貞明皇后考 |
ここで、大正天皇の皇后貞明について考察しておく。「ウィキペディア貞明皇后」、「萬晩報、薩長因縁の昭和平成史(4)」その他を参照する。 貞明皇后(ていめいこうごう、旧名:九條 節子(くじょう さだこ)。1884年6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、大正天皇の皇后。お印は藤。 |
【履歴】 |
1884(明治17).6.25日、旧摂家、公爵の九条道孝(くじょうみちたか)の四女として誕生。母は側室の野間幾子。学齢まで農家の家に里子に出され、裸足で野山を駆け巡り、”九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な大正天皇の后となる大きな決め手にもなったようである。明治天皇の皇后の昭憲皇太后をして、「なんてお転婆なんでしょう」といわしめた程である。1898(明治31)年、華族女学校小学部(現学習院初等部)を卒業。 1900(明治33).2.11日 、15歳で、5歳年上の皇太子明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王と婚約。同年5.10日、宮中の賢所に於いて、神前で挙式。御成婚祝の新居として赤坂離宮(現・迎賓館)が建造される。 成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝していた。 大正天皇によく尽くし、夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見たという。また、翌年には、裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)を出産、その後、秩父宮(ちちぶのみや)雍仁(やすひと)親王、高松宮(たかまつのみや)宣仁(のぶひと)親王、三笠宮(みかさにみや)崇仁(たかひと)親王と、4人の男の子に恵まれた。 皇子4人がすべて皇后の子であったのは稀有というべきであり、一夫一妻制の確立に大いに貢献した。また皇子4人を産んだことで、宮中での地位は絶大なものがあった。大正天皇と一緒にたばこを嗜好していた。特筆すべきことは、大正天皇とともに側室制度を排して、天皇家の一夫多妻制を打ち切り、新しい皇室の姿を作っていったことである。反面、保守派の面もあり、宮中のしきたりに厳格で、皇太子妃の良子(ながこ)に対しても厳しかったといわれる。 1912(明治45).7.30日、明治天皇が崩御。大正天皇の即位に伴い皇后となる。 1915(大正4).11.10日、3年後、京都御所にて即位の礼が行なわれたが、貞明皇后は第四子を懐妊中のため欠席した。。天皇が即位後初めて行う新嘗〈にいなめ〉祭、その年の新穀を天皇が天照大神〈あまてらすおおみかみ〉および天神地祇に供え、自らも食する、1代一度の大祭である大嘗祭〈だうじょうさい〉と一連の儀式を合わせ大礼〈たいれい〉又は大典〈たいてん〉という)を挙行した。 昭憲皇太后の後継者として皇室や神道のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。 また、大正天皇が病に陥った後は、天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渡り合った。1922(大正11)年、英国のエドワード王太子の訪日時、摂政裕仁親王とともにもてなしている。1923(大正12)年、 関東大震災の際には被災者を慰問している。 1924(昭和13)年、貞明皇后は、病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添いつつ8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に「神ながらの道」としてまとめられた。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着いた。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であるとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。 1926(大正15).12.25日、貞明皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が崩御。摂政の皇太子・裕仁親王の即位により皇太后となる(42歳)。天皇の死後、貞明皇后は日課の如く、午前中の大部分を大正天皇の遺影を安置した部屋で過ごし、「生ける人に仕えるよう」な有様だったという。また、孫にあたる昭和天皇の皇子女・三笠宮の子女を可愛がったと言う。 1930(昭和5)年、赤坂離宮御苑内の大宮御所(太皇太后または皇太后の御所〈住居〉)に移った。皇太后としては救癩(きゅうらい=ハンセン病患者を救うこと)事業などを援助する一方、養蚕(ようさん=蚕を飼い育て、繭をとること)や灯台守(灯台の番をする人)への理解が深く、援助もよく行った。 1931(昭和6)、貞明皇后の下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。彼女の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のための強制隔離が正当化された面も否めない。また、このような活動が彼女の真意には関わらず「皇恩」、「仁慈」として、その後政治利用されてしまった側面もある。 戦中、関屋衣子は貞明皇后を訪れる。衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。 1951(昭和26).5.17日、狭心症のため崩御。享年66歳。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行なう予定で、その準備をしている時に発作が起こり、急死した。 同年6.8日、貞明皇后と追号された。追号の「貞明」は、『易経』にある「日月の道は貞(ただ)しくして明らかなり」の一文を出典とする。 陵墓は東京都八王子市の多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)で、大正天皇と並んで葬られた(歴代皇后の内で初めて関東に陵が営まれた)が、それは、日本国憲法下の皇室典範に基づいて葬られた最初の皇族を意味した。 |
【家系】 |
孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母にあたる。姉・範子は山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子は西本願寺門主・大谷光瑞の妻。 異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。 |
【家族】 |
大正天皇との間には4男の皇子をもうけた。1901年、迪宮裕仁親王(みちのみやひろひと、 第124代昭和天皇、1902年、淳宮雍仁親王(あつのみややすひと、 秩父宮)、1905年、光宮宣仁親王(てるのみやのぶひと、高松宮)、1915年、澄宮崇仁親王(すみのみやたかひと、三笠宮)。 |
【人となり、逸話】 |
生涯に渡って数多くの和歌を残す一方、夫・大正天皇の影響からか漢詩にも取り組んだ。
ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。 八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし
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【皇子とその妃達との関係】 | |
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Re::れんだいこのカンテラ時評476 | れんだいこ | 2008/10/13 |
【サンケイ正論、鳥居氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」考】 産経新聞は、読売と争って御用記事を書くことで知られているが、ほんの時々為になる記事を書く。2008.10.13日付けの正論の鳥居民・氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」が面白い。これを確認しておく。 明治学院大学の原武史氏の言説が槍玉に挙げられている。原氏と云えば大正天皇論で英明なる大正天皇の実像を伝えたことで評価されているが、今度は昭和天皇論にも向かったらしい。れんだいこはまだ読んでいない。そこで、大正天皇の皇后・貞明皇太后に言及しており、その所説に対し、鳥居氏が異論を唱えているという形になっている。 窺うところ、原氏は、今日の宮中祭祀の基礎は貞明皇太后が作ったものに過ぎず、古来不易として護るほどのものではないと述べているらしい。その他、貞明皇太后の頑迷保守ぶりを記述しているらしい。これに対し、鳥居氏は、貞明皇太后の有能性に言及し、真実の貞明皇太后実像を伝えんとしている。 れんだいこには、ここまではどうでも良いようなことにも思えるが、以下の記述が素晴らしい。原氏の所説か鳥居氏のそれか判明でないが、貞明皇太后は何と大東亜戦争の聖戦遂行と幕引きの両方に深く関与していたという。昭和20.2月の近衛文麿から東条英機の7名の「重臣上奏」の仕掛け人が貞明皇太后であった。その後の3.2日の昭和天皇と皇族の懇親会の仕掛け人も貞明皇太后であった。事態は進展せず、4ヵ月後、昭和天皇と貞明皇太后の直接会談となった。この時、昭和天皇は、ショックの余り立ち上がることができなかった。どういう内容の遣り取りが行われ、昭和天皇と貞明皇太后がどういう主張をしたのかまでは分からないが、この対談の結果として戦争終結に道が開かれた、と云う。 原氏の所説と鳥居氏のそれとの違いまでは判明しにくいが、れんだいこは、戦争終結の裏舞台としての皇室事情が窺えたことが存外の収穫となった。原氏が実際にどのように述べているのか、鳥居氏の指摘が傾聴に値するものなのか、調べてみたいと思った。 何より我々が関心を持つべきは、大東亜戦争の歴史的事情、推移、終結経緯である。これについて諸氏が研究している割には未ださっぱり分からない面が余りにも多い。特に、終結経緯は謎だらけである。予定より早まったのか、それは正解だったのか、徹底抗戦していたらどうなっていたのか、別の選択肢が有り得たのか等々につき未だ説得的な議論にお目にかかっていない。 そういうことを考えさせるに値するのが産経新聞の2008.10.13日付けの正論の鳥居民・氏の「宮中祭祀廃止論への疑問」であった。新聞ジャーナルのらしき歴史発掘であったように思われる。かくコメントしておく。 2008.10.13日 れんだいこ拝 |
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