民生委員制度の生みの親としての大正天皇の事跡 |
(れんだいこのショートメッセージ) | ||||||
|
【大正天皇の事跡−民生委員制度の生みの親考】 | |
1916(大正5).5.18日、大正天皇37歳の時、東京で地方官会議が開かれ、全国の道府県の長官や知事が集まった。宮中で午餐会が開かれ天皇が臨席。この時、皇太子時代の行啓時に顔見知りとなっていた笠井信一氏(東北巡啓時の岩手県知事、この時岡山県知事)に気軽に声をかけ、次のような言葉を下賜した。
大正天皇より御言葉を下賜された笠井知事は感激し、早速岡山県内の貧困者の実情を調査した。郡部では課税戸数、賦課等級の最下級すなわち1年平均6銭を負担する者、岡山市内では家賃月1円30銭以下の借家に居住する者を対象に調査した。その結果、20,090戸、人口103,700人で県内10%の者が極貧であることが判明した。笠井知事は、当時の県民の1割が悲惨な生活状態にあることが知り、大正3年に着任して以来2年間知事にあった者として「一片の訓令や漠然とした勧奨で恵の露に県民全体が潤うていた」と思ったのは大いに自惚れであり、自分はボンクラ知事であったと大いに恥じ、窮民対策に向かった。 共同救護社を経営していた藤井静一氏を招致し意見を聞き、欧米の防貧制度も研究し対応策を考究した。その結果、ドイツのエルバーフェルト市(現在のヴッペルタール市)とライプチヒ市でおこなわれていた「救貧委員制度」に注目し、これを参考に文案を練った。 1916(大正5).11.20日、笠井知事は、県議会に救世顧問制度の趣旨説明と予算を諮った。目的を、「お互いに住み良き世の中を実現すること」であり、「善化網を通じ、利他利己共栄共進主義によって実生活を改善せしめる」としていた。この制度の進歩性は、1・中央の指令を受けて活動する機関ではなく、独立した一個の人格を有する機関としたこと。2・専用施設を持たない隣保事業と位置づけ、行政機関と対等の関係を見出せるという自律的主体性のある制度機関としたことにあった。予算案では1000円に過ぎなかったが、制度の内容、仕事を廻って意見、質疑が繰り返された。 1917(大正6).5.12日、笠井知事は、「済世顧問設置規定」を公布し済世顧問制度を創設した。これが日本初の制度導入となり、岡山県がその栄誉に与った。第1条(目的)「県下市町村の防貧事業を遂行し個人並びに社会を向上せしむること」、第2条(任務)「精神上の感化、物質上の斡旋等により現在及び将来における貧困の原因を消滅せしむる」、第3条(顧問の任免)「市にありては15名、町村にありては1名とする。郡市長が詮考の上、推薦し知事が嘱託する」、第5条(顧問の資格)「資格は人格正しきもの、身体健全なるもの、常識にとめる者、慈善同情心に富める者、忠実勤勉その職務につくすべき者」等々と規定していた。これにより初代顧問79名が選出された。そのうち医師が10名13%を占めていた。 この制度がつくられた翌年、林市蔵大阪府知事が貧しい人々の生活状況の調査や救済に当たる方面委員制度を発足させた。昭和11年、この方面委員制度が全国的制度に発展し、戦後は民生委員・児童委員制度として存続し今日に受け継がれている。大正天皇が時代に残した優れた事跡となっている。 ここでは民生委員制度考をしようとは思わないので、これぐらいに留めるが、「この制度の生みの親としての大正天皇」に拘ってみたい。れんだいこがなぜこの事案に注目するのか。それは大正天皇の英明さを裏付けたい為である。なぜ大正天皇に注目するのか。それは学んで一層馬鹿になる「大正天皇暗愚論」の仕掛けから抜け出したい為である。どうやら大正天皇論はエアポケットに入っており、戦前教育も戦後教育も語らない。語らないから知らない。しかし、知らないということはひょっとして知らされていないということではなかろうか。秘すれば覗きたくなる。れんだいこは、ここに何やら重要な秘密があると知り始めた。学んで為になる学問が有りそうで、堂々正門から入りたい。 2007.11.2日、22013。11。17日再編集 れんだいこ拝 |