田中上奏文解説 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「田中上奏文考」の解説をものしておく。「ウィキペディア田中上奏文」、「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK152 」の会員番号4153番 氏の 2013 年 8 月 11 日付け投稿「日本を操る赤い糸~田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等 第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』l」その他を参照する。 2013.8.11日 れんだいこ拝 |
第26代内閣総理大臣田中義一昭和天皇へ極秘に行った上奏文が存在すると云う。田中内閣が発足したのは1927(昭和2).4.20日。田中は組閣に当たり、昭和天皇より、外交には特に慎重熟慮するようにとの御言葉を賜った。そこで、田中は、根本的な大陸政策を確立するために一大連絡会議を開いた。この東方会議の議決に基いて作成された文書を天皇に上奏し、天皇が署名したとされるのが「田中上奏文」である。中国では「田中奏摺」、「田中奏折」、欧米では「田中メモリアル」(「The
Tanaka Memorial」)、「田中メモランダム」(「The Tanaka Memorandum」)、「田中覚書」とも呼ばれる。内容は中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服する手順が説明されている。ところが、「田中上奏文」の日本語で書かれた原典実物は存在しない。内容的に見ても、日付などに矛盾や誤謬が多く、また殊更どぎつい表現が使われている。日本の首相が天皇に上奏するために書いた文書とは考えにくい。ところが、「田中上奏文」が日本帝国主義の策謀を記した文書としてまことしやかに喧伝された史実がある。果たして「田中上奏文」なる文書が実在したのか、実書か偽書かの歴史の判定がついていない。 これの入手経緯について次のように説明されている。「田中上奏文」は昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていた。これを台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写した。これが中国語に訳文され昭和4年12月に公表した云々。歴史家・秦郁彦氏は、「田中上奏文」が偽書であるとして検証している。その上で、張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家楨(おうかてい)が、「10数回に分けて届いた機密文書を中国語に訳させた上で、整合性を持った文章に直して印刷したという手記を残している」ことから王が偽造者だろうと推定している。 こうした曰くを持つ「田中上奏文」文書が絶好の「排日資料」として利用され、繰り返し宣伝されることになった。1929(昭和4).12月、「田中上奏文」が、南京で発行されていた月刊誌時事月報に、中国文で「田中義一上日皇之奏章」の名で発表され世に知られることになった。田中上奏文は10種類もの中国語版が出版され、1930年代に中国が反日プロパガンダにこの文書を利用した。翌1930(昭和5).2月、日本外務省は中国各地の領事館に対し、流布の実況を調査し、中国官憲に抗議、取締りを申し入れるよう訓令している。 1930.6月、日華倶楽部が「支那人の観た日本の満蒙政策」という題名で邦訳を刊行した。1931.9月、上海の英語雑誌チャイナ・クリティク(China Critic)に英語版「タナカ・メモリアル」が掲載され、同内容の小冊子が欧米や東南アジアに配布された。ソ連のコミンテルン本部も同1931.12月、コミュニスト・インターナショナルに全文掲載し、ロシア語、ドイツ語、フランス語で発行し「日本による世界征服構想」批判を喧伝した。 1931(昭和6).9月、満州事変が勃発。中国は翌1932年のジュネーブの国際連盟第69回理事会において「日本は満州侵略を企図し、世界征服を計画している」と訴え、その根拠として1930年に中国国民政府機関紙で偽書であると報じた「田中上奏文」を証拠文書として持ちだした。そのため日本政府は「田中上奏文」が偽書であることを立証する必要にせまられた。日本の答弁に対し各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し外交的に敗北することになった。偽書と断定した日本政府が、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で「真実の文書ではない」と報じたが、既に独り歩きしていた。 1932(昭和7).11月、国際連盟の第69回理事会で満州事変が討議された際、中国の代表が「田中上奏文」に言及した。日本代表・松岡洋右が文書を真実とみなす根拠を追求し、日本政府の公式見解として次のように述べている。
これに対して同評議会において顧維鈞は中国政府の公式見解として次のように述べている。
米国人ジャーナリスト・エドガー・スノーは1934年の処女作「極東戦線」(Far Eastern Front)で、「田中上奏文」について次のように記している。「一九二七年六月、日本の文武官を集めて開かれた、将来のアジア政策についての会議ののちに作成されたもようである」として触れ、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造であるとしていることを紹介した上で、
スノーは「アジアの戦争」(Battle for Asia、1941年)の中でも、「田中上奏文」の一説を引用している。 日本の敗戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)では、侵略戦争の共同謀議の証拠とすべく国際検察局(IPS)が開廷の直前まで田中上奏文を探した。しかし、1946年5月5日ニューヨーク・タイムズに、田中義一・元内閣書記官長の鳩山一郎が偽文書であることを主張したインタビューが掲載され、更に、元国務省極東局長のJ・バランタインが田中上奏文は存在しないことを説明したので、IPSはこの上奏文を探し出すことをあきらめた。但し、田中上奏文は、同裁判で、日本が国家指導者の共同謀議によって昭和3年(1928)以来、計画的に侵略戦争を行ったとして断罪された時の裏付けの一つとされている。 東京裁判当時・中華民国の国防次長であった蒋介石の部下、秦徳純と日本側弁護人との次のようなやり取りが交わされている。1946.7.24日、日中戦争の開始に関する証言への反対尋問の中で、林逸郎弁護人は「日本文の原文を見たことがあるのか」と質問し、「見たことはない」と答えている。田中上奏文の真実性について明言はしなかったが、「田中上奏文は実在しないとしても現実に行われた行動によって表現されている」と主張した。25日には、文書の真実性に何か確信があるかとのウェッブ裁判長の問に対し「真実のものとも、否ともいえぬ。だが日本が実際に行った事実は田中が預言者であったかの如くさえ思われる」(「私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできない。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのである」)と答えている。最終的に田中上奏文は東京裁判では証拠として採用されなかった。しかし、こうした信憑性のない文書をもとにして作られていた裁判の筋書きは改められずに、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年以来、中国や英米等に対し、計画的な侵略戦争を行ったとして断罪された。 平成11年9月7日、産経新聞が、「田中上奏文」に関する前田徹ワシントン支局長の次のようにリポートを報じた。
この専門家とは、米下院情報特別委員会の専門職員としてソ連の謀略活動を研究してきたハーバート・ロマーシュタインである。彼は、米国でのソ連KGB活動の実態を明らかにするため、元KGB工作員で米国に亡命したレフチェンコ中尉と共同で調査を行った。その際に、「田中上奏文」の作成にはソ連の情報機関が関与していたのではないかとの疑惑を生んでいる。そしてトロツキーが「田中上奏文」について証言した文書を発見した。ロシア革命の指導者・トロツキーは、レーニンの死後、独裁を狙うスターリンに「人民の敵」というレッテルをはられ、海外に逃亡した先で暗殺されたが、ロマーシュタイン氏は、トロツキーが昭和15年(1940)に、その死の直前に書いた遺稿ともいえる論文を、雑誌第4インターナショナルに投稿しており、その中に「田中上奏文」に関する重要な記述があることを発見したという。この論文によると、トロツキーはまだソ連指導部の一人だった大正14年(1925)の夏ごろ、GPUのトップ、ジェルジンスキーから次のような説明を受けている。
産経の記事は、さらに次のように書いている。
平成18年3月、月刊諸君!(平成18年4月号)が、京都大学教授・中西輝政氏の「崩れる東京裁判史観の根拠」を掲載している。次のように記されている。
平成3年(1991)に北京で発行された民国史大事典では次のように記載されている。
これに関し、高崎経済大学助教授の八木秀次氏が最近、興味深いことを伝えている。平成17年12月、当時「新しい歴史教科書をつくる会」の会長だった八木氏らのグループが中国を訪問した。その際、一行は中国政府直属の学術研究機関である中国社会科学院の日本研究所のスタッフと懇談した。懇談の模様が月刊正論平成18年4月号に掲載された。(八木著『中国知識人との対話で分かった歴史問題の「急所」』) その記事によると、懇談において、同研究所の所長・蒋立峰氏は次のように述べたと云う。
蒋氏は、社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で、日本近現代政治史や中日関係の研究を長年続けてきた中国の日本研究の責任者である。八木氏は、記事につけた「解説」に次のように書いている。
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田中上奏文は中国語で4万字といわれる長文のものである(日本語の原文は未だ確認されていない)。中国の征服には満蒙(満州・蒙古)の征服が不可欠で、世界征服には中国の征服が不可欠であるとしているため、日本による世界征服の計画書だとされた。しかし、下記の項目を見れば一目瞭然であるが、その内容の要点は満蒙を征服して傀儡政権を作り、いかにして経営するかを具体的に示したものであり、世界征服の計画を示したものではない。内容は次のような項目と附属文書から構成されている。
最後の病院・学校については極めて短い文章で唐突に終わっている。従って、この文書は不完全な文書をベースに作られたとも考えられる。 文書の一節は、「世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。わが国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までがわが国の威風になびくだろう」と記されている。 |