大正天皇をめぐる重臣たち



 (最新見直し2007.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大正天皇をめぐる重臣たちの中で、最も重要な役割を果たしたのは山県有朋と原敬である。大正期の重臣には松方正義、井上馨、桂太郎、西園寺公望、大熊重信などが挙げられるが、政治的影響力と実際に果たした役割において両者は抜きん出ている。この二人は、大正天皇に対して、また政治制度としての君主制に対して、ある意味で対照的なスタンスをとっていた。

 山県は筆頭家老として宮中において圧倒的な影響力を持っており、大正天皇の皇太子時代より保守的な君主論を説き、折に触れ明治天皇を持ち出して君主としてのあるべき姿を説き、苦言を呈していた。大正天皇の山県に対する感情は好ましいものではなかったようで、「いつ辞表を出すや」と直接尋ねたり、周辺の者に「山県は人望なきにあらずや」などと語つたりしていたと伝えられている。

 原も皇太子時代よりしばしば接する機会があり、開かれた皇室観の下で交渉を経ている。大正天皇の原に接する態度は山県のそれに対するようなかたぐるしい雰囲気ではなく、くつろいだ気分で接していたと伝えられている。

 大隈もしばしば面会しているが、「先帝は先帝なり」として比較的闊達に接した。大正天皇は好意的感情をもっていたようである、と伝えられている。


【原敬論】















(私論.私見)

第一次世界大戦前後の流れ」の原敬の項目





 ■西園寺公望 (1849〜1940) − 略 歴 −

現在、静岡市清水興津清見寺町に建築が進んでいる「坐漁荘」。 この「坐漁荘」の主であった西園寺公望とはどのような人物であったのか。 略歴をまとめてみましたので参考にして下さい。
西園寺公望
(さいおんじきんもち)

公爵・最後の元老
第12・14代内閣総理大臣
政友会総裁
枢密院議長
パリ講和会議全権大使




1849(嘉永2)年 右大臣徳大寺公純の次男として誕生。
幼名:美丸。
1851(嘉永4)年 同じ清華家の西園寺師季の養子となる。
1861(文久1)年 はじめて宮中に勤番する。
1867(慶應3)年 王政復古とともに参与に任ぜられたのを皮切りに、山陰道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀、越後府知事と維新側の職を歴任する。
その後辞職し、名を西園寺望一郎と改め、家塾「立命館」を開いた。
1871(明治4)年 パリに留学。 ソルボンヌ大学でアラコスから自由思想を学んだ。
1880(明治13)年 パリより帰国。 明治法律学校の創設に参加。
1881(明治14)年 中江兆民、松田正久らと「東洋自由新聞」を創刊する。 政府はこれに驚き、涸れに退社を勧めるが拒否。 結局、明治天皇の内勅まで出る事態となった。
同年、参事院議官補。
1882(明治15)年 憲法調査のため伊藤博文の欧州視察に随行。 (翌年8月帰朝)
1884(明治17)年 華族令制定により侯爵となる。
1885(明治18)年
  から
1891(明治24)年
オーストリア公使、ドイツ公使、ベルギー公使を歴任。
帰国後、貴族院副議長、枢密顧問官となる。
1894(明治27)年 第二次伊藤内閣および1898(明治31)年の第三次伊藤内閣で文部大臣を務め、幅の広い教育を訴えた。
1896(明治29)年 陸奥宗光らと「世界之日本」を創刊。
1900(明治33)年 枢密院議長、臨時首相を務める。
1903(明治36)年 伊藤博文が1900年に組織した政友会の第2代総裁に就任。 松田正久と原敬を総務に任じて党勢の拡大につとめた。
1906(明治39)年 桂太郎の辞職で第一次西園寺内閣を組閣、第12代総理大臣に就任。 以後、桂と交代で組閣したため、桂園時代と呼ばれる。
1911(明治44)年 第二次内閣を組閣、第14代総理大臣に就任。 2個師団増設問題で陸軍と対立。
1912(明治45)年 7月、明治天皇崩御。
同年12月大正天皇より大政翼襄の勅語を賜り、藩閥出身ではない唯一の華族出身元老となる。
1913(大正2)年 第三次桂内閣を組閣、護憲運動で対立。 内閣不信任案を提出したため、天皇から議会運営の健全化を命じられたが、政友会総裁辞任を上奏してこれに抵抗し(西園寺違勅事件)、桂内閣は総辞職に至る。
1914(大正3)年 第一次世界大戦勃発。 日本はドイツに宣戦布告。
1918(大正7)年 政友会の原敬に組閣の大命が降るよう工作、政党政治の幕を開けた。
1919(大正8)年 第一次大戦終結に伴うパリ講和全権大使。 翌年この功により公爵となる。 英米協調を主張し、皇太子の訪欧を実現し、立憲君主制にこだわった。
1920(大正9)年 興津に別荘「坐漁荘」を竣工。
1924(大正13)年 藩閥出身の元老・松方正義が亡くなり最後の元老となる。 病床の大正天皇に代わる宰相の若き皇太子を補佐し、後継首相の推薦という立場に置かれる。
1926(大正15)年 大正天皇崩御。
安定した立憲政治のために、政党はもとより、皇族・貴族にも工作を行ったが、政党自身の権力志向と、軍部の台頭により思うようにはいかなかった。
1936(昭和11)年 2・26事件の後、元老辞退を決め、後継首班の推薦は内大臣中心に行うよう変更した。 しかし、立憲政治の健全化にこだわり、全体主義化が進む中で、反対の立場を表明し続けた。 第2次近衛内閣成立には同意を拒んでいる。
1940(昭和15)年 「坐漁荘」で91歳の生涯を終える。 国葬の処遇をうけた。
1951(昭和26)年 「坐漁荘」を記念財団が管理することとなり、一般公開。
1970(昭和45)年 6月、「坐漁荘」を解体。
1971(昭和46)年 3月から愛知県犬山市の明治村に「坐漁荘」を移築、現在も公開されている。