カンテラ時評11(301〜330)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評301 れんだいこ 2007/06/07 15:37
 【松岡自殺?事件報道に見せるマスコミの奇怪】

 れんだいこは、「松岡自殺?事件」に「宮顕の党中央委員小畑査問致死事件」、「ロッキード事件」同様の胡散臭さを感じ取っており、情報収集の為にマスコミ記事に期待していたところ、驚くことにこの種のことに飛びつくはずの週刊現代が記事にさえしていなかった。週刊現代よ、大相撲の八百長問題には精力的なようだが、現役大臣の「自殺?」を取り上げない法はなかろうに。編集長よ、弁明してみよ。週刊ポストは取り上げていたが、「自殺?現場」の状況についての突込みをしていない。その他数多くの週刊誌も、れんだいこが目を通してみた限りに於いてではあるが、「松岡自殺?事件の怪」に触れたものはただ一つ無い。記事はなべて自殺を前提にしての補強情報ばかりである。

 新聞各社は、れんだいこの知る限りではあるが、ただの一社も、松岡農相の死を変死扱いするものはなく、なべて自殺事件として論評している。各政党も然りである。これっておかしくないか。新聞各社論説委員よ、政党声明者よ、事件の自殺処理に何の疑問も湧かさず、自殺報道した論拠を聞かせてくれ。ちなみに、警察発表はどのように出されているのだろうか、それさえ分からない。

 こたびの事件で、小泉前首相秘書官・飯島が妙な形で登場している。れんだいこは、事件実況中継の際にレポーターから飯島が「自殺?現場」に居たと聞いたと記憶するが、その後の報道では画一的に慶応病院へいち早く駆けつけたとされている。れんだいこには確かめようが無いので、れんだいこの聞き違いだったのかどうか明らかにして貰いたい。どちらにしても「飯島工作」が為されたことは疑いないが、前者と後者では重みが違う。そういう意味で確認したいところである。

 もとへ。マスコミの「松岡自殺?事件」に対する自殺認定報道は早過ぎるのではないのか。目下は、自殺か他殺か分からない変死として報ずるべきではないのか。更に事件現場報道の及び腰が歴然としている。これは俗に云う報道管制、報道規制が敷かれていることを物語っているのではないのか。これも叉「飯島工作」の為せる技なのではないのか。

 れんだいこにはこの疑念が持ち上がり止まない。あたかも白昼夢を見せられた気がしてしまう。今や数万人は居よう司法関係者からの声が上がらないのも解せない。彼らは日頃この種の事件の真相解明の専門家ではないのか。誰も疑問を沸かさないようなら余りにも結構な頭脳である。

 野党もええ加減にせんかい。一人気を吐いているのは鈴木宗男である。事件への直接の言及はしていないが、松岡が辞任するもしないも自分の意思だけでは決められないと述べたことを証言している。この間矢面に立たされ続け、こたびの「自殺?」で臭いものに蓋されてしまった。今となっては、「何とか還元水」として計上された経費の行方を追っても空しい。空しくないのは、自殺?現場の徹底検証である。

 野党各党はこれまで松岡農相を根限り追い詰めておきながら、「自殺?」したとなると、何の疑問も湧かさず自殺で済ますのかよ。政治責任上、自殺か他殺か調べるのが筋だろう。現場は結構不自然なのではないのか。何度も繰り返すが、飯島がオカシイのだ。「飯島工作」の全貌を明るみにさせるのが、松岡農相自殺?に対する政治責任となっているのではないのか。この道理が通じないまま何を正義面して云ってもダメ、参院選に勝とうが負けようが全てはお遊びのゲームでしかない。

 こういう時こそ真のジャーナルが欲しいわな。れんだいこ党は目下ただ一人この事件の真相究明を求めて闘っていくことを宣言する。御意の士よ、我が党に列なれ。

 2007.6.7日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評302 れんだいこ 2007/06/10 20:53
 【松岡農相変死事件を風化させない、れんだいこの意地】

 松岡農相が変死で逝ってから2週間経った。この間の事件報道は異常に限られている。メディアの報道もその殆ど全てが、警視庁の自殺断定を何の疑いも無く採用し、自殺説に基づいた周辺情報ばかりである。これを変死とみなして、現場の不可解さに迫る検証記事は皆目見当たらない。恐らくこのまま推移するのだろう。

 れんだいこは、日本は法治主義の国ではないと又もや確認させられる羽目になった。法治主義の国であれば、被疑者の罪状が確定しない限り容疑者であっても犯罪人ではないように、変死事件の場合には現場検証と関係者事情聴取による整合的な見解が出されない限り、自殺とか他殺とかは容易には断定してはいけないと思う。しかるに、警視庁の第一次発表を盲信してか、政府も与党も野党もメディアも司法も何の疑いも無く警視庁発表に従っている。

 人民大衆が井戸端で居酒屋で「事件の不審」を口にしている時、この国の自称インテリたちは「松岡農相自殺説」に何の疑問も湧かさずやり過ごしている。学べば学ぶほど馬鹿になる格好見本を晒している。学問が有益とすれば、その学問を人より多く学んでなお馬鹿ということは、よほど元々がお粗末過ぎるのだろう。こういう手合いが、我が国の上層部を占めている。ということを改めて分からされた。

 れんだいこは、松岡がなぜパジャマ姿で逝ったのか、否逝かされたのかに執拗に拘りたい。事前の墓もうでや、首吊りひもや脚立や遺書など、自殺に見せかけるための小道具に過ぎない可能性がある。この小道具があるだけで自殺を盲信するような頭脳は相当にオツムが弱いと云わざるを得ない。人は覚悟の死を選択する際、ましてや現役の大臣ともなればそれなりの衣装で死ぬとしたもんだ。「パジャマ姿の松岡農相の首吊り死」という無様さに何の疑問も湧かさないとしたら、松岡はホンにかわいそう。

 ましてや、その筋では高名な飯島君が現場(それが病院だろうが)に居るとしたら、それだけでアンテナが作動すべきだろう。飯島の挙動に不審の目を光らせないとしたら、そういう頭脳の手合いは社会の指導的な地位に座すべきではない。目下の政局が何も分かっていないことになる。

 もう一つ考えられることは、今や我が社会が飯島萎縮症に陥っているということか。飯島がそれほどに絶大な独裁権力を握っているということか。彼及び彼を押し立てるネオ・シオニストが、あちこちに指令を飛ばしており、あらゆる業界がひれ伏しているということか。

 この仕組みを打破するためには、飯島を国会へ喚問し、「松岡農相変死事件」に関わる一切を証言させればよい、それだけのことである。それができない、したくない、させない卑怯腰抜けどもばかりが国会に巣食っているということになる。やれ社会保険庁、やれコムスン、やれ北朝鮮、やれ天下り、やれ参院選云々と日替わりメニューで遊んでいるだけのことではないか。

 この連中こそ税金の無駄遣いであり、松岡の何とか還元水の費用を訝るどころの話ではなかろう。この連中に費やしているん兆円を景気対策に使ったほうがなんぼか賢明だろうぜ。

 2007.6.10日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評303 れんだいこ 2007/06/12 11:58
 【松岡農相変死事件を風化させない、れんだいこの意地その2】

 事件後2週目になる今週の週刊現代に目を通してみたが、やはり松岡農相変死事件を記事にしていない。週刊現代はとうとう松岡農相変死事件に対し何一つ記事しない不名誉を飾ることになった。週刊ポストは、先週号で採り上げてはいたが周辺情報であり、今週号では記事にしていない。結局こちらも事件検証しないままに次の話題に転じたことになる。その他週刊誌、月刊誌も同様に、週刊現代の如く採り上げないか、週刊ポストの如くさほど意味の無い関連情報で糊塗するかどちらかの方法でごまかすことになるだろう。

 今や、松岡農相変死事件には報道管制が敷かれていることが露骨に判明する。飯島に手玉に取られていることが判明する。れんだいこは、松岡農相変死事件を各社各党一斉に自殺認定した挙句、事件を封殺せんとするこの動きを近代稀に見る「見識不祥事」と見る。この不祥事は後世語り継がれることになるだろう。これを工作した者、追随した者、不問に下者は応分の責任を負わされるべきである。

 松岡自殺?事件後直ちに概要「松岡農相が臭いものに蓋をして逝ってしまった」とする見解を打ち出したマスコミよ、君たちは子供騙しの言辞で幕引き宣言論評したが、その論評はジャーナル精神の貧困を如実に証している。「松岡農相が臭いものに蓋をして逝ってしまった」が、事件現場には数々の不可解があるとして事件の徹底究明をこそ迫るのが見識ある論評ではないのか。れんだいこの目には、臭いものに蓋をしているのはお主たちではないかと揶揄したい。

 何度も云うが、松岡農相が自殺しようと思えば首吊り以外にもいろんな方法がある。彼はなぜ首吊りを選んだのか、こう疑惑せねばならない。しかもなぜパジャマ姿なのか。そのパジャマは着慣れたものか新調のものか、誰がいつ購入したものか、パジャマに乱れとか血痕はなかったのかを明らかにさせせねばならない。当日午前10時頃まで着ていた背広はどこに行ったのか、部屋にあったのかなかったのかを明らかにさせねばならない。

 本来なら司法解剖すべきであるが、意図的にしないままに荼毘に付された。よって遺体の損傷は分からない。ならば、残された他の要素で解析せねばならない。遺書が自筆のものかどうか、最初の発見時の具体的な様子、既述したパジャマ、背広、首吊り用リード、脚立につきそれぞれを「5W1H」手法で検証せねばならない。れんだいこの見立てるところ、自殺と断定するには不自然さが際立っている。

 マスコミ各社は、最低限以上の確認を経て見解を出すべきだろう。事件後直ちに自殺認定したのはなぜなのか。その後この事件に対し共通して何も語らないのはなぜか。本来なら特集を組んでもよいのではないのか。各政党、議員然り。時の現役大臣変死事件に対しあっけらかん対応で済まして居れる精神の者に政治改革を語る資格はなかろう。手前達にとっては党派は違えども一応は議員仲間であろうが、その死に対してあまりに水臭いと云うか冷淡と云うか薄情であろう。

 れんだいこには、社会保険庁事件もコムスン事件も北朝鮮ボート侵入事件も、松岡農相変死事件を採り上げない為の故意の話題振りな気がしてならない。それらの事件追及で、野党がどんなに力んで政府批判をしようとも何がしかヤラセの田舎芝居の臭いがしてならない。

 このまま推移するなら、れんだいこは参院選を棄権しようと思う。こったら連中に政治をやらせてもろくなもんができやしないから。政治が馬鹿らしい。今からでも遅くない、心ある党派は、事件解明特別委員会の設置を掲げよ。なぜこれを云わないのか。れんだいこ党は、その党と議員に及ばずながらの支持と声援を惜しまない。

 2007.6.12日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評304 れんだいこ 2007/06/13 22:22
 【松岡農相変死事件を風化させない、れんだいこの意地その3】

 2007.5.28日、「松岡農相の議員宿舎変死事件」が発生した。この事件は、松岡農相の変死のみならず、これを報ずるべきメディアが緘口令を敷かれたと理解するしかない報道管制ぶりを見せつけ、二重の意味で変事となった。れんだいこは、「現代世界のマスコミ管制ぶり」を如実に知らされることになったが、これの古典的教本とも云うべき「シオンの議定書」での「言論機関、マスコミに関する記述」を確認したくなった。これについては、「シオンの議定書に見るマスコミ篭絡謀略」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_giteisyoco.htm)で論及しているが、「松岡農相の議員宿舎変死事件」に絡む記述を要点整理してみることにする。

 「プロトコール2」で、ロスチャイルド派が、新聞を始めとするマスコミメディアの効用を見極め、血みどろの戦いで言論機関を掌握してきたことが明かされている。「プロトコール3」で、言論人の性格を「あつかましい向う見ずなジャーナリストと厚顔無恥なパンフレット屋」と評しつつ、これを上手に利用することの必要が語られている。

 「プロトコール7」で、新聞が「言論大砲」的役割を担うことが告げられている。「プロトコール9」で、ロスチャイルド派の世界支配政策に有利なように言論機関を手なずけ、新聞紙法等々の法律で縛り、「我々は新聞に鞍を置き馬勒を付け、しっかりと轡をはませる」とテクニックが披瀝されている。

 「プロトコール12」で、新聞その他出版物に関して、検閲、認可、罰金、発行禁止処分、保証金、免許取消制等々で規制することの必要が指示されている。そして、次のように豪語している。

 一片の記事といえども我々の検閲抜きには公表されることはない。現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められそこから各新聞社、諸官庁に配信されるようになっている。現在ある程度まではそうなっているが、通信社は追って完全に我々の傘下に入り、我々が許可したものだけが供給され一般に公表されるようになるだろう。

 その免許証は何か過失があれば即刻取り消しとなるようにする。こうしておくと、ジャーナリズムがいろんな思想を発表したとしても、我らの政府の意向に添ったものとならざるを得ず、そういう意味で政府による教育手段の一種となるのである。よって、人民が埒もない進歩の白昼夢に憧れることもなくなるだろう。

 課税圧力で思想的作家は尻込みし始め、処罰が恐くて文筆家は我々の軍門に降る。それにも拘らず我々に文筆で抵抗する者が現われたとしても、著作物の印刷を引き受け手がいない。出版社が印刷してくれる前に、出版業者や印刷業者が官憲の許可を得なければならない為である。これによって、我々は我々に対して向けられた奸計をすべて事前に知ることができるので、それが世に現われないうちに先手を売って反駁する。出版阻止することもできる。 (引用以上)


 そして、このように形成された御用機関を、大衆教育と世論操作に利用すべしと云う。特に新聞を重視し、政府系の御用新聞、半官半民の中立新聞、民間の疑似反対新聞の三列を上手く操り、最終的に彼らの思惑通りに利用していくと云う。次のようにも述べている。

 新聞社をコントロールする為、中央新聞局を設け、各社の責任者を寄せて、「問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、見せ掛けの政府政策批判や反対論を唱えさせ、決して核心に迫らせない」。

 我らが新聞軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織しなければならない。中央新聞局という名称のもとに、我々は文筆者の会合を設け、そこに我々の覆面の代理人を送り込み、指令と当日の標語を示す。問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、見せ掛けの政府政策批判や反対論を唱えさせ、決して核心に迫らせない。

 彼らは、政府機関紙とも公然と華々しい論戦をしたりするが、我々が見せかけの一斉射撃を浴びせることで、政府政策のプロパガンダを補足する材料を提供するようになり、政府機関紙が第一報で意を尽くせなかったことを、詳しく補足して報道することになる。

 しかし、これらの方法は必要な場合以外には用いない。新聞の我々に対する攻撃は、新聞がまだ言論の自由を失っていないという印象を大衆に与えるのに役立つ。それは又我らが代理人が、反対者たちは意味のない反対論をぶっている、実のある反対意見をこれっぱかりも示していない、政府政策を批判する本当の根拠が示されていないではないか、我々に反対する機関はみな空騒ぎしているだけではないか、と説きまわる機会を与える。

 我々は、ある時は真実、ある時は虚偽を振りまき、ある時は事実に即して立論し、ある時は反論を掲げたりする。それは大衆にどんな印象を与えようとするのかによって異なり、その為に常に我々が足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べねばならない。(引用以上)


 他にも確認しておきたい内容が多々記述されているが、もういいだろう。問題は、現代言論機関がこの通りになっているのかどうか吟味することであろう。「シオン長老の議定書」を捏造書として批判する前に、中身の確認の方がより大事であろう。れんだいこには、現代マスメディアがこの通りに利用されている気がしてならない。「松岡農相の議員宿舎変死事件緘口令」がこの筋から出され、ものの見事に言論封殺されていることを知らされるばかりである。

 以上の批評はそれだけのことである。何事も批判だけではつまらない、ならばどうすべきかの処方箋まで思いを馳せねばならない。ここにこそ真の能力が要求される。そしてそれを実践して試行錯誤させ次第に高次なものにしていかねばならない。それを思えば、我々の自由自主自律的な言論空間としての和製アルジャジーラ放送局、出版局創設こそ急がれているのではなかろうか。ここに目がいかない政府批判運動は生産的でなく、単なるアリバイ闘争の羅列にしかならない。

 まもなく党派の垣根を越えた共同戦線闘争として実にまさに歴史的な待望の6.15集会が挙行されるが、大きな実りとなりますように。これが、れんだいこの決意表明である。

 2007.6.13日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評305 れんだいこ 2007/06/17 20:30
 【れんだいこの「2007.6.15、9条改憲を許さない6.15共同行動」紀行】

 れんだいこは、「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」以来の3年ぶりの東京デモとなる「9条改憲を許さない6.15共同行動」に参加した。記憶が定かなうちに感想記を書き付けておく。

 「阿修羅」で見たら既に佐藤浩一氏の「9条改憲を許さない6.15共同行動」(ttp://www.asyura2.com/07/kenpo1/msg/554.html)と攝津正・氏の「この爺さんらから眼が離せない〜6・15改憲阻止行動(レイバーネット日本)」(ttp://www.asyura2.com/07/kenpo1/msg/555.html)が発表されているので、式次第はそれを参照していただくとして、れんだいこの個人的な感慨を中心に述べておく。

 5月頃の去る日、「紙の爆弾」の元編集長・松岡氏よりデモの案内を受けた。呼びかけ人になることも含めてのお知らせだった。その意義を知るれんだいこは、集会への参加を直ちに決めた。呼びかけ人について目を通すと、みんな名の聞こえたつわものであった。今となっては別に臆することは無いが、みんなが恐らく本名で呼びかけているように思えたので、れんだいこ名でしか登録する気のないれんだいこは、とりあえず集会参加だけとした。

 当日前、「真相の深層」編集長の木村先輩にメールを入れ対面を申し込んだ。木村先輩とは、「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」で会おうとして会えなかった経緯がある。松岡さんにも必ず行くから二次会も含めてよしなにとのメールを入れておいた。

 さて当日、早めに起きて新幹線に乗った。日比谷公園は既に馴染みなのでまごつくことはなかった。寄り道での用事を済ませて向かうと2時半、まだ誰も居ない。売店でアイスキャンディーを買い、のどを潤していた。3時半頃、松岡さんから電話が入ってきた。既に着いていますよと応えたところ、4時に衆議院議員第2会館に集まり会議をする予定になっているとのことだった。木村先輩との待ち合わせが気になったが、確か呼びかけ人になっているのでそちらへ行っているかも知れないと判断し、了解と返答した。タクシーで乗り付けた。

 松岡さんはまだ来ておらず、まだ何人かが居ただけだった。後で分かったが、既に宣伝リレーウォーク隊があちこちに分散して情宣活動を行っており、皆歩いて帰還中とのことだった。受付で名簿に記すようになっており、少し躊躇したがれんだいこと署名した。幹部席のどなたとも面識が無いので挨拶するのをためらい、入り口付近の後ろ席に坐って待った。暫くして宣伝リレーウォーク隊が続々登場してきた。二階の会議室の部屋はほぼ満席となった。松岡さんも来たので、短い挨拶をした後、隣り合わせに坐った。木村先輩は来ていない。やはり野音だったかと反省したが腹を決めた。

 4時過ぎ会議が始まった。司会者の開会挨拶に続いて活動報告が為された。3.20日〜5.2 日にかけての改憲手続法に対する国会前の連続ハンスト・座り込み闘争の成果が情熱的に語られた。続いて宣伝リレーウォーク隊がビラまきの手ごたえを報告しあった。次に、遠方からの参加者紹介として北海道の方、九州の方、関西の方の挨拶があった。

 れんだいこは、こういう時には恥ずかしがり屋なので発言の番が回ってこなくて良かったと安堵していたら、中国地方の方が居られましたので紹介しますとれんだいこを指名した。こりゃ困ったと思いながらもスクっと半身立ちで立ち上がり、手短く挨拶した。坐ってから、もう少しれんだいこ節でご挨拶しても良かったかなとか、半立ちでなく背筋を伸ばして意見表明したかったなとか思ったが、もう後の祭りだ。

 続いて他の方が報告した後、階下のロビーに集まり、代表が社民党の保坂議員に請願書を渡した。保坂議員の国政報告の後、国会議事堂南通用門へ向かい、樺美智子さんの追悼集会を行った。どなたかが気合のこもった追悼文を読み上げた。そこから五月雨式に日比谷公園へ向かった。

 野外音楽堂の会場に着くと、若者のプロテスト音楽が奏でられていた。適当に坐っていると、党派の情宣活動が行われているらしいマイク音が聞こえてきた。こういうことに興味のあるれんだいこは松岡さんを誘い向かった。おぅおぅいろんな方がビラ配ってらぁ。中核派が機関紙前進掲げて販売していた。天木グループが演説していた。よく見ようと反対側に回って眺めていたら、後ろに居るのは刑事さんばかりだよと云われ、こりゃ具合が悪いと少し前に出て耳を傾けた。

 適当に見切りをつけ、会場に向かった。両脇のビラ攻勢の垣根を潜りながら前の方へ坐った。100万人署名のノボリが立っていたが、目が悪いから前の方がいいという理由でそのまま居座った。そうこうしているうち松岡さんの友人達も来た。さて、集会が始まった。空席部分もあったが、ほぼ千人を超えているようだった。後で司会者発表1200名を聞かされたが実数だと思った。何事も正直がいいわな。開会挨拶、基調報告、各界代表の挨拶が続いた。これを記せばきりが無いので割愛する。

 いずれにせよ、党派の垣根を越えて、有り得そうで有り得なかった小異を捨てて大同につく共同戦線集会が挙行された。日本左派運動は、この意義に気づくまで60年安保から数えて50年にならんとしている。遅まきながらこれが実現したことになる。れんだいこのカオス思想理論と合うので、待ち望んでいたところだ。これを牽引したのが60年安保世代で、小川さんとか蔵田さんとかが取りまとめ役になっているらしい。ここまで漕ぎ着けるのも大変だっただろうけど頑張っているわな。

 ほぼ2時間後、デモに向かうことになった。坐った位置で第一艇団と第二艇団に分かれ、我々は第二艇団に入った。第二艇団は中核派系だった。こりゃぁちょっと具合が悪いと云うので辞去して、第一艇団に移った。デモに移る前に簡単な替え歌の練習とシュプレヒコールの打ち合わせをした。

 こうしてデモに移った。れんだいこは、会場で売られていたミニメガホンを手にして首にかけてデモに移った。日比谷公園から銀座通りを越して東京駅の先の公園までウォーキングデモをした。れんだいこは、銀座の夜景を楽しみながら、見られているのか見ているのかどちらでもいいや、俺はシュプレヒコールするんだと時に腕を突き出しながらデモった。次第に乗ってきた。

 銀座過ぎた頃、れんだいこは気づいた。れんだいこより一回り歳の多い60年安保世代即ち70歳前後の連中が全くヘタらずにデモを貫徹していることに。連中はよほど養生が良いのか、若い時からデモで鍛えてきたのか元気が良い。そういうことを考えると可笑しくなった。いずれにしてもデモは最高の健康法である。歩いて声を出し腕を振り上げつつ進むというこのトレーニングは絶対健康に良いわなと。こうなりゃ、だれかれ構わずにデモに参加しませんかと声をかけるのも親切だわな。

 案外と女性が多いことにも感心させられた。当時のお嬢さんが、道中いろいろあったのだろうに荒波を乗り越えて、今も変わらずデモの半分を支えていることにたまげた。否、何事も粘り強いのは女性だからなぁ、ほんに天地の半分を支えあっているんだなぁと改めて感慨した。

 デモを貫徹して、第二艇団のデモを迎え入れて、連中の太鼓とドラのリズムを聞いた。おぅおぅ3年前はたまたまこの連中の後ろで足並みを揃えたんだ、とか思い出した。こうして集会を後にして松岡グループと二次会に向かった。映画監督グループ3名と松岡さんとれんだいこの5名で居酒屋に入り、料理が結構うまかったので話と共に舌鼓を打った。来てよかった、叉来るぞと思った。皆さんもご苦労さんでした。楽しかったですね。ここまで漕ぎ着けた縁の下の力持ちさん有難う。

 2007.6.17日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評306 れんだいこ 2007/06/22 19:32
 【日本左派運動の致命的誤り考】

 れんだいこは、日本左派運動の致命的な誤りに気づき始めた。今日かっての隆盛に比して落ちるところまで落ちた感のある日本左派運動であるが、この致命的な誤りに気づかない以上は仕方ない、否むしろ日本左派運動が下手に革命に成功しなくて良かったと思っている。以下、これを記しておく。

 とここまで書いたがお座敷からお呼びが掛かった。れんだいこは何を訴えようとしているのだろう。今日一日更に推敲したい。

 2007.6.22日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評306 れんだいこ 2007/06/23 21:18
 【日本左派運動の致命的誤り考】

 れんだいこは、学生運動も含め日本左派運動の致命的な誤りに気づいている。今日かっての隆盛に比して落ちるところまで落ちた感のある日本左派運動であるが、この致命的な誤りに気づかない以上は仕方ない、否むしろ日本左派運動が下手に革命に成功しなくて良かったと思っている。以下、これを記しておく。

 こういう場合はいきなり結論を書いた方がよい。日本左派運動の致命的な誤りは、西欧史の今では世界史の真の抗争軸に無知過ぎることにある。真の抗争軸は経文的な階級闘争にあるのではない。それははるか長期の視野に立てばそうであるかのように概括できるというだけで、実践的には殆ど何の意味も無い。

 眼前の喫急焦眉の真の闘争は、ユダヤ的ネオ・シオニズムと諸々の在地権力の植民地化されるか主権を維持するかの闘争である。日本左派運動はこのことを認識していない。日本左派運動はこれまでも今も、歴史上もっとも危険で悪質残虐非道なネオ・シオニズムに対して何の見識も持ち合わせていないという無防備な状態にある。ネオ・シオニズムとの闘争の重大性に比較すれば、国内的な利害闘争は従たるものでしかない。

 れんだいこがなぜこのことを訴えるかというと、ここを理解しないと、現下の政治闘争、経済闘争、文化闘争の抗争軸がみえてこないからである。抗争軸の見えていない中で正義運動してみても、足元をすくわれてしまう。それは悲劇であり喜劇になる。今我々が闘う対象は、ネオ・シオニズムの日本溶解政治に対してであり、日本植民地化に対してであり、日本傭兵化に対してである。これらは皆ネオ・シオニズムが意図的に策動しているところのものであり、我々は己を知り敵を知り正しく対処せねばならない。改憲は当然この狙いから導かれているものである。

 ところで、ネオ・シオニズムというのはれんだいこの造語である。世上のネオ云々用語に模して使っている。ネオ・シオニズムをより正確に規定すると、18世紀後半にロスチャイルド1世の秘密講義録を元にして作られた「シオン長老議定書」マニュフェストに基づくユダヤ教現代パリサイ派即ちロスチャイルド派の世界支配運動であり、それはサタニズムとシオニズム運動を特質とするということになる。

 世上では、陰謀主義についてマキャベリズム、ユダヤ人迫害及び世界征服思想についてナチズム、強権的統制的大衆運動についてファシズムをもって代名詞としており、左派圏内では議論の余地無く悪いものである。が、れんだいこの見るところネオ・シオニズムこそ近代史以降のあらゆる悪行の本家本元であり源泉であるように見える。これらの悪行は全てネオ・シオニズムの内に胚胎しており、現に今もなお至るところで確認することができる。彼らは、陰謀、金融支配、テロリズム、暗殺、拷問、虐待、差別、収奪、奴隷、規制等々あらゆる手段を駆使しており、事故に都合のよいような動乱、革命を引き起こし、反対の場合には情け容赦ない強権弾圧をお見舞いしている。

 にも拘らず、世上ではネオ・シオニズム批判を声高にせず、マキャベリズム、ナチズム、ファシズム、スターリニズム、テロリズムその他その他を造語してそれの批判に向かっている。なぜこういうことが起こるのかと云うと、現代世界を牛耳っているのがネオ・シオニズムであり、彼らが情報コントロールしているせいである。その為に彼らはメディア戦略を重視する。今ではいわゆる先進国のメディアは総じて彼らの支配下に有り、彼らが欲することは大々的に喧伝し、批判し、不都合なことは隠蔽する。最近の松岡農相変死事件の自殺認定、事件隠しはこれの為せる技であろう。恐らく不都合な何かがあった筈だ。

 日本左派運動は、世界の左派運動も含めて、このネオ・シオニズムのコントロール下にある。日本左派運動が、明治民権運動の頓挫以来乗り換えたマルキシズムにしても、ネオ・シオニズムのコントロール下で創造され運動展開されてきた気配が認められる。日本左派運動は、このことを知らなさ過ぎる。敢えて云えば、マルキシズムは、ネオ・シオニズム左派のようなもので、ネオコンは逆にネオ・シオニズム右派に位置する。マルキシズムとネオコンは左派右派の違いが有るが同じ土俵に乗っている。

 マルクス自身がこのことをどこまで承知していたのかは分からない。但し、かの階級闘争論、史的唯物論のものの見方考え方は明らかにパリサイ派のものであり、その観点から近代的諸科学の成果を吸収して理論化したものである。違いを見つけるとすれば、パリサイ派のそれがユダヤ教的選民主義に立脚しているのに対し、マルクスのそれはその狭い枠組みから抜け出ようとしていることにある。しかし、マルクスは、実践局面に入ると露骨にセクト主義に陥ったし、排他独善的であった。我々はそろそろこういうことを客観相対化せねばならないだろう。

 そういう目で見ると、マルキシズムの国際主義が、ネオ・シオニズムの「シオン長老議定書」マニュフェストに基づくワン・ワールド思想に帰一していることに気づかされる。マルキシズム国際主義インターナショナルは、コミンテルン、コミンフォルムを生み出したが、盟主ソ連に拝跪する統制運動に堕し、それは各国各地の在地主義的左派運動の創出と発展に重大な損失を与えた。

 我々は未だその被害を直視し得ていない。つまり、西欧被れから抜け出ていないように見える。「西欧被れ」とは、西欧に通暁することを否定しているのではない。西欧に大いに通暁すべし、されども西欧の価値基準を良しとする勿れという意味である。ちなみに、この場合の西欧とは、ユダヤ的という意味で使っている。今日今なお「西欧被れ」から抜け出ていないように思われる。というか現代パリサイ派の思惟様式がますます汚染しつつあるというべきか。

 なぜこれを発信するのか。我々の闘う真の敵を見定めたい為である。ここが疎かにされていると思うからである。とりあえず以上ことを発信しておく。

 2007.6.23日 れんだいこ拝

階級闘争は現実です パルタ 2007/06/24 14:22
 階級闘争はマルクス以前から日本でも、中国でも、欧州でもありました。そして、それは現在の日本、中国、中南米の現実でもあります。今日権力を握っているのは資本家以外の何者でもありません。そして、人は本に書かれた理論を知った時ではなく、生活出来ずに切羽詰まった時に高利貸しや役人、地主、殺人警官、反動軍人と闘うのです。現在再び若者の間で労働運動が復活したのは食えないからです。しかし、現在の日本のかなりの企業経営者、官僚、政治家が全てロス派の意向で動いているのも事実でしょう。ロスやロックが資本家そのものであったとしても。

 中国には階級闘争が必要だったし、今も必要です。しかし、何故結局中国もユーゴもロス派に都合の良い結果にしかなってないのかは考える必要はあると思います。何故中国で共産党が政権を取ったにも関わらず、今日に至るまで中国の労働者は生み出した富を軍閥と財閥と官僚に全て吸い取られて負け続けねばならなかったのか、何故日本の労働者は90年代以降悪化しているのか、貴方の論の中に鍵があるのかも知れないと思ってます。

Re:階級闘争は現実です れんだいこ 2007/06/24 19:56
 パルタさんちわぁ。早速のレス有難うございます。階級闘争についですが、れんだいこは階級闘争論を満展開するつもりはありません。歴史を長い通史で見れば、マルクス主義的な階級闘争論で整理できるかとは思います。しかし、歴史その時の実態は、為政者と被支配者の支配の在り方を廻る調整と闘争であり、ことさら階級闘争論を持ち出す必要は無いと考えております。歴史は日々の調整と闘争による漸次的変化の連続であり、但し、時代の大きな変わり目に於いて為政者が無能力を呈した場合に回天運動なり革命が必要で、歴史は実際にそのように変化してきたと了解しております。

 資本家論についてもマルクス的理解に疑問を感じております。実際には、資本家といっても大手企業と中小零細企業とでは性格が異なっていると思います。経営者を資本家で括るのは飛躍しすぎで、絵に描いたようなワルというのは実際には居ないのではないでせうか。いずれにせよ、度の外れた収奪をしている場合には企業は長続きしておらず、それぞれ社の理念を掲げ、それなりの社会的貢献をしていることで存続しているのではないでせうか。伝統的な日本式経営に従う場合、所得格差もそれほど酷いものではありません。

 収奪丸出しの資本家と云うのは、考えてみると、戦前の財閥然り、昨今のハゲタカ経営然りで皆ネオ・シオニズム系の息がかかっております。彼らは世界を植民地化させ、抵抗者を根こそぎ殺戮し、在地の文化文明を滅ぼしてきました。先進国の場合、彼らは在地の政府と結託し、権力の甘い蜜を吸い、我さえ良ければ式の根こそぎ収奪を体質としております。彼らの処世観には、富むか奴隷となるか、やるかやられるか、やられたら徹底的にやり返すの二元法しかありません。その昔、イエスが激しく弾劾したのも正論でせう。

 彼らは昔から金融と軍事利権に絡んでおり、株と戦争でボロ儲けしております。石油、原子力その他資源独占もお手のもののようです。れんだいこ的には資本主義、資本家が悪いのではなく、ネオ・シオニズム的資本主義、資本家への捻じ曲げが悪いということになります。両者は質が違うのではないでせうか。これを区別せずに論ずると真相が見えてこないのではと思います。その点、このように分析しないマルキシズムと云うのは理論が粗い、そう思います。

 現在我々がますます食えなくなっているのは、為政者がハト派からタカ派へ転換して以来です。ハト派時代の日本は、経済成長を図りつつ他方で世にも珍しい国民全般の生活保全に留意し社会保障、年金を整備しております。国際的にも協調と経済援助を行っております。今日から振り返れば善政を敷いていたと云えるのではないでせうか。不思議なことに、れんだいこも含めてその頃は政府批判ばかりしていた。1970年の頃はベトナム反戦運動が有り、れんだいこの抗議ももっぱらこの方面から来る正義運動、それに関連するプロテストだったと思い直しております。

 1970年代にハト派の絶頂期を演出した角栄−大平同盟がキッシンジャー戦略により鉄槌をくらわされ、1980年代より今日に至る中曽根−小泉同盟によるタカ派政治が始まることにより、善政時代の基盤が構造改革と云う名に於いて全て壊されつつある。こういう時には我々は怒らなければならないのに、逼塞させられている。皮肉なものです。

> 中国には階級闘争が必要だったし、今も必要です。しかし、何故結局中国もユーゴもロス派に都合の良い結果にしかなってないのかは考える必要はあると思います。何故中国で共産党が政権を取ったにも関わらず、今日に至るまで中国の労働者は生み出した富を軍閥と財閥と官僚に全て吸い取られて負け続けねばならなかったのか、

 中国は文革で敗北し、ネオ・シオニズム走資派のケ小平が実権を握って以来、元の木阿弥に戻ったと見立てております。文革は反省せねばならない点が多々有りますが、ケ小平派の観点から見直す理由は何もないと考えております。今日日本に流布されているのはこの観点からのものばかりです。中国は旧文革派が理論を獲得すればいずれ内乱必至でせう。

> 何故日本の労働者は90年代以降悪化しているのか、貴方の論の中に鍵があるのかも知れないと思ってます。

 有難うございます。れんだいこ的には、マルクス主義をよく学び、叡智を寄せて出藍しなければならないと考えております。但し、学ぼうにもあの程度の訳本では理解できないと思います。それほど狡知な手が入っていると見立てております。れんだいこ訳の「共産主義者宣言」が読まれることを願っております。市井本は肝心なところの訳が曲げられており、分かりにくくされております。れんだいこはそれを見つけて正訳にしております。あんまり注目されないんだけれども。とかなんとかでまた。

 2007.6.24日 れんだいこ拝

田中角栄元首相についての質問 松本哲 2007/06/25 18:00
 党首が田中氏について研究しているので、今日とても気になる投稿が阿修羅にありました。
 *ttp://www.asyura2.com/07/idletalk22/msg/314.html
私も田中角栄氏については、今考えると小泉・安倍政権の新自由主義などと異なってとてもいい政策だったと思っています。上記の投稿についてなるほどと思える記事なのでどのように思われるのか教えてください。

Re:田中角栄元首相についての質問 れんだいこ 2007/06/25 20:40
 たすけあい党官房長官松本さんちわぁ。ご紹介のサイト素読致しました。全体として、れんだいこ見解と一致しております、しかし見逃せない違いが有ります。その箇所を中心に論じてみます。これが「石工の都仙臺市」氏自身の論なのかどうか分かりませんが、仮にA氏と致します。

 角栄が珍しい民族派であったとのこと合点です。れんだいこは民族派と云うより、日本古代史上の最大のミステリーであります出雲王朝派と大和王朝派の抗争軸の中で、出雲派の大国主の命の系譜の人と見立てております。秘書の早坂氏はスサノウの命と見立てておりますが、大国主の命と見立てたほうがより近いと思っております。確かに現代版大国主の命でした。

 毎日新聞社編輯局顧問の岩見隆夫についですが、角栄を褒めたりけなしたり忙しい器用な御仁です。れんだいこは、小泉を持ち上げたその感性からして好きで有りませんが、角栄に関することをリークするので無視も出来ません。痛し痒しという按配です。

 角栄の首相就任が、「サクラメンテの怪會談」を経てのそもそもの罠だったと見立てておりますが、それは深読みし過ぎでせう。「ロッキード事件を仕掛ける爲に田中角榮は其れとも知らず首相への階段(絞首階段)を上つたのである」とは思いません。「田中が日本政治の人身御供であつた事は間違ひない」にしても、首相就任そのものが罠とはこれいかに。

 角栄は戦後保守本流を形成していた当時のハト派の大知能者であり、公然と権力闘争を仕掛け、ネオ・シオニズム系の福田を破り権力を掌中にしたという快挙をそのまま受け止めればよいと思います。しかし、これをユダヤが許さなかった、これ以上角栄に権力を握らせると日本がコントロールできなくなるために倒しに掛かったということでせう。

 1975.12月の猶太長老會議(ブナイブリス)の重要會議の件、勉強になりました。早速これを取り入れておきます。こういうことは知らされるほどにうれしいです。為になります。

 角栄と原子力ウランの調達活動ですが、これは事実です。しかし、角栄の政治歴の汚点ではなかったか。恐らく、当時の外務省高官の罠にはめられたと思っております。外務省は油断なりません。日本の国益の為に働くよりは、ロス派の手下でせう。角栄は元々ウランには興味を持っておりません。水力発電、火力発電どまりの見識であり、環境適合型のそれを考えております。ウランに向かったのは乗せられ、そうでなくても危ないのに余計に危なくしてしまった。

 角栄が「汎亞細亞主義的革命思想を内在してゐた」というのは事実で、日中国交回復交渉時の毛沢東−周恩来との秘密会談では、恐らく未だに開示されない高度なやり取りがあったものと思われます。特に、ネオ・シオニズムの世界席巻にどう立ち向かうのかという世界史的テーマでの智恵のやり取りが為されたと見立てております。

 ネオ・シオニズム派のロッキード事件仕掛けについて、「黨人派の田中角榮、中曾根などの系列は切り捨てる」とありますが、この見立てにより、この人は何も分かっていないことが分かります。角栄と中曽根は、イデオロギー上の天敵です。中曽根を民族派と見立てるのは無茶です。両者は大人の付き合いをしましたが、地下では熾烈な暗闘をし続けており、国内問題的には角栄が圧勝したが、ネオ・シオニズムの力により中曽根が政権をもぎとったと見立てるべきてでせう。中曽根の国粋主義は云ってみるだけのウソですよ。

 ニクソン大統領についてですが、アメリカの大統領史上珍しい非ネオ・シオニストですね。キッシンジャーを取り込むことにより辛うじて政権維持されていたのでせうが、やはりユダヤにやられた。ウォーターゲート事件の真相が最近漏洩されつつありますが、汚い手でやられたことがはっきりしました。日本のマスコミが、アメリカジャーナルのウォーターゲート事件摘発を手本にロッキード事件で騒ぎましたが、お粗末過ぎる。基本的におつむが弱いんだこの手合いは。

 「猶太はロッキード事件によつて田中や兒玉、小佐野と云つた日本の民族派を破壞する事に成功した」したとあるのもオカシイ。小佐野と角栄は同盟を組んでおり、児玉は中曽根派と同盟を組んでおりますが、両者は対立しており、接点は有りません。小佐野と児玉は辛うじて有りますが、それは交渉レベルであり仲間では有りません。児玉はA級戦犯で巣鴨要入りしてから向こうのエージェントになっておりますね。岸も。だから無事出られたのでは有りませんか。

 等々が感想です。

 2007.6.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評307 れんだいこ 2007/06/26 20:50
 【松岡農相変死事件を風化させない、れんだいこの意地その4、コロンボ刑事を呼んでくれ】

 2007.6.26日付けZAKZAKが、めっきり少ない中で松岡農相変死事件関連の情報を提供している。(ttp://www.zakzak.co.jp/top/2007_06/t2007062621.html)

「なんでこうなるのか…松岡前農水相“最期”の言葉 死の4日前、霊能者下ヨシ子さんにポツリ」と題して、夕刊フジの取材を転載している。下(しも)ヨシ子(55)氏は、熊本で六字明王を本尊に持つ修験真言宗の一派の六水院管長で霊能者らしい。昨年3月に初対面、それ以来昵懇な関係らしい。

 昨年9月の安倍内閣の誕生時に、松岡入閣を霊能したとの事である。今年3月には、事務所経費問題などで追及を受けていた最中に松岡氏から「毎日、毎日お騒がせしています」と電話があったが、「運勢は変わらず強いです。今後どうしていこうか、という気持ちが大切です」と励ましていた、とのことである。

 松岡氏と最後の会話を交わしたのは命を絶つ4日前の夜で、松岡は、「“なんでこうなるのか”とポツンとおっしゃられたんです。ここで気付いてあげればよかった」。下さんは今も熊本の本院で松岡氏の供養を続けている云々。

 何のことは無い。松岡農相自殺説を補強しているだけのことであった。しかし、松岡農相変死が真相とすると、この霊能者の霊能力もたいしたことはないという事になる。松岡農相変死に拘るれんだいこの方がよほど霊能があるということになる。こうなると、コロンボ刑事を呼び寄せ、丹念な調査をお願いするしかない。コロンボ刑事なら、トリックなら見破ろう。真実の自殺なら、その要因を嗅ぎつけよう。どなたか、コロンボ刑事を呼んでくれ。れんだいこが相談したいから。

 ちなみに、れんだいこはこういう気分だ。

 第22回参院選挙が2007.7.29日と決まった。自公対民主連合の政権盗り大手戦争の感が有り滅法面白い。しかし、れんだいこは敢えて冷ややかである。何となれば、先の松岡農相変死事件に対して、既成党派のどこも議員の誰一人として調査を呼びかけていないからである。時の現役大臣の変死に対してかくも無関心な政治屋野郎の政争に乗せられる手は無い。

 今からでも遅くない。どこの政党か議員でも良い。それはそうと松岡農相自殺?事件のその後の捜査はどうなっているのか疑問を投ぜよ。さすれば、れんだいこはれんだいこ党を率いて馳せ参ずる。それが自民党ならそれも結構だ。それほど重大視するのがれんだいこ史観である。

 この認識を共有できない政治貴族の政争ゲームに加担するつもりは無い。天木氏よ、あなたでも良い、とにかく疑問を提起してくれ。あなたの命が狙われた時、自殺でもないのに自殺処理されたらかなわんでせうが。他人事ではないはずだ。それにしても元警視庁長官の亀井がこれを云わないのが解せない。お前ならとことん情報を寄せることが出来ように。捜査の仕方が明らかにオカシイのではないのか。この問題が解決しない限り、れんだいこの22回参院選は滅法興味が薄くなっている。

 2007.6.26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評308 れんだいこ 2007/06/28 21:48
 2007.6.27日、 米下院外交委員会は、第二次世界大戦中の慰安婦問題をめぐり日本政府に公式な謝罪などを求める決議案を39対2の賛成多数で可決した。本会議でも可決される勢いである。我々はこれをどう受け止めるべきか。中には既にケッタイな受け取り方をしているようである。

 いわゆる歴史認識になるが、我々は、米国議会の動きに快哉を送るべきなのだろうか。今この問題を解くとしたら、れんだいこ史観に拠らざるを得まい。政治的な動きには何事も裏がある。この問題が執拗に策動されている裏には、安部政権へのユスリがあると窺うべきだろう。万事イエスマンの小泉政権時代には起こらなかったことを思えば、安部政権は何かユスラレテイルと知るべきではなかろうか。

 改憲派の安部政権がユスラれようと知ったことではないとするのも一見識ではある。しかし、「いわゆる国際歴史認識に従え」合唱となると、れんだいこはちょっと待てよと云いたくなる。仮に戦争に従軍慰安婦制度を伴うのが良くないと道徳的に了解するとしても、手前達にそったらこと云う権利があるのかよと言い返したくなる。近代から現代史の過程での悪逆非道、現に今パレスチナ、イラクでやり続けている手前達に資格があるのかよ。せめてグアンタナモ収容所の虜囚虐待を止めてから云いたまえ。

 結論は、南京大虐殺事件然り、百人斬り事件然り、従軍慰安婦問題然りで、何事も史実に沿わねばならない。靖国神社問題も入れても良い。薄っぺらなサヨ派は、万事「いわゆる国際歴史認識」に合唱しているだけではないのか。ついでにホロコースト、アンネの日記、シオン長老の議定書について見解を披瀝させてみればよい。同じような「いわゆる国際歴史認識」を聞かされることになるだろう。要するに、ネオ・シオニズムテキストの通りに口をパクパクさせているだけなのではないのか。

 こう書きながら思った。この問題で、産経、読売新聞はどういう社説を出すのだろう。安倍のみがユスラれているのではない。いわゆる国粋主義が「いわゆる国際歴史認識」に従うよう要請されているので、本質的にネオ・シオニズムのお先棒を担いで改憲論を説いているに過ぎない産経、読売新聞の二枚舌が一枚舌に変わる瞬間が見られそうだ。

 日々生起する政治闘争は、階級闘争論では解けないことが多い。しかし、ネオ・シオニズム史観で透視すれば容易に見えてくる。ネオ・シオニズム派は、安部政権に対し、更なる飛躍更なる屈服の何事かを要求している。あるいは小泉的なるものに引き戻そうとして政権瓦解を企てている。新たな要求が何であるかは、安部政権が更にイエスした瞬間から、あるいは暫くしてから見えてこよう。

 我々は、こういう裏事情に関心を持つべきで、米国議会が日本の国会に代わって第二次世界大戦中の慰安婦問題で日本政府に謝罪させようとしていることを喜ぶべきではない。それは余りに卑屈だ。安倍よ、良い智恵をつけてやろう。今からでも良い、松岡農相変死事件の真相解明に着手すべきで、真相を明らかにさせ、関係者を一網打尽にすれば良い。やるかやられるか勝負に出ればよい。すきっとするがな。

 それにしても、ネオ・シオニズム派になりきるというのは難しいことだな。次から次へと御用聞きさせられ廃人になるまで利用される。元へ戻って、出世と権力を引き換えに魂を売るべきではないということになるな。我々は幸せだ。

 2007.6.28日 れんだいこ拝

Re:田中角栄元首相についての質問 こげぱん 2007/07/01 19:37
 れんだいこさん、ごぶさたです

>これが「石工の都仙臺市」氏自身の論なのかどうか分かりませんが、仮にA氏と致します。

これは「石工の都仙臺市」氏自身の論というより、1977年に出版された故・倉前盛通教授の「悪の論理」という傑作に書いてあったことが元ネタでしょう。私はこの本を15年位前に神田にて100円均一で仕入れて、一時期バイブルとして読み込んだので内容は大体覚えています。その中に「スキャンダルの政治学」という一節があり、「戦前のシーメンス事件は(海軍の重鎮)山本権兵衛首相追い落としのためカイゼルが仕組んだ。ロッキード、ウォーターゲートは角栄、ニクソン追い落としのためアメリカの影の帝王が仕組んだ」といった、当時としては斬新な記述がありました。ただし「サクラメンテの怪會談」や、「ロッキード事件を仕掛ける爲に田中角榮は其れとも知らず首相への階段(絞首階段)を上つたのである」という記述はなかったように思います。


>  角栄と原子力ウランの調達活動ですが、これは事実です。しかし、角栄の政治歴の汚点ではなかったか。恐らく、当時の外務省高官の罠にはめられたと思っております。外務省は油断なりません。日本の国益の為に働くよりは、ロス派の手下でせう。角栄は元々ウランには興味を持っておりません。水力発電、火力発電どまりの見識であり、環境適合型のそれを考えております。ウランに向かったのは乗せられ、そうでなくても危ないのに余計に危なくしてしまった。

この点はどうでしょうか。今日日本ではウランが危険なのは(度重なる地震などで)周知になってますが、当時の情勢を考えればオーストラリアのウランでエネルギー自立、という発想があったとしてもおかしくはないように思えます(ただし私は角栄首相時代は全く記憶にありませんので、この点は断言できません)。

そういえば角栄は結局NPT条約を批准せず、おっちょこちょいの後継者がええかっこして批准したように記憶してますが、この点からも角栄はウランの欧米独占に何がしかの危機意識を持っていたように思えます。


>  ネオ・シオニズム派のロッキード事件仕掛けについて、「黨人派の田中角榮、中曾根などの系列は切り捨てる」とありますが、この見立てにより、この人は何も分かっていないことが分かります。角栄と中曽根は、イデオロギー上の天敵です。中曽根を民族派と見立てるのは無茶です。両者は大人の付き合いをしましたが、地下では熾烈な暗闘をし続けており、国内問題的には角栄が圧勝したが、ネオ・シオニズムの力により中曽根が政権をもぎとったと見立てるべきてでせう。中曽根の国粋主義は云ってみるだけのウソですよ。

小泉・安倍両氏の手口は中曽根氏に酷似していますが、右翼は1度ならともかく2度3度だまされてはまずい、と思います。

>
>  ニクソン大統領についてですが、アメリカの大統領史上珍しい非ネオ・シオニストですね。キッシンジャーを取り込むことにより辛うじて政権維持されていたのでせうが、やはりユダヤにやられた。ウォーターゲート事件の真相が最近漏洩されつつありますが、汚い手でやられたことがはっきりしました。日本のマスコミが、アメリカジャーナルのウォーターゲート事件摘発を手本にロッキード事件で騒ぎましたが、お粗末過ぎる。基本的におつむが弱いんだこの手合いは。
>

その後のレーガンもアメリカの大統領史上珍しい非ネオ・シオニスト系の出自でしたが、大統領就任後転向してしまったのはまずかった。レーガンが転向してしまったため、過度の軍事指向と過度の自由主義が結合した怪物が誕生してしまい、イラク問題や富の不均衡などにつながってしまったことが今日最大の問題でしょう。

Re:田中角栄元首相についての質問 れんだいこ 2007/07/02 21:32
 こげぱんさんちわぁ。なんだか最近バタバタです。

> これは「石工の都仙臺市」氏自身の論というより、1977年に出版された故・倉前盛通教授の「悪の論理」という傑作に書いてあったことが元ネタでしょう。

 了解です。

> この点はどうでしょうか。今日日本ではウランが危険なのは(度重なる地震などで)周知になってますが、当時の情勢を考えればオーストラリアのウランでエネルギー自立、という発想があったとしてもおかしくはないように思えます(ただし私は角栄首相時代は全く記憶にありませんので、この点は断言できません)。

 角栄のエネルギー自立はオイルショックから始まり、田中清玄のアドバイスに従い、かなり思い切った政策をとったと思います。角栄と清玄の関係は歴史資料に出てきませんが、重要な動きはこうしたもんです。れんだいこは、かなり気脈通じていたと見ております。それはともかく、ウランに手を出したのはやりすぎだった、れんだいこはそう思っております。

> 小泉・安倍両氏の手口は中曽根氏に酷似していますが、右翼は1度ならともかく2度3度だまされてはまずい、と思います。

 そうですよね。敢えて言えば、中曽根と小泉はほぼ直結している感じです。安倍は少し距離がありそうな気がします。小泉−飯島人脈と安倍人脈はなにやら暗闘しているようです。この辺りは後日にならないと分からないかも。

> その後のレーガンもアメリカの大統領史上珍しい非ネオ・シオニスト系の出自でしたが、大統領就任後転向してしまったのはまずかった。レーガンが転向してしまったため、過度の軍事指向と過度の自由主義が結合した怪物が誕生してしまい、イラク問題や富の不均衡などにつながってしまったことが今日最大の問題でしょう。

 レーガンと中曽根が通じていたとしたらレーガンも同じ仲間だと思いますが、いずれにせよ飾りでせうね。

 2007.7.2日 れんだいこ拝

リニューアル れんだいこ 2007/07/02 21:35
 本日とある先輩の指摘を受けトップページをリニューアルしました。先輩、有難うございます。

 20007.7.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評309 れんだいこ 2007/07/04 20:56
 【嘆くまい政治の貧困】

 れんだいこは、松岡農相変死事件の隠蔽工作に誰も異議を唱えない政治風潮に嫌気が差して以来、滅法参院選に興味を亡くしてしまった。相も変わらずの与党のお粗末と野党の正義的追求が新ネタを見つけては続いている。れんだいこには馬鹿らしくてしょうがない。

 今れんだいこは、学生運動論を書き直している。というか、より読み易く編集替えしているところだ。見えてくるのは、戦後直後の徳球-伊藤律時代の日共と第一次ブントの島-生田ラインの政治闘争の質の高さである。これに続くのが60年末の全共闘運動だろうか。

 もとより理論的には数多くの欠陥を抱えている。しかし、運動に責任を持つ立場からの創意工夫と情熱と赤い心につき他に比較すべくも無い。ここが素晴らしいところだと思う。れんだいこの時から数えて、あれから30年、無惨になってしまった。

 とはいえ思う。今日の政治状況の貧困を打破する知性は、ここら辺りからしか生まれないのではなかろうか。しかし生まれない。なぜだ。そういう思いから戦後学生運動論を検証し、もつれと歪みを解きほぐそうとしている。れんだいこの胸の内ではほぼまとまっている。後はどう書くかだ。これが案外と難しいのだが、恐らく書ける。

 問題は、当たり障り無く書くか、当たり障りあろうとも命惜しまず書くかだ。当然後者になる。今暫く発酵させて、時至らばズバッと書こうと思う。その前にどなたかご意見、ご指摘いただいたらなお良い。対話弁証法ほど良い薬は無いから。

 2007.7.4日 れんだいこ拝

何故謎は解けないか 福島雅彦 2007/07/05 00:16
 言語に関心がおありとか。
※中国正史の漢語翻訳の誤謬もあるが、「倭語」音写漢字の復元が、現代日本語漢字読みだからである。
*「邪馬臺國」、「邪馬壹國」、倭王「帥升」などを「やまたい國」、「やまいち國」、「スイショウ」等と読んでいるからである。
・邪馬臺國=「卑彌呼」の居所を問われた倭人が古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)で答えた文言を国名と勘違いして音写した。「邪馬・邪靡」=「天(あま・あめ)」が訛ったもの。「臺」=九州弁の強調の語尾「…たィ」の一音節。二音節の「たい」と読んでは見付からない道理である。
・「邪馬壹國」=後世の使者に「今でも「卑彌呼」は邪馬臺國に坐しますか」と問うた。倭人は「邪馬臺國」の意味が解らなかった。その様な國は無いから…。だが、「卑彌呼」の居所を問われたのは解ったので「「天(あま・あめ)」=「邪馬・邪靡」」の上(うヰ)と一本指を立てて上方を指した。それで、「邪馬壹國」と音写された。
∴どちらも、国名ではなかったのである。水縄連山(耳納山地)=「高天原」のことである。
・「帥升」=“shuai-sheng”であり“soe-sang”(ハングル=鉄上)=製鉄王=素盞(嗚尊)の事である。

Re:何故謎は解けないか れんだいこ 2007/07/05 08:25
 福島雅彦さんちわぁ。

> 言語に関心がおありとか。

 はい、日本語にとても興味が有ります。るる教えてください。邪馬台国論についての言及がおありのようですが、サイト公開されておられるならアドレス教えてください。覗いてみたいです。観点の著作権を主張されているようですが、これはちとやりすぎではないでせうか。とかいろいろお話したいです。学問と云うのはホント難しくて、分かっているようで分かっていないのですよね。この辺りは同感です。

Re:何故謎は解けないか 福島雅彦 2007/07/05 11:00
>  はい、日本語にとても興味が有ります。るる教えてください。邪馬台国論についての言及がおありのようですが、サイト公開されておられるならアドレス教えてください。覗いてみたいです。観点の著作権を主張されているようですが、これはちとやりすぎではないでせうか。とかいろいろお話したいです。学問と云うのはホント難しくて、分かっているようで分かっていないのですよね。この辺りは同感です。

※早速のコメント、多謝 謝々!。
*以前は、無料の借用HPを立ち上げていましたが…。期限が切れて、PC音痴でそのままに成っています。
*Yahoo の掲示板の「芸術と人文>歴史>日本史>」のカテで『所謂「邪馬臺」問題は文献から解明できる』のトピ主を張っています。語源からの≪独 創 的 古 代 史 解 明≫です。
*グーグルで私の名前を検索すると、自説展開が出ています。

Re:れんだいこのカンテラ時評310 れんだいこ 2007/07/13 16:45
 【第21回参議院議員通常選挙に当たってれんだいこ党の方針】

 2007.7.12日、第21回参議院議員通常選挙が公示された。投票日は当初7.22日であったが1週間延期され7.29日となった。18日間の選挙戦となるこたびの選挙戦の焦点を、れんだいこ史観で確認しておく。

 安部政権は前々任の森、前任の小泉と三代続けての旧岸−福田派の系列であり、自民党内のタカ派の系譜にある。こたびの参院選は、安倍政権が発足以来初の国政選挙となる。相次ぐ閣僚失脚、年金記録不備漏洩問題などの逆風下にあるが、自民党結党以来の党是である憲法改正を堂々と掲げて選挙戦に挑んでいる。かなりイデオロギッシュな攻めの選挙選に打って出ていることになるが、これを逆から見れば、左派がなめられきっている証しでもある。

 与党が過半数を維持するには、自公両党で64議席が必要となる。公明党が全員当選で13議席を獲得するとすれば、自民党は51議席獲得が責任数値になる。この責任数値を割り込めば安部政権は揺らぎ、民主党の同調部分を誘い込んでの員数合わせを余儀なくされる。与党大敗の場合は政権瓦解は無論、政界再編成が予想される。

 これに対して、野党陣営の足並みはどうであろうか。民主党は悲願の与野党逆転に向かう。小沢党首は、負ければ政界引退を公言しており、いわば背水の陣を敷いて挑んでいる。国民新党、新党大地が民主党連合を組み、いわば与党内に於ける公明党に匹敵する役割を果たしている。

 これを思えば、旧社共は全く稚拙であり、犯罪的な対応に終始している。これに代わる新左翼を登場させる以外に政治が良くならない。旧社共は、目下の政局が自民党内のタカ派とハト派の命運をかけた決戦であることを一顧だにせず、この期に及んでも手前の党利党略を優先している。憲法改正阻止共同戦線を組むことを欲せず、護憲の旗印をあたかも商品の如く取り扱い、単なる票取りに利用している。責任政党として与党となって政局に当たることを欲せず万年野党の批判政党としての延命に逃げ込んで恥じない。

 旧社共は、そういう特質として、執行部の責任数値を打ち出して選挙戦に臨むという作風を持たない。万年執行部のぬるま湯に浸っている。選挙の渦中は「護憲の本家」だの「確かな野党論」で我こそが一番と手前みそを競い合い、負ければ捲土重来論で事なかれする。時が今憲法改正問題と云う政治的一大事件に遭遇しているという時局にも拘らず、相変わらずの無能対応に終始しており、ひたすら現有議席の確保に汲々するというテイタラクを見せている。

 本来なら、社共こそは、憲法改正阻止共同戦線を打ち出す義務がある。社共を核として民主党、国民新党、新党大地、日本新党その他の護憲部分と合従連衡し、その為に汗をかかねばならぬところである。ところが実際には、我が党こそが一番の護憲政党、確かな野党論なる論法で相変わらずの排除の論理に染まっており分裂選挙を画策している。我々はこの愚劣を責めねばならない。

 社共のこうしたテイタラクに堪らず、天木氏らの憲法9条ネットが立ち上がっている。この党はどこまで進撃できるだろうか。れんだいこが思うに、彼らも本来は憲法改正阻止共同戦線を打ち出すべきであり、社共が為さぬなら代わって各党との政策協定に向かうべきである。その他の左派政党、市民政党、大衆団体に連合を呼びかけるべきである。その折衝経緯を記録に残し広報すべきである。残念ながら、恐らく何もしていない。社共的我が党こそ一番なる論法の三番手に甘んじている。この辺りに限界が感ぜられる。

 以上を総評として、以下、れんだいこが目下の政治情況を分析しておく。日本は1980年以降徐々にではあるが、そして小泉政権以来急激にではあるが親ネオ・シオニズムの虜囚にされており、国家が溶解せしめられつつある。政治家や政党がその手先として立ち働いており、如何ともし難い状況にある。本来は、こういう風潮に対する判断を問うのが選挙の意味であろうが、選挙民はそれぞれの小利権を物差しにして判断しているので、国家的危機には関心を示さない。そういう訳で、いとも容易くネオ・シオニズムが日本を席巻篭絡しつつある。

 今から思えば、1970年代までの戦後日本は、政権与党を自民党内ハト派が牛耳ることにより、世界史上稀なる在地土着型社会主義とも云える善政を敷いてきた。これを指揮鼓舞したのは田中−大平同盟であった。田中−大平同盟は、没イデオロギー的であつたが、実践的に為したことを見ればプレ社会主義政策であった。今これが全戦線にわたって、売国奴系タカ派の手により破壊されつつある。

 1970年代半ば、世界を裏支配するネオ・シオニズムがロッキード事件を仕掛け、田中−大平同盟は以降次第に逼塞せしめられてきた。ここまでを仮に「昔の自民党」と云うことにする。これに代わって登場したのが親ネオ・シオニズム系タカ派の中曽根であり、以来こちらが主流化して小泉−安倍へと至っている。これを仮に「今の自民党」と云うことにする。

 こたびの選挙に於ける「小沢対安倍」の闘いの背景には、「昔の自民党」と「今の自民党」の非和解的な絶対的対立と云う怨念がある。この間、「昔の自民党」勢力が次第に駆逐されており、危機を強めた「昔の自民党」勢力が大同団結して夢よもう一度と挑んでいるのが「小沢対安倍」の闘いの裏史実である。「昔の自民党」のプリンス小沢は、今を措いて以外に勝利の可能性は無いと悲愴な決意で臨んでいる。この政治情況を掴まないと政局が見えてこない。

 しかしながら、ネオ・シオニズム派の狡知は長けている。彼らは政権与党にのみ食い込んでいるのではない。親ネオ・シオニズム系は今や与野党を問わず政界を汚染している。昨今の公明党の親ネオ・シオニズム傾斜は度し難く、総帥池田大作の馬脚を表わした格好である。民主党もその内部に(鳩山)−岡田−前原系ラインという自民党よりなお酷い親ネオ・シオニズム走狗を抱えている。日共−社民は、ネオ・シオニズムが敷いたテキストの中で正義を弁じることが許容されており、不満吸収の緩衝材としての役割を果たしている。野党間の分裂を策すことで、裏から自公体制を補完する役割を引き受けている。

 れんだいこは、日共−社民が自公の別働隊的裏補完的役割を果たしているとなぜ断じるのか。それは、与党内で公明党が果たしている役割と比較して考えればよい。公明党は、政権与党入りを固守する為に何をなすべきかを心得ている。自民党と政策協定を結び、巧みに支援と票の分かち合いをしている。政治−政権の重責を真面目に考えれば、公明党の対応こそが当たり前の手法であろう。これを思えば、日共−社民は本来なら公明党を見習い、公明党が与党内で果たしているような動きを野党内でするのが当然であるところ、確信犯的に孤高の正義城に引きこもり棲み分けを策している。

 これによって、野党は分裂を余儀なくされている。政権与党の強い方が団結しており、弱い方の野党が分裂していて勝てる訳が無い。これは子供でも分かる話であろう。しかしながら、これは偶然の稚拙ではない。意図的に為されている策略であり、その為に党中央に居座っていると窺うべきであろう。そこまで推断しない者も胡散臭いと嗅ぎ分けるべきである。

 その結果、全ての始まりである政権交代が為しえない。左派共同戦線は無論のこと野党共同戦線が生まれない。こういう不幸な状態を見据えて、れんだいこは早くより左派共同戦線の構築による左派共同派の代表の国会送り込みの必要を示唆している。一刻も早く法案提出権を得る人数までの国会議員を育て、攻勢的な政治に挑まねばならない。最近6.15共同闘争が始まっているが、一刻も早くうねりを創り出すべきである。この受け皿が出来ない限り日本政治の未来は無い。 

 我々が、日本政界に仕掛けられたこの構図を打破しない限り、我々の期待する政治変革は進まない。目下は、日本をネオ・シオニズムに隅々まで売り渡す逆行政治改革ばかりが進められている。商業新聞は、そのトップはなべてネオ・シオニズムに身も心も売り渡しており、そういう訳で平気で売国提灯記事ばかり報ずる。そういう事前検閲制が敷かれていることを知るべきだ。従って、各種情報は情報としてしか意味を為さない。判断はこちらでやるという精神で臨まない限り洗脳されるばかりである。

 以上を踏まえて、れんだいこ党は、次のような戦略を採ることになる。自公は親ネオ・シオニズム系買弁派に乗っ取られており、これ以上政権を預けることはできない。民主もかなりの部分が同様であるが、1970年代の田中−大平同盟の薫陶を受けたハト派が主流を為しており、目下はこれに期待する以外に無い。国民新党も然りで、思ったよりもハト派的であり、その分魅力がある。民主党、国民新党、大地党、日本新党は政権を視野に入れている分、評価点を高くすべきであろう。万年野党ほど詰まらぬものはなかろう。

 よって、議員選出選挙区の場合、民主の護憲派なら無条件に支持、民主のタカ派なら民主、社民、その他の順で選考する。要は、よりましな代表を送り込まなければならないのだ。政党選出比例区の場合、小沢執行部信任で民主党、次に国民新党、次に社民党、憲法9条ネットも考慮に値する。共産党には、宮顕−不破−志位の反動派を党中央から追い出すためにも徹底的な敗北を強いる必要がある。それが下部党員を幸せにする唯一の方法でもある。宮顕−不破−志位派は何と50年もこの党を反動的に牛耳っている。

 いずれにせよ、自ら投票しなければならない。それから選挙速報を見入ることにする。一杯飲みながらのこれが実に楽しい。投票せずの観戦ほど詰まらぬものはない。

 とはいえ、こたびの選挙に対して、れんだいこは冷淡である。なぜなら、既に何度も述べているが、先の松岡農相変死事件に対して、与野党ともどもが議員の誰一人もが冷淡であり過ぎるからである。ひょっとして、連中は、議会制民主主義という政治トリックの中で戯れる政治貴族でしかなく、各々が役者の如く役割を果たしているだけのことでしかないと思うからである。そういう手合いの劇場に関心を持つのは馬鹿げていると思うからである。

 そういう訳で、この選挙戦に於いて、ところで松岡農相変死事件のその後はどうなっているのか、現場検証はどうなっているのか、報道されないのはオカシイデハナイカと声を上げる党派ないしは議員を期待する。我々の時代の目の前で起こった政治事件に対して鈍感な政治には用はない。松岡農相変死事件は余りにも奇怪に報道を閉ざされており、逆に事件の奇怪さを浮きだたせつつある。

 2007.7.13日 れんだいこ拝

Re:何故謎は解けないか れんだいこ 2007/07/05 11:33
 福島雅彦さんちわぁ。了解です。すぐかどうかは分かりませんが必ず読ませていただき、ご意見いたします。ご教示ください。

レポートの資料に使わせていただきました。 龍水 寒 2007/07/09 13:43
 れんだいこさんの資料を学校のレポート用に少々引用させていただきました。森進一さんのおふくろさん騒動の件です。拝見させていただきましたが、とても気に入りました。
これからもがんばってください。

はじめまして 王太白大佐 2007/07/14 20:52
 皆さん、憲法問題を論ずるにあたって、キリスト教だのイラク派兵だのばかり論じていますが・・・隣国の北朝鮮や中国の侵略について、どう考えておられるのでしょうか?
中国は1950年代にチベットを侵略し、インドと国境紛争を起こしてマクマホン・ライン以南の地を占領し、1970年代にはベトナムと国境紛争を起こし、1980年代には海軍を増強し始めたとのこと・・・。なおかつ、自国内の少数民族の自治を認めず弾圧し、自国民に対しては汚職がはびこるような国家です。このような国が隣にあって、尖閣諸島などを虎視眈々と狙っているのに、憲法第九条を守らなければならないのですか?答えてください。私は今すぐにでも改憲して、中国から日本を守らねばならないと思います。

Re:はじめまして れんだいこ 2007/07/15 12:52
 王太白大佐さんちわぁ。なぜ護憲せねばならないのかにつき、れんだいこは論文集の中の戦後民主主義考、戦後憲法論で持論を展開しております。要旨は、アジアは仲良くせねばならず、いたずらに軍事防衛に金をつぎ込むものではない。軍事利権は最大のものであり、これを陽動する勢力が居るから戦争が引き起こされている、その手に乗ってはいけない云々ということになります。

 「私は今すぐにでも改憲して、中国から日本を守らねばならないと思います」も一つの立論には違いありませんが、れんだいこ的には日中共同声明の趣旨でアジアの連帯と平和を訴求していきたいと考えております。昔の戸締り防衛論、最近の国際責務防衛論、目下の日米ユご奉公防衛論なぞは気色が悪い。そう考えております。これは水掛け論になりますので、王太白大佐さんは自分の道を究めてください。通ずるところもでてくるかも知れません。今は交差しないですね。

Re:れんだいこのカンテラ時評311 れんだいこ 2007/07/18 23:22
 【宮顕訃報に際してのれんだいこ論評】

 2007.7.18日付け日共赤旗は、「訃報 日本共産党元中央委員会議長 宮本顕治さん死去」と題して次のような記事を掲載している。(ttp://www.jcp.or.jp/include/20070718_fuhou.html)記事の責任主体は記されていない。本来なら幹部会声明とすべきだろうが、何やら事情があるのだろう。以下、れんだいこが概要整理し論評する。死者を鞭打つのは、れんだいこの好みではないが、こやつだけは断じて許し難いので当然そういう論調になる。

 日本共産党中央委員会名誉役員で元中央委員会議長の宮顕は、2007.7.18日午後2時33分、老衰のため東京都渋谷区の代々木病院で死去した(享年98歳)。喪主は長男の太郎。葬儀は宮本家の密葬とし、党としての葬儀は参院選後にとりおこなうとのことである。

 この後、履歴が記されているが、1933(昭和8)年、24歳の若さで党の中央委員になり、同年12月、「党に潜入していたスパイの手引きによって特高警察に検挙されます」とある。この記述は、その直前にスパイ摘発闘争で、僅か5名のうちの古参幹部小畑と小泉を査問し、小畑を査門致死させ、遺体を床下に埋葬させてた張本人である史実を意図的に記していない。

 れんだいこ史観によれば、小畑がスパイであったのではなく、スパイ容疑で査問致死させた宮顕−袴田ラインの方こそ正真正銘のスパイラインである。つまり、重要事件の場合には特に、プロパガンダされている史実は逆に報ぜられていることの方が多いということを物語っている。我々が下手に学ぶと余計に馬鹿になるのはその為である。

 赤旗は続いて、「特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げました。これにたいし、宮本氏は、獄中という困難な条件下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげ、法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破りました。戦時下の暗黒裁判は、宮本氏にたいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下しましたが、戦後、この判決は取り消されました」と報じている。

 れんだいこ史観によれば、この記述もデタラメである。宮顕は、孤軍奮闘の獄中闘争したのではなく、他の多くの党員が悲惨な拷問に遭っていたのに比して随分厚遇された豪奢な獄中生活していた形跡がある。獄中で公然と問う活動していた形跡もある。法廷闘争も、リンチ事件の重要な検証の陳述局面に至ると決まって不思議に数次の病に冒され、他の被告との共同裁判を避け、「宮顕こそスパイの可能性がある」と云い始めた秋笹の変死後に単独公判が設営され、とうとうと弁述し、その陳述書がが空襲で焼けたにもかかわらず不思議と副本が用意されており、今日プロパガンダされている。そしてそれを鵜呑みにする者が居る。

 「治安維持法違反を主とした無期懲役の判決」とあるが、この書き方も詐術である。正しくは、殺人罪、不法監禁罪、死体遺棄罪等々一般刑法罪と治安維持法違反との併合罪である。赤旗記事の「治安維持法違反を主とした」なる表記は明らかに意図的な歪曲であり知らぬものをたぶらかす書き方である。「戦後、この判決は取り消されました」も妙な書き方である。宮顕の戦後の釈放は、重態危篤との病気理由による特異な釈放であり、その後の「復権証明書」も、「将来に向てその刑の言い渡しを受けざりしものとみなす」というものであり、政治的な超法規的解決でしかない。決して、犯罪が無かった、あるいは無罪とされた訳ではない。

 「宮本氏は戦後すぐ党再建活動に参加」もウソである。「すぐ」ではなく、徳球、志賀らに比べてかなり後れての参加である。宮顕がこの間何をしていたのか、その消息さえ定かではない。続いて「五〇年問題」に触れているが、戦後直後の共産党を指導した徳球党中央時代の宮顕の動静については何も語っていない。「五〇年問題」について、スターリン論評が為されるや、いち早くスターリンの指導に無条件に従えと述べて、徳球党中央に叛旗を翻した国際派史実も隠蔽している。

 ところが、スターリンは、「日共の五〇年分裂問題」に対して徳球系党中央を正統として裁定した。徳球系党中央はその恩義もあってスターリン指導に従い急転直下武装闘争に突入し破産する。赤旗はこれに対して、「徳田・野坂の分裂的行動に反対すると同時に、彼らが持ち込んだ武装闘争方針に真っ向から反対するたたかいの先頭に立ったのが宮本氏でした」と記している。これもご都合主義的書き方である。この文章は明らかに不破が書いていることを示している。

 赤旗は続いて、1955年の六全協に触れぬまま突如、「党はこのたたかいを通して統一を回復、党綱領と自主独立の確固とした路線を確立しました。宮本氏は五八年の第七回党大会で書記長に選ばれます」と記す。
よほど六全協で党中央に復権したことを記すことが嫌なようである。1958年の第7回党大会までの「排除の論理」を満展開させた当時の歩みに触れたくないらしい。

 その後の綱領論争について、次のように纏めている。「六一年の第八回党大会まで継続審議となった綱領問題の討議を発展させるための小委員会責任者として、粘り強い論議を組織しました。第八回党大会で採択された綱領は、当面の革命について、世界の発達した資本主義国の共産党の間でいわば常識とされていた社会主義革命論をとらず、民主主義革命の立場を打ち出しました。綱領はまた、武装闘争方針や強力革命の路線をしりぞけ、日本の社会と政治のどんな変革も、『国会で安定した過半数』を得て実現することをめざす、という立場を明らかにしました」。

 明らかに不破式の観点であり、ウソを公然と書き記して恥じない変調文である。と同時に、当時の綱領論争の真の狙いがかくも大胆に記されていることに驚かされよう。何と、論争を通じて「社会主義革命論を排斥し、民主主義革命論に依拠させた。暴力革命を退け議会闘争に転換させたというのだ。不破よ、確かにそうではあるが、そのように弁じたか君は。この弁は、長大饒舌玉虫色煙巻きを得意とする君の文章が意図的に作成されており、かような狙いを秘めていたことを物語っている。これはこれで吐いた唾が降りかかってこよう。

 この後、宮顕のその後の履歴が記されているが、同様の詐術と提灯で埋もれているので一々採りあげない。採りあげれば長くなるばかりなので、別の機会に論ずることにする。問題は、こういう宮顕を頭に頂いて50年余も続いているのが現下の日共党中央であり、我々はこれをいつまで許すのかということが問われているということである。この観点抜きに赤旗訃報記事を読んでソウカソウカ宮顕はかくも偉大だったのかとうなづく者にはつける薬が無いということである。

 してみれば日共は大いに歪んでいる。思えば、日本政治の歪みと通底している。そういう意味では、日共の在り方は現代政治の写し鏡でもあり、外の政治の改革と日共の改革は同時的なワンセットになっていると踏まえるべきだろう。れんだいこが日共問題に拘る理由がこの辺にあるということになる。

 最後に。つい最近不破は急遽入院した。退院後に宮顕の訃報である。恐らく、不破の入院は宮顕の非常事態に合わせた所要の準備の為のものであったということになろう。この赤旗記事を書き上げたのも不破である。本来なら、執筆者として記すべきだが、それをしない。不破らしい姑息なやり方である。そしてもっともらしく、不破と志位の追悼記事を挟んでいる。つまり一種のヤラセ記事であり、何から何まで姑息であり腐っている。

 2007.7.18日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評312 れんだいこ 2007/07/20 20:45
 【宮顕訃報に際してのれんだいこ論評その2】

 宮顕逝去から一夜明けて、新聞各社は一面に追悼記事を掲載した。そのこと自体は何ら問題ないのだが、記事内容に見逃せない点が数々有り、論評しておく。それにしても、れんだいこの知る限り宮顕逝去に関して左派圏からの論評が無い。失語症に陥っているという訳か。情けない極みである。

 まず、宮顕を「日本の共産主義運動の名指導者」、「反体制の不屈の闘士」だのと歯の浮くような論評をしている点にコメントしておく。表向きそう書かざるを得なかったというのであれば見逃すことが出来るが、メディアに巣食う自称インテリ評論士達は本気でそう考えている気配がある。それほど見識が低いということになる。

 れんだいこに云わせれば、宮顕は確かに逸材ではあった。しかし、その史的意義は、「日本の共産主義運動の名指導者」とか「反体制の不屈の闘士」とかにあったのではない。むしろ逆であり、「日本左派運動の名撲滅人」として獅子奮迅奮迅の活躍をしたことにある。日共に入り込み、党中央を乗っ取り、牛耳り、日共を人畜無害の組織に切り替え、これを成功させたことこそ宮顕の功績である。メディアがその性質上、宮顕を「日本左派運動の名撲滅人」として書くことができないことについては理解するが、宮顕を日本左派運動の名指導者として本気で記述するのは馬鹿げていよう。

 新聞各社は、宮顕の登竜門となった芥川龍之介論「『敗北』の文学」の雑誌改造懸賞文芸評論第一席入賞を誉めそやしている。それはそれで良いのだが、論文の中身がどのようなものであるのかについての解説は無い。記事スペースがなかったのならそれで良い。問題は、中身を懸賞文芸評論第一席を取るほど秀逸としていたなら、これまた馬鹿げていよう。れんだいこの評論するところによれば、中身は、後の宮顕の強権政治を髣髴とさせる無慈悲なまでの芥川断罪論を基調にした悪評論でしかない。本来は、同時代の他の凡庸な作家と違って、芥川が如何に良心的に社会主義イデーに接近し苦悶したかの軌跡を論ずるべきであろうに。つまり、評論の視座が転倒倒錯している異常性評論になっている。この時点で早くも、後のひながたとなる「排除の論理」を丸出ししていることが興味深い。

 これが、宮顕の芥川論の要諦である。作品評論について優れたところありとすれば、その部分は最近の研究によれば、松山高校時代の文芸同人の書評からの剽窃であるということが判明している。これについて次のように言及されている。

 「雑誌『改造』の懸賞論文に1位入選を果たした宮本顕治の論文『敗北の文学』。これと、そっくり同じ『敗北の文学』が、別人の作品としてそれ以前に旧制松山高等学校の文集『白亜』に載っていたというのだ。ところが、それが掲載されていた号だけ、国会図書館にもどこにも、紛失してないという。日本中から旧制松山高等学校の文集『白亜』特定の号を抹殺した日本共産党。それは、いつ、誰が、誰の命令によってなされたのか?」。

 これは事実かどうか確かめてみればよい。事実としたら由々しきことである。宮顕にはそういういかがわしさがいたるところについて回っている。党史歪曲、原文用語書き換え、違法の秘密会議、会議内容の非公開等々はその延長線上のものである。

 次に、中条百合子との獄中結婚を取り上げ、「12年の手紙」がやり取りされたことにつき好意的に評している。しかし、これも、「12年の手紙」の内容を見れば、同時代の左派人の共産主義的意識、精神とは無縁のむしろ逆に封建的家父長制的権威意識、精神を丸出ししている。更に、百合子の財力に甘え、あれ持ってこい、これ持ってこいの豪奢生活を吐露するものでしかない。他の獄中仲間がペン一つ融通されなかった折に、宮顕には獄中下で市民生活が許容されていた不思議さが見えてくる話でしかない。戦前の百合子は宮顕に私淑したが、戦後の目線は冷たい。風致草で語られる重吉の像は見事に宮顕の本質をさりげなく伝えている。

 次に、不屈の獄中闘争を各社各様に誉めそやしている。徳球についてどのように誉めそやしたのか比較したいが、資料が無いので分からない。恐らく、真正の獄中闘争を経由した徳球に対しては、こうは持ち上げなかったし、こうも記事に載せなかったのではなかろうか。宮顕の場合、果たして当時、宮顕の如く予審調書一つ採らせずのまま経緯することが許されたであろうか。当人は、「こいつには何を言ってもムダだ」と特高をして拷問をあきらめさせたと豪語しているが、本当に有り得た話だろうか。

 その後の裁判に於ける様子もいかがわしい。査問致死事件の裁判だというのに、党の正義を縷々語り続け、肝心の事件陳述の番になると病魔に冒され欠席する。そうこうするうち、事件のキーパーソン秋笹が変死する。それを経て、宮顕の単独公判の場が設営され、とうとうと弁論している。普通に考えれば分かるが、こういうことは当局の演出的作為なしに可能だっただろうか。その正義の単独陳述についても妙なことがある。今日宮顕自身が公開しているが、その内容を見るに、記憶だけでは陳述できない精緻な資料を駆使している。宮顕は、獄中下でそのような資料をどうやって入手し得たのだろうか。これは、読んでない者には分かるまいが。それと、獄中仲間の他の被告の陳述調書に目を通している形跡がある。おかしなことであろう。

 次に、「網走刑務所獄中12年説」を相変わらず説いている不勉強記事が多いので訂正を催促しておく。どの社の記事がそうであるかを記しても良いが、恥をかかせるので控えておくことにする。れんだいこ検証によれば、「獄中12年」はまま確かであるが、網走に居たのは最後のご苦労となる敗戦の年の春から夏までである。僅か半年しか居なかった網走刑務所生活でしかないのに「網走刑務所獄中12年」と表記するのはフェアではなかろう。「網走刑務所など」と書いても同様である。書くなら一番長期にわたって拘留されていた「巣鴨の東京拘置所など」とすべきであろう。市ヶ谷刑務所ならそう書くべきであろう。

 これらから浮かび上がることは、宮顕に限って、権力側からも頻りに宮顕の革命的英雄譚が創造されているということである。当局肝いりの虚飾の宮顕英雄譚がこしらえられている気がしてならない。そして、この虚像に対して、党内も党外も未だに目をくらませられている。れんだいこに云わせれば、感性と知能と理論の貧困以外の何ものでもあるまい。れんだいこのこの言の確かさを廻って、今後ますますの議論を要請したいが、語るに足りる者が居ない。

 従って、もっとも都合の悪い「50年分裂」時の、「スターリン指令に従え」として時の徳球系党中央に楯突いた史実を隠蔽している。メディアは後に宮顕が自主独立路線を打ち出したことに対して手放しで礼賛しているが、真っ当な論評をするなら、「50年分裂」発生時にスターリン指示に従うのが国際共産主義運動の責務として反徳球活動を繰り広げた宮顕の負の歴史に対して言及すべきであろう。宮顕の虚飾の権威を落とすことになることを配慮してか、各社一様に黙して語らない。

 メディアが自主独立路線を礼賛したいなら、それを最初に示した「50年分裂」時の徳球−伊藤律系党中央の対応に向けられるべきだろう。この当時、一部のメディアは、徳球をして「日本のチトー」と評している。こういう史実がある以上、宮顕の後日の自主独立路線に対して、ならばかの時の対応はどうだったのかと問う論評が為されてしかるべきだろう。この辺りを書かない宮顕ヨイショ記事が多過ぎてつまらない。

 次に、各社とも、宮顕の功績として「現実主義、柔軟路線への転換指導」を挙げている。いわゆる議会路線への傾斜であるが、それは確かに宮顕の功績である。れんだいこはそれは認めよう。だがしかし、その意図と内実がどのようなものであったのかについての考察をせねばなるまい。宮顕指導による現実主義、柔軟路線への転換は、日本左派運動に本当に資したのか、ここを問わねばなるまい。

 宮顕路線の成果は、現実主義、柔軟路線の導入、それに続く社共共闘路線、その延長戦上の民主連合政府構想の打ち出しまでがピークであった。しかし、実際に起こったことは、革命的あるいは人民的と冠しただけの議会専一路線であり、それは他の諸闘争、例えばデモや大衆団体運動、労働組合運動を議会運動に召還させる為の議会闘争であり、議会闘争以外の闘争能力をやせ細らせるものでしかなかった。

 社共共闘、民主連合政府構想も、運動としては是認されるべきものであるが、それ自身に本気意義を見出していたたものではない。当時燃え盛る新左翼系運動の牽制路線として、彼らの理論に対置するものとして提起されたものでしかない。それが証拠に、社共共闘、民主連合政府構想はそれが現実化を帯びるや自らの手で潰しに掛かったという史実がある。

 残ったものは議会主義路線だけとなった。それも党勢拡大し続けていたら問題は露見しないが、今日に於いては1970−80年代の地平から久しく後退し続けており、その都度言い訳で糊塗しているところまで腐敗している。それでもこの路線が認められているのは、今日機能している如く野党戦線を分裂させ、そういう意味で与党権力を裏から補完する役割を果たしているからに過ぎない。その仕掛けを見破られまいとして、重箱の隅を突つつくようにして正義を振りかざし、政権党や政敵のゴシップ、スキャンダルの類いを暴露して存在感をアピールしているに過ぎない。つまり、極めて変態化しており、その変態度を深めつつある。

 これらは、宮顕の総路線からもたらされたものである。現在、宮顕−不破−志位の直系ラインがこの党を牛耳り何と1955年の六全協から数えて50年有余を経ている。戦後政党の中で唯一不倒の長期政権となっている。そういう日共が、自民の長期政権の腐敗について饒舌するのは、全て我が身に降りかかってくると思わねばならない。そういうこともあって舌鋒が弱い。実は、自民党内タカ派系とは案外仲良しではなかろうか。こたび、中曽根が宮顕逝去に当たって提灯追悼していたが、これは偶然ではない。読売のナベツネとも通じている。こういうことは歴史を調べれば分かる。この連中は裏で繋がっていると読まねばなるまい。

 その他いろいろ検討したいことがあるが、れんだいこの宮顕論でしていることなので繰り返さない。関心のある者はそちらを見ればよい。結論として、宮顕履歴の諸々が、左派運動撲滅人、沈静料理人として凄腕であったことを示している。このことを確認すればよい。確かに、この方面での活躍に於いて、宮顕の右に出る者は居ない。

 それを思えば、メディアが「戦後日本政治史に不滅の足跡を残したことを否定する人はいないだろう」と云う時、我々はどういう視座でそう受け取るかが問われている。れんだいこが繰り返せば、革命家としてのそれでは断じてない。革命事業撲滅請負人としての偉業であることを踏まえるべきであろう。この差を分からず提灯する者が多過ぎる。現代メディアが、「日本の共産主義運動の名指導者」という見立てから「戦後日本政治史に不滅の足跡を残した」と評するなら、その評論氏の能力の痴愚ぶりを示して余りあると云うべきだろう。

 れんだいこが最後に論ずるとするならこういうことになる。宮顕は、数多くの左派活動家、指導者を放逐し掣肘した。その功績は、宮顕に放逐されたり掣肘されたりするに過ぎない能力の左派者に革命させてはならない、間違っても権力を握らせてはならないところにある。ここに宮顕の最大の功績があり、これを措いて以外には無い。そういうことになる。

 2007.7.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評312 れんだいこ 2007/07/24 19:58
 【第22回参院選考】

 いよいよ後数日の選挙戦になった第22回参院選の構図が見えて参りました。よほどの手品でもない限り、民主党の大登竜、自民惨敗、公明失速、共産ジリ貧、社民善戦、国民新党健闘ということになるのでせうか。れんだいこは、都知事選の予想失敗も有るので、これぐらいの大枠予想にしておきます。

 れんだいこは、選挙区は決めているのだが、比例区が決まらない。民主党、国民新党、9条ネット、社民党のどれにしようか迷っております。

 2007.7.24日 れんだいこ拝

参議院選挙 たすけあい党シンパ 2007/07/25 07:29
 昨日、投票に行って来た。選挙区については、どの新聞も自民・民主の指定席と予想しているので、共産党候補の名前を書いてきた。比例区については、散々迷ったあげく天木直人と書いた。これまでの選挙では「共産党」又は同党の推薦候補の名前しか書いてこなかった。何時も世話になっている民医連のxx先生には、胸のうちで何度も「すみません。すみません。ごめんなさい。ごめんなさい」と謝った。
2年前の衆院選挙では、マスコミはこぞって自民党の圧勝を予測し、その通りになった。わたしなんぞは、てっきり電通を使ったおおがかりな投票誘導による勝利と分析していたから、今回の事態の推移は甚だ不審である。どの世論調査も自公の大幅後退を予測している。あたかもマスコミによる選挙予測は、極めて中立で客観的と言わんばかりではないか。電通は何をやってるのか?むしろ自公の後退こそが電通とその背後の仕掛け人の思惑なのか?思えば、年金問題も怪しい。あたかも安倍内閣を崩壊させるタイミングで明るみにでた。

この参院選で「ネット選挙活動規制」粉砕に決起せん!「自由言論戦士」大募集! ヒゲ-戸田 2007/07/25 09:17
 れんさん、お久しぶりです。当方、この07年参院選で全国多発決起をもって、安倍自公政権を打倒すると共に、国家権力の「ネット選挙活動規制」を葬り去ろう! この歴史的快挙に参戦し、あなたも「ネット自由言論獲得闘争」の歴史に名を刻もう!・・・ということを訴えて実践してます。 具体的には   自己HP・ブログで「特定候補への投票呼びかけ」を書こう!ということです。

 れんさんもぜひ、人生学院扉ページか、この掲示板での投稿としてそれをやってくれませんか? また、この掲示板ご覧のみなさんへも実行を呼びかけます。

 れんさんには釈迦に説法でしょうが、多くの人々のために紹介すると、HPの選挙活用が正当・合法であることについて、およびその実践例については、・07年門真市議選特集
★戸田の檄:今こそ全国でHPの選挙活用を一挙に実行しよう! 戸田が動画で語る!

★ネット選挙活動規制を今私達が突破する!「自由言論戦士」大特集

◎当方の「自由論争掲示板」
◆諸野脇正の闘う哲学  

などをご覧下さい。(この掲示板ではHPアドレス記入禁止なのが残念ですが)

 たとえ残り4日間であったとしても、たとえ数十人程度の実践であったとしても、この国政選挙で、HPやブログで特定候補への投票呼びかけが実行されたならば、それはもう完全に権力の規制を突破した全国的既成事実となり民衆の大勝利となります。★現下の状況を一言で言えば、「ここがロドスだ。ここで飛べ!」です。闘い無くして自由無し! ともに闘わん!

Re:この参院選で「ネット選挙活動規制」粉砕に決起せん!「自由言論戦士」大募集! れんだいこ 2007/07/25 17:33
 ヒゲ-戸田さんちわぁ。遅くなりましたが門真市議選トップ当選おめでとうございます。主義主張をおもねず原理原則的に貫徹し行動的であることが共感を呼び、支持を増やすということを実証してくれたような気がします。社民的日共的でないもう一つの左派運動の可能性を指針してくれました。ご苦労さんです。

 れんだいこと選挙の関係は、サイトを立ち上げる少し前まで投票に行かなかったのが、それなりの気づきを得て最近は皆勤投票している、そういう状態です。選対に入ってやるまでには至っておりません。自民党、民主党、公明党、共産党、9条ネット支持者からの支援依頼がある程度です。

 こたびの参院選は基本的にウォッチャーです。9条ネットを押したいのですが、小沢民主党の政権盗りを支持しており、選挙区は無論比例区でも支援しようと思っております。その流れの中で、票に余裕があるとみれば9条ネットに入れようとしております。9条ネットからは顔なじみの支援者からの葉書きが届いております。義理堅いれんだいことしては支援したいのですが、民主党第1、国民新党も良いから第2、9条ネット第3という割り切りをしております。次のステップとしては9条ネットが足がかりを創って欲しいですね。


>  闘い無くして自由無し! ともに闘わん!

 異存異議なしです。頑張りませう。ちなみに、「第22回参院選特集」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/senkyo_sangin22.htm)をしてみました。予測と実際がどう違うか確認しながら開票速報見守ろうとしております。

 2007.7.25日 れんだいこ拝

「共産党指導部の盲目ぶり、『確かな野党』路線はまったくの誤りである、共産党指導部の頑迷さにさじを投げる」(原仙作氏) こげぱん 2007/07/26 01:07
 「共産党指導部の盲目ぶり、『確かな野党』路線はまったくの誤りである、共産党指導部の頑迷さにさじを投げる」(原仙作氏)
ttp://www.asyura2.com/07/senkyo39/msg/374.html
投稿者 無党派@中道民主リベラル系有権者 日時 2007 年 7 月 25 日 01:45:29: sV9KS2UqnCenk

 以下、抜粋。詳細は貼られたアドレスを。

 ファッショへの道か民主主義の堅持か 安倍政権の過半数割れで攻防戦 参院選の帰趨は共産党票に参院選の公示日を迎え、反与党陣営には世論も含め安倍政権の過半数割れが確実だとのある種の楽観ムードが漂っている。安倍首相がテレビ各局を梯子するかのように出演を重ねていることからも政権の焦りを垣間見ることができる。しかし、原仙作(仮名)氏は、政権というものは三枚腰、四枚腰であり、簡単に土俵を割る相手ではなく、むしろ野党の足並みの乱れに警鐘を鳴らす。

 自民党は多数派工作に暗躍し、マスコミは政権に肩入れするからだ。29の一人区では与野党が伯仲しており、野党勝利の鍵は、共産党票が死票になるか否かにかかっていると原氏は指摘する。その原氏に、匙を投げたと言わしめた頑迷な共産党幹部は、敗北を重ねてきた過去の選挙同様に「確かな野党」を連呼するだけだ。残された時間は少ない。何をなすべきか。党中央の政策を批判する共産党員とその関係者によって運営されている「さざなみ通信」から参院選を前にした分析記事を紹介する。(ベリタ通信)

 前略。
2、参議院選の政治目標は何か 
 
 こういうわけで、安倍政権の牙城を突き崩すには何重もの防壁を突破しなければならないことがわかるであろう。安倍政権の過半数割れをすでに「決まり」と見なし楽観視していれば足下をすくわれ、悔いを千載に残すことになりかねない。野党勢力が相互に連携して、ありとあらゆる手だてを尽くしてはじめて安倍政権を過半数割れに追い込めるのだということを肝に銘じておきたい。 
 
 ポイントは、安倍政権を過半数割れに追い込むことが、参議院選の最大の政治目標であることを確認することである。その政治目標を達成するには29ある一人区で自民候補に勝つこと、そのためにはアレコレ条件を付けず(今はこれが肝心だ)に、当選可能な野党候補に票を集中することが絶対に必要である。民主党の右派候補であれ、この参議院選では安倍政権の過半数割れをめざす「同盟軍」である。 
 
 安倍政権が年金問題や住民税増税で窮地に陥っている現在の政治情勢の下では、参議院選の選挙戦術は一切をあげてこの政治目標に従属させて考えるべきである。改憲阻止であれ、政治革新についてであれ、その第一歩は改憲を最重点政策に掲げる復古主義者の結集する安倍政権を過半数割れに追い込み崩壊への一里塚にすることだからである。 
 
 安倍政権が大きく過半数割れを起こせば、自民党内が混乱し安倍政権に見切りをつける動きが出てくるであろうし野党を巻き込んだ暗闘もはじまるであろう。そうした動向にどう対応するかは不確定要素の多い次の政治ステージの問題であり、不確定な自・民の大連合の可能性などを今からアレコレ推測しても無駄なことである。また、そうした可能性から安倍政権の過半数割れをめざす野党戦線の結束を否定するのも馬鹿げたことである。戦術は現実的で確実な諸前提から出発するべきである。 
 
 今、確実なことは、野党が結束すれば安倍政権を過半数割れに追い込めるということであり、そうなれば、巨大与党に支配された政治の流動化がはじまるということであり、安倍政権の構想する改憲ロードマップが一頓挫するということである。そして何より、政治革新を願う広範な無党派層に”政治は変えられる”という希望をもたらし市民の政治活動を活性化するということである。 
 
 「左派」のよく口にする「第3極」の形成もすでに周回遅れであり、安倍政権が過半数割れを起こし政治が流動化してこそ、新しい動きと可能性が見えてくるのである。 
 
3、共産党指導部の盲目ぶり 
 
 ところが、共産党指導部は年金問題で国民の怒りが噴出する今の時期になっても、安倍政権打倒ではなく、「確かな野党」をスローガンに掲げ、共産党の議席が伸びることが参議院選の「最大の焦点」(「全国いっせい決起集会」志位委員長演説、「赤旗」6月25日付」)だと言っている。政治情勢のどこを見ているのであろうか? 
 
 今の政治情勢を支配しているのは安倍政権への国民の怒りであって、大多数の国民にとっては共産党の議席増に関心がないことは各種選挙予想を見ればわかることである。はじめから指導部の政治情勢把握は「焦点」がズレており、我田引水の情勢評価になっている。前回の参議院選や衆議院選でも、その前も同じことを言っていたのである。21世紀に入って国政選挙では連敗続きであるから、自党の議席増しか眼中になく、政治の現状が見えなくなっている。いつでもどこでも、政治情勢に関係なく、共産党の議席増大が国政選挙の「最大の焦点」なのである。これほど政治情勢に盲目となっている証拠はないであろう。 
 
4、共産党の採るべき選挙戦術 
 
 共産党に必要なことは安倍政権を過半数割れに追い込み、かつ自党の議席を増大させる選挙戦術である。そのためには、選挙区における野党乱立で与党に漁夫の利を得させることを回避し、当選の可能性がありそうな選挙区だけに候補者を立てることである。 
 
 しかし、沖縄を除き28の一人区全てで当選不能の候補者を立てることは一人区での野党乱立を招き、事実上、暴走する安倍政権の過半数割れを防ぎ、自党の議席増をめざす選挙戦術に堕することを意味している。共産党員や支持者はここのところをよく見てほしい。 
 
 共産党指導部の選挙戦術を支持する党員や支持者に考えてもらいたいのである。全選挙区立候補で共産党の議席が比例区で仮に1〜2議席増えたとして、議案提案権や党首討論権を回復することと、安倍政権の過半数割れを実現することと、一体どちらが政治革新や改憲阻止のために効果的なのか?暴走する安倍政権の過半数割れを実現することのほうが重要ではないのか? 
 
 本来、二者択一ではない問題を二択問題にしているのは共産党指導部の選挙戦術である。議席増大で盲目となっていて共産党指導部は選挙戦術を変えないであろうから、党員、支持者は独自の判断で、一人区では予想されている当選可能な野党候補に票を集中するべきであろう。そうすれば確実に安倍政権を過半数割れに追い込むことができるのである。 
 
5、なぜ共産党の議席は伸び悩みなのか 
 
 国民の怒りが噴出し安倍政権が過半数割れを起こす可能性のある現在の政治情勢の下では、過半数割れを望む点では一致している野党が手をにぎり「いっしょにやりましょう」という政治姿勢が必要なのである。共産党指導部の選挙戦術は、政治革新を求めて民主党に投票しようとする無党派層に冷や水を浴びせるようなもので、安倍政権の過半数割れのブレーキになるばかりか、自党の得票を増やす上でも障害になっている。 
 
 すでに出されている各種選挙予想では例外なく、共産党の議席は伸び悩みと予想されているのはなぜか? 党員、支持者はよく考えてみるべきである。国民の怒りが噴出している今こそ、安倍政権への「真の対抗勢力」と自認する共産党が議席を飛躍的に増大させるチャンスであるにもかかわらず議席の大幅増が予想されていないのは、自民党批判票が主に民主党に集中しているからである。 
 
 共産党の選挙戦術が選挙区は民主党、比例区は共産党という革新的無党派層の投票行動を阻害しているのである。共産党指導部は民主党への「幻想」を打ち破らなければ共産党に票が来ないと考えているが逆である。1998年に共産党へ820万票を与えた有権者は民主党に「幻想」をもっていない。共産党は国民一般ではなく、まず、この820万票をターゲットにすべきなのである。 
 
 ところかまわず野党を批判する共産党の変わることなき「独善性」が嫌われ、その選挙戦術のために政権交代阻止政党とみなされているから比例区票が入らないのである。 
 
 ネット新党がいくつか出てきたのも選挙共闘を拒否する共産党の選挙戦術と無関係ではない。共産党の比例区へ投票されてもいいはずの票が100万票単位でネット新党へ流れるであろう。こうして選挙区での得票増はもちろんのこと、比例区の得票増も頭打ちになっているから各種選挙予想も共産党の伸び悩みとなるのである。かく言う私ですら、共産党指導部の頑迷さにさじを投げ、様々な共闘の触媒になることを期待して「9条ネット」から立候補した元レバノン大使・天木直人氏に投票しようと思っているほどなのである。 
 
 私の主張を傍証するのは沖縄選挙区である。前回の参議院選で沖縄選挙区だけが前々回と比較して比例区票を大幅に増やしていることを見るべきである。得票率では5.2%から8%へ、 27476票から41141票へと67%も得票を増やしている。全体の得票率を0.1%減らしている中で沖縄だけが突出して得票数・率ともに増やしているのである。この理由は沖縄選挙区だけが糸数慶子・野党統一候補に乗ったからであるとしか考えられないことである。 
 
 6、「いわしの頭」を担ぎ回ってはいけない 
 
 共産党が真に恐れるべきことは、国民による政治革新運動から見放されることである。春の統一地方選では、県議選において大都市圏では大きく議席を後退させており、民主党の一人勝ちであったと言ってよいだろう。 
 
 経済格差が大きな社会問題になるなど、共産党に有利な政治状況にありながら議席を後退させているのは、何度も言うが国政における誤った自党第1の選挙戦術が災いして支持者や革新的無党派層に見放されつつあるからである。 
 
 そして、誤った自党第1の選挙戦術になる最大の原因は「基本政策が自民党と同じ民主党では政権交代しても政治は変わらない」という”お題目”を担ぎ回ることにある。この”お題目”が政治情勢を考慮しない自党第1の選挙戦術を規定し、指導部の自党第一主義の弁護論になっているのである。 
 
 この”お題目”には一面の真実が含まれているのであるが、巨大与党の政治支配と弱小共産党の存在という現状の下(言葉を換えて言えば、体制転換が問題になっていない政治情勢の下、共産党には世論を変えて体制転換を問う力がない政治情勢の下)で振り回せば、「いわしの頭も信心から」と揶揄される「信仰」に転化してしまうのである。現在の政治情勢の下では、客観的にはまだ問題になっていないことを問題になっているかのごとく取り扱うからである。 
 
 頭の体操のためには、こう言い換えてみればわかるだろうか。共産党は政権につけば独裁化すると批判されれば、どう答えるであろうか?反共デマだというだけでは反論にならず、共産党の現在の姿と政治における現在の共産党の役割、実績を数えあげるであろう。将来のことではなく、現在のことを語るであろう。 
 
 同じことである。将来、民主党が政権を取ったときの姿ではなく現在の姿、役割を見なければならない。現在は安倍政権を過半数割れに追い込むことで一致できる 
 
 一挙に体制転換を実現できる政治情勢ではないのであるから、今は、目先の一つ一つの悪政を是正することが体制転換の政治課題に優先するのである。まずは、安倍政権の参議院選における過半数割れであり、次が安倍政権の打倒である。そして、それらを実現するためには他の野党と手を結ぶ必要があるのであって、「確かな野党」はまったくの誤りである。国民の怒りが噴出しているときに自民党政権を過半数割れに追い込めなくては共産党の掲げる政策は何一つ実現できないであろう。 
 
 こうして、目先の政治課題を革新的無党派層と共に実現することを通じて共産党の存在感を高めてこそ、待望の党勢拡大、議席増も前進するのである。以下、略。
ttp://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200707121257144

Re:「共産党指導部の盲目ぶり、『確かな野党』路線はまったくの誤りである、共産党指導部の頑迷さにさじを投げる」(原仙作氏) れんだいこ 2007/07/26 13:44
 こけぱんさんちわぁ。原仙作氏の指摘は常識的感性を基調にしており、そういう意味で貴重ですね。1議席を争う選挙区の場合、どうせ院内共闘するのなら、そういう相手となら協力して「当選可能な野党候補に票を集中することが絶対に必要」でせう。ところが、共産党中央は院内共闘を平気でする癖に、相も変わらず「確かな野党」をスローガンに掲げ野党分裂選挙を仕掛けています。原氏は、日共の果たしている変態的役割を客観的に解析してます。

 原氏は、党中央の詭弁論法に唯々諾々しない自分で考えることが出来る稀有な人士です。こういう党員が居れば居るほど組織は伸びるのですが、党内でこういう発言をすれば恐らく調査問責でせう。何せ悪性の分派禁止論、一枚岩組織に罹患していますから。しかし、何事もそうですが盲従分子の寄せ集めでは役に立ちません。このところの党勢ジリ貧は、党中央の変調指導と党員の無能力が合体して発生しているものです。社会学的に分析すればそういうことになるでせう。

 問題は、原理論が現下党中央の歴史的変態性問題を不問にしているところにあります。うすうす気づいていて触れないのか、気づいていないのか、そのどちらなのかが分かりませんが、この問題を正面に据えない限り論の切れ味が鈍くなります。れんだいこ史観に基づけば、日共の「確かな野党論」は、日共党中央の変態性からもたらされている意図的故意の確信犯的なものであり、現執行部が交代しない限り路線転換はありません。奥の院からの意向を受け、政局の流動化に棹差し続けている、そういう役目を引き受けている党中央という観点で見ないと単なる評論になってしまいます。

 スパイM以来の野坂→宮顕→不破→志位というネオ・シオニズム系による党中央簒奪と、それに伴う変態指導という流れを同時的に捉えないと、論が正鵠を射ないと考えます。それはともかくとして、原氏のような論客が揃うことが日本左派運動の再生になると思います。そういう意味で評価を高くしたいです。

 2007・7・26日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評314 れんだいこ 2007/07/27 20:21
 【吉村作治氏の著作権感性について】

 早大OBにして古代エジプトピラミッド遺跡の発掘で世界的権威の考古学者として知られる吉村作治氏(64)は現在サイバー大学学長でもあるらしいが、著作権問題に関して意味のある発言をしている。これを考究する。

 吉村氏は、「著作権について [考古学者のひとりごと]」(ttp://blog.excite.co.jp/392/5852347/)で次のように述べている。後半部を転載する。

 そんな時、森進一さんと作詞家の川内康範さんの「おふくろさん」の件が発生し、興味深かったです。と言うのも、実は私すら、「おふくろさん」に追加の詩をプラスして何が問題なのだろうと思っていたからです。「おふくろさん」の歌詞そのものを変えたのではないのだからというのが私の感覚でしたが、決して甘くはなく、追加も改ざんの一種だとのことでした。いい勉強となったのです。と言うのは、以前は、地図や図版は直にそれをコピーするのはまずいが、それを自分の手でトレースすればいいと先輩から教わっていたことも、間違いだということを今回知りました。

 しかし世の中うまくできていまして、ライトフリーのものもどんどん出てきました。グーグルなどはその典型です。これからも増えるものと思います。しかし一見しますと、著作権法は厳しくなっているように思えます。教科書や試験問題まで目を光らせている著作権バスターもいるそうです。しかし、私はかなり前から、著作権法をどんどん厳しくしていくと、文化や芸術学術は廃れていくという考えでした。それは、私が他人の著作権を平気で侵す意志があるというわけではありません。今でも、著作権クリアを強く叫んでいる人たちは、著作権料を払えと言っているのが中心です。特にディズニーとかキティちゃんは厳しいと聞いていますが、私はこれをフリーにすべきだと言っているのです。他人のとった写真や書いた文章を、勝手にクレジットも入れずに使っていいと言っているのではありません。まず著作権所有者に了解を取るべきですし、使用するときに著作権者の名前を入れるのは当然ですし、使った成果物を著作権者に送付するべきと思っています。

 しかし、お金を取るというのは悲しいなと考えています。もちろん今でも私は若干のお金をいただいていますが、できる限り近い将来、私のものはライトフリーにしたいと考えています。お金より、世の中に広く発信した方がいいと考えるからです。かと言って、今の中国のようにひどいことを奨励しているのではないことだけは申し上げておきます。もっと日本が文化的に成熟した暁にということです。

(転載以上)

 吉村氏の著作権見解は極めて重要な示唆をして入るように思える。れんだいこが解説すれば、著作権法は当初に於いては制限的にスタートした。が現在、それが肥大化し全域全方位的なものへと変質転換しつつある。この状況に対して、吉村氏が違和感を覚えていることを知らせている。これは貴重な発信ではなかろうか。

 吉村氏は残念ながら近時の強権著作権に対して違和感を覚えつつも従おうとしているように見える。しかし、吉村氏の学者魂が待てよと発信しており、理論的未整合ながらも近時の強権著作権はどこかオカシイのではないのか、文化・芸術・学術発展に対して赤信号ではないかと問いかけようとしている。俺はそういう著作権論は主張しないようにしようとも思うとも述べている。

 吉村氏の感性の良さがここに認められる。他の多くの学者が何の疑問も湧かさず強権著作権的規制に従おうとしている時代にあって、吉村氏の提言は爽快である。但し、吉村氏は、漠然と訴えており、近時の強権著作権と闘う姿勢までには至っていない。それはそれで良かろう。吉村氏的良識が幅広く存在することによって、著作権議論が旺盛になるのだろうから。

 れんだいこは、「著作権論」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken.htm)で縷々考察しているが、近時の強権著作権の本質は極めて反社会的なもので、情報閉塞と統制を眼目としていると見立てている。これは、文明の発達により必然的にもたらされたのではなく、現代世界を牛耳るネオ・シオニズム勢力の邪悪な意思に基づき意図的故意に導入されているものであり、賢明なる諸民族は原発政策と同様にこの仕掛けから一刻も早く決別せねばならないと考えている。

 これを宗教論的に述べると、西欧宗教に於けるイエス教は著作権無用論、キリスト教は初期著作権論、ユダヤ教パリサイ派は強権著作権論、日本古神道は著作権無用論という立場になると思われる。著作権論で見ても、イエス教と日本古神道は思想的に近いことが分かる。逆に、ユダヤ教パリサイ派の強権著作権論は異色のものであり、そういうものが現代学問の最先端理論と喧伝されていることになる。

 日本の自称インテリは思想的に無学なので、ユダヤ教パリサイ派の強権著作権論に何の違和感も湧かさず先進国理論として受容しようとしている。彼らが学会を壟断しており、本質的に貧脳な自称インテリが強権著作権論を振り回し尖兵を務めている。これも一種の学んで余慶に馬鹿になる一例だろう。

 してみれば、これに待てよと問おうとしている吉村氏の感性が注目される。氏の感性は都の西北の杜で培われたのだろうか。そう問うてみたくなる。多くの学者が著作権森林ゾーンに足を踏み入れるや道に迷うて居る中で天晴れである。問題はかく認識されるべきだろう。

 2007.7.27日 れんだいこ拝

さぁ投票一揆へ向かおう。 れんだいこ 2007/07/28 21:00
 さて、明日はいよいよ選挙だ。政治への怒りを投票一揆でぶつけることができるか。それすらできない貧脳になってしまったのか、爪を隠していたのかが問われている。思えば、小沢のいっちゃんが、巻けたら党首辞任どころか議員を辞めると背水の陣を敷いたのが、安倍ののらくらに比べて鮮やかだったわな。ここ一番ではこういうたんかを切るのだという見本だな。しかし速いもんだ、投票日になってしまった。

 2007.7.28日 れんだいこ拝

参議院選挙雑感 = さざ波通信(一般投稿欄) こげぱん 2007/07/29 02:02
 参議院選挙雑感 = さざ波通信(一般投稿欄)
 ttp://www.asyura2.com/07/senkyo39/msg/649.html
 投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 7 月 28 日 12:46:39: mY9T/8MdR98ug

 ttp://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/

 参議院選挙に関して、大新聞の予測では、与党の過半数割れの可能性を報じている。先のことは分からないが、将来的に政権交代となったら一番困るのは「確かな野党」を掲げる共産党ではないだろうか。確かな野党から見れば、現在の民主党も自民と同じということで批判している。だから、仮に民主党が政権につけば、この確かな野党はそれに反対するであろう。共産党としては首尾一貫した立場なのであるが、今度は同じ野党陣営には、これまで民主党に対するよりもはるかに強烈に反対してきた自民党・公明党が加わるのである。それらの党と一緒になって、民主党内閣への不信任案などに同調するのだろうか。その不信任案が通って政権交代があり、自公政権が復活すれば、今度は不信任した筈の民主党と組んで野党共闘ということになる。国民から見れば何ともおかしな政党ということにならざるを得ない。こう見てくると、確かな野党なるものは、永続的な一党独裁政権のもとで成り立つ概念であることが分かる。きわめて皮肉な話ではあるが、共産党にとっては、現在の一党独裁体制が続いてもらわないと困るのである。

 --------- 以下省略 ----------

 「確かな野党」のおかげで自公逃げ切り、てなことになりませんよーに。(いや、そーさせないために投票には行くつもりですが)万が一自公逃げ切りの場合、MVPは志位、ってことか… トホホ…

 余談ですが、先日若かりし頃の宮顕をTVで初めて見ました。あの人相、誰かに似ているなー と考えているうちに思い当たりましたが、宮顕の人相はポルポトの人相に似ている気がします。両者の独善性、権力欲、粛清狂いが共通の人相となって出ていた、ということでしょうか?

Re:参議院選挙雑感 = さざ波通信(一般投稿欄) れんだいこ 2007/07/29 09:08
 こげぱんさんちわぁ。れんだいこはこれから投票に行って参ります。選挙区は決めております。比例区はまだ決まりません。投票権が3つほど欲しいです。ダイナモさんの指摘は「確かな野党論」の急所を皮肉っており面白いですね。

> 余談ですが、先日若かりし頃の宮顕をTVで初めて見ました。あの人相、誰かに似ているなー と考えているうちに思い当たりましたが、宮顕の人相はポルポトの人相に似ている気がします。両者の独善性、権力欲、粛清狂いが共通の人相となって出ていた、ということでしょうか?

 宮顕とか黒寛の人相は左派のそれではない。何か臭いが違います。むしろ当局側のそれです。しかし、よりによってそういう御仁が左派圏で神話的指導者として崇敬されています。馬鹿馬鹿しい限りです。日本左派運動の能力と理論の貧困さが、そういう俗説邪説を通用させています。れんだいこはそう考えております。

現実可能な処方箋 虫の息 2007/07/30 18:00
 錯乱師匠もパブ虎同志も草葉の陰です。今は、あなた様の寛容なサイトで独り言をぬかして遊んでおります。まずはお礼申し上げます。さて、参院では、まことに喜ばしいことに阿部政権に痛烈な批判がくだされました。

>より深刻な事は無力な護憲政党の前に、日米軍事同盟がどんどん強化されて行き、在日米軍基地が固定化、永久化されていく事である。>ttp://www.amakiblog.com/blog/

 天木直人氏の部ログの抜粋ですが、本当に同感です。れんだいこさんはこの現実にどのような処方箋をお持ちですか?バカサヨとかノウタリンとかのいらぬことは言わなくてよいから、具体的な、可能な、現実的な処方箋をお教えください。

Re:れんだいこのカンテラ時評315 れんだいこ 2007/08/01 17:20
 【2007参院選総括その1、議席動向】

2007.7.29日、第21回参院選が行われた。恒例によりこれを総括しておき後日の証とする。与党の安倍政権は改憲を正面から掲げて選挙戦に突入した。しかしながら実際には改憲論議に向かわず、年金失政、閣僚失言等々を廻る論戦に終始し、与野党いずれも改憲論争を避けたまま投票日を迎えた。自民党はオウンゴールを積み重ね、「自民の歴史的敗北、民主の大躍進、公明の初の敗北、共産の又もやジリ貧、社民のズル貧、国民新党の踏ん張り、新党日本の足がかり、9条ネット振るわず、女性党伸びず、新風、共生後塵拝す」という結果となった。以下、各党を総括する。

 自民党は、参院過半数維持の為に必要な自公両党64議席に対し、公明9となったことにより55議席が必要なところ36議席という結果になった。改選数の64を28減らすという記録的惨敗となった。森−小泉−安倍という旧岸−福田系の流れを汲む売国奴系政権が嫌悪されたことになる。

 自民党の敗因は次のところに現れている。18ある改選定数2以上の複数区で各選挙区の候補を1人に絞ったことにより全選挙区で1議席ずつ手堅く獲得した。しかし、埼玉、東京、神奈川、愛知という都市部4選挙区で民主党が2議席取ったのに比すれば防御的な戦いを余儀なくされていることになる。既にかっての自民党の磐石体制が崩れており、民主党がその地位につきつつあることが判明する。

 より深刻なことは1人区である。2001年で25勝2敗、2004年で14勝13敗、2007年で6勝22敗となった。このことは、1人区で自民党が民主党に勝てない時代に突入したことを告げている。従来、野党間分裂を尻目に自公候補が一人勝ちしていた構図が通用しなくなったという意味で深刻な事態を迎えることになった。

 比例区では13議席の確保にとどまった。2001年参院選20議席・2111万、2004年15議席・1679万、2007年13議席・1654万とジリ貧化しつつある。民主党に次第に差をつけられつつあり如何ともし難い流れにある。

 公明党は、手堅い常勝戦略にも拘らず初めて一敗地にまみれた。選挙区は、2001年5議席、2004年3議席、2007年2議席と推移しており、こたびは特に埼玉、神奈川、愛知で民主の2議席目の候補に競り負けするという事態に遭遇した。比例区も2001年8議席・818万、2004年8議席・862万、2007年6議席・776万と推移している。このところ頭打ち傾向を見せていたが、はっきり失速したこと否むしろ後退局面に入ったことを示した。小泉政権以来のウルトラタカ派路線への深のめりこみが反発を買い始めたものと思われる。創価学会末端信者の公明党離れが加速しそうな局面を迎えている。

 民主党は、改選前の32を59へと大躍進した。民主−国民新党連合による無所属候補を含めると60議席を優に越している。2001年38、2004年50、2007年59議席と推移している。1人区で22(民主系では23)勝6敗、複数区でも圧勝した。かって保守王国と云われた東北、四国の1人区で完全勝利している。2人区は自民と民主が分け合ったものの、3人区以上では民主が定番に位置し、更には公明党を押えて2議席取るという勢いを見せている。比例区でも段違いの第一党となっており、2001年8議席・899万、2004年19議席・2113万、2007年20議席・2325万票と推移している。御用評論家はそろそろ乗り換えたほうが賢明だろう。

 他方で、旧社共の場合、治癒し難しの感がある。度々の捲土重来呼号にも拘らず相変わらず後退し続けており、かといって執行部は何の責任も取らない。相変わらずのおざなりの政権批判に耽っている。安部政権に敗北責任を迫るなら、手前達の責任はどうなんだと言い返したくなるのはれんだいこだけだろうか。旧社共の腐敗は底無しであり自力更生能力は無い。左派戦線はもはや新左派系党派の登場によってしか挽回できないことをはっきりさせた。

 共産党は、選挙区で議席0、比例区では2001年4議席・432万、2004年4議席・436万、2007年2議席・440万と推移している。選挙区での議席ゼロ、比例区でのジリ貧という構図が確定しつつある。党中央は得票数が増えていることを自慢しており、つける薬が無い。その他相変わらずの弁明に終始しており処置無しと云える。

 社民党も、選挙区で議席0、比例区では2001年3議席・362万、2004年2議席・299万、2007年2議席・263万と推移している。かっての自社二大政党時代の面影は微塵も無い。共産党にも及ばないテイタラクを痛恨と感じる気配も無く福島社民党の限界を示したと云えよう。

 左派戦線糾合的意義を持つ9条ネットへの期待が集まっていたが、天木代表の送り込みに失敗するという憂目を味わわせられた。この後9条ネットがどうなるのか行方に関心が寄せられる。大胆に6.15共闘との共闘を始めとする左派連合共同運動の創出が望まれるのではなかろうか。

 国民新党はもう少し伸びても良かったが、案外と振るわなかった。選挙区で島根で勝利したほかは全員討ち死にした。比例区は1議席・得票数126万。しかし、選挙区での民主党の大躍進を支える裏方の役割を果たしており高く評価されるべきだろう。

 新党日本は田中代表の送り込みに成功した。比例区得票数177万票で国民新党を上回った。新風、共生、女性党は泡沫の域を出ることができなかった。以上を総評として、各局面の指標分析に向かうことにする。

 2007.8.1日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評315 れんだいこ 2007/08/01 17:50
 【2007参院選総括その2、戦記】

 こたびの参院選を一言で評すれば、「ヒメのトラ退治」であろう。もう一つ挙げるとすれば、松岡農相の怨霊が乗り移ったのか、後任の赤城農相の「赤木の山もこれまでか珍芸」であろう。頬に張られたの絆創膏姿こそこたびの選挙の行方を暗示した。

 最大の見所は、島根の亀井−岡山の姫井−香川の植松と云う出雲−吉備−讃岐とまたがる姫御前トリオが、参議院自民党会長の青木、同幹事長の片山、同幹部の真鍋の膝元を払い、見事切って捨てた。後世に残る姫御前のなぎなた払いであった。その象徴が岡山の「ヒメのトラ退治」であり、トラはヒメイをあげた。片山は元々はハト派系であるが、小泉政権の悪政にのめりこみ、地元の有力首相候補・平沼を袖にしてきた傲慢さと驕りのツケを払わされることになった。一時の栄華に酔い、元も子もなくす見本だろう。

 北海道2議席で、民主と自民が分けたが、新党大地の多原が今一歩及ばなかった。東北は民主が圧勝した。特に岩手での民主の磐石の圧勝は小沢の底力を見せ付けた。関東は、群馬で自民の山本が圧勝した以外は民主王国であることを示した。埼玉−東京−神奈川で、民主は2議席を確保しており、公明党が東京を除いて弾き飛ばされた。

 中部は、民主優勢の形で自民と分かち合い、愛知では民主が2議席取り公明党を退けた。北陸は、新潟で自民と民主が分けたが、民主は田中真紀子が応援した森が当選し、本命の黒岩が次点に泣いた。真紀子の底力を見せ付けた。1人区では森元首相の地元福井で自民が取った。それ以外は民主が抑えた。関西では民主と自民が分かち合い、大阪で公明党が食い込んだ。一人区では自民が和歌山を得た以外は民主が抑えた。

 中国では、広島で分け、自民は安倍首相の地元山口を押えたが、それ以外では民主が競り勝った。四国は、4県とも民主が押えるという快挙を記録した。かっての保守王国の面影は微塵も無い。九州は、福岡で分け、1人区では自民が大分と鹿児島を押さえ、それ以外を民主が取った。大分では野党乱立が自民党にトンビの油揚げを許しており、今後の教訓を残した。それに比べて、沖縄では全野党共闘が成立し、糸数が自民をなぎ倒した。これも教訓的であろう。

 以上から云えることは次のことである。民主−国民新党−社民党連合が、自公を相手に堂々と立ち回り否むしろ圧勝しつつあるということである。共産党の「確かな野党」戦略による野党分断をものともせず、民主−国民新党−社民党連合票が自民−公明−共産連合票を上回り始めたことを示した。これこそ、こたびの参院選の特徴であろう。恐らくこの流れは不可逆的で、これを押しとどめる如何なる手立ても無い。

 次に、公明党が選挙区で勝利できるのは東京、大阪以外には無くなったということである。この流れも不可逆的で、公明党は今後大きな頭打ち試練を迎えたことになる。それにしても70年代の花形であった共産党と公明党が揃いも揃って失速し始めており、新しい時代を予感させることになった。

 民主の勢いがどこまで続くか、これが時代のテーマとなった。護憲派と改憲派の党内論議が深まり、自民党よりも能力の高い党であることを示すことが期待されている。ハト派系民主としての自力発展こそが望まれているのではなかろうか。

 2007.8.1日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評315 れんだいこ 2007/08/01 18:34
 【2007参院選総括その3、自民党凋落の要因解析】

 自民党は何ゆえにかくも無残な敗北に追い込まれたのか。これを説明できる者がいないと思われるので、れんだいこが解析しておく。

 自民党は、1955年の自由党と民主党との大同団結以来、旧自由党と旧民主党、ハト派とタカ派、内治派と外治派、党人派と官僚派、帝大派と私大派、土着派と洋航派等々という様々な対立抗争軸を派閥化で調整し、共同して政局を乗り切り、政権与党の座を維持してきた。それは、類い稀なバランスの上に成り立つ高度な政治手法であった。

 この時代の自民党こそ世界史上稀な在地型社会主義性を持つ政治権力であり、その組織原則はこれこそ手本となる民主集中制であり、党内に異論異端を許容し、喧々諤々の議論の果てに大同団結するという理想的なものであった。

 日共が、自民党、民主党の雑居性を揶揄し、派閥を批判し、党内純化、一枚岩を自慢し、満場一致を誇り、分派禁止網を張り巡らす姿こそ極右的なネオ・シオニズム組織であることを示している。不幸なことに、この種の日共理論が持ち上げられ、自民党、民主党の雑居性が批判されているが、真実は逆だろう。

 そういう自民党の組織リズムが、ロッキード事件による一撃で狂わされた。当時のハト派の総帥田中角栄元首相が国策金縛り刑に遭わされ、その盟友大平派が孤軍奮闘するも及ばず、以降次第に現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義に好んで身売りすることにより権力を得た売国派勢力が伸張し始めた。1980年代初頭の中曽根政権が、1960年安保闘争により打倒させられた岸政権以来の売国タカ派系の雌伏20年ぶりの復権となった。

 以来、タカ派系が自民党内の支配権を握り、かってのハト派はタカ派の後塵を拝する政権巾着としてのみ延命していくことになった。これを仮に「ねじれハト派」と命名する。1980年代から2001年までの約20年に亙る時代は、タカ派と「ねじれハト派」の政権たらい回し時代となった。とはいえ、タカ派は無論「ねじれハト派」の誰が首相になろうとも、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の下僕としての御用聞き政治でしかなかった。この時代は政治史上、「失われた20年」と形容されるに相応しい。

 2001年、小泉政権が誕生した。この政権は、タカ派の小泉系と「ねじれハト派」とハト派の本家争いを演じてきた角栄の娘・田中真紀子の同盟により樹立された。小泉首相は田中真紀子を外相に起用し、同時に打ち出した様々な構造改革路線への期待も有り、政権発足当初は大いに支持された。しかし、小泉首相の出身派閥である旧福田派と旧田中派の歴史的怨念の根は深く、田中外相は様々に執拗にいたぶられた挙句遂に放逐させられた。

 タカ派系一色に純化した小泉政権は以降、云うこと為すこと国際金融資本帝国主義の言いなり下僕路線へとなりふり構わず突っ走って行くことになった。ところで、小泉政治にはある種の代わった作風があった。一言で言えば暴力レイプ型である。小泉政権は政権を長期化させるに従い、暴力レイプ型政治に染まっていった。小泉政治の特徴は、1・国際金融資本帝国主義の言いなり下僕路線、2・ハト派系利権官僚機構のタカ派系への改組、3・ハト派は無論「ねじれハト派」をも組み敷くことにあった。これを暴力レイプ型の恐怖政治で押し進めたところから、党内秩序は大混乱した。

 郵政民営化騒動がその大乱闘の場となった。これにより、我慢に我慢を重ねてきた「ねじれハト派」と土着系タカ派が除名追放され、刺客を送り込まれ、造反派の多くが葬られた。しかし、しこりが深く残ることになった。一部は民主党に接近し、一部は自民党へ舞い戻り、あるいは無所属に居残り、いずれにせよ自民党内を陰に陽に揺さぶっている。こうした状態のまま2007参院選を迎え、大惨敗を喫した。

 小泉後継として登場してきた安倍首相の思考は硬直化している。占領下のマッカーサー式押し付けであるという理由で憲法改正を狙うが、今現在の憲法改正も又ハゲタカ占領下の押し付け的要請であることに口を閉ざしている。れんだいこは、キリスト教愛国主義的なマッカーサー路線の方が、ユダヤ教パリサイ派的なハゲタカファンド路線よりも「よりまし」ではないかと思っている。安倍は、ユダヤ教パリサイ派的なハゲタカファンド路線の方が国益にかなっていることを論証しなければならない。この論証抜きの憲法改正は許されまい。

 もとへ。この自民党に再生能力はあるだろうか。あるとすれば、かってのハト派の復権、そのハト派とタカ派のかってのような同居であろうが、れんだいこの見るところ、党内に残っているのは「ねじれハト派」であり、この連中は右顧左眄する能力以外の能力が無い。よって復権能力を持たない。党内は、小泉治世下でタカ派に純化されており、その度合いをますます深めつつある。皮肉なことに、そうなればなるほど自民党の魅力を減ずるという関係になっており、こたびの選挙はそのことを実証した。このもつれをほぐすことは容易ではなく、あるとすれば唯一小泉新党を立ち上げさせ、ネオ・シオニズム派を体よく追い出すことであろう。

 しかしながら、小泉新党はできない。なぜなら党を立ち上げたり運営する能力が無いからである。ネオ・シオニズム奥の院はそのことを承知している。故に、彼らは自民党に寄生し続け、生き血を吸っていき、ひたすら党中央の座いすを占拠し続けようとする。しかし、それは亡びの道である。哀れなのは公明党である。よりによって、こういう連中と一蓮托生したとは。自業自得と云うべきだろう。

 それにしても、小泉−飯島派を持ち上げ、名宰相として喧伝してきた自称インテリ評論家どもよ、手前達の言説は既に克明に記録されている。今後、君たちの言説の責任が問われることになる。自己批判抜きに間抜け顔を晒せるとは思うなよ。人様に自己責任を説教してきた以上、覚悟しておけ。

 2007.8.1日 れんだいこ拝

アメリカ下院について 王太白大佐 2007/08/02 20:04
 最近、アメリカ下院で「日本は従軍慰安婦に謝罪しろ!」という決議がなされましたが、アメリカに他人のことを言う資格があるのかと思います。在韓米軍に韓国人の慰安婦を使い、太平洋戦争末期の沖縄戦では、捕虜にした日本軍の慰安婦をレイプし、湾岸戦争ではイラクに劣化ウラン弾を撃ち込み、ここのサイトでも指摘されてるように、グアンタナモ基地で捕虜を虐待している始末・・・。他人のことを言う前に、まず自分が謝れという感じです。私は安倍が嫌いですが、安倍には、こんなむちゃくちゃな要求には屈してほしくないです。

Re:れんだいこのカンテラ時評316 れんだいこ 2007/08/02 20:20
 【朝青龍出場停止処分騒動】

 大相撲横綱・朝青龍が来期二場所続けて出場停止処分を食うという「朝青龍出場停止処分騒動」が持ち上がっている。マスコミが相変わらず正義のペンと解説を能弁にまくし立てている。れんだいこは意見が違うので発信しておく。

 れんだいこは、朝青龍(26歳、本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ、モンゴル出身)の人となりは知らない。テレビで見るだけのことであり、先の名古屋場所で21回目の優勝を遂げ名横綱の実績を積み重ねつつあることを知るばかりである。

 その朝青龍が、「腰の疲労骨折と左ひじの靱帯(じんたい)損傷で全治6週間」との診断書を添えて夏巡業の休場届を協会に提出し、この間モンゴルに凱旋帰国していた。この時サッカー元日本代表の中田英寿氏らと身も軽やかに嬉々としてサッカーに興じていたことが発覚した。

 2007.8.1日、日本相撲協会は東京・両国国技館で緊急理事会を開き、朝青龍を9月の秋場所と11月の九州場所の2場所出場停止と減俸30%(4カ月)、この日から九州場所千秋楽(11月25日)まで謹慎処分にすることを決めた。師匠の高砂親方(元大関・朝潮)も、監督不行き届きで減俸30%(4カ月)の処分となった。同協会によると現役横綱の出場停止、減俸は初めてであり、異例の厳罰処分と云える。

 日本相撲協会もマスコミもこぞって、「横綱としてあるまじき朝青龍の非行、軽率」を批判し、「強いだけの力士で良いのか」論に依拠して横綱としての品位と義務と責任を説いている。れんだいこは、この論調は違うと思う。最近流行りの気難しい且つ安上がりの正義批判に便乗しているだけではないかと思う。よって以下棹差す。

 日本相撲協会も日本のマスコミも、横綱の品位を頻りに説き、横綱の出場停止処分を正当とするが、横綱をしてそのような処分に付すことこそ横綱という地位を侮辱し、ひいては相撲界の品位を貶める椿事ではなかろうか。裏にどういう事情があるのか知らないが、やって良いことと悪いことが有り、横綱の出場停止処分なぞその域を越えていると云うべきではなかろうか。

 なぜこの式の正義が罷り通るのか。それは最近の風潮に関係があると見立てる。ネオ・シオニズム・イデオロギーが主流となっている現代らしい説法であり、1970年代の在地型社会主義とも云うべき戦後保守本流の角栄−大平同盟が覇権を確立していた時代には登場しなかった正義ではなかろうか。無内容なところに拘り、正義を強調し、肝心要のことはさほど重視せず言及しないという倒錯事象ではなかろうか。

 この種の病的正義が横行し始めている。例えば、著作権「要通知・要承諾」強制論も同じだ。ごく最近の「川内による森歌わせない事件」も然りだ。マスコミは、前者の例では「要通知・要承諾」当然論に与し、後者の例では川内にエールを贈っている。しかし、本当にそうだろうか。れんだいこには、単に気難しく云い始めているだけの気がしてならない。何事も本筋が第一に評価されるべきで、本筋以外はなるべく穏便に済ますがよろしいのではなかろうか。今はその逆の方にばかり関心が向けられている。

 分かり易く云うと、相撲取りは土俵の上で良い相撲を取り、ファンをうならせるのが仕事であるべきだ。歌手は聞かせて何ぼの商売だ。スポーツ選手は見せて何ぼの商売だ。ところがいけない。今は、それらが当たり前とされ、次の要件である1・品行方正であること、2・清廉潔白であること、3・組織に従順であることの三つが異様に重視されている。しかし、それらがいくら間に合っていても下手な相撲取り、下手な歌手、下手な選手では意味無いのではないのか。まずは本業精進充実であり、三つの要件は、そうであれば望ましいと云うぐらいにして手加減評価されるべきではないのか。

 このことは政治にも当てはまる。かってクリーン三木と呼ばれるへなちょこ首相が居た。徳島出身であるが地元に何ら寄与せず、政界でいつもキレイゴトばかり云いながらバルカン政治家としてウグイスの谷渡りで名を馳せた。彼は死して何を残したか。日本の国益にかなうものは殆ど無い。ロッキード事件で異様にはしゃぎ、ネオ・シオニズム奥の院の指令に忠実に立ち回っただけの履歴を晒している。マスコミは、よほどウマが合ったのか、クリーン政治家として今も称えている。

 果たして、そういうクリーンが本当に素晴らしい事だろうか。そう問う姿勢が微塵も無い。それに比して、悪の権化として悪し様に云われ続けている角栄の生き様と業績を見よ。今日曲がりなりにも日本が経済的余力を残しているのは、角栄ご一統のたゆまざる社会基盤整備のお陰ではないのか。彼は企業家であり事業家であった。政界に進出することで、日本を企業と見立て、その経営事業に邁進した。批判されるべきことよりも、評価されるべきことが断然多い。

 その角栄を悪口三昧した口調が、著作権「要通知・要承諾」強制論、「川内による森歌わせない事件」、「朝青龍出場停止騒動」にも乗り移っている気がしてならない。れんだいこに云わせれば、それらは安上がりの正義論でしかない。そういう軽薄な正義を尊び、本当の正義に向かわないのが今の時代の風潮のような気がしてならない。

 補足すれば、物事の考え方、行い方には常に幾通りも方法が有り、どの道を通っていくのが望ましいのか常に吟味しなければならない。これが絶対などと云う論法や正義や方法は滅多にない。そうなのに、いとも容易く一つの型の論法、正義が押し付けられ、それに提灯する者が多い。翻って考えてみるのに、我々は、そういう偏狭な論理と闘っているのではなかろうか。

 こう考えずに、「一つの真理」を振りかざし、云うこと聞かなければ刺客攻めにあわす手法に耽る馬鹿者よ、それにソウダソウダと相槌を打ち提灯する幸せ者よ、れんだいこがこれから君たちの不正義の成敗に向かう。心しておけ。

 もとへ。朝青龍をして本国凱旋を許さない仕組みこそおかしいのではないのか。英気を養って土俵の上で良い相撲をとらせることが、横綱に対する配慮ではないのか。日本相撲協会よ、国技まで偏狭な論理に染まらないでくれ。日本の美徳はある意味でおおらかさにある。この伝統を育んでくれ。その上で、朝青龍に暴力癖があるなら、いけないことはいけないとして対処してくれ。しかしなぁ、横綱を出場停止に追い込むなら、同時に理事長辞任の覚悟で言い渡せ。これが道理というものだろう。

 それはそうと、小沢が、この選挙に過半数取れず負けたら党首を降りるのみならず議員も辞めると背水の陣を敷いたのはかっこよかったなぁ。他の党首のちまちました弁明ほど醜いものは無い。確かにオウンゴールで
拾った面もあるが、あの決意が度肝を抜いて投票に向かわせたのも事実だろう。評するならこういうところを評したいと思う。

 2007.8.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評316 珍県民 2007/08/03 19:13
> 【朝青龍出場停止処分騒動】

>  もとへ。朝青龍をして本国凱旋を許さない仕組みこそおかしいのではないのか。英気を養って土俵の上で良い相撲をとらせることが、横綱に対する配慮ではないのか。日本相撲協会よ、国技まで偏狭な論理に染まらないでくれ。日本の美徳はある意味でおおらかさにある。この伝統を育んでくれ。その上で、朝青龍に暴力癖があるなら、いけないことはいけないとして対処してくれ。しかしなぁ、横綱を出場停止に追い込むなら、同時に理事長辞任の覚悟で言い渡せ。これが道理というものだろう。
 
 そのとおり。相撲協会は八百長問題をめぐって週刊現代を刑事告訴しておりますが、原告に名を連ねる当事者のなかでも最高位である朝青龍が、暴力癖がある上に、偽の診断書(医師の違法行為)を提出して財団法人としての正式行事(興行ではなく福祉事業)に参加しなかったというのですから、朝青龍以下力士の証言は裁判では信用できないということになるでしょう。
 今回の協会の処分理由は、あくまでも無断帰国であり、仮病というわけではありません。仮病を認めると医師も刑事告訴しなければなりませんから。逆にマスコミが反応しているのはサッカーをしたことであり、医師法違反を追及する気はまったくないようです。

 しかし、渡航の自由は基本的な人権に基づくものであり、旅券やビザなどの手続きさえ整っていれば、これを差し止めることは身柄の拘束に等しく、外務大臣以外、ましてや雇用者による懲罰として外国人の帰国を禁止することは明らかに人権侵害、不当労働行為に当たるはずです。
 もし、日本人が、朝青龍や相撲協会に「正義」を求めるなら、八百長裁判で偽証しないこと、つまり八百長があったならそれを認めさせるべきです。また宮城野親方の録音テープに関して宮城野親方にも偽証させないことです。
 相撲協会(=日本人全般?)の姿勢は、八百長はOK、無断帰国は駄目、人権侵害はOK、仮病は駄目、偽診断書はOK、サッカーは駄目、という奇妙奇天烈なものです。

 もし、どうしても朝青龍を処分したいなら大関に降格するべきでしょう。そして二場所連続優勝させて、来年の初場所で横綱に復帰させることです。これなら協会の内規だけの問題であり、人権侵害や不当労働行為には当たらないでしょうから。

Re:れんだいこのカンテラ時評316 れんだいこ 2007/08/04 09:13
 珍県民さんちわぁ。

>  相撲協会(=日本人全般?)の姿勢は、八百長はOK、無断帰国は駄目、人権侵害はOK、仮病は駄目、偽診断書はOK、サッカーは駄目、という奇妙奇天烈なものです。

 この捉え方は面白いですね。

>  もし、どうしても朝青龍を処分したいなら大関に降格するべきでしょう。そして二場所連続優勝させて、来年の初場所で横綱に復帰させることです。これなら協会の内規だけの問題であり、人権侵害や不当労働行為には当たらないでしょうから。

 これはどうでせうか。横綱には降格が無い、全盛時代を過ぎれば辞めるしかない力士の頂点の地位で、これはこれで良い規定だと思います。朝青龍が大関以下なら格下げ処分で対応するのも一方法ですが、横綱ですからねぇ。

 れんだいこは、国技相撲の在り方が国家日本の在り方に通底しているとする見立てで、相撲界に関心を持っております。しつかりしてくれんと困るんだわ。ネオ・シオニズム的強権、得手勝手な懲罰論理に汚染されてもらいたくないんだ。自由、自主、自律による凛とした範になる稽古世界が理想だな。恐らくかってはあったんだ政治の世界にも。

Re:れんだいこのカンテラ時評316 珍県民 2007/08/04 16:59
 ご返信ありがとうごじゃます

> >  もし、どうしても朝青龍を処分したいなら大関に降格するべきでしょう。そして二場所連続優勝させて、来年の初場所で横綱に復帰させることです。これなら協会の内規だけの問題であり、人権侵害や不当労働行為には当たらないでしょうから。
>
>  これはどうでせうか。横綱には降格が無い、全盛時代を過ぎれば辞めるしかない力士の頂点の地位で、これはこれで良い規定だと思います。朝青龍が大関以下なら格下げ処分で対応するのも一方法ですが、横綱ですからねぇ。

 昭和25年の初場所では、羽黒山など三横綱が揃って途中休場し、相撲協会は「横綱が二場所連続負け越した場合は大関へ降格する」と宣言しました。これは世論の反対(だけではないが)で結局撤回され、後の横審発足へとつながるのですが、横綱の降格というのは必ずしもタブーというわけではないと思います。
 また、現在横綱昇進の資格は大関で二場所連続優勝とほぼ決められており、吉田司家の免許状が要るわけでもありません。ならば降格があっても悪いことはないでしょう。
 
 とは言っても、これはあくまでも「どうしても朝青龍を処分したいなら」という話であり、無断で帰国したことで処分などとは人権侵害で違法行為と考えておりますのは既述のとおりです。
 もし巡業に出なかったことについて処分するなら、それは協会の勝手ですが、協会の受ける不利益とは、朝青龍が巡業に参加しないと客が不満だからであり、さらに本場所の出場停止で客が喜ぶと思うのでしょうか。
 朝青龍が大関に降格すれば、必死になって連続優勝を狙うでしょうから(八百長だとしても)相撲は面白くなり、客が喜ぶから、協会の利益になります。
 巡業をサボったという意味では、罰金というのも妥当であり、一回ごとに2千万くらい罰金を取れば、怪我をしていても顔見世くらいはするようになるでしょう。


>  れんだいこは、国技相撲の在り方が国家日本の在り方に通底しているとする見立てで、相撲界に関心を持っております。しつかりしてくれんと困るんだわ。ネオ・シオニズム的強権、得手勝手な懲罰論理に汚染されてもらいたくないんだ。自由、自主、自律による凛とした範になる稽古世界が理想だな。恐らくかってはあったんだ政治の世界にも。

 大相撲の千秋楽には「君が代」が演奏されますが、本来「君が代」という歌は、万歳の芸人が呼ばれた家の主人をヨイショする歌ですから、オリンピックの表彰式などに流れますと非常にピッタリ来る、つまり「君が代」の「君」とは、最近で言えば荒川静香というイメージです。つまり大相撲の表彰式で演奏すると「君」は優勝力士ということになります。まさか北の湖理事長でもないでしょうから。
 大相撲に外国人を入れることについては、賛否があるようですが、現に国際化してしまった以上、優勝力士を「君が代」で讃えるだけでなく、母国の国歌を演奏することも検討すべきではないでしょうか。
 「品格」とか「礼儀」とか、そこから始まるような気もします。
 現在のような、外国人力士抜きでは成り立たない大相撲なのに、外国人力士に対して敬意もない、確かに日本国家を映す鏡になっていると思います。

Re:れんだいこのカンテラ時評317 れんだいこ 2007/08/04 17:02
 【日共党中央の飽くことなき責任転嫁論考】

 阿修羅情報で、2007・7・17日付け「共産党前進には『活動量アップが課題』/政界関係者ら注目」(ttp://www.asyura2.com/07/senkyo39/msg/1293.html)記事を知った。れんだいこは、余りにもアホらしくてこのところ日共批判を控えている。しかし、本件記事は嫌らしさが過ぎるのでコメントしておく。

 日共は、2007・7・29日の第21回参院選たけなわの頃のこの日、一種のヤラセ記事で票を掠め取ろうとしていたことが分かる。記事によると、永田町の政界関係者や政治ジャーナリストの間で、参院選での共産党の善戦が予想されていると云う。読売新聞の橋本五郎特別編集委員が、「今回の参院選で共産党が議席を増やす可能性もありますね」と語っていることを紹介している。その他、政治記者OBや政治評論家が集まった会合でも、「共産党が議席を増やしそうな世論の動きが見られる」との見方があることを紹介している。

 日共は、ろくでもない評論家の発言を紹介して何を狙おうとしていたのだろうか。その魂胆は容易に見て取れる。つまり、高まりつつある民主大躍進ブームに棹差そうとして、権力側が対抗馬として共産党を売り出そうとエールを贈っているに過ぎない。日共党中央はこれを真に受けて、共産党善戦説を打ち出した。

 日共党中央がこのところしきりに打ち出している「確かな野党論」の背景事情が透けて見えてくるではないか。結果的には、日本人民大衆の英明さで、当局と日共党中央の願望むなしく、民主の大躍進、自民の大凋落、公明敗戦、日共ジリ貧、社民ジリ貧という歴史的判断を下した。

 日共よ、不明の至りとお詫びの一言でもしたらどうか。残念ながら、性根が腐り果てていてる日共党中央は、この種の恥かきには頬かむりを決め込むことに長けている。それは毎度のことなので構わないが、見逃せないのは後半部分の「やはり勝つには活動量だ。いまの共産党には往時の勢いが見られない。すべては『頑張れば…』道が開くということだ」のくだりである。日共党中央は一貫して、党勢が伸びないのは下部党員の活動力に責任があると云い続けてきている。これは本当だろうか。いつまで許される言い訳だろうか。

 或る評者は、れんだいこ同様に「この記事では『活動量アップが課題』としているが、果たしてそうなのか」と問い、なんと結論を「私はマスコミの影響が今回大きく働いたと思う」としている。こったら馬鹿なすり替えを許してよいだろうか。当人はいたってまじめにそう考えているようであるが、れんだいことは思想が合わない。

 この評者は、日共の見解がもう少し大きく取り上げられれば、人民大衆は蒙を啓き日共に投票するようになるとの仮説に足っているようだが、エエカゲンにせいよ。日曜討論番組なぞで、日共見解は結構聞かされているわい。いつも重箱の隅をつつくような正義を開陳しているではないか。例えば、リストラ問題が課題のときに、残業手当がもらえないのはオカシイなどと頓珍漢な話に横振りしているではないか。「確かな野党論」で、天上天下唯我独尊しているではないか。これ以上何が足りないというのか。

 以上、党中央にも、或る評者にも少々あきれたのでコメントしてみた。なぜズバリ、党の方針と指導に問題があるのではないのかとする方向に目が行かないのか。あらゆる指標が、共産党の変調理論とそれに基づく方針と戦略戦術に疑問を呈しているのではないのか。安部政権に責任を問うなら、同様に手前の党でも責任問題を論ずるべきではないのか。

 自らは責任を取らないまま、他党と政府に関しては厳しく責任を追及する。手前がやられる番になると金切り声を上げる。これを平気でやる感性に対して、人民大衆は辟易しているのではないのか。他にこれといった左派政党が居ないからジリ貧ながらも社民党を上回る票を取っているだけで、底は浅いのではないのか。


 興味深いことは、自民党を独裁化しつつある旧福田ー森派三代にわたる政権が、このところ妙に日共流党運営に学び、手法を取り入れようとしていることである。このままいくと常に党議拘束強権を振り回し、反対派を締め出し、刺客を送り込み、一枚岩の満場一致体制に向かうことになるだろう。森ー小泉ー安部政権は、日共が宮顕絶対支配に向かう過程でやってきたことを、今頃実践しつつある。愚かなことでは有るが、貧すれば鈍すの格好例だろう。

 それと、連中と日共党中央は案外と近い関係にありそうだ。現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の御用聞きという線で見ればメダルの裏表でしかない。通りで手法が似てくるわけだ。れんだいこ史観によればそういうことになる。

 2007・8・4日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評316 れんだいこ 2007/08/05 09:11
 珍県民さんちわぁ。

>  昭和25年の初場所では、羽黒山など三横綱が揃って途中休場し、相撲協会は「横綱が二場所連続負け越した場合は大関へ降格する」と宣言しました。これは世論の反対(だけではないが)で結局撤回され、後の横審発足へとつながるのですが、横綱の降格というのは必ずしもタブーというわけではないと思います。

 これは初耳です。勉強になりました。相撲界のこと詳しいですねぇ。

>  大相撲の千秋楽には「君が代」が演奏されますが、本来「君が代」という歌は、万歳の芸人が呼ばれた家の主人をヨイショする歌ですから、オリンピックの表彰式などに流れますと非常にピッタリ来る、つまり「君が代」の「君」とは、最近で言えば荒川静香というイメージです。

 この指摘も面白い。勉強になります。れんだいこ的には君が代の君を君主と訳すのではなく、あなた君の君、人民大衆と理解操作すればその悠久を称えている歌であり、そう目くじらするほどのことではないと考えています。歴史的事情として近代天皇制のアジア侵略の歴史が有り、君が代が靖国神社同様に政治利用されてきた経緯があり、その総括が関わってややこしくなっております。

 が、君が代は君が代であり、君が代自体に責任を求めることはないという考えが成立すると思います。「本来「君が代」という歌は、万歳の芸人が呼ばれた家の主人をヨイショする歌」という観点は貴重ですね。

We Shall Overcome!   如往 2007/08/06 13:49
 れんだいこさん、こんにちは。

 しばしば新左翼の活動家からは闘争歌とするには茫漠としていて軟弱に過ぎると揶揄されましたが、“We Shall Overcome!(勝利を我等に)”は今も尚私の愛唱歌であることに変わりありません。
 8月4日、ベ平連創設の中心人物であった故小田実氏の告別式に参列して来ました。氏について語るとき、75年の生涯でひと時たりとも青年の気概を失わなかった人だろうと想像することにおそらく誰も異論がないのではないでしょうか。そして、一片の不誠実をも容赦しない、射るような鋭い眼光のその奥には氏特有の万人に向けての汲めども尽きない温かさが秘められていたことが往時の新鮮な印象のそのままに心に浮かんで来ました。日本は、否、世界は、反権力運動の巨星の一つを失ったのだと、そんな思いにさせられた葬儀でした。

 また、会いましょう。

Re:れんだいこのカンテラ時評317 れんだいこ 2007/08/07 02:05
 【れんだいこの小田実追悼】

 如往さんちわぁ。ちょっと酔眼なままにあるいは酔眼故に書かせていただきます。

 ベ平連創設の中心人物であった故小田実氏の告別式に参列したとのことご苦労様です。「日本は、否、世界は、反権力運動の巨星の一つを失った」とまでは高く評価しませんが、良心的な市民主義活動家の有能なかってのリーダー、精神的支柱を失ったのは事実でせうね。

 れんだいこは、学生時代、べ平連運動をあまり高く評価していませんでした。それは多分に日共系の論法に汚染されていたからです。当時の日共指導者の宮顕は、この時もべ平連運動に敵対し終始冷や水を浴びせていました。(その例証は省きます)しかし、今翻って思うのに大変貴重重要な働きをしていたと思い直しております。少なくとも、あの時点で、既成社共運動に何の期待もせず別の形の左派運動を展望したのは卓見でした。既成社共運動が体制内に飼われていることを知れば知るほど対蹠的にそれに反発したべ平連運動の良さを感じます。

 そのべ平連に限界があるとすれば、既成社共運動に幻滅することで党派的な政治運動そのものを否定し過ぎたのではないか、既成社共運動の評価と政党運動そのものの評価は別の物差しでせねばならぬのに混同してしまった。故に党派運動ではない市民運動を展望し過ぎたのではないかと思っております。

 どういうことかというと、市民運動は独自の運動体として機能すべきで、それは政党運動を排除しない、或る時は政党の下僕となり或る時は政党運動をも指導するという自由自主自律的な在り方を目指すべきではなかったか。丁度全共闘運動が党派に属さずの指導者達をヘッドにしていたように。

 全共闘運動は結局は8派連合の重みに耐え切れず分解しましたが、在り方としては高等にして理想的であったと思います。べ平連も、小田氏らが党派を寄せ且つ組み敷くような関係で運動展開すればもっと良かったのではなかろうか。但し当時の情況からして有り得なかったのかも知れない。

 けれども理論上はそういうことが云えると思います。政党運動を排除せず、それらをも巻き込むもっと上等な市民運動の創出と云うのは今もテーマで有り続けているのではなかろうか。それはリーダーが無所属であるべきというのを意味しない。特定党派の代表が市民運動の代表であっても一向に構わない。問題は、そのリーダーが見識を発揮させ、幅広く目配りし、市民運動も参加党派の内実をも質的に高めるような英明な指導ができるかどうかにある。

 補足すれば、党派連合になると無所属にされる、党派の代表なのに無所属で出馬するというのは日共流で姑息です。我々が目指すべき運動は、あくまで党派を押し出してなお且つ他の党派が相乗りする共同戦線であり、或る時はA党派が代表になり或る時はB党派が代表になるべきではないでせうか。それは選挙でも同じです。民主党と国民新党と社民党が共同候補を立てた時、無所属で出る必要は一切無いと思います。現実は無所属で出るような変な決まりがあるようです。それは日共流に汚染されているのだと考えます。今時の日共から学ぶべきものは何一つ無い、こう弁え全て一から創造すべきです。これもいつか言いたかったことです。

 もとへ。そういう限界を持ちながらも、小田氏は日本左派運動にルネサンス的な自由自主自律的な在り方を提起し、それなりに実践しました。当時のベトナム反戦運動に多大な寄与をしました。実によくやったと思います。惜しむらくは、べ平連という名称に関係してか、ベトナム反戦運動一本に終始してしまったことです。これは小田氏の責任と云うより、あれはあれで良く、次に続く者が次の政治課題を見つけての共同戦線運動を創出できなかったことです。それは恐らく共同戦線理論の未熟から抑止されているのだと思います。

 しかし気づけばよい。気づいたところから積み木していけば良い。崩されても次第に賢くなり強く丈夫なスクラムになる。何事もやらねば始まらない。そういう意味で新たな小田実運動を創出することこそ真の弔い手向けになるのではないでせうか。小田さんに合唱

 2007.8.7日 れんだいこ拝

Re:【れんだいこの小田実追悼】 如往 2007/08/08 02:55
 れんだいこさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
 巨星とは謂えども、おそらく周囲に衛星を持たなかったのが小田氏の現実であったと受けとめています。またそれが反権力・反体制ジャーナリズムの限界性を表象していることは間違いないでしょう。しかしながら、べ平連が当時の日共や既成左翼以外の人達が抱懐していた問題意識の受け皿を提供していた事実は否定できないと思っています。


 >そのべ平連に限界があるとすれば、既成社共運動に幻滅することで党派的な政治運動そのものを否定し過ぎたのではないか、既成社共運動の評価と政党運動そのものの評価は別の物差しでせねばならぬのに混同してしまった。故に党派運動ではない市民運動を展望し過ぎたのではないかと思っております。

 社会問題を政治問題化して問題解決を図っていくためには、やはり当事者意識の形成ばかりではなく当事者能力の確立は必須条件になるでしょう。たとえその主体的な立場を担うことまでをも眺望していなくとも、べ平連にとって主張の重層する部分での既成政党の政治運動を支援することで当事者能力の一端を担うことは可能だったと想われます。しかし、そうできなかったのはあの時代が醸し出していた実存主義的な空気を捉える感受性において、べ平連が新左翼運動の方により同質性を感じていたためではないでしょうか。

 >補足すれば、党派連合になると無所属にされる、党派の代表なのに無所属で出馬するというのは日共流で姑息です。我々が目指すべき運動は、あくまで党派を押し出してなお且つ他の党派が相乗りする共同戦線であり、或る時はA党派が代表になり或る時はB党派が代表になるべきではないでせうか。それは選挙でも同じです。民主党と国民新党と社民党が共同候補を立てた時、無所属で出る必要は一切無いと思います。現実は無所属で出るような変な決まりがあるようです。それは日共流に汚染されているのだと考えます。今時の日共から学ぶべきものは何一つ無い、こう弁え全て一から創造すべきです。これもいつか言いたかったことです。

 妥協点ではなく、あくまでも共同戦線を張っていくための一致点を探ろうとしていくものでしょう。無所属では一致点が曖昧になりかねず、一致点の象徴となるような人物や党が代表して候補者になればよいとするのがれんだいこさんの論旨だと諒解しています。

 >もとへ。そういう限界を持ちながらも、小田氏は日本左派運動にルネサンス的な自由自主自律的な在り方を提起し、それなりに実践しました。当時のベトナム反戦運動に多大な寄与をしました。実によくやったと思います。惜しむらくは、べ平連という名称に関係してか、ベトナム反戦運動一本に終始してしまったことです。これは小田氏の責任と云うより、あれはあれで良く、次に続く者が次の政治課題を見つけての共同戦線運動を創出できなかったことです。それは恐らく共同戦線理論の未熟から抑止されているのだと思います。

 予想はされていたものの、70年の沖縄反戦デーを契機とするべ平連の離脱をはさんで分派闘争が顕著になり、71年の半ば頃には新左翼の分裂が決定的なものとなりました。特に「6.17闘争」(戦後学生運動第9期その2 ttp://www.gameou.com/~rendaico/sengogakuseiundo5.htm に詳しい)の動員では会場は明治公園と宮下公園とに二分され、以前には熱気に満ちながらも整然とした中でデモの位置付けを確認し合ったはずの集会は、各々の会場内にてもデモの進路等に絡み内輪揉めが生じては都内各地で四分五裂のゲリラ的な戦いを余儀なくされました。
 それでもべ平連が新左翼のシンパサイダーであることには変わりありませんでしたし、その後も其々が情況への関わり方を模索すべく個人やグループの有志達による小規模な学習会がもたれてもいました。けれども、共同戦線の構築までをどの程度展望できたのか主体も対象も不定立な状態におかれたべ平連にとって自ずと限界があった実情は否めないと想われます。
 
 原爆記念日や終戦記念日と、そして盂蘭盆会が近いためのなのか、小田氏の葬儀は私のかなり覚束なくなった40年近く前の記憶を蘇えらせてくれることになりました。そこで、心を新たにして、“We shall overcome.We shall overcome.We shall overcome some day.Oh,deep in my heart,I do believe.We shall overcome some day.”

 また、会いましょう。


Re:Re:【れんだいこの小田実追悼】 れんだいこ 2007/08/09 09:28
 如往さんちわぁ。何やらバタバタでようやくパソコンの前に坐ることができました。

 何がしか声を上げ、運動を組織できた小田氏と何も出来ていないれんだいことの間には雲泥の差があります。こう捉えるから、れんだいこは、小田氏を良く評価しようと思うことはあっても逆はありません。れんだいこのもう一つの興味は、ベトナム戦争に於いて我々は何ゆえ抵抗派に共鳴したのかということにあります。結論は、日本人とベトナム人にDNAの類似性に有り、日本人は同胞がやられている感覚で、居ても立ってもおられず支援したのでないでせうか。れんだいこはそう分析しております。

 思えば、米英ユ勢力に対して敢然と戦い、一方的にはやられなかった稀有の事例として日本とベトナムの経験が有り、両者のDNAが一致している。そういうことになります。この系統は比較的頭脳が良いのだ、れんだいこそう思っております。次に、もう一つの敢然とした戦いが現在中近東で行われており、イスラムがこれを担っている。イスラムの歴史的戦いであり、能力が問われていると思っております。こういう感じ方はれんだいこ特有かも知れませんが。

 残念ながら、そのイスラムの戦いに、日本が米英ユ勢力側に加担して支援活動していることです。政治がしっかりしていればこういうことはしないはずですが、米英ユ勢力側につくことが日本の生き残る道、国際的正義だと扇動する読売が居て小泉が居て安倍が居る。ネオ・シオニズム派の庇護の下で権力を得ているお調子者が国策を危めている、れんだいこはそう捉えております。

 小沢がテロ対策特別措置法の延長問題で「直接的に安保理決議で承認されたものではない」、「日本の平和や安全と関係のないところで、米国との共同の活動はできない」と反対姿勢を示しました。旧社共の場合は犬の遠吠えでしかありませんが、次期政権を担いそうな民主党党首の見解ですから迫力が違う。参院選効果の賜物でせう。政治が少し面白くなりました。れんだいこは注視しております。というようなことで又。

 2007.8.9日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評318 れんだいこ 2007/08/09 20:12
 【アンネの日記真贋考】

 今日8.9日は長崎原爆投下命日である。新潟地震の際の柏崎原発の放射能汚染も発覚しており、何か原水禁運動に関係したことを書きたかったのだけれども、なぜだか「アンネの日記真贋考」を記す。

 最近「紫霄閣(ししょうかく) 歴史の底流と人間の本質を探る」の「嘘とペテンと陰謀だらけ・英米イスラエル報道」の中の「 4−2.日本で大人気のアンネの日記は低レベルの宣伝用フィクション」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_annnenonikki.htm)を読む機会を得た。短いのでこれを転載しておく。

 ・ついでに申し添えておくと、ホロコーストと組み合わせて宣伝されている「アンネの日記」
  は、嘘と真実をごちゃまぜにしたフィクション。宣伝材料としては余りにレベルが低いので、
  欧米のまともな研究者は全く相手にしていない。

 ・自筆原稿を徹底して隠蔽
 ・父親オットー・フランクは1980に死ぬまで、自筆原稿の公開を拒否。テレビに登場
  しても、自筆原稿にはフォーカスさせず。遺言でオランダ国立戦時資料研究所に
  寄贈された後も、実質未公開。

・原本は古い文体でアンネが書くことは不可能
 ・ユダヤ問題研究家の宇野正美氏によれば、小説家レビンが父親のオットー・フランク
  に頼まれて書いた小説であり、しかも、古典的ドイツ語で書かれており、オランダで
  生まれ育ったユダヤ人のアンネがそのようなドイツ語を駆使して日記を書くことなど
  できる筈もないという。

 この記述が如何にセンセーショナルなものかというと、アンネの日記他者創作説を唱えていることにある。れんだいこはこれまで、「アンネの日記考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_annnenonikki.htm)で若干の考察をしている。そこでアンネの日記の真贋論争を紹介しているが、「(アンネの日記は)古典的ドイツ語で書かれており、オランダで生まれ育ったユダヤ人のアンネがそのようなドイツ語を駆使して日記を書くことなどできる筈もないとう」踏み込みは初めてだ。そこで早速書き直した。

 れんだいこは、アンネの日記の原書を知る立場には居ない。故に、論争を公平に聞き比べ、れんだいこなりの観点を生む以外に無い。問題は、ホロコースト論、南京大虐殺論、従軍慰安婦論にも通底してくるのだが、酷い拙い論争が行われていることにある。アンネの日記論争で言うと、次のようなやり取りが為されている。

 ウィキペディア通説(ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98、現在記述が変えられているようである)と「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」(ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/afrank.htm)が、同じ問題に対し全く違う記述をしている。

 例えば、通説が概要「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。鑑定レポートは、第三者の書き込みについても分析を行ない、これらをアンネが書いたものと区別して論述している。かくて、有名な伝説も否定された(そもそも『日記』の最初の出版は1947年である)」と記している下りに対して、

 疑惑説は次のように述べている。意訳概要「ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていない。第四章全部が、ボールペンで書かれていると鑑定している。『小さな紙切れ二枚の鑑定』はすり替えである」。 概要「そもそもウィキペディアの記述は出典が明らかでない。ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってこない。『81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた』というのも、出典不明である。つまり、便所の落書きと同じで根拠がない」。

 これは、三者三様に受け取る「真相は藪の中」の話ではない。ボールペン・インク記述二枚紙片説を廻って、二者のどちらかがウソをついていることにより白黒つけねばならない話である。しかしながら、調べれば容易に分かるのにこういう食い違いがそのまま通用している。世の中にはこういう食い違いが結構ある。れんだいこは、こういう場面に出くわすと、どちらが正しいのだろうと気になって仕方ないのだが、両説が平気で通用している。

 話を宮顕問題に振る。宮顕は先ほど逝ったが、例の戦前の党中央委員小畑査問致死事件の真相を語らずのままとなった。通説は、スパイ小畑説に立つ査問致死説であり、それも1・リンチは無かった説、2・そこそこあった説、3・凄惨なリンチ説の三説に分かれている。異説として、小畑はスパイでなかったとする冤罪説があり、これも三通りに分かれる。真相はこのうちのどれかであるのに精査されない。

 れんだいこは、宮顕論の中の「査問事件」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_1.htm)で記しているように小畑冤罪査問テロ致死説に立っている。もっと云えば、野坂−宮顕ラインこそスパイの頭目説に立っている。つまり、労働者派の小畑が、スパイ派の宮顕によりスパイ摘発と云う名目でテロラレタとみなしている。れんだいこはこの鬼説を堂々とサイトアップしているのであるが、通説派の誰からも議論が挑まれない。その癖、こたびの宮顕追悼で殆どの論者がこぞって歯の浮くような礼賛論を聞かせている。春から秋の僅か半年なのに「網走刑務所在監12年説」という有りもしない話を記す者も居る。

 こういうのっておかしくは無いか。例えば、世の中で誰が一番頭が良いのかとか、将棋と囲碁のどちらが難しいのかとか、演歌とシャンソンどちらが歌らしいかとか、日本酒としょうちゅうどちらが良い酒かとかというような白黒付けられないものもある。しかし、白黒つけねば先へ進まないものもある。不思議なことに、白黒つけねばならぬものをエエ加減にして、つけなくても良いようなものを争う傾向がある。朝青龍二場所出場停止事件のように、そう激しく制裁しなくても良いものに力んで強権発動させることもある。憲法改正のように急いでしなくても良いものに政治生命賭けてせかす首相も居る。

 こういうのっておかしくは無いか。アンネの日記考から話が飛んでしまったが、云いたいことではあったので総花的に述べてみた。そういえば、テロ対策特別措置法の延長問題などは二者択一しかない。小沢の腕の見せ所である。戦後日本は長い間不戦で成功した。軍事費に費やすものを公共事業に割り当ててきた。ハト派政治の復権賭けて小沢−管−横路ライン頑張れ。お盆前の長編投稿を読む人に捧げる。

 2007.8.9日 れんだいこ拝

[Re:【れんだいこの小田実追悼】]+α 如往 2007/08/10 09:09
 れんだいこさん、こんにちは。
 私は所謂団塊の世代の人間ですが、たとえ地方に住んでいたり受験戦争の辛苦に喘いでいたとしても、高校1,2年次頃の同年生の多くに国際社会の動向に目を投ずるくらいの余裕や社会的問題意識の萌芽が見られたものです。そんなところにも戦後教育の成果が出て来ていたと謂えるのではないでしょうか。通っていた高校の教師には旧帝大系の出身者が多く、とりわけその問題意識は先進的であり進取の気象に富んでもいました。断じて彼等に煽動されたといった記憶はないのですが、しかし思想形成にあたっては有形無形の影響を受けていたと思います。


 >れんだいこのもう一つの興味は、ベトナム戦争に於いて我々は何ゆえ抵抗派に共鳴したのかということにあります。結論は、日本人とベトナム人にDNAの類似性に有り、日本人は同胞がやられている感覚で、居ても立ってもおられず支援したのでないでせうか。れんだいこはそう分析しております。

 勿論世界的に見ても反米(当時の政権・政策にたいする批判)意識の高揚があったことを挙げなければなりませんが、べ平連に参加した人達の多くが当時の民族解放戦線の指導者ホー・チ・ミンにたいする崇敬にも近い憧憬を懐いていたことや、或いはその(民族)自決主義を貫こうとする姿に戦前的レジーム(天皇制)克服の新たなメルクマールを見出せるかも知れないとの想いを重ね合わせていたからではないかと、自身の記憶を辿りながら私はそのような分析をしています。

 >小沢がテロ対策特別措置法の延長問題で「直接的に安保理決議で承認されたものではない」、「日本の平和や安全と関係のないところで、米国との共同の活動はできない」と反対姿勢を示しました。旧社共の場合は犬の遠吠えでしかありませんが、次期政権を担いそうな民主党党首の見解ですから迫力が違う。参院選効果の賜物でせう。政治が少し面白くなりました。れんだいこは注視しております。というようなことで又。

 加えて、前原誠司等の民主党内の改憲派(主に松下政経塾出身者)の動向を注視していく必要があると思っています。彼等の動きによっては民主党が分裂し、自民党タカ派との大同団結に変節することによって平成の翼賛体制が現出して来かねないでしょう。

 ところで、民主党だけではなく松下政経塾出身で今の40歳台の政治家達が挙って改憲を主張する理由の本質的な部分は何なのか、なかなか私には見えて来ません。けれども、彼等のどんな体験がそうした考えを育むに至ったのか、何か頼りなく余り現実味がしないものによって動かされているような気がしてならないのです。この件については、現在も尚、鋭意分析を継続中ですが、もし興趣に適うことでありましたら、れんだいこさんの見解も伺いたいと思っていますので、宜しくお願い申し上げます。

 また、会いましょう。

Re:[Re:【れんだいこの小田実追悼】]+α れんだいこ 2007/08/10 19:09
 如往さんちわぁ。

>  私は所謂団塊の世代の人間ですが、たとえ地方に住んでいたり受験戦争の辛苦に喘いでいたとしても、高校1,2年次頃の同年生の多くに国際社会の動向に目を投ずるくらいの余裕や社会的問題意識の萌芽が見られたものです。そんなところにも戦後教育の成果が出て来ていたと謂えるのではないでしょうか。通っていた高校の教師には旧帝大系の出身者が多く、とりわけその問題意識は先進的であり進取の気象に富んでもいました。断じて彼等に煽動されたといった記憶はないのですが、しかし思想形成にあたっては有形無形の影響を受けていたと思います。

 確かに普通に政治意識が育ち、革命家を夢見る少年が成績の良い生徒のうち何割かはいたでせうね。但し、困ったことに妙に家の跡取り意識とか民族意識が欠如させられていますね。この意味では、右翼の日教組批判は当たっている面があると思うようになりました。れんだいこは、過度は禁物ながら適度なそれなりの家の総領意識、郷土意識、民族意識は必要と考えるようになりました。これはひとえに責任感の問題になります。家庭でも仕事でも社会とのかかわりでも何事も責任感の無いところには良い役割とか仕事ができない、一事万事、そう思うようになりました。

>  勿論世界的に見ても反米(当時の政権・政策にたいする批判)意識の高揚があったことを挙げなければなりませんが、べ平連に参加した人達の多くが当時の民族解放戦線の指導者ホー・チ・ミンにたいする崇敬にも近い憧憬を懐いていたことや、或いはその(民族)自決主義を貫こうとする姿に戦前的レジーム(天皇制)克服の新たなメルクマールを見出せるかも知れないとの想いを重ね合わせていたからではないかと、自身の記憶を辿りながら私はそのような分析をしています。

 キューバ革命のゲバラとかカストロとかも含めてそういう憧憬があったように思いますね。

>  加えて、前原誠司等の民主党内の改憲派(主に松下政経塾出身者)の動向を注視していく必要があると思っています。彼等の動きによっては民主党が分裂し、自民党タカ派との大同団結に変節することによって平成の翼賛体制が現出して来かねないでしょう。

 自民党も民主党も、れんだいこ史観に拠ればハト派とタカ派の根深い対立を抱えております。ハト派時代の自民党は、タカ派をうまくあやしながらイニシアチブを発揮していた。ところがタカ派時代の自民党はそれが出来ない。力で抑え込む強権政治にますますのめりこむしか能が無い。それに比べて民主党は、今現在かっての自民党のようでハト派が主流化しております。(れんだいこは、小沢をハト派系とみなしております) (鳩山)−岡田−前原派的タカ派系の動向が注目されます。どうせ分裂するなら早く出て行けばよいのにね。そうすると政界再編成が必至ですね。

>  ところで、民主党だけではなく松下政経塾出身で今の40歳台の政治家達が挙って改憲を主張する理由の本質的な部分は何なのか、なかなか私には見えて来ません。けれども、彼等のどんな体験がそうした考えを育むに至ったのか、何か頼りなく余り現実味がしないものによって動かされているような気がしてならないのです。この件については、現在も尚、鋭意分析を継続中ですが、もし興趣に適うことでありましたら、れんだいこさんの見解も伺いたいと思っていますので、宜しくお願い申し上げます。

 松下政経塾そのものは松下の功績として設立の意義はありますが、そこで何を教えていたのかが問題ですね。ダイエー中内の流通大学の評価も同じことです。松下政経塾の場合、各地のボンボンを集めて「役に立つ」学問を目指したのだと思います。ところが「役に立つ」が曲者で、今現在役に立つのと将来役に立つのとは違います。松下政経塾は功利主義的に今現在役に立つ御用学問を教えていった。そのことにより次第にネオ・シオニズム系の教本による洗脳教育が強められていったのではないでせうか。れんだいこに云わせれば、役に立ちそうで役に立たないことを教えられ、その結果さほど使いものにならない人間にされてしまっている感じですね。松下村塾とはちと違うと思っております。

>  また、会いましょう。

 というようなことでまた。

Re:れんだいこのカンテラ時評319 れんだいこ 2007/08/11 09:09
 【レストランメニュー著作権考】

 昨日気づいたことを記憶の定かなうちに記しておく。お盆のこととて墓参りした後近くを周遊し、のどの乾きを覚えたのでとあるレストランに駆け込んだ。この時、テーブル上に置かれているメニューに目が留まった。

 多くのレストランは、ウェイトレスが注文取りに来た際にメニュー表を渡し、頃合を見計らって「お決まりでせうか」とやって来るとしたもんだ。あるいはボタンを押してこちらから呼びつける場合もある。いずれにせよ、注文を告げるとメニュー表も回収する。ところが、昨日のレストランはテーブル上に置いたままである。その昔はそうであった。最近は回収される場合が多い。

 回収するのは、同業他社がそのメニュー表をカメラ取りなどして参考にするのを嫌がってのことだろう。持ってきたり持ち帰るのは手間隙かかるのだから、そういう理由としか思えない。いわばメニュー著作権のようなものを主張しているのだろう。

 ところがどうだ。昨日のレストランは世の流れに逆行してメニュー表を置いたままである。このレストランはかなり有名なチェーン店であり既に老舗でもある。同業他社の活用を知らぬ訳ではあるまいに。これはどういう訳か。そういうことが気にかかり、注文した白玉入りかき氷をかきまぜながらメニュー表に目を落とした。

 何でもないような価格表だと思っていたら、オリジナル商材の説明書きが添えられていた。米はどこそこの契約栽培のそれ、野菜、ポテト、ハムのそれぞれ、酢、醤油、油の効能と契約製造云々が説明されている。いわゆる有機農法でヘルシーに気配りしていることを縷々説明している。

 なるほどこういうことを読ます為にテーブルに置いているのか、いわば店のもう一つの売りである。しかしまてよ、この店は、こういうメニュー表が同業他社に参考にされることを嫌がらないのか、他の多くの店が嫌がっているというのに。れんだいこの脳内アンテナが作動した。これは重大な発見である。さっそく我が掲示板に書きつけてみよう。

 レストランで、メニュー表を置く店と回収する店があるが、その違いはどこにあるのか。これがテーマとなる。興味深いことは、メニュー表を回収する店のそれが同業他者に参考にされたとして困るほど立派なものではないのに比して、メニュー表を置く店のそれは同業他者が参考にしたくなるほど立派なものであることである。

 メニュー著作権的理解からすれば、逆にならなければおかしいのではないのか。なぜこういう逆事象が起きるのか。れんだいこは今これを思案している。結論はこうなる。「レストランに於けるメニュー表隠匿事例」は現代的な著作権論の本質を表現しているのではないのか。必要がある方が案外と主張せず、ガラクタの方が妙に拘り主張するという倒錯をそのまま表現しているのではないのか。

 これはインターネット・サイトでも然り、世の持ちつ持たれつ世界に於ける気難し系とお人良し系が織り成す社会でも然りなのではなかろうか。権利権利と何でもかんでも主張したがる手合いと縁の下の力持ちを心がける手合いの紋様に似てないだろうか。

 この場合、気難し系が頭が良いとか、お人良し系が頭が悪いと云うことは一切無い。何でも主張派が頭角を現すとか、縁の下の力持ち派が逼塞すると云うことは一切無い。むしろ、逆で、気難し系が頭が悪く、何でも主張派が世の嫌われ者になり、お人良し系が万事意欲的で、縁の下の力持ち派が押し上げられて然るべき地位についていることの方が多い。レストランで云えば、メニュー隠し派が流行らずに置き派が隆盛していることの方が多い。

 こうなると、メニュー表を置く置かないは、著作権と云うより本質的には思想の問題であるように思えてくる。経営とか生き方の問題に思えてくる。ところがいけない。ここに自称インテリが登場すると、メニュー表をテーブル上に置くような店は著作権の何たるかを知らない野蛮人であり、最近の学の流れが分かっていない云々と説教し始める。中には、店長を呼んで講義し始める者も居るかも知れない。

 最近、この種の偏狭著作権論が横行し始めているのではなかろうか。もっと大事なことに背を向け、小さなことに目くじらする種類の正義が跋扈し過ぎているのではなかろうか。こういうことが云いたかったんだれんだいこは。

 他にも次のような事例がある。とある旅館に感動して十年ぶりに再訪した。ところが、経営主体が代わり、かっては玄関奥の正面が広く取られ、そこで夜になるとプロの審査員を呼んでのカラオケ大会が行われていたのだが、妙に狭苦しくなっている。確認してみると、広間の半分がブテックになっており、お陰でカラオケ大会は地下で催されていると云う。経営コンサルタントの診断によりそうしたのだと云う。幾分か料理の質も落ちており、もう行くのは止そうという思いで旅館を後にした。

 れんだいこは何が言いたいのか。最近の流行り病に汚染されるとろくなことになりはしない、本来あるべき空間と社交を創出せよ、案外と昔の人の方が人間たるものを深く知り物分りが良く賢かったのではなかろうか、それに気づくと伝統とか文化の良いものを継承せよ、逆のものを寄せ付けるな、これにはかなり知が要ることを思え。著作権棒の振り回しは極力控えさせよ、ということになる。

 2007.8.11日 れんだいこ拝

メニューは置きっ放しが正解でしょう。 考察者K 2007/08/11 23:26
 何気に巡回していましたら、面白い事が書いてありまして、引き込まれてしまいました。おはつの書き込みになります。某所で悪名高き「誤字脱字の帝王」の「考察者K」と言います。よろしくお願い申し上げます。

 「メニュー」ですが「著作権の関係で回収されている」というのは始めて知りました。実は「待たされる間に、次回来た時に、食べる選択肢の情報を考えたいのに回収されてしまう」ので「こんな店二度と来てやるもんか」とマイナスの印象を抱きつつも「何で回収するのだろう?」と疑問でした。

 「今日はこれを食べるが、他のメニューの情報収集をすることで、次回の物を物色する」というのは、結構多い比率で存在する考え方ではないでしょうか? 実際、椅子に付いてから「メニュー」が運ばれて選ぶのでは「ゆっくり選ぶ時間もなく、急かされる」と云う感覚になります。Kなどは「取り合えず今回は、誰々さんと同じ」と「メニューすら見ないで決める」こともありますが、何人か一緒に食事する時は「全員がメニューをジックリ見たりすれば、時間がかかるので、初回は『取り合えず』の選択になる可能性が高い」でしょう。

 「著作権」は保護された方が良い場合はあるでしょうが、「著作権を盾にした権利意識の拡大的な考え方」で「多くの人が気分を悪くする」のなら本末転倒になっていますね。そもそも、他所の人に「撮影されたら困る」のは「そのメニューの構成などが、どこかのパクリである証拠を押さえられたら困る」からではないか?とすら思えますよね。メニューなんて、構成的には「それほど差異はない」でしょう。

 メニューの構成ではなく「商品」の方の著作権保護かもしれませんが、「見た目」で「食材」や「作り方」を判断できる人なら「メニューの写真を見る」ではなく「実物を食って味わえば、再現可能」だろうと言う気がします。

 メニューの回収は「手間」も必要ですし「マイナス要素の多い、理屈面からだけの行動」だと言う気がします。多分、「現場を知らない、机上の空論と遊ぶインテリが作った作法」なのでしょうね。

[Re:【れんだいこの小田実追悼】+謝辞] 如往 2007/08/12 04:09
 れんだいこさん、こんにちは。
 私が申し上げるのには僭越の謗りを免れないのですが、故小田実氏の追悼に関し大へん心にかけていただき、感謝いたします。尚、当方もこの件につきましてはこれにて一先ず収めたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。


 さて、1950年前後に大学を卒業した人達が戦前に受けた教育と戦後の教育体制との差異を埋めるためや戦後社会での己の身の置所探しに苦闘していたのではと推測することは十分可能だと思います。然る地方の県立高校には例えば東大経済学部出身の世界史の教師や東北大法学部出身の英語の教師達がいて、本来の専門とは少々外れた科目を教えてもいたのですが、おそらく彼等にとっては授業はモラトリアムを消化するための好機であったのではないでしょうか。けれども、その博覧強記ぶりに驚嘆させられるのと同時に、授業の中でさらりと開陳される彼等の歴史観(世界認識)には触発されるものが多かったように想います。

 >確かに普通に政治意識が育ち、革命家を夢見る少年が成績の良い生徒のうち何割かはいたでせうね。但し、困ったことに妙に家の跡取り意識とか民族意識が欠如させられていますね。この意味では、右翼の日教組批判は当たっている面があると思うようになりました。れんだいこは、過度は禁物ながら適度なそれなりの家の総領意識、郷土意識、民族意識は必要と考えるようになりました。これはひとえに責任感の問題になります。家庭でも仕事でも社会とのかかわりでも何事も責任感の無いところには良い役割とか仕事ができない、一事万事、そう思うようになりました。

 私の周囲のことに限って云えば、皮肉なことかそれとも極自然なことなのか、社会状況にたいする批判精神が際立っていたのは公務員やサラリーマン家庭ではない、殆どが商家や自営業者の跡取り息子であったりしました。ただし、こうした自己欺瞞性と紙一重の精神的な捩れを内在させていたことが政治活動や社会活動に如何なる影響を及ぼしていたかについてはまた後日にしたいと思います。

 >松下政経塾の場合、各地のボンボンを集めて「役に立つ」学問を目指したのだと思います。ところが「役に立つ」が曲者で、今現在役に立つのと将来役に立つのとは違います。松下政経塾は功利主義的に今現在役に立つ御用学問を教えていった。そのことにより次第にネオ・シオニズム系の教本による洗脳教育が強められていったのではないでせうか。れんだいこに云わせれば、役に立ちそうで役に立たないことを教えられ、その結果さほど使いものにならない人間にされてしまっている感じですね。松下村塾とはちと違うと思っております。

 どんな世なのか肝心な処は曖昧にされたまま、世の「役に立つ」学問の修得を名目に彼等塾生は終局的には功利主義的な思潮に洗脳されていったのかも知れません。しかし、そうした彼等であっても今や大きな権力を握っている訳ですから、その動向をウォッチし対処していくためには、掲げられている主張や大義ばかりではなくそれを裏打ちしている思考パターンや行動パターンを分析する必要があると想いますし、それはまた彼等を支持する人達の動向分析に資するものになるのではないかと考えています。

 また、会いましょう。

Re:メニューは置きっ放しが正解でしょう。 れんだいこ 2007/08/12 15:44
 考察者Kさんちわぁ。「メニュー」が「著作権の関係で回収されている」というのは、突如閃いた推測です。実際には、置き去りにするとメニューが痛むとか食事の際に邪魔になるだろうということかも知れません。しかし、あれこれ考えると、マニュアル作成者が、メニューを著作権と考え、同業他社に情報を盗まれないように配慮するという姑息な意思の下にそのように指示しているのではないかなと気づくことになりました。そう考えれば、回収する行為が整合的に理解でき、他の理由によっては説明が付かない。故に、「メニュー」が「著作権の関係で回収されている」と推測した訳です。

> 「著作権」は保護された方が良い場合はあるでしょうが、「著作権を盾にした権利意識の拡大的な考え方」で「多くの人が気分を悪くする」のなら本末転倒になっていますね。

 著作権と云うのは外来的な考えで、もっと云えばユダヤ商法的なものがもたらしている偏狭な何でも金にする貪欲な発想に基づいております。権利化法理論はその際のこじつけ論理であり、まともに当然視するには及ばない。れんだいこはそう考えております。従って、「著作権は保護された方が良い場合はあるでしょうが」的見解は妥協し過ぎと考えます。「著作権は保護されない方が良いのですが、どうしても認めねばならないのはかくかくしかじかに限られます」と云う風にした方が良いと思います。今は逆転しきっております。

 聖書普及問題も一考に値します。昔から無料で配布されていました。著作権が認められ強権化されるに及び引用転載が御法度になりつつあります。滑稽なのは、イエスも各福音書記述者も著作権など云わずに、むしろ教えが広まることを願っているのに、その任務に当たる者が最近になって小難しく云い始めていることです。これも転倒です。日共党中央問題も同じです。これについては毎度述べていますのでここでは触れません。

 最新の相撲協会の横綱二場所出場停止処分も転倒しています。横綱が病欠休場する場合も有るのに、相撲取れるのに取らさないなどと云う処分はやり過ぎでせう。伝家の抜かずの宝刀を抜いた感じです。しかしいけない。相撲協会の処分が手ぬるいなどと云うコメントも為されているようです。れんだいこは無茶苦茶を云うとあきれております。

 こういう転倒倒錯事例が目に付きます。音楽著作権協会がピアノ演奏家を逮捕させるなども酷い。昔なら音楽普及功労者として表彰せねばならぬ者に対して逆に取り締まろうとしている。金を払わないのが理由なら、有線、ラジオ、テレビの音楽番組にも取り立てる必要が有ります。その方面は手抜きして弱い者イジメをしている。実際に取り立てるとしたらその金額が莫大なものになり、歌番組が次第に消えることになるでせう。旅館が複数台のカラオケ機器を持っている場合、一台当たり幾らを掛けるとかなり高額になります。そういう訳で頭を抱えております。

 話がどんどん飛びますのでこれぐらいにしておきます。この掲示板を今後とも有効活用致しませう。

 2007.8.12日 れんだいこ拝

Re:[Re:【れんだいこの小田実追悼】+謝辞] れんだいこ 2007/08/12 16:16
 如往さんちわぁ。小田実論為になりました。よそでこの種のやり取りが為されているのかどうか分かりませんが、有益な話をしないといけません。腹の足しになる議論というのがれんだいこ板のテーマです。もっと掘り下げても良いのですが、これぐらいにしときませう。

>  私の周囲のことに限って云えば、皮肉なことかそれとも極自然なことなのか、社会状況にたいする批判精神が際立っていたのは公務員やサラリーマン家庭ではない、殆どが商家や自営業者の跡取り息子であったりしました。ただし、こうした自己欺瞞性と紙一重の精神的な捩れを内在させていたことが政治活動や社会活動に如何なる影響を及ぼしていたかについてはまた後日にしたいと思います。

 マルクス主義的には小ブルの階級的基盤が社会問題に目覚めさせ、但し動揺的云々という事になりますが、れんだいこは別の見方をしております。どんな階級であれ、気質と性格と能力が芯であり、こちらの方はかなり確定的なのに社会的存在は流動的です。いつでも事を為すのは気質と性格と能力で、これは更に開放系思想と閉鎖系思想に分かれます。人はこれらの兼ね合いの中で生きており、歴史を作ります。主体論は当然の見地であり、階級論に埋没させてはならないと考えています。

 れんだいこ的には、労働者であれ経営者であれ小ブルであれ、気の合う者もあれば逆の者もいる。役に立つ者も居れば使い物にならないもんもいる。大人しく付き合うだけの者もいれば友となり助け合うものもいる。逆のものもいる。これを思えば、階級出自論なんてクソ食らえという気分です。伝えられるところの北朝鮮体制がその通りなら、この辺で端から間違っていると考えたりしてます。マルクス主義の成れの果てならマルクス主義も変なことを教えたわけで困ったもんです。

>  どんな世なのか肝心な処は曖昧にされたまま、世の「役に立つ」学問の修得を名目に彼等塾生は終局的には功利主義的な思潮に洗脳されていったのかも知れません。しかし、そうした彼等であっても今や大きな権力を握っている訳ですから、その動向をウォッチし対処していくためには、掲げられている主張や大義ばかりではなくそれを裏打ちしている思考パターンや行動パターンを分析する必要があると想いますし、それはまた彼等を支持する人達の動向分析に資するものになるのではないかと考えています。

 松下政経塾の場合、そこから右派左派の流れが出てくるということはなさそうですね。総員が当世的過ぎており詰まらない。というようなことでまた。

 2007.8.12日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評320 れんだいこ 2007/08/13 20:25
 【宮顕訃報に寄せての礼賛論考】

 宮顕訃報に寄せての礼賛論が後を絶たない。真理真実とかけ離れて、俺はこう評価したいんだというだけの類は友を呼ぶ式の身びいき論が目に余る。特に加藤周一の阿呆俗物ぶりが注目される。更に、日共党員Aの
「すべての宮本顕治論のために(My Last Fight)」がサイトアップされており、これを読むのにまともではないのでコメントしておく。ttp://blog.livedoor.jp/asaodai/archives/50977206.html

 Aは云う。宮顕の存在は、「過去私たち日本共産党員にとっては希望であった」、「宮本顕治さんは、作家の小林多喜二さんが抱えていたものと同質の、この世界から戦争と貧困をなくしたいという理想の実現に、もっとも誠実で真剣だった日本共産党員の一人だった」。他にもいろいろ追従しているが、馬鹿げているので記さない。Aがそう思うのは勝手だが、少なくとも史実に合わせた上で感慨せねばなるまい。もっとも相応しからざる者をこうまで持ち上げるのは、イワシの頭も信心からという言葉を髣髴とさぜるものでしかない。


 「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」評も俗っぽすぎる。宮顕が芥川文学の孤高と限界をどう乗り越えたのか、当時に於いての評価と今日に於いての評価基準が代わるべきなのに、この御仁は昔ながらの物差しで計っているだけのことである。相変わらず小林秀雄を一歩下に於いて評論しているが、今日的には小林秀雄の慧眼が光っているのであり、宮顕的政治的実践解決論こそが嘘っぽい。Aは、未だにこういう視座を持ち合わせていないようで、未だに昔の杵柄で餅をついている様が滑稽である。

 Aは、戦前の党中央委員小畑査問致死事件に触れて、相変わらずスパイ・挑発者摘発闘争であったとする観点を披瀝している。この御仁はよほど党中央の諸言説を鵜呑みにできる質らしい。しかしなぁ、れんだいこの研究によれば、小畑は労働者派の最後の生命線だった。その小畑がスパイである訳が無く、宮顕の方こそが臭い。となると、小畑及びその親族の名誉の為に冤罪による汚名をそそがねばならないという宿題が課せられている。Aよ、君はそういう風に考えないのか。冤罪を晴らすより取締まり強化に夢中になる現下党中央の姿勢を訝る気持ちが無いのか。そつたら共産党があってたまるか。

 ところで、「非転向を貫いた共産党員文化人が――野呂栄太郎さんが、小林多喜二さんが、杉本良吉さんが、今野大力さんが、今村恒夫さんらが、無残に殺された」とあるが、樺太越えの杉本良吉までここに入れるべきだろうか。それとも杉本良吉は同じ頃に二人居るのか。書くなら他にも一杯居るではないか。

 Aは、昭和8年(1933年)、東京・築地署で逮捕後即日のうちに殺された作家・小林多喜二について聞き捨てならない言辞を吐いている。これが、れんだいこが本稿を起こした要因である。何と、「特高警察の激しい拷問を受けながら、なぜ、小林多喜二さんは、転向声明や敗北宣言を出さなかったのだろうか」、「しかし、小林さんは転向しなかった、殺されることをのぞんだのだった。繰り返し問わなければならない、なぜ、小林多喜二さんは、転向声明を出さなかったのか? と」と云う。

 Aよ正気で云っているのか。もっと云えば狂ってる。

 確かに宮顕は、「こいつには何を云っても無駄だ」と特高の拷問をあきらめさせたと嘯いている。Aは、そのように対峙すべきであり、出来ない場合は命乞いするか、賢く立ち回って偽装転向すべきであったとして、そうしなかった多喜二を咎めていることになる。果たして、多喜二にはそういう余裕が与えられていたのだろうか。いきなり有無を言わせぬ拷問が始まったのではないのか。それと宮顕の特高あきらめさせた論そのものが臭いのではないのか。Aの多喜二思いの、転向して生き長らえるべきだった論は、情況に照らせば侮辱と冒涜であろう。この御仁は、それさえ気づかないようである。

 Aは、宮顕の戦後の活動履歴に対しても絶賛している。「いち早く日本共産党の再建にかかわり」とウソを云い、「五〇年問題」(党の分裂問題)に対しても「解決に全力を尽くす」と結果論からのみ触れている、というかまともに論じていない。つまり、不破の口真似しているだけのことである。Aは更に饒舌しているが、党中央見解の引き写しなので、値しないので論評を省く。

 読み終えて、Aのそれは不破式の長大饒舌、何を云っているのかさっぱり要領を得ない玉虫色にしてご都合主義詭弁の史実詐術論文であることが分かる。こういうところまで移るんだな。

 これは、Aを批判するために書き上げたのではない。Aを右代表として、この程度の愚論をさもらしく装丁して言論しているその他大勢の評論士のレベルを嗜めるために、歯にころも着せずに叱責している。勘違いせぬように。

 2007.8・13日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評321 れんだいこ 2007/08/14 14:02
 【2007・8・9不破講話考】

 2007・8・12日、赤旗は、2007・8・9日に東京・渋谷C.C.Lemonホールで行われた不破哲三前議長による日本共産党創立85周年記念講演会「日本共産党史85年と党発展の現段階」の講演大要を掲載している。れんだいこは、この党との付き合いはほどほどにしたいのだが、見逃せない詭弁が随所に見られるのでコメントしておく。

 最初に見ておくべきは、宮顕亡き後不破が法王化し、引退後の今もなおこうした主要講演の第一人者として君臨していることを確認しておく。裏を返せば、委員長・志位はせいぜい丁稚に過ぎないということである。どうでも良いことのようでも有るが、やはり触れておきたい。

 不破は冒頭で長々と党史を振り返るが、党史上避けて通れない党中央の変遷史に触れることは無い。それぞれの時期の党中央が何をして、今現在どう評されるべきかの内在的な考察は一切避けている。(それには相応の理由があるのだが) そういう訳で周辺ばかり語り、長饒舌する割には一向にピントが定まらない。姑息ないつもの不破パターンである。

 不破は、これだけは避けて通れない宮顕に言及する。が、例によって宮顕のスパイ・挑発者摘発闘争を是認し、あの時期にもっとも不要にして危険な指導をしたことにより、党的な党運動としては最終的に解体せしめたことなぞおくびにも出さない。現在的検証によって野坂ー宮顕ラインこそスパイ系列の疑いが濃いことなど触れるべくも無い。

 その上で何と次のように述べている。「一九三三年に逮捕された宮本さんも、この陰謀の最大の標的になりました。三日前の党葬の席での弔辞でも述べましたが、宮本さんの法廷闘争は、侵略戦争と専制政治に反対する平和と民主主義の旗を守りぬくと同時に、この陰謀をくつがえして党の政治的名誉と道義的権威を守る闘争でもありました」。

 多くの者が不破のこういう口上に騙されているが、事実は奇怪千万である。宮顕は漠然と逮捕されたのではない。直前の党中央委員小畑査問致死と死体床下遺棄の責任者であり、党内からの事情説明要求が高まりだした頃に不自然に逮捕されている。真相は、当局に身柄を預けたというべきかも知れない。

 その法廷闘争も奇異であり、リンチ事件の解明の段になるや病気になり、結果的に意図的に合同公判を避け、単独公判にした上で縷々正義の弁明をしているという官民合作のものでしかない。宮本百合子からの差し入れや、獄中での豪奢な生活や、獄中面会時の杉本良吉への樺太越え指示等々奇妙な党活動をしている形跡さえある。

 不破は、こういう史実を知りながら宮顕の完全黙秘唯一聖像を語っている訳で、その意図はなへんにありやと推測されねばならない。目下このように問うのはごく少数の者に限られている。しかし、ここを突破しなければ真相が見えてこない。

 次に、不破は、昨今のきわめて不利な党勢後退を糊塗するために何と、アメリカの雑誌タイムの日本共産党観を披瀝し、「共産主義は日本で活気にあふれ健在」との表題を利用して党員をたぶらかそうとしている。実に嫌らしい説法である。続いて、自主独立路線を自画自賛している。いずれも、ご都合主義的な史実歪曲に基づくものであるが、毎回聞かされていると党員も納得するようになるのだろう。

 しかしいけない。度の過ぎた歪曲はれんだいこにただされることになる。「五〇年問題」で宮顕が逸早くスターリン同志の指摘はごもっともであり、その忠言に従うべきとして党中央に叛旗を掲げた史実の説明が出来ない。だからいつも抽象的にどうでも取れる言い方で取り繕う。不破はなぜ堂々と釈明しないのか。それはそれとして許し難いのは、時の党中央を「徳田・野坂分派」と云いなしていることである。

 日共の御用党史ではなく真実の党史を学べば、時の徳球系党中央は、スターリン論評に対応し、概要「日本革命については我々が当事者であり責任を負っている。理不尽ないいがかりは止してほしい」との自主独立的な所感を発表している。日本共産党運動の自主独立路線の嚆矢である。この時、スターリン同志に従うのが国際共産主義運動の責務として批判したのが宮顕ー志賀ラインであった。これにより所感派、国際派の対立が生まれる。不破はこの史実に触れない。触れたのを聞いたことが無い。つまり、知っていながら意図的に歪曲しすり替えする名人芸で党員をたぶらかし続けている。

 その上で次のように云う。「この干渉は、戦後多くの党員の活動によって営々と築かれてきた国民との結びつきを断ち切り、取り返しのつかない深刻な打撃を党に与えました。実際、干渉の前の年、一九四九年一月の総選挙で党は二百九十八万の得票を得、三十五人の議員の当選をかちとりましたが、干渉作戦が始まったあとの五二年の総選挙では、得票は八十九万票に減り、当選者はゼロという最悪の結果に落ち込みました」。

 しかし、これも逆の推測を可能にする。1949時の総選挙で未だに破られない35名の議員当選を勝ち取ったのは徳球ー伊藤律系党中央の時期であり、当時において旺盛な議会闘争があったことを証していることになる。当時、徳球ー伊藤律系党中央は実に大衆運動と労農運動と議会運動を有機的に組み合わせ、社共合同による政権奪取を展望していた。これを成功裏に推し進めていた。権力側がこれを畏怖し、反動攻勢を仕掛けたのがその直後からであった。宮顕派による50年の党中央分裂策動は、権力側のこの意思に即応したものだと考えられる。これが「五〇年問題」である。

 自主独立路線も、議会闘争も、綱領的発展も本来、徳球ー伊藤律系党中央下に於いて党内の自由論議が保障された中で成功裏に勝ち取られつつあったものである。れんだいこの目から見れば、宮顕ー不破系党中央は、それを奇形化させ、有害無益な方向に転換させたものでしかない。徳球ー伊藤律系党中央の正統な嫡出子系党中央であれば、国際共産主義運動の団結を尊びながら自主独立を打ち出すだろうし、議会闘争も「確かな野党論」など唱えずに社共共闘による政権奪取に向かうだろうし、綱領も有益な方向に改定しているだろう。つまり、当時の遺産を台無しにする方向で、宮顕ー不破系党中央が逆指導していることを確認せねばならない。

 不破は次のように述べている。「『五〇年問題』でも、ソ連などの干渉者たちの指揮のもとに、誤った道に踏み込んだのは、党中央の一部の幹部──徳田・野坂分派に属するごく少数の人たちだけでした。多くの党員は、それらの事実は知らされないまま、反動派の弾圧に屈せず、懸命の努力で党を支えました。こういう下からの努力があったからこそ、言語に絶する困難の中でも、党はつぶれないでこの時期を乗り越えることができました。そしてその後の時期の「五〇年問題」の総括でも、全党討議で積極的な方向を支えたのであります」。

 これは、徳球系党中央に戦いを挑み、勝利的に党中央を簒奪した宮顕系党中央の勝てば官軍論理である。史実は、伊藤律の北京幽閉などとても汚い手を使って、既に権力に篭絡されていた志田派を上手に利用して党中央に登壇し、以降徳球時代に発生した諸分派を自己目的的に切り捨て宮顕独裁を敷いていった。そして今日あるごとくな日共を形成し、人民大衆からそっぽを向かれている。当然の結末である。だがしかし、宮顕ー不破系党中央は居直り続けている。つまり、日共の反革命的換骨奪胎こそめざすところのものであったことを物語っている。

 その不破は次のようにも云う。「日本共産党はソ連崩壊を覇権主義の巨悪の崩壊として歓迎しました」。しかし、不破が手放しでこのように云うことは本来許されない。党創立以来、ソ連を導きの星として礼賛し続けてきた党史に対する自己批判抜きに為しえるとしたら無責任のきわみであり背任というべきだろう。もう一つの推測としては、不破の本音を単に吐露しているのかも知れない。

 不破はさらに愚説を次から次へと饒舌している。イタリア共産党、フランス共産党の事例を挙げ、手前の党のお粗末には頬被りしたまま批判している。そして、又もタイム誌の評価を引き合いに出して日共の活躍ぶりを自画自賛している。当然、この間の党勢のジリ貧、後退についての自慢の「科学的社会主義」的分析は開陳しない。

 続いて、最近の二大政党論に言及し、自民党も民主党同じ保守論で片付け、唯一わが党こそが「日本の政治のいまのゆきづまりの打開の道をはっきり示している」と云う。この後長々と党創立記念講話には相応しからぬ内容を饒舌しお茶を濁している。党勢の陰りについてこっそりと、「同時に一つひとつのたたかいの前進・後退に一喜一憂せず」と弁明している。つまり、党中央の方針は正しい論を懲りずに繰り返している。

 実にくだらない党創立記念講話であった。これで納得する党員が居るから持っているだけで、れんだいこは遠の昔にエエカゲン二センカイと怒鳴り返している。それにしても、こういう講話が許容されること自体政治の貧困を絵に描いている。

 2007.8・14日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評322 れんだいこ 2007/08/18 07:09
 【日共の羨ましい性格考】

 2007・8・17日付け赤旗は、「自民の参院選総括 『構造改革』路線への批判相次ぐ」なる記事を掲載している。自民党は先の参院選に衝撃を受け、参院選総括委員会(委員長・谷津義男選対総局長)を設置し、党所属国会議員や地方県連幹部などから意見の聴取を進めているが、これを日共が揶揄するのはおこがましい。

 参院選総括委員会で真剣に議論する自民党と相変わらずお手盛りの「党中央の云うことはその通り」で糊塗する共産党という鮮やかな対比が見られるが、お手盛り側の日共が、真剣に選挙総括する自民党の様子を伝え、その際の安部政権の対応を批判的に報道する神経が信じられない。戦争魔のブッシュが世界平和を唱える構図に匹敵しよう。

 傑作は次のように述べているくだりであろう。「身内からもこうした声があがっているにもかかわらず、安倍晋三首相は『基本路線は多くの国民に理解されている』という認識を示しています」云々。

 この赤旗記事は、ひょっとして巧妙に党中央を批判しているのかも知れない。なぜなら、阿部首相の居直りと不破のそれがまったく同じ論法であるからである。共に「方針は間違っていなかった、一喜一憂するには及ばない」で概括することができるが、赤旗記事の執筆者は、まさかそのことに気づかぬまま書いた訳ではなかろうに。ひょっとすると、日共内に党中央の対応問題で批判が渦巻き始めたのかも知れない。この記事はその代弁であり、党内闘争開始の予兆かも知れない。

 実際にはなんとも云えない。単にいつもの日共流得手勝手さで脳天気に書かれているだけのことかも知れない。この場合には、この記事は後々の語られ草になるだろう。それほど大げさなものでなくても、日共特有の「自分は免責、相手には万年批判」の特徴がさらけ出されていることには間違いない。記者に多少の良心があれば恥かしくて書けない内容であるのに、それを平然と書いている神経が信じられない。

 次のくだりも滑稽である。「小野次郎氏、猪口邦子氏ら当選一回の議員有志四人が十日、『改革の歩みを止めることなく、安倍総理に引き続き継続・実行して頂きたい』などとする『緊急アピール』を安倍首相に提出。首相は『さらに改革にまい進していく』と述べたといいます」。

 れんだいこには、これも当てこすりのような気がする。いつでもどこでも党中央を提灯する同輩お茶坊主の動きを皮肉っているのではなかろうか。

 最後のくだりはどうだ。「『改革か、逆行か』と叫んだ選挙で大敗北を喫しながら『構造改革』路線に固執し、『人心一新』をいいながら自らは対象としない安倍首相。有権者はもとより、党内でも『安倍総裁のもとで党の再生再建が本当にできるのかどうか』(逢沢一郎衆院議員)などの声がくすぶり続けるもようです」。

 これなどもまさに手前の党内事情そのものではなかろうか。れんだいこが言い換えると次のように云っていることになる。「『党勢維持か、後退か』で臨んだ選挙で又もや後退を喫しながら相変わらず『確かな野党』路線に固執し、『方針は正しい』といい張り決して責任を取ろうとしない志位委員長。党外はもとより、党員からも『志位委員長のもとで党の再生再建が本当にできるのかどうか』などの声がくすぶり続ける模様です」。

 何とそのまま使えるではないか。これって党内への当てこすり無しに書ける記事だろうか。

 2007.8・18日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評323 れんだいこ 2007/08/19 18:11
 【2007.8.19日付け産経新聞正論の袴田茂樹「マスコミと電力会社は悪循環断て」の俗論考】

2007.8.19日付け産経新聞正論は、青山学院大学教授・袴田茂樹の「マスコミと電力会社は悪循環断て」を掲載している。れんだいこがこれを読むのに、彼がいわゆる知識人とするならその俗物性を如何なく発揮していると判ずるので、れんだいこが筆誅しておく。

袴田は次のように云う。

 概要「中越沖地震の際の柏崎原発事故は喧騒されるに及ばない程度の被害であったのに、何か冷静さを欠いた異常さで大騒ぎした。原発の安全性に於いて日本は世界最高技術を有していることを知り信頼すべきである。それなのに、一部のマスコミは事故を反原発キャンペーンに利用し、為に原発会社の隠蔽体制が強まるという悪循環が生じている。今最も必要なことは、問題の直視と冷静かつ客観的な報道であり、悪循環を断って風評被害を防ぐこと、今回の事故を生かし、今後の事故防止のため最善を尽くすことだ」。

 「安全性に関しては、原発関連の設備すべてに完全を求めるのは非現実的だ。自動車や航空機も、絶対の安全性を求めるとしたら、使用を禁止する以外にない。地球温暖化対策や世界のエネルギー戦略の動向を見ると、我が国でも風力、太陽熱、バイオなど新エネルギー開発と並んで、核エネルギーの利用は不可欠だ」。

 凡そ以上のように立論しているが、正論足りえるだろうか。産経新聞は正論として掲載しているのだろうが、れんだいこは暴論と断ずる。第一、袴田は、原発問題の深刻さを全く理解していないように思える。単にのうのうと体制派の原発政策を提灯する愚論を吐いているのではないのか。この程度の頭脳で大学教授として飯が食えるのは何とも羨ましいと云うべきか恥ずかしいことである。が、この程度の頭脳が大学教授の通り相場でもあるので袴田一人を責める訳にもいくまい。

 袴田よ、お前は、「マスコミ喧騒と原発会社の隠蔽悪循環」を対等批判しているが変調さに気づかないのか。原発問題は、「ニワトリが先か卵が先か論」や「どっちもどっち論」で済ませられる問題ではあるまい。先ず原発会社の臭いものに蓋をし続ける隠蔽姿勢が有り、マスコミが当然の責務として被害の一部を漏洩しているに過ぎない。れんだいこに云わせれば騒ぎ足り無さ過ぎる。こう踏まえるところ、お前は喧嘩両成敗式詭弁で済まそうとしている。俗論愚論の極みであろう。

 袴田よ、日本政府の原発安全能力を称賛し、「核エネルギー利用不可欠」説を唱えているがマジかよ。れんだいこは、「脱兎の如く原発から徹底せよ」と発信しようとしているが、なぜかくも主張が違うのだろうか。

 思案するのに、袴田は何と、「自動車や航空機も、絶対の安全性を求めるとしたら、使用を禁止する以外にない」と揶揄して原発推進政策を後押ししているように、自動車事故や航空機事故と同じような土俵で原発事故を理解しようとしていることが判明する。しかしこれは「ミソクソ同視論」であろう。自動車や航空機の安全性と原発の安全性とは決定的に質が違うのに同じ質で評している。凡そ「馬と鹿の区別ができない」輩であることを物語っていよう。袴田よ、申し訳ないが、お前は原発問題を論ずる素養が無さ過ぎる。この問題に関しては今後口を慎み、こたびの愚論を恥じ当分蟄居すべきだろう。

 れんだいこにも分かる原発問題には二つの安全性問題がある。一つは核エネルギー精製過程の安全性であり、後一つは核最終廃棄物処理の安全性である。そのどちらもが驚くほど危険なまま推進されている。

 今後の科学の発達でよしんば前者がより安全になるとしても、後者の安全性が全く杜撰なままに精製され続けている。核最終廃棄物は何と単に地下の地中深くに格納し貯蔵されるという何とも原始的な方法で管理されているのが実際だ。それしか方法がないという厄介なものであるということを知る必要がある。従来、岡山県の人形峠に格納されていたが、現在は青森県の六ヶ所村にある日本原燃(株)のウラン濃縮工場に移転され保管されている。ここも手一杯に成り、現在政府が全国の過疎村に補助金を餌に引き受け手を求めているのは承知のところである。

 問題は次のことにある。原発や地下埋蔵施設が地震や軍事テロで放射能漏出し、大気汚染、地下水汚染、土壌汚染に結びついたらどうなるか、これらの当然の心配を顧慮せぬまま原発政策が推進されている。その様は国債垂れ流しとよく似ている。この問題に比すれば、北朝鮮のテポドン如きで大騒ぎするのは全く芝居臭いものでしかない。こちらの方は飛びついて騒ぐのに、原発問題は騒がれない。松岡農相変死事件は本来マスコミの好餌であるのに報道管制が敷かれたのと同じである。

 袴田よ、お前は最終廃棄物処理の安全性について述べぬまま、「核エネルギー利用不可欠」説を唱えているが、どういう思考回路しているのか。お前がその安全性を論証し切るなら聞いてみるから述べて見よ。いや実は詳しいことは知らぬとは言わせないぞ。なぜなら、お前は「核エネルギーの利用は不可欠だ」と推進役をしているのだから。

 れんだいこが思うに、核最終廃棄物処理の安全性について述べぬまま原発政策推進の旗を振り続けるのは歴史的大逆犯罪である。れんだいこ史観によれば、大東亜戦争責任よりもなお罪が重い。戦後日本は、敗戦のツケにしてはあまりにも高すぎる代価で原発政策を推進させられている。これの始発の旗振りは読売の正力松太郎と中曽根である。この二人は全く戦時中も戦後も一貫してろくなことをしていない。この面では宮顕もよく似ており、そのポン友読売のナベツネも然りで、これらの人脈は奥の院で結びついている。実にケシカラン。

 袴田よ、原発がひょっとして日本民族ジェノサイド政策によりもたらされているものであるとしたら、その旗振りをする手前は何者ぞ。何やらソ連邦問題で一家言していたように記憶するが、原発問題でこの程度の知見をひけらかすようではどうせろくな仕事はしていまい。袴田批判はこれぐらいにして総合批判に移る。

 今や我々は、「原発から脱兎の如く撤退せよ」。れんだいこはこう強く主張したい。その理由を以下述べる。産業エネルギーは過去、木炭から石炭、石炭から石油、石油から原始核エネルギーと変遷してきているが、我々は、木炭から石油までの政策と原始核エネルギー政策との質の違いを弁えるべきである。石油エネルギーまでは進歩的だろう。だがしかし、原始核エネルギーとなると話が違う。分かり易く云えば、あれは悪魔科学の所産である。我々は、原始核エネルギーに手を染めてはならない。こう分別すべきである。

 核最終廃棄物処理の厄介さを考えれば決して安価ではなく、目先は良くても最終的には天文学的に高い代価を払わされることになろう。故に我々は目先の論理に騙されず、一刻も早く核エネルギーに依拠しないで済む自然環境適合型の代替エネルギーを模索し、その政策に転換せねばならない。

 付言すれば、日本の財閥系企業は今、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の下僕となって世界に原発を敷設する役目を引き受けつつある。が、これがワナだとすればどうなるか。局面が変われば、大東亜戦争の戦争賠償金など比較にならない莫大な損害賠償を課せられる可能性が強い。会社もろとも粉塵に帰することが予見される。一時は稼ぐが、結果的に元も子もなくすであろう。これが長年の養豚政策の果てに待ち受けるものである。日本の財閥系企業は今、そういう仕掛けられたワナの道に誘い込まれつつあり、近い将来泥沼の中でのたうち回ることになるだろう。それは、明治維新以来の好ネオ・シオニズム政策に悪乗りした当然のツケかも知れない。

 日本の財閥系企業が自滅するのは勝手である。勝手で済まないのは、日本列島内に米軍基地と同様に原発をあちこちに敷設され、それが攻撃の目標になり、あるいはそれとも関係なく自然劣化し、いずれにせよ大気汚染、地下水汚染、土壌汚染に至り、日本人民大衆が壊死し、生き残った者も国土を離れねばならない時の恐怖である。さしもの豊葦原の瑞穂の山紫水明の国もこれでお仕舞いにさせられてしまう。我々は、原発政策が科学技術の必然的発展として受け止めてはならない。現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の飽くことなき金儲け主義と日本撲滅政策とが合体した仕掛けられたワナとして受け止めなくてはならない。我々は、このことを真剣に考えなければならない。ついでに誰が旗を振ってきたのかも見定めねばならない。

 それらを経て、れんだいこは、太陽光エネルギー政策に真剣に取り組むべきであると提言したい。水力、風力、地熱、潮力、火山灰土その他いろいろ考えられるが、考えられる研究を進めるべきであり、その中でも太陽光エネルギーの効率的開発こそ一番安上がりで環境適合するのではないかと思っている。れんだいこは科学者ではないので詳しくは述べられないが、思想哲学上はそう推断できる。

 もとへ。中越沖地震に伴う柏崎原発事故の教訓から学ぶべきことはこういうことであり、「原発から脱兎の如く撤退せよ」と云うことはあっても、袴田の如くな「核エネルギーの利用は不可欠」なる論を振り回すことではない。それは恐ろしいほどの知の貧困であり、体制御用化理論である。袴田はそれを、2007.8.19日付け産経新聞正論の「マスコミと電力会社は悪循環断て」で安上がりの知を好む言論士であることを自己暴露した。我が国のいわゆる知識人の知のレベルを示した。これ以上責めるのは酷なので後を控える。

 2007.7.19日 れんだいこ拝

報告 松本哲 2007/08/26 18:00
 お久しぶりです。猛暑で大変ですが如何お過ごしですか。私はボチボチ過ごしています。報告遅くなりましたが6月末に、Anti-Rothschild Alliance に加入しました。ttp://www.anti-rothschild.net/
上記のURLは6.25に作成されたのですが、238532とアクセスも多いし、会員も増えてきました。党首が以前話していた放送局についても、動画を見れるように工夫して、また有力なところにもLINKしています。そのなかにここもリンクされているので、思想的にも連携していってはどうかなと感じています。

Re:報告 rendaico 2007/08/31 10:53
 松本哲santhiwaa toho tadaima kinkyunyuinn siteorimasu syujyutugo1weekde kyo hisashiburini gaisyutushi wagasiteo nozoiteorimasu kityonakeikenshimashita netfukkiwa9.3daykorotositeorimasu

 Anti-Rothschild Alliance tono kyodosensenwa maemukinikangaemasyo tasika izennwarinkganakkata imaarutoiukotowa hyokakudasattanodesyu arigataikotodesu

 kokusaikoryucenter no pasocon o tukkateirutame nihongotokogadekimasendesita

無事退院のお知らせ れんだいこ 2007/09/03 20:00
 本掲示板をそれなりにロムして下されている皆さまちわぁ。不肖れんだいこは9.24日頃より体調を崩し、初めて体内にメスを受け入れ1週間ほど入院するという事態になりました。天理教教祖中山みき様の「病むほど辛いことはない」との御教えを深く実感させられました。「貸しもの借りものの理」を教えられることになりました。真正教徒なら、こういう場合には心定めして一念発起するところですが、れんだいこは半端者で「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」です。そういう未熟者では有りますが、これを奇禍として善導邁進せねばぐらいには考えております。

 寝床で、大阪陸上競技、朝青龍騒動を見ておりました。大阪陸上競技には、諸民族協和の時代の息吹を感じました。スポーツの世界の方が政治よりはるかに先行しているようです。素晴らしいことですね。朝青龍騒動では、どいつもこいつも評論家の無定見さとそれに追随するマスコミの馬鹿さ加減にあきれました。阿呆はいくら事実を寄せても阿呆なことしか言わないことを改めて知りました。

 まだ体調が優れないので今日はこれぐらいによして起きますが、近々カンテラ時評を再開します。何とか365まで書き込み、これを越すと新たな365に向かおうと思っております。特段高く評価されておりませんが、それはれんだいこ悪いのではないという具合に理解しておりますふふふ。というようなことでまた。

 2007.9.3日 れんだいこ拝

祝退院 松本哲 2007/09/04 09:04
 党首が体調、崩されたこと知らなくて申し訳なく思っています。私も4月の検診で精密検査を勧められましたが、諸事情でやっていませんが気をつけなければと思っています。
 ところで質問があります。民主党党首小沢一郎氏の件です。彼は田中角栄の秘蔵っ子だったようですが、ロッキード裁判で最後まで公判を見てきたそうです。今ロッキード事件は間違いなく米国の罠によって嵌められたことは衆目の一致しているところですが、なぜ裁判の傍聴を続けたのか。彼は弁護士試験を落ちたそうですが。そして小沢氏は、「アメリカに食い尽くされる日本」によりますと48ページに書いてあるように、ジェイ・ロックフェラー4世『(69歳)国際基督教大学の大学院をでている』と仲がいい。喜八ログによりますと小沢民主党は「米国に反旗を翻した」のですから、これからドンドン「民主党」に関する「スキャンダル」らしきものが出てくる事必定でしょう。
何しろ「テロ特措法延長」と「郵政民営化」がかかっていますからね。
ttp://kihachin.net/klog/archives/2007/09/ozawa_momo.html
民主党・小沢一郎の末路
ttp://blogs.yahoo.co.jp/y2001317/23103300.html
今後の民主党・小沢一郎氏がどのように日本の将来を考えていると思われるのか、是非ご意見拝聴させてください。

Re:小沢政治論 れんだいこ 2007/09/04 18:48
 松本哲さんちわぁ。

> 今後の民主党・小沢一郎氏がどのように日本の将来を考えていると思われるのか、是非ご意見拝聴させてください。

 小沢政治論に対してですが、れんだいこは既に「民主党の研究」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/minsyutoco/top.htm)の中の「2006年小沢民主党首の政権構想考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/minsyutoco/ozawatosyuco.htm)で発表しております。今チラッと読み返しましたが現在にもそのまま通用すると思っております。ご意見お聞かせください。

 思うに、小沢政治論はロッキード事件考を媒介せねばならず、細川政権考を経由して現在へと至ります。踏まえるべきは、いわゆる自称左派その実サヨ派の小沢政治排撃論です。本来の左派なら、小沢政治を評するのに限定つきながら、戦後政治のハト派勢力の最後の結集体として好評価すべきでせう。それを逆に断ずるとは、余りにも歪み過ぎている。

 現在はこうしたインターネット媒体があり、れんだいこが棹差すことが出来ます。ロッキード事件当時にこういう媒体があれば良かったのですが、角栄の武運つたなくマスコミの十字砲火を浴びてしまった。ああいう偏った見解の一方的プロパガンダを許してはなりません。れんだいこは、左派理論の沽券を賭けて小沢民主党の政権取りを支援しております。小沢政治を酷評する日共その他サヨ系理論と論戦したいと思います。

福田は小沢より危険? こげぱん 2007/09/22 23:08
 れんだいこさん、その後いかがお過ごしでしょうか。

さて明日は言わずと知れた自民党総裁選。勝者は決まっているというのに、巷では報道やたとえば以下のような

 次期首相有力の福田康夫氏 堅物に見えるが、おちゃめ【 J-CAST ニュース】
 ttp://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/1105.html
 投稿者 ワヤクチャ 日時 2007 年 9 月 15 日 08:27:58: YdRawkln5F9XQ

 ヨイショともとれる記事があふれ返っているが、同じ町村派で、前任者同様テロ特措法や郵政民営化賛成の福田が安倍よりましというような主張はどこから出てくるものかいな。福田は安倍より外見がソフトなだけ、周囲は騙され易くなりかえって危ない、と個人的には思えるのだが。

あとこのところの動静で気になるのが、選挙のたびに安倍や小沢、浅野史郎などを非難していたサヨのお歴々が、あまり福田を非難しているようには見えないことである。サヨが安倍を非難するのはまあ当然のことであるが、テロ特措法や郵政民営化に賛成しているだけ、福田は小沢より危険なはずにもかかわらず、小沢は批判して福田にはダンマリ、というのはちと解せない。(お手並み拝見、というなら別かもしれないが)

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 以下私信

 先日退院後しばらくして、メールにて(表題にHNを付けて)私信を送らせていただきましたが、何かの参考にしていただければ幸いです。(署名を書き忘れたので)もしspamと思われて消去されたなら、お手数ですがご一報ください。再度送付します。

Re:祝再退院 れんだいこ 2007/09/23 11:27
 こげぱんさんちわぁ。その後再手術となり先ほど退院したばかりです。いけませんねぇ、れんだいこもこれまでかと一度は覚悟させられました。以来酒もタバコも止め運を頼りの自制生活に入っております。まだ文筆する意欲に至らず静養と読書に励んでおります。

> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> 以下私信
>
> 先日退院後しばらくして、メールにて(表題にHNを付けて)私信を送らせていただきましたが、
> 何かの参考にしていただければ幸いです。(署名を書き忘れたので)もしspamと思われて消去された
> なら、お手数ですがご一報ください。再度送付します。

 申し訳ございませんが見落としております。再度の転送お願いいたします。

坂東千年王国氏 平家蟹 2007/09/26 17:36
 れんだいこ様、突然の割り込み、失礼します。坂東千年王国で検索していたら、この掲示板を探し当てることが出来ました。坂東千年王国の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を興味深く読んでいましたが、同時に、花田清輝氏の「小説平家」の中の、海野小太郎幸長について書かれたことと、「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」が内容的に酷似しているという印象を受けました。れんだいこ様も暇があれば読んでみてはいかがでしょうか。しかも、坂東千年王国氏が挙げた参考文献の中に、「小説平家」は含まれていないのです。

Re:坂東千年王国氏 れんだいこ 2007/09/26 18:36
 平家蟹さんちわぁ。

> 坂東千年王国の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を興味深く読んでいましたが、同時に、花田清輝氏の「小説平家」の中の、海野小太郎幸長について書かれたことと、「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」が内容的に酷似しているという印象を受けました。れんだいこ様も暇があれば読んでみてはいかがでしょうか。しかも、坂東千年王国氏が挙げた参考文献の中に、「小説平家」は含まれていないのです。

 貴重情報有難うございます。これが事実ならケッタイなことになりますね。れんだいこは、著作権強権論者とは付き合いを避けるよう努力しております。今更とも思いますが確認してみます。今後ともよろしくね。

 2007.9.26日 れんだいこ拝

Re:坂東千年王国氏 平家蟹 2007/09/26 19:04
>  平家蟹さんちわぁ。
>
> > 坂東千年王国の「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」を興味深く読んでいましたが、同時に、花田清輝氏の「小説平家」の中の、海野小太郎幸長について書かれたことと、「兵粮蔵」の「海野小太郎七変化」が内容的に酷似しているという印象を受けました。れんだいこ様も暇があれば読んでみてはいかがでしょうか。しかも、坂東千年王国氏が挙げた参考文献の中に、「小説平家」は含まれていないのです。
>
>  貴重情報有難うございます。これが事実ならケッタイなことになりますね。れんだいこは、著作権強権論者とは付き合いを避けるよう努力しております。今更とも思いますが確認してみます。今後ともよろしくね。
>
>  2007.9.26日 れんだいこ拝

 れんだいこ様へ
 念のために申し添えておきますが、私は坂東千年王国氏の「役立つリンク集」の中の「古墳のお部屋」の平家蟹ではありません。これこそ、まったくの偶然の一致です。

 野小太郎幸長が何度も改名したという、その改名の筋道を花田が推理したことについては、そこに大変なオリジナリティがある訳で、それは「小説平家」の冒頭部分で花田自身が自負していることです。これだけを取っても、他の作者が同じ説を唱える場合は、花田清輝の作品である「小説平家」を参考にしたとしか、言い様のないはずです。花田の作品と坂東千年王国の海野小太郎七変化とを比較されて、余りに似ていることに驚かれないように。では、少なくとも数日間はこの掲示板には来れませんので、これで失礼させていただきます。

Re:れんだいこのカンテラ時評324 れんだいこ 2007/09/26 20:16
 【「日テレの国会議員総裁選投票行動盗撮事件」考】

 先の総裁選に於ける杉村太蔵・衆議院議員の投票行動を日テレが盗撮するという事件が発生している。「日テレの盗撮により、杉村太蔵は麻生に投票した事が判明 」のソース、ミラーとも現在封鎖されている模様である。ここで見れるということであれば教えて欲しい。放映された画像は、次の通り(略)。

 れんだいこは、この事件を重視する。これを仮に「日テレの国会議員総裁選投票行動盗撮事件」と命名する。本事件は、国会議員の尊厳を軽視し抜いているという意味で、最近では松岡農相変死事件を各社一斉に自殺として報道した事件に次ぐ有り得てならない事件と判ずる。この事件が大きく採り上げられないなら、それは又もや言論、報道界の脳死痴態であろう。

 日テレは新聞機関としては読売系列にあり、どちらもネオシオニズムの配下機関として、読売が言論大砲、日テレが報道大砲という役割を果たしている。この系列は日頃憲法改正を唱え、いわば憲法テロリストとして立ち働いている。著作権強権派としても知られており、あらゆる情報に権利網を被せようとしている。法治主義を遵守する立場に有りながら、こと憲法になると蹂躙して恥じないアウトローぶりを発揮している。このアウトローテロリストは、ブッシュと口裏を合わせてイスラムテロリストに対しては批判の舌鋒が厳しい。が、憲法テロリストとしての手前の行状については無痛なようで、便利な頓馬性格を晒し続けている。

 ところで一体、日テレ−読売、その総帥ナベツネは何ゆえに全てが許され天下往来なのか。他にこのような天下無頼ぶりを求めるとするならば、中曽根−小泉−飯島連合のそれしか見当たらない。いずれも、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義に自ら迎合し、「シオン長老の議定書」を古典マニュフェストとして信奉するロスチャイルド派ネオシオニズムの下僕として立ち働いていることで共通している。そうした国際的権威をバックに我が世の春を謳歌していることで知られつつある。

 もとへ。「日テレの国会議員総裁選投票行動盗撮事件」は、度を越していやしないか。本件に付き、司直は直ちに捜査を発動せねばならないのではないのか。もし発動しないなら、日テレ−読売、その総帥ナベツネなら何ゆえに全てが許され天下往来なのかその法理を弁明陳述せよ。他のマスコミ各社は、こたびの「日テレの国会議員総裁選投票行動盗撮事件」に対し、身内を庇うかの如く蓋をし続けるなら、以降一切政治腐敗批判のペンを舌を振るうな。君達には資格が無さ過ぎる。今後は利権ペン屋、利権舌屋と名乗ってから登場せよ。

 それにしても、杉村議員自身が端的に自ら、続いて国会自体が日テレを告発すべきだろう。制裁として最大で免許取り消し処分、少なくとも経営者及び責任者更迭、どう低く見ても担当部署の営業停止が相応しかろう。こたびのような事件を曖昧にするなら、今後議員は盗聴盗撮なんでも有りの監視下に置かれることを覚悟し甘受せねばなるまい。

 れんだいこは、本事件を機に再度訴える。松岡農相変死事件を再調査し報告させよ。聞くところによると、安倍前首相はこの事件に痛く消耗し寝つきが悪くなったと云う。しかし彼は、事件の徹底調査を命ずる勇気と決断を持たなかった。そういう軟弱な彼であるからして、何事かを為さんとすれば決まって「ズボンの裾を踏まれた」。彼は、田中真紀子のように踏む者を見抜けず、あるいは見抜いてもあらがうことができなかった。安倍の場合にはそれで良かったにせよ、一国の首相のズボンの裾を踏み続けた裏勢力はいずれ炙り出されるべきであろう。

 「日テレの国会議員総裁選投票行動盗撮事件」を問責し、関係者を国会喚問させよ。れんだいこは万事に於いて極力取締り強化は好まぬが、この両事件に対してはそういう訳にはいかぬ。どうしてこのような事件が起こったのか検証し、ウミを出すべき時に出ささねばならぬと思う。

 こういう重大事件が発生しながら、何事も無かったかのように次の話題に転じて行くのだろうが、そういう手合いの言論が正鵠を射る試しが無い。どうでもいいようなことを長たらしく聞かせるばかりで、何の役にも立たない。やっぱ大事なことはその都度それなりに片付けようや。太蔵吼えろ、君には資格と責任がある。

 2007.9.26日 れんだいこ拝

大相撲問題その後 珍県民 2007/09/27 10:13
 れんだいこ様

 ご退院とのことで、おめでとうございます。お大事にどうぞ。

 以前に朝青龍の件でコメントさせていただきましたが、今回の「時津風部屋新弟子リンチ致死事件」で、相撲界は、横綱の品格がどうこうなどと言えるような集団ではないことがあからさまになったと思います。まるで暴力と八百長に明け暮れる、ほとんど暴力団と言わざるを得ません。
 八百長の件は「週刊現代」の報道で訴訟沙汰になっていますが、今回の安倍辞任問題では「週刊現代」の政治資金利用による3億円脱税疑惑報道が直接辞任に追い込んだ原因であることは、あの立花隆も認めるところで、「週刊現代」の取材力が証明されており、おそらく、相撲協会は訴訟に勝てないでしょう。
 また、公益法人としての事業で、力士には参加義務がある、とされる「地方巡業」は、昔から地方の興行を牛耳る暴力団との共同開催であったことは周知の事実です。(現在では暴力団が表に出ることはまずありませんが)もともと「地方巡業」というのは、江戸時代、幕府から許された春秋二十日間の本場所だけでは稼げないので、部屋ごとに、または複数の部屋が組んで地方に出稼ぎに出たもので、人気力士がいないと不入りで勧進元がつぶれたり、力士たちは裸同然で逃げて帰ってきたりと、ひどいものだったようです。

 現在、日本人の新弟子希望者はほとんどなく、いても時津風部屋事件のように、稽古がきついとやめてしまうので、外国人力士抜きでは、もう大相撲は存立不可能になっています。外国人に関しては、パスポートを取り上げ、タコ部屋状態でリンチもやり放題ですから、昔ながらのやり方が、逆に通用しているのです。
 親方は絶対だとか、いつまでもこんな馬鹿げたことを続けさせて、国技どころか、国辱エンタでしかありません。
 先日の秋場所では、何かのビラを持った女性が土俵に上がって警備員に取り押さえられる場面がありましたが、ほとんど報道されず、小さく報道されても、いったいどのような主旨の行動だったのか、など肝心なことは、協会の発表も全くなくて、何もわかりません。
 時津風親方(元小結双津竜)も、事件直後は犯行を否定し、きつい稽古はしていないなどと、とぼけたことを言っていましたが、「外傷性ショック死」というのは集団暴行事件の死因と言われており、警察も黙認できなかったようで、ビール瓶で殴って額を割ったことを認めていると言います。また、早く火葬にして証拠隠滅しようとしたフシもあり、何でも表に出さない相撲界の体質が現れているようです。
 今年の4月に、朝青龍が、時津風部屋の豊ノ島に、プロレス技?をかけて怪我をさせた問題では、時津風はひどく朝青龍を非難していましたが、とてもそんな資格はなかったのです。
  
 内舘牧子ら横綱審議委員などは、朝青龍の品格がどうのとか日本に帰化すべきだとか、くだらないウヨな事を言っているヒマがあったら、八百長、暴力、人権侵害、隠蔽体質などをどうにかするべきです。

Re:大相撲問題その後 れんだいこ 2007/09/27 17:55
 珍県民さんちわぁ。

>  ご退院とのことで、おめでとうございます。お大事にどうぞ。

 有難うございます。初めてもう先は長くないなと老いと待ち受ける死を確認させられました。まだし残しているものがありますので、養生して立ち直ろうと思っております。仮に余命5000日として、一日を大事にしたいですね。

 朝青龍事件ですが、何人かの人に確認してみると、ほとんどみんな朝青龍が悪いと批判します。協会がやり過ぎという人は誰も居ませんでした。れんだいこが思うのに、お上の決めたことには絶対従順すべしという日本人の伝統的習慣が働き過ぎているのではないでせうか。相撲協会の権威は重んじれば良いでせうが、何でもかんでもイエスマンという姿勢が正しいかどうか。

 れんだいこは、変な裁定をする場合には異論を唱えたいと思います。「横綱二場所連続出場停止」は前代未聞の措置であり、無茶苦茶な裁定だと考えております。横綱が病欠する例もあることを考えると、土俵を勤め横綱芸を見せることこそ横綱に託された本分であると考えます。朝青龍はそういう意味ではこの間責任を果たしていたと思っております。処分するなら他の措置が考えられるのに「二場所連続出場停止」とは解せません。本人の釈明もさせずに、たった一回の理事会で決定しており、やり過ぎでせう。だから今後始末に困っている。

 「時津風部屋新弟子リンチ致死事件」についてですが、時津風親方がビールビンで弟子の顔面を殴打したとするなら人格を疑います。愛のムチの限度を超しております。最近こういう手加減を知らない異常事件が多過ぎます。この親方は朝青龍事件ではどんな立場を執ったのでせう。まさか急先鋒で批判したのではないでせうね。理事会で誰がどういう判断を示したのか知りたいところですが公開されていないように思います。歴史的画期事件の場合、必ず議事録にして公開してほしいですね。

> 今年の4月に、朝青龍が、時津風部屋の豊ノ島に、プロレス技?をかけて怪我をさせた問題では、時津風はひどく朝青龍を非難していましたが、とてもそんな資格はなかったのです。

 ということは、時津風はやはり朝青龍制裁事件で強硬派だったのでせうか。腹が立って参ります。一事万事でせうから、れんだいこは現時津風の親方廃業、他の適格な者による後継を勧めます。

 2007・9・27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評325 れんだいこ 2007/09/27 20:28
 【気になる自民党内の動き。福田内閣は早晩飽きられる】

 安倍政権の俄かな破綻−福田対麻生の総裁選−福田政権の登場を見てきたが、れんだいこには気になる動きがある。これを書き記して世に問うことにする。

 一体、所信表明演説まで済ませた安倍首相の突如の辞任はどこからもたらされたのだろうか。れんだいこには、安倍首相がオーストラリアのシドニーでブッシュと日米首脳会談して以来、何やら強迫観念に捉われ調子が狂ったように見なしている。安倍は、帰国後の所信表明演説に臨んだ時点までは辛うじて政権維持を意欲していたのではないのか。翌日早朝、駐日米国大使が訪れたとの情報があるが、この席で最終的に引導を渡されたのではないのか。これにより、午後から国会質疑があるという直前での辞任表明となった。ということは、時の政権を打倒したのは、内圧ではなく又しても外圧ということになる。こう認識したい。

 ブッシュ派は何ゆえに安部政権引き摺り下ろしに向かったのか、この時どういうシナリオが用意されていたのか、これを考察せねばならないが、ここではこの考察を省く。それはともかく安倍は、後継を麻生に委ねようとしていた形跡がある。しかし、安倍辞任が確定するやこの時を待ち受けていたかのよう動き出したのは小泉チルドレンであった。小泉チルドレンは自民党内に仕掛けられたトロイの木馬であり、今後も政局の節目に箱を開け躍り出てくることが予想される。小泉チルドレンは、安倍辞任直後の「麻生断然優位のシナリオ」を崩し、小泉元首相の再登板を促した。これを指揮していたのが飯島元首相秘書官−武部元幹事長−中川前幹事長ラインであった。

 れんだいこが注目するのは次の動きである。麻生派と小泉派の動きを横目に睨みながら福田が万全の体制で総裁選に名乗りを上げた。福田出馬の動機は奈辺にあったのだろうか。福田が親子二代にわたる首相就任と云う栄誉を夢見ただけだろうか。今首相の座椅子に坐って得意気な表情を見せる福田にはそういう茶目っ気があるにはあるが、それだけでは説明できないように思う。

 それは真相の半分であり、残りの半分は小泉再登板の目を摘むことにあったのではなかろうか。これに党内派閥が呼応したのではないのか。それほどに小泉再登板に対して自民党内からの反発が厳しいのではないのか。小泉はブッシュの後押しを得ていたものの形勢非を悟り福田支持を打ち出した。これにより、小泉チルドレンの小泉アンコール運動は水泡に帰した。こうなると転身も早い。何と小泉チルドレンのリーダーの一人片山さつきは早速に福田の横にへばりつきシフト替えして見せた。その他大勢が雪崩を打って福田支持に向かった。麻生に向かったのは、判明する限り杉村太蔵である。

 麻生が善戦したもののこうして福田政権が誕生した。旧福田派から森−小泉−安倍−福田と4代続けて首相が誕生したことになる。ポスト福田が町村へと続く可能性も有り、そうすれば5代続くことになる。こうなると俗に旧福田派独裁と云われてもおかしくない。興味深いことは、この旧福田派の内部が福田派、町村派、安倍派、小泉派に割れていることである。今後目が離せない。

 なぜこういうの旧福田−森派全盛時代が続くのか。それは、党内対抗軸としてのかつては存在した旧田中−大平派が自民党内から失踪したことによるのではないのか。一部残存しているが、彼らは前参院会長の青木に象徴される如くなべて政権を争う気概は無く、寄らば大樹の陰、勝ち馬に乗り利権にあやかることこそ最良の処世法としており、旧福田派を主流派とさせ、その川下で権力の蜜の味のお裾分けに群がる能しかない卑屈な利権集団でしかない。

 ならば、風上の旧福田−森派とはどういう集団か。れんだいこが見立てるところ、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義即ちロスチャイルド派ネオシオニストの走狗であり、外向きは御用聞きにして内向きには傲慢不遜な権力亡者である。本質的に売国奴であるからして、時にそれを隠すかのように愛国者ぶる。マスコミはその愛国者振りを持ち上げることにより売国奴の正体を隠す役割を担っている。この連中に政治を任せると日本は身売りさせられ、遂には連中の属州にさせられてしまうであろう。

 こうして今や自民党は上も下も性根が腐っている。そういう連中の烏合の衆なる生態を見せている。現在なお自民党支持者は、こういう自民党内の変化を嗅ぎ取なければならない。池田−角栄−大平時代の自民党には魅力があった。今やその良き自民党を潰すことに狂奔しているのが自民党政治であることを知らねばならない。自民党は既に十分に末期症状を示している。政党であれ会社であれ、こういう連中が巣食うようになると腐敗と組織衰退が始まる。理の当然と云うべきだろう。

 さて、その福田政権であるが、どう把握せられるべきであろうか。この政権は短命で終わるのだろうか。何時ごろが潮時になるのだろうか、これについてコメントしておきたい。れんだいこは、マスコミの見立てとは違うタカ派ハト派なる政治用語を使う。マスコミのそれは昔からどこに基準があるのか定かでない。例えば三木首相をハト派と位置づけていることから分かるように、何をもってタカ派ハト派を識別するのか分からない。

 れんだいこは、数ある指標のうち戦後憲法秩序の擁護あるいは批判の度合いに応じてハト派タカ派を識別している。これによれば、1970年代の三角大福のうち三木派と福田派はタカ派であり、田中派と大平派はハト派ということになる。この時点では弱小派閥でしかなかった中曽根派はウルトラタカ派ということになる。これによれば、福田政権はれっきとしたタカ派である。

 れんだいこは更にタカ派のうち現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義ネオシオニズムへの走狗ぶりの度合いに応じてキリシタンならぬシオニスタンなる用語を案出している。これによれば、旧福田−森派はなべてシオニスタンである。当然福田政権もシオニスタンということになる。

 このところの日本政治史は長らくこのシオニスタン系タカ派に按配されている。この事態を見据えることが政治論になるべきところ、このように史観を定める者は少ない。しかし、流れは必ず変わる。西欧で米国でも無論イスラムでも南米でも新たな政治変動が強まりつつある。我々は時代のこの鼓動と呼応せねばならない。

 さて、眼前に迫るテロ特措法について言及せねばならない。福田政権は、高村外相−石破防衛相という強度の国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの走狗を押し立ててきた。政争必至というべきだろう。我々は何としてでも自衛隊の海外派兵からの召還を勝ち取らねばならない。その上で戦後憲法が指し示す国際平和と協調の政策へと転換せねばならない。これに勝利すれば同時にブッシュ派の強権政治の瓦解へと繋がるであろう。テロ特措法闘争にはそういう政治史的意味がある。以上れんだいこが政局コメントしておく。

 2007.9.27日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評326 れんだいこ 2007/09/29 19:13
 【産経オピニオンにオピニオンする】

 最近といっても数ヶ月前になるが拡張員に産経新聞を勧められ、ケ小平特集が為になることもあって購読することにした。せっかくだから他の記事にも目を通すことになる。今日は9面オピニオンの東京特派員・湯浅博・氏の「政治指導者は言葉と心中を」に意見しておく。

 湯浅氏は、現在の政治状況を先日逝った阿久悠の折々の名言を散りばめながら解説したり風評しようとしている。そのこと自体は問題ではない。むしろ面白い試みかも知れない。問題は、阿久悠が云わないだろうと思われることを阿久悠の言葉でもって云わせようとしている事にある。それは無茶ではなかろうか。普通には不見識と云う。

 その場面は次の下りである。湯浅は、阿久悠の次のような語りを紹介する。「日本だけが世界は不変と信じて、内向きに生きているかに見える。内輪(与野党ひっくるめて)もめしている間に、世界のレースの周回遅れになり、やがて、迷い子になるのではないか」(今年2月17日)。

 湯浅は、阿久悠のこの言葉をテロ特措法支援に使って次のように述べている。「そんなときに、日本が与野党の綱引きから『テロとの戦い』の戦線から離れ、インド洋で活動している海上自衛隊の補給艦を撤退させたらどうなるか。阿久さんの過去の論評から引いてみると、多分こうなるだろう」。

 湯浅よ、「多分こうなるだろう」と推測形式にしているから何を書いても良いという訳にはいくまいぞ。阿久悠が生前テロ特措法支援を始めブッシュ派のイラク戦争を支持していたというのなら構わない。しかし、れんだいこは、阿久悠の政治的発言は物足りないと思うほど知らない。湯浅よ、死人に口なしを良いことに牽強付会するのはエエカゲンにセイヨ。生きていたら阿久悠は何と云うだろうか。

 湯浅氏はその他の文章ではそれなりのことを言っており、れんだいこは読み流すだけである。ただの一箇所でも上記のようなトリックを見せられると興醒めさせられてしまう。前後の文が生きていたら惜しいことになる。市井の我々が誤るならともかくも、文筆のプロがこうであっては情けない。と書いては見たが待てよ、今時のプロは案外とこういう手品を得意としているのかも知れない。そう思うと腹が立ってきた。

 2007.9.29日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評327 れんだいこ 2007/10/02 23:36
 【福田首相の所信表明演説考】

 2007.10.1日の「第168回国会における福田内閣総理大臣所信表明演説」(ttp://www.kantei.go.jp/jp/hukudaspeech/2007/10/01syosin.html)に如何なる特徴をみてとるべきだろうか。田中角栄の「第70回国会に於ける角栄の初の所信表明演説」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/enzetusyu_kokkai.htm)と比較してみたい。

 角栄は、冒頭次のように述べている。
 「戦後四半世紀を過ぎた今日、わが国には内外ともに多くの困難な課題が山積しております。しかし、これらの課題は、これまで多くの苦難を乗り越えてきたわれわれ日本人に解決できないはずはありません。私は、国民各位とともに、国民のすべてがあしたに希望をつなぐことができる社会を築くため、熟慮し、断行してまいる覚悟であります。

 七○年代の政治には、強力なリーダーシップが求められております。新しい時代には新しい政治が必要であります。政治家は、国民にテーマを示して具体的な目標を明らかにし、期限を示して政策の実現に全力を傾けるべきであります。

 政治は、国民すべてのものであります。民主政治は、一つ一つの政策がどんなにすぐれていても、国民各位の理解と支持がなければ、その政策効果をあげることはできません。私は、私の提案を国民のみなさんに問いかけると共に、広く皆さんの意見に耳を傾け、その中から政治の課題をくみ取り、内外の政策を果断に実行してまいります」。

 けだし名言ではなかろうか。角栄は、日共によって金権政治家と烙印され、その有能性が不当に落とし込められているが、冒頭の演説のくだりは角栄の政治哲学(思想)を如何なく述べている。まさにハト派の総帥としての本領力量をも示していると云えよう。角栄の場合、この原稿を自身が書き上げた形跡がある。福田の場合はどうだろうか。福田に限らずであるが、このところの首相演説の殆どが幾分かは自身の考えを指示しているのだろうが官僚作文に堕しており、首相は単に読み上げているだけではなかろうか。

 角栄の所信表明は、マクロ的な国際情勢論から入り、それを踏まえた外交として緊張緩和政策を推進、国際協調に尽力することを説いている。日米同盟を堅持しつつも他方で自律的に日中、日ソの関係改善に向かうことを指針させている。福田のそれが終章で国際情勢論及びそれを踏まえた外交を述べていることや、何事も盟主アメリカの顔色を窺いつつの外交路線と対照的である。

 但し、「このたび、政府が第四次防衛力整備計画を決定しましたのもこのためであります」と述べているくだりは、その後の防衛費の増大化につながったことや歯止めをかけなかった点で失政であったであろう。

 続いて、国内的な治世に触れ、次のように述べている。
 「われわれは、戦後の荒廃の中からみずからの力によって今日の国力の発展と繁栄を築き上げてまいりました。しかし、こうした繁栄の陰には、公害、過密と過疎、物価高、住宅難など解決を要する数多くの問題が生じております。一方、所得水準の上昇により国民が求めるものも高度かつ多様化し、特に人間性充実の欲求が高まってきております。
これらの要請にこたえ、経済成長の成果を国民の福祉に役立てていく成長活用の経済政策を確立していくことが肝要であります」。

 上記観点から、角栄は、日本列島改造論に基づく施策を打ち出している。これに基づき、国土の均衡的発展を主眼とする都市と農村の結合、工業と農業の均衡、高速交通・情報ネットワークの整備を指針させている。今日から思えば、実に的確な政策ではなかったか。不幸なことに、中曽根の登場から今日までの政策は、角栄のこの指針と逆のことばかりしてきている。ここに現下の日本政治の貧困があるのではなかろうか。

 続いて、この頃問題になりつつあった公害対策、物価の安定政策、社会保障政策、教育改革、国際収支対策、公共事業の必要を確認している。

 最後に次のように述べて結んでいる。
 「戦後四半世紀にわたりわが国は、平和憲法のもとに一貫して平和国家としてのあり方を堅持し、国際社会との協調融和の中で発展の道を求めてまいりました。私は、外においてはあらゆる国との平和維持に努力し、内にあっては国民福祉の向上に最善を尽くすことを政治の目標としてまいります。世界の国々からは一そう信頼され、国民の一人一人がこの国に生をうけたことを喜びとする国をつくり上げていくため、全力を傾けてまいります。あくまでも現実に立脚し、勇気をもって事に当たれば、理想の実現は可能であります。私は、政治責任を明らかにして決断と実行の政治を遂行する決意であります」。

 この角栄の「決断と実行の政治遂行」所信表明演説に比して福田のそれはどの程度の水準であろうか。一見して、ちまちました総論であることが判明する。政治指針は網羅しているが、政治哲学、具体的施策に欠けた評論でしかないことが判明する。「はじめに」と「国会運営について」と「政治と行政に対する信頼の回復」のくだりは、言わずもがなの駄弁でしかない。

 続く「信頼できる社会保障制度の整備」も、結局問題点を指摘しただけで施策及びその理念を打ち出している訳ではない。続く「国民の安全・安心を重視する政治への転換」、「子育てを支える社会の実現」も、問題点を確認しているだけに過ぎない。続く「改革の継続と安定した成長」、「いわゆる格差問題への対応」、「これからの環境を考えた社会への転換」も、アドバルーンを揚げているだけに過ぎない。

 角栄の所信表明では冒頭であった国際情勢論及び外交論が福田のそれでは終章に登場し、「平和を生み出す外交」で次のように述べている。
 「日米同盟の堅持と国際協調は、我が国外交の基本です。世界の平和は、国際社会が連帯して取り組まなければ実現できないものです。私は、激動する国際情勢の中で、今後の世界の行く末を見据え、我が国が国際社会の中でその国力にふさわしい責任を自覚し、国際的に信頼される国家となることを目指し、世界平和に貢献する外交を展開します。直面する喫緊の課題は、海上自衛隊のインド洋における支援活動の継続と、北朝鮮問題の早急な解決です。

 テロ特措法に基づく支援活動は、テロリストの拡散を防ぐための国際社会の一致した行動であり、海上輸送に資源の多くを依存する我が国の国益に資するもので、日本が国際社会において果たすべき責任でもあります。国連をはじめ国際社会から高く評価され、具体的な継続の要望も各国から頂いています。引き続きこうした活動を継続することの必要性を、国民や国会によく説明し、ご理解を頂くよう、全力を尽くします」。

 いわゆる「アメリカにノーと言えない日本造り」に向かうことを宣言していることになる。いわゆるシオニスタン政治である。この姿勢は次のように繰り返されている。
 「日米同盟は我が国外交の要であり、信頼関係の一層の強化に努めていきます。在日米軍の再編についても、抑止力の維持と負担軽減という考え方を踏まえ、沖縄など地元の切実な声によく耳を傾けて、地域の振興に全力をあげて取り組みながら、着実に進めてまいります」。

 福田はその後で、アジア外交を重視し、北朝鮮問題で云々、中国、韓国、アセアン諸国、ロシアとの関係を云々と述べているが、日米同盟のタガ嵌め下に於けるそれであり、自律した外交は望むべくもなかろう。

 「むすび ― 自立と共生の社会に向けて」で、次のように述べている。
 「改革の続行に当たって、私は、『自立と共生』を基本に、政策を実行してまいりたいと思います。老いも若きも、大企業も中小企業も、そして都市も地方も、自助努力を基本としながらも、お互いに尊重し合い、支え、助け合うことが必要であるとの考えの下、温もりのある政治を行ってまいります。その先に、若者が明日に希望を持ち、お年寄りが安心できる、『希望と安心』の国があるものと私は信じます。激しい時代の潮流を、国民の皆様方とともに乗り越え、『明日への道を一歩一歩着実に歩んでいる』ということを実感していただけるよう、持てる力のすべてを傾けて、取り組んでまいる所存であります」。

 福田の「自立と共生論」はこれはこれで結構である。小泉政治、安倍政治とは違う味を出しており評価されるべきだろう。問題は、福田首相のこの言葉がどう実を結ぶのかにある。いいことは誰でもいえる。その為に何を為すべきかが問われている。見てきたように福田はシオニスタン政治を誓約しているが、その制限下で「自立と共生の社会に向けて」何事か為し得るだろうか。

 れんだいこのスタンスは、ハゲタカ身売り路線を構造改革と称してレイプ政治に明け暮れた小泉再登板を掣肘して登壇してきた福田政治の意義を認め、今後も小泉再登板を抑制する限りに於いて評価せんとしている。他の多くの評者が安倍政治も福田政治も無分別に批判して小泉再登板の呼び水を謀っている情況に於いて、批判しつつも注意深く見守ろうとしている。この判断が正しいかどうかはっきりするまで今しばらく時間がかかりそうだ。

 2007.10.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評328 れんだいこ 2007/10/04 19:40
 【二周遅れレースの議論考】

 阿久悠の言の「世界のレースの周回遅れになり」が気に入った。れんだいこは、これを「二周遅れレース」と言い換え使わせてもらおうと思う。この言になぜ拘るのか。最近「二周遅れレース議論」が多過ぎると思うからである。

 テロ特措法を廻って、自民党派閥、議員が揃いも揃って延長路線を打ち出しているが、その論理論法が二周遅れ議論の気がしてならない。今日9・11テロの不審はかなり出回っており、疑問を抱くことは造作も無くできるというのに、自民党派閥、議員で声を挙げる者は皆無である。党中央の縛りを恐れているのであろうが情けない。

 郵政民営化法案では造反派がたくさん出たが、ハゲタカファンドの好餌論唱えるのならついでに9・11テロ疑惑まで論ずればよいのに。松岡農相変死事件に対して与野党問わず自殺論で片付けているのも情けない。松岡農相変死事件に対してダンマリを決め込んだ「週刊現代」が、大相撲や安部政権批判では舌鋒鋭いのを訝らないのも同様で、「週刊現代」評価論も二周遅れ議論の気がする。

 テロ特措法で、民主党小沢党首が気焔を吐き、民主党が一丸となって押せ押せしているのは頼もしい。社共運動では決してこうはならない。僅か三議席ほどの死守を賭けて「オラのところが本物一番の野党」などと足をひっぱり合う万年野党論のあさましさが浮き彫りにされるばかりである。今にして思えば、民主党が心がけてきた「次(影)の内閣」布陣の正攻法の良さが見えてくる。野党にも政権を執ったことがある連中がいないといけないということか。

 それはともかく、小沢党首の堂々たる憲法違反論は心地良いが、まだ物足りない。もう一つ、費用対効果論もぶち上げるべきではないか。一体、小泉内閣の「神学論争じゃかましい論」で専守防衛区域論を一足飛びに飛び越えて、自衛隊をアフガンからイラクまで派兵した狂気とその費用の総額と効果をつき合わせてみるべきではないのか。

 他にも経済援助だの災害救援だのの名目で投入した税金も加えればよい。ついでにミサイル防衛網だの軍事兵器共同開発費用だの基地移転費用だの思いやり予算だの自衛隊維持費だのもろもろを加えてみればよい。一体総額いくらになるのだ。れんだいこは資料を欲しているが、政府もマスコミも発表せず、これに取り組む論者も居ないのではっきりした額が分からない。

 テロ特措法は、憲法論と費用論の両方向から詰めなければならないのではないのか。これを確認した後、小さい政府論だとか地方交付金の削減だとか被災地援助後手後手論だとか医療費高負担やむ無し論だとか障害者見殺し論だとか自立論だとか自己責任論だとか消費税アップ不可避論だとか公共事業削減論だとか奨学金廃止論だとか年金論だとか僻地郵便局閉鎖論だとか論ずればよい。

 これらを、中曽根内閣以降の大国責任論に基づく軍事防衛費突出化の流れを遡上に乗せることなく論じても、まじめに論ずれば論ずるほどバランスが悪くなるのではなかろうか。この間の「内治政策大ナタ外治政策大アマ」を検証せずにテロ特措法正義論を唱えるのは、まじめに論ずれば論ずるほどしらけはしないか。れんだいこには周回遅れの議論の気がしてならない。

 こう考えると、テロ特措法期限切れに向かう側の方が能力が高く、テロ特措法正義論をぶち上げるしか能が無い自民党の「二周遅れレース」ぶりが際立ってくる。狂人ブッシュ派の聖戦テロに逸早く賛同し一の子分として擦り寄った小泉日本の愚かさが見えてくる。イスラムは千年余にわたって、ユダヤ教原理派がいつの日かかような聖戦テロに向かってくることを覚悟しており、その分備えができ、それ故に強靭に抵抗し続けることができている。真剣白刃の修羅場であり予断は許されないが、狂人ブッシュ派の破産が近い。一の子分族には自己責任をとってもらわなくてはなるまい。

 云える事は、もっとも高度高次ななりわいである政治の舞台に於いては、一枚岩だとか満場一致なぞ有り得てはならないということではなかろうか。常に可変的に考えスペアを用意し万一の備えだとか風向きの変化に対応しえてこそ政治なのではなかろうか。現下の政治は「二周遅れレース」であり、中国は無論、韓国にも台湾のそれにも劣っている。政治のつまらなさがそこに胚胎しているのではなかろうか。小沢が頑張っているからどうにか面白いが、岡田民主や前原民主ではとてもこうはならなかったであろう。

 50年武装闘争世代、60年安保世代、70年安保世代よ、ロートルと云われながらも燃え尽きる生に燃えてみようではないか。と、れんだいこは煽ってみたのであった。

 2007.10.4日 れんだいこ拝

時津風部屋新弟子リンチ致死事件 珍県民 2007/10/05 12:55
 れんだいこ様

 「時津風部屋新弟子リンチ致死事件」に対して、マスコミのバッシングが盛んに行われていますが、横綱の品格がどうの、などと言いながら、帰国禁止、自宅謹慎、という、行政罰や刑事罰を相撲協会という私集団が科す、つまりは「リンチ」を、放任したことについて、反省も何もありません。

 相撲取りが強くなるためには、人間の限界を超えたような稽古を克服する必要があり、その過程で死者がでることもあるのは致し方のないことです。
 問題は稽古以外での「いじめ」や「暴力」であり、死んだ力士も、「稽古はいい。兄弟子らに奴隷扱いされるのが耐えられない」と伯父に話していたといいます。
 つまり、相撲界の「暴力団」たる所以は、人格や人権に対する侵害にあり、稽古がきついことではありません。何か「ケツバット」が問題にされているようですが、高校の野球部などでもよくあるもので、「ケツバット」で死んだという話もあまり聞きません。むしろ、日中に水を与えないランニングによる熱中症のような無知な特訓で、多くの体育会系青少年の命が奪われてきました。
 現状を改善する方法としては、チームドクター、専門のトレーナー、マネージャーなど、外部の人間を部屋に入れて運営させることですが、おそらく受け入れられないでしょう。

 朝青龍に対する人権侵害やリンチの容認は、相撲協会に対するマスコミのスタンスであり、相撲評論家と称する人たちは、今頃になって、相撲部屋での「いじめ」や「リンチ」の存在を認めていますが、いったい今まで何を語ってきたのでしょうか。


>松岡農相変死事件に対してダンマリを決め込んだ「週刊現代」が、大相撲や安部政権批判では舌鋒鋭いのを訝らないのも同様で、「週刊現代」評価論も二周遅れ議論の気がする。 

 なんだか私に言われているようで気になるのですが、「週刊現代」の「安倍脱税問題」の記事は、その「取材力」を証明しており、「八百長問題」の訴訟も勝てるだろう、という予測を前回投稿させていただきました。
 これは、公開された記事について「取材力」を証明したという評価であり、記事になっていない問題については、どのように評価したら良いのでしょうか。
 「週刊現代」が、「松岡農相変死事件に対してダンマリを決め込んだ」のは、何か都合の悪い利害関係がある、ということなのでしょうか。何かお心当たりがあるなら教えてください。
 しかし、注目すべき記事が書かれなかったのは、なんらかの不都合が隠蔽されている、ということになると、たとえば、今週のフライデーが写真を取り違えて休刊になったそうですが、実は何か隠蔽したい記事があったはずだ、と、疑わないといけないのでしょうか。 どの週刊誌でも、何か扱わない記事があったら、隠蔽を目論んでいるのでしょうか。 松岡農相自殺事件は誰もが疑惑を持っており、「週刊新潮」のようにいつも「ウラ」を取らずに記事を書いて部数を稼ぎ、訴えられては訴訟に負ける週刊誌なら、扱わないことに疑念を持つのが当然ですが、「ウラ」が取れないことは書かないのだとすれば、非常にまともな(珍しい?)週刊誌ということになると思うのですが。ちなみに、私は、どの週刊誌も買ったことはありません。

Re:時津風部屋新弟子リンチ致死事件 れんだいこ 2007/10/05 15:55
 珍県民さんちわぁ。

 大相撲協会も何かと大変ですね。れんだいこの考えは、朝青龍事件に関しては勧告とか厳重注意で良かったものを一発の理事会審議で前代未聞の措置にしてしまった。「時津風部屋新弟子リンチ致死事件」に対しては、親方指揮によるリンチ致死事件であるなら廃業申し渡しの極刑で臨むべしのところ今日まで曖昧にしている。実際には逆さ裁定になっていると考えております。

>  朝青龍に対する人権侵害やリンチの容認は、相撲協会に対するマスコミのスタンスであり、相撲評論家と称する人たちは、今頃になって、相撲部屋での「いじめ」や「リンチ」の存在を認めていますが、いったい今まで何を語ってきたのでしょうか。

 杉山何とかのコメントほどくだらないものはないですね。協会よりの発言繰り返しながら協会に叱られるというみっともないことになっております。ああいう背骨の入っていない評論は役に立たない。

> >松岡農相変死事件に対してダンマリを決め込んだ「週刊現代」が、大相撲や安部政権批判では舌鋒鋭いのを訝らないのも同様で、「週刊現代」評価論も二周遅れ議論の気がする。 

 これは少し舌足らずで迷惑かけました。れんだいこの真意は、「週刊現代」の大相撲や安部政権批判の記事をけなそうとしているのではありません。その「週刊現代」が何ゆえに松岡農相変死事件ではダンマリしたのかを問おうとしています。そういう「週刊現代」編集部の胡散臭さを見据えたいというのが本旨です。だから大相撲や安部政権批判記事が優れていても手放しでは評価できません。何かウラがあるのではないかと勘ぐってしまいます。

>  これは、公開された記事について「取材力」を証明したという評価であり、記事になっていない問題については、どのように評価したら良いのでしょうか。

 前者は良いでせう。後者は、テーマによっては重大な報道管制でせう。ジャーナルがジャーナル精神を失ったらおしまいでせう。決して偶然ではなく誰かがコントロールしている。れんだいこはそうみなしております。

>  「週刊現代」が、「松岡農相変死事件に対してダンマリを決め込んだ」のは、何か都合の悪い利害関係がある、ということなのでしょうか。何かお心当たりがあるなら教えてください。

 分かりません。ただただ不自然過ぎますね。あるいはボツにされたのかも知れません。みんな御身が大事なんでせう。

>  しかし、注目すべき記事が書かれなかったのは、なんらかの不都合が隠蔽されている、ということになると、たとえば、今週のフライデーが写真を取り違えて休刊になったそうですが、実は何か隠蔽したい記事があったはずだ、と、疑わないといけないのでしょうか。

 いえいえ、何でも隠蔽に結びつける必要は無く、案件によってでせう。松岡農相事件は絶対おかしいです。取り上げない理由が無いのにダンマリしてしまった。おかしいですよあれは絶対に。現役の大臣が議員宿舎で白昼変死したんですよ。ケネディーやダイアナまで行かなくても相応に追跡しなくては報われないでせう。

>  どの週刊誌でも、何か扱わない記事があったら、隠蔽を目論んでいるのでしょうか。
>  松岡農相自殺事件は誰もが疑惑を持っており、「週刊新潮」のようにいつも「ウラ」を取らずに記事を書いて部数を稼ぎ、訴えられては訴訟に負ける週刊誌なら、扱わないことに疑念を持つのが当然ですが、「ウラ」が取れないことは書かないのだとすれば、非常にまともな(珍しい?)週刊誌ということになると思うのですが。

 ウラを取るも取らないも、事件現場の検証報道しさえすればよいのですよ。これをやった社はただの一社もないといっても過言ではありません。事件報道のほとんどがどうでも良いような松岡金脈や精神の変調を語っており、事件現場の検証に向かっておりません。おかしなことです。れんだいこは、飯島が登場したことでアンテナが作動します。

>  ちなみに、私は、どの週刊誌も買ったことはありません。

 れんだいこは、見出しにより買います。普通はあちこちの喫茶店で間に合わせます。

 2007・10・5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評329 れんだいこ 2007/10/06 18:35
 【「民主党の2007・2・6指針」考】

 日経ネットttp://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20071005AT3S0502905102007.htmlが、「民主、次期衆院選で過半数目指す・小沢氏『最後の戦い』」なる記事を掲載している。興味深い内容なのでコメントしておく。

 2007・2・6日、民主党は、党本部で全国幹事長・選挙責任者会議を開き、来る衆院選に向けての次のような指針を確認した。まず小沢代表が、「過半数を何としても取る。力を勝てる所に集中する」と大方針を示し、そのうえで「私の政治家としての最後の戦いだ。必ず民主党政権を実現する」と決意表明した。鳩山幹事長は「小選挙区で勝てる候補の擁立」を指示した。

 これを受け、赤松広隆選挙対策委員長が、1・300小選挙区すべての公認候補擁立は目指さない。2・比例代表への単独立候補は認めない。3・野党との選挙協力に合意しており、候補差し替えもありうるなどの基本方針を示した、とある。

 れんだいこがこの記事を採り上げるのは、日共のそれに対すをる当てこすりかと笑ったことによる。実際頭脳が正常なら誰が考えても、こたびの民主党の選挙政策こそが当を得ているのではなかろうか。考えてみるのに、これは、民主党の共同戦線政策と日共の統一戦線政策の違いに起因するのではなかろうか。更に、歴史的に根深い理論問題だと考える。

 民主党の共同戦線政策の真髄は、自民党もそうなのだが、政権取って政策を自在にすることこそ本物の政治責任と捉えている。肝心の政権取る為に組める相手と組み、意見政策の違いは練り合わせすればよいと考えている。日共流の統一戦線政策は、政権を視野に入れず遠吠えに過ぎなくても常に正しくなければならず、政権取るより政権与党をチェックし正義を弁明することこそ野党の使命とする。考え方のこういう相違により戦略戦術が異なっているのではなかろうか。

 ここまでは評論である。ここから先、どちらが正しいのかを問うのが政論である。れんだいこは、共同戦線論に軍配を挙げる。なぜなら、統一戦線的に運動内部の見解の相違を排除し一元的に統制化し一枚岩を誇ること自体が馬鹿馬鹿しいと考えるからである。小泉政権時代の郵政民営化法案をめぐる官邸統制ーそれによる造反は議員の除名は、本来の自民党らしからぬ日共流の排他的強権支配に他ならなかったと考える。なぜこういう事が起こるのか。それは、小泉が実は隠れ日共党員というのではなく、スターリニズムに汚染されているというのでもなく、小泉も日共も実は共にシオニスタンであり、シオニスタン特有の政治手法であると解く。

 我々は長い間、この迷妄に汚染されているのではなかろうか。世に、統一戦線が必要な局面は非常事態有事局面にしか必要でなく、それも期限を限定すべきであろう。通常は全て共同戦線で間に合う。家庭も親族間も地域も会社も国家も、常に異論異端を許容しつつ全体的に整合していくべきではなかろうか。苦労するようになっていると考えればよい。その方が組織論的に見てもしなやかで強い。

 もう一つ、共同戦線論の場合、参画者が自由自主自律的に参加しており、この方が組織論的に見てもしなやかで強い。統一戦線論の場合、参画者は自分の頭脳で考える必要が無くひたすら党中央を盲信し、党中央の口ぶりを真似ることしか出来ない。こういう組織は非勢になるともろく弱い。

 そういう意味で、「民主党の2007・2・6指針」は理屈にかなっていると思う。理にかなえば伸びるのが道理だ。道中いろんなすりあわせが必要であろうが、政権取りの為に最も有効な手法を求めてひたすら談じ合いしていくならば道が開けると思う。

 何事も平時では、誰もが良いことを云う。いざの時、本質本音が現れる。我々は、いざの時に現れた正体を見据えて組む相手を見定め、共同戦線で邁進せねばならない。これは兵法のみならず処世法のイロハである。これ以上偉そうに云うのは控えるが、このイロハの弁えの無い政論が多過ぎるから役に立たない。れんだいこは、この場合たすけあい党はと言い換えても良かろうが、「民主党の2007・2・6日指針」を断固支持する。但し、政権取ったら急に強圧政治になるということが無い開かれた組織構造で民主党があり続けるという条件で。
 
 2007.10.6日 れんだいこ拝

「 日本の気概 」 − 三島由紀夫の遺志 と 「ヨコの会」結成 −  国際ディベート学会会長  松本 道弘 氏 救国の草莽の志士 2007/10/08 09:06
        ワールドフォーラム10月例会のご案内

   日本の気概  − 三島由紀夫の遺志 と 「ヨコの会」結成 −

     異文化コミュニケーションの達人、国際ディベート学会会長  松本 道弘 氏

日時 : 2007年10月20日(土) 9:00 - 11:30

場所 : 浅草公会堂  3階  第一集会室  台東区浅草1−38−6
            TEL.(03)3844−7491

交通 : 東京メトロ銀座線「浅草駅」 徒歩10分

地図 : 浅草公会堂への地図

参加費 : 3,000円(予約前払の場合:2,000円)
 
振込先 : 三菱東京UFJ銀行 田無駅前支店/普/3826681/口座名義 さそう くにお 

参加申込み先 :  ワールド・フォーラム代表幹事 佐宗邦皇

              E-mail : sasokunio@hotmail.co.jp

                FAX : 03(3353)6499

               携帯 : 090(7234)9792
 
 ワールド・フォーラム10月例会では、著名な文化人であり、当会の副代表幹事でもあられる日本を世界に発信する異文化コミュニケーションの達人、国際ディベート学会会長  松本 道弘 氏 をお招きし、出版社の日新報道から出された同氏の思想と哲学が凝縮された、混迷の現世に問う渾身の最近著 「 日本の気概 ― 三島由紀夫の遺志 と 「ヨコの会」結成 − 」というテーマでお話戴きます。

松本氏は、同時通訳の英語の名人で通っていますが、実は英語は同氏にとっての「仮面」に過ぎず、英語を武器にして異文化圏の人とのディベート(知的対応)を繰返す内に、「日本」「日本人」「日本文化」の輪郭が明らかになり、その真髄を探求されて、「英語」と「日本語」、「直観」と「ロジック」の二刀流を意識されて、青春時代に思慕した剣聖・宮本武蔵と昭和45年に現代日本の現状を変えようと諫死した三島由紀夫の影響を深く受けられました。その真髄と思想とを中心に、自壊しつつある「日本」「日本人」「日本文化」の再興・再生を願って著書にされたのが、最近著 「 日本の気概 」(日新報道刊)であります。三島由紀夫の遺志を継ぎ、日本の歴史・文化・伝統を守るように訴えたその政治的な訴えの志を、国際的な活動を通じて世界に発信しながら、受け継ごうとする人々が寄り集う自由な会「ヨコの会」を結成しようと呼びかけておられます。
つきましては、そうした上梓されたばかりの同書の真髄を、直接同氏よりお話しを伺いながら、その決行から37年も経過した現在、三島由紀夫の自死の意味とその遺言をいかに現代に生かすかについてのお話を伺います。また、終了後には、松本氏がこよなく愛する日本文化の真髄の江戸下町の情緒に溢れる浅草の小料理屋で、「 「ヨコの会」の発足の記念集会 」を、12:00から浅草の雷門前の大通りの 小料理「歩盃(ポパイ)」(雷門1-15-12 TEL 3842-6771)にて、軽い昼食とビールでも酌み交わしながら(会費別)行ないたいと思います。皆様には大変お忙しいこととは存じますが、お誘い合わせの上ご参加下さりますようお願い申し上げます。

 ( 松本 道弘 氏  プロフィール )

 1940年大阪生まれ。関西学院大学卒業。日商岩井。西山千氏の推挙でアメリカ大使館の同時通訳,NHKテレビ上級英語講座STEPU 講師。名古屋外国語大学教授を経て、日本で「ディベート」を最初に社会に広めディベート教育歴約40年、国際ディベート学会会長。私塾「紘道館」館長。日本文化に関して 130冊以上の著作。「 日本の気概 」(日新報道刊)   

Re:「 日本の気概 」 − 三島由紀夫の遺志 と 「ヨコの会」結成 −  国際ディベート学会会長  松本 道弘 氏 れんだいこ 2007/10/08 20:19
 「日本の気概 」さま、ちわぁ。ご紹介有難うね。松本氏については、ご紹介いただいたことしか知りません。ワールド・フォーラムについては常々敬服しております。

 それはそうと三島由紀夫の評価機軸はディベートの対象になると思います。松本氏がどういう風に評価しているのか興味がわきます。れんだいこは、一定評価、一定疑問有りというところかな。あの死に方は評価しません。丁度れんだいこの学生時代しょっぱなの年だったと思います。森田必勝君がみちづれしておりますが、彼はあれで良かったんだろうか。思想的に別世界に生きていたから何の感慨もありませんでしたが、ふと思い出しました。

Re:れんだいこのカンテラ時評330 れんだいこ 2007/10/12 21:30
 【国会質疑のつまらなさ考】

 参議院選での民主党圧勝で期待された国会質疑が始まっている。それを全部聞くわけではないが、否僅かな合間に聞くに過ぎないが物足りない。テロ特措法審議でガンガンやるのかと思うと、油のガロンやり取りに終始しており、これでは焦点がぼけている。

 我がたすけあい党なら、つまりそれは今のところれんだいこならばということと同義なのだが、ズバリ自衛隊の海外派兵そのものの違憲性を咎める。もう十分詰み切って誰の目にも失政だったことが明らかなのではないのか。それを思えば、時の政府の主だった連中の政治責任を追求すべきではないのか。石破が防衛相に返り咲いているが、時の責任者としてとことこ追い詰めたい。ここから論を説き起こしたい。

 れんだいこなら、「神学論争じゃかましい論」で、それまでの専守防衛区域を東南アジアまでとしていた政府見解を上から蹂躙し、自衛隊をインド洋を越してペルシャ湾まで武装派兵させた小泉首相の政治責任を第一に問う。れんだいこは、やってはならないことをした咎でお縄につかせても良いほどの重罪と考える。

 合わせて9.11テロから始まって現在に至るまでの軍事的経費の総額の公開を迫る。ブッシュの打ち出の小槌としていくら吸い上げられたのか。今後いくら追加しようとしているのか。その狂気を国会で暴いてみたい。そこには御身保身と利権と権力の蜜の味が絡んでいるはずである。これを俎上に乗せ、政治をどっちの側で執り行っていたのか問い詰めてみたい。

 野党は政治資金の1円からの公開に熱中しているが、自分が出来てからものをいえばよい。誰かが指摘していたがブーメラン効果でやがて御身にふりかかってくるのではないのか。その時言い訳するようなことは見苦しい。政治活動費の透明化は望ましい。しかし、1円から云々とできもせぬことにうつつを抜かす必要は無かろう。そういうことではやがて政治家は事務所の経理マンに屈服するようになるではないか。1円まで公開の対象を議論したほうが生産的なのにイエスかノーか式の万年論争で時間を費消しており、要するに受け狙いしているような気がしてならない。

 今議論すべき筝はそういうところではない。小泉政権時代の失政を洗いざらい晒して、どうギアチェンジするのか喧々諤々すべきではないのか。そこからしか始まらない気がするのだが、かくはつきりと論を立てる議論を聞いていない。こういうことは端的に問い詰めるほうが良い。ちまちま云う必要が無い。テロ特措法国会と前評判の割には国会質疑が物足りなくないか。議員貴族の政治遊びに堕していやしないか。

 れんだいこは、昨今の政治が盛り上がらない原因がこういうところにあると見立てる。情報過多と云われるがつまらないものばかりで、肝心な議論はどこにもないではないか。資料公開もそうだ。その癖著作権やら情報公開制限やらで小難しい。その昔、徳球が机をどんどん叩いて政府を追い詰めたああいう論議を聞いてみたい。やられた側の吉田茂は、その徳球を政敵と云えども評価していた。徳球も吉田を敬服していたとの逸話が残されている。本当の政治とはそういうものではないのか。

 2007.10.12日 れんだいこ拝




(私論.私見)