のように社会を良くするより、他の人も出来るだけ不幸にする事を望む人が増えています。この点で日本は韓国や中南米より遅れていると思います。

 そういう意味では、カオス派の共同戦線型の、自由、自主、自律的な、在地土着主義にして国際主義的な戦闘的左派運動を創出せねばならないように思います。それも誰かが音頭を取らないとできませんね。れんだいこも恥ずかしがらずにそろそろ責任を負おうと思い、それなりに自己主張し始めております。そんなこんなで今後ともよろしくお願い申し上げます。

 2008.6.8日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評409 れんだいこ 2008/06/14 21:14
 【売国奴系タカ派政権による自衛隊の国際金融資本傭兵化、派兵の恒常化政策を弾劾せよ】

 2008.6.14日の産経新聞によれば、福田政権は13日の閣議で、「空自イラク派遣1年延長」(イラク復興支援特別措置法に基づく航空自衛隊のイラク派遣に関し、来年7月31日まで1年間延長する基本計画の変更)、「海上自衛隊のインド洋派遣」(新テロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋派遣についても来年1月15日まで半年間延長)を決めた、と云う。

 これをどう弾劾すべきか。こと防衛問題になるや、アメリカさんの云うことがその通りとする根強い意見があるので、論点を変えて論じたい。れんだいこは、軍事防衛問題を財政問題として捉えたいと思う。国内の施策に於いては財政難が強調され、年金も保険も医療もズタズタにされ実質増税化されている折柄、政府自民党売国奴系タカ派政権はなしてこうも軍事防衛問題になると湯水の如く予算を注ぎ込めるのか、ここを問題としたい。

 民主党もあれこれ批判はするが、肝腎の軍事防衛費の垂れ流しについては及び腰になる妙な癖がある。社共なら迫るかと云うと、イージス艦の漁船衝突事故の追求でも分かるように、事故直後の救出活動実態にメスを入れない。赤色灯がどうの青色灯がどうのと直ちにはどうでも良いことに話を振ってしまう。つまり頼りにならない。こういうことは見飽きたので一々書かない。

 我々が今確認せねばならない事は、福田政権が、小泉と安倍とも違う大人しやの裏で押し進めている日本窮乏化政策についてである。今国内企業は青息吐息である。大手は分からないが、中小零細企業に於いては逆風の只中を耐えている。福田政権は、これに対応能力を持たないというより、森、小泉、安倍同様促進している。何がうれしくて逆行政治をするのか分からないが、軍事防衛問題のみならずアメリカさんの云うことがその通りとする政治しかしていない。

 れんだいこはふと気づいた。これは意図的な「日本窮乏化政策」であり、その先に見えて来るのは、米国の属州としての日本ないしは中国の属省としての日本ではないのか。日本経済を壊滅させ、青年が食えないようにしておいて高給で兵士を釣り、今はアフリカであるが本音は中近東へ連れて行きたいのではなかろうか。米兵の過半が既にそのようにして釣られており、これを真似しているのではないのか。

 現に日米合同軍事演習を見れば、日米軍は一体となって仮想敵イスラムを標的としている。大イスラエル計画の下で、そういう危険性のある政策が着々と進められていることに警鐘せねばならないのだが、社共は全く対応能力が無い。民主となるや、青年将校は自民党のそれよりも売国奴系タカ派であるからして論外というしかない。新左翼系も今か今かと願っているが、なかなか浮上してこない。

 こう考えると、国内の平和系つまり非軍事防衛系の産業は、経営者であろうが労働者であろうが己の企業と生活の存亡を賭けて歴代のタカ派政権打倒に向かうべきではなかろうか。この不況は政策不況であり、政策生活破綻であることを見据え、訴え、戦後憲法通りの政治へと転換させていくべきではなかろうか。こういう大衆デモが組織されてもオカシクは無い。中内功が健在なら、どうせ切り捨てられるのなら、こう動いて欲しかったと思う。

 これができない訳ではない。れんだいこの絶賛する池田−田中−大平政治は、今なら分かる事だが、かなり高等な政治をやってくれたのではあるまいか。少なくとも、アメリカさんの云う事はその通りとはしていなかった。丁々発止の頭脳戦で日本丸を漕いでいたのではないのか。せめてあの時代に戻せばよい。そう思う。

 今日は6.14に行けなかったので、代わりにご挨拶として書かせてもらった。来年は行きたいと思う。

 2008.6.14日 れんだいこ拝

こちらこそ、よろしくお願いします パルタ 2008/06/15 20:59
 >れんだいこは、中核派との接点は有りません。そういう意味では傍目からですが、まずまず良く闘っていると思います。恐らく基礎力があるのでせう、この党派には。よりまし論の見地から云えば、れんだいこはシンパ的です。「日本で最も殺戮を実行した部隊」との批判も有りますが、情況の中でのことなので、一概に批判しようとは思いません。れんだいこが法政に入っていたら、同派の活動家になっていたかも知れません。そんな感覚です。何事も機縁の差でせうねきっと。

 うーん、でもやっぱり80年代の中核派の成田での行動は評価できないです。新左翼には他党派の活動も認める雰囲気が全体的になかった訳で、しかし一般人には職場の給与、労働条件が大事であって、新左翼による他党派批判なんてどうでもいい訳ですね。特定のアジトから出撃するのが意義があった時代があるかも知れませんが、あまり活動家として社会から隔絶するのはよくないと思います。一般人の生活感覚を持つ事は前衛である以上に大事でしょうね。新左翼が特殊な人になってしまい、また思われてしまったのは残念です。

> そういう意味では、カオス派の共同戦線型の、自由、自主、自律的な、在地土着主義にして国際主義的な戦闘的左派運動を創出せねばならないように思います。それも誰かが音頭を取らないとできませんね。れんだいこも恥ずかしがらずにそろそろ責任を負おうと思い、それなりに自己主張し始めております。そんなこんなで今後ともよろしくお願い申し上げます。

 若い人が建設的な意見が出せるような雰囲気を作っていかないといけませんね。社会が暗すぎて、給与が低すぎるが故にネガティブな事しか書けない状況と雰囲気を変えていきたいものです。

Re:こちらこそ、よろしくお願いします れんだいこ 2008/06/17 11:09
 パルタさんちわぁ。れんだいこは只今何かと気ぜわしくパソコン前にゆっくり座れません。

> うーん、でもやっぱり80年代の中核派の成田での行動は評価できないです。新左翼には他党派の活動も認める雰囲気が全体的になかった訳で、

 恐らく熱田派との確執に伴う暴力事件のことを云っているのだと思いますが、れんだいこは経緯について詳しく有りません。いずれにせよ暴力的解決は事態を前進させないとは思います。

> 若い人が建設的な意見が出せるような雰囲気を作っていかないといけませんね。社会が暗すぎて、給与が低すぎるが故にネガティブな事しか書けない状況と雰囲気を変えていきたいものです。

 現代の政治情況が全くお粗末なことははっきりしております。誰が、どの勢力が、どの年代がこじあけるのかが見ものです。せめてネットの影響力がもう少し高まれば、れんだいこなぞ有資格者だと自負しておりますが、まだまだ片隅で吼えているだけです。何とかせんとなぁ。

 可能な手段は、既に何度も述べておりますが、日本版アルジャジーラを立ち上げる事です。そして、れんだいこがコメンテーターとして登場するのが夢です。これと思う人と対談で時代を切開したいと思います。商業テレビの万事に凡俗なコメンテーターとの違いを際立たせてみたいです。これができんとなぁ。

 2008.6.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評410 れんだいこ 2008/06/17 18:46
 【「ブッシュ弾劾35か条法案」の米国下院可決と日本政界及び言論界のブザマな沈黙考】

 「阿修羅戦争版」に不動明王氏が、2008.6.15日付け投稿「6月11日米国下院がブッシュ弾劾決議案を可決」を投稿している。(ttp://www.asyura2.com/08/wara3/msg/136.html)

 それによると、米国下院が「ブッシュ弾劾35か条法案」を可決したと云う。その内容は後で確認するとして、いまや完全に潮目が変わったことが分かる。この動きの裏にどういう流れがあるにせよ、アメリカらしい責任追及の仕方であろう。

 それにつけても、我らが日本の政界、言論界のブザマな沈黙と云うか無視黙殺振りはどうだろう。今やジャーナル精神のひとかけらも無く性根が完全に腐りきっていることが分かる。そういう上層部ばかりで占められていることが分かる。しかし、これは不報道の犯罪では有る。

 本来であれば、「これまで長期にわたりブッシュ犯罪政権を支えてきた日本の小泉・安倍・福田内閣と自民党・公明党の責任が問われます」ということになろう。これに提灯してきたマスコミ言論界の責任も問われて然るべきであろう。だがしかし、この動きが無い。試しに社共のホームページを覗いてみたが、今のところ何のコメントも無い。あきれはてるとはこのことだ。

  ヤス氏が、2008.6.17日付け 「弾劾決議の内容の要約を紹介しているサイト」で次のよう解説している。(ttp://www.asyura2.com/08/wara3/msg/169.html)

 (引用始め)
 この決議案がいまどうなっているのかと言うと、議会の司法委員会に送られて公聴会が開かれるか審議されているところです。この司法委員会の議長がジョン・コンヤーズ議員で、彼の判断に任されています。

 実はデニスは去年の11月にもチェイニー副大統領の弾劾決議案を提出しているのですが、この時はやはりジョン・コンヤーズ議長がなにもしなかったので、法案は死滅しています。今回も同様に無視される可能性が高いのですが、前回と違って議員たちの意識もだいぶ変化してきているし、なんといっても市民の関心の高さが影響する可能性があります。デニスは今回だめだったら1ヶ月後にまたやると言っています。今回のは58ページでしたが、本当はその倍の量あるそうで、今度は全部読むといってますから、10時間かかることになります。デニスはここが正念場と思ってブッシュ大統領との対決に臨んだのでしょう。勇敢なひとです。そして、とてもこころが温かく愛に溢れるひとです。  
 (引用終り)

 さて、れんだいこが英語学習を含めて先行する訳本とにらめっこしながら翻訳してみた。参考にして欲しい。それにしても、要点を付いた鋭い指摘の35ケ条である。

【「ブッシュ弾劾下院決議」】

 2008.6.10日、アメリカ合州国連邦下院議員でオハイオ州選出の民主党議員デニス・クシニッチが、58Pに及ぶ35ケ条から成るブッシュ大統領の弾劾を求める決議法案を下院に提出し、下院議会で5時間かけて読み上げた。

 ホワイト下院が251対156:100票近い大差でブッシュ訴追を求めるクシニッチ弾劾決議案を可決した。

 アメリカのメインストリームメディアはMSNBC 以外はほぼ沈黙。日本のマスコミは一斉に敢然黙殺している。しかし、ネットで既に飛び交っており、マイケル・ムーアもトップニュースでこの成り行きをホームページで伝えている、とのことである。
 
 ブッシュ弾劾決議案の内容

 第1条 対イラク戦争に対する間違った論拠を宣明しつつ秘密の宣伝活動(プロパガンダキャンペーンプ)をしてきたこと。
 
 第2条 偽って、組織的に、犯罪的な意図をもって、2001.9.11の攻撃を、イラクが国防上の脅威になっているとして結びつけ、侵略戦争を正当化するための虚偽の口実としたこと。

 第3条 米国民と国会議員を欺いて、イラクが大量破壊兵器を所有していると信じこませ、虚偽の戦争論拠を宣明しつつ、米国民と国会議員をミスリードしてきたこと。

 第4条 イラクがアメリカ合衆国に対する差し迫った脅威であると思わせて、米国民と国会議員メンバーをミスリードしてきたこと。

 第5条 侵略戦争を秘密裏に開始する為に資金を違法に無駄使い出費したこと。

 第6条 議会決議HJRes114の必要条件に違反してイラクを侵略したこと。
 
 第7条 宣戦布告なしでイラクに侵入したこと。

 第8条 国連憲章に違反して主権国家であるイラクを侵略したこと。

 第9条 イラク駐留軍に防護服と装甲車を提供しなかったこと。

 第10条 政治目的のために米国部隊の死者・負傷者数を虚偽報告してきたこと。

 第11条 イラクに米国の軍事基地を恒久的に設立したこと。

 第12条 イラクの国家的天然資源を支配するために対イラク戦争を始めたこと。

 第13条 イラクと他の国に失礼な事に、エネルギー及び軍事警察を育成するために秘密部隊をつくったこと。

 第14条 中央情報局(CIA)秘密工作員ヴァレリー・プレーム・ウィルソン事件に関する機密情報の悪用及び漏洩且つ司法妨害と云う重大なる犯罪隠不正行為。

 第15条 イラクでの犯罪請負業者たちに対する起訴を免れる不当な特権を与えてきたこと。

 第16条 イラクと米国の請負業者に関連して米国の税金を破廉恥にも無駄使いし浪費してきたこと。

 第17条 違法な拘留:米国市民と外国人捕虜双方を含む無実の人々を無期限に拘留してきたこと。

 第18条 拷問:アフガニスタンやイラク、そして他のいくつかの場所で、公式の政府政策として、捕虜に対してひそかに拷問の使用を許可し、奨励してきたこと。

 第19条 誘拐(拉致):人々を誘拐し、彼らの意志に反して彼らに対し拷問を行うことで知られている国を含む他国の「黒いサイト」(秘密基地)へ連れて行ったこと。

 第20条 子供たちを刑務所に閉じ込めてきたこと。

 第21条 議会と米国民にイランの脅威を偽って煽り、イラン政府を打倒することを目的として同国内のテロリスト諸組織を支援してきたこと。

 第22条 秘密の各種法律をつくってきたこと。

 第23条 コミテータス法(民警団法、1878年にアメリカで成立した連邦法で、国内の治安維持に陸軍、空軍、州兵を動員することを禁じたもの)違反。

 第24条 アメリカ市民を、法律と修正第4条(不法な捜索や押収の禁止)違反を犯して、裁判所の捜索令状なしでスパイしてきたこと。
 
 第25条 テレコミュニケーション(電信)会社各社に対して、アメリカ市民の私的な電話番号と電子メールの違法且つ憲法違反のデータベースを作成するよう指示してきたこと。

 第26条 各種法律違反を企図して大統領声明署名で表明してきたこと。
 
 第27条 議会の召喚令状に応じないよう悪誘導し、元雇用者に召喚に応じないよう指示してきたこと。

 第28条 自由で公平な選挙に干渉し、司法行政当局を腐敗させてきたこと。

 第29条 陰謀をめぐらせて1965年の投票権法に違反してきたこと。

 第30条 メディケア(国民保険)を破壊せんとして議会と米国民をミスリードしてきたこと。

 第31条 カトリーナ:予測されたハリケーン・カトリーナ災害対策の計画を立てなかったこと、社会的非常事態に適切に対処しなかった失策。

 第32条  議会と米国民をミスリードして、世界的な気候変動に対処する努力を組織的に毀損してきたこと。
 
 第33条 9.11以前にテロリストが米国攻撃を計画しているというハイレベルの機密情報警告が知らせられていたにも拘らず、それらを繰り返し無視し、対処する事に失敗したこと。

 第34条 2001.9.11日の攻撃に関する調査を妨害してきたこと。

 第35条 9.11の最初の救護活動者たちの健康を危険にさらしたこと。

 それにしても、この流れがもっと加速するとして、日本の場合に於いて小泉の政治責任追及というものが当然開始されるべきところ、与野党、マスコミ馴れ合いの完全無視のこの状況では考えられないか。


 訳出15 2008.6.11米国下院のブッシュ弾劾決議案
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/2008.6.11bushudangaiketugi.htm)

 2008.6.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評411 れんだいこ 2008/06/18 22:36
  【「ブッシュ弾劾35か条法案」の米国下院可決を報じない日本マスコミ界の奇怪考】

 「6.11日、米国下院のブッシュ弾劾決議案可決」から1週間を経過して、日本マスコミ界はただの一社もこれを報じない。この奇怪をどう評すべきだろうか。

 れんだいこには思い当たる事があるので、もう一度世に問うことにする。サヨ系自称インテリどもがこぞって偽書扱いする「シオン長老の議定書」の中の言論機関、マスコミに関する記述はこうである。妙に当っていることを窺うべきではなかろうか。

 「プロトコール」の中で、「言論機関」について次のように述べている。れんだいこが意訳して分かり易く確認してみる。「少し能の有る元々オツムの弱いゴイム知識人をうまく利用して手なづけ、我々のプロパガンダ機関にする。その際、新聞の果たす役割は大きい。この言論大砲をアメとムチを使い分けて我々の目的に奉仕せしめよ」。

 (れんだいこコメント)なかなか意味深というか、その通りなのではあるまいか。

 次のようにも述べている。「我々は、世界中の情報、記事を検閲する。一片の記事といえども我々の検閲抜きには公表されることはない。すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められ、そこから各新聞社、諸官庁に配信される。通信社は追って完全に我々の傘下に入り、我々が許可したものだけが供給され一般に公表される」。

 (れんだいこコメント)ここが確認したくて読み返してみたのだが、フムフムではないか。議定書の時代でこうだとすると、現在はもっとシステマティックな検閲システムが構築されているだろう。「ブッシュ弾劾35ケ条法案」が配信されない仕掛けが納得できよう。

 マスコミをどう懐柔するかについて次のように述べている。「楯突く者には課税圧力と処罰で我々の軍門に降らせる。それでも楯突く者には、出版社、印刷業者に手を回して、それが世に現われないうちに先手を売って反駁する。あるいは出版阻止する。それでも独立系が現われる場合には、我々の息のかかった機関との比率を1対3にして言論攻勢を仕掛ける。大衆操作により孤立させる」。

 (れんだいこコメント)この下りも、なかなか実態と合っているように見えるがいかがだろうか。

 御用人士をどう育成するかについて次のように述べている。「今のところフランス新聞界のみではあるがフリーメーソンと深く繋がっており、すべての新聞機関はフリーメーソンの下で堅く結束している。その成員は、情報源を漏らしたりはしない。なぜなら、皆スネに傷持つ身にしてある。秘密を漏らしたりしようものなら、直ちに過去の不行跡が暴露される仕掛けになっている」。

 (れんだいこコメント)この下りもフムフムではないか。通りでバカ面ばかりが肩書きだけは立派なのを付けてテレビに登場する訳だ。できの良いのが出られなくなる訳だな。

 「6.11日、米国下院のブッシュ弾劾決議案可決」がピタッと封ぜられているのは、こういう仕掛けに拠ってではなかろうか。その他の原因、事情があると云うのなら誰か聞かせてくれないか。それにしても、「シオン長老の議定書漏洩の歴史的重み」は大変なものだということになる。

 中身を読まないままに偽書だ偽書だというサヨ族に漬ける薬は無いが、その癖「アンネの日記」となるや実書扱いするのだが、一体どういう舌をしているのだろう。そういうところが気になるがそれはさておき、日本マスコミ、世界マスコミの報道は今後どうなるのだろうか。新聞がやるかテレビがやるか出版誌か、どこの誰が一番乗りするのか、野次馬精神でウオッチしてみたい久々の案件だなこれは。

「シオン長老の議定書の言論機関、マスコミに関する記述一覧」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/neozionismco/zionnogiteisyoco/theemabetuco/theemabetuco10.htm)

  「2008.6.11米国下院のブッシュ弾劾決議案」
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/2008.6.11bushudangaiketugi.htm)

 2008.6.18日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評412 れんだいこ 2008/06/19 20:08
 【れんだいこの目が黒いうちに見た「最新政界不思議現象」をメモしておく】

 「6.11日、米国下院のブッシュ弾劾決議案可決」に対する社共まで含むダンマリと云う不思議現象に接して、ここで同様事象を書き付けておく。

 一つは、松岡農相不審死事件である。与野党共々、マスコミ総員で自殺報道していった。一国の大臣たる者が国会会期中のしかも午後から答弁予定の身であるのに、議員宿舎会館内で午前11時頃パジャマス姿で変死したと云うのに、現場検証さえ報道されていない。れんだいこは、大臣の命の値打ちがこれほど軽くあしらわれた例を知らない。胡散臭さでは定評の有る飯島・小泉首相秘書官が現われ、荼毘指揮している不自然さも問われていない。松岡農相の衣服がどこへ行ったのか、現場にあったのかさえ定かで無い。政界、マスコミ関係者に、何で自殺だと断定できたのか、今も聞いてみたい。

 一つは、イージス艦の漁船衝突事故事件である。与野党共々、マスコミ総員で事故直後の漁船員救出活動の様子を不問にした。未だに事故直後の漁船員救出活動がされたのか、されなかったのかの真相さえ定かでない。されなかったとすれば、誰が差止め命令を下したのか、自衛隊トップか米軍かの詮索さえされていない。ちなみに漁船員は未だに不明である。仏も浮かばれまい。政界、マスコミ関係者に、救出活動の様子を何で質さなかったのか、今も聞いてみたい。


 一つは、こたびのブッシュ弾劾35ケ条法案可決不報道事件である。れんだいこは、あまりの不気味さに、この法案が可決されたというのがデマなのではないかと思い始めた。本当に可決されているなら、報道されぬ訳が無かろう。可決されているのに報道されないのだとしたら、これこそまったく白昼夢」では無かろうか。

 その昔、大本営発表と云うのが有り、負け戦を勝ち戦と喧伝して失笑されているが、考えてみれば、事件があったことは報道している訳だ。こたびの不報は、大本営発表の虚報より質が悪いと云うべきではなかろうか。それが公然と罷り通っているこの恐さを何と表現すればよいのだろう。政界、マスコミ関係者に、何で報道し無いのかできないのか、今も聞いてみたい。

 議員よ、マスコミよ、良くも恥ずかしくも無くお茶の間に出て来てヌケヌケと政治談議していることだわ。やれ北朝鮮だの環境問題だのサミットだのと云うのは結構だが、肝腎な何かを忘れちゃぁいませんかと石松節で言ってみたい。

 以上挙げた三事件が全てまさかデマだったと云うのではあるまいな。そんな奇妙な感覚に陥ってしまう。こうなると何を信じてよいのか、そりゃぁ秋葉原でも行きたくなるつうのも分からん気がせんでもない。

 否否、こういう場合みんな国会へ行けば良いのに。ネットカフェ難民はみんな国会へ行けば良いのに。何で強いところに行かずに弱いというか本質仲間のところに向かって勝手な憂さ晴らすんだ。それも解せない。とにかく全体が性根が腐っている。れんだいこが変人か、れんだいこ的に思わない連中が変人か、聞いてみたい。とにかくうがいでもして考えてみよう。

 2008.6.19日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評412 れんだいこ 2008/06/19 20:46
 太田龍・氏の「時事寸評」の2008.6.18日付「クシニッチ米下院議員のブッシュ弾劾決議の取り扱いについて、アメリカン・フリープレスの正確な報道」(ttp://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi)が事実経過を訂正している。

 それによると、「クシニッチ米下院議員のブッシュ弾劾35ケ条決議案」が下院で可決されたというのは総計で、6.9日の夜、クシニッチは、35章のこの決議案を下院議事録に記録するように主張して、五時間近く、本会議場で読み上げたのは事実であるが、その決議案は251票対166票で、司法小委員会に回送された、というのが真相らしい。

 なるほど、そういう訳で、このニュースが全世界に走らなかった訳だが、それでもやはりオカシイ。こういう決議案が下院に提出され、251票対166票で司法小委員会に回送されたこと自体でニュース価値はあろう。少なくとも、社共は伝える義務があろう。連中の反戦平和の薄っぺらさが見えて来る話では無いか。「ブッシュ弾劾35ケ条決議案」の諸内容の的確さは大いに伝えられるべき驚きのものであろうに。

 こうなると「ブッシュ弾劾35ケ条決議案」の行方が気になる。

 2008.6.19日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評413 れんだいこ 2008/06/23 15:28
 【著作権法の正確な理解について、新聞社説士に問う】

 2008.6.23日付け産経新聞社説「主張」の2が「著作権とネット」と題して、政府の知的財産戦略本部策定の「知的財産推進計画2008」に言及している。社説がこの問題を採り上げ、「フェアユース(公正利用)」の観点から情報の共同利用に道を開くよう提言していることは良いとして、「現行の著作権法理解」について気になり糾したい点がある。

 社説士は次のように述べている。「現行の著作権法は、個人での利用など一部の例外を除けば、他人の著作物の無断コピーやネット上への配信などを原則として禁止している。著作物の利用には、その度に権利者の許諾を得るよう求められる」。

 社説士にお尋ねしたい。現行の著作権法の何条に「事前通知要承諾制」が規定されているのか、教えてくだされば有り難い。れんだいこは旧法、新法に目を通したが、「事前通知要承諾制」などはむしろ排斥されていると読み取っている。この理解の差は由々しきことではなかろうか。はっきりさせて貰いたい。

 れんだいこが思うのに、社説士はどうやら、著作権法に隈なく目を通している訳ではないのではなかろうか。安直に「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」に依拠して、「現行の著作権は云々」としているのではなかろうか。

 れんだいこが見るところ、「新聞協会見解」は公然たる著作権法違反であり、現代強権著作権即ちタカ派著作権論を主張している。これが通説化しているが、それはあたかも憲法9条規定が有りながら、自衛隊なる軍隊を創設し専守防衛区域を外して今やインド洋、ペルシャ湾、アフリカまで派兵している様と酷似している。

 産経新聞は読売と並んで憲法9条改憲派の巣窟であるからして気にならないところであろうが、れんだいこはあちこちで「上からの法律違反」が気になっている。国債も憲法上は発行できない。しかし、その昔、福田大蔵大臣が始めちょろちょろで手をつけ、今日見境無いところまで膨れ上がっている。直前の田中大蔵大臣までは好景気誘導しつつ且つ国債には手をつけていない。ハト派の能力躍如たるものがあると云えよう。

 それに比べてタカ派のする事は格段に質が落ちる。というか、中曽根−小泉政治に典型的なように現代国際金融資本への露骨な御用聞き政治に堕しており、その本質が悟られないように靖国神社公式参拝で物議をかもし、マスコミが後押しして愛国者宣伝してきたという共通点がある。

 もとへ。社説士は、何を根拠に「現行の著作権は云々」と述べているのか説明義務があろう。本掲示板でも良いし紙面でも良いから釈明せよ。どなたかその旨告げて質して欲しい。ただし、産経社説士ばかりを標的にしては可哀相なので、「新聞協会見解」なるものをご神体に掲げ、「事前通知要承諾制」を述べる他紙の評論士よ、君達も右同罪である。著作権法の第何条にどういう風に書かれているのか釈明せよ。

 釈明できなければ「新聞協会見解」を見直しせねばなるまい。ナベツネラインが拵えた情報統制であるからして何の遠慮も要るまい。ブッシュも35ケ条の弾劾文を突きつけられるご時勢になった。我々も、真似事では面白くは無いが、小泉弾劾35ケ条を突きつけ、証人喚問によりお立ち台に立たせ国会の場で釈明させねばなるまい。

 それを誰がやるのか。それが居らん。ケッタイナ民主主義、議会主義なことだわ。

 2008.6.23日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評414 れんだいこ 2008/06/25 22:29
 【6月、なぜだか今日は60年安保闘争に酔う】

 6月と云えば、歴史的には安保の月だった。70年安保はたいしたことなかったので、60年安保と云う事になる。60安保闘争の意義が忘れられているが、れんだいこは違うと思う。今こそ高く評価され直されねばならないのではないかと思う。

 その後の歴史は安保を容認し、自衛隊を容認し、今日自衛隊はアフリカ派兵を地ならしにして大イスラエル建国闘争の傭兵として利用されようとしている。あぶなっかしい道ではあるが、アメリカに護ってもらっているんだから仕方ないではないかと追従している向きが多い。が、その代価が誰の目にも滅法大きなものになりつつある。

 その判断の分水嶺が60年安保にあったことが見えつつある。当時、安保改訂を是認した者は、現在の事態に責任を負っているはずであるが、れんだいこが確認した範囲では無定見野郎が多くてそういうことを考える脳自体が無いようである。れんだいこに言わせれば「安保ただ乗り論」を唱えていた者も同罪であろう。安保は「ただ乗り」どころか極めて高い代価を要求され続けており、このまま行くとこの国を滅ぼしてしまうのが必定である。そういう危険性がとみに明らかになりつつあるのに、この連中も黙して語らない。

 残念な事に、60年安保を闘った者もその意義を確認し損なっているように見える。できもしなかったしする気もなかった革命論議の観点から闘っただけで、60年安保そのものは闘争課題の一つでしかなかったからであろう。今はっきりしつつある事は、あれは「国家百年の計」を廻っての政争であり、かく位置づけて不退転の決意で闘うべきだったのではなかろうか。歴史の後付けで見えて来る話だけれども。

 れんだいこは、戦後日本は、戦後の国是として非武装国際協調で押し通せば良かったと思っている。そういう意味では社会党の反戦平和運動が政策論的には正しかった。但し、その理論的位置づけが、「もう二度と戦争はご免だ」と云う情緒的なものでしかなかったところにお粗末さが見える。

 そうではなくて、戦後日本の復興から繁栄、世界貢献の在り方として、非武装国際協調の道を選択し、世界の理解を求める道筋があったし、今も有るのではなかろうかと考える。自衛隊も救援隊的位置づけで何ら構わない。災害と戦争に拠る被害に特化して活動する道こそ合理的で世界が望んでいるのではなかろうか。その先進国として活躍する舞台が幾らでもあると思う。

 ブッシュの腰巾着としてお供したり、国連要請に限りとの名目であろうが日本が軍事派兵する道は胡散臭い。日本は、先の大東亜戦争の国際責任としての戦後日本の誓約事項であるとして軍事派兵の道は一切閉ざすべきではなかろうか。当然国連にもそう主張するべきであろう。

 その元一日が60年安保闘争にあったのではなかろうか。ここを軽々しく乗り越え、日米同盟に引きずり込まれて以来、その後の日本は国際金融資本の言いなりの道へ深く誘い込まれてしまったと見る。「安保ただのり論」は日本側の淡い期待に過ぎず、国際金融資本の目線は厳しく苛酷である。日本を武器販路の有力な市場として位置づけ、且つ自衛隊を一刻も早く世界の紛争へ介入し投入させたい一心で諸計画が策動しているように見えてならない。

 60年安保闘争は、岸政権を打倒する事によりハト派政権を誕生させ、彼らの策動を一定期間押し止める政治的役割を担った。ここに60年安保闘争の政治的効用があったと思われる。しかしながら、国際金融資本の計略はその間にも着々と敷設され、80年代初頭の中曽根政権の登場と共に一挙に爆発し、防衛費のGNP1%枠を取り外させた。国債の乱脈再発効もこの時より始まる。

 小泉政権になって、専守防衛区域を東南アジアまでとする制限も取っ払った。「神学論争じゃかましい」の一言で飛び越えた。我々はそれを許した同時代人である。この御仁は云う事為す事狂人であった。そういう御仁を長期在位させたのは恥であるが、日本左派運動が全く非力になったことを感じてしまう。彼らは今や傍若無人で為すがままである。官僚腐敗も甚だしい。にも拘らず社共は見る影も無く新左翼も同じく、かくて適当な空気抜き程度にしか機能していない。

 それを思えば60年安保闘争はどうだ。話はここへ戻る。国会構内へ二度突入し、樺美智子死して岸を退陣せしめた。国会外の巨万の大衆デモ、突出する全学連、院内での社会党議員の抵抗の三身一体で勝ち取った成果であった。これが勝利の方程式であり、先にも後にも無い一回こっきりの事件となっている。

 そういうことを考えながらうがいしてみるのも良かろう春の宵。

 2008.6.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評415 れんだいこ 2008/07/01 20:12
 【この一文は誰の手になるや】

 れんだいこは今頻りに戦前左派運動の検証に入っている。といっても、リンク替え程度のことしかできていないのだけれども。先の「人生学院」が膨大なものになり過ぎた為と思われるが、なかなか開かなくなった。そこでテーマごとに分散し始めている。こうなると必然的に新サイトを起こしリンク替えせねばならないことになる。結構な手間では有る。

 そういう中で、次のような一文を目にした。瑞々しく、れんだいこが今の現状を憂いて書いたとしても何ら違和感が無い。と同時に感性が非常に似ていることさえ感じてしまう。それはともかく開陳する。

 「日本の共産主義運動が、今日ほど実践上にも理論上にも、低調で混迷を極めている時代はかってなかった。甚だしい無気力と沈滞が一般の傾向であり、一部には実に目を覆わしめる腐敗堕落の現象さえ続出しているのが現状である。その意味に於いて、まさに前代未聞の危機の時代といって差し支えあるまい。これは誰しもが認めて、頭を悩まし、何とかいい打開前進の方法手段はあるまいかと、五里霧中に暗中模索しているところである。それが否めない目前の事実ではあるが、そう簡単に即効の万能薬が見出せる筈も無い。凡そ病気を治すには、病原を突き詰めてそこにメスを入れる必要のあることが常識ではないか。況やいわゆる膏肓に入っている病気を治そうとする場合においておやである」。

 「日本の労働農民運動が、今日ほど実践上にも理論上にも、低調で混迷をきわめている時代はかってなかった。はなはだしい無気力と泥沼のような沈滞とが一般の傾向であり、一部には実に目をおおわしめる腐敗堕落の現象さえ続出しているのが現情である。その意味に於いて、まさに前代未聞の危機の時代といって差し支えあるまい」。

 こういう素敵な物言いもされている。 

 「いやしくも左翼陣営に身を置きながら、博士号を欲しがったり、あるいは、博士号を得て、偉そうに思い得意顔の面々に接するおり、私は内心それらの人々の不見識をむしろ、憐れまずにはいられないのである」。

 (引用以上)

 れんだいこ文だとしても何らオカシクは無い。この御仁は誰だろう。大いに興趣が湧く。7月の月始めに良い文章に出会った。

 2008.7.1日 れんだいこ拝

その一文は so-long 2008/07/01 22:30
 はじめまして。 so-long と申します。
"いわゆる膏肓"で Google 検索したら、
ttp://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_hukumotoisumuco_goroku.htm がありましたけど(他にもヒットしましたが)。
福本和夫氏ではないでしょうか。いつも左往来人生学院問う論場2、ROMしております。

Re:正解です。 れんだいこ 2008/07/02 09:48
 so-longさんちわぁ。正解です。お見事です。れんだいこは、福本の感性に合うのか文意も表現の仕方もそっくりそのまま使えてびっくりしています。今戦前の左派運動史を再整理書き直ししておりまして丁度今終わりました。お目を通していただければ幸いです。

 人生学院新版
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/)
 人生学院旧版
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/)
 マルクス主義考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/)
 日本マルクス主義運動考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/nihon.htm)
 戦前運動史考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzenundoshi/senzenundoshi.htm)
 戦前日本共産党史考
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/senzennikkyoshico.htm)
 福本イズム考  (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/fukumotoismco/fukumotoismco.htm)

 福本氏についてはもっと知りたいのですが、やはり原本に当った方が良いのでせうね。最近復刻版が出ているようで、買おうか買うまいか懐具合と時間を気にしながらやり過ごしています。それはともかくどんどんご投稿ください。

 2008.7.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評416 れんだいこ 2008/07/02 22:15
 【釈尊考】

 れんだいこは今とある機縁から釈尊研究に入っている。実際には研究と云うほどのものではなく、釈尊論の概要を知っただけのことであるが。ところで、釈尊となぜ記すか。これも研究の成果である。それは、釈尊理論に拠れば、あるいは釈尊以前からかも知れないが、覚醒悟り者としての仏陀と記すと釈尊に限らず複数存在するからである。つまり、釈尊を釈尊として論じたいなら仏陀と云うより釈尊と云わねばならない、ということになる。この認識が正しいのかどうか、まだ心もとないが、いまのれんだいこはそう了解している。

 その釈尊の素晴らしさは何処にあるのだろうか。れんだいこは次のように思っている。人はどう生きるべきか、社会はどうあるべきかを徹底追及し解明したことにより、釈尊は不朽の名声を持っている。釈尊は、この問いかけから離れては輪廻転生を説かず、創世記も説かず、神も説かず、権力的な人倫道徳も説かなかった。ここに釈尊の意義が認められる。

 釈尊の教えは、西欧的宗教と云う概念では括れない。宗教でも有り哲学でも有り思想でも有り政治でもある。ここにも釈尊の意義が認められる。現在、世の自称インテリは、政治と宗教の関わりを問題にして政教分離を良しとして講釈している者が多い。れんだいこはならば尋ねよう。云うところの政治、宗教、思想、哲学、祀りを君達はどういう風に識別しているのだ。これを為さないと政教分離論も唱えても根拠が怪しい事になりはすまいか。政教分離を云う以上、まずここを解き明かしてからにしてくれ。

 ところで、れんだいこが真に云いたいことは次のことである。釈尊の説法、法話は、釈尊自身が書き残したものでは無いけれども、多く伝わっている。中には偽説もあろうし、釈尊の言葉通りに近いものもあろう。そういう仕分けはさておいて、釈尊の説法、法話がやたら面白い。いわゆる弁証法的である。マルクスのそれよりはるかに弁証法的でさえある。ここに釈尊の意義が認められる。

 もう一つ。全体にカオス派思考であり、説全体が開放的である。この構図を採ったところが素晴らしい。この一点で、西欧宗教的枠組みよりもはるかに進んでいるのではないかと思う。本来、智恵と云うものはドグマを排し、かく構えるべきではなかろうか。

 よって、仏教を学ぶ事により、人は脳髄が磨かれる。これは人類の財産であり学ばぬ手は無い。そういう風に鍛えられた頭脳で、世間の諸々の政治、宗教、哲学、思想、祀りを咀嚼し理論化し実践していった方がはるかに為になるのではなかろうか。れんだいこは、これが云いたくて今書き付けている。

 れんだいこが学んだマルクス主義の理論闘争なぞ、釈尊説法に比較すれば子供騙しに見える。反デューリング論に典型的なように、無政府主義との論争のようにご都合主義的な批判の臭いも強い。そういうマルクス主義教本に依拠して世間に闘争を挑んだとしても、世間の方が懐が深い。つまり、自称マルクス主義者は一から出直した方が良い。マルクス主義ならではの有効な理論があるとすれば、せめて釈尊説法、法話を心得てから振り回したほうが良いのではなかろうか。

 という訳で、れんだいこの釈尊論を紹介しておく。未だ中途半端なものだけれども、知らぬよりは知った方が良い事を書き付けているつもりだ。ご批判、意見を仰ぎたい。

 別章【世界の宗教考】
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/religionco.htm)
 仏教
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/bukkyo.htm)

 
 2008.7.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評417 れんだいこ 2008/07/04 21:05
 【れんだいこ一番お気に入りの釈尊の法話考】

 ここで、れんだいこが一番お気に入りの釈尊の説法、法話を披瀝し、世に問おうと思う。なるほどと思うか、むしろ農夫の意見に拍手するか、それは銘々の勝手であるが、興味深いやり取りであることだけは確かだろう。

 数ある釈尊逸話の中で、系統の違う珍しい説法法話がある。それは、釈尊がバラモン僧上がりの農夫と闘わした労働の意義を廻るやり取りである。れんだいこは、釈尊法話の中でこの種のやり取りを他には知らない。これを確認する。れんだいこ風に意訳する。

「釈尊は、弟子を連れ、思うままに請われるままに各地を移動し説法して回っていた。或る時、その昔バラモン僧であった農夫が釈尊一行に出くわし、釈尊に説法論議(理論闘争)を仕掛けた。農夫は、釈尊を次のように批判した。

 『釈尊よ、人はいかに生きるべきか、世の中はどうあるべきかを問うならば、まず昼間は仕事をしてそれからのことにせよ。人はまず何より生産的労働に従事せねばならない。それが人としての勤めだ。こうしてこそ社会的役割を果たせるのであり、昼の日中からぞろぞろ立ち歩いて仕事をし無いのが、一番良くない。むしろ人の道に外れているのではないかな。私はそう考えてバラモンを辞め、現にこうやって仕事に精出しているのだよ。そうは思わないかね』。

 これに釈尊がどう答えたか。『農夫よ。あなたが労働の意義を認め、仕事に精出していることは分かる。その通りだ。理屈は合っている。農業に勤しめば、田を耕し、畔を繕い、田に水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、稲の成長を見ては間引きも必要であろう。忙しい大変な事ではある。やがて収穫が有り、分かち合い、次の種籾も用意せねばなるまい。それは立派な仕事であり、誰かがせねばならない。

 しかし農夫よ、労働とは何も農業に限るものでも無い。山へ行けば山の労働が有り、川へ行けば川の、海へ行けば海の労働が有る。それぞれ立派な仕事であり、誰かがせねばならない。こうしてみんな繋がって助け合っているのだよ。

 同じ労働でも一人でするものでみなかろう。音頭をとる者も必要で、ひた向きに働く者も必要で、食事を用意する者もいるだろう。力仕事に向いている者も居ればがまん仕事に向いている者も居るだろう。これを一人でこなすものでもあるまい。ところで農夫よ。仕事はその人ならではの適所適役で為されるのが望ましい。それぞれが分を尽す事により、お互いが?がり助け合っているのだよ。

 そういう意味で、私には私の適役がある。世は苦悩、煩悩に満ちており、正しい思念に導かれないことにより生まれる諸病、災厄というものもある。世は考え違いと不心得による災難に満ちている。私は、長年この問題を問い、煩悶し、遂に世に真に有益な思想を得た。それを世に広め、悩める民を救済するのが私の仕事となっている。

 私もそなたがしているように頭脳の田を耕している。畔を繕い、水をやり、種を植え、雑草や虫を取り除き、成長を見ては間引きもし、やがて収穫が有り、分かち合い、次の種籾も用意している。そなたの収穫物が人様に役立つように、私の頭脳から紡ぎだされる収穫物も叉人様の無明から来る悩み、迷いを助けている。これが私の労働なのだよ。私もこうして社会的な仕事をしているのだよ。いわば種類の違う仕事と考えたら良かろう。立場の違いなのだよ。そう理解してくれぬか。

 何事も批判は容易い。しかし、批判だけでは物事は解決しない。人をけなし、人が分裂するように批判するのは詰まらない。ましてや力づくの暴力沙汰などは御法度だ。皆がそれぞれの足らざるところを補い合い、相手の能力を引き出し、互いが縁の下の力持ちとなって役立ち合う、こういう関係に立たなければ、望まれている良い仕事にはならないのだよ。これに気づかないと本当の智恵とは云えないのだよ。私はこのことを教える為に請われるままに出向いているのだよ』。

 バラモンは目が覚めた。徒な思弁に耽らず具体的有為の労働に精出す生き方こそ人としての真っ当な生き方だと気がつき、バラモン僧の身分まで捨て農に勤しむ己をこれまで自負してきたが、釈尊の叡智の前に初めて完敗したことを悟った。これまで釈尊のように説法した者が居らず、釈尊の教えほどに染み入る教えは無かった。農夫は釈尊に帰依することを誓った」。

 別章【世界の宗教考】
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/religionco.htm)
 仏教
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/bukkyo.htm)
 釈尊名言、法話
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/religionco/indiakei/bukkyo/meigenco.htm)

 2008.7.4日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評418 れんだいこ 2008/07/10 20:53
 【釈尊の中庸中道論考】

 れんだいこの釈尊探訪の旅は心のもやもやが晴れるまでもう少し続く。こたびは、釈尊の中庸中道論についてその真意を愚考してみたい。端的に云って、釈尊の中庸中道論は真理と正義を見極める思惟方法、実践様式として必要にされる深いの意味のものであり、通俗的に流布されているような対立する二者を足して二で割るような安直なものではないのではなかろうか。それとは全く異なる。このことが分かれば良い。

 2008.7.9日、れんだいこは、中立論的に使われる中庸中道論は間違いなのではなかろうか、と云う事に気づいた。先の「対謝論」に続いて「れんだいこの中庸中道論」は、聞く人が聞けば、これもかなりの評判を呼ぶ事になろう。これについて記しておく。

 俗説中庸中道論は、左右あるいは急進対穏和等々様々の二項対立に関して中立中間的バランスを尊び、実際にはそんなものがある訳でもないのに「公正」的見地を唱える立場から利用されてきた。しかしてそれは、中庸中道論が本来、思想的哲学的概念であることを弁えていない。釈尊的中庸中道論とは全く異なる、れんだいこはこのことに気づいた。

 れんだいこは、俗説中庸中道論は、単にモノグサ日和見的な中庸中道論であることに気づいた。釈尊的中庸中道論は、足して二で割るような中間とか公正とかに意味を持たせては居ない。真意は、何事にも捉われず、即ち立場とか姿勢(ポーズ)とかに執着、固執せず、或る情況の中でより正しいと思われるものを見極め選択し対応すると云ういわばフリーハンド的なところに意味と意義を持たせているのではなかろうか。

 つまり、釈尊的中庸中道論はいわゆる弁証法的なものであり、或る時には右になり或る時には左になり或る時には穏和に或る時には急進主義になると云う融通無碍性にある。右でもなく左でもなく急進でもなく穏和でもなくその中間を模索すると云う意味ではない。れんだいこは釈尊にそう主張したのではないかと真意を聞いてみたいと思う。

 この差は大きい。俗説中庸中道論によれば、中立公正的基準に捉われる故に却って束縛され、結果的に実践的には役に立たないかむしろ有害になる場合さえある。それに比して、「れんだいこの理解するところの釈尊中庸中道論」は無手勝流であり変幻自在であり、その分常に自由闊達さを保持し得る。釈尊が唱えた中庸中道論は本来こういう無限定且つ主体的意味のものであったのではなかろうか。ここに思いが至らなければ中庸中道論にはならない。

 そういう意味で、釈尊的中庸中道論の極意は、種々多方向の見解に対してより妥当値の高い見解を求め続け、その見解に基く実践も或る時には穏和になり或る時には急進的になりという具合に様々な変化を求める。この転身の内にこそ中庸中道の道がある。これを仮に真理の道だとすれば、真理を常に求め、より正しい道を模索する。この姿勢が本来の中庸中道論であるということになる。

 してみれば、世上の中庸中道論の何と愚昧な事か。それは、本質的に権力者側に身を置きながら、天邪鬼的な批判的ないしは中立公正的粉飾によりあたかも反権力的であるかのようなポーズ演出するだけの底の浅い絆創膏薬的な騙しの論に過ぎない。そういう類いの論を釈尊の名を使って広めるのは許し難い。

 このことに理論的に気づいたことが大きな収穫であった。このことを紀元前500年頃既に述べていた釈尊は偉い。その偉さを偉さのままに捉えず、己の背丈と甲羅に合わせて理解するから価値が損なわれる何事も。れんだいこはそう思う。幸せなことにこれを読まれた方、ご意見求む。

 思索ノート集
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/tetugakunote.htm)


 2008.7.10日 れんだいこ拝

Re:【釈尊の中庸中道論考】 彼岸楼 2008/07/15 00:39
 れんだいこさん、こんにちは。
 釈尊の教えの中に“中庸”があったかどうかの説明や、または、れんだいこさんによる“中道”の定義がいま一つ判然として来ないまま、レスするのは先走りの謗りを免れないのですが、両概念についての私見をほんの少し述べてみたいと思います。

 先ず、“中庸”の意味は「程好いところ」、「程好さ」ではないかと考えています。しかし、予めそれが存在するのでも、つまり予定調和的でもない、例えば料理の味付けのようなものかも知れません。塩味が強いとなれば甘味料を添加するか、水分を追加する等によって中和・緩和して、最終的に「程好さ」を得るというものです。同じように、体制の反動化が顕著であれば、意識的に対抗勢力を形成して政治的均衡を創り出すことも“中庸”にカテゴライズされるべきでしょう。主権者の投票行動にはたらくバランス感覚もその一例と謂ってよいのかも知れません。そして、とりわけインテリゲンチア(知識人)に求められるべきものは体制に与することではなくて、まさにこの“中庸”なのであり、これがその機能(存在)の価値を決定する要と謂えるのではないでしょうか。

 次に、“中道”とは二項対立の状況を克服するべく第三の道を探し求めていくことではないかと考えています。しかしながら、既存の二項を超えるような方法を案出することはそう容易いものではなく、大抵の場合は折衷案に近いものになると想われます。
 “中庸”が現実に対応する構え(処し方)を表象したものだとするならば、“中道”は人々の問題意識が求めるベクトルと謂ってもよいのかも知れません。ただし、問題が錯綜し複雑化する今日の社会状況には単なる折衷案では対応不能なことは明白ですので、複数の選択肢を提示して策を講じていく必要があるでしょう。インテリゲンチア(知識人)に限らず、それを推進していくのが当事者能力を有する者達の責務であることは謂うまでもありません。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:【釈尊の中庸中道論考】 れんだいこ 2008/07/15 12:14
 彼岸楼さんちわぁ。レス有難う。

>  釈尊の教えの中に“中庸”があったかどうかの説明や、または、れんだいこさんによる“中道”の定義がいま一つ判然として来ないまま、レスするのは先走りの謗りを免れないのですが、両概念についての私見をほんの少し述べてみたいと思います。

 確かに釈尊教義の中に中庸という言葉があるのかどうかは判然しません。気になりながら、単に中道と書くよりはましかなと思って造語してしまいました。釈尊の中道論の中身をもっと精査してみたいと思います。

>  先ず、“中庸”の意味は「程好いところ」、「程好さ」ではないかと考えています。しかし、予めそれが存在するのでも、つまり予定調和的でもない、例えば料理の味付けのようなものかも知れません。塩味が強いとなれば甘味料を添加するか、水分を追加する等によって中和・緩和して、最終的に「程好さ」を得るというものです。同じように、体制の反動化が顕著であれば、意識的に対抗勢力を形成して政治的均衡を創り出すことも“中庸”にカテゴライズされるべきでしょう。主権者の投票行動にはたらくバランス感覚もその一例と謂ってよいのかも知れません。そして、とりわけインテリゲンチア(知識人)に求められるべきものは体制に与することではなくて、まさにこの“中庸”なのであり、これがその機能(存在)の価値を決定する要と謂えるのではないでしょうか。

 なるほどです。恐らく中庸というのは中国思想の概念であり、インド思想の中に求めるのはオーバーランなのかなぁとか考えております。

>  次に、“中道”とは二項対立の状況を克服するべく第三の道を探し求めていくことではないかと考えています。しかしながら、既存の二項を超えるような方法を案出することはそう容易いものではなく、大抵の場合は折衷案に近いものになると想われます。

 うーーん。ここが違うのではないかなぁと発案して新解釈を打ち出したつもりなんだけども。れんだいこの考えもまだ煮詰まっていないから。

>  “中庸”が現実に対応する構え(処し方)を表象したものだとするならば、“中道”は人々の問題意識が求めるベクトルと謂ってもよいのかも知れません。ただし、問題が錯綜し複雑化する今日の社会状況には単なる折衷案では対応不能なことは明白ですので、複数の選択肢を提示して策を講じていく必要があるでしょう。インテリゲンチア(知識人)に限らず、それを推進していくのが当事者能力を有する者達の責務であることは謂うまでもありません。

 彼岸楼さん見解によれば、中庸がバランス、中道が路線選択と云う事になるのかなぁ。れんだいこは敢えて中庸中道を併記する事により両者を統合する新概念を創造したのですが、無理かもしれない。微妙なところですけれど。

 れんだいこ論の要点をもう一度確認しますと次のようになります。通説的な中道論は「中」を「中間」という意味に解釈している。しかしそれは間違いで、釈尊的中道論の意味している「中」は「真ん中」と云う意味ではなかろうかと考えている。「中間」と「真ん中」は意味がまったく違う。

 このことが云いたかったのです。これが「発見」なのかどうかは分かりませんが、思想的には意味ある指摘だと思います。但し、中庸中道論としたのは遣り過ぎかもしれない。そうでないかも知れない。そんな風に考えております。

>  Auf Wiedersehen.

 こちらこそです。この掲示板に意味ある議論がどんどん飛び交いますよう、皆さんよろしくお願い申し上げます。

 2008.7.15日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評418 こげぱん 2008/07/16 00:09
 れんだいこさん、ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。

さて近代科学の祖・デカルトも「中庸」の大切さを説いており、例えば「方法序説」にはこのような記述が見られます。

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そこで私は無差別に受け入れられている多くの意見のうちから、最も穏健なものしか選ばなかった。穏健な意見は実行するのに最も便利だからであり、またすべて極端なものは悪いのが普通であり、穏健な意見がおそらく最良のものだろうから。(後略)
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上記デカルトの命題は一見妥当なもののように見えますが、それは17世紀西欧という、理性の光が中世の闇を照らし始めた時代に書かれた記述だからであり、なにやら表と裏が入れ替わったような平成日本で上記命題が尚妥当かどうかは疑問に感じました。平成日本において「無差別に受け入れられている、最も穏健な(中庸、または多数派に支持されている)意見」とは恐らく、新自由主義+グローバリズム+政治的中道(or無関心)という組み合わせになるでしょうが、この組み合わせがもたらしつつあるものを考えれば、平成日本における上記命題の有効性・妥当性は、相当程度疑問であると考えざるを得ません。

釈迦の中庸論からは逸脱してしまいましたが、「中庸・穏健」の有効性や妥当性は、その時代時代のパラダイムを吟味してみないことには答えが出ないのではないか、とおぼろげに感じました。

Re:れんだいこのカンテラ時評418 れんだいこ 2008/07/16 16:41
 こげぱんさんちわぁ。毎度出没頼みますよ。デカルトの「中庸」論は知りませんでした。どこかに取り込んでおこうと思います。

> 上記デカルトの命題は一見妥当なもののように見えますが、それは17世紀西欧という、理性の光が中世の闇を照らし始めた時代に書かれた記述だからであり、なにやら表と裏が入れ替わったような平成日本で上記命題が尚妥当かどうかは疑問に感じました。平成日本において「無差別に受け入れられている、最も穏健な(中庸、または多数派に支持されている)意見」とは恐らく、新自由主義+グローバリズム+政治的中道(or無関心)という組み合わせになるでしょうが、この組み合わせがもたらしつつあるものを考えれば、平成日本における上記命題の有効性・妥当性は、相当程度疑問であると考えざるを得ません。
>
> 釈迦の中庸論からは逸脱してしまいましたが、「中庸・穏健」の有効性や妥当性は、その時代時代のパラダイムを吟味してみないことには答えが出ないのではないか、とおぼろげに感じました。

 そうですよね。れんだいこは通説的な中庸、中道論に疑問を覚えました。あれは却って害があるのではないかというところかられんだいこ式中庸中道論を考えてみました。今は役小角論に取り組んでおります。もう少し纏めてから発表したいと思います。

 れんだいこは今、現代政治のちまちましたあれこれに食傷しており、もっと型の違う、レールの違う思考方法、政策体系、世の中づくりというものがあるのではないかと、これを探訪しつつ有ります。発酵中で未だ言葉にはなりませんが、筋道を見出したいと思っております。皆様よりの引き続きのエールお願いいたします。

 2008.7.16日 れんだいこ拝

Re:Re:【釈尊の中庸中道論考】 <中庸(=機能論)と中道(=構造論)> 彼岸楼 2008/07/21 08:00
 れんだいこさん、こんにちは。

 >なるほどです。恐らく中庸というのは中国思想の概念であり、インド思想の中に求めるのはオーバーランなのかなぁとか考えております。

 概略的には、“中庸”は秩序維持のための道徳の一つとして政治思想(社会の機能原理が主軸)に、“中道”は世界観構築のための指針の一つとして宗教思想(世界の構成原理が主軸)にカテゴライズすることができるのではないかと考えています。
 機能が構造を形成するのか、構造が機能を生成するのか、おそらく補完的な関係(性)によって人類の歴史は紡がれて来たのではないでしょうか。そして、“中庸”という道徳上のルールが“法”に反映されることはあり得ることであり、また“中道”は既成の“法”を超えることを含意するが故に新たな世界観の構築(第三の道)のための指針や原理たり得るのではないかと想っています。けれども、孔子が世界観について詳述しているとも、一方、釈尊が道徳について深く立ち入っているとも想われませんので、両者の間に結節点を見出そうとする試みが現代社会にどんな意義を齎すことになるのか私には判りません。

 Auf Wiedersehen.

Re:Re:Re:【釈尊の中庸中道論考】 <中庸(=機能論)と中道(=構造論)> れんだいこ 2008/07/22 09:52
 彼岸楼さんちわぁ。

>  概略的には、“中庸”は秩序維持のための道徳の一つとして政治思想(社会の機能原理が主軸)に、“中道”は世界観構築のための指針の一つとして宗教思想(世界の構成原理が主軸)にカテゴライズすることができるのではないかと考えています。

 かも知れんし、どうだろねぇ。“中庸”は認識論、“中道”は処世論にカテゴライズすることができるのとも考えられます。しかし、釈尊的中道論は認識論でもあるわなぁ。この辺り分からなくなりますねぇ。同様かどうか分かりませんが、体験、体感と経験の差も似たようなところがあります。

>  機能が構造を形成するのか、構造が機能を生成するのか、おそらく補完的な関係(性)によって人類の歴史は紡がれて来たのではないでしょうか。そして、“中庸”という道徳上のルールが“法”に反映されることはあり得ることであり、また“中道”は既成の“法”を超えることを含意するが故に新たな世界観の構築(第三の道)のための指針や原理たり得るのではないかと想っています。けれども、孔子が世界観について詳述しているとも、一方、釈尊が道徳について深く立ち入っているとも想われませんので、両者の間に結節点を見出そうとする試みが現代社会にどんな意義を齎すことになるのか私には判りません。

 うーーん。となると、れんだいこの試論は徒労かなぁ。もう少し練ってみませう。

>  Auf Wiedersehen.

 うんこちらこそ。

 2008.7.22日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評419 れんだいこ 2008/07/23 20:50
 【れんだいこの役行者論】

 2008.7月頃、れんだいこは俄かに役行者(えんのぎょうじゃ)に興味を抱き始めた。それは釈尊を学んだ事により派生した関心でもある。れんだいこが役行者に注目する理由は、現代政治とりわけ日本のそれが袋小路に入っており、打開の方途が見えず、こうした時代に頼りになるのは昔から「困ったときの神頼み」で、日本神道に救いを求めるべきではないかと思ったことによる。

 日本政治は既に行き詰まっている。というより、既に支配者側の政治当局者の頭脳が高等な政治を御す能力を有していない。現代世界を牛耳る国際金融資本ネオ・シオニズムの長年の御用聞き政治により、随分と低脳化させられた結果だと思っている。この連中が今後俄かに賢くなる事は無い。銘々が政治の重責を念頭に置かず、任意な利権に食らいつき寄生するぐらいの能力しかない。そうとならば一刻も早く舞台から引き摺り下ろすまでのことであろう。

 ところで、こうした折には回天運動が働き、政権批判側の頭脳が新たな政治を担うべきはずであろう。日本史は適宜にそういう経験を刻んでいる。そうなのだが、れんだいこの見るところ、反対側も既にかなりヤラレテイテ政治当局者的頭脳を有していない。万年批判、野党型の習性が身についてしまっている。ここにもう一つのお粗末極まりない政治貧困が見受けられる。

 ならば、この情況をどう打開すべきか。れんだいこは、時代が役行者を呼んでいると思っている。

 れんだいこは、現代政治に食傷している。だから、かってのように一々の政治事情を批判する気にもなれなくなった。その気分の裏返しが今、役行者論に向かわせている。役行者を学ぶ事で、その超能力の一片でもものにし、何か有効なメッセージ、打開の方途を見出せないものかなと思っている。

 そういう理由から役行者論に取り組む。このたびも当然に通説的なものになる訳がない。通説から得るものは単に表面に現われた知識であり、どういう訳かれんだいこを納得させない。その凡庸な知識をいくら寄せ集めても博学以上にはなれないと思う。そこで、それらからは情報として知識をいただくもそこまでであり、そこから先は眼光紙背に徹するならば見えて来る一筋の流れを嗅ぎ取り、役行者が歴史上果たした役割、日本思想史上の位置を確認し称揚せんと思う。

 役行者は修験道の開祖として知られている。れんだいこは、単にそれだけのものではなかろう、彼は通常思われているよりももっと大きな役回りを果たしていると思う。結果的に修験道として果実するが、役行者が果たした日本思想史上の成果を修験道の側から見るのではなく、日本思想史全体の中から理解した方がより的確且つスケールが大きくなるのではなかろうかと思っている。

 勿論、世の中の通例で何事も功罪はある。彼が編み出した神仏習合は功の面もあれば罪の面もある。しかし、功の方がより大きいと見なす観点から評するべきではなかろうか。修験道+アルファーと云う事になるが、+アルファーの方こそ本来もっと着目されるべきではなかろうか。この観点から、彼が歴史上果たした真の役割を探求するのが真の役行者論になるべきではなかろうか。

 れんだいこにはそういう気づきがある。しかしながら、この方面の役行者論は皆無に等しい。ならば、れんだいこがこれに挑戦し、大上段に構えてヴェールを剥ぎ取り真価を晒してみたい。本サイトはこれを為す為のものである。従来の仏教的読み取り、道教的読み取りに対して新たにズバリ古神道的観点から言及してみたい。既に誰かが為しているならそれで良い。れんだいこが知らないだけで結構な事である。しかし、れんだいこは今のところ知らない。 

 以上を前置きとしていざ出航する。

 2008.7.23日 れんだいこ拝

寄生と不可分な種の保存(継続) 彼岸楼 2008/07/24 02:17
 れんだいこさん、こんにちは。
 いつの間にか、私も地球時間で云うところの60歳の近所に到達してしまいました。以下は自明なことの確認であり、私には再出発のための始点となった事項でありました。

 生物の唯一の存在理由(存在目的)は種の承継であり、人類と謂えどもそれを免れ得ない現実がありますが、我々人類はそれをどのようにして成し遂げて来たのか、すなわちどのように生命の持続性の安定化を勝ち得て来たのでしょうか。
 そのキーワードはフロー経済からストック経済への移行にあると考えます。生存基本財が貯蔵できることに気づいたとき、それが生命の持続の安定化に繋がるのを体験したことが生産性向上への大きな転機になったと想われます。そこから、脳機能の拡張性を伴って人間は様々な観念や事物を生み出して行ったのですが、所有、支配、貨幣等はその顕在化と謂えましょう。

 人類はこの先も、資本主義を駆動力とする局限的集中化の経営システムによって種の保存を成し遂げようとするのか、それとも社会主義を駆動力とする全体的平準化の経営システムによってそれを実現しようとするのか、ベクトルは同じであってもプロセスは全く違いますし、其々がチャレンジであることには変わりがないでしょう。
 同様にそれは地球にたいする“寄生”のプロセスであり、断じて、共生でも共存でもありません。地球が生命を育み与えるべくあるのに比して、人類は何も与えてはいないからです。その人類が為すべきは自分達のためにもできるだけ“寄生”期間の延長化を実現しつつ、その間にも地球外のプラネットに新天地を求めていくことなのかも知れません。

 最近の日本に関する論考ではK・V・ウォルフレン等の諸外国の知識人によるものが大へん参考になると思っています。[真相究明]⇒[原因解明]⇒[対策立案]⇒[実施検証]の課題解決プロセスに準じるならば、特に[真相究明]の段階、すなわち明治から現在に至る政治状況の考察は正鵠を射ていると感じます。惜しむらくは精緻で広汎な[原因解明]には到っていないことですが、本来それは当事者である日本人が負うべき責務であると我々は覚らねばならない筈のものです。
 かくして、遅蒔きながら私は[原因解明]に拘っている次第です。何故なら、それが単なる彌縫策ではなく、根本的対策の立案に繋がると確信するからに外なりません。

 Auf Wiedersehen.

Re:寄生と不可分な種の保存(継続) れんだいこ 2008/07/24 10:20
 彼岸楼さんちわぁ。彼岸楼さんとれんだいこはほぼ同じ世代と云うか年齢になるみたいですねぇ。機縁なことです。資本主義の歴史的必然性、そのシステムからの出藍を手探りしているとの趣意、承りました。これについては別の機会に私見をのべさせていただこうと思います。とても重要な考察には違い有りません。

 今、役行者論に入りました。参考になる事を教えていただけましたら有り難いです。一応レポートしておりますが、まだまだ不十分でいつでも書き直しできます。本掲示板ロムの皆様、よろしくお願い申し上げます。なんでも結構です。

 2008.7.24日 れんだいこ拝啓

Re:【れんだいこの役行者論】 彼岸楼 2008/07/24 20:22
 れんだいこさん、こんにちは。

 >役行者は修験道の開祖として知られている。れんだいこは、単にそれだけのものではなかろう、彼は通常思われているよりももっと大きな役回りを果たしていると思う。結果的に修験道として果実するが、役行者が果たした日本思想史上の成果を修験道の側から見るのではなく、日本思想史全体の中から理解した方がより的確且つスケールが大きくなるのではなかろうかと思っている。

 最近は、修験道にはとんとご無沙汰をしておりますが、その昔(高校2年)に修験者が行のために宿る奥宮の社務所で自炊しながら、半月間を一人で過ごしたことがあります。奥宮から少し登ったところに滝があり、夜半ともなればその水音が無数の人語に聴こえて来たものでした。
 さて、この度の考察は役行者の復権が新たな歴史を構成する何らかの継起点になると想ってのことだと推察します。私自身は余り関心を呼び起こされるものではないのは申し訳がないのですが、れんだいこさんの研究は無視することができないと思っていますし、その成果に期待してもいます。
 そこで、もし希望を言わせていただければ、役行者の思想と修験道の歴史に関する真相の究明から役行者と修験道を生んだ原因の解明までを視野に入れていただくと、その過程において課題が明確になり、さらには問題解決のための処方箋を見出すことも可能ではないか、そんな気がしています。尚、下記の<参考URL>のスレでも触れていますように、おそらく日本霊異記が生まれた背景を含む解明が考察上の重要なポイントになるのではないかと想われるのですが、後のことはれんだいこさんにお任せしたいと思います。

 Auf Wiedersehen.

 <参考URL>
 役小角とは何者か?
 ttp://www.st.rim.or.jp/~success/ennoozuno_ye.html

Re:Re:【れんだいこの役行者論】 れんだいこ 2008/07/24 20:52
 彼岸楼さんちわぁ。「役小角とは何者か?」は為になりました。2箇所取り入れさせていただきました。れんだいこと違う観点は、次の一説です。

 「私はこの役行者が、いつの間にか、仏教の修行者のようになっていく過程に、日本の神道が、身も心の(も)仏教という新しい極めて体系的そして綜合的な宗教に絡め取られてゆく姿を見てしまうのである」。

 そうとも取れるし、逆に、仏教という新しい極めて体系的そして綜合的な宗教を古神道の体系の中に取り込んだとも読めると思います。れんだいこは、後者説です。佐藤氏とれんだいこは、全体的には近いところを歩いているような気がします。ご紹介有難う。

 2008.7.24日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評420 れんだいこ 2008/07/24 21:20
 【れんだいこの役行者論予備知識、日本式古神道の秀逸考その1、神道とは】

 「れんだいこの役行者論」は、日本式古神道の秀逸性を語るところから始まる。関係ないと思う勿れ。これから追々明らかにしていくが、これにより新たな役行者像が生まれることになるだろう。

 世界の宗教圏識別によれば、日本は仏教国と云われる。間違いではないのだが、れんだいこはこの捉え方に若干の異議を持っている。日本は仏教国ではあるが、実のところは日本はその前に世界に誇るべき世にも稀な神道国として自己形成していたのではなかろうか。

 もう10年ほど前になるだろうか。森首相が「神の国」発言した。これにマスコミと左派、サヨ陣営が批判のボルテージを上げた。どういうセンテンスの「カミの国発言」であったか忘れたのでなんとも云いようがないが、れんだいこが思うに、これはマスコミと左派、サヨ陣営の方が分が悪いのではなかろうか。日本史の底流を見ずに、幕末以来の西欧史観に呑み込まれた挙句、さほどメクジラするほどのことでもない批判の為の批判をしたに過ぎない。れんだいこは、あの当時も今もそう思っている。

 今日、仏教も神道も日本社会にすっかり根付いている。だから日本を仏教国と見なして差し支えはない。だが、詳細に見ると、神道の方こそ真に底流で根付いているのではなかろうか。神道の発展バージョン系として仏教、道教、儒教その他諸々が取り入れられているのではなかろうかと思っている。

 これを過度に心酔すれば日本国粋主義になるのだろうが、根拠がない訳ではないと思う。国粋主義を除いて日本主義にすれば、「神の国発言」はあながち的外れではあるまい。但し、この場合、日本国、日本神道のどこをもって評価するのかが肝腎だろう。これについては後述する。

 現代日本はこれら東洋系思想の切磋琢磨とは別に既に西欧的なキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の各派を抱えている。日本神道が有りながらこれを知る事もなく、西欧宗教を受容した者に於いては、日本社会に伝統的に根付いている神道的精神、価値基準は幼稚なものに見えたのであろう。

 しかし、れんだいこは逆に考えている。日本神道の方こそ本来最も優れた思想ないしは宗教ではなかろうか。日本神道には、世界の四大宗教の如くな精緻な教義、経典がどうやら意図的なようであるのだが、無い。故に、何か劣等なもののように受け止められているのだろうか、日本人自身が日本神道を世界に冠たるものとして位置づけ称揚しようとしない。実にそういう在り方が神道的なのではあるが。

 かといって、日本神道の真価を貶めるのは大いなる誤りではなかろうか。日本神道に教典がないのは、無い事により却って教条主義から解放されると云う功の面がある。これによりいつでも情況即応的な開放的柔構造になっている。この功をも知るべきではなかろうか。れんだいこはそのように捉えている。

 今後、日本社会の精神界は、近現代史の主潮である国際金融資本の植民地化政策及びそのイデーとバッティングし、日本神道を廻るせめぎあい時代を迎えるかも知れない。そんな予感がする。こうした時代にあっては特に、在来の伝統的精神、価値基準、日本神道、日本精神を学びでおき且つ重んじたいと思う。

 2008.7.24日 れんだいこ拝




(私論.私見)