476 | 罪刑法定主義の新視点考 | 法律関連 |
(最新見直し2007.9.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
刑法犯罪に対して没思想的理論的に免責条項を適用し、重罪を犯しても不相当に軽罰される方向での弁護活動が目立ってきている。死刑廃止運動がこれに連動しているように見受けられる。今、現代的罪刑法定主義が陥ったこの仕掛けが問題になりつつある。れんだいこは、現代刑法の免責規定に対して思想的理論的考察せねばならないと思うようになった。この問題の格好教材として「山口県光市母子殺人事件」が発生した。以下、これを検証しつつ「罪刑法定主義の新視点考」を考察する。 2006.6.21日、2007.9.21日再編集 れんだいこ拝 |
【「山口県光市母子殺人事件」とは】 | |
「ウィキペディア光市母子殺害事件」その他を参照する。 1999.4.14日午後2時半頃、山口県光市の社宅アパートで、本村洋(もとむら ひろし )氏の妻(当時23歳)とその娘(生後11カ月)が、当時18歳の少年に殺害される事件が発生した。少年は、排水検査を装って居間に侵入し、女性を引き倒し馬乗りになって暴行を加えようとしたところ激しい抵抗を受け、頸部を圧迫して結果的に窒息死させるに至った。少年はその後、女性を屍姦し、傍らで泣きやまない娘を床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させた。事後、女性の遺体を押入れに、娘の遺体を天袋にそれぞれ放置し、居間にあった財布を盗んで逃走した。盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり友達の家に寄るなどしていたが、事件から4日後の4.18日に逮捕された。 この事件の史的意義は、被害者の夫である本村氏が被害者の側からの正義を訴え続け、「犯罪に相当する等値刑罰」を希求し続け、被告及び弁護団の免責主張に対し自ら告発し続けていったことにある。 上告審から主任弁護人を引き受けた安田好弘を中心とする弁護団は、次のように弁護している。
被害女性の夫であり、被害女児の父である本村氏は、日本では「犯罪被害者の権利が何一つ守られていないことを痛感し」、同様に妻を殺害された元日本弁護士連合会副会長岡村勲らと共に犯罪被害者の会(現、全国犯罪被害者の会)を設立し、幹事に就任した。さらに犯罪被害者等基本法の成立に尽力した。また、裁判の経過中、死刑判決を望むことを強く表明し続けてきた。現在、犯罪被害者の権利確立のために、執筆、講演を通じて活動している。 |
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【第1原則、罪と罰は等価にせよ。これを原則とせよ】 | ||
罪刑法定主義の第1原則は、「罪と罰の等価」である。 2005.7.27日付け「森田実政治日誌214」は旧約聖書の次の一節を紹介している。
森田氏は、旧約聖書のこの言葉を「同害報復の原則」として紹介している。この刑法の起源は、紀元前18世紀のバビロン第一王朝のハムラビ王によってつくられた「ハムラビ法典」にあるとされている。森田氏が、この「ハムラビ法典」に依拠せずユダヤ教聖書(キリスト教的には旧約聖書)の一節に注目しているのは秀逸である。 この種の考察の際にユダヤ教聖書の教義を紐解かれることが少ないが、我々はユダヤ教の報復主義に注目し言及せねばならないのではなかろうか。ユダヤ教は、モーゼの十戒が幾分緩和しているものの聖書に於いて堂々と報復主義を掲げている。ユダヤ教のもう一つの御書であるタルムードに拠れば、報復主義を更に徹底し聖戦化している。 イスラム教のイスラム法では、「キーサス」(報復)と呼ぶ「被害者やその家族は、受けた被害と同等の刑罰を要求する権利がある」を原則としている。もっとも同害報復の権利をなるべく行使しないように求めている。 これに対して、イエス・キリストは「愛の御教え」を説き、互いに際限の無くなる報復主義からの決別、不争と許し合いの思想を育成せんとしている。新約聖書に次のように記されている。
刑罰思想にはこの二つの源流がある。 |
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![]() 刑法を考える際には、万事そうであるとも云えるのだが、根底に横たわる二つの論理論法を見据え、どちらに依拠するのか判然とさせねばならない。これは二股の道であり、それぞれが学的体系を構築している。両方学ぶべきであるが、両方を採ることはできない。せいぜい折衷するぐらいが関の山である。その先には股裂きの刑が待ち受けている。故に、我々には、このうちいずれを採って学的体系化させるべきかが問われている。この二股の道を分別せずに刑法を学ぶ者は愚かである。 近代刑法は、「罪と罰の等価性問題」について考察しているのだろうか。この難問に対してどう対応しているのだろうか。縷縷(るる)新理論を生み出しているようであるが、肝腎のところを明らかにせぬまま案外と折衷しているのではなかろうか。これによる二枚舌を下地にしていないだろうか。 れんだいこは、つらつら考えるのに、刑法第一原則の場面でイエス・キリストの「愛の御教え」を説くのはお門違いではなかろうかと考える。イエス・キリストの「愛の御教え」は、果てしない報復主義に対置する御教えであり、刑罰免責理論ではない。そう弁えるべきではなかろうか。刑法は、いつ如何なるときでも「罪と罰は等価を原則とせよ」を第一原則とすべきであり、この姿勢こそ正しいのではなかろうか。まず、ここを確立しておく必要があるのではなかろうか。現代刑法はこの第一原則を軽視しており、却って闇路に踏み込んでいる。 2007.9.23日 れんだいこ拝 |
【第2原則、第1原則を踏まえつつ免責事由理論を創出適用せよ】 |
第一原則の次に第二原則が適用される。以下、順にそうなる。罪刑法定主義の第2原則は、「免責事由理論の創出適用」である。しかしながら、「その1、罪と罰の等価原則」の観点に於いて、「罪発生時の免責事由」によって減刑されるべしとすべきである。これを逆に云えば、「罪発生時の免責事由」が無ければ、あるいはその割合が薄ければ薄いほど第1原則である「罪と罰は等価」により裁定せねばならないと云う事になる。 「罪発生時の免責事由」には、1・過失事由、2・正当事由、3・能力事由が該当する。1・過失事由とは、過失によって引き起こされた罪に対する軽減法理である。例えば、業務上過失致死の例が有り、減刑される。2・正当事由には、正当防衛事由と正当攻撃事由が考えられるが、正当攻撃事由は原則的に認められないものとする。正当防衛事由については、その要件が精査されることになる。3・能力事由には、心神耗弱事由と知的障害事由が考えられる。 が、第2原則「罪発生時の免責事由の創出適用」は、第1原則「罪と罰の等価」を認めたうえでの減刑問題として健闘されるべきであり、「罪発生時の免責事由」の適用によって、罰が無くされるものではないと思う。つまり、第2原則は第1原則を越えることはできないという原則を確立すべきではなかろうか。数式的には、第1原則>第2原則であろう。 |
【第3原則、犯罪者の更生支援理論を創出適用せよ】 |
第1原則「罪と罰の等価原則論」に第2原則「罪発生時の免責事由論」を加えた後に、「犯罪者の更生支援理論」を導入せねばならない。イエス・キリストの「悔い改め」と「不争と許し合い」の御教えがこの際に参考になる。この御教えによって、イエス・キリストは、「罪と罰の等価原則論」を報復的に適用するのではなく、犯罪者の更生支援に向かいなさいと教示しているのではなかろうか。実に、近代刑法は、その為のプログラムを発達させてきたことに意義が認められる。 しかし、第2原則「罪発生時の免責事由」同様に、第3原則「犯罪者の更生支援理論」を過剰展開することにより、「罪と罰の等価原則」が不当に軽くされるのは愚行ではなかろうか。「犯罪者の更生支援論」はあくまで、第一原則により定められた罪刑の軽減措置として援用されるべきであり、それも或る程度抑制的に適用されるべきではなかろうか。数式的には、第1原則>第2原則>第3原則であろう。 |
【第4原則、再犯防止と後続犯罪の発生防止に努めよ】 |
罪刑法定主義の新視点にもう一つの論が掲げられなければならない。それは、再犯防止と類似する後続犯罪の発生を防止する為の有効手段を講ずる必要があるということである。これを第4原則とする。 最近の弁護活動に於ける論法を聞いていると、担当した被疑者の無罪勝ち取りないし刑罰の軽減に励む余り無茶苦茶な論法が横行していることに気づかされる。「罪発生時の免責事由」と「犯罪者の更生支援論」により犯罪者が罪相応に処罰されない傾向、重罪であるにも拘らず短期で釈放される傾向を生み出している。そのことで、再犯発生を助長している傾向がある。 これらの事象が起るのは、現代司法が思想的理論的制度的な新刑罰法を生み出して居らず、為に現場が混乱し続けていることにあると思われる。その典型的事例として「死刑を3度も免れたレイプ犯 知的障害者かをめぐり審理続く [ベリタ通信]」が検討に値する。これによれば、殺人犯が捉えられ、死刑が宣告されたにも拘わらず、その都度上級審が死刑を取り消してきた。その理由として、犯人が知的障害者で、事の善悪を判断する能力がないと認定されたためである。この問題は、「罪時の免責事由」と「犯罪者の更生支援論」と再犯防止の間の法理論の欠如に起因しているのではなかろうか。「罪発生時の免責事由」と「犯罪者の更生支援論」が再犯助長に使われるのは本末転倒ではなかろうか。 「光市母子殺人事件」も然りである。犯罪者が未成年であったということと「未必の故意」による殺人事件であったということが犯罪者に対する刑罰を軽減させるにせよ、ほどほどにせねばならぬのではなかろうか。 |
【第5原則、冤罪を防止せよ】 |
【第6原則、政治犯の別途待遇理論を創出せよ】 |
【第7原則、法を等価適用せよ】 |
(私論.私見)