時事評論(3) |
中西功についてその二 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月20日(水)20時42分01秒
1945.10.10日獄中党員が釈放された。その夜、「32年テーゼ」派の徳田球一と、人民戦線派の中西功が、情勢分析と闘争方針について白熱の議論をしたことが伝えられている。10.10日は一夜留め置かれたはずであるので、アメリカの兵隊の銃剣付きの監視の中での論争であったことになる(真偽は不明)。
論争のテーマは当面の情勢分析、共産党の戦略・戦術を廻ってであった。この時、行司役を買って出たのが三田村四郎で、「この討論は実に重要だと思う。徳田さんは何と言っても日本の運動については大先輩だし、一番よく知っている。同時に中西君は新知識だ。この討論を感情に走らず、みのりあるものにさせたいので、私に交通整理をさせてくれないか」(中西功「死の壁の中から」)と仲裁役を申し出たとのことである。結局は、徳田が中西を圧倒し、「32年テーゼ」路線で党運動が開始されていくことになった。
人民戦線派は暫くなりを潜め、山川均、荒畑寒村らの民主人民戦線派と地下提携しつつ、「ある期待を込めて」野坂の凱旋を待つことになったようである。野坂が天皇制問題などに柔軟性を持つ新知識派であることが漏れ伝わっていたからであった。当然ながら、この時点では、野坂のスパイ性について思いが及ぶなぞ考えることも出来ない、もう一方の希望の星的存在であった。中西はこの一晩の論争で徳田に疎んぜられることになり、復党は翌1946.5月になって細川嘉六の紹介で入党するまで、約10ヶ月近く棚上げされることになった。
「二段階革命論」については次のように云える。今日的視点から見れば、戦後運動の当初より、「社会主義的な労働者政府」の樹立(仮にこれを「一段階革命論」と云う)が目指されていないということになる。「32年テーゼ」あるいはディミトロフの人民戦線理論の影響であったものと思われる。今日から判断すれば、この時期の方針として、社会主義革命に向かう社会的諸情勢の機が熟していなかったかどうかは疑問である。それが良かったかどうかは別にして、可能性は大いにあったと思われる。但し、GHQ権力との調整が必要になり、出来ない相談であったかも知れない。このことに関する石堂清倫氏の、「戦前からの日本共産主義運動が、国内製の方針の時は、直接の社会主義革命を志向するのにたいして、コミンテルン製のテーゼは、つねに民主革命にひきもどした」は根拠のある言いであることになる。
かくて、戦後党運動は、以後現象的な行動面におけるラジカルさが見られることがある場合においても、本質的には穏健派志向であったということである。「人民共和政府」の樹立戦略(仮にこれを「二段階革命論」と云う)は、「民主主義革命を貫徹して後社会主義革命に向かうという革命的展望」を掲げながらも、実は直接的には社会主義革命には向かわないと云う内部規制的な玉虫色戦略であったとみなすことができる。但し、この時期の指導部には、「保守政府を打倒して天下を取る」という自信をみなぎらせていたことは事実であり、その後「社会主義革命に向かうという革命的展望」についても確信的な強い決意があったことを否定するものではない。
この時期湯本正夫(山本正美元党中央委員長)が社会主義革命論を唱えていたのが注目される。但し、当時の革命的熱気のほてりの中でかき消されたようである。同氏は、戦前の天皇制が絶対主義であり、この打倒を優先課題にしていた「32年テーゼ」の意義については認識を一致させていたが、敗戦後の変化に拠り、天皇制はブルジョア化したという評価から、次は社会主義革命を打ち出すべきではないか、と主張した。
「かくて今や舞台は一変して日本の国家権力は最新的民主主義的資本主義国たるアメリカの支配下に置かれ、その執行権は半封建的な夾雑物を奪去されつつ近代的な金融資本として自己の改変を余儀なくされた、日本のブルジョア及びそれと抱合しつつある官僚の手に移っている。この限りにおいて−即ち国家権力のブルジョア的要素への移行という限りにおいて−日本の民主主義的変革の重要なモメントは一応達成せられたと見るべきであろう」、「今日の段階の日本の変革運動の当面している基本的課題は、既に我々が従来規定したところの『民主主義革命』のそれよりも一歩進んだところのものを包含してきている」、「変革の進展と階級勢力の力学的関係の中心移動は、変革の主要打撃力の方向が次第にこの階級(大ブルジョアジー)に向けられつつあることを示しているのである」(「現段階と労働者階級」東京新聞.45.12.2)。この山本正美の観点は、さすがに戦前の党委員長であっただけの堂々たる分析であったと思われる。中西功の社会主義革命論と共に考証の余地があると思われる。
中西功についてその三 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月20日(水)21時08分15秒
中西は、戦後のこの時期の党の指導方針の対立から入党を許されていなかったが、46.6月頃「彼はこの誤りを認め、党規律に従い、特に反幹部言動を慎み、党の方針を忠実に実践することを誓約して入党を許可された」とのことである。とはいえ、中西の社会主義革命論は党内に一定の支持を得て次第に中西グループを形成していくことになる。宮本−袴田グループとも又違う独自の動きを見せていくことになる。
中西の入党事情を見れば、この頃早くも党中央による意見の相違に対する暴力的排除が為されていことを物語っているが、逆に入党許可されたことも見ねばならないように思われる。これが徳田系党中央の真価であって、「六全協」以降の宮本系党中央にはそうした度量は有りえない。「異端に対する強権論理による排除」はますます強まった、と私は見ている。
この時期の徳田−志賀執行部から徳田−野坂−志賀執行部の移行過程においても社会主義革命を直接目指す動きは全く見当たらない。既述した湯本正夫(山本正美元党中央委員長)とこの中西の社会主義革命論が唯一といってよい主張であった。それを退けた執行部の姿勢には、単にこの時期の党の理論的能力が「社会主義的な労働者政府」の樹立を目指す力量を持ち得ていなかったことに帰因していたのではなかろうかと思われるが、戦後革命闘争が破産していく過程を見るとき、中西の社会主義革命論で運動を組織して行っていたらどうなっていたのだろうかという思いは残る。そういう意味で照射されるべき動きではなかったではなかろうか。この中西に関する資料がないのでコメントしにくいが、野坂理論との類似点で、統一戦線の必要から「天皇制打倒」を正面から打ち出すことに慎重論を唱えていたということでもある。これ以上はわからない。
1947年秋、中西功は「社会主義革命論」を発表している。この時期中西功は、「民主評論」(11.12月号)紙上において新庄千光の名で、GHQの広範多岐な日本民主化政策に拠り絶対主義が消滅したとみなし、「我々の解明すべき現代日本革命の根本問題とは何か。その第一は、現代日本革命の性質である。それがブルジョア民主主義的性質か、それとも社会主義的性質かという判定である。具体的に言えば、長い間、日本人民の課題であった日本のブルジョア民主主義革命は対極的に終わったのか、それともまだ継続しているのか、という問題である」と設問し、「こうして、日本におけるブルジョア民主主義革命が終わり、次は社会主義革命が日程にのぼった」と「直接社会主義革命」を目指すべきと主張している。
今日注目すべきは、このような反党中央の見解が堂々と発表されることについて党内的異論、批判が為されなかったということであろう。
1949.9.9日中西功は、500枚にのぼる意見書を党中央に提出した。これは、この年の上半期闘争の指導の失敗に対する批判から出発して、過去に遡り党の戦略.戦術.組織方針の全分野にわたって詳しく検討し究明していた。彼は戦後から一貫して社会主義革命の戦略方針を第一義にしており、民族的独立の課題に対しても「これに従属化する戦術的な中心問題」に過ぎぬとしていたので、綱領問題からして基本的に徳田執行部と相違していた。しかし、彼の指摘した徳田執行部の闘争戦術批判.党内官僚主義批判には聞くべきところ大なるものがあった。その為に党内から封殺される運命にあった。この頃から党内における徳田の家父長的指導への批判が高まっていくこととなった。
このような中9.22日「第17回拡大中央委員会」が開催された。中西に関するところだけ抜書きすると、9.28日先の中西意見書は志賀報告により次のように断罪された。「同志中西は党中央部が彼の意見を取り上げないと不平の口調でいったが、彼は第一、自分だけが正しい理論家であるといううぬぼれに支配されている」、「中西の思想は左翼日和見主義である」、「同志中西は、党の規律と党内民主主義との関係がよくわからない。今後党指導部は、この点を十分考慮して、同志中西の指導に当たるであろう」(志賀「同志中西の偏向について」)。
この時党は、中西に対し、次のような党内規律を課している。興味深い面があるので以下記す。一.論文を書くとき、必ず中央委員会の同意を得て、発表すること、二.あらゆる場合に党の方針に反した意見を、勝手に発表しないこと、三.党の決定に従って行動すること、四.党の方針に反した従来の著書は今後出さないこと、五.彼は従来どおり、国会内と党本部内で仕事をしてもらうこと。党の指導機関は、同志中西の傾向に対してたえず忍耐強い態度で指導してきた。だが党の基本組織で活動した経験の少ない同志中西は、党の規律と党内民主主義との関係がよくわからない。今後党指導部は、この点を充分配慮して、同志中西の指導にあたるであろう。
中西功についてその四 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月20日(水)21時21分08秒
翌1950年早々徳田−野坂体制は思わぬところから痛撃を受けた。1.6日、日本の新聞各紙が一面トップで、ブカレスト発UP電の、コミンフォルム「恒久平和と民主主義のために」の発表した「日本の情勢について」論評が党内に大激震を走らせることになった。その発表のされ方も異常であった。公党間の友誼的原則に則ったのではなく、このたびの発表はまずは外電で海外から知らされると云う不適切さであった。
この「論評」で、野坂参三の「平和革命コース論」が全面的に批判された。日本がアメリカ帝国主義に従属されつつ新たなブロック化を形成しつつある動きを踏まえて、独立と公正な講和とアメリカ軍の撤退など「平和のための決定的闘争が必要である」ことを指摘しつつ、曰く、概要「日本の政治、経済はいっさいアメリカの侵略政策と、その侵略政策に基づくアメリカ占領軍の行動によって左右されているにも関わらず、日本共産党の指導者野坂は、『占領軍は日本を植民地化する意図を持っていない』として、『アメリカ占領軍が存在する場合でも、平和的な方法によって日本が直接、社会主義へ移行することが可能である』と主張しているが、これは『ブルジョア的な俗物的な言辞』であり、『帝国主義占領者美化の理論』であり、『マルクス.レーニン主義とは艶もかりもない』ものである」として、野坂理論を厳しく批判していた。
徳田執行部にとって、コミンフォルム批判は寝耳に水であった。国会に大量進出を果たし、例え流産したとはいえ「9月革命による人民政権近し」という認識の下奮闘していた数ヶ月前からほどない時の「論評」であり、徳田書記長の面子丸つぶれの構図となった。
1.9日党中央委員会と統制委員会は、「党かく乱のデマをうち砕け」を早速に発表して対応した。曰く、「同志野坂に関するUPその他の電報は党の結束をかき乱そうとする明らかな敵の挑発行為である。我々がもし外国電報を信ずるなら、同志スターリンは、既に二十たび死んだであろうし、同志毛沢東は、十たび誤りを犯したことになるであろう」、「こうした挑発行為に対しては、常に全党員はこの種の党かく乱の陰謀にいささかも惑わされず結束してたちどころにこれを粉砕しなければならない」と声明した。つまり、当初は「論評」をデマ視していたことが知られる。
「論評」が報道されると同時に中西功は、読売新聞その他に「コミンフォルムの批判はまったく道理に叶ったものであり、昨年来中央に批判を退出してきた時分の見解に合致する」という趣旨の談話を発表し、党中央のこれまでの指導責任に言及した。中西のこの時の気持ちは、長年の主張の正しさがこのたびのコミンフォルム論評によって裏付けられたとするものであったと思われる。
1.10日統制委員会は、党撹乱者として即座に中西除名の手段を取った。「ブルジョア新聞」を利用して一方的宣伝をし、党の幹部を誹謗し、党内結束を乱したことが「党の規律違反」だとされた。統制委員会名で、概要「中西功は1946年6月入党以来つねに反幹部活動を継続し、たびたび党規律に違反して明らかに分派活動を行うに至った。ここに我が党は党破壊者となり下がった中西功を党規約に従って除名するものである。最近の外電の報道を機として直ちに反動的情報網と結託して公然党の攻撃を開始し党破壊の挙に出た。党はこれらの反党活動を調査し、彼の反省を求めたるにも何ら反省の色を示さず、ここに統制委員会と政治局の合議に拠り党規約第53,54条に従って中西功の除名を行うものである」と発表している。中西は、記者団にこれへの反撃声明を発表した。
その後「論評」はスターリン直筆のものであるという仰天すべき事実が明らかになるにつれ、党内に更なる衝撃が見舞うことになった。この時「コミンフォルムの若僧何をぬかすか」と徳田が激怒していたと伝えられているが、当時ソ連共産党は世界の共産党を指導するというプロレタリア国際主義の原則があり、そのソ連共産党を指導するスターリンは、ソ連国内のみならず世界各国の共産党運動にあっても偶像的な英雄でもあり、当時の党員の感覚においては絶対服従の指令に他ならないものであった。
中西功についてその五 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月21日(木)17時28分22秒
(この連載は迷惑かなあ、少し気にしています。ご意見をばお聞かせください。現行の党史からはスポッと抜けている部分です。それにしても、ヴィヴィッドですよねぇ)
1.11日「論評」の受け入れをめぐってあわただしく政治局会議が開かれることになった。この時の会議が大混乱することになった。その模様は次のようであったと伝えられている。徳田書記長は、真っ赤になってテーブルを叩きながら、「我々は、これまで直接、国際的な指導を受けたことはない。自主独立の立場でやってきた。日本としては、日本の事情がある」、「今のコミンフォルムは、ユーゴ非難しかやっておらん。そんな者の云うことを、まともに聞けるか!」、「我々は赤旗に、コミンフォルム論文の攻撃を掲載、堂々と渡り合うべきだ」。
これに対し、志賀.宮本の二人が無条件受け入れを主張した。「共産党は、国際的な組織であることに値打ちがある。コミンフォルムの批判を、友党の批判として無条件に容認すべきだ」と主張し、党中央を揺さぶった。この主張によって国際派と云われることになる。
政治局は戦後初めて原則問題で意見が割れることになった。党中央側の中央委員は、徳田.野坂.伊藤.志田.紺野、長谷川(長谷川はこの時大阪に出かけており、欠席していたが、当然徳田系である)の6名。反党中央側は志賀.宮本の2名であった。
結局採決の結果徳田派が制し、1.12日中央委員会政治局は急遽、「『日本の情勢について』に関する所感」を、待ちかまえる内外記者団30余名を前に伊藤律が発表するところとなった。ここから党中央は所感派とも云われるようにもなる。曰く、「同士野坂の諸論文は、不十分であり、克服されなければならない諸欠点を有することは明らかである。それらの諸点については、既に実践において同士野坂らと共に克服されている」、「日本における客観的並びに主観的条件は、一定の目的を達成するにあたって、ジグザグの言動を取らなければならない状態に置かれている。それ故に、各種の表現が、ドレイの言葉を持って現さねばならないときもあるし、また回りくどい表現を用いなければならないことも存在する。かかる状態を顧慮することなくして、外国の諸同志が、わが党ならびに同志の言動を批判するならば重大なる損害を人民ならびにわが党に及ぼすことは明らかである。この意味において、この論文は、日本におけるもっとも誠実な人民のための愛国者である共産党がいかに行動すべきかについて、充分な考慮をはらっていないことを、きわめて遺憾とする」と困惑と不快の情を吐露した上で、概要「論評の野坂批判の結論は、人民大衆の受け入れがたいものである。同志野坂は、もっとも勇敢なる人民の愛国者として大衆の信頼を得ている」と居直ってしまった。
志賀.宮本2名の政治局員、3名の書記局員が、この「所感」に対しても反対した。今日野坂の正体が暴露されているが、不覚にも徳球党中央は、野坂を陣営に取り込んでおり、かくも庇っていた。この辺りが虚虚実実でややこしいところである。
1.26日経過は不明であるが、中西が自己批判し、参議院議員の方も辞任している(「参議院議員辞職に当りて」)。この時の声明では、党幹部の誤った方針や官僚主義と闘ってきたことは正しかったが、「国際的批判が出て以後の私の取った行動は誤っていた」として、自分の軽率さを反省、「私の誤りは、国際批判の偉大さを正しく評価し得ず、極端な反幹部派的派閥主義に陥り、反動勢力の反党宣伝に利用された点である」とし、「共産主義者としての政治的進退を明らかにする為」参議院議員を辞職した、とある。
こうして党内は執行部派の徳球党中央派と反対派=国際派の軋轢が深められて行った。執行部派は、「『所感』に批判的意見をもつ指導的幹部に対する無原則的な監視と排除の活動を強め、主に伊藤律がその任務に当たった。伊藤律は、中央機関紙の編集責任者の地位を徹底的に利用活用した。「志賀意見書」問題を摘発し、志賀派を押さえ込みにかかっている。宮本派、春日(庄)派、神山派らも監視された、と伝えられている。留意すべき点は、一切の分派活動の精神的支柱に「志賀・宮本ライン」があるとして、両名に対する監視態勢が敷かれていったことである。
【中西篤編「中内功意見書」出版される】3月に入って、中西功の弟篤は、「この公開によって起る全ての責任は私個人が負うものである」との立場から中西功が前年9月に執筆した意見書を修正、補筆の上、高田書店から出版している(中西篤編「中内功意見書」)。こうして公然と分派闘争を開始することになった。後に機関紙「団結」を発行し始めたことから「団結派」と呼ばれるようになる。
五十年分裂時の状況について。 投稿者:れんだいこ 投稿日:
6月25日(月)20時18分22秒
(一人でしこしこ書くのも趣味ではないが、まぁいいか)
この間の1.26日批判者グループの頭目であった統制委員会議長兼政治局員・宮本顕治を九州地方党組織(福岡)に左遷した。宮本グループの反対にも関わらず、政治局の多数決採択により「九州地方議長としての長期派遣」を決定した。この時点では執行部である徳球グループの方が優勢であったと云うことである。凡そ9対1の比率であったとされている。
「私は政治局員であると同時に統制委員会議長を兼ねていたが、1950年1月末、九州地方の指導に長期に赴け、ということが徳田から提案された。政治局の討議の上、多数決で決定された。私は不同意であったが決定には従った。同時に中央の団結が破壊される危険を一層強く感じた」(宮本「私の五十年」)とある。「中央の団結が破壊される危険を一層強く感じた」とは、宮顕らしい言い方で、本人がなりふり構わず党中央との闘いを決意した、ということである。
統制委員会の宮本の後がまには、統制委員会議長代理として椎野悦朗が座った。椎野の下で統制委員会は、反対者の行政処分や官僚的な排除工作を加速させていくこととなった。ちなみに椎野は、1993.4.5日死亡(享年82歳)したが、死の直前まで「戦後の総括をしているんだ」とつぶやき続け、周囲の人たちはその誠実さに胸を打たれたと伝えられている。ついでに伊藤律のことを記せば、1989.8.7日死亡、「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」と語っていたと伝えられている。私はこのグループこそ日本共産党中央の紅いラインであったと思っている。この逆裁定現象こそ立て直さなければ、日本共産党の再建なぞありえないというのが私の見解である。
徳田.伊藤律らは、宮本を九州へ飛ばした上でなおかつ宮本の関与しない党機関を九州につくった。つまり、地方党機関としての九州に宮本の関与する正式な党機関外に徳球派ルートがつくられたということになる。これは機関運営上問題となるが、この時点で徳球が宮顕を単に党内路線上の対立者というレベルにおいてではなく、党内撹乱者=そのスパイ性を疑っており、時局柄止むを得ず取った変則であった。そう理解するのが正確な読み方であろう。
これを裏付けるように次のようなエピソードが伝えられている。3月頃徳田は病気で寝ていた。この頃既に余命いくばくかの身であることが当人と周りの者のみ知らされていた。亀山が見舞いに行き、「志賀、宮本と協調してやって欲しい」という意見書を渡したところ、徳田の怒りは凄まじく、起き上がりざま意見書を叩きつけて、「あいつらが何を考えているのか、お前等に分かるもんか」と大声をあげ、その剣幕にたじろがされたと伝えられている。その他志賀は関西に、神山も市民対策部長から退けられた。春日庄次郎を労働組合部長のまま休養を命じる。後に亀山幸三も財政部長から罷免されている。
五十年分裂時の状況について、その二。 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月25日(月)20時25分38秒
1950.4.28−30日にかけて「第十九回中央委員会総会」がひらかれた。この総会の眼目は、党の分裂の危機にどう対処すべきかにあった。党内の混乱と、この後すぐに実現する党非合法化の危険をはらむ緊迫した情勢の中、徳球執行部は党の闘争方針の見直しに懸命となった。「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」が党内に配布された。これが「戦略戦術に関するテーゼ」(50年テーゼ草案又は徳田草案)と称される重要文書となる。
この草案は徳田書記長名の論文という形式をとっており、徳球執行部の渾身の力を込めた闘争戦略見直し提案であり、党内問題の様々な分野に言及した長文であった。徳球は、これを基礎に全的討議を呼びかけた。これが踏み絵として党内に配布された。
この時徳球は病魔に侵されていることは既述したが、その徳球の最後の気力をふりしぼっての闘いとなった。徳球は、綱領草案を提出するに当たり、概要「この秋に党大会を開く予定であり、これは秋の大会に提出する草案の、そのまた草案であり、この草案の根本問題に対する中央委員の反対意見がある場合は、どんな少数の反対であっても、これを公表する。各党機関並びに、各党員の意見も、重要と認められる場合は、アカハタ、前衛その他の方法で発表する」と確約していた。党中央所感派グループがGHQにより追放されたため、秋の大会は実現しなかったが、当然ながら徳球の責ではない。
草案を全党討論に付すという措置は、これまでにない事例となった。その背景にどのような事情があったにせよ、このこと自体は党内民主主義の前進であったし、徳球らしい陽性の指導により為されたものであったと推察し得る。
戦前では、形式的には日本の党代表も参加しているものの、綱領的なテーゼは全てコミンテルン執行委員会において作成されており、戦後になって初めて自力で作成されるようになった。第5回大会宣言と第6回大会提出の綱領草案が党自身の力で打ち出されていたが、これらはまだ正式綱領となっていなかった。この意味から、今度の徳球草案は、党創立以来初めて党自らの手で作り出し、これをもとに決定的な綱領を打ちだそうとした点、その為に中央での反対意見の提出から全党の自由な討議を許そうとした点で、まさに画期的であった。
しかし、反対派は、これは先の「第6回党大会」で決定された綱領起草委員会を経由して提出されることなく、徳田が起草委員会にも政治局にもはからないで提出した書記長私案であるとして、内容以前の形式においてこれを攻撃した。なるほど党及び中央委員会の民主的集団的運営の原則に照らして変則であったが、それほどまでに対立が激化していたということであった。にも関わらずこうした形式を突く批判は宮顕の常套手段であり、それに幻惑された当時の国際派グループ、あるいは現下党員もまたおぼこいということになろう。
志賀.宮本、神山、蔵原、亀山幸三、袴田、春日庄次郎、遠坂良一等はテーゼ反対を表明して排除された。こうして中央委員会は事実上分裂した。反対派を排除した後、総会は、「(アメリカ大国主義の攻撃に直面して)全政治局員をはじめ全党員が一致団結して戦い、分派主義者、党かく乱者に対する闘争によって、党の戦列をかためる」ことを強調した決議を満場一致で採択した。テーゼ草案の方は審議未了として、秋に予定されている党大会まで一般討論の討議に付すことに決められた。以後、徳球派は、反対派を強行処分する傾向を強めていくこととなった。
「50年テーゼ草案(徳球草案)」について。 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月26日(火)11時58分17秒
この草案の政治的眼目は、@・野坂理論の本格的な見直しを経て徳球理論が全面展開されていたこと、A・コミンフォルムに詫びを入れ指導に服することを声明したことにある。にもかかわらず問題は残された。既に戦後の党の歩みが日本的な独自の歩みを為す自主的能力を獲得しつつあった証左ではあるが、依然として批判された野坂理論の「不確定戦略」革命論に基づいており、その影響を引きずっていた。この草案は表面的な詫びの陰に隠れて玉虫色の折衷を随所にちりばめていた。このことは徳球執行部の限界でもあった、とみなすことができる。
その例を見ておこう。草案の眼目は、天皇制と地主、特権官僚の遺制をどう評価するのか、もっとも大事な点はGHQ占領権力とどう闘うかにあった。だが、今日的に見て、革命戦略に関するの面での権力規定において「トロイカ論」と呼ばれる、旧戦略方針の形式的変更に過ぎぬ欠陥を残していた。
すなわち、第一は、天皇制については、概要「独自性を保持する特権官僚の存在と共に、弱められながらもいまだに存在している」として主要攻撃対象としていた。第二に、封建的土地所有に対しても、概要「地主的土地所有が農地改革で消滅したと考えているものがいるが、これは間違いであって、地主は富農的性格を濃くし、また官僚との結合によってその地位を維持している」として、戦後の農地改革による自作農創設の意義を過小評価していた。第三に、独占資本に対して、概要「独占資本はその地位を次第次第に高め、比重は相対的にも高まった。だが戦前と同様にその独自的性格の基礎である重工業、特に冶金工業、機械製作業が弱い欠陥を持っている」として、この頃の独占資本がその後の奇跡的な発展に至る萌芽期にあることを動態的に見通せなかった。
こうして三権力を原理的に規定しつつ、概要「それ故に、それを補うものとして、天皇制に代わる外国の力を重大な頼りにしており、国内体制においても、反封建的階級関係の残存を必要としている。これを要するに日本の反動権力の構成は、国際独占資本に御されているトロイカのようなものである。その三頭のうち独占資本が優位であるのが特徴である」としていた。
ここから、党の闘争戦略・戦術を、概要「当来する日本共産党の任務は、国際独占資本の支配から民族を解放し、これと結合して従属的状態のもとに、軍国的帝国主義を復興しようとする日本の反動勢力を一掃して人民の民主政府を樹立し、社会主義の達成に前進することである。それを為し遂げるためには人民民主主義を通らなければならない」としていた。
結論としてのこの現状分析は、今日にも通用するかなり的確な纏めのように思われる。問題とすれば、「国際独占資本と結合して従属的状態のもとに、軍国的帝国主義を復興しようとする日本の反動勢力」の下りであろう。特に「従属的状態」の内部変化を動態的に観て規定しているのか、ということが問われるであろう。「軍国的帝国主義を復興しようとする」も同様であるが、単に戦前並みの日本軍国主義化をしようとしているのではなく、戦後の新秩序に照応した新帝国主義化の動きとして捉えなければ、実際に照合しないのではなかろうかと思われる。この見地から見れば、この時の規定はまだ海のものとも山のものともはっきりしない玉虫色でさえある。後に党中央を握った宮顕グループは、この規定を汲みつつ極めてステロタイプ化させた没弁証法的公式主義的な形式化に捻じ曲げていくことになる。
「50年テーゼ草案(徳球草案)」について、その二。 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月26日(火)12時04分21秒
以上を革命理論とすると、実践面は次のように接木されていた。「日本の資本主義の発展はすでに帝国主義段階に入り、現在はきわめて独占的形態にあるが故に、革命の発展は必然的に急速に社会主義の達成に向かわねばならない。だから当面する革命は強力な権力を持って、障害物を排除して社会主義に至るまで革命は継続されねばならない。この任務を果しうるものは、プロレタリアートの独裁だけである。ここに人民民主主義革命の階級的性格がある」という「串刺し論」的認識の舌の根もかわかぬうちに、「われわれのおかれている条件ははるかに困難である」、「直ちに社会主義に飛躍することはできない。ここに日本における人民民主主義革命の特異的内容がある」と野坂理論を折衷させていた。ちなみに、この野坂理論は後に登場する不破理論に酷似している。
同じことは運動論にも見られる。「わが党はいうまでもなく、労働者階級の精鋭の結集であり、そしてマルクス.レーニン主義によって武装され、厳格な党規律にもとづいて真に人民のために挺身する部隊であるからである。それ故に、民主民族戦線が革命に役立つようになるかならないかは、すべてわが党の責任に帰するものである」と云ったかと思うと、「わが党が革命のテンポに遅れないようにしなければならない」、「大衆の革命的成長の程度を無視し、多数の意志を蹂躙してわれわれの綱領をおしつけてはならない」、「大衆の態度がここまで成長しない場合は、日本の現実の条件に即して大衆の中立的要求を支持し、われわれの宣伝と事態の発展に応じて(云々)」と玉虫色にさせていた。
興味深いことは、この草案文中に、「これを誤るならば、左翼的偏向を犯すものであり結局トロッキー的方向に自らを陥れるものである」という記述が見られることである。どうやらこの時期からトロッキイズムが急進主義の代名詞として公的に使われだしたものと思われる。こういう観点から、社会主義革命を呼号する中西一派に対して、「結局、トロッキー主義的傾向に陥るものである」と規定していた。
社会党との関係も論じられていた。その他「分派の問題」がここではじめて認識されている。「『従来行ったことはすべて誤謬である』という観点から、すべてをご破算にして出発しなおそうという主張がある。それは清算主義であり、非マルクス.レーニン主義的誤謬である。とくにそれが指導的地位を争う利己心と結合する場合は、党内にブルジョア.デモクラシーを引き入れ、分派闘争を激生することになる。わが党内の一部にもいまこの傾向がおこっている」と指摘するものの、この対分派闘争において、今日の宮顕方式に見られるような狡猾な内部統制の仕組みづくりまで対策を講じようとはしていない。徳球執行部の楽天的な攻めには強いが守りには弱い性格が反映されているとも云えよう。特に、宮本グループに対する罵倒は党内討議の節度を失っていたと評されるほど激しく為されており、党内の混乱をいっそう助長することになった。この徳球派対宮本派の対立は、既に非和解的様相を帯びていることが注目される。
「議会闘争の位置づけ」も討議されていた。当時議会闘争に対置して「議会外の行動、とくに経済的ゼネストやあるいは現在の瞬間においてパルチザン戦争遂行までに妄想をはしらせるものがある」と記述があるところからすると、そういう欲求を支持する勢力が存在していたということになる。これに対し、徳球執行部は次のように応えている。「議会闘争が悪いのではない。議会闘争のみが目的となり、それが社会民主主義的改良主義的戦術に陥る場合に悪いのである」と。議会の活用の意義についてエンゲルスの次の言葉、「議会闘争はプロレタリアートの議会外闘争を組織するための学校であり、補助手段である」、又レーニンを引用しながら、「かってボルシェヴィキ党内でも、時をかまわず大衆の動向もかまわず国会を無視しすべての議員を召還しろという戦術を主張した者に対して、レーニンはこれに反対し、国会における闘争が大衆をして敵を知らしめ、革命的戦術を理解せしめる有用性を教えている」(レーニン主義の基礎)との観点から両方向の闘争を目指していたことが知れる。
【この当時の各グループの主張】について。 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月26日(火)17時59分47秒
問題を更ににややこしくしたのは、日本革命の展望を、@.民主主義革命におくのか、A.民族革命も含めるのか、B.社会主義革命におくのか、C.その際強行転化を目指すのか、漸進的に向かうのか、D・一挙に社会主義革命に向かうのか、E・党運動に自主性を求めるのか、国際主義でいくのかを廻って口論乙論が飛び交うことになった。まさに歴史が最も鋭く回転し、革命的情勢に接近した時点で理論的諸問題が噴出し、「挙党一致で党内の分裂を促進させていくこととなった」という悲喜劇を見せることになる。
基本線を要約すると次のようになる。所感派は、現段階における党の任務を「社会主義革命への過渡的段階である人民民主主義革命の達成」としており、国内権力関係の分析では、「国際独占資本の支配下に、国内の独占資本、天皇制官僚警察、残存地主というトロイカで従属している」という認識に立っていた。その革命達成方法論において、大衆の民族意識を盛り上げつつ、「まず国際独占資本に従属している国内の権力機構の打倒」=ブルジョア民主主義革命を優先し、しかる後急速な社会主義革命への転化を主張していた。こうした理論の骨格の延長にアメ帝からの民族解放の課題を組み込んだ観がある。
これに対し、国際派は、徳球党中央への反発から形成された反対のための党内反対派グループで、その理論に自前のものもなく、ソ連共産党との連帯強化を旨として、その指示するところ何でもその通り式の民族の独立を妨げているアメ帝の打倒こそ優先されるべし、を一致点とする野合的共闘でしかなかった。この指摘通りであることがこの後の推移ではっきりしてくる。国際派内の面々は7者7様の反対理論であり一括りは難しいが、敢えて共通項を見出せば、ブルジョア民主主義革命の社会主義革命への急速な転化論を主張する徳球党中央の急進主義に反対し、漸次的な社会主義移行革命論に依拠していた観がある。但し、袴田は更に右派的に、民族解放、民主主義革命を主張するものの社会主義革命に向かう綱領に反対し、ブルジョア民主主義革命の要求への限定を主張していた。神山・遠坂良一らはもっと右派的で、植民地型革命を主張していた。これは、民族解放闘争の視点ではたまたま翌年採択される「51年新綱領」にかなり近い立場であるが、社会主義革命は更に後景に退けられていたという点で極右的であった。付言すれば、この右派系が宮顕グループに結集していくことになる。これらの流れと別個に、日本の国家権力を「国際独占資本と日本独占資本との二重的結合」であると規定し、直接社会主義革命を目指そうとする中西派がいたことは既述したところである。(その他グループの理論については未考察)
そういう革命理論の考察とは別に分派で見れば次のようになる。
@・徳球党中央グループ、
A・国際派・志賀グループ(野田弥三郎.宇田川.高橋秀雄.成冨健一郎.姉三郎ら)、
B−1・国際派・宮本グループ(宮本・蔵原・袴田・遠坂・原田ら中国地方委員会、新日本文学会、全学連グループ他や学者グループ)、
B−2・春日(庄)グループ(春日・亀山・増田、関西地方と労働組合グループ)、
C・中西グループ(労働調査協議会と全自動車労組本部、日産自動車細胞、古在由重、佐藤昇ら)、
D・神山グループ、
E・統一協議会の福本和夫グループらがいた。
こうして日本共産党内の「50年分裂」は、全党的規模で公然化し、抜き差しなら無い抗争へと激化していくことになった。この時期の春日庄次郎の次のような指摘がある。「いわゆるテーゼ草案の大衆討議は、選挙中の党員の努力を散逸させないためとの考慮から選挙後に廻された。ただ一つ、強力におこなわれ始めたのは、いわゆる分派との闘争である.五月の党機関紙アカハタ紙上にほとんど毎日にわたって掲載された分派に対する闘争のために書かれた諸論文、除名、細胞解散等に関する記事等をみてもその状態を知ることができる。特に統制委員会の分派に対する検索はその度をこえてほとんど宗教審判の如き状態を示した」(50年問題資料集2-151)。
【この当時の各グループの主張】について、その二。 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月26日(火)18時10分26秒
ところが、1955年の六全協以降、春日が行動を共にした宮顕執行部が出来上がってみると、この時の徳球指導部の「宗教裁判の如き状態」よりもなおひどく且つ陰湿な党内統制に見舞われることになった。その挙句党を飛び出すことになるが、春日からは「これでは徳球時代よりひどい」と端的に指摘する観点からの自責は聞こえてこない。
これは志賀、中国派、神山、中野ら各個撃破で順次党より放逐されていくことになった連中の共通の癖であるが、この「五十年分裂」期に宮顕に引きずられ思うままに操られた手前たちの行動を鏡に映しきれていないぼんくら性に起因していると思われる。
興味深いことは、この後レッド・パージが始まり、党中央分裂、朝鮮動乱へとなだれ込んでいくこの時点で、もっとも党内団結と指針づくりが必要なこのご時世下でこのような醜態を見せていったことであろう。これを偶然と見るか故意と見るか、その判断は各人に任せたい。
この時期の反党中央派の面々に対して、徳球の人物評価メモがある。興味深いのでこれを掲げておく。
宮本について、概要「同志宮本の批判は、全体を通じてみて、いわゆる、ブルジョア学者的である。自分の書いているテーゼが実行されるかどうかは問題ではない。彼の考えていることが全面的に言葉に表現されているかどうかが、同志宮本にとっては一番重大な問題なのである。ブルジョア学者的であり、自分が権威だと思う文献によってものごとを処理している」。
神山について、「同志神山の批判は特徴を持っている。それは彼が知っているであろうと思われる共産主義に関する一切の知識を概念的に配置しておいて、これと異なるものをすべてとらえて論評を加えている。なかなか才人に見える。だが、そういうことが必要であろうか。私は否という、というのは事実上これでは論評になっていないからである。我々は一定の目的に向かって論議しているのである」。
袴田について、概要「それは実践についての強い主張である。だが一体、それは誰がやるのか?彼自身はこれをやる責任を免除されているのか?を聞きたいのだ。同志志賀その他の人々の云うこととはまるで反対になっている。だが行動は一緒だ。これが反幹部活動の特徴である」。
蔵原について、概要「彼もやはり文献主義者であり実際を知らない。この意見書が何よりもそれを物語っている。この反対論にはこうした子供らしさがみなぎっている。彼の権力や革命の性質等に関する反対論も、こういう態度から出てきていると考える。子供らしい言い分」
春日(庄)について、概要「左翼的跳ね上がり屋の代表で、何か欲するところがある」。
亀山について、概要「彼はまったく気が狂っているのではないのか」。これには注釈を要する。れんだいこがこの意味を詮索するのにこう云う意味ではなかったか。亀山の政治理論、行動履歴からすれば、当然徳球系と与するべきなのに、この時機こともあろうに自身の政治的立場と明らかに違う宮本糸と行動を共にしている不自然さを、気が狂っているとしか思えないと云い為したのではなかろうか。そういう意味から云えば当たっているからである。
といった調子のコメントを残している。私が目にしていないだけかも知れないが、中西功についてコメントが為されていないようである。察するに、このコメントは要注意人物に対して為されたものではなかったか。このコメントを徳球の尊大さとして評する向きも有り不評を買った。事実、宮顕らはそう指摘して一蹴した。
私は違う見方をしている。身を挺して党中央の責に預かった者が感じ取った人物評論であり、後世の者に向けて発せられた貴重なメッセージではなかったか。そう思えば、ことごとくが的確無比な比喩をしていることに気づかされるであろう。
【中央委員会の分裂】について 投稿者:れんだいこ
投稿日: 6月27日(水)09時31分31秒
(きりの良いところまで後少し書いておきます)
4.30日「第十九回中央委員会総会」では引き続き、強められつつあった官僚的指導の克服が最終議題として予定されていたが、伊藤律が突然、日本共産党弾圧についての重大情報なるものを持ち込み、それを口実として急遽会議がうち切られた。会議の後、徳田は党本部近くのアジトで、野坂参三.西沢隆二.伊藤律.志田重男.紺野与次郎らを集めて、「今後政治局員・宮本顕治、志賀義雄を除外して、政治局員・長谷川浩を加えて、非公然組織の準備をすすめる」ことを申し合わせた。政治局内に党中央派フラクションが形成されたと云うことになる。こうして中央委員会委が瓦解した。この頃の党員数23万6000名と発表されている。
その意味するところは、執行部が暴力的に反対派グループ(特に宮顕排除が眼目であったと思われる)を排除したと云うことである。徳球対宮顕及びそのそれぞれのグループ間には、既に組織上何らの意思疎通も存在し得えず、どちらが倒すか倒されるの闘いへと発展していたということであろう。史実は、宮顕派の勝利で決着し、この系譜が今日まで党中央を牛耳っている訳であるが、この奪権闘争の道のりは容易なものではなかった。以降、徳球派がどう闘い敗れたかが本来の「五十年問題」の総括であるべきだろう。
政治局員宮本顕治.志賀義雄を除外しての非公然組織の旗揚げをどう総括すべきであろうか。今日の宮顕体制においては、この経過は、「これは党の組織原則に反して、党中央の内部に事実上の徳田派を分派的に形成する重大な誤りであり、政治局と中央委員会の統一的機能を破壊し、党解体、分裂の第一歩を踏み出すものであった」(「日本共産党の65年」P132)と総括されている。
しかし見てきた通り徳球系と宮顕系の対立は既に非和解的であり、特に宮顕系をスパイ.撹乱者集団とみなしている観点からすれば、時局切迫の食うか食われるかの局面においては執行部のやむを得ない措置でもあったとみなすことのほうが自然であろう。この状況認識抜きに徳球系執行部の方から分派したなぞと総括するのは形式主義の愚でしかなかろう。どこの世界に圧倒的多数派の主流派のほうから分派する必要があるのと云うのだろう。
【「GHQ」の公職追放指令、
「レッドパージ」】党中央が予見していた通り、遂にGHQは、強権による共産主義者の排除に踏み切ることになった。GHQは、そもそも戦後直後においては共産党を戦後改革の重要な担い手と考え、行きすぎは許さないまでも一翼として助長させる政策を取って来た。その方針が180度転回したことになる。
6.6日マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日本共産党全中央委員24名全員の公職追放を指令した。翌6.7日アカハタ編集委員追放と称して17人が公職から追われた。聴涛克巳主筆.高橋勝之編集局長等。こうして日本共産党が非合法化されることになった。同時にアカハタをはじめとする党機関誌の発行の一ヶ月禁止が指令された。6.16日国家警察本部は、集会・デモの全国的禁止令を出した。
【党幹部非公然体制に入る
】党中央9名の中央委員が非公然体制に入った。徳田球一.野坂参三.志田重男.伊藤律.長谷川浩.紺野与次郎.春日正一.竹中恒三郎.松本三益の面々であった。宮本.志賀らの反主流幹部を置き去りにしたままの地下潜行であった。強い不信があったいうことである。後事は手はず通り椎野らに託された。こうして非公然の「中央ビューロー」が組織されることになった。野坂は表向きの窓口代表として公然面に残った。この時の野坂の動きが胡散臭いのであるが、徳球ー伊藤律系は上手に利用しようとして却って裏切られることになる。この後の史実が語るところは、野坂ー志田ー宮顕・袴田ラインの異様な結びつきである。
現在の党史では、この経過が次のように述べられている。「この弾圧に対して、徳田等は、正規の政治局会議や中央委員会をひらいて党中央の意志と統一をはかり戦う処置をとらず、これをやることを求めて党本部に宮本.神山が訪れたが、徳田派はまともに対応しなかった。徳田派は、意見の違う7人の中央委員(志賀義雄.宮本顕治.蔵原惟人.袴田里見.春日庄次郎.亀山幸三.神山茂夫)を排除して、一方的に地下に潜って連絡を断った」。果たしてこのような書き方で当時の状況が正確に伝わるであろうか。乱暴姑息な歪曲以外のなにものでもなかろう。
【臨時中央指導部】について 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月27日(水)09時45分06秒
マッカーサーの追放令を受けて、(追放命令は20日間の事務引継の猶予期間を与えていたが)、党中央はかねてよりの手筈に従い地下に潜り、アカハタ紙上に、統制委員会名で、「共産党は人民と共に不滅である」を発表して弾圧に屈せず闘う宣言を発表する一方で、椎野悦郎を議長とする8名(輪田一造.杉本文雄.多田留治.鈴木市蔵.聴濤克巳.河田賢治.谷口善太郎)の「臨時中央指導部(臨中)」を確立し、アカハタ紙上で「『臨時』指導部の任命について」を発表した。同時に「1950年6.6ファッショ的弾圧による中央委員会全員の追放に伴い、中央委員会の機能は実質的停止のやむなきにいたった」として、中央委員会の事実上の解体を是認した。
この「臨中」の下に地方委員会、都道府県委員会、地区委員会、細胞に至るまで合法組織と非合法組織の二重組織が確立されていくことになった。こうして今後は「臨中」が中央委員会に替わって時局の対応に向かうことになった。以降弾圧の下で闘う党の非公然体制を準備する方針を具体化していった。
徳球以下の面々は地下に潜り非公然体制に入ったのに比して、反主流派の7名の中央委員(志賀.宮本.神山.袴田.春日.蔵原)は特段の対応を組織し得ず、それもそのはずというべきか所在が確認されれば良いという程度で、何らのお咎めも受けていない様子である。
徳球らの地下潜行とは逆に、宮顕は九州から帰還したようである。「1950年6月6日、私は福岡で、マッカーサーの命令で吉田内閣からの執行として、日本共産党中央委員全員の追放という、ニュースを聞き、急ぎ東京に帰ってきた。直ちに党本部に赴いて徳田書記長等の政治局のメンバーとの連絡を求めたが、要領を得なかった。まだ政治活動の自由を合法的に認められている二十日の猶予期間内に、政治局.中央委員会を開いて今後の措置について協議すべきだと主張し、その後も引き続き本部に赴いてこれを主張したが、状態は変わらなかった。そのうち、統制委員の椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部なるものが設けられて、我々と連絡を切っている政治局員たちがその背後に居るということが話されるようになった」(宮本「私の五十年史」)。
ここは宮顕がドサクサの中で東京に立ち戻り、徳球系党中央の一糸乱れぬ対応策に棹差している様をみてとるのが良いように思われる。「二十日の猶予期間内に、政治局.中央委員会を開く」ことが可能であったか、必要であったか。「そのうち、統制委員の椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部なるものが設けられて」の記述も意図的な不正確に過ぎる。党中央は即刻かねての打ち合わせ通りに「臨中」を設置しているというのが史実である。
袴田の「私の戦後史」によって、この時の国際派の動向が次のように明かされている。「公職追放を受けた者は、政治活動は禁じられていたが、後は所在さえはっきりさせておけばよかった。法務府特別審査局から出頭命令があつても顔を出しておけば問題なく、私たちは地下活動をする計画がなかったから、ほとんどが出頭に応じていた。これに反し、地下に潜行した徳田派の9幹部には、不出頭の理由(団体等規制令違反)で、逮捕状が出された。もっとも、公安にすれば、国際派幹部とていつ地下に潜るか分からないわけだから、見張りをつけることは忘れなかった」とある。袴田には認識がないようであるが、国際派が如何に公安筋と友好関係にあったかを証左するものではなかろうか。
党中央分裂について雑感。 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月27日(水)10時02分39秒
党中央の分裂を他方から見れば、党の統一的機能は破壊され、党は事実上解体され、党の分裂を決定的にしたということでもあった。こうして以後5年間の分裂時代に入っていくこととなった。追放命令は20日間の事務引継の猶予期間を与えていたから、宮顕の主張するように、この間に政治局会議.中央委員会総会などを開いて、指導の新体制について意思統一をし、具体的に後継体制の処置をしておくことも理論的にはできた。
しかし、中央委員会の分裂状況からして主流派は意図的徹底的に宮顕とその息のかかるグループを排除したまま事を遂行したのではなかったか。その結果、「この発表は統制委員会の任命という規約にない形式で為された」として、反主流派の執行部批判の口実を与えることになったが、やむをえない措置ではなかったか。
なお、統制委員会名で発表するのであれば議長だった宮本を関与させる必要があったが、宮本に諮らず統制委員会としての会議がひらかれていなかったにも関わらず統制委員会名で声明が発表されたことにつき、「二重の意味で違法行為」として宮顕グループに執拗に攻撃されることとなった。「『臨時中央指導部』は中央委員会の解体であり、解党主義であり、分裂主義である」、「(執行部自ら中央委員会の機能停止是認する)このような見地は、マッカーサーの命令を党大会の決定、党規約に優先させるまったく明白な誤謬であり、党の民主集中制の原則に対する重大な解党主義の誤謬であった」(P134)と攻撃された。
宮本グループによるこれらの批判を状況から見れば、為にするあまりにも形式的な論拠でしかないであろう。この時執行部は既に宮顕グループと決別していたのであり、宮顕グループに相談しなかったというより意図的に排除したのであるから、そのことを批判するということ自体無意味な批判でしかなかろう。そのことと、既に事態は非合法化の最中である。その対応策を党の機関で公然論議すると云う手法はあり得にくい。そんなことをすれば、当局に情報が筒抜けになってしまう。つまり、宮顕グループの批判こそ二重の意味で為にするものでしかない。
志賀は後年この時のことを回想して、「日本共産党史覚え書」の中で次のように述べている。「1950年6月、私は、徳田球一、野坂参三とともに、アメリカ占領者から無法にも追放された。だがその時、徳田・野坂らは巧みに地下に潜った。私や宮本顕治、春日庄次郎は地上に取り残された。宮本は、徳田らを『不当に中央委員会を分裂させたもの』と非難して、統一委員会をつくった。あの場合、党中央の責任者で多数派の先頭に立っていた徳田が、コミンフォルムの野坂批判を認めた以上、急速に朝鮮南北の対立が激化し、日本を基地とするアメリカの戦争が不可避な情勢のもとで、分裂した中央委員会全体の会議を待たずに、徳田・野坂らを地下にもぐらせたのはやむをえなかった、と私は考えている。だから、追放後も法律上与えられた20日間の善後処置期間に、中央委員会が集まって協議すべきだったという宮本の主張は、手続き拘泥論であった。そんなことをしていたら、徳田も宮本も全員が逮捕されたことは間違いない」。
党中央分裂後の動き 投稿者:れんだいこ 投稿日: 6月27日(水)13時16分39秒
(一応これで締めくくります)
このように党内が大揺れしている時期の6.25日に朝鮮動乱が勃発している。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8月北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。マッカーサー元帥は、すぐさま国連決議を得、アメリカの朝鮮戦争の介入が始まった。日本はその前進基地とされた。
こうした背景から戦後の占領政策が転換され、それまでの日本の軍事機構一掃に重点が置いていたのが逆にこれを利用する方向へ断が下された。さしあたり日本防衛隊で、朝鮮有事に米軍が派遣された後の手薄になった日本の防衛を任務とした警察予備隊7万5000名の創設、海上保安庁8000名の拡充が指令された。こうして「軍隊の卵」のようなものとして警察予備隊が創設され、これが今日の自衛隊の前身となる。
【「全国代表者会議」】こうした状況の中6.18日「臨中」の召集によって全国代表者会議がひらかれた(「第3回全国協議会」とされる)。会議の眼目は、幹部追放後の党指導部体制確立をすることにあった。会議は非常事態における措置として「臨中」設立を確認した。潜行9幹部と「臨中」との関係は裏と表に位置づけられた。
【「臨中」による分派規制】「臨中」は、7.4日統制委員会の名で「分派活動の全貌について」を発表した。この文書は、志賀.宮本.春日(庄).増田格之助(統制委員).遠坂ら執行部に批判的な組織グループや党員を分派主義者、分裂主義者ときめつけ、「憎むべき挑発者、分派主義者をうちくだかねばならない」と訴え、全国の組織に対してこれらの人々を排除する「除名カンパニア」を全党的に繰り広げた。このカンパニアに反対する者は分派主義者というレッテルが貼られ、組織的に排除されるか除名でおどかされるかした。その際「50年テーゼ草案」への賛否が踏み絵的に利用された、と伝えられている。
これを反「臨中」派から見れば、「まさに全党員が団結し一つになって戦わねばならないそのとき党員相互の間に大きな混乱と疑心暗鬼をうみ、党の分裂は中央から地方へと拡大し、大衆団体の分裂にも波及し、大衆運動の指導にも不統一と混乱を引き起こした」と批判している。してみれば、お互いが分裂責任を罵倒しあっているということになる。
こうして中央委員会の解体と分裂は全党の分裂に発展した。相互に除名し合う混乱が生まれた。大衆団体内の党員の対立と分裂に波及し、大衆運動の指導と不統一と混乱を拡大した。この間、「反対派も関西地方委員会、中国地方委員会をはじめとして公然と旗上げをするに至った。とりわけ、原田長司、内藤知周に率いられた中国地方委員会の決起は、中国地方の党機関と党員の圧倒的支持を受けている点で、全党員に奮起を促すというアピールを発した点で画期的であった。機関紙『革命戦士』は全党に発送されたが、私たちはその堂々たる論陣に接して感動し、大いに力づけられたものである」(安東「戦後日本共産党私記」)とある。この時の中国地方委員会の態度は宮顕グループに百万の援軍に等しいものであったが、宮顕党中央が確立されて以降次第に冷や飯組みにされていくことになることは周知のところである。
これに対し、「臨中」.統制委員会は、中国地方委員会常任委員の除名と委員会そのものの解散を含んだ「中国地方の分派主義者に対する決議」を発表した。地方委員会全体の解散措置というのは党史の上でも最初の事例であった。関西地方委員会も大きく揺れた。「臨中」派と反「臨中」派が相互に泥まみれの抗争を開始した。こうして主流派と国際派両派の抗争は、各地方各府県のいたるところに拡大していった。党機関だけでなく、あらゆる大衆団体.大衆組織にも広がった。新日本文学会も揺れた。
この後各分野にわたってレッド.パージの嵐が見舞うことになった。9月から11月10日までの間に民間主要産業342社9524名と各官庁公務員1177名合わせて1万701名がパージされた。この時大衆的な抵抗はほとんど組織し得なかった。党は活動基盤を根こそぎ失った。
コミュニケーションになってるか 投稿者:国忠崇史@管理者 投稿日: 7月
4日(水)22時29分58秒
どうかというのは、大切なことだと思うのですが・・・
れんだいこさん、御自分のサイトにこれらの論考を載せられた上で、「こういう風に考えております」とでもリンクしていただければ良いのですが・・・。
どうも、連続投稿というのは(その内容が例え良くっても)電子掲示板上での他者とのコミュニケーションにならない危惧があります。ばいきん仙人さん等の御投稿もずーっと奥に消えてしまったわけで、・・・うーん困ったなあ。
れんだいこ来れば、不毛の荒野に。 投稿者:名無し 投稿日: 7月 5日(木)01時11分15秒
さざ波通信「理論・政策・党史」欄然り、ヒゲ戸田「自由・論争」掲示板然り。
勝手に「出稽古板」にされ、第三の放射能汚染地域になる前に(なりかけてるけどね)叩き出すが吉。
どうせ自前のHP内に4つも大層な掲示板を抱えているのであるし、書く場所には不自由してないであろう(藁)。来客には不自由しているようだが(爆笑)。
核爆級オナニスト=れんだいこを全戦線から放逐せよ!
私も気にしてません 投稿者:ばいきん仙人 投稿日: 7月
5日(木)22時05分58秒
私だって別にレスが彼方に行ったくらいどうも思っておりません。
管理人と同じような印象は持っていますが、セクト語を見るのも
良い印象は持てません。
ああ、雷が鳴っている
TA切らなきゃ落雷で昇天しそうなので、このへんで(^o^)/~~
いやいやそこまでは 投稿者:国忠崇史@管理者 投稿日: 7月
5日(木)21時25分32秒
思ってないですよ。
管理者であるワタクシの無能のせいでもあります。白井さんが居た頃はもうちょっと介入して差配してくれたんですが、僕はどうも管理的なことが苦手なんです。
色々異色な人士を「叩き出す」ことで今までの左翼はやせ細って来たのが現実ですから、排除しません。でもれんだいこさんには何とか「コミュニケーションになりうるカキコ」を心がけていただきたいッス。
(私論.私見)