ウィキリークス創設者アサンジ履歴考

 更新日/2016.11.13日

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 2016.11.13日 れんだいこ拝


 「ウィキペディア(Wikipedia)/ジュリアン・アサンジ 」。
ジュリアン・ポール・アサンジ
Julian Paul Assange
生誕 (1971-07-03) 1971年7月3日(47歳)[1][2][3]
オーストラリアの旗 オーストラリア
Flag of Queensland.svg クイーンズランド州 タウンズビル
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
エクアドルの旗 エクアドル
出身校 メルボルン大学中途退学
職業 広報人、編集長
団体 ウィキリークス
著名な実績 アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件
子供 ダニエル・アサンジ[4]
ブレット・アサンジ
クリスティーヌ・アサンジ

 ジュリアン・ポール・アサンジ(Julian Paul Assange [əˈsɑːnʒ]、1971年7月3日 - )は、オーストラリアのジャーナリスト、出版社、発行人、インターネット活動家。内部告発および情報漏洩の情報を伝えるウェブサイトウィキリークスの広報人、編集長として知られる。ウィキリークスを創設する以前はプログラマ、ハッカーとして活動していた。いくつもの国に住んでいたことがあり、報道の自由検閲調査報道に関する自身の見解を述べる機会に、公共の場所に姿を現している。姓はアサンジュアサーンジとも。

 人物

 アサンジは自身が2006年に立ち上げたウェブサイトウィキリークスでその諮問委員を務めている。ケニアで起きた虐殺に関する報道では、2009年アムネスティ・インターナショナル国際メディア賞を受賞した。これまで公表した情報には、コートジボワールにおける有害物質の大量廃棄による環境被害、サイエントロジー教会のマニュアル、グァンタナモ米軍基地の作業手順、カウプシング銀行やジュリアス・ベアなどの銀行などに関するものがある。2010年には米軍によるアフガニスタンでのイラク戦争への関与に関する機密情報を公表した。2010年11月28日、ウィキリークスと5つの報道機関はアメリカの外交機密文書の公開を始めた。ホワイトハウスはアサンジの行為を「無謀かつ危険」であるとした

 彼のウィキリークスに関する功績に対しては、『エコノミスト』誌による2008年「表現の自由」賞、2010年サム・アダムス賞が贈られた。『Utne Reader』誌は「世界を変える理念を持つ25人」の一人に選出している。『ニュー・ステーツマン』誌による2010年の「世界で最も影響力のある50人」では23位を飾り、2010年12月、『タイム』誌の2010年「パーソン・オブ・ザ・イヤー」で読者投票部門の1位に選ばれた[16]

 アサンジはスウェーデン性的暴行を行った疑いがかけられているが、彼はすべての容疑を否認しており、潔白を誓っている

 ウィキリークス党の結党を表明し、2013年のオーストラリア連邦議会上院選挙へ出馬したが、落選した。

 生い立ち

 クイーンズランド州タウンズビルに生まれ、若い時期のほとんどをマグネティック島で過ごす。1歳のときに母クリスティーヌが舞台演出家ブレット・アサンジと結婚し、現在の姓を得る。両親は舞台の巡回興行を始める。最初の「本当の父」と呼ばれた彼の継父はジュリアンのことを「善悪に対して鋭い感覚を持った」、「非常に切れる子供だった」と話している。「常に弱者をかばおうとしていた。誰かが誰かを集団で攻撃することに対して、常に激しい怒りを抱いていた」。1979年、母が再婚する。新しい父は、アン・ハミルトン=バーン率いるニューエイジ集団に所属するミュージシャンであった。母と新しい父は1人の息子を儲けるが、1982年に離婚親権を争った母が息子たちを5年に亘り匿ったため、アサンジは少年時代に数十回の引越しと転校を余儀なくされ、ときには家庭学習を受けることもあった

 ハッキング

 16歳頃の1987年、アサンジは「Mendax」(ホラティウスの言葉で「気高く不正直」を意味する「splendide mendax」から) の名でハッキングを始める。彼は他の2人のハッカーとグループ「International Subversives」(国際破壊分子) を結成した。彼らの初期のルールには「侵入するコンピュータのシステムを破壊してはいけない (クラッシュさせることを含む)」「システムの情報を書き換えてはいけない (侵入の形跡ログを消す場合を除く)」「情報を共有する」があったことをアサンジは記している

 ハッキングを受け、1991年、オーストラリア連邦警察はメルボルンのアサンジの自宅を捜索した。彼はとあるオーストラリアの大学、カナダの通信企業ノーテル、およびその他の組織のコンピュータにモデムを通じてアクセスしたと伝えられた。1992年、彼は24のハッキング容疑を認め、2,100オーストラリアドルを払い保釈された。検察官は「彼にさまざまなコンピュータの内部を覗かせた要因が知的好奇心を措いて外にあったという証拠は全くない」と語った。アサンジは後に「実を言えば、ハッカーであった頃のことをあれこれ言われるのはちょっとうっとうしい。私が著した本やドキュメンタリーがあるから人はあれこれ噂するが、20年も前のことだし、彼らはそのことをいくらでも、好きなようにカット・アンド・ペーストできるから。ただ、私にとってその過去は汚点ではなく、それどころか誇りにさえ思っている。なにより、彼らがいまだに私のことをハッカーと呼ぶ理由も分かるから」とコメントしている

 親権問題

 1989年、アサンジは内縁の妻と同居を始め、ダニエルという息子を持った。その後2人は別れ、約10年に及ぶ親権闘争に突入する。2人が合意に達したのは1999年のことであった。これらの経緯から、アサンジと彼の母はオーストラリアにおける親権に係わる問題の法務記録の「中央データバンク」の作成を主要な目的とした活動団体「Parent Inquiry into Child Protection」を創設した

 プログラミングと学業

 1993年、オーストラリアにおける初期のインターネットサービスプロバイダである「サバービア・パブリック・アクセス・ネットワーク」の立ち上げに関わる[8][28]。1994年からはフリーソフトウェアプログラマおよび開発者としてメルボルンに住んでいた[25]。1995年、アサンジはStrobeというフリーソフトウェアでは最初のポートスキャナを書いた[29][30]。1996年にはPostgreSQLのプロジェクトにパッチを投稿している[31][32]。1997年に発行されたスーレット・ドレイファス著『Underground: Tales of Hacking, Madness and Obsession on the Electronic Frontier』には、彼と「International Subversives」にまつわる経緯を提供し、リサーチャーとしてクレジットされた[33][34]。1997年頃からは、Rubberhoseという否定可能な暗号化システムの開発に共同で携わっている。これはLinux用パッケージとして作られた暗号化コンセプトで、締め上げ暗号分析に対して十分な否定可能性を提供するために設計された[35]。アサンジは当初このシステムを「人権活動家がその分野の機密データを保護するためのツール」として使うことを想定していた[36]。その他、彼が開発に携わったフリーソフトウェアにはNNTPCacheというUsenetのキャッシュソフトや[37]、SurfrawというWebベース検索エンジンCLIが含まれる。1999年、アサンジは「leaks.org」というドメイン名を取得した。「が、結局何もしなかった[38]

伝えられるところによると、アサンジは6つの大学に複数回通っている[39]。2003年から2006年の間に彼はメルボルン大学物理学数学を学んだ。物理学と神経科学も学んでいた[39]。卒業することはなく、所属する数学コースでも及第点ぎりぎりの点数しか得ていなかった[2][40]。彼個人のウェブページによると、2005年頃、オーストラリア物理学コンテストに代表として参加した[2][41]

 ウィキリークス[編集]

 性的暴行容疑[編集]

 2010年8月20日、スウェーデンで26歳と31歳の2人の女性と彼の4件の性的関係に関連して、アサンジに対する捜査が開始され、逮捕状が発布された[42]。女性たちのうち、一人はヨンショーピング市、もう一人はストックホルムに住んでいるという[43][44]。捜査開始から間もなくして、主任検察官Eva Finnéは逮捕状を取り下げ、「彼がレイプをはたらいたと疑う理由があるとは思わない」と語った[45]。アサンジは女性たちとの性的関係は合法であったとして、容疑を否定した。その上で彼と支援者は告発を組織的な中傷目的の攻撃だとした[46][47]。8月31日、彼は約1時間の警察による取調べを受け[48]、9月1日には、スウェーデンの幹部検察官Marianne Nyが新たな情報を引証して捜査を再開した。スウェーデンの政治家で、女性たちの弁護士を務めるClaes Borgströmは、手続き停止の決定に対し以前から異議申し立てを行っていた[49]。アサンジは彼に対する非難を、ウィキリークスの敵対者たちによる「でっち上げ」だとしている[50]

 10月下旬、スウェーデン当局はアサンジのスウェーデンにおける居住および労働の許可申請を斥けた。11月4日、アサンジはスイスに対して政治亡命者の保護を正式に要請することを「現実の可能性」として検討していることを明かした[50]。11月18日、ストックホルム地方裁判所はアサンジの勾留申請を承認した[51][52][53]。11月20日、スウェーデンの刑事警察は、国際刑事警察機構 (ICPO) を通じてアサンジを国際指名手配した。また、シェンゲン情報システムからは「ヨーロッパ逮捕手配」が発布された[54][55]

 11月30日、ICPOはスウェーデンからの要請により、「セックスに関する犯罪」の容疑でアサンジを国際逮捕手配した[56][57]。スウェーデンが出した要請の理由には、「寝ている相手に性行為をした」という性的虐待や「体重をかけ抑えつけて性行為を強要」という非合法な無理強いが含まれていたが、アサンジや一部の報道によると紛争の原因は合意に反してコンドームによる避妊を行わなかったことだという[58][59]。アサンジの弁護士は「アサンジ氏は検察の質問に自ら応じることに合意しており、にもかかわらず国際逮捕手配を発布するのは、スウェーデンにおける判例からしても極めて異例かつ異常である」と語り[60]、またスウェーデンが彼に対しアメリカへの身柄送還を行う可能性についても争う構えを見せている[61][62]

 12月7日、アサンジはロンドン警視庁出頭逮捕された[17]。同日、保釈を却下され再勾留された[63]。12月14日、保証金24万ポンド(約3000万円)やパスポートの没収を条件に保釈が許可されたが、スウェーデン検察の要請により勾留は続けられた[64]。12月16日、要請は退けられ、再び保釈が許可された[65]。保釈中はノーフォークの「エリンガム・ホール」で過ごす。外出は制限され、発信器を付けられるほか、警察に対する一日の報告も義務付けられる[66]

 アサンジの弁護士マーク・スティーヴンスはこれらの手続きを見せしめ捜査とみている[67]。アサンジの弁護団には人権派の英国王室顧問弁護士[68]ジェフリー・ロバートソンや事務弁護士ジェニファー・ロビンソンらが名を連ねている[69]。イギリスにおけるスウェーデン移送に関する審理は2011年2月から始まり、2012年6月にイギリス最高裁は移送を決定したがエクアドル大使館に逃げ込んだ。7年間大使館で暮らしたのち、2019年4月11日にエクアドル大使館がイギリス警察を招き入れて逮捕された[70]

 支援と賞賛

2010年12月10日、シドニー市役所前で行われたアサンジを支援する集会

 ブラジルルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領はアサンジの逮捕を受け、彼との「連帯」を表明した[71][72]。その上で大統領は逮捕について「表現の自由に対する攻撃」であるという意見を示した[73]

 ロシアドミートリー・メドヴェージェフ大統領が「公共団体および非政府組織は彼を助ける方法を考えるべきだ」と語ったという情報もある。このコメントは、スウェーデンにおけるアサンジの逮捕は西に「報道の自由が存在しない」ことを裏付けるものだとしたロシアのNATO大使ドミートリー・ロゴジンの発言を受けたものである[74]

 2010年12月、国連言論と表現の自由特別報道官フランク・ラ・ルエは、アサンジや他のウィキリークス職員が流した情報に関して彼らが法的責任を負うべきではなく、「仮に漏洩した情報に対する責任が誰かにあるとすれば、それは情報を漏らした人間に他ならず、情報を公表したメディアではない。そしてこの仕組みこそが透明性を維持し、さまざまな腐敗を浮かび上がらせてきたのだ」と語った[75]

 2010年12月10日、500を超える人々がシドニー市役所の前で集会を行い、ブリズベンでは約350人が集まった[76]。2010年12月11日にはマドリードの英国大使館に100人以上が集まり、アサンジの逮捕に対する抗議を表明した[77]

 2016年2月5日、国連Working Group on Arbitrary Detention は、アサンジの抑留が不法であるとの見解を示した[78]

 受賞[編集]

 ケニアにおける虐殺を暴いた調査『The Cry of Blood: Extra Judicial Killings and Disappearances』で2009年アムネスティ・インターナショナル国際メディア賞ニュー・メディア部門を受賞[79][80]。これを受けてアサンジは「この不正が記録されたことは、ケニアの市民社会の勇気と力の証左である。我々に協力してくれたオスカー財団、KNHCR、マーズ・グループ・ケニアといった団体の甚大な貢献を得て、我々はこれらの殺人を世界に知らしめることができた」と述べた[81]。彼は『エコノミスト』誌による2008年『Index on Censorship』賞も受賞している[5]

 Sam Adams Associates for Integrity in Intelligenceは2010年サム・アダムス賞にアサンジを選んだ[82][83]。2010年9月、彼は『ニュー・ステーツマン』誌による2010年の「世界で最も影響力のある50人」の23位になった[84]。『Utne Reader』誌11/12月号では、「世界を変える理念を持つ25人」の一人に選されている[85]。2010年12月、『タイム』誌の2010年「パーソン・オブ・ザ・イヤー」でアサンジは読者投票部門の1位に選ばれた (賞総合では次点)[16][86]

 アメリカ外交公電の公開

 居住

 オーストラリア国籍を持つものの、住所不定として登録されている[9]。しきりに居住を移しており、オーストラリア、ケニア、タンザニアに一定期間住んでいたことがある。アサンジやビルギッタ・ヨンスドッティルが米軍のヘリコプターがイラクの民間人を殺害するビデオを公開した後の2010年3月10日からは、アイスランドに借家を構えている[2]

 2010年の間はイギリス、アイスランド、スウェーデンなどのヨーロッパの国々を訪れた。2010年11月4日、アサンジはスイスの公共テレビTSRに、中立国であるスイスに政治亡命を申請し、そこにウィキリークスの拠点を構えることを真剣に考えていると語った[87]

 2010年11月下旬、エクアドルの外務副長官Kintto Lucasは「無条件だ。ならば彼はインターネットに留まらず、さまざまな形のパブリックフォーラムで自由に情報を提供し、あらゆる資料を保有できる」と語り、アサンジに居住を提供する構えを見せた[88]。副長官は、アサンジと対話を始めることがエクアドルの利益に繋がると考えた[89]。11月30日、外務長官Ricardo Patinoは提案について「法的、外交的見地から調査する必要がある」との立場を示した[90]。その数時間後、ラファエル・コレア大統領はウィキリークスは「米国法を破り、このような類の情報をリークするという過ちを犯した。正式な提案を行ったことはない」と述べた[91][92]。大統領はLucasの提案は「彼自身の利益のため」のものだったとした。大統領はエクアドルが公電の流出により受ける影響の調査を開始するという[92]

 2010年12月7日、ウェストミンスター治安判事裁判所で行われた公判で、アサンジは彼の住所を私書箱に指定した。しかしその情報では受理できないと判事に伝えられると、アサンジは「オーストラリア・ビクトリア州パークビル」と用紙に記入した。本籍地を持たないことと彼の流亡生活は、保釈申請却下の要因として判事に取り上げられた[93]。ジャーナリストのヴォーガン・スミスがノーフォークにある彼の邸宅「エリンガム・ホール(Ellingham Hall)」を身柄送還に関する手続きの間保釈中の住所として提供することを提案したこともあり、最終的に保釈は許可された[94]。スミスによると、エリンガム・ホールの広大な土地はアサンジにプライバシーをもたらし、不法侵入せずに近づくことは困難な状態であった[65]

 2012年6月、性的暴行容疑(上記)にて、スウェーデン移送が決定されると、アサンジは移送を回避するために反米左派政権のエクアドルへの亡命を目指し、ロンドンの駐英エクアドル大使館に政治亡命を申請した。申請は同年8月に認められた。エクアドルはアサンジの自国への入国を要請しているが、イギリス政府はアサンジがエクアドル大使館の外に出た場合、保釈違反で身柄拘束する方針としている。2013年6月、アサンジは引き続きエクアドル大使館に滞在しており、そこから米国家安全保障局の元契約職員エドワード・スノーデン容疑者の支援を行っていることを明らかにしている[95]

 2017年12月にアサンジの帰化申請が承認され、エクアドル国籍が与えられたことが2018年1月11日に外務大臣マリア・フェルナンダ・エスピノサにより発表された[96]

 2019年4月11日、イギリス警察によって逮捕された


ウィキリークス創設者アサンジ履歴考
 2018.7.30日、「アサンジ、エクアドル大使館退去も近い?」。
 エクアドル大使館のバルコニーに立つアサンジ(2017年5月)。ここももはや安住の地ではない。Neil Hall-REUTERS
 
 <対欧関係の悪化を恐れるエクアドルは早く追い出したがっている。次にアサンジを待つものは何か。遂にアメリカに移送されるのか>

 告発サイト「ウィキリークス」の創設者であるジュリアン・アサンジの立場は厳しくなりつつあるようだ。スウェーデン当局から性的暴行容疑で起訴されたアサンジは、2012年以降ずっと在ロンドンのエクアドル大使館に居座っている。だがエクアドルのレニン・モレノ大統領はスペイン訪問中の7月27日、アサンジは将来的に大使館を出なければならないだろうと述べた。6月に英サンデー・タイムズは、エクアドルとイギリスの高官がアサンジの処遇について協議し、いったん認めた亡命をエクアドル政府が取り消した後に大使館からアサンジを退去させる方法について検討したとも伝えている。

 アサンジに近い筋もロイター通信に対し、状況はアサンジにとって思わしくないと語っている。スウェーデンでの性的暴行をめぐる起訴はすでに取り下げられているにもかかわらず、アサンジは大使館からの退去を拒んでいる。保釈条件を破ったためにイギリスの警察から追われる身であることに変わりはないからだ。この問題をめぐりアサンジはイギリスの裁判所で戦おうとしたものの、判事から「自分は法律を超えた存在だと」思っていると言われて敗訴している。

 アメリカへの移送の可能性ははっきりせず

 アサンジはかつて、国家機密や電子メール、CIA(米中央情報局)のハッキングツールに関する情報を暴露したことに関する尋問を目的にアメリカに移送されることがいちばん怖いと述べていた。ウィキリークスはロシアのハッカーが入手したアメリカの機密文書を暴露したとして非難されているが、このリークは16年の米大統領選の結果に影響を与えたとされている。

 アサンジの弁護士は、アメリカからの移送要請があるかどうかについて英政府は肯定も否定もしようとしないと述べている。またアサンジも、自分の身柄を拘束するために「情報の隠蔽」を行っているとして英政府のトップを非難している。

 3月に英政府は、アサンジのインターネットへのアクセスを遮断した。これに先立ちアサンジはツイッターで、スペインのカタルーニャ自治州の独立を求める政治家の逮捕に意見を述べたり、イギリスで起きたロシアの元スパイとその娘に対する毒殺未遂事件に対するロシア政府の関与に疑問符を投げかけたりしていた。

 当局がネット接続の遮断を決断したのがそうしたツイートのせいかどうかははっきりしない。だがアサンジはエクアドル政府に「外国の問題への介入を試みたりしない」との誓約書を提出しており、こうしたツイートの多くは誓約違反に当たると伝えられている。

 「アサンジの行為は、ソーシャルネットワークを介したメッセージとともに、(エクアドルが)イギリスを初めとするEU(欧州連合)諸国や他の国々と維持している良好な関係を危機に陥れるものだ」と、エクアドル政府は声明で述べている。

 具体的な時期には触れず

 ネット接続を遮断されたのを受け、アサンジの支持者たちはソーシャルメディア上で、接続の回復を求めるキャンペーンを開始。英当局に対し決定の見直しを求めた。モレノ大統領はかつてアサンジのことを「ハッカー」呼ばわりし、前政権から「持ち越された問題」だとも述べていた。だが大使館を退去させる意向を示したとはいえ、それがいつ頃になるかには触れていない。(翻訳:村井裕美)

 2019年4月12日、シェイン・クラウチャーアサンジは死刑になるのか、ならないのか(Will Julian Assange Face The Death Penalty?)。
 <米司法省は機密情報の漏洩に関与した共謀罪で身柄の引き渡しを求めるが、イギリス側は「死刑」になる可能性があれば身柄は引き渡さないと言明>

 内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者ジュリアン・アサンジが11日、7年間保護されていたロンドンの在英エクアドル大使館で英警察に逮捕された。米司法省は同日、米軍の機密情報の漏洩事件に関与した疑いでアサンジの訴追を発表した。アサンジ側は、アメリカに身柄を送られ、最悪の場合には死刑にされるのではないかと恐れている。英警察は、エクアドル政府がアサンジの亡命許可を取り下げ、アメリカが身柄引き渡しを要請したことを受けて、エクアドル大使館内でアサンジを逮捕した。しかし英ガーディアンによると、昨年12月にラジオインタビューに応じたエクアドルのレニン・モレノ大統領は、英政府がアサンジに対して、アメリカなど死刑になる可能性がある国には身柄を引き渡さないと約束する文書を渡していたことを明らかにしている。さらにイギリスのアラン・ダンカン外務閣外相(欧州・アメリカ担当)は11日、もしアサンジが死刑になるならアメリカに身柄を引き渡すことはないと発言した。「もしアサンジが死刑にされるのなら、イギリスは身柄を引き渡さない。これはイギリスの基本的な政策でアサンジにも同様に適用される」と、ダンカンは英メディアの取材に語っている。

 逮捕前には健康診断を

 ロンドン警視庁の声明によると、英警察はアメリカ当局の代理としてアサンジを逮捕し、「すみやかにウェストミンスター治安判事裁判所に身柄を移される」ことになる。サジッド・ジェイビッド英内相は議会に対する声明で、アサンジの権利と「正当な利益」が保護される、と語った。またアサンジ逮捕はエクアドル大使の指示の下で国際法に準拠して執行され、逮捕前には健康診断を実施し、また今後もアサンジは医療施設の利用が可能だと説明している。アサンジと弁護団は、まずイギリスの裁判所でアメリカに身柄を引き渡すかどうかの審理に臨む。ジェイビッドはツイートで「(アサンジは)イギリスの正義によって正しく判断される。法に勝るものは何もない」とコメントした。アサンジの弁護士ジェニファー・ロビンソンはツイッターで、米当局の令状によると、元米軍兵士でイラク戦争の機密情報や外交公電を大量に漏洩させたチェルシー・マニングとアサンジが共謀したという容疑になっていると明らかにした。さらに米司法省は11日、アサンジの容疑について、米政府の機密文書や機密連絡に使われているネットワークに、マニングがパスワードを破って不法に侵入したことを手助けした共謀罪だと発表した。司法省は、マニングがダウンロードした機密文書をウィキリークスに渡し、それが公開されたと見ている。

 報道発表の中で司法省は、「マニングはパスワードを破り、自分のものではないユーザーネームでコンピューターにログインした。こうした不法な手法によって捜査当局が違法な機密漏洩の情報源を特定することはより困難になった。マニングとアサンジは共謀の間、機密情報の引き渡しに関して常に連絡を取り合っていた」と説明している。さらに「アサンジはマニングにもっと情報を提供するよう働きかけた。マニングが『これが入手したすべてだ』と伝えると、アサンジは『私の経験では、好奇心の目が乾くことはない』」と返答した」と容疑の詳細を明かした。

 「国際法違反」とウィキリークスは非難

 アサンジは2012年、スウェーデンでの女性に対する性的暴行容疑で英警察に逮捕されたが、保釈中にアメリカへの身柄移送を恐れてロンドンのエクアドル大使館に亡命を求めた。現在残っている容疑の一部も2020年に時効になるが、アサンジが今スウェーデンに戻れば、事件捜査が再開される可能性がある。約7年間アサンジを保護した後、亡命許可を取り消したエクアドルのモレノ大統領は「大使館内でのアサンジの態度に我慢がならなかった」とコメントしている。ウィキリークスは、アサンジを逮捕させたエクアドルの判断が「国際法違反」だと主張した。「アサンジは1人の息子、父親、兄弟で、いくつものジャーナリズム関連の賞を受賞している」。

 2019.4.12日、「英、アサンジ容疑者を逮捕=ウィキリークス創始者、7年の籠城終結」。
 11日、英警察に逮捕された後、ロンドンの治安裁判所に入る内部告発サイト「ウィキリークス」の創始者アサンジ容疑者(EPA時事)

 【ロンドン時事】英警察は11日、内部告発サイト「」の創始者ジュリアン・アサンジ容疑者(47)を逮捕した。アサンジ容疑者はスウェーデンでの性的暴行容疑で逮捕された後、保釈中にロンドンの在英エクアドル大使館に逃げ込み、約7年間籠城していた。

 英警察によると、今回の逮捕は、英裁判所の決定に従わず大使館での籠城を続けたことが直接の容疑。その後、米国からの身柄引き渡し要請に基づく容疑で逮捕したことも発表した。米司法省もアサンジ容疑者をハッキングの罪で起訴したと公表した。

 内部告発サイト「ウィキリークス」の創始者アサンジ容疑者=2016年2月、ロンドンの在英エクアドル大使館(AFP時事)

 エクアドル政府はアサンジ容疑者の亡命を撤回し、英警察を大使館内に招き入れた。逮捕後はロンドン中心部の施設に身柄を移された。その後、裁判所に出廷し、2012年の保釈条件違反で有罪を言い渡された。米国への引き渡しに絡む審理は5月2日に行う。 エクアドルのモレノ大統領は11日、ツイッターを通じ「アサンジ容疑者の振る舞いに対するわれわれの我慢は限界に達した。死刑や拷問のある国には引き渡さないと英国は約束した」と発表した。ジャビド英内相は「エクアドルの協力に感謝する」と述べた。は、米国のイラクやアフガニスタンでの戦争に関する公文書などを大量に公開してきた。英政府の判断次第では、今後スウェーデンや米国に身柄が引き渡される可能性もある。










(私論.私見)