大正天皇実録第二次公開の衝撃



 (最新見直し2007.10.12日)

【大正天皇実録公開の衝撃】
 2002.3.28日、宮内庁は大正天皇の誕生から崩御までの日々の動静を記録した文書「大正天皇実録」の一部を3.29日に公開すると発表した。今回公開するのは皇位を継承した1912(大正元)年7月から約2年分で、第一次護憲運動などに大正天皇がどうかかわったかなどが資料も含めて初めて開示されるとみられる。

 残りは2002年度末までに順次公開する予定。実録の原本は全97冊(本文85冊、年表、索引など12冊)、6820ページにのぼる。誕生から崩御までの日々の動静を年月日順に記す「編年体」で、1927年に編さんを開始し10年を経て完成した。今回公開するのはそのうちの8冊、443ページ分。


【大正天皇実録宮内庁が一部公開 塗りつぶし141カ所重体説から死去まで 宮内庁が一部を公開
 宮内庁は29日、大正天皇(1879〜1926年)の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を初公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。昭和天皇の実録は2010年完成を目指し編さんが進められている。

 実録は全85冊(巻1〜巻85)あり、巻48から巻55の8冊が今回公開分。ページ数では全体の9%に満たない。今回は、明治天皇の崩御により天皇に即位した1912(大正元)年7月から1914(同3)年6月までの約2年分記録が対象となった。

 この期間は、首相が西園寺公望、桂太郎、山本権兵衛、大隈重信の時代に相当する。桂首相が天皇を利用し内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンにした第一次護憲運動が起き、第三次桂太郎内閣が退陣した大正政変が発生している。実録では13年2月、大正天皇が「衆議院ニ於テ紛糾アルヲ聞キ甚ダ之ヲ憂フ」と、早期の紛争解決を望む様子が記されている。続く第一次山本権兵衛内閣時代には、海軍汚職のシーメンス事件などが起き、政治の民主化を求める世論が高まった時代となっている。この頃の大正天皇の動向が初めて開示される。山県有朋、大隈重信など当時の政治指導者を大正天皇がどう評価していたのかなども注目される。同庁は今年末までに残りも公開する。

 注目点の一つは、大正天皇の体調の推移だった。首相などを務めた原敬の日記には13年5月「肺炎に渡らせらる(略)急報ありたり」とあり、この時期重体説が流れているが、実録では同年5月19日の記述として「(3字分黒塗り)ニヨリ陸軍経理学校卒業式ニ行幸アラセラルベキヲ止メテ(23字分黒塗り)、遂ニ肺炎ニ羅(かか)ラレ給ヒ」とあり、詳しい病状は伏せられた。

 だが、86日分にわたって計141カ所、見出し18カ所が「個人情報」として黒く塗りつぶされた。「公にする慣行がない」と首相の内奏も伏せられた。この中には、国務大臣の内奏の内容、下賜金の金額、天皇の病状の詳細などが含まれているという。既に刊行された明治天皇実録の「明治天皇紀」は私的な部分もすべて公開されており、大正天皇実録の公開方法の是非は今後、論議を呼びそうだ。 

 ノンフィクション作家・保阪正康氏の話。

 「大正期は、天皇の役割に揺らぎが生じ、軍部、官僚、政党の確執が表面化した時でもある。実録公開を機に大正天皇の君主としての振る舞いや、詔勅をめぐる政治力学などの検証が進むことが期待される。ただ宮内庁は『歴史の書き直し』につながるような記述の公開には慎重だろう。今後、実録のどの部分を公開し、非公開とするか。その判断基準も注視したい」。

【大正天皇実録公開の衝撃】
 宮内庁は29日、大正天皇の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。今回は大正天皇が即位した1912(大正元)年7月から14(同3)年6月までの記録が対象。この間には、桂太郎首相が天皇を利用して内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、第1次憲政擁護運動が起き内閣が退陣する「大正政変」などが起きている。

 実録は全85冊(巻1〜巻85)あり、巻48から巻55までの8冊が今回の公開分。ページ数からいえば実録本文全体の9%に満たない。同庁は今年末までに残りの部分も公開する。

 病弱とみられていた大正天皇の重体説が流れたのは13年5月。また、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が14年4月に死去している。実録には、こうした時期の大正天皇の日常が記されている。

 今回の公開は、昨年施行された情報公開法に基づき、歴史的資料もできるだけ公開しようとする流れの中で出てきた。同庁が昨年作った「書陵部所蔵資料一般利用規則」は個人情報を「制限することができる」としており、計141カ所、86日分が墨で黒く塗りつぶされた。明治天皇、その前の孝明天皇の記録はすでにすべて公開、公刊されている。

 大正天皇 1879(明治12)年8月31日に明治天皇の第3子として誕生。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。名は嘉仁(よしひと)。1900(同33)年5月10日に九条節子(後の貞明皇后)と結婚した。12(大正元)年7月30日に32歳で即位。即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて15(同4)年11月にあった。

 幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、21(同10)年11月25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、26(同15)年12月25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。

 (2002.3.31日日経記事より)

 2002.3.31日の日経新聞は、宮内庁が初公開した「大正天皇実録」の中身に触れて、「明治の元勲で陸海軍トップ、山県有朋は行財政改革の“抵抗勢力”」との切り出しに続いて「大正初期の政局の焦点だった財政健全化をめぐり、これを支持する立場で当時の経緯が記述されていることが分かった。実録が編纂された昭和初期は軍部が台頭した時期。『軍拡を懸念するリベラル派が編纂に関与した可能性がある』と見る研究者もいる」とする記事を載せている。

 ベタ記事で、次のように解説している。概要「目を引くのが明治天皇の崩御後、政争のテーマに浮上した財政再建に関するくだりだ。事の発端は、実録の1912年(大正元年)12月2日にも記述のある上原勇作陸相の単独辞表提出。西園寺公望首相は、財政健全化のため朝鮮への二個師団増設を拒否。反発した陸軍は後任陸相を推薦せず内閣は倒壊した。こうした経緯も踏まえ実録は、山本権兵衛内閣の13年6.13日の『行政整理』(行財政改革)について14ページにわたって好意的に言及している。簡略な記述が目立つ実録では異例の扱いだ」とある。

 「実録」文中の該当個所は次の通り。「行政財政の整理に関しては、既に明治の末年、内閣総理大臣侯爵西園寺公望計るところありしが、海軍拡張・二個師団増設等の要求に拠りて遂にこれを果たし得ず」。その後、枢密院議長だった陸軍閥の実力者、山県有朋の抵抗を抑えて山本首相が行革に踏み切った経緯を紹介し、「当時同案遂行の頗(すこぶ)る至難たりしを推察するに余りあり」とその功績を称えている、とある。

 実録が編纂されたのは27年(昭和2年)から37年(同12年)。浜口雄幸内閣が景気回復と協調外交による軍縮を課題とし、官吏の俸給カットやロンドン海軍軍縮条約を結んだ次期と重なる、とある。


【大正天皇実録第二次公開の衝撃】
 2003.4.5日、「大正天皇実録」の第二次公開となった。公開対象となったのは、第二次大隈重信内閣から原敬内閣にかけて。この間の時局についてかなり踏み込んだ遣り取りが含まれている。

 特に、長州出身の陸軍大将・寺内正毅内閣総辞職の背景の下りが詳述されている。「内閣更迭の事由」として、1918.9.29日付け「内にはいわゆる米騒動なる不祥事勃発し、外にはシベリア出兵と対支借款なる外交上の失敗ありて国民の信頼日に薄くなり云々」と解説されている。内閣の失政を強調する下りは異例。寺内は陸軍閥トップの元老・山県有朋の直系。護憲運動を背景に成立した第二次大隈重信内閣の後継人事で、大隈山県と鋭く対立。外相・加藤高明を大正天皇に推挙し、軍閥支配の弱体化を図ったが、山県の巻き返しで寺内に組閣の大命が下った経緯がある。

 寺内内閣を揺るがせた米騒動も8Pにわたり詳述。各地の暴動を一覧表にし、政府が軍を出動して収拾した様子を伝えている。米価抑制のため外国米を供給したことに関連し、事態を案じた大正天皇が「畏(かしこ)くも」輸入米を試食したエピソードも紹介している。

 一方、英国流の立憲君主制を目指し、後に護憲三派連立内閣首相として協調外交と軍縮を進めた加藤高明については好意的に記述。山県らの慎重論を抑え、日英同盟を理由に第一次世界大戦参戦を主張した加藤(当時外相)に天皇が「朕深くその勤労を嘉(よみ)す」と激励した勅語を掲載している。

 加藤が実行した中国への中国への「21か条の要求」は、「外交史の著名なる事実」、「要求は実に公明正大」と記述。大陸の権益確保を狙った強引な要求は排日運動や列強の警戒心を招き、当時でも「失政」と云われたが、甘い評価になっている。

 「閥族打破」の世論で第三次桂太郎内閣が倒れた「大正政変」の際、天皇は政友会総裁の西園寺に同党が提出した内閣不信任案撤回を求める勅語を発した。が、西園寺は党を抑えきれず、「違勅」のそしりをうけ、東京を離れ謹慎した。

 大正天皇は1915.6月、軍閥支配に抵抗したリベラル派の元老・西園寺公望に、海をモチーフにした一遍の漢詩を与えている。実録は「宏大無辺なる聖徳り天地に横溢(おういつ)する」さまを詠んだ作品と解説している。この作品解釈に拠れば、天皇が西園寺に寛容の心を示し、政界復帰を促したようにも読める。

 山県と西園寺に対する評価が対照的で興味深い。(2003.4.6日、日経参照 )
 国際協調、立憲政治擁護の立場で内大臣として昭和天皇を補佐した牧野伸顕ら、リベラル派の宮中・重臣グループが実録の記述に影響を与えた可能性が強い。(季武嘉也・創価大教授)。

大正天皇ご不例記録 宮内庁「非開示」妥当】
 大正天皇のご不例(ご病状)記録の開示請求を拒否した宮内庁 の決定の妥当性を審査していた内閣府情報公開審査会は7月5日、 非開示決定は妥当とする答申を行った。請求者は不敬にも、 (1)・社会的影響力のある人物の病名の究明は国益の維持に必要、 (2)・情報公開法は氏名を有する国民に適用されるもので「氏」のない天皇は法の規定外、 (3)・既に死後70年が経過し、歴史の範疇だ ・・・などとして病状記録が開示されるべきだと主張した。

 これに対して宮内庁は、「故人である大正天皇も、原則的に情報を非開示にすると規定されている個人に当たる。特定の個人を識別できる医療関係  記録は非開示情報」とし、昨年12月に請求を拒否。宮内庁長官の諮問でこの決定について審査が行われたが、情報公開審査会は「天皇という特殊な地位にあったことや、氏がないことで『個人に当たらない』とは言えない。大正天皇の近親者も多く存命し、既に『歴史の範疇』にあるとも言えない」として、宮内庁判断を妥当とした。宮内庁情報公開室は、「既に公開した大正天皇実録でプライベートに関する部分を塗り潰した措置の根拠になる判断」としている。 (平成14年7月25日号)












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