カンテラ時評13(361〜390) |
(最新見直し2007.7.12日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.3.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評361 | れんだいこ | 2008/01/22 13:05 | ||
【提言8、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ】 日本左派運動に対する提言1で、民族主義的土着型運動を指針させ、提言2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を指針させ、提言3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を指針させ、提言4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよを指針させ、提言5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよを指針させ、提言6で、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよを指針させ、提言7で、左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよを指針させた。次に提言8として、「戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動は、戦後日本の立役者となった政府自民党内のハト派的運動に対して余りにもお粗末な対応をしてきたのではなかろうか。今、政府自民党内のタカ派的運動が、ハト派時代が築いてきた国富を国際金融資本帝国主義に譲り渡し、売国奴政治にうつつを抜かしている時、両者を識別し是々非々すべきではなかろうか。「政府自民党」に対する万年一本槍批判ほど実際にそぐわない事は無い。 情けないことに、日本左派運動は、政府自民党内のハト派が政権を掌握機動させていた時にもっとも盛んに反政府反体制運動を繰り広げ、タカ派が掌握機動している現在逼塞させられ、口先三寸の批判運動に終始し裏協力するという経緯を見せている。これが偶然か故意なのかは分からないが、そういう悪しき対応をしている。社共運動特に宮顕−不破系日共運動が真に批判されねばならないのは、この犯罪性に於いてである。 思うに、政府自民党内のハト派政治を良質のそれであったと見直し、その限界を突破し更なる左からの政治運動を生み出すために弁証法的に検証し直すべきではなかろうか。ハト派政治を体現したのは吉田茂を開祖とする池田隼人及び田中角栄、大平正芳、鈴木善幸政権であるからして、この時代の政治を検証し直し、復権せしめるべきところは復権し再興すべきではなかろうか。 れんだいこは、戦後保守本流派を一時期形成していたハト派の中でも田中角栄政治を偽装保守実は真正の左派政治ではなかったかと推定している。実際には、古代出雲王朝の大国主的政治であったとみなしている。スサノウとみなす向きもあるが、オオク二ヌシ的であったと解するのがより近いと思われる。国譲り前の善政政治であり、陰に陽にその後の日本政治に影響を与えている。 それ故に、そのことを嗅ぎ取ったネオ・シオニズムがロッキード事件を用意周到に仕掛け、政治的に葬ったのではないのか。ネオ・シオニズムがこぞって呼応し、その際宮顕−不破系日共が異常にはしゃいだ裏には臭いものがあるとの仮説を持っている。日本左派運動は新旧左翼ともども、この観点をからきし持っていない。むしろ、金権政治の元凶として共に最悪視している。果たしてどちらの受け止め方が正しいのだろうか。 角栄については、「田中角栄論」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/kakuei/tanakakakuei.htm)で総合研究しているので参照されたし。れんだいこが特に触れておきたい事があるので記しておく。それは、角栄がロッキード裁判で羽交い絞めされた折、公判闘争の途中より新左翼系弁護士に依頼したことである。角栄は何ゆえ見得も外聞も無くよりによって新左翼系弁護士に依頼したのだろうか。これが解ける者があるだろうか。 れんだいこ史観に拠れば容易である。れんだいこの「角栄=偽装保守実は真正の左派」説に立てば、窮した時に本性表われるで、角栄が日共とは違う真性左翼の系譜であろうと仮定して新左翼系に必至の思いで助け舟を求めたと解する事ができる。 であるとするなら、新左翼は、角栄が藁をも掴む思いで差し伸べた手をしっかりと受け止めるべきであった。新左翼系弁護士は全精力で角栄救済に向うべきだった。実際にはその有能性を最大限発揮して角栄冤罪説を主張した形跡が無い。恐らく、左翼圏全体が日共式の角栄観に禍いされて熱心とならなかったのではなかろうか。返す返すも残念な事であった。 それにしても、角栄退治に鉄腕を振るった宮顕−不破系のおぞましさよ。彼らは、ロッキード事件摘発最中の1976(昭和51).7.28日、秋に予定していた定期党大会を翌52年に延期し、異例にも党史上初めての臨時党大会を開き、宮顕・幹部会委員長が、大会の冒頭の挨拶と基調報告をし、前日の田中前首相の逮捕を誇らしげに伝え、対角栄闘争の徹底推進をぶちあげ異例の並々ならぬ意思統一をした。この時の様子についての詳しい記録が発表されておらず、秘密性の濃いものとなっている。 角栄のその後は日共の願う通りのものとなり、政治的に考察された。こうなるや不破は、かって角栄を金権政治の元凶としてさんざん悪し様に指弾しながら、今になって云う事に概要「よほど貧乏していたのだろう。今日から見てさほどの額でもない僅か5億円の金欲しさに外国からの汚い金に手を出していた」などと角栄死してなお侮辱しており、ご丁寧な事に党員の拍手拍手と云うおまけ付きである。共に語り得ずの面々ではなかろうか。 しかし、冷静になって考えれば次のことが明らかになる。今現在、自民、民主のタカ派系が構造改革と称して次から次へと改悪策動している諸制度は、ハト派時代に築かれた善政の産物ばかりである。タカ派系は何を急いで改悪に狂奔しているのだろうか。ここが詮索されねばならないだろう。国際金融資本のシナリオ論を媒介せずして解けるだろうか。 れんだいこは既に指針2の「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動を展望せよ」で述べたが、戦後保守本流のハト派政治こそ、戦後日本のプレ社会主義性を良しとして在地土着型の左派運動を展開した稀有なものであったのではなかろうか。彼らは一度としてマルクスのマの字さえ口にしなかったが、マルクスを呼号し続けるマルクス主義者よりもよほどマルクス主義的で、世界に冠たる親方日の丸式在地土着型社会主義政策を創造し敷設していったのではなかろうか。ここに、世界の奇蹟と云われる戦後の高度経済成長式発展があり、イスラム世界ともよく親交し賛辞されていたのではなかろうか。 してみれば、戦後保守本流ハト派の政治、特に角栄政治の功績を見直し、継承すべき面を継承し、新在地土着型のハト派政治を再興していく事こそ現代政治のテーマとなっているのではなかろうか。このことを指摘しておきたかった。この観点に異論があれば、れんだいこはいつでも応ずる意思がある。堂々と議論しようではないか。 以上より、「日本左派運動は、戦後保守主流派のハト派政治を再興せよ。戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよ。これを第8指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第4指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。第5指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、第6指針の暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ、第7指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第8提言」としておく。 2008.1.22日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評362 | れんだいこ | 2008/01/22 17:58 | ||
【提言9、マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地で企業活動を見直せ】 日本左派運動に対する提言1で、民族主義的土着型運動を指針させ、提言2で、戦後憲法及びその法秩序の評価の理論的見直しにより護持成育発展を指針させ、提言3で、国有化経済理論を否定し、市場性社会主義経済論への転換を指針させ、提言4で、日本左派運動用語から統一戦線論を棄却し、共同戦線論に転換させよを指針させ、提言5で、党中央権限集中制論を否定し、機関運営主義権限分権制論に転換せよを指針させ、提言6で、暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよを指針させ、提言7で、左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、提言8として、戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよを指針させた。次に提言9として、「マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地で企業活動を見直せ」を指針させる。これも議論を呼ぶところであろう。 日本左派運動検証の大詰めは、マルクス主義的階級闘争論の見直しに向かわねばならない。一体、マルクス主義的階級闘争論とそれに基づく搾取論は真に科学的なのだろうか。それがプロレタリアートの解放理論である事は分かるが、我々は、これに依拠せずんば闘うイデオロギー及び理論を創出できないのだろうか。これを思案して見なければならない。 思うに、マルクス主義的階級闘争論は、「頭で逆立ちしていヘーゲル式観念弁証法を足で立つ唯物弁証法というまともなものにした」と弁じているが、にも拘らず、ヘーゲル的弁証法の概念主義に拘った思弁的なもので、社会の実態分析には役立たないというかむしろ危険邪道ものではなかろうか。 歴史と云うものは世代間の積み重ねであり、社会構成上の階級、階層、身分につき互いに対立、抗争しつつ社会の成熟度に応じたある種の合理的な拮抗で調和しているとみなされるべきできなかろうか。資本制的搾取は、それを得手とする特殊な勢力が特殊なイデオロギーに基き導入扶植した特殊な生産及び分配手法であり、人類史の必然的行程としての社会法則では無いのではなかろうか。れんだいこは、こう考えるべきだと思うようになった。こう考える事により、誰と何を争うのか闘うのかがはっきりするように思っている。 彼らの魔手が伸びないところでは概ね君主制であろうが封建制であろうが共和制であろうが民主制であろうが、近代科学及びそれに基く生産は、今よりはずっとましなそれなりの分配システムを組み込んでの秩序を形成している、いたはずで、資本主義制はその伝統を過度に捻じ曲げて守銭奴化しているとみなすべきではなかろうか。 近代科学に基く生産力の発展は、分け前として人民大衆に福利を享受させるべきところ、資本主義制によって資本の増殖に次ぐ増殖へと回転し、生産力の余剰は上層部の奢侈に変形的に費消され、下層階級が強力的に相変わらずの貧困にひしめく制度に意図的に落とし込められており、社会的登用制さえもがかっての時代より合理的でなくなっているのではなかろうか。生産力から見て食えなくはないのに食えない事態が発生しているのおかしいのではなかろうか。ここに社会的不満が発生し、その解決能力に応じて改良改革なり革命なり回天が必要とされているのではなかろうか。 資本主義的近代産業制は、資本家と労働者の二大階級を生み、その間に様々な階層を作っているが、搾取論で説明するのは矮小ではなかろうか。階級差は社会の発展と共に必然的に生み出されるが、これを資本主義制的に整序するのか近代産業制的に整序するのかが問われており、両者は別物なのではなかろうか。近代産業制を資本主義制にせしめているものを疑惑せねばならないのではなかろうか。 我々が考察すべきは、資本主義的近代産業制ではない社会主義的近代産業制の在り方であり、マルクス的な搾取論のみならず労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の見地からの総合的把握が必要なのではなかろうか。要求されるのはその社会の発達の程度に応じた合理的在り方ではなかろうか。 マルクス主義以来の左派運動が金科玉条する資本家=悪、労働者=善とする扁平な理論ではこの問題が解けず、太刀打ちできないのではなかろうか。近代産業制の果実からもたらされる労働論、雇用論、機能論、社会的貢献論その他の論を創造する事により、今よりはずっとましな労働運動、政治運動が生み出されるのではなかろうか。これを体制内化させず常に目線を高くする左派運動が望まれているのではなかろうか。 れんだいこが思うに、労働者階級及び個々の労働者は、俗流マルクス主義の諸理論に拠って擁護されていると同時に却ってスポイルされている面がありやしないか。真っ当な労働意欲、自己啓発、能力、責任を育てる事に背を向けすぎていやしないだろうか。そういう風に仕向けられているのであろうが。その裏返しで、経営者ないしは事業体に対して不当に搾取者視し、事業意欲、能力、責任を育てる事に背を向けすぎていやしないだろうか。 考えてみれば、党派運動も一種の事業であり、党員及び指導者はその事業の主体者である。その意味では党派運動を能く為す者は経営者に近い。逆に云えば、事業者は或る意味で党派運動を為している感があり、意識的には革命家であるかも知れない。つまり、日本左派運動が敵視している経営者の方がよほど革命的な面があるという背理がある。れんだいこのみならず多くの者が生活体験からそういうことを学んでいるのではなかろうか。 そういうことも含め、日本左派運動が依拠したマルクス主義理論が何の役にも立たないところから無視され始め、今や化石理論になりつつあるように思われる。れんだいこは、さりながらマルクス主義の良質面を救い上げ、これと他の諸理論との総合による現代的人民大衆解放理論を創造せねばならないと考えている。学問が学問に値するものでなければならないと考えている。学んで却って馬鹿になるような学問が主流化しつつあるが、それらとは叉別系の学問を起こす必要があるのではなかろうか。一歩後退し二歩前進していくべきできなかろうか。 以上より、「マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地で企業活動を見直せ。これを第9指針とする。これを第1指針の民族主義的土着型運動、第2指針の戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し護持成育せしめる運動、第3指針の切り開く社会像として社会主義的国有化理論を否定し、市場性社会主義経済論に転換せよ。第4指針の統一戦線論を否定し、共同戦線論に転換せよ。第5指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、第6指針の暴力革命論の暴力、プロレタリア独裁の独裁概念を見直し、哲学的政治概念として理解せよ、第7指針の左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ、第8指針の日本左派運動は、戦後保守主流派のハト派政治を再興せよ。戦後ハト派政治の総帥田中角栄政治を再興せよと結びつけよ」を指針させる。これを「第9提言」としておく。 一応以上で、「日本左派運動に対するれんだいこ提言完結」とする。れんだいこの目下の思想状況を吐露した。反応を聞かせてもらえば有り難い。 2008.1.22日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評359 「駆動力の源泉」 | 如往 | 2008/01/22 20:16 | ||
れんだいこさん、こんにちは。 今回の概略戦後学生運動史論及び(戦後)日本左翼運動史の趣旨は概ね諒解できるものでした。そして、次なる喫緊の課題は日本左派運動再生のための新たなベクトルを定めることであるとの見解に同意しつつ、下記の箇所についてのみ気づいたことを少しコメントさせていただきました。 >以上より、「日本左派運動は、戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し、護持成育せしめよ」。これを第二指針とする。これにより、「戦後憲法秩序をプレ社会主義のそれと認識し、護持成育せしめ、第一指針の民族主義的土着型運動と結びつけよ」が指針される。これを「第二提言」としておく。 社会制度改革のエネルギーの自生的な萌芽を歴史上何処に認められるのでしょうか。江戸期の大塩平八郎の乱に代表されるような商人一揆や農民一揆でしょうか。果たしてそれ等が今日まで脈々と受け継がれているのかどうか、さらにはそれ等がプレ社会主義以後の変革運動の起動力となるかについては推測が難しいものがあります。“民族主義的土着型運動”に内在する駆動力がれんだいこさんの構想の中(うち)にどのように位置づけられどのように機能することになるのか判然としませんので、現状は論評することができませんが、今後の展開に期待したいと思っています。 尚、おそらくその要諦はプルードン的連合主義の脱構築と今日的な再構築の過程の中(うち)に見出し得るのではないかと予想しているのですが、もしれんだいこさんの視野に入っていたならば、何時か何処かできっと素晴らしい会話ができるかも知れません。 また、会いましょう。 |
Re:れんだいこのカンテラ時評359 「駆動力の源泉」 | れんだいこ | 2008/01/22 21:25 | ||
如往さんちわぁ。早速ご意見有難うございます。 > 社会制度改革のエネルギーの自生的な萌芽を歴史上何処に認められるのでしょうか。江戸期の大塩平八郎の乱に代表されるような商人一揆や農民一揆でしょうか。果たしてそれ等が今日まで脈々と受け継がれているのかどうか、さらにはそれ等がプレ社会主義以後の変革運動の起動力となるかについては推測が難しいものがあります。“民族主義的土着型運動”に内在する駆動力がれんだいこさんの構想の中(うち)にどのように位置づけられどのように機能することになるのか判然としませんので、現状は論評することができませんが、今後の展開に期待したいと思っています。 > 尚、おそらくその要諦はプルードン的連合主義の脱構築と今日的な再構築の過程の中(うち)に見出し得るのではないかと予想しているのですが、もしれんだいこさんの視野に入っていたならば、何時か何処かできっと素晴らしい会話ができるかも知れません。 れんだいこは無政府主義系の考察を欲しておりますが、素養が足りません。手をつけると夢中になるほうなので、そのうちそのうちと引き伸ばしております。それはともかく「駆動力の源泉」、「変革運動の起動力」についてですが、とりあえずみんなオマンマを食わねばならず、その次にはあれもやりなはれこれもやりなはれで良いのでは無いかと考えております。党派運動も良し、市民運動も良し、大衆運動も良し、地域職場運動も良しで、互いが排斥せずに相乗効果して類縁の友が力を出していけば良いのでは無いかと考えております。 所詮寿命内のことですから、我が寿命の中でどう関わり納得すべきかをテーマにしており、その先は考えておりません。ただただ現下の政治が面白くなく、何かもったいない情けない気がしております。こたびは何事か為す前の頭脳整理として書付をしてみました。れんだいこが生きている証としての自慰として書いたものですから、どう波紋があろうが無かろうが構わないのですが、やはりレスがあるとうれしいですね。 > また、会いましょう。 いつか本当に会いませう。 |
創造主義への転換こそが重要でしょう。 | 考察者K | 2008/01/26 11:45 | ||
れんだいこさん こんにちわ 日本左派運動に対する提言をザ〜と読まさせていただきました。全体的には「おおむね妥当」と思うのですが、最終的に若干ベクトルが違っているのかなぁ〜?という気もします。いくつかの「キーワード」が目に付いています。 >【幕末維新は、上からの武士革命と下からの民衆革命の双方が牽引した回天運動であった。】(提言1) Kは思うのですが、「日本では、イデオロギー主体での自立的な革命運動は経験が足りない」のではないかと 「常に何かに頼っての革命運動」になっている気がするのです。幕末維新は「外国近代文明」に依存した「革命運動」でしたし、江戸時代の一揆などもほとんどが「宗教」に頼った一揆です。 それが何だ?と言われると困る部分もあるのですが、革命運動は「何かに頼るのではなく、自立的に行う」のでないと、仮に成功しても「合理的な社会にはなり得ない」という事です。宗教に頼ったら「その宗教に支配される」し、外国に依存したら「植民地」になります。 >【戦後日本左派運動はオカシゲな運動にのめり込み、さほど役立たないヘンチクリンなものに耽る事になった。】 >【社共運動は本質的に当局に投降迎合した体制的なものであり、無責任なアリバイづくりだけの口先批判運動に堕し易いものでしかなく、護憲運動も叉防御的なものであった。】(提言2) ここは、まさに「的を得た」至言と言えるでしょう。で、考えなければいけないのは「この状況の原因と是正策」です。れんだいこさんも触れていますが「党中央権限集中」に問題があるのだろうとKは思っています。 党も「三権分立」にして、執行権・立法(規則作成)・司法を分離する必要があります。これらは、独自の人材で独立性が保たれないと駄目です。日本の三権分立は失敗作でしょう。 多分ですが、マルクス・レーニンと言った「過去の論理」に拘泥していては「未来は切り開けない」でしょう。もちろん、参考にすべき所は参考し、取り入れるべきは取り入れるべきですが「過去の論理は踏み越えていく」という必要があります。ソ連は崩壊してロシアとなり、中国も民主化に変化しています。過去の論理は「成功しなかった」のは事実として認識する必要があります。 現在のおいての「社会構造の問題点」は格差社会でしょう。一方に「たいした労働もせずに悠々自適に暮らせる人がいるのに、働いても働いても生活に困窮している人がいる。」昔は「土地を持つ者と持たざる者」が問題でしたが、現在は変化してきているのでしょう。 おそらくですが、斡旋という種類の職業を考え直すべき時に来ているのだろうとKは思っています。「元請け」という企業があり、「子請け」から「孫請け」と「実行業者の転がし」をする過程において「賃金が減少してしまう。」 これは、土地バブルが弾ける前の「土地転がし」と状況的には同様の現象だろうと思われます。人材派遣会社という会社があるのですが、意見依頼企業からは2300円程度の賃金が支払われながら、労働者には半額程度の賃金しか支払われず、半分は「ピンハネされてしまう。」流通業界においては「産地直送」というような工夫で減少した「中間マージン」が、労働市場においては「人材派遣」と言う名目で「逆に発達してきている」という状況下において、ワーキングプアなる生活難民が生み出されるのです。それが、庶民の下層階級を引き下げ、更に「職業斡旋をした者」の資産を押し上げて、格差が広がるのでしょう。 左派は「君が代不起立」というような「生活を混乱させる」ような運動を見直し、生活弱者の視点に立った運動を創造していく必要性があるでしょう。「イデオロギー」ではなく、「生活権・生存権の保護」こそが本質ではないでしょうか? >【左派運動内の暴力主義を否定し、党内党外の競り合い運動に転換せよ】 もちろん、テロという意味の暴力は否定されるべきでしょう。しかし、同時に「式典を台無しにする」というような強攻策も考え直す必要があるでしょう。 >【「マルクス主義的階級闘争論を見直し、搾取(分配)と雇用と社会貢献の総合的見地で企業活動を見直せ」】 この一文でKとほとんど同方向のベクトルを感じ取る事が出来ますが、必要なのは「庶民の意識革命」です。そして、左派が考えるべきは「そのための方法論の創造」でしょう。 流通業界が「中間マージン」を無くして、商品を安くできたのですから、今までにあった常識という物を「ぶち壊せる想像力を持った工夫を創造する」のです。そして、その実践において「庶民の常識的な意識を改革する」という「意識革命」が必要でしょう。 一部の先進性を持った考えの人たちだけで、「哲学」という名の「屁理屈」をこねくり回していても「社会は変革しない」でしょう。左派がやるべきは「実効性のある方法論の創造と提示」です。多くの人が「これなら、やれる。」と納得できる手法を創造し、提示できれば、今までの価値観は過去の物として過去に追いやる事が出来るでしょう。それが「意識革命」の一歩です。 |
Re:創造主義への転換こそが重要でしょう。 | れんだいこ | 2008/01/26 19:52 | ||
考察者Kさんちわぁ。れんだいこの提言お読みくださり有難うございます。意見の違いは当然ですのでどうぞこうしたレスをして下さい。れんだいこの望むところです。れんだいこも遠慮なくレスつけさせていただきます。そうやってるうちに結構得るところがあると思っております。 > 幕末維新は「外国近代文明」に依存した「革命運動」でしたし、江戸時代の一揆などもほとんどが「宗教」に頼った一揆です。それが何だ?と言われると困る部分もあるのですが、革命運動は「何かに頼るのではなく、自立的に行う」のでないと、仮に成功しても「合理的な社会にはなり得ない」という事です。宗教に頼ったら「その宗教に支配される」し、外国に依存したら「植民地」になります。 「江戸時代の一揆などもほとんどが「宗教」に頼った一揆です」と云われると、そうかなぁという気がします。敢えて言えば、その団結の仕方が宗教結社的かなぁとか思いますが。それはともかく、れんだいこが幕末維新の一ベクトルに下からの革命運動もあったと云うとき、黒住、金光、天理の幕末宗教の流れを踏まえております。一揆+打ち壊し+幕末宗教という感じかな。 幕末宗教の特異性は、はっきりと打ち出しているのは天理教ですが、どうも日本古来の精神的原基に立ち返ろうとしている点と、それをバネにした西洋文明の受容の必要を説いている土着性で注目されるべきだと考えております。明治維新過程で、武士の革命は西南の役で始末されます。一部を自由民権運動が受け継ぎ、その一部をマルクス主義が受け継ぎます。 百姓、町人のいわば人民大衆的革命はもう少し続き最終的に大東亜戦争に呑み込まれます。その要因は何なのかに興味が湧きます。全体的にそういう風に受け止めております。れんだいこは、政治革命の失敗に飽き飽きしており、限界を見据えつつ人民大衆側の動きに注目したいと考えたりしております。宗教だからダメという発想は有りません。仏教、儒教程度のものであれば注目しませんが、「日本古来の精神的原基」に立脚しているとあらば、「日本古来の精神的原基とは何ぞや」に関心が向かい、結構面白いです。 > 党も「三権分立」にして、執行権・立法(規則作成)・司法を分離する必要があります。これらは、独自の人材で独立性が保たれないと駄目です。日本の三権分立は失敗作でしょう。 れんだいこは、日本左派運動の功罪とは別に、宮顕−不破系の運動は異質変調なものとみなしております。 その異質変調性が見抜かれず、日本共産党の運動はこういうものだとされ、内からも外からも幻滅を与えております。そういう仕掛けにされているように思っております。 党内民主主義は本来当然のものであり、ましてや宮顕−不破系の如き議会主義穏和運動するのならなおさらです。その党内が陰険な党内支配システムを敷いている現実を如何せんか。しかし、それに疑問持たない党員ばかりだから辻褄は合っているんでせうね。党内がそんな調子なのに、党外に向けて民主主義やら道理やら倫理を説教できる精神が理解不能です。れんだいこはマルチ舌だと批判しております。 > 多分ですが、マルクス・レーニンと言った「過去の論理」に拘泥していては「未来は切り開けない」でしょう。もちろん、参考にすべき所は参考し、取り入れるべきは取り入れるべきですが「過去の論理は踏み越えていく」という必要があります。ソ連は崩壊してロシアとなり、中国も民主化に変化しています。 > 過去の論理は「成功しなかった」のは事実として認識する必要があります。 マルクス・レーニン主義の相対化はそろそろぜひとも必要でせうね。問題は、マルクス・レーニンの著作の公開が遅れており、されていてもろくな翻訳になっておらず、為に読んでも分かりづらい。この状況を解決してひとたびは公開し、みんなかそれを咀嚼してから脱皮すべきと考えております。現状のまま上っ面を滑るようにして新思想に向かうようなことはしたくないですね。 > 「イデオロギー」ではなく、「生活権・生存権の保護」こそが本質ではないでしょうか? そうですね。労働側の生産管理運動をもっと大胆に推し進めていくべきだったと思います。経営=悪、搾取。労働=正義、被搾取的構図での反発叉は投降型協調はどちらも味気ないですね。現実が要請しているものとは随分違う闘いないしは協調をしてきたと思います。 > もちろん、テロという意味の暴力は否定されるべきでしょう。しかし、同時に「式典を台無しにする」というような強攻策も考え直す必要があるでしょう。 テロを、ブッシュ派の口車に乗ってテロ批判するのはいかがなものでせう。ブッシュ派の正義戦争こそテロそのものであり、人民大衆側のそれは応戦テロだと思っております。テロがイケナイのなら両者を土俵に乗せるべきだし、片手落ち批判なら逆批判しないといけないと考えております。国会議事堂内のテロ議論は与野党問わずブッシュ派の口車に乗ってのテロ批判だから、聞いていてつまらないです、れんだいこ的には。 > この一文でKとほとんど同方向のベクトルを感じ取る事が出来ますが、必要なのは「庶民の意識革命」です。そして、左派が考えるべきは「そのための方法論の創造」でしょう。 > 左派がやるべきは「実効性のある方法論の創造と提示」です。 > 多くの人が「これなら、やれる。」と納得できる手法を創造し、提示できれば、今までの価値観は過去の物として過去に追いやる事が出来るでしょう。それが「意識革命」の一歩です。 思うに、理論創造も実践もそれぞれ必要で、どちらも遅れているから今あるようにあるのではないかと。「意識革命」するにもビジョンが無ければ、何をどう「意識革命」するかも分からない。そういう意味で、見識に裏打ちされたビジョンづくりが必要なのでせうか。見識は知識と生活体験と経験のアンサンブルから生み出されますので、やはり両者の共同が必要なのでせう。ということになると、生産点立脚点からの共同共生革命が必要なのかな。そんな風に考えてみました。 2008.1.26日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評363 | れんだいこ | 2008/02/02 15:35 | ||
【連合赤軍問題の本質についてその1】 連合赤軍問題をどう受け止めるべきか。関心有る者にとって事件直後の衝撃は未だに生々しい。当時、日本左派運動は各派なりにそれなりの総括をしたのだろうが、れんだいこの記憶に残るものはない。れんだいこは、「連合赤軍考」サイトを設け(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/dainijibundco/rengosekigunco/rengosekigunco.htm)、「リンチ事件に対する各党派の反応」で確かめたが、「第四インターの連合赤軍とわれわれの立場 テロリズムに反対し、人民による自衛隊兵士の獲得にむかって前進しよう」以外に特段サイトアップされておらず、不明というほか無い。もしこれが為されていたなら、事件当時での各派の主張が以来30余年経過した現在時点でどのような有効な言説であったかを確かめる事ができるのだが、その機会が提供されないのは惜しい事である。もっとも、日本左派運動の場合、こういう事例は珍しい事では無いので今更驚きはしない。 さて、今頃になってと云うべきか、れんだいこが「連合赤軍問題の本質検証」に向かおうと思う。現下政治の失語症と微妙に絡んでいると思い始めたからである。共通するのは、言葉と行動が時代が要求するものに追いついておらず、失語するか饒舌するか暴走するかで徒に日々を費消していることだろう。 れんだいこはこれを、外在的に批判する立場から為そうとは思わない。そういうありきたりの批判では屋上屋を重ねるだけだろう。そうではなく、もし自分が当事者だったらどう考えどうしただろうかと内在的に問いかけ、後付けならではで見えて来る智恵を生んでみたい。 こたびの「れんだいこの第1次検証」は、1・連合赤軍の党史的軌跡考、2・戦士達の愚直なまでの革命的熱情考、3・その彼らが何ゆえ内部自壊させられていったのか考、4・生き残り戦士達の手記と侮恨考、5・これを教訓に日本左派運動はどう舵取りすべきであったか考、6・公判闘争考の六本立てで構成されている。かく問題を掘り下げねばならないと云うことである。 「1・連合赤軍の党史的軌跡考」については、「連合赤軍結成考」と「軍事訓練、同志総括リンチ致死事件、あさま山荘事件」、「公判闘争考」に要点整理した。「2・戦士達の愚直なまでの革命的熱情考」は、「4・生き残り戦士達の手記と侮恨考」とあわせて「主張考」、「同志リンチ致死事件被害者及び被告の手記」で為そうと思う。「その彼らが何ゆえ内部自壊させられていったのか考」は、「服務規律考」で為そうと思う。「5・これを教訓に日本左派運動はどう舵取りすべきであったか考」は、「塩見議長総括考」、「リンチ事件に対する各党派の反応」と「事件に対するれんだいこの論評」で為そうと思う。 連合赤軍問題で、これまで一番為されておらず実は為すべきことが有る。それは、「服務規律考」であるように思われる。れんだいこは、連合赤軍問題の否定事象責任の過半が、彼らが依拠した服務規律にあったと見立てる。俗に云う規約問題である。かなりな部分がこの規約問題に終着するという気がする。「遊撃インターネット」の「連合赤軍服務規律」(ttp://209.85.175.104/search?q=cache:w7Go2Zi1SWcJ:www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/sekigun.htm+%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D&hl=ja&ct=clnk&cd=18&gl=jp)がこれをサイトアップしており、れんだいこの知るところとなった。同人誌サークル冥土出版が発行した「連合赤軍服務規律」より転載したとのことである。この情報が正しいものとして、れんだいこがこれを斬りたいと思う。 連合赤軍と革命左派は、連合赤軍派は新左翼系のブント運動から、革命左派は旧左翼系の中共の毛沢東的文化大革からという風に出自は違うが共に、当時の情況の中から奇しくも同時期に同じ武装軍事革命闘争の道へと進む事になった。そして連合する。 彼らは、それまでの新左翼各派の街頭ゲバルト式反体制運動に物足りなさを覚え、恒常的武装による軍事革命闘争へ飛躍した。唯武器主義的なファナティックなものであったが、当時の革命的情勢のニューマが生んだと思えば理解できないわけではない。彼らは、この戦略戦術に従い武器と財務の調達に向かった。それが交番叉は銃砲店襲撃による銃入手となり金融機関からの資金強奪へと走らせることになった。れんだいこはその道を採らないが、理解することぐらいは辛うじてできる。 その彼らは当然と云うべきか警察のローラー作戦により都市部から追い出され、関東近辺の山岳アジトへ追い立てられていった。彼らはここに再結集し、合同軍事訓練演習を経て反攻を試みようとしていた。これも、理解することぐらいは辛うじてできる。一応そういう見地に立とう。 問題はここから始まる。党派の違う赤軍派と革命左派が一堂に会した時、彼らはどのように向かい合ったか。共産主義革命の職業軍人が保つべき規律と道徳という本来かなり高次な次元での睦み合いが期待されたが、実際にはそうならなかった。早速始まったことは主導権をめぐる党派的駆け引きであった。互いの優位性を確保するべく見栄と智謀が廻らされ、これが次第にエスカレートして下級兵士から幹部へと至る同志殺人へと至る。これにより、僅か30名足らずの同志が共同して14名を順次葬ることになった。 追い詰められた特殊環境下のこととして割り引くとしても、総括と云う名の下に本来の自己批判とはほど遠い次元で陰湿矮小なイジメ、虐待、査問、集団暴行、見せしめを繰り広げ死に追いやっている。死亡せしめられた14名の兵士の死亡理由は様々であるが、我々が学ぶべきやり取りは何も無い。従って、ここでの具体的検証は割愛する。 その真の要因はどこにあったのだろうか、ここを問う事が肝腎だ。一般に説かれるように幹部の資質問題であったに過ぎないのだろうか。れんだいこは、そうは受け取らない。それを五分認めよう。だがしかし残りの五分は、彼ら総員を縛っていた服務規律の不当性にあったのではなかろうかと思う。かく注目される事が無いようであるが、れんだいこはそう判じる。 れんだいこは、彼らが依拠したとされている「連合赤軍服務規律」の中に問題を感じる。規約ににじみ出ている組織理論に知性の未熟と貧困を感じる。この規約を誰が、いつ、どのようにして作成したのかに関心があるが、そういう研究は為されていないようで、従ってれんだいこにも分からない。云える事は、この悪規約に拠って党形成された連合赤軍は、この悪規約の縛り故に必然的に自縛自滅していったのではなかろうかということである。 そういう訳で、連合赤軍問題の総括は、服務規律の不当性の検証から始めねばならない。れんだいこはそう考える。この問題を凝視せず、あれこれの批判で片付けるのは無責任ではなかろうかと思う。それはそうと、問題がかく明らかなのに日本左派運動各派がこれを検証し得ないのはなぜだろうか。各派の規約の中に大同小異の似たような規約と規律があり、似たような党内支配システムに陥っているからではなかろうか。そのことを凝視することを恐れて批判も自己切開できないのではなかろうかと考える。 一応ここまでを「連合赤軍問題の本質についてその1」とする。以上のれんだいこの推定に間違いなければ、連合赤軍問題が投げかけた意味は重大であり、今日的にもなお投げかけられているということになろう。かく受け止めるべきではなかろうか。 2008.2.2日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評364 | れんだいこ | 2008/02/02 16:22 | ||
【連合赤軍問題の本質についてその2】
という訳で、「連合赤軍服務規律」の具体的吟味に入ろうと思う。「服務規律考」で逐条吟味したが、ここでは総論で論評しようと思う。問題点の第一は、左派運動に牢として染み付く民主集中制問題になる。「連合赤軍服務規律」は民主集中制を更に極悪化させており、「第八章 指揮・行動の1」で、「行動は指揮に従う。次の原則を守る。イ 個人は組織に従い、ロ 少数は多数に従い、ハ 下級は上級に従い、ニ 全党は中央に従う」としている。 連合赤軍兵士はこの規定を訝らなかったようである。天下の日共が採用している規定であり、恐らく切迫して見つめていた軍事的暴力革命への挺身として当然視していたのだろう。そのことはともかくとして、日本左派運動各派は、これが悪規約であることを指摘できるだろうか。各派とも共通して似たような規定を採用しているからして恐らくできまい。 れんだいこには一目で分かる。これは、「党中央の云うことはその通り」、「党員は党中央の指導に従い、理論を学ぶだけ」作風を良しとする奇形的党中央集中制でしかない。この問題の根本は、異論、異端、分派が容認されていないところにある。納得できない場合には従わない権利が担保されていないところにある。この観点の欠如した党中央集中制は日共の如く万年同一系執行部を許す事になり、はたまた連合赤軍型同志殺人事件にまで定向進化するのではなかろうか。 既存のものは、仮に民主集中制と名付けられようとも、連合赤軍規約ほどではないにしても実質的には党中央集中制でしかない。この規律の下に、党中央の悪指導と悪理論が押し付けられたらどうなるのか。日共に典型的なように、共産党と云う党名に恥ずかしい体制内修繕屋運動に堕すか、連合赤軍に典型的なように盲滅法な自滅運動に陥るのではなかろうか。党中央集中制にはそういう無抑制型の恐さがある。 次に問題にせねばならない事は、「第二章 六大原則の6」の「党決定、規約に違反した場合、最高、死に到る処罰を受ける」規定である。「最高、死に到る処罰」を公言していることになるが、この問題は、処刑規定を受け入れている異常性だけに問題があるのではない。もう一つ、処刑基準の判定を誰がするのかについて規定がないことに大きなマヤカシが宿されている。 通常は、例えば規律委員会とか統制委員会、財務監査委員会、理論委員会を設け、党中央と一線を画し公正中立な機関にしておくべきところである。そうせずに、これらの機関を党中央に預けてしまうと、党中央には党員の生殺与奪まで含む鬼に金棒的な万能権が与えられてしまうことになる。実際に連合赤軍はこれにより平衡感覚を失い、党中央が次第にエスカレートして行き、唯々諾々しかできない兵士達により終いには同志殺人まで進んでいく事になったのではないのか。 こういうことからして、党中央の権限と制約を規約で明らかにしておくことが望まれているのであり、規律委員会、統制委員会、財務監査委員会、理論委員会等を党中央に専属させず、異論異端分派の認められる党大会管轄下に置くとすべきではなかろうか。これが本当の機関運営主義である。ごく当たり前なこの原則で党運営と活動が為されるべきであろうが、日本左派運動で、これを為しえている党派があるだろうか。あるとすればお目にかかりたい。 「第八章 指揮・行動の3」の「すべての問題に関し政治局に指導される政治局が、最高決定権を持つ。緊急事に関しては、隊長の裁量で決定し、上級に報告するに止める」も問題である。党中央が最高決定権を持つ事は構わないが、党大会でその都度追認されるべきとする補完規定を持たせるべきであろう。この平衡規定がないままの党中央最高決定権規定は、党大会を不要ないし軽視する党中央絶対制でしかない。 ここに垣間見られるのは指導者絶対主義思想である。これは進んでいるというより遅れている思想である。党には英邁な指導者が不可欠であるが、大衆路線を敷くことこそ英邁な指導であると云える法理がある。党内に大衆路線のない党派は党外に向けて大衆路線を採用する事ができないのは自明である。これを踏まえて、党中央指導と大衆路線の平衡を弁証法的に一挙的に獲得する規約に導かれるべきところ、「連合赤軍服務規律」にはそのひとかけらもない。 実際には、末尾の「第五節 処罰 第十七章」で次のように補足されている。「その1」の「小ブル、ルンプロ思想と斗争せよ」とある。が、「小ブル、ルンプロ思想とは何か」の規定がない。「その2」の「処罰の実施は、出来る限り隊内で解決し、上級機関の承認を得て行う。不服のあるばあい、上級機関に提訴することができる」とある。が、上級機関に提訴した後の措置の規定がない。 「その3」の「処罰は、ある種の政治責任であり、処罰されたら革命から逃亡するという思想と日々、闘え」とある。が、「処罰されたら革命から逃亡するという思想と日々、闘え」とはどういう意味か。曖昧な文言である。「その4」の「逆に処罰は、反革命に転じた場合を除いて絶えず党に復帰するべく、党を支持する層として、党の成熟度に応じた政治指ドを行え」とある。これも曖昧な文言である。 「その5」の「処罰は、三段階ある。イ、自己点検・自己総括 ロ、権利停止 ハ、除名 除名においては、死、党外放逐がある。他は、格下げ処分を行う。イ、ロにおいては軍内教育、除隊処分、他機関での教育を行う」とある。これが初めて規定らしい規定になるが、「ハ、除名 除名においては、死、党外放逐がある。他は、格下げ処分を行う」はもっと精密に規定されねばならないだろう。なぜなら、党による党員に対する生殺与奪規定までしているのだから。 「その6」の「処罰は、事件の起こり次第、速やかに規律に照らして行う。上級の政治指ドや路線に責任を転稼し曖昧にすることは厳禁。それ自身も処罰の対象」とある。が、何をか云わんやの規定ではなかろうか。「その7」の「再び正規の隊員として採用する場合は、隊内で資格審査をし、上級機関に承認をうること」とある。が、云わずもがなの規定ではなかろうか。 これらの規定が末尾に補足されたということは、処罰を廻る異論があり、それを受けてかように規定されたということを意味しよう。議論の結果がこういう規定となったということになるが、お粗末さを窺うべきだろう。 「第八章 指揮・行動の4」の「会議は、必要最底限にとどめ問題は全て会議に持ち出し、討議の上決定する」、「同5」の「会議での発言は、簡単明瞭に行い、無意味な問題提起や、心情の吐露『危惧の表明』等は慎しむ」、「同6」の「一旦決定されたことは例外を除いて、くりかえして討論せず、指揮の下実行される」、「同7」の「指揮系列を外れた行動や陰口は処罰の対象となる」も問題である。 これによると、連合赤軍は、党内論争は無論、議論、「横の会話」さえもが厳禁ないし掣肘されていた事になる。連合赤軍は、党大会を不要叉は軽視し、党内議論を制約し、党員間の議論が厳禁され、ただ上級機関の指示に従い実行あるのみの党派であったことが分かる。これが連合赤軍の組織論の骨格である。この貧困を覆い隠すために、共産主義的云々、革命主義的云々、革命的警戒心云々、革命軍人規律云々で精神法悦させる仕掛けが為されている。本来規約に馴染まない手引きのようなものをダラダラと書き連ねている。 判明する事は、このような規約により、連合赤軍内では「党中央万能−下級兵士奴隷」状態に置かれていたことである。活動家がそもそも、この規約をどこまで理解して入党したのかどうか分からない。恐らく革命的熱情のままに規約問題の重要性を認識しないままに運動に飛び込んだのではなかろうか。ここに当人が気づかないそもそもの悲劇が用意されていたように思う。 本来は、採用されざるべき代物でしかない。そのあるまじき規約を導入したことにより、その法が万力攻めで党内を縛り始める。法と云うものの恐ろしさである。これに無知無頓着な者達が、ただひたすらに革命的熱情として軍事革命家を志向したものの、法暴力を御す事ができずに内部から潰えた過程が連合赤軍史ではなかろうか。れんだいこはかく見立てる 2008.2.2日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評365 | れんだいこ | 2008/02/03 11:53 | ||
【連合赤軍問題の本質についてその3】 連合赤軍規約の余りにも拙さを見てきたが、そもそも我々がこうした悪規約を却下するには日頃どのような作風を保持しておくべきかについて提言しておきたい。 そもそも法とは容れ物であり、且つ容れ物内のものを縛る規制であると考えられる。つまり、どのような容れ物にしてどのように互いを縛るのかが法問題の本質であると考える。この縛りには相互ルール的なものと上下支配的なものがあり、重畳的に構成されていると考えられる。縛り方に民度と云うか文明度が表われており、その意味で法を見ればその社会ないしは組織の成熟度が分かる。そういうものとして法を評したい。法の重要性はここにあると思われる。 れんだいこは、連合赤軍的過ちを起こさないための処方箋を見出したく思う。考えられる事は、そもそもに於いて自由自主自律的精神の涵養称揚ではなかろうか。これが担保されていないところに様々な弊害が生起すると考えるからである。原義に於いて、反体制運動と云うものは自由自主自律的なものでない限り意味がないと考える。目的が正しければ全てが許されるとは考えない。我々の政治的関心が自由自主自律的精神の発露により芽生えたものである以上、この精神を基調にせねばならず、この精神を喪失させたらお仕舞いなのではなかろうか。この精神の抑圧系規約に基き創造される社会は悪しきものしかもたらさないのではなかろうか。 我々が創り出そうと試みた社会主義共産主義的社会と云うのは一体どういう社会であろうか。いろいろに表現されようが、壊されようとする現下社会よりもより自由自主自律的な精神と規律と生活が保障される社会であるべきではなかろうか。ここが踏まえられねばならないと思う。 付言すれば、マルクス的な社会主義共産主義的社会規定に於ける労働云々必要云々と云う規定はどこか変調だ。なぜなら、労働はそもそも我々を抑圧し無いからである。マルクス的な労働観はあくまで西欧的ないしはユダヤ教的な労働観であり、それを労働の普遍的本質と見なす訳にはいかない。日本的な労働観によれば食い扶持さえ与えられれば良いのであり、ほどほどであれば死ぬまで働きたい、お役に立ちたいのであり、労働を忌避するような労働観念は無い。 もとへ。我々が、現下社会より自由自主自律的な精神と規律と生活が保障される社会を目指す以上、それを求める道中にそれが極力保障されていなければオカシイのではなかろうか。社会主義共産主義的社会の創出を目的とする結社は、逸早く党内にミニチュアなモデル社会を具現させ、それが次第に党外に攪拌されていくべしと考えるべきではなかろうか。それが次第に影響力を持ち始め趨勢化するというのが革命の機動力ではないかと思う。 この思いに照らしたとき、既成の党派のうち我が党こそが手本であると胸を張りえる党派があるだろうか。党外に向けて幾ら口当たりの良いことを云っていても、党内が逆の事態にあれば俗に、穏和系の場合には化けの皮が剥がれると云われ、急進系の場合には衣の下に鎧が見えると云うのではなかろうか。そういう党派が多過ぎるのではなかろうか。 付言すれば、党派の者は、党派を高みに於いて大衆を馬鹿にするけれども、案外と大衆の方が党派の二枚舌マルチ舌を見抜いており、その点で賢いのではなかろうか。大衆は、大衆が命を賭けて飛び込めるような党派が無いことを承知しており、そういう事情で背を向け、日々の生業に没してあるいは何らかの趣味に耽っているのではなかろうか。哀しい相互不信関係である。 もとへ。れんだいこは思う。我々はたまさか、れんだいこ史観に拠ればプレ社会主義法と規定し得る世界に冠たる戦後憲法を戴いている。これがある以上、法治主義の精神を逞しゅうさせ、せめて憲法的諸規定の上前を行く法原理の下で党派運動をしていくべきではなかろうか。その基準は既に述べたように自由自主自律原理である。 護憲運動に責任というものがあるとすれば、党内を逸早くせめて護憲的水準にすることではなかろうか。党内は本来かくあるべきではないのか。いわゆる責任と資格の問題である。党内で護憲的でないものが、どうして党外の護憲運動を為し得るのだ。これの保証無き党派運動を胡散臭く思うべきではなかろうか。この精神を損なう規制が表われるならば、どこかオカシイと考える感性を最大限保持したいと思う。 この観点に立ってこそ裏表の無い本音と建前の極力一致する陰謀を必要とし無い堂々たる批判の刃を突きつけることができるのではなかろうか。党員が、党内にないものを党外に向けてプロパガンダしていくのは不正であり姑息であり無礼ではなかろうか。れんだいこにはそういう思いがある。 結論として、党内に、党外に広めるに値するミニチュアモデル未来社会を逸早く形成し押し広めよ。これが肝腎なのではなかろうか。党派運動の場合特に、理想と現実を背反させるものであってはならない。結社は、結社目的に準じて党内にミニチュアな原型を創りだすべきであり、来るべき社会の原型になるべきかどうかを味わい吟味して練り、その理想を足下から現実化させていくべきではなかろうか。逆に言えば、党内の有り姿が未来社会の原型にしてはいけないようなものなら、規約を変えるかそういう党派とは決別すべきではなかろうか。 れんだいこが何ゆえにこれに拘るのか。これが、万事に通用する法理だと思うからである。何事もこの基準で振るいにかければ良い。連合赤軍がかの日の結社に当たってこの弁えを保持していたなら、党風景は随分変わったものになっていたのではなかろうか。 余禄として付言しておく。連合赤軍の軌跡をあれこれ批判する既成党派は、連合赤軍ほどに闘いを向次化させなかった故に気楽な批判で済ませているのではなかろうか。現行のような偏狭規約に従う限り、闘いを究極化させれば、いつでも連合赤軍が犯した愚行を繰り返すのではなかろうか。そのことに想いを馳せず、闘わなかった者が闘った者を安直に批判する愚には陥りたくないと思う。最後にこれが言いたかった。 2008.2.3日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評366 | れんだいこ | 2008/02/03 19:57 | ||
【2008.2.3日NHK日曜討論の道路特定財源法議論考】 2008.1.30日、与野党は、道路特定財源法のつなぎ法案を廻る攻防下で、異例の衆参議長斡旋による「年度内(3月末まで)に一定の結論を得る他三項目案」を受け入れた。2008.2.3日のNHK日曜討論が、道路特定財源法議論を特集していた。前半のさわりを聞いたが、これに関して思うところが有るので一言発信しておく。 何事も歴史を知らねばならない。という訳で、れんだいこは既に「田中角栄の議員立法」の「道路法について」で道路特定財源法の由来史を検証している。次に、2006.12.11日付のれんだいこのカンテラ時評242の【道路特定財源制度の一般財源化の虚妄】でコメントしている。格納しているサイトは「道路特定財源の一般財源化考」である。(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/mineicaco/dorozaigenco.htm) NHK日曜討論に於ける民主、共産、社民三党の「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ」論に疑問があるので再度コメントしておく。野党は、政府のやる事に難癖つけてスタンドプレーする事が習い性になっている。それで構わない事例が多いが、時にそうでない場合がある。「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ論」は最新のこの事例であるように思われる。 現行の道路行政に対する批判であれば構わない。鋭くメスをいれ、どこをどう機構改革及び計画見直しするのか議論すればよかろう。しかし、「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ」となると話は別である。それが本当に正しい処方箋だろうか。 一体、野党諸君は、道路特定財源法の由来について真摯に考えた事があるのか。れんだいこ理解に拠れば、道路特定財源法は、田中角栄の議員立法による1952年以来の折衝で、大蔵省の強い抵抗を押し切って勝ち取った歴史的壮挙であった。左派系の者なら本来、大蔵省の一元支配という絶対権力に風穴を開けたことを評して喝采を贈るべきことである。ところが、今日びの左派は宮顕−不破系日共の如くことごとく本来の共産党的在り方から逸脱しており、よく聞いてみれば単にネオ・シオニズムの忠実な下僕でしかないからして、角栄がらみの事に条件反射的に反対する癖がある。 これを共産党の名を語ってやられるものだから堪ったものではない。多くの者は共産党とはそういう主張をするのかと面食らったり失望してしまい、かっての人民大衆の先頭に立って献身した姿よりも最近の姿を知るにつけ嫌悪の情を強めてしまっている。ここに日共支持の伸び悩みがある。これに代わる党派が台頭しないので相変わらず党中央の座椅子に温もっておられるだけのことに過ぎない。 それはともかく、民主党の識見無能はとめどない気がするのは、れんだいこだけだろうか。先のテロ特措法では、海上自衛隊の再派遣に関連して、陸上自衛隊まで送り込む魂胆を明けすけにしていた。幾らかの制限をつけていたから良いようなものの国連軍指揮下ならという条件で自衛隊の海外派兵を押し進めようとしている。日本左派運動が飲める話ではない。小沢代表は、自衛隊の海外派兵は憲法違反であると不退転の主張をし、これを我々が支持したのだから筋を通せば良いのに、国連軍なら別だという論法を編み出し政府与党案よりも更に突出した方向へ自衛隊を誘おうとしている。ここら辺りが小沢の限界かも知れない。 これに続いて、こたびは「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ論」の提唱である。れんだいこは急速にこの党の無能さを味わいつつある。本来主張すべきは、内治主義政策として勝ち取られた道路特定財源の意義を称揚し、その非利権的有効化を目指すべきである。去る日、田中角栄が提起した日本列島改造案を評価し、これに基く基幹道路網の一層の整備促進を図るべきである。都市と農村、表日本と裏日本の地域格差を是正すべく列島改造するという案は今なお有効であり、その政策が停止させられつつある事こそ批判すべきである。 それを何と、日共の口車に乗せられ、「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ論」に唱和している。小泉が構造改革と称して打ち出した政策であるが、何とその小泉政策に戻れと言っているに等しい。その小泉は在任中、ことごとく戦後主流派を形成したハト派の内治主義政策の成果を解体し、ネオ・シオニズムの指針する外治政策に狂奔し、専守防衛区域は東南アジアまでとする政府の何度もの国会答弁確約を反故にし、自衛隊を一挙にインド洋、ペルシャ湾まで派兵せしめるという暴挙に踏み切った。引き続いて基地移転、ミサイル防衛網、戦略兵器の共同開発に卒倒すべき予算を計上している。返す刀で日本の国家的民族的解体へ向けての様々な陰謀的政策を導入してきた。 民主−日共−社民は何と、この政策の延長上で口をパクパクしているに過ぎない。「国民の声を聞け」とスタンドプレーしているが、国際ネオ・シオニズムの裏御用聞きをしているだけではないのか。国民は本当のところは「つなぎ法案」自体はどうでも良いのだ。ガソリン代の急激な値上げに悲鳴を上げており、暫定税率廃止で安くなるのなら歓迎としているだけで、それは緊急間に合わせのものであることを知っている。 根本は石油調達のオイルメジャー支配からの脱却にこそある。オイルメジャー政策によるガソリン代操作をこれほどいとも簡単にさせられる状況をこそ危ぶむべきだろう。一体、誰がこういう仕組みに誘導したのだ。角栄−大平同盟が主流派であった時代、石油調達はオイルメジャーに依存しながらも民族系石油会社が数社育成されており、カウンター勢力になりえていた。今このラインが解体されており、オイルメジャーの思うがままに操られるようになってしまっている。これを問う事こそが政治で有り、野党の任務とすべきところ、このように論を立て立ち向かう者がいない。 あろうことか、その昔権限を奪われた大蔵省の策略に誘導され、当然ネオ・シオニズムの内治主義破壊政策に乗せられ、何ら合理性の無い「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ論」で政府与党に立ち向かい、テレビ映りを気にしながら歌舞伎役者を気取っている。愚劣極まれりと云うべきだろう。 こういう倒錯がどこから発生するのか。それは、歴史観の歪みからとしか考えられない。彼らは、本来英明な政策ばかりであった戦後政府を主導した自民党ハト派の政策を否定し、構造改革という名ばかりのむしろ反動政治に狂奔しつつある。全てが現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義政策の御用聞きでしかない。一挙に事が進められないので与野党に分かれて両面から揺すっているだけのことで、所詮気楽な雇われ稼業でしかない。 こういう馬鹿らしい政治を弾劾せよ。「道路特定財源を廃止し一般財源化せよ論」を唱えるのなら、道路特定財源を導入した経緯、その後の経緯、現段階での改革案と云う風に立論すべきところ、姑息な事に角栄の偉業を思い出させないネオ・シオニズム戦略に従い、極力角栄の名を出さないままの議論に耽ろうとしている。しかし、それは無理な話である。白を黒と云い含める詭弁なくしては越せまい。 2008.2.3日付け日経新聞26面の「視点」が、この問題を解説している。参考になるので、れんだいこが補足しつつ要点を整理しておく。 ガソリンにかかる税金のうち揮発油税と地方道路税の二つを合わせてガソリン税と呼ぶ。ガソリン税として集めた税金は原則として道路の建設や整備に使う。このように使い道を限定した財源を「特定財源」と云う。「特定財源」には、ガソリン税の他に軽油取引税や自動車重量税などがあり、これらを合わせて「道路特定財源」と云う。 「道路特定財源」制度は1954年にできた。来るモータリーぜーション時代の到来を見据え道路建設を急ぐ必要があったところ、一般財源から回される予算では足りず、高速道路を有料化し、その利用者の受益者負担原則で税金を徴収すると云う方法で資金調達する事にした。有料道路を利用する者が予想以上に多く、その税金で更に有料道路を造っていく手法で急速に日本列島上に基幹道路網を整備する事ができた。 1974年、財源を増やすために「暫定税率」の仕組みを導入した。本来の税率に暫定的に上乗せする仕組みとした発足したが、2−5年の期限のたびに延長され現在まで上乗せが続いている。ガソリン税の税率は現在の1リットル152.9円の場合、53.8円(本体89.8円、本来税28.7円、暫定税25.1円)。軽油取引税などにも設定されている。 道路特定財源の税収は、2008年度国・地方合計予算でガソリン税3兆683億円、軽油引取税、自動車重量税などで2兆3360億円で合計5兆4043億円。暫定税率を全廃するとした場合、ガソリン税1兆6379億円、軽油引取税、自動車重量税などで1兆1660億円で合計2兆8039億円。 現在の暫定税率は2008.3月末で期限切れを迎えている。政府は、昨年末に策定した「2008年度から十年間に59兆円の道路事業費が必要」とする中期計画案に基き、向こう十年延長する法案(租税特別措置法改正案)を今国会に退出した。 民主党は、「暫定税率を全廃してガソリン値下げにつなげるべきだ。それが国民生活のためになる」などと主張し反対している。暫定税率を止めると、ガソリン1リットル当り約26円安くなり、道路特定財源が2008年度で約2兆6千億円減る試算になる。政府与党は、「暫定税率をなくせば税収が減り、道路整備が遅れ、地方自治体収入が減り、財政悪化に繋がる」などと反論している。 さて、以上から、本来どう議論すべきであろうか。れんだいこならいとも簡単である。道路特定財源の意義を知り、これが正しく活用されているかを吟味する。有料道路料金を値下げする。特に本四架橋のように顕著な赤字の場合、思い切った低料金化する。不要道路を作らせない。必要道路は大いに作る。官僚の栄耀栄華はさせない。ガソリン料金の高騰に対して、他の供給ルートを探り対抗させ引き下げる。軍事防衛費をそれまでのようにせめてGNPの1%枠まで戻す。基地移転やらミサイル防衛網やら戦略兵器開発費用などに税金を使わせない。つまり、内治と外治の拮抗であり、全体に絡めて議論せねばならないだろう。そういうことになる。 2008.2.3日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評367 | れんだいこ | 2008/02/05 16:14 | ||
【2008岩国市長選に寄せて】 2008.2.3日、岩国市長選が公示された。2.10日の開票へ向けて7日間の選挙戦に突入した。この選挙の持つ意味は大きい。一言で云えば、権力の理不尽な押し付けに対して、人民大衆側がどう戦うのかの問題である。住民はどこまで耐えればよいのか。原発然りで、補助金を餌に将来取り返しの付かない愚行に手を染めてもよいのか。これが問われている。 前市長・井原勝介候補(57)は、日米政府が推し進める米軍再編問題に絡んで、岩国基地に厚木基地から艦載機59機を移転させようとする基地強化問題が浮上するや、この間一貫して反対してきた。これに対しこたび、自民党が刺客候補として前衆院議員の福田良彦候補(37)を掛け合わせ、一騎打ちとなっている。 在日米軍の再編問題をめぐって3度目の審判と云え、日米政府のゴリ押しの限度が問われている。福田氏の衆院議員辞職に伴い、4.27日、岩国市を大票田とする衆院山口2区補選が実施される。市長選の結果は同補選へも影響するとみられる。 この間の経緯を見ておく事にする。 1999年、井原氏が初当選。どの時点かは判明しないが在日米軍の再編が浮上し、2005.10月、在日米軍の再編に関する中間報告がまとめられた。それによると、米軍普天間飛行場に代わる施設の建設地やキャンプ座間の改編とともに、山口県岩国基地の強化が計画されていた。井原市長は、普天間飛行場にある空中給油機の移転を受け入れると表明したが、空母艦載機の移転については負担が過大になるとして拒んだ。政府は懐柔策として岩国市の新市庁舎建設費を補助することを決め、2005年度3億円、2006年度11億円の補助金を交付している。 2006.3月、住民投票が行われ、移転反対派が87%を占め拒否した。住民は圧倒的に拒否した事を意味する。 2006.4.23日、市長選が行われた。現職の井原氏は、「岩国基地増強化計画撤回」を訴え、自民党の全面バックアップをうけた味村太郎氏に大差をつけて当選した。当日有権者数は12万2079人(男性5万7083人、女性6万4996人)。投票率は65・09%。井原氏が5万4144票、味村太郎氏が2万3264票、田中清行氏が1480票、無効票が576票であった。 2006.5月、在日米軍の再編に関する最終報告が固まり、日米両政府は14年までに再編を完了することで合意した。政府は何としてでもゴリ押しし始める。 2006.12月、政府は、米軍再編事業の円滑な実施ができないとして、移転反対を理由に2007年度に予定していた新市庁舎建設補助金約35億円を凍結した。これを機に、井原氏と移駐容認派が多数を占める市議会との対立が激化した。井原前市長は代替財源として補助金を合併特例債で穴埋めする予算案を提出したが、市議会が4回にわたり否決するという異例事態になった。 2007.12.26日、井原市長は、予算成立と引き換えに市長を辞職した。 以上がこたびの市長選の伏線である。以下、れんだいこが、岩国市長選について檄を飛ばしておく。 岩国市長選は、現職市長派がお上に楯突いて、地元の百年の計を御旗に正面から闘いを挑むという稀有な事例となっている。れんだいこは、市長派を断然支持する。岩国市民は、広島原爆の二の舞になる将来に於ける岩国被爆撃危険の愚を招き入れてはならない。それは、原子力発電所を引き込むに等しい。僅かばかりの一時の資金餌に誘導されてはならない。 現代国際金融資本帝国主義の発動する米軍基地再編にひたすら従順に御用聞きする日本政府に対して、投票箱に弾我のごとく撃ち込まねばならない。補助金ストップで立ち往生させるという卑怯姑息なやり方そのものに対して、怒りをぶつけねばならない。岩国市民よ、ゼニに目がくらんで地元を売ることのないようしゃんとしんしゃい。 2008.2.5日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評368 | れんだいこ | 2008/02/09 12:06 | ||
【「南州翁遺訓」考】 思うところ有り、「南州翁遺訓」を読んだ。案外と片言隻句しかサイトアップされておらず、れんだいこが一括計上した。「名文翻訳サイト」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/)に格納した。 それにしても情報過多とも云えるこの時代に於いて、肝腎なものが晒されていないのは偶然か。岩国市長選なぞ本来ならマスコミが突き回るのが常道のところ、報道管制が敷かれているかのごとく採り上げないのは偶然か。人は溜まり場で口をパクパクさせるが、報道管制下の愚劣情報の任意なものに感応して論っているだけのように思える。 これは人が悪いのではない。現代科学技術の成果を捻じ曲げて支配の道具にしか機能させていない、政治の悪さに因る。しからば、人民大衆側に立つ報道機関、電波媒体の一刻も早い創出が望まれていることになろう。マスコミをナベツネ派の覇権から解放せよ。これが一級の命題となって我々に課せられている。これを思うべしだろう。誰か本当に立ち上げんかい。 もとへ。「南州翁遺訓」は何ゆえに貴重か。それは、幕末維新、明治維新過程で二つの流れが有り、一つは土着派−西郷派のそれであり、一つはネオ・シオニズム派のそれであり、両者が格闘した結果、後者が勝利し、それゆえに西郷派の運動が史実から隠され、「南州翁遺訓」も反故にされたことにある。 我々は、幕末維新、明治維新過程の西郷派の理想を復権させる必要がある。幕末維新、明治維新過程を裏切られた回天運動と位置づけ、ネオ・シオニズム派の今に続く悪事を一掃させる必要がある。この視点に立たない限り、現下の政治の貧困の真因が解けないのではなかろうか。「南州翁遺訓」再生は、その端緒に立つ任務なのではなかろうか。 それにしても、日本左派運動が、こういう土着派の運動に注目せず、西欧の一挙手一動作の皮相的な紹介に勤しんできたのは「裏切られた回天運動の左からの延長戦物語」でしかないのではなかろうか。れんだいこが土着派の見直しに向かうのは、そういう理由にも支えられている。 西郷派の運動を左から汲み取ったらどういう指針になるのか。それを当分問い続けたいと思う。世上云われるネオ・シオニズム派教本に基く征韓論論争は史実的に正確なのか。案外逆に描いているのではなかろうか。士族の反乱も然り。武士の身分を取り上げられたことに対する我が身本位的な抵抗だったのか。事実は、裏切られようとする回天運動に対する最後の一大抵抗であり決戦だったのではないのか。自由民権運動はどのような位相からまれたのか等々。 思えば我々が倣ってきた歴史書なり歴史観はネオ・シオニズム派が都合のよいように書き替えた偽書に過ぎず、日本左派運動もまたこの種の教本の範疇で適当な事を云いたい放題してきただけなのではないのか。そういう疑問にまで辿り着く。この観点に立てば、本当の学問と云うのがいかに為されていないのか驚くばかりである。御意の士よ、共々に列なれ。 2008.2.9日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評369 | れんだいこ | 2008/02/14 20:52 | ||
【「征韓論」考】 西郷隆盛の「南州翁遺訓41ケ条」を学んだついでに征韓論を検証する事にした。通説で云われているところの西郷征韓論、大久保時期尚早論という構図は甚だ怪しい。歪曲捏造説に近いという思いを深めた。それにしても、歴史家と云うものは何でかように詐術を弄するのだろう。今までのれんだいこなら分からなかったが、今は透けて見えて来る。 明治維新以来の特に西南の役で西郷派が粛清されて以降の明治維新から昭和へ至る過程いわばネオ・シオニズムに篭絡されており、彼らの意向に基く富国強兵に一途に勤しみ、日本帝国主義の道へひた走ったそれでしかない。その挙句大東亜戦争で召し取られるのだが、それは案外出来レースだったのかも知れない。 もとより歴史は一筋縄では解けない。西郷派は敗れたが、西郷亡き後も根強く支持基盤を持っており、両者は地下で常に暗闘し大東亜戦争まで辿り着いている面もあり、これを文章で書き表すのは至難の業である。もっとも単純に云えば、西郷派はかの時、日本−韓国−清国の三者同盟によるアジア主義を夢想していた節がある。これを許さなかったのがネオ・シオニズムであり、国際金融資本の首魁ロスチャイルド帝国主義であった。彼らは世界中に紛争を引き起こす事を良しとしており、そこに商機と世界支配計画上の姦計を見出している。 この抗争は今日も続いており、ネオ・シオニズム派の御用聞き政治家はアジアが互いに紛争するように排外主義的愛国主義と軍事拡張路線を鼓吹しつつ跳梁跋扈している。これに反し人民大衆は、下手に洗脳されない限りに於いては常にアジアは無論世界の平和と協調を良しとしている。当然イスラムの平和に通じる。 政治家が普通に政治をすればこの声を聞くはずのところ、ネオ・シオニズム派の雇われだからしてそういう政治はしない。常に危機を煽り、実際に紛争を引き起こしてはテロリスト退治という名目のチンケなジハードに向かい、これに唱和する。連中は、戸締り防衛論からいつの間にか国際貢献防衛論、国際信義防衛論へと定向進化させ、近頃では自衛隊の常備派兵を画策しつつある。 日本経済の景気は、連中が居座る限り決して良くならない。現在の不況は意図的に操作されている。景気浮揚の芽が出てくると水をかけ出鼻をくじく。政策を見よ。社会基盤整備に予算を使うことを執拗に妨害し、何ともいえないあるいはどうでもよいようなところに注ぎ込む。その癖ミサイル防衛網だとか戦術核兵器の共同研究だとか基地移転費だとかには途方も無い予算を計上する。景気が良くなるわけが無い。良くなるとしてもハゲタカファンド系辺り止まりだろう。 もとへ。れんだいこは次のことに気づいた。この連中が、意図的に西郷のアジア主義を隠蔽している。征韓論争を意図的に捻じ曲げている。れんだいこが習ってきたマルクス主義史学もなべて同じ視点から捉えているからして通底していることが判明する。れんだいこは、この種の教本をいくら読んでも却って馬鹿になる事を請合う。丁度著作権然りで、規制すればするほど我々の生活空間が狭まる。知的所有権という名の下で、版元業者規制ならまだしも、エンドユーザーの首を絞めて恍惚し合っている。この構図と良く似ている。 という訳で、郷の征韓論、否正確には特使派遣論を確認しておく。「征韓論の真実考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/meibunhonyaku/saigoikunco/seikanronco.htm)へ記した。 窺うべきは、西郷派のネオ・シオニズム世界席巻政策つまり植民地政策に対抗する秘策としてのアジアは闘っては成らぬ、同盟して事に当たるべし、互いを戦争させるのは欧米列強の姦計である、これに乗せられてはならぬとする今に通ずる指南であろう。ここを問わない西郷論、遺訓論、征韓論争論、西南の役論は単なる趣味のものでしかなかろう。 思えば、戦後自民党の日韓交渉、田中角栄の日中国交回復は、アジア主義に繋がる快挙であったことになる。日韓交渉はともかくも、ネオ・シオニズムの米中国交回復交渉を制して執り行った日中国交回復は逆鱗に連中の触れた事は間違いなかろう。その角栄の末路は衆知の通りである。その角栄をもっとも悪し様に罵詈した者も衆知の通りである。 しかし、ネオ・シオニズムの虚構の論理は虚構ゆえに破産する。なぜなら、寿命はたがだかせいぜい百年であり、人は悪事にばかり勤しんではおれぬからである。世界諸国民の協和への道筋こそ、寿命有る身の者が向かうのに楽しく生き甲斐があり永遠の生命である。続々と列なる勢いは誰にも止められやしない。これは本能だから。 ネオ・シオニズムが世界に張り巡らした姦計が敗れる時、学問の姿も大いに面貌を変えよう。これまで悪し様に云われてきた者たちが復権し、名宰相と云われて来た者がエージェントでしかなかったというブザマさが明るみにされよう。そういう意味で、歴史に名を残す責任は案外重い。その日はそんなに遠くない。れんだいこはそう考える。 2008.2.14日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評370 | れんだいこ | 2008/02/19 21:40 | ||
【2008.2.19イージス艦衝突事件考】 2008.2.19日、海上自衛隊のイージス艦と漁船の衝突事故が発生した。詳報は次の通り。 2.19日午前4時7分頃、千葉県南房総市の野島崎から南南西約40キロの海上で、海上自衛隊のイージス艦「あたご」(艦長・舩渡健等海佐(52)、7750トン、乗組員296人)と千葉県勝浦市の新勝浦市漁業協同組合に所属するマグロはえ縄漁船「清徳丸」(全長約12m、7.3トン)が衝突した。漁船はあたごの艦首付近と衝突して船体が二つに割れ、勝浦市川津の船主・吉清(きちせい)治夫さん(58)と長男の哲大(てつひろ)さん(23)の2人が行方不明になった。第3管区海上保安本部(横浜市)は巡視船艇や航空機などで捜索している。 海上衝突予防法によると、漁船が操業中だった場合には漁船に航路の優先権があり、あたご側に回避義務がある。一方、漁船が操業中でなければ、相手船舶を右舷側に確認した船舶に回避義務が生じる。横須賀地方総監部によると、あたごは右舷に傷があったという。業務上過失往来妨害の疑いもあるとみて、舩渡艦長らから詳しい事情を聴く必要が生じている。 政府は、2.19日5時55分、首相官邸の危機管理センターに情報連絡室を設置し情報収集を急いだ。イージス艦から海上幕僚監部に一報が入ったのは午前4時40分。石破防衛相に第一報が入ったのは前5時40分。事故から約1時間半後で、海上幕僚監部への連絡から1時間後になる。福田首相への連絡は約2時間後の午前5時55分であった。町村信孝官房長官は、政府中枢に第一報が入ったのが発生から約1時間半後だったことを明らかにした。 福田首相は午前8時半からの閣議に先立ち、町村官房長官、石破防衛相、冬柴国交相と国会内で協議し、防衛省と海上保安庁が連携して漁船の乗組員の救助・捜索に全力をあげるよう指示した。首相は同日昼、首相官邸で記者団に、概要「連絡が遅すぎると思う」と指摘。石破防衛相も閣議後の記者会見で、概要「第一報が遅すぎる。危機管理の上から問題である。事故経緯を正確に把握することが現時点で私が果たすべき職責だ」と語った。 野党各党は、「海自の猛省を促したい」だとか「原因を明確にし、場合によっては(防衛相の)責任問題にもなる」、「(海自は)海難防止のために見張りなど当然の措置を講じていたのか。その点の真相究明が必要だ」、「事実の中身によっては防衛相の責任を追及していく」、「ひとごとみたいなことを言われても困る。(原因調査の)結果いかんによっては防衛相の責任も問わなければならない」等々各党各様に批判を強めている。以上。 れんだいこに云わせればどれもピンボケだ。本当にこの国はイージス艦も連絡も与党も野党も腐っている。誠意ある対応とか本質的な議論をしたがらない。れんだいこは、「イージス艦購入史考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/gunjiboeico/heikikonyushico/ejiskankonyushico.htm)で考察しているが、イージス艦が、何時ごろ誰によって何のために幾らで導入されたのか知りたいのに、肝腎のこのことが隠匿気味であることを訝っている。これを突かない野党諸君は同じ穴のムジナでしかなかろう。 我が国は現在6隻保有しているようだが、1艦1500億円もするようなイージス艦が本当に必要なのか。防衛利権の温床にされているのではないのか。不要不急のイージス艦が外治主義的政策で強行導入されたのではないのか。その予算を内治主義的政策に回したら随分な事ができるのではないのか。 そのイージス艦がこたび不祥事を起こしたのではないのか。その救助も連絡も杜撰過ぎるのではないのか。先だっては艦兵の機密情報漏洩が露見しており、イージス艦を廻って何やら不祥事が続出するのはなぜなのか。政治化には、これらを手短に質す能力が問われているのではないのか。 れんだいこの調査では、叉も中曽根が登場する。か奴の時に購入されている。次の購入の時には小泉が登場する。か奴の時に購入されている。これは偶然だろうか。守屋次官からすれば、俺は小口賄賂、あの人たちは大口ですと云いたくても云えないほどの利権が介在しているのではないのか。 中曽根、小泉は、不思議と云えば不思議に、靖国神社公式参拝で物議を醸し、愛国者ぶりを印象付けたことで知られている。共に国家枢要機関のせんでも良い民営化を急いで大鉈を振るったことでも知られている。この二人がマスコミから歴代随一の名宰相として持て囃されていることでも共通している。どうも同じ臭いがするが、そこには何があるのだろう。こういうことを問うのが政治だろう。 それを、「海自の猛省を促したい」だとか「原因を明確にし、場合によっては(防衛相の)責任問題にもなる」、「(海自は)海難防止のために見張りなど当然の措置を講じていたのか。その点の真相究明が必要だ」、「事実の中身によっては防衛相の責任を追及していく」、「ひとごとみたいなことを言われても困る。(原因調査の)結果いかんによっては防衛相の責任も問わなければならない」などと口ばしをやかましくするのが政治だろうか。 どちらがずっこけているのだろう。れんだいこはこれから巷に頭を冷やしにうがいでもしに行くことにする。 2008.2.19日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評370 | れんだいこ | 2008/02/21 15:00 | ||
【2008.2.19イージス艦衝突事件考】 その後のマスコミ報道の解せない事は、イージス艦衝突事件後、イージス艦側の救出作業の実態について詮索しようとしていない事である。衝突原因だとか状況について関心を深めているが、それは追って分かる事であろう。今知らせるべきは、イージス艦側の事故後の対応である。救出作業に入ったのか見殺したのか、これを突かないマスコミのボケ振りはどうかしている。 国会も国会である。報告の遅れ、ズレばかりを政治主義的に突くのではなく、イージス艦側の事故直後の対応を質すべきであろう。一番肝腎なことを質疑せずして何をしているのだろう。しかし、こんなこと、れんだいこが云わなくても当たり前の事だろうに。一言追加しておく。 2008.2.21日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評371 | れんだいこ | 2008/02/25 20:57 | ||
【イージス艦の事故直後の救出対応考】
「イージス艦の清徳丸衝突事件」に於ける事故直後の救助の様子が漸く漏れ伝わってきた。東京新聞の2008.2.25日付「イージス艦事故 救助開始14分後、通報16分後『あたご』対応遅れる」(ttp://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008022590135041.html)が、れんだいこの知る限り初報となる。エライ手間隙掛かったものだ。それにしても他社の不問ぶりにはあきれてしまう。 それによると、海上自衛隊のイージス艦「あたご」が「清徳丸」に衝突した事故で、衝突は2.19日午前4時7分。イージス艦が救助作業の開始命令を下したのは4時8分。実際に着手したのは4時21分。内火艇(23人乗りの大型ボート)など3隻で救助作業を開始したと云う。実際に救出活動に入ったのは、衝突後14分経過後であったことが判明した。これは何を物語るのだろうか。 国際VHF無線で第三管区海上保安本部(横浜市)に通報したのは同23分で、衝突の16分後だった。護衛艦隊司令部への連絡は同4時33分、その上級司令部の自衛艦隊司令部に連絡が入ったのは同42分で、捜索などを支援する護衛艦「しらゆき」、試験艦「くりはま」が現場海域に到着したのは、衝突発生から約1時間半後の同5時36分だった、ことも判明した。 救助作業の具体的な様子はまだ判明しないが、政治が政治として機能する為には、衝突原因の究明よりも衝突後の対応こそ優先解明せねばならないだろうに。しかるに、我がマスコミは、東京新聞のこの報道まで、あれだけ喧騒したにも拘らず、この肝腎の報道を意図的故意に避けてきた。代わりに、いずれ海事審判所が行うべき事故原因解明に紙面を割いてきた。マスコミの見識バカと云うより、仕方なく事件報道するけれども、意図的に同でも良いようなことに明け暮れるという、御用性が垣間見られると云うべきか。 マスコミばかりがそうなのではない。我らが民主党を初めとする野党の為した事は、イージス艦の事故直後の救出対応解明ではなく、イージス艦の責任者に対する責任追及ではなく、防衛相更迭要求であった。余りにもお粗末な政治主義ではなかろうか。今為すべきは誰の目にも、イージス艦の事故直後の救助活動検証であり、ことによるとイージス艦指揮系統責任者の責任追及であり、然る後に防衛相の責任追及であろうに。野党諸君はなじょしてイージス艦指揮系統責任者の責任追及を省くのか。れんだいこは、野党のこの怠慢こそ責任追及せねばならないと考える。 れんだいこに云わせれば、最近の政治に於ける野党の対応のお粗末さが目に余る。昨年は、松岡農相の国会開会中の、午後から質疑応答で出席予定でありながら、議員会館内で変死した事件に対して、警察の検視をも待たず誰が決めたのかマスコミと唱和して自殺喧伝したことも記憶に新しい。野党諸君、君達がかの時点で自殺認定した根拠を、今からでも遅くない責任ある弁明して見よ。 松岡農相変死事件に対しては不自然な事に、その後の現場検証の様子が伝えられていない。一体どうなっているのだろう。何しろ一国の大臣が、国会開会中の、午後から質疑応答で出席予定でありながら、議員会館内で変死したのだ。自殺であろうが無かろうが克明に調査記録残すべきではないのか。大臣の命がかくもお粗末に扱われて良いとは思えないが、罷り通っている。不思議な話だ。 道路財源の一般予算化も然り。この問題では、かの小泉が先鞭をつけ不退転の決意で臨み中途で任期切れ退陣した。民主党が今これを後押ししており、日共が強硬に主張している。不要な道路、採算性が低い道路は作らせない云々で、都合の良い情報だけを垂れ流ししている。れんだいこは、小泉派−民主党−日共の道路予算一般財源化論に臭いものを感じている。というか、小泉派−民主党−日共の見解がかくも一致している事に臭いものを感じている。これは偶然か。 ロッキード事件の時もそうだった。右も左も与野党、マスコミ、司法、アナウンサーまでもが反角栄網を構築し、ご丁寧な事に労組まで御用提灯持って目白邸を包囲した。経験的に言えることだが、こういう場合には何か臭いと感ずるべきだろう。れんだいこは、こういう時に口角泡を飛ばして正義ぶる輩を見ると、不快でならない。 それはそうと、三浦和義氏のロス事件が妙な形で闖入してきた。イージス艦騒動が核心に迫りつつある時、この時期に何ら必然性の無いのに突如ロス市警により逮捕され、誰が見ても情報操作でしかなかろうに、マスコミが早速パクついている。ということは、逆に言えば、「イージス艦の清徳丸衝突事件」にはよほど具合の悪い事があるということになろう。 さて、この後どう真相が解明されるのかしないのか、当分目が離せ無い事になった。東京新聞報道の続報が待たれる。 2008.2.25日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評372 | れんだいこ | 2008/02/29 20:54 | ||
【「岩瀬氏の著作権訴訟」考】
(れんだいこのショートメッセージ) 役所官庁が、とある文筆家の文章を電子掲示板に掲載し職員その他の閲覧に供していたところ、当該文筆家が著作権侵害と訴える訴訟が提訴され、第一審判決が出された。多くの者は、文筆家の著作権主張を是とし、官庁の認識不足を批判している気配である。果たしてそうだろうか。これにつき、この種の著作権問題で泣かされているれんだいこが異論を唱えておく。 2008.2.29日 れんだいこ拝 -------------------------------------------------------------------------------- 【事件の概要】 2004年、ジャーナリストの岩瀬達哉氏の年金問題取材記事「まやかしの社保庁改革を撃つ」が週刊現代に4回連載され、同記事はその後「年金大崩壊完全版」(講談社文庫)と題して出版された。著書は、2004年の講談社ノンフィクション賞を受賞した。その後、年金ジャーナリストとして注目され、テレビ、新聞、雑誌で活躍し、2007年、総務省所管の年金業務・社会保険庁監視等委員会の委員に任命されるとともに、内閣官房の年金業務・組織再生会議の委員にも任命された。 2004年、社保庁は、庁内部局や各地の社会保険事務所などを結ぶLAN(構内情報通信網)に「新聞報道等掲示板」と題した電子掲示板を設け、新聞や雑誌の関連記事をそのまま掲載して職員ら約8000人が閲覧、印刷できるようにしていた。2007.3〜6月、同庁は、岩瀬氏の「まやかしの社保庁改革を撃つ」記事4本を庁内LANに掲載した。 岩瀬氏(52歳)は、これが不服らしく、「社会保険庁の庁内LANに自著の雑誌記事を勝手に掲載され著作権を侵害された」として、国に374万円の損害賠償などを求める訴訟を提訴した。これを仮に「岩瀬氏の著作権訴訟」と命名する。提訴を受けた社保庁は、2007.6月からこの掲示板自体を閉鎖している。 著作権法には、行政目的に内部資料と認められる場合は著作物のコピーを認める規定がある。庁内LANに掲載することが、この規定に当てはまるかが争点となった。国側は、「著作物は、行政目的のため、内部資料として必要と認められる場合は複製できる」との著作権法42条規定を根拠に著作権侵害を否定し、電子掲示板に掲載できると主張して争った。 2008.2.26日、「岩瀬氏の著作権訴訟」の第一審判決が東京地裁であった。設楽隆一裁判長は、「著作権法42条の規定は、必要な限度で複製行為を制限的に許容したもの」と指摘し、社保庁が庁内LANに掲載して、庁内部局や社会保険事務所で誰でも閲覧可能にすることは、この規定に当てはまらず、「同条が適用される余地はない」と判断した。社会保険庁の著作権侵害を認め、「記事の掲載を中止しているものの、掲載を再開するおそれがないともいえない」として、国に対して問題の記事を差し止めするよう判決した。同時に約42万円の支払いを命じた。 判決を受け岩瀬氏は、概要「社保庁のコンプライアンス意識の低さが明らかになった。社会保険庁に限らず、雑誌の記事がホームページやLANなどに無断で掲載されることへの警告にもなる判決だと思います」とコメントした。社会保険庁は、「主張が認められず遺憾。今後のことは、関係機関と協議して決定する」とコメントした。 -------------------------------------------------------------------------------- 【事件に対するれんだいこ見解】 岩瀬氏は、コンプライアンス(法令遵守)意識を云々し、強権著作権論の立場から立ち働いて居る。多くの自称インテリが、「法を執行する行政庁の方が、意外と著作権にルーズなことに驚きを感じます」と追従し支援している。果たしてそうだろうか。れんだいこは、由々しき話であり見逃せないとして反論する。 この問題においては、れんだいこは、社保庁を良しとする。社保庁にとって、提灯記事ばかりを掲載する通例に反して、同庁に対する批判記事を掲載している事はむしろ見上げた態度であり、評価されるべきである。他の官庁もこれに倣えと云いたいほどである。ついでに、これを契機に、国の機関であろうがなかろうが昔のように有益情報の自由交差社会へと向かえと云いたい。 市民運動には、何でもお上批判、政府批判をして正義ぶる習性があるが、このところ正義にならないことを正義ぶる変調さが目に付く。或る時には、官庁見解の方が正しい場合がある。れんだいこは、このことを指摘しておきたい。昨今の道路財源の一般予算化要請も然りで、日共と民主党が声高にしているが反動的対応であろう。道路財源の特定財源制は、その昔に田中角栄が叡智を傾けて大蔵省から分捕った英明政策であり、その後の制度疲労は制度疲労として構造改革されるのが正しい解決である。 その為の処方箋は幾らでもあるのに、一般予算化で万事解決するかの如く主張しているが、それは小泉流ペテンであろう。これを後押ししている民主党が情けない。批判が悉く上滑りしている。連中の識見不足は夥しい。イージス艦事故でもそうだが、衝突直後の人命救助に向かってイージス艦側が為した対応の実態を精査するのが当然のところ、肝腎なこの事に不言及なまま煙巻き批判を続けている。これもまた口裏合わせではなかろうか。 もとへ。道路財源制を廻って与野党が対立しているが、特定財源制を維持しようとする与党の方が正しい。れんだいこはそう思う。最近この種の攻める方が認識不足な変調批判が目に付いて仕方ない。より悪い方向へ政府批判する野党の存在は無い方がましで、一体、この国はどうなっているのだろうか。みんなで悪い方向へばかり誘っているように見えて仕方ない。 岩瀬氏らの強権著作権論も然りである。彼らの論旨は本当に正しいのだろうか、ここを問わなければならない。一体全体、役所官庁が、岩瀬氏の文章を引用、論文を転載したとして、それを著作権侵害などとして批判すべきことだろうか。れんだいこは断じてそう考えない。普通の感性で、それは誉れであり、自著の説が役所官庁に採り上げられ、その主張が活かされることは光栄であっても冥利に尽きることであって決して逆ではない。 岩瀬氏らはそう受取らず、何やら気難しいコンプライアンス論を唱え、独りよがりの悦に入っている気がしてならない。問題は、この種の正義派が最近やたら多過ぎることにある。れんだいこは、強権著作権派の説は真っ当でなく、彼らの志操、思想の貧困を感じてならない。ここで持説を再度述べておく。 岩瀬氏が、仮に或る出版社が、岩瀬氏に黙ってその著書を、題名のままであろうが改名してであろうが出版したとしたら、岩瀬氏が、その出版社に著作権訴訟を打つことは自由であり権利である。それは認めよう。しかし、市民的な一般大衆的読者がその一文を引用、転載するのに、著者ないしは版元に対して要通知要承諾とすべきだろうか。れんだいこは、そう考えない。引用元、出典元、著者名を記し、内容の同一性を保持しているなら、認められるべきと考える。こたびは、それを役所官庁がした場合にどうなるかという問題となっている。当然、無条件で認められるべきであり、著者は誉れ本懐とすべきである。 最近、そう考えない風潮がはびこっている。れんだいこは、狂っていると考えている。そろそろどちらが狂っているのか決着つけねばならないと考えている。なぜなら、こういう論調が制度化されると社会全体が息苦しくなってしまうからである。我々は、開放系の社会を目指すべきであり、閉鎖系の社会へ向かうべきでない。ひところ、規制緩和が叫ばれたが、これは新たな規制であり、見過ごす事はできないと考える。規制緩和論者が強権地著作権論を振り回すのは本末転倒、倒錯と考えている。最近こういう倒錯野郎が多い。 れんだいこの認定するところ、強権著作権論の論拠は要通知要承諾制にある。彼らはコンプライアンス(法令遵守)を頻りに云うが、れんだいこが調べたところ、著作権法にはそういうコンプライアンス(法令遵守)は無い。彼らが勝手に云っているだけである。何なら、著作権法で逐一確認しようか。れんだいこは受けて立つ。 強権著作権論者の要通知要承諾制論は、二つの方向で機能している。一つは、情報統制であり、人民大衆の自由な情報交差を制限する事に役立っている。もう一つは、要通知要承諾の代わりに発生する対価請求権である。悪辣国家は主として前者を機能させ、商売ベースの民間的権利団体は後者を機能させる。こうして、共々で息苦しい社会へ誘おうとしている。自称知識人がこれを後押ししており、漬ける薬が無い。 著作権問題の根本はその志操、思想性にある。強権著作権論者の要通知要承諾制論は、一見もっともらしく装っているが、そういう主張を互いが互いにしたら一体世の中はどうなるのだろうかについての考察を回避したまま、次第に小難しい理論へと袋小路化しつつある。連中はこれを正義論でやるので、れんだいこは馬鹿も休み休み云い給えと云い返している。 言語とは、音楽も然りだが、そもそもコミュニケーション(意思疎通)の道具であり、コミュニケーションされること自体を願っている。これを思想の共同性と云う。従って、極力関所を設けぬのが良い。例えば、諺やら詩吟やら民謡やら唱歌に著作権を適用しないように。それは良い事であって逆ではない。 それをこのところの自称知識人は、互いに世間を狭くすればするだけ正義だと勘違いしているようで、俺の著作物の無断利用はけしからんと息巻く。さほどでもない文章に垣根を巡らし、誰に断って人様に紹介しているんだと薀蓄をひけらかす。ジャスラックのように歌声の聞こえる溜まり場に出向いてはハウマッチと汚い手を出して恥じない。これって頭狂っている仕業ではないのか。 れんだいこがいつも云う事だが、強権著作権論者が著作権をさほどに広域全方位的に主張するのなら、いっそのこと新言語、新音符そのものを創造してから云えば良い。言語にせよ、音符にせよ、一体全体、今日の如くに鍛えられるまでに如何ほど多くの頭脳が費やされてきた事か。それらは全部無著作権である。そういうものを使って、ここから先は俺の権利だと云うのなら、極力控え目に主張するのが良い。 近代なって著作権が認められるようになったが、著作権法の本来の趣旨はいわば業者規制であり、業者及び販社の流通に於ける川上段階での要通知要承諾制であり、それ以降の川下段階での庶民大衆の利用規制までは踏み込んでいない。むしろ、人民大衆的な利用については認められるべきとしている節がある。玉虫色なので見解は分かれようが。 そう解するべきであるところ、最近になって、というのもここ30年来とみに強まっているに過ぎないが、勝手に著作権法の垣根を取り外し、全域全方位著作権論を主張し、正義ぶったり対価請求に勤しんでいる姿は醜悪であり、精神の貧困をぶざまに晒しているとしか云いようが無い。彼らは知的所有権を云々するが、それはどの対象のものを認めるかであって、利用制限論に堕すものではない。彼らは勝手に文明人取りしているが、れんだいこには野蛮人に思えて仕方ない。 無論、これには志操、思想性の問題が介在している。初手に於いて、個人主義的権利意識を強めていくのか、共同性に与するのかのレールの敷き方で随分景色が変わってくる。そういう違いがあるので、議論がなかなか難しい。云える事は、人の社会の根本的共同性に思い及ばない知性を弄ぶ者の行き着く先が強権著作権論となり、これをこのまま定向進化させ続けると、地球環境破壊と同じで、やがて文語にとどまらず口語にまで規制が及び始め、空恐ろしい身振り手振り社会へ誘われるに違いないということである。 「岩瀬氏の著作権訴訟」は、これを水先案内しているに等しい。岩瀬派の追従士はその協賛野郎である。そういう人も居るのが人間社会の常ではあるが、どうぞこの先、彼らが社会の前面に躍り出ず、一隅での偏屈人士としての正義論をぶっているに過ぎないと云う健全な社会に留まって欲しい。れんだいこそう思う。 しかし、最近この種の手合いが、岩瀬氏のように政府の諮問委員に登用される傾向にある。似た者が寄るのでそうなるのであろうが、ろくなことにはなるまい。回天運動あるのみ。 2008.2.29日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評373 | れんだいこ | 2008/03/07 12:28 | ||
【「週刊現代の岩瀬訴訟関連記事」考】
週刊現代(講談社)と云えば週間ポスト(小学館)と並び、週刊新潮、週刊文春と並ぶ四大週刊誌であり、れんだいこはそれらが置いてある喫茶店を気まぐれの行きつけにしている。そういう訳で週に一度詣でるのだが、最近流行の著作権論によれば、あの喫茶店はひょっとして著作権違反しているのかも知れない。ならば、音楽著作権管理団体ジャスラックと同じようにメディア業界は、あらゆる雑誌置き店舗に対して著作権違反だとして対価請求すればよいのに。それもジャスラックに倣えば店舗面積に応じて。そうしないのはなぜだろう。これはからかって云っているのでありマジではない念のため。 週刊現代2008.3.15日号167Pは、「岩瀬氏の社保庁訴訟」に関する「社会保険庁著作権侵害敗訴はネットの無断掲載への警告」と題して、「本誌記事をLANに転載し、損害賠償命じる判決が」を副題として1ページ記事を組み次のように主張している。 「(社保庁のラン掲載は)明らかに著作権法に違反する」、「役人の世界でさえ著作権に対する意識はこの程度なのだから、インターネットの世界は事実上、著作権の無法地帯と化している」、「一般の人が、新聞や雑誌の記事全文をネット上に流すのも、当然のことながら著作権法に抵触します」云々。 多くの者はソウダソウダと相槌を打つらしい。自称インテリを認ずればずるほどしたり顔をするのが相場となっている。それでいて、著作権法読んだことがあるのかと問えば無いと云う。それはそうだろう、著作権法は無思想のまま必要という声に迫られ税法並みの接木接木の迷路法になっている。大抵の者は辟易するしかなかろう。 もとへ。週間現代編集部が強権著作権論派であること、その編集部は昨年の松岡農相変死事件に対して何とも異例のダンマリを決め込んだこと。この二つを合わせて考え込む。このことに相関関係が有るや無しやと。れんだいこは有るとみなしているが、ここではこれに言及しないことにする。 ここで、れんだいこが問題にするのは、週刊現代編集部の著作権見識である。彼らは、記事掲載に於ける事前通知、要承諾制を当然視し、これを理解しない役人の見識の低さを嘲笑し、ネットの無法地帯振りを批判している。果たして正論だろうか。 「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」(ttp://www.pressnet.or.jp/info/kenk19971100.htm)なるものがある。これを読むと、週刊現代編集部の著作権見識が特異なものではなく現代マスコミ界の総意常識となっていることが分かる。しかし、この常識が正論なるかどうか疑う事が必要なのに鵜呑みにする手合いばかりのように見受ける。ここに思想の貧困がある。 依拠すべきはコンプライアンス(法令遵守)であるとしたら、著作権法こそが基本なるべきであろう。その著作権法に、「日本新聞協会の著作権見解」的解釈を認めるような条文が本当に有るのだろうか。れんだいこは、オーバーラン解釈であり、それこそコンプライアンス違反だとみなしている。新聞協会見解が、丁度ナベツネがマスコミ界に君臨し始めた頃に歩調を合わせて打ち出されたことを訝っている。週刊現代編集部は、この流れに悪乗りして先鋒ぶりを示しているに過ぎない。 れんだいこは問う。新聞、テレビ、雑誌のマスコミ界がそのように記事著作権を振り回すのなら、まずもって情報収集時の公平さを担保させねばならない。何しろ今では見出しにさえ著作権を主張する時代になっている。ならば1面の良く見えるところにその旨記せばよいのに。しかしこうなると、我々は、著作権を振り回さないメディアを創出し、これを記者会見時に送り込み、我々が自由に使える記事を発信させねばならない。でなければ、記者会見時の一切の情報が強権著作権論者の管理下に置かれて要通知要承諾制のくびきに置かれてしまう。そういう意味で、記者クラブの閉鎖的情報囲い込み体質を改めさせ中小零細通信社にも開放させねばならない。 マスコミ諸君は建設界の談合を指弾する。しかし、考えてみれば、記者会見時に於ける閉鎖的会員制も同種同根ではないのか。ゆえに、我々が入り込めるよう入札制にせよ。そうしないのは不公正ではないのか。君達は、よその事には批判を逞しゅうするが、手前達の情報独占実態も似たりよったりではないのか。天下りシステムもそうだが手前達はなぜ免責なんだ。足下を恥じよ。 君達の手前勝手な著作権論は、情報独占と一元管理による閉塞を生むだけのことではないのか。その君達が常習的にお上に対して阿諛追従していることを思えば、君達の説く強権著作権論は情報統制に資しているだけのことではないのか。蛇足すれば、ここで云うお上とは日本政府の事ではない。もう一つ先の現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義を指している。君達は、この巨大資本網に対しては何一つ批判記事を書けない仕掛けの中に置かれているのではないのか。 こたびの「岩瀬氏の社保庁訴訟」は、社保庁が自身に対する批判記事を社内LAN掲載した事から始まる。その記事を社内の者達だけが読めるのか社外の人たちも読めるのかはどうでも良い。お上が不都合記事を自ら掲載した事に意義がある。よほど偏屈な者で無い限り、社保庁の行為は是認されるべきというか称賛されるべきであろう。それをケシカランと云って著作権棒振りかざしながら訴訟に持ち込み、LAN掲示板を廃止させ、その言い分が判決で認められると全面勝利だと浮かれている者たちはよほどオツムが小難しく小賢しくできているに違いない。 れんだいこは云う。お役人の不見識をなじる手前達こそ度し難い不見識では無いのか。最近こういう手合いが大過ぎて困る。れんだいこは、この風潮に闘う。彼らがコンプライアンスを云う以上、こちらもコンプライアンスで闘う。著作権法をどう読めば、無断転載禁止、事前要通知要承諾制を記していると云うのか。条文で示して貰いたい。それができない以上コンプライアンスを云うのはナンセンスではないのか。 れんだいこにはこういう燻りがある。これは音楽著作権法にも同じ事が言える。我々が溜まり場で歌を歌って、何が著作権侵犯なのだ。そういう法理こそうそ臭いと思うべきだ。著作権者にとって歌手にとって我々が歌うのは喜ばしい事であり誉れではないのか。売れない時、自分の歌を街角で聞いた時の喜びについては数多くの証言が有る。これが真っ当なのではないのか。 それを逆に受け取り、俺に黙って歌のはケシカラン、歌うなら銭を出せなどと云うのはヤクザのショバ代請求よりも質の悪い強欲低劣発想では無いのか。ネクタイ締めた紳士が最近こういうことを云い始めているが正気の沙汰ではない。思想的には、互いに首絞め合って恍惚せんとする狭量マゾヒストに過ぎない。 週刊現代編集部にとって、自誌の記事が社保庁のLANに掲載されたことは箔がついたのであり良しとすべきではないのか。提灯記事であろうが批判記事であろうが、お上に届く記事を次々とひっとさせれば良い。それをあろうことか、社保庁を相手どって著作権違反訴訟に持ち込み全面勝利に法悦するとは狂っているとしか云いようが無い。最近こういう狂人がやたら多い。 インターネットで、手前達の記事が広まる事は誉れではあっても、認知が広がり将来の販促機会を広げることではあっても逆ではない。それを逆に了解する現代経営学とは、これを学べば学ぶほど失敗必至であろう。そう云えば、その昔、カネボウがペンタゴン経営などと云って真似たらオカシナ結果になったことを思い出した。好んで閉塞に向かう手合いにはつける薬が無いとはこのことだ。 「岩瀬達哉の社保庁との著作権訴訟」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/webtyosakukenco/iwasesosyoco.htm) 「岩瀬氏の著作権訴訟」考の「事件の概要」の項目記述の一部を訂正した。 2008.3.7日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評374 | れんだいこ | 2008/03/10 14:25 | ||
【息抜き雑談】 「岩瀬氏の著作権訴訟」もそうだが、れんだいこから見て明らかに変調なことなのに、それを咎める世論が生まれない。オカシナ時代になったと思う。さきほど懇意な者が訪ねて来られ雑談した。イージス艦事故直後の救出作業の様子が明らかにされないまま幕引きされた事を指摘し、権力、当局、関係者が口裏合わせしているだけではない、今はネットがあるのだからオカシイと大衆的に言える基盤が有るのに疑問の声が噴出しないことの方が余計にオカシイと述べ、俺は不思議な国に迷い出ているようで気持ち悪いと云ったら笑ってた。 カラオケ歌うのにも金が掛かると云う。リース料払っているのだから、それ以上払うのは二重取りだろうと云ったら、カラオケ機器メーカーは送信権を払っているに過ぎず演奏権、歌唱権までは含まれて居ない、別途支払うのは当然と云う知的所有権論者が圧倒的だ。 れんだいこは、それは理屈だ、そういう風にややこしくする必要は無い、カラオケ機器メーカーが支払う著作権料に含ませればよい、重箱の隅をつつくようにして料金を複雑に発生させる必要は無いと思う。現代は、小賢しい理論が横行し過ぎているのではなかろうか。 思想的に見て、歌唱、演奏に著作権侵犯対価料が居るなどというのがどだい無茶な商法だ。アメリカでも盛んなようで、こういう商才商法に長けているのはどうせ例の連中の悪智恵が生んだ仕業に違いない。その昔、イエスが徹底的に論難したが、時代が叉坂戻りしつつある気がしてならない。 人民大衆的観点から見れば、時代はいつでも本来ルネサンスを要求している。その為に叡智を働かせるのが知性だと思うが、人民大衆が互いに権利病を主張して互いを首絞め合う方向にミスリードする知性に傾注するのが学問だと勘違いするのが流行している。連中は単純な話でもわざわざ事を難しくしないと学問した気にならないらしい。 知識人とは小難し屋に過ぎず必ずしも知者ならずの秘密がここにある。連中は、お上の顔色、風向きを窺い、疑問を湧かさないような迷路に入るばかりの学問に傾倒しているが、こういうのが本当に学問だろうか。疑問を疑問として提起できないような学者にせよ知識人にせよメディアにせよ何の意味があろう。そういう連中に限って著作権に煩いのはお笑いだ。れんだいこは、現代著作権法が搦め手から治安維持法化しつつあることを憂う。 この問題の肝腎なことは次のことにある。現代強権著作権者の主張は、著作権法の内容をはるかに逸脱して現代的要請論、国際的法感覚論でもってオーバーラン化させており、それを常態化趨勢化させつつある。それはあたかも憲法9条がありながら自衛隊を発生させ、防衛庁を生み、防衛省に昇格させ、今後も莫大な予算を注ぎ込もうとする流れとハーモニーしている。ここでは既に、最高法規の規制力が失われ、治外法権化しつつある。その連中が法令遵守を言うからお笑い極まれりではある。 妙な事に、憲法9条擁護派にして強権著作権論振り回し派というのが存在するが倒錯極まれりであろう。れんだいこは、どうやったらそういう論法に馴染めるのか不思議でならない。方や法を守れとと云う、方や法違反である。この両者を併せ呑む事のできるのは至難の業であろうに。 結論として、憲法9条擁護派にして強権著作権論振り回し派には倍して警戒せよ。連中を味方だなどと思っていたら、あごが食い違うのは近未来の必至である。強権著作権論派の護憲論は底が浅い。繭唾せよ。現代は、有り得ない主張を平然とし得る連中が正義美名で幅を利かせている。そういう風にややこしい時代になった。かく受け止めておけば解けないパズルではないが、この観点抜きには頭がヤラレテシマウだろうに皆さんタフなことだ。 2008.3.10日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評375 | れんだいこ | 2008/03/12 14:50 | ||
【書評、田口宏睦「JASRACに告ぐ」を評す】
2008.2.25日、フリーライター田口宏睦氏の「JASRACに告ぐ」(晋遊舎ブラック新書)が刊行された。れんだいこは今、とあることから音楽著作権に関して関心を深めている。そういう折の田口氏のジャスラック問題研究書の市場提供は有り難かった。以下、その感想を記しておく。 同書は、音楽を利用して営業している店舗に対するジャスラックの音楽著作権侵犯対価請求の実態をルポしている。ジャスラックとは、日本音楽著作権協会(Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers、JASRAC)の略称である。 「JASRACに告ぐ」は冒頭、和歌山のレストラン「デサフィナード」(約190万円被請求)、新潟のジャズ喫茶「スワン」(約550万円被請求)、名古屋のダンス教室(約3600万円被請求)、名古屋のライブハウス(約1630万円被請求)、東京のピアノバー「ビストロ・ド・シティー」(約840万円被請求)等々の裁判事例を挙げ紹介している。「デサフィナード」、「ビストロ・ド・シティー」、名古屋のライブハウスの場合、経営者が逮捕されている。 ジャスラック問題は一般には馴染みが薄い。なぜなら、ジャスラックの音楽著作権侵犯対価は市民が対象ではなく、演奏者、歌唱者に対しでもなく、有料であろうが無料であろうがお構いなく店舗経営者に請求されているからである。法理論的にオカシイと思うのだが問題無しとされている。 しかも、権利侵犯をどのように算定するのかと云うと、演奏叉は歌唱実態に関係なく、店舗の該当面積により算出される。これも問題無しとされている。当然、小店舗の場合は小額請求となり大店舗の場合には高額請求となる。そうやって徴収した著作権侵犯対価料を著作権者に配分しようにも、面積算定だから割り振りできない。これも問題無しとされている。 田口氏は、ここまで疑問を提起している訳ではないが、れんだいこが解析すればそういう疑問が持ち上がる。田口氏の「JASRACに告ぐ」は実態を明らかにする事により、れんだいこ的発想を生む下地を醸成している。同書にはそういう価値と意義が認められる。 田口氏は、全国音楽利用者協議会、ジャスラックにまつわる事件簿、歴史、諸外国との比較、についても言及している。民主党の川内博史議員インタビューも紹介している。全体的に読み易いジャスラック問題のガイドブックとなっており、関心有る人たちにとって待望の必読書と云えよう。 以上が感想である。ここから、れんだいこの見解を披瀝しておく。 一体全体、最近の著作権問題は締め付けが次第に激しくなっており、人民大衆の生活享受権に対して由々しき侵害が深く静かに潜行していると受け止めるべきである。最大の問題は、ジャスラック的著作権が権利万能社会の尖兵的役割を果たしていることにある。ジャスラックが切り開いた著作権制約が追って全分野に攪拌していくことが必至で、その意味でよそ事とみなして傍観する訳にはいかない。いずれ我が身に降りかかってくる。事態をかく踏まえるべきではなかろうか。 何が問題なのかと云うと、ジャスラック的著作権論の倒錯性にある。本来、「JASRACに告ぐ」でも幾分かは指摘されているが、音楽文化の擁護発展をも使命として認可されているにも拘らず、著作権利者の保護と云う美名の下に使命を反故しても顧慮しないという反モラル性にある。依然としてジャスラック的活動にタガハメされて居らず、この先どこまで行き着くのかと云う不安が有る。つまり野放し状態にある。にも拘らず、多くの自称知識人が文明化の名の下にこれを後押ししていると云うそれこそ野蛮性がある。そういう意味で、ジャスラック問題は結構な文明批評にもなっている。 れんだいこは既に幾度も指摘しているが、全ての誤りは、新聞協会の打ち出した「著作権物利用に伴う要事前通知、要承諾制」に有る。ここからジャスラック式音楽著作権侵害対価請求権論が生まれている。そういう意味で、大本は「著作権物利用に伴う要事前通知、要承諾制」に有り、その論理論法の是非を鋭く問い突き崩さない限り解決しない。 マスコミ業界は、ジャスラックが手前達が打ち出した論理論法に則り権利主張しているわけだから、これを批判できない。そういう訳で同じ穴のムジナとなっている。興味深いことに、新聞協会見解を後押ししたのが読売のナベツネであることからして、ジャスラックの課金暴力に対してもナベツネ系の読売新聞、日テレ系が特に援護射撃していることである。これを偶然とみなすわけにはいくまい。 れんだいこは既に幾度も指摘しているが、現代強権著作権論派の「著作権物利用に伴う要事前通知、要承諾制」に胡散臭さを感じている。彼らは法を盾に弁論しているが、れんだいこが著作権法を読む限り新聞協会見解は明らかに逸脱でありオーバーランである。それはあたかも、憲法9条の諸規定にも拘らず自衛隊を創出させ肥大化させますます軍事防衛費を注ぎ込もうとしている現下の政治と似通っている。一事万事ということであろう。 れんだいこは、「著作権物利用に伴う要事前通知、要承諾制」を敷くなら、それは流通段階に於ける川上規制に止まるべきで、川下にまで適用させてはいけないと考えている。つまり、業者の利用規制にすべきで、エンドユーザーの利用規制にまで及ぶ必要は無いと考えている。この仕切りが肝要なのだが、暴力的に破壊され今日の悪法化路線へと辿り着いているとみなしている。 これをどう解決すべきか。そう難しい事ではない。著作権法を見直すなら、現下の如く著作権法の骨抜きに向かうのではなく、著作権法の仕切りをもっと厳格鮮明にさせ、「川上適用、川下不適用」の大原則を確立すれば良いだけのことである。この大原則を打ち立てた後で、審議を要するとすれば、どこまでが川上なのかどこからが川下なのかを詮議すればよいだけのことである。 ここにこそ本当の知識と智恵が居る。これをこなすのが知識人の役割であり、著作権法の骨抜きに舌鋒振るうのは知識人でもなんでもない、単なる御用系弁論士に過ぎず提灯言論でしかない。現代は、こういう類いの自称知識人ばかりだから詰まらない。だから、議論すればするほど悪貨が良貨を駆逐する類いの改悪方向にしか進まない。小泉構造改革論はなべてこの方向ばかりのものであった。 では、差し当たり何をすべきか。他に適切な者が居なければ、審議会にれんだいこを入れればよい。れんだいこがひとしきり本来の著作権論をぶち上げ、総点検総見直しを起爆してしんぜよう。同調者を生み、それを核として一気に流れを変えたい。誰か、この提案を文化庁へ届けてくれ。 それにしても、「JASRACに告ぐ」の著者田口氏までもそうだが、ジャスラック的音楽著作権論を認めたうえで減額請求で対応しようとしている。この問題はそうでは無いと思う。「デサフィナード」の経営者が萌芽的に示しつつあるが、ジャスラック指揮音楽著作権論のイカガワシサに気づくべきで、店舗段階での歌唱、演奏は無料との確固とした地平から闘わねばならないのではないのか。 一体、店舗で顧客が歌を歌おうが演奏しようが、それがなぜ権利侵犯なのだ。著作権者は結構な事として後押しすればよい。それなのにハウマッチなどと手を差し出し、自分では徴収できないからジャスラックに頼むなどというさもしい芸術家精神がややこしくさせているのではないのか。芸術活動には金を生ませれば良い。なぜなら、人は霞を食って生きるわけには行かないから。しかし、普及活動とハウマッチは馴染まない。一体誰だ、俺に黙って俺の歌を歌いやがってなどと天に唾する者は。 2008.3.12日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評376 | れんだいこ | 2008/03/15 18:11 | ||
【音楽著作権法に於けるプラーゲ旋風事件考】 音楽著作権法に於ける「プラーゲ旋風事件」の重要性が分かってきたので愚考しておく。「プラーゲ旋風」とは、1931(昭和6)年、外交官、軍人、日本語教師、大学教授と云う様々の肩書きを持つ異色の人プラーゲが、ヨーロッパの著作権管理団体の代理人に登用されたと称し再々来日し、東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立したことから始まる。 プラーゲのユニークなところは、楽曲演奏(生演奏、録音媒体の再生も含む)する全ての事業者に対して、プラーゲが管轄する西洋楽曲の使用対価料の請求を始めたことにある。対象事業先に多額の使用料を請求し、支払わない事業団体に対し内容証明郵便を送り付け裁判に訴えた。中でも、宝塚少女歌劇団への厳重注意、松竹歌劇団の告訴(「プラーゲのつむじ風、松竹歌劇団を襲う」)、三浦環のオペラ公演の中止運動等々が目を引く。 1932(昭和7).7.22日、「プラーゲ機関」はNHKをも襲う。NHKに対して外国音楽放送の著作権使用料を請求し、月極め600円の使用料を支払わせた。ところが、NHKはその後反発した。契約交渉が不調に終わり、NHKは1年以上にわたって海外楽曲の放送をとりやめるという事態に陥った。NHK史上の椿事である。これらの活動が大きな話題になり「プラーゲ旋風」と呼ばれた。 当時の政府は、由々しき事態として対応法案づくりに向かった。内務省がその任に当たる。1934(昭和9)年、著作権法を改正し、放送局がレコードで音楽を演奏する場合、出所明示を条件に自由とした。1937(昭和12)年、日本の作曲家の権利を管理する「大日本音楽作家出版者協会(山田耕筰等が所属)」が設立され「プラーゲ旋風」に対抗することとなった。当時の新聞の見出しは、「門出の血祭りにプラーゲを粉砕 不遜な提案一蹴の申合せ」、「プラーゲ旋風、文化を破壊する勿れ」等々と記してエールしている。 1939(昭和14)年、政府が、「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)を制定した。著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るとし、音楽著作権を管理する唯一の団体として「大日本音楽著作権協会(今日のJASRACの前身)」、文芸著作権を管理する唯一の団体として「大日本文芸著作権保護同盟」が認可され設立された。プラーゲ博士の許可申請は却下された。 1940(昭和15).10月、「大日本音楽作家出版者協会」解散。1941(昭和16)年、天市(瀋陽市)に開設した東亜コピライト事務所の行為が仲介業務法違反に問われ、罰金600円の判決を受ける。1941年、同法違反で罰金刑を受けたプラーゲがドイツに帰国。大東亜戦争開戦前夜の動きであった。 れんだいこは、なぜ「プラーゲ旋風事件」に注目するのか。それは、ジャスラックが今日、誕生の元一日の理を忘れ、かってのプラーゲ機関化していることの変態性を確認する為である。見てきたように、「著作権に関する仲介業務に関する法律」(仲介業務法)が、日本の音曲文化を護持せんとして打ち出された経緯があり、直接的には「プラーゲ機関」の独占的排他的高額対価請求活動を掣肘する為に生み出されたものである。同法を受けて今日のジャスラックの前身である「大日本音楽著作権協会」が生み出されたという経緯自体が、「ジャスラックのプラーゲ機関化」を自己否定しているはずではないのか。こう受け止めるべきではないのか。 にも拘らず、「ジャスラックのプラーゲ機関化」を促進せしめている昨今の風潮を如何せんか。今ジャスラックは、当時の「プラーゲ機関」よりも質が悪い。ジャスラックは、「プラーゲ機関」も思いもよらなかった事業者規制のみならず利用者規制へと歩を進め、エンドユーザーにまでの川上から川下まで至るオール使用対価料請求に明け暮れている。その結果、日本の国技である日本相撲協会でさえ年収150億円のところ、何とジャスラックは1500億円を超え単独突出する巨大社団法人と化している。 それにしても、こういう倒錯、この巨額売上がなぜ生じたのか。社団法人は本来、そんなに稼ぐものだろうか。ここが問われねばならない。その皺寄せは無いのだろうか。これも問われねばならない。ジャスラックの変態化は日本の政治構造が或る時を境に転換して以来のものではなかろうか。こう問わねばならない。 れんだいこの確認するところ、1970年代までは、新旧著作権法はまだしもある種の弁えを持っていた形跡が認められる。ロッキード事件を経由してハト派政治が脳震盪を見舞われ、1980年代に売国系中曽根政権が登場して以降、現代強権著作権派が勢いを増し、防衛費の伸びと歩調を合わせるようにジャスラックが闊歩し始めたのではないのか。 つまり、施政当局者の人格が変わり、著作権法に限って云えば当初の「大日本音楽著作権協会」精神からは決して生まれない親プラーゲ機関的著作権論者が日本の音楽界権力を掌中にしたことにより、ジャスラックの活動が一気にユダヤ商法化し、売上増殖自体を自己目的化し始めたのではなかろうか。それは、日本政界のハト派からタカ派への主導権転換と相応している。れんだいこはこのように見立てている。 結論として、ジャスラック批判の嵐が今後どこかで爆発するであろう。これを予言しておく。それは既成マスコミでは為し得ない。なぜなら同じ穴のムジナだから。叩けるのは、我々が自主自律的に創造した和製アルジャジーラ放送局を通してだろう。一刻も早く向かわねばならない。 この放送局さえあれば、先のイージス艦事故に際しても、事故直後10分間のイージス艦側の救出活動の有無を究明し、救出活動しなかったことがはっきりすれば関係者総員辞表始末することになろう。石破大臣の辞任はそれからのことである。ところがいけない、いきなり石破の辞任要求に向かい、それもロス事件で報道切れし、今はもう別件に向かい参議院で懲りない質疑をショー化させている。政治が政治役者どもによって弄ばれているといえばそれまでのことではあるが。 2008.3.15日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評377 | れんだいこ | 2008/03/16 19:34 | ||
【著作権法の法理構造考】 (れんだいこのショートメッセージ) ここで著作権法の法理構造を究明しておきたい。現在、新著作権法があるが、複雑多岐にわたっているので、これを逐条解析する法文逐条解析手法では闇雲な迷路に陥る恐れがある。そこで、ベルヌ条約を受けて制定された旧著作権法からの流れを説き起こし、新著作権法にどう継承されたかされなかったのか、あるいは新たな観点がどう接木されたのかを検証していくことにする。いわば歴史的解析手法であるが、この方が分かり易く正確な理解に至るであろう。 留意すべきは、現代強権著作権論者の説く著作権法理解がどこからもたらされているのかを解明することである。れんだいこに云わせれば、彼らの著作権理解の方がアウトロー的なものである。彼らは旧著作権法−新著作権法の法規制とは異質なものを主張している。しかし、何がしか根拠を持っているのだろう。それを確認する事にする。 現代強権著作権論者の説く著作権法理解を憲法論になぞれば丁度、日本国憲法的法規制に対して日米安保条約的法規制を振りかざし、日本国憲法を蹂躙している様と照応している。この視点を確立する事が必要であるように思う。ゆめ追従する勿れ。 ケッタイナ事に社共的(ひょっとして新左翼までそうかも知れないが)護憲派が強権著作権論派でもあることが事態を複雑にさせている。この事態をどう理解すべきか。れんだいこは、強権著作権論派的護憲派の護憲論をニセモノと判定する。彼らは口で護憲を云うが裏で実は不断に憲法秩序を取り崩している。真の護憲派なら云われなくても強権著作権論を逆規制するはずだし、人民大衆の自由自主自律的な社会創造に向かうべきだから。 著作権問題考察には、このようなことを考えさせる重大な意義がある。 2008.3.16日 れんだいこ拝 -------------------------------------------------------------------------------- 【著作権法の素描】 新著作権法は、「1970(昭和45).5.6日、法律第48号」として制定された。全文124条と膨大な附則から成り立っている。新法は、「1899(明治32).3.4日、法律第39号」のいわゆる旧著作権法を全面改訂したものであるが、旧著作権法が52条と若干の附則から構成されていたのに対し、極めて複雑難解なものに仕立てられているところに特徴がある。もっとも、新法にはその後次から次へと新条項が付け加えられ一層複雑にされているという経緯がある。同じような悪法として税法があるので、この両者が複雑多岐迷路法の双璧となっている。 新法は、第1一章「総則」、第2章「著作者の権利」、第3章「出版権」、第4章「隣接著作権」、第5章「私的録音録画補償金」、第6章「紛争処理」、第7章「権利侵害」、第8章「罰則」、附則の9部構成となっている。旧法が第1章「著作者の権利」、第2章「出版権」、第3章「偽作」、第4章「罰則」、第5章「附則」の5部構成としていたのと比べると「補償、紛争、侵害、罰則」関係がやたら強化されていることが一目判然とする。 以下、個別的に重要な事を確認しておく。 新法は、「第一条(目的)」で、「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」と規定している。 ここで重要な事は、著作権法の目的として、著作者の権利擁護と文化の発展の寄与を同時達成的に掲げている事である。これが本来の著作権法の趣意である。現下の強権著作権論者のように一方的な著作権擁護に偏する姿勢は見られない。 次に、著作権法上保護されるべき客体を明確にした後、第10条で「著作物の例示」をしながら、2項で「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない」としている。「1997.11月付け新聞協会見解」はこれに次のように難癖をつけている。 「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道とは、死亡記事、交通事故、人事往来など、単純な事実を伝える記事だけであり、ほとんどの記事には著作権が働いています」、「死亡記事であっても、故人がどんな人で、どのような業績があったのかに触れたり故人を追悼する気持ちを出そうとしたものや、交通事故でも事故の背景や周辺の様子などを記述していれば、単なる事実の伝達を超え、記者ごとの特徴を反映した記事になります。著作権法では、著作物とは『思想又は感情を創作的に表現したもの』と定義(第2条の1号)しており、記者によって表現に差が出るような記事は、著作物の条件に当てはまると言えます」、「解説記事はもちろん、一般のニュース記事も、通常はその事実を伝える記者の価値判断、視点を伴っており、また、背景説明や、取材の過程で見聞した事実を取捨選択し、記者の個性を反映した表現で書かれています。さらに最近は紙面上のレイアウトにも高度な創意が加えられています。従って、文字テキストだけの形で取り出す記事も、新聞に掲載されたままの切り抜きスタイルにしても、著作権法で保護されるべき著作物であると言えます。また、報道写真は当然、著作権法第10条8号で例示されている『写真の著作物』に当たり、無断利用は認められません」。 しかし、旧著作権法の諸規定に照らす時、「1997.11月付け新聞協会見解」は牽強付会と云うべきだろう。新法も叉旧法の規定を踏襲して「時事報道は著作権保護しない」と逆規制していると受取るべきであろう。これについてはこの後でもう一度確認する。 第13条で「権利の目的とならない著作物」で、「一 憲法その他の法令」、「二 国若しくは地方公共団体の機関叉は独立行政法人が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの」、「三 裁判所の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行われるもの」、「四 前三号に掲げるものの翻訳物及び編集物で、国若しくは地方公共団体の機関叉は独立行政法人が作成するもの」のいずれかに該当する著作物は、この章の規定による権利の目的となることができないとしている。 これも、旧著作権法以来の伝統を継承していると云うべきであろう。 次に、著作者人格権について規定し、第17条「著作者の権利」の1項で「著作者人格権」を認め、「著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない」としている。これは、ベルヌ条約以来の無方式主義規定の踏襲であろう。「著作者人格権」として、第18条で「公表権」、第19条で「氏名表示権」、第20条で「同一性保持権」の三権を明記している。新法は、旧法の規定を詳細にしているところに特徴があるが、これらの規定は、遵守されれば引用転載できるという前提でのものであって、現代強権著作権論の云うところの「要事前通知、要事前承諾制」規定は設けられていない。 次に、「著作権の制限」を設けており、第30条「私的使用のための複製」として「著作権の目的となつている著作物は、個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。)を目的とするときは、次に掲げる場合を除き、その使用する者が複製することができる」としている。 この規定は、「私的使用」の定義として「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること」としていることに問題が見られる。本来は、もっと広く「直接的に営利を目的としない個人使用ないし利用」と規定すべきではなかったか。この狭義規定がマヤカシの種になる。 第32条「引用」で1項「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」、2項「国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物は、説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる。ただし、これを禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない」としている。 これも素直に「できる規定」で読み取るべきであり、現代強権著作権論の云うところの「要事前通知、要事前承諾制」規定は無い。 第38条「営利を目的としない上演等」で1項「公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもつてするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない」とある。 この規定も「できる規定」であるが、問題がある。「営利を目的としない」とわざわざの断り書きが曲者である。先に複製について「私的使用」に限定し、こたびは上演について「営利を目的としない限り」としていることになる。「できる規定」を装いつつ新たな制限を被せている事になる。こういう玉虫色の規定が新法の特徴である事に気づかされる。 注目すべきは第39条「時事問題に関する論説の転載等」である。次のように規定している。1項「新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く。)は、他の新聞紙若しくは雑誌に転載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる。ただし、これらの利用を禁止する旨の表示がある場合は、この限りでない」、2項「前項の規定により放送され、又は有線放送される論説は、受信装置を用いて公に伝達することができる」。 この規定に照らせば、「1997.11月付け新聞協会見解」の「要事前通知、要事前承諾制論」は明らかに39条違反している事になろう。ちなみに、この規定は旧法以来の伝統的規定である。旧法でも「第二十条〔時事問題を論議した記事〕、新聞紙又は雑誌に掲載したる政治上の時事問題を論議したる記事(学術上の著作物を除く)は特に転載を禁ずる旨の明記なきときは其の出所を明示して之を他の新聞紙又は雑誌に転載することを得」と規定している。「1997.11月付け新聞協会見解」はこの伝統を蹂躙している事になる。 第40条「政治上の演説等の利用」の1項「公開して行なわれた政治上の演説又は陳述及び裁判手続(行政庁の行なう審判その他裁判に準ずる手続を含む。第四十二条において同じ。)における公開の陳述は、同一の著作者のものを編集して利用する場合を除き、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる」、2項「国若しくは地方公共団体の機関又は独立行政法人において行われた公開の演説又は陳述は、前項の規定によるものを除き、報道の目的上正当と認められる場合には、新聞紙若しくは雑誌に掲載し、又は放送し、若しくは有線放送することができる」、3項「前項の規定により放送され、又は有線放送される演説又は陳述は、受信装置を用いて公に伝達することができる」も「できる規定」である。 旧法でも「第二十条の二〔時事問題の公開演述〕、時事問題に付ての公開演述は著作者の氏名、演述の時及場所を明示して之を新聞紙又は雑誌に掲載することを得。但し同一著作者の演述を蒐輯する場合は其の著作者の許諾を受くることを要す」と規定している。 第41条「時事の事件の報道のための利用」の「写真、映画、放送その他の方法によつて時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる」も「できる規定」である。 一体、これらの諸規定の中に「1997.11月付け新聞協会見解」の説くが如くな「要事前通知、要承諾制」がどこに記されているのだろう。 第48条「出所の明示」で、引用転載、複製時の「出所、(出典)、著作者名の表示」が義務付けられている。但し、「著作者人格権」の中に構成されて居ないので、補足的意味合いと受取る事ができよう。 第52条「保護期間の原則」で、著作物の創作時より著作者の死後50年までの間保護されるとしている。これは、旧法の30年を20年延長している事になる。今この規定が、強権著作権論派により80年、100年に延長されようとしているが、著作権の過剰行使と捉えるべきであろう。 さて、これがお終いになる。これが滅茶苦茶な規定である。第63条「著作物の利用の許諾」で、1項「著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる」、2項「前項の許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法及び条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる」その他5項まで規定している。 れんだいこが遂に発見した異常規定の挿入である。こういう規定は確か旧法には無い。従って、新法で目立たぬようにこそっと挿入されたことになる。この規定の法精神(理念)は、旧法−新法の法精神(理念)と齟齬しており、憲法に例えれば、9条規定にも拘らず、「国防能力を高め、敵国殲滅の権利を有する」規定を闖入させていることになろう。 れんだいこは、第63条がどういう経緯で盛り込まれたのか知りたいが分からない。喧々諤々の議論を経たのか、暴力的に挿入された、こそっと盛られたのか、誰が主張したのか判明しないが、明らかにそれまでの条文趣意に照らして変調である。新聞協会見解の「要事前通知、要承諾制論」は恐らくこれに基いていると思われるが、法理念の股裂き以外の何ものでもなかろう。 今この63条が拡大解釈され、モンスター化し、「要事前通知、要承諾制」を生み出し、その派生物として使用利用対価請求権を生み出し、ジャスラックが猛威を振るっていることを思えば、この63条の逆規制規定を生み出すことが望まれているのではなかろうか。 とりあえずのれんだいこの著作権法研究の成果とする。世の自称識者よ、これが強権著作権論の裏舞台だとすれば、後生大事にすべきだろうか。放擲一蹴あるのみではなかろうか。強権著作権論派は、こういうカラクリをしてわざと難解法にして我々を目くらまししているだけなのではなかろうか。物分り良過ぎるのも過ぎれば及ばずではなかろうか。 著作権法考(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/tyosakukenco/tyosakukenfo/tyosakukenfo.htm) 2008.3.16日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評378 | れんだいこ | 2008/03/18 13:55 | ||
【著作権法の法理構造考その2、新著作権法63条考】 「新著作権法63条問題」の重要性が分かってきた。「著作権法の法理構造考その1」で、ベルヌ条約、旧著作権法、新著作権法の法理構造を概括した。結論として、何ら脈絡無く63条が闖入している不自然さを確認した。では、63条以下の規定はどうなっているのだろうか。 これを調べるのに、64条以下には著作権の原理原則に関する規定はもはや無い。共同著作物の著作権に触れた後、著作物の個別規定、著作物利用の裁定、補償金、登録、出版権、著作隣接権、レコード著作権、放送事業著作権、保護期間、権利の制限、私的録音録画補償金に触れた後、紛争処理、権利侵害、罰則、附則がこまごまと記されているばかりである。 ということは、63条が突如単独で登場している事になる。その内容は、「著作物の利用の許諾」と題して、1項「著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる」、2項「前項の許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法及び条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる」と規定している。 「著作権法の法理構造考その1」で見てきた様に、それまでの規定は概ね引用転載等の使用利用につき「できる規定」であるのに対して、「できない規定」を盛り込んでいる事にある。本来なら、関連する40条前後で登場せねばならないところ、何の脈絡も無く63条で規定されているという不自然さが見て取れる。 この規定は明らかに、「他人に対し」としていることからしてそれまでのいわば川上の業者規制に対して川上から川下まで適用するオール規定になっており、従来の著作権法枠を一気に飛び越えている。ここに悪法性がある。「1997.11月付け新聞協会見解」は、この規定を鬼に金棒的に意義付けし、「要事前通知、要承諾制」の論拠とし、ジャスラックは、ここから承諾する代わりとして使用利用対価請求権論を構築している。63条規定にはそういう特殊な役割がある。 しかし、突如異分子的に闖入した63条を盾にそれまでの著作権法諸規定を蹂躙させる「1997.11月付け新聞協会見解」、ジャスラック式音楽著作権論の振りかざしは卑怯姑息と云うべきではないか。こったら悪法を許して良いものだろうか。かく問わねばならないのではなかろうか。一体誰が、何の目的で、かような規定創設に奔走したのだろうか。ここを解明検証詮索せねばなるまい。 それはともかく、現代強権著作権論の薄っぺらな論拠が確認できた事が望外の成果であった。現代自称知識人が知的所有権の名の下に、「要事前通知、要承諾制」と「使用利用対価請求権当然論」を云う時、鼻白めば良いことが分かっただけでも収穫だった。 問題はこうなると、速やかに63条撤廃へ向かうべきだろう。しかし、頑迷な輩が多いのが世の常だから、れんだいこが、折衷案として条文を提起しよう。かく規定すべきではないか。1項「著作権者は、他人に対し、著作権法精神及び前条までの諸規定に違背しない限りに於いて、その著作物の利用を許諾することができる」。 これで解決するではないか。れんだいこは、長い間の著作権法攻めに対する対抗見解に漸く辿り着く事ができた。共に祝そう。 「著作権法の法理構造考」 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/tyosakukenco/tyosakukenfo/tyosakukenfo_forironco.htm) 2008.3.18日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評379 | れんだいこ | 2008/03/19 21:19 | ||
【民主党よ、立ち止まる勇気を持て】 福田政権死に体論が出回り始めている。暗礁に乗り上げているのは事実だが、れんだいこが見るところ、死に体なのは福田政権のみならず各諸野党をも含む日本政治そのものではなかろうか。ここでは道路財源問題を採り上げるが、一般財源化すべし論を唱えている連中は皆、国際金融資本の雇われであり、彼らの指示に従って福田政権攻撃しているに過ぎない。以下、これを論証する。 丁度折りも折、太田龍・氏が「2008.3.17日付け時事寸評bQ362」の「皇道派=真崎甚三郎陸軍大将の名誉回復に向けて、我々は確固たる展望を以て、今一歩を踏み出す」で、戦前の2.26事件を総評して、これを指揮した真崎大将と「皇道派」の歴史的見直しの必要について述べた後、次のように云う。 「反皇道派、反真崎の統一戦線、それは次の如き陣営によって構築されている。(1)・昭和天皇、(2)・昭和天皇を狂信する集団、(3)・日本の国家そのもの、(4)・日本共産党その他の日本の左翼陣営まるごと、(5)・讀賣、朝日、NHKを頂点とする日本のマスコミのすべて、(6)・「反体制的」左翼、リベラル派のすべて、(7)・日本の「右翼」「民族派」のすべて。これだけあれば、真崎大将を封殺する包囲環は、アリ一匹、這い出て来るスキマもないと、見えるかも知れない」。 れんだいこは、この指摘に興味が湧く。日本政治史を紐解く時、時にこういう現象が現れていることに気づく。平素は、右翼と左翼は敵対し、マスコミは各社とりどりに政府を提灯批評している。ところが、或る課題になると途端に、それも重要な事件になればなるほど政界一致し、統一戦線が組まれる。これってオカシクは無いか。れんだいこにはそういう気づきがある。 記憶するだけでも、征韓論争から西南の役、大正天皇論、2.26事件、ロッキード事件に見られる奇妙な悪評価、ごく最近では、松岡農相変死事件の自殺論、イージス艦の漁船衝突事件に於けるイージス艦側の事故直後救出活動に対する不問、これらにつき右から左までが奇妙に口裏合わせし史実を偽造している。 道路特定財源の一般財源化論も同じような風潮を見せている。小泉派が仕掛け、今もエールしている。対する野党は民主党から社民党、共産党まで一致共闘している。マスコミ各社は無論である。最近の強権著作権論の後押しも然りである。太田龍式方程式から云えば、臭いと思うべきだろう。れんだいこには、これらの勢力が皆、政治役者に思えて仕方ない。連中が正義面して力めば力むほど政界ピエロに見えて仕方ない。 阿修羅情報(ttp://www.asyura2.com/08/senkyo48/msg/522.html)によると、「小野寺光一の政治経済の真実」の「日本の政治はどうやっていけばいいのか?」が、重要な指摘をしている。小野寺氏は、ゴルバチョフ改革が、「結果は、国営だった企業を全て民営化という名目でいわゆるユダヤ外資に売り飛ばす結果になった。官僚は没落して、企業経営者は最大の権力を握った」ことを指摘している。次に、小沢一郎氏や亀井静香などの政治家が仮に、今現在の「郵政民営化」というものにストップをかけて国営に戻そうとしたら、「おそらくC○Aが、上記の政治家に対して暗殺を企てるだろうということである。つまりわれわれは、リスク管理をしないといけない」と指摘している。 次に、「実際に田中角栄は日本を良くしたからロッキード事件にやられた。立花隆に資料提供したのは韓国KCIAである。その資料をもとに金脈追求がなされた」とも指摘している。元をただせば、イエスキリストがそうだったとも指摘している。天下り問題、官僚攻撃の裏本質に触れた後、最後に道路財源問題に触れて次のように述べている。 「道路特定財源を一般化するということは?。私が道路特定財源について思うことは、もし道路特定財源を、一般財源化したら、一般財源化するということは大蔵省の管轄になるということだ。つまり国土交通省の管轄から大蔵省の管轄になる。となると、現在、大蔵省(と厚生労働省)については官僚が外資に天下りしている例が非常に多いためおそらく、外資のために使われるだろう」。 他にもいろいろ書いているが、れんだいこが得心するのは以上のくだりである。 ところで、道路財源問題を問う時、元々一般財源であったものを去る日、特定財源化させた時の田中角栄の獅子奮迅の働きに触れずには済まされない。ところが、今現に諸野党が繰り広げている弁論からは田中角栄のタの字も出ない。これって議論マナーとして不正ではなかろうか。意図的に無視しているとしか考えられない。 れんだいこは、「田中角栄の議員立法」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/kakuei/giyoseki_giinriipou.htm)で確認し、サイトアップしている。それによると、大蔵省が猛反対し、民社党の春日一幸が大蔵省の意を受けて反対質疑している。これらの反対を押しのけて、有能官僚を見出し、当時としては考えられない常識破りの受益者負担論に基き法制化した経緯がある。 端緒に於けるこの慧眼で、その後道路整備が急速に進み、モータリーぜーション時代に即応することができた。日本は、角栄が夢に描いた通りに「土木事業を基礎としてその上に各種産業を隆盛させ流通先進国家を目指す」総路線を目指し、未曾有の高度経済成長を成し遂げていくことになった。こういう国の将来を作る背骨となるような法案を、まだ30代前半だった田中角栄が作り上げたことになる。 その後、道路行政が利権化し、今日制度疲労していることは分かる。それはそれで解決すればよいだけのことである。しかし、その問題と道路財源の一般財源化とは質が違う。元の木阿弥に戻してしまうと、小野寺光一氏の指摘するように「国土交通省の管轄から大蔵省の管轄になり、外資のために使われる」の指摘通りになるであろう。日本は内治に金が使えず、国際金融資本の打ち出の小槌として利用され続け、費消されるだけだろう。 この疑念を抱かず、道路特定財源の一般財源化を主張するのは為にする者であり、小泉流エセ改革の随伴者でしかない。小泉政権歴代3位の長期化にはこういう事情があったと思われる。してみれば、それに辟易して民主党に期待し参院過半数の勝利を得さしめたにも拘らず、本質的に小泉政治を継承しようとする民主党の正体がバレれば、消費税反対で立ち賛成で亡びたかっての社会党と同じく一挙に棄てられるだろう。民主党の一般財源化論にはそういう危うさがあるが、自らその道へ分け入る者に漬ける薬は無い。 れんだいこは特段に民主党に期待しているわけではない。社民党、共産党の余りにもなお粗末に辟易し、他に頼れる政党が無いと云う意味で民主党、国民新党、大地党に期待しているに過ぎない。他にもう一つ要因を挙げるとすれば、小沢がかって角栄の薫陶享けて居るという政治履歴に対して期待している面がある。が、世の中が角栄政治を待望しているのに、自ら角栄政治を否定してはしゃぎ続けるなら何の期待も無い。足元を滑らさないよう願うばかりである。 田中角栄考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/) 2008.3.19日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評380 | れんだいこ | 2008/03/20 21:28 | ||
【読解力考】 次のようなことが云いたくなった。知の専門家と云われるいわゆる学識者、知識人の知の水準は大丈夫なのだろうか。れんだいこは、興味の赴くところ、いろんなところに首を突っ込んでいるが、その界隈で取り寄せた資料の中に妙な癖があることに気づいている。 れんだいこにとって有り難い資料的価値を有するものでも、いただけるものは殆どが客観記述資料的なものに限られ、筆者が自己見解を表明したくだりになると何とも食えないものが多過ぎる。それが市井の普通の者の手になるものであるならともかくも、結構な肩書きを持ついわゆるインテリの労作だとすると首を傾(かし)げたくなる。 その中でも、いわゆる読解力に欠けた評論がままある。こういう手合いが外国語を読めるとして、外国語を読んだからといってどうなるのだろう。外国語になると途端に読解力が高まるのだろうか。ということは有り得ないだろう。れんだいこは、辞書片手で無いと外国語が読めないので、一々彼らの読解間違いを指摘する余裕が無い。時間を掛けて捜すと、恐らく幾らでもあるだろうと思われる。 世の中の学問水準がこういう程度だというのに、ご丁寧にも著作権網だけは次第に拡幅してきており、引用転載ご法度の不自由極まる社会に誘われつつある。そりゃぁ、不細工な論文を提起している者にとっては有り難い仕掛けではあろうが。 例えばの話し、最近著作権法の推敲に忙しいれんだいこは、プラーゲ旋風の逆評価にたまげている。既に「れんだいこのカンテラ時評376、音楽著作権法に於けるプラーゲ旋風事件考」で私見を述べたが、世の識者は何と「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」、「著作権の父ウィルヘルム・プラーゲ博士」等々と評している。 結果的に、プラーゲ「日本型著作権の生みの親、その限りでの日本著作権法の父」になったのは事実だが、それは反面教師的にだろう。ならば、言葉の使い方が違うだろうに。普通、「生みの親とか父」とか評するのは、彼の営為によって彼の企図したものが直接的に生み出された場合だろう。史実は、プラーゲ機関に対抗すべく日本音楽著作権団体が生み出され、同機関がプラーゲ機関的著作権活動を排撃したのだから、こういう場合には使わないだろう。 もっとも、その後の日本著作権法の歩みは逆転し、かってのプラーゲ機関的活動を担い始めた。自己否定の道であるが、この道を随分掘り続けて今日に至っているので、今日の目線からは「生みの親とか父」とか云えない訳ではない。しかしそれにしても、単純に「生みの親とか父」とか云うには事態が捩れすぎているではないか。少なくとも反面教師的捉え方をする余地を残しておくべきではないか。「生みの親叉は父ウィルヘルム・プラーゲ、その反面教師伝説」とするなら幾分かはましだろうが。 問題は、ストレートに「ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親」、「著作権の父ウィルヘルム・プラーゲ博士」と評する者の頭脳程度に係っている。人よりも著作権法を学んだ物知りが平気で「何の注釈も無く結果評価」する頭脳の資質が問われている。結果的に、知らぬ者を騙していよう。 しかし、これが通説となり、「昭和の初年、周囲の無理解と圧力の中で、日本の近代文化のために著作権の確立を提唱し、当局と戦った一人のドイツ人、ウィルヘルム・プラーゲ」とか何やら左翼革命家の悲劇の闘士的伝説に合わせて祀り上げたら、それは違うのではないのか。ところが、どうやら、これが罷り通っている節がある。 プラーゲ評価考は一例である。本来有り得てならない逆転評価が他にも世に五万とある。大正天皇然りである。田中角栄然りである。田中清玄然りである。この場合は善者知者が悪者愚者にされた。宮本顕治がそうである。この場合、悪者が善人にされている。昨年逝去したが、極めて有能な革命家であったと評されていたが馬鹿馬鹿しい事この上ない。野坂参三然りである。中曽根もナベツネも小泉もこっちの系譜だろう。 人物評価ならまだしも事件の真相評価をこれをやられると、通説を学ぶ者は学ぶほど馬鹿になる。現代はこういう手合いが多い。このワナから抜け出すにはよほど幅広い実証主義以外に無い。その為には、資料と議論が肥やしになる。ところが、これに著作権法のバイアスが係り始めており、真相に辿り着くには容易でない。我々は、そういう仕組み、環境の中で生きている。このことを知らねばならない。 学者、有識者、専門家の云う事が当てにならない時代に入った。政府発表で、戦後未曾有の最長不倒の好景気がまだ続いているのかどうか分からないが、小泉時代の指標に拠ればまだ続いているのだろう。後世は必ず馬鹿さ加減を笑うだろう。こういうことが続くのは、言論士が持説を平気で金で売るか、元々かなり低脳故に当局のプロパガンダをまともに受けるのが似合いだからだろう。それが彼らの商売だとすると、幾分かは割り引くが。 問題は、人民大衆が彼らに洗脳される事にある。れんだいこが行きつけの喫茶店で、一言一句が彼らの言説の受け売りでしかない情報を教えてくれる有り難い人が居る。れんだいこは話をあわしているが、幾分かは可哀相とも思う。いずれにせよ、物言えば唇寒しとなる時代と付き合うのはごめん蒙りたい。 単純な話、読解力の問題で、インテリぶる者の非インテリ度考 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyo/tetugakunote/dokkairyokuco.htm) 2008.3.20日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評381 | れんだいこ | 2008/03/24 21:05 | ||
【読解力考その2】 れんだいこは、「読解力考」で、現代へなちょこ自称インテリの読解力的知能の低さを嗤った。それが影響したのか、れんだいこが畏敬する田中角栄のそれを比較対照してみた。「田中角栄論」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/)の「演説集」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/enzetu/enzetu.htm)で、角栄の思惟様式と話芸を確認してみた。 そうすると、れんだいこが現代へなちょこ自称インテリに感じる不快さが無く、角栄の頭脳明晰と卓越した能力に感嘆するところとなった。これは感想だからどうしようもない。れんだいこはそう感じたということだ。立花隆辺りになると、角栄には智恵も教養もなく金権一つの威力で政界を闊歩睥睨したらしいが、そういうことが有り得るだろうか。れんだいこには、立花が東大を知能の金字塔の如く捉え、東大分析している様の方が卑小に思えてくる。 ところで、角栄の智恵はどこから生まれたのだろうか。最近少し分かりかけてきた。彼は大学とかいうところに行かず、下手な学問に汚染されなかった分、生きた経済から学び、その間実学を積み重ね、政界に於いても通用する見識と実践力と度胸を身につけたのではなかろうか。その対極の福田が角栄に及ばず、大平が兄事せざるを得なかった原因がこの辺りにあるのではなかろうか。 れんだいこが思うに、戦後日本は、角栄の能力を金脈追及事件とロッキード事件の二本立てで封じ込めて以来、あらぬ方向へ向かいだしたと考えている。角栄ありせば、日本の将来は随分景色が変わっていただろうにと悔やまれる。当時はネットが無かったから、それとれんだいこが今日のような気づきを得ていなかったから力になれなかった。 今なら、れんだいこは、角栄の旗下に馳せ参じ、書生だろうが秘書だろうが知友としてであろうが矢面に立って殉死することができる。しかし、時間のずれがそうはさせない。惜しい悔しいことである。それにしても、れんだいこから見てこれほど素晴らしい角栄をこれほど悪し様に云い、今も角栄的業績の解体に与野党挙げて勤しむ政治って何だろう。 これが偶然なら時代の貧困と見なしてまだしも赦せる。意図的に仕掛けられているとしたら、その仕掛けに乗ってはしゃぐ役者とピエロにエエ加減二センカイと怒鳴りたくなる。NHK、民報問わず、最近の政治討論が全く面白くないろ、なってない。丁度、イージス艦騒ぎして、肝腎な事故直後の救出活動の詮索をし無いまま、与党は弁明し野党は正義ぶる痴態が相応しい。 今日はこれぐらいにしとこ。 人生学院bQ(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/) お引き立ての皆様、リンク替えお願いします。 2008.3.24日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評382 | れんだいこ | 2008/03/25 18:40 | ||
【角栄講話の面白さ考】 角栄の講話、演説に目を通してみて、あらためて角栄の人となりを知った。れんだいこの忌み嫌う宮顕−不破系日共の角栄論に汚染されている者には通用しないだろうが不明を恥じよ。素顔真実の角栄は飛びぬけて値打ちものの人士である。れんだいこは、百年一人どころか稀有の逸材、時空間二千年の大国主の命の再来とさえ考えている。早坂秘書はスサノウの命と例えていたが、それはそれで良いとしても、歴史に照らせば大国主の命と形容するのがより正しいように思う。 角栄の講話、演説に感心するのはまず、かなり生真面目に語る姿勢である。選挙区民に対してであろうが、応援演説であろうが、国会答弁であろうが、外交上のレセプションの場であろうが、常に真剣に語っているように思われる。驚く事は、その草稿をほとんど自分自身で書き上げていることである。他にこのような政治家、首相が居たのかどうかまでは分からないが、かなりの文筆家でもあるということになる。 世間で懐旧するのに、角栄講話、演説の面白さが挙げられている。れんだいこも同意であるが、はっきりさせておかねばならないことは、その面白さは漫談的コミカル性にあるのではない。むしろ落語的で、話しの内容に於ける面白さで際立っている。このことを確認しておかねばならない。 では、どう落語的に面白いのか。これを解析すると次のように云える。角栄は常に、その場に相応しい内容を語り、しかもその内容の質は高い。難易度の高い内容をいとも容易く取り上げ、それを分かり易く説き、えェとかまァとかで間を取りながら、時に聴衆の顔を確認したり睨みつけながら、自身の体験や古来の諺や名言をちりばめて語り、日本人的情緒に依拠して絶妙の例え話で味つけする。講演時間も適宜で短すぎる事も無く長すぎる事も無く、その間聴衆を飽きさせない。 これらが一つになって角栄の話しが面白い。こう受取るべきではなかろうか。付け加えるとすれば、角栄の人民大衆を観る眼差しが温かい。功なり名を遂げて後もいわゆる庶民感覚を保持しており、その上で国家と民族の百年の大計に思いを廻らしている。これが素晴らしい。経済にも政治にも強く思想的にも深い。比肩し得る者がいるだろうか。 角栄が首相時、ニクソンと肝胆相照らし、毛沢東−周恩来と誼を通じ、ブレジネフの舌を巻かした実績を持つ。こういう首相は先にも後にも居ない。訪問国の歴史を学び、逸話の一つも入れて挨拶している。その実際のスピーチは、「角栄演説集」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/enzetu/enzetu.htm)で確認すれば良かろう。 人生学院bQ(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/) お引き立ての皆様、リンク替えお願いします。 2008.3.25日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評383 | れんだいこ | 2008/03/28 15:52 | ||
【れんだいこの特定財源の一般財源化反対声明】 2008.3.27日、福田首相は、道路関連法案に関して新提案した。それによると、道路特定財源制を廃止し、21年度から一般財源化する。暫定税率の当面維持、道路中期計画を見直し、10年から5年に短縮して新たに策定する、というものである。 これをどう評するべきだろうか。れんだいこは既に幾度も指摘しているが、道路財源の一般予算化は歴史の逆行と見る。これは田中角栄がその昔、特定財源化した英明策であり、これを元に戻すのは旧大蔵省の念願ではあっても、国民の為にはならない。にも拘らず、民主党、社民党、共産党、マスコミ、自称識者が世を挙げて牽引しているのは政治の識見不足極まれりである。 れんだいこは、ロッキード事件以来の世論包囲網が敷かれていると見る。となると、ロッキード事件同様に、これを裏から操作している勢力の陰謀を見て取らねばなるまい。彼らは何を画策しているのだろうか。察するに、軍事防衛予算は、表向きはともかく目白押しで次から次へと予算計上されておるからして、これの財源に充てようとしているのではないかと思われる。 道路財源の一般財源化論者は、軍事防衛費のザルの底抜け事態に対しては口をつむっていることで共通している。道路財源を社会保障費や環境対策に充てるというが、これを何ら保障せぬままに一般財源化論を唱えている事でも共通している。松岡農相変死事件に対して逸早く自殺認定し闇に葬ったこと、イージス艦の漁船転覆事件でも事故直後の救出活動に言及しなかったことでも共通している。 これらは果たして偶然だろうか。れんだいこは、このところの民主党の魅力が急速に褪せてきたと思う。これまで幾分かは支持してきたが、彼らの狙いは政権取るだけのことで、政策的には自民党のそれと競うように阿呆政策に向けて構造改革しようとしているのではないのか。社民党、共産党がこれまた然りで、マスコミ然りで、よってこの国は無茶苦茶と云うしかない。 恐らく近未来、自衛隊の海外武装派兵が恒常化し、国際責任論、一蓮托生論で米英ユ同盟の傭兵として次から次へと紛争地域に投入されるようになるのではなかろうか。社民党、共産党は反対意見表明の機会が与えられ責任果たしたとして事足り、結果的にガス抜きの役割を果たす。こうして、自民−民主−公明の圧倒的多数で法案が次から次へと採択されていく事になるのではなかろうか。 国家予算の過半が戦前のように軍事防衛費、諸外国の復興支援、その他関連費に回され、国内は疲弊に次ぐ疲弊で荒廃していくことになるのではなかろうか。天変地変災害に対しても予算不足と云う事で後手後手に廻り、国内の中小零細企業は青息吐息もしくはバタバタと倒産を余儀なくされ、かつてのように食えない者が続出し、順に海外移民せざるを得なくなるのではなかろうか。 大手企業、有望企業の多くが外資に寄生され、利益の殆どが吸い取られる仕掛けの中で企業活動し、新たな外資系財閥が登場し、にっちもさっちも行かない新日本がつくりあげられるのではなかろうか。こういうことが予見されるが、各界協働してこういう新日本建設に勤しむ構造改革論者をどう評するべきだろうか。 れんだいこは幸いな事に、日本再建のシナリオを角栄の日本列島改造案の中に見て取っている。このバイブルありさえすれば、いつでも正しき日本再建可能と信じている。問題はいつ向かうかであり、ここ当分は逆コースに耐えねばならないと心得ている。それにしても暗い話しではある。 2008.3.28日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評385 | れんだいこ | 2008/03/28 21:20 | ||
【れんだいこの道路関連法案処理の緊急提言】 福田首相の提案を見るのに、1・道路特定財源制を廃止し、2・暫定税率の当面維持という内容がどうも腑に落ちない。誰がこれを画策したのだろうか。れんだいこは、提案するなら逆に、1・道路特定財源制の当面維持、2・暫定税率の暫定凍結こそ望ましいものであると思う。つまり、逆提案している事になる。福田首相がよほど識見不足なのだろう、悪智恵を吹き込まれている可能性がある。 各党派の対応を見るのに、国民新党が素晴らしい。れんだいこの読解に誤まりなければ、国民新党が野党で唯一、特定財源制維持を主張していることになる。他の民主党、社民党、共産党は、小泉構造改革の尻馬に乗って、小泉さえ果たせなかった暴挙を野党力で遂行しようとしていることになる。はしなくも、この重要課題で、誰と誰がつるんでいるのか露呈させた事になり興味深い。 民主党よ、小沢よ、聞く耳があるなら聞け。道路財源の一般予算化は拙速することはない。それこそ十分時間をかけ、諮問委員会も受けて審議せよ。それは改憲に対する態度と同様である。それに引き換え、暫定税率は、石油価格の急騰に鑑み暫定的に2年間凍結させればよい。これしも難癖つけて国民の窮状を顧慮しようとしない自民党の対応能力との対応差を引き立て支持を受けるであろう。 民主党よ、小沢よ、聞く耳があるなら聞け。内治主義的な政策の制度疲労にかように精力的に構造改革すると云うのなら、外治主義的な政策の見直しに倍して汗を流せ。軍事防衛、外交、海外援助利権を叩け。原子力もそうだ。こういうところに手をつけず、道路利権だけ槍玉に挙げるのは不正ではないのか。というか、そう操作されているんだなきっと。ということは、小沢よ、お前もか。ということになる。 語呂がよいのでもう一度云っておく。「暫定税率の暫定凍結せよ」。これっきゃない。国民新党よ、こう主張しよう。但し、ガソリン価格が急降下したなら凍結解除できるという風にしておけば良いがな。れんだいこは知恵者だな実に。誰も言わないから、自分で自分を買ってやりたいふふふ。 2008.3.28日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評386 | れんだいこ | 2008/03/30 20:23 | ||
【日本の原子力発電史考】 たまたま有馬哲夫氏の「原発・正力・CIA」を入手し、新たな知識、情報を得た。判断を伴う見立ての部分はれんだいこ独眼流で焼き直し、「原子力発電決別考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/genshiryokuhatudenco.htm原子力発電決別考)の「日本に於ける原子力政策史考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jissen/hansenheiwaco/genshiryokuhatudenco/history.htm)に取り込んだ。 この一連の検証で次のことが判明する。日本への原子力発電敷設が、CIA絡みで意図的故意な政治力で暴力的に持ち込まれている。これに正力と−中曽根コンビが暗躍している。原子力発電が、軍事防衛と宇宙開発の三点セットで持ち込まれている。それは思うに、どれもが大型プラントを伴うものであり、政商には垂涎の事業になっている。利権問題を論うなら、これにメスを入れない利権論は気の抜けたビールのようなものにしかならない。 目下、道路利権の摘発がかまびすしい。が、他の省庁の利権に向かわない、特に原子力、軍事防衛、宇宙開発の三大利権に向かわない旧建設省関連に特化させた摘発運動は為にする謀略的なものではなかろうか。れんだいこはこの間一貫して、その胡散臭さを告発している。 道路特定財源制の歴史的進歩性を否定して、元の木阿弥的一般財源制に戻そうとする与野党一致の翼賛政治の非を警鐘乱打している。こういう動きは臭いと思うべきだ。ところがいけない、かの社共が率先旗振りしており、民主党、自民党小泉派含めてまもなくそれを云い始めたのはうちの方が先だと本家争いしそうな勢いである。 馬鹿ばかしいったらありゃしない。この国はなんで本来の正義が通らず、変な正義ばかりがもてはやされるのだろう。あまりにも不思議で、れんだいこが狂っているのかも知れないと、段々寡黙にならざるを得ない。21世紀がまさか、こんな世の中になるとは思ってもみなんだ。 2008.3.30日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評386 | れんだいこ | 2008/03/31 17:49 | ||
【毎日新聞の「変わるか土建国家論」を排す】 2008.3.31日、毎日新聞3面は、「変わるか土建国家」と題して、こたびの福田首相提案「09年度から道路特定財源を一般財源化する」を支持する記事を載せている。「実現すれば半世紀ぶりの政策転換であり、『土建国家』と言われる政治のありようが変わる可能性がある」とまで評している。 毎日新聞のこの見立ては果たして正論だろうか。毎日新聞のみならずほぼ全マスコミが、「道路特定財源の一般財源化」を目指す提灯記事を書き続けているが、これも一種の報道管制下の一斉同一内容記事なのではなかろうか。れんだいこは、そのように受け止めている。よって断じて受け入れ難い。 同記事は、道路特定財源制が、1954年、田中角栄らの議員立法で始まったことを紹介しながら、この制度の非を重点的に論っている。それが如何に選挙の道具であったかとか、利権の温床であるとか、今や役目を終えたとか、手を替え品を替え論じている。民主党の殊のほか熱心な様を伝え、「一般財源化こそ改革の本質だ」なる前原誠司前代表の弁を紹介している。 毎日新聞がどういう見解を載せるのかは自由であるが、あたうことなら同社内の異論派の記事をも載せれば良いのに、各社とも一本化しているようで、こうして巨大な洗脳記事が垂れ流されている。社共も率先しているので、今や人民大衆は、道路特定財源の一般財源化論洪水の中で暮らしていることになる。ここで敢えて、れんだいこが火中の栗を拾うことにする。 毎日新聞よ、君達は排撃的土建国家論を述べているが、土建国家でどこがオカシイのかその根拠を論じて見よ。まさか、土建屋の風体が3K的であるので自称インテリを認ずる者には汚らしい、それに比べて我らがホワイトカラー族は云々という程度のものではあるまいな。いや、案外この程度のオツムかも知れない。 一体、先生先生と云われる連中の仕事ほど仕事の成果がはっきりせず、仕事の割に高給取りで社会に迷惑をかけているのではないのか。小難しく小賢しいのが特徴で、本質的には、こちらの方が汚いと云うべきではないか。 角栄は、次のように述べている。この言に耳を傾けよ。「私は世界的政治家や総理総裁になって一党をひきいようというような派手な夢や考えは持ちません。私が道路や橋や川や港、土地改良などに力を入れるので一部のかたがたは『田中は土方代議士だ』といわれるが、私は原水爆禁止運動も世界連邦運動も結構だが、『まず足元から』という気持ちであえてこの批判に甘んじておるわけであります」。 角栄は、次のようにも述べている。「人間の一日の行動半径の拡大に比例して国民総生産と国民所得は増大する。地球上の人類の総生産の拡大や所得の拡大は、自らの一日の行動半径に比例する」。 これは、角栄哲学の面目躍如な至言で、その通りではなかろうか。彼は政治家のみならず哲学者、思想家でもあるということになる。 更に、次のようにも述べている。「新しい国土利用というものが何から始まるかといえば、それは交通網の整備と公共投資だ。そこのところを政策として体系的に述べているのが、昭和43年5月に発表された「都市政策大綱」だ。これは私が自民党の都市政策調査会長として1年2ヶ月かけてまとめたものでね、私の「日本列島改造論」の原点であると同時に、その後の歴代政権にとって国土政策の基本憲章となったものだ。 私はこの「都市政策大綱」のなかで、新しい国土利用のカギは交通網の整備、公共投資、とりわけ先行投資であると指摘した。その後の発展はどうかといえば、37万8000平方キロの日本列島は今や新幹線と高速自動車道路網の整備で、時間距離が革命的に短縮されているじゃないか。こういった交通網の整備が、通信網の整備と合わせて日本経済に活力を与え、国民生活を格段に便利にしてきたということは、まさに事実が示しているんだ。だからわたしは、新幹線網をさらに全国に繰り広げ、高速道路のネットワークをさらに細かくすべきだと、そう確信している」。 日本は、角栄のこのような観点に基く指導力で大いに発展した。現在制度疲労しているのは事実であるが、それはそれで解決すればよい。特定財源制を一般財源化すれば解決するなどと云うのは子供騙しではないのか。 れんだいこがなぜ土建国家を支持するのか。それは、土建に象徴される社会基盤整備こそが社会進歩の確実な指標になり、幕末から明治維新以来の内治派系の政策の賜物であるからである。これを支持するのが本来の左派政治である。対比的に外治派は国内整備を重視せず、軍事防衛、対外侵略、国際責任に夢中になる癖がある。これを支持するのを御用政治と云う。 幕末から明治維新以来、この両派が争ってきた。こういう見方が可能なほど、土建国家論の歴史的意味は深い。戦後、田中角栄がこの旗印を鮮明に掲げ、戦後政治を領導した。その政治履歴を見れば驚くほど軍事防衛利権には無縁で、逆に土建政治に重点を置いてきた。その角栄を利権批判するが、ならばこの国のマスコミはなぜ軍事防衛利権に筆を向けないのか。ここにマスコミ的正義のイカガワシサがある。 マスコミは、角栄を利権の元祖元凶視して悪し様に言及するのが常である。しかしこれも、つくられた為にする批判でしかない。角栄は、不要な公共事業には手を出していない。彼が手掛けた事業は大義名分があり、国家百年の計に資するものばかりである。事業資金も適正額であり、割当ても公平であり、見返り献金を強制してはいない。政治に金が要るとするなら、自力調達し、或る時は小佐野辺りから引っ張ってきた。それは、財界のヒモ付きよりはマシという意味で、むしろ健全であった。これが深層の真相である。 その角栄をなぜかくも悪し様に言うのが流行るのか。それは偶然か意図的故意かを詮索せねばならない。これを問うのがマスコミの本来ジャーナル精神であるところ、いかにも安逸に時流に乗ったペンを走らせるのが仕事になっている感がある。最近の紙面の詰まらなさは、これに起因しているように思える。 さて、定番はここに落ち着く。日共式角栄批判、道路利権批判、箱もの行政批判の裏には臭いものが有るというべきではないか。原子力行政の推進論、北方領土での全千島返還論、冤罪批判に向かわず任意な政治責任追及論、著作権強権論これらは皆、現代世界を牛耳る国際金融資本の対日支配計画に裏から通じているのではないのか。れんだいこ研究によればそうなる。 問題は、日共批判にあるのではない。その党中央批判を主眼にしている。党員が党中央の変調ぶりを的確に認識し、こういう執行部を引き摺り下ろし、早く人民大衆の側に立つ共産党へと戻さねばならない。社民党も然りである。れんだいこは、この党の無能さにあきれている。福島も色褪せた。 我々は昔から、政権王手党をつくりださねばならなかった。その為に青写真が必要であった。今はその意欲も見受けられない。能力も無い。落ちるところまで落ちた感がある。 2008.3.30日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評387 | れんだいこ | 2008/04/02 18:58 | ||
【れんだいこの暫定税率の暫定凍結余波ウォッチ】 道路財源の暫定税率の凍結となり、人民大衆は一斉にこの日を歓迎した。れんだいこは早速市街地ウォッチに出かけた。小沢が、民主党の参院選勝利の果実であると誇ったのも無理は無い。そうだ、暫定税率では譲ってはいけない。一般財源化では固執してはいけない。誰か、そう伝えてくれ。 ところが、またしてもマスコミは棹差し続けている。ガソリンスタンドの対応差を混乱と称して、この善政効果の意義を低めようとしている。まさか、人民大衆の当然の賢明な対応を指しているわけではあるまい。そういう報道をせよと、誰かが指示しているに違いない。アナウンサーとかコメンテーターとかの忠勤的なお仕事ぶりが透けて見えて来る。 それにしてもガソリンスタンドの対応差には不可解な事がある。暫定税率が蔵出し時に掛かるので、エンドユーザー販売時点に反映するにはいま少し先ということで、ガソリン価格を下げないスタンドがあるらしいが、すっきりしない。今俄かにではあるが急激な円高である。輸入企業系には神風が吹いていることになる。してみれば、円高効果を利用すればガソリン価格は下がるはずではないのか。新規買い付けが安くなるのだから、蔵出しを急ぐべきではないのか。当然こう動くべきではないのか。 してみれば、ガソリンスタンドの対応差を混乱とばかり報道するより、見切り問題としての対応差として採り上げねばならないのではないのか。この辺りの視点が無いままに徒な報道が為されており、れんだいこには聞くのが不快である。4.1日を期しての一斉値上げも不快である。食物関連は致し方ないとしても、石油関連で云えば円高効果により値上げ見送りがあっても良いのでは無いのか。一斉値上げはオカシイのではないのか。 それにしても、根本的対応策として、資源の自力調達を目指さないと政治ではないのではないのか。れんだいこが信奉する角栄はこれに動いた。動いた為に後にヤラレタとしても、それが政治家の務めではないのか。全ては供給元を一本化させられていることが、「4.1日各社一斉値上げ」の要因ではないのか。本来なら危機管理問題として喧々諤々せねばならないのに、政府与党は何ら手を打つそぶりが無い。テポドンでは直ぐに反応すると云うのに。おかしなことだわ。といつもこいつも詰まらん。 2008.4.2日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評388 | れんだいこ | 2008/04/04 20:06 | ||
【本四架橋財務問題不作為考】 2008.4.4日付毎日新聞1面トップが、「本四架橋利払い1兆円」と題して貴重な情報を提供している。それによると、「本四架橋財務問題」が深刻度を深めつつある。現下の体制的政治がこれを乗り切る処方箋を持っているだろうか。これを考察する。 本四架橋は3ルート有る。東京からするデスク頭脳では3ルート不要論がかまびすしい。しかし、現地では明らかに経済圏が違っており、それぞれが競い合うように陳情し、竣工に漕ぎ着けたという経緯がある。その3ルートとは次の通り。総事業費は計2兆8700億円。 1、瀬戸大橋(岡山県早島町−香川県坂出市間の37.3キロ、1988.4月開通、総事業費6700億円) 2、明石海峡大橋(兵庫県神戸市−淡路市−徳島県鳴門市間の89.0キロ。1985.6月、大鳴門橋開通、1998.4月、明石海峡大橋開通、総事業費1兆4700億円) 3、瀬戸内しまなみ海道(広島県尾道市−愛媛県今治市間の46.6キロ。1999.5月開通、総事業費7300億円)。 建設されたものの通行料金が馬鹿高くて地元民の利用が伸びず、却ってそっぽを向かれている事は衆知の通りである。通行料実績は、相変わらず計画の半分程度で推移しており年630−750億円の横ばい。利払いのための新たな借入金も増え、国は、2001年度から無利子貸付で計2600億円、2003年度から道路特定財源1兆4700億円を投入し支援した。 こうした事情を背景として、2005.10月、本州四国連絡橋公団など道路関係4公団が民営化され日本高速道路機構が設立され、4公団の債務を引き継いだ。小泉政権時代のことである。民営化で何か変わったかと云うと、単にマジック的に機構を変えただけに過ぎない。 その高速道路機構の債務返還機構が、4.5日に最後の本州と四国を結ぶ架橋となった明石海峡大橋の開通10周年を迎え、次のことを明らかにした。2008年当初の債務残高は2兆100億円。うち有利子借入金は1兆7600億円で、毎年250億円から1000億返済する。別に借入金に対する支払利息もあり、今後12年間で年400億円前後支払う。 借入金の完済期限の2050.3月までの42年間に元本利子合計が3兆円必要であり、今後の利子が総額1兆1000億円に上る。同機構は、国と関係自治体10府県市に今後15年間で計1兆2000億円の新たな出資を求めているが各自治体は態度を保留している。 このことから何を窺うべきか。要するに、信じられないことだが政府も与野党も官僚も何も対処策を講ぜず無為に時日を費やしているということだろう。本来ならどうすべきか。れんだいこが提言しておく。 まず、民営化しようがしまいが何の解決策にもならない。このことを申し上げておく。今頃、3ルートが掛け過ぎだった論も何の役にも立たない。掛かった以上は活用しかない。このことも申し上げておく。 かような赤字経営を維持している以上、架橋関係者の給与その他は極限まで節約せねばならない。冗費を削らねばならない。上から手本を示すべきだろう。同時並行的に待望の料金見直しに向かわねばならない。れんだいこは、瀬戸大橋の場合片道1500円、往復3000円にすべしと思っている。そうすれば、讃岐うどんを食いに出かける者も増えよう。四国からどっと繰り出して来よう。こうして経済が活性化するのではなかろうか。回り回って潤うのではなかろうか。他のルートもこれにならえばよい。 現行通行料の3分の1になるが「通行料金3分の1、通行量5倍化」で却って利益が出ると思っている。なぜこうしないのかが解せない。倉敷市長と坂出市長、岡山県と全四国の知事が陳情団を組織しお上りすれば良いのに。宝の持ち腐れほど不経済な事は無い。当局が受け入れないのなら、税金補填の道を閉ざせばよい。日本高速道路機構の連中も、これには参るだろう。ということは、やる気さえあれば必ずできるということになる。 やる気さえあれば出来るのにしないということは、互いがやる気が無いということになる。しからば、このやる気の無さはどこから来るのだろう。ここを議論せねばならないのではなかろうか。こういうやる気の無さ、見て見ぬふりをするところからくる不首尾は他にも幾らでも有ろう。れんだいこは、有効な処方箋の無さが諸病の元だと思っている。有効な処方箋があるのにやらせない者が居るとしたら叩き出す以外に無い。こういう政治的緊張こそが真に望まれているのではなかろうか。 2008.4.4日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評388 | れんだいこ | 2008/04/04 22:05 | ||
【ガソリンスタンドが「円高差益還元セール」しない理由は何か】 逸早くスーパーが「円高差益還元セール」しているのに、ガソリンスタンドが暫定税率暫定凍結にも関わらず、蔵出しがどうのこうのという理由付けで頑迷な旧価格維持しているのはけしからんですねぇ。それを指摘しないマスコミもケシカランですネェ。 経済変動の自然の理がどこかで堰止めされていることになる。ということは、人為的に操作されていると云う事だな。混乱混乱と云うのなら、こっちのほうがよほど混乱だろうに、マスコミは言わないですねえ。いずれにせよ、先の参議院選での民主党圧勝とこたびの米ドル急降下が連中のシナリオ崩したようです。経済は生き物で面白いですネェ。米ドル急降下は何か世界を変えそうな、そんな気がします。 暫定税率暫定凍結戦に勝利せよ。これ我が党のメッセージです。 2008.4.4日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評340 | れんだいこ | 2008/04/05 11:32 | ||
【ストロー効果理論考】 こげぱんさんちわぁ。「ストロー効果論」の紹介有難う。ざっと読むのに、陰気系思考の学者が好みそうな見方のように思います。物事には光りもあれば陰も有る。長所もあれば短所もあるところ、片方だけを突出化させて論うのは平衡感覚を喪失していると考えます。一時、複眼思考という言葉が流行りましたが、あれは正しい。「ストロー効果論」はマイナー思考だと思います。 かって、スーパーの進出に於いてもそのような事が云われ、進出反対運動が組織されました。れんだいこはオカシイと考えております。スーパーは流通革新を担い社会的に大いに貢献したと考えております。その意味で、中内功の功績は大なるものがあります。こういう人が悪し様に云われるのは、れんだいこには堪らない。スーパー進出に反対した自称革新系こそ保守的旧体制的であったと考えております。 時代の要請とか流れに対しては前向きに着手すべきで、その結果の弊害に対しては施策で処方していけば良いと思います。これに反対するのは、車に乗ると事故にあう、だから造るべきでない、乗るべきでない、街へ出ると災難にあう、だから出かけるべきでないという、いわば杞憂論に繋がります。 > 交通網が整備されると、交通基盤の「口」に当たる市町村・地域に経済活動が集中し、「コップ」に当たる市町村・地域の経済活動が逆に衰える現象である。 特に長く細い(=1本の)通り道だけで大量の移動が起き、途中の中継地に移動に伴う経済効果が殆ど無いのを特徴とする。 なんてことを云いだしたらきりがありません。交通網の整備は必要で、動脈静脈を有機的に結合させていけばよい、まずは造らなければ始まらないと考えます。旧来の商店街が影響受けても、新たな生き残り策を考えるところに値打ちがあります。スーパーの進出でへたったところもあれば、競合的に生き延びているところもあります。それが生きた経済だと思います。 「ストロー効果現象」が起こればその原因を調査して適切な手立てすれば良い、行政はこういうところで能力を発揮すべきだと思います。杞憂論からする規制は反動的です。いずれにせよ、だから造るべきでないにはならない、そういう結論にはしてはいけないと思います。「地方への交通網の整備により東京一極集中がさらに進むという皮肉な結果になっている」などと言い出したらきりがありません。暴論でせう。 事例研究での暴論は、あの馬鹿高い通行料金問題を棚上げしたまま論じている事に前提の不正があります。本来の経済効果を発揮させないままに発生した事象を分析しても、本当の効果分析や試算にはなりません。れんだいこはそのように思います。仮に通行料金をもっと値下げしたらとか、他にも幹線道路を造って複合化させたらとかの分析をも行わないと「結論が作られる」ことになります。 いわゆる諮問委員会のレポートにはこの種のものが多く、あらかじめ決まった結論にあわせて報告書を作り、世論誘導に利用する役割を果たしております。俗に言うインチキが多い。れんだいこはそのように思います。「ストロー効果理論」は、学者の説が机上の空論で役に立たない例だと思います。そう云えば、「理屈は後で学者が貨車で積んで来る」とかいう言葉を思い出しました。 2008.4.5日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)