判決考

 (最新見直し2009.9.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2008.4.18星島猟奇殺人事件」に対する判決と、れんだいこ見解を記しておく。

 2009.1.28日 れんだいこ拝


【第一審、無期懲役判決考】
 2009.2.18日、東京地裁(平出喜一、ひらいで・きいち裁判長)で東京・江東区の女性殺害事件の判決公判があり、星島被告に無期懲役を言い渡した。被告は起訴内容を認めており、被害者が一人の場合で死刑が選択されるかどうかが争点だった。被告側に事実関係に争いはなく、死刑適用の適否が最大の争点だった。

 平出喜一裁判長は、判決で、星島被告は昨年四月十八日夜、東城さんをわいせつ目的で自室に連れ込み、包丁で刺して殺害。のこぎりなどで遺体を切断し、トイレなどに遺棄したと認定した上で、「残虐、冷酷な犯行で被害者の無念の思いと遺族の悲嘆は察するに余りあるが、殺害の計画性や前科もなく、死刑をもって臨むのは重きに過ぎる」と述べ、無期懲役の判決を言い渡した。

 無期懲役にした理由として、平出裁判長は判決理由で「わいせつ目的というゆがんだ欲望で被害者を拉致し、命を奪った極めて卑劣な犯行。死体を細かく切断して投棄するなど遺族の心情も踏みにじり、死刑の選択も考慮すべき事件」と指摘した上で、「永山基準」など過去の死刑事件の判例を挙げ、殺害された被害者が1人という点や殺害の計画性の有無などを詳細に検討し、被害者が1人の事件で死刑を選択すべきかについて「被害者が多数の事件と異なり、殺害された被害者が一人の場合、動機や犯行の手段、残虐性などで相当強い悪質性が必要」と述べ、次のような判断を示し、死刑回避の理由を述べた。

 概要「星島貴徳被告の刑事責任を検討するにあたっては、以下の事情も指摘されなければならない。殺害は、抵抗できない東城瑠理香さんに対し、包丁で首を1回突き刺し、その後、包丁を抜いて大量に出血させたというものだ。残虐であって、目的を遂げるために確実に東城さんを死に至らしめる冷酷さは背筋を凍らせるものがある。「被害者を乱暴し『性奴隷』にしようとのゆがんだ性的欲望を抱いて拉致。発覚を恐れて殺害、遺体を損壊、遺棄した行為には
戦慄せんりつを覚える。証拠隠滅も徹底し、被害者の名誉や人格、遺族の心情を踏みにじり、極めて卑劣である。被害者が防犯設備を備えた安全なマンションで被害に遭った点を強調し、「社会に与えた影響も大きい。自己中心的で残虐、冷酷な犯行である。

 だが、他方で、殺害方法は
執拗な攻撃を加えたものではなく、星島被告が東城さんに気づかれないように振る舞った結果とはいえ、東城さんに対してことさらに死の恐怖を与えるようなことはしておらず、このような様子が残虐極まりないとまではいえない。昭和58年の最高裁判例は死刑を選択する基準の1つとして、犯行の態様を挙げており、殺害の手段方法の執拗性や残虐性が重要であることを示している。本件を執拗でより残虐な方法で殺害した事案と比較した場合、非難の程度に差が認められるのはやむを得ない。

 この点に関連して検察官は、星島被告が東城さんの遺体を徹底的に切り刻み、汚物やごみと同様の方法で投棄した行為も、殺人の情状を検討する上で、最も悪質な情状として十分に考慮すべきと主張する。確かに、遺体損壊、遺棄の具体的なありさまに接するとき、心に戦慄(せんりつ)を覚えない者はない。そのことが遺族のただでさえ深い傷をどれだけ深くしたのか計り知れない。星島被告にとっては、東城さんの殺害、その遺体の損壊、遺棄というのは一連の隠滅行為であって、量刑を考える際、考慮すべきも当然である。

 しかしながら死刑の選択が問題となるのは、星島被告が法定刑の中に死刑を含んでいる殺人罪を犯したからである。殺害の態様は残虐極まりないとまでは言えない。被害者が命を落とした後である死体損壊、遺棄の態様を過大評価できない。

 自室に連れ込んだ時点では殺害や死体損壊までは意図しておらず、凶器や死体解体の道具を事前に準備していなかった。つまり、と殺害の計画性は無い。さらに、被告に前科がないことや、自供した後は一貫して罪を認め、公判では詳細に犯行状況を語った上で、死刑になって地獄でおわびするつもりですなどと謝罪の態度を示している。

 これらを顧慮すれば、矯正の余地の可能性が残されており、終生、被害者の冥福を祈らせ、
贖罪しょくざいに当たらせることが相当だ。死刑を選択すべき事案とは言えない。量刑の傾向を踏まえると死刑は重すぎる」。

 永山基準

 1968年に起きた4人連続射殺事件の永山則夫元死刑囚(犯行当時19歳)に対し、最高裁が83年の判決で示した死刑選択の9項目の基準。(1)犯行の罪質(2)動機(3)殺害方法の執拗(しつよう)性、残虐性(4)被害者の数など結果の重大性(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)犯人の年齢(8)前科(9)犯行後の情状−を総合的に考慮しても、なお刑事責任が重大で、罪刑均衡や一般予防の見地からもやむを得ない場合にのみ、死刑選択が許されるとした。


Re::れんだいこのカンテラ時評540 れんだいこ 2009/02/18
 【星島猟奇殺人神隠し事件考】

 2009.2.18日、「星島猟奇殺人神隠し事件」の判決が下った。死刑か無期懲役かに関心が持たれていたが、裁判長は後者を選んだ。この事件と判決について、れんだいこがコメントしておく。

 この事件は、それにしても何から何まで奇妙奇天烈な事件となっている。被害者及びご家族には申し訳ないが、れんだいこが推測するのに未だに信じられないのではなかろうか。集中公判で事件の闇が検証されたが、れんだいこが検察の論旨と法廷指揮を確認する限り、こちらの方も猟奇的である。テレビモニター、ボードを多用し、被害者のプライバシー、被告人の性癖の極致まで暴いて饒舌多弁するものの肝腎なところがいっこうに明らかにされていない。疑問は益々深まるばかりである。

 問題は次のことにある。マスコミと警察と被害者家族の疑惑の中で、被告人が密室殺人と死体神隠しを完璧に為し得たとする不思議性にある。それも凶器が包丁とノコギリだと云う。こんなもので人を解体し得たとする方がオカシかろうが疑問にされていない。しかも解体音も臭いもさせず、トイレや浴槽の排水溝に流し得たと云うのだ。処理できないものは近くのゴミステーションに捨てたというのだ。これを衆人環視の中でやり終えたと云うのだ。

 しかも、警察が数次にわたって室内を捜索に来ているというのだ。最初に来たときはノックだけの遣り取りで、その時は生きており、その後刺殺したと云う。解体処理中に数度立ち入りしていると云う。部屋の広さは1LDKか2DKぐらいのものだろう。その室内点検で、解体中の作業を見逃したというのだ。頓馬ドジ極まる話ではないか。何度も云うが、だつたら責任者は辞職せよ。これも問題にならない。

 とにかく、有り得ないことが有り得たように辻褄合わせされている変な事件であると窺うべきだろう。こたびの判決は、これらの疑問に何一つ答えていない。判決文全文を読んでいないが、伝わる論旨を読んで、これまた奇妙奇天烈なものになっている。量刑判断の基準で、被告人の犯行が被害者を一気に殺しておらず、つまり長期間いたぶるよう執拗な殺害の仕方ではない点を考慮するというのだ。しかしそれなら、前代未聞の完全バラバラ解体の悪質執拗さはどうなるのだ。思うに、裁判長の頭脳の中では、死んでしまってからの被害者の人権なり名誉は関係ないらしい。法律家諸君はオカシイと思わないか。

 これは、死刑にせよとかどうか以前の量刑判断の問題として捉えねばならない。この事件はとにかく被告人も検察も裁判長もオカシイ。このオカシサをオカシイと思わず伝えるマスコミも、それを聞き流す者もみんなオカシイ。このオカシサが今の日本全体を覆っている気がする。ドランカー中川もオカシイ。小泉再登板を誉めそやすのもオカシイ。

 もとへ。この事件は被告人が全面的に罪を認めているので冤罪とは違う。しかし、どういう事情が有るのかは知らないが、何らかの請負狂言という線は考えられる。日本左派運動は、今後は冤罪事件のみならず、こういう請負狂言事件まで視野に入れねばならなくなった気がする。それらが全てゼニで動いているとしたら、嫌な時代になったと思う。以上コメントしておく。

 2009.2.18日 れんだいこ拝

【第二審判決】
 2009.9.10日、東京高裁が、2008.4月、東京都江東区のマンションで二部屋隣に住む会社員、東城瑠理香(るりか、当時23歳)さんの帰宅直後、包丁を突きつけて自室に連れ込み(住居侵入罪、わいせつ略取罪)、東城さんの首を包丁で突き刺し失血死させた(殺人罪)。更に遺体をバラバラにしてトイレに流して捨てた(死体損壊・遺棄罪)として殺人や死体損壊罪などに問われた元派遣社員、星島貴徳被告(34)の控訴審判決で、無期懲役とした東京地裁判決(2月)を支持し、死刑を求めていた検察側の控訴を棄却した。

 1、2審を通じて焦点となったのは、犠牲者が1人の殺人事件で、前科などがない星島被告に死刑が言い渡されるかどうかの1審同様量刑が争点となっていた。控訴審で検察側は、「特に考慮すべき事情がない限り死刑を選択すべき事案。起訴された犯行を全体的に評価すべきだ」と主張。1審に続いて東城さんの母や姉への証人尋問を行い、遺族の被害感情が強いことを強調した。一方、弁護側は、星島被告が深く反省していることなどを挙げたほか、「過去に被害者が1人で死刑判決が出たほかの事件と比べても特別に悪質だったとはいえない」として、控訴棄却を求めていた。

 山崎学裁判長は、「殺害は身勝手極まりない。死体損壊は人間の尊厳を無視する他に類を見ないおぞましい犯行。突然命を絶たれ、ごみ同然に扱われ、さぞかし無念だったと推察される」と述べたものの、殺害の計画性を否定し、「謝罪の態度を示し立ち直る可能性がある」として死刑を回避した。「『東城さんを拉致した時点で殺害に着手せざるを得ない状況だった』という検察側の主張は早計」と殺害の計画性を否定し、(1)前科前歴がない(2)自白し罪を悔いている(3)立ち直る可能性があるなどと1審同様の判断を示した。

 2審で判断を変更した点もあった。わいせつ目的で拉致したものの、わいせつ行為には及ばなかった点を1審は有利な情状として挙げたが「有利には考慮できない」とした。さらに「殺害行為は無慈悲で残虐。1審が『極めて残虐とまでは言えない』としたのは相当ではない」と述べた。しかし、83年に最高裁が示した死刑適用基準(永山基準)や被害者が1人でも死刑となった過去の事案との違いを指摘し、「殺害された被害者が1人の事案で死刑を選択するには、相当の悪質性が認められることが必要」と指摘した上で、殺害方法の強い残虐性、殺害や死体損壊・遺棄の計画性などを否定。「極刑がやむを得ないとまでは言えない」と結論づけた。

 星島被告は「望む(死刑)判決をいただきたい」とする書面を提出し、2審は出廷する義務がないため判決公判を含め控訴審に出廷しなかった。

 東京高検の渡辺恵一次席検事の話「判決内容を十分検討し今後の対応を決めたい」。星島被告の弁護士の話「裁判所の判断を尊重する」。(被告不在については)ノーコメント。

Re::れんだいこのカンテラ時評604 れんだいこ 2009/09/11
 【「2008.4.18星島猟奇殺人事件」の第二審判決考】

 本日2009.9.11日と云えば、「2001.9.11同時多発テロ」の8周年日である。あの事件も、各方面の識者が疑惑を提起している。イスラム側のテロの動きを逆さにとってブッシュ側が仕掛けた可能性が指摘されている。れんだいこは、さもありなんと思っている。ここでは、これについて触れない。昨日の奇妙な判決というか事件そのものを俎上に上げ、議論を巻き起こしたいと思う。

 2009.9.10日、「2008.4.18星島猟奇殺人事件」の第二審判決があり、東京高裁の山崎学裁判長は、一審判決同様の無期懲役を言い渡し、死刑を求めていた検察側の控訴を棄却した。新聞論調は一様に、死刑判決が相当か無期懲役が妥当かを廻る裁判として注目する記事を載せていた。

 れんだいこは、この事件に於ける量刑論議には関心がない。否馬鹿げていると考えている。感心があるのは、事件の猟奇性が本当のことであるのかどうかを廻る真偽である。未だにかの密室神隠し事件そのものが信じられない。多くの者は、「2001.9.11同時多発テロ」同様に報道されるところの筋書きをそのまま信じているようだが、有り得ないことはやはり有り得ないのだ。そういう疑問が禁じえない。そういう疑問が起こらないことが信じられない。

 どう疑問があるかというと、事件は、直後よりマスコミ監視下に置かれ、多くの報道陣が詰める中で、警察の現場検証が直ちに開始される中で、星島被告の室内への立ち入りが数次にわたって行われる中で、ワンルームマンションの中で二日間にわたって東城瑠理香(るりか、当時23歳)さんの死体がバラバラにされ、神隠しされたというのだ。凶器は文化包丁2本で、死体は粉々に砕かれてトイレや風呂場の排水管に流され、流しきれなかった骨体は持ち出され、近くのマンションのゴミステーションに捨てられたという。これってオカシクないか。

 本当の事件なら、警察の失態責任が免れまい。誰か責任をとっただろうか。それよりも一体全体、文化包丁如きで、人間の死体をバラせるものなのか。排水管を詰まらせずに流し終えられるものなのか。しかも、特段の音を立てずにだ。骨を割ったり切ったりするのに、文化包丁で為し得たり、音を立てずにできるものなのか。且つ又しかも、臭いを出さずにだ。というのも、警察は複数名で室内の立ち入りを複数回しているのだから。頭蓋骨が近くのマンションのゴミステーションに捨てられたというのも臭い話だ。あの時既に星島被告はマークされていたはずだ。頭蓋骨の如く大きな骨体を隠して持ち出したり捨てることなどできっこないだろうが。しかも、それを誰にも発見されず足がつかない方法でなど。

 事件は、本人がやったと自供したことにより、やったとされ、何の疑問も湧かさずにマスコミが報道し続けたが、れんだいこに云わせれば、本人が認めようが認めまいが臭いものは臭い。かの状況下で、東城さんの神隠しなどできたとするのがオカシイとして取材に励むべきではないのか。本人が認めた裏には何があるのだろうか。これを詮索するのが、もう一つのジャーナル精神ではなかろうか。法曹関係者然り、何万人も居るだろうに特段の疑問の声が挙らない。

 これってオカシ過ぎやしないか。れんだいこが孤軍奮闘で異議を申し上げるのがオカシイように受け取られているが、真実は一つであろう。れんだいこは、数々の疑問が氷解しない限り本事件の筋書きを認めるわけにはいかない。そういう偏屈人間が居たって良かろう。

 れんだいこのこういう疑問は数々ある。ロッキード事件に於ける田中角栄の5億円授受説然り。れんだいこは、角栄が冤罪を主張して公判闘争を闘い抜いたのは、真実受け取っていないからだろうと考えている。マスコミは違う。判決前から犯人扱いして有罪真っ黒説で糾弾して行った。戦前共産党の宮顕一派による「党中央委員・小畑の査問致死事件」然り。小畑はスパイであり止むを得なかった論から、小畑は急性心臓麻痺で持病により勝手に死んだ説等が通説となっているが、真実は逆で、スパイ派の宮顕派が労働者派の小畑を査問致死させたと解析している。れんだいこ見解が通説と違う例は他にも五万とある。星島事件もその一つに過ぎない。

 れんだいこが目立とうとして珍説を唱えている訳ではない。真実は違うと思うから意見を申し立てしているに過ぎない。こういう場合の通説とれんだいこ説は決して混ざらない。折衷して足して二で割るという風にはならない。どちらかが間違いであり白黒つけねばならない。ところが世のなか、こういう場合には曖昧にして、れんだいこから見て曖昧で良いもの、さして重要でもないものを採り上げて口角泡を飛ばして議論している例が多い。住む世界、見える世界が違うということになる。寂しいことではある。

 さて結論。奇しくも日が立て合った「2008.4.18星島猟奇殺人事件」、「2001.9.11同時多発テロ」につき、世に再考を求めたい。仮に、通説が間違いだとしたら、こういう間違いが意図的に流布されるような世の中を変えたい。そうしないと、我々が真っ当に生きられないからである。まずはここから始めねば、世の中が良くならない気がする。というようなことが、「この日」に云いたかった訳である。

 2009.9.11日 れんだいこ拝






(私論.私見)