カンテラ時評10(271〜300)

 (最新見直し2007.7.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.3.24日 れんだいこ拝


Re:れんだいこのカンテラ時評271 れんだいこ 2007/03/20 19:23
 【再びおふくろさん事件の正邪を問う】

 2007.3.20日、毎日新聞25面が特集ワイド「名曲・・・誰のもの」と題して「おふくろさん事件」(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」)を題材に記事にしている(太田阿利佐、高橋昌紀記者)。遅まきながらもタイムリーであり、他社がろくな記事を配信していないことを鑑みると評価に値する。「今ひとつ分からないことも多い。『おふくろさん』7つの疑問に迫ってみた」とイントロして次のように述べている。但し、れんだいこ見解に照らすと食い足りないのでコメントしながら検証する。

 第一疑問として、「森さんはもう『おふくろさん』は歌えないのか」と問うている。記事は、新曲を、著作権法第20条の同一性保持権規定に照らして、ジャスラックの「侵害の恐れがある」見解を鵜呑みにして不可としている。れんだいこ見解は、ここが違う。こたびのように原歌をそのままにしてのイントロ歌を挿入する場合には、同一性が保持されているとみなしたい。森シンはよって無罪である。そう思っている。

 記事は、新歌不可とした上で、ならば原歌まで歌うことが出来ないのか、を問うている。この踏み込みは良いですね。ジャスラックは、「新曲が侵害に当たる」かどうか、森シン側からの申し出が為されると審査が発動し、著作権等官吏事業法第16条に基づいて許諾の可否を判断すると云う。同条は、著作権等官吏事業者に「正当な理由無く、著作物等の利用の許諾を拒んではならない」という応諾規定を負わせている。これによれば、森シン新曲は保護されそうだが、川内側が「森シンには歌わせない」と主張するとどうなるかという問題が発生する。

 ジャスラック広報部の「現状では森さんからそのようなお話は無く、過程のケースでコメントはできない」とのコメントを載せている。これによれば、森シンは、ジャスラックに堂々と「原歌まで歌わせないのは不当」と申し込み、審査に持ち込めば良いことになる。さて、どうなるのだろうか。現代強権著作権論者は、作詞家の肩を持つのだろうが、れんだいこは、ジャスラックに管理を預けた時点で、作詞家、作曲家にはそういう権限はないと見立てる。ジャスラックは恐らくそういう結論を出すだろう。

 第二疑問として、「では、なぜ嘉門達夫さんの替え歌は許されているのだろうか」と問うている。記事は、嘉門氏の場合、事前に許諾を得ており、しかも親告罪であるところ抗議は為されていない、故に許可されると述べている。れんだいこは、踏み込みが足りないと思う。嘉門氏が許諾をもらえない場合、それでも歌ったとしたらどうなるのかを考察したい。他の誰それでも同じである。れんだいこ見解は無罪である。どんどんやりなさい。規制する法があるとしたら悪法である。

 第三疑問として、「基本的に誰もが自由に好きな歌を歌えるのなら、なぜ吉幾三さんは勝手に『おふくろさん』を歌わないのだろうか」と問うている。記事は、歌手の持ち歌権を指摘し、持ち歌に対する遠慮があるからと推測している。れんだいこは、歌手の持ち歌権の存在を知った。そうだ、作詞家、作曲家、歌手の持ち歌は三位一体で対等に保全されるべきではないのか。作詞家だけが突出した権利を持つとするのはオカシイのではなかろうか。記事が、意識してか知らずでか、歌手の持ち歌権に言及した意義は大きいと思う。

 他の疑問は割愛するとして、最後に「確かなのはただひとつ。歌われないのでは、名曲『おふくろさん』が泣く・・・ということだ」で結んでいる。れんだいこは、記事のように情緒で訴えるのではなく、森シンが歌えるように法理論を構成したいと思う。これは、強権著作権論と開放著作権論との根源的対立であり、開放著作権論で強権著作権論を説き伏せる以外に無い。してみれば、一事万事ということか。

 それにしても、「おふくろさん事件」は著作権問題を考える上での格好例題になっていることが分かる。テレビで、コメンテーターがしたり顔して著作権違反を説くたびに、お前、著作権問題分かって云っているのかとなじりたくなる。ムード手物言ってはダメなんだよ。現に、森シン歌えなくされているが、問題ではないのか。とはいうものの、強権著作権論者でないとテレビにでれないんだな。だから見ないに限る。

 2007.3.20日 れんだいこ拝
 字句の間違いが多いので、こちらに書き直しています。

 「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」考 

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_sakushisakkyokuco.htm

Re:れんだいこのカンテラ時評272 れんだいこ 2007/03/21 20:57
 【2007.3.20日、老壮青の共同戦線運動の創出を祝す】

2007.3.20日、「ゼンガクレン老闘士、国民投票法案廃案訴え 国会前集う」なる快挙が為されたとの事である。3.21日、朝日新聞が報じている。こういう記事はやはり朝日のお家芸なのか。報じない他社がだらしないのか。朝日記事によると次の如くであった。

 3.20日、60年安保闘争に参加した元全学連(全日本学生自治会総連合)のメンバーら約50名が、憲法改定の手続きを定める国民投票法案の廃案を訴え、国会前でハンガーストライキや座り込みの抗議行動を始めた。「9条改憲阻止の会」として憲法記念日の5月3日まで続ける、とのことである。

 「四十数年ぶりに集まった」というかっての闘士たちは70歳前後となり、つえを片手に駆けつけた人も居た。3.19日には、かって対立・分裂した学生運動経験者や全共闘世代にも「大同団結」を呼びかけ、「非戦を誓った憲法前文と9条を変えない努力を続ける」という共同声明を出した。

 呼びかけに奔走した著述業蔵田計成さん(72)は、デモ隊が国会を取り巻いた60年当時との落差を痛感し、「運動を高揚させていけなかった過去に対して悔いがある。(改憲の動きが強まる)こんな時代になって無念で仕方ない」と語った、とのことである。

 これが如何に快挙なのかは、学生運動に真剣に関わり、今なぜ沈滞しているのか、その原因を切開し、現実を痛苦に問う者には自明である。戦後学生運動は、労働運動も、原水禁も、部落解放運動も、日中友好運動も、プロレタリア文学運動も然りであるが、永らくまさに長らく不幸な分裂を余儀なくされてきた。互いが「我こそは是、我こそは真」と呼号し、抜きん出ることのみ争ってきた。

 それだけならまだしも、排除の論理と他党派解体論理をのさばらせ、左派運動の分裂の傷口を広げてきた。これが左派運動の宿ァと勘違いさせ、左派運動の信頼と発展を毀損せしめてきた。多くの者が傷つき、命を落としてきた。あるいは逃亡を余儀なくされ、あるいはパレスチナに向かった。あるいは懲役をくらってきた。そういう現実がある。

 今、50年武装闘争、60年安保闘争、70年安保闘争の闘士達が、日共系反日共系の敵対枠を取り外し、左派運動の再生に向かいだした。依拠するのは、「大同団結」であり、統一戦線ではなく、左派の志さえあれば異論異端を許容する共同戦線である。我々は早くこれに気づくべきだったが、相応の年数を要したことになる。

 れんだいこ史観に拠れば、「2007.3.20日、老壮青の共同戦線運動創始」は、ねじれにねじれた糸をようやく自力で解いたことになる。左派は元々優秀な頭脳を持っており、本来のそれを開花せしめるべきだろう。遅きに失したが、気づいたことが良い。これはきっと左派運動再生の一里塚になるだろう。

 願うらくは、在地型左派運動の創出まで進みたい。マルクス文献を幾ら読んでもこの結論には至らない。我々は別智を働かせ、左派運動のトンデモ国際主義から自主独立せねばならない。民族と祖国の政治に責任を持たねばならない。ここから国際主義に向かわねばならない。依拠する足場を持たない理論は空疎である。ネオ・シオニズムの狡知がある以上当然の弁えとなるべきである。

 曙光ではあるがこの観点の最初の披瀝者は、大方の理解と違って、戦後直後の共産党を指導した徳球−伊藤律派であった。1950.1.1日のスターリン論評がお見舞いされたとき、自主独立的に対応したのが徳球−伊藤律派で、所感派と呼ばれる。この時、コミンテルンの指導に無条件に服するべきだと主張し、党中央に叛旗を翻したのが志賀、宮顕、春日(庄)その他その他であった。故に国際派と呼ばれる。

 1955年の六全協で、宮廷革命宜しく奪権し党中央に居座った宮顕−野坂派が、その後の日共運動を指導し、左派運動圏内に分裂と対立と弾圧と詭弁とその他諸悪を洪水の如く持ち込み始め、左派運動が大きく歪められた。賢明なる多くの左派人が抵抗したものの、結局は抗し得なかった。それが今日の左派運動の惨状の真の原因である。

 原因をかく見据えれば、後は容易である。もはや我々はいつでも互いに議論を尽くし、見解をすり合わせ練り合わせ、共同戦線運動を創出すればよい。二度と、子供騙しの排除の論理と他党派解体の論法に操られまい。猫の手を借りたいほどの事業に、分裂を持ち込むことは無いのだ。異論異端があればこそ飛翔力が付くのであり、民主集中制なる、その実党中央拝跪制や満場一致制を強いられるには及ばない。

 しかし、さすがに、左派再生に一役買うのは60年安保世代である。れんだいこは大いに尊崇申し上げ、連帯しようと思う。共同声明の賛同人(3/15/9時現在)は次の通りということである。なかなか味わい深いことに気づかされる。

 星宮煥生(56年・全学連副委員長)、佐藤浩一(58年・同志社大学友会)、司波寛(58年・東大中央委議長)、塩川喜信 (58年・全学連委員長)、仲尾宏(58年・同志社 大学友会委員長)、由井格(58年・中大自治会)、小川登(59年・京大同学会)、藏田計成(59年・都学連副委員長)、篠原浩一郎(59年・社学同委員長)、下山保 (59年・全学連中執)、葉山岳夫(59年・東大緑会 委員長)、森迫嘉和(59年・立命館大自治会委員長)、岩崎義(60年・大阪府学連書記長)、北小路敏(60年・全学連書記長)、黒羽純久(60年・全自連議長)、小塚尚男(60年・中大二部自治会委員長)、最首悟(60年・東大教養自治会)、新開純也(60年・京大同学会書記長)、鈴木 達夫(60年・東大教養自治会)、鈴木迪夫(60年・安保改定阻止高校生会議議長)、中村幸安(6年・明大中執委員長)、林弘(60年・都自連議長) 、前原和彦(60年・明大中執事務局長)、丸山茂樹 (60年・全自連中執)、三上治(60年・ 中大自治会)、小野正春(62年・全学連副委員長)、塩見孝也(63年・京都府学連書記長)、篠原竜夫(63年・立命館大自治会委員長)、川上徹(64年・全学連委員長)、中沢広凱(64年・大経大自治会委員長)、横山一(64年・関西学院大自治会委員長)、片山正彦(65年・立命館大自治会)、野田雄一(65年・立命館自治会)、大口昭彦(66年・早大全共闘議長)、成島忠夫(67年・全学連副委員長)、秋田 明大(68年・日大全共闘議長)、山本義隆(68年・東大全共闘代表)

 今日は何だかうれしいですね。出向いたときには一杯お付き合いさせてください先輩諸氏様。

 2007.3.21日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評273 れんだいこ 2007/03/23 20:05
 【「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動訴訟化」考】

 2007.3.23日、日刊スポーツによれば、漫画家の松本零士氏(68)が代表作「銀河鉄道999」のフレーズを盗作されたとして、シンガー・ソングライターの槇原敬之(37)に抗議していた事件に対し、槙原氏が、松本氏に対し、盗作の証拠提出を求める「著作権侵害不存在確認等請求」の訴えを東京地裁に起こしていることが22日、分かった。証拠がない場合、仕事上のダメージを受けたとして、2200万円の損害賠償も求めており、第1回口頭弁論が今月末に予定されている。

 双方とも法廷闘争に持ち込む意思は示していなかったが、槙原氏の方から提訴したことは、「盗作者呼ばわり」されたまま活動を続けるのに我慢できなかったものと思われる。両者の言い分は、司法の判断に委ねられた。

 このところ、音楽著作権を廻る騒動が絶えない。先日は、「おふくろさん事件」が勃発したが、森シンを救済するコメントが劣勢のまま、森シンが当分の間封印宣言して一件落着させている。こたび、「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動」が訴訟化した。この事件は、「おふくろさん事件」よりも「小林亜星vs服部克久裁判」の方に類似している。さて、槇原氏は、服部氏同様に「盗られた論」に屈服させられるのだろうか。自称インテリは、「盗られた論」に加勢するのだろうか。これを、れんだいこが愚考してみる。

 れんだいこ見解は、よほどの酷さがない限り、この種の事案は「盗った盗られた云わない方がよろしい」という結論になる。なぜなら、人間頭脳の共認性が介在しているからであり、ここに私有財産制を持ち込むと文芸や思想が発達しないからである。それが分かっていて権利化を望む邪悪な意思を持つ手合いには通用しないが、そうでないなら、近時の強権著作権論の洗脳から抜け出し、一刻も早く決別すべきである。れんだいこはかく主張し、ザッツ・オールになる。

 例えば、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」の名句が誰に使われようと、川端康成氏は、目くじらするべきではない。「トンネルを抜けると、そこは雨国だった」の場合も、「列車から降りると、そこは雪国だった」の場合も然りである。似たような表記に拘っていてはキリが無い。そう弁えるべきだ。むしろ、作品全体の香りが問われるべきで、それぞれが評価されるべきで、歴史に残るものが残るという自然淘汰に任す以外に無い。こう弁えるべきだ。

 最近のマスコミの報道著作権、記事著作権、政党の論評著作権なぞは、本来、文意改竄を嗜める為のものであり、利用を阻むものであってはならない。願うらくは、引用元、出典元の明記が望ましく、それは法問題と云うよりルールとマナー問題として取り扱われるべきだ。「引用、転載に要通知、要承諾論」は百害有って一利もない。良いものは広まり、提供側は広まることを喜ぶべきだ。こういうものは無償で良いのだ。第一、そんな事を云っていたら、悪質誹謗者の言論に立ち向かえないではないか。そういう手合いの彼に限って、「引用、転載御法度論」に立つからして云い得云い勝ちにしてしまう。

 あるいは日共系のように、マルクス主義文献の原典を著作権で囲い、不開示城に逃げ込み、人民大衆的享受を制限させてしまう。実にかの党中央はケシカラン。こういうことばかりしている。あるいは貴重情報を発掘著作権論で囲み、その大衆的暴露を封殺してしまう。あるいは、歴史言論の自由を奪い、焚書坑儒の現代版を演じてしまう。西欧では、歴史再検証が大きく制約されている。のっぺらぼうな、第二次世界大戦は民主主義対ファシズムの戦いなる論に煙巻きされてしまう。

 もとへ。「松本零士vs槇原敬之の著作権騒動訴訟化」は、この間の強権著作権論化の流れに対する叡智を生み出すきっかけになれば良い。強権化させない著作権論を生み出す契機になれば良い。著作権論で以って文化学芸逼塞に奉仕せしめるのではなく、楽市楽座を導く新著作権論を生み出す始発になれば良い。れんだいこはそう願う。

 今や世の中には、本末転倒事象が蔓延している。瑣末なことが大げさに語られ、重要なことが見過ごされている。そういう時代に似合いの強権著作権論を撃て。インテリを自称するなら、かく視座を構えねばならない。互いの首絞め著作権論に向かうことぐらい誰でも出来るし、第一脳が要らんがな。

 れんだいこは、素養が違うのか、こういう事例に出くわすたびに、坂口安吾のラムネ論を思い出す。

 詩歌・歌曲のフレーズの融通性考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_fraseco.htm
 ラムネ氏について
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/ronpyosyu/ramuneshico.htm


 2007.3.23日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評274 れんだいこ 2007/03/24 12:09
 【高校野球開会式時行進の異様考】

 たまたま昨日、高校野球春の甲子園大会の開会式を見た。プラカードを持つボーイスカウト風の軍服の先導者に引き連れられて、球児が北朝鮮軍並みの手を高く振り下ろす行進をしていた。いつからこんな格好し始めたのか知らないが異様だった。そう思うのはれんだいこだけだろうか。

 君が代問題問うより、こちらの方が問題ではないか。君が代反対派はこっちの方を攻めれば良いのに。2チャンネル辺りで問題になっているのかどうか分からないが、問題になっていないとしたら、それこそ問題だ。誰がこういう開会式へと誘導しているのだろう。

 その昔は、うら若きいかにも女子学生が清楚な姿で先導し、様になっていたと記憶する。「ボーイスカウト風の軍服の先導者」は今年だけの趣向なのか、このところずっとこうなのか。それにしても、球児は拒否すればよい。野球をするのに兵隊の真似させられる必要はない。そんなことを強要されるのなら拒否する、帰るとダダをこねれば良い。もっとも、そういう風に指導する奴が一番悪いんだな。誰に媚びようとしているのだろう。

 スポーツや文芸の指導者は、いたずらに政治に媚びるのを止めよ。むしろ、政治の容喙を許さない自由自主自律の気風を涵養し、楽しめ。過度の連帯責任制で出場停止に追い込む強権ぶりの裏腹で、余りにも軟弱な政治奴隷ぶりを見せ付けられると、気色悪い。少なくとも、この行進指揮を指揮した責任者を放逐せよ。

 2007.3.24日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評275 れんだいこ 2007/03/25 12:54
 【「おふくろさん事件余話」】

 れんだいこは、「れんだいこのカンテラ時評271」で次のように述べた。

 「2007.3.20日、毎日新聞25面が特集ワイド『名曲・・・誰のもの』と題して『おふくろさん事件』(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」)を題材に記事にしている(太田阿利佐、高橋昌紀記者)。遅まきながらもタイムリーであり、他社がろくな記事を配信していないことを鑑みると評価に値する」。

 今、「おふくろさん事件」で検索すると、朝日新聞2007.3.15日付の「歌は誰のものか 『おふくろさん』騒動と著作権」(ttp://www.asahi.com/culture/music/TKY200703150106.html)に出くわした。毎日のそれより5日早い記事ということになる。となると、先行して朝日記事が存在していることになり、「遅まきながらもタイムリーであり、他社がろくな記事を配信していないことを鑑みると評価に値する」と述べた言は訂正せねばなるまい。

 興味深いことは、他社の記事が無いことである。推測するのに、「おふくろさん事件」に言及するには、先行する朝日記事、毎日記事と類似せざるを得ないからではなかろうか。著作権の同一性を問う「おふくろさん事件」に言及した新聞記事が同一性を疑われる記事になったとしたらお笑いである。そういう事情で他社が記事化できないのではなかろうか。昨今、著作権同一性規定がどんどん攪拌して問われているので、その論法に従えば、新聞記事もまた窮屈にされつつあるのではなかろうか。これが、「おふくろさん事件余話」である。

 れんだいこは、昨今の同一性を過度に問う傾向に歯止めをかけねばならないと思う。先だって、地方新聞の社説が、他社の社説の引き写しであった事例が露呈し問題になったが、社説士の頭脳問題はともかくとしてろ、自分の言葉で書けないもしくは踏襲したい文章があるなら、この問題に関しては何々新聞の社説が優れているので転載する、ないしは参照したと断れば許容されるべきではなかろうか。それには「要通知、要承諾」は不要とすべきではなかろうか。

 問題は、優れた情報を伝播し合うことにある。コミュニケーションを妨げるものを排斥せねばならないことにある。それは誰の記事であり何社の著作権であるなどとするのは本来、文意の歪曲改竄捻じ曲げを防ぐ為のものであり、情報伝播を抑止するものであってはならない。ところが実際には逆の在り方になりつつある。これはオカシイのではなかろうか。

 それが為には、一部の記述が似るのも、文章の構成が似るのも致し方ないとすべきではなかろうか。本当は、先行記事を更に煮詰めたり、多角的な観点が披瀝されていくのが良いのではあるが場合場合であろう。似たり寄ったりになろうとも情報伝播の価値の方が勝るべきであろう。

 れんだいこは、最近の強権著作権の流れが情報伝播機能を阻害しつつあり、人民大衆的享受権が狭められつつあることを憂いたい。ちまちました御仁が己の甲羅に合わせてちまちま規制を掛け合う様をなじりたい。我々はそんなに賢くないのであり、賢いと思うのは思い上がりであり、必要な情報をもっと伝え合い、その情報をもっと推敲し合い、精査する方に能力を使うべきではなかろうか。

 事態は逆の動きを強めており、誰が旗を振っているのかを凝視せねばなるまい。

 2007.3.25日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評276 れんだいこ 2007/03/27 23:45
 【ヒトラーの人となりの実像に迫る貴重証言考】

 トラウデル・ユンゲ「私はヒトラーの秘書だった」(足立ラーべ加世、高島市子訳、草思社、2004.1.28日初版)を読了したところ、貴重と思ったので批評しておく。

 ユンゲは、本書でヒトラーの人となりを証言をしている。どう貴重なのかは後述するとして、ユンゲは、1942年末から45年末までのヒトラーとの出会いから死の瞬間までの2年半を、ヒトラー専属のタイプ秘書として共に過ごし、「ヒトラー最後の遺言」をも筆記した人であり、自殺現場を確認しているという奇特な経緯を持つ人物である。僥倖か偶然か戦後のナチス摘発の猛威をも潜り抜け、生き延び、最晩年に「私はヒトラーの秘書だった」を遺言することになった。

 ユンゲは、戦後まもなくの記憶の定かな時期に、ヒトラーの個人秘書として得た体験を書き綴っていた。それは、長く伏せられ続けていた。2002.2.11日、ガンで死去する直前になって、「アンネの日記」(畔上司訳、文芸春秋、1999年)の著者として知られるメリッサ・ミュラーが解説を引き受けるという条件で、「私はヒトラーの秘書だった」と題して出版に踏み切った。これよりユンゲの秘蔵証言ヒトラー譚が世に明るみになり、貴重な歴史資料となった。これを仮に「ユンゲ証言」とする。

 読めば判明するが、ユンゲは、戦勝側の戦後思潮であるネオ・シオニズム史観及びイデオロギーを受け入れており、その観点からヒトラー批判の眼差しで著述している。それは、この著作が合法的に出版される為の賢明な方法であったのかも知れない。用意周到な奴隷の言葉を通して記しているので、上っ面を素直に読むものは何の感慨も催さず、ヒトラー最後の日々のドキュメントを淡々と知ることになるだろう。

 しかし、れんだいこは、そうは読み取らない。ユンゲは晩年になって何故にこの貴重証言を世に残そうとしたのか、その真意を忖度したい。ユンゲが意味も無く共に過ごした「思い出のヒトラー」を漠然と世に知らせたとは思えない。それでは晩年の今はの際に世に送り出した意味が分からない。やはり、何らかの突き動かされる衝動により貴重証言を世に残したと受け取るべきであろう。あるいは、ユンゲの意思によってではなく、天啓に導かれて「ヒトラーの実像」を証言したのかも知れない。
 
 さて、「ユンゲ証言」が如何に衝撃的であるかを解き明かしたい。れんだいこが思うのに第一に、世のヒトラー観の通説である「ヒトラー狂人説」を否定している。ユンゲは、ヒトラー秘書に採用されてより最後の日までの間、誰よりも真近で見たヒトラーの人物像を何の飾りも無く証言しており、それが新鮮である。

 それによると、孤高の権力者であるが、決して独裁者ではない。軍事指導会議の様子は明らかにされていないが、その後に設営された座談でのヒトラーは常に物静かで、文化的香りの高いサロン風の談笑好きであった様子を証言している。戦争に対して冷静に歴史正義を確信しており、戦局の帰趨は神の恩寵に委ねていた事を証言している。最後の大詰め局面でも死を恐れず、むしろムッソリーニ的逆さ吊り裸処刑の不名誉を厭い、ピストル自殺したことを証言している。「私は、死んでも生きても敵の手には落ちたくない。私が死んだら、私の死体を焼いてしまって、永遠に見つからないようにしてくれ」と、ヒトラーが指示したことを伝えている。

 その他日々の様子として禁煙派であったこと、菜食主義者であったこと、胃痛の病状持ちで、名犬好きで、潔癖なほど清潔好きであったことを証言している。女性関係もストイックで、権力者にありがちな性的放縦は無く、清楚な風雅を漂わせるエーファ・ブラウン女史唯一人との親密な関係が続いており、その関係は相互に心からの信頼で結ばれていたことを伝えている。最後の局面で、ヒトラーの逃亡せよとの指示に対し、エーファは、「あなたもご存知じゃないの。私があなたのお傍に残ることを。私は行かないわ」と述べたことを証言している。この二人は、いよいよ最後の際で結婚し、エーファは運命を受け入れ、死を共にしたことを証言している。

 もう一つ興味を引くのは、ユダヤ人の迫害的移送が、戦時下特有の敵対性民族の隔離政策であり、それはアメリカが日系人を強制隔離して労役させていたのと同じであったことを想起させる記述になっていることである。従って、ユダヤ人ホロコースト600万人の様子を伝えていない。戦後になって、そのことを知らされ痛苦に感じたと記しているが、それは跡付けであり、当時の雰囲気においてホロコーストを否定していることの方がより貴重であろう。

 更に、ヒトラーが敗北を観念した時、大本営スタッフに対して逃亡するよう促したことも記している。次のように指示している。「諸君、何もかもおしまいです。私はこのベルリンに残り、時が来ればピストルで自殺します。行きたい人は行ってよろしい。全員自由です」。ヒトラーは皆と握手を交わして、別れの挨拶をしている。

 ユンゲは、この時のゲッペルスについても淡々と記している。左派圏で「ウソも千回言えば本当になる」宣伝相として高名なゲッペルスであるが、「忠義の手本の方が、長らえた生より貴重」として、ヒトラーに殉じた潔さをも証言している。

 更に、敗戦後のドイツに襲ったナチス狩りの凄惨さをそれとなく証言している。「毎晩のように、拷問されている人の悲鳴や、ロシア方面への護送を編成する点呼などが中庭から聞こえてくる」と記している。他にもいろいろ記されているが、れんだいこが一読して印象に残ったことは凡そ以上である。

 さて、こうなると、我々が戦後通説としてきた「狂人的ヒトラー、ゲッペルス観」は大いに訂正を迫られることになろう。実に、本書はこのことを奴隷の言葉を使って淡々と証言しており、そのことに不朽の価値が認められそうだ。以上、感想を記しておく。

 2007.3.27日  れんだいこ拝

Re:ウツケ男でゴキブリ知事と言われた慎太郎 れんだいこ 2007/03/29 20:12
 不動明王さんちわぁ。東京ではひさかたの熾烈な都知事選が行われているようですね。れんだいこその昔、美濃部さんの選対でビラ配りしていたことがあります。今となってはなつかしい思い出です。当時、民主連合政府構想と社共共闘革新知事の出現による世直し世の立替え運動はそれなりに魅力がありました。そう理解したことでれんだいこのボランティアが始まりました。なつかしいです。

 しかし、民主連合構想も、70年代の遅くない時期までら、20世紀の遅くない時期までに、次に21世紀の早い時期へとどんどん期間があてもなく下がり始め、日共中央は現在ではダンマリしています。その代わりに出てきたのが、「正義清潔の唯一の野党論」です。党員は、次から次へと繰り出されるこういう妄言に従っているようで、れんだいこは可哀想に思うより、むしろあきれております。そういえば、革新知事つうのはトンでもな奴が多かった。何が革新だあいつが、というような人物が担がれていたですね。

 それはそうと、石原慎太郎については、角栄の指摘が正確を射ていると思っております。1968(昭和43)年の総選挙で、300万票で参院全国区トップ当選で政界入りした慎太郎は、新調の議員バッジをつけ初登院し、幹事長室に乗り込み、威勢良く角栄にこうブチ上げた。「自民党の広報活動はなっていない」、「自由新報の編集はなっていない」、「自民党本部の職員は削減すべし」。

 黙って聞いていた田中は、一言次のように言った。「君の話は分かった。しかし、人間は木の股から生まれてくるのではない。人には歴史がある」。

 これをどう理解すべきか。れんだいこが解説するとこうなります。

 石原氏のはぎれの良い物言いは結構である。しかし、「ただの正論」である。何事にも積み重ねの歴史がある。それを無視しての書生論はいくら格好良くても、眼差しに温かさがなければならない。現実は一歩一歩の歩みであり、至らないながらも至ろうとしてみんな苦労して歩んでいる。世の中のものはそのように成り立っている。これを弁えて批判するのなら良いが、君の論は格好良過ぎるだけのパフォーマンスでしかない。角栄の言は、かく云い含めているのではなかろうか。

 れんだいこに云わせれば、角栄は、まさに角栄流にピシャリと慎太郎の本質を言い当てていたということになる。石原の奇論を一蹴した角栄の凄みがここにある。

 慎太郎が政界入りした時、角栄-大平同盟の全盛期であった。それが彼の運の無さであった。その同盟は、ロッキード事件の脳震盪でで崩れ去るが、慎太郎はそのときまでの過程で望んでいた首相の座の時機を失した。芽を断たれた慎太郎が色気を見せたのが、都知事の座であった。これはどうにか手に入れた。どんな政治をしたかは、今目にしている通りのものです。れんだいこは、小児病的軍事パラノイア性と政治の私物化ぶりが二大特徴と見ております。

 こたびの都知事選は恐らく慎太郎の敗北必至と見ております。それにしても、日共の役回りが悪質で、れんだいこはそれが連中の一貫した政治的役割だと見ております。この両者が裏でつるんでいる可能性まで考えております。

 というようなことを一気に発信してみたくなりました。不動明王さん、どうぞ今後ともよろしくねぇ。

 2007.3.29日 れんだいこ拝

Re:だから日共の「正論」は暑苦しく、聞いてて疲れるのか れんだいこ 2007/03/31 17:31
 こげぱんさんちわぁ。
> かねてから日共や候補者、支持者の「正論」は暑苦しく、聞いてて疲れると思ってましたが、「石原」を「日共」に置き換えれば、「ああそうだったのか」と今更ながら合点がいきました。
>
> しかし、石原と日共、法華経は中央集権・上意下達というところはよく似ている。案外同じような体質だったりして。

 「案外同じような体質だったりして」と思う感性は正しいと思います。れんだいこは、戦前戦後の党運動を検証して、1955年の六全協以来の野坂ー宮顕系日共党中央は、それまでの共産主義者運動とは隔絶しており、名前だけの共産党であり、実はネオ・シオニズムに拝跪する変調運動に堕していると思っております。連中の弁舌と実践に「暑苦しく、聞いてて疲れる」のは、この辺りに原因があると思っております。これが左からのネオ・シオニズムです。この流れが延々と60年指導しております。

 石原慎太郎は、「ノーと云える日本」とかタカ派気取りで登場しておりますが、実は右からのネオ・シオニズムです。中曽根も小泉もナベツネも一蓮托生組でせう。池田法華経のこのところの右旋回は、同類であることを証しております。

 右と左は一見対立しているように見えますが、肝腎のここ一番の際の対応を見れば分かりやすい。かなり気脈通じた動きをしております。のここ一番の際なら、どんな事例でも挙げてください。れんだいこが解析して見せます。

 戦後日本の右傾化は、ネオ・シオニズム・エージェントが陽動していることによるものだと考えます。連中は現在、自衛隊を配下軍として使いたくて仕方が無い。その為の環境づくりに精出しております。戦後日本の右傾化は、これに左派が有効に闘い得ていないところから生じていると思っております。思えば、ロッキード事件による角栄ー大平同盟鉄槌は、ネオ・シオニズムよりする戦後左派の解体作戦だった可能性があります。あれ以来、日本は根本のところで今のような日本に変わった。

 戦後左派運動は、池田、角栄、大平、善幸という百姓同盟に結実していたと見立てることが可能です。してみれば、左が右に変態して、右が左に変態して政治が行われていたことになります。かっての戦後保守主流派のタカ派を支持していたものこそ左派で、逆は逆と見立てることが可能です。現実政治というものは、それほどややこしい。

 この辺りを知らず、付け刃で政治運動に参加すると、赤子の手ひねりに似た状態で利用されます。れんだいこは、そういうことに気づくようになりました。してみれば、相当に注意深く学ばねばなりません。現在流布されている歴史観はまったく役に立ちません。そういう訳で、一つずつ手作りしていく以外に良い方法がありません。そういう気がしております。この見立てにつき皆さんのご意見ください。

Re:れんだいこのカンテラ時評277 れんだいこ 2007/03/31 21:38
 【キッシンジャー考】

 キッシンジャー元米国務長官が来日していると云う。2007.3.30日、東京都港区のホテルオークラで講演会が開かれた。数多くのホテルの中でホテルオークラで開かれた意味は大きい。講演会は、フジサンケイグループとFCG懇話会主催で開かれた。フジサンケイグループとFCG懇話会がキッシンジャーとよほど親しい関係にあることが分かる。

 そのキッシンジャーは、「国際政治の激流と新時代の予兆」と題した講演を行った。4.1日、早稲田大学の名誉博士号を授与される予定で、記念講演も企画されている。フジテレビ系列は、4.1日午後7時半から春の報道特番「目覚めよ!日本人」を放送する、と云う。

 3.30日のキッシンジャー講演で、れんだいこが注目するのは、キッシンジャーが1951年に初来日しているこどてある。この時の政治目的は分からない。次に、1953年、中曽根がハーバード大学のセミナーに参加し、この時キッシンジャーと面識を得ていることである。キッシンジャーは、概要「それ以来の親友で、手紙のやり取りが始まり、私は手紙の中で、いつか彼が首相になると記している」と述べたようである。

 これは、かなり重要なことを明らかにしている。キッシンジャーが重要な秘密を隠しきれないほど耄碌(もうろく)したのか、重要な機密を明らかにしても良いほど日本支配が完遂した自信の表れか定かでないが、れんだいこが政治学的に読み取れば、キッシンジャーは、1953年にハーバード大学のセミナーで中曽根と知り合って以来親交を深め続け、中曽根を将来の日本国首相にすることを請合い、以来種々工作したということになる。

 思うに、そもそもキッシンジャーと中曽根がまみえた「ハーバード大学のセミナー」とは何のセミナーだったのだろうか。恐らく中曽根のネオ・シオニズムに対するエージェント契約に纏わる何かであろう。とすると、中曽根は、1953年来良からぬ使い走りをしてきたことになる。主として、原子力発電の日本導入と再軍備に奔走してきたことは知られている通りである。その他諸々の黒い利権に群がってきたことも知られている通りである。

 世は、角栄をもって「諸悪の元凶」とする論が流行っているが、れんだいこは、中曽根、その二世である小泉こそ「諸悪の元凶」とみなしている。世評とれんだいこと観点が大きく違っていることになる。もとへ。その中曽根は、ロッキード事件を奇禍として、角栄-大平同盟を駆逐して首相の座に上り詰めた。

 こたびのキッシンジャー発言によれば、キッシンジャーの目論見通りに推移したことになる。その中曽根が首相時代に手がけたのは、国鉄、電信電話公社の民営化であった。その他国債再発行による財政悪化であった。バブル経済導入による日本経済大混乱の先鞭であった。不沈空母論による防衛費の突出化等々であった。これらの諸政策は、日本の内治上必要であったものは一つもない。すべて現代世界を牛耳るネオ・シオニズムの要請によるものであったことが判明している。

 れんだいこの記憶するキッシンジャーは、米中国交回復時にニクソンと毛沢東会談の橋渡しをしたことである。クエーカー教徒のニクソンを陰に陽にいたぶり最終的に追放したことである。ソ連邦崩壊時に、中曽根をモスクワまで出向かせ、見届けさせたことである。これらの裏舞台に常にキッシンジャー戦略が発動していたことになる。

 キッシンジャーは確かに一時代を築いたが、常に黒子的役割であり、それは例のシオン長老の議定書に記されている通りの幼少時より特別の英才教育により育てられる権謀術数家の典型のように見える。日本サヨ派はシオン長老の議定書を偽書である云う。れんだいこは、これこそネオ・シオニズムの陰謀的世界支配マニュフェストであり、命がけで入手されたものであるとみなす。どちらが本当なのだろうか。以上、思いつくまま発信しておく。

 2007.3.31日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評278 れんだいこ 2007/04/03 21:22
 【キッシンジャーはシオン長老の議定書派の政治黒子ではないのか】

 以上のような経歴を示すキッシンジャー対して、「国際政治学者にしてパワー・ポリティクスの権化」と評するのはまだしも、「ニクソン/フォード政権の外交を支え、ベトナム戦争を終わらせ、米中国交回復を実現させた」と表層的になぞるのは、例え事実だとしても何と味気ない評し方だろう。「ロックフェラー家などアメリカのユダヤ系金融資本の番頭」との評も為されているが、これまた同様で、ロックフェラー奥の院のロスチャイルドまで見据えて、シオン長老の議定書派の走狗であり、議定書マニュフェストの忠実な請負人とみなさねば不十分だろう。

 2007.3月末日、キッシンジャーが来日したが何の目的で来たのか分からない。4.1日の六本木ニュービルのオープンセレモニーと関係あるのかどうか。いずれにせよ、六本木はますます植民地化されつつあり租界化しつつあるようだ。石原都知事辺りは、この方面にはまるで危機感がないと云うか嬉嬉として招致しているのだろう。おめでたい防衛論者ではある。

 もとへ。キッシンジャーは活躍した七十年代から30年も経過しており、さすがに老いを見せた。それは自然のことであろうが、れんだいこが変に納得したのは全く非教養な老人ぶりを晒していたことである。背丈も小柄であることが分かった。いかり肩であることをも判明させた。

 そういう外形的なことはさておいて、れんだいこは、キッシンジャーとはそも何者であったのかに関心がある。思うに、「シオン長老の議定書」文中にしばしば出てくる「賢者」であったのではなかろうか。シオン長老の議定書は、キッシンジャーをして彼らの政治目的に沿う指南役を務めさせたのではなかろうか。キッシンジャーは黒幕として充分に職責を果たした。れんだいこは、そのように受け取る。キッシンジャーとは実にそういう役割を担ったのではなかろうか。

 シオン長老の議定書文中に次のような記述がある。
 次に、ダヴィデ王朝の土台を世界最後の段階まで一層強固にする方法に進もう。この方法は、何よりも第一に、今日まで世界の全問題をあらゆる困難に打ち勝って成功裏に遂行し、思うままに人類の思想を導いてきた我らの賢人長老たちが積み重ねてきた伝統的な方法を適用することになる。我々は、シオン賢者たちが、いままであらゆる障害を乗りこえて、世界の問題を処理し、人類の思想を導いてきた故智に学ぶだろう。それは、我々が望む方向に人間を教育するということである。

 ダヴィデ王の子孫のうちの数人の賢者が、王と後継者の教育に当たる。後継者は相続権によるのではなく王となるのに相応しい優れた資質を基準にして選ぶ。選ばれた王予定者達には、政治の最高機密と我々の律法の仕組が伝授されるが、何人にもこの極秘の知恵が漏れないように留意せねばならない。

 平時においては、王の行動計画と将来に関することはすべて、最も親しい助言者たちにも知らされない。王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っている。

 断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄に、万人が神秘の宿命を認めるのである。何人も王が何を行おうとしているのかその目的がどこにあるのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。

 王の頭の中には実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていなければならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためである。 (以上)


 文中に、「我らの賢人長老」、「数人の賢者」、「三人の顧問」という記述がある。ユダヤ人の伝統的な政治手法として、神権政治を理想とするが、その王は卓越した「賢者顧問」に指導される。彼らの理想的政体はこのようなものであるらしい。れんだいこは、キッシンジャーをそのような賢者の一人として窺う。してみれば、キッシンジャーとは、単に政治学者であったのではなく、明らかにシオンの議定書派の政治目的を持って政治に臨んだのであり、そういう黒子として立ち働いていたことを知るべきではなかろうか。

 かく想定した上で、彼がいかような政治を行ったのか、これを検証することが求められているのであり、他の観点からのキッシンジャー論は本質から外れていよう。俗におざなり評論と云う。おざなりならまだしも、聞こえてくるのは賛辞論ばかりである。石破元防衛長官がキッシンジャーと対談していたが、あの相好崩しぶりは何なんだ。強硬防衛論者の卑屈な姿を見たのは、れんだいこだけだっただろうか。

 まっいずれにせよ、れんだいこは、賢者と想定されているキッシンジャーが老いてみせる非教養な容姿から、彼が本質的にはそのような人物であることを判じる。これがネオ・シオニスト賢人の本質かもしれない。ユダヤ政体の本質かも知れない。それも分からず、運命共同体路線で突っ走ろうとする一群のシオニスタンが、戦前の軍部の姿とダブって見える。歴史は繰り返すということか。

 2007.4.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評279 れんだいこ 2007/04/04 21:32
 【ヒトラー「我が闘争」考】

 れんだいこは恥ずかしながら今頃、ヒトラーの「我が闘争」を読むことになった。手元には有ったのだが読みそびれていた。先だって、ヒトラーのタイプ打ち秘書トラウデル・ユンゲの「私はヒトラーの秘書だった」を読んだのがきっかけになったのだと思われる。現在上巻をまもなく読み終えるところだが、読みながら思ったことは、日本左派運動は、「我が闘争」と何故に対話してこなかったのだろうという思いである。

 ヒトラーは、本書の中でしばしば当時のマルクス主義派である社会民主党批判をしている。ならば、社会民主党派は、その批判に答えねばなるまい。それがないままに今日までドイツ革命の挫折のみが語られてきている気がしてならない。これは、日本の社共的旧左翼、新左翼問わずの共通姿勢ではなかろうか。ナチスの赤狩り旋風の酷さは語り継がれており、ヒトラーをトンデモ視する観点は共認化されているが、ヒトラーが理論的に批判しているくだりでは、理論的に反批判しておくのがマナーではなかろうか。そういう対応をしているのだろうか。

 これに良く似た例を思い出す。「シオン長老の議定書」がそうである。実に偽書云々では共認化されているが、「シオン長老の議定書」の中身に立ち入った批判は聞いたことがない。文中の記述内容を採り上げ、だから偽書である云々としない限り本当に批判したことにはならないのではなかろうか。なぜ中身の精査に向かわないのだろう。

 そう云えば、ホロコースト、南京大虐殺もそうである。もっと史実検証し合えばよい。互いの持論をお山の大将式に披瀝するだけでなく、逐一検証し合い、両論併記すれば良いのに。こういうのを科学的学問的実証的と云うのではなかろうか。そう思うのだけれども、レトリックな話法ばかりが開陳されており、それで納得する者も多いようだが、れんだいこは燻(くすぶ)る。

 政治的態度を採るには、その前に判断を要し、判断する為には公正明朗な資料が開陳されていなければならない。一方側からの情報のみで、判断さえもお仕着せさせられ、満場一致などというのには眉唾せねばならないのではなかろうか。若い頃れんだいこが志した左派運動のスタイルとは違う。違う以上、あるべき姿を求めて彷徨せねばなるまい。

 それにしても、21世紀になって政治環境が少しも良くなっていないどころかますます悪化している気がする。れんだいこの息抜きである言論さえもが不自由を強いられており、腹の足しに成る言論が希少化しつつある気がしてならない。右からだけでなく左からもそれを加勢している気がする。これが事実なら対立は演出であり、俗に八百長というのだろう。今や八百長時代なのかも知れない。

 もとへ。ヒトラーを諸悪の元凶と位置づけ批判するのならそれも良かろう。問題は、根拠を示してくれんと困ることにある。そう思う故に我はそう言論するというのでは堂々巡りになってしまう。そう云えば、角栄論も然りだ。あれほどの人物と実績を持つ者が何故に最も悪し様に言われ続けられねばならないのだろう。ひょっとして、悪し様に言われている人の方にこそ正義があったりして。そんな関心を持ちながら、虚心坦懐に読み進めて見ようと思う。

 それはそうと、西欧では「我が闘争」を読むことさえ禁じられているのだろうか。政治運動が禁じられているだけなのだろうか。米国では何やら、「全世界反ユダヤ主義監視法(the Global Anti-Semitism Review Act of 2004)」なるものが施行されており、CIAやNSAなどの諜報機関が、「反ユダヤ言動」を世界規模で見張つていると云う。アメリカン民主主義の愁嘆場だな。日本に大勢居る自称インテリは当然論で追従しているのだろうか。

 2007.4.4日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評280 れんだいこ 2007/04/06 19:38
 【れんだいこのマルクス主義出藍宣言の辞】

 れんだいこは、若い頃マルクス主義にかぶれた。運動の期間としてはそう長くは無い。今50歳を越す身になって思うことは、あの時私の胸中を捉えたマルクス主義とは一体いかなる思想であったのかということである。今から5年ほど前になるが、れんだいこはそう書いている。私が被れるに値があったのかなかったのかの見極めをしてみたいと云う思いが忽然と湧いてきている。世間で云われているような既に用済みの時代遅れの思想であり主義に過ぎないと言うのであれば、それに被れたれんだいこは単におぼこかったということになる。しかし、果たしてそうであろうか。れんだいこほどの者を夢中にさせた限りには、もっと何らかの内実があったのではないのか、という思いのほうが禁じえない。

 そういう思いと同時に次のことも踏まえねばならないように思うようになった。世上で流布されているマルクス主義は実はマルクス主義ではなかったのではなかろうか。このことに関しては、マルクス自身が存命中に、「私はマルクス主義者ではない」と語っていたというエピソードを想起すれば更に補強されるだろう。世上にマルクス主義が流布されてより百数十年、この間人民大衆の抵抗運動の際の有力な思想的武器となってきた。

 しかしながら、余りにもマルクス主義理論のまばゆさに魅惑され、土着の一揆思想を放擲したのは惜しいことであった。願うらくは、伝統的土着思想の土壌を基盤にしながら、自由自主自律的にマルクス主義を批判的に受容すべきであった。後付けで見えてくることではあるけれども。

 1917年のロシアにおける十月革命はマルクス主義の実践的勝利でもあった。以降、ソ連邦体制の国際的広がりとその抑止に対するせめぎ合いが世界史的テーマとなってきた。しかし、旧権力打倒の革命には成功したが、建国継続革命は首尾よくは進展しなかった。結果的に、革命前の宣伝文句の魅力に反して実践的には正反対物を生み出してしまった。その原因は未だ充分には検証されてない。故に総括を為し得ていない。廻り廻って、今日ではソ連邦体制の方があえなく崩壊するという憂き目を見るに至っている。

 れんだいこが思うに、そういう史的結果の遠因を訪ねるのに、理論が未熟だということにあるのではなかろうか。更に、この間のマルクス主義運動が、マルクス主義の何たるかについて肝心なところを明らかにせぬままあるいは理解されぬまま任意な自己流の、あるいは政党のご都合主義風のマルクス主義が真性のマルクス主義として喧伝され、失敗するべくして失敗したのではなかろうか。その挙句、マルクス主義そのものが古くなったとか、間違いであるとか、破産したとか敗北したとか多種多様に評論されているのではなかろうか。

 そういう意味において、れんだいこは、マルクス主義を一から構築し直したい。れんだいこが憧憬し理解したマルクス主義の一番肝要なところは、例えて云えば我々の頭脳のシワを増やすものであり、そうでなければならなかった。本来のマルクス主義はこれに大いなる功績があり、人類史上の営みを要点整理し、新時代の息吹をメッセージするその手法において、人類の認識の大いなる前進を刻印していたのではなかったか。

 従って、マルクス主義的観点を持つか否かで世界史が変わるほどの、マルクス主義登場以降の人類の歩みに大きな寄与を為す勲一等的貢献を為す思想的営為ではなかったのか。そういうものとしてマルクス主義を位置づけ受け止めたいと思う。その実感を得ようと思えば、各自がその著作に触れれば良い。豊かな泉からこんこんと湧き出る清水に目を洗われであろう。

 この見解を補強するかのように、エンゲルスが、マルクス死去の翌日アメリカに住むF・A・ゾルゲに宛てた手紙の中で次のように書いている。「とにかく、人類は頭一つだけ低くなったのだ。しかも、人類が現在持っている最も大切な頭一つだけ」。

 だがしかし、史上に現れたマルクス主義の実際は、我々の頭脳のシワを増したであろうか。否、却ってのっほぺらぼうなものにしたのではないのか。ここに反省すべき最肝要な課題が横たわっているのではなかろうか。いわゆる理論面での非弁証法的な公式主義、図式主義と実践面での統制主義にまみれ、一握りの指導部に唯々諾々さえすれば良い、すべきだ、異論・異端は許さない式の、凡そ本来のマルクス主義とは正反対物に転化したマルクス主義が正調として史上に跋扈し、多くのマルキストがそれを信奉して自惚れに浸ってきたという欺瞞的な反マルクス主義の歴史を経過させてきただけなのではなかろうか。

 そういう似て非なるマルキスト達によってマルクス主義運動が担われてきた。このことを大胆に客観視すべき頃ではなかろうか。こうした事情から、「マルクス主義の歴史は、その成立当初からして分裂抗争気味であり、マルクス主義の実践的成果自体はなはだ疑問の昨今であるが、それもそのはずでマルクス主義者を自認する者たちの間でも、その解釈が非常に多義的であり、いずれが正統理論であるのか解明されていない」と述べられるようになっており、この云いには説得力があるのではないだろうか。

 しからば、正味真性のマルクス主義とはそもどのようなものであるのかという関心でもって本章を構成してみたい。あたかもマルクス・エンゲルスと対話するかのように。それは骨の折れることではある。何しろ相手は史上稀なる天才たちで、こちらは世間に名も無き凡人でしかないから。それはそうだけど、れんだいこの方にも有利な点がある。れんだいこはそれ以降の歴史の流れを知っているということと、50有余歳になるまでたっぷりと世間の中で泳いで生きてきたという実感である。思えば、マルクス・エンゲルス理論に問題があるとすれば、それが実践理論だとはいうものの学究的なあまりに机上論な面があるのではなかろうか、という気がしないでもない。そういう対話を得て、素面のマルクス主義を露わにしてみたい。有用有益な思想に違いないから。

 次に為すべきこととして、本来そうであるべき労働者大衆向けの普及本づくりに向けて時間を見つけ次第ぼちぼちでも取り組んでみたい。しかし、これを平明に語るということは難しい。なんとなれば、まずもってれんだいこが咀嚼していなければ為しえないであろうし、今から全文献に目を通すなどという芸当はできっこない。従って、少し危険では有るが、判明しないところも含めてむしろれんだいこなりに合点させて、そういうフィルターでのマルクス主義を綴ってみたい。そして多くのマルクス論者に試論として呈示し、批判検討の中から更なる試論へと突き進めて生きたい。更に云うならば‐‐‐という思いもあるがそれは云うまい。

 追記。小室直樹氏の最新の著書「数学嫌いな人の為の数学」で、次のような興味深い指摘が為されている。

 「(ソ連の崩壊要因について)重大な原因の一つを挙げよと云われるならば、著者はためらわず、『マルキストが実はマルクスの学説をよく理解していなかったからである。特に、必要条件と十分条件の違いを理解していなかったからであると云いたい』」。

 これは卓見のように思う。

 最後に。れんだいこは最近になって「シオン長老の議定書」の存在を知り、対話するようになった。これは衝撃的であった。以来、史観が代わり、「シオン長老の議定書」派が織り為してきた近代から現代に至る歴史的役割に着目している。こちらの方が、真に歴史を動かしている実在力だと思うようになった。こう認めないと現代史が読み取れない。興味深いことは、「シオン長老の議定書」の基本テキストは、ロスチャイルド1世の講演議事録のようで、そのロスチャイルド1世とマルクスが直接的にか間接的にか関係しているらしきことである。少なくとも同時代人には間違いない。

 そういうことから、マルクスが、「シオン長老の議定書」的ネオ・シオニズム世界観のクビキの下でマルクス主義的教説を説いている可能性を詮索するようになった。そう思えば、マルクス主義とネオ・シオニズムの論理構造が酷似していることに気づかされる。違うとすれば、ネオ・シオニズム的選民理論に拠らずほのかに共生理論を打ち出していたことだろうか。その限りにおいてイエスキリスト教的である。しかしながら、マルクスが最終的に指針させたプロレタリア独裁論はユダヤ的感性特有のもので、我々が許容してはいけない危険過ぎる教説であることに思い至るようになった。

 こう確信して以来、れんだいこは、マルクス主義からの出藍を決意するようになった。大変なことであるが歩一歩やり遂げていかねばなるまい。ちなみに、出藍とは、ドイツ語のアオフへーベン(Aufheben)のれんだいこ訳である。従来の止揚に対して、さる日福本和夫氏が揚棄を造語したが、それよりもなお語彙が近いと得心している。誰か、日本哲学史上のこの功績を認めてくれないだろうか。以降、他の誰彼も出藍と表現してくれないだろうか。

 2007.4.6日再編集 れんだいこ拝

【れんだいこのマルクス主義出藍宣言の辞】に寄せて 如往 2007/04/07 07:10
 れんだいこさん、初めまして、最近は一ヶ月に二度くらいのペースのアクセスで内心申し訳なく思っています。
 今回のスレを拝見し、同時代を生きた者として、同じような問題意識にあることに妙に感じ入ってしまっている自分がいたのです。

 全てを外的な要因すなわち環境条件に帰することはできませんが、共産主義体制崩壊の原因は体制樹立の初期段階から戦時共産主義体制を余儀なくされたことにあり、特に第二次世界大戦を回避して共産主義政権が独自の道を歩むための方策を立てられたかというと、当時そこまでの国家経営の戦略立案能力はなかったのではないかと想われるのです。また、膨張政策とは本質的に無縁であるはずの共産主義国にとって兵器生産は不合理極まりないものであり、にも拘わらずソ連の場合には西側と対抗していくために兵器産業を重点化したことが国力の減退を招いて行ったと見ています。そう謂えばこの件に関しては以前【阿修羅】掲示板であっしら氏も言及していました。

 マルクス主義に関する私にとってのエポックは何と謂っても、『経済学・哲学草稿』の中の疎外論との出会いにあります。疎外状況の克服を制度変革によって果たすべきか、それとも時間解消論的に彌縫策的な対処を重ねていくのか、マルクスは前者であり改革の当事者能力は労働者にこそありとする立場ですし、あくまでも資本の自生的な運動による解決に委ねるべきだとし、後者のケイジアン流の対策をも排除しようとするのがハイエク等の新自由主義の立場と云えるでしょう。人が社会運動や政治運動に関わっていくときに根本的に疎外状況の認識があることや問題意識の所在の如何が重要であって、共産主義的方法の採用の可否を含めて、どうやって現実との整合性を図っていくかは次のテーマであると考えています。

 現在私は世過ぎ身過ぎの傍らで、柄谷行人の“世界共和国”構想やルイス・ケルソの“ESOP(従業員株式保有計画)”を参考にしながらアソシエーショニズム(協同体主義)と連合主義との関係について細々と探究しています。これはマルクスとプルードンを結びつけることにも通じるのではと想っていますが、具体的には例えばゲゼルシャフト(協業体)が連合した形でゲマインシャフト(共同体)を運営していくためにはどうするべきかといったテーマが浮かび上がって来ます。何れにしても、道は遥かであり、私の歩みは遅々として進みません。

 以上、何やら釈迦に説法の謗りを免れ得ぬことでまことにお恥ずかしい限りですが、れんだいこさんの“出藍”の模様に期待を懐いている一人が確実に存在することを忘れないでいただければこの上なき幸せに思います。

 また、会いましょう。

Re:【れんだいこのマルクス主義出藍宣言の辞】に寄せて れんだいこ 2007/04/07 09:56
 如往さんちわぁ。返信有難うございます。
>  今回のスレを拝見し、同時代を生きた者として、同じような問題意識にあることに妙に感じ入ってしまっている自分がいたのです。

 とのこと、心強いです。

>  現在私は世過ぎ身過ぎの傍らで、柄谷行人の“世界共和国”構想やルイス・ケルソの“ESOP(従業員株式保有計画)”を参考にしながらアソシエーショニズム(協同体主義)と連合主義との関係について細々と探究しています。これはマルクスとプルードンを結びつけることにも通じるのではと想っていますが、具体的には例えばゲゼルシャフト(協業体)が連合した形でゲマインシャフト(共同体)を運営していくためにはどうするべきかといったテーマが浮かび上がって来ます。何れにしても、道は遥かであり、私の歩みは遅々として進みません。

 「ゲゼルシャフト(協業体)が連合した形でゲマインシャフト(共同体)を運営」とは、面白そうですね。マルクス同時代のアナーキストとの問答などにも興味がありますが要領得ません。

>  以上、何やら釈迦に説法の謗りを免れ得ぬことでまことにお恥ずかしい限りですが、れんだいこさんの“出藍”の模様に期待を懐いている一人が確実に存在することを忘れないでいただければこの上なき幸せに思います。
>  また、会いましょう。

 有難うございます。お互い同時代というのは良いですね。足腰立つうちの命と思いますので、ご交流こちらこそよろしくお願い申し上げます。

 2007.4.8日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評281 れんだいこ 2007/04/07 14:01
 【一足早い東京都知事選予想】

 これは余興で書き付けておきます。明日はいよいよ都知事選の投票日ですが結果はいかになりますやら。れんだいこは早くに浅野圧勝を予見している。理由は、東京都民が賢いからである。石原は人心から離れている。ひとたびこうなるといかんともし難い。これは歴史の法理である。

 それはともかく次のケースを考えてみた。

 1.石原が、浅野と吉田の合票を超えて圧勝する。
 2、石原が、浅野と吉田の合票には及ばないが圧勝ないしは僅勝する。
 3、浅野が、圧勝する。
 4、浅野が、石原と僅差で当選する。

 以上のケースが想定できる。1の場合は、石原はやはり強いということになる。2の場合は、共産党の唯我独尊戦略に白目が向けられる。3の根場合は、自民も共産ももはや何の影響力を持たないことが白日化する。4の場合は、神の僥倖に感謝する。

 それにしても、日共の各地の首長選での自公に対する裏協力振りが何度演ぜられてきたのだろう。これがなかりせば、既にあちこちで民主系首長が誕生し、地方から国会を包囲することが出来ていたはずである。民主系首長が何ほどのことができるかは未知数であるが、現下自公体制によるネオ・シオニズムへの丸投げ政治の悲劇が緩和されることは疑いなかろう。それが分かっていて、日共の唯我独尊戦略が続いている。こうなると、意図的にこの戦略戦術を行使していると見ないわけにはいかない。

 我々の日共問題とは、日共党中央のこの戦略戦術を催促している奥の院指令を見極めることに有る。この目線で、日共党中央の変態性を告発することにある。更に云えば、1955年以来のクーデータに対する正統派の歴史的復権を勝ち取らねばならない。党中央の変態性を最終的に確認するためにこたびの都知事選の意義があると云うべきではなかろうか。

 いずれにせよ、選挙総括で、党員及び支持者はいつになく強烈に党中央批判の声と運動を組織せねばなるまい。一体何をやらされているのかを客観化させ、党中央指導に対する抗議に向かわねばなるまい。れんだいこの知る限り、地方でもブーイングが始まっている。最終的になすべき事は、野坂-宮顕-不破-志位と続いている左仮面の党中央打倒これ以外に無い。「明るい農村」的標語の似合う左派運動創出の為に。

 余興で簡単に書くつもりが、結構なところまで書いてしまった。

 2007.4.8日 れんだいこ拝

●権力に完全屈服の「きっこ」の無様さ。「HP著作利権主義者」はこんなもの・・・ ヒゲ-戸田 2007/04/08 20:34
 れんさん、お久しぶりです。ネットの「著作利権主義者」の醜悪さがまたひとつ出てきましたね。私の掲示板のほかに阿修羅政治板にも投稿したものを紹介させてもらいます。当方、4/15公示の3期め市議選でも「HPを選挙闘争に断固活用!」で上位当選を目指します。れんさんの当方への投稿復活を期待してます。それでは。
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 だいぶ遅れたネタになるけど、都知事選の過程でもうひとつ不快なネタが、いっぱしの「辛口ネット言論人」との評判を取っていた「きっこ」(「きっこの日記」)の権力への完全屈服ぶりだ。きっかけは石原批判のネタに「ネット上に流れていた出所不明の噂話をその真偽も確かめずに掲載してしまった部分があり」、石原陣営側から突っ込まれて謝罪をせざるを得なくなった、という事だが、なんと「きっこ」はそれに留まらず、
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2007.03.28 お知らせです。
 選挙期間中には、「○○候補に投票します」「○○候補を応援しています」ということだけ書いてはいけないのかと思っていたのですが、それ以外でも、候補者に関する事柄は書いてはいけないということを知りました。 それを知らずに、候補者に関する事柄を書いてしまったため、該当する日記を削除いたしました。
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として、権力によるHPの政治言論禁圧策に完全屈服し、権力側・その追随者達の言うことに何の疑問も差し挟まずに保身に走ったのだ! ネット言論人左派を装う者として、これほど恥知らずな裏切りがあるだろうか!

 HPの選挙活用が合法・正当であることはちょっとネットを調べればすぐに分かる話であるのに、「きっこ」はあえてそれを無視して権力に屈服して保身に走ったのだ。ちなみに、戸田HPから見て見よ。

「2003年 門 真 市 議 選 情 報」
ページに
  ★ HPの選挙活用の論理はコレ!(1)
  ★ HPの選挙活用の論理はコレ!(2)
  ★ 恐縮です。諸野脇先生が「『確信犯』登場」と誉めて下さいました↑ 03/06/10up
  ★ 戸田の返信と諸野脇先生からのさらなる声援メール 03/06/10up

など、いくらでも載っている。

 以前から戸田が指摘してきた事だが、HPやブログに「当ブログ内に掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します」なんて書いているヤツはロクなやつじゃない。無知な権力追随分子かネット著作権エゴ・利権主義者かのどちらかである。 とくに「きっこの日記」の場合は、しょっぱなにデカデカと
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【警告】当ブログ内に掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します。すべての文章は日本の著作権法及び国際条約によって保護を受けています
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と書いてあるので、こんなことをする人間性からして嫌いだったが、やっぱり「ネットを通じての情報共有よりは自分のネット著作利権独占を図るエゴイスト」であり、そういうヤツの常として「日頃はいっぱしの事を言っていても、いざ権力に凄まれるとそそくさと尻尾を振る」権力追随分子だった、と言う事だ。ネット著作権主義者」のナンセンスについては、戸田の敬愛する「れんだいこ」氏のHPが非常に詳しい。以下に紹介しておく。

 382 著作権、著作権法考
 れんだいこの人生学院
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東京の民度の低さを再度示した都知事選。石原支持のアホウ達を粉砕できず ヒゲ-戸田 2007/04/08 20:42
 先ほど「石原当確」が報道されましたが、その前に阿修羅に投稿しておいた私の都知事選への見解を紹介させてもらいます。東京都民のアホウサかげんがまたしても示された選挙でしたね。
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東京の民度の低さ・高さが判明する都知事選。石原支持のアホウ達を粉砕できるか
  (戸田HP:「自由論争掲示板」 戸田 - 07/4/8(日) 19:22 -

 門真での活動や市議選準備に忙殺されて、他の選挙の事が気にはなっていたが全然書けなかった。また書く時間がなくなるが、わずかの暇にちょっとだけ書いておきたい。

 今晩、東京都知事選の結果が出る。そこで分かるのは今の東京の民度の低さ・高さの実態である。マスコミ的には「やっぱり石原勝利」とか言われているが、どうなるだろう? 戸田としてはもちろんファシスト石原が落選して欲しいが、以前から気になっていたのが、左派・革新派・市民派その他(共産党ガチガチの人以外の)全ての「反石原の人々」が、「石原が強大だから、反石原候補の一本化を!」という発想で語ることだった。

 なるほど「遺憾な事実」として石原支持がまだ強大かもしれない。しかし、利権がらみ自公がらみ以外の「一般都民」・「無党派都民」で石原を未だに支持しているような連中は、よっぽどアホウなのであり、その事アホウサ加減をハッキリと糾弾罵倒した上で、どうやってそいつらの目を覚まし、切り崩していくか、を主軸に考えるべきであって、そこに手を着けず、そいつらへの真っ正面からの糾弾を遠慮して、つまり「強大な石原支持」を動かし難い前提とした上で、数合わせ的に「反石原候補の一本化」のみを、「市民の理性に訴えて」いく、という発想自体、戸田は気にくわない。

 それは敗北主義の発想である。

 必要な事は、「未だに石原支持なんて言うことがどんなに恥ずかしい事であるか」を手を変え品を変えて宣伝扇動し、その中で石原支持が自分自身クビを締める反人民的・反労働者的な事である事に気づかせていく事だ、と戸田は思う。

 東京以外の地方の人間である戸田は、都知事選の行方が日本の政治全体に巨大な影響を及ぼす事を十分承知して、石原打倒を熱望し、東京の心ある人々の奮闘に連帯しつつも、一方で前回300万票以上の巨大な支持を小心ファシスト石原に与えて民度の低さを世界に晒した東京都民が今度はどうするのかを冷ややかな気持ちで見ている。

 何でも東京、東京って大騒ぎするんじゃねえよ。自分らが世の中の中心だと思っていたら大間違いだぞ、っていう気持ちで。

 見て見ろ、小泉支持に引き続いて「ボク達、石原さん支持で〜す!」と石原と面談して悦に入っている(右派)「ブロガー」「ネット市民」どもの下司さ加減を。こいつらは確信犯的に人間として腐っている、粉砕あるのみだ、と戸田は断言してはばからない。

 「やはり石原」という世論調査結果が見事に裏切られ、増長石原への反感が雪崩を打って浅野候補に流れ込んで、「石原落選!都民は良識を示した!」という結果になる事を切に願ってはいるが、さてどうなるか。 「心ある人々」を含めて東京都民には、「あんたら、あんまりよそに迷惑をかけんなよ。」と言っておきたい。

Re:東京の民度の低さを再度示した都知事選。石原支持のアホウ達を粉砕できず れんだいこ 2007/04/09 09:42
 ヒゲ-戸田さんちわぁ。石原圧勝で、れんだいこの予見が又も外れたことを天下に晒してしまった。こうなると、れんだいこの予見の反対が正解と云う変な予見になりそうだ。やっぱれんだいこは思い込みが強過ぎて客観化能力に欠けているのかな。少し自戒しようっと。

それはともかくそうか戸田さんも改選奮闘中なんだ。頑張ってください。れんだいこの著作権論の評価有難うね。まだまだ進化中です。もっと詰めていけば、時代の閉塞化を撃つ理論になりそうです。以上、とりあえずの返信です。

 2007.4.9日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評281 れんだいこ 2007/04/11 21:25
 【れんだいこの都知事選総括】

 2007.4.8日の一斉地方選前半戦のハイライトであった都知事の総括をしておく。やはりこれをしない訳にはいかない。役に立ちそうなコメントを心がけることにする。

 現職石原に元宮城県知事の浅野が立ち向かい、日共系の吉田が足を引っ張るという構図で始まったが、結果は、石原が281.1万票(得票率51.1%)、浅野が169.3万票(得票率30.8%)、吉田が62.9万票(得票率11.4%)という結果になった。その他は略す。れんだいこの予見は外れ、石原が前回に続いてほぼ300万票圏の得票能力を実証した。

 この結果に対し、日共は、例によって破廉恥なというべきか木で鼻をくくっているというべきか、4.10日付け赤旗「教訓を生かし、後半戦での前進のために力をつくそう」で次のような見解を披瀝している。

 「当選には及ばなかったものの、東京都知事選をはじめ、多くの選挙で前回票を大幅に伸ばし、善戦・健闘しました」。
 「地方政治の政党対決の構図が、自民、公明、民主など「オール与党」と日本共産党との対決にあることを鮮明にしてたたかったことも、住民の利益をまもる唯一の野党としての日本共産党の値打ちを浮き彫りにするものでした」。
 「わが党が展開した論戦は、東京都知事選などに象徴されるように、当選した石原候補も反省や福祉を口にせざるをえなくなるなど、選挙戦の全体をリードする大きな力を発揮しました」。

 驚くことに都知事選についての言及はこれだけである。科学的分析と云うものはこういうものらしい。誰が見ても聞いても、石原を大差で勝利させたことに対する歴史的責任を党として微塵も引き受けようとしていないことが判明する。こうなると、戦前の共産党の政治責任論に言及した政治学者・丸山真男の歴史責任論に対し、宮顕-不破党中央が罵詈雑言した史実と重ねあわさない訳には行かない。もはや、どちらが真っ当な論であるかは明らかであろう。こたびの、「共産党の推す吉田候補は大幅に得票を伸ばした」なる得手勝手な総括がどうして許されようか。しかし、この「確かな野党論」なる珍論詭弁が通用しているのだからお手上げだ。

 れんだいこが若かりし頃、たまたまというべきか東京都政は、社共擁立によるいわゆる革新系の美濃部知事であった。美濃部都政の評価は話の筋がぶれるので触れないとして、ここで想起すべきは、かってひとたびは京都、大坂、東京と革新系知事が誕生していたということである。それも社共共闘と云うれっきとした連立であった。それが崩壊した要因も話がぶれるので述べないが、あの頃は連立が許されて、今は「確かな野党」で行く正義は奈辺にありや。誰か陳述してみよ。ついでに、民主連合政府構想はどうなったのか、聞かせてくれ。政治責任云うのなら、5000円の水パック云々責めまわるよりこっちの方がよほど本当の政治責任ではないのか。

 これを偶然とみなすのは大方の評であるが、れんだいこは現下党中央の仮面左派性より生じていると見立てている。ここが皆の識見と違うところである。連中は、平素はそれなりのことを述べることもままあるが、いざ肝心な時にはなりふり構わず正体を表わす。こう見立てないと政治現象が解けない。彼らの政治闘争を通史で見れば、戦後保守の二大抗争軸であるタカ派糸とハト派系の抗争に対し、一貫してタカ派糸の裏支援につながるハト派叩きに狂奔している様が見えてくる。歴代の政治家糾弾史を検証すれば、そういうことが透けて見えてくる。誰も問題にしていないが解せないことである。こたびは、中曽根-石原-小泉と云うネオ・シオニズム配下の御三家の一人の石原の苦境であったから露骨に助っ人役を演じたということになる。

 事実、日共は、石原都政に対して、なんでも反対はダメで過去のやり方と云う論法で是々非々路線を説いていたことがある。ハト派に対しては金輪際無いのに、よりによって軍事パラノイアにして政治の私物化意に介せずのチャンピオン石原に対してである。これは偶然なのだろうか。多くの者はそう読むだろうが、れんだいこは、現下党中央の異邦人的変態性のしからしめる必然と読む。とんでも党中央だという共認をしたい。

 その石原は、新宿歌舞伎町を引き合いに出して中国マフィアに言及することが多いが、六本木のユダヤマフィアに対してはダンマリだからお笑いである。ノーと云える日本とは云うが、現代世界を牛耳る国際金融資本に対してノーと云える日本とは云わないからお笑いである。

 ところで、思い返せば、こたびの都知事選に於いて、日共は、あからさまに浅野叩きを引き受けた。浅野は当初、メディアの注目を上手くひきつけながら出馬声明に漕ぎ着けた。この上げ潮に水を差したのが、日共の浅野批判であった。2007.3.6日、浅野が東京都庁内で都知事選へ正式に出馬表明するや否や、日共は早速に「“石原都政の基本継承”都知事選 浅野氏が出馬表明l」を発表し、以下続々延々と浅野批判を開始した。

 この対抗馬浅野叩きが本命石原を浮上させる作用をもたらし、石原圧勝の構図を引き寄せたのではなかろうか。もとより、それに乗ぜられたまま有効に反撃できなかった浅野陣営にも責任があろう。立会演説会のやり取りでもパッとしなかったことでも裏付けられる。しかし、誰が見ても聞いても、ろくすっぽ都庁に出てこないネオ・シオニストご用達貴族にして軍事パラノイアの石原と浅野を同格に批判するのはやり過ぎというものだろう。志位は、こまごまとした資料で宮城県知事時代の実績をこきおろしていたが、あの資料が今流行のアルアル捏造に近いものだったとしたらどうなるか。ただでは済むまい。

 その日共は、吉田の善戦総括で頬かむりしようとしている。赤旗コメントを読めば、お役目御免とばかりに、このまま逃げ切りしたがっていることが分かる。れんだいこは、この党中央の常習性癖とみなしているので改めて追撃する気もないが、教訓だけは再確認せねばならない。かっての社共がこれだけへこんでいる以上、もはや批判する時代は逆に終わったのではなかろうか。もはや相手にせず、むしろチャンスとして我々が主体的に左派共同戦線を構築し、統一候補を押し立てなければならない。無所属ではなく、れっきとした党派を母体にさせ、各派が相乗りせねばならない。

 仮に民主党-国民新党系を支援するのであれば、公明党が自民党を支援しているように当選の決め手となる基礎票を生み出さねばならない。そうやって左支えすれば良いではないか。単純な話ではないか。最低限の条件は護憲であり、少なくとも拙速を許さない論憲であろう。外治より内治優先政治であろう。はげたかファンドの優良企業乗っ取りを放任せず、万事にフェアトレードの確立であろう。これ以上設けるときりが無いので、タイムリー的にはこの三政策あれば良かろう。

 こたびの都知事選の総括は凡そ以上のようなことをを指針させていると愚考する。いかんせん、左派グループの共同戦線化の試みが遅れ過ぎている。各派から立候補者を出せば、各派とも貸し借りお相子になるのだから難しく考える必要は無い。マニュフェストも走りながら考え、次第にすり合わせしていき整序していけば良いのではないのか。分裂能力が飛びぬけて高く結合能力がからきし弱い日本左派運動ではあるが、さすがに最近になってこういう観点からの試みが生まれつつあるようにも聞く。6.15日には赤帽かぶってぜひ行ってみたいと思う。

 2007.4.11日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評282 れんだいこ 2007/04/12 21:14
 【おふくろさん事件の裏舞台考】

 「おふくろさん事件」の裏舞台が次第に明らかにされつつある。多くの論者は、森シンの非人情をなじり、川内の義侠心を称える立場で評しているが、れんだいこは違う。川内は、如何なる理由付けであろうと、作詞家著作権を盾にしてはいけなかった。それを為した瞬間から川内の方に非があるとせねばならない。ジャスラックも本来なら、既に管理権は当社にあり、作詞家の一存で歌わせないと主張することは出来ないと見解表明すべきところ、平素強権著作権を主張している手前、容易に川内の論法に乗ってしまった。こうして、森シンは十字砲火を浴びることになった。

 情けないことは、歌手仲間の誰もが、歌手の歌唱権を主張して、森シンを擁護する者がいなかったことである。森昌子にしても歯切れが悪い。他の歌手ときたらどれもこれも二束三文的見解で冷笑していたに過ぎない。れんだいこは、歌手の精神的貧困を露呈させたと判じている。こいつらはろくなもんではない。少なくとも文化を育てるという気持ちなぞ端から無い手合いである、ということが分かった。

 元々に戻れば、川内は、「歌わせない」などとは一言も云わずに、森シンの非人情を単に暴露すればよかった。テレビ出演もあれば雑誌投稿の手記もある。それで足りる話だ。それを、ジャスラックと作詞著作権の二頭立ての法律で責めるから、ややこしくなっただけのことである。興味深いことに、その騒動は、よりによっておふくろさんの歌詞内容に最も馴染まない類のものであるというおまけつきである。世の中には妙なことが起こるものである。

 それはともかく、2007.4.15日発行の「封印歌謡大全」に掲載されているという「『情と恩を踏みにじられた』川内氏 『おふくろさん』騒動の『真相』判明」が、事件の裏舞台を次のように明らかにしている。ttp://news.livedoor.com/article/detail/3115005/

 「封印歌謡大全」は、さまざまな経緯で世に流れなくなってしまった曲について、ライターの石橋春海氏がまとめたノンフィクションで、この中に「作家・川内康範と封印作品」という文章があり、そこに、なぜ「おふくろさん騒動」が起きたのかという経緯がつづられていると云う。

 それによると、石橋氏が去る日、川内氏の曲をまとめたCDをレコード収集家の友人に作ってもらい、川内氏に手渡した。 最初に渡したCDが好評だったため、2007.1月、2つ目のCDを作って川内氏に渡した。その中に2006年の紅白歌合戦で森シンが歌った「おふくろさん」が含まれていた。これを聞くや、川内は自身作詞の「おふくろさん」の前奏に短い詞と曲が付け足されているのが、原曲のイメージを毀損していると立腹したのだという。

 しかし、「ここで始めて気づいた」とするのはいかがなものだろう。川内自身が、この件でこれまでに何度も掛け合っていたと述べているので辻褄が合わなくなるではないか。してみれば、石橋証言も何やら臭いことになる。いずれにせよ、石橋氏が黒幕として登場してきたことに意味がある。

そして、改変を知った川内氏のマネージャーが森シンサイドに連絡を取った。しかし、何を今更因縁つけるのかと居直ったと云う。 れんだいこ的には、その気分が分からないでもない。結局、二人が直接会談することになったものの、森シンが高血圧を理由にドタキャンしてしまう。川内は、「それなら、こちらから見舞いに伺おう」と申し出たところ、「来られると、ますます血圧が上がりますので、来ないでいただきたい」との返事が為され、川内の怒りは頂点に達した。そして、この話がどこからか漏れてしまい記事となり、世間の知ることとなった、と云う。

 以上のような話が展開されているが、どこか臭い。この騒動を企画演出した者が居て、川内はピエロの如く踊らされたのではないかと云う疑念が晴れない。しかし、問題はそういうところにあるのではない。世の自称インテリが、インテリを自称する者ほど、川内の著作権主張に相槌を打ち、最近の知的所有権というはやり病に汚染され、意味も分からず同調し、結果的に森シンが川内関係の歌曲の歌唱封印に追い込まれたことにある。

 誰も、これをオカシイと云わない。目下、この粗暴法に警鐘乱打しているのがれんだいこである。近時の著作権法の強権化の非を認めるには法哲学的素養が無いと解けない。法技術屋的法匪はあまたいるが、法哲学者が居ない。故にこういうことが起こる。我々は、学んで却って野暮なことを云うインテリを目指さないように心がけねばならない。インテリの質を廻って論争せねばならない。これが、れんだいこの言い分である。

 こたびの事件を教訓的に総括した歌手なら誰も今後は、作詞家作曲家に盆暮れの付け届けを怠り無く、時にお茶でも飲み、その他親交を温め続けない限り、いつ「もうお前には歌わせない」とされるかも知れない恐怖が身にまとうことを知り、要領良い立ち回りをせねばならぬことになった。そういう気配り上手で無いと生きていけないことになった。厄介な話ではないか。接待上手な相撲取りより、土俵で良い相撲取る力士こそ望まれているのではないのか。主従を転倒してはいかん。

 川内は言う。「歌い手が情(こころ)を失ったら、その歌は死ぬんだ」。れんだいこは云う。「作詞家が著作権如意棒振り回すようになったら、もう良い歌はできない」。

  「おふくろさん事件」考(「作詞家川内氏の森には歌わせない事件」考)

 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_sakushisakkyokuco.htm

 2007.4.12日 れんだいこ拝

<たしかな野党?>法華経vs倫理真光のハルマゲドンを傍観する共産党<第5列?> こげぱん 2007/04/14 15:32
 <たしかな野党?>法華経vs倫理真光のハルマゲドンを傍観する共産党<第5列?>
ttp://www.asyura2.com/07/cult4/msg/265.html
投稿者 こげぱん 日時 2007 年 4 月 14 日 13:16:29: okIfuH5uFf.Lk

大阪府のとある選挙区での話。この選挙区では4/22に市長選挙が行われるらしく、今の所現職・新人の2候補が立候補を表明しているらしい。

現職HP
ttp://okumoto.kwc.jp/
新人候補HP
ttp://homepage3.nifty.com/yoshidayasuto/index.html

現職は絵に描いたような相乗り候補であり、論評するのも面倒なのでここでは新人候補の主張を数点取り上げることにする(こちらも論評は必要なさげなので主張のみ記載)。

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ttp://218.44.129.190/200510.html
曖昧さを嫌う若い世代の戦い
2005/10/12 15:38
 
 1ヶ月ほど前のことですが、石原慎太郎・田原総一朗著「日本の力」(文芸春秋)に対する書評が新聞に載っていました。弁護士で作家の牛島信さんの書評です。これによると、三島由紀夫は、大蔵省を辞めてから20年後、次のように新聞紙上に言い残して自決しました。「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないか(中略)日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残る」。
 しかし、著者の田原氏はこの本の中で、「(田原氏と同じ)世代の融通無碍さを若い世代が拒否し始め『世代間戦争』になった」と指摘、自らの改憲志向も表明している「らしい」。そして、書評の牛島氏は「曖昧さを嫌う日本人が新しい憲法を作るだろう」としています。
 吉田康人が「世代間闘争論」をぶち上げたのが20年前。在京の仲間内では当時、結構評判良かったんだけどなぁ〜(笑)。もはや、新・旧どっちの世代に入るか非常に「曖昧な」年齢になっちゃったけど(笑)・・。現行憲法を含むこの国の「曖昧さ」によって、「利益を得ている人々」より「不利益を被ったり危険にさらされている人々」のほうが圧倒的多数だと判断していることを、明確に意思表示しておきたいと思います。
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ttp://218.44.129.190/200508.html
お問い合せに感謝申し上げます。
2005/08/14 18:28
 
 「郵政民営化は断行すべき。むしろ、現・政府案よりドラスティックな改革が必要」というのが吉田康人の政策的立場です。でも、「高槻から日本を変える」という政治スタンスにブレはありません。
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ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/yoshidayasuto/200701.html

元朝式(1)
2007/01/01 18:52

 みなさん、新年あけましておめでとうございます。 吉田康人の仕事始めは社団法人実践倫理宏正会高槻北支舎の元朝式。過去8年連続、元旦は朝4時起きで5時から6時のこの式に出席しています。ここ5年間ほどは、締めの「万歳三唱」が吉田康人の大役です。

「朝の誓」。
 倫理実践は1年365日、欠かすことなく続けられています。吉田康人も毎日の演説。ともに今年もがんばっていきましょう!。

ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/yoshidayasuto/200609.html
「弾丸」参拝( 3)
2006/09/03 20:41

 崇教眞光世界総本山。日曜日の今朝、月始祭が行なわれました。高槻からは早朝に到着する夜行バスで行き、参拝が終わったら午後には戻ってくるという(例えは少し変ですが)まさに「弾丸」参拝となります。 吉田康人にとっては初めての世界総本山への参拝。強行軍でしたが今後の政治活動を考えるともうこのタイミングしかありませんでした。参拝が無事に許されて良かったと思います。日頃、高槻、大阪、日本と目が行きがちですが、今朝のお代理さまの力強いご教示を拝聴して「もっとグローバルな視点を持って世界の平和と繁栄に貢献しなければ」と改めて心に誓いました。
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これを見る限り現職は確かな野党が口を極めて罵る自公民相乗り候補で、新人は熱心な実践倫理会員+崇教眞光信者で、今時小泉改革など支持するユニークな売国系ウヨであると見て取れる。早い話共産党からみれば、両候補とも好ましくないはずで、同地域の辻元清美や東京の浅野史郎にまで対立候補をたてた共産党なら是非独自候補を擁立して戦いを挑んでくれるかと思いきや、面白いことに共産党は独自候補擁立を見送り、新人候補不支持という形で現職を陰ながら支持するらしい。

(この程度の2者択一を強いられる限り、わずかながらましな候補だろう、という限りにおいて)新人売国ウヨ候補不支持はまあ常識的な選択として評価できるとしても、地方都市で自公民相乗り候補を陰ながら支持できるなら、共産党は都知事選や小選挙区など定数1の選挙でなぜ野党候補を支持できないのか。野党共闘が実現していれば勝てたであろう選挙も多々あり、自公政権もここまで勝手な国会運営はできなかったであろう。共産党はこれでは確かな野党なのか第5列なのかわかりゃしない、というのが外野の正直な感想である。

▽参考資料・リンク

共産党の市長選声明
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ttp://www.jcp-takatuki.jp/news/news2007/no.337.html#337-02
高槻市の良い面は前進させ、問題点は改善へがんばります

 この間、高槻市は、自民、公明政権による国保料の値上げや障害者への負担が増えることに対して、独自に負担を減らす制度を実施。また、高槻で取れたお米を使って米飯給食を行なっています。しかし、JR高槻駅北側ユアサ工場跡地での民間企業の大型開発への態度や、同和行政の見直しの不充分さなど改善も求められています。日本共産党は、良い面は前進させ、大型開発や同和などは改善をすすめるためにがんばります。
市長選にでる元市会議員は、今の市政を批判しています。しかし、増税など国がすすめる悪政に、何も言っていません。同時に、市会議員だった時には、「介護保険の改善を」、「少人数学級の実現を」などの切実な願いに反対していました。今になって市を批判し、福祉などを口にしても、信頼できるでしょうか。
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新人候補は統一教会信者である、というあらぬ噂がたてられているらしいが、候補者本人はHPで断固否定している。以下はその声明。

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ttp://homepage3.nifty.com/yoshidayasuto/warning.html
  警 告 書

 貴殿による事実無根の誹謗中傷が、私及び私の家族を含む関係者をあまりにも傷付け、かつ、私の名誉を著しく毀損しているため、以下のとおり警告します。
 貴殿は、上記のような公職にありながら、「吉田康人は統一教会(の信者)だ。」とか、「吉田康人が市長になったら市長室が統一教会メンバーによって占拠される。」などということを公然と摘示し、さらには、「吉田康人が統一教会の信者であることを証明する確固たる証拠を握っている。」などと述べるなどして、私を誹謗中傷しています(以下ではこれを「本件誹謗中傷行為」といいます。)。
 貴殿が本件誹謗中傷行為を再三行っていることについては多数の者からの証言を得ておりますし、貴殿もまさか否定されることはないと思います。
 しかし、貴殿の本件誹謗中傷行為の内容はまったく虚偽であり、このことは、貴殿が、本件誹謗中傷行為に及んだ相手から、再三、貴殿がいわれる「確固たる証拠」を示すよう求められてきたにもかかわらず、現在に至るまで、何ら具体的な証拠等を示せない事実にも如実に現れているところです。
 また、過去に、@私が、世界平和連合などが主催するセレモニー、講演会、勉強会、国際交流事業などに来賓、講師、聴衆などとして参加したことや、A世界平和連合に所属する者数名が、ボランティアとして、個人的に、吉田康人の政治活動や選挙運動に参加したことがあり、このことをもって私が統一教会の信者である根拠とする者がおりましたが、大きな勘違いであり、これらのことは、政治家であれば、政治活動や選挙運動の一環として、著名政治家を含めて一般的に行っていることであり、その例は枚挙に暇がないほどなのであって、私が統一教会の信者であることを示す根拠とは、まったくいえません。
 ましてや、私自身が、貴殿を含め、周囲に対して、統一教会の信者ではないと言明していることや、4年前に行われた高槻市長選挙において行われた同様の誹謗中傷行為に対して、刑事告訴まで行ったことも、貴殿は十分ご承知であるにもかかわらず、貴殿が本件誹謗中傷行為を続けられることについては、もはや勘違いなどで済まされるものではなく、貴殿が何らかの意図をもって故意に行っているものと考えざるを得ないのであり、私は看過することができません。
 よって、私吉田康人は、貴殿に対し、本件誹謗中傷行為について猛省を求め、今後は、同様の行為を行われないよう厳に警告するとともに、万が一、今後も同様の誹謗中傷行為を続けられる場合には、誠に遺憾ながら、私としても、貴殿に対する刑事告訴等の法的手続を執らざるを得なくなりますので、その旨お含み置きのうえ、真摯にご対処下さい。

     以上
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日本における「宗教右翼」の台頭と「つくる会」「日本会議」
ttp://www.asyura2.com/0311/nihon10/msg/1179.html
投稿者 なるほど 日時 2003 年 12 月 24 日 17:30:12:dfhdU2/i2Qkk2

Re:<たしかな野党?>法華経vs倫理真光のハルマゲドンを傍観する共産党<第5列?> れんだいこ 2007/04/14 22:11
 こげぱんさんちわぁ。宮顕-不破-志位と続いている日共党中央の変態性は既に腐臭段階にあるようです。云うこと為すことが辻褄が合っておらず、それを解きほぐす能も無い。選挙専一運動にして力をためた初期の頃はそれなりに成果を生みましたが、今やその選挙で後退しつつあります。空白区ゼロ運動も失敗し、空白区が増大しつつあります。捲土重来も、民主連合政府の呼びかけ同様、そうたびたびは叫べまい。

 この先どうなるのか分かりませんが、悪あがきするのは確かでせう。党内には、引責辞任させる力は無い。よって、いつでもどこでも、ここ一番の時には反動的立ち回りします。困ったものです。護憲を熱心に云っておりますが、つい先ごろ党内憲法の規約を改悪した連中がそれを云う資格があるのでせうか。自民党に手本見せたばかりではないですか。れんだいこは、まったく信用しておりません。早く別の主体を創りだすべきです。真性の左派運動の手本を示さないといけない、人民大衆はそれを望んでいると思っております。そう共認する多くの仲間を生み出したいと考えております。

 60年安保世代は、このままでは死に切れない。一体、我々は何をやってきたんだと反省至極との弁を発しております。本当にそう思います。日本政治は何か全体、大きな力に手玉に取られている気がします。歴史も思想も運動も再検証し直さねばならない、一刻も早く別の闘う主体を創りださないといけないように思います。

> (この程度の2者択一を強いられる限り、わずかながらましな候補だろう、という限りにおいて)新人売国ウヨ候補不支持はまあ常識的な選択として評価できるとしても、地方都市で自公民相乗り候補を陰ながら支持できるなら、共産党は都知事選や小選挙区など定数1の選挙でなぜ野党候補を支持できないのか。野党共闘が実現していれば勝てたであろう選挙も多々あり、自公政権もここまで勝手な国会運営はできなかったであろう。共産党はこれでは確かな野党なのか第5列なのかわかりゃしない、というのが外野の正直な感想である。

 そういうことですね。先日、れんだいこの囲碁仲間で、共産党支持の人に言ってやりました。共産党支持は昔風のイメージではそれは正しい。しかし、現下の共産党指導部は、戦前と戦後直後の徳球−伊藤律系時代のそれとは別物で、名前を借りているだけのインチキ連中ですよ。だから、弱者の味方の唯一の党なんていうコマーシャルに乗せられたらいけませんよ。だいたい連中の経歴はかくかくしかじか。結論として、少なくともクールに是々非々でお付き合いした方が賢明ですね云々。話の道中で、合点気配になりましたよ。

Re:れんだいこのカンテラ時評283 れんだいこ 2007/04/15 20:13
 【ブッシュ派をこそガンタナモ収容所送り込め】

 ガンタナモ収容所は、キューバ島の南東部にあるグアンタナモ空軍基地内にある。アメリカは、キューバ政府から無期限で租借していると云い、キューバ政府は不法占拠だと主張している。よりによってなぜキューバ島に存続し得ているのか、キューバ政府が何ゆえに容認しているのか怪訝なことである。いずれにせよ不自然な形で存続している。

ガンタナモ収容所は、アメリカ国外にあることでアメリカ国内の法律に縛られないという特権を享受している。いわば法規制の抜け穴として利用されている。

 ブッシュ政権は、イラクの核査察拒否、兵器隠匿等を理由として、民主主義の国に立て替えるという名目で戦争を勃発させたが、ガンタナモ収容所の査察を頑として認めようとしないのは論理矛盾だ。よそさまの国を民主主義の国にするというからには、お前たちに云う資格があるのかどうか判断するから、ガンタナモ収容所内の様子を弁明せよ。

 「9.11同時多発テロ」後の米英ユ軍によるアフガン報復戦争の際に捕えたタリバン兵約700名やテロ容疑者を強制連行し、ガンタナモ収容所に拘束している。収容されるキャンプデルタは周囲を壁で仕切られており、中をうかがうことはできない。ガンタナモ収容所の様子は頑として非開示されている。故にブラックホールと化している。国内人権団体や国際機関からの批判にもかかわらず、米政府は国際団体などの視察もほとんど認めず、実態を隠し続けている。

 漏れ伝わるところによると、ブッシュ政権は恥も外聞も恐れず、ガンタナモ収容所で虜囚を虐待し続けている。日本の戦前の治安維持法下の特高による取り調べ、拷問も相当のものであったが、それより酷い。捕虜は劣悪な環境に置かれており、戦争捕虜への人道的待遇を決めたジュネーブ条約による戦争捕虜収容所の待遇を受けていない。

 或る者たちは、畳1畳より狭い鉄格子の部屋にまるで鳥かごのように一列に並べられている。それぞれに水道とトイレがあるが狭く、窮屈を強いられている。24時間中明かりが灯され眩しくされており、睡眠をさせない拷問に晒されている。或る者たちは、1日のうち22時間を鉄壁で囲まれて自然光が入らない独房に拘禁されており、他人との接触も最小限に抑えられている。虜囚は指示に従わないとより過酷な懲罰が待ち受けており、モルモットにされている。障害をきたしたり、自殺をはかる人が後を絶たない。

 法的な助言も面会も許されない。容疑も示されず、起訴もされず裁判もないまま収容されている。拘束期限も未定だ。調書が開示されていない為、何人が収容されどのような扱いを受けているのか、何人が死亡したのか、自殺したのかさえも正確には分からない。捕虜達は長い者で5年余にわたって外界から途絶されていることになる。今何人が生存しているのかも分からない。

 非人道的取調べ、餌付け的食事による翻弄、日常的な拷問と肉体的精神的虐待、生体実験、人権侵害等々やりたい放題している。イスラエルのパレスチナ人収容所、イラクのアブグレイブ刑務所の様子と同様で、典型的なネオ・シオニスト式刑務所となっている。

 思えば、この連中がこれまで民主主義を語り世界に説いてきた。第二次世界大戦後直ちに国際裁判を組織し、人道の罪、平和の罪なるものを編み出し、敗戦国側の将校を戦犯として裁き、主たる責任者に対しては絞首刑を執行した。他方で、ユダヤ人600万人ガス殺、南京大虐殺を批判し反戦平和理論の核とした。その癖、常に戦争を仕掛け、原子力を売り込み、紛争を勃発させてきた。

 ガンタナモ収容所は、そういう連中のウソと詭弁を丸出ししている。思えば、世界植民地化、アフリカの黒人奴隷売買、ボーア戦争時の強制収容所等々の史実からして、強制収用所の本家はネオ・シオニストの方ではなかろうか。ナチスの強制収用所の創出過程も、この線から洗い直さねばならないのではなかろうか。どうも話がおかしい。

 結論として、このペテンを見破り、ブッシュ派をこそガンタナモ収容所へ送り込め。そうしない限り、ブッシュ派は、ガンタナモ収容所は民主主義的模範収容所だと言い張り続けよう。故に、そうせずんば一件落着しないだろう。

 このブッシュ派の言いなりになって日本を戦争国家へ導くのだけは御免だ。9条改憲を世の趨勢と云う者が多くなったが、それは滅びの道だって。国家財政をそういうところに使うべきではないって。日本は技術立国で充分世界に貢献できる。思えば、角栄の内治優先政策こそ範とするに足りる英明政治だったな。キッシンジャーがいと嫌ったが、か奴こそ狂人だって。

 2007.4.15日 れんだいこ拝

憲法論議 如往 2007/04/18 01:43
 れんだいこさん、こんにちは。 過日はレスをありがとうございました。

 さて、早速ですが、貴HPの「428919−2 憲法改定論とその論争史について」における『憲法改正論の系譜』の出典について、ご案内いただければ幸甚に思います。このところ【阿修羅】の憲法板上で憲法談議に勤しんでいるのですが、もう少し多方面からの見解をあたってみたいと考えていましたところ、れんだいこさんのHPのことが思い当たった次第です。
 月並みではありますが、「近代の立憲主義憲法は、主権者(国民)の自由(生存の自在性を担保)と公共の福祉に資するべく、統治権授権の対象たる権力機関、即ち立法(国会議員等)、司法(裁判官等)、行政(公務員等)等の公権力にたいする制限規範及び授権規範である。」というのが私の憲法に関する認識です。けれども、日本人の多くは憲法を自分達が統治される側にあると云った意味で捉えているような逆立した認識の状態を脱し切れていないのも事実だと思っています。こうした現状認識から先ずは自由の基礎法である現行憲法を十分活用することこそが肝要だと考えています。
 尚、『憲法改正論の系譜』に関してれんだいこさんの見解を伺うことができますれば、これまた非常に嬉しく思います。

 また、会いましょう。


Re:憲法論議 れんだいこ 2007/04/18 18:54
 如往さんちわぁ。「428919−2 憲法改定論とその論争史について」ですが、どこから持ってきたのか分からなくなりました。今検索で見たのですが出てきません。何かの拍子で参考資料として取り込んでいたのだと思います。もう少し追跡してみようと思います。今、少し読み易くしました。

>  月並みではありますが、「近代の立憲主義憲法は、主権者(国民)の自由(生存の自在性を担保)と公共の福祉に資するべく、統治権授権の対象たる権力機関、即ち立法(国会議員等)、司法(裁判官等)、行政(公務員等)等の公権力にたいする制限規範及び授権規範である。」というのが私の憲法に関する認識です。けれども、日本人の多くは憲法を自分達が統治される側にあると云った意味で捉えているような逆立した認識の状態を脱し切れていないのも事実だと思っています。こうした現状認識から先ずは自由の基礎法である現行憲法を十分活用することこそが肝要だと考えています。
>  尚、『憲法改正論の系譜』に関してれんだいこさんの見解を伺うことができますれば、これまた非常に嬉しく思います。
>
>  また、会いましょう。

 戦後憲法の制定過程の検証と歴史的位相と改定運動史を確認しておくことは、時節柄必要ですよね。こういう問題では、理論が先行しないといけないと考えております。れんだいこのそれはまだ書きなぐり段階です。いずれ整理できたらと考えております。どんどん刺激をください。ではまた。

「9条の会」と共産党 猫の手 2007/04/18 19:24
 鳥取からです。私は無知・無邪気(?)なおばさん。小田さんや鶴見さんが呼びかける「草の根運動」ということで、9条の会に入りました。市民団体を主宰している私としては、「先ず身内を固める」だの「非公開学習会」(公開して一緒に勉強したいよぉ〜)、「後でいちゃもんつけられても困るから、助成金は申請しない」等等、こういう発想があったのか〜と驚きの連続。おかしい、おかしいと思いながら1年近く。私もガンガン言って、学習会は公開になり、広報活動をするようにはなりました。これだけの事に、やいのやいのとやりあわなくてはならず、信じられない思い。
 事務局、代表が執行部で、15名の世話人で月1の定例会。時々、拡大会議と呼称して、「賛同署名」の呼び掛け人も含む定例会があります。事務局が詰めの作業をするのですが、私も事務局員の筈なのに排除されてしまいました。「政党色を出すな」と牽制した元高教組の方、社民党関係の護憲団体とも繋がりのある市民は、何時の間にか世話人からはずされ、定例会のお知らせも受取っていません。事務局は共産党員一色。世話人会も共産党員の占める比率が大きい。特定の政党に偏ることの是正を求めたのですが、共産党は死守。で、私が辞めました。
 共産党は何故、自分達で護憲運動をやらないのか?「9条の会」の看板の元、集まった市民は嫌気がさして離れてしまいました。よそ様の看板でやるの止めてくれないかなぁ・・・どこもこんなですか?

Re:「9条の会」と共産党 れんだいこ 2007/04/18 21:50
 猫の手さんちわぁ。「9条の会」の実態を知りませんが、日共系が入ると「排除の論理」を使うことは有り得ることです。連中は、統一戦線思想には馴染んでいるけれども共同戦線思想による団結は出来ませんね伝統的に。猫なで声も実態は右派系あるいはノンポリにに対してであり、左派系に対しては爪を立てる場合が多い伝統的に。れんだいこはそう考えています。

>  事務局、代表が執行部で、15名の世話人で月1の定例会。時々、拡大会議と呼称して、「賛同署名」の呼び掛け人も含む定例会があります。事務局が詰めの作業をするのですが、私も事務局員の筈なのに排除されてしまいました。「政党色を出すな」と牽制した元高教組の方、社民党関係の護憲団体とも繋がりのある市民は、何時の間にか世話人からはずされ、定例会のお知らせも受取っていません。事務局は共産党員一色。世話人会も共産党員の占める比率が大きい。特定の政党に偏ることの是正を求めたのですが、共産党は死守。で、私が辞めました。
>  共産党は何故、自分達で護憲運動をやらないのか?「9条の会」の看板の元、集まった市民は嫌気がさして離れてしまいました。よそ様の看板でやるの止めてくれないかなぁ・・・どこもこんなですか?


 れんだいこは、各派が自前の党派を出しつつの護憲運動に憧れています。無所属だとか無党派とかは姑息と考えております。みんなが各派の見解を知り、理論をすり合わせする方がよほど有益と考えております。だから、何もかも新しい運動を創出しなければならないと思っております。左派運動は根底から作り変えないと役に立たないと考えております。というようなことでまた。

投稿「9条の会」と共産党に関する一部訂正 猫の手 2007/04/21 17:04
 れんだいこさん、素早い返信ありがとうございます。さて、投稿の内容で一部事実誤認がありましたので、訂正しておきます。『「政党色を出すな」と牽制した元高教組の方、(〜)、何時の間にか世話人からはずされ、』は、私の間違いでした。その方は世話人に選ばれたのですが、ご本人が多忙なため辞退されたのが事実でした。 鳥取のような地方都市は実働要員不足で、政党の組織力に頼らざるを得ない実情があり、9条が特定の政党からみとしてもやむを得ない部分はあります。 いずれにせよ、内部にいると腹が立つてきますが、辞めれば「9条の会」も再軍備阻止の心強い団体の一つには違いありません。以上です。

以下の投稿は当方自身のものではありません。 不動明王 2007/04/22 10:09
 他人が当方の名を騙って投稿したもものです。I氏の評価に対しては、内容的には賛同できる面もあります。

ウツケ男でゴキブリ知事と言われた慎太郎 不動明王 2007/03/29 12:06

Re:以下の投稿は当方自身のものではありません。 れんだいこ 2007/04/22 17:08
 不動明王さんちわぁ。ハンドルネームの騙り投稿は困りますね。れんだいこもかなりやられています。以来、れんだいこは、外の掲示板に出向くことが臆病になりました。他愛ない場合も有りますが、マジにれんだいこ発言と受け取られると困る場合も有ります。何らかの智恵が必要ですね。さぁ、長引いた風邪が漸く治りました。体調不良はいけませんね。

> 他人が当方の名を騙って投稿したもものです。I氏の評価に対しては、内容的には賛同できる面もあります。
>
> ウツケ男でゴキブリ知事と言われた慎太郎 不動明王 2007/03/29 12:06

Re:れんだいこのカンテラ時評284 れんだいこ 2007/04/24 20:53
 【れんだいこの学問分別論】

 れんだいこは齢50半ば過ぎにして漸くある疑問が解けた。これまでは、「人は、学んでなぜ馬鹿になるのか」の理由がわからなかった。人は、やがて訪れる痴呆域に入るまでは、努力さえすれば年齢を重ねると共に経験的智恵が増し、次第に賢くなると思ってきた。それには、論語の「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」の理が影響している。我々東洋人は、これを祖法としているので、深く学び且つ思うほどより賢者になると想定している。いわゆる「人の上に立つ者」はそういう人士であり、故に一角の者とか先生と呼ばれて尊崇される仕組みに概ね成っていると暗黙のうちに了解している。

 しかし、昨今論語の教えが通用しない事象に遭遇している。白痴専門家が大勢跋扈し始めており、彼らが、本来期待されている専門性とは真反対の痴愚見識を披瀝しており、為に人民大衆が当惑させられ不利益を蒙っている。近頃やけに目に付く国会議事堂の醜態やテレビに登場する自称知識人の阿呆面と言行の無能さを思えばよい。連中は、せんでも良いことばかりに夢中になっている。なしてこうなるのか。この現象を如何に理解せんか。これが疑問であった。今回禅問答式考案を得たのでこれを公にしておく。

 思うに、学ぶということは何の為に為すのか。国家が義務教育として巨額の費用をかけているからにはよほどの有益な理由が無ければなるまい。これにつき、れんだいこは然りと考える。「読み書きそろばん」は人が生きていくうえでの必須だから。ところが、学問をその先へ進めると、学べば学ぶほど余計にバカになると云う珍しい人種が生まれてくることになる。れんだいこは、本来有益な学問を学んでバカになるからには元がよほどバカなんだろうとも思う。そういう連中には漬ける薬が無いというべきだ。あるいは単に地位と名誉と金に目がくらんで好んで馬鹿になっているのかも知れない。

 ここまでなら、各自の生き方だからまだ許せる。問題は、そういう連中がよりによって当方を説教しに来ることである。来ないまでもマスコミ電波でしゃべりまくるから堪らない。れんだいこはテレビは見ない方だが、朝方の出勤前に何と無く音声を聞く。芸能ごとには興味が無いので社会面政治面にチャンネルを合わせる。聞けば、互いに目先を変えただけの害悪極まる御用見解を披瀝しあっている。見解がまるで陳列された商品であり、我々にはそのうちの任意の見解商品を受け入れるよう仕掛けられている。多くの者はほんまかいなぁと思いながらも分別のないままに受け入れてしまうというようなことになっているのではなかろうか。そういう心配までさせられる。

 このところの内閣支持率の高さは異常であるが、こうした電波公害によってもたらされているのではなかろうか。もっとも、内閣支持率を引き出す仕組みそのものが問題だ。百人や千人の調査で何が分かると云うのだろう。要するに、ある見解を流布させたいが為に、その根拠付けに百人や千人の無作為選出調査なるものをダシにしているだけだろう。エエカゲンニセンカイと思う。マスコミは喧伝する以上、情報の正確さを論証せねばなるまい。あるある事件とは違うという公正さを説明して見よ。

 一般に、学が出来すぎると、御用理論プロパガンダに向うらしい。彼らにはその見返りに富と地位と権威権限とサムマネーが与えられるようである。全国各地何処へ行っても先生先生と呼ばれるのが快感で、いたく満足という仕掛けらしい。天下り云々しているが、手前達も結構天下っているのではないのか。あれこれ思うと、早く電波公害に代わる日本版アルジャジーラを立ち上げねばなるまい。今は恐らく言論の自由という意味では戦前より酷いのではなかろうか。

 もとへ。学問には、正学と虚学がある。この識別が大事だ。普通には、正学は実践的に役に立つ学問であり、虚学は逆の意味で理解すればよい。この場合の正学とは、「読み書きソロバン」及びその発展系の体感、経験、智恵に列なるもの総体と思えばよい。思えば、田中角栄の見識は、正学の極みであった。下手に高等教育機関へ行かなかったから良かったのかも知れない。彼ほどの人物は史上でもそうは居るまい。れんだいこは、現代の大国主の命と見立てている。正学をこう理解すると、虚学は、実践に試されると役に立たない虚飾学ということになる。この弁えを仮に第一公理とする。この認識が最初に必要となる分別である。

 問題は、現代学問を論ずるのに、そういう第一公理的了解だけでは解決し得ないところにある。というのは、虚学は、普通には役に立たないのだが、実際には役に立つような虚学があるということである。そして、今やそういう虚学が主流化しているように思われる。こうなると、第一公理の正学虚学観だけでは解けないことになる。第一公理は余りにも杓子定規で、複雑怪奇な学問界を理解するには、子供段階の認識に過ぎないということになる。

 第一公理観からすれば、「役に立つ虚学」とは背理であるが、何故にこの公理が成り立つのか。ここを思案せねばならない。思えば、第一公理の「役に立つ」が問題で、漠然とし過ぎている。「役に立つ」は、「5W1H手法」をリトマスして精査されねばならないのに、「5W1H手法を抜きにしたまま役に立つ」を抽象的に通用させているところに問題がある。公理がまだ練れていないということになる。実際には、「役に立つ」は、「誰が、何の為に、どのようにして」という手法とセットで問われねばならない。これを欠落させた「役に立つ」は空疎である。

 とすると、正学とは、究極的に見て世の中全般に実践的に役に立つ学問であり、虚学は、世の中全般に役に立つのではなく究極的に見て私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つような学問とでも規定し直した方が良いのではなかろうか。これを仮に第二公理とする。「私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つ学問」なぞ有る訳が無いと思うのは、論語的儒教的理解に偏り過ぎている。

 もっとも、「私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つ学問」というのは程度問題であって、百%そうだというのではない。例えて云えば、第一公理的な「正学5割、虚学5割」が標準とすれば、「正学2割、虚学8割」という風に虚学に異常偏向している学問と理解した方が正確であろう。故に、カルト学であろう。

 では、「究極的に見て世の中全般に実践的に役に立つ学問」が何ゆえ正学で、逆は虚学なのか。これは、最も根本的な分別なので容易には解けない。れんだいこは、東洋的叡智思想である「身の内と身の外世界の相似現象論」を媒介させることにより識別したいと思う。それによれば、我々の心身機能は互いに共生的に補足しあってネットワーク化している。これの具合で健康に成ったり病気に陥ったりする。外界は、この身の内の理の相似象をしており、外界と云えども共生的であることが望まれている。いわば、両者は、身の内小宇宙、外界大宇宙として相互に通行している。これが望まれている姿であり、正学は望まれている通りに学問するので学べば学ぶほど有益で、故に正学と云う。虚学は、逆であるので虚学と云う。こう分別する必要がある。

 西欧史を学べば、第二公理的正学と虚学の闘いの連綿史であることが分かる。儒教的東洋人にはこの厳しい西欧社会の相克史が理解されていない。儒教的東洋人が、第一公理的学問観のままに西欧学を学ぼうとすると、正学史と虚学史の識別ができていない為に、両者を混合させたまま漫然と資料の羅列研究で事足りることになる。しかし、それでは座りが悪い。どこかの段階で統一的に理解したがることになる。そこでどうなるかというと、多くの者は、虚学史の方を正学史と勝手に懸想して鵜呑みにする始末となる。なぜなら、現代世界を牛耳る勢力が虚学史の方をプロパガンダし続けており、権威を授与しているからである。

 ここまて云えばお分かりであろうが、虚学とは、「歴史的ユダヤ学」のことを念頭に置いている。実際には「歴史的ユダヤ学」にも正学志向と虚学志向があろうから、より正確には「ネオ・シオニズム派内ロスチャイルド派虚学」と明確に言い切った方がより正確であろう。ロスチャイルド派は「シオン長老の議定書」を古典マニュフェストとしているので、「シオン長老の議定書派」とも言い換えることができる。そして、この連中こそは、かの昔イエスともっとも激しく論争しイエスを死刑に追いやった歴史的パリサイ派の流れを汲む者でもあるので、現代パリサイ派と呼ぶことも出来る。

 現代パリサイ派が現代世界を牛耳っており、世界を彼らの意に染まるよう改造中である。彼らこそ史上の正真正銘の革命派と云えるかも知れない。革命にはそういう怖さがあることが次第に判ってきた。ところが、連中の理論と実践が虚学となっている。利益にさとい者がこれに群がっている。この虚学が膨大な学的体系を構築しており、ウヨサヨの二本建てになっている。これを渉猟通覧しようとすれば寿命が幾ら有っても足りない。

 正学と虚学の違いは次の点に認められる。究極的に見て、正学がよろづに於いてフェア・トレードを旨としているのに対し、虚学はアンフェアの虜(とりこ)となっている。正学はかって、シルクロード交易を生み出したが、虚学は、シルクロード交易を狙い撃ちにする盗賊を生んだ。その連中が近代になって世界の植民地化を生んだ。彼らが触手を伸ばした至るところで侵略と収奪が発生し、文化が破壊され、黒人奴隷が移植された。これらは皆、虚学が引き起こしたものである。

 正学と虚学にはそういう違いがある。仮に思えば良い。世界中の諸民族のうち、異民族同士が遭遇したとして、平和を望まぬ者があろうか。れんだいこは、僅かの経験からこのことを確信している。多くの諸民族は、礼節を尽くして待遇した事例を遺している。戦争でさえそうだ。誰が好んで相手の殺戮を望もうか。多くの戦史は、無駄な殺生を避けた事例を遺している。これが世の実際だ。異民族同士が遭遇した時、一網打尽せんと考えを廻らすのは異例だ。戦争で無差別殺生を好むのは異例だ。諸国民は願わくばと云う限定であるが真に平和と交流を望んでいる。これが実際だ。スポーツの国際交流はこれを例証している。

 虚学は昔より、拝金蓄財を旨としており、高利貸し金融を得意として勢力を扶植してきた。彼らは、手前達が虐げられている時はヒューマニズムを喧伝し革命理論を弄び、手前達が権力を掌握するや独裁と悪法を好む。彼らは富める国に寄生し、その養分を吸い取るや他の富める国を求めて転移する。跡に残された国は往時の勢いを失い、大概の場合再起不能にされてきた。そういう事例は、歴史に枚挙の暇ない。

 顕著な違いは次の点に認められる。正学が概ね共生を旨としているのに対し、虚学は強制の虜(とりこ)となっている。虚学は戦争と革命と収奪を飯の種としてきた。各国政府の財政を赤字にさせ、金融コントロールしてきた。正学が、祖国の伝統と歴史を尊ぶ在地型を旨として国造りし、然る後に願うらくは国際的協調に向かおうとするのに対し、虚学は、国際主義を旨として在地型の歴史と伝統の否定に向かう。その癖、手前達は誰よりも強い内向きの同胞主義と選良主義に浸っており、異民族を勝手に畜生ゴイムと蔑視し、ゴイムに対しては国際主義をプロパガンダすると云う二枚舌を駆使している。ゴイムに対し、第二、第三選良として生き延びるよう説教し、彼らの理想とする秩序に服するよう説き続けている。

 現代パリサイ派は、そのような得手勝手なご都合主義的な独善な唯我独尊的な虚学を好み、全てを金儲けの資にしてしまう。皆それぞれ寿命が有ろうに一生を平然と悪事に費やして恥じない。その狂気を正学としてプロパガンダし続けている。現代政治と経済と学問と文化の虚学体系を構築しており、そのテキストが配信配布され続けている。これを洗脳教育と云う。逆に、正学のテキストは焚書坑儒され続けている。これが歴史の実際である。中世から近世、近世から現代への過程は、この事象の強化史である。

 そういう状況下であるからして、日本人を含む儒教的東洋人が学問する場合、「政治と経済と学問と文化の虚学体系」を正学とみなして洗脳されるのも致し方ない面もある。しかし、この虚学体系は、「世のため人の為に成る正学」を抑圧した上に成り立っているので、学べば学ぶほど「世の為人の為」にならないようになっている。我々の体で云えば、身体機能が助け合いネットワークしているのに、その理法に反して抑圧と対立と分裂を強いている。現代のストレス病のその多くは、この虚学体系が生み出しているように思える。

 我々が、そういう虚学を受け入れて、現代パリサイ派に奉仕してみても、使い捨てにされるまでの間を栄耀栄華されるだけでしかない。権力者はそういう空虚の基盤の上に成立している。俗に云う、飼い殺し状態にある。これを長年煩うとどうなるかである。漸く結論に辿り着いた。そういう訳で、「議事堂やテレビで自称知識人の阿呆さ加減」を目にするようになるという仕掛けである。これにつき、後日もっと論証していくことにする。

 れんだいこは、幕末維新、明治維新の検証過程で、ネオ・シオニズム学の導入時の様子を示す情報を得た。まだ論としては纏めていないが、資料的に「フリーメーソン日本史」、「グラバー考」、「フルベッキ考」に記した。それによれば、明治維新政府が文明開化の名の下で進めた教育、研究機関のその大元の枠組が、フリーメーソン系お雇い外国人によって造られたということを知った。つまり、この時よりネオ・シオニズム虚学が学問的権威で押し付けられ、これに疑問を湧かさず学び得た者が優秀者とのお墨付きを得たというだけの話である。無能学者の原点がここにある。

 ネオ・シオニズム虚学は一見精緻に見えるが、共生志向できないという点でそもそも学問の根本が狂っている。それと、そういう訳で本音と建前の二艘建てにしており、一般には建前の方のみ学ばされるので、実践的に役立たない。故に、学べば学ぶほど陳腐な且つ本来の学問に値しない偏狭な知識を植えつけられるに過ぎず、要するに馬鹿になる。「人は、学んでなぜ馬鹿になるのか」の理由がここにある。れんだいこが、マルクス主義からの出藍を決意した理由もここにある。

 学問の構図がかく見えてきた。そうと判れば解決法も容易い。我々は、根本に立ち戻って学問を東洋的正学に転回せねばならない。西欧的にはイエス学の地平で学問し直さねばならない。パリサイ派に汚染されない前のエジプト、バビロニア、ギリシャ、ローマ学、イソップ童話、各国の伝統的古典を識別し、これらを学問せねばならない。そして融合せねばならない。パリサイ派学問を駆逐し、真の意味での正学を再興せねばならない。そういう意味で夜明け前である。

 以上、れんだいこの現時点での認識の到達段階を記しておく。

 2007.3.22日、2007.4.24日再編集 れんだいこ拝

市会議員選挙に立候補して 松本哲 2007/04/25 06:56
 お久しぶり。れんだいこさん。準備不足と公選法を気にしすぎて予想通り完敗、惨敗しました。しかし、とてもいい経験でした。参謀としてれんだいこさんに相談しなかったのが一番間違いだったように感じます。とにかく今の政治・経済状況は最悪だと思っています。それが立候補した理由でした。簡単ですが近況の報告です。

Re:市会議員選挙に立候補して れんだいこ 2007/04/25 10:16
 松本哲さんちわぁ。そうですか、市議選に立候補していたのですか。それならそれで応援の仕方があったなぁ。選挙は合法的なお祭りです。目いっぱい楽しく辻説法しながら練り歩きするのが良いと思います。次の機会を狙いませう。公明党戦略を見習えば落選はいけません。目指すは全員当選です。戸田さんはトップ当選でしたねぇ。杉並区議選も注目でしたねぇ。至る所で義士が登場せねばなりません。この自明のことがこれまでできていなかった。気がつけば半ば解決したも同然です。がんばりませう。

> お久しぶり。れんだいこさん。準備不足と公選法を気にしすぎて予想通り完敗、惨敗しました。しかし、とてもいい経験でした。参謀としてれんだいこさんに相談しなかったのが一番間違いだったように感じます。とにかく今の政治・経済状況は最悪だと思っています。それが立候補した理由でした。簡単ですが近況の報告です。

やっと唯物史観が古いことに気が付いた日本人⇒だが、もう遅い! kaisetsu 2007/04/30 14:54
 海舌
2007.04.30 Monday
やっと唯物史観が古いことに気が付いた日本人⇒だが、もう遅い!
(一部抜粋)
「れんだいこ」氏に言いたい。あなた方は、過去に、多くの粛清をした。思想の浄化である。その大きなポイントの一つが、「神」の存在の否定である。あなた方は、神の存在を肯定するものを侮り、批判し、血を流しても粛清した事実、歴史が在る。
これに、頬かむり出来るのか。それが、あなたたちの思想か?
「神」は、あなたがたの人生を全て見ている。
自分で勝手な誤解と妄想の中に居るのは自由だが、「神」を否定し、「神」を冒涜し、「神」を排斥したマルキストが、どのような「出獄」経路を辿って、「神」に接しようとするのか、教えて頂きたい。神を冒涜した穢れた手で、そのまま、神の身肌に触れるのか?!これを許す神の宗派は存在しないだろう。特に、シオンは、決して許さないであろう!

Re:やっと唯物史観が古いことに気が付いた日本人⇒だが、もう遅い! れんだいこ 2007/04/30 17:36
 kaisetsuさんちわぁ。えらく詰問調ですが、あなたの云う神とは何を指しているのですか。どういう存在なのですか。そこを明らかにしてくれないと話がかみ合わなくなります。具体的に述べてください。そうすれば、れんだいこの見解がたちどころに対置されるでせう。

> これを許す神の宗派は存在しないだろう。特に、シオンは、決して許さないであろう!

 これはどういう意味ですか。「シオンは、決して許さないであろう!」は、主体シオンが、マルキストを許さないという意味ですか。マルキストもシオンも客体にされており共に許されないという意味ですか。日本語は解釈上曖昧になることがあり困ります。ここをはっきりしないと意味の通じないやり取りになりますので、ご説明ください。長くても構わないです。

御返信感謝⇒詰問調⇒御詫び⇒具体化 kaisetsu 2007/04/30 23:59
 れんだいこ様 こんばんは。御返信、感謝しています。詰問調に見えましたら、御勘弁ください。端的に書いたつもりです。他意は御座いません。さて、

>あなたの云う神とは何を指しているのですか。どういう存在なのですか。そこを明らかにしてくれないと話がかみ合わなくなります。
端的に言えば、近代経済学で言う「神の見えざる手」の「神」です。これが比喩であるとか、マルクスの書物が聖書に似ているとか、いないとか、そういう類のことは越えて、合理性の基礎の問題です。さらに、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったという意味の「神」です。
EUが憲法草案で、入れるかどうか、議論して保留している「神」です。
参照
欧州憲法の概要
(この掲示板の性質からアドレスを示せません。)
なお、起草過程では、「神」について言及するかどうかについて激しい議論が交わされたが、参加者全体の合意が得られず、前文内に盛り込むことは見送られた。

> これを許す神の宗派は存在しないだろう。特に、シオンは、決して許さないであろう!
この文は、確かに補充が必要だったかと思います。まず、前提ですが、マルキストは、上記の「神」を否定している、という海舌の考えがあります。ですから、この海舌の考えの前提が覆されるか、否かは、一つの論点です。
次に、シオンですが、これも、少し、補足します。シオンの議定書の中身の議論をすることは、このような掲示板では不向きと思います。海舌も、この内容については長年、興味を抱いています。また、シオンという名前の持つ意味についても、幾つか考えるべきものがあると思いますが、これも、今回の問題とは次元が異なります。
此処で言う「シオン」とは、この問題の本質である「神」の問題から、宗教的な性質を持つ一派・団体・民族・地域・連合等を具体的には指したつもりです。
特に、とは、シオンという言葉を持つ『宗教的な性質を持つ一派・団体・民族・地域・連合等』は、特に、「神」への忠誠に厚いと言う海舌の仮説があります。仮説ですから、「・・・であろう!」と書いています。
主体シオンが、マルキストを許さないという意味です。

Re:御返信感謝⇒詰問調⇒御詫び⇒具体化 れんだいこ 2007/05/01 11:51
 海舌さんちわぁ。未だおぼろげながら何事か判りました。有難うございます。「神」概念についてですが、この種の議論の場合、東洋ないし日本的な神概念と西欧式の神概念を識別していないと足元が狂うと見ております。

> なお、起草過程では、「神」について言及するかどうかについて激しい議論が交わされたが、参加者全体の合意が得られず、前文内に盛り込むことは見送られた。

 議論内容が判りませんのでコメントしにくいのですが、れんだいこ理解によれば、西欧史に於いては絶対神が宗教権力も政治権力も握り、体制化していた時期があります。根底では今もそうなのかも知れません。ユダヤ教とキリスト教、イエス教の神概念はほぼ一致しており、但しその信仰の在り方に於いて鋭く対立しています。時に全く正反対の立場を示すこともあります。いずれにせよ、三者ともすごくロゴス的ですから、そういう事が起こるのだと考えます。

 「激しい議論が交わされたが、参加者全体の合意が得られず、前文内に盛り込むことは見送られた」のには、そういう背景があるのではないかと考えます。議論の中身がわかりませんので、これ以上のことは云えません。

 れんだいこが思うのに、日本的宗教観のままに、西欧式宗教を理解しようとすると要領を得ない。結果的にまるでちんぷんかんぷんになると考えております。我々日本人の場合、神は、仮に同じような創造神であっても、八百万の神々であり、森羅万象に宿る神々であり、それが仏教的教説と混交しており、これを全体としてロゴス化するのは困難な神々です。その限りでアバウトだと考えます。

 この場合、れんだいこは、西欧式なロゴス化し得る一神教的神概念の方が優れており、日本式な情緒的な多神教的神概念の方が未成熟という風には考えません。せいぜいどっちもどっと考えております。要は、そういう信仰に基づいて、どういう世界観、社会観、秩序観、処世観を生み出し、どういう役割を果たしているのかをこそ精査せねばならないと考えております。どちらにも良し悪しあるので、結論的には、文明、真理、価値観の差を認め、共生していくべきではないかと考えております。

 元々問いが要領を得ませんので、これぐらいしか云えません。れんだいこの以上の指摘がどういう意味で役立つのかと云うと、政教分離という場合の日本での理解はずっこけており、西欧式なそれの機械的適用で全く役に立たないというか無意味有害であることを得心できることにあります。例えば、地鎮祭の時の神式祭事を違憲として争った事例がありますが、伝統的神式行事を、西欧的な政教分離観で訴えただけの、本来の意味とは何の関係もない裁判であるという事がわかって参ります。政教分離論からする公明党違憲論も然りです。西欧で白熱している政教分離とは何の関係もない地平で、日本式政教分離が云われており、全く非生産的なやり取りが為されているように考えております。

 話がどんどん拡散するのでこれで止めます。
 
> > これを許す神の宗派は存在しないだろう。特に、シオンは、決して許さないであろう!
> この文は、確かに補充が必要だったかと思います。まず、前提ですが、マルキストは、上記の「神」を否定している、という海舌の考えがあります。ですから、この海舌の考えの前提が覆されるか、否かは、一つの論点です。

 マルクスの宗教批判は、西欧的神概念、それに基づく社会体制に対する批判から生まれているものです。フォイエルバッハの論考を通じて獲得されましたが、絶対創造神の御前に跪く信仰の不毛を衝き、人間こそが主体であり、その人間が神を創造したとする反転理論になっております。れんだいこは、この理論的功績は大きいと受け止めております。但し、それは、かって存在した西欧的政教一致体制に対する批判として受け取らねばならないと考えております。フォイエルバッハ−マルクスの宗教批判は、政教分離させる為に必要となった政治理論であり、このことを踏まえない単なる宗教否定理論ではないと考えております。

 本来のマルクス主義の宗教理論は、各自の信仰の自由は認めつつというかそれは勝手で、それを政治権力化させない為のものであり、それ以上出過ぎて宗教根絶を目指すのはいかがなものかなと考えております。結論として、マルクス主義の宗教論は、政治権力化する神を否定しつつ宗教を個人の内面域まで引き下げる為のものであり、教会を破壊する類のものではないと考えております。史実は不幸にもそのようにはならなかったのですが、それは別の邪悪な論理が忍び寄ったせいだと考えております。

> 特に、とは、シオンという言葉を持つ『宗教的な性質を持つ一派・団体・民族・地域・連合等』は、特に、「神」への忠誠に厚いと言う海舌の仮説があります。仮説ですから、「・・・であろう!」と書いています。
> 主体シオンが、マルキストを許さないという意味です。

 「主体シオンが、マルキストを許さない」とする考えは、シオンが逆にそれほどに政教一致を望んでいることを証していると考えます。この場合のシオンを、れんだいこ流にネオ・シオニズムと考えると、連中の社会観は狂信的です。連中は、キリスト教的政教一致体制を批判して出現しましたが、何のことはないユダヤ教的政教一致体制を据えようとしているに過ぎない。それは何の解決にもならず、ユダヤ教的タルムード的教説の恐ろしさを踏まえれば、世の中をもっと悪くすると考えております。

 「主体シオンが、マルキストを許さない」は、マルクス主義の史実的暴力性を批判しながら新たな暴力を敷く道になりそうです。我々は、西欧的な際限のない闘争主義の歴史的宿縁を見抜き、怖い神ではなく慈愛の神々を抱き共生するべきと考えます。「初めにロゴス有り」ではなく、「初めに諸人の営みあり」から次第に理を生む考えの方が自然でまともではないかと考えます。いずれにせよ、東洋的日本的神概念と西欧的神概念との相似と異質性を確認するところから始めないと論が生産的にならないと考えます。思いつくまま記してみました。

 2007.5.1日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評285 れんだいこ 2007/05/02 17:57
 【れんだいこの戦後憲法プレ社会主義法論】

 明日5.3日は憲法記念日である。この日に際してれんだいこの観点を世にあらためて問いたくなったので披瀝しておく。現在、小泉-安倍と続く極悪戦後タカ派系の策動により憲法改正が政治日程化している。風雲急なりの感がある。戦後左派運動は、その面子にかけてこれを阻止せんとしている。れんだいこは思う。それは良かろう。問題は、どういう理論的構成で護憲せんとしているのかにある。

 れんだいこの青年時代の左派理論に拠れば、戦後憲法はブルジョア法であり、いずれ革命的に改変されねばならないものであった。ならば、今なぜ護憲せんとするのか。これを整合せねばならない。改悪ゆえにか。然り、然りではある。しかし、それだけでは防御運動にしかならないのではなかろうか。れんだいこは、その姿勢では勝てないと思う。攻めて守ることこそ上策ではなかろうか。そこで考案したのが、「戦後日本国憲法は実はプレ社会主義法であった論」である。これは大いに検討されるに値すると自讃している。

 この観点は、中山みき研究、田中角栄研究、日本左派運動研究、日本神話研究の成果である。れんだいこの見立てるところ、戦後左派運動は本来、日本国憲法を史上稀なるプレ社会主義法と分別し、下手な革命論弄ぶよりあらゆる戦線に於いてその実質化運動に取り組むべきであった。そう見立てる理論的水準を獲得すべきであった。それが出来なかった。実際にはブルジョア法と見なし、その反動的本質を引き出すことに意味を持たせた。故に、擁護よりは粉砕を、評価よりは本質を見誤るななどと饒舌してきた。全ての党派がそう位置づけたかどうかまでは判らないが、少なくともプレ社会主義憲法と見立て、その積極擁護を担う党派がいなかったことだけは確かである。

 社共は護憲運動に取り組んだ。しかし、彼らの護憲運動もヌエ的なものでしかない。というのは、戦後憲法をブルジョア法と見なした上で、当面ブルジョア民主主義革命を目指すのだからして齟齬しない、その限りにおいて護憲するという消極的な護憲運動でしかなかった。実際には、革命論と離れた地平での反戦平和運動があり、これに依拠しての護憲運動であったようにも思われるが、革命理論上はそうなる。それにしても、戦後反戦平和運動の砦たる原水禁運動の不幸な分裂は許し難い。

 しかし、そういう捉え方では革命的護憲運動にはならない。真に望まれているのは、戦後憲法秩序をプレ社会主義と見なし、その受肉化を押し進め、更に社会主義法へと出藍させていく運動ではなかったか。プレ社会主義法と社会主義法の違いはどこにあるか、これも興味深いテーマではあるが、ここでは問わない。しかし、なぜこう説く党派がいなかったのだろう、解せないことである。

 こう捉えることにより、小泉-安倍政権の憲法改正に抗することができるのではなかろうか。小泉-安倍政権に典型的なことは、戦前タカ派とは一味違い、現代世界を牛耳る国際金融資本ネオ・シオニズムに丸ごと身売りしていることにある。先ほどの安倍ブッシュ会談の卑屈さを身よ。「アジアで傲慢、西欧に平身低頭」を又もや見せつけられた。今、ネオ・シオニズム派は、日本の資金と自衛隊を世界各地の紛争戦争地域へ注ぎ込もうとしている。その為には障害になる憲法を改正するよう指図している。この要請を受けて遮二無二憲法改正に向かっているのが舞台事情である。これが戦後タカ派の正体であり、愛国を唱えてみてもイチジクの派に過ぎない。

 小泉-安倍政権は、戦後秩序の中に痕跡する社会主義的要素を最後的に丸ごと改変せんとしている。その上で、企業も国家も外資に丸投げせんとしている。売国奴そのものである。ロッキード事件以降、角栄-大平連合が掣肘されて以来、こういう御仁が日本政界の上層部を占めるようになった。先ほど来日し老醜を露にしたキッシンジャー戦略の賜物である。これを誉めそやすマスコミもお先棒担ぎである。

 彼らは、戦後憲法の指し示す歴史的教訓に違背して、内治より外治を優先し、「アジアに傲慢、米英ユに卑屈」なる姿勢で、軍事防衛傾斜、公共事業抑制、優良企業乗っ取り促進、巨額な郵貯の引き出し、格差社会創出、教育政策の破壊、著作権万能等々に精出している。そういう意味での構造改革を目指しているが、それらは全て戦後のプレ社会秩序の破壊によるネオ・シオニズム奴隷国家化であり、一言で言えば反革命反動路線である。

 よって、我々が護憲せんとするのは、プレ社会主義の橋頭堡の擁護であり、改めての受肉化であり、この線よりの後退は許さないとする社会主義的精神によって為すべきではないのか。物事はかく判り易く打ち出すべきである。れんだいこ党は、護憲をかく理論付けし、その擁護に向かう。それにしてもそうなると、戦後左派運動の大いなる虚妄が見えてくることになる。

 れんだいこの「戦後民主主義」賛辞考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/sengodemocracyco_sanbico.htm

 2007.5.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評286 れんだいこ 2007/05/04 13:13
 【れんだいこ史観の評について】

 いわゆるれんだいこ史観に対して、「この人の立場は右派か左派か分からん」という評が披瀝されている。れんだいこはかく返答したい。右翼左翼規定は元々フランス革命の国民議会の席次に由来しているに過ぎず、政治理論的にさほど意味のあるものではないので、れんだいこが捉われる必要はないのだが、マルクス主義を踏まえて、その限界を突破しようとしていることは確かである。

 この姿勢に対して、それを右翼的と云うのなら云うに任せるしかない。どうせ相手も何をもって右翼、左翼としているのかわかりゃしないのだから。しかし、逆に問いたい。既成の理論を完結系とみなしてその墨守に拘泥するのを保守的というのではないのかな。特に昨今のマルクス主義派の閉塞を思う時、この情況で思想的営為を放棄する者は、むしろ反動とでも呼ばれて然るべきではないかな。スタンスに安座してのうのうと「一見正論」を唱える者の精神こそ安逸過ぎるのではないかな。

 れんだいこに対して、「この人の立場は右派か左派か分からん」という評を為す者の政治的姿勢と立場こそ逆詮索されねばならない。恐らく、現代パリサイ派のネオ・シオ二ズムが、凡愚に分かり易く図式主義、公式主義化したウヨサヨ観に浸りきり、図式と公式から抜け出る者にレッテル貼りして楽しむ下賎の徒輩ではなかろうか。今やこういう手合いが多過ぎる。この情況にしてこうであれば、彼はいつ図式主義、公式主義、レッテル主義に疑問を持つ日を迎えるのだろうか。意味のないことではあるが、そういう興味を持つ。

 例えば、冬山遭難事例で検証すればよい。困惑と疲労の次に不安と飢えと睡魔がやってくる。この時、困惑を覚えず睡魔も気にせずの遭難者がいたとしたら、よほど豪傑と云うべきだろう。やがて凍死するが、当人の意思によってそうなったのならともかくも、意思に反して凍死したとするなら誉められることだろうか。この時、他の遭難仲間が声を掛け合い身を擦り合って睡魔と闘っている時に、情況打開せんとしている時に、一人率先して睡魔を従順に受け入れている者が、仲間を揶揄するほど呑気過ぎる事はない。要するに、失礼な痴呆でしかない。

 この事例で云えば、れんだいこは、遭難したことをいち早く警鐘していることになる。それもお騒がせによってそうしているのではなく、充分な根拠を持って告げていることになる。早く知れば的確な対応により脱出も可能であろう。れんだいこは、そういう役割を果たしていると自負している。実際には、仲間が次々と睡魔にやられている情況に於いてではあるけれども。しかし、まだ自力救済の道が残っている以上奮戦せねばならないのではないかと訴えている。ドン・キホーテであろうとも。

 もとへ。れんだいこにもやがて睡魔ならぬ病魔がやってくる。その時までの後僅かな命火を燃やし続けているということになる。それはもはや、情況をどうこうしようというほどの熱意によってではない。青春時代に関わって以来の難問パズルを解くノスタルジアに浸っているだけかも知れない。しかし、それでも良いではないか。しないよりは。

 これがれんだいこの立場である。そのれんだいこに対して、「この人の立場は右派か左派か分からん」なる評は、何と遠いところからの罵辞であることか。話が通じない御仁ではある。興味深いことに、そう痛辞する者の共通項として、ホロコースト、南京大虐殺、百人斬り事件、シオン長老の議定書、アンネの日記に対する通説の狂気的是認が認められるようである。彼らは器用に口を回す。例えば、シオン長老の議定書は偽書である云々、アンネの日記は実書である云々。口がもつれないことだわ。

 何のことはないネオ・シオニスト教本の心身奴隷であることが透けて見えてくるだけの話である。れんだいこが相手するには及ばない。だがしかし、降りかかる火の粉は時に払わねばならない。

 2007.5.4日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評287 れんだいこ 2007/05/05 20:09
【「富田メモ」が語るもの考】

 2007.4.30日、日本経済新聞社は、故富田朝彦・第三代宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)についての調査報告を発表した。昨年10月、社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」を設置し、御厨貴氏(東大教授)、秦郁彦氏(現代史家)、保阪正康氏(作家)、熊田淳美氏(元国立国会図書館副館長)、安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)が計11回の会合を重ね、この日最終報告をまとめた。

 報告は、「富田メモ」が、「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」 と評価した。「富田メモ」が史料として重要なのは、昭和天皇の最晩年の生の声が記録されていることにある。二人のやりとりの様子は、富田氏が事前に項目を個条書きにしたメモを用意し、言上に臨む。富田氏の説明に対し天皇が幾つか質問や感想を口にし、富田氏が答える。時に、天皇が、言上と直接かかわりのないことを語り出す。このやり取りがメモされているところに「富田メモ」の特徴が認められる。 天皇とのやりとりをすぐに要点メモし、時間をおかずに庁内の自室で整理した可能性が高い。言葉は肉声そのままに近い形で記録されているとみられ、昭和天皇の言葉遣いを研究するうえでも貴重である。

 昨年7月、同社が報じたA級戦犯靖国合祀に不快感を示した昭和天皇の発言について更に精査したところ新たに、1988.5.20日付けの「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」と述べたことを伝える新たな走り書きが見つかった。同年4.28日付けの「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた時点より3週間後の発言であり、不快感が裏付けられた。「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との見解を打ち出した。 

 委員会は、靖国神社に絡む記述をすべて抽出し分析した。その結果、靖国神社がA級戦犯14名を合祀した1978(昭和53).10月、富田氏はすでに長官に就任していたが、当時の日記には合祀を巡る記述はなかった。又、合祀が報道された1979.4.19日、故入江相政元侍従長の日記には、「朝刊に靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになつちまふ」とあるが、富田氏はこの時期も「靖国」に言及していない。

 昭和 天皇は、「松平(永芳)宮司になって 参拝をやめた」と話しており、4月のメモでも述べていた「松岡(洋右元外相)」、「白取(白鳥敏夫元駐イタリア大使)」 の名を5.20日にも繰り返している。日独同盟を推進した松岡、白鳥に対する嫌悪が強いことが確認された。

 1988.5月、富田氏が、後任の長官に藤森昭一宮内庁次長(当時)が決まったことを報告した際、昭和天皇が、「後任に政治家でも来てはと思ったが」と話している記述もあった。富田氏の後に政治家が起用されるのではないかと、天皇が心配していたことがうかがえる(1988.520日)。

 メモは、昭和天皇が、政治、経済、国際情勢などを常に気にかけ、宮内庁側も最新の情報を提供するよう配慮していたことが記されている。進講者を何度も驚かせた政治、経済、社会に対する幅広い知識、関心や記憶力が、最晩年まで衰えなかったことも裏付けられた。晩年、中曽根元首相との関わりが以上に深い様子も明らかにされた。

 他にも、浩宮(現皇太子)の結婚に強い関心を見せており、繰り返し報告を求めたり予算面での心配まで口にしたりした(1988.1.26日、3.29日など)。また、1971年の訪欧や1921(大正10)年の皇太子時代の訪欧のエピソードを語る語り口からは、2つの旅行が生涯を通じた楽しい思い出だったことが窺えた(1988.5.11日など)。

 宮内庁には行政官庁としての「オモテ」と、侍従ら側近の「オク」という二重構造がある。「入江日記」だけでなく、昭和天皇の晩年まで仕えた徳川義寛元侍従長、卜部亮吾侍従の日記は「オク」の記録になる。これに対し、富田メモにはオクとは異なるオモテの職務や天皇との距離感、一般公務員とは異質の宮内官の職務の特徴が刻まれている。特に、1987(昭和62年)1月から1988.6月の退任までの詳細な公務の記録を遺している。

 初代の田島道治氏の日記・手紙類は一部公表されている。25年間にわたり長官の職にあった第二代の宇佐美毅氏の記録類は、明らかになっていない。富田氏は、皇室と無縁の警察官僚から宮内庁に転じ、天皇が高齢に向かう昭和50年代以降、宮内官トップの職務のあり方を模索し続けた。

 当時、中曽根内閣の官房長官だった故後藤田正晴氏は富田氏の警察庁時代の先輩で親しかったこともあり、特に頻繁に連絡を取り合っていたことが判明した。天皇の開腹手術の方針が決まった後、1987.9.18日、富田氏は、後藤田氏に会い、天皇の病気の様子と、それに伴って派生する沖縄訪問中止、皇太子による天皇の公務(国事行為)の臨時代行、皇太子夫妻の訪米や宜仁親王独立問題の扱い、マスコミ対応など、対処すべき案件を相談している。後藤田氏とは二日後の9.20日に再度会い、中曽根首相からの指示を受けている。後藤田氏は、1987.11月の竹下内閣発足で官房長官を退くが、富田氏はその後もしばしば相談に訪ねている。二人の関係を抜きに、この時期の宮内庁は語れない。

 宮内庁長官の職務の幅の広さは、メモの随所にうかがえる。1987.8.10日には、岸信介元首相の通夜に侍従を遣わす際の天皇のお言葉から、天皇の「思し召し」にあった「安保改定」の語句が削られた経緯が簡潔に書かれている。

 以上が、れんだいこが纏めた「日経『富田メモ』報告概要」であるが、昭和天皇の「個性」が革めて浮き彫りになった。れんだいこ解析によると、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争に於いてタカ派と親疎しており、特に中曽根との繋がりが深いことが判明する。逆に言えば、田中角栄を嫌っており、内奏が少なかった。象徴天皇制規定にも拘らず、戦後もかなり政治的発言をされている様子が判明している。昭和天皇の政治的立ち回りについては今後も検証していきたい。

 最後に。近代天皇制の明治、大正、昭和、平成の4代に於いて、明治天皇、昭和天皇を好評価し、大正天皇を脳病視するのが通説であるが、れんだいこはこの説を採らない。案外と大正天皇こそが象徴天皇制のイデーに近く、英明であった。「大正天皇の脳病」は、「大正天皇押し込め」の為に拵えられた作為であり、実は、日本帝国主義の外治的戦争政策に棹差し続けたため幽閉されたとみなしている。それにしても、天皇を押し込めるとは「とんだ度胸」である。天皇制護持派の心根の本性が透けてみよてこよう。この大正天皇に対してウヨもサヨも語らないのは奇妙な一致である。

 あれこれ思えば、日本学問界の水準は決して高くない。虚学に染まっており役に立たない。資料的価値を見出すに限られる。下手な断定なぞ聞きとうない。資料は極力公開されるに限る。判断はこちらでやるから。著作権閉塞だけはよしてくれ。

 2007.5.5日 れんだいこ

Re:れんだいこのカンテラ時評286 れんだいこ 2007/05/06 20:48
 こげぱんさんちわぁ。パリサイ派の歴史は、それはそれは長い伝統があり、イエスが実在の人だったとしたら、果敢に立ち向かった事跡が遺されています。れんだいこは、イエス伝で、各福音書を整理して「イエスとパリサイ派の究極問答」として纏め、その問答に注目しております。考えてみれば、我々の知識とか規範には二股の道があり、これはかなり難しい問題であり、古来よりどちらを採るかの闘争がおこなわれているのではないでせうか。

 パリサイ派の戦略をヤマタノオロチに例えるのは面白いですね。但し、れんだいこの日本神話観によると、退治されたヤマタノオロチは元出雲の在地の豪族であり、スサノオの命の手柄を鵜呑みにできません。桃太郎の鬼退治譚もそうです。よって少々例えが悪いと云う気がします。しかし、面白い例えであり発想ですね。

> このような環境では、従来の右左区分はあまり意味なさげで、個人的には政治家や思想、経済政策などの良し悪しはむしろ土着のにおいがするとか、(ソルジェニーツインのように左右等しく批判しているなど)従来の右左とは一線を画しているなどの点を吟味して、個々に判断したほうがヤマタノオロチ戦略にひっかからない可能性が幾分なりとも低くなるような気がします。

 それはそうですね。とにかく既成の歴史書で観点までそのまま受け入れられるような出来のものは滅多にありません。手探りで、個々に判断していった方が正確なように思います。事象や人物なぞ、世上で言われているのと全く逆の事例も多いです。気をつけないといけませんね。れんだいこはそう思います。

> そういえば三島由紀夫は生前左翼に向かって「諸君が天皇に言及さえしなければ、諸君と連帯できるのに」と言ったとか。昔石原慎太郎の大ファンだったころにこの言葉を聞いていたら「何やこいつ」としか思わなかったでしょうが、ネットウヨからへタレウヨに堕落してしまった今となっては、なんとなくわかるような気がします。

 れんだいこは、三島由紀夫の陽明学シンパシーには共鳴できますが、天皇制観とか歴史観では見解が齟齬します。それはともかく、こげぱんさんがへタレウヨなどと自称しないでください。れんだいこを評価してくれる数少ない方です。ありがたく思っております。どうしても云うなら聞き分け右翼ぐらいにしてください。

Re:れんだいこのカンテラ時評288 れんだいこ 2007/05/06 21:03
 【子供では分からない政治の捩れ考】

 世に、「年の功」という言葉がある。年寄りの経験的智恵を賛じて云うものであるが、この言葉には一理ある。ならば「研究の功」というものもあるのではなかろうかと思うが、地動説なぞその典型だろうにこういう諺はない。れんだいこが、なぜこう述べるのか。それは、政治に於ける捩(ねじ)れについて言及する際の伏線になるからである。

 政治は、人間の諸営為の中でもかなり高級な活動と思われるが、それ故に複雑怪奇にもなり易い。決して単純な方程式では解けない。故に素人では分かりづらいことがある。どういうことかと云うと、政治的見識やその人の政治的立場が通用していても、彼の実際の働きが肩書き通りではない場合があるということである。ここのところが、子供では決して分からない。大人でも分かっていない事が多い。

 これを事例で説明してみる。日本共産党と云う党名の指導者を想定する。日本共産党は他のどの政党より人民大衆の救済を呼号している政党であるからして、そういう党の指導者は当然ながらそういう党の理念を体現していると思われがちである。そういう訳で、その党名に相応しい指導者であると受け取るのが先入観になる。事実、至ろうが至るまいがそういう指導者の方が普通ではある。

 ところが実際には、日共の場合のように、1955年の6全協での宮廷クーデター以来、野坂−宮顕−不破等々共産党的活動を内部規制するために指導部の座イスに坐り続けているという異例がある。つまり、彼らは、口先はともかくも肩書きとは逆の働きをする為に精出している。しかし、さもらしく振舞うので、その正体は容易には見抜かれない。故に、多くの者は、「現代のマルクス」などと歯の浮くような追従をし続けている。

 他方、逆の事例もある。時の権力者というのは体制側の代表であり、当然体制的利益を優先し、庶民大衆には抑圧政治をもってすると受け取るのが常識である。ところが、田中角栄と云う人物がいる。彼は、戦後の政権与党自民党内で頭角を現し、裸一貫からの成り上がりでとうとう首相の座を射止めた。その彼の政治活動を見ると、政治活動上に於いて必要であった金権的体質はさておいたとすれば、全てと云うわけではないがかなりな程度に於いて前人未到の在地型社会主義的とも云える活動履歴を遺している。これは、池田隼人−大平正芳−鈴木善幸ラインにも認められる。政治史上極めて珍しいが、こういうことがほんの時にある。

 しかし、こうなると、本質体制派の人間が左翼に仮面して潜り込み党中央を壟断し、本質左翼の人間が権力派に仮面して潜り込み首相職を務めるという変態が発生していることになる。1960年代から70年代までの戦後日本の高度経済成長期の間、本質権力派が左翼仮面で左翼ぶり、本質左翼が体制派仮面で体制派ぶるというややこしい構図の中で、政治闘争が展開していたことになる。今から思えば、不思議な現象が起きていたことになる。

 口先とか字面とか肩書きに縛られ、時の通念常識に拘り過ぎると、このことが分からなくなる。世の中は概ね、このことが分からないままに政争が繰り返されている。当然、茶番劇だろうが、ひょっとして神々の悪戯かも知れない。その茶番劇に口角泡を飛ばす勢いで常識的に政治を語る者に出くわすと、れんだいこは極力30分をたたぬうちに逃げ出す。だって話が通じないんだもん。

 これを政治の捩れと云う。「子供では決して分からない大人の世界の政治の捩れ」である。世の中こういうことがままあるのだ。このことが云いたかった。

 2007.5.6日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評289 れんだいこ 2007/05/11 21:08
 【日本歯科医師連盟1億円政治献金事件、村岡兼造元官房長官二審判決考】

「村岡裁判」は今後案外重大な意味を持つ事件になる可能性があるので確認しておく。

 2007.5.10日、 日本歯科医師連盟(日歯連)側から自民党旧橋本派への1億円ヤミ献金事件で、政治資金規正法違反(政治資金収支報告書の不記載)の罪に問われ、2006.3月の1審・東京地裁で無罪判決(求刑・禁固1年)を受けた村岡兼造元官房長官(75)の控訴審判決が東京高裁(102号室)であった。

争点は、検察側が立証の柱にする平成研の滝川俊行元会計責任者(58)(有罪確定)証言の信用性である。1審判決は証言の信用性を否定した。高裁の判断が注目されていたが須田賢裁判長は、無罪とした1審判決を破棄し、村岡元長官に禁固10か月、執行猶予3年の逆転有罪判決を言い渡した。国会議員経験者が2審で逆転有罪判決を受けるのは、リクルート事件で受託収賄罪に問われた藤波孝生元官房長官(74)に対する1997年の東京高裁判決(最高裁で確定)以来10年ぶりである。

 「日本歯科医師連盟(日歯連)事件」とは、2004.2月、東京地検特捜部が強制捜査に乗り出し、1・自民党旧橋本派への1億円裏献金事件。2・診療報酬を決める中央社会保険医療協議会を舞台にした贈収賄事件。3・日本歯科医師会長選に絡む日歯連幹部らの業務上横領事件。4・日歯連の支援を受けた自民党元衆院議員による公職選挙法違反事件などを摘発した一連の事件を云う。日歯連幹部、元社会保険庁長官、元連合副会長、元自民党衆院議員ら16名が起訴され、村岡兼造元官房長官以外の有罪が確定している。

 このうち1の「自民党旧橋本派への1億円裏献金事件」が「村岡裁判」となる。起訴状(検察論告)によると、2001(平成13).7月、橋本龍太郎元首相が、東京都港区内の料亭で、日本歯科医師連盟(日歯連)側から直接、小切手で受け取った。料亭には野中広務元幹事長、青木幹雄参院議員会長も同席していた。

 滝川元責任者は東京地検特捜部が強制捜査の当初は否定していたが、取調べの際に次のように証言するに至った。検察側はこの証言を立証の柱に求刑した。


 概要「2002.3.13日、橋本派の政治団体「平成研究会」(平成研)幹部会の席上、当時入院していた橋本元首相に代わり、会長代理だった村村岡被告が1億円の献金について、政治資金収支報告書の不記載と領収書の不発行を取りまとめた。これに基づき、1億円を除外した平成研の01年分の政治資金収支報告書を総務相に提出した」。

 1審判決は、この日は参議院の散会が遅れ、幹部会の開始が通常よりも20分ずれ込んだのに、滝川元責任者がこの点に言及していないことなどを指摘して、「証言は信用できない」と結論付けた。その上で、「橋本元首相らに累が及ぶのを避けるために虚偽の証言をした可能性もある」と推論していた。つまり、「何か裏がありそう」と嗅覚し、疑わしきは罰せずとした。

 検察側は控訴審で、参議院の散会時間が遅れることは、ほかの日にもあったことなどを立証した。一方、弁護側は「無罪判決に影響を及ぼすような新たな立証ではない」と反論していた。東京高裁の須田賢裁判長は、滝川証言について、1・客観的な事実経過に照らして自然、合理的で、根幹部分は一貫している。2・橋本龍太郎元首相の秘書供述ともよく符合しており「極めて信用性が高い」と認定した。この判断に基づき、「元長官が派閥幹部会に献金処理の対応を諮り、収支報告書への不記載を幹部会の総意として決定した」と結論付けた。

 一審判決の「橋本元首相らに累が及ぶのを避けるために虚偽の証言をした可能性もある」との推論に対しては、「誰かをかばい、ことさら派閥幹部に刑事責任を負わせる恐れの高い虚偽供述をする理由はない」と覆した。概要以上、「被告に無罪を言い渡した一審判決は事実を誤認し、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかで破棄を免れない」と判決した。

 村岡元長官の量刑理由として、「長年にわたり議員を務め、要職を歴任し、国民からの政治資金の透明性確保への強い要請に応えるべき立場にありながら、会計責任者から領収書発行要請への対応を諮問され、会長代理の立場で幹部会に諮り収支報告書への不記載を総意として決定した役割は大きく刑事責任は軽視できない」と批判しつつ「たまたま入院中の橋本元首相に代わって幹部会のまとめ役を務めたことや、30年近く国会議員として社会に大きく貢献してきたことなど汲むべき事情も或る。これらを総合考慮をし、主文の刑を定めた」と裁定した。

 豊嶋秀直・主任弁護人は、「1審とは反対に滝川証言の「高度の信用性」を認めたのは理解しかねる。真相が解明されず、表面的な証拠だけで有罪とするなら刑事裁判に悪影響を与える」とコメントした。伊藤鉄男・東京高検次席検事は、「1審判決の誤りを明確に指摘し、検察官の主張する事実を全面的に認めた極めて妥当な判決だ」とコメントした。

 判決後の会見で村岡元官房長官は、「検察に迎合した不当極まる判決。上告します」と切り出した。「最初から有罪ありきだ。これは裁判じゃない」、「こんな判決では司法への信頼を失う。良心が痛まないのか」と須田裁判長を名指しして批判も。「献金にははじめから関与しておりません。不当な判決や横暴な検察と闘います」と改めて無実を訴え、「泣き寝入りはしません」と上告を明言した。

 さて、2007.5.11日付け赤旗は、「自民旧橋本派のヤミ献金事件」(ttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-05-11/2007051115_01_0.html)と題して、佐々木議員の次のようなコメントを載せている。

 真相究明 問われる自民 佐々木議員

 村岡元官房長官の有罪判決について、日本共産党国会議員団金権・腐敗政治追及委員会の佐々木憲昭責任者(衆院議員)は十日、次のコメントを出しました。

 一億円ヤミ献金事件で、政治資金収支報告書不記載の罪に問われていた村岡元官房長官にたいして、東京高裁は有罪判決を言い渡した。日本歯科医師連盟から自民党の派閥である平成研究会に対して一億円という巨額のカネがヤミで渡されたことが、一審、二審とも認定されたことは、重要である。

 しかし、この裁判で争われたのは、献金をヤミ処理した責任が誰にあるかという点だけである。この一億円が何の目的で渡され、何に使われたのかは依然として明らかになっていない。自民党は、これまで自浄作用を果たさないばかりか、国会の場でも関係者の証人喚問を拒否するなど真相究明を妨害してきた。その責任があらためて問われる。カネの力で政治をゆがめる体質は、なんら変わっていない。

 わが党は、徹底した真相究明を求めるとともに、企業・団体献金の全面禁止、腐敗政治一掃のため、さらに力をつくしたい。(転載以上)

 れんだいこ(私論.私見) 村岡第二審判決考

 日共の佐々木憲昭衆院議員と云えば「ムネオハウス」で名を挙げた正義派であり、それも今となってはかなり問題性の有る追求の仕方であったことが露見させられているが、平気の平左で口をつむっている言論士である。その彼が又もや変調名な事を述べている。佐々木は、「日本歯科医師連盟から自民党の派閥である平成研究会に対して一億円という巨額のカネがヤミで渡されたことが、一審、二審とも認定された」と述べているが、こういう評し方は公平だろうか。

 今回の判決は、「日本歯科医師連盟から自民党の派閥である平成研究会に対して一億円という巨額のカネがヤミで渡されたことが、一審、二審とも認定された」ことにあるのではなく、村岡元官房長官が一審無罪、二審有罪の逆転判決になったことに意味がある。ここを評論しない一般評論は意図的為にするものであり公正ではなかろう。否悪質ではなかろうか。

 しかし、何ゆえに日共はこういう評をするのだろうか。この事件の特異性は、政界腐敗追及と云う大義名分に基づく証言偏重にある。一体日共はいつから、「証言偏重有罪」であろうが何であろうが正しい目的のためなら構わないとする態度を打ち出し始めたのだろうか。日共系御用法学者よ、弁じてみよ。

 ここまでなら他の論者も指摘しよう。以下、れんだいこの独壇場見解を披瀝する。

 ロッキード事件に強い関心を持つれんだいこは、この事件にも捏造の可能性を読み取る。日共の佐々木議員は頭から1億円授受を決めて掛かっているが、決め付けるにはもっと証拠を確認せねばなるまい。角栄の場合も頭から5億円授受を事実と断定され、当人が否定すればするほど怪しいとした。結果的に正しければ構わないが、当人の説の方が正しかったらどうするのか。お詫びだけでは済むまい。又器用に口チャックかよ。居直りかよ。何ら体質が変わっていないことに気づかされる。しかも強度の権力的発想であることに気づかされる。

 それともう一つ、れんだいこは、司法当局の政治腐敗摘発がこの間一貫して政府与党内ハト派系に重心を置き強権捜査していることに着目している。政府与党内ハト派系とは旧田中−大平派を云う。もとより旧田中−大平派のイデオロギーを持つ政治家は既に存在しないのだが、その系譜上の転向政治家が今でも狙い撃ちされている。捜査当局のこういう姿勢は果たして偶然だろうか。右翼テロもこの延長線上で発生しているように見える。日共もこの延長線上でことのほか言論を激しくしている気配がある。これは果たして偶然だろうか。

 この云いに納得しない人士は、ハト派とは反目の名うてのタカ派である旧福田−中曽根派系政治家の、且つネオ・シオニズム御用聞き系政治家で摘発された者が少な過ぎることを考えてみればよかろう。もっと端的に云えば、中曽根、小泉ほど叩けば埃の出る者は居ないが、同種疑惑に対して何ゆえに司直の捜査の手が掛からないのか弁じてみよ。中曽根、小泉は潔癖故か。他に理由は無いのか。要するにそういう事である。

 金権腐敗追求であろうが何であろうが、政治の場合、その政治家が司直のお縄に掛かることによる政治的影響を裏読みせねばならない。何か裏の意向が働いているのではないかと嗅覚せねばならない。政党はひとまずはその分別をした上で、裏の意図に乗っかからない形で追求するなり様子見するなりの加減をせねばなるまい。一見正義面して最も鋭く騒いでいる者が胡散臭い事例は山ほどある。こういうことを指摘してみたかった。

 2007.5.11日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評290 れんだいこ 2007/05/12 19:58
 【ブレア政権考】

 2007.5.11日、在任10年を超え戦後2番目の長期政権(1997年、43歳で英国首相に就任)となっていた英国のトニー・ブレア首相(54歳)が6.27日に退任すると発表した。昨年9月の党大会で「1年以内の退陣」を表明していた。ブレア首相はかくて任期中途での辞任表明を余儀なくされた。政権発足後に70%に達した支持率が最近は20%台に低迷しており、党内の求心力も失っていた。

 我々は、ブレア政権をどう評するべきだろうか。商業新聞は相も変わらず愚昧な社説を開陳しているのでれんだいこが急所を押さえておく。

 1994年、労働党のホープとしてブレアが党首に選ばれ、ニューレーバー(新しい労働党)を標榜し、従来の社会民主主義から市場経済を重視する「第3の道」を唱えた。親ネオ・シオニズム路線と云えるが、1997年の総選挙で地滑り的勝利を収め、18年ぶりに保守党からの政権交代を実現、2001年の総選挙でも勝利した。2005年の総選挙では議席を減らしたものの単独過半数を維持し、英労働党史上初めて3期連続で政権を担ってきた。

 こういう経緯を持つブレア政権であるが、れんだいこは、労働党政権が現代世界を牛耳る国際金融資本の走狗となり、米国ブッシュのネオ・シオニズムに同調する政策を採ったことに注目する。日本政界はこれまで、西欧流民主主義の模範としての二大政党制を「政治の鏡」としてきた。民主党の政権交代論と二大政党制論はこの延長上のものである。しかしながら、英国政治史に於いて労働党政権が保守党政権と本質的に何ら変わらない政策を採ったことに着目せねばなるまい。

 ブレア政権は、二大政党制による政権交代論が幻想に過ぎないことを証したのではなかろうか。いわゆる「保守対革新」は虚妄で、政治を政治屋によるゲーム化させるものでしかないことをあからさまにした。こうなると、二大政党制の幻想を打ち破ったことにこそ、ブレア政権の史的功績があると云うべきだろう。

 このことは、日本現代政治史に次のことを語る。民主党は現在、自民党政府に変わる政権与党たらんとして営為努力している。小沢民主党は今や次第に陣地を広げつつある。小沢民主党が、与党化による責任政治を目指していることは良いとして、自民党と何ら代わらない政治に堕する危険性を詮索せねばならない。兆候は既に有る。民主党若手のその殆どが憲法改正派であり、自民党若手のそれと何ら変わらないかもしくはより急進主義的である。鳩山−岡田−前原ラインがこれに相当する。

 今れんだいこが民主党に期待するのは、ネオ・シオ二ズムの徒党と堕した自民党政治と決別し、民族と国家に責任を負い、能うる限り護憲的多元的な世界協調及び国際平和創出に向けての政治である。はっきり云えば、戦後のハト派政治の復権である。あの時代の日本は奇跡的な経済成長と真の国際貢献を遂げてきた。現在の世界にも残る親日感情は、この時代に培われたものである。内外共にそれほど善政を敷いてきたという感覚が欲しい。

 れんだいこは、あの頃の政治を在地型社会主義政治と判じているので、一応これを「左バネ」とすると、「左バネ」の利いた民主党でなければ何ら意味が無いことをブレア政権史が教えたと受け止めている。政権交代大いに結構であるが、アバウトでよい我々は戦後保守本流のハト派政治を再興するというタガをはめねば、政権盗りそのものはゲームでしかなくなろう。ブレア政権が反面教師としてそのことを教えたと思っている。

 日本戦後政治史はところが、1980年代初頭の中曽根政権の登場以来、ハト派とタカ派の主客が逆転し、現在はタカ派一辺倒の時代になっている。このタカ派は戦前的な皇国史観に基づくタカ派ではない。英国のサッチャー、ブレア政権同様のネオ・シオニズムの御用聞き政治を行う戦後的タカ派である。今世界中にこういうタカ派が養殖されている。彼らは愛国ポーズを執るが根っからの売国奴でありが故のものであり、愛国気取りはイチジクの葉に過ぎない。中曽根−小泉を見よ。

 よりによって、この二人が靖国神社参拝で物議を醸した。韓国、中国の海外が反発し政治問題化したが、そして例によってウヨサヨの議論が飛び交ったが言論商品の類いのものでしかない。霊学的に見ると本当は靖国の英霊が騒いだのではないのか。それはそうだろう。大東亜戦争の英霊は、鬼畜米英と闘った。日帝の兵士として倒れたが、その心情は二度と戦争の無い国を願って祖国に殉じたものである。ところがどうだ。中曽根−小泉は、自衛隊を今度は、英霊が闘った当の相手の鬼畜米英と組んでその配下軍としてイスラム・レジスタンスと闘わそうとしている。これは手品である。英霊が怒るのも無理は無かろう。れんだいこはそう解釈している。

 もとへ。ブレア政権は、1999年のユーゴスラビア空爆で、人道上の理由で他国の主権国家を武力攻撃できる、というブレア・ドクトリンを掲げた。2001.9・11同時多発テロ後は、ブッシュ政権の対テロ戦争に同調し「特別な関係」を築いた。アフガンのタリバン政権懲罰名目でのアフガン戦争に率先し、2003年、「英米同盟の堅持」を外交の最優先課題として党内の反対論をも振り切って、米国とともにイラク戦争に参戦した。最大時4万6000人を派兵し、いまも7100人が駐留する米国に次ぐ兵力を派兵している。戦死英兵は142名。

 ところが、あにはからんや。イラクは混迷し、英軍撤退完了の見通しはない。一体、ブレア政権は、この間の戦争政策で幾らの国費を注ぎ込んだのだ。はっきりさせて国民に弁じて見よ。「小さな政府とか大きな政府」とかが馬鹿らしい論議となろう。その英国は日本の数年先を走っており、日本は今それを真似しようとしているが、民族系企業のその優良な部分が既にハゲタカファンドに食われている。賢明なる英国民が怒るのも無理は無かろう。

 日本のマスコミ各社はこういう史実を知りながら触れない。ネオ・シオ二ズムの報道管制に上目を遣いながら当たり障り無いブレア政権退陣社説を掲げて糊塗している。言論の自由よりは御身保全第一というのは分からないでもないが腰抜け過ぎる。少しは言論の歴史責任と云うのを弁えよ。この程度のどこかの部分のことは書かないと論説とは云えまい。

 2007.5.12日 れんだいこ拝

参議院選に向けて 松本哲 2007/05/14 07:25
 官房長官から党首にお願いがあります。下のブレア政権考のように私も民主党にたいして不信感が増大しています。教育基本法の改悪から国民投票法案も同じで可決が今日にも成立予定。東京都知事選でも散々の体たらく。与野党逆転を期待していましたが、既成(寄生)政党は信頼できません。それで私もれんだいこ(共生)党に入党したのですが、少しは宣伝したところ連携したいというひともみつかりました。そこでより積極的に入党あるいは連携などして参院選に候補者を出したいのです。ブログの影響力が急速に高まっていることを先日NHKのクローズアップ現代が報じていましたが、私も数個のブログを持っていますが先日1日で800のアクセスがありました。800万のブログがあるとテレビは言っていましたが、ブロガーたちが発信していけばマスコミも無視できなくなると思います。ただし、運営のしかたがまずいと空中分解してしまいます。私も参加している会もいくつか活動が停滞したり解散したとこが出ています。今後もよろしくお願いします。

Re:参議院選に向けて れんだいこ 2007/05/14 17:08
 松本官房長官さんちわぁ。既成政党に期待するのは消耗ですね。たすけあい党が躍り出たいところです。しかしながら、諸般の情勢が客観的には熟していても主体的には不十分極まる状態です。こたびの参院選は、これと思う党派と共同戦線する以外にありません。党首的には次のような選択肢を考えております。

 その1、改憲時期尚早派政党(民主党、その他野党)> 改憲急進主義政党(自民党、公明党)
 その2、護憲派 > 改憲派
 その3、愛国愛民族派 > ネオ・シオニスト

 これに則り政党序列をつけると、次のようになります。

 在地派左派系 > 国民新党 > 民主党ハト派 > 自民党ハト派 > 社民党 > 公明党 > 共産党 > 自民党タカ派・民主党タカ派 

 共産党の順位が低いのに驚きますが、ネオ・シオニズム篭絡度によりこうなります。れんだいこは、最近の亀井を好評価しております。彼は確か中曽根系でしたが、本質はハト派ですね。小沢もタカ派に見られる時期もありましたが、やはり角栄の薫陶を受けておりハト派に回帰しております。自分の死に所が分かったのでせう。

 一番良いのは天木さん辺りの新党でせうが、左派から右派まで来るもの拒まずで受け止められれば理想的です。助け合い党は、人民大衆派として与したいと思います。

Re:れんだいこのカンテラ時評291 れんだいこ 2007/05/15 12:30
 【憲法改正派の知性値踏み考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.5.14日、憲法改正手続きを定める国民投票法が参院本会議で可決された。メディアの産経、読売が率先して憲法改正の前哨戦としてこれを称えている。我らが傾聴するに値する論理、論法、歴史認識のものであろうか。ここで、改憲派の論理と動向について検証しておく。

 れんだいこが端的に指摘しておくならば、彼らは平気で論理矛盾を犯している。なぜなら、「マッカーサー押し付け憲法」を改め自主憲法制定を云いながら、実際には何ら自主性は無くて、今度は「国際金融資本肝いり憲法」を導入せんとしているからである。「外圧」を批判して改正するなら自主的なものでなければならぬが、目下の憲法改正の動きもまた「外圧」であろうが。それも、マッカーサー憲法がキリスト教愛国主義的傾向に立脚しているとすれば、国際金融資本憲法はユダヤ教パリサイ派の臭気が強く、それは却ってより悪いものである。

 それでも、それを知りながら目下の憲法改正加担に動くとしたら、売国奴エージェント以外の何者でもなかろう。恐らく相当の資金援助も受けているだろう。こったら不正が許せるか。以下、これらを確認していくことにする。

 2007.5.15日 れんだいこ拝

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【産経・古森記者の憲法改正論の愚昧さ考】
 (略)
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【産経正論・志方教授の憲法改正論の愚昧さ考】

 2007.5.15日、産経新聞正論は、志方俊之・帝京大学教授の「護憲派の不思議な論理を笑う」を掲載している。これを論評する。逐一論評するには値しないので総評する。

 志方教授は、「護憲派の不思議な論理を笑う」と云いながら、自身が不思議な論理をしているのに気づかないらしい。全体の論調として、自主国防的見地からの憲法改正論を唱えて、護憲派の非武装中立論を嘲笑している。自主防衛的見地からすれば確かに建前論としては整合的である。しかし、このご時世で「自主国防的見地からの憲法改正論」を唱えて、目下進行しつつある憲法改正の流れを是認するとしたら、彼が本当に唱えているとしたら狂人である。

 自衛隊は発足当初から米軍指揮下で育てられ、今日ではますます米軍の傭兵化しつつあり、この関係はもはや如何ともし難いほど深のめりしている。かっての日本帝国主義は大東亜戦争で敗北させられたことにより徹底的に壊滅させられ、日本は二度と自律自存せぬようにタガはめされた。これが敗戦国家の悲哀と現実である。戦後日本の国防論を理論付けする場合、この情況から論を起こさねばならない。

 今、「米軍指揮下」と述べたが、その米軍は国際金融資本の指揮下にあるので、正しくは「国際金融資本指揮下」と理解されねばならない。国際金融資本は、第二次世界大戦直後の情況に於いては日独伊の完全武装解除という目的と高まる反戦平和運動との絡みで、日本に史上初の「非武装不戦主義」を導入した。憲法前文と9条はその賜物である。しかしながら、その後の冷戦と朝鮮動乱の勃発という国際情勢に於いて、国際金融資本は、日本をアジアの橋頭堡とすべく再軍備政策へと転換した。こうして警察予備隊が創られ、自衛隊へと発展した。自衛隊は次第に増強され、長らく国際金融資本の武器売却の絶好市場として利用されてきた。

 国際金融資本は今、中近東に於ける絶対支配権を確立すべく大イスラエル建国戦争に乗り出している。当然パレスチナ及び中近東一体のイスラム勢力がレジスタンスする。目下、アフガン−イラク戦争に乗り出しているが、早くも困難を強いられている。イランとの確執も無視できないほどに強まっている。戦争の長期化は、裏権力国際金融資本の表出権力体米英ユ同盟の兵士を消耗させ財政を逼迫させつつある。

 この事態に遭って、国際金融資本は今、日本の自衛隊の活用を画策している。アジア人とアラブ人の戦いへ向かわせるのが上策として躍起になっている。しかし、自衛隊を戦闘せしめるには憲法が障害である。「憲法を改正せしめよ」、これが国際金融資本の指令である。飼われてきた各界のエージェントがくつわを並べて憲法改正運動に走り出している。これが目下の情況である。

 この事情を踏まえながら、志方教授は、「自主国防的見地からの憲法改正論」を唱えて、目下進行しつつある憲法改正の流れを是認しようとしている。これも一種のドン・キホーテであろう。問題は、こういう詭弁を弄しながら恥じず逆に、「護憲派の不思議な論理を笑う」をなどと護憲派をからかっているところにある。なるほど社共的サヨ流の反戦平和論はからかわれるに値する面もある。しかしながら、社共的サヨ流の反戦平和論を批判したからといって、日本の軍隊が「アジア人とアラブ人の戦いへ」向かわせられて良い理由にはならない。

 志方教授よ、お前が為すべきは、「自主国防的見地からの憲法改正論」を願うなら、自衛隊の国際金融資本傭兵からの脱却の論理と手法を確立することであろう。それを為さぬまま時局迎合するとは、お前も有象無象の頓馬天狗の一員と云わざるを得まい。れんだいこは、「自主国防的見地からの憲法改正論」派の安逸な論法を笑う。

 ところで、こういう場合に決まって中曽根が登場している。れんだいこは、中曽根が出ると条件反射的に角栄を思う。角栄なら、同じ問題に対しどう述べたであろうかと推理する習慣にしている。そこには天地の差が有る。今、中曽根的なるものが跋扈しており、角栄的なるもの忘れ去られている。しかし、日本人の精神の原型は角栄的なるものにこそある。これを郷愁するのではなく復権再生せしめるべきではなかろうか。れんだいこはそう思う。

 2007.5.15日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評292 れんだいこ 2007/05/18 19:42
 【国会質疑の物足りなさ考】

 先ほどの国会での質疑に物足りなさを覚えたのはれんだいこだけだろうか。ちらっと聞いた程度なので即断するのは早すぎるかも。しかし、どのやり取りにも不満を覚えたので、熱心に見ても一緒ではなかろうか。民主党の突っ込みに食傷した。出自が同じ元々似たもの同士の限界なのだろうか。そういう気がした。とはいえ、共産党や社民党のそれが良いという訳ではない。全体として不作なのだ。

 そういう折、れんだいこは論文集に「田中角栄演説集」を加えた関係上、田中首相の所信表明演説を読む機会に恵まれた。読んでみて今日びのそれと比べてはるかに質の高いことに驚いた。加えて、国会演説調査研究会編集の「田中角栄の国会演説と各党の代表質問」を見つけ、ネットで取り寄せ読んでみた。上下巻あり、田中首相の所信表明に対する各党代表の質疑とそれに対する応答が記録されている。各党代表の質疑も真剣で、田中首相の答弁も真剣で説得的であるあることに驚かされる。既に忘れた時代のやり取りであるが、新鮮であった。

 政治の再生は同時に国会再生でもあるし、あらねばならぬ、そう思った。最近の政治思潮は全てネオ・シオニズム・テキストに則ってのものであり、口先とは別に国を思い民族を愛する思いを期待することは出来ない。与野党共々がこれに被れている。民主党タカ派の目先を変えただけの馴れ合い質疑は聞くに堪えぬ。社民党、共産党のそれは、そもそも政権を担う気概の無い口先批判だけの万年野党性のものであるから頼りにならない。この状況で、我が党こそは正義の党で唯一の確かな野党ですなどと聞かされたら脳を患う。この連中とは話が通じないことおびただしい。

 という訳で、現下政治の貧困を打開したい。憲法改正反対なら、それが実現するよう最善の努力と智恵を絞りたい。その障害となる悪徳論理と論法に批判を加え、共同戦線運動に向かいたい。これしかなかろう。ハト派系と左派系が表と裏から気脈通じ、60年安保闘争以来の人民的抗議運動の盛り上がりでネオ・シオニストのシナリオを粉みじんにしてみたい。

 国会質疑でも、ネオ・シオニズムの御用聞き政治を厳しく追い詰める舌鋒を聞きたい。内外呼応して国会を震撼させよ、今はそれ以外に無い。一刻も早くハト派系政治家、左派系政治家の登場し易い活躍し易い政治環境を創らねばならない。この観点に与するものと、理屈をつけて与させないようにするものとを識別せねばならない。れんだいこは、そして我が党はそう思う。独断でこう書いたが、党員の皆様よろしかったでせうか。

 2007.5.18日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評293 れんだいこ 2007/05/19 21:37
 【田中角栄式ハト派防衛論考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 最近手に入れた「田中角栄の国会演説と各党の代表質問上下巻」(会演説調査研究会、閣文社1990.5.20日初版)所収の所信表明演説と各党代表との質疑の中から見えてくる「田中角栄式ハト派防衛論」を確認したい。今日びのタカ派式防衛論とは様相がまるで違う。このことを明らかにさせ、日本国家及び民族の自立自存に思いを馳せたい。「田中角栄式ハト派防衛論」は、現下の憲法9条改正論議が踏まえるべき今もっての基準となるべきではなかろうか。れんだいこはそう思う。

 角栄の所信表明演説の最近のそれとの大きな違いは、内治外治の両面において満遍なく触れつつも、内治の方により多角的多岐精緻に言及していることである。しかも、より少なく言及されている外治のその過半が国交回復と国際友好親善と経済援助に充てられている。つまり、防衛論につき驚くべきほど寡言であるということになる。そういう事情からかどうか、四次防との絡みもあったのであろうが、各党代表は逆に「角栄の防衛論」を弱点として狙いをつけ質疑し、角栄が答弁するという構図が生まれている。これにより、奇しくも田中角栄式防衛論なるものが遺されることになったのは望外の成果と云えよう。

 れんだいこは、このやり取りをれんだいこ式に整理し、「田中角栄式ハト派防衛論」として纏め、世に打ち出したいと思う。現下の国会とマス・メディアによる二頭建て牽引によるタカ派防衛論に基づく憲法改正運動に棹差してみたいと思う。最近の主流である「中曽根−小泉式タカ派防衛論」に対して、かってこの国に存在した「田中角栄式ハト派防衛論」を対置させ、後者の方が真っ当でないかと問いかけ直す機会を提供したい。

 遠吠えするばかりの社共式対応で、特に日共の確かな野党論で状況に立ち向かうことは愚昧である。ああいうのは予定された反対運動であり、痛くもかゆくも無く改憲派の手の内にあり、タカ派支配に裏協力している恐れがある。

 思えば、ロッキード事件で揺れた去る日、それによって利益を得たのはタカ派であった。最も激烈に反角栄闘争を仕掛け、容赦の無い政界追放運動を牽引したのは日共であった。この両者に黒い糸の繋がりを見るのは、れんだいこだけだろうか。そういう史観を持つれんだいこの、「確かな野党論」による野党分裂政策に固執する日共を見る眼は冷たい。この党はどこまで腐っているのだと云う憤然とした思いがこみ上げている。

 それはともかく、ここで、「田中角栄式ハト派防衛論」を紹介する。憲法改正派に対してこれを武器にせよ、その値打ちは高い。それにしても、かような見解を保持していた角栄を極悪非道人として喧伝し洗脳し続けてきている日共の犯罪性は重い深いと云うべきだろう。日本政治の再生は、角栄の復権評価からしか有り得ない、れんだいこはそう思う。

 2007.5.19日 れんだいこ拝
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 【「田中角栄式ハト派防衛論概要」】

 「田中角栄式ハト派防衛論」は、日米同盟を受容している。その限りで、吉田内閣最初期の「東洋のスイスたる国際的中立」の立場には立っていない。角栄は、「東洋のスイスたる国際的中立論」に対して、それは理想であるとして却下し、我々は現実論に立つと述べている。思うに、角栄の「日米同盟受容」は、米ソ冷戦構造に於ける体制選択として、米側即ち資本主義陣営に与するという立場の表明であろう。その意義を、自由主義市場体制の擁護に求めていた形跡がある。今日の歴史は統制経済主義を志向したソ連側の体制崩壊を知らせており、「日米同盟受容」の選択の賢明さを教えている。

 「田中角栄式ハト派防衛論」は、その「日米同盟受容」を受けて、それが結果的に憲法前文及び第9条違反であろうとも、日米安全保障条約及びその関連諸法、自衛隊創設及びその関連諸法を受容している。これを日米安保体制と云う。この堅持については、ハト派とタカ派の相違はない。ハト派とタカ派の相違は、この次から始まる。

 「田中角栄式ハト派防衛論」は、「憲法前文及び第9条違反」の日米安保や自衛隊を認めるが、「憲法前文及び第9条」を重石として、極力整合的であるべきだとする。必然的に吉田内閣以来の解釈改憲を引き継ぐことになる。これに対して、タカ派は、「憲法前文及び第9条」を否定して、極力憲法改正すべきだとする。もはや解釈改憲を限界として、小難しい話を神学論争として一蹴していくことになる。つまり、「田中角栄式ハト派防衛論」は、護憲を前提にした軍事防衛論である。タカ派防衛論は、改憲を前提にした軍事防衛論である。一見似ているが、この違いは大きい。

 国防の基本方針は具体的には次のように定められる。その1は、日米安保体制に対する対応問題となる。ハト派は、米ソ冷戦構造に於ける体制選択としての資本主義陣営仲間入りという立場からのものであり、その限りにおいて盟主米国との繋がりを重視する。が、この体制下で憲法の明示する国際法の遵守、国際協調、国際平和創造に向かうというスタンスを採る。特徴的なことは、日米安保体制のくびきに置かれつつも、極力権国家として振舞おうとするところにある。

 タカ派のそれは、米国を指導する国際金融資本の世界支配戦略に与し、日本を二等国家として存立せしめていくことが「国家百年の計」であるとする強度の日米安保体制深のめりスタンスを採る。ハト派の国防論を安保ただ乗り論として批判し、戦費の積極的負担に向かう。次に戦費のみならず自衛隊の派兵へと向かう。国際法は臨機応変のものとしてさほど重視せず、国際金融資本の論理と論法が正義だとして言いなりになる。そういう訳で、日本は隷従国家として振舞うことを辞さない。否、世界に先駆けての一番乗り支持を競う。

 その2は、自衛隊及びに軍事防衛費対する対応問題となる。自衛隊をどの程度まで育成発展させるのか、自衛隊の防衛区域はどの辺りまでかを問う。ハト派は、主権国家としての自衛の為に必要とする最小限度としての防衛力の漸進的整備を目指し、今後の経済運営に支障となることのない限りに於いてという制限を設ける。軍事防衛予算の「GNP1%枠」と「専守防衛枠」で歯止めをかける。タカ派は、その「GNP1%枠」と「専守防衛枠」を取り外し、国際責任論を唱えて国際金融資本の世界支配戦略の指図のままに世界各地の紛争への積極関与を目指す。現在、自衛隊の戦地派遣に続いて前線戦闘が画策されようとしている。

 その他3・米軍基地に対する対応問題、整理統合と負担問題、4・武器開発及び輸出禁止問題、5・非核三原則及び原子力開発問題、6・日米合同演習問題等々があり、それらいずれにおいても、ハト派の抑制に対してタカ派の積極という構図にあり、目下はタカ派の方針へと振り子が動いている。総じて、ハト派の目指すのは国際協調国家であり、タカ派の目指すのはネオ・シオニズム配下の好戦国家という違いになる。
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 【1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける「田中角栄式ハト派防衛論発言集」】

 最近世界的に緊張緩和の動きが見られるとはいえ、我が国が今子供平和と安全を維持していくには、米国との安全保障体制を堅持しつつ、自衛上最小限度の防衛力を整備していくことが必要であります。このたび、政府が第四次防衛力整備計画を決定しましたのもこのためであります。(中略)

 戦後四半世紀にわたり我が国は、平和憲法のもとに一貫して平和国家としてのあり方を堅持し、国際社会との協調協和の中で発展の道を求めてまいりました。私は、外に於いてはあらゆる国との平和維持に努力し、内にあっては国民福祉の向上に最善を尽くすことを政治の目標としてまいります。世界の国々からは一層信頼され、国民の一人ひとりがこの国に生を受けたことを喜びとする国を作り上げていくため、全力を傾けてまいります。あくまでも現実に立脚し、勇気をもって事に当たれば、理想の実現は可能であります。私は、政治責任を明らかにして決断と実行の政治を遂行する決意であります。
(1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説)。

 日本の防衛費が大きいかどうかという問題を例に挙げて申し上げます。防衛と云うものは、よその国の防衛なのではないのであります。自分を含めた国民全体の生命と財産をどう守るかというのであります。まず、その防衛体制が妥当であるかどうかという問題を考えるには、世界の国と比較することも一つの案であります。(中略)

 このように、各国はそれぞれ時刻の防衛の為に相当の努力を払っておることを知らねばなりません。その意味から考えてみましても、わが国においても、この程度の負担をするのは止むを得ないことだと思うのでございます。非武装中立論を前提にして国防論や防衛論をする方々との間には意見の相違があることは止むを得ませんが、しかし、国防や防衛という問題をそのような観念論によって律することはできないのであります。(中略)日米安全保障条約を廃棄しなければならないというような端的な議論には与しないのでございます。(中略)自らの見識に於いて、自らの責任において、どうして自らを守るかという事については、数字に立って、現実を直視して、後代のためにも誤りの無いように努力すべきであると思います。
 (1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説に対する10.30日の日本社会党成田委員長質疑に対する答弁)

 それから第三は、経済大国日本が軍事大国にならないかという問題でございますが、経済大国になりますと政治大国になるということは、これはもう当然でございます。日本が経済大国である。即ち、日本の輸出入の動向によって世界の情勢に影響を与えるということでありますから、好むと好まざるとにかかわらず政治的な影響を持つことは避けがたいのでございます。

 しかし、軍事大国にはならない。これは憲法が明定をしておるのでございます。国際紛争に対して日本は武力をもって解決できない、こういう大前提があるのでございまして、憲法を守ろうということを言う人は、特にこの事実を理解すべきでございます。でありますから、日本の防衛力がどのような状態になろうとも、侵略的なものとか軍事的な大国と云うものには絶対に無縁のものである。日本を守るという全く防衛一筋のものであるということを理解すべきでございます。
 (1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説に対する10.30日の自由民主党桜内義雄質疑に対する答弁)

 アジアの平和構想を確立するため、日米安保を解消し、非軍事的な日米友好条約を結んではどうかとう御発言でございますが、毎々申し上げておりますとおり、日米安全保障条約は、日本の安全と独立を確保するために必要なものとして、これを廃棄するとか変更するとかという考えは全く持っておりません。(中略)

 我が国は、政治信条、社会体制のいかんにかかわらず、全ての国との友好的関係を維持してまいりますが、そのことが即等距離・中立の外交とはなり得ないのでございます。あくまでも自主外交でありますが、構造的に見ても、量的にみても、我が国の平和外交は自由主義陣営の一員として、これと密接な関係の上に立って進めることが、より効率的であると考えておるのでございます。(中略)

 なお、なぜこれほどの軍備増強をするか、日本に対する脅威の実体とは何かとか、自衛力の限界を示せ、兵器国産化は産軍複合体の危険がある、兵器輸出禁止法をつくったらどうか、こういういろいろな御指摘をいただきましたが、我が国国防の基本方針は専守防衛を旨とするものであり、四次防は、アジアの緊張を高めるような軍拡や軍備増強の計画では全く無いということは先ほど申し上げたとおりでございます。(中略)

 しかしながら、我が国の防衛力は、一次防以来の各防衛力整備計画によって逐次充実されており、今後どこまで伸びるかと云う問題に答える必要はあると思いますので、凡その整備目標を検討するよう防衛庁に指示をしてうるわけでございます。
 (1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説に対する10.30日の公明党竹入義勝質疑に対する答弁)

 それから、きのうの桜内議員に対する答弁につきまして、私の真意に対するご質問がございましたが、私は速記録をみまして、十分私の真意を伝えていないような点もございますので、ここに革めて考え方を申しのべます。

 世界に類例の無い我が国憲法の平和主義を堅持してまいりますことは、申すまでも無いことでございます。その前提には変わりはないのでありますが、無防備中立の考え方と、最小限必要な自衛力をも持つという私どもの考え方とは合わないのであります。この際、明確にいたしておきます。(中略)独立国である以上、独立を保持し、その国民の生命財産を確保してまいるためには防衛力を持たなければならないということは、論の無いところでございます。理想的には、国連を中心とした集団安全保障体制が確立することが望ましいことでございます。しかし、現実の状態を見ますと、この機構は完備せられておりません。スエズが閉ざれても、これを開放する力もありませんし、御承知のアラブとイスラエルが毎日報復爆撃をやっておっても、これをとめることのできないような状態においては、最小限自分で自分を守るだけのことはしないければならぬのであります。

 そういう意味で、最小限度の防衛力を保持するということはとうぜんのことでございますが、しかし、もう一つの理想的な姿としては、自分だけで守るか、複数以上の集団安全保障の道をとるかということでございますが、これは東側、西側を問わず、自分だけで守ろうという国はないのであります。みんな複数以上で集団安全保障をとっております。日本だけがその例外になろうということは、それはできません。そういう意味で、国民の生命と財産を守らなければならない、しかし、国民負担は最小限度で理想的な防衛体制でなければならないというと、どうしても日米安全保障条約が必要になることは、過去四半世紀近い歴史に明らかなところでございます。(中略)

 それから、専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱら我が国土及びその周辺に於いて防衛を行うということでございまして、これは我が国防衛の基本的な方針であり、この考え方を変えると云うことは全くありません。なお戦略守勢も、軍事的な用語としては、この専守防衛と同様の意味のものであります。積極的な意味を持つかのように誤解されない−専守防衛と同様の意味を持つものでございます。
 (1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説に対する10.31日の民社党春日一幸質疑に対する答弁)

 先ほど述べましたとおり、世界に類例の無い我が国憲法の平和主義を堅持してまいりますことは申すまでも無いことでございます。こういうことでございますので、ご了承を賜りたいと存じます。
(1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説に対する10.31日の日本社会党堀昌雄質疑に対する答弁)

 安保条約を廃棄せよ、沖縄の毒ガスを点検せよ、四次防を撤回せよ、四次防を国会にはかれという問題でございますが、安保条約の目的は、間々申し上げておりますとおり、我が国の安全を確保することにありまして、政府としては、これを堅持してまいるつもりでございます。同様の理由により、四次防を撤回する考えもございませんし、四次防は重大な問題でありますので、国会においてはもとより、広く国民各界各層において議論していただきたい、こう考えるのでございます。しかも、防衛問題に対する国会の審議機関としては、各党にもお願いを申し上げておりますが、安全保障に関する常任委員会のごときものを設けていただいて、十分国会でご審議いただくのが正しいと考えておりますし、政府もそうお願いをしておるのでございます。
 (1972.10.28日の第70回臨時国会に於ける所信表明演説に対する10.31日の日本共産党不破哲三に対する答弁)

 田中角栄式ハト派防衛論考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/boeiron.htm

 2007.5.19日 れんだいこ拝

同性愛者nado こげぱん 2007/05/19 22:47
 民主党は夏の参議院選挙で、どうやらレズを公認候補として擁立するらしい。

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 民主党困惑!? 比例代表候補に同性愛結婚・尾辻氏 [ZAKZAK]
 ttp://www.asyura2.com/07/senkyo34/msg/873.html
 投稿者 white 日時 2007 年 5 月 18 日 16:46:03: QYBiAyr6jr5Ac

 ttp://www.zakzak.co.jp/top/2007_05/t2007051801.html

 政治決戦となる7月の参院選。自民党が元テレビ朝日アナウンサー、丸川珠代氏(36)を東京選挙区で擁立する方向になったほか、各党の候補者も活発に動き始めている。近づく祭りの足音に誘われた人々の、人間模様を追った。

 次から次へと“春”が訪れているのは民主党。比例代表で公認候補として出馬する同性愛者の元大阪府議、尾辻かな子氏(32)が17日、ゲイの街として知られる東京・新宿2丁目で記者会見し、事務所スタッフの木村真紀さん(32)と6月に名古屋市内で結婚式を挙げることを発表した。すでに都内で同棲(どうせい)しているという。

 民主党は同性結婚の是非を決めていないため、「党や代表が祝電を贈ると、党として同性結婚を認めたことになってしまうのでは」(中堅)との声もあるが、党幹部によると「祝電は個々の議員がそれぞれの立場で贈ることになるのでしょう」とのこと。(後略)

ZAKZAK 2007/05/18
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レズ候補の大阪府議としての実績は知らないが、公約を見れば案の定「同性愛者の権利擁護」以外の主張がほとんど見当たらない。百歩譲れば、個人が同性愛を貫くことは問題ではないのかもしれないが、政治家の、しかも国政選挙に出馬する者の公約としては失格と言わざるを得ない。

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ttp://www.otsuji-k.com/

民主党、参院選・公認決定!

5月15日、民主党から参議院選挙(全国比例)の公認の連絡がありました。
国政政党が同性愛者であることを公表した人物を公認するのは、日本では初めてのことです。時代の変わり目が来た、と強く感じます。同性愛者であることは、もうマイナスではない。今日は、日本の政治が、多様性を認め、他者への寛容さを示し、共に生きる社会をつくるために、大きな一歩を進めた日です。公認にあたってご尽力頂いた皆さま、応援して頂いた皆さまに、心より感謝いたします。

これは希望のスタートです。私だけのことでも、性的少数者だけのことでもありません。違いを認め合い、その豊かさを活かす社会へ。社会は変わる、変えることができるという希望が生まれたのです。
レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー等の性的少数者のシンボルは、多様性の象徴・虹です。私は国会に希望の議席、虹色の議席をつくりたい。7月22日の投票日に向けて、精一杯頑張ります!
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 ttp://blog.so-net.ne.jp/otsuji/
 国政へのチャレンジに向けて(決意表明)  [その他]  

 同性愛者として初めて国政政党から選挙にチャレンジできることを、本当にうれしく思います。このチャンスを与えてくれた民主党に、深く感謝しています。また、私がこのスタートラインに立てるのは、今までの多くのLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の方々の活動の成果であり、その積み重ねに深く敬意を表します。

 私は2003年から大阪府議会議員を務めていました。自治体は一人ひとりの生活の現場に近い場所であり、地域の困りごとの相談を受けたり、若者や女性としての立場から政策提言をしたり、一生懸命に取り組みをしてきました。その中で、私は2005年に、同性愛者であることを日本の議員として初めて公表(カミングアウト)しました。

 私がカミングアウトした理由は、共に社会の中で生きている私たちの存在を、もっと可視化する必要があると思ったからです。私自身、自分が同性愛者かもしれないと気付いてから、自分はおかしいのかもしれないという自己否定と、自分のような存在はたったひとりなのかもしれないという孤独感に何年も苦しんできました。今も悩みの中にいる多くの仲間たちに、ひとりじゃないことを伝えたい、そんな思いで、公表と同時に著書を出版しました。

 カミングアウトした私の元には、同性愛者等の仲間たちから、様々な相談が寄せられるようになりました。そこでぶつかったのは、日本の法律や社会の壁でした。大切なパートナーと死別しても、財産が相続できない。お葬式にさえ参列できない。病院での治療の説明を受けられない。外国籍の同性パートナーに日本での滞在許可が与えられない…。パートナーが異性であれば、事実婚として一定の権利が認められていますが、パートナーが同性の場合は、日本では何の法的権利もありません。愛した人の性別が違うだけで、なぜこうも対応が違ってしまうのでしょうか?これは公正な社会といえるでしょうか?

 たったひとつのモデルからはみ出したら、そこには何の生活の保証もない。実はこうしたことは、同性愛者だけの問題ではありません。今の社会は、一つの価値観を示し、それだけが美しいもの、正しいものであるかのような流れをつくっているように思います。しかし、現実は多様化しています。日本社会には、国籍、民族、性別、年齢、チャレンジドなど、多様な人たちが多様な形で暮らしているにも関わらず、今の社会システムはその現実に対応できていないと思います。

 私は、これからの社会は、他者の権利や自由を侵害しない限りは、誰が、いつ、どんな選択肢を選んだとしても不利にならない、そんな社会であるべきだと考えています。それは、多様な価値観を認め合うこと、多様な人々が「共に生きている」という認識のもとに、対話を重ね、助けあう社会だと思います。

 今の政治に欠けているのは、他者への寛容さ、そして、あたたかさではないでしょうか。共に生き、共に笑い、共に助け合う。そんな新しい未来をつくるための、第一歩にしたいと思います。

 ■尾辻かな子のスタンス

1、私はレズビアンです
同性愛者であることを隠さず、オープンな立場で仕事をすることにより、性的マイノリティを社会の中で見えるようにします。

2、虹色の社会へ
若者、女性、マイノリティの視点を活かし、女性、子ども、若者、シングル生活者、様々な病気や障がいと共に生きている人たち、外国籍住民、性的少数者、 HIV陽性者、など、多様な人々が共に生きる社会を目指します(虹は性的少数者のシンボルであり、性と生の多様性を表しています)。

3、地方自治を応援します
現場に近い自治体出身議員として、地方分権を応援します。

4、平和で持続可能な社会をめざして
より平和な世界の実現を目指し、また、環境問題、地球温暖化による気候変動への対策等を推進します。

■政策

LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)が社会で共に生きていることを前提とした政策づくりをします。
特に、
●同性パートナーの法的保障に関する法案をつくります。
●法律で差別を規定する時に、性的指向・性自認を加えるよう働きかけます。
●性同一性障害特例法の子なし要件の撤廃と健康保険適用を検討するよう働きかけます。
●HIVについて陽性者支援と感染予防について、当事者コミュニティとより積極的な連携が取れるよう働きかけます。
●LGBT外交をします。各国LGBT議員との交流を通じての外交と、今なお同性愛者が死刑になる9カ国に対してその撤廃を求めていきます。
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 これは個人的な直感に過ぎないかもしれないが、旧約聖書・創世記には「産めよ・増やせよ・地に満ちよ」という神の言葉が記されているところから考えると、神の言葉に反する同性愛やジェンダーフリーはパリサイ的な匂いがしてしかたがない。同性愛やジェンダーフリーを声高に叫ぶ連中が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を声高に叫ぶところを見れば、連中は国際共産主義と同じく、案外パリサイ人の左腕なのかもしれない。

 それはともかく民主党が同性愛者など擁立してまずいのは、現時点での改憲反対運動に悪影響を及ぼす可能性が考えられるからである。というのも、同性愛やジェンダーフリーを声高に叫ぶ連中はほぼすべて護憲派と見られるので、今更民主党が同性愛者を擁立したところで(社民党票を食うことはあっても)改憲慎重派全体の押し上げになるとは考えにくい上に、日本の自存自衛を願いつつも、安倍の改憲公約に惹かれてやむなく自民党に投票している良識的保守有権者を、決定的に自民党に追いやることになりかねないからである。

 これはれんだいこさんの「安倍政権考」に詳しいが、自公政権の支持基盤は(ノンポリ「B層」を別にすれば)ウォール街の外人が憑依しているとしか思えない親米保守、法華経信者(+宗教ウヨ)、それと改憲を機に自存自衛を目論む良識的保守有権者のトロイカ体制であると考えられる。そこで(選挙結果を見る限りでは)数的劣勢にある反売国政治派が自公売国政権打倒のためとるべき戦略としては、良識的保守有権者を(国民新党のごとく)自公政権から離脱させるか、最低でも中立的立場にとどめておかなければならない。

 この観点から考えれば、民主党は少なくとも今後数回の国政選挙では、争点を(売国政治反対や格差是正、生活維新など)主要論点数点に絞り、物議を醸す論点は少なくとも先送りするか、あるいは社民党あたりに任せるかして、最大公約数的支持を得るのが賢明な戦略である。レズ候補のような物議を醸す(しかも同性愛者解放など、少なくとも現時点での国政主要論点ではない)候補を擁立すれば、得るものより失うものの方が大きいであろう。小沢一郎の「生活維新」スローガンは、「美しい国」や「痛みを伴うSM構造改革」などより余程まし、と考えていただけに残念である。

Re:タイトル訂正。「同性愛者など擁立して大丈夫か、民主党」 こげぱん 2007/05/19 22:49
 送信ミスです。すみません。

Re:民主党の同性愛者擁立について れんだいこ 2007/05/20 11:37
 こげぱんさんちわぁ。民主党の同性愛レズの公認候補擁立につき、事前確認のうえ承諾のようですね。幅広くスタンスを構えようとしているのでせう。れんだいこは、最近の性の乱れにネオ・シオニズムの意図的な操作を感じておりますので少し控えるものがあります。但し、候補者の政治的能力、識見が高ければ、現に「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)」(違いがよくは分からんが)が相当数存在する以上、その代弁者として登場してくるのは必然なのかも知れない。

 その立候補声明を読むと、助け合い共生社会を良しとしているようです。地方自治と地方分権をめざし、平和で持続可能な社会をめざしてより平和な世界の実現を目指し、また、環境問題、地球温暖化による気候変動への対策等を推進するようです。改憲派として登場されたら目も当てられない。それを思えば良いのかな。

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> これは個人的な直感に過ぎないかもしれないが、旧約聖書・創世記には「産めよ・増やせよ・地に満ちよ」という神の言葉が記されているところから考えると、神の言葉に反する同性愛やジェンダーフリーはパリサイ的な匂いがしてしかたがない。同性愛やジェンダーフリーを声高に叫ぶ連中が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を声高に叫ぶところを見れば、連中は国際共産主義と同じく、案外パリサイ人の左腕なのかもしれない。

 同性愛やジェンダーフリーを声高に叫ぶ連中が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を声高に叫ぶ関係があるとすれば、問題ですね。れんだいこの判ずるところ、両事件とも史実的には更に考証を要します。むしろ、ホロコーストとの絡みで、「西のホロコースト、東の南京大虐殺」という構図で、現代パリサイ派式反戦平和論理に乗せられている形跡がある。だから、アンネの日記に涙流すのでせう。それは良いのだが、パレスチナ、中近東の悲劇には関心が向かわない。そうだとしたら、やっぱなんか作られている気がしないでもない。

> それはともかく民主党が同性愛者など擁立してまずいのは、現時点での改憲反対運動に悪影響を及ぼす可能性が考えられるからである。というのも、同性愛やジェンダーフリーを声高に叫ぶ連中はほぼすべて護憲派と見られるので、今更民主党が同性愛者を擁立したところで(社民党票を食うことはあっても)改憲慎重派全体の押し上げになるとは考えにくい上に、日本の自存自衛を願いつつも、安倍の改憲公約に惹かれてやむなく自民党に投票している良識的保守有権者を、決定的に自民党に追いやることになりかねないからである。

 悪用逆用される可能性は高いでせうね。しかし恐らく、改憲派の「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)」も登場しますよそのうち。

> これはれんだいこさんの「安倍政権考」に詳しいが、自公政権の支持基盤は(ノンポリ「B層」を別にすれば)ウォール街の外人が憑依しているとしか思えない親米保守、法華経信者(+宗教ウヨ)、それと改憲を機に自存自衛を目論む良識的保守有権者のトロイカ体制であると考えられる。そこで(選挙結果を見る限りでは)数的劣勢にある反売国政治派が自公売国政権打倒のためとるべき戦略としては、良識的保守有権者を(国民新党のごとく)自公政権から離脱させるか、最低でも中立的立場にとどめておかなければならない。

 そうです。れんだいこは、ここで云われる良識的保守有権者(国民新党のごとく)の内実を、かって保守主流派を形成したハト派と見ています。忠実なハト派は既にいませんが、それから影響を受けた名残りハト派とみています。母斑のようなものだから、なかなか消えないのです。彼らからすれば、今のタカ派政治は全くなっとらん。レベルが低すぎる、そう考えているはずです。

> この観点から考えれば、民主党は少なくとも今後数回の国政選挙では、争点を(売国政治反対や格差是正、生活維新など)主要論点数点に絞り、物議を醸す論点は少なくとも先送りするか、あるいは社民党あたりに任せるかして、最大公約数的支持を得るのが賢明な戦略である。レズ候補のような物議を醸す(しかも同性愛者解放など、少なくとも現時点での国政主要論点ではない)候補を擁立すれば、得るものより失うものの方が大きいであろう。小沢一郎の「生活維新」スローガンは、「美しい国」や「痛みを伴うSM構造改革」などより余程まし、と考えていただけに残念である。

 大きく包み込んで行くのが良いのではないでせうか。「物議を醸す論点は少なくとも先送りする」には反対です。いかなる場合でも何でも議論はとことんやるべきです。結果的に、個々では意見が違っても全体的に支持する、一番信頼できる党というのが理想です。政治と云うのは、単に損得勘定では計算できないもっと高等次元のところにあると思います。人民大衆を信頼して日頃から喧々諤々で脳を鍛えねばならない、結局これが一番大事なんだと考えます。

Re:れんだいこのカンテラ時評294 れんだいこ 2007/05/20 20:01
 今日、日曜朝のテレビの確か武村健一という御仁だろうが、彼が司会する番組に塩野七生が出演していた。塩野と云えばルネサンス研究では一家言為している。れんだいこも勉強させていただいている。そういう関係で、向こうは知らなくても、れんだいこは存じている。その塩野が、小泉を名首相と持ち上げていることにたまげた。存在感があるということを強調していたが、政治の中身まで含めて提灯していた。こうなると、れんだいこは、塩野よお前もか、この事大主義者めと云わざるを得ない。

 ローマ帝国の研究をものしたらしいが、れんだいこは読んでいない。そろそろ読もうかと思っていたが、何やら薄っぺらさを予感する。歴史家が、或る時代を研究するのは、その成果で現代を照射するところになお意義がある。塩野の場合、照射したところが、小泉が名宰相ということになるらしい。れんだいこの見立てと全く逆だ。れんだいこは思う。つまらん御仁だわ。一言云っておくことにした。それにしても碌なのが居らんな。

 2007.5.20日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評295 れんだいこ 2007/05/21 21:36
 【田中角栄首相の国会質疑答弁】

 過日偶然「田中角栄の国会演説と各党の代表質問」があることを知り、これを取り寄せ、田中角栄首相の国会質疑答弁を知ることが出来た。印象は、角栄が政治に非常に真剣であり、誠実に答弁しており、それも論証的であり、且つ日本語としてもきれいであるということである。これは推測であるが、角栄の答弁は、その過半を角栄自身が認めているのではなかろうか。それほど肉声的であるからである。

 別サイトで「角栄のハト派防衛論」を検証した。軍事防衛論のみならず、平和外交論と国際協調論のくだりを合わせればもっと充実するが、骨が折れるのと長文化し過ぎるので、軍事防衛論のみ抽出した。云える事は、今日の時点からは信じられないほどまさにハト派防衛論であり、それを実際の平和外交と国際協調に結び付けていたことにより、稀有な時代を創っていたことである。

 今日でも左派圏では、角栄を諸悪の元凶として最も悪し様に云うほど左派的であるかのような変な観点がのさばっている。否左派圏のみならずメディア界でも、角栄を悪し様に批判するオクターブを上げた者が出世し要職を得ているやに見受けられる。こういう事情の為と思われるが、タカ派系の改憲策動に対して、同じ政府自民党にかって存在した角栄式ハト派防衛論を対置して論ずるものが居ない。それが為に、迫力の無い、互いが平行線のままの防衛論議、改憲論議、護憲論議が横行しているように思われる。

 れんだいこは早くに現下日共の野坂−宮顕−不破指導部の変態性を指摘している。彼らは左派圏に紛れ込んだ本質体制派であり、その彼らが党内外の反対派に対して反共呼ばわりして批判するのは、そうしないと立つ瀬がないのであろうが、余りにも馬鹿げている。尤も、そうだそうだと相槌を打ってそれに従う者が居るからややこしいだけのことである。

 れんだいこは、このことにつき、我がサイトで宮顕論、不破論、戦前党史論、戦後党史論、学生運動論その他その他で論証している。我々はこういう認識を獲得すべきであるが、未だ認知されていない。れんだいこの論証力不足という原因も考えられるが、今日の左派圏の頭脳の貧困と狭量と本質的に保守的気質の者が結集しているせいではなかろうかとも思う。

 さて、それに比べて、角栄はどうだ。大平、善幸も加えてよい。池田も然りだ。戦後日本の政権党である自民党に存在し、首相職まで務めたが、共通して内治重視主義であり、戦後憲法のイデーを極力尊重した政治の舵取りをしてきた。れんだいこは、ひょっとして彼らこそ在地型社会主義者であったのではなかろうか。とすれば、当時の日本は、世界に類例の無い在地型社会主義を実践していた稀有な国になる、そうまで考えている。

 もっとも、政府自民党はハト派とタカ派の寄り合い世帯であり、憲法と日米安保の二本立て政治をしており、教科書通りに反動保守の体制派とみなせる面も有るには有る。しかし、両者が内部対立しつつ表面的には日本式和的結合で政局運営していたとしたら、そういう弁証法的拮抗構図の中で政治をしていたとしたら、我々はそういう内部の変化にもっと関心を持つべきではなかったか。残念ながら、日本左派運動は、誰が首相を務めようとも、内部構造がどのように暗闘していても、一律的な政府自民党批判でやり過ごしてきてしまった。その実、ハト派駆逐に手を貸し、今日のようなタカ派独裁政権の登場を許してしまった。のではなかろうか。

 ところが、唯一の例外がある。それは60年安保闘争であった。あの闘争で、タカ派のドン岸政権を引き摺り下ろし、その後20年間ハト派主流の時代を築く契機となった。60年安保闘争にはそういう歴史的意義と功績があるのではなかろうか。こういう目で見ると、興味深いことに、左派運動はハト派の時代に隆盛し、人民大衆は勤勉になり、タカ派の時代に沈滞し、人民大衆は勤労意欲を失う。こういうことが判明する。ところが、公認左派政党はつまり社共は、いつの時代でも通り一遍な反政府運動でやり過ごしている。特に日共は、ハト派と徹底抗戦し、タカ派とは表向き批判しつつも是々非々路線を採る気質傾向がある。こういうことが見えてくる。

 あっいつものところへ落ちてしまった。これぐらいにしとこ。結論は、とにかく角栄を再評価し、その政治を再生せしめよ。あれは日本神話上、大国主命の政治であった。そういうDNAがあったということである。こういう観点からの角栄論も望まれているように思う。

 2007.5.21日 れんだいこ拝

Re:民主党の同性愛者擁立について こげぱん 2007/05/22 00:35
 れんだいこさん、こんばんは。
>
>  同性愛やジェンダーフリーを声高に叫ぶ連中が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を声高に叫ぶ関係があるとすれば、問題ですね。れんだいこの判ずるところ、両事件とも史実的には更に考証を要します。むしろ、ホロコーストとの絡みで、「西のホロコースト、東の南京大虐殺」という構図で、現代パリサイ派式反戦平和論理に乗せられている形跡がある。だから、アンネの日記に涙流すのでせう。それは良いのだが、パレスチナ、中近東の悲劇には関心が向かわない。そうだとしたら、やっぱなんか作られている気がしないでもない。

このレズ候補・尾辻氏が自らのブログで「従軍慰安婦」についてコメントしている箇所がありましたので転載します。LGBTはマイノリティと関係が深いせいか、おそらく「従軍慰安婦」などを叫ぶ勢力とは極めて相性がよろしいのでしょう。

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ttp://blog.so-net.ne.jp/otsuji/2005-05-23

中学校の歴史・公民教科書についての勉強会に出席。今回の検定で、いわゆる
「従軍慰安婦」についての記述がすべての教科書から消えてしまいました。ま
た、強制連行の話も大幅に削除されています。今まさに、歴史の教訓が埋もれよ
うとしていることに、強い危機感を感じました。

前にも紹介しましたが、ドイツの戦後の首相ワイゼッカーの言葉。
「過去に目を閉じる人は、現在が見えなくなり、再び新たな過ちを犯す」

(コメントぼそぼそ:些細なことだが、尾辻氏はワイツゼッカー・ドイツ大統領の姓名も肩書も正しく存じ上げないらしい。ただのレズとしてならともかく、政治家としてはいかがなものか。この調子でLGBT外交に乗り出すとしたら恐ろしい。かつてアフガンに行く、と言い張った大仁田厚と同レベルであろう)
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個人的には、「南京」「慰安婦」に限らず「戦争犯罪」は極力刑事事件と同じ手法で科学的捜査をおこない、その結果を待ってから語るべきではないか、と考えていますのでここでは深入りしませんが、「ホロコースト」が米ソのヨーロッパ分割支配やイスラエル建国神話に、「南京」が(抗日戦争から生まれた)中共に正統性を与え、その後様々な問題の発端となってしまったことは問題だと考えています。また旧掲示板にも一度書かせていただきましたが、「戦争犯罪」の正史派の方々が、ワルシャワゲットーを髣髴とさせるパレスチナの現状や、ナチス政権獲得前夜にも似た日本政治をほとんど語ろうとしないことにも不自然さを感じています。歴史学の醍醐味は、歴史から教訓を帰納して、現代の問題解決や未来予測に活用することだと思っていましたが、そのようなことに無関心な御用歴史学者はただの穀潰しにすぎません。塩野氏以下の存在です。

しかし(これまでただの眉中派だと思っていた)角栄が毛沢東以下中国首脳に「南京」を持ち出す隙を与えなかった、ということは知りませんでした(私が物心付いた頃には、角栄はすでに被告人だったせいもあり、このあたりの事情には疎いもので…)。貴重な資料をアップしていただきありがとうございました。

>
>  悪用逆用される可能性は高いでせうね。しかし恐らく、改憲派の「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)」も登場しますよそのうち。

改憲派や著名人のLGBTも恐らく存在することでしょう。しかし、改憲派や著名人はあからさまにLGBTであることを主張するのはしばらく控え、サヨ系LGBTが散々乱痴気騒ぎを繰り返し、LGBTに対する世間の「理解」が深まった後に(現職議員や著名人などなどのカミングアウトという形で)もっとスマートに出てくると推測しています。


Re:御返信感謝⇒詰問調⇒御詫び⇒具体化 れんだいこ 2007/05/22 20:26
 海舌さんちわぁ。今日検索しましたら、海舌さんのれんだいこ評が出てまいりました。「やっと唯物史観が古いことに気が付いた日本人⇒だが、もう遅い!」(ttp://blog.kaisetsu.org/?eid=544679)です。採り上げられることはうれしいことで、一向に構わないと云うか推奨したいぐらいですが、れんだいこの【れんだいこのマルクス主義出藍宣言の辞】(ttp://otd10.jbbs.livedoor.jp/1000013618/bbs_plain)を評したものと思われますが、正しく批評してくれないと困ります。見過ごしても良いのですが、重度のオーバーランが見られますのでご意見させていただきます。

  海舌さんは次のように書いております。

 ◆唯物史観の発想の問題点、また、今、気付いても最早、遅すぎる点についても気付いた方もいる。これも、また、悲惨である。骨董化した『唯物論者』の使い道があるだろうか?
 ◆「れんだいこ」氏は、先日まで侮蔑し、毛嫌いしていた「唯心論」「唯神論」に転向すると言う。但し、この道は、数千年にも及ぶ神学の険しく困難な道であり、世界の多くの知性が若くして道に入り、修行している「場」である。

 れんだいこは、マルクス主義の観点だけでは現代世界を解けない故にマルクス主義出藍の決意表明を先のブログで致しました。だが決して、「『れんだいこ』氏は、先日まで侮蔑し、毛嫌いしていた『唯心論』『唯神論』に転向する」などとは申しておりません。この記述がどこから生まれたのか分かりませんが、海舌さんの思い込みでこのように評されるのは迷惑です。この言葉が独り歩きすると、れんだいこはいつのまにか『唯心論』『唯神論』派にされてしまいます。それはご勘弁願いたい。

 海舌さんは次のように書いております。

 「れんだいこ」氏に言いたい。あなた方は、過去に、多くの粛清をした。思想の浄化である。その大きなポイントの一つが、「神」の存在の否定である。あなた方は、神の存在を肯定するものを侮り、批判し、血を流しても粛清した事実、歴史が在る。これに、頬かむり出来るのか。それが、あなたたちの思想か? 「神」は、あなたがたの人生を全て見ている。自分で勝手な誤解と妄想の中に居るのは自由だが、「神」を否定し、「神」を冒涜し、「神」を排斥したマルキストが、どのような「出獄」経路を辿って、「神」に接しようとするのか、教えて頂きたい。神を冒涜した穢れた手で、そのまま、神の身肌に触れるのか?!これを許す神の宗派は存在しないだろう。特に、シオンは、決して許さないであろう!

 れんだいこは、この程度の評は受けて立ちます。マルクス主義派に付きまとった粛清史は当然反省すべきもので、その要因解析と対策を講じねばなりません。これをもう一つの歴史責任と云うべきでせう・しかし、そのように批判する立場の者は、手前達が粛清史と無縁であったことを論証する義務があります。海舌さんは、「特に、シオンは、決して許さないであろう!」と結んでおりますが問題です。おいおいシオン派にそういう説教されるのは片腹痛いぞ。シオン派をネオ・シオニズム派と言い換えたら、歴史的にも無数、現に今もアフガン、イラクその他各地で残忍非道な戦争とテロを実演中ではないですか。何かおかしいなと云う気がします。

 海舌さんは次のように書いております。

 唯物史観論者、その『世間』での評価は単純、明快である。ダサイ!キモイ!クサイ!
 だから、あなたがたが、脱出しようが出獄しようが、道端を歩く普通の人には無関係なことなのである。オタマジャクシが蛙になったからと言って、普通の子供にとって、ダサイ!"悲しい"キモイ!クサイ!という印象に変化は無いのである。

 れんだいこは、海舌さんが案外お若い方であることをこの一文で見抜きます。れんだいこが評するに当たらないので遁走しますが一言しておきます。その人の精神の彷徨をこのように批判するのは質の良くない権力派の観点ではないでせうか。れんだいこに云わせれば、人は20歳の頃にはそれなりの30歳の頃にはそれなりの以下えんえんと何々歳の頃には何々の分別が伴い、それで良いとすべきではないでせうか。それがいけないとする人には、何やら絶対真理を掌中にすると自称している者の傲慢さを感じます。思想をそういう風に硬直化させ、世間をそういう風に狭量していくものではないと思います。

 2007.5.22日 れんだいこ拝

“マルクスの宗教批判”と“本来のマルクス主義の宗教理論” 如往 2007/05/23 04:59
 れんだいこさん、こんにちは。
 海舌氏との間で交わされる対話がどのような展開になるのか楽しみにしていましたところ、何やら捩れてしまいそうな気配で少し心配しております。不定期にではありますが私は海舌さんのブログにアクセスしています。けれども、最近改新されたミラーはかなり暗めの色調で、しかもとても重くて、私のマシンでは対応に非常に難儀しているような有り様です。つまりは、れんだいこさんへのレスに関するものを探そうとしても前後関係を具に把捉することができずに、戸惑うばかりというのが正直なところです。

 ところで、他者のブログ(掲示板を含む)の言説(スレッド)を自己のサイト内で論評することには少なからず違和感を覚えます。たとえ論評するにしても、先ずは当該ブログにおいて十分練り込んだ上でなされるべきであり、また引用にあたっては少なくとも関係する全文を掲載するのが基本的なルールではないでしょうか。それ故、今回の海舌氏の所作については疑念を禁じ得ません。
 阿修羅の板上にて“海舌”所属のODAウォッチャーズ氏とは何回か交信させていただいたのですが、作法を無視するような御方には見えませんでした。何れにせよ、当事者ではあらぬ私が海舌氏の心象風景に言及するのは僭越の謗りを免れ得ませんのでここまでに止めますが、“マルクスの宗教批判”と“本来のマルクス主義の宗教理論”に関しては、[117 Re:御返信感謝⇒詰問調⇒御詫び⇒具体化 れんだいこ 2007/05/01 11:51]で示されたれんだいこさんの見解は正鵠を射たものだと考えています。

 また、会いましょう。


Re:れんだいこのカンテラ時評296 れんだいこ 2007/05/28 21:42
 【ルターのユダヤ教パリサイ派批判考】

 (れんだいこのショートメッセージ)

 ルター(1483.11.10日-1546.2.18日)の歴史的ユダヤ主義に対する批判を知りたくなった。ルターはカルビンと並んでプロテスタント派近代宗教改革の祖として知られている。ローマ・カトリックの政教一致体制を壊したかったユダヤ教パリサイ派は、この流れを歓迎した。

 ところが、ルターは(カルビンのことはよく分からないのでこう記すことにする)、ローマ・カトリック式宗教体制に激しく抗議し「聖書に帰れ」と叫ぶ他方で、パリサイ派式ユダヤ教に対しても厳しい舌鋒を放っている。今日、ルターのこの功績の前者のみが吹聴され、後者は隠蔽されている。

 ここでは、ルター著「ユダヤ人と彼らの嘘」を検証する。パリサイ派式ユダヤ教に対して、かくなる理論的批判を為し得たのは碩学ルターならではであろう。イエス教、キリスト教に精通し、その宗教的信念を確固たるものに為しえている者にして初めてパリサイ派式ユダヤ教の虚構を鋭く衝くことが出来た。ルターは、単に理論的に検証したのではなく、西欧社会がユダヤ教に飲み込まれないよう実践的な指針まで与えた。それは、深く危惧していた故にであろう。

 その後の歴史はどうなったか。ルターの危惧通りに進む。興味深いことは次のことである。ルターが同書で揶揄していた「本国を持たないユダヤ人」批判に反発するかのように、ユダヤ教パリサイ派はその後ホームグランド創出に向かい、シオニズム運動を生み出し、第二次世界大戦後イスラエルを建国した。その建国過程の非道さが、今日のパレスチナ悲劇、中近東紛争の原因である。もとへ。この限りに於いて、ルターの「さまよえるユダヤ人批判」は通用しなくなっており色褪せてしまった。

 しかしながら、ルターが解剖所見して見せたパリサイ派式ユダヤ教の虚構は、今日彼らが世界支配勢力となり金融と戦争と原子力を牛耳り、彼らの本性を誰憚ることなくさらけだしていることにより、ルター指針の正しさがますます逆証されている。ユダヤ教パリサイ派の社会進出を認めると、こういう結果になるということを予見していた「ルターの指摘」が輝きだしている。

 もう一つ興味深いことがある。ルターは、ロスチャイルド1世(1743〜1812)の歴史的登場とその生態をも予見していた風がある。彼らが、「シオン長老の議定書」をマニュフェストし、現代に繋がる世界支配戦略を始動させた。ルターはかの時、封建制ドイツの諸侯がユダヤ教パリサイ派を金融政商として取り込むことによる危険性に警鐘乱打していたが、事態はその通りになった。

 残念ながら、日本左派運動は、かような史観を全く持ち合わせていない。明治維新以来の高等教育機関は、ネオ・シオニズム・テキストに基く扁平な歴史しか教えないので、彼らに不都合な「ルターの指摘」は歴史の紙くず入れの中へ捨てられている。政財官学報の枢要五者機関が結束して、ネオ・シオニズム・テキストに基く国づくりにばかり励むので、「ルターの指摘」はますます忘れ去られるであろう。

 しかし、世の中には、伏せられたら覗きたい者も居る。れんだいこもその一人である。どちらのテキストが正しいのか、生命力を持つのか比較考察して見たくなる。原書、英訳本、和訳本をまだ手にしていない状態なので、ネット空間に登場した諸賢のそれを転載ないし一部れんだいこ訳させいただくことにする。それにしても歴史に残る良書であろう。

 ルターのユダヤ主義批判考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/religion_christ_protesthaco_rutter_yudayasugihihan.htm

 2007.5.28日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評297 れんだいこ 2007/05/31 20:08
 【「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内死亡事件」考】

 2007.5.28日正午過ぎ、「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内死亡事件」が発生した。事件発生後三日目になるが、この辺りでこの事件に対するれんだいこ見解を述べておく。

 流布されている情報から判明することは、「松岡農相の無念の死というより愚かな死」である。松岡は、大臣のイスを手に入れるためになりふり構わず、去る日、時の小泉政権の陰の実力者飯島にすりより、その後押しで後継安部政権の発足時に農相ポストを手に入れた。が結果的に、引き換えに生命を失った。つまり、大臣イスと生命を引き換えたことになる。

 ぼろ雑巾の如く使い捨てにされた挙句、その死は現役大臣のそれとしては不似合いな虫けら同然に扱われた。「現役大臣松岡農相の議員会館内死亡事件」は、ネオ・シオニストに身も心も委ねた者の哀れな末路を物語っていよう。こう感覚しないとしたら、随分萎えていることを知るべきだろう。

 もう一つ指摘しておかなければならぬことは、各野党、各メディアが官邸発表に対し揃いも揃って何の疑念も表明せぬまま「松岡農相の自殺」を受け入れた上で、色とりどりのコメントを披瀝していることである。この連中は、その昔の田中角栄政界追放以来「覚えさせられた政界浄化運動」が殊のほかお気に入りのようで、病膏肓に陥っている感がある。

 はっきり云っておくが、田中角栄の政界追放運動は無論こたびの松岡農相訴追運動にも裏と闇がある。それを承知で正義ぶった訴追運動し続ける者は、それが右からであれ左からであれ、裏と闇の走狗でしかなかろう。政治運動は万事、それの作用と効果をも弁えねばならず、これも政治責任の一つだろう。これに無自覚なままの「覚えさせられた政界浄化運動」を繰り返すのは既に犯罪的な面がある。

 こたびの事件に対する政治見識として示すべき事は、現役大臣の「自殺?」に対し正当な調査を要求することである。徹底現場検証を要求し、報告させることである。仮に、野党の党首ないしは幹部の「自殺?」が発生した場合を考えればよい。「任意自殺」が判明するまで徹底捜査を要求するべきであろうが。ひょっとして、この場合でも、相も変わらず警察発表を鵜呑みにするのだろうか。

 ましてやこたびの事件には、安倍院政を敷く飯島が、単に黒幕としているだけでならまだしも、「自殺?」現場にいち早く顔を出し、堂々と現場指揮しているのだ。これは特殊れんだいこ感覚かも知れないが、「小泉衆議院議員の愛人小はん変死事件」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/koizumiseikenco/kohanzikenco.htm)の際の手際と酷似していることに気づかされる。

 あの時も、部屋のドアのふちに着物の細い帯がかけてあり、これにより首吊り自殺と断定された。遺書は存在せず、走り書きの「つかれました。ごめんなさい」という紙片が残されていた。検死で自殺と判断されたため司法解剖をしていない。やはり、秘書官飯島がやってきて采配している。こうなるともはや、飯島を国会喚問せよ。警察の捜査調書を開示させよ。こう主張すべきが常識だろう。

 しかしいけない、我らが野党は、こうした疑惑解明には向かわず、こぞって「更なる政界浄化運動」へ向けてボルテージを上げるばかりである。ならば最後に問おう。政界浄化運動が、ネオ・シオニスト派に向けられることは稀なのはどういう訳か。松岡は元をただせば内治派である。変節して猟官運動この場合は大臣ポスト運動に走った訳であるが、要するにそういう転向派出自だからして容易にスケープゴートにされたのではないのか。戦後政治史上、岸、松野、中曽根、小泉といったお歴々のワルがお縄についたことはないではないか。

 せめてこういうことを考えなければ、松岡農相の死は報われまい。

 松岡農相「自殺?」事件考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/abeseikenco/matuokazikenco.htm

 2007.5.31日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評297 れんだいこ 2007/06/01 20:54
  【「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内死亡事件」考の重大な訂正】

 れんだいこはカンテラ時評297投稿で、飯島が「自殺?」現場へいち早く駆けつけてきたと書いたが、勘違いのようで、慶応病院へいち早く駆けつけたというのが実際らしい。飯島の挙動不審そのものは消えないが、これはかなり重要な箇所の間違いなので、伏して謝罪申し上げる。特段指摘された訳ではないが、更に考察中に判明した。どこにも「飯島が現場へ居た」という情報はないのに想定してしまった。

 とすると、飯島が慶応病院で何らかの政治的動きをしたのかどうか、例えば司法解剖せず指令とか、死因に対して意見を挟むとかしたのかしなかったのかという事になる。しかし、ここら辺りは推測で書くには重大すぎるので控えたい。繰り返して伏してお詫び申し上げる。「飯島が現場へ居た」という情報はないところを居たかのように推定して種々書き込みした部分について撤回させていただく。全体が駄文になってしまった。申し訳ない。以降このような書き込みのないよう自重自戒につとめたい。

 2007.6.1日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評297 れんだいこ 2007/06/02 09:42
 【「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内死亡事件」事実確認】

 昨日訂正したが、一夜考えてやはり疑問が残った。れんだいこが 「飯島が現場へ居た」なる情報は、テレビ実況から得たのではなかったか。ならば間違いなかろう。しかし、れんだいこは、朝の出かけ前ならともかく昼のテレビを見ることは滅多にない。今となってはこれを確かめるすべが無い。どなたかご確認してくだされば有り難い。

 ところで、れんだいこには早くも疑問が生まれつつある。松岡農相自殺事件を論うブログは多いが、キーパーソンの飯島の挙動に目をつけているのは殆ど無い。おかしなことであろう。

 2007.6.1日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評298 れんだいこ 2007/06/02 19:58
 【飯島を国会証人喚問せよ】

 「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内自殺?事件」に言及しておく。その第一点は、事件が種々不可解な点を残しているにも拘らず、司直の捜査の手は萎縮しているのではなかろうか。現場検証、関係者事情聴取、リード、脚立、遺言書等々の証拠物の吟味や入手経路等々の捜査は進んでいるのだろうか。

 現役の閣僚の「自殺?」は、格別の捜査でもって、それがどういう事由により引き起こされ、どういう風に死亡したのか徹底的に解明されてしかるべきではなかろうか。参院選に対する影響を論うのは興味本位であり、そういう風に茶化してはいけないそれ以前の次元の違う為すべき肝要事として認識し徹底捜査すべきではなかろうか。

 その第二点は、飯島元小泉首相秘書官が登場していることに鑑み、彼が何をしたのか、その挙動の一部始終を明るみにさせねばならない。彼は自ら、「松岡氏が死亡した日の午前中に、松岡氏の携帯電話をコールしたが応答がなかった」と証言している。この話が実際かどうか、つまり電話したのか、繋がらなかったのかどうか裏づけを取るべきであろう。誰から飯島に連絡が入ったのか、慶応病院へいち早く駆けつけ何をしたのか、しなかったのか解明せねばならない。

 飯島宛の手紙は今どうなっているのだろうか。司直は直筆かどうかも含め、いつごろ書かれたものか、その内容についても厳正捜査しているのだろうか。私信ゆえに公開せずは通るまい。

 れんだいこは思うに、与野党はこぞってキーパーソンの飯島元小泉首相秘書官秘書を国会へ証人喚問せよ。「飯島工作」の全貌を明らかにさせよ。彼が、死因特定、司法解剖せずの判断に関与している可能性が強い。これが事実かどうか、事実としたら法に抵触していないかどうか判断せねばならない。

 その第三点は、れんだいこの情報不足かも知れないが、こたびの事件を担当した医師団の所見が見当たらない不自然さを感じる。誰が担当したのかさえ分からない。担当医師は今からでも司法解剖せずの判断の根拠を示さねばなるまい。

 以上の三点は普通に湧く疑問である。この疑問に誠実に対応しない与野党よ、汝らは揃いもそろってなぜ、事件の徹底捜査と飯島証人喚問の声を上げないのか。松岡農相自殺説に何の疑問も湧かさず当初から受け入れているのはなぜか。

 週刊誌がどのように事件を採り上げているのかにも興味がある。本来なら、不審男飯島をターゲットとした記事が出てもよさそうだが、これまでのところ何やら避けている風がある。この裏には何があるのか。決して偶然では有るまい。日頃、言論の自由を説教しているからには、ここで男ぶりを見せてみぃ。

 れんだいこは、様々のブログに目を通してみたが、飯島に疑惑の眼を向けるそれは案外少ない。むしろ目を向けさせないようあらぬ方向へ引っ張ろうとするそれが多い。れんだいこは、公然登場し傍若無人に振舞った飯島の挙動不審を見過ごすべきではないと考える。徹底追及せねばならないと考える。

 2007.6.2日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評297 れんだいこ 2007/06/05 12:24
 【「現役大臣松岡農相の議員会館宿舎内死亡事件」事実確認】

「飯島が現場へ居たのか慶応病院に居た」のかが分からなくなっていたが、記憶を辿ってみた。れんだいこが滅多に見ない「昼のテレビ」をどうやって見たのかが解せなかったのだが、ようやく判明した。あの日、れんだいこは、知人と昼食を共にし、その時のテレビで事件の発生が知らされ、暫く釘付けになった。丁度救急隊が松岡農相を搬送しているところで、この時確かレポーターが飯島が現場に来ていると伝えていたのではなかったか。

 それが聞き違いかもしれない。なぜなら、2チャンネル速報版で、飯島がいち早く慶応病院へ来たとの報を発しているからである。誰がこれを伝えたのか分からないが、飯島がいち早く現場へ来ていたのと病院へ来たのでは価値に雲泥の差がある。してみれば、「飯島がいち早く慶応病院へ来たとの報」は意図的なミスリードの可能性さえあろう。

 れんだいこにはこれを確かめるすべが無い。報道関係者なら造作ないことだろう。どなたか真偽判定頼む。れんだいこは少々気がかりで落ち着けない。もう一つの気がかりは、週刊誌の事件報道姿勢が変調な事である。飯島の事件発生時の挙動不審を採り上げているものがない。妙にへっぴり腰を感じさせる。過日、言論の自由、表現の自由で一席ぶった文芸春秋に期待するしかないか、注目しておこう。

 2007.6.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評299 れんだいこ 2007/06/05 20:43
 【飯島を国会証人喚問せよその2】

 れんだいこは、松岡農相の自殺?事件をそれなりに整理してみた。気づくことは、どうみても飯島の挙動が不審であるということである。次に、その飯島の挙動が隠蔽されようされようとしていることである。世の自称インテリ、ジャーナリストの多くが、この問題を論じようとしていない。この問題に比べれば、どうでも良いことをさもらしく語って糊塗しようとしている。

 自殺の決め手は遺書複数通にある訳だから、それを鑑定にふさねばなるまいに、されているのだろうか。飯島は、テレビの前で見せた遺書の封書に書かれた宛名を公開している。松岡の直筆かどうか精査せねばなるまいに。安倍首相宛の文言も短かったと云う。死を覚悟した松岡は、それほど稚拙な文言しか残せなかったことになるが、解せない。

 疑えばきりが無くなる。パジャマ姿と云うのがどうも不自然だ。ならば、当日午前中のそれまでに来ていた背広はどこにあったのた。部屋にあったのかないのか、行方不明なのかはっきりさせねばならない。勘ぐるに、背広には抵抗の後があり、出すに出せないのではないのか。

 救急隊の要請のまでの時間も到着までの時間も慶応病院への搬送も、妙に間延びしている。最新情報として、救急隊が駆けつけるまで、松岡農相は首吊りした格好のまま放置されていたという。SPは一体何をしていたのだろう。空白の2時間をつくったことも含めて彼を登場させ証言させねばならない。

 その他その他疑い出したらきりが無い。安倍首相は、支持率なぞに一喜一憂しないと日頃述べている。ならば、現役閣僚の戦後初の自殺?死に対して、徹底捜査を支持するのが政治責任だろう。これを云わない野党もどうかしている。いち早く自殺追認の日共赤旗記事も犯罪的だ。遺言書が唯一の決め手の自殺断定というのは変だろうが。

 それにしても、れんだいこの耳と意識に残っているのは、現場に飯島が居て、遺書を発見云々のレポーター報告である。あれは聞き間違いだったのだろうか。れんだいこが見たのは搬送ではなく搬入で、その慶応病院には既に飯島が到着していたと云う情報だったのだろうか。そうなると、遺書を発見したのは誰か、確か飯島ではなかったかとか疑問が消えない。

 これは難しいことではない。事実を確認すればよいだけのことである。つい先日のことである。どなたか特に現場記者諸氏よ、この疑問を解いてくれないか。このところ寝つきが悪いのだわ。

 松岡農相「自殺?」事件考
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/abeseikenco/matuokazikenco.htm

 20067.6.5日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評300 れんだいこ 2007/06/06 17:30
 【筆坂の恐るべき恥ずべき理論貧困考】

 筆坂秀世著「日本共産党」を、れんだいこは読んでいないが、P.114〜117に次のように記していると云う。

 あの戦時中の過酷な弾圧下で、一二年間も牢獄につながれながら非転向を貫いた宮本氏は、私たちにとっては次元が違いすぎて憧れることすら憚られるほどの大きな存在であった。私が日本共産党に入党して以降も、「仮に宮本さんのような弾圧を受けたら黙秘でがんばることができるか」と自分に問いかけ、到底その自信がない自分に恐れおののいたものである。戦後、いまの共産党の路線をつくりあげたのは、間違いなく宮本氏の卓越した政治的眼力とリーダーシップであった。

(引用以上)

 これが宮顕履歴と評価の通説であるが、れんだいこは、論文集宮顕論(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron.htm)でその大ウソを完膚なきまでに論証している。しかし、通説を信仰的に信じたいのだろう、相も変わらず通説が何の疑問も無く受け入れられている。これを如何にすべきか。通じ無い相手には何を云っても通じないと云うことだろうか。

 一応逐一コメントしておく。
 「あの戦時中の過酷な弾圧下で、一二年間も牢獄につながれながら非転向を貫いた宮本氏は、私たちにとっては次元が違いすぎて憧れることすら憚られるほどの大きな存在であった」について。宮顕が12年間収監されていたことは史実であるが、非転向は疑わしい。というより、非転向というよりも元々当局派の者であり、スパイMと入れ替わるようにして党中央に登場してきた形跡がある。よって、調書も取られていないし、特高暴力にも遭っていない。

 当人が「こいつには何を云ってもムダだ」と特高取調官をしてあきらめさせたなどと主張しているのは出鱈目である。それを真に受ける方もデタラメである。この云いに疑問があるならいつでも論戦してみたい。れんだいこの観点は宮顕論に中で述べている。

 「私が日本共産党に入党して以降も、『仮に宮本さんのような弾圧を受けたら黙秘でがんばることができるか』と自分に問いかけ、到底その自信がない自分に恐れおののいたものである」について。筆坂がそう思うのは勝手だが、対象とするなら岩田、(野呂)、小林多喜二等々即刻虐殺された者とか、半死半生の目に遭わされた者とかであろう。みんな黙秘で頑張って命をとられたり同様の酷い目に遭わされた。黙秘で頑張って敵をあきらめさせたなどとの弁を信ずる方がおかしかろう。サヨ圏にはこういう低脳が多い。

 「戦後、いまの共産党の路線をつくりあげたのは、間違いなく宮本氏の卓越した政治的眼力とリーダーシップであった」について。前段の「戦後、いまの共産党の路線をつくりあげたのは、間違いなく宮本氏」は、今日の日共を作り上げたという意味ではその通りである。後段の「宮本氏の卓越した政治的眼力とリーダーシップであった」は噴飯ものである。

 宮顕総路線が今日の日共のテイタラクを作ったのであり、その後半を不破が引き受けた。中共の長征は誇るに足りるものであるが、日共の長征は讃美されるものではなく酸鼻されるべきことである。日共とは名ばかりの、権力には投降型の穏和運動、左に対しては急進的な撲滅運動という変態運動を作り上げ、戦後左派運動の息の根を止めてしまった。大衆団体の反戦平和運動に分裂を仕掛け、影響力を大きく殺いでしまった。戦前の遺産をすっかり食い潰してしまった。

 議会路線を敷いた当初は景気がよかったが、現在は停滞ないしは後退し続けており、それというのも左派的議会闘争など何もしていない故にである。ネオ・シオニスト奥の院の指令に基づき、政敵のスキャンダル暴露党という役割で利用され、これを引き受けているに過ぎない。人民大衆は食傷しきっている。

 筆坂は党の政策委員長を務めた経歴を持つが、その党及び党史に対する知識は驚くほど貧相なものでしかない。離党した彼が為すべきは自己批判であり、それを通しての日共革命ないしは新党創出であろう。そうすれば彼の働きどころは幾らでもあろう。過去に頬かむりしていては信頼は受けられまい。

 2007.6.6日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評300 れんだいこ 2007/06/07 00:20
 【2007.6.7たすけあい党声明、松岡農相変死事件を徹底解明せよ】

 去る2007.5.28日正午過ぎ、現役大臣松岡農相が、よりによって議員会館宿舎内で白昼堂々パジャマ姿で首吊り自殺?するという前代未聞の不祥事事件が発生した。事件は変死の様相を数多く示しているが、与野党メディア総揚げで「臭いものに蓋をしたまま松岡農相が自殺した」と認定し、事件を一刻も早く風化させようと呼吸を合わせている感がある。

 我がたすけあい党はこういう体制翼賛式不正を許さない。我が党は、松岡農相を自殺認定するには早過ぎると考える。何よりもこのところの政局の裏指揮官である飯島前小泉首相秘書官の公然登場による事件もみ消し工作の臭いが強過ぎると考える。飯島がどう関与したのか徹底解明せずんば、事件は総括され得ないと主張する。飯島を直ちに国会へ喚問せよ、証言させよ。

 国会に議席を持つないしは持とうとする党派は、議会制民主主義の名誉にかけて、国会開会中の国会議員の国会議事堂近くの変死に関して徹底解明を要求せねばならない。ましてやこたびは現役閣僚である。現役閣僚の死がかくも粗雑に処理されることは断じて許しがたい。このような事態が横行するのは、現国会議員が総じて識見を喪失しているとみなさない訳にはいかない。総員脳死状態にあると断ずる。

 メディアは、松岡の愛人問題、事件の参院選への影響、安倍政権の命運等々に話題を転じているが、野党は早くも次のネタで政府批判に向かって正義ぶっているが、一蓮托生の政治ゴロでしかない無様さを見せていよう。一事万事で、一つのことをきちんと突っ込めない者が何を取り上げても同じことの繰り返しだろう。今為すべきは、徹底した事件解明以外に有り得ない、有り得てはならない。これが見識とならなければならない。

 我がたすけあい党は、政界全体がそれほど深くネオ・シオニズム派に篭絡されている様を認める。事件はネオ・シオニズム派により引き起こされ、真相隠蔽と風化も叉ネオ・シオニズム派により画策されていることを見て取る。日共が次の政治ネタで目をそらさせようとしても、既にお里が知れている。我々は何度も騙されない。

 まもなく参院選が来る。我が党が自前候補を立てられない現状に於いては、憲法改正を廻る党派の見解と立候補者の姿勢を支持基準にしようとしている。我がたすけあい党は、松岡農相変死事件の由々しき闇と不可解により、各党派各議員のこの事件に対する態度をも基準にしようと思う。目下、まともな見識がどの党派からも出されていないが、事件そのももの持つ重みが否応無く政界を揺さぶり続けることになるであろう。今からでも遅くない、事件声明を発し直せ。

 思うに、この事件の遠因と真因を解明する過程そのものが、小泉−飯島派を駆逐する闘いとなろう。逆に言えば、小泉−飯島派はあちこちに手を回し、鎮火に躍起となろう。だがいけない、こたびは飯島が現場へ出向き過ぎた。出向かざるを得なかった緊急さがあったものと思われるが、これが致命傷となった。松岡事件はいわばニトロとなり、小泉−飯島派の心臓部へ吸着している。後はいつ発火するかだけのことである。

 我がたすけあい党は、この事件を決して風化させない。事件解明のけん引役となりたいと思う。我が党の息の掛かった候補者を国会議員に送り込み登壇させ、爆弾質疑させたいと思う。どうかご支持を賜らんことを。

 事件については、松岡農相「自殺?」事件考で考察した。   
 ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/abeseikenco/matuokazikenco.htm 

 2007.6.7日 たすけあい党党首れんだいこ




(私論.私見)