時事評論(2)

『戦後革命論争史』にまつわる裏話。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 5月26日(土)18時36分59秒
 上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯の裏話し(真相)について、宮地氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/kenichi.htmの爆弾内容をまとめてみました。宮地さんには事後報告でご了承願うつもりです。

 石堂氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の出版と廃刊の経緯を知らない人が多いようですから一筆しておきますとして、本書の出版の経緯について次のように明らかにしています。れんだいこが意訳して概要を整理しました。

 「運動史研究」にも触れていますが、あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を元にしています。一同が50年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論が続きました。その頃はまだ無名時代の上田耕一郎が筆録しましたが、内野以下五名は50年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。討論の成果を内野君がまとめ、内野の名義で出版するはずのものでした。

 ところが、内野が超遅筆で一向に進捗しないので、待ちきれない大月書店がやかましく言い始めました。代わってまとめようにもそれぞれの者も時間がなく、窮余の一策として上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申し出、一同それもよかろうと承諾したのが実際の経過です。

 こうして、討論を筆記してきた上田君が内野君に代わって執筆することになったのでした。『戦後革命論争史』の出版事情はこの通りです。あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田君が持っているわけはなく、内野以下五名が持っていたものを提供しています。もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくはない。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして「私的」のものではない。

 こうして『戦後革命論争史』は1956年12月と翌年1月に出版されました。これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。私が「現代の理論」に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです。

 ところが、その後の経緯は不明ですが、上田はその後内野グループから離脱し、宮本派に鞍がえをしてしまいます。その後宮本レジムの政治局員にまで昇進しました。宮本君は『戦後革命論争史』に対して最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、上田兄弟を自己批判させ、『戦後革命論争史』絶版を迫りました。そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すべきだったのですが、まるで自己の著作であるかのように絶版措置をとりました。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきでしょう。まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があります。

 最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場があります。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論でありますが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのでしょうか。 

 以下、れんだいこ私見を添えておきます。石堂氏はインテリという格調からであろうが、淡々と事実だけをメッセージしている。これをれんだいこ流に分かりやすく翻訳するとこうなる。上田は、本来であれば、後書きで共書的出版経過を報告すべきところを意図的にはしょっている。つまり、トンビの油揚げないしは手柄の横取りをしていることになる。最高指導者宮本が特に好むタイプであるということであろうか、その後両名は宮本の懐に入り込み出世階段を上り詰めていき今日の地位にある。だがしかし、こういう手合いの出世主義人士が党中央に君臨しているということ自体恥ずべきことではなかろうか。やはりこのラインは入る党を間違えている気がしてならない。



【社交ダンス論争】について 投稿者:れんだいこ  投稿日: 5月28日(月)16時35分34秒
 これも参考になるかと思われます。(手前味噌ながら、わがサイトから引用しました)

 1947(昭和22)年1.1、1.5、1.8日アカハタ紙上に、ぬやまひろし(西沢隆二)による「新しい文化運動のために」論文が発表された。概要「今日みにくい接吻映画や不自然極まる性欲文学が多量に清算され、敵階級は、人間なら誰でも持っている本能に呼びかけて人間を堕落させようとしている。我々もまた、この生きる力に呼びかけて、それを正しく指導するように努めなければならない。そのため、まず第一に取り上げなければならないのは音楽と舞踊である。党及び組合の幹部は、この事実をよく見定め、音楽及び舞踊の持つ特殊な重要性を考え、充分慎重に、充分大胆に、社交ダンスをも含めての一切の労働者音楽と舞踊とを大衆の日常闘争の中から組織しなければならない。封建的な生活様式がこの一点から崩壊し始めるであろう」と「社交ダンス活用論」を主張していた。

 先の第2回全国協議会での徳田書記長報告が文書化された際、「註」としてこの西沢「新しい文化のために」路線が後押しされたいた。「あらゆる平和闘争手段を動員すること。特にこれまで弱体であった文化闘争を重視して、特に大衆活動に適する音楽と舞踊(社交ダンスを含む)を我が党の指導においてこれを奨励すること、これが重要である」。

 「生理的自然の要求からの躍動が声になっては音楽になり、動作となっては舞踊.ダンスになる。これは大衆的な大きい躍動である。これが実際の生理的要求から音楽となるのである。既に敵はこれを運用して、現状では闘争を滅却せしめるために音楽を与え、舞踊を与えつつあるのである。これに対し、我が党内がこれを管理し、我が党の影響下にある大衆の管理によってこれを革命的な方向に運用しなければならないのである。文化的な闘争が階級闘争において大きな武器であることを我々は忘れてはならないと思う」。

 西沢はこれに力を得て、1.20日アカハタに「文化革命のおとずれ」を発表した。「歌と踊りの文化政策に反対する者は、それを取り上げる勇気が涌いてないか、既にオイボレているのか、封建的な影響が、今なお強くそれらの人の感情を蝕んでいるためにほかならない」と書かれていた。こうして、党は、ダンスパーティーを全国的に展開していくことになった。

 これは蔵原−宮本の文化政策に対する徳田党中央からの批判でもあった。これに対し、蔵原は、「大衆の間における文化運動−日本における文化革命の基本任務」(文連の機関紙「文化革命」2月号)論文で、概要「大衆の文化的欲求に追随してそれを充足するだけでは『大衆追随主義』に陥る」と述べて、西沢論文を批判した。

 宮本は、3.30日アカハタで「文化運動の前進」論文を発表した。概要「音楽やダンスなど大衆向けの文化活動は、卑俗趣味への無批判的な追随である」、「日本人民大衆の教養と文化向上に永久に限界をおくのは正しくない。映画.演劇.文学.スポーツ.ダンス.音楽のいずれにせよ、そのうちどれだけが『最も大衆的』と決め付けてしまうことも根拠がない。最も遅れた大衆の面白がることさえやっていれば、民主的文化の創造なんかは、やがて自然に解決できるものと考えることは、文化革命の重要な任務の一つを事実上捨てることになる」、概要「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」と反論している。

 これに対して、徳田は真っ赤になって「社交ダンスに階級性などない、プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と怒ったと伝えられている。こういうところにも、徳田と宮本の暗闘の火花が散っていた。

 ところで、西沢と宮本は戦前の「リンチ事件」に関わる同志であり、「西沢は宮本の心酔者」であったから、ダンス論争での西沢対宮本論争も眉唾な面があるにはある。



徳田書記長の自己批判について、その@ 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月 2日(土)19時30分18秒
 徳田書記長の自己批判書とは森浩二郎名義で為された論文のことだと思われますが、羽派さんが念頭に置いているのはそれのことでしょうか。以下少しコメントしてみます。森浩二郎名義での自己批判が出される経過を見てみます。

 1951(昭和26)年1.24日付「内外評論」に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表され、武装闘争方針が力強く提起されています。ここまでの徳田系党中央所感派と宮本系国際派の違いは、徳田系が右派的であり、宮本系が左派的でした。

 ところが、徳田系が武力革命を提起するや度肝を抜かれて、今度は国際派が右派系になります。何の事は無い、宮本は、徳田が現実路線を目指せば右派的だといいなし、左派的路線を打ち出せば極左的と云い為し、とにかく何かに何まで「ああ云えばこう云う論」で反対して党内をかき回します。

 2.23日から秘密裡に「四全協」が開催され、「51年綱領」.「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定しました。「51年綱領」は、武装闘争方針を宣言していました。それは党結党以来初めての軍事方針の打ち出しでした。「51年綱領」は野坂式平和革命路線を全否定し」、「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成し得ると考えるのは、間違いである」としていました。

 この背景には、朝鮮戦争の後方兵站基地として機能している日本での後方撹乱により、朝鮮戦争を優位に進めようとする当時の国際共産主義運動の方針があったようにも思われます。状況的には、3月に国連軍最高司令官マッカーサー元帥が、「中国本土爆撃も辞さず」と声明し、中共政権そのものを崩壊させようとする戦略を用意し始めたという切迫した情勢がありましたので、これらを考慮に入れる必要があります。結局、トルーマン大統領はそうした考えを「好戦的」と判断し、こうして両者は対立し、4.11日トルーマンはマッカーサーを解任しています。

 この党中央の新方針は、当時の全学連の闘士たちに動揺と歓呼の声を上げさせました。国際派ブレーンは宮本と直通して動かず、歓呼派は工作隊となり、山村工作隊、都市ゲリラ隊となって挺身しました。これは、良し悪しではなく、当時のニューマとして考えれば充分に根拠あることだったと私は考えています。

 宮本らは、「統一会議」を組織し、この党中央方針を貫徹させないよう奮闘する明らかな分派活動に入りました。徳田執行部の新方針を極左冒険主義と断罪し、「民主民族戦線の発展の為に」などの方針を打ち出して対抗しました。これは史実ですから何も隠すことはないのです。ひょっとして正しかったかも知れませんし。

 問題は、党中央の提起した武装闘争も時局的に見て証文の出し遅れの観があったこと(既に朝鮮動乱はドンパチが済んでこの時小康状態に入っていました)、ママゴトのような火炎瓶闘争に終始したこと、治安警察の能力がはるかに上回り封殺されたことにあります。

 事態を深刻にさせたのは、「二つの共産党」による選挙戦が闘われたことです。4.23、4.30日全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われました。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せました。大衆の面前で、徳田党中央派と宮本統一会議派が、同じ共産党を名乗って抗争を繰り広げました。徳田系は、首長選挙では社会党の受け入れ為しに一方的に社共の「統一候補」として社会党候補者を推薦するという選挙方針を採りました。東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推しました。

 これに対し、統一会議派は、反帝の態度が曖昧な候補の推薦を無原則的と批判し、東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させました。

 こうして両派による泥試合が展開されました。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した訳です。特に宮本系の統一会議派は、徳田系党中央の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝しました。

 しかし、統一会議系のこの独自候補擁立方針に対しては、同じ反対派の中から異論も出たまし。中西派は、機関誌「団結」紙上で、党内が別々の候補で争うことに反対し、選挙候補の統一を呼びかけました。福本グループの「統一協議会」は、国会選挙以外の地方選挙は一切ボイコットせよと主張しました。野田ら「国際主義者団」は、「平和綱領」を承認する候補者だけを支持せよと呼びかけました。

 こうして事態はますます混乱するばかりとなりました。選挙戦を通じて、主流.国際派両派の争いは激化し、相互悪罵戦の泥仕合となりました。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かい、投票結果はそれぞれ惨敗となりました。得票数等の詳細は公報したものを入手していないので分かりません。



徳田書記長の自己批判について、そのA  投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月 2日(土)20時30分13秒
 選挙戦を終えたこうした折に、突如として党中央派から「自己批判書」が相次いで出されることになりました。主要な地下指導者と椎野「臨中」議長たちの自己批判声明が発表されました。3.25日付けで志賀義雄の「自己批判書」が口火を切りました。「1−2月頃に旧全国統一委員会が解放戦線を発刊してはっきりと分派行動の再開に乗り出したのを知って、これと闘う気持ちになった」と、告白していました。

 次に3.29日付けで内山春雄名義の「自己批判」が発表されました。そこでは「軍事問題の従来の指導を誤りとして反省、今後は四全協軍事方針に従って闘う」としていました。党の非合法機関紙の責任者伊藤律の自己批判であったとされています。

 5.20日付けで森浩一郎名義の「自己批判」が発表されました。これは従来の機関誌活動の誤りを全党の責任者という立場から自己批判しており、伊藤律の「自己批判」とみなされたが、機関紙責任者の枠を越えて全党の最高責任者として党活動の全面的な反省を記した自己批判内容が含まれていたので徳田書記長のそれと推測されました。羽派さんのお尋ねの件は、このことではないかと思われます。その内容についてはノートしそこなったので捜してみます。できれば教えてください。

 こうした自己批判運動は、地下指導部からやがて合法公然指導部に及んで行きました。7.6日椎野臨中議長も自己批判書を発表しています。この自己批判運動をめぐって国際派各派の対応が割れました。宮本派と春日派が真っ向から対立するという事態になります。

 統一問題に対する態度を次のように整理することができます。【統一支持派】は、春日派のほかに中西団結派、統一協議会派(福本ら)も、徳田の自己批判を評価して統一の道を模索するようになります。神山グループも、主流.国際派が代表をあげて会議を持ち、一定の協定をした後「上から下までの組織統一」により統一機運を促そうとします。

 【統一拒否派】は、宮本派で全面否定で生半可な統一はできないと主張します。しかし、これは最も現実的でない提案であったことからすれば、つまり、宮本グループは分裂の促進を志向したということになります。国際主義者団派は、新党コースを呼びかけます。統一はあり得ず「主流派粉砕の新党コース」による真の革命党の自前づくりを主張しました。

 こうして、党中央の自己批判は反対派内部に決定的な意見の対立を発生させていくことになりました。宮本系と春日系の対立は深刻な様相を見せていくことになります。関東と関西の間にも違いが生じ、関東系は主として宮本を支持し、関西系は春日を支持します。4月頃、春日は宮本と訣別します。

 宮本.遠坂派とその影響の強い東京都統一会議指導部は、自派の主張と立場の正当性を主張し続け、概要「四全協を前提とした自己批判なるものはマヌーヴァーに過ぎず、統一を求めるのなら6.6追放=解体以前の中央委員会の復元という眼目を抜きにしては有り得ない」としています。

 これに対し、春日は、宮本派の態度を「形式的正統主義」と激しく非難します。概要「宮本派が全国同志の統一への努力をかえりみようとせずに、ただ形式的に正規の中央回復と正統主義を口先でとなえるサロン的グループに堕落している」、「統一委員会を解体すると称しながら、実は裏でケルンと称する全国的組織を持つ腹背的態度こそ、人もおのれも欺くものである」として、併せて前年来の宮本のセクト的策謀ぶりを暴露しました。

 亀山は、概要「党中央側が分裂の基本点について多少でも誤りを認めている以上、それは党統一の契機になりうるし、また『我々にも若干の反省すべき点はある』という考え方で一致した。そこで、我々はまず臨中側と話し合い、復帰・統一の方向をとることに決まった」、「椎野自己批判を『欺瞞と歪曲の書』と見るのは、見た人自体が、欺瞞と歪曲をいつも行っているからである」と述べています。7.18日山田も「(椎野の)自己批判はすでに貴重な芽を含んでいる。それ故に我々はこれを歓迎し、これを正しく発展さすよう全力をあげて援助し協力しなければならぬ」と述べています。

 とまぁ、答えになっていませんが、この頃の状況を整理してみました。



ええとですね、史実はこうではないでしょうか。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月 3日(日)11時38分39秒
 KM生さん、ちわぁです。「楽しく読ませてもらいました」とのことありがとうございます。昨日家へ帰って自己批判書の内容について確認しようと思って捜してみましたが、見当たりません。どこで読んだかなぁと気になっています。あの頃はこういう遣り取りを為す日が来るとは思っていませんでしたので、読み捨てにしてしまいました。今皆目見当がつきません。確か北京機関から、その後の党運動で選挙運動を軽視していることに警告を為していた文面もあったと思うのですが、どこで読んだかなぁ。

 それはそうと、「戦後の徳球再婚の際宮顕夫妻が仲人を務めたそうです。九州追放以前の徳球と宮顕は、必ずしも犬猿と言い切れなかったのではないでしょうか。見直しを要するところです」とありますが、その認識は少し違うと思います。「宮顕夫妻が仲人を務めたそうです」も訂正がいるかと思われます。徳球は、百合子については一定評価しています。選挙に立候補させようとしていましたが、宮顕が執拗に反対して実現しませんでした。百合子も旦那がそういうのにどうしようもなく宮顕の主張に唱和しています。この二人がうまく噛み合っていた時代はただのひとときもありません。宮顕とウマが合わなかったのか、胡散臭く感じていたゆえなのか、恐らくその両方だったと思われます。

 当時の全学連指導部(武井、安東ら)が宮顕に与して、結局使い捨てにされたのは返す返すも残念なことです。なぜそうなったのかというと、最重要な国政舞台での闘争及び労農運動を徳球が指導し、宮顕にも何か持ち場を与えんといかんと言うことで少しマイナーであった学生運動と文芸運動を任せ、そういう事情からまだ人を見る眼の無いおぼこい学生が私党的に取り込まれたという経過があるようです。やっぱり宮顕は追放すべきだった、党内に潜入させ続けた結果がこうなったと私は見ています。

 しかし、当時は戦前の小畑暴行致死事件について殆ど知らされておらず、スパイを摘発し、その途上で変死したので何ら問題は無い的な考え方にありましたので、宮顕を追放する根拠が弱かったということだと思います。今日のように資料がまま出揃っていれば、即刻調査問責して除名でしょう。そうならない現在の党員レベルのお里が知れてしまいますね。

 それはそうと、私のサイトでは徳球の結婚について次のように記しています。参考にしてください。1946年の5月頃だと思います。「【徳田書記長結婚する】戦後第一回目の選挙に、東京2区から立候補して当選した徳田はこの頃、代々木の党本部で結婚式を挙げている。徳田は3.15事件で逮捕される前、よしと夫婦関係にあり1子も為していたが、入獄中婚姻関係は解消し、下獄後この時まで独身で過ごしてきていた。新婦は、前年夏死去した従兄弟の耕作の未亡人たつであった。耕作とたつは、徳田が入獄中差し入れにしばしば訪れており、面識があった。当日は野坂が新郎の介添え、新婦は宮本百合子に付き添われての入場となった。党本部の幹部室で、政治局員、統制委員など主だった幹部の参列の下に簡素に式が執り行われた。たつには二人の娘摩耶子と夏樹がいたが、よく徳田になついた様子が伝えられている。ちなみに、摩耶子は後に西沢隆二と結婚することになる」。



徳球と宮顕 投稿者:KM生  投稿日: 6月 3日(日)09時58分40秒
 れんだいこさんの徳球自己批判書楽しく読ませてもらいました。ところで教育資料出版会「徳田球一」によれば、戦後の徳球再婚の際宮顕夫妻が仲人を務めたそうです。九州追放以前の徳球と宮顕は、必ずしも犬猿と言い切れなかったのではないでしょうか。見直しを要するところです。ところで、50年問題の際の宮顕の自己批判書は永久に公開されないのでしょうか。確か上耕も「戦後革命論争史」で、「宮顕自己批判書は公開すべきである」といっていた筈です。どうせ大した内容でないのは判りきっていますが、ただ唯我独尊のあの人が方便とはいえ自己批判書を残した点に興味を覚えるからです。



ためになります 投稿者:羽派  投稿日: 6月 4日(月)17時03分31秒

 いろいろ教えていただいて有難う,皆さん.
徳田自己批判書の内容は是非みたいです.椎野自己批判のお手本いなったとかいわれてるみたいだし.折に触れて私も探してみます.宮本のは,3回書きなおしたから,それなりのことが書いてあるかも知れませんよ.いい加減では臨中も認めなかったでしょう.

れんだいこさんのサイトは,充実した資料,鋭いユニークな分析でとってもいい。
できれば,紹介事実・引用記事の「出典」を詳しくして頂けると,非常に評価が高まるのではないでしょうか。

さて,春日(庄)の宮本批判.
「我々は「相手」(徳田派のこと)を官僚主義,セクト主義,右翼日和見主義,無原則主義と攻撃しているが,目を一転して,自らの足下をみれば我々の側にもこれと同様のものがあり,更に,それよりも一層仕末の悪い空論主義,小ブルジョア的分派根性,その上に形式的正統主義という,余計な雑草がはびこっている.一部の指導的幹部の間には,人民大衆の現実の闘争に対する救いがたい無関心,実践的政治感覚のマヒが見られる.これらの同志は,かって正しい態度をとったということそれだけで今日においても彼らを正しいものとしていると錯覚している.」

「形式的に言えば,我々はいわゆる正統派である.・・・しかし・・・自己批判を欠き,実践的土台を欠いた正統主義は必然にもっとも性の悪い分派的セクト主義に陥らざるを得ない.常に発展のない同じ立場にたって相手を批判・攻撃するだけであって,しかもその批判も自己の実践的土台を欠いているために,次第に抽象的・一面的たらざるを得ない.」
「このような形式的正統主義は更に,我々のうちにおける官僚主義の根源となっている.それは,指令したり,任命したりすることによって,第6回大会の指導体制が維持できるように思っており,・・・」
「従って,このために,形式的にとなえられる一切のもっともらしきことは,それはただそれだけのことであって、実際上においては逆の現象を生み出す」

となって,例の「ケルン」の暴露へ続いて行きます.私はこれを読んで,宮本の「党活動」の特徴が非常によく捉えられていると感心しました.戦前も,60年代以降も,この人によってどれほど「もっともらしいこと」に聞こえるが実際は「実践的政治感覚のマヒ」した「空論」が唱えられ,
党員達は苦労させられ組織は破壊されたことでしょうか.

なお,宮本はこのあと春日に反論しますが,人格攻撃だけで「ケルン」のことは一言もなし。
このやり方も同じだな.



ためになるのはお互い様ですね。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月 4日(月)19時41分05秒
 羽派さん、ちわぁです。「紹介事実・引用記事の「出典」を詳しくして頂けると,非常に評価が高まるのではないでしょうか」は、仰せのとおりです。作成中に文意が直通で読めなくなる不便さを感じてはしょっています。一括リストで表示するからいいやと思ったのですが、私の記憶まで定かでなくなって、どこから引用したのか分からなくなっています。再度読み直しのときに(注)で表示し直そうと思いますが、それも大変でいつのことになるかなぁ。何しろ、私のサイト自体の見直しができかねているのです。いろいろ字句間違い、転換間違いもある気がしています。気の向いたときにその都度点検していますが、道遠しです。

 春日(庄)の宮本批判について思うことは、この時のしこりがずっと伏在していて、この両者はいつか死闘を演じるレールに乗っていますね。問題は、春日の方がオポチュニストで、宮顕側の態勢が整うまで何も対策を講じていないことと、例の民主集中制組織原則論で身動き取れないようにされていたことにあるように見受けます。春日の限界だったと思われます。

 党の路線的な理論闘争は、この時の宮顕派対春日(庄)派で基本的に終えていますね。この後の志賀派、神山派、中国派の追い出しで完了します。そのエポックが対春日(庄)派の構造改革論争だったと認識しています。後は組織問題的な闘争になっており、次第に対左派的党員ないしグループの追い出しから右派的というかとんでも不祥事へと低レベル化へ移行してきているのが現段階でしょうか。

 この時の宮顕論理の検証は、「50年問題」に続いていろいろ解明を要するところです。この頃革共同、ブント系理論も生まれていますが、してみればイデオロギッシュな時代だったのがこの60年代前後の頃のようです。が、この時の財産がまったく封殺されていると私は考えています。左派再生は、こうした経過の検証なしには覚束ないとも考えています。

 と云いいたいことを云って、羽派さんの本件投稿文はさっそく拝借させていただきます。(小さな声で)引用先文献の書名等教えてください。恥ずかしながら私は、春日さんの原文は読んでいないのです。



結局そういうことになりますね。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月 5日(火)18時33分29秒
 春日も,亀山も,石堂さんや安仁も、その他諸々左派的人士は、対徳球党中央に対抗する際の「左」側要員として使い捨てにされた風にみえますね。徳球党中央の家族主義、権威主義批判をしていますが、何の事は無い輪をかけたひどいものを作ったのが宮顕なのに、これに組織だって抵抗し得ず、各個撃破でやられています。

 ところが、これなら徳球時代のほうがまだましだったという声にはならない奇妙さがついてまわっています。そこが私がいまいち評価のところです。徳球時代の良いところは、当然党中央として締め付けしますが、反対派の存在と異論提出と中央委員会内での議論がかなり為されていることです。あえて言えば陽性運動だということになります。宮顕時代になって今のような陰鬱な運動にされてしまっています。しかし、これしか知らない人たちにとってはこれが当たり前で違和感がないのかなぁとか思います、不幸なことですったく。

 羽派さんが、志田が主流派で主導権を握り,次に志田+宮本の取引が成立し野坂がくっつき,更にこの全体が「公安=権力」と取引して,6全協が突如行われることになった,と見ています、とあるところはほぼ私の認識と一致していますね。問題は、宮顕が権力簒奪過程で裏取引したのか、もともと胡散臭いのかどうかの認定だろうと思います。私は、戦前の党活動の変調さと獄中闘争(その様子、法廷闘争)の奇妙さからみて、タダ者ではないという見方に立っています。してみれば、聞かされている非転向無謬観は無茶過ぎる虚像だということになります。

 「朝鮮籍の党員の分離や後の帰国運動も取引の一環でしょう」と、「党統一闘争の発展の為に」(榊原宗一郎名義,1951年7月25日).例によって日本共産党五0年問題資料集3(新日本出版)をいただきます。



党内論争はあるのが当たり前なんですよね。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月 7日(木)12時11分49秒
 タイトルとおりですが、日本の革命なり変革なり改革なりなんにしてもいろんな道筋があり、現状をどう分析し具体的にどう取り組むのかをめぐっては多事争論が当たり前なんですよね。本来党員の頭脳はそれができるほどのものを持っていたと思います。意思統一をしっかりする為には、議論を通じて脳内をクリヤーにするほど有益なことはないでしょう。これが出来たときの運動体に創意工夫と戦闘性が生まれるというのは、何も社会運動のみならず全般に云える事だと思います。

 そういう議論を尽くしていろんな角度からの運動がブリッジ的に共闘して、それをどう手綱を捌き指導するのかが党中央の腕の見せどころであって、まがりなりにも徳球時代の党中央はこれをやっていたと私は見ています。それが証拠に、敗戦直後という時代環境の違いはありますが、GHQの介入が無ければ社共政権は実際に確立していたのです。このことに注目する人が少ないように思えます。であるが故に最終的に問答無用で非合法化され、国内逃亡を余儀なくされたと私は見ています。

 翻って、宮顕の指導は、この正反対のことばかりやっているのではないでしょうか。これほど一事万事正反対の運動を『もっともらしい言葉』でやっているというのに、それに疑問を湧かさない、変調さを覚えず御意御意でいくというのは、私には信じられません。これでは反共人士が生まれるのもむべなるかなと感じています。そういう意味でも現下党中央は早くたたき出さねばならないのです。

 他のところでも述べたことがありますが、宮顕の指導で大衆闘争の盛り上げに有益であったことの只の一つでも良いからあったら教えてください。私には見当たらないのです。

 それほどひどいという認識無しには党改革はありえないでしょう。解党的出直しとは、まさに共産党の為にあると考えていますが、この党からは更なる民主集中制が要求されており、れんだいこ観点に拠れば結構民主集中制的である自民党の方から解党的出直しが叫ばれ、そういう人士が総理総裁になると言うしなやかさ、あぁ氷嚢が欲しくなります。



これは貴重情報ですが。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月10日(日)18時57分33秒
 羽派さん、ちわぁです。以下引用。関係回復の寸前,趙安博が日本人学者・院生と会見して,「日本共産党に伊藤律の殺害を頼まれた」と告白する事件がありました云々とありますが、ここのところ詳しく知りたいですね。これはどこで明らかにされた情報でしょうね。

 私の理解によると、徳球−伊藤律−長谷川浩系がもっともまっとうな党運動をやったことになります。その伊藤律がここでも(戦前は小畑ら左派系人士がという意味です)スパイ容疑を執拗に党内外から喧伝され、長期獄中へ幽閉されました。ホント、オカシイのは、宮顕とその系列ほど胡散臭い人物はいないのに、この連中が最も熱心声高に相手をスパイ嫌疑する常連であるということです。世の中はそんなものかも知れませんね。

 1980.9.3日の伊藤律の突如の帰国は、現党中央にとって悪事が露見される驚天動地の事態必至でしたが、史実の徹底隠蔽20数余年のお陰で、何のことやら分からない党員ばかりという党内事情によって単に史実だけが刻まれました。党史を教えていなければこう云うときに役立ちますね。

 この時の党中央は、8.30日声明で、概要「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったことで、伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」としています。

 この声明での「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません」が大嘘であること、「伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったこと」などという言い草は、無茶苦茶な逆裁定なのは明らかなのですが、それにしてもひどい。

 目下各種掲示板で、自分は共産党員ではないが共産党を支持すると云いながら、並みの共産党員の知識では追いつかない党中央べったりの忠実理論を振り回している輩が居ますが、漬ける薬がないというほかありません。

 後段の「伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」は、党内支配への傲慢な自信を表明しており、事実その通りに何らの波風も起ちませんでした。党中央の云うことはその通りなんでしょうが、これもまたひどい。

 しかし、党中央からの暗殺依頼があったということになると、ただではすみません。しかし、この種のことが両党間の公式文書で確認されるというようなことはありえないでしょうから、取り扱いが難しいでしょうね。

 そのことはともかくとして、日頃何でもかんでも民主かぶせ、正義の清潔なキレイな政治の標榜で事なかれしている党中央が、そったらことを云ったり行う人種であるということになると、整合的な説明が難しいでしょうね。党内を言い含めるのはさほど難しくは無いと思いますが、こうなるとこのカエルの面にションベン族は一種の確信犯集団ということになりますね。

 私はまだ見ていませんが、みみず腫れCMするらしいですね。しかしどう考えても党中央を私物化している姿勢丸出しであって、よくもはずかしくないなぁというレベルを越しておりますが、そのことさえ分からないほど相当病膏肓に入っているみたいですね。



趙安博発言について 投稿者:羽派  投稿日: 6月12日(火)12時02分29秒
インターネット上では次の資料があります。

http://www.ask.ne.jp/~jcin/newsjp/9802/0226.txt

以下引用.
●日中共産党が公式レベルで接触再開

 日本の新聞報道によると、「文化大革命」以来、三十一年間断絶状態にある日中両国の共産党が、公式レベルの接触を再開した。きっかけは、一九五〇年代の日本共産党内の路線対立に関する中国要人の証言報道。日本共産党が報道内容に関して、中国共産党に真偽を問い合わせたため、結果的に両党の接触が実現するという思わぬ副産物が生まれた。両党の関係は、日本共産党が党機関紙「赤旗」の特派員三人を二十五日に北京に派遣し、月末にも北京支局を再開するなど、和解の機運が高まっている。
 時事通信と共同通信は二月中旬、趙安博・中国国際交流協会理事が「故・伊藤律元日本共産党政治局員の殺害を故・袴田里見元副委員長らが中国側に依頼していた」と証言したと報道した。日本共産党の西口光・国際部長が数回にわたって、中国共産党中央対外連絡部(中連部)に電話で問い合わせ、中国側から「報道されたインタビューに中国共産党は関与していない」「趙氏は長期の病気と高齢のために、思考の状態は普通ではなく、とくに記憶力はだいぶ落ちている」などと、日本共産党の立場に配慮した回答を得た。
 「赤旗」の北京支局開設は、「赤旗」と中国政府が交渉する形をとったため、両党間の公式な接触は、八五年の関係改善交渉が不調に終わって以来、十三年ぶりのことになる。

私が知ったのは,「世界日報」が出しているある本.(笑).
しんぶん赤旗は1998年2月24日付けで「反論」.

『趙安博氏は,事実無根として時事通信社に記事の訂正を求めた』

世界日報サイドの情報では,趙安博氏の友人を名乗る人物から時事通信社北京支局に電話があって,訂正と陳謝を求めた.支局側は本人との面会を求めたが,電話が切られた,となっています。

なお,現在時事通信・共同通信のHPの過去の記事データベースには,この話は載っていません.(配信したすべての記事が載っているわけではなさそう)


私の見解.情報の流れ方から見て,世界日報サイドの指摘は十分信頼できる.また,趙安博氏が当時「記憶が不確か」というのは信じがたい.特に,老人の特性として,最近のことはすぐ忘れても,過去の印象に残る出来事はよく覚えていることが多い.(本人に都合良く脚色されることもあるが) 全体として,彼が語ったのは事実,その記憶も当時(1955頃)の状況から確かなものであろうと考えます.

問題は,これが趙氏の個人プレーかどうかですが。中共中央には少なくとも「未必の故意」はあるでしょう。趙氏がインタビューを受けたのに,「党は関与していない」というのはこの国ではおかしなことです。



私に分かることは。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月17日(日)11時27分20秒
 羽派さんちわぁです。神山については次のようなことが分かります。参考にしてください。神山の獄中生活は、宮顕の豪奢なそれと双壁で、房内を二つ使用して片方を図書室にしており、ちょくちょく房内をうろついて自由に出入りしていたことが伝えられています。ということは、来るべき時代の党運動で枢要なポジションを得れるよう理論活動に便宜が図られていたということになるのではないかと思われます。支配者というのはそれほど用意周到にあらゆる局面に備えているというのが歴史の実際ではないでしょうか。

 戦後の党活動で、神山グループは宮顕グループとほぼ軌道を一にして右派系の立場から徳球党運動を撹乱していきます。中西功グループが左派系の立場から徳球党運動に対抗したのと好一対を為しています。どちらも党内反対派としては少数派で引っ掻き運動に終始していた点でよく似ています。

 1954年時点での除名については次のように考えられます。この頃既に宮顕−野坂−志田連合が形成されていますので、いよいよ党中央登壇に王手をかけた宮顕からすれば、神山グループは用済みになったことを意味し、その限りでは「能力があって目障りなヤツを除けておいたんだ」と高知聡が述べているのも当たっています。付言すれば、高知氏も徳球運動に否定的ですね、そこが私と根本的に観点が違うところです。

 この頃、新日本文学界でも同じようなパージが為されています。我がサイトでは、【新日本文学界花田編集長更迭】として次のように記しています。「7月中旬、第7回大会を10月に予定していた新日本文学界は、2年三ヶ月勤めていた花田清輝の編集長更迭。後釜に中島健蔵。この時の賛否は、更迭賛成派は窪川、国分一太郎、信夫澄子、金達寿、西野辰吉で、反対派は佐多稲子、佐々木甚一、菊池章一、大西巨人、秋山清。異例の挙手採決となり出席委員十名の賛否同数となったが、議長役を務めていた中野が議決参加し、編集長更迭に票を投じ編集長更迭が決まった。更迭反対派の佐多と佐々木は引き続き常任中委に選ばれたが固辞した」。このときの事を井上光晴はこう記している。「そしてこの微妙な後味の悪さはねもっとはっきりした形で新日本文学第7回大会の最終日、新幹事選出にあたって為された宮本顕治の発言と重なっている。それは武井昭夫、井上光晴、関根弘その他が新幹事に加えて推薦された時、その推薦拒否を目的としてなされたものであった」。花田編集長の更迭と共に新日本文学はその溌剌清新な批判精神を失い、すっかり追随的、時代主義的になった。

 【神山グループ除名される】では、9.20日神山兄弟、林久男、栗原幸二(青木の出版部員)らを「反党分子」として除名される。神山派と目された17名の名が挙げられた。渡部徹、川島優、小山弘健、寺尾五郎、浅田光輝、新井吉生、茂木六郎、とあります。

 神山グループの面々を見れば、必ずしも右派系理論に拠ったのではなくて、それまで宮顕グループにいた者がその理論と運動のやり方に嫌気がさして、もう一人のイデオローグであった神山に接近した様子が見て取れます。しかし、れんだいこから云わせれば、欠点はあっても良質的であった徳球運動に徹底的に抵抗していった自身のインテリ度のぼんくら性に気づかぬままに宮顕から神山の間を右往左往しているように見て取れます。

 神山の1958年の復党時の様子については皆目知識がありません。どういう背景からでしょうね、云えることは、この頃新左翼系のはしりとしての革共同やイタリアでの構造改革論等々新運動が芽吹いてくる時期にあたっています。これらの動きとおそらく関係が有ると思われますが、むしろ私が知りたいくらいです。



中西功について。 投稿者:れんだいこ  投稿日: 6月19日(火)18時51分16秒
 羽派さんちわぁです。ホント宮顕は表彰もんですよね。この御仁が非転向不屈の獄中闘士なぞという神話を振り回し、これにみんなが拝跪させられてきたトリックをそろそろ壊さないといけないのではないでしょうか。戦後党運動も、これほど行儀の良い唯々諾々の党員づくりに成功すれば、経団連だってご褒美で招いてくれますよ。あきれつつ感心しているのだと思います。私はそう受け取っています。

 神山も中西も傍系ですがきちっと党史上の位置を確認しておく必要があると思います。私は直接二人の著書を読んでおらず孫引きになりますが、中西に対しては、既述したように奇妙なほど神山と対照的ですね。神山は宮顕に近いのですが、中西は徳球党中央に逆らった割には、宮顕との絡みで言えば徳球の方に近いかなという気がしています。恐らく心は紅かったんだと思います。徳球がそれぞれにコメントした文章が残されていますが、中西に対してはどういう風に書かれていたのでしょうか。私の知る限りコメントがないようです。気になるところで、あれば教えてください。

 中西が、戦後直後の綱領作成過程で、徳田−志賀党中央に進める二段階革命方式に対して、一段階社会主義革命を主張していたことは非常に興味あるところですね。この時の中西理論に対して、私のほうがもっと知りたいくらいです。他には山本正美が同様路線を主張していたようです。但し、社会主義革命を主張していた割には穏和な運動を指針させていたようにも思われ、このへんのからくりを知りたいところです。

 その後長大な意見書提出、党分裂時には団結派として一派をなしていたこと、六全協で元の鞘に収まったものの新党中央になった宮顕グループからも冷や飯組みにされたこと程度が分かります。この中西グループの離反過程が私にはあまりよく分かっていません。党史に出てきていますか、調べておりません。とりあえず以上のようなところです。

 今日から見れば、中西系は別党コースで左派戦線の一翼で活動していたほうが良かったと思えますが、戦後の権力奪取が真近な情勢に有ったことにより当然の如く党中央の周りに求めて拠ったこと、組織論が一国一前衛観念を前提にしていたこと、民主集中制が当然の組織原理であったこと、ロシアマルクス主義に依存的であったこと等から考えれば、やむをえなかったのでしょうね。(呼び出しうけたので、又後日整理してみます。というようなことでまた)



日本共産党の傍流 投稿者:国忠崇史  投稿日: 6月19日(火)22時50分07秒
中西 功氏・・・戦前満鉄調査部、ゾルゲ事件関連、戦後共産党国会議員
中西三洋氏・・・戦前、特高警察の弾圧を受ける、戦後「治安維持法国家賠償同盟」会長
中西五洲氏・・・同上、戦後、全日自労委員長、統一労組懇代表委員、日本労協連(初代)理事長

中西さん兄弟の出身地、三重県松阪市。

これらの方々は、どちらかというと傍流ですよね。何と言ってもわが党では東大・立命館人脈が強い。村上弘・元委員長や正森代議士のような大阪系統も、違う意味で傍流でしょう。
ではどういう点において傍流なのか?

三洋さんはまた別として、れんだいこさんの言う;
>社会主義革命を主張していた割には穏和な運動を指針させていた

・・・功さん・五洲さんはこれでしょうね。
「穏和」というのは、労働運動を政治の都合で引き回したりしない、という意味ででしょうね。
労働運動そのものに関しては、五洲さんに限っていえば、職安占拠とか、いろいろ直接行動をしています。ただそれを一足飛びに政治に誘導しないということです。
労働運動にはたとえ限界があらかじめ約束されているとしても、労働者は労働者の論理で動くべきであって、党派からは相対的に自律性を持つ。こういう当たり前のことが長年難しかったのです。功さんが「結構大衆的人気もあって自力当選」(羽派さん)したのも、労働者のリアリティが判っていたからこそではないでしょうか。

では協同組合運動となると、これは事業活動であるがゆえに、自律性を持っていないと話になりません。破産しては元も子もないので、引き回しは不可能です。ですから、樋口篤三氏が言うようにに(下のURL参照)わが党がこれを軽視していたというよりは、現実として「協同組合運動について、語るべき言葉を持たなかった」のでないかと思います。

さて、中西さん御兄弟の系譜は確かに冷や飯組であったが、そこからも離反した僕は、マイナーのまたマイナーでしょうか? マイナーが反転してメジャーになるのか?
・・・党中央からは、鹿児島事件についていまだに何も言ってきません。

>ばいきん仙人さん
では大阪オフには、御著書をお持ち下さい。最低2冊、売上保証(^^)
あと、86年春に全学連の問題について朝日新聞のインタビューに答えられましたね。
その紙面コピーがありましたら、読みたいです。

http://www2.plala.or.jp/asso/higusaisei.htm





(私論.私見)